シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「今の時代は、こういう文化は無いんだが…」
話の種に聞いておくんだな、と始まったハーレイお得意の雑談。教室の前のボードに書かれた、「切符」という文字。どう見ても切符。列車に乗るための乗車券。いわゆるチケット。
ある筈だけど、と首を傾げたブルー。他のクラスメイトたちも。
切符と言う人やら、乗車券やら、呼び方は人それぞれだけれど、今も存在している切符。これを買わないと乗れない列車。何処へ行くにも必要なもの。列車に乗ってゆくのなら。
皆の疑問を読み取ったように、ニヤリと笑みを浮かべたハーレイ。腕組みをして余裕たっぷり、「ただの切符だと思っているな?」と。
「…違うんですか?」
ぼくたちの思う切符とは、と男子の一人が声を上げたら。
「もちろんだとも。特別に売られた切符なんだぞ、俺が言うのは」
期間限定と言うべきか…。ある時期が来ないと発売されない切符だな。
「記念切符は今もありますが?」
イベントに合わせて、絵がついてるのとか、何かグッズがつくだとか…。
今だって、幾つも売られていると思いますけど。
「違うな、もっと特別だ」
ついでに、切実でもあった。こいつに全てを賭けるとまでは言わんが、手に入れたい切符。
まあ、今の時代も、記念切符を手に入れようと行列するヤツはいるんだが…。
朝も早くから駅に出掛けて、並んでるヤツも多いんだがな。
しかし、俺が言う切符は遥かに特別だった。そういう記念切符とかよりも、ずっと。
合格切符、とハーレイが書き加えた「合格」の文字。ボードの「切符」のすぐ前に。
ざわめくクラスメイトたち。合格の意味は分かるけれども、合格切符とはなんだろう?
学校で受ける様々な試験、体育や他の授業でも。合格したなら、次のステップへ進める仕組み。逆に落ちたら、「出来ていない」と補習があったり、余分に課題を貰ったり。合格するまで。
けれど、合格に切符は要らない。自分の努力が必要なだけ。そもそも切符が売られてはいない、職員室に出掛けて行っても。合格のための切符なんかは。
ハーレイは「知らんだろうな」とクラスを見回して。
「ずっと昔には、受験というのがあったんだ。SD体制が始まるよりも前のことだな」
受験だから、試験を受けるわけだが…。お前たちが知ってる試験なんかとは全く違った。
そいつに落ちたら、行きたい学校に行けないどころか、後の人生まで変わるんだ。夢に見ていた未来が壊れちまうとか、それは散々な目に遭った時代。
努力で挽回出来ればいいがな、出来なかったら「あの時、合格していれば…」と、一生、嘆いているしかなかった。スタートラインで失敗した、と。
そうなっちまえば人生台無し、誰だって行きたくない道だろう?
避けるためには合格すること、それが大切なんだから…。合格したい、と買いに出掛けたのが、合格切符というヤツだ。
買ったら受かるというわけじゃないが、合格しそうな気分になれる。お守りだな。
切符には行き先とかが書いてあるだろ、そいつで縁起を担ぐんだ。
駅の名前を上手く並べて読んだら、「本調子」になって調子が出るとか、そんな具合に。
本調子で試験に臨めたんなら、実力を発揮できるしな。
色々なパターンがあったんだぞ、とハーレイが挙げる合格切符。遠い昔の日本の文化。
「ずいぶん人気を集めたらしいが、今の時代は縁が無さそうだな、こいつはな」
それにSD体制の時代は、縁が無いなんていうものじゃなかった。合格切符は。
「受験が無かったからですね?」
「その通りだ。あの時代にも試験は色々あったわけだが…」
お前たちの知ってる試験と変わりはないなあ、必要な知識や技術があるかを調べるためだし。
だが、その前が全く違った。昔の受験に当たる部分だな、自分の進路を決めたい学校。
其処に行くのに、選択肢ってヤツが存在しなかった。
あの時代は何もかも、問答無用だったんだ。機械が決めていたんだぞ、進路。
パイロットになりたい、と思っていたって、菓子職人のためのコースに放り込まれて、ケーキを作る一生なんかは当たり前だった。
どうする、そんなことになったら?
