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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

 今日の夕食。テーブルに御飯茶碗とお箸。いわゆる和風。
 ぼくとハーレイの家がある地域は、SD体制よりも昔の時代に日本と呼ばれていた地域。そこの食文化が和食なるもので、ずうっと昔には世界遺産なんかにもなってたみたい。SD体制の開始と共に、そういう文化も消えてしまった。広い宇宙の何処へ行っても同じ食事で、そっくりな文化。
 だけどSD体制が崩壊した後、それじゃいけないっていうことになった。機械に支配されていた時代ならともかく、人間が世界を担ってゆくなら、人間らしく。人の数だけ考え方があるように、文化だって星の数だけあったっていい。地域の数だけあるのが本当。
 機械に消されてしまった文化を取り戻そう、と皆が頑張った。幸い、データは残っていたから、和食も無事に復活出来た。
 というわけで、今のぼくの家には和食に欠かせないお箸がある。御飯茶碗もパパのとママのと、それから、ぼくの。
 残念なことにハーレイの御飯茶碗は無い。何度も和風の夕食を一緒に食べて来たけど、ハーレイ専用の御飯茶碗は存在しない。ハーレイはお客様だから。どんなに親しく付き合っていても、家に何度も訪ねて来てても、ぼくの家族ではないハーレイ。専用の御飯茶碗は無くて当然。
 ハーレイが来た時の食事が和風だったら、お客様用の御飯茶碗と、お箸が出される。お箸だってハーレイ専用のものは無くって、お客様用。パパとママとぼくは自分用のお箸を持っているのに。
(…ハーレイの御飯茶碗とお箸…)
 いつになったら専用のを用意出来るんだろう?
 今はまだハーレイの家にしか無い、ハーレイ専用の御飯茶碗とお箸。それが欲しくてたまらないけれど、きっと結婚するまでは無理。
 こうして和風の食事が出る度、ちょっぴり寂しくなってしまう、ぼく。
 普段の食事だと、朝御飯の時のマグカップくらいしか持ち主が決まっているものは無い。お皿は同じ模様や形で揃っているのを出してくるだけで、どれが誰のということは無い。
 ハーレイが「ぼくの家族じゃない」ことをしっかりと思い出させる和食。お箸と御飯茶碗が並ぶ食卓。もっとも、寂しくなるのはほんの一瞬、直ぐに忘れてしまうんだけどね。
 シャングリラにお箸なんかは無かったなあ、なんて考えたりしても、食事に夢中。
 ぼくは沢山食べられないけど、好き嫌いだけは全く無いから。
 前の生で食事に苦労したからか、ぼくには嫌いな食べ物が無い。食べられるだけで充分、幸せ。美味しかったらもっと幸せ…。



 夕食のテーブルにサンマと秋ナス。こんがりと焼けたサンマと、秋ナスの田楽。
 秋といえばサンマなんだけど。
 皮がパリッと焼けたサンマに大根おろし。とっても美味しいと思うんだけれど、前のぼくは全く知らなかった。焼いたサンマと大根おろしの美味しさなんかは知らなかった。
 サンマという魚も、秋の魚だから秋刀魚と書くらしいことも知っていたけど、食べたことなんか一度も無かった。シャングリラにサンマは無かったから。魚は養殖していたけれども、サンマまで飼ってはいなかったから。
 育てやすくて、早く大きくなる魚。一年中、いつでも食べられる魚。それがシャングリラで飼う魚を選ぶ基準で、魚の旬は関係無かった。サンマみたいに長い旅をする魚なんかは飼えなかった。
 だけど、やっぱり憧れてしまう。
 地球には在るという広い広い海。七割が海に覆われた地球。
 一度は魚影が消えてしまった汚染された海も、今ではすっかり青いというから。其処に魚たちが棲むというから、サンマみたいに旅をする魚、回遊魚だって居るだろう。
 もしもサンマを食べられるとしたら、青い地球に辿り着いた時。
 いつか、と前のぼくが夢に見ていたものの中の一つ。
 秋刀魚と書くくらいに獲れる季節が決まった魚。シャングリラでは飼えない回遊魚。



 そういえば秋ナスも夢に見ていた。
 シャングリラにナスはあったんだけれど、前のぼくの憧れだった秋ナス。
 地球へと辿り着く日を夢見て、母なる地球へ還り着く日を夢見て焦がれ続けた前のぼく。
 まだ見ぬ青い地球を知りたくて、もっと知りたくて、沢山の本を読んでいた。失われてしまった文化のことやら、地球が育む生命のことやら。
 憧れの地球に少しでも近付きたいと思って、出来る範囲でシャングリラで再現しようと思った。これが地球だと、地球にはこれと同じ物が在ると。
 だから農場や公園の果樹にはミツバチ。アルテメシアの人類社会でもやっていた方法だけれど、こだわった。宇宙船の中でも自然は作れると、限られた範囲でも地球の自然に近付けたいと。
 そんな前のぼくが見付けた興味深い言葉。農作物を扱った本に書いてあった言葉。
 遠い昔に「秋ナスは嫁に食わすな」と言っていた地域があるらしい。秋に採れる秋ナスはとても美味しいから、嫁には食べさせなくてもいいと。それ以外の家族で独占すべし、と。
 それほどに美味しいらしい秋ナス。
 秋刀魚のような回遊魚を飼おうというのと違って、ナスならシャングリラの農場に在る。きっと再現出来ると思った。普通のナスより美味しい秋ナスの味を。



 シャングリラではナスは一年中採れるように調整していたけれども、秋ナスを再現したいから。
 「嫁に食わすな」と言うほどに美味しい秋ナスを作りたいから、暦どおりにナスを育てた。秋に収穫出来るようにと、一部の畑を季節通りのサイクルにした。
 だけど、そうやって採れた秋ナス。夏にどっさりナスが採れた後、剪定をしてもう一度、新芽を出させて実を結ぶように育てた秋ナス。
 それだけの手間をかけてみたのに、味は他の畑で育てたナスと劇的に変わりはしなかった。その翌年も挑戦したけど、ナスはナス。とびきり美味しいわけじゃなくって、ただのナス。
 何回か栽培を繰り返した末に、これは無理だと諦めざるを得なかった。
 秋ナスを美味しく実らせる方法は、恐らく、地球。
 母なる地球の本物の気候が必要なのだろうと考えた。
 シャングリラの中では調整し切れない、自然からの恵み。
 前のぼくの夢だった、地球で食べたい朝御飯のホットケーキにかける本物のメープルシロップがシャングリラでは作り出せなかったように、秋ナスも地球でしか無理なのだ、と。



(んーと…)
 ママが作った秋ナスの田楽と、こんがりと焼けたサンマの夕食。
 好き嫌いの無いぼくは、もちろんサンマも秋ナスも好き。秋ナスの田楽だって大好き。
 でも…。
(秋ナスは嫁に食わすな、だよね?)
 前のぼくが秋ナスを夢見た理由の、古い古い昔の言い伝え。今のぼくが住んでいる地域の遙かな昔の言い伝えだった、と思い出した。
 だって、今でもたまに聞くから。
 学校で習う言葉じゃないけど、秋ナスが採れる季節になったら新聞のコラムにあったりもする。秋ナスの美味しさを伝えるための言葉だけれども、ちゃんと今でも生きてる言葉。SD体制が崩壊した後、文化と一緒に蘇って来た言い伝え。
 つまり復活を遂げた言葉で、前のぼくの時代は死語だったけれど、今では有効。
(…どうしよう…)
 ぼくの大好きな秋ナスの田楽。
 ママは普通に食べているけれど、ぼくは将来、どうなるんだろう。
 結婚出来る年になったら、ハーレイのお嫁さんになるんだと決めているぼく。
 いずれは、ぼくはお嫁さん。
(…秋ナスは嫁に食わせるな、って…)
 どうなってしまうんだろう、将来のぼく。
 パパは秋ナスをパパとぼくとで独占しないで、ママにも食べさせてあげているけれど。
 ぼくの場合はお嫁さんになったら、どんな扱いになるんだろう?
 ハーレイだから「駄目だ」と言わずに食べさせてくれるとは思うんだけど…。
(でも、本当に大丈夫かな?)
 もしかしたら「駄目だ」と言うかもしれない。
 ハーレイは古典の教師をやってて、昔の文化にも詳しいから。
 妙な所でこだわりがあって、「秋ナスは嫁に食わすな」というのを実行するかもしれないから。
(…ぼく、食べられなくなってしまうかもしれないの?)
 秋ナスはこんなに美味しいのに。
 前のぼくが夢に見ていたとおりに、地球の秋ナスは美味しいのに…。



 とても心配になってきたから。
 ハーレイのお嫁さんになってしまったら、秋ナスは食べられなくなってしまうのか心配だから。
 次の日、ハーレイが仕事の帰りに寄って夕食を一緒に食べたから、食事の後で尋ねてみた。
 ぼくの部屋で食後のお茶を向かい合わせで飲みながら。
 ハーレイの顔を見ただけで色々なことを綺麗に忘れるぼくだけれども、秋ナスのことはちゃんと思い出せた。忘れずに思い出すことが出来た。
 だって夕食にキノコ御飯が出て来たんだもの。
 秋の味覚を食べた後なら思い出せるし、忘れやしない。
「ハーレイ、秋ナスを食べるのは好き?」
 ドキドキしながら質問したら、「ああ」とハーレイは頷いた。
「焼きナスも美味いし、田楽も美味い。やっぱり秋ナスには和風だな、うん」
(そっか、和風…!)
 今頃になって気付いたぼく。ハーレイの言葉で気付いたぼく。
 秋ナスを美味しく食べるためには、シャングリラの料理じゃ駄目だったんだ。ナスのグラタンやラタトゥイユとかの料理じゃなくって、焼きナスに田楽。他にも色々。
 とにかく和風で、昆布の出汁とか、そういう文化。
 和風の調理法にしないと秋ナスは美味しくならないんだ、と気が付いた。
 とっくの昔に手遅れだけれど。
 秋ナスに憧れた前のぼくは遙かな昔に死んでしまったし、そもそも和食の文化なんかを理解していたかどうなんだか…。



「…前のぼく、思い切り、間が抜けてたよ…」
 ボソリと零したら、ハーレイが「何の話だ?」と訊いてくるから、説明した。
 秋ナスに散々憧れたけれど、シャングリラでは美味しく食べられなくって当然だった、と。文化からして違う世界で、和食なんかは無かったから、と。
「秋ナスなあ…。お前、ずいぶんこだわったよな?」
 何年くらい挑戦していた?
 今度こそ美味しい秋ナスを作ろう、と農作業に口出ししてたよなあ…。
「だってサンマを育てるのは無理だったんだもの。秋ナスくらいは、って思うじゃない!」
 むきになって言い返したぼくだけれども。
(いけない、そういう話じゃなかった…!)
 秋ナスから脱線しちゃってる。
 同じ秋ナスの話でも、ぼくがハーレイに訊かなくちゃいけないことは別のこと。
 ぼくの将来がかかった質問。
 美味しい秋ナスをこれからも食べていけるのかどうか、それをきちんと訊かなくちゃ…。



 「秋ナスは駄目だ」と言われちゃうかもしれないから、しっかりと覚悟を決めて。
 食べられなくなってしまっても仕方ないんだ、と自分に言い聞かせてからハーレイに訊いた。
「…ハーレイ。ぼくに秋ナス、食べさせてくれる?」
「秋ナス?」
 ポカンと口を開けてるハーレイ。質問の仕方が悪かったのか、ぼくの言葉が足りなかったか。
「えっと…。秋ナス、ママは食べてるけど、ぼくはどうかなあって…」
「何のことだ?」
「だから、秋ナス…。ぼく、ハーレイと結婚した後でも、食べてもいいの?」
「…はあ?」
 変な顔をしていたハーレイだけれど、暫く経ったら意味が掴めたみたいで。
「ははっ、秋ナスか、俺の嫁さんになった後の話か?」
「…うん…。秋ナスはお嫁さんには食べさせない、って…」
 ハーレイも、そう?
 古典の先生だからこだわりたい…?
「いやいや、俺の大事な嫁さんだからな。もちろん食わせてやるとも、秋ナス」
「ホント!?」
 ぼくはとっても嬉しくなった。
 秋ナスは諦めなくていい。結婚したって、今と同じで美味しい秋ナスが食べられるんだ…。



 前のぼくが憧れていた地球の秋ナス。ぼくの大好きな美味しい秋ナス。
 「秋ナスは嫁に食わすな」という言葉まで復活しているから、凄く心配だったけど。
 古い習慣とかに詳しいハーレイのお嫁さんになるから、本当に心配してたんだけれど…。
(良かったあ…。ハーレイが優しくて、とっても良かった!)
 ぼくのためなら古い言い伝えも無視してくれるらしい優しいハーレイ。
 こだわりがあるかもしれない古い言葉を、無いことにしてくれるらしいハーレイ。
 ぼくはすっかり感激しちゃって、ハーレイはなんて優しいんだろうとウットリしていた。ぼくをお嫁さんにしてくれるハーレイ。お嫁さんに秋ナスを食べさせてくれる優しいハーレイ…。
(…ふふっ。ハーレイのお嫁さんで良かったよ、ぼく)
 うんと優しい人のお嫁さんになれるんだ、って喜んでいたら。
「おい、ブルー。秋ナスはちゃんと食わせてやるがな、お前、何か勘違いをしてないか?」
「…勘違い?」
「秋ナスは嫁に食わすな、の意味だ」
 そいつは俺がお前に食わせないんじゃなくて、だ。
 俺のおふくろとかがお前に秋ナスを食わせない、っていう意味なんだが…。
「ええっ?」
「嫁いびりという言葉があってな、つまり嫁さんを苛めるんだな、おふくろとかが」
 美味い秋ナスを嫁に食わせてたまるか、という言葉なんだ。
 自分たちだけで食ってしまおう、って意味で言うんだ、「秋ナスは嫁に食わすな」とな。



