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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(世の中、色々いるもんだな…)
 人それぞれか、とハーレイが眺めた新聞記事。ブルーの家には寄れなかった日、夕食の後で。
 今日はダイニングでコーヒーな気分。愛用のマグカップにたっぷりと淹れて、傾けながら広げた新聞。ニュースやコラムや、あれこれと読んでいく内に…。
 見付けた記事が、酒のラベルのコレクターたちの特集だった。酒好きな上に、飲んだ記念に酒のラベルを集めてゆく。写真を見れば、アルバムにズラリと彼らの自慢のコレクション。
(集め方のルールも、人によりけりか…)
 飲んだ日付の順に貼る者や、酒の種類別に貼ってゆく者。酒の産地で分けている者も。
 決まったルールが無いというのが、ラベル集めの魅力の一つ。これに貼るものだ、とアルバムが売られているわけでもない。個人の好みで選べるアルバム、それに貼り方。
(今に始まった趣味じゃないんだな)
 SD体制が始まるよりも前の時代から、コレクターたちは存在したらしい。まだ人間が地球しか知らなかった遠い昔から。
 今の時代も、地球はもちろん、あちこちの星にコレクター。酒を飲んだら、記念にラベルも。
 おまけに、自宅で飲んだ時だけに限らない。コレクターたちが記念に残すラベルは。
(店で飲んでも、そいつのラベルを剥がして貰って…)
 持ち帰るのが彼らの流儀。「集めているので、ラベルを下さい」と。
 コレクターの数が多いものだから、そういうサービスをしている店も多いという。客のグラスに注いだ後には、「ラベルをお持ちになりますか?」と尋ねる店。
 客の方から頼まなくても。店員に「欲しい」と言わなくても。



(そういや、見たな…)
 前に見たぞ、と覚えがあった。あれはいつだったか、同僚たちと出掛けたレストラン。普段より洒落た店に入って、料理も酒も楽しんだ時。
 隣のテーブルに座っていたのが、ワインのラベルを剥がして貰っていた人だった。「頼むよ」と声を掛けていた紳士。「いつものように貰うから」と。
 心得ました、といった風にサッと空のボトルを下げた店員。食後のコーヒーを飲み終えた紳士が席を立つ時、「どうぞ」と渡していたラベル。綺麗に剥がして、乾かしたものを。
 ああいうのもあるのか、と見るともなしに眺めていた。「酒のラベルを持ち帰るのか」と。
(俺たちのワインは、安いのだったし…)
 味さえ良ければそれで充分、と皆で注文していたワイン。質より量が最優先だ、と。高級な酒を頼まなくても、楽しく飲めれば最高だから。
 とにかく量を、と頼んでいたから、ラベルはどうでも良かったけれど。料理に合うなら、何処のワインでも誰も気にしていなかったけれど。
 高いワインを頼んだ人なら、ラベルが欲しくなるだろう。趣味で集めている人ならば。
(…手頃な値段のワインにしたって、珍しいのもあるからなあ…)
 酒好きが集まる店にだったら、様々な酒も集まるもの。店主のこだわり、味で選んだ各地の酒。それを端から楽しむのならば、コレクターは「欲しい」と言いそうなラベル。
 カップルで食事に入った店なら、記念日のワインのラベルを貰いもするだろう。誕生日だとか、一世一代のプロポーズの時のワインとか。
(酒のラベルか…)
 急に飲みたい気分になった。こんな夜には酒を一杯、と。
 ラベルを集める話だとはいえ、酒の話題には違いないから。楽しみ方の一つがラベル集めだし、酒の余韻を味わうもの。アルバムを広げて、「あの時の酒だ」と頷くラベル。
 酒の味やら店の雰囲気、そういったものが詰まったラベル。たった一枚の紙なのに。
 面白い趣味もあるものだ、と心は酒へと飛んでゆくから、コーヒーの後で…。



 書斎に移って、秘蔵の一本。ワインではなくて、とっておきのボトルのウイスキー。
 グラスは二つで、引き出しから出した前のブルーの写真集。『追憶』というタイトルの。表紙に刷られた真正面を向いたブルーは、一番知られている写真。憂いと悲しみを秘めた瞳の。
 本当のブルーを捉えた一瞬、何処で撮られたかも分からない写真。恐らくは映像の中の一コマ、後に誰かが見付けた表情。
 …前の自分は、この写真を持っていなかったから。前のブルーがいなくなった後、懸命に探した本当のブルーが写った写真。けれど一枚も見付けられずに、前の自分は逝ったのだから。
 後の時代の誰かのお蔭で、こうして此処にいるブルー。写真だけれども、「これがブルーだ」と思える一枚。前のブルーと向き合っているような気分になるから、こうして机に置いてやる。
 グラスを軽く掲げてみせて…。
「お前も飲むか?」
 飲めないことはよく知ってるが、と注いでやったブルーの分。「ほら」と写真集のブルーに差し出し、コトリと置いて。
 「今夜は付き合え」と自分のグラスを傾けながら、「美味いんだぞ」と微笑み掛ける。
 ブルーは酒が駄目だったけれど、それでも飲もうと努力していた。悪酔いしたって、酷い頭痛に苦しんだって。前の自分が好んでいたから、「ぼくも飲むよ」と何度も強請って。



 遠く遥かな時の彼方に消えてしまったソルジャー・ブルー。前の自分が失くしたブルー。
 今は地球の上に、生まれ変わったブルーがいるけれど。小さなブルーが戻ったけれども、今でも忘れられない恋人。気高く美しかった人。
 たまに、こうして語りたくなる。ブルーは生きているというのに、前のブルーと。
「…前のお前と飲んでるんだし、こういうのも記念の酒かもな」
 俺が一人で飲むのと違って、お前と一緒だ。…今夜はな。
 ん?
 記念の酒って、どういう意味だってか。さっき、面白い記事を読んだもんだから…。新聞でな。
 店に出掛けて酒を飲んだら、ラベルを貰って帰るんだそうだ。コレクターなら。
 もっとも、こいつはワインじゃないからなあ…。
 俺が一本飲んじまわないと、ラベルを剥がして貰って帰るのは無理そうだが。
 ワインだったら軽いモンだが、ウイスキーを一本飲むとなるとだ、俺でも一晩かかっちまう。
 それに一気に飲んじまうよりは、ゆっくり飲みたいのがこの手の酒で…。
 ラベルを貰おうというんだったら、ボトルをキープするのがいいんだろうな。
 …お前は知らんか、ボトルキープなんぞは…。
 シャングリラには無かったしなあ、そういう洒落た習慣は。
 そもそも酒を飲ませる店が全く無かったわけだし、ボトルキープがあるわけがない。
 お前が知らないのも無理はないってな、今じゃ普通のことなんだが。



 ボトルキープ、と写真集の表紙のブルーに語る。自分のボトルを店に預けておくのだ、と。
「今はそういう時代なんだ。俺だって店で酒が飲める、と」
 それも本物の酒ばかりをな。合成なんて、今の時代じゃ何処にも無い。
 お前と酒を飲むことは滅多に無かったが…。いいモンなんだぞ、本物の酒は。
 酔っちまう所は同じだがな、と前のブルーが悪酔いしたのを思い出す。酒に弱くて、苦手だったブルー。それでも飲もうと重ねた努力。悉く無駄になっていたけれど。
(…飲めないヤツが頑張ってもなあ…)
 不味いと文句を言った挙句に悪酔いなんだ、と苦笑い。そうなっても懲りなかったんだが、と。
 ブルーは全く飲めなかったから、ゼルやヒルマンと飲んでいた酒。飲みたい気分になったなら。
 彼らとグラスを傾けた酒は、最初の頃には本物だった。
 ウイスキーもラムも、ブランデーもワインも、正真正銘、本物の酒。前のブルーが奪った物資に酒が混じっていた時は。
 白い鯨になった後には、もう合成の酒しか無かった。自給自足で生きてゆく船では、酒を仕込む余裕が無かったから。酒に回せるだけの収穫、それを得られはしなかったから。



 どれも合成だったんだっけな、と過ぎ去った時の彼方を思う。
 今はこうして本物の酒で、ブルーのためにも注いでやっているけれど。俺の秘蔵の酒なんだ、と持って来たけれど、前の自分の酒は違った。同じ秘蔵でも合成ばかり。
 白いシャングリラが出来た後には。…前のブルーと恋人同士になった頃には。
「なあ、ブルー。…今の時代は、酒と言ったら本物ばかりで…」
 本物だからこそ、酒のラベルのコレクターだっているんだが…。アルバムに貼っているんだが。
 前の俺たちだと、ラベルを集めてみたってなあ…?
 粋なコレクションにはなりそうもないな、第一、ラベルが無かったから。
 合成の酒にラベルなんかは…、とウイスキーのボトルを指で弾いて、気が付いた。秘蔵の酒にもラベルが貼られているのだけれども、それを目にして思い出したこと。
 そうじゃなかった、と。前の自分も同じにラベルを見ていたのだと。
「…違うな、俺が間違えちまってた。ずいぶん昔になっちまったから…」
 今の俺の目が見て来たものも多いから。…酒にしたって、何にしたって。
 シャングリラにもあったんだっけな、酒のラベルというヤツは。
 合成の酒でもかまうもんか、とゼルたちが作っていやがった。…色々なのを。
 それにコレクションだってしてたんだっけな、あいつらは。
 ゼルとヒルマン、あの二人は酒が好きだった上に、酒のラベルのコレクターでもあったんだ…。



 懐かしいな、と細めた目。遠い昔の飲み友達。あいつらがラベルを集めていた、と。
 前のブルーが奪った酒。人類の輸送船から様々な物資を奪うついでに、本物の酒も奪って来た。たまたまだったり、「丁度あったから」と酒入りのコンテナを狙って奪い取ったり。
 本物の酒を何本も飲んでいる内に、いつの間にやら始まっていたラベルのコレクション。
 最初は偶然、手に入れた高級なワインから。
 ヒルマンが調べて、「これは滅多に無いワインだよ」と記念にラベルを剥がしておいた。二度とお目にはかかれないだろうし、飲んだ記念にするのだと。
(…あれが始まりで、その後だって…)
 高級品に出会った時やら、美味しかったと思えた酒。
 そういう酒をすっかり飲んでしまったら、ゼルもヒルマンもラベルを残した。「記念品だ」と。
 専用のアルバムに貼っていたラベル。「こんなにあるぞ」と自慢していた。
 白い鯨が出来上がった後は、もう増えなかったコレクション。本物の酒は無くなったから。
 けれども、こだわりたかったゼルとヒルマン。
 酒のラベルのコレクターとしては、酒が入っただけの瓶など、許せるものではなかったらしい。酒はそれらしい姿でないと、と注文をつけたボトルの形。「こういうのがいい」と。
 合成ラムやウイスキーなど、どれも専用のボトルが出来た。形だけで区別がつくように。
 そして大切なのが酒の素性を表すラベルで、合成品でもラムはラム。ブランデーだって。
(あいつら、ラベルにもこだわったんだ…)
 本物の酒があった時代に、彼らが集めたコレクション。幾つもアルバムに貼られたラベル。
 それを元にして作られたラベル。合成品でも本物らしい味わいを、と。



 白いシャングリラで作り出された、合成品の酒と専用のボトル。きちんとラベルを貼り付けて。酒が飲めない者が見たって、一目で中身が分かる瓶。ラムだとか、ウイスキーだとか。
 初めの間は、その程度で済んでいたラベル。中身が分かれば充分だろう、と。
 ところが船で長く暮らして、余裕が出来たら変わって来た。同じ酒なら、もっと楽しくと。同じ飲むなら味わい深くと、気分だけでも豊かにやろう、と。
 ヒルマンとゼルはラベルに凝った。本物の酒があった時代は、ラベルのコレクターだったから。
 どうせやるなら、とデータベースから引き出して来た、高級な酒のラベルのデータ。
 それをそっくり真似て印刷、ボトルにペタリと貼ったのが彼ら。
「中身は合成だってのに…。どれを飲んでも同じ味しかしないってのに…」
 いろんな銘柄にしてしまいやがった、ウイスキーもラムも、ブランデーもな。
 ワインの方だと、何年ものだ、とラベルを貼るんだ。作ったばかりのワインにだって。
 数え切れないほどの銘酒をせっせと捏造していたわけだが、覚えているか?
 今のお前はどうだろうなあ…。
 酒どころじゃないチビのお前が、ラベルまで覚えているのかどうか…。
 この続きはあいつと話すとするか、と瞑った片目。
 今のお前も酒は駄目だし、飲める年でもないんだがな、と。
「…というわけで、続きは明日だ。今のお前に話してやろう」
 楽しみにしてろ、明日になるのを。酒のラベルの話なんだし、お前とも縁が無さそうだがな。
 おやすみ、ブルー。
 いい夢を見ろよ、と引き出しに仕舞った写真集。自分の日記を上掛け代わりに被せてやって。
 それが済んだら、ブルーの分にと注いだ酒も飲み干した。「美味いんだがな」と。
 こんなに美味い酒が飲めないのがブルーなわけで…、とクックッと笑う。
 前のブルーも飲めなかったけれど、今度のブルーも酒は恐らく駄目だろうから。
 明日はブルーに酒のラベルの話をたっぷり聞かせてやろう。土曜日なのだし、朝から出掛けて。
 のんびり二人でお茶を飲みながら、白いシャングリラの思い出話を。



 次の日の朝も、酒のラベルの話は覚えていたけれど。小さなブルーに話すつもりだけれど。
(酒は持っては行けないしな…)
 十四歳にしかならないブルーに、酒を飲ませるわけにはいかない。酒を飲むなら二十歳から、というのが今の時代のルールだから。
 話だけだ、と歩いて出掛けたブルーの家。朝食を済ませて、丁度いい時間に着くように。
 ブルーの部屋に案内されて、テーブルを挟んで向かい合わせ。早速、ブルーに問い掛けてみた。
「お前、シャングリラの酒を覚えているか?」
 白い鯨になった後だな、本物の酒が無かった時代。…酒と言ったら合成ばかりで。
「お酒って…。いつも悪酔いしてたけど?」
 ハーレイが美味しそうに飲むから、美味しいのかな、って分けて貰って。
 だけど、美味しくないんだよ。それに、飲んだら胸やけがしたり、頭がとても痛くなったり…。
 あんなのの何処が美味しいんだろうね、今でも分からないんだけれど…。
 変な飲み物、とブルーが唇を尖らせるから。
「悪酔いなあ…。他には?」
 お前が酒が苦手だったというのは、俺もハッキリ覚えているが…。
 他には何か覚えていないか、あの船の酒。
「…乾杯のワインをハーレイに飲んで貰っていたよ」
 新年のお祝いに飲むワイン。…あれだけは本物だったよね。ちゃんとブドウの実から作って。
 でも、本物でも、ぼくには同じ。飲んだら酔っ払ってしまうだけ。
 だから一口飲んだ後には、いつもハーレイに渡していたよ。
「その程度か…」
 覚えてるのは、悪酔いするってことだけか…。ワインの話も悪酔い絡みなんだし。
「どうしたの?」
 他に何かあるの、お酒のことで?
 ぼくが忘れてしまってる話、ハーレイ、何か思い出したの…?



 なあに、と小さなブルーが訊くから、「まあな」と浮かべてみせた笑み。
「ラベル、覚えていないかと…。酒のラベルだ」
 酒の瓶にはラベルがあるだろ、今のお前は知ってる筈だぞ。…お父さんだって飲むんだから。
「…ラベル?」
 瓶に貼ってあるヤツのことだよね、ウイスキーとか、ワインとか…。
 いろんな模様がついているけど、お酒のラベルがどうかしたの?
「そのラベル…。白い鯨になったシャングリラじゃ、色々とデッチ上げていたんだが…?」
 ゼルとヒルマンがやっていたんだ、あいつらは酒好きだったから…。
 本物の酒があった時代は、酒のラベルをコレクションしていたほどだったしな。
 その時代に培った知識と言ったら聞こえはいいが…。そいつを悪用していたとも言う。
 合成の酒に上等な酒のラベルを貼るんだ、データベースから引き出した情報を元に印刷してな。
 それだけじゃないぞ、作ったばかりのワインのボトルに何年ものだ、というヤツをだな…。
 貼っちまうんだ、と話してやったら、「あったっけね…!」と煌めいたブルーの瞳。
「思い出したよ、ワインのボトル。…乾杯用だった赤ワイン…」
 古いワインほど、上等なワインになるんだっけ?
 それに、美味しいワインが出来た年のも、とてもいいワインってことだったよね。
「うむ。今の時代は当然そうだが、あの頃もそうだったんだろう」
 ヒルマンたちがそう言ってたしな、「長く寝かせておいたワインは美味いものだ」と。
 それからワインの当たり年。…あんな時代に、本物の当たり年があったかどうかは怪しいが…。
 今の時代なら、もう間違いなく本物の当たり年だがな。
 美味いブドウがドッサリ実って、最高の時期にいい天気が続いて、上手い具合に収穫出来て。
 そいつを使ってワインを仕込めば、極上のワインが出来るってわけだ。
 当たり年というのは、そういうモンだし…。
 前の俺たちが生きた時代の当たり年ってヤツは、今から見たならお粗末だろうさ。
 テラフォーミングが一番進んでいたノアですらも、最高のブドウは育たなかったんだろうしな。



 今とは事情がまるで違うぞ、と教えてやった当たり年。美味しさが違ったろうワイン。
 けれども、当たり年というのはあった。人類の世界には存在していた当たり年のワイン。それを何年も寝かせたワインも、当たり年でなくても長く寝かせて味わい深くなったワインも。
 ゼルとヒルマンは、それらを真似た。シャングリラで作った本物のワインに貼るラベル。
 たった一年しか寝かせていないワインのボトルに、古い年号。当たり年やら、長く寝かせてあるワインなのだと偽って。
 真っ赤な嘘のラベルだけれども、船の仲間たちも楽しみ始めた。同じワインを作るのならばと、凝るようになったラベルのデザイン。その道のプロのゼルとヒルマンの意見を聞いて。
 今年のワインに入れる年号は何にしようかと、どんなデザインのラベルがいいかと。
「あのラベル…。合成のワインのボトルにも貼ってあったよね」
 どれを見たって、何年ものとか、何年も寝かせてあるだとか…。嘘ばっかり。
 面白かったけどね、ラベルだけで美味しいワインの気分になれるなら。…他のお酒だって。
 前のぼくは飲みたくなかったけれども、お酒の好きな仲間たちなら。…前のハーレイも。
「そういうことだな。気分だけでも、ということだ」
 極上の酒のラベルが貼ってあったら、ただの瓶詰の酒よりいいだろうが。
 ゼルたちが思い付かなかったら、その可能性も高かったんだぞ。どの酒にだって同じボトルで、ラベルの代わりにシールが貼ってあるとかな。中身はコレだ、と書いてあるだけの。
「…それが美味しくないっていうのは、ぼくでも分かるよ」
 今のぼくでも分かっちゃう。…だって、ジュースを買ったりするもの。
 こういうジュース、ってワクワクするのが瓶とか缶のデザインで…。開ける前から味が楽しみ。
 もしも全部が同じデザインなら、買う時だって楽しくないよ。
 こんな味だと嬉しいよね、って瓶とか缶で想像するのに…。搾り立てとか、粒入りだとか。
「なるほどなあ…。ジュースも同じか」
 そうかもしれんな、ただのガラス瓶に詰めてあるだけのジュースじゃつまらん。
 瓶にラベルがあってこそだな、何処で育った果物を使って、何処の会社が作ってるのか。



 気分だけでも本物の酒に近付けよう、と作られていたのがシャングリラにあった偽物のラベル。合成の酒が詰まっているのに、貼ってあるラベルは本物そっくり。
「…前の俺たちの船じゃ、酒のボトルに貼る偽物のラベルは普通だったが…」
 合成品のワインにだって、当たり年のワインだと大嘘つきなラベルが貼られていたんだが…。
 そんな船でも、本物のワインは特別だったぞ。
 少しだけしか作れなかったが、乾杯用の赤ワインだけは、そりゃあ素晴らしいラベルだった。
「特別って…。何かあったっけ?」
 デザインだったら、仲間たちのアイデアを募っていたし…。
 本物のワインもそうだろうけど、デザインするのに何か約束事でもあった…?
「デザインじゃないな、それよりも後だ」
 毎年、ラベルが出来上がって来たら、お前がサインを入れていたんだ。
「え?」
 サインって…。ぼくが、ワインのラベルに?
「その通りだが?」
 保証します、とソルジャーのサイン。…他のワインとは違うんだから。
 合成でもなければ、混ぜ物も無しの本物のワインだったしな。それをお前が保証してた、と。
 ソルジャーのサインが入っていたなら、そのラベルつきのワインは間違いなく本物なんだ。
「やってたね…!」
 忘れちゃっていたよ、そんなこと。
 ぼくはお酒が苦手だったし、あのワインだって一口しか飲まなかったから…。



