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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

航宙日誌の始まり

(うーむ…)
 相変わらず高い、とハーレイが唸ってしまった広告。なんて値段だ、と。
 ブルーの家には寄れなかった日、夕食の後で開いた新聞。まだコーヒーは淹れていなくて、少し座って一休み。鍋や食器は綺麗に洗って片付けたから、一仕事終わった、といった感じで。
 帰宅して夕食を作る間に、新聞にも目を通したけれど。ザッと一通り見たというだけ、興味深い記事を中心に。その読み方だと、見落としてしまうものもある。授業で使う雑談ネタとか。
 だから、こうして改めて読む。何か無いかと、読むべきものは、と。
 そうやって読むと視点が変わって、見えなかったものが見えて来るから…。
(キャプテン・ハーレイの航宙日誌…)
 さっきは気付いていなかった。立派なカラーの広告なのに。
 キャプテン・ハーレイが羽根ペンで綴っていた文字をそっくりそのまま、再現してある復刻版。文字の滲みや掠れ具合まで、それは忠実に写し取ったもの。
 日誌を読み込む研究者向けで、装丁までが本物と同じ。表紙の色やデザインはもちろん、厚みもサイズも同じに出来ているという品。
(本物は簡単に読めないからなあ…)
 宇宙遺産になってしまって、収蔵庫に収められている航宙日誌。特別公開もされたりはしない。触れられるのは、ごくごく一部の研究者だけ。選ばれた一流の学者だけしか読めない日誌。
 けれど、研究には欠かせない日誌、学者たちは研究費用で買って揃える。自分の書庫に。
 本来はそういう本だけれども、学者でなくても欲しい人間はいるものだから。
(…俺が行ってる理髪店の店主も…)
 欲しいんだった、と苦笑い。キャプテン・ハーレイのファンだと語った店主。そうとは知らずに通っていたのに、最近になって聞かされた。
 航宙日誌も全巻揃えているそうだけれど、持っていないのが復刻版。いつかはそれも、と店主が口にしていた夢。「孫や曾孫が笑うけれども、欲しいんですよ」と。



 身近な所にもいる、復刻版の航宙日誌が欲しい一般人。意外にニーズがあるのだろうか、たまに目にする立派な広告。研究者ならば、広告が無くても買う筈なのに。それが必要なのだから。
 しかし、と眺めてみた広告。ズラリ並んだ、前の自分の日誌そっくりな復刻版たち。
(まったく、とんでもない値段だな…)
 これ一冊で普通の本が何冊買えることやら、と考えてしまう。航宙日誌の中身だけなら、手軽に買える文庫版まで揃っているのに、この値段。それだけの手間がかかっているとは承知だけれど。そうでなくても、研究者向けの専門書の類は高いのだけれど…。
(こいつの原価はどれだけなんだか…)
 原価と言ってもコレじゃなくて、とクックッと笑った前の自分の航宙日誌。シャングリラでは、こんなに高くはなかった、と。
 高いも何も、シャングリラには無かった通貨や店。ゆえに値段がつきはしないし、売る相手さえいなかった。高かろうとも、在庫一掃セールでも。



 売ろうにも売れなかったんだが、と考え始めた前の自分の日誌の原価。今の時代は復刻版でさえ目を剥くような値がついているけれど、元々の値段はどんなものかと。
 あれを書くのにかかった費用はどのくらいかと、それを勘定するならば…、と。
(俺が書く手間賃などは要らんし…)
 航宙日誌を書いておくことはキャプテンの仕事の内だけれども、半分は自分の趣味でもあった。今日はどういう日だったかと、日誌を書きながら思い返す時間が好きだったから。
 一日の出来事を思い出しては綴るのだから、その日を二回味わえる。過ぎた時間を自分の好みのペースに戻して、もう一度。
(どんな日だって、いいことの一つや二つはあるもんだしなあ…)
 目が回るような思いをしていた日でも、何処かにコロンと宝物のように素敵な時間。コーヒーを飲む暇さえ無かったんだ、と嘆きたい日でも、誰かに貰った一言が嬉しかったとか。
(…前のあいつを失くしちまうまでは、そういう日誌だったんだ…)
 ブルーを失くして、独りぼっちになるまでは。絶望と孤独に囚われるまでは。
 前のブルーが長い眠りに就いてしまって、目覚めなくても。青の間で眠り続けるブルーを見舞うことしか出来ない日々でも、素敵な時間はあったから。
 仲間たちと過ごす間もそうだし、青の間にブルーを見舞う時には、いつも幸せだったから。まだ生きていてくれるのだと。このまま深く眠っていたなら、ブルーは地球まで行けるのかも、と。
 日々の出来事から幸せを拾い上げては、噛み締めた時間。航宙日誌を書いていた時間。
 もっとも、見付けた幸せのことを日誌に記しはしなかったけれど。無駄なことだと全部省いて、淡々と書いておいたのだけれど。



