シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(いた…!)
あの子だ、とブルーが名を呼んだ猫。学校の帰りにバス停から家まで歩く途中で、庭にいるのを見付けたから。白と黒のブチ猫、名前はムタ。
人懐っこい猫で、呼ばれると歩いて来てくれる。生垣の側まで。手を振る間にやって来たから、もう嬉しくて立ち話。「元気にしてた?」とか、「今、学校から帰ったんだよ」とか。
もちろん猫は喋らないけれど、「ミャア」と鳴いたり、喉をゴロゴロ鳴らしたり。今日の報告もしていたら…。
「ブルー君、今、帰りかい?」
「あっ…!」
掛けられた声に驚いた。気付かなかった家の住人。この家の御主人、庭木の陰からヒョッコリと顔を覗かせた。「こんにちは」と。
「ごめんなさい!」と頭を下げて、慌てて挨拶。「こんにちは」と御主人と同じ言葉を返して。
失敗しちゃった、と真っ赤になった頬。猫と話している間中、御主人は庭にいたのだろう。
(凄く失礼…)
猫に挨拶していただなんて。おまけに楽しく話まで。先に挨拶するべき御主人を放って、挨拶もしないで猫とお喋り。
大失敗だよ、と肩を落としていたら、御主人は猫をヒョイと抱き上げて。
「気にしなくていいよ、ブルー君」
うちの子を可愛がってくれているのが分かるしね。この子も嬉しそうにしてただろう?
「でも…。ご挨拶…」
「ムタの方が先でいいんだよ。この子は私より偉いからね」
「えっ?」
どういう意味、と目を丸くしたら、御主人は猫を撫でながら。
「そのつもりらしいよ、本人はね。…いや、猫だから本猫かな?」
一番偉いのはムタってことだね、この家ではね。本当だよ。
この家の誰よりも偉いんだ、と撫でた御主人に「ミャア!」と鳴いた猫。「下ろしてよ」という意味らしい。「この通りだから」と下ろして貰った猫は、悠然と向こうへ行ってしまった。
御主人よりも奥さんよりも、娘さんたちよりも偉いムタ。家を代表するのは猫の「ムタさん」。だからこれからもムタを優先でどうぞ、と御主人は言ってくれたのだけれど。
(恥かいちゃった…)
御主人を抜かして、猫に挨拶したなんて。そのまま話をしていただなんて。
(挨拶、とっても大切なのに…)
顔見知りの人に会ったら「こんにちは」だし、「行ってらっしゃい」と声を掛けられた時には、「行って来ます」と元気に返事。「おかえり」だったら、「ただいま」で…。
小さい頃から頑張っていたのに、大失敗をしてしまった。顔が真っ赤になったくらいに。
(…猫に挨拶…)
それだって、大事だとは思う。あそこに猫しかいなかったなら。猫のムタさん、白と黒のブチの毛皮が見えたら、やっぱり挨拶。
(猫だって、ご近所さんだもの…)
挨拶しないで通り過ぎるより、一声かけていく方がいい。「こんにちは」と。
けれど、猫への挨拶だって、人間同士の挨拶の延長。家の人がいたなら、そちらが優先。挨拶はそういうものだから。人間だったら、ちゃんと言葉か返るのだから。
ホントに失敗、とトボトボ帰って行った家。今日は大恥、と。
気分を切り替えるにはこれが一番、と着替えてダイニングに出掛けたおやつ。美味しいケーキと紅茶で気分転換、元気が出たよ、とテーブルにあった新聞を広げて読み始めたら。
(山登り…)
絶壁を登る登山ではなくて、その辺りの山から始める登山。自信がついたら山小屋に泊まって、高い山へと。もっと自信がついたらテントを張って…、といった記事。
身体の弱い自分とは縁が無いのが登山で、それでも楽しそうだから。「登ってみたいな」という気持ちになってくるから面白い。
興味津々で読み進めてゆくと、山での挨拶が書かれていた。登山者同士で交わす挨拶。山登りの途中で擦れ違う人と、「こんにちは」と。
疲れていたって、するのがマナー。会釈だけでも。
(うーん…)
このタイミングで挨拶の話、と今日の失敗を思い返して唸っていたら、通り掛かった母。
「どうしたの?」
新聞に何か、難しい話でも載ってるの?
「そうじゃないけど…。ただの山登りの記事なんだけど…」
でも、挨拶が大事なんだって。山に登るなら、知らない人でも会ったら挨拶しましょう、って。
その挨拶、ぼく、失敗しちゃった…。山じゃないけど。
御主人がいるのに、猫に挨拶しちゃったんだよ、と失敗談を打ち明けた。あそこの家、と。
「ぼくって、ホントに駄目みたい…。ムタを見付けて、夢中になって…」
ちっとも周りを見ていなかったから、ホントのホントに大失敗だよ。
「あら、失敗は誰にでもあるわよ。そういうのはね」
「ママもやったの?」
家の人、ちゃんと其処にいるのに、猫に挨拶。
「そうよ、何回もやってるわよ。ご近所でもやったし、お友達の家でも」
出掛けて行って、お留守かしら、と勘違いしちゃって…。
それだけならいいけど、猫とか犬にお話しちゃうの。「今日はお留守番?」ってね。
「ママでもやるんだ…。そんな失敗」
「パパもやってると思うわよ?」
チャイムを鳴らして返事が無ければ、お留守なのかと思うじゃない。
お庭の方かも、って眺めた時にね、猫とかがいたら、やっちゃうわよ。「お留守なの?」って。
ママでもやるから大丈夫、と太鼓判を押して貰った。
人がいることに気付いた時に挨拶出来れば、それで充分。「ごめんなさい」と、気付かなかったことを謝って。
挨拶は人間関係の基本なのだし、挨拶する気持ちが大切だから、と。
「ホント?」
「ええ、本当よ。それにね、ムタさんの家の御主人はね…」
猫にも挨拶してくれる人が大好きなのよ。あの御主人に挨拶をしたら、次はムタさん。そういう順番になってるみたいよ、猫好きだから。
「猫に挨拶って…。ママも?」
「何度もしたわよ、「こんにちは」ってね」
だから、ムタさんの方が先でも本当に大喜びなの。「挨拶して貰えて良かったね」って。
またやったって大歓迎して貰えるわよ、と母に教えて貰ったけれど。ムタの御主人が言っていた言葉は、どうやら本当らしいけれども。
部屋に帰ったら、やっぱり溜息。結果はどうあれ、失敗したことには違いないから。
(山では、疲れていたって挨拶…)
向こうから人がやって来た時は。「こんにちは」と元気に声が出せなくても、会釈すること。
そういえば、ハーレイはジョギング中に手を振ると言っていた。誰か手を振ってくれた時には。手を振るのは多分、子供だろうに、手を振り返して走ってゆくハーレイ。
山と同じで、ジョギングしている真っ最中でも、挨拶を返しているわけで…。
(ぼくって駄目かも…)
走っていたって、周りが見えているハーレイ。子供にもきちんと挨拶をする。なのに、のんびり歩いていた自分は家の御主人を見落としてしまって、猫に挨拶。そのまま猫と話まで。
注意力散漫だから失敗しちゃって恥をかくんだ、と考えていた所へ、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたまではいいのだけれど。
(きちんと挨拶…)
今日くらいはハーレイにも挨拶しなきゃ、と引き締めた心。ちゃんと挨拶、と。
猫で失敗した分まで。御主人抜きで猫に挨拶していた分まで、ハーレイに挨拶、と思ったのに。
母の案内でハーレイが現れた途端に、「ハーレイ!」と呼び掛けてしまった自分。
挨拶なんかは綺麗に忘れて、いつものように。「来てくれたの?」と。
そのハーレイと、テーブルを挟んで向かい合わせに腰掛けて。お茶のカップに手を伸ばしたら、気が付いた。挨拶を忘れていたことに。
「やっちゃった…」
ぼくってホントに駄目みたい…。また失敗…。
「失敗って、何をだ?」
ハーレイは怪訝そうだけれども、失敗は失敗。いつも通りでも大失敗だから。
「挨拶、忘れた…」
ちゃんとハーレイに挨拶しなきゃ、って思ってたのに。
「挨拶って…。普通だったろ?」
忘れてないだろ、お前、いつもと変わらなかったぞ。嬉しそうだったし。
「いらっしゃい、って言おうとしていたんだよ」
ハーレイ、お客様だから…。お客様には「いらっしゃい」でしょ?
「おいおい、なんだか気味が悪いな。お客様も何も、今更だろうが」
そんな挨拶、お前から聞いたことなんか一度も無いと思うが…。
いきなりどうした、何かあったのか?
俺に「いらっしゃい」と他人行儀な挨拶をするほど、お前が変になっちまうことが。
「あのね…」
挨拶で失敗しちゃったんだよ、今日の帰りに。
バスを降りてから歩いてた時に、とっても可愛い猫に会ったから…。
その家の御主人に気付かないまま、猫に挨拶して話しちゃってた、と白状した。大失敗、と。
「…いいんだよ、って言って貰ったけど、ホントに失敗…」
だから挨拶のやり直し、ってハーレイに言おうとしてたのに…。「いらっしゃい」って。
「なんだ、そういうことだったのか。猫に挨拶しちまった、と」
愉快じゃないか、子供なんだし、大丈夫さ。そうでなくても、御主人、猫が大好きなんだろ?
猫に挨拶が歓迎だったら、お前は失敗してないんだから。
「でも…。注意してたら、失敗しないよ」
挨拶、とっても大切なのに…。小さい頃から、ちゃんと挨拶してるのに。
「気持ちは分かるが、そこまで恥だと思わなくても…」
第一、お前はよくやっていると思うぞ、俺は。
「…何を?」
「挨拶だ、挨拶。今は挨拶の話だろうが」
お前は立派に挨拶してる。今日は失敗したかもしれんが。
「えーっと…。学校でハーレイにしてる挨拶?」
先生なんだもの、挨拶するよ。他の先生だって、会ったら、きちんと。
「その挨拶の方も大したもんだが…。それよりも前に、だ…」
お前、元々、される方だろ?
挨拶ってヤツを。
「される方って…。何の話なの?」
ぼくは挨拶をする方で…。クラブなんかも入ってないから、誰も挨拶してくれないよ?
挨拶した時のお返しだとか、後はご近所さんだとか…。先に気付いてくれた時だけ。
「前のお前だ、今じゃなくてな」
挨拶される方だったろうが、いつだって。ソルジャーから先に挨拶はしない。
シャングリラじゃ、そういう決まりだったと思うがな…?
「そうだっけ…!」
忘れちゃっていたよ、そんなこと。…今の今まで、ホントに全部。
あったんだっけ、と蘇った記憶。遠く遥かな時の彼方で、確かにあった決まりごと。
白い鯨が出来るよりも前、ソルジャーの肩書きがついた途端に、エラが勝手に決めてしまった。船の中でソルジャーに出会ったならば、必ず先に挨拶すること、と。
ソルジャーが挨拶するよりも前に。敬意を表して、挨拶の言葉。
「お前、あの決まりに慣れなくて…」
ソルジャーって呼び名の方もそうだが、いきなり特別扱いだしな?
挨拶は必ず向こうから、って決められたって上手くいかないんだよなあ…。
「うん。ぼくの方が先に挨拶しちゃうんだよ」
だって、それまで、そうだったから…。一番のチビで、子供だったんだから。中身だけはね。
いくら大きくなっていたって、他のみんなの方が上だよ。ぼくが挨拶しなくっちゃ。
そうしていたのに、エラが決まりを作っちゃって…。
ぼくが挨拶しちゃった時には、エラが側にいたら直されるんだよ。「それでは駄目です」って。
ソルジャーなんだから、相手に挨拶させるべきだ、って。
「そうだったんだよなあ、エラは礼儀作法ってヤツにうるさかったし」
お前は本当に困っちまって、仲間たちも途惑っていたっけなあ…。調子が狂って。
あの決まりが出来てしまうよりも前は、お前、みんなに挨拶してたし…。今のお前みたいに。
もっとも、俺はそれほど困らなかったが。ああいう決まりを作られてもな。
「なんで?」
ハーレイもエラに直されてたと思うんだけど…。「やり直して下さい」って、何回も。
「そいつは俺の言葉の方だ。敬語になっていなかったからな、最初の頃は」
言葉遣いが間違っている、と直されただけで、挨拶の方は言われていないぞ。
「よう!」とやったら失礼な言葉遣いってことで失敗するがだ、元から俺が挨拶してたろ。
お前を見掛けたら、俺の方が先に。
「そういえば…。ハーレイ、気付くの、とっても早かったもんね」
ぼくが通路を曲がった途端に、「よう!」って手を振ってくれたっけ。
ぼくは大抵、振り返す方。…ハーレイが先に気付いちゃうから。
前のハーレイはそうだった。シャングリラの中で出会った時には、距離があっても振ってくれた手。挨拶の声が届かないほどでも、「此処だ」と、「俺だ」と。
いつも嬉しくて、精一杯に振り返した手。「ぼくだよ」と、「じきにそっちに行くよ」と。
けれど、そのハーレイとさえ開いてゆく距離。ソルジャーという肩書きのせいで。
自分からは先に出来ない挨拶。相手が挨拶してくるまでは。
今日はハーレイを先に見付けた、と思った時にも手を振れはしない。ハーレイも前のように手を振ってはくれない。それはエラの言う「挨拶」の内には含まれないから。
ソルジャーに挨拶するなら、会釈。親しみをこめて手を振ることは許されなかった。
ずっと後になって、幼い子たちが船に来た時は、許されたけれど。子供たちはソルジャーに手を振りたがるから、幼い子供の特権で。
その子供たちも、大きくなったら手は振らない。ソルジャーの方からも、もう手は振れない。
幼い子供とは違うのだから、あちらが挨拶するのを待つ。
挨拶されたら、ようやく自分も話すことが出来た。挨拶にしても、「元気にしているかい?」と大人の仲間入りを果たした気分を尋ねるにしても。
厄介だったシャングリラの規則。ソルジャーが先に挨拶出来ない決まり。
「なんで、あんな決まりが出来ちゃったのかな…」
挨拶なんか、どっちが先でもいいじゃない。そりゃあ、今でも、少しは決まりがあるけれど…。
御主人よりも先に猫に挨拶するのは、失敗だけど。
「決まりの由来は俺も知らんが、エラだからなあ…」
昔の王族の習慣あたりが出処になっているんじゃないか?
挨拶ってヤツとは少し違うが、身分が下の人間からは話し掛けられないって決まりがな…。
前の俺は全く知らなかったが、今の俺の薀蓄の一つってわけで、雑談のネタにすることもある。
まずは言葉をかけて貰って、それからでないと話せない。そんなルールがあったんだそうだ。
シャングリラでは、其処まで出来ないし…。
ちょっと捻って、「挨拶してからでないと話せない」って風にしたかもしれんぞ。
挨拶抜きでは喋れんからなあ、ソルジャーとはな?
まず挨拶だと、それから喋れと、偉さを強調していたかもなあ…。
「なに、それ…。自分からは話し掛けられないって…」
身分が下だと待ってるだけなの、偉い人の方が先に喋ってくれるのを…?
「そうだったらしい。実際、徹底していたようだぞ」
この決まりのせいで、外交問題になりかかったという事件まであった。
一言も言葉を貰えないから、と怒り出した人間が現れちまって。
「えーっ!?」
外交問題って、お喋りのせいで?
どうしたらそういうことになっちゃうの、いったい何が問題だったの…?
失言だったら外交問題になっても当然だけれど、喋らないことが何故問題になるのだろう?
沈黙は金と言うほどなのだし、黙っておけば良さそうな感じ。そう思ったのに…。
「ところが、そいつが違うんだ。…この場合はな」
フランスって国があったことなら知ってるだろ?
其処に別の国からお輿入れしたお姫様。そのお姫様が問題だった。
王様の孫のお嫁さんになったわけだが、王様のお妃はもういなくって…。その子供たちも、もういなかった。孫が皇太子で、そのお妃の身分が一番高いってな。女性の中では。
しかし王様には、大事な女性がいたわけで…。我儘は何でも聞いてやりたいってトコだ。
お姫様が来るまでは、それで良かった。だが、お姫様が来たら、女性の身分は下になってだ…。元の身分も低かったからと、お姫様は口も利かないってな。
「…それじゃ、外交問題って…」
お姫様の国とフランスとの間の問題?
その女の人が怒っちゃって…?
「分かってるじゃないか。なにしろ、面子が丸潰れだしな」
まるで王妃様のように振舞ってたのに、お姫様のお蔭で台無しだ。身分は下だ、と馬鹿にされているわけなんだから。
王様も怒るし、それは大変で…。結局、お姫様の方が折れたんだ。
たった一言、挨拶すれば丸く収まるというわけでな。
もっとも、その挨拶が実現するまでが、山あり谷ありと言うべきか…。色々な人間が間に入って邪魔をするから、そう簡単にはいかなかったらしい。
挨拶一つでその有様だぞ、国と国とが喧嘩を始めてしまいそうなほどに。
とんでもない決まりがあったもんだ、とハーレイが軽く広げてみせた手。「実話だしな?」と。
「それだけ大騒ぎをやらかした末に、お姫様はなんて言ったと思う?」
今まですみませんでした、と謝ったんなら、俺たちにだって理解できるが…。
そうじゃないんだ、「今日は大勢の人で賑やかですね」と言ったらしいぞ。詫びの言葉は欠片も無しで。だが、それだけで済んじまった。ちゃんと言葉は掛けたんだから。
「…ごめんなさい、って言うんじゃないんだ…」
外交問題になっていたって、たったそれだけ…?
「うむ。お姫様から言葉を貰えばいいわけだからな。中身はどうでもいいってことだ」
怒っていた女性は大満足だし、王様も大いに満足したって話だぞ。
決まりはきちんと守られたわけで、お姫様は女性を丁重に扱ったということになって。
「その話、エラが好きそうだね…」
ソルジャーが「どうぞ」って言わない間は、誰も話し掛けちゃ駄目だとか…。
どんなに話をしてみたくっても、門前払いになっちゃうだとか。
「そうだろう? 俺もそういう気がしてな…」
俺は「挨拶はソルジャーよりも先に」ってヤツの、由来を全く覚えちゃいないが…。
前の俺が知っていたのかどうかも謎だが、この辺りが元になったんじゃないか?
シャングリラって船の事情に合わせて、アレンジして。
とにかくソルジャーを偉く見せようと、「挨拶はソルジャーよりも先に」と徹底させて。
エラはソルジャーの威厳にこだわってたしな、と苦笑いを浮かべているハーレイ。
「お前には気の毒な決まりだったが、フランスよりかはマシだろうが」と。
「本当にあれが元だったのかは分からんが…。そのまま使われていたら大変だぞ?」
ただでもお前は、みんなと喋りたかったのに…。気軽に話し掛けて欲しかったのに。
お前の方から「話していいよ」と言わない限りは、誰も喋ってくれないんじゃなあ…?
その点、挨拶するだけだったら、そいつが済んだら喋れるんだし…。
挨拶は向こうが先にするっていう決まりだったし、お前は話し掛けては貰えたわけだ。やたらと丁寧な敬語だろうが、何だろうが。
「あの挨拶…。ぼくに会ったら、挨拶は相手の方から、ってヤツ…」
緊急事態は除外します、ってエラは決めちゃってたけれど…。
当たり前だよね、そうしておくこと。
シャングリラがどうなるか分からない時に、挨拶なんかを待っていられないよ。
誰でもいいから声を掛けるし、「手伝って」って頼みもするんだから。
「そんな時まで、いちいち挨拶しないよなあ?」
俺の敬語も、最初の頃なら吹っ飛びそうだぞ。
アルテメシアから逃げ出そうって時には、とっくに癖になっていたからヘマはしなかったが…。
お前が「ワープしよう」と言い出した時も、ちゃんと敬語で応じてたがな。
…待てよ、あの時、お前に挨拶してないか…。
お前から思念が飛んで来たから、誰も挨拶しなかったっけな、画面に映し出されたお前に。
緊急事態ってヤツだからなあ、エラも忘れていたんだろうが…。
いくらエラでも、挨拶がどうのと言っていられる状況なんかじゃなかったんだし。
まったくもって妙な習慣だった、とハーレイが苦笑している挨拶。ソルジャーに会ったら、先に挨拶するという決まり。
「そうは言っても、お前も自然と慣れてったわけで…」
挨拶は向こうがしてからだ、って堂々と振舞うようになっていたのに、今じゃコロリと変わっているよな。昔のお前と全く同じに、自分の方から挨拶と来た。
そっちの方に慣れ過ぎちまって、猫に挨拶しちまうくらいに。
「忘れちゃっていたよ、そんなことは」
誰かに会ったら、挨拶するのを待ってたなんて。…ぼくの方からは挨拶しないで、偉そうに。
最初の間は寂しかったけど、慣れてしまったら、そういうものだと思うから…。
船のみんなも慣れてしまって、自然とそうなっていっちゃったから。…子供たちもね。
小さい間はぼくの方から挨拶したけど、大きくなったら向こうが先。手だって、ぼくには振ってくれなくなってしまって。
でも、ナキネズミには、ぼくから挨拶していたから…。船の中でバッタリ会った時には。
「そうだったのか?」
ナキネズミはお前よりも偉かったわけか、ソルジャーの方が先に挨拶するんだから。
船のヤツらは、みんな揃ってソルジャーに挨拶していたのに。
「ナキネズミにまでは、エラも礼儀作法を叩き込んではいなかったしね」
青の間にだって出入り自由だったし、ナキネズミは例外。ぼくと普通に喋っていても。
ナキネズミが敬語で話すのは聞いたことが無いと思うよ、多分、一度も。
ふざけて使ったかもしれないけれども、本当の意味での敬語なんかは。
…そのせいで猫に挨拶しちゃったのかな?
