シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
ハーレイが仕事帰りに寄ってくれなかった日。ちょっぴり寂しい、今日の夕食。料理はとっても美味しいんだけれど、ハーレイも一緒に食べたかったな、って。
(ハーレイも今頃、晩御飯かな?)
料理は得意だと聞いているから、仕事から帰って手早く作って。それとも凝った何かにしようと格闘中かな、食料品店で色々と食材を買い込んで来て。
(どっちもありそう…)
ハーレイが作る料理だったら、きっと何でも美味しいから。パパッと作った炒飯とかでも、待ち時間が長いオーブン料理や煮込み料理の類でも。
ぼくも食べたい、って思っていたら。ハーレイの夕食は何なんだろう、と考えていたら。
そのテーブルでパパが一言。
「ママ、頼んでいたアレは出来てるかな?」
「ええ」
(まだ何かあるの?)
パパが注文していた料理が出て来るのかな、と思ったんだけど。平日だけれど、お酒だろうか。軽くビールを一杯飲みながら、何かおつまみ、と考えたけれど。
どうぞ、とママが棚から取って来たもの。それは出来上がった料理やおつまみじゃなくて…。
小さな箱に刷られたお店の名前で一目で分かった。パパの名刺。
(お仕事用?)
ママが近所の印刷屋さんに時々作りに行っているから。
きっとそうだよ、と眺めていたら、「こいつはいいな」って笑顔のパパ。
お仕事用の名刺じゃなくって、知り合った人に渡す名刺の方だった。かしこまっていない感じの名刺。もっと砕けた、自己紹介を兼ねて気軽に渡せるタイプの名刺。
ふうん、と見ていただけだけれども。
この前に作った名刺とデザインが変わっているんだな、って見ただけだけれど…。
食事が終わって、部屋に戻って考えた。さっきのパパの名刺のこと。
知り合いに渡す名刺は気分でデザインを変えているけど、お仕事用の方はいつでも同じ。パパの趣味も入っているんだろうけど、うんと堅苦しい印象の名刺。
(お仕事用と、知り合い用と…)
名刺が二種類、渡す相手が誰かによって渡す名刺も変わってくる。間違えて渡したら、お仕事の時は失礼だったりするんだろう。あの堅苦しい名刺の代わりに知り合い用のを渡しちゃったら。
名刺はどっちも自分が誰かを表すものなのに、大人は大変。
(ママだと一種類しか無いんだけどね?)
会社に行ったりするわけじゃないし、知り合った人に渡す分しか作っていない。リボンを結んだ花束が端っこに浮き出している名刺、ママの好みのお洒落な名刺。
パパが作っている知り合い用の名刺もそれに似ているかな、カクテルグラスやコーヒーカップや色々なものを気分で選んで入れているから。今日の名刺はマグカップだっけ。
パパが言うには、そういう模様も話の切っ掛けになるらしい。何をお飲みになるんですかとか、そういったトコから始まる会話。お仕事用の名刺はつまんないけど、知り合い用だと面白い。
(名刺、ぼくはまだ持っていないし…)
子供には名刺なんかを交換する場所も習慣も無いし、当然、名刺は持ってない。
ぼくが名刺を持つようになる日は、まだまだ先の話なんだ。
(ハーレイのお嫁さんになったら作るんだよ)
ママが持ってる名刺みたいに、知り合い用のを一種類だけ。今のぼくには将来の夢はお嫁さんの他には何も無いから。仕事をしている姿なんて想像出来ないから。
ハーレイも「お前は家に居て、俺の送り迎えをしてくれりゃいいのさ」なんて言ってるんだし、きっと仕事はしないと思う。お仕事用の名刺は要らない。
ハーレイのお嫁さんになった時には、どんな名刺を作ろうか?
ママのみたいな花束つきの名刺は男のぼくだと少し変かな、お嫁さんならそれでいいのかな?
