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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

(ぼくって、生まれ変わりなんだよね…)
 奇跡みたいな話だけれど、とブルーは心で呟いた。
 お風呂上がりに、パジャマ姿で。ベッドの端にチョコンと腰掛けて。
 そう、まさに奇跡のような出来事。前の自分とそっくり同じ姿形を持って生まれ変わった、この地球の上に。前の自分が行きたいと願った青い水の星に。
 前の自分の記憶が戻る切っ掛けになった聖痕、メギドで撃たれた時の傷痕をそのまま写し取った傷。大量の血が溢れたけれども、何の痕跡も残らなかった。掠り傷でさえも。
 聖痕だけでも奇跡だというのに、神の御業だと思うのに。
 それを上回りそうな奇跡が生まれ変わりで、今の自分は前の自分とそっくり同じ。銀色の髪も、赤い瞳も、顔立ちも前の自分そのもの、まだ幼いというだけのこと。育てば本当に同じ姿になり、見分けもつかなくなるだろう。そういう姿になる筈の自分。
 おまけに奇跡の生まれ変わりは自分一人に留まらなかった。同じ地球の上にもう一人。
 前の生から愛した恋人、ハーレイも生まれ変わって来た。前とそっくり同じ姿で。
 これだけ揃えば、もう偶然であるわけがない。きっと奇跡で、神の力が働いた結果。



 明日は、そのハーレイが訪ねて来てくれる週末の土曜日。
 ハーレイと一日一緒に過ごせる、二人きりの時間をたっぷりと取れる。キスは駄目だと言われているから、唇へのキスは貰えないけれど。前と同じに恋人同士でも、何もかもが前と同じようにはならないけれど。
 それでも二人、恋人同士。
 青い地球の上に生まれ変わって再び出会えた、前世の記憶を取り戻して。
 今の記憶をそっくり残して、前の自分の記憶が積み重ねられた、三百年以上の時の記憶が。
(前のぼくの記憶…)
 ソルジャー・ブルーだった自分の膨大な記憶、何かのはずみに思わぬ記憶が蘇ったりする。白いシャングリラで生きていた頃、見ていたものやら、食べたものやら。
 それは沢山の記憶があるから、探るだけでも一仕事だったり、何か発見して驚いたり。
 ハーレイと二人で幾つも見付けた、前の自分たちには無かったものやら、今の時代だから出来ることやら、様々なものを。
 何度も何度も語り合って来た、前の自分たちの遠い記憶を、生きていた日々を。



 今も遥かな遠い昔へ思いを馳せていたけれど。
 前の自分の記憶を辿っていたのだけれども、ふと浮かんだのが生まれ変わりという言葉。さっき心で呟いた言葉。きっと奇跡だと、神の力が働いたのだと。
(前のぼくの前は…)
 誰だったろう、と前の自分の記憶を探っても、その中には無い前世の記憶。
 ソルジャー・ブルーとして生まれ落ちる前は何処にいたのか、その前の自分は誰だったのか。
 まるで分からない、手掛かりさえも見付からない。前の自分は自分でしかなくて、前世の記憶は何も無かった。ほんの小さな欠片でさえも。
(…なんにも無い…)
 そもそも前の自分自身が意識してさえいなかった。自分になる前は誰だったのかを考えることもしなかった。前世の記憶は持っていなくて、思い出すことも無かったから。
 あの忌まわしい成人検査で記憶を失くしてしまったけれども、前世の記憶もそのせいですっかり消えたわけではないだろう。
 生まれ変わり自体が珍しいもの、それを指し示す言葉はあっても、生まれ変わりの例は少ない。
 前の自分も恐らく最初から、全く持ってはいなかったのだろう。前世の記憶というものを。
 生まれて来る前には誰だったのかも、何処で暮らしてどう生きたのかも。



(前のぼくとハーレイ…)
 惹かれ合った運命の恋人同士。今も二人で生まれ変わって来た、この地球の上に。
 再び出会って、今度こそ共に生きてゆこうと誓い合ったけれど。いつか結婚して共に暮らそうと決めているけれど、前の生で二人、惹かれ合う前はどうだったろう。
 アルタミラで出会ったあの生の前は、自分とハーレイは何処でどうしていたのだろう。
 全く知らない者同士だったというのだろうか?
 一度たりとも出会うことなく、互いに互いの顔も姿も知らずに生きてその生を終えただろうか?
(そうだとしたら、寂しいけれど…)
 出会いもせずに生きていたなら、とても悲しくて寂しいけれど。
 それとは逆に恋人同士で、寄り添い合って暮らしていたのに、忘れてしまったというのも寂しく思える、二人の思い出を失くしたのなら。前の自分になる前の恋を忘れて生きていたのなら。



 けれども、前世のその前の記憶は全く無くて。
 いくら探しても欠片すらも無くて、前の自分が考えた記憶もまるで残っていないから。三百年を超える記憶の中には、前の自分の前世を知ろうとしていた痕跡すらも見当たらないから。
(前のぼくの前は、ハーレイとは赤の他人だったの…?)
 もしも前のハーレイが前世の記憶を持っていたなら、前の自分も探しただろう。二人で暮らした前世の記憶を思い出そうと努力に努力を重ねただろう。
 それを一切しなかったからには、前の生の前には何も無かったに違いない。次の生まで引き継ぐ記憶も、そうして出会いたいほどの固い絆も。
(やっぱり、他人…?)
 前のハーレイと出会う前には、と溜息をついて悲しくなった。
 こんなにハーレイが好きなのに、と。
 前の自分の記憶の中でも、今の自分の心の中でも、ハーレイが誰よりも好きなのに…。



 青い地球の上に二人で生まれ変わるまでは、きっとハーレイと一緒にいた。片時も離れず、手を握り合って。抱き合って二人、同じ所に。
 日に日に強くなる、その感覚。
 前の生での命が尽きた後には一緒だったに違いないと。長い長い時を二人で過ごして、その後に地球に生まれ変わった。また出会えるよう、もう一度二人で生きてゆけるように。
 そしていつかは、其処へと還る。二人一緒に、生まれ変わる前にいた場所へと。
 きっとそうだという気がするから、二人でいたと思えるから。
(前のぼくたちも其処から来たの…?)
 それが何処かは分からないけれど、ハーレイと共にいられた場所。二人一緒にいられる場所。
 前の自分たちも其処からこの世に送り出されて、そしてアルタミラで出会ったろうか。
 必ず出会うと定められていた、運命の二人だったのだろうか。



(それなら、とっても嬉しいんだけど…)
 そうであって欲しいと思うけれども、無い記憶。ほんの小さな欠片ですらも。
 前の自分のその前は無い。
 ソルジャー・ブルーだった自分の、その前が誰であったのかは。
(…ハーレイの方はどうなんだろう?)
 前のハーレイは何も語りはしなかったけれど、もしかしたら覚えていたのだろうか?
 自分の前世が誰であったか、前の自分のその前が誰であったのかを。
 前の生では尋ねようとさえ思わなかったから、ハーレイは語らずにいたかもしれない。自分しか持たない前世の記憶を話してしまえば、前の自分はきっと悲しんだに違いないから。思い出せない自分を激しく責めて、きっと苦しんだに違いないから。
(ハーレイなら、きっとそうするんだよ…)
 前の自分が何も覚えていなかったのなら、それに合わせて振舞ったろう。思い出させようとすることはやめて、それでも愛してくれただろう。前世の自分が恋した相手を、愛した人を。
 だとしたら、可能性はある。ハーレイが前よりも前の自分を、二人の絆を、忘れずに覚えている可能性。キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーが、その前はどんな二人だったかを。
(…訊いてみるだけの価値はあるよね?)
 明日は訊こう、とメモを取り出して書き付けた。
 一晩眠っても忘れないよう、「前のぼくたちの前世のこと」と。



 次の日、目覚めて見付けたメモ。そうだった、と脳裏に蘇った昨夜のこと。
 是非ハーレイに訊かなければ、と心に刻んで、恋人が訪ねて来るのを待って。部屋でハーレイと向かい合わせに腰掛け、鳶色の瞳を覗き込んだ。
「ねえ、ハーレイ。…前のぼくたちの前を覚えてる?」
「はあ?」
 なんだそれは、と怪訝そうな顔をされたから。
「前のことだよ、前のぼくたちの前世」
「前の俺たちだろ? 俺たちは生まれ変わりなんだし、俺たちの前世は前の俺たちだ」
「違うよ、その前のことだってば! 前のぼくたちになる前のことだよ!」
 前の前のことを覚えているの、と尋ねたのに。
 前の自分は聞いていないけれど、もしかしたら…、と確認してみたのに。
「…すまん、記憶に無い」
 まるで全く覚えてないんだ、前の俺になる前は誰だったのか。何処にいたかも、何をしたかも。
「ハーレイもなの…?」
 ぼくも覚えていないから…。
 ハーレイだったら覚えてるかも、って訊いてみたけど、やっぱり覚えていないんだね…。



 ぼくとハーレイは運命の二人だと思うのに、と言ったけれども。
 生まれ変わる前は何処かで二人一緒に時を過ごして、其処から地球へ来たのだろうと。前の前もきっと同じ場所からこの世に生まれて、あの日、アルタミラで出会ったのだと言ったけれども。
「はてさて、そいつはどうなんだかなあ…?」
 記憶が欠片も残ってないんだ、前の前もお前と一緒だったかどうかは分からん。
 此処へ来る前は一緒だったという気はしてもだ、その前までは前の俺も考えなかったからな。
 前のお前が誰かの生まれ変わりかも、と思ったことすら一度も無かった。前のお前がいれば充分満足だったし、前のお前に生まれて来る前は誰だったかなんて気にしたことも無かったな…。
「それなら、前のぼくたちの前はハーレイとは赤の他人だったの?」
 ハーレイとは会ったことも無くって、名前なんかも知らないままで。ハーレイも前のぼくの前の誰かを見たことも無くて、名前も知らずに終わっちゃった…?
「それもなんだか寂しいなあ…」
 せっかくこうして一緒にいるのに、前の俺たちも一緒にいたのに、その前が赤の他人ではな。
「でしょ?」
 他人だったなんて、あんまりだよ。そんなこと、あって欲しくないのに…。
 前のぼくの前も、ハーレイと出会っていて欲しいのに…。



 そう思うけれど記憶など無い、前世の前世。
 ハーレイと一緒だったと思いたいのに、二人とも何も覚えていない。自分も、ハーレイも、二人揃って覚えてはいない、前の自分たちの前世のことを。
 ハーレイがフウと溜息をついて。
「…お前に言われて気になって来たが、前の俺たちほど派手な手掛かりだって無いしな…」
 どうやって探せばいいのか分からん、手掛かり無しじゃな。
「手掛かりって…? 前のぼくたち、何か派手だった?」
「今の俺たちの姿形というヤツだ。周りのヤツらに「生まれ変わりか?」と訊かれるだろうが」
 俺はもちろん、お前も何度も訊かれた筈だぞ。それこそ記憶が戻る前から。
 そういう手掛かり、前の俺たちの前にもあったか?
「無いね…」
 ヒルマンとエラはデータベースで調べ物をするのが好きだったけれど、前のぼくたちと同じ顔の人を見付けたんなら言ってくるよね。生まれ変わりかどうかはともかく、話の種に。
 そういう話は聞いていないし、前のぼくたちにそっくりな顔の有名人はいなかったんだね…。



 ハーレイはともかく、ブルーはアルビノ。
 成人検査で変化してしまった途中からのアルビノとはいえ、それ自体が珍しい存在なのに。今のブルーも生まれながらのアルビノなのだし、前の前にもアルビノだったかもしれないのに。
 残念なことに、シャングリラのデータベースに入っているほどの有名人のアルビノはいなかったらしい。そういう人物がいたとしたなら、ヒルマンたちが見付けただろうから。
「前のぼくの前は誰だったのか。…アルビノの記録、端から探せば分かるかな…?」
 SD体制に入るよりも前のデータも残ってるんだし、頑張って端から探していけば。
 そうやって前の前のぼくを見付け出せたら、ハーレイの記録も出て来るのかな…?
「おいおい、記録に残るよりも前ってことだってあるぞ」
 ついでに、データベースに登録しないってこともあるから、そうなっていたらまず無理だ。
「そっか…。そういう人も大勢いるよね、マザー・システムが出来る前なら」
 登録するために出掛けてゆくのも面倒だから、って放っておいた人も多かったんだし…。
 きちんと登録していた人でも、写真は入れずに名前だけとか。
 それだとアルビノだったかどうかも謎だし、顔だってまるで分からないよね…。



「うむ。それに人とも限らないしな」
「え?」
 何のことか、とブルーは赤い瞳を瞬かせたけれど。
「前のお前の、そのまた前さ。前のお前はソルジャー・ブルーで、凄かったが、だ」
 顔も名前も誰もが知ってる大英雄だが、今のお前は普通だろうが。
 ソルジャー・ブルーにそっくりなだけの、ごくごく平凡な子供ってヤツで。
「うん。…サイオンもまるで使えないしね」
 前のぼくと同じでタイプ・ブルーなのに、ぼくはとことん不器用だから。
「ほらな。ソルジャー・ブルーの生まれ変わりでも、今じゃ普通の子供なんだ」
 前のお前の、その前となるとどうだったんだか…。
 お前みたいに平凡どころか、人じゃなかったかもしれん。
 俺もお前も人間に生まれていたわけじゃなくて、記録も残らないような動物だったのかもな。



 たとえばウサギ、とハーレイは片目をパチンと瞑った。
「お前、幼稚園に行ってた頃にはウサギになりたかったんだろう?」
 その上、お互い、今はウサギ年だ。教えてやったろ、干支が同じでウサギ年だと。
 だからだ、ウサギだったかもしれんな、前のお前に生まれる前はな。もちろん、俺も。
「ウサギって…」
 ぼくもウサギで、ハーレイもウサギ?
 前のぼくたちになって出会う前にはウサギだって言うの…?
「無いとは言えんぞ、ウサギというのも」
 ウサギのカップルだったんじゃないか、前の俺たちの、そのまた前は。
 白いウサギと茶色のウサギで、何処かの野原で暮らしてたとかな。
「…そんなのがソルジャー・ブルーになれる?」
 ウサギがソルジャー・ブルーになれるの、それにシャングリラのキャプテンにも…?
 だってウサギだよ、ピョンピョン跳ねてるだけなんだよ…?
「それを言うなら、ソルジャー・ブルーがお前になったが?」
 甘えん坊でチビで、サイオンの扱いはうんと不器用で、似ている所は顔だけだってな。
 キャプテン・ハーレイの方にしてもだ、ただの古典の教師になってしまって見る影も無いぞ。
 宇宙船を動かせる免許も持っちゃいなくて、普通の車で道路を走るのが精一杯だと来たもんだ。
 うんとレベルが落ちちゃいないか、俺もお前も、前に比べて。
「落ちてるね…。それじゃ、反対にウサギの出世も…」
 何処かの野原で跳ねてたウサギがソルジャー・ブルーになっちゃうってことも…。
「まるで無いとは言い切れないだろうが、前の俺たちがこうなんだから」
 落差ってヤツを考えてみたら、ウサギがソルジャー・ブルーになっていたって、俺は驚かん。
 前の俺の前はウサギだったと誰かが言っても、ストンと納得しちまうだろうな。



 ハーレイが言い出した、前の自分たちの前はウサギかもしれないという話。
 もしも本当なら、どういうウサギだったのだろうか、と半ば遊びで語り合った。
 きっとSD体制が始まるよりも遥かな昔の、青かった地球。其処に生まれた二匹のウサギ。白い毛皮で赤い瞳を持ったウサギと、茶色の毛皮で鳶色の瞳をしたウサギと。
 どちらも雄のウサギ同士で、本来だったら、出会った途端に喧嘩になるのに。縄張り争いをする雄同士なのに、どういうわけだか、喧嘩の代わりに仲良くなって。
 いつの間にやら同じ巣穴で暮らし始めて、ウサギのカップル。
 白いウサギと茶色のウサギで、昼の間は一緒に遊んで、夜になったら寄り添い合って眠る。同じ巣穴で、それは幸せに。
 来る日も来る日も、仲良く暮らしてゆくのだけれど…。



「…最後は肉のパイかもな」
 ハーレイの言葉に、ブルーはキョトンと目を丸くした。
「なにそれ?」
 肉のパイっていうのは何なの、パイって食べ物のパイのことだよね…?
「うんと有名なウサギの話さ。SD体制が始まるよりも前に書かれた本だな、子供向けの本」
 見たことないか、とハーレイに訊かれたピーターラビット。
 それならブルーも知っていた。たまに絵を見る可愛いウサギ。子供に人気のピーターラビット。元の絵本も読んでいたと思う、幼稚園の頃に。中身は忘れてしまったけれど。
「えーっと…。ウサギの家族のお話だよね?」
 ウサギだけれども服を着ていて、お母さんウサギはエプロンをしてて…。
「そうなんだがな…。お母さんウサギはちゃんといるんだが、お父さんウサギはいないんだ」
 ピーターラビットのお父さんだったウサギは、肉のパイだ。
 元は確かにウサギだったが、肉のパイにされてしまったわけだな。
「えーっ!」
 肉のパイって、それじゃ、死んじゃったの?
 お父さんウサギは殺されちゃったの、肉のパイになってしまったんなら…。



 知らなかった、とブルーは仰天した。幼かった頃に読んだ、可愛い絵本の残酷な中身。
 ピーターラビットの父親のウサギは事故に遭って肉のパイになったのだという。一番最初に出版された絵本の挿絵にはパイの絵が入っていたらしい。父親のウサギで作られたパイ。
「お父さんウサギは、野菜を食べに出掛けて行った畑で事故に遭ったんだ」
 そして畑の持ち主の奥さんにパイにされちまった。肉のパイにな。
「事故って…。車にはねられちゃったとかじゃないよね?」
「絵本に事故の話は書かれちゃいないが、罠にかかったか、捕まったか…」
 だが、前の俺たちの前のウサギが肉のパイとなったら、キースの出番のような気がするぞ。
「…キースが畑?」
 あのキースが畑仕事をしてるの、なんだか似合わないけれど…。畑仕事も、畑にいるのも。
「畑仕事をさせてやってもかまわないんだが、あいつの場合は狩猟だろうな」
 狩りだ、狩り。それも仕事で狩りをしている猟師ではなくて、遊びの方で。
 あの忌々しい野郎に上等な立場をくれてやりたくはないんだが…。
 汗水垂らして畑仕事で充分なんだが、あいつがやるなら遊びの狩りだ。ピーターラビットの話の国では、狩りは貴族の趣味だったんだ。



