シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(カレーってヤツは、一晩寝かせると美味いんだ)
だから今夜はカレーなんだ、と帰宅したハーレイが開けてみた鍋。ふわりと立ち昇るスパイスの香り。よし、と頷いて蓋をする。温めるのは着替えてから。
ブルーの家には寄れなかった日、最初から無理だと分かっていた日。会議の予定で、間違いなく長引くものだったから。今までの経験からしても、けして早めには終わらない。
それを考えて、昨日の夜に仕込んだカレー。少しの量でも本格的にと、手抜きはせずに。
(丁度いい具合に出来上がったぞ)
作ってから今までに経った時間で馴染んだろう味、スパイスもしっかり効いている筈。鍋の中でトロリとしていた金色、温め直すのが楽しみではある。
いそいそとキッチンを後にして着替え。スーツを脱いでネクタイも外して、家で寛ぐ時の服に。
(さて、と…)
次は飯だ、と戻ったキッチン。鍋の中身を確認してから、焦がさないようにゆっくりかき混ぜて弱火で温めてゆく。フツフツと滾り始める頃には、それは美味しそうなカレーの匂い。
同じようにとろみがついたものでもシチューなどではこうはいかない、カレーならではの複雑に絡み合った香りが食欲をそそる。味も香りも様々なスパイス、それがカレーの命だから。
グツグツと煮立ったビーフカレー。タマネギなどの具はミキサーにかけて滑らかに。レストランなどで出てくるカレーの風味を目指した、今回の分は。ジャガイモやニンジンがゴロゴロと入ったカレーも好きだけれども、今日はプロ風。一晩寝かせて更に美味しくなった筈。
(カレーはコレに限るってな)
寝かせておくのが一番なんだ、と温まったカレーを炊き立ての御飯にたっぷりとかけた。自分が一人で食べるのだから、惜しみなく。
ダイニングのテーブルに運んで、早速頬張る。熱々のカレーを白い御飯に絡めてやって。
(…久しぶりだぞ、この味も)
美味い、と顔が綻ぶ満足の味。昨日から仕込んでおいたからこそ、この味が出来る。ゆっくりと寝かせたカレーならでは、作り立てとは違ったコクとまろやかさ。
一晩寝かせられない時には、鍋ごと水で急冷するのも悪くない。それから温め直してやったら、この味わいに少し近付く。母がプロの料理人から習った裏技。「急ぐなら、これが一番です」と。
自分も母から教わったから、カレーを作ったら冷やしたものだ。
(一晩置くより、食いたいじゃないか)
鍋にたっぷり作ったのなら、その場で食べたい。一晩もお預けを食らっているより。
とはいえ、最近は御無沙汰のコースだけれど。
大きな鍋にドカンと山ほど、作ることはしなくなったのだけれど。
(なんたって、ブルーに会っちまったしな?)
前の生から愛した恋人、まだ十四歳にしかならないブルー。
青い地球の上で再び出会えたけれども、恋人同士で一緒に住むにはブルーは少々幼すぎた。年も背丈もまだまだ足りない、結婚出来るほどではない。ブルーの家を訪ねて会うのが精一杯。
仕事が早く終わった時には出掛けてゆくから、夕食はブルーの家で食べることになる。ブルーの両親もいるテーブルで。
そんなわけだから無くなってしまった、カレーを大鍋で大量に仕込んで何日も食べるお楽しみ。
作ったその日に鍋ごと冷やして出来立てを味わい、次の日には一晩寝かせた味。二日続いても、飽きないカレー。朝と昼とは違う料理を食べているのだし、二日続きでも楽しめる。三日も続けて食べることもある、三日目はカツを乗せたりもして。
そうでなければ、カレーを使った料理を色々。カレー風味のグラタンもいいし、今の自分が住む地域だからこそ作れるカレーうどんだとか。
すっかり遠くなってしまった、大鍋一杯のカレーの日々。一晩寝かせたカレーでさえも、久々に作ったという始末。会議のお蔭で作れたカレーで、怪我の功名と言うかもしれない。本当だったらカレーを仕込んで出掛けるよりかは、ブルーと会っていたいのだから。
今日はブルーに会えなかったから、それが怪我。一晩寝かせたカレーはとても美味だけれども、これを孤独に食べているより賑やかなブルーの家がいい。
けれど、恋しくなってきたカレー。ブルーに会うまではドカンと作って食べていたな、と。
思い出したら、次から次へと浮かんでくる味。カレーを使った料理の数々。あれも作れる、この料理も、と。カレーが無ければ出来ないアレンジ、今では作れそうもない。大鍋に一杯のカレーを仕込むことなど出来ないのだから。
(だが、いずれは…)
また、あの料理を楽しめる。大鍋でカレーをドカンと作って、それをベースに色々アレンジ。
いつかブルーと結婚したなら、二人で暮らし始めたならば。
ブルーの家まで出掛けなくても、いつでも食事は一緒だから。大鍋で仕込んでおいたカレーも、ブルーと二人で食べるのだから。
作ったその日は、鍋ごと冷やして出来立てのカレー。次の日は一晩寝かせたカレー。二日続けて楽しんだ後は、どんな料理を作ろうか。ブルーの意見も聞いてやらねば…。
(カレーも色々作らないとな?)