夢も希望もありやしないぞ、自分じゃ選べはしないんだから。やりたい仕事も、未来もな。
「困ります、それは!」
スポーツ選手は流石に無理でも、仕事は自分で選びたいです、と大騒ぎするクラスメイトたち。自分の能力の限界はともかく、行きたい道に行きたいんです、と。パイロットでも、料理人でも。
「だろうな、普通はそういうもんだ。…だから人生、楽しいわけだ」
パイロットの道に行った後でだ、やっぱり漁師になりたいだとか。
農業が好きでやっている内に、栽培技術を極めてみたくて、研究者の道に行っちまうとか。
好きに選べて、なんとでも出来る。
その楽しみってヤツを奪っていたのがSD体制だったわけだな、合格切符の時代より酷い。
合格切符の時代だったら、努力次第で巻き返しだって出来たんだから。
SD体制の時代に生まれずに済んで良かったな、とハーレイは笑っているけれど。クラスメイトたちも「ホントにそうです!」と、みんな明るい笑顔だけれど。
(ハーレイ、あの時代の生き証人…)
前のハーレイは死んでしまったから、生き証人と言えるかどうかはともかく、SD体制の時代に生きていたのが前のハーレイ。自分の他には、両親と聖痕を診てくれた医師しか知らないけれど。
機械が統治していた歪んだ世界。今は誰もが誤りだったと認める時代。
其処で確かに生きていたのに、こうして話のネタにしているハーレイは強い。
前の自分たちは、進路すらも決めては貰えなかったのに。ミュウに生まれたというだけで。SD体制が良しとしなかった因子、それを持って生まれて来ただけで。
けれど、ハーレイの話はそちらに行かずに…。
「合格切符は今では人気が無さそうなんだが…。売っても誰も買いそうにないが…」
同じ時代に、幸福切符もあったんだ。幸福駅に行くための切符がな。
「幸福駅って…。それは欲しいです!」
欲しい、と上がった幾つもの声。男子も女子も、瞳を輝かせた幸福切符。
「やっぱりなあ…。幸福行きの切符は欲しい、と」
残念ながら、こいつも今は無くなっちまった。
なにしろ幸福駅が無いから、其処へ行くための切符も無いんだ。当然と言えば当然だろうが。
幸福切符を売るためだけに駅を作るのも…、と言われてみればもっともな話。合格切符も本当にあった駅の名前を使ったからこそ、人気だった切符。その駅は実在したのだから。
実在しない駅をわざわざ作って幸福切符を売り出したって、それでは効き目が無いだろう。駅は新しく作られたもので、有難味が全く無いのだから。
(…でも、ずっと昔の幸福駅って…)
やっぱり誰かが作ったのだろうか、切符を売ろうと幸福駅と名前をつけて。それが次第に人気を集めて、新しい駅でもかまわないから、と大勢の人が買ったのだろうか、と考えたのに。
「勘違いしているヤツもいそうだから、言っておくがな…」
幸福切符の幸福駅は、最初から本物の幸福駅だぞ。切符を売るための駅名じゃなくて。
「えっ!?」
本当ですか、と驚くクラスメイトたち。彼らも疑っていたらしい。商売用の駅名では、と。
「正真正銘、本物だ。幸福は駅の名前でもあったが、そういう地名だったんだ」
まだ人間が住んでいなかった土地を開拓した時、幸福という名を付けた。同じ住むなら、素敵な地名がいいに決まっているからな。それで幸福駅が生まれた、其処に線路が敷かれた時に。
ただ、人間の住む土地は変わってゆくもんだ。幸福駅の近くで暮らす人が減って、列車の乗客も減っちまったから…。幸福駅を通る線路は廃線になって、列車は走らなくなった。
そうなった後も、幸福駅は残ったそうだ。駅があるなら、入場券があるからな。入場券が欲しい人が大勢買いに来るから、列車が通らなくなった後にも、幸福駅はあったらしいぞ。
本当にあった幸福駅。其処を通る列車が無くなった後も、入場券が売れたという駅。今はもう、何処にも無いけれど。地球が滅びてしまった時代に、幸福駅も消えてしまったけれど。
(合格切符はどうでもいいけど、幸福切符は欲しいよね…)
今の時代も、幸福駅があったなら。幸せになれる切符がある駅、幸福駅。