 仕事ではなくて、道楽で狩りをしていた貴族。
 馬に乗ってのキツネ狩りやら、如何に沢山の獲物を撃つかを競う狩りやら。食べる物には不自由しないのに、鳥やウサギを狩っていた。自分の腕前を披露するために。
 そういう狩りをするのがキースで、ウサギのブルーは遊びで撃たれてしまいそうだとハーレイは頭を悲しげに振った。キースに姿を見られた途端に、今日の獲物は肉のパイだと一瞬の内に。
「白いウサギは目立つからなあ、茶色いウサギと違ってな」
 ピョンと跳ねなくても、座ってるだけで見付かっちまう。あんな所にウサギがいるぞ、と。
「ぼく、撃たれちゃうの?」
 ウサギだから何もしていないのに…。メギドを沈めるわけじゃないのに。
「キースが出てくりゃ、撃たれるだろうな」
 なにしろ暇を持て余した貴族ってヤツだ、銃を持ってりゃ撃つんじゃないか?
 館に帰れば御馳走が山ほどあったとしたって、自分が撃った獲物を食うのは格別だろうし…。
 その上、珍しい白いウサギとなったら、よほど慈悲深いヤツでなければ撃つだろうさ。



 そしてあいつは撃ちそうなんだ、とハーレイは苦い顔をした。
 きっと遊びで撃つに違いないと、館に肉が余っていたって白いウサギを撃つだろうと。
 ハーレイは今もキースが嫌いだから。前のブルーを撃ったキースを、今も許してはいないから。
「もしも、お前が撃たれちまったら、俺は出て行く」
 キースの野郎がお前を撃ったら。ウサギのお前が目の前で倒れちまったら。
「出て行くって…。何処へ?」
「決まってるだろう、キースの前へだ」
 お前の仇を討ちに行くんだ、ウサギの蹴りは強いんだからな。キースに一発お見舞いしてやる、俺の後足で思い切り蹴って。
「撃たれちゃうよ? そんなことしたら、ハーレイまで…」
 キースに銃で撃たれてしまって、ハーレイだって死んじゃうじゃない…!
「かまわんさ。キースに一矢報いられたら万々歳だし、駄目でも一緒に肉のパイだ」
 お前と一緒に肉のパイになれるんだったら、俺は撃たれてもかまわないんだ。
 キースに蹴りをお見舞い出来ずにパイになっても後悔はせんな、お前と一緒にパイなんだから。お前を失くして生きてゆくより、一緒に肉のパイになる方が遥かに素敵だろうが。
 パイになってもお前と一緒だ、キースに食われる時も一緒だ。



 そういうウサギのカップルだったかもな、と微笑むハーレイ。
 ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイになる前の俺たちの前世、と。
 同じ巣穴で仲良く暮らして、一緒に眠って、同じ肉のパイになってまで一緒だったから。
 最後まで離れずに一緒にいたから、次も二人で生まれて来たと。
 ウサギから人になったけれども、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイだったけれども。
「ハーレイと一緒にウサギのパイ…」
 前のぼくたちの前は肉のパイなの、ウサギに生まれて?
 キースの遊びで撃たれてしまって、二人で肉のパイだったわけ…?
「嫌か、ウサギのカップルで最後は肉のパイになるのは?」
 そんな悲惨な結末よりかは、今みたいに普通の人間がいいか、俺と二人で…?
「ううん、ハーレイと一緒だったらウサギのカップルでいいよ」
 おんなじ巣穴で一緒に暮らして、一緒に遊んで。
 もしもキースに撃たれちゃっても、それまでのぼくは、うんと幸せだと思うから。
 ウサギのハーレイといつも一緒で、眠るのも一緒。
 それに…。



 ハーレイが追い掛けて来てくれるんなら、と嬉しくなった。
 ウサギの自分が撃たれてしまったら、仇を討ちにキースを蹴りにゆくと言ってくれたハーレイ。姿を見せてしまったら最後、たとえキースを蹴れたとしたって、ハーレイも撃たれてしまうのに。
 逃げ切る前に一発撃たれて、ハーレイも肉のパイになるのに。
 そうなることが分かっているのに、ウサギのハーレイはキースの前に出てゆくという。同じ肉のパイになれるのならいいと、パイになっても二人一緒だと。
 前の自分もその約束をして貰ったのに、それは叶わなかったから。
 前の自分の寿命が尽きる時には一緒に逝くとハーレイは誓ってくれていたのに、叶わないままで終わったから。
 ハーレイをシャングリラに独り残して、メギドへ飛んでしまった自分。
 ジョミーを頼むと言葉を遺して、ハーレイに後を追わせなかった。ミュウの未来を守るためにはハーレイが必要だったから。シャングリラを地球まで運ぶためには、キャプテン無しでは駄目だと充分に分かっていたから。
 だからハーレイは最後まで一緒に来てはくれなかった、独りで死んでゆくしかなかった。
 けれども、ウサギのハーレイは違う。肉のパイになっても最後まで一緒で、自分を最後まで追い掛けてくれる。本当に最後の最後まで。肉のパイになってキースに食べられるまで。



 なんという幸せなウサギだろうか、とブルーは前の自分の前のウサギを思い描いた。
 地球が滅びてしまうよりも前の遠い昔に、何処かの野原で跳ねていたウサギ。真っ白なウサギ。茶色いウサギのハーレイと出会って、一緒に暮らして、そして最後は…。
「ぼくはかまわないよ、肉のパイでいいよ」
 ハーレイと一緒に、肉のパイ。キースの遊びで撃たれちゃっても、肉のパイでも。
「ウサギでいいのか、前のお前のその前ってヤツは?」
 白いウサギと茶色のウサギのカップルでいいのか、俺もお前もウサギ同士で。
「うん、なんとなく納得したから」
 きっとハーレイと一緒だったら、ぼくは幸せになれるんだよ。
 野原で暮らして、巣穴で眠るウサギのカップルでも。
 キースが出て来て遊びで撃たれることになっても、肉のパイでも、ハーレイと一緒なんだから。



 そんな前世でかまわないよ、と笑顔で応えた。
 ソルジャー・ブルーになる前の自分、それよりも前の前世の自分。
 偉くなくても、人でなくても、幸せなら…、と。
 ハーレイと二人で暮らすことが出来て、最後まで二人、離れることなくいられたのなら…、と。
「おいおい、最後は肉のパイだぞ?」
 俺もお前も肉のパイにされて、キースに美味しく食われるんだが…?
 俺はお前を追い掛けるんだから、肉のパイでも悔いの無い人生っていうヤツなんだが…。
 ウサギで人生というのも妙だが、俺は満足して死ねる。しかし、お前は…。
 俺よりも先に撃たれちまった白いウサギは、ちゃんと幸せだったかどうか…。
「幸せだったに決まっているよ。ハーレイと一緒に暮らしたんだから」
 それに、撃たれて肉のパイになるのは、キースが出て来た時だけでしょ?
 キースなんかが出て来なかったら肉のパイにはならないよ、きっと。
 最後までハーレイと幸せに暮らして、死ぬ時もきっと、どっちが先でもないんだよ。二人一緒に寝ている間に天国に行って、気が付いたら天国に着いてるんだよ…。



 前の自分の、その前の前世。ウサギだったかもしれない自分とハーレイ。
 白いウサギと茶色いウサギで仲良く暮らして、最後は肉のパイかもしれない。キースに撃たれて二人一緒に、肉のパイになって。
 そうは言っても、何も起こらず、天寿を全うしたウサギのカップルかもしれないから。
 最後の最後まで幸せ一杯に生きたウサギだったかもしれないから。
 ウサギだった前世も悪くないと思う、ハーレイと二人で野原で暮らしていたウサギ。
(でも、肉のパイになったとしたって…)
 きっとかまわない、肉のパイでもかまわない。
 キースに遊びで撃たれる最期は癪だけれども、ハーレイが追い掛けて来てくれるから。キースに蹴りをお見舞いしようと飛び出してくれて、その蹴りがキースに届かなくても、最後は一緒。
 ハーレイと二人で肉のパイになって、食卓に上る。同じパイになって、同じテーブルに。
 そうしてキースに食べられるけれど、最後まで一緒なのだから。
 肉のパイになっても二人一緒で、二人で天国へゆくのだから。
 前の自分はハーレイと一緒に行けなかったけれど、ウサギだった自分はそれが出来るのだから。



 そう考えたら、ウサギだった前世も幸せだろうと思うから。
 たとえ最後が肉のパイでも、ハーレイと一緒で幸せだったと思うから…。
「ねえ、ハーレイ。…ウサギのパイって、どうやって作るの?」
 肉のパイの作り方、ハーレイ、知ってる?
 ぼくはウサギのお肉を売ってるお店も、一度も見たことないんだけれど…。
「ん? それはな…」
 まずはウサギを捌く所からだな、毛皮がついてちゃ食えんしな?
 こら、間違えるなよ、俺がウサギを撃ったわけではないんだからな。あくまで知識だ、ウサギの肉の料理の仕方というヤツだ。
 それでだ、ウサギのパイはだな…。



 頭を切り落とす所から始まる、ウサギのパイの作り方。
 ハーレイは作ったことがあるのか、それとも単なる知識なのかは分からなかった。
 「美味いんだぞ」と言われただけで。
 そういうパイが食べられる店も知っているから、いつか一緒に食べに行くかと誘われただけで。
 前世の話からウサギのパイへと少し話は外れたけれども、幸せな土曜日。
 ハーレイと二人、前世のその前は肉のパイかも、と笑い合いながら。
 前の前の自分たちの味がするパイを食べに行こうかと、物騒な約束を交わしながら。
 そう、肉のパイでもかまわない。そんな前世も悪くない。
 ハーレイと一緒に暮らせたのなら、最後まで一緒だったなら。
 だから今度も二人一緒に、何処までも行こう。
 手を繋ぎ合って二人、青い地球の上で…。




            前世と肉のパイ・了

※今のブルーたちは生まれ変わりですけど、前のブルーたちの前はどうだったのか。
 もしも二人ともウサギだったら、と交わした話。たとえ最後は肉のパイでも、幸せなのです。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








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(えーっと…)
 お別れの曲、とブルーは耳を傾けた。
 学校からの帰り道。路線バスを降りて家へと歩いていた時、微かに流れて来たメロディ。上手い具合に風に乗ったか、「蛍の光」が聞こえて来た。遠いけれども、この曲は確かに蛍の光。
 歩く途中で下の学校の大きな子たちを見かけたから。今日は学校が終わる時間が早いのだろう、普段よりも。
 蛍の光は下校を促すメロディ、遊んでいる子もクラブ活動に打ち込む子たちも、学校を出るよう知らせるメロディ。学校から子供の姿が消える合図で、完全下校の時間に流れる曲。
 いつもだったら、もう少し後の時間だから。
 バスを降りて家まで歩く間に聞こえてはこない蛍の光。下の学校で今も流れている曲。
 ふと学校が懐かしくなった、制服ではなかった下の学校。今のようにバスに乗るのではなくて、歩いて通っていた学校。弱い身体でも歩いて行ける場所にあった学校、こうして下校の時間の曲が風に乗ってふわりと届く学校。
 遠い微かな蛍の光。学校とはお別れの時間ですよ、と流れるメロディ。



(ぼくは滅多に…)
 聞きはしなかった、学校の中で蛍の光は。
 身体が弱くてクラブ活動はしていなかったし、遊ぶにしたって一度家まで帰ってから。遅くまで残って遊ぶ代わりに友達を呼んだり、友達の家に出掛けて行ったり。
 蛍の光が流れる時間まで学校にいた日はそれほど無かった、ごくごくたまに居残る程度で。年に数回あったかどうかで、学校でしか出来ない美術製作などを仕上げるために残っただけで。
 教室でせっせと頑張っていたら、描いた絵を塗ったり、粘土細工を作っていたなら、チャイムの後に蛍の光。「帰りましょう」と先生の声で放送も入った、学校の門が閉まりますよと。
 最後の生徒が門を出るまで流れ続ける蛍の光。
 それを聴きながら帰った覚えは殆ど無くて、学校の外で聞いていた。今のように遠く聞いた日もあれば、学校から近い友達の家で「鳴っているね」と耳を澄ませていたことも。



 学校で聞いた記憶が殆ど無いから、お別れの曲と言うよりは。
 完全下校の曲と言うよりは、蛍の光は…。
(卒業式の曲…)
 下の学校を卒業する時に歌われる曲。卒業する生徒も、まだ学校に残る学年の生徒も共に歌った蛍の光。卒業式のためにと練習を重ね、その日が来たなら講堂に響いた皆の歌声。
 十四歳の誕生日を迎えるよりも前に、あの曲に送られて卒業した。長く通った下の学校を。
 バスに乗らなくても通えた学校、制服などは無かった学校。
 少し寂しい気もしたけれども、上の学校が待っているから。今までとはまるで違った学校生活が待っているから、ドキドキしないわけでもなかった。
(制服のお兄ちゃんになるんだものね)
 下の学校の子供から見れば眩しい制服、上の学校の生徒の証拠。それを着たなら一人前とまではいかないものの、大人への階段を一歩上ったという印。
 その制服に加えて、給食ではなくて食堂でのランチや、お弁当や。
 授業をする先生も科目ごとに変わるし、何もかもがきっと違って見える。同じ学校でも仕組みが変わって、新しいことが待っている筈。
 そう思ったから、蛍の光を懸命に歌った、下の学校への別れの曲を。
 泣きじゃくっていた生徒も少なくなかったけれども、自分の瞳に涙は無かった。寂しい気持ちはあったけれども、こうして別れていった先では、新しい出会いがあるだろうから。



 長年馴染んだ学校から上の学校へ。蛍の光の大合唱に送られ、自分も歌って。
 そしてハーレイとバッタリ出会った、今の学校で。
 ハーレイは年度初めよりも少し遅れてやって来たから、入学して直ぐではなかったけれど。上の学校にも馴染み始めた、五月の三日のことだったけれど。
 そのハーレイと出会うためには、前の学校を卒業しなくては駄目だったから。卒業式で蛍の光を歌わなければ、前の学校を離れなければ決して出会えはしなかったから。
(お別れじゃなくて、始まりの曲だよ)
 きっと始まりの曲だった。自分にとっては、お別れの曲でも始まりの曲。
 そんな気がする、蛍の光。
 あの歌を皆で歌った時から始まったのだと、素敵な時間が流れ始めたに違いないと。
 自分の身体に現れた聖痕も、取り戻した前の自分の記憶も、ハーレイとの劇的な再会も、全部。
 何もかもが蛍の光で始まり、今の優しい日々があるのだと。
 耳を澄ませば、まだ流れている蛍の光。遠く微かに、かつて通った下の学校から。



 蛍の光は聞こえ続けた、生垣に囲まれた家に着くまで。門扉を開けて庭に入った辺りで蛍の光のメロディは消えた。もう聞こえなくなってしまったのか、学校の門が閉められたのか。
 けれども耳には音が残った、卒業式で歌った蛍の光と重なったままで。
 「ただいま」と玄関の扉を開けても、二階の自分の部屋に行っても、流れ続ける蛍の光。本当はもう聞こえないのに、下の学校から風に乗って届いたメロディはとっくに止んでしまったのに。
 着替えを済ませて、ダイニングに行って、おやつを食べて。
 その間は母と話したりしたし、おやつのケーキも紅茶も美味しかったから。蛍の光のメロディは途切れて、それきり忘れていたけれど。
 「御馳走様」とおやつを食べ終え、部屋へ戻ろうと階段を上ったら、また聞こえて来た蛍の光。
 帰り道に聞いた下校の合図と、卒業式での皆の歌声とが。



 暫く耳にしなかったメロディ、もしかしたら卒業式で歌ったのが最後かもしれない。
 何故だかとても懐かしく思えて、部屋に戻って歌ってみた。勉強机の前に座って。
 お別れの曲だけれども始まりの曲、と。
 この歌で全てが始まったのだし、きっと始まりの曲なのだと。
 そうして歌い始めたら…。
(あれ?)
 本当に始まりの曲だった気がする、蛍の光。
 お別れの曲の筈なのに。完全下校を知らせる合図で、卒業式の歌なのに。
 なのに何処かで確かに聞いた。
 始まりの曲の蛍の光を、遠い昔に。



(何処で…?)
 蛍の光が始まりの曲になるような場所。
 何処だったのか、と懸命に考えてみたけれど、分からない。自分が出掛けてゆくような場所で、始まりの曲を耳にすることは滅多に無い。
 店にしたって、施設にしたって、開く前から待っていたりはしないから。始まりの合図に流れるメロディが蛍の光だと覚えるほどには、何度も何度も早い時間に出掛けて待ってはいないから。
 それなのに聞いた、蛍の光。始まりの曲の蛍の光。



 まるで心当たりが無い、蛍の光で始まる何か。記憶を探っても出ては来なくて。
(前のぼく…?)
 もしかしたら、と前の自分の記憶も辿ったけれども、やはり無かった蛍の光。
 前の自分が生きた時代にあった筈がない、蛍の光。
 あの時代に日本の文化などは無くて、蛍の光を歌う卒業式だって無かっただろう。十四歳までの子供を育てた育英都市でも、その後に行く教育ステーションでも、卒業式にはきっと別の曲。
 人類たちが卒業式で歌っていたとしても、日本の文化の蛍の光は選ばれない。あったかどうかも定かではない、蛍の光は日本の文化と共に消されて、誰も歌わなかったかもしれない。
(でも、シャングリラは…)
 ゆりかごの歌があったほどだから。
 今の自分が赤ん坊だった頃、お気に入りだった子守唄。「ゆりかごの歌」という名の優しい歌。
 それは日本の歌だったけれど、白いシャングリラでも歌われていた。
 SD体制が始まって以来、初めての自然出産で生まれたトォニィのためにと探し出されて、皆が歌ってトォニィやナスカの子たちをあやした。
 前のハーレイも覚えてしまって、眠り続ける前の自分に歌ってくれたほどの歌。
 シャングリラはそういう船だったのだし、蛍の光もあったのだろうか?



