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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(あっ、可愛い!)
 服の中から猫が覗いてるよ、とブルーが見詰めた新聞の写真。学校から帰って、ダイニングで。おやつの用意を待っている間に広げた新聞。自慢のペットの紹介コーナー。
 飼い主が着ている服の胸元、可愛らしい猫が顔を覗かせている。クルンとした目で。
(ぼくも、服の中に猫…)
 入れてみたいな、と羨ましくなるのは、写真の猫が真っ白だから。顔だけしか覗かせていない猫だし、身体はブチかもしれないけれど…。
(真っ白なら、ミーシャ…)
 ハーレイが子供時代に一緒に暮らしていたミーシャ。隣町の家でハーレイの母が飼っていた猫。前に写真を見せて貰ったから、それ以来、真っ白な猫を見る度に「ミーシャだ」と思う。
(ハーレイだって、こんな風に入れてたかもね?)
 真っ白なミーシャを服の中に入れて、ちょっと散歩に出掛けてゆくとか。だから自分も真似してみたい。ただでも猫は可愛らしいから、写真で見ればなおのこと。
 ほんのちょっぴり入れてみたいな、と眺めていたら。
「ブルー、熱いから気を付けるのよ?」
 母が置いて行ってくれたホットミルク。おやつのケーキのお皿の隣に。マヌカの蜂蜜が入った、シロエ風のシナモンミルクだけれど。
 猫の写真に夢中だったから、なんとも思わずに手を伸ばして…。
(熱っ…!)
 見事に火傷してしまった舌。冷ましてもいないホットミルクは熱すぎた。慌てて舌を口の外へと出してみたって、それで冷やせるわけがない。
(火傷しちゃった…)
 酷い目に遭った、と後悔しても既に手遅れ。舌はヒリヒリ、腫れているかと思うほど。
 通り掛かった母も「だから言ったでしょ」と呆れ顔だけれど、もう遅い。ホットミルクの残りは冷まして飲んだ。すっかり冷たくなるくらいまで。



 やっちゃった、と肩を落とすしかない火傷。ウッカリしていたのが悪いよね、とは思っても…。
(今日はしみるかも…)
 熱い料理や、香辛料とかが。それに痛い、と帰った部屋。まだ痛いような気がする舌。鏡で舌を眺めたけれども、よく分からない火傷した場所。でも残っている舌の違和感。
 ピリピリするよ、と自分の失敗を嘆いていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが来てくれた所まではいいけれど。
 母が運んで来た、お茶とお菓子と。紅茶のカップやポットをテーブルに並べてゆきながら…。
「はい、どうぞ。ブルーはちゃんと冷まして飲むのよ」
「ママ…!」
「火傷したでしょ、気を付けて」
 同じ目に遭うのは嫌でしょう、と母は微笑んで出て行った。「ごゆっくりどうぞ」と。
(ママったら…!)
 ハーレイに聞かれた赤っ恥。何処から聞いても、熱い飲み物で舌を火傷した話。あんまりだ、と頬が真っ赤に染まったけれども、湯気を立てている紅茶のカップが怖い。立ち昇る湯気が。
 しっかり冷まして飲まないと、と用心してしまう熱い紅茶。ただでも舌を火傷した後だし、また火傷したら大変だ、と。



 フウフウと紅茶に息を吹きかけていたら、鳶色の瞳に覗き込まれた。
「こりゃまた、ずいぶん冷ますんだな…。火傷、そんなに酷いのか?」
 いったい何でやったか知らんが、痛くて紅茶も飲めないほどか?
「ううん、そこまで酷くないけど…。でも、火傷したら嫌だしね」
 さっきの火傷の上から火傷。きっと痛いよ、今度こそ紅茶も飲めなくなってしまいそうだし。
「そりゃそうだ。用心するのに越したことはない」
 火傷しちまったら、紅茶どころか、せっかくのケーキも台無しだからな。舌が痛くて。
 だが、お前…。弱くなったな、いいことだ。
「え?」
 弱くなったって…。何の話?
「火傷だ、火傷。今の話だと、それしか無いだろ?」
「舌の火傷…?」
 キョトンと見開いてしまった瞳。多分、ハーレイが話しているのは、前の自分のこと。遠い昔に生きたソルジャー・ブルー。けれど、舌に火傷をしていたろうか…?
「舌に火傷もしてたんだろうが、前のお前は我慢強かったから…。弱くなったな、と」
 たかが舌の火傷くらいで大騒ぎだなんて、弱くなったと思うじゃないか。
 前のお前なら、火傷の内にも入らなかったんだろうしな。舌なんかは。
「…火傷、したっけ…?」
 今でもハーレイが覚えているような火傷、前のぼく、してた…?
「忘れちまったか…。そりゃあ酷いのをやっちまったが…」
 火傷と聞いたら思い出したが、お前、覚えちゃいないのか?



 両手に火傷、と言われたけれども、思い出せない。そんな火傷をしただろうか?
 第一、両手には常に手袋。火傷などをするわけがない。あの手袋は特別な素材だったし、特殊な素材になる前の時代も、ある程度の熱なら防げた筈。
「えっと…。前のぼくの手、火傷しなかったと思うけど…」
 いつも手袋をはめていたもの。夜まで外しはしなかったんだし、両手に火傷はしない筈だよ。
「手袋って…。本当にすっかり忘れたんだな、痕も残らなかったから…」
 綺麗に治っちまったお蔭で、火傷したことまで忘れたってか。
「それ、いつの話?」
 もしかして、手袋、はめてなかった?
 手袋をはめるよりも前の話で、ぼくはホントに火傷したわけ?
「嘘をつくわけがないだろう。お前は手袋をしていなかったな、俺が厨房にいた頃なんだし」
 俺も今まで忘れていたが…。火傷しちまったという話を聞くまで。
 ついでに、用心しているお前を見るまで、俺だって忘れちまってた。
 火傷して以来、お前、用心していたからな。
 また同じことをやらないようにと、おっかなびっくりといった感じで。



 お蔭で俺は思い出したが、という話を聞いても戻らない記憶。
 前の自分は、どうして火傷をしたのだろう。事故に遭ったのなら、今でも覚えていそうなのに。
 分からないや、と首を傾げるしかなくて、一向に思い出せなくて。
「火傷って…。何処で?」
 ちっとも覚えていないんだけれど、前のぼくは何処で火傷をしたの?
「俺の目の前だ、厨房だな。いわゆる不幸な事故ってヤツだ」
 お前、ヒョイと両手で持ち上げちまったんだ。熱くなってたオーブンの天板を。
「熱い天板って…。そんなの、持たないと思うけど?」
 小さな子供だったら危ないけれども、今のぼくだって持たないよ。火傷するもの。
 前のぼくだって、オーブンの仕組みは分かっていたし…。触ろうとしない筈なんだけど?
「事故だと言ったぞ、それも不幸な」
 オーブンから出して上の料理をどけちまったら、分からんだろうが、見た目には。
 真っ赤に焼けた鉄じゃないんだし、その天板が熱いかどうかは。
 手を近付けたら、熱が伝わって来るから分かりはするが…。
 最初から用心しているからこそ、確認しようとするわけで…。それが無ければまず分からん。
 触っちまって火傷してから、「熱かったのか」と気付くのがオチだ。
 前のお前もそのクチだったんだ、よく聞けよ…?



 始まったハーレイの昔話。厨房で料理の試作をしていた時のこと。
 出来上がったオーブン料理を取り出し、天板ごとドンと置いたテーブル。熱い天板を置いても、焦げない頑丈なテーブルだから。
 それから料理の器を天板の脇へ。大きめの耐熱容器を使っていたから、汚れなかった天板。
「まずは料理を出すもんだろ? オーブンから出して来たんだから」
 天板の片付けはその後だ。俺が料理の器を出した所へ、お前が覗きにやって来て、だ…。
 手伝うつもりで、出しっ放しの天板をオーブンに片付けようと…。
 よく手伝ってくれていたしな、俺の片付け。
「思い出した…!」
 熱いなんて知らなかったから…。綺麗だったし、洗ってあるんだと思い込んじゃって…。
 早く片付けた方がいいよね、って。
 「ぼくがやるよ」と、いつもの調子で持った天板。オーブンの中に戻しておこうと。
 ハーレイが「おい!」と止めた時には、もう掴んでいた。両方の手で。
 思ってもみなかった熱い天板。一瞬の内に焼かれた肌。
 あまりの熱さに放り出したけれど、その前にしっかり掴んでいたから。熱いとも知らずに焼けた天板を掴んだのだから、たまらない。
 両手は真っ赤になってしまって、呆然とするしかなかった自分。火傷したんだ、と。
 「ブルー!」と大声を上げたハーレイ。まるでハーレイが火傷したかのように。
 「見せてみろ」と言うから、差し出した両手。「火傷しちゃった」と。すっかり真っ赤になっていた手を、無残に色を変えてしまった手を。
 ハーレイは見るなり声を失い、「来い!」と洗い場に引っ張ってゆかれて、冷たい水を蛇口から浴びせられた。両手が痺れてしまいそうなほどに、それは冷たいのをザーザーと。
 その間にハーレイが用意していた、氷や、濡らしたタオルやら。
 冷えて感覚が無くなった手を、氷入りの濡れタオルでグルグル巻かれて…。



 厨房での応急手当はそこまで。火傷の薬は置いてあるらしいけれど、酷い火傷には役立たない。ちょっと赤くなった程度の火傷用。
 だからハーレイは、前の自分をノルディの所へ連れて行った。「行くぞ」と大慌てで、火傷した両手を冷やしながら。
 ノルディが常駐していた部屋に駆け込むなり、「診てやってくれ!」と叫んだハーレイ。両手に酷い火傷をしたと、熱い天板を素手で持っちまった、と。
 氷入りのタオルをノルディがほどいて、始めた治療。消毒したり、薬を塗ったり。
 前の自分はそれを見ていただけだったけれど、ハーレイの方は心配そうに覗き込みながら。
「どうだ、治りそうか? ブルーの火傷」
 俺がウッカリしてたんだ。あんな熱いのを置きっ放しにしてただなんて…。
 ちゃんと治してやってくれ、と頼まれたノルディは治療の手を休めずに。
「こいつは暫くかかるだろうな。治るのは治るが、その後だ」
 痕が残らないといいんだが…。酷い火ぶくれになっているから。
 かなり深くまで火傷していたら、痕が残るということもある。火傷自体は治ってもな。
「…痕が残ったらどうなるんだ?」
 ブルーの手に火傷の痕なんて…。それは消えるのか、時間が経ったら?
「深い火傷なら、消えないだろうな。…今の船ではどうしようもない」
 痕を消すには、皮膚の移植が必要になる。だが、この船では移植手術は出来ない。
 もっと設備が整わないと無理だ、それから医療スタッフも。
 そこまで深い火傷でなくても、きちんと治療しないと痕が残るぞ。引き攣れたような。
 痕を消すには皮膚移植しか無くて、そっちは今は無理ってことだ。
 全力を尽くすが、今の段階で出来る治療には限りがある。後はブルーの運次第だな。



 治るといいが…、と包帯で巻かれてしまった両手。飲み薬まで処方された。痛み止めに、感染症予防の薬。それから痕が残りにくくするための飲み薬も。
 けれど、両手を火傷したから、手では持てない。サイオンで受け取ろうとしたら、横から褐色の手が掴んだ薬の袋。「俺が持つから」と。
 ハーレイは部屋まで薬を運んでくれて、部屋に入るなり謝った。
「すまん、ブルー…。酷い火傷をさせちまって」
 俺がサッサと片付けていたら、お前、火傷なんかしなかったのに。
 痛いだろう、と包帯に包まれた両手を痛々しそうに見るから、「大丈夫だよ」と返した答え。
「平気だってば、このくらい。…ちょっと痛いけど」
 だけど、そんなに痛いってことも…。手だけなんだから。それも手のひらだけ。
 火傷だって、それほど酷くはないし…。ぼくは平気だよ、心配しないで。
「酷くはないって…。酷いだろうが!」
 ノルディも心配していたじゃないか、痕が残らなければいいんだが、と。
 それだけ火傷が酷いってことだ、平気な筈がないだろう!
「…大丈夫。もっと酷い目に遭っていたから」
 火傷どころか、焦げそうなくらい。…燃えて死んじゃいそうなくらいに。



 アルタミラでね、とハーレイに話した前の自分。それは本当だったから。ハーレイは息を飲み、前の自分をまじまじと見た。
「焦げそうって…。そんな実験をされていたのか?」
 お前の腕にあった注射の痕なら知ってたが…。酷い目に遭ったとも聞いてはいたが…。
 火傷するような実験って…。燃えて死にそうな実験だなんて、あの研究者どもがやったのか?
「そう。高温の蒸気が噴き出して来たこともあったし、本物の火が出て来たことだって…」
 熱いって叫んでも止めてくれなくて、ぼくが倒れるまで実験してた。
 もう駄目だ、って倒れちゃうまで。死んじゃうんだな、って思いながら意識が無くなるまで。
 それでも死ななかったけど…。また檻の中で目が覚めるんだけど。
「お前…。そんな目に遭って、よく生きてたな」
 俺みたいに頑丈だったらともかく、細っこい身体のチビなのに…。
 とても生き残れそうにないのに、お前、それでも生きてたってか。凄いな、お前。
「ぼくもそう思うよ、死ななかったのが不思議」
 いつも治療をされていたけど、死んじゃっても不思議じゃないのにね?
 きっと色々と調べてたんだよ、実験中も。死なないように、ギリギリの所でやめられるように。
 タイプ・ブルーは一人しかいないし、死んでしまったら実験出来なくなるんだもの。
 何度も焦げたり火傷してたよ、焦げる時には焦げちゃうんだよ。…ちょっぴりだけど。



 でもね…、と髪を指差した自分。今と同じに銀色だった髪。
 どんなに熱くても、髪の毛は焦げないんだよね、と。
「ホントだよ? 実験室に鏡は無かったけれども、ちゃんと分かった」
 髪の毛は焦げていないってこと。本物の火で焼かれちゃっても。
「焦げないって…。何故だ、そんなに強いのか、髪は?」
 お前の髪の毛、こうして触っても柔らかいんだが…。
 それは見かけだけで、本当は火傷した手よりも丈夫に出来てるってか?
 髪の毛なんかは直ぐに焦げるぞ、現に俺だって焦がしちまったことが何回か…。実験じゃなくて料理中のことで、景気よく火を使った時なんかに。
「丈夫なのかどうかは分からないけど…。そういえば、顔も焦げてなかったよ」
 顔も火傷はしてないと思う。ぼくの意識があった間は。
 ハーレイ、ビックリしてるみたいだし…。顔とか髪の毛、焦げた方が良かった?
 その方が普通で良かったのかな、熱くても少しも焦げないよりは。
「いや、そんなお前は可哀相でとても見ていられない…。髪や顔まで焦げるだなんて」
 想像だってしたくはないし、焦げなかったと聞いたらホッとした。無事だったんだ、と。
 …しかし、火傷はしたんだな?
 顔と髪の毛が無事だっただけで、その他の手とか足とかは?
「何度もね。…何度も焦げたし、火傷も一杯」
 今日みたいに手のひらだけじゃなくって、身体中に。
 最初の間は火傷しなくても、力が抜けて来ちゃったら駄目…。



 あの頃の自分はシールドという言葉を知らなかったけれど、無事だったのはそれのお蔭だろう。無意識の内にシールドを張って、自分の身体を守ろうとした。
 髪の毛や顔が焦げなかった理由は、恐らくは頭部だったから。サイオンを秘めた脳が入っている部分。なんとしても脳を守らなければ、と懸命に死守していた頭部。意識しなくても。
 だから倒れてしまった後にも、顔も髪も焦げはしなかった。火傷は一度も負わなかった。
 そう話しても、前のハーレイは怖い顔をして腕組みで。
「やはりあいつら、許し難いな」
 お前みたいなチビに、火だの蒸気だのと…。倒れちまうまで実験だなんて、俺は許せん。
 火傷だらけだった上に、焦げただと?
 顔と髪の毛が焦げてなくても、他の部分が火傷だったら痛いなんてモンじゃないだろうが。
 今日の火傷だって酷いというのに、お前、平気だと言うんだから…。
 もっと酷い目に遭っていたから、それに比べたら酷くはないと。
 研究者どもめ、こんなに小さいお前に無茶をしやがって…!
「実験は酷かったかもしれないけれど…。ぼくも酷い目に遭っちゃったけど…」
 だけど治療は上手だったよ、どんな時でも。
 ぼくの身体に傷は無いでしょ、注射の痕も消えちゃったから…。
 火傷とかの痕は残っていないよ、上手に治療していたんだよ。それも実験かもしれないけれど。
「うーむ…。確かに傷痕は無いな、お前が言わなきゃ分からなかったほどに」
 火傷の痕なんか残っちゃいないし、聞かなかったら俺は知らないままかもしれん。
 顔と髪の毛以外は焦げちまったとか、火傷だらけになってただとか。



 そんな目に遭っていたなんて…、と痛ましそうな顔になったハーレイ。
 せっかく地獄から逃げ出したのだし、その火傷の痕、残らないといいな、と。
「ぼくはいいけど? 残っちゃっても」
 別に困らないよ、痕くらいなら。…何かをするのに困るわけじゃないし、見た目だけだもの。
 それに手のひらだから、他の人だって滅多に見ないものね。
「お前はいいかもしれないが…。俺は困るな」
 お前が火傷しちまったのは、俺のせいだし。…痕が残ったら、辛いだろうな。
「そうなの?」
「俺がきちんと気を付けていたら、火傷なんかは…」
 天板は直ぐに片付けるだとか、お前が厨房に入って来た時点で「危ないぞ」と声を掛けるとか。
 俺はどっちもしなかったんだし、明らかに俺のミスってヤツだ。
 今でも充分、申し訳ないのに、その上、痕まで残っちまったら…。
 見る度に辛い、とハーレイが唇を噛むものだから。
「じゃあ、頑張って治すことにするよ」
 ハーレイのためにも、痕なんか残らないように。
 ぼくが両手に火傷したこと、ハーレイも忘れてしまうくらいに。
「治すって…。お前、そんなことまで出来るのか?」
 サイオンを使って痕を消すとか、傷の治りを良くするだとか。
「ううん、そういう使い方をするのは無理そうだから…」
 ノルディの治療にきちんと通うよ、そうするのが大切みたいだから。痕を残さないように治療をするには、診て貰うのが良さそうだから。



 サボッたりしないで治療するよ、と宣言したのが前の自分。ハーレイのために、と。
 ハーレイは「俺のせいだ」と悔やんでいたけれど、火傷の原因は自分にだってあったのだから。
 厨房がどういう所なのかを、よく考えもしないで入って行った。
 オーブン料理を作っていたなら、天板が熱いのは当然なのに。天板の横に置かれた料理にチラと視線を向けていたなら、出来立てなのだと分かったろうに。
(…作り立ての料理が置いてあったら、天板だって…)
 まだオーブンから出されたばかりで、熱い筈。厨房で料理を作っていたなら誰でも分かる。前の自分も何度も覗きに行っていたのに、分かったつもりになっていただけ。厨房という場所を。
(ぼくが自分で作らないから、気が付かなくて…)
 ハーレイに迷惑をかけてしまった、と反省しきりだった両手の火傷。
 試作中の料理が出来上がったのに、放り出させてしまった自分。ハーレイは大慌てでノルディの所まで連れて行ってくれたし、診察の後は部屋まで送ってくれた上に話し込んだから…。
(…料理だって、すっかり冷めちゃったよね…)
 もしかしたら、同じのを作り直したかもしれない。出来立ての味が分からないから、最初から。
 作り直す間にも、ハーレイはきっと心を痛め続けただろう。「俺が用心していれば」と。
 オーブンで加熱するのが終わって、出す時にはもっと。
 「何故、天板を直ぐに仕舞わなかった」と、「ブルーが来たのに気付かなかった」と。
 ハーレイは少しも悪くないのに。
 厨房だったら当たり前の作業を、いつもと同じにやっていたというだけなのに。



 自分が入って行かなかったら、天板を掴まなかったなら。
 火傷したりはしなかったのだし、ハーレイが悔やむことも無かった。辛そうな顔で。
 「すまん」と謝ることだって無くて、普段と変わらない時間が流れ続けていた筈。皆に美味しい料理を出そうと、鼻歌交じりに試作しながら。
 自分の方でも、「今日の食事は、どんなのかな?」とハーレイの料理を楽しみにして。明らかに新作だと分かる料理が出て来たならば、ワクワクと心躍らせて食べて、喜んだだろう。ハーレイに顔で、言葉で「美味しいよ」と伝えて、それは御機嫌で。
 けれども、それを壊してしまった。よりにもよって自分の不注意で。
(…ぼくのせいだよ…)
 ハーレイは悪くないんだもの、と思うけれども、きっとハーレイは「違う」と言うから。
 「俺のせいだ」と譲らないのに決まっているから、ウッカリ者の自分に出来ることといったら、痕が残らないように治すことだけ。
 ただそれだけしか出来はしなくて、他には何も出来ない自分。ハーレイのために。
(ぼくがハーレイを悲しませたのに、たったそれだけ…)
 なんとも悔しい、自分の無力さ。火傷の治療しか出来そうにない。それも治して貰うだけ。
 ノルディは「運次第だ」と言いはしたけれど、やはり努力はしなければ。彼の指示通りに診察に通って、薬を塗ったり、飲んだりして。