合格切符の方も、ちょっぴり欲しい気持ちがするけれど。体育の時間の実技試験に、ポンと合格できるなら。いつも落っこちてばかりなのだし、合格切符で受かるなら。
(だけど、落ちるの、ぼくのせいだし…)
自分のせいだと自覚はあるから、合格切符は無くてもいい。落っこちるのも自分の個性。
けれど、幸福切符は欲しい。幸せを運んでくれそうだから。幸福駅に行く切符だから。ホントに欲しい、とクラスメイトたちもワイワイ騒いでいるけれど。
「文化は色々復活したがだ、幸福駅を作るってのはなあ…」
この辺りに駅があったんです、と調べることは簡単なんだが、今の時点で計画は無いな。線路を作ろうって計画の方も。
まあ、いつか出来るかもしれないが…。夢のある駅だし、誰かがやろうと言い出してな。
お前たちの中の誰かが作るかもな、と締め括られた今日の雑談。作るんだったら頑張れよ、と。
今は無いという幸福駅。
幸福切符は欲しいけれども、買いに行こうにも、無いらしい駅。
とても素敵な駅名なのに。その駅があれば、幸福駅へ行ける切符が買えるのに…。
ちょっと残念、と考えたせいか、家に帰ってから思い出したのが幸福切符。母が作ったケーキを食べて、幸せな気分で戻った部屋で。
(幸福切符…)
そういう切符があったんだよね、と頬杖をついた勉強机。合格切符が手に入らなくても、今なら困らないけれど。体育の実技試験に落っこちていても、人生が狂いはしないのだけれど。
(SD体制の時代だったら、困ってたかもね?)
成人検査にパスしていたなら、運動が苦手な子供だからと何処へ行かされただろうか。
(エリート候補生は無理…)
全ての面で優れた子供しか入れなかった教育ステーション。前の自分はどう転んでも、地球には行けていなかったらしい。エリート候補生になれなかったら、一生、地球には行けないから。
(だけど今だと、運動が駄目でも困らないんだし…)
手に入れるのなら、合格切符より幸福切符。断然、そっちが欲しいのだけれど、幸福駅が無いというなら仕方ない。存在しない駅の切符は買えない。
(誰か、駅を作ってくれてたら…)
幸福切符が買えたのに、と惜しい気持ちがしてしまう。幸福駅行きの素敵な切符。眺めるだけで幸せがやって来そうな切符。
沢山の文化を復活させるついでに、幸福駅も作って欲しかった。遠い昔に駅があった場所に。
もしもあったら、どんな駅だろう、と想像してみた幸福駅。きっと昔の幸福駅にそっくりな駅。小さくて可愛い駅なのだろうか、白く塗られていたりして。木で建てられた素朴な駅で。
今もあったら、と思い描いた幸福駅の駅舎だけれど。幸福駅に行ける切符も買えるけれども。
(幸福切符を買わなくっても、みんな幸せ…)
人間が全てミュウになった今は、もう争いも起こらない。せいぜい喧嘩で、喧嘩したって直ぐに仲直り出来るのがミュウの特徴。相手の気持ちが分かるから。心を読まなくても、表情だけで。
すっかり平和になった時代に、幸福駅は要らないのだろう。幸福切符を手に入れなくても、人は幸福なのだから。幸せに生きてゆけるのだから。
もっと、もっと、と欲張って幸福を求めないように、幸福駅も幸福切符も無いのだろう。誰もが充分に持っているから、幸福を、幸せというものを。
(神様にだって、都合があるよね…)
平和な時代をくれた神様。人間が幸せに生きられる世界をくれた神様。それだけで奇跡、神様が創った最高の世界。おまけに地球まで青く蘇って、誰でも地球を見られる世界。
こんなに幸福な今の時代に、「もっと」と考えるのは欲張りだから。もっと幸せになりたい、と願うのは我儘だろうから。
(幸福駅も、幸福切符も…)
無いんだよね、と納得出来る。あったら欲しい切符だけれども、それが無いのも当然な時代。
誰もが幸せになったから。幸福切符を持っていなくても、幸せがやって来るのだから。
前の自分が生きた時代なら、そうではなかったのだけど。不幸だらけの世界だったけれど。
ミュウに生まれただけで不幸だった、と言い切れる世界。前の自分が生きていた時代。
(…ミュウだとバレたら、それでおしまい…)