(………)
 なんて勘違いをしてたんだろう。
 ぼくに秋ナスを食べさせてくれないかもしれない人はハーレイじゃなくて…。
「ハーレイのお母さん、秋ナスは好き!?」
 どうしよう。
 秋ナスがハーレイのお母さんの大好物だったらどうしよう…!
 古い習慣や昔の道具が大好きだというハーレイのお父さんとお母さん。古い言葉だって、きっと大好き。「秋ナスを嫁に食わすな」だって知ってるだろうし、実行するかも…。
 もしも秋ナスが大好きだったら、ぼくには食べさせてくれないかも…!
 縋るような気持ちで叫んだ、ぼく。
 どうかハーレイのお母さんが秋ナスを大好きじゃありませんように。
 ぼくには食べさせるもんか、って思うくらいに秋ナスを好きじゃありませんように…。
「俺のおふくろか? 秋ナスも好きだな、今の時期はあれこれと料理してると思うぞ」
「……そうなんだ……」
 もう駄目かも。
 ハーレイのお母さんが秋ナス好きなら、ぼくは食べさせて貰えないかも…。
 ガックリと項垂れた、ぼくだったけども。ハーレイの大きな手が伸びて来て、ぼくの頭を優しくポンポンと叩いた。
「こらこら、そんなに心配するな。俺のおふくろなら大丈夫さ」
「………ホント?」
「本当だ。俺が保証する」
 お前の分のマーマレードは足りているか、って、心配して訊いて来るようなおふくろだぞ?
 足りなくなったら貰いに行く、って言ってあるのに、しょっちゅう訊くんだ。
 俺がウッカリ忘れていないかと思ってるらしい。
 お前の家のマーマレードが足りてるかどうか、訊くのを忘れていやしないか、とな。



(ハーレイのお母さん、ぼくのこと、心配してくれてるんだ…)
 心がじんわりと温かくなった。
 まだ一回も会ったことがないハーレイのお母さん。
 将来はハーレイと結婚するぼくのために、ってマーマレードをくれたお母さん。
 隣町の庭に大きな夏ミカンの木がある家に住んでて、その夏ミカンの実で作ったマーマレードをくれたお母さん。最初に貰った瓶が空になる前に、ハーレイが新しい瓶を持って来てくれた。
 マーマレードが切れてしまう前に、ちゃんと新しい瓶が届くんだけれど。
 ハーレイが頼んでくれてるんだと思っていたけど、お母さんも忘れずに訊いてくれるんだ…。
 そんな優しいお母さんが意地悪なんかをするわけがない。
 いくら昔の習慣とかが好きでも、「秋ナスは嫁に食わすな」なんて実行したりはしないだろう。
「ぼく、ハーレイと結婚したって、秋ナスをちゃんと食べられるんだ?」
「当たり前だろう!」
 決まってるだろう、とハーレイは笑顔で保証してくれた。
「おふくろはお前が可愛くてたまらないんだ。秋ナスなんぞは山ほど食わせてくれるさ」
 お前が心配すべき所は、おふくろが作った秋ナスの料理を食べ切れるかっていう所だな。
 俺がお前を連れて行ったら、山のように料理が並ぶと思うぞ。
 おふくろは自慢の料理をお前が食べてくれる日をあれこれ夢見ているからなあ…。



 ハーレイがぼくを連れて出掛けたら、凄く沢山の料理が出るらしいハーレイの家。
 料理が得意なハーレイだもの、お母さんの料理も絶対、美味しい。
 秋ナスも食べさせてくれるらしいし、なんだか楽しみになってきた。その秋ナスを食べられるかどうかで悩んでいたのが嘘みたいに。
(…秋ナスは諦めなくて良くって、他にも色々食べられるんだ…)
 今の季節ならどんな料理が出るんだろう、と思っていたら。
「そうだ、料理自慢はおふくろだけじゃなかったな」
 親父もだった、とハーレイがパチンと片目を瞑った。
「俺の親父は釣りが好きだと話しただろう? 釣って来た魚は自分で捌くし、料理もするんだ」
 流石にサンマを狙って釣りには行かんが、もちろん釣れることだってある。
 そして自分で釣って来なくても、秋になったらサンマを焼くのが親父の趣味だ。
 庭に七輪を置いて炭火を熾して、団扇でパタパタ扇ぎながら…な。
「七輪!?」
 ぼくはビックリしたんだけれども、ハーレイのお父さんにとっては七輪は自慢の魚焼き器で。
 炭火で焼いた魚は美味しいから、と昔から使っているらしい。



「…なんか凄いね、七輪なんだ…」
 そんなの、ぼくは使っているのを見たことがないし、七輪だって見たことがない。魚料理専門のお店で使っているって聞きはするけど、お店の表で焼いてはいない。だから知らない。
「親父のこだわりの魚焼き器さ、煙が出るから家の中では使えないがな」
 ついでに美味そうな匂いが庭いっぱいに漂うからなあ、御近所さんが覗きに来るんだ。そしたらお裾分けをする。だから多めに魚を焼くんだ、サンマの時もな。
「庭いっぱいに匂いがするの?」
「そりゃもう、煙が届く範囲は美味い匂いで一杯さ。ミーシャが居た頃はうるさかったぞ」
 ハーレイのお母さんが飼っていた白い猫のミーシャ。
 七輪が庭に置かれたら直ぐに家から出て来て、ミャーミャー鳴いていたらしい。
 魚はまだか、って、まだ焼けないのか、って鳴きながら七輪に置かれた網を覗いたりもして…。
「覗き過ぎて髭を焦がしちまったこともあったなあ、顔の半分、髭無しだったな」
「焦げて無くなっちゃったんだ…?」
 ぼくは可笑しくて吹き出した。
 髭が半分しかついてない猫って、きっと間抜けに違いない。
 大事な髭を焦がしちゃうほど、ミーシャが覗きたがった七輪。その話だけで魚が美味しく焼ける道具だというのが分かる。髭が焦げても覗きたいほど、魚が美味しく焼けるんだろうな…。



 憧れてしまう、ハーレイのお父さんが焼くサンマ。
 庭に置いた七輪に炭を熾して、網を乗っけて、サンマを乗せて。団扇でパタパタ風を送って煙を散らして、美味しそうな匂いが庭に広がる。御近所さんが覗きに来るほど、美味しそうな匂い。
 猫のミーシャの髭だって半分焦げちゃったほどに、美味しそうで覗きたくなる匂い。
「…七輪のサンマ、食べてみたいな…」
 思わず呟いてしまった、食いしん坊の、ぼく。
 沢山食べるのは苦手なくせして、好き嫌いだけは全く無いぼく。
 前のぼくが夢に見ていた、回遊魚のサンマ。シャングリラでは食べられなかったサンマ。それが今ではぼくの好物で、ハーレイのお父さんが趣味で焼く魚。七輪で美味しく焼き上げる魚。
 食べてみたい、とホントに思った。どんなに美味しいサンマなんだろう、七輪のサンマ…。
「おっ、食ってみたいか? 俺の親父が焼くサンマ」
「うんっ!」
「そいつは親父が喜びそうだな、勇んでサンマも釣って来そうだ」
 親父もお前がお気に入りだしな?
 おふくろと一緒に気にしてるんだぞ、お前の家のマーマレードは足りているのか、って。
「ホント?」
「ああ。親父もおふくろも今から楽しみで仕方ないのさ、俺がお前を連れて来る日が」
 だから、お前は安心していろ。
 結婚したなら、秋ナスもサンマもうんと美味いのを食わせてやる。
 おふくろと親父の自慢料理を嫌と言うほど食わせてやるさ。
 俺の大事な嫁さんだからな。



「うん。…うん、ハーレイ…」
 楽しみにしてる、とハーレイと未来の約束をした。
 いつかハーレイと結婚して、ぼくがハーレイのお嫁さんになったら、秋ナスにサンマ。
 ハーレイのお母さんが秋ナスを料理して食べさせてくれて、お父さんはサンマを焼いてくれる。
 「秋ナスは嫁に食わすな」どころか、うんと食べられて、七輪で焼いたサンマまでつく。
(…ふふっ)
 やっぱりハーレイのお嫁さんで良かった。
 優しいハーレイのお嫁さんになることに決めてて、ホントに良かった。
 まだお嫁さんにはなれそうもなくて、ハーレイ専用の御飯茶碗もぼくの家には無いんだけれど。
 だけど、いつかは大好きなハーレイのお嫁さんになれる。
 そしてハーレイといつまでも一緒。
 今日は「また今度な」と帰って行ってしまったハーレイと、いつまでも一緒…。




          心配な秋ナス・了
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 秋の午後、ハーレイと庭の白いテーブルと椅子でのティータイム。穏やかな日射しが暖かくて、ママが世話をしている薔薇の花が盛り。四季咲きだけれど、薔薇の花は夏よりもずっと生き生きとしてる。薔薇も暑いのは苦手なのかな、ぼくと同じで。
 やっぱり春とか秋がいいよね、と思って薔薇の花の方を眺めていたら。
「おい、ブルー」
 あの薔薇の花はジャムにするのか? と、ハーレイがぼくに訊いてきた。
「しないよ、なんで?」
 ママは薔薇の花でジャムなんか作っていない。第一、そんなに沢山の花びらが採れるほど薔薇を植えてはいない。どうして薔薇のジャムなんて発想になるんだろう?
(…普通、薔薇の花っていうのは見るだけだよね?)
 庭で愛でるか、花瓶とかに生けて楽しむか。そういう花だと思うんだけど…。
(なんで薔薇のジャム?)
 ずいぶん変わったことを言うな、と首を捻ってから気が付いた。
(そうか、ハーレイのお母さん!)
 ぼくのママは薔薇のジャムを作らないけれど、ハーレイのお母さんはきっと作るんだ。だって、庭の大きな夏ミカンの木から採れる実でマーマレードを作っているんだもの。沢山マーマレードを作って配って、ぼくにまで分けてくれるんだもの。
 優しいハーレイのお母さん。
 そのお母さんが作るんだろう、と思ったからハーレイに尋ねてみたのに。
「おふくろは夏ミカンのマーマレードが定番なんだが?」
 あれだけで充分、一年分もあるからなあ…。あちこち配っても、お前の家の分が増えても、俺の実家にはマーマレードのでっかい瓶がドッサリだ。
 マーマレードが山ほどあるのに、わざわざ薔薇までジャムにはしないさ。
 イチゴとかリンゴなら、たまに作っているんだけどな。
「じゃあ、どうして薔薇のジャムなんて言ったの?」
「覚えていないか?」
 シャングリラで薔薇のジャムを作っていたのを。
「ああ…!」
 そういえば、と思い出した。
 シャングリラに居た頃、薔薇のジャムが確かにあったっけ…!



 遠い、遠い日のシャングリラ。
 ぼくが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
 そのシャングリラで一部の女性クルーが薔薇の花びらのジャムを作っていた。せっかくの薔薇の花をただ枯れさせるのはもったいないから、と薔薇のジャム。
 新鮮な花びらを使うんじゃなくて、萎れかけた頃に作るのだけれど。
 それでも充分に香り高かった薔薇のジャム。口に入れれば薔薇の香りが漂った。
 薔薇は花と一緒に香りも楽しむものだと、香りの強い品種を選んで育てていたから、萎れかけの花でもいい香りがした。シャングリラが世界の全てだったミュウたちのためにと育てて咲かせた、観賞用の薔薇の花たち。
 皆が眺めて憩えるように、香りで心が癒されるように。
 そんな目的で薔薇を植えていたのに、いつの間にやら薔薇のジャムなんかが出来ていた。
 もちろん全員に行き渡る分は無いから、作ったクルーと、後は希望者がクジ引きで。
 でも、クジなんかを引かなくっても、貴重な薔薇のジャムを貰える人間が一人だけ居た。それが前のぼく、ソルジャー・ブルー。
 薔薇のジャムが初めて出来た時にも、当然、ぼくには届けられた。



「…ソルジャー、お味は如何ですか?」
 緊張し切っていた女性たちの顔を今でも覚えている。
 それはそうだろう、彼女たちが薔薇のジャムを手にして訪ねて来た場所は青の間だから。ぼくとしては誰が来たって気にしないんだけど、ソルジャーの私室。部屋付きの係や長老たちくらいしか足繁く通う人間はいない。
 彼女たちが持って来た小さな器に盛られたジャム。添えられたスプーンで掬って食べた。薔薇の香りがふわりと口の中に広がる、薔薇そのものを食べたかと錯覚しそうなジャム。
「とても美味しいよ。ありがとう」
 味見だけのつもりだったのに。小さな器に盛られた分だけ、貰えれば充分だったのに。
 女性クルーたちは一気に緊張が解けたみたいで、笑顔になってこう言った。
「良かった…。それでしたら、後で一瓶お届けさせて頂きます」
 えっ。
 そんなに沢山は無いだろうに。薔薇の花の量からしたって少ないだろうに、と断ったけれど。
 彼女たちは「いいえ」と微笑んだ。「ソルジャーのお気に召したなら光栄です」と。



 貴重な筈の薔薇のジャム。それを一瓶もくれると言うから。
 また彼女たちが来るのだろう、と御礼にキャンディーを用意して待った。彼女たちの顔と人数はちゃんと覚えていたから、厨房のクルーに頼んで人数分を個別に包んで貰って。
 なのに、彼女たちは現れなくて。
 代わりに部屋付きの係が薔薇のジャムが詰まった瓶をぼくに届けにやって来た。
 味見用のジャムを持って来た時、緊張していた彼女たち。
 そんなに敷居の高い部屋だったろうか、と申し訳なく思ったから。
 キャンディーは自分で届けに出掛けることにした。彼女たちが集まるお茶の時間を狙って、他にお茶に合うお菓子もつけて。



