シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
ぼくの大事なシャングリラの写真集。ハーレイとお揃いの写真集。
勉強机の上に飾ってあるハーレイとの記念写真を収めたフォトフレームが家に来る前は、唯一のお揃いだった写真集。だからとっても思い入れがあるし、写真集そのものもお気に入り。
載っている写真はすっかり頭に入っているけど、でも今だって新しい発見があったりもする。
豪華版の写真集だから、印刷も綺麗。ルーペで拡大すれば細かい部分も見えることがあるんだ。
例えば、公園。
普通に見てればただ一面の芝生だけれども、十倍のルーペで覗き込んだら懐かしい花たちの姿が見えてくる。クローバーだとか、タンポポだとか。子供たちが摘んで遊んでいた花。ぼくも一緒になって摘んだり、四つ葉のクローバーを探したりもした。
もっとも、前のぼくは四つ葉のクローバーを一度も見付けられずに終わったんだけど。
キャプテンだったハーレイまで動員して探してみたって、一つも見付からなかったんだけど…。
それがシャングリラでのクローバーの思い出。
なのに今では、ぼくの家でもハーレイの家でも四つ葉のクローバーがちゃんと見付かったんだ。不思議だけれども、本当のこと。
シャングリラのクローバーは前のぼくとハーレイの悲しい別れを予言していたのかもしれないと思った。ハッピーエンドになりはしないから、四つ葉は見付からなかったんだ、と。
そのクローバーが写った公園の写真。ちょっぴり悲しくて、でも幸せな気持ちにもなる。ぼくの家にもハーレイの家にも、今は幸運の印の四つ葉のクローバーがあるんだから。ぼくは今度こそ、幸せに生きて行けるんだから…。
十倍のルーペを使って覗けば色々なものに出会える写真集。
だけど全部の写真がそういう仕様になってはいなくて、拡大できるのは一部だと分かった。
公園とか、ブリッジとか、いわゆる公共のスペースと呼ばれる部分に限られるみたい。
だって、青の間は拡大できなかったから。
半ば公共のスペースと化していた感があるけど、あそこは一応、ぼくの私室だった。
どうやら個人の部屋を拡大して眺めることは出来ないらしい。
(元になった写真がそうだったのかもね)
時の流れが連れ去ってしまったシャングリラ。
ぼくが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
消えてしまう前に撮られた写真が編まれて写真集になっているわけだけれど、それらを写す時に色々と配慮したかもしれない。
ジョミーの後を継いだトォニィは、ぼくたちの思い出を残した部屋をそっくりそのまま、まるで持ち主が生きているかのように手を触れないでいてくれた。掃除だけをして残してくれた。
お蔭で青の間もハーレイが使ったキャプテンの部屋も、記憶にある姿で写真集に在る。
そうしたプライベートな空間は拡大できないように撮影したかもしれない。もう持ち主がいない部屋でも、其処は持ち主のプライベートな空間だったのだから。
(きっと、そうだよね)
ぼくは青の間を拡大して眺めてみたいと思うけれども、それは青の間が自分の部屋だから。前のぼくでも、ぼくはぼく。青の間はぼくのための部屋。
その部屋を写真集を買った何処かの誰かが拡大して見てたら、それはかなり嫌だ。
部屋の中央にある大きなベッド。ハーレイと過ごした思い出のベッドを拡大されたら、とっても悲しい。詳しく見たいと思う気持ちは分かるけれども、あれはぼくのベッド。
あのベッド、ぼくがいなくなった後には誰も使っていないから。
一時期、マットレスとかを全部外して空っぽの枠だけだった時期もあったらしいけれど。
ぼくが居た頃と同じように青の間に集まって会議などをしていたジョミーや長老たちが「これは寂しい」と思ったらしくて、元通りに寝具が整えられた。
だけど寝る人はいなかった。ジョミーも昼寝にすら使いはしなかった。
ナキネズミだけがたまに寝ていたとハーレイに聞いた。
ハーレイは一人で青の間に行って、ベッドの上のナキネズミと思い出話をしていたらしい。
其処で寝ていたぼくの話を。
ハーレイからそれを聞かされた時に、ぼくはビックリしてしまって。
「ハーレイ、それって…。どういう話をしていたの?」
語れるほどの思い出をナキネズミは持っていたんだろうか?