その場で撃ち殺されて終わりか、実験施設に送られるか。人間としては扱われなくて、実験用の動物になるか、生きる価値も無いと処分されるか。
なんとか其処から逃れたとしても、シャングリラの他に居場所は無かった。閉ざされた世界で、箱舟の中でしか生きられなかったミュウという種族。
それが今では、誰もがミュウ。
もう人類は追って来ないし、殺されることも無い時代。シャングリラの中で生きた頃には、誰も想像出来なかったくらいに幸福な世界。ミュウのために世界があるのだから。
けれども、前の自分たちは…。
(ホントに不幸だったんだよ…)
幸福駅行きの切符があったら、縋りたいほどに。ただの切符でも、幸福駅と書かれているだけの切符でも。
いつか幸福に辿り着けそうな気持ちがするから、きっと大切にしただろう。
生き地獄だったアルタミラから逃れ、シャングリラという船を手に入れた後も、まだ欲しかった幸福の切符。そういう切符があったとしたなら、幸福駅に行こうと願っただろう。
切符に書かれた幸福の文字を、何度も何度も見詰めながら。
これがあったらきっと行けると、幸福が溢れる幸せな駅に行くのだと。
前の自分が幸福切符を持っていたなら、どんな幸福を夢見ただろう。今のような時代は、きっと夢にも思わないから、もっと小さくてささやかな幸福。考え付く限りの、幾つものこと。
(ミュウが殺されない時代になりますように、って…)
それに地球にも行かなければ、と前の自分になったつもりで色々と挙げてみたのだけれど。幸福切符に託したい夢を、一つ、二つと数えたけれど。
(……切符……)
シャングリラには無かったっけ、と気付いた切符。幸福切符も、合格切符も、普通の切符も。
あの船からは、何処にも行けはしなかったから。切符は売られていなかったから。
(シャングリラの中が、世界の全部…)
外の世界は人類の世界。ミュウを受け入れてはくれない世界。
白いシャングリラが出来上がった後も、バスにさえ乗りには行けなかった。アルテメシアに辿り着いても、雲海の中から出られなかった。外へ出たなら、たちまち攻撃されるから。
ミュウの仲間を救い出すために、人類の世界に紛れ込んでいた潜入班。彼らはバスに乗っていたけれど、あくまで任務で、自分のために乗ったわけではなかったバス。乗る時にだって、データを誤魔化して乗っていたから、乗車券を持っていたとしたって、買ってはいない。
(…それに、バスが限界…)
アルテメシアには二つの都市があったけれども、潜入するなら片方だけ。同じ人間が同時に二つ担当したなら、発見されるリスクが高くなる。アタラクシアに派遣する者と、エネルゲイアとは、必ず別にしてあった。だから長距離移動はしないし、乗るならバスだけ。
白いシャングリラには切符が無くて、人類の世界に降りた者でも、バスが限界。
ミュウに生まれたというだけのことで、バスにしか乗れはしなかった。列車にも、船にも、他の星へゆく宇宙船にも。
人類の世界に降りることが出来た、潜入班所属の者たちでさえも。
誰も持ってはいなかったんだ、と思い出した切符。シャングリラには切符が無かったから。
(前のぼく…)
一度も切符を手にしなかった。あの時代にも切符はあったのに。
切符と呼んでいたかはともかく、列車に乗るにも船に乗るにも、切符は必要だったのだから。
(合格切符や幸福切符は無かったけれど…)
アルテメシア行きの切符もあっただろうし、アタラクシア行きやエネルゲイア行きの切符。首都惑星だったノア行きの切符や、あちこちの教育ステーションに行くための船の切符やら。
(でも、地球行きの切符は…)
無かったのだろう、あんな赤茶けた死の星では。…前の自分は知らなかったけれど、青い地球は無かったのだから。
マザー・システムが人類の聖地と呼んだ、母なる地球。その地球は青くなくてはいけない。青く輝く水の星だと、皆に教えていたのだから。宇宙で一番美しい星、それが地球だと。
けれど、本当は違ったから。地球は死の星のままだったから。
誰も行かせては貰えない。青い地球などありはしないと、皆に知れたら大変だから。
