シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(これを拭いて、っと…!)
テーブルを拭きにかかった、ぼく。
いつもハーレイと使うテーブル、今日はハーレイが来てくれる日だから念入りに。
部屋の掃除は自分でするけど、掃除の仕上げはテーブルなんだ。
パパが「お客さんが来た時に要るだろう?」って椅子とセットで買ってくれたテーブル。ぼくの部屋にすっかり馴染んだテーブル。
(まさかハーレイと使えるようになるなんて…)
そんな日が来るとは思わなかった。ただの重たいテーブルなんだと思ってた。
子供の部屋には少し立派すぎる、椅子とセットになったテーブル。
だけど今ではハーレイと二人で過ごす時には欠かせない。二人分のお茶とお菓子や、食事。沢山載せてもビクともしないし、揺れたりもしない。頼もしくて頑丈なぼくのテーブル。
(今日も綺麗にしておかないと…)
キュッと端っこまで拭き上げた時に、フッと記憶が掠めて行った。
遠い、遠い記憶。こうしてテーブルを拭いていた記憶。
(ぼく、拭いてた…?)
前のぼくだった頃に、テーブルを。白い鯨で、あのシャングリラで。
ぼくが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
(青の間のテーブル、拭いてたけれど…)
部屋付きの係の仕事だけれども、係がいない時にはぼくが拭いてた。専用の布巾を自分で絞ってキュキュッと拭いた。何度も、何度も。
だけど…。
それは違う、という気がした。そのテーブルじゃないと、別のだったと。
(もっと前なの…?)
青の間にあったテーブルじゃなくて、別のテーブル。そういうのを拭いていた記憶。
咄嗟には思い出せないけれど。
テーブルを拭いた布巾をママに返して、部屋に戻って。
あのテーブルは何処のだっけ、って勉強机の前に座って考えてみた。記憶の端っこを掴みやすいよう、何も持ってない手で机を拭く真似をしたりしながら。
(立ってて、大きなテーブルをキュッって…)
青の間にあったテーブルよりも大きかったテーブル。何の飾りもないテーブル。
シンプルで、物さえ置ければいいって感じで。
何処だったろう、とテーブルの記憶を手繰り寄せてみたら。
(厨房…?)
それも昔のシャングリラの。白い鯨になるよりも前のシャングリラ。
なんでその頃の厨房でテーブル?
前のぼくがテーブルを拭いていたわけ…?
厨房と言えば、前のハーレイが居たけれど。
キャプテンになる前は厨房で料理をしていたけれども、ハーレイの居場所だったんだけど。
(ハーレイ、片付けはしてなかった筈…)
脱出直後でゴタゴタしていた頃はともかく、すっかり厨房に落ち着いた後は片付けなんかはしていない。ハーレイは料理を作ってただけで、片付けは別の係がいた筈。
(お皿洗いも、厨房でお鍋とかを洗うのも…)
専属の係がやっていた。もちろんテーブルも彼らが拭いた。
なのにテーブルを拭いていた記憶。
食堂に並んだテーブルだったら、さほど不思議にも思わないけれど。
ちょっと零したとか、そういった時には拭いただろうから特に変でもないんだけれど。
厨房に置かれたテーブルとなったら話は別で、わざわざ入って行かない限りは接点が無い。
食事をしようと出掛けて行っても、厨房にまでは入らないから。
ハーレイは食事の時間になったら食堂に来てて、もう厨房には居なかったから。
もしもハーレイが厨房に居たなら、覗きに行くこともあっただろうけど…。
だから分からない、テーブルの記憶。どうしてぼくが拭いていたのか、謎のテーブル。
(あのテーブル…)
何に使っていたんだっけ、と其処から始まる記憶の旅。遠い記憶を探る旅。
白い鯨に、あの厨房はもう無かったから。
もっと広くて機能的な厨房、設備だってぐんと充実していた。最終的には二千人にもなった仲間たち。みんなの胃袋を満たす食事を毎日作っていたんだから。
(改造前でも広かったけどね)
コンスティテューションと呼ばれていた頃の船は、乗員がけっこう多かったらしい。それだけに厨房も大きかったし、鍋とかも沢山揃っていた。
その厨房にあったテーブル。シンプルだけども、そこそこ広さがあったテーブル。
(何かを置くから、あのテーブルがあったんだよね?)
椅子が置かれてた記憶は無いから、厨房の係が食事するための場所じゃない。何かを載せておくための場所。置き場所としての広いテーブル。
(…出来上がった料理?)
