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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

匂い袋と恋人

「ずっと昔の、この地域では、だ…」
 香りが重要だった話は前にもしたな、とハーレイが語る古典の授業。遠い昔の日本の話。
 SD体制が崩壊した後、燃え上がった地球。それまでの地形はすっかり変わって、大陸の形まで変わったけれど。
 今、ブルーたちが暮らす辺りは、かつて日本と呼ばれた小さな島国があった辺りの地域。古典の授業では日本の古典について習うし、香りの話は確かに聞いた。手紙や着物に焚きしめた香り。
 また面倒な勉強か、と退屈しているクラスメイトたち。欠伸をしている生徒だって。
 けれども、ハーレイが教室の前のボードに書き付けた文字。
 「色よりも香こそあはれと思ほゆれ 誰(た)が袖ふれし宿の梅ぞも」。
 ついでに「古今和歌集 よみ人知らず」とも。
 えっ、と動いた教室の空気。今日の授業は和歌とは関係無かったから。
「…授業の続きだと思っていたな? お前たち」
 そろそろ眠いと顔に書いてあるぞ、と笑ったハーレイ。こういう時には息抜きだよな、と。
 ハーレイ得意の雑談の時間、今日は古典にも関係があるというのだろうか。なにしろボードには和歌が書かれたし、香りの話も出ていたから。



 どういう話をするのだろう、とブルーもキョトンと眺めている中、ハーレイが始めた歌の解説。前のボードに書いてある和歌。
「この歌はだな…。梅は姿よりも香りの方が愛おしく思える、と詠んでいるわけで…」
 いったい、この庭の梅は、誰の袖が触れたせいで、こんなに香しいのか、という歌なんだ。
 授業でやったろ、衣服に香を焚きしめていた時代だった、と。そのための道具もあったしな。
 季節の香りや、流行りの香りを踏まえた上でだ、自分だけの香りを作っていた。作り方や材料に工夫を凝らして、自分らしく。それがだな…。
 貴族だけのものではなくなっていった、と広がってゆく話。古典の授業の範囲を離れて。
 衣服に香を焚きしめた時代は、特権階級しか持てなかった香。あまりにも高価な物だったから。
 けれど、時代は変わってゆく。貴族でなくても、香というものに出会える時代へ。
 室町時代には、香を衣服に焚きしめる代わりに、持ち歩く者が増えてゆく。其処で、ハーレイが書いた古今和歌集の歌が浴びた脚光。
 この歌を元に名付けた「誰が袖」という匂い袋が流行ったから。香を詰めた袋。
 片方の袖にだけ入れることは縁起が良くない、と思われた時代に出来た「誰が袖」。二つを長い紐の両端につけて、首から下げて。着物の中を通すようにして、両方の袂に入れて使った。
 それが最先端のお洒落で、歩けば「誰が袖」の香りも一緒についてくる。
 古今和歌集の歌そのままに、いい香りがした着物の袖。



 それが後の時代の匂い袋の始まり。一個だけでも気にしなくなって、片方の袂や胸元に。
 最初は貴族だけが楽しんだ香は、庶民の文化に溶け込んだ。持ち歩いたり、着物と一緒に箪笥に入れて、そっと香りを移したり。
「他の地域だと、サシェってヤツだな」
 ハーブや香料を入れておくんだ、匂い袋を作るみたいに。服に香りを移すんだが…。
 縫い付けて使うこともあったと言うから、誰が袖とあまり変わらんな。そっちの方も。
 …でもって、匂い袋もサシェもだ、自分の匂いを印象付けるのが目的ってトコか。
 この歌のように、「誰の袖だろう」と思って貰えたら最高なわけだ。素敵な人に違いない、と。
 香りの効果は、昔の話だけではないぞ。今の時代も立派に生きてる。
 「これが私の香りなんです」と印象付ければ、相手の中で存在感が増すんだな。
 そこでだ、恋人に会う時は、いつも同じ香水をつけて行くとか、使い方は色々あるわけで…。
 お前たちにはまだまだ早いが、覚えておいて損はない。…香りってヤツは大切だとな。
 「誰が袖」だけでも覚えておけ、と終わった雑談。
 匂い袋なら今も買えるし、と。
(…匂い袋…)
 小さな巾着のような、布製の袋。ふうわりといい香りが漂う袋。
 母が持っているから、見たことはある。わざわざ買いに出掛けなくても。
 サシェだって、母がクローゼットに入れていた。「いい匂いがするのよ」と、端っこの方に。
 だから、「ふうん…」と思っただけ。今日の雑談は匂い袋とサシェの話、と。