 そうは思っても、蛍の光は完全下校を告げるメロディで、卒業式で歌われる歌。
 シャングリラには完全下校などは無くて、卒業式もありはしなかった。蛍の光に相応しい場面が全く無かった、あれは別れの曲なのだから。
(お別れの曲の筈なんだけど…)
 そう思うのに、記憶は違うと答えて来る。蛍の光は始まりの曲だと。
 前の自分がそう思ったのか、それとも今の自分の記憶か。
 判然としない、蛍の光。
 何処で聞いたか思い出せない、始まりの曲の蛍の光。
 あれはシャングリラか、そうでないのか。
 シャングリラで耳にしていたとしても、別れの曲が何故、始まりの曲になってしまうのか。
 まるで分からない、手掛かりすらも掴めはしない。
 それでも蛍の光は始まりの合図、そうだと唱え続ける記憶。その正体も分からないのに、何処で聞いたか、誰が聞いたか、それすらも自分には掴めないのに。



(なんで始まりの曲になるわけ…?)
 理由はサッパリ分からないけれど、今の自分が聞いたというのでなければ、シャングリラ。前の自分が始まりの曲だと考えたらしい蛍の光。
(…あったかどうかも謎なんだけど…)
 あのシャングリラに蛍の光、と遠い遠い記憶を手繰っていたら、チャイムが鳴った。門扉の脇にあるチャイム。窓に駆け寄ってみたら、手を振るハーレイ。
 これは訊かねば、とハーレイに向かって手を振り返した。ハーレイならば、きっと答えてくれるだろう。シャングリラに蛍の光があったかどうかも、それが始まりの曲かどうかも。



 間もなくハーレイが部屋に来たから、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせで尋ねてみた。さっきからの疑問を解いて貰おうと、あの記憶は何に繋がるのかと。
「ハーレイ、蛍の光を覚えてる?」
 えっと、本物の蛍じゃなくって、歌なんだけれど…。蛍の光。
「ついさっき聞いたばかりだが?」
 俺が出て来る時に流れていたがな、蛍の光。
 あれがどうかしたか、と怪訝そうな顔。蛍の光は今の学校でも流されるらしい、下校の合図に。そういえば、友達がそんな話をしていた。あれが流れたら自主練習も切り上げなんだ、と悔しそうだった運動部員。今日はいつもより調子がいい、と上々の気分でも蛍の光で終わらされると。
「蛍の光…。やっぱり、お別れの曲だよね?」
 今日はここまでにしておきましょう、って下校の合図に使ってみるとか、卒業式で歌うとか。
「うむ、学校では定番だな」
 俺が今までに行った学校、何処でも蛍の光だったし…。下校の合図も、卒業式もな。
「そうだよねえ…。でもね、ぼくには始まりの曲なんだよ」
 お別れの曲でも、始まりの曲。今日の帰りに下の学校のを聞いたらそうだと気が付いたんだよ。
「ほう…?」
 別れの曲がどうして始まりの曲になるっていうんだ、新説か?
 お前ならではの凄い発想か、子供の頭は柔軟だからな。
「違うってば!」
 ぼくの説には違いないけど、凄くもないし変でもないよ。だって、あの曲…。



 蛍の光でハーレイに会えた、と披露した。
 下の学校と蛍の光を歌って別れて、その後に入った今の学校。其処でハーレイと再会したから、別れの後に始まりが来たと。あの曲は始まりの曲になった、と。
 そう説明して、訊いてみた。あれはシャングリラにあったろうか、と。
「…シャングリラだと?」
 蛍の光がシャングリラにあったと言うのか、お前は?
「うん…。もしかしたら、って思わないでもないんだよ」
 あったとしたなら、始まりの曲。そういう曲だっていう気がするよ。
 ハーレイに会えたから始まりの曲だ、って考えていたら、本当に始まりの曲だったような感じがして来て、それが何処だか、いつのことだか分からなくて…。
 ひょっとしたら前のぼくなのかも、って思ったけれども、そんな記憶は残ってないし…。
 だけどね、今のぼくの記憶なら、もっとハッキリしていそう。何処で聞いたか覚えていそう。
 でも、シャングリラに蛍の光があったとしたって、あれはお別れの曲なんだから…。
 始まりの曲にはなりそうもないし、ぼくにも分からないんだよ。



 お別れの曲が始まりの曲だなんて変だよね、と話したら。
 やっぱり記憶違いだろうかと、シャングリラとは何の関係も無くて今の自分の記憶だろうかと、蛍の光に纏わる疑問をぶつけてみたら。
「待てよ…? シャングリラに居た頃に蛍の光なあ…」
 考え込んでいるハーレイ。そういう時の癖で、眉間の皺を少し深くして。
「何か思い出した?」
「いや、まだだが…。今の時点じゃ何も言えんが、あの曲は、確か…」
 元々は日本の曲ではなくて…、とハーレイは腕組みまでして遠い記憶を探り始めた。その対象が今の記憶か、前の記憶かは分からない。
 どちらなのかと、どんな答えが出て来るだろうかとブルーが静かに見守っていると。焦らせては駄目だと待っていると。



「そうだ、オールド・ラング・サインだ」
「え?」
 オールド…。ハーレイ、なんて言ったの?
「久しき昔だ、オールド・ラング・サインはそういう意味だ。スコットランドの言葉でな」
 スコットランドはお前も分かるな、同じ名前を名乗っている地域があるからな。
 蛍の光は日本の曲じゃなくって、スコットランドの民謡だったんだ。
 それも単なる民謡とは違う、国歌扱いされていたほどの。
 思い出した、とポンと手を打ったハーレイ。
 シャングリラに蛍の光はあった、と。
 蛍の光ではなくてオールド・ラング・サイン、新年を祝うカウントダウンだ、と。
「ああ…!」
 思い出したよ、とブルーも叫んだ。
 白いシャングリラに蛍の光はあったのだった。蛍の光ではなかったけれど。
 オールド・ラング・サインという名前の歌だったけれど、蛍の光と同じメロディの歌が。



 白い鯨になったシャングリラで行われていた、新年を迎えるためのイベント。
 その時だけは本物のブドウで作ったワインが乾杯用にと配られた。とっておきだった赤ワイン。それが一人に一杯ずつ。
 前のブルーが音頭を取っては、毎年、乾杯していたけれど。
 イベントを始めてまだ間もない頃、乾杯の他にも特別なことをしたい、と考え始めたヒルマンとエラ。皆で出来る何か、新年を祝うための何かを、と。
 データベースを調べに向かった二人は、古い歌を引っ張り出して来た。SD体制が始まるよりも遥かな昔の地球で親しまれた古い歌。
 新年を迎えるカウントダウンの時に歌われたというオールド・ラング・サイン、それが蛍の光の原曲。当時は蛍の光の存在を誰も知らなかったけれど。
 元はスコットランドの民謡だったとヒルマンが話しただけだったけれど。



「これを歌おうと思うのだがね」
 新年を迎えたら歌ったそうだよ、新しい年が来たのを祝って。
 乾杯した後に皆で歌えば、船中の仲間が一つになれる。持ち場を離れられなくても歌は歌える、シャングリラ中に歌が響くのだよ。ブリッジも公園も、機関部などでも。
「いいんじゃないかい? あたしは大いに賛成だね」
 賑やかなのは素敵じゃないか、とブラウが頷いた会議の場。長老と呼ばれるヒルマンとゼルと、エラとブラウと。それにキャプテンだったハーレイ、ソルジャーだったブルーの六人。
 新年にはオールド・ラング・サインを歌うのがいい、と全員一致で決定した。カウントダウンに使われた歌なら是非歌いたいし、今の人類たちの世界で歌ってはいないようだから。

 オールド・ラング・サイン、スコットランドの言葉で「久しき昔」。
 旧友と再会を遂げて思い出話をしつつ酒を酌み交わす、そういった歌詞がついた歌。
 皆に広める前にまずは練習しておかなければ、と会議の席で六人で歌った、メロディと歌詞とを覚えるまで。自信を持ってオールド・ラング・サインを歌えるレベルに達するまで。
 練習の合間の休み時間に、ヒルマンとエラが歌の背景を話していたのだけれど。



「再会を誓って、誕生日や結婚式などでも歌われたそうだよ」
 つまりお祝い事の歌だね、新年を祝う歌でもあるし…。
「船が出港する時にも歌っていたのだそうです、お祝い事とは少し違いますが」
「ふうん…? なんでまた、そこで歌うんだい?」
 船を新しく建造したなら分かるけどね、とブラウがエラに問い返したら。
 オールド・ラング・サインが誕生した後、スコットランドから新天地へと向かった移民船。その出航の時に歌われたという、また会おうと。
 旧友との再会を誓う歌だから、海を渡って旅立つ友に贈るには相応しいと。
 それがいつしか広まっていって、移民船でなくとも、船の出航にはオールド・ラング・サイン。
 クルーズに出掛ける豪華客船もまた、オールド・ラング・サインに送られて出航して行った。



 そんな話から、シャングリラも船だということになって。
「カウントダウンに歌うというのもいいんだけどさ…」
 ここ一番、って旅に出る時に歌ってみたいね、そんな機会があるかどうかは分からないけどね。
 当分は雲海の中なんだろうし、とブラウがフウと溜息をつけば、ゼルが応じた。
「旅立ちの時か…。地球へ向かって出発する時に良さそうじゃのう」
 まだまだ先になりそうなんじゃが、同じ歌うならカウントダウンよりも旅立ちかのう…。
「それはいいね。ぼくもその時に歌いたいような気がするよ」
 せっかくだから取っておこうか、とソルジャーだったブルーも賛同した。
 カウントダウンで皆で歌うのもいいのだけれども、地球へ向かって船出する時のためにと、その日が来るまで残しておこうと。
「そうですね。私もそれに賛成です」
 ハーレイもまた、頷いた。地球へと旅立つ時に歌うのがいいと、その時に皆で歌おうと。
 こうしてソルジャーとキャプテンと長老、その六人で決めたのだった。
 オールド・ラング・サインは地球に向かうまで取っておこうと、シャングリラが晴れて地球へと出航する日に皆で揃って歌うのがいいと。



 けれど、地球までは遠かったから。
 あまりに遠くて、そこまでの道も長すぎたから。
 座標も掴めないままで歳月がいたずらに流れ、シャングリラは雲海から出ることも無くて。
 そうして日々を過ごす間に、忘れたのだった、いつの間にやら。
 地球へと旅立つ時に歌おうと決めたオールド・ラング・サインを、蛍の光と同じメロディを。
「…それで始まりの曲だったんだ…」
 シャングリラが地球への旅に出るなら、それは始まりの合図だものね。
 どういう形で地球へ行くにしても、シャングリラの本当の意味の船出で始まりだものね…。
「お前はそれを覚えていた、と。いや、忘れちまっていたんだが…」
 オールド・ラング・サインのメロディは覚えていたんだなあ…。
 蛍の光になっちまっていたが、それでも始まりの歌だった、とな。



 帰り道で遠く微かに聞こえた蛍の光。
 それが遥かな昔の自分たちの夢を運んで来た。地球へ行こうと、その時に歌おうと決めておいた歌を、オールド・ラング・サインに託した夢を。
 夢は叶わず、歌はすっかり忘れたけれど。メロディも歌詞も全て忘れてしまったけれど。
「ぼくはいつまで歌っていたかな…」
 あの歌をいつまで歌っていたのか、全く覚えていないんだけれど…。
「俺も殆ど記憶に無いな。…思い出せたのは奇跡じゃないかと思うほどにな」
 いつか歌うんだと決めていたのに、地球への船出にはオールド・ラング・サインを皆で歌おうと思っていたのに、まったく情けないもんだ。
 言い出したヒルマンやエラも忘れたろうなあ、キャプテンだった俺がこの始末じゃな。



 酷いもんだ、とハーレイは苦笑したけれど。
 今の今まで思い出しさえしなかった、と情けなさそうな口調だけれども、前の自分はハーレイと何度も二人で歌った。
 オールド・ラング・サインを、蛍の光と同じメロディを持っていた歌を。
 いつか地球へ、と夢見て歌った、この歌を皆で歌いたいと。
 地球へと船出するシャングリラで歌おうと、オールド・ラング・サインを歌うのだと。
「…ぼくたち、忘れてしまっていたね」
 あんなに何度も歌っていたのに、地球へ旅立つような気持ちでハーレイと一緒に歌ったのに。
「お互い、忘れちまっていたなあ…」
 メロディも、歌詞も、歌おうと決めていたことも。
 前の俺が本当に地球へと向かった時にも、思い出しさえしなかった。
 前のお前を失くしちまって、もう歌どころじゃなかったが…。
 ゼルもブラウもエラも歌など忘れちまって、歌おうとも思わなかったんだろう。ヒルマン以外は自分の船を持っていたのに、誰も言い出さなかったからな。
 今こそあの歌を歌う時だと、地球に向かってワープするならオールド・ラング・サインを歌って旅立つべきだと、覚えていたなら誰か一人は言ったと思うぞ。



 前の自分の寿命が尽きる頃には、もう完全に忘れていたから。
 地球へ旅立つ夢はあっても、歌いもしなかったオールド・ラング・サイン。蛍の光のメロディで歌った、地球への旅立ちを祝う歌。
 あれは始まりの曲だったのに。地球へ行く日に歌おうと決めた歌だったのに。
「ねえ、ハーレイ…。もしもあの歌、覚えていたなら、歌ったのかな…?」
 前のぼくの寿命が尽きてしまって、地球へは行けないって気付いた後に。
 本物の地球には辿り着けなくても、気分だけでも地球へ向かって出発しよう、って。
「そうだな、もう一度歌ったかもなあ…」
 お前と二人で地球へ行こうと、二人で船出するんだと。
 俺はお前が死んじまったら、後を追い掛けてゆくつもりだったし…。
 そしたら二人で地球へ行こうと、そういう気持ちでお前と一緒に歌っていたかもしれないな…。



 二人で、地球へ、と。
 白いシャングリラで旅立つつもりで、地球へと出航するつもりで。
 けして行けない青い星でも、辿り着けない青い地球でも。
 きっと二人で手を握り合って歌っていたろう、旅立ちの歌を。遠い日に決めた船出の時の歌を、出航する時はこれを歌おうと夢に見ていたオールド・ラング・サインを。
「…お別れの曲になっちゃうけどね…」
 ハーレイと二人で歌ってみたって、ぼくは地球には行けないままで寿命が尽きてしまうんだし。
 地球に行くどころかハーレイともお別れになってしまうし、お別れの曲で蛍の光。
 蛍の光は知らなかったけれど、お別れの曲ならそっちだよね…。
「いや、始まりの曲だったろうさ。次の旅への」
 俺はお前を追ってゆくんだと何度も言ったろ、その旅へと出航するための歌だ。
 行き先は地球で、俺とお前と、二人きりでシャングリラに乗って。
 手を繋ぎ合って旅に出るんだ、誰も知らないシャングリラで。
 きっとそういう歌だっただろう、前のお前と出航しようと、二人きりの旅を始めるんだと。
「そうかもね…」
 ハーレイと二人で、青い地球まで。
 もうすぐ船出の時が来るんだと、何度も何度も歌ったのかもね、二人一緒に地球へ行こうと。



 けれど、忘れてしまっていたから。
 そういう歌があったことさえ、二人揃って忘れていたから。
 歌わずに終わったオールド・ラング・サイン、蛍の光と同じメロディを持った歌。
 ハーレイと二人で歌えはしなくて、夢の旅立ちも叶わなかった。
 前の自分はハーレイと離れて独りぼっちで死んでしまった、ハーレイの温もりさえも失くして。もう会えないのだと泣きながら死んだ、忌まわしいメギドの制御室で。
 それから後の記憶は途切れて、何も覚えていないのだけれど。
 長い長い時を飛び越えて地球に生まれ変わった、青い地球の上でハーレイに会えた。
 蛍の光で下の学校から送り出されて、ハーレイが赴任して来た今の学校に。
 シャングリラで歌ったオールド・ラング・サインではなかったけれども、蛍の光は始まりの曲になって響いた、下の学校の卒業式で。
 だから…。



「やっぱり、始まりの曲だったんだよ。蛍の光は」
 お別れの曲でも、始まりの曲。ちゃんとハーレイに会えたんだから。
 …前のぼくは歌い損なっちゃったけど…。
 ハーレイと二人で歌えないまま、歌っていたことを忘れちゃったまま、死んじゃったけど…。
 覚えていたなら歌いたかったな、ハーレイと二人で地球へ行こう、って。
 あの歌でハーレイと二人きりの旅に出掛けたかったよ、いつまでも二人一緒なんだ、って。
「俺もお前と歌いたかったな、あの時、覚えていたならな」
 お前と二人で旅に出ようと、出航するんだと、オールド・ラング・サインを二人で。
 そいつは叶わなかったわけだが、今、歌うか?
 俺たちはこれから船出するんだ、シャングリラじゃなくて人生の船出。
 お前と二人で生きる人生、そいつに向かって出航することになるんだからな。
 いつかお前が大きくなったら、結婚出来る年になったら。



 歌詞は変わってしまったけどな、とハーレイが笑みを浮かべるから。
 オールド・ラング・サインか、蛍の光か、どちらで歌う、と訊かれたから。
「蛍の光!」
 そっちの方がいいよ、ハーレイと出会えたんだから。
 ぼくにとっては始まりの曲で、シャングリラで歌ったオールド・ラング・サインは思い出しさえしなかったんだから。
「俺もそういう気分だな。同じ歌うのなら、蛍の光だ」
 それで出会えたようだからな、とハーレイの大きな手が伸びて来て。
 キュッと握られた、メギドで凍えてしまった右手。
 ハーレイの温もりを失くしてしまって、冷たく凍えてしまった右手。
 褐色の手でしっかり包み込まれて、穏やかな笑顔を向けられて。
「これでよし、と…。歌うか、二人で蛍の光」
 オールド・ラング・サインと歌詞は全く違うわけだが、始まりの曲を歌おうじゃないか。
 別れの曲でも、お前にとっては始まりの曲で、前の俺たちには始まりの曲のメロディだしな。
「うん…。歌い損なった分、今、歌うんだね」
 一、二の三で歌ってみようよ。オールド・ラング・サインじゃなくって、蛍の光で。