あの時代に地球まで辿り着けたのは、秘密を漏らさないエリートだけ。一般人を乗せた宇宙船が地球に行くことは無いし、地球行きの切符は無かっただろう。エリートたちを地球へ運ぶ船なら、切符は要らないだろうから。「ご苦労」と乗り込み、偉そうに乗ってゆくだけだから。
無かったよね、と思った地球行きの切符。今の時代なら、何処の星でも買えるけれども。自分が住んでいる青く蘇った地球、此処へと向かう宇宙船の切符。
(あれ…?)
そういえば、と浮かんで来た記憶。シャングリラには無かった切符のこと。
前の自分も、切符というものを手に取ったことはあったのだった。白い鯨になる前の船で。
人類の輸送船から奪った物資で皆の命を繋いでいた頃。物資の中に、たまに紛れていた切符。
(誰かの荷物が混ざってたりして…)
明らかに個人の持ち物と分かる、切符が入っていた荷物。それを開けたら出て来た切符。
そんな荷物に出くわす度に、切符を失くした持ち主はどうしているだろう、と笑い合っていた。無事に行き先へ着けるだろうかと、まさか船から放り出されはしないだろうが、と。
切符が無ければ、船に乗る資格が無いのだから。そう言われても仕方ないから。
(SD体制の終わりの頃に…)
冬眠カプセルに入れられて宇宙に放り出された人があった、と何かで読んだ。ミュウが落としたアルテメシアなどからの移民船で。
まだ人類の勢力下にあった星に移住しようと、全財産を処分してまで乗り込んだ人を。
大勢の人類を乗せていた船は、まるで奴隷船のようだったという。混み合っていた上に、食料も充分ではなかった船。乗組員の機嫌を損ねたら最後、宇宙に放り出されてしまった。一人減ったら増えるスペース、食料だって余裕が出来るのだから。
(酷い話だよね…)
けれど、前の自分が奪ってしまった切符の持ち主。その人類は無事に目的地に着けただろう。
切符を持っていないことが知れたら、始まっただろう取り調べ。本人に事情を訊くよりも前に、問い合わせる先はマザー・システムが持つ個人情報。この人間で間違いないかと、船に乗り込んだ目的は、と。
瞬時に分かる、その人間が切符を持っていたこと。切符を紛失しただけなのだ、と。
そういう意味では、マザー・システムは有難い存在だった。徹底していた管理社会も。
何度か出会った、人類の持ち物だった切符たち。行き先は宇宙に散らばる惑星だったり、様々な場所へ向かう船が集まる中継用の宇宙ステーションだったり。
(あの切符の中に地球行きのは…)
一枚も無かったのだった。今の自分は無かった理由を知っているけれど、前の自分は本当に何も知らなかったから、地球行きの切符が欲しかった。青い地球へと向かう船の切符。
それがあったら、大切に持っていたかったのに。
いつか地球まで辿り着けるよう、お守りにして眺めていたかったのに。
(あれって…)
幸福駅行きの切符と同じ、と気が付いた。前の自分が欲しいと思った地球行きの切符。
地球に着いたら、きっと幸せになれるから。苦しい時代はきっと終わって、青い水の星で幸せに生きてゆけるから。
その地球へ行けると書いてあるのが、地球行きの切符。まるで幸福切符のように。
(…そんな切符は無かったんだけど、知らなかったから…)
地球行きの切符の方が欲しかったのに、と見ていた違う行き先の切符。ミュウだった前の自分は買えもしないのに、「地球行きの切符だったら良かったのに」と。
前の自分が生きた時代に幸福切符は無かったけれども、いつの時代も人は求めていたのだろう。
幸福駅へと向かう切符を、幸福という駅に行ける切符を。
手に入れたいと願う幸福、其処へと自分を運んで行ってくれる素敵な夢を乗せた切符を。
前の自分が欲しかった切符。幸福駅へ行く切符ではなくて、地球行きの切符。
けれども、それは前の自分のための幸福切符だから。欲しいと願った切符だから。幸福駅行きの切符を教えてくれた、ハーレイに話したい気分。「前のぼくも欲しかったんだよ」と。
(ハーレイ、来てくれたらいいのにな…)
帰りに寄ってくれないかな、と窓の方に何度も目を遣っていたら、聞こえたチャイム。待ち人が訪ねて来てくれたから、いつものテーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、今日の授業の時に言ってた、切符の話…」