 忘れてた、とブルーがコツンと叩いた額。「頑張ってサインしてたのに」と。
 シャングリラで作られた本物のワイン、新年を迎えた時の乾杯に使われた赤ワイン。それだけで無くなってしまったけれども、ボトルは一本だけではなかった。船の仲間は多いのだから。
 そのボトルに貼られていたラベル。仕込まれた年号は嘘八百が書かれていたって、中身は本物。
 きちんとブドウから作ったワインで、直ぐに分かるよう、ブルーが入れていたサイン。
 「ぼくは、お酒は飲めないのに…」と苦笑しながら、一枚ずつ。
 実際、ブルーは乾杯さえも苦手だったのだけれど、それでも毎年、サインに工夫を凝らした。
 ワインのラベルが出来て来たなら、サインを何処に入れようかと。
 デザインを損ねてしまわないように、気を付けて。時には字体を変えたりもして。
「あのラベル、人気が高かったんだぞ」
 毎年、引っ張りだこだったってな。ワインのボトルが空になった後は。
「人気って…。誰に?」
 本当に本物のワインだったし、お酒が好きだった仲間たちかな?
 ゼルたちみたいに、本物のワインのラベルをコレクションしてた人が多かったとか…?
「そういうヤツらもいたんだろうが…。欲しかったのかもしれないが…」
 とても言い出せなかっただろうな、ライバル多数というヤツだから。…それも強いのが大勢だ。
 同じ酒好きなら、勝負のしようもあっただろうが…。欲しいと声も上げただろうが…。
 生憎と、あれを欲しがってたのは、ゼルたちじゃなくて、女性陣だったんだ。
 なにしろ、ソルジャーのサインだからなあ、船の女性たちの憧れの。
 そいつが入ったラベルなんだし、欲しい女性が列を成すってな。
 酒好きの男がウッカリ混ざろうもんなら、もうジロジロと見られたろうさ。
 いったい何しに来やがったんだ、と冷たい目で。ただの酒好きは引っ込んでろ、とな。



 前のブルーのサインのお蔭で、絶大な人気を誇っていたのが本物のワインに貼られたラベル。
 それを求めて船の女性たちが集まるけれども、全員の分があるわけがないし、奪い合い。
 新年を祝った乾杯の後は、希望者が厨房に押し掛けて。
 空になったボトルから剥がされるラベル、それを一枚貰いたいからと、クジ引きなどで。
 小さなブルーは、案の定、騒ぎを知らなかったらしい。赤い瞳をキョトンと見開いて…。
「そうだったんだ…。ワインのラベルなんかでクジ引き…」
 お酒好きの男の人たちが貰えないほど、女の人たちが押し掛けてたなんて知らなかったよ。
 ワインのラベルを取り合わなくても、サインくらいなら、いくらでもしてあげたのに…。
 ぼくに「お願い」って言ってくれたら、ちゃんとサインをしてあげたのに…。
「お前、全く分かっていないな。…なんでラベルの奪い合いなのか」
 前のお前はソルジャーなんだぞ、雲の上みたいな存在だ。…デカイ青の間で暮らしてるような。
 それを捕まえて頼めるか、おい?
 サインして下さい、と言える勇気を出せるような女性がいたと思うか…?
「…難しいかもね…」
 ぼくに薔薇のジャムをくれてた人たちも、直接、届けに来なかったから…。
 試食用のは持って来たけど、その後はずっと、部屋付きの係に渡してたから…。
 サインを頼むのは難しそうだね、ぼくは気にしなかったのに…。



 いくらでも書いてあげたのに、と小さなブルーは言うのだけれども、前のブルーも同じだったと思うけれども。…ソルジャー・ブルーは雲の上の人で、誰もサインは頼めなかった。
 そんなわけだから、前のブルーのサインを手に入れるための、唯一の手段がワインのラベル。
 本物のワインにだけ貼られるラベルで、本物の証にソルジャーのサインが添えられたから。
 前のブルーに憧れていた船の女性たちは、ワインのラベルのコレクションを作っていた。
 自分だけの小さなコレクション。そっと眺めて楽しむもの。
 けして全部は揃わないのに。
 船で作られていた本物のワイン、その数よりも多かったのがラベルを欲しがる女性たち。いくら頑張ってクジを引いても、毎年の分は手に入らない。外れてしまう年の方が多くて、貰えない。
 分かっていたって、彼女たちが続けたコレクション。
 運よく手に入れた年のラベルを、アルバムにペタリと貼り付けて。
 ラベルに刷られた偽の年号、それとは別に、本当の年号を多分、アルバムに書き入れて。
 毎年の分が揃わなくても、揃えられるような強運の女性がいなくても。
 一枚だけでもラベルがあったら、充分に宝物だから。前のブルーのサインが入った、最高の宝物だったのだから。



 コレクターだった女性たちが作ったアルバム、それを目にする機会は無かった。酒好きの仲間は集めたラベルを披露したがるものだけれども、あくまで同好の士が相手。
 それと同じで、女性たちの場合も、見せ合う相手はコレクター仲間。自分のアルバムには欠けているラベル、それを羨んだり、求められて自分のラベルを見せたり。
「前のお前がサインしたラベル…。剥がされた後は、見てないな…」
 女性陣に仕舞い込まれてしまって、俺の前には出て来なかった。アルバムはあった筈なんだが。
 ついでに前のお前と違って、俺の方のサインは誰も集めちゃいなかったな…。
「ハーレイ、人気が無かったものね…。女の人には」
 ぼくには信じられないけれども、薔薇のジャムも薔薇も似合わないとか言っちゃって…。
 ハーレイだってカッコいいのに、誰も分かってくれないんだよ。
「そうなんだよなあ、女性には全くモテなかったな」
 俺のサインがあったとしたって、集めちゃくれなかっただろう。
 それに本物の酒は、あのワインしか無かったし…。
 キャプテンがサインして、品質を保証できるような代物は何も無かったな。シャングリラでは。
「お酒、本物が他にもあったら、ハーレイのサインもあったのにね」
 これは間違いなく本物だから、ってキャプテンのサイン。…ウイスキーとかに。
「いや、その場合もサインするのは、お前だろう」
 まるで飲めなくても、それとこれとは話が別だ。
 ソルジャーとキャプテンでは重みが違うし、其処はお前がサインしないと。
「…ハーレイに譲るよ、そっちの方は」
 ワインだったら新年を祝う乾杯用だし、大切な儀式に使うためのお酒だったけど…。
 それ以外なら、何の儀式も無いから、本物でもただの嗜好品。
 本物ですよ、っていう印があったら充分なんだし、キャプテンのサインでいいんだってば。
「そう来たか…。確かにただの酒ではあるな」
 貴重な本物の酒だってだけで、船の仲間が揃って飲むってモノでもないか…。
 キャプテンのサインで充分だろうな、酒が飲めないソルジャーを引っ張り出さなくても。



 そっちだったら誰かが集めてくれただろうか、と思ったサイン。前のブルーのサインと違って、サイン目当てではない誰か。酒好きなラベルのコレクター。
 「これは本物の酒のラベルだ」と、剥がして大切にアルバムに貼って。もしかしたら、ヒルマンたちだって。前に集めたコレクションの続きに、「これも」とペタリと貼り付けて。
 俺のサインは全く抜きで…、と考えてしまったラベルの価値。
 ソルジャーのサイン入りだった時は、酒よりも値打ちが高いのがサイン。けれどもキャプテンがサインしたなら、高くなるのは中身の価値。…本物の酒だ、と思った所で気が付いた。
 時の彼方に消えてしまったワインのラベル。…前のブルーがサインしたもの。
「あのラベル…。残っていたら大した値打ち物だろうな」
 たかがワインのラベルなんだが、宇宙遺産になったんじゃないか?
 年号がまるで出鱈目だろうが、デッチ上げだろうが、そんなことは気にもされないで。
「…なんで?」
 どうして宇宙遺産になるわけ、ただのワインのラベルだよ?
 それに年号だってメチャクチャ、当たり年とかを適当に刷っていただけなのに…。
「ワインの方はどうでもいいんだ、本物なんだという印の方だ」
 お前がサインしてたんだろうが、一枚一枚、きちんと自分で。…ソルジャー・ブルーと。
 其処が大事だ、前のお前のサインは残っていないんだ。…ただの一つも。
 俺の日誌は残っているがな、超一級の歴史資料にされちまって。
「本当だ…!」
 ソルジャー・ブルーのサインです、っていうのは聞いたこと無いよ。
 ホントに何処にも残っていないね、あったら宇宙遺産かも…。
 ワインのラベルに書いたサインでも、それが残っていたんなら。…誰かが残しておいたんなら。



 だけど残っていないみたい、とブルーは暫く考え込んで。
「えーっと…。宇宙遺産は無理だけれども、今のぼくが書けばいいのかな?」
 きっとサインは同じだろうから、今のぼくがサイン。…ソルジャーは抜きで。
「サインって…。どうするんだ、何にサインするんだ?」
 ソルジャーは抜きでサインだなんて、と尋ねたら。
「いつかね、ハーレイとお酒を飲んだら、その記念に」
 デートに行ったら、ハーレイがお酒を頼む時だってありそうだから…。
 そういう時には、ラベルを剥がして貰うんだよ。お店の人にお願いして。
 剥がしたラベルを持って帰ったら、ぼくがサインを入れるのはどう?
 今のぼくだから、値打ちは少しも無いけれど…。ただの記念にしかならないけれど。
「貰って帰るって…。お前、知ってるのか、そのサービスを?」
「サービスって?」
「酒のラベルをくれるってヤツだ」
 店で頼めば、ラベルを剥がして貰えるってな。…その日に飲んだ酒の記念に。
「知らないよ?」
 ぼくはお酒は飲めないから…。興味も無いから、そんなの初耳。
「だろうな…。お前が知っているわけがないな」
 酒は飲めないし、まだまだチビだし、何処かで見たって忘れちまうのが関の山ってか。
 レストランでもやっているから、出会っているかもしれないがな。…忘れただけで。



 今の時代もコレクターがいて、そういうサービスをする店があるんだ、と教えてやった。
 本当の意味でのコレクターもいるし、記念日だからと貰って帰る人だって、と。
「ラベルを集める趣味は無くても、記念日は別だ、というのもあるからなあ…」
 特別な日のデートとかなら、その時に頼んだ酒のラベルを残しておこう、と。
「そうなんだ…。だったら、貰って帰らなきゃ!」
 ハーレイとのデートの記念なんだよ、ラベル、貰って帰らないと…。
 ちゃんと貰って、帰ってからぼくがサインをするよ。
 シャングリラでラベルにサインしていた頃と同じに、何処に書こうか考えたりして。
 どんなサインを入れるのがいいか、書き方とかにも工夫をして。
「いいかもなあ…」
 同じラベルのワインを飲んでも、お前が工夫をしてくれるってか。
 今日のサインは此処に入れようとか、こんな風に書いたらいいだろうか、とか。
 そいつは大いに楽しみだよなあ、アルバムも買って来ないとな。
 この日に飲んだワインなんです、と説明も添えておけるヤツ。
 お前と店で一緒に飲むならワインだろうし、俺の秘蔵の酒のラベルも貼らないと…。
 飲めないくせして、お前、絶対、強請るんだから。
 お前と二人で空けた酒には違いないから、そいつもお前のサイン入りでな。



 よろしく頼むぞ、と言ったら「うん」と頷いたブルー。「ちゃんと書くよ」と。
 ブルーは約束してくれたのだし、いつか結婚したならば。
 一緒に暮らせる時が来たなら、酒のラベルを増やしてゆこうか。
 シャングリラの女性は全てのラベルを集め損ねてしまったけれども、今の自分は出来るから。
 二人で空けたボトルの数だけ、ブルーのサインがついてくるから。
 幸せのラベルのコレクション。
 店や家で飲んだ、ブルーとの記念。
 ブルーは酒が苦手なままでも、飲めなくてもサインをくれるから。
 サインが入ったラベルを幾つも幾つもアルバムに貼って、二人で眺められるのだから…。




              記念のラベル・了


※シャングリラの女性たちに大人気だった、前のブルーのサインが入ったワインのラベル。
 今も残っていたら、宇宙遺産になっていた筈。今のブルーのサインは、ハーレイとの記念に。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
  ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








PR

(あれ?)
 なあに、とブルーが目を留めたもの。学校から帰るバスの窓から。
 お気に入りの席が空いていたから、其処に座って外を眺めていたのだけれど。普段は見掛けないそれに、直ぐに気付いた。いつもと違う、と。
(行列…?)
 大勢の人が歩道に行列。並んで歩いているわけではなくて、止まった行列。子供連れの女性や、普段着の男性、どういう目的で集まったのかが分からない群れ。
 しかも行列はパン屋の前から始まっているようで、其処から長く伸びているから…。
(なんで?)
 どうしてパン屋に行列なのか。新しく出来たパン屋ではないし、行列を見たことも無い。バスで通る時間はいつも殆ど変わらないから、行列が出来るなら、何度も見ている筈なのに。
(このバス、いつも乗ってるバスだよ…?)
 だけど行列なんか知らない、と首を捻っていたら、パン屋の前で止まったバス。信号のせいで。赤信号の間は動かない。今の間、と見詰めた列の先頭、時間が書かれたプラカード。
(焼き上がりの時間…!)
 店員が高く掲げたプラカードには、今から少し後の時間が大きく書いてある。オーブンで焼いているパンが出て来る時間で、「もう少しお待ち下さい」とも。
 店の張り紙もよく見えた。目立つ所に貼ってあったし、その前に行列は無かったから。
 今日だけ特別、最高の材料を使って焼かれる食パン。店主のこだわり。
 それを求めて焼き上がる前から長い行列、予約は取っていないから。買いたい人は焼き上がりを待って、店に入るしかないのだから。



 他のパンたちも売られているから、行列とは別に入っていく人もいたけれど。見ている前で一人扉をくぐったけれども、他の人たちはズラリと行列。
 通行の邪魔にならないようにと、歩道の端に一列に立って。また一人、列の最後に並んで、その分だけ長くなった行列。きっとまだまだ伸びるのだろう。
(最後の人、ちゃんと買えるかな…)
 今日だけの特別な食パンを。列に並んで、焼き上がりを待って。
 プラカードを持った店員が立っているほどなのだし、整理をするだろうけれど。行列がどんどん伸びていったら、店の中から応援が来て。
 列に並んだ人を数えて、焼けるパンの数と照らし合わせて、列の最後尾に見張りに立つ。やって来る人の数に応じて、「此処までです」と終わらせる列。
 「食パンはもうありませんので、此処で販売終了です」と。
 そしたら伸びなくなる行列。後は短くなってゆくだけ。食パンがオーブンから出されて来たら、前の人から順に買っては、家に帰ってゆくのだから。
(買いに来たのに締め切られちゃったら、残念だけど…)
 ガッカリするしかなさそうだけれど、ちゃんと間に合って列に並べたら幸せだろう。オーブンの中の食パンが焼けるのを待つ行列。「もうすぐかな」と時計を見ながら。
 焼き上がりの時間になった後にも、後ろの方だと直ぐには買えない。前の人から順番だから。
 最後の方だと、どのくらい待つことになるのか分からないけれど、幸せなのに違いない。歩道に並んで待たされたって、目的の食パンを買って食べられるのだから。
 行列しただけの甲斐はあった、と抱えて帰る、こだわりの食パンが入った袋。宝物のように。
(美味しいのかな?)
 あんなに大勢並ぶんだもの、と気になる行列。焼き上がりの時間は、まだ来ない。
 バスの方が先に動き始めたから、行列もパン屋も、遠ざかって見えなくなったけれども…。



 家に帰って制服を脱いで、ダイニングに出掛けて、おやつの時間。
 母が用意してくれたケーキと紅茶を味わう間に、ふと思い出した行列のこと。パン屋の前の。
 大勢が行列していたわけだし、もしかしたら…。
(パン屋さんの広告…)
 あったのかな、と今日のチラシを引っ張り出して来て、端から調べた。けれど、チラシは入っていない。それなら新聞の方だろうか、と広げてチェックしていたら…。
「どうしたの、ブルー?」
 新聞は分かるけど、何故チラシなの、と入って来た母。「何か欲しいの?」と。
「違うよ、ちょっと調べ物…。今日の帰りに…」
 バスの窓から見えたんだよ。パン屋さんの前に凄い行列。
 だからチラシが入っていたのか、新聞の記事に出ていたのかな、って…。
「ああ、パン屋さんね。バスが通る道の」
 これでしょう、と母が棚から持って来たチラシ。他のチラシとは違う場所から。
 テーブルに置かれたチラシは、確かにさっきのパン屋のもの。「食パン」の文字が躍っている。
「このチラシ…。なんで取ってあるの?」
「買いに行こうと思ったからよ」
 決まってるでしょう、そうでなければ他のチラシと一緒の所に入れておくわよ。
「でも、食パン…。今日だけだよ?」
 今日だけ特別って書いてあったよ、だから行列だったんだもの。
「それがね…。明日もあるのよ、ほら」
 ちゃんとよく見て。特別は二回、今日と明日とで、時間にしたら丸一日というわけね。



 母が指差す所を読んだら、本当にそう。こだわりの食パンが売られる期間は丸一日。今日は午後から、明日は午前中。買いに来る人の都合もあるから、午後だけの日と、午前中の日と。
 今日の午後だと、母は買いには出掛けられない。一人息子が帰る時間に留守になるから。
 それで明日、息子が学校に行っている間に、買いに行こうというのが母の計画。食パンが焼ける時間に間に合うように、早めに出掛けて行列をして。
「ホント!?」
 ママも並ぶの、あの行列に?
 それで食パンを買ってくれるの、こだわりって書いてあるけれど…。
「美味しいっていう評判なのよ。その食パンが」
 だったら、食べてみたいじゃない。行列したって、うんと美味しい食パンならね。
「そんなこと、どうして知ってるの?」
 今日だけ特別、っていうパンなのに…。あんな行列、ぼく、一回も見ていないのに…。
「前に聞いたの、ご近所さんから」
 まだお店には出してないけど、とても美味しいパンがある、ってね。
 そういう評判、と母は教えてくれた。
 この家からは少し離れた、あのパン屋。御主人が焼いているのだけれども、根っからパン好き。売り物にするパンとは別に、趣味で焼いている特別なパン。材料や焼き方にこだわって。
 それをいつかは売ろうとしていて、知り合いの人たちにお裾分け。
 「お金は要らないから試食をよろしく」と渡して、「どうでしたか?」と意見を貰って。
 その段階でもう充分に美味しかった、という話。改善する所が無いくらいに。
 だから噂を聞いていた人は、誰もが待っていた発売される日。
 こだわりのパンだけに定番商品にするのは無理だけれども、いつか売られるだろうから。



 やっと完成した食パン。御主人が「売ろう」と思える味に。
 それで今日と明日との特別、次はいつになるか分からない。定番には出来ないパンだから。
 母が買いに行こうと考えるのは当然だけれど、帰り道に見掛けた長い行列。歩道にズラリと。
「…ママ、行列が凄かったよ?」
 まだ焼き上がりの時間じゃないのに、歩道に長い行列で…。見てた間にもまだ伸びてたし…。
「大丈夫よ。早めに並べば、そんなに待たなくても済むし…」
 ブルーが出掛けて、お掃除とかを済ませたら直ぐに出掛けて来るわ。
 きっと丁度いい時間だと思うの、明日の焼き上がりはこの時間でしょ。ママは早い方よ。
 一番は無理でも、二十人目までには入れるかしら、と頼もしい母。
 「美味しい食パンを楽しみにしてるといいわ」と、「明後日の朝は、その食パンね」と。
 こだわりの材料で焼いた食パンは、本当にとても美味しいらしい。母が並びに行くほどに。
(ふふっ、行列のパン…)
 バスの窓から「美味しいのかな?」と見ていた行列。そのパンを自分も食べられる。母が明日、買いに出掛けたら。行列に並んでくれたなら。
 もう楽しみでたまらないから、「ママ、頑張って並んでね!」と頼んでおいた。母なら、きっと大丈夫。早めに出掛けて列に並んで、食パンを買って帰るだろう。
 こだわりの味の食パンを。材料も焼き方も、こだわったパンを。