ぼくから挨拶したっていいんだ、って喜んじゃって、御主人に気が付かないままで。
猫もナキネズミも動物だもの。
「それはないだろ、今のお前は挨拶好きだし」
学校で俺を見掛けた時にも、「ハーレイ先生、こんにちは!」だしな。
今日のがただの失敗ってだけだ、御主人よりも先に猫だったのは。
ナキネズミのせいにするんじゃないぞ、と額をピンと指で弾かれた。それはお前の失敗だ、と。
「気にしなくてもいいとは思うがな…。実に可愛い失敗じゃないか」
猫に夢中で、周りが見えていなかったなんて。前のお前なら有り得ないミスだ。
いくらナキネズミと遊んでいたって、誰か来たなら切り替えたろうが。ソルジャーの貌に。
ナキネズミに挨拶するにしたって、周りに誰かがいるかどうかは見ていただろう?
「そうだね、サイオンで軽く探ってからだね」
エラじゃないけど、ソルジャーらしくしていないと駄目だ、っていうのは分かってたから…。
誰かいるのに気付かないままで、ナキネズミに挨拶はしなかったよ。
でも、挨拶って大切だよね。礼儀作法は抜きにしたって。
きちんとするのが大切なことで、ぼく、頑張っていたんだけどな…。今日のは失敗…。
「気にするなって言ってるじゃないか。その御主人もそう言ったんだろう?」
猫の方が先でかまわない、って。
それに、その御主人でなくてもだ…。挨拶はお互い、気持ち良く過ごしていくためだろう?
「こんにちは」と言って、「こんにちは」と返して、笑顔の交換。
しかし、そいつが出来ない時だってあるんだから。色々な事情というヤツで。
「色々って…。ハーレイはジョギング中でも挨拶するでしょ?」
それも全然知らない人に。…手を振ってくれた子供には、ちゃんと手を振って。
「そりゃまあ…なあ? 俺を応援してくれるわけだし…」
振り返すのが礼儀ってモンだろ、そういう時は。
知り合いに会ったら「こんにちは」と声も掛けて行くがだ、そいつは俺だから出来るんだ。
同じジョギングでも、お前だったらどうなるんだ?
お前はジョギングなんかはしないが、体育の授業で走っている時を想像してみろ。学校の外まで走りに行くヤツ、あるだろう?
「ぼくは行かないよ、学校に残って自習してるよ」
「なるほどな…。アレで学校の外に行ったら、手を振ってくれたり、声が掛かるぞ」
頑張って、と大人からだって。お前、走りながら、声を返したり出来るのか?
「ううん、出来ない…」
「ほら見ろ、時と場合によるんだ」
挨拶ってヤツも。事情は本当に人それぞれだし、気にしなくてもいいんだ、うん。
具合が悪けりゃ出来ないしな、とハーレイがパチンと瞑った片目。
その時々ですればいいのさ、と。挨拶出来る気分の時には、猫が先でも挨拶すれば、と。
「無理して挨拶されてもなあ…。相手だって困っちまうだろうが」
とても具合の悪そうな人に、「こんにちは」と掠れた声で言われたら。
「こんにちは」と返すよりも前に、心配になって「大丈夫ですか?」と駆け寄っちまうぞ。
そういう挨拶は嬉しくないよな、そのくらいなら「すみません」と助けを求められた方が…。
人間、素直にならんといかん。挨拶は特に、気持ち良く、だな。
「…じゃあ、山は?」
山だと挨拶はどうなっちゃうの、凄く難しそうだけど…。
「はあ? …山だって?」
何なんだ、山で挨拶っていうのは何処から出て来た?
お前、学校の外にも走りに行かないってのに、山登りに行きたくなったのか?
数えるほどしか行ってないんだろ、山なんか…?
「そうなんだけど…。今日の新聞に載ってたんだよ、山登りの記事が」
面白いね、って読んでいったら、挨拶のことが書かれてて…。
山登りの時に誰かと擦れ違ったら、必ず挨拶するのがマナー。疲れていても、って…。
だから、とっても難しそうだよ、山で挨拶しようとしたら。
どんなに息が切れていたって、「こんにちは」って言うか、会釈をしないと駄目だし…。
「なんだ、そういう挨拶のことか」
そいつはいわゆる理想ってヤツだ。山に登るならこうあるべき、とな。
実際に登ってみれば分かるが、「こんにちは」って元気に言える間しか歩いちゃ駄目だ。本当に山を楽しみたいなら。
体力に余裕を残しておくのが大事で、決して無理をしちゃいけない。山は普通の道とは違うし、疲れてもバスに乗るってわけにはいかないだろうが。
麓に下りるとか、山小屋に入るとか、ゴールに辿り着けないと駄目だ。自分の力で。
挨拶も出来ないほど疲れちまったら、色々とミスが増えてくる。道に迷ったり、足を挫いたり、ロクなことにはならないってな。
そうならないための心得事だ、と教えて貰った。体力に充分余裕があったら、出来る挨拶。
山登りは山の気分に左右されるから、余計に必要になる余裕。身体も、心も、と。
「天気が変わりやすいんだ。今の季節だと、高い山なら、いきなり雪になるとかな」
疲れ切ってしまっていたなら、どうすればいいか分からなくなる。そいつはマズイ。充分余裕を持っていたなら、冷静に判断出来るんだがな。
ついでに、山での挨拶ってヤツは、相手の様子に気を付けるっていう意味もあるから。
「様子って…?」
「疲れていそうか、まだまだ元気に行けそうなのか。…そんなトコだな」
助けが要るってこともあるだろ、これから先の道の様子を聞きたいだとか。
擦れ違うんだから、自分がさっき歩いて来た道に行く人なんだ。実際に歩いた人の話は大切だ。
お互い黙って擦れ違ったら、呼び止めて訊くのも悪いって気持ちがしちまうが…。
「こんにちは」と挨拶したなら、「この先の道はどうですか?」と訊きやすいだろうが。
そういう風に訊かれなくても、無理をしていそうな様子だったら止めないと…。
次の山小屋までは遠いから、此処から戻った方がいいとか。
戻るんだったら、荷物を少し持ちましょうかとか、助け合いの心が大切なんだな、山ではな。
必要があっての挨拶だから、山の挨拶は気にするな、と笑ったハーレイ。
「お前の思っている挨拶ってヤツとは少し違うな、山でやってる挨拶は」
だから心配しなくていい。山と同じに考えなくても、普通の挨拶には別のルールがあるから。
挨拶出来る気分の時には、元気に挨拶すればいいんだ。
お前はとてもよくやっているぞ、学校じゃ、きちんと出来ているしな。どの先生にも挨拶して。
猫に挨拶しちまったのもだ、挨拶するって習慣があるお蔭だろうが。
挨拶しようと思ってなければ、猫にまで挨拶しないんだから。
「そっか、良かった…」
失敗しちゃった、って思ってたけど…。ママが言う通りに平気なんだね。
ママも猫とか犬に挨拶しちゃう、って…。お留守だと思って、庭を覗いてみた時とかに。
「ほらな、お前のお母さんでもそうなんだ」
人間、誰だって失敗はある。前のお前も失敗してたろ、挨拶の決まり。
ソルジャーは後から挨拶なんです、ってエラが決めても、最初の頃には何回も。
お前、挨拶、好きだったから…。前の俺にも、遠くから手を振り返してたし。
俺の方が先に見付けていなけりゃ、お前、絶対、手を振りながら走って来ただろうしな。
ソルジャーになる前の頃だったなら。
「そうだと思う…」
きっと嬉しくて、手を振りながら走るんだよ。「ハーレイ!」って名前を呼びながら。
こんにちは、って挨拶するんじゃなくって、「何処へ行くの?」って訊いていそうだけれど。
「何処へ行くの、って訊くのも立派な挨拶だぞ?」
よく聞くだろうが、「お出掛けですか?」っていうヤツを。あれも挨拶の内なんだから。
お前ってヤツは、今も昔も挨拶が好きなままなんだな。…ソルジャーだった頃も、ナキネズミに挨拶していたくらいに挨拶好き、と。
その精神を持っていたなら、チビでも挨拶の達人ってことだ。
挨拶は大切なコミュニケーションで、そいつが好きでたまらないんだから。
だが見たかった気もするな、とハーレイが可笑しそうにしている、猫への挨拶。
今日の自分が大失敗した、御主人よりも先に猫にしていた挨拶。
「お前、さぞかし真っ赤だったんだろうな、御主人に声を掛けられた時は」
俺にまで挨拶の話をするほど、恥ずかしい気持ちになったようだが…。
見ていて気持ちが良かったからこそ、御主人は声を掛けたんだぞ?
黙っていたなら、お前、そのまま気付かないで帰ってしまうんだろうし。
「そうかもだけど…。でも、やっぱり…」
恥ずかしいってば、人間よりも先に猫に挨拶しちゃうのは!
ぼくは挨拶に気を付けてる分、ホントのホントに恥ずかしいんだよ…!
失敗なんて、と頬っぺたがまた赤くなるから、やっぱり次から気を付けよう。
ハーレイは「大丈夫だ」と言ってくれたけれど、行儀のいい子でいたいから。
失敗しないで挨拶が出来る、しっかりした子になりたいと思う。
(だって、いつかはハーレイのお父さんたちに…)
挨拶をする時が来るから、「こんにちは」と。「はじめまして」と。
隣町の、庭に夏ミカンの大きな木がある家に出掛けて、挨拶をする日。
その時は失敗したりしないで、きちんと挨拶したいから。
「まだまだ子供だ」と思われないように、結婚出来る年に相応しいように。
だから、挨拶を頑張ろう。失敗したって、真っ赤な顔にならずに落ち着いていられるように…。
大切な挨拶・了
※シャングリラにあった、前のブルーには厄介だった決まり事。先には出来なかった挨拶。
エラがそう決めた根拠は謎ですけれど、ソルジャーから挨拶出来た相手は、ナキネズミだけ。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
桜と共に、シャングリラ学園に新しい年度がやって来ました。新入生が溢れる季節で入学式のシーズンです。特別生の私たちはもちろん今年も1年生。入学式に参加するかどうかは自由ですけど、やっぱり節目の行事なだけに。
「記念撮影、今年もするよね?」
いつものスポット、とジョミー君。入学式の日の校門前は新入生が次々に記念撮影中で。
「そりゃまあ、毎度のことだしよ…。撮らねえって手はねえよな、うん」
交代で撮ろうぜ、とサム君が。カメラはスウェナちゃんが持って来ています。元ジャーナリスト志望なだけにプロ仕様とも言える立派なカメラ。
「じゃあ、撮るわよ? ちゃんと並んで!」
整列、整列! とスウェナちゃんが仕切り、「入学式」と書かれた看板の前に並んでポーズを。何も知らない新入生とか保護者から見れば、仲良しグループが揃って合格、晴れて入学という所でしょう。パシャリと写してカメラマン交代、キース君が撮って、ジョミー君も。
撮影の後は入学式の会場の講堂に出掛け、きちんと着席しましたけれど…。
『…これから後が長いんだよ…』
寝てもいいかな、とジョミー君の思念。「いいんでねえの?」とサム君が返しています。
『どうせその内、起こされるんだし、早めに寝とけよ』
『『『あー…』』』
そうだった、と交わした苦笑の思念波。間もなくジョミー君はコックリコックリ船を漕ぎ始め、他のみんなも欠伸をしたり、キース君なんかは左手の数珠レットを繰ってますから心でお念仏の真っ最中。居眠るよりかはお念仏とは副住職だけあって立派かも、と思っていたら。
『居眠るな、仲間たち!!』
朗々と響き渡った思念波、ジョミー君がガバッと顔を上げたくらい。来ました、会長さんの仲間探しのメッセージが。
『ぼくはシャングリラ学園生徒会長、名前はブルー。このメッセージが聞こえているなら、今日の行事が終わった後で来て欲しい。場所は…』
パアアッと頭の中に広がった校内の地図と映像イメージ、「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋へ向かって誘導しているのが分かります。さて、このメッセージが聞こえた人は…?
『いそうかよ?』
『…いや、無反応と見た』
静かなもんだ、とサム君とキース君の思念。広い講堂に集まった今年の新入生たち、お仲間はいないようですねえ…。
こんな感じで始まった新年度、クラスは不動の1年A組。またか、と言うだけ無駄というもの、担任までが不動のグレイブ先生。
「…ブラックリストっていうのを痛感させられますよね…」
もう永遠にコレでしょうね、とクラス発表の紙を指差すシロエ君。私たち七人グループの名前が漏れなく入って、担任はグレイブ・マードックの文字。
「俺たちのせいではないと思うが…。ブラックリストは」
だが入ったものは仕方がない、とキース君は諦めの境地です。
「俺たちがいるとあいつが来るんだ、そしてエライことになるのが毎度のパターンだ」
「やっぱりブルーのせいだよねえ…」
見込まれたのが運の尽きっていうヤツだよね、とジョミー君もフウと大きな溜息。
「今日も来るんだよ、グレイブ先生が実力テストを始めたらさ」
「グレイブ先生も懲りませんよね、毎年、毎年」
どう転んでも来ると思うんですが、とマツカ君までが。入学式の日にグレイブ先生がやらかす実力テストを足掛かりにして1年A組に入り込むのが会長さんで、グレイブ先生との熾烈なバトルになる年も多いんですけれど…。
「今年はどっちのパターンかしらねえ、スルリと入るか、グレイブ先生が捻って来るか」
スウェナちゃんが首を傾げて、サム君が。
「あればっかりは読めねえからなあ…。まあ、どっちでもいいんじゃねえの?」
「そうだな、賭けるほどでもないな」
行くか、と教室に向かって歩き始めるキース君。私たちも馴染んだ通路をスタスタ歩いて、いつもの1年A組へ。やがてカツカツと高い靴音、現れたグレイブ先生の姿に他のクラスメイトが息を飲んだのが分かります。「ハズレの先生」が来た恐怖に。
若干二名ほど落ち着いてるのが、特別生のアルトちゃんとrちゃん。何をしたわけでもないのにブラックリストに入れられたらしく、毎年、毎年、1年A組というのが気の毒かも…。
「はじめまして、諸君。私はグレイブ・マードック。…グレイブ先生と呼んでくれたまえ」
最初に諸君の実力を見たい、と始まりました、今年も懲りずに。配られて来た数学の問題ギッシリのプリント、あちこちで悲鳴が上がっている中、カラリと教室の扉が開いて。
「やあ、こんにちは。…ぼくはシャングリラ学園の生徒会長でブルーと言うんだけど…」
ぼくをこのクラスに混ぜてくれたら、この実力テストも含めて一年間のテストは全て満点、と会長さんの公約が。…うーん、今年はアッサリ勝負がついたようですねえ、グレイブ先生、戦いを放棄しましたか…。
会長さんは1年A組への仲間入りを果たし、入学式の日は無事に終了。サイオンを持った新しい仲間も入学して来ず、今年も「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋を溜まり場として使えることに。万々歳で浮かれている中、校内見学にクラブ見学と授業の無い日が続いてますけど…。
「かみお~ん♪ 明日は卵の日なんだよ!」
放課後に「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に行ったら、ニコニコ笑顔の「そるじゃぁ・ぶるぅ」。そういえば明日は新入生歓迎会があるんでしたっけ、特別生はお呼びじゃないので存在自体を忘れてましたが…。
新入生歓迎会の花がエッグハントで、「卵の日」。歓迎会は軽食やお菓子が食べ放題のパーティーですけど、それが終わったらエッグハント、すなわち卵探し。本来はイースターの行事ですから、春という季節だけは合っているかもしれません。
シャングリラ学園のエッグハントは宗教色とはまるで無関係、ただのお宝探しのゲーム。校内に隠された卵を探してゲットするだけ、お菓子の卵や、何か入った卵やら。中でも最大の目玉となるのが特賞の卵、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が化ける卵で。
「今年の特賞、何なんだよ?」
豪華なんだろうなあ、とサム君が訊けば。
「えっとね、選べるクーポン券! 旅行に行ってもいいし、お買い物もいいし…」
お値段、これだけ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が挙げた金額は流石の豪華さ。一人占めするなら海外旅行も出来そうです。
「すげえな、今年も血眼になって探すんだろうな、新入生のヤツら」
「だろうねえ…。ぼくたちにはもう縁が無くなった世界だけどね」
最初の年しか遊べなかったし、とジョミー君。その最初の年に特賞の卵を見付けたというのに、台無しにしたのも私たちです。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が化けた卵と知らずに催涙スプレーやらスタンガンで攻撃、大当たりだった旅行券を無効にされてしまった思い出が…。
「無関係というのが寂しかったら、隠す係を君たちにやらせてあげるけど?」
知恵を絞って卵を隠して回りたまえ、と会長さん。
「あれもなかなかに楽しいものだよ、何回かやっているだろう?」
「…明日ですよね?」
卵隠し、とシロエ君が訊くと「うん」と返事が。
「歓迎パーティーの間に隠して回る! それが王道!」
やってみる? というお誘いに「やる!」と答えた私たち。たまには生徒会のお手伝いという名の卵隠しもいいものですしね!
次の日、パーティー会場へ向かうクラスメイトたちとは別の方向へ向かった私たち。生徒会室に着くと会長さんが山と積まれた卵を前にして「はい」と大きな籠をくれました。
「これで好きなだけ持って行ってくれればいいからね。君たちで隠し切れなかった分は、ぼくがサイオンで片付けるから」
「分かった。適当に貰って行くことにする」
この辺がけっこう当たりっぽいな、とキース君が陶器の卵を取って籠に入れ、チョコレートの卵やキャンディー入りの卵もドッサリと。私たちも籠に詰め始めましたが…。
「そういや、ぶるぅは何処に隠れているんだよ?」
そこは避けないと、とサム君が。
「あー、ぶるぅ! 被っちゃマズイね」
忘れてた、とジョミー君が言ったのですけど、会長さんは。
「なんだ、今頃、気が付いたんだ? 今までに何度も隠してるくせに」
その質問は一度も無かった、と可笑しそうな顔。
「心配しなくても被りやしないよ、ぶるぅは自由に動けるからね」
「「「え?」」」
「卵だよ、卵。卵に化けているっていうだけなんだし、卵に戻った時とは違うよ」
ここはマズイと思った時には瞬間移動で別の所へ移動するのだ、と聞いてビックリ、動ける卵。それじゃ、もしかして、私たちがエッグハントをした年、「そるじゃぁ・ぶるぅ」に会えたのは…。
「決まってるだろう、ぶるぅが自分で出て行ったんだよ、君たちの前に」
見付けて貰えるように移動したんだ、と会長さん。
「せっかく仲間が見付かったんだし、仲良くしたいって張り切ってたのに…」
「…すまん、催涙スプレーもスタンガンも俺だ」
怪しい卵だと攻撃したのは俺だった、とキース君が頭を下げました。マツカ君が誘拐対策に通学鞄に入れていたアイテムを持って来させたのも、使ったのもキース君でしたっけ…。
「もう時効だよ、ぶるぅもとっくに許しているしね。それに仕返し、その場でやったし…」
「「「…旅行券…」」」
パアにされた、と悲しい思い出が蘇ったものの、「そるじゃぁ・ぶるぅ」だって酷い目に遭ってしまったんですから、お互い様というものです。ここは忘れて水に流して…。
「卵隠し、行って来ます!」
シロエ君がダッと駆け出し、私たちも校内に散りました。さーて、隠すぞ、何処に隠すのが楽しいですかね、職員室にも行って来ようかな…?