ううん、それなら盛られた順に食堂の方へと運ばれる筈。じゃあ、何を…?
完成した料理じゃないとすると…、と首を捻ったらヒョッコリ出て来た記憶。
そうだ、あそこで下ごしらえとかをやっていた。沢山の肉に塩を振ったり、野菜を切ったり。
ハーレイも色々なことをしていたけれども、それを見学しに行ったけども。
(…でも、なんでぼくがテーブルを拭いてたわけ?)
いくら見学に出掛けたからって、テーブルを拭くことは無いだろう。後片付けをする係が何人も控えてフライパンや鍋を洗ってたんだし、テーブルだって当然、拭く筈。
(ぼくの出番は無い筈だけど…)
だけどテーブルを拭いていた記憶。下ごしらえ用のテーブルをキュッと。
それをする理由が思い出せない、と悩んでいたら。
チャイムの音がして、ハーレイが訪ねて来てくれた。今は厨房の係じゃなくって、古典の先生のハーレイが。キャプテンでもない、今のハーレイが。
そのハーレイと、ぼくが綺麗に拭いておいたテーブルを挟んで座ってから。
ママが置いてってくれたお茶とお菓子を味わいながら、さっきからの疑問をぶつけてみた。
「ハーレイ。前のぼく、テーブル、拭いていた?」
ぼくってテーブルを拭いていたかな、前のぼくだった頃の話だけれど。
「はあ? 何を寝言を言っているんだ、拭いていたに決まっているだろうが」
お前の綺麗好きには泣かされた、って話もしていた筈だがな?
テーブルどころか洗面所とかまで掃除しようとしていただろうが、いつでもな。
部屋付きの係がいたというのに、ヤツらの仕事まで取っちまって。
テーブルを拭かないわけがないだろ、と呆れた顔をしているハーレイ。
駄目だ、訊き方が悪かった。
ぼくが知りたいのは青の間に居たぼくの話じゃなくって、もっと前のこと。
「青の間が出来るより前のことだよ!」
それよりも前に拭いていたかな、って訊いてるんだよ!
「俺の机だったら、磨きたがっていたが?」
俺がしょっちゅう磨いてたしなあ、やってみたいと何度も挑戦してただろ?
これでいいかと、こんな磨き方でいいのかと。
(そういうこともあったっけ…)
前のハーレイが愛用していた木で出来た机。こうしてやれば味が出るから、とよく磨いていた。
ぼくも磨くのを手伝ったけれど、ハーレイと一緒に手入れをしたけれど。
今は木の机を懐かしむより、テーブルの記憶の方が問題。
「机じゃなくって、厨房のテーブル!」
厨房に置いてあったテーブルなんだよ、下ごしらえとかをしていたテーブル。
あのテーブルをぼくが拭いてたかな、って。
「なんでお前がそれを拭くんだ」
下ごしらえ用のテーブルなんかを拭くようなことが無いだろうが。
「やっぱり記憶違いかなあ…?」
ハッキリしないし、何かとごっちゃになっているかな…?
「そうだと思うぞ、下ごしらえ用のテーブルなんぞをソルジャーに拭かせるヤツはいないな」
どんなに人手が足りなくっても、ソルジャーに拭かせることだけは無いな。
「ソルジャーだった頃のぼくじゃなくって!」
もっと昔、って説明した。
ぼくがソルジャーではなかった頃。ハーレイが厨房に居た頃だよ、って。
そう言ったら、ハーレイは腕組みをして少し考え込んでいたけれど。
ぼくと同じで、遠い記憶を手繰り寄せてたみたいだけれど。
「ああ、そういえば拭いてたな!」
今のお前と変わらないようなチビのお前が、あのテーブルを。思い出したぞ、間違いない。
「やっぱりテーブルを拭いてたの、ぼく?」
ちゃんと片付ける係がいたのに、ぼくがテーブル、拭いちゃっていた…?
「いや。お前がせっせと拭いてた時には、係なんかはいなかったな」
「そんなに昔の話だったの?」
片付ける係も決まってないほど昔だったの、ぼくがテーブルを拭いていたのは?
ハーレイが厨房の責任者だ、って決まるよりも前の頃だった…?
「そうじゃなくてだ、係のいない時間の話だ」
係はいたんだが、いなかった。そういう時にお前が拭いてた。
「えっ?」
それってどういう意味なの、ハーレイ?