 ワクワクしながら帰った部屋。バスの窓から眺めた行列、特別なパンを買うための。
 明日には母が買ってくれるから、学校から戻ると「これよ」とテーブルの上に食パン入りの袋。あの店の名前が書かれた袋で、中身はとても特別なパン。今日と明日しか売られないパン。
(美味しいんだよね、売り出す前に噂になるほど)
 食パンはシンプルな基本のパンで、何も入ってはいないパン。レーズンもチーズも、胡桃などのナッツ類だって。なのに美味しいパンとなったら、相当なもの。
(そのまま食べても美味しいパンで、トーストにしても美味しくて…)
 マーマレードもバターも、きっと良く合うパンなのだろう。サンドイッチを作ってみても。
 食べるのが楽しみな、こだわりのパン。最初はそのままで齧ってみよう。何もつけないで。
 パンの持ち味を堪能したら、次は夏ミカンのマーマレード。隣町でハーレイの母が作る、太陽の光を集めた金色。
 マーマレードの瓶を届けてくれる、ハーレイにもうんと自慢したい。行列のパンを食べたなら。大勢の人が並ぶくらいに、評判のパンを食べられたなら。
(ママに頑張って貰わなくっちゃ…)
 明日は並んで貰うんだよ、と心を弾ませていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合うなり、食パンの話。
「あのね、明日は行列のパンなんだよ」
 ママが並びに行ってくれてね、食べられるのは明後日だけど…。行列の食パン。
「はあ? 行列って…」
 なんだ、そりゃ。お母さんが並ぶと言ってるんだし、行列のパンって名前じゃなさそうだが…。
 何処かにあるのか、行列しないと買えないパンが?
 俺は知らんぞ、と鳶色の瞳が瞬くから。
「えっと、ハーレイも知っていそうだけれど…」
 ぼくが乗るバスが走ってる道。…バス停からだと、ちょっと向こうになるけれど…。



 あそこ、と説明したパン屋がある場所。ハーレイも「あれか」と頷いてくれた。
「確かにあるな、パン屋が一軒。…で、あのパン屋に行列なのか?」
 行列ってヤツには見覚えが無いが、たまに行列、出来てるのか?
「ううん、初めての行列じゃないかな…。ぼくも見たこと無かったから」
 今日とね、明日だけなんだって。…こだわりの食パンを売るんだよ。御主人の自慢の。
 前から試作していたらしくて、その時から美味しかったんだって。
 材料にも焼き方にもこだわったパンで、定番商品にするのは難しいから、今日と明日だけ。
 今日は午後から売ったけれども、明日は午前中に売って、丸一日だけの特別なんだよ。
「ほほう…。明日も売るのか、午前中に」
 今日の分はとっくに売れた後だったんだろうな、俺が車で通った時には行列はもう無かったし。
 いつもと変わらん景色ってヤツで、何も気が付かずに走って来たが…。
 そういうことなら、俺も行くかな。…明日の午前中に。
「え?」
「丁度、空き時間ではあるんだ、うん。明日の午前なら」
 何時からなんだ、売り出す時間。…まあ、何時でもかまわんわけだが…。空き時間だしな。
「ハーレイも行くの!?」
 学校から出て、パン屋さんまで?
 食パンを買いに出掛けて行列をするの、あんな所で…?
「悪いか、美味いパンだと聞いたんだぞ?」
 それも試作の段階で。そいつが完成したとなったら、並ぶだけの価値は充分にある。
 並びに行ける時間もあるから、是非とも買いに行かないとな。
「そういうものなの?」
 授業が無い間に、わざわざ行列…。食パンを買いに…?
「聞いたのも何かの縁だってな。で、何時だ?」
 焼き上がるっていう時間だ、時間。それを教えて貰わんと…。並ぶ都合があるだろうが。



 何時なんだ、と尋ねられたから、答えた時間。ハーレイは「よし」と手帳に書いた。
「これより早めに行くことにしよう。俺の授業は無いんだから」
 パン屋の前で並んでいたって、他の先生たちも文句は言わん。羨ましがられる程度だな。他にも誰か出掛けるかもなあ、パン好きがいれば。
 でもって、明日はパンを買いに行って、お前のお母さんに会うかもしれんぞ。
 上手い具合に行列の中で会えるようなら、お前の話でもしてくるか。…並んでる間に。
「いいな、ママ…。ハーレイと行列…」
 お喋りしながら行列なんでしょ、焼き上がったパンが売られるまでは?
 売り始めた後も、順番が来るまでハーレイと一緒…。ぼくも並びに行きたいよ…。
「こらこら、お前は授業中だろ」
 生徒は学校を抜けられやしないぞ、教師とは立場が違うんだから。
 学校をサボッて並ぶのも無しだ。具合が悪くて欠席したなら、行列どころじゃないからな。
「そうだけど…。それは分かっているんだけれど…」
 ママはハーレイと並ぶのかも、って考えたら、とても羨ましくて…。
 ぼくも行列、してみたいよ。ハーレイと一緒に列に並んで。
「やる予定だろ、そりゃあとんでもなく長い行列で」
 博物館のヤツだ、宇宙遺産になっちまった俺のナキネズミの特別公開。…今はウサギだが。
 普段はレプリカの木彫りだからなあ、本物は百年に一度だけしか見られないわけで…。
 アレを見るための行列、建物をグルリと取り巻くと教えてやっただろ?
 一番乗りを目指して、何日も前から並ぶヤツらもいるほどで…。
「その行列は、ずっと先じゃない!」
 五十年ほど前に公開したから、まだそれくらいかかるんだよ!
 木彫りのウサギを見に行く行列、五十年も待たなきゃ駄目なんだから…!



 もっと早くに行列したいよ、と気が長すぎる恋人を睨み付けた。五十年なんて酷すぎる、と。
「ハーレイと一緒に並びたいのに…。明日だって並びたいくらいなのに!」
 学校のある日じゃなかったんなら、ママと一緒に出掛けて行って。
 ママも一緒でかまわないから、ハーレイと行列したかったよ…。
「お前なあ…。そうなっちまったら、怒り出すくせに」
 学校が無いなら休日ってことで、俺は午前中からお前の家に来るんだが?
 そうする代わりに、パン屋に並びに行くんだぞ。…ちょっと遅れる、と連絡を入れて。
 お前、それでもかまわないのか、俺と二人でお茶を飲む代わりにパン屋で行列。
 ついでに、お前のお母さんまで一緒に並んでるんだし、二人きりで話せやしないんだが…?
「…そっかあ…。そうなっちゃうね…」
 ハーレイと行列は出来るけれども、ママと三人の時間になっちゃう…。お休みの日に…。
 パンを買った後も、家まで帰って来る道はずっと、ママとハーレイとぼくの三人だよね…。
「やっと分かったか。…お前、目先のことしか考えていないな」
 俺と行列しようってトコだけ。これなら出来る、と思った途端にパン屋の行列と来たもんだ。
 なにもパン屋にこだわらなくても、行列のチャンスは幾らでもあるさ。
 宇宙遺産の木彫りのウサギは、流石にちょいと遠すぎる未来の話ってことになるんだが…。
 他にも行列は幾つも出来るし、並びたいなら並び放題だろうが、お前。
 なんたって、お前、前のお前じゃないんだから。
「…前のぼく?」
 どうして、前のぼくっていうことになるの?
 行列なんでしょ、前のぼくと行列、繋がりそうにないんだけれど…?
「お前、忘れてしまったのか…。前のお前の夢だったのに」
 シャングリラで行列、お前、やりたがっていたろうが。
 他のヤツらは並んでいるのに、お前は行列したくても出来なかったから…。
「ああ…!」
 そうだったっけ、前のぼく、並べなかったっけ…。
 行列だよね、って並びたくても、目の前で行列、消えちゃったんだよ…。



 思い出した、と蘇って来た遠い遠い記憶。前の自分が夢見た行列、皆と一緒に並ぶこと。
 遠く遥かな時の彼方で、前の自分が生きていた船。ミュウたちの箱舟だった船。
 楽園という名のシャングリラで出来た、色々な行列。大勢の仲間たちが並んでいた。順番が来るまで、列を作って。
 食事の時にも出来たけれども、それとは別にあった行列。新作のお菓子が配られる時とか、味の感想を聞きたいからと試食する仲間を募る時とか。
 数は充分あるのだけれども、早く欲しいから出来る行列。噂を聞き付けた仲間が並んで。
 自分の順番が回って来るまで、誰もが並んで待っていた。列が伸びても、なかなか前に進まない時も。「遅い」と文句を言いもしないで、それは楽しそうに、幸せそうに。
 けれど、ソルジャーだった前の自分は…。
「ぼく、行列に並べなくなってしまったんだよ…!」
 行列があっても、いつ見付けても。…ぼくは絶対、並べないんだよ…!
「ソルジャーになっちまった後ではなあ…」
 リーダーだった間は、ちゃんと並べていたのにな。…みんなが行列していた時は。
 しかし、ソルジャーは駄目だった。船で一番偉いわけだし、並ばせるわけにはいかんだろうが。
「行列は並ぶためのものじゃない!」
 順番が来るまで待つためのもので、待ってる間も楽しいんだよ。まだなのかな、って。
 前に並んでる仲間を数えて、「もうすぐだよね」って嬉しくなったり。
 それが行列だったのに…。並ぶのも待つのも、素敵な時間だったのに…。



 ぼくも並びたい、と何度も言ったのに。行列に並びたかったのに。
 新作のお菓子や試食用の料理、そういったものを求めて出来る行列。幸せそうな仲間たちの列、其処に加わりたかったのに…。
 並んでみよう、と出掛けて行ったら、目の前で消えてしまう行列。
 正確に言えば、列はそのままあると言うのに、そっくり移動したようなもの。前の自分が行列を見付けて並んだ途端に、サッと真横に。
 「ソルジャーはお先にいらして下さい」と、順番を譲った仲間たち。「前へどうぞ」と一番前の順番を。行列の先頭に立てる権利を。
 列はあっても無いのと同じで、一番前に行くしか無かった。何人の仲間が並んでいても。行列の一番最後に並べば、かなり待たされそうな時でも。
 いつでも消えてしまった行列。…ソルジャーだから、というだけで。
 白いシャングリラでも、白い鯨になるよりも前の船の時にも。
 並びたくても行列は無くて、仲間たちが行列していただけ。前の自分が一番先に入った分だけ、伸びてしまった行列を。順番が来るまで、待つための列を。
 「新作のお菓子は、どんな味だろう」とか、「試食用の料理が楽しみだ」などと語らいながら。
 先に受け取った仲間たちを呼んで、「美味いか?」と訊いてみたりもして。



 いつも賑やかだった行列。楽しそうだった仲間たち。待ち時間が長くなっていたって、列が長くなっていったって。
 「ちょっと遅すぎたか」と苦笑しながら、最後尾に並んでいた仲間。「遅いからだ」と笑う声も聞こえた、前の方から。「もっと早くに来れば、此処だったぞ」と。
 並び損ねてしまった行列。…行く度に消えた、仲間たちと一緒に並ぶ夢。ソルジャーだった前の自分は、順番を譲られてしまうから。「どうぞ」と列の一番前が空いてしまうから。
「…ソルジャーになる前は、ぼくだって列に並べたのに…」
 行列があったら、一番後ろに並んでそのまま待てたのに…。ぼくの順番が来るまでの間。
 ぼくの後ろに並ぶ人もいたけど、前の人も並んだままだったよ。…ぼくがいたって。
「そうだったよなあ…。俺と一緒に並んだりな」
 二人でいた時に列を見付けたら、並びに行ったもんだった。「何の列だ?」って訊きながらな。
「うん、順番を取ったりもして…」
 行列が出来るって分かってた時で、二人一緒じゃなかった時。
 ぼく、ハーレイの代わりに並んでいたっけ、「並んでるから早く来て」って思念を飛ばして。
 おやつの時にも、試食の時も…、と懐かしく思い出す光景。
 列があったら、「二人分だよ」と言いながら並んだ前の自分。行列の一番最後の場所に。
 「ハーレイが後から来るんだから」と、二人分の順番を待っていた。ハーレイが来るまで、一人並んで。後ろに誰かがやって来たなら、「ぼくは一人で二人分だよ」と説明をして。
 そのハーレイが順番を取っていてくれたこともあった。「早く来いよ」と飛んで来た思念。
 初めから二人で出掛けたことも、何回だって。
 新作のお菓子や試食の情報、それを二人で聞き付けて。並びに行こうと、誘い合って。



 ハーレイと二人で並んでいたのに、消えてしまった素敵な時間。順番が回って来るまでの間に、色々話して、「まだかな?」と伸び上がったりもして。
 あの行列が好きだったのに。…とても幸せな待ち時間だったのに。
「行列…。前のぼくだけは行列が駄目で、ホントにぼくだけ…」
 ハーレイは行列してたのに…。キャプテンだって、偉かったのに。
 ソルジャーの次に偉い立場だったよ、キャプテンは。…だから、恋人同士だったことも秘密。
 でも、ハーレイは並べたんだよ、みんなと一緒に行列をして。
「エラたちだって並んでいただろ」
 ゼルもブラウも、ヒルマンもだ。…フィシスは行列に来ちゃいなかったが…。
 もしもフィシスが並んだとしても、行列は消えなかっただろう。俺やゼルも並んだんだから。
 前のお前だけだ、いわゆる特別扱いってヤツは。
「それはそうだけど…。そうなんだけれど…」
 ハーレイだって並べた行列、どうしてぼくだけ駄目だったの?
「お前が自分で言ってる通りに、ソルジャーだったからだ」
 船で一番偉いわけだし、そのソルジャーを並ばせるような仲間は一人もいないってな。
 順番をサッと譲ってこそだぞ、あのシャングリラの仲間だったら。
 それに俺はだ、キャプテンってトコが重要なんだ。…シャングリラという船のキャプテンだぞ?
 キャプテンは船の仲間たちを優先しなければならん。自分のことを考えるよりも前に。
 あの船で卵を食ったのも俺が一番最後だったんだから、とハーレイが挙げた卵というもの。
 白い鯨に改造した後、シャングリラで育て始めた鶏。最初は貴重品だった卵が少しずつ増えて、皆に一個ずつ行き渡るようになった時。
 …ハーレイはようやく卵を食べた。それまで食べずに、仲間たちに譲り続けた卵を。一人に一個あるわけなのだし、ハーレイも一個、卵を食べてもいいのだから。
 長いこと貴重品だった卵。そのシャングリラ産の卵を、一番最初に食べていたのが前の自分。
 行列に並ぶ必要が無かったソルジャーだから。
 貴重な卵で栄養をつけて、強大なサイオンを維持することが大切だと皆が考えたから。



 一事が万事で、行列さえも無かったソルジャー。逆に行列していたハーレイ。
 シャングリラで飼っていた鶏の卵、それを食べたのも最初の一人と、最後の一人。船での立場は二人とも皆より上だったのに。ソルジャーの次に偉いのが、キャプテンという認識だったのに。
「前のハーレイとぼく、立場が違い過ぎだったんだよ!」
 どっちも偉い筈なのに…。ぼくばかり特別扱いをされて、ハーレイはそれほどでもなくて…。
「ソルジャーとキャプテンだったんだしな。…そんなモンだろ」
 お互いの仕事の内容からしても、妥当な扱いだと思うがな?
 前のお前は、仲間たちを導くのが仕事。精神的な支えだったし、他のヤツらと同列ではな…。
 マズイだろうが、全く同じに扱っていたら。…特別だって所を強く押し出さないと。
 逆に俺の方は、親しみやすさが必要だった。船の仲間が相談しやすい、頼れるキャプテン。船の中のことなら、何でも任せておいてくれ、とドンと構えていないとな。
 そのキャプテンが偉そうだったら、誰も相談しに来やしない。…それでは駄目だ。
 行列にだって並ばないとな、貴重な情報収集の場だぞ?
 新作の菓子や料理の評判はもちろん、船のヤツらの噂話も聞ける。列に並んでいる間にな。
 しかし、ソルジャーは全く違う立場で、俺みたいに列に並ぶわけには…。
 偉いって所だけは同じなんだがな…。そのせいで、俺とお前が恋人同士だったということも…。
「誰にも絶対言えなかったし、一緒に行列も出来なかったんだよ!」
 ハーレイと並びたかったのに…。
 ソルジャーになる前にやってたみたいに、二人で行列、したかったのに…!
 ホントに一度も出来ないままだよ、恋人同士になった後には…!
 恋人同士で並んでいたなら、もっとずっと楽しかったのに…!



 きっとそうだ、と悔しくてたまらない行列。並んで待つのが楽しい行列。
 ハーレイと恋人同士になった時には、もう行列は何処にも無かった。あったけれども、無いのと同じ。前の自分が近付いた途端、行列は消えてしまったから。ソルジャーに順番を譲ろうとして。
 もっと昔は、ハーレイと友達同士だった頃には、何度も二人で並んだのに。
 ソルジャーにされてしまうよりも前は、並ぶのが当たり前だったのに。
 二人で出掛けて列に並んだり、順番を取ったり、取って貰ったり。
 いつも二人で並んだ行列。「もうすぐかな?」と前を眺めて、貰える物に心をときめかせて。
 新作のお菓子や、試食用の料理。それを貰ったら、ハーレイと感想を語り合ったりもして。
「…恋人同士で行列、したかったんだよ…」
 みんなの前では、恋人同士だって言えなくても。…ソルジャーとキャプテンだったとしても。
 それでも二人で並べていたなら、きっと幸せだったから…。
 友達同士で並んでた頃と、同じように楽しかった筈だから…。
 二人だったら。…ハーレイと二人で行列出来たら、ホントのホントに幸せだったと思うから…。
 だけど、行列、出来ないまま。…ぼくが行ったら、行列はいつも消えてしまって。
「お前、そればっかり言ってたからなあ…」
 あれは何とか出来ないのか、と俺に相談したりして。「キャプテン権限で何とかしろ」とか。
 やたらと無茶を言ってくれたが、無理だったものは無理だったわけで…。
 青の間まで作られちまったお前だ、行列の件も諦めて貰うしかなかったってな。
 しかし、今度は出来るだろうが。…俺と行列。
 誰も「駄目だ」と言いやしないし、お前が行ったら行列が消えることだって無い。
 今度のお前はソルジャー・ブルーに似てるってだけの、俺の恋人で嫁さんなんだし。
「並べるの、うんと先だけど…」
 ぼくが大きくならないと駄目で、ハーレイとデートに行けなくちゃ駄目。
 行列が出来る所に出掛けて、ハーレイと二人で並ぶんなら。…チビのぼくでは、デートも無理。
 まだ行列には並べなくって、行列のある場所にも行ったり出来なくて…。
「それはそうだが、出来ないよりマシだ」
 いつかは俺と並べるだろうが、行列ってヤツに。…恋人同士で、手を繋いで。
 その日を楽しみに待っておくことだな、チビのお前は。
 でもって、俺は、だ…。



 明日はパン屋で行列だ、とハーレイに苛められたけど。
 「チビが学校に行ってる間に、お前のお母さんと並んでこよう」と言われたけれど。
 そのハーレイが明日はパン屋の前で行列、こだわりの食パンを買うのなら…。
(ハーレイと同じ食パンを食べられるよ…)
 今日と明日しか売られないらしい、パン屋の御主人の御自慢のパン。材料と焼き方にこだわったパンで、大勢の人が行列するパン。
 自分は行列出来ないけれども、母もハーレイも並びに行くなら、同じ食パンが手に入る。
 前の自分とハーレイが一緒に並んでいた頃、新作のお菓子や試食用の料理を貰ったように。同じ物を列に並んで手に入れ、あの船で食べていたように。
(…ぼくは並びに行けないけれども、おんなじ行列で、おんなじ食パン…)
 今はそれだけで我慢しておこう。同じ行列で手に入れたパンを、お互いの家で食べるのだから。
 自分が並びに行けない代わりに、母が並んでくれるのだから。
 その母がハーレイと行列で出会って、自分の代わりにお喋りするのは癪だけれども、仕方ない。チビの自分はデートも無理だし、今は我慢しかないのだし…。
「…ハーレイ、忘れずに並んでよ?」
 ちゃんと時間は教えたんだし、焼き上がる前にパン屋さんの前で行列してね。
 そしたら、お揃いのパンになるんだよ、ハーレイのパンも、ぼくの家のも。
 お揃いのパンで朝御飯だよ、明後日の朝は!
「そう来たか…。明後日の朝はお揃いのパンか」
 食パンらしいし、おふくろの夏ミカンのマーマレードで食うんだな?
 お揃いってことは、そこまで揃えるつもりだろ、お前?
「決まってるじゃない!」
 最初はそのままで食べてみるけど、トーストには絶対、マーマレード。
 だからハーレイもマーマレードで食べてね、ちゃんと食パンを買いに行けたら。
「よし、頑張ってくるとするかな」
 お前の夢の行列だしなあ、気合を入れて忘れずに行くさ。…食パンを買いに。
「ありがとう! ハーレイ、行列、約束だよ?」
 ママにも頑張って並んで貰うね、パンが買えるように。ハーレイに負けない時間から行って。
 もしも会ったら、お喋りは無しでいて欲しいけど…。それは無理だから、仕方ないよね…。