(前のぼく、ホントに頑張ったっけ…)
 ハーレイを悲しませたくはないから、火傷を綺麗に治そうと。痕が少しも残らないようにと。
 毎日、ノルディの所に通った。包帯の下の手を診て貰っては、言われる通りに塗り薬を塗った。飲み薬も忘れないように。飲み薬は嫌いだったのだけれど、我慢をして。
(だけど、両手に包帯だったから…)
 両方の手のひらを火傷したから、何かと不自由で使えない両手。食器も持てない。
 サイオンを使えばちゃんと出来るのに、ハーレイが世話をしてくれた。「俺のせいだから」と。
 厨房で料理をしていない時は、時間を作って部屋に来てくれて。食事の時間には、食堂で。
 「ほら、食べろ」と食べさせて貰った食事。切り分けるのもハーレイだった。食べやすいよう、パンも千切ってくれた。薬を飲む時は水を用意して、薬を一つずつ口に入れてくれて。
 着替えも、シャワーも、全部ハーレイの手を借りた。
 「お前、両手が使えないんだから」と、朝の着替えから、眠る時まで。
 顔を洗うのも、歯磨きもハーレイ。「これでいいか?」と「痛くないよな」と確認しながら。
 シャワーの時には、火傷した手に気を付けながら。
(火傷、治療用シートの下だったから…)
 ノルディが何度も張り替えてくれた、傷の保護を兼ねた治療用のシート。それに覆われた火傷は見えない。下の火ぶくれが潰れないよう、治してゆくために貼られていたから。
 シャワーを浴びる時も、シートは取らない。包帯だけを外して、シートはそのまま。何か所かをテープで留めてあるから、それが外れないようにシャワーを浴びて、また包帯。



 ハーレイは「火傷、どうだ?」と訊きはしたけれど、透視したりはしなかった。シートの下を。
 覗き見るのが怖かったのか、マナー違反は良くないと考えていたものか。
(…見なくて正解だったんだけどね…)
 もしもハーレイが見ようとしたなら、止めただろう。でなければサイオンで弾いていたか。
 治るまでの過程で、見るも無残な様相だった時期があったから。火傷した部分から滲み出て来た滲出液。火ぶくれも癒えていなかっただけに、自分でも目を背けたほど。
 これはハーレイには見せられない、と何度も思った。きっと苦しませてしまうから。
 今から思えば、ハーレイは知っていたかもしれないけれど。ノルディの所へ訊きに出掛けて。
(でも、今頃になって訊くのもね…?)
 ハーレイの古傷を抉るようだから、尋ねないのがいいのだろう。今は、きっと。
 酷かった時期もあったのだけれど、治療に通った前の自分の努力は報われた。世話をしてくれたハーレイの努力も。
 ようやく包帯が取れて、治療用のシートも薄いものになって、ついには要らなくなって…。
「ほらね、綺麗に治ったでしょ?」
 何処を火傷したか、もう分からないよ。今はちょっぴり、まだ赤いけど…。
 ノルディが言ったよ、赤みが消えたら元通りだって。痕は残っていないから。
 見て、と広げてみせた手のひら。「もう大丈夫」と。
「良かった…。これなら、じきに治るな」
 厨房の塗り薬も要らない程度の赤さだ、放っておいても治るって火傷。
 本当に良かった、痕が残らなくて。…今の船じゃ、火傷の痕を治す治療は出来ないんだから。



 それから更に何日か経って、白い肌が戻って来た手のひら。その手を何度も撫でて確かめては、「元通りだな」と安堵していたハーレイ。「お前の手に痕が残らなくて良かった」と。
 今のハーレイも、「本当に心配したんだぞ」と鳶色の瞳でじっと見詰めて。
「あんな火傷でも、お前と来たら、俺の心配をしてたのに…」
 俺が後々、気に病まないように、きちんと治すと言ってたくらいに強かったのに。
 今のお前だと、舌の火傷で騒ぐらしいな。紅茶か何かで火傷したくせに。
 そういう火傷は、知らない間に治っちまうと相場が決まっているモンなのに。
 しかしだ、それはいいことだ、うん。
 舌の火傷で大騒ぎなのも。
「いいことって…。どうして?」
 我慢強い方が、ずっと良くない?
 両手に酷い火傷をしたって、泣いたりしないでいる方が…。ハーレイの心配を出来る方が。
「そうは思わんな、今のお前の方がいいに決まってる」
 痛い時は痛いと言えるだろ、お前。…前のお前みたいに我慢しないで、素直に「痛い」と。
 前のお前が痛くなかったわけがないんだ、今のお前と同じで人間だったんだから。
 火傷でも怪我でも、痛いものは痛い。…それなのに、前のお前は酷い目に遭いすぎて、何処かが普通じゃなかったんだな。痛さの基準が違いすぎた。
 そんなお前が、今だと舌の火傷で痛がる。
 いい世界じゃないか、痛い時は痛いと言えるんだから。
 そっちのお前が断然いい、とハーレイが浮かべた穏やかな笑み。「うんと痛がれ」と。
「舌の火傷だって、痛いモンだしな?」
 痛けりゃ痛いと
言っていいんだ。恥ずかしいなんて思わずに。
 前のお前が我慢強すぎた分まで、今のお前は痛がっていいと思うがな。…俺は。



 今度は大いに痛がるといい、とハーレイはパチンと片目を瞑った。前の分まで、と。
「そっか…。前のぼくの分まで、痛がっていいんだ…」
 舌が痛いの、我慢しなくていいんだね。今もちょっぴりヒリヒリするけど…。痛いんだけど。
 でも、残念。舌の火傷だと、ハーレイに世話して貰えないもの。
「はあ?」
 俺が世話するって、どういう意味だ?
 なんだってそういう話になるんだ、俺がお前の世話なんていう。
「前のハーレイ、してくれたでしょ?」
 ぼくが両手に火傷した時。サイオンで出来るって言っていたのに、治るまでずっと。
 あの時みたいに、食べさせて貰うとか、お風呂に入れて貰うとか…。
 ハーレイに世話をして欲しいけれど、舌の火傷じゃ無理だよね…?
「お前なあ…!」
 調子に乗るなよ、俺が優しくしてやったからって…!
 痛がってもいいと言いはしたがだ、お前のは舌の火傷だろうが!
 大袈裟に「痛い」と騒ぐ分には、いくらでも優しく見守ってやるが…。
 そんなヤツの世話までする義理は無いな、舌の火傷は放っておいても治るんだから。
 前のお前の時と違って、薬の出番も無いんだからな。



 俺は知らん、と突き放されたけれども、きっとハーレイは優しい筈で。
 舌の火傷でなかったとしたら、今度も世話をしてくれるだろうと思うから…。
「ねえ、ハーレイ。…またぼくが両手を火傷しちゃったら、世話してくれる?」
 前のぼくにやってくれたみたいに、食事の世話とか、着替えだとか。
「火傷しなくても、お前の世話ならいくらでも…な」
 もっとも、今はしてやれないが。
 お前が両手を火傷しちまったとしても、今は駄目だな。
 世話をしてくれる人が、ちゃんといるだろ。お母さんがいるし、お父さんだって。
「…やっぱり駄目?」
 パパとママがいるから、ハーレイの出番は無くなっちゃうの?
 ぼくの世話はママたちがしてくれるんだし、ハーレイは駄目…?
「当然だろうが、お前はお母さんたちの子供なんだぞ?」
 この家でお母さんたちと暮らすチビでだ、面倒を見てくれるのもお母さんたちだ。
 お前が此処に住んでる間は、病気になった時の野菜スープが限界ってトコか。
 あれなら野菜スープのシャングリラ風だし、俺にしか作れないからな。
 お前、あれしか食べない時もあるから、お母さんだって認めてくれるが…。
 その他の世話はちょっと無理だな、俺の仕事じゃないんだから。



 駄目だ、と軽く睨まれた。「チビの間は野菜スープだけだ」と。子供の間は、世話をしてくれる人たちいるだろうが、と。
「いいか、お母さんたちの役目を俺が取ったら駄目なんだ」
 お前を可愛がってくれるお母さんたちだぞ、膨れっ面なんかするんじゃない。本物のお母さんとお父さんなんだ、甘えられる間にしっかり甘えておけ。世話をお願い、と。
 その代わり、俺と結婚したら。…舌の火傷でも、ちゃんと面倒を見てやるから。
「ホント?」
 舌の火傷でも世話してくれるの、どうやって?
 紅茶とかをハーレイが冷ましてくれるの、ぼくの代わりに…?
「違うな、お前が楽しみにしているキスだ」
 お前にキスして、「痛いの、痛いの、飛んでけ」とな。
 何処が痛いか、お前に訊いて。
 痛い所を治してやるってことになるなあ、それで治るだろ?
 本当に治るかどうかはともかく、気分だけでも。
「うん、治りそう…!」
 きっと治るよ、ハーレイのキスで。
 舌を火傷してヒリヒリしてても、火傷して直ぐの痛い時でも…!



 約束だよ、とハーレイと小指を絡ませた。いつか治して、と。
 舌の火傷は痛いけれども、そういう手当てをして貰えるのなら、してみたい。
 いつかハーレイと暮らす家でも、熱いホットミルクや紅茶で火傷。
 そして思い切り甘えてみよう。
 「キスで治して」と言った後には、「まだ痛いよ」と。
 火傷したから、世話をしてよと。
 食べさせて貰って、お風呂も、着替えも、と。
 前の自分が両手に火傷をしていた時に、ハーレイに世話して貰ったように。
 色々と面倒を見て貰ったように、舌の火傷でも甘えてみよう。
 あの頃は恋人同士ではなかったけれども、今度は同じ家で暮らしている恋人同士。
 もっと沢山、世話をして貰えそうだから。
 ハーレイの時間を一人占めして、あれもこれもと強請れそうだから…。




             火傷・了


※舌に火傷をしたブルー。痛いのですけど、前のブルーだと、その程度なら平気だったのです。
 船で負った火傷を治すのに、懸命に治療に通った日々。前のハーレイとの思い出の一つ。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv












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「さて、今日は…」
 コレだ、とハーレイが教室の前のボードに書いた文字。古典の授業の真っ最中。居眠りしそうな生徒の集中力を取り戻すために、挟み込まれるお得意の雑談。
(ザクロ…?)
 何を話すのかな、と眺めたブルー。今はザクロの旬だけれども、食べ方か、お菓子の作り方か。そういった中身かと思い込んだし、クラスメイトたちも多分、そうだったろう。
 ところが、ハーレイが始めた話は…。
「お前たち、ザクロの食べ方ばかり考えてるな? まあ、美味いんだが…」
 残念ながら、俺の話は少し違うぞ。ザクロには色々と伝説があってだな…。
 古いヤツだと、ギリシャ神話のが有名だ。冥界の王がペルセポネという娘を攫った。それがだ、豊穣の女神の娘だったから大変だ。女神は仕事を放り出しちまって、地上が荒廃しちまった。
 そこで娘を返すように、という交渉が纏まったんだが…。
 冥界の王は狡かった。ペルセポネにザクロの実を食べさせてから地上に帰した。冥界の食べ物を口にしちまったら、冥界の住人になるしかない。
 たった四粒とも七粒ともいう、小さなザクロの実なんだが…。冥界の掟は掟ってことだ。
 仕方ないから、ペルセポネは冬の間だけ冥界で暮らすことになって、豊穣の女神がまた悲しむ。冬に作物が実らないのは、そのせいだという伝説だ。
 どうだ、なかなか面白いだろう?



 しかし、とハーレイがコンと叩いたボード。「日本だって負けちゃいないんだぞ」と。
「この地域は、ずっと昔に日本があった辺りだが…。日本にもユニークなヤツがあるんだ」
 ザクロの伝説。日本で生まれた伝説のくせに、これがとびきり凄くってな。
「どんな話ですか?」
 皆が口々に尋ね始めたら、ニヤリとして教室を見渡したハーレイ。
「ザクロの味についての話だ。本当に日本だけでの話なんだが…」
 人の肉の味がすると言うんだ、ザクロの実は。
「ええっ!?」
 たちまち教室で上がった悲鳴。人というのは人間なのか、と。
「その通りだが? お前たちよりは小さい子供の肉なんだろうな、伝説によると」
 鬼子母神という神様がいた。元は鬼でな、人間の子供を攫って食べていたわけだ。
 それを止めさせようと、お釈迦様が鬼子母神の子供の一人を隠しちまった。五百人もいた子供の中でも、特に可愛がっていた一人をな。
 いくら捜しても見付からないから、鬼子母神は酷く悲しんだわけだが…。
 お釈迦様が言うには、命の重さと子供を可愛いと思う心は、人間も鬼神も変わらない。五百人の中の一人が消えても悲しいのなら、もっと子供の数が少ない人間の親の気持ちはどうだ、と。
 鬼子母神はやっと自分の罪に気付いて、それからは子供を攫わなくなった。
 お釈迦様に仕えるいい神様になったわけだが、元々の伝説は此処までで…。日本で勝手に増えた話がこの後なんだ。



 元々は子供を食べていたのが鬼子母神。また子供の肉を食べたくならないようにと、与えられた果物がザクロだという。子供を食べたくなった時には、代わりにザクロ。人の肉の味がするから、それを食べれば収まるだろう、と。
「そんな伝説があるもんだから、鬼子母神の像は右手にザクロを持っているんだ」
 左手には子供を抱いているんだが、右手のザクロが怖いわけだな。人の肉の味がするんだから。
「本当に人の肉の味なんですか?」
 おっかなびっくり尋ねた生徒に、ハーレイは「まさか」と軽く両手を広げてみせた。
「日本で出来た伝説なんだと言っただろうが。此処から後は、と」
 鬼子母神は吉祥果という果物を持っているそうだ。そいつが中国でザクロになった。子孫繁栄の意味があるから、吉祥果にはピッタリだとな。
 その鬼子母神が日本に伝わった時に、誰かが間違えちまったんだ。子供を食べたくなった時には代わりにザクロを食べるらしい、と。
「じゃあ、人の肉の味は…。しないんですか、ザクロ?」
「するわけがない。ザクロはザクロだ、甘酸っぱくて美味いだろうが」
 肉の味とは全く違うぞ、あれは立派に果物だってな。血の味もしないし、生臭くもない。
 だが、伝説は一人歩きをするもんだ。人の肉の味がするから不吉だ、と嫌っていた場所もあったそうだぞ。ザクロは決して食べないだとか、植えるだけでも不吉だとか。
 ザクロにしてみたら、いい迷惑だな。せっかく美味い実をつけるのに。
 鬼子母神の方も気の毒だよなあ、子供は二度と食べないから、と改心したのにザクロの伝説。
 子供の肉を食べる代わりに、ザクロを食べると思われたんじゃな。
 まあ、伝説には何かと尾ひれがつくもんだが。



 授業に戻るぞ、とボードから消された「ザクロ」の文字。今が旬の果実。
(ザクロ…)
 家の近くにもあったよね、とブルーの頭に浮かんだ家。庭にザクロの大きな木。バス停から家に向かう道とは違うけれども、ザクロの話を聞いたからには見てみたい。
(一粒くらいなら、取って食べても…)
 かまわないだろう、ザクロの中には小さな実がビッシリ詰まっているのだから。人の肉の味ではないそうだけれど、勘違いされたザクロの実。
(帰りにちょっと見に行こうっと)
 手が届きそうな所に実っていたなら、中身を一粒。
 今日は学校の帰りにザクロ、と心に決めて、迎えた放課後。いつもの路線バスに乗る所までは、普段と同じ。バスを降りたら、違う道へと。
(えーっと…)
 この先だっけ、と歩いて行って、「あった」と見上げたザクロの木。生垣の向こう、大きな木の枝は道の方にも張り出しているから。
(…下の方の実、届くかな?)
 一粒だけでいいんだけどな、と眺めていたら、「ブルー君?」と庭に現れたご主人。今年も沢山実ったんだよ、とザクロの木の実を数え始めて…。
「見えている分だけでこれだけだしねえ、もっと沢山あるってことだね」
 欲しいなら持って帰るかい、とハサミでチョキンと切って貰ったザクロの実。それも三つも。
 一粒だけでも味見したい、と回り道をしたのに、赤く弾けたザクロごと貰えた。中にギッシリ、艶やかな実。ハーレイの授業で教わった実が。



(美味しそう…)
 ほんの数粒食べたばかりに、冥界の住人になってしまったペルセポネ。彼女の瞳にも、魅力的に映ったのだろう。一粒、二粒とつまんだくらいに。
(あっちは人の肉の味じゃないんだけどね?)
 本当のザクロの味はそっち、と日本で生まれた伝説を思う。ついつい食べたくなるのがザクロ。一粒、二粒とつまんだ女神もいたというのに、日本だと人の肉の味だなんて、と。
(貰ったんだし、家でゆっくり…)
 味わって食べよう、と持って帰ったら、目を留めた母。
「あら、ザクロ…。頂いたの?」
 今年もドッサリ実ってるものね、上の方まで。一番上のは二階の窓から採るのかしら?
 でも、帰り道とは違うわよ、あそこ。回り道したの?
「今日の授業で聞いたから…。ザクロ、あの家にあったっけ、って」
 ちょっと味見が出来たらいいな、って見に行ってみたら、三つも切って貰えたんだよ。
「授業でザクロのお話ってことは、ハーレイ先生ね?」
「うんっ! 今日の雑談、ザクロだったよ」
 だから食べたくなっちゃって…。
 着替えておやつの時に食べるよ、ザクロ、とっても美味しそうだもの。



 そう宣言して、おやつの時間に食べてみたザクロ。弾けた果実をエイッと割って、詰まっている粒を指でつまんで。
 甘酸っぱい味がするけれど。遠い昔の日本の人たちは、人の肉の味だと言ったそうだけれど。
(人間なんか、食べたことがないから…)
 どんな味だか分からないんだし、比べようがないよ、と思った途端。
(人間を食べる…?)
 何処かで聞いた、その響き。食べたことなど無い筈なのに。
 今の自分も、前の自分も、人間の肉を食べたりはしない。同じ人間を食べるわけがない。今日の雑談でハーレイが話した命の重さ。人類とミュウが争った時代もそれは同じ、と考えたけれど。
「ヤツらは人間の精神を食べる」
「そうだ、あいつらは人間を食い殺すんだ」
 不意に頭に響いて来た声。蔑むような男たちの声。
(アルタミラ…!)
 あそこだった、と蘇った記憶。前の自分が閉じ込められていた研究施設。
 サイオンを持ち、人の心を読む化け物への評価。「人間を食い殺す」と言った研究者たち。
 ミュウは食べたりしないのに。人の心を読み取れるだけで、心を食べはしないのに。
 嫌だ、と頭から振り払った声。前の自分が聞いていた言葉。
(今の時代は、みんなミュウだから…)
 間違った考え方をする人類はいないし、SD体制の崩壊と共に人類とミュウは手を取り合った。化け物と呼ばれる時代は終わった。
(忘れなくっちゃ…)
 酷い言葉は、と母が焼いてくれたケーキに集中。ザクロよりもケーキ、と。
 人の肉の味だと勘違いされたザクロはとても美味しいけれども、今はケーキの方がいい。人間を食べると忌み嫌われていた、あの頃の記憶が蘇るから。



 幸い、そこまでで終わった記憶。母のケーキが、今の時代にしっかりと繋ぎ止めてくれたから。
 とはいえ、ハーレイのせいで思い出す羽目になったのだから…。
(文句、言わなきゃ…)
 仕事の帰りに訪ねて来たなら、ハーレイに文句。嫌なことを思い出したじゃない、と。ウッカリ忘れてしまわないよう、ザクロを部屋に置くことにした。
 三個も貰って来たわけなのだし、まだ割っていない二つの内の片方を。
 母には「部屋に飾って眺めながら食べるよ」と説明したから、種を入れるためのお皿も貰えた。ザクロの実には小さな種。一粒に一つ入っているから、食べる時には吐き出す種。
 そうやって部屋に運んだザクロをまじまじと見る。人の肉の味だなんて、とんでもない。綺麗な実が幾つも詰まっているのに。一粒、二粒とつまんだ女神もいたほどなのに。
(ハーレイ、来るといいんだけどね?)
 文句を言おうと待っているのだし、是非来て欲しい。ザクロも用意したのだから。
 それとも、苛められると分かっているから来ないだろうか。
 予知能力は無い筈だけれど、なんだか嫌な予感がすると。今日は真っ直ぐ家に帰ろうと。
(逃げたら逃げたで、ザクロを残しておくもんね)
 そう簡単には傷まないだろうし、割らなかったら三日くらいは持つだろう。その間にハーレイはきっと来るから、「これ!」とザクロを指差して文句。今日でなくても、三日後でも。



 此処にザクロの実がある間は時効じゃないよ、と考えていたらチャイムの音。部屋にハーレイがやって来たけれど、アルタミラの記憶と結び付いたとは知りもしないから。
「おっ、ザクロか。早速、何処かに貰いに行って来たんだな」
 いいことだ、と笑顔のハーレイ。お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで。
 そのテーブルの上にザクロもあるから、「どうだ、人間の肉の味がしたか?」と訊くハーレイ。此処は昔は日本なんだし、そっちの気分でザクロだよな、と。
「酷いよ、ハーレイ!」
 人の肉の味だなんて言うんだもの…!
 ザクロ、貰いに行って来たけど、頭がそっちに行っちゃったよ…!
「…このザクロ、そういう味だったのか?」
 俺は甘酸っぱい実だと思ってたんだが、このザクロは違う味なのか?
 血の味がするのか、それなら鉄分が多いザクロということになるが…。ザクロに鉄分…?
 確かに入っちゃいるんだが…、とハーレイはザクロの栄養価を考え始めたから。
「ううん、血の味じゃなくて、アルタミラ…」
「はあ?」
 アルタミラって…。前のお前か?
 あそこでザクロを食っていたのか、餌の他にも貰えたのか…?