 特に何とも思わないまま、ハーレイの授業は終わったけれど。
 家に帰って、おやつの時間に母に会ったら、思い出した。ケーキと紅茶を運んで来てくれた母。その瞬間に、「匂い袋だっけ」と。
 母の服から、何かの香りがしたというわけではないけれど。香水もつけていないけれども。
 匂い袋もサシェも、母の持ち物だからだろう。そういえば、と頭に浮かんだハーレイの雑談。
(恋人に会う時は、同じ香水…)
 ハーレイはそう話していたから、「ちょっといいかも」と考えた。自分を印象付けられる香り。雑談では「お前たちにはまだまだ早い」と言われたけれども、チビでもちゃんと恋人はいる。前の生から愛し続けた、ハーレイという恋人が。
 だから、「ハーレイに会うなら匂い袋」と。…香水はとても子供向けとは思えないから。
「ママ、匂い袋、ある?」
 多分ある筈、と母に尋ねた。あったら持って来て欲しい、と。
「あるけれど…。どうしたの?」
 匂い袋なんか、何に使うの?
 学校に持って行きたい…ってことは無いわよね?
「んーと…」
 持って行きたいわけじゃないけど、学校は関係無いこともなくて…。
「ふふっ、ママにも分かったわ。…ハーレイ先生ね?」
 授業で出たのね、匂い袋のお話が。あれも昔の日本のものだし、古典にも出て来そうだものね。



 はいどうぞ、と部屋から持って来てくれた母。
 絹なのだろうか、淡い色の小さな布袋の香りは優しいけれども、子供の自分にはどうだろう?
 香水が似合わないのと同じで、あまり似合わないような気がする。落ち着いた、大人びた香り。これを自分が漂わせていたら、無理をして背伸びしているような…。
(…ぼくには、ちょっと合わないみたい…)
 母の持ち物だからだろうか。…匂い袋を扱う店に行ったら、他の香りもあるのだろうか?
「ママ、匂い袋…。子供向けっていうのはないの?」
 この匂いは、なんだか大人っぽいから…。もっと小さな子供向けのは?
「そうねえ…。匂い袋は、どれも似たような感じだから…」
 子供も好きそうな匂いになるのは、サシェの方かしらね。あれも中身によるけれど…。
 これなら少し香りが柔らかいわ、と母が部屋まで取りに出掛けてくれたサシェ。小さな布の袋を手のひらに乗せて貰ったら、ふわりと漂うラベンダーの香り。
(…匂い袋よりはマシだけど…)
 ラベンダーもやっぱり、チビの自分には似合わない。ハーレイと会う時につけていたって、失笑されるだけだろう。「お前、俺の話を真に受けたのか?」と、「子供にはまだ早すぎだ」と。
 これは駄目だ、と諦めるしかない、匂い袋とラベンダーのサシェ。きっとハーレイは笑うだけ。どちらの香りを纏っていても。
 だから…。
「ありがとう、ママ。…これ、返すね」
「…あら、もういいの?」
 ブルーの部屋に持って行ってもいいのよ、欲しいんだったら。
「ううん、どんな匂いか分かったから」
 ちょっぴり知りたかっただけ。…子供にも似合う匂いなのかな、って。
 だけど、思っていたより大人の匂い。サシェだって、ぼくよりも大きな人向けだよね。