(…名刺の決まりなんか、ぼく、知らないしね…)
ハーレイと相談するのが一番だろうか、お嫁さんのぼくにピッタリの名刺。ハーレイと暮らしているんです、って自己紹介をしながら渡すのに相応しいデザインの名刺。
(うん、それがいいよ)
ぼくはハーレイのお嫁さんだし、と思ったんだけれど。
(…あれ?)
大人だったら持っている名刺。初めて会った人に渡して自己紹介をする名刺。
ハーレイだって持っている筈、作っていない筈がない。
(お仕事用と、知り合い用…)
学校の先生をしているハーレイの名刺と、学校とは無関係の場所で渡す名刺と。パパのが二種類あるのと同じで、ハーレイだって、きっと二種類作っているんだ、自分の名刺を。
(どんな名刺を持ってるんだろ、ハーレイって…)
それに、その名刺。ぼくの家にはあるんだろうか?
ハーレイと初めて会った途端に、聖痕現象を起こして病院に運ばれちゃった、ぼく。ハーレイは病院まで付き添ってくれて、その日の夜には家を訪ねて来てくれた。
おまけにぼくの守り役ってことになってるんだし、自分の名刺をパパとママとに渡していそう。大人同士だったら名刺の交換、それがどうやら基本らしいし…。
(でも、渡していないってこともあるよね…)
名刺なんかを交換するより、もっと大事な話が色々あっただろうから。
ぼくの家には無いかもしれない、ハーレイの名刺。どんな名刺か見てみたい名刺。
でも、訊けない。パパとママには今更訊けない。
「ハーレイの名刺って、貰ってた?」なんて今頃になって訊いたら何かと思われる。
ママなら、きっとこう言うんだ。「ハーレイ先生の住所だったら知ってるでしょ?」って。
だけど気になる、ハーレイの名刺。見たくてたまらない、ハーレイの名刺。
仕事用のも、知り合い用のも、どっちも一度は見てみたいから。
(ハーレイの名刺…)
今度ハーレイが来たら訊いてみよう、とメモに書こうとしたけれど。ぼくが学校に行ってる間にママが来たなら、ぼくが名刺を作りたいのかと勘違いをされてしまいそうだし…。
(これで良し、っと)
パパの名刺を机の端っこに一枚、置いた。
前に貰った知り合い用のを勉強机に。カクテルグラスの模様が隅っこに浮き出してるのを。
名刺のことを訊くんだよ、と決心してたら、その次の日。
ハーレイが仕事帰りに寄ってくれたから、夕食の前にお茶を飲みながら訊いてみた。テーブルを挟んで向かい合わせで腰掛けて。
「ねえ、ハーレイ。…ハーレイ、名刺は持っている?」
「名刺?」
「そう、名刺。大人は名刺を持っているでしょ、自己紹介用の名刺だよ」
初めて会った人と交換するヤツ、ハーレイも持っているよね、きっと。
「そりゃまあ…なあ?」
俺も立派な大人なんだし、もちろん名刺は必需品だが。
「それ、ぼくに見せて」
見てみたいんだよ、ハーレイの名刺。どんなのかな、って思っちゃって。
「かまわないが…」
いきなり名刺とは何を言い出すんだ、お前、誰かに名刺を貰ったのか?
「違うよ、昨日、パパのが出来て来たのを見たんだよ」
それでハーレイのも見たくなっただけ。どういう名刺を渡すのかな、って。
「なんだ、単なる好奇心か」
そうだろうなあ、チビのお前に名刺を渡すような大人は珍しいからな。
ほらこれだ、とポケットに入れてあった名刺入れから出て来た名刺は先生の名刺。
ハーレイが先生をしているぼくの学校の校名と住所が入った、仕事用の名刺。
「…これだけなの?」
たったこれだけ、ハーレイの名刺?
