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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

奇跡の狭間で

 地球を目指して星の海を渡るミュウたちの白い船、シャングリラ。
 人類軍がモビー・ディック……『白い鯨』と呼ぶ優美な船体に秘められた戦闘能力は大きく、
それをサポートするナスカの子たちのタイプ・ブルーのサイオンの下、地球への道は今や確実に
拓けつつあった。


「まだだ。もっと引き付けてから一斉射撃!」
 人類軍の一大艦隊を前にキャプテン・ハーレイの指示が飛ぶ。
「右舷前方、攻撃、来ます!」
「グラン・パ!」
「頼む、トォニィ!」
 着弾前に爆発してゆく幾つものミサイル、四散し消滅するレーザー。ソルジャー・シンの
陣頭指揮に従うナスカの子たちと、ハーレイに従うブリッジ・クルーと。
「サイオン・キャノン、発射!」
 光の筋が敵艦隊へと吸い込まれてゆき、数ヶ所で起きた大爆発と、続く誘爆の連鎖の後に
もう敵艦の姿は見えない。これほどの大艦隊に遭遇することは以前は滅多に無かったのだが、
この一ヶ月ほどで急激に増えた。
 シャングリラを侮れないと知った人類側も必死になっているのだろう。


「やりましたね、ソルジャー!」
「ああ。みんな、よく頑張ってくれた。ありがとう」
 ソルジャー・シンの労いの声に歓声が上がり、続いてハーレイからの訓示を兼ねた重々しい
言葉が緩んだ空気を引き締める。それがいつもの光景だった。しかし…。
「「「キャプテン!?」」」
立っていたハーレイの身体がグラリと傾ぎ、そのまま床にくずおれる。ルリの悲鳴がブリッジを
劈き、エラとブラウが倒れたハーレイに駆け寄った。肩を揺すり、手首を握っても何の反応も
返らない。
「ドクターを呼べ!」
 医療チームもだ、とソルジャー・シンが叫び、先ほどまでとは違う緊張と慌ただしさとが
ブリッジの上を覆っていった。

 

 


「……ハーレイ?」
 不意に呼ばれたような気がして、ブルーは青の間を見回してみる。戦闘があったことは
承知していたが、今のブルーはソルジャーではない。ソルジャー・シンからの要請があるか、
或いはナスカの子たちの危機でも察知しない限り、戦線には出ないと決めていた。
『…ハーレイ…?』
 終わったのか、と思念波で呼び掛けてみたが応えは無い。恐らく戦闘の結果を踏まえて今後の
進路や作戦などを皆と検討しているのだろう。そういう時に思念を送っても返事が無いのは
いつものことだ。分かっていたのに…、と苦笑する。
(駄目だな…。ハーレイの邪魔をしてはいけない、と分かっているのに)
 ついうっかりと忘れてしまう。ソルジャーだった頃は決してこんな風に気安く呼んでみたりは
しなかったのに、退いて青の間に引き籠ってから弱くなった…、とブルーは腰掛けていたベッドの
傍らに視線をやった。そこに置かれたもう一つのベッド。


(……ハーレイ……)
 ベッドの主の名を心の中で呼んで、そっとシーツを指先で撫でる。
 ずいぶん遠い昔に思える、この手でメギドを沈めた日。あの日、奇跡にも似た形で救われて
以来、ブルーの傍らには常にハーレイが居た。
 夜も自分の部屋には戻らず、ブルーの病室に詰めたハーレイ。そのハーレイの祈りがブルーの
命を繋いでいる、と知ったソルジャー・シンたちが、このベッドを青の間に運び込んだ。
 ハーレイがいつもブルーを見守りながら眠れるように…、と。
(……でも……)
 形だけのベッドになっているよね、とブルーの頬がうっすらと染まる。
 ハーレイが自分のベッドを使っていた時期は確かにあったが、それはブルーがまだ本調子では
なかった頃。ブルーの容体が安定してからは、ハーレイはブルーを抱き締めて眠った。
 初めの間は文字通りただ腕の中にそっと閉じ込めるだけ。それが恋人同士の営みへと
変わったのはいつだったろう。ブルーの身体が弱り始めて以来、絶えて無かった熱い時間を
取り戻すように幾度も幾度も身体を重ねた。そうして、今は…。