この地域ならではのカレーライスもいいけれど。何日も食べるのも楽しいけれど。
同じカレーでも、本場だというインド風やら、スープのようなタイカレーやらも面白い。まるで違った味わいのカレー、ナンで食べたり、御飯にかけたり。
カレー粉を使った料理も多いし、全部をブルーに披露していたら何日かかるか。
(そいつもきっと、いいもんだぞ)
自分と同じで好き嫌いが全く無いブルー。食は細いけれど、何でも食べる。前の生で餌と水しか無かったアルタミラ時代が影響したのか、幼い頃から無かったと聞く好き嫌い。
そのブルーならば、どんなカレーも食べてくれるし、お気に入りだって出来るだろう。この味が好きだ、と喜んでくれるカレーの料理。なにしろカレー料理は本当に数が多いのだから。
(カレーライスにしたって、だ…)
今日のカレーはビーフだけれども、チキンやポークや、シーフードなど。
入れる具もそうだし、カレー粉の配合で味が変わって面白いもの。火を噴きそうなほど辛い味もあれば、幼い子供でも喜んで食べる甘口もある。
(俺のオリジナルだって出来るしな?)
気に入った味のカレー粉を混ぜて作るのが自分のオリジナル。これとこれだ、と混ぜてケースに詰め込んでおいて、使いたい時に出してくる。
ただ、絶品のものが出来ても、二度と再現出来ないこともあるけれど。この割合で混ぜた筈だと記憶を頼りに混ぜ合わせてみても、上手くいかないオリジナル。
(スパイスってヤツは難しいんだ)
ほんの少しの加減の違いで味がガラリと変わってしまう。カレー粉と呼ばれる粉の中身は、実に様々なスパイスを混ぜたものだから。素人ではなかなか作れないから。
そもそもスパイスを買いに行っても、どれがいいやら…、とカレーライスを頬張っていて。
料理の腕とカレー粉作りはまた別物だと、本場に行けば家の数だけカレーの味があるのだし、とカレーの世界の奥の深さを考えていて…。
(待てよ…?)
今の自分はとてつもない贅沢をしているのでは、と気が付いた。
たかだかカレーライスだけれど。昨日の夜に作って一晩寝かせたカレーをたっぷり、白い御飯にかけただけだけれど。サフランライスを炊いたのならばともかく、ただの白い御飯。
しかし…、と眺めたカレーの皿。口に運んでみたカレーライス。
味も香りも、スパイスが作り出している。ターメリックにクミン、カルダモンなど。数種類ではとても出来ない、作り出せないカレーの味。
(シャングリラでは…)
カレー粉は合成品だった。何種類ものスパイスが必要なカレー粉の本物を作れはしなかった。
白い鯨にあった農業用のスペース、其処は必需品となる作物の栽培が最優先だったから。穀物に野菜、それから果物。一部のスパイスはあったけれども、カレー粉が作れるほどのスパイスを栽培してはいなかった。そのスパイスが無くても困りはしないから。
(合成品でも、カレー粉だけはあったんだがなあ…)
ピリッとした風味を料理に加えてくれるカレー粉、それは当時も存在したから。カレー粉を使う料理は残っていたから、白いシャングリラにもあったカレー粉。合成してまで。
SD体制の時代に消された食文化の中には、カレーライスも、本場インド風のカレーも含まれていたのだけれども、カレー粉は立派に生き残っていた。SD体制が基本として選んだ文化の料理にカレー風味が根付いていたから。
(前の俺が厨房で料理をしていた頃には…)
カレー粉はまだ本物だった。スパイスをふんだんに使った香り高いカレー粉、それを振り入れて作った様々な料理。
あの頃は、船に必要な物資はブルーが奪って来ていたから。人類の輸送船に積まれたカレー粉は全て本物、合成品ではなかったから。
けれども、時代は移り変わるもの。前の自分は厨房からブリッジに居場所を移してキャプテンになったし、シャングリラも巨大な白い鯨に改造された。船の中だけで生きてゆけるように。物資を奪って生きるのではなくて、自分たちの手で全てを賄える船に。