 匂い袋とサシェの実物を見せてくれた母に御礼を言って、部屋に帰って。
 勉強机の前に座って頬杖をついた。ちょっと残念、と。…匂い袋もサシェも、家にあったのに。わざわざ買いに出掛けなくても、母が「はい」と出して来てくれたのに。
(…ぼくには似合わない匂い…)
 子供向けじゃない、と零れた溜息。チビの自分は、ハーレイに香りで印象付けられないらしい。匂い袋やサシェを使って、いつでも同じ香りを纏って。
 せっかく素敵な恋の裏技を聞いたというのに、子供だからまだ使えない自分。匂い袋は無理で、サシェだって駄目。どちらも役に立ってはくれない。
 もっと大きくならないと…、とクローゼットに視線を投げた。前の自分の背丈の高さに、鉛筆で微かに引いた線。此処からはまるで分からないけれど、そこまで育たないと香りは無理、と。
 ソルジャー・ブルーと同じ姿になったら、きっと香りも似合うだろう。前の自分はサシェも匂い袋も使っていなかったけれど、大人の姿ではあったのだから。
(…似合う匂いも、絶対、あるよね?)
 大きくなったら考えなくちゃ、とハーレイの雑談を思い返した。恋人に会う時は同じ香水、と。
 前の生から恋人同士の二人なのだし、要らないような気もするけれど。
 香りで印象付けるまでもなく、ハーレイは迷わず自分を選んでくれそうだけれど。
 「俺のブルーだ」と、今でさえ言ってくれるのだから。…キスを許してくれないだけで。
 とっくの昔に恋人同士で、今度は結婚する二人。
 匂い袋やサシェの香りを纏わなくても、ハーレイはプロポーズをしてくれそうだけれど…。



(それじゃ、ハーレイは?)
 チビの自分とは違って、大人のハーレイ。そのハーレイには、何か香りがあっただろうか。
 雑談には出て来なかったけれど、遥かな昔に貴族たちが焚きしめていた香り。男性も自分で香を作ったりしていたほどだし、今の時代も男性用の香水が幾つも売られている筈。
 女性だけのものではないのが香りで、男性だって香りで自分を印象付けるもの。今も昔も。
 チビの自分は香りがサッパリ似合わないけれど、立派な大人のハーレイなら使いこなせる筈で。
 あんな雑談をするくらいだから、ハーレイの香りもありそうで…。
(コーヒーに、お酒…)
 直ぐに浮かんで来る、ハーレイが好きな飲み物の匂い。食べ物よりは特徴があるし、ハーレイの側にあっても少しも可笑しくない匂い。コーヒーに、お酒。
 それから…、と考えてみるのだけれど。
 自分が知っているハーレイの匂いというものは…。
(ハーレイでしかないんだよ…)
 お酒でもコーヒーでもなくて、と鼻腔をふわりと掠めた匂い。ハーレイは来ていないけれども、鼻が覚えている匂い。ハーレイの身体はこういう匂い、と。
 甘えて胸にくっついていたら、よく分かる。とても心地良くて、心がほどけてゆく匂い。
 優しくて、それに温かくて。…幸せな気持ちが、胸一杯に溢れて来て。
(前のハーレイも、おんなじ匂い…)
 キャプテン・ハーレイだった頃のハーレイからも、同じ匂いがしたのだろう。
 今のハーレイとは全く違ったキャプテンの制服を着ていたけれども、きっと、そう。
 くっついた時に、「違う」と思ったことが無いから。
 いつでも前と全く同じに、吸い込みたくなる匂いだから。…ハーレイが好き、と。



 そう、「好き」という気持ちが溢れる匂い。幸せになれるハーレイの匂い。
 前の自分も好きだった。逞しくて広い胸に抱かれて、ハーレイの匂いに包まれるのが。…まるで温かな毛布さながら、くるまっているのが大好きだった。前のハーレイが纏う匂いに。
 今もハーレイは同じ匂いがするから、今の自分も幸せに酔える匂いだから。
(あの匂い…)
 持ち歩けたらいいのに、袋に詰めて。大好きな匂いを詰め込んで。
 雑談で知った「誰が袖」のように。匂い袋や、サシェみたいに。…ハーレイの匂いを詰め込んだ袋。小さいけれども、ハーレイの匂いがする袋。
 持って歩けたなら、きっと幸せ。時々、そっと取り出してみては、胸一杯に香りを吸い込んで。
(それだと、ぼくがハーレイになっちゃう?)
 自分らしい香りを纏う代わりに、ハーレイと同じ匂いだから。ハーレイの匂いを纏うのだから。香りで印象付けられはしないし、恋人と同じ香りをさせても、意味は全く無さそうだけれど…。
 でも、ハーレイの匂いが詰まった袋があったなら。
 小さなそれを、持ち歩けたら。
(いつも幸せ…)
 ハーレイが側にいない時でも、二人一緒にいるようで。広い胸に甘えているようで。
 あの匂いがふわりと漂うだけで。…鼻腔を掠めてゆくだけで。
(ベッドに持って入ったら…)
 枕の上に乗せておいたら、ハーレイが隣にいてくれるような気分になれるに違いない。直ぐ側に温かなハーレイの匂い。…前の自分も好きだった匂い。
 独りぼっちで眠るベッドでも、きっと幸せなのだろう。ハーレイの匂いがありさえすれば。
 母が見せてくれた小さな匂い袋や、サシェに詰まった恋人の匂い。
 それがあれば、と膨らむ思い。ハーレイの匂いがする袋、と。



