シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「誰だ?」
何か聞こえたぞ、と教室をグルリと見回すハーレイ。咎めるような目つきで。
ブルーの耳にも確かに聞こえた、有り得ない声が。何だったろう、と思う間も無く。
「ミィー…」
また聞こえて来た、小さな声が。教室の何処かから、人間とは思えない声が。
けれど、そんな声の持ち主が教室にいる筈が無い。現に朝から見てはいないし、誰も噂をしてはいなかったし…。
「ふむ…」
難しい顔で腕組みをして立っていたハーレイが教卓を離れ、机の間を歩いて行って。ザワザワとしている生徒たちには全く構わず、教室の真ん中辺りで立ち止まった。
どうなることかと固唾を飲んで見守るクラスメイトたちと、其処で動かないハーレイと。
(…どうなっちゃうわけ?)
いったい何が始まるのだろう、とブルーも自分の席に座って息を詰めていたら。
「よし、お前。立て」
立って頭の上で手を組め、と言われた男子。ハーレイに机をトンと叩かれて。
(立たせちゃうの!?)
それに両手を組めだなんて、とブルーは驚いたけれど、命じられた男子はもっと驚いただろう。椅子に座ったまま、動けないでいる彼の机をハーレイは促すようにトンと叩いた。「立て」と。
こうなったら、もう何処にも救いの道は無いから。仕方なく立って、命令通りに頭の上で両手を組んだ彼の通学鞄をハーレイが掴んだ。机の横に下げてあったのを。
学校指定の通学鞄。ハーレイはそれを男子の机の上に置くと。
「開けてもいいな?」
「せ、先生…!」
男子は慌てて叫んだけれども、開けられてしまった通学鞄。留め金をパチンと外されて。
大きな褐色の手が鞄に突っ込まれ、中からつまみ出された一匹の子猫。白と黒のブチ。あの声の主はやはり猫だった、それも小さな。ハーレイが片手でヒョイと持てるような。
ハーレイは子猫が苦しがらないよう、大きな左手の上に乗せてやってから。
「これは何だ?」
俺には猫にしか見えないわけだが、これは何だと訊いている。
「ミーちゃんです…」
猫のミーちゃんです、と答えた男子。引き攣った顔で。
「ミーちゃんか…。お前の家の猫か?」
「いいえ、学校へ来る途中で…」
預かりました、と青ざめながらも男子は話した、「下の学校の子たちが困っていたので」と。
通学路で彼が出会ったらしい、迷子の子猫。首輪はつけていないけれども、ハーレイの手の上で丸い目をキョロキョロさせて好奇心一杯の様子は、どう見ても飼い猫。人を怖がっていないから。
自然が戻った地球の上には、好き勝手に生きる野良猫もいる。人に捨てられた猫たちではなく、自由を選んで出て行った猫。決まった所で暮らすよりも、と。
野良猫は滅多に見掛けないけれど、警戒心の強いもの。自尊心も強くて、人に懐かない。親猫がそうだから子猫も同じで、小さくても一人前に「フーッ!」と威嚇したりする。
それをしないでハーレイの手の上に乗っている子猫は、もう間違いなく飼い猫の子で。何処かへ出掛けようとして道に迷ったか、親猫とはぐれてしまったのか。
「どうしてお前が持って来たんだ」
預かるって、お前…。お前にも学校と授業というものがあるわけだが?
