シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「クシャン!」
学校から帰って部屋に入った途端に、クシャミが一つ。立て続けには出なくて、一回きり。
制服を脱いで着替える間も、クシャミは一度も出なかったけれど。
(…風邪引いちゃった?)
ちょっと心配、とブルーは壁の鏡を覗いてみた。大きく口を開けて。喉は赤くないし、今の所は痛みも痒いような違和感も無い。風邪の兆候か、ただのクシャミか、難しい所。
風邪を引いていたクラスメイトは誰もいなかったし、バスの中にもいなかったと思う。けれども少し心配ではある、クシャミがたった一回きりでも。
(…本物の風邪だと、これからクシャミ…)
それに始まって喉が痛み出して、その内に熱も。そうなったらもう、寝込むしかなくて。
前と同じに虚弱に生まれた身体は無理が利かないのだから、欠席するしかない学校。ハーレイが教師をしている学校。ハーレイに会えるチャンスを失くしてしまう欠席。
(風邪を引いちゃったら、ホントに大変…)
クシャミの間に治さなければ、と決心した。風邪でなくても何かのはずみにクシャミは出たりもするけれど。そういうクシャミだと油断していて、本物の風邪にはなりたくないから。
帰ったら食べに行くおやつ。階段を下りて、ダイニングまで。覗いてみたら、ちゃんとケーキがあったけれども、その前に風邪を退治しようと向かったキッチン。
(金柑…)
貯蔵用の棚に置いてある瓶。ハーレイの母が作った金柑の甘煮がビッシリ詰まっている。隣町に住むハーレイの両親の家の庭で実る金柑、それをハーレイの母がコトコト煮込んだ甘煮。
風邪の予防にいいのだから、とハーレイが持って来てくれた。夏ミカンのマーマレードは両親も食べているのだけれども、金柑の甘煮はブルー専用。両親はつまんだりしない。
その瓶を開けて、金色の実をスプーンで掬って小皿へと。
(三つくらいかな…?)
クシャミは一回きりだったのだし、一粒でいい気もするけれど。二粒で充分効きそうだけれど、念のために三つ。金柑の甘煮が減って来たなら、またハーレイがくれるのだから。
(そっちの方がお得だよね?)
前に大事にし過ぎて食べなかったら引いた風邪。ハーレイに「馬鹿」と叱られた。金柑の甘煮は毎年沢山作るのだから、いくらでも持って来てやると。それなら食べて減らした方が…。
(また貰えるんだよ、金柑の甘煮)
ハーレイの両親からのプレゼントを。自分のことを「新しい子供が一人増えた」と喜んでくれた優しい人たちからの贈り物を。ハーレイの両親は、いつか自分たちが結婚すると知っているから。
甘いけれども、ほろ苦い金柑の甘煮。一粒ずつ口に運んで噛み締め、味わって食べた。ついでに甘煮が浸かったシロップ、それもスプーンに一杯分を掬って湯呑みに。
(お湯で薄めて…)
飲めば効くのだとハーレイに聞いた。金柑のエキスがたっぷり溶け込んだシロップだから。薬を薄めて飲むようなもので、ハーレイの両親はもっと簡単な方法で作っているらしい。
(金柑入りの薬缶って言った…?)
専用の小さな薬缶に金柑の実を幾つか入れて、砂糖を加えて煮ておくだけ。溶け出したエキスをお茶の代わりに飲むのだという。
(こんな味かな?)
同じ味だと嬉しいんだけどな、と薄めたシロップを飲んでいた所へ入って来た母。
「あら、金柑のシロップ、飲んでるの?」
金柑もちゃんと食べたみたいね、幾つ食べたの?