 恋人の香りが漂う匂い袋。ハーレイの匂いが詰まった袋。中から幸せな、大好きな匂い。
(欲しいな…)
 そういう匂い袋を一つ。ハーレイの匂いを纏った袋。
 どうすれば、それを作れるだろう?
 本物の匂い袋やサシェだと、中身は香料やハーブだけれど。ハーレイの匂いを作るなら…。
(香水って言ってた…)
 自分を印象付けたいのならば、恋人に会う時は同じ香水をつけてゆくのが効果的。
 ハーレイは確かにそう言ったけれど、香水を使っているのだろうか。何か好みの香水があって、それを使っているというなら、ハーレイの匂いの袋は作れる。
 その香水を買えばいいのだから。ハーレイが使う香水の匂いが、ハーレイの匂いなのだから。
 香水の名前を教えて貰って、小さな袋につけるだけ。中の綿とか、袋そのものにつけるとか。
(駄目で元々…)
 どんな香水か訊いてみたい、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、ぶつけた質問。
「あのね、香水、使ってる?」
 使っているなら、それの名前、教えて欲しいんだけど…。
「はあ?」
 香水ってなんだ、それに名前って…。いったい、何の話なんだ?
「ほら、ハーレイの匂い、あるでしょ?」
 ハーレイがいつも、させている匂い。それのことだよ、こうすれば分かるよ。



 椅子から立って、ハーレイの方へと回り込んで。
 大きな身体にギュッと抱き付いて、胸一杯に匂いを吸い込んでみて。…この匂いだ、と身体中の細胞が喜んでいるから、幸せな気持ちが満ちてくるから。
「ハーレイの匂い…」
 今もしてるよ、これが欲しいよ。…ぼく、この匂いが欲しくって…。
 だから香水、と名残惜しい気持ちで離れて、元の椅子へと腰を下ろした。香水、教えて、と。
「香水って…。なんでそういう話になるんだ」
 俺の匂いというのは理解出来たが、其処でどうして香水なんだ?
「今日のハーレイの授業だってば。…誰が袖の話、していたでしょ?」
 二つくっついた匂い袋で、名前の元はこの歌なんだぞ、って。
 それから、自分を印象付けたいんだったら、恋人に会う時は同じ香水をつけることだ、って。
 …家に帰って、ママに頼んで、匂い袋とサシェとを出して貰ったけれど…。
 どっちも子供向けの匂いはしなくて、もっと大人の人に似合いそう。…大人っぽい匂い。
 それでね、ぼくは匂い袋とかを持っても似合わないみたい、って思ってる内に…。
 欲しくなったんだよ、ハーレイの匂いがする袋。…小さいけれども、ハーレイの匂い。
 それがあったら、いつでもハーレイの匂いと一緒。ハーレイと一緒の気分になれそうでしょ?
 だって、ハーレイの匂いなんだから。
 …ぼくの匂いがハーレイの匂いになっちゃうけれども、そういう匂い袋が欲しいよ。



 作りたいから、ハーレイの香水の名前を教えて、と繰り返した。買いに行くから、と。
「もし高くっても、お小遣いを貯めて買わなくちゃ。…ハーレイの香水と同じ香水」
 ハーレイの匂いは、前のハーレイも今のハーレイも同じだもの。
 うんと幸せになれる匂いで、大好きな匂い。…だからハーレイの香水、教えて。
 何処で売ってるのかも教えてくれたら、もう最高に嬉しいんだけど…。
 なんていう名前なの、ハーレイが使っている香水は…?
「…なるほどな…。それで香水だと言い出したのか」
 教えてやりたいのは山々なんだが、俺からもお前に一つ訊きたい。
 …前の俺は香水、使っていたか?
 キャプテン・ハーレイが香水をつける所を、前のお前は見ていたのか…?
「えーっと…?」
 前のハーレイの香水だよね?
 つけている所、見ていたのかな…。思い出したら、香水の名前も分かるのかな?
 シャングリラでも香水、作っていたものね。…フィシスのために花の香りのとかを。
 フィシスのは天然素材だったけど、合成の香水もあった筈だし…。
 合成だったら、人類の世界にあった香水と同じ名前をつけてたのかな?
 …前のぼくたちの頃の香水の名前、今も使われているのかな…。
 とても人気の定番だったら、そういうことも充分ありそうなんだけど…。