エッグハントは今年も盛況、新入生たちは楽しく遊んでくれたようです。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が卵に化けて持っていたクーポン券をゲットした幸運な生徒は躍り上がって喜んだとか。翌日は土曜日、会長さんの家に集まってワイワイ、お菓子を食べつつエッグハントの話題再び。
「やっぱアレだよな、職員室とかが盲点だよな!」
入って行く勇気のあるヤツが少ねえし、とサム君が笑って、キース君も。
「礼法室もなかなか来ないぞ、俺はあそこの茶釜に隠した」
「えーっ! あれってキース先輩でしたか!」
ぼくも茶釜を開けたんです、とシロエ君。
「ここならいける、と覗いたら先に卵が入ってて…。仕方ないんで、茶釜の下に」
「「「下?」」」
「灰の中ですよ、そこに何個か突っ込みました」
「「「うわー…」」」
そんな所まで探す生徒がいるのだろうか、と思いましたが、会長さんが言うには隠した卵は全て発見されたとか。新入生のパワー、恐るべしです。礼法室の灰の中まで探すんですか…。
「特賞の卵がかかっているしね、ゴミ箱も端から開ける勢いだよ」
「ぼく、ゴミ箱には隠れないんだけどね…」
もっと居心地のいい場所にするもん! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。今年は中庭の木の一本に小枝で巣作り、其処に隠れていたそうです。
「なるほどな…。卵を隠すなら巣の中なのか」
盲点だった、とキース君が褒めると「そるじゃぁ・ぶるぅ」は。
「鶏さんの小屋があったら、其処でもいいけど…。ウチの学校、それは無いしね」
「無いですね…。でも、灰の中まで探した生徒もガックリですよね」
いともアッサリ中庭の木じゃあ…、とシロエ君がお手上げのポーズで、ジョミー君も。
「巣だもんねえ…。入ってます、って言わんばかりの場所なんだけどな」
「それが意外に見付からないんだよねえ、本物の巣だと思ったみたいで」
気付いた生徒は多いけれども、と会長さんがクスクスと。
「あそこには絶対入っていないという思い込みだね、鳥の巣だしね」
「だよなあ、入ってるとしたら、普通は本物の卵だよなあ…」
下手に覗いたら親鳥の蹴りが入りそうだし、というサム君の意見に私たちも揃って納得です。つつかれるだとか、髪の毛を掴んで毟られるだとか、ロクな結果になりませんってば、本物の鳥の巣を覗き込んだら…。
ウッカリ覗けば流血の惨事になりそうなリスクが高い鳥の巣。それを覗いて「そるじゃぁ・ぶるぅ」の卵を見付けた勇者には乾杯あるのみです。クーポン券を貰えるだけあってまさに勇者だ、と紅茶やコーヒーで賑やかに乾杯していたら。
「こんにちはーっ!」
遊びに来たよ、とフワリと翻った紫のマント。いつものソルジャーが現れて…。
「ぶるぅ、ぼくにも紅茶とケーキ!」
「かみお~ん♪ 今日は桜蜂蜜のロールケーキだよ!」
桜の花の蜂蜜をたっぷり使ってあるの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が桜クリームのピンクが綺麗なロールケーキをサッと運んで来ました。もちろん紅茶も。ソルジャーは「ありがとう!」とフォークを入れて。
「うん、美味しい! 桜もまだまだ咲いているしね、北の方へ行けば」
昨日も夜桜見物に行った、と言ってますから、桜の話をしに来たのかと思ったんですが。
「桜もいいけど、卵もいいねえ…」
「「「は?」」」
何処から卵、とロールケーキを眺めて納得、ケーキの材料は卵だっけ、と考えたのに。
「違う、違う! そういう本物の卵じゃなくて!」
昨日の卵の方だけれど、とソルジャーはエッグハントの話を持ち出しました。覗き見していても楽しそうだったと、あれをやりたいと。
「もう最高だよ、エッグハント! あれでこそゲーム!」
宝探しのゲームだよね、という見解は、まあ間違ってはいないでしょう。でも、ソルジャーだと、何処に卵を隠したとしても、楽勝で探し出せるのでは…?
「え、それはもちろん、そうだけど…」
「ふうん…? だったら、君の目的は賞品なわけ?」
簡単に探し出せるんだしね、と会長さん。
「ノルディに頼んで豪華賞品とかを用意させてさ、ぼくたちも巻き込んでやった挙句に自分でサラッと掻っ攫うだとか、そういう感じ…?」
あまり嬉しくないんだけれど、という鋭い読みに、私たちも揃ってコクコクと。そんな結果が見えているゲーム、やりたい気持ちはありません。頑張った挙句にソルジャーの一人勝ちで終わるくらいなら、最初から参加しませんってば…。
却下だ、却下だ、と誰もが心で叫んでしまったエッグハント。出来レースと言うか八百長と言うか、ソルジャーが勝つと分かっているのに付き合えるもんか、とブーイングしたい所ですけど、そこまでの度胸も無いというのが正直な話。けれど顔には出ていたらしくて。
「…なんだか歓迎されていないって雰囲気だねえ…」
せっかく面白そうなのに、とソルジャーは不満そうな顔。
「君たちだってワクワクと隠していたくせに…。茶釜の中とか、灰の中とか」
「そりゃ、隠す方は誰だって張り切るものだよ!」
ぶるぅだって張り切って隠れていたし、と会長さん。
「どう隠れようか、何処にしようかと考えて今年は鳥の巣なんだよ、卵を隠すなら巣の中だよ!」
「ほらね、そういう楽しみがね!」
その楽しみをぼくにも是非、と妙な台詞が。ソルジャーがやりたいエッグハントって、探す方じゃなくて隠す方だとか…?
「そう! 探す方だと一瞬で全部分かっちゃうしね、楽しいも何も…」
ブルーとぶるぅはともかくとして他の面子の分がバレバレ、とソルジャーは私たちをチラチラと。
「サイオンで隠し場所を探すまでもなく見えるって言うか、覗けると言うか…。ダダ漏れだしねえ、君たちが考えていることは」
何処に隠そうが顔を見た瞬間に分かってしまう、と如何にもつまらなさそうに。
「その点、隠す方ってことになったら、ぼくも思い切り楽しめるしねえ…。何処に隠そうかというのもそうだし、賞品だって色々と選ぶ楽しみがあるってもので!」
「…君の賞品、欲しい人はいないと思うけど?」
なにしろセンスの違いってヤツが、と会長さんの冷静な指摘。
「君が自信を持って選んでも、ぼくやみんなにウケるかどうか…。血眼になってまで探したいものを君が用意するとは思えなくってね」
「失礼な! ぼくだってちゃんと心得てるから、そういうトコは!」
「だったら、一例」
賞品を一つ挙げてみて、と会長さんが突っ込みました。
「チョコレートの卵とか、お菓子入りの卵というのは駄目だよ? もっと他ので!」
「卵に入れるヤツのことかい?」
「そうだよ、チケットでもクーポン券でも、なんでもいいから君が用意しようと思う賞品!」
さあ挙げてみろ、と言ってますけど、相手はソルジャー。どうせ欲しくもないようなものが出て来るに決まってますってば…。
エッグハントをやりたいソルジャー、探す方ではなくて隠す方。エッグハントは卵を探して回ってなんぼで、シャングリラ学園の場合は素敵な卵を見付けてなんぼ。豪華賞品とか食券だとか、見付けて良かったと思う卵が出て来るからこそ燃えるのがエッグハントです。
つまりは美味しい賞品が無ければ卵を探すわけなんか無くて、いくらソルジャーが主催したって私たちが真面目にやるわけがなくて。会長さんもそれを見越してソルジャーに賞品の例を挙げろと突っ込みを入れたんですけれど…。
「ぼくの賞品、絶対、ウケると思うんだけどね? 最低でもぼくの写真だし」
「「「は?」」」
ソルジャーの写真って、そんな賞品が入った卵を誰が欲しがると言うのでしょう。会長さんの写真だったら欲しい生徒は大勢いますが、それだって女子に限定です。男子が貰って喜ぶとはとても思えないのに、会長さんどころかソルジャーが写った写真だなんて…。
「君の写真って…。そんな写真が入った卵が誰にウケると!?」
この陽気で頭が煮えたのか、と会長さんが吐き捨てるように。
「この間から気温が高めだからねえ、北の方でも暖かいしね? 昨日は夜桜と言っていたけど、今日も朝から何処かで桜で、それで頭が煮えてるだとか?」
「何を言うかな、ぼくは今日はシャングリラから此処に直行なんだし、桜見物には行っていないから! 頭も煮えてるわけがないから!」
ぼくの頭脳は極めてクリア、とソルジャーは指先で自分の頭をトントンと。
「ぼくの写真を喜びそうな人、ちゃんとこっちにいるだろう? 君たち以外で!」
「「「…え?」」」
誰だ、と顔を見合わせたものの、ソルジャーの写真を喜びそうな人の心当たりは二人だけ。何かと言えばソルジャーとランチだディナーだと貢ぎまくってデートしているエロドクターと、会長さん一筋と言いつつソルジャーの訪問もまんざらではないらしい教頭先生と…。
「その人選で合っているけど、ノルディはあんまり面白くないかな」
ハーレイほどぼくに飢えていないし…、とソルジャーの唇が笑みの形に。
「写真くらいで釣れる相手は断然、こっちのハーレイってね! それが賞品!」
他にも色々と考えている、ということは…。エッグハントに挑む人って、私たちじゃなくて教頭先生というわけですか?
「ピンポーン!」
大正解! と満面の笑顔のソルジャーですけど、教頭先生にエッグハントをさせてどういう楽しみがあると…?
ソルジャーがやりたいエッグハントのターゲットは教頭先生らしいです。隠す方の楽しみを味わうにしては、人数が足りなさすぎるような気が…。エッグハントは大勢を相手にやるもので…。
「え、それは君たちの知ってるエッグハントの世界ってヤツで…。ぼくは人数は別にどうでも」
探しに来るのが一人だけでも気にしない、とソルジャーは参加者は教頭先生だけで充分と考えているらしくって。
「要は楽しめればいいんだからねえ、卵を隠した方として! 特賞の卵が見付かるまで!」
ハーレイが頑張ってくれればいい、とソルジャーは乗り気。
「ぶるぅが隠れてた鳥の巣じゃないけど、ハーレイにもうんと頑張って貰わなきゃ! 当たりの卵が見付かるまでね!」
「…その特賞って、どういうヤツが入った卵になるわけ?」
アヤシイ卵じゃないだろうね、と会長さんが尋ねると。
「何を寝言を言っているかな、ハーレイ相手のエッグハントの豪華賞品、アヤシイ魅力が満載でなくちゃ嘘だろうとぼくは思うけど?」
「アヤシイ魅力って…。ま、まさか…」
「もちろん、ぼくと一発なんだよ! ゴージャスなホテルで思い出の一夜!」
「却下!」
誰がそういう許可を出すか、と会長さんは柳眉を吊り上げました。
「どうせハーレイは鼻血で轟沈だろうけれども、そんな賞品をホイホイ出されちゃ困るんだよ!」
ぼくが迷惑、と怒ってますけど、ソルジャーの方は。
「だからこそのエッグハントってね! そう簡単には見付からないのが特賞の卵で、見付けたと思ったら逆ってことも!」
「「「…逆?」」」
なんのこっちゃ、と首を捻れば、ソルジャーはパチンと片目を瞑って。
「君たちがやってたエッグハントの特賞はぶるぅが持ってたんだろ、クーポン券!」
「…そうだけど?」
それが何か、と会長さんは怪訝そうな顔。
「毎年、ぶるぅが持っているのが伝統だけど…。どう転がったら逆って話になるんだい?」
「ぶるぅだよ、ぶるぅ! ぶるぅは一人じゃないからねえ!」
ぼくのぶるぅもいるんだよね、と聞いた途端に頭に浮かんだ悪戯小僧の大食漢。いわゆる「ぶるぅ」の方ですけれども、おませで覗きが趣味の「ぶるぅ」がどうしたと…?
ソルジャー曰く、エッグハントで逆がどうこう。鍵は「ぶるぅ」にあるみたいですが、悪戯小僧で何をやらかすと言うのでしょう…?
「分からないかな、特賞の卵は二つなんだよ、ぶるぅの数だけ! こっちのぶるぅと、ぼくのぶるぅで合計二つ!」
二つあるのだ、というソルジャーの台詞に、会長さんはテーブルを拳でダンッ! と。
「特賞だけでも却下と言ったろ、それを倍にしてどうするつもりさ!」
「ぼくは逆だと言ったんだけどね? …特賞は二つ、だけど賞品はまるで逆様!」
「「「逆様?」」」
逆様って…。逆で逆様って、同じ特賞でも中身が逆とか?
「その通り! 当たりの方の特賞だったら、ぼくと一発! その逆の方の特賞だったら、一発どころか足蹴にされて奴隷なコースに設定するとか、君に失恋するだとか!」
常に失恋しているけれど…、とソルジャーはニヤリ。
「つまりは究極の選択ってわけで、特賞の卵のどっちを取るかで天国と地獄に分かれるんだよ!」
「…それはいいかも…」
それならいいかも、と会長さんが顎に手を当てて。
「ぶるぅが二人で、どっちも卵に化けてるわけだね? それをハーレイが探しに行く、と…」
「そうなんだよ! ぼくのぶるぅは卵に戻りはしないけどねえ、ぶるぅにコツを教わればきっと、卵に変身できるかと!」
そして特賞になって貰う、とソルジャーが言えば、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「えとえと…。ぶるぅ、卵に化けられるけど?」
「本当かい!? いつの間にそんな芸当を…」
ぼくは見たことないんだけれど、とソルジャーの目が真ん丸に。けれども「そるじゃぁ・ぶるぅ」は「前からだよ」と即答で。
「ぼくも卵に化けてみたいな、って言ってたから、やり方、教えてあげたの! でもね…」
「何か問題でもあるのかい?」
「ううん、そっちの世界でウッカリ卵に化けてたりしたらゴミと一緒に捨てられちゃう、って!」
「「「あー…」」」
ありそうだな、と私たちは瞬時に理解しました。ソルジャーは掃除や片付けが苦手で、あちらの世界の青の間はゴミだらけになった挙句にお掃除部隊が突入するのが恒例だと何度も聞かされています。そんな所で「ぶるぅ」が卵に化けていたなら、確かに捨てられそうですってば…。
捨てられる悲劇を回避した結果、卵に化けられる事実を今までソルジャーに知られずに来たらしい「ぶるぅ」。練習しなくても卵になれると知ったソルジャー、大喜びで。
「それなら、エッグハントは直ぐに出来るね! 他の卵の準備さえすれば!」
「…特賞が二つで片方はハズレ、と…。どちらを選ぶかはハーレイ次第というわけだね?」
それなら良し! と会長さんがグッと親指を立てました。
「ぶるぅの卵は移動出来るし、ぶるぅにハズレを持たせておけば…。そしてハーレイに発見されるように仕向けておいたら、もう確実に地獄しかないし!」
「ほらね、楽しくなってきただろ、エッグハントも?」
ぼくもハズレの特賞を希望で…、とソルジャーの顔に悪魔の微笑み。
「今のぼくはね、こっちのハーレイと一発よりかは、エッグハントが楽しみなんだよ! 頑張って探す姿を眺めて勝ち誇れるだけで気分は最高!」
だからハズレを選んで欲しい、とニコニコニッコリ。
「でね、同じハズレを設定するなら、こんなハズレはどうだろう? ぼくと一発と思える特賞、でも実態はぼくの奴隷で!」
「「「…奴隷?」」」
「ぶるぅがゴミと一緒に捨てられそうっていうので閃いたんだよ、ぼくの青の間、例によって派手に散らかってるものだから…」
お花見で浮かれて出歩いてたから、とソルジャーが語った所によると、青の間の片付けは普段はキャプテン。ソルジャーが散らかしまくっているのを暇を見付けてコツコツ片付け、それでも散らかってゆくというのが現状だとか。
そんなお掃除係のキャプテンがソルジャーや「ぶるぅ」と一緒にこちらの世界でお花見三昧、時間が出来たらお花見とばかりに出掛けた結果は普段以上に散らかりまくった青の間で…。
「それをこっちのハーレイに片付けて貰うというのも良さそうだよね!」
「…拉致するのかい?」
君の世界のシャングリラへ、と会長さんが問いを投げれば。
「ご招待だよ、表向きはね! ぼくの青の間という竜宮城へのご招待だけど、その実態は!」
「…出掛けたら最後、掃除係にされるって?」
「そうなんだよ! そういうハズレの特賞をぶるぅに持たせようかと!」
「最高だよ! そうしてくれたら、ハーレイも暫く懲りるだろうし!」
美味しい話はそうそう無いと学習するであろう、と会長さん。特賞の卵が二つのエッグハントは、教頭先生、ハズレの卵を選ばされる羽目になるわけですね…?
特賞が二つ、「そるじゃぁ・ぶるぅ」と「ぶるぅ」が特賞を持って卵に化けるというエッグハントは開催が決定しそうですけど、会場は何処になるんでしょうか。卵を隠しに出掛ける人はソルジャーで決まりとしても…。
「会場かい? ハーレイの家でいいんじゃないかと!」
最終的には拉致するんだし、とソルジャーが高らかに言い放ちました。
「姿が消えても無問題って場所ならハーレイの家が一番だよ! ついでに卵を隠す係は、君たちにもやって貰おうと思っているんだけどね?」
慣れていそうだから、と私たちまで巻き添え決定。教頭先生の家に出掛けてあちこちに卵を隠すのが仕事になりそうです。チョコレートやお菓子の卵も隠すんですか?
「もちろんだよ! こっちのハーレイも甘い食べ物が苦手だからねえ、そういう卵はハズレってことで仕込まなくっちゃね!」
普通のエッグハントだと喜ばれる卵みたいだから、とソルジャーは卵の仕入れ先を会長さんに尋ねています。今から行っても買えるだろうか、と。
「買えると思うよ、今年のイースターはまだ来てないから」
今がシーズン真っ盛りで…、と会長さん。イースターは毎年、日が変わります。三月だったり四月だったり、コロコロと。今年のイースターはまだでしたか…。
「分かった、それじゃチョコレートとかの卵を買って、と…。写真入りの卵を用意するならオモチャ屋さんになるんだね?」
「そういうことだね、卵型のケースを買うことになるね」
色も大きさも色々あるから…、と会長さん。
「写真の他には何を入れるんだい、そっちも気になっているんだけどね?」
「ランチ券とかディナー券とか…。ぼくとのデートのチケットだけど?」
ただし全額ハーレイの負担、とソルジャーは抜け目がありませんでした。自分が行きたいお店を選んで書いておくそうで、チケットを使うなら教頭先生が飲食費用を支払うことに。
「ぼくとしてはゴージャスにいきたいからねえ、ノルディお勧めの店にしようかと!」
「釣られるハーレイが悪いわけだね、高くついても?」
「ぼくとデートが出来るんだよ? うんと貢いでくれなくっちゃね!」
君とのデートの予行演習で貢いで貰う、とソルジャーが挙げたお店は軒並み高級店ばかり。教頭先生、そういうチケットをゲット出来ても、懐が寂しくなりそうですねえ…?
ソルジャーはエッグハントの準備をするからと姿を消して、夕食の前に帰って来ました。山のような数の卵を抱えて。
「ほら、見てよ! お菓子の卵も、卵型のケースも山ほど買ったし!」
そしてチケットや写真を詰める、とウキウキ、お好み焼きの夕食が済んだら作業開始で。
「ハーレイを釣るには、恥ずかしい写真も要るからねえ…」
ぶるぅに色々撮って貰った、と自分の世界にも行って来たようです。手作りデート券などもケースに詰め込み、準備完了。後は特賞の卵が二つで。
「ハズレの特賞は、ぼくのぶるぅに持たせようかと…。竜宮城にご招待だ、って空間移動で直ぐに連れてってくれるからねえ、ハーレイを!」
「それじゃ、ぶるぅが持つ特賞は当たりの方になるのかい?」
君とどうこうというアヤシイ特賞、と会長さんは苦々しい顔。
「ぶるぅにそういうヤツは持たせたくないんだけどねえ…」
「誰が本物を持たせると言った? ぼくの希望はもれなくハズレで、青の間の掃除係が欲しいんだからね! ぶるぅが持つのは白紙でかまわないんだよ!」
どうせハーレイはそっちの特賞を引けないんだから、と恐ろしい言葉が飛び出しました。
「こっちのぶるぅのを引きそうになったら、ぼくがサイオンで入れ替える! ぶるぅの卵を!」
「「「うわー…」」」
そこまでやるのか、と思いましたが、こうと決めたら動かないのがソルジャーです。「そるじゃぁ・ぶるぅ」も何か勘違いをしたらしく…。
「かみお~ん♪ ぼくのチケット、ハーレイに渡さなければいいんだね!」
「あっ、ぶるぅにも通じたかい? もしもハーレイにぶるぅよりも先に発見されそうだったら…」
隠れ場所をサッと変えるとか、とソルジャーが言うと。
「んーとね、最初からぶるぅと一緒にいちゃ駄目?」
「「「は?」」」
「どっちか片方、選ぶんでしょ? 一緒にいた方がハーレイも選びやすいと思うの!」
ぼくか、ぶるぅか、どっちか片方! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が無邪気に叫んで、ソルジャーが「よし!」と手を叩いて。
「うん、それでこそエッグハントを楽しめるかもしれないねえ! どっちの卵を掴むべきかと悩むハーレイ! 特賞は二つ、天国なのと、より天国と!」
地獄コースがあるということは秘密なのだ、とソルジャーの発想は極悪でした。竜宮城に行けるコースの更に上があると騙すそうですが、教頭先生、どうなるんでしょう…?