「帰りに返すと約束しました、あのまま放っておけないので!」
男子が言うには、周りに大人がいなかったらしい。下の学校の子供たちも通学の途中で、迷子の子猫を家に連れて帰るだけの時間の余裕は無かったという。ついでに、彼も。
そうした事情で預かった子猫、帰りの通学路で子供たちと待ち合わせの約束をしているらしい。ちゃんと届けに来るから、と。
「そういうわけか…。なら、仕方ないな」
「先生?」
「こいつは俺が預かっておく」
鞄の中では可哀相だ、とハーレイは他の男子生徒に空き箱を貰いに行かせた。食堂に行けば丁度いい箱があるだろうから、と。
暫くして男子生徒が抱えて戻った果物の空き箱。ハーレイは子猫を中に入れてやり、教卓の脇の床へと置いた。「此処でいい子にしてるんだぞ」と蓋を少しだけ開けてやって。
それから再び始まった授業、子猫は時々、箱から顔を出したり、また引っ込んだり。
授業が終わると、箱を抱えて去って行ったハーレイ。また放課後に返しに来ると。
休み時間になった教室の中は、蜂の巣をつついたような大騒ぎで。
(ビックリした…)
猫を鞄に入れていた男子にも驚いたけれど、箱に入れて持って行ってしまったハーレイにも。
ハーレイは教科書などを小脇に抱えて、子猫が入った箱を両手で持って出て行った。箱が傾いて子猫が怖がらないよう、きちんとバランスが取れるように。
子猫は箱から顔を出してはいなかったけれど、中に引っ込んでしまっていたけれど。
(ミーちゃん…)
適当につけられていたらしい名前。迷子の子猫の名前は不明。
皆に囲まれてインタビューよろしく質問されている男子によると、「ミーちゃん」という名前は下の学校の子たちがつけたもの。「ミーちゃんをお願い」と託された子猫、迷子の子猫。
(本当の名前はミーシャかもね?)
真っ白な猫ではなかったけれど。白と黒のブチの子だったけれども。
ハーレイがまだ子供だった頃、隣町の家にミーシャがいた。庭に夏ミカンの大きな木がある家で飼われていたミーシャ。ハーレイの母の猫だったミーシャは真っ白な毛皮の甘えん坊で。
ハーレイも情が移ったのだろうか、ミーちゃんに。
毛皮の色は違うけれども、ミーシャと同じで猫だから。可哀相な迷子の子猫だから。
普段、ハーレイのいる所には滅多に行かないけれど。何か用事が出来ない限りは、扉の隙間から覗き込みさえしないけれども、どうにも気になる、ミーちゃんのその後。
例の男子も「どうなったんだろう?」と何度も口にしているから、見に行ってみることにした。昼休みに、食堂でいつものランチ仲間と食事した後で。「ちょっと行ってくる」と仲間と別れて、一人だけ別の方向へ。
(ハーレイ、いるかな…)
教科ごとに分かれた準備室。職員室とはまた別にあって、授業の合間の休み時間や空き時間には教師は其処にいるのが普通。私物なども置ける場所だから。
昼休みならハーレイは此処、と準備室の扉をノックしてみたら。
「入れ」
目当ての人の声が聞こえた、扉越しに。
「は、はいっ…!」
気配だけで自分だと分かるのだろうか、と緊張しながら開けた準備室の扉。その向こうに笑顔のハーレイが居た。「お前のノックは直ぐに分かるぞ」と。
「もっと遠慮なく叩かないとな? あれじゃ聞こえん」
それでだ、お前がわざわざやって来た理由はミーちゃんか?
心配しなくても元気にしてるぞ、あの通りにな。
ハーレイが「ほら」と指差した先。白と黒のブチの、小さな塊が跳ねていた。それは嬉しそうにピョンピョンと。誰が調達して来たのだろう、本物のネコジャラシをオモチャに振って貰って。
「ん、アレか? 倉庫の裏手に生えていたな、って取りに行ってくれてな」
あの先生だ、と教えて貰った男性教師。此処くらいでしか会わないけれども、顔も名前も知っているから、「こんにちは」とペコリと頭を下げた。「ネコジャラシ、ありがとうございます」と。
「いや、生えているのを知っていたからね。子猫と遊んでやるならネコジャラシだよ」
あれが一番、という言葉通りに、子猫は揺れるネコジャラシと遊ぶのに夢中。右に左にと振っているのは別の教師で、他の教師たちも目を細めて子猫を見ているから。
ハーレイが子猫を入れて行った箱には、柔らかそうなタオルが敷かれているから。
(みんな、猫好き…)
ミルクが入ったお皿が床の上にあるし、子猫用らしいキャットフードのお皿も。ミルクは食堂で手に入るとしても、キャットフードが学校の中にあるわけがない。ハーレイが空き時間に出掛けて買ったか、他の誰かが買いに行ったか。
ともかく、子猫は教師たちにとても可愛がられていた、ハーレイ一人だけではなくて。
(これなら安心…)
もう大丈夫、と「失礼しました」と挨拶をして出た準備室。急ぎ足で自分の教室に戻り、子猫を鞄に入れて来た男子に報告しておいた。「ミーちゃん、元気にしていたよ」と。
放課後、ハーレイが教室まで返しに来た子猫。鞄は駄目だ、とペット専用のケージに入れて。 猫がいると聞き付けた他の教科の教師が持って来てくれたという。自分の家まで取りに帰って。
「お前な、鞄はあんまりだぞ」
なんだって、あれに入れたんだ。箱なら分かるが、鞄とはな。
「でも、入れ物が…」
無かったんです、と口ごもる男子。鞄しか持っていませんでした、と。
「お前に頭はついてないのか、学校まで来れば箱くらい何処かで見付かる筈だぞ」
食堂に行って「箱を下さい」と言えば貰えるし、いろんなクラブの部室にだって空き箱はある。そういう箱に入れ替えてやればいいと思うがな?