 半分は趣味で書いていたなら、貰える筈もない手間賃。好きでやっていることなのだから。
 それにキャプテンには無かった給料。通貨が存在していない船に給料は無くて、働いてもそれを貰えはしない。残業代だって支払われはしない、ブリッジ勤務を終わらせた後に書いていたって。
 手間賃はタダな航宙日誌。色々な意味で、タダでしかない。それがタダだと、他の費用は…。
(紙と、表紙と、インクに羽根ペン…)
 いわゆる実費というヤツだ、と思い浮かべた、日誌を書くのに必要だったもの。日誌の本体と、文字を書くための文具。
 レトロな羽根ペンを愛用していたけれども、羽根ペンになる前は、普通のペン。何処にでもある普通のペンで綴っていたのが初期の頃の日誌。
(羽根ペンにしても…)
 今でこそ高い値段の文具で、小さなブルーが買い損なったくらいだけれど。今の自分の誕生日に贈ろうと買いに出掛けて、手も足も出なかったほどなのだけれど。
 前の自分が使っていたのは、買った羽根ペンなどではなかった。前のブルーが奪った物資の中にあった羽根ペン。大量に混ざっていたものだから、不自由しないで使い続けた。ブルーを失くしてしまった後にも、前の自分が命尽きるまで。
(奪ったヤツだし、タダみたいなもんだな)
 それを載せていた人類の船に、代金は払っていないから。ブルーが奪ってそれでおしまい。白い羽根ペンも、それに合わせたペン先も。
(インクは船で作って貰っていたが…)
 いくら丁寧に保管しておいても、羽根ペンと一緒に手に入れたインクは古くなったら使えない。物資を奪う時代が過ぎたら、専用に作って貰っていた。
 とはいえ、さほど高いものでもなかっただろう。他のペンにも使うインクを、自分専用のインク壺に入れて貰っていただけだから。「これに頼む」と、愛用の物を係に渡して。



 使っていた文具はそんな具合で、航宙日誌を綴っていた紙も、最初は平凡なノートだった。船に何冊もあったノートで、前のブルーが奪ったもの。
(纏まった量になって来た頃に…)
 何冊か纏めて綴じたのだった。ノートを挟めるファイルノートを倉庫で貰って、それに挟んで。
 背表紙にあった、タイトルを書いた紙片を入れられる部分。其処に「航宙日誌」の文字と、中のノートを綴った年号などを書き入れた。後になって分かりやすいようにと。
 それを本棚に突っ込んでみたら、グンと値打ちが増した気がした航宙日誌。ノートの形で並べておくより、断然、こっちの方がいい。一冊の本を書き上げたようで、ノートの時とは重みが違う。綴り続けた日々の価値まで、上がったように思えたから。
(もっと見栄えを良くしたくてだな…)
 ファイルノートでこれだけ値打ちが出るのだったら、本物の本の形にしたなら素晴らしくなるに違いない。本の中身の価値はともかく、見た目に栄える。こうして本棚に並べた時に。
 そう思ったから、製本しようと考えた。暇を見付けて、少しずつ。元のノートを分解してから、丁寧に糸で綴ってゆく。出来上がったら表紙をつけて…、と。
 作業自体は経験済みだし、時間をかければ充分に出来る。ノートを本に仕上げることも。
 早速、次の日から取り掛かったノートの製本だけれど。
(ブルーが手伝いに来やがって…)
 何処で嗅ぎ付けたか、たまたま部屋を訪ねて来た時、自分が作業中だったのか。本にするのだと知ったブルーは、いそいそと手伝いにやって来た。
 「料理のレシピを本にする時、ぼくも一緒にやったから」と助手に名乗りを上げたブルー。本にするなら手伝うからと、二人で作った方が早いと。