(自給自足の船になっちまって…)
一気に落ちたカレー粉の風味。スパイスが命のカレー粉の味が一番顕著に落ちたかもしれない。他の調味料はスパイスが全てではなかったから。ケチャップもマヨネーズも、ビネガーなども。
食料の生産が安定してゆけば、白い鯨でも充分に作れたケチャップやマヨネーズといったもの。
ところがカレー粉はそうはいかなかった、何種類ものスパイスが材料なのだから。味も香りも、スパイスが生み出すものなのだから。
(…これだけが足りない、ってわけじゃなかった…)
足りないスパイスが一種類なら、あるいは二種類くらいだったら、合成品を作り出すのもきっと簡単だっただろう。本物の味には及ばないまでも、近い味のものを作れただろう。
けれど、カレー粉に使うスパイスは「殆どが無い」といった状態。
船で作れるスパイスの方が遥かに少なく、残りは合成するしかなかった。自然が生み出す香りや味を。一つ一つが個性に満ちている様々なスパイス、それに近いものを。
最初に作られた合成品のカレー粉は不評で、「料理が黄色くなっただけだ」と言われた有様。
見た目こそカレー風味だけれども、食べてもカレーの味がしないと。
(あそこで諦めなかった所がなあ…)
前の俺たちの執念かもな、と可笑しくなった。食い物の恨みは怖いと言うし、と。
黄色いだけのカレー粉では駄目だ、と合成品の試行錯誤が続いた日々。ヒルマンが幾つもの案を出しては、合成品が試作されていた。
「ちょっと辛すぎるんじゃないのかい?」
辛いだけだよ、とブラウが一蹴したこともあった、「辛ければいいってもんじゃないよ」と。
「今度のヤツは、ちと甘すぎるのう…」
何を入れたというんじゃ、コレに。ワシらが目指すのはカレー粉じゃぞ?
もっとピリッとさせんかい、とゼルが文句を言ったりもした。
利き酒ならぬ利きカレーといった所だったろうか。
厨房のスタッフに試作した合成品を使ったカレーソースを作らせて、集まってはそれを味見していた前の自分たち。ゼルにヒルマン、ブラウにエラ。もちろんブルーも。
(合格したヤツを、食堂で試しに使わせてみて…)
仲間たちの舌で審査して貰って、アンケートを取った。それに基づいて、改善すべきと思われる点を改善してみて、また利きカレーで、それから食堂で出してアンケート。
よくぞ投げ出さなかったと思う、「もうこのくらいにしておこう」と。黄色くなったらもう充分だと、ピリッとするならそれだけでいいと。
何度も何度も繰り返した試作、利きカレーに加えて仲間たちへのアンケート。
(なんとかカレー粉は出来たんだが…)
もうこれ以上は無理だろう、とヒルマンが判断するまで試作を重ねて出来たカレー粉。改良する余地は残されておらず、それが完成品だとされた。シャングリラではこれが限界だ、と。
そうして生まれたカレー粉だけれど、香ばしくはなかった、本物のようには。味わいも本物には遠く及ばず、何処かぼんやりとしていたカレー粉。味も香りも。
かつて食べていた本物のカレー粉、その味を知る仲間たちが残念がったほどに。
この船にも充分な数のスパイスがあればと、栽培出来る余裕があれば、と。
(子供たちだって、違うと言っていたからなあ…)
保護したミュウの子供たち。
皆、シャングリラに来るよりも前は、養父母の家やレストランなどで本物のカレー粉が使われた料理を食べていたから、直ぐに気付いた。カレー風味の料理の違いに。
船に来たばかりで「合成品」という言葉をまだ知らない子でも、この船のカレーは少し違うと。見た目はそっくり同じだけれども、今まで食べていたものとは違うと、首を傾げた子供たち。
どうしてこういう味がするのかと、この船のカレーはあんまりカレーらしくないと。
ナスカがメギドに滅ぼされた後、前のブルーを喪った後。