こんな切符があったんだぞ、って話していたでしょ、昔の切符。
「合格切符か、面白い話だっただろう?」
「そっちじゃなくって、幸福の方だよ! 幸福切符!」
幸福駅行きの切符の話…。幸福駅、今は無いらしいけど…。
「なんだ、お前も幸福切符が欲しいのか?」
クラスのヤツらも欲しがっていたが、お前も欲しいクチなんだな。幸福切符。
「うん。でも、欲張り…」
今の時代は、幸せが沢山ある時代だから…。みんな幸せに暮らせる時代で、幸せ一杯。
そんな時代に幸福切符を欲しがったりしたら、欲張りだよね、って。
クラスの友達はかまわないけど、ぼくだと欲張りすぎだから…。
前のぼくよりずっと幸せなんだし、もっと幸せになりたいだなんて、欲張りすぎだよ。
「まあなあ…。俺たちの場合はそうなるだろうな」
もっと幸せになりたいんです、とは言いにくいからな、前が前だけに。
今の時代の暮らしだけしか知らなかったら、欲張りってことにはならないだろうが。
「ハーレイだって、そう思うでしょ?」
今のぼくだと、幸福切符を欲しいと思うのは欲張りすぎ、って。
でもね、そういう切符なんだけど…。
欲しかったんだよ、と打ち明けた。「ぼくじゃなくって、前のぼくが」と。
「前のぼくが欲しかった切符は、地球行きの切符。たまに切符が紛れてたでしょ?」
人類の船から物資を奪ってた頃に、時々、人類が持ってた宇宙船の切符。
見付かる度に、地球行きの切符があればいいな、って思ってたんだよ。
「そういや、お前、欲しがってたなあ…」
今度も違った、って残念そうな顔で見てたな、違う行き先が書かれた切符。
地球行きのヤツが欲しいのに、と。
「うん…。地球行きの切符が手に入ったら、大切に持っていたかったのに…」
お守りにしたいと思っていたのに、いつだって別の行き先ばかりで…。
とうとう一枚も無かったんだよ、地球行きのは。…切符、何度も紛れていたのに…。
「そうだったっけな。…あの頃の俺は、きっと航路が違うんだろうと思っていたが…」
地球へ向かう船は、もっと違う所を飛んでいるんだと信じていたな。
座標も分からなかった星だし、そう簡単には近付けない所にあるに違いないと。
コソコソ隠れて飛んでいる船じゃ、地球行きの船と航路が交わりはしないんだろうと…。
「前のぼくも、そうじゃないかと思っていたけど…。きっと出会えないだけなんだ、って」
だけど、本当は地球行きの船が無かっただけ。青い地球は何処にも無かったから。
普通の人を地球まで載せて行く船は、あの頃は一つも無かったから…。
あるわけないよね、地球行きの切符。そんな切符を持っている人がいないんだから。
「まったくだ。あの時点で気付くべきだったんだな、あちこちで物資を奪ってたんだし」
どうも怪しいと、誰も地球へは行こうとしないと。
切符の数は、それほど多くはなかったが…。それにしたって、人類の夢の星だったんだから。
一枚くらいは混じっているのが普通だよなあ、地球行きの切符。
誰もが行きたい夢の星なら、地球へ向かうヤツも多いんだろうし。
「そうなんだよね…。地球に住めるのは一部の人でも、行くのは自由だろうから」
地球を見に旅行するんです、って人が沢山いる筈なんだよ。本当に人類の聖地だったら。
青い地球が何処かにあったなら。きっと人類は旅をしたのに違いない。地球を見ようと、其処に住めるほど偉くなくても、青い星を一目見てみたい、と。
けれど無かった地球行きの切符。それを持った人が何人も旅をしているだろうに、一枚も手には入らなかった。…今から思えば、とても奇妙なことだったのに。
「前のぼく、なんで気付かなかったんだろう…」
地球行きの切符が無いっていうのは、変だってこと。
他の星へ行こうとする人の数より、地球へ行こうとする人の方が多そうなのに…。
それが一枚も混じっていないだなんて、なんだか変じゃないか、って。
「地球行きの切符だったからじゃないのか?」
前のお前が行きたかった星で、幸福駅行きの切符みたいなものだろう?