(…ハーレイ、無理をしていないかい? 君が死んだように眠っている日が増えているように
思うのだけど…)
 ハーレイが青の間に戻る時間が日毎に遅くなってゆく。独りで夕食を終えて先にベッドに
入っているブルーの唇に口付けを落とし、シャワーを浴びて…。ベッドに潜り込んでブルーを
抱き寄せ、二言、三言を交わしたかと思うと、もう深い眠りに落ちている。
 そんな日が長く続いていた。ハーレイの温もりを感じられればブルーはそれで充分だったし、
抱いて欲しいと強請るつもりも無い。けれど、ハーレイの疲労の色が濃くなってゆくのが、
ただ心配で堪らなかった。
 無理をしすぎていないだろうか。休むようにと言うべきだろうか、と逡巡する内に扉が開く
気配を感じる。今日は早めに帰れたのか、と顔を上げたブルーの視線が凍り付き、ガクガクと
身体が震え始めた。
 嘘だろう、ハーレイ…。君に呼ばれたと思ったのに……!

 

 


「大丈夫です、ソルジャー。落ち着いて下さい」
 そう言ってくれた声は耳に馴染んだものではなくて、肩に置かれた手もドクターのもの。
ブルーが帰りを待ち焦がれていた褐色の身体は隣のベッドに横たわっていた。力が抜けたように
立ち上がれないでいるブルーの目の前で、ハーレイの腕に繋がれた点滴のチューブに滴がポタリと
落ちる。
「一通り検査を致しましたが、特に異常は見られません。連日、無理をしておられたようで…。
いわゆる過労と思われます。明日には意識が戻るでしょうが、当分は安静にして頂きます」
 ソルジャー・シンも了承しておられます、とドクターは言った。


「ソルジャー・シンも御存知ない時間まで仕事をなさっておられたとか。もっと早くに気付く
べきだった、と長老方も反省しきりでいらっしゃいます。ソルジャー、あなたにお任せしても
よろしいでしょうか?」
「えっ?」
「心身の安静が第一ですので、三日間ほどは面会謝絶にすべきであると考えます。ソルジャー・
シンや長老の皆様方がお越しになれば仕事が頭を掠めるでしょうし…。私と医療スタッフ以外は
立ち入り禁止にしたいのですが」
 ドクター・ノルディが何を求めているのか、ブルーはようやく理解した。ハーレイを看ていて
貰えないか、と言われているのだ。否と答えるわけがない。自分一人では心許ないが、ドクターと
医療スタッフも来てくれるのならば…。


「かまわないよ。どうせ一線を退いた身だ、こんな時くらいしか役に立てない」
「いえ、そんなことは…。ソルジャー、ありがとうございます」
 キャプテンのお身体なら御心配は要りませんから、とノルディは点滴のパックとチューブを
チェックし、交換の時間にはメディカル・ルームからスタッフを寄越すと約束した。
「もちろん、キャプテンの分の食事も運ばせます。明日の朝には様子を見に寄りますから、
夜間のことはスタッフに任せてお休み下さい」
 そう告げられて初めて夜であることに気が付いた。戦闘が始まる直前に軽い夕食を摂ったの
だったか…、と思い当たる。人類軍からの攻撃には昼も夜も無い。このところ、ハーレイは
夜中に飛び起きてブリッジに走ってゆくことも度々で…。
 倒れるほどに疲れていたのか、とハーレイの頬に手を伸ばす。触れた肌からは何の思念も
感じず、疲れの酷さと眠りの深さが察せられた。


「それでは、失礼いたします。ソルジャーもお疲れになりませんよう」
 ドクターが一礼して去って行った後も、ブルーは長い間、ハーレイの頬の辺りをそっと
擦り続けた。
少し伸び始めたらしい髭がチクチクと当たる。いつもシャワーのついでに剃っていたのか、と、
余計な手間を取らせていたことを悔いつつ、その気遣いが嬉しくて。
(ハーレイ…。暫くはぼくが世話をするから、ゆっくり休んで)
 もう二度と無理をするんじゃないよ、と補聴器が外された耳元に唇を寄せて囁き掛ける。
こんな非常時に、とは思うけれども、ハーレイと二人きりの時間が三日間。ハーレイの目が
覚めたら、久しぶりにゆっくり話をして…、と心躍る時に思いを馳せながらブルーは自分の
ベッドに戻った。