 前のお前は特別待遇だったのか、と更に勘違いをしたハーレイ。研究所の檻で食べていたのは、誰もがただの餌だったから。餌と水だけ、果物などは無かったから。
「違うよ、ぼくが言われたんだよ! 前のぼくが!」
 人間を食べる化け物だ、って…。ミュウは人間の精神を食べて、食い殺すんだって。
「そういや、あいつら、言ってたなあ…」
 俺も聞いたぞ、その台詞は。…人の肉の味で、そいつを思い出したってか?
「ハーレイのせいだよ、ザクロの話なんかをするから!」
 人の肉の味だって話をするから、アルタミラ、思い出しちゃった…。
 ぼくは人間を食べたりしないのに、いつも化け物扱いで…!
「それは気の毒だが、このザクロの実を貰いに行ったの、お前だろうが」
 俺の授業で気分が弾んで、いそいそ貰いに出掛けた筈だぞ。
「そうだけど…! ちょっと一粒味見したいな、って回り道をして帰ったんだけど…」
 家の人が出て来て、三つも貰えて、嬉しい気分で帰って来たのに…!
 おやつの時間にワクワクしながら食べ始めたのに、人間を食べる化け物だなんて…!
 ぼくは人間を食べてないのに、食い殺しなんかしないのに…!



 アルタミラの記憶なんかは要らなかった、とプンスカ膨れた。せっかく貰ったザクロの実だって台無しだよ、と。
「そうでしょ、値打ちが全部台無し! 美味しいね、って食べていたのに…」
 こんな味なんだ、ってつまんでいたのに、人間を食べる化け物だって言われちゃったよ!
「うーむ…。そいつを言ってた研究者どもは、とっくの昔にいないんだが…」
 人類のヤツら、改心ってヤツをしなかったしなあ…。
 鬼子母神みたいに改心してたら、ミュウを見る目も変わったんだろうが…。
 化け物じゃなくて、そういう種類の人間だってことに気付いてくれれば。
「でしょ? 人類は少しも反省したりはしなかったんだよ」
 ミュウは化け物で、人間の精神を食べるから…。食い殺すんだから、殺してもいいって。
 酷い実験をして死んでしまっても、これで一匹処分出来た、って笑ってたんだよ。
 前のぼくのサイオンは封じられてたけど、そんな目に遭った仲間の残留思念が幾つも、幾つも。檻から出されて実験室に連れて行かれたら、仲間の悲鳴が残ってて…。
「その人類だが、そもそも説教をしていないしな」
「えっ?」
 説教ってなあに、なんの話なの…?
「授業で言ったろ、お釈迦様の話。鬼子母神の子供を一人隠して、どう諭したか」
 命の重さは同じなんだ、と説教したのがお釈迦様だぞ。人間の子供も、鬼子母神の子も。
 ミュウと人類の命の重さも同じだったが、それを教えるヤツが一人もいないんではなあ…。
「そうだね…。誰も人類にそれを教えていないよね…」
 第一、ぼくたちが話そうとしたって、話なんか聞いてくれないし。
 人間扱いしていないんだから、ぼくたちの言葉は人類の耳には届かないよね…。



 鬼子母神の子供も、人間の子供も命の重さは変わらない。人類とミュウの命の重さも全く同じ。
 人類が其処に気付かない限り、ミュウは化け物。人間の精神を食べると忌み嫌われた化け物。
 本当は、そうではなかったのに。
 人類という名の鬼子母神に狩られ、食べられていたのがミュウだったのに。
「…ミュウは食べられちゃう方だったんだよ。人間を食べていたんじゃなくて」
 人類はミュウを殺してたんだし、人類が鬼子母神みたい。ミュウを食べてはいないけど…。
 殺してただけで、ミュウを殺して食べることまではしなかったけど…。
「なるほどなあ…。鬼子母神は人類の方だってか。化け物と呼ばれたのは俺たちだったが」
 そういえば、マザー・システムが統治してたんだっけな、あの時代には。
 マザーと名乗るくらいなんだし、あれこそが鬼子母神ってトコだったかもな。改心する前の。
 お釈迦様に説教をされて、いい神様になるよりも前の鬼子母神だな。ミュウだと分かれば端から殺す。食わなかっただけで、途方もない数のミュウを殺していたんだから。
「マザー・システムは最後まで改心しなかったよね…」
 だから壊されて、SD体制もそれでおしまい。悪い鬼子母神のままだったから。
「ああ。改心どころか、マザー・システムは自分の子供も殺しちまった」
「え?」
 自分の子供って…?
「キースだ。あいつはマザー・システムが無から作った生命だったろうが」
 つまりはマザー・システムの子供だ、鬼子母神のな。
 俺はあいつが好きではないが…。
 その点だけは同情するな。キースは自分を生み出した親に処分されたんだ。
 作ったのはマザー・イライザだったが、作るようにと命令したのはグランド・マザーだ。作れと命じて、出来上がったキースを意のままに動かそうと考えた。
 なのにキースが逆らった途端、あっさりと処分しちまった。鬼子母神より酷かったんだ。
 改心する前の鬼子母神でも、自分の子は可愛がったのに。
 もしもその子が逆らったとしても、食い殺したりはしなかったろうに…。



 まして人間の親となったら…、とハーレイはフウと溜息をついた。SD体制の時代の養父母ならともかく、本物の親なら殺さないと。子供を処分したりはしない、と。
「だからキースに同情すると言ったんだ。親に殺されちまったんだから」
 作られた生命体にしたって、親は親だし…。養父母なんかより縁は濃かった。望まれて生まれた子供なんだからな。グランド・マザーに。
 しかし、子供を殺してもいいと考えたのがグランド・マザーだ。逆らった子供を殺しちまった。
 その場で直ぐには死ななかったが、殺すつもりで処分したからには、殺したのと変わらん。
 剣でグサリと貫いておいて、「処分終了」と言ったそうだからな。グランド・マザーは。
「うん…。歴史の授業で教わるよね」
 その後はジョミーが戦ったけれど、グランド・マザーに逆らったのはキース。
 最初から逆らうつもりでいたから、メッセージまで残して行って。
 ミュウは進化の必然だったから、マザー・システムはもう時代遅れ。一人一人が自分で考えて、どうするべきかを決める時代だ、って…。
 あんなメッセージを流してしまったら、処分されるに決まってるのに。
「…命懸けで説教をしたってわけだな、グランド・マザーに」
 人類もミュウも同じ人間だと、命の重さに変わりはないと。国家主席がそれを認めたら、決して生きてはいられないだろうに…。自分の子供でも殺しちまうような機械が相手なんだから。
 説教をしたキースは処分されたが、説教の中身は人類に届いた。そして人類は、考え方を変える方へと行ったんだ。ミュウと戦うより、手を取り合おうと。
 本当だったら、キースのメッセージだけしか、後の時代に残らなかったかもしれない。
 他の色々なことが分かっているのは、ジョミーが遺した記憶装置のお蔭だ。
「そうだったっけね…」
 あれが全てを記憶したんだよね、全部トォニィに伝わるように。
 次のソルジャーの役に立つようにと、ジョミーが見ていた何もかもを全部。



 崩れゆく地球の地の底で、ジョミーがトォニィに託した補聴器。
 記憶装置を兼ね備えたそれは、元は前の自分の物だったもの。ソルジャー・ブルーの記憶装置。メギドへ飛ぶ前に、フィシスにそっと手渡した。何も言わずに。
 フィシスは前の自分の意図を分かってくれて、メギドが沈んだ後にジョミーに渡した。その中に入った、前の自分の記憶の全てを。
(多分、ジョミーの役に立ったから…)
 ジョミーもトォニィに同じことをした。致命傷を負った自分に代わって、ソルジャーになれと。次の世代を導いてくれと、補聴器をトォニィに託したジョミー。
 その補聴器が全てを憶えていた。記憶装置の役目を果たして、トォニィに伝えた。キースが地の底で何をしたのかを。
 グランド・マザーにどう逆らって、処分されるに至ったのかを。
 けれど…。



 今の自分だから、不思議に思ってしまうこと。歴史の授業では教わらないこと。
「ねえ、ハーレイ。…キースは、どうして気付いたんだろう?」
 人類もミュウも、命の重さは同じだってことに。…ミュウを排除しちゃいけないことに。
 前のぼくがキースと話し合えていたら、歴史を変えられたような気がするけれど…。
 きっとそうだと思うんだけれど、そういうチャンスは来なかったよ。…メギドでもね。
 キースは何も言わずにぼくを撃ったし、ぼくも何一つ話さなかった。どうしてなのかな、神様がそう決めちゃっていたのかな…。人類とミュウが話し合うにはまだ早い、って。
 あの頃のキースは、まだ少佐で…。人類の世界で発言力はそれほど大きくなかったから。
 でもね、話が出来たら変わったかもしれない、たったそれだけ。ただの可能性。
 キースの中には、まだシステムへの疑問くらいしか無かったんだよ。矛盾してる、って。
「ふうむ…。お前だからこそ、読み取れたってか?」
 今の不器用なお前と違って、キースの心に入り込めたと言ってるしな?
 一瞬の内にそこまで読んだか、流石はソルジャー・ブルーだったと言うべきか…。
 読み取ったものの、あいつの中にはシステムへの疑問だけしか無かった、と…。
 前のお前が話し合う方向に持って行けるほどの、決定打ってヤツは無かったんだな?
「そう。…メギドの制御室で会った時にも、キースは変わっていなかったと思う」
 あの時点で思う所があったら、撃つよりも前にぼくに訊いただろうから。
 ミュウはどういう生き物なのか、前のぼくが命を捨ててまで守り抜く価値があるものなのか。
 命の重さに気付いていたなら、きっと尋ねていたんだと思う。
 大勢の仲間を助けるためだけに、命を捨てに来たのかと。…そうまでして守りたいのかと。
 だけどキースは訊かなかったよ、敵としてぼくを撃ちに来ただけ。…ミュウの大物だったから。
 迷いもしないで何発も撃って、反撃しないのを嘲笑ってた。前のぼくとは、それで終わりで…。
 それから後には、キースは一度もミュウと接触していないのに…。
 マツカが側にいたというだけで、他のミュウとは話す機会も無かったのに。



 いったい何処で気付いたんだろう、とハーレイに向かって投げ掛けた問い。
 キースはどうして変わったのかと、人類とミュウの命の重さは同じなのだと気付いたのか、と。
「…命の重さが同じだってことに気付かない限りは、キースの考えも変わらないでしょ?」
 ミュウは排除しなくちゃ駄目な生き物で、前のぼくをメギドで撃ったみたいに、撃って当然。
 そんなキースが変わってしまって、マザー・システムへの疑問どころじゃなくなって…。
 とうとう逆らって、殺されるトコまで行っちゃった。…グランド・マザーに。
 キースを変えたのは誰なんだろうね、マツカだろうとは思うけど…。
 学校でもそう教わるけれども、本当にマツカだけなのかな…?
「マツカの存在も大きいんだろうが…。色々なことの積み重ねだろうな」
 あいつはステーション時代にシロエに会ってる。ミュウ因子を持ったシロエにな。候補生の頃は知らなかっただろうが、後になったら分かった筈だ。シロエは実はミュウだった、と。
 人類だとばかり思っていたんだろうに、ミュウだったんだぞ? これは大きい。
 ミュウは敵だと決まったものでもなかったのか、と思った筈だ。シロエはキースをライバル扱いしていただけで、敵だと考えたわけじゃない。殺そうとしたわけでもない。
 …ただシステムに逆らっただけで、シロエは抹殺されちまった。それもキースの手で。
 自分は間違っていなかったか、と思うことだってあっただろう。…俺の推測に過ぎないがな。
 そして無害なマツカに出会った。キースを庇って死んだマツカだ、何度もキースを救った筈だ。
 この二人はキースと親しかったミュウだが、前のお前だって…。
 キースの敵ではあったわけだが、何らかの影響は与えたんじゃないか?
 メギドの制御室に入り込んだお前と、ギリギリまで睨み合っていたそうだからな。
 マツカが助けに来なかったならば、お前、キースを巻き添えに出来たらしいじゃないか。
 …そんなに粘って、キースは何をしたかったのか。この辺も大切な鍵かもしれん。
「前のぼくも、キースが変わる鍵だった?」
「多分な。…おっと、これ以上の考察は御免蒙る。俺はあいつを許してはいない」
 今もやっぱり許せないんだ、あいつについては深く考えたくもない。
 英雄にしてやりたい気分もしないな、今でもな…。



 記念墓地で一緒にされちまったが、と眉間に皺を寄せるハーレイ。「なんであいつと」と。
「マードック大佐はまだいいんだ。ナスカで残党狩りをしなかった話は有名だしな」
 早い時期から、ミュウと人類の命の重さは同じなことに気が付いていた、と。
 軍人という立場にいたから、自分の意見を述べなかっただけで。
 だから、マードック大佐と一緒の墓地でも別にかまわん。パイパー少尉も。
 だがな、キースは出来れば引越して貰いたい。あいつが引越さないと言うなら、俺が別の場所に引越ししたいくらいなんだが…。前のお前と一緒の墓地だし、仕方なく我慢してるってな。
「えーっと…。お墓を引越ししたいくらいに、キースが嫌い?」
 前のぼくのお墓が一緒にあるから、我慢して入っているってくらいに?
「当然だろうが。あいつはお前に何をしたんだ、前のお前に!」
 お前はあいつに何発も撃たれて、俺の温もりを失くしちまった。
 独りぼっちだと泣きじゃくりながら死んだんだろうが、違うのか?
 お前をそんな目に遭わせた野郎を、俺は今でも許せないんだ。お前自身が許していてもな。
 俺はキースが大嫌いだし、お前がどんなに「許す」と言っても、許す気持ちにはなれないな。
 前のお前を殺しちまった大悪党なのに、英雄扱いされているのも気に食わん。
 その上、あいつを殴り損ねた。地球で会った時、普通に挨拶しちまったんだ。前のお前を撃った男だと知っていたなら、あの場で一発お見舞いしたのに。



 考えただけで腹が立ってくる、とハーレイが視線を落とした先にザクロの実。弾けて口を開けているだけで、コロンと転がっているザクロ。
「ふむ…。ザクロが人の肉の味だというのが発端だっけな、キースの話」
 最初はお前の恨み節だったが…。アルタミラ時代を思い出しちまった、という文句だったが。
 人の肉の味がするというなら、キースだと思って食ってやるとするか。こいつを一粒。
 これがキースだ、とハーレイが弾けた実から一粒つまんで取り出したザクロ。
 一粒ならポイと口の中に入りそうなのに、わざわざ前歯でガブリと噛んで。それからモグモグと口を動かして、皿の上にペッと吐き出した種。「スッキリした」と。
「…ハーレイ、それがキースって…」
 人の肉の味なら食べるってくらいに、キースが嫌い?
 ザクロの実をキースのつもりで齧って、種を吐き出して、スッキリしたって…。
「嫌いだな。さっきも言ったが、まだ許せない」
 墓も引越ししたいくらいに、俺はキースが憎くてたまらん。…お前はキースが好きなようだし、仕方なく話に付き合ってやるが。
「でも、ハーレイ…。ぼくはキースの話もしたいよ。今の世界を作ってくれた英雄なんだよ?」
 だからね、いつかは好きになってくれる?
 今は無理でも、その内に。…ぼくと話が出来るくらいに、キースのことを。
「お前をすっかり取り戻したらな」
 前の俺が失くしちまったお前が、もう一度、ちゃんと帰って来たら。
 チビのお前も可愛らしいが、キースに撃たれてしまったお前。あの時のお前が戻って来たら。
 今度こそ失くさなくて済むんだ、と俺が本当に納得したら…。
 その時は考えてやってもいい。あの悪党を許すことをな。



 今は無理だ、とハーレイは本当にキースが嫌いらしいから。許すつもりも無いようだから。
「ハーレイも鬼子母神みたい…」
 なんだか、そんな気がしてきたよ。怖いけれども、悲しいよねって。
「鬼子母神だと? この俺がか?」
 どうしたら、そういうことになるんだ。俺は人間の肉は食わんぞ。…キースなら食うが。
「ほらね。ザクロの実をキースだと言って食べたよ、キースの肉を」
 それにね、前のぼくがいない、って捜し回って…。
 前のぼくをすっかり取り戻すまでは、って…。子供を必死に捜してる鬼子母神とおんなじ。
 人間の子供を食べる鬼子母神は怖いけれども、自分の子供がいなくなって捜すのは可哀相…。
 ねえ、ハーレイ。命の重さは、ぼくもキースも同じだよ?
 キースを許してあげて欲しいよ、怖い顔してザクロの実なんか食べないで。
「駄目だな、言いたいことは分かるが…。所詮、お前はチビだしな?」
 お釈迦様の立派なお説教ほどには、説得力が無いってこった。
 俺の雑談の受け売りなだけで、それでは俺を説得は出来ん。
 とにかくキースは大悪党で、俺にとっては八つ裂きにしても飽き足りないほどの仇だってな。
前のお前の。



 だからキースだと思って食っておくんだ、とまたハーレイがザクロの実を齧っているから。
 一粒つまんで前歯でわざと潰しているから、鬼子母神にも見えるハーレイ。人の肉の味だという実を齧るから。キースのつもりで食べているから。
(キースの味なの…?)
 ホントにそうかな、と齧ってみたザクロは甘酸っぱいだけ。ただの果物。
 それをキースに擬えて食べるハーレイは酷いと思うけれども、そうさせたのは自分だから。
 キース嫌いにさせてしまったのは、前の自分のせいだから。
「分かった、お説教が上手くなるように頑張るよ」
 ハーレイがザクロのキースを齧らなくてもいいように。
 あいつは嫌いだとか、許せないだとか、言わなくてもいい日が早く来るように。
「おいおいおい…。俺に説教を聞かせているより、いい方法があるんだが?」
 ゆっくりでいいから、前のお前と同じに育て。そうすれば、俺はお前を取り戻せる。いつまでもキースを恨んでいないで、お前と一緒にやり直せるしな。
 育った方が早いと思うぞ、前と同じに。…俺に懇々と説教を垂れているよりもな。
「どっちも頑張る!」
 前のぼくと同じに育つって方も、お釈迦様に負けないお説教も。
 きっとハーレイも、キースのことが大好きになるよ。ぼく、本当に頑張るから。前のぼくと同じ姿になるのも、ぼくのオリジナルのお説教も…!



