シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
寒い季節がやって来ました。今年の冬は意外に早くて、残暑が終わってからの秋が短め。気付けばすっかり冬な雰囲気、風邪だって流行り始めています。私たち七人グループの中でも流行を真っ先に取り入れた人が…。
「ハーックション!」
くっそぉ…、と口を押さえるキース君。早々と風邪を引いてしまって、三日も欠席。ようやっと登校して来たのが今日で、それでもクシャミを連発です。
「…移さないでよね、その風邪」
私たちだって困るんだから、とスウェナちゃん。放課後は「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に来てるんですけど、キース君のクシャミがあるわけで…。
「かみお~ん♪ キースの周りはブルーがシールドしているから大丈夫だよ!」
ウイルスは通さないもんね! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「キースも病院に行くんだったら、シールドして行けば良かったのに…」
「「「は?」」」
キース君は既に風邪を引いています。治療のために病院に行くなら、他の人たちに移さないようマスクでしょうけど、そこをシールドでクリアですか?
「それもあるけど…。シールドしてたら、風邪は引かなかったと思うの!」
だってブルーがそう言ってたもん、ということは…。キース君の風邪は病院仕込み?
「悪かったな! 病院仕込みで!」
そんなつもりは無かったんだ、とキース君は仏頂面。
「俺はこれからのシーズンに備えて予防接種に行っただけで…」
「それってインフルエンザかよ?」
サム君が訊くと、「ああ」と返事が。
「坊主が引いたら話にならんし、毎年、受けているんだが…。それを受けに行って貰って来た」
マスクを持って行くのを忘れた、と無念そう。
「俺の隣に明らかに風邪なご老人が座ってしまってな…。あからさまに席を移れもしないし…」
それは坊主としてどうかと思う、という姿勢は正しいですけど、そのご老人から貰ったんだ?
「そうなるな。…予防接種の副作用かと思ったんだが、どうやら違った」
本物の風邪だ、とまたまたクシャミ。全快するまでは遠そうですねえ…。
流行の最先端を行ってしまったキース君。インフルエンザに罹ってしまえばお坊さんの仕事は出来ませんから、予防接種は当然でしょう。けれど、受けに行った先で風邪を貰って三日も休んだのでは本末転倒とか言いませんか?
「そうなんだが…。月参りにも行けなかったし、親父が文句をネチネチと…」
「「「あー…」」」
気の毒に、と合掌してしまった私たち。キース君は月に何度か遅刻して来て、そういう時には月参りです。檀家さんの家をお坊さんスタイルで回って来た後、制服に着替えて登校なパターン。それがズッコケちゃったんですねえ、風邪のせいで?
「風邪もそうだが、声の方がな…。掠れてしまって出なかったわけで、どうにもならん」
「喉は坊主の命だからねえ…」
マスクしてても声さえ出ればね、と会長さん。
「一人しかいないお寺なんかだと、マスクで月参りもしたりするから…」
「親父にもそう言われたんだ! 情けないヤツだと!」
ついでに親父に借りまで出来た、と呻くキース君。行く予定だった月参りをアドス和尚が引き受けた結果、凄い借りが出来てしまったのだそうで…。
「どういう形で返すことになるのか分からんが…。最悪、お盆まで持ち越しかもな」
「「「お盆?」」」
「卒塔婆だ、卒塔婆! あの時の貸しだ、と俺に卒塔婆書きのノルマがドカンと…」
「「「…卒塔婆書き…」」」
それは毎年、夏になったらキース君を苦しめている作業。山ほどの卒塔婆をアドス和尚と手分けして書いているそうですけど、そこまで借りを返せないままだと…。
「…もしかして全部も有り得ますか?」
シロエ君の言葉に、キース君は。
「…大切な檀家さんの分は親父が書くんだろうが…。最悪のケースも考えないと…」
出来ればそれまでに分割の形で返しておきたい、と苦悶の表情。
「とにかく風邪は二度と御免だ、気を付けないと…」
なんだってこうなったんだか、と言いたい気持ちは分かります。インフルエンザの予防接種に出掛けて風邪って、空しいにも程がありますよねえ…。
とはいえ、無事に終わったのがキース君の予防接種で、次の週には風邪も全快。土曜日も会長さんの家に集まってダラダラ過ごしていたんですけど。
「こんにちはーっ!」
キースの風邪が治ったってね、と現れた別の世界からのお客様。「ぼくにもおやつ!」と「そるじゃぁ・ぶるぅ」に注文をつけていますけれども、野次馬ですか?
「うーん…。野次馬ってわけでもないんだけれど…」
予防接種のことでちょっと、と妙な台詞が。
「「「予防接種?」」」
「うん。…キースは風邪を引いちゃったけれど、インフルエンザには罹らないんだよね?」
「それはまあ…。多分、としか言えないが」
罹る時には罹るらしいし、とキース君。
「あんたの世界ではどうだか知らんが、俺たちの世界では当たり外れがあるからな」
「当たり外れって?」
「打ったワクチンと同じウイルスなら罹らないんだが、別物だと罹る」
インフルエンザのウイルスには種類が幾つかあるからな、とキース君が説明を。
「運が悪いと、別のを端から貰ってしまって罹るケースも皆無ではない」
俺の知り合いにもコンプリートをしたヤツが…、と恐ろしい実話。お坊さん仲間の人らしいですけど、去年の冬にインフルエンザをコンプリートしたらしいです。ワクチンを打ったヤツ以外の。
「…それはある意味、強運だとか言いませんか?」
普通はそこまで出来ませんよ、とシロエ君が言うと。
「俺もそう思う。そいつ自身もそう思ったらしくて、宝くじを大量に買ってみたそうだ」
「へえ…。当たったのかよ、その宝くじ」
サム君の問いに、キース君は。
「当たったらしいぞ、金額は教えて貰えなかったが…」
「「「…スゴイ…」」」
宝くじが当たるんだったら、インフルエンザのコンプリートもいいでしょう。熱とかで多少辛かろうとも、大金がドカンと入るんですしね?
話は宝くじへと向かいましたが、横から止めに入ったソルジャー。「ぼくはワクチンの話をしたいんだけど」と。
「ワクチンって…。何さ?」
君の世界ならインフルエンザのワクチンもさぞかし完璧だろう、と会長さん。
「こっちの世界じゃ、今年はコレが流行りそうだ、っていうのを作って予防接種だけど…」
「あんたの世界の技術だったら、全部纏めていけるんじゃないか?」
医療は進んでいるんだろう、とキース君も。
「それで嘲笑いに来たというわけか。ただでも風邪を貰ってしまった俺の場合は、ワクチンの方もハズレを引いていそうだと!」
「…そうじゃなくって…。ぼくの世界にも無いワクチンについての話なんだよ」
「「「無い!?」」」
ザッと後ろへ下がりそうになった私たち。椅子さえなければそうなったでしょう。
「き、君はどういうウイルスについて語りたいわけ!?」
悲鳴にも似た会長さんの声、私たちも気分は同じです。ワクチンが無いような感染症がソルジャーの世界のシャングリラで流行してるんだったら…。
「頼む、帰ってくれ!!」
俺たちにそれを移す前に、とキース君。
「ウイルスってヤツは侮れないんだ、健康保菌者というのもいるんだ!」
「そうだよ、君は罹っていないつもりでいてもね、実は罹っていてウイルスを撒き散らしているってこともあるから!」
シールドだって効くのかどうか…、と会長さんは震え上がっています。
「どんなウイルスか分からないけど、君子危うきに近寄らず! 用心に越したことはないから!」
「そうです、とにかく帰って下さい!」
話の方は落ち着いたらまた聞きますから、とシロエ君も。
「初期段階での封じ込めってヤツが大切なんです、終息してから来て下さい!」
「シロエが言ってる通りだってば、早く帰ってくれたまえ!」
この部屋は直ぐに消毒するから、と会長さん。別の世界のウイルスだなんて怖すぎな上に、ワクチンが無いと聞いたら恐怖は倍どころか無限大ですから~!
こうして追い出しにかかっているのに、ソルジャーは悠然とソファに腰掛けたままで。
「移る心配なら大丈夫! 移った人は一人も無いしね」
「だけど患者がいるんだろう!」
残りは全員、君も含めて健康保菌者ということも…、と会長さんが指を突き付けました。
「君のシャングリラでは耐性のある人が多いとしてもね、こっちの世界は別だから!」
「そうだぞ、俺は風邪だけで沢山なんだ! この冬は!」
これ以上の感染症は御免蒙る、とキース君も言ったのですけど。
「…アレは普通は移らないと思うよ、罹ってるのはずっと昔から一人だけだし」
「そういう油断が怖いんだよ!」
感染症には色々あるから、と会長さん。
「潜伏期間が二十年とかいうのもあるしね、おまけにワクチンは無いんだろう?」
「そうなんだよねえ、そもそも作ろうと思っていなかったから!」
「「「は?」」」
「ワクチンって方法を思い付かなかったんだよ、対症療法しか考えてなくて!」
それと精神論だろうか、と言ってますけど、病気の人に精神論って、気力で克服しろっていう意味ですか?
「そんなトコだね、精神を鍛えれば克服できると! ヘタレくらいは!」
「「「ヘタレ?」」」
「そう、ヘタレ! 患者はぼくのハーレイなんだよ、君たちも知っている通り!」
どうしようもなくヘタレなのがハーレイ、とソルジャー、ブツクサ。
「ぶるぅが覗きに来たら駄目だし、そうでなくてもヘタレるし…」
「…それは感染症とは違うんじゃないかと思うけど?」
君のハーレイだけの問題だろう、と会長さん。
「第一、ワクチンを作るだなんて…。あれはウイルスの抗体ってヤツを作るわけでさ、ウイルスも無さそうなヘタレの抗体をどうやって作ると?」
「…ウイルスだとは限らないけど、抗体だったら作れそうだと思うんだよ!」
キースの風邪のお蔭で思い付いた、とソルジャーが目を付けた予防接種だのワクチンだの。キャプテンのヘタレにワクチンだなんて、そんなのホントに作れますか…?
ソルジャーが感染症を持ち込んだわけではないらしい、と分かってホッと一息ですけど、今度はワクチンが問題です。キャプテンのヘタレに効くワクチンが作れるかどうかも問題とはいえ、既に発症してるんだったら、ワクチンを作っても無駄なんじゃあ…?
「それがそうでもないんだよ。劇的に効くって例もあるから!」
ワクチンを後から接種しても、と言うソルジャー。
「こっちの世界はどうか知らないけど、ぼくの世界じゃとにかくワクチン! 駄目で元々、ガンガン打つって方向で行くねえ、感染症には!」
なにしろ宇宙は広すぎるから…、という話。新しい惑星に入植するにはリスクがつきもの、未知のウイルスが潜んでいることもあるそうです。そういう時にはワクチン開発、患者にどんどん打つらしくって。
「これが効くってこともあるんだよ、だからワクチンは後からでもいける!」
「…まあ、ぼくたちの世界でも、そういう例は皆無じゃないけど…」
たまに奇跡のように治ってしまう人が…、と会長さん。打つ手が無いという感染症の重症患者にワクチン接種で、治るという例。
「でもねえ…。ヘタレはウイルスじゃないし、本人の気の持ちようだから…」
「あながちそうとも言い切れないよ? 何か原因があるかもだしね!」
だから抗体を作りたいのだ、と言ってますけど、どうやって…?
「簡単なことだよ、ハーレイは二人いるからね!」
こっちの世界に更にヘタレなハーレイが! とソルジャーは教頭先生の家の方へと指を。
「あのハーレイを使ってワクチン製造! 抗体を作る!」
「…それなら、わざわざ作らなくても…。とうに抗体、出来ていそうだよ?」
三百年以上もヘタレてるんだし、と会長さん。
「ヘタレ続けて三百年以上、きっと抗体もある筈で…」
「それじゃ駄目なんだよ、その程度だったら、ぼくのハーレイも抗体を持っていそうだし!」
あれも元からヘタレだから、と言われてみればその通りです。キャプテンにだって出来ていそうな抗体、それでもヘタレのままだとなると…。
「そう、もっと強力な抗体ってヤツが必要なんだよ!」
より重症なヘタレに対応出来る抗体! とグッと拳を握るソルジャー。より重症なヘタレに対応って、そんなワクチン、作れますか…?
ソルジャー曰く、キャプテンに打つためのワクチンは教頭先生を使って製造。しかも強力な抗体が必要、より重症なヘタレに対応出来るように、ということですが…。
「…君はいったい何をする気さ、ハーレイに?」
ぼくにはサッパリ分からないけど、と会長さんが尋ねて、私たちも「うん」と。ソルジャーは「そうかなあ?」と首を傾げて。
「簡単なことだと思うけど? ハーレイが重症なヘタレになったら、抗体だって出来るしね!」
「「「…重症?」」」
今でも充分に重症だろうと思いますけど、まだ足りないと?
「足りないねえ! ヘタレ具合じゃ、ぼくのハーレイとどっこいと見たね!」
環境のせいで余計にヘタレて見えるだけだ、と言うソルジャー。
「ブルーがハーレイを受け付けないから万年童貞、それが災いしているだけ! もしもブルーとデキていたなら、ヘタレ具合は似たようなものかと!」
こっちのハーレイがヤレる環境にいたとしたなら、鼻血体質もとっくに克服しているだろう、とソルジャーはキッパリ言い切りました。
「ぼくのハーレイも、最初の間は、何かと遠慮がちだったしねえ…」
今のようなハーレイになれるまでには色々と…、とソルジャーは昔語りモードに入ろうとしましたけれども、会長さんが素早くイエローカードを。
「その先、禁止! 今はワクチンの話だから!」
「…そうかい? これからが面白いんだけど…。でもまあ、いいか…」
大切なのはワクチンだから、とソルジャーは気持ちを切り替えたようで。
「要は、こっちのハーレイを今よりヘタレに! その状態になれば、強い抗体が出来るんだよ!」
「…今よりヘタレって、どんな具合に?」
ちょっと想像つかないんだけど、と会長さんが訊くと。
「それはもちろん、ヘタレMAX! 君の顔もまともに見られないとか、そういうレベル!」
出会っただけで顔を赤くして俯くだとか…、とブチ上げるソルジャー。
「その辺はサイオンでどうとでも出来るよ、ハーレイの精神をチョイと弄れば!」
「…わざとヘタレにしてしまうと?」
「その通り! 君にも悪い話じゃないから!」
ハーレイで色々と苦労をしてるじゃないか、と笑顔のソルジャー。それは確かに間違ってませんねえ、教頭先生の思い込みの激しさはピカイチですしね?
教頭先生をサイオンで重度のヘタレに仕立てて、ヘタレの抗体を作ろうというソルジャーの案。日頃から教頭先生に一方的に愛されている会長さんからすれば、悪い話ではないわけで…。
「なるほど、ハーレイが今よりヘタレにねえ…」
そうなればぼくも追われないだろうか、という呟きにソルジャーが。
「まるで追われないとは言わないけれど…。君への愛は消えないからね! でもさ…」
せいぜい「読んで下さい」とラブレターを渡して逃げ去る程度、と溢れる自信。
「そのラブレターだって、小学生だか幼稚園児だか、ってレベルになるのは間違いないね!」
「そうなんだ? だったら、ぼくは当分の間、平和に生活出来るってことか…」
「お金を毟るのは難しいかもしれないけどね!」
ヘタレたら貢ぐ度胸があるかどうか、と言ってますけど、会長さんは。
「お金に不自由はしてないし…。ハーレイが静かになると言うなら、多少のことは我慢するよ。どうせいつかは治るんだろう? 重度のヘタレも」
「そりゃあ、永遠にっていうわけじゃないよ」
ワクチンが出来たら用済みだから、とソルジャー、アッサリ。
「で、作ってもいいのかな? ヘタレのワクチン」
「面白そうだし、やってみたら? …ヘタレの抗体があるかどうかは謎だけど」
「ありがとう! それじゃ早速…」
「ハーレイに相談しに行くのかい?」
ワクチン作りの、と会長さんが訊いたのですが。
「相談なんかをするとでも? 逃げられるに決まっているじゃないか!」
自分がヘタレになるだなんて、とソルジャーは指を左右にチッチッと。
「ぼくはハーレイに会いに行くだけ、そして話をしてくるだけ!」
「…それでどうやったらヘタレになるのさ?」
「サイオンで意識の下に干渉! 細かい作業をするなら会わないとね!」
遠隔操作では上手くいかないものだから…、と本気のソルジャー。
「ぼくと楽しくお茶を飲んでから送り出したら、ヘタレ発動! もう重症の!」
それは凄いヘタレが出来るであろう、とソルジャーはソファから立ち上がりました。
「行ってくるから、サイオン中継で様子を見ててよ。ヘタレのワクチン、頑張らなくちゃ!」
善は急げ、と瞬間移動で消えたソルジャー。行き先は教頭先生の家ですよね?
会長さんの家に残された私たちの前には、「そるじゃぁ・ぶるぅ」がサイオン中継の画面を出してくれました。教頭先生のお宅が映っています。ソルジャーがチャイムを押していますが…。
「どちらさまですか?」
「ぼくだけど?」
それだけで分かったらしい教頭先生、いそいそと玄関の扉を開けに出て来て。
「これはようこそ…! 寒いですから入って下さい」
「ありがとう。…君の家にホットココアはあるかな?」
「ああ、好物でらっしゃいましたね。…直ぐにご用意いたしますから」
リビングへどうぞ、と教頭先生はソルジャーを招き入れてキッチンでホットココアの用意を。クッキーも添えて歓迎モードで、自分用にはコーヒーで。
「…それで、本日の御用件は?」
「ちょっとね、ぼくのハーレイの健康のことで相談が…。かまわないかな?」
「もちろんです。私で分かることでしたら」
「助かるよ。…実は体質のことで悩んでいてさ…。あれって改善できるものかな?」
君は頑丈そうだけれども、ぼくのハーレイの方はちょっと…、と言うソルジャー。
「君ほど体力とかは無いだろうしね、もっと頑丈になってくれたら色々と…」
「何か問題でもあるのですか?」
「夫婦の時間のパワーってヤツだよ、頑丈になれば長持ちするかと…」
あっちの方も、と意味深な台詞に、教頭先生は「そうですねえ…」と顎に手を当てて。
「生憎と私は、そちらの方では経験が無くて…。ですが、可能性としては有り得ますね」
「じゃあ、君の体力をぼくのハーレイが身に付けたならばパワーの方も…」
「増してくるかもしれません。…断言することは出来ませんが…」
「分かった。だったら、ちょっと協力してくれるかな?」
データを取ってみたいから、とソルジャーが何処からか出した注射器。教頭先生は「血液の方のデータですか?」と目を剥きましたが、ソルジャーは。
「ぼくの世界は医療も進んでいるからねえ…。血液検査で色々なことが分かるんだよ」
「そうでしたか。では、どうぞお好きなだけお取り下さい」
教頭先生が袖をまくって、ソルジャーが「そんなに沢山は要らないから」と採血を。注射器に一本分っていう量ですねえ、教頭先生には大した量でもないんでしょうね。
ソルジャーは教頭先生に「献血の御礼」と頬にキスして帰って来ました。瞬間移動で。教頭先生は感激の面持ちで頬を触っていらっしゃいます。ちっともヘタレていませんよ?
「それはどうかな? その場でヘタレちゃ、つまらないしね」
じきに効果が、とソルジャーが指差している中継画面。教頭先生、嬉しそうに頬を撫でていらっしゃったのが、いきなりボンッ! と真っ赤な顔に。
「「「???」」」
何事なのか、と思いましたが、教頭先生は両方の頬に手を当てると…。
「…き、キスをして貰えたとは…。まさか頬に…」
嬉しいけれども恥ずかしすぎる、と教頭先生とも思えぬ台詞が。
「ど、どうすればいいのだ、私は…! か、顔がどんどん熱くなるのだが…!」
なんという恥ずかしい、いや嬉しい、と怪しすぎる反応、いったいどうなっているのでしょう?
「ほらね、ヘタレに拍車がかかった! たったあれだけで顔が真っ赤に!」
後はどんどんヘタレてゆくだけ、とソルジャーはニヤニヤしています。
「ヘタレる前の血液は採ったし、キッチリと保存しておいて…。重症のヘタレに抗体が出来た頃にもう一度採血してから比較して、と…」
「そうか、比べれば分かるんだ? 違いがあれば」
ヘタレの抗体があるのかどうかは知らないけれど、と会長さんが大きく頷いています。
「抗体らしきものが見付かったら、それでワクチンを作るんだね?」
「そういうこと! ぼくは頑張るから!」
ワクチンなんかは作ったこともないんだけれど、と言うソルジャーはド素人でした。そんなのでワクチンが作れるでしょうか、素人なのに…?
「任せといてよ、ダテにソルジャーはやってないから!」
「「「は?」」」
「ソルジャー稼業をやってる間に、研究所にだって潜入したから!」
研究者たちと一緒に仕事もしたから大丈夫! と自信たっぷり、あちらの世界のドクター・ノルディの情報も参考にするそうです。ただしコッソリ忍び込んで。
「さっき採ったハーレイの血液だってね、メディカルルームで分析だから!」
そしてヘタレのワクチンを作ろう! と拳を突き上げているソルジャー。ヘタレの抗体だの、ワクチンだのって、どう考えても無理じゃないかと思いますけどね…?
そんなこんなで始動してしまった、ヘタレのワクチンを作るプロジェクト。ソルジャーに重症のヘタレになるよう仕掛けをされた教頭先生は…。
「…ずいぶんヘタレて来たよね、あれは」
ぼくに会ったら俯くんだから、と会長さんがクックッと笑う週末。今や教頭先生は会長さんの前では恋に恋する乙女さながら、視線を上げることすら出来ない始末。会釈しながら脇を通り過ぎ、頬を真っ赤に染めて通過で。
「あんた、面白いからと頻繁に出歩いているだろうが!」
普段だったら学校の中は滅多に歩いていないくせに、とキース君。
「わざわざ教頭室のある本館まで行ったり、教頭先生の授業が終わった頃合いで出て来たり…」
「出歩かないと損だろう? あんなハーレイ、そうそう見られやしないんだから!」
楽しんでなんぼ、というのが会長さんの持論です。教頭先生は自分がどうしてヘタレたのかも分かっておられず、自分で集めた会長さんの写真や抱き枕も正視出来ない状態らしくて。
「ぼくの写真はまだマシなんだよ、ブルーの写真は完全にアウト」
見るだけで鼻血、とクスクスと。
「ブルーがせっせと贈ったからねえ、きわどいのを…。今までだったら夜になったら楽しんでオカズにしていたけれども、もう駄目でさ」
「「「おかず?」」」
「けしからぬ気分になりたい時の必須アイテム!」
それを見ながら盛り上がるのだ、と説明されて分かったような、分からないような。…ともあれ、今の教頭先生はオカズとやらも要らない状態なんですね?
「そうらしいねえ、孤独に噴火するだけの度胸も無いようだね!」
「かみお~ん♪ ブルーの写真に「おやすみ」のキスも出来ないみたい!」
頬っぺたが真っ赤になって駄目なの! と言う「そるじゃぁ・ぶるぅ」も覗き見をしているみたいです。いつもだったら会長さんが止めているのに、それをしないということは…。
「…お子様が見ていても大丈夫なレベルにヘタレちゃいましたか…」
凄いですね、とシロエ君が教頭先生の家の方角へ目を遣り、サム君も。
「そこまでっていうのが半端じゃねえよな、ラブレターも来ねえっていうのがよ…」
「渡せる度胸は既に無さそうだよ?」
俯いて横を通るようでは、とジョミー君。日を重ねるごとに酷くなるヘタレ、果たして何処までヘタレるのやら…。
教頭先生がヘタレまくって二週間。もはや会長さんと会ったらサッと物陰に隠れるレベルで、熱い視線だけが届くそうです。心拍数も上がりまくりで、口から心臓が飛び出しそうなほどにドキドキな恋する乙女だとか。
「…まだヘタレるのかな?」
もう相当に重症だけど、とジョミー君が首を捻っている土曜日、会長さんの家のリビング。空気がユラリと揺れたかと思うと、ソルジャーがパッと御登場で。
「こんにちは! そろそろヘタレの抗体が出来ていそうだからねえ!」
今日は採血に来てみましたー! と注射器を持参。でも、教頭先生はヘタレまくりで、ソルジャーとお茶なんかを飲める状態ではありませんけど?
「そこの所は、ぼくもきちんと考えた! ぼくなりに!」
この姿で行けば無問題! とソルジャーの姿がパッと変わってキャプテンに。えーっと、サイオニック・ドリームですかね、その姿って…?
「そうだけど? この格好なら、ハーレイだって気にしないからね!」
ちょっと行ってくる! と瞬間移動で消えたソルジャー、いえ、キャプテン。私たちが「そるじゃぁ・ぶるぅ」の中継画面を覗き込んでいると、ソルジャーは例によってチャイムを鳴らして。
「こんにちは、お邪魔致します」
「…は?」
どうしてあなたが、と出迎えた教頭先生はキャプテンの正体に気付かないまま、リビングでコーヒーなんかを出しておられます。ソルジャーは怪しまれないように熱いコーヒーを傾けながら。
「…いえ、先日、ブルーがこちらで相談に乗って頂いたとかで…。体質のことで」
「そういえば…。血液検査の結果はどうだったのでしょう?」
「とてつもなく健康でいらっしゃることが分かりましたね、もう驚きです」
私などではとてもとても…、とキャプテンの演技を続けるソルジャー。
「それでですね、追加の検査をしたいそうですが、ブルーは時間が取れないのだそうで…」
「ああ、それで代理でいらっしゃったというわけですか」
「はい。ブルーに送って貰いました。…そのぅ、失礼ですが…」
「血ですね、どうぞご遠慮なく」
お取り下さい、と袖をまくった教頭先生。キャプテンならぬソルジャーとも知らずに血液提供、後はコーヒー片手に健康談義。ヘタレるのは会長さんやソルジャー相手だけなんですねえ、まったく普通に見えますってば…。
キャプテンのふりをして出掛けたソルジャーは、やがて嬉しそうに帰って来ました。
「やったね、ハーレイの血液をゲット!」
あれだけあったら比較も出来るし、と教頭先生の血はソルジャーの世界へ送られたようです。帰ったら直ちに分析開始で、ヘタレの抗体が見付かった時はワクチン作りに入るとか。
「無事に見付かるといいんだけどねえ、ヘタレの抗体!」
「…ぼくにはあるとは思えないけどね?」
そんな代物、と会長さんが頭を振っていますが、ソルジャーは「きっとある筈!」と譲りません。
「あれだけ酷いヘタレなんだよ、今のハーレイは! そうでなくてもハーレイはヘタレだし、二人ともそうだし…。調べれば何かが見付かる筈で!」
「それが見付かったらどうするわけ?」
「決まってるだろう、もう最初からの目的通り! ぼくのハーレイにワクチンを打つ!」
そしてヘタレを克服なのだ、とソルジャーの主張。本当にヘタレの抗体があるなら、ワクチンも夢ではないんでしょうけど…。
「抗体さえあれば、ワクチンは出来る! もう別人のように生まれ変わったハーレイだって出来る筈だよ、それでヘタレが治るんだから!」
どうしてこんな簡単な方法に今まで気付かなかったんだろう、とソルジャーは自分の頭をコツンと叩いて。
「キースの風邪には感謝してるよ、お蔭でアイデアが生まれたからね!」
「い、いや…。俺は普通に予防接種に出掛けただけで、だ…」
「それは毎年行っているだろ、ぼくだって知っていたんだし…。風邪を貰ってくれたからこそ、予防接種とワクチンに注目出来たんだよ!」
君が今回の功労者だ、とキース君の手をグッと握って握手なソルジャー。
「ワクチンが見事に完成したなら、君に感謝状を贈らないとね!」
「い、要らん! 俺はそういうつもりで風邪を引いたわけではないんだし…!」
明らかに腰が引けているのがキース君。それはそうでしょう、ソルジャーからの感謝状なんて、欲しいような人は誰もいませんし…。
「要らないのかい? …ぼくのシャングリラじゃ凄く有難がられるけどねえ…」
ソルジャーからの感謝状は、と重ねて言われても「要らん」と断るキース君。ソルジャーは「欲が無いねえ…」と呆れて帰ってゆきました。おやつも食事も食べずにです。ワクチン作りをするつもりですね、そのために急いで帰りましたね…?
重症のヘタレな教頭先生の血液を採って帰ったソルジャー。今頃はヘタレる前の血液のデータと比較検討中だろうか、とワクチンの話に花が咲いている夕食の席。今夜は会長さんの家にお泊まり、寒いですから豪華寄せ鍋でワイワイと。其処へ…。
「あった、あったよ、ヘタレの抗体!」
もう間違いなくアレに違いない、とソルジャーが姿を現しました。白衣ですけど、本気で研究してたんですか?
「当たり前じゃないか、ちょっとノルディの意識を弄って、メディカルルームの設備を借りて!」
分析していたら前は無かったものを発見! と頬を紅潮させるソルジャー。
「アレこそヘタレの抗体なんだよ、あれを増やしてぼくのハーレイに打ってやればね!」
「…ヘタレが治ると?」
会長さんが自分の器に肉を入れながら尋ねると。
「そうだと思うよ、だってヘタレの抗体なんだし! こっちのハーレイの重症のヘタレから生まれた奇跡の産物、あの抗体から夢のワクチン!」
「はいはい、分かった。…寄せ鍋は食べて行くのかい?」
締めはラーメンと雑炊だけど、と会長さんが誘ったのですが、ソルジャーは。
「そんな時間は無いってね! こんな時こそ、ぼくの普段の食生活の出番!」
栄養剤だけで充分足りる、と消えてしまったソルジャーの姿。寸暇を惜しんでワクチン開発、そんな所だと思われます。でも、ヘタレの抗体って本当に存在するんでしょうか?
「…どうなんだか…。確かに今のハーレイは重症のヘタレだけれど…」
ヘタレはウイルスじゃないと思う、と会長さん。
「俺もそう思う。…ウイルスなら感染しそうだからな」
でもって、あいつが確実に感染している筈だ、とキース君。
「あれだけ濃厚に接触していれば、移らないわけがないと思うぞ。…ヘタレのウイルス」
「そうですねえ…。でも、移ってはいないようですしね?」
ヘタレるどころか逆ですから、とシロエ君も。
「健康保菌者という線もありますけれど…。それにしたって、感染してれば多少はヘタレが…」
「…出そうだよねえ?」
あんなにパワフルなわけがない、とジョミー君だって言っていますし、私だってそう思います。ソルジャーがヘタレていないからには、ヘタレのウイルスは無いでしょう。抗体だって無いと思いますけど、ソルジャーは何を発見したと…?
存在しない筈のヘタレのウイルス、ついでに抗体。けれどソルジャーは教頭先生の血液から何かを発見した上、ワクチンを開発したわけで…。
「聞いてよ、ついに出来たんだよ!」
ヘタレのワクチン! とソルジャーが降ってわいた一週間後。例によって会長さんの家で過ごしていた週末、ソルジャーは最高に御機嫌で。
「完成したのが二日前でさ、直ぐにハーレイに打ったわけ!」
「ちょ、ちょっと…! 安全性も確かめないで!?」
いきなり使ってしまったのか、と会長さんが慌てましたが、ソルジャーはケロリとしたもので。
「え、問題は無いだろう? こっちのハーレイが持ってた抗体なんだし、最初から人間が持ってたわけで…。しかも瓜二つのハーレイだからね!」
そのまま使って問題無し! と胸を張ったソルジャー。
「それにさ、ワクチンは凄く効いたんだよ! もうハーレイはヘタレ知らずで!」
「ま、まさか…」
「本当だってば、現に昨日もガンガンと! あまりの凄さにぶるぅが土鍋から出て来ていたけど、見られていたってヘタレなかったし!」
大満足の夜だったのだ、とソルジャーは意味不明な言葉をズラズラと並べ始めました。会長さんが柳眉を吊り上げ、レッドカードを叩き付けて。
「退場!!!」
「言われなくても、帰るから! ヘタレが治ったハーレイと楽しく過ごしたいしね!」
特別休暇も取ったんだから、とソルジャーは得意満面です。
「あ、そうだ。…こっちのハーレイはワクチンを作る必要があるから、まだまだ当分、ヘタレのままで置いておくからね!」
「…ワクチンはもう出来たんだろう?」
「もっと強力なのが欲しいじゃないか! もっとヘタレたら、抗体だって凄いのが!」
君もハーレイがヘタレてる間は楽が出来るし…、とソルジャーは一方的に語りまくって姿を消してしまいました。ヘタレのワクチンは完成した上、効果もあったみたいです。あのソルジャーが大満足なレベルとなると…。
「…おい、ヘタレのウイルスは存在したのか?」
「そうらしいね…」
この世界にはまだまだ謎が多い、と会長さんが深い溜息。ヘタレのウイルス、あったとは…。
次の日は日曜、ソルジャーは再び会長さんの家に現れ、ワクチンの効能を熱く語りまくり。会長さんがレッドカードを叩き付けたら、「おっと、続き!」と慌てて帰りましたけど…。
「…途中で抜けて来やがったのか…」
迷惑な、とキース君。ソルジャーはキャプテンがシャワーを浴びている間に来たのです。
「…続きってことは、まだまだやるってことですよねえ…」
シロエ君が大きな溜息、サム君が。
「汗をかいたらシャワーだって言ってやがったしなあ、また来るぜ、きっと」
「体力勝負の運動なんだって言っていたしね…」
汗もかくよね、とジョミー君。ソルジャーが言うにはキャプテンのパワーは上がりまくりで、熱棒とやらもガンガン熱くなりつつあるとか。発熱してなきゃいいんですけど…。
「…待てよ、発熱…?」
もしかしたら、と会長さんが考え込んで。
「…キース、それからシロエにマツカ。…ハーレイは先週、鼻風邪を引いてなかったかい?」
「そういえば…。何度か鼻をかんでいらっしゃったな」
「ええ、そうです。それが何か?」
ただの鼻風邪でしたけど、と答えるシロエ君たち。会長さんは「それか…」と腕組みをして。
「それだよ、ヘタレの抗体とやら! ハーレイが持ってた風邪のウイルス!」
「「「ええっ!?」」」
「ブルーはそれを培養したわけ、でもって感染したのが向こうのハーレイで…。風邪で頭がボーッとしちゃって、ヘタレな気持ちが消えたと見たね!」
「「「あー…」」」
ボーッとしてれば、有り得ないこともやりかねません。それじゃキャプテン、只今、順調に発熱中だというわけですか?
「うん、多分…。風邪が治れば、きっと正気に戻ってヘタレになるかと…。鼻風邪の症状が出ていないから分からないんだよ、風邪だってことが!」
だけどブルーはワクチンの効果だと思っているから…、と頭を抱える会長さん。
「効いたと信じているってことはさ、またワクチンを作ろうとするんだよ、ハーレイで!」
「…これからが風邪のシーズンだしなあ、抗体とやらも出来ていそうだな…」
ヤツの勘違いに過ぎないんだが、とキース君が呻いてもソルジャーは聞く耳を持たないでしょう。まあ、会長さんには平和な状態が続くんですから…。
「…冬の間は教頭先生、ヘタレっぱなしかよ?」
「そうなってしまうみたいですねえ…」
風邪のウイルスだと気付かない限りは、とサム君とシロエ君が顔を見合わせ、私たちも。
「…これでいいのかな?」
「あいつがヘタレの抗体なんだと思っているんだ、放っておこう」
俺たちには実害が無いようだから、とキース君。会長さんにも教頭先生からの熱いアタックとかが一切無いわけですし…。
「それじゃ、ヘタレのウイルスは存在していたってことでいいですね?」
シロエ君が纏めにかかって、会長さんが。
「ブルーが自分で気付くまではね、真実に」
いつかは派手な風邪のウイルスに当たって気付くであろう、という見解。その日が来るまで、キャプテンは風邪のウイルスでパワーアップな日々らしいです。教頭先生はワクチン作りのためにヘタレにされたままですけれども、それで平和になるんだったら重症のヘタレも大歓迎です~!
ヘタレの抗体・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
キース君が貰った風邪から、ソルジャーが思い付いたのがヘタレのワクチンを作ること。
そして開発したわけですけど、抗体の正体はまるで別物。まあ、平和ならそれでいいかも…?
次回は 「第3月曜」 6月20日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、5月といえばGWですけど、連休が終わった後の話で…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
寒い季節がやって来ました。今年の冬は意外に早くて、残暑が終わってからの秋が短め。気付けばすっかり冬な雰囲気、風邪だって流行り始めています。私たち七人グループの中でも流行を真っ先に取り入れた人が…。
「ハーックション!」
くっそぉ…、と口を押さえるキース君。早々と風邪を引いてしまって、三日も欠席。ようやっと登校して来たのが今日で、それでもクシャミを連発です。
「…移さないでよね、その風邪」
私たちだって困るんだから、とスウェナちゃん。放課後は「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に来てるんですけど、キース君のクシャミがあるわけで…。
「かみお~ん♪ キースの周りはブルーがシールドしているから大丈夫だよ!」
ウイルスは通さないもんね! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「キースも病院に行くんだったら、シールドして行けば良かったのに…」
「「「は?」」」
キース君は既に風邪を引いています。治療のために病院に行くなら、他の人たちに移さないようマスクでしょうけど、そこをシールドでクリアですか?
「それもあるけど…。シールドしてたら、風邪は引かなかったと思うの!」
だってブルーがそう言ってたもん、ということは…。キース君の風邪は病院仕込み?
「悪かったな! 病院仕込みで!」
そんなつもりは無かったんだ、とキース君は仏頂面。
「俺はこれからのシーズンに備えて予防接種に行っただけで…」
「それってインフルエンザかよ?」
サム君が訊くと、「ああ」と返事が。
「坊主が引いたら話にならんし、毎年、受けているんだが…。それを受けに行って貰って来た」
マスクを持って行くのを忘れた、と無念そう。
「俺の隣に明らかに風邪なご老人が座ってしまってな…。あからさまに席を移れもしないし…」
それは坊主としてどうかと思う、という姿勢は正しいですけど、そのご老人から貰ったんだ?
「そうなるな。…予防接種の副作用かと思ったんだが、どうやら違った」
本物の風邪だ、とまたまたクシャミ。全快するまでは遠そうですねえ…。
流行の最先端を行ってしまったキース君。インフルエンザに罹ってしまえばお坊さんの仕事は出来ませんから、予防接種は当然でしょう。けれど、受けに行った先で風邪を貰って三日も休んだのでは本末転倒とか言いませんか?
「そうなんだが…。月参りにも行けなかったし、親父が文句をネチネチと…」
「「「あー…」」」
気の毒に、と合掌してしまった私たち。キース君は月に何度か遅刻して来て、そういう時には月参りです。檀家さんの家をお坊さんスタイルで回って来た後、制服に着替えて登校なパターン。それがズッコケちゃったんですねえ、風邪のせいで?
「風邪もそうだが、声の方がな…。掠れてしまって出なかったわけで、どうにもならん」
「喉は坊主の命だからねえ…」
マスクしてても声さえ出ればね、と会長さん。
「一人しかいないお寺なんかだと、マスクで月参りもしたりするから…」
「親父にもそう言われたんだ! 情けないヤツだと!」
ついでに親父に借りまで出来た、と呻くキース君。行く予定だった月参りをアドス和尚が引き受けた結果、凄い借りが出来てしまったのだそうで…。
「どういう形で返すことになるのか分からんが…。最悪、お盆まで持ち越しかもな」
「「「お盆?」」」
「卒塔婆だ、卒塔婆! あの時の貸しだ、と俺に卒塔婆書きのノルマがドカンと…」
「「「…卒塔婆書き…」」」
それは毎年、夏になったらキース君を苦しめている作業。山ほどの卒塔婆をアドス和尚と手分けして書いているそうですけど、そこまで借りを返せないままだと…。
「…もしかして全部も有り得ますか?」
シロエ君の言葉に、キース君は。
「…大切な檀家さんの分は親父が書くんだろうが…。最悪のケースも考えないと…」
出来ればそれまでに分割の形で返しておきたい、と苦悶の表情。
「とにかく風邪は二度と御免だ、気を付けないと…」
なんだってこうなったんだか、と言いたい気持ちは分かります。インフルエンザの予防接種に出掛けて風邪って、空しいにも程がありますよねえ…。
とはいえ、無事に終わったのがキース君の予防接種で、次の週には風邪も全快。土曜日も会長さんの家に集まってダラダラ過ごしていたんですけど。
「こんにちはーっ!」
キースの風邪が治ったってね、と現れた別の世界からのお客様。「ぼくにもおやつ!」と「そるじゃぁ・ぶるぅ」に注文をつけていますけれども、野次馬ですか?
「うーん…。野次馬ってわけでもないんだけれど…」
予防接種のことでちょっと、と妙な台詞が。
「「「予防接種?」」」
「うん。…キースは風邪を引いちゃったけれど、インフルエンザには罹らないんだよね?」
「それはまあ…。多分、としか言えないが」
罹る時には罹るらしいし、とキース君。
「あんたの世界ではどうだか知らんが、俺たちの世界では当たり外れがあるからな」
「当たり外れって?」
「打ったワクチンと同じウイルスなら罹らないんだが、別物だと罹る」
インフルエンザのウイルスには種類が幾つかあるからな、とキース君が説明を。
「運が悪いと、別のを端から貰ってしまって罹るケースも皆無ではない」
俺の知り合いにもコンプリートをしたヤツが…、と恐ろしい実話。お坊さん仲間の人らしいですけど、去年の冬にインフルエンザをコンプリートしたらしいです。ワクチンを打ったヤツ以外の。
「…それはある意味、強運だとか言いませんか?」
普通はそこまで出来ませんよ、とシロエ君が言うと。
「俺もそう思う。そいつ自身もそう思ったらしくて、宝くじを大量に買ってみたそうだ」
「へえ…。当たったのかよ、その宝くじ」
サム君の問いに、キース君は。
「当たったらしいぞ、金額は教えて貰えなかったが…」
「「「…スゴイ…」」」
宝くじが当たるんだったら、インフルエンザのコンプリートもいいでしょう。熱とかで多少辛かろうとも、大金がドカンと入るんですしね?