 ママとお喋りしたっていいよ、と渋々、認めるしかない行列。
 此処で「駄目!」と駄々をこねたら、「なら、やめておくか」と言われそうだから。ハーレイは行列をしてくれなくて、お揃いのパンが手に入らないから。
(…我慢しなくちゃ…)
 我儘を言わずに我慢したなら、明後日の朝は、きっと幸せ。
 ハーレイも母も行列に並んで、手に入れるだろう特別なパン。こだわりの材料で焼いた食パン、それがお揃いのパンになる。ハーレイの家と、自分の家と。明後日の朝は、同じ食パン。
(…夏ミカンのマーマレードを、うんとたっぷり…)
 ハーレイも同じのを食べてるんだよ、と思い浮かべながら、幸せ一杯で頬張るトースト。きっと美味しいに違いないから、ハーレイだって喜ぶだろう。
 そしていつかは、そのハーレイと二人で並ぶ。明日は並べない行列に。
 パンでも、なんでも、二人で行列。
 もう行列は消えはしないから。それに、手を繋いで恋人同士で並べるから。
 長い時間を待たされたって、二人一緒なら、幸せな時間。
 「もうすぐかな?」と伸び上がったら、「どうだかなあ?」とハーレイの声が返ったりもして。
 きっと幸せに違いないから、二人一緒に並びたい。
 どんなに長い行列でも。
 建物をぐるりと取り巻いてしまうらしい、宇宙遺産の木彫りのウサギの特別公開の行列でも…。




             並びたい行列・了


※ブルーが見付けた、パン屋の前に出来た行列。そして思い出した、前の生での行列のこと。
 前のブルーが列に並んでも、行列は消えてしまったのです。今度は、ハーレイと一緒に行列。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









(亜空間理論…)
 ハーレイが勉強してたヤツ、とブルーが眺めた新聞広告。学校から帰って、おやつの時間に。
 ふと目に留まった本のタイトル、宇宙船のパイロットを目指す人たちの必読書らしい。亜空間についての知識が無ければ、ワープなど出来はしないから。
(…前のハーレイなんだけれどね?)
 亜空間理論の本を読んでいたのは。「サッパリ分からん」とぼやきながらも。
 シャングリラのキャプテンに就任した後、操舵の練習を始めたハーレイ。厨房で料理をしていた頃とは、違う世界に飛び込んで行って。
 キャプテンには必要なことだから、と懸命に努力し続けていた。操舵は出来なくてもいいという条件付きで、選任されたキャプテンなのに。「船を纏めてくれればいい」と。
 けれどハーレイは、それで良しとはしなかった。船を動かせるキャプテンになろうと、専門書を読んでの勉強から。やがてシミュレーターでの練習、ついには実地。
 そうして出来たキャプテン・ハーレイ。誰よりも巧みにシャングリラを動かし、細かい癖だって掴んでいた。白い鯨になる前も、後も。
(こっちの本は参考書…)
 パイロット養成校での授業について行くための、何種類もの参考書たち。難解そうなタイトルが幾つも、きっと自分が読んだって…。
(分からないよね?)
 参考書に書いてある中身。参考書でも、まるで分からない筈。
 学校の成績はトップだけれども、パイロットの勉強はしていないから。義務教育の間は、学校で教えはしないから。
 亜空間理論も、他の参考書も。…日々の暮らしに必要無いから、義務教育では習わない。



 だから分からない、専門分野。パイロットになりたい人たちだけが学ぶこと。
(この辺りは、前のぼくたちが生きてた時代と同じ…)
 遠く遥かな時の彼方の、機械が支配していた時代。歴史の授業で学ぶSD体制の時代。
 あの時代でも、そうだった。最初は誰もが全く同じ教育を受ける。今の自分が通う学校、其処で教わる義務教育。
 授業の中身はSD体制の時代と全く違うけれども、どの子も同じに学ぶということ、その点では前の自分が生きた時代と変わらない。基本の教育は誰でも同じで、知識も同じ。
 けれど、その後が変わってくる。あの時代と、今の時代とでは。
(ぼくは行かないつもりだけれど…)
 義務教育を終えた後には、上の学校が待っている。其処へ行きたい子供たちのために。
 上の学校に進むのだったら、自分がやりたいことを学べる学校へ。
 どんな学校でも自由に選んで、好きなコースに入学出来る。これが前の自分の時代との違い。
(パイロットになるための学校だって…)
 卒業後の適性検査で落ちてもかまわないなら、今の自分でも志願は出来る。弱すぎる身体では、とてもなれないパイロット。適性検査で落っことされるに決まっている。
 それでも学んでみたいのだったら、入学出来るし、卒業も出来る。
 今の時代はそういう時代。
 「あなたには向いていませんから」と、門前払いは有り得ない。
 実力不足で授業についていくのは無理だ、と判断されたら入れないけれど。無理に入っても後で苦労をするだけなのだし、他の学校を勧められるけれども。



 今の自分でも入れそうな、パイロット養成校という所。入学資格は多分、あると思う。宇宙船を実際に動かすつもりもないのに、入る人たちはいるようだから。
 そういう分野を勉強したい、と入学する人。其処の出身の作家もいるような時代。本物の知識を使って書いているから、パイロットたちに大人気。本格派の宇宙小説だ、と。
(幼年学校だと、パイロットは…)
 あるのだろうか、そういう職業を目指すコースも。
 幼年学校は、子供ばかりが行く学校。人間が全てミュウになった時代ならではの子供の学校。
 義務教育を終えた後にも、心も身体も子供のままの子、そういった子が通う場所。
 専門の知識は学ぶけれども、子供でもついてゆけるようにと、ゆったり組まれたカリキュラム。休み時間を多めに取ったり、遊ぶための時間が設けてあったり。
 通う子供が困らないよう、義務教育の時代と変わらない雰囲気が売りらしいけれど…。
(勉強したい分野は色々なんだし…)
 パイロットを目指すコースもあるかもしれない。
 いつか大きく育った時には、適性検査だけで済むように。子供の身体では合格できない、受験も出来ない適性検査。それさえ受ければ、もう直ぐにだってパイロットになれる知識を、子供の間に身につけておく。幼年学校に通う間に。
(幼年学校は嫌だけどね?)
 チビのままで育たなかったとしたって、ハーレイと結婚したいから。
 十八歳になったら結婚出来る年になるから、チビの自分でもハーレイと結婚出来る筈。せっかく二人で暮らせるのだから、学校になんか行きたくはない。
 幼年学校に通いながらの結婚だなんて、絶対に御免蒙りたい。
(パパとママ、ぼくには向いてるつもりでいるんだから…)
 冗談交じりに言われもするから、チビのままだと入学手続きをされてしまいそう。学校へ下見に連れて行かれて、「此処がいいから」と入学するよう勧められて。



 それは嫌だし、早く大きくなりたいんだけど、と帰った二階の自分の部屋。
 幼年学校には入りたくないし、背丈を伸ばして早く大きくならなくちゃ、と。前の自分と同じに育てば、行かなくて済む幼年学校。子供のための学校だけに、入学資格も無くなる筈。
(幼年学校じゃなくっても…)
 他の学校でも、行きたくはない。上の学校に進むよりかは、ハーレイと結婚する方がいい。断然そっちで、とうの昔にそのつもり。「上の学校には行かないよ」と。
 これにしたって、前の自分が生きた時代との大きな違い。
 自由に選べる、この先の進路。義務教育を終えた後には、何をするかも、どう生きるかも。
(前のぼくたちの時代だったら…)
 ミュウだと判断されなかったら、成人検査をパスした子供は大人の社会に向けて旅立つ。直ぐに大人になれはしないし、そのための準備段階から。
 教育ステーションに移って、四年間、色々な専門コースの勉強をする。それが済んだら、大人の社会の仲間入り。宇宙に散らばる星へと散って。
(だけど、機械が決めてたんだよ…)
 一般人になって養父母にだとか、メンバーズだとか、研究者だとか。
 教育ステーションでの成績にも左右されるけれども、それよりも前に、何を学ぶのか。どういう勉強をしてゆくのかを、自由に選べはしなかった。
 成人検査の時に機械が調べた適性、それに応じて決められた教育ステーション。
 優秀だからメンバーズに、とエリートコースに送り込まれたり、どうやら平凡な子供らしいと、一般人向けのステーションに振り分けられたりと。
 子供時代には、誰だって夢があっただろうに。
 メンバーズ・エリートになりたいだとか、大きくなったらパイロットだとか。
 けれど、機械が決めてしまう進路。夢は無視して、適性だけで。
 パイロット希望だった子供が、一般人のコースに送られるとか。自分も子供を育ててみたい、と夢見ていた子が、メンバーズの道に送られるとか。



 希望が通りはしなかった時代。望んだ道が待っているとは限らなかったSD体制の時代。
 望み通りのコースに進んだ子供もいただろうけれど、夢が潰えた子だって沢山。そういう場合は記憶処理だってしただろう。機械にはそれが出来たのだから。
(もしも、前のぼくが成人検査をパスしていたら…)
 ミュウだと判断される代わりに、ちゃんと合格していたならば。
 どうなったのだろう、前の自分の人生は。どういう風に生きたのだろう…?
(何も覚えていなかったから…)
 子供時代の記憶をすっかり失くしていたから、望みのコースが何だったのかも分からない。前の自分が夢見たコースも、なりたいと望んでいたものも。
(ソルジャーじゃないことだけは確かだけどね?)
 今の時代も大英雄のソルジャー・ブルー。前の自分はミュウの初代の長だった。
 誰に訊いても、ソルジャー・ブルーの職業は「ソルジャー」なのだけれども、ソルジャーは船の仲間たちが名付けてしまった職業。シャングリラにいたミュウたちが。
 昔からあった仕事ではないし、それになりたい筈がない。ソルジャー以前に、ミュウにだって。
 社会から弾き出された異分子、見付かれば処分されたのがミュウ。
 そんな将来を夢見るような子供はいないし、きっと違う未来を望んでいた筈。
 ごくごく平凡に子供を育てる一般人とか、研究者だとか、技術者だとか。
(…パイロットだとか、メンバーズとかは…)
 今と同じに弱かったのだし、多分、考えてはいなかったろう。なれる筈など無いのだから。
 それでも、あった筈の夢。大人になったら、こういう風に生きていこうと。



 前の自分が望んだ道。夢見ていたのに、選ぶことさえ出来なかった道。
 いくら機械が決めた時代でも、運が良ければ、その入口に立てただろうに。ミュウにならずに、成人検査をパスしていたら。教育ステーションに入れたならば。
(前のぼくの夢…)
 何だったのかな、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事の帰りに来てくれたハーレイ。
 前のハーレイなら、将来の夢は何だったろう、と思ったから問いを投げ掛けた。お茶とお菓子が置かれたテーブル、それを挟んで向かい合わせで。
「えっとね…。ハーレイが子供だった時…。大人になったら、何になりたかったと思う?」
 どういう夢を持ってたのかな、ハーレイの将来の夢って、何?
「はあ? 何って…。俺は教師だが?」
 ガキの頃には、プロの選手を夢見たこともあったんだが…。
 教師になろうって夢もあったし、夢はきちんと叶えたぞ。お前も知ってる通り、教師だ。
「今じゃなくって、前のハーレイだよ」
 前のハーレイは何になりたかったの、成人検査を受ける前には…?
「おいおいおい…。覚えているわけがないだろう」
 今の俺の身体に生まれ変わる前から、そんなの覚えちゃいなかったぞ。
 成人検査と、その後の人体実験で記憶をすっかり奪われちまって、何もかも全部。
 前のお前もそうだったろうが、子供時代の記憶なんかは無かった筈だ。
「分かってるけど、ちょっと気になっちゃって…」
 今だと好きに選べちゃうでしょ、将来は何になりたいか、って。
 本当になれるかどうかはともかく、なろうとして頑張ることは出来るよ。それに向かって。
 だけど、前のぼくたちが生きた時代は違ったから…。
 これになりたい、って夢を持っていたって、機械が「駄目」って言ったらおしまい。



 「なりたい」と「なれる」は違った時代、と説明した遠い昔のこと。今とは違った、と。
 機械が進路を決めた時代で、個人の希望は通らなかったと。
「前のぼく、何になりたかったか、さっき考えていたんだよ」
 もちろん覚えてないけれど…。ハーレイと同じで、何も覚えていないんだけど…。
 前のぼくがなりたいと思っていたもの、ソルジャーじゃなかったことだけは確かだから…。
「そりゃそうだろうな、ソルジャーだけは有り得んな」
 ソルジャーなんて職業もそうだし、ミュウになるって未来も考えたりしない。
 前のお前の将来の夢は、まるで叶わなかったんだな。…何を夢見ていたにしたって。
「でしょ?」
 夢とは違いすぎる未来で、きっと想像もしていなかったよ。ミュウの長になる自分なんて。
 でも、前のハーレイなら、案外、パイロットになっていたのかも…。
 ミュウにならずに、成人検査をパスしていたら。
 ぼくが最初に考えてたのは、そっちなんだよ。前のぼくが成人検査をパスしていたなら、どんな未来が待っていたかな、って。
 前のぼくが何になっていたかは分からないけど、ハーレイだったらパイロット。宇宙船のね。
 成人検査で適正あり、って結果が出ちゃって、そういう教育ステーションに行って。
 シャングリラの代わりに、うんと大きな客船とかを動かすんだよ。遠く離れた星から星へ。
「どうだかなあ…。料理人かもしれないぞ」
 元は厨房出身なんだし、料理人が向いていたんじゃないか?
 パイロットよりかは、前の俺らしい職業のような気がするが…。
「料理人かあ…。その可能性も充分あるよね…」
 前のハーレイ、料理も得意だったんだし…。
 キャプテンの前は厨房だったし、料理人っていうこともあったかな…?



 そっちの道に進んだだろうか、と考えた前のハーレイの未来。成人検査をパスしていたら。
 けれど、料理人よりはパイロットの方が優れた人材。社会の役に立つ才能。
 機械が判断していたのだから、ハーレイはパイロットになっていたかもしれない。料理人よりも稀有な存在だから。誰にでも出来るものではないから。
「…ハーレイ、やっぱりパイロットになっていたんじゃないの…?」
 料理人だと思っていたって、進路は機械が決めてたんだよ?
 パイロットの才能を持っているなら、そっちに行かせてしまうんじゃない?
 料理が出来る人は沢山いるけど、パイロットになれる人は少ないし…。今の時代も少ないよ。
 だから、前のハーレイにパイロットの才能があったら、そのコースになったと思うんだけど…。
「うーむ…。まるで無いとは言い切れないな」
 俺の頭の中を探って、パイロット向きだと判断したなら、そういう教育ステーションか…。
 パイロットになるための勉強ばかりをするってわけだな、四年間も其処でみっちりと。
「それが前のハーレイの夢だったのかもしれないよ?」
 大きくなったらパイロットだ、って宙港とかで飛んで行く船を見上げてたかも…。
 その夢を知らずに叶えていたかも、シャングリラで。
 前のハーレイはキャプテンだったし、あんなに大きな船を動かしていたんだから。人類の船より遥かに大きい、鯨みたいなシャングリラを。
「いや、俺としては料理人の方だと思うがな?」
 前の俺がなりたかったものがあるとしたなら、パイロットよりは料理人だ。
「なんで?」
 どうして分かるの、パイロットじゃなくて料理人だ、って。
 記憶を全部失くしていたのに、そんなの分からないじゃない。どれがハーレイの夢だったか。
「それがそうでもないってな。…前の俺ってヤツに関しては」
 前のお前も知ってた筈だぞ、俺が厨房に入った理由。
 厨房で料理をしてるヤツらの手元を見てたら、どうにも危なっかしい気がしてなあ…。
 「貸してみろ」って入って行ったら、身体が勝手に動いちまった。こうやって、こう、と。
 料理が身体にしみついてたんだ、相当、料理をしていた筈だぞ。…前の俺はな。



 パイロットになるのが夢の子供だったら、料理に興味は無いだろう、と言われればそう。
 養父母の家でせっせと料理をしている代わりに、きっと宙港に行くだろう。宇宙に飛び立つ船を眺めに、いつか自分もあの船で宇宙を飛んでゆこうと。
「そっか…。じゃあ、前のハーレイが成人検査をパス出来ていても…」
 パイロットを育てる教育ステーションに行って勉強しなさい、って言われちゃったら…。
 夢が台無しだね、料理人になりたかったなら。…いつもお料理していたんなら。
「きっとガッカリしてたと思うぞ、なんてこった、と」
 此処じゃ料理も出来やしない、と溜息の日々というヤツだ。…周りはウキウキだろうがな。
 パイロットになれば地球にも飛んで行けるし、憧れの星に一歩近付いたんだから。
「でも、ハーレイはガッカリだよね…。料理人になりたかったんだから」
 その進路、変えられないのかな?
 途中で変えるの、あの時代だと無理だよね…。パイロットだったら、パイロット。
 大きな船を任されるのか、同じパイロットでも下っ端になるかの違いくらいで。
「そんなトコだな。一度決まったら、あくまで其処での成績次第の振り分け程度だ」
 もっとデッカイ船が良かった、と思っても、小さな輸送船の交代要員にしかなれないだとか。
 でなきゃ、勉強の成果を生かして通信士だとか、整備士だとか…。
 進路を丸ごと変えてしまうというのは、結婚以外じゃ無理だった筈だ。
 結婚するなら仕方ない、と一般人向けの教育ステーションに送ってくれるってな。
 …待てよ、その手があったんだから…。
 料理人だって、一般人向けの社会を構成出来たんだから…。



 それだ、とハーレイはポンと手を打った。結婚して料理人の養成コースに入ればいい、と。
 パイロットになるコースは向いていないから、と一般人向けのコースに切り替え、其処で一生の仕事に決めるのが料理人。元々才能はあったわけだし、なれるだろうと。
「アルテメシアにも料理人は大勢いたからな。育英都市でもレストランは人気だ」
 子連れの家族がよく行く場所だし、レストランに勤める料理人の種類も色々だってな。
 結婚しないで料理一筋のヤツもいればだ、家に帰れば子供の父親っていうのもいたし…。
 つまり、俺でも充分になれた。結婚の道を選んだ時点で、料理人の道も開けるわけだ。
「結婚って…。それで教育ステーションから出て行くだなんて…」
 出来るの、途中で変えちゃうなんて?
 パイロットになるための勉強を捨てて、一般人向けのコースに移るだなんて…。
「マザーが許してくれればな」
 パイロット向けの教育ステーションだと、どういう名前だったか俺は知らんが…。
 マザー・イライザしか知らんわけだが、似たようなのがいる筈だ。そいつが結婚の許可を出してくれれば、ステーションから出て行ける。未来の嫁さんと一緒にな。
「だけど…。前のハーレイ、キャプテン・ハーレイになっちゃえるような人材だよ?」
 凄い才能を持ってたんだし、無理なんじゃない?
 いくら結婚するって言っても、お許し、出そうにないんだけれど…。
「結婚したいと希望を出すのは、進路変更の最強の方法だったという話だが?」
 他にも方法はあっただろう。適性あり、と送り込まれても、途中で身体を壊しちまうとか…。
 そういう時には仕方ないしな、進路変更もやむをえない。
 しかし、自分の我儘を叶えてステーションから出て行くんなら、結婚だ。
 そいつが一番強かったわけだ、あの時代に自分の意志で進路を変えるんならな。



