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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧
(うーん…)
 ちょっぴり熱い、と小さなブルーが顰めた顔。学校から帰って、おやつの時間に。
 熱いと感じたものは紅茶で、本当は「ちょっぴり」どころではない。カップからホカホカと立ち昇る湯気は、まだ衰えてはいないから。
(これじゃ飲めない…)
 珍しく喉が渇いているから、ゴクゴク飲みたい気分なのに。水みたいに飲んでしまいたいのに、熱すぎる紅茶。母が淹れてくれたカップの中身は、さっき注がれたばかりだから。
(冷ましながらだと…)
 息を吹きかけて飲んでゆくなら、少しずつ。一口分ずつ時間をかけて。
 それでは乾きが癒えてくれないし、飲み終えて次を飲もうとしたら、また熱い紅茶なのだろう。おかわり用のポットの中身も、同じに熱い筈だから。
 指で触れてみたら、やっぱり熱い陶器のポット。「中身も熱いですよ」と知らせるように。
(蓋を取っても、あんまり効果ないよね?)
 きっとそうだ、と眺めるポット。蓋の部分は小さいのだから、そうそう冷めないポットの中身。まだ熱いカップの中の紅茶をやっとの思いで飲んだ後にも、熱いままだろう母が淹れた紅茶。
(これじゃゴクゴク飲めないよ…)
 冷やさなくちゃ、とキッチンに行くことにした。
 ポットの中身の方はともかく、カップに注がれた紅茶だけでも冷やしたい。今ある一杯、これを一息に飲んでしまえたら、乾きが少し癒えそうだから。
(飲んじゃっても喉が渇いていたら…)
 その時はまた冷やせばいい。おかわり用に注いだ分を。
 カップの紅茶を冷やすくらいは、自分でも出来る簡単なこと。キッチンに行けば氷があるから、それをポチャンと落とすだけ。熱い紅茶に。
 冷凍庫の氷を、母は切らしはしないから。
(お料理で、急いで冷やさなきゃ駄目なものもあるしね?)
 そういった時に困らないよう、夏でなくても氷は沢山。熱い紅茶に幾つか入れたら、飲みやすい温度に冷める筈。「冷たい」と思うくらいにだって。



 よし、と出掛けて行ったキッチン。カップを手にして、それに氷を入れようと。
 キッチンには母がいたのだけれども、気にせずに開けた冷凍庫。「氷は此処」と。そうしたら、音で振り向いた母。
「あら、ブルー? どうしたの、冷凍庫を開けて」
 アイスクリームの季節じゃないわよ、と軽くたしなめられた。冷凍庫の中にはアイスクリームの器も入っているものだから。アップルパイなどに添えたりもするし、そのためのものが。
「アイスじゃなくって、普通の氷…」
 紅茶、熱くて飲めないんだよ。だから氷が欲しくって…。
 入れに来ただけ、と指差したカップ。冷凍庫からの冷気を浴びても、消えない湯気。
「そのくらい、直ぐに冷めるでしょ。夏じゃないんだから」
 今の季節はそれでいいの、と母に言われたけれども、自然に冷めるのを待てないから来た。喉は今でも乾いたままだし、中身を一気に飲みたいのだから。
「…喉が渇いてて、待てないんだもの…」
 少しずつ飲んでも、飲んだ気分がしないから…。いっぺんに飲んでしまわないと。
 だから氷、と強請ったものの、冷凍庫の扉は仕方なく閉めた。中の氷などが溶けないように。
「紅茶だったら、ミルクを入れれば冷えるわよ」
 冷蔵庫の方に入っているでしょ、いつものミルク。そっちを入れておきなさいな。
 カップに少し入れるだけでも違うわよ、という母の意見も分かるのだけれど。冷蔵庫のミルクは冷たいのだから、紅茶も冷えてくれそうだけれど…。
「…今日は普通の紅茶がいいよ」
 ミルクティーじゃなくって、このままがいい、と少し我儘。本当にそのままで飲みたかったし、ミルクティーはまたの機会でいい。
(…ミルクを飲むと背が伸びるって言うけれど…)
 毎朝、「早く大きくなれますように」と祈りをこめて飲んでいるけれど、それとこれとは問題が別。今の気分はミルクティーより、普通の紅茶。
 いくらミルクが背を伸ばすための魔法でも。頼もしい力を持つ飲み物でも、今の所は見られない効果。チビの自分の背は伸びないから、紅茶に少し入れたくらいでは、きっと効かない。
 効くのだったらミルクティーでもいいのだけれども、効果が無いなら普通の紅茶。



 背を伸ばしたい祈りのことは、母は知らない。背丈が伸びて前の自分と同じになったら、恋人にキスして貰えることも。その恋人がハーレイなことも。
(早く大きくなりたいよ、って所までしか…)
 母は全く知らないのだから、「ミルクティーの気分じゃない」と言っても、「仕方ないわね」と困ったような顔をしただけ。「今日はミルクじゃ駄目なのね」と。
「ミルクが嫌なら氷ってことね、分かったわ」
 じゃあ、これだけ、と冷凍庫を開けて、母がポチャンと入れてくれた氷。たったの一個。それも大きくないものを。自分で入れようと開けた時には、幾つも入れたかったのに。
「…これだけなの?」
 一個しか入れてくれないの、とカップの中を覗いたけれども、もう閉められた冷凍庫。氷の数は増えてくれない。カップの中では氷が溶けてゆく所。紅茶の方が熱いから。
「冷たすぎるのは良くないの。…お腹も身体も冷やしちゃうのよ」
 丈夫だったら冷えてもいいけど、ブルーは身体が弱いでしょう?
 だから氷は一個でいいのよ、それ以上は駄目。…そうそう、ポットの紅茶も熱すぎるのね?
 今日のブルーの気分だと、と母が訊くから、ここぞとばかりに頼んでみた。
「そうなんだけど…。氷、入れてもいい?」
 ポットの分の氷もくれるんだったら、持って行って自分で入れるから。
 氷、何かに入れてちょうだい、と指差した食器たちの棚。紅茶のカップは片手で持てるし、もう片方の手で氷を運んでゆけばいいから。適当な器に入れて貰って。
 そのつもりなのに、「駄目よ」と返した母。
「氷を持って行くのは駄目。ポットを此処に持って来て」
 紅茶のポットよ、そのままでね。…熱い紅茶は困るんでしょう?
「ポット…?」
 ママが氷を入れてくれるの、ぼくだと沢山入れすぎちゃうから…?
 これだけ、って渡して貰った氷を、全部ポットに入れそうだから…?
「それもあるけど、紅茶の方が問題なのよ」
 冷めるとお砂糖、溶けにくいでしょ。
 ブルーは甘い紅茶が好きだし、お砂糖を入れずに飲んだりしていないものね。



 ポットごと持って来なさいな、と母が言うから運んで行った。氷を入れて貰ったカップを、元のテーブルに戻してから。…ダイニングにある大きなテーブル。
 それから母にポットを渡して、また戻って来て飲んでみた紅茶。椅子に座って。
(氷、一個しか貰えないなんて…)
 もう溶けちゃった、と溜息を零していたのだけれども、舌に熱くはない感じ。火傷しそうだった熱は取れてしまって、ぬるくなったと思える温度。
(さっきほど熱くないかな、これ)
 冷ましながらでなくても飲めそう、とコクコクと飲んで、乾きが癒えてくれた喉。良かった、とホッと息をついたら、おかわり用もやって来た。母が運んで来てくれたポット。
 それは嬉しいことなのだけれど、ポットがさっきのとは違う。「氷、お願い」とキッチンの母に届けた、熱すぎた紅茶のポットとは。…大きさはともかく、模様も形も。
「ママ、ポットは?」
 持って行ったポットはどうなっちゃったの、このポット、違うポットだよ…?
 冷たい紅茶にしてくれたの、と尋ねてみたら、「少しだけね」と微笑んだ母。
「ほんの少しよ、冷たいっていうほどじゃないわね」
 ポットごと中身を冷やして来たのよ、冷たいお水で。…その前にちゃんとお砂糖も入れて。
 今はアイスティーの季節じゃないでしょ、カップの紅茶にシロップはちょっと…。
 似合わないから、最初から甘くしてみたの。
 ブルーが入れたいお砂糖の量は、ママだって知っているものね。このくらい、って。
 熱い間にお砂糖を溶かして、溶けたらポットごと冷やすんだけど…。
 さっきのポットは熱くなってたから、早く冷えるように入れ替えたのよ。冷たいポットに。
 最初から冷えたポットだったら、冷えてくれるのも早くなるでしょ、と母は説明してくれた。
 「お砂糖を入れなくても甘い筈よ」と、置いて行ってくれたポットの中身は…。
(ホントだ、熱くなくって、甘い…)
 カップに注いで一口飲んだら、直ぐに分かった。
 アイスティーの冷たさとは違った、ぬるめの紅茶。氷を一個落として貰ったカップと、似ている温度。母が「身体にいい」と思う温度がこれなのだろう。
 それに甘さも丁度いいもの、自分の好み。甘すぎもしなくて、甘さが足りないほどでもなくて。



 流石はママ、とゴクゴクと飲んだカップの中身。喉の渇きは消えていたけれど、せっかくだから一息に、と。これでカップに二杯も飲んだし、充分、満足。
 次はケーキ、と母が焼いてくれた美味しいケーキを頬張った。喉が渇いていた間には、ケーキな気分ではなかったから。
 ケーキをフォークで口に運んで、眺める新しいポット。母が入れ替えて来てくれたもの。
(アイスティー、こうやって淹れていたっけ…)
 夏の間に見た光景。
 熱い季節は紅茶もアイスティーだったけれど、淹れた時には当然、熱い。紅茶を美味しく淹れるためには欠かせないのが熱いお湯。いくら夏でも、うだるような暑さが続いていても。
 夏の室温では、熱い紅茶はなかなか冷めない。冷房を入れてある部屋でも。
(だから、ポットごと…)
 母は急いで冷やしていた。茶葉が開きすぎてしまわない間に、冷たい水にポットごと浸けて。
 ポットを浸けた水がぬるくなる前に、捨てては注いだ冷たい水。時には氷も加えたりして。
 きちんと冷えたら、紅茶を移したガラスのポット。とても涼しげに見えるから。
(ガラスのポットでも、紅茶は淹れられるんだけど…)
 フルーツティーを作る時なら、母はガラスのポットを使う。茶葉と、色々なフルーツを入れて。中の果物がよく見えるようにガラスのポット。熱いお湯でも割れないガラス。
 夏に何度も飲んだアイスティーは、そういうポットに入っていた。冷えているから、沢山の露を纏ったガラスのポットに。
 あの時はシロップ入りの小さな器が、ポットに添えられていたけれど…。
(お砂糖を先に入れておく方法、あったんだ…)
 熱い間に溶かしてしまえば、充分に甘くなる紅茶。シロップ無しでも。
 考えてみれば、そう難しくはないのだろう。出来上がりの甘さが分かっているなら、必要な量の砂糖を溶かして冷やすだけ。
(ママ、お砂糖の量、ちゃんと分かってくれているしね?)
 だからこういう作り方だって出来るんだ、と思った紅茶の冷やし方。
 シロップは無しで、初めからつけておく甘み。冷めた紅茶だと砂糖は溶けてくれないのだから、考えてくれた優しい母。自分が勝手にやっていたなら、氷を放り込んだだろうに。



 母のお蔭で美味しく飲めた、甘くしてあったポットの紅茶。ケーキも食べ終えて、戻った二階の自分の部屋。勉強机の前に座って、考えてみた紅茶のこと。
(さっきの紅茶はぬるかったけれど、アイスティーだって…)
 きっと母なら同じように手早く作るのだろう。最初から甘くしてあるものを。シロップ無しでも充分に甘い、自分の舌にピッタリなのを。
(アイスティーがいいな、って急に言っても…)
 淹れて貰えるだろうと思う。自分の身体が弱くなければ、それこそ冬の最中でも。家まで走って帰って来たから暑かった、と注文すれば。「冷たい紅茶がいいんだけれど」と言ったなら。
 弱い身体に毒でさえなければ、アイスティーもホットも注文出来る。その日の気分で。
(もうちょっと丈夫だったらね…)
 今日だってもっと冷たい紅茶、と思ったら不意に掠めた記憶。
 冷たいのがいい、と強請った自分。幼かった頃の記憶ではなくて、遠く遥かな時の彼方で。
(前のぼく…?)
 いったい誰に言ったのだろう、と首を傾げてしまった記憶。誰に強請っていたのだろう、と。
 今日の自分がやっていたように、「冷たいのがいい」と強請ったソルジャー・ブルー。それともチビの頃だったろうか、まだソルジャーではなかった頃の。
 シャングリラにも紅茶はあったけれども、その紅茶。あの船で淹れていた紅茶なら…。
(食堂だったら、アイスかホット…)
 白い鯨になった船なら、好みの方を選べた筈。誰でも、それを注文すれば。
 紅茶も、それにコーヒーだって、アイスかホットか、好きに選んで飲めた食堂。シャングリラで栽培された紅茶は、香り高くはなかったけれど。コーヒーは代用品だったけれど。
(…紅茶は本物のお茶の葉っぱで、コーヒーはキャロブ…)
 今の時代はヘルシー食品になっているキャロブ、イナゴ豆とも呼ばれる豆。元はチョコレートの代用品で、コーヒーやココアも作れるからと栽培していた。合成よりは代用品の方がいい、と。
 贅沢を言いさえしなかったなら、紅茶もコーヒーもあった船。
 アイスクリームまで作っていた船なのだし、食堂には常に氷が沢山。皆が気軽に注文していた、氷が入った冷たい飲み物。
 白い鯨なら、強請る必要など無かっただろう。「冷たいのがいい」と、船の誰かに。
 食堂に出掛けて「アイスで」と言えばいいのだから。強請るのではなくて、注文するだけ。



 前の自分はソルジャーだったけれど、食事は青の間で食べていたけれど。
 食堂に行ったこともあったし、注文したって誰も困りはしない。頼んだ物が出て来るだけ。
(改造前の船だって…)
 飲み物を冷たくするかどうかは、充分に選べたと思う。氷を作って入れる程度ならば、それほど手間はかからないから。
 船での暮らしに馴染んで来たなら、誰でも自由に頼めただろう。食堂に出掛けて、好きな温度の飲み物を。その日の気分で、ホットでも、氷をたっぷりと入れた冷たいアイスでも。
(休憩室にも…)
 飲み物を淹れられる設備はあったし、氷も備えられていた。あの時代ならば、コーヒーは本物のコーヒー豆から出来たコーヒー。紅茶もコーヒーも、全て略奪品だったから。
 前の自分が人類の船から奪った物資で、皆の暮らしを維持していた船。自給自足の白い鯨とは、まるで違っていた生き方。
 それでも自由に頼めた飲み物、アイスもホットも。休憩室で淹れるのだったら、自分たちの手で好きに作れた。熱い紅茶も、氷で冷たくしたものも。
(前のぼくでも、冷たいの…)
 作ろうと思えば作れた筈で、作っていたという覚えもある。青の間でだって。
 青の間で食べた三度の食事は、食堂の者たちが作りに来ていた。小さなキッチンで出来る料理は其処で作って、時間がかかる料理だったらキッチンでは最後の仕上げだけ。
 だから常駐していなかった料理人。食事の時だけ、当番の者がやって来た。
 部屋付きの係も掃除などが済んだら帰ってゆくから、大抵は一人で過ごしていた部屋。
(何か飲みたくなったから、って…)
 わざわざ係を呼びはしないし、自分で淹れていた紅茶。冷たい紅茶が飲みたくなったら、冷凍庫から出した氷を入れた。シロップも多分、あったのだろう。
(前のぼく、ママとは違うから…)
 先に砂糖を加えることなど、思い付きさえしなかった筈。熱い紅茶を氷で冷やして、シロップを入れて、それで満足。「甘くなった」と、「今日は冷たい紅茶の気分」と。
 前の自分でも、好きに選べただろう飲み物。熱いホットか、冷たいアイスか。
 白い鯨になる前の船でも、青の間の住人になった後でも。



 その筈なのに、誰に強請っていたのだろうか。「冷たいのがいい」と、あの船で。
 誰に向かって言っていたのか、自分でもちゃんと作れたのに。注文することも出来たのに。
(前のハーレイくらいしか…)
 思い付かない、強請った相手。
 燃えるアルタミラで出会った時から、ハーレイは一番の友達だった。恋人同士になる前から。
 他の仲間には遠慮したって、ハーレイには甘えていた自分。頼み事でも、相談でも。
 ハーレイをキャプテンに推した時でも、ハーレイだから遠慮しなかった。他の誰よりも、自分と息が合うハーレイ。そのハーレイにキャプテンになって欲しかったから…。
(なってくれるといいな、って…)
 頼んでみよう、とハーレイの部屋に行ったほど。
 厨房を居場所にしていたハーレイ、キャプテンとはまるで無縁な持ち場。フライパンを扱うのと船の操舵は違いすぎるのに、「似たようなものだと思うけどね?」とまで言った自分。
 あれがハーレイでなかったならば、そんな無茶はしていないだろう。厨房からブリッジに移ってくれと、とんでもない転身を頼むことなど。
(…ハーレイだから、無理を言えたんだけど…)
 そんな調子で色々なことを頼んだけれども、今、気になるのは冷たい飲み物。前の自分が誰かに強請った、「冷たいのがいい」という言葉。
 たかが冷たい飲み物なのだし、わざわざハーレイに頼まなくても…。
(飲めるよね?)
 冷えた飲み物くらいだったら、食堂で、それに休憩室で。白い鯨になる前の船でも、ハーレイの手を煩わせないで飲めた筈。
 青の間が出来た後の時代も、自分で好きに淹れられた。思い立った時に、氷を入れて。
 そう思うけれど、強請っていた記憶。
 かなり我儘に「冷たいのがいい」と、子供が駄々をこねるみたいに。
 そこまでのことをやっていたなら、相手はハーレイしか有り得ない。いくら親しくても、ゼルやブラウたちを相手に言うとは思えないから。
 けれど、問題はそれを強請った理由。冷たい飲み物は自由に飲めたし、食堂に行けば係が作ってくれたのだから。



 白い鯨でも、改造前の船でも、いつでも飲めた冷たい飲み物。欲しいと思いさえすれば。
 簡単に飲むことが出来たというのに、何故、ハーレイに強請ったのか。
(チビだった頃かな…?)
 今の自分と変わらないチビで、前のハーレイの後ろにくっついていた時代。あの頃ならば、船の仲間たちに遠慮もあったし、食堂の係が忙しくしていたならば…。
(冷たい飲み物、欲しくても…)
 頼みにくくて、ハーレイに強請ったかもしれない。「冷たいのが欲しい」と、食堂へ食事をしに行った時に。自分では少し言い辛いから、代わりに頼んで貰おうと。
(…ありそうな話なんだけど…)
 そう思うけれど、もっと育っていた気もする。「冷たいのがいい」と強請った自分。
 遠い記憶を探る間に、浮かび上がって来たソルジャー・ブルー。しかも青の間、其処で強請っていた記憶。一度ではなくて、何度でも。…きっとハーレイを相手にして。
(なんで青の間で強請るわけ…?)
 青の間だったら、それこそ何時でも飲み放題。食事を作る係が来ていなくても、部屋付きの係がいなくても。…自分で紅茶を淹れさえしたなら、後は氷を放り込むだけ。欲しい分だけ。
 紅茶は自分で淹れていたのだし、氷は係が切らさないようにしていた筈。食事係は必ずチェックしていたし、部屋付きの係も忘れはしない。それも仕事の内なのだから。
(氷が切れちゃうなんてことは、絶対に無いし…)
 思い当たらない、ハーレイに強請っていた理由。
 青の間では自由に飲めた飲み物、強請る必要など何処にも無い。紅茶でなくても、冷蔵庫の中にあった飲み物。欲しい時には飲めるようにと、冷やされていたジュースなど。
(ジュースだったら、注ぐだけだよ?)
 淹れる手間さえ省けるジュース。これにしよう、と冷蔵庫から出してグラスに注ぎ入れるだけ。あれも係が補充したから、切れることなど無かったと思う。
(いっぺんに全部、飲んじゃったって…)
 食事係か部屋付きの係、どちらかが気付いて新しいのを入れるだろう。そうでなくても、減って来たことに気付いたならば、新しいものを追加する。
 飲みたい時に足りなかったら、ソルジャーに対して失礼だから。前の自分が咎めなくても、係の方では平謝りになったろうから。



 飲み物に関しては何の不自由もなく、青の間で暮らしたソルジャー・ブルー。
 冷たい飲み物が欲しくなったら、自分で作るか、冷蔵庫のジュースをグラスに注ぐか。どちらも自分の好み次第で、前のハーレイに強請らなくても、好きなだけ飲んで良かったもの。
(だけど、「冷たいのがいい」って…)
 強請った記憶が確かにあるから、それが不思議でたまらない。「なんだか変だ」と。遠い記憶をいくら探っても、出て来ない答え。冷たい飲み物を強請った理由。
(何か勘違いをしてるとか…?)
 そうなのかも、と思っていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。前のぼく、ハーレイに注文してた?」
「はあ? …注文だって?」
 何を注文するというんだ、とハーレイは怪訝そうな顔。「注文と言っても色々あるが」と。
「えっとね、冷たい飲み物なんだけど…」
 前のぼく、ハーレイに注文したかな、冷たい飲み物がいいんだけど、って。
「冷たい飲み物…。それは飲み物の種類じゃなくてだ、温度の方か?」
 紅茶よりもジュースがいいとかじゃなくて、アイスかホットか、そういう意味のことなのか?
 どうなんだ、と問い返されたから、「そう」と答えた。
「それだよ、冷やしてある飲み物。…ぼく、頼んでた?」
「いつの話だ、俺が厨房にいた頃だったら、作ってやっていたと思うが」
 俺は厨房担当なんだし、冷たいのがいいと注文されたら氷だが…。お前のグラスにたっぷりと。
「だよね…。その頃だったら、ぼくも頼んだかもしれないけれど…」
 ハーレイが料理を作ってる時に、厨房を覗きに行ったりしたら。
 でもね、あの頃よりもっと後だよ、青の間なんだよ。…ハーレイに注文したらしいのは。
 厨房だったら分かるんだけど、と話したら、ハーレイが眉間に寄せた皺。ただの癖だし、怒ったわけではないのだけれど。
「青の間だってか? そいつは妙だな…」
 あそこだったら、お前、自分で作れただろうが。冷たい飲み物はいくらでも。
 冷蔵庫にジュースも入ってたんだし、好きな時に飲めた筈なんだがな…?



