シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(あ…!)
学校からの帰り、バス停から家まで歩く途中で吹き抜けた風。ブルーの側を吹いていった風。
さして強くはなく、髪がふわりと揺れた程度のものだったけれど。
花の匂いが混じっていた。何かの花だ、と分かる匂いが。
(何処…?)
キョロキョロと辺りを見回したけれど、咲いていない花。庭一杯には無さそうな花。花を一面に咲かせた木だって見当たらない。風が何処からか連れて来ただけの、見えない花。
何の花だったかも、ピンとくるものがまるで無かった。ほんの一瞬のことだったから。花だ、と気付きはしたのだけれども、風は直ぐに通り過ぎたから。
(うんと沢山、咲いていそうな感じだったけど…)
そうでなければ強い香りを放つ花。百合とか薔薇とか、香り高い花は多いから。
(だけど薔薇でも百合でもなくて…)
もしかしたら香りは強いけれども、控えめに咲く花なのだろうか?
せっかくだから見てみたいのに、風はもう吹いては来なかった。花の匂いも漂って来ない。
(ちょっと残念…)
花は嫌いではなかったから。
むしろ好きな方で、「何の花なの?」と訊いてしまうタイプ。今の花だって、見たいけれども。
(何処から来たのか分からないしね…)
風が来た方向へ歩いてゆけば、と思っても、住宅街の中だから。
他所の家の生垣や塀を乗り越え、庭を突き抜けないと真っ直ぐ進めはしないから…。
仕方ない、と花を探すのを諦めて再び歩き始めたら、今度は美味しそうな匂いがして来た。
明らかに料理だと分かる匂いで、きっと早めの夕食の支度。
(家に帰ったらケーキの匂いがするのかな?)
オーブンから漂う、ケーキの焼ける匂い。それともタルトか、あるいはパイか。
帰る時間に合わせて焼いてくれている日も多いから、そういう匂いがするかもしれない。凝ったケーキなどは早めに作ってお裾分けに行くこともあるけれど…。
(今日はケーキだ、って気がするんだよ)
何故だかケーキな気分がした。パイでもタルトでもなくて。
自然と早まる、ブルーの足。早く家へと、ケーキの匂いがする家へと。
見慣れた生垣が見えて、近付いて来て。
門扉を開けて庭に入ったら、鼻腔をくすぐったお菓子の匂い。甘いケーキが焼き上がる匂い。
(当たり…!)
この匂いならばケーキだろう、と玄関を入って、「ただいま!」と奥に向かって叫んで。
匂いに引かれるままに、手を洗う前にキッチンを覗きに行けば。
「おかえりなさい」
ちょうど焼けた所よ、と母が冷ましているパウンドケーキ。
ハーレイの好きなパウンドケーキ。
母が焼くそれは、ハーレイの母のパウンドケーキと同じ味がすると聞くから、ブルーにとっては特別なケーキ。いつかは自分も同じ味がするのを焼いてみたい、と夢見るケーキ。
(ふふっ、特別…!)