 頑張るからキースを好きになってね、と一粒つまんだザクロ。甘酸っぱい味がする果実。
 人の肉の味がするというのは、遠い昔の日本で起こった勘違い。日本だけにしか無い言い伝え。
 そのザクロの実でキースを食べた気になる、鬼子母神なハーレイは辛いから。
 今もハーレイを苦しめている、と胸が締め付けられるから。
 いつかキースを好きになって貰えるように、頑張ろう。
 前と同じに大きく育って、「そうかもな」と頷いて貰える、お説教だって考えて。
 頑なにキースを嫌い続ける、ハーレイの心が融けてほぐれてゆくように。
 「キースも悪いヤツではないよな」と、笑顔で話をしてくれる日が来るように。
 昔話は、二人で楽しく語りたいから。
 あんなこともあったし、こんなこともあった、と幸せに語り合いたいから…。




              ザクロの味・了


※人間の子供を食べないように、ザクロの実を与えられた鬼子母神。人の肉の味がする実を。
 その鬼子母神のように、「キースだ」とザクロを齧るハーレイ。許せる日はまだ先なのです。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv














「…どうしても駄目?」
 ママ、と縋るような目でブルーは母を見上げたけれど。ベッドの中から、顔だけ出して。
 お願い、と目と言葉とで訴えたけれど、母は見下ろして「駄目ね」と睨んだ。
「今日で三日目でしょ。まだ熱が下がらないじゃない」
 約束だから、と母の口調は変わらない。いつもは優しい母だけれども、今は学校の先生のよう。宿題をしないでやって来た子に、「休み時間にやりなさい」と言い渡す時の。
(…ママ、酷い…)
 一昨日の夜から出ていた熱。微熱だけれど、喉が痛むから間違いなく風邪。金柑の甘煮を食べて治そうと頑張っていたのに、下がらない熱。ちゃんと薬も飲んでいたのに。
 熱が下がってくれないせいで、今から注射に連れて行かれる。家から近い病院まで。痛い注射は大嫌いなのに。出来れば打たずに済ませたいのに。
 ベッドの側から動かない母に、もう一度だけ頼んでみた。
「ママと約束したけれど…。注射、嫌いなの、知ってるでしょ?」
 もう一日だけ。明日まで待ってよ、熱が下がるかもしれないから…。
「いい加減にしなさい、今日まで待ってあげたんだから」
 注射をしたら、直ぐに下がるの。風邪だってアッと言う間に治るわ。
 第一、熱が下がらなかったら、ハーレイ先生にも御迷惑でしょ。
 毎日がスープ作りじゃない、と言われたらそう。仕事の帰りに寄ってくれるハーレイ。寝込んでしまった自分のために、野菜スープを作ってやろうと。
 何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだ素朴なスープ。その味が今も好きだった。前の自分が好んだ味が。



 ハーレイが作る、野菜スープのシャングリラ風。今はそういう名前がついた、病気になった時の定番。熱を出して学校を休んだ日から、ハーレイは毎日来てくれていて…。
(今日が木曜…)
 野菜スープは今までに何回作って貰ったっけ、と指を折りかけたら、母が顔を覗き込んで来た。
「注射が嫌なのはいいけれど…。治らないままで土曜日がいいの?」
 ハーレイ先生が来て下さっても、ベッドから出られないままね。
 お茶もお菓子も、テーブルじゃ駄目。ブルーはベッドの中で食べるの。
「それは嫌だよ!」
 せっかくハーレイが来てくれるのに、と声を上げたら、「注射に行くわね?」と念を押された。迎えのタクシーを呼んでおくから、着替えて下りていらっしゃい、と。
(…治らなかったら、ベッドの中…)
 ハーレイと過ごせる素敵な時間が、きっと台無し。テーブルを挟んでのお茶もお菓子も、向かい合わせで食べる昼食も、すっかり駄目になってしまうから。
 両親も一緒に囲む夕食も、仲間外れになるだろう自分。ハーレイはダイニングで両親と食べて、病気の自分は部屋でポツンと独りぼっち。
(野菜スープのシャングリラ風は、部屋に届けて貰えても…)
 ハーレイが側で食べさせてくれても、夕食のテーブルにはいられない。寝ていなさい、と両親に叱られるから。パジャマ姿で下りて行っても、追い返されてしまうから。



 悲しい土曜日を迎えるのは嫌。注射はとても嫌いだけれども、寂しい土曜日は来て欲しくない。母の言葉は正しいのだから、仕方なく起きて着替えた服。病院に出掛けてゆくために。
 階段を下りて下に行ったら、支度を整えて待っていた母。タクシーも直ぐにやって来た。病院は家から近いけれども、歩いてゆくには遠すぎる。
(注射…)
 このタクシーに乗って行ったら注射、と泣きそうな気持ちで向かった病院。待合室が大勢の人で混み合っていたらいいのに、と。痛い注射を打たれる時を、少しでも先延ばしにしたいから。
 けれど、着いてみたら少なかった人。「注射は嫌だ」と泣き叫びそうな子供もいなくて、じきに回って来た順番。母は診察室の中まで付いて来た。「注射は無しで」と勝手に断らないように。
 顔馴染みの医師は、とても温厚な人なのだけれど…。
「注射を打っておきましょう。なあに、このくらい直ぐに治りますよ」
 一本打って、家で大人しく寝ていれば、と出て来た注射器。
(やっぱり…!)
 嫌だ、と逃げ出したい気分。まるで小さな子供みたいに、泣けたらどんなにいいだろう。目からポロポロ涙を零して、大暴れして。
 幼い頃から、注射が嫌いで苦手だった自分。他の子たちは大きくなったら我慢するのに、自分はどうしても駄目だった。一向に慣れはしなかった。
 その上、今では前よりも怖くて苦手な注射。前の自分の記憶が戻って来たせいで。
(注射されたら…)
 酷い目に遭わされるんだから、と前の自分が悲鳴を上げる。注射は嫌、と。
 此処から逃げて帰りたいのに、看護師がまくり上げる袖。消毒されて、医師が手にした注射器。大嫌いな針がブスリと刺さって、とびきり痛くて、前の自分と一緒に悲鳴。
 十四歳にもなって、叫ぶ子供もいないだろうに。医師も看護師も笑っているのに。



 散々な目に遭ったけれども、なんとか終わった注射の刑。処方された飲み薬を母が受け取って、呼んで貰ったタクシーで家に帰ったら…。
(ちょっとマシかな?)
 そう思えた身体。服からパジャマに着替える時に、出掛ける前よりも楽な気がした。ほんの少し身体が軽くなったような、そういう感じ。
 ベッドに入って、暫くしたらスウと眠って。昼食は母に運んで貰って、薬を飲んでまた眠って。
 夕方にはすっかり下がっていた熱。今朝までの熱が嘘だったように。
 これなら明日は学校に行けそう、と思っていたのに、ホットミルクを持って来てくれた母は…。
「熱が下がって良かったわね。でも、明日も学校は休むのよ?」
 先生がそう仰ってたから。無理をしないで、家でゆっくりするように、って。
「えーっ!」
 そんな、と懸命に抗議したけれど、三日も続いていた微熱。ただでも虚弱な身体なのだし、熱が下がって直ぐに動いたら、ぶり返すこともあるだろう。医師が心配している通りに。
 幼い頃から診てくれている医師の見立ては間違っていない。明日も休むのが治す早道。
 熱は無くても、家で大人しく。疲れたら直ぐに眠れるように、自分の部屋で。



 頭では分かっているのだけれど。だから渋々頷いたけれど、母が出て行ったら零れた涙。
 せっかく注射に耐えたのに。嫌な注射を我慢したのは、学校に行けばハーレイに会えると思ったからなのに。…ハーレイが仕事をしている昼間も、挨拶をしたり、姿をチラと見掛けたり。
(…ハーレイ先生って呼ばなきゃ駄目でも、ハーレイはハーレイ…)
 家で一人で寝ているよりは、ハーレイに会えるチャンスが幾つも転がっている学校。廊下とか、朝のグラウンドとか。そっちの方が断然いいのに、明日も欠席。
 今日は木曜で明日は金曜、学校に行けないままで週末。ハーレイと一日一緒にいられるけれど、それまでの時間を損した気分。今日と、それから明日の分とを。
(…明日も学校で、ハーレイに会えない…)
 昼の間は絶対会えない、と悲しんでいたら、聞こえたチャイム。この時間ならきっとハーレイ。仕事の帰りに、野菜スープを作りに来てくれたのだろう。
 少ししてから、扉をノックする音。扉が開くと、ハーレイの姿。母は一緒に来ていない。お茶やお菓子を運んで来たって、自分はベッドの住人だから。テーブルに着けはしないから。
 昨日も一昨日も、ハーレイのお茶は部屋に届きはしなかった。きっと野菜スープを煮込む間に、母が「どうぞ」と出すのだろう。ケーキなんかも添えたりして。
 今日もそうだ、と視線をやったら、「起きてたか?」と微笑むハーレイ。
「熱が出てたの、下がったんだってな。注射に行って。…偉いぞ、お前」
 お前、注射は嫌いなのにな、と大きな手で撫でて貰えた頭。俺がいなくてもよく頑張った、と。
「え…?」
 ハーレイがいなくても、って…。どういう意味なの、いつもハーレイ、いないじゃない。
 ぼくが病院に注射に行く時、ハーレイはついて来ないでしょ?



 病院に行くなら、付き添いは母。大きな病院だったら両親。病院に連れて行くのは家族。それが家族の役目なのだし、ハーレイに代わりを頼みはしない。家族同様の付き合いでも。
 ハーレイは何を言うのだろう、とベッドの中で首を傾げていたら…。
「いや、今日はお前が注射に行ったと、お母さんから聞かされたら、だ…」
 思い出しちまった、昔のことを。…前のお前のことを一つな。
「昔のことって…。その話、ぼくに聞かせてくれるの?」
「それはかまわないが…。俺のスープがお留守になっちまう」
 野菜スープを作るんだったら、キッチンに行かんと無理だからな。此処じゃ作れん。
 昔話をしている間に、晩飯の時間になっちまったら…。今日のお前は野菜スープは無しだ。
 スープ無しでも気にしないんなら、昔話をしてやるが。
「いいよ、ハーレイの野菜スープは無しでも」
 この風邪、食欲は落ちてないから…。あのスープしか欲しくないようなヤツじゃないから。
 でも、ママに頼みに行かなくていいの?
 野菜スープは今日は作らないから、ぼくの食事はお願いします、って。
「その心配は要らないってな。お母さんから注射の話を聞いた途端に思い出したし…」
 昔話を一つ思い出しましてね、と言っておいたんだ。お前の体調がいいようだったら、懐かしい話をしたいんですが、と。
 だからだ、俺がキッチンに下りて行かなきゃ作ってくれるさ。俺の代わりに、お前の晩飯。
 俺はベッドで寝ているお前に、昔話を聞かせてやっているんだから。
「そっか…。それなら安心だね」
 ママだって直ぐに分かってくれるね、ハーレイが下りて行かなかったら。
 昔話で忙しいんだ、って晩御飯の支度をしてくれるよね…。



 普段だったら、「スープを作りに行くとするかな」と、頃合いを見て下りてゆくのがハーレイ。そうでなければ、先に作って「お前のスープが出来てるぞ」と、トレイを手にして現れるか。
 そのハーレイが昔話と言って来たなら、母もその内に気付くだろう。今日は野菜スープの出番は無くて、昔話の日なのだと。ハーレイの仕事は昔話、と。
 野菜スープのシャングリラ風は好きだけれども、今は昔話を聞きたい気分。前の自分の。
「ハーレイ、昔話って…。「俺がいなくてもよく頑張った」って、何のこと?」
 注射だっていうのは分かるけれども、なんでハーレイ…?
「そいつが俺の昔話だ。前のお前の思い出ってヤツだ」
 お前、注射が大嫌いだっただろうが。生まれ変わっても、記憶が戻る前から嫌いだったほどに。
 前のお前は、最初から酷い注射嫌いで、今のお前もそれを引き摺ってる。
 もっとも、シャングリラは、最初は注射が無かったんだが。
 病気になっても、注射を打つってことは無かった。…あの船の初期の頃にはな。
「そういえば…。無かったっけね、いつも薬で」
 注射の代わりに、飲み薬が出てたんだったっけ…。
 前のぼく、そっちも嫌いだったけど…。薬の味も苦手だったんだけど。
 アルタミラの檻で暮らしていた頃、飲み水に何度も薬を入れられてたから…。あの味も嫌い。
 注射よりかはマシだけれども、薬も好きにはなれないよ、ぼく。



 病気になったら、苦手な薬を飲まされた船。それでも、船に注射は無かった。最初の頃は。
 ノルディが医師を始めるまでは、無かった注射。
 船に注射器はあったけれども、医師代わりだったヒルマンは使わなかったから。ヒルマンは皆の怪我や病気を診てはいたものの、「素人だしね」が口癖だった。少し知識があるだけだから、と。
 博識だったから、医者の代わりをしていただけ。それがヒルマン。
 けれど、ノルディの方は違った。仲間の病気や怪我を治そうと、倉庫に薬を貰いに出掛けていたノルディ。備品倉庫の管理をしていたハーレイが、「病気がちなのか」と思ったくらいに。
 そんな具合だから、ノルディはいずれ医師になろうと決めていた。病気も怪我も治せる医師に。
 腕を磨いて、知識を増やして、ノルディは医師への道を進んだ。
 独学の医師で、何の資格も無かったけれども、ハーレイがキャプテンになるよりも前に、皆からドクターと呼ばれたノルディ。病気も怪我も治してくれる、と。



 ハーレイは「覚えてるか?」とノルディの思い出を話してくれた。物資を奪いに行くのなら、と薬品などを注文し始めたノルディ。これがあったら早く治せるとか、これが欲しいとか。
「それでだ、前のお前が医療用具を纏めてドカンと奪って来て…」
 メディカル・ルームの基礎が出来たら、練習用の人形をお前に注文したんだ、ノルディのヤツ。
 注射を練習したいから、と医者とかを養成するステーションで使っていた人形を。
 人間相手じゃ何度も練習出来はしないが、人形だったら練習し放題だしな。
 失敗したって文句は言わんし、痛そうな顔をするわけじゃなし。…腕に打とうが肩に打とうが。
「やってたっけね、注射の練習…。暇が出来たら」
 注射器を持って、人形相手に。この薬品を打つんだったら、此処だ、って。
 本とか映像を見ながら練習していて、見ていて、とても怖かったんだよ。
 だって、注射の練習だもの…。覚えるためにやっていたんだもの。



 前の自分は、あれが怖かったのだった。人形を相手に、注射の練習を繰り返すノルディ。
 覚えたが最後、自分も注射されるだろうと。今は薬で済んでいるけれど、いずれは注射、と。
 だから恐怖を分かって欲しくて、前のハーレイを捕まえた。厨房の仕事が終わった後に、部屋へ帰る所を呼び止めて。「ちょっと来て」と、自分の部屋まで引っ張って行って。
「ねえ、ハーレイ…。聞いて欲しいことがあるんだけれど…」
「どうしたんだ?」
 何か食べたい料理でもあるのか、と訊かれて、「ううん」と横に振った首。
「ノルディの注射…。毎日、練習してるでしょ?」
 ぼくが奪って来た人形で。「今のは痛すぎたかもしれないな」なんて言いながら…。
「ああ、あれか。頼もしいよな、その内に注射一本で治るようになるぞ」
 今だと、薬を何回も飲まなきゃいけない病気が。注射ってヤツはよく効くらしい。
 ノルディが注射を覚えてくれたら、寝込むヤツらも減るってもんだ。
「そうじゃなくって…。ぼくはノルディが怖いんだよ…!」
 今はいいけど、その内に注射を覚えちゃう。そしたら、ぼくにも注射するんだよ。
 ぼくは弱くて直ぐに寝込むから、薬の代わりに注射をしそう。
 でも、ぼくは注射がとても嫌いで…。注射を覚えようとしてるノルディも怖いんだよ…!



 注射は嫌だ、とハーレイに向かって訴えた。本当に怖くてたまらなかったから。注射への恐怖を誰かに聞いて欲しかったから。
「ぼく、アルタミラで酷い目にばかり遭ってたんだよ…! 注射のせいで…!」
 研究者たちに何度も何度も注射されてて、その度に酷い目に遭って…!
 だから注射は怖いんだってば、研究者じゃなくてノルディでも…!
「注射って…。ノルディの注射も怖いって…」
 そういや、俺と初めて出会った頃のお前の腕…。酷かったっけな…。
「注射の痕だらけだったでしょ? どっちの腕も」
 見て分かる分だけで、あれだけの数。…消えかかっていたのが、もっと沢山。
 とっくに消えてしまった分なら、あんな数では済まないんだから…。百とか千とか、数えられる数じゃなかったんだから…!
 ぼくが覚えていない分だって、きっと山ほど。消えちゃった記憶も多い筈だから。
 何度打たれたか分からないよ、と身体を震わせた注射の忌まわしい記憶。実験のために打たれた薬物、それに結果を調べるための採血だって。
 幾度となく針を刺されていたから、恐ろしかった。苦痛の記憶しか無い注射が。
「おいおい…。治療用だってあった筈だぞ、注射」
 嘘みたいに痛みが消えるヤツとか、ぐっすり眠れるヤツだとか。
 どれもが酷い注射ばかりじゃないだろ、マシな気分になれる注射もあっただろうが。
「マシな気分って…。苦しい注射の方ばっかりだよ…!」
 いつだって痛くて、チクッとして。酷い時だと、針が刺さった時からズキズキ。
 そして注射をされた後には、うんと苦しくなるんだよ。身体が辛くて丸くなりたいのに、実験のために手足を固定されてて…。もがくことだって少しも出来ずに、苦しいだけ。
 その間にまた注射されるんだよ、薬の追加をするだとか…。
 ぼくの身体がどうなっているか、調べるために血を抜くだとか…!



 気分が良くなった注射は知らない。そんな注射をされてはいない。ただの一度も。
 もしも打たれていたとしたって、記憶の形になってはいない。激しい苦痛でのたうち回る自分に研究者たちが打っていたって、苦しさしか覚えていないのだから。
 ハーレイが言う「気分がマシになる注射」をされていたって、苦しみもがいた自分は知らない。
 唯一のタイプ・ブルーだった自分は、死なないように治療されたけれども、それだけのこと。
 実験でボロボロになった身体が回復したなら、また実験が待っていたから。
 苦痛ばかりの毎日の中で、あの狭い檻で目覚めた時。腕に注射の痕が幾つあろうが、まるで関係無いのだから。古い痕なのか、新しい痕か、それさえも。また注射されるだけのこと。
 だから知らない、治療用の注射。気分が良くなる注射などは。
「そうなのか…。俺は身体がデカイからなあ、負荷をかける実験の方が多かったし…」
 どの程度まで耐えられるのか、という実験だけに、俺の身体を治さないとな?
 身体が駄目になっちまったなら、そいつを治して次に備える。腕でも、足でも。
 そういう時には注射だったし、俺が打たれた注射は治療用の方が多いんじゃないか?
 お蔭で治ると知っているわけだ、具合が悪い時には注射、と。
 なあに、お前も心配は要らん。
 安心して打って貰うといいと思うぞ、ノルディが注射をマスターしたら。
「でも、怖い…!」
 ぼくは注射が怖いことしか覚えていないし、打って欲しいと思わないんだけど…!
 注射をされるくらいだったら、薬を山ほど飲まされた方がマシなんだけど…!
「今から心配しなくても…。一度打ったら気分も変わるさ」
 確かに針はチクッとするがな、じきに気分が良くなるから。
 そういうモンだと分かってしまえば、お前も注射の良さに気付くぞ。実に役立つと。
 怖いのは最初の一回だけだが、注射をするのはノルディなんだ。研究者たちとは違って仲間だ。
 お前が怖いと思っていたって、アッと言う間に済ませてくれるに決まってる。
 もう終わりか、と目を丸くするぞ、きっと手早いだろうしな。



 怖がらなくても大丈夫さ、とハーレイは肩をポンポンと叩いてくれたのだけれど。直ぐに注射も平気になれる、と繰り返し言ってくれたのだけれど。
(大丈夫だ、って言われても…)
 嫌なものは嫌だ、と思った注射。あんな怖いものは絶対嫌だ、と。
 それからどのくらい経った頃だったか。ある日、体調を崩してしまった。朝、目覚めたら重たい身体。朝食を食べに行く元気も無いから、ハーレイに部屋まで運んで貰った。
 食べ終わった後、ベッドでウトウトしていたら、やって来たノルディ。医療用の鞄を提げて。
 多分、ハーレイがノルディに知らせたのだろう。往診に行ってくれるようにと。いつもと同じに診察と問診、それが済んだら再び開けている鞄。きっと中から薬が出て来る。
(…薬も嫌いだったけど…。飲まないと治らないもんね…)
 量が少ないといいんだけどな、と眺めていたら、「これで治る」とノルディが取り出した注射。一本打ったら熱も下がるし、身体がグンと楽になるから、と。
 そうは言われても、注射は嫌。怖い思いしかしていないのだし、悲鳴を上げた。
「やめてよ、注射は嫌なんだよ!」
 痛くて怖いし、それだけはやめて。お願い、我慢して薬を飲むから…!
「薬よりいいぞ、早く治るから。薬だったら三日はかかるが、注射だったら一日ってトコだ」
 半日も経たずに気分が良くなる。体力も消耗しないで済むし。
 この方がいい、と注射の準備を始めたノルディ。注射器に薬品をセットしてゆく。
「嫌だってば! ぼくはホントに注射が嫌で…!」
 やめて、お願い。薬を少なくしてって言ったりしないから…!
 薬がドッサリでもかまわないから、注射はしないで…!



 涙交じりで叫んでいるのに、ノルディは注射をするつもり。消毒用の綿が入ったケースも出して来たものだから、飲み薬ではとても済みそうにない。
「やめてよ、ホントにお願いだから…! 注射はやめて…!」
 お願いだってば、聞こえないの、ノルディ!?
 誰か助けて、助けて、ハーレイ…!
 声の限りに叫んだ自分。無意識の間に思念波で助けを呼んでいたらしくて、ハーレイが大慌てで飛び込んで来た。部屋の扉を乱暴に開けて、凄い勢いで。
「どうしたんだ、ブルー!?」
 なんだ、何があった!?
「ハーレイ…!」
 助かった、と思った瞬間。これで注射を打たれずに済むと。
 ハーレイの方はノルディの姿に驚いたようで、何事かとキョロキョロしているから。この状況を説明しないと、とノルディの方を指差した。「注射を打つって言うんだよ」と。
 薬でいいと言っているのに、注射をする気だ、と叫んだら事情は分かって貰えたけれど。危機も理解してくれたようだけれども、其処までだった。
 「なるほど」と大きく頷いたハーレイ。「ついに注射か」と、「嫌なのは分かるが…」と。
「しかしだ、それなら打って貰わないとな」
 嫌がっていたんじゃ治らないから。…駄々をこねずに、注射して貰え。
「え? 注射って…」
 前に言ったじゃない、ぼくは注射が怖いんだ、って…!
 酷い目に遭ったことしかないから、注射は怖くて嫌なんだよ…!