係はいたけど、いなかったって…。意味が全然分からないよ?
ますます謎だ、と首を傾げてたら、ハーレイが「忘れちまったか?」と笑みを浮かべた。
「お前、試作に付き合ってたろうが」
俺が料理の試作をすると言ったら、厨房まで一緒について来て。
フライパンや鍋を覗き込むんだ、「何が出来るの?」とな。
「うん、覚えてる。味見もさせて貰ったよ?」
こんなのが出来たと、こんな感じだと。もうちょっと工夫をするかな、とかね。
「そういった時に拭いていたんだ、あのテーブルをな」
試作をしているような時間だ、片付けをする係にとっては仕事の時間外だったんだ。
厨房にはお前と俺しかいなくて、片付け係も調理係もいなかったってな。誰も片付けをしに来てくれないからなあ、俺が片付けて帰るしかないってトコだったんだが…。
そいつをお前が手伝いに来るんだ、「ぼくもハーレイと一緒にやるよ」と。
要らないと言っても手伝ってたぞ、と言われてようやく思い出した。
厨房でハーレイと二人きり。どんな料理が出来上がるのかとワクワク見てた。味見もしてみた。
何か手伝いをしたかったけれど、料理じゃハーレイに敵いっこない。下手に手伝ったら焦がしてしまうとか、煮過ぎちゃうとか、ロクな結果になりそうにないと思ったから。
せめてぼくでも出来ることを、とテーブルを拭いたり、鍋やお皿を洗ったり。
(テーブルを拭いてただけじゃなくって、お皿とかだって拭いたんだっけ…)
試作中だから、厨房の係はハーレイ一人しかいないから。
せっせと洗って、テーブルも拭いて、お皿は元の棚へと戻して…。お鍋とかだって。
ハーレイの手伝いをしていた、ぼく。
厨房のテーブルをキュッキュと拭いていた、ぼく。
やっと記憶が戻って来た。あのテーブルを拭いていたんだ、って。
懐かしいな、と遠い昔に思いを馳せていたら。
「お前と二人で皿洗いをしたのを覚えているか?」
試作の途中で味見する度に新しい皿を使っていたしな、そこそこ数があったんだ。出来上がったヤツを食った皿も入れたら、何枚くらいあったんだか…。
そいつを二人で洗っていただろ、俺が洗って、お前がすすいで。
「うん、何回も洗ったっけね」
でも、ハーレイの方が早くて上手なんだよ。
いつでも手早く洗ってしまって、「後は俺がやる」って交代だったよ、すすぐ方のも。
仕方ないからお皿を拭くけど、それだってハーレイが途中から持って行っちゃうんだよ。
「俺の方はもう終わったから」って、「お前は拭き終わったのを棚に片付けてくれ」って。
「そりゃまあ…なあ?」
いつも厨房に立ってた俺とだ、そうじゃないお前じゃ違ってくるさ。
俺にとっては毎日やってる仕事なんだし、そいつが遅くちゃ話にならん。皿も鍋もだ、とにかく手早く洗えってな。
手際よく料理をするためのコツは整理整頓、使った道具は役目が済んだら直ぐに片付ける。
それが鉄則、って言うハーレイ。
試作でなくても、みんなの食事を作る時でも。係が来るのを待っていないで洗うくらいの勢いでないと、使いやすい厨房にならないって。
だから慣れてたと、早かったと。お皿を洗うのも、鍋やフライパンを洗うのも。
「今でもお皿を洗うの、早い?」
前のハーレイと同じで早いの、サッと洗ってしまえるの?
「もちろんだ。優勝したほどの腕前だってな」
「優勝って?」
なんなの、何で優勝したの?
「上の学校の時に合宿でやった皿洗いバトルさ」
運動部ってヤツは、合宿の時の料理は自分たちで作ることが多いんだ。料理作りを通してチームワークを高められるからなあ、合宿中に一度は総出で料理だ。先輩も後輩も一緒にな。
そんな料理を食った後でだ、全員参加で皿洗いの腕を競ったわけだ。そいつで優勝したってな。
俺よりも早く洗えるヤツには一度もお目にかからなかったなあ…。
「面白そう…!」
みんなで作って、お皿洗いも競争なんだ?
それで優勝出来たんだったら、ハーレイの腕前、凄いんだね!