あんな鞄に突っ込んだままにしやがって…。猫が窒息しちまうだろうが。
それにトイレはどうする気だった、俺があそこで気付かなければ鞄の中で垂れ流しだぞ?
馬鹿め、とハーレイが手渡したケージ。「こいつで連れて帰ってやれ」と。
「返すのは明日でかまわないから」と渡されたケージを提げて、男子生徒は帰って行った。鞄に猫を入れていた件については、お咎め無しで。
白と黒のブチの子猫のミーちゃんを連れて、下の学校の子供たちとの待ち合わせ場所へ。
子猫を返した後、ハーレイは柔道部の指導に行ってしまったから、路線バスに乗って一人で家に帰って。着替えを済ませて、ダイニングでおやつ。
母が焼いてくれたケーキを美味しく食べて、部屋に戻ったら、目に入った鞄。勉強机の脇の床に置いた通学鞄。今日、ハーレイが「開けてもいいな?」と言っていた鞄とそっくりの鞄。
(鞄に猫…)
凄い、と感動してしまった。ミーちゃんが入っていた鞄。
学校ではミーちゃんばかり気になって、鞄がお留守になっていた。鞄も主役だったのに。あれが無ければミーちゃんは学校に来てはいなくて、通学路に置き去りだっただろうに。
(鞄に入れて来ちゃうだなんて…)
ハーレイが「馬鹿め」と言っていたとおり、窒息もトイレも大変なのが鞄だけれど。猫が快適に過ごせる場所ではないのだけれども、それでも入れて来た男子。これに入れよう、と。
迷子になっていた子猫を保護してやるために。下の学校の子たちに代わって引き受けるために。
(…きっと、御飯の時間になったら…)
コッソリと鞄から出してやるつもりだったのだろう。鞄を提げて教室から出て、誰も見ていない所でそっと。子猫でも食べられそうな何かを食堂で買って、「早く食べろよ」と。
ハーレイが鞄の中身に気付かなかったら、きっとそういう結末だった。鞄は子猫を隠して守っていただろう。そんな生き物は何処にもいないと、此処には鞄があるだけだ、と。
鞄に子猫を入れた男子も凄かったけれど、見抜いたハーレイも凄かった。放っておかずに子猫を鞄から外に出してやって、空き箱に入れて。
ハーレイが猫を預かって行ったから、帰り道のためにケージが出て来た。他の教科の教師が用意してくれたケージ、家まで取りに帰ってくれたケージが。鞄とは違ってペット専用、ミーちゃんはきっとのびのびと帰って行っただろう。ケージの中から外を見ながら。
(鞄に、ケージに…)
あの子猫はとっても幸せ者だ、と考えずにはいられない。
通学鞄に守って貰って学校まで来て、帰り道はペット専用のケージ。咄嗟に鞄に入れたのだろう男子と、学校で面倒を見ていたハーレイや教師たち。何人もが迷子の子猫を守った、無事に家まで帰れるようにと。
もう飼い主の所に戻れただろうか、ミーちゃんは。
いなくなったと大慌てだったろうミーちゃんの飼い主、その人と再会出来ただろうか。ケージに入って、あの男子や下の学校の子たちと一緒に通学路で。
(きっと会えたよね?)