 初めて二人で歌を歌った、今の生では。
 ハーレイの声と自分の声が重なる、大合唱とはいかないけれども、二人で歌う蛍の光。
 今の自分たちが住んでいる場所では、蛍の光はお別れの曲になっているけれど、元になった曲は始まりの曲。新年や誕生日、結婚式などで歌われた曲。
 自分にとっても、蛍の光はお別れの曲であると同時に始まりの曲。
 この歌に送られてハーレイと出会った、本当に始まりの曲だった歌。
 オールド・ラング・サインは結婚式でも歌われると言うから、気分だけでも…。
(ちょっと早めの結婚式だよ…)
 思うくらいは平気だよね、と微笑んだ。
 今の自分たちが暮らす地域では、蛍の光はお別れの曲。
 結婚式では歌わないけれど。結婚式なら、オールド・ラング・サインだけれど。
 それでも二人で歌う間に、心に幸せが満ちてくる。
 ハーレイと二人、繰り返し歌う蛍の光。
 また出会えたと、共に手を繋いで生きてゆける時が、いつかこの歌から始まるのだと…。




            蛍の光・了

※いつか地球へと出航する時、歌おうと決められたオールド・ラング・サイン。蛍の光。
 その日はついに来ないままでしたけれど、ハーレイと地球で歌えたのです。新しい歌詞で。
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(…こいつがいいんだ)
 実に美味いんだ、とハーレイはアーモンドをつまんでいた。
 いわゆるローストアーモンド。香ばしくローストされたアーモンドと絶妙な塩味のハーモニー。幾つでも食べられそうな気がする、流石にそれはしないけれども。器に入れて持って来た分だけ、それでおしまいにするつもりだけれど。
 ブルーの家には寄れなかった日の夜、書斎の机で傾けるウイスキーのお供にアーモンド。
 ウイスキーも深酒する気などはなくて、グラスに一杯と決めていた。深酒をしては酒の美味さが台無し、ゆっくり、じっくり味わいたいなら量は控えておくのがいい。
 だからグラスに一杯分だけ、今日の気分はそんな所で。
 普段だったらコーヒーだけれど、たまにはウイスキーもいい。夜のひと時、寛ぎの時に。



 酒のお供にと選んだアーモンド。
 冷蔵庫の中にはチーズもあったし、ナッツにしたってミックスナッツがあったけれども。色々なナッツを詰め合わせた缶、それが置いてはあったのだけれど。
 今夜の気分はアーモンドだった、ローストアーモンドだけを選びたかった。
(なにしろ、これしか無かったからなあ…)
 家に無かったという意味ではなく、帰り道に寄った食料品店に無かったという意味でもなくて。
 前の自分の記憶に引かれた、今夜はアーモンドで飲んでみたいと。
 白いシャングリラで暮らしていた頃、キャプテン・ハーレイだった頃。
 人類の船から奪うのをやめて自給自足の生活に入った白い鯨では、バラエティー豊かなナッツは無かった。カシューナッツもピスタチオも無くて、マカダミアナッツも、ペカンナッツも。
 白い鯨になったシャングリラで食べたナッツはアーモンドくらい、塩味をきかせたアーモンド。それにしようと遠い記憶がざわめいたから、今夜はローストアーモンドで。
 白い鯨を懐かしむには丁度いいから、前の自分を思い出しながら飲みたい夜には。



 前の自分の記憶と言っても、辛く悲しい記憶ではなくて。
 前のブルーを喪った後の心塞がれた時代ではなくて、それよりも前の平和な時代。前のブルーが元気だった頃、シャングリラに希望が満ちていた頃。
 地球の座標は掴めなくとも、アルテメシアの雲海から外へは出られなくとも、いつかは地球へと夢を見ていた、いつか地球へと旅立つのだと。
 ミュウと人類とが手を取り合うのか、戦いになるか、それは誰にも読めなかったけれど。確かな未来は見えなかったけれど、それでも地球へと。
 道は開ける筈だと信じた、前のブルーも、前の自分たちも。
 そのためにも今を生きなければと、未来を作ってゆかなければと楽園という名の船を維持した、ミュウの楽園であるようにと。
 外の世界には出られなくても、地面の上には降りられなくても、満ち足りた日々を船で過ごしてゆけるようにと。



 船での暮らしを豊かにするため、選ばれたナッツがアーモンド。
 何にするかと何度も会議を重ねたけれども、使い道の多さと花の美しさでアーモンドにしようということになった。同じ植えるならアーモンドがいいと、美しい花を咲かせるそうだからと。
(本当に綺麗だったんだ…)
 あの花が、と白いシャングリラを思い出す。アーモンドが植わっていた船を。
 桜のようだったアーモンドの花。桜によく似た花を咲かせた、淡い桃色の花を幾つも、幾つも。花の時期には木が桃色の雲のようになった、桜そっくりの花に覆われて。
 桜にとても似ていたけれども、サクランボよりも早く咲いた花。
 人工的に作り出された船の四季に合わせて、冬から春へと向かう頃に。芽吹きの春へと移りゆく季節に先駆けて咲いた、アーモンドの花は。



(今だと梅が咲く頃だよな)
 白やら紅やら、冬は終わりだと花開く梅。早い梅なら雪の中でも開き始める、咲き始める。
 今の自分たちが住んでいる地域、遠い昔には日本という名の小さな島国が在った辺り。日本では梅が好まれたというから、文化の復活と共に梅も戻った、あちこちに植えられ身近な存在。
 今の自分は見慣れているから、アーモンドの花の時期には梅だと分かる。
 シャングリラには無かった梅の花が開いて、香しい香りが辺りに漂う。春告草の名前どおりに、春の兆しを振り撒くように。



 アーモンドの実は食べられるけれど、前の自分たちも食べたけれども。
 今も香ばしいローストアーモンドをつまみにしているけれども、梅の花と言えば。
(梅干しも悪くはないんだ、これが)
 日本風の酒を飲むなら、梅干しもいける。梅肉を使った和え物なども合う、たまに作ってみたりする。長芋を和えたり、豆腐に添えたり。
(つまみでなくても…)
 梅の実の使い道はアーモンドと同じに色々とあった、梅干しにして食べる他にも。梅シロップに梅酒、それを作った梅を使って料理も出来るし菓子も作れる。
 梅干しにしても、おにぎりに入れたり、梅肉を使う料理も沢山。
 つまりはアーモンドと同じに役立つ梅の実、梅も花だけを愛でる木ではなかった。
 シャングリラに梅は無かったけれども、あれば役立ったに違いない。花を咲かせた後の実までが充分に利用できるのだから。



 アーモンドか梅か、どちらなのかと訊かれたら。
 花が美しく、実まで使えるアーモンドと梅、どちらを取るかと尋ねられたら。
(今なら梅か…)
 シャングリラに植えるというわけではなく、自分の好みで決めていいのなら梅を選びたい。
 梅干しや梅肉などはともかく、実をつける前に開く花。まだ寒い内に咲き始める花。
 その情緒で梅に軍配が上がる、アーモンドよりも梅の花だと。
 せっかくの日本、かつて日本が在った地域で暮らすのだから、梅がいい。遠い昔の人々が愛した文化を楽しむ地域に生まれたのだし、同じ花ならやはり梅が欲しい。
 春の足音を運ぶ梅の花、春告草とも呼ばれる花。
 自分が教える古典の中にも幾つも出て来る、梅の花も、それを詠み込んだ歌も。
 けれどアーモンドではそうはいかない、アーモンドでは古典の世界にならない。
 今の時代も公園などにはアーモンドが植わっているけれど。早咲きの桜かと勘違いされることもあるのだけれども、ただそれだけで終わる花。
 アーモンドの花が咲き誇る場所で古典の世界に浸れはしないし、梅の花とはまるで異なる。



(だが、花と言えば…)
 花という言葉が指していた花。花と言えばこれだ、と誰もに通じた花の正体。
 梅から桜に変わったのだったか、遥かな昔の日本では。
 日本で最初に作られた都、その頃には花は梅だった。歌に詠まれた花という言葉は梅の花だけを指し、他の花ならば別の名で呼ばれた。「花」とだけあれば、その花は梅。
 けれども都が別の場所へと移された後に、其処で都が栄える内に。
 花は桜に変わってしまった、歌の中でも、書き記された日記や物語でも。花と言えば桜、梅ではなくて。誰も梅とは思わなくなった、花という言葉を耳にした時に。
(しかも、それだけではなくてだな…)
 最高の権力を誇った天皇、その住まいの前に植えられた花まで梅から桜に変身を遂げた。以前は梅が植わっていたのが、桜の木に。対で植えられた橘の方は変わらないまま、梅だけが桜の木へと変わった。誰もおかしいと思いはしなくて、ごくごく自然に、いつの間にやら。
 そうして花は桜に変わった、梅は「花」から「梅の花」へと変わって桜にその座を譲った。



 なんとも不思議な話ではある、桜にサクランボは実らないのに。
 サクランボが実る桜はまた別のもので、遠い昔の日本で愛された桜の花とは違うのに。
 梅の木だったら実をつけ、それを食べることが出来る、日本で好まれた梅干しなどに加工して。
 それに比べて桜はといえば、ただ花が咲くというだけのこと。サクランボは実らず、花が咲いた後には散ってゆくだけ、また次の年に花を咲かせるまでその場所に根を張っているというだけ。
 梅と違って役に立ちはせず、手入れが必要というだけの桜。
 せっせと手入れをしてみた所で翌年の春に花が咲くだけ、何の役にも立たないのに。
 花が人の目を楽しませるだけで、それ以上のことは何も無いのに。
 なのに梅から桜へと変わった、遠い昔の日本では。
 実をつけ、役立つ梅の木から桜に変わった、「花」という言葉も、天皇の住まいを飾った花も。



(きっと日本は…)
 平和だったのだろう、梅を桜に変えられるくらいに。
 花の後には実をつける梅を、実などつけない桜に変えてしまえるほどに。
 花を愛でられればいいと思える時代だったのだ、きっと。桜へと変わっていった時代は。
 役に立つ梅の木を桜に植え替え、花という言葉も梅から桜へ変えた時代は。
(シャングリラでは無理だ…)
 あの船にあったアーモンドを桜に植え替えるのは。
 いくら平和な時代であっても、本当の意味での平和は無かった。戦闘が無かっただけの時代で、人類は変わらずミュウの存在を認めないままで。
 シャングリラが雲海の中に潜んでいたから平和だっただけ、その存在を人類が知らなかったから何も起こらなかっただけ。
 物資を補給しに宙港へ降りたり、輸送船を頼むことなど出来はしなくて、全てを船内で賄うしかなくて。自給自足の日々だった船では、アーモンドの木は必需品だった。



 そのアーモンドを桜に替えても、誰も喜ばない、役に立たない。
 アーモンドの実は採れなくなってしまい、桜の木ではサクランボも実りはしない。春になったら花が咲くだけ、ただそれだけの桜の木。
 どんなに見事に咲いたところで、ほんの一時期、咲き誇った後は散ってゆくだけ。
 いったい誰が喜ぶだろうか、そんな役立たずの桜の木を。同じような花が咲くアーモンドの木を抜いてしまって、代わりに桜を植えたとしても。
(…それとも、それも喜ばれたか?)
 桜の花の美しさはやはり格別だから。
 咲き初めから散ってゆくまでの間、刻々と変わる花の表情、それはアーモンドとは違うから。
 遥かな昔の日本の人々が愛し、魅せられた花だけはあると今の自分は知っているから。
 あのシャングリラにも桜があれば愛されたろうか、と思ったけれど。
 駄目だと直ぐに思い直した、そんな心の余裕は無かった。
 ただ愛でるために桜を植えようと、育ててみようとアーモンドの木と取り替えるだけの余裕などありはしなかった。桜は役に立たないのだから、サクランボも実らないのだから。



(やはりシャングリラではアーモンドなのか…)
 桜と似たような花は咲くけれど、風情が違うアーモンド。花の季節も桜とは違う、桜よりも早い梅の季節に咲いて散ってゆくアーモンド。
 そのアーモンドを植えておくのがギリギリ、実がなるからこそのアーモンドの木。ローストしてナッツの味を楽しんだり、粉にして菓子に使ってみたりと。
 実をつけ、それが食べられるから許された薄桃色のアーモンドの花。けして愛でるためにある花ではなかった、桜の花とはまるで違って。
 サクランボにしてもそうだった。桜に似た花を咲かせてはいても、花よりも実が大切だった木。アーモンドのようには長持ちしない実、贅沢だったサクランボ。赤く瑞々しいサクランボの実は、船での暮らしに欠かせないものではなかったから。
 とはいえ季節を知らせる果物、愛されていたサクランボ。今年も採れたと、甘く美味しく実ってくれたと。



 これが桜ではそうはいかない、花の後にはサクランボは無くて、花だけだから。
 きっと誰にも顧みられず、役に立たない木が植わっていると思われただろう桜の木。
(…余裕の無い船だな、本当に…)
 心の余裕がまるで無いな、と溜息をついた。
 公園に薔薇はあったのだけれど、薔薇こそ何の役にも立たない観賞用の花だけれども。それでも薔薇は桜ほどに場所を取りはしないし、四季咲きだったから花は一年中。花の持ちも良くて桜とは違う、見る間に散ってしまいはしない。
 その薔薇を使って薔薇のジャムまで作られていたのに、シャングリラの中に桜は無かった。
 一面の桜並木は無かった、白い鯨の何処を探しても。
(そいつを作るならアーモンドなんだ…)
 見渡す限りとまではいかなくても、ズラリと並んだ花の雲を船で見たければ。桜並木を思わせる景色を眺めたければ、似た花をつけるアーモンド。
 だから桜並木のような景色は見られたと思う、アーモンドの木は一本だけではなかったから。
 花の季節に其処へ行ったなら、桜によく似たアーモンドの花が薄桃色の雲を纏い付かせて立っていたろう、さながら早咲きの桜の如くに。
 花見をしてはいないけれども。
 誰も花見をしようとは言わず、アーモンドの花は静かに咲いては散ったのだけれど。



(日本だと花見なんだがなあ…)
 今の時代も桜が咲いたら花見に出掛ける人たちは多い。心浮き立つ春の光景。
 遠い昔に日本だった頃は、もっと優雅に桜を愛でていたという。池に浮かべた船から眺めたり、桜が咲いたと館で宴を開いてみたり。
 桜を詠んだ歌も色々とあって、古典の授業の時間だけでは教え切れない、時間が足りない。
(世の中に絶えて桜のなかりせば…)
 そんな歌まで詠まれた時代。
 この世の中に桜というものが無かったならば、のどかな気持ちで春を過ごせるのに、と。
 今日は咲くかと、明日の桜はどんな具合かと、心騒がせていた人々の心を詠んだ歌。桜のお蔭で気もそぞろだと、どうにも落ち着かない季節が春だと。



(平和だな…)
 桜ひとつで、たかが桜の花くらいのことで大騒ぎしていた遠い遠い昔。
 桜が無ければ春はのどかな気分だろうに、と歌に詠まれたほど、桜にかまけていられた時代。
 理想郷だ、と思わないでもない。
 桜の他には心騒がせるものが無いなど、まさにシャングリラだと、理想郷だと。
 事実、平和な時代だったと文献にはある、戦乱も無くて華やかな文化が花開いたと。
(だが、人間が生きてゆくには…)
 大変な時代だっただろう。
 一部の貴族たちを除けば、家も食料も果たして足りていたのかどうか。今とは違って疫病などもあった、薬も満足に無かっただろうに。
 桜が無ければ、と詠んだ貴族たちも、疫病ともなれば逃れられない。



(桜に変わる前の梅の時代は…)
 もっと大変だっただろう。
 疫病どころか戦乱があった、日本人同士で争い合った。権力者も次々に移り変わった、とうとう都も変わってしまった。長く都があった地を捨て、別の場所へと。
 そうして都を移した先で平和が続いて、梅は桜に取って代わられた、桜の時代がやって来た。
 花と言えば桜、梅ではなくて。
 天皇が住まう建物の前にも、梅の代わりに桜を植えた。対になる橘はそのまま変わらず植わっていたのに、梅の方だけが桜の木に。
 花を愛でることしか出来ない桜に、実などつけない役立たずの木に。
 平和だったからこそ桜になったか、と考えずにはいられない。人間の役に立つかどうかよりも、美しい花が咲くものを、と。花を愛でられればそれで充分、そういう時代だったのだろうと。



 本当の所はそんな理由ではなかっただろうと思うけれども。
 中国から来た梅よりも日本の桜を重んじる風に変わっただけだと知っているけれど、前の自分の頃を思えば、桜を平和だと思ってしまう。役に立つ梅より桜なのか、と。
 白いシャングリラでは役に立たない桜を植えても駄目だったから。似たような花のアーモンドを育て、実を採らなくてはならなかったから。
 アーモンドから桜に植え替えることなど出来はしなかった、役立たずの桜は植えられない。自給自足の船の中では。どんなに花が美しかろうと、アーモンドは桜に替えられなかった。
 けれど…。



(シャングリラだって…)
 時を経てゆけば、桜の船になっただろうか。
 役に立つアーモンドを植える代わりに、桜を育てられただろうか。
 平和な時代がやって来たなら、花を愛でるための木を植えられるような時代になったなら。
 遥かな遠い昔の日本で、梅が桜に変わったように。役に立つ木から花だけの木へと、アーモンドから桜の木へと、いつしか変わっていったのだろうか。
 前の自分たちが生きた時代が終わって、トォニィたちの時代になったら。
 ミュウと人類とが共に生きた時代、本当の平和がやって来た時代。シャングリラは宇宙を自由に旅した、何処の星にも降りることが出来た。物資の補給も何処ででも出来た。
 アーモンドの木にこだわらなくても、桜に植え替えられただろう。トォニィたちが桜にしたいと望みさえすれば、アーモンドの木を全て桜と取り替えることも。