そう思ったから尋ねてみたら。
「心配するな。あいつは覗きをしてはいないぞ」
「…覗き?」
「俺たちが一緒に寝ていた所は見ていないようだ。良かったな、おい」
「そうならないように気を付けてたじゃない!」
当たり前だよ、覗かれないようにしておかなくちゃ。
そういう時間に入られちゃ困る。
いくら思念波で会話が出来ても、ナキネズミは所詮、動物だから。
秘密なんて概念、何処まで分かるか怪しいものだ。
ぼくとハーレイがベッドで何をしてたか、シャングリラ中で喋りまくられてはたまらない。
だからナキネズミは徹底排除。
何処にもいない、と確認するまで恋人同士の時間はお預け。
そのナキネズミも作ってから何代も代替わりをして、ジョミーに渡したのは何代目だったか…。
ジョミーは「レイン」と名付けたらしいけど、その前は名無しのナキネズミだった。
いつかジョミーに、と思っていたから名前を付けずに放っておいた。
そうしたらジョミーも名前を付けずに放ったらしくて、ナキネズミ曰く、名前は「お前」。
トォニィが生まれて、父親のユウイが「トォニィ」と名前をプレゼントした時に分かった真実。
後から生まれたトォニィの方が先に名前を貰ったという凄い話をハーレイに聞いた。
トォニィの誕生を祝って集まった仲間たちの前で「お前」と名乗ったナキネズミ。そのせいで、ジョミーが名前を付けずに放置していた事実がバレた。
皆に散々笑われたジョミーが大慌てで付けた名前が「レイン」。
たまたま雨が降り始めたから、「恵みの雨のレイン」と強引にこじつけたらしい。いい名前ではあるんだけれども、由来を知ったら笑わずにはとてもいられない。
なりゆきで名前を貰ったレインと、ぼくを失くしたハーレイが青の間でぼくの思い出話。
ハーレイはナキネズミにぼくが自分の恋人だったと言えはしないし、話せる内容は当たり障りのないものだけだったみたいだけれど…。
それでもハーレイの話相手がいて良かった。
フィシスじゃ駄目だと思うから。
長老たちでも駄目だから。
ぼくを失くして独りぼっちになったハーレイの、誰にも言えない孤独と悲しみ。
それが何なのか明かすことの出来ない深い悲しみと孤独から来る寂しさと痛みを、何も訊かずに受け止めてくれるの、ナキネズミくらいしか居なかっただろうと思うから…。
(…でも、ナキネズミは写っていないね)
写真集の中にはハーレイが彫った木彫りくらいしかナキネズミの名残りは見当たらない。
トォニィの部屋に置いてある木彫りのナキネズミ。
ミュウの子供が沢山生まれますように、という願いと祈りを籠めた豊穣のシンボルのウサギだと勘違いされて、宇宙遺産になってしまった実はナキネズミな木彫りのウサギ。
(…ふふっ)
ぼくもウサギだと信じていたっけ。
ハーレイの口から「あれはナキネズミだ」と衝撃の事実を聞かされるまでは、ホントのホントにウサギだと信じていたんだよ。
何処から見たって立派なウサギで、おまけに今では宇宙遺産。
それなのにホントはナキネズミだなんて、誰が信じてくれるだろう?
もっと面白いものは無いか、とページをめくって、ハーレイの部屋。
シャングリラのキャプテンだったハーレイの部屋は、ぼくにとっても懐かしい部屋。どっしりとした木の机が持ち主のレトロな趣味を反映していて、机の上には白い羽根ペン。
(ナキネズミを彫ったナイフって……多分、引き出しの中だよね?)
机の上には置いていないと思う。
(置いていたって、羽根ペンがこんなに小さく写っているんだものね…)
ナイフの有無はちょっと分からない。
十倍のルーペで覗いてみたけど、プライベートな部屋だから拡大出来ない仕様。
(うーん…)
なんだか残念。
ハーレイの持ち物が分からないなんて、とても残念。
残念だけれど、それよりも…。
(うん、この部屋のベッドも、何処かの誰かに拡大されて見られていたなら悲しいしね?)