飼い主は張り紙もしているだろうし、探し回ってもいるだろう。まさか学校に行ったとは思いもしないで、何処にもいないと色々な場所を。出会った人たちに「見ませんでしたか」と片っ端から訊いて回って。
だから、今頃はもう会えている筈。でなければ、もうすぐ会える筈。
(ミーちゃん、鞄に隠れていて良かったよ)
飼い主がいつ気付いたのかは分からないけれど、いないと探しに出るまでの間。
通学路にポツンと座っていたなら、通り掛かった犬に吠えられて怖い思いをしたかもしれない。家に帰ろうと闇雲に走って、車の事故に遭っていたかもしれない。
子猫はどちらも大丈夫だった、鞄に入れて貰ったから。鞄に入って学校まで来て、犬にも車にも出会わずに済んだ。少し窮屈でも、安全な鞄。立派に子猫を守った鞄。
(この鞄とおんなじ…)
自分の通学鞄をまじまじと眺めて、優れものだと感心した。実に役立つ、と。
(子猫が入って、教科書も入って…)
ノートや筆記用具も入る。折り畳み式の傘も入るし、その気になったらお弁当だって。お弁当は持って行かないけれど。ランチ仲間は食堂派だから、食堂で注文しているけれど。
沢山入る通学鞄。頑丈に出来ていて、雨に濡れても大丈夫。
便利だよね、と思ったけれど。学校に行くにはこれが無くちゃ、とポンと叩いてみたけれど。
(前のぼく…)
ハッと気付いた、前の自分は鞄などは持っていなかった。
通学鞄は持っていなくて当然だけれど、それ以外の鞄も、ただの一度も。
シャングリラの外へ出てゆく時には、自分の身一つ。鞄を持っては行かなかったし、第一、鞄の出番など無い。外の世界へゆくのなら。人類の世界へ出てゆくのなら。
白いシャングリラの中にいた時も、鞄を提げた記憶は無い。何かを鞄に入れた記憶も。
(鞄無し…?)
無かっただろうか、と記憶を探っても見当たらない。鞄の記憶の欠片さえも。
考えてみれば、ハーレイだって。前のハーレイも鞄を手にした姿が思い浮かばない。大きな鞄も小さな鞄も、それを提げているハーレイを目にした記憶が一つも残ってはいない。
前の自分も、前のハーレイも鞄を持ってはいなかった。通学鞄が無いのはともかく、そうでない普通の鞄でさえも。
(なんで…?)
どうして一つも無いのだろう。鞄の記憶も、それを持っていた誰かの記憶も。
前の自分とハーレイ以外の誰かが鞄を持っていたなら、その記憶がきっと引っ掛かる。あそこで鞄を確かに見たと、こういう形の鞄だったと。
けれども、何処にも無い記憶。誰の鞄も覚えてはいない。ゼルもヒルマンも、ブラウもエラも。他の仲間が持っていた鞄も。
(…ノルディが持ってたケースくらい…?)