 スウェナ・ダールトンがそうだったろうが、と挙げられた例。
 前の自分は、子供時代しか知らないスウェナ。ジョミーの幼馴染だった少女。
 彼女はエリート育成のための教育ステーション、E-1077に行った。其処で幼馴染のサムと再会して、キースと出会った。いつも三人で過ごしたという。
 けれど、最後の四年目に変えてしまった進路。メンバーズを目指すエリートをやめて、一般人のためのコースへと。結婚したい相手がいたから、サムやキースに別れを告げて。
「そんなケースでも、マザー・イライザは許可を出したんだ」
 本当にスウェナの我儘ってヤツで、それ以外の何でもなかったのにな。
 才能だけなら、スウェナは充分、メンバーズになれたそうだから…。サムと違って。
「スウェナって…。あれはマザー・イライザの計算なんじゃあ…?」
 サムやシロエもそうだったんでしょ、キースの才能を開花させるためのプログラム。
 それだけのために集めた人間、スウェナもその中の一人だったわけで…。
 サムと同じで、ジョミーの幼馴染だから。
 スウェナをキースに近付けておいて、結婚で離れさせちゃうのも、きっとプログラムだよ。
「そいつは無いな。…キースと出会った方はともかく、離れた方は違うだろう」
 もしも計算していたのならば、スウェナがステーションから出て行く時に記憶を処理した。
 キースやサムと一緒にいたことは特に処理する必要もないが…。
 セキ・レイ・シロエ。…シロエの存在を記憶から消しておかんと、後々、マズイことになる。
 なにしろ、ミュウだというだけで選ばれた人間だからな、シロエというのは。
 いずれはキースに処分させようと、そのつもりだけで連れて来たんだ。あのステーションに。
 その程度の存在だったわけでだ、スウェナがシロエを忘れていたって問題はない。下級生の中の一人に過ぎんし、いつかキースと再会したって、「覚えていない」で済むことだ。
 俺がマザー・イライザの立場だったら、計算ずくでスウェナを旅立たせるなら、シロエの記憶は消しておく。特殊な存在を覚えたままだと、万一ってことがあるからな。
 現にシロエの記憶を消されないまま、スウェナがいたのが後で厄介なことになるんだから。
「そうだね…」
 スウェナがシロエを忘れていたなら、面倒は起きなかったよね…。



 前の自分がいなくなった後、ジルベスターからノアに戻ったキース。彼がスウェナから渡されたピーターパンの本。…シロエの遺品。
 もしもスウェナが、それに出会った時、シロエを覚えていなかったなら…。
「ピーターパンの本を見たって、スウェナには何の意味も無いよね」
 いったいどういう価値があるのか、キースに見せたら何が起こるか。
 …スウェナはシロエを覚えていたから、キースが処分したMのキャリアが誰だか分かった。
 シロエの名前でピンと来たから、高いお金を支払ってまで本を買い取って…。
 だけどスウェナは、シロエの本を知っていたのかな?
 ピーターパンの本を持っていたこと、知っていそうにないんだけれど…。シロエの宝物だから。
「そいつは本の持ち主の名前で分かるじゃないか」
 あの本をスウェナに売り付けたヤツも、当然、知っていたろうさ。
 「セキ・レイ・シロエ」と、シロエが自分で名前を書いておいたんだから。
 シロエって名前を聞いちまったら、もう買い取るしかないってな。…スウェナとしては。
「そうだよね…」
 キースを動揺させるためには、充分すぎる材料だよ、あれ…。
 本にはシロエのメッセージが仕込んであったんだから。キースが誰かを教える映像。
 シロエが命懸けで撮影して来た、フロア001の映像…。



 前の自分が生きた時代は、まだ伏せられていたその事実。マザー・システムが生きていたから。
 だから前のハーレイも知りはしなかった。
 セキ・レイ・シロエという少年の名前は、アルテメシアで救い損ねたミュウの子供として覚えていただけ。その後のシロエのことは知らない。彼がどう生きて、何を残したかも。
 そのシロエが撮ったフロア001の映像。それがキースに渡ったけれど。
 スウェナがシロエを忘れていたなら、そんな事件は起こらない。スウェナはピーターパンの本の価値に気付きはしないし、それを買おうとも思わないから。
 けれど、キースは映像を見た後、フロア001へ向かったわけだし…。
「…全部、マザー・イライザの計算だったかもしれないよ?」
 スウェナの記憶を消さないままでおいたこと。
 後でキースにシロエの本を渡させるように、きちんと計算したんだよ。
 だってそうでしょ、キースはシロエのメッセージを見て、フロア001に行ったんだから…。
「お前なあ…。深読みし過ぎだぞ、それは」
 いくらマザー・イライザが狡賢くても、相手は紙の本なんだ。…ピーターパンの本は。
 そいつがレーザー砲で撃たれた後まで残って、回収されるなんてことは普通なのか?
 どう考えても、計算ずくでは有り得ないってな。
 しかも宇宙海軍を退役しちまうような、飲んだくれの男がコッソリ隠したままだたったなんて。
 そんな所までコントロール出来ると思っているのか、マザー・イライザが?
「…無理そうだね…」
 シロエの本が残っていたのもそうだし、回収した人が退役しちゃうのも…。
 スウェナが離婚してジャーナリストになっていたのも、宇宙鯨を追い始めたのも。
 フロア001のことなら、あの映像が無かったとしても、キースは聞いていたっていうし…。
 其処へ行けってシロエに直接言われたらしいし、いつかは自分で行っちゃうよね。
 シロエが残した映像なんかは見ないままでも、機会があれば…。



 今の時代だから分かること。キースがE-1077を処分したこと。
 グランド・マザーの命令で処分しに出掛けた時、キースはフロア001に入った。候補生時代は入る機会が無かった場所へ。…キースが創り出された所へ。
 シロエのメッセージが無かったとしても、彼は同じに向かっただろう。其処だとシロエが言っていたから、確かめろと言われていたのだから。
「…キースがフロア001に入れないままで卒業したのも…」
 マザー・イライザの計算だものね、まだその時期が来ていないから、って。
 入れる時期がやって来たのが、たまたまシロエのメッセージを見た後になっただけだよね…。
「ほらな、やっぱり単なる偶然ってヤツだ」
 キースの件は全く絡んでいなかったってな、スウェナの進路変更には。
 出会うってトコだけが大切なことで、離れてゆく方はどうでも良かった。…マザー・イライザにとってはな。もう充分に役に立ったし、勝手にしろと言った所だ。
 計算ずくなら、シロエの記憶を消してから送り出すからな。…シロエは危険すぎたんだから。
 そいつをしないで結婚の許可を出したってことは、機械でも修正不可能だからで…。
 恋に囚われちまったヤツらは、言うことを聞きやしないってな。
 つまりは、前の俺が結婚しようと考えたなら…。
 パイロットのための教育ステーションから、一般人への進路変更は可能ってことだ。
 メンバーズになれそうだったスウェナでさえも、結婚を理由にステーションを離れたんだから。
 たかがパイロットの卵の俺なら、もっと簡単だったろう。
 代わりの人間は幾らでもいるし、パイロットから料理人にはなれる。
 運命の相手と恋に落ちたら、パイロットの道にもお別れだってな。



 結婚するついでに、料理人になって一般人だ、とハーレイは自信たっぷりだから。
 料理人という職業に就いて、何処かの星で平凡な暮らしをするそうだから…。
「ハーレイなら、ホントにやりそうだね」
 一般人向けのコースに行くなら、料理人になるのがいい、って。
 そういう教育を受けられるステーションに行くって、きちんと料理を勉強する、って。
「おっ、そう思うか?」
 前の俺は料理人になれそうだってか?
 パイロット向けの教育ステーションを飛び出した後に、一から出直しで勉強をして。
「きっと出来るよ、ハーレイだったら」
 厨房で料理を作っていたのに、キャプテンになって船を動かしていたんだもの。
 そっちの方がよっぽど凄いよ、料理人からパイロットだよ?
 逆の方がずっと、簡単なのに決まっているよ。…難しい本を沢山読んだりしなくてもいいし。
 今のぼくが亜空間理論の本を読んでも、意味はちっとも分からないだろうと思うけど…。料理の本なら、多分、分かると思うから。こういう材料で、こう作るんだ、って。
 だからね、前のハーレイがパイロットから料理人になるのも、きっと簡単。
 料理の基礎は身体が覚えてたんだし、後は勉強するだけだもの。
 だけど…。前のハーレイはそれでいいんだけれど…。



 どうやら料理人になりかったらしい、前のハーレイ。ただし、パイロットか、料理人か、二つに一つで選ぶのならば。他の選択肢が無かったならば。
 前のハーレイの身体が覚えていた料理の基礎とやら。それを生かせる職業が他にもあったとか、単なる趣味に過ぎなかったとか。その可能性もゼロではないから。
 とはいえ、前の自分よりは絞り込めそうなのが前のハーレイの夢で、将来、なりたかったもの。料理の腕を生かした職業、料理人というのは大いにありそうだけれど…。
「…前のぼく、何になりたいと思っていたんだろう…?」
 ハーレイは料理人の可能性が高いけれども、前のぼくには手掛かりが無いよ。
 ホントになんにも覚えていないし、教わらなくても出来る何かも無かったし…。
 サイオンは上手く使えたけれども、成人検査を受ける前には、サイオン、使っていないしね…。
「前のお前の将来の夢というヤツか…。今のお前とは違うだろうな」
 嫁さんってことはないだろうから、何の参考にもならないぞ。
 今のお前は、俺の嫁さんになるっていうのが目標だしなあ、将来の夢で。
「うーん…。前のぼくの夢、お嫁さんではないと思うけど…」
 でも、ハーレイには会えたと思うよ。…パイロットでも、料理人だとしても。
 ハーレイがどっちをやっていたって、ぼくたち、きっと出会うんだよ。
「違いないな…!」
 出会うんだろうな、まさに運命の出会いってヤツで。…きっと何処かで。
 でもって、前の俺たちが成人検査をパスして出会うんだったら、お前は年下なんだろう。
 俺の方がお前より年上になって、年の差もうんと小さいってな。前のお前と俺よりも。
「…そうなるの?」
 ぼくが年下って、どういう理由で…?
「老けたお前じゃ駄目じゃないか。俺とバッタリ出会った時に」
 人類同士で出会うんだったら、前の俺たちの年の差だったら、そうなっちまう。
 前のお前は、俺より遥かに年上だったわけなんだからな。



 成長を止めたチビだったのはミュウだったからだろ、とハーレイは笑う。
 人類同士だと、そうはいかないと。身体も心もチビの子供に出会う代わりに爺さんだ、と。
「そいつは困るし、お前は年下でいてくれないと…。俺と釣り合いが取れる程度の」
 そしてだ、俺がパイロットから料理人にコース変更しようって時。
 結婚相手はお前だろうな。俺より年下に生まれたお前。
 何処でお前に出会って惚れて、マザーに申告することになるかは分からんが…。
 お前がパイロット養成コースに入れそうな気はしないからなあ、俺が卒業した後だろう。
 パイロットになってから、寄った教育ステーションの宙港でバッタリ会うとか、そういうの。
 次に来る日は…、と学生のお前に約束しては、デートを重ねて。
 結婚しようってことになったら、お前はステーションのマザーに許可を貰う、と。
 俺の方は、お前と一緒に暮らせるようにと、パイロットを辞めて料理人の道に行くわけだ。
 パイロットのままじゃ、ゆっくり家にはいられないからな。…いつも宇宙を旅してばかりで。
 結婚を機会に、料理人になるのが一番だ。そうすりゃ、お前と一緒だしな。
「うん、そうなっていたよね、きっと…!」
 前のハーレイとぼくが、成人検査をパスしていても。
 …二人ともミュウじゃなかったとしても。
 何処かで出会って、結婚して一緒に暮らしていたよね、育英都市は無理だけど…。
 男同士のカップルだったら、子供は育てられないから…。
「確かにな。…大人しかいない星に行くしかないな」
 咄嗟にはノアしか思い付かんが、他にも幾つもあった筈だし…。
 そういう星で二人で暮らして、前のお前は、金髪に水色の瞳なんだな。…アルビノじゃなくて。
「ふふっ、そうだね」
 ミュウじゃないなら、そうなるね。…ぼくの目、水色のままなんだよね。
 そうなっていたら、今のぼくだって水色の目になっていたのかも…。髪の毛だって金髪で。
 でも、ハーレイとは一緒だよね、地球で。…今の青い地球に生まれ変わって。



 きっと、どういう道を歩いても、ハーレイと出会ったのだろう。
 成人検査をパスしたとしても、教育ステーションに進んだとしても。
 何処かで出会って、きっと恋に落ちて、二人で生きて行ったのだろう。互いの進路を、途中から変えてしまっても。
 前のハーレイも、前の自分も、機械が決めた進路を変更してでも、結婚の道を選んだだろう。
 ハーレイがパイロットから料理人になって、前の自分も教育ステーションを離れてでも。まるで全く違う進路へ向かったとしても、幸せに生きてゆけたのだろう。
 そして今度も、ちゃんと出会えた。
 ハーレイと二人、青い地球の上に生まれ変わって、また巡り会えた。
 だから上の学校に入学したりしないで、ハーレイと一緒に歩いてゆこう。義務教育を終えたら、結婚出来るから。…十八歳になるのだから。
 前の自分がなりたかったものは謎だけれども、今でも謎のままなのだけれど。
 どんな人生を歩んでいたって、きっと何処かでハーレイと会った。
 ハーレイに出会って恋をしたから、今度も二人で生きてゆく道。二人一緒に暮らせる道。
 その道を早く選びたいから、上の学校には進まない。
 前のハーレイが「結婚したい」と料理人のコースに移るのならば、相手はきっと自分だから。
 パイロットを辞めて、前の自分を選んでくれるのがハーレイだから。
 そういう出会いは出来なかったけれど、きっと何処かで巡り会う二人。
 これから先も離れないから、いつまでも二人、手を繋ぎ合って歩いてゆくのだから…。




              学校と進路・了


※前のハーレイとブルーが何になりたかったのかは、あの時代にも、今も謎ですけれど…。
 どういう道に進んでいたって、きっと二人は出会えた筈。成人検査をパスしていたとしても。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








(えーっと…?)
 猫だ、とブルーが見詰めた張り紙。学校の帰りに、家の近所のバス停で。
 学校の近くから乗って来たバス、それを降りたら目に入ったもの。バス停の邪魔にならない所にペタリと貼られて、カラーで刷られた猫の写真。
(迷子…)
 たまに見かける迷子捜し。こんな具合に、写真を添えて。
 前にハーレイが遅刻して来た休日もあった。ハーレイの家から歩いて来る途中で出会った子猫。その子が迷子だと分かったから。迷子の張り紙があったから。
 回り道になってしまうけれども、子猫を送って行ったハーレイ。張り紙に書いてあった住所へ、小さな子猫をしっかりと抱いて。
 大遅刻をしたハーレイだけれど、子猫を助けて遅刻だったし、自分も怒りはしなかった。それにお土産も貰ったから。ハーレイが子猫を届けた御礼に貰った、色々なケーキの詰め合わせを。
 今日の張り紙も、そういったもの。いなくなった猫を捜して下さい、と。
(ハナちゃん…)
 迷子になった猫はハナちゃん、縞模様になった三毛が特徴の猫。茶色と黒の模様の部分が、全部縞になっているらしい。茶色や黒の一色ではなくて。
 まだ子供だという小さなハナちゃん。日本風の名前だよね、と読んでいったら…。
(大変…!)
 てっきり近所だと思っていた家。ハナちゃんの飼い主が住んでいる場所。
 その家は此処からうんと遠くて、何ブロックも離れた所のハーレイの家よりまだ向こう。きっと子猫の目から見たなら、世界の果てかと思うくらいの距離だろう。
 小さな身体で、小さな足で、せっせと歩いても帰れない場所。どんなに頑張って歩き続けても。



(どうして…?)
 迷子の張り紙が此処に貼られているのだろう。ハナちゃんにとっては、世界の果てより遠そうな場所に。子猫の足では辿り着けそうもない場所に。
(…何かの事故に巻き込まれちゃった…?)
 ハナちゃんの家から、こっちの方へと向かうトラックに乗ったとか。何かを配達する車。
 子猫は好奇心が強いものだし、飼い主の人が知らない間に潜り込むこともあるだろう。配達用の車はそのまま出発、飼い主の人が届いた荷物を開けたり片付けたりしている内に。
(気が付いたら、ハナちゃん、消えちゃってたとか…?)
 慌ててトラックの会社に連絡、そのトラックが次に向かった配達先が此処だったとか。
(そうなのかも…)
 だったら本当に大変な事態。ハナちゃんは知らない所に連れて来られてしまって、今でも迷子。
 見れば、張り紙の側には、貼ってあるのと同じチラシが何枚も纏めて吊るされていた。
 「お願いします」という文字を添えて。「貼って頂けると有難いです」と。
 飼い主の人が貼れそうな場所はバス停くらい。他所の家には勝手に貼れない。貼りたくても。
(貰って帰って…)
 貼ればいいだろうか、家のポストにも。ハナちゃんが早く見付かるように。
 そう思ったから、一枚手にした。「お願いします」と吊るしてあるのを、外して取って。
 家に帰って、ちゃんと読んでから貼っておこうと。
 でも…。



 迷子捜しのチラシを手にして、家へと歩き始めたら。住宅街の道を歩いて行ったら…。
(あちこち、貼ってる…)
 家のポストや、門柱などに。
 ハナちゃんを捜すための張り紙、協力している家が何軒も。道を曲がって入ってゆく先、其処を覗いても見える張り紙。右に曲がっても、左側でも。
 沢山あるよ、と確かめながら帰って行ったら、隣の家にも貼ってあったから。
(ぼくの家には要らないかな?)
 お隣さんが貼ってるから、と眺めて持って入ったチラシ。
 二階の部屋で制服を脱いで着替えて、おやつの時間に持って下りて行った。ダイニングへ。まだ読み終わっていなかったから。
 テーブルに置いたら、おやつを運んで来てくれた母が気付いたチラシ。
「あら、持って来たの?」
 家に貼ろうと思ったのね。お隣さんがもう貼っているけど。
「これ、ママも見たの?」
「ええ。お隣さんのも、ご近所のも。…お買い物に行ったお店にも貼ってあったわよ」
「そうなんだ…。ハナちゃんの家、うんと遠くだよ?」
 やっぱりトラックに乗って来ちゃったのかな、配達用の…。お店にも貼ってあったんなら。
「読めば分かるわよ、書いてあるから」
 ママも読んだの、いったい何が起きたのかしら、って。
「ふうん…?」
 トラックに乗って来たんじゃないとか…?
 ハナちゃんが自分で歩いて来るには、此処、遠すぎると思うんだけど…。



 読んでいなかった迷子の理由。ハナちゃんがどうして行方不明になったのか。
 おやつの前に、とチラシの続きを読んでいったら…。
(いなくなった場所、分からないんだ…)
 ハナちゃんが消えてしまった場所は、此処ではなかった。トラックに乗ったわけでもなかった。
 同じ町でも、此処からは遠い所に住んでいる、飼い主の御夫婦。
 奥さんが焼いたフルーツケーキを配るためにと、ハナちゃんも乗せて車で出発。運転は御主人、奥さんは助手席。ハナちゃんは後ろのシートでウトウト眠っていた筈。籠に入って。
 町のあちこちへケーキを届けて回って、家のガレージに帰ったら…。
 空っぽだったハナちゃんの籠。ハナちゃんはいなくなっていた。
 甘えん坊だから、普段は勝手に降りないのに。「降ろして」と、ミャーミャー催促なのに。
 それが昨日の夕方のことで、大急ぎで作られた迷子捜しの張り紙が今朝からバス停に。出掛ける時には見なかったけれど、その後で貼られたのだろう。
「ママ…。ハナちゃん、どうなっちゃったの?」
 車から一人で降りちゃったなんて、何処で降りたかも分からないだなんて…。
「ママにも分からないけれど…。気になるものを見付けたのよ、きっと」
 子猫が飛び付きたくなる何か。それがあったんじゃないかしら?
 人間は全く気付かなくても、子猫の目には素敵な何か…、と母が言うのが正解だろう。
 籠に入って寝ていたハナちゃん、ふと目覚めたら、ちょっと触ってみたくなる何かが外に。丁度降りようと開けられたドアの、その向こう側に。
 とても魅力的で、惹かれる何か。
 甘えん坊でも、車を降りたくなるほどに。「降ろして」と頼むより先に。
 飼い主の御夫婦が気付かない内に、スルリと降りてしまったハナちゃん。あれが欲しい、と。
 まっしぐらに走って行ったのだろうハナちゃん、御主人たちは知らないまま。寝ているとばかり思っていたから、車を出してそれっきり。
(帰れるのかな…)
 ちゃんと家まで、と心配でたまらないハナちゃんの行方。
 チラシに書かれた範囲はとても広いから。御夫婦がケーキを配った範囲。ハーレイの家の辺りも入っているほど、他の方向にもケーキを配った家が幾つも。
 子猫の足では遠すぎる距離で、世界の果てが多すぎる。何処で車を降りたにしても。