 ところが、木々の交代劇は起こらなかったシャングリラ。
 公園も農場もそのままに保たれ、丁寧に世話が続けられた。アーモンドの木も。
(頑なに植え替えなかったんだよな…)
 シャングリラのその後はどうなったのか、と調べたデータベースの資料で知った。
 前の自分たちが生きた時代に敬意を表して、トォニィたちはシャングリラをそのままの形で残し続けた。青の間やキャプテンの部屋はもちろん、公園の木々も農作物なども。
 自給自足の必要性などなくなった後も、アーモンドの木は残り続けた。花を愛でるだけの桜にはならず、最後までアーモンドが植わったままで。
(あの船に、桜…)
 前の自分は見られないままで終わったけれども、次の時代に見たかった。
 トォニィとシドが引き継いだ後に、そういう平和なシャングリラを。
 アーモンドの代わりに桜が咲き誇る白いシャングリラを、平和な時代の桜の船を。



(はてさて、ブルーがこれを聞いたら…)
 ブルーはどんな顔をするのだろうか、「桜の船を見たかった」と自分が言ったら。
 かつてシャングリラを指揮したキャプテン、その自分が桜を植えたかったと言ったなら。平和な時代になった後には桜の船にして欲しかったと。
(あいつに話してみるとするかな…)
 明日は土曜日なのだから。そのせいもあって、ウイスキーと洒落込んでみたのだから。
 アーモンドを土産に持って出掛けて、小さなブルーに話してみたい。アーモンドの木を全部桜に替えて欲しかったと、そんなシャングリラが見たかったと。
(…だが、あいつだしな?)
 小さなブルーと酒を飲むのは無理だから。つまみにナッツとはいかないから。
 ローストアーモンドを持ってゆく代わりにクッキーにしようか、アーモンドの粉を使って焼いたクッキー。柔道部員たちが遊びに来た時は、徳用袋を買いにゆく店の。



 アーモンドをつまみにウイスキーを飲んで、眠った翌朝。
 桜の船は覚えていたから、ブルーの家へと出掛ける途中でクッキーの店に立ち寄った。徳用袋がドンと置かれているのだけれども、今日はそちらに用事は無い。
(これに憧れてるのも、あいつなんだが…)
 ブルーが欲しがる徳用袋。割れたり欠けたりしたクッキーを詰めた袋なのだけれど、柔道部員を家に招いたら出すと話したら、綺麗に揃った詰め合わせよりも魅力的だと思えたらしい。多すぎて食べ切れないというのに、ブルーは徳用袋が憧れ。
 けれども、今日はアーモンド。徳用袋の方は無視して、アーモンドクッキーの袋を一つ。二人で食べるのに良さそうな量が入ったものを。



 クッキーの袋を入れて貰った紙袋を提げて歩いて、生垣に囲まれたブルーの家に着いて。二階の部屋に案内されて間もなく、ブルーの母がクッキーを盛った器と紅茶を運んで来たものだから。
 小さなブルーはクッキーの器をまじまじと眺め、「お土産?」と首を傾げて訊いた。
「まあな。たまにはこういう土産もいいだろ」
「なんでクッキー? これって、いつものお店のでしょ?」
 徳用袋が良かったのに、とブルーは唇を尖らせた。ぼくの憧れは徳用袋、と。
 しかも一種類だけしか買って来ないとは何事なのか、と不思議がるから。あの店だったら色々なクッキーが揃っているのに、どうして詰め合わせにしなかったのか、と尋ねるから。
「そりゃあ、理由があるってな。これしか買ってこなかったんだし」
「ハーレイのお勧めのクッキーなの?」
 これが特別美味しいだとか、今の限定商品だとか。
「そうじゃなくてだ、こいつはアーモンドクッキーで…。そこが大切なポイントなんだ」
 アーモンドって所だ、それが大事だ。
「…アーモンド?」
 ちっともヒントになっていないよ、アーモンドの何処が大切なの?
「前の俺たちだ。シャングリラでナッツと呼べるようなの、アーモンドくらいだっただろ?」
 栗の木なんかもあったりはしたが、栗はナッツと言っていいのか…。
 ナッツの内には入るんだろうが、あれはデカすぎて木の実っていう感じだったしな。



 本当はアーモンドを丸ごと持って来たかったが…、と苦笑した。
 しかしそれでは酒のつまみだと、紅茶には全く似合わないからクッキーなのだと。
「…それは分かるけど、アーモンドを持って来た理由が分からないよ」
 まだ分からない、とブルーが赤い瞳を瞬かせるから。
「思い出したからさ、シャングリラにあったアーモンドの木をな」
 少し昔を懐かしむか、と昨夜はアーモンドをつまみに飲んでたんだが…。
 最初の間は食べていたことを思い出していたが、途中から花の方へと行った。アーモンドの花、桜の花に似ているだろうが。
 それで、シャングリラでは桜なんかを植える余裕は無かったな、と思ってな…。
 似たような花でも実をつけるアーモンドしか植えていられなくて、実をつけないような桜の木は駄目で。ついでに、花が咲いて実をつける木なら梅があるわけだが、それも無かった。
 まあ、あの時代は梅の実を食べる文化は無いしな、梅を植えようとは思わんだろうが…。
 そこでだ、今、俺たちが暮らしてる地域。
 此処は昔は日本だったろ、日本じゃ梅から桜に変わっていったんだ。花と言ったらこの花だ、と決まっていた花が梅から桜に。
「ふうん? …変わっちゃったんだ?」
「ずっと昔に、梅から桜へコロリとな。そうなった理由はちゃんとあるんだが…」
 俺はウッカリ考えちまった、食える梅より、花だけの桜に変わっちまったとは平和だな、と。
 人間の役には立ちそうもない木を大事にするとは、よほど平和な時代だったに違いない、とな。



 だから…、とブルーの瞳を覗き込んだ。
「俺たちのシャングリラもそうしたかった、と思っちまったんだ」
 梅じゃなくってアーモンドだったが、あれを桜に替えたかったと。
 それでアーモンドを持って来たわけだ、この実が無くても桜の船にしたかったな、と。
「…それって、いつに?」
 アーモンドの木は大切だったよ、みんなで考えて植えたんだから。
 それを桜に植え替えるなんて、船中が反対しそうだけれど…。桜には実がならないんだもの。
 サクランボの木にするならともかく、ただの桜は難しそうだよ。
「うむ。…だから、俺たちの時代には無理だった。俺が言うのは、もっと後のことだ」
 つまり、トォニィとシドの時代のシャングリラだな。
 あの時代にはもう、アーモンドの木は必要無かった。欲しけりゃ補給出来たんだからな。
 そういう平和な時代だったし、アーモンドの代わりに桜を植えて欲しかった。平和な時代らしく桜の船になっていたらな、と思ったんだが…。
 お前は、それをどう思う?
 アーモンドの代わりに桜が植わったシャングリラ。平和で良さそうだと思わないか?
「…そのシャングリラ、見てみたかったかも…」
 前のぼくは死んでしまっていたけど、もしも見られるなら見たかったよ。
 アーモンドの代わりに桜が一杯、春になったら桜の花が咲くシャングリラを。
「そうだろう? 俺も見てみたかったんだ」
 死んじまっていても、そんなシャングリラなら是非見たかった。平和になったと、いい船だと。
 だが、あいつらは前の俺たちが植えた木とかを、変えようとしなかったんだよなあ…。
 大切に思っていてくれたからこそだが、桜の船は見たかったよなあ…。



 アーモンドの木は桜に変わらないまま、他の木もそのまま、白いシャングリラは飛び続けた。
 最後のソルジャーになったトォニィを乗せて、キャプテン・シドが舵を握って。
 広い宇宙をあちこち旅して、トォニィが決めた長い旅の終わり。
 もうシャングリラは役目を終えたと、この先の時代にシャングリラはもう必要無いと。
 そしてシャングリラは解体されて、時の彼方に消えたから。宇宙から消えてしまったから。
「ねえ、ハーレイ…。シャングリラ、最後に桜の船にしてあげたかったね」
 アーモンドの代わりに桜の木を乗せて、平和な時代らしく飛ばせてあげたかったね…。
「俺もそう思う。ほんの数年だけでもな」
 解体が決まってからも何年かは飛んでいたんだ、色々な星がシャングリラを招待したからな。
 そういう所へ出掛けてゆくなら、桜の船でも良かったんだ。
 前の俺たちが植えておいた木にこだわらなくても、平和な時代に相応しい木にしてくれれば。



 引退の時には桜を乗せて飛んで欲しかった。
 アーモンドの木の代わりに桜を、花を愛でるだけの桜の木を。
 そうはならなかった船だけれども、シャングリラは最後までアーモンドと共に飛んだけれども。
 小さなブルーも、桜の船を見たかったと言う。桜の船にしてやりたかったと。
「シャングリラに桜…。トォニィは桜、知ってたのかな?」
 何処かで桜の木を見ていたかな、アーモンドの木よりも素敵だと思って見てたかな?
「どうだかなあ…」
 それはなんとも分からんなあ…。桜を植えてた星も多いとは思うんだが。
 しかしだ、トォニィが桜を知っていたとしても、日本の文化の移り変わりまでは知らないぞ。
 梅から桜だと知りはしないし、知っていたって、俺のような考え方になったかどうか…。
 アーモンドを桜に植え替えようとは思い付かなかったろう、恐らくな。
 シャングリラが引退の時に花一杯で飛んでいたとしたって、桜じゃなくて別の花だろうなあ…。
「うん、でも…。お疲れ様、って花だらけだよね」
 きっと宇宙のあちこちの星から、沢山のお花。
 それを一杯に乗せて貰って、シャングリラは飛んで行ったと思うよ。
 ブリッジだってきっと花で一杯で、舵の周りまで花が飾ってあったと思うよ…。



 ミュウの歴史の始まりの船だったシャングリラ。
 どんな引退式だったのか、詳しくは伝わっていないけれども、花は溢れていただろう。
 シャングリラの労をねぎらう花たち、「ありがとう」と感謝の気持ちがこもった花たち。
 その花たちを乗せてシャングリラは飛んで、植えられていた木はシャングリラの森に移された。始まりの星のアルテメシアに作られた記念公園に。アーモンドの木も、其処に引越したろう。
 桜の木には植え替えられずに、最後までシャングリラと一緒に飛んで。
 他の木たちと共に引越して、シャングリラの森で咲き続けたろう。春が来る度に花を咲かせて、桜とは違って実をつけ続けて。
 そしてシャングリラは宇宙から消えた、白い鯨はいなくなった。



「…なくなっちまったなあ、シャングリラ…」
 今じゃシャングリラ・リングしか残ってないなあ、シャングリラの名残。
 モニュメントとかと違って、俺たちでも触れそうなものとなるとな。
「シャングリラの一部だった金属で作ってくれるんだよね、シャングリラ・リング」
 結婚指輪を申し込んだら、抽選でちゃんと当たったら。
 それにシャングリラの記憶、あるかな?
 シャングリラ・リングを作って貰えたら、シャングリラの記憶を見られるのかな…?
「さてなあ…。そういった話は俺も知らんが…」
 見えたって話に出会っちゃいないし、そいつは何とも分からないが…。
 貰ってみないことには謎だな、シャングリラ・リングにシャングリラの記憶があるかどうかは。



 分からないな、とは言ったけれども。
 白いシャングリラで共に暮らした自分たちだったら、もしかしたら。
 シャングリラ・リングを嵌めて眠れば見られるかもしれない、シャングリラの記憶を夢の中で。
 そう口にしたら、小さなブルーは赤い瞳を輝かせて。
「ちょっと見たいね、シャングリラの記憶」
 最後まで幸せだっただろうけど、幸せ一杯の引退飛行を。
 トォニィとキャプテン・シドを乗っけて、沢山の花を一杯に乗せて。
「俺も見たいな、シャングリラには散々苦労をさせたからなあ…」
 地球に行くために苦労をかけたし、引退の時には幸せであって欲しいもんだ。
 いつかお前と見られるといいな、そういう幸せなシャングリラをな…。



 シャングリラにあったアーモンドの木。
 桜の木には植え替えられずに、そのままになってしまった木。
 白いシャングリラを桜の船にはしてやれなかったけれど、それは叶わなかったけれども。
 花一杯の幸せなシャングリラを見たい、役目を終えて旅立つ時の。
 前の自分は見られずに終わった、シャングリラの幸せに満ちた旅路を。
 叶うものならブルーと二人で、その夢を見たい。
 いつか幸せに抱き合って眠る夢の世界で、一杯の花に囲まれて旅立つシャングリラを…。




           アーモンドと桜・了

※シャングリラに植えられていたアーモンドの木。愛でるためではなくて、実を食べるために。
 平和になった時代だったら、桜の木でも良かった船。ブルーとハーレイの夢の船です。
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(ふうむ…)
 こいつはどうやら当たりだな、とハーレイが手に取って眺めた卵。
 ブルーの家には寄れなかった日の夜、夕食の支度をしていて出会った。具沢山のオムレツを作るつもりで卵を出して来たけれど。幾つ使おうかと、卵が盛られた器から一つ取ったのだけれど。
 どうも大きい、そういう印象。他の卵と比べてみたら、やはり大きい。
 平飼いが売りの農場の卵、自然の中に鶏が産んでゆく卵。それを集めて出荷している、大きさが不揃いなことは珍しくなくて。器に盛られた卵は色々、それが気に入ってよく買っている。
 卵といえども自然が一番、人の手は最小限でいい。前の自分の記憶が戻る前からそうだった。
(揃った卵も悪くないんだが…)
 きちんと揃えて出荷される卵も嫌いではないし否定しないけれど、この盛り合わせの卵がいい。大きめの卵や小さめのものや、如何にも産み立てという感じがするから。
 放し飼いにされて土の中の虫をついばんだりして育った鶏、元気な鶏。その鶏の元気が詰まった卵で、力を貰える気がするから。



 それにしても大きい、手の中の卵。どう見比べても、他の卵よりも大きな卵。
 不揃いな大きさの卵たちだし、そういったこともあるけれど。ここまで大きな卵となると…。
(この卵は、多分…)
 どうやら双子。一つの卵に黄身は普通は一つだけれども、双子の卵には二つの黄身。
 きっとそうだ、と大きさと重さを改めて手で確かめた。ずしりと重い気がする卵。大きめの卵。
(ほぼ間違いなく双子だろうな)
 透視はさほど得意ではないし、卵の中身を気軽に覗けるレベルではない。
 光に翳せば分かるだろうかと思ったけれども、ここは割ってのお楽しみといこう。
 あらかじめ結果が分かっているより、当たりかハズレか、それを待つのも心が弾むものだから。自分の運を試されるようで、当たれば幸福感も倍。
 まずは割って…、とオムレツのつもりで用意していた器よりも小ぶりの器を出して来た。
 もしも卵が双子だったら、他の卵と混ぜてしまうようなオムレツにするのはもったいないから。



 卵をコツンとキッチンの台の角にぶつけて、軽くヒビを入れて。
 器の真上でパカリと割ったら、スルリと零れ落ちた黄身。一つ落ちたのに、もう一つ。殻の中に一つ黄身が残った、やはり双子の黄身だった卵。
 半分に割れた殻の中にチョコンと鎮座している黄身は小さめ、普通の卵の黄身より小さい。器の中に入っている黄身も。
 観察してから、そうっと二つ目の黄身を器の中に移した。仲良く並んだ二つの黄身。色の濃さも大きさもそっくり同じで、もう本当に瓜二つの双子。
 三十八年生きて来たけれど、双子の卵はそうそうお目にはかかれないから。
 狙って手に入るものではないから、予定変更、オムレツはやめて双子が生きる目玉焼き。双子の卵を堪能するなら、目玉焼きにするのが一番いい。
 オムレツ用にと用意した具はグラタンにしよう、ソーセージや野菜などだから。バターで炒めて粉を振り入れ、ザッと混ぜてから牛乳を少しずつ入れてやったらホワイトソース。粉末の調味料を加えて味見してから塩胡椒。オーブン用の器に移して、チーズを載せて…。
 オーブンに入れて仕上げる間に味噌汁に味噌を溶き、それから小さなフライパン。さっきの卵を流し入れて目玉焼きにかかった、軽く蓋をして。
 間もなく完成、今夜の夕食。グラタンの方が見た目に立派だけれども、食卓の主役は目玉焼き。双子の卵が美味しそうに焼けた、目玉焼きを載せた皿が今夜の主役。



(さて、と…)
 テーブルに着いて、グラタンの方から食べ始めた。目玉焼きも熱々がいいと思うけれども、まだ見ていたい。偶然の出会いを、一個の卵で黄身が二つの目玉焼きを。
(双子の卵なあ…)
 ワクワクするような卵ではある、滅多に出会えはしないから。
 綺麗に揃った卵を買ったらまず出会えないし、不揃いな卵を選んで買っても、そうは会えない。あの平飼いの農場の卵をよく買うけれども、双子の卵には滅多に出会わない。
(前に出会ったのはいつだったか…)
 思い出せないくらいなのだから、何年も見てはいないのだろう。黄身が二つの双子の卵。
 こうして出会うと嬉しい気分になってくる。一つの卵に黄身が二つで得をした気分、一個の卵で栄養が倍、と。その上、珍しい卵。幸運を引き当てた気分になれる。
 SD体制が始まるよりも遥かな昔の地球にあった国、中国では双子の卵は縁起が良かったという話も聞いた。黄身が二つだから双黄卵の名があったほど。
 縁起がいいから探し求められ、普通の卵よりも高値で売れた。喜ばれていた双黄卵。



(しかしだ…)
 その中国の隣に位置した、かつての日本。今、自分が住む地域の辺りにあった小さな島国、その日本では双子の卵は好まれなかったらしい。
 黄身が二つの卵どころか、双子というだけで忌み嫌われた。双子が人間の子供であっても。
 どうしたわけだか嫌われた双子、色々と説はあるようだけれど。
 人間の場合は片方の子供を捨ててしまったり、養子に出したり、最悪の場合は殺したり。双子に生まれて来たというだけで親に育てて貰えなかった子供。
 そうした双子を思わせるから、双子の卵も嫌われた。食べずに捨てたか、どうなったのか。
 けれども後世、双黄卵を尊ぶ文化が入って来たら売れたというから勝手なものだ。黄身が二つの卵ばかりを集めたパックが飛ぶように売れた、かつての日本。
 今ではそういう卵のパックは無いけれど。双子の卵に出会いたかったら、不揃いな卵が詰まったパッケージを買っては、大きめの卵を端から割ってみるしかないのだけれど。