 

 


 ハーレイの腕と温もりが感じられないことは寂しかったが、独りで眠るには広すぎるベッドの
柔らかさは身体に心地良い。大きな枕に頭を凭せ掛けて間もなく、ハーレイの昏倒に驚きすぎた
心はゆるゆると眠りに誘われていった。
 明日、目を覚ましたらハーレイはもう起きているのだろうか? 起きていなければ寝顔を
見ながらゆっくり待とう、と夢の狭間にブルーは揺蕩う。それから食事を運んで貰って、
ハーレイがベッドから起き上がれないようならフォークやスプーンで口まで運んで…。
 ハーレイは何と言うだろう? 頬を赤らめて「自分で出来ますよ」と膨れそうだ…。


(………!??)
 ザァッ、と激しい風が吹き付け、渦を巻いた。目を閉じ、顔を庇ったブルーが瞼を開くと、
其処は青の間よりも遙かに眩い光が満ちた空間で。
「やはりお前か。ソルジャー・ブルー!」
 あの男が……黒髪の地球の男が銃口をこちらに向けていた。まさか、此処は…。
「此処まで生身でやって来るとは…。まさしく化け物だ。だが、此処までだ。残念だが、
メギドはもう止められない!」
 銃口が火を噴き、右肩に衝撃と痛みとが走る。止めなければ。メギドを止めなければ…!
 容赦なく撃ち込まれる弾丸に堪らず床に膝を付きつつ、反撃のチャンスとタイミングを計る。
残されたサイオンを極限まで高め、メギドと共にあの男をも…。


「これで終わりだ!」
 視界の半分が真っ赤に塗り潰された次の瞬間、サイオンを床へと叩き付けた。暴走した青い
光の輪が広がってゆき、地球の男を飲み込もうとする直前に。
「キース…!!!」
 飛び込んで来た人影が背後から地球の男を抱えるようにして消え去った。
 鮮やかな碧のサイオン・カラー。
 今の男は…ミュウだった……のか…? それならば。地球の男の傍らにすら、ミュウが
生き延びるだけの余地があるならば。
(ジョミー! …みんなを頼む!)
 このメギドだけは壊して逝くから。
 ミュウたちの生きられる場所を探して、君たちは地球へ…。


(…ハーレイ、君もどうか無事で…。ぼくの分まで、地球をその目で…)
 でも、ハーレイ…。もう一度だけ会いたかったよ、君の碧が見たかった。さっきのミュウを
見て思い出したんだ。ぼくだけの懐かしい、暖かく輝く碧の光を…。
 どうか最後に一目だけでも、と願った思いは叶わなかった。漆黒の奈落に囚われ、闇の底へと
引き摺り込まれる。もう会えない。自分は此処で闇黒に飲まれて、たった一人で…。
「ハーレイ…っ!!!」
 伸ばした手が空を切り、ブルーは底知れぬ冥暗の獄へと投げ出された。
 落ちる。落ちてゆくのだ、永遠に。会えなかった想い人の名を呼び続けながら、永劫の時を
泣き叫びながら、果てしなく何処までも、光すら届かぬ真の闇の中を……。

 

 


「ハーレイ! …ハーレイっ…!!」
 自分の泣き声で目が覚めた。落下は止まり、ベッドの天蓋が上の方に見える。
(……此処は……)
 青の間なのか、とホッと安堵し、全ては夢であったと悟った。けれどいつもなら抱き締めて
くれる腕が無い。
 「恐ろしい夢を見たのでしょう」と、「大丈夫ですよ」と頬を優しく撫でてくれる手も、
温かな口付けをくれる唇も…。


「……ハーレイ…?」
 もうブリッジに行ったのか、と身体を起こし、傍らのベッドに気付いて血の気が引いた。点滴の
チューブに繋がれ、死んだように眠っているハーレイ。点滴パックが満杯に近い状態だから、
寝ている間に医療スタッフが交換をしに来たのだろう。
 昨夜、過労で倒れたハーレイは多分、あれから一度も目覚めてはいない。目覚めたのなら
思念でブルーを呼ぶ筈だ。ブルーがどれほど心配したかは分かる筈だし、「ご心配をお掛けして
すみません」と一言必ず告げてくれる。