ハーレイと何度も一緒に眠ったベッド。ぼくたちが愛を交わしたベッド。
恋人同士の時間は青の間で過ごすのが普通だったけれど、たまに泊まりに出掛けて行った。
ハーレイは朝が早かったから、起こして貰って瞬間移動で青の間に帰った。
そして何食わない顔をしてハーレイがやって来るのを待つんだ。
朝の報告をするために、ソルジャーの部屋を訪れるキャプテン・ハーレイを。
「ソルジャー、おはようございます」
その挨拶でぼくが起きると皆が信じていた時代。
キャプテンの制服をカッチリ着込んだハーレイが、ソルジャーのぼくにする朝の挨拶。
本当はぼくはとっくの昔に起きてしまっていたんだけどね?
ハーレイが青の間で過ごした時には、二人で目覚めて「おはよう」のキス。
ぼくが泊まりに行った時には、ハーレイの部屋で起こして貰って帰って来て…。
ハーレイが朝の挨拶を済ませた頃合いで朝食係のクルーが来る。ぼくの分と、ソルジャーと共に朝食を摂りながら報告をするハーレイの分と、二人分の朝食を用意するために。
青の間のキッチンで最後の仕上げがされる朝食。ハーレイの朝食を何にするかは、前の日の間にハーレイが自分で注文していた。ぼくの分は前の日の夜に部屋付きのクルーが注文を取った。
朝食はホットケーキが一番好きだったかもしれない、前のぼく。
トーストももちろん好きだったけれど。
厨房のクルーが焼き上げる色々なパンだって好きだったけれど…。
ホットケーキはシャングリラで初めて作られた「贅沢な朝食」だったから、ぼくの中では特別な食事。いつか青い地球まで辿り着いたら、地球でも食べてみたかった。
ミュウと人類とが和解出来たら、青い地球でホットケーキの朝食。
本物のメープルシロップをたっぷりとかけて、地球の草を食んで育った牛のミルクから作られたバターを添えて。
そんなささやかな、ミュウの置かれた状況を思えば大それた夢を見ていた、前のぼく。
(そういえば…)
ハーレイの部屋では一度も朝御飯を食べなかった。
何度も泊まりに出掛けていたのに、朝食はいつも青の間で食べた。ハーレイと二人一緒に食べていたのに、いつでも青の間。ハーレイの部屋で食べてはいない。
(そうなると…)
今のぼくが瞬間移動で飛び込んで行ったハーレイの家。
メギドの夢を見たのが怖くて、今のぼくは死んだソルジャー・ブルーの魂が見ている夢の産物で本当は何処にもいないんじゃないかと思ってしまって、何もかもが消えてしまいそうで。
ぼくの人生は夢じゃないんだと、本当に生きて地球に居るんだとハーレイに言って欲しいのに、真夜中だったから会うことなんか出来なくて…。
会いたくて、声が聞きたくて、抱き締めて欲しくて、泣きながら独りぼっちで眠った。そしたら自分でも知らない間に瞬間移動をしてしまっていて、目を覚ましたら朝でハーレイのベッドの上に居たぼく。
ハーレイは困ったような顔をしていたけれども、パジャマ姿のぼくを車で家まで送ってくれた。朝御飯も作って食べさせてくれた。「オムレツの卵は何個なんだ?」なんて訊きながら。
あれがハーレイの部屋……ううん、部屋どころじゃなくて、ハーレイの家での初めての朝御飯。部屋なんか軽く飛び越してしまって、ハーレイの家で食べた朝御飯。
前のぼくですらハーレイの部屋では朝御飯を食べていないというのに、ハーレイの家で朝御飯。ぼくが初めてハーレイのプライベートな空間で食べた朝御飯…。
(そこまで貴重だとは思わなかったよ、あの朝御飯!)