揃ってしまったエッグハント用の卵たち。次の日は日曜、ソルジャーはもうこの日に決めたと私たちを朝から駆り出し、教頭先生の家のリビングへと瞬間移動でお出掛けで…。
「こんにちはーっ!」
今日はゲームをしに来たんだけど、とソルジャーは自分や私たちが手にした卵だらけの籠を示して極上の笑みを。
「エッグハントは知っているよね? それを君の家でやろうと思って…」
「はあ…。私が隠して回るのですか?」
「違うよ、ぼくたちが隠すんだよ! 君が一人で探すんだけどね、特賞はね…」
二つもあって、とソルジャーがヒソヒソと教頭先生に耳打ちを。教頭先生の喉がゴクリと鳴って。
「で、では…。ぶるぅの卵を見付けたら…」
「大当たりなんだよ、両方は選べないけどね! 先に見付けた方だけしか!」
だけど探すだけの値打ちはあるから、と聞かされた教頭先生、やる気満々。卵を隠す所を見ては駄目だから、と目隠しをされて庭に出されてしまわれましたが…。
「はい、君たちは隠して回る! いろんな卵を!」
「「「はーい!」」」
頑張ります、と家中に散った私たち。ソファの下から棚の中まで、あらゆる場所に卵を隠して、空の籠を抱えてリビングに戻ると…。
「隠し終わったよ、入っていいから!」
ソルジャーが教頭先生を呼び込んで目隠しを外し、エッグハントの始まりです。教頭先生はチョコレートやお菓子の卵には「うーむ…」と唸っているだけですけど、写真やデート券の入った卵は嬉しそうに集めてゆかれて…。
「…うっ…」
グッと詰まってしまわれたのが、二つ並んだ青い卵でした。「そるじゃぁ・ぶるぅ」と「ぶるぅ」が化けた卵で、よりにもよって…。
「…冷蔵庫ですか…」
シロエ君が呆然と呟き、キース君が。
「卵を隠すなら卵の中、というわけか…」
冷蔵庫に入っていた卵のケース。パック入りとは違って器に何個か盛られた卵の中に青いのが混じっています。どちらかが「ぶるぅ」で、どちらかが「そるじゃぁ・ぶるぅ」なわけで。
「…これはどちらか一つですか?」
片方ですか、と尋ねた教頭先生にソルジャーが「うん」と。大当たりは片方、そこが問題…。
本当の所はどちらを選んでも、もれなくソルジャーの青の間にご招待なオチ。それもお掃除係ですけど、竜宮城行きが待っているのだと信じているのが教頭先生で。
「…片方か…。竜宮城だとブルーとの初めてが問題なのだが…。大当たりだとブルーだからな…」
(((え?)))
どういう意味だ、と思った途端にソルジャーの思念が飛び込んで来ました。
『大当たりの方だと、ぼくじゃなくってブルーの方だと思ってるんだよ。一発の相手!』
そういう嘘をついておいた、とソルジャーの思念がクスクスと。
『だけど、そういう特賞なんかは存在しないし…。もれなく竜宮城なんだけど』
それで納得がいきました。教頭先生が懸命に探しておられた理由。ソルジャーにあれこれと誘われる度に会長さんと秤にかけて悩まれるのが教頭先生なんですが…。大当たりだったら会長さんとくれば、悩みも吹っ飛び、大当たりに賭けたくなるわけで…。
「ううむ…。どちらが大当たりなのだ?」
サッパリ分からん、と冷蔵庫から出した卵のケースを前にして悩み続ける教頭先生。それはそうでしょう、会長さんとの大人の時間か、ソルジャーの方か。間違えて選べばソルジャーの世界へご招待されて、会長さんよりも先にソルジャーと…。
「早く選んだら? でないと、その卵…」
片方は「ぶるぅ」で辛抱が…、とソルジャーが言った次の瞬間。
「待ちくたびれたーーーっ!!!」
青い卵の片方がピョンとケースから飛び出し、教頭先生の手の中へ。あれって…。
「「「ぶるぅ!?」」」
悪戯小僧の方だったか、と私たちは息を飲み、ソルジャーは。
「はい、片方選んでしまったってね! 竜宮城にご招待ってことで…。ぶるぅ、よろしく」
「かみお~ん♪ 先に運んでおくねーっ!」
ご案内ーっ! と「ぶるぅ」が教頭先生の腕を引っ掴んでパッと姿を消しました。教頭先生、ソルジャーの世界に行っちゃいましたか?
「そうなるねえ…。青の間をテキパキと片付けて欲しいね、早く終われば早く帰れるよ」
多分、三日もあれば綺麗に…、と言うソルジャー。それじゃ、教頭先生、帰れるまでは無断欠勤になるわけですか…?
「そうだけど…。いいんじゃないかな、卵、こんなにプレゼントしたし!」
恥ずかしい写真にデート券に…、とソルジャーが笑い、会長さんも「自業自得だよ」とエッグハントを始めたことを責める有様。確かに教頭先生が「やる」と決めたんですから、自業自得とも言えますけれど…。
「…いいんでしょうか、こんな結末で…?」
シロエ君が幾つも転がっている卵を眺めて、ジョミー君が。
「…ぼくたちじゃ連れて帰れないしね…。あっちの世界に行けもしないし」
「だよなあ、諦めて貰うしかねえよな、当分は掃除で奴隷でもよ…」
エッグハントって怖かったんだな、とサム君がブルッと肩を震わせてますが、卵からボワンと元に戻った「そるじゃぁ・ぶるぅ」は。
「えーっ!? 楽しかったよ、エッグハント! ぶるぅと一緒に隠れられたし!」
またやりたいな、と元気一杯、ピョンピョン飛び跳ねてホップ、ステップ。会長さんとソルジャーも楽しげですから、またやらかすかもしれません。教頭先生、どうか学習して下さい。今回で懲りてエッグハントは拒否して下さい、でないとババを引かされますよ~!
卵を見付けて・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
教頭先生が張り切ってしまった、エッグハント。凄い賞品が貰える予定だったんですけど。
どう転がっても、ソルジャーの奴隷だったという気の毒なオチ。お掃除、頑張るしか…。
次回は 「第3月曜」 3月15日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、2月は恒例の節分ですけど、今年は124年ぶりに1日早くて…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(んーと…)
なんだか寒い、と目覚めたブルー。土曜日の朝に。
目覚ましの音で起きたけれども、それを止めようと伸ばした手だって、ヒヤリと包まれた冷気。鳴り続ける音を指で止めるなり、上掛けの下に戻した右腕。寒かったから。
(今朝は冷えるって言ってたっけ…)
昨夜、母からそう聞いた。季節外れの急な冷え込み、それが来るから気を付けて、と。夜の間に気温がグンと下がるだろうから、暖かくして眠るようにと。
(だから、サポーター…)
忘れないように右の手にはめた。
朝晩、冷える日が出始めた時に、ハーレイがくれたサポーター。右手が冷えてしまった夜には、メギドの悪夢に襲われるから。
医療用だという薄いサポーターは、ハーレイが右手を握ってくれる時の力加減を再現したもの。はめればハーレイの手の感覚が蘇る。いつも右手を温めてくれる、恋人の大きな褐色の手の。
お蔭で悪夢は襲って来なくなって、昨夜もぐっすり眠れたものの…。
(やっぱり寒いよ…)
目覚ましを止めようと伸ばした右手。サポーターに覆われた部分は暖かいけれど、冷えた空気に触れてしまった腕は未だに冷たい感じ。腕と一緒に外へ出てしまった右肩だって。
いったい何度くらいなのだろうか、今の室温。
カーテンの隙間から朝の光が射しているから、寒さのピークは過ぎている筈。日の出と同時に、気温は上がってゆくものだから。
たまに例外もあるけれど。本当に強い寒気が入る冬なら、そうでない日もあるけれど。
今は秋だから、そんな寒波は来ない筈。その内に外は暖かくなるだろう。いつも通りに。
暖かくなったら部屋の空気も温まるけれど、今が問題。太陽の力はまだ届かなくて、冷え冷えとした寒さが満ちているだけ。
(暖房…)
スイッチを入れれば、直ぐに暖かくなる。なのに、此処からは手が届かない。サイオンで出来るわけがないから、枕元に持って来ておけば良かった。遠隔操作が出来る手元用のを。
ごくごく軽くて小さな手元用スイッチ、それもサイオンで運べない自分。置いてある棚までは、ベッドから出て行かねばならない。
(それくらいなら、暖房のスイッチを入れに行っても…)
変わらないよね、と思うくらいに棚までは遠い。ベッドを出てからほんの数歩でも。
(行って、戻って…)
身体中が冷えてしまうだろう。目覚ましを止めに伸ばした腕でも、こんなに冷えて冷たいから。身体ごとベッドから出ようものなら、もう間違いなく寒い筈。今よりも、ずっと。
(絶対、寒いに決まっているし…)
そのくらいなら、このままベッドにいた方がマシ。太陽の光が部屋を暖めてくれるまで。
もう少しだけ我慢したなら暖かくなるよ、と上掛けの下でクルンと丸くなった。手足を縮めて。
普段だったら急がなくてはいけないけれども、今日は土曜日。学校は休み。
(あったかい…)
ベッドの中は暖かいよね、と幸せな気分で閉ざした瞼。その方が暖かく感じるから。
目を閉じていると、頭に幾つも浮かぶ幸せ。今日は土曜日で、ハーレイが来てくれる日で…。
幸せの数を数えている間に、ウトウトと夢の世界に入ってしまって、それっきり。暖かい眠りに包まれていたら、聞こえて来た声。
「ブルー?」
具合が悪いの、と訊かれて瞳を開けると、覗き込んでいる母の顔。
何処も具合は悪くないから、キョトンとした。どうして母が来ているのだろう?
「ううん、平気…」
そう答えたら、母はホッとしたようだけれども。部屋の空気もすっかり暖かいから、母は暖房を入れに来てくれたのだろうか、と思ったけれど。
「何度も外から呼んだのに…。寝ちゃってたの?」
今は何時か分かってるの、と母が言うから。
「え?」
さっき止めた目覚まし時計を眺めてビックリ仰天。もうすぐハーレイが来そうな時間。
「やっぱり、すっかり寝ちゃっていたのね、目覚ましを止めて」
「なんで起こしてくれなかったの!」
もっと早くに起こしてくれればいいじゃない!
「何度も呼んだって言っているでしょ。起きてるの、って」
それに具合が悪いんだったら、起こしたら可哀相じゃない。寝ていた方がいい時もあるでしょ?
今日はお休みだし、ゆっくりの方がブルーも楽よ。無理に起こすより。
「ママ、酷い!」
ハーレイが来るって知ってるくせに…!
ホントにもうすぐ来てしまうじゃない、今まで放っておくなんて…!
大変なことになっちゃった、とバタバタと着替えて、顔を洗って。朝食は抜こうと考えたのに、それは許して貰えなかった。「朝御飯はちゃんと食べなさい」と怖い顔の母。
「朝御飯抜きは身体に悪いの。ブルーはただでも弱いんだから」
早くしなさい、と引っ張って行かれたダイニング。自分用の椅子に座らされた。同じテーブル、とうに食べ終えた父が「寝坊したのか」と笑っている。のんびり新聞を読みながら。
「食べてる間に、ハーレイが来ちゃう!」
部屋の掃除もしていないのに…。起きたまんまで、ベッドもパジャマも放ってあるのに!
「お掃除はママがしてあげるわよ。ブルーは御飯」
卵料理は何にするの、と手際よく母が作った朝食。トーストも焼いて、サラダにミルク。作って貰ったら逃げられないから、食べるしかない。
「飲み込まないで、よく噛みなさい」と言い渡してから、部屋の掃除に向かった母。逃げようとしても父が見ているし、食べ方だってチェックされるだろう。
(うー…)
しっかり噛むより、ミルクで流し込みたい気分。食べている所へハーレイが来たら、寝坊したとバレてしまうから。
(急がなくっちゃ…)
とにかく早く食べること、とオムレツを口に押し込んでいたら、聞こえたチャイム。
「おっ、ハーレイ先生がいらっしゃったな」
開けて来ないと、と父が新聞を置いて出て行った。門扉を開けに。母も急いで下りて来て…。
「ブルー、お掃除しておいたわよ」
安心してゆっくり食べなさい。お部屋はいつもの通りだから。
空気も入れ替えておいてあげたわ、と玄関の方へ向かった母。まだ朝食の最中だから、父と母がハーレイを案内して来たのはダイニングで。
「おはよう、ブルー。寝坊だってな、夜更かしか?」
本を読んでて、夢中で時計を見ていなかったな、お前らしいが。
「違うってば!」
早く寝たよ、と抗議する間に、ハーレイが腰を下ろした椅子。夕食の時のハーレイの定位置。
寝坊したことを笑われながら、食べる羽目になった朝御飯。「よく噛めよ?」と、ハーレイにも監視されながら。
ハーレイはコーヒーを淹れて貰って、食事中の姿をからかいながら両親と和やかに話す有様。
やっとのことで食べ終えた朝食、母が掃除してくれた二階の部屋に移れたけれど…。
「ふむ。お前の分の菓子は無し、ってな」
俺だけ頂いておくとするか、とテーブルの向かいでハーレイが指したお菓子の皿。母の手作りの焼き菓子だけれど、それが載った皿は一人分だけ。
「お腹一杯だよ!」
紅茶を飲むのが精一杯だよ、今まで朝御飯だったんだから!
「情けないヤツだな。お前の朝飯、少ないのにな?」
あんな小さなオムレツとトースト、サラダとミルクで全部だってか。食べ盛りなのに。
「ぼくには、あれで充分だから!」
食べ盛りなんてことも無いから、あれでも多すぎるくらいだってば…!
お菓子まではとても食べられないよ、というのが本音。紅茶だって飲みたい気分にならない。
ハーレイはクックッと喉を鳴らして、焼き菓子を口へと運びながら。
「それで、どうして寝坊したんだ?」
夜更かしじゃなくても、何か理由があるだろう。目覚ましが鳴らなかったとか。
「…寒かったから…」
目覚ましで起きたら、部屋が寒くて…。
暖房を入れに行くのも嫌だし、もう少し暖かくなるまで待とう、って。
ベッドの中でクルンと丸くなっていたら、知らない間に寝ちゃってたんだよ。ママが来るまで、寝てたことにも気付かなくって…。
「寒くてベッドから出られなかっただと?」
そこまで寒かったか、今日の朝は?
俺は早くに目が覚めたから、爽やかにジョギングして来たが…。
今日みたいな朝は気持ちがいいぞ。空気がピンと引き締まっていて、気分を高めてくれるしな。
「ぼくはハーレイみたいに頑丈じゃないから!」
朝からジョギングなんかしないし、走りたいとも思わないから!
寒い日はベッドから出たくないもの、とハーレイを上目遣いで睨んだ。ハーレイが変、と。
「せっかく暖かいベッドがあるのに…。潜っていたら、暖かいままでいられるのに…」
わざわざ出て行く方が変だよ、用事があるなら仕方ないけど。
「贅沢なヤツだな、出たくないってか」
シャッキリと起きて体操だとか、そっちの方へは行かないんだな?
「普通、そうでしょ?」
ハーレイみたいにジョギングするより、もうちょっとだけ、って寝ると思うけど?
お休みの日で、何処にも行かなくていいんだったら。
「まあな、普通のヤツならな」
大抵はそっちになるんだろうなあ、起きて走りに行くよりは。
起きたばかりで眠い時には、寒さ除けにシールドを張ろうって頭も働かないし…。
しかしだ、前のお前はどうだったんだ?
うんと寒い時は。
「前のぼく…?」
何それ、寒い時って、いつなの?
「アルタミラだな。あそこで毛布、貰えたか?」
俺たちにベッドは無かったわけだが、あの檻の中が寒かった時。
毛布を渡して貰えていたのか、前の俺たちは…?
「貰ってない…」
そんなの一度も貰っていないよ、寒い時でも。毛布なんかは貰えなかったよ…。
「ほら見ろ、毛布も無かったじゃないか」
潜り込むベッドも、くるまる毛布も無かったのが前の俺たちなんだ。
アルタミラにいた時代にはな。
思い出したか、とハーレイにピンと弾かれた額。
生き地獄だった、アルタミラの研究施設の檻にいた頃。閉じ込められていた檻に空調システムはあったけれども、快適な暮らしのためではなかった。檻に入った実験動物を生かしておくため。
空気を入れ替え、一定の温度を保っておいたら、実験動物は死なないから。
本来は変わらない、檻の中の温度。研究者たちが決めた適温、それを保つのが空調システム。
その筈だけれど、たまに寒くなることがあった檻。空調が効きすぎてしまった時などに。
着せられていた服は、半袖のシャツとズボンだけ。上着など無いし、毛布の一枚も檻には無い。寒くなっても防ぎようがなくて、サイオンはもちろん使えなかった。檻の中では。
身体が芯から冷えてゆくのに、歯がガチガチと鳴り始めるのに、放っておかれた寒い檻。
管理していた人類たちは、ミュウが半袖で震えていようが、気にしなかった。凍え死ぬほどではないわけなのだし、それなら何の問題も無い。
実験動物が震えていたって、檻が寒いというだけのこと。たったそれだけ、檻の温度が低いなら寒い。半袖の服を着ているのだから、寒くて当然。
「空調を直すのは暇な時でいい」と、人類たちは考えた。相手は実験動物だから。
急いで修理を始めなくても、まずは自分たちの食事や休憩。それが済んでから取り掛かるか、と檻を放って行ってしまった。酷い時には、「明日の朝でも充分だろう」と帰ったり。
どんなに寒くて震えていたって、直して貰えなかった空調。人類がその気にならない限り。前の自分たちは、そういう場所で生きていた。アルタミラから脱出するまで。
「あれに比べりゃ、今ではなあ…」
ベッドも毛布も持っているわけで、其処から出たって暖房を入れれば暖かくなる。…でなきゃ、上着を着るだとか。
温まれる方法が幾つもあってだ、そうすれば済むだけなのに…。お前はベッドから出なかった。中の方がずっと暖かいから、と。用が無ければ出たくないのが今のお前だ。
普通のヤツらは仕方ないがな、アルタミラを知ってるお前が言うから、贅沢だな、と…。
ベッドから出て、暖房をつけるくらいは簡単だろうが。
「そうなのかも…」
だけどホントに寒かったんだし、ちょっとくらいは…。
寝てしまったのは失敗だったけど…。ハーレイにも笑われちゃったんだけど…。
「笑うだろうが、いつもだったら張り切って起きているくせに」
俺が来るのを窓から見てたり、手を振ってたり。
今日は姿が見えなかったから、てっきり具合が悪いのかと…。心配してたら、寝坊だと来た。
俺が来る日だと分かっているのに、起きもしないで寝ちまったなんて。
寒い方が問題だったんだな、とハーレイが指差す自分の顔。この俺よりも、と。
「違うってば!」
ハーレイが来るのは分かってたけど、それはお休みの日だからで…。
いつもよりゆっくり出来る日だから、もうちょっと、って思ってる間に寝ちゃったんだよ!