「三つ…。さっきクシャミが出ちゃったから」
だけどクシャミは一回だけだよ、風邪じゃないとは思うけど…。念のために、って。
「いい心掛けだと思うわよ。用心するのが大切なんだし」
やっと風邪を引くのに懲りたかしら、と母は可笑しそうにクスクスと笑った。
おやつを食べに来ないと思ったら、おやつの前に金柑だなんて、と。
(バレちゃってるよ…)
金柑の甘煮を大事にし過ぎていちゃったこと、とダイニングのテーブルでついた溜息。ケーキを食べながら、さっきの母の顔を思い返して。
ハーレイに金柑の甘煮を貰ったまではいいのだけれども、食べずに何度か引いてしまった風邪。ほんの少しの喉の痛みで食べるのは惜しいと取っておいたり、重ねた失敗。
風邪を引く度、「ちゃんと食べろと言っただろうが」とハーレイに叱られたり、睨まれたり。
予防のためにと渡してあるのに、どうしてお前は食べないのかと。
(でも…)
金柑が減るのが惜しかったことも大きいけれども、寝込んでしまったらハーレイの野菜スープが飲めるから。前の自分が好きだったスープ、それを作って貰えるから。
まるっきり損だというわけではない、学校で会えなくなるというだけ。教師としてのハーレイに会えない、それだけのこと。大抵の時は、ハーレイはスープを作りに来てくれるから。
(…学校で会えないのは、惜しいんだけど…)
ハーレイの授業がある日だったら、手を挙げれば当てて貰えたりする。教師と生徒でも、会話は会話。質問に答えるだけであっても、ハーレイと一対一で話せる。楽しい雑談もきっと聞けるし、魅力的なハーレイの古典の授業。
それが無い日でも、何処かで会える。チラリと姿を見掛けるだけでも、挨拶だけでも。
運が良ければ立ち話を少し、昼休みなどに。もっと運が良ければ、柔道着のハーレイとバッタリ出会えたりする、朝に登校した時に。
学校に行ったら会えるハーレイ、学校でしか会えない教師のハーレイ。
そういう姿も大好きだったし、「ハーレイ先生」に会える学校は貴重な場所なのだけれど…。
学校もいい、と分かっていたって、ハーレイが作る野菜スープが飲みたくなる。
何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけで煮込んだスープ。素朴で優しい、滋味深いスープ。今ではお洒落に「野菜スープのシャングリラ風」などと呼ばれているそれ。
あの味が欲しくて、たまに引きたくなってしまう風邪。
金柑の甘煮もパクパク食べるには惜しい気がして、やっぱり大事にしてしまう。風邪の予防にと毎日食べるなど、とんでもない。いざという時にだけ食べれば充分。
(だけどハーレイにはバレちゃってるし…)
金柑の甘煮を惜しがることも、スープが欲しいと機会を狙っていることも。
風邪を引いたら「またか」と叱られるに決まっているから、今日は早めに食べた金柑。ちゃんとシロップも飲んでおいたし、きっと効き目があることだろう。
(金柑、三つも食べたんだから…)
風邪は退散、とケーキをパクリと頬張った。ケーキで栄養も可笑しいけれども、エネルギーにはなる筈だから。金柑で風邪をきちんと治して、ケーキで栄養補給なんだよ、と。
おやつを食べ終えて、戻った部屋。入ってもクシャミは出なかった。
(うん、平気かな?)