今日のおやつは大当たりだよ、と眺めていたら母に注意された。
「ブルー、おやつは手を洗ってウガイをしてからよ?」
それに着替えもちゃんと済ませて。それまでは駄目。
「うんっ!」
分かってるってば、と急いで洗面所に行った。手を洗って、風邪を引かないようウガイもして。
部屋で着替えて、階段を下りてダイニングへ。
「はい、どうぞ」
笑顔の母とパウンドケーキが待っていた。お皿に一切れ、ハーレイの好きなパウンドケーキが。
(ハーレイのお母さんの味…)
きっとハーレイも隣町の家で、ワクワクしながら食べたのだろう。何度も、何度も。
その特別なパウンドケーキが出て来たからには、飲み物はホットミルクにしてみたい。合わせてみたい。マヌカたっぷり、シナモンを振ったセキ・レイ・シロエ風。
パウンドケーキが大好きな人に教えて貰った飲み物に。
「ママ、ぼく、今日はホットミルクがいいな」
「シロエ風のね?」
「そう!」
お願い、と頼んで作って貰ったホットミルクと、パウンドケーキと。
おやつは大満足だった。母が作るお菓子はいつでも美味しいけれども、今日は格別、特別な日。
ハーレイの母が焼くというのと同じケーキを食べられたから。
今はまだ行けない隣町にあるハーレイの両親が住んでいる家、其処で焼かれているケーキ。
いつかは自分も「ママの味だよ!」と驚きながら食べるのだろう、パウンドケーキ。
早くその日が来ますように、とホットミルクを飲み干した。
ミルクを飲めば背丈が伸びるというから、毎朝欠かさないミルク。今日は二杯目だと、これだけ飲んだら効果もきっと、と。
食べ終えて「御馳走様」とキッチンの母にカップとお皿を返して、部屋に戻って。
窓越しに庭を眺めたら、ふと思い出した。帰り道で出会った匂いのことを。
(ぼくの家、やっぱりケーキの匂いだったよ)
それも特別なパウンドケーキが焼ける匂いで、オーブンから庭へと流れていた。流石にケーキの種類まで分かりはしなかったけども、ケーキの匂い。それが美味しく焼き上がる匂い。
(あの匂いも、きっと風があったら…)
もっと先まで運ばれて鼻に届いただろう。家の庭に入るよりも前から、ケーキを焼く匂い。どの辺りまで届くものかは分からないけれど、帰り道で出会った見えない花の匂いのように。
(風って不思議だ…)
そう思ってしまう。
何処にも見当たらなかった花の香りを運んでいた。パウンドケーキの匂いだって、きっと。
(美味しそうなケーキの匂いがするな、って思ってる人が何処かにいるよ)
何処で焼いているケーキだろう、と。
もう少し時間が後になったら、この家の匂いは変わる筈。母が支度する夕食の匂いに。
その匂いも風に乗って運ばれてゆくのだろう。道を歩いている誰かの許へと。
様々な匂いを運ぶ風。運んで来る風。
花の匂いも、ケーキの匂いも。
夕食を作る匂いも、何種類もあるに違いない。家の数だけ、メニューの数だけ。
(そういえば…)
前の自分は風の匂いがしていたのだ、とハーレイに聞いた。
ソルジャー・ブルーは風の匂いがした、と。ナキネズミのレインがそう言っていた、と。
けれども、風には匂いが無いから。匂いを運ぶのが風だから。
(今日だって、花の匂いとお料理の匂いと、それからケーキ…)
吹く場所によって、風が出会った相手によって匂いは変わるし、違うものになる。同じ風でも。
前の自分が風の匂いだと聞かされた時には、大いに焦った。
もしや硝煙の匂いではないかと、レインが知っている風の匂いはそれくらいでは、と。
ハーレイとあれこれ考えた末に、確か雨上がりの風だという結論になったのだったか。ナスカの大地に雨が降った後、吹き抜けた風。
それがブルーの匂いだったと、ソルジャー・ブルーが纏っていた風の匂いだったと。
(今のぼくだと…)
纏う匂いは日によって変わる。
食べたものやら、使ったボディーソープやら。一日の間にも何度も変わるに違いない。
前の自分にしても、それは同じだと思うけれども、何故か風の匂い。
赤いナスカの雨上がりの風。前の自分が知らない匂い。ナスカには降りずに終わったから。赤い星に降る雨の雫も見ないままで終わってしまったから。
それなのに雨上がりの風の匂いだと言って貰っても、少し困ってしまうのだけれど。
(青の間の匂いだったんだよね、きっと)
レインはそれしか知らなかったから。青の間でしか会わなかったから。
前の自分が起きていた間も、長い眠りに就いた後にも。他は格納庫で一度きり。
青の間に風は無かったけれども、あそこに湛えられていた大量の水。その匂いが多分、レインが知っていたブルーの匂い。水の匂いと、雨上がりの風の匂いの二つが繋がった末に…。
(前のぼくの匂いが風なんだよ)
なんとも不思議な捉え方。風だなんて、と。
悪い気持ちはしないけれども。何処までも自由に吹いてゆける風は、前の自分も好きだった。
風に乗って遠く地球へまでも飛んでゆけたなら、と自由な風に憧れてもいた。
その風の匂いが前の自分の匂いと知ったら、嬉しいけれど。
物騒な硝煙の匂いでないなら、雨上がりの風の匂いなら。
でも…。
(ハーレイの匂いは何だったんだろ?)