「寒さには慣れてる筈なんだがなあ、アルタミラの檻で」
前のお前の経験ってヤツは、今では役に立たないってか。…すっかり平和ボケしちまって。
暖かな家でぬくぬく育つ間に、全部落として来ちまったんだな、前の経験。
そいつはそいつで幸せだという証拠なんだし、別に悪いとは言わないが…。どちらかと言えば、いいことだとは思うんだが。
そういや、シャングリラでも何度かあったじゃないか。ごくごく初期の頃だがな。
「あったね、空調システムの故障…」
シャングリラって名前をつけた後にも、まだあったかも。
船のメンテナンスに慣れてないから、どのタイミングで点検するとか分かってなくて…。
整備不良で故障するんだよね、空調システム。
食堂だとか、ブリッジだとか、大事な場所なら急ぎだけれども、そうでなければ…。
「遅れるんだよな、修理ってヤツが」
アルタミラの檻にいた頃だったら、遅れる理由は人類のサボリだったわけだが…。
あの船の場合は、直せる人間が限られてたしな。
「ゼルだけだったもんね…」
最初の頃には、ホントにゼルだけ。
きっと専門に勉強してたか何かだよねえ、成人検査を受けるよりも前に。
説明書とかをちょっと読んだだけで、「貸してみろ」って何でも直せたんだから。
手先が器用で、機械の類に強かったゼル。船で何かが故障した時は、ゼルが現場に急いでいた。空調システムにしても、調理器具にしても。
そんな具合だから、個人の部屋の空調が故障した時は、たまに後回しにされた。修理を頼むと、「他の仕事で忙しい」とか、「別の部屋に行けばいいだろう」とか。
ゼルは本当に忙しいのだし、部屋の空調が壊れた仲間は引越ししていた。修理して貰えるまで、仲のいい誰かが住んでいる部屋へ。
「ぼくの部屋のも壊れちゃったんだっけ…」
思い出したよ、ちょっと寒いな、って気が付いた時には壊れてて…。
直ぐにどんどん寒くなっていって、修理を頼みに行ったのに…。ゼル、忙しくて…。
「お前、引越すしか無かったんだよな」
暫く直してやれないから、って言われちまって。
「うん…。ホントのことだし、仕方ないよね」
ゼルには急ぎの仕事があるから、ぼくの部屋の空調は後回し。
他にも部屋は幾つもあるもの、ぼくが引越せばいいんだから。誰かの所に。
壊れてしまった部屋の空調。宇宙船の中では、壊れてしまえば急速に部屋が冷えてゆく。それを利用して、食料品を保存する部屋があったくらいに。
「修理は後だ」とゼルに言われて、部屋に戻ったら冷蔵庫のよう。とても其処では暮らせない。引越す以外に無いのだけれども、その引越し先。
ハーレイの部屋しか思い付かなくて、出掛けてみたら留守だった。厨房で料理の試作中なのか、備品倉庫で整理をしているか。
黙って勝手に入れはしないし、仕事の邪魔もしたくない。「引越していい?」と頼んだならば、きっと仕事を放り出して部屋に戻るだろうから。引越しするのを手伝おうとして。
それはハーレイに申し訳ないし、引越しを頼むなら戻って来てから。
けれど、それまでの間をどうしよう?
食堂や休憩室にいたなら、ゼルを催促しているかのように見えるだろう。「早く直して」と。
だから駄目だ、と諦めたのが皆で使う部屋。空調は効いているけれど。
(ヒルマンたちの部屋も…)
親しくしていても、元はハーレイの友達ばかり。それに自分は子供扱い、引越すとなれば面倒を見ようとしてくれる筈。一つだけのベッドや、座り心地のいい椅子を譲ったりして。
そうなることが分かっているから、どの部屋も少し気が引けた。迷惑をかけてしまいそう、と。
(何処に行っても、みんなに迷惑…)
きっとそうだ、と考えたから、自分の部屋に戻って行った。冷蔵庫のように冷え切った部屋へ。
其処で寒さを防ぐためには、ベッドに潜るしか無かった方法。ベッドが一番暖かいから。
シールドすることは、思い付きさえしなかった。
その内に暖かくなってくるから、と冷たいベッドに潜り込んだものの…。
部屋全体が冷蔵庫なのだし、ベッドの中でも同じこと。冷え始めるのが遅いというだけ、やがて冷たくなってゆく。毛布もシーツも、マットレスも。
冷たい毛布やシーツは体温を容赦なく奪い、冷えた部屋へと放り出した。それにくるまっている身体の周りを温める前に、片っ端から。
頭から毛布を被っていたって、暖かいどころか寒いだけ。体温を端から奪われていって、部屋の冷気に包み込まれて。
(でも、本当にどうしようもなくて…)
震えているしか無かった自分。一番暖かい筈の場所から、出たら余計に寒いのだから。あまりの寒さに止まった思考。シールドはおろか、引越すことも。
ただガタガタと震えていたら、其処へハーレイが来たのだった。シュンと扉の開く音がして。
「おい、大丈夫か?」
此処の空調、壊れたらしいが…。ゼルに聞いたが、今日は駄目だと言っていたから…。
寒い部屋だな、と言った所で息を飲んだハーレイ。「何やってんだ、お前!」と。
駆け寄って来たハーレイが毛布の中を覗き込んだから、目だけを上げた。
「寒いから…」
そう答えた声も、身体と同じに震えていて。
「馬鹿!!」
寒いって、これじゃ当たり前だろうが!
此処の空調は壊れてるんだぞ、そんな所でベッドにいたって暖かいもんか!
この部屋、まるで冷蔵庫じゃないか、と毛布ごと抱え上げられた。逞しい腕で。
そのまま通路に運び出されて、ハーレイの部屋に連れて行かれたけれど。
「…駄目だな、すっかり冷えちまってる」
風邪引くぞ、お前。…こんなに冷たくなっちまって。
手も足も氷みたいじゃないか、と毛布を剥がして確かめたハーレイ。「此処に座れ」とベッドの端に座らせて、手や足に触れて。
「寒いよ、ハーレイ…」
毛布、返して。ちょっとはマシになると思うから…。
「それはお前の勘違いだ。冷えた毛布じゃ、無い方がマシだ。此処ではな」
暖かいんだぞ、この部屋は。それも分からないくらいに、今のお前は冷えちまってるんだ。
どうして来なかったんだ、俺の部屋に。…あそこで震えている代わりに。
「…来たけど、ハーレイ、留守だったから…」
「そういう時には、無断で入れ!」
俺が戻ったら、お前が俺のベッドで寝てても、何も言ったりしないから!
こんなお前を発見するより、そっちの方がよっぽどマシだ!
とにかく急いで温めないと、と別の毛布でくるまれた。ハーレイのベッドにあった毛布で。また両腕で抱え上げられて、運ばれた先は皆が使う共用のバスルーム。
熱いシャワーを頭から浴びせて、バスタブにも熱い湯をたっぷり張ったハーレイ。「浸かれ」と沈められたバスタブ、頭がクラクラしそうになるまで。
のぼせそうなほど温められた後には、タオルでしっかり拭われた水気。「デカイ服だが、お前の服は冷えてるしな」と、ハーレイのパジャマを着せられた。ブカブカで丈も長すぎるのを。
そのパジャマごと毛布で包み込まれて、ハーレイの部屋へ。ベッドに入れられ、上掛けを肩まで被せられた。
「いいな、暫く寝ていろよ?」
直ぐに戻るから、とハーレイは部屋を出て行った。何処に行くのだろう、と見送った自分。
けれど身体がまだ冷たくて、頭の上まで引き上げた上掛け。やっぱり寒い、と。
そうしてベッドで震えていたら、ハーレイが熱いスープの器を乗せたトレイを持って戻って…。
「こいつを飲め。身体の芯から温まるからな」
ベッドから出るなよ、冷えちまうから。この部屋、暑くはないからな。
空調を下手に弄ったりしたら、お前の身体には却って毒だし。
ゆっくり温めた方がいいそうだ、とハーレイがスプーンで飲ませてくれたスープ。「ほら」と、「熱いから火傷しないようにな」と、一匙ずつ。
冷めにくいように、ポタージュスープを貰って来たんだ、と言いながら。
「今日のスープは違うヤツだが、明日用に仕込んであったからな」と。
きっとハーレイが仕込んだスープだったのだろう。部屋に戻って来る前に。
(ゼルに聞いたって…)
空調が故障していること。修理が後回しになったことも。
ハーレイは仕事を放り出して来てくれたのだろうか。引越し先を見付けたかどうか、自分の目で見て確かめようと。
そう思ったから、スープを飲ませて貰いながら訊いた。「ハーレイの仕事は?」と。
「もしかして、途中で抜けて来ちゃった?」
ぼくがきちんと引越せたかどうか、ハーレイ、気になって見に来てくれたの…?
「そんなトコだな、少しばかり遅くなっちまったが…」
キリのいいトコまでやっとかないと、と今日の仕事は済ませて来た。嫌な予感がしたからな。
だが、此処までとは思わなかった。
せいぜい、引越し先が無くって、部屋の表にボーッと突っ立ってるくらいかと…。
そうでなければ、休憩室にポツンと座っているとかな。
「…それって、どっちもゼルに悪いよ…」
早く直して、って催促しているみたいじゃない。ぼくの部屋が何処にも無いんだから、って。
ゼルは「引越せ」って言ってたんだし、引越さないなんて、ただの我儘…。
「それで引越さずに部屋でガタガタ震えてる方が、よほど悪いと思わないのか!?」
心配してたぞ、ゼルが。「ブルーに悪いことをしちまった」と。
俺がスープを貰いに行ったの、晩飯の真っ最中なんだから。
丁度いいから、ヒルマンにお前の扱い方を聞いて来たんだが…。
ヒルマンがいれば、ゼルもいるよな。いつも一緒に飯を食うんだし、あいつらはセットだ。
お前に何が起こっちまったか、ゼルの耳にも自然と入る。「俺の部屋に引越しさせておけば」と悔やんでやがるし、結局、ゼルに迷惑かけたわけだな。
「…ごめん…。ゼルにきちんと謝らなくちゃ…」
ぼくのせいだよ、ちゃんと謝る。ゼルはちっとも悪くないから。
「やめとけ、余計にゼルが可哀相だ」
お前を酷い目に遭わせちまったと、あいつは反省してるんだから。
そんな所で謝られてみろ、傷口に塩を塗り込むようなモンだってな。
謝りに行くより、早いトコ身体を温めることだ。お前が元気な顔を見せるのが一番なんだぞ。
ゼルもヒルマンも、エラもブラウも、酷く心配してるんだから。
「知っていれば部屋に呼んだのに」と。お前を引越しさせるべきだった、と四人ともな。
しっかり身体を温めるんだ、と諭されたから「うん」と頷いたけれど。
ゼルに謝りに出掛けてゆくより、風邪を引かないことの方がきっと大切なんだ、と分かりはしたけれど、一向に温まらない身体。熱いスープを飲み終わっても。
手足は今も冷えたままだし、身体の震えも止まらない。まだあの部屋にいるかのように。
ハーレイはフウと大きな溜息をついて、空になったスープの器とトレイを机に置くと。
「まだ寒いんだな、お前、震えているんだし…」
手を触ってみても冷たいままだし、これしかないか…。
「なに?」
薬は嫌だよ、飲みたくないよ。…薬、嫌いなの、知ってるでしょ?
「知ってるが…。薬の出番は来てないな。今の所は」
熱は出ていないし、風邪の症状も出ちゃいない。今、温めれば、治せるだろう。
しかし、毛布も熱いシャワーも、スープも効果が出ないわけだし…。
どうやら、これしか無いようだ。俺が湯たんぽになってやる。
「…湯たんぽ?」
何なの、それは?
湯たんぽって、何に使うものなの…?
「そのままの意味だな、中に湯を入れて身体を温めるのに使うんだ」
それが湯たんぽで、人間の身体を温めるには、人間が一番らしいんだ。
人間の体温を移してやるのが、湯たんぽよりも効くってな。
そういう話だ、俺も自分で試したことは無いんだが…。この船でも例は一つも無いんだが。
何か温める物は無いかと探していたら、ヒルマンがそう教えてくれた。
スープを飲ませても駄目なようなら、俺が温めるのが一番だとな。
お前の身体が温まるまで側にいてやる、とポンと叩かれた上掛け。とても大きな褐色の手で。
「狭いのは我慢してくれよ」と、隣に入って来たハーレイ。パジャマに着替えて。
そして、しっかりと抱き寄せて貰った広い胸。足もハーレイが絡めてくれた。
「どうだ、暖かいか?」
一人よりマシか、俺がこうしていた方が?
暖かくなくて狭いだけなら、本物の湯たんぽ、探してくるが…。倉庫にあるかもしれないしな。
湯たんぽが無くても、代わりに使えそうな何かはあるだろ、端から探せば。
「ううん、あったかい…」
こうしてると、とっても暖かいよ。お風呂に浸かっているみたい。
さっき入ったお風呂よりもずっと、暖かくて気持ちいいお風呂。…熱くないから。
ホントに暖かくて気持ちいい、とウットリとハーレイにくっついた。大きな背中に腕を回して。
心地良く感じる暖かな身体。ハーレイが持っている体温。
火傷しそうに熱かったシャワーやお風呂とは、まるで違った優しい温もり。触れ合った場所から伝わる温もり、それが身体に染み込んでゆく。肌を通して身体の中へと。
(…シャワーより、お風呂より、ずっと暖かいよ…)
上掛けよりも、熱いポタージュスープよりも。
暖かいよ、と身体を擦り寄せていたら、ハーレイも強く抱き込んでくれた。「大丈夫だな?」と確かめながら。「苦しかったら言うんだぞ」と腕に力をこめながら。
すっぽりとハーレイの身体に包み込まれて、手も足も、温まっていく感覚。
本物の湯たんぽは知らないけれども、きっとそれより暖かなもので。ハーレイが持っている命の温もり、身体と心がくれる温もり。
(…ハーレイ、あったかくて気持ちいい…)
もう寒くない、と酔った温もり。本当に暖かかったから。手も足も暖かくなってゆくから。
そうやってハーレイの腕の中で眠って、冷えも震えも何処かに消えた。知らない内に。
次の日の朝には、暖かなベッドで目覚めた自分。
ハーレイが額に手を当ててから、「熱は無いな」と微笑んでくれた。
体温がきちんと戻った身体は、もう震えてはいなかった。風邪も引かずに済んだのだった…。
やっちゃったっけ、と蘇った思い出。前のハーレイに迷惑をかけた、ベッドで震えていた自分。今の自分は寒いからと寝坊をしたのだけれども、前の自分は…。
「…ごめんね、ハーレイ…。前のぼくも寒くて失敗しちゃった…」
今よりも寒さに強かったけれど、暖かいベッドで寝ようとしたのはどっちも同じ。
あの時のベッドは、少しも暖かくなかったけれど…。どんどん寒くなっていっちゃったけど。
「宇宙船の中だったんだぞ。其処で空調が壊れちまったら、そうなるだろうが」
わざと空調を止めてあった部屋があったくらいだ、食料を保存するために。
ちょっと考えれば分かることだぞ、空調が使えなくなっちまった部屋がどうなるか。
お前、あの頃から手がかかるんだ。
寒いと駄目になっちまうんだな、お前の頭というヤツは。
今のお前は、もう一度ベッドに潜っちまって、寝坊しただけで済んだようだが…。
それに昼間は暖かくなるしな、宇宙船の中じゃないからな?
俺が来るまで寝ていたとしても、凍えちまいはしないだろう。今のお前だと、俺に寝惚けた顔を見られて、赤っ恥をかく程度だな。
お母さんが「寝ているんですが…」と案内してくれて、俺が覗き込んで。
「おい、朝だぞ」って声を掛けてだ、お前がガバッと飛び起きてな。
「それは嫌だよ、その前に起きるよ…!」
ママだって、きっと起こしてくれるよ、そうなる前に。
ハーレイを部屋の前まで連れて来たって、ぼくを起こしてから「どうぞ」って言うよ…!
寝たままってことはないんだから、と慌てていたら、「休みの日ならそれでいいが…」と、苦い顔をして見詰めたハーレイ。「普段はどうする?」と。
「これから冬が来るんだぞ。お前、しっかり注意しないと…」
凍える心配は要らないようだが、寝坊の方だ。今日みたいなヤツ。
「もうちょっとだけ」と暖かいベッドに潜っている間に、ぐっすり眠っちまってみろ。
遅刻するんだぞ、学校に。…教師としては叱るしかないな、そういう馬鹿は。
それとも遅刻するのが嫌で、お前、学校を休んじまうのか?
「今日は具合が悪いんです」って大嘘をついて、お母さんまで騙しちまって。
「…気を付けるよ、遅刻は嫌だもの」
ハーレイは怒るに決まってるんだし、嘘をついてお休みしたって絶対バレちゃうし…。
学校には嘘だとバレなくっても、ハーレイがお見舞いに来てくれた途端にバレておしまい。
頭をコツンと叩かれるとか、おでこを指で弾かれるとか。
…でもね、また寒くて震えちゃってたら…。
前のぼくみたいなことはなくても、寒くてベッドから出られなかったら、温めてくれる?
今度も、ぼくの身体を丸ごと。
「分かってるのか、お前? 今は右手だけしか駄目だってことが」
温めてやれるのは右手だけだな、どんなに寒い冬の日でもな。
お前のベッドに入るわけにはいかんだろうが、いくらお前が震えていても。
今のお前とは他人だぞ、俺は。家族じゃなくって、ただの守り役だ。
本物の湯たんぽを取りに出掛けるか、お母さんに部屋まで届けてくれと頼みに行くか…。
そんなトコだな、今のお前にしてやれるのは。
だが、いずれは温めることになるんだろうな、とハーレイは溜息をついているから。
「お前の我儘、聞いてやると約束しちまってるしな」と、困り顔でも嬉しそうだから。
いつかハーレイと二人で暮らし始めたら、寒い冬の朝には甘えてみようか。
ハーレイの仕事が休みの時に。
週末だとか、冬休みだとか、ゆっくり起きてもかまわない朝に。
「寒いからベッドを出たくないよ」と、隣にいるのだろうハーレイに。
前の自分が温めて貰った、暖かな身体の持ち主に。
「ぼくの湯たんぽでいて欲しいな」と、「朝御飯よりもそっちがいいよ」と。
そうしたらきっと、湯たんぽを貰えるだろうから。
逞しい両腕で抱き締めて貰って、幸せな温もりですっぽりと包んで貰える筈なのだから…。
寒かった部屋・了
※部屋の空調が壊れていたのに、寒い中で震え続けたブルー。仲間に迷惑を掛けたくなくて。
結局、迷惑を掛ける結果になったのですけど、ハーレイに温めて貰った、幸せな思い出。
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(わあ…!)
兵隊さんだ、とブルーが眺めた写真。学校から帰って、おやつの時間に広げた新聞の記事。今の時代に軍隊はもう無いのだけれど。軍人だって一人もいないのだけれど…。
(いろんなのがあるよね)
ずっと昔のお伽話に出て来るような兵士たち。絵本や、童話の挿絵で見掛ける彼らの姿。
そういう兵士の写真が沢山、今の時代は軍人ではなくて警備員。そうでなければ、ガイドとか。この地球の色々な地域に合わせて、遠い昔の兵士と同じ軍服で。
警備員もガイドも、観光客の目を楽しませるために兵士の格好。警備するのもお城ではなくて、博物館とか美術館とか。
(ホントに色々…)
SD体制が始まるよりも、遥かな昔の兵士の軍服を真似ているから。その地域ならではの独特の軍服、それを着た方が喜ばれるから。
民族衣装を元にしたものも多くて、ギリシャなんかだとスカートのよう。インドを名乗る地域の兵士は、頭にターバン。
そんな具合に、軍服も帽子の形も色々。誰もがカメラを向けたくなるのが兵士たち。その正体は観光ガイドでも。博物館とかの警備員でも。
今の時代だから出来るお遊び、実用的には見えない軍服も帽子も沢山。すっかり平和で、軍隊の出番が無いからこそだと記事にある。
いくら昔のギリシャにしたって、スカートのような軍服で戦いはしない。戦闘用には別の軍服、スカート風のは衛兵の服。インドの兵士のターバンだって、戦う時には実用的な帽子に変わった。
けれど今では、観光用の軍服だけ。戦闘用はもう何処にも無い。
兵士の姿の人を集めたら、華やかな軍服やユニークなものばかり。どれも観光客に人気の。
沢山あるよ、と眺める写真。どれも近くで見てみたくなる。服も帽子も、お洒落な靴も。
(前のぼくが生きてた時代だと…)
兵士は全部、本物だった。お遊びの兵士はきっと、いなかったろう。
あの時代の兵士は、人類統合軍か国家騎士団に所属する者たちばかり。軍服だって、普通の軍か国家騎士団かで変わるだけ。宇宙の何処に行っても同じ。
(今は色々あるのにね…)
遠い昔の地球にあった様々な文化が作った、兵士の軍服。それが素敵だと、あちこちの星に。
警備員らしい服を着るより、バラエティー豊かな昔の兵士の軍服の真似。
イギリス風とか、ロシア風とか、もっと昔のお伽話の舞台になった時代のものだとか。
(そんなにあるなら、国家騎士団スタイルとかも…)
やってる場所があるのかな、と思った所で気付いたこと。新聞の写真の兵士たちの売り物。
(帽子…)
うちの所はこれなんです、と誇らしげに被っている帽子。デザインの方も実に色々、ターバンも帽子の内だろう。飾りの房がついた帽子や、お伽話の兵隊みたいなイギリス風の帽子とか。
軍服の数だけと言っていいほど、様々な形の帽子がセット。軍服に似合っている帽子。
当たり前のように皆が被っているのだけれども、その帽子。
(帽子、無かった…?)