学校から戻って直ぐのクシャミだけ、あれっきりクシャミはしていない。おやつの間も、部屋に戻っても出て来ないクシャミ。
たまたまクシャンと出ただけだったか、風邪の兆候だったのか。分からないけれど、クシャミが何度も出ないからには風邪を引いてはいないのだろう。引きかけていても治った風邪。ハーレイの母が作った金柑の甘煮を食べたお蔭で。
もう大丈夫、と本を読んでいたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが来てくれたから、自慢した。風邪だったかもしれないけれども、もう治ったと。
「ちゃんと金柑、食べたんだよ。クシャミは一回だけだったけれど、三つもね」
シロップも薄めて飲んでおいたよ、だからクシャミは出てないし…。
いつもハーレイに叱られてるから、今日は早めに食べておいたよ。
「そいつは素晴らしい心掛けだな」
風邪は引き始めが肝心だからな、引いたかもしれん、と思った時には金柑だ。
「でしょ?」
怪しいな、って思ったから…。ただのクシャミってこともあるけど、用心しないと…。
風邪を引いちゃったら、また学校を休んじゃうことになっちゃうもの。
金柑の甘煮を惜しがらずに食べたことを、ハーレイは「偉いぞ」と褒めてくれたから。
「いつもその調子だといいんだがな」と頭をクシャリと撫でてくれたから、嬉しくなった。
(…食べて良かった…)
こうしていても、やはり出ないクシャミ。風邪は本当にすっかり治ってくれたのだろう。早めに食べて正解だった、と金柑の味を思い出す。食べるお薬、と。甘いけれども、ほろ苦い甘煮。
その金柑をくれたハーレイと楽しく話している途中で気が付いた。
(あれ…?)
前に風邪を引いた時、ハーレイが作ってくれた風邪引きスペシャル。白いシャングリラの頃にはそういう名前は無かったけれども、野菜スープにとろみをつけて溶いた卵を入れたもの。
前の自分も馴染んでいた味、喉が痛い時には作って貰った。卵が貴重だった頃から。自給自足の生活を始めて、鶏の卵がまだ充分には無かった頃から。「ソルジャーだから」と卵を一個。
それはともかく、「俺のおふくろの風邪引きスペシャルなんだ」と出て来たお粥。鶏のささみと白ネギにニンニク、生姜も入った優しい味。鶏のスープでコトコトと炊いた、ハーレイの母の風邪引きスペシャル。
ハーレイの母がそういうレシピを持っているからには、ハーレイも風邪を引くわけで…。
そうでなければ、風邪引きスペシャルはきっと存在しないだろう。作る必要が無いのだから。
けれど、丈夫に見えるハーレイ。風邪などは縁が無さそうだから。
(…なんで風邪引きスペシャルなわけ…?)
風邪を引きやすい自分ならばともかく、と質問してみることにした。まずは風邪から、と。
「えーっと…。ハーレイは風邪は引かないの?」
風邪を引いたって言ってたことは無いけど、ぼくと違って風邪は引かない…?
「引かないが?」
見れば分かるだろう、風邪を引きそうに見えるのか、俺が?
日頃からきちんと鍛えているんだ、酷い風邪が流行っているような時でも、まず引かないな。
「…でも、ハーレイのお母さんの風邪引きスペシャル…」
そう言ってお粥を作ってくれたよ、ぼくが風邪を引いてしまった時に。
鶏のささみが入ったヤツだよ、ハーレイのお母さんの風邪引きスペシャル。それがあるんだし、ハーレイも風邪を引いてたのかと思ったんだけど…。
「なんだ、そいつか。…それはまあ…。ガキの頃には無茶もするしな」
風邪だって引くさ、いくら頑丈に出来ていたって。物事には限度ってヤツがあるんだ。
「無茶って…。ハーレイ、子供の頃から鍛えてたんでしょ?」
柔道も水泳もやってた筈だよ、それなのに風邪を引いちゃったの?
「引いちまったな、冬の最中に川に入った時のが一番酷かったか…」
鍛えるために入ったんなら、心構えが出来ているから引かないが…。上がった時にも、ちゃんと着替えを用意してあるし、大丈夫なんだが…。
聞いたことはないか、寒稽古ってヤツを。冬の寒い時期に川に入るってヤツだな、武道で。
水泳の方でも寒中水泳っていうのがあるだろ、ああいうのなら俺もやってたが…。
「冬に川って…。泳いだりもするって、聞いたことならあるけれど…」
それをやっても平気なハーレイが、なんで風邪を引くの?
おんなじように川に入っただけでしょ、ハーレイ、いったい何をやったの…?