「これだけって…。まだ何かあるのか?」
「知り合い用の名刺は無いの? お仕事じゃなくて、他の所で出会った人に渡すための名刺」
「ああ、そっちもか」
名刺と言うから、てっきりコレかと思ったんだが…。
俺はお前の先生だしなあ、学校の名前が入った方だと考えるのが普通だよな?
こっちだな、と別の名刺が出て来た。
テーブルの上に二枚の名刺。仕事用のと、プライベートで使う知り合い用のと。
ぼくはしげしげと二枚の名刺を見比べてから。
「ハーレイ、この名刺、ぼくの家にもくれた?」
渡してくれたの、ぼくとハーレイとが出会った頃に?
「ああ。お母さんたちに渡した筈だがな」
病院だったか、後でお前の家に来た時か、どっちだったか俺も記憶が曖昧なんだが…。
なにしろ前の俺の記憶が一気に戻った直後だ、どうもハッキリしないんだよな。
「渡したって…。どっちの名刺を?」
「両方だが」
「えーっ!」
ハーレイ、両方渡しちゃったの、パパとママに?
「当然だろうが、俺の職業も俺の住所も、どっちも必要になるんだからな」
俺はお前の守り役になるんだ、ついでにキャプテン・ハーレイだぞ?
教師としての俺も、仕事を離れている時の俺も、どちらも「これからよろしく」だろうが。
「ぼくはそんなの、聞いていないよ!」
ハーレイの名刺は初めて見たよ、と叫んでしまった。
今日まで全く知らないままだった宝物。ぼくの家の何処かにハーレイの名刺。
仕事用のと知り合い用のと、二枚の名刺。
ぼくが貰ったわけじゃないけど、ハーレイが置いて行ったもの。
(これがハーレイの名刺…)
よく見なくちゃ、と二枚の名刺を覗き込んでいたら、気が付いた。
仕事用のも知り合い用のも、何かマークがついている。二枚とも同じマークじゃない。仕事用の名刺と知り合い用では、ついてるマークが違うから。
「これ、なあに?」
何のマークなの、ハーレイの趣味? これとそれとじゃ違うマークになっているけど…。
「ああ、それはな…」
先生としてのハーレイが使う名刺に入った二つのマークは、柔道と水泳を教えられるという印。柔道と水泳を表すマークが一つずつ。
ハーレイは体育の先生じゃないけど、その二つはプロだという印。その気になったら授業だって出来る腕前があるという印。先生同士で交換したなら、そのマークだけで分かるんだって。
「ふうん…。ぼくにはマークじゃ分からないけど…」
こっちの知り合い用のについてるマークは?
これも何かの目印なの?
「目印と言うか…。俺の肩書きみたいなモンだな、柔道のな」
学校の教師をしていない時はこっちの教師ってことになるんだ、と言われてビックリ。ついてたマークはハーレイが所属している柔道の道場を示すマークで、道場の先生だけしか入れられない。
「ハーレイ、柔道の先生だったの?」
たまに道場に行って教えているって聞いていたけど、先生のマークが貰えるほどなの?
「それなりにな」
もちろん上には上がいるがだ、学生時代に既に選手にならないかって話があった俺なんだぞ?