 おやつを食べ終えて、部屋に帰って眺めたチラシ。迷子捜しのために貼るもの。
 隣の家にも貼ってあるから、明日、学校に持って行こうか。二軒並んで貼っておくより、友達の誰かの家が良さそう。このチラシを貼っていないなら。
(ハナちゃん…)
 迷子になってしまった子猫。それも昨日から。まだ子猫だから、本当に心細いだろう。家の外で一晩過ごしただけでも、きっと泣きそうな気持ちの筈。自分の家も、御主人たちの車も無くて。
 無事に帰れればいいけれど、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれて、勉強机に置いてあったチラシに目を留めて。
「おっ、チラシ…。この辺りにもあったのか?」
 俺は車で走って来たから、よく見なかったが…。そういや、あちこち貼ってたかもな。
「え? チラシって…」
 ハーレイも読んだの、このチラシを…、と勉強机から取って来た。迷子捜し、と。
「学校の所にもあったからな。お前がいつも乗ってるバス停」
 だから俺も一枚貰って帰って来たんだ。家の前に貼っておくかな、と。
「バス停って…。ぼく、帰る時には見てないよ?」
 チラシが貼ってあったんだったら、気が付くもの。…降りた時だって、直ぐ分かったから。
 猫が迷子になっちゃったんだ、って張り紙を読んで、これを貰って…。
「お前が学校を出た時間には、まだ貼りに来ていなかったんだろう」
 それから後に貼りに来たのを、俺が見付けて、チラシも貰った。…車の中に置いてあるがな。
「でも、張り紙は朝からだ、って…」
 ママに聞いたよ。ぼくが学校に行った後に貼りに来たみたいだけど…。
「この辺がだろ。…朝から貼ってあるっていうのは」
 他所へ行ったら違うわけだな、この張り紙が貼られた時間。
 こいつを貼って回る他にも、色々と手を尽くさんと…。何処で消えたか謎なんだから。



 ハナちゃんを捜しながら貼って回っていれば時間もかかる、と言われればそう。
 張り紙を貼ったら次の場所へと急いで行くより、聞き込みもして行くだろう。フルーツケーキを配った家の近所で、「こういう子猫を見ませんでしたか?」と。
 きっと何軒ものチャイムを鳴らして、庭にいる人にも声を掛けて。散歩をしている人にだって。
 誰かが手掛かりを知っているかもしれないから。「お願いします」とチラシも渡して。
「ハーレイ…。ハナちゃん、見付かる?」
 ちゃんと見付かって家に帰れるかな、自分で歩いて帰れそうにない場所ばかり…。
「大丈夫だろ。こうして張り紙をしておいたらな」
 この猫だ、って気付いた誰かが届けに行くか、連絡をしてくれるだろう。此処にいます、と。
 俺だって前に見付けてやったし…。迷子だった子猫。
 家まで送って行ってる間に、大遅刻になってしまったがな。
「そうだけど…。でも、ハナちゃん…」
 まだ子供だし、いなくなったの、昨日だし…。お腹ペコペコで死にそうかも…。
「心配するな。子猫も意外と逞しいもんだ」
 猫好きの人は多いからなあ、腹が減ったって顔をしていりゃ、おやつを出して貰えるぞ。迷子の子猫だとは気付いてないから、家の食事に差し支えない程度だろうが…。
 少しずつでも、あちこちの家でおやつを貰えば、案外、腹が膨れるもんだ。
 それに町中の人が張り紙を見て捜してくれるし、腹を空かせて弱っちまってても見付かるさ。
 迷子の子猫がいるらしい、と気が付いた人は、注意して歩いたりするからな。弱っちい鳴き声を聞いたら覗き込んだり、家に帰っても庭にいないか捜してみたり…。
 大勢の人がそれをやってりゃ、まず間違いなく見付かるってな。



 誰かが見付けてくれる筈だ、とハーレイがチョンとつついたチラシ。迷子になったハナちゃんの写真。「何処で見付かるかは分からないがだ、大丈夫さ」と。
「特徴もハッキリしてるしな。真っ黒とか、真っ白とかじゃないから」
 全身のブチが縞模様な上に、三毛と来たもんだ。あれだな、とピンと来る人は多い。
 昨日、チラッと見掛けただけでも、「あの猫だ」と。気付けば捜しに出掛けるだろうさ、昨日と同じ場所にいないか。
「そうだといいけど…。誰か、見付けてくれるといいけど…」
 ハナちゃんが動けなくなっちゃう前に。…お腹ペコペコで、鳴き声だって出せなくなって。
「心配は要らん、誰かが見付ける。これだけ張り紙を貼っておけばな」
 その内に「お蔭で無事に見付かりました」って、御礼のヤツが貼られるさ。これの代わりに。
 迷子捜しの張り紙を剥がして、見付かった子猫の元気な写真が刷ってあるのをペタリとな。
 まずは子猫の世話が先だし、その張り紙を貼りに来るのは、直ぐってわけではないだろうが…。
 しかし…。今はいい時代だよな。
 うん、本当にいい時代だ。
「いい時代って…。何が?」
 何の話、とキョトンと首を傾げたら。
「これだ、これ。…迷子捜しの張り紙のことだ」
 迷子になった一匹の子猫を、町中の人が懸命に捜してくれるってな。
 俺やお前も、こいつを貼ろうとしたわけだろう?
 お前は貼ろうと持って帰って、俺も車に乗っけてて…。今はそういう時代なんだが…。



 前の俺たちはどうだった、とハーレイに投げ掛けられた問い。鳶色の瞳で真っ直ぐ見詰めて。
「…どうなんだ? このハナちゃんじゃなくて、前の俺たち」
 ずっと昔の、前の俺たちが生きた時代は…?
「え…?」
 前のぼくたちって…。それにハナちゃんって…?
「そのままの話だ。ミュウだ、ミュウ」
 ハナちゃんは、こうして捜して貰える。張り紙を見た人たちが捜して、張り紙を自分の家にまで貼って。…この子を助けてやらなければ、と。
 だが、前の俺たちが生きてた時代のミュウってヤツは、どうだったんだ?
 いなくなっても誰か捜してくれたのか、という質問。
 成人検査で発覚したミュウの場合はともかく、もっと幼かったミュウの子供たち。
 目覚めの日を迎えた子供が姿を消すのは当たり前だし、誰も変には思わない。それが普通のことなのだから。
 けれど、幼い子供は違う。ミュウだと知れて姿を消したら、町から一人子供が消える。昨日まで確かに家にいたのに、突然に。
 まるでハナちゃんが消えたみたいに。…何処へ行ったか、飼い主が捜し回っているハナちゃん。
 猫のハナちゃんは、今この瞬間も、町中の人が捜しているけれど。張り紙も増えてゆくけれど。
 消えたのが前の自分が生きた時代の、幼いミュウの子供だったら…。
「…誰も捜さないね…。ミュウの子供なんか」
 ユニバーサルに処分されちゃっていても。…二度と姿を見せなくても。
「捜すどころか、消えた理由をデッチ上げられて終わりだったぞ」
 俺たちが助けてシャングリラに迎え入れてた子供も、処分されてしまった子供たちも。
 もっともらしい理由を作って、消えちまったことを変に思うヤツが出て来ないように隠蔽工作。
 みんな、そいつで納得するから、誰一人捜しやしなかったってな。
「そうだっけね…」
 ご近所の人も、学校とかで一緒だった子も、誰も捜しはしなかったよ。
 存在ごと消されてしまったんだし、捜す理由が無いもんね…。



 そういう時代だったのだ、と蘇って来た遠い遠い記憶。前の自分が知っていたこと。
 白いシャングリラで立派に育った、シドも、ヤエも、リオもそうだった。人類の社会から消えてしまった子供。ミュウだと判断された途端に。
 ユニバーサルはミュウを端から処分するけれど、その前に救うのがシャングリラ。白い鯨だったミュウの箱舟。…危うい所で救い出したり、もっと早めに船に迎えたり。
 そうやって姿を消した子供は、人類が暮らす育英都市では、病死だったり、事故死だったり。
 死んだ子供は、もう捜しては貰えない。何処にも存在しないのだから。
 「うちの子供は何処かおかしい」と通報したのが養父母だったら、彼らは疑問も抱きはしない。子供が突然消えてしまっても、「死にました」という知らせを受け取っても。
 周りの者にも「突然のことで…」と説明するだけ、ユニバーサルからの通知そのままに。
 逆に養父母が消えた子供を愛していた場合は、諦めさせられていた時代。
 ユニバーサルから来た職員の、「お子さんは行方不明になりました」という一言で。
 もう戻らない、と告げられた上に、子供の行方を尋ねられたら「死んだ」と説明するように、と言い含められた。
 その養父母が泣いていたって。戻らない子供の名前を何度も繰り返したって。
 「これが社会の仕組みですから」と言われた時代。
 消えた子供を諦めるのなら、新しい子供を育てられるように手配するから、と。
 それを聞いたら、もう本当に諦めるしかない。消えた子供は戻らないから、新しい子を、と。
 次の子供を愛してゆこうと、今度こそ立派に育て上げようと。



 存在そのものを消された子たち。ミュウに生まれたというだけで。
 処分された子も、白いシャングリラで成長した子も、表向きは皆、病死や事故死。死んだ子供は何処にもいないし、誰も捜そうとは試みない。死んだ者は戻って来ないのだから。
 「…思い出したか?」とハーレイに瞳を覗き込まれた。「そういう時代だっただろうが」と。
「ある日突然いなくなっても、誰も捜しちゃくれなかったんだ」
 前の俺たちが生きた時代に、ミュウに生まれた子供たちは。…殺されていても、逃げ延びても。
 今じゃ、迷子の子猫でも捜して貰えるのに…。
 このハナちゃんって猫の名前は初めて聞いた、って人までが捜して、張り紙を家に貼るのにな。
「…みんな、存在ごと消されちゃったね…」
 そんな子供は何処にもいません、って。…死んじゃったから、もういないんです、って。
 死んでしまった子供は捜せないしね、本当に何処にもいないんだから。
「それで納得出来ない親だと、次の子供を用意するからと説得されてな」
 どういう子供を育てたいですか、と訊かれちまったら、そっちに心が傾くし…。
 いなくなった子供にこだわるよりかは、条件のいい新しい子供を育てたい気持ちになるもんだ。
 普通だったら「この子供です」と一方的に渡される所を、少し譲って貰えるんだから。
 髪の色とか、瞳の色とか、その辺を好きに選べるだとかな。
 「いなくなった子供に似ている子がいい」という希望も、きっと通っただろう。
 それで大人しくしてくれるんなら、いそいそと用意したろうな。その条件に合った子供を。



 だから親たちも諦めたんだ、とハーレイが眉間に寄せた皺。「酷い時代だった」と。
「…今の時代は、猫が消えても大騒ぎなのに…」
 飼い主は必死に捜し回って、知らない人たちだって協力するんだ。見付け出そうと。
 なのに、人間の子供が消えても、誰も捜さなかっただなんて…。消えてしまった子供を愛してた筈の、優しい養父母たちでもな。
「…捜した親って、いなかったのかな?」
 急に子供が消えちゃうんだよ、元気に学校とかへ送り出したのに。…朝には元気だったのに。
 死んじゃいました、って言われたって、それで納得出来る?
 行方不明になっちゃったなんて、余計に諦め切れないよ。何処へ行ったか、気になるじゃない。
 捜しに行く人、いそうだけれど…。
 死んだんだったら死に顔を見たいし、行方不明なら、誰か手掛かりを知ってる人は、って。
「俺たちは知らんぞ、そんなケースは」
 前のお前も、俺だって知らん。…一つも耳にしていない。
 自分の子供を通報した酷い養父母だったら、嫌というほど知っているがな。
「そうなんだけど…。前のぼくたちは知らないけれど…」
 アルテメシアでは見ていないけれど、他の何処かの育英都市で。
 前のぼくたちが見ていない場所で、処分されちゃった子を捜し回った人がいたかも…。
 シャングリラがいなかった星の子供は、殺されちゃうか、研究施設に送られちゃうか。
 どっちにしたって、二度と戻って来ないけれども、その子を捜し回った人たち…。
「さてなあ…。そいつはどうなんだろうな」
 あの時代は機械が支配してたし、完璧な管理社会というヤツだから…。
 何処も似たようなモンだと思うぞ、アルテメシアじゃない星でもな。



 消えた子供を捜そうとする親は何処にもいなかったろう、というのがハーレイの意見だけれど。
 そうだったろう、と今の自分も思うけれども、ふと引っ掛かった養父母の顔。
 偶然にも、ミュウの子供を二人続けて育てた人たち。前の自分は一人目までしか見ずに終わってしまったけれども、彼らの顔はよく覚えている。…そう、今でも。
「消えちゃった子供…。ジョミーのお母さんたちなら、捜したかもね」
 ジョミーは成人検査の後に消えたから、変だと思わなかっただけ。無事に成人検査をパスして、何処かの教育ステーションに行ったと信じていただろうから。
 …だけどジョミーが、もっと早くに消えてたら…?
 ユニバーサルがミュウだと判断しちゃって、学校の帰りに消えちゃったとか…。前のぼくたちに救出されて、シャングリラに連れて行かれてしまって。
 そうなっていたら、捜さない…?
 行方不明になりました、って言われたんなら、アルテメシア中を。エネルゲイアにも出掛けて、こういう子供を見ませんでしたか、ってチラシを沢山配って回って。
 死んだんだ、って説明されたら、「顔を見させて」って言いそうだよ。会わせて欲しいって。
 最後のお別れを言いたいから、って…。ジョミーが好きだった服も着せたい、って。
 …きっと絶対、諦めたりしない。ジョミーを育てたお母さんたちなら、ジョミーのことを。
「その可能性は有り得るなあ…」
 成人検査の前の日だって、ジョミーを大事にした人たちだ。
 あれが普通の養父母だったら、自分たちの方を心配するんだが…。目覚めの日の直前に、とんだ騒ぎに巻き込まれた、とな。このせいで自分たちの評価が下がらなければいいんだが、と。
 しかし、ジョミーの養父母は違った。ジョミーばかりを心配していた。
 …それに、二人目の子供の時は…。
 レティシアの時は、コルディッツにまで行っちまった。子供を離してたまるものか、と。
「でしょ…?」
 とても優しい人たちだったよ、ジョミーを育てた人たちは。
 コルディッツの時は、前のぼくはもう、とっくに死んでいたんだけれど…。



 優しかったジョミーの養父母たち。二人目の子のレティシアと共に、コルディッツにまで行った勇敢な夫婦。ミュウの強制収容所などに行けば命が危ういのに。
 けれど、二人は逃げ出さなかった。ジョミーを守れなかった分まで、守ろうとした彼らの子供。
「…あの人たちなら、捜していたと思わない?」
 もしもジョミーが消えちゃっていたら。…目覚めの日よりも前に消えたら。
 ユニバーサルが何と説明したって、絶対に諦めてしまわないで。…ジョミーは何処、って。
 その内に記憶を処理されてしまいそうだけれども、そうなるまでは、必死になって。
「やっていたかもしれないな…。あの二人なら」
 お前が言う通りに諦めないで、チラシを配って、手掛かりは無いかと懸命に二人で捜し回って。
 そうしただろう、という気がしないでもない。…ジョミーが消えていたならな。
 だとすると…。そういう時代がもう、来てたってことだ。
「…時代って?」
 どういう時代が来てたって言うの、ジョミーのお母さんたちが諦めずに捜していたのなら…?
「SD体制の時代の終焉ってヤツだ」
 機械がコントロールし切れない時代。…管理社会の限界だな。
 それまでだったら、「消えた子供は諦めなさい」で済んでいたのが、もう無理だった。
 血縁関係の無い子供でさえも、ジョミーのお母さんたちは守ろうとして戦ったんだ。自分たちが行けば守ってやれる、と一緒にコルディッツに行ったくらいに。
 機械はそういう教育なんかは、全くしていない筈なんだがな…?
 どちらかと言えば、ユニバーサルが何を言おうが、頭から信じるような教育。そいつをせっせと施した筈で、ジョミーの親たちもその教育を受けたのに…。
 習ったことより、人間としての感情の方が遥かに強かったんだ。子供を守らなくては、と。
 強い愛情を持っていたわけで、それは教わるものじゃない。…自分で身につけていくものだ。
 そうやって育んだ子供への愛が、機械を否定したんだな。もう従ってはいられない、と。



 ミュウも進化の必然だったが…、とハーレイは腕を組んで続けた。
 機械が支配していた時代は終わろうとしていたのだろう、と。ミュウはもちろん、人類の方でもシステムに疑問を感じる時代。「これはおかしい」と考える時代。
 だからジョミーの養父母のような人間が現れた。機械に逆らい、子供を守ろうとした人間が。
「…たとえキースの野郎が出て来なくても、SD体制は自滅したんだろう。…遠くない未来に」
 既にあちこち綻び始めて、子供が消えたら捜しそうな親がいたんだから。
 機械はそうしろと教えなかったのに、自分たちの意志で判断して。…収容所にまで行くほどに。
 放っておいても、あのシステムは滅びただろうな、内側から壊れ始めていって。
 人類のためのシステムの筈が、その人類たちに背を向けられて。
「そっか…。そうだったかもね…」
 人類が疑い始めていたなら、システムの終わりは近いよね。誰も従わなくなったなら。
 いくら機械が叫んでいたって、命令を聞く人がいなくなったら駄目だもの。
 「うるさい機械だ」ってメンテナンスを放棄されちゃったら、機械は壊れてゆくだけだしね…。
 グランド・マザーも、マザー・ネットワークも、何もかも全部。パーツが古くなっても誰も交換しないし、交換用のパーツも作って貰えないから。
 …前のぼくたち、ちょっぴり急ぎ過ぎたかな?
 のんびり、ゆっくり旅をしていたら、戦わなくてもミュウと人類は和解したかな…?
 ジョミーのお母さんたちみたいな人ばかりが暮らす時代が来たら。
 子供が消えたら頑張って捜す、そんな人間ばかりになったら…。
「多分な。…その時代は遠くなかった筈だ」
 いずれ人類は機械を捨てて、人間らしく生き始めたんだろう。
 管理出産のシステムもやめて、俺たちがナスカでそうしたように、自然出産の時代に戻って。
 そうやってSD体制が終わっちまえば、人類もミュウも、ちょっと種類が違うってだけだ。同じ人間には違いないから、手を取り合うことになっただろうが…。



 だが…、と真剣なハーレイの瞳。「それを待ってはいられなかった」と。
「前の俺たちは急ぎ過ぎちゃいない。…そういう風にも思えるがな」
 慌てずにゆっくり構えていたって、ミュウの時代は来ただろう。…今に繋がるミュウの時代が。
 しかし、そいつを待っていたんじゃ駄目だった。
 それまでに無駄に流される血が多すぎる。機械が統治している限りは、ミュウは端から殺されてゆくだけなんだから。…シャングリラが救えるミュウの命は、ほんの一部に過ぎないってな。
 だから、急ぎ過ぎたようでも、あれで良かった。
 前の俺はお前を失くしちまったが、それだけの価値はあったんだ。…前のお前が選んだ道。
 メギドを沈めてシャングリラを守った他にも、きっと大勢の仲間の命を救った。前のお前は。
 あそこでお前が守らなかったら、シャングリラは沈んで、それっきりだ。
 SD体制が自滅してゆくまで、ミュウは殺され続けただろう。シャングリラが地球まで行けずに沈んでいたなら、何万というミュウが死んだと思うぞ。
「…そうなのかな?」
 もっと早くに終わりそうな気もするけれど…。SD体制と機械の時代。
 綻び始めていたんだったら、ミュウが殺される時代の終わりも、そんなに遠くは…。
「それじゃ駄目だと言っただろうが」
 前のお前は正しかった。そうに決まっているだろう。
 急ぎ過ぎたなんてことはないんだ、あの道が正しかったんだ。
 沢山の血が流れたようでも、それが最短距離だった。もっと多くの血が流れるより、あれだけの血で全てを終わらせちまうのが一番だ。
 機械を止めて、SD体制そのものを壊しちまってな…。