聞いただけでも風邪を引きそうな寒稽古だの、寒中水泳だの。そういったもので鍛えていたのにハーレイは風邪を引いたと言うから、興味津々で尋ねてみたら。
「…笑うなよ? 本当に無茶の極みって言うか、馬鹿としか言いようのない話だからな」
親父と一緒に釣りに行ったんだ、冬の川にな。雪がちらつくような日だったんだが…。
俺は魚がまるで釣れなくて、ふと覗き込んだら魚はいるんだ、デカイ鯉とかが。
網で掬ったら獲れるだろうな、と網を持って川に入ってだな…。もちろん最初は浅い所だ、靴を脱いでズボンの裾をまくって入れる程度の。
ところが魚は逃げるわけでだ、そいつを夢中で追い掛けていて…。気が付いたら首まで浸かっていたのさ、魚を待ち構えようと川の中にドッカリ座り込んで。
「座ってたって…。冷たい川に首まで浸かって?」
「魚の動きをしっかり見るなら、その方がいいと思ったんだよなあ…」
それで掬おうとしたわけなんだが、親父の雷が落ちたってな。何をしてるんだ、と。
直ぐに上がれと叱られたものの、着替えなんかは持っちゃいないし…。服はビショ濡れで冷たいだけだし、風邪を引くしかないだろうが。
親父の上着を着せて貰っても、俺のズボンとかは何処にも無いんだから。
濡れ鼠になったハーレイは三日間ほど寝込んだらしい。ハーレイの父が家へと急いだ車の暖房も役に立たなくて、身体がすっかり凍えてしまって。
「ハーレイ、凄すぎ…。それでも三日で起きられるなんて」
たったそれだけで、酷い風邪が治ってしまったなんて。
「そうか? 単に冷えちまっただけだしなあ…」
熱さえ下がれば、どうってことは…。こじれちまったら大変だったろうが。
「ぼくなら何日も寝込んじゃうよ! 三日じゃ、とっても起きられないよ!」
一週間で済めばいいけど、二週間くらいは寝ていそう…。
その前に川には入らないけど。冬の寒い時に川に入るなんて、足だけでも風邪を引いちゃうよ。
「まあ、そうだろうな。お前だったら」
しかしだな…。足を浸けただけで風邪を引きそうなヤツは、お前くらいなものじゃないか?
ガキってヤツは丈夫なもんだぞ、お前の友達はどうなんだ。
その程度で風邪を引きそうな感じか、と尋ねられてみれば、自分の周りにも頑丈な身体の友達。
真冬でも薄着をしている友人もいれば、真冬の川に自転車ごと落ちたと笑っていた友人。怪我はしたけれど、風邪など引いてはいなかった。怪我だってほんの掠り傷で。
「…ホントだ、みんな丈夫だね…」
自転車ごと川に落ちた子だって、風邪は引いてないよ。浅い川だけど…。
でも、濡れたのは濡れたんだろうし、ぼくだったら、やっぱり風邪を引くと思う…。
「お前が弱いというだけのことだ、ガキは本来、丈夫なもんだ」
多少の無茶なら風邪など引かんし、「子供は風の子」と言うだろうが。
お前が昔と変わらないだけだ、前のお前だった頃とそっくり同じに弱い身体で。
もっとも、耳は普通に聞こえてるんだし、お前の身体も前よりは立派になってるわけだが…。
ミュウも丈夫になったもんだぞ、と笑みを浮かべているハーレイ。
前の俺たちが生きた頃とはまるで違って、と。
「…そうだっけ?」
医学が進んだってだけのことじゃないの、今の時代ならリオだって喋れるようになるんだよ?
ヒルマンの腕だって、今は本物の自分の腕を作って貰えるんだし…。
だから丈夫に見えるだけじゃないの、病気だって簡単に治せるものね。
「医学の進歩ってヤツは認めるが…。それだけじゃないぞ」
考えてみろよ、シャングリラの中はどうだった?
あの船に風邪はあったのか、うん…?