話は宝くじへと向かいましたが、横から止めに入ったソルジャー。「ぼくはワクチンの話をしたいんだけど」と。
「ワクチンって…。何さ?」
君の世界ならインフルエンザのワクチンもさぞかし完璧だろう、と会長さん。
「こっちの世界じゃ、今年はコレが流行りそうだ、っていうのを作って予防接種だけど…」
「あんたの世界の技術だったら、全部纏めていけるんじゃないか?」
医療は進んでいるんだろう、とキース君も。
「それで嘲笑いに来たというわけか。ただでも風邪を貰ってしまった俺の場合は、ワクチンの方もハズレを引いていそうだと!」
「…そうじゃなくって…。ぼくの世界にも無いワクチンについての話なんだよ」
「「「無い!?」」」
ザッと後ろへ下がりそうになった私たち。椅子さえなければそうなったでしょう。
「き、君はどういうウイルスについて語りたいわけ!?」
悲鳴にも似た会長さんの声、私たちも気分は同じです。ワクチンが無いような感染症がソルジャーの世界のシャングリラで流行してるんだったら…。
「頼む、帰ってくれ!!」
俺たちにそれを移す前に、とキース君。
「ウイルスってヤツは侮れないんだ、健康保菌者というのもいるんだ!」
「そうだよ、君は罹っていないつもりでいてもね、実は罹っていてウイルスを撒き散らしているってこともあるから!」
シールドだって効くのかどうか…、と会長さんは震え上がっています。
「どんなウイルスか分からないけど、君子危うきに近寄らず! 用心に越したことはないから!」
「そうです、とにかく帰って下さい!」
話の方は落ち着いたらまた聞きますから、とシロエ君も。
「初期段階での封じ込めってヤツが大切なんです、終息してから来て下さい!」
「シロエが言ってる通りだってば、早く帰ってくれたまえ!」
この部屋は直ぐに消毒するから、と会長さん。別の世界のウイルスだなんて怖すぎな上に、ワクチンが無いと聞いたら恐怖は倍どころか無限大ですから~!
こうして追い出しにかかっているのに、ソルジャーは悠然とソファに腰掛けたままで。
「移る心配なら大丈夫! 移った人は一人も無いしね」
「だけど患者がいるんだろう!」
残りは全員、君も含めて健康保菌者ということも…、と会長さんが指を突き付けました。
「君のシャングリラでは耐性のある人が多いとしてもね、こっちの世界は別だから!」
「そうだぞ、俺は風邪だけで沢山なんだ! この冬は!」
これ以上の感染症は御免蒙る、とキース君も言ったのですけど。
「…アレは普通は移らないと思うよ、罹ってるのはずっと昔から一人だけだし」
「そういう油断が怖いんだよ!」
感染症には色々あるから、と会長さん。
「潜伏期間が二十年とかいうのもあるしね、おまけにワクチンは無いんだろう?」
「そうなんだよねえ、そもそも作ろうと思っていなかったから!」
「「「は?」」」
「ワクチンって方法を思い付かなかったんだよ、対症療法しか考えてなくて!」
それと精神論だろうか、と言ってますけど、病気の人に精神論って、気力で克服しろっていう意味ですか?
「そんなトコだね、精神を鍛えれば克服できると! ヘタレくらいは!」
「「「ヘタレ?」」」
「そう、ヘタレ! 患者はぼくのハーレイなんだよ、君たちも知っている通り!」
どうしようもなくヘタレなのがハーレイ、とソルジャー、ブツクサ。
「ぶるぅが覗きに来たら駄目だし、そうでなくてもヘタレるし…」
「…それは感染症とは違うんじゃないかと思うけど?」
君のハーレイだけの問題だろう、と会長さん。
「第一、ワクチンを作るだなんて…。あれはウイルスの抗体ってヤツを作るわけでさ、ウイルスも無さそうなヘタレの抗体をどうやって作ると?」
「…ウイルスだとは限らないけど、抗体だったら作れそうだと思うんだよ!」
キースの風邪のお蔭で思い付いた、とソルジャーが目を付けた予防接種だのワクチンだの。キャプテンのヘタレにワクチンだなんて、そんなのホントに作れますか…?
ソルジャーが感染症を持ち込んだわけではないらしい、と分かってホッと一息ですけど、今度はワクチンが問題です。キャプテンのヘタレに効くワクチンが作れるかどうかも問題とはいえ、既に発症してるんだったら、ワクチンを作っても無駄なんじゃあ…?
「それがそうでもないんだよ。劇的に効くって例もあるから!」
ワクチンを後から接種しても、と言うソルジャー。
「こっちの世界はどうか知らないけど、ぼくの世界じゃとにかくワクチン! 駄目で元々、ガンガン打つって方向で行くねえ、感染症には!」
なにしろ宇宙は広すぎるから…、という話。新しい惑星に入植するにはリスクがつきもの、未知のウイルスが潜んでいることもあるそうです。そういう時にはワクチン開発、患者にどんどん打つらしくって。
「これが効くってこともあるんだよ、だからワクチンは後からでもいける!」
「…まあ、ぼくたちの世界でも、そういう例は皆無じゃないけど…」
たまに奇跡のように治ってしまう人が…、と会長さん。打つ手が無いという感染症の重症患者にワクチン接種で、治るという例。
「でもねえ…。ヘタレはウイルスじゃないし、本人の気の持ちようだから…」
「あながちそうとも言い切れないよ? 何か原因があるかもだしね!」
だから抗体を作りたいのだ、と言ってますけど、どうやって…?
「簡単なことだよ、ハーレイは二人いるからね!」
こっちの世界に更にヘタレなハーレイが! とソルジャーは教頭先生の家の方へと指を。
「あのハーレイを使ってワクチン製造! 抗体を作る!」
「…それなら、わざわざ作らなくても…。とうに抗体、出来ていそうだよ?」
三百年以上もヘタレてるんだし、と会長さん。
「ヘタレ続けて三百年以上、きっと抗体もある筈で…」
「それじゃ駄目なんだよ、その程度だったら、ぼくのハーレイも抗体を持っていそうだし!」
あれも元からヘタレだから、と言われてみればその通りです。キャプテンにだって出来ていそうな抗体、それでもヘタレのままだとなると…。
「そう、もっと強力な抗体ってヤツが必要なんだよ!」
より重症なヘタレに対応出来る抗体! とグッと拳を握るソルジャー。より重症なヘタレに対応って、そんなワクチン、作れますか…?
ソルジャー曰く、キャプテンに打つためのワクチンは教頭先生を使って製造。しかも強力な抗体が必要、より重症なヘタレに対応出来るように、ということですが…。
「…君はいったい何をする気さ、ハーレイに?」
ぼくにはサッパリ分からないけど、と会長さんが尋ねて、私たちも「うん」と。ソルジャーは「そうかなあ?」と首を傾げて。
「簡単なことだと思うけど? ハーレイが重症なヘタレになったら、抗体だって出来るしね!」
「「「…重症?」」」
今でも充分に重症だろうと思いますけど、まだ足りないと?
「足りないねえ! ヘタレ具合じゃ、ぼくのハーレイとどっこいと見たね!」
環境のせいで余計にヘタレて見えるだけだ、と言うソルジャー。
「ブルーがハーレイを受け付けないから万年童貞、それが災いしているだけ! もしもブルーとデキていたなら、ヘタレ具合は似たようなものかと!」
こっちのハーレイがヤレる環境にいたとしたなら、鼻血体質もとっくに克服しているだろう、とソルジャーはキッパリ言い切りました。
「ぼくのハーレイも、最初の間は、何かと遠慮がちだったしねえ…」
今のようなハーレイになれるまでには色々と…、とソルジャーは昔語りモードに入ろうとしましたけれども、会長さんが素早くイエローカードを。
「その先、禁止! 今はワクチンの話だから!」
「…そうかい? これからが面白いんだけど…。でもまあ、いいか…」
大切なのはワクチンだから、とソルジャーは気持ちを切り替えたようで。
「要は、こっちのハーレイを今よりヘタレに! その状態になれば、強い抗体が出来るんだよ!」
「…今よりヘタレって、どんな具合に?」
ちょっと想像つかないんだけど、と会長さんが訊くと。
「それはもちろん、ヘタレMAX! 君の顔もまともに見られないとか、そういうレベル!」
出会っただけで顔を赤くして俯くだとか…、とブチ上げるソルジャー。
「その辺はサイオンでどうとでも出来るよ、ハーレイの精神をチョイと弄れば!」
「…わざとヘタレにしてしまうと?」
「その通り! 君にも悪い話じゃないから!」
ハーレイで色々と苦労をしてるじゃないか、と笑顔のソルジャー。それは確かに間違ってませんねえ、教頭先生の思い込みの激しさはピカイチですしね?
教頭先生をサイオンで重度のヘタレに仕立てて、ヘタレの抗体を作ろうというソルジャーの案。日頃から教頭先生に一方的に愛されている会長さんからすれば、悪い話ではないわけで…。
「なるほど、ハーレイが今よりヘタレにねえ…」
そうなればぼくも追われないだろうか、という呟きにソルジャーが。
「まるで追われないとは言わないけれど…。君への愛は消えないからね! でもさ…」
せいぜい「読んで下さい」とラブレターを渡して逃げ去る程度、と溢れる自信。
「そのラブレターだって、小学生だか幼稚園児だか、ってレベルになるのは間違いないね!」
「そうなんだ? だったら、ぼくは当分の間、平和に生活出来るってことか…」
「お金を毟るのは難しいかもしれないけどね!」
ヘタレたら貢ぐ度胸があるかどうか、と言ってますけど、会長さんは。
「お金に不自由はしてないし…。ハーレイが静かになると言うなら、多少のことは我慢するよ。どうせいつかは治るんだろう? 重度のヘタレも」
「そりゃあ、永遠にっていうわけじゃないよ」
ワクチンが出来たら用済みだから、とソルジャー、アッサリ。
「で、作ってもいいのかな? ヘタレのワクチン」
「面白そうだし、やってみたら? …ヘタレの抗体があるかどうかは謎だけど」
「ありがとう! それじゃ早速…」
「ハーレイに相談しに行くのかい?」
ワクチン作りの、と会長さんが訊いたのですが。
「相談なんかをするとでも? 逃げられるに決まっているじゃないか!」
自分がヘタレになるだなんて、とソルジャーは指を左右にチッチッと。
「ぼくはハーレイに会いに行くだけ、そして話をしてくるだけ!」
「…それでどうやったらヘタレになるのさ?」
「サイオンで意識の下に干渉! 細かい作業をするなら会わないとね!」
遠隔操作では上手くいかないものだから…、と本気のソルジャー。
「ぼくと楽しくお茶を飲んでから送り出したら、ヘタレ発動! もう重症の!」
それは凄いヘタレが出来るであろう、とソルジャーはソファから立ち上がりました。
「行ってくるから、サイオン中継で様子を見ててよ。ヘタレのワクチン、頑張らなくちゃ!」
善は急げ、と瞬間移動で消えたソルジャー。行き先は教頭先生の家ですよね?
会長さんの家に残された私たちの前には、「そるじゃぁ・ぶるぅ」がサイオン中継の画面を出してくれました。教頭先生のお宅が映っています。ソルジャーがチャイムを押していますが…。
「どちらさまですか?」
「ぼくだけど?」
それだけで分かったらしい教頭先生、いそいそと玄関の扉を開けに出て来て。
「これはようこそ…! 寒いですから入って下さい」
「ありがとう。…君の家にホットココアはあるかな?」
「ああ、好物でらっしゃいましたね。…直ぐにご用意いたしますから」
リビングへどうぞ、と教頭先生はソルジャーを招き入れてキッチンでホットココアの用意を。クッキーも添えて歓迎モードで、自分用にはコーヒーで。
「…それで、本日の御用件は?」
「ちょっとね、ぼくのハーレイの健康のことで相談が…。かまわないかな?」
「もちろんです。私で分かることでしたら」
「助かるよ。…実は体質のことで悩んでいてさ…。あれって改善できるものかな?」
君は頑丈そうだけれども、ぼくのハーレイの方はちょっと…、と言うソルジャー。
「君ほど体力とかは無いだろうしね、もっと頑丈になってくれたら色々と…」
「何か問題でもあるのですか?」
「夫婦の時間のパワーってヤツだよ、頑丈になれば長持ちするかと…」
あっちの方も、と意味深な台詞に、教頭先生は「そうですねえ…」と顎に手を当てて。
「生憎と私は、そちらの方では経験が無くて…。ですが、可能性としては有り得ますね」
「じゃあ、君の体力をぼくのハーレイが身に付けたならばパワーの方も…」
「増してくるかもしれません。…断言することは出来ませんが…」
「分かった。だったら、ちょっと協力してくれるかな?」
データを取ってみたいから、とソルジャーが何処からか出した注射器。教頭先生は「血液の方のデータですか?」と目を剥きましたが、ソルジャーは。
「ぼくの世界は医療も進んでいるからねえ…。血液検査で色々なことが分かるんだよ」
「そうでしたか。では、どうぞお好きなだけお取り下さい」
教頭先生が袖をまくって、ソルジャーが「そんなに沢山は要らないから」と採血を。注射器に一本分っていう量ですねえ、教頭先生には大した量でもないんでしょうね。
ソルジャーは教頭先生に「献血の御礼」と頬にキスして帰って来ました。瞬間移動で。教頭先生は感激の面持ちで頬を触っていらっしゃいます。ちっともヘタレていませんよ?
「それはどうかな? その場でヘタレちゃ、つまらないしね」
じきに効果が、とソルジャーが指差している中継画面。教頭先生、嬉しそうに頬を撫でていらっしゃったのが、いきなりボンッ! と真っ赤な顔に。
「「「???」」」
何事なのか、と思いましたが、教頭先生は両方の頬に手を当てると…。
「…き、キスをして貰えたとは…。まさか頬に…」
嬉しいけれども恥ずかしすぎる、と教頭先生とも思えぬ台詞が。
「ど、どうすればいいのだ、私は…! か、顔がどんどん熱くなるのだが…!」
なんという恥ずかしい、いや嬉しい、と怪しすぎる反応、いったいどうなっているのでしょう?
「ほらね、ヘタレに拍車がかかった! たったあれだけで顔が真っ赤に!」
後はどんどんヘタレてゆくだけ、とソルジャーはニヤニヤしています。
「ヘタレる前の血液は採ったし、キッチリと保存しておいて…。重症のヘタレに抗体が出来た頃にもう一度採血してから比較して、と…」
「そうか、比べれば分かるんだ? 違いがあれば」
ヘタレの抗体があるのかどうかは知らないけれど、と会長さんが大きく頷いています。
「抗体らしきものが見付かったら、それでワクチンを作るんだね?」
「そういうこと! ぼくは頑張るから!」
ワクチンなんかは作ったこともないんだけれど、と言うソルジャーはド素人でした。そんなのでワクチンが作れるでしょうか、素人なのに…?
「任せといてよ、ダテにソルジャーはやってないから!」
「「「は?」」」
「ソルジャー稼業をやってる間に、研究所にだって潜入したから!」
研究者たちと一緒に仕事もしたから大丈夫! と自信たっぷり、あちらの世界のドクター・ノルディの情報も参考にするそうです。ただしコッソリ忍び込んで。
「さっき採ったハーレイの血液だってね、メディカルルームで分析だから!」
そしてヘタレのワクチンを作ろう! と拳を突き上げているソルジャー。ヘタレの抗体だの、ワクチンだのって、どう考えても無理じゃないかと思いますけどね…?
そんなこんなで始動してしまった、ヘタレのワクチンを作るプロジェクト。ソルジャーに重症のヘタレになるよう仕掛けをされた教頭先生は…。
「…ずいぶんヘタレて来たよね、あれは」
ぼくに会ったら俯くんだから、と会長さんがクックッと笑う週末。今や教頭先生は会長さんの前では恋に恋する乙女さながら、視線を上げることすら出来ない始末。会釈しながら脇を通り過ぎ、頬を真っ赤に染めて通過で。
「あんた、面白いからと頻繁に出歩いているだろうが!」
普段だったら学校の中は滅多に歩いていないくせに、とキース君。
「わざわざ教頭室のある本館まで行ったり、教頭先生の授業が終わった頃合いで出て来たり…」
「出歩かないと損だろう? あんなハーレイ、そうそう見られやしないんだから!」
楽しんでなんぼ、というのが会長さんの持論です。教頭先生は自分がどうしてヘタレたのかも分かっておられず、自分で集めた会長さんの写真や抱き枕も正視出来ない状態らしくて。
「ぼくの写真はまだマシなんだよ、ブルーの写真は完全にアウト」
見るだけで鼻血、とクスクスと。
「ブルーがせっせと贈ったからねえ、きわどいのを…。今までだったら夜になったら楽しんでオカズにしていたけれども、もう駄目でさ」
「「「おかず?」」」
「けしからぬ気分になりたい時の必須アイテム!」
それを見ながら盛り上がるのだ、と説明されて分かったような、分からないような。…ともあれ、今の教頭先生はオカズとやらも要らない状態なんですね?
「そうらしいねえ、孤独に噴火するだけの度胸も無いようだね!」
「かみお~ん♪ ブルーの写真に「おやすみ」のキスも出来ないみたい!」
頬っぺたが真っ赤になって駄目なの! と言う「そるじゃぁ・ぶるぅ」も覗き見をしているみたいです。いつもだったら会長さんが止めているのに、それをしないということは…。
「…お子様が見ていても大丈夫なレベルにヘタレちゃいましたか…」
凄いですね、とシロエ君が教頭先生の家の方角へ目を遣り、サム君も。
「そこまでっていうのが半端じゃねえよな、ラブレターも来ねえっていうのがよ…」
「渡せる度胸は既に無さそうだよ?」
俯いて横を通るようでは、とジョミー君。日を重ねるごとに酷くなるヘタレ、果たして何処までヘタレるのやら…。
教頭先生がヘタレまくって二週間。もはや会長さんと会ったらサッと物陰に隠れるレベルで、熱い視線だけが届くそうです。心拍数も上がりまくりで、口から心臓が飛び出しそうなほどにドキドキな恋する乙女だとか。
「…まだヘタレるのかな?」
もう相当に重症だけど、とジョミー君が首を捻っている土曜日、会長さんの家のリビング。空気がユラリと揺れたかと思うと、ソルジャーがパッと御登場で。
「こんにちは! そろそろヘタレの抗体が出来ていそうだからねえ!」
今日は採血に来てみましたー! と注射器を持参。でも、教頭先生はヘタレまくりで、ソルジャーとお茶なんかを飲める状態ではありませんけど?
「そこの所は、ぼくもきちんと考えた! ぼくなりに!」
この姿で行けば無問題! とソルジャーの姿がパッと変わってキャプテンに。えーっと、サイオニック・ドリームですかね、その姿って…?
「そうだけど? この格好なら、ハーレイだって気にしないからね!」
ちょっと行ってくる! と瞬間移動で消えたソルジャー、いえ、キャプテン。私たちが「そるじゃぁ・ぶるぅ」の中継画面を覗き込んでいると、ソルジャーは例によってチャイムを鳴らして。
「こんにちは、お邪魔致します」
「…は?」
どうしてあなたが、と出迎えた教頭先生はキャプテンの正体に気付かないまま、リビングでコーヒーなんかを出しておられます。ソルジャーは怪しまれないように熱いコーヒーを傾けながら。
「…いえ、先日、ブルーがこちらで相談に乗って頂いたとかで…。体質のことで」
「そういえば…。血液検査の結果はどうだったのでしょう?」
「とてつもなく健康でいらっしゃることが分かりましたね、もう驚きです」
私などではとてもとても…、とキャプテンの演技を続けるソルジャー。
「それでですね、追加の検査をしたいそうですが、ブルーは時間が取れないのだそうで…」
「ああ、それで代理でいらっしゃったというわけですか」
「はい。ブルーに送って貰いました。…そのぅ、失礼ですが…」
「血ですね、どうぞご遠慮なく」
お取り下さい、と袖をまくった教頭先生。キャプテンならぬソルジャーとも知らずに血液提供、後はコーヒー片手に健康談義。ヘタレるのは会長さんやソルジャー相手だけなんですねえ、まったく普通に見えますってば…。
キャプテンのふりをして出掛けたソルジャーは、やがて嬉しそうに帰って来ました。
「やったね、ハーレイの血液をゲット!」
あれだけあったら比較も出来るし、と教頭先生の血はソルジャーの世界へ送られたようです。帰ったら直ちに分析開始で、ヘタレの抗体が見付かった時はワクチン作りに入るとか。
「無事に見付かるといいんだけどねえ、ヘタレの抗体!」
「…ぼくにはあるとは思えないけどね?」
そんな代物、と会長さんが頭を振っていますが、ソルジャーは「きっとある筈!」と譲りません。
「あれだけ酷いヘタレなんだよ、今のハーレイは! そうでなくてもハーレイはヘタレだし、二人ともそうだし…。調べれば何かが見付かる筈で!」
「それが見付かったらどうするわけ?」
「決まってるだろう、もう最初からの目的通り! ぼくのハーレイにワクチンを打つ!」
そしてヘタレを克服なのだ、とソルジャーの主張。本当にヘタレの抗体があるなら、ワクチンも夢ではないんでしょうけど…。
「抗体さえあれば、ワクチンは出来る! もう別人のように生まれ変わったハーレイだって出来る筈だよ、それでヘタレが治るんだから!」
どうしてこんな簡単な方法に今まで気付かなかったんだろう、とソルジャーは自分の頭をコツンと叩いて。
「キースの風邪には感謝してるよ、お蔭でアイデアが生まれたからね!」
「い、いや…。俺は普通に予防接種に出掛けただけで、だ…」
「それは毎年行っているだろ、ぼくだって知っていたんだし…。風邪を貰ってくれたからこそ、予防接種とワクチンに注目出来たんだよ!」
君が今回の功労者だ、とキース君の手をグッと握って握手なソルジャー。
「ワクチンが見事に完成したなら、君に感謝状を贈らないとね!」
「い、要らん! 俺はそういうつもりで風邪を引いたわけではないんだし…!」
明らかに腰が引けているのがキース君。それはそうでしょう、ソルジャーからの感謝状なんて、欲しいような人は誰もいませんし…。
「要らないのかい? …ぼくのシャングリラじゃ凄く有難がられるけどねえ…」
ソルジャーからの感謝状は、と重ねて言われても「要らん」と断るキース君。ソルジャーは「欲が無いねえ…」と呆れて帰ってゆきました。おやつも食事も食べずにです。ワクチン作りをするつもりですね、そのために急いで帰りましたね…?
重症のヘタレな教頭先生の血液を採って帰ったソルジャー。今頃はヘタレる前の血液のデータと比較検討中だろうか、とワクチンの話に花が咲いている夕食の席。今夜は会長さんの家にお泊まり、寒いですから豪華寄せ鍋でワイワイと。其処へ…。
「あった、あったよ、ヘタレの抗体!」
もう間違いなくアレに違いない、とソルジャーが姿を現しました。白衣ですけど、本気で研究してたんですか?
「当たり前じゃないか、ちょっとノルディの意識を弄って、メディカルルームの設備を借りて!」
分析していたら前は無かったものを発見! と頬を紅潮させるソルジャー。
「アレこそヘタレの抗体なんだよ、あれを増やしてぼくのハーレイに打ってやればね!」
「…ヘタレが治ると?」
会長さんが自分の器に肉を入れながら尋ねると。
「そうだと思うよ、だってヘタレの抗体なんだし! こっちのハーレイの重症のヘタレから生まれた奇跡の産物、あの抗体から夢のワクチン!」
「はいはい、分かった。…寄せ鍋は食べて行くのかい?」
締めはラーメンと雑炊だけど、と会長さんが誘ったのですが、ソルジャーは。
「そんな時間は無いってね! こんな時こそ、ぼくの普段の食生活の出番!」
栄養剤だけで充分足りる、と消えてしまったソルジャーの姿。寸暇を惜しんでワクチン開発、そんな所だと思われます。でも、ヘタレの抗体って本当に存在するんでしょうか?
「…どうなんだか…。確かに今のハーレイは重症のヘタレだけれど…」
ヘタレはウイルスじゃないと思う、と会長さん。
「俺もそう思う。…ウイルスなら感染しそうだからな」
でもって、あいつが確実に感染している筈だ、とキース君。
「あれだけ濃厚に接触していれば、移らないわけがないと思うぞ。…ヘタレのウイルス」
「そうですねえ…。でも、移ってはいないようですしね?」
ヘタレるどころか逆ですから、とシロエ君も。
「健康保菌者という線もありますけれど…。それにしたって、感染してれば多少はヘタレが…」
「…出そうだよねえ?」
あんなにパワフルなわけがない、とジョミー君だって言っていますし、私だってそう思います。ソルジャーがヘタレていないからには、ヘタレのウイルスは無いでしょう。抗体だって無いと思いますけど、ソルジャーは何を発見したと…?
存在しない筈のヘタレのウイルス、ついでに抗体。けれどソルジャーは教頭先生の血液から何かを発見した上、ワクチンを開発したわけで…。
「聞いてよ、ついに出来たんだよ!」
ヘタレのワクチン! とソルジャーが降ってわいた一週間後。例によって会長さんの家で過ごしていた週末、ソルジャーは最高に御機嫌で。
「完成したのが二日前でさ、直ぐにハーレイに打ったわけ!」
「ちょ、ちょっと…! 安全性も確かめないで!?」
いきなり使ってしまったのか、と会長さんが慌てましたが、ソルジャーはケロリとしたもので。
「え、問題は無いだろう? こっちのハーレイが持ってた抗体なんだし、最初から人間が持ってたわけで…。しかも瓜二つのハーレイだからね!」
そのまま使って問題無し! と胸を張ったソルジャー。
「それにさ、ワクチンは凄く効いたんだよ! もうハーレイはヘタレ知らずで!」
「ま、まさか…」
「本当だってば、現に昨日もガンガンと! あまりの凄さにぶるぅが土鍋から出て来ていたけど、見られていたってヘタレなかったし!」
大満足の夜だったのだ、とソルジャーは意味不明な言葉をズラズラと並べ始めました。会長さんが柳眉を吊り上げ、レッドカードを叩き付けて。
「退場!!!」
「言われなくても、帰るから! ヘタレが治ったハーレイと楽しく過ごしたいしね!」
特別休暇も取ったんだから、とソルジャーは得意満面です。
「あ、そうだ。…こっちのハーレイはワクチンを作る必要があるから、まだまだ当分、ヘタレのままで置いておくからね!」
「…ワクチンはもう出来たんだろう?」
「もっと強力なのが欲しいじゃないか! もっとヘタレたら、抗体だって凄いのが!」
君もハーレイがヘタレてる間は楽が出来るし…、とソルジャーは一方的に語りまくって姿を消してしまいました。ヘタレのワクチンは完成した上、効果もあったみたいです。あのソルジャーが大満足なレベルとなると…。
「…おい、ヘタレのウイルスは存在したのか?」
「そうらしいね…」
この世界にはまだまだ謎が多い、と会長さんが深い溜息。ヘタレのウイルス、あったとは…。
次の日は日曜、ソルジャーは再び会長さんの家に現れ、ワクチンの効能を熱く語りまくり。会長さんがレッドカードを叩き付けたら、「おっと、続き!」と慌てて帰りましたけど…。
「…途中で抜けて来やがったのか…」
迷惑な、とキース君。ソルジャーはキャプテンがシャワーを浴びている間に来たのです。
「…続きってことは、まだまだやるってことですよねえ…」
シロエ君が大きな溜息、サム君が。
「汗をかいたらシャワーだって言ってやがったしなあ、また来るぜ、きっと」
「体力勝負の運動なんだって言っていたしね…」
汗もかくよね、とジョミー君。ソルジャーが言うにはキャプテンのパワーは上がりまくりで、熱棒とやらもガンガン熱くなりつつあるとか。発熱してなきゃいいんですけど…。
「…待てよ、発熱…?」
もしかしたら、と会長さんが考え込んで。
「…キース、それからシロエにマツカ。…ハーレイは先週、鼻風邪を引いてなかったかい?」
「そういえば…。何度か鼻をかんでいらっしゃったな」
「ええ、そうです。それが何か?」
ただの鼻風邪でしたけど、と答えるシロエ君たち。会長さんは「それか…」と腕組みをして。
「それだよ、ヘタレの抗体とやら! ハーレイが持ってた風邪のウイルス!」
「「「ええっ!?」」」
「ブルーはそれを培養したわけ、でもって感染したのが向こうのハーレイで…。風邪で頭がボーッとしちゃって、ヘタレな気持ちが消えたと見たね!」
「「「あー…」」」
ボーッとしてれば、有り得ないこともやりかねません。それじゃキャプテン、只今、順調に発熱中だというわけですか?
「うん、多分…。風邪が治れば、きっと正気に戻ってヘタレになるかと…。鼻風邪の症状が出ていないから分からないんだよ、風邪だってことが!」
だけどブルーはワクチンの効果だと思っているから…、と頭を抱える会長さん。
「効いたと信じているってことはさ、またワクチンを作ろうとするんだよ、ハーレイで!」
「…これからが風邪のシーズンだしなあ、抗体とやらも出来ていそうだな…」
ヤツの勘違いに過ぎないんだが、とキース君が呻いてもソルジャーは聞く耳を持たないでしょう。まあ、会長さんには平和な状態が続くんですから…。
「…冬の間は教頭先生、ヘタレっぱなしかよ?」
「そうなってしまうみたいですねえ…」
風邪のウイルスだと気付かない限りは、とサム君とシロエ君が顔を見合わせ、私たちも。
「…これでいいのかな?」
「あいつがヘタレの抗体なんだと思っているんだ、放っておこう」
俺たちには実害が無いようだから、とキース君。会長さんにも教頭先生からの熱いアタックとかが一切無いわけですし…。
「それじゃ、ヘタレのウイルスは存在していたってことでいいですね?」
シロエ君が纏めにかかって、会長さんが。
「ブルーが自分で気付くまではね、真実に」
いつかは派手な風邪のウイルスに当たって気付くであろう、という見解。その日が来るまで、キャプテンは風邪のウイルスでパワーアップな日々らしいです。教頭先生はワクチン作りのためにヘタレにされたままですけれども、それで平和になるんだったら重症のヘタレも大歓迎です~!
ヘタレの抗体・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
キース君が貰った風邪から、ソルジャーが思い付いたのがヘタレのワクチンを作ること。
そして開発したわけですけど、抗体の正体はまるで別物。まあ、平和ならそれでいいかも…?
次回は 「第3月曜」 6月20日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、5月といえばGWですけど、連休が終わった後の話で…。
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(美味しそう…)
それに綺麗、とブルーが眺めた新聞の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
評判が高い料理のお店で、いつも予約で一杯らしい。行くなら予約をするのが一番。でないと、席が無いことの方が多いから。キャンセルが出ても、直ぐに埋まってしまうから。
それでも通り掛かった人が「空いてますか?」と尋ねるほど。店の表に出ている料理の写真が、これと同じに美味しそうだから。添えられたメニューも素敵だから。
(予約無しでも、運が良ければ入れるんだ…)
急なキャンセルは、ありがちなもの。友達と行こうと予約したのに、友達が来られないだとか。家族で行こうと計画したのに、誰かの都合が悪くなったとか。
けれど確実に入りたいなら、予約すること。この日の何時にお願いします、と。
(お休みの日にはハーレイが来るから、行かないけどね?)
両親と食事に出掛けてゆくより、ハーレイと過ごす方がいい。母が作った料理を食べて、お茶やお菓子も楽しんで。
どんなに料理が美味しそうでも、お店に行くより家にいる方がいいんだから、と考えながら読み進めた記事。お料理なんかに釣られないよ、と。
そうしたら、驚かされたこと。「行かないんだから」と思った、このお店は…。
(小さな子供は…)
予約をしたって入れない店。雰囲気を壊してしまうから。
子供連れなら、予約の時に訊かれる年齢。「お子様は何歳でらっしゃいますか?」と。その子の年が足りなかったら、断られてしまう。予約なしでも変わらないルール。「何歳ですか?」と。
(ぼくの年だと、大丈夫だけど…)
ちょっぴり酷くないだろうか、と思った「小さな子供は入れない」決まり。
美味しそうな料理が出される店なら、子供だって食べてみたいだろうに。家族の誰かが出掛けて来たなら、話を聞いて行ってみたくもなるのだろうに。
(なんだかガッカリ…)
お店への夢が壊れてしまった。最初は一目で惹かれたのに。…料理の写真を目にしただけで。
同じように写真を眺めた子供も、きっと大勢いるのだろうに。お店に入れない年の子でも。
その子供たちの夢が砕けてしまう店。「行きたいよ」と強請ってみたって、行けないのだから。
おやつを食べ終えて、戻った二階の自分の部屋。
勉強机に頬杖をついて、さっきの記事を思い出す。美味しそうだった料理の写真も。
(あんなに素敵な料理のお店…)
子供だって入っていいと思う、と消えない不満。「ホントに酷い」と。
自分は入れる年だけれども、入れない年の子供たちのことを思ったら。あの記事を見て、お店に行きたくなった子供も可哀相だけれど、もっと可哀相な子供もいそう。
(お店の前には、料理の写真とメニューが出してあるんだから…)
通り掛かって食べたくなる子もいるだろう。「これ、美味しそう!」と、歓声を上げて。
其処で普通のお店だったら、「此処で食べよう」と家族で入ってゆけるのに。ワクワクしながら店の扉を開けて入れるのに、あの店の場合はそうはいかない。
きっと写真やメニューと一緒に、注意書きも添えてあるのだろう。小さな子供は入れないこと。子供はそれに気付かなくても、大人は気付く筈だから…。
「入りたいよ」と駄々をこねても、「子供は駄目なお店だから」と言われてしまう。そう書いてある、と指差されて。「入っても、外に出されてしまうよ」と。
もしもそんな目に遭ったとしたなら、心が傷ついてしまいそう。「どうして駄目なの?」と。
目を真ん丸にして父や母を見上げて、「嘘でしょ?」とも。
(ぼくなら、泣きそう…)
両親と街を歩いていた時、そういう店に出会ったら。何も知らずに料理に惹かれて、入りたいと思った素敵なお店。「此処がいいな」と足を止めたのに、「ブルーは駄目」と言われたら。
「ブルーの年だと入れないよ」と父が教えてくれたなら。母も「そうね」と頷いたなら。
いつも優しい筈の両親、その両親に「駄目」と引っ張られる手。
「此処は駄目だから、他のお店」と、「他にもお店は沢山あるから」と。
食べたい料理は、この店にしか無さそうなのに。メニューの写真はそういうものだし、何処にも同じものは無いのに。
分かっているのに、入れないお店。小さな子供はお断りの店で、子供の我儘は通らないから。
きっとホントに泣いちゃうんだよ、と光景が目に浮かぶよう。お店の表で踏ん張って泣くことはしないけれども、涙がポロポロ零れるだろう。「どうしてなの?」と。
美味しそうなのに、自分は入れないお店の料理。それが食べたいのに、子供は入れて貰えない。納得出来るわけがないから、泣きながら店を離れるのだろう。「ぼくは駄目なの?」と、振り返りながら。「あそこのお店が良かったのに」と。
歩く間も、止まらない涙。他のお店に入った後にも、まだポロポロと零れそう。
父がメニューを広げてくれて、「こんなのもあるぞ」と指差したって、母が「これも素敵よ」と言ったって。それがどんなに美味しそうでも、本当に食べたかった料理は…。
(…入れなかったお店の料理…)
今いる店には無い料理。だから注文して料理が来たって、またまた溢れ出しそうな涙。此処でもこんなに美味しいのならば、さっきのお店はもっと美味しい筈なのに、と。
(好き嫌いが無いのと、食べたいかどうかは別だから…)
泣きながら食べていそうな料理。子供が喜びそうなプレートで出て来ても。可愛らしい子供用のエプロンなんかを着けて貰っても、スプーンやフォークが子供用の特別なデザインでも。
(その内に涙は止まるだろうけど…)
御機嫌で食べるのだろうけれども、それまでの間。悲しい気持ちが消えない間は、涙が幾つも。
「どうして子供は入れないの?」と。
何も悪いことはしていないのに。お店に迷惑をかけてはいないし、入りたかっただけなのに。
写真の料理がとても美味しそうで、食べてみたいと思ったから。それが食べたくなったから。
けれど、入れもしなかった店。「小さな子供は入れませんよ」と、入る前から断られて。
そうなったならば、悲しくてたまらないだろう。自分がその目に遭ったとしたら、ポロポロ零すだろう涙。別のお店に入った後にも、其処で料理が出て来た後も。
(だって、断られちゃったんだから…)
小さな子供だというだけで、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、ぶつけた気持ち。
どう考えても、あんまりだから。小さな子供を断る店など、酷すぎるから。
「あのね、ハーレイ…。今日の新聞、酷いんだよ」
読んだら悲しくなって来ちゃった、と鳶色の瞳の恋人に報告。「あんまりだよ」と勢い込んで。
「酷いって…。お前の悪口でも書いてあったのか?」
今のお前ってことは無いから、前のお前だな。…ソルジャー・ブルー。
大英雄の悪口というのも珍しいが、とハーレイは派手に勘違いをした。「どう酷いんだ?」と。
「そうじゃないけど…。ぼくの悪口じゃないんだけれども、似たような感じ…」
ぼくが今より小さかったら、きっと悪口になるんだよ。子供は駄目です、って言うんだから。
新聞に記事が載ってたんだよ、小さな子供は入れないお店。
美味しそうなお店だったのに…。お料理の写真、とっても素敵だったのに。
でもね、小さな子供は入っちゃ駄目なんだって。…ハーレイ、酷いと思わない?
「…たまにあるだろ、そういう店」
多くはないが、珍しいとも思わないな、というのがハーレイの意見。驚いたことに。
「そうなの? それじゃ、ハーレイは酷いと思わないわけ?」
お店のやり方が正しいって言うの、小さな子供は入れないんだよ?
「まるで間違ってはいないと思うぞ。ゆったりと落ち着いて食事したい人も多いんだから」
そういうつもりで店に入っても、小さな子供がいたんじゃなあ…。
子供はどうしても賑やかに騒いじまうモンだし、走り回ったりする子もいるだろうが。
一緒に遊べる子がいなくたって、元気な子供はじっとしていないぞ?
お気に入りの歌を歌い出すとか、ナイフやフォークを振り回すとかな。
他のお客さんの気持ちを考えてみろ、とハーレイは店の肩を持つ方。店の雰囲気を保つためには必要なことで、小さな子供は駄目というのも不思議ではない、と。
「お客さんのために作った決まりだ。ごゆっくり食事をなさって下さい、というサービスだ」
子供が走り回っていったんじゃ、どうにも落ち着かないからな。歌にしたって。
「…そうじゃない子も沢山いるよ?」
大人しく座って食事をする子。…小さかった頃の、ぼくだって、そう。
パパやママとはお喋りしたけど、大きな声ではなかったと思う…。歌を歌ったりもしないよ。
それにお店で走りもしない、と言ったのだけれど。
「俺も充分、分かっちゃいるが…。店の方でも、そいつは承知しているぞ」
だがな、店が選んじゃ駄目だろうが。入って来た客の品定めってヤツは良くないぞ。
同じ子供でも、この子は店に入ってもいいが、この子は駄目だ、って言われて嬉しいか?
店に入ったら振り分けられてだ、入れる子供と断られる子に分かれちまうのは。
「それは嫌かも…。お店の人が決めるんだよね?」
ぼくは入れる方の子供でも、他の子供が断られるのを見たら楽しくなくなっちゃうよ。
いくら美味しいお料理が出ても、きっと、とっても悲しい気持ち。
断られてションボリ出て行く子供を見ちゃったら。…あの子も食べたかったよね、って…。
「分かったか。そうならないよう、最初から纏めて断ってるんだ」
大人しく出来る年になるまで、子供は全部駄目だとな。行儀のいい子も、そうでない子も。
それならそういうルールなんだし、お客さんにも失礼じゃない。
子供連れで入っちゃ駄目な店だ、と思うだけだし、不愉快な思いをすることもない。他の誰かの子供が食事をしてるというのに、自分の子供は断られちまって、ムッとするとか。
色々な人のことを思えば、一番安心なルールだな。
ゆっくり食事をしたい人にも、子供と一緒に楽しく食事をしたい人にも。
そうだろうが、と説明されたら、分からないでもないけれど。ハーレイの言葉が、きっと正しいけれども、それでも心に引っ掛かること。
ゆっくり食事をしたい大人も、子供連れの大人も、「これはルールだ」と分かるのだけれど。
小さな子供は、そんなルールは分からない。現に自分も、ハーレイに聞くまで怒っていたほど。なんという酷い店だろうか、と。
「それがルールかもしれないけれど…。だけど、子供は傷ついちゃうよ?」
小さいだけで、お店に入れないなんて。…美味しそうでも、お料理、食べられないなんて…。
ぼくならホントに泣いてしまうよ、入れても貰えないんだから。
「そうなっちまう子もいるんだろうが…。其処は前向きに考えないとな」
いつか入れる時は来るんだ、大きくなったら。そしたら此処に食べに来よう、と思うべきだぞ。
負けるもんかと、大きくなって来てやるんだから、と。
「…そういうものなの?」
ぼくだと、ポロポロ泣いていそうだけれど…。あのお店、ぼくは入れないんだ、って。
「いつまでも泣いちゃいないだろう? その内に機嫌も直るしな」
最初は悲しい気持ちになっても、何処かで考えを切り替えるもんだ。その日は無理でも、もっと先でも。…ある時、そいつに気付くってな。「大きくなったら行けるじゃないか」と。
ずっと子供のままじゃないから、いつかは行ける。店に入れる時が来るんだ。
もっとも、お前はチビのままでだ、少しも育ちやしないんだが。
「それは余計だよ、あのお店、ぼくでも入れるよ!」
ぼくの年なら入れるんだけど、入れない子が可哀相…。新聞の写真で行きたくなった子も、街で見掛けて入りたくなった小さな子供も。
「これが食べたい」ってパパやママに言っても駄目なんだよ?