前のハーレイ。白いシャングリラの舵を握っていたキャプテン・ハーレイ。
レインは何と例えたのだろう、ハーレイを?
前の自分の匂いが風だったならば、ハーレイの匂いは何だったろう…?
(もう厨房にはいなかったし…)
レインが生まれた頃には、ハーレイはとっくにキャプテンになってしまっていたから。
ブリッジでキャプテンの席に座って指揮をしていたか、舵を取っていたか。
そんなハーレイから料理の匂いはしなかった筈。厨房に居たなら、料理の匂いになるけれど…。
(ハーレイの匂いって、何になるわけ?)
ブリッジには大勢の仲間が居たのだし、ブリッジの匂いがハーレイの匂いにはならないだろう。ゼルやブラウも同じ匂いがするのだから。
(…ハーレイだけが持ってる匂いって言うと…)
もしかしたら野菜スープの匂いかも、と考えた。野菜スープのシャングリラ風。
あの頃にそんな洒落た名前は無かったけれども、ハーレイが作ってくれていたスープ。青の間のキッチンで何度も作って食べさせてくれた。前の自分が寝込んだ時に。
(とっても優しい匂いなんだよ、あのスープ…)
何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだスープ。温かなスープ。
ハーレイの匂いはあれだったろうか、野菜スープの優しい匂いがしたろうか?
前の自分は長く眠ってしまっていたから、レインがあれを知っていたかは分からないけれど。
ハーレイは「お前にしか作ってやらなかった」と言っていたから、どうなのか。
(…レインをジョミーに渡す前には…)
ジョミーを覚えて貰わなくては、と青の間に何度も連れて来させた。
そうした時にレインは出会っていたかもしれない、野菜スープをキッチンで作るハーレイに。
(でも、そのくらいしか…)
野菜スープとの接点を持っていなかっただろう、ナキネズミのレイン。
ハーレイの匂いを何に例えたのか、どんな匂いだと言ったのか。
(…ハーレイに訊いてみたいんだけどな…)
来てくれないかな、と思っていたらチャイムの音。この時間ならばハーレイだろうか、と窓辺に行ったら門扉の向こうで手を振るハーレイ。
これは是非とも訊いてみなければ、ハーレイが部屋に来てくれたなら。
前のハーレイは何の匂いがしたのか、レインは何と言ったのかを。
ブルーの部屋で二人、テーブルを挟んで向かい合わせ。
母が運んで来たパウンドケーキに、ハーレイは顔を綻ばせた。大好物だと、おふくろの味だと。
美味しそうに食べるハーレイに、「ねえ」と声を掛けて例の疑問をぶつけた。
「ハーレイは何の匂いなの?」
「はあ?」
臭いか、とクンと腕を嗅いだハーレイ。
柔道部の指導をしては来たのだが、シャワーは浴びた、と言われたから。
「ごめん、同じハーレイでも前のハーレイ…」
前のハーレイは何の匂いか、って訊いたんだけど…。
「なんだ、前の俺か。…って、なんで匂いの話になるんだ?」
唐突すぎるぞ、お前の質問。何処から風が出て来たんだ?