「風邪は…。ぼくも引いてたし、普通にあったよ」
ハーレイの野菜スープに風邪引きスペシャルがあったくらいだもの、風邪はお馴染み。
酷い感染症とかは無かったけれども、風邪くらいはね。
「ほら見ろ、あの船でさえも引いていたんだ、風邪を」
お前が普通だと言ってるくらいに風邪を引いてた、それほどにミュウは弱かったんだ。
「えっ? 弱いって…」
風邪だよ、風邪は今でも普通にあるよ?
今のハーレイだって子供の頃に引いちゃったんだし、前のぼくたちだって風邪くらい引くよ。
「いいか、前の俺たちが暮らしていたのはシャングリラだぞ?」
名前の意味でのシャングリラじゃない、あの船の性質を考えてみろ。
前の俺たちにとってはシャングリラが世界の全てだったし、あの船の外に居場所は無かった。
何か起こっても避難場所など無かったんだぞ、どういう風にしてたんだっけな…?
外界からは完全に切り離されていた、とハーレイが指摘する通り。
新しい仲間の救出に向かった者たちは医療チェックを受けたし、救出に使われた小型艇は消毒。
それ以外にも、シャングリラの中は定期的に消毒されていた。外の世界から感染症などが入って来ないよう、入ったとしても未然に食い止められるよう。
「そうだったっけね…。神経質なほどにやっていたよね、消毒とかを」
格納庫なんかは特に厳しくやっていたっけ、外から直接、小型艇が戻って来るんだから。
「分かったか。…あれだけやってりゃ、普通は風邪を引かないぞ」
前の俺たちの頃はともかく、今の時代なら引きっこないんだ。今の世界はどうなっている?
「んーと…。何処も消毒はしてないね…」
学校だって、手を洗いましょう、って言われるだけだよ。
夏休みとかには消毒だってするんだろうけど、毎週とかはやっていないよね…。
「当然だ。それにだ、買い食いだって普通だろうが」
お前だって友達と遊びに行ったら、公園とか店で何か買っては食べているんだろう?
渡されたものを、その場で、そのまま。
「うん。手が汚れてたら洗いに行くけど…」
そうじゃなかったら、そのままだね。ウガイなんかはしてないし…。
「前の俺たちの時代だったら、それだけで風邪を引いてるな」
「そうなの?」
「うむ。風邪のウイルスが口から入って、喉にくっついちまってな」
間違いなく風邪だ、シャングリラに乗ってた仲間たちなら。元気そうだったゼルやブラウでも。
「そんなに酷いの、今の世界は?」
風邪のウイルスで一杯だって言うの、シャングリラがあった頃とは違って…?
「外の世界の状況ってヤツは、今でも大して変わらない筈だと思うんだがなあ…」
酷くなっちまったってことは無いと思うぞ、ことウイルスに関しては。
ただし根絶してもいないな、それをやったら人間は弱い生き物になってしまうんだから。
SD体制が敷かれていた時代も、今の時代も。
人間が弱くなりすぎないよう、この地球も他の惑星なども無菌状態ではないという。酷い疫病は根絶されたけれども、それ以外の菌は残されたまま。風邪のウイルスも。
「それにだ、虫刺されだって普通のことだろうが。家の庭で蚊に刺されたりとか」
毒を持ってる生き物もいるし、世の中、決して無害ってわけではないってことだ。
「前のぼくたちの頃は、毒のある生き物はいなかったんだっけ?」
「そうらしいなあ、毒キノコも無かったんだしな」
あの時代だったらキノコは何処でも取り放題で食べ放題だったのに、と言うヤツもいるし…。
キノコ狩りなんて出来なかったんだがなあ、あの時代にミュウに生まれていたら。
「ふふっ、そうだね。シャングリラに乗れたら運が良かった時代だものね」
「まったくだ。乗れなかったヤツらの方が遥かに多かったんだが、あれから時が経ちすぎたな」
SD体制の時代にキノコ狩りをしたかった、と言っても頷くヤツらばかりだ。
その時代に生きたミュウの仲間たちに申し訳ない、と思う時代は過ぎちまったらしい。
キノコ狩りに出掛けて、毒キノコかどうかと悩む羽目になって、SD体制の頃なら良かった、と寝言を言える平和な時代だ。