それから二十年近くも経っているんだ、先生と呼ばれる立場にならなきゃ情けないだろうが。
ぼくが全く知らないままだった、柔道の先生をしているハーレイ。
考えてみれば選手の誘いが来るほどなんだし、先生になっても不思議じゃない。水泳の方だって選手の話があったんだっけ、と気が付いたから。
「水泳の先生のマークは無いの?」
学校で先生が出来るってことは、水泳の先生のマークだって持っていそうだけれど…。
「水泳の方は道場ってヤツが無いからなあ…。プロ向けのクラブはあるんだが」
そういうトコまで出掛けて行くより、ジムで泳いでる方が気楽でいいのさ。
柔道と違って一人でも出来るスポーツだしなあ、自分のペースが一番だってな。
だから先生のマークは無いんだ、って笑うハーレイ。学校で教える腕があったら充分だ、って。
(分かる人が見たら、このマークだけでハーレイの腕が分かるんだ…)
学校で柔道と水泳を教えられることや、柔道の先生をしていることや。
名刺だけで分かる、ハーレイの中身。
仕事用のでも、知り合い用でも、どっちもハーレイの特徴が出てる。マークだけで。
それに知り合い用の名刺の方なら、家の住所も書いてある。もちろん通信番号だって。仕事用の名刺の方でも、学校に居る時のハーレイに繋がる通信番号が刷られているし…。
(ハーレイがぎっしり…)
ほんの小さな名刺だけれども、ハーレイの情報が詰め込まれている二枚の名刺。
そう思ったら欲しくなって来た。テーブルの上の二枚の名刺。
くれるのかな、って期待したのに。
「もういいな?」
ちゃんと解説もしてやったんだし、もう充分に見ただろう?
ヒョイと名刺をつまみ上げたハーレイ。名刺入れに戻そうとしているから。
「仕舞っちゃうの?」
「見せびらかすようなモンでもないしな」
俺の名刺は特に凝ってるってわけでもないし…。単にマークが入ってるだけだ、普通の名刺だ。
紙だってごくごく基本のヤツだし、模様だって何も入ってないだろ?
気が済んだか、って二枚の名刺は名刺入れへと戻された。
そうやって消えた、ハーレイの情報がギュッと詰まった宝物。
何事も無かったかのように夕食を食べて、「またな」と帰って行ったハーレイ。
(ハーレイの名刺…)
どうにも諦め切れない名刺。もう一度見たい、ハーレイの名刺。
次の日、学校から帰って来て。
おやつを食べた後、ママが庭仕事に出ている間に名刺入れを広げて探してみた。今までにパパやママが貰った名刺を仕舞ったファイルがダイニングの棚に入っているから。
大きさの割に重たいそれを引っ張り出して来て、床の上に置いてめくってみる。名刺をズラリと並べたページが幾つも、幾つも。
(…どういう順番?)
ぼくたちが住んでいる地域は昔は日本と呼ばれた辺りで、人の名前は「あいうえお」順になっているのが基本だけれども、そういう順番じゃないみたい。アルファベットの順でもないし…。
名刺を貰った順番なんだ、と気付くまでの間に少しかかった。ファイルは名刺をしっかり包んでガードしてるから、古い名刺も新品同様、それじゃ全く分からない。
やっと見付けた、名刺の隅っこに書かれた日付。後に行くほど最近の日付。
(五月の三日…)
ハーレイと再会した日はその日だから、とページをめくった。今年の五月頃の日付入りの辺りにハーレイが渡した名刺がある筈、と順にめくって…。
(あった…!)
他の人の名前の名刺と並んで、二枚。忘れようもないハーレイの名刺。
仕事用のと、知り合い用のと、二枚の名刺がファイルにきちんと収まっていた。マークが入ったハーレイの名刺、ハーレイの情報がギュッと詰まった小さな紙が。
(昨日、見たのとおんなじだよ…)
見せて貰った名刺とそっくり、水泳と柔道を教えられる資格を示すマークと柔道の道場の先生のマーク。どっちもハーレイを表すマーク。それに住所に通信番号。
(いいな…)
この名刺がとても欲しいけれども、貰えない。
パパとママが貰ってファイルに仕舞った大切な名刺、ぼくのじゃないから抜き取れない。ぼくの家に置いてあるからと言って、抜き取って部屋には持って行けない。
欲しいのに、って覗き込んでいたら、ママが庭から戻って来る音。
(ママだ…!)
悪いことをしていたわけじゃないけど、慌ててファイルを元の棚へと押し込んだ。動かしたってことが分からないよう、周りの本とかとキッチリ揃えて。
だって、恋人の名刺を探していたんだもの。欲しいと見惚れていたんだもの。
ママには気付いて欲しくなんかないし、名刺を探していたことは秘密。
(ハーレイの名刺、欲しいんだけどな…)
どうすれば貰えるんだろう?