此処は子供は駄目なお店、って言われておしまい。…どうして駄目なのか、分からないのに。
ハーレイが教えてくれたようなこと、小さな子供じゃ、聞いても意味が掴めないのに…。
お行儀のいい子ほど可哀相、と訴えた。お店の雰囲気を壊さないのに、小さな子供というだけで駄目。入れる資格は充分あるのに、年が足りないというだけで。
「そうでしょ、年の問題だけだよ?」
お店の人が入っていいかを決めるよりかはマシだろうけど、やっぱり可哀相だと思う。
あと一週間で入れる年になるんです、っていう子供だって入れないんだから。
「まあな。そういう意味では、可哀相かもしれないが…」
しかし、大きくなったら入れる。どんな子供でも、店が決めてる年になったら。
いつまで経っても入れて貰えないってわけじゃないだろ、其処はデカイぞ。
将来に夢と希望が持てるし、たかが料理の店にしたって、入れる時が必ず来るというのはな。
「ハーレイ、それって…。どういう意味?」
お店の話と違うみたいに聞こえるんだけど…。お料理を食べに行く話とは。
「気付いたか? 前の俺たちの頃の話だ、今じゃとっくに昔話になっちまったが…」
あの時代にミュウに生まれちまったら、いつまで経とうがミュウのままだぞ。
いくら待っても、人類になれるわけじゃない。
小さな子供は大きくなれるが、ミュウは人類にはなれないだろうが。
どう頑張っても、人類の仲間入りをするのは無理だったんだ。一人前の人類にはなれん。
小さすぎて店に入れない子は、何年か待てば入れるが…。
前の俺たちはそうじゃなかっただろう?
人類の仲間入りなど出来やしないし、人類が入る店にも入れないままだ。…違うのか?
「そうだったっけ…」
人類とミュウは、違う生き物だと思われてたから…。
同じだとは思って貰えなかったし、人間だとさえ、誰にも思われないままで…。
今とはまるで違ったのだ、と思い出した時の彼方でのこと。
ミュウに生まれたというだけのことで、人間扱いされなかった前の自分たち。人類とは違うと、滅ぼすべきだと言われた種族。発見されたら処分されるか、研究施設に送られるか。
「…ホントだ、お店に入れる時なんて、絶対、来なかったよね…」
お店は人類のためだけにあって、人類が出掛けて行くための場所。…ミュウじゃなくって。
ミュウがお店に入ろうとしても、バレたら殺されちゃうんだから…。
「そういうことだな。…いくら大きく育っていこうが、ミュウは何処までもミュウなんだ」
シャングリラにしか居場所は無くてだ、人類の仲間入りは出来ない。人類になれやしないから。
それに比べりゃ、小さな子供が店に入れないっていう決まりくらいは可愛いもんだ。
いつかは必ず入れるんだし、子供の方も我慢しないとな。
少々、悲しい思いをしようが、そいつは小さい間だけのことで済むんだから。
「それでも酷いと思うけど…」
前のぼくたちよりはマシだけれども、悲しくなるのは子供なんだよ?
お店の決まりの意味も分からない小さな子供で、ポロポロ泣くしかないんだもの。
「酷いも何も、社会のルールでマナーなんだぞ。その店ならお前は入れるようだが…」
酒を飲むために入る店だと、お前でも無理だ。
もう文字通りに門前払いだ、中に入れては貰えないってな。…酒を飲める年じゃないんだから。
「そっちは仕方ないけれど…。駄目なことくらい、分かるけど…」
料理のお店はそうじゃないでしょ、お店の雰囲気だけのことだよ?
お料理は子供でも食べられるもので、食べたくなる子供、きっと沢山いる筈なのに…。
「さっきも言ったが、将来に希望が持てるだろうが」
大きくなったら食べに行くんだ、と入れる年になるのを夢見る。
次に店の前を通った時には、「前より少し育ったから…」と料理の写真を見るわけだ。
あとどのくらいで入れるだろう、と指を折って数えたりもして。
来年になったら入れそうだ、と胸を膨らませたり、早く誕生日が来てくれないかと思ったり。
前の俺たちにそれが出来たか、と問い掛けられた。将来に希望を持つということ。
「漠然としたヤツじゃ駄目なんだぞ? 具体的な目標になっていないと」
この日が来たら確実に叶う、という希望。…待っていれば必ずやって来る未来。
小さな子供は入れません、って店に入りたかったら、入れる年になればいいんだが…。
そういう夢を持つということ、前の俺たちに出来たのか…?
どうなんだ、と瞳を覗き込まれて、横に振るしかなかった首。「出来なかった」と。
「…前のぼくたちには、必ず貰える未来なんか何も無かったよ…」
地球に行こう、って思っていただけ…。地球に行ったら、ミュウも認めて貰えそうだから。
だけど、その日がいつになるかは分からなかったし…。来るかどうかも分からないまま。
それでも、地球に行くっていう目標が無いと、何も出来ないままだから…。
いつ行けるのかは、まるで見当もつかなくっても、それだけが希望…。
「ほら見ろ、前の俺たちには必ず貰える将来の希望は何も無かった」
誰でも貰えたものと言ったら、実験室とか、檻だとか…。ついでに殺されちまう結末。
実験室や檻でいいなら、誰だって入れて貰えたが…。
前のお前みたいなチビの子供でも、ちゃんと入れては貰えたんだが。
小さな子供は入れません、とは言われないでだ、他のヤツらと同じようにな。
「一緒にしないでよ、実験室と料理のお店を」
全然違うよ、料理のお店は入れなかったら悲しいけれど…。実験室とか檻だと、逆。
入れて貰えない方がずっといいんだし、断られた方がいいんだもの。
「そうか?」
一緒にしたっていいと思うがな、希望ってヤツを語るためには。
今の平和な時代だからこそ、一緒に語っちまっていいんだ。
希望が無かった前の俺たちのことと、小さすぎる子供は入れない店の話とをな。
今だから出来る話なんだ、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。今のお前と俺だから、と。
「前の俺たちだった頃には、まだ見えてさえもいなかった。…ミュウの時代というヤツは」
そんな時代が来ればいい、と思ってはいても、いつ来るのかさえ分からなかった。
「小さな子供はお断りです」という料理の店なら、断られたって次があるんだが…。いつかその子が大きくなったら、ちゃんと店には入れるんだが…。
しかしミュウだと、そうはいかなかった。前の俺たちが生きた時代は。
人類の店にミュウは決して入れやしないし、入れる時だって来なかったんだ。大きくなろうが、ミュウは人類にはなれないからな。…いつまで経ってもミュウのままで。
ミュウの時代を掴むことさえ、夢物語だったのが前の俺たちだ。…長い長い間。
その点、今だと同じミュウでも大違いだぞ?
入っていい時まで待ちさえしたなら、どんな店でも入れて貰える。小さな子供は駄目な店でも、今のお前が門前払いを食らってしまう、酒を飲ませてくれる店でも。
「まだ入れません」と断られたって、何年か待てば堂々と店に入れるってな。小さかった子供は大きく育つし、チビのお前も大人になるから。
…いい時代だと思わんか?
同じミュウ同士で、「今はまだ駄目です」とも言えるんだから。
ミュウがルールを作っているんだ、人類じゃなくて。
小さな子供は入れない店も、チビのお前は断られちまう酒を飲ませる店にしたって。
前の俺たちの時代だったら、どんなルールも人類が決めていただろう?
同じ世界にミュウもいたのに、ミュウの意見は一切、抜きで。
人間扱いさえしようとしないで、何もかも人類のためだけにあった。色々な店も、店のルールも人類のためだ。…ミュウのためじゃなくて。
社会のルールがミュウを認めていなかったんでは、そうなっちまって当然だがな。
そんな時代が終わった今では、ミュウのルールだ、とハーレイは笑う。人類のルールは、何処を探しても残っていないと。
「元は人類のルールだったのを、ミュウが引き継いでるヤツも多いが…」
それだってミュウが決めたことだろ、「このルールは今も役に立つから使おう」と。
もう人類のルールじゃないんだ、ミュウが選んで「使おう」と決めた時点でな。
小さな子供は入れません、って店のルールも、元を辿ればSD体制よりも前の時代に遡る。まだ人間が地球しか知らなかった時代に、そういう店が生まれたそうだ。
だから元々は人類のルールだったわけだが…。そいつが今ではミュウのルールになったってな。
「ホントだ、そういう考え方も出来るね」
今のぼくたちの世界のルールは、人類が決めたルールじゃなくって、全部ミュウのルール…。
社会のルールも、色々なお店が作ったルールも。
それに何でも、「ミュウだから駄目」ってわけでもないし…。
小さな子供が入れないお店は、まだ小さすぎるから、っていうだけだものね。…小さな子供には可哀相でも、前のぼくたちが生きてた時代のミュウよりはマシ。
いつか大きくなった時には、お店に入っていいんだから。大きくなるまでだけの我慢で。
「そうなんだよなあ、お前は憤慨してたがな」
俺が来た途端に、「酷い」だなんて言い出して。…何のことかと思っちまったぞ。
お前は可哀相だと言うがな、あれはあれでだ、幸せなルールというヤツだ。
ちょっぴり意地悪なように見えても、子供にとっては励みにもなる。将来の夢で希望だな。
早く大きくなるんだ、と。
大きくなったら今は入れない店に入れて、美味い料理が食べられる。世界がグンと広がるんだ。そういう夢を持たせてくれるぞ、あのルールはな。
断られた時にはガッカリだろうし、泣いちまう子供も多いだろうが…。
其処の所を通り過ぎたら、待っているのは未来への夢だ。「大きくなろう」と、そしたら店にも入れるんだ、と。
もっとも俺は、お前にはゆっくり育って欲しいが…。
早く大きくなろうとしないで、今の幸せを味わいながら、子供らしく過ごして欲しいんだが。
何度も言ったろ、前のお前が失くしちまった子供時代の分までな。
今のお前は幸せに生きてゆけるんだから。…本物のお母さんたちと一緒に住んで。
慌てて大きく育つんじゃないぞ、と釘を刺された。まるで育たなくて、背丈も伸びないのが悩みなのに。今のハーレイに出会った時から、背は一ミリも伸びていないのに。
だから意地悪な恋人を見詰めて、こう訊いてみた。
「えっとね…。今日の新聞に記事が載ってた、小さな子供は入れないお店…」
あのお店、ぼくの年なら入れるけれど…。お料理、とっても美味しそうなんだけど…。
ハーレイ、食べに連れて行ってはくれないよね?
お店の話からミュウの話にもなっちゃったんだし、お店、一緒に行きたいんだけど…。
「駄目だな、デートになっちまうから」
お前と食事に行くとなったら、そいつは立派にデートだぞ?
その上、小さな子供は入れない店と来たもんだ。どう考えても、落ち着いた店に決まってる。
デートに使うかどうかはともかく、ゆっくりと食事を楽しむ店だな。俺が教え子たちと一緒に、ワイワイ出掛ける店と違って。
そんな店にお前を連れて行けるか、前のお前と同じ背丈に育っているなら別だがな。
「やっぱり…?」
「当たり前だろうが、これも何度も言った筈だぞ。デートは大きくなってからだ、と」
そういう話を持ち出すお前は、俺とデートに出掛けられる日を目指しているわけで…。
いつか必ず叶う将来の希望ってヤツが、お前の場合はデートなんだ。他にも色々ある筈だが。
店に入れない小さな子供も同じことだな、デートの代わりに店に入れる日を目指すんだ。
今は駄目でも、一人前の小さな紳士や淑女になろう、と。
そうすりゃ店の扉は開くし、美味しい料理を食べに入れる。子供ながらも、胸を張ってな。前は入るのを断った店が、今度は「どうぞ」と恭しく迎えてくれるんだから。
それでも酷い店だと思うか、お前が言ってた店のこと。
いつか入れるようになった時には、店の魅力もグンと大きく増しそうだがな?
前は入れなかったのに、と堂々と入って行く時には。…扉の向こうはどんな世界だろう、と。
テーブルや椅子はどんなのだろうと、料理の他にもお楽しみが山ほどあるだろうから。
「そうかもね…」
子供は駄目です、って断られてから、ずっと入りたかったんだから…。
夢だって大きく膨らんでるよね、断られないでスッと入れたお店より。食べたいお料理も増えていそうだよ、何度も何度も、お店の前を「まだ入れない…」って通っていた間に。
自分ならきっとそうなるだろう、と思ったこと。まだ入れない夢のお店は、憧れの店。通る度に膨らむだろう夢。扉の向こう側を夢見て、美味しそうな料理の写真を眺めて。
前の自分が、青い水の星に焦がれたように。まだ座標さえも掴めない地球、其処へ行こうと夢を描いたように。
前の自分と違う所は、店の扉は待てば必ず開かれること。子供にとっては長い時間でも、ほんの数年、待ちさえすれば。…店に入れる年にさえなれば。
其処が地球との違いだよね、と前の自分が辿り着けなかった青い星を思った。あの頃には地球は死の星のままで、青くはなかったのだけど。…青い地球は夢でしかなかったけれど。
その青い地球に来たのが今の自分で、世界のルールはミュウが決めたルール。前の自分が生きた時代は、ミュウという種族は店に入れもしなかったのに。
そう考えたら、ふと思い出した。前にハーレイから聞かされたこと。
「…ねえ、ハーレイ…。前のぼくたちが生きた時代は、お店、人類のためのものだったけど…」
アルテメシアを落とした後には、シャングリラの仲間も買い物に出掛けられたんだよね?
嬉しかったかな、初めてお店に入れた時は。…前のハーレイが配ったお小遣いを持って。
「そうに決まっているだろう? 買い物がそれは凄かったんだ、と話してやったぞ」
いったい何をする気なんだ、と思うような物まで買って来ちまって…。
出番が無さそうな自転車だとか、いつ着るんだと呆れるような服をドッサリ山ほどだとか。
無理もないがな、世界がいきなり大きく開けたんだから。
データくらいしか見られなかった店って所に、客として入って行けるんだからな。
気が大きくなって羽目も外すさ、とハーレイが苦笑するものだから。
「それと同じかな、今はお店に入れない小さな子供が、いつかお店に入れるようになる時も?」
夢が一杯で、胸だってきっとドキドキしてて…。
あれも食べよう、これも食べよう、って欲張りながら入るのかもね。沢山食べられないくせに。
子供なんだし、今のぼくより、もっと少ししか食べられるわけがないんだけれど…。
それでも欲張って注文するとか、注文しようとしてお父さんたちに止められるとか。
「うむ。初めての買い物に出掛けて行ったヤツらと全く同じだろうな」
しかも子供だから、もっと凄いぞ。夢も一杯、憧れ一杯、ついでに我儘一杯ってな。
さぞかし凄い光景だろうさ、とハーレイは大きく頷いた。シャングリラの仲間の比ではないと。
「ようやく店に入れた子供たちの感激は俺が保証するから、入れてやらない店を恨むな」
小さな子供を断るからには、そうする理由があるんだから。
他のお客のことを色々考えた上で、決めたルールだ。それに子供連れの親たちの方も、不愉快な気分にならないように。「あの子は良くて、うちの子供は駄目なんて」というのは嫌だろう?
最初から纏めて断っておけば、大勢の人が嫌な思いをしなくて済む。
断られた子供は可哀相だが、いつかは入れて、店への夢も憧れも膨らむわけだから…。
そうそう悪い話じゃないだろ、ミュウに生まれただけで酷い目に遭った時代に比べたら。…店に入れる権利どころか、生きる権利も無かったのが前の俺たちだしな?
「うん…。でも、ハーレイと一緒に行きたいなあ…」
あのお店、今のぼくでも入れるのに…。チビだけれども、小さい子供じゃないんだから。
ハーレイと二人で出掛けて行ったら、ちゃんと食事が出来るのに…。
でも連れて行ってくれないんだね、と尖らせた唇。「ハーレイのケチ!」と。
「それも理屈は同じだろ。…小さな子供は入れないのと、根っこの所は同じだってな」
俺と出掛けてゆくとなったら、それはデートになっちまうから…。
今のお前だと、デートが出来る背丈に育っていないんだ。店に入るには、まだ年が足りない子供みたいに。…二十センチほど足りていないな、お前の背丈。前のお前と同じになるには。
だがな、お前もいつかはデートに行けるんだ。俺と一緒に。
前のお前と同じに育てば、どんな店でも、デートだから、と堂々とな。
それを楽しみに待てば待つほど、デートの魅力も増すってもんだ。まだ入れない店の扉を眺める間に、どんどん夢が膨らむみたいに。…デートの魅力もそれと同じだ、きっと凄いぞ?
初めてのデートに行くとなったら、約束した時から夢がキラキラしちまってな。
「…もう相当に待ったんだけど…」
ハーレイにうんと待たされてるから、夢は一杯なんだけど…。憧れも、デートの魅力だって。
キラキラしすぎて、目が眩みそう。…それでもデートはまだ行けないの?
「まだだな、お前はチビなんだから」
ゆっくり育てと言っているだろ、今を楽しめ。…これはさっきも言ったことだが。
未来の夢もたっぷり見ながら、デートに行ける日を待つんだな。いつか必ず行けるんだから。
子供時代は今だけだぞ、とハーレイに念を押されたから。
「慌てるんじゃない」と、「急いで育つな」と、鳶色の瞳が優しい光を湛えるから。
少しも育たないチビだけれども、いつかデートに出掛けられる日を楽しみに待っていればいい。
ハーレイが「デートは駄目だ」と言うのも、意地悪ではなくて、ちゃんと理由がある。
つい「ハーレイのケチ!」と膨れてしまっても、唇を尖らせてしまっても。
(…ぼくが大きくなるまでは駄目…)
前の自分と同じ背丈に成長するまで、キスをするのも、デートも駄目。
それはハーレイが決めたルールで、小さな子供は入れない店と同じこと。今はそういうルールを守って、じっと我慢をするべき時。
ハーレイとの間のルールが大切、それを守ってゆくことも。
いつか必ず、デートに行ける日がやって来る。前と同じに大きくなったら、ハーレイとデートに出掛けてゆける。
今はデートに行けないルールが、「行ってもいい」と許してくれるから。
同じルールの筈だけれども、「駄目だ」から「いいぞ」に変わってくれる。
その日が来たなら、ハーレイと一緒に初めてのデート。
楽しみに待って、待って待ち続けて、幸せ一杯で出掛けてゆける。
ハーレイと二人で何処へでも行けるし、どんな店にも入ってゆける、今のルールが変わった時。
同じルールのままなのだけれど、前と同じに育ったら。
デートに行ける姿に成長したなら、必ずデートに誘って貰えて、幸せな時を過ごせるから…。
入れない店・了
※小さな子供は入れて貰えない、美味しそうな料理の店。憤慨したブルーですけれど…。
大きくなったら、もちろん入ってゆけるのです。未来に希望を持てる世界が、今という時代。
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それに綺麗、とブルーが眺めた新聞の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
評判が高い料理のお店で、いつも予約で一杯らしい。行くなら予約をするのが一番。でないと、席が無いことの方が多いから。キャンセルが出ても、直ぐに埋まってしまうから。
それでも通り掛かった人が「空いてますか?」と尋ねるほど。店の表に出ている料理の写真が、これと同じに美味しそうだから。添えられたメニューも素敵だから。
(予約無しでも、運が良ければ入れるんだ…)
急なキャンセルは、ありがちなもの。友達と行こうと予約したのに、友達が来られないだとか。家族で行こうと計画したのに、誰かの都合が悪くなったとか。
けれど確実に入りたいなら、予約すること。この日の何時にお願いします、と。
(お休みの日にはハーレイが来るから、行かないけどね?)
両親と食事に出掛けてゆくより、ハーレイと過ごす方がいい。母が作った料理を食べて、お茶やお菓子も楽しんで。
どんなに料理が美味しそうでも、お店に行くより家にいる方がいいんだから、と考えながら読み進めた記事。お料理なんかに釣られないよ、と。
そうしたら、驚かされたこと。「行かないんだから」と思った、このお店は…。
(小さな子供は…)
予約をしたって入れない店。雰囲気を壊してしまうから。
子供連れなら、予約の時に訊かれる年齢。「お子様は何歳でらっしゃいますか?」と。その子の年が足りなかったら、断られてしまう。予約なしでも変わらないルール。「何歳ですか?」と。
(ぼくの年だと、大丈夫だけど…)
ちょっぴり酷くないだろうか、と思った「小さな子供は入れない」決まり。
美味しそうな料理が出される店なら、子供だって食べてみたいだろうに。家族の誰かが出掛けて来たなら、話を聞いて行ってみたくもなるのだろうに。
(なんだかガッカリ…)
お店への夢が壊れてしまった。最初は一目で惹かれたのに。…料理の写真を目にしただけで。
同じように写真を眺めた子供も、きっと大勢いるのだろうに。お店に入れない年の子でも。
その子供たちの夢が砕けてしまう店。「行きたいよ」と強請ってみたって、行けないのだから。
おやつを食べ終えて、戻った二階の自分の部屋。
勉強机に頬杖をついて、さっきの記事を思い出す。美味しそうだった料理の写真も。
(あんなに素敵な料理のお店…)
子供だって入っていいと思う、と消えない不満。「ホントに酷い」と。
自分は入れる年だけれども、入れない年の子供たちのことを思ったら。あの記事を見て、お店に行きたくなった子供も可哀相だけれど、もっと可哀相な子供もいそう。
(お店の前には、料理の写真とメニューが出してあるんだから…)
通り掛かって食べたくなる子もいるだろう。「これ、美味しそう!」と、歓声を上げて。
其処で普通のお店だったら、「此処で食べよう」と家族で入ってゆけるのに。ワクワクしながら店の扉を開けて入れるのに、あの店の場合はそうはいかない。
きっと写真やメニューと一緒に、注意書きも添えてあるのだろう。小さな子供は入れないこと。子供はそれに気付かなくても、大人は気付く筈だから…。
「入りたいよ」と駄々をこねても、「子供は駄目なお店だから」と言われてしまう。そう書いてある、と指差されて。「入っても、外に出されてしまうよ」と。
もしもそんな目に遭ったとしたなら、心が傷ついてしまいそう。「どうして駄目なの?」と。
目を真ん丸にして父や母を見上げて、「嘘でしょ?」とも。
(ぼくなら、泣きそう…)
両親と街を歩いていた時、そういう店に出会ったら。何も知らずに料理に惹かれて、入りたいと思った素敵なお店。「此処がいいな」と足を止めたのに、「ブルーは駄目」と言われたら。
「ブルーの年だと入れないよ」と父が教えてくれたなら。母も「そうね」と頷いたなら。
いつも優しい筈の両親、その両親に「駄目」と引っ張られる手。
「此処は駄目だから、他のお店」と、「他にもお店は沢山あるから」と。
食べたい料理は、この店にしか無さそうなのに。メニューの写真はそういうものだし、何処にも同じものは無いのに。
分かっているのに、入れないお店。小さな子供はお断りの店で、子供の我儘は通らないから。
きっとホントに泣いちゃうんだよ、と光景が目に浮かぶよう。お店の表で踏ん張って泣くことはしないけれども、涙がポロポロ零れるだろう。「どうしてなの?」と。
美味しそうなのに、自分は入れないお店の料理。それが食べたいのに、子供は入れて貰えない。納得出来るわけがないから、泣きながら店を離れるのだろう。「ぼくは駄目なの?」と、振り返りながら。「あそこのお店が良かったのに」と。
歩く間も、止まらない涙。他のお店に入った後にも、まだポロポロと零れそう。
父がメニューを広げてくれて、「こんなのもあるぞ」と指差したって、母が「これも素敵よ」と言ったって。それがどんなに美味しそうでも、本当に食べたかった料理は…。
(…入れなかったお店の料理…)
今いる店には無い料理。だから注文して料理が来たって、またまた溢れ出しそうな涙。此処でもこんなに美味しいのならば、さっきのお店はもっと美味しい筈なのに、と。
(好き嫌いが無いのと、食べたいかどうかは別だから…)
泣きながら食べていそうな料理。子供が喜びそうなプレートで出て来ても。可愛らしい子供用のエプロンなんかを着けて貰っても、スプーンやフォークが子供用の特別なデザインでも。
(その内に涙は止まるだろうけど…)
御機嫌で食べるのだろうけれども、それまでの間。悲しい気持ちが消えない間は、涙が幾つも。
「どうして子供は入れないの?」と。
何も悪いことはしていないのに。お店に迷惑をかけてはいないし、入りたかっただけなのに。
写真の料理がとても美味しそうで、食べてみたいと思ったから。それが食べたくなったから。
けれど、入れもしなかった店。「小さな子供は入れませんよ」と、入る前から断られて。
そうなったならば、悲しくてたまらないだろう。自分がその目に遭ったとしたら、ポロポロ零すだろう涙。別のお店に入った後にも、其処で料理が出て来た後も。
(だって、断られちゃったんだから…)
小さな子供だというだけで、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、ぶつけた気持ち。
どう考えても、あんまりだから。小さな子供を断る店など、酷すぎるから。
「あのね、ハーレイ…。今日の新聞、酷いんだよ」
読んだら悲しくなって来ちゃった、と鳶色の瞳の恋人に報告。「あんまりだよ」と勢い込んで。
「酷いって…。お前の悪口でも書いてあったのか?」
今のお前ってことは無いから、前のお前だな。…ソルジャー・ブルー。
大英雄の悪口というのも珍しいが、とハーレイは派手に勘違いをした。「どう酷いんだ?」と。
「そうじゃないけど…。ぼくの悪口じゃないんだけれども、似たような感じ…」
ぼくが今より小さかったら、きっと悪口になるんだよ。子供は駄目です、って言うんだから。
新聞に記事が載ってたんだよ、小さな子供は入れないお店。
美味しそうなお店だったのに…。お料理の写真、とっても素敵だったのに。
でもね、小さな子供は入っちゃ駄目なんだって。…ハーレイ、酷いと思わない?
「…たまにあるだろ、そういう店」
多くはないが、珍しいとも思わないな、というのがハーレイの意見。驚いたことに。
「そうなの? それじゃ、ハーレイは酷いと思わないわけ?」
お店のやり方が正しいって言うの、小さな子供は入れないんだよ?
「まるで間違ってはいないと思うぞ。ゆったりと落ち着いて食事したい人も多いんだから」
そういうつもりで店に入っても、小さな子供がいたんじゃなあ…。
子供はどうしても賑やかに騒いじまうモンだし、走り回ったりする子もいるだろうが。
一緒に遊べる子がいなくたって、元気な子供はじっとしていないぞ?
お気に入りの歌を歌い出すとか、ナイフやフォークを振り回すとかな。
他のお客さんの気持ちを考えてみろ、とハーレイは店の肩を持つ方。店の雰囲気を保つためには必要なことで、小さな子供は駄目というのも不思議ではない、と。
「お客さんのために作った決まりだ。ごゆっくり食事をなさって下さい、というサービスだ」
子供が走り回っていったんじゃ、どうにも落ち着かないからな。歌にしたって。
「…そうじゃない子も沢山いるよ?」
大人しく座って食事をする子。…小さかった頃の、ぼくだって、そう。
パパやママとはお喋りしたけど、大きな声ではなかったと思う…。歌を歌ったりもしないよ。
それにお店で走りもしない、と言ったのだけれど。
「俺も充分、分かっちゃいるが…。店の方でも、そいつは承知しているぞ」
だがな、店が選んじゃ駄目だろうが。入って来た客の品定めってヤツは良くないぞ。
同じ子供でも、この子は店に入ってもいいが、この子は駄目だ、って言われて嬉しいか?
店に入ったら振り分けられてだ、入れる子供と断られる子に分かれちまうのは。
「それは嫌かも…。お店の人が決めるんだよね?」
ぼくは入れる方の子供でも、他の子供が断られるのを見たら楽しくなくなっちゃうよ。
いくら美味しいお料理が出ても、きっと、とっても悲しい気持ち。
断られてションボリ出て行く子供を見ちゃったら。…あの子も食べたかったよね、って…。
「分かったか。そうならないよう、最初から纏めて断ってるんだ」
大人しく出来る年になるまで、子供は全部駄目だとな。行儀のいい子も、そうでない子も。
それならそういうルールなんだし、お客さんにも失礼じゃない。
子供連れで入っちゃ駄目な店だ、と思うだけだし、不愉快な思いをすることもない。他の誰かの子供が食事をしてるというのに、自分の子供は断られちまって、ムッとするとか。
色々な人のことを思えば、一番安心なルールだな。
ゆっくり食事をしたい人にも、子供と一緒に楽しく食事をしたい人にも。
そうだろうが、と説明されたら、分からないでもないけれど。ハーレイの言葉が、きっと正しいけれども、それでも心に引っ掛かること。
ゆっくり食事をしたい大人も、子供連れの大人も、「これはルールだ」と分かるのだけれど。
小さな子供は、そんなルールは分からない。現に自分も、ハーレイに聞くまで怒っていたほど。なんという酷い店だろうか、と。
「それがルールかもしれないけれど…。だけど、子供は傷ついちゃうよ?」
小さいだけで、お店に入れないなんて。…美味しそうでも、お料理、食べられないなんて…。
ぼくならホントに泣いてしまうよ、入れても貰えないんだから。
「そうなっちまう子もいるんだろうが…。其処は前向きに考えないとな」
いつか入れる時は来るんだ、大きくなったら。そしたら此処に食べに来よう、と思うべきだぞ。
負けるもんかと、大きくなって来てやるんだから、と。
「…そういうものなの?」
ぼくだと、ポロポロ泣いていそうだけれど…。あのお店、ぼくは入れないんだ、って。
「いつまでも泣いちゃいないだろう? その内に機嫌も直るしな」
最初は悲しい気持ちになっても、何処かで考えを切り替えるもんだ。その日は無理でも、もっと先でも。…ある時、そいつに気付くってな。「大きくなったら行けるじゃないか」と。
ずっと子供のままじゃないから、いつかは行ける。店に入れる時が来るんだ。
もっとも、お前はチビのままでだ、少しも育ちやしないんだが。
「それは余計だよ、あのお店、ぼくでも入れるよ!」
ぼくの年なら入れるんだけど、入れない子が可哀相…。新聞の写真で行きたくなった子も、街で見掛けて入りたくなった小さな子供も。
「これが食べたい」ってパパやママに言っても駄目なんだよ?
此処は子供は駄目なお店、って言われておしまい。…どうして駄目なのか、分からないのに。
ハーレイが教えてくれたようなこと、小さな子供じゃ、聞いても意味が掴めないのに…。
お行儀のいい子ほど可哀相、と訴えた。お店の雰囲気を壊さないのに、小さな子供というだけで駄目。入れる資格は充分あるのに、年が足りないというだけで。
「そうでしょ、年の問題だけだよ?」
お店の人が入っていいかを決めるよりかはマシだろうけど、やっぱり可哀相だと思う。
あと一週間で入れる年になるんです、っていう子供だって入れないんだから。
「まあな。そういう意味では、可哀相かもしれないが…」
しかし、大きくなったら入れる。どんな子供でも、店が決めてる年になったら。
いつまで経っても入れて貰えないってわけじゃないだろ、其処はデカイぞ。
将来に夢と希望が持てるし、たかが料理の店にしたって、入れる時が必ず来るというのはな。
「ハーレイ、それって…。どういう意味?」
お店の話と違うみたいに聞こえるんだけど…。お料理を食べに行く話とは。
「気付いたか? 前の俺たちの頃の話だ、今じゃとっくに昔話になっちまったが…」
あの時代にミュウに生まれちまったら、いつまで経とうがミュウのままだぞ。
いくら待っても、人類になれるわけじゃない。
小さな子供は大きくなれるが、ミュウは人類にはなれないだろうが。
どう頑張っても、人類の仲間入りをするのは無理だったんだ。一人前の人類にはなれん。
小さすぎて店に入れない子は、何年か待てば入れるが…。
前の俺たちはそうじゃなかっただろう?
人類の仲間入りなど出来やしないし、人類が入る店にも入れないままだ。…違うのか?
「そうだったっけ…」
人類とミュウは、違う生き物だと思われてたから…。
同じだとは思って貰えなかったし、人間だとさえ、誰にも思われないままで…。
今とはまるで違ったのだ、と思い出した時の彼方でのこと。
ミュウに生まれたというだけのことで、人間扱いされなかった前の自分たち。人類とは違うと、滅ぼすべきだと言われた種族。発見されたら処分されるか、研究施設に送られるか。
「…ホントだ、お店に入れる時なんて、絶対、来なかったよね…」
お店は人類のためだけにあって、人類が出掛けて行くための場所。…ミュウじゃなくって。
ミュウがお店に入ろうとしても、バレたら殺されちゃうんだから…。
「そういうことだな。…いくら大きく育っていこうが、ミュウは何処までもミュウなんだ」
シャングリラにしか居場所は無くてだ、人類の仲間入りは出来ない。人類になれやしないから。
それに比べりゃ、小さな子供が店に入れないっていう決まりくらいは可愛いもんだ。
いつかは必ず入れるんだし、子供の方も我慢しないとな。
少々、悲しい思いをしようが、そいつは小さい間だけのことで済むんだから。
「それでも酷いと思うけど…」
前のぼくたちよりはマシだけれども、悲しくなるのは子供なんだよ?
お店の決まりの意味も分からない小さな子供で、ポロポロ泣くしかないんだもの。
「酷いも何も、社会のルールでマナーなんだぞ。その店ならお前は入れるようだが…」
酒を飲むために入る店だと、お前でも無理だ。
もう文字通りに門前払いだ、中に入れては貰えないってな。…酒を飲める年じゃないんだから。
「そっちは仕方ないけれど…。駄目なことくらい、分かるけど…」
料理のお店はそうじゃないでしょ、お店の雰囲気だけのことだよ?
お料理は子供でも食べられるもので、食べたくなる子供、きっと沢山いる筈なのに…。
「さっきも言ったが、将来に希望が持てるだろうが」
大きくなったら食べに行くんだ、と入れる年になるのを夢見る。
次に店の前を通った時には、「前より少し育ったから…」と料理の写真を見るわけだ。
あとどのくらいで入れるだろう、と指を折って数えたりもして。
来年になったら入れそうだ、と胸を膨らませたり、早く誕生日が来てくれないかと思ったり。
前の俺たちにそれが出来たか、と問い掛けられた。将来に希望を持つということ。
「漠然としたヤツじゃ駄目なんだぞ? 具体的な目標になっていないと」
この日が来たら確実に叶う、という希望。…待っていれば必ずやって来る未来。
小さな子供は入れません、って店に入りたかったら、入れる年になればいいんだが…。
そういう夢を持つということ、前の俺たちに出来たのか…?
どうなんだ、と瞳を覗き込まれて、横に振るしかなかった首。「出来なかった」と。
「…前のぼくたちには、必ず貰える未来なんか何も無かったよ…」
地球に行こう、って思っていただけ…。地球に行ったら、ミュウも認めて貰えそうだから。
だけど、その日がいつになるかは分からなかったし…。来るかどうかも分からないまま。
それでも、地球に行くっていう目標が無いと、何も出来ないままだから…。
いつ行けるのかは、まるで見当もつかなくっても、それだけが希望…。
「ほら見ろ、前の俺たちには必ず貰える将来の希望は何も無かった」
誰でも貰えたものと言ったら、実験室とか、檻だとか…。ついでに殺されちまう結末。
実験室や檻でいいなら、誰だって入れて貰えたが…。
前のお前みたいなチビの子供でも、ちゃんと入れては貰えたんだが。
小さな子供は入れません、とは言われないでだ、他のヤツらと同じようにな。
「一緒にしないでよ、実験室と料理のお店を」
全然違うよ、料理のお店は入れなかったら悲しいけれど…。実験室とか檻だと、逆。
入れて貰えない方がずっといいんだし、断られた方がいいんだもの。
「そうか?」
一緒にしたっていいと思うがな、希望ってヤツを語るためには。
今の平和な時代だからこそ、一緒に語っちまっていいんだ。
希望が無かった前の俺たちのことと、小さすぎる子供は入れない店の話とをな。
今だから出来る話なんだ、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。今のお前と俺だから、と。
「前の俺たちだった頃には、まだ見えてさえもいなかった。…ミュウの時代というヤツは」
そんな時代が来ればいい、と思ってはいても、いつ来るのかさえ分からなかった。
「小さな子供はお断りです」という料理の店なら、断られたって次があるんだが…。いつかその子が大きくなったら、ちゃんと店には入れるんだが…。
しかしミュウだと、そうはいかなかった。前の俺たちが生きた時代は。
人類の店にミュウは決して入れやしないし、入れる時だって来なかったんだ。大きくなろうが、ミュウは人類にはなれないからな。…いつまで経ってもミュウのままで。
ミュウの時代を掴むことさえ、夢物語だったのが前の俺たちだ。…長い長い間。
その点、今だと同じミュウでも大違いだぞ?
入っていい時まで待ちさえしたなら、どんな店でも入れて貰える。小さな子供は駄目な店でも、今のお前が門前払いを食らってしまう、酒を飲ませてくれる店でも。
「まだ入れません」と断られたって、何年か待てば堂々と店に入れるってな。小さかった子供は大きく育つし、チビのお前も大人になるから。
…いい時代だと思わんか?
同じミュウ同士で、「今はまだ駄目です」とも言えるんだから。
ミュウがルールを作っているんだ、人類じゃなくて。
小さな子供は入れない店も、チビのお前は断られちまう酒を飲ませる店にしたって。
前の俺たちの時代だったら、どんなルールも人類が決めていただろう?
同じ世界にミュウもいたのに、ミュウの意見は一切、抜きで。
人間扱いさえしようとしないで、何もかも人類のためだけにあった。色々な店も、店のルールも人類のためだ。…ミュウのためじゃなくて。
社会のルールがミュウを認めていなかったんでは、そうなっちまって当然だがな。
そんな時代が終わった今では、ミュウのルールだ、とハーレイは笑う。人類のルールは、何処を探しても残っていないと。
「元は人類のルールだったのを、ミュウが引き継いでるヤツも多いが…」
それだってミュウが決めたことだろ、「このルールは今も役に立つから使おう」と。
もう人類のルールじゃないんだ、ミュウが選んで「使おう」と決めた時点でな。
小さな子供は入れません、って店のルールも、元を辿ればSD体制よりも前の時代に遡る。まだ人間が地球しか知らなかった時代に、そういう店が生まれたそうだ。
だから元々は人類のルールだったわけだが…。そいつが今ではミュウのルールになったってな。
「ホントだ、そういう考え方も出来るね」
今のぼくたちの世界のルールは、人類が決めたルールじゃなくって、全部ミュウのルール…。
社会のルールも、色々なお店が作ったルールも。
それに何でも、「ミュウだから駄目」ってわけでもないし…。
小さな子供が入れないお店は、まだ小さすぎるから、っていうだけだものね。…小さな子供には可哀相でも、前のぼくたちが生きてた時代のミュウよりはマシ。
いつか大きくなった時には、お店に入っていいんだから。大きくなるまでだけの我慢で。
「そうなんだよなあ、お前は憤慨してたがな」
俺が来た途端に、「酷い」だなんて言い出して。…何のことかと思っちまったぞ。
お前は可哀相だと言うがな、あれはあれでだ、幸せなルールというヤツだ。
ちょっぴり意地悪なように見えても、子供にとっては励みにもなる。将来の夢で希望だな。
早く大きくなるんだ、と。
大きくなったら今は入れない店に入れて、美味い料理が食べられる。世界がグンと広がるんだ。そういう夢を持たせてくれるぞ、あのルールはな。
断られた時にはガッカリだろうし、泣いちまう子供も多いだろうが…。
其処の所を通り過ぎたら、待っているのは未来への夢だ。「大きくなろう」と、そしたら店にも入れるんだ、と。
もっとも俺は、お前にはゆっくり育って欲しいが…。
早く大きくなろうとしないで、今の幸せを味わいながら、子供らしく過ごして欲しいんだが。
何度も言ったろ、前のお前が失くしちまった子供時代の分までな。
今のお前は幸せに生きてゆけるんだから。…本物のお母さんたちと一緒に住んで。
慌てて大きく育つんじゃないぞ、と釘を刺された。まるで育たなくて、背丈も伸びないのが悩みなのに。今のハーレイに出会った時から、背は一ミリも伸びていないのに。
だから意地悪な恋人を見詰めて、こう訊いてみた。
「えっとね…。今日の新聞に記事が載ってた、小さな子供は入れないお店…」
あのお店、ぼくの年なら入れるけれど…。お料理、とっても美味しそうなんだけど…。
ハーレイ、食べに連れて行ってはくれないよね?
お店の話からミュウの話にもなっちゃったんだし、お店、一緒に行きたいんだけど…。
「駄目だな、デートになっちまうから」
お前と食事に行くとなったら、そいつは立派にデートだぞ?