 ソルジャーのぼくがいきなり訪ねたわけだし、彼女たちはビックリしたようだけれど。
 それでもジャムの御礼を言ったら、「スコーンにも合いますよ」と教えてくれた。お茶のためのテーブルに薔薇のジャムとスコーン。
 お召し上がりになりますか、と訊かれたから、彼女たちと一緒に御馳走になった。思いがけないティータイム。焼き立てのスコーンに薔薇のジャムを添えて。
 ソルジャーとのお茶の席だから緊張していた彼女たちだったけれど、最後の方には本物の笑顔が見られた。普段のぼくなら決して聞けないだろう、寛いだお喋りも聞くことが出来た。
 ソルジャーのぼくが、女性クルーたちとティータイム。まるで昔からの友達みたいに。
 それがとっても嬉しかったから、「薔薇のジャムにはスコーンだ」と決めた。心に残った素敵な時間を思い出しながら味わうために。
 薔薇のジャムにはスコーンが似合う。たまに紅茶にも入れたけれども。



 ぼくと過ごしたお茶の時間に、嬉しそうだった彼女たち。
 まだ緊張が解けない間も、心がキラキラと零れていた。光みたいに弾けていた。
 ソルジャーには薔薇がとても似合うと、お届けしてとても良かった、と。
 彼女たちの目には、ぼくは薔薇のジャムならぬ薔薇の花が似合う人間に見えているらしい。
(…薔薇の花って…。これでもぼくは男なんだけどね?)
 女性に薔薇の花が似合うんだったら、それは普通のことなんだけれど。
 男のぼくに薔薇の花だなんて、ぼくはどう見えているんだろう?
 なんだか恥ずかしかったけれども、そう考えることで幸せなのなら、それでいい。
 彼女たちが幸せに時を過ごせるなら、それでいい…。



 それ以来、彼女たちは薔薇の季節が訪れる度に薔薇のジャムをくれた。
 薔薇の花が似合うソルジャーのために、薔薇のジャムがお気に入りのソルジャーのために。
 だけど、決して青の間には来ない。部屋付きの係が預かって来る。
(…気にしないで届けに来ればいいのに…)
 そうしたら青の間で彼女たちのために、お茶とお菓子を御馳走することが出来るのに。
 何度そう言っても、首を縦には振らないから。
 薔薇のジャムを貰ったら御礼を届けて、一度は必ずお茶の時間にお邪魔した。
 招待状でもくれればいいのに、恐縮して絶対に寄越さないから勝手な時に。それがぼくからの、ソルジャーからの御礼のサプライズ。
 彼女たちは毎回、慌てふためきつつ、ぼくを歓待してくれた。最初は緊張し切った顔で慌てて、だけど心がキラキラ零れる。薔薇の花が似合うソルジャーが来て下さった、と零れて煌めく。時が経つにつれて本物の笑顔とお喋りが溢れるけれども、心はやっぱり煌めいていた。
 お菓子はスコーンの時もあったし、ケーキだったり、それは色々。
 それでも必ず、ジャムを出してくれた。貴重品の薔薇のジャムをガラスの器に盛って。
 ぼくは御礼を言って味わう。「美味しいよ、いつもありがとう」と。



 シャングリラで薔薇の花が咲く度、彼女たちがくれた薔薇のジャム。
 スコーンで食べるのがお気に入りだった薔薇のジャム…。
「思い出したか? シャングリラに薔薇のジャム、あっただろう?」
「うん、思い出した。女の子たちと一緒にお茶を飲んだよ」
 ちょっぴり恥ずかしかったけど。
 薔薇の花が似合うと思われてたから、そんな心が零れていたから、少し恥ずかしかったけど…。
「その薔薇のジャムをだ、似合わない俺が食ってたんだよな…」
「そうだったっけね」
 あれだけは言わぬが花だったよね、とハーレイと顔を見合わせて二人で笑う。
 前のぼくが薔薇のジャムをくれた女性クルーたちとお茶を飲んでいた時、彼女たちの弾む心から零れていた声。ぼくに薔薇が似合うと煌めき零れる心の粒たちに混じっていた声。
「キャプテンには似合わないわよね、薔薇の花もジャムも」
 とても失礼なのだけれど、と本当に悪く思っている気持ちとセットで零れていた心。
 薔薇の花が似合わないハーレイ。
 薔薇の花で作ったジャムだって似合わない、武骨なハーレイ。
 よりにもよって、そのハーレイが「クジを引かずに」薔薇のジャムを食べていたもう一人。
 ぼくの他には居る筈がない、「クジを引かないで貰える」人。
 前のぼくとハーレイとで、青の間で二人、お茶の時間を楽しんでいた。
 薔薇のジャムを塗って、スコーンを食べて。




 ハーレイが庭に咲いている薔薇をチラリと眺めて、「うーむ…」と眉間の皺を深くする。
「いや、実に似合わない食い物だったな、この俺にはな…」
 こうして改めて薔薇を見ても、だ。
 やっぱり似合っていないと思うぞ、薔薇の花もジャムも、まるで似合わん。
「だけど嫌いじゃなかったじゃない」
 食べていたでしょ、と指摘した。
 薔薇のジャムなんか似合わないと言うハーレイだけれど、ちゃんとスコーンに塗っていた。前のぼくと二人で薔薇のジャムを食べて楽しんでいた。証人はぼくで、前のぼく。
「…おい。俺たちに好き嫌いは無いっていうのを忘れるなよ?」
 お前が勧めてくれるから食っていたんだ、申し訳ないことをしたなあ…。似合わない俺が毎回、貴重なジャムを食ってたなんてな。
「だって、ハーレイにも食べて欲しかったんだよ」
 ぼくの大切な恋人なのに。
 ぼくが貰った特別なジャムを、ぼくの大切な人にも食べて欲しいよ…。
「お前の気持ちは嬉しかったんだが…。実に悪いことをしちまったな、と」
 まさか俺まで食っているとは思ってなかっただろうしな。
 薔薇の花が似合うお前のためにと一瓶届けて、半分を薔薇が似合わない俺に食われて。
 作っていたヤツらにも申し訳ないし、薔薇の花にも悪い気がしてな。
 お前のためにジャムになるなら薔薇も本望だったんだろうが、俺ではなあ…。
 精一杯の香りを振り撒いて咲いて、俺の胃袋行きではな?
 お前だったら良かったんだろうが…。



 似合わなさ過ぎていたたまれない、とハーレイが何度も繰り返すから。
 庭の薔薇を眺めては「やはり似合わん」と唸っているから、ちょっとからかいたくなった。
 薔薇の花が今でも似合わないハーレイ。
 似合いそうにないと、薔薇のジャムだって似合いそうにないと今も唸っているハーレイ。
 その薔薇のジャムを前のハーレイが食べるためには、前のぼくが必須だったから。
 前のぼくは居なくなってしまったけれども、ぼくはハーレイの目の前に居るから、言ってみる。
「ハーレイ。薔薇のジャム、ぼくが死んだ後には食べずに済んだと思うけど?」
 薔薇の花とジャムが似合うソルジャーが居なくなったら、誰も届けなかっただろうから。
 青の間に薔薇のジャムは届かず、それを囲んでのティータイムも無かった筈だから。
 こんな冗談は、ぼくしか言えない。
 前のぼくを失くしたハーレイがどんなに辛くて悲しかったか、知ってる今のぼくしか言えない。前のぼくの代わりになることが出来る、今のぼくにしか言えない冗談。
 きっとハーレイなら笑ってくれると思ったのに。
「馬鹿」
 鳶色の瞳がスッと細くなって、「馬鹿」と真面目な顔で言われた。
「そんな頃に誰が薔薇のジャムなんか作る余裕があったと思うんだ、お前」
「……そっか……」
 前のぼくは死んでしまっておしまいだったけど、シャングリラの方はそうじゃなかった。ぼくが死んだ後は地球を目指しての戦いの日々で、それが地球に辿り着くまで続いた。
(…薔薇のジャムどころじゃなかったんだ…)
 薔薇のジャムを作って楽しむどころか、薔薇の花さえ誰も見ていなかったかもしれない。誰にも心の余裕が無くって、薔薇どころじゃない日々がずっと地球まで…。
 もしかしたら薔薇は誰にも知られずに咲いて、知られずに散って。
 枯れさせるのはもったいないから、と萎れかけた頃にジャムに作り替えて貰う代わりに、誰にも愛でて貰えさえせずに庭の片隅で朽ちていったのだろうか。
 前のぼくがメギドで独りぼっちで死んでいったように、薔薇の花たちも独りぼっちで…。



 幸せだった時代のシャングリラの薔薇たち。
 閉ざされた船の中だけが世界の全てだったけれど、それでも愛でて貰えた薔薇たち。
 気高く、あるいは華やかな姿で花開いては皆を楽しませ、その香りで皆の心を癒した。枯らしてしまってはもったいないから、と萎れかけた頃に摘まれて薔薇のジャムになった。
 皆に愛でられて、愛された薔薇たち。大切にされていた薔薇の花たち。
 幸せに咲いてはジャムになっていた薔薇たちが誰にも一顧だにされず、庭の片隅で独り開いて、知られぬままに朽ちてしまって。
 薔薇のジャムにもなれないままに枯れていったかと思うと悲しかったから。
 前のぼくを幸せにしてくれた薔薇のジャムの元になった薔薇たちのその後が、あまりに悲しくて寂しすぎたから、ぼくは俯いてしまったのだけれど。
 ハーレイをからかって遊ぶつもりが、遊ぶどころじゃなくなってしまったのだけど…。



「…分かったか、馬鹿」
 俺をからかうから、そんな目に遭うんだ。
 いくらお前が目の前に居ても、俺は忘れていないんだ。
 前のお前を失くした辛さを、お前を追い掛けることさえしなかった前の俺の馬鹿さ加減をな。
「……ごめん……」
 ごめん、とぼくは頭を下げた。
 前のぼくが居なくなった後にハーレイが独りぼっちで過ごした長い長い時間。
 シャングリラを地球まで運ぶためにだけ、ハーレイは生きた。前のぼくがそれを頼んだから。
 ジョミーを頼むと、支えてくれと言い残したから、ハーレイは独りぼっちで生きた。辛くて長い時間だったと何度も何度も聞いていたのに、つい、からかってしまった、ぼく。
 考えなしの小さな子供で、ハーレイを思い遣れなかったぼく…。
 仕返しされたって仕方ない。
 ぼくの冗談を聞いて笑う代わりに、うんと悲しい現実ってヤツを突き付けられたって仕方ない。
 仕方ないんだ、って俯いていたら、涙がポロリと落ちそうになる。
 幸せだったシャングリラの薔薇たちが、ぼくが死んだ後は幸せでなくなってしまったように。
 薔薇のジャムなんかは作って貰えず、誰にも見られずに朽ちていったように…。



 ぼくの瞳から涙が零れかかった時。
「こら、泣くな」
 頭にポンと大きな手が置かれた。
「俺が苛めたかと思われるだろうが、こんな所で泣かれちまったら」
 お前のお母さんたちから見える場所だぞ、俺の立場も考えてくれ。
 まあ、確かに俺が苛めたんだがな…。だが、その前に俺がお前に苛められたんだがな?
「…ごめん…。ごめん、ハーレイ…」
「泣くな、泣き虫。その涙、一発で止めてやろうか?」
 聞けよ、とハーレイはおどけた顔をしてみせた。
「薔薇のジャムだが、お前、何か勘違いをしてないか? お前が生きてた間から既に、俺の口には入らなかったぞ」
「えっ?」
「お前が眠っちまったのが運の尽きっていうヤツだ。お前にジャムは届かなかったし、当然、俺の口にも入らん。…なにしろクジ引きの話さえ来なかったしな」
「クジ引き…」
 そういえば希望者はクジ引きをしてたんだっけ、と記憶が蘇って来たんだけれど。
 ハーレイにクジ引きの話なんかはあったっけ?
 薔薇のジャムを作っていた女性クルーたちが「薔薇のジャムは如何ですか」って、クジを作ってシャングリラ中を回っていた時、ハーレイにも声を掛けていたっけ?
 クジ引きの時、ぼくはブリッジには行かなかったけれど、青の間からサイオンで様子を見てた。ブリッジでクジを引いていたのは、エラにブラウに…。
(あれ?)
 如何ですか、とブリッジクルーに差し出されるクジが入った箱。
 ゼルでさえもが「どれ、運試しじゃ」と手を突っ込んでいたんだけれども、キャプテンの椅子に座ったハーレイの前を箱は素通りして行った。
 ゼルみたいに「わしもじゃ!」と呼び止めないハーレイが悪いんだけれど、箱は素通り。
 クジ引きの話が来るとか来ないとかそういう以前に、箱は素通りだったっけ…。