ダイニングのファイルからは抜き取れないけど、見付けちゃったら、もうたまらない。欲しくて欲しくて我慢できない。ハーレイの情報がギュッと詰まった、あの名刺。ハーレイの名刺。
持っているのはハーレイだから、と土曜日に訪ねて来てくれたハーレイに言った。
名刺、頂戴、って。
なのに…。
「お前の家にはもうあるだろうが」
俺は渡したと言った筈だぞ、お前のお父さんたちに。
「うん、見付けた」
名刺を整理してあるファイルに入れてあったよ、ハーレイの名刺。仕事用のも知り合い用のも。
「なら、それだけでいいじゃないか」
二枚ともちゃんと入ってたんだろ、俺が渡すのを忘れていたなら話は別だが。
「なんで?」
ぼくの家にあったらそれだけでいいって、どうしてそういうことになるわけ?
「名刺は見せびらかすようなモンじゃないしだ、プリントみたいに配るモンでもないからな」
一度渡せばそれでいいんだ、何枚も配るものじゃないんだ。
「パパ、配ってるよ?」
ハーレイに名刺を見せて貰った前の日にだって、名刺、新しいのを作っていたよ。
前の分をすっかり配っちゃったから作ってるんでしょ、パパは沢山配る筈だよ。
「そいつは交換してるんだろうが」
「交換?」
「まあ、挨拶といった所だな」
大人は名刺を渡すというのは知ってるんだろ、渡された人は自分の名刺をお返しに渡すっていう一種の決まり事だな。知り合いが増えれば渡す名刺も増えるんだ。だから何枚でも要るってな。
大人ってヤツは付き合いが広がる一方だしなあ、名刺はいくらでも必要なのさ。
しかし、一回渡した相手に二度目というのは失礼なんだ。前に会ったことを忘れています、って言うのと同じだからな。前に会った時と仕事や趣味が変わっていたなら話は別だが…。
そういうわけでだ、お前の家には俺の名刺が既にある。二度目を渡しちゃ失礼ってモンだ。
大人の挨拶、名刺の交換。
それをやったら貰えるんだとは分かったけれど。
ぼくの家にハーレイが二度目の名刺をくれるとなったら失礼だけれど、ぼくが貰うなら話は別。前の名刺はパパとママの分で、ぼくの分ではないんだから。
(ハーレイに名刺を渡しさえすれば、お返しに名刺…)
貰えるらしい、と思うけれども、問題が一つ。
(ぼく、名刺が無い…)
子供のぼくは名刺なんかは持ってない。落とし物をした時に分かるように、ってパパから貰った名刺を鞄に入れたりしているくらいの小さな子供で、自分の名刺は存在しない。
名刺が無ければ交換が出来るわけがなくって、ハーレイの名刺は貰えないけど。
でも、欲しい。ホントに欲しくてたまらない。
日曜日にまたハーレイと会ったら、一緒に一日を過ごしちゃったら、もっと欲しくなった。
ハーレイの名刺、ハーレイの情報がギュッと詰め込まれた二枚の名刺が。
ぼくの頭は名刺で一杯、大好きなハーレイの名刺で一杯。
もちろん頭の大部分を占めているのはハーレイだけれど、そのハーレイの名刺だから。
一晩寝たって忘れられなくて、学校へ行っても頭から消えてくれなくて。
(名刺…)
この間、ママがパパの名刺を作っていたのは近所の印刷屋さんだったっけ。
其処へ行ったら作れるのかな、と学校から帰って広げた新聞に、丁度、広告。おやつのケーキも放り出しちゃってチェックしてみた、お店の広告だったけど。
(五十枚から…)
名刺の印刷は五十枚から承ります、って書かれてた。そんなに要らない。一枚でいい。五十枚も名刺を印刷したって、何処にも配れやしないんだから。友達は名刺を持っていないし…。