 覚えてるでしょ、と懸命に助けを求めているのに、ハーレイの答えはこうだった。
「それを言うなら、俺もお前に言った筈だぞ。一度打ったら気分も変わる、と」
 お前は注射の良さを知らないんだ、これで劇的に治るってことを。
 そのままじゃ一生、損をするってな。注射だったら直ぐに治るのに、無駄に何日も寝込む羽目になって。それだとお前の身体も辛いし、辛い時間も長引いちまう。早く治すのが一番だ。
 やってくれ、ノルディ。こいつの言うことは聞かなくていい。
「そんな…! 酷いよ、ハーレイ!」
 ぼくを助けに来てくれたんでしょ、ぼくが呼んだから…!
 なのにノルディに味方するなんて、ハーレイ、何かを間違えてない…?
「俺は間違えてはいない筈だぞ。お前の病気を治す手伝いをしてやるんだから」
 いいか、我慢して注射して貰うんだ。それがお前の身体のためだし、お前のためだ。
 俺は料理の途中だったのを、放り出して駆け付けて来たんだからな。
 全力で走った俺の気持ちを無駄にするなよ、お前を助けてやるために。
 注射からお前を助け出すのか、病気から助けるかだけの違いだ。同じ助けるなら、病気の方から助け出すのが正しいだろうが。誰に訊いても、そう言うだろうな。
「ハーレイ…!?」
 ぼくは注射から助けて欲しいんだけど…!
 病気の方はどうでもいいから、ぼくを助けて!
 お願い、病気で寝込むくらいは、アルタミラに比べたら何でもないから…!



 実験に比べたら病気なんか…、と心の底から思ったのに。熱も辛さも我慢出来ると考えたのに、一蹴された。「お前の知ってる注射とコレとは違うんだ」と。
 「気分が良くなる注射ってヤツを覚えておけ」と、ベッドに腰を下ろしたハーレイ。前の自分の願いとは逆に、ノルディに協力するために。
 注射から助けてくれるどころか、そのまま押さえ込まれてしまった。強い腕でグイと抱えられた身体。「こっちでいいか」と袖を捲られ、剥き出しにされた細い左腕。
「嫌だよ、やめて!」
 助けてって言っているじゃない!
 お願い、ぼくを放して、ハーレイ…!
「助けに来たと言っただろうが。こいつで病気が治るんだから」
 ノルディ、早いトコやっちまってくれ。下手に暴れたら、余計に熱が出るからな。
 こいつは俺が押さえておくから、とハーレイに掴まれた腕は動かせなくて。暴れようにも、足もハーレイの逞しい足に絡め取られて、奪われてしまった身体の自由。
 「嫌だ」と涙を零しているのに、ノルディは斟酌しなかった。腕を消毒され、血管の位置を指で探られて、ブスリと打たれた恐ろしい注射。グサリと刺さった注射の針。
 痛くて悲鳴を上げたけれども、痛みは多分、チクッとした程度だっただろう。ノルディは何度も練習を重ねて、自信をつけてから注射器を手にした筈だから。
 それでも「痛い」と叫んだのが自分。嫌な思い出しか持たない注射は、恐怖で痛く感じるもの。ほんの僅かな痛みであっても、まるで槍でも刺さったかのように。
 ノルディが「もう終わったぞ」と針を刺した場所にテープを貼ってくれた後も、まだポロポロと零れていた涙。注射は酷く痛かった上に、ハーレイも助けてくれなかった、と。



 とんでもない目に遭った注射だけれども、病気は治った。いつもだったら熱にうかされて過ごす所を、ほんの半日で下がった熱。夕方には楽になっていた身体。
 その代わりに見た、アルタミラの悪夢。ベッドで眠っていた筈なのに、気付けば実験室に居た。白衣の研究者たちに取り巻かれていて、打たれる注射。「どのくらい入れる?」と。
(やめて、助けて…!)
 そう叫ぶ声は声にならなくて、腕に何度も針が刺される。「もっと多く」と、「次の薬だ」と。薬の量を増やされたならば、もっと苦しくなるというのに。もう充分に苦しいのに。
(お願い、やめて…!)
 誰か助けて、と叫んだ声で目が覚めた。実験室でも檻でもなくて、ベッドの上で。
 苦痛は少しも残っていないし、もう消えていた熱っぽさ。だるさも、手を動かすのも辛く感じた身体の重さも。
(…ノルディの注射…)
 あれが効いたんだ、と眺めた腕。袖を捲ったら、腕に貼られているテープ。
(こんなの、貼って貰っていない…)
 アルタミラでは、テープなど貼って貰えなかった。実験動物だったから。患者ではなくて、治療するのも次の実験のためだったから。
 実験動物の肌などは守らなくていい。注射を打つ前に消毒したから、感染症の心配は無い。針を刺した痕から血が流れようが、流れ出した血が肌にこびりつこうが。
 初めて見た、と指先で撫でてみたテープ。もう剥がしてもいい筈だけれど、そのまま腕に残しておいた。「今の注射は治る注射」と、「怖い注射とは全然違う」と。その印のテープ、と。



 そうは思っても、怖かった注射。少しも減らない注射の恐怖。身体は楽になったけれども、怖い気持ちは残ったまま。腕にテープが貼ってあっても、違う注射だと分かってはいても。
 やっぱり駄目だ、と横になっていたら、夕食を運んで来てくれたハーレイ。まだ食堂に来るのは無理だろうから、とトレイに乗せて。
「どうだ、身体は楽になったか? 顔色は良くなったみたいだが」
 熱は下がったか、と額に当てられた手。「よし」とハーレイが浮かべた笑み。下がったな、と。
「そうみたい…。身体もずいぶん楽になったよ」
 朝は手足が重かったけれど、もう大丈夫。だるい感じも無くなったから。
「ほらな、そいつは注射のお蔭だ」
 ノルディが言ってた通りだろう? 半日も経たずに気分が良くなる筈だとな。
 お前は酷く嫌がっていたが、注射は効くんだ。これでお前も分かっただろうが、注射の良さが。
「でも、怖いってば…!」
 怖い気持ちは消えていないよ、注射を打たれる前とおんなじ。今もやっぱり怖いままだよ。
 寝てる間に、アルタミラの夢も見ちゃったし…。夢の中で注射を打たれちゃったし。
 きっとこれからも、注射される夢を見るんだと思う。ノルディに注射をされちゃったら。
 だから嫌だよ、注射だけは。ぼくは飲み薬でいいんだってば…!
「駄目だな、注射の方が早く治るとノルディも言っていたろうが」
 お前の弱い身体のためにも、注射で治すべきだってな。すっかり消耗しちまう前に。
 アルタミラの怖い夢ってヤツはだ、その内に見なくなるってもんだ。
 治る注射だと覚え直したら、嫌な思い出は消えちまうからな。



 ハーレイに諭されたのだけれども、どうしても恐怖が消えなかった注射。痛い針が腕にグサリと刺さる注射器。逃げ出したくてたまらないのに、注射の評判が上がる一方だった船。
 あれのお蔭で早く治ると、病気の時は注射に限ると。注射は怖いものなのに。
「…なんで、みんなは平気なわけ?」
 ぼくはいつでも逃げたくなるのに、みんなは自分で行っちゃうわけ?
 ノルディの所へ、「注射を頼む」って。…薬を飲んで、寝ていればいいと思うのに…。
 みんな変だよ、とハーレイに零したら、「俺と同じってことなんだろうな」と返った返事。
「注射で治ることだってある、と知っているんだ。…アルタミラの檻にいた頃からな」
 もちろん、中には酷い注射を打たれたヤツもいるだろう。お前みたいに。
 しかし、そういう目に遭った後は、ちゃんと治療用のを打って貰って、治ったわけだ。そいつを覚えているってことだな、注射でマシな気分になった、と。
 その時の気分や、楽になった記憶。そいつを今も忘れてないから、注射がいいと考える。何日も苦しい思いをするより、注射で早く治したいと。
 つまりだ、お前ほどの目には遭っていないということだろうな、この船のヤツら。
 治療用の注射を打たれた記憶も残らないほど、実験ばかりの日々を過ごしちゃいなかった。
 苦しい思いはしたんだろうが、お前よりかはマシだったんだ。…俺も含めて、一人残らず。
 それで注射をされても平気で、自分から頼みに行くんだろうな。



 誰の記憶にもあった、治る方の注射。身体が楽になる注射。
 残念なことに、前の自分にだけは無かった記憶。注射は苦痛を運んで来るもので、いつも苦しみ続けただけ。注射の針を刺される度に。薬を身体に入れられる度に。
 アルタミラで打たれた、数え切れない恐ろしい注射。ノルディが打ってくれる注射は、その数に及びはしなかった。
 「楽になった」と何度思っても、忌まわしい記憶は消えないまま。注射の後に貼られるテープを何度眺めても、「今の注射は病気が早く治る注射」と思おうとしても。
 だから、最後の最後まで…。
「お前、抵抗し続けたんだ。注射を打たれるってことになったら」
 ソルジャーになっても、青の間が出来ても、一向に慣れやしなかった。
 注射は嫌いで、それは嫌だと文句ばかりで。
「だって、注射はホントに嫌だったから…。どうしても慣れなかったから…」
 ノルディが治療にやって来る度、「注射とは違う方法がいい」とゴネたソルジャー。それが前の自分。船の仲間たちは誰も知らなくて、ノルディとハーレイが知っていただけ。
「お蔭で、俺はいつでもお前を宥める役だったんだ。…ノルディに呼ばれて」
 他のヤツらに知られないよう、俺に思念を寄越すんだ、あいつ。注射するから、と。
「そうだったっけね…」
 いつもハーレイが急いで来てたよ、ノルディが注射をする時には。
 ホントに忙しかった時は仕方ないから、ぼくだって我慢してたけど…。でも、嫌なものは嫌。
 ハーレイが「これで治るから」って言ってくれなきゃ、アルタミラしか思い出さないし…。
 ぼくの寿命が残り少なくなって来た頃にだって、ハーレイ、いつも来てくれたっけね。
 注射をされることになったら、ぼくの付き添い。



 前の自分にノルディが注射を打とうとする度、付き添うために来ていたハーレイ。流石に身体を押さえ付けることは無かったけれども、「大丈夫ですよ」と何度も掛けてくれた声。これで身体が楽になりますからと、注射が一番効きますからね、と。
「まったく、何回、お前の注射に付き合ったんだか…」
 前のお前は、基本は我慢強かったのに…。注射の針の痛みなんかは、きっと痛みの内にも入っていなかったろうに。
「痛さは関係無かったんだよ、本当の痛さがどのくらいかは…!」
 もっとグッサリ縫い針とかが刺さっていたって、平気だったと思うけど…。消毒して貰って薬を塗らなきゃ、と思いながら針を抜いただろうけど…。
 注射だけはホントに駄目だったんだよ、ノルディに何回注射されても…!
 そのせいで今のぼくも駄目だよ、記憶が戻ったら余計に駄目。
 三百年以上も嫌いなままで生きてたんだし、注射は今も嫌なんだってば…!



 注射なんかは無い世界がいいな、と文句を言ってみたけれど。
 前の自分たちが生きた頃からずいぶん経つのに、どうして今もあるんだろう、と注射の存在する世界に苦情を述べたけれども。
「お前なあ…。今の時代もあるってことはだ、やっぱり注射が一番なんだ」
 なんと言っても、よく効く薬を身体に直接入れられるんだし…。注射が一番効くのが早い。
 ノルディも研究を重ねてはいたが、いつも最後は注射の出番になっただろうが。
 前のお前が文句を言うから、極力、打たないようにしてても。
 それと同じだ、今の時代も。お前がどんなに注射嫌いでも、今日みたいに打つしかないってな。
「酷い…!」
 ぼくはこれからも、ずっと注射を打たれちゃうわけ?
 病気になったら病院に行って、注射されるしかないって言うの…?
「うーむ…。俺の家の近所の医者ってヤツもだ、問答無用で打つタイプだが…」
 早く治すには注射に限る、と飲み薬よりも前に注射なんだが、庇ってはやる。
 お前の注射嫌いってヤツは、俺も充分、知ってるからな。
「よろしくね。ぼくが注射を打たれないように」
 ちゃんと頼んでよ、ぼくは注射が苦手なんだから。…飲み薬の方でお願いします、って。
「そりゃまあ…なあ? 俺の大事な嫁さんなんだし、頼んではやるが…」
 早く治るのがいいんじゃないかと思うがな?
 付き添ってやるから、注射を一本、打って貰うのが一番だろうが。
「分かってるけど…」
 駄目なものは駄目。前のぼくだって、最後まで苦手なままだったでしょ…?



 ハーレイが聞かせてくれた思い出話。ソルジャー・ブルーも嫌っていた注射。
 どうしても打つしかないとなったら、付き添いが呼ばれていたほどに。
 ドクター・ノルディが思念を飛ばして、キャプテン・ハーレイを呼び出したほどに。
 注射で治ると分かっていたって、苦手なままだった前の自分。本当に最後の最後まで。
 今日も注射で治ったけれども、やっぱり注射は嫌だから。早く治ると分かっていたって、注射が嫌いでたまらないから。
(…ハーレイに付き添い、お願いしないと…)
 今度も注射を打たれる時には、ハーレイに側にいて貰おう。
 いつか大きくなったなら。ハーレイと二人で暮らし始めたら、注射に行く時はハーレイと一緒。
 前の自分がそうだったように、温かな声で守って貰おう。
 「大丈夫だから」と、「怖くないから」と。
 これですっかり良くなるからと、「痛くても我慢するんだぞ」と。
 それに今度は、手だって握って貰えるだろう。「俺が一緒だ」と、大きな手で。
 今度は結婚するのだから。ハーレイが手を握ってくれていても、誰も咎めはしないのだから…。




            嫌だった注射・了


※注射が嫌いだった前のブルー。青の間が出来た後になっても、付き添いが必要だったほど。
 生まれ変わっても同じに苦手で、今度も付き添いが要りそうです。注射の時はハーレイ。
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※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




今年も夏休みがやって来ました。柔道部三人組は明日から合宿、それに合わせてジョミー君とサム君が璃慕恩院での修行体験ツアーに送り込まれるのも毎年恒例。ついでに夏休み初日に会長さんの家に集まって、合宿などが終わった後の予定を立てる行事もお約束で。
「海の別荘はもう決まってるしね…」
強引に決められちゃっているしね、とジョミー君の愚痴。マツカ君の海の別荘行きはソルジャーが仕切りまくっています。あの別荘はキャプテンと人前結婚式を挙げた思い出の場所で、以来、結婚記念日に合わせて日程を指定。特別休暇を取ってキャプテンと「ぶるぅ」連れで押し掛けて…。
「仕方がねえよ、結婚記念日には勝てねえからよ…」
御馳走が食えるだけ良しとしようぜ、とサム君が少し前向きに。ソルジャー夫妻の結婚記念日はお祝いと称して豪華な夕食、別荘のシェフが腕を奮ったコース料理が食べられますし…。
「まあねえ…。御馳走だけは間違いないね」
あれは毎年凝ってるし、と会長さんも。海の別荘は毎日の食事が素敵ですけど、お祝い料理はやっぱり別格。それっぽく出来てて、ソルジャー夫妻の名前を冠した料理があったり、デザートだったりとシェフのセンスが光ります。今年は何が出て来るのやら…。
「海の別荘、楽しみにはしているんですけどね…」
プライベートビーチも魅力的ですし、とシロエ君。
「思う存分泳ぎ放題、バーベキューだって出来ますし…。ただ、日程が…」
「俺たちの自由にならんというのが腹立たしいな」
海と山とを入れ替えるとか、とキース君もやや愚痴モード。
「たまには海を先にするのも悪くはないと思うんだが…」
「それ、絶対に無理だから!」
もう永遠に無理なコース、とジョミー君が天井を仰ぎました。
「山の別荘は結婚記念日と無関係だし、海の別荘の日程は仕切られてるし…。ぼくたちに許された自由ってヤツは、山の別荘に行くか、他の所で過ごすかだけだよ」
そのために今日も集まってるし、と言われてみればその通り。マツカ君の山の別荘へお出掛けするか、別の所へ出掛けるか。もっとも、夏休みに入ってからの駆け込みだけに…。
「何処に行くにしても、マツカ頼みになるんだけどねえ…」
ホテルも旅館もとっくに満員、と会長さん。
「民宿とかならいけるだろうけど、マツカの別荘は何処も居心地がいいし」
今年もよろしく、と言われて頷くマツカ君。海の別荘に山の別荘、他にもあちこち別荘だらけ。御曹司だけに宿には不自由しないんですってば…。



そんなこんなで、何処へ行こうかと打ち合わせ中。温泉だとか、山の別荘だとか、意見は色々出てますけれど…。
「夏はやっぱり怪談なんだよ」
ジョミー君が出した意見に、たちまち飛び交う反対意見。
「お前、忘れたのか! 前にマツカの山の別荘で心霊スポットに行っただろうが!」
「そうですよ! 会長が守ってくれなかったら祟られてましたよ、確実に!」
山ほどの霊を背負って帰る羽目に…、とキース君とシロエ君とが突っ込みを。その事件は今でもハッキリ覚えています。山の別荘から近い心霊スポットに出掛けて、霊を引き連れて帰ってしまった私たち。同行しなかった会長さんが全部追い払ってくれましたが…。
「心霊スポットはやめとけよ、ジョミー。お前、ああいうのは見えねえんだしよ」
サム君は霊感バッチリですけど、ジョミー君には皆無な霊感。だからこそ懲りていないというのが現状、怪談だなどと言い出すわけで。
「…心霊スポットに行くんだったら、一人で出掛けろ」
お前も坊主の端くれではある、とキース君。
「法衣くらいは貸してやるから、行って存分に楽しんでこい。あちら様でも大歓迎だ」
「…大歓迎って…。なんで?」
どうしてぼくが歓迎されるわけ、とジョミー君が訊けば。
「坊主の格好をしているからだ。これで助けて貰えるだろう、と有難がられる」
「キースが言ってる通りだねえ…。ついでに、坊主が来たという噂が光の速さで広がるしね」
あちらの世界にも口コミが…、と会長さん。
「便乗しようと集まってくるよ、それは沢山の霊ってヤツが。頑張りたまえ、ジョミー」
「…頑張るって…。何を?」
「成仏して貰えるよう、心をこめてお経をね!」
日頃の行いがものを言うよ、と会長さんは面白そうに。
「基本はお念仏、それから光明真言ってトコ。般若心経も悪くはないねえ、ぼくたちの宗派では使わないけど、霊に喜ばれるお経だしね」
般若心経も出来るだろう、と言われたジョミー君は「無理だってば!」と大慌てで。
「あんな長いの、全く覚えていないから! お念仏しか出来ないから!」
「それが出来れば上等じゃないか。行っておいでよ、キースに法衣を貸して貰って」
「…嫌だってば!」
なんで一人で、と既に逃げ腰。私たちだってお断りですよ、心霊スポット…。



怪談の世界を却下されてしまったジョミー君。同行者がゼロもさることながら、霊にカモられるらしい法衣でのお出掛けは本人もやりたくないそうで。
「…スリル満点だと思ったんだけどなあ、怪談の世界…」
夏はやっぱりスリルが欲しい、と未練たらたら。背筋が凍るような涼しさを求めているようですけど、スリルだったら絶叫マシンでいいのでは?
「えーっ? 今の季節は暑いだけだよ、ああいう場所は!」
人気のヤツには行列なんだし、とジョミー君がブツブツ、それは確かに本当です。
「…行列だろうね、特に水飛沫が飛び散るようなの」
絶叫と本物の涼しさがセット、と会長さん。その手のマシンは長蛇の列で待つわけですから、頭の上から夏の日射しがジリジリと。シールドしてまで並ぶ根性も無いですし…。
「絶叫マシンは嫌だよ、ぼくは! 並んでまでは!」
同じスピードなら並ばずに何処かで楽しめないか、と言われましても、心当たりがありません。とんでもない速さで飛ぶものだったらシャングリラ号がありますが…。
「シャングリラ号か…。あれは夏場は駄目なんだったな」
キース君が会長さんに尋ねると「そう」と答えが。
「夏休みに合わせて大規模な人員交代をするからねえ…。ぼくやハーレイの出番は無いけど、船の中では忙しくしてる。とてもゲストは乗せられないよ」
「…宇宙の旅も良さそうなんだけど…」
現実という壁が立ちはだかるよね、とジョミー君。
「なんだったっけか、銀河鉄道の夜だっけ? ああいう旅なんか素敵っぽいけど」
「おい。ロマンチックな代物ではあるが、銀河鉄道はお浄土行きの列車だぞ」
天国かもしれんが、とキース君が指摘。乗って行ったらあの世行きだ、と。
「…そうだったっけ?」
機械の身体を貰える星に出掛ける話だったような…、とジョミー君は混同していました。昔に流行った銀河鉄道なアニメと漫画の世界の方と。
「お前なあ…。名作くらいは押さえておけよ? しかしだ、銀河鉄道の旅か…」
面白そうなものではある、とキース君も心を惹かれたようです。
「シャングリラ号が飛べるからには、銀河鉄道も夢ではないか…」
「ぼくは夢だと思うけど? そもそもシャングリラ号があるのが奇跡みたいなものだから!」
あれはこの世界の技術じゃない、と会長さん。シャングリラ号の設計図とやら、ソルジャーに貰ったと聞いてますよね…。



