シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(えーっと…)
ブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。ダイニングのテーブルに置かれていた新聞、それを広げてみたのだけれど。
(サボテンが一杯…)
赤茶けた岩砂漠とでも言うのだろうか、荒地にニョキニョキと生えたサボテン。人間の背よりも丈が高くて、枝分かれしている独特の姿。「西部劇の舞台でお馴染みです」と書かれてあった。
(西部劇かあ…)
SD体制が始まるよりも遥かな遠い昔に生まれた西部劇。当時に撮影された映画などが人気で、愛好家も多い。詳しいことは知らないけれども、父が見ていたことがあるから舞台は分かる。
今ではこういう景色もある地球。サボテンしか見えない岩砂漠。
その気になったら緑の大地も作れるだろうに、あえて荒れ地で生きているものはサボテンだけ。
(ホントに元気になったよね、地球)
前の自分が生きた頃には、地球は死の星だったのに。
こんな砂漠を作らなくても、地表は砂漠化していたという。前のハーレイも見た赤かった地球。生きているものなど何も無かった。陸にも、母なる海の中にも。
SD体勢の崩壊と同時に地球は燃え上がり、地上の全てが生まれ変わった。汚染された大気も、何一つ棲めなかった海も、朽ち果てた大地も、何もかもが。
蘇った地球に戻った生態系。地球が滅びる前の姿に合わせて、こういう岩の砂漠まで。
人間が住みやすい場所にするなら、砂漠よりは緑の平原だけれど、そうしないのが今のやり方。遠い昔に地球が滅びた理由の一つがそれだったから。
人の都合で川の流れを変えてしまったり、沢山の水を汲み上げたりして作った農地。本来の姿を失った大地は急速に砂漠化していった。元々は人が住んでいた場所、そこまでが砂の嵐に埋もれて消えた。人が犯した大きな過ち。自然を大きく変えてしまうこと。
遥かな昔の反省をこめて、今の地球には砂漠もある。砂の砂漠も、岩の砂漠も。
歴史の彼方で白いシャングリラが辿り着いた頃には、地球は砂漠の星だったのに。
あの赤い地球を見た人々に「今は砂漠もあるんです」と言おうものなら、「あの頃も砂漠だ」と苦々しい顔をされそうだけれど、本当に今もある砂漠。ただしサボテンが生えている砂漠。
(ちゃんと命は戻ってるんだよ、砂漠にも)
サボテンの他にもいる筈の生き物、写真に写っていないだけで。鳥も虫も蛇も、他にも色々。
前の自分が生きた時代の砂漠とは違う、何もかもが。同じ砂漠でも、きちんと命が息づく場所。
もっとも、前の自分は地球は青いと頭から信じていたけれど。
様々な命が生まれて来た地球、辿り着いたなら何処もかしこも生命の輝きで一杯だろうと。
それを見たいと願っていた。青い地球を彩る命の数々。
(でも、サボテンは…)
流石に夢見ていなかった気がする、こんなサボテンだらけの荒地は。岩の砂漠は。
いつか母なる地球に着いたら見たかったものは、人を寄せ付けない高い峰に咲くという青いケシやら、シャングリラにもあったエーデルワイスが自生している姿やら。
サトウカエデの森もあるのだと思っていた地球、その森で採れたメイプルシロップで食べたいと願ったホットケーキ。地球の牧草を食んで育った牛のミルクのバターもつけて、と。
そういった夢を見ていたんだよ、と思ったけれど。
西部劇の舞台になった砂漠も、ニョキニョキと生えているサボテンも、前の自分が焦がれ続けた地球の姿には無かった筈だ、と新聞の写真を眺めたけれど。
(…あれ?)
サボテンという言葉が引っ掛かった。心の何処かに、微かにカサリと。
西部劇の世界にニョッキリと生えたサボテンではなくて、ただ「サボテン」という言葉。
前の自分は地球のサボテンを夢見たろうか?
すっかり忘れてしまったけれども、岩の砂漠に生えているようなサボテンを。
(…サボテンなわけ?)
そんな記憶は無いんだけれど、と首を捻って閉じた新聞。サボテンよりもまずはおやつ、と。
食べる間に考えてみても、やはりサボテンの記憶は無くて。
(気のせいだよね?)
きっと何かの勘違い、とキッチンの母に空になったお