「ハーレイ、それ…。クジ引きの話が来なかったって…」
 それ、ぼくが起きてた時からじゃない…!
 ぼくは思わず吹き出してしまって、ハーレイが「ほらな?」と笑顔になった。
「止まっただろう、涙。ちゃんと一発で」
「…と、止まったけど…。止まったけど、ハーレイ、クジが素通り…」
「悪かったな! 似合わない俺にはクジは無いんだ、素通りされて当然なんだ!」
「でも、ゼルだってちゃんと引いてたのに…!」
 ハーレイ、ゼルよりも似合わないんだ?
 薔薇のジャムとか、薔薇の花とか。
「こら、笑うな! ああいうものはな、一度目に声を掛け損なったら二度目は無いんだ!」
「で、でも…。ゼルは毎回、ちゃんと声を掛けてクジを引いてたよ?」
 その内、お馴染みさんになってしまって、声を掛けなくてもクジ引きの箱が止まったよ?
 ゼルの席の前で、「クジ引きをどうぞ」って。
「だから言っただろう、俺には薔薇の花も薔薇のジャムもまるで似合わないんだ、と!」
「そうだね、ゼルより似合わないんだね」
「うむ。…シャングリラで一番似合わなかったらしいな、この俺がな」
 そんな俺が、薔薇の花が似合うお前と恋人同士だったというわけだが。
 美女と野獣どころの騒ぎではないな、薔薇のジャムを作っていたヤツらが腰を抜かしかねん。
「…う、うん…。似合わなさすぎる恋人同士って?」
「シャングリラ史上最低最悪のカップルだろうさ、俺にはクジも来ないんだからな」
「来なかったね…。ゼルでもクジ引きしていたのにね」
 どうやらゼル以下の扱いだったらしい、薔薇が似合わなかったハーレイ。
 薔薇のジャムがまるで似合わないから、クジさえ引けずに箱が素通りしていたハーレイ。
 あまりに可笑しくて、可笑し過ぎて。
 ハーレイと二人で笑い転げた。
 庭の白いテーブルと椅子で、二人して涙が出るまでお腹を抱えて笑った。
 もしも窓からママが見てたら、何の話だと思っただろう?
 薔薇だなんて絶対思わないよね、薔薇の花と薔薇のジャムで笑っていたなんて…。



 シャングリラで一番、薔薇の花が似合わなかったらしいハーレイ。
 でも、今のぼくも薔薇の花は似合いそうにない。薔薇のジャムだって貰えそうにない。
 前のぼくだったから、女性クルーたちの心がキラキラ零れてた。
 薔薇の花が似合うと、薔薇のジャムもとても良く似合うのだ、と。
「…ねえ、ハーレイ…。今のぼく、ハーレイと同じ扱いかもしれないよ」
「俺と同じだと?」
「うん。…クジ引きの箱が素通りしそう。子供たちはクジを引いてなかったよ」
「ふうむ…。確かにそうかもしれんな、クジは素通りするかもな?」
 しかしだ、お前は俺と違って、いずれとびきりの美人になるしな?
 前のお前と全く同じに、薔薇の花が似合う姿に育つさ。
「そしたら薔薇のジャムを買って来て二人で食べるか? 昔を懐かしんでお前と二人で」
「ハーレイには薔薇の花とジャム、似合わないんだけどね?」
「こらっ!」
「でも、ハーレイが自分で何度も言ったんじゃない! 似合わないって!」
 それに薔薇のジャム。
 もしもハーレイが買っていたなら、自分用だとは思われないよ、きっと。
「お店の人がじっと見てそうだよ、似合わないものを買ってるなあ、って」
「お前用だからかまわないんだ!」
 薔薇の花が似合うお前用のジャムだから、俺が買いに行っても問題無いんだ。
 俺のためのジャムじゃないんだからな。



(…えーっと…)
 いつか、ぼくが前のぼくと同じくらいに育って、薔薇の花が似合うようになったなら。
 そうしたらハーレイと結婚して一緒に暮らすんだけれど…。
 ハーレイが薔薇のジャムを買いに行くのか、二人で買いに出掛けるか。
 その頃に薔薇のジャムのことを覚えていたなら、スコーンを焼いて……。
 ひょっとしたら、スコーンはハーレイが焼いてくれるのかな?
 料理が上手な今のハーレイ。パウンドケーキだって焼けるハーレイ。
(…ハーレイが焼くのか、それともぼくか…)
 とにかく、美味しいスコーンを焼いて。
 それから紅茶をたっぷりと淹れて、焼き立てのスコーンで薔薇のジャムを食べよう。
 遠い日にぼくに薔薇のジャムをくれていた、シャングリラの女性クルーたちを思い浮かべて。
 彼女たちの笑顔を思い浮かべて。
 ぼくは青い地球まで無事に着けたと、地球の薔薇のジャムを食べているよ、と。
 薔薇の似合わないハーレイが一緒に来てしまったことは黙っていよう。
 きっと知ったらガッカリされるし、言わずが花って言うんだものね。
 それでも、ぼくはハーレイと一緒。薔薇の似合わないハーレイと、いつまでも一緒……。




         薔薇で作るジャム・了

※薔薇のジャムも花も似合わないと評されていた、前のハーレイ。クジも素通りしたくらい。
 今度も似合いそうにないのですけど、薔薇のジャム、二人で食べるのでしょうね。
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(んーと…)
 何かお土産が欲しいんだけど、とブルーは勉強机の前に座って考える。明日、来てくれる予定のハーレイ。机の上に飾られたフォトフレームの中で笑顔のハーレイ。
 夏休み最後の日に庭で一番大きな木の下でハーレイと一緒に写した写真。ブルーの大切な宝物。ハーレイの左腕に十四歳の小さなブルーが両腕でギュッと抱き付いた写真。
 飴色をした木製のフォトフレームだって大切なもので、ハーレイとお揃いのフォトフレーム。
 ハーレイが買って来てくれて、ハーレイとブルー、それぞれに同じ写真を入れて暫く二つ並べて飾った。ハーレイが帰る時にお互いのフォトフレームを交換したから、ブルーの家にはハーレイが写真を入れたフォトフレームかある。ハーレイの家にはブルーが写真を入れていたものが。
 元はハーレイのものだったフォトフレーム。その中の写真の、笑顔のハーレイ。



(欲しいな、お土産…)
 ハーレイが何処かへ出掛けたわけではないのだけれども、欲しいお土産。
 たまに、何かを持って来てくれるハーレイ。予告無しの素敵なサプライズ。
 近所の店で売られていたとか、ブルーの家までやって来る途中で見付けただとか。
 それらは全て食べ物だけれど。
 目の前にあるフォトフレームを除いて、全て食べ物だったのだけれど。
 大切に取っておくことは出来ず、ハーレイと二人で食べれば無くなるものだったけれど。跡形もなく消えてしまうのだけれど、それでもハーレイが持って来てくれるのが嬉しいから。
(…何かお土産…)
 あるといいな、と金曜の夜に考える。
 明日はハーレイが家に訪ねて来てくれるから。



 ハーレイが「ほら」と渡してくれるお土産。
 どんなものでも心がじんわり温かくなるし、遠い昔の思い出を運んで来てくれる時もある。前の生で二人で暮らしていた頃を思い出させる記憶の欠片を。
 前世とは何も繋がらなくても、ハーレイのお土産は心が弾む。ブルーのために持って来てくれた何か、ハーレイが見付けて来てくれた何か。ブルーへの思いがこもった小さなサプライズ。
 そうしたお土産も嬉しいけれども、「欲しい」と思って考えていると欲が出て来る。
(注文出来たらもっといいのに)
 たとえばハーレイの家の近所に店があると聞く、柔道部員御用達だというクッキー。ハーレイの家を訪ねた彼らに徳用袋で振舞われるらしい美味しいクッキー。何度かお土産に貰ったけれども、食べたら綺麗に無くなってしまう。
 ハーレイが教え子たちに振舞うクッキーは憧れのハーレイの家とセットになった特別なもので、ブルーにとっては大切に取っておきたいもの。たった一度しか遊びに行けなかったハーレイの家。メギドの悪夢を見た夜にたった一度だけ瞬間移動で飛び込んだ時と、併せて二回しか見ていない。
 ブルーは遊びに行けない家で同じ学校の生徒が食べるクッキー。ハーレイの家の定番品。それを手元に置いておきたくても、クッキーだから食べれば無くなる。飾っておくことも出来ないし…。
(いつも貰えるなら、次まで飾っておけるんだけどな)
 見ているだけで幸せだろうと考えずにはいられないクッキーの袋。貰う度に即座に開封されて、ハーレイと二人で幾つか摘んで。残ったとしても、クッキーだから。母が保存用の容器に仕舞って階下のおやつ専用の場所に置かれてしまう。父と母も食べるから直ぐに無くなってしまう…。
(ハーレイのクッキー…)
 あれがいいな、と思ったけれども、まだ見たことのないハーレイお気に入りのお菓子でもいい。そういうお菓子もきっとある筈。



(…注文出来たらいいんだけどなあ…)
 お土産をお願い、と注文してみたい。クッキーでも、ハーレイお気に入りのお菓子でもいい。
 目の前の写真の中で笑顔のハーレイに、「お願い」とお土産を頼んでみるとか。
 頑張って思念を集中させても届きそうにはないのだけれど。
 何ブロックも離れたハーレイの家までの距離もさることながら、今の世界は人間は全てミュウとなっているから、何処の家にもサイオンによる覗き見防止の仕掛けが施されていた。当然、思念も通さないそれ。誰にでも聞こえる大声並みの思念波だったら別だけれども。
 そんな時代になったとはいえ、家族や親しい者同士ならば能力さえあれば思念波は届く。相手を定めて送ったものなら、ちゃんと仕掛けを通り抜けて届く。人の思いとはそうしたもの。
(…前のぼくなら簡単だったのに…)
 ハーレイに届く思念を紡げた筈なのに、今のブルーはサイオンの扱いがとことん不器用だった。家の中でさえ両親に宛てて思念を送れはしないし、タイプ・ブルーとも思えぬレベル。
 前の自分なら、ハーレイと一緒に写した写真などという立派な媒体があれば確実に思念を届けることが出来たのに。写真が無くても呼吸するように楽々と届けられたのに…。
(あれ?)
 そういえば。
 前の自分も何か注文しなかったか?
 お土産ではなかった筈だけれども、ハーレイに何か。何か注文していたような…。



 何だったっけ、と引っ掛かった記憶を懸命に手繰り寄せていて。
(…頼んでたよ、出前!)
 脳裏に鮮やかに蘇った記憶。遠い遠い遙かな昔の、シャングリラに在ったブルーの青の間。
 あれも出前と言うのだろうか。
 青の間からブリッジで仕事中のハーレイに思念を飛ばして頼んでいた。
 「こっちに来る時にサンドイッチを持って来て」だとか、「何か果物が食べたい」だとか。
 部屋付きの係に頼めばいいのに、何故かハーレイ。
 そう、ハーレイが困ったような笑顔で持って来てくれるそれらが好きだった。
「まったく、あなたときたら…」
 どうしてソルジャーがお召し上がりになる物をキャプテンが配達するのです?
 しかも私の勤務が終わってからだと、かなり遅いと思うのですが…。
「君に頼みたかったんだよ」
 君だから頼みたいんだよ。
 係に頼んだら意味が無いんだ、君が持って来てくれるのがいいんだよ…。



 ハーレイに甘えてみたかった。
 キャプテンの仕事があるのを承知で、我儘を言ってみたかった。
 ハーレイが勤務を終えた後で厨房に寄って、「ソルジャーの御注文だから」と作るように頼んで持って来てくれるサンドイッチや、綺麗にカットされた果物などが乗っかったトレイ。
 ソルジャーであるブルーのために、と厨房担当のクルーが作ってくれた品々。
 トレイを持ったハーレイが「お待たせしてすみませんでした」と現れる時の笑顔が好きだった。これは自分の仕事ではないのに、と困りながらも嬉しそうな笑顔。
 そして届いたサンドイッチを二人で食べる。
 ハーレイと二人、青の間のテーブルで語り合いながら分け合って食べる。
 果物ももちろん二人で食べた。果物の器に添えられたフォークは一人分しか無かったけれども、青の間のキッチンにはフォークも常備されていたから、それを使った。
 サンドイッチも果物も、他の様々な注文品も、ハーレイと分けて二人で食べた。
 食べ終えたらハーレイがお皿などを洗って、キッチンのテーブルに揃えて置いておく。それらは翌朝、朝食を作りに来た係が厨房へと持って帰ってゆく…。



(ハーレイの出前かあ…)
 今のブルーには絶対に無理だ。
 同じ屋根の下に住んでいたって、多分、思念は届かない。両親に思念が届かないように、相手がハーレイでも届けることは出来そうにない。
 目の前の写真が思念を届ける媒体の意味を成さないくらいに、今のブルーはとことん不器用。
 タイプ・ブルーとも思えぬレベルのサイオンしか扱えないブルー。
 出前を頼むなど夢のまた夢、前の自分のようにはいかない。
(…結婚したって出前は無理だよ…)
 出前どころか、きっと先に目覚めたハーレイに朝食の注文さえも飛ばせない。
 少し遅れて起きて行ったら、オムレツを食べたい気分だったのに卵焼きが用意されていたとか。卵焼きくらいで済めばいいけれど、もしかしたら魚の干物が焼き上がっているかもしれない。
(それも悪くはないんだけどね…)
 オムレツの代わりに魚の干物と味噌汁の朝食もいいのだけれど。
 シャングリラに居た頃は考えもしなかった、お箸を使っての朝食も素敵なのだけど。
(……でも……)
 せっかく平和な地球に来たのに。
 青い地球の上に二人で生まれて来たのに。
 料理上手なハーレイが居るのに、結婚したのに、朝御飯さえも注文を飛ばせないなんて…。



 ガックリと項垂れたブルーは翌日、「やっぱり…」と溜息をつくことになる。
 昨夜あんなに願っていたのに、手ぶらのハーレイ。
 ブルーが欲しかったクッキーはおろか、お土産の一つも持ってはいない。
 母がお茶とお菓子を置いて行ったテーブルを挟んで向かい合わせで座ったけれど。お土産が何も無かったものだから、俯き加減になってしまって。
 ハーレイが気付かないわけがないから、鳶色の瞳で覗き込まれた。
「なんだ、どうした? 今日は何だか元気が無いな」
 ん? と訊かれて、小さく呟く。
「……お土産……」
「土産?」
「…何かお土産、欲しかったのに…」
 そう口にすれば、呆れたようなハーレイの顔。
「おいおい、ブルー。そうそう毎回、持って来ているわけじゃないだろうが」
 土産がある方が珍しいんだぞ、そのくらい分かっているだろう?
「でも……」
 ブルーは赤い瞳を揺らした。
「こんなんじゃ、出前、どうしたらいいの?」
 どうしたらいいの、出前のお願い…。



「出前?」
 ハーレイにはまるで謎の質問。
 何のことだ、と目を白黒とさせる恋人に、ブルーは「出前だってば」と繰り返した。
「前のぼくだよ、色々頼んでいたじゃない。青の間に来る時に持って来て、って」
「…あれか……」
 思い当たったらしいハーレイだけれど、返った答えは当然と言えば当然のもの。
「しかしだ、今の俺はお前の出前係じゃないわけで…」
 だから出前の心配なんぞは要らんだろう?
 出前の注文が出来なくっても、問題はないと思うがな?
「今じゃなくって、結婚してからだよ!」
 ブルーはむきになって言い返した。
「朝御飯の注文も出来やしないよ、今のぼく…」
 どうしたらいいの?
 ぼくがオムレツ気分な時でも、起きて行ったら卵焼きとか魚の干物とか…。
 ねえ、ハーレイ。
 ぼくの朝御飯の注文、どうしたらいいの…?