「えーっと…。帰りに花の匂いがする風が吹いて来たけど、周りに花が無かったんだよ」
何の花かも分からずじまいで、それから家まで歩く途中に他所の家の晩御飯の匂いとか…。
家に帰ったらケーキの匂いで、風って色々運ぶんだよね、って考えていたら思い出したんだ。
前のぼくは風の匂いだったっけ、って。
「…レインか。そういや、お前に話してやったんだっけな」
「うん。ハーレイは何の匂いがしたの?」
前のハーレイの匂いは何なの、それを知りたいと思ったんだけど…。
きっと教えて貰えるだろう、とブルーは期待したのだけれど。
どんな答えが返って来るかと、それは心を躍らせたのだけれど…。
「知らん」
「えっ?」
ハーレイの返事は呆気なさすぎるものだった。「知らん」と一言、答えにすらならない答え方。その結末にブルーはポカンと口を開けたのだけども、ハーレイは「知らん」と繰り返した。
「俺は本当に知らないんだ。前の俺がどういう匂いがしたかを話したヤツはいなかったしな」
厨房に居た頃は「おっ、美味そうだな!」と言うヤツもいたが、キャプテンになった後にはな。
「でも…。前のぼくは風の匂いだ、って…」
「そいつはレインが言ったわけでだ、俺に関しちゃレインは何にも言わなかったぞ」
何の匂いだとも聞いちゃいないな、俺も、ついでにゼルたちのもな。
フィシスは花の匂いがする、とは確かに聞いたが、他のヤツらの匂いは知らん。俺も含めて。
「ハーレイ、レインと色々喋っていたんじゃあ…」
そういう話を聞いたことがあるよ、青の間でレインと話してた、って。
前のぼくがいなくなった後。…青の間に出掛けてレインが来てたら、レインとお喋り。
「したさ、お前の思い出話ばかりをな」
あいつしか聞いちゃくれなかったさ、人類との戦いの最中ではな。
フィシスはお前に貰ったサイオンが薄れちまって引きこもっていたし、行っても会えない。
レインだけが聞いてくれていたんだ、俺がお前の話をしたい時にはな…。
思い出話に終始したから自分の匂いなどは知らない、と言われてしまった。
前のブルーが女神と呼んでいたフィシスの匂いしか聞いてはいない、と。
「そんな…」
前のハーレイの匂い、分からないって言うの?
レインが喋ってくれていなかったなんて、どうすれば分かるの、何の匂いか。
「お前が自分で思い出したらいいだろう?」
レインとは比べ物にならないくらいに長い年月、俺と暮らしたと思うがな?
三百年以上も一緒にいたんだ、レインの鼻より前のお前の鼻の方が遥かに正確そうだが…?
「それはそうかもしれないけれど…。覚えていそうで覚えていないよ」
野菜スープの匂いしか…。今のハーレイも作ってくれてる、野菜スープのシャングリラ風。
「なら、それだ。そいつが前の俺の匂いだ」
レインは何も言ってはいないが、お前の鼻がそうだと言うなら、そいつだな。
「ううん、違うよ。ハーレイの匂い、もっと他にもあった筈で…」
そっちを知りたいと思うんだけど…。レインだったら知っていたかもしれないのに…。
「他にもって…。何故だ?」
どういう根拠でそう言うんだ、お前?
「スープを作っていない時のハーレイの匂いだよ」
絶対あったよ、ハーレイの匂い。野菜スープの匂いの他にも。
ベッドでいつも吸い込んでいた、とブルーは遠い昔の記憶を語った。
野菜スープとは違った匂い。胸一杯に吸った匂いの記憶。
それがハーレイの匂いだったと、幸せだった、と。
「…知りたいんだよ、前のハーレイの匂い。これだ、っていう何か」
お願い、心当たりはない? これかもしれない、って思い当たるもの。
「うーむ…。俺の匂いなあ…。しかも前の俺か…」
どうなんだか、とハーレイが腕組みをして自分の記憶を懸命に探っているようだから。
ブルーは紅茶を飲みながら待って、暫くしてから尋ねてみた。
「何か分かった? 前のハーレイの匂いの手掛かり」
どんな小さなことでもいいから、つまらないようなことでもいいから、ハーレイの匂い。
「…ボディーソープの匂いじゃないのか?」
あれはけっこう残りやすいぞ、シャワーを浴びたら必ず使っていたからな。
「ボディーソープって…。青の間のヤツなら、ぼくもハーレイも同じのを使っていたんだし…」
あれとは違う気がするんだけれど…。もっと別の匂い。
なんて言えばいいのか、とにかくハーレイの身体からしていた匂いなんだよ。いつも、いつも。
「要するに思い出せないんだな?」
嫌というほど嗅ぎ慣れちゃいたが、具体的には何も出てこない、と。
「うん」
そうだよ、嗅いだら直ぐに気付くと思うんだけど…。
あの匂いがしたら、前のハーレイの匂いはこれだったんだ、って当てる自信はあるんだけれど。
だけど、ちっとも思い出せなくて…。ハーレイ、手掛かり、持っていないの?