「…銀河鉄道、やっぱり無理だよねえ…」
シャングリラ号とは別物だもんね、とジョミー君。
「列車が空を飛んで行くんだし、システムからして別っぽいよね…」
「システム以前に、ぼくたちの技術じゃ作れないから! シャングリラ号が奇跡の産物!」
あれに合わせた他の技術も…、と会長さんがズラズラと挙げたシャトルだの通信システムだの。どれもソルジャーから貰ったらしい技術を応用したもの、自力では開発不可能なもので。
「ブルーが無意識の内にくれた技術があったからこそ、シャングリラ号が存在するんだよ。そのブルーが生きてる世界の方にも銀河鉄道なんかは無さそうだけど?」
「…そういや、一度も聞かねえなあ…」
宇宙を列車が飛んでる話、とサム君が相槌を打ちました。
「あっちの世界でも無理ってことかな、宇宙に列車を走らせるのはよ」
「…無理と言うより、効率とかの方じゃないかな?」
ロマンの世界よりも現実重視、と会長さんが顎に手を当てて。
「同じ乗客を運ぶんだったら、列車よりも断然、宇宙船だよ。大勢乗れるし、設備を充実させるんだったら専門の船を作った方が便利だからねえ…」
この世界でも豪華列車は乗客の数が少ないものだ、と会長さん。
「お風呂までついてる列車となるとね、その分、スペースを取られちゃうしね? 乗客少なめ、料金は高め。非効率的な乗り物なんだよ、輸送手段には向いていないね」
「あくまで観光用ってヤツだな、ああいうのはな」
それは分かる、とキース君が同意。
「目的は旅と言うよりも列車に乗ること、車窓に流れる景色を目当てに乗る代物だ」
「そういうことだね、だからブルーの世界に無いのも納得だよ」
技術的には不可能なのかどうか知らないけれど、と会長さんが言った所へ。
「こんにちはーっ!」
明るい声がリビングに響いて、噂の人が現れました。紫のマントのソルジャーです。
「さっきから覗き見してたんだけど…。そろそろ、ぼくの出番かなあ、って!」
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
お客様だあ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がキッチンに走って、ソルジャーの前に置かれたグレープフルーツとライチのムース。それに冷たいアイスティーも。
「ありがとう! それで、銀河鉄道っていうのは何なんだい?」
説明よろしく、と早速ムースを頬張るソルジャー。銀河鉄道に釣られて湧きましたか?



「うーん…。銀河鉄道はフィクションだけど…」
元ネタは名作と呼ばれる小説で…、と会長さんが解説を始めました。その小説から閃いた人が漫画を描いたのが大ヒットだとか、他にも色々とアニメがあるとか。
「列車が宇宙を飛んで行くからロマンなんだよ、乗りたいって人はいるんだろうねえ…。もしも存在してたらね」
「お浄土行きの銀河鉄道は駄目だぞ、あくまで普通に旅が出来るヤツだ」
キース君が補足し、ソルジャーは「ふうん…」と納得した風で。
「確かにそういう乗り物は無いね、ぼくが生きてる世界には…。ブルーが言ってた通りに非効率的っていうのが大きいかもねえ、それにロマンもそれほど要らない世界だし…」
なにしろ機械が支配しているSD体制な世界だから、とソルジャー、分析。
「ロマンよりかは効率優先、銀河鉄道なんかを作る暇があったら他のタイプの宇宙船だね。人間も荷物もたっぷりと乗せて飛べるのを開発するってば。でも…」
良さそうだねえ…、とソルジャーは銀河鉄道に関心を持った様子で。
「こっちの世界で列車は何度も乗ったけれども、ああいうのが宇宙を飛んで行くんだ?」
「そうなるね。普通の客車だけじゃなくって、寝台列車とか食堂車つきで」
会長さんが言うと、ソルジャーが。
「寝台列車に食堂車かあ…。豪華列車と言っていたのは、そういうヤツかな?」
「食堂車は豪華列車の基本なんだけど…。寝台列車は少し違うね、豪華列車だと一両に一部屋というタイプもあるし」
列車そのものがホテルなのだ、と会長さん。
「一両の客車にベッドからソファまで、ついでにバスルームもついてたりする。一番豪華なタイプだとそれだね、一両で一部屋」
「そんなのがあるんだ? …ちょっぴり乗ってみたいかもねえ…」
楽しそうだ、とソルジャーは瞳を輝かせて。
「夏休みの計画中だっけ? 銀河鉄道に乗ってみないかい?」
「「「は?」」」
ソルジャーの世界にも銀河鉄道は無い筈です。そんな列車に何処で乗れと…?
「もちろん、こっちの世界だよ! 君たちが計画を練っている時期、ぼくは暇でねえ…」
ハーレイは海の別荘行きに備えて大車輪で働きまくるから、という話。
「夜はすっかりお疲れ気味でさ、夫婦の時間を始めるどころか、もうぐっすりで…」
というわけで暇なのだ、と言ってますけど、私たちの世界で銀河鉄道…?



ソルジャー夫妻の結婚記念日に合わせた海の別荘。そこは絶対に休みたいキャプテン、その前にせっせとお仕事三昧。余裕を持たせて早めに頑張り、一番忙しい時期が今かららしく。
「…ちょうど君たちが山の別荘とかに出掛ける頃かな、クライマックスが」
とにかくとても忙しいのだ、とソルジャーは溜息をつきました。
「漢方薬とかを飲ませてやればね、夫婦の時間も楽しめるけど…。お疲れ気味なのを無理させちゃうより、ぼくが他の楽しみを見付ける方が良くないかい?」
「それはまあ…。せっつかれるよりも放っておいて欲しいかもねえ、そんな事情なら」
来たるべき休暇に向かって努力中なんだし、と会長さんが相槌を打つと。
「ほらね、君だってそう思うだろ? だからこっちで銀河鉄道を走らせようかと」
「「「ええっ!?」」」
ソルジャーの世界にも無いような列車、今から開発出来ますか? 何処へ行こうかと相談していた日は十日ほど先、そんな短期間にどうやって?
「開発しなくてもいいんだよ。豪華列車はちゃんとあるんだろ、こっちの世界に」
「あるけれど…。あれは宇宙を飛べる仕様になってないから!」
レールの上を走るものだから、と会長さんが切り返すと。
「そこでサイオンの出番だってば、ぼくを誰だと思っているのさ?」
シャングリラだって丸ごとシールド可能なのだ、とソルジャーは胸を張りました。
「それだけじゃないよ? シールドで包んだシャングリラを飛ばしてやることも出来る。三日や四日くらいは楽勝、一週間でも疲れないね!」
人類軍との戦闘も込みで、と凄い台詞が。シャングリラ号の巨大さは充分承知しています。それを丸ごとシールドした上、一週間でもソルジャーの力で飛ばせると?
「もちろんだってば、人類軍との戦闘も込みで、と言っただろう? つまりはぼくがシャングリラを離れていたってオッケー、ちゃんと飛ばせる!」
ぼくが眠っている間だって、とソルジャーの能力は桁外れでした。会長さんも同じタイプ・ブルーで、持っている力は同じ筈ですが、経験値が違いすぎるのです。
「ぼくの力なら、豪華列車を飛ばすくらいは何でもないよ。…ただし、列車の面倒の方は…」
食堂車だとか、お風呂だとかのフォローは範疇外だ、とソルジャーらしい説明が。
「ぼくは食事を作れやしないし、お風呂の掃除も出来ないし…。そういったことをしてくれる人が誰かいるなら、銀河鉄道!」
「かみお~ん♪ お料理はぼくに任せて!」
食材を乗っけておいてくれたら作るから、と頼もしい言葉。お風呂掃除も任せていいかな?



ソルジャーからの素敵な提案、銀河鉄道で宇宙の旅。食堂車とかお風呂のフォローは出来ないと言われましたが、私たちには家事万能の「そるじゃぁ・ぶるぅ」がついています。食事は作ると手を挙げてくれて、お風呂掃除もやってくれるという話ですが…。
「ダメダメ、お風呂の掃除まではぶるぅがやらなくていいよ」
大変そうだ、と会長さんが割って入りました。
「宇宙を旅するわけだろう? 水道とかの循環システムはどうするつもり?」
まずはその点を説明してくれ、とソルジャーに求める会長さん。限られた量の水しか持っては行けない筈だが、と。
「ああ、その点なら大丈夫! 浄化用の簡易システム、ぼくのシャングリラには幾つもあるしね、普段は使っていないヤツが!」
ちょっとデータを誤魔化してくれば持ち出し可能、とニッコリと。
「飲料用とお風呂と下水は別に処理する方向で! もう本当に簡単なヤツで、チョチョイと連結しておけばね!」
「そうなんだ? だったら銀河鉄道は実現可能なわけか…。食事係はぶるぅがいるから、お風呂とかの掃除係さえいれば」
会長さんが首を捻って、シロエ君が。
「掃除くらいは当番制でやりますよ! 宇宙の旅が出来るんだったら!」
「俺だってやるぜ、風呂でもトイレでもよ!」
サム君が応じて、他の男子も次々と名乗りを上げました。スウェナちゃんと私もですけど、会長さんは「うーん…」と乗り気ではなくて。
「ロマンたっぷりの宇宙の旅だよ、おまけに豪華列車だよ? 料理はぶるぅでかまわないけど、掃除はねえ…。それ専門の人が欲しいよね」
「それは言えるね、贅沢な旅を楽しむならね」
旅仲間が掃除をする図はちょっと…、とソルジャーも。
「非日常の旅に出掛けるからには、とことん贅沢したいよねえ…。掃除は抜きで」
「そうだろう? だからぶるぅは却下なんだよ、掃除好きでも」
「でもさ…。いるのかい、ぶるぅの他に掃除が出来るような人材」
ぼくの存在自体が極秘なんじゃあ…、と自分の顔を指差すソルジャー。
「それに宇宙の旅なんだよ? いろんな意味で、ここの連中の他にはいないと思うけど?」
掃除係をしてくれる人、と尤もな意見。専門の掃除係を雇ってくれるなら嬉しいですけど、使えそうな人がいないんじゃあ…?



豪華列車で銀河鉄道の旅をするには必要らしい、お掃除係。なんだかんだで当番制になるか、「そるじゃぁ・ぶるぅ」に任せるしかないと思うんですけど、会長さんは。
「みんな揃って忘れてるだろう、約一名!」
「「「約一名?」」」
「そう! その名もシャングリラ学園教頭、ウィリアム・ハーレイ! またの名をキャプテン・ハーレイってね!」
高らかに言い放たれた名前にゲッと仰け反る私たち。教頭先生は全く頭にありませんでした。言われてみれば、ソルジャーの存在を知っている上に宇宙も御存知。でも…。
「あんた、教頭先生を掃除係にするつもりなのか!?」
酷すぎないか、とキース君が噛み付き、シロエ君も。
「ぼくもそう思います、それくらいだったら当番制にしておきますよ」
申し訳なさすぎて…、と言い終わらない内にキラリと光った青いサイオン。会長さんの指がパチンと鳴らされ、教頭先生がリビングに立っておられました。ポカンとした顔で。
「やあ、こんにちは。よく来てくれたね」
「………。何か用なのか?」
会長さんの声で我に返った教頭先生、流石の飲み込みの早さです。用も無いのに会長さんが呼ぶわけがなくて、頼み事を聞けばポイントが高いことも承知というわけで…。
「話が早くて助かるよ。実は掃除係を募集中でさ」
「掃除係?」
この家のか、とリビングを見回す教頭先生。広いですけど、お掃除大好き「そるじゃぁ・ぶるぅ」がキッチリ掃除をしていますから、塵一つ落ちていない状態です。他のお部屋も何処もピカピカ、代わりに掃除をするとなったら大変そうではありますが…。お掃除係も要りそうですが…。
「あ、違う、違う。この家じゃなくて…。列車なんだけど」
「…列車?」
なんだそれは、と教頭先生、怪訝そう。それはそうでしょう、列車の掃除は日常生活で登場しそうにありません。そういうバイトをするならともかく。
「列車だってば、豪華列車! それの客車の掃除係を探してるんだよ、お風呂掃除とか!」
「豪華列車…? そういうものなら、ちゃんと係がいるだろう?」
「普通ならね。でもねえ、貸し切りで走る予定でさ…。その上、行き先は宇宙なんだよ」
文字通りの銀河鉄道の旅! と会長さんは天井を指して「宇宙」と強調。教頭先生、一発で理解出来ますか、それ…?



「銀河鉄道?」
実在したのか、と教頭先生の返事は斜め上でした。なまじシャングリラ号のキャプテンなだけに、宇宙は身近な存在です。銀河鉄道と言われて実在するのだと考える辺りがカッ飛び過ぎで。
「…いくらなんでも走っていないよ、現実にはね」
ブルーの世界にも無いそうだ、と会長さんはソルジャーの方へ視線を投げると。
「でもね、銀河鉄道の話をしてたら、ブルーが遊びに来ちゃったわけ。そしてブルーは乗り気なんだよ、銀河鉄道で旅をしようと!」
「そういうこと! 豪華列車をちょっと借りてさ、ぼくがシールドして飛ばす! 楽勝で宇宙を飛べるんだけれど、食堂車の係と掃除係が必要でねえ…」
食堂車の方は見付かったんだ、とソルジャーが言えば「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「ぼくが食堂車でお料理するの! とっても楽しみー!」
「ふうむ…。それで私が掃除係というわけか…」
なるほど、と教頭先生は腕組みをして。
「掃除係が見付かりさえすれば、銀河鉄道が宇宙を飛べるわけだな?」
「そう。…シロエたちは当番制でやると言ってくれたんだけどね、それじゃ豪華列車で旅をしている気分が出ない。専属の掃除係を雇ってなんぼなんだよ」
給料はビタ一文払うつもりはないけれど、と会長さんは強烈な台詞を口にしました。
「タダ働きでお願いしたいな、ぼくと一緒に宇宙の旅だよ? ぼくが使ったバスルームとかも掃除出来るし、悪い話じゃなさそうだけど?」
「…現物支給というわけか…」
「普段は絶対、掃除出来ない美味しい場所をね! こんなチャンスはそうそう無いって!」
この家のバスルームを掃除して欲しいとは思わないし、と会長さん。
「銀河鉄道の旅だからこそ、君にバスルームの掃除を任せる。…どう? この話、受ける?」
「もちろんだ!」
チャンスを逃してなるものか、と教頭先生は食い付きました。タダ働きの掃除係に。
「それじゃ、商談成立ってことで…。君のスケジュールは分かってるんだよ、柔道部の合宿が終わった後は暇な筈だね?」
「うむ。今の所、これという予定は無いが…」
「じゃあ、空けておいて。銀河鉄道の旅はこの辺りだから」
いいね、とカレンダーを指差し、会長さんは教頭先生を家へと送り返しました。瞬間移動でほんの一瞬、「掃除の手引きは後で届けるから」と。



かくして決まった、夏休みの銀河鉄道の旅。豪華列車はマツカ君がアッと言う間に調達を。他の国で走っているヤツですけど、そこは御曹司ならではです。運航スケジュールの空いているヤツを押さえてしまって、その言い訳が「ロケに使う」というもので。
「ロケかあ…。それなら消えても誰も行方を気にしないよね」
ジョミー君が言いましたけれど、ソルジャーが「違うね」と指を左右にチッチッと。
「マツカにロケだと言わせたのはさ、列車を消すためじゃないんだな。ロケ中につき立ち入り禁止とやっておく方が簡単なんだよ」
警備員とかの幻影付きで、とソルジャーはニコリ。
「だけど本物の列車はその頃、宇宙を走っているってね! ぼくが瞬間移動で借りちゃった上に、君たちも乗せて銀河鉄道!」
さあ忙しくなりそうだ、と言いつつも楽しげにしているソルジャー。
「君たちは明日から合宿だっけ? その間に準備しておくからさ」
「かみお~ん♪ 食材の買い出しとかも?」
「そうだね、そっちはぶるぅに任せようかな、ぼくは目利きが出来ないしね!」
列車の方を担当するよ、と言ってますけど、浄化システムの連結とかも?
「ああ、それねえ…。掃除係が見付かったんだし、掃除ついでにやって貰おうかと」
「「「はあ?」」」
掃除のついでに付けられるんですか、ソルジャーの世界の浄化システムとやらいうものは?
「え、そうでなくっちゃ意味が無いだろ、簡易システムだと言った筈だよ。万一の時には女子供でも扱えるようにしておかないと…。専門家がいるとは限らないしさ」
戦闘とかの非常時でなくても全員が寝込む可能性はある、と話すソルジャー。なんでもシャングリラの中で風邪が流行った時、ブリッジ要員が端から寝込んで航行不能に陥りそうになったことがあるそうです。専門家にばかり頼っていたら危なっかしいのがソルジャーの世界らしくって。
「そういうわけでね、浄化システムは君たちでも取り付け可能なんだよ。でもねえ、せっかく掃除係がいるんだからさ…。そっちにお任せしないとね!」
ぼくは列車の仕様の確認、とソルジャーはマツカ君が執事さんに頼んで送って貰った豪華列車の資料を見ながら。
「んーと、重さは大したこと無し! 全体にシールドをかけて運んで、酸素とかの方はサイオンで何とでもなるし…。運ぶ練習だけしておこうかな、何回かね」
もう借りてある列車だし、という言葉通り、只今、マツカ君のお父さんの名前で借り上げ中。何度か宇宙を走るんでしょうね、本番までに…。



翌日、男子たちは合宿に、修行に出発しました。例年だったらフィシスさんも一緒にプールにお茶にと過ごす私たちですが、今年は一味違います。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が豪華列車の食堂車のメニューをあれこれ取り寄せてみては検討中で。
「んとんと…。三泊四日で走るわけでしょ、朝御飯とお昼と、晩御飯と…」
それからおやつ、と組み立ててみては「どう?」と意見を訊かれます。どの案もとても魅力的だけに、決め難いのが困りもの。最終的には男子の帰還待ちかな、ということに。食材の買い出しは丸一日もあれば充分に出来るそうですし…。
メニュー決めの合間には試食タイムもあり、そういう時にはソルジャー登場。
「うん、美味しい! これは採用して欲しいなあ、何処かで是非!」
「オッケー! ブルーが走らせてくれるんだもんね、銀河鉄道!」
運転手さんの意見は一番に採用しなくっちゃあ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がノートにソルジャーのお気に入りを書き付け、メイン料理やお菓子が幾つか決定ですけど。
「あ、そうだ。…運転手だけど…」
ぼくってわけでもないんだよね、とソルジャーの口から不思議な台詞が。ソルジャーが走らせる銀河鉄道、運転手さんはソルジャーなんじゃあ…?
「基本的にはそうなるけどさ…。勝手に運転するのもアリだよ、シールドしているから衝突の危険が無いからね」
「「「え?」」」
それじゃ、スウェナちゃんとか私が運転したっていいわけですか? 会長さんとか「そるじゃぁ・ぶるぅ」が運転しても…?
「もちろんだよ! キースたちが喜んでやりそうだよね」
列車の運転は人気らしいじゃないか、とソルジャーは知識を増やしていました。なんでもエロドクターとランチしたとか、ディナーだとか。銀河鉄道の旅だと披露したそうで…。
「将来の夢は列車の運転手、って子供が多いと聞いたよ。いい大人でもさ、走らせてみたい人がけっこういるって…」
「まあね。乗りたい人とか、写真を撮りたい人も多いのが鉄道ってヤツで…。それを自分で運転となれば、喜ぶ人は少なくないよ。きっとジョミーたちも…。ん…?」
若干一名、喜ばないのがいるような、と会長さん。それって誰…?
「いや、ちょっと…。行ってみないと分からないかな」
意味深な台詞にソルジャーが「うん」と。二人揃ってニヤついてますが、運転手をやりたくなさそうな人って、誰なんでしょう…?