それに印刷するものがない。いわゆる肩書き、仕事というヤツ。
ママはパパのお嫁さんで、それも立派な仕事の一つで、何も書いてない名刺だけれど。
いつかハーレイのお嫁さんになった後のぼくも、そういう名刺になるんだろうけど。
今は十四歳にしかならない子供で、何の仕事もしていないから…。
(一年生、って印刷出来ないよね…)
学校の生徒は仕事じゃないから。名刺を作りに出掛けようにも、今のぼくでは話にならない。
印刷屋さんに「どう書きますか?」って訊かれても返事のしようがないんだ、子供だから。
プロの印刷屋さんで刷って貰うことは出来そうもなさそうな、今のぼく。
だけどハーレイの名刺は欲しいし、そうするためには名刺の交換、ぼくの名刺は必需品。
(…こうなったら自分で作るしか…)
あれこれ悩んで考えた末に、パパの名刺のサイズを測って、画用紙に慎重に線を引いていった。縦がこれだけ、横がこれだけ、って。
失敗するってこともあるから、画用紙いっぱいに引いた線。名刺サイズの四角が沢山。
(十枚くらい切ればいいかな…)
端が歪んだりギザギザになったりしないように、って息を止めて切り取った十枚の紙。ぼく用の名刺を作るための用紙。どれも立派に名刺っぽく見える真っ白な紙の出来上がり。
机の上を綺麗に片付け、一枚選んで深呼吸してから頑張ってきちんとペンで書き込んだ。ぼくの名前と、それから住所。下書きも目印の線も書けないんだから、これがホントの真剣勝負。
(…これで良し、っと!)
ママの名刺みたいに花束は浮き出していないけれども、字だって印刷じゃないけれど。
なんとか名刺には見えると思う。名刺なんです、って言い張ったなら。
(この名刺で、名刺、貰えるかな…?)
ドキドキしながら出来上がった名刺を見詰めていたら、チャイムが鳴って。
仕事帰りのハーレイが来てくれたから、ママがお茶とお菓子を置いてった後で、さっきの名刺を勉強机の引き出しの中から取り出して来て「これ」って差し出した。
ぼくの手作り、画用紙を切って作った名刺。
「ハーレイ、これ、ぼくの名刺だけれど…」
これを渡したら、ハーレイもぼくに名刺をくれる?
「ほほう…。手作り感の溢れる名刺ってヤツだな、画用紙を切って手書きってトコか?」
「そうだけど…。やっぱりこういう名刺だと駄目?」
印刷屋さんで作って貰った名刺でなくっちゃ、ハーレイの名刺、貰えない?
「いや、そこまでは言わないが…。ここまでされたら仕方ないよな」
お前、よっぽど欲しかったんだな、俺の名刺が。
俺が作った名刺じゃなくって、印刷屋に頼んだ大量生産品で有難味も何も無いのになあ…?
まあいいか、と名刺入れを引っ張り出したハーレイ。
ぼくが渡した名刺と交換、知り合い用の名刺を一枚貰った。
ハーレイの住所と通信番号が書かれた名刺で、柔道の道場の先生のマークも入ってる。大喜びで受け取ったぼくだけれども、それっきり何も出て来ないから。
ハーレイの名刺は二種類の筈なのに、一枚きりしか貰ってないから。
「えーっと、ハーレイ…。仕事用のは?」
ぼく、一枚しか貰っていないよ、名刺、もう一種類あった筈だよね?
「ふうむ…。あっちは仕事用だと話さなかったか、教師としての俺の名刺だと」
お前、仕事は何なんだ?
あれを渡すのは仕事で出会った人なんだがなあ、仕事用だしな?