 ブルーには切実な悩みだったが、ハーレイにとっては可笑しすぎる悩み。
 サイオンがとことん不器用なブルーには重大な問題なのだろうけれど。
 その前に未だ結婚してはいないし、出来るとしても四年も先。
 ブルーが結婚出来る十八歳を迎えない限り、朝御飯のことで悩む日などは来はしない。
(…まったく、何を心配するやら…)
 結婚という大切な段階をすっ飛ばしてしまって、遙か先を心配している小さなブルー。
 そういう所が可笑しくて可愛くてたまらない。
 もう可愛くて、可笑しくて。
 ギュッと抱き締めて頬ずりをして頭を撫でてやりたいけれども、そうしたらブルーは膨れっ面になるだろう。
 恋人ではなくて子供扱いされてしまったと、自分の悩みを全く分かってくれていないと。
(そうなりそうなのも可愛いんだがな?)
 うんと可愛くて髪がクシャクシャになるほど頭を撫でたくなるんだがな、と思うけれども。
 ブルーの悩みも無視は出来ない。
 可笑しくてたまらない悩みであっても、大切な恋人の悩みだから。



「ふむ…」
 お前のための朝御飯な、とハーレイは小さな恋人を見詰めた。
「思念で注文を飛ばせないなら、俺がベッドから起き出す時にだ。叩き起こして注文を取るか?」
 それとも寝かしておいて欲しいか、どっちがいい?
「どっちだろう…」
 問われたブルーは考え込んだ。
 起こして貰うことさえ出来れば、間違いなく希望を伝えられる。ゆっくりと眠ってはいられないけれど、注文通りの朝御飯が出来上がるまでには暫く時間がかかるだろうし…。
(ウトウトしててもかまわないよね、眠たかったら)
 それにすっかり眠り込んでいたなら、ハーレイがきっと起こしに来てくれるだろう。
(…そうしようかな?)
 一度眠りを破られたとしても、眠り直せるのならば問題は無い。ハーレイが起き出す時に声だけ掛けて貰って、朝御飯に食べたいものを伝えて。それだけというのはハーレイに悪いから、朝食の支度に出掛ける背中を見送ってからもう一度眠り直して…。
(うん、それがいいよ)
 ベッドの中から見送ればいい。大好きなハーレイの広い背中をベッドから。
(きっと朝御飯を作る前にシャワーを浴びるんだよね)
 前の生ではそうだった。
 朝御飯は作っていなかったけれど、「ソルジャーに朝の報告に来たキャプテン」を装うためにとシャワーを浴びてから身支度を整えてキャプテンの制服をカッチリ着込んでいたハーレイ。
 今の生だと何を着るのか知らないけれども、とにかくシャワー。
 そうに違いない、と思ったところでハタと気付いた。
(ひょっとして、裸のハーレイを見るの!?)
 本物の恋人同士の夜を過ごしたのだから、ベッドから出てゆくハーレイは裸。
 部屋を出る時は何か着ているだろうけれども、それまでは裸。
(…………)
 起こして貰って朝御飯の注文をするなら、ハーレイの裸を見ることになる。逞しい褐色の身体に何ひとつ着けず、一糸纏わぬ姿のハーレイ。
 それはちょっと、とブルーは真っ赤になってしまった。



 朝御飯の注文はしたいけれども、もれなくついてくるハーレイの裸。
 「おはよう」のキスを交わしてベッドから出てゆくハーレイの姿は今も記憶に残っている。前の自分は当たり前のように見ていたけれども、今の自分はどうなのだろう?
(……む、無理かも……)
 恥ずかしくてとても見ていられないかも、と耳まで赤く染めたブルーに、ハーレイがクックッと喉の奥で笑う。
「叩き起こされるのは御免か、ブルー?」
「……起きたいけど……」
 その先の言葉を口に出来ない。「恥ずかしいよ」と言うのさえ恥ずかしい。
 ブルーが何を思っているのか、ハーレイには未だ幼い心から零れる思念で手に取るように分かるから。小さな恋人には大きすぎる悩みが、幼いがゆえの悩みが分かってしまうから。
 だから可笑しくて笑い出したい気持ちをグッと堪えて、恋人の顔で対応してやる。
「うんうん、起きたくても起きられない、と」
「……そうなんだけど……」
 でも、と真っ赤な顔をしているブルーは、つい先刻まで朝御飯をどうやって注文しようかと頭を悩ませていたわけで。
 悩みの中身がすり替わってしまったようだけれども、朝御飯の件は何とかせねばなるまい。
 愛らしい恋人が悩まないように、悩まなくても済むように。
(俺の裸で悩む辺りが可愛すぎるな、まだまだ子供だ)
 ハーレイとキスさえ交わせないことが不満でたまらない小さなブルー。
 一日も早く本物の恋人同士になりたいと願っているブルー。
 そのくせにハーレイの裸が恥ずかしくて見られないからと、朝は起きられないらしい。
 あまりにも愛らしすぎる小さな恋人。
 朝御飯の注文はしたいけれども、起きられないらしい小さな恋人…。



 ハーレイはまだ頬を染めているブルーに向かって「安心しろ」と片目を瞑った。
「起きられないなら、起きなくていい。だが、朝飯は希望通りに作ってやろう」
 俺に任せろ。
 今のお前が不器用な分は、俺がきちんとカバーするから。
「どうやって?」
 ブルーはキョトンと目を見開いた。
 頬の赤さも消えてしまうほどに驚いたけれど、ハーレイは「簡単なことさ」と柔らかな笑顔。
「眠ってるお前に訊いてやるのさ、朝飯に何が食いたいかを。…それくらいのこと、前のお前なら実に簡単なことだっただろう?」
「…そ、そうだけど…」
 確かに前のブルーなら出来た。
 相手が深く眠っていようと、思念で質問をすることが出来た。もちろん答えを聞くことも。
「お前が俺の思念の侵入を許してくれるんだったら、お望み通りの朝飯にするさ。ただし、朝飯にしか使えん手だな」
 朝だけだな、とハーレイが「うーむ…」と腕組みをする。
「前のお前のような出前はとても出来んか…」
 お前が別の部屋に居る時、昼飯だの晩飯だのの注文を飛ばして来られてもなあ…。
 俺に届けばいいんだがな?
 届かなかったら、諦めて出来上がったものを食うんだな。
 お前、好き嫌いは無いんだろうが?



 朝食の注文は解決したものの、今度は昼食に夕食と来た。
 ブルーは再び小さな頭を悩ませる。
 前の生のようにハーレイに出前を頼みたくても、出来ない自分。
 あれが食べたい、これが食べたいと我儘を言って、困ったようなハーレイの笑顔を見るのが好きだった。あの顔が見たくて出前を頼んだ。
 それに二人で食べる内緒のサンドイッチや果物。厨房のクルーがブルーが一人で食べると信じて作った一人分の出前。それを二人で分け合って食べる幸せな時間が好きだった…。
 あの頃のように二人の仲を隠して、隠れて食べる必要は無いのだけれど。
 堂々と二人一緒に暮らして、二人きりの食卓を囲めるのだけれど。
 それでも幸せを追い掛けたくなる。もっともっと幸せが欲しくなる。
 ハーレイが作ってくれる昼食に夕食。
 出来上がったものを食べるのも幸せだと思うけれども、どうせならその日に食べたいもの。
 食べたい気分の食事が出たなら、もっと幸せになれると思う。
 どうにも諦め切れない出前。
 前の自分ならいとも容易く頼むことが出来た、ハーレイに飛ばせた出前の注文。
「…出前、お願いしたいんだけど…」
 出前じゃなくって、注文っていうの?
 お昼御飯はあれがいいとか、晩御飯にこれが食べたいんだとか。
 今のハーレイにも頼んでみたいよ、前のぼくみたいに出前の注文…。



「なら、頑張れ」
 頑張ってみろ、とハーレイはブルーに微笑みかけた。
「お前が不器用なのは分かっているがな、出前を希望なら頑張ることだ」
 思念波が苦手でも、出前を頼むには思念波だろうが。
 頑張って俺に向かって飛ばして来い。
「俺が仕事に出掛けていてもだ、晩飯にこれを食いたいんだ、とな」
「えっ!?」
 ブルーは思いもよらないハーレイの言葉に赤い瞳を丸くした。
「ハーレイ、仕事に出掛けた時でも晩御飯、ぼくに作ってくれるの!?」
 そういう日には自分が夕食を用意するのだとばかり思っていたのに、ハーレイが作ってくれるという。自分が出前を頼みたかった日はあくまで休日、ハーレイが休みの日だけの我儘だったのに。
「なんだ、俺が作ったら可笑しいのか?」
「そうじゃないけど、ハーレイ、仕事にも行って食事も作るの?」
 疲れてしまったりしないだろうか、とブルーは心配になったのだけれど、ハーレイは「体力には自信があるからな」と余裕たっぷりに笑った。
「お前が望むなら晩飯くらいは作ってやるさ。今だって俺は作ってるんだぞ」
 一人分も二人分も、作る手間はそんなに変わらないからな。
 その代わり、お前、出前の注文、頑張れよ?
 失敗したなら、毎日、毎日、俺の好みの献立だからな…?
「うん、頑張る!」
「いい返事だ。失敗したって文句は聞かんぞ、お前の努力不足の結果だしな」
 食いたいメニューは自分で伝えろ。
 本物の出前もそういうものだろ、何を幾つかハッキリ言わんと別の物が届いてしまうしな?



 夕食に何を食べたいのかは、思念波で毎日、注文をする。
 成功したなら帰宅したハーレイが食べたい料理を作ってくれて、失敗した時はハーレイの好み。
(…ぼくが料理をするんじゃないんだ…)
 ハーレイのお嫁さんになるのだと決めているから、料理もせねばと考えていた。
 お嫁さんは料理をするものなのだと頭から決めてかかっていたのに。
(ハーレイ、料理が得意だもんね)
 財布を忘れて登校した日に御馳走になった、ハーレイ手作りの豪華弁当。こだわりの料理が沢山詰まったお弁当はとても美味しかったし、たった二回しか行ったことがないハーレイの家で食べた食事も舌が大喜びをしていたものだ。
 そんな料理を普段から作って食べているハーレイ。
 結婚して自分がお嫁さんになっても、ハーレイが料理を続けるのか、と少し驚いたけれど。
 それも素敵だ、とブルーは思う。
 思念波で出前を注文しないと、その日に自分が食べたい料理は夕食に出ないらしいけど。
 出前の注文に失敗したなら、ハーレイの好きな献立ばかりが食卓に並ぶらしいけど。
(…だけど、ぼく、好き嫌いだけは無いもんね?)
 出前の注文を失敗したってかまわないや、とブルーは微笑む。
 ハーレイと二人で暮らせるのならば、それだけで毎日が幸せだから。
 毎日がハーレイ好みの献立になってしまったとしても、それが二人の食卓だから…。




            我儘な注文・了

※ハーレイに出前を頼みたかったら、思念波の上達が必須らしいです。夕食の注文も。
 そして結婚した後も、ハーレイが料理を作るとか。ブルーの注文、無事に届くといいですね。
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 土曜日の夜。ハーレイが帰って行った後、ブルーの部屋で夕食後のお茶に使われたティーカップなどの片付けをして、テーブルを拭いて。溜息をつきながらハーレイの椅子を元の位置に戻すと、ブルーはベッドに腰掛けた。
(…帰っちゃった…)
 何ブロックも離れた家へと帰って行ってしまったハーレイ。「またな」と軽く手を振って。
 明日になったら来てくれるけれど、今夜はもう顔を見られない。明日までの間、暫しのお別れ。前の生であれば、これからが二人の時間なのに。恋人同士で過ごすための時間だったのに…。
(…朝までハーレイと一緒だったのに…)
 同じベッドで眠っていたのに、と嘆いたところでどうにもならない。
 今のブルーは十四歳の子供でしかなく、ハーレイはキスすら許してくれない日々なのだから。
 ブルーを独りで此処に残して、「またな」と帰ってしまったハーレイ。
 残念でたまらないけれど、どうしようもない。ブルーは本当に独りではないし、両親と暮らしているのだから。ハーレイがブルーを置いて帰るのが当たり前な状況なのだから。
 どんなに一緒に帰りたくても、ブルーの家は今いる場所。
 何ブロックも離れたハーレイが一人で住んでいる家は、ブルーとは何の関係も無い。ハーレイと一緒に暮らせる日々が訪れるまでは、連れて帰って貰えそうもない。