その上、小さな子供は入れない店と来たもんだ。どう考えても、落ち着いた店に決まってる。
デートに使うかどうかはともかく、ゆっくりと食事を楽しむ店だな。俺が教え子たちと一緒に、ワイワイ出掛ける店と違って。
そんな店にお前を連れて行けるか、前のお前と同じ背丈に育っているなら別だがな。
「やっぱり…?」
「当たり前だろうが、これも何度も言った筈だぞ。デートは大きくなってからだ、と」
そういう話を持ち出すお前は、俺とデートに出掛けられる日を目指しているわけで…。
いつか必ず叶う将来の希望ってヤツが、お前の場合はデートなんだ。他にも色々ある筈だが。
店に入れない小さな子供も同じことだな、デートの代わりに店に入れる日を目指すんだ。
今は駄目でも、一人前の小さな紳士や淑女になろう、と。
そうすりゃ店の扉は開くし、美味しい料理を食べに入れる。子供ながらも、胸を張ってな。前は入るのを断った店が、今度は「どうぞ」と恭しく迎えてくれるんだから。
それでも酷い店だと思うか、お前が言ってた店のこと。
いつか入れるようになった時には、店の魅力もグンと大きく増しそうだがな?
前は入れなかったのに、と堂々と入って行く時には。…扉の向こうはどんな世界だろう、と。
テーブルや椅子はどんなのだろうと、料理の他にもお楽しみが山ほどあるだろうから。
「そうかもね…」
子供は駄目です、って断られてから、ずっと入りたかったんだから…。
夢だって大きく膨らんでるよね、断られないでスッと入れたお店より。食べたいお料理も増えていそうだよ、何度も何度も、お店の前を「まだ入れない…」って通っていた間に。
自分ならきっとそうなるだろう、と思ったこと。まだ入れない夢のお店は、憧れの店。通る度に膨らむだろう夢。扉の向こう側を夢見て、美味しそうな料理の写真を眺めて。
前の自分が、青い水の星に焦がれたように。まだ座標さえも掴めない地球、其処へ行こうと夢を描いたように。
前の自分と違う所は、店の扉は待てば必ず開かれること。子供にとっては長い時間でも、ほんの数年、待ちさえすれば。…店に入れる年にさえなれば。
其処が地球との違いだよね、と前の自分が辿り着けなかった青い星を思った。あの頃には地球は死の星のままで、青くはなかったのだけど。…青い地球は夢でしかなかったけれど。
その青い地球に来たのが今の自分で、世界のルールはミュウが決めたルール。前の自分が生きた時代は、ミュウという種族は店に入れもしなかったのに。
そう考えたら、ふと思い出した。前にハーレイから聞かされたこと。
「…ねえ、ハーレイ…。前のぼくたちが生きた時代は、お店、人類のためのものだったけど…」
アルテメシアを落とした後には、シャングリラの仲間も買い物に出掛けられたんだよね?
嬉しかったかな、初めてお店に入れた時は。…前のハーレイが配ったお小遣いを持って。
「そうに決まっているだろう? 買い物がそれは凄かったんだ、と話してやったぞ」
いったい何をする気なんだ、と思うような物まで買って来ちまって…。
出番が無さそうな自転車だとか、いつ着るんだと呆れるような服をドッサリ山ほどだとか。
無理もないがな、世界がいきなり大きく開けたんだから。
データくらいしか見られなかった店って所に、客として入って行けるんだからな。
気が大きくなって羽目も外すさ、とハーレイが苦笑するものだから。
「それと同じかな、今はお店に入れない小さな子供が、いつかお店に入れるようになる時も?」
夢が一杯で、胸だってきっとドキドキしてて…。
あれも食べよう、これも食べよう、って欲張りながら入るのかもね。沢山食べられないくせに。
子供なんだし、今のぼくより、もっと少ししか食べられるわけがないんだけれど…。
それでも欲張って注文するとか、注文しようとしてお父さんたちに止められるとか。
「うむ。初めての買い物に出掛けて行ったヤツらと全く同じだろうな」
しかも子供だから、もっと凄いぞ。夢も一杯、憧れ一杯、ついでに我儘一杯ってな。
さぞかし凄い光景だろうさ、とハーレイは大きく頷いた。シャングリラの仲間の比ではないと。
「ようやく店に入れた子供たちの感激は俺が保証するから、入れてやらない店を恨むな」
小さな子供を断るからには、そうする理由があるんだから。
他のお客のことを色々考えた上で、決めたルールだ。それに子供連れの親たちの方も、不愉快な気分にならないように。「あの子は良くて、うちの子供は駄目なんて」というのは嫌だろう?
最初から纏めて断っておけば、大勢の人が嫌な思いをしなくて済む。
断られた子供は可哀相だが、いつかは入れて、店への夢も憧れも膨らむわけだから…。
そうそう悪い話じゃないだろ、ミュウに生まれただけで酷い目に遭った時代に比べたら。…店に入れる権利どころか、生きる権利も無かったのが前の俺たちだしな?
「うん…。でも、ハーレイと一緒に行きたいなあ…」
あのお店、今のぼくでも入れるのに…。チビだけれども、小さい子供じゃないんだから。
ハーレイと二人で出掛けて行ったら、ちゃんと食事が出来るのに…。
でも連れて行ってくれないんだね、と尖らせた唇。「ハーレイのケチ!」と。
「それも理屈は同じだろ。…小さな子供は入れないのと、根っこの所は同じだってな」
俺と出掛けてゆくとなったら、それはデートになっちまうから…。
今のお前だと、デートが出来る背丈に育っていないんだ。店に入るには、まだ年が足りない子供みたいに。…二十センチほど足りていないな、お前の背丈。前のお前と同じになるには。
だがな、お前もいつかはデートに行けるんだ。俺と一緒に。
前のお前と同じに育てば、どんな店でも、デートだから、と堂々とな。
それを楽しみに待てば待つほど、デートの魅力も増すってもんだ。まだ入れない店の扉を眺める間に、どんどん夢が膨らむみたいに。…デートの魅力もそれと同じだ、きっと凄いぞ?
初めてのデートに行くとなったら、約束した時から夢がキラキラしちまってな。
「…もう相当に待ったんだけど…」
ハーレイにうんと待たされてるから、夢は一杯なんだけど…。憧れも、デートの魅力だって。
キラキラしすぎて、目が眩みそう。…それでもデートはまだ行けないの?
「まだだな、お前はチビなんだから」
ゆっくり育てと言っているだろ、今を楽しめ。…これはさっきも言ったことだが。
未来の夢もたっぷり見ながら、デートに行ける日を待つんだな。いつか必ず行けるんだから。
子供時代は今だけだぞ、とハーレイに念を押されたから。
「慌てるんじゃない」と、「急いで育つな」と、鳶色の瞳が優しい光を湛えるから。
少しも育たないチビだけれども、いつかデートに出掛けられる日を楽しみに待っていればいい。
ハーレイが「デートは駄目だ」と言うのも、意地悪ではなくて、ちゃんと理由がある。
つい「ハーレイのケチ!」と膨れてしまっても、唇を尖らせてしまっても。
(…ぼくが大きくなるまでは駄目…)
前の自分と同じ背丈に成長するまで、キスをするのも、デートも駄目。
それはハーレイが決めたルールで、小さな子供は入れない店と同じこと。今はそういうルールを守って、じっと我慢をするべき時。
ハーレイとの間のルールが大切、それを守ってゆくことも。
いつか必ず、デートに行ける日がやって来る。前と同じに大きくなったら、ハーレイとデートに出掛けてゆける。
今はデートに行けないルールが、「行ってもいい」と許してくれるから。
同じルールの筈だけれども、「駄目だ」から「いいぞ」に変わってくれる。
その日が来たなら、ハーレイと一緒に初めてのデート。
楽しみに待って、待って待ち続けて、幸せ一杯で出掛けてゆける。
ハーレイと二人で何処へでも行けるし、どんな店にも入ってゆける、今のルールが変わった時。
同じルールのままなのだけれど、前と同じに育ったら。
デートに行ける姿に成長したなら、必ずデートに誘って貰えて、幸せな時を過ごせるから…。
入れない店・了
※小さな子供は入れて貰えない、美味しそうな料理の店。憤慨したブルーですけれど…。
大きくなったら、もちろん入ってゆけるのです。未来に希望を持てる世界が、今という時代。
(ふうむ…)
どれにするかな、とハーレイが眺めたメニュー。
今日は午前中だけの研修、そちらの方は済ませて来た。学校に行く前に食事にしよう、と入った店で渡されたメニュー。「此処なら、ゆっくり出来そうだな」と選んだ店。
学校に行くのは急がないから、たまには一人でのんびり昼食。そんな気分で入ったものの…。
(ランチセットでいいんだが…)
悩んじまうな、と思うのがランチセットの中身。メインの料理が一種類ではなかった店。どれを選んでも値段は全く変わらないのに、四種類もあった。それほど広くはない店なのに。
(食後はコーヒーで決まりなんだが…)
紅茶かどうかは悩まない。コーヒー好きだし、キャプテン・ハーレイだった頃からコーヒー党。其処は簡単に決まるのだけれど、料理の方はそうはいかない。
(どれも美味そうな感じだし…)
メニューに添えられている写真。皿に盛られた四種類の料理、食欲をそそるものばかり。これは困った、と眺める中で惹かれたのが期間限定の文字。
(この料理だけは入れ替わるんだな)
四種類の中で、その枠だけが。一月ごとに変わってゆくのか、シーズンごとか。あるいは店主の気分で変わるのかもしれない。
つまりは次に店に来たって、あるとは限らない料理。同じ注文するのだったら、そういう料理を頼むのがいい。またこの店に来るかは謎だし、次の機会は無いにしても。
(一期一会って言葉もあるしな?)
こいつを食えるのは今日だけなのかもしれないぞ、と期間限定のパスタに決めた。他の三種類も魅力的だし、捨て難いけれど。
大ぶりなサンドイッチは、如何にも食べ応えがありそうな感じ。グツグツと音を立てていそうなグラタンだって、スパイスが効いていそうなカレーの方も。
それでも期間限定がいい、と選んだメニュー。直ぐに届いたサラダの皿。バゲットも、バターを添えて二切れ。
(カレーにしてたら、このバゲットは無いんだっけな)
どんな具合か、と少し千切って頬張ってみたら、なかなかの味。此処で焼くとは思えないから、パン専門の店から仕入れているのだろう。きっと店主のこだわりの店。
いいバゲットを出して来る店は、料理も期待出来るもの。この店に入って正解だった、と自分の勘を褒める間にパスタの方もやって来た。
七種類の豆を使ったというピリ辛のパスタ。ミートソースもたっぷりと。
(うん、美味い!)
パスタで当たりだ、と口に運びながら眺めた周り。他の席の様子も目に入るから。
ピリ辛のパスタで満足だけれど、他の三種類の料理を選んだ人たちもいる。熱々のグラタンや、カレーの皿や。思った通りに大きいサイズのサンドイッチを齧る人だって。
きっと、どの料理も美味しいのだろう。パスタでなくても、グラタンやサンドイッチでも。この店だったら、味は間違いなさそうだから。
(ランチセットでなきゃ、もっと色々あるわけで…)
パスタだったらソースが変わって、サンドイッチは中身が変わる。入った時に眺めたメニューに幾つも載っていた料理。写真もつけて。
(単品にしても良かったかもな?)
同じパスタを頼むにしたって、ランチセットとは違ったものを。少し高めになったとしたって、食後のコーヒーが別料金になったって。
それだけの価値がある味なんだ、と味わうパスタ。「他のも美味いに違いない」と。
(ちょっと早まりすぎたってか?)
俺としたことが、と少し残念な気分。パスタがとても美味しい上に、バゲットもいい店だから。こういう店なら、どんな料理も満足の味になる筈だから。
もっとゆっくり周りを見てから決めるべきだった、とパスタを頬張る。いくらメニューに写真があっても、やはり実物には敵わない。どんな具合に盛られて来るかも、どう食べるかも。
(…みんな美味そうに食ってるからなあ…)
サンドイッチも良さそうだよな、と目が行ってしまう。「あのサイズなら齧り甲斐がある」と。上品で小さいものよりも。
(大きすぎても、こういう所じゃ食べにくいんだが…)
丁度いいサイズになっているのが心憎い。店主のセンスがいいのだろう、と一目で分かる。他の料理も、きっと店主の自信作。
(見回してから決めりゃ良かったなあ…)
多分、余計に悩む結果になっただろうけれど、時間はたっぷりあったから。メニューを眺めて、他の客たちの料理を眺めて、またメニューへと戻ったり。
(学校の方は、別に行かなくてもいい日なんだし…)
研修があった日は、そうなっている。午前中だけで終わったのなら、午後は自由に使っていい。遊びに行こうが、家でゆったり過ごしていようが、何処からも文句は出ないもの。
(俺が勝手に学校に行こうとしているだけで…)
何時に着いても、同僚たちが驚くだけ。「今日は研修でお休みなのでは?」と。
そういう日だから、メニューで悩んでいたっていい。店に迷惑をかけない程度の時間なら。直ぐ決めなくても、「決まったら呼びます」と言ったって。
急ぎ過ぎたか、と思うけれども、これが性分。
仕事がある日はサッサと決めるし、そうそう悩みはしないもの。ランチセットにするか、単品にするか、それが最初に決めること。大抵は其処で決まる注文。
今日はたまたまランチセットが四種類あって、少し迷ってしまったけれど。
俺のスタイルはそうなんだ、と思う注文する方法。食事を楽しみたい時はともかく、食べるだけなら悩まない。どれが自分の目的に合うか、ただそれだけで選んでゆく。
量をたっぷり食べたいのならば、これだとか。急いで食べて店を出るなら、これがいいとか。
(俺だけじゃなくて、前の俺にしたって同じだからな)
しかもあっちはキャプテンだった、と苦笑い。今よりもずっと多忙な日々で、そうそうのんびりしてはいられない。食事も、それに休憩も。
前の俺だった時からの癖だ、と考えなくても分かること。食事よりも仕事が最優先だ、と。他の仲間が食べている料理、それを見てから決める余裕などあるものか、と。
そんな暇などあるわけがない、と思った所でハタと気付いた。前の自分が生きていた船。
(選べたか…?)
シャングリラの食堂で、食べる料理を。昼食にしても、夕食にしても。白い鯨になった船でも、料理を選んで食べられたのか、と辿った前の自分の記憶。「それは無理だ」と。
選べるわけがなかった料理。食堂は店ではないのだから。食事は栄養を摂るためのもので、皆の身体を養う場所。胃袋を満たすことは出来ても、あれこれ選んで食べられはしない。幾つも並んだ料理の中から選ぶことさえ出来なかった船。
厨房の者たちが「今日はこれだ」と決めた料理が、出て来た船がシャングリラ。トレイに載せて渡されるだけで、「これを」と注文などは出来ない。
(せいぜい、朝の卵の調理方法…)
その程度だった、と思う選べたメニュー。朝食の卵をどう料理するか、それは選べた。固ゆでにするか、半熟か。目玉焼きがいいか、オムレツなのか。
けれど、それだけ。他の料理を選べはしなくて、注文も出来なかった船。「あれが食べたい」と思っていたって、それが出る日を待つ他はない。
「今日、食べたい」と思っても。…ライブラリーで読んだ本に出て来て、食べたい気分になっていたって。仲間たちとの他愛ない話、それで話題になったって。
(おいおいおい…)
贅沢すぎるぞ、と見詰めた皿。なんてこった、と。
七種類の豆を使ったピリ辛パスタ。自分で選んだ料理だけれども、前の自分には出来なかった。四種類ものランチメニューを出されはしないし、選ぶことだって無かったから。
そうやって一つ選んだというのに、目移りしていたのが自分。サンドイッチも良さそうだとか、単品にして他のパスタでも良かったろうか、と。
(時間はたっぷりあったのに、なんて考えてたぞ?)
贅沢者め、と額をコツンと叩きたい気分。他の客たちがいなかったなら。
前の自分は多忙だったけれど、時間に余裕があった時でも料理を選べはしなかった。食堂の中を眺め回しても、誰のトレイにも同じ料理しか無かったから。同じ皿に盛られた同じ料理だけ。
(いつも一種類だったんだ…)
メインの料理も、サラダなども。
厨房の係に注文する時、出来たことは量の調整くらい。「多めに」だとか、「少なめに」とか。それが出来たら、もう充分に満ち足りた気分になれた船。
(俺の場合は大盛りだったが…)
少なめの仲間も多かった。たまに食堂に出て来たブルーも「少なめ」の一人。好き嫌いはまるで無かったけれども、食べられる量は、けして多くはなかったから。
(この時間だと…)
ブルーも学校で食事だろうか。ランチ仲間と食堂に出掛けて行って。
名前はシャングリラと同じに食堂だけれど、今のブルーが通う学校の食堂も料理を色々選べる。定番のランチセットは毎日一種類でも、他に幾つもある単品。オムライスとか、パスタとか。
だからブルーも選んだだろう。「今日はこれにしよう」と、食堂で。
(俺もあいつも、とんでもない贅沢をしてたってわけか…)
何を食べようかと、迷って選ぶ料理だなんて。悩む時間が短かろうとも、選ぶというだけで既に贅沢。シャングリラでは選べなかったから。料理は出て来るだけだったから。
(あいつに話してやらないとな?)
如何に贅沢に暮らしているのか、今の時代の素晴らしさを。
今日は帰りにブルーの家を訪ねてゆけるし、その時に。本当だったら休んでいい日に、予定外の仕事は来ないから。「これで帰ります」と、学校を出ればいいのだから。
そうやって出勤した学校。案の定、驚いた同僚たち。「またですか」と。研修を終えて出勤したことは何度もあるから、予想はしていたようだけれども。
やろうと思った仕事と、柔道部の指導。それが済んだらブルーの家へ。今日の研修は愛車も一緒だったし、ごくごく短い時間で着いた。歩くよりも、ずっと早い時間で。
ブルーの部屋に案内されて、テーブルを挟んで向かい合うなり投げ掛けた問い。
「お前、今日の昼飯は何だった?」
食堂で何を食べたんだ、と訊いてやったら「ランチだよ?」と答えたブルー。
「いつも食べてるランチセット。…お昼御飯がどうかしたの?」
「なんだ、他のにしなかったのか。色々あるのに」
たまにはランチセットじゃないのも食えばいいのに…。お前、大抵、ランチだよな?
「ランチセット、いつも美味しそうだから…。それに今日のはハンバーグ」
人気なんだよ、ハンバーグの日は。…ぼくの友達、全員、ランチセットにしていたもの。
いつもは違う友達だって、とブルーは説明してくれた。ハンバーグの時の人気の高さ。すっかり売り切れてしまう日だってあるらしい。遅く来た子が食べ損ねるほど。
「なるほどな。ちゃんとお前も選んだってわけだ」
「え? 選ぶって…。何を?」
ぼくはいつものランチセットで、とブルーはキョトンとしているけれど。
「飯だ、飯。…お前がランチセットを選ぶの、美味そうだからだろ?」
ついでに今日は人気メニューのハンバーグの日で、お前も大満足だった、と。
それはお前が数ある食堂のメニューの中から、ランチセットを選んだということになる。他にも色々あるんだから。お前の好みがランチセットだというだけで。
実はな、俺も今日は昼飯を選んでて…。学校じゃなくて、外の店だが。
「外のお店で昼御飯って…。ハーレイ、今日は研修だったの?」
普段は学校で食べているでしょ、食堂とか、お弁当だとか。お店で食べていたなら、研修?
「よく分かったな。午前中だけのヤツだったがな」
だから昼飯を食った後には、学校に行って来たんだが…。
休んでもいいことになっていたって、ついつい、足が向いちまうんだ。
柔道部の指導もして来たんだぞ、と話してから昼食に戻した話題。「美味い店だった」と。
「出て来たバゲットが美味かった。ああいう店にハズレは無いんだ」
そういうトコまで気を配る店は、美味いと相場が決まってる。そして本当に美味かったんだが、食ってる途中で気が付いた。
とんでもない贅沢をしてるんだな、と。
「贅沢って…。ハーレイ、高いお店に入ったの?」
一人で行くより、デートとかに使うような店。…そういうお店で食べて来たの?
ぼくも一緒に行きたかったよ、とブルーが言うから、「デートにはまだ早いだろうが」と叱ってやった。「前のお前と同じ背丈に育ってからだ」と。
「それに、お前は勘違いしてる。俺が食ってた店は普通の店だぞ、ありきたりの」
値段も普通なら、店構えもごくごく普通だったが…。ランチセットは多かったかもな。四種類もあって、其処から選べたモンだから…。メインの料理を。
其処が俺の言う贅沢なんだ。料理ってヤツを選べる所。
お前もランチセットにしようと選んだわけだが、今の俺たちならではだぞ、これは。
…シャングリラの食堂、飯時に行って料理を選べたか?
白い鯨になる前はもちろん、白い鯨で立派な食堂が出来た後にも。
「…選ぶって…。そんなの、シャングリラじゃ無理だったっけね…」
ホントだ、ハーレイが言う通りだよ。今のぼくたち、凄い贅沢をしているみたい。学校の食堂、ランチセットの他にも色々あるから…。ぼくもそっちを頼んでる日も、たまにあるから。
でも、シャングリラだと、食事の時間の料理は全部決まってて…。
これはどうしても食べられない、っていう人がいた時は…。
「駄目ならこれにしておくんだな、とドンと出ただろ、選べもしないで」
その日の厨房の都合に合わせて、予備に作ってある料理。食えない連中向けのヤツ。
両方駄目だ、と言い出すヤツが出ないようにと、その辺は考えてあったんだがな。
「そういう仕組みだったっけ…」
ぼくは好き嫌いが無かったけれども、あった仲間は、みんなそう。
係に「食べられません」って言ったら、別のトレイを渡されるんだよ。みんなと違う料理のが。
だけど、選べたわけじゃないよね。…最初からそれに決まってるんだし、選ぶのは無理。
あれは選ぶと言わないよね、とブルーも頷いている通り。
白い鯨になった後でも、まるで選べなかった食堂。大勢の仲間が食べに行くのに、メニューさえ存在しなかった。選ぶことなど出来ないのだから、メニューがあったわけもない。
朝、昼、晩と三度の食事は、厨房の係が決めていた。栄養バランスなどを考慮し、様々な食材を組み合わせて。飽きが来ないよう、味付けや調理方法を変えて。
「…前のお前の朝飯だったら、選べたんだがな」
食堂で食うんじゃなかったからなあ、青の間で俺と食ってただけで。…それ専門の係もいたし。
しかし、あれでもメニューがあったわけではないし…。
卵料理を選べた所は、他のヤツらと同じだった。食堂で選べた唯一の料理が朝の卵だっけな。
前のお前と俺の特権は、それの他にも少し注文出来たってトコで…。
トーストよりもホットケーキがいいとか、焼いたソーセージもつけてくれとか。
そんな程度の注文だったぞ、前の俺たちが選べた朝飯。
「係はいたけど、無茶なんか言えなかったよね…」
朝御飯を作りに来てくれるんだし、もうそれだけで贅沢だから…。他のみんなと違うんだもの。
その気になったら、我儘、言えただろうけれど…。
食堂だって、夜食だったらサンドイッチとかも注文出来たから…。誰が頼みに行ってもね。
「晩飯が済んだら、厨房が暇になるからな」
後片付けと次の日の仕込みくらいで、大忙しってわけじゃないもんだから…。
だが、船のヤツらが次から次へと食べにやって来る飯時は無理だ。別の料理はしていられない。
食事を食べに来たヤツらだって、悩んで決めてる時間は無いぞ。メニューが無いから。
其処で何かを迷うとしたなら、「苦手なんだが、どうしようか」ってトコだけだ。
「これは食えない」と申し出て別の料理を貰うか、我慢して食っておく方にするか。
どっちにしたって早く決めないと、他の仲間が迷惑なんだ。
「…行列して受け取る所だったものね、食堂は…」
自分の順番が回って来たら、係にトレイを渡されるだけ。
渡される前に「別のがいい」って言っておいたら、時間は無駄にならないけれど…。
トレイが来てからそれを言ったら、次の仲間を待たせちゃうものね。
料理の見本は、いつも一応、出ていたけれど…。苦手な人用の別の料理の見本も。
白いシャングリラにも無かったメニュー。選ぶことなど出来なかった料理。トレイに載せられ、渡されるだけ。その料理が苦手だった場合は、代わりのものを。
「…あれは選ぶとは言えないだろうな、苦手だから替えてくれというのは」
食べられる料理がそれしか無いから、そっちを選んだだけなんだから。
今日の俺みたいに、美味そうなのが幾つも揃った中から、選ぶってわけじゃないんだし…。
お前のランチセットにしたって、他の料理は食べられないってことでもないし…。
いつ見ても美味そうだから選ぶわけだろ、ランチセットを?
今の俺たちには、何を食おうかと選ぶ自由も、そいつで悩める場所も幾つもあるんだが…。
「贅沢だよね、本当に…。シャングリラの頃と比べたら」
あの船で料理を好きに選べて、食べられた時ってあったっけ?
夜食用の注文が出来る時間以外で、そういう自由がある時間。これがいいな、って。
「無かったな。あの船じゃ、料理の注文は出来ん。夜食の時間帯なら、なんとかなったが…」
その代わり、注文出来る料理も少ない。厨房のヤツらと、食材の在庫次第だから。
好きに選んで食べるとなったら、パーティーの時に皿の上から選べた程度で…。
あれにしたって、料理そのものは選べやしない。皿に盛り付けて出されたヤツが全部だから。
もっと他のが食べたいんだが、と思っていたって、注文するのは無理だったからな。
ついでに言うなら、皿の上から選べた料理も、今のバイキングには敵わんぞ。
色々あるだろ、バイキングの料理。ホテルの朝飯とかにしたって。
朝飯でも料理がドッサリだ、と広げた両手。卵料理やサラダで終わりじゃないんだから、と。
「シャングリラで好きに選べた料理…。バイキングにも負けちゃうね…」
朝御飯のヤツにも負けてしまうよ、トーストもホットケーキも、白い御飯もあるんだもの。
料理も山ほど置いてあるよね、サラダだけでも何種類も。
朝からお肉もお魚もあって、和風のも、中華風だって。…シャングリラのパーティーよりも上。
今はそういう時代なんだし、お料理、選べて当たり前だよね。
何にしようか悩めるだなんて、ホントに贅沢なんだけど…。
ミュウの箱舟だった船。楽園という名のシャングリラ。白い鯨は自給自足で生きてゆける設備を誇ったけれども、所詮は閉じた楽園だった。
食料に不自由しない船でも、今の時代の朝食バイキングにさえも勝てなかった船。パーティーの時に並べた料理の中身でさえも、まるで勝負にならなかった船。
そんな具合だから、普段の料理を選べはしない。食事の時間に、何を食べようかと迷いたくても無かった選択肢。皆と同じものか、それが苦手な人用に作られた予備の料理か、その二つだけ。
選ぶ自由が無い船なのだし、メニューを広げて眺める贅沢だって無い。
「…つくづく贅沢になったもんだな、俺たちも」
今日の俺は写真付きのメニューを眺めて悩んで、お前は食堂に張り出してあるメニューだろ?
ランチセットの中身はコレ、って書いてあるヤツと、いつも貼ってあるオムライスとか。
シャングリラじゃ、そいつも出来なかったな。夜食を注文するにしたって、訊くだけだから。
厨房に出掛けて、「何が作れる?」と。…サンドイッチの中身にしても。
「あの船にはメニュー、無かったもんね」
こういう料理があるんです、って書いてあるものは無かったよ。写真付きのも、字だけのも。
厨房で出て来るものしか無くって、見本が置いてあっただけ。今日の食事はこういう料理、ってトレイに載せて。…苦手だったら「替えて下さい」って言えるようにね。
「メニューなあ…。どういう料理かを書くだけだったら、無かったこともないんだが?」
生憎と写真は無かったがな、と今日の店で見たメニューと比べてみる。頭の中で。
白いシャングリラで目にしたメニューと、今日の贅沢なメニューとを。
「メニュー、シャングリラにあったっけ?」
そんなの、見たこと無いけれど…。メニューがあったら、みんなが眺めていそうだけれど。
覚えてないよ、とブルーが言うから、「忘れちまったか?」と笑みを浮かべた。
「ソルジャー主催の食事会だと作っていたぞ」
一種の記念品ってヤツだな、出席者が持って帰れるように。ソルジャーと食べた料理の中身を、何度も思い出せるようにと。
エラが張り切っていただろうが。これが無くては話にならん、と。
テーブルに置いてあったもんだが、と両手で示したメニューのサイズ。二つ折りだ、と。それを広げて立ててあったと、書かれた順に料理が出たが、と。
「ソルジャー専用の食器に盛られて、そりゃあ仰々しく…」
でもって、係がメニューの通りに言ってたぞ。魚のポワレでソースがどうとか。
「…あれ、メニューなの?」
エラはメニューだと言っていたけど、あれだと選べないじゃない。書いてある通りに、出て来るだけで。…一番上から順番に。
今日のハーレイが見て来たメニューと全然違うよ、とブルーが首を傾げるから。
「選ぶメニューとは違うがな…。あれもメニューの一種ではある」
そしてシャングリラでは、唯一のメニューだったんだ。あの船でメニューと言ったらアレだ。
今なら店に出掛けて行ったら、ああいうコース料理でも選べるヤツがあるのに…。
俺が悩んだメニューみたいに、メイン料理を選ぶとか。スープも選べるヤツだとか…。
「そうだよね…。あるよね、そういうの…」
ぼくは少ししか食べられないから、レストラン、滅多に行かないけれど…。
そういうメニューで選んだことなら、何度かあったよ。
お肉よりかは、お魚の方がお腹一杯にならないかも、って魚料理にするとかね。
スープが選べる所だったら、ポタージュじゃなくてコンソメスープ。
ポタージュスープは、お腹一杯になっちゃうから…。
「少なめに入れて」ってお願いしたって、あまり少なくはならないものね。
コース料理のような凝ったものでも、肉か魚か、選べる店があるくらい。スープの種類も。
けれどシャングリラでは無理だった。メニューを広げて、食べたい料理を選ぶこと。今の時代はブルーの学校の食堂でさえも、色々選べるものなのに。ランチセットは一種類でも、他の何かを。
今日の昼食に入った店なら、ランチセットのメイン料理を四種類の中から選べたのに。
「今だと選ぶの、当たり前になってしまったからなあ…」
俺が物心ついた頃には、もうメニューを見て選んでた。写真付きなら、指差してな。小さすぎて字なんか読めないチビでも、そうして選べたもんだから…。
俺もすっかり慣れちまっていて、今日まで気付きもしなかった。メニューを眺めて、色々選べる贅沢ってヤツに。
気付いたからには、これからはゆっくり選ばないと、とは思うんだが…。
また直ぐにサッと決めちまいそうだ、仕事のある日は。…外で一人で食ってるんなら、その日は暇なんだろうにな。今日と同じで、本当は休んでしまっていい日。
「それって、前のハーレイがキャプテンだったから?」
前のハーレイ、いつも仕事が沢山あって…。食事も休憩も早めに切り上げてたでしょ、少しでも早くブリッジに戻るのがキャプテンだから、って。
そうやって急いでいたりするのに、子供たちの相手はしてあげるんだよ。放っておかずに。
ハーレイらしいな、って思ってた。…あの頃を身体が覚えてるのかな、仕事のある日は、サッと食事を決めてしまうの。急がなくちゃ、って前のハーレイが…?
「俺もそのせいかと思ったんだが…。よく考えたら、運動をやってたせいかもな」
柔道にしても、水泳にしても、練習も合宿も時間厳守だ。むしろ早めに、と叩き込まれる。朝は早起き、飯も急いで食べなきゃならん。それも、しっかりよく噛んで、だぞ?
そう仕込まれたのが俺なわけでだ、飯をのんびり食っていたせいで遅れるなんぞは論外だ。
きっとそっちの方なんだろうな、メニューを見て直ぐに決めちまうのは。
前の俺でも、同じようにしそうではあるが…。前の俺はメニューで選んでないしな。
「そっか…。シャングリラでは、お料理、選んでないものね…」
だけど、前のハーレイなら、ホントにやりそうだよ。メニューを見せたら、直ぐに選ぶこと。
「これから仕事がありますから」って、短い時間で食べられそうなお料理とかをね。
前のハーレイでも、きっとそうだよ、とブルーにまで言われてしまうほど。
青い地球の上に生まれ変わっても、新しい命と身体を貰っても。平和な時代にやって来たって、仕事の時には大急ぎ。じっくり料理を選んでいいのに、メニューを見るなり決めてしまうくらい。
「お前にだって、そう見えるのか…。だったら、前の俺かもなあ…」
前の俺も混じっているかもしれんな、急いで決めようとしちまうこと。…仕事のある日は。
しかしだ、前の俺だと選ぶ自由も無かった料理を、今は色々選べるわけで…。
仕事の時は無理かもしれんが、いつかお前とデートの時には、ゆっくりと悩むことにするかな。
どれにしようか、お前も一緒に、あれこれ悩んでみようじゃないか。
好き嫌いは無くても、選びたいだろ、お前だって?
今日も選んでいたようだしな、と提案してやった、メニューを広げて悩むこと。いつかブルーが大きくなったら、二人でデートに出掛けて行って。メニューが豊富な店に入って。
「もちろん選んでみたいよ、ぼくも」
シャングリラの時代は抜きにしたって、選ぶの、楽しそうだから…。色々選べるお店だったら。
でも、選ぶのに困っちゃうかもしれないね。
メニューのお料理、どれも美味しそうで。…今日のハーレイが迷ったみたいに。
四種類の中から選ぶだけでも、迷ったんでしょ、と見詰めるブルー。仕事のある日に入ったお店だったのに、と。
「そういう時のハーレイだって悩むんだったら、ぼくはホントに迷っちゃうよ」と。
「だったら、全部頼んじまえばいいじゃないか」
悩むくらいなら、端から頼んで食っちまえ。時間はたっぷりあるんだから。
メニューを広げて悩む時間も山ほどある上、食べる時間もゆったり取れるぞ。
前の俺たちの頃と違って、仕事が待ってるわけじゃない。
デートに出掛けて行こうって日だぞ、店が営業している間は、のんびり食ってていいんだから。
そうするべきだ、と勧めてやったのだけれど。「全部頼んで食べてしまえ」と言ったけれども、困ったような表情のブルー。「無理そうだけど…」と。
「ハーレイ、それ…。ぼくが食べ切れると思う?」
前のぼくだって、食堂に行ったら「少なめに」って頼んでいたんだよ?
ぼくが大きくなった時にも、同じことになると思うけど…。お料理が多いと、お腹一杯。
食べたいお料理を全部頼んでも、絶対、食べ切れないんだから。…お腹一杯になってしまって。
「お前の場合は、そうなるだろうな」
前のお前も、今のお前も、あまり沢山食べられそうにはないんだが…。
お前が注文しようって時は、俺とデートの真っ最中だぞ?
俺がお前と一緒なわけで、同じテーブルにいるんだから…。お前が食べてみたい料理を、シェアすることも出来るってな。
「シェア…?」
なあに、とブルーは不思議そうだから、「知らないか?」と微笑み掛けた。
「料理を二人で分けるんだ。皿を二人分、貰ってな」
そうすりゃ、お前が食わなかった分は、俺が綺麗に平らげてやれる。お前が幾つ頼んでいても。
でなきゃ、お前と俺とで全く別の料理を頼んで、途中で交換するだとか。
俺はお前が食べてみたい料理を食うことにするから、適当なトコで「取り替えて」とな。
「それって、とっても楽しいかも…!」
色々頼んで、ハーレイと分けて食べるのも…。ハーレイとお料理を交換するのも。
どっちも素敵で、やってみたいよ。美味しそうな料理を、一つだけ選べなかった時には。
だけど、やっぱり食べられる量は少ないだろうし…。
欲張って沢山頼んじゃっても、お腹一杯だと、ぼくはどうにもならないから…。
選べるお料理の数は少なくなりそう、とブルーは残念そうな顔。「お店の人にも悪いもの」と。いくら助けて貰ったとしても、食べ切れなくなってしまうなら、と。
「…そうでしょ、ハーレイ? お料理してくれる人に悪いよ」
お腹一杯になってしまったら、せっかくのお料理、食べられないもの…。
まだありますよ、って運んで来てくれても、ぼくは見ているしかないんだもの。ハーレイが全部食べる所を、「それ、美味しい?」って訊くだけで。
そんなの、ホントに失礼だから…。あまり沢山頼んじゃ駄目だよ、いくら悩んでしまっても。
だから少ししか頼めないよ、というのがブルーの悩み。メニューで選べる時代ならでは。
前の自分たちが生きた頃なら、悩む必要さえ無かったこと。選ぶ料理が無かったから。メニューさえも無い船だったから。
「少ししか頼めないってか…。そういうことなら、また行けばいいだろ、続きを食べに」
「続き?」
「そのままの意味さ。次のデートで、この前の続き、と食べに行くんだ」
何度もやってりゃ、いくらお前が少しずつしか食べられなくても、メニューを制覇だ。それこそ端から端まで食えるぞ、料理も、それにデザートだって。
「それもいいかも…。おんなじお店でデートなんだね」
美味しいお料理、どんなのか、全部食べるまで。…メニューにあるのを、ホントに全部。
「いいか、必ず限定品から食べるんだぞ?」
今日の俺もそいつで決めたんだ。期間限定と書いてあったから、ある間に、とな。あの店にまた行くかどうかは別にして。
旬の素材で作る料理も多いからなあ、制覇するなら先に押さえるのは限定品だ。
「分かった、いつでも食べられるお料理は後回しだね」
「そういうこった。…ついでに、店に入る前にも沢山悩めるぞ」
何の料理を食べに行こうか、というトコからな。今の時代は料理の種類も山ほどだから。
「贅沢すぎだよ、今のぼくたち…」
メニューだけでも悩めそうなのに、食べに行けるお店の種類も一杯。
シャングリラの食堂の頃が嘘みたいだよね、あの食堂でも、充分、美味しかったのに…。
だけど素敵、とブルーの瞳が未来の夢に煌めいているから、デートの時にはゆっくり悩もう。
今の時代は選べる料理に、選べる食事が出来る店。
いつかブルーとデートの時には、何処に入るか、まずは食事をする店から。
ブルーと二人で悩むのもいいし、いったい何処へ連れて行こうかと一人で調べて悩むのもいい。
店を決めたらブルーと入って、今度はメニューを広げて悩む。
自分も、ブルーも、ずらりと並んだ料理の中から、どれを選んで食べようかと。
シャングリラにいた頃と違って、今は色々選べるから。
二人で違う料理を頼んで、分けて食べてもいいのだから。
そしてブルーが望むのだったら、幾つも頼んでシェアだっていい。
同じ料理を分けて食べるのも、きっと幸せだろうから。
そうやって何度も店を訪ねて、メニューを制覇するのもいい。
ブルーと二人で通い続けて、すっかり店の馴染みになって。
気に入りの席も覚えて貰って、其処に座って、料理と一緒にブルーの笑顔も堪能して…。
選べる料理・了
※今のハーレイやブルーにとっては、料理を選ぶのは当たり前。店でも、学校の食堂でも。
けれど、シャングリラでは違ったのです。何を選ぶか悩める今。デートの時にも悩んでこそ。
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どれにするかな、とハーレイが眺めたメニュー。
今日は午前中だけの研修、そちらの方は済ませて来た。学校に行く前に食事にしよう、と入った店で渡されたメニュー。「此処なら、ゆっくり出来そうだな」と選んだ店。
学校に行くのは急がないから、たまには一人でのんびり昼食。そんな気分で入ったものの…。
(ランチセットでいいんだが…)
悩んじまうな、と思うのがランチセットの中身。メインの料理が一種類ではなかった店。どれを選んでも値段は全く変わらないのに、四種類もあった。それほど広くはない店なのに。
(食後はコーヒーで決まりなんだが…)
紅茶かどうかは悩まない。コーヒー好きだし、キャプテン・ハーレイだった頃からコーヒー党。其処は簡単に決まるのだけれど、料理の方はそうはいかない。
(どれも美味そうな感じだし…)
メニューに添えられている写真。皿に盛られた四種類の料理、食欲をそそるものばかり。これは困った、と眺める中で惹かれたのが期間限定の文字。
(この料理だけは入れ替わるんだな)
四種類の中で、その枠だけが。一月ごとに変わってゆくのか、シーズンごとか。あるいは店主の気分で変わるのかもしれない。
つまりは次に店に来たって、あるとは限らない料理。同じ注文するのだったら、そういう料理を頼むのがいい。またこの店に来るかは謎だし、次の機会は無いにしても。
(一期一会って言葉もあるしな?)
こいつを食えるのは今日だけなのかもしれないぞ、と期間限定のパスタに決めた。他の三種類も魅力的だし、捨て難いけれど。
大ぶりなサンドイッチは、如何にも食べ応えがありそうな感じ。グツグツと音を立てていそうなグラタンだって、スパイスが効いていそうなカレーの方も。
それでも期間限定がいい、と選んだメニュー。直ぐに届いたサラダの皿。バゲットも、バターを添えて二切れ。
(カレーにしてたら、このバゲットは無いんだっけな)
どんな具合か、と少し千切って頬張ってみたら、なかなかの味。此処で焼くとは思えないから、パン専門の店から仕入れているのだろう。きっと店主のこだわりの店。
いいバゲットを出して来る店は、料理も期待出来るもの。この店に入って正解だった、と自分の勘を褒める間にパスタの方もやって来た。
七種類の豆を使ったというピリ辛のパスタ。ミートソースもたっぷりと。
(うん、美味い!)
パスタで当たりだ、と口に運びながら眺めた周り。他の席の様子も目に入るから。
ピリ辛のパスタで満足だけれど、他の三種類の料理を選んだ人たちもいる。熱々のグラタンや、カレーの皿や。思った通りに大きいサイズのサンドイッチを齧る人だって。
きっと、どの料理も美味しいのだろう。パスタでなくても、グラタンやサンドイッチでも。この店だったら、味は間違いなさそうだから。
(ランチセットでなきゃ、もっと色々あるわけで…)
パスタだったらソースが変わって、サンドイッチは中身が変わる。入った時に眺めたメニューに幾つも載っていた料理。写真もつけて。
(単品にしても良かったかもな?)