「当然だろうが、ダテに料理はしちゃいないぞ」
おふくろと親父に仕込まれたからなあ、料理も魚の捌き方もな。それに二人とも、「後片付けが出来ないようでは料理上手になれやしない」と皿洗いまでキッチリさせてくれたさ。
そういうわけでだ、俺は皿洗いの方も修行に修行を重ねたってことだ。
前の俺より早いかもな、ってハーレイが自慢しているから。
前のぼくたちが生きてた頃より、うんと種類が増えてしまったお皿も器も手早く洗って片付けが出来る腕だと言うから。
「ハーレイの皿洗いの腕前、見てみたいな…」
前のハーレイよりも早いんだったら、ちょっぴり洗って見せて欲しいな。何でもいいから。
お皿でもいいし、このテーブルに置いてあるティーポットだとか、カップだとか。
「おいおい、お前の家では実演出来んぞ、皿洗いはな」
これでも一応、俺は客という扱いになっているんだぞ?
お客さんに皿洗いをさせるような家が何処にあるんだ、よく考えてから言うんだな。
手料理だって持って来られないのに、それを飛び越えて皿洗いなんぞが出来るか、馬鹿。
「…やっぱり無理?」
ハーレイがお皿を洗う所は見られない?
皿洗いバトルで優勝した腕、ぼくの家では見られないわけ?
「当たり前だろうが。理由は言ったろ、この家じゃ無理だと」
結婚するまで諦めておけ。俺の皿洗いを見るのはな。
「そんなに先?」
ハーレイのお嫁さんになるまで見せて貰えないわけ、皿洗いの腕?
前のハーレイよりも早いって言うから、その腕、見せて欲しいのに…。
「ふうむ…。結婚するまで待てんと来たか…」
しかしだ、お前は俺の家には来られないわけで、見ようにも見られる場所が無い。
少しでも早くと言うんだったら、婚約だな。
婚約したなら、俺の家にも堂々と客として来られるし…。
そしたら見せてやってもかまわないがな、俺の手料理とセットでな。
「ハーレイの料理もついてくるの?」
「皿洗いの腕を披露するんだぞ? その皿に俺の料理を載せなきゃどうするんだ」
うんと美味いのを御馳走してやるさ、皿が沢山要りそうなのを。
いろんな形の器を幾つも出すんだったら、和風の料理が良さそうだな。前の俺たちが生きてた頃には無かったヤツだが、今の俺は和風も得意だからな。
「楽しみ…!」
ハーレイが作った天麩羅だとか、茶碗蒸しだとか。
そういうのを食べさせて貰えるんだね、前のぼくが知らなかった料理ばっかりを。
今のハーレイだから作れる料理を御馳走になって、皿洗いも見せて貰えるんだね…!
いつかハーレイと婚約したなら、和風の料理を作って貰って、皿洗いの腕も見られるらしい。
ハーレイだったら、きっと御飯茶碗も茶碗蒸しの器も手早く洗ってしまうんだろう。どんな形をしている器も、まるで平たいお皿みたいに楽々と。
そんなハーレイの腕前を横で見ているのも楽しそうだけど…。
「ねえ、その時はぼくにも手伝わせてよ」
前のぼくみたいにハーレイと一緒に洗いたいな、お皿。和風だったら、お皿の他にも色々な器があるだろうけど…。
「駄目だな、皿を割られちゃたまらん」
特別上等なヤツってわけでもないんだが…。割られたら数が揃わなくなってしまうしな。
お前だって今なら分かる筈だぞ、和風の食事に使う器は模様や形が同じのを探すのは大変だと。
「知っているけど…。ぼく、割らないよ?」
前のぼくだって一度も割っていないよ、厨房でお皿を洗っていた時。
「確かに割ってはいなかったが…」
普通だったら落としてガシャンと割れる所をサイオンで拾っただけだろうが。
ガシャンと砕けてしまう前にだ、ヒョイと拾って戻してたってな。
「落としちゃってた…?」
前のぼく、お皿を割っていないだけで、ホントは何度も落っことしてた?
割れるよりも前に拾い上げただけで、本当は割れるトコだった…?