もっと味わって食べれば良かった。
ハーレイの家へ行けた幸せで胸が一杯でドキドキしていて、夢みたいな時間だったけど…。
落ち着いて味わえと言われた所で無理だったろうとは思うけれども、もっと味わうべきだった。
だって、初めてのハーレイのテリトリー…っていうのかな?
ハーレイのためにある場所で、初めて食べた朝御飯。
前のぼくでも未経験だった、ハーレイのための空間で食べる朝御飯……。
とはいうものの、シャングリラに居た頃はハーレイの部屋で食べたいなどと思ったことは…。
(…あったかな?)
どうだったかな、と遠く遙かな記憶を探れば、あったような気もする。
たまにはハーレイの部屋で朝御飯を食べてみたいのだけれど、と考えたことがあったみたいだ。
考えたくせに、ハーレイの部屋で自分が一緒に朝御飯を食べるというのは変だから、と、いとも簡単に諦めてしまった前のぼく。
もうちょっと頑張ってみればよかった。
打ち合わせをするのにキャプテンの部屋の方が都合がいいとか、理由を捻り出すべきだった。
ハーレイの部屋には何十年どころか百年単位での航宙日誌が揃っていたのだし、それを見ながら相談したいことがあるとか何とか…。
(バカバカ、前のぼくのバカ!)
そう思ったけど、スペースの関係で無理だと諦めた気がしないでもない。二人分の朝食を並べて置けるテーブルが無いから、と結論付けたような…。
(えーっと、テーブル…)
写真集の中のハーレイの部屋を眺めてみる。
(…ヒルマンやゼルとお酒を飲んでいたのは、この机だよね?)
ハーレイが航宙日誌を書いていた机。羽根ペンが乗っかった木製の大きな机。
机の上は充分広いけれども、お酒ならともかく、朝御飯を食べるには向かないような…。第一、机の構造上の問題もあって、向かい合わせでは座れない。
(お酒だったらグラスを置ける場所さえあればね…)
隣り合って座って飲んでいようが、机の角を挟んでだろうが、飲むだけだったら何とでもなる。けれど報告だの打ち合わせだのという名目がついた、ソルジャーとキャプテンの朝食は無理。
あの朝食は向かい合わせで大真面目な話題を語り合う席だと皆が信じていたのだし…。
(うーん…)
ハーレイが一人でお酒を飲む時に使っていた寝室のテーブル。
ぼくはお酒に弱かったから、大抵は美味しそうにグラスを傾けるハーレイの姿を見ていただけ。たまに強請って少し飲んでは、酔っ払ったり二日酔いに苦しむ羽目になったり。
そのテーブルは机よりもずっと小さいから、二人分の朝食は…。
(ちょっと置けないかも…)
卵料理やサラダなんかもついた朝食。何枚ものお皿はとても置けない。
だけどトーストと紅茶くらいの簡単な朝食だったら、詰めて並べれば何とかなりそう。
(手早く食べたいからトーストだけで、って言えば用意をしてくれたよね?)
トーストとか、サンドイッチとか。お皿の数を減らす工夫をすれば充分、其処で食べられた。
それをしないで無理だと諦めてしまったぼく。
諦めの良すぎた前のぼく…。
(…一度くらい、ハーレイの部屋で朝御飯をゆっくり食べればよかった…)
ハーレイと本物の恋人同士だったくせに、ハーレイの部屋で朝御飯を食べたことが無かった前のぼく。いつも青の間で食べていたぼく。
アルタミラを脱出した後、ずっとハーレイと一緒にシャングリラで暮らしていたくせに。
恋人同士になったのは青の間が出来てからだけど、長い長い年月を共に暮らして、毎日のように朝御飯を一緒に食べていたくせに…。
(ホントに、なんでハーレイの部屋で食べたいって思わなかったんだろう…)
食べてみたいと考えたのなら、諦める前に努力してみるべきだった。
ハーレイに相談を持ち掛けて大きなテーブルを置いて貰うとか、「ソルジャーとの会食」に必要だからと、その日だけ何処かからテーブルを運んで貰うとか…。
(ホントに諦めが良すぎなんだよ、前のぼく…)
もっと我儘を言えばいいのに、と思ったけれど。
前のぼくは十四歳の子供でもなければ、我儘を言えば叶えて貰える幸せな世界も知らなかった。成人検査でミュウと判断された後には地獄の人体実験の日々。脱出してからも苦労の連続。
(…やっと落ち着いた時にはソルジャーになってしまっていたっけ…)