普段は提げてはいなかったけれど、往診用の専用ケースがあった。青の間で何度も世話になったそれ。聴診器や薬や、大嫌いだった注射が中から出て来た。
その他に鞄は一つも知らない。工具箱などの類はあったけれども、鞄なるものは。
シャングリラでは鞄は要らなかったから。誰も必要としなかったから。
鞄を持って出掛けてゆく場所は無くて、鞄無しでは困るような場所も何処にも無くて。
前の自分も、他の仲間も、鞄が要るとは思わなかった。それが欲しいとも、必要だとも。
そうだったのだ、と思い出した。あの船に鞄は要らなかった、と。
だから持ってはいなかった。前の自分も、前のハーレイも、他の仲間たちも、誰一人として。
唯一の例外だったのがノルディだとはいえ、あの鞄は個人の持ち物ではない。ノルディが使っていたというだけ、中身はノルディの私物ではなくて診察や治療に必要だった物ばかり。ノルディの代わりに医療スタッフが持つこともあった、医師の資格がある者ならば。
つまりはノルディのものではなかった鞄。医師なら誰でも使えた鞄で、個人的な持ち物は入っていなかった。入れる必要すらも無かった、私物は自分の部屋に置いておけばいいのだから。部屋でなくても仕事をしている場所の自分の専用スペース、其処に仕舞っておけばよかった。
それ以外の物は皆の共有だったから。わざわざ自分で持ち歩かずとも、備え付けの物を使いさえすれば間に合った船がシャングリラ。
鞄の出番は全く無かった、白い鯨で暮らした頃は。前の自分が生きていた船は。
(今は鞄無しだと…)
学校に通うことは出来ないし、幼稚園ですら通えない。幼稚園児でも一人に一つずつ、決まった鞄が渡されるもの。中身は本当にほんの少しで、お弁当が鞄の中心だけれど。
今のハーレイも鞄が無ければ仕事に出掛けることは出来ない。授業で使う教科書や資料、それに愛用の文具などを鞄に入れているのだし、お弁当が入っている日も多い。その他にもきっと色々なもの。柔道部で必要な道着やタオルは専用の鞄がまた別にある。
自分が提げている通学鞄に、ハーレイの鞄に、ハーレイの柔道用の鞄に…。
前の自分たちは持っていなかった鞄、それが今では思い付くだけでもハーレイと自分の分だけで三つ。前は一つも無かった鞄が。それを思うと…。
(鞄って…)
今の自由の象徴だろうか、猫も鞄に入るのだから。
シャングリラにペットはいなかったけれど、今では当たり前のように猫に出会える世界。通学の途中で保護したからと子猫を鞄に入れられる世界。
自分の鞄に、子猫をヒョイと。「此処に入っていればいいから」と通学鞄に。
(子猫まで入れられるんだから…)
考えたことも無かったけれども、鞄は自由の証明だろうか?
シャングリラの中だけが世界の全てだった時代と違って、自由な時代だから鞄。通学鞄に子猫を入れてもいいほど自由で、前の自分たちには無かった鞄が持てる時代で…。
なんて素晴らしい時代だろうか、と鞄を見詰めて頷いて。
これが自由の象徴なのかと、自由だから鞄を持っていいのだと考えていたら、チャイムの音。
仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、自分の発見を披露した。大発見に心を弾ませながら。
「ねえ、鞄って凄いんだよ!」
ホントに凄いよ、鞄はうんと自由なんだよ。ハーレイ、知ってた?
「そのようだな」
猫も隠せるようだしな、とハーレイが苦笑いしているから。
あれは参ったと、まさか子猫を入れて来るとは、と例の男子の話が始まりそうだから。
「そうじゃなくって…!」
持っていなかったよ、鞄なんかは。
今のぼくたちじゃなくって、前のぼくたち。ハーレイも、ぼくも。ゼルも、ブラウも。
誰も鞄を持ってなかったよ、鞄なんかは無かったんだよ。
ノルディが診察用のケースを持っていたけど、あれくらいしか無かったと思う。それに、あれはノルディの持ち物じゃなくて、医療スタッフでお医者さんなら誰でも持てたよ。
だから鞄は無かったんだよ、シャングリラには。
だけど今では鞄を持てるし、うんと自由になったんだよ。猫だって入れていいんだから…!
「そういえば…。前の俺には無かったな、鞄」
言われてみれば持っちゃいなかった。キャプテン専用の鞄なんぞは。
「ね、無かったでしょ?」
前のハーレイも持ってなかったし、前のぼくも持っていなかったんだよ。他のみんなも。
「うーむ…。今の今まで気付かなかったが…」
そういや鞄は無かったっけな、シャングリラには。ノルディの診察用のケースくらいだったか、鞄と言えないこともないのは。
あれくらいだなあ、見た目に鞄と呼べそうなヤツは。同じように提げるものではあっても、工具箱とかは鞄じゃないしな。
「ほらね、一つも無かったんだよ、鞄なんて。シャングリラにはホントにただの一つも」
だけど今だと鞄があるでしょ、ハーレイもぼくも。
それだけ自由になったってことで、自分の鞄に猫を入れてもいいんだよ。
…学校に猫は、ちょっと駄目かもしれないけれど…。叱られちゃっても仕方ないけど…。
でも、入れるのは自分の自由で、自分で好きに決められるんだよ。
白いシャングリラには無かった鞄。
書類などを入れるためのケースはあったけれども、それはケースで鞄ではなくて。個人が自由に使える鞄は何処にも無かった、誰も持ってはいなかった。
ソルジャーもキャプテンも、ゼルやブラウやヒルマンもエラも。
子供も大人も鞄が無かった、それが変だとも思わなかった。鞄が欲しいと思うことすら。
「なるほど、自由になったからこそ鞄だってか」
ついでに猫まで入れる自由も手に入れた、とお前は言いたいわけだ。それは確かに正しいが…。間違っていると言いはしないが、俺が思うに、鞄ってヤツ。
前の俺たちが鞄を使いもしなくて、持とうとも思わなかった理由は他の所にあるんじゃないか?