ニヤニヤしてぼくを見ているハーレイ。
言われてみれば覚えがある気もしてきた。
前のハーレイを手伝おうとして、頑張ってお皿を洗っていた、ぼく。
手を滑らせて落っことしたお皿を「いけない!」ってサイオンで止めていた。床に当たったら、お皿は粉々。その前に止めてしまわなきゃ、って。
前のぼくなら簡単に出来たことだけれども、今のぼくには出来ない芸当。どんなに「止まれ」と念じた所で、お皿は止まりはしないんだ。床まで真っ直ぐ、ノンストップ。そしてガシャンと音がしちゃって、真っ二つになるか、粉々か…。
皿洗いバトルで優勝した腕のハーレイを手伝って洗うどころか、逆に迷惑、足を引っ張る。
砕けたお皿の後始末だとか、濡れちゃった床の掃除だとか。
つまりハーレイのお手伝いなんかは夢のまた夢、「黙って見てろ」と禁止される立場。
だけど、やっぱり手伝いたい。
ハーレイ一人にやらせるだなんて、なんだか、あんまり酷すぎるから…。
「…じゃあ、今のぼくは、皿洗いは…」
やっちゃ駄目なの、お皿を割ってしまうから。
前のぼくみたいにサイオンで止めて拾えないから、お皿は洗っちゃいけないの?
ハーレイのお手伝い、したいのに…。
「その手伝いがだ、手伝いになっていないんだがなあ…。皿を割っちまった時にはな」
割れた皿を片付ける手間が増えるし、床だって掃除をしなくちゃならん。面倒なばかりで少しも楽にならないからなあ、皿洗いの手伝いは断固断る。客のお前は洗わなくてもいいんだしな?
嫁に来たって洗わなくていい、と言いたいトコだが。
俺が洗うから放っておけ、と言いたいんだが、洗うんだな?
お前、どうやら、前と同じで綺麗好きだしな?
「うん。ハーレイが出掛けていたなら、お皿、洗うよ」
その間にぼくが使った分とか、ハーレイが出掛ける前に使った分とか。
ハーレイが帰るまで放っておかずに、ちゃんと洗って綺麗に拭いて。
元の棚まで戻しておくから、留守の間くらいは任せておいてよ。
「任せてもいいが、だ…」
皿、割るなよ?
任せられたからには責任を持ってきちんと洗えよ、割っちまわないように気を付けてな。
「…割っちゃったら?」
割らないように頑張るけれども、もし割っちゃったら、どうしたらいいの?
もちろんハーレイが帰って来たら正直に話して「ごめんなさい」ってちゃんと謝るし、後片付けだってしておくけれど…。
「割っちまったのなら弁償だな」
そいつが筋っていうものだろう?
物を壊したら弁償する。それが世間の常識だってな。
「弁償って…。どうやって?」
ぼくがハーレイにお皿のお金を払ったとしても、そのお金でハーレイが買い直した食器はぼくも使うよ、それって何処かが変じゃない?
ハーレイに払うお金にしたって、ぼくのお小遣い、ハーレイから貰っているんじゃあ…?
結婚した後はハーレイの家で暮らす、ぼく。
ハーレイのお嫁さんになるっていうだけで、多分、仕事はしそうにない、ぼく。
割ったお皿を弁償しようにも、ぼくのお金はハーレイのお金。
もしかしたら、結婚する時にパパとママが幾らか持たせてくれるかもしれないけれど…。
そこから弁償するんだろうか?
何度もお皿を割っていたなら、パパとママから貰ったお金は無くなってしまって一文無しとか?
「もう払えません」ってハーレイに言ったら、どうなるんだろう。
お金がすっかり無くなっちゃったから、もう弁償は出来ません、って泣くしかないとか?
そうしてお皿も洗えなくなって、何も出来ないお嫁さん…?
(…役立たず…)
それしか言葉が浮かんで来ない。
ハーレイの留守にお皿を洗って片付けることも出来ないお嫁さんなんて。
もう駄目だ、って頭の中がぐるぐるしてたら、ハーレイがパチンと片目を瞑った。
「さてなあ、弁償する方法なあ…。お前に金を払えだなんて言えないし…」
皿一枚につき、キス一回にしておくか。
割っちまったら「ごめんなさい」と俺にキスしろ、皿一枚でキス一回だ。
「それなら割っても平気だね!」
キスでいいなら、ぼくも安心。
それにハーレイが帰って来たら直ぐにキスが出来るし、弁償どころか嬉しいくらい。
割っちゃってごめん、ってキスしたらそれでいいんでしょ?
「…喜ばれたんでは弁償の意味が無いんだが…。お前が反省しないとな」
皿一枚でキス一回では駄目なようだな、他に何か…。
よし、皿を割ったら一枚につきキス無し一日…って、こいつは俺が耐えられんか。
目の前にお前がいるというのに、一日もキスが出来ないんじゃな。
「ぼくだって、それは耐えられないよ!」
ハーレイと一緒に住んでいるのに、キス無しなんでしょ?