皆を導く立場のソルジャー。
我儘を言っても多分、許されたんだろうけど。
唯一の戦えるミュウだったんだし、皆よりも我儘を言える立場に居たんだろうけど…。
そういったことを良しとしなかった、前のぼく。
ソルジャーたるもの、我を通すよりも忍耐強く、我慢強くと懸命に己を律したぼく。
朝御飯くらいで我儘なんかを言いたがる筈が無かったんだ。
言いたくても言わずに、望むよりも先に諦めることが前のぼくの生き方だったんだ…。
(…だからメギドで死んじゃったんだよ、本当は地球が見たかったのに)
思い出した、と溜息をつく。
今のぼくだから我儘なことを考え付いたり、やりたいと願ってしまうだけ。
ハーレイの部屋での朝御飯なんて、前のぼくなら強く願う前に諦めてしまうだけなんだ…。
(…後悔するのも、きっとぼくだからだ)
前のぼくはハーレイの部屋で朝御飯を一度も食べられなかったことなんか、きっと後悔しない。そういうものだと諦め切って納得してるし、それでかまわないと思ってる。
でも、ぼくは違う。
前のぼくが青の間でしかハーレイと朝御飯を食べていないことを「もったいないよ」と考える。本当に本物の恋人同士で、ハーレイの部屋へ泊まりに行っていたのに、朝御飯を食べずに青の間に帰っていたなんて。
せっかく恋人の部屋に泊まったのに、朝御飯も食べずに帰っただなんて…。
(それって絶対、もったいないから!)
今のぼくがハーレイの家で食べた朝御飯が「初めての」ハーレイのテリトリーでの朝御飯。
そんなことになってしまっただなんて、前のぼくの人生は何だったのかと思ってしまう。
前のぼくが後悔していなくっても、今のぼくが代わりに後悔している。
どうしてハーレイの部屋で朝御飯を一緒に食べなかったのか、と。
(バカだよ、ホントに大バカなんだよ…)
なんで、と前のぼくの諦めが良すぎたことを嘆かずにはとてもいられない。
ハーレイの部屋での朝御飯くらい、我儘とも言えないレベルなのに。
皆はソルジャーとキャプテンの会食なのだと信じていたから、我儘どころか「必要でしたら」と喜んでハーレイの部屋での朝食を整えてくれただろうに。
(…そんな大嘘、つけないのが前のぼくなんだけどね…)
そうしてメギドで死んでしまった。
焦がれ続けた地球を見ることさえも諦めて、独りぼっちで死んでしまった。
ハーレイに「さよなら」も言えず、別れのキスも抱擁も無しで、最後にハーレイに触れた右手に残った温もりだけを抱いて逝こうとメギドへと飛んだ。その温もりさえも失くしてしまって、前のぼくは泣きながら死んでしまった。
温もりを失くした右の手が凍えて冷たくなったと、独りぼっちになってしまったと…。
我儘も言わず、後悔もせずに死んでしまった前のぼく。
たった一つだけ後悔したのが、ハーレイの温もりを失くしたこと。
そんな前のぼくがハーレイの部屋で朝御飯を食べなかったことを後悔するわけないんだけれど。
分かっているけど、ぼくは代わりに後悔をする。
前のぼくの分まで後悔していて、諦め切れなくて悔しくて悲しい。
(本当に一度くらい食べれば良かったんだよ、ハーレイの部屋で…)
後悔先に立たずと言うけど。
ぼくの場合は取り返しがつく。
シャングリラはもう何処にも無いから、あのキャプテンの部屋は無いけれど、ハーレイの家なら同じ町にある。ぼくの家から何ブロックも離れた場所でも、ハーレイの家は存在している。
そのハーレイの家で一度だけ食べた朝御飯。
ハーレイのテリトリーで食べる初めての朝御飯だと気付かなかったけど、ぼくはハーレイの家で確かに食べた。前のぼくには叶わなかったハーレイのテリトリーでの朝御飯を。
貴重なチャンスを引っ掴んだ、ぼく。
幸運すぎる今のぼくだけど、まだハーレイとは結婚どころか本物の恋人同士になってもいない。
チャンスはこれから山のようにあるし、結婚したならハーレイと一緒に食べるのが普通。
ハーレイの部屋で朝御飯。
二人一緒に、毎日、毎朝、ハーレイの部屋で朝御飯。
(うん、これからだよ)
前のぼくの分もハーレイの部屋で、ハーレイの家でゆっくり食べよう。
後悔の分を取り返すんだ、と決意した所で、ふと引っ掛かった。
(…ハーレイの家?)