幸福を運んでくれる切符なんだと思い込んでいたから、手に入らなくても不思議じゃない。
素敵な夢の切符ってヤツは、そう簡単には手に入らないからこそ価値がある。
地球行きの切符が山ほどあったら、有難味も何も無いからな。お守りどころか、ただのゴミだ。
「そう、それなんだよ!」
前のぼくは幸福切符も、幸福駅も知らなかったけど…。
幸福駅行きの切符の代わりに、地球行きの切符が欲しくって…。お守りに持っていたくって。
もしも地球行きの切符があったら、地球まで運んでくれそうだから。
幸福行きの切符で幸せになれるみたいに、地球に行けるお守りになりそうだから…。
人間って、いつの時代でも同じなんだね。
幸せになれる切符が欲しくて、行き先が地球か、幸福駅かの違いだけなんだよ。
「そうかもなあ…」
前のお前は、幸福切符を知らなかったが、同じような意味で地球行きの切符が欲しかった。
SD体制よりも前の時代の日本のヤツだと、幸せになりたくて幸福切符。
わざわざ幸福駅だけ残して、入場券を買いに出掛けて…。
同じようなことをしたかったんだな、前のお前も。地球行きの切符を、幸福行きの切符にと。
面白いもんだな、考えてみると。…前のお前が幸福切符を探してたなんて。
SD体制が始まるよりも遠い昔に、人気を集めた幸福切符。幸福駅という名の駅名の切符。その駅を通る列車が無くなった後も、幸福駅は残り続けた。切符を欲しがる人がいたから。
幸福という駅に行きたくて。幸せに辿り着きたくて。
前の自分は、それと同じに地球行きの切符が欲しかった。行き先に「地球」と書いてある切符。
そういう切符が手に入ったなら、地球まで運んでくれそうだから。その切符が使える宇宙船には乗れないけれども、いつか地球まで行けそうだから。
「…前のぼくは地球行きの切符が欲しくて、ずうっと昔の人は幸福駅行きの切符が欲しくて…」
どっちも幸せになれる切符で、今だって欲しがる人はいるのに…。
クラスのみんなも欲しがっていたし、ぼくだって欲張りすぎでなければ欲しいよ、幸福切符。
そう思うけれど、幸福駅、今は無いんだね。
…ちゃんとあっても良さそうなのに。日本の文化で、作っておいてもいいと思うのに…。
幸福駅があった所と同じ所に、昔のとそっくりな幸福駅を。
きっと人気が出ると思うよ、列車が通る駅じゃなくても。駅だけポツンと建っていたって。
「今は無いのは、要らないからだろ。…幸福駅が」
観光名所にはなりそうなんだが、心の底から幸福が欲しくて駅に行くヤツがどれほどいるか…。
いつか幸せになってみせる、と頑張らなくても、幸せを持っているんだから。
前の俺たちなら、幸福切符が欲しいと本気で願っただろうが…。幸福駅に行ける切符ってヤツが欲しかったろうが、今の俺たちだと、そいつは本当に必要なのか?