今の俺たちも、その恩恵を蒙って生きてるわけだし、文句を言おうとは思わないがな。
前の自分たちが生きた時代とは違って、元に戻されている生態系。毒のある生き物も毒キノコも排除されていない世界、毒は自分で気を付けて避けてゆかねばならない。
それと同じで、ミュウに合わせて消毒してあるわけではない世界。白いシャングリラとは違った世界で、風邪のウイルスは何処にでもあるものらしいから。買い食いで風邪を引くそうだから。
「それじゃ、今のみんなが風邪を引かないのは…」
前のぼくより丈夫だったゼルやブラウでも引きそうな風邪を、ぼくが引いたりしないのは…。
風邪のウイルスが少ないからだ、ってわけじゃなくって…。
「ミュウが頑丈に進化したってな」
前の俺たちの時代みたいに、ミュウと言えば虚弱と決まったものではなくなったんだ。とっくの昔に人類並みに頑丈になって、そう簡単には風邪も引かん、と。
「…ハーレイも?」
前より丈夫になったわけなの、それで柔道とか水泳なの…?
「俺は元から引いていないぞ、風邪なんて」
ついでに身体も頑丈だったな、耳以外はな。
あの時代だから柔道も水泳も今のようには出来なかっただけで、機会さえあれば…。
仮に成人検査をパスしてたとすれば、水泳の方は今と似たようなものだったかもしれん。
柔道は無かった時代だからなあ、そっちの腕前は謎なわけだが。
シャングリラの時代から俺は頑丈だったろうが、と言われてみれば。
船の中では運動不足になりがちだから、と初めの頃から通路で走ったりしていたハーレイ。白い鯨になった後には水泳だってしていたのだった。そんなハーレイだから、風邪だって…。
「ハーレイ、滅多に引いていなかったっけ…」
前のぼくは何度も引いていたけど、風邪を引いたハーレイは殆ど知らないかも…。
「引いても鼻風邪程度だったな、寝込むようなヤツを引いてはいない」
同じ風邪でも、前のお前が引いた時には寝込んでいたが。
シャングリラの風邪は同じウイルスの筈だからなあ、俺なら鼻風邪で済んだわけだが。
「うん…。おんなじ時期に流行った風邪なら、ウイルスも同じ筈だよね…」
でも、ハーレイは平気だったんだよ、風邪を引かない時の方が多くて。
たまに引いても鼻風邪程度で、ぼくの方が遥かに重症で…。
だから野菜スープを作ってくれたよ、「このくらいは食べて下さい」って。
喉が痛いよ、って言ってた時には、卵が入った風邪引きスペシャル。
…ハーレイがスープを作ってくれなきゃ、ぼくはもっと酷い風邪になっていたかも…。
体力がすっかり落ちてしまって、何も食べられなくなって。
「…そこまで酷くはならんだろう」
ノルディもいたんだ、そうなる前に注射をするとか、頑張って治療をしただろうさ。
お前は注射は嫌いだったが、酷い風邪なら押さえ付けてでもブスッとな。
俺がお前の腕を押さえて、ノルディが問答無用で注射だ。
風邪でそこまでの悲劇にはならなかった筈だが…、と可笑しそうにしていたハーレイだけれど。
「そういや、お前の鼻風邪もあったな」
ノルディに注射はされていないが、とんでもないのが。
「鼻風邪?」
「ああ、酷いヤツだ。とびきり酷い鼻風邪だったな」
どういうわけだか、鼻の症状が最悪だった。いつもだったら喉に出る分が鼻に出たのか…。
鼻水が酷くて鼻をかみ過ぎて、鼻が真っ赤になっちまって。
「あ…!」
そうだったっけ、と思わず押さえてしまった鼻。
前の自分が引いたのだった、そういう風邪を。鼻の症状が酷すぎる風邪を。
シャングリラの仲間たちに移さないよう、青の間に引っ込んでいたのだけれど…。
「あの時のお前、皆に見せられたモンじゃなかったな」
自発的に閉じ籠もっていてくれたからなあ、キャプテンとしては有難かったが。
あんなお前がシャングリラの中を出歩いていたら、俺は即座に捕まえたな。
「ソルジャーのお仕事は私が代わりますから、どうか青の間にお戻り下さい」とな。
「捕まえるって…。どうしてなの?」
他のみんなに移すからなの、そうならないように青の間から一歩も出なかったよ?