シャングリラはアルテメシアに向かって、星を丸ごと手に入れた。かつて追われた雲海の星を。
あの星で補給した物資の中には、カレー粉も入っていたのだった。
(誰が言い出したんだったか…)
今となっては思い出すことも出来ないけれども、補給物資に決まったからには、発言権があった誰かだろう。かつて利きカレーをしていた中の誰かか、あるいは厨房の誰かだったか。
「本物のカレー粉を使った料理を食べてみたい」という要望が書かれた書類にサインした自分。
自給自足の船であっても、たまにはカレー粉もいいであろう、と。
補給すべき物資のリストは係に回され、カレー粉が調達されて来た。本物のカレー粉が存在した頃よりも遥かに増えた人数、それに充分対応出来る量の。
厨房では早速、カレー粉を使った料理が作られ、食堂で皆に供された。白いシャングリラで養殖していた魚のムニエル、それのカレーソース。
「本物の味だ」と大喜びした仲間たち。カレーソースは確かにこういう味だった、と。
遠い昔に本物を食べていた者たちにとっては、懐かしい味。嬉しい味。
後から船に来て育った者には、もっと懐かしくて嬉しい味。養父母たちと食べた味なのだから。
彼らは養父母の記憶を失くしていないし、鮮やかに思い出せただろう。かつて本物のカレー粉を使った料理を食べていた日々を。
食堂で弾けた沢山の笑顔。アルタミラからの古参の仲間も、アルテメシアで保護された者も。
大感激だった者も少なくなかった、アルテメシアで加わった若い仲間たち。
(アレで感激していたヤツは…)
誰と誰か、と覚えている顔を数えてゆく。カレーソースのムニエルを嬉々として頬張った年若い仲間たち。シドも、リオも、ヤエもそうだった。シャングリラに来てから長く経つのに。
もっと年若いニナやマヒルやヨギたちだって…、と彼らを思い浮かべていて…。
(ジョミーもか…!)
あの席にはジョミーもいたのだった、と気が付いた。ソルジャーとして多忙を極めた時期だったけれど、どういうわけだか、あの時、ジョミーも食堂にいた。
前の自分もいたわけなのだし、食事をしながら皆と打ち合わせでもしていただろうか?
(…そいつは思い出せないんだが…)
どうしてジョミーと前の自分があそこにいたのか、全く思い出せないけれど。
「ママの味だ」と言っていたジョミー。
前のブルーがシャングリラに連れて来させた頃の姿に、十四歳の少年に戻ったかのように綻んだ顔。嬉しそうだった笑顔。
ずっと昔にこれを食べたと、母が作った魚料理と同じ味だと。
(あれくらいか…?)
ジョミーが見せた人間らしさ。ソルジャーではなくて、ジョミーという人間に戻った顔。
地球を目指しての戦いに次ぐ戦いの中で、一度だけ見せた笑顔だったかもしれない。あの他には思い出せないから。ジョミーの笑顔は、ただの一つも。
赤いナスカが在った頃には、ジョミーも明るく笑っていたのに。宇宙を流離っていた時代の暗い表情、それをすっかり拭い去って。
古参の仲間と新しい世代の対立が起きても、ジョミーは笑顔を失わなかった。赤いナスカに根を下ろしたいと願う世代のためにと、笑顔で頑張り続けていた。どうすべきかと迷った時にも、迷う心を見せることなく。強くあらねばと、皆の力にならなければと。
けれど、ナスカを失った後は笑わなくなってしまったジョミー。常に厳しい顔だった。冷酷とも言える表情でもあった、感情などもう持ってはいないと氷のような瞳をしていた。
そのジョミーが笑顔を見せた瞬間、それがカレーソースの魚のムニエルを食べた時。ジョミーを育てた母が作った魚料理と同じ味の料理。
(そうか、あの時のカレー粉でなあ…)
合成ではなかった本物のカレー粉が引き出した、ジョミーの笑顔。凍っていた心がほんの一瞬、溶けて光が射し込んだように。本当はこういう顔で笑うと、本当のジョミーはこうなのだと。