同じパスタを頼むにしたって、ランチセットとは違ったものを。少し高めになったとしたって、食後のコーヒーが別料金になったって。
それだけの価値がある味なんだ、と味わうパスタ。「他のも美味いに違いない」と。
(ちょっと早まりすぎたってか?)
俺としたことが、と少し残念な気分。パスタがとても美味しい上に、バゲットもいい店だから。こういう店なら、どんな料理も満足の味になる筈だから。
もっとゆっくり周りを見てから決めるべきだった、とパスタを頬張る。いくらメニューに写真があっても、やはり実物には敵わない。どんな具合に盛られて来るかも、どう食べるかも。
(…みんな美味そうに食ってるからなあ…)
サンドイッチも良さそうだよな、と目が行ってしまう。「あのサイズなら齧り甲斐がある」と。上品で小さいものよりも。
(大きすぎても、こういう所じゃ食べにくいんだが…)
丁度いいサイズになっているのが心憎い。店主のセンスがいいのだろう、と一目で分かる。他の料理も、きっと店主の自信作。
(見回してから決めりゃ良かったなあ…)
多分、余計に悩む結果になっただろうけれど、時間はたっぷりあったから。メニューを眺めて、他の客たちの料理を眺めて、またメニューへと戻ったり。
(学校の方は、別に行かなくてもいい日なんだし…)
研修があった日は、そうなっている。午前中だけで終わったのなら、午後は自由に使っていい。遊びに行こうが、家でゆったり過ごしていようが、何処からも文句は出ないもの。
(俺が勝手に学校に行こうとしているだけで…)
何時に着いても、同僚たちが驚くだけ。「今日は研修でお休みなのでは?」と。
そういう日だから、メニューで悩んでいたっていい。店に迷惑をかけない程度の時間なら。直ぐ決めなくても、「決まったら呼びます」と言ったって。
急ぎ過ぎたか、と思うけれども、これが性分。
仕事がある日はサッサと決めるし、そうそう悩みはしないもの。ランチセットにするか、単品にするか、それが最初に決めること。大抵は其処で決まる注文。
今日はたまたまランチセットが四種類あって、少し迷ってしまったけれど。
俺のスタイルはそうなんだ、と思う注文する方法。食事を楽しみたい時はともかく、食べるだけなら悩まない。どれが自分の目的に合うか、ただそれだけで選んでゆく。
量をたっぷり食べたいのならば、これだとか。急いで食べて店を出るなら、これがいいとか。
(俺だけじゃなくて、前の俺にしたって同じだからな)
しかもあっちはキャプテンだった、と苦笑い。今よりもずっと多忙な日々で、そうそうのんびりしてはいられない。食事も、それに休憩も。
前の俺だった時からの癖だ、と考えなくても分かること。食事よりも仕事が最優先だ、と。他の仲間が食べている料理、それを見てから決める余裕などあるものか、と。
そんな暇などあるわけがない、と思った所でハタと気付いた。前の自分が生きていた船。
(選べたか…?)
シャングリラの食堂で、食べる料理を。昼食にしても、夕食にしても。白い鯨になった船でも、料理を選んで食べられたのか、と辿った前の自分の記憶。「それは無理だ」と。
選べるわけがなかった料理。食堂は店ではないのだから。食事は栄養を摂るためのもので、皆の身体を養う場所。胃袋を満たすことは出来ても、あれこれ選んで食べられはしない。幾つも並んだ料理の中から選ぶことさえ出来なかった船。
厨房の者たちが「今日はこれだ」と決めた料理が、出て来た船がシャングリラ。トレイに載せて渡されるだけで、「これを」と注文などは出来ない。
(せいぜい、朝の卵の調理方法…)
その程度だった、と思う選べたメニュー。朝食の卵をどう料理するか、それは選べた。固ゆでにするか、半熟か。目玉焼きがいいか、オムレツなのか。
けれど、それだけ。他の料理を選べはしなくて、注文も出来なかった船。「あれが食べたい」と思っていたって、それが出る日を待つ他はない。
「今日、食べたい」と思っても。…ライブラリーで読んだ本に出て来て、食べたい気分になっていたって。仲間たちとの他愛ない話、それで話題になったって。
(おいおいおい…)
贅沢すぎるぞ、と見詰めた皿。なんてこった、と。
七種類の豆を使ったピリ辛パスタ。自分で選んだ料理だけれども、前の自分には出来なかった。四種類ものランチメニューを出されはしないし、選ぶことだって無かったから。
そうやって一つ選んだというのに、目移りしていたのが自分。サンドイッチも良さそうだとか、単品にして他のパスタでも良かったろうか、と。
(時間はたっぷりあったのに、なんて考えてたぞ?)
贅沢者め、と額をコツンと叩きたい気分。他の客たちがいなかったなら。
前の自分は多忙だったけれど、時間に余裕があった時でも料理を選べはしなかった。食堂の中を眺め回しても、誰のトレイにも同じ料理しか無かったから。同じ皿に盛られた同じ料理だけ。
(いつも一種類だったんだ…)
メインの料理も、サラダなども。
厨房の係に注文する時、出来たことは量の調整くらい。「多めに」だとか、「少なめに」とか。それが出来たら、もう充分に満ち足りた気分になれた船。
(俺の場合は大盛りだったが…)
少なめの仲間も多かった。たまに食堂に出て来たブルーも「少なめ」の一人。好き嫌いはまるで無かったけれども、食べられる量は、けして多くはなかったから。
(この時間だと…)
ブルーも学校で食事だろうか。ランチ仲間と食堂に出掛けて行って。
名前はシャングリラと同じに食堂だけれど、今のブルーが通う学校の食堂も料理を色々選べる。定番のランチセットは毎日一種類でも、他に幾つもある単品。オムライスとか、パスタとか。
だからブルーも選んだだろう。「今日はこれにしよう」と、食堂で。
(俺もあいつも、とんでもない贅沢をしてたってわけか…)
何を食べようかと、迷って選ぶ料理だなんて。悩む時間が短かろうとも、選ぶというだけで既に贅沢。シャングリラでは選べなかったから。料理は出て来るだけだったから。
(あいつに話してやらないとな?)
如何に贅沢に暮らしているのか、今の時代の素晴らしさを。
今日は帰りにブルーの家を訪ねてゆけるし、その時に。本当だったら休んでいい日に、予定外の仕事は来ないから。「これで帰ります」と、学校を出ればいいのだから。
そうやって出勤した学校。案の定、驚いた同僚たち。「またですか」と。研修を終えて出勤したことは何度もあるから、予想はしていたようだけれども。
やろうと思った仕事と、柔道部の指導。それが済んだらブルーの家へ。今日の研修は愛車も一緒だったし、ごくごく短い時間で着いた。歩くよりも、ずっと早い時間で。
ブルーの部屋に案内されて、テーブルを挟んで向かい合うなり投げ掛けた問い。
「お前、今日の昼飯は何だった?」
食堂で何を食べたんだ、と訊いてやったら「ランチだよ?」と答えたブルー。
「いつも食べてるランチセット。…お昼御飯がどうかしたの?」
「なんだ、他のにしなかったのか。色々あるのに」
たまにはランチセットじゃないのも食えばいいのに…。お前、大抵、ランチだよな?
「ランチセット、いつも美味しそうだから…。それに今日のはハンバーグ」
人気なんだよ、ハンバーグの日は。…ぼくの友達、全員、ランチセットにしていたもの。
いつもは違う友達だって、とブルーは説明してくれた。ハンバーグの時の人気の高さ。すっかり売り切れてしまう日だってあるらしい。遅く来た子が食べ損ねるほど。
「なるほどな。ちゃんとお前も選んだってわけだ」
「え? 選ぶって…。何を?」
ぼくはいつものランチセットで、とブルーはキョトンとしているけれど。
「飯だ、飯。…お前がランチセットを選ぶの、美味そうだからだろ?」
ついでに今日は人気メニューのハンバーグの日で、お前も大満足だった、と。
それはお前が数ある食堂のメニューの中から、ランチセットを選んだということになる。他にも色々あるんだから。お前の好みがランチセットだというだけで。
実はな、俺も今日は昼飯を選んでて…。学校じゃなくて、外の店だが。
「外のお店で昼御飯って…。ハーレイ、今日は研修だったの?」
普段は学校で食べているでしょ、食堂とか、お弁当だとか。お店で食べていたなら、研修?
「よく分かったな。午前中だけのヤツだったがな」
だから昼飯を食った後には、学校に行って来たんだが…。
休んでもいいことになっていたって、ついつい、足が向いちまうんだ。
柔道部の指導もして来たんだぞ、と話してから昼食に戻した話題。「美味い店だった」と。
「出て来たバゲットが美味かった。ああいう店にハズレは無いんだ」
そういうトコまで気を配る店は、美味いと相場が決まってる。そして本当に美味かったんだが、食ってる途中で気が付いた。
とんでもない贅沢をしてるんだな、と。
「贅沢って…。ハーレイ、高いお店に入ったの?」
一人で行くより、デートとかに使うような店。…そういうお店で食べて来たの?
ぼくも一緒に行きたかったよ、とブルーが言うから、「デートにはまだ早いだろうが」と叱ってやった。「前のお前と同じ背丈に育ってからだ」と。
「それに、お前は勘違いしてる。俺が食ってた店は普通の店だぞ、ありきたりの」
値段も普通なら、店構えもごくごく普通だったが…。ランチセットは多かったかもな。四種類もあって、其処から選べたモンだから…。メインの料理を。
其処が俺の言う贅沢なんだ。料理ってヤツを選べる所。
お前もランチセットにしようと選んだわけだが、今の俺たちならではだぞ、これは。
…シャングリラの食堂、飯時に行って料理を選べたか?
白い鯨になる前はもちろん、白い鯨で立派な食堂が出来た後にも。
「…選ぶって…。そんなの、シャングリラじゃ無理だったっけね…」
ホントだ、ハーレイが言う通りだよ。今のぼくたち、凄い贅沢をしているみたい。学校の食堂、ランチセットの他にも色々あるから…。ぼくもそっちを頼んでる日も、たまにあるから。
でも、シャングリラだと、食事の時間の料理は全部決まってて…。
これはどうしても食べられない、っていう人がいた時は…。
「駄目ならこれにしておくんだな、とドンと出ただろ、選べもしないで」
その日の厨房の都合に合わせて、予備に作ってある料理。食えない連中向けのヤツ。
両方駄目だ、と言い出すヤツが出ないようにと、その辺は考えてあったんだがな。
「そういう仕組みだったっけ…」
ぼくは好き嫌いが無かったけれども、あった仲間は、みんなそう。
係に「食べられません」って言ったら、別のトレイを渡されるんだよ。みんなと違う料理のが。
だけど、選べたわけじゃないよね。…最初からそれに決まってるんだし、選ぶのは無理。
あれは選ぶと言わないよね、とブルーも頷いている通り。
白い鯨になった後でも、まるで選べなかった食堂。大勢の仲間が食べに行くのに、メニューさえ存在しなかった。選ぶことなど出来ないのだから、メニューがあったわけもない。
朝、昼、晩と三度の食事は、厨房の係が決めていた。栄養バランスなどを考慮し、様々な食材を組み合わせて。飽きが来ないよう、味付けや調理方法を変えて。
「…前のお前の朝飯だったら、選べたんだがな」
食堂で食うんじゃなかったからなあ、青の間で俺と食ってただけで。…それ専門の係もいたし。
しかし、あれでもメニューがあったわけではないし…。
卵料理を選べた所は、他のヤツらと同じだった。食堂で選べた唯一の料理が朝の卵だっけな。
前のお前と俺の特権は、それの他にも少し注文出来たってトコで…。
トーストよりもホットケーキがいいとか、焼いたソーセージもつけてくれとか。
そんな程度の注文だったぞ、前の俺たちが選べた朝飯。
「係はいたけど、無茶なんか言えなかったよね…」
朝御飯を作りに来てくれるんだし、もうそれだけで贅沢だから…。他のみんなと違うんだもの。
その気になったら、我儘、言えただろうけれど…。
食堂だって、夜食だったらサンドイッチとかも注文出来たから…。誰が頼みに行ってもね。
「晩飯が済んだら、厨房が暇になるからな」
後片付けと次の日の仕込みくらいで、大忙しってわけじゃないもんだから…。
だが、船のヤツらが次から次へと食べにやって来る飯時は無理だ。別の料理はしていられない。
食事を食べに来たヤツらだって、悩んで決めてる時間は無いぞ。メニューが無いから。
其処で何かを迷うとしたなら、「苦手なんだが、どうしようか」ってトコだけだ。
「これは食えない」と申し出て別の料理を貰うか、我慢して食っておく方にするか。
どっちにしたって早く決めないと、他の仲間が迷惑なんだ。
「…行列して受け取る所だったものね、食堂は…」
自分の順番が回って来たら、係にトレイを渡されるだけ。
渡される前に「別のがいい」って言っておいたら、時間は無駄にならないけれど…。
トレイが来てからそれを言ったら、次の仲間を待たせちゃうものね。
料理の見本は、いつも一応、出ていたけれど…。苦手な人用の別の料理の見本も。
白いシャングリラにも無かったメニュー。選ぶことなど出来なかった料理。トレイに載せられ、渡されるだけ。その料理が苦手だった場合は、代わりのものを。
「…あれは選ぶとは言えないだろうな、苦手だから替えてくれというのは」
食べられる料理がそれしか無いから、そっちを選んだだけなんだから。
今日の俺みたいに、美味そうなのが幾つも揃った中から、選ぶってわけじゃないんだし…。
お前のランチセットにしたって、他の料理は食べられないってことでもないし…。
いつ見ても美味そうだから選ぶわけだろ、ランチセットを?
今の俺たちには、何を食おうかと選ぶ自由も、そいつで悩める場所も幾つもあるんだが…。
「贅沢だよね、本当に…。シャングリラの頃と比べたら」
あの船で料理を好きに選べて、食べられた時ってあったっけ?
夜食用の注文が出来る時間以外で、そういう自由がある時間。これがいいな、って。
「無かったな。あの船じゃ、料理の注文は出来ん。夜食の時間帯なら、なんとかなったが…」
その代わり、注文出来る料理も少ない。厨房のヤツらと、食材の在庫次第だから。
好きに選んで食べるとなったら、パーティーの時に皿の上から選べた程度で…。
あれにしたって、料理そのものは選べやしない。皿に盛り付けて出されたヤツが全部だから。
もっと他のが食べたいんだが、と思っていたって、注文するのは無理だったからな。
ついでに言うなら、皿の上から選べた料理も、今のバイキングには敵わんぞ。
色々あるだろ、バイキングの料理。ホテルの朝飯とかにしたって。
朝飯でも料理がドッサリだ、と広げた両手。卵料理やサラダで終わりじゃないんだから、と。
「シャングリラで好きに選べた料理…。バイキングにも負けちゃうね…」
朝御飯のヤツにも負けてしまうよ、トーストもホットケーキも、白い御飯もあるんだもの。
料理も山ほど置いてあるよね、サラダだけでも何種類も。
朝からお肉もお魚もあって、和風のも、中華風だって。…シャングリラのパーティーよりも上。
今はそういう時代なんだし、お料理、選べて当たり前だよね。
何にしようか悩めるだなんて、ホントに贅沢なんだけど…。
ミュウの箱舟だった船。楽園という名のシャングリラ。白い鯨は自給自足で生きてゆける設備を誇ったけれども、所詮は閉じた楽園だった。
食料に不自由しない船でも、今の時代の朝食バイキングにさえも勝てなかった船。パーティーの時に並べた料理の中身でさえも、まるで勝負にならなかった船。
そんな具合だから、普段の料理を選べはしない。食事の時間に、何を食べようかと迷いたくても無かった選択肢。皆と同じものか、それが苦手な人用に作られた予備の料理か、その二つだけ。
選ぶ自由が無い船なのだし、メニューを広げて眺める贅沢だって無い。
「…つくづく贅沢になったもんだな、俺たちも」
今日の俺は写真付きのメニューを眺めて悩んで、お前は食堂に張り出してあるメニューだろ?
ランチセットの中身はコレ、って書いてあるヤツと、いつも貼ってあるオムライスとか。
シャングリラじゃ、そいつも出来なかったな。夜食を注文するにしたって、訊くだけだから。
厨房に出掛けて、「何が作れる?」と。…サンドイッチの中身にしても。
「あの船にはメニュー、無かったもんね」
こういう料理があるんです、って書いてあるものは無かったよ。写真付きのも、字だけのも。
厨房で出て来るものしか無くって、見本が置いてあっただけ。今日の食事はこういう料理、ってトレイに載せて。…苦手だったら「替えて下さい」って言えるようにね。
「メニューなあ…。どういう料理かを書くだけだったら、無かったこともないんだが?」
生憎と写真は無かったがな、と今日の店で見たメニューと比べてみる。頭の中で。
白いシャングリラで目にしたメニューと、今日の贅沢なメニューとを。
「メニュー、シャングリラにあったっけ?」
そんなの、見たこと無いけれど…。メニューがあったら、みんなが眺めていそうだけれど。
覚えてないよ、とブルーが言うから、「忘れちまったか?」と笑みを浮かべた。
「ソルジャー主催の食事会だと作っていたぞ」
一種の記念品ってヤツだな、出席者が持って帰れるように。ソルジャーと食べた料理の中身を、何度も思い出せるようにと。
エラが張り切っていただろうが。これが無くては話にならん、と。
テーブルに置いてあったもんだが、と両手で示したメニューのサイズ。二つ折りだ、と。それを広げて立ててあったと、書かれた順に料理が出たが、と。
「ソルジャー専用の食器に盛られて、そりゃあ仰々しく…」
でもって、係がメニューの通りに言ってたぞ。魚のポワレでソースがどうとか。
「…あれ、メニューなの?」
エラはメニューだと言っていたけど、あれだと選べないじゃない。書いてある通りに、出て来るだけで。…一番上から順番に。
今日のハーレイが見て来たメニューと全然違うよ、とブルーが首を傾げるから。
「選ぶメニューとは違うがな…。あれもメニューの一種ではある」
そしてシャングリラでは、唯一のメニューだったんだ。あの船でメニューと言ったらアレだ。
今なら店に出掛けて行ったら、ああいうコース料理でも選べるヤツがあるのに…。
俺が悩んだメニューみたいに、メイン料理を選ぶとか。スープも選べるヤツだとか…。
「そうだよね…。あるよね、そういうの…」
ぼくは少ししか食べられないから、レストラン、滅多に行かないけれど…。
そういうメニューで選んだことなら、何度かあったよ。
お肉よりかは、お魚の方がお腹一杯にならないかも、って魚料理にするとかね。
スープが選べる所だったら、ポタージュじゃなくてコンソメスープ。
ポタージュスープは、お腹一杯になっちゃうから…。
「少なめに入れて」ってお願いしたって、あまり少なくはならないものね。
コース料理のような凝ったものでも、肉か魚か、選べる店があるくらい。スープの種類も。
けれどシャングリラでは無理だった。メニューを広げて、食べたい料理を選ぶこと。今の時代はブルーの学校の食堂でさえも、色々選べるものなのに。ランチセットは一種類でも、他の何かを。
今日の昼食に入った店なら、ランチセットのメイン料理を四種類の中から選べたのに。
「今だと選ぶの、当たり前になってしまったからなあ…」
俺が物心ついた頃には、もうメニューを見て選んでた。写真付きなら、指差してな。小さすぎて字なんか読めないチビでも、そうして選べたもんだから…。
俺もすっかり慣れちまっていて、今日まで気付きもしなかった。メニューを眺めて、色々選べる贅沢ってヤツに。
気付いたからには、これからはゆっくり選ばないと、とは思うんだが…。
また直ぐにサッと決めちまいそうだ、仕事のある日は。…外で一人で食ってるんなら、その日は暇なんだろうにな。今日と同じで、本当は休んでしまっていい日。
「それって、前のハーレイがキャプテンだったから?」
前のハーレイ、いつも仕事が沢山あって…。食事も休憩も早めに切り上げてたでしょ、少しでも早くブリッジに戻るのがキャプテンだから、って。
そうやって急いでいたりするのに、子供たちの相手はしてあげるんだよ。放っておかずに。
ハーレイらしいな、って思ってた。…あの頃を身体が覚えてるのかな、仕事のある日は、サッと食事を決めてしまうの。急がなくちゃ、って前のハーレイが…?
「俺もそのせいかと思ったんだが…。よく考えたら、運動をやってたせいかもな」
柔道にしても、水泳にしても、練習も合宿も時間厳守だ。むしろ早めに、と叩き込まれる。朝は早起き、飯も急いで食べなきゃならん。それも、しっかりよく噛んで、だぞ?
そう仕込まれたのが俺なわけでだ、飯をのんびり食っていたせいで遅れるなんぞは論外だ。
きっとそっちの方なんだろうな、メニューを見て直ぐに決めちまうのは。
前の俺でも、同じようにしそうではあるが…。前の俺はメニューで選んでないしな。
「そっか…。シャングリラでは、お料理、選んでないものね…」
だけど、前のハーレイなら、ホントにやりそうだよ。メニューを見せたら、直ぐに選ぶこと。
「これから仕事がありますから」って、短い時間で食べられそうなお料理とかをね。
前のハーレイでも、きっとそうだよ、とブルーにまで言われてしまうほど。
青い地球の上に生まれ変わっても、新しい命と身体を貰っても。平和な時代にやって来たって、仕事の時には大急ぎ。じっくり料理を選んでいいのに、メニューを見るなり決めてしまうくらい。
「お前にだって、そう見えるのか…。だったら、前の俺かもなあ…」
前の俺も混じっているかもしれんな、急いで決めようとしちまうこと。…仕事のある日は。
しかしだ、前の俺だと選ぶ自由も無かった料理を、今は色々選べるわけで…。
仕事の時は無理かもしれんが、いつかお前とデートの時には、ゆっくりと悩むことにするかな。
どれにしようか、お前も一緒に、あれこれ悩んでみようじゃないか。
好き嫌いは無くても、選びたいだろ、お前だって?
今日も選んでいたようだしな、と提案してやった、メニューを広げて悩むこと。いつかブルーが大きくなったら、二人でデートに出掛けて行って。メニューが豊富な店に入って。
「もちろん選んでみたいよ、ぼくも」
シャングリラの時代は抜きにしたって、選ぶの、楽しそうだから…。色々選べるお店だったら。
でも、選ぶのに困っちゃうかもしれないね。
メニューのお料理、どれも美味しそうで。…今日のハーレイが迷ったみたいに。
四種類の中から選ぶだけでも、迷ったんでしょ、と見詰めるブルー。仕事のある日に入ったお店だったのに、と。
「そういう時のハーレイだって悩むんだったら、ぼくはホントに迷っちゃうよ」と。
「だったら、全部頼んじまえばいいじゃないか」
悩むくらいなら、端から頼んで食っちまえ。時間はたっぷりあるんだから。
メニューを広げて悩む時間も山ほどある上、食べる時間もゆったり取れるぞ。
前の俺たちの頃と違って、仕事が待ってるわけじゃない。
デートに出掛けて行こうって日だぞ、店が営業している間は、のんびり食ってていいんだから。
そうするべきだ、と勧めてやったのだけれど。「全部頼んで食べてしまえ」と言ったけれども、困ったような表情のブルー。「無理そうだけど…」と。
「ハーレイ、それ…。ぼくが食べ切れると思う?」
前のぼくだって、食堂に行ったら「少なめに」って頼んでいたんだよ?
ぼくが大きくなった時にも、同じことになると思うけど…。お料理が多いと、お腹一杯。
食べたいお料理を全部頼んでも、絶対、食べ切れないんだから。…お腹一杯になってしまって。
「お前の場合は、そうなるだろうな」
前のお前も、今のお前も、あまり沢山食べられそうにはないんだが…。
お前が注文しようって時は、俺とデートの真っ最中だぞ?
俺がお前と一緒なわけで、同じテーブルにいるんだから…。お前が食べてみたい料理を、シェアすることも出来るってな。
「シェア…?」
なあに、とブルーは不思議そうだから、「知らないか?」と微笑み掛けた。
「料理を二人で分けるんだ。皿を二人分、貰ってな」
そうすりゃ、お前が食わなかった分は、俺が綺麗に平らげてやれる。お前が幾つ頼んでいても。
でなきゃ、お前と俺とで全く別の料理を頼んで、途中で交換するだとか。
俺はお前が食べてみたい料理を食うことにするから、適当なトコで「取り替えて」とな。
「それって、とっても楽しいかも…!」
色々頼んで、ハーレイと分けて食べるのも…。ハーレイとお料理を交換するのも。
どっちも素敵で、やってみたいよ。美味しそうな料理を、一つだけ選べなかった時には。
だけど、やっぱり食べられる量は少ないだろうし…。
欲張って沢山頼んじゃっても、お腹一杯だと、ぼくはどうにもならないから…。
選べるお料理の数は少なくなりそう、とブルーは残念そうな顔。「お店の人にも悪いもの」と。いくら助けて貰ったとしても、食べ切れなくなってしまうなら、と。
「…そうでしょ、ハーレイ? お料理してくれる人に悪いよ」
お腹一杯になってしまったら、せっかくのお料理、食べられないもの…。
まだありますよ、って運んで来てくれても、ぼくは見ているしかないんだもの。ハーレイが全部食べる所を、「それ、美味しい?」って訊くだけで。
そんなの、ホントに失礼だから…。あまり沢山頼んじゃ駄目だよ、いくら悩んでしまっても。
だから少ししか頼めないよ、というのがブルーの悩み。メニューで選べる時代ならでは。
前の自分たちが生きた頃なら、悩む必要さえ無かったこと。選ぶ料理が無かったから。メニューさえも無い船だったから。
「少ししか頼めないってか…。そういうことなら、また行けばいいだろ、続きを食べに」
「続き?」
「そのままの意味さ。次のデートで、この前の続き、と食べに行くんだ」
何度もやってりゃ、いくらお前が少しずつしか食べられなくても、メニューを制覇だ。それこそ端から端まで食えるぞ、料理も、それにデザートだって。
「それもいいかも…。おんなじお店でデートなんだね」
美味しいお料理、どんなのか、全部食べるまで。…メニューにあるのを、ホントに全部。
「いいか、必ず限定品から食べるんだぞ?」
今日の俺もそいつで決めたんだ。期間限定と書いてあったから、ある間に、とな。あの店にまた行くかどうかは別にして。
旬の素材で作る料理も多いからなあ、制覇するなら先に押さえるのは限定品だ。
「分かった、いつでも食べられるお料理は後回しだね」
「そういうこった。…ついでに、店に入る前にも沢山悩めるぞ」
何の料理を食べに行こうか、というトコからな。今の時代は料理の種類も山ほどだから。
「贅沢すぎだよ、今のぼくたち…」
メニューだけでも悩めそうなのに、食べに行けるお店の種類も一杯。
シャングリラの食堂の頃が嘘みたいだよね、あの食堂でも、充分、美味しかったのに…。
だけど素敵、とブルーの瞳が未来の夢に煌めいているから、デートの時にはゆっくり悩もう。
今の時代は選べる料理に、選べる食事が出来る店。
いつかブルーとデートの時には、何処に入るか、まずは食事をする店から。
ブルーと二人で悩むのもいいし、いったい何処へ連れて行こうかと一人で調べて悩むのもいい。
店を決めたらブルーと入って、今度はメニューを広げて悩む。
自分も、ブルーも、ずらりと並んだ料理の中から、どれを選んで食べようかと。
シャングリラにいた頃と違って、今は色々選べるから。
二人で違う料理を頼んで、分けて食べてもいいのだから。
そしてブルーが望むのだったら、幾つも頼んでシェアだっていい。
同じ料理を分けて食べるのも、きっと幸せだろうから。
そうやって何度も店を訪ねて、メニューを制覇するのもいい。
ブルーと二人で通い続けて、すっかり店の馴染みになって。
気に入りの席も覚えて貰って、其処に座って、料理と一緒にブルーの笑顔も堪能して…。
選べる料理・了
※今のハーレイやブルーにとっては、料理を選ぶのは当たり前。店でも、学校の食堂でも。
けれど、シャングリラでは違ったのです。何を選ぶか悩める今。デートの時にも悩んでこそ。
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
今年も秋がやって来ました。ただし暦の上でだけ。八月の七日が立秋というだけでも「嘘だろう」と言いたい気分ですけど、「暑さ寒さも彼岸まで」はもう確実に嘘気分。秋のお彼岸が昨日で終わったというのに、やっぱりガッツリ暑いですよ?
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
今日も朝から暑いよね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。土曜日なので会長さんのマンションにお邪魔してみれば、やっぱりクーラーが効いているわけで。
「うわぁ、涼しい! バス停からの道が暑くてさ~」
此処は天国! とジョミー君がリビングのソファに陣取り、私たちも。出て来たおやつはレモンメレンゲパイ、ほど良い冷たさが嬉しいです。それに冷たい飲み物も。でも…。
「あれっ、キース先輩、ホットですか?」
なんでまた、とシロエ君でなくても驚くホットコーヒー、注文の時から「そるじゃぁ・ぶるぅ」が何度も確認していました。「ホントにホット?」と。ホカホカと湯気が立っている淹れ立てのコーヒー、香り高くはありますが…。暑いですよ?
「すまん、暑苦しい気分にさせたなら申し訳ない」
しかしホットで、と熱いのを飲んでいるキース君。夏場はアイスコーヒーだったと思うんですけど、記憶違いかな、ホットだったかな?
「暑苦しいとは言いませんけど…。先輩、普段はアイスコーヒーだったんじゃないですか?」
暑い季節は、とシロエ君。やっぱり私の記憶違いじゃなかったようです。
「そうなんだが…。バテた時には冷やすのは良くない」
「「「バテた?」」」
今頃になって、とビックリですけど、考えてみれば夏の疲れが出るのが夏バテ。本当だったら今が夏バテのシーズンなのかもしれません。夏真っ盛りじゃなくて。
「…いや、夏バテじゃなくてだな…。昨日までの…」
お彼岸バテだ、とフウと大きな溜息が。そういえばキース君、今年のお彼岸は学校も休みがちでしたっけ。定番のお中日はもちろん、その前後にも。連絡だけは取れてましたから、来ていたような気になっていただけ、昨日もお休みだったのでした。
「お彼岸バテかよ…。親父さんかよ?」
コキ使われたのかよ、とサム君が訊くと、キース君は「まあな」と。
「ただ、コキ使うと言うのかどうか…。副住職なら、あのくらいは働くものかもしれん」
俺が高校生だから甘く考えているだけで、と生真面目な答え。
「学校を卒業して副住職稼業に専念していれば、もっと働くものかもしれんし…」
「でもよ、昨日は何してたんだよ、お中日はともかく」
お中日なら檀家さんも参加の法要だけどよ、と言うサム君。
「最終日はそこまでデカイ法要は無かった筈だぜ、お寺の役がついてる人くらいしか…」
「そうなんだが…。それはそうだが、春に手伝いをしてくれてるなら、察してくれ」
墓回向だ、とキース君。
「駆け込み需要というヤツだ。遠方にお住まいの檀家さんだと、お中日に帰って来るより昨日の方が都合が良かった。金曜日だからな」
そこで帰って一泊か二泊、日曜に帰るというコース、とブツブツと。
「お蔭で、例年だったら最終日にはそんなに多くはない墓回向が…」
「MAXでしたか?」
シロエ君の質問に、キース君は。
「お中日前の忙しさが戻って来たようだった…。しかも昨日は暑かったんだ!」
あのクソ暑い中で何度も何度も墓回向を…、と嘆き節。
「親父には「墓地で待機していろ」と言われたし、実際、そうしなければ間に合わないほど次から次へと…。昼飯を食いに戻った時にも、また新手が!」
待たせておくわけにはいかないのだそうで、食事を中止で裏山の墓地へ。そういう檀家さんに限って墓地が奥の方、暑い中を石段をテクテク登って、日がカンカンと照り付ける中で…。
「…墓回向かよ?」
「そうなんだ! 親父ときたら、食い終わっていたくせに「お前の仕事だ」と…」
行くように顎で促されたそうです、墓回向。でっぷり太ったアドス和尚は暑い中での墓回向はお好きではなくて、キース君に役目をブン投げがち。日頃からお寺に出入りしている檀家さんなら行くようですけど、駆け込み需要の方ともなると…。
「親父さん、行きそうにねえもんなあ…」
強く生きろな、と励ますサム君。そっか、お彼岸バテなんですね…。
ただでも忙しい秋のお彼岸、最終日に至るまで振り回されて終わったキース君。もうすっかりとバテてしまって、レモンメレンゲパイくらいはともかく、アイスクリームなどはパスだそうです。バテた時には温かい食べ物や飲み物がいい、ということで…。
「それは確かに基本だね、うん」
会長さんが頷きました。
「土用の丑だって熱々のウナギを食べるわけだし、冷やすのは良くない。…ぶるぅ、お昼はスタミナのつくものにしてあげてよ」
「えとえと…。シーフードカレーのつもりだったけど、ニンニク入れる?」
「そうだね、もうお彼岸も終わっているからいいだろう」
ニンニクたっぷりのカレーでいいね、と会長さんがキース君に確認すると。
「有難い…。お彼岸の間は親父がうるさくて、スタミナどころか精進料理で…」
「分かったぁ! それじゃ、ニンニク! スタミナカレー!」
ちょっと仕込みに行ってくるね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」はキッチンへ。カレーは出来上がっているそうなんですけど、ニンニクは早めに入れておかないと馴染まないそうです。
「…精進料理だったんですか…。それはキツイですね」
この暑いのに、とシロエ君が頭を振りましたが。
「俺限定でな! 親父は肉も食っていたんだ、俺だけ修行ということで…」
実に不幸な年回りだった、と嘆くキース君のお彼岸バテ。「そるじゃぁ・ぶるぅ」はニンニクをたっぷりすりおろしてカレーに入れて来たとか言ってますから、お昼御飯でスタミナをつけて元気になって貰わないと…。
そういったわけで、お昼御飯はニンニクたっぷりのスタミナカレーになりました。スパイシーなシーフードカレーが更にバージョンアップです。私たちの飲み物はラッシーですけど、キース君には熱いマサラティー、元気が出るようスパイス入りのミルクティー。
「「「いっただっきまーす!」」」
食べるぞ、と合掌したダイニングですが、途端に背後で誰かの声が。
「こんにちはーっ!」
ぼくにもカレー! と出て来たソルジャー、紫のマントの正装です。「コレでカレーは気分が出ないかな」とパッと私服に着替えるが早いか、空いていた椅子にストンと座って。
「それとね、飲み物も…。えーっと、キースとおんなじヤツで」
「マサラティーなの?」
あんまり好きじゃなさそうだけど、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「お砂糖とミルクはたっぷり入っているけれど…。スパイス多めに入れてあるから、甘いって感じはあんまりしないよ、マサラティー」
「そう、そのスパイス! 元気が出るんだよね?」
「うんっ! マサラティーの国だと、うんと暑いから、暑さに負けないようにスパイス!」
カレーとおんなじ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は笑顔です。
「えっとね、スパイスはお薬なの! 効き目で色々選ぶんだよ!」
漢方薬みたいなものだから、という説明にソルジャーの瞳が何故かキラリと。
「やっぱり漢方薬なのかい?」
「ちょっと違うけど…。アーユルヴェーダだったかなあ…。でもでも、お薬!」
カレーの国ではお薬なの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。ソルジャーは「それは良かった」と嬉しそうに。
「来た甲斐があったよ、それじゃ、ぼくにもマサラティー! キースと同じヤツ!」
「…スパイス、ちゃんと変えられるよ?」
お店で出るようなマサラティーにも出来るし、もっとスパイス控えめにも…、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は言ったのですけど。
「そのままで! お彼岸バテに効くとかいうヤツで!」
それとスタミナカレーでお願い、と注文しているソルジャー。まさかソルジャーもお彼岸バテってことは無いですよね、お坊さんとは違いますしね…?
間もなくソルジャーの前にもスタミナカレーとマサラティー。ニンニクたっぷりのシーフードカレーはソルジャーの口にも合ったようですが、マサラティーの方は…。
「…うーん…。なんと言ったらいいんだろう…」
もはや紅茶とは違う気がする、とカップを手にして悩むソルジャー。
「香りも別物、ミルクの味もあんまりしないし…。甘いどころかピリッとしてるし…」
「だから言ったのに…」
あんまり好きじゃなさそうだよって、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。キース君も自分用のを飲みながら些か呆れた風で。
「自業自得だとは思うんだがな…。あんた向けにアレンジして貰うんなら、ミルクだな」
それと砂糖を追加でよかろう、とキース君。
「半分ほどに減らして貰って、ミルクと砂糖を追加して貰え」
「減らすって…。それじゃ、減らして貰った分はどうなるんだい?」
「もったいない話だが、捨てるしかなかろう」
あんたが口をつけた以上は、とキース君は左手首の数珠レットの珠を一つ繰って。
「仏様にはお詫びしておいてやったぞ、捨てる分は施餓鬼しますから、とな」
「施餓鬼って?」
「餓鬼道というのがあってだな…。そこに落ちると、食べ物も水も火に変わってしまって何も食えなくて飢えるわけだ。その餓鬼に食べ物をどうぞ、と供養するのが施餓鬼だ」
「…残り物でもいいのかい?」
飲み残しでも、とソルジャーがマサラティーのカップを指差すと。
「本来は食べる前にやるものだが…。修行中だと、飯粒を「餓鬼に」と取り分けることもあったりするんだが、口をつけたものでも捨てるよりはな」
だから遠慮なく捨てて貰え、とキース君は言ったのですけど。
「もったいないよ、誰かにお裾分けなんて!」
こんな有難い飲み物を、とソルジャーはカップを自分の口へと。ゴクリと一口、また一口。半分ほどになった所で「そるじゃぁ・ぶるぅ」に…。
「ちゃんと減らしたから、ミルクと砂糖を追加でお願い!」
「オッケー!」
足してくるね、とキッチンに走る「そるじゃぁ・ぶるぅ」はいいんですけど、ソルジャー、餓鬼に施すよりかは飲もうというのが凄すぎです…。
食べ物も水も火に変わる世界、何も食べられずに飢えに苦しむ世界が餓鬼道。そこに住んでいる餓鬼の上前をはねると言ったら少し変ですが、施すくらいなら飲んでしまえとマサラティーをゴクゴク飲んでしまったのがソルジャーで。
「…あんた、どういう神経なんだ」
気の毒な餓鬼に施そうとは思わないのか、とキース君が顔を顰めると。
「うーん…。ぼくのシャングリラの食事だったら、いくらでも!」
あんな面倒な食事をするより、栄養剤で充分だから、と天晴れな返事。
「そっちだったら、もう喜んで! 次の食事は全部あげるから、施餓鬼だっけ?」
それをよろしく、というのも酷い話で。
「おい、食べ物の有難さというのを分かっているのか? とても分かっていそうにないが」
何が施餓鬼だ、と睨み付けている副住職。
「要らないからくれてやろう、というのは施餓鬼の本来の精神からだな…」
「施餓鬼の話はどうでもいいよ。食べ物の有難さだったら、分かっているから!」
だからこそ飲んだ、とソルジャーが返した所へ「そるじゃぁ・ぶるぅ」が「はい!」とマサラティーのカップを持って戻って来ました。
「ミルクとお砂糖、足して来たよ! これでいけると思うんだけど!」
「ありがとう! うん、美味しいね」
甘さが増した、と喜ぶソルジャー。
「この味だったら充分飲めるよ、でも、効能は落ちていないんだよね?」
「えーっと…。比べるんなら、さっきの方がずっとスタミナがつくんだけれど…。でもでも、さっき入れて来た分は飲んだわけだし、合わせればきっと大丈夫!」
元気が出るよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」はニッコリと。
「お彼岸バテも治ると思うの、これとカレーで! …だけど、お彼岸、何処でやったの?」
シャングリラにお彼岸はあったっけ、という質問。待ってましたよ、私も知りたかったんです。ソルジャーの世界でお彼岸バテって、どう考えても有り得ませんから~!
スタミナたっぷりのニンニク入りのシーフードカレー、それとマサラティーが目当てで来たソルジャー。「来た甲斐があった」と言ってましたし、口に合わないマサラティーだって餓鬼に施すより飲んでしまえな方向でしたし、バテてるんだと思うのです。
けれども、キース君と同じなお彼岸バテは無さそうな世界、何処でバテたかが気になる所。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお蔭で謎が解けそうですけど、ソルジャーは「え?」と。
「お彼岸って…。ぼくのシャングリラにお彼岸なんかは無いけれど?」
そもそもお坊さんがいないし、と返った返事。
「だから無いねえ、お彼岸なんかは! もちろん、お盆も!」
「え? でも…。お彼岸バテだから、スタミナカレーでマサラティーでしょ?」
キースのために作ったんだもん、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「普通のシーフードカレーのつもりだったけど、キースがお彼岸バテだから…。スタミナのつく食事にしてあげて、ってブルーが言ったし…」
だから飲み物もマサラティーなの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が説明すると。
「そこだよ、スタミナって所なんだよ! ぼくはそっちが欲しくって!」
「お彼岸バテでしょ?」
「違うよ、スタミナをつけたいんだよ!」
これからの季節は大いにスタミナをつけたいから、とソルジャーはスタミナカレーを頬張って。
「ニンニクなんかは王道だよねえ、スタミナの! これも嬉しい食事だねえ…」
「…あんた、いったい何がしたいんだ?」
餓鬼の上前まではねやがって、とキース君が突っ込むと。
「もちろん、体力づくりだよ! スタミナをつけて頑張らなくちゃね!」
「…墓回向をか?」
「お彼岸は無いと言ったじゃないか。そういう世界でスタミナと言えば!」
「「「…スタミナと言えば…?」」」
オウム返しにハモッてしまった私たち。ソルジャーはカレーをパクリとスプーンで一口、モグモグしてから高らかに。
「スタミナをつけて、やることは一つ! 食欲の秋で、性欲の秋!」
人肌恋しくなる秋こそセックス! と強烈な台詞。そういやソルジャー、秋になったら言ってますかねえ、食欲の秋で性欲の秋…。
ソルジャー曰く、やることは一つ。スタミナをつけたら大人の時間で、キャプテンと過ごすつもりです。けれど、ソルジャーがスタミナをつけても、あんまり意味は無いんじゃあ…?