 なんだって俺に頼むんだ、とハーレイにも分からないらしい。その注文をされた理由が。
「俺に頼むよりも早いと思うぞ、お前が自分で用意した方が」
 ジュースだったら注ぐだけでいいし、冷たい紅茶にしてもだな…。
 湯から沸かして淹れるにしたって、俺を呼び出すより、断然、早い。
 いいか、俺の居場所はブリッジなんだ。「ソルジャーがお呼びだ」と抜けるにしても…。
 青の間まで急いで行ったとしたって、それから紅茶を淹れて冷まして、どれだけかかる?
 お前が自分で淹れるんだったら、俺が青の間に着いた頃には、冷ます段階に入っているぞ?
 間違いなくな、とハーレイも指摘した、冷たい飲み物が出来るまでの時間。ハーレイが来てから作り始めたなら、飲めるまでには余分な時間がかかる筈。ハーレイの到着を待った分だけ。
「ハーレイもそう思うよね? ぼくも変だと思ってて…」
 それで訊いたんだよ、前のハーレイに注文してたのか。冷たい飲み物が欲しい、って。
 やっぱり何かの勘違いかな、ハーレイに頼む理由が何処にも無いもんね…?
 お願い、って強請ってたように思うんだけれど、夢だったのかな…?
 そういう夢を何度も見ていたのかな、と捻った首。「それとも、本当にあったのかな?」と。
「本当も何も…。冷たい飲み物を強請ったってか?」
 有り得んだろうが、青の間だったら飲み放題だぞ、冷たいのも。
 紅茶を冷やす氷は係が切らしやしないし、ジュースも冷えているんだし…。
 元から冷えてるジュースの中にも、氷はいくらでも入れられたんだ。好きなだけな。
 誰もお前を止めやしないし、お前は好きに飲めるってわけで…。
 待て、強請ったと言ってたか…?
 お前は俺に強請ったのか、と瞳を覗き込まれた。「強請ったんだな?」と、念を押すように。
「そんな気がして仕方ないんだけれど…。ちっとも思い出せないんだよ」
 ハーレイは何か思い出したの、前のぼくはホントに強請っていたの…?
 冷たい飲み物が欲しいんだけど、ってハーレイに…?
「…思い出したとも」
 嫌というほど思い出しちまった、前のお前がやらかしたこと。
 冷たい飲み物が欲しくなったら強請って来たんだ、前の俺にな。…あの青の間で。



 実に厄介なソルジャーだった、とハーレイがついた深い溜息。
 厄介だなどと言われるだなんて、前の自分はハーレイに何をしたのだろう…?
「えっと…。前のぼく、何処が厄介だったわけ…?」
 冷たい飲み物を頼んだだけだよ、それだけだったら厄介じゃないと思うけど…。
 ハーレイがブリッジから走って来たなら大変だけれど、そんな無茶な注文、しない筈だよ…?
 仕事の邪魔をするわけないよ、と自信を持って言えること。前の自分の立場はソルジャー、前のハーレイは船を預かるキャプテン。
 恋人同士になった後にも、お互い、きちんと弁えていた。いくらハーレイに甘えたくても、前の自分は呼び付けはしない。…ハーレイが仕事をしているのならば、どんなに寂しい気分でも。
 だから冷たい飲み物くらいで呼ぶわけがない、と考えたのに…。
「厄介も何も、前のお前の我儘ってヤツだ」
 あんな我儘なヤツは知らんな、ソルジャーのくせに。…とてもソルジャーとは思えなかった。
 他のヤツらには見せられやしない、まるで示しがつかないから。
 ソルジャーは皆の手本でないと、と顰められた眉。「あれをやったお前は我儘すぎだ」と。
「我儘って…?」
 冷たい飲み物が欲しかっただけで、なんで我儘になっちゃうの?
 前のぼく、ハーレイが仕事中の時は、邪魔はしてない筈なんだけど…。
 その筈だけど、と揺らぎ始めた自信。ハーレイの邪魔をしたのだろうか、前の自分は…?
「仕事中ではなかったが…。お前に仕事の邪魔をされてはいなかったんだが…」
 厄介な注文には違いなかった、前のお前が冷たい飲み物を強請るのは。
 普段だったら、俺も困りはしないんだが…。紅茶だろうがジュースだろうが、欲しいと言うなら好きなだけ飲ませてやるんだが…。
 覚えていないか、お前が俺に強請っていたのは、ノルディが駄目だと言ってた時だ。
 お前が体調を崩しちまって、色々な制限がかかっていた時。
 食事はもちろん病人食だが、俺のスープしか飲めないわけではなかったな。
 しかし冷たい飲み物は禁止で、「飲まないように」とノルディが釘を刺してたんだが…?



 それでも欲しがったのがお前だ、と見据えられたら思い出した。前の自分と冷たい飲み物。
(…冷たいの、欲しかったんだっけ…)
 あれだ、と蘇って来た記憶。前の自分が熱を出して寝込んでしまった時。
 熱を下げることは大切だけれど、冷えすぎると身体を弱らせるから、冷たい飲み物を飲むことは禁止。熱っぽい喉には心地良さそうな、冷蔵庫や氷でキンと冷やした飲み物は全部。
 けれど、欲しくて強請ったのだった。
 食事係や部屋付きの係には断られるのが分かっているから、大人しくしていた前の自分。冷たい飲み物がいくら欲しくても、彼らが差し出す温かいスープなどを飲んで我慢して。
 そうやって夜まで続けた我慢。「夜になったら、ハーレイが此処に来るんだから」と。
 あの我儘を言った頃には、もうハーレイとは恋人同士。夜はハーレイが青の間に泊まるか、前の自分がキャプテンの部屋に泊まりにゆくか。
 具合が悪くなった時でも、ハーレイは添い寝してくれた。ソルジャーへの報告は手短に終えて、前の自分を気遣いながら。
 だからハーレイがやって来るなり、「欲しい」と駄々をこねた飲み物。ノルディが禁じた冷たい飲み物、それまで我慢していたものを。
「…あれって、ハーレイ、くれないんだよ」
 ぼくが欲しがっても、「いけません」って怖い顔をして。…睨んだりもして。
 ハーレイが来るまで我慢してた、って言ってみたって、「駄目なものは駄目です」って、絶対に飲ませてくれないんだから。
 前のハーレイもケチだったよ、と上目遣いに睨んでやった。今のハーレイはキスをくれないケチだけれども、前のハーレイもケチだったっけ、と。
「今のお前のことはともかく、前のお前の方なら、あれが当然だろうが」
 ノルディが駄目だと言った以上は駄目なんだ。お前の身体に悪いんだから。
 お前がコッソリ飲まないようにと、食事係や部屋付きの係にも徹底させていただろうが。
 上手いことを言って、係を騙して飲みかねないしな、悪知恵の働くソルジャーは。
 俺だって、お前が何を言おうが、その手には乗りやしないんだが…。
 身体に良くない飲み物は駄目で、飲ませるなんぞは論外ってことになるんだが…。



 お前というヤツは知恵をつけやがって…、と肩を竦めているハーレイ。「あれには参った」と。
 参ったと口にしているからには、前の自分は冷たい飲み物を飲ませて貰えたのだろうか?
「…知恵って、なあに?」
 それでハーレイ、飲ませてくれたの、ノルディは禁止していたけれど…?
 ぼくが欲しかった冷たい飲み物、と水を向けたら、「まったく、前のお前ときたら…」と零れた溜息。「あれは反則だと思うがな?」と。
「お前が使ったのは悪知恵ってヤツだ。…もう長くないと言い出すんだ」
 俺が「駄目だ」と苦い顔をしたら、途端に言うのが「もうすぐ死んでしまうのに」だった。
 まだ充分に寿命があった頃から、「死ぬ前に飲ませてくれ」なんだから。
 重病ってわけでもなかったくせに、と今のハーレイも呆れ顔。前のハーレイと全く同じに。
「そうだっけ…。前のぼくのお願い、それだったっけね…」
 よくハーレイを困らせていたよ、「じきに死ぬから、ぼくの最後のお願い」だってね。
 少しでいいから、冷たい飲み物をぼくに飲ませて欲しいんだけど、って。
 それでもハーレイ、くれなかったよ。…ぼくの最後のお願いなのに。
 前のハーレイもやっぱりケチだ、と唇を少し尖らせてやった。芝居とはいえ、前の自分の最後の頼みを無視したハーレイ。冷たい飲み物は貰えなかったし、前のハーレイもケチなのだから。
 どっちのハーレイもケチはおんなじ、と思ったのだけれど…。
「ケチ呼ばわりをされる覚えはないな。…俺は飲ませてやったんだから」
 そうだ、きちんと飲ませたぞ。前のお前の最後の望みだ、それは叶えてやらんとな。
 もっとも、あまり思い出して欲しくはないんだが…。
 お前が調子に乗るだけだしな、とハーレイが妙なことを言うから、キョトンとした。
「え…?」
 最後のお願い、ハーレイは聞いてくれたんだよね?
 ぼくが欲しかった冷たい飲み物、ちゃんと飲ませてくれたんでしょ…?
「其処だ、言いたくないのはな。…確かに飲ませてやったんだが…」
 冷たい飲み物を飲ませたんだが、冷たくなかったというわけだ。
 お前の身体に障らないよう、適温になっていたからな。
 早い話が、俺がお前に飲ませた時には、そこそこ温まっていたもんだから。



 「冷たかったが、冷たくなかった」というのがハーレイの言葉。
 どうやら温まっていたらしい飲み物、それでは欲しがる意味が無い。最後の望みだとまで言って強請っても、冷たい飲み物を貰えないなら。
「なんなの、それ?」
 ぼくが強請っても、ハーレイ、違うのを寄越してたわけ…?
 温かい飲み物を飲ませてたくせに、「ちゃんと飲ませた」って威張っているの…?
 覚えていないと思って酷いんだから、と膨れたけれども、ハーレイはまるで動じない。
「そう思うのはお前の勝手だ、これ以上は言わん」
 とにかく俺はお前に飲ませてやったからな、と結ばれた唇。それ以上のことは聞けないらしい。
(んーと…?)
 頼れるのは自分の記憶だけなのか、と懸命に探ることにした。前の自分の遠い記憶を。
 ハーレイに飲ませて貰えたけれども、
冷たくなかった冷たい飲み物。
 ノルディが指示していった通りに温まっていて、今のハーレイは思い出して欲しくはなくて…。
 どうやって飲ませたのだろう、と思う飲み物。
 冷たい飲み物を欲しがったのだし、温まっていたら、怒りそうなものだと考えたけれど。
 差し出されても素直に飲み込むどころか、突き返しそうだと思ったのだけど…。
(…口移し…!)
 キスだ、と気付いた冷たい飲み物の飲ませ方。前の自分の「最後のお願い」。
 これが最後のお願いだから、と言ってやったら、ハーレイはちゃんと飲ませてくれた。冷蔵庫にあった冷たいジュースや、冷やして冷たくした紅茶を。
 グラスやカップに注ぎ入れたら、ハーレイが自分の口に含んでから、ゆっくりと。
 そうっと唇を合わせて重ねて、キスをする代わりに流し込んで。
(…強請るわけだよ…)
 あんな飲み方をしていたのならば、酷い我儘を言ってまで。
 「ぼくはもうすぐ死んでしまうから、これが最後のお願いだよ」と困らせてまで。
 死にそうな気分はしていないのに、さほど重病でもなかったのに。
 それを口実に強請った飲み物、「冷たいのが欲しい」と。
 温かい飲み物は欲しくないからと、「冷えているのを最後に飲みたい」と。



 そうだったのか、と合点がいった、前の自分が強請ったもの。冷たい飲み物を欲しがった理由。
「思い出したよ、ハーレイが飲ませてくれてたんだよ」
 冷たいのを、ちょっと温めてから。…それなら冷たいままじゃないから。
 ジュースも、それに冷たい紅茶も…、と幸せな気分に包まれた。前の自分がそうだったように。
「分かったか、チビ。前の俺はケチじゃなかったとな」
 俺はきちんと飲ませていたんだ、前のお前の注文通りに。
 「ぼくの最後のお願いだよ」と強請られる度に、ジュースも、冷たい紅茶ってヤツも。
 少しもケチではないだろうが、とハーレイが胸を張るものだから。
「…もう冷たくはなかったけどね?」
 ジュースも紅茶もぬるくなってて、ちっとも冷たくなかったんだけど…。
 ぼくは冷たいのと言ったのに、と苦情を述べたけれども、ハーレイはフンと鼻を鳴らした。
「お前の身体には、あれくらいで丁度だったんだ!」
 言われた通りに飲ませていたなら、お前、具合が悪くなったに決まってるだろう…!
「…そうかもだけど…。今のぼくには?」
 病気の時にね、お願いしたら飲ませてくれるの、前みたいに…?
 冷たい飲み物が駄目な時は、と期待したのに、「まだ早い!」と叱られた。言った途端に。
「お前はチビで子供だろうが、前のお前のようにはいかん!」
「…じゃあ、育ったら飲ませてくれる?」
 ぼくが病気になっちゃった時は。…冷たい飲み物、禁止された時は。
 今のぼくでも前と同じで飲ませてくれるの、と見詰めた恋人。「ケチじゃないんでしょ?」と。
「…駄目とは言わんが…。そうなった時は飲ませてやるが…」
 そうなる前にだ、まずは丈夫になってくれ。
 せっかく新しい身体なんだし、「最後のお願い」なんてことは言えない身体にな。
 よく言うだろうが、「殺しても死にそうにないようなヤツ」と。
 そっちで頼む、とハーレイは半ば本気のようだけれども…。
「無理!」
 知っているでしょ、今のぼくも身体が弱いってこと。
 そんなに丈夫になれやしないよ、前と同じで弱くて死にそうになるんだってば…!



 病気になったら、すぐ死にそうになるんだよ、と返してやった。
 本当は其処まで弱くないけれど、今の自分もきっと育っても弱いまま。前と同じに。
 だから病気になった時には、ハーレイに強請ってみることにしよう。
 「冷たいのがいいよ」と、「ぼくの最後のお願いだから」と、前の自分が何度も言った台詞で。
 今度はハーレイと結婚してずっと一緒だけれども、死ぬ時も二人一緒だけれど。
 前の自分たちは、一度は死んで離れてしまったのだから…。
(ハーレイだって、きっと前より優しい筈だよ)
 それに、本当に寿命の残りが少なかった頃のぼくまで知ってるものね、と浮かべた笑み。
 前のハーレイと同じに優しいだろう今のハーレイ、もっと優しい筈のハーレイ。
 いつか病気になった時には、そのハーレイに冷たい飲み物を飲ませて貰おう。
 きっといつかは、口移し。
 結婚した後に病気になったら、冷たい飲み物は駄目だと言われてしまったら…。




                冷たい飲み物・了


※前のブルーがハーレイに強請った、冷たい飲み物。ノルディに禁止されても我儘な注文。
 ハーレイは、ちゃんと飲ませてくれたのです。口移しで、体温で温めて。強請ったのも当然。
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(星空テラス…)
 ふうん、とブルーが眺めた新聞。学校から帰って、おやつの時間に。
 星空テラス、そういう名前のバーの紹介。たまに見かける、記者たちが書く店などの記事。
(なんだか素敵…)
 名前に惹かれてしまったお店。星空テラスだから夜だけの店。バーだけに、当然と言えば当然。
 けれども、ソフトドリンクも沢山あるという。アルコールが入っていないカクテル。女性たちに人気で、お酒は全く注文しないでソフトドリンクだけの人も多い店。
 その上、店の名前通りに…。
(一面の星…)
 庭に面した大きなガラス窓の外。街の中だから、見える星の数は郊外ほどではないけれど。天の川だって無理なのだけれど、それでも星が瞬く夜空。外にはテラス席だって。
 天気が良ければ星空の下で傾けるグラス。寒い冬でも希望したならテラス席。冬は空気が澄んでいるから、夏よりも星が綺麗だという。凍えそうな夜も、客が絶えないのがテラス席。
(多分、シールドするんだろうけど…)
 今の時代は人間は一人残らずミュウ。自分のようにサイオンが不器用でなければ、簡単に張れてしまうシールド。もっとも、シールド越しに眺める星は色がつくかもしれないから…。
(本当に星が好きな人だと、シールドは無しで厚着かも…)
 そんな感じがしないでもない。サイオンの光を帯びた星より、夜空に見えるままの星。そっちの方が遥かにいい、と外に座っていそうな人たち。
 テラス席の上には星空だけれど、空が無い店の中だって…。
(天井が星空…)
 星空テラスの名前通りに、暗い店内を彩る星たち。バーは照明が控えめだから、それを生かした店作り。天井を使って、プラネタリウムのように見せる季節の星空。
 春には春の星座が昇るし、夏に秋にと変わってゆく。本物の空の星座と同じに。
 いつでも星が見えるものだから、ロマンチックで恋人たちにも人気の店。一人で出掛けて、星を眺めながらゆったり楽しむ常連客も。
 隅っこの方で、有名人が飲んでいることもあるらしい。誰にも知られず、ひっそりと。



 ちょっといいよね、と熱心に読んでしまった記事。チビの自分は、バーの客にはなれないのに。
(いつかハーレイと…)
 行きたい気がする星空テラス。お酒を飲める年ではなくても、デートに行けるようになったら。結婚出来る年は十八歳でも、お酒は二十歳まで禁止。
 結婚しようという頃になったら、バーに行ってもいいだろう。ハーレイはお酒が飲める年だし、お酒は飲めない自分の方も…。
(アルコール抜きのソフトドリンク…)
 それを注文すればいい。お酒が飲めなくても、星空テラスに行く人たちはいるようだから。
 行ってみたいな、と考えながら戻った二階の自分の部屋。おやつを食べ終えて、新聞を閉じて。
(星空テラスっていうのが素敵…)
 名前だけでも惹かれたけれども、中身の方も素敵なバー。お酒が駄目でも憧れの店。今の自分もお酒は多分、まるで飲めないような気がしているけれど。
(前のぼく、少しも飲めなかったし…)
 ハーレイの真似がしたくて飲んでも、すぐに酔っ払ったソルジャー・ブルー。翌日の朝には酷い二日酔い、頭痛などに苦しめられていた。今の自分も、きっと変わりはしないだろう。
 そうは思っても、行きたくなるのが星空テラス。恋人たちに人気で、星が一杯。
 テラス席なら本物の星空、大きなガラス窓の向こうも星が幾つも瞬く夜空。それが売りのバー。窓辺の席に座らなくても、店の天井に輝く星たち。
(ロマンチックだよね…)
 曇りや雨が降る夜にだって、店の中には星空がある。天井を仰げば季節の星空。春ならば春の、夏には夏の星座を映した店の天井。
(プラネタリウムとおんなじ仕掛け…)
 きっとそういう仕組みだろう。プラネタリウムのような、ドーム型の天井ではなくたって。
 投影機さえあれば映し出せるのが季節の星座。ドームになっていないのならば、機械を調整してやればいい。上手い具合に映るようにと。



 ドームでなくても映し出せること、それを自分は知っている。正確に言うなら、前の自分が。
(天体の間だって、そういうやり方…)
 あの広かった部屋の天井は、ドームにはなっていなかった。夜になったら。投影していた地球の星座たち。地球で夜空を仰いだならば、こう見えるのだ、と皆が仰いだ季節の星座。
 北半球のも、南半球のも自在に映せた投影機。前の自分もハーレイと眺めていたけれど…。
(あれ…?)
 もしかしたら、と気付いたこと。
 前のハーレイとは、天体の間に映し出される星座を何度も見に行ったのに…。
(本物の星空、見ていない…?)
 夜空に幾つも煌めく星たち。地球のそれとは違う星でも。
 考えてみたら、アルテメシアではシャングリラは雲の中にいた。消えることのない雲の海の中、それでは星を仰げはしない。星座でなくても、暮れ始めた空に最初に輝く一番星でも。
 船の外へと出た時だったら、雲の海の上にアルテメシアの星があっても…。
(ハーレイ、一緒じゃなかったから…)
 キャプテンは船を守るのが仕事、前の自分のように外へ出はしない。出たとしたって、せいぜい船体の確認程度で、前の自分と二人で出掛けることは無かった。ただの一度も。
 だからハーレイとは、星空などは見ていない。アルテメシアの夜空に輝く星は。
 それよりも前の、瞬かない星が幾つも散らばる宇宙を旅していた時代には…。
(恋人同士じゃなかったから…)
 二人で星を眺めただけ。友達同士で、船から見える星たちを。
 白い鯨になる前の船なら、窓の側を通りかかった時に。ブリッジからも星は見えていた。改造が済んで展望室が出来た後なら、あそこの大きなガラス窓から。
 アルテメシアに辿り着くまで、星は何度も二人で見ていたのだけれど…。
(…恋人同士で見ていないんだ…)
 夜空を彩る宝石箱。煌めき、星座を作る星たち。
 アルテメシアの星座でさえも、前の自分たちは仰いでいない。本物の星が輝く場所では、一度も過ごしていなかった。アルテメシアから逃げ出した後は、前の自分は臥せっていたから。
 あの時なら、星もあったのに。…展望室の窓の向こうに、瞬かない星があっただろうに。



 前のハーレイとは星を見ていなかった、と思い至ったら、俄かに行きたくなって来た。
 さっき新聞で見ていたバー。「ちょっといいよね」と記事を読んでいた星空テラスという店に。
(今はチビだから、無理だけど…)
 いつか絶対、ハーレイと二人で行かなくちゃ、と思う星空テラス。前のハーレイとは恋人同士で見ていなかった、本物の星空。その分を二人で取り戻さなくちゃいけないよ、と。
(大変…!)
 今の今まで、それに気付いていなかったなんて。一日も早く大きくなって、ハーレイとデートに行かないと、と考えていたらチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、急いで用件を切り出した。テーブルを挟んで向かい合うなり、もう早速に。
「あのね、デートの話だけれど…」
 行きたい場所が、と言った所で、ハーレイに「はあ?」と呆れられた。
「デートって…。いつの話をしてるんだ、お前。ずいぶんと気の早いヤツだな」
 今は駄目だと言ってるだろうが、何度言ったら分かるんだ?
 前のお前と同じ背丈に育ってから言え、と聞く耳さえも持たない恋人。「寝言なのか?」とも。
「寝言なんかじゃないってば…! それに駄目なことも知ってるよ」
 チビのぼくだと、ハーレイとデートに行けないことは…。育たないと駄目っていうことも。
 それは分かっているんだけれど…。星空テラスってお店、知ってる?
 バーなんだけど、と尋ねてみたら、「聞いたことはあるな」という返事。
「けっこう知られたバーの筈だが…。星空が売りで、店の中にも星空らしいな」
 生憎と俺は行っていないが…。そういう機会が無かったから。
「そうなんだ…。じゃあ、今の間に下見しといて」
 お願い、と恋人の瞳を見詰めた。「星空テラスを下見してよ」と。
「下見だと?」
「そう。ぼくとデートに行く時のために、今から下見」
 他の先生とか、友達とかとバーに行くなら、星空テラスに出掛けて欲しいな。
 ハーレイだったら大人なんだし、バーに行くこともありそうだものね。
「なんだって?」
 俺に下見に行けと言うのか、わざわざ「行くなら其処にしよう」と誘ってまで…?