 有難そうに聞こえるブルーの申し出。二人でやれば確かに早いし、大いに助かるのだけれど。
 問題は本にしたい中身で、料理のレシピとは全く違う。日々の出来事を綴った日誌で、ブルーが興味津々のノート。いったい何を書いているのかと、隙を狙って盗み見ようとしている日誌。
 「手伝ってくれ」と言おうものなら、まさしくブルーの思う壺。手伝いと称して、堂々と読める航宙日誌。製本しながら、次から次へと。
 その手は食わない、と断ったけれど、諦めないのがブルーだから。
(追い払うのが大変だったんだ…!)
 さて、と作業に取り掛かったら、ヒョイと現れるものだから。「手伝おうか?」と。
 ブルーが顔を覗かせる度に、「いや、大丈夫だ」と身体で隠した航宙日誌。その度に作業は一時中断、まずはブルーを追い払うこと。好奇心の塊が部屋にいたのでは、決して続けられないから。
 初期の日誌は自分で製本、表紙も自分で作っていた。レシピ本の時の要領で。
 その内に本作りの好きな仲間が気付いて、「最初から本に書けばいい」と専用の物を作り上げてくれた。立派な本の形だけれども、何も書かれていない物を。しかも、こだわりの一冊を。
 何度もデザインを訊きに来てくれて、サイズも色々検討して。表紙の色を好みで選べて、入れる文字の色も書体も選べた専用の日誌。一冊使い終わる頃には、また新しい物を作ってくれた。
(あれが今でも残ってるヤツの原型なんだ…)
 前の自分の制服が出来た後、表紙の色を制服に合わせて渋い茶色に、と注文したら。
 本作りが好きな仲間たちは喜んで応じてくれた。その上、それまでの航宙日誌の方まで、それと揃いに出来るようにと新しい表紙を作ってくれた。
 「自分で作り直せるだろうし、揃いの表紙の方がいいから」と。
 仲間たちの好意で貰った表紙を付け替えていたら、やはり現れたブルー。「手伝おうか?」と。二人でやった方が早いと、料理のレシピの本作りは一緒にやったじゃないか、と。
 もちろん、お帰り願ったけれど。中身を読まれてはたまらないから。



 本物のキャプテン・ハーレイの航宙日誌は、そうやって出来た本だった。原価はせいぜい、紙と表紙とインク代。綴るのに使った糸や接着剤、それを入れても微々たるもの。
(タダとは言わんが、その辺の本より安いんじゃないか?)
 日記帳の値段くらいだろうな、と結論付けた。沢山書けて、本の形になっているような日記帳。今の自分も使っているから、少しも高くないことは分かる。ノートよりかは高いけれども、普通の本を買うよりは安い。同じような形の本を買ったら、作者などに支払う分が上乗せされるから。
(やっぱり、べらぼうに高いぞ、これは)
 原価を思えば、ぼったくりにしか見えない値段の復刻版。気軽に買えはしない本。
 けれど、そっくりには出来ている。前の自分の遠い記憶が「違う」と言いはしないから。本当にとてもよく出来ていると、こんな日誌が部屋にあった、と懐かしさが心に広がるから。
 遠く遥かな時の彼方で、せっせと書いていた日誌。ブルーが覗き込もうとする度、身体で隠して「俺の日記だ」と守り続けた航宙日誌。
(いつから書いていたんだっけな…?)
 ブルーを部屋から追い出す時には、「俺の日記だ」が決まり文句だった。常に敬語で話すようになっても、その時だけは。恋人同士になった後にも、一度も読ませはしなかった日誌。
 決まり文句になった言葉は、恐らくは最初からのもの。製本していた時からのものか、それとも日誌を書き始めて直ぐに使っていたか。
(あいつが黙っているわけがないし…)
 きっと一冊目のノートの頃から来ていただろう。いったい何を書いているのかと、覗き見たくて何度でも。その度に決まり文句を使って、ノートをパタリと閉じたろうけれど。
 その一冊目は、いつから書いていたのだろうか。前の自分の航宙日誌。



 はて…、と考え始めたこと。一番最初の日付はいつのものだったろうか、と。
 キャプテンだから、と書いていたのが航宙日誌。シャングリラでの日々の出来事、それを綴っていた日誌。初めの間は、倉庫で貰った平凡なノートに、普通のペンで。
(いきなり初日から書くか…?)
 キャプテンになったその日に書くだろうか、と浮かんだ疑問。それこそ「キャプテンに就任」と書いて終わりになりそうだから、書いていないと思うのだけれど。
 船のあちこちを把握してから、書き始めそうな気がするのだけれど。
 何故だか、「書いた」という記憶。自分はその日も日誌を書いたと、確かに書いていたのだと。
(だが、書くようなことがあるのか、初日に…?)
 キャプテンに就任、と書いたら終わりだろう初日。それを自分は書いたのだろうか、短い文を。右も左も分からないような新米キャプテンなのに、倉庫でノートを貰って来て。
(一人前に航宙日誌ってか…?)
 スタイルにこだわる方ではないが、と自分でも不思議に思える記憶。書くようなことも無かっただろうに、航宙日誌を書き始めた理由が分からない。
 データベースにアクセスしたなら、無料で見られる本物の航宙日誌の文字をそっくり写し取ったもの。それを読んだら、記憶の小箱を開けられるけれど。
 前の自分が綴った文字から、その時の思いを読み取れるけれど。
(こういうのはだな…)
 簡単に出来る種明かしよりも、手掛かりを一つ、二つと集めて思い出すのが楽しいから。日誌を書いていた時のように、過ぎた時間を追体験できるものだから。
(よし…!)
 考え事をするなら書斎なんだ、と移動を決めた。熱いコーヒーも淹れて行って、と。