会長さんもそう思ったらしくて。
「君の話はそこまでにして、と…。レッドカードは出したくないから、そこでおしまい。でもね、君がスタミナをつけた所で意味が無いように思うけど?」
「どうしてさ?」
「えーっと…。ちょっと言いにくいんだけど…」
「分かるよ、スタミナはハーレイの方だと言いたいんだろう?」
ぼくは受け身の方だからね、とソルジャー、サラリと。
「本来、スタミナをつけて励むべきなのはハーレイだけど…。ぼくも疲れを持ち越さないのが大切だからさ、それで試してみるのが一番!」
「「「へ?」」」
「スタミナカレーとマサラティーとで、どこまでスタミナがついたかだよ! 今夜もハーレイと大いに楽しむつもりだし…。ぼくがパワーアップしているようなら、使えるわけ!」
スタミナカレーもマサラティーも、と言うソルジャー。
「ぼくは寝起きが悪い方でねえ…。それが明日の朝、スッキリと目が覚めるようなら効くんだよ! スタミナカレーとマサラティーは!」
「それはそうかもしれないけれど…」
会長さんが腕組みをして。
「だったら、君はこれから毎日のようにスタミナカレーとマサラティーを作れと言ってくるわけ、スタミナのために?」
「もちろん、お願いしたいねえ! ぼくの分と、ついでにハーレイのもね!」
「毎日、カレーとマサラティーとでいいのかい?」
「そうだけど?」
ぼくは元々、栄養剤で充分だという人間だから、とソルジャーは何とも思っていませんけれども、キャプテンの方は絶対違うと思います。毎日、毎日、同じ食事じゃ飽きるのでは…。「そるじゃぁ・ぶるぅ」も心配そうに。
「んとんと…。そんなお食事、ハーレイが困ってしまわない?」
もっと色々、食べたくなると思うんだけど、という意見。誰だって普通はそうですよねえ?
食事の代わりに栄養剤でもいいと言うソルジャー、毎日がカレーとマサラティーでもいい模様。スタミナさえつけばいいようですけど、スタミナっていうのは…。
「食事で摂るなら、バリエーション豊かにするべきだろうと思うけどね?」
食べる楽しみもスタミナの内、と会長さん。
「土用の丑のウナギもそうだよ、あの日に食べるから美味しく感じてスタミナもバッチリ! それが毎日ウナギだったら、なんだかねえ…」
「逆にゲンナリしそうではあるな」
仮にスタミナがついたとしても、とキース君が頷いています。
「またウナギか、と思わないように料理してあれば話は別だが…」
「そういうものかい、食事って?」
「あんたには分からんだろうがな!」
餓鬼の上前をはねるかと思えば、要らない食事を餓鬼にやろうというヤツだ、と副住職。
「食べ物は感謝して頂くものだが、素人さんには難しい。ワンパターンとなったら尚のことだ」
「分かるぜ、俺だって毎日同じだと溜息コースは確実だしよ」
これでも坊主の端くれなのに、とサム君が。
「だからよ、毎日カレーってヤツはよ…。俺もお勧め出来ねえよ」
「ふうん…? でもね、ぼくだと充分なわけで…」
とにかくスタミナ! とソルジャーはスタミナカレーを綺麗に食べ終え、マサラティーもすっかり飲み干して。
「さてと、どれだけスタミナがついているだろう? 今夜が楽しみになってきたよ!」
「…効果があったら、君のハーレイも君も、明日からスタミナカレーとマサラティーだと?」
どうかと思う、と会長さんが溜息をつくと、ソルジャーが。
「そう言うのなら、バリエーションってヤツを考えといてよ!」
「「「は?」」」
「バリエーションだよ、同じカレーでも味付けがちょっと変わるとか!」
そういう方向で何か考えて、とソルジャーはまるで他人任せで。
「ぼくのやり方がマズイと言うなら、解決策の方をよろしく! それじゃ、御馳走様ーっ!」
効果があったら、明日、報告に来るからね! と手を振ってソルジャーは消えてしまいました。お昼御飯でつけたスタミナ、夜まで効果はあるんですかねえ…?
ソルジャーが帰って行ってしまった後、私たちは溜息をつくしかなくて。
「…なんだったんでしょう、アレ…?」
スタミナカレーは効くんでしょうか、とシロエ君。
「キース先輩、どんな感じですか? お彼岸バテは?」
「…食べる前よりは楽になったな、マサラティーのお蔭もありそうだ」
ホットコーヒーに比べれば遥かに効いた気がする、とキース君は少し元気を取り戻した様子。
「後でもう一杯、頼めるか? …面倒でないなら」
「かみお~ん♪ スパイスはちゃんと買ってあるから、紅茶と一緒に煮るだけだよ!」
だから簡単! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「えっとね、スパイスはお薬だから…。元気が出るヤツとか色々あるの!」
カレーの国にお出掛けすれば、とニコニコと。
「本場のスパイスが欲しくなったら買いに行くしね、そのついでに買ってくるんだよ!」
マサラティー用にブレンドしたヤツ、と言われて納得、本場モノ。それは確かに効きそうです。漢方薬と同じ理屈か、と思ったアーユルヴェーダとやらのスパイス。これでキース君も完全復活するといいね、と午後のおやつにもマサラティーが出され…。
「かなり復活出来た気がする。後は一晩ぐっすり眠れば治るだろう」
しかし大事を取って飲み物は今夜も温かいものを…、と言うキース君に会長さんが。
「スタミナをつけるなら、晩御飯は焼肉だねえ…。ガーリックライスなんかもつけて」
「すまんな、俺がバテてしまったばっかりに…」
「焼肉はみんな大好物だし、特に問題無いと思うよ」
ねえ? と訊かれて「うん」と頷く私たち。会長さんの家の焼肉パーティーはマザー農場のお肉ですから美味しいのです。「そるじゃぁ・ぶるぅ」は「ちょっと貰ってくる!」と焼肉用のお肉や野菜を分けて貰いにマザー農場へと瞬間移動で出掛けましたが…。
「見て見て、こんなの貰って来ちゃったー!」
キースにピッタリ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が高く差し上げた瓶。えーっと…?
「スタミナがつくタレなんだって! マザー農場特製だよ!」
こんなのがあるって知らなかった、と言ってますけど。それっていわゆる「まかない」ですかね、お客さんに出すための料理と違って、従業員の人とかが食べるという…?
焼肉の材料の調達に出掛けた「そるじゃぁ・ぶるぅ」が貰って来たタレ。瓶には何も書かれていなくて、如何にも自家製といった雰囲気です。焼肉用のタレなのかな…?
「んーとね、色々使えるらしいよ? 焼肉にも、お肉の下味とかにも…。お料理にも!」
マザー農場の秘伝だって! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は得意そう。秘伝だったら、まかないとかではないんでしょうか?
「食堂でもよく使っています、って言っていたから、お客さんにも出してると思う!」
今まで知らなかったけど、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が瓶を見ているからには、隠し味に使っているのでしょう。そのまま使えば料理上手だけに「これは何?」と思うでしょうし…。
「ソルジャーのぼくも、タレというのは初耳だねえ…。マザー農場はソルジャー直轄じゃないし、知らなくっても不思議はないけど…」
スタミナがつくタレなのか、と会長さんは瓶を揺すってみています。相当に濃いタレだとみえて、ドロリとしているのが分かりますが…。
「それね、薄めて使うんだって! 焼肉のタレにするのなら!」
そのままだと濃すぎて強すぎるらしいの、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「下味とか、お料理もちょっぴり入れれば充分だって!」
「なるほどねえ…。ぶるぅやぼくにも分からないわけだね、薄めて使っているんだったら」
「そうなの! 凄く色々入っているって言ってたよ!」
ニンニクも、それにスッポンエキスも…、とタレの説明が始まりました。スタミナがつく食材などをじっくり煮込んで樽で熟成、大量生産には向かないのだとか。ゆえに秘伝で、一般販売はしていないタレ。お彼岸バテのキース君にピッタリのタレじゃないですか!
「マザー農場の皆さんまでが俺を心配して下さったとは…。有難いことだ」
キース君が合掌した所へ、「タレだって!?」という声が。
「「「???」」」
誰だ、と思うまでもなく降って湧いたソルジャー、タレが入った瓶を引っ掴むと。
「これがスタミナがつくというタレ…。焼肉にも、他の料理にも使えるタレなんだね?」
「そうだけど…。焼肉、食べに来たの?」
お客様大好き「そるじゃぁ・ぶるぅ」は歓迎モードで、ソルジャーは。
「御馳走してくれるんなら、喜んで! このタレも是非、試したいから!」
スタミナをつけて性欲の秋! とブチ上げるソルジャー、戻って来ちゃったみたいです。スタミナカレーとマサラティーでは足りなかったかな…?
晩御飯は、戻って来てしまったソルジャーも交えて焼肉パーティー。マザー農場の秘伝のタレは「そるじゃぁ・ぶるぅ」が薄めてくれて、その味がまた絶品で。
「これってさあ…。マザー農場のジンギスカンの味に似ていない?」
ジョミー君が言ったら、マツカ君も。
「そうですね。一番近いのはあれですね」
収穫祭で御馳走になるジンギスカンの味ですよ、と言われてみれば、そういう味かもしれません。食堂で頂くステーキのソースも少し似ているかも…。
「まさか薄めていたとはねえ…。濃厚なソースを」
ぼくは煮詰めるものだとばかり、と会長さんが少し中身が減った瓶を眺めて、「そるじゃぁ・ぶるぅ」も「ぼくも」と首をコックンと。
「美味しくて複雑な味がするから、色々入れているんだろうな、って思ってたけど…。似たような味は家で作れるから、ちっとも不思議に思ってなかった…」
そんなに手間がかかったタレだったなんて! と感心しているお料理上手な「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、レシピを貰おうと考えているようです。せっかくだから自分も作ってみようと。
「いいねえ、ぶるぅが作るのかい?」
出来上がったら、ぼくにも是非! とソルジャーが。
「スタミナがつくタレと聞けばね、もう貰うしかないってね! スタミナカレーやマサラティーだと、こっちの世界へ食べに来るしかないけれど…。タレだったら!」
ぼくの世界の料理にかければ出来上がりだし、と無精者ならではの発言が。
「いろんな料理に使えるのなら、ちょっとかければ完成だしね!」
「…君のいい加減な性格からして、美味しくなるとも思えないけど?」
せっかくの美味しいタレが台無し、と会長さんがソルジャーをジロリと。けれどソルジャーが負ける筈もなくて。
「要は効き目があればいいんだよ、良薬は口に苦しだからね!」
多少マズくても、スタミナがつけばそれでオッケー! と突き上げる拳。
「それにさ、薄めて使ってもこの美味しさでさ、おまけにスタミナがつくんだよ? そのまま使えば効き目だって!」
一段と増すに違いない、と言ってますけど、相手はドロリとしたタレです。ほんの少しを薄めただけで焼肉パーティーに充分な量が出来上がったわけで、相当、濃いんじゃないですか…?
スタミナがつくらしい、マザー農場秘伝のタレ。濃厚すぎるタレは薄めて使用で、瓶の中身はそれほど減っていないというのに大人数での焼肉パーティーにたっぷり使えています。ソルジャーも入れて総勢十名、薄めたタレは器にまだまだ残ってますし…。
「…原液はどうかと思うけどねえ?」
濃すぎて不味いんじゃなかろうか、という会長さんの意見に「そるじゃぁ・ぶるぅ」も「そだね」と頭をピョコンと。
「辛すぎるだとか、甘いか辛いかも分からないほどとか、そんなのじゃないかな」
ちょっと試してみる! と瞬間移動でヒョイと出て来た料理用の竹串、「そるじゃぁ・ぶるぅ」はタレの瓶を開けて串の先っぽを突っ込んでみて…。取り出した串を舌でペロリと。
「…どうでした?」
味は、とシロエ君が訊くと、「美味しい!」という意外すぎる答え。
「美味しいわけ?」
薄めてないよ、とジョミー君も目を丸くしてますけれど。
「でも、美味しい! ちょっぴり舐めただけだったから…。きっと口の中で薄まるんだよ」
焼肉のタレと同じ美味しさ、との話に、ソルジャーは。
「それなら原液も充分いけるね、どのくらいスタミナがつくのか試していいかな?」
「…君が使うのかい?」
あんまりお勧めしないけどねえ…、と会長さん。
「ぶるぅは少し舐めただけだし、美味しかったかもしれないけれど…。そのままタレに使ったりしたら、それこそ火を噴く辛さかも…」
「ぼくで試すって誰が言った? スタミナのつき具合ってヤツを知りたいんだよ、ぼくは!」
こっちのハーレイに決まっているだろう! というソルジャーの台詞。教頭先生で試すだなんて、焼肉パーティーに御招待ですか?
タレの原液の効き目が知りたいソルジャー、試すなら教頭先生とのこと。会長さんが止めるのも聞かず、青いサイオンがキラリと光って、教頭先生が焼肉パーティーの場に。
「な、なんだ!?」
驚いておられる教頭先生に、ソルジャーは。
「こんばんは。御覧の通りに焼肉パーティーをやっててさ…。美味しいタレが手に入ったから、君にも御馳走しようと思って」
まあ座ってよ、と椅子まで引っ張って来たソルジャー。教頭先生は「これはどうも…」と腰を下ろして、何も疑ってはいらっしゃらなくて。
「遠慮なく御馳走になることにします。…焼肉ですか」
「そう! このタレがホントに美味しくってねえ…」
これだけでも充分にいける味で、とソルジャーの手に小皿。私たちが薄めたタレを入れてるヤツですけれども、ソルジャーはそれに瓶から原液をドロリ。
「はい、まずはお試し! タレだけで味わってみてよ、肉は入れずに」
「そんなに美味しいタレなのですか。…では、早速…」
教頭先生は小皿を傾け、ドロリとしたタレを口に含んで、味わってからゴックンと。
「いい味ですねえ…! なんとも深くて複雑で」
「それは良かった。じゃあ、この後は焼肉でどうぞ」
薄めたタレもいけるんだよ、とソルジャーが小皿に薄めた方のタレを注ぎ足し、教頭先生は焼肉パーティーに本格的に参加なさったわけですが。暫く経つと…。
「…暑くないですか?」
「失礼だねえ…。クーラーは効いてると思うけど?」
ケチっていない、と会長さんが眉を吊り上げ、それから間もなく。
「…ちょ、ちょっと失礼を…」
席を立とうとする教頭先生。ソルジャーが「トイレかい?」と教頭先生の肩に手を置き、「トイレなんかに行かなくてもねえ、ここで充分!」と。
「なんだって!?」
ぼくの家を何だと思っているわけ!? と会長さんが怒鳴りましたが、ソルジャーは。
「生理的現象が別物なんだよ、ハーレイは催してきちゃったわけで…。こう、ムラムラと」
スタミナがついて! と満面の笑顔。それって、もしかしなくても…?
教頭先生の生理現象はズボンの前がキツイ方でした。トイレではなくて。ますますもって許し難いと会長さんが怒り狂って、ソルジャーは教頭先生に。
「困ったねえ…。ぼくとしてもなんとかしてあげたいけど…」
「え、ええ…。私も是非とも…」
お願いしたい気分です、と教頭先生は会長さんをチラリ。
「ブルー、こう仰っておられるのだし…。そのぅ、少しだな…」
「どういう神経をしているのさ! このぼくの前で、少しも何も!」
ぼく一筋だと思っていたのに、と会長さんが喚いているのに、教頭先生も「そう怒るな」と。
「今は最高に漲っているし、あちらのブルーと少しやっても、まだ充分に…」
「やるも何も、ヘタレには絶対、無理だから!」
やれると言うなら、今すぐにやれ! と会長さんのサイオンが炸裂、教頭先生のズボンや紅白縞のトランクスやらがパッと消滅。スウェナちゃんと私の視界にはモザイクがかかってしまって…。
「さあ、この状態で遠慮なくどうぞ! 出来るものなら!」
ブルーはそこにいるんだから、と会長さんが指差し、ソルジャーが。
「ここまで用意をして貰ったからには、ぼくも御奉仕しないとね! さてと…」
始めようか、と教頭先生の前に屈んだソルジャーですけど、そこはヘタレな教頭先生。ズボンや紅白縞が消えて焦っておられる所へ、ソルジャーが接近したわけですから…。
「「「………」」」
やっぱりこういう結末だったか、と呆れるしかない教頭先生の末路。椅子に腰掛けたままでブワッと鼻血で、そのまま失神。手足がダランとしちゃっています。
「えとえと…。ハーレイ、どうなっちゃったの?」
このタレって何か危ないものでも入ってたかな、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。ぼくも舐めちゃったんだけど、と。
「らしいね、薄めずに飲むと危ないようだよ。ぶるぅは少しだから大丈夫だと思うけど…」
でも危ないねえ、とソルジャーが肩を竦めて、「人体実験ありがとう」と教頭先生を抱え、瞬間移動で家へと運んで行ったようです。直ぐに戻ると思いますけど、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は。
「…なんか危ないタレみたいだよ?」
「いや、それは原液で使った時でだな…」
普通に使えば何も起こらない美味いタレだが、と話すキース君はお彼岸バテもスッキリだとか。適量を使えば美味しくて役立つ素敵なタレだと思いますけどね?
私たちは秘伝のタレの美味しさと効能を「そるじゃぁ・ぶるぅ」にせっせと力説、会長さんも「あれはブルーの使い方が悪かっただけだ」と言っているのに、お子様なだけに。
「でもでも…。ちょっぴり怖いと思うの、作り方を習うのはやめようと思う…」
「それはまあ…。作らない方がいいでしょうね」
何処かの誰かが狙ってますし、とシロエ君。
「ぶるぅが作れるとなったら大量に仕込めと言って来ますよ、あの調子だと」
「うんうん、たまに貰って使う方がずっといいと思うぜ」
肉を貰いに行ったついでに分けて貰えよ、とサム君が前向きに述べている所へ…。
「ただいまーっ! ハーレイはベッドに寝かせて来たよ」
大サービスでパジャマも着せておいた、とソルジャーが瞬間移動で戻って来ました。
「あっ、ぼくはパジャマを着せただけでさ、味見も試食もしていないから!」
「当たり前だよ! そのくらいはぼくも監視してたよ!」
君が妙なことをしないように、と会長さん。
「もっとも、君が本気になったら、その辺りも誤魔化されそうだけど…」
「ピンポーン! でもね、ハーレイに関してはやらないよ。君との友情は壊したくないし」
ところで…、とソルジャーの視線が例のタレの瓶に。
「ぶるぅ、このタレの危なさは分かったと思うんだ。…ぼくとしては作って欲しいけど…」
「やだやだ、怖いから作らないよう!」
「うん、その方が良さそうだよね。まさか、あそこまでとは思わなかったし…」
効き目が凄すぎ、と肩をブルッと震わせるソルジャー。
「それでね、危ないタレを持っていたくないなら、ぼくが貰って帰るけど…。そしたら無駄にはならないからねえ、キースが言ってた施餓鬼と同じで」
「でも、危ないよ? ハーレイも変になっちゃったし…。鼻血で気絶しちゃったし…」
「ぼくのハーレイなら大丈夫! だから、ぼくのシャングリラで料理に使おうかと…」
ちゃんと薄めて使うから! というソルジャーの言葉に、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は「じゃあ、お願い!」とタレの瓶を前へと押し出しました。
「えっとね、薄め方、メモに書くから! 焼肉のタレにするならこれだけで…」
お料理の下味がこんな感じで、と薄める分量をメモにサラサラと。美味しかった秘伝のタレはソルジャーに横から掻っ攫われそうです、お彼岸バテも治ると噂の優れものなのに~!
こうしてタレはトンビにアブラゲ、まんまとソルジャーに掠め取られてしまいました。キース君のお彼岸バテも治ったスタミナ、焼肉パーティーをするならアレに限ると誰もが思う味だったのに。他のお料理でも味わいたかった、と文句をブツブツ、ようやっと秋になって来た頃。
「誰か、助けてーっ!」
誰でもいいから、と会長さんの家のリビングに飛び込んで来たソルジャー。例の秘伝のタレを手に入れてからは、とんと御無沙汰だった筈ですが…?
「助けてくれって…。今更、何を?」
あのタレなら、ぶるぅは作らないからね! と会長さんがツンケンと。
「君のお蔭で危ないタレだと思い込んじゃって、作るどころか貰いにも行ってくれないし…。あれからマザー農場に訊いたら、野菜炒めとかも美味しく出来るって言われたのに!」
ぼくたちは秘伝のタレで作る料理の美味しさを永遠に逃したんだから、と怒る会長さん。
「そりゃね、マザー農場に行けば食べられるよ? でもねえ…」
「俺たちは、ぶるぅならではのアレンジを楽しみたかったんだ!」
誰のせいだと思っているんだ、とキース君が怒鳴って、私たちもブーイングしたのですけど。
「それどころではないんだってば…! あのタレ、ホントに凄く効くから、全部なくなったらマザー農場から盗み出そうと思っていたのに…!」
「何か不都合でも?」
タレが樽ごと消えてたのかい、と会長さんがフンと鼻を鳴らせば。
「違うんだよ! ぶるぅが盗んで、悪戯で料理に混ぜちゃって…。そしたらスタミナが変な方へと行っちゃったんだよ、シャングリラ中が仕事モードなんだよ!」
「「「…はあ?」」」
「そのまんまだってば! 三日も前から誰もが仕事で、休む暇があったら仕事、仕事! ぼくのハーレイもガンガン仕事で、それだけで疲れて眠っちゃって!」
目が覚めたらブリッジに直行なのだ、とソルジャーは泣きの涙です。ソルジャーの世界の食材だか、それとも料理だか。…あのタレには合わなかったんでしょうか?
「分からないけど…! ぶるぅは今でもタレを何処かに隠している上に、こっちに来たら手に入るってことも知ってるんだよ…!」
このままでは、ぼくは永遠にハーレイにかまってもらえないんだけれど! と大騒ぎしているソルジャーですけど、いい薬だと思います。私たちの美味しいスタミナのタレを奪ったからには、報いがあっても当然でしょう。キャプテン、お仕事、これからも頑張って下さいね~!
スタミナの秋・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
マザー農場で貰った、スタミナがつく秘伝のタレ。美味だったのに、ソルジャーが強奪。
もう食べられない、と嘆く面々ですけど、ソルジャーが食らってしまった報い。天網恢恢…?
さて、シャングリラ学園番外編、去る4月2日で連載開始から14周年となりました。
今年で連載終了ですけど、目覚めの日を無事に迎えられたというわけです。まさに感無量。
我ながら凄いと思ってしまう年月。今年いっぱい、根性で突っ走るしかないですね。
次回は 「第3月曜」 5月16日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、4月はお花見。マツカ君の別荘にも出掛けたいわけで…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
今年も秋がやって来ました。ただし暦の上でだけ。八月の七日が立秋というだけでも「嘘だろう」と言いたい気分ですけど、「暑さ寒さも彼岸まで」はもう確実に嘘気分。秋のお彼岸が昨日で終わったというのに、やっぱりガッツリ暑いですよ?
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
今日も朝から暑いよね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。土曜日なので会長さんのマンションにお邪魔してみれば、やっぱりクーラーが効いているわけで。
「うわぁ、涼しい! バス停からの道が暑くてさ~」
此処は天国! とジョミー君がリビングのソファに陣取り、私たちも。出て来たおやつはレモンメレンゲパイ、ほど良い冷たさが嬉しいです。それに冷たい飲み物も。でも…。
「あれっ、キース先輩、ホットですか?」
なんでまた、とシロエ君でなくても驚くホットコーヒー、注文の時から「そるじゃぁ・ぶるぅ」が何度も確認していました。「ホントにホット?」と。ホカホカと湯気が立っている淹れ立てのコーヒー、香り高くはありますが…。暑いですよ?
「すまん、暑苦しい気分にさせたなら申し訳ない」
しかしホットで、と熱いのを飲んでいるキース君。夏場はアイスコーヒーだったと思うんですけど、記憶違いかな、ホットだったかな?
「暑苦しいとは言いませんけど…。先輩、普段はアイスコーヒーだったんじゃないですか?」
暑い季節は、とシロエ君。やっぱり私の記憶違いじゃなかったようです。
「そうなんだが…。バテた時には冷やすのは良くない」
「「「バテた?」」」
今頃になって、とビックリですけど、考えてみれば夏の疲れが出るのが夏バテ。本当だったら今が夏バテのシーズンなのかもしれません。夏真っ盛りじゃなくて。
「…いや、夏バテじゃなくてだな…。昨日までの…」
お彼岸バテだ、とフウと大きな溜息が。そういえばキース君、今年のお彼岸は学校も休みがちでしたっけ。定番のお中日はもちろん、その前後にも。連絡だけは取れてましたから、来ていたような気になっていただけ、昨日もお休みだったのでした。
「お彼岸バテかよ…。親父さんかよ?」
コキ使われたのかよ、とサム君が訊くと、キース君は「まあな」と。
「ただ、コキ使うと言うのかどうか…。副住職なら、あのくらいは働くものかもしれん」
俺が高校生だから甘く考えているだけで、と生真面目な答え。
「学校を卒業して副住職稼業に専念していれば、もっと働くものかもしれんし…」
「でもよ、昨日は何してたんだよ、お中日はともかく」
お中日なら檀家さんも参加の法要だけどよ、と言うサム君。
「最終日はそこまでデカイ法要は無かった筈だぜ、お寺の役がついてる人くらいしか…」
「そうなんだが…。それはそうだが、春に手伝いをしてくれてるなら、察してくれ」
墓回向だ、とキース君。
「駆け込み需要というヤツだ。遠方にお住まいの檀家さんだと、お中日に帰って来るより昨日の方が都合が良かった。金曜日だからな」
そこで帰って一泊か二泊、日曜に帰るというコース、とブツブツと。
「お蔭で、例年だったら最終日にはそんなに多くはない墓回向が…」
「MAXでしたか?」
シロエ君の質問に、キース君は。
「お中日前の忙しさが戻って来たようだった…。しかも昨日は暑かったんだ!」
あのクソ暑い中で何度も何度も墓回向を…、と嘆き節。
「親父には「墓地で待機していろ」と言われたし、実際、そうしなければ間に合わないほど次から次へと…。昼飯を食いに戻った時にも、また新手が!」
待たせておくわけにはいかないのだそうで、食事を中止で裏山の墓地へ。そういう檀家さんに限って墓地が奥の方、暑い中を石段をテクテク登って、日がカンカンと照り付ける中で…。
「…墓回向かよ?」
「そうなんだ! 親父ときたら、食い終わっていたくせに「お前の仕事だ」と…」
行くように顎で促されたそうです、墓回向。でっぷり太ったアドス和尚は暑い中での墓回向はお好きではなくて、キース君に役目をブン投げがち。日頃からお寺に出入りしている檀家さんなら行くようですけど、駆け込み需要の方ともなると…。
「親父さん、行きそうにねえもんなあ…」
強く生きろな、と励ますサム君。そっか、お彼岸バテなんですね…。
ただでも忙しい秋のお彼岸、最終日に至るまで振り回されて終わったキース君。もうすっかりとバテてしまって、レモンメレンゲパイくらいはともかく、アイスクリームなどはパスだそうです。バテた時には温かい食べ物や飲み物がいい、ということで…。
「それは確かに基本だね、うん」
会長さんが頷きました。
「土用の丑だって熱々のウナギを食べるわけだし、冷やすのは良くない。…ぶるぅ、お昼はスタミナのつくものにしてあげてよ」
「えとえと…。シーフードカレーのつもりだったけど、ニンニク入れる?」
「そうだね、もうお彼岸も終わっているからいいだろう」
ニンニクたっぷりのカレーでいいね、と会長さんがキース君に確認すると。
「有難い…。お彼岸の間は親父がうるさくて、スタミナどころか精進料理で…」
「分かったぁ! それじゃ、ニンニク! スタミナカレー!」
ちょっと仕込みに行ってくるね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」はキッチンへ。カレーは出来上がっているそうなんですけど、ニンニクは早めに入れておかないと馴染まないそうです。
「…精進料理だったんですか…。それはキツイですね」
この暑いのに、とシロエ君が頭を振りましたが。
「俺限定でな! 親父は肉も食っていたんだ、俺だけ修行ということで…」
実に不幸な年回りだった、と嘆くキース君のお彼岸バテ。「そるじゃぁ・ぶるぅ」はニンニクをたっぷりすりおろしてカレーに入れて来たとか言ってますから、お昼御飯でスタミナをつけて元気になって貰わないと…。
そういったわけで、お昼御飯はニンニクたっぷりのスタミナカレーになりました。スパイシーなシーフードカレーが更にバージョンアップです。私たちの飲み物はラッシーですけど、キース君には熱いマサラティー、元気が出るようスパイス入りのミルクティー。
「「「いっただっきまーす!」」」
食べるぞ、と合掌したダイニングですが、途端に背後で誰かの声が。
「こんにちはーっ!」
ぼくにもカレー! と出て来たソルジャー、紫のマントの正装です。「コレでカレーは気分が出ないかな」とパッと私服に着替えるが早いか、空いていた椅子にストンと座って。
「それとね、飲み物も…。えーっと、キースとおんなじヤツで」
「マサラティーなの?」
あんまり好きじゃなさそうだけど、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「お砂糖とミルクはたっぷり入っているけれど…。スパイス多めに入れてあるから、甘いって感じはあんまりしないよ、マサラティー」
「そう、そのスパイス! 元気が出るんだよね?」
「うんっ! マサラティーの国だと、うんと暑いから、暑さに負けないようにスパイス!」
カレーとおんなじ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は笑顔です。
「えっとね、スパイスはお薬なの! 効き目で色々選ぶんだよ!」
漢方薬みたいなものだから、という説明にソルジャーの瞳が何故かキラリと。
「やっぱり漢方薬なのかい?」
「ちょっと違うけど…。アーユルヴェーダだったかなあ…。でもでも、お薬!」
カレーの国ではお薬なの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。ソルジャーは「それは良かった」と嬉しそうに。
「来た甲斐があったよ、それじゃ、ぼくにもマサラティー! キースと同じヤツ!」
「…スパイス、ちゃんと変えられるよ?」
お店で出るようなマサラティーにも出来るし、もっとスパイス控えめにも…、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は言ったのですけど。
「そのままで! お彼岸バテに効くとかいうヤツで!」
それとスタミナカレーでお願い、と注文しているソルジャー。まさかソルジャーもお彼岸バテってことは無いですよね、お坊さんとは違いますしね…?
間もなくソルジャーの前にもスタミナカレーとマサラティー。ニンニクたっぷりのシーフードカレーはソルジャーの口にも合ったようですが、マサラティーの方は…。
「…うーん…。なんと言ったらいいんだろう…」
もはや紅茶とは違う気がする、とカップを手にして悩むソルジャー。
「香りも別物、ミルクの味もあんまりしないし…。甘いどころかピリッとしてるし…」
「だから言ったのに…」
あんまり好きじゃなさそうだよって、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。キース君も自分用のを飲みながら些か呆れた風で。
「自業自得だとは思うんだがな…。あんた向けにアレンジして貰うんなら、ミルクだな」
それと砂糖を追加でよかろう、とキース君。
「半分ほどに減らして貰って、ミルクと砂糖を追加して貰え」
「減らすって…。それじゃ、減らして貰った分はどうなるんだい?」
「もったいない話だが、捨てるしかなかろう」
あんたが口をつけた以上は、とキース君は左手首の数珠レットの珠を一つ繰って。
「仏様にはお詫びしておいてやったぞ、捨てる分は施餓鬼しますから、とな」
「施餓鬼って?」
「餓鬼道というのがあってだな…。そこに落ちると、食べ物も水も火に変わってしまって何も食えなくて飢えるわけだ。その餓鬼に食べ物をどうぞ、と供養するのが施餓鬼だ」
「…残り物でもいいのかい?」
飲み残しでも、とソルジャーがマサラティーのカップを指差すと。
「本来は食べる前にやるものだが…。修行中だと、飯粒を「餓鬼に」と取り分けることもあったりするんだが、口をつけたものでも捨てるよりはな」
だから遠慮なく捨てて貰え、とキース君は言ったのですけど。
「もったいないよ、誰かにお裾分けなんて!」
こんな有難い飲み物を、とソルジャーはカップを自分の口へと。ゴクリと一口、また一口。半分ほどになった所で「そるじゃぁ・ぶるぅ」に…。
「ちゃんと減らしたから、ミルクと砂糖を追加でお願い!」
「オッケー!」
足してくるね、とキッチンに走る「そるじゃぁ・ぶるぅ」はいいんですけど、ソルジャー、餓鬼に施すよりかは飲もうというのが凄すぎです…。
食べ物も水も火に変わる世界、何も食べられずに飢えに苦しむ世界が餓鬼道。そこに住んでいる餓鬼の上前をはねると言ったら少し変ですが、施すくらいなら飲んでしまえとマサラティーをゴクゴク飲んでしまったのがソルジャーで。
「…あんた、どういう神経なんだ」
気の毒な餓鬼に施そうとは思わないのか、とキース君が顔を顰めると。
「うーん…。ぼくのシャングリラの食事だったら、いくらでも!」
あんな面倒な食事をするより、栄養剤で充分だから、と天晴れな返事。
「そっちだったら、もう喜んで! 次の食事は全部あげるから、施餓鬼だっけ?」
それをよろしく、というのも酷い話で。
「おい、食べ物の有難さというのを分かっているのか? とても分かっていそうにないが」
何が施餓鬼だ、と睨み付けている副住職。
「要らないからくれてやろう、というのは施餓鬼の本来の精神からだな…」
「施餓鬼の話はどうでもいいよ。食べ物の有難さだったら、分かっているから!」
だからこそ飲んだ、とソルジャーが返した所へ「そるじゃぁ・ぶるぅ」が「はい!」とマサラティーのカップを持って戻って来ました。
「ミルクとお砂糖、足して来たよ! これでいけると思うんだけど!」
「ありがとう! うん、美味しいね」
甘さが増した、と喜ぶソルジャー。
「この味だったら充分飲めるよ、でも、効能は落ちていないんだよね?」
「えーっと…。比べるんなら、さっきの方がずっとスタミナがつくんだけれど…。でもでも、さっき入れて来た分は飲んだわけだし、合わせればきっと大丈夫!」
元気が出るよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」はニッコリと。
「お彼岸バテも治ると思うの、これとカレーで! …だけど、お彼岸、何処でやったの?」
シャングリラにお彼岸はあったっけ、という質問。待ってましたよ、私も知りたかったんです。ソルジャーの世界でお彼岸バテって、どう考えても有り得ませんから~!
スタミナたっぷりのニンニク入りのシーフードカレー、それとマサラティーが目当てで来たソルジャー。「来た甲斐があった」と言ってましたし、口に合わないマサラティーだって餓鬼に施すより飲んでしまえな方向でしたし、バテてるんだと思うのです。
けれども、キース君と同じなお彼岸バテは無さそうな世界、何処でバテたかが気になる所。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお蔭で謎が解けそうですけど、ソルジャーは「え?」と。
「お彼岸って…。ぼくのシャングリラにお彼岸なんかは無いけれど?」
そもそもお坊さんがいないし、と返った返事。
「だから無いねえ、お彼岸なんかは! もちろん、お盆も!」
「え? でも…。お彼岸バテだから、スタミナカレーでマサラティーでしょ?」
キースのために作ったんだもん、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「普通のシーフードカレーのつもりだったけど、キースがお彼岸バテだから…。スタミナのつく食事にしてあげて、ってブルーが言ったし…」
だから飲み物もマサラティーなの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が説明すると。
「そこだよ、スタミナって所なんだよ! ぼくはそっちが欲しくって!」
「お彼岸バテでしょ?」
「違うよ、スタミナをつけたいんだよ!」
これからの季節は大いにスタミナをつけたいから、とソルジャーはスタミナカレーを頬張って。
「ニンニクなんかは王道だよねえ、スタミナの! これも嬉しい食事だねえ…」
「…あんた、いったい何がしたいんだ?」
餓鬼の上前まではねやがって、とキース君が突っ込むと。
「もちろん、体力づくりだよ! スタミナをつけて頑張らなくちゃね!」
「…墓回向をか?」
「お彼岸は無いと言ったじゃないか。そういう世界でスタミナと言えば!」
「「「…スタミナと言えば…?」」」
オウム返しにハモッてしまった私たち。ソルジャーはカレーをパクリとスプーンで一口、モグモグしてから高らかに。
「スタミナをつけて、やることは一つ! 食欲の秋で、性欲の秋!」
人肌恋しくなる秋こそセックス! と強烈な台詞。そういやソルジャー、秋になったら言ってますかねえ、食欲の秋で性欲の秋…。
ソルジャー曰く、やることは一つ。スタミナをつけたら大人の時間で、キャプテンと過ごすつもりです。けれど、ソルジャーがスタミナをつけても、あんまり意味は無いんじゃあ…?
会長さんもそう思ったらしくて。
「君の話はそこまでにして、と…。レッドカードは出したくないから、そこでおしまい。でもね、君がスタミナをつけた所で意味が無いように思うけど?」
「どうしてさ?」
「えーっと…。ちょっと言いにくいんだけど…」
「分かるよ、スタミナはハーレイの方だと言いたいんだろう?」
ぼくは受け身の方だからね、とソルジャー、サラリと。
「本来、スタミナをつけて励むべきなのはハーレイだけど…。ぼくも疲れを持ち越さないのが大切だからさ、それで試してみるのが一番!」
「「「へ?」」」
「スタミナカレーとマサラティーとで、どこまでスタミナがついたかだよ! 今夜もハーレイと大いに楽しむつもりだし…。ぼくがパワーアップしているようなら、使えるわけ!」
スタミナカレーもマサラティーも、と言うソルジャー。
「ぼくは寝起きが悪い方でねえ…。それが明日の朝、スッキリと目が覚めるようなら効くんだよ! スタミナカレーとマサラティーは!」
「それはそうかもしれないけれど…」
会長さんが腕組みをして。
「だったら、君はこれから毎日のようにスタミナカレーとマサラティーを作れと言ってくるわけ、スタミナのために?」
「もちろん、お願いしたいねえ! ぼくの分と、ついでにハーレイのもね!」
「毎日、カレーとマサラティーとでいいのかい?」
「そうだけど?」
ぼくは元々、栄養剤で充分だという人間だから、とソルジャーは何とも思っていませんけれども、キャプテンの方は絶対違うと思います。毎日、毎日、同じ食事じゃ飽きるのでは…。「そるじゃぁ・ぶるぅ」も心配そうに。
「んとんと…。そんなお食事、ハーレイが困ってしまわない?」
もっと色々、食べたくなると思うんだけど、という意見。誰だって普通はそうですよねえ?
食事の代わりに栄養剤でもいいと言うソルジャー、毎日がカレーとマサラティーでもいい模様。スタミナさえつけばいいようですけど、スタミナっていうのは…。
「食事で摂るなら、バリエーション豊かにするべきだろうと思うけどね?」
食べる楽しみもスタミナの内、と会長さん。
「土用の丑のウナギもそうだよ、あの日に食べるから美味しく感じてスタミナもバッチリ! それが毎日ウナギだったら、なんだかねえ…」
「逆にゲンナリしそうではあるな」
仮にスタミナがついたとしても、とキース君が頷いています。
「またウナギか、と思わないように料理してあれば話は別だが…」
「そういうものかい、食事って?」
「あんたには分からんだろうがな!」
餓鬼の上前をはねるかと思えば、要らない食事を餓鬼にやろうというヤツだ、と副住職。
「食べ物は感謝して頂くものだが、素人さんには難しい。ワンパターンとなったら尚のことだ」
「分かるぜ、俺だって毎日同じだと溜息コースは確実だしよ」
これでも坊主の端くれなのに、とサム君が。
「だからよ、毎日カレーってヤツはよ…。俺もお勧め出来ねえよ」
「ふうん…? でもね、ぼくだと充分なわけで…」
とにかくスタミナ! とソルジャーはスタミナカレーを綺麗に食べ終え、マサラティーもすっかり飲み干して。
「さてと、どれだけスタミナがついているだろう? 今夜が楽しみになってきたよ!」
「…効果があったら、君のハーレイも君も、明日からスタミナカレーとマサラティーだと?」
どうかと思う、と会長さんが溜息をつくと、ソルジャーが。
「そう言うのなら、バリエーションってヤツを考えといてよ!」
「「「は?」」」
「バリエーションだよ、同じカレーでも味付けがちょっと変わるとか!」
そういう方向で何か考えて、とソルジャーはまるで他人任せで。
「ぼくのやり方がマズイと言うなら、解決策の方をよろしく! それじゃ、御馳走様ーっ!」
効果があったら、明日、報告に来るからね! と手を振ってソルジャーは消えてしまいました。お昼御飯でつけたスタミナ、夜まで効果はあるんですかねえ…?