列車の運転は憧れる人が多い代物、スウェナちゃんと私でさえも「やってみよう」と思いました。なのに喜びそうにない人、それが誰なのか謎のままに男子の御帰還で。
「「「運転手!?」」」
やっていいのか、と声を揃えたジョミー君たち。合宿とかの慰労会の席でのことです。焼き肉パーティーにはソルジャーも来ていて、「どうぞご自由に」と極上の笑顔。
「ぼくのシールドは完璧だからね、小惑星帯に突っ込んで行っても大丈夫!」
フルスピードで楽しんでくれ、と言われた男子は大歓声です。ソルジャーが衛星軌道上まで列車を一気に瞬間移動で、そこから先は宇宙の旅。まずは第一宇宙速度を突破し、ガンガンとスピードを上げてゆくとかで。
「絶叫マシンも真っ青の速さ! それを宇宙で!」
「かみお~ん♪ ぼくも運転するーっ!」
乗り物大好き! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が飛び跳ねた瞬間、ハッと頭に閃きました。絶叫マシンが苦手な人がいた筈です。速い乗り物が苦手な人が。スウェナちゃんも気付いたらしくて、私たちは顔を見合わせて。
「「…教頭先生…?」」
「なになに、教頭先生がどうかしたわけ?」
ジョミー君の問いを無視して、ソルジャーと会長さんが同時に。
「「それで正解!」」
「「「は?」」」
キョトンとしている男子たちを他所に、会長さんとソルジャーは。
「ハーレイ、キャプテンのくせに速い乗り物が駄目だからねえ…。銀河鉄道もねえ…」
「無理だろうねえ、シャングリラと違って運転席から宇宙が丸見えだしね? 強烈な速さで飛んでいるんだと分かるわけだし、腰を抜かすか、気絶だか…」
掃除係がお似合いなのだ、と笑うソルジャー。会長さんもウキウキとして。
「いいねえ、ハーレイのヘタレっぷりを横目に見ながら銀河鉄道の旅! 男だったら運転席に座ってなんぼのロマンだけどねえ、ハーレイには無理!」
「回れ右して逃げ出す姿が目に見えるようだよ、そしてせっせと掃除だってば」
惚れた人を乗せた列車を走らせる根性も無いであろう、とソルジャー、溜息。
「ブルーが使ったお風呂の掃除で終わりなんだよ、カッコよく運転する代わりにね。なんともヘタレで歯痒いけれども、それも面白くはあるんだ、うん」
今回の旅は笑えればいい、とソルジャーはヘタレを容認です。教頭先生、いいトコ無しかあ…。



二日後の朝、私たちは会長さんのマンションに集合しました。掃除係の教頭先生もです。全員が旅の荷物持参で、間もなくソルジャーがパッと姿を現して。
「準備オッケー! ブルーとぶるぅもよろしく頼むよ!」
「かみお~ん♪ しゅっぱぁ~つ!」
青いサイオン、三人前。身体がフワリと浮いたかと思うと、豪華列車の中にいました。ソファとかが置かれた広い車両に。窓の向こうは地面が見えますが…。ええっ!?
「「「うわあ…!」」」
凄い、と歓声を上げる男子たち。一瞬の内に窓の外は宇宙、駆け寄ってみれば青い地球が。
「はい、移動完了! お疲れ様~!」
後はひたすら走るだけ、とソルジャーがパチンとウインクして。
「おっと、その前に…。掃除係には大事な仕事があるんだよねえ。生活用水の確保は大切、簡易用の浄化システム、連結しておいてよね」
「は、はいっ!」
行って来ます、とアタフタと駆け出して行った教頭先生。ソルジャーから予め渡されていた説明書で覚えた手順を実行したらしく、間もなく私たちの所に戻って来て。
「取り付けて来ました、作動するかどうかも確認済みです」
「ご苦労様。それじゃ、今日から三泊四日は掃除係ということで…。あ、気が向いたら運転席にも座ってくれていいからね」
「運転席…?」
「そう、運転席! 列車の運転はロマンだと聞いたよ、ブルーを乗せて銀河鉄道!」
いつでもどうぞ、とソルジャーに言われた教頭先生、心が動いた様子です。
「運転ですか…。この列車を?」
「そうだよ、一番手でやってみるかい? 君もキャプテン・ハーレイだしね」
「是非!」
やらせて下さい、と先頭車両に向かう教頭先生の後ろにゾロゾロ私たち。野次馬根性に決まっています。教頭先生が入ってゆかれた運転席の後ろはガラス張り。見学用のスペース充分、覗き込んでみれば列車はまだ停車中で、ソルジャーが。
「出発進行、と言ってくれれば動くようにするよ?」
「お願いします! 出発進行!」
教頭先生、「シャングリラ、発進!」を思わせる口調で仰いましたが、次の瞬間、ギャーッ! と野太い悲鳴が。凄い勢いで走り出しましたよ、銀河鉄道…。



ソルジャーが言うには、第一宇宙速度を突破しただけ。宇宙船としてはまだまだ序の口、もっと速度を上げないことには三泊四日の旅を満喫出来ないそうで。
「…そこのヘタレを放り出してね、誰か代わりに運転したいならお好きにどうぞ」
ソルジャーの言葉に「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「ぼく、やっていい? えとえと、ハーレイを放り出して、と…」
よいしょ! と小さな身体にサイオンも加えて、腰を抜かした教頭先生を運転席の外へ放り投げると運転開始。窓の向こうは明らかにスピードが上がっていると分かる景色で。
「次はぼくだよ!」
「ジョミー先輩、そこはジャンケンです!」
男子が賑やかに次の運転手を決めつつある中、教頭先生の腰は抜けたまま。本当にこれがシャングリラ号のキャプテンなのか、と疑いの眼差しで見ていたら…。
「そ、そのぅ…。舵輪と列車は何かと勝手が違ってだな…」
始まりました、苦しい言い訳。会長さんがクッと喉を鳴らして。
「どうだかねえ…。速い乗り物は苦手だっけね、シャングリラ号だとスクリーン越しにしか見えないからねえ、外の景色は」
「…そ、そうだが…」
「ところが列車は違うってね! 窓の向こうはそのまま宇宙で、スピード実感! 君が悲鳴を上げた時には、第一宇宙速度にも達していなかったけどね?」
このヘタレが、と会長さんは腰を抜かしている教頭先生のお尻をゲシッと蹴って。
「ぼくが乗ってる列車も運転出来ないとはねえ…。いつかはぼくと二人でドライブ、と夢を見ていたと思うんだけれど、こんなヘタレじゃ、とてもとても…」
ぼくの命は預けられない、と冷たい一言。
「君は掃除が似合いなんだよ、今日から四日間、下働き! 食事も君だけ別にするから!」
「…別なのか?」
「当たり前だよ、運転手だったらキャプテンと同じ立場だと言えなくもないし、豪華客船ならキャプテンもパーティーに出たりするけど、掃除係じゃあ…」
どうしようもないね、と教頭先生のお尻に二発目の蹴りが。
「ほら、腰が立つようになったら、早速、掃除! ぶるぅが昼食の支度をするから!」
「…もう掃除なのか?」
「キッチンの掃除も仕事の内だよ!」
ぶるぅの指示で働きたまえ、と会長さん。教頭先生、下働きの旅が四日間ですか…。



運転が出来なかったばかりに掃除係と化してしまった教頭先生。心のオアシスは会長さんが使ったお風呂の掃除だけ。鼻歌交じりに今日もお出掛けなんですけれど。
「ブルーのお風呂さあ…。あれってさあ…」
ぶるぅが掃除してるって? とジョミー君。シロエ君が「ええ」と頷いて。
「御存知ないのは教頭先生だけですよ。ぶるぅが掃除して、その後、シャワーで水撒きを…」
「実に悪辣な話だな…」
偽装工作までやらせているとは、と頭を振っているキース君。けれど会長さんは涼しい顔で。
「別にいいだろ、本人がそれで幸せならね」
「そうだよ、今回、ハーレイにはそれくらいしか報われる場所が無いからねえ…」
二度と運転はしたくないそうだし…、とソルジャーからもフォローは無し。これってやっぱり、自分がキャプテンにかまって貰えない時期だからですか?
「えっ? まあ、それも大きい理由だねえ…。ハーレイとブルーをくっつけてやったら、ぼくが欲求不満になるし! この時期だけは!」
大いにヘタレていて貰おう、とソルジャーにも見捨てられてしまった教頭先生、今日も豪華列車のお掃除係。食堂車で美味しい食事どころか、食生活も…。
「まかないを食べてらっしゃるそうですよ」
今朝の食事がこんな具合で…、とシロエ君、すっかり事情通。銀河鉄道の旅は乗っているだけ、たまに運転するだけですから、暇は山ほどあるのだそうで。
「ここだけの話、お部屋もですね…。一番後ろの貨物の中に簡易ベッドが」
「「「うわー…」」」
掃除用具入れが置いてある車両に小さな個室がついてましたし、そこだとばかり思っていました。簡易ベッドで貨物の中って…。
「ぼくがそっちに左遷したんだよ、運転も出来ないヘタレだからね!」
個室なんかは必要無いのだ、と会長さんがバッサリと。教頭先生用だった狭い個室の出番はトイレとシャワーの時だけだとか。
「それだけは流石に使わせないとね、客車のは使わせられないし」
「うんうん、掃除係は掃除係らしく! 豪華列車の設備は掃除係のものじゃないから!」
銀河鉄道の旅のルールはぼくとブルーで決めるのだ、とソルジャーも楽しんでいるようです。欲求不満になりそうだから、と教頭先生を酷い扱い、でもでも、この旅は素敵ですから文句なんかは言いません。教頭先生、旅の終わりまで、頑張って耐えて下さいね~!




             銀河鉄道の夏・了


※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 豪華列車で宇宙の旅という、それは素晴らしい夏休み。銀河鉄道をソルジャーが実現。
 けれど教頭先生だけは、掃除係な上に、運転手さえも出来ない始末。気の毒すぎるかも…。
 さて、シャングリラ学園、11月8日に番外編の連載開始から12周年を迎えました。
 干支が一回りしてくる歳月、書き続けたとは、本人が一番ビックリです。
 そして去年の今頃は想像もしなかった、まさかのコロナ禍。13年までいければ御の字かも。
 次回は 「第3月曜」 12月21日の更新となります、よろしくです~! 

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、11月は紅葉シーズン、マツカ君の別荘が紅葉見物にピッタリ。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv













(口髭用のカップ…?)
 変な物がある、とブルーが覗き込んだ新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 口髭のある人が使った専用のカップなのだと書かれていた。カラー写真を何枚もつけて。人間が地球しか知らなかった時代に、そういうカップが誕生した、と。
(ムスタッシュカップ…)
 それが口髭用のカップの名前。ムスタッシュはそのまま、口髭の意味。名前からして口髭専用、遠い昔の地球で生まれた。千八百六十年代、いわゆる十九世紀。
 イギリスという国が栄えた時代で、其処は紅茶が好まれた国。その国で暮らす紳士のためにと、発明されたのがムスタッシュカップ。
(口髭を濡らさずに飲めるティーカップ…)
 ふうん、と読んでいった記事。発明した人はハービー・アダムス、今も名前が伝わるほどだし、相当に流行ったのだろう。口髭用だというカップは。
(髭マークつき…)
 このタイプだったら、ムスタッシュカップを知らない人でも口髭用だと分かるかもね、と眺めた写真。カップの内側に橋を渡すように、最初からついている口髭置き。
 カップと同じ素材で出来ているそれは、色々なデザインがあるのだけれど。形も模様もカップによって違うけれども、ユニークなのが髭の絵つき。「ここに乗せて下さい」という印。
(口髭、紅茶に入りそうだものね…)
 カップの紅茶を飲もうとしたら、中にポチャンと。口髭ガードだという専用の橋が無かったら。その上に髭を置かなかったら。



 大人気だったというムスタッシュカップ。それを反映して、ティーカップからマグカップまで、色々なカップについている橋。口髭を乗っけておくための。
 面白いね、と読み進めたら、ムスタッシュカップが生まれた理由。口髭を乗せる橋が歓迎された理由は、紅茶で濡れるからではなくて…。
(髭の形が崩れちゃうんだ…)
 紅茶の湯気で溶けてしまうというワックス。紳士たちが髭を固めておくのに使ったもの。当時の紳士は髭好きが多くて、大流行だったのがピンと捻り上げるタイプ。
 これがそうです、と載っている古い写真の人物の髭が…。
(……ゼル……)
 そうとしか見えない、立派な口髭。遠く遥かな時の彼方で、ゼルが生やしていた口髭。カイゼル髭と呼ぶらしい。写真の人物や、ゼルの口髭は。
(この形の髭が大流行…)
 大勢の人がゼルのような髭を蓄えた時代。そうは言っても、自慢の髭が崩れないよう、カップの形を改造だなんて、凄すぎる。橋を一本渡すだけでも、ひと手間かかる製造過程。
 発明した人も凄いけれども、イギリス紳士の紅茶への情熱も、きっと凄かったのだろう。専用のカップを用意してまで、飲みたかった紅茶。
(口髭があるお客さんが来たら、出してたのかな…?)
 しげしげと見詰めたカップの写真。カップ本体の形も模様も実に様々、口髭用の橋が無ければ、普通のカップになりそうなもの。繊細な花柄のカップも沢山。
 髭の種類も幾つもあったと書かれているけれど、そちらがメインの記事ではないから。
(ゼルの髭しか載っていないや…)
 口髭を生やした人の写真は、カイゼル髭の一枚だけ。
 きっと口髭の代表選手、と納得した。ヒルマンだったら頬髭もあったし、口髭よりも頬髭の方が目立っていたという記憶。ムスタッシュカップの記事に添えるには、不向きなのだろう。
(だって、口髭用だしね?)
 口髭がトレードマークの人でなくっちゃ、と考えた。ヒルマンよりかはゼルの方、と。



 おかしなカップがあったみたい、と何度も眺めたムスタッシュカップ。口髭がある人の御用達。必要は発明の母だけれども、何も此処までしなくても、と。
 なんとも傑作なカップだった、と部屋に帰っても忘れられない。口髭を乗せる橋つきのカップ。とはいえ、自分には全く関係ない話。今の自分はチビの子供だし、前の自分も…。
(髭なんか生えなかったから…)
 滑らかだった前の自分の顔。口髭も顎髭も生えはしなくて、産毛だけ。口髭が無ければ、出番が無いのがムスタッシュカップ。欲しいと思ったことさえも無い。髭も、口髭専用カップも。
(それに、髭…)
 前のハーレイも生やしていなかった。二人で何度もお茶を飲んだけれど、ハーレイも口髭専用のカップに用は無いから、青の間には要らないムスタッシュカップ。
(そういうカップは無かったけれど、髭の人だって…)
 専用カップが必要なほどの人数じゃないよ、と思い浮かべたシャングリラ。前の自分が暮らしていた船。あのシャングリラで髭を生やしていた人といえば…。
(ゼルとヒルマン…)
 他にいたっけ、と首を傾げたけれども、どうにも思い出せない顔。船の仲間は覚えているのに。生まれ変わった今になっても、全員の名前を言えるほどなのに。
(だけど、髭の人…)
 ゼルとヒルマン、あの二人しか浮かんで来ない。前の自分が知っている顔は二つだけ。
 もっとも、アルテメシアを脱出した後、誰か生やしたかもしれないけれど。赤いナスカに降りた頃には、他にいたかもしれないけれど。



 前の自分の記憶にある髭は、ゼルとヒルマンの二人だけ。彼らしか生やしていなかった髭。他に一人もいなかったのは、年齢のせいもあるかもしれない。
(若いと、あんまり似合わないものね…)
 本当の年齢はともかくとして、外見は若かった仲間たち。アルタミラからの脱出組も。若い間に年を取るのをやめてしまったから、船の仲間は青年ばかり。
(んーと…)
 この顔も駄目であの顔も駄目、と色々な仲間の顔に描いてみた髭。頭の中で。誰の顔にも、髭は似合わなかったから…。
(長老並みに年を取らないと…)
 髭を生やしても駄目なんだよ、と考えた。きっと似合いはしないのだと。
 けれど、その辺の事情は聞いてはいない。ゼルとヒルマン、あの二人が髭を生やしていた理由。前のハーレイからは聞かなかったし、多分、ゼルたちからだって。
 今の自分が忘れたのではなかったら。記憶から消えたわけではないなら。
(聞いてないけど、ゼルはカイゼル髭…)
 そういう名前の髭だったんだね、と今の自分が仕入れた知識。さっき新聞で読んだカイゼル髭。それを固めるワックスが湯気で溶けないようにと、発明されたのがムスタッシュカップ。
(カイゼルカップって名前じゃないから…)
 他にも口髭の名前は幾つもあったのだろう。大流行したのがカイゼル髭だっただけで。
(あの頃だったら、ゼルは流行の最先端だよ)
 だってカイゼル髭なんだもの、とゼルのピンとした口髭を思った。カイゼル髭、と。
(…ゼルがカイゼル髭…)
 髭の名前にゼルの名前が入ってるよ、とクスッと笑ったのだけれども…。



 クイと心に引っ掛かったもの。ゼルが生やしていたカイゼル髭。
(ちょっと待って…!)
 それだ、と蘇って来た記憶。遠く遥かな時の彼方で、ゼルの顔にあったカイゼル髭。ゼルの顔にあれが生まれた理由。ゼルだからカイゼル髭だっけ、と。
(最初は長老のみんなに共通の話で…)
 前の自分を補佐してくれた、長老たち。それにキャプテンだったハーレイ。
 仲間たちが外見の年齢を止めてゆく中、彼らはそのまま年を取り続けた。前の自分は、とっくに年を取るのを止めていたのに。
「あたしたちには、威厳ってヤツが必要なんだよ。なにしろ、あんたが若いんだから」
 周りがしっかりしていないとね、と年を重ねていったブラウたち。外見から自然に生まれてくる重み、それも役立つ筈なのだから、と。
 そうして時が流れてゆく中、髭を伸ばすと言い出したゼル。長老たちが集まった席で。
「顎髭がいいと思うんじゃがな。こんな具合に」
 こうじゃ、とゼルが顎の下に手で描いてみせたイメージ。十センチくらいはあっただろうか。
「私も伸ばそうと思っていてね。髭は貫禄がありそうだから」
 やってみようと検討中だ、とヒルマンも髭を伸ばすつもりで、たちまち顔を顰めたエラ。
「髭だなんて…。それも二人で伸ばすだなんて。あなたたちの立場が分かっていますか?」
 無精髭という言葉があるほどですから、髭は賛成できません。
 貫禄を出そうと言うのだったら、年齢を重ねてゆくだけでいいと思いますが?
「無精髭とは違うわい! 髭は威厳があるものなんじゃ」
 きちんと手入れをしておれば問題ないじゃろうが。
 わしの顔じゃぞ、わしだって無精髭は御免じゃ。この顔に似合う髭がいいんじゃ…!



 どういう風に伸ばしてゆくかはヒルマンと二人で考えるわい、と言い切ったゼル。伸ばす過程で文句が出て来ないように気を付ける、と。
 髭を伸ばしたかった二人は、エラの小言を言葉巧みに躱し続けて…。
「なんだい、顎髭じゃないのかい?」
 顎はツルリとしてるじゃないか、とブラウが見詰めたゼルの口髭。顔の両側にピンと張り出して立派だけれども、最初に言っていた顎髭が無いから。綺麗に剃られたツルツルの顎。
「わしは考えを変えたんじゃ。これでいいんじゃ、顎髭は要らん」
 ピッタリの髭が見付かったからな、わしはこれからコレにするんじゃ。
 得々とゼルが髭を引っ張るから、前の自分も興味を引かれた。ピッタリの髭とは何だろう、と。
「ピッタリの髭って…。その髭なのかい?」
「そうじゃ、カイゼル髭と言うんじゃ!」
 似合うじゃろうが、と言われたものの、カイゼル髭。耳に馴染みが無い名前。
「ふうん…? ゼルが生やすから、カイゼルなのかい?」
 自分の名前の前にカイとつけるのかな、そのタイプの口髭を生やす時には?
「カイゼルと言ったら、カイザーじゃが?」
 そのままの意味じゃな。読み方だったか、発音だったか、それが違うというだけなんじゃ。
「カイザーって…」
 ゼルの髭という意味ではなくて、カイザーだって…?