(あーあ…)
 ハーレイと一緒に、あの家に帰りたかったのに。
 遊びにも行けないハーレイの家。たった一度しか呼んで貰えず、たった一度だけ瞬間移動をして飛び込んでしまったハーレイの家。二回だけしか入ったことがないハーレイの家…。
(…ハーレイと一緒に帰りたかったよ…)
 叶うわけもない、自分の願い。我儘に過ぎないブルーの願い。
 願っても無駄だと分かっているから、ベッドにコロンと横倒しに倒れて、部屋の床をぼんやりと眺めていたら。
(…あれ?)
 ハーレイと二人、向かい合わせで過ごしたテーブルの下に何かあるのを見付けた。細長い棒状をしたものが床の上に落ちて転がっている。
(…???)
 何だろう、とブルーは瞬きをした。ハーレイが来る前に掃除をした時、床だってきちんと掃除を済ませた。落ちている物があったとしたなら、その時に気付く筈なのだけれど。
(…ぼく、見落としてた?)
 それとも掃除を済ませた後で落としたのか。
 とにかく拾って片付けなければ、とベッドから起き上がり、テーブルの下を覗き込んで。
「あっ…!」
 思わず声を上げてしまった。
 床の上に転がった棒状のもの。瑠璃色をしたそれはハーレイの愛用品だった。



 テーブルの陰になって黒っぽくも見える、瑠璃色のペン。ハーレイがいつも持ち歩いている筈の万年筆がテーブルの下に転がっている。
 昼間に「予定を思い出した」と手帳に何か書き込んでいたから、その後で落としたのだろう。
(…落っこちたの、気付かなかったんだ…)
 落ちた時の音にも、落としたことにも気付かなかったに違いない。恐らくはブルーがハーレイの向かいに座っていたから。二人で過ごす時間に心地よく酔って、そちらに夢中になっていたから。
 そう考えると、なんだか嬉しい。
(きっとペンより、ぼくだったんだよね)
 ブルーは唇に笑みを浮かべると、手を伸ばしてペンを拾い上げた。思ったよりもズシリと重たい感触。ブルーが使っているペンよりもずっと重さがあるペン。
(…ハーレイのペンだ…)
 あの褐色の大きな手ならば、このくらいの重さがよく馴染みそうだ。最近ではブルーが誕生日にプレゼント出来た羽根ペンも使っているらしいけれど、学校や家の外で過ごす時間はこの万年筆がハーレイのペン。教師を始めた頃から使っていると聞く万年筆。



 ブルーはペンを手にしてベッドに腰掛け、ドキドキしながら眺めてみた。
 瑠璃色の地にポツリポツリと星のように散らばる金色の粒。不規則に鏤められた星。
 ペンの表を覆う瑠璃色は合成のラピスラズリという石なのだとハーレイに聞いた。
 宇宙を思わせるそれが気に入って、ずいぶん昔に買ったものだと。
(やっぱりハーレイはキャプテン・ハーレイなんだよ)
 前世の記憶が無かった頃でも宇宙に惹かれていたハーレイ。
 本物の宇宙は瑠璃色ではなくて漆黒だけれど、散らばる星は確かに宇宙に似ている。
 でなければ、夜空。
 幾つもの星が煌めく夜空も、このペンの見た目によく似ているから。
(星座は無いかな?)
 見慣れた星の配置とそっくりな金色が隠れているかも、とブルーは調べてみることにした。何か隠れているかもしれない。今の季節の空の星座とか、過ぎてしまった夏の星とか。
(……うーん……)
 ためつすがめつ探してみたけれど、それらしき金色は見当たらなかった。
 地球の星座も、遠い遠い昔にアルテメシアで見ていた星も。
 そう、アルテメシアにも星座はあった。雲海の中だけを進むシャングリラからは見ることさえも叶わなかったが、ブルーは何度も目にしていた。
 シャングリラで暮らすミュウたちもまた、どんな星座が空にあるかを知っていた。展望室の外は一面の雲海だったけれども、その代わりに投影されていた星。展望室ではなくて天体の間で、子供たちのためのプラネタリウムで、あるいは居住区の休憩室で。
 まだ見ぬ遠い地球の星座も、アルテメシアの空に輝く星座も、誰もが見上げて憧れていた。
 いつの日か肉眼で星を見ようと、地に足を付けて夜空を仰いでみようと。



(…どっちの星座も隠れてないんだ…)
 ブルーはペンを翳してみる。もしも星座が隠れていたなら、とても素敵なペンだったのに、と。
 もっとも、これが星座を隠していたならハーレイが話してくれただろう。
 宇宙を思わせるペンだから気に入って買った、とブルーに教えてくれた時に。
(だけど何処かにあるのかもね?)
 地球の星座もアルテメシアの星座も隠れていないけれども、他の星たち。
 キャプテンだった頃のハーレイが何処かの宇宙で見た星の配置。
 それを見ていたハーレイ自身も気付いてすらいない、何処かの宇宙。
(…補給のために寄った星とか、地球を探していた頃とか…)
 ブルーが知らない、十五年間もの長い眠りに居た間の旅。
 あるいはブルーが死んでしまった後、地球に辿り着くまでの長い長い旅路。
 そうした旅の途中の何処かで、ハーレイは星を見たかもしれない。
 このペンに散らばる金色の粒が描き出す星を、広い宇宙の中の何処かで。



 ハーレイも知らない星が隠れた瑠璃色のペン。
 そんなペンもいいな、と考えながら蓋を開けてみれば、しっとりと金色に輝くペン先。
 万年筆には縁が無いけれど、ちょっと使ってみたくなる。
(…ちょっとくらいなら借りてもいいよね?)
 ほんの少しだけ、本当にちょっと書いてみるだけ。
 ブルーは勉強机の前に移動し、引き出しから真っ白な紙を一枚出した。
(…ちょっとだけだよ)
 自分のペンよりも重たい瑠璃色のペン。ハーレイ愛用の万年筆。
 それを握って、白い紙にペン先を走らせてみた。スラスラと書ける気がしていたのに、意外にも紙に引っ掛かる。いつものペンのようにはいかない。
(…力の加減が分からないよ、これ)
 案外、使いにくいものだと思う。初めて使った万年筆。
 このペンですらこういう使い心地だから、前のハーレイが愛用していた羽根ペンとなればもっと扱いづらいだろう。今のハーレイが羽根ペンの購入を躊躇っていたのもよく分かる。



(…ホントのホントに書きにくいよ、これ…)
 でも、と試し書きをしながら考えてみた。使い勝手の問題ではなくて、別のこと。
 このペンは自分の、ブルーの名前を綴ったことがあるのだろうか。
 ハーレイ自身の名前は数え切れないほど書いているだろうが、ブルーの名前は?
(…書いてくれたことがあるのかな?)
 少なくとも、このペンで書かれたであろう教師としての文字の中には一度も無かった。テストや宿題に書き込まれる文字は大抵、赤色。それ専用の別のペンの字。
 そういった赤い文字とは別に、評価をつける時があるのだけれど。その文字はこのペンで書いているのだと思うけれども、単なる評価。ブルーの名を記す必要など無い。
(…一回も書いていなかったりして…)
 教師専用の記録などには、あるいは書いたかもしれないけれど。
 その手の記録用のものであったなら、わざわざハーレイが綴らなくとも、ブルーも含めた全ての生徒の名前が最初から書かれていそうだ。温かみのある手書きではなく、機械が打ち出した揃った文字で。同じ文字ならピタリと同じに綴られてしまう機械の文字で。
(きっとそうだよ、先生用のは)
 ハーレイは生徒としてのブルーの名前なんかは書いていないに違いない。
 そうなると書いて貰えそうな機会はググンと激減、皆無ではないかという気がする。
(…日記だって、覚え書き程度だって言ってたもんね…)
 ブルーと再会した日のことさえ、ハーレイは「生徒の付き添いで病院に行った」と書いただけ。それを聞かされて「酷い!」と叫んでしまったくらいに、ハーレイの日記は覚え書き程度。
(…ぼくの家に来た日も特に書かないって言ってたし…)
 一度も書いて貰ってないかな、と溜息をつくブルーは知らない。
 ハーレイが羽根ペンを手に入れたその日に、白い羽根ペンを誕生日プレゼントにブルーの手から受け取ったその日に、ブルーの名前を幾つも幾つも書いていたことを。
 戯れに試し書きをするよりもいい、とブルーの名前を何度も綴り続けたことを。



(一度くらい書いてて欲しいんだけどな…)
 それに、とブルーは考える。
 自分のサイオンがもっとマシであれば、読み取れたであろう万年筆が宿した記憶。
 瑠璃色のペンにハーレイが残した残留思念。
 このペンとどんな風に日々を過ごしているのか、家で、学校で、出掛けた先で。
 ハーレイのお供で移動してゆく万年筆。ハーレイの側で過ごしているペン。
(凄く残念…)
 前の自分が手に取ったならば、それは素晴らしい記憶媒体。
 細長い瑠璃色の、ペンの形をした記憶媒体。
 それを手にして集中するだけで、ハーレイの色々な思いを読み取れた筈。
(…本当はやっちゃ駄目なんだけどね?)
 そうしたサイオンの使い方はルール違反で、落とし物の持ち主を探す時くらいしか許されない。
 前の生で暮らしたシャングリラでも誰もがそれを自制していて、ブルー自身もそうだった。
 違ったのは子供くらいなもの。
 無邪気な子供たちは遠慮なく読み取り、大人たちの失敗談を眺めて笑っていたりした。
(今のぼくなら子供なんだけどな…)
 あの時代には十四歳は成人検査の歳だったけれど、今の世界なら十四歳でも立派な子供。
 ちょっとくらいのルール違反は叱られる程度で済む子供。
(…でも、出来ないよ…)
 とことん不器用になってしまったブルーのサイオン。
 瑠璃色をしたペンを相手に頑張ってみても何も見えない。
 ハーレイの思いの欠片さえ捉えることが出来ない。
 素晴らしい記憶媒体が手の中にあるというのに、何ひとつとして読み取れなかった。



 どうにも不器用な自分のサイオン。
 ブルーは残念でたまらなかったが、瑠璃色のペンからハーレイの記憶を引き出して楽しむことは諦めざるを得なかった。
 ハーレイの日常を垣間見る絶好のチャンスを手にしていながら、手も足も出ない。
(…だけど、せっかくの落とし物だしね?)
 貴重なチャンスを活用するべく、ブルーはペンを握り直した。
 蓋を外して、金色のペン先をまじまじと見て。
 それから試し書きをしていた白い紙の上に自分の名前を書いてみた。
 ハーレイ愛用の瑠璃色のペンで、ブルーには少し扱いづらい万年筆の先でしっかりと。
(これがぼくの名前。…覚えておいてよ?)
 忘れないでね、とペンに向かって呼び掛ける。
 ぼくの名前を忘れないで、と。



 そうして、せっかくのハーレイの愛用品だから。
 握って一緒に眠ってみようかと思ったけれども、うっかり壊したら大変だからと枕の下に入れて眠った。
 枕の下にそうっと忍ばせ、ハーレイの夢が見られますように…、と。
 それなのにブルーは夢も見ないで眠ってしまって、気付けば朝で。
 心の底からガッカリしながら枕の下に入れておいたペンを取り出して、勉強机の上のペン立てに自分のペンや鉛筆と一緒に仕舞った。
(…ちょっとの間だけ、一緒なんだよ)
 ぼくのペンと一緒、とブルーは微笑む。
 ほんの少しの間だけれども、ハーレイ愛用のペンと一緒に並んだ自分のペンや鉛筆たち。
 けれど、いつかはそれがごく当たり前の日常になる。
 ハーレイと一緒に暮らすようになったら、ペンだってきっと一緒に置ける…。



 未来の自分たちを思い描いて、それから部屋の掃除を済ませて。
 ブルーが窓から見下ろしていれば、現れた待ち人。母が開けた門扉をくぐって来たハーレイは、「俺は落とし物をしていなかったか?」とブルーの部屋を訪れた。
 途中の道に落としていないか、探しながら歩いて来たと言う。
 直ぐに渡そうかとも思ったけれども、ハーレイの大切な落とし物。母がお茶の支度を整えて出て行った後にしようと考え、テーブルにお茶やお菓子が揃って母の足音が階下に消えてから、ペンを取って来て差し出した。
「ハーレイ、これ…」
「ああ、すまん。お前が拾ってくれていたのか。…ん?」
 向かい側の椅子に座ったブルーをハーレイの鳶色の瞳が見詰める。
 瑠璃色のペンを手にしたハーレイ。
 見詰められたブルーに、思い当たる節は山ほどあった。
 ペンを飽きずにじっと眺めていたとか、試し書きをしたとか、残留思念を読もうとしたとか。
 自分の名前も覚えてくれるようにと書いて呼び掛けて頼んでいたし…。
(…そ、それより、一緒に寝たってば…!)
 握ってではなく、枕の下に入れて、だけれど。
 それでもハーレイ愛用のペンなのだから、と特別な気持ちで一緒に眠った。
 ハーレイの夢が見られるようにと胸を高鳴らせ、今夜はハーレイと一緒なのだ、と。



 あまりにも恥ずかしすぎる昨夜の出来事。
 どれをハーレイに指摘されても、きっと耳まで真っ赤に染まるに違いない。
(…ど、ど、どうしよう…!)
 言われる前に話題を逸らさなければ。
 不自然になってしまわないよう、この場に相応しい別の話題で、でもペンのことで。
(…ペンの話で、でも別のことで…)
 何か無いか、とブルーは懸命に頭を回転させる。ペンに纏わる話題で、何か…。
(…そうだ!)
 あれだ、と思い付いて慌てて口にした。
「ハーレイ、そのペン…。ホントに星空みたいだけれども、星座は一つも無いんだね」
「なんだ、探したのか?」
「うん」
 これで自分の残留思念は誤魔化せるだろう、とブルーは思う。
 もっともハーレイはブルーの気配を感じただけで、それ以上は読んでいないのだけれど。
 それはルールに反することだし、ブルーは子供でも恋人だから。
 大切な自分の恋人なのだから、読んだりはしない。
 自分のペンをとても大切に扱っていたらしいブルーの気持ちは、もう充分に伝わったから。