ソルジャーが帰って行ってしまった後、私たちは溜息をつくしかなくて。
「…なんだったんでしょう、アレ…?」
スタミナカレーは効くんでしょうか、とシロエ君。
「キース先輩、どんな感じですか? お彼岸バテは?」
「…食べる前よりは楽になったな、マサラティーのお蔭もありそうだ」
ホットコーヒーに比べれば遥かに効いた気がする、とキース君は少し元気を取り戻した様子。
「後でもう一杯、頼めるか? …面倒でないなら」
「かみお~ん♪ スパイスはちゃんと買ってあるから、紅茶と一緒に煮るだけだよ!」
だから簡単! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「えっとね、スパイスはお薬だから…。元気が出るヤツとか色々あるの!」
カレーの国にお出掛けすれば、とニコニコと。
「本場のスパイスが欲しくなったら買いに行くしね、そのついでに買ってくるんだよ!」
マサラティー用にブレンドしたヤツ、と言われて納得、本場モノ。それは確かに効きそうです。漢方薬と同じ理屈か、と思ったアーユルヴェーダとやらのスパイス。これでキース君も完全復活するといいね、と午後のおやつにもマサラティーが出され…。
「かなり復活出来た気がする。後は一晩ぐっすり眠れば治るだろう」
しかし大事を取って飲み物は今夜も温かいものを…、と言うキース君に会長さんが。
「スタミナをつけるなら、晩御飯は焼肉だねえ…。ガーリックライスなんかもつけて」
「すまんな、俺がバテてしまったばっかりに…」
「焼肉はみんな大好物だし、特に問題無いと思うよ」
ねえ? と訊かれて「うん」と頷く私たち。会長さんの家の焼肉パーティーはマザー農場のお肉ですから美味しいのです。「そるじゃぁ・ぶるぅ」は「ちょっと貰ってくる!」と焼肉用のお肉や野菜を分けて貰いにマザー農場へと瞬間移動で出掛けましたが…。
「見て見て、こんなの貰って来ちゃったー!」
キースにピッタリ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が高く差し上げた瓶。えーっと…?
「スタミナがつくタレなんだって! マザー農場特製だよ!」
こんなのがあるって知らなかった、と言ってますけど。それっていわゆる「まかない」ですかね、お客さんに出すための料理と違って、従業員の人とかが食べるという…?
焼肉の材料の調達に出掛けた「そるじゃぁ・ぶるぅ」が貰って来たタレ。瓶には何も書かれていなくて、如何にも自家製といった雰囲気です。焼肉用のタレなのかな…?
「んーとね、色々使えるらしいよ? 焼肉にも、お肉の下味とかにも…。お料理にも!」
マザー農場の秘伝だって! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は得意そう。秘伝だったら、まかないとかではないんでしょうか?
「食堂でもよく使っています、って言っていたから、お客さんにも出してると思う!」
今まで知らなかったけど、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が瓶を見ているからには、隠し味に使っているのでしょう。そのまま使えば料理上手だけに「これは何?」と思うでしょうし…。
「ソルジャーのぼくも、タレというのは初耳だねえ…。マザー農場はソルジャー直轄じゃないし、知らなくっても不思議はないけど…」
スタミナがつくタレなのか、と会長さんは瓶を揺すってみています。相当に濃いタレだとみえて、ドロリとしているのが分かりますが…。
「それね、薄めて使うんだって! 焼肉のタレにするのなら!」
そのままだと濃すぎて強すぎるらしいの、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「下味とか、お料理もちょっぴり入れれば充分だって!」
「なるほどねえ…。ぶるぅやぼくにも分からないわけだね、薄めて使っているんだったら」
「そうなの! 凄く色々入っているって言ってたよ!」
ニンニクも、それにスッポンエキスも…、とタレの説明が始まりました。スタミナがつく食材などをじっくり煮込んで樽で熟成、大量生産には向かないのだとか。ゆえに秘伝で、一般販売はしていないタレ。お彼岸バテのキース君にピッタリのタレじゃないですか!
「マザー農場の皆さんまでが俺を心配して下さったとは…。有難いことだ」
キース君が合掌した所へ、「タレだって!?」という声が。
「「「???」」」
誰だ、と思うまでもなく降って湧いたソルジャー、タレが入った瓶を引っ掴むと。
「これがスタミナがつくというタレ…。焼肉にも、他の料理にも使えるタレなんだね?」
「そうだけど…。焼肉、食べに来たの?」
お客様大好き「そるじゃぁ・ぶるぅ」は歓迎モードで、ソルジャーは。
「御馳走してくれるんなら、喜んで! このタレも是非、試したいから!」
スタミナをつけて性欲の秋! とブチ上げるソルジャー、戻って来ちゃったみたいです。スタミナカレーとマサラティーでは足りなかったかな…?
晩御飯は、戻って来てしまったソルジャーも交えて焼肉パーティー。マザー農場の秘伝のタレは「そるじゃぁ・ぶるぅ」が薄めてくれて、その味がまた絶品で。
「これってさあ…。マザー農場のジンギスカンの味に似ていない?」
ジョミー君が言ったら、マツカ君も。
「そうですね。一番近いのはあれですね」
収穫祭で御馳走になるジンギスカンの味ですよ、と言われてみれば、そういう味かもしれません。食堂で頂くステーキのソースも少し似ているかも…。
「まさか薄めていたとはねえ…。濃厚なソースを」
ぼくは煮詰めるものだとばかり、と会長さんが少し中身が減った瓶を眺めて、「そるじゃぁ・ぶるぅ」も「ぼくも」と首をコックンと。
「美味しくて複雑な味がするから、色々入れているんだろうな、って思ってたけど…。似たような味は家で作れるから、ちっとも不思議に思ってなかった…」
そんなに手間がかかったタレだったなんて! と感心しているお料理上手な「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、レシピを貰おうと考えているようです。せっかくだから自分も作ってみようと。
「いいねえ、ぶるぅが作るのかい?」
出来上がったら、ぼくにも是非! とソルジャーが。
「スタミナがつくタレと聞けばね、もう貰うしかないってね! スタミナカレーやマサラティーだと、こっちの世界へ食べに来るしかないけれど…。タレだったら!」
ぼくの世界の料理にかければ出来上がりだし、と無精者ならではの発言が。
「いろんな料理に使えるのなら、ちょっとかければ完成だしね!」
「…君のいい加減な性格からして、美味しくなるとも思えないけど?」
せっかくの美味しいタレが台無し、と会長さんがソルジャーをジロリと。けれどソルジャーが負ける筈もなくて。
「要は効き目があればいいんだよ、良薬は口に苦しだからね!」
多少マズくても、スタミナがつけばそれでオッケー! と突き上げる拳。
「それにさ、薄めて使ってもこの美味しさでさ、おまけにスタミナがつくんだよ? そのまま使えば効き目だって!」
一段と増すに違いない、と言ってますけど、相手はドロリとしたタレです。ほんの少しを薄めただけで焼肉パーティーに充分な量が出来上がったわけで、相当、濃いんじゃないですか…?
スタミナがつくらしい、マザー農場秘伝のタレ。濃厚すぎるタレは薄めて使用で、瓶の中身はそれほど減っていないというのに大人数での焼肉パーティーにたっぷり使えています。ソルジャーも入れて総勢十名、薄めたタレは器にまだまだ残ってますし…。
「…原液はどうかと思うけどねえ?」
濃すぎて不味いんじゃなかろうか、という会長さんの意見に「そるじゃぁ・ぶるぅ」も「そだね」と頭をピョコンと。
「辛すぎるだとか、甘いか辛いかも分からないほどとか、そんなのじゃないかな」
ちょっと試してみる! と瞬間移動でヒョイと出て来た料理用の竹串、「そるじゃぁ・ぶるぅ」はタレの瓶を開けて串の先っぽを突っ込んでみて…。取り出した串を舌でペロリと。
「…どうでした?」
味は、とシロエ君が訊くと、「美味しい!」という意外すぎる答え。
「美味しいわけ?」
薄めてないよ、とジョミー君も目を丸くしてますけれど。
「でも、美味しい! ちょっぴり舐めただけだったから…。きっと口の中で薄まるんだよ」
焼肉のタレと同じ美味しさ、との話に、ソルジャーは。
「それなら原液も充分いけるね、どのくらいスタミナがつくのか試していいかな?」
「…君が使うのかい?」
あんまりお勧めしないけどねえ…、と会長さん。
「ぶるぅは少し舐めただけだし、美味しかったかもしれないけれど…。そのままタレに使ったりしたら、それこそ火を噴く辛さかも…」
「ぼくで試すって誰が言った? スタミナのつき具合ってヤツを知りたいんだよ、ぼくは!」
こっちのハーレイに決まっているだろう! というソルジャーの台詞。教頭先生で試すだなんて、焼肉パーティーに御招待ですか?
タレの原液の効き目が知りたいソルジャー、試すなら教頭先生とのこと。会長さんが止めるのも聞かず、青いサイオンがキラリと光って、教頭先生が焼肉パーティーの場に。
「な、なんだ!?」
驚いておられる教頭先生に、ソルジャーは。
「こんばんは。御覧の通りに焼肉パーティーをやっててさ…。美味しいタレが手に入ったから、君にも御馳走しようと思って」
まあ座ってよ、と椅子まで引っ張って来たソルジャー。教頭先生は「これはどうも…」と腰を下ろして、何も疑ってはいらっしゃらなくて。
「遠慮なく御馳走になることにします。…焼肉ですか」
「そう! このタレがホントに美味しくってねえ…」
これだけでも充分にいける味で、とソルジャーの手に小皿。私たちが薄めたタレを入れてるヤツですけれども、ソルジャーはそれに瓶から原液をドロリ。
「はい、まずはお試し! タレだけで味わってみてよ、肉は入れずに」
「そんなに美味しいタレなのですか。…では、早速…」
教頭先生は小皿を傾け、ドロリとしたタレを口に含んで、味わってからゴックンと。
「いい味ですねえ…! なんとも深くて複雑で」
「それは良かった。じゃあ、この後は焼肉でどうぞ」
薄めたタレもいけるんだよ、とソルジャーが小皿に薄めた方のタレを注ぎ足し、教頭先生は焼肉パーティーに本格的に参加なさったわけですが。暫く経つと…。
「…暑くないですか?」
「失礼だねえ…。クーラーは効いてると思うけど?」
ケチっていない、と会長さんが眉を吊り上げ、それから間もなく。
「…ちょ、ちょっと失礼を…」
席を立とうとする教頭先生。ソルジャーが「トイレかい?」と教頭先生の肩に手を置き、「トイレなんかに行かなくてもねえ、ここで充分!」と。
「なんだって!?」
ぼくの家を何だと思っているわけ!? と会長さんが怒鳴りましたが、ソルジャーは。
「生理的現象が別物なんだよ、ハーレイは催してきちゃったわけで…。こう、ムラムラと」
スタミナがついて! と満面の笑顔。それって、もしかしなくても…?
教頭先生の生理現象はズボンの前がキツイ方でした。トイレではなくて。ますますもって許し難いと会長さんが怒り狂って、ソルジャーは教頭先生に。
「困ったねえ…。ぼくとしてもなんとかしてあげたいけど…」
「え、ええ…。私も是非とも…」
お願いしたい気分です、と教頭先生は会長さんをチラリ。
「ブルー、こう仰っておられるのだし…。そのぅ、少しだな…」
「どういう神経をしているのさ! このぼくの前で、少しも何も!」
ぼく一筋だと思っていたのに、と会長さんが喚いているのに、教頭先生も「そう怒るな」と。
「今は最高に漲っているし、あちらのブルーと少しやっても、まだ充分に…」
「やるも何も、ヘタレには絶対、無理だから!」
やれると言うなら、今すぐにやれ! と会長さんのサイオンが炸裂、教頭先生のズボンや紅白縞のトランクスやらがパッと消滅。スウェナちゃんと私の視界にはモザイクがかかってしまって…。
「さあ、この状態で遠慮なくどうぞ! 出来るものなら!」
ブルーはそこにいるんだから、と会長さんが指差し、ソルジャーが。
「ここまで用意をして貰ったからには、ぼくも御奉仕しないとね! さてと…」
始めようか、と教頭先生の前に屈んだソルジャーですけど、そこはヘタレな教頭先生。ズボンや紅白縞が消えて焦っておられる所へ、ソルジャーが接近したわけですから…。
「「「………」」」
やっぱりこういう結末だったか、と呆れるしかない教頭先生の末路。椅子に腰掛けたままでブワッと鼻血で、そのまま失神。手足がダランとしちゃっています。
「えとえと…。ハーレイ、どうなっちゃったの?」
このタレって何か危ないものでも入ってたかな、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。ぼくも舐めちゃったんだけど、と。
「らしいね、薄めずに飲むと危ないようだよ。ぶるぅは少しだから大丈夫だと思うけど…」
でも危ないねえ、とソルジャーが肩を竦めて、「人体実験ありがとう」と教頭先生を抱え、瞬間移動で家へと運んで行ったようです。直ぐに戻ると思いますけど、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は。
「…なんか危ないタレみたいだよ?」
「いや、それは原液で使った時でだな…」
普通に使えば何も起こらない美味いタレだが、と話すキース君はお彼岸バテもスッキリだとか。適量を使えば美味しくて役立つ素敵なタレだと思いますけどね?
私たちは秘伝のタレの美味しさと効能を「そるじゃぁ・ぶるぅ」にせっせと力説、会長さんも「あれはブルーの使い方が悪かっただけだ」と言っているのに、お子様なだけに。
「でもでも…。ちょっぴり怖いと思うの、作り方を習うのはやめようと思う…」
「それはまあ…。作らない方がいいでしょうね」
何処かの誰かが狙ってますし、とシロエ君。
「ぶるぅが作れるとなったら大量に仕込めと言って来ますよ、あの調子だと」
「うんうん、たまに貰って使う方がずっといいと思うぜ」
肉を貰いに行ったついでに分けて貰えよ、とサム君が前向きに述べている所へ…。
「ただいまーっ! ハーレイはベッドに寝かせて来たよ」
大サービスでパジャマも着せておいた、とソルジャーが瞬間移動で戻って来ました。
「あっ、ぼくはパジャマを着せただけでさ、味見も試食もしていないから!」
「当たり前だよ! そのくらいはぼくも監視してたよ!」
君が妙なことをしないように、と会長さん。
「もっとも、君が本気になったら、その辺りも誤魔化されそうだけど…」
「ピンポーン! でもね、ハーレイに関してはやらないよ。君との友情は壊したくないし」
ところで…、とソルジャーの視線が例のタレの瓶に。
「ぶるぅ、このタレの危なさは分かったと思うんだ。…ぼくとしては作って欲しいけど…」
「やだやだ、怖いから作らないよう!」
「うん、その方が良さそうだよね。まさか、あそこまでとは思わなかったし…」
効き目が凄すぎ、と肩をブルッと震わせるソルジャー。
「それでね、危ないタレを持っていたくないなら、ぼくが貰って帰るけど…。そしたら無駄にはならないからねえ、キースが言ってた施餓鬼と同じで」
「でも、危ないよ? ハーレイも変になっちゃったし…。鼻血で気絶しちゃったし…」
「ぼくのハーレイなら大丈夫! だから、ぼくのシャングリラで料理に使おうかと…」
ちゃんと薄めて使うから! というソルジャーの言葉に、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は「じゃあ、お願い!」とタレの瓶を前へと押し出しました。
「えっとね、薄め方、メモに書くから! 焼肉のタレにするならこれだけで…」
お料理の下味がこんな感じで、と薄める分量をメモにサラサラと。美味しかった秘伝のタレはソルジャーに横から掻っ攫われそうです、お彼岸バテも治ると噂の優れものなのに~!
こうしてタレはトンビにアブラゲ、まんまとソルジャーに掠め取られてしまいました。キース君のお彼岸バテも治ったスタミナ、焼肉パーティーをするならアレに限ると誰もが思う味だったのに。他のお料理でも味わいたかった、と文句をブツブツ、ようやっと秋になって来た頃。
「誰か、助けてーっ!」
誰でもいいから、と会長さんの家のリビングに飛び込んで来たソルジャー。例の秘伝のタレを手に入れてからは、とんと御無沙汰だった筈ですが…?
「助けてくれって…。今更、何を?」
あのタレなら、ぶるぅは作らないからね! と会長さんがツンケンと。
「君のお蔭で危ないタレだと思い込んじゃって、作るどころか貰いにも行ってくれないし…。あれからマザー農場に訊いたら、野菜炒めとかも美味しく出来るって言われたのに!」
ぼくたちは秘伝のタレで作る料理の美味しさを永遠に逃したんだから、と怒る会長さん。
「そりゃね、マザー農場に行けば食べられるよ? でもねえ…」
「俺たちは、ぶるぅならではのアレンジを楽しみたかったんだ!」
誰のせいだと思っているんだ、とキース君が怒鳴って、私たちもブーイングしたのですけど。
「それどころではないんだってば…! あのタレ、ホントに凄く効くから、全部なくなったらマザー農場から盗み出そうと思っていたのに…!」
「何か不都合でも?」
タレが樽ごと消えてたのかい、と会長さんがフンと鼻を鳴らせば。
「違うんだよ! ぶるぅが盗んで、悪戯で料理に混ぜちゃって…。そしたらスタミナが変な方へと行っちゃったんだよ、シャングリラ中が仕事モードなんだよ!」
「「「…はあ?」」」
「そのまんまだってば! 三日も前から誰もが仕事で、休む暇があったら仕事、仕事! ぼくのハーレイもガンガン仕事で、それだけで疲れて眠っちゃって!」
目が覚めたらブリッジに直行なのだ、とソルジャーは泣きの涙です。ソルジャーの世界の食材だか、それとも料理だか。…あのタレには合わなかったんでしょうか?
「分からないけど…! ぶるぅは今でもタレを何処かに隠している上に、こっちに来たら手に入るってことも知ってるんだよ…!」
このままでは、ぼくは永遠にハーレイにかまってもらえないんだけれど! と大騒ぎしているソルジャーですけど、いい薬だと思います。私たちの美味しいスタミナのタレを奪ったからには、報いがあっても当然でしょう。キャプテン、お仕事、これからも頑張って下さいね~!
スタミナの秋・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
マザー農場で貰った、スタミナがつく秘伝のタレ。美味だったのに、ソルジャーが強奪。
もう食べられない、と嘆く面々ですけど、ソルジャーが食らってしまった報い。天網恢恢…?
さて、シャングリラ学園番外編、去る4月2日で連載開始から14周年となりました。
今年で連載終了ですけど、目覚めの日を無事に迎えられたというわけです。まさに感無量。
我ながら凄いと思ってしまう年月。今年いっぱい、根性で突っ走るしかないですね。
次回は 「第3月曜」 5月16日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、4月はお花見。マツカ君の別荘にも出掛けたいわけで…。
(今日はハーレイが来てくれるから…)
頑張って掃除しなくっちゃ、と張り切ったブルー。爽やかに晴れた土曜日の朝に、朝食の後で。
二階の自分の部屋に戻って、掃除の手順を確認して。
(床から始めて、ゴミ箱の中身もきちんと捨てて…)
勉強机も棚とかも…、と取り掛かった掃除。いつも自分でするのだけれども、週末は普段よりも念入りに。ベッドの下とかだけではなくて。もっと細かい所まで。
(だって、ハーレイが来るんだものね?)
一日一緒に過ごすのだから、綺麗な部屋で迎えたい。埃の一つも無いように。窓ガラスだって、まるで嵌まっていないかのように。
(頑張らなくちゃ…)
ぼくの部屋だもの、と一人で掃除を済ませた部屋。友達はみんな、母親任せらしいけど。学校に出掛けて留守の間に、掃除して貰うのが常の友人たち。
(任せっ放しだから、色々、隠されちゃうのにね?)
勉強の邪魔になりそうな本や、ゲームとかを。掃除のついでに「これなのね」と持って行かれてしまって、後から困ることになる。頼んでも返して貰えないから。
(そうなっちゃうのに、掃除、自分でしないんだから…)
不思議だよね、と思うけれども、変なのは自分の方かもしれない。小さな頃から綺麗好き。今も同じに綺麗好きだし、前の生でも…。
(綺麗好きすぎて、青の間、係が掃除しちゃって…)
前の自分がメギドに飛び立った時に、何も知らなかった部屋付きの係。部屋の主が二度と戻って来ないなどとは思わないから、心をこめて掃除をした。
「お帰りになったら、直ぐにお休みになれるように」と、大騒ぎだったシャングリラの中で。
メギドの炎でパニックの者たちも多かった中で、頑張った係。「これが自分の仕事だから」と。
そのせいで、何も残りはしなかった部屋。
後でハーレイが形見を探しに入っても。…銀色の髪の一筋さえも。
ぼくのせいだよね、とコツンと叩いた頭。「ハーレイに悪いことをしちゃった」と。
けれど、それくらいの綺麗好きだし、今の自分もそっくり同じ。朝からせっせと掃除した部屋。窓際に置かれた、ハーレイと座る椅子とテーブル。それも整えて大満足。
勉強机の前に座って、部屋をぐるりと眺め回して…。
(よし!)
これで完成、と大きく頷いた。いつハーレイが来ても大丈夫、と。
そうは思っても、まだ早い時間。この時間には、来ないハーレイ。早すぎる訪問は、ハーレイにとってはマナー違反になるらしい。母たちに迷惑がかかるから、と。
まだ来ないよね、と壁の時計を見てから、ふと思ったこと。此処は自分の部屋だけれども…。
(すっかりハーレイの部屋だよね…)
ハーレイがいたって可笑しくない部屋、と見回した。扉を開けて入って来る姿も、窓際の椅子に座る姿も、今では馴染みの光景だから。
何処かにハーレイの姿があるのが普通になってしまった部屋。この部屋に溶け込んでいる恋人。
来ない日の方が多くても。…いない時間の方が遥かに長くても。
それに、この部屋にはハーレイ用の椅子だってある。ハーレイが座るためだけの椅子。
何度もハーレイが座っている内に、重い体重で座面が少しへこんだ椅子。窓際に置かれた椅子の片方。よくよく見ないと分からないけれど、ハーレイが座る椅子はそうなっている。
前のハーレイのマントの緑を淡くしたような、若い苔の色をした座面。それが少しだけ。
(こんな日が来るなんて、思わなかったよ…)
自分の部屋に、恋人がやって来るなんて。
どっしりと重たい椅子とテーブルが、そのためにあった家具だなんて。
今ではすっかり、ハーレイのための椅子とテーブル。いつも二人で向かい合わせに座る場所。
ホントに不思議、と眺めた窓際のテーブルと椅子。
ハーレイが来たら、其処でお茶とお菓子をお供にお喋り。休日だったら、昼食も。二人分なら、充分に置けるテーブルだから。
とても役立つ、頼もしい家具。ハーレイのための椅子までついているけれど…。
(あのテーブルとかを買って貰った時は…)
子供らしくない、と思ったものだった。何処から見たって来客用で、客間が似合いそうな家具。もっと軽やかなものがいいのに、と。それに「無くてもいいのに」とも。
そう考えたのに、今では部屋にピッタリになったテーブルと椅子。今も子供の自分はともかく、大人のハーレイには良く似合う。まるでハーレイのために買ったみたいに。
デザインも、それに椅子の座面の色も。「あれで良かった」と心の底から思う家具たち。
(子供用のベッドを買い替える時に…)
テーブルと椅子もやって来た。両親が「これがいい」と選んでくれたもの。
あれが置かれて、ガラリと変わった部屋の雰囲気。
幼い子供が暮らす部屋から、ちょっぴりお兄ちゃんの部屋へと。部屋にお客が来るお兄ちゃん。
もっとも、テーブルと椅子が来たって、友達は滅多に使いはしなかったけれど。
部屋で大人しく遊ぶよりかは、かくれんぼだとか。おやつの時間も、大勢だからダイニングで。
あまり出番が来はしなかったテーブルと椅子。
それが今では大活躍で、片方の椅子はハーレイ専用。
変われば変わるものだよね、と思う家具たち。それに、ハーレイがいるのが当たり前の部屋。
前は考えもしなかったのに。恋人が訪ねて来ることなんか。…恋人が出来ることだって。
(ずうっと、この部屋で暮らすんだったら…)
また模様替えもするのだろう。今はまだ、子供部屋だから。ちょっぴりお兄ちゃんの部屋でも、大人の部屋とは違うから。
窓際のテーブルと椅子は立派に来客用でも、勉強机は大人用の机になってはいない。父の書斎にあるような机、作りからして重厚に見える机には。
(上の学校に進む時とかに…)
多分、買い替えになるだろう机。また両親が決めてくれるとか、今度は自分で選ぶとか。
けれど、上の学校には行かないと決めている自分。上の学校に行ける年になったら、結婚だって出来る年齢。今の学校を卒業したら、十八歳になるのだから。
待ち遠しい年が十八歳。ハーレイの所へお嫁に行くから、上の学校には行かないし…。
(部屋はこのまま…)
模様替えはしないで、机を買い替えることも無い。部屋の持ち主はハーレイの家に引越し。
そうして此処に残った部屋は、帰って来た時には迎えてくれる。「お帰りなさい」と、長いこと此処で暮らしていた自分を。
テーブルと椅子は持って行こうと思っているから、家具はちょっぴり減っていたって、今の姿と変わらずに。
子供時代のままの部屋。自分がお嫁に行ってしまっても、大人の世界の仲間入りでも。
たまにこの家に帰って来たなら、懐かしく思うだろう部屋。思い出が沢山詰まっているから。
此処で過ごした時の欠片を、そっくり閉じ込めた部屋だから。…時間を止めている部屋は。
買い替えずに終わった勉強机の前に座って、キョロキョロ見回すだろうけれども…。
(部屋には、少し可哀相かな?)
これ以上、大きくなれないから。
子供用の部屋のままで時間が止まってしまって、大人用の部屋に変身させては貰えないから。
上の学校に通う生徒に相応しい机が入るとか。他にも色々、大人らしく変わってゆくだとか。
自分が此処に住み続けるなら、部屋も育ってゆくけれど。…自分と一緒に、もっと大きく。
(でも、いいよね?)
そうなるまでには、十八年ほど幸せに使ったのだから。
最初は子供用の小さなベッドが置かれて、勉強机なんかは無し。幼稚園では、まだしない勉強。絵を描くなら床で充分なのだし、絵本を読むにも床やベッドがあればいい。
下の学校に入る時に机を買って貰って、その机も途中で今のに変わった。子供用のベッドが今のベッドに変わったように。
ベッドが今のに変わる時には、来客用のテーブルと椅子もやって来た。他の家具だって、自分の成長に合わせて色々と増えていった筈。
(…一歳の時には、まだこの部屋は使ってないかな?)
赤ん坊を一人で寝かせておくには広すぎる部屋。ベビーベッドは別の部屋に置かれて、ベッドの上に吊るす飾りも此処には無かったかもしれない。
それでも準備はしてあった筈。
子供が出来たと分かった時から、両親はきっと、部屋のプランを立てていた。
どういう部屋が喜ばれるかと、まだ生まれても来ない子供を想像して。二人であれこれ、色々なことを相談して。
(その前からだって…)
自分が母のお腹に宿る前から、この部屋は子供部屋だったのだろう。家を建てる時から、此処に作ろうと両親が決めていた部屋。二階の此処、と。
もしかしたら、他にも何処かにあったかもしれない子供部屋。二人目の子供が生まれて来たら、その子に使わせるつもりだった部屋が。
(隣の部屋とか…)
最初は子供部屋として作られた部屋かもしれない。一人っ子でなければ、弟か妹が貰った部屋。今は普通の部屋だけれども、そうはならずに子供部屋になって。
可能性としては充分にある。子供が何人生まれて来るか、今でも誰も予知など出来ない。
ハーレイの家にも子供部屋があるくらいなのだし、この部屋の他にも子供部屋。神様が弟か妹を届けてくれていたら、使う筈だった部屋が何処かに。
一人っ子だったから、子供部屋は一つになったのだけれど。自分が使っているのだけれども…。
(ハーレイの家のは使わないよね…)
あの部屋も子供部屋なんだけど、と思った途端に、「可哀相」と浮かんだ、さっきの考え。
いつか自分がお嫁に行ったら、この部屋の時間は止まってしまう。もう大きくはなれないで。
部屋の住人の成長と一緒に、育ってゆく筈だった部屋。家具が大人用になったりして。
それが出来ずに、大きくなれない自分の部屋。子供部屋のままで時が止まる部屋は、可哀相だと考えたけれど…。
(ハーレイの家の子供部屋は…)
もっと可哀相な部屋なんだ、と気が付いた。
子供部屋として生まれて来たのに、使って貰えないのだから。
いくら待っても、使う子供は来ない部屋。
住人がいない今の姿で、いつまでもポツンと残るしかない。使う子供がいない以上は。
一度だけ見た、ハーレイの家の子供部屋。遊びに出掛けて、家中を案内して貰った時に。
「この部屋は子供部屋なんだ」と扉を開けてくれたハーレイ。「俺の親父も気が早いよな」と。
子供部屋だって必要だ、とハーレイの父が用意した部屋。いつか子供が生まれるのだから、子供部屋も作っておかないと、と。
その子供部屋が使われないまま、放っておかれることになるのは…。
(ぼくのせいなの…?)
ハーレイが貰う「お嫁さん」は自分で、男だから。
男の自分がお嫁さんでは、どう頑張っても、子供が生まれはしないから。
(…あの子供部屋…)
ぼくのせいでとても可哀相、と見開いた瞳。待っても子供が来ないなんて、と。
子供部屋として用意されたのに、肝心の子供が来ない部屋。育ってゆくことが出来ない部屋。
其処に子供がやって来たなら、部屋は育ってゆけるのに。
この部屋が育って来たように。家具を増やしたり買い替えたりして、部屋も成長して来たのに。
けれど、育たないハーレイの家の子供部屋。
あの部屋と一緒に育ってゆく子は、何処からもやって来ないから。子供が生まれはしないから。
(…ぼくが男だから、子供、生まれて来なくって…)
子供部屋の出番は来ないまま。部屋は成長出来ないまま。
もしも自分が女の子として生まれていたなら、ちゃんと出番があったのに。ハーレイとの子供が生まれるだろうし、その子の部屋になったのに。…子供部屋を貰う頃になったら。
(…ハーレイ、どんなぼくでも好きになるって…)
猫でも、小鳥でも、何に生まれていたとしたって。…人間ではない姿でも。
ハーレイはそう言っていたのだし、女の子でも、きっと大丈夫。今の自分が女の子でも。
考えたことも無かったけれども、その方が良かったのかもしれない。
女の子だったら、誰が見たって「お嫁さん」。
男同士よりも普通のカップル、驚く人は何処にもいない。結婚式を挙げる時にも、結婚した後にハーレイが紹介する時にも。「俺の嫁さんだ」と、友達や先輩や、色々な人に。
それに子供も生まれて来る。結婚して一緒に暮らし始めたら、あの子供部屋を貰う子供が。
今のままだと育てない部屋、育つことが出来ないハーレイの家の子供部屋。
其処を使う子供がいないから。男の自分は「お嫁さん」になれるというだけ、ハーレイの子供は産めないから。
(ぼく、失敗した…?)
今の自分が持つべき姿を、間違えてしまっただろうか。男に生まれて来たなんて。
新しい命と身体を貰って生まれ変わるのなら、女の子になれば良かったのに。同じように新しい身体になるなら、前の自分とそっくりではなくて女の子。
そうしていたなら、子供部屋にも出番はあった。育つことの出来ない可哀相な部屋にならずに、子供と一緒に育ってゆけた。あの部屋を貰う子供と一緒に。
(…そしたら、部屋も喜んだよね…?)
うんとヤンチャな子供が生まれて、壁に落書きされたって。少しも部屋を片付けない子で、足の踏み場も無くなったって。
(放っておかれる部屋よりは、ずっと…)
幸せな部屋になっただろう。落書きだらけの壁になっても、本やオモチャが転がっていても。
子供部屋は子供のための部屋だし、ちゃんと成長してゆけるから。
いつかは壁から落書きが消えて、床もきちんと綺麗になる。子供が育っていったなら。
(…ぼくが女の子に生まれていたら…)
そうなった筈の子供部屋。
ハーレイと幸せに暮らせるのならば、女の子でも良かったのに。前とそっくり同じでなくても、少しも困りはしなかったのに。
(…ハーレイと結婚出来るなら…)
二人一緒に生きてゆけるなら、前の姿にはこだわらない。男でなくても、かまいはしない。
生まれ変わる時に、神様に「女の子になりたい」とお願いすれば良かっただろうか。
そして女の子の身体を貰って、ハーレイのお嫁さんになる。
子供が生まれるお嫁さんに。…子供部屋の出番があるお嫁さんに。
間違えたかも、と思う自分の身体。「選べたのに、失敗しちゃったかも」と。
きっと生まれ変わる前にだったら、選ぶことだって出来た筈。前と同じに男の子になるか、女の子の身体を貰うのがいいか。
選んでいいなら、女の子にしておくべきだった。前とそっくり同じ身体を選んだけれど。
(…ハーレイも、そう思ってるかも…)
新しい身体になるのだったら、女の子に生まれて来た自分。その方が嬉しかったかもしれない。今度は結婚出来るのだから、子供だって産める「お嫁さん」が。
(…ハーレイ、喜んでいたかもね…)
今の自分が女の子だったら、今よりも、もっと。男の子の自分に出会うよりも、ずっと。
(どうなの、ハーレイ…?)
今から女の子になるのは無理だけれども、ハーレイに確かめたい気分。
そっちの方が良かったかな、と。「ぼくは、女の子の方が良かった?」と。
(ハーレイの家の、子供部屋のためにも…)
その方がいいに決まってるよね、と考えていたら、聞こえたチャイム。天気がいいから、歩いてやって来たハーレイ。休日は時間がたっぷりあるから、のんびりと。
母がお茶とお菓子を運んで来てくれた後、テーブルを挟んで向かい合わせに座って訊いた。
「あのね、ぼく…。女の子の方が良かったかな?」
「はあ? 女の子って…」
お前がか、とハーレイの瞳が丸くなるから、「そう」と自分を指差した。
「ハーレイ、何度も言っているでしょ。…どんなぼくでも好きになる、って」
ぼくが猫とか小鳥とかでも、ハーレイ、見付けてくれるって…。好きになるって…。
動物じゃなくて、女の子のぼくでも好きになる?
今のぼくは前と同じだけれども、ぼくが女の子になってても…?
「そりゃまあ……なあ?」
男だろうが、女だろうが、お前なのには違いない。
もちろん俺は一目で惚れるんだろうし、お前しか見えちゃいないだろう。
俺にはお前しかいないんだから。…前の俺だった時から、ずっと。
今の俺にはお前だけだ、とハーレイは迷いもせずに答えたけれど。
女の子の姿に生まれていたって、好きになってくれるらしいけれども、それならば…。
「…ハーレイは、そっちの方が良かった?」
今みたいに男のぼくじゃなくって、女の子のぼく。…女の子でも好きになるんなら…。
女の子のぼくだった方が良かったりするの、ハーレイは…?
どっちなの、と鳶色の瞳を見詰めた。「女の子の方が良かったと思う?」と。
「おいおい、何を言い出すんだか…。俺にとっては、お前の姿が一番でだな…」
今はチビだが、いずれは前のお前と同じに育つだろうが。
俺はそういうお前が好きでだ、選べるんなら、今のお前が何よりもいいと思うがな…?
同じ顔立ちをしてるにしたって、女よりかは男だ、うん。
「本当に…? ハーレイ、ホントに今のぼくでいいの?」
女の子のぼくでなくってもいいの、子供部屋まで家にあるのに…?
「何なんだ、そりゃ? 子供部屋って…」
確かに子供部屋ならあるが…、とハーレイは怪訝そうな顔。「あれがあったらどうした?」と。
「お前が女の子になるというのと、子供部屋がどう繋がるんだ?」と。
「…子供部屋、可哀相だと思って…。だって、出番が来ないままでしょ?」
せっかく子供部屋があるのに、子供、生まれて来ないから…。
ぼくは男で、子供なんかは産めないから。
女の子だったら、子供部屋、役に立てたのに…。生まれて来る子に使って貰えたのに…。
それにハーレイだって、ぼくが女の子の方が良くない?
男同士のカップルじゃなくて、普通のカップルになれるんだから。…ごく当たり前の。
「お前なあ…。さっきも言ったが、俺にはお前が一番なんだ。前とそっくり同じお前が」
そうするためには、お前は男でなくっちゃな。今のお前で丁度いいんだ。
女の子のお前に出会っちまったら、その時は仕方ないんだが…。
いや、間違いなくお前を好きにはなるんだが…。
きっと途惑っちまうだろうな、とハーレイが浮かべた苦笑い。
まるで勝手が違うんだから、と。
「違うって…。どういう意味?」
見た目は違うと思うけど…。顔は同じでも、身体は女の子になっちゃうから…。
ハーレイと初めて出会った時には、制服、スカートだろうけど…。
「そんなのは大した問題じゃない。スカートだろうが、ズボンだろうが、そんなことはな」
問題はお前が女だってことだ。…前のお前と違ってな。
そういうお前を、男のお前と同じように扱っていいのかってこった。
其処が困った問題だよな、とハーレイが顎に手をやるから。
「同じでいいと思うけど?」
ぼくはぼくだし、中身はおんなじ。…女の子になったっていうだけだよ。
ハーレイは何も困らないでしょ、生徒な所も同じなんだし…。
同じ扱いでいい筈だよ、と言ったのに。
「どうなんだか…。お前が女の子だった場合は、難しいぞ?」
いくら前の俺たちがソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイにしても、やっぱりなあ…。
女の子の部屋に男の俺が入るとなったら、お前のお母さんたちだって心配だろう。
どちらかと言えば、お父さんの方かもしれんな、俺をジロジロ眺めるのは。
娘に近付く男というのを、父親は警戒するらしいから。
お父さんたちに心配かけないためには、この部屋のドアはいつでも開けておくとか…。
この部屋で二人で会ったりしないで、リビングとか客間で話すだとかな。
でないと俺が疑われちまう、と妙な心配をしているハーレイ。「お前が女だと、そうなるぞ」と大真面目な顔で。
「大丈夫なんじゃないのかなあ…。ずっと昔は、ぼくたち、友達だったんだしね」
ソルジャーとキャプテンの頃はそうでしょ、ママたちは何も知らないんだから。
「そうもいかんぞ、お前が女になっちまったら」
俺がお前を見る目も変わってくるかもしれん、と周りは考えちまうだろう。
実際、幼馴染の二人が結婚しちまうことも多いのが世の中ってヤツだから…。
子供の頃には仲良く走り回っていたのに、いつの間にやら、友情が恋に変わっちまって。
そいつと全く同じ理屈だ、とハーレイが軽く広げた両手。「女だったら厄介だぞ?」と。
「お前の方でも、学校の友達に訊かれるかもな。…やたらと俺と一緒にいたら」
ハーレイ先生は恋人なのか、と尋ねるヤツやら、付き合ってるのかと訊くヤツやら。
女の子なら、友達も当然、女の子が多くなるんだし…。女の子は恋の話をするのが大好きだ。
お前、そういう質問を全部、サラリと上手に躱せるんだか…。
前のお前なら得意そうだが、今のお前は何でも顔に出ちまうからな。
「そっか…。パパやママは平気でも、学校の友達…」
ぼくの顔、真っ赤になっちゃうかも…。ハーレイを好きか訊かれたら。
それは確かに厄介だよね、と頷いた。「恋をしてるの、バレちゃいそうだよ」と。
「ほらな、今よりも遥かに大変なんだ。…お前が女の子に生まれていたら」
其処を乗り越えて、無事に育ってくれても、だ…。
前みたいに凄い美人になった後にも、気を遣うことになるんだろうな。
婚約して、結婚に漕ぎ着けたって。お前と一緒に暮らし始めて、何処へ行くにも二人でも、だ。
「…なんで?」
結婚したのに、どうして気を遣うことになるわけ?
もう平気じゃない、パパやママの目も、ぼくの友達とかにしたって。
ぼくとハーレイは一緒にいるのが普通で、何処もおかしくないけれど…?
「それでもだ。お前が女性ということになると、レディーファーストとか、色々と…」
男の俺が考えなくちゃいけない場面が増えてくるってな。
冬に二人で店に入ったら、俺がお前のコートを脱がせてやるだとか…。そういうサービス、店にあったら要らないんだが、店も色々あるんだから。
ドアは必ず俺が開けるとか、約束事が山ほどだ。お前が女だったなら。
男のお前のようにはいかんさ、お前がいくら「前と同じだ」と言い張ったって。
周りから見ればお前は女で、俺がぞんざいに扱っていると思われたんでは堪らないからな。
それだけじゃなくて…、とハーレイに覗き込まれた瞳。「此処から先が肝心だ」と。
「俺たちに子供が生まれちまったら、人生、変わるぞ?」
文字通りガラリと変わっちまうんだ、俺たちの子供が生まれたら。男の子でも、女の子でも。
一人目の子供が生まれた所で、もう変わる。
俺とお前と、お互いの一番を誰にするかが問題だ。
どうするんだ、と訊かれたけれども、まるで分からない質問の意味。
「えーっと…?」
それって何なの、一番って?
ハーレイとぼくと、何がお互いの一番なの…?