 そうして移った、気に入りの書斎。いつもの椅子に腰を下ろして、コーヒーを一口。
 あの頃には本物のコーヒーを飲んでたっけな、と思い出が一つ蘇る。白いシャングリラになった後には、キャロブのコーヒーだったけれども。
 さてと、と手繰り始めた記憶。キャプテンになった初日のこと。
(羽根ペンはまだ無かった時代で、普通のペンで…)
 そのペンで何を書いたのだろうか、前の自分は?
 まだキャプテンの部屋も無かったし、元の部屋をそのまま使っていた。厨房時代の部屋で、机は愛用していた木製。白い鯨が出来た時にも、それを運んで行ったほど。木で出来た机は年月と共に味わいが増すし、磨いてやるのが好きだったから。
 机だけは立派にキャプテン・ハーレイ。初日から整っていたと言える舞台装置で、レトロだった趣味の品なのだけれど。
 他には特に無かった持ち物。キャプテンならばこれ、といったもの。制服も無くて、動きやすい服を着ていただけ。厨房時代と変わらないものを。
(キャプテンになったし、キャプテン・ハーレイではあったんだが…)
 就任式も特に無かった。今日からキャプテン、そういった感じ。
 ブリッジの仲間と挨拶を交わして、「よろしく」と握手した程度。船の仲間が揃いはしないし、乾杯だってしていない。キャプテンという職が出来ただけだし、祝い事とは違うから。
(厨房の方なら、引き継ぎを済ませたんだがなあ…)
 自分が抜けたら、色々と変わってくるだろう厨房。手作りのレシピ本を譲り渡して、愛用の鍋やフライパンなども「大事に使ってやってくれ」と仲間に譲った。「後は頼むぞ」と。



 けれど、ブリッジの方では違った。操船技術も持たないキャプテン、レーダーの見方も知らない有様。引き継ぎどころか、新入り同然。求心力だけを買われて就任したのだから。
 着任したって、ブリッジでは役に立たないキャプテン。それでもいいから、と請われたのだし、恥じることなど無かったけれど。
(いずれは操舵も覚えるから、と挨拶はしたが…)
 あの段階では基礎も分かっていなかったのだし、計器の一つも読み取れはしない。そんな自分がキャプテンになって、初日は何をしたのだろうか。
(ボーッと立ってもいられないしな…)
 座っていたってそれは同じで、いたずらに場所を塞ぐだけ。
(視察にでも出掛けて行ったのか?)
 それはブルーの役目の筈だが、と考えたけれど。視察の時にはブルーが先に立って、前の自分は後ろを歩いた。ソルジャーと並んで歩ける立場にいなかったから。キャプテンだから。
 けれど、自分がキャプテンになった頃のブルーは…。
(まだリーダーで…)
 ソルジャーという呼び名は無かった。あくまでリーダー、皆のために物資を奪うだけ。あの頃のブルーは視察をしてはいなかった。
 そうなってくると…。
(俺の役目だよな?)
 船内を視察して回るのは、と蘇った記憶。かなりの間は、前の自分がやっていた視察。
 ブルーがソルジャーになるまでは。…キャプテンを従えて堂々と歩き始めるまでは。



 ならば視察に出たのだろうか、とブリッジの景色や扉などを思い浮かべていたら。
(待てよ…?)
 外側からスイと開いた扉。其処から入って来たブルー。
 「行こう」と誘われたのだった。キャプテンなら船を知らなくては、と。ブリッジだけでは船の全ては分かりはしないし、ぼくと一緒に見て回ろう、と。
(思い出した…!)
 君は厨房一筋で来ていたからね、と船の中を連れ回してくれたのがブルー。次はこっち、と。
(俺だって充分、詳しかったが…)
 厨房が居場所だったとはいえ、備品倉庫の管理人をも兼ねていた。ブルーが奪った物資の分配も前の自分がしていたほど。倉庫に入れたり、必要な仲間に配ったり。
 「見当たらない物があるなら、ハーレイに訊け」とまで言われた自分。だからキャプテンに、と頼まれた。船の仲間を纏め上げるには適任だ、と。そういう人間が必要だから、と。
 厨房だけに籠っていたなら、そんな自分は出来上がらない。船のあちこちに出掛けていたから、詳しくなった船の中やら仲間の事情。
 けれど流石に、機関部などの奥となったら管轄外。部外者は邪魔になるだけだろう、と遠慮して入っていなかったから。
 そうした所へもブルーと二人で出掛けて行った。キャプテンなのだし、遠慮は要らない。確かに知っておくべき所。船の心臓なのが機関部。
 ゼルが出て来て、「こっちだ」と案内してくれた。「気を付けろよ」と注意しながら、立ち入り禁止の区画までをも。「キャプテンだったら見ておけよ」などと、分かりやすく説明してくれて。
(厨房にもブルーと行ったっけな…)
 其処は充分知っているから、と言っているのに、腕を引っ張られて入った厨房。
 昨日まで一緒に料理をしていた仲間たちが拍手で迎えてくれた。「おめでとう」と、凄い出世をしたものだ、と。
 祝って貰った、キャプテン就任。
 リーダーのブルーも一緒なのだし、と心尽くしの祝いの一皿。「食べて行ってくれ」と、笑顔で作ってくれた仲間たち。けして豪華ではなかったけれども、美味しかったと今でも思う。ブルーと二人で食べる分だけ、皿に盛られていた料理は。