何故だか、そういう風に思える。
前の自分が生きた時代にはあった軍隊、其処に帽子は無かったのでは、と。
人類統合軍も、国家騎士団も、前の自分は見ていた筈。けれど帽子が思い出せない。軍服の方は簡単に思い出せるのに。人類統合軍の方は暗い色ばかりで、国家騎士団は赤かった、と。
(なんで…?)
軍服はちゃんと覚えているのに、頭に浮かんでくれない帽子。兵士の頭に帽子はセットで、現に新聞の兵士たち。お遊びの兵士ばかりだけれども、帽子の無い人は一人もいない。
(変だよね…?)
前のぼくの記憶違いだろうか、と新聞を閉じて、帰った二階の自分の部屋。
勉強机に頬杖をついて、帽子を考えることにした。人類統合軍と国家騎士団の帽子のことを。
今では馴染みの兵隊の帽子。新聞で初めて目にした軍服も多かったけれど…。
(兵隊さんには、帽子がセット…)
他の地域の美術館だの、博物館だのを守る警備員。人気が高いから、よく見るのも多い。新聞や本に載っているから。「此処の地域の兵士はこれです」と。
お遊びの兵士でも、必ず被っている帽子。デザインが豊富にあるくらいだから、軍服には帽子がついている筈。何処の兵士でも。
(いくら時代が違っても…)
帽子を被らない軍隊なんて、何処か変だと思うから。
それとも、それは今の自分の感覚だからで、あの時代は普通のことだったろうか…?
まずは帽子、と其処から探ってゆくことにした。兵士に限らず、帽子というもの。頭に乗っける帽子そのものを。
(…帽子って…)
軍隊は無くなった今だけれども、帽子はごくごく当たり前のもの。珍しくはない。男性も女性も被るお洒落なアイテム、ファッションの一部。常に被りはしないけれども。
自分にとっては日よけの帽子。日射しが強い季節になったら、つばの広い帽子を被るもの。
(防寒用だって…)
暖かな毛糸で編んだものとか、フワフワの毛皮がついたものとか。
寒さを防げるシールドがあっても、防寒用の帽子は人気。耳まですっぽり覆うものとか、大人も子供も被っている人が増える寒い冬の日。今の自分も母が被せてくれたりする。
でも…。
(前のぼくの時代に、帽子はあった?)
そこが問題、と手繰ってゆく記憶。あの時代に帽子はあったっけ、と。
(えーっと…?)
思い浮かべたシャングリラ。前の自分が暮らした船。
あの船で皆が着ていた制服、それに帽子はついていなかった。男性も女性も、帽子は無し。前の自分も被ってはいない。頭の上には補聴器だけ。
(補聴器は制服とセットで来たけど…)
目立ち過ぎるのを寄越されたけれど、帽子はついて来なかった。「これを被れ」と、ソルジャー専用の帽子を渡されはしなかった。
(ハーレイも、ゼルたちも被ってないよね…?)
それぞれ特別な制服があったのに、無かった帽子。キャプテンも、それに長老たちも。
他の仲間たちも被っていないし、もしも帽子が無かった時代だったら、軍隊に帽子が無かったとしても…。
(変じゃないよね?)
帽子を被る文化が無いなら、それで当然。兵士たちだって被りはしない。
鍵になるのは帽子だよね、と追ってゆく帽子。前の自分が生きた時代の帽子のこと。
(輸送船から奪った物資に…)
あっただろうか、帽子というものは。混じっていたなら、被った者もいただろう。船の中でも、太陽の光が射さない宇宙船でも、「似合ってるか?」と。制服が無かった頃ならば。
(帽子があったら被るよね…)
きっと被ってみたくなる。好奇心旺盛なゼルやブラウが、「どんな具合だい?」と。
けれど、そういう記憶は無かった。誰も被っていなかった帽子。
(帽子、ホントに無かったわけ…?)
まさか、と否定したけれど。奪った物資に無かっただけで、人類の世界にはあっただろう、と。
そうは思っても、人類軍の兵士たち。帽子がセットの筈の軍服、彼らの帽子を見たという記憶が全く無いのなら。兵士も帽子を被っていない時代だったら、帽子は何処にも無かったとか…?
(マザー・システムが消しちゃった…?)
帽子を被るという文化を。他の多様な文化と一緒に、帽子までをも。
それなら帽子が無くても分かる。マザー・システムが消してしまったのなら。
ただ、消す理由が分からない。帽子があったら困るわけでもないだろうに。
機械が統治してゆく世界に、多様な文化はマズイけれども、帽子は問題無さそうなのに。
やっぱり記憶違いだろうか、と抱えた頭。どうにも思い出せない帽子。人類軍の軍服の帽子も、他にあったかもしれない帽子も。
(…忘れちゃったのかな…?)
それとも本当に無かったのかな、と悩んでいたら、仕事帰りのハーレイが訪ねて来たから。同じ時代を生きていたのがハーレイだから、とテーブルを挟んで向かい合うなり訊いてみた。
「あのね、帽子のことなんだけど…」
ハーレイ、帽子を覚えてる?
「帽子?」
何なんだ、それは。帽子って頭に被る帽子か、あれのことか?
「その帽子だよ。前のハーレイ、被ってた?」
帽子を被ったことはあったの、シャングリラで…?
「いや、無いな。キャプテンの制服に帽子ってヤツは無かったからな」
厨房の帽子も被り損なったぞ、あれが出来た時には、俺はキャプテンだったから。
「そっか、厨房の帽子…!」
あそこにあったね、白い帽子が。みんなが被っていた帽子…。
そうだったっけ、とハーレイのお蔭で帽子の記憶が戻って来た。厨房の者だけが被った帽子。
調理担当のスタッフ用に、と制服が出来た時に生まれた。
前の自分が奪った物資に帽子は一つも無かったけれども、料理をする人は被るから。料理専門の人間が被る帽子はこれだ、と白い帽子が作られた。
(料理する時は、頭に白い帽子で…)
厨房を束ねる仲間の帽子は、デザインが別のものだった。一目でそうだと分かるように。
(あそこに帽子があったんだから…)
人類の世界にも帽子はあった。軍隊に帽子があったかどうかは、ともかくとして。
料理人が帽子を被ったほどだし、マザー・システムは帽子を消してはいなかった。人間が帽子を被っていたって、機械は困りはしないから。統治する邪魔にはならないから。
「やっぱり、帽子はあったんだ…」
「はあ?」
帽子があったらどうかしたのか、俺が来るなり帽子だなんて言い出すし…。
「んーと…。帽子、思い出して来たけれど…」
シャングリラの中では、厨房くらいしか出番が無かっただけの話で…。
アルテメシアだと被ってる人もいたんだっけ、ってハーレイのお蔭で思い出せたけど…。
でもね、とハーレイに投げ掛けた問い。
人類軍には帽子が無かったのでは、と。人類統合軍にも、国家騎士団にも。
「おいおい、物騒な話だな」
俺たちじゃなくて、敵の方の帽子が気になるのか、お前。人類どころか人類軍だなんて。
「だって…。気になるんだもの、人類軍の帽子」
前のぼくも詳しくは知らないけれど…。沢山見たってわけじゃないしね。
アルテメシアでミュウの子供を追っていたのは保安部隊で、人類軍じゃなかったでしょ?
だから軍人は殆ど見ていないんだよ、前のぼく。
軍の大物が視察に来た時の偵察だとか、その程度だし…。変な動きをしないかどうか。
視察の時には、軍人がズラリと並んでいたよ。整列して敬礼。
でも…。いつ見ても、帽子を被った軍人はいなかったから、帽子、軍には無かったかな、って。
キースも被っていなかったしね。
捕虜になっていた時は、ナスカに墜落した時に失くしたっていう可能性もあるけれど…。
メギドでも被っていなかったんだし、帽子、無かったと思わない…?
きっとそうだよ、と言った途端に蘇った記憶。前の自分が目にした帽子。
メギドの制御室に辿り着く前に、それに出会った。帽子を被って薄ら笑いを浮かべる兵士に。
撃たれたんだ、と気付いた背中。帽子を被った兵士たちに。
「痛い…!」
いきなり戻った記憶は痛みを連れて来た。今の自分の背中にまで。
あの時よりかはマシだけれども、悲鳴を上げずにはいられなかった。とても痛くて。
「どうしたんだ!?」
ハーレイが慌てて駆け寄ってくる。自分の椅子から立ち上がって。
「背中…。背中、痛いよ…」
でも前のぼく、と座ったままで身体を丸めた。早く痛みが消えるようにと。
「前のお前って…。背中って、なんだ?」
大きな手が背中を擦ってくれた。「何処が痛むんだ?」と。
「その辺り…。大丈夫、ちょっとビックリしただけ…」
すっかり忘れてしまっていたから、思い出したら、痛かったことまで戻って来ちゃった。
メギドで背中から撃たれたんだよ、後ろなんか見ていなかったから。
…あの時、初めて帽子を見たかも…。ううん、その前にも何人か見たよ、帽子を被った人類軍の人間。国家騎士団の軍服だったから、みんな軍人…。
あれが初めて見た帽子、と話す間に消えていった痛み。「人類軍にも帽子はあったね」と、話の続きをしようとしたのに、ハーレイに「待て」と止められた。
「…帽子だと?」
どんなヤツらだ、お前を撃った帽子を被った兵士というのは…?
痛いのはもう平気なのか、と覗き込んで来た鳶色の瞳。
「もう痛くないよ。…でも、帽子の軍人がどうかしたの?」
ハーレイも帽子が気になるの、と尋ねたら「見せろ」と言われた記憶。背中を撫でてくれているハーレイに。
「帽子のヤツらだ、前のお前を撃ったヤツ」
その記憶、俺に見せてみろ。…気になることがあるからな。顔だけでいい。
「分かった…」
こんなのだった、と思い浮かべた兵士たち。前の自分が振り返って見た、銃を持った兵士。
そうしたら…。
「こんな下っ端に…!」
前のお前は撃たれたのか、とハーレイがギリッと噛んだ唇。「なんてことだ」と。
あまりに酷いと、こんなヤツらがお前を、と。
ただの保安部隊で、階級も一番下のヤツらだ、と辛そうに歪んだハーレイの顔。本当だったら、前のお前の敵ですらない、と。
「こいつらにお前を撃たせたっていうのか、キースの野郎…!」
馬鹿にするにも程があるだろう、これで充分だと思いやがったのか?
こんな下っ端に、前のお前を撃ち殺させるつもりだったのか…!?
最後は自分が出て来たにしても、その前に片付いていれば楽が出来ると思ったんだな、畜生め。
如何にもあいつが考えそうなことだがな…!
「待ってよ、ハーレイ。…キースが嫌いなのは分かってるけど…」
今は帽子の話だってば、そっちの方をちゃんと聞かせて。
ぼくはあの時、初めて帽子を被った兵士を見たんだけれど…。帽子は下っ端が被るものなの?
偉い人は帽子を被っていないの?
「ああ。…前の俺たちの時代にはな」
思い出しちまった、と悔しげなハーレイが取り戻した記憶。時の彼方から。
地球を目指しての戦いの時代に、キャプテンとして得た人類軍についての知識。
キースなんかは帽子を被ったことは無かっただろう、と怒ったハーレイ。ただの一度も、と。
人類軍では、階級が上がれば被らない帽子。
国家騎士団でも、人類統合軍の方でも、そういう制度になっていた。
偉い軍人になればなるほど、遠ざかってゆくのが帽子というもの。軍服を纏っている時は。
キースはメンバーズ・エリートだったし、軍に入った時点でエリート。選ばれた軍人。
最初から階級が上になるから、帽子を被る機会は一度も無かった筈だ、という説明。
普通の兵士は、頭に帽子で始まるけれど。
帽子を被って警備などの仕事、いずれ昇進出来た時には、頭の上から無くなる帽子。
きちんと仕事をしない限りは、帽子の兵士のままなのだけれど。頭から帽子は消えないけれど。
大抵の兵士は直ぐに昇進出来るという。新入りは次々にやって来るから、ヘマをしない限り。
任された仕事を二年ほどもやれば、頭の上から帽子は消える。
「そうだったんだ…」
帽子が無いのが普通なんだね、人類軍は。階級が上がれば無くなっちゃうから。
「そういう制度になってたな。帽子はあったが、被ってる間は下っ端なんだ」
前のお前がアルテメシアで見ていた軍人は全部、そこそこの階級だったってことだ。
視察に来るようなヤツは偉いに決まってるんだし、出迎える方も下っ端だったら失礼だろうが。
下っ端のヤツらは外で警備だ、何かあったら大変だから。
…お前、メギドでマツカに会っているだろう?
帽子、被っていなかったよな、マツカ?
「うん…。急いで走って落としたんでなければ、帽子は無しだよ」
マツカ、被っていなかったもの。…帽子なんかは。
「ほら見ろ。マツカ程度の軍人でもだ、もう被ってはいなかったんだ」
いいか、マツカでも帽子は無しだ。前のお前が出会った時の。
あの時は、キースが転属させた直後だったんだぞ?
それまでの人類統合軍から、国家騎士団の方へとな。…役に立つから。
だが、転属は出来たとしたって、階級までは変わらない。何の功績も無いんだから。
マツカも言わば下っ端なのにな、キースの使い走りをしていた程度の。
後の時代の方はともかく、メギドの時には下っ端の内だ。
ソレイドでキースに出会った時には世話係だった、とハーレイに聞かされなくても分かる。
歴史を変える切っ掛けの一つになったマツカは、歴史の授業で習うから。キースとの出会いは、ジルベスター星系の事故調査に来た彼の世話係になったこと。
其処でキースにミュウだと知られて、けれど命を救われたマツカ。
「…それじゃ、前のぼくが見た帽子の兵士…。ホントに下っ端だったんだ?」
メンバーズ・エリートの世話係もさせて貰えないほど、うんと下っ端…。
「そういうことだな、警備兵レベルのヤツらばかりだ」
配属されたばかりの新人がメギドに来るわけがないし、出世コースから転げ落ちたヤツら。
こいつは駄目だ、とマザー・システムが見捨てたヤツらと言うべきか…。
腕はそこそこ立つんだろうが、利口じゃないとか、射撃しか能が無いだとか。
そいつらがソルジャー・ブルーを撃ったか、下っ端のくせに…!
「痛かったけど、血は出てないよ」
ホントだってば、痛かっただけ。…ちゃんとマントが守ってくれたよ、弾からはね。
「お前の記憶、よく見せてみろ」
撃たれた時のだ、帽子のヤツらに。
「でも…。ハーレイ、怒るよ」
今だって怒っているじゃない。ぼくの記憶を見てしまったら、もっと怒るに決まってる…。
「いいから、俺に見せてくれ。…その時の記憶」
お前のことは知っておきたいんだ、あの時、メギドで何があったか。
聞いちまったら、気になるだろうが。
お前がどんな思いをしたのか、どんな目に遭っていたのかと。…俺の知らない所でな。
お前は戻って来なかったから、と鳶色の瞳に深い悲しみが揺れるから。知りたいと思う気持ちが痛いほど伝わって来るから、「其処だけでお願い」とハーレイに頼んだ。
「…後ろから撃たれた所だけ。ぼくが後ろを振り向くトコまで」
他は見ないで、それならいい。
其処しか見ないで終わりにするなら、ぼくの記憶を覗いてもいいよ。
「何故だ?」
ほんの一瞬しか見せないだなんて、どうしてそういう注文をつける?
お前の苦しさも辛さも痛みも、何もかも俺は見ておきたいのに。
「…もっとキースが嫌いになるから。今よりも、もっと」
ハーレイ、悲しむに決まっているから…。他の所まで見ちゃったら。
ぼくのサイオン、今は不器用になってしまって、遮蔽したくても出来ないんだよ。他の記憶を。
だから、ハーレイが他のも見ようとするんだったら、見せられないよ。
見ないって約束してくれるんなら、見てもいい。…ホントに、其処だけ。
「そういうことか…。お前が辛くなるんだな」
見ちまった俺も辛くなるだろうが、それを見せちまったお前の方も。
それなら、見ないと約束する。
お前が辛い思いをするのは、俺だって御免蒙りたいしな。
だが、其処だけは頼む、とハーレイが絡めて来た手。「お前の記憶を見せてくれ」と。
ハーレイは約束してくれたのだし、意識して思い浮かべた記憶。撃たれた時の。ハーレイが息を飲むのが分かって、褐色の手が直ぐに離れていって。
「お前、これは…。血は出てなくても、相当キツイぞ」
マントが弾を止めたか知らんが、背中に食い込む勢いじゃないか。
くっきりと痕がついたんじゃないのか、お前の背中。肋骨にヒビも入ったかもな。
俺でさえ痛いのが分かるんだ。記憶を覗き込んだだけでも。
「そうだと思うよ、倒れちゃってたでしょ?」
背中から突き飛ばされたみたいな感じ。今のぼくなら気絶してるよ、あれだけで。
メギドの制御室には辿り着けなくて、あの兵士たちに生け捕りにされてしまいそう…。
「まったくだ。今のお前なら、そうなるだろうな」
前のお前でも、ダメージを受けた筈なのに…。起き上がるのも辛かったろうに。
それなのに、無茶をしやがって…。
あんな目に遭っても先に進んで、挙句にキースに撃たれちまって…。
「いいんだよ。…前のぼくの役目だったもの」
ぼくしかメギドを止められないなら、頑張って進むしかないじゃない。倒れていないで。
「あんな下っ端に撃たれてもか?」
キースならともかく、帽子を被っているようなヤツに。
「シールドを展開できなかった、ぼくが悪いんだよ」
きちんとシールド出来ていたなら、撃たれたって弾は届かないんだし…。
よく考えたら、それまでにも帽子の兵士に出会って、弾を止めては進んでたんだし。
「お前なあ…」
自分のミスだと言い出す所が、お前らしいと言うべきか…。
あいつらはキースが差し向けた兵士で、お前を殺すのが仕事だったというのにな…。
何処まで人がいいんだか、とハーレイは呆れた顔だけれども。溜息も零しているけれど。
「とはいえ、あいつらは倒したんだな?」
俺はお前に言われた通りに、振り向く所までしか見てはいないが…。
お前が先に進めたんなら、あの兵士どもは倒して行ったということだよな…?
「そう…。相手をしている暇はないから」
思い切り、サイオンをぶつけちゃった。手加減もせずに。
可哀相にね、きっと死んじゃったと思う…。人類はシールド出来ないんだもの。
「お前の方がよっぽど可哀相だ!」
殺すのが仕事の警備兵とは違うだろうが!
前のお前は守るのが仕事で、そのためにメギドまで行って…。
メギドを止めようとしていただけでだ、人類を殺そうとしたわけじゃない。
そんなお前を撃つ方が酷い。
ただでもフラフラの身体だっていうのに、背中から狙い撃ちをするなんてな。
酷いヤツらに同情は要らん、とハーレイがまた怒り出しそうだから、「大丈夫」と止めた。もう過ぎ去った過去のことだし、メギドはとうに消え去ったから。
「平気だよ、ぼくは。…前のぼくじゃなくて、今のぼくはね」
メギドはとっくに無くなっちゃったし、今はとっても平和な時代。
宇宙の何処にも戦争は無くて、人類統合軍も国家騎士団も、どっちも何処にも無いんだから。
軍人なんかは一人もいないよ、だからホントに大丈夫で平気。
だけど、帽子で思い出すなんて…。あの時のことを。
いきなり思い出しちゃったせいで、背中、とっても痛かったよ。…前のぼくよりマシだけど。
「とんだ目に遭ったな、きっと楽しく帽子を考えていたんだろうに」
俺に会うなり、帽子の話を始めちまうほど。
前の俺たちが生きた時代に、帽子ってヤツはあったのか、ってな。
「…いいんだってば、そっちだって」
最初から兵隊さんの帽子だったし、ぼくは答えを貰っただけ。
「兵隊って…。なんでまた、帽子で兵隊なんだ?」
何処からそういう話になるんだ、お前、いったい何をしたんだ?