「簡単なことだ。俺たちの子供が生まれたら…。世界で一番大切な人は、誰になるんだ?」
お前が一番大切だと思う人間は、誰なのか。俺にも同じ質問が投げ掛けられるってな。
子供は親の宝物だろ、小さかろうが、大きく育った大人だろうが。
幾つになっても子供は子供で、親にとっては宝物だ。それこそ、ずっと昔から。
前の俺たちが生きた時代は違うが、あの時代だけが例外なんだ。それに、あの時代でも、子供を愛した親はいた。…ジョミーの両親みたいにな。コルディッツまで一緒に行っちまったほど。
そういう子供が俺たちに生まれて来るわけで…。
血が繋がった本当の子供だ、其処の所が問題なんだ。
世界で一番大切なのは、お前か、子供か。…俺は悩むぞ、何と答えればいいのかを。
お前なんだ、と思っていたって、心は子供を選んでしまいそうだしな。
とてもじゃないが決められやしない、とハーレイが眉間に寄せた皺。「お前はどうだ?」と。
「…ぼくだって悩むよ、そんな質問…」
ハーレイが一番に決まっているけど、でも、子供…。ぼくたちの子供…。
選べやしないよ、どっちかなんて…!
どっちも一番大切なんだよ、ハーレイと子供。だけど、ぼくの一番はハーレイだから…。
どうすればいいの、と頭を抱えた。「ぼくにも、それは決められないよ」と。
「ほら見ろ、困っちまったろうが。…子供が生まれりゃ、人生、変わっちまうぞ」
そうならないよう、お前は男の方がいいんだ。お互いの一番、お互い、変えたくないだろう?
そうでなくても、俺は前のお前と同じお前がいいってな。
前の俺が失くしたのは、お前なんだから。…男のお前で、女じゃなかったんだから。
違う姿で戻って来たって、好きにはなるが…、と深くなったハーレイの瞳の色。
「前の通りが一番なんだ」と。猫や小鳥や、女の子の姿のお前よりも、と。
「…俺はお前しか好きにならない。そして、選んでいいのなら…」
選べるんなら、断然、今のお前がいい。前のお前とそっくり同じに育つお前が。
女の子のお前に出会うよりもな、とハーレイが真顔で言うものだから…。
「ぼくも、ハーレイが一番のままがいいけれど…。ハーレイの一番でいたいけど…」
子供が生まれて一番が変わるの、ぼくだって困っちゃうけれど…。
でも、子供部屋は可哀相じゃない?
ハーレイの家にある子供部屋がとっても可哀相だよ、ぼくたちに子供がいなかったら。
可哀相な部屋になっちゃう、と訴えた。「あの子供部屋が可哀相」と。
「その発想は何処から来たんだ? お前、さっきも可哀相だと言ってたが…」
出番が無いってだけのことじゃないのか、子供部屋の?
子供がいなけりゃ、子供部屋の出番は来ないもんだし…。まあ、可哀相かもしれないが…。
「それもあるけど、部屋が大きくなれないんだよ」
出番が無いっていうだけじゃなくて、部屋が育っていけないまま。
子供部屋は子供と一緒に育っていくでしょ、家具が増えたり、変わったりして。
最初は子供用のベッドが入って、次は机、っていう風に。…机もベッドも、大きくなったら買い替えていくものじゃない。子供用から、次のサイズやデザインとかに。
だけど子供が使っていないと、子供部屋は育たないんだよ。誰も育ててくれないから。
ぼくの部屋、ぼくと一緒に育って来たのに…。今のこういう部屋になるまで。
ハーレイの部屋も育ったんでしょ、隣町の家にあるハーレイの部屋は。
「なるほどなあ…。可哀相というのは、そういう意味だったのか…」
一緒に育つ子供がいないから、あの子供部屋は育たないんだな?
俺の家にある、親父が勝手に作っちまった子供部屋。
「うん…。子供部屋なのに、可哀相、って」
ぼくがホントに女の子だったら、子供部屋、育っていけたのに…。
子供が生まれたら困っちゃうことは分かったけれども、あの部屋、やっぱり可哀相だよ…。
いつまで経っても大きくなれない、と子供部屋を思って項垂れた。
今の自分が暮らしている部屋は、ちゃんと育って来られたのに。いつか自分がお嫁に行くまで、一緒に育ってゆけるのに。
同じ部屋でも大違いだよ、と悲しい気持ち。「ぼくのせいだ」と。
もしも女の子に生まれていたなら、ハーレイの家の子供部屋も育ってゆけただろうに。
「…ぼくのせいだよ、あの部屋が大きくなれないのは…」
ハーレイのお嫁さんになるのに、ぼくは子供を産めないから…。
「お前の気持ちは、分からないでもないんだが…。しかし、相手は子供部屋だぞ?」
あれは部屋だし、お前の気持ちを切り替えてやればいいってな。
子供部屋だと思い込んでいないで、お前の部屋にしたっていいし。
部屋ってヤツは使いようだ、とハーレイが浮かべてみせた笑み。「お前の部屋だ」と。
「ぼくの部屋?」
子供部屋でしょ、ぼくの部屋にしてどうするの…?
「デカい子供用の部屋ってことだな、お前は育っちまっているから」
お前も本が好きなんだから、お前専用の書斎みたいにしようかって話もしていただろう?
畳の部屋にするって話もあったぞ、今の所は使っていない部屋なんだから。
何に変えるにせよ、部屋を生かしてやればいいのさ。あの子供部屋って空間をな。
そうすりゃ、育っていけるから。
子供と一緒に育つのもいいが、お前や俺が育てちゃいかんと誰も言ってはいないだろうが。
「ホントだ…!」
ぼくたちが部屋を育てあげればいいんだね。…子供の代わりに、あの子供部屋を。
それなら部屋も育っていけるね、書斎だとか、畳敷きだとか…。
「分かったか? 要は生かしてやるのが大事だ」
どういう形に育ててゆくかは、俺たち次第ということだな。
お前と二人で考えてみては、あちこち寸法を測ったりもして、計画を立てて。
書斎でもいいし、畳敷きの部屋も素敵だよな、とハーレイが挙げてくれた例。
今は子供部屋になっているけれど、本棚を幾つも据えれば書斎。もちろん読書用の机も置いて。
畳を敷くなら、掛軸を飾るスペースを設けてみるとか、畳専用の机を置くだとか。
「机と言っても色々あるぞ。デカイ机から、一人用まで」
どれを置くかでイメージも変わるし、座布団にしたって色や模様が山ほどだ。
書斎の方でも、どういう本を揃えてゆくかで、これまた中身が変わるってな。
今のお前が暮らしてる部屋は、お前が俺と結婚したら、もう成長は出来ないが…。
お前がこの家に帰って来た時くらいしか、出番は無くなっちまうんだが…。
この部屋の成長が止まっちまっても、俺の家にある子供部屋の方は育ってゆくんだ。使う子供は誰もいなくても、俺たちが育ててやるんだからな。
これから成長するって点では、本物の子供部屋と変わらんぞ。
それに、お前が嫁に来てから、育ち始めるというトコも。
でもって、本物の子供部屋より、遥かに長生き出来そうだよなあ…。子供部屋ではない分だけ。
子供部屋なら、この部屋や、隣町の俺の部屋みたいにだ、成長が止まっちまうんだが…。
あの部屋は、俺たちが使う限りは、いくらでも育っていけるんだしな。
だから安心しろ、お前はお前のままでいいんだ。
子供部屋の出番は立派にあるから、可哀相だと思わなくてもな。
お前は女の子じゃない方がいい、とハーレイは微笑んでくれたから。
「子供が生まれて、お互いの一番大切な人で悩むのは困る」とも言ってくれたから。
生まれ変わる時に失敗したかも、とは考えなくてもいいらしい。女の子にするか、男のままか、神様がくれた選べるチャンス。其処で選択ミスをしたかも、と。
「良かった…。ぼく、失敗をしてなくて」
ちょっぴり心配だったから…。ぼく、失敗をしちゃったかも、って。
「失敗だと?」
何を失敗するというんだ、お前、いったい何を考えてる…?
子供部屋が可哀相だと言い出した次は何なんだ、と首を捻ったハーレイ。「次は何だ?」と。
「えっとね…。子供部屋の話と同じかな…?」
ぼく、女の子に生まれた方が良かったのかな、って思ってたから…。
女の子になるか、男の子にするか、生まれ変わる前なら選べたかもね、って。
神様がどっちにするかを訊いてくれてたのに、ぼくは選ぶの、間違えたかも、って…。
ハーレイは女の子のぼくが欲しかったのに、男の子になってしまったかな、って思ってた…。
「そういうことなら、大成功だ。お前は失敗しちゃいない」
今はチビでも、育った時には、前のお前とそっくり同じになるんだからな。
選び間違えたどころか、もう最高の身体を選んで来たのがお前だ。
チビな所も、俺より年下に生まれた所も、何もかも俺は嬉しいってな。
お前が大きく育ってゆくのを、俺は見守っていけるんだから。
子供部屋を育てる話じゃないがだ、育っていくのを側で見られるのは幸せな気分なんだから。
よくやったぞ、と褒めて貰えたから、頑張ってちゃんと大きくなろう。
今はチビでも、いつかは前の自分とそっくり同じ姿に。
前のハーレイが失くした姿と同じに育って、子供部屋を二人で育ててゆこう。
子供は生まれて来ないけれども、子供の代わりに、ハーレイの家の子供部屋を。
本物の子供に与える代わりに、あの部屋を自分たちで育てる。
書斎にするとか、畳を敷くとか、使い方は幾つもありそうだから。
うんと幸せな部屋になるよう、ハーレイと二人で考えてやって、幾つもプランを立てて。
そういう日々も、きっと幸せ。
ハーレイと二人で生きてゆけるし、一番大切な人は誰かも、ずっと変わりはしないのだから…。
育たない部屋・了
※自分と一緒に育って来た部屋から、ハーレイの家の子供部屋のことを考え始めたブルー。
子供がいないと育たないよ、と。でも、女の子に生まれていたら、との心配は不要なのです。
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頑張って掃除しなくっちゃ、と張り切ったブルー。爽やかに晴れた土曜日の朝に、朝食の後で。
二階の自分の部屋に戻って、掃除の手順を確認して。
(床から始めて、ゴミ箱の中身もきちんと捨てて…)
勉強机も棚とかも…、と取り掛かった掃除。いつも自分でするのだけれども、週末は普段よりも念入りに。ベッドの下とかだけではなくて。もっと細かい所まで。
(だって、ハーレイが来るんだものね?)
一日一緒に過ごすのだから、綺麗な部屋で迎えたい。埃の一つも無いように。窓ガラスだって、まるで嵌まっていないかのように。
(頑張らなくちゃ…)
ぼくの部屋だもの、と一人で掃除を済ませた部屋。友達はみんな、母親任せらしいけど。学校に出掛けて留守の間に、掃除して貰うのが常の友人たち。
(任せっ放しだから、色々、隠されちゃうのにね?)
勉強の邪魔になりそうな本や、ゲームとかを。掃除のついでに「これなのね」と持って行かれてしまって、後から困ることになる。頼んでも返して貰えないから。
(そうなっちゃうのに、掃除、自分でしないんだから…)
不思議だよね、と思うけれども、変なのは自分の方かもしれない。小さな頃から綺麗好き。今も同じに綺麗好きだし、前の生でも…。
(綺麗好きすぎて、青の間、係が掃除しちゃって…)
前の自分がメギドに飛び立った時に、何も知らなかった部屋付きの係。部屋の主が二度と戻って来ないなどとは思わないから、心をこめて掃除をした。
「お帰りになったら、直ぐにお休みになれるように」と、大騒ぎだったシャングリラの中で。
メギドの炎でパニックの者たちも多かった中で、頑張った係。「これが自分の仕事だから」と。
そのせいで、何も残りはしなかった部屋。
後でハーレイが形見を探しに入っても。…銀色の髪の一筋さえも。
ぼくのせいだよね、とコツンと叩いた頭。「ハーレイに悪いことをしちゃった」と。
けれど、それくらいの綺麗好きだし、今の自分もそっくり同じ。朝からせっせと掃除した部屋。窓際に置かれた、ハーレイと座る椅子とテーブル。それも整えて大満足。
勉強机の前に座って、部屋をぐるりと眺め回して…。
(よし!)
これで完成、と大きく頷いた。いつハーレイが来ても大丈夫、と。
そうは思っても、まだ早い時間。この時間には、来ないハーレイ。早すぎる訪問は、ハーレイにとってはマナー違反になるらしい。母たちに迷惑がかかるから、と。
まだ来ないよね、と壁の時計を見てから、ふと思ったこと。此処は自分の部屋だけれども…。
(すっかりハーレイの部屋だよね…)
ハーレイがいたって可笑しくない部屋、と見回した。扉を開けて入って来る姿も、窓際の椅子に座る姿も、今では馴染みの光景だから。
何処かにハーレイの姿があるのが普通になってしまった部屋。この部屋に溶け込んでいる恋人。
来ない日の方が多くても。…いない時間の方が遥かに長くても。
それに、この部屋にはハーレイ用の椅子だってある。ハーレイが座るためだけの椅子。
何度もハーレイが座っている内に、重い体重で座面が少しへこんだ椅子。窓際に置かれた椅子の片方。よくよく見ないと分からないけれど、ハーレイが座る椅子はそうなっている。
前のハーレイのマントの緑を淡くしたような、若い苔の色をした座面。それが少しだけ。
(こんな日が来るなんて、思わなかったよ…)
自分の部屋に、恋人がやって来るなんて。
どっしりと重たい椅子とテーブルが、そのためにあった家具だなんて。
今ではすっかり、ハーレイのための椅子とテーブル。いつも二人で向かい合わせに座る場所。
ホントに不思議、と眺めた窓際のテーブルと椅子。
ハーレイが来たら、其処でお茶とお菓子をお供にお喋り。休日だったら、昼食も。二人分なら、充分に置けるテーブルだから。
とても役立つ、頼もしい家具。ハーレイのための椅子までついているけれど…。
(あのテーブルとかを買って貰った時は…)
子供らしくない、と思ったものだった。何処から見たって来客用で、客間が似合いそうな家具。もっと軽やかなものがいいのに、と。それに「無くてもいいのに」とも。
そう考えたのに、今では部屋にピッタリになったテーブルと椅子。今も子供の自分はともかく、大人のハーレイには良く似合う。まるでハーレイのために買ったみたいに。
デザインも、それに椅子の座面の色も。「あれで良かった」と心の底から思う家具たち。
(子供用のベッドを買い替える時に…)
テーブルと椅子もやって来た。両親が「これがいい」と選んでくれたもの。
あれが置かれて、ガラリと変わった部屋の雰囲気。
幼い子供が暮らす部屋から、ちょっぴりお兄ちゃんの部屋へと。部屋にお客が来るお兄ちゃん。
もっとも、テーブルと椅子が来たって、友達は滅多に使いはしなかったけれど。
部屋で大人しく遊ぶよりかは、かくれんぼだとか。おやつの時間も、大勢だからダイニングで。
あまり出番が来はしなかったテーブルと椅子。
それが今では大活躍で、片方の椅子はハーレイ専用。
変われば変わるものだよね、と思う家具たち。それに、ハーレイがいるのが当たり前の部屋。
前は考えもしなかったのに。恋人が訪ねて来ることなんか。…恋人が出来ることだって。
(ずうっと、この部屋で暮らすんだったら…)
また模様替えもするのだろう。今はまだ、子供部屋だから。ちょっぴりお兄ちゃんの部屋でも、大人の部屋とは違うから。
窓際のテーブルと椅子は立派に来客用でも、勉強机は大人用の机になってはいない。父の書斎にあるような机、作りからして重厚に見える机には。
(上の学校に進む時とかに…)
多分、買い替えになるだろう机。また両親が決めてくれるとか、今度は自分で選ぶとか。
けれど、上の学校には行かないと決めている自分。上の学校に行ける年になったら、結婚だって出来る年齢。今の学校を卒業したら、十八歳になるのだから。
待ち遠しい年が十八歳。ハーレイの所へお嫁に行くから、上の学校には行かないし…。
(部屋はこのまま…)
模様替えはしないで、机を買い替えることも無い。部屋の持ち主はハーレイの家に引越し。
そうして此処に残った部屋は、帰って来た時には迎えてくれる。「お帰りなさい」と、長いこと此処で暮らしていた自分を。
テーブルと椅子は持って行こうと思っているから、家具はちょっぴり減っていたって、今の姿と変わらずに。
子供時代のままの部屋。自分がお嫁に行ってしまっても、大人の世界の仲間入りでも。
たまにこの家に帰って来たなら、懐かしく思うだろう部屋。思い出が沢山詰まっているから。
此処で過ごした時の欠片を、そっくり閉じ込めた部屋だから。…時間を止めている部屋は。
買い替えずに終わった勉強机の前に座って、キョロキョロ見回すだろうけれども…。
(部屋には、少し可哀相かな?)
これ以上、大きくなれないから。
子供用の部屋のままで時間が止まってしまって、大人用の部屋に変身させては貰えないから。
上の学校に通う生徒に相応しい机が入るとか。他にも色々、大人らしく変わってゆくだとか。
自分が此処に住み続けるなら、部屋も育ってゆくけれど。…自分と一緒に、もっと大きく。
(でも、いいよね?)
そうなるまでには、十八年ほど幸せに使ったのだから。
最初は子供用の小さなベッドが置かれて、勉強机なんかは無し。幼稚園では、まだしない勉強。絵を描くなら床で充分なのだし、絵本を読むにも床やベッドがあればいい。
下の学校に入る時に机を買って貰って、その机も途中で今のに変わった。子供用のベッドが今のベッドに変わったように。
ベッドが今のに変わる時には、来客用のテーブルと椅子もやって来た。他の家具だって、自分の成長に合わせて色々と増えていった筈。
(…一歳の時には、まだこの部屋は使ってないかな?)
赤ん坊を一人で寝かせておくには広すぎる部屋。ベビーベッドは別の部屋に置かれて、ベッドの上に吊るす飾りも此処には無かったかもしれない。
それでも準備はしてあった筈。
子供が出来たと分かった時から、両親はきっと、部屋のプランを立てていた。
どういう部屋が喜ばれるかと、まだ生まれても来ない子供を想像して。二人であれこれ、色々なことを相談して。
(その前からだって…)
自分が母のお腹に宿る前から、この部屋は子供部屋だったのだろう。家を建てる時から、此処に作ろうと両親が決めていた部屋。二階の此処、と。
もしかしたら、他にも何処かにあったかもしれない子供部屋。二人目の子供が生まれて来たら、その子に使わせるつもりだった部屋が。
(隣の部屋とか…)
最初は子供部屋として作られた部屋かもしれない。一人っ子でなければ、弟か妹が貰った部屋。今は普通の部屋だけれども、そうはならずに子供部屋になって。
可能性としては充分にある。子供が何人生まれて来るか、今でも誰も予知など出来ない。
ハーレイの家にも子供部屋があるくらいなのだし、この部屋の他にも子供部屋。神様が弟か妹を届けてくれていたら、使う筈だった部屋が何処かに。
一人っ子だったから、子供部屋は一つになったのだけれど。自分が使っているのだけれども…。
(ハーレイの家のは使わないよね…)
あの部屋も子供部屋なんだけど、と思った途端に、「可哀相」と浮かんだ、さっきの考え。
いつか自分がお嫁に行ったら、この部屋の時間は止まってしまう。もう大きくはなれないで。
部屋の住人の成長と一緒に、育ってゆく筈だった部屋。家具が大人用になったりして。
それが出来ずに、大きくなれない自分の部屋。子供部屋のままで時が止まる部屋は、可哀相だと考えたけれど…。
(ハーレイの家の子供部屋は…)
もっと可哀相な部屋なんだ、と気が付いた。
子供部屋として生まれて来たのに、使って貰えないのだから。
いくら待っても、使う子供は来ない部屋。
住人がいない今の姿で、いつまでもポツンと残るしかない。使う子供がいない以上は。
一度だけ見た、ハーレイの家の子供部屋。遊びに出掛けて、家中を案内して貰った時に。
「この部屋は子供部屋なんだ」と扉を開けてくれたハーレイ。「俺の親父も気が早いよな」と。
子供部屋だって必要だ、とハーレイの父が用意した部屋。いつか子供が生まれるのだから、子供部屋も作っておかないと、と。
その子供部屋が使われないまま、放っておかれることになるのは…。
(ぼくのせいなの…?)
ハーレイが貰う「お嫁さん」は自分で、男だから。
男の自分がお嫁さんでは、どう頑張っても、子供が生まれはしないから。
(…あの子供部屋…)
ぼくのせいでとても可哀相、と見開いた瞳。待っても子供が来ないなんて、と。
子供部屋として用意されたのに、肝心の子供が来ない部屋。育ってゆくことが出来ない部屋。
其処に子供がやって来たなら、部屋は育ってゆけるのに。
この部屋が育って来たように。家具を増やしたり買い替えたりして、部屋も成長して来たのに。
けれど、育たないハーレイの家の子供部屋。
あの部屋と一緒に育ってゆく子は、何処からもやって来ないから。子供が生まれはしないから。
(…ぼくが男だから、子供、生まれて来なくって…)
子供部屋の出番は来ないまま。部屋は成長出来ないまま。
もしも自分が女の子として生まれていたなら、ちゃんと出番があったのに。ハーレイとの子供が生まれるだろうし、その子の部屋になったのに。…子供部屋を貰う頃になったら。
(…ハーレイ、どんなぼくでも好きになるって…)
猫でも、小鳥でも、何に生まれていたとしたって。…人間ではない姿でも。
ハーレイはそう言っていたのだし、女の子でも、きっと大丈夫。今の自分が女の子でも。
考えたことも無かったけれども、その方が良かったのかもしれない。
女の子だったら、誰が見たって「お嫁さん」。
男同士よりも普通のカップル、驚く人は何処にもいない。結婚式を挙げる時にも、結婚した後にハーレイが紹介する時にも。「俺の嫁さんだ」と、友達や先輩や、色々な人に。
それに子供も生まれて来る。結婚して一緒に暮らし始めたら、あの子供部屋を貰う子供が。
今のままだと育てない部屋、育つことが出来ないハーレイの家の子供部屋。
其処を使う子供がいないから。男の自分は「お嫁さん」になれるというだけ、ハーレイの子供は産めないから。
(ぼく、失敗した…?)
今の自分が持つべき姿を、間違えてしまっただろうか。男に生まれて来たなんて。
新しい命と身体を貰って生まれ変わるのなら、女の子になれば良かったのに。同じように新しい身体になるなら、前の自分とそっくりではなくて女の子。
そうしていたなら、子供部屋にも出番はあった。育つことの出来ない可哀相な部屋にならずに、子供と一緒に育ってゆけた。あの部屋を貰う子供と一緒に。
(…そしたら、部屋も喜んだよね…?)
うんとヤンチャな子供が生まれて、壁に落書きされたって。少しも部屋を片付けない子で、足の踏み場も無くなったって。
(放っておかれる部屋よりは、ずっと…)
幸せな部屋になっただろう。落書きだらけの壁になっても、本やオモチャが転がっていても。
子供部屋は子供のための部屋だし、ちゃんと成長してゆけるから。
いつかは壁から落書きが消えて、床もきちんと綺麗になる。子供が育っていったなら。
(…ぼくが女の子に生まれていたら…)
そうなった筈の子供部屋。
ハーレイと幸せに暮らせるのならば、女の子でも良かったのに。前とそっくり同じでなくても、少しも困りはしなかったのに。
(…ハーレイと結婚出来るなら…)
二人一緒に生きてゆけるなら、前の姿にはこだわらない。男でなくても、かまいはしない。
生まれ変わる時に、神様に「女の子になりたい」とお願いすれば良かっただろうか。
そして女の子の身体を貰って、ハーレイのお嫁さんになる。
子供が生まれるお嫁さんに。…子供部屋の出番があるお嫁さんに。
間違えたかも、と思う自分の身体。「選べたのに、失敗しちゃったかも」と。
きっと生まれ変わる前にだったら、選ぶことだって出来た筈。前と同じに男の子になるか、女の子の身体を貰うのがいいか。
選んでいいなら、女の子にしておくべきだった。前とそっくり同じ身体を選んだけれど。
(…ハーレイも、そう思ってるかも…)
新しい身体になるのだったら、女の子に生まれて来た自分。その方が嬉しかったかもしれない。今度は結婚出来るのだから、子供だって産める「お嫁さん」が。
(…ハーレイ、喜んでいたかもね…)
今の自分が女の子だったら、今よりも、もっと。男の子の自分に出会うよりも、ずっと。
(どうなの、ハーレイ…?)
今から女の子になるのは無理だけれども、ハーレイに確かめたい気分。
そっちの方が良かったかな、と。「ぼくは、女の子の方が良かった?」と。
(ハーレイの家の、子供部屋のためにも…)
その方がいいに決まってるよね、と考えていたら、聞こえたチャイム。天気がいいから、歩いてやって来たハーレイ。休日は時間がたっぷりあるから、のんびりと。
母がお茶とお菓子を運んで来てくれた後、テーブルを挟んで向かい合わせに座って訊いた。
「あのね、ぼく…。女の子の方が良かったかな?」
「はあ? 女の子って…」
お前がか、とハーレイの瞳が丸くなるから、「そう」と自分を指差した。
「ハーレイ、何度も言っているでしょ。…どんなぼくでも好きになる、って」
ぼくが猫とか小鳥とかでも、ハーレイ、見付けてくれるって…。好きになるって…。
動物じゃなくて、女の子のぼくでも好きになる?
今のぼくは前と同じだけれども、ぼくが女の子になってても…?
「そりゃまあ……なあ?」
男だろうが、女だろうが、お前なのには違いない。
もちろん俺は一目で惚れるんだろうし、お前しか見えちゃいないだろう。
俺にはお前しかいないんだから。…前の俺だった時から、ずっと。
今の俺にはお前だけだ、とハーレイは迷いもせずに答えたけれど。
女の子の姿に生まれていたって、好きになってくれるらしいけれども、それならば…。
「…ハーレイは、そっちの方が良かった?」
今みたいに男のぼくじゃなくって、女の子のぼく。…女の子でも好きになるんなら…。
女の子のぼくだった方が良かったりするの、ハーレイは…?
どっちなの、と鳶色の瞳を見詰めた。「女の子の方が良かったと思う?」と。
「おいおい、何を言い出すんだか…。俺にとっては、お前の姿が一番でだな…」
今はチビだが、いずれは前のお前と同じに育つだろうが。
俺はそういうお前が好きでだ、選べるんなら、今のお前が何よりもいいと思うがな…?
同じ顔立ちをしてるにしたって、女よりかは男だ、うん。
「本当に…? ハーレイ、ホントに今のぼくでいいの?」
女の子のぼくでなくってもいいの、子供部屋まで家にあるのに…?
「何なんだ、そりゃ? 子供部屋って…」
確かに子供部屋ならあるが…、とハーレイは怪訝そうな顔。「あれがあったらどうした?」と。
「お前が女の子になるというのと、子供部屋がどう繋がるんだ?」と。
「…子供部屋、可哀相だと思って…。だって、出番が来ないままでしょ?」
せっかく子供部屋があるのに、子供、生まれて来ないから…。
ぼくは男で、子供なんかは産めないから。
女の子だったら、子供部屋、役に立てたのに…。生まれて来る子に使って貰えたのに…。
それにハーレイだって、ぼくが女の子の方が良くない?
男同士のカップルじゃなくて、普通のカップルになれるんだから。…ごく当たり前の。
「お前なあ…。さっきも言ったが、俺にはお前が一番なんだ。前とそっくり同じお前が」
そうするためには、お前は男でなくっちゃな。今のお前で丁度いいんだ。
女の子のお前に出会っちまったら、その時は仕方ないんだが…。
いや、間違いなくお前を好きにはなるんだが…。
きっと途惑っちまうだろうな、とハーレイが浮かべた苦笑い。
まるで勝手が違うんだから、と。
「違うって…。どういう意味?」
見た目は違うと思うけど…。顔は同じでも、身体は女の子になっちゃうから…。
ハーレイと初めて出会った時には、制服、スカートだろうけど…。
「そんなのは大した問題じゃない。スカートだろうが、ズボンだろうが、そんなことはな」
問題はお前が女だってことだ。…前のお前と違ってな。
そういうお前を、男のお前と同じように扱っていいのかってこった。
其処が困った問題だよな、とハーレイが顎に手をやるから。
「同じでいいと思うけど?」
ぼくはぼくだし、中身はおんなじ。…女の子になったっていうだけだよ。
ハーレイは何も困らないでしょ、生徒な所も同じなんだし…。
同じ扱いでいい筈だよ、と言ったのに。
「どうなんだか…。お前が女の子だった場合は、難しいぞ?」
いくら前の俺たちがソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイにしても、やっぱりなあ…。
女の子の部屋に男の俺が入るとなったら、お前のお母さんたちだって心配だろう。
どちらかと言えば、お父さんの方かもしれんな、俺をジロジロ眺めるのは。
娘に近付く男というのを、父親は警戒するらしいから。
お父さんたちに心配かけないためには、この部屋のドアはいつでも開けておくとか…。
この部屋で二人で会ったりしないで、リビングとか客間で話すだとかな。
でないと俺が疑われちまう、と妙な心配をしているハーレイ。「お前が女だと、そうなるぞ」と大真面目な顔で。
「大丈夫なんじゃないのかなあ…。ずっと昔は、ぼくたち、友達だったんだしね」
ソルジャーとキャプテンの頃はそうでしょ、ママたちは何も知らないんだから。
「そうもいかんぞ、お前が女になっちまったら」
俺がお前を見る目も変わってくるかもしれん、と周りは考えちまうだろう。
実際、幼馴染の二人が結婚しちまうことも多いのが世の中ってヤツだから…。
子供の頃には仲良く走り回っていたのに、いつの間にやら、友情が恋に変わっちまって。
そいつと全く同じ理屈だ、とハーレイが軽く広げた両手。「女だったら厄介だぞ?」と。
「お前の方でも、学校の友達に訊かれるかもな。…やたらと俺と一緒にいたら」
ハーレイ先生は恋人なのか、と尋ねるヤツやら、付き合ってるのかと訊くヤツやら。
女の子なら、友達も当然、女の子が多くなるんだし…。女の子は恋の話をするのが大好きだ。
お前、そういう質問を全部、サラリと上手に躱せるんだか…。
前のお前なら得意そうだが、今のお前は何でも顔に出ちまうからな。
「そっか…。パパやママは平気でも、学校の友達…」
ぼくの顔、真っ赤になっちゃうかも…。ハーレイを好きか訊かれたら。
それは確かに厄介だよね、と頷いた。「恋をしてるの、バレちゃいそうだよ」と。
「ほらな、今よりも遥かに大変なんだ。…お前が女の子に生まれていたら」
其処を乗り越えて、無事に育ってくれても、だ…。
前みたいに凄い美人になった後にも、気を遣うことになるんだろうな。
婚約して、結婚に漕ぎ着けたって。お前と一緒に暮らし始めて、何処へ行くにも二人でも、だ。
「…なんで?」
結婚したのに、どうして気を遣うことになるわけ?
もう平気じゃない、パパやママの目も、ぼくの友達とかにしたって。
ぼくとハーレイは一緒にいるのが普通で、何処もおかしくないけれど…?
「それでもだ。お前が女性ということになると、レディーファーストとか、色々と…」
男の俺が考えなくちゃいけない場面が増えてくるってな。
冬に二人で店に入ったら、俺がお前のコートを脱がせてやるだとか…。そういうサービス、店にあったら要らないんだが、店も色々あるんだから。
ドアは必ず俺が開けるとか、約束事が山ほどだ。お前が女だったなら。
男のお前のようにはいかんさ、お前がいくら「前と同じだ」と言い張ったって。
周りから見ればお前は女で、俺がぞんざいに扱っていると思われたんでは堪らないからな。
それだけじゃなくて…、とハーレイに覗き込まれた瞳。「此処から先が肝心だ」と。
「俺たちに子供が生まれちまったら、人生、変わるぞ?」
文字通りガラリと変わっちまうんだ、俺たちの子供が生まれたら。男の子でも、女の子でも。
一人目の子供が生まれた所で、もう変わる。
俺とお前と、お互いの一番を誰にするかが問題だ。
どうするんだ、と訊かれたけれども、まるで分からない質問の意味。
「えーっと…?」
それって何なの、一番って?
ハーレイとぼくと、何がお互いの一番なの…?
「簡単なことだ。俺たちの子供が生まれたら…。世界で一番大切な人は、誰になるんだ?」
お前が一番大切だと思う人間は、誰なのか。俺にも同じ質問が投げ掛けられるってな。
子供は親の宝物だろ、小さかろうが、大きく育った大人だろうが。
幾つになっても子供は子供で、親にとっては宝物だ。それこそ、ずっと昔から。
前の俺たちが生きた時代は違うが、あの時代だけが例外なんだ。それに、あの時代でも、子供を愛した親はいた。…ジョミーの両親みたいにな。コルディッツまで一緒に行っちまったほど。
そういう子供が俺たちに生まれて来るわけで…。
血が繋がった本当の子供だ、其処の所が問題なんだ。
世界で一番大切なのは、お前か、子供か。…俺は悩むぞ、何と答えればいいのかを。
お前なんだ、と思っていたって、心は子供を選んでしまいそうだしな。
とてもじゃないが決められやしない、とハーレイが眉間に寄せた皺。「お前はどうだ?」と。
「…ぼくだって悩むよ、そんな質問…」
ハーレイが一番に決まっているけど、でも、子供…。ぼくたちの子供…。
選べやしないよ、どっちかなんて…!
どっちも一番大切なんだよ、ハーレイと子供。だけど、ぼくの一番はハーレイだから…。
どうすればいいの、と頭を抱えた。「ぼくにも、それは決められないよ」と。
「ほら見ろ、困っちまったろうが。…子供が生まれりゃ、人生、変わっちまうぞ」
そうならないよう、お前は男の方がいいんだ。お互いの一番、お互い、変えたくないだろう?
そうでなくても、俺は前のお前と同じお前がいいってな。
前の俺が失くしたのは、お前なんだから。…男のお前で、女じゃなかったんだから。
違う姿で戻って来たって、好きにはなるが…、と深くなったハーレイの瞳の色。
「前の通りが一番なんだ」と。猫や小鳥や、女の子の姿のお前よりも、と。
「…俺はお前しか好きにならない。そして、選んでいいのなら…」
選べるんなら、断然、今のお前がいい。前のお前とそっくり同じに育つお前が。
女の子のお前に出会うよりもな、とハーレイが真顔で言うものだから…。
「ぼくも、ハーレイが一番のままがいいけれど…。ハーレイの一番でいたいけど…」
子供が生まれて一番が変わるの、ぼくだって困っちゃうけれど…。
でも、子供部屋は可哀相じゃない?
ハーレイの家にある子供部屋がとっても可哀相だよ、ぼくたちに子供がいなかったら。
可哀相な部屋になっちゃう、と訴えた。「あの子供部屋が可哀相」と。
「その発想は何処から来たんだ? お前、さっきも可哀相だと言ってたが…」
出番が無いってだけのことじゃないのか、子供部屋の?
子供がいなけりゃ、子供部屋の出番は来ないもんだし…。まあ、可哀相かもしれないが…。
「それもあるけど、部屋が大きくなれないんだよ」
出番が無いっていうだけじゃなくて、部屋が育っていけないまま。
子供部屋は子供と一緒に育っていくでしょ、家具が増えたり、変わったりして。
最初は子供用のベッドが入って、次は机、っていう風に。…机もベッドも、大きくなったら買い替えていくものじゃない。子供用から、次のサイズやデザインとかに。
だけど子供が使っていないと、子供部屋は育たないんだよ。誰も育ててくれないから。
ぼくの部屋、ぼくと一緒に育って来たのに…。今のこういう部屋になるまで。
ハーレイの部屋も育ったんでしょ、隣町の家にあるハーレイの部屋は。
「なるほどなあ…。可哀相というのは、そういう意味だったのか…」
一緒に育つ子供がいないから、あの子供部屋は育たないんだな?
俺の家にある、親父が勝手に作っちまった子供部屋。
「うん…。子供部屋なのに、可哀相、って」
ぼくがホントに女の子だったら、子供部屋、育っていけたのに…。
子供が生まれたら困っちゃうことは分かったけれども、あの部屋、やっぱり可哀相だよ…。
いつまで経っても大きくなれない、と子供部屋を思って項垂れた。
今の自分が暮らしている部屋は、ちゃんと育って来られたのに。いつか自分がお嫁に行くまで、一緒に育ってゆけるのに。
同じ部屋でも大違いだよ、と悲しい気持ち。「ぼくのせいだ」と。
もしも女の子に生まれていたなら、ハーレイの家の子供部屋も育ってゆけただろうに。
「…ぼくのせいだよ、あの部屋が大きくなれないのは…」
ハーレイのお嫁さんになるのに、ぼくは子供を産めないから…。
「お前の気持ちは、分からないでもないんだが…。しかし、相手は子供部屋だぞ?」
あれは部屋だし、お前の気持ちを切り替えてやればいいってな。
子供部屋だと思い込んでいないで、お前の部屋にしたっていいし。
部屋ってヤツは使いようだ、とハーレイが浮かべてみせた笑み。「お前の部屋だ」と。
「ぼくの部屋?」
子供部屋でしょ、ぼくの部屋にしてどうするの…?
「デカい子供用の部屋ってことだな、お前は育っちまっているから」
お前も本が好きなんだから、お前専用の書斎みたいにしようかって話もしていただろう?
畳の部屋にするって話もあったぞ、今の所は使っていない部屋なんだから。
何に変えるにせよ、部屋を生かしてやればいいのさ。あの子供部屋って空間をな。
そうすりゃ、育っていけるから。
子供と一緒に育つのもいいが、お前や俺が育てちゃいかんと誰も言ってはいないだろうが。
「ホントだ…!」
ぼくたちが部屋を育てあげればいいんだね。…子供の代わりに、あの子供部屋を。
それなら部屋も育っていけるね、書斎だとか、畳敷きだとか…。
「分かったか? 要は生かしてやるのが大事だ」
どういう形に育ててゆくかは、俺たち次第ということだな。
お前と二人で考えてみては、あちこち寸法を測ったりもして、計画を立てて。
書斎でもいいし、畳敷きの部屋も素敵だよな、とハーレイが挙げてくれた例。
今は子供部屋になっているけれど、本棚を幾つも据えれば書斎。もちろん読書用の机も置いて。
畳を敷くなら、掛軸を飾るスペースを設けてみるとか、畳専用の机を置くだとか。
「机と言っても色々あるぞ。デカイ机から、一人用まで」
どれを置くかでイメージも変わるし、座布団にしたって色や模様が山ほどだ。
書斎の方でも、どういう本を揃えてゆくかで、これまた中身が変わるってな。
今のお前が暮らしてる部屋は、お前が俺と結婚したら、もう成長は出来ないが…。
お前がこの家に帰って来た時くらいしか、出番は無くなっちまうんだが…。
この部屋の成長が止まっちまっても、俺の家にある子供部屋の方は育ってゆくんだ。使う子供は誰もいなくても、俺たちが育ててやるんだからな。
これから成長するって点では、本物の子供部屋と変わらんぞ。
それに、お前が嫁に来てから、育ち始めるというトコも。
でもって、本物の子供部屋より、遥かに長生き出来そうだよなあ…。子供部屋ではない分だけ。
子供部屋なら、この部屋や、隣町の俺の部屋みたいにだ、成長が止まっちまうんだが…。
あの部屋は、俺たちが使う限りは、いくらでも育っていけるんだしな。
だから安心しろ、お前はお前のままでいいんだ。
子供部屋の出番は立派にあるから、可哀相だと思わなくてもな。
お前は女の子じゃない方がいい、とハーレイは微笑んでくれたから。
「子供が生まれて、お互いの一番大切な人で悩むのは困る」とも言ってくれたから。
生まれ変わる時に失敗したかも、とは考えなくてもいいらしい。女の子にするか、男のままか、神様がくれた選べるチャンス。其処で選択ミスをしたかも、と。
「良かった…。ぼく、失敗をしてなくて」
ちょっぴり心配だったから…。ぼく、失敗をしちゃったかも、って。
「失敗だと?」
何を失敗するというんだ、お前、いったい何を考えてる…?
子供部屋が可哀相だと言い出した次は何なんだ、と首を捻ったハーレイ。「次は何だ?」と。
「えっとね…。子供部屋の話と同じかな…?」
ぼく、女の子に生まれた方が良かったのかな、って思ってたから…。
女の子になるか、男の子にするか、生まれ変わる前なら選べたかもね、って。
神様がどっちにするかを訊いてくれてたのに、ぼくは選ぶの、間違えたかも、って…。
ハーレイは女の子のぼくが欲しかったのに、男の子になってしまったかな、って思ってた…。
「そういうことなら、大成功だ。お前は失敗しちゃいない」
今はチビでも、育った時には、前のお前とそっくり同じになるんだからな。
選び間違えたどころか、もう最高の身体を選んで来たのがお前だ。
チビな所も、俺より年下に生まれた所も、何もかも俺は嬉しいってな。
お前が大きく育ってゆくのを、俺は見守っていけるんだから。
子供部屋を育てる話じゃないがだ、育っていくのを側で見られるのは幸せな気分なんだから。
よくやったぞ、と褒めて貰えたから、頑張ってちゃんと大きくなろう。
今はチビでも、いつかは前の自分とそっくり同じ姿に。
前のハーレイが失くした姿と同じに育って、子供部屋を二人で育ててゆこう。
子供は生まれて来ないけれども、子供の代わりに、ハーレイの家の子供部屋を。
本物の子供に与える代わりに、あの部屋を自分たちで育てる。
書斎にするとか、畳を敷くとか、使い方は幾つもありそうだから。
うんと幸せな部屋になるよう、ハーレイと二人で考えてやって、幾つもプランを立てて。
そういう日々も、きっと幸せ。
ハーレイと二人で生きてゆけるし、一番大切な人は誰かも、ずっと変わりはしないのだから…。
育たない部屋・了
※自分と一緒に育って来た部屋から、ハーレイの家の子供部屋のことを考え始めたブルー。
子供がいないと育たないよ、と。でも、女の子に生まれていたら、との心配は不要なのです。