 ハーレイからのヒントだろうか、と心が弾んだ香水の話。キャプテン・ハーレイが使った香水。
 それの名前を思い出せたら、ハーレイが答えを言うよりも前に、手に入りそうな香水の名前。
(…なんていう香水だったっけ…?)
 全然覚えていないんだけど、と思いながらも手繰った記憶。前の自分が持っていた記憶。
 キャプテン・ハーレイ愛用の香水だったら、青の間にも置いていただろう。シャワーの後には、シュッと一吹きしただろうから。…そうでなければ、指先でそっとつけるとか。
(どんな形の瓶だっけ…?)
 大きさはどれくらいだっただろうか、と懸命に記憶を遡ったけれど。まるで記憶に無い香水瓶。バスルームには置いていなかったし、他の場所にも無かったと思う。
(何処に置いてたの…?)
 前のハーレイの動きを辿れば分かるのかも、と二人で過ごした夜の光景を思い浮かべてみた。
 ブリッジでの勤務を終えた後に青の間に来ていたハーレイ。逞しい胸に抱き締められた途端に、ハーレイの匂いに包まれた。…幸せが満ちる、あの匂いに。
 そのままベッドに行く時もあれば、ハーレイがシャワーを浴びに行くことも。
 熱くて甘い時を過ごして、ハーレイの腕の中で眠ったけれど…。
(…シャワーを浴びに行ってた時でも、ハーレイの匂い…)
 そうだった、と蘇って来た遠い遠い記憶。朝まで自分を広い胸に閉じ込めていたハーレイ。
 ハーレイの匂いに包まれて幸せに眠ったけれども、シャワーを浴びた後でベッドに来た時は…。
 消えてしまっていた匂い。ボディーソープやらお湯の匂いで、すっかり洗い流されて。
 あの匂いがする香水をつけてはいなかった。…シャワーを済ませて来たハーレイは。
 けれども、いつの間にか、ハーレイが纏っていた匂い。
 香水をつけにベッドを出てはいないのに、前の自分を朝まで優しく包み込んだ匂い。
 あれは何処から来ていたのだろう、ハーレイは香水をつけに行ってはいなかったのに…?



 どう考えても、ハーレイが香水をつけに出掛ける暇は無かった筈。ベッドから出ないのだから、香水は何処からも出て来そうにない。…ベッドの側に置いていたならともかく、それ以外では。
(だけど、香水の瓶は無かったよ…?)
 ベッド周りの棚などは部屋付きの係の目に触れるから、置いてはおけなかったと思う。それでも置いていたのだったら、前の自分が目に付かないようシールドを施していただろう。
 そうなってくると、ハーレイの匂いだと思っていたのは香水ではなくて、ハーレイそのもの。
(…ハーレイが持ってる匂いなんだ…)
 シャワーを浴びて匂いが消えても、朝には纏っていたのだから。まだ服も着ていなかったのに。
 あれはハーレイの身体の匂い、と気付いた途端に赤らんだ頬。逞しい身体を思い出して。チビの自分はキスさえ許して貰えないけれど、前の自分はあの身体と…。
 恥ずかしくなって俯きながら、それでも目だけはハーレイの方へ。
「…香水、つけていなかった…」
 前のハーレイは香水をつけていないよ、ぼくは一度も見ていないもの。
 …だけど、いつでもハーレイの匂い。ちゃんとハーレイの匂いがしてたよ。
「そうだろうが。…今の俺も前と同じだが?」
 香水なんぞはつけていないし、買ってもいないな。…俺の趣味ではないからな。
 でもって、お前のその顔つきからして…。
 分かったらしいな、あれは香水の匂いじゃないと。俺の身体の匂いだった、ということがな。