 無駄な血は決して流されちゃいかん、とハーレイは強く言い切った。
 平和は早く来るに限る、と。「青い地球だって、こうして蘇ったじゃないか」と。
「あの戦いが無かったとしたら、もっと時間がかかっていたぞ」
 SD体制が終わるまでには、もっとかかった。…ミュウも大勢殺されただろう。機械はミュウを認めないから、殺されるしか道は無いってな。SD体制が終わる時まで。
 人類たちが「何かが変だ」と気付かない限り、ミュウは殺されるし、和解も出来ん。SD体制も終わりやしない。…それはお前も知ってる筈だ。前のお前が、誰よりもずっと。
 実際の歴史よりも長い時間が必要だったことは確かだな。自然に崩壊するのを待つなら。
 それに、ミュウと人類の和解もそうだが、地球が見事に再生したこと。
 こいつは荒療治が欠かせないしな、のんびりゆっくり和解してたら、青い地球は自分たちの手で作ってゆくしかないんだぞ?
 なかなか効果が出ないもんだ、と試行錯誤の繰り返しで。あれこれと研究を重ね続けて。
 其処をすっ飛ばして、古い地球をすっかり焼き尽くした後に、今の青い地球があるんだろうが。
 お蔭で、こういう迷子の子猫を捜す張り紙もある、というわけだ。
 行方不明になっちまった猫を知りませんか、と貼ってある場所、地球の上だろ。
「そうだ、ハナちゃん…!」
 見付かったのかな、この張り紙で…?
 誰かが見付けて連れてったかなあ、ハナちゃんの家へ。…でなきゃ、連絡してるとか。
 ハナちゃんを家で預かってるから、車で迎えに来てあげて下さい、って。
「どうだかなあ…?」
 そっちの方は俺にも分からん。子猫ってヤツは気まぐれだしなあ…。
 張り紙を見ていない誰かの家でだ、その家の猫と一緒に遊んでいるってことも充分にあるぞ。
 子猫を産んだお母さん猫に出会っちまって、他の子猫と一緒に遊んで、食事も一緒。
 そうなっていたら、張り紙を見て貰えるのは、いつになるやら…。
 まあ、明日には気付くんだろうがな。張り紙は増える一方なんだし、何処かで見かけて。
 「この猫だったら、うちにいる子だ」と、大慌てで家に戻って行って。
 そうなれば後は早いもんだぞ、送って行くにしても、迎えを頼むにしても。
 連絡さえつけば万事解決、ハナちゃんは家に帰れるってな。



 心配要らん、とハーレイが言う通り、きっと明日には見付かるだろう。
 行方不明になったハナちゃん。縞模様の三毛の小さな子猫を、町中が捜しているのだから。家の表にチラシを貼ったり、あちこちを覗き込んだりして。
 明日、学校から帰る頃には、あのバス停に…。
「ありがとう、って張り紙、きっとあるよね」
 ハナちゃんは無事に見付かりました、っていう張り紙。…ハナちゃんの元気な写真付きで。
「今頃はもう、貼ってあるかもしれないぞ」
 でなきゃ、作っている真っ最中とか。何枚も撮った写真の中から一枚選んで、そいつを使って。
 ハナちゃんはグッスリ寝ているかもなあ、「やっと家まで帰って来られた」と。
 車の後ろに乗っけてたらしい籠に入って、冒険していた間の夢を見ながら。
「そうかもね…!」
 大冒険だものね、一晩も他所にいたんなら…。
 何処かの家で大事に飼われていたって、自分の家じゃないんだし…。
 冒険の夢を見てるといいよね、ちゃんと大好きな家に帰って。
 美味しい御飯を沢山貰って、お腹一杯で、幸せ一杯…。



 そうだといいな、とハーレイと眺めたハナちゃんの写真。迷子捜しを頼む張り紙。
(…ハナちゃん、きっと見付けて貰って帰っているよね…)
 張り紙のお蔭で、何処かの誰かに。車から降りてしまった場所の近くで、「この猫だ」と。
 御主人の家まで送り届けて貰っただろうか、それとも迎えに来て貰ったのか。
(…どっちの方でも、ハナちゃんは家に帰れるものね)
 今の時代は、迷子の子猫もきちんと捜して貰える時代。町中の人が捜すハナちゃん。
 遠い昔のミュウの子供たちのように、存在を消されはしない時代。とても小さな子猫でも。
 だからハナちゃんも、きっと自分の家に帰れる。
 今は平和な時代だから。行方不明のままにされたりはしないから。
(…ホントに平和で、幸せな時代…)
 此処に来られて良かったと思う、青く蘇った地球の上に。
 誰もが優しい、今の時代に。
 またハーレイと巡り会って二人、此処で幸せに生きてゆく。
 迷子の子猫を懸命に捜す人たちが暮らす、温かな今の時代の地球で…。




            迷子の子猫・了


※今の時代は迷子の子猫を、町中が捜してくれるのですけど、SD体制の頃は違ったのです。
 人間の子供が消えても、誰も捜さなかった時代。ジョミーの両親なら、捜したのでしょうね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




シャングリラ学園、夏真っ盛り。期末試験も無事に終わって、あと一週間もすれば夏休み突入なんですけれども、どうしたわけだか夏風邪が流行り出しました。事の起こりは多分、期末試験。私たちの1年A組は会長さんのお蔭で勉強しなくても全員、全科目満点ですけど…。
「…やっぱり期末試験だよねえ?」
今の夏風邪、とジョミー君が愚痴る放課後、いつもの「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋。クーラーの効いた部屋でフルーツパフェを食べつつ、毎度の面子で過ごす時間で。
「明らかに期末試験だろうな。…犯人は肩身が狭いと思うぞ」
この流行の発信源、とキース君。
「欠席して追試を受ければいいのに、無理して出て来た結果がコレだと来た日にはな」
「そうですけれど…。そうする気持ちは分からないでもないですよ」
三年生の男子らしいですしね、とシロエ君が。
「聞いた話じゃ、スポーツ推薦を目指してるみたいなんですが…。コケた時が大変ですからね」
「「「あー…」」」
スポーツ推薦な男子だったか、と風邪の威力に納得です。身体は相当頑丈な筈で、そんな生徒が罹った夏風邪、多分、相当強力なウイルスだったんでしょう。
「スポーツ推薦のヤツだったのかよ、確かにコケたら内申だけが頼りだしなあ…」
普通に受けても何処もヤバいぜ、とサム君が言えば、会長さんも。
「あんまり勉強してないだろうし、定期試験はきちんと受けていたんです、というアピールだけでもしたいだろうしねえ…」
受けてさえいればフォローをしてくれるのがウチの学校、とシャングリラ学園ならではのセールスポイント登場。追試の点数は手加減無しですが、そうでない試験は多少の細工をして貰えます。その生徒が本当にピンチに追い込まれていて、内申だけが頼りという時は。
「しかしだな…。出て来るにしても、マスクくらいはして欲しかったぞ」
御本尊様が相手であってもマスクは必須で、と妙な話が。
「「「御本尊様?」」」
何故、御本尊様を相手にマスク、と誰もがビックリ。御本尊様は仏像だけに、風邪なんか引かないと思うんですけど…?
「風邪の予防じゃなくて、失礼がないようマスクなんだ!」
生臭い息がかからないよう、紙のマスクをするものだ、と言われてみれば、たまにニュースで見るかもです。仏像の掃除とかをする時にお坊さんの顔に大きなマスク。埃除けだと思ってましたが、あれって、そういうものだったんだ…?



プロのお坊さんなキース君曰く、仏像が相手でもマスクは必須。
「あれって、いつでもマスクってわけではないですよね?」
キース先輩の家に行っても見掛けませんし、とシロエ君が訊くと。
「息がかかったら失礼になる時だけだな。お身拭いだとか…。後はお茶とかをお供えするとか」
「「「お茶?」」」
それは基本じゃないのでしょうか、御本尊様にお茶。お仏壇のある家だったら毎日お茶だと聞いていますし、元老寺だって…。
「そういう普段の茶ではなくてだ、茶道の家元とか、その代理だとか…。とにかく非日常なお茶をお供えする時は、お茶を淹れる人が紙マスクなんだ」
抹茶の人なら紙マスクで点てて、煎茶の人なら紙マスクで淹れる、そういう作法があるらしく。
「…それはウイルス対策ですか?」
お茶だけに、とシロエ君が首を捻って、キース君が「なんで仏様が風邪を引くか!」と。
「お供えするお茶に息がかからんようにするんだ、人間の息は生臭いからな」
「そこまでですか?」
前の日にニンニクとかを食べていなければ済むんじゃあ…、とシロエ君が言い、私たちもそう思いましたが、そうはいかないのがお寺の世界で。
「人間の息は不浄なものだというのが定義だ、蝋燭も息をかけて消すのは厳禁だ!」
手で扇いで消す、というディープな世界。そんな世界で暮らすキース君にしてみれば、マスクをしないで登校して来たスポーツ推薦男子は非常識極まりないそうで。
「風邪など引かない仏様が相手でも気を遣うんだぞ、人間相手にも気を遣えと!」
「でもですね…。スポーツ推薦を目指す人ですよ?」
どちらかと言えばデリケートの反対な性格じゃないでしょうか、とシロエ君。
「風邪でゴホゴホやっていたって、自分がなんとか呼吸出来ればいいと思っていそうですが」
「そうかもしれんが…。事実、そうだったからこうなったんだが!」
なんだってこの暑いのにマスクをせねばならんのだ、というキース君の叫びは、私たちにも共通の叫びで。
「…マスクしないと罹りそうだもんね…」
凄い勢いで流行っているし、とジョミー君。
「マスクをしたままで昼御飯は食べられませんからね…」
その辺が防ぎ切れない原因でしょう、とシロエ君が大きな溜息。夏風邪、絶賛流行中です、引きたくなければ暑くてもマスク、当分はマスク生活かと…。



学校に登校して来たらマスク着用、そんな毎日。クーラーが効いている教室はともかく、校舎の外へ出て移動の時には外したくもなるというものです。けれども外したら夏風邪かも、とマスクをし続け、外せる場所は「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋だけという日々が続いて…。
「やっと終わったぁー!」
もうマスクとはサヨナラだ、とジョミー君が歓声を上げた終業式の日。一学期の終業式とくれば、シャングリラ学園名物、夏休みの宿題免除のアイテムが登場する日で、今年もそれを探しに奔走していた生徒が多数。
会長さんは校内に隠されたアイテムを幾つか確保し、例によって中庭で高い値段をつけて販売、ボロ儲けをしていましたけれど…。私たちも暑い中で呼び込みだとか列の整理だとか、色々お手伝いしましたけれども、やっぱりマスクで。
「…今日のマスクは特に暑かったな…」
中庭に長時間いただけに、とキース君がアイスコーヒーを一気飲み。私たちも冷たいレモネードだとか、アイスティーだとか、冷たい飲み物補給中です。ともあれ終わったマスク生活、「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋でリラックス。
「夏風邪、とうとう最後まで引き摺っちゃったわねえ…」
相当強力なウイルスなのね、とスウェナちゃん。
「仕方ねえよな、最初に持ち込んだヤツのがパワフルすぎたんだぜ」
それにしても…、とサム君が。
「ブルーはマスクはしてねえんだよな、ぶるぅもよ。今日の客にもゴホゴホやってたヤツがけっこういたのによ…」
ヤバくねえか、と心配になる気持ちは分からないでもありません。サム君は会長さんと今も公認カップル、会長さんに惚れているだけに、夏風邪を引いたら大変だと思っているのでしょう。
「え、ぼくかい? ぼくとぶるぅは…」
「かみお~ん♪ マスク無しでも平気だもーん!」
そのためにシールドがあるんだもん! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「身体の周りをシールドしとけば、ウイルスなんかは平気だもん!」
「そういうこと! マスクなんていう無粋なものはね、ぼくには似合わないんだよ」
せっかくの顔が見えなくなるし、と会長さん。
「この顔もポイント高いんだからね、マスクなんかは論外だってば!」
坊主の立場で紙マスクならば仕方ないけど、それ以外は絶対お断りだ、と超絶美形が売りの人ならではの台詞です。そっか、シールド、ウイルスにも有効だったんだ…?



季節外れのマスクで通った学校にサヨナラ、翌日からは夏休み。会長さんの家に出掛けて夏休み中の計画を練るのが恒例です。朝からジリジリと暑い日射しが照り付けてますが、会長さんの家は快適、窓の向こうの夏空なんかを眺めながらマンゴーとココナッツのムースケーキを頬張って。
「山の別荘、行きたいよねえ…!」
馬に乗るんだ、とジョミー君が言うと、シロエ君が。
「今年は登山もしてみたいです。日帰りじゃなくて、山小屋泊まりで」
「「「山小屋?」」」
そこまで本格的なのはちょっと…、と遠慮したくなる登山コース。でも…。
「山小屋と言ってもお洒落なんですよ、フレンチなんかも食べられたりして」
「「「フレンチ?」」」
どんな山小屋だと思いましたが、オーナーの趣味。いわゆる普通の山小屋として泊まるのも良し、お値段高めでフレンチを食べて洒落たお部屋に泊まるのも良し。
「食材はキープしてあるらしくて、予約さえすればフレンチを作ってくれるそうです」
「面白そうじゃねえかよ、それ」
山でフレンチ、とサム君が乗り気で、キース君も。
「山登りの後にフレンチか…。それはいいかもしれないな」
非日常な気分が満載だな、とこれまた乗り気。男子は一気に山小屋コースに突っ走りましたが、別荘地からどれだけ登ってゆくのかと思うとスウェナちゃんと私は…。
「…パスした方が良さそうよね?」
別荘から見えるあの山でしょ、とスウェナちゃんがブルブル、私だって。二人揃ってお留守番でいいやと決めた所へ、会長さんが。
「もったいないと思うけどねえ? 山小屋でフレンチ、夜は満天の星空だよ?」
「でも、あんな山なんかは登れないわよ!」
高すぎるわよ、とスウェナちゃんが返しましたが。
「ぼくが誰だか忘れてないかい? 瞬間移動で登山くらいは楽勝だってね」
「「「あーっ!!!」」」
それはズルイ、と男子全員が叫んだ所へ。
「こんにちはーっ!」
遊びに来たよ、と聞こえた声と、フワリと翻る紫のマント。別の世界から来たソルジャー登場、まさか山の別荘にも来るとか言ったりしないでしょうね…?



今年の山の別荘ライフは山小屋でフレンチ、そんな方向。素敵なプランが出来つつあるのに、ソルジャーなんかに割り込まれては困ります。そうでなくても海の別荘の方を乗っ取られているも同然なのに…。毎年、毎年、結婚記念日合わせで日程を組まされているというのに…。
なんて迷惑なヤツが来たのだ、と誰の顔にも書いてありますが。
「あれっ、今日はマスクはしてないのかい?」
ソルジャーの口から出て来た台詞はズレていました。
「「「マスク?」」」
「そう、マスク! この所、いつ見てもマスクだったと思うんだけど…」
放課後以外は、と私たちをグルリと見回すソルジャー。
「キースもシロエも、ジョミーもサムも…。全員、いつでもマスクを装備で」
「あれは要らなくなったんだが?」
もう夏風邪の危険は無くなったからな、とキース君が。
「この面子だったら心配無いんだ、あんな面倒なのを着けなくてもな」
「え…? それじゃ、本気でウイルス対策だったわけ?」
あのマスク…、とソルジャーは目を丸くして。
「そりゃあ確かに、風邪だって馬鹿に出来ないけれど…。ぼくのシャングリラも航行不能に陥りそうになったこともあるけど…」
「「「航行不能?」」」
なんで風邪で、と驚きましたが、ブリッジクルーの殆どが風邪に罹ってしまって危なかったことがあるらしいです。見習い中みたいな人まで駆り出して乗り切ったという風邪騒ぎ。
「でもねえ、あれは油断していたって面があるしね、最初の患者が出た時に」
きちんとシールドを張っていたなら大流行は防げた筈だ、と言うソルジャー。
「だから君たちもそうだと思って…。酷い夏風邪だと分かってるんだし、シールドしておけばウイルスは入って来ないしね」
ウイルス対策はそれで充分! と最強のサイオンを誇るタイプ・ブルーならではの発言。
「それなのに何故かマスクだったし、何か理由があるのかと…。殆どの人がマスクを着けているのをいいことにして」
「「「へ?」」」
いったいどういう発想でしょうか、私たちのマスクは純粋にウイルス対策だったんですが…。シールドなんかは張れないからこそ、みんなでマスクだったんですけど…?



私たちのサイオンは未だにヒヨコなレベルで、思念波くらいが精一杯です。ウイルス対策のシールドなんぞは夢のまた夢、会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が張っていたことにさえ気付かなかったというくらい。マスクに特別な理由なんぞがあるわけなくて。
「あんたが何を期待しているのかは知らんがな…。俺たちのマスクは普通にマスクだ」
風邪の予防だ、とキース君が代表で答えました。
「暑い最中にマスク生活は実に辛かったが、風邪を引くよりマシだからな」
「そうです、そうです。強力すぎる夏風邪でしたからね」
引いたら終わりなヤツでしたから、とシロエ君も。
「クシャミに鼻水、ついでに頭痛と高熱で…。インフルエンザも真っ青ですよ」
「…なんだ、ホントに風邪用のマスクだったのか…」
深読みしすぎた、とソルジャーが。
「言われてみれば、君たちにシールドは無理かもねえ…。そこまで気付かなかったから…」
「どう深読みをしたんだ、あんた」
そっちの方が気になるんだが、とキース君が尋ねると。
「ぼくにも意味が掴めなかったし、ランチついでにノルディに訊いてみたんだよ」
「何をだ?」
「クソ暑いのにマスクなんかをしてる理由だよ!」
他に何を訊くと、とソルジャーはフンと鼻を鳴らして。
「みんな揃って学校でマスク生活だけど、とノルディに訊いたら、教えてくれてさ」
「風邪の予防だと言われなかったか?」
あれでも医者だが、とキース君。エロドクターは何かと問題アリとは言っても名医で、マスクの理由もきちんと説明してくれそうです。ところがソルジャーは「ううん」と返事。
「学生運動だったっけか…。顔を隠すことに意味があるんです、と言ってたけれど?」
「「「学生運動?」」」
「そう言っていたよ、今はまだマスクの段階だけれど、もう少し経てば色々出ます、って」
「「「色々…?」」」
何が色々出ると言うのだ、と顔を見合わせた私たちですが。
「えーっと、サングラスにヘルメット…? それから角材」
「「「はあ?」」」
マスクの次にはサングラスが来て、それにヘルメットと角材ですって? なんですか、その建設現場の作業員みたいな装備品は…?



何を言われたのか、意味が不明なラインナップ。マスク着用でサングラスとくれば、どちらも埃除けっぽいです。更にヘルメットで頭をガードで、角材となれば建設現場くらいしか思い付きません。ただでも暑い夏だというのに、誰が建築現場に出たいと…?
「おい、角材で何をしろと言うんだ」
俺たちに何を建てさせる気だ、とキース君がウンザリした顔で。
「今は夏だぞ、クソ暑いんだぞ? 卒塔婆書きでも汗だくになるほどに暑いんだが…」
そんな真夏に誰が建築現場に出るか、と一刀両断。
「本職の人でも夏の盛りはキツイんだ。慣れない俺たちだと、確実に熱中症になると思うが」
「建築現場とは言っていないよ、学生運動と言った筈だよ」
「何なんだ、それは? 運動会…。いや待て、もしかしてアレのことか?」
ずうっと昔に流行ったヤツか、とキース君。
「学校をバリケード封鎖するとか、機動隊相手に乱闘するとか、そういう激しいヤツのことか?」
「そう、それだよ! ノルディが言ってた学生運動!」
そして君たちは学生だしね、とソルジャーはそれは嬉しそうに。
「分かってくれて嬉しいよ! ぼくはね、そういう方面でマスク生活なんだと信じてたから」
「派手に勘違いをしやがって…。あれは普通にマスクなんだ!」
ついでにマスクの出番も終わった、とキース君はキッパリと。
「学校は昨日で終わりだったし、柔道部にも風邪に罹ったヤツはいないし…」
「ええ。明日から始まる合宿にマスクは要りませんよね」
もうマスクとはサヨナラなんです、とシロエ君も相槌を打ちましたが。
「えーーーっ!?」
不満そうな声を上げたソルジャー。
「マスク生活は終わりだなんて…。ぼくの期待はどうなるんだい?」
「「「期待?」」」
まさか学生運動とやらを期待してましたか、ソルジャーは? マスクに加えてサングラスにヘルメット、角材も要るとかいうヤツを…?
「そうなんだよ! ノルディがそうだと言ってたから!」
それが始まるんだと思っていたのに、とソルジャーはなんとも悔しそうです。でもでも、学生運動なんて名前がついてるからには、多分、学校とはセットもの。終業式が済んで夏休みに入ってしまったからには、学生運動、無理っぽいと思うんですけどねえ…?