(…このせいかな……)
 酷い夢だった、とブルーは前髪を掻き上げた。
 メギドの悪夢は今でもたまにブルーを苛む。けれど最後には碧の光がブルーを包み込み、
ハーレイの許へと運んでくれるのが常だった。いつもハーレイが気付いて目覚め、夢が
恐ろしい方へと向かわないように優しく起こしてくれるのだから。
 その誘導が無いとこうなるのか、と身体を震わせたブルーの心にフッと不吉な翳が差す。
 体力の限界に達したハーレイ。
 ブルーをメギドから救い出して以来、その命の灯を決して消すまいと祈り続けてくれる
ハーレイ。彼の祈りだけで生かされていることは自覚していたし、無上の幸せでもあった。
 ただ、心の片隅に蟠っている疑問が一つだけ。


 ブルーの命を繋いでいるものは本当にハーレイの祈りだろうか? 祈りではなく、その祈りに
托されて流し込まれるハーレイの命で自分は生きているのではないか…。
 人の血を吸って永遠の命を得ていたという伝説の中の吸血鬼。彼らのように自分もハーレイの
命を啜り、削り取りながら今も生き永らえているのではないか…。
 それを一度だけ口にした時、ハーレイは豪快に笑い飛ばした。そんな器用なことは出来は
しないし、仮にそうなら自分はとっくの昔に死んでいますよ、と。
(そうでしょう、ブルー…、と、君は言ったね。本当ならば老衰で死んでいた筈のぼくを、
あれだけの傷を負って死にかけたぼくを今の状態まで戻すためには命が幾つあったとしても
足りないと…。でも……。君とぼくとが思った以上に、君の寿命は長かったのかもしれないよ…)


 限界が来たんじゃないのかい、とブルーはポツリと呟いた。
「過労だとノルディは言ったけれども、本当はぼくのせいかもしれない。君の命を削り続けて、
とうとう限界に近付いたのかも…。そうだとしたら、もういいよ」
 これ以上はもう祈らないで、とブルーは眠り続けるハーレイの唇に口付ける。
「君はシャングリラのキャプテンだ。ぼくよりもずっと、ミュウのみんなが必要としている
人間なんだよ。…だから、君の命は君のためだけに…。ぼくは充分に生きたから」
 メギドから連れ戻してくれてありがとう、とハーレイの手に額をつけて礼を言ったものの、
先刻の悪夢が蘇って来た。充分すぎるほど生きたけれども、またハーレイと離れて逝くのか…。


「ハーレイ…。せめて最期は手を握っていてくれるかい…? 戦闘の真っ只中だったとしても、
ぼくの側に居て手を握っていて欲しいんだ。それがぼくからの最後のお願い。…君の手があれば、
きっと最後まで幸せなままで旅立てるから…」
 ちょっと我儘すぎるだろうか、と微笑むブルーの瞳に涙の粒が盛り上がる。
 逝きたくはない。まだ逝きたくはないのだけれど、ハーレイ、君の命は受け取れないよ…。

 

 


 もうこれ以上、ハーレイの命は貰えない。
 ブルーは決意を固めはしたが、それをハーレイにどう告げたものか。
 二度と祈るな、と言おうものならハーレイは意地でも祈り続けることだろう。彼の命の灯が
燃え尽きるその瞬間まで、ブルーを決して離しはすまいと…。
 ハーレイの祈りを拒絶する術はブルーには無く、望まれるがままに生き続けるだけ。強引に
それを断とうとするなら、自分自身を害するしかない。ブルーが自ら命を絶てばハーレイの命は
守れるだろうが、ハーレイの心はどれほど傷つき血を流すことか…。


「…ハーレイ…。ぼくはどうすればいい? どうすれば君の命を守れる…?」
 分からないよ、とブルーの中で答えの出ない問いが廻り続ける。
 ハーレイのベッドの傍らを離れ、自分のベッドに仰向けに転がって見えない答えを探し続ける。
誰かに相談すべきだろうか? ソルジャー・シンならハーレイの祈りを強制的に遮断し、ブルーの
命を絶てるだろうか?
(…でも……。そうすれば君が困るよね、ジョミー…)
 ぼくを殺せと言うのも同じ、とブルーは両手で顔を覆った。