(あれがジョミーの、おふくろの味ってヤツだったのか…)
今の自分は、ブルーの母が焼くパウンドケーキが好物だから。隣町に住む母の味と同じだと顔が綻んでしまうから。
あの時のジョミーも、カレーソースの味を「同じだ」と思ったのだろう。ジョミーを育てた母が作った魚料理と同じ味がする、本物のカレー粉を使った料理。
味の記憶は大きいのだな、と改めて思ったジョミーの笑顔。本物のカレー粉で生まれた笑顔。
(こいつは、ブルーに…)
話してやらねば、「カレー粉のことを覚えているか?」と。
前のブルーも参加していた利きカレーはもちろん、ブルーがいなくなった後の話も。ジョミーが見せた笑顔のことも。
(シャングリラ風のカレーと言っても…)
あの頃はカレーライスは無かったのだし、カレー風味の料理は今でも色々。
カレー粉の話をするのに相応しいものと言ったら、カレー風味のソースだろうか。白身魚によく合うソース。ジョミーの笑顔を引き出したソース。
とはいえ、ブルーも覚えているだろう、合成品のカレー粉はもう何処にも無くて。
(本物のカレー粉しか無いんだよなあ、今の時代は…)
どんなカレー粉でもスパイスは本物、その配合を変えてあるだけ。前の自分たちが懸命に作った合成品など、今は存在しないから。
(…カレーライスにしておくかな)
カレーソースだと、ブルーの母に手間をかけさせてしまうから。買って来てかけるだけのカレーソースはあるのだけれども、それをかける料理を作らないとソースはかけられない。
だからカレーライスにしようと思った。御飯を炊いて貰うだけで済むから、レトルトのカレーを食料品店で買って行けばいい。
ただし、ブルーの母が用意した料理が無駄にならないよう、予め通信を入れておいて。
「昼食はカレーを買って行きますから、御飯だけ炊いておいて下さい」と。
そうそう、「ブルー君には内緒でお願いします」とも言わねばならない、思い出話は会ってからゆっくり語りたいから。ブルーが「カレー」で思い出してしまったら、つまらないから。
準備を整えて待った土曜日、買っておいたレトルトカレーを二つ持って出掛けた。自分の分と、ブルーの分と。
門扉を開けに来たブルーの母にそれを渡すと、怪訝そうな顔で。
「カレーでしたら、いくらでも作りましたのに…」
何か特別なカレーなのかと思いましたけれど、ごくごく普通のカレーですわね…?
「そうなんですが…。出来合いという所がポイントなんですよ」
シャングリラでは、カレー粉は合成品しか無かったんです。
今の時代は合成品はありませんから、気分だけでも…。
ですから、これは袋ごと温めただけで持って来て頂けますか?
御飯にかけるのは、ブルー君と私でやりますから。
二階のブルーの部屋に行ったら、案の定、ブルーに「お土産は?」と訊かれた。カレーが入った袋を渡すのを窓から見ていたのだろう。「昼飯まで待て」と言ったら、期待に満ちた瞳のブルー。どんな御馳走が出て来るのかと。
けれど、昼食の時間にブルーの母が運んで来たものは、白い御飯が盛られた皿と…。
「えーっと…。カレーライス?」
これって普通のレトルトカレーみたいに見えるけど、何か特別?
「いいや、その辺で普通に売られているレトルトカレーだが…?」
しかしだ、袋を破ってかけながらでいい、ちょっと考えてみるんだな。
「何を…?」
ただのカレーだよ、とブルーがレトルトカレーを御飯の上にかけているから。
「そうか、本当にただのカレーか? …まあ、確かに今では普通なんだが…」
シャングリラじゃ、うんと贅沢どころか、食えやしなかったぞ、こんなカレーは。
前の俺が厨房で料理をしていた頃には、食おうと思えば食えたんだが…。
もっとも、あの頃はカレーライスってヤツが無くてだ、カレーソースとか、カレー風味だとか。
そういうヤツさえ、真っ当なのを食えなくなっちまったのが白い鯨なんだが…?