 そうとも知らずにブルーは星座の話を続けた。
 瑠璃色のペンの夜空に散らばる金色の粒の話を、星座のように見える金色たちの話を。
「ねえ、ハーレイ。…そのペンに地球やアルテメシアの星座は一つも無いけど、他の星はあるかもしれないね」
「…他?」
 何だそれは、と問うハーレイに、「他の星だよ」とペンを指差す。
「ハーレイが旅をしていた宇宙で見た星。…ぼくが眠っていた間もそうだし、ぼくがいなくなった後の旅でも」
「ふむ…」
 どうだろうな、とペンを眺めていたハーレイだったが。
「おっ…!」
 此処を見てみろ、とブルーにペンの表面を指先でつついてみせた。
 瑠璃色の地にポツリポツリと散った金色。それが七つほど不規則に並び、星座のように見えないこともない。大きめの金色と小さな金色、散らばった七つの金色の粒。
 ブルーにはそれが何かは分からなかったのだけれど、ハーレイの目が懐かしそうに細められた。
 遠い昔へと記憶を遡ってゆく鳶色の瞳。
「ナスカでこいつを見ていたな。…いつの星だったか…」
 いつだったか、と七つの金色の粒の記憶をハーレイは追って。
「そうだ、種まきをする季節の星だ」
 春の頃だ、と歴史の彼方に消えた悲劇の赤い星を語る。
「種まきの頃のナスカの星だ。…特に名前も付けてなかったが、こいつが昇って来る頃がナスカの春だったんだ」



 ナスカの星だ、とハーレイの褐色の指が示した金色の粒にブルーは見入った。
 自分の知らないナスカの星。降りることすら無いままに消えた、メギドに砕かれた赤い星。
 その星の春に昇った星座がハーレイのペンにあるという。
「これがナスカの星なんだ…。じゃあ、この万年筆、ハーレイの所に来たかったのかもね?」
 ブルーは本当にそう思ったから。
 瑠璃色のペンがハーレイの所に来たがったような気がしたから、そう尋ねてみたら。
「そうかもしれん。このペンは合成のラピスラズリだが、合成でも模様は全部違うからな」
 俺を選んで来たかもしれんな。いや、選んだのは俺の方か…。
「ハーレイがこれを選んだの?」
「ああ。同じ買うなら選びたいじゃないか、自分の手に合うペンってヤツをな」
 売り場で何本も出して貰って、その中から選んだ一本なのだとハーレイは言った。
 試し書きをしたり、握ってみたり。
 どれも同じに見えるペンだし、実際、模様の部分を除けば違いは無い筈なのだけれど。
 それでも何処かが違うものだと、自分の手に一番馴染む一本を選んで買った、と。



 ハーレイの話を聞きながら、ブルーはしみじみと瑠璃色のペンを見詰めた。
 褐色の手に見合った重さの瑠璃色のペン。
 前の生での白い羽根ペンも似合っていたけれど、この瑠璃色のペンもハーレイに似合う。
 それに…。
(やっぱりハーレイはキャプテン・ハーレイなんだよ)
 何処かで前の生と繋がっている、とブルーは思わずにいられない。
 手に馴染むからと選んだ一本のペンに、ナスカの星座があっただなんて。
 前の生の記憶を取り戻す前に買ったペンなのに、ちゃんとナスカの星座を選んでいたなんて…。
 そんなハーレイの大きな手の中に、ナスカの星座。
 瑠璃色のペンに鏤められたナスカの星座…。
「ハーレイ。本物のナスカの星座って、どんなのだったの?」
 ブルーの問いに、ハーレイは「ほら」と右手を伸ばした。
「手を握ってみろ。見せてやるから、俺の記憶を」
「うんっ!」
 褐色の手と、ブルーの白い手が絡められた。
 遠い遠い遙かな昔に、シャングリラでブルーがしていたように。
 そうやってフィシスと手を絡め合って、青く美しい地球を見ていたように…。



「見えるか、ブルー?」
「…うん。うん、ハーレイ…」
 握り合った手からブルーの心に伝わって来る、ハーレイが前の生で仰いだ夜空。
 種まきをする春の季節に、ナスカの夜空に昇ったという七つの星たち。
 それは確かに星座と呼ぶのに相応しかった。無数の星たちの中で目立って輝く七つの星たち。
 ブルーが知らないままで終わったナスカの夜空。
 仰ぐことさえないままに逝った、ソルジャー・ブルーが守りたかった赤い星の夜空。
(…ハーレイはこれを見てたんだ…)
 ナスカは失われてしまったけれども、ハーレイは地球に生まれ変わった。
 前の生の記憶をちゃんと抱いて、青い水の星の上にブルーと二人で生まれて来た。
 そのハーレイが愛用している万年筆にナスカの星座。
 種まきの頃のナスカの星座がハーレイの万年筆に在る。
 偶然と呼ぶにはあまりに不思議な瑠璃色のペンの金色の粒…。



(…きっと偶然なんかじゃないよ)
 ハーレイはペンを選んだんだよ、とブルーは手を絡め合ったままでナスカの夜空を仰いだ。
 前の自分が見られずに終わった星を見せてくれる恋人の手をキュッと握って。
(この星がハーレイのペンにあるのは偶然じゃなくて、運命なんだよ)
 自分がハーレイともう一度出会えたように。
 地球の上で再び巡り会えたように。
 そうしてナスカの空を見ている。失われた筈のナスカの夜空をハーレイと二人で見上げている。
(なんて幸せなんだろう…)
 青い地球に来られて、ハーレイに会えて。
 そのハーレイの瑠璃色のペンには、ナスカの春の夜空に昇っていた星座の煌めきがあって…。
 きっと、もっと沢山の不思議な偶然と運命の糸が繋がっている。
 幾つも幾つも、何百本もの糸があるのだとブルーは思う。
 前の生と今の生とを繋いでくれて、幸せな気持ちを運んで来てくれる魔法の糸が…。




         落とし物の星座・了

※ハーレイの愛用のペンに隠れていた、ナスカの星座。記憶を見せて貰ったブルー。
 不思議な偶然は、きっと幾つもあるのでしょう。このペンの中の星座の他にも、山ほど。
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 晩秋のとある日曜日のこと。ブルーは昨日と同じように部屋を掃除してハーレイを迎え、二人で向かい合わせに座ったのだけれど。この次の週末もこんな土曜日と日曜日とがやって来るのだ、と頭から信じていたのだけれど…。
「すまん、次の土曜日は夕方まで来られそうにない」
「えっ?」
 ハーレイの思わぬ言葉に、ブルーは飲みかけていた紅茶のカップを手にしたままで固まった。
「夕食には間に合うように来るがな、それまでは駄目だ」
「……なんで?」
 夕食を一緒に食べるだけなんて。それでは平日の仕事帰りに訪ねて来てくれる時と変わらない。土曜日と日曜日は一日中、一緒に過ごすのが基本なのに。
 もっとも、ハーレイにも事情は色々とある。夕食だけどころか、顔も見られない土曜日や日曜もある。ブルーにもそれはちゃんと分かっているのだけれど。
 分かってはいても、せっかくの土曜日が台無しと聞けば理由を問わずにはいられない。どうしてハーレイは来られないのか、どんな用事が出来たのか、と。
 落胆しているブルーの様子に、ハーレイは「すまん」と繰り返した。
「もっと早くに話しておけば良かったなあ…。しかしな、天気次第のことだったしな」
 次の土曜日が雨なら中止になってしまう行事なのだ、とハーレイは言った。
 しかし週間予報も発表されたし、次の土曜日は天気が崩れたとしても、せいぜい曇り。雨だけは無さそうだと踏んでいるから、このタイミングでの話になった、と。
「柔道部の登山マラソンの日でな。朝一番から走り始めるから、遅くとも昼過ぎには終わる予定になってるんだが…」
「お昼過ぎに終わるのに、夕方まで来てくれないの?」
「おいおい、ちゃんと最後まで聞け。一番遅いヤツらが戻って来るのが昼過ぎくらいで、そこから昼飯になるからな。作って食わせて片付けをしてだ、解散してからだとどうなると思う?」
「……そっか……」
 そういうことか、とブルーは納得せざるを得なかった。
 昼食の用意に後片付け。それは時間もかかるであろうし、夕方でも仕方ないだろう…。



 ハーレイが夕方まで来てくれないらしい、次の土曜日。
 柔道部の登山マラソンがある日。登山マラソンと聞いてもブルーは全くピンと来ないが、昼食の方が気になった。
 柔道部をはじめ、運動部に属する生徒たちは食堂で食べるランチも常に大盛り。一度だけ大盛りランチを注文してみて、食べ切れなかったことがある。たまたま食堂に現れたハーレイが代わりに食べてくれなかったなら、ランチを無駄にしていただろう。
 ブルーにとっては信じ難い量のランチを平らげる柔道部員たち。普段の食事量も多い彼らが登山マラソンとやらをした後で食べる昼食となれば、どんな量になるのか想像出来ない。それを作るとハーレイは言ったが、いったい何を作るというのか。
「ハーレイ。…お昼御飯って、何を作るの?」
「飯か? そっちは大釜でドカンと炊いてだ、後は豚汁だな」
「豚汁?」
 ブルーは思わず目を見開いた。豚汁といえば汁物だけれど、御飯と豚汁で足りるのだろうか?
「どうした、豚汁、知ってるだろう? あれを大鍋で作るだけだが」
「…それだけで足りるの? 御飯と豚汁…」
「決まってるだろう! 美味い豚汁だと飯も進むし、下手な弁当よりよっぽどいいぞ」
 俺が学生だった頃にも、よく豚汁を食ってたな。
 運動の後の豚汁ってヤツはいいもんだ。出来たての味は最高なんだぞ。



 懐かしそうな顔で語るハーレイ。豚汁に纏わる思い出も沢山あるのだろう。
 そうなれば今度は豚汁が気になる。柔道部員たちに振舞われるという作りたての豚汁。
「豚汁って、ハーレイが作るんだよね?」
「ああ。俺と柔道部のOBたちだ。登山マラソンは毎年恒例だからな、手伝いに来てくれる」
 だが、仕切るのは当然、俺だ。
 柔道部の顧問だというのもあるが、俺の豚汁は昔から評判が良くってな。
 みんな頑張って走るんだ。美味いのを食わせてやりたいじゃないか。
「…いいな…」
 ブルーはハーレイが作る豚汁を食べてみたくなった。駄目で元々、と尋ねてみる。
「ねえ、ハーレイ。…ぼくも見に行ったら食べられる?」
「こらこら、勘違いをするんじゃないぞ。豚汁を食えるのは参加者のみだ。お前、ヤツらと一緒に登山マラソンなんかは出来んだろうが」
 何処の山だと思っているんだ、と挙げられた山は町の郊外に聳える高峰。千メートルには僅かに及ばないものの、ハイキング感覚で気軽に登れる高さではない。
「あの山だったの!?」
 あれを走って登るの、とブルーは仰天したのだけれども、柔道部員たちにとっては恒例の行事。速い者なら二時間とかからずに山頂までを軽々と往復してくるという。
「昼過ぎまで帰って来ないヤツでもバテてはいないな、俺の経験からしてな」
「経験って…」
「他所の学校でもやってるってことさ、運動部ではな」
 今までにハーレイが顧問をしてきた、あちこちの学校の柔道部や水泳部。登山マラソンは何処の学校でもあったという。標高千メートル近い山を走って登って下りてくるなど、ブルーにはまるで未知の世界で、もちろん出来るわけもない。



 しょんぼりと肩を落とすブルーの姿に、ハーレイが「まあ、お前には絶対無理だな」と笑う。
「お前、ただでも弱いしな? 登山口から少し走ったら倒れるだろうな」
 そうなっちまったら担架の出番だ。
 本来は足を挫いたりした怪我人用だが、OBどもに担がれて下りて、三日間ほど欠席か?
「うー…」
 どうにも反論出来ないブルー。
 ハーレイが言ったとおりの結末を迎えそうなことは分かっていたから。
 悔しげな瞳で鳶色の瞳を見上げたブルーに、別の選択肢が示される。
「豚汁を食えるのは参加者のみだが、作り手は参加者に含まれる。手伝ってくれたOBたちの分も作って昼飯にするわけだ。お前も手伝いに来るんだったら食わせてやれるぞ」
 ただし、朝一番に柔道部員たちが走り出すのを見送る所から参加しないとな?
 OBたちも早起きをして来て万一に備えて待機するんだ、ちゃんと最初から居ないと駄目だ。
「それって何時に集合なの?」
「登山口の広場に朝の七時だが?」
「…七時…!」
 登山開始は八時らしいが、OBたちへの挨拶やウォーミングアップなどがあるから、余裕を見て一時間前に集合だという。
(…七時だなんて、絶対、無理だよ…)
 ブルーは早起きは苦手ではないが、朝の七時から屋外で過ごした後での豚汁作りは考えただけでバテそうだった。座る場所くらいはあったとしても、何時間外に居ればいいのか。
(…マラソンも手伝いも、どっちも無理だよ…)
 自分には無理だ、と諦めざるを得なかった。
 しかしウッカリ聞いてしまったばかりに、ハーレイの豚汁が気になってたまらない。
 評判がいいのだとハーレイが語った自慢の豚汁。
 いつも作ってくれる「野菜スープのシャングリラ風」とは違って、豚汁。
 シャングリラに居た頃は無かった豚汁。
 豚汁は母も作ってくれるのだけれど、評判も何も、ブルーは母の豚汁と学校の給食や食堂で出る豚汁しか食べたことがない。
 わざわざ外食するようなメニューではないし、ハーレイが「美味いんだぞ」と言った豚汁の味がどれほどのものか、想像することも出来なくて…。