 アルテメシアでサイオンに目覚めたばかりのジョミーが自分を生かしたことがある。今の
ハーレイのように祈りと願いの力だけで。
 あれもジョミーの命によるものだったら、自分の命を一度は注いで生かしたブルーを殺せる
だろうか? たとえゆっくりと衰え死んでゆくのだとしても、ブルーの命を消せるだろうか…。
 ましてトォニィやナスカの子たちには頼めない。あの幼さで人の命を絶ち続けるのは戦場だけで
沢山だ。同じ船で生き、共に暮らしているブルーの命を子供ゆえの純粋な使命感だけで絶てたと
しても、いつか成長した暁には心の傷となりそうで…。


(…ハーレイ…。ぼくは死ねないよ…。死ねないけれど、死ななきゃならない。君のためには
死ぬしかないんだ。でも方法が見付からないよ……)
 ヒルマンなら何か分かるだろうか、と教授と呼ばれるシャングリラの碩学を思い浮かべる。
あるいは過去の歴史に詳しいエラあたりか。しかし、誰に相談しに行くにしても…。
 「三日間、頼むと言われたっけ…」
 ハーレイは三日間、面会謝絶だ。その間の看病を引き受けた以上、青の間を抜け出すわけには
いかない。ましてハーレイに自分の決意を見抜かれたりすれば、ただでも過労で倒れた身体に
更なる負担がかかってしまう。


「…あと三日だけ、夢を見るのがいいのかな…」
 三日くらいなら誤差の範囲か、とブルーは無理やり結論付けた。ハーレイに心を
読まれないよう、思考ごと遮蔽し封じると決める。自分自身でも思い出せない記憶の奥底に
決意を閉じ込め、解き放つ時は三日の後。
 ソルジャー・シンか、長老たちか。彼らの内の誰かが青の間を訪れるまで心の底へ、と
ブルーは思考の一部に固く鍵を掛けた。

 

 


 ブルー自身も忘れてしまった命への疑問。
 翌朝、何も知らずに目覚めたブルーは傍らにハーレイの温もりが無いことに驚き、隣のベッドで
独り眠っている想い人を見付けて昨夜の騒ぎを思い出した。
「まだ目が覚めてはいないんだよね…」
 ベッドから起き出し、ハーレイのベッドに腰掛ける。心なしか少し窪んだ頬へと手を
滑らせれば、昨日感じた髭の感触が思い起こされて。
「…また伸びてる…」
 そっと辿ってみた髭の生えた辺りは昨夜よりも強くその存在を主張していた。それが生命力の
証に思えて、ふっと頬が緩む。点滴のパックはさっき交換されたばかりのようだが、ハーレイが
目覚めればきっと食事も摂れるだろう。しかし、髭は自分で剃ることが出来るのだろうか?


(…食事はぼくが食べさせてあげられそうだけれど、髭はどうかな…)
 どうやって剃るのか分からないよ、とブルーは頭を悩ませる。着替えや身体を拭くのと同じで
医療スタッフに任せるべきか、この機会に挑戦してみるか。
(えーっと…。とりあえず、やり方を知らないことにはね…)
 少しだけ心を読んでもいいかな、とハーレイの寝顔を覗き込んだ時。
「……謹んで遠慮させて頂きますよ」
 切り傷も剃刀負けも御免です、と口にしながらハーレイがゆっくりと目を開けた。
「あなたはいったい、何をなさる気で…。………???」
 ハーレイの鳶色の瞳がブルーの顔と点滴パックと、自分の腕に刺さったチューブとを何度も
何度も見比べる。自分の身に何が起こっているのか、まるで分かっていない様子にブルーは
クスッと笑みを浮かべた。


「君は働き過ぎなんだよ。過労だってさ、昨日ブリッジで倒れたそうだ」
「で、では…。今のシャングリラはどうなって…」
 起き上がろうとするハーレイの肩をブルーの腕が押さえ付ける。
「急に動いちゃ駄目だろう! 点滴のチューブが外れてしまうよ、それにドクターに叱られる」
「…ドクター?」
「三日間、面会謝絶だと言っていた。ドクターと医療スタッフしか来ない。君の世話はぼくに
お願いします、と一任されたから任せておいて」
 食事を運んで貰う前に髭を剃ってみてもいいだろう、と茶目っ気たっぷりに微笑むブルーに
ハーレイは青ざめ、自分で剃れると逃げを打つ。攻防戦の末、ハーレイは点滴の台を
引き摺るようにしてバスルームへと歩いてゆき…。