 隈なく回った船の中。全部の通路を歩いたのでは、と思うくらいに。一回りしたな、と自分でも分かったものだから。
(帰ろうとしたら…)
 ブリッジに向かう通路の方へと足を向けたら、「まだ見ていない所があるよ」とブルーにクイと引かれた袖。「キャプテンなら船を見ておかなくちゃ」と。
「船って…。もう見たじゃないか」
 全部お前と回った筈だぞ、それこそ奥の奥までな。見落とした所は無いと思うが…。
「でも…。アルタミラでしか見ていないよね?」
 この船の全体像ってヤツは、と微笑んだブルー。だからハッキリ知らない筈、と。
 アルタミラでは駆け込んだだけの船だったのだし、きっと分かっていないと思う、と。
「いや、見たが…」
 これでもキャプテンになったわけで、だ…。
 難しいことは何も分からないが、どんな船かは知っておかんと…。
 ゼルたちもそういう考えだったし、ちゃんと見せては貰ったんだ。それこそ色々な角度から。
 絵を描けと言われても困っちまうが、船の姿なら把握してるぞ。こういう船だ、と。
「それって、全部データでしょ?」
 アルタミラでは肉眼だったけど、今は宇宙に出てるから…。
 船を外から見るのは無理だし、ハーレイが見たのは元からあったデータの筈だよ。
 船外活動、最低限しかしていないもの。船の姿を掴めるほどには、誰も離れていないんだよ。
 ぼくは何度も外に出たから、よく分かる。
 たったあれだけ離れたくらいじゃ、船は壁にしか見えないよね、って。



 本物の船を見せてあげる、とブルーは腕を引っ張った。「こっちに来て」と。
 まさか格納庫に行くつもりでは、と思う間に、連れて行かれた先にはハッチ。補修などで船外に出る時に使う、減圧室の先の小さなもの。宇宙服を着た人間が二人、辛うじて擦れ違えるくらいのサイズの円形の扉。
「ま、待て、出るのか!?」
 此処から外へ出ようと言うのか、この向こう側は宇宙なんだが…!
 こんな所から外へ出るのか、格納庫にある船を使うんじゃなくて…?
「大丈夫。ハーレイくらいは守れるからね」
 それに格納庫の船なんか…。誰も一度も使っていないし、それこそアテにならないよ。
 ぼくに任せておいてくれれば、ちゃんと案内してあげるから。
 この船が外からどう見えるのかも、ハーレイが見たいと思う角度も。
「なら、宇宙服を…!」
 ちょっと戻って探してくるから、待っていてくれ。減圧室には置いてないしな、宇宙服。
 俺が着られるデカいサイズのヤツ、直ぐ見付かるといいんだが…。
 とにかく急いで行ってくるから…!
「要らないってば、宇宙服なんか」
 ぼくは一度も着たことが無いよ、あんなのを着たら動きにくいと思うけど?
 視界だって狭くなってしまうと思うから…。そのまま出るのが一番なんだよ、船を見るなら。
 強化ガラスを通して見るより、肉眼の方がずっといいから…!
「ま、待ってくれ…!」
 お前はそれで大丈夫なのかもしれないが…!
 俺は宇宙に出たことは無くて、宇宙服だって、まだ一度もだな…!