キスもしないで丸一日なんて絶対無理だよ、もっとマシなのを考えてよ…!
ぼくがお皿を割っちゃった時の弁償方法。
ハーレイはあれこれ考えたけれど、どれも何処かに落とし穴。ぼくを喜ばせるか、ハーレイまで損をしてしまうかの二つに一つで、いい方法はとうとう見付からなかったから。
どんなに考えても弁償も罰も無理みたいだから、ハーレイの顔に苦笑い。
「…仕方ない、気を付けて洗ってくれ」
お前に弁償して貰う方も、罰を与える方法ってヤツも、どうやら一つも適した策が無いらしい。
皿洗いはお前の良心と腕に任せる、割らないように努力してくれよ。
「うん、そうする!」
任せておいてよ、ぼくだって手までは不器用じゃないし。
サイオンはとことん不器用だけれど、手の方はけっこう器用だよ?
だからお皿だって、前のぼくより上手に洗えるんじゃないかと思うな、落としたりせずに。
頑張るね、って言ったけれども。
留守の間のお皿洗いは任せておいて、って言ったけれども。
前にハーレイの家で見かけた、愛用品らしい大きなマグカップ。
あれだけは洗わないで置いておこうか、ハーレイが使ったカップだから。出掛ける前にゆっくりコーヒーを飲んで、「行ってくる」ってテーブルの上に残して行ったカップだから。
ハーレイの温もりが残ったカップ。その内に冷えてしまうけど…。
(きっと嬉しい気分になるんだよ、飲み残しとかで)
カップの底にほんのちょっぴり、コーヒーが入っていた名残。
飲んでやろうと傾けてみても、カップの縁まで流れて来てはくれない僅かなコーヒー。
ハーレイが美味しく飲んで行った後の、じきに乾いて跡だけが残るカップの底のコーヒーの雫。
(見ているだけで幸せだよね?)
これでハーレイが飲んでたんだよ、ってカップを眺めて覗き込むだけで。
時々触って、取っ手に指を通したりして、持ち上げて重さを確かめたりして。
(…でも、コーヒーの残りがくっついたカップ…)
使ったまんまで放っておかれたカップというのは否定できない。
いくらハーレイの名残が残るカップでも、ハーレイが愛用しているマグカップでも。
その内に洗ってしまうかもしれない、綺麗好きなぼく。
お昼御飯を食べたついでに、あるいはおやつを食べたついでに、ぼくが使ったお皿と一緒に。
(ハーレイのカップ…)
今のぼくはサイオンで拾ったりすることは出来っこないから、うんと気を付けて。
他の食器に当たったりしてヒビが入っても困っちゃうから、カップは別にして洗おう。
大好きなハーレイが大切にしているカップを割ったらとっても悲しいから。
ヒビが入ったり欠けたりするのも、悲しくて困ってしまうから…。
気を付けよう、って決心してたら、ハーレイがしげしげとぼくの顔を見て。
「割りそうだな…」
お前、如何にも割りそうな顔だな、そういう風に見えるんだがな?
割っちまったらどうしようか、って考えていないか、さっきからずっと…?
「そんなことないよ!」
割らないように気を付けて洗う方法、どんなのがあるか色々と考えていただけだってば!
だから割ったりしないよ、お皿。お皿も、他のいろんな器も。
絶対割らない、って膨れたけれど。
割ったらぼくだって悲しいんだから、って言ったんだけど。
前のぼくでも割りそうだったお皿、無事に割らずに済むんだろうか?
サイオンで拾い上げられない、ぼく。床に落っこちる前に止められない、ぼく。
(でも、割っても…)
もしもハーレイの大事なお皿を、落っことして割ってしまっても。
使いやすくてお気に入りらしい、あのマグカップが真っ二つになってしまっても。
ハーレイなら、きっと許してくれる。
「ごめんなさい」って頭を下げたら、きっと笑顔で許してくれる。
割ってしまって泣き顔のぼくに、「また買えばいいさ」とキスを落として…。
お手伝い・了
※前のハーレイが厨房にいた頃、せっせと手伝いをしていたブルー。皿洗いまで。
今度も手伝いをしたいですけど、お皿を割ってしまうかも。だけど許して貰えますよね。
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