 遠い昔には人間の都合で評価が分かれた双子の卵。忌み嫌われたり、尊ばれたり。
 人の双子もそれと同じで、いつの間にやら嫌われる代わりに人気者。そっくりな双子にお揃いの服を着せ、得意満面だった親。周囲も可愛いともてはやしたから、人は変われば変わるもの。
 見方ひとつで、考え方が一つ変わっただけで。
(そんな調子だから、SD体制なんぞを作っちまえたんだ)
 人を人とも思わない世界、機械が人間を作った時代。
 無から生まれたフィシスでなくとも、人間は全て人工子宮から作り出されていた時代。
(…生まれたんじゃなくて、作るんだよなあ…。あれは)
 人の誕生とはそうしたものだと、前の自分はすっかり信じていたけれど。人工子宮から生まれてくるのだと、人はそうして生まれるのだと。
 前の自分も、それにブルーも、人工子宮で作られた子供。人工子宮で育った子供。
 誰もおかしいとは思わなかったし、それが正しいのだと思い込んでいた。
 そう、トォニィが生まれるまでは、ずっと。
 SD体制が始まって以来、初めての自然出産児としてトォニィがナスカで生を享けるまでは。



(あの時代には、双子ってヤツは…)
 きっといなかったのだろう。広い宇宙の何処を探しても、双子の子供というものは。
 機械が完璧に管理していた出産システムでは有り得ないから。
 人工子宮に二つの受精卵を入れはしないし、受精卵が二つに分裂するのも止めただろうから。
 一卵性の双子も、二卵性の双子もいなかった時代。
 そういう時代に自分たちは生きた、前の自分と前のブルーは。
(今だと双子もいるんだがな?)
 自然出産が当たり前の時代、もちろん双子も生まれてくる。一卵性の双子も、二卵性の双子も。
 今の学校にも、双子の生徒がちゃんといる。
 前の自分が生きた時代にはいなかった双子が、今は普通に生まれる双子が。
 まるで双子の卵のように。何も思わずに買った卵たちの中に混ざっていた少し大きめの卵、目の前の双子の卵のように。
 目玉焼きにしてしまったけれど。割ってフライパンで焼いてしまったけれど。



 双子の卵は自然の証明、それを思うと可哀相だったろうか、この卵。
 割って目玉焼きなどにしてしまって…、と冷蔵庫までパッケージを確認しに行った。もしも卵が有精卵なら、命が入った卵だから。親鳥が抱いて温めてやれば、ヒヨコが孵る卵だから。
 パッケージに貼られていなかったシール、有精卵と書かれたシールは無くて。
 違ったのか、とホッとした。珍しい双子を食べてしまっては可哀相だ、と。
 安心してダイニングのテーブルに戻り、グラタンの後は目玉焼き。白身の方から食べ始めて。
(一つの黄身の卵だったら、有精卵でも平気で食ってたっけな…)
 可哀相だと思いもしないで、とハタと気付いて苦笑する。酷いもんだと、食べているな、と。
 有精卵はたまに食べるから。そう書かれているシールつきのを、選んで買う日もあるのだから。温めればヒヨコが孵る卵を、命が入っている卵を。
(栄養がつく気がするんだよなあ…)
 思えば卵が可哀相だけれど、それとこれとは別問題。特別な気がする有精卵。
 遠い昔のバロットとやらではないけれど。孵化する前のヒヨコごと卵を茹でてしまって、食べる文化ではないけれど。
 ヒヨコが入った卵を茹でてしまうバロット、今でも一部の地域では食べると聞いた。SD体制が崩壊した後、復活して来た食文化。栄養がつくと、滋養があると。



(…流石の俺もそこまではな?)
 旅行先でバロットを食べて来た先輩は「美味い」と語ったけれども、挑戦する気はまるで無い。好き嫌いが無いのが自慢とはいえ、ヒヨコ入りの卵は心臓に悪い。同じ栄養でも有精卵止まりで、その先は御免蒙りたい。
 ヒヨコ入りの卵を食べる文化や、双子の卵を尊ぶ文化や。
 卵の文化も色々あるなと、前の自分たちの時代とは違うと考えていて。黄身が二つの目玉焼きを美味しく頬張っていて…。
(…待てよ?)
 双子の黄身の片方を口へと運んだ所で、双子の卵が引っ掛かった。
 遠い記憶に、今の自分よりもずっと昔の記憶の端に。双子の卵だと、黄身が二つの卵なのだと。



 前の自分の、遠い遠い記憶。それと重なる双子の卵。
(あったのか…?)
 双子の卵がシャングリラに、と記憶を掴んで手繰り寄せてみたら。
 白いシャングリラで暮らしていた日々を、鶏の卵があっただろう時期の記憶を探ってみたら。
(そうだった…!)
 あの船で鶏を飼っていた時、双子の卵が生まれたのだった。普通よりも大きく生まれた卵。
 これは何かと透視してみた仲間が見付けた、二つの黄身が入っているのを。
 そんな卵は誰も知らないから、大騒ぎになってしまったけれど。変な卵が生まれたらしいと皆が押し掛け、農場にあった卵置き場は時ならぬ賑わいだったけれども。
 ヒルマンがデータベースを調べに行ったら、黄身が二つの卵というのはたまにある話。
 卵を産み始めたばかりの雌鶏が産むことが多いらしくて、条件が揃えば他にも色々。
 SD体制が始まるよりも遠い昔は、卵としては出荷されずに製菓用などとして卸されていたり、逆に喜ばれて双子の卵ばかりを詰めたパッケージが人気を博したり。
 双子の卵はそういったもので、シャングリラで飼っている鶏が産んでも不思議ではなくて…。



 そうは言っても珍しいから、前の自分たちも見に行った。見物客が一段落した後、前のブルーも一緒に出掛けて。
 卵置き場の中の一角、小さな机に置かれた卵。黄身が二つの双子の卵。
「孵るのかい?」
 温めてやれば、と尋ねたブラウ。親鳥が温めればヒヨコが二羽孵るのかい、と。
「どうなのだろうね…?」
 そこまでは調べていなかった、とヒルマンがデータベースを調べに出掛けて、直ぐ戻って来た。双子の卵を孵化させることは、けして不可能ではないらしい。
 親鳥に任せておくのではなくて、人が手助けしてやれば。適切な手段を講じてやれば。
 卵を温める親鳥は何度も卵の向きを変えるけれど、双子の卵にはそれでは足りない。黄身同士が癒着してしまうだとか、偏りすぎて死んでしまうとか。
 それではヒヨコは孵りはしないし、もっと何度も卵の向きを変えるためには人工孵化。
 親鳥の代わりに孵卵器で温め、何度も卵を回転させては、中身がくっつかないように。ヒヨコが無事に生まれてくるよう、せっせと付き添い、世話をしてやる。
 そうすれば孵る、双子のヒヨコ。二羽のヒヨコが一つの卵の殻を破って生まれるという。



「へえ…!」
 凄いじゃないか、とブラウが上げた感嘆の声。ゼルも、ブルーも、前の自分も同様だった。
 今の時代の人間には有り得ない双子。養父母が育てる兄弟はいても、血の繋がりは全く無い。
 鶏の世界でも人が手助けしてやらないと生まれない双子、孵化しないらしい双子の卵。
 けれども、双子の卵は孵る。
 人間の双子は今の時代は生まれないけれど、双子の卵なら孵すことが出来る。一つの卵から命が二つ。双子のヒヨコが生まれてくるから。
「やってみたいねえ…!」
 あたしたちの手で双子のヒヨコを孵したいよ、と言い出したブラウ。ゼルも大きく頷いた。
「マザー・システムとはまた違うからのう…。双子のヒヨコもいいもんじゃ」
 わしは双子ではなかったんじゃが、とゼルが呟いたハンスは弟、同じ年齢ではなくて血縁関係も皆無。機械が選んで組み合わせただけの兄と弟、そういう兄弟だったけれども。
 それでも兄弟には思い入れのあったゼル、双子のヒヨコはゼルの夢を大きく掻き立てた。双子の卵を孵してみたいと、双子の鶏を育ててみたいと。
 前の自分もブルーも夢見た、双子のヒヨコを孵してみようと。白いシャングリラの仲間たちも。



 是非、と願った双子の鶏。誕生を祈った双子のヒヨコ。
 切っ掛けになった双子の卵は、残念なことに無精卵。ヒヨコが孵化するわけがなかった。
 だから誰もが待ったのだけれど、有精卵の双子の卵が生まれたならば、と頑張ったけれど。鶏が大きな卵を産む度、双子の卵だと判明する度、有精卵かと調べたのだけれど。
(とうとう無かったんだったか…)
 双子の卵の有精卵は見付からなかった。
 あれほどに皆が待ったのに。双子のヒヨコを孵してみようと、双子の鶏を育てたいと。
 一つの卵に二つの黄身が入った双子の卵。人間がせっせと世話をしないと孵らない卵。
 双子のヒヨコを孵化させることは、神の悪戯と、人間の手との合わせ技。
 だからこそ白いシャングリラの皆が夢見た、自分たちの手で奇跡の命を、と。
 けれど双子の有精卵はついに生まれず、シャングリラでは生まれなかった奇跡の双子。同じ卵の殻を破って二羽のヒヨコは生まれなかった。そっくりに育つであろうヒヨコは。



(今の時代だと…)
 双子の卵はどうなるのだろう、とデータベースで調べてみたら。
 流石は今の平和な世の中、個人的な趣味で孵化させている人が撮影した画像までがあった。卵を孵卵器で温める所から、二羽のヒヨコの誕生までを。
 卵の殻を中からつついて破って、覗いた二つの黄色い嘴。そうして出て来たヒヨコが二羽。
(本当にちゃんと孵化するのか…)
 こういうものか、と見入ってしまった。
 同じ卵からヒヨコが二羽。双子の鶏、シャングリラでは叶わなかった夢。
 管理出産の時代に抗うかのように、双子のヒヨコを孵そうとしていた前の自分たち。
(…あいつも何度も見に出掛けてたが…)
 双子の卵が生まれたと聞けば、農場に出掛けていたブルー。「今度は有精卵なのかい?」と。
 あれから長い時が流れて、ブルーも自分も生まれ変わった。青い地球の上に。
 人工子宮から生まれるのではなく、母の胎内で育まれて。
 そうして生まれた今のブルーは覚えているのだろうか、双子の卵を?
 前の自分たちが夢を見ていた双子の卵を、奇跡の誕生を待ち焦がれていた双子の卵を。
(明日は土曜か…)
 訊いてみようか、小さなブルーに。双子の卵を覚えているか、と。
 双子の卵に出くわしたことも、きっと何かの縁だから。黄身が二つの目玉焼きを美味しく食べていることも、シャングリラで生まれた双子の卵を思い出したことも。



 次の日、目覚めたら直ぐに思い出した双子の卵。昨夜の双子の目玉焼き。
 これはブルーに訊かなければ、と青空の下を歩いて出掛けて、生垣に囲まれた家に着いて。
 ブルーの部屋でテーブルを挟んで向かい合うなり、早速、問いを投げ掛けた。
「双子の卵を知ってるか?」
「なに、それ?」
 双子ってなあに、卵は幾つも生まれるんじゃないの?
 鳥の種類で違うかもだけど、温める卵が一個だけより、二つとかの方が多そうだけど…。
「双子の卵は卵の数のことじゃなくてだ、本当に双子だ、一つの卵に黄身が二つだ」
 鶏の卵でたまにあるんだ、他の鳥でも生まれるのかは知らんがな。
 この卵は妙に大きいぞ、と思った時には双子だってことがあるんだよなあ…。
「ふうん…?」
 ハーレイ、それに出会ったの?
 黄身が二つの双子の卵を見付けたの…?
「うむ。昨夜、オムレツを作ろうとして卵を出したら、そいつが当たりで」
 もしかしたら、と思ったんだが大当たりだ。ちゃんと双子の卵だったさ。



 オムレツはやめて目玉焼きにして食ったんだが、と話したら。
 せっかくの双子の卵なのだし、黄身が二つの目玉焼きにしたと言ってやったら。
「食べちゃったの!?」
 ハーレイ、双子を食べちゃったんだ!?
 双子の卵を割ってしまって、目玉焼きにしてしまったなんて…!
 酷い、と反応したブルー。あまりに酷いと、食べてしまうなんて酷すぎると。
「安心しろ。…俺も確かめたんだが、普通の卵と何も変わらん。無精卵だった」
 あれを温めてもヒヨコが生まれて来たりはしないぞ、有精卵ではなかったからな。
「なんだ…。それなら、いいよ。食べちゃっても」
 双子のヒヨコが孵る卵を、食べてしまったわけじゃないなら。
「その卵なんだが…」
 覚えていないか、前の俺たちと双子の卵の話なんだが…。
 シャングリラで孵そうとしていただろうが、鶏が産んだ双子の卵を。
 人間が手助けしてやらないと孵らないらしい、ってことで、双子のヒヨコを孵そうとした。
 あの時代の人間にはいなかった双子、そいつを鶏で見てみたい、とな。
「そういえば…!」
 ブラウが言い出したんだったっけね、それでみんなが賛成して…。前のぼくだって。
 ゼルが一番熱心に孵そうとしていたっけね、双子の卵。ハンスと重ねていたんだろうね、双子の鶏。同じ卵から孵る兄弟、それが見たい、って。
「結局、出来なかったがな…」
 卵を孵す用意はあったが、手伝おうと意気込むヤツらも充分揃っていたが…。
 肝心の卵が生まれないままで終わったっけな、双子の卵はいつも無精卵ばかりでな…。



 そうそう上手くはいかんものだな、と苦笑いを浮かべてしまったけれど。
 今の時代は趣味で孵している人もあるのに、と前の自分たちの夢が夢のままで終わってしまったことに溜息をついたけれども。
「ううん、前のぼくたちが頑張った分は評価されたかも」
「はあ?」
 小さなブルーが何を言ったのか、何を言わんとしているのか。それが分からず、思わず漏らした間抜けな声。けれどブルーは笑う代わりに、こう続けた。
「トォニィたちだよ。…自然出産で生まれた子供たち」
 最初はトォニィ、ナスカで生まれた最初の子供。
 SD体制の時代に入って、初めて生まれた本当の子供。人工子宮じゃなくて、お母さんのお腹の中で育った本物の子供。
 今のぼくたちもそうして生まれたけれども、あの時代には誰も思いはしなかったよ。お母さんがいないと子供は生まれてこないってことも、それが正しい道だってことも。
 …前のぼくは全く気付きもしなくて、ヒルマンやエラたちも気付かなかった。
 なのにトォニィたちが生まれたんだよ、ミュウの未来を拓いた子たち。
 トォニィたちが生まれたからこそ、次の時代に人工子宮は無くなったんだよ、SD体制が壊れたせいだけじゃないと思うよ。
 …人はそうして生まれるものだと、お母さんから生まれるものだと、みんなが気付いたからこそなんだよ。トォニィたちが生まれていたから、立派な子供たちだったから。
 前のぼくたちが頑張ってた分、トォニィたちへと繋がったかもね…。



 親鳥任せにしておいたのでは孵化しないという双子の卵。
 それを孵そうとしたくらいだから、管理出産だった時代に双子のヒヨコを誕生させようと夢見て努力していたから。
 有精卵の双子の卵を寄越す代わりに、神様がアイデアをくれたのだろう、と微笑むブルー。
 双子の卵よりも、双子のヒヨコなどよりも。
 もっと素晴らしいものを誕生させてみてはどうかと、本物の子供を育ててみないかと。
 アイデアを貰ったのは前の自分ではなくてジョミーだったけれど、と。
「もしかしたら、と思うんだよ。…神様がくれたアイデアかもね、って」
 双子の卵を孵化させるよりも、本物の子供の方がずっと凄いよ。
 そっちの方が遥かに凄くて、ミュウの未来も、人の未来も正しい方へと向かったんだよ。
 人工子宮になっちゃってたのを、元へと戻したんだから。
 あんなアイデア、そうそう出ないよ、神様がジョミーにくれたアイデアかもしれないよ?
「だが、ジョミーの時代に双子の卵は…」
 もう孵そうとはしちゃいなかったぞ、農場では生まれていたんだろうが…。
 鶏は変わらず飼ってたんだし、双子の卵もたまには生まれていた筈なんだが…。
「とっくに飽きちゃった後なんだけどね、ジョミーがシャングリラに来た頃にはね」
 双子の卵が生まれました、って報告も無くて、見ようと出掛けて行く人も無くて。
 有精卵か無精卵かのチェックなんかもしていなかったよ、卵は食堂に直行だったよ。普通の卵も双子の卵も関係なくって、食堂行き。
 ヒヨコを孵すための卵以外は、全部みんなで食べちゃっていたよ。



 ブルーを継いだジョミーの時代は、既にやってはいなかった。それよりも前になくなっていた。
 すっかり忘れ去られてしまった、双子の卵を孵すこと。双子のヒヨコを孵化させる夢。
「ねえ、ハーレイ。双子の卵を孵そうっていう夢、どうして飽きちゃったんだっけ…?」
 疲れちゃったって覚えは無いけど、待ちくたびれて投げ出しちゃったのかなあ?
 いくら待っても有精卵の双子が生まれてこなくて、もう駄目だ、って放り出しちゃった…?
「そうじゃないだろ、本物の子供で忙しくなって来たせいだろうが」
 …本物と言っても、トォニィたちのような意味での本物の子供とは違ったんだが…。
 人工子宮から生まれた子供たちだが、もう本当に小さな子たち。
 前の俺たちがそれまで見たこともなかったチビが何人もやって来たんだ、双子のヒヨコを育てるどころじゃないってな。
 人間の子供の方が大事だ、そいつを立派に育てにゃならん。なにしろミュウの子供だからなあ、いずれシャングリラを担う予定の新しい世代が来たんだからな。