「新聞に載っていたんだよ。今の時代の兵隊さんが」
本物の兵隊さんじゃないけど、色々な軍服の人がいるでしょ、いろんな所に。警備員の人とか、観光ガイドの人だとか…。兵隊さんの格好の人。
いろんな服があるんだよね、って見てたら、どれにも帽子がセット。
人類統合軍とかの軍服の人もいるのかな、って考えていたら、そこから帽子になっちゃった。
前のぼくが覚えていなかった帽子、と笑ってみせた。国家騎士団の帽子は忘れていた、と。
「それでね、兵隊さんには帽子がセットみたいだから…」
人類軍に帽子が無かったんなら、帽子そのものが無かったのかな、って思ってたんだよ。
軍服に帽子が無いくらいだから、あの時代は帽子が無かったかも、って。
「なるほどなあ…。今の時代の兵隊の帽子か」
お前の言う通り、色々な軍服やセットになる帽子があるんだが…。
あの軍服を本物の軍人が着ていた時代だったら、帽子ってヤツは被ってる方が偉いんだよな。
前の俺たちの頃と違って。
「ホント?」
被っている方が偉いって言うの、前のぼくたちの頃は、偉いと帽子無しなのに…。
軍に入ったばかりの人とか、下っ端しか被っていなかったのに。
「それが昔は違ったんだな、SD体制が始まる前は」
どのくらい前の時代までかは、俺も調べちゃいないんだが…。
今あるような兵隊の服が、ちゃんと使われていた時代。その頃だったら、帽子は必ず被ってた。
そして階級が上がっていったら、立派な帽子になっていくんだ。
帽子についてるマークが別のヤツになるとか、帽子の形がまるで違うのになるだとか。
時代は変わっていくってことだ、とハーレイが指した自分の頭。「帽子は大事だ」と。
SD体制よりも前の時代の人間が見たら、人類統合軍や国家騎士団の軍人たちは誤解されると。
帽子を被った下っ端の方が階級が上で、被っていなかった軍人たちより偉いんだ、と。
「なにしろ、帽子をしっかり被ってる上に、あの帽子…」
地球の紋章が入ってたしなあ、軍に所属しているって印になるだろ?
紋章入りの帽子を被れるわけだし、被っていないキースなんかよりも遥かに偉い軍人だ。
軍人は帽子を被るもんだ、という時代に生きてた人間が見れば。
「へえ…!」
凄いね、帽子があるか無いかで変わる所は同じだけれど…。
被っている方が偉い時代もあったんだ…。今の時代の兵隊さんの服が本物だった頃には。
「価値観の違いと言うべきなのか…。面白いよな、帽子一つで」
だからだ、お前も昔の人の考え方を取り入れておけ。
前のお前を撃ったヤツらは下っ端じゃないと、偉かったんだと。
キースなんかは帽子無しだし、話にならん。
帽子を被った偉いヤツらとも戦ったんだ、と思えば少しは楽しいだろうが。
偉い兵士どもを倒したんだし、と貰った慰め。「もう気にするな」と。下っ端の兵士に撃たれたことは不幸だけれども、過ぎたことだから考え方を変えるといい、と。
「俺の方でも、そう思っておくことにするかな。…腹が立った時は」
キースの野郎、と頭に来たら、「帽子も被れない階級のくせに」と馬鹿にする、と。
前のお前を撃ったヤツらも、思い出した時は「帽子を被った偉いヤツら」と考えれば…な。
人生、気の持ちようってヤツが大切だから。
「じゃあ、ハーレイはそうするといいよ」
ぼくはね、そんなの、どっちでもいい。今はとっても幸せだから。
思い出しちゃったせいで背中が痛かったけれど、今は少しも痛くないから。
「そうなのか?」
強いな、お前。…チビでも、やっぱりソルジャー・ブルーか…。
前のお前のことに関しちゃ、前のお前になれるってことか。弱虫じゃなくて、強いお前に。
「ちょっとだけね。…ほんのちょっぴり」
それに前のぼくだって、ホントはそんなに強くなかったよ?
何度も泣いたの知っているでしょ、前のハーレイしか知らないけれど。…泣き虫だったことは。
メギドでも泣きながら死んじゃったんだし、ホントに弱虫。
帽子を被った兵士に撃たれたことだって、きっと、弱虫だから忘れちゃったんだよ。
こんなに痛いのは嫌だ、って。…忘れちゃった方が痛くないよ、って…。
兵士の帽子は、すっかり忘れていたけれど。思い出しさえしなかったけれど、前の自分が生きた時代にも帽子はあった。人類軍にも、人類の世界にも、シャングリラにも。
背中が痛かったのは嫌だけれども、帽子の記憶が戻って来たから。
「えっとね…。前のぼくはハーレイの帽子を見ていないから…」
いつか見たいよ、帽子を被ったハーレイを。…あの時代に見られる筈だったヤツを。
「あの時代って…。キャプテンの制服に帽子なんかは無かったぞ?」
セットで作った帽子がちゃんとあったのに、俺が被らずに放っていたなら、話は分かる。
丈の長いマントを持っていたくせに、一度も使わなかったというのが前の俺なんだからな。
放っておいたキャプテンの帽子があってだ、そいつを被った俺を見たいのなら分かるんだが…。
そういう帽子は無かった筈だぞ、俺の記憶は其処までぼやけちゃいないってな。
「キャプテンのじゃなくて、厨房のだよ」
厨房には帽子があったけれども、ハーレイが厨房の責任者だった頃には無かったから…。
もしもあの頃に厨房用の帽子があったら、ハーレイ、被った筈なんだから。
「うーむ…。俺にそいつを被れってか?」
今の時代も売っているしな、あの頃のと変わらない帽子。
それを買って来て、家で被って、キッチンで料理をしろと言うのか…?
「ハーレイ、似合うと思わない?」
ああいう帽子も、ハーレイに。
きっと絵になると思うんだけどな、おんなじように料理をしてても、帽子があれば。
「…まるで嫌いでもないけどな。料理人の帽子」
前の俺たちの頃と同じタイプの帽子も好きだし、今の時代ならではのヤツも好きだぞ。
寿司職人とかが被っているヤツ、あれもなかなか粋だろうが。
料理しながら、ちょいと被りたい気になる日だってあるもんだ。料理人の帽子。
「やっぱり…!」
今のハーレイも、料理は得意なんだもの。前よりも色々な料理を作れるんだし、ああいう帽子を被る資格はあると思うよ、絶対に。
帽子が無い方が偉い軍人の時代もあったし、帽子、無しでもいいんだけれど…。
頭に帽子を被ってなくても、凄い腕前の料理人かもしれないけれど。
被って欲しいな、前のぼくは見られなかったから。…ハーレイの頭に、厨房の帽子。
いつかハーレイに被って欲しいと思い始めた、料理人の帽子。
シャングリラで厨房の者たちが被った、今の時代もある真っ白な帽子。どうせだったら、厨房の最高責任者。一目でそうだと分かるのがいい、あれをハーレイに被って欲しい。
懐かしく思い出したから。
(ハーレイがあのまま厨房にいたら、あの帽子、被ったんだもの…)
そうでなければ、もっと早くに厨房用の白い帽子が出来ていたとか。
前の自分は見損ねた帽子、ハーレイが被る料理人の帽子。それを見られたら、きっと幸せ。
(ホントに被って欲しいな、帽子…)
板前さんとか寿司職人のも似合いそうだよ、と広がる夢。見てみたいよね、と。
新聞で眺めた兵士の帽子は、怖い思い出を連れて来たけれど、幸せな記憶も拾ったから。
「ハーレイ、帽子、被ってくれない?」
シャングリラにも帽子はあったんだもの。…厨房の帽子で、ハーレイは被り損なっただけ。
時期がズレてたら被れた筈だよ、でなきゃキャプテンになってないとか。
ホントに見たいな、ハーレイがああいう帽子を被って料理する所を。
「料理人の帽子か…。一応、考えておくとするかな」
お前、本気で見たいようだし…。俺も被りたい気持ちはあるし。
そうだ、帽子の話の切っ掛けになった兵隊の帽子。…そいつも俺と見に行くか?
色々な所で見られるからなあ、衛兵交代式とかな。城じゃなくって博物館とか美術館だが。
「そっちも見たいよ、いろんなのを」
あちこち旅して、兵隊さんを見て、ついでに名物料理も沢山。
好き嫌いを探しに旅をしながら、兵隊さんの服も一杯見ようね、写真も撮って。
美味しい料理を見付けた時には、作り方を覚えて再現してね、と強請ったら。
「任せておけ」と頼もしい返事が返って来たから、料理人の帽子も被って欲しい。
いつか二人で暮らし始めたら、ハーレイの頭に真っ白な帽子。
シャングリラの厨房にあった料理人の帽子で、最高責任者の印の帽子。
それを見ながら、素敵な料理が出来るのを待つ。
今は平和な時代だから。飾り物の兵隊の頭に帽子があるのは、当たり前の時代なのだから。
前の自分たちが生きた頃には、帽子は無いのが偉かったけれど。
帽子を被った兵士がいたなら、下っ端だった時代だけれど。
それに出会って酷い目に遭って、けれども今では、幸せな自分。
ハーレイと二人で地球に来たから。
青い地球の上に生まれ変わって、いつまでも、何処までも、一緒に歩いてゆけるのだから…。
兵士の帽子・了
※前のブルーをメギドで背中から撃った、帽子を被った兵士。あの時代の帽子は下っ端のもの。
時代が変わると、帽子も変わってゆくのです。昔なら、帽子を被っていないキースは下っ端。
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(本物そっくり…)
凄い、とブルーが眺めた写真。学校から帰って、おやつの時間に。
新聞に載っていた工芸菓子。お菓子で出来た花や建物の写真が幾つも。見事に咲き誇る華やかな牡丹、枝を大きく広げた松の木。遠い昔の日本のお城も、生きているような鳥だって。
(これって日本の文化なんだ…)
遥かな昔に、この辺りにあった小さな島国。其処で生まれた工芸菓子。花鳥風月を描き出そうと作り始められて、材料はお菓子に使うものばかり。
(最初は和菓子で…)
職人たちが技を競っていたという。店に飾ったり、コンクールをしたり。
日本に外国の菓子が広まるようになったら、そういう菓子でも作り始めた日本人。外国のお城や建物なんかを、同じ技法で再現して。
けれど日本の文化だったから、前の自分が生きた頃には無かったらしい。多様な文化は消されてしまった、マザー・システムが統治した時代。例外ではなかった工芸菓子。
小さな島国だった日本が、世界に誇った菓子だったのに。世界中で称賛されたのに。
他の国では、お菓子で何かを作ると言ったら、せいぜいシュガークラフトくらい。砂糖を固めて色々な飾りを作ったけれども、あくまでお菓子の飾り付け。ケーキを綺麗に見せるだとか。
本物そっくりの花や鳥などを作り出そうとはしなかった。シュガークラフトは添え物だから。
お菓子で出来た建物だったら、ヘクセンハウス。その程度だった、と書かれた記事。
日本で生まれた工芸菓子は、今の時代に復活を遂げた。新聞の写真は、最新作の工芸菓子たち。今の自分が暮らす地域で、作り出される工芸菓子。見事な牡丹も、鳥や昔の日本のお城も。
他の地域では、相変わらずシュガークラフトだという。そうでなければヘクセンハウス。
(ヘクセンハウス…)
そっちの写真もちゃんと載っていた。屋根も壁も全部、お菓子で作られた食べられる家。
ヘクセンハウスは「お菓子の家」という意味の言葉ではないけれど。「魔女の家」を指す言葉、お菓子とは結び付かないイメージ。
それもその筈、グリム童話からつけられた名前で、クリスマスのお菓子。レープクーヘンだとかジンジャーブレッド、クッキーに似たお菓子で組み立てる家がヘクセンハウス。
(クリスマスの話じゃないと思うけど…)
元になった童話は、子供の頃に何度も読んだ。「ヘンゼルとグレーテル」、お菓子で出来た家を見付ける子供たちの話。森にイチゴを摘みに出掛けて。
クリスマスの頃は寒いのだから、森にも雪が積もっている筈。イチゴ摘みには行けないと思う。どう考えても、暖かな季節の物語。でも…。
(怖いお話だったよね?)
お菓子の家は、魔女が作った家だった。美味しそう、と食べた子供たちは魔女に捕まり、魔女の食事にされる運命。「太らせてから食べることにしよう」と。
魔女は子供たちをどう料理するか、あれこれ考えていたのだけれど。
子供たちは魔女を竈に投げ込んで退治した。魔女が子供たちを料理しようとしていた竈に。
ハッピーエンドの物語。無事に逃げられた、幼い兄妹。
やっぱりクリスマスの話じゃなさそう、と考え込んだ「ヘンゼルとグレーテル」。イチゴ摘みは冬に出来はしないし、家に帰った子供たちがクリスマスを祝ったわけでもなかったと思う。
なんとも不思議だ、と眺めたヘクセンハウスの写真。これがクリスマスのお菓子だなんて、と。
(きっと子供が喜ぶからだよ)
お菓子で出来た家を貰ったら、クリスマスがグンと楽しくなるから。
クリスマスの日が早く来ないかと、ヘクセンハウスを家に飾って待つのだろう。長持ちしそうな材料なのだし、きっと早めに買って貰って。
お菓子の家は素敵だから。怖い魔女さえ住んでいなければ、本当に夢の家だから。
(えーっと…?)
食べられるお菓子で出来ている家。屋根も壁も全部食べられる家。白い粉砂糖の雪で飾ったり、色とりどりのチョコレート菓子を鏤めたりと。
前の自分も知っていたような気がして来た。この美味しそうなお菓子の家を。
(…前のぼく…)
お菓子の家に憧れたろうか。ヘクセンハウスを夢見た時代があったのだろうか?
新聞の写真のヘクセンハウスは、可愛らしくて美味しそうだけれど。今の自分も、クリスマスの頃に見掛けたことがあるけれど。
どうだったろう、と考えながら帰った部屋。おやつのケーキを食べ終えた後で。
(お菓子の家…)
前の自分も欲しかったかな、と思うけれども、相手はお菓子の家だから。
ヘクセンハウスも、「ヘンゼルとグレーテル」に出て来る魔女が作ったお菓子の家も、お菓子で作り上げられた家。甘いお菓子で出来ている家、子供が好きそうな夢の家。
(そんな夢より…)
目の前の現実が問題だった。
シャングリラだけが世界の全てで、船の中で食べてゆかねばならない。白い鯨が完成する前は、人類の船から奪った食料。それが無ければ、皆が飢え死にしてしまうから。
そんな船では、お菓子の家を探しに出掛けるどころではなかった。ヘクセンハウスを探すような暇があるのだったら、少しでも多く食料を奪って帰ること。
ヘクセンハウスを知っていたって、前の自分は探しに行かない。奪いはしない。
(前のハーレイだって…)
厨房にいた頃は、色々と作っていたのだけれども、ヘクセンハウスを作ってはいない。お菓子の家を作る所は見ていない。
(でも…)
知っていたように思えるヘクセンハウス。お菓子で出来た、食べられる家。
前の自分は奪っただろうか、人類の船からヘクセンハウスを?
けれど、探そうとはしなかった筈。あれが欲しい、と宇宙を駆けてはいない筈だし…。
(んーと…?)
もしも本物を見たと言うなら、きっと紛れていた物資。ヘクセンハウスを奪うつもりは無くて、たまたま紛れ込んだだけ。
そちらの方に違いない、と遠い記憶を辿って行ったら…。
(あった…!)
見付けた、と探り当てた古い古い記憶。前の自分が奪った物資の中にヘクセンハウス。
(一つだけ混ざっていたんだっけ…)
時期は忘れてしまったけれども、クリスマスが近かった頃なのだろう。ヒルマンが皆に説明していたから。「今の季節のものなのだよ」と。
レープクーヘンで出来たお菓子の家。粉砂糖の白い雪を被って、アイシングなどで飾られた家。
たった一つだけのヘクセンハウスは、暫く船に飾ってあった。皆が集まる食堂に。
「お菓子の家だ」と、誰もが見ていたヘクセンハウス。いつかは分けて食べるのだろう、と前の自分も眺めていた。船の仲間で分け合ったならば、一人分は小さな欠片だろうけれど。
(屋根とか、壁とか…)
そういった場所の一部分。運が良ければ、綺麗なアイシングがついているかもしれない。欠片と一緒に、ほんの少しだけ。淡いピンクだとか、水色だとか。
きっとそうだ、と思っていたのに、ヘクセンハウスを飾っておく時期が終わった時。
「あんたが貰っておくといいよ」
これの季節は過ぎたんだから、とブラウたちが掛けてくれた声。「持って行きな」と。
「…なんで?」
みんなで分けて食べればいいのに、とキョトンとしたら。
「だって、あんたは子供じゃないか」
こういうモノも大切だよ、とブラウが渡してくれたヘクセンハウス。ヒルマンもエラも、ゼルもハーレイも、他の仲間たちも微笑んでいた。「他に子供はいないから」と。
前の自分は誰よりも年上だったけれども、姿も心も子供のまま。長く成長を止めていたせいで。
だから船では子供扱い、ヘクセンハウスが貰えたほどに。
ほら、と渡されたヘクセンハウス。自分だけのためのお菓子の家。
(凄く嬉しくって…)
心が弾んだ。食堂に来る度に見ていたヘクセンハウスが、丸ごと自分のものだなんて、と。
それに、クリスマスに飾るお菓子の家。記憶は残っていなかったけれど、養父母と過ごした家にいた頃は、持っていたかもしれないから。お菓子で出来た、食べられる家を。
養父母と一緒に食べただろうか、それとも一人で少しずつか。
きっと幸せだっただろう。お菓子の家を見ていた間も、それを食べる時も。
他の仲間たちも、食べたかもしれないお菓子の家。記憶に無いだけで、養父母の家で。お菓子の家はクリスマスのもので、現にこうしてヘクセンハウス。一個だけしか無いけれど。
(ぼくが一人で食べるよりかは…)
みんなで分けた方がいいよね、と思った自分。嬉しいけれども、一人占めは駄目、と。
けれど、遠慮したエラやブラウたち。他の仲間たちも、揃って言った。「子供用だよ」と。
誰も欲しがらずに、譲ってくれたヘクセンハウス。一つだけだったお菓子の家。
貰って帰って、部屋に飾って、とても幸せな気分になって。
(ぼくのなんだけど…)
一人で食べるのはもったいなくて、ハーレイを部屋に呼んだのだった。ぼくと一緒にハーレイも食べて、と。一人よりも二人の方がいいから。ハーレイは一番の友達だから。
そうだったっけ、と蘇った記憶。前の自分のお菓子の家。
(懐かしいな…)
シャングリラで持っていたんだよね、と遠い思い出に浸っていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、早速尋ねた。テーブルを挟んで向かい合わせで。
「ねえ、ハーレイ。ヘクセンハウスって知っている?」
魔女の家っていう名前のお菓子の家。クッキーみたいなお菓子で出来てるヤツ。
「たまに見るなあ、クリスマスの頃に」
菓子を売ってる店に行ったら飾ってあったり、売られてたりな。
「あれ、シャングリラで食べたっけね」
「はあ?」
シャングリラでヘクセンハウスって…。あったか、そんなの?
「あったよ、ぼくとハーレイしか食べてないけど」
ヘクセンハウス、一つだけしか無かったから…。みんなの分は無かったから。
前のぼくだけ子供だったから、貰えることになっちゃって…。
貰って帰ったけど、一人で食べるの、もったいないでしょ?
だからハーレイを呼んだんだよ。二人で食べよう、って。
「そういや、あったなあ…。一つだけだったが」
食堂に飾ってあったんだ。クリスマスの季節の菓子なんだ、とヒルマンが説明してくれて…。
飾った後は、皆で相談して、お前に贈ってやったんだった。子供が貰うべきだから、と。
せっかくプレゼントしたっていうのに、お前と来たら…。
俺を呼び出したんだった、とハーレイは肩を竦めてみせた。「あれはお前のだったのに」と。
「お前が少しずつ食えばいいだろ、って言っても聞きやしないんだ」
一人より二人の方がいいとか、一人で食べるには多すぎるだとか…。
俺が断り続けていたら、「いつか料理の役に立つよ」と来たもんだ。
それを言われたら断れないよな、あの頃の俺は厨房担当だしな?