 ハーレイの口から聞かされた正解。やはり香水ではなかった匂い。ハーレイの身体が持つ匂い。それが欲しいと思うけれども、香水ではないと言うのなら…。
「じゃあ、ハーレイの匂い、どうすればいいの?」
 あの匂いを作るには、どうしたらいいの?
 …ハーレイの匂いが欲しいのに…。匂い袋に入れておきたいのに。
「そうだな…。俺の匂いの作り方か…」
 まずは、朝起きたら、軽く体操するかジョギング。その日の気分次第ってトコだ。庭の手入れも悪くないなあ、草を毟ったり、芝生を刈ったり。
 それから朝飯、分厚いトーストを二枚は欲しい。田舎パンでも、そのくらいの量で。
 パンにはおふくろのマーマレードと、美味いバターと。そいつを塗ってる日が多めだな。
 卵料理も忘れちゃいかんぞ、オムレツもいいし、スクランブルエッグも、ベーコンエッグも…。固ゆで卵や半熟もいいな、ポーチドエッグもいいもんだ。
 ソーセージも焼いて、卵料理と一緒に食うのが好きだな、うん。…新鮮な野菜のサラダとかも。
 飲み物はコーヒー、野菜ジュースや牛乳もいい。こいつも、その日の気分で決める。
 …朝飯はだいたい決まってるんだが、昼飯と晩飯は色々だなあ…。必ずコレだ、というのは特に無いから、そっちは何でもいいだろう。しっかり食えれば。
 後は晩飯の後にコーヒーを一杯、酒も適度に。ウイスキーでもブランデーでも、日本酒でも。
 …そんなモンだな、俺の生活。
 俺の身体はそういう毎日が作っているから、これを参考にするといい。
 前の俺とはまるで違うが、同じ匂いがするというなら、今ので問題無いだろう。



 これで出来る、と言われたけれど。…ハーレイの匂いの作り方だと言われたけれど。
 ハーレイの匂いは卵料理の匂いではないし、トーストや田舎パンとも違う。焼いたソーセージの匂いもしないし、コーヒーや酒の匂いだって。
 全部混ぜたら出来るのだろうか、そういったものを。それとも、何か秘訣があるのか。
 作る方法が分からないから、首を傾げて尋ねてみた。
「…どうやって作るの、今、聞いたヤツで?」
 どうすればハーレイの匂いが出来るの、トーストとかを全部混ぜるの?
「お前なあ…。それだと、とんでもない匂いになると思わないか?」
 コーヒーにブランデーなら、いい匂いにもなるってもんだが…。他はどうだか…。ソーセージを焼く時にブランデーを加えてやったら、ちょいと美味いかもしれないが。
 しかし、コーヒーを入れて焼いたら、美味いソーセージにはならないぞ。卵料理にもコーヒーは合わん、混ぜちまったら。別々に食ってこそだってな。味も、匂いも。
 つまりだ、俺が言ったヤツを美味しく食うのが俺の匂いの作り方だが…。食べる前の軽い運動も含めて、俺の匂いになるんだろうが…。
 お前が全部、その通りに真似をしてみたとしても…。お前の匂いにしかならないだろうな。
 俺の匂いが出来る代わりに、お前らしい匂い。…お前は、お前なんだから。全く別の人間で。
「ハーレイの匂い…。作れないの?」
 ぼくが頑張っても、ぼくの匂いになっちゃうの?
 朝に体操して、ハーレイとおんなじ朝御飯をママに作って貰って食べても…?
「当たり前だろうが、誰だって違うものなんだから」
 身体の匂いは人それぞれだし、俺とお前じゃ体格からして違うんだしな?
 同じ匂いになるわけないだろ、よっぽど匂いのキツイ料理を揃って食べでもしない限りは。