 どうして俺が下見に行かなきゃならんのだ、と訊かれれば答えは決まっている。
「デートで行ってみたいから!」
 星空テラスがいいんだってば、ハーレイとデートに行くんなら…!
 だから下見、と食い下がった。チビの自分はまだ行けないから、先に下見をしておいて、と。
「下見って…。何かいいもの見付かったのか?」
 星空テラスはバーなんだが、とハーレイは怪訝そうな顔。「お前、酒なんか飲めないのに」と。「前のお前は飲めなかったし、今度も多分、同じだろう?」と。
 「俺が誘うんだったらともかく、お前が酒か?」と、不思議がられても譲れない。
「バーだけれども、ソフトドリンクもある筈だよ?」
 アルコール抜きのカクテルだとか。お酒が飲めない人もいるしね、バーに行っても。
「そりゃ、あるが…。ソフトドリンクも出せないバーでは、まるで話にならないんだが…」
 飲めない女性も多いからなあ、カップルで来て欲しい店なら用意しないと。
 男ばかりの店でいいなら、そんなのは抜きでいいんだが…。花が欲しけりゃ女性も要るから。
 しかしだ、お前、そんなのを何処で見たんだ?
 いきなり店の名前を名指しで、ソフトドリンクなんて言葉まで…。チビらしくないぞ?
 お前の年だとソフトドリンクとは言わん筈だが、という質問。「ジュースってトコだろ?」と。
「…新聞に記事が載ってたんだよ」
 こういうお店があるんです、っていう紹介。広告じゃなくて、記者とかが書くヤツ。
 ソフトドリンクも其処に書いてあったよ、アルコール抜きのカクテルです、って。
 沢山あって、それしか飲まないお客さんも多いんだって。…女の人たちみたいだけれど。
「なるほど、新聞で知識を仕入れて来たわけか」
 その記事の中に、美味そうなカクテルが載っていたんだな?
 チビのお前でも飲めそうな感じの、甘そうなヤツ。でもって、見た目も綺麗なのが。
 そいつを飲みに行きたいんだな、とハーレイは勘違いしてくれた。カクテルの味は関係なくて、お店の方が大切なのに。
「違うよ、そういうのじゃなくて…。ぼくが行きたいのは、お店だってば」
 とっても素敵なお店なんだよ、名前を聞いたら分かりそうだと思うんだけど…。



 星空テラスなんだもの、とハーレイに店の説明をした。新聞の記事で読んだ通りに。
 庭に面した大きなガラス窓の向こうは星空。本物の星が見える夜には。そういう日ならば、外にあるテラス席に座って星空の下。夜空に輝く幾つもの星。
 曇り空や雨が降っている夜も、店の天井にある季節の星たち。まるでプラネタリウムみたいに、映し出される様々な星座。
「ね、本当に星空テラスでしょ? テラス席なら本物の星で、お店の中にも星座なんだよ」
 星が一杯で、うんと素敵だと思わない?
 行きたくなるのが分かるでしょ、と瞬かせた瞳。「星空テラスなんだから」と。
「ロマンチックな感じではあるな、店の名前もピッタリだ」
 いい雰囲気の店なんだろう、と見当はつく。カップルの客が多そうだがな、とハーレイは見事に言い当てた。名前しか知らないと口にしたくせに。
「それなんだってば、恋人たちに人気のお店。凄いね、ハーレイ、当てちゃった…」
 デートに行くのにちょっといいよね、って考えていたら、気が付いたんだよ。
 ハーレイと星を見ていなかった、って…。
「星だって? 見たじゃないか、ちゃんと夏休みに」
 お前の家の庭で、夜に飯を食いながら。…中秋の名月も見た筈だがな?
 あれは月見で主役は月の方だったが、というのがハーレイの言い分。確かに二人で見上げた星。家の庭からならば、何度も。夜にハーレイを見送りに出たら、頭の上には星があるから。
「見たけれど…。あれは今でしょ、前のぼくだよ」
 前のぼくだと、ハーレイとは星を見ていないんだよ。二人一緒には、一回もね。
「今度は何を言い出すんだか…。お前、本当に寝ぼけてないか?」
 でなきゃ新聞記事のお蔭で、ちょいとカクテル気分とばかりに紅茶にブランデーだとか。
 それで酔っ払っているというなら、妙な台詞を吐くのも分かる。
 前のお前と俺とだったら、星なんかは腐るくらいに見たぞ。それこそ掃いて捨てるほどだ。
 船の外には星だらけだった、とハーレイも気付いていないらしい。二人で一緒に星を見たのは、いつの時代のことだったのか。
「…アルテメシアに着く前でしょ、それ」
 星は一杯あったけれども、ぼくとハーレイ、友達同士だったんだよ…。



 恋人同士になってからは一度も見てはいない、と話した星たちのこと。宇宙に散らばる瞬かない星も、アルテメシアの夜空に輝く星たちも。
「アルテメシアにも、星はあったんだけど…。ぼくは何度も見ていたけれど…」
 ハーレイは船を離れていないよ、キャプテンは船の側にいなくちゃ。…どんな時でも。
 だからね、前のぼくとハーレイ、一緒に星を見ていないんだよ。
 恋人同士になった時には、アルテメシアに着いていたから…。そうだったでしょ?
「そういや、そうか…。あそこだと、いつも雲の中だな、シャングリラは」
 雲海が船の隠れ蓑だし、出てゆくことは一度も無かった。ジョミーを助けに浮上するまでは。
 星が見られるわけがなかったんだな、雲の中では。
 お前とは見ていなかったのか…、とハーレイもようやく気付いてくれた。恋人同士で星を眺めたことなどは無い、と。
「展望室からも、もう見られなかったよ。夜に行っても、雲だけしかね」
 アルテメシアに着く前だったら、あそこから星が見えたんだけど…。前のハーレイとも、何度も見に行ったんだけど。せっかくの展望室だから。
 でも、あの頃には友達同士で、恋人同士になった後には、星は無くって…。
 こういう星をいつか見たいよね、って天体の間のを見ていただけ…。
 夜になったら映していたでしょ、あそこの天井に地球の星座を。
「お前とも見たな、あの部屋で…」
 人気だったからなあ、天体の間の地球の星座は。デカイ投影機も置いてあったし、天体の間って名前通りの部屋だった。あそこに行けば星が見えるから。…夜だけだが。
「基本は集会室だったしね。大きなホールも必要だから」
 それだけだと何だか味気ないから、ああいう仕掛けがしてあっただけ。
 まさか雲海の星に潜むことになるとは思わなかったし、地球の星座が見られればいい、っていう考えで作ったけれど…。
 何処からも星が見えない船だと、人気が出るのも無理はないよね。
 展望室に行ってみたって、窓の外に星は無いんだから。…重たそうな夜の雲海だけで。



 星が見えなかったシャングリラ。白い鯨から星は見えなくて、天体の間にしか無かった星空。
 投影されただけの星でも、仲間たちには人気があった。季節に合わせた地球の星座たち。
 前のハーレイとは、皆が寝静まった後によく二人で出掛けた。地球の星座を眺めるために。今の季節はこう見えるのかと、もう少し経てば次の季節の星が昇ると。
 幻の星空だったけれども、「いつか本物を地球で見よう」と仰いでいた。きっと行けると思っていたから、地球は青いと前の自分は信じていたから。
「ハーレイとキスもしていたっけね、こっそりと」
 ぼくたちの他には誰もいなかったから、「いつか二人で地球に行こう」って。
「…俺は子供にキスはしないぞ、何を言われても」
 地球に来たから記念のキスだ、と注文されても、断固、断る。お前は子供なんだから。
 前と同じに育ってからだ、とハーレイが怖い顔をするから、慌てて「違うよ」と横に振った首。
「今のは思い出話だってば、前のぼくのね。…ホントだよ?」
 キスが駄目なのは分かっているから、我儘なんかは言わないってば。
 でもね、ハーレイと二人で地球まで来ちゃったから…。地球の星座も見られるから…。
 せっかく素敵なバーがあるんだし、星空テラスに連れて行ってよ。
 ハーレイとデートが出来るようになったら、あそこに行ってみたいんだけど…。
 お願い、とピョコンと頭を下げた。「ハーレイと一緒に星空テラス」と。
「かまわんが…。いくらでも連れて行ってやるがだ、店だとキスは出来ないぞ」
 人前でのキスは御免蒙る、二人きりの場所じゃないんだからな。
 天体の間の頃のようにはいかんぞ、と念を押されて頷いた。「分かってるよ」と。
「ちゃんとデートに行けるんだったら、キスは帰ってからでいいから」
 家の庭でも見えるでしょ、星は。…お店でなくても、星は頭の上にあるもの。
「違いないなあ、本物の地球の星座がな」
 正真正銘、地球の星座というヤツだ。前の俺たちの夢の通りに、二人で夜空を見放題だな。
 俺たちは地球の上にいるんだし、星座も本物の星で出来てて…。
 ん…?
 今の俺たちの頭の上には、本物の地球の星座でだな…。本物ってことは、星なんだから…。
 どれもこれも星で出来てるわけで…。



 どの星座だって星なわけだ、と当たり前のことをハーレイが言い出したから、首を傾げた。
 夜空に散らばる幾つもの星を、様々な形に見立ててゆくのが星座。遠い昔に考え出されて、今の時代も空にある。ギリシャ神話から生まれた星座や、中国生まれの二十八宿などが。
「ハーレイ、星がどうかした?」
 急にいったいどうしちゃったの、何か気になることでもあるの…?
「いや、ちょっと…。星座ってヤツは地球の星だよな?」
 今の俺たちが見ている星座は、まさにそのものズバリなんだが…。
 ずっと昔に、前の俺たちが天体の間で見てたヤツなんだが…、と考え込んでいるハーレイ。今は本物が頭の上にあるわけで…、と。
「そうだよ、前のぼくたちが地球で見たかった星座。天体の間のとホントにそっくりだよね」
 シャングリラの自慢の設備だったよ、あそこにあった投影機。船の中だったけど、夜はいつでも地球の星座が見られたから。
 あれで覚えたよね、いろんな星座を。季節の星座も、北半球のも、南半球のも…。
 今のぼくたちが見ている星座は北半球の星座だけれど、と窓の向こうを指差した。まだ昇ってはいないけれども、日がとっぷりと暮れた後には輝く星たち。今夜もきっと見えるだろう。
「その星座だ。北半球でも、南半球でもいいんだが…」
 星座は何で出来ているんだ?
 何が星座を作ってるんだ、とハーレイが訊くから、「星だよ」と胸を張って答えた。
「星に決まっているじゃない。星を幾つも繋いだのが星座」
 こういう形に見えるよね、って覚えやすい形に繋いで、名前をつけてあるんだよ。
 ずっと昔の人が考えて、それを今でも使ってて…。星占いにも使ってるよね、今の時代でも。
 ぼくは牡羊座だったかな…、と少し自信がない星座。あまり興味が無いものだから。
「何座でもいいが、その星座を作っている星たち。どれを取っても分かりやすいよな」
 そこそこ明るい星でないとだ、何処ででも見えるわけじゃないから。
 見えない星座じゃ意味が無いんだし、どの星も地球からよく見えるんだが…。
 星座になってる、その星はだ…。
 明るい星でも惑星じゃなくて、どれでも全部、恒星なわけで…。



 なんてこった、と呻くハーレイ。「俺としたことが」と。
 深く刻まれた眉間の皺。それを指先で押さえているから、「どうしたの?」と問い掛けた。
「何があったの、星座が星だと何か駄目なの…?」
 古典の授業で習う時には、星が人だったりするけれど…。彦星も織姫もそうなんだけど…。
 授業で何か間違えちゃったの、教える時に…?
「それどころの騒ぎじゃないってな。授業だったら、訂正すればいいんだから」
 前に教えたのは間違いだった、と頭を下げれば済むことだ。教師としては赤っ恥でも。
 しかし、こいつはそうじゃない。…痛恨のミスだ、もう時効だが。
 とっくの昔に時効なんだが…、と言われても意味が掴めない。前の学校での出来事だろうか?
「時効って…。前の学校でやっちゃったとか?」
 それとも、もっと前の話で、訂正したくても、生徒は卒業しちゃってるとか…?
「生徒を相手にやらかしたんなら、痛恨のミスとまで言いはしないぞ」
 やっちまった、と頭を抱えておくか、ゴツンとやっておけばいい。それで生徒に笑われたって、笑い話になるだけだしな。他の先生にも広まったって。
 とうに時効だと言っただろうが。…前の俺なんだ、ミスをしたのは。
 今となっては取り返しがつかん、とハーレイは溜息をつくのだけれども、そんなミスなど自分は知らない。キャプテン・ハーレイはミスを犯さなかったし、常に冷静だったから。
「前のハーレイって…。何をやったわけ?」
 ぼくは報告を受けてもいないし、ミスをしたかも、と思ったことは一度も無かったけれど…?
 それにブラウやゼルたちもいたよ、何かあったら気付くってば。「それは変だ」って。
 直ぐに訂正させてただろうし、ハーレイがミスをするなんてことは…。
 有り得ないよ、と否定したミス。実際、それは起こり得なかったことだから。
 けれどハーレイは、「いいや」と首を左右に振った。「本当にやっちまったんだ」と。
「もう取り返しがつかないが…。今頃になって気付いた所で、俺はどうにも出来ないんだが…」
 地球の座標だ、前の俺たちが必死になって探していたヤツ。
 あれのヒントは、いつでも側にあったってな。…前の俺たちの、直ぐ目の前に。
「え…?」
 ヒントって、地球の座標のヒント…?
 それがあったら、地球の座標が分かったってこと…?



 いったい何処にあったわけ、と目を丸くした。そういう風にしか聞こえないから。
(地球の座標は、謎だった筈で…)
 前の自分が生きた間には、ついに得られないままだった。いくら努力を重ねてみたって、まるで無かったその手掛かり。座標の一部分さえも。
 テラズ・ナンバー・ファイブを倒して、やっと手に入れたと歴史の授業で教わる。今のハーレイからもそう聞いた。アルテメシアを落としただけでは、地球の座標は掴めなかったと。
 それほど厳重に隠されていたのが、前の自分が生きた時代の地球の座標。国家機密よりも重要なもので、ヒントなどがあったわけがないのに。
「地球の座標のヒントだなんて…。そんなの、何処にも無かった筈だよ?」
 あったとしたって、シャングリラにあるわけないじゃない。
 元は人類の船だけれども、ただの民間船だから…。軍の船なら違っていたかもしれないけどね。
「だからミスだと言っているんだ、今の俺がな」
 キャプテンなら気付くべきだった。直ぐ側にあった座標のヒントに。
 俺のミスだ、と繰り返されても分からない。ハーレイが言うヒントとは何のことなのか。
「気付くべきだったって…。何に?」
 シャングリラにどんなヒントがあったの、ぼくはそんなの知らないよ…?
 心当たりも無いんだけれど、と首を捻ったら、「天体の間だ」と返った答え。
「あそこで見ていた地球の星座だ。…俺もお前も、何度も見たヤツ」
 星座が恒星で出来ているなら、あれを詳細に分析すれば…。
 ああいう具合に繋がって見える場所は何処にあるかを、きちんと計算してゆけば…。
 地球の座標を弾き出せたんだ、と言われれば、そう。
 星座を作る星の中には有名な恒星が幾つもあったし、それが何処からどう見えるのかを、細かく計算してゆけば。星と星とがどう繋がるのか、星間距離も考慮してゆけば。
(白鳥座が白鳥に見える場所とか、北斗七星が柄杓に見える場所とか…)
 それを計算していったならば、地球の座標が明らかになる。全ての星座が揃う地点は、銀河系の中に一ヶ所しかない。ソル太陽系の第三惑星がある所しか。
 人間の手だけで計算するなら、途方もない手間がかかるけれども…。



 そうだったのか、と目から鱗が落ちるよう。地球の座標は、天体の間が常に知らせていた。夜の天井に輝く星たち、投影されていた地球の星座が。
「…ハーレイ、地球の座標なんだけど…」
 船のコンピューターに解析させたら、簡単に分かっていたのかな?
 星座のデータを全部放り込んで、この通りに見える座標を出せ、って計算させたら…?
「多分な。そういう作業は、コンピューターの得意技だから」
 アッと言う間に出せたんじゃないか、地球の座標はこれだ、とな。
 前の俺が其処に気付いていたなら、前のお前もきっと地球まで行けたんだろう。堂々と降りては行けないとしても、ワープして一瞬、側を掠めて飛ぶとかな。
 もっとも、そうして出掛けていたなら、前の俺たちは地球という星を諦めたのかもしれないが。
 なんと言っても、あの有様だ。青い地球の代わりに、死の星が転がっていたんだから。
 誰があんな地球を欲しがるもんか、とハーレイは苦い顔をする。「俺は要らんぞ」と。
「そうなのかも…。前のぼくだって、青くない地球を見ちゃったら…」
 地球に行こう、って思うのはやめて、他の星を探していたかもね。人類の船なんか来ない辺境の星で、ナスカみたいにミュウが暮らしていける星。
 あれっ、だけど…。
 恒星がある場所は分かってたっけ、と投げ掛けた問い。
 星座を詳細に解析したなら、得ることが出来る地球の座標。そのために使う、地球の星座を構成していた恒星の位置は分かっていたのか、と。アルタイルだとか、ベガだとか。
「それはまあ…。基本の中の基本だからな?」
 キャプテン稼業をやっていたなら、「知りません」では済まないぞ。
 座標を丸ごと暗記するのは流石に無理だが、この辺りのコレだ、と見当はつく。
 アルテメシアから逃げ出した後は、宇宙を放浪していたついでに地球を探していたんだし…。
 あちこちの恒星系を回って、地球は無いかと確認してた。有名どころは端からな。
 …ありゃ?
 そういや、アルタイルが地球を連れているわけがなかったんだな、考えてみれば。
 あそこにも行って来たんだがなあ、第三惑星は青い地球じゃないかと。



 妙だぞ、とハーレイが顎に手をやる。「何故、アルタイルに行ったんだ?」と。
 アルタイルと言ったら、鷲座のアルファ星。今も昔もそれは変わらず、明るく輝く一等星。日本では彦星と呼ばれていた星、七夕の夜に天の川を渡ると伝えられた星。
 地球の夜空にある筈の星が、地球を連れているわけがない。空に瞬く小さな恒星、それが地球のあるソル太陽系の中心になりはしないのだから。
「…俺は確かに地球を探していたんだが…」
 地球があるかもしれないからな、とアルタイルに行ってしまったんだが…。
 どう間違えたら、アルタイルに行こうと思うんだ?
 アルタイルが地球から見えるんだったら、地球の太陽では有り得ないことになるんだが…。
 どういうことだ、とハーレイの眉間の皺が深くなる。「地球を探しに行っただなんて」と。
「ほらね、変だと思わない?」
 アルタイルに行っても、そんな所に地球は無いんだよ?
 地球からアルタイルが見えているなら、地球からはずっと遠いんだから。…何光年もね。
 なのに、どうして其処に行ったの、と尋ねてみたら、ハーレイは「分からん」と両手を広げた。
「俺にもサッパリ分からないんだが、それでいいんだと思っていた」
 アルタイルは有名な恒星だったし、地球がある可能性はかなり高いと踏んだんだが…。
 そのアルタイルは鷲座で光ってたわけで、天体の間でもお馴染みの星と来たもんだ。
 其処に向かって行ったってことは、もう間抜けとしか言いようがないし…。
 これまたミスってことになるのか、航路設定をしていたキャプテン・ハーレイの?
 だが、ゼルたちも反対しなかったしなあ、ヒルマンもエラも。
 誰も「アルタイルは違う」と言わなかったぞ、とハーレイにも解けないミスの理由。有り得ない場所へ、地球を探しに出掛けて行ったシャングリラ。
「どうなんだろう…。それって、もしかして機械のせい?」
 マザー・システムの仕業なのかな、シャングリラがアルタイルに行っちゃったのは…?
 SD体制があった時代は、地球の正確な地図も作れなかったじゃない。機械がデータをすっかり隠して、正確な位置をぼかしてしまって。
 そんなことをしていた機械だったし、地球の星座を見るのは許してくれたって…。
 星座を分析していけば分かる、地球の座標を引き出す方法とかは…。