「ふうん…。そうやって剃るんだ、髭って」
 興味津々で背後から鏡を覗き込むブルーに、ハーレイは剃刀を使いながら。
「シェーバーを使っている者たちも多いですよ」
「…シェーバーって?」
「いわゆる自動の髭剃り機ですね」
 私の好みではありませんが、と返されたブルーの胸がじんわりと少し熱くなる。
 まだハーレイについて知らない部分があるようだ。知れて嬉しい、と思うと同時にもっと
知りたい、と思いが募る。ハーレイのことをもっと幾つも、一緒に生きてゆく中で幾つも、
幾つも…。

 

 


 医療スタッフに三度の食事を運んで貰って、朝と夜とにドクターの診察。点滴のパックも
三日目の朝には外され、ブルーとハーレイはそれは穏やかな面会謝絶の期間を二人で過ごした。
 ハーレイが多忙を極めて以来、絶えて無かった二人だけの長くてゆったりとした時間。
 他愛もない話をしたり、ハーレイの髭を剃りたがるブルーと揉めたり、同じテーブルで
食事を摂ったりと、まるで蜜月であるかのように。


 これは後から知れた事実だが、キャプテンの疲労回復を妨げぬよう、ソルジャー・シンは
地球への進攻を一時中止し、フィシスの占いなども取り入れて人類軍のいない宙域を選んで
航行していたらしい。その甲斐あって、面会謝絶は四日目の朝に無事に解かれて。
「なんだい、思ったよりも元気にしてるんじゃないか」
 つくづくタフな男だねえ、と朝食後にブラウが訪れた。
 それは蜜月の終わりの合図。心の底深く秘められた鍵が外れて、遮蔽が解ける。
(……そうだった……)
 三日間だけの夢だったのだ、とブルーの胸の奥に冷たい氷の塊が出来た。
 ハーレイの命を削り続けて生きて来た自分。この忌まわしい命をどうやって絶つか、誰に
相談するべきなのか。ブラウは多分、適役ではない…。


「…ブルー? どうなさいました?」
 お顔の色が、とハーレイが心配そうに尋ね、ブラウがブルーの顔を覗き込んで。
「アレだね、看病疲れだろ。ハーレイ、あんた、色々我儘言ったね」
「いや、私は…」
「違うんだ、ブラウ。…そうじゃない」
 ハーレイは何も、と止めに入ったブルーの肩をブラウはポンと軽く叩いた。
「こんなデカイのの世話を三日もお疲れさま。…だけどアンタが元気そうにしてて良かったよ。
ハーレイが引っくり返った時には共倒れかと焦ったからねえ…」
「…共倒れ?」
 怪訝そうに訊き返すブルーに「そうですよ」と答えを返した人物は、朝の診察のために
入室してきたノルディだった。


「キャプテンがあなたの命を繋いでいることは疑いようのない事実です。ただ、それがどういう
形なのかが分からなかった。キャプテンは祈りだけだと仰いましたが…」
「正直、自分の命を分けているんじゃないかと誰もが心配していたわけさ」
 ブラウの言葉にブルーはギクリと自分の胸元に手を当てる。
 告げるまでも無く知られてしまった。それにハーレイも聞いている。これでは、自分は…。
「何をビクビクしてるんだい? はは~ん、さてはアンタも心配してたね?」
「…ブラウ…。頼む、ハーレイの前でその話は……」
 しないでくれ、と縋るようにブルーはノルディに視線を送った。面会謝絶が解けたばかりの
ハーレイに心労を与えてはまずい。日を改めて、と思念と瞳で哀願したが。


「ソルジャー、どうか御心配なく。…今回の騒ぎで分かりましたよ、キャプテンのお話が
正しいようです。もしも本当に命を分けておられるのならば、あなたも倒れておられた筈です」
「…そ、それは…。幾らかはストックがあっただろうし…」
 それで倒れずにいられただけだ、とブルーは声を絞り出す。けれどノルディは首を横に振った。
「お言葉ですが、命をストックするというのは恐らく無理かと思われます。仮に可能だったと
しても三日もの間、キャプテンが不調でおられたとなると影響が出ます。ですが、あなたは
普段と変わらず健康な状態でいらっしゃいましたし…。祈りで間違いなさそうですね」
「そういうことだよ、だから心配無用ってね。命を削ってるわけじゃないんだ、このデカブツは
長生きしそうだし、うんと長生きさせて貰いな」
 百年くらいは軽い、軽い、とブラウは声を立てて笑った。ハーレイは顔を真っ赤に染めつつ、
ブルーに優しく微笑みかける。