 ハーブ料理だの、ガーリックだの…、とハーレイが挙げた匂いの強い料理。けれども、そうした料理を二人で食べても、同じ匂いはほんの少しの間だけだ、と。
 食べ物の匂いは抜けてしまって、元の匂いに戻るから。ハーレイはハーレイの、自分は自分の。
 どうやらハーレイの匂いは作れないらしい。…ハーレイにしか。
「…ハーレイの匂い、欲しいのに…」
 匂い袋に入れておきたいのに、作れないなんて…。ハーレイの匂い、大好きなのに。
 前のぼくだった頃から、ずっと好きな匂い。いつでも側にあればいいのに…
「お前にはまだ早いだろうが。…授業の時にも言った筈だが?」
 恋人に会う時は同じ香水をつけるといい、という話。…それと同じだ、俺の匂いもまだ早い。
 いずれ嫌というほど嗅ぐことになるさ、俺と一緒に暮らし始めたら。
 俺の匂いを作らなくても、お前にも匂いが移るくらいに。…一晩中、側にいるんだから。
「そうかもね…。前のぼく、ハーレイの匂いに包まれて眠っていたし…」
 いつもハーレイの匂いがしてたよ、幸せな匂い。…だから大好きな匂いなんだよ。
 でも…。匂いが移るって言うんだったら…。
 もしかしたら、前のぼく、ハーレイの匂いがしていたのかな?
 一晩中、ハーレイと一緒だったし、朝になったらハーレイの匂い…?
「多分な。…シャワーを浴びていなければな」
 食事係が変な顔をしたかもしれんな、ソルジャーからキャプテンの匂いがすると。
 …朝飯を作りにやって来た時に。
「えっ…!」
 前のぼくから、ハーレイの匂いって…。夜の間に匂いが移って、そのままになって…?
 朝にシャワーを浴びてなかったら、ハーレイの匂いがしていたの、ぼく…?



 まさか、と驚いてしまったけれど。ハーレイの匂いが移ったとしても、一時的なものだと思っていたけれど。
(いつも、朝にはシャワーを浴びていたけど…)
 病気で寝込んでしまった時には浴びなかったシャワー。そんな元気は無かったから。
 そういう時にも、ハーレイは一晩中、側で眠ってくれていた。前の自分を胸に抱き締めて。夜に具合が悪くなったら、看病だって。
 ハーレイの匂いに包まれて眠って、次の日の朝はシャワーを浴びないまま。食事係が朝の食事を作りに来た時も、ベッドに入ったままだったから…。
「ハーレイ…。前のぼく、具合が悪かった時は、朝にシャワーを浴びなかったけど…」
 あの時のぼくは、ハーレイの匂いがしていたのかな…?
 寝てる間に移ってしまったハーレイの匂い、ぼくの身体に残ってたかな…?
「どうだかなあ…?」
 残っていたとしても俺には分からん、自分と同じ匂いなんだから。
 …嗅いで確かめたりもしないし、どうだったんだか…。
 俺の匂いをさせていたのか、お前の匂いの方だったのか。
 考えたことすら無かったからなあ、お前に俺の匂いが移ってしまうということをな。



 まるで気にしていなかったから、とハーレイはフウと溜息をついた。
 もしも匂いが移ったとしたら、誰か気付いていたかもな、と。
「だ、誰が…?」
 誰が匂いに気付いたっていうの、やっぱり食事係とか…?
 ハーレイが最初に思い付いたの、食事係のことだったもんね…?
「いやまあ、あれは単なる思い付きで…。朝一番にやって来るのは食事の係だったしな」
 食事係は食事を作るのが仕事なんだし、そっちに集中していたんだから大丈夫だろう。…周りの匂いに気を取られていたら、美味い料理は作れないしな。
 第一、青の間のキッチンでやっていたのは最後の仕上げだ。トーストを焼いたり、卵料理を注文通りに作ったり、と。最高に美味い匂いが漂うトコだぞ、お前の匂いにまでは頭が回らんだろう。
 そうでなくても、人間の鼻では分からないだろうと思うんだが…。
 お前に移った俺の匂いを嗅ぎ分けられるほど、鋭い嗅覚は持っていないと思うわけだが…。
 これが動物だと、いい鼻を持っているのがいるからな。…ナキネズミだとか。
「ナキネズミ…。そう言えば、たまに遊びに来てたね」
 子供たちのサポートをしていない、暇なナキネズミが。朝からヒョイと顔を覗かせて。
 …可愛らしいから、「おいで」って遊んでやっていたけど…。寝込んだ時でも、ベッドに入れてやったりしていたけれど。
 気付かれてたかな、ハーレイの匂い…。
 ナキネズミ、誰かに喋ったのかな、「ソルジャーからキャプテンの匂いがしたよ」って。
「さてなあ…?」
 他の人間がいる所までは、喋りに行きはしないんじゃないか…?
 食事係は相手にしてはくれんし、他の仲間も朝は忙しくしているヤツらが殆どだからな。
 子供たちは時間があっただろうが、ナキネズミを見たら触りに行くから、自慢の毛皮がすっかりクシャクシャにされちまう。…朝っぱらからオモチャになりたい気分じゃないだろうさ。
 だから行かんな、あいつらは。…不思議な匂いだと思ったとしても。