「移す方もそうだが、お前の顔だ。見せられたものじゃないと言ったろ」
鼻がすっかり真っ赤なんだぞ、見ただけで誰でも笑い出しちまう。
その場ではなんとか持ち堪えたとしても、お前の姿が見えなくなった途端に大笑いだな。
「笑うって…。ぼくは病気で…!」
風邪を引いたんだよ、笑わなくてもいいじゃない…!
可哀相だと思って欲しいよ、あの鼻風邪はホントに鼻が痛くて辛かったんだし…!
前の自分が引いた鼻風邪。喉の痛みや熱の代わりに、本当に鼻にだけ出た症状。酷すぎた鼻水と鼻詰まりとで、鼻は真っ赤で、鼻の周りの肌がヒリヒリと痛くて辛くて…。
その時の顔が可笑しかったとハーレイは笑ってくれるけれども、そんなに酷い顔だったろうか?
「…お前にしてみりゃ、単に自分の鼻が赤かったっていうだけなんだろうが…」
前のお前はだ、綺麗すぎるほどの顔も含めてソルジャーだったわけだ、美人が売りだ。
お前にそういう自覚が無くても、船のヤツらは綺麗なお前が長だというのが自慢だったし…。
ソルジャーの服にしたってそうだろ、前のお前に似合うようにと特別にデザインしてあった。
そんなお前が鼻だけ真っ赤な顔を見せてみろ、もう間違いなくイメージダウンだ。
キャプテンとしては避けたい事態だ、ソルジャーはあくまで完璧に、だ。
…恋人だった俺にしてみりゃ、そういうお前も可愛いとしか思えなかったがな。
「えーっと…。それでノルディが青の間に閉じ込めてた…ってわけじゃないよね?」
ぼくは最初から出るつもりなんか無かったけれども、「出ないで下さい」って厳しい顔で…。
鼻風邪だから、動くのは平気で動けたけれども、絶対に出るな、って。
「ノルディの指示は、ただの感染予防策だが?」
俺がノルディの立場だったとしても、同じように対処していたろうさ。
いくらソルジャーでも、酷い風邪の患者がウロウロしたんじゃたまらないからな。
行く先々で移しちまって、シャングリラ中が鼻風邪になったら大惨事なんだ…!
酷い鼻風邪だった時に限らず、前の自分が風邪を引いたら。
青の間に入る者たちは全員、感染防止にマスクを着用するものだった。治療にあたるノルディはもちろん、長老の中では丈夫な部類のゼルもブラウも。
けれど…。
「ハーレイ、マスクしていなかった…」
一度もマスクをしていなかったよ、前のぼくが酷い風邪を引いても。
鼻風邪だったら、移っても鼻風邪で済むだろうけど、もっと酷いヤツ。高い熱を出したのとか、声がすっかり出なくなったのとか、他にも一杯…。
ノルディたちはマスクで来ていたけれども、ハーレイはマスクは無しだったよ。
マスクなんかしないで青の間に来て、野菜スープも作っていたよ。
「移らない自信があったからな」
前の俺が一番頑丈だっただろうが、シャングリラでは。
どんなに酷い風邪が流行った時でも、俺は引かないか、引いても鼻風邪程度だったんだ。
前のお前は弱かったせいで、他のヤツなら酷くならない風邪でもダウンしちまってたろう?