 着てみたことが無いんだが、と言い終わらない内に、ブルーが開けてしまったハッチ。
 円形に開いた穴の向こうは真空なのだし、吸い出されると思ったけれど。
「大丈夫だと言ったよね?」
 ハーレイ、ちゃんと息が出来てる筈だよ、外にも放り出されてないし…。
 この減圧室、少しも減圧しなかったのにね?
「そのようだ…。これもお前の力なのか?」
 生きた心地もしなかったんだが、何も起こらん。お前、ハッチを開けちまったのに。
「ぼくはいつでも、ハッチも開けずに飛び出してるよ?」
 瞬間移動で出て行くんだから、壁なんか無いのと変わらないしね。
 だけど、今日はハーレイがビックリしないようにと、此処に来たんだ。
 いきなり宇宙に飛び出して行けば、ホントに驚くだろうから…。ハッチを通って外に行くなら、他のみんなと全く同じ。
 宇宙服があるか無いかの違いだけだよ、船外活動の時は、みんな此処から出るんだから。
 ほら、其処が宇宙。ハッチの向こう。
 あの真っ暗な所はすっかり宇宙なんだよ、船の外壁を通り抜けたら。



 行こう、とブルーに手を引かれた。いつの間にか消えていた重力。二人揃って床を離れて、壁に開いた丸い穴へと。元は閉まっていたハッチ。其処を通って、船の外へと。
 息は少しも苦しくはなくて、周りの温度も変わらないまま。まるで見えないカプセルに入って、宇宙に浮いているかのように。
 ブリッジでも見ていた瞬かない星、それが幾つか散らばる空間。星と船とを除いた所は真っ暗な闇で、遥か彼方に恒星が一つ。
 その星の光で浮かび上がったシャングリラ。元はコンスティテューションだった船。
 ブルーは何もしていないように見えるけれども、船との距離が離れてゆく。最初は聳え立つ壁に見えたのが、壁の周りに少しずつ宇宙が見え始めて。
「こんな船なのか…」
 外から見たなら、こういう風に見えるのか…。見せて貰ったデータのままだが、やっぱり違う。
 俺がこの目で見ているせいか、本物なんだって感じがするな。
 この船の中にみんなが乗ってて、俺たちが生きてる世界がそっくり乗っかってるんだ、と。
「ね、見に出て来て良かっただろう?」
 ハーレイはこの船のキャプテンなんだよ、これからハーレイが守っていく船。
 ぼくも守るけど、船のみんなの暮らしを守っていくのはハーレイ。ぼくは物資を奪うだけだし、それを上手に使っていくのはキャプテンの仕事。食べるのも、船を修理するのも。
「そうなるんだな…」
 みんなの命を守るんだよなあ、この船を焦がさないように。
 昨日までならフライパンだったが、今日からは船を焦がさないのが俺の仕事だ。
 こうして見るとデカイ船だな、フライパンとは比較にならん。…焦がさないのは大変そうだが、焦がしちまったらエライことになるし…。
 頑張らないとな、船のみんなを守れるように。この船もきちんと守ってな…。



 これがシャングリラという船なのか、とブルーのお蔭で実感出来た。船の中だけを歩いたのでは掴めなかっただろう感覚。この船が全てなのだ、と分かった。自分たちの世界を乗せている船。
「ハーレイ、船を何処から見たい?」
 一周してはみたけれど…。此処からだとかなり遠いしね。
 もっと近くで見てみたい所、あるんだったら近付いてみるよ?
 船全体は見えなくなるけど、しっかり見たいと思う部分があるのなら…。
「ブリッジの方が気になるな…」
 俺の居場所になる所だしな、見られるものなら見ておきたいと思うんだ。
 このくらいの距離のままでいいから、ブリッジが見える方へと回ってくれないか?
「了解。…それじゃ、近付いてみるね」
 ブリッジを外から覗けるトコまで。みんなの顔が見えるくらいに。
「待て、近付くって…! そんな所まで接近したら…」
 ブリッジのヤツらが慌てるだろうが、俺たちが外に出ているだなんて知らないんだから…!
 操船ミスをしたらどうする、とんでもない方向へ舵を切るとか…!
「平気だってば、見えないようにしておくから」
 ぼくたちが外を飛んでいることが、分からなければいいんだしね。
 宇宙だけしか見えなかったら、いつもと同じなんだから。