お前のお父さんたちにも教師としての自己紹介の意味で渡したんだが、あの名刺。
「あっ…!」
ごめん、仕事の付き合いでないと渡せないんだね、あっちの名刺。
あれが欲しいなら、ぼくも仕事用の名刺を作ってハーレイに渡さなきゃ駄目なんだね…!
ちょっと待って、と勉強机の所へ走って名刺用の紙を取り出した。
(余分に作っておいて良かった…!)
十枚も用紙を切っておいたから、まだ九枚も残っているから。
その内の一枚を机の上に置いて、急ぎながらも文字を揃えて書き込んだ。ぼくの名前を真ん中に書いて、後は学年とぼくのクラスと。それに学校の名前も書いて…。
「これでいい? 学校の住所も書いた方がいい?」
「そいつは俺も同じだからなあ、学年とクラスだけでいいだろ。お前の仕事は生徒だしな」
交換だ、ってハーレイは笑いながら名刺をくれた。
仕事用のを、柔道と水泳を教えられるって印のマークが入った先生の名刺を。
「ありがとう、ハーレイ! 大事にするよ!」
この名刺、ぼくの宝物だよ、二枚とも。大切にするね、きちんと仕舞って。
「ああ、俺もな」
こいつは大切にしないとなあ…。お前の名刺。
「なんで? その名刺、本物じゃないよ?」
印刷屋さんで作っていないし、ぼくが画用紙を切っただけだし…。
名刺っぽく見えるようには頑張ったけれど、それ、偽物の名刺なんだよ?
「いやいや、立派な名刺だってな、こいつはな」
お前が手作りしたんだろう?
世界に二つとない名刺なんだ、どんな印刷屋に頼んだとしても絶対に作れやしないってな。
こいつは俺の宝物だ、ってハーレイは二枚の名刺を大切そうに見ているけれど。
画用紙で作った偽物の名刺を、目を細めながら見ているけれど。
あんな偽物の名刺なんかよりも、ハーレイがくれた二枚の名刺の方が本物、よっぽど立派。
ぼくにとってはハーレイの名刺が宝物だし、本物の名刺なんだから嬉しいし…。
こういうのをなんて言うんだったかな、海老で鯛を釣るって言うんだったっけ?
画用紙の名刺で本物の名刺を貰ったよ、って喜んでいたら。
「海老で鯛だと? チビだな、お前」
分かっちゃいないな、そこはお前が喜ぶ所じゃないんだが…。
「どうして?」
ハーレイの名刺が貰えたんだよ、嬉しくない筈がないじゃない!
それとも言い方、間違えてるかな、海老で釣るのは鯛じゃなかったかな…?
「いいや、ヒラメでもカレイでもなくて、そこは鯛だが…」
まあいいさ。俺と結婚しようって頃にはお前も分かるさ、こいつの値打ち。
名刺欲しさにお前が作った、この偽物の値打ちがな。
手作りで世界に一枚きりだ、ってハーレイは本当に嬉しそうなんだけど。
とても大事そうに名刺入れに画用紙の名刺を仕舞っているけど、偽物でもかまわないのかな?
(印刷屋さんで作って貰った、本物がいいと思うんだけど…)
そう思うけれど、ハーレイがそれでいいと言うなら、いいんだろう。
画用紙で作った名刺だったけど、海老で見事に大きな鯛を釣り上げられた、ぼく。
ぼくの宝物が一気に増えた。
ハーレイの情報がギュッと詰まった素敵な名刺。
それが二枚も、仕事用のと知り合い用のと、合わせて二枚。
どっちも大切な宝物。
ぼくが作った偽物の名刺で貰えた本物の名刺、ハーレイの名刺。
これの方が絶対、値打ち物だよ、ハーレイに渡した画用紙の名刺なんかより…。
名刺・了
※ハーレイの名刺が欲しくなってしまったブルー。見せて貰ったら、その分、余計に。
けれど名刺は「交換するもの」。画用紙で名刺を作ったお蔭で、宝物がまた増えました。
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