 考え付かないように、思考をブロックされていたのかも、と話してみた。
 あの時代の子供は人工子宮から生まれていたから、胎児の間に細工は出来る。地球の座標を割り出す方法、それに気付きはしないよう。…恒星の位置と地球の座標を、決して結び付けないよう。
「そうだとしたなら、ハーレイたちがアルタイルに行った理由も分かるよ」
 天体の間で何度アルタイルを見ても、それは星座の星だというだけ。
 地球からどういう風に見えるか、そんな所までは考えられないようにされていたなら…。
 昔から有名な恒星なんだ、っていうだけの理由で、地球を探しに行くと思うよ。
 有名な星なら、本当に地球がありそうだもの。…アルタイルの第三惑星としてね。
「そうなのかもなあ…。生まれる前からブロックされてりゃ、そうなっちまうのも当然か…」
 ヒルマンもエラも、ゼルもブラウも、揃って同じ生まれなんだし…。
 ジョミーにしたって其処は全く同じだからなあ、変だとは思わないだろう。
 あの頃はブリッジに顔を見せない日も多かったが、行き先くらいは俺が報告していたから。
 もしも妙だと思ったんなら、「検討し直した方がいい」と言ってはいたんだろうし…。
 待てよ、そうなってくると、トォニィなら思い付いたのか?
 トォニィが急な成長をしちまった後は、もう天体の間で投影してはいなかったんだが…。
 地球を目指しての戦いだからな、そんな娯楽は必要無い、とジョミーが止めさせちまったから。
 だが…。
 それから後も、あそこに地球の星座があったなら…、というハーレイの言葉は一理ある。
「思い付いたかもね、トォニィがあれを見ていたら」
 トォニィは自然出産で生まれて来た子供だから…。機械の影響を全く受けていなかったから。
 あそこで地球の星座を見てたら、ピンと来たかもしれないね。地球の座標が分かるかも、って。
 育つ前にしか見ていなかったし、結び付けたりしなかっただけで。
 小さい子供には、ナスカの星座も地球の星座も、きっと同じに見えただろうから。
 どっちも星が光ってるだけで、どういう風に繋がってるかの見え方が違うだけなんだもの。
「ふうむ…。トォニィだったら、星座のカラクリにも気付けたのか…」
 天体の間にずっと昔から転がってたのに、誰も気付かなかった凄い宝物の地図。
 それの読み方に気付けたんだな、投影をやめずに、地球の星座を毎晩あそこに映していたら…。



 やめちまったのは失敗だったか、とハーレイは惜しそうな顔をしたけれど。
 「ジョミーがやめろと言った後にも、投影しとけば良かったか?」とも、ぼやいたけれど…。
「そうでもないよな、あのまま投影を続けていたとしたって、だ…」
 トォニィがお宝に気付く頃には、あの忌々しいテラズ・ナンバー・ファイブもだな…。
 そろそろ年貢の納め時ってトコだったかもな、という結論。それほど時間は経っていない、と。
「うん、ジョミーが倒しちゃっているよね」
 あれを倒したら、地球の座標が分かったんだし…。
 トォニィが星座から割り出せることに気付いたとしても、ほんのちょっぴり早いか、遅いか。
 きっとそのくらいの違いしかないよ、地球の星座を手に入れるまでの時間はね。
「あれが宝の地図だったとはなあ…。お前と何度も見てた星座が」
 地球に着いたら本物の星座が見られるんだ、と思っていたのに、間抜けなもんだ。
 そいつが地球の座標を割り出すヒントだったとは気付かなかった、と苦笑するハーレイ。
 「お前も気付いていなかっただろ?」と。
「当たり前だよ、ハーレイが駄目なら、ぼくも駄目だよ」
 船のことなら任せておけ、ってハーレイでも解けなかった謎なんだから。
 ぼくなんかに分かるわけがないでしょ、星座が地球の座標を教えてくれるだなんて。
 …前のぼくたちは星座のヒントに気が付かなくって、宝の持ち腐れになっちゃったけど…。
 今のぼくたちは地球に来たんだし、大きくなったら星空テラスに連れてってくれる?
 二人でゆっくり星を見たいよ、と強請ってみた。「恋人同士で星を見なくちゃ」と。
「その時まで覚えていたならな」
 前のお前とは恋人同士で星を見損ねちまったことと、お前が行きたいバーの話を。
「それなら、下見をしておいてよ!」
 下見をしとけば忘れないでしょ、そういうお店があるってこと。…ぼくと行くことも。
「いや、せっかくいい店があるんだから…」
 他の連中と行っちまうよりは、お前と一緒に行きたいんだが…。駄目か?
 忘れちまうからそれは駄目だ、と言うんだったら、誰かと下見に出掛けてくるが…。
「ううん、嬉しい!」
 最初はぼくと一緒がいい、って言ってくれるんなら、楽しみにしてる。
 忘れちゃっても怒りやしないよ、その内に思い出せるから…!



 思い出したら二人で行こうね、と指切りをした星空テラス。
 チビの自分は行けないけれども、星が一杯の憧れのバー。雨が降る日でも天井に夜空。
 いつか大きく育った時には、ハーレイとデートに出掛けてゆこう。
 今は本物の地球の星座が見えるけれども、前のハーレイとは恋人同士で眺め損ねた本物の星。
(…今度は一緒に見られるんだよ、恋人同士で)
 ハーレイと青い地球に来たから、ロマンチックな星空テラスで、星をゆっくり見上げてみよう。
 遠い昔に天体の間で見た四季の星座を、今は本物の地球の夜空に煌めき瞬く星の姿を…。




              星空と星座・了


※恋人同士で星を見たことは無かった、前のハーレイとブルー。天体の間で投影された星だけ。
 其処で見ていた地球の星座が、実は宝の地図だったのです。地球の座標は、あの星座の中に。
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(本物そっくり…)
 凄い、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 造花だという花たちの写真。様々な種類の花たちだけれど、本物と区別がつかないほど。写真のせいではないらしい。側で見ないと、造花だとは気付かないという。
 植木鉢に植わった花にも驚きだけれど、透明な花瓶も凄かった。
(水まで入っているんだけど…)
 その水までが作り物。本物の水とは違って塊、倒れても水は零れない。花瓶ごとゴトンと倒れるだけで、起こしてやれば元通り。これが本物の花瓶だったら、辺り一面、水浸しなのに。
 満たした水も無事だけれども、花たちも無傷。倒れたはずみに花びらが傷むことはない。
(ペットを飼っている家に…)
 お勧めらしい造花たち。
 家の中で人間と一緒に暮らすペットは色々、中には悪戯者もいる。部屋をあちこち走り回って、花瓶を倒すことだって。テーブルにヒョイと飛び移ったら、代わりに花瓶が落っこちることも。
 花瓶が倒れる事故の他にも、花たちを見舞う不幸な出来事。
(齧っちゃうんだ…)
 小鳥が花を齧るのだったら分かるのだけれど。…花の蜜が好きで、吸う鳥たちも多いから。
 そういう鳥とは食べ物の好みが全く異なる、猫や犬たち。彼らが齧ってしまう花。植木鉢のも、花瓶に生けてある花も。
(きっとオモチャで…)
 食べたいわけではないだろう。美味しいとは思えない花びら。
 人間だったら、食べるための花も栽培しているとはいえ、そのままで食べはしない筈。お菓子に入れたり、サラダにしたり、工夫を凝らして口に入れるもの。
 人間でさえもそうなのだから、猫や犬たちが花を喜ぶわけがない。「美味しいよね」と。
 つまり齧られる花はオモチャで、歯ごたえが楽しいだけのこと。端から毟って減ってゆくのも、愉快なのかもしれないけれど…。
 それをやられたら、人間の方は肩を落として眺めるしかない。齧られてしまった花たちを。
 倒されてしまう花瓶も困るし、蹴散らされる植木鉢だって。齧られて駄目になる花も。その手の悲劇を防ぐためにと、代わりに造花。本物そっくりに出来ているのを。



 よく出来ている、と思った造花。今ではペットを飼っている家にお勧めだけれど…。
(元々は…)
 違ったらしい、造花の歴史。新聞の記事は、そちらがメイン。どうして造花が生まれたのか。
 SD体制が始まるよりも前の時代に、作り出された造花たち。
 その原型はかなり古くて、人間が地球しか知らなかった時代に既に存在したという。本物の花が咲かない季節も、家の中で花を愛でられるように。
 そうして生まれた造花だけれども、今もある形が完成したのは地球が滅びに向かう頃。
(材料、色々…)
 どれが最適かを色々試して、選び出された特殊な布。花たちはそれで出来ている。
 本物の花の色そっくりに自由自在に染めることが出来て、専用のコテで花びらなどの姿を作ってゆける布。カーブさせたり、縮れさせたり。
(緑が自然に育たなかったから…)
 大気が汚染された地球では、特殊な設備を設けない限り、育てられなくなった植物。
 緑の木々も、人間が食べるための野菜も、日々の暮らしに彩りを添える花たちも。それでも家に緑が欲しい、と作られたのが造花たち。
 本物の花を育てることは、既に個人の家では難しかったから。
 人間が暮らす家の中では育てられても、何種類もの花を植えようとしたら足りないスペース。
 それでは花を絶やさないことは難しい。様々な花を、年中、咲かせておくことは。
(代わりに四季の花を作って、季節で入れ替え…)
 今の季節はこの花が咲く頃だから、と生ける造花たち。春の花やら、秋の花やら。
 造花だったら何種類でも作り出せるし、ふんだんに生けて楽しめる。花瓶から溢れそうなほど。本物の花では、もはや不可能になった贅沢を。
 後は気分や場面に合わせて、好きに飾っていた造花たち。冬の最中でも、夏の花とか。
(今だって、やっているものね?)
 もちろん本物の花だけれども、温室などで調整して。
 緑が育たなくなった地球の人間も、それを造花でやっていた。暮らしに花は欠かせないから。
 造花を作るのが主婦の仕事になっていたほど。
 市販のものより、気の利いたものを。他所の家には無い花たちを、と作って生けて。



 そうだったのか、と驚かされた造花の歴史。遠い昔は、本当に必要だった花たち。家でペットを飼っていなくても、花が欲しいと思うなら。…自分の家だけの花が欲しかったなら。
(ぼく、サイオンは不器用だけど…)
 手先は器用な方なのだから、こういう花なら作れそう。専用の布を買って来て染めて、庭にある花の真似をして。「薔薇の花なら、こんな風」と。
 前の自分は最強のサイオンを誇ったけれども、裁縫も下手な不器用さ。きっと造花も作れない。どう頑張っても、ソルジャー・ブルーだった前の自分には。
(これなら勝てるよ!)
 造花作りの腕前だったら、前のぼくに、と考えたけれど。
 サイオンではとても敵いはしない前の自分に、造花作りなら勝てる筈だと思ったけれど…。
(いつ作るわけ?)
 ソルジャー・ブルーに勝てそうな造花。「ほらね」と作って誇らしげに。
 作れるだろうと思うけれども、今の時代は造花作りはただの趣味。青く蘇った水の星では、緑は自然に育つもの。零れて地面に落ちた種でも、美しい花を咲かせるもの。
(特別な設備は何も要らなくて…)
 野原でも、山でも、海辺に広がる砂浜でだって、植物たちが生きている。動物の影さえ見えない砂漠に行っても、其処に適応した植物たち。
(雨が降ったら、花畑だって…)
 生まれるらしい、砂漠という場所。ほんの短い間だけ出来る、夢のような砂漠の中の花園。
 そんな時代に造花をわざわざ作らなくても、花はいくらでも手に入る。家の庭でも、沢山の花を扱う花屋でも。…野原や山に咲く花が欲しいなら、其処へ出掛けてゆきさえすれば。
 今だと造花は、趣味で作って楽しむもの。欠かせない場所があるとしたなら、ペットのいる家。この記事にも「お勧めです」と書かれているから、買っている人も多いだろう。
 けれど…。
(ハーレイと暮らす家にペットは…)
 多分いないし、造花の出番は全く無い。本物の花を生けた花瓶を蹴倒すペットがいないなら。
 まるで必要ない造花などを、作っても褒めて貰えるかどうか。…あのハーレイに。
 きっと上手に作れるだろうに。前の自分には作れそうにない、とても素敵なものなのに。



 この写真のも作れそう、と眺めた新聞にある造花たち。本物そっくり、それを作ってハーレイに披露してみても…。
(綺麗に出来たな、って言われておしまい…)
 そんな感じ、とガッカリしながら食べ終えたおやつ。新聞を閉じて二階の自分の部屋に戻って、造花のことを考える。勉強机の前に座って。
 前の自分に勝てそうだけれど、作ってみても出番が全く無い造花。
 家でペットを飼っていないなら、造花を飾る必要は無い。本物を飾っておけば済むこと。花瓶にドッサリ生けておいても、倒されることも、齧られることも無いのだから。
 同じ花なら、造花よりも本物の花の方がいいに決まっている。地球の光や水が育てた花。生命の輝きをたっぷり宿した、本物の花が。
 それに…。
(前のぼくが作っていないから…)
 作った所で、比べようもない造花作りの腕前。今の自分の自己満足。「器用なんだよ」と。
 前の自分が酷い出来のを作っていたなら、今度は見事な造花を作って威張れるのに。サイオンはまるで不器用だけれど、造花作りならソルジャー・ブルーに負けはしない、と。
(…比べるものが無いんだもの…)
 どんなに上手に作り上げても、ハーレイに褒めて貰えるだけ。「頑張ったな」という程度。
 今の自分の裁縫の腕なら、ハーレイも認めてくれたのだけれど。
(…今のお前は器用なもんだな、って…)
 言って貰えた、裁縫の腕。取れかかっていたシャツのボタンを縫い付けた時に。
 ハーレイのシャツの袖口についていたボタン。「取れかかってるよ」と気付いて言ったら、毟り取ろうとしたハーレイ。知らない間に取れてしまって、落として失くすと困るから。
 「待って」と止めて、上手に縫い付けた。家庭科で使う裁縫セットで。
(前のぼくだと、失敗なんだよ)
 ソルジャー・ブルーがやった大失敗。前のハーレイの上着の袖のほころび、それを直そうとして上手くいかなくて…。
(失敗したから、からかわれて…)
 縫い目も針跡も無いシャツを作ってプレゼントした。スカボローフェアの恋歌のシャツを。歌に出て来る言葉通りに、縫い目も針跡も無い亜麻のシャツを見事に作り上げて。



 前の自分がサイオンで作った奇跡のシャツ。縫い目も針跡も無かった亜麻のシャツはもう、今の自分には作れない。とことん不器用になったサイオン、前の自分の真似は出来ない。
 けれど、今度は器用な手先。裁縫だって上手くなったし、前の自分よりも遥かに上。
(造花、ぼくなら作れそうなのに…)
 きっと出来ると思うけれども、比べようもない前の自分の腕前の方。造花は作らなかったから。
 ついでに、造花を作ってみたって、それの出番が無い始末。ペットを飼っていないのならば。
(迷子の子猫を見付けて飼っても…)
 じきに飼い主が迎えに来る。小さな子猫が花に悪戯する前に。「造花にしなきゃ」と家中の花を取り替える前に、元の家に帰ってゆく子猫。お母さん猫がいる家へ。
(…造花の出番はホントに無さそう…)
 残念だけど、と溜息を零していたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが来てくれたけれど、造花の腕前は自慢出来ない。まだ作ってもいないわけだし、これからも作る予定は無いし…。
 考え込むから、途切れた言葉。テーブルを挟んで、向かい合わせで話していても。
「どうした、何か悩み事か?」
 黙っちまって、とハーレイに尋ねられたから、思い切って言ってみることにした。
「ハーレイ、造花を知っている?」
「はあ?」
 造花って何だ、いきなり何を言い出すんだ…?
 分からんぞ、と瞬く鳶色の瞳。「造花がどうかしたのか?」と。
「造花だってば、本物そっくりに出来た花だよ。今日の新聞に載っていて…」
 元々は地球が滅びそうだった時代に、緑が欲しくて造花を作ったらしいけど…。
 今は本物の花があるから、ペットがいる家にお勧めだって。
 ペットは花に悪戯するしね、と記事の受け売り。花瓶を倒したり、花を齧ったりするペット。
「ああ、あれなあ…!」
 本物と区別がつかんヤツだな、すぐ側に行って観察しないと。葉っぱの虫食いまで真似るから。
 俺の家にもあったっけな、とハーレイは顔を綻ばせた。
 まだハーレイが子供だった頃で、隣町の家には猫のミーシャも。ハーレイの母が飼っていた猫、真っ白で甘えん坊だったミーシャ。



 その頃だったら俺の家にもあったんだ、とハーレイは懐かしそうだから。
「あったの、造花?」
 本物みたいに見える造花が、ハーレイの家にもあったわけ…?
「そりゃまあ、なあ…? ミーシャもやっぱり猫だから…」
 甘えん坊でも、猫ってヤツには違いない。猫にしてみれば、飾ってある花はオモチャだしな?
 人間様の都合なんかは考えないぞ、と言うだけあって、遊んで駄目にしてしまう花。
 齧って花をボロボロにしたり、花瓶ごと引っくり返したり。
 普段はそれでもいいのだけれども、来客があった時には困る。楽しんで貰おうと、玄関や客間に飾った花たち。それが台無しになったなら。…油断して目を離した隙に。
 そうならないよう、用意されたのが造花たち。本物そっくりに出来ている花。
「…造花、お客様用の花だったんだ…」
 いつも造花ってわけじゃなくって、お客様の時だけ飾る花…。
「おふくろは花が好きだからなあ、飾るのも、庭で育てるのも」
 綺麗な花が咲いた時には、家の中でも見たいもんだし…。本物の花が一番だ。齧られてもな。
 しかし、誰かが来るとなったら、齧られた花じゃみっともないし…。倒れた花瓶は論外だ。
 それじゃマズイから、おふくろがせっせと作っていたぞ。
 庭の花を切って来たように見せて、玄関や客間に造花ってな。
「ハーレイのお母さん、作れちゃうの?」
 本物そっくりに見える造花を作っていたの…?
 ミーシャが家にいた頃は、と丸くなった目。ハーレイの母が、造花作りの大先輩だなんて。腕のいい先輩がいるとなったら、挑戦するのもいいだろうか、と考えたのに…。
「すまん、言い方が悪かった。おふくろは生けていただけだってな」
「え?」
 生けてただけって…。それじゃ、作っていたんじゃないの?
「そういうこった。お前も新聞で読んだんだろうが、ペットのいる家にお勧めだと」
 おふくろだって知っていたから、セットになってる花を買わずに、色々なのを買ってだな…。
 そいつを上手く生けていくんだ、花瓶とかに。
 庭から切って来たばかりです、といった感じに見えるようにな。



 ハーレイの母が買っていた造花。水が入っているように見える花瓶つきの花や、植木鉢がついているのは避けて。庭に咲いている季節の花と同じ種類のを、何本も。
 来客の時は、ミーシャが齧りそうな場所には、そういう造花。大きな花瓶に沢山生けたり、一輪挿しに一輪だとか。
「ミーシャが齧ったりしないように造花…」
 それに花瓶も、倒されちゃっても大丈夫なように。造花だったら水は要らないものね。
 やっぱりペットがいないと駄目かあ…。家に造花を飾るのは…。
 ハーレイの家にミーシャが住んでいた頃も、普段は本物の花を飾っていたみたいだし…。
「どうしたんだ、お前?」
 やたらと造花を気にしているが、と覗き込んでくる鳶色の瞳。「欲しいのか?」と。
「えっとね…。読んでた記事に、作り方とか歴史が書いてあったから…」
 前のぼくだと造花を作るのは無理そうだけれど、今のぼくなら作れそう、って…。
 今なら裁縫もちゃんと出来るし、ああいう造花も作れそうだと思わない?
「なるほどな。前のお前は不器用だったし…」
 裁縫の腕は不器用すぎて、俺の方が遥かにマシだったからな。お前が下手に努力するより、俺がやった方が早かったんだ。
 前のお前が「出来る」と言い張った挙句に出来たの、縫い目も針跡も無いシャツだったから…。
 俺にからかわれたのを根に持っちまって、仕返しに作り上げたっけな。
「そう。…前のぼくだと、ああいうことになっちゃうんだよ」
 今のぼくはサイオンが不器用になってしまって、あんなシャツは作れないけれど…。
 造花は上手に作れそうだよ、作り方をちゃんと覚えたら。
「だろうな、教室もあるそうだから」
 今じゃ人気の趣味の一つで、通ってる人も多い筈だぞ。
 本物の花を育てるのもいいが、ただの布から本物そっくりの花を作るのも楽しいらしい。
 ちょいと工夫すりゃ、自分だけの花が作れるからな。
「だよね、庭に咲いてる花をお手本にすればいいんだから」
 そういう教室に通って習えば、凄いのが作れそうだけど…。
 でも…。



 作っても家では出番が無いよ、と零れた溜息。いつかハーレイと暮らす家では、ペットは飼っていないだろうから。
「そうでしょ、ペットを飼おうっていう話は出てないし…」
 ペットを飼ったら、ぼくはペットに嫉妬しちゃいそう。ハーレイが可愛がってるのを見て。
 撫でて貰ったり、抱っこされてたり、ハーレイの膝に乗っかってたり…。
 そんなのを見たら、「どいて」ってペットを放り出しそう。「ぼくの場所だよ」って。
「…やりかねないよな、お前だったら」
 ミーシャに負けない甘えん坊だし、子猫相手でも本気で怒りそうではある。俺を盗られたと。
 もっとも、俺の方でも同じことなんだがな。
 お前がペットを飼い始めたなら、俺はペットに嫉妬するぞ。お前の愛情がそっちに向くから。
 つまりだ、俺もお前も、ペットを飼うには不向きなんだよなあ…。
 ちょっと預かるくらいならいいが、という話。誰かが留守にしている間に、預かるペット。
「そのくらいなら…。可愛いだろうし、じきに帰ってしまうんだから…」
 ぼくも嫉妬はしないと思う。ハーレイを放って、夢中で世話していそうだけれど…。
 だけど、ホントに少しの間だけだから…。造花が無いと、って思うほどではないものね…。
 とても残念、と項垂れた。
 造花を上手に作れそうな自分。前の自分よりも優れた部分を発見したのに、出番なしになる造花作りの腕前。いくら見事に作り上げても、飾るべき場所も場面も無いから。
「ふうむ…。造花作りの腕前なあ…」
 お前が腕を誇りたいなら、場所を作ってやってもいいが。…どうやら家じゃ無理そうだしな。
 俺もお前も、ペットを飼う気は無いんだから。
「場所って?」
 どういう場所を作ってくれるの、ぼくたちの家じゃないのなら…?
 ハーレイの学校とかなのかな、と首を傾げたら、「それに近いな」という返事。
「造花ってヤツは本物と違って頑丈だからな。夏の真っ盛りの暑い時でも萎れないし…」
 カンカンと陽が照り付ける場所に飾っておいても、少しも傷みやしないから…。
 今の俺は柔道部の顧問なんだが、赴任してゆく学校によっては、水泳部を任されることもある。
 俺が水泳部の顧問になった時にだ、夏の大会用の花束をだな…。