 任せておいて、と笑みを浮かべたブルー。姿を消すのは簡単だから、と。
 人類の輸送船に近付く時には、よく使う手だとブルーは言った。サイオンで乱反射させる情報、姿が見えなくなるのだという。其処にいるのに、いないかのように。宇宙の闇に溶けてしまって。
 今から思えば、後に生まれたステルス・デバイスの原点だろう。
 そして真空の宇宙空間で生きていられたのは、ブルーが張っていたシールドのお蔭。あの時点で使いこなせる仲間は、ブルーの他にはいなかったけれど。
 ブルーは前の自分を連れて宇宙を移動し、ブリッジの方へと近付いて行った。強化ガラスの直ぐ側まで。中にいる者たちが見える所まで。
「あそこがハーレイの席だったんだよ、空いてるだろう?」
 誰も座っていない、あの席。これからハーレイが座る場所はあそこ。
 キャプテンの席がきちんと決まるか、決まらないかは分からないけど…。
 あそこだと思っておけばいいかな、今日はあそこに座っていたしね。
「そうか、あそこか…」
 あそこに座って指揮を執るのか、これから先は。
 このシャングリラが焦げちまわないように、みんなが安心して暮らせるように。
「うん。…ハーレイがキャプテンになってくれて良かった」
 本当にハーレイで良かったと思う、この船のキャプテン。
 ぼくの命を預けられるよ、君にならね。
 そう思ったから、「ハーレイがキャプテンになってくれるといいな」と言ったけど…。
 改めて思うよ、こうして君と二人でいると。
 ハーレイがキャプテンで良かったな、って…。君と二人なら大丈夫だ、って。



 本当だよ、と柔らかく笑ったブルーと一緒に、船をもう一度一周して。さっきのハッチから中に戻って、ブルーが閉ざした宇宙への扉。宇宙は壁の向こうになった。重力も床に戻って来た。
「はい、おしまい。…これで視察は済んだよ、全部」
 ハーレイ、キャプテンの仕事、頑張って。
 ぼくと二人で焦がさないように守って行こうね、シャングリラを。
「ああ、分かってる。お前の期待を裏切らないようにしないとな」
 焦げたじゃないか、と睨まれないよう、精進するさ。…なったばかりの新米だがな。
 努力しよう、とブルーと別れて戻ったブリッジ。自分のための席に座って、眺めた強化ガラスの向こう。漆黒の闇が広がる宇宙を、ブルーと二人で飛んだのだった、と。
 誰も気付いてはいなかったけれど、ブリッジの外を、確かに二人で。船を眺めに。真空の宇宙を移動しながら、あらゆる角度で見て来た船。自分たちの生きる世界を乗せている船。
(この船を守る…)
 シャングリラという名の、仲間たちと一緒に生きてゆく船を。世界の全てに等しい船を。
 それを預かるキャプテンとして。文字通り、船の長として。
 今はまだ右も左も分からないけれど、計器もレーダーも読めないけれど。
 こうしてキャプテンになったからには、操舵を覚えて、船を自在に動かしてゆこう。
 宇宙まで視察に連れて行ってくれた、まだ少年の姿のブルー。
 「ハーレイがキャプテンになって良かった」と、ブルーは言ってくれたから。その信頼と期待を裏切らないよう、しっかりと立ってゆかなければ。
 ブルーと二人で、この船を守る。今日から、自分はキャプテンだから。
 フライパンから舵に持ち替えて、船を操ることを覚えて。



 決意を新たにしたブリッジ。漆黒の宇宙を飛んでゆく船で、いつかは自分がこれを動かそうと。
 ブルーが望む通りの場所へと、自分で船の舵を握って。
(頑張らないと、と思ったんだ…)
 着実に前へ進んでゆこうと、一日たりとも無駄にすまいと。一足ずつ前へ歩み続けて、一日でも早く船を操れるキャプテンに、と。この決意こそが最初の一歩、と。
(何をしたわけでもなかったんだが…)
 決意してみても、意味が読み取れない計器。どう使うのかも分からないレーダー。もちろん舵を握れはしないし、「触らせてくれ」とも言えずに終わった初日。キャプテンになった最初の日。
 けれど、此処から進んでゆかねばならない自分。真のキャプテンへの道を。
 だから書こうと思ったのだった、自分の歩みを綴る日誌を。
 ブリッジの皆が共有している記録とは別に、個人的なものを。日々の出来事を書き留めようと。
 そう考えたから、勤務時間が終わった後に出掛けた倉庫。ノートを一冊貰って帰った。いつもと変わらない部屋へ。昨日までいた厨房時代と、何も変わっていない部屋へと。
 机に向かって広げたノート。それにレシピを記す代わりに、記した自分の一日の記録。今日から船のキャプテンになった、と書き始めたのだったか、一行目は。
 船をあちこち視察したことや、機関部の奥に初めて入ったことなどは確かに書いたけれども。
(ブルーと宇宙を飛んでいたことは…)
 微塵も書きはしなかった。ブリッジの仲間は知らないのだから、伏せておこうと。宇宙服を着て出たならともかく、ブルーの力で生身で出掛けていたのだから、と。
(あれが前の俺の、隠し事の始まり…)
 全てを書いたわけではなかった航宙日誌。「俺の日記だ」とブルーにも見せなかったけれども、個人的な思いを記してはいない。ブルーとの恋も、二人で過ごした時間のことも。
(そうか、初日からブルーとのことを隠していたか…)
 こりゃ傑作だ、と可笑しくなった。恋をしていたわけでもないのに、伏せてしまったブルーとの思い出。二人で宇宙から眺めていた船、宇宙服も無しで。
 明日は小さな今のブルーに話してやろう。「初日から嘘を書いていたぞ」と。
 土曜日だから、ブルーの家を訪ねてゆく日だから。