何でもいいから端から挙げて、と頼んだのに。
教えて欲しいと頼み込んだのに、ハーレイは鼻でフフンと笑った。
「思い出せないなら、まだお前には要らないってこった。前の俺の匂い」
「どうして?」
幸せになれる匂いだったし、今だって知りたくてたまらないのに…!
「チビのお前には野菜スープの匂いだけあれば充分だってな」
あれなら思い出せるんだろう?
何度も作ってやってるんだし、あの匂いなんだと思っておけ。前の俺の匂いはスープだとな。
「酷い…! あれじゃないんだ、って言ってるのに!」
野菜スープの匂いの他にもホントにあったよ、ハーレイの匂い。それは間違いないんだから!
手掛かりの欠片くらいはちょうだい、とブルーは強請った。
せめてヒントをと、何の匂いか分かっているならヒントを教えて貰えないか、と。
「これに似てるとか、そういうヒント。そしたら当ててみせるから…!」
「ヒントも何も…。ズバリ言うなら、そいつは俺の体臭だからな」
前のお前がベッドで幸せに嗅いでいたなら、俺そのものの匂いなんだ。前の俺のな。
犬なんかは嗅ぎ分けが得意だろうが、と嗅覚の鋭い動物を例に持ち出された。
自覚が無くても匂いはする、と。前のブルーもそういう匂いを嗅いでいたのだ、と。
「…前のハーレイの匂いそのもの?」
あれがハーレイの匂いだって言うの、ぼくは全く思い出せないのに…!
「仕方ないだろうが、お前、チビだし」
当分、俺そのものの匂いなんかを嗅げるチャンスは無いわけだしな?
いくらベッタリくっついてみても、服の匂いが間に入る。
今のお前にはそれが似合いだ、でなけりゃ野菜スープの匂いだ。前の俺の匂いを思い出すには、まだまだチビで早すぎるってな。
そうは言われても、ブルーは諦め切れないから。
前のハーレイそのものの匂いを思い出したい気持ちを捨ててしまうことは出来ないから。
食い下がってやろう、と問い掛けた。
「ハーレイの好きな食べ物の匂いも混じっていたとか?」
好き嫌いは全く無かったけれども、それでも何かそういったもの。
「それを言うなら酒かもしれないなあ…」
酒は間違いなく好きだったぞ。前のお前が苦手だった分だけ、敏感になっていたかもしれんな。酒とコーヒー、どっちも前の俺が好きで飲んでたヤツなんだが…。お前はどちらも駄目だっけな。
「お酒…。どうだったんだろ、コーヒーは違うと思うんだけど…」
パパとママもたまに飲んでいるけど、ハーレイの匂いだ、って思わないしね。
ハーレイもコーヒーが好きだったっけ、って眺めてるだけで。
「何を食ったのかは、ある程度、影響するらしいがな」
特に匂いの強い食べ物。ガーリックを食ったら次の日まで残るって話もあるが…。
「それじゃ、やっぱり食べ物の匂い?」
前のハーレイの匂い、何かの食べ物と重なってたの…?
「さてなあ…」
生憎と自分の匂いだからなあ、まるで自覚が無いってな。
毎日、ガーリックを丸齧りしてれば「ガーリックだ」と言ってやれたかもしれないが…。
そこまで強烈な匂いの食い物、毎日、食ってはいなかったしなあ…。
いつかは思い出せるだろうさ、と微笑むハーレイ。
俺と結婚して一緒に暮らし始めたら…、と。
「この匂いだった、って気付く日もきっとあると思うぞ、毎日一緒に過ごしていればな」
でなきゃ、今でも前の俺と全く同じ匂いがしているか…。
酒もコーヒーも合成じゃなくて本物ばかりを飲んでいるしな、俺にも謎ではあるんだが。
恵まれた食生活を送っている上、運動だって毎日しているからな?