「…そんな御心配をお掛けしていたとは…。ブルー、申し訳ありません。お詫びに一度くらい
でしたら、私の髭を剃って下さっても…」
「おや、なんだい? 髭って何さ?」
 面白そうだねえ、とブラウが話に首を突っ込み、「剃っちまいな」とブルーを唆し…。やがて
訪れたソルジャー・シンや他の長老たちも交えて髭剃りは時ならぬ娯楽となった。
 誰もがブルーの命のことを気遣いつつも口に出来ずに秘めていた分、何の心配も無いと分かった
反動はシャングリラの船体をも揺るがしそうな笑いの渦へと広がっていって…。

 

 


「…ブルー、いささか痛むのですが…」
 やはり遠慮しておくべきでした、とハーレイが顎に手を滑らせる。面会謝絶は解けは
したものの、キャプテンはまだ当分は安静ということになっていた。
「構わないと言ったのは君だろう? 剃刀負けにはこれだ、とノルディも言ったし」
 塗ってあげるよ、とブルーは軟膏のケースを手に取り、中身を指先に掬い取る。
「ほら、じっとして動かない! 明日の朝にはきっと治るさ」
「いたたたた…。本当に髭剃りは二度と勘弁願いますよ」
「うん。ぼくには向いていないみたいだし…。自分で剃るのが一番だよね」
 でも疲れた日は剃らなくていい、とブルーはしっかり釘を刺した。
「シャワーだって次の日の朝で構わないんだよ、ぼくは全く気にしないから」
「…ですが、あなたと同じベッドで休むのですし…。休養期間が終わりましたら」
 それまでは別のベッドですが、と言うハーレイの手をブルーの白い手がギュッと握った。


「それなんだけど…。ドクターが診察に来る前に起きて移動でいいんじゃないかな」
「…ブルー?」
「君の命を削っているんじゃないかと怖かったんだ。君が倒れて、そうだと思った。君の側には
もう居られない、死ぬしかないと思っていたんだよ…」
 でも怖かった、とブルーはハーレイの胸に縋り付く。
「どうやって死ねばいいかも分からなかったし、君と離れるのも怖かった。君が最後まで手を
握っていてくれるなら…、とも思ったけれど……ずっと君の側に居たいとも思った」
 どれも選べなかったんだ、と訴え掛けるブルーの心からハーレイの中に思いの全てが流れ込んで
いった。命を繋ぐ祈りを捧げ続ける絆を通して逆流したと言うべきか…。


 自ら命を絶つことすらをも考えたほどに思い詰めていたブルーの深い嘆きと悲しみ。
 ハーレイの命を守るためだけに死にたいと願い、それでもハーレイの側に居たいと……最後まで
手を握って欲しい、と涙を零して心を固く封じたブルー。
 倒れたハーレイに余計な心痛をかけまいとして、辛い思いを、答えの出ない問いを心の奥底に
沈め閉じ込め、その封印が解ける瞬間まで柔らかく微笑み続けたブルー…。


 ハーレイは声も出せなかった。あまりの痛みに、その健気さに心が張り裂けそうになる。
 これほどの苦しみを負わせたのか、と。
 ただ守りたいとひたすらに願い、どんな苦痛も悪夢でさえも近付かせまいと大切にしてきた
つもりのブルーを、これほどまでに苦しめたのか……と。
 今度こそブルーを離しはすまい。
 二度とブルーを悲しませないよう、苦しめぬよう、華奢な身体を守らなければ…。ハーレイの
腕に力が籠もる。ブルーをその胸に閉じ込めるように。
「……ハーレイ……?」
「ブルー、あなたの仰せのままに……」
 ドクターが来る前に起きて移動を致しましょう、とハーレイはブルーを強く抱き締めた。
側に居たいと望むブルーが求めているであろう確かな温もり。ブルーが味わった悲しみと流した
涙の代わりと呼ぶにはあまりにもささやかなものだけれども、せめて腕の中で休ませたいと…。

 