「だって…。ハーレイにも食べて欲しかったんだもの…」
前のぼくの一番の友達だったよ、だからハーレイ。一緒に食べるなら、ハーレイが一番。
そう思ったからハーレイを呼んだ、と微笑み掛けた。生まれ変わって、また巡り会えた恋人に。
ヘクセンハウスを食べた頃には、まだ恋人ではなかったけれど。一番の友達だったのだけれど。
二人で分けて、大切に食べたヘクセンハウス。
船での一日が終わった後に、「今日は屋根の部分を少しだけ」とか、そんな具合に。
お菓子の家は少しずつ減って、最後に残った土台の部分のレープクーヘン。
それも何度かに分けて味わって食べて、一番最後のをハーレイが二つにパキンと割って…。
「デカい方をやると言っているのに、お前、そいつを俺に寄越すんだ」
食べて、って譲らないんだよなあ、あれはお前のだったのに。…ヘクセンハウス。
「ハーレイの方が大きいんだもの。ぼくよりもずっと」
身体が大きい分、お菓子にしたって大きい方を食べるべきでしょ?
食事だっていつも、ハーレイの方が沢山食べていたんだもの。
栄養をつけるには食事もお菓子もたっぷり食べなきゃ、と笑顔で言ったら、「今のお前もな」と返された。「食べないと大きくなれないだろうが」と。
「急いで育たなくてもいいが…。ゆっくり大きくなればいいんだが、食わなきゃ駄目だ」
でないと大きくなれないからなあ、チビのままで。
前のお前は少しずつでも育っていたから、あの時の俺は、デカい方のを貰うことにしたが…。
同じことを今のお前が言ったら、「お前が食え」と突っ返すな。お前、チビだし。
しかしだ、あの時、デカいのを分けて貰っていたのに、料理の役には立たなかったな。
「…ハーレイ、キャプテンになっちゃったしね」
ヘクセンハウスを参考にした料理を作るよりも前に、厨房、出て行っちゃったから…。
それっきりだよね、あれの出番は無くなっちゃった。
「まったくだ。今日はコレだ、と食べていく時に、俺は研究してたのに…」
家を分解していくんだから、こう壁があって、こう屋根で、と。
食ってる時にも、接着剤になっているのは何だろうな、と舐めてみたんだぞ。
菓子の家なら甘い砂糖でくっつくようだが、他の材料で何かを組み立てるなら…、と考えたりもしていたな。何の料理に使えるだろう、と。
ところが、俺を待っていたのは、料理の代わりにキャプテンという仕事だった、と。
「そうだよねえ…」
ぼくも想像していなかったよ、ハーレイがキャプテンになるなんて。
でもね、キャプテンになってくれて良かった。…ハーレイがキャプテンだったから、前のぼくは安心してられたんだよ。どんな時でも。
それに…。
どうせシャングリラにヘクセンハウスは無かったから、と口にしかけたら掠めた記憶。違う、と頭の端っこを、スイと。
「あれ…?」
「どうした?」
目を真ん丸にしちまって。何かとんでもないことでも思い出したのか?
俺がキャプテンだったばかりに、お前が損をしちまっただとか、そういう記憶。
「ううん、そうじゃなくて…。ハーレイじゃなくて、ヘクセンハウス」
あったような気がするんだよ。シャングリラには無かったよね、って言おうとしたのに…。
それは違う、って前のぼくの記憶が引っ掛かるから…。
「ヘクセンハウスって…。シャングリラでか?」
あの船のクリスマスに、そんな余裕があったってか?
本物のワインの出番でさえもだ、クリスマスではなかったんだが…。
新年を祝うイベントの時に乾杯しててだ、クリスマスの方はもっと地味でだな…。
「そうなんだけど…。だけど、ヘクセンハウスだから…」
クリスマスじゃないかと思うんだよね、どうだっただろう…?
そうだ、あったよ、子供たちのために。
お菓子の家は夢が一杯だもの、と遠い記憶を探り当てた所で気が付いた。
(ヘクセンハウス…)
名前通りのお菓子の家、という記憶。ヘクセンハウスは魔女の家だった、と。
前の自分が貰った時には、甘いお菓子の家だったけれど。飾って眺めてハーレイと食べた、甘い思い出の家なのだけれど。
白いシャングリラのヘクセンハウスは違っていた、と時の彼方から戻った記憶。船の子供たちがクリスマスに作っていたけれど…。
「ハーレイ、シャングリラにあったヘクセンハウス…」
思い出したよ、クリスマスだけじゃなかったよ。いつもあったよ、一年中。
どんな季節でも、出番が来た時はヘクセンハウスだったんだよ。
「なんだって?」
クリスマス以外のいつに出番があると言うんだ、ヘクセンハウス。
あれの出番はクリスマスだろうが、前の俺たちが生きてた時代も、今も。
「そうだけど…。でも、シャングリラでは違ったよ」
アルテメシアから救出して来た子供たち…。
みんなじゃないけど、あの子供たちが作っていたよ。お菓子の家を。
甘いお菓子で出来ているけど、魔女の家。…名前のまんまのヘクセンハウス。
「アレか…!」
あったな、そういうやり方が…。
救い出して来た子供たちの中には、怯えちまってた子供もいたから…。
船には慣れても、怖い目に遭ったことが忘れられないままの子供だ。夜中に飛び起きて、怖いと叫んで泣き始めるとか、そんな子供が作ってたっけな。…ヘクセンハウスを。
アルテメシアから救い出されて来た子供たち。ユニバーサルに通報されて、ミュウだとバレて。
余裕を持って助け出せた子は、養父母や家を恋しがる程度だったけれども、そうではない子。
撃ち殺される寸前に救助された子や、泣きながら逃げて走った子たち。
心に傷を負った子供は、傷が癒えるのに時間がかかった。夜中に突然泣き叫んだり、暗い部屋が怖くて眠れなかったり。
怯える子たちを癒すためにと、ヒルマンが色々とケアをしていた。遊んでやったり、同じ部屋で一緒に眠ったりと。
その一環で生まれて来たのがヘクセンハウス。
白い鯨ではなかった時代に一度だけ船にあったお蔭で、ヒルマンが思い付いたお菓子の家作り。
「忘れちまってたな、ヒルマンが何度もやっているのを見てたのに…」
ヘンゼルとグレーテルの話で始まるんだっけな、「昔々…」と。
「そう。怖い話だけど、よく聞きなさい、って」
魔女を退治するお話をしてあげていたよ、お菓子の家の話もね。
お菓子の家はとっても美味しいけれども、其処には悪い魔女が住んでいるんだ、って。
話が終わったら、「悪い魔女に会ってしまっただろう?」って、子供たちに訊いて…。
悪い魔女はマザー・システムだから、って教えるんだよ、魔女の正体。
子供たちは魔女から上手く逃げたし、もう悪い魔女は来ないから、って安心させて…。
「無事に逃げられた記念に作ってみよう、というのがヘクセンハウスだったな」
お菓子の家を作り始めたら、子供たちには目標が出来るし…。
甘いお菓子の家と一緒に、悪い魔女の思い出も食べてしまえばいいんだからな。
「そうなんだよね…」
魔女を竈に投げ込む代わりに、お菓子の家ごと食べちゃうんだよ。
美味しくモグモグ食べてしまったら、もう魔女が住む家は無いんだから。
外の世界には魔女がいたって、シャングリラにはもう住めないものね。
子供たちを襲った悪い魔女。食べようとしていたマザー・システム。
恐ろしい思い出を消してやろうと、ヒルマンは子供たちにヘクセンハウスを作らせた。お菓子で出来た魔女の家を。それを食べれば魔女の家はもう何処にも無いから、と。
「こんな家がいいな、っていう絵を描くトコから始まってたよ」
子供たちの理想のお菓子の家。…あったら食べてみたくなるような家。
こういう形で、こんな風に飾りがついていて、って。…ヒルマンが好きに絵を描かせて。
お気に入りの家が描き上がるまで、何枚描いてもかまわないから、って。
「理想のお菓子の家が描けたら、厨房で作ってくれるんだっけな、そのパーツを」
屋根も壁も窓も、そっくりそのままになるように。
ヒルマンが子供たちの絵を元にして作った、設計図。そいつを持ってって注文するんだ。
「こういう形で作ってくれ」とな。
後は厨房のヤツらの仕事で、壁を作って窓を開けたり、色々と…。
出来上がったら、ヒルマンが子供に渡すんだ。「お菓子の家の材料が揃ったよ」と。
「アイシングとかも一緒にね」
それを子供たちが自分で組み立てて…。難しい所はヒルマンが手伝ってあげて、出来上がったら飾りもつけて。屋根に雪とか、壁に模様とか。
「完成したら食うんだっけな、悪い魔女の家を」
そういう風に教わってたのに、子供たちと来たら、直ぐには食えないんだ。
頑張って作ったお菓子の家だし、自分の理想の家だっただけに、うんと美味そうな出来だから。
「どの子もヒルマンに訊いちゃうんだよね、「暫く飾っておいてもいい?」って」
やっと出来たから、部屋に飾っておきたいんだけど、って。
それで「いいよ」って言って貰って、飾っている内にだんだん食べたくなって…。
屋根の端っことかを少し齧ったら、美味しくて止まらなくなっちゃうんだよね。
悪い魔女の家を食べてしまおう、とヒルマンに勧められて子供たちが作ったヘクセンハウス。
なのに、魔女の家が立派に出来上がったら、直ぐには食べなかった子供たち。食べてしまうのが惜しくなって。飾って眺めていたいと思って。
けれども、その内にしたくなる味見。ちょっぴり齧れば、途端に美味しいお菓子の虜。気付けばすっかり食べてしまっていて、消えてしまった魔女の家。心の傷もお菓子の家と一緒に消えた。
そんな理由で、白いシャングリラにあったヘクセンハウス。
心に傷を負ってしまった子供が来たなら、クリスマスではない季節でも。
「あの子供たちが、クリスマスに作っていたんだよ」
ちゃんと絵を描いたら作れるんだ、って知っているから、クリスマスにはヘクセンハウス。
船に来た時に作ってない子も、面白そうだから作りたがって…。
それで何人もの子が作ってたよ、お菓子の家を。
ヒルマンも厨房も大忙しだよ、注文の数だけお菓子を焼いたり、家の設計図を作ったり。
誰よりも先に研究していた、ハーレイは手伝えなかったけれど…。
最初のヘクセンハウスの分解と研究、ハーレイがやっていたのにね。
「仕方ないよな、キャプテンではなあ…」
俺の所に注文は来ないぞ、「こういう風に作ってくれ」とは。
ブリッジで菓子を焼けはしないし、アイシングだって作れやしないんだからな。
一番最初のヘクセンハウスを分解していた、キャプテン・ハーレイ。
まだキャプテンという肩書きは無くて、厨房の最高責任者。いつか料理の役に立つかと、重ねたヘクセンハウスの研究。接着剤は甘い砂糖だとか、これを生かせる料理はあるだろうか、とか。
けれど、シャングリラにヘクセンハウスが再び現れた時は、過去になっていた厨房時代。
キャプテン・ハーレイの出番は来なくて、お菓子の家作りは厨房のスタッフの仕事。
「俺の研究は何の役にも立たなかったな」と、ハーレイは嘆いていたけれど。
「待てよ…?」
ちょっと待てよ、と鳶色の瞳が瞬きするから。
「どうかしたの、ハーレイ?」
もしかして、厨房でアドバイスしてた?
一番最初に研究してたし、「此処はこうしろ」とか言いに行ったの…?
「アドバイスじゃないな、作ったぞ、俺も」
「え?」
ハーレイ、作りたくなっちゃったわけ?
後から始めた厨房のみんなが、幾つも作っていくんだから…。悔しくなって作ったとか?
「そうじゃなくてだ、前のお前が原因だ」
お前に強請られて、何回か…。
ヘクセンハウスが作られるようになった後だな、クリスマスにはコレなんだ、と。
もう一度欲しい、と前のお前が言い出したんだ。
ずっと昔にヘクセンハウスを持っていたから、もう一度あれを食べてみたい、とな。
「そういえば…」
お願いしたっけ、前のハーレイに…。
どんなのでもいいから、ヘクセンハウスが欲しいんだけど、って。
子供たちの誰かが頼んだヤツと同じでいいから、ぼくにも一つ作って貰って、って…。
前の自分がハーレイに強請ったヘクセンハウス。白いシャングリラで作られたお菓子の家。
ヒルマンが始めた子供たちの治療は、前の自分も知っていた。ずっと昔に自分が貰った、素敵な甘いお菓子の家。あれを参考に始めた治療方法だ、と。
(いい方法だよね、って見てたんだけどな…)
子供たちがお菓子の家を作る所も、何度も眺めに出掛けたくらい。クリスマスの時はもちろん、治療のためのヘクセンハウスも。
なにしろ、立場はソルジャーだから。子供たちを悪い魔女から、守る力を持っていたから。
「ぼくがいるから大丈夫だよ」と、何度も声を掛けてやった子供たち。「魔女は来ないよ」と。
「でも、魔女の家を食べてしまうのも大切だよね」と、子供たちの手元を覗いていた。
どんな言葉よりも、子供たち自身が納得するのが一番だから。「魔女は来ない」と。
微笑ましく見ていたヘクセンハウス。
子供たちの理想の家の形は、本当に色々だったから。描く絵も、それを元にして出来たお菓子の家も。夢の数だけ、ヘクセンハウス。甘くて美味しいお菓子の家。
クリスマスになれば、ヘクセンハウスが幾つも出来る。
作りたいと言い出した子供の数だけ、子供たちの甘い夢の数だけ。
とても素敵だと、いい習慣だと、前の自分はヘクセンハウスを見守っていた筈なのに…。
白いシャングリラで、一番の友達から恋人になっていたハーレイ。
キスを交わして、愛を交わして、幸せな時を過ごす間に、ふと思い出したヘクセンハウス。友達だった頃に二人で食べたと、ハーレイと二人きりだった、と。
(一つだけだったのを、二人で分けて…)
何日もかけて、味わって食べたヘクセンハウス。あれをもう一度食べたくなった。甘いお菓子で出来ている家を、友達とではなくて、恋人と。
友達と食べても美味しかったのだし、恋をしている人と食べたら、どんなに甘いことだろう。
二人で仲良く分けて食べたら、どれほど甘く感じるだろう。
(そう思ったから…)
クリスマスに二人で分けて食べたい、とハーレイに強請ったのだった。クリスマスのためにと、お菓子の家作りが始まる頃に。船の子供たちが張り切る季節に。
「ハーレイ、お願いがあるんだけれど…」
ぼくもヘクセンハウスを一つ貰えるよう、厨房に頼んでくれないかな?
食べたくなった、と言ってくれればそれでいいから。
君と一緒に食べてみたいんだよ、一番最初のヘクセンハウスを君と二人で食べただろう?
あの頃みたいに、二人で分けて。
友達同士で食べていたって、甘くて美味しかったから…。
今なら、もっと美味しいと思う。ずっと甘いと思わないかい、恋人同士で分けて食べたら。
「…あなたと、ヘクセンハウスをですか…」
それは素敵な思い付きですね、私も食べたくなって来ました。
あなたと二人で分けるのでしたら、作ってみようかと思います。…私の手で。
あの時、研究していましたしね、どういう風に作るのかと。
せっかくですから、やってみますよ。
ソルジャーの御注文の品を作っている、と言えば大丈夫でしょうから。
私が厨房に出掛けて行っても平気ですよ、とハーレイがパチンと瞑った片目。
「普段から、野菜スープを何度も作っていますからね」と。
寝込んだ時には、作って貰った野菜のスープ。あれだけはハーレイが作っていたから、お菓子の家を作る話も、厨房の者たちは疑問に思いはしなかった。
白いシャングリラでは、馴染みになっていたヘクセンハウス。
それをソルジャーが食べたがるのだし、キャプテンが注文を受けることだってあるだろう、と。
前のハーレイは、本当に作って来てくれた。しかも…。
「如何ですか、ブルー?」
細かい所は、あまり自信が無いのですが…。あの時のを再現してみましたよ。
あなたが私に分けて下さった、ヘクセンハウス。こういう風ではなかったかと…。
どうでしょうか、と差し出された甘いお菓子の家。それは記憶の中のとそっくりだったから。
「…あの時の家だ…」
君と一緒に食べた家だよ、屋根も壁も窓も、何処もそっくり…。
屋根の雪だって、あの家と同じ。あれを作ってくれたんだ…?
「味はどうだか分かりませんが…。船では材料が限られますし」
けれども、形は出来るだけ似せたつもりです。
あの家とそっくり同じの方が、違いが分かるかと思いまして…。あの頃と、今と。
「そう思うよ、ぼくも。…一緒に食べた時の違いは、この方がずっと…」
分かる筈だよ、友達だった頃と今との違い。
ありがとう、ハーレイ、あれと同じのを作ってくれて。
早く食べたいな、あの時みたいに二人で分けて。屋根も壁も、それから土台も全部。
でも、その前に飾らないとね。…クリスマスの季節が終わるまでは、此処に。
あの時もクリスマスが終わった後に、ぼくだけが貰えた家なんだしね。
だから暫くは我慢しないと…、と飾っておいたヘクセンハウス。青の間に、そっと。
早く食べたいと思う気持ちと、「ハーレイが作ってくれたんだから」と取っておきたい気持ち。
まるで「魔女の家を食べてしまおう」とヒルマンに勧められた子供のよう。
食べたいけれども、飾りたい。眺めたいけれど、やっぱり食べたい。
揺れ動く心は浮き立つようで、ハーレイと何度もキスを交わした。それが飾ってあった間に。
やがてクリスマスの季節が終わって、二人で食べたヘクセンハウス。
遠い昔を思い返しながら、あの時と同じに少しずつ分けて。それを食べては、キスを交わして。
(ホントに、とっても甘かったんだよ…)
記憶にあるより、ずっと甘いと思いながら食べたヘクセンハウス。恋人同士で分けて食べたら、友達同士で食べた時より甘かった。同じものとは思えないほどに。
ハーレイの感想も自分と同じで、「甘いですね」と貰ったキス。
「あなたのお蔭で、素敵なものが食べられました」と、「ヘクセンハウスも作れましたよ」と。
だから、それからも何度か強請った。
クリスマスの季節が近付いて来たら、「ヘクセンハウスが食べたい」と。
前に食べたのと同じのがいいと、「あれは君しか作れないよね」と。
一番最初のヘクセンハウスは、ハーレイしか研究していないから。それと同じのを、ハーレイと二人でまた食べたいから。
友達同士で食べた頃より、遥かに甘いお菓子の家を。
恋人と二人で分けて食べたら、とろけそうな甘さのヘクセンハウスを。
前のハーレイは何度も作ってくれたんだっけ、と思い出した甘いお菓子の家。
白いシャングリラでハーレイと食べた、あの懐かしいヘクセンハウス。
「そっか…。ハーレイにお願いしてたんだっけね、あれが食べたい、って」
ぼくも食べたいな、ヘクセンハウス。…ハーレイと二人で、お菓子の家。
「今のお前にはまだ早いってな」
ヘクセンハウスも、俺と二人で食べるのも。
「なんで?」
友達同士で食べてたじゃない、だから今でも大丈夫だよ?
クリスマスの季節しか駄目だけれども、またハーレイと食べてみたいよ。
「お前が思い出す前だったんなら、かまわんが…」
ついでに、友達同士で食べたことしか覚えてなければ、ヘクセンハウスも悪くないんだが…。
生憎と、すっかり思い出したし、駄目だな、これは。
恋人同士で食べると甘い、という味の方は、今のお前じゃ話にならん。
お前、俺とはキスも出来ないチビだしな?
俺と食っても、あの時みたいに甘くはないに決まっているだろ。
「えーっ!」
酷いよ、ハーレイ、友達同士で食べるのも駄目?
ホントに駄目なの、ヘクセンハウスは買ったヤツでもかまわないから…!
ハーレイが作ったヤツでなくてもいいから、お願い、ぼくと一緒に食べて…!
お願い、と何度頭を下げても、ハーレイは「知らんな」と鼻で笑うだけ。
「もっと大きくなってからだな」と、「チビのお前と食う趣味は無い」と。
今は一緒に食べて貰えないらしい、ヘクセンハウス。
恋人同士で分けて食べたら、友達同士よりも甘くて素敵なお菓子の家。
けれど、いつかは二人で食べよう。
ハーレイに頼んで、前と同じのを作って貰って。
それが出来たら、飾って眺めて、クリスマスの季節が済んだら二人で仲良く分けよう。
前の自分たちがやっていたように、屋根も壁も、本当に少しずつ。
「今日はこれだけ」と味わって食べて、キスを交わして、微笑み合おう。
恐ろしい魔女はもういない世界で、甘いお菓子の家を齧って。
今度は二人で生きてゆけるから。
幸せな甘いお菓子で出来ている家も、毎年、毎年、きっと二人で食べられるから…。
お菓子の家・了
※クリスマスのお菓子、ヘクセンハウス。シャングリラでは、子供たちのケアに使ったお菓子。
けれど最初は、前のブルーが貰ったお菓子だったのです。前のハーレイとの思い出の…。
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