 雲海の星、アルテメシアで保護した子たち。
 一人から二人、二人が三人、少しずつ増えてシャングリラの中に子供たちの元気な声が響いた。養育部門が必要になって、子供たちはシャングリラの宝物になった。
 双子の卵を孵すよりかは、本物の人間の子供たちを育てる方が遥かに楽しく、夢もある。それに心も惹かれるから。ヒヨコよりかは断然子供で、誰もがそちらに向かったから。
 双子の卵は忘れ去られた、孵そうという夢も消え去った。
 同じ育てるなら人間の子だと、ミュウの未来を担う子たちを育てねばと。



「そっか…。子供たちの方が大切だものね、鶏の双子なんかより…」
 双子の卵を孵しているより、子供たちを育てていかなきゃね…。
「うむ。もっとも、あの時代に双子の子供はいなかったんだがな」
 双子を見たいなら卵を孵してヒヨコの方でだ、人間の双子はまるでいなかったわけなんだが…。
 マヒルとヨギが双子だったと言ってはいたがだ、あれも怪しいもんだしなあ…。
 一卵性の双子なら機械の気まぐれでいたかもしれんが、二卵性の双子は有り得ない。人工子宮に二人は入れん、そういう風に出来てはいない。
 あれはどういう双子だったか、調べようとも思わなかったが、はてさて、どうだか…。
 双子なんだと頭から信じて育てられただけの、他人同士だったかもしれないなあ…。
「前のぼくもマヒルとヨギとは調べていないよ、双子なんだと思っているなら、それでいいから」
 もう兄弟は認めない時代になっていたのに、兄弟で双子。それに一卵性じゃなかった。
 何か理由があったんだろうけど、それは機械が考え出した理由だから。機械の都合は知りたくもないし、マヒルとヨギとが幸せだったらそれで充分。
 …だけど、今では双子もいるよね、本物の双子。一卵性の双子も、二卵性の双子も。
「ああ、いい時代だ」
 神様が双子を創って下さる、本当に本物の双子をな。
 母親のお腹の中で育った、そっくりな双子や、似ていない双子を。
 前の俺たちが頑張って孵そうとしていた双子の卵は二卵性だな、もしも孵っていたならな…。



 本物の双子が存在する時代、機械に管理されない時代。
 人が普通に生まれられる世界、母親の胎内に宿って育って、時には双子になったりもして。
 前の自分たちが生きた時代には無理だった双子、双子の卵で夢を見るのが精一杯だった双子。
 それを二人で語り合っていたら、小さなブルーが瞬きをして。
「…ちょっと双子に生まれたかったかも…」
 ぼくとそっくり同じ兄弟、生まれてたら楽しかったかも…。
 パパにもママにも、どっちがどっちか分からないくらい、そっくりな双子。ハーレイにも区別がつかない双子で、「ぼくはどっち?」って訊いてみたりして。
「いいのか、俺を独占出来んぞ?」
 お前が二人で、そっくりだったら、俺も平等に相手をせんとな?
 片方だけを優先するってわけにはいかんぞ、双子なんだし。
「それは困るよ…!」
 ぼくはぼくだよ、もう一人のぼくにハーレイを取られちゃったら困っちゃうよ…!
「俺だって困る、お前が二人になっちまっていたら」
 ぼくが本物、って主張するお前が二人もいるんだ、いったい俺はどうすりゃいいんだ。
 そっくりってことは一卵性だし、元は一人のお前の筈だぞ。
 二人揃って聖痕つきでだ、右手が凍えて冷たいってトコまで同じお前が二人なんだぞ…!



 有り得なかったと思うけれども、もしもブルーが二人だったら。
 母親の胎内に宿る間に、二人に分かれてしまっていたら…。
 一卵性の双子のブルーで、姿形も心もそっくり同じ。そんなブルーが生まれていたならば…。
「ハーレイ、どうした?」
 ぼくが本当に双子だったら、そっくりのぼくが二人もいたら。
 どっちも同じで、どっちも本物。前のぼくが二人になっちゃった双子。
「二人とも貰うさ、お前は俺のものなんだからな」
 片方だけを選んじまったら、もう一人のお前が可哀相だ。二人一緒に貰ってやらんと。
「…お嫁さんが二人?」
 そんなの出来るの、お嫁さんが二人もいる人だなんて、ぼくは聞いたこともないけれど…。
「さてなあ、なんと言ったもんかなあ…」
 俺が教えてる古典の世界じゃ、嫁さんが二人も別に珍しくはないんだが…。
 今の時代にそれは無いしな、同居人とでも言っておくかな、嫁さんじゃなくて。
 結婚式も挙げてはやれんが、俺と一緒に暮らせるんなら、お前はそれで満足だろう?
 もう一人のお前と俺を取り合いでも、奪い合いでも、毎日一緒に暮らせるのなら。



 ブルーが二人いたとしたなら、本当に双子だったなら。
 二人と結婚するのは無理だし、同居するのが精一杯。二人のブルーを家に迎えて、住まわせて。
 けれども、自分は二人ともきっと愛しただろう。
 二人に分かれてもブルーなのだし、二人ともブルーなのだから。
 どんなに大変だったとしたって、愛情もきっと倍だったろう。
 ブルーが二人に増えた分だけ、そっくり同じな双子になってしまった分だけ。
(こいつが二人に増えるんだな)
 双子に生まれてみたかったかも、と言ったブルーが、小さなブルーが。
 そうして自分を巡って喧嘩で、あるいは二人で膨れっ面で。
(うん、きっとそうだ)
 想像してみて可笑しくなる。
 自分を取り合う二人のブルーを、自分が本物のブルーなのだと言い合うブルーを。



 今は双子が生まれられる時代、そんな光景もまるで夢ではないかもしれない。
 愛したブルーが二人に分かれて、両手に花ならぬブルーというのも。
 双子の卵から生まれて来た夢、ブルーが二人に増える夢。
 それも楽しい、こうして心で夢見て描いて、どうなったろうかと考えるのも。
 本当に双子になっていたなら、ブルーも自分も困るけれども、きっと幸せに暮らしただろう。
 青い地球の上に生まれ変わって、自分と、双子で二人のブルーと。
 幸せはきっと三人分。
 ブルーが一人増えた分だけ、ブルーが二人になった分だけ、幸せの量も増えるのだから…。




            双子の卵・了

※遠い昔にシャングリラで夢見た、双子の卵を孵化させること。叶わなかった夢ですけど。
 その夢がナスカの子たちに繋がったのなら、神様からの贈り物。未来を作るための。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv







「ブルー、一匹いらねえか?」
 今なら選び放題だぜ、って見せられた写真。
 食堂で昼御飯を食べてから戻った教室、ランチ仲間が持ってる写真に、子猫が四匹。小さいのが四匹、フカフカのクッションの上に乗っかってる。真ん丸な目をして。
「えーっと…?」
 一匹いらないか、って訊かれたけれど。ちゃんと写真を見せられたけれど、猫を飼っているって話は一度も聞いたことが無い。猫好きかどうかも記憶に無いけど、いたのかな、って考えてたら。
 お祖母ちゃんの家の猫だって。
 近所に住んでて猫が大好き、二匹飼ってて生まれた子猫。全部飼ってもいいらしいけれど、猫が好きな人は多いから。欲しいんだったらあげますよ、って。



(んーと…)
 クルンと丸い目の子猫が四匹、どれもカメラの方を向いてる。あれはなんだろう、って好奇心で一杯、そういう顔で。白黒のブチが二匹と、三毛っぽいのと、真っ白なのと。
 白いの、とっても可愛いんだけど。
 前に写真を見せて貰った、ハーレイのミーシャみたいなんだけど…。
 ハーレイのお母さんが飼っていたミーシャ、ハーレイが子供だった頃に隣町の家に住んでいた。甘えん坊で、生のお魚よりも焼いたお魚が大好きで…。
 ケーキ作りの時にはミルクを欲しがったミーシャ、ミルクなんかは入らないパウンドケーキでもミルクを欲しがったから。ちょうだい、って足元でおねだりするから、ハーレイがミルクを入れてあげてた。おねだりしているミーシャを踏んだら大変だから。床に転がってると危ないから。
 庭の木に登って降りられなくなって、お父さんが梯子をかけて助けに行ったり、ミーシャの話は幾つも聞いた。ハーレイが沢山話してくれた。
 だからすっかりお馴染みのミーシャ、真っ白で甘えん坊の猫。とっくの昔にいないんだけれど、ハーレイのお母さんたちも今は猫を飼ってはいないんだけど。



(ミーシャ…)
 写真の子猫を覗き込んだ。白い子猫を。ぼくが飼うなら、断然、この子。ミーシャって名前で。
 ハーレイが子供の頃に一緒に暮らしたミーシャの真似して一匹欲しい、っていう気がするけど。貰うならこの子で、名前はミーシャ。
 パパもママも駄目とは言わないだろうけど…。
 ぼくの家には猫が好きそうなソファも絨毯もあるし、庭には登って遊べる木も沢山。芝生だって他所の家の猫が日向ぼっこをしてたりするから、きっと居心地はいい筈なんだ。
(この子を貰ってみようかな…)
 パパとママに頼んで、写真を持ってる友達と一緒に、友達のお祖母ちゃんの家まで真っ白な子を貰いに行く。お父さん猫とお母さん猫に「よろしくね」って挨拶して。
 そうして真っ白な子猫を抱っこして家まで帰るか、ペット専用の籠に入って貰うか。ぼくの家に着いたら直ぐにミルクをたっぷりとあげて、「ぼくの家だよ」って家の中を案内して回って…。
 ぼくの部屋にも連れて行かなくちゃ、階段を上がって。
 もしもミーシャが気に入るようなら、ぼくが家にいる間は、ぼくの部屋で過ごして欲しいかも。椅子の上とかベッドの上とか、好きな所で丸くなって。



 ぼくの家に、部屋にミーシャがやって来る。真っ白なミーシャが。
 今は子猫だけど、育ったらミーシャそっくりになる。ハーレイに見せて貰った写真のミーシャ。甘えん坊のミーシャがやって来るんだ、ぼくの家にも。
(ミルクをあげて、抱っこしてあげて…)
 きっと素敵な毎日になる。ハーレイが来られない日もミーシャがいたら…、って思ったけれど。
(駄目だ、ハーレイ…!)
 そのハーレイが問題だった。真っ白なミーシャは、ハーレイのお母さんが飼っていたんだから。子供の頃のハーレイはミーシャとおんなじ家で暮らしていたんだから。
 ミーシャの思い出を沢山沢山持ってるハーレイ、ぼくがミーシャを飼い始めたら取られちゃう。猫のミーシャにハーレイを持って行かれちゃう。
 「可愛いな」って、ハーレイの目が、手が、ミーシャの方に行っちゃって。
 ぼくを見るよりミーシャを眺めて、ぼくの頭を撫でる代わりにミーシャの毛皮。真っ白な毛皮。もうそうなるに決まっているから、ミーシャは飼えない。
 欲しいけれども飼っちゃいけない、ハーレイを取られてしまいたくなければ。
 だから、真っ白な子猫を貰う話は諦めた。今なら選び放題だけれど、真っ白な子を貰えることになるんだけれど。



「…ううん、いらない」
 いらないよ、って断った。可愛いけれども、ぼくはいらない、って。
「そうかあ? 一瞬、欲しそうな顔してたぜ?」
 小さい間は可哀相だと思うんだったら、もう少し大きく育ってからでも、って言われたけれど。貰う予定で今から仲良くなっておいたら、大きくなっても大丈夫だから、って。
 選んだ子猫に会いに行くなら、お祖母ちゃんの家まで何度でも付き合って行ってやるから、って親切な話もしてくれたけれど、飼えない子猫。ハーレイを取っちゃうミーシャは飼えない。
「ちょっと欲しいとは思ったけれど…。やっぱり、いらない」
 ぼくは身体が弱いから、って嘘をついておいた。
 寝込んじゃったりしたら世話出来ないよ、って、それじゃ猫だって可哀相だよ、って。
「ふうん…? お前の家、お母さんだって世話してくれそうじゃないか」
 気が変わったらいつでも言ってくれよ、って友達は写真を鞄に仕舞った。誰かが貰ってしまった後だともう駄目だけれど、そうでなければ子猫はいつでも貰えるから、って。



 それきり子猫の話は出なくて、帰る時にもう一度言われただけ。「考えとけよ?」って。
 家に帰って、ダイニングのテーブルでおやつの時間。思い出しちゃった、真っ白な猫。
(ミーシャ…)
 此処にミーシャがいてくれたら、って考えた。おやつの間は何処にいるだろう、あの猫を飼っていたならば。ダイニングの何処かで白いミーシャもおやつなんだろうか、ミルクを貰って。
 おやつが済んだら、ぼくと一緒に暫く遊ぶ。きっと部屋までついて来てくれる。
(ぼくの後ろから、階段を上って…)
 甘えん坊のミーシャはそうしていたらしいから。誰かの後ろをついて歩いて、行く先々で甘えて回って。おねだりをしたり、撫でてと身体をすり付けたり。
 猫のミーシャは、ちょっぴり欲しくはあるんだけれど。
 ペットも飼ってはみたいんだけど…。



 今だったらどれでも選び放題、と四匹の子猫の写真が頭を離れない。選んでもいい真っ白な子。一匹だけ混じっていた、真っ白な子猫。
 今なら貰える、あの友達に頼んだら。「白い子がいいな」と声を掛けたら。
(でも、ハーレイ…)
 猫を飼ったら、絶対、取られる。ぼくのハーレイを取られちゃう。
 だけど真っ白な子猫は欲しいし、ミーシャと名前をつけてみたいし、ハーレイの子供時代を真似してみたい。家にミーシャがいる生活。真っ白な猫と暮らす毎日。
 おやつが終わって部屋に戻っても、やっぱり欲しい気がするミーシャ。真っ白な子猫。
 ベッドの上に乗っていたなら、ってチラチラ見ちゃうし、床にいる姿も浮かんでしまう。ピンと尻尾を立てて得意げに歩く姿も、丸くなってぐっすり寝ている姿も。
(ミーシャ、飼いたい…)
 飼ってみたくてたまらないミーシャ、今なら貰える真っ白な子猫。明日にだって貰って来られる子猫。欲しいと友達に頼みさえすれば。
 そこまでは素敵なプランだけれども、後が問題。きっとハーレイを取っちゃうミーシャ。ぼくの代わりにハーレイに甘えて、膝の上にも乗っかったりして。



(…ハーレイ、ミーシャに取られちゃう…)
 だから駄目だ、ってグルグルしてたら、チャイムの音。そのハーレイが仕事帰りにやって来た。ぼくの部屋まで、いつものように。
 ママがお茶とお菓子を置いて行った後、テーブルを挟んで向かい合わせで座ったけれど。ぼくの頭はミーシャで一杯、真っ白な子猫とハーレイの関係でもう一杯で。
「なんだ、どうした?」
 俺の顔に何かついているか、って鳶色の瞳で覗き込まれた。どうも変だぞ、って。
 そう訊かれたら唇からポロリ、ぼくの心が零れてしまって。
「ミーシャ…」
「はあ?」
 ハーレイは大きく目を見開くと、キョロキョロと周りを見回した。まるでミーシャがヒョッコリ姿を見せたみたいに、膝の上だか、足の辺りだかにミーシャの姿があるかのように。



 霊か、って慌てているハーレイ。ミーシャの霊が現れたのか、って。
(…ミーシャの霊って…)
 凄い勘違いだけど、ちょっぴり可笑しい。
 猫のミーシャの幽霊だなんて、前のぼくでも幽霊にはなっていないのに。
 タイプ・ブルーだった前のぼくでもなれなかったのに、ミーシャは幽霊になれるんだろうか?
「ハーレイ、前のぼくは幽霊になっていないんだけど…」
「そういやそうだな…。お前の幽霊、見てはいないな」
 出たという噂も聞いちゃいなかった、シャングリラには大勢乗っていたのに。あれだけ大勢いた船なんだ、霊感のあるヤツの一人や二人は、いたっていいと思うんだがなあ…。
「…幽霊のぼくでも会いたかった?」
 向こう側が透けて見えるようなぼくで、触ろうとしても触れなくっても。
「決まってるだろうが」
 幽霊だろうが、透けていようが、お前に会いたくないわけがない。
 出るという話を耳にしたなら捕まえに行くし、俺の部屋に出たなら逃がしはしないな。



 ぼくの幽霊が出たら閉じ込めてしまうか、捕まえに行くか、どっちかだって。
 幽霊のぼくが消えないように。シャングリラからいなくならないように。
「…そんなの出来るの?」
 幽霊なんかを捕まえられるの、触ろうとしたって触れないんだよ?
 消えてしまうものでしょ、幽霊は…?
「タイプ・グリーンのサイオンってヤツをなめるなよ?」
 防御力の高さじゃタイプ・ブルーにも負けないのがタイプ・グリーンだろうが。
 つまりはシールド能力も強い、サイオンの檻を作り出せるというわけだ。そいつを使って幽霊のお前を捕まえる。俺のサイオンで閉じ込めちまって、二度と外へは出さないってな。
 俺の部屋に出たならそれっきりだし、他の場所に出たなら捕まえて連れて帰るという寸法だ。



 ハーレイの部屋の地縛霊にしてやる、って大真面目な顔で言われたけれど。
「地縛霊って、なあに?」
 どんなものなの、普通の幽霊とは何か違うの?
「そいつはな…。本物の地縛霊っていうのは、俺がお前を捕まえるのとは少し違うが…」
 地縛霊は土地や建物に縛られてるんだ。自分が死んじまったことに気付いていないとか、其処にいなくちゃいけないと思っているだとか。理由はそれぞれ違うわけだが、他の場所へも、天国へも行かずに同じ場所に留まっているんだな。
 だから地縛だ、地面に縛ると書いて地縛霊。
 前の俺がお前の幽霊を捕まえたとしたら、俺の部屋に縛り付けておく。サイオンの檻でしっかり囲んで、抜け出せないように閉じ込めちまう。
 俺が死ぬまでサイオンの檻は解けやしないし、お前は何処へも行けないわけだ。俺の部屋で俺を待つしかないのさ、来る日も来る日も、俺が仕事から戻るまでな。
「…そうなんだ…。ハーレイの部屋から動けないんだ、地縛霊にされてしまったら…」
 サイオンの檻に入れられてしまって、ハーレイの部屋に縛り付けられて。
 …なんだか凄いね、前のハーレイだったらホントにやりそうな気もするけどね…。