 せいぜいナキネズミ同士の話程度だろう、と笑うハーレイ。
 ねぐらにしていた農場に帰って、「今日はキャプテンの匂いだった」と。
「…バレちゃってたかな、ぼくとハーレイが恋人同士なんだってこと…」
 ぼくからハーレイの匂いがするのは、そのせいなんだって気付かれてたかな?
 ナキネズミ、ベッドにも入ってたんだし、ハーレイの匂いがするものね…?
 ぼくだけじゃなくて、枕もシーツもハーレイの匂い…。
「それはないだろ」
 人間だったらピンとくるヤツもいたかもしれんが、ナキネズミだぞ?
 鼻がいいから匂いが分かるというだけのことで、其処から推理を始めはしないさ。
 動物だしな、とハーレイは即座に否定したのだけれど。
 …ナキネズミは思念波の扱いが下手な子供たちのパートナーとして作った動物。ネズミとリスを組み合わせながら、あちこち弄って、思念波が使える生き物を誕生させた。
 子供たちと自由に会話出来るように、思念波の中継も手伝えるように。
 そういう風に作った生き物、ナキネズミは自分で考えもする。…他の動物たちに比べて、人間に近い考え方を。…人間だったらどうするだろう、と拙いながらも推し量ることも。
 人間に近い思考回路を持った動物がナキネズミならば、ただの動物とは違うのだから…。



 もしかしたら…、とハーレイと顔を見合わせた。
 全部のナキネズミが気付いたことは無かったとしても、一匹くらいはいたかもしれない、と。
 勘の鋭いナキネズミ。…ソルジャーからキャプテンの匂いがしている理由を見抜いた一匹。
「…いたんじゃないかな、一匹くらいは…?」
 そういえば、ぼくをじいっと見ていたナキネズミがいたよ。…時々、首を傾げながら。
 ベッドにもぐってはゴソゴソ出て来て、ぼくの顔を見て何度も匂いを嗅いでた。
 …なんていう名前の子だったのかは忘れたけれど…。ハーレイの方も見てたよ、あの子は。
 ひょっとしたら、気付いていたのかも…。ぼくに「恋人?」って訊かなかっただけで。
「うーむ…。そいつは怪しい感じだな…。俺の方まで見ていたとなると」
 でもまあ、他にはバレてないしな?
 多分、俺やお前の心が読み取れなくて、確信が持てなかったんだろう。…恋人同士だと。
 もしもしっかり見抜いていたなら、ナキネズミの間で噂になって…。其処から子供たちの耳にも入っていたかもしれん。「内緒だよ?」とナキネズミどもが耳打ちしてな。
 そうなっていたら、子供の「内緒」はアテにならんし、シャングリラ中にバレたってか。
 …ナキネズミが一匹、お前の匂いに気付いたばかりに、俺たちのことが。
「危なかったね、そんなの思いもしなかったよ…」
 ぼくからハーレイの匂いがするとか、ナキネズミがそれに気が付くだとか。
「まったくだ。…とんだ所に危険が潜んでいたってな」
 とはいえ、俺たちの仲はバレなかったし、もう心配は要らないわけだ。
 今度は結婚するんだからなあ、匂いは心配しなくてもいい。
 俺と一緒に暮らす以上は、お前から俺の匂いがしてても、不思議でも何でもないんだから。



 たっぷりとお前に移してやろう、とウインクされたハーレイの匂い。
 今は作れはしないけれども、匂い袋に入れておくことは出来ないけれど。
(…ハーレイの匂いで、大好きな匂い…)
 いつか好きなだけ嗅げる日が来る、温かな胸に抱き締められて。
 眠る時はもちろん、ソファで一緒に座る時にも。…床に座っている時でも。
 結婚して二人で暮らす時には、幸せたっぷりの中で包まれる匂い。
 それを想うと、胸がじんわり温かくなる。
 きっといつかは、大好きな匂いを自分にも移して貰えるから。
 ナキネズミが首を傾げた匂いを身体に纏って、ハーレイと二人、幸せな朝を迎えられるから…。




            匂い袋と恋人・了


※ブルーが欲しくなったハーレイの匂い。前のハーレイも、同じ匂いがしたのですけど…。
 前のブルーに移ったハーレイの匂いに気付いたらしい、ナキネズミ。危ない所だったのかも。
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