鞄があっても、そいつに仕舞って持ち歩きたいと思うもの。持ち歩かなくちゃならないもの。
そういったものが無かったんじゃないか、鞄に入れなきゃならないような持ち物が。
自分の部屋だの、持ち場だのに置いておけば充分だったから、鞄は必要無かったんだな。
「…そっか、そうかも…」
いつも持って行かなきゃいけない持ち物、考えてみれば無かったかも…。
子供たちだって勉強道具は教室とかに置いてたんだし、通学鞄は要らなかったよね。ハーレイがブリッジに行く時だって、必要な物はブリッジに揃っていたんだし…。
鞄の出番が無かっただけだね、シャングリラでは。
あの船に鞄はまるで必要無かったんだね…。
鞄は自由の証明なんだと思ったんだけれど…、と項垂れた。
大発見をしたと思っていたのに違ったのか、と。鞄があるのは自由の象徴ではなかったのかと。
「ちょっと残念…。凄い発見だと思ったのに…」
「そうでもないぞ。鞄に入れて持って歩くような持ち物があるのが自由の証拠さ」
入れるものは色々あるからな、と頷くハーレイ。
前の自分からは想像もつかないような仕事の道具に、弁当箱に…、と。
「それに猫も?」
想像がつかないものなら猫だよ、今のぼくだって猫は想像出来なかったよ。
猫を鞄に入れようだなんて、猫が鞄に入るだなんて。
「ああ、猫もだな」
流石に俺は入れはしないが、入れて来たヤツがいたってことはだ、猫を入れてもいいんだろう。鞄の中がどうなっちまってもかまわないなら、猫も入れられる。
今日の馬鹿者は何を考えていたんだか…。あそこで俺が気付かなかったら、昼休みまでに子猫のトイレになってただろうな、あの鞄。隅っこで済ませたか、教科書の上でやっちまったか…。
どっちにしてもだ、あいつの鞄はエライことになったと思うがな…?
子猫も鞄に入れられる時代。トイレにされてもいいのなら。自分が入れると決めたなら。
もっとも、子猫を入れた男子はトイレの危機には気付いていなかったようだけれども。昼休みに餌をやらなければ、と考えた程度で、子猫がトイレに行きたがるだろうことまでは。
鞄に入れるだけの持ち物があって、子猫を入れてもかまわない時代。鞄が身近にある時代。
旅行に行くなら旅行鞄も要るだろう。旅に出掛ける日数に合わせて、着替えの服などをぎっしり詰めて。前の自分たちには出来なかった旅行、行き先を自由に選べる旅行。
近い所へ日帰りの旅に行こうというなら、小さな鞄。必要なだけの荷物を詰めて。何を入れるか迷うかもしれない、ほんの小さな鞄の旅でも。これは入れようか、置いてゆこうかと贅沢な悩み。
持ち物が多くなったから。前の自分たちが生きた頃とは比較にならない量だから。
そうやって持ち物が増えたのと同じで、鞄も増えた。通学鞄や、旅行鞄や。
シャングリラには無かった鞄が沢山、リュックサックも鞄に入るだろうか。提げるのではなくて背負うけれども、リュックサックも鞄だろうか?