お前がダウンする程度の風邪では、前の俺はとても倒せんな。掠りもしないといった所か。
だからマスクは要らなかったわけだ、俺には移らないんだからな。
わざわざマスクをする意味も無いし、そうしたいとも思わなかった。
ただでも病気で弱っているお前を避けるような真似はしたくないじゃないか、マスクをして。
今のお前には近寄りたくない、と言っているのと同じだしな、マスク。
それが必要な仲間たちなら、そういう意味にはならないんだが…。
自分の身体を守るための鎧で、そいつが無ければ危険なんだから着けるしかあるまい。
しかし、前の俺みたいに頑丈な場合は、お前にウッカリ近付きたくない、ということになる。
マスクをしなくても移らないのに、「移さないで下さい」とマスクを着けていたんではな。
第一…、とハーレイが瞑った片目。
眠る時までマスクなんぞをしていられるか、と。
「前の俺はお前と眠ってたんだぞ、恋人同士になってからはな」
そうなったら俺のベッドはお前と同じで、お前が風邪を引いてるからってマスクはなあ…。
あんまりだろうが、それじゃ恋人失格ってもんだ。俺がゼルたち程度に弱くて、風邪を引いたらマズイと言うなら「すまん」とマスクをしてただろうが。…キャプテンだしな。
キャプテンが風邪で休みとなったら、シャングリラの仲間に迷惑がかかるし、仕方なくマスクもしていただろう。ところが俺は風邪なんか引かない丈夫な身体で、マスクは必要無かったわけだ。
その点は大いに感謝せんとな、マスク無しでお前の側にいられた。
お前が風邪で辛い思いをしている時にも、マスクをしないで抱き締めてやれた。一晩中な。
それにだ、お前に「おやすみ」のキスも要るんだ、こいつはマスクじゃ出来ないってな。
「…キス…」
「してやっただろうが、忘れちまったか?」
前のお前が鼻だけ真っ赤になってた時にも、風邪でゴホゴホやってた時も。
…今のお前にはまだ早いキスだ、俺が弱かったら、あのキスで風邪を貰っていたぞ。
「う、うん…」
引いちゃうだろうね、おやすみのキスは…。
して貰っていたの、頬っぺたとかおでこじゃなかったものね…。
今はまだ貰えない、唇へのキス。それがおやすみのキスだった。風邪を引いていても、唇に。
もっと深いキスを貰ったことも…、と真っ赤になったブルーだけれど。
「安心しろ。今度の俺もマスクは要らん」
いずれは、お前が風邪を引いちまった時にも、おやすみのキスをしてやるさ。
だがな、風邪は引かないに越したことはないぞ、辛いのはお前だ。
野菜スープのシャングリラ風を作って欲しいという気持ちは分かるが、わざと引くなよ?
「うん、分かってる…」
ちゃんと金柑で予防するよ、と答えたけれど。
今日のクシャミを運んで来たかもしれない風邪は、金柑の甘煮で退治出来たけれど。
いつかハーレイと結婚したなら、風邪を防がずに引いてみようか、金柑の甘煮を食べないで。
マスク無しでも風邪を引かないハーレイ、頼もしい姿をまた見たいから。
「俺は平気だ」と抱き締めてくれて、おやすみのキスまでくれるハーレイ。
前と同じに頑丈な身体の恋人のキスが、強い腕が欲しいと欲が出る。
ハーレイはきっと、優しいから。
風邪を引いた自分を叱りはしなくて、野菜スープのシャングリラ風もきっと作ってくれるから。
たまには引いてみたい風邪。
ハーレイと二人で暮らせるようになったら、おやすみのキスが貰えるようになったなら…。
引きたい風邪・了
※風邪を引かないよう、金柑の甘煮で予防したブルー。褒めては貰えたんですけれど…。
寝込んでいたなら、野菜スープなどの特典が。風邪を引きたいような気持ちもあるのです。
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