 ハーレイが死ぬまで逃げられないらしい、幽霊のぼく。地縛霊にされてしまった、ぼく。
 それも良かった、ハーレイの側にいられたのなら。
 キャプテンの部屋から動けないままで、ハーレイが仕事に行ってる間は独りぼっちで待っているだけの毎日でも。シャングリラを自由に見て回れなくて、青の間に行くことも出来なくても。
 ハーレイが部屋に帰って来たなら、二人きりで過ごせるんだから。
 前のぼくの身体は透けてしまって、抱き締めて貰えなくっても。
 キスすら交わせない透けた身体でも、ハーレイの声は聞こえるんだから。ハーレイが部屋に戻りさえすれば、ちゃんと姿を見られるんだから。
 …幽霊にはなれなかったけど。
 前のぼくは幽霊になってハーレイの前に出られはしなくて、地縛霊にもなれなかったけど…。



 ちょっと残念、って考えていたら、ハーレイはハーレイで違う幽霊を考えていたようで。
「で、ミーシャの霊がどうしたって?」
 お前、見えるのか、ミーシャの霊が?
 サイオンの方はサッパリ駄目だが、霊感の方はあったのか…?
「違うよ、ミーシャの霊じゃなくって…」
 本当に本物のミーシャだってば、見えたわけじゃなくて、思い出のミーシャ。ハーレイが教えてくれたミーシャの話を色々と思い出していたんだよ。
 ぼくもミーシャに会いたいな、って。家にミーシャがいたらいいのに、って。



 ミーシャを飼えるかもしれないんだよ、って今日の昼休みの話をした。
 ランチ仲間が見せてくれた写真、子猫が四匹。白黒のブチが二匹と、三毛っぽいのと、真っ白がそれぞれ一匹、今なら選び放題の子猫。
 真っ白な子猫を貰えそうだった、って。今すぐでも、子猫が少し大きくなってからでも。
「貰えばいいじゃないか」
 可愛いもんだぞ、猫ってヤツは。犬とは違って我儘なもんだが、そこが可愛い。ミーシャだってそうだ、甘えん坊で、せっせとおねだりをして。
「ほらね、やっぱり」
 思った通りだ、って、ぼくは溜息をついたけれども。
「何がやっぱりだ?」
 どうしてそこで溜息になるんだ、俺は猫の魅力を少し語っただけだが?
「猫は可愛いって言ったじゃない!」
 ハーレイ、ぼくよりミーシャに夢中になるんだ、ぼくがミーシャを貰って来たら。
 真っ白な子猫を育て始めたら、ハーレイ、そっちに行っちゃうんだ…!
「お前なあ…」
 そりゃあ、猫がいれば「可愛いな」と撫でてやりもするが、猫とお前は違うだろうが。
 お前の頭を撫でてやるのと猫を撫でるのとは全く違うさ、撫でてやる意味も、こめる心も。
 膝の上に乗せてやるにしたって、猫とお前じゃまるで違うと思うがなあ…。



 お前は猫にも嫉妬するのか、って笑われたけれど。
 猫は猫だし、ぼくはぼくだって言われたけれども、ハーレイの笑顔は猫にも向くから。手だって猫の方にも行くから、そこが問題、とっても問題。
 ハーレイが猫の相手をしている間は、ぼくの相手はお留守だもの。ハーレイは猫のものだもの。
 ぼくは真剣、猫にだってハーレイを取られたくない。ハーレイはぼくのハーレイだから。
 でも…。
「…あのね…。猫はちょっぴり欲しいんだよ」
 ハーレイを取られたくはないから、飼うのはちょっと無理そうだけど…。
 それでもミーシャは欲しい気がするよ、きっと可愛いに決まっているから。子猫の間も、大きくなっても、甘えん坊で真っ白なミーシャ。
 …ぼくもミーシャを飼ってみたいよ。あの写真を見るまで、考えたことも無かったけれど…。
 今なら選び放題だぞ、って見せられちゃったら、なんだか飼いたくなっちゃった…。
「ふうむ…。お前はミーシャが欲しい、と」
 真っ白な猫を飼ってみたいが、俺を取られて悔しい思いをするのは嫌だというわけだな?
 俺がミーシャの相手をしてたら、お前はミーシャに嫉妬しちまう、と。



 なら、嫉妬しなくてもよくなったら飼うか、って訊かれたから。
 猫に嫉妬をしないで済むようになったら飼ってみるか、と尋ねられたから。
「なに、それ?」
 ぼくが嫉妬をしないで済むって、どういう意味なの、ねえ、ハーレイ…?
「分からないか? 俺と結婚した後のことだ」
 俺とお前は同じ家に住むし、猫がいたってかまわんだろう。
 世話だって二人ですることになるんだ、嫉妬するも何も、俺たちの大事な家族じゃないか。腹が減ったと言われたら餌で、人間様とは少し違うがな。
「そっか、それなら…!」
 ハーレイと二人で飼うんだものね、ぼくのミーシャで、ハーレイのミーシャ。
 うんと可愛がってあげられそうだよ、ハーレイと二人で。
 買い物に行ったらミーシャの好きそうなお魚を買ったり、ペットショップでおやつを買ったり。
 そうだ、ハーレイのお母さんが飼ってたミーシャみたいに、お料理した魚が好きな猫なら…。
 ハーレイと二人でお料理しようね、ミーシャ用のお魚。



 いつかハーレイと結婚したなら、真っ白な猫を飼うことにする。
 名前はミーシャで、ハーレイと一緒に世話をしてあげて、ぼくたちの家族。人間じゃないけど、可愛い家族。
 いいな、と思ったんだけど。
 その頃にも友達のお祖母ちゃんの家とかで真っ白な子猫が生まれたらいいな、と思ったけれど。
「…待て、今度は俺が駄目だった」
 結婚してからミーシャは駄目だ、とハーレイが待ったをかけて来た。
「なんで?」
 どうしてミーシャを飼っちゃ駄目なの、さっきはいいって言ったじゃない!
 結婚してから飼ったらいい、って言ってくれたの、ハーレイだよ?
「…それは言ったが…。さっきは俺もそう思ったが…」
 駄目だ、今度は俺が嫉妬だ、俺がミーシャに。だからミーシャは飼わん方がいい。
「嫉妬って…。何処からそういう話になるの?」
 ハーレイがミーシャに嫉妬する理由、なんにも思い付かないけれど…?
「いや、理由なら嫌というほどあるが」
 俺の留守中、ミーシャにお前を取られちまうんだ。俺が仕事に出掛けたが最後、ミーシャが出て来てお前を独占しちまうだろうが、そう思わないか…?



「…んーと…」
 ハーレイが仕事に行っている間、ぼくはミーシャと二人きり。猫だから一人と一匹だけど。
 とにかく留守番、二人しか家にいないんだから。
 ぼくのお昼御飯はハーレイが作ってくれるって聞いているから、ぼくはミーシャの御飯の用意。ミーシャのお皿にキャットフードをたっぷりと入れて、ミルクもミーシャが欲しいだけ入れる。
 そうやって世話して、毛皮の手入れもしてみたりする。
 可愛がってやって、二人で昼寝もいいかもしれない。ぼくがコロンと転がった隣にミーシャも。ソファかベッドか、ちょっぴりお行儀が悪い床とか。
 ふわふわの毛皮が横にくっつく、ぼくが昼寝をしようとしたら。
 そういう昼寝もきっと悪くなくて、ミーシャと二人でのんびり昼寝。暖かなベッドや、柔らかなソファや、陽だまりのフカフカの絨毯とかで。



「ほらな、やっぱりお前を取られるんだ」
 俺が仕事をしている間は、ミーシャがベッタリくっついちまって。
 邪魔なデカイのがいなくなったぞ、と甘えて、遊んで、お前をすっかり取っちまうんだ。
「大丈夫だってば、ぼくはハーレイが一番なんだから」
 ハーレイのことが一番好きだし、ミーシャと遊ぶのはハーレイが留守の間だけだよ。
 ミーシャに夢中になったりしないよ、ぼくの一番はハーレイに決まっているんだもの。
「どうなんだか…」
 そいつは大いに怪しいもんだ、ってハーレイは真顔。
 俺を放り出しちまってミーシャの方じゃないのか、って。
 ハーレイが家に帰って来ても。
 仕事が終わって、ぼくとミーシャが留守番している家に帰って来た後も。



「それはしないよ!」
 絶対にしないよ、ハーレイよりもミーシャが優先だなんて!
 ちゃんとハーレイが家にいるのに、ハーレイを放ってミーシャだなんて…!
「本当か? …ならば、訊くが…」
 ミーシャがベッドに入って来たならどうするんだ、お前。
 俺たちが二人で寝ているベッドに、ミーシャがゴソゴソもぐり込んで来たら。
 …俺もミーシャが家にいたから覚えているんだ、猫だったら来るぞ。人間様が寝ているベッドに入って来るのが大好きだからな。
「そうなの? なんだか可愛らしいじゃない」
 ちっちゃな子供みたいなんだね、ぼくも小さかった頃はパパやママのベッドで寝ていたし…。
 猫のミーシャもおんなじなんだね、ホントに家族って感じがするよ。
「…家族はともかく、お前、どっちを優先するんだ」
 俺か、ミーシャか。…お前と一緒のベッドにミーシャが入って来たら。
「えーっと…?」
 優先ってことは、ベッドの中の場所のこと?
 ハーレイの寝場所か、ミーシャの寝場所か、どっちを大事にするかってこと…?



 どうしようかと考えたけれど、ハーレイとミーシャじゃ大きさが違う。
 身体の大きさが全然違うし、重さだって違う。
 人間と猫でも違いすぎるのに、ハーレイはその人間の中でもうんと大きい方だから。体重だってうんと重くて、中身がずっしり詰まってる。
 そんなハーレイが「うーん…」と寝返りを打ったはずみに、ミーシャが下敷きになったりしたら大変だから。きっとペシャンコに潰されちゃうから。
 もしもミーシャが入って来たなら、ハーレイを邪魔にしそうな、ぼく。
 「ベッドの上を空けてやってよ」ってハーレイをどけて、ミーシャが此処、って。
 きちんと安全地帯を作って、ハーレイは其処に立ち入り禁止。ミーシャが潰されないように。
 それに安全地帯を作っておいても、ハーレイが転がって来ちゃうかもだから。ゴロンと転がってミーシャをペシャンと潰しそうだから、ぼくが間に入らなきゃ。
 ミーシャが潰れてしまわないよう、ぼくの身体で塀を作っておかないと…。
「ほら見ろ、ミーシャを取るんじゃないか」
 俺がお前を抱き寄せようとしても、「ミーシャがいるから駄目」と言うんだ、お前はな。
 お前を抱き締めたままで眠っちまって、ウッカリと横に転がったりしたら、ミーシャが下敷きになっちまうとか何とか言って。
「当たり前でしょ、潰されちゃったら可哀相じゃない!」
 ぼくとハーレイが好きでベッドに入って来たのに、下敷きにされてペシャンコだなんて!
 知らない人にやられるんじゃなくて、大好きな人に潰されるんだよ?
「まあな…」
 確かにそいつは可哀相かもな、俺だってガキの頃には気を付けてたしな…。
 ミーシャがベッドに入って来る度に、潰さないように身体を縮めて。
 なのに、この年になって新しいミーシャを潰しちまったら、俺も心底、堪えそうだな。



 そして…、って真面目な顔になったハーレイ。
 堪えるといえば、って。
「俺とお前が潰さないように気を付けていても、いくら大事にしてやっても…」
 ミーシャはいつかはいなくなるんだ、生き物だからな。それに寿命も俺たちよりはずっと短い。そのこと、きちんと分かっているか…?
「うん、知ってる」
 ずうっと前に「猫になりたかった」ってハーレイに話した時にも聞いたよ。
 ハーレイの家で飼ってたミーシャは長生きだったけれど、それでも二十年ほどだった、って。
 いなくなっちゃうことは知ってるよ、どんなに大事に飼ってやっても、ぼくたちよりも先に。
「お前、そいつに耐えられるか?」
 俺たちが二人で飼ってたミーシャがいなくなっても大丈夫か?
「ぼくにはハーレイがいてくれるから…」
 ハーレイがぼくの一番なんだし、ミーシャがいなくなっても、きっと…。
 それにハーレイ、ぼくを慰めてくれるでしょ?
 俺がいるじゃないか、って。
「もちろん、お前を放っておいたりする気は無いが…」
 ミーシャがいなくなっちまった分まで、お前をせっせとかまってはやるが。
 しかしやっぱり寂しいもんだぞ、長年一緒に暮らした家族がいなくなっちまった後というのは。
 猫は言葉を喋りはしないが、それでもいないと寂しい気分になるんだよなあ…。



 本物のミーシャは大往生だったらしいけど。
 病気じゃなくって、ホントに寿命。ポカポカ日向ぼっこをしながら幸せ一杯、ぐっすり寝たまま天国に行った。ハーレイのお父さんもお母さんも側に居たのに、気付かなかったほどに。
 だけど、花で一杯の庭にお墓を作ってあげて、ミーシャが其処に眠った後。
 暫くはリビングにぽっかり穴が開いていた、って。
 御飯をちょうだい、ってミーシャがやっては来ないから。ミルクを強請りもしないから。
 いつもミーシャが昼寝してた場所に、真っ白な猫はもういないから。



「そっか…。そんな感じになっちゃうんだ…」
 ハーレイのお父さんやお母さんがいても、まだ子供だったハーレイがいても。
 ミーシャがいなくなっちゃっただけで、リビング、ガランとしちゃってたんだね…。
「リビングだけじゃないな、ミーシャのお気に入りの場所は全部だな」
 ダイニングもキッチンも、遊んでた庭も。此処にいたんだ、とミーシャを探しちまうんだ。
 三人もいたってそんな具合だ、お前一人だと寂しいだろうが。
 俺が仕事に行っちまった後、ミーシャがいた場所、端から回ってみるんじゃないか?
「そうかも…」
 ミーシャの寝床があった場所とか、いつも御飯を食べてた場所とか。
 此処にいたのに、って座り込んでは、ミーシャがいないって思っちゃうかも…。



 真っ白な毛皮で甘えん坊のミーシャ。飼ってみたいと思ったミーシャ。
 飼ってる間は楽しくっても、ハーレイに潰されないように大事にしてても、いなくなるから。
 猫の寿命はうんと短くて、ぼくはまた一人で留守番をすることになっちゃうから。
「…いらないかな、ミーシャ…」
 飼わない方が幸せなのかな、後で寂しくなるんだったら。
「俺はそいつがお勧めかもな」
 お前の寂しそうな顔は見たくないんだ、ってハーレイが言うから。
 家に帰る度にシュンとしているぼくを見るのは、ハーレイも辛いらしいから。
「…じゃあ、ハーレイが留守の間は?」
 ぼくは一人で留守番をするの、ミーシャを飼わない方がいいなら。
 ミーシャが一緒にいてくれるだけで、きっと色々、素敵なことだって起こりそうだけど…。
「お前、そういう一人ってヤツは平気だろ?」
 前のお前の時から充分慣れてるだろうが、俺のいない昼間は一人で留守番。
「うん…。前のぼくも青の間で一人だったしね…」
 部屋付きの係は来てくれたけれど、友達付き合いってわけにはいかなかったし…。
 今のぼくだって、身体が弱い分、一人の時間は多いものね。



 一人で留守番するんだったら、時間の過ごし方は色々ある。
 本を読んだり、庭に出てみたり、ミーシャがいなくても色々なことが。
 だからミーシャと一緒に暮らすのは我慢しようか、ちょっぴり欲しい気もするけれど。
 抱っこしてみたり、撫でてやったり、猫との暮らしも楽しそうだけれど。
「ん、猫か? 俺も猫は好きだし、可愛いんだが…」
 たまに何処かで出会うのがいいのさ、家族としてベッタリ過ごすんじゃなくて。
「何処かって?」
「旅先とかだな、フラリと出掛けて友達になるんだ」
 気のいい猫がいるからなあ…。声を掛けたら寄って来てくれて、そのまま膝に乗っかるような。
 餌をやったらもう親友だな、次の日に会ったら大歓迎って感じで迎えてくれるぞ。
 待ってましたと、今日は何をして遊びますかと。



 猫は可愛いけど、一緒に暮らすと、近付きすぎると、死んじゃった時に寂しいから。
 家の中にぽっかり穴が開くから、旅の間だけの小さな友達。
 好きな名前で呼び掛けてやって、猫の方でもそのつもり。ぼくがミーシャと呼んだらミーシャ。ぼくと一緒に遊ぶ時はミーシャ。
「そういうミーシャに、ぼくでも会える?」
「親父の釣りについて行けばな」
 海の側だと、そういう所がけっこうあるんだ。
 俺が咄嗟に思い付くだけでも、三ヶ所くらいはあるってな。親父はもっと沢山知ってるぞ。この前もミーシャにそっくりな猫に会ったらしいし、釣った魚を御馳走したとも言ってたなあ…。



 海のすぐ側で漁師さんが沢山、釣りをしにくる人が沢山。魚を貰いに猫も沢山、そういう場所。
 そこで探そうか、ぼくのミーシャを。真っ白な猫を。
(真っ白な猫に会ったらミーシャで、おやつをあげて友達になって…)
 いつかミーシャを飼いたくなったら、猫を飼いたくなったなら。
 我慢出来なくなってしまったら、旅先でミーシャと友達になろう。
 ハーレイと二人で撫でて抱っこして、帰る時には「さよなら」って。また会おうね、って。
 次に行ったらきっとまた会える、別のミーシャかもしれないけれど。
 だけど友達、すぐに友達、真っ白なミーシャと海辺で過ごす。
 そういう旅もきっと楽しい、ハーレイと二人で出掛けて行こう。
 ぼくたちのミーシャに会いにゆく旅、真っ白なミーシャを探す旅。
 海辺の町までハーレイと二人、小さな友達に会える旅行に…。





        猫を飼いたい・了

※猫を飼いたいと思ったブルー。白い猫に「ミーシャ」と名前を付けて。
 とても楽しそうな暮らしですけど、問題が山積み。飼わない方がいいかも、という結論です。
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