遠足などで背負ったリュック。山登りをする人たちも背負ってゆくリュック。
「リュックサックなあ…。あれは一応、あったがな…」
「えっ、いつの間に?」
ぼくは知らないよ、リュックなんて。そんなの、ぼくは見ていないけど…。
「前のお前が生きてた間に出来てはいたんだ、ナスカに入植した後に」
非常持ち出し用って言うのか、ナスカからシャングリラに緊急脱出しなきゃいけないケースってヤツを想定して、だ…。
「これに入るだけの荷物しか駄目だ」と渡してあったな、小さなリュックを。シャトルに沢山の荷物を持って来られちゃ困るし、持ち出す物の量は公平にな。
「それは鞄とは違うんじゃあ…」
ぼくの言ってる鞄とは違うよ、好きなものを好きに詰められないなら。
これも、って猫を詰められないでしょ、そのリュックは。入れられる量はこれだけですよ、って決まった鞄は自由じゃないよ。…そのリュックは鞄の形をしてても、鞄じゃないよ。
「…そうかもしれん」
ただの袋と言うかもしれんな、リュックの形をしていただけの。
思い付きで猫を入れられないようなリュックに、自由は確かに無いからなあ…。お前が言ってる鞄の自由。何でも入れていいんだ、ってヤツは。
白いシャングリラに鞄は一つも無かったけれど。
ナスカの時代に出来たらしいリュックも、中身を自由に選ぶ代わりに、それに入るだけの物しか持てない制限つきのリュックだったのだけれど。
「…今は鞄も沢山あるよね」
デザインも大きさも、ホントに色々。通学鞄とか幼稚園の鞄は決まりがあるけど…。
でも、通学鞄でも猫を入れちゃった人がいるんだし、決まりの無い鞄はもっと自由に使えるね。
「山ほど売られているからなあ…」
鞄の売り場に出掛けて行ったら、どれにしようか直ぐには決められないほどな。
このくらいの大きさの鞄にしよう、と思って行っても迷うんだ。色の違いやデザインなんかで。もう本当に迷っちまって、あれこれと持ってみて、また悩んで。
前の俺が鞄を持っていなかったせいってわけではないなあ、こいつはな。
山のようにあるデザインってヤツが悪いんだ。自由に選べて自由に使える鞄だけにだ、選ぶ時も自由が大きすぎてなあ…。これがいいな、と思った途端に別のに目移りしちまうってな。
お前は鞄を自分で買うには、まだ小さいからそれほど悩みはしないだろうが…。
結婚する頃には悩み始めるぞ、俺と同じで、あれにしようか、これにしようかと。
そうやってお前が悩んで決めた鞄は俺が持とう、と微笑むハーレイ。
結婚したら、お前の荷物は俺が持つから、と。
「持ってくれるの? ぼくの荷物も」
旅行鞄とか、そういうのを?
「そうさ、お前に重たい荷物を持たせるわけにはいかんだろうが」
嫁さんに重い荷物を持たせるなんぞは論外だ。俺がしっかり持って運ばんとな。
「前はそういうのも無かったね」
…前のぼくには、ハーレイに荷物を持って貰った覚えが無いよ。
シャングリラで使ってた荷物とかなら、二人で運びもしたけれど…。ぼくの荷物は。
「お互い、鞄が無かったからな」
俺が持とうにも、お前の鞄は無かったし…。
俺のと一緒に持って行くから、と言おうにも鞄が無いんじゃなあ…。
前は無かった鞄だけれど。今は鞄がある時代。
鞄を自由に選べる時代で、鞄の中身も選べる時代。猫を入れてもいい時代。
だから今度は、結婚したら二人で鞄を持とう。
どれを買おうか色々悩んで、旅に出るなら旅行鞄も。
そしてハーレイに重たい鞄を持って貰って…。
(幸せが一杯…)
重たい鞄の中身はきっと幸せが一杯、山ほどの幸せ。それが詰まった鞄になる。
お弁当や旅先で買ったお土産、他にも色々、入れたいものを入れて。
前の生では無かった幸せ、鞄にあれこれと詰められる幸せ。
それを鞄に一杯に詰めて、ハーレイと二人、何処までも歩く。青い地球の上を、鞄を持って…。
自由な鞄・了
※個人が自由に使える鞄が、無かった船がシャングリラ。無くても困らなかったからです。
けれど今では、幾つもの鞄。何を入れるのも自由な世界で、子猫を入れた人も。幸せな時代。
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