「そうだ、スパイスが無かったんだっけ…!」
シャングリラで本物のカレー粉を作るのは無理で、合成品になっちゃって…。
最初のは「料理が黄色くなっただけだ」なんて言われてしまって、頑張って改良したっけね。
ヒルマンが色々考えてみては、ゼルやブラウたちとカレーソースを食べてみて。
ちょっと辛すぎるとか、甘すぎるだとか、その度にヒルマンが調整してて。
やっと出来たけど、本物のカレー粉と全く同じにはなってくれなくて、ぼんやりした味…。
「思い出したか?」
あれを考えれば、こいつは本当に贅沢なカレーというわけだ。本物のカレー粉なんだから。
カレーライスなんぞは何処にも無かった時代だったが、今度は合成品の方が無くなっちまった。
何処でもカレー粉はスパイスで出来てて、あの味はもう何処を探しても無いんだよなあ…。
それを考えたら面白いもんだ、とカレーライスをスプーンで口に運んでいたら。
ブルーが赤い瞳でじっと見詰めて、こう訊いて来た。
「…ハーレイ、あの後、本物を食べた?」
シャングリラのカレー粉は合成品になってしまったけれども、それよりも後。
前のぼくが死んでしまった後なら、本物のカレー粉を手に入れることは出来たよね?
アルテメシアでも、ノアでも、何処の星でも、カレー粉は売られていたんだろうし…。
それとも、カレー粉は補給しないで、合成品のままだったわけ…?
「その話もしておかんとな。…前のお前は、もういなかったが…」
前の俺もキャプテンの仕事をしていただけでだ、半ば死んじまったようなものだったんだが…。
この間、カレーを食ってて思い出したんだ。シャングリラにあったカレー粉のことを。
そしたら色々と出て来た中にな、本物のカレー粉も混ざっていたさ。
アルテメシアを落とした後に、補給したいと出された要望書。そいつの一つがカレー粉だった。
カレー粉くらいはいいだろう、とサインをしたんだ、前の俺は。
それで本物のカレー粉がシャングリラにやって来たってわけだが、それで作ったカレーソース。魚のムニエルにかけて出したら、船のみんなが大喜びでな…。
その中にジョミーも入っていたんだ、「ママの味だ」と喜んでいた。子供みたいな顔をして。
…前のお前が死んじまった後、ジョミーは笑わなくなっちまったが…。
あいつの唯一の笑顔かもしれん、あの時、カレーソースのムニエルで見せた笑顔がな。
「そっか…」
ジョミーは笑ってくれてたんだね、お母さんの味にもう一度会えて。
本物のカレー粉を使ったソースが魚にかかっていたから、お母さんの味になったんだね…。
シャングリラに来た子供は誰でも、カレーの味が違うと思っていたんだから。
それならいい、と微笑んだブルー。
ジョミーが少しでも笑顔を見せてくれていたのなら、と。
「…だって、ジョミーが笑わなくなってしまったのは、ソルジャーだったから…」
ソルジャーなんかにされてしまって、地球を目指すしかなかったから。
前のぼくがジョミーを選んだからだよ、ぼくの後継者はジョミーにしよう、って。
ぼくがジョミーを見付けなかったら、ジョミーにはもっと違う人生があったんだよ。
あれだけサイオンが強かったんだもの、シロエみたいにバレたりしないで生きられたかも…。
サムやスウェナとも、教育ステーションでちゃんと再会出来ていたかも…。
ジョミーの人生、ぼくのせいで台無しになっちゃったんだよ、ソルジャーにされて。
もしもソルジャーになっていなかったら、きっと沢山笑って生きて…。
「そうではないと思うがなあ…」
最初の間はお前を恨みもしたんだろうが、最後までお前のせいだと思っちゃいないだろう。
まるで笑わなくなっちまったのも、前のお前がいなくなった後だ。
せいせいした、と笑う代わりに、あいつは笑わなくなった。
あいつ自身が色々と考えた末に決めたんだろうさ、その生き方を。
感情を殺して、笑わないままで、真っ直ぐに地球へ。
自分で決めた生き方だったら、誰も恨まないし、後悔も無かったと思うんだがな…。
前の自分ですらも恐ろしいと思ったほどの、ブルー亡き後のソルジャー・シン。
人類軍の救命艇さえも「沈めろ」と命じたほとに容赦なかったソルジャー。
ジョミーには考えがあると信じていたから、それでも自分は何も言わずに従ったけれど。苦言の一つも呈すること無く、地球までついて行ったのだけれど。
(…あいつには、あいつの生き方ってヤツがあったんだ…)
きっとジョミーにしか分からなかった、本当の思い。トォニィでさえも知らなかったろう。
それを語る前にジョミーは地球の地の底で逝って、前の自分も死んでしまった。