 


 ハーレイと離れて逝かねばならぬ、と一度は決意したベッドの上でブルーは想い人の体温と
匂いに包まれる。
「……温かい……」
 君の身体は温かい、と胸に頬を擦り寄せるブルーの背をハーレイの手が優しく撫でる。
「…ブルー、申し訳ありません…。もう長いこと、ただ添い寝するだけの夜ばかりで…。それも
私が先に眠るなど、さぞかしお寂しかったでしょうに……」
 もう少し身体を気遣います、とハーレイはブルーに口付けた。
「すみません…。今はこれだけが精一杯で……。あなたが嫌だと仰るほどにお身体に私を
刻み付けられるよう、頑張って体力を取り戻しますよ」
「…そんなこと……。そんなのは無くてもいいんだよ。……ぼくは長い間、君を待たせた。
メギドから戻って来た後もそうだし、その前は十数年も待たせ続けて眠ったままで…」


 だから今度はぼくが待つよ、とブルーはハーレイに口付けを返す。触れるだけの口付けを
何度も、何度も、想いをこめて唇に、頬に、まだ痛むらしい剃り跡の傷を労わるように。
「君がすっかり元気になるまで、一緒に眠れるだけでいい…。明日はドクターが来る前に
ぼくが起こすよ、だから安心してゆっくり眠って……」
「…ブルー、あなたこそ…。辛い想いをなさったのです、今夜はどうぞ良い夢を…」
 明日の朝はごゆっくりお休み下さい、とハーレイは自分で起きると言い張った。互いに相手の
身体を気遣い、自分が起こす、と約束し合いながら、二人して眠りに落ちてゆく。
 先に眠ったのはハーレイだったか、それともブルーだったのか。
 固く抱き合い、寄り添い合ったままで眠り続ける恋人たちは気付かない。
 部屋を訪れたドクターが一つ溜息をついて、首を振りながら出て行ったことに。

 

 


 キャプテン・ハーレイ、過労につき当分は青の間で静養とする。
 入室する者は事前にドクターの許可を得るよう、との告知がシャングリラ全艦に流された。
 ソルジャー・シンや長老たちもその例外ではないらしい。
 そんな告知が出されたとも知らず、ハーレイとブルーは眠り続ける。
 二人が共に目覚めた時にはブルーの心を引き裂いた痛みも、ハーレイの顎の剃刀負けも
きっと癒えていることだろう。互いの温もりは何にも勝る特効薬で、それを上回るものは
無いのだから。
 地球への道は長く険しいけれども、二人は地球の夢を見る。
 青い星に二人で降りてゆく夢。
 夢はいつの日か、遠い未来に奇跡となって青い地球の上で叶う筈……。








                   奇跡の狭間で・了


  ≪作者メッセージ≫

  ハレブル別館にお越し下さってありがとうございました!


  『奇跡の狭間で』は、『奇跡の碧に…』と『奇跡の青から』の間の何処かが
  舞台になっているお話です。特に何話の辺りとは決めてませんねえ…。
  地球の座標は掴んだものの、まだまだ遠い宇宙を旅していた頃です。


  昨年の『奇跡の青から』でブルー生存EDを書き上げたくせに、いざ7月が
  近付いてくると「何かせずにはいられない」という損な性分。
  「ウチのブルーは生きてます!」と再確認&主張するために書いてみました、
  奇跡シリーズな『奇跡の狭間で』。


  ブルーを生かしているものが何であるかもハッキリさせておきたいですしね。
  ハーレイの命を貰っているわけではありませんから、御安心を。
  祈りという奇跡で生きているブルー。
  祈りを捧げ続けるハーレイ。
  そんな二人が青い地球まで星の海を渡ってゆくのです。


  青い地球の上に降り立つことが出来たブルーは、幸せに生きているでしょう。
  ハーレイと二人で穏やかな日々を、文字通り「ただのブルー」として。

  
  今年も「運命の17話」の放映日、7月28日が巡って来ました。
  アニテラでは叶わなかった未来だからこそ、ブルーを青い地球の大地の上へ。
  一連の『奇跡』シリーズは、そのためだけに存在します。


  ハーレイとブルー、二人の幸せな未来を祈りつつ…。
  7月28日ですから、黙祷。

 


        2013年7月28日(日)、アニテラ17話放映から6周年。





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