 頭を掠めた嫌な思い出。カイザーの方なら、前の自分も知っていた。リーダーからソルジャーに変わった切っ掛け、皆が投票で決めた尊称。候補の中にあったカイザー。
 やたら偉そうな代物だったから、忘れられずに覚えていた。カイザーという言葉の意味を。
「カイゼルの意味は、皇帝なのかい…?」
 皇帝がカイザーだったと思う、と確かめてみたら。
「そうじゃ! 皇帝の髭じゃから、カイゼル髭と言うんじゃ、これは」
 ゼルの話では、遥かな昔の地球にあった国。ドイツ帝国のヴィルヘルム二世、独特の形の口髭を誇っていた皇帝。彼の名にちなんで、同じタイプの口髭にカイゼル髭と名前が付いたらしい。
「皇帝が生やしていた髭だって?」
 前の自分も驚いたけれど、ブラウもポカンと口を開けていた。「そりゃ偉そうだ」と。
「皇帝の髭じゃぞ? 由緒正しい髭というヤツじゃ、カイゼル髭は」
 上手い具合にわしの名前も入っておるしな、ちゃんと「ゼル」とな。
 ソルジャーも勘違いしたほどなんじゃし、これこそがわしに似合いの髭じゃ。顎髭なんぞより、ずっといいわい。カイゼル髭の方が。
 素晴らしいじゃろ、と自慢するゼルの姿に、ブラウが「ヒルマン髭は?」と尋ねた。ヒルマンの名前が入っているとか、そういった髭もあるのかい、と。
「いや、私のは…。残念ながら…」
 ゼルのようにはいかなかったね、と苦笑するヒルマンは口髭に頬髭。如何にも由緒がありそうな形に見えたけれども、ヒルマンの名前を織り込んだ髭は無かったらしい。
 カイゼル髭が流行った時代は、髭も色々あったのに。髭の紳士が多かったのに。



 ヒルマン曰く、無精髭という言葉もあるのが髭だけれども。その髭が紳士のお洒落だった時代、そういう時代があったという。髭を伸ばしていた紳士たち。
「古き良き時代というヤツだね。伸ばすと言ったら反対された、ゼルや私にしてみれば」
 その頃の髭は、大層優遇されていたから…。専用のカップもあったくらいに。
「カップだって?」
 何のカップだい、と前の自分もブラウも不思議に思った。カップと言ったら、紅茶やコーヒーを飲むためのもの。それしか頭に浮かんで来ないし、髭の紳士の専用カップなど想像出来ない。
 何の目的でそれが在ったのかも、どんな形のカップなのかも。
「普通のカップと同じように使うカップだよ。発明された国では、紅茶用だったらしいね」
 他の国でも作られていたし、形も色々だったから…。コーヒーを飲んでいた紳士もいただろう。
 ムスタッシュカップという名前のカップで、ムスタッシュは口髭の意味だった。名前の通りに、口髭用のカップなわけで…。
 口髭の形が紅茶の湯気で崩れないよう、それに濡れないようにとも思ったんだろうね。カップの内側に、髭を乗せておくための橋がくっついていたんだよ。最初から。
 残念なことに今の時代は無いらしい、と笑ったヒルマン。
 ムスタッシュカップはとうの昔に廃れてしまって、現物も残っていないようだという。博物館にあったとしたって、展示される機会も無いのでは、と。展示しても分かって貰えないから。
 けれど、ゼルとヒルマンが生やした口髭。
 紅茶やコーヒーを飲むには不向きだけれども、ムスタッシュカップが無くても問題無いらしい。湯気で崩れたり、濡れたりするのを防ぎたかったら、サイオンを使えばいいことだから。
 わざわざカップを誂えなくても、髭をシールドしておけるから。



(…ムスタッシュカップ、って言っていたっけ…)
 時の彼方で、前の自分が聞いただけのカップ。さほど興味が無かったのだろう、どんなカップか改めて尋ねはしなかった。訊いていたなら、「こういうカップで…」と思念で伝えて貰えたのに。
(ああいうカップだったんだ…)
 ムスタッシュカップ、と思い浮かべた新聞記事の写真。前の自分が名前だけを聞いた、カップの写真を見てしまった。長い長い時が流れた後で。青い地球の上で。
 ゼルとヒルマンは多分、見たことがあっただろう写真。髭が優遇された時代の口髭用のカップ。
(…今のハーレイ、知ってるのかな?)
 口髭用にと発明されたムスタッシュカップ。
 それに、そのカップが生まれる切っ掛けになった紳士たちの髭。皇帝が生やしたカイゼル髭。
 今のハーレイは沢山の知識を持っているから、生まれ変わった後に覚えたかもしれない。こんなカップがあったようだと、このスタイルの髭の呼び名はこう、と。
 前のハーレイの記憶が戻る前から、ちゃんと仕入れて。今のハーレイの知識として。
(知ってるかどうか、訊いてみたいな…)
 仕事の帰りに寄ってくれたら訊けるんだけど、と思っていたら、チャイムが鳴った。急いで窓の所に行ったら、ハーレイが手を振っている。庭を隔てた門扉の向こうで。
(やった…!)
 これで訊ける、と小躍りした。ムスタッシュカップも、カイゼル髭も。
 今のハーレイは知っているのか、其処から入って思い出話。シャングリラのことを話そうと。



 ワクワクしながらハーレイを迎えて、テーブルを挟んで向かい合わせで腰掛けて。テーブルには母が運んで来てくれた紅茶もあるから、カップをチョンとつついて尋ねた。
「あのね、ハーレイ…。ムスタッシュカップって、知っている?」
 紅茶とかを飲むカップだけれど…。ちょっと変わっているカップ。
「口髭用のだろ? こういうカップの内側にだな…」
 こんな感じで髭を乗せるための部分がくっついていて、とハーレイが指で描いた形。新聞で見た写真とそっくり、間違いなくムスタッシュカップだったから、念のため。
「今日の新聞、読んで来たの?」
 ムスタッシュカップの記事が載っていたけど、家か学校で読んじゃった?
「いや、前にたまたま読んだんだ。あれは新聞ではなかったぞ」
 何の本だったか、タイトルは思い出せないんだが…。あのカップが生まれた時代を詳しく書いた本だな、その手の本は多いんだ。人気の高い時代だから。
「それじゃ、写真も載ってたの?」
 ムスタッシュカップの写真も見られた?
「見たぞ、何枚か載ってたからな」
 写真無しだと、どんなのか想像しにくいだろうが。あんなカップは。
「傑作だよねえ、髭を乗せておくための橋がついてるカップだなんて」
 ぼくが見た写真だと、髭の絵が描いてあるのもあったよ。あれだと分かりやすいけど…。
 髭の絵は無しで、あのカップだけを見たら悩んでしまいそう。これはなあに、って。
「確かにな。何に使うのか、まず分からんなあ…」
 カップだというのは理解できるが、あの橋を何に使うのか。
 其処に砂糖を乗せて出すんだ、と言われたらコロリと騙されそうだぞ。
 でなきゃスプーンを置く場所だとか…。間違え方は幾らでもありそうだよな。



 本当の使い方を知らなきゃ分かるもんか、とハーレイも知っていたムスタッシュカップ。ずっと昔にシャングリラで聞いた、髭の話とは無関係に。
 ならば今度は髭を訊かねば、と「カイゼル髭っていうのも知ってる?」と尋ねたら。
「もちろんだ。ムスタッシュカップの時代に流行ったヤツだな、カイゼル髭は」
 あれだろ、ゼルが生やしていたような髭。ああいう髭がカイゼル髭だ。
「そっちも本で読んだわけ?」
「さてなあ…。どうだったかなあ、髭用のカップほど印象に残るものでもないし…」
 これだ、と直ぐには思い出せんな。小説なんかにも出て来るから。
「そっか…。それでね、ムスタッシュカップなんだけど…」
 ヒルマンも話をしていたよ。口髭用のカップなんだ、って。
「はあ? ヒルマンって…」
 どうしてムスタッシュカップの話になるんだ、ヒルマンも髭を生やしちゃいたが…。
 シャングリラには無かったぞ、ムスタッシュカップ。あったら忘れる筈がないからな。
「えっとね…。そういうカップがあったんだ、っていう話。ずうっと昔は、って」
 ヒルマンとゼルが髭を伸ばした時の話だよ。
 髭を伸ばしたら貫禄が出るから、って二人で揃って伸ばすことにして…。エラが文句を言っても無視して、あのスタイルになった後。
 髭が優遇されてた時代もあったんだ、ってムスタッシュカップの話をしてた。そういうカップを作ったくらいに、髭が流行していた時代。
 皇帝だって立派な髭を生やして、その皇帝と同じ髭だからカイゼル髭。皇帝はカイザーで、同じ意味の言葉がカイゼルでしょ?
 それが気に入って、ゼルはカイゼル髭にしたんだよ。
 顎髭を伸ばすつもりでいたのに、やめてしまって口髭だけ。自分にピッタリの髭だから、って。



 皇帝の髭で、ゼルの名前も入っているのがカイゼル髭、とハーレイに話した。それで顎髭よりも口髭、と。
「覚えていない? とっても得意そうだったけど…」
 わしにピッタリの髭なんじゃ、って。…ヒルマンの方は、そういう髭は無かったけれど。
 なんでああいう髭にしたかは、前のぼくも聞いていないんだけど…。
「あったな、そういう話もな…。思い出したぞ、俺も危ないトコだったんだ」
 綺麗サッパリ忘れちまってたが、危機一髪というヤツかもしれんな。
「え? 危ないって…。何が?」
 キョトンと瞳を見開いていたら、「分からないか?」とハーレイが指差した自分の顔。
「髭だ、髭。あの二人に呼ばれちまってな…」
 自分たちは髭を伸ばすことにしたから、お前も伸ばせ、と言われたんだ。俺が伸ばせば、長老の男は全員が髭ってことになるだろ?
 そうなればエラの小言も減りそうだからな、髭は長老のシンボルなんだと言い返せるから。
 あいつら、悪知恵を働かせやがって…。俺を巻き込もうと、あの手この手だ。
 キャプテンこそ髭を伸ばすべきだと、うんと貫禄が出るからと来た。
「そうだったの!?」
 ゼルたち、ハーレイを髭の仲間にしようとしてたんだ…。
 二人だったらエラも怒るけど、ハーレイまでってことになったら、確かに怒りにくいかも…。
 長老なんです、っていう印が髭なら、ちょっと文句は言えないものね…。



 まるで知らなかった、前のハーレイが見舞われた危機。髭を伸ばせと誘った二人。ヒルマンと、ゼルと。「キャプテンこそ髭を伸ばすべきだ」と。
「…ハーレイ、どうやって無事に逃げられたの?」
 ゼルはとっても押しが強いし、ヒルマンだって粘り強いよ?
 二人揃って押し掛けられたら、とても断りにくそうだけど…。それにハーレイの飲み友達だし。
 顔を合わせる度に「髭を伸ばせ」で、しつこく言われそうなんだけど…?
「その通りだ。あいつらは諦めが悪かった。…また来るから、と諦めないんだ」
 しかし、諦めて貰わないと…。俺は髭を伸ばしたいとは思わなかったし、いくら誘われても気は変わらない。髭面の俺なんて、自分でも想像出来なかったしな。
 だから、ヤツらが言ってくる度、「髭なんか手入れしていられるか」と断ったんだが…。
 伸ばした髭を手入れするより、剃った方が早いと言ったんだが。
 キャプテンの仕事は多忙なんだし、髭の手入れは時間の無駄だ、と。
 そしたら、「ムスタッシュカップはどうだ」と言われた。…あいつらにな。
「ムスタッシュカップって…。なに、それ?」
 口髭があるから、ムスタッシュカップを使うんでしょ?
 髭は伸ばさないって言っているのに、ムスタッシュカップが何の役に立つの?
「俺が見事に髭を伸ばしたら、そいつの出番になるからな」
 レトロな物が好きだろう、と攻めて来たんだ、あいつらは。
 髭を伸ばしたら、うんとレトロなムスタッシュカップを使えるぞ、とな。
「ムスタッシュカップって…。あの頃は、シャングリラでカップは作っていなかったよ?」
 前のぼくが奪ったカップばかりで、船では作っていなくって…。
 それに奪って来るにしたって、ムスタッシュカップが作られてた時代は、ずうっと昔だよ?
 ヒルマン、自分で言ってたじゃない。現物は残っていないだろう、って。
「作ってやると言われたんだ!」
 宇宙の何処にも存在しないレトロなカップを、俺専用に!
 髭を伸ばすなら、ゼルが作ってプレゼントすると、餌をちらつかせに来やがったんだ…!



 前のハーレイを髭仲間にしようと企んだらしい、ゼルとヒルマン。二人よりも三人の方が何かと便利で、エラの小言も躱せるから。
 けれど、ハーレイは首を縦に振らず、ゼルとヒルマンは考えた。木で出来た机を使っている上、羽根ペンを愛用していたハーレイ。誰が見たってレトロ趣味だから、それを使おうと。
 悪党二人が目を付けたのが、ムスタッシュカップ。遥か昔の十九世紀に流行ったカップ。口髭を生やした紳士のためにと生まれたカップで、現物は残っていないだろうから…。
「わしが作ってやろうと思うんじゃが…。髭を伸ばすんなら、上等のムスタッシュカップをな」
 どうじゃ、ムスタッシュカップじゃぞ?
 ヒルマンが今、話したじゃろうが。本物は多分、残っておらんと。なにしろ十九世紀じゃし…。
 しかし、わしなら、本物そっくりのヤツを作ってやれるんじゃ。
 髭を伸ばして仲間になるなら、最高のヤツをプレゼントしてやれるんじゃがのう…。
 レトロの極みじゃ、とハーレイを引き摺り込もうとしたゼル。一緒に髭を伸ばさないか、と。
 ゼルは手先が器用だったから、具体的なプランも披露した。
 ハーレイが選んだ好みのカップに、割れて駄目になった食器で作った髭用の橋。そちらも好みの形に仕上げて、外れないようにくっつける。たったそれだけ、けれど宇宙に一個だけのカップ。
 ムスタッシュカップは、時の彼方に消えたから。多分、残っていないから。
 そういうカップが欲しくないか、とニヤニヤと笑うゼルの隣で、ヒルマンも大きく頷いた。
「いいと思うよ、ムスタッシュカップ。君はコーヒー党なわけだが…」
 紅茶に限ったものでもないしね、ムスタッシュカップ。紳士の好みも色々だから。
 髭を伸ばして、ブリッジでムスタッシュカップに淹れたコーヒー。
 レトロなカップで、大いに威厳が出ると思わないかね。口髭専用のカップなのだよ?
「威厳よりも前に、笑い物だと思うんだが…!」
 そいつが本当に洒落たカップなら、廃れる代わりに今も残っている筈だろうが!
 流行った当時はそれで良くても、後の時代に笑われたからこそ、消え失せたんだと俺は思うが!



 レトロ趣味にも色々あって、とハーレイが必死に打った逃げ。
 自分が欲しいと思わない物は、レトロの極みでも価値はゼロだと。ムスタッシュカップは要りもしないと、髭も剃る方が好みだから、と。
「それでもしつこく通って来たがな、あいつらが髭を伸ばしてゆく間には」
 こういう顔に憧れないか、と髭面の紳士の顔写真を見せに来るだとか…。
 ムスタッシュカップが出来上がったらこんな感じだ、と絵を描いて持って来るだとか。
 欲しくないか、と何度も言ったぞ、レトロの極みで宇宙に一つ、と。
「ハーレイ、危なかったんだ…」
 髭を伸ばせって言われていたなんて…。ホントに全然知らなかったよ、前のぼく。
 ゼルもヒルマンも、ぼくには何も言わなかったし…。ハーレイを誘っているんだってこと。
 もしもハーレイが巻き込まれてたら、ゼルたちの仲間にされていたわけ?
「そうなるな。…俺が髭面の紳士もいいな、と惹かれちまうとか、レトロなカップに…」
 ゼルが何度も「こんなのはどうじゃ?」と見せに来ていた、手作り予定のムスタッシュカップ。
 あれにウッカリ釣られていたら、だ…。
 キャプテン・ハーレイも見事な髭面だったんだろうな、あの二人に負けず劣らずの。
「……ハーレイに髭……」
 ゼルが生やしていたカイゼル髭とか、ヒルマンみたいな髭だとか…。
 ムスタッシュカップに釣られたんなら、口髭は絶対、生やすんだよね…?
 でなきゃカップの出番が無いから、ハーレイに口髭…。
 ゼルみたいな髭を生やしていたとか、顎髭も伸ばしちゃってたとか…?



 向かい側に座ったハーレイの顔をまじまじと眺めて、何度もパチクリ瞬きをした。
 ハーレイがゼルたちの勧誘に乗っていたなら、とんでもないことになっていたかもしれない。
(…威厳たっぷりかもしれないけれど…)
 口髭を生やしたキャプテン・ハーレイ。もしかしたら、ついでに顎髭だって。
 髭を蓄え、ムスタッシュカップでコーヒーを飲んでいるハーレイ。宇宙にたった一つしかない、御自慢のレトロなムスタッシュカップ。口髭を置く橋がついたカップで。
「…前のぼく、それでも恋をしたかな?」
 ハーレイが髭面になっちゃっていても。…口髭を生やしたハーレイでも。
「どうだかなあ…。俺はお前に一目惚れだし、お前もそうだという話だし…」
 恋をしたのがずっと後なだけで、出会った時から特別だしな?
 俺が髭面になっていようがいまいが、お前は俺に惚れたんじゃないか?
 ただなあ…。前の俺が口髭を生やしていたらだ、とりあえずキスに邪魔だと思うぞ。
 お前が顔を近付けて来たら、どうしても髭が触るわけだし…。
 この髭が邪魔だ、と思っちまうのか、髭もいいなと思ってくれるか。邪魔な髭でもな。
「やっぱり、髭は邪魔だよねえ…。ぼくもそう思うよ、キスの時には邪魔かもね、って」
 それで、ハーレイ…。キスしてもいい?
「なんだと!?」
 どうして其処でキスになるんだ、髭の話をしてるんだろうが!
「ハーレイ、自分でキスって言ったよ。髭があったら邪魔そうだ、って」
 今のハーレイにも髭は無いでしょ、だからキス。
 邪魔な口髭は生えてないから、キスをするのも簡単だよね、って。
「揚げ足を取るな!」
 お前、まだまだ子供だろうが!
 チビの間はキスはしないと言った筈だぞ、俺の髭とは別問題だ!
 もっと大きく育ってから言え、そういうませた台詞はな…!



 コツンと軽く叩かれた頭。「子供は子供らしくしろ」と。
 そうなることは分かっていたから、「痛いよ!」と大袈裟に騒いだ後で。「ハーレイのケチ」と睨み付けた後で、この騒動の原因をハーレイにぶつけてみた。
 ゼルとヒルマンがハーレイを勧誘していたカップ。餌にしていたムスタッシュカップを。
「えっと…。ハーレイ、ホントにムスタッシュカップは要らないの?」
 レトロの極みって言われたらそうだし、ちょっぴり欲しいと思わなかった?
 口髭を生やすのとセットでなければ、ゼルの手作りで宇宙に一つ。
 そういうカップは欲しくなかったの、ハーレイだけしか持っていないレトロなカップなんだよ?
「別に欲しいとは思わなかったなあ…。いくらレトロでも」
 今の俺でも、其処は同じだ。そういうカップの知識は持ってて、復刻品もあるようだがな。
「復刻品って…。ホント?」
 あんなカップが売られているわけ、ちゃんと新しく作ったヤツが…?
「イギリスではな。…昔、イギリスだった辺りの地域に行ったら、あるんだそうだ」
 もっとも、お前が新聞で見た写真のカップは、古いヤツかもしれないが。…十九世紀の。
 データは今も残っているしな、前の俺たちの頃と同じに。
「そうだね、うんと古いデータで、本物はとっくに消えちゃってる物…」
 色々あるよね、カップの他にも。本とか、昔の服とか家具とか。
 …復刻品のムスタッシュカップがあるんだったら、ゼルたち、あのカップ、欲しいかな?
 口髭専用のカップなんだし、お店で売られているんなら。
「あいつらか…。あるなら、買うかもしれないなあ…」
 なにしろ自慢の髭だったんだし、俺まで引き摺り込もうとしたし…。
 こだわりの口髭を持ってたからには、あのカップも試してみるかもな。
 本当に役に立つのかどうかと、興味津々で紅茶を淹れて。…紳士気取りで傾けてみて。



 やりそうだよな、とハーレイが笑みを浮かべるカップ。口髭専用のムスタッシュカップ。
 シャングリラには無かったカップだけれども、それが思い出を連れて来てくれた。髭の話やら、前のハーレイが髭の危機だった話やら。
 ハーレイはレトロな物が好きだし、いつか旅をして、復刻品のカップに出会ったら…。
「ムスタッシュカップ、一つ買ってみる?」
 ぼくもハーレイも口髭は無いから、役に立つのか分からないけど…。
 普通のカップでお茶を飲むより、邪魔な感じのカップなのかもしれないけれど。
「ふうむ…。土産物に一つ買うってか?」
 前の俺は本物を貰い損なったが、今なら土産に買えるわけだし。
「うん! いいでしょ、口髭専用のカップ」
 選べるんなら、髭の絵がついてるヤツがいいかも…。
 それとも、ゼルが「こんなのはどうだ」って、絵を描いたヤツに似たのがいいかな?
 思い出だもの、とハーレイに微笑み掛けた。
 前のハーレイは髭を生やさなかったけれども、その思い出に一つ、ムスタッシュカップ。
 口髭は二人とも生やさないけれど、旅の記念に買ってみる。
 二人で眺めては、「危なかったね」と幸せに笑い合うために。
 遠く遥かな時の彼方で、前のハーレイが見舞われた危機。
 それを二人で思い出しては、ムスタッシュカップをつついてみよう。
 口髭専用に発明されたカップを、ゼルが作ろうとしていたカップの復刻品を…。




            口髭用のカップ・了


※ゼルとヒルマンが生やしていた髭。実は、ハーレイも髭仲間にしようとしていたのです。
 レトロ趣味なハーレイ用に、ムスタッシュカップを作ってやるから、と。危なかったかも…。
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