 造花で作ればいいじゃないか、というのがハーレイが用意してくれる場所。
 暑い夏は水の季節なのだし、水泳の大会も開催される。その大会で好成績を収めた生徒が貰える花束。優勝はもちろん、自分の学校の水泳部の中では優れた戦果を挙げた生徒も。
 会場になるプールが屋外だったら、燦々と降り注ぐ真夏の日射し。花束には過酷すぎる環境。
 大会の間に萎れないよう、置かせて貰える部屋が設けてあるのだけれども、造花だったらプールサイドに飾っておいても萎れない。応援している生徒と一緒に、太陽の下。
「勝ったらコレだ、と花束を掲げて士気を鼓舞するわけだな」
 応援ついでに振り回したって、造花は散ったりしないから…。丁度良さそうだぞ、大会用に。
 俺が水泳部の顧問になったら頑張ってくれ、と注文された花束作り。造花を束ねて、真夏の太陽にも負けない花束。見た目は本物そっくりなのに、萎れる心配が無い花束。
「そういう風にしか使えないよね…。ぼくが造花を作っても」
 ハーレイだって、あんまり褒めてくれそうにないし…。いくら上手に作っても。
 大会用の花束だったら、生徒にあげてしまうんだから。
 出来上がったら、直ぐに車に積んじゃいそう、と溜息をついた。ろくに眺めてくれもしないで、車のトランクに仕舞うハーレイ。トランクでなければ、後部座席に乗せるとか。
「お前なあ…。出番さえあれば、いいってわけではないんだな?」
 だったら俺たちの家に飾ればいいじゃないか。腕前を披露したいのならば。
 ペットなんぞは飼ってなくても、お前の趣味の作品ってことで。
 そういう人も少なくないぞ、とハーレイは許してくれたのだけれど。本物の花を飾る代わりに、造花を幾つも飾っておいてもいいらしいけれど…。
「ぼくはあんまり楽しくないかも…。造花は作ってみたいけれどね」
 家に飾っておくんだったら、本物の花が一番でしょ?
 造花よりかは、本物だってば。
 ああいう造花が出来た時代は、家に沢山の花を飾るんだったら、造花しか無かったんだけど…。
 色々な花を育てたくても、個人の家でやるのは無理だったんだけど…。
 今は好きなだけ育てられるよ、庭の花壇でも、鉢植えでも。
 本物の花が山ほどあるのに、造花だなんて…。
 自分では上手く育てられなくても、花屋さんに行ったら、花はいくらでもあるんだから。



 本物があるのに造花なんて、と賛成出来ないハーレイの意見。
 造花作りの腕はともかく、家に飾るなら、本物がいいと思うから。造花よりも断然、本物の花。
「だってそうでしょ、今のぼくたちは地球にいるんだよ?」
 前のぼくたちが生きてた頃には、青い地球は何処にも無かったけれど…。
 今は本物の青い地球だし、其処で育った花が一杯。…造花を飾るより、地球の花だよ。
 本物の地球の花がいいよ、と反対意見を述べた。造花作りは魅力的でも、家に飾るための花なら本物。ペットが悪戯しないなら。齧ってしまうペットがいないのならば。
「そう来たか…。お前が言うのも、分からないではないんだが…」
 おふくろがミーシャを飼ってた頃でも、普段は本物の花を飾っていたからな。
 俺たちだけしか見ないんだったら、齧られていようが、花瓶ごと倒れて水浸しだろうが、問題は何も無いわけだから…。ミーシャはおふくろの猫だったんだし、おふくろがそれでいいのなら。
 おふくろ、何度も拭いてたっけな、花瓶が引っくり返った床を。
 それでも花は本物に限る、と家の誰もが思っていたから、造花は客が来る時だけでだな…。
 待てよ、前のお前も同じことを言っていなかったか?
 花は本物に限るってヤツだ、とハーレイが訊くから、キョトンとした。
「なに、それ?」
 前のぼくが花の話だなんて、いつのことなの?
 ぼくは少しも覚えていないよ、本物の花がいいなんて話をしたことは。
 それに造花の話も知らない、問い返した言葉は嘘とは違う。本当に記憶に残っていないし、今の自分は何も知らない。前の自分が本当にそれを口にしたのか、そうでないのかも。
「いつだっけかな…」
 ちょっと待ってくれ、俺の記憶もハッキリしてはいないんだ。
 聞き覚えがあるな、と思った途端に、前のお前の顔が浮かんで来ただけで…。お前だった、と。
 確かにお前だったと思うが、前後がサッパリ思い出せない。
 本物の花に限るんだ、と言ったのは前のお前の筈だが…。いったい何処から花の話に…。
 前のお前と花見なんかをしてはいないと思うんだがな?
 花見ってヤツに出掛けようにも、前の俺たちにはシャングリラだけしか無かったし…。



 花見に行くのは無理だったぞ、とハーレイは考え込んでいる。「いつの話だ?」と。
「造花と本物の花を比べていたってことはだ…」
 本物の花の方が素敵だ、と前のお前は思ってたんだし、両方があった時代のことか…。
 それとも、造花しか無かったか。…本物の花は、船には無くて。
「白い鯨になる前かな?」
 あの頃だったら、花なんかは育てていないから…。改造直前の試験期間には、畑もあったけど。
 それよりも前は、食料も物資も奪い取るもので、花は物資の中に紛れていた程度…。
 本物も造花もたまに混ざっていたよね、食堂とかに飾っていたよ。
 みんなが楽しめる場所に、と思い出す遠い昔のこと。あの時代に言った言葉だろう、と。
「そうだと思うが…。花が貴重な頃だったしな」
 同じ花なら、本物の方がずっといい、と前のお前が言いそうな時代ではあった。花を奪って飾る余裕は無かった船だし、同じように物資に紛れてるんなら、本物がいいに決まってるしな。
 いや、違う…!
 白い鯨の時代だった、とハーレイがポンと手を打ったから、「まさか」と見開いた瞳。白い鯨になった船なら、花は充分あったから。どの公園にも、季節の花たち。
「白い鯨って…。ハーレイ、勘違いしていない?」
 あの船だったら、花は沢山あったじゃない。造花なんかを作らなくても、いくらでも。
 みんなが摘んで帰っちゃったら、すっかり無くなりそうだけれども…。
 きちんとルールが決まっていたでしょ、摘んでいい花とか、駄目な花とか。
 クローバーの花は摘み放題だよ、と逞しかった花の名前を挙げた。子供たちが摘んでは、花冠を作ってくれた。「ソルジャーにあげる」と、競うようにして。
 薔薇や百合などの観賞用の花も、皆が集まる場所に飾るなら切っても良かった。切った後にも、充分な花が残るなら。
 白いシャングリラには、幾つもあった花が咲く場所。
 ブリッジが見える一番広い公園の他にも、居住区のあちこちに鏤められていた小さな公園。どの公園にも花が咲いたし、造花の出番は無かった筈。
 前の自分が「本物の花に限る」と言い出さなくても、本物の花たちが船で育っていたのだから。



 きっとハーレイの勘違いだ、と思った前の自分のこと。「本物の花の方がいい」と造花と比べていたのだったら、白い鯨になる前だろう、と。
 けれどハーレイは、「間違えちゃいない」と自信たっぷり。「よく聞けよ?」と。
「本当に、白い鯨が出来上がってからの話だったんだ。俺はすっかり思い出したぞ」
 船の公園で色々な花が育ち始めて、花があるのが普通になった。
 公園は幾つもあったんだからな、何処かで花が咲いてるもんだ。花が終わった場所があっても。
 お蔭で、みんなが花を眺めて、「いい時代だ」と喜ぶようになったんだが…。
 どんなに花たちが愛されていても、場所によっては花は育てられない。飾ることもな。
 此処にも花があればいいのに、と思いはしたって、無理な環境はあるもんだ。
 花瓶や植木鉢を置いても、室温がやたらと高い場所では、アッと言う間に萎れてしまう。機関部とかだな、代表格は。
「…それで?」
 花が無理だというのは分かるよ、機関部ならね。あそこには高温の場所も沢山あったから。
 だけど、前のぼくとどう結び付くわけ、花には向かない場所の話が…?
「そういう所にも花を飾れないか、って声が出て来ちまって…」
 花がある暮らしが普通になったら、人間、欲が出てくるってな。此処でも見たい、と。
 公園や農場の係だったら、いつだって花は見放題だ。…だが、違う持ち場の仲間も多いから…。
 何か方法が無いだろうか、とエラたちが検討し始めてだな…。
 考え出したのが造花だった、という昔話。前の自分たちが、白いシャングリラで生きた頃。
 人類の船から奪った物資で暮らした時代に、何度か目にしていたのが造花。コンテナに詰まった物資に紛れて、本物そっくりの造花もあった。
 あれを作ろう、と思い付いたエラたち。
 本物の花が無理な場所には、本物そっくりの造花がいい。造花だったら萎れはしないし、高温の場所でも枯れはしないで咲き続けるから。
 データベースで調べた通りに作られた布。思い通りの色に染められて、造花を作ってゆける布。
 専用のコテなどもきちんと揃えて、女性たちが器用に作った造花。
 それは元々、女性の作業だったから。地球が滅びに向かう時代に、花たちで家を飾ろうと。



 白いシャングリラの女性たちが始めた、本物そっくりの造花作り。公園に咲いた本物の花たちを参考にしては、薔薇も百合も見事に作り上げた。布を染めたり、コテを使ったりして。
 後には子供たちも手伝うようになった、様々な造花を作ること。複雑なものは作れないけれど、簡単な花なら作れる子たちもいたものだから。
「お前、そいつに混ざり込んだんだ」
 子供たちのための造花教室。…遊びを兼ねて開かれてたヤツに、「ぼくもやるよ」と。
 ソルジャーお得意の我儘だってな、と笑うハーレイ。「子供たちと遊ぶのも仕事だったし」と。
「思い出した…!」
 出来そうな気がしたんだってば、造花を作ることくらい…。
 裁縫の腕とは関係無いしね、布を切ってコテで花びらとかに仕上げていくんだから。
 小さな子だって作ってたんだし、ぼくにも出来ると思ったんだよ。
 教室で教える花くらいなら…、と言ったけれども、そう思ったのは前の自分の勘違い。不器用な手でも作れるだろう、と勇んで参加してみたものの…。
「ソルジャー、大丈夫?」
 ちゃんと花びら、作れそうなの、と覗き込んで来た子供たち。格闘中の前の自分の手許を。
「うん、多分…」
 大丈夫だと思うけれど、と答えたものの、上手く扱えなかったコテ。こうだろうか、と花びらを曲げてゆこうとしたって、変な具合に曲がってしまう。とても花びらとは思えない風に。
「曲がっちゃったの? それ、直せない…?」
 手伝ってあげる、と横から伸びて来た小さな手。「こう直すの」と、「コテをこう当てて」と。
 下手くそな出来になっていたのを、それは器用に直してくれた子供たち。まだ小さいのに。
 負けてたまるか、と何度も教室に参加したけれど、惨憺たる成績だったソルジャー。
 いつも子供たちが手伝ってくれて、失敗したのを直してくれたり、助けたり。
 どう頑張っても、一人では完成させられなかった造花たち。ごくごく基本の花さえも。
 そんな有様だから、前のハーレイが青の間に来ては笑っていた。
 「また失敗をなさったそうで」と。
 造花教室が開かれることは、キャプテンも承知していたから。誰が教室に参加したかも、造花をきちんと仕上げることが出来たのかも。



 キャプテンの所に届いた報告。造花教室を開催したこと、ソルジャー・ブルーが参加したこと。講師を務めた女性たちが律儀に報告したから、前の自分の失敗談は筒抜けだった。
 ただし、女性たちの名誉のために言うなら、報告の中身はソルジャー・ブルーの失敗ではない。子供たちがソルジャーのために尽力したこと、そういう報告。
 「どの子たちも、よく頑張りました」と。与えられた課題以上のことをやったと、他の参加者の分も手伝い、それは見事に完成させた、と。
 女性たちはそう書いたのだけれど、前のハーレイには直ぐに分かった。「他の参加者」とは誰のことなのか、どうして手伝いが必要なのかも。
 それをハーレイに笑われる度に、仏頂面で言っていた自分。
「造花なんてね…。あんなのは紛い物だから。そっくりに見えても、よく見たら布だ」
 本物の花が一番なんだよ、布で出来てる花じゃない。自然が作った本物の花が最高なんだ。
 この船に自然は無いと言っても、花の命までは作れないだろう?
 だから自然の産物なんだよ、この船で咲く花たちも。…あれが本物で、同じ花でも全部違うよ。
 本物の花たちを真似ようとするのが間違っているね、真似られないぼくが正しいんだ。
 人間の身では神様の真似は出来ないだろう、と屁理屈ばかりこねていた。
 「自然に敬意を抱いているから、本物そっくりの造花は作れない」と。
 そっくりの造花を作るというのは、神と自然への冒涜だとも。
「お前、そう言ったわけなんだが…」
 前のお前は確かに言ったぞ、造花作りに出掛けて失敗してくる度に。
 俺が笑わずに教室のことを黙ってた時は、そんな話は全く出ては来なかったんだが…。
 本物そっくりの造花が何処にあろうが、機関部の視察で目にしようがな。
 「これは駄目だ」とは言わなかっただろうが、と今のハーレイが言う通り。
 ソルジャーとキャプテン、その組み合わせで出掛けた視察。機関部に行くことも何度もあった。
 其処で造花を目にした時には、「いいものだね」と語り合ったほど。
 「こんな所にも、花を置こうと思える時代になって良かった」と。
 皆の心に余裕が無ければ、花が欲しいとは思わないから。
 本物の花が置けない場所でも、「造花でいいから花があれば」と考えたりはしないのだから。



 白いシャングリラの機関部にあった、本物そっくりの様々な造花。季節に合わせて、替えていた造花。春らしい花が置かれていたり、高温の場所とも思えない冬の花があったり。
「前のお前は自然に敬意を抱いていたから、造花を作れなかったらしいが…」
 いくら挑んでも、本物そっくりの造花作りは、ついに成功しなかったんだが…。
 今のお前がそいつを作れるってことはだ、お前、自然に敬意を抱いていないのか?
 青い水の星に戻った地球に来たのに、自然はどうでもいいってか…?
 とても上手に造花を作れるらしいじゃないか、とハーレイが浮かべた意地の悪い笑み。前よりも上手に作れるのなら、自然への敬意が無いんだな、と。
「酷いよ、ハーレイ!」
 それ、揚げ足を取るって言わない?
 前のぼくが言ってたことを持ち出して、今のぼくと比べて苛めるだなんて…!
「これか? より正確に表現するなら、言葉尻を捉えると言うんだが…」
 揚げ足を取るって言い方よりかは、そっちの方が正しいぞ、うん。
 で、どうなっているんだ、今のお前の敬意の方は?
 自然への敬意は前に比べて、どうしようもなく減っているのか…?
 青い地球にまで来ておきながら…、と面白そうな顔で見ているハーレイ。「どうなんだ?」と。
「ちゃんと敬意を抱いてるってば…!」
 前のぼくよりもずっと多いよ、本物の地球に来たんだから…!
 テラフォーミングされた星じゃなくって、生き返った青い地球なんだから…!
「だったら、本物そっくりの造花ってヤツは、作らなくてもいいだろう」
 ペットを飼ってて、必要になって来たというなら話は別だが…。
 前のお前にも造花作りは無理だったんだし、今のお前が続きを頑張らなくてもな…?
 無理をしなくてもいいじゃないか、とハーレイは明らかに楽しんでいる。造花作りのことを。
「前のぼくのは…。あの頃はホントに作れなかったわけで、今のぼくなら…!」
 手先がずっと器用になったし、造花だって綺麗に作れるよ。きっと、本物そっくりに。
 また教室に行って習えば、今度は本物そっくりの造花…。
「ほほう…? 本物そっくりに作れるとなると…」
 自然への敬意ってヤツはどうした、前のお前が抱いていた敬意はどうなったんだ…?



 今のお前の自然への敬意は、前のお前より劣るのか、とハーレイに苛められたから。
 ソルジャー・ブルーだった頃にこねた屁理屈、それを持ち出されてしまったから。
(今のぼくなら、前のぼくより器用で凄い筈なのに…)
 前は作れなかった造花を、本物そっくりに仕上げて自慢出来そうなのに。
 「こんなに上手に作れたんだよ」と、ハーレイにも見せびらかしたいのに。
 もしも器用に作り上げたら、自然への敬意がどうこうと言った、前の自分が足を引っ張る。
 今の自分も自然に敬意を抱いているというのに、それが台無し。…前の自分の屁理屈のせいで。
(前のぼく…)
 なんて余計なことを前のハーレイに言ったんだろう、と悔しいけれども、とうに手遅れ。
 前の自分は訂正しないで死んでしまって、今のハーレイが思い出したから。
(生まれ変わるなんて、思わなかったし…)
 不器用な手先が器用になるとも、まるで思っていなかったのだし、仕方ない。
 前の自分に勝てるつもりが、無残に負けた。
 造花作りなら、ソルジャー・ブルーだった頃の自分に、鮮やかに勝てる筈だったのに。
 前よりもずっと見事に作って、「ぼくの勝ちだ」と誇れる筈だったのに…。
 ソルジャー・ブルーは、今の自分に戦わずして勝ちを収めた。
 不器用すぎた前の自分の必死の言い訳、それをハーレイが覚えていたから。
 今の自分が造花を作ると、自然への敬意が無いことになってしまうから。
(…後悔先に立たず…)
 ホントに先に立たなかったよ、と情けない気分。ハーレイのニヤニヤ笑いを前に。
 今頃だなんてスケールの大きな後悔だよねと、前のぼくにも未来は見えなかったから、と…。




               造花と本物・了


※造花作りなら前の自分に勝てる、と思ったブルー。それは間違いなかったのですが…。
 前のブルーが失敗する度、こねていた屁理屈。今のブルーには、造花を作ることは無理そう。
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(あれ…?)
 なあに、とブルーが澄ませた耳。学校の帰り、バス停から家へと歩き始めて直ぐに。
 バス通りを走る車の音はもう聞こえないけれど、代わりに耳に届いた声。住宅街の先の方から。
(猫だ…)
 声の持ち主は猫だと思う。子猫ではなくて大人の猫。
 けれど尋常ではない鳴き声。お馴染みの「ミャア」や「ニャア」とは違って、「助けて」という悲鳴に聞こえる。喧嘩しているようでもなくて、猫の鳴き声は一匹分。
(どっち…?)
 あれは何処から聞こえてくるの、と歩くと近くなって来た声。明らかに悲鳴。猫の身に起こっている何か。助けを求めて、精一杯の声で鳴き続けている。
(何処かに身体が挟まっちゃった?)
 前に友達から聞いた。垣根の間を通り抜けようとして、柵に挟まってしまった猫。挟まった猫は怯えてしまって、助け出すのが大変だったという。手を差し出したら、噛もうとするから。
(挟まったかな…?)
 この辺りの家は大抵、生垣。緑の木々を茂らせた中に、柵が入っている家も多い。生垣だけではペットが庭から外へ出掛けて、帰って来なくなることもあるものだから。
 そういう柵がついている垣根、それを通って入ろうとした他所の家の猫が挟まることも、まるで無いとは言えないだろう。通れるつもりで身体を入れたら、挟まってしまったお尻とか。
(それとも、犬…?)
 吠える声は聞こえて来ないけれども、犬に追い詰められているかもしれない。
 犬を放している家の庭に、知らずにヒョイと入り込んで。犬と出会って逃げ出す前に、逃げ場を失くしてしまった猫。
 驚いてパニック状態だったら、其処に垣根があったとしたって、別の方へと逃げそうだから。
 大慌てで側の木に駆け登るだとか、犬は入れそうにない隙間に向かって飛び込むだとか。
(ちゃんと逃げ込めたらいいけれど…)
 壁際に追い詰められていたなら、猫の力ではどうしようもない。その家の人が留守だった時は、犬を押さえてくれる人などいないのだから。



 垣根に挟まったか、犬に追われているか。どちらにしたって、とても困っているだろう猫。
(こっちの方…)
 悲鳴が聞こえてくる方向は、帰り道からは外れるけれども、助けに行った方がいいだろう。今も悲鳴は続いているから、次の角を曲がって、猫を助けに。
(落ち着かなくちゃ…)
 走ったら駄目、と足音もあまり立てないように気を付ける。挟まっている猫を驚かせたら、前に友達から聞いたのと同じことになる筈。助けようと手を差し伸べたって、噛もうとする猫。
 それでは助け出すのは無理だし、挟まったのではなくて犬がいるのなら…。
(犬がビックリして、猫をガブッと…)
 噛むかもしれない、犬は本来、ハンターだから。「うるさい猫のせいで何かが来る」と、二度と悲鳴を上げられないよう、猫を仕留めてしまう犬。
 そうなったのでは本末転倒、助けに出掛ける意味がない。とはいえ、相手が犬だったなら…。
(ぼくで何とか出来ればいいけど…)
 犬を宥めて、その間に猫を逃がすとか。家の人が留守なら、ご近所の人に助けを求めるだとか。自分は犬と馴染みがなくても、近所の人なら犬と仲良し。「こら!」と止めてもくれるだろう。
 どうやって猫を助けようか、と考えながらも「此処だよね?」と角を曲がったら。
(え…?)
 猫の悲鳴は確かだけれども、その叫び声はキャリーの中から。猫を運んでやる専用のケース。
 キャリーを抱えて家の前にいる、顔馴染みの其処の御主人と奥さん、それから車。
(…どうしちゃったの?)
 キャリーの中から悲鳴だなんて、とポカンと道に立ち尽くしていたら、気付いた二人。
「こらっ、ネネちゃん!」
 恥ずかしいだろう、とキャリーに向かって叱る御主人。「とうとう人が来ちゃったぞ」と。
 静かにしなさい、と御主人がキャリーに声を掛けても、一向に止まらない悲鳴。「助けて!」と中で叫んでいる猫。「此処から出して」と、「誰か助けて」と。