ハーレイの家というからには、ぼくはあの家にお嫁に行くんだろうか? 一度だけ遊びに行ったハーレイの家。一度だけ瞬間移動で飛び込んでしまった、ハーレイの家。
それともハーレイがぼくの家に来て、ぼくの家にハーレイの部屋が出来るわけ?
空いている部屋は幾つかあるけど、その一つがハーレイの部屋になって其処でゆっくり朝御飯?
ぼくの家にはパパとママもいるのに、ハーレイの部屋で朝御飯…?
それは何だか恥ずかしすぎる。
ハーレイの部屋で何をしていたのか、結婚した以上はパパとママには丸分かり。そういうことをしていた部屋で朝御飯をハーレイと一緒に食べるだなんて…。
朝御飯の後、どんな顔をしてパパとママに会えばいいんだろう?
どんな顔をしてハーレイと一緒に「おはようございます」と言えばいいんだろう…?
なんだか困る。とっても困る。恥ずかしいなんて言葉くらいじゃ言い表せない恥ずかしさ。
(…お嫁に行った方がいいんだろうか…)
パパとママを気にせず、ハーレイの部屋でゆっくりしたければお嫁に行くしかないらしい。
ぼくの部屋も気に入っているんだけれど…。この家も気に入っているんだけれど…。
(でも、ハーレイの部屋で朝御飯…)
ぼくがこの部屋に住んで、ハーレイと一緒に夜を過ごして、この部屋でハーレイと朝御飯。
それじゃハーレイのテリトリーで食べたことにはならない。青の間で朝御飯を食べるのと同じ。
(全然ダメだよ…)
この部屋で朝御飯だと意味が無い上に、ぼくの家だから、やっぱりパパとママが居る。
言葉に出来ない恥ずかしさの極み。
(…やっぱり、ぼくがお嫁に行く?)
ハーレイの家に、お嫁に行く。
一回だけしか遊びに行っていないハーレイの家。一回だけしか飛び込んでいないハーレイの家。
あの家へお嫁に行くのかな、ぼくは…?
ハーレイのテリトリーで朝御飯を食べたかったら、それしかなさそう。
パパとママとが居ない所で食べたかったら、それしかなさそう。
だけど、ぼくの部屋も、ぼくが住んでいる家も、とってもお気に入りなのに…。
どうしようか、と悩み始めたぼくだったけれど。
前のぼくが生きた長い長い生に比べれば、まだちょっぴりしか生きていない、ぼく。
たったの十四年しか生きていなくて、背丈だって伸びていないぼく。
百五十センチしかない背丈が前のぼくと同じ百七十センチにならない限りはキスさえも駄目で、結婚なんて夢のまた夢。
考えるための時間は山のようにあるし、前のぼくの分まで後悔だって出来る。
だから、ハーレイの部屋を何処にするかくらい、うんと沢山悩んで検討すればいい。
(ゆっくり決めればいいんだよね、うん)
パタリ、とシャングリラの写真集を閉じた。
憧れのハーレイの部屋での朝御飯。
その部屋が在るのがハーレイの家でも、ぼくの家でも、今度こそゆっくり食べるんだから…。
朝御飯の場所・了
※前のハーレイの部屋で朝御飯を食べておけば良かった、と今になって後悔するブルー。
今度は何処で朝御飯を食べることになるのか、それは結婚してからのお楽しみ…?
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