そうじゃないだろ、幸せはとっくに山ほど持っているんだから。
他のヤツらも同じことだな、幸福切符を手に入れなくても幸せなんだ。もうちょっと、と欲張ることはあっても、ほんの小さな幸せじゃないか?
デカイ幸せは、最初から持っているんだから。暖かな家も、温かな家族も、何もかも全部。
そうだろうが、とハーレイが穏やかに微笑む通り。
今の時代は、幸福を求めなくても幸せな時代。幸福駅行きの切符に縋らなくてもいい時代。
誰もが幸せに生きてゆけるし、幸福切符で貰える幸福は小さなもの。もうちょっとだけ、と願う小さな幸福、ささやかな幸せ、たったそれだけ。
「そっか、幸福駅行きの切符が無いのは、欲張りになっちゃうからだけじゃなくて…」
幸福切符を持っていたって、あんまり意味が無いからなんだね。大きな幸せは、みんな最初から全部揃っているんだから。
「そういうことだな、幸福駅も幸福切符も必要ないのさ。…今の時代は」
俺たちだって要らないだろうが、幸福切符は。
前の俺たちには必要だったが、今の俺たちには要らないってな。
「んーと…。ホントは、ちょっぴり欲しいんだけど…」
幸福駅が今もあるなら、幸福駅行きの切符が欲しいよ。
前のぼくは地球行きの切符を手に入れられなかったから…。代わりに、今の幸福切符。
「おいおい、そいつで何をするんだ?」
どんな幸せを頼むつもりだ、幸福切符に?
「決まってるでしょ、ハーレイと幸せになりたいんだよ」
前よりも、うんと幸せに。…結婚して、ハーレイと一緒に暮らして。
「幸せにって…。なれないわけがないだろう…!」
そんな切符に頼らなくても、お前は幸せになるんだろうが。
今度こそ俺と一緒に暮らして、いつまでも幸せ一杯で。
お前は帰って来たんだから。…俺の所へ。
新しい命と身体を貰って、うんと幸せに生きて行ける地球に生まれて来たんだから。
幸福駅の役目がすっかり終わっちまったほど、平和で幸せな青い地球にな。
そうじゃないのか、と言われた通りに、今の時代は幸福駅が要らない時代。幸福駅行きの切符が無くても、生きているだけで誰もが幸せになれる。青い地球でも、他の星でも。
人間は全てミュウになったし、大きな幸せは最初から持っているものだから。もうちょっと、と願う幸せも、生きていればきっと貰えるのだから。
「いいか、今の俺たちが生きてる時代ってヤツは、だ…」
誰でも幸せを山ほど抱えて、幸福駅に向かって歩いているってな。自分の足で。
自分だけの幸せを見付けていくんだ、歩きながら。幸福駅はいつでも、目の前なのさ。
一歩進めば、直ぐに幸福駅に着く。もっと、と先へ進んで行ったら、其処にも幸福駅ってな。
「そうかもね…!」
歩けば歩くほど幸せになってゆけるんだものね、今の時代は。
明日は今日よりもっと幸せで、その次は、もっと。
いつかハーレイと結婚したって、幸せはまだまだあるんだもの。幸福駅が一杯、駅が山ほど。
自分で歩いて見付けるんだね、今の時代の幸福駅は…。
幾つも幾つもある幸福駅、と胸に溢れた幸せな気持ち。今は幸福駅が幾つも。
この幸せな今の時代を、ハーレイと二人で歩いてゆこう。
幸福駅に行く列車は無くても、線路も無くても、幸福駅はあるのだから。
切符が売られる駅とは違って、誰の前にもある幸福駅。
何処までも、いつまでも、幸せの中を、ハーレイと歩いてゆけるのだから…。
幸福への切符・了
※遠い昔に実在していた幸福駅。そこの切符が人気だったように、前のブルーが望んだ切符。
地球へ行く切符は、手に入らないままでしたけど…。今は幸福駅の切符も要らない時代。
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