 登山マラソンに参加する柔道部員たちが食べる豚汁。
 手伝いに出掛けるOBたちも味わえるという、ハーレイ御自慢の豚汁の味。
 食べてみたくて、味わいたくて。
 一度は「無理だ」と諦めたくせに、ハーレイと二人で昼食を食べたら、また思い出して食べたくなってしまった。母が作ってくれた昼食に味噌汁はついていなかったのに。
 スープとパスタの昼食だったのに、食後の紅茶が置かれたテーブルを前にしてブルーは呟く。
「……豚汁……」
 未練たっぷりに桜色の唇から零れた言葉に、ハーレイが呆れたように目を丸くした。
「豚汁って…。まだ諦めていないのか、お前」
「……やっぱり、手伝う…」
 朝一番から行って手伝う、とブルーは頑張る決意をしたのだけれど。
「手伝う? 俺としては別にかまわんが…」
 お前、本当に分かっているのか?
 手伝いが増えるのは有難いんだが、お前が手伝うのは俺じゃなくて「ハーレイ先生」だ。
 頑張って起きて「ハーレイ先生」と豚汁を作るのか、お前?
「…そうだったっけ…」
 ブルーはガックリと項垂れた。
 柔道部の登山マラソンなのだから、ハーレイは当然、顧問の教師。其処へ同じ学校の生徒が出てゆくのならば、礼儀正しく「ハーレイ先生」と呼ばねばならない。今のように甘えることは厳禁、言葉も敬語にせねばならない。
 それは嫌だ、と思うけれども。
 ハーレイ先生の手伝いはしたくないのだけれども、食べたい豚汁。
 大好きなハーレイの御自慢の味の、美味しい豚汁…。



 どうにも諦め切れない豚汁。
 ハーレイが作る豚汁を食べてみたくて、ブルーは強請ってみることにした。ハーレイ先生ならば手も足も出ないが、ハーレイなら別。恋人としてのハーレイだったら我儘も聞いてくれるだろう。
 そう思ったから、「お願い」とおねだりをする。
「ねえ、ハーレイ。豚汁、ぼくの家で作ってよ。野菜スープのシャングリラ風みたいに」
 きっと作って貰えるだろう、と考えたのに、ハーレイの返事は素っ気なかった。
「駄目だ、そんなのでは美味いのが出来ん」
「えっ、なんで?」
「大量に作るからこそ美味いんだ。俺の秘伝もだからこそ生きる」
 お前のお父さんたちの分まで作るとしてもだ、四人分にしかならないんだぞ。
 美味いのを作るならデカイ鍋でだ、十人分ほどは作らんとな?
「…十人分も?」
「それがギリギリの分量ってトコだ。しかも普通の十人分じゃない」
 おかわりの分も含まれるのだ、とハーレイはブルーに説明した。
 一人がお椀に一杯だけしか食べないのならば、十人分だと言っている量は十二人分を軽く超えるだろう、と。
「つまりだ、お前のお望みの豚汁を作っちまったら、単純に計算したって一人に三杯。それだけの豚汁を食わねばならない。…お前、三杯も食えるのか?」
「そんなに沢山、食べられないよ!」
「ほら見ろ。…第一、お前、お母さんに何と言って俺に豚汁を作らせる気だ?」
 シャングリラで食べていた懐かしの味の豚汁、と嘘をつく気か?
 それとも俺の作る豚汁が食べたいんだ、と白状するか?
 俺はどっちでも気にはしないが、キッチンを借りるまでのお前の苦労も気にしないからな。
「……そっか……」
 この方法も無理があったか、とブルーは俯く。
 母が納得してくれるだけの説得力のある言い訳を思い付く自信が全く無かった。
 シャングリラで食べた味だと大嘘をつくことはしたくなかったし、ハーレイが作る豚汁を食べてみたいと言うことも出来ない。食べたいと言えば「登山マラソンの手伝いに行けばいいでしょ」と返されるのがオチで、そうなったが最後、「ハーレイ先生」のお手伝いで…。
(…食べたいのに……)
 けれど食べられそうにない豚汁。
 ハーレイが作る、秘伝とやらが生きた豚汁…。



 食べたくても手も足も出ない豚汁。
 次の土曜日、ハーレイが夕方まで来てくれない日の昼過ぎに柔道部員たちが味わう豚汁。
 一度でいいから食べてみたいと、夢に見そうなほどに食べたいハーレイ御自慢の味の豚汁…。
 食べられないと分かっているから、余計に食べたい。
 ポロリと唇から本音が零れる。
「…ハーレイが作る豚汁、食べたいのに…」
 食べたいのに、と零したブルーに、意外な答えが返って来た。
「なら、四年待て」
「四年?」
 ハーレイの言葉の意味が掴めず、ブルーはキョトンとしたのだけれど。
 当のハーレイは余裕たっぷり、笑みまで浮かべて「四年だ」ともう一度繰り返した。
「分からんか? 四年経ったら、お前は幾つだ?」
「…いくつ?」
「何歳なんだ、と訊いているんだ」
「えーっと…」
 十八歳、と答えようとしたブルーだったが、其処でハッタと気が付いた。
 四年経てば十八歳になる。それは結婚が許される歳。
 ブルーがそれを望みさえすれば、ハーレイと結婚することが出来る歳。
(…まさか…)
 まさか、と息を飲んだブルーに向かって、ハーレイがパチンと片目を瞑った。
「やっと分かったか?」
 お前が無事に俺と結婚、もしくは婚約出来たら、豚汁を食える所に連れてってやる。
 俺の嫁さん、もしくは未来の嫁さんです、って堂々とな。



「ホント!?」
 ブルーは思わず叫んでいた。
 考えもしなかった豚汁への道。
 「ハーレイ先生のお手伝い」ならぬ「ハーレイのお嫁さん」。
 そんなことってあるのだろうか。夢ではないか、と頬を抓りたくなるのに、ハーレイは笑顔。
「本当だとも。俺の友達にも紹介してやろう」
 あいつら、ビックリするだろうなあ。
 とびっきりの美人に育ったお前を、「俺の嫁さんだ」って連れて行ったらな。
「…ハーレイの友達も柔道部の登山マラソンに来るの?」
 OBの中にハーレイの友人がいるのだろうか、とブルーは世間の狭さを思ったのだけれど。
「いや、別口のイベントだ」
 登山マラソンとは全く別だ、とハーレイが穏やかな笑みを浮かべた。
「あんな早朝から出掛ける行事はお前には向かん。俺の嫁さんを連れて行くなら、嫁さんの身体も考えないとな」
 だから俺が行ってた上の学校でやってるOB会だ。
 其処の柔道部に稽古をつけたり、見学したりする会がある。
 その時に豚汁を作って御馳走するんだ、現役のヤツらに「頑張れよ」って、な。



 OB会なら早朝から出掛けなくてもかまわないから、とハーレイはブルーに微笑みかけた。
 現役の柔道部員たちの練習場所に顔を出してから、炊事出来る場所で豚汁作り。
 豚汁を作るのに間に合う時間に行けさえすれば問題は無くて、早起きもしなくてかまわないと。
「その代わり、お前も手伝えよ? 嫁さんだしな?」
「うんっ!」
 ブルーは張り切って頷いたのだが、ハーレイが「待てよ」と顎に手をやる。
「…いや、手伝いはしなくていいか…。嫁さんを大事にしています、と飾っておいて自慢するのもいいな。お前には手伝って貰わずにな」
 なんたって、男の世界だしな?
 むさ苦しい男どもが溢れる豚汁作りだ、嫁さんに手伝いなんかをさせちゃいかんな。
 ハーレイが真顔で言うから、ブルーは「でも…」と首を傾げた。
「ぼく、男だよ?」
「男でも俺の嫁さんだろうが」
 違うのか? と訊かれて、自信が無くなってしまったから。
 自分でも常々「ハーレイのお嫁さん」になるのだと思っているから、ブルーの頬が赤くなる。
「…それはそうかも…」
 お嫁さんかも、と頬を染めたままハーレイを見詰めた。
「手伝えても、手伝えなくても、どっちでもいいよ」
 ぼくがどうすればいいのか、ハーレイが決めてよ。
 ハーレイが決めてくれたことなら何だっていいし、何だって聞くよ。
 だって、ハーレイと結婚するんだもの。
 ハーレイのものになるんだもの…。



「男でもいいし、男だけどお嫁さんでもいいよ」
 どっちでもいいよ、とブルーは嬉しそうに微笑んでみせた。
「ハーレイが紹介してくれるんだったら、どっちでもいい。男でもいいし、お嫁さんでも」
「そうか、嫁さんでかまわないんだな?」
 じゃあ嫁さんだ、とハーレイが腕組みをして大きく頷く。
「俺はうんと美人の嫁さんを貰うつもりでいるしな、お前は俺の嫁さんなんだ」
「分かった。ぼくはハーレイのお嫁さんだね」
「ああ。俺の自慢の嫁さんってことだ」
 やはり手伝いはさせられないな。
 むくつけき男どもに混じって豚汁なんかは作らせられん。
 見学用の椅子に座らせとくのがきっと一番だな、あの美人が俺の嫁さんです、とな。



 ハーレイが通っていた上の学校の柔道部のOB会に連れて行ってやる、という約束を取り付けたブルーは、もう御機嫌で。
 OB会は毎年あるものなのか、とか、どの時期にあるのか、とかを散々質問した末に。
「早く四年後にならないかな?」
 ハーレイのお嫁さんだと紹介して貰うんだから、と指を一本、二本と数えて四本折ってゆく。
 四本折ったらまた手を開いて、一本、二本。
 はしゃぐブルーは可愛いけれども、何か勘違いをしていそうだから。
 ハーレイは「おい」とブルーに注意した。
「俺の嫁さんはいいとしてだ。…豚汁はどうした、それが食いたいんじゃなかったのか?」
 お前、豚汁を食いにOB会に行くんだろうが?
 俺の自慢の、秘伝の美味い豚汁を食いに。
「そうだよ? 豚汁を食べに行くんだよ。それとハーレイのお嫁さん!」
 両方だよ、とブルーは胸を張ったけれども、
実の所は豚汁よりも「ハーレイの
お嫁さん」。
 ハーレイのお嫁さんとして出て行けるイベント、OB会。
 それがブルーの今の一番のお楽しみだった。
 ハーレイの学生時代の友人たちが大勢集まる席で、「俺の嫁さんだ」と言って貰える日。
 本当に「ハーレイのお嫁さん」になれたのだ、と心の底から実感出来そうな席。
 其処でハーレイと一緒に豚汁を食べる。
 ハーレイが作った秘伝の味の、御自慢の豚汁を二人仲良く、「ハーレイのお嫁さん」として。



(…ふふっ、豚汁…)
 どんな味かな、とブルーは楽しみでたまらない。
 あと四年。
 四年経ったら、ハーレイと結婚出来る歳。
 その年に開かれるハーレイの柔道部のOB会には自分も一緒に出席出来る。
 もう結婚式を挙げていたなら、「ハーレイのお嫁さん」として。
 結婚がまだで婚約だけなら、「ハーレイの未来のお嫁さん」。
 「未来の」という言葉がついていたとしても、ついていなくても「お嫁さん」には違いない。
 そう、大好きなハーレイのお嫁さん。
 今はまだ四年も先の未来でしかなくて、ブルーの背丈も百五十センチのままだけれども。
 ハーレイと出会った春の頃から一ミリも伸びていないのだけれど、四年経ったら「お嫁さん」。
 誰に会ってもハーレイが紹介してくれる。
 「俺の嫁さん」だと、出会う人たちにブルーを紹介してくれる。
 そしてハーレイの「お嫁さん」だからOB会にも一緒に行けるし、豚汁だって食べられる。
(…ぼく、お手伝いさせて貰えるのかな?)
 ハーレイはどっちに決めるのだろう、とブルーは四年後の自分の姿を考えた。
 豚汁作りを手伝っているか、飾り物よろしく見学なのか。
 どちらであっても、それがハーレイの決めたことならかまわない。
 自分はハーレイの「お嫁さん」なのだし、ハーレイのものになるのだから。



(…早くハーレイと食べてみたいな、秘伝の豚汁…)
 あと四年だよ、と夢見るブルーの中では、豚汁はもはや「ただの豚汁」ではなくなっていた。
 それを食べられる時には「ハーレイのお嫁さん」になっているという素敵な豚汁。
 ハーレイの隣で「ハーレイのお嫁さん」として食べる豚汁。
 どんなに美味しい豚汁だろう、とまだ見ぬ豚汁を思い描いて、食べる自分を想像して。
 もうそれだけで幸せな気持ちが溢れ出して来る、ハーレイ御自慢の美味しい豚汁。
(…ホントに早く食べてみたいよ、ハーレイが作った美味しい豚汁…)
 ハーレイと一緒に食べに行くんだ、と四年後に思いを馳せるブルーは、もう柔道部員たちの登山マラソンなど羨ましいとは思わなかった。
 早起きまでしてそんな所へ出掛けなくても、もっと素晴らしい未来が待っているから。
 大好きなハーレイの「お嫁さん」として食べられる豚汁が待っているから。
(うん、登山マラソンなんかはどうでもいいよ)
 あと四年だけ待てばいい。
 そうすれば「ハーレイのお嫁さん」。
 ハーレイと二人で、二人一緒に豚汁を食べる。
 秘伝の味の御自慢の豚汁を、ハーレイの「お嫁さん」として…。




        食べたい豚汁・了

※ハーレイ先生の自慢の豚汁、それが食べたいと思ったブルーですけれど…。
 いつかハーレイと結婚したら、食べられるらしい夢の豚汁。お嫁さんになって、幸せ一杯。
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