だから分からない、ジョミーの思い。どうして笑わなかったのか。感情を殺してしまったのか。
後悔は無かったと思うけれども、ブルーも気にしていたのなら。
自分のせいで笑わなくなったと思っていたなら、ジョミーの笑顔を思い出したとブルーに語れたことは大いに価値がある。
あの時だけしか見ていないけれど、確かにジョミーは笑ったのだから。
本物のカレー粉を使ったカレーソースで、「ママの味だ」と嬉しそうに。
少年だった頃の姿を思い出したほどに、それは明るく笑ったから。
ブルーはカレーライスをスプーンで掬って、「ジョミーのお母さんの味…」と口に運んで。
「…他にもあるかな、ジョミーの笑顔」
前のぼくが死んでしまった後にも、ちゃんと笑ってくれていたかな…。
笑わなかった、って言われているのに、カレーソースでジョミーは笑顔になったんだから。
何も記録が無いっていうだけで、ジョミー、他にも笑っていたことがあったのかなあ…。
「どうだかなあ…」
思い出せるといいんだがなあ、カレーで一つ思い出せたし。
お前がそれで救われるんなら、もっと幾つも頑張って思い出したいが…。
「ううん、頑張ってくれなくていいよ。…何かのはずみに思い出したら、また教えて」
それだけでいいよ、努力してまで思い出さなくてもかまわないよ。
だって、前のハーレイには笑う余裕も無かったんだし…。
前のぼくが死んでしまった後には、ただ生きてたっていうだけだ、って…。
ぼくがジョミーを支えてあげて、って頼んだから、地球まで行くしかなくて…。
「なあに、俺だって笑う時には笑っていたさ」
笑い話だって幾つもしてやったろうが、前のお前がいなくなった後の。
とんでもない買い物をしちまったヤツらとか、そういったのをな。
お前は何も心配するな、と言ってやったけれども、辛かった前の自分の生。
前のブルーがいなくなった後は、ジョミー以上に笑わない人生だっただろう。
ジョミーは自分で笑わない道を選んだけれども、前の自分は笑うことが出来なくなった人生。
どんなに愉快なことがあっても、心の底から楽しめたことは一度も無かった。魂はとうに死んでいたから、前のブルーと一緒に逝ってしまったから。
そうやって笑うことさえ忘れて、ひたすらに地球を目指したけれど。
地球に着いたら全て終わると、ブルーの許へと旅立てるのだと、それだけを思っていたけれど。
今はブルーとまた一緒だから、二人で青い地球に来たから。
「…カレー粉なあ…。今はこうしてレトルトカレーを持ってくるしか無かったわけだが…」
いずれは俺の自慢のカレー料理を披露せんとな、お前と二人で食える時が来たら。
お前の家で食うんじゃなくって、ちゃんと俺の家で。
「うん、楽しみにしているからね」
今のハーレイ、料理は前より得意だって言うし…。
カレー粉を使った料理も沢山あるから、とっても楽しみ。
ハーレイが作ってくれるカレーを早く食べたいよ、毎日カレーでもいいくらいだよ。
「おいおい…。まあ、そういうコースもあるわけだがな」
でっかい鍋でドカンと作って、そいつを毎日食べるんだ。
最初は出来立てのヤツを食ってだ、次の日は一晩寝かせたカレー。これが実に美味い。
それから後はだ、カレーを使った色々な料理を作ろうっていう寸法だ。
カレーグラタンとか、今の時代ならではのカレーうどんとかをな。
白いシャングリラには無かった本物のカレー粉。合成品しか無かったカレー粉。
今は本物のカレー粉が何処にでもあるし、カレー料理も山のようにある。
ナンで食べるインド風のカレーに、スープにも似たタイカレー。
他にもカレーの料理は色々、ブルーには端から披露して食べさせてやりたいけれど。
いつかブルーと結婚したなら、まずは今ならではのカレーライスから始めよう。
ビーフにチキンに、それからポーク。
地球の海の幸がたっぷり入った、シーフードカレーも作ってやろう。
何種類ものスパイスだけで出来ている、シャングリラには無かった本物のカレー粉。
「贅沢なものが食える時代だよな」と、ブルーに微笑み掛けながら。
「もっと辛いのも作れるわけだが、お前、挑戦してみるか?」とパチンと片目を瞑りながら…。
カレーの風味・了
※シャングリラから消えてしまった、本物のカレー粉。人類との戦いに入った後の時代まで。
そしてカレー粉が船に戻った時、ジョミーが見せた笑顔。おふくろの味の記憶は大切なもの。
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