まるで同じとはいかないかもなあ、それでもたまには「これだ」って匂いに出会える筈だぞ。
「その匂いが今、欲しいんだけど…」
少しくらいは違っていてもいいから、ハーレイの匂い。今のハーレイの匂いでかまわないから。
「早すぎだ!」
チビのお前が知ってどうする、それが何の役に立つと言うんだ?
結婚してから「同じ匂いだね」と懐かしむ分には微笑ましいがな、チビには要らん。
俺そのものの匂いなんぞは、お前みたいなチビが知るには早すぎるんだ。
どうしても知りたいと言うのなら…、と鳶色の瞳に見詰められた。
教えてやらないこともないから、聞き漏らさないよう、今から言うことをしっかり聞けと。
「いいか? 朝は分厚いトーストを二枚、卵を二個か三個のオムレツ」
トーストの厚さはこんなものか、と指で厚さを示された。
「うん、それで?」
ずいぶん分厚いトーストだけれど…。ぼくのトーストの倍くらいありそうなんだけど…?
「それとソーセージだ、ハーブ入りでも何でもいいな。そいつを焼いて、だ…」
サイズにもよるが、このくらいのヤツなら三本ってトコか。後はサラダか野菜スティックだな、ミルクはホットでも冷たくてもいい。
「…うん、それから?」
「これで全部だ、とりあえずこれで朝の匂いがスタートだ」
今、言った通り、自分の身体で試してみろ。確認してやるから、最初から言え。
分厚いトーストを二枚、ってトコから間違えないよう、最後まで全部。
「えーっ!」
まさかハーレイ、食べろって言うの、今のを全部?
ぼくが食べるの、朝からそんなに沢山だなんて、どう考えても無理なんだけど…!
「お前が知りたいと言うから教えてやったんだが?」
俺の匂いの作り方。お前、そいつが知りたいんだろう…?
この通りにすれば再現できる、とハーレイが真顔で言うものだから。
朝は分厚いトーストを二枚でスタートなのだ、とオムレツやソーセージを並べ立てるから。
「…ホント?」
本当にそれで再現できるの、ハーレイの匂い?
「うむ。ついでに昼飯はたっぷりと、だな」
こいつは特に決まっちゃいないが、前にお前が挫折していた大盛りランチ。
あれくらいの量は必要になるな、それだけ食わんと俺の身体は維持出来んしな…?
「無理だってば!」
朝御飯がお腹に残ってそうだよ、お昼になっても!
大盛りランチを食べるどころか、普通のランチも殆ど残してしまいそうだよ…!
「なら、仕方ないな。俺の匂いを再現するのは諦めろ」
どうせお前はコーヒーも酒も飲めないんだから、完璧に真似をするのは無理だ。
それにだ、どう頑張ってもお前の匂いと混ざるしな?
俺みたいな大人と、お前みたいなチビだとそれだけで匂いが違う筈だぞ。
もっと言うなら、自分の匂いは自分じゃ分からんものだしな?
お前が俺の言った通りに実践したって、出来た匂いは分からない、ってな。
「ハーレイの意地悪!」
それにケチだよ、匂いくらいは教えてくれてもいいじゃない!
ぼくに教えたって減りやしないし、無くならないでしょ、ハーレイの匂い!
ケチだと、酷いと、ブルーは膨れた。唇を尖らせてむくれてしまった。
それこそがハーレイから見ればチビの証拠になるのだけれども、ブルーが気付くわけがない。
プンプン怒って、意地悪な恋人を睨み付けていたら。
「ふうむ…。なら、こいつだ」
「えっ?」
ほら、と鼻先に差し出された大きな褐色の手の匂い。
ほんの一瞬、掠めた匂い。
(ハーレイの匂い…!)