 猫に助けを求められても、側にいるのは飼い主たち。柵に挟まったわけではなくて、猛犬だっていはしない。自分の出番はまるで無いのに、猫の悲鳴は止まらないまま。
「えっと…。ネネちゃん?」
 どうなっちゃったの、と近付いて行った。御主人たちにも挨拶をして。
「ブルー君、ビックリさせちゃってごめんよ」
 あっちの方まで聞こえたんだね、と御主人がポンと叩いたキャリー。「声が凄いから」と。
「ううん、安心したけれど…。ネネちゃん、キャリーの中だから」
 助けなくちゃ、って思っていたし…。きっと酷い目に遭ってるんだ、って。
「あらまあ…。やっぱりそうだったのね」
 ネネちゃん、心配かけちゃ駄目でしょ、と奥さんも猫を叱っている。「ご迷惑だわ」と。
 御主人は申し訳なさそうな顔で、「動物病院に行く所なんだよ」と話してくれた。足にトゲでも刺さったらしくて、引き摺って歩いていたネネちゃん。御主人たちが足を調べても、素人の目ではよく分からない。それで病院に連れて行こうとしたのに…。
「キャリーには入ってくれたんだけどね、いつものお出掛けで慣れているから」
「でもね…。車まで来たら、気付かれちゃったの」
 お出掛けではないらしいことにね、と奥さんがついている溜息。
 御主人が車を出した所で、ネネちゃんは外の様子に気付いた。お出掛けの時は用意するバッグ、それが何処にも無いことに。
「これなんだけどね…。後から慌てて取りに戻っても、手遅れだったよ」
 いつもは持っているものだから、と御主人が指差す小さなバッグ。奥さんが手に提げている。
「おやつ入りなのよ、ウッカリしてたわ」
 これさえあったら、ネネちゃんは御機嫌なんだけど…。外でおやつが貰えるから。
 欲しくなったら、「ちょうだい」って言えば、バッグから出してあげるのよ。
 だから、病院に連れて行く時も、お出掛けのふりでバッグなのに…。
 今日は持つのを忘れていたの、と奥さんも御主人も困り顔。キャリーの中から今も聞こえてくる悲鳴。「誰か助けて」と、「此処から出して」と。



 動物病院が大嫌いなネネちゃん。痛い注射をされたりするから。
 おやつ入りのバッグに騙されて何度も連れて行かれて、ますます嫌いになった病院。お出掛けのつもりで家を出たのに、着いたら苦手な病院だから。お医者さんに注射されたりもして。
 すっかり懲りて行きたくないのに、今日は気付いた「バッグが無い」こと。おやつ入りバッグが見当たらないなら、行き先は動物病院だけ。それで始まった、この騒ぎ。
「どうするの?」
 ネネちゃん、凄く嫌がってるよ、とキャリーの中を覗いてみたら、猫の毛は全部逆立っていた。尻尾もパンパンに膨れてしまって、「行かない」と叫び続けるネネちゃん。
「連れて行くしかないからねえ…。でないと足を診て貰えないし」
 恥ずかしいんだけどね、この騒ぎだから。…病院の人たちは慣れっこでもね。
 ブルー君まで来ちゃうほどだし、もっと大勢の人に迷惑をかけてしまわない内に行かないと。
 車に乗せればマシになるから、とキャリーと一緒に乗り込んだ御主人。おやつ入りバッグを手にした奥さんも。
 ドアがバタンと閉まっても…。
(ネネちゃん…)
 微かに聞こえる、この世の終わりのような鳴き声。車の窓の向こうから。
 窓はピッタリ閉まっているけれど、もしも開いたら、凄い悲鳴が届くのだろう。「助けて」と、「誰か此処から出して」と。車に乗ってしまった以上は、病院に行くしかないのだから。
 けれど御主人がかけたエンジン、車はそのまま走って行った。病院嫌いのネネちゃんを乗せて。
(なんだか凄い…)
 誰か助けて、と絶叫しながら動物病院に向かったネネちゃん。キャリーの中で毛を逆立てて。
 助けてくれる人は、その病院で待っているのに。
 動物病院に到着したなら、足を診てくれるお医者さん。トゲだって直ぐに抜いて貰えて、抜いた後には消毒なども。
 病院に行けば、痛かった足が治るのに。引き摺らなくても、楽々と歩けるようになるのに。
 きっと今までにも、色々と治して貰ったのだろう動物病院。怪我も、病気も。
 病院は助けてくれる場所なのに、ネネちゃんはまるで分かっていない。「助けて」とキャリーの中で悲鳴で、そのまま運ばれて行ったのだから。



 動物だから仕方ないかな、と走り去る車を見送った後で帰った家。
 制服を脱いでおやつを食べて、二階の自分の部屋に戻って考えてみるネネちゃんのこと。今頃はとうに病院に着いて、トゲだって抜いて貰っただろう。家に帰っているかもしれない。
 大嫌いな病院はもうおしまい、と御機嫌で歩いていそうなネネちゃん。悲鳴を上げていたことも忘れて、もう痛くない足でトコトコと。
(ちゃんと言葉が通じたら…)
 人間の言葉が分かったならば、ネネちゃんも大騒ぎしたりしないで病院に行くことだろう。足を治して貰える所、と教えて貰って、キャリーに入って。
(足が痛いままで歩いているより、治った方がいいもんね?)
 けれど、猫には通じないのが人間の言葉。思念波だって。
 おじさんたちも大変だよね、と思っていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、早速報告することにした。お茶とお菓子が置かれたテーブルを間に挟んで。
「あのね、ハーレイ…。今日の帰りに凄かったんだよ」
「凄かったって…。何がだ?」
 何かいいことあったのか、と瞬く鳶色の瞳。「素敵なものでも貰ったのか?」と。
「違うよ、凄い悲鳴が聞こえて…。猫が「助けて」って鳴いていたから、行ったんだけど…」
 猫はキャリーの中だったんだよ、動物病院が大嫌いな猫。
 足が痛いのに、大騒ぎしてた。病院なんかに行きたくないのに、車に乗せられそうになって。
 それでも、乗せて行っちゃったけど…。でないと足は治らないから。
 人間の言葉、猫にも分かればいいのにね。
 病院に行けば足を治して貰えるんだ、って分かっていたなら、騒がないでしょ?
 不便だよね、と言ったのだけれど。「猫にも思念波とかが通じたら…」と考えを伝えたけれど。
「お前なあ…。人間の言葉が通じたとしても、駄目なものは駄目だろ」
 その猫は駄目だと思うがなあ…。それだけ叫んでいたんだったら。
「なんで?」
「簡単なことだ。お前、注射に行きたいのか?」
 病院に行けば注射なんだろ、あれで病気は良くなるんだが…。
 お前、喜んで病院に行くのか、注射を打たれると分かっていても…?



 どうなんだ、と覗き込まれた瞳。「お前、病院に行きたいか?」と。
「あ…!」
 そうだったっけ、と気が付いた。ネネちゃんは注射が嫌いだけれども、自分も同じで大嫌い。
 恐らくは、前の自分のせいで。アルタミラで酷い目に遭わされた注射、その恐ろしさを何処かで覚えていたせいで。…記憶が戻るずっと前から。幼い子供だった頃から、苦手な注射。
 それを打たれると分かっているから、病院は嫌い。行けば治療をして貰えると知ってはいても。
「ほらな、お前も嫌いだろうが。…病院と注射」
 猫のこと、言えた義理じゃないよな、お前だって。「助けて」と叫ばないだけで。
 つまり言葉が通じたとしても、駄目なものは駄目ということだ。病院も、それに注射もな。
 それで治ると説明したって、お前も猫も嫌がるだけだ。
 一度嫌いになっちまったら無理ってもんだ、と猫と同列にされてしまった。病院が嫌いで騒いでいた猫、車に乗っても叫び続けていたネネちゃんと。
「ぼくは違うよ、病院に行って嫌いになったわけじゃないから…!」
 アルタミラのせいで嫌いなんだってば、注射。…前のぼくだって嫌いだったし…!
 注射は抜きで、って頼んでいたよ、と前の自分の注射嫌いを指摘した。寝込んでいたって注射を拒否したソルジャー・ブルー。「それは嫌いだ」と、ノルディにプイと背中を向けて。
「それはそうだが…。前のお前も苦手だったし、今のお前もそれを覚えていたんだろうが…」
 お前、散々な目に遭ったらしいしな、アルタミラでは。…注射のせいで。
 しかし、アルタミラか…。あそこは確かに、地獄みたいな場所だったんだが…。
 アルタミラなあ…、とハーレイが顎に手をやるから。何か考えている風に見えるから…。
「どうかした?」
 何か気になることでもあったの、アルタミラで?
 嫌なことでも思い出したの、と問い掛けた。前のハーレイも、檻に入れられていた実験動物。
「いや…。動物病院ってヤツは、あったんだろうと思ってな」
「動物病院?」
 何処に、と丸くした瞳。
 あったも何も、ネネちゃんだったら動物病院に行ったから。ハーレイが育った隣町にも、動物のための病院は幾つもあるだろうから。



 いったい何処の話だろう、と不思議に思った動物病院。何処の星にもあると思うし、宇宙空間に浮かぶステーションにも、併設されていそうな感じ。客船が立ち寄るステーションなら。
(ペットと一緒に旅行する人、いるもんね?)
 旅の途中でペットの具合が悪くなったら、動物病院に行くだろう。そういう時に備えて、病院。遠い星へ飛ぶ大型客船だったら、獣医さんも乗っているかもしれない。
(動物の病院、何処にでもあると思うけど…)
 それとも基地か何かの話だろうか。資源採掘用などの基地でも、其処でペットを飼っているなら動物病院が無いとは言えない。基地と聞いたら、まるで無縁に聞こえるけれど。
 ハーレイが言うのは、そうした場所かと考えたのに…。
「動物病院があった所か? …アルタミラだ」
 アルテメシアにもあっただろうな、ペットを飼う人間がいたならば。…あの時代でも、きっと。
 首都惑星だったノアとなったら、もう確実にあっただろう。大切なペットを治療するために。
 しかしだ、前の俺たちには…。
 病院なんかあったのか、と問い掛けられた。「ミュウを診てくれる病院だ」と。
「…ミュウの病院?」
 頭に浮かんだメディカル・ルーム。白いシャングリラには立派な設備が整っていた。
 白い鯨に改造する前も、医務室という名でノルディが治療していたもの。手術も立派にこなしたノルディ。独学ながらも、ミュウの時代の医療の基礎を築いたほど。今も名前が残る医師。
 けれどハーレイは「ノルディは別にしておけよ?」と言葉を続けた。
「シャングリラの医務室やメディカル・ルームは、数に入れるな」
 あそこ以外で、ミュウの治療をしてくれる病院はあったのか?
 ジョミーが人類に戦争を仕掛けるよりも前の時代に、宇宙の何処かに。
「あるわけないでしょ、ミュウの病院だよ?」
 人類がミュウを治療するわけないじゃない。…ミュウが落とした星となったら別だけど。
 そうなったらミュウが支配者なんだし、病院に来たら治療しないと…。
 薬が欲しい、って言われた時には、ちゃんと薬も処方して。
 だけど、そうなる前は違うよ。ミュウを見付けたら殺してしまうか、実験動物にしたんだから。



 病院なんかは要らないよね、と前の自分が生きた時代を思い出す。殺すか、実験動物にするか。人類がミュウにやっていたことは、その二つだけ。
「其処なんだ、俺が引っ掛かったのは」
 前の俺たちは実験動物だったわけだが…。アルタミラで檻に押し込められてな。
 いいか、動物だぞ、「実験」という言葉はつくが。…ミュウも動物の内だったんだ。
 おまけに見た目は人類そっくり、それだけじゃ誰も区別がつかん。サイオンの有無でしか、判断出来なかっただろうが。…人類にも、マザー・システムにも。
 それほど人類に似ていたのに、だ…。ミュウの病院は無かっただろう?
「無かったけど…」
 あれだけミュウを嫌ってたんだし、治療しようと思うわけがないよ。
 実験で死んでしまったとしても、厄介なのが一人減ってくれたと考えるだけ。…あの時代なら。
 そうじゃないの、とハーレイの瞳を見詰めたけれども、「その人類だ」と返したハーレイ。
「前の俺たちを、せっせと傷めつけてた人類。…アルタミラでな」
 あいつらがペットを飼っていたなら、どうしたと思う?
 ペットが病気になった時には。…実験を終えて家に帰ったら、ペットの具合が悪かったら。
「病院でしょ?」
 急いで病院に行ったと思うよ、手遅れになったら大変だもの。
 病院が開いてる時間だったら、もう大急ぎ。…閉まっちゃってても、連絡しそう。この時間でも診て貰えませんか、って。…駄目なら、家でも出来そうな手当てを教えて下さい、って。
「お前の意見もそうなるか…。俺もそうだと思うんだ」
 次の日に研究所に遅刻したって、まずはペットの治療だろうと。
 もしも入院が必要だったら、直ぐに入院させただろうな。そして仕事が終わった後には、病院へ見舞いに出掛けてゆくんだ。「良くなったか?」と。
 ミュウってヤツはだ、ペット以下だとは思っていたが…。
 そいつは前から気が付いていたが、病院も無かったと来たもんだ。
 動物だったら、動物病院に行けば診察して貰えたのに…。無論、治療も受けられた。
 だが、俺たちは駄目だったんだ。同じ動物でも、ミュウというだけで。



 治療されていた実験体は少ないぞ、と言われなくても分かること。
 ミュウは実験動物だったし、ペットと違って治療などして貰えない。どんなに具合が悪くても。放っておいたら死んでしまうと、誰の目にも分かるような時でも。
(…前のぼくは治療されていたけど…)
 それが例外だっただけ。
 前の自分は一人しかいないタイプ・ブルーで、もしも実験で死んでしまえば、二度と得られない様々なデータ。他のミュウでは、タイプ・ブルーのデータを取れはしないから。
 唯一の貴重な実験動物。ただ一人きりのタイプ・ブルー。
 それを殺してしまわないよう、研究者たちは治療し続けた。手荒に扱い、足蹴にしても。過酷な人体実験をされて、半ば死体と化した時でも。
(これで死ぬんだ、って何度思っても…)
 再び目覚めた檻の中。まだ続くのだと思い知らされた地獄。
 生きていてもいいことは何も起こらないから、心も身体も成長を止めた。生きる望みも、希望も失くして。未来への夢も、自分自身への励ましさえも。
 そうやって、息をしていただけ。研究者たちに生かされただけ。
 成人検査よりも前の記憶も失くしてしまって、何もかもどうでも良かった日々。狭い檻の中で、ただうずくまるだけ。檻から外へ出ることさえも、夢に見たりはしなかった。
(同じ檻でも、ハーレイたちは…)
 生き延びようとしていたのに。いつか必ず其処を出ようと、その日まで生きて生き抜くのだと。
 まるで希望が見えない日々でも、未来を見詰めたハーレイたち。「いつか、きっと」と。
 だからアルタミラがメギドの炎に滅ぼされた時、子供だったのは前の自分だけ。
 ハーレイたちは檻の中でも育ち続けて、大人の身体を持っていたから。宿る心も、当然、大人。
 彼らに助けられなかったら、前の自分は燃えるアルタミラで命尽きたに違いない。
 閉じ込められていたシェルターはサイオンで破壊出来ても、するべきことが分からないから。
 逃げるべきだと気付きもしないで、座り込んだままでいただろうから。
(ハーレイが助け起こしてくれて…)
 他の仲間たちを助けなければ、と促されたから、やっと分かった為すべきこと。
 それくらいに子供だったのが自分、前のハーレイたちとは違って。



 アルタミラがメギドに焼かれた時には、とうに青年だったハーレイ。
 タイプ・グリーンの身では、実験で何が起こったとしても、治療はされなかっただろうに。前の自分が受けていたような、本格的な治療などは。
「…前のハーレイも、治療はされていないんだよね?」
 アルタミラにはミュウの病院は無かったんだし、あの頃はノルディも檻の中だし…。
「前のお前みたいに、丁寧な治療じゃなかったな」
 死んじまっても代わりはいるから、せいぜい飲み薬って所だったぞ。餌と一緒に突っ込まれて。
 自分で飲み込む力が無ければ、其処で終わりというわけだ。
 お前だったら、意識が無くても身体中に管を繋いでいたろうが…。必要だったら酸素もな。
 しかし、俺たちはそうじゃなかった。運が良ければ生き延びるだろう、って扱いだ。
 そいつを飲め、って顎をしゃくっておしまいだから。…餌を突っ込みに来た時に。
「それは治療と言わないの?」
 薬を飲ませていたんだったら、治療みたいな気もするけれど…。
 自分で飲まなきゃ駄目なんだったら、やっぱり治療じゃないのかな…?
「違っただろうな。積極的に生かすためではなかったから」
 無理やりにでも喉に薬を突っ込んでたなら、荒っぽくても治療だろうが…。薬は正しく飲ませたわけだし、治そうという意図はある。俺たちが派手にむせていたって。
 だがな、ヤツらはそうしなかった。「飲んでおけ」と檻に突っ込んだだけだ、薬と水を。
 這いずってでも自分で飲めるようなら、勝手に治ると思ったわけだな。
 データを取っていたかもしれんぞ、「此処までやっても治るようだ」というデータ。
 意外にしぶとい、と嘲笑いながら、下等動物のミュウのデータを。
「それって酷い…」
 本当にデータを取っていたなら、と顔を曇らせたけれど、ハーレイは「有り得るぞ」と答えた。
「俺のデータを見てはいないが、似たようなデータならあった」
 テラズ・ナンバー・ファイブが抱え込んでた、アルタミラのミュウの記録の中にな。
 殺す目的でしていた実験もあるし、もう本当に動物以下だ。
 ヤツらが家で飼ってたペットは、具合が悪けりゃ病院に連れて行ったんだから。



 死ぬか生きるかの病気でなくても、ちょっとした怪我で病院だろう、とハーレイは顔を顰めた。
 「お前が帰りに見た猫みたいに、トゲが刺さっただけでもな」と。
「俺たちだったら、トゲどころかモリが刺さっていたって、ヤツらは放っておいただろうが…」
 あれだけの怪我だといつ死ぬだろう、とデータを取ったと思うんだが…。
 ペットの怪我となったら別だな、小さなトゲでも大騒ぎだ。病院に連れて行かないと、と。
「病院…。前のぼくだって、ちゃんと連れて行ってくれていたなら、もうちょっと…」
 あまり病院らしくなくても、治療用の部屋に…。
「どうした?」
 いったい何がどうなるんだ、とハーレイが訊くから、「注射だよ」と零した溜息。
「前のぼく、注射嫌いにならなかったかな、って…」
 壁とベッドしか無いような部屋でも、檻とあんまり変わらなくても、治療用の場所。
 前のぼくが半分死にかけていても、其処に運んで、意識がある間に注射して…。
 「これで治る」って言ってくれてたら、治る注射もあるんだってことが分かったよ。…それきり意識を失くしたとしても、次に気が付いたら檻の中でも。
 治る注射をしてくれたんだ、って知っていたなら、注射も少しは好きになれそう。
 ネネちゃんみたいに騒がないよ、と病院嫌いの猫の名前を挙げたのだけれど。
「何を期待しているんだ、お前。…人類ってヤツに」
 人類がそうしてくれていたなら、アルタミラは星ごと滅ぼされていないぞ。
 後の時代のミュウにしたって、端から殺しちゃいないってな。人類が情けを持っていたなら。
「そうだよね…。人類にとっては、ミュウは殺してもいいもので…」
 殺しちゃうのが正しい道で、殺さないなら実験動物。…病院も無しで、治療も無しで。
 だけど悲しいよ、ペット以下だなんて…。
 飼ってるペットが病気になったら、大急ぎで病院に連れて行くのに…。
 見た目が人類にそっくりのミュウは、治療もしないで死ぬまで放っておかれたなんて…。
 自分で薬を飲めなかったら、それっきり。
 ちょっと起こして飲ませてくれたら、沢山のミュウが、きっと死なずに済んだのに…。



 前のハーレイたちは薬を飲んだけれども、そうして命を繋いだけれど。
 それほどの強さを持たなかった者は、檻の中で死んでいったのだろう。「飲め」と突っ込まれた薬を飲んだら、生き延びることが出来たのに。…飲みたいと思いもしたのだろうに。
「…ねえ、ハーレイ…。檻に突っ込まれたっていう薬…」
 飲みたくても飲めなかったミュウもいるよね、もう起き上がる力も無くて。
 あれが欲しい、って水を見ながら死んでった仲間…。薬だってことも分かってたのに…。
「そりゃいただろうな、一人や二人ではない筈だ」
 実験の後で檻に放り込まれて、「飲め」と突っ込んでいくんだから。
 俺だって「薬だ」とピンと来たから、迷いもしないで飲んだってわけで…。何処の檻でも、意識さえあれば気付いただろう。「あれで治る」と。
 そうは思っても、身体が動いてくれるかどうかは、また別だから…。
 あれさえ飲めたら、と思う間に意識を失くして、そのままになった仲間たちの数は多いだろう。
 さっきお前が言ったみたいに、ちょいと起こして飲ませてくれたら、命を拾えていたのにな?
 それをしないで放っておくって酷いことをだ、平気な顔でやっていたのが人類だ。
 もっとも、マザー・システムが無ければ、そうはならなかったかもしれないが。
 前にも言ったが、記憶処理が不可能だったなら…な。
「記憶処理…。可哀相だ、って思う人が出て来るってことだね」
 ミュウの扱いに疑問を持つ人。…これでいいのか、って考える人。
 マザー・システムは、そういう思考を消してしまうことが出来たけど…。記憶を処理して。
 これは危険だ、って判断したなら、その考えは消してしまって、それでおしまい。
 記憶の処理を続けていたから、ミュウを可哀相だと考える人は出て来ないまま…。
 そう思っても、次の朝には消えてるものね、とハーレイの意見に頷いた。ミュウにも治療をしてやるべきだ、と誰かがチラと考え付いても、機械が思考を消していた社会。そういう時代。
「うむ。マザー・システムさえ、あそこに存在していなかったら…」
 ミュウの扱いは酷すぎないか、と一度思ったら、後は疑問が膨らむだけだ。
 どうも変だ、と気になって来たら、他の人類にも「どう思う?」と訊いてゆくんだろうし…。
 その内に考えが変わるわけだな、ミュウの扱いを改善してゆく方向へ。
 最初は治療を始めることから。…無闇に殺すのをやめちまったら、次は殺さない方向へとな。