シャングリラ学園は今日から夏休み。登校日なんかはありませんから、恒例の納涼お化け大会に行きたい生徒や部活の生徒を除けば、学校とはキッパリ縁が切れるのが夏休み期間。その上、ただでも暑いんですから、誰がわざわざ学生運動をしに学校へ行くと…?
「うーん…。学生運動ってヤツは、別に学校と限ったわけでは…」
ノルディの話を聞いた感じじゃ、とソルジャーは未練たらたらで。
「デモに出掛けて機動隊と衝突したりもしてたって言うし、バリケードだって…」
いろんな所でバリケード封鎖、と語るソルジャー。
「とにかく建物とかを占拠で、凄く過激な運動らしいし…!」
ちょっと仲間に入りたかった、と斜め上な台詞が飛び出しました。
「「「仲間?」」」
「そう! ぼくは激しい闘争が好きで!」
根っから好きで、と赤い瞳を煌めかせるソルジャー、そういえば名前どおりにソルジャーで戦士。日頃、何かとSD体制の苦労が云々と言っている割に、ソルジャー稼業が好きでしたっけ…。
「あっ、分かってくれた? でもねえ、人類軍が相手だとシャレにならなくて…」
下手をすれば本当に死にかねないから、と尤もな仰せ。人体実験で殺されかけた経験も多数なソルジャーですから、人類軍が相手の時にも危険な橋ではあるわけで。
「一つ間違えたらヤバイっていうのも多くてさ…。だから、こっちで!」
こっちの世界で学生運動をしてみたいのだ、と言われましても。シャングリラ学園は夏休みですし、そうでなくてもソルジャーの存在自体が極秘だと言うか、何と言うか…。
「分かってないねえ、そこでマスクの出番だってば!」
それとサングラスでヘルメット、とグッと拳を握るソルジャー。
「それだけ揃えば、マスク以上に誰が誰だか分からないしね!」
「…君は、ぼくたちに何をさせたいわけ?」
ぼくたちには学生運動をしたい動機が全く無いんだけれど、と会長さん。
「ノルディがどういう説明をしたか知らないけどねえ、学生運動には主義主張がね!」
授業料の値上げ反対だとか、と会長さんは例を挙げました。
「そういった理由が何も無いのに、なんでやらなきゃいけないのさ?」
それに学校も夏休み中、とバッサリと。
「勝手に誤解して期待したんだろ、ぼくたちの夏休みの邪魔をしないでくれたまえ!」
山の別荘に行って登山でフレンチ、と話は元へと戻りましたが。妙な誤解をしていたソルジャー、これで諦めてくれますかねえ…?



今年の夏休みはマツカ君の山の別荘から登山に行く予定。フレンチが食べられるらしいお洒落な山小屋、其処に泊まろうというのが目的。学生運動なんかをやっているより断然そっちが楽しそうですし、それに決めたと思っているのに。
「フレンチな山小屋は逃げないじゃないか!」
また来年の夏にだって、とソルジャーはしつこく食い下がって来ました。
「人気のある宿は廃れないものだし、来年行けばいいんだよ!」
「来年まではまだ一年もあるんだけれど!」
どれだけ待てという気なんだ、と会長さんが切り返すと。
「それを言うなら、ぼくは一年後があるかどうかが謎なんだけどね?」
なにしろ毎日が命懸けの日々、とソルジャーの方も負けてはいなくて。
「此処でこうして話していてもね、明日にはシャングリラごと沈められてしまって、なんだったっけ…。お浄土だっけ? キースにいつも頼んでいる場所!」
あそこの蓮の上に引越しかも、と最強とも言える脅し文句が。
「そんな明日をも知れない身の上がぼくなわけでね、一年先なんて、とてもとても…」
君たちみたいに待てはしない、と頭を振っているソルジャー。
「一年先が無いかもしれないぼくと、一年後にはまた夏休みが来る君たちと…。どっちの希望を優先すべきか、普通は分かると思うけどねえ?」
「…ぼくたちに学生運動をしろと?」
マスクにサングラスでヘルメットなのか、と会長さんが嫌そうな顔で。
「ぼくの美意識に反するんだけどね、マスクってヤツは!」
「それはマスクだけで考えるからだろ、学生運動は誰が誰だか分からないんだよ?」
そのためのマスクでサングラス、とソルジャーは指を一本立てました。
「そうして隠せば顔は見えないし、君の自慢の顔がどうこう以前の問題! それに頭にヘルメットだから、髪の毛だって見えないから!」
銀髪なんだか金髪なんだか…、と言われてみれば一理あります。もちろん、よく見れば分かるんでしょうが、少なくとも真正面から見ただけではハッキリ分かりませんし…。
「ほらね、分からないだろうと思っている人間、ぼくの他にも大勢いるから!」
此処にいる面子の殆どがそういう考えだから、とソルジャーは強気。
「この夏休みは学生運動! ぼくも一緒にバリケードだよ!」
顔を隠してヘルメットを被ろう! とブチ上げているソルジャーですけど、何処でバリケードを作る気でしょう? シャングリラ学園、これだけの人数で封鎖するには広すぎませんか…?



ソルジャーがやりたい学生運動、目指すは何処かをバリケードで封鎖。とはいえ、シャングリラ学園の敷地は広大です。私たち七人グループに会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」、ソルジャーを足しても全部で十人、バリケード作りからして思い切り大変そうですが…?
「え、学校を封鎖したいとは言ってないけど?」
そもそも封鎖する理由がぼくには無いし、とソルジャーが先刻の会長さんの台詞と同じようなことを言い出しました。理由が無いなら学生運動、やらなくってもよさそうですが…。
「ダメダメ、ぼくはバリケードとサングラスにマスクの世界に憧れているんだよ!」
それに角材も持ってみたいし、とニコニコと。
「角材で殴りに行くんだってねえ、学生運動! そのレトロさがたまらないよ!」
ぼくの世界では角材はとっくの昔に消えた武器、と角材にまで魅力を感じるらしいソルジャー。
「銃は現役なんだけれどね、角材なんかじゃ戦えないねえ…。ぼくの世界じゃ」
流石のぼくでも角材は無理、とソルジャー、力説。
「サイオンを乗せて殴るにしたって、メンバーズとかを相手に角材はちょっと…。ましてテラズ・ナンバーだとか、戦闘機とかになってきたらね、角材なんかを持って行ったら馬鹿だから!」
もう絶対に馬鹿としか思って貰えないから、という見解はよく分かります。いくらソルジャーがミュウの長でも、最強の戦士という認識でも、武器に角材。その段階で失笑を買うだろうことは確実、たとえ勝っても後々まで記録に残りそうと言うか、語り草になっていそうと言うか…。
「そこなんだよねえ、やっぱりメンツにこだわりたいしね!」
同じ戦うならカッコ良く! というソルジャーもまた、会長さんと同じで自分を美しく見せたいタイプみたいです。角材で戦うなどは論外、笑いの種など作りたくないという発想で。
「決まってるじゃないか! ソルジャーはあくまで最強の戦士!」
それに相応しい戦いをすべし、とソルジャーは持論を披露しました。
「スマートに戦ってなんぼなんだよ、剣でも、銃でも!」
見た目にカッコいい武器がいいのだ、と言いつつ、どうやら憧れているらしい角材。どの辺がどうカッコいいのか分からないんですけどね、その角材…。
「カッコいいとは言わなかったよ、レトロなのがいいと言ったんだよ!」
もう素朴すぎる武器が角材、とソルジャーは夢見る瞳でウットリと。
「殴りようによっては人も殺せるけど、ただの木の棒なんだしねえ…。人類最古の武器だと聞いても驚かないねえ、角材はね!」
それで戦えれば充分なのだ、と言ってますけど、その前にバリケードが必須です。何処かを封鎖してしまわないと角材バトルも無理ですけれども、ソルジャーに動機は無いんですよね…?



角材でのバトルに憧れるソルジャー、レトロな武器で戦いたいという御希望。けれど戦うには相手が必要、学生運動とやらをやるならバリケードで封鎖で、それからバトル。シャングリラ学園を封鎖したい動機が無いというのに、何故に封鎖で角材バトル…?
「ぼくに無いのはシャングリラ学園を封鎖する動機! 角材バトルはまた別の話!」
だだっ広い学校を封鎖せずとも学生運動は充分出来る、とソルジャーは胸を張りました。
「要は学校関係者とバトルが出来ればいいんだよ! 角材で!」
「「「…関係者?」」」
理事長先生とかなんでしょうか、それとも校長先生とか?
「そういう人たちを殴りたいとは思わないねえ…。面識も無いし」
「ちょっと待て!」
面識だと、とキース君がソルジャーの言葉を聞き咎めて。
「あんたが直接顔を知ってる学校関係者といえば、教頭先生だけしか無いんじゃないのか?」
「ピンポーン!」
それで正解、とソルジャーは笑顔。
「他の先生もまるで知らないとは言わないけどさ…。ブルーのふりをして入り込んでたこともあるから、接触は何度もしているけどさ…。向こうはぼくだと知らないからねえ!」
ブルーだと思っているからね、とアッサリ、サラリと。
「だから、狙うならハーレイなんだよ! バリケード封鎖も、角材バトルも!」
「「「きょ、教頭先生…」」」
どんな理由で教頭先生を相手に学生運動なのか。授業料は教頭先生の管轄じゃないという気がしますし、角材で殴られるほどのことも全くしてらっしゃらないのでは…?
「してないだろうね、学校という組織の中ではね」
でも、外へ出ればどうだろう? とソルジャーは視線を会長さんへと。
「ブルーも生徒の内なんだけどね、そのブルーに惚れて色々とねえ…」
プレゼントなんかは序の口で、とニンマリと。
「結婚を夢見てあれこれ妄想、何かと悪事を働いてるよね?」
「君もせっせと焚き付けていると思うけど?」
今までにどれほど迷惑を蒙ったことか、と会長さんは冷たい口調ですが。
「それはそれ! ぼくがやりたいのは学生運動!」
日頃の夢より、角材バトル! とソルジャーは学生運動のターゲットとして教頭先生をロックオンしたみたいです。どういう要求を突き付けるんだか、バリケード封鎖は何処でやると…?



夏風邪防止のマスク姿に端を発した、ソルジャー独自の勘違い。エロドクターから学生運動と聞いたばかりに、ソルジャーは角材バトルをやろうと決めてしまって…。
「…なんでこうなるわけ?」
山の別荘と山小屋フレンチは何処へ…、とジョミー君が嘆く炎天下。あれから恒例の柔道部の合宿とジョミー君とサム君の璃慕恩院での修行体験ツアーが終わって、昨日は打ち上げの焼肉パーティーでした。クーラーの効いた会長さんの家で美味しいお肉を食べまくって。
それなのに今日は一転した境遇、炙られそうな酷暑とセミがミンミン鳴きまくる中でマスクにサングラス、ヘルメットという完全装備に、誰が誰だか分からないよう長袖シャツに長ズボン。
「くっそお、暑い…。暑いんだが…!」
これくらいならまだ墓回向の方が遥かにマシだ、とキース君も文句たらたらですけど、同じ格好をしたソルジャーと会長さんは「そこの二人!」と名指しで「サボらないように」と。
「早くバリケードを作らないとね、ハーレイが帰って来てしまうからね!」
「そうだよ、せっかく出掛けたくなるようサイオンで細工したのにさ!」
ぼくの努力を無にしないで欲しい、とバリケード封鎖の言い出しっぺのソルジャー。
「とにかく急いで仕事をする! ご近所からは見えていないんだからね!」
「そのシールドの能力とやらで、暑さもなんとかして欲しいんだが…!」
暑くてたまらないんだが、とキース君が訴えましたが、ソルジャーは。
「夏のマスク生活、学校で充分やっただろう? 慣れればいいんだよ、この環境も!」
「しかしだな…! あの時はヘルメットとかは無くてだ、長袖とかも…!」
「君の正体がバレてもいいなら、外してくれてもいいんだよ?」
マスクもヘルメットもサングラスも…、というソルジャーの台詞は間違ってはいませんでした。間もなくお帰りになる予定の教頭先生にバレていいなら、マスクもサングラスも要りません。半袖シャツを着てもオッケー、誰も駄目とは言いませんけど…。
「…俺だけ正体がバレると言うのか?」
「そりゃねえ、他のみんなが完全防備で顔も見えない状態だとね?」
背格好でも分からないようサイオンで調整中だからね、とソルジャーが言う通り、同じ格好をしている面子はその状態にあるらしいです。そしてスウェナちゃんと私は会長さんに暑さ防止のシールドを張って貰っていますから…。
「女子だけシールドをサービスだなんて、差別だと思う…」
なんでぼくたちだけが暑い思いをさせられるのさ、とジョミー君がブツブツ、他の男子もブツブツブツ。会長さんもソルジャーも「そるじゃぁ・ぶるぅ」もシールドつきなんですよね…。



こうして教頭先生のご自宅は完全にバリケードで封鎖されてしまいました。庭までは入って来られますけど、家の中へは入れません。玄関前には一番堅固なバリケード。その前にズラリ並んで待っている間に、何も知らない教頭先生がお帰りで…。
「な、なんだ!?」
何事なのだ、と門から庭へと入った所で固まっておられる教頭先生。行き先は本屋だったらしくて、ロゴが入った紙袋を提げておられます。其処でソルジャーが拡声器を手にして、スウッと大きく息を吸い込んで…。
「我々はぁーーーっ!!」
マスク越しでもガンガン響く声、ただし庭より外へは聞こえないよう、バリケードと同じくサイオンで細工。音声もキッチリ変えてありますから、ソルジャーの声とは分からない仕組み。教頭先生がギョッと後ろへ一歩下がると、ソルジャーは。
「断固、抗議するーーーっ!! 教え子に惚れるなど言語道断、絶対反対ーーーっ!!」
「…お、教え子…?」
嫌というほど身に覚えのある教頭先生、オロオロとして。
「そ、それはブルーのことなのか…?」
「他に誰がいるとーーーっ!! 我々は断固、戦うのみでーーーっ!!」
その関係を撤回するまで戦い抜くのみ! と大音量でのアジ演説が始まりました。会長さんには今後一切手を出さないと約束するまでバリケード封鎖を解く気は無いと。
「し、しかし…! 私はブルーに惚れているわけで…!」
三百年以上もブルーだけを想って一筋に今日まで来たわけで、と教頭先生も諦めません。どうせ遊びだとなめてかかっている部分もあるのか、「私はブルーを諦めないぞ!」と言い放った後は、クルリと背を向け、庭から外へと出てゆかれて…。
「…どうなったわけ?」
武器でも取りに行ったんだろうか、とジョミー君が首を傾げると、会長さんが。
「違うね、暑いからアイスコーヒーを飲みに喫茶店へね」
「行きつけの店で休憩らしいよ、これは持久戦コースかもねえ…」
それでこそ戦い甲斐ってものが、とソルジャーはウキウキしています。マスクにサングラス、ヘルメット装備で、長袖シャツに長ズボンで。
「ぼくのシャングリラは、ぶるぅに見張らせてあるから安心! 持久戦でもドンと来いだよ!」
バリケードを守りながらの食事とかもまたいいものだしねえ…、とソルジャーは学生運動もどきを楽しんでいます。角材も用意していますけれど、角材バトルまで行くんでしょうか…?



教頭先生は喫茶店からファミレスに移動、夏の長い日が暮れる頃に戻ってこられましたが。
「我々はぁっ、断固、抗議するーーーっ!!」
断固戦う、というアジ演説をブチかまされて深い溜息、また出てゆかれてビジネスホテルに泊まるようです。私たちの方は交代で会長さんの家まで瞬間移動で、お風呂に仮眠に、食事タイムも。基本が高校一年生な肉体、それだけ休めばもう充分というもので。
次の日も教頭先生と睨み合いの一日、バリケードを守って日が暮れました。山の別荘と山小屋フレンチな登山の代わりに男子は汗だくコースですけど、三日目ともなれば出て来た余裕。
「…こういう経験も悪くないかもしれないな…」
今どき学生運動なんぞは無いからな、とキース君がマスクの下で呟き、サム君が。
「此処まで来たらよ、角材も振り回してみてえよなあ…」
「だよねえ、相手は機動隊とは違うしね」
逮捕ってことはないわけだから、とジョミー君も角材バトルをやりたいようです。ソルジャーは元からそれが夢ですし、会長さんも「そるじゃぁ・ぶるぅ」も…。
「ハーレイを角材で殴れるチャンスはそうは無いしね、最初で最後かもしれないからねえ…」
「かみお~ん♪ ぼくも大きく見えてるんだし、ぼくがやったってバレないもんね!」
角材で一発やってみたいよう! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。ソルジャーはレトロな憧れの武器の素振りに余念が無いという有様、後は教頭先生の強行突破を待つのみで…。
「…ん? 来たかな?」
ついに戦う気になったかな、とソルジャーが庭の外へと目を凝らしたのが三日目の夕方。ビジネスホテル住まいで過ごした教頭先生、武器は持たずにズンズンと庭へ入って来られて…。
「私も男だ、ブルーを諦める気にはなれんのだーーーっ!!」
入れないなら突入する! とダッと駆け出し、玄関へ突進、バリケード突破を目指されましたが。
「させるかーーーっ!」
マスクでサングラスなソルジャーが振り下ろした角材の一撃、教頭先生の肩に見事にヒット。これは痛そうだと思ったんですけど、ぼんやりと光る緑のサイオン、シールドで防がれてしまったみたいです。突入すると決めた時点で想定してましたか、角材攻撃…。
「ふん、角材か。私には効かんな」
これでもタイプ・グリーンだからな、と威張り返った教頭先生、そういうことなら何の遠慮も要りません。効かないんだったら殴り放題、これは私も殴らなくては…!



たかが角材、されど角材。いくらダメージを受けないとはいえ、総勢十人分の攻撃、面子の中には歴戦の戦士のソルジャーだとか、柔道部で鳴らしたキース君とかもいるわけで。バリケードを破ることが出来ない教頭先生、何を思ったか、庭の方へと走ってゆかれて…。
「「「…???」」」
武器でも取りに行ったのだろうか、と眺めていたら、ズルズルズルと引き摺っておいでになった水撒き用のホース。教頭先生はそれを構えて。
「こういう時の定番は放水銃なのだーーーっ!!!」
食らえ! と景気よくぶっ放された水、こちらもシールドで楽勝で防げる筈なのですが。
「何するのさーーーっ!!!」
よくもぼくに、と会長さんがマスクとサングラスをかなぐり捨てました。ヘルメットもポイと。長袖シャツとズボンはずぶ濡れ、明らかに意図的にシールドを解いていたわけで…。
「す、すまん…! ま、まさかお前だとは…!」
「ぼくの見分けがつかなかったって? ブルーと間違えるよりも酷いよ、それは!」
君のぼくへの愛の程度がよく分かった、と会長さんが怒鳴って、その隣から。
「…ぼくもずぶ濡れになったんだけどね、こういう時には大乱闘でいいんだっけね…?」
バリケードを巡ってバトルはお約束らしいよね、とマスクとサングラスを捨てたソルジャー、手に角材をしっかりと。
「…そ、それは…! いえ、決してわざとやったというわけでは…!」
「どう考えてもわざとだろう? 君の愛するブルーと、ぼくとがずぶ濡れだしねえ…?」
この落とし前はつけて貰う、とソルジャーが角材を振り上げ、会長さんも。
「総攻撃してかまわないから! 誰が誰だか分からないから!」
「「「はーい!!!」」」
こんなチャンスは二度と無い! と構えた角材、顔を隠したマスクとサングラス、それにヘルメットな私たち。戦いは夜まで続くんでしょうか、なんとも貴重な夏休みの思い出になりそうです。教頭先生、遠慮なく殴らせて頂きますから、頑張ってガードして下さいね~!




           マスクで隠せ・了


※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 コロナでマスクな夏も二年目。シャングリラ学園にも流行る夏風邪、暑くてもマスクな日々。
 そこから転じて学生運動、教頭先生の家をバリケード封鎖。こんな夏休みも楽しいかも。
 次回は 「第3月曜」 8月16日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、7月は卒塔婆書きに追われるキース君。まさに地獄の日々で…。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv










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