この匂いだった、と遠い記憶の彼方で自分が跳ねた。前の自分が、「ハーレイだ」と。
何度となく嗅いだハーレイの匂い。胸いっぱいに吸い込んで、幸せに酔っていた匂い。
その匂いだ、と自分の記憶が叫ぶから。喜びに跳ねて踊っているから。
「もう一度…!」
お願い、ハーレイ、もう一度だけ!
何の匂いに近かったのかが、今のじゃ掴めなかったから…。
今度はしっかり嗅いで覚えるから、もう一度やってよ、お願い、ハーレイ…!
「そうはいかんな。お前がどういう魂胆でもって探している匂いか、俺は知っているしな?」
不純な目的のために提供するのは一瞬だけで充分だ。
さっきのアレが一瞬ってヤツだ、もう一瞬は過ぎちまったんだ。過ぎた時間は戻らんぞ?
もう期限切れだ、俺が提供した一瞬はな。
ケチでも意地悪でもなかったろうが、と余裕たっぷりのハーレイの笑み。
恋人のために最大限に譲歩してやったと、探し物を一瞬、確かに提供したのだと。
「…期限切れなの? たったあれだけで?」
「チビには贅沢すぎる時間を充分、くれてやったと思うんだがな?」
もっとしっかり嗅ぎたいのならば、育って大きくなることだ。
前のお前みたいに俺にくっついていられるようになるまで、諦めておけ。
そうしてプンスカ膨れるチビには、まだ早すぎる匂いだからな。
それきりハーレイは二度と匂いを与えてはくれず、「またな」と手を振って帰って行った。
停めてあった自分の愛車に乗って。前のハーレイのマントの色をした車に乗って。
そして次の日、目覚めて朝の食卓に着いたブルーは。
(分厚いトーストを二枚に、卵が二個か三個のオムレツ…)
焼いたソーセージとサラダか野菜スティック、それからミルク。ホットでも冷たいミルクでも。
ハーレイに聞いた通りにしたなら、それを食べれば少しハーレイに近付くけれど。
昨日、一瞬だけ鼻を掠めたハーレイの匂い。
あの懐かしい匂いを作って、心ゆくまで吸い込んで幸せに浸りたいけれど。
(自分の匂いは分からない、って…)
きっと挑戦するだけ無駄だ、と溜息をつきかけて、あっ、と気付いた。
テーブルの上のマーマレード。大きなガラスの瓶に詰まった、夏ミカンで作ったマーマレード。
ハーレイがいつも持って来てくれる、ハーレイの母の手作りの金色。
このマーマレードの匂いだけはきっと、ハーレイの朝の食卓にあるのと同じだから。
ハーレイも食べている筈だから。
(トーストにバターをたっぷり塗って…)
それがハーレイのお勧めの食べ方、バターの金色とマーマレードの金色が複雑に絡み合った味。
「こうやって食べるのが美味いんだぞ」と教えて貰った。
マーマレードだけで食べるよりもと、同じ食べるならより美味しく、と。
キツネ色に焼けたトーストにバターを塗り付け、溶けてゆく上からマーマレードの金色を載せて匂いを一杯に吸い込んだ。香ばしいトーストの匂いとバターと、マーマレードが溶け合った香り。
(うん、この匂い…!)
ハーレイに教わった食べ方の匂い、とトーストの端をカリッと齧った。とろけるバターとキツネ色のトースト、それに夏ミカンのマーマレード。口の中に広がる幸せの味。
今はこれだけで我慢しておこう。
ハーレイも嗅いでいるだろう匂いで、幸せの香りのトーストだけで。
いつかはきっと、ハーレイと二人、朝の食卓でこれを食べられる筈だから。
その頃にはきっと、ハーレイの匂いもしっかりと掴めている筈だから。
似た匂いは何かと探さなくても、いつでも隣にハーレイの匂い。
前のハーレイの匂いと同じ匂いのハーレイと二人、いつまでも幸せに暮らすのだから…。
知りたい匂い・了
※ブルーが思い出した、ハーレイの匂い。「これだったんだ」と分かったのに…。
同じ匂いを作るためには、とんでもない量の食事が必要。トーストの匂いだけで、今は幸せ。
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