 マザー・システムさえ無かったならば、人類はミュウを生かしただろう、とハーレイは語る。
 ミュウが初めて現れた頃には忌み嫌っても、やがて考えが変わっていって。
 最初は実験動物の治療、無闇に殺さないように。生かしておくことが普通になったら、ミュウを殺そうという考え自体が薄らいでいって。
「動物の病院にしたってそうだな。今じゃ何処にでもあるんだが…」
 ペットを連れての旅も多いし、中継基地になるステーションには動物病院がセットなんだが…。
 その動物の病院ってヤツが、昔は無かったもんだから。…宇宙の何処を探してもな。
「え…?」
 動物の病院、アルタミラにもあっただろう、って、ハーレイ、言っていたじゃない。
 アルテメシアにもきっとあった筈で、ノアにあったのは確実だ、って…。
 ちゃんとあったよ、動物病院。…前のぼくは覗いていないけれども、きっと沢山…。
 無かったなんてことはないでしょ、とハーレイの間違いを指摘したのに。
「前の俺たちの頃じゃない。…もっと昔だ、地球が滅びるよりも遥かに前の時代だ」
 人間が地球しか知らなかった頃で、それほど豊かじゃなかった時代。食べていくのが精一杯で。
 その時代には、ペットはごくごく一部の人しか飼ってはいなかったんだ。本当のペットは。
 犬は猟をしたり家の番をするのが仕事だったし、猫はネズミを捕るのが仕事。
 人間様が生きるので精一杯なら、動物のための病院なんかがあるわけがない。今みたいなのは。
 牛とか馬とか、財産と呼べる動物のための医者は存在したらしいがな。
 とにかく人間が生きなきゃならんし、増えすぎたペットは殺しちまうのも普通だったから…。
 こんなに沢山飼えやしない、と生まれたら直ぐに捨てちまってな。
「…そんな…」
 動物の赤ちゃんを捨てたっていうの、お母さんがいないと死んじゃうのに…。
 自分で餌を捕れないどころか、ミルクしか飲めないのが赤ちゃんなのに…。
 可哀相すぎるよ、と驚いたけれど、本当にあったことらしい。ネズミ退治用に飼っていた猫が、子供を産みすぎてしまったら。…番犬の犬も同じこと。
 生まれた子供を欲しがる人がいない時やら、人間の食べ物を確保するのも危うい時には、小さな命が犠牲になった。沢山の犬や猫を飼うだけの余裕を、人間は持っていなかったから。



 海に流されたり、山に捨てられたりした命。「とても育ててゆけない」と。
 それを責める人はいなかった。そうすることが正しかったし、皆、当然だと思っていた。明日は自分が同じ選択を迫られるかもしれないから。
「そういう時代もあったというのに、動物病院が普通になったんだ」
 人間の生活に余裕が出来たら、ペットも家族の一員ってな。…今と同じで。
 子猫や子犬が生まれすぎても、もう捨てたりはしなかったそうだ。貰ってくれる人を探したり、頑張って自分で飼ってみたりと。
 病気になったら、もちろん病院。夜も寝ないで看病する人も少なくなかった。
 それをしていたのは人類なんだぞ、ずっと昔の。
 本来、人類も優しかったんだ。ミュウと変わらないくらいにな。
 動物の痛みもきちんと分かっていたんだから、というハーレイの話は当たっている。前の自分が生きた頃にも、人類は優しい生き物だった。…ミュウ以外には。
「そうだね…。人類だって、基本は優しかったよね…」
 ジョミーのお父さんやお母さんみたいな人たちもいたし、他の人たちも優しかった筈。
 軍人以外は人殺しなんかしていなかったし、保安部隊が殺していたのもミュウだけだから。
 前のぼくたちは酷い目に遭ったけれども、SD体制が崩壊した後は…。
 ミュウは敵だって言い出す人は一人もいなくて、殺そうとする人も出て来なくって…。
「何処の星でも、何の騒ぎも起こらなかったというからな」
 マザー・システムを破壊しよう、と立ち上がった人類は大勢いたと伝わってるが…。
 ミュウに向かって牙を剥くヤツはいなかったらしい。どう見ても、同じ人間だからな。
 キースの野郎の大演説が無くても、きっと結果は同じだっただろう。
 前の俺たちが落としていった星でも、何処もそうだったから。
 アルテメシアも、他の星もノアも、ミュウを遠巻きに見るヤツはいても、それだけだ。
 怖がっちまうのは仕方ないよな、慣れない生き物は誰だって怖い。
 大人しい犬でも、うんとデカイのが散歩していたら泣き出す子だっているんだし…。
 それと同じだ、慣れるまでは「怖い」と思っちまうのが本能だから。



 時代だよな、とハーレイは言った。時代が来ないと、何も変わってくれないのだと。
「人類の優しさがミュウの方に向く、そういう時代。…そいつが来ないと駄目だったんだ」
 前のお前は地球に行こうと頑張ったわけだが、そんなお前が生まれて来なけりゃ駄目だった。
 ミュウ因子はSD体制が始まる前からあったし、お前が時代の変わり目なんだ。
 たった一人のタイプ・ブルーで、人類にとっては脅威だったが…。
 其処から全てが変わったんだな、地球の未来も、人類が進む方向も。
 今じゃ学校で定番になってる、「ソルジャー・ブルーに感謝しましょう」って言葉の通りに。
「褒めすぎだよ、それ…」
 前のぼくは何もしてないよ。
 SD体制を倒した英雄はジョミーとキースで、グランド・マザーを壊したのだって、あの二人。
 ぼくは地球にも行けていないし、ナスカでも眠っていたってだけで…。
 トォニィたちが生まれた自然出産も、ぼくは計画さえも知らずに寝ていたんだから。
 ホントに何もしていないのに…、と自分でも情けない気分。ソルジャー・ブルーの功績とされる物事は全部、ジョミーたちがやったことだから。
「そうは言うがだ、メギド、沈めてくれただろうが」
 あそこでメギドが沈まなければ、シャングリラの方が沈められてた。…ミュウの時代は、ずっと後まで来やしない。それは誰もが認めることだし、前のお前が始まりなんだ。今の時代の。
 ついでに今のチビのお前も、ちゃんと勇気はある筈だぞ。前のお前には敵わんが。
 悲鳴を上げてた猫を助けようとしたんだろう?
「うん…。出来ないかも、って思ったけれど…」
 柵に挟まっていたんだったら、噛まれちゃっても助けてあげられそうだけど…。
 犬に追い掛けられていたなら、ぼくだと助けられないかも…。
 小さな犬なら、ぼくでも止められそうだけど…。「こらっ!」って叱れそうだけど…。
 うんと大きな猛犬だったら、ぼくも怖くて無理だもの。



 とても助けに入れないよ、と腰抜けっぷりを明かしたけれども、ハーレイは笑いはしなかった。
 「それでも、お前、頑張っただろ?」と。
「お前の力じゃ無理と分かっても、そのまま真っ直ぐ逃げて帰りはしないだろうが」
 近所の家を端から回って、助けてくれる人を呼びに行くとか…。
 でなきゃ、犬の注意を逸らしてやろうと、何か方法を考えるとか。
「そうだと思う…。犬だった時は、誰か呼ぼうと思ってたから」
 近所の人なら、きっと犬とも顔馴染みだもの。叱ってくれたら、大人しくなると思うから…。
 そうしよう、って行ってみたのに、助ける必要、無かったけど。
 ネネちゃんはキャリーの中で鳴いてて、おじさんたちが困っていただけで…。
「病院は嫌だ、と鳴いているんじゃなあ…」
 お前は助けちゃ駄目なんだよなあ、その猫を。…どんなに悲鳴を上げていたって。
 ちゃんと病院に行かないことには、足に刺さったトゲを抜いては貰えないんだし…。
 いつまで経っても足が痛くて、引き摺ってるしかないんだから。
 それにしても平和な時代になったな、猫の悲鳴でソルジャー・ブルーの出番になるのか。
 何もかもお前のお蔭だってな、前のお前だった頃のソルジャー・ブルーの。
「褒めすぎだってば…!」
 前のぼくは何にもしていないよ、って言ったじゃない…!
 全部ジョミーたちがやったことだし、前のぼくはホントに何も関係無いんだから…!



 違うんだから、とハーレイに向かって訴えたけれど。自分でもそうだと思うけれども。
(時代なのかな…?)
 前の自分が生まれたこと。…あの時代に生を享けたこと。
 ミュウを診てくれる病院さえも無かった時代に、地球に行こうと大きすぎる夢を描いたこと。
 其処から全てが始まったのなら、それも時代の流れだろう。前の自分に力があったか、ミュウの時代を築く礎になったかどうかは、ともかくとして。
 そうして今のチビの自分は、前の自分だった頃のようには、頑張らなくてもいいようだから…。
(今のぼくなら、猫を助けに行く程度…)
 弱虫だけれど、それでいいよね、と浮かべた笑み。
 今はミュウにも病院があるし、動物用の病院ではなくて、人間用の立派な病院。
 前の自分が生きた頃より、うんと平和な時代に生きているのだから。
 ハーレイと青い地球に生まれて、幸せに生きてゆけるのだから…。




            動物の病院・了


※診察して貰える病院さえも無かった、SD体制の時代のミュウ。動物病院はあったのに。
 けれど動物病院だって、ずっと昔は無かったのです。その時が来ないと、変えられない世界。
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(お寿司でパーティー…)
 ふうん、とブルーが眺めた広告の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
 新聞ではなくて町の情報紙。其処に載っている和食のお店。美味しそうな料理の写真が沢山。
(家でパーティーするなら、お寿司…)
 そういう謳い文句の広告。「パーティーにどうぞ」と盛り合わせたお寿司の大皿だとか、一人分ずつ盛り付けてある器とか。他にも和食のお弁当が色々。
(お弁当って言うより、ちゃんとしたお料理…)
 そうとしか見えないものだって。お弁当用とは違った器に、綺麗に盛られた様々な料理。どれもそのまま届くという。家でするのは、お味噌汁などを温めることだけ。いわゆる仕出し。
 お刺身も天麩羅も、全部セットで家に届くから、何も作らずにパーティー出来る。お寿司でも、本格的な和食が並ぶコースでも。
(いくらママでも、こんなに沢山…)
 大勢の人に和食を作るのは無理。
 家でこういうパーティーをするなら、仕出しを注文するのだろう。お寿司でなくても。きっと、気軽に頼めるのがお寿司。だから広告には「お寿司でパーティー」。
 お寿司だったら、器は沢山要らないから。パーティー料理を並べる時も、片付ける時も、手間がそれほどかからないから。
(そんなパーティー、やってないけどね?)
 小さかった頃には友達を呼んで、誕生日パーティーをしたけれど。
 子供のパーティーに仕出しなんかは頼まないから、母が作った料理が並んだ。友達の家に行った時にも同じこと。子供が好きそうな料理ばかりで、お寿司を食べてはいないと思う。
(ぼくの年だと、誕生日パーティー、もうやらないし…)
 縁が無さそうな、お寿司のパーティー。本格的な和食の料理を並べた方も。
 こうして広告が載っているなら、やっている人も多そうなのに。その人たち向けの広告なのに。



 パパたちもやっていないよね、と考える仕出しを取るパーティー。お客さんは大勢来ないから。たまに来るのは父の友人、母が充分料理を作れるだけの人数。母の友達が大勢来るなら…。
(食事じゃなくって、お茶会の方…)
 その方がのんびり出来るから、と軽いランチとセットでお茶会。仕出し料理の出番は無い。
 もしかしたら自分のせいかもしれない。幼い頃から身体が弱くて、熱を出したり、寝込んだり。大勢が集まるパーティーをするには、向いていそうにない家だから。
(みんなで集まっても、その家の子が寝込んでいたら…)
 ワイワイ賑やかに話せはしないし、招かれた方も何かと心配。子供の様子を見てくるようにと、気を遣ったりもするだろう。「此処はいいですから、行ってあげて下さい」と。
 母のお茶会程度だったら、「息子が熱を出したから」と断れそうでも、仕出し料理を取るようなものは難しそう。お店も料理を用意しているし、前の日から仕入れもするだろうから。
(ぼくのせいかもね…)
 両親は何も言わないけれども、自然とそうなった可能性もある。母に訊いても、「違うわよ」と答えが返りそうだけれど。…本当は自分のせいだとしても。
 理由はどうあれ、家では見たことがない和食のパーティー。お寿司も、仕出し料理の方も。
 いつかする時が来るのだろうか、幼い頃よりは丈夫になったし、機会があれば。
(ハーレイのお父さんとお母さんも呼んだら…)
 普段の食卓よりも増える人数。それにちょっとしたパーティー気分。
 ハーレイと結婚したら、ハーレイの両親とも親戚になるし、この家に招くこともあるだろう。
 自分はお嫁に行くのだけれども、たまには帰って来そうな家。
 そうでなくても、父と母なら計画しそうな、ハーレイの両親も招いての食事。
(ぼくとハーレイも呼んで貰えて…)
 楽しい食事になりそうだけれど、問題は母。
 お菓子はもちろん、料理を作るのも得意なのだし、仕出し料理を取るよりは…。
(作っちゃいそう…)
 たった六人分だもの、と眺め回したダイニングのテーブル。「全部並べても、このくらい」と。
 六人分の料理くらいなら、お寿司だろうと和食だろうと、母なら作ってしまいそう、と。



 ちょっと無理かも、と溜息をついて戻った二階の自分の部屋。
 お寿司でパーティーに憧れたけれど、仕出し料理を頼むパーティーも素敵だけれど…。
(ママなら絶対、作っちゃう方…)
 ハーレイの両親も来るとなったら、張り切って。仕出し料理を頼まなくても、ドッサリと。
 「家でパーティーすることにしたわ」と通信を貰ってやって来たなら、どんな料理でも、きっと手作り。頼んでいそうにない仕出し。たった六人分だから。
(…ぼくとハーレイの家でやっても…)
 料理は全部、ハーレイが作ってしまうのだろう。前のハーレイは厨房出身だったけれども、今のハーレイも料理が得意。プロ顔負けの腕前らしいし、六人分くらい、手際よく。
 そしてハーレイの両親の家で、パーティーということになったなら…。
(お母さんが作るか、お父さんの得意な魚料理か…)
 やっぱり無さそうな仕出しの出番。六人が集まるパーティーになっても、手作りの料理。魚まで釣って来るかもしれない、ハーレイの父は釣りの名人だから。「今の季節は、この魚」と。
(パーティーをするのが、ぼくだったら…)
 自分で料理は出来そうにないし、仕出し料理を頼むことになると思うけれども。
 広告を見ながら、どれにしようかと考えて注文出来そうだけれど…。
(そうなる前に、ハーレイが頑張るに決まっているじゃない…!)
 パーティーしたいと言った途端に、「いいな」と頷いてくれて、料理の準備。何を食べたいのか訊かれるだろうし、「和食にしたい」と言ったなら…。
 最初からハーレイの頭には無い、「仕出しを頼む」という選択肢。何を作ろうかと考えるだけ。
 作る料理が決まってしまえば、パーティーの日の前の夜から仕込みを始めていそう。
 当日の朝も、早起きをして買い出しに出掛けるかもしれない。市場が開いている日なら。
(ああいう市場は、朝が早いし…)
 暗い内から開いているらしい、新鮮な食材が入って来る市場。
 週末は休みかもしれないけれども、夏休みとかなら平日でも出来るのがパーティー。父の休みと合いさえしたなら、ゆっくりと。
 平日だったら、市場はもちろん開いているから…。



 お前は寝てろ、と一人で出掛けて行きそうなハーレイ。暗い間から車を出して、いそいそと。
 市場に着いたら、食材選び。この料理にはこれ、と思う魚や、野菜やら。
 明るくなってから、いつもの時間に目を覚ましたら…。
(もう、お料理の準備中…)
 ハーレイはとっくに帰って来ていて、キッチンに立っているのだろう。朝御飯だって、きちんと作ってテーブルの上。「お前の朝飯、そこだからな」と。
 せっかく市場に行ったのだから、と凝っていそうな朝御飯。なにしろ相手はハーレイだから。
 なんだか凄い、と眺めていたら、「俺は料理しながら、もう食ったから」と笑ったりもして。



(うーん…)
 きっとそうなる、と分かっているから、仕出し料理の出番は無さそう。集まる人数が六人では。もっと人数が増えてくれないと、仕出しは頼めそうもない。
 ハーレイが「流石に無理だ」と思う人数、どのくらいいればいいのだろう。十人はいないと駄目なのだろうか、八人くらいでもハーレイは諦めてくれるだろうか…?
(だけど、招待するような人…)
 いないもんね、と零れる溜息。両親と、ハーレイの両親と。それだけ呼ぶのが精一杯。六人しかいないパーティーだったら、料理はハーレイの手作りしか考えられないし…。
 仕出しを取るのは難しそう、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。いつかパーティーするんなら…」
「パーティー?」
 なんだそりゃ、と怪訝そうなハーレイ。「お前の誕生日パーティーとかか?」と。
「それもあるかもしれないけれど…。家でパーティーだよ」
 今じゃなくって、もっと先のこと。
 いつかハーレイと結婚した後、家でパーティーしようって時は…。
 ぼくのパパとママも、ハーレイのお父さんとお母さんも呼んで、みんなでパーティー。
 そういう時には、お料理、どうする?
 パーティーするなら、お料理だって出さなくちゃ…。その時のお料理…。



 どうするの、と首を傾げたら、「そりゃ作るさ」と思った通りの答え。
「張り切って美味いのを作らなくっちゃな、パーティーとなれば」
「…ハーレイが?」
 念のために、と訊き返したけれど、「当然だろう?」と微笑むハーレイ。「俺の出番だ」と。
「他に誰がいるんだ、料理となったら俺だよな。今の俺だって、料理は得意だ」
 お前は手伝わなくてもいいぞ。俺に任せておいてくれれば、最高の料理を作ってやるから。
「やっぱり…」
 パーティー料理はそうなっちゃうよね、と頷いたものの、仕出し料理の出番は来ない。いつまで経っても来てはくれなくて、パーティーの時にはハーレイの料理。
「なんだ、残念そうな顔をして。…俺の料理じゃ駄目なのか?」
 溜息が聞こえて来そうな顔だ、とハーレイも気付いたらしい落胆ぶり。それなら、いっそ話してみようか。仕出し料理を頼んでみたかったこと。
「えっと…。ハーレイの料理が駄目なんじゃなくて…」
 美味しいだろうし、パパやママも喜んでくれそうだけど…。ぼくも美味しく食べるけど…。
 それはいいんだけど、今日、広告を見たんだよ。新聞広告じゃなかったけれど。
 お寿司でパーティーって書いてあってね、和食のお店の広告で…。
 仕出し料理の写真も沢山、と広告のことを説明した。そういう仕出しを頼むパーティー、それが家には無いことも。…多分、自分が弱く生まれてしまったせいで。
「なるほどなあ…。それはあるかもしれないな」
 お母さんたちは「違う」と答えてくれるんだろうが、その可能性は充分にある。
 ただでも子供が小さい間は、大勢の人を招くというのは難しいからな。…料理は仕出しを頼むにしたって、家の片付けが大変だ。小さな子供はオモチャも絵本も、出したら出しっ放しだから。
「ハーレイだってそう思うんなら、ホントにぼくのせいだったかも…」
 だけど今なら、小さい頃よりは身体も丈夫になったから…。ホントだよ?
 しょっちゅう熱を出したりするけど、小さかった頃より減ったから…。
 自分できちんと気を付けてるから、酷くなる前に治すしね。ちょっと休憩したりして。
 だから仕出しを頼むパーティー、今のぼくなら出来そうだけど…。



 肝心の仕出し料理の出番が無さそう、と項垂れた。
 いつかハーレイと結婚したって、パーティーの時にはハーレイが料理を作るのだから。
「それでガッカリしちゃったんだよ、ハーレイの料理のせいじゃなくって…」
 仕出し料理の出番は無いよね、って思っちゃったら、残念で…。
 ちょっと頼んでみたかったのに…。お寿司でパーティーするのもいいけど、仕出し料理を。
「そういうことか…。出来上がった料理が届く所がいいんだな?」
 テーブルに並べていくだけで済むし、買ってくるより遥かに本格的だから…。盛り付ける器も、料理が一番映えるのを選んで来るからな。
 お前が頼んでみたいんだったら、注文すればいいんじゃないか?
 俺は作るのをやめておくから、仕出し料理でパーティーだ。寿司も一緒に頼んでもいいな、俺が作るなら両方となると大変だが。
 寿司が手抜きになりそうだ、とハーレイのお許しを貰ったけれども、引っ掛かった言葉。
「…それだと手抜きみたいじゃない。お寿司を一緒に頼んでなくても」
 今、ハーレイが自分で言ったよ。お料理とお寿司と、両方だったら、お寿司が手抜き…。
 それと同じで、パーティー、六人だけだから…。どう頑張っても、六人しか思い付かないし…。
 六人分なら、ハーレイ、簡単に作れちゃうんでしょ?
 なのに仕出しを頼んでるなんて、手抜きで注文したみたい。自分で作るのが面倒だから。
 仕出しを頼むなら、もっと大勢呼ばなくちゃ駄目で、お料理が作れないほどの人数だとか…。
 たった六人分で仕出しは駄目かも、と心配な気分。ハーレイは許してくれたけれども。
「手抜きって…。そうでもないんだぞ、仕出しってヤツは」
 お客様にお出しするなら仕出しがいい、って人も少なくないからな。
 家で料理を作るとなったら、お客様のお相手をしている時間が減るもんだから…。
 次はこれだ、と温め直したりしてるだけでも、時間、かかってしまうだろ?
 キッチンまで来て喋っているようなお客様なら、まるで問題無いんだが…。
 それが出来ないお客様もあるから、そういう時には仕出しだってな。
 もちろん出されたお客様の方も、手抜きだなんて思っちゃいない。仕出しは立派な文化だぞ。
 宅配ピザとは違うってことだ、仕出し料理は。