 そして次の日、小さなブルーと向かい合わせで座った部屋。お茶とお菓子が置かれたテーブル、それを挟んで切り出した。
「俺の日誌のこと、覚えているか?」
 前の俺のだ、キャプテン・ハーレイの航宙日誌。…あれにそっくりの復刻版が出てるだろ?
「買う決心がついたの、ハーレイ?」
 やっと買うの、とブルーが瞳を煌めかせるから。
「いや、高いなと広告を見てて…。べらぼうな値段の本だろうが」
 元の日誌はタダのようなモンだったのに、と考えていたら、あれこれと思い出してだな…。
 それでだ、俺のキャプテン初日の日誌なんだが…。
「日誌、初日から書いてたの?」
 真面目だったんだね、ちゃんと初日も書いたんだ…。もっと後からかと思っていたのに。
「まあな。それも真っ赤な嘘というヤツを」
「え? 嘘って…」
 ありもしないことを書いておいたとか、凄くカッコ良く脚色したとか…?
「その逆だ。お前が連れて行ってくれた視察を伏せた」
 実に劇的な出来事だったが、前の俺は書かなかったんだ。お前と一緒に視察したことを。
「視察って…。あちこち案内してあげたのに?」
「そいつは書いてあるんだが…。締め括りのヤツだ、宇宙からの視察」
 お前、連れて行ってくれただろうが。船を見るなら外からでないと、と。宇宙服も無しで。
「…あれ、書いてないの?」
「うむ。どうせ仲間は誰一人として気付いちゃいないし、その方がいいかと…」
 宇宙服も着ないで外に出るなど、キャプテンがすべきことでもないしな。
「酷い…!」
 ハーレイに船を見せてあげなくちゃ、と思ったから連れて行ったのに…!
 二人きりで船の外に出たのに、何も書かずに済ませたなんて…!



 酷い、とブルーは膨れたけれど。暫くは膨れっ面だったけれど、初日から書かれずに伏せられてしまった、キャプテン・ハーレイが経験したこと。宇宙からシャングリラを眺めた事実。
 それを書かずに済ませたほどだし、一事が万事だと悟ったようで…。
「…だったら、前のぼくとのことは…」
 宇宙からの視察も書いてないんじゃ、恋人同士になってからのことも…。
「何も書くわけがないってな」
 あの視察以上にマズイだろうが、後になって誰かが読んだ時に。…お前とのことを書いたなら。
「今度の日記も同じなんだね。今のハーレイが書いてる日記」
 日誌じゃなくって日記だけれども、ぼくのこと、書いていないんでしょ?
「今のトコはな。どうせ元から覚え書きだし」
 航宙日誌とはまるで違うぞ、本当に日記なんだから。後進のために書いてもいないし。
「いいけどね…。ぼくのこと、生徒としか書いていなくても」
 他の生徒と区別がつかない書き方でも仕方ないけれど…。
 今はいいけど、今度は結婚するんだから。ずっとそれだと、ぼく、怒るからね?
 それと、前のハーレイの航宙日誌…。



 いつかは買って欲しいんだけど、と強請られた。例の高価な復刻版。
 今のブルーは、それの秘密を知っているから。書かれたままの文字を見たなら、蘇ってくる遠い日々の思い出。其処に書かれた文字以上のことを、今の自分は読み取れるから。
(きっと買わされちまうんだろうなあ…)
 結婚して二人で暮らし始めたら、あの高い本を丸ごと全部。前の自分が綴り続けた長い日誌を、最初の巻から終わりの巻まで。
(おまけに、その日は何があったか、解説も無理やり…)
 させられることになりそうだけれど、きっと幸せだろうから。
 ブルーと二人で開く日誌は、前の自分が手に入れられなかった幸せの中で読むのだから。
 「知らんな」とケチなことは言わずに、ブルーに説明してやろう。
 「この日はだな…」と、隠し事はぜずに、正直に。前の自分の想いもこめて。
 きっとブルーには、最初から恋をしていたから。
 アルタミラで初めて出会った時から、きっと惹かれていた筈だから…。




            航宙日誌の始まり・了

※前のハーレイが書いていた航宙日誌。ブルーとのことは、初日から書かなかったのです。
 けれど、復刻盤を見たなら、全てを思い出せる筈。いつか買って、ブルーに解説することに。
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