 値段もけっこう高いだろうが、と言われてみれば、そうだった。広告で見たのは、パーティーに相応しい値段。お寿司でパーティー、そう謳われても充分、納得出来そうな。
「パーティーだから、って思ってたけど…。お寿司、安くはなかったかも…」
 お店で食べるような値段で、他のお料理だってそう。安いお料理、無かったかも…。
「ほらな。店の器を貸して貰って、料理も盛り付けて貰うんだから」
 仕出しはきちんとした料理なんだ、お客様にお出ししても恥ずかしくない料理ってことで…。
 柔道部のヤツらに御馳走するには、仕出しは上等すぎるってな。パーティー用の寿司も。
 あの連中には、宅配ピザが丁度いいんだ、と教わったけれど。仕出し料理は立派な文化で、注文したっていいらしいけれど。
「そうなんだ…。でも、お客さん…」
 誰かいないかな、パパやママの他にもいればいいのに…。家に呼べそうなお客さんたち。
 仕出しを頼んでも良さそうな人で、うんと賑やかに。
「お前の友達なんかはどうだ? 今だと、ただのガキなわけだが…」
 その内に立派な大人になるしな、人数もけっこういるだろうが。お前のランチ仲間とか。
 ああいうのを呼んでやったらどうだ、とアイデアを出して貰ったけれども、どうだろう…?
 ハーレイと二人で暮らしている家に、友達を呼んでみたいだろうか…?
(今はランチも楽しいけれど…。ハーレイと暮らしてる家に呼びたいかな…?)
 ぼくたちには秘密も多いんだから、と記憶のことを考えた。ハーレイも自分も生まれ変わりで、前の生の記憶を持っている。両親の前なら当たり前のように話すけれども、友達となると…。
(…ぼくたちの正体、内緒のままだと、とても大変…)
 何かのはずみに喋ってしまって、慌てて口を押さえるだとか。「冗談だよ」と誤魔化すとか。
 ハーレイも自分も、前の自分たちにそっくりなのだし、冗談だと思って貰えそうでも…。
(やっぱり大変…)
 いつものように話せないのでは、つまらない。
 せっかく仕出しを頼んでパーティー、好きなように話題を選びたいのに。
 ハーレイとも普段通りに話して、「前のぼくたちの頃には、仕出しなんかは無かったね」などと語り合ってもみたいのに。…あの時代に仕出し料理は無かったのだから。



 そういう話も出来る人たち、両親以外で分かってくれるゲストがいれば…、と思っても、それは無理なこと。前の自分たちを知っている人、その人たちは遠く遥かな時の彼方にしかいない。
 白いシャングリラで共に暮らした仲間たち。彼らしか分かってくれはしないから…。
「仕出しを頼むお客様…。ゼルたちがいればいいのにね」
「ゼル?」
 どうしてゼルの名前が出るんだ、とハーレイが目を丸くする。「今は仕出しの話だぞ?」と。
「前に言ったじゃない。同窓会が出来たらいいね、って」
 無理なのは分かっているけれど…。夢だけれども、ゼルたちを呼んで地球で同窓会。
 その同窓会を家でするんなら、仕出しも注文出来そうだよ?
 人数は六人のままだけど…。ぼくの友達を呼んで来るより、ずっと少ない人数だけれど。
 でも、同じ六人で仕出しだったら、パパやママより、ゼルたちの方が面白そうだと思わない?
 ハーレイもお料理しなくていいもの、仕出しを頼んでおいたらね。
 お料理を作りにキッチンに行かずに済みそうでしょ、と話した思い付き。けして叶いはしない夢でも、ハーレイと夢を見たいから。
「あいつらか…! そうか、ゼルたちと同窓会なあ…。俺たちの家で」
 そりゃ賑やかになりそうだよな、とハーレイの顔も綻んだ。「六人でも充分、賑やかだぞ」と。
「ね、素敵でしょ?」
 ゼルたちだったら、前のぼくたちの話をしたって大丈夫だし…。
 ぼくの友達を家に呼んだら、そういう話は無理だけど…。喋っちゃったら大変だけど。
 誤魔化すのがね、と肩を竦めたら、「ゼルたちの場合は、別の意味で大変そうだがな?」という意見。「前の俺たちの話はともかく」と。
「仕出し料理を頼むんだろう? もうそれだけで大変なことになっちまうぞ」
 ひと騒動って感じだろうな、仕出しだけに。
「なんで?」
 ハーレイ、仕出しは手抜きじゃないって言ってたよ…?
 それとも手抜きだと言われてしまうの、ゼルもブラウも口がとっても悪いから…。
 料理も作れなくなったのか、ってハーレイが苛められちゃうだとか…?



 あの二人なら言いそうだ、と思った嫌味。前のハーレイの料理の腕前を知っているだけに…。
 ブラウだったら「呆れたねえ…。今のあんたは料理も作れやしないなんてさ」といった具合で、ゼルの方なら「わしらを納得させる味が出せんのじゃ。腕が落ちたんじゃ!」となるだろうか。
 ハーレイにすれば、不本意極まりない話。仕出し料理は立派な文化らしいのに。
「…ゼルたちだって分かってくれるよ、仕出しをきちんと説明すれば」
 おんなじ料理はハーレイにだって作れるけれども、これはそういう文化だから、って。
 それに仕出しを頼みたがったの、ハーレイじゃなくて、ぼくなんだしね。
 ぼくが頑張って説明するよ、と言ったのだけれど、「そうじゃなくて…」と苦笑したハーレイ。
「お前の気持ちは嬉しいんだが、俺が言うのは其処じゃない」
 あいつら、嫌味どころじゃないと思うぞ、仕出し料理をドンと出してやったら。
 まるで知らない料理だろうが、あいつらが。…寿司にしたって、本格的な和食にしたって。
 前の俺たちが生きてた頃には、和食は無かったんだから、とハーレイがトンと叩いたテーブル。
 「仕出し料理も、もちろん無いが」と。
「そうだっけ…!」
 ホントだ、ゼルもブラウもビックリだよね…。見たことのないお料理ばかり。
 仕出しについてるお味噌汁だって、「何のスープだい?」ってキョトンとしてそう…。
「だから賑やかだと言ったんだ。…ついでに、大変そうだともな」
 どれも食えるっていう所から教えてやらんと、きっと警戒されちまう。…美味いのにな?
 あいつらに仕出しを取るんだったら、寿司は外せん。是非とも食って貰わないと。
 「生の魚を食べるのか」と驚きそうだが、食えば喜ぶと思うぞ、きっと。
 それに天麩羅も頼まないとな。ずっと昔はスシ、テンプラと言ったらしいから。
 この辺りに日本があった時代は、他所の国から来た観光客たちに大人気のメニューだったんだ。寿司と天麩羅。
 大昔から人気の料理なんだし、あいつらの口にも合うだろう。
 「こいつは美味い」と褒められそうなのが、寿司と天麩羅ってトコだよな、うん。



 寿司と天麩羅は頼まないと…、とハーレイが挙げるものだから。
「他には…?」
 喜んで貰えそうなお料理もいいし、ビックリされそうなお料理だって。…何があるかな?
 お刺身も生のお魚なんだし、お寿司と一緒で用心されてしまいそうだけど…。
「茶碗蒸しも要るだろ、前にお前がお母さんに作って貰っていたぞ」
 今じゃ当たり前の料理なんだが、前の俺たちが見たらどう思うのか、って話でな。
「プリンだっけね、茶碗蒸し…」
 前のぼくなら、プリンの仲間と間違えるんだよ。きっと甘いよ、って食べたら甘くないプリン。
 それにプリンには入っていない中身が色々…。茶碗蒸しはお料理なんだから。
「甘くないだけで驚くだろうな、あいつらは」
 妙なプリンだ、と食っていったら、中に海老だの百合根だの…。
 海老は一目で分かるだろうが、百合根は謎の食べ物だしな?
 俺たちは何度、毒味する羽目になるんだろうなあ、「これは立派な食い物だから」と。
「そうなっちゃうかも…」
 きっと、ぼくよりハーレイだよ。毒味させられる係はね。…怪しい食べ物になればなるほど。
 元は厨房にいたんだろう、って言われちゃって。
「目に見えるようだな、その光景…。お前が食え、とゼルにせっつかれるんだ」
 でもって、毒味する時に、だ…。俺やお前が使っている箸、そいつも大いに問題だってな。
 ゼルたちには箸は使えんだろうし、ナイフやフォークも用意しないと…。
 変わった道具で食べていやがる、と珍獣扱いされちまうかもなあ…。
 お前も俺も、とハーレイが軽く広げた両手。「どう見たって、ただの棒だから」と。
「食べにくい道具だろうけれど…。挑戦しそうだよ、ブラウとかが。これで食べる、って」
 つまむ代わりに、グサリと刺しちゃいそうだけど…。フォークみたいに。
 前にそういう話をしたこと、あったっけね。お箸なんかは知らなかったよ、って気が付いた時。
「あの時も俺が気付いたんだよな、料理をしてて。…箸って道具は優れものだと」
 だが、箸がどんなに優秀でもだ、使いこなせないと二本の棒のままなんだから…。
 ナイフとフォークを用意してなきゃ、ゼルとブラウは手づかみで食おうとするかもなあ…。
 寿司なら手でもかまわないんだが、他の料理も遠慮しないで。



 きっとガツガツ食っちまうぞ、とハーレイが挙げてゆく料理。手づかみで食べられそうなもの。
 「天麩羅もいけるし、刺身もいける」と、「茶碗蒸しは、ちょっと無理そうだがな」と。
「茶碗蒸しだと、箸で崩して飲んじまうのかもしれないなあ…」
 ちょっと濃いめのスープってトコで、具入りのスープも無いわけじゃないし…。
 前の俺たちの時代でもな、と懐かしい料理の名前が挙がった。今もあるブイヤベースなどが。
「茶碗蒸し、スープにされちゃうんだ…。確かに崩せば飲めそうだけど」
 楽しそうだよね、家で仕出しで同窓会をやるっていうのも。夢の同窓会だけど…。
 本当にやるのは無理なんだけれど、同窓会なら、キースも呼んであげたいな…。
「またキースか!?」
 お前、俺たちの家にもキースを呼ぼうというのか、あんな野郎を…?
 あいつがお前に何をしたのか、お前、覚えている筈だがな…?
 それなのに家に御招待か、とハーレイが見せた苦い顔。ハーレイはキースを嫌っているから。
「…駄目?」
 呼んじゃ駄目なの、せっかくの同窓会なのに…。仕出しも頼んで、みんなで楽しめそうなのに。
 キースは仲間外れになるの、と瞬かせた瞳。「ハーレイに嫌われてるから、駄目?」と。
「いや、いいが…。お前が呼びたいのなら、仕方がないが…」
 仕出し料理で同窓会ってのは、お前が主催者なんだしな。好きなゲストを呼んでいいんだが…。
 キースの野郎には、俺の特製料理を食わせてやりたい気もするな。
 もちろん仕出し料理も出すがだ、俺が腕によりをかけて作った料理も。
「なに、それ?」
 特製料理を御馳走するなら、キースを許してあげるわけ?
 さっきは文句を言っていたけど、ちゃんと御馳走してあげるんだ…?
 ちょっと意外、と驚いたけれど、ハーレイは「人の話は最後まで聞けよ?」とニヤリと笑った。
「俺の特製料理ってヤツは、前のお前の仕返しなんだ」
 いくらお前が許していたって、俺はキースを許していない。…前のお前を撃ったこと。
 メンバーズだったら、多分、何でも食えるだろうし…。
 そういう訓練も受けた筈だし、好き嫌いの無い俺なりに知恵を絞ってだな…。



 不味い料理を作ってやる、と恐ろしい話が飛び出した。
 ゼルたちは美味しい仕出し料理を食べているのに、キースの分だけ、ハーレイ特製。メンバーズならば食べられるだろう、と出されるらしい不味すぎる料理。
「不味い料理って…。ハーレイ、何をする気なの?」
 わざと焦がすとか、煮詰めすぎるとか、そういう失敗作のお料理…?
 失敗したなら、不味い料理も作れそうだものね。お砂糖とお塩を間違えるだとか。
「その程度だったら、それほど不味くはならないだろうが。…まだ充分に食い物だからな」
 常識ってヤツを捨ててかからないと、本当に不味い料理は作れん。直ぐには思い付かないが…。
 なあに、闇鍋の要領でいけば何か作れるってな、不味すぎるヤツを。
「闇鍋…。前に聞いたよ、そういうお鍋…」
 運動部の人たちがやってる遊びなんでしょ、ヘンテコなものを入れちゃうお鍋。
 ハーレイに聞いた話だと、あれは色々な食べ物を入れるから酷い味付けになっちゃうわけで…。
 一人用の闇鍋なんか無理だよ、元々の量が少ないんだから。
 きっと食べられる味のお鍋、と指摘したけれど、ハーレイの方も譲らない。
「いや、出来る。俺がその気になりさえすれば」
 一人用の鍋じゃ無理だと言うなら、デカイ鍋でグツグツ作ってもいいし…。全部食え、とな。
 キースの野郎が腹一杯になっていようが、「俺の料理が食えんのか」と凄むまでだ。
 その辺をちょいと走ってくればだ、腹が減るからまた食える。…不味くたってな。
 なんたって、ヤツはメンバーズだぞ、とハーレイは闇鍋を食べさせるつもり。キースが来たら。
「…ハーレイ、そこまでキースが嫌い?」
 運動させてまで、闇鍋を全部食べさせようって…。酷くない?
 同窓会に来てくれたのに…。ゼルたちの分は、美味しいお料理ばかりなのに。
「俺に言わせりゃ、好きになれというお前の方が間違ってるぞ」
 あいつが何をしでかしたのかを知っていればだ、誰だって嫌いになると思うが…?
「間違ってないよ…!」
 キースに撃たれたのは前のぼくだし、ぼくはキースを嫌ってないから…。
 もう一度会えたら、友達になれると思っているから…。ホントに間違っていないってば…!



 間違ってるのはハーレイの方、と睨んだけれども、「どうだろうな?」と不敵に笑う恋人。
「お前の考えじゃ、キースは悪くはないらしいんだが…」
 ゼルたちはどう言うんだろうなあ、俺の肩を持つか、お前の方か。
 いったい、どっちにつくんだと思う、キースの野郎をどう扱うかって件に関しては…?
「ぼくに決まっているじゃない!」
 ソルジャーはぼくだよ、ハーレイよりも上なんだから…!
 ぼくが嫌っていないんだったら、ゼルたちだって、ぼくの意見を尊重しなくちゃ。ナスカのこととかで恨みがあっても、ソルジャーが言うなら従わないとね。
 ぼくがキースを許してるんなら、許さなくちゃ、と自信たっぷりだったのに。
「ほほう…。今のお前もソルジャーなのか?」
 でもって俺はキャプテンってことで、お前よりも立場が下になるのか…?
 少なくとも今は俺は教師で、お前は生徒だと思ったが…。お前、俺より偉いってか…?
「…違うかも……」
 前のぼくならソルジャーだけれど、今のぼくだと生徒だし…。ソルジャーじゃないし…。
 これから先も、ソルジャーになれる予定も無いし、と口ごもるしかなくなった。ハーレイの方が正しいのだから、どうやら悪いらしい旗色。
「お前がソルジャーではないってことは、だ…。俺の方が上だと思うがな?」
 特製料理を用意するのは俺だし、パーティー会場も俺の家だし…。
 お前の立場は俺より弱くて、俺に勝てるとは思えんが…?
「その家なら、ぼくも住んでるよ!」
 ハーレイと一緒に暮らしているから、その家でパーティーするんだし…。仕出し料理を頼むのもぼくで、パーティーしようって言ったのもぼく…。
「そうは言っても、元々は俺の家だしな?」
 俺が一人で住んでいた家に、お前が嫁に来たわけで…。お前、居候のようなモンだろ?
 キースの件では俺に分がある、ゼルたちもそう言ってくれそうだが…?
「えーっ!?」
 お嫁さんだと居候なの、確かにそうかもしれないけれど…。
 料理も出来ないお嫁さんだし、仕出し料理を頼まないとパーティーするのも無理なんだけど…!



 居候のようなお嫁さん。将来は本当にそうなるわけだし、ハーレイに負けてしまいそう。
 ゼルたちに意見を訊いてみたなら、ハーレイの方に票が入って。居候では勝てなくて。
(ぼく、負けちゃう…?)
 負けてしまって、ハーレイはキースに酷い料理を出すのかも、と思ったけれど。そうなるのかと諦めかけたけれども、相手は夢の同窓会。キースまで呼べるほどだから…。
「ゼルたちの意見、ハーレイの読みとは違っているかもしれないよ?」
 ぼくがハーレイよりも弱くなってる世界なんだし、ソルジャーもキャプテンも無いんだし…。
 人類もミュウも無くなってるから、ゼルたち、案外、キースと気が合っちゃうかも…。
「なんだって?」
 あいつらがキースの肩を持つのか、俺が文句を言っていたって…?
 前のお前をメギドで撃った極悪人だ、と主張してみても、キースの野郎と気が合うってか?
 ゼルたちが、とハーレイは愕然としているけれども、ただの人同士として出会ったのなら、争う必要は何処にもない。まして同窓会となったら、和やかに語り合いたいもの。
「ハーレイは今もキースを許してないけど、ぼくは生まれ変わって今のぼくだよ?」
 いくらハーレイが「撃ったんだ」って頑張ってみても、今のぼくには弾の痕は無いし…。
 聖痕が出ても、怪我なんか何処にもしていないしね?
 それならキースを悪く言うだけ無駄じゃない。みんなで仲良く食事する方がよっぽどいいよ。
 ブラウは「国家主席様だ」って、キースをオモチャにしちゃいそうだし、ゼルだって。
 ヒルマンは色々と話が出来て喜んじゃうかも…。SD体制のシステムだとか、他にも沢山。
 エラも話を聞きたがると思うよ、今ならキースがどうやって生まれて来たのか分かってるもの。
 「水槽の中から外は見えましたか?」とか、熱心に質問しそうだってば。
「うーむ…」
 そういうことも無いとは言えんか、特にヒルマンとエラが危ない。
 人類側の指導者をやってた男だ、ユグドラシルの仕組みとかまで聞きたがるかもしれないな…。
 キースしか知らないままの話も多い筈だし、今ならではのインタビューってか?
 ゼルとブラウも興味津々で質問しそうで、あいつらの場合は茶化すんだな。面白がって。
 そうなると、キースは格好の話し相手ってことで…。



 俺の分が悪くなっちまう、と複雑な顔をしているハーレイ。「キースには手出し出来んぞ」と。
「…マズイな、話が盛り上がっているのに、俺だけキースを睨んでいても…」
 場の雰囲気が台無しってヤツか、お前もキースの肩を持つんだし…。
 仕返ししようと不味い料理を作って出しても、ゼルたちにまで文句を言われるってか…?
「言うと思うよ、「何をするんじゃ!」ってゼルが怒鳴りそう」
 ハーレイの料理の腕が落ちた、って言われちゃうかもね、不味いんだから。
 それが嫌なら、キースにも、ちゃんと普通のお料理。みんなと同じで、美味しい仕出し。
 楽しくみんなで食べるのがいいでしょ、せっかく仕出しを取るんだから。
 どれがいいかな、って考えて注文するんだものね、と鳶色の瞳の恋人を見詰めた。キース嫌いの恋人だけれど、「意地悪は駄目」と。
「…キースの野郎にも、美味いのを御馳走しろってか?」
 とびきり美味い仕出し料理を食わせてやって、俺の特製料理は出番が無いままか…。
 まあ、所詮はお前の夢の話だし、それでもいいがな。…キースに美味い仕出し料理でも。
 茶碗蒸しだろうが、寿司だろうが…、とハーレイは渋々頷いてくれた。「仕方ないな」と。
「ありがとう! 夢の話でも、キースに御馳走してくれるんだね」
 ハーレイが許してくれるんだったら、美味しいのを頼んであげたいな。キースたちのために。
 でも、仕出し…。夢の同窓会をするなら、ちゃんと注文出来るけど…。
 ぼくたちじゃ無理だね、ホントに人数が足りないから…。
 パパやママたちを呼んで来たって、六人だけしかいないんだから…。
 ちょっと残念、と肩を落としたら、「さっきも言ったろ?」と穏やかな笑み。
「お前の夢なら頼んでもいいと言ってやったぞ、仕出し料理」
 俺と二人で頼んでもいいし、好きな時に注文するといい。…一緒に暮らすようになったら。
「二人って?」
「店の方で駄目だと言わなかったら、二人分でも頼んでいいんだ。仕出しってヤツは」
 家で作るのとは器が違うし、作る時間も要らないし…。
 わざわざ店まで出掛けなくても、ちょっとしたデート気分だが?
「それ、いいかも…!」
 ハーレイと二人で仕出しなんだね、お料理、二人分、届くんだね…!



 まるで思いもしなかったこと。二人分だけ注文する仕出し。
 いつかハーレイと暮らし始めたら、たまには仕出しを頼んでみようか。
 お客さんを大勢招かなくても、ハーレイと二人でゆっくりと。お寿司や、色々な仕出し料理を。
 美味しそうな広告を見付けた時には、「これがいいな」と指差したりして。
 デートに出掛けて、外で食事をする代わりに…。
(いつもの部屋で、お料理だけ…)
 お店の味のを食べてみる。器も、普段とは違ったもので。…お店から届けて貰ったもので。
 そういう食事も、きっと素敵に違いないから、いつかは仕出しを二人分だけ。
 ハーレイと二人でのんびりと食べて、懐かしい思い出話もして。
 家でゆっくりデートするなら、仕出し料理も悪くない。
 いつものテーブルは変わらないけれど、お店の人を気にしなくてもいいのが仕出しの良さ。
 食事の途中でキスしていたって、誰も困りはしないから。
 食べ終えたら直ぐにベッドに行っても、叱る人は誰もいないのだから…。




            頼みたい仕出し・了


※ブルーが頼みたくなった、仕出し料理。けれど取るのは難しいかも、と思えるのが将来。
 夢のまま終わりそうでしたけど、二人分だけ、注文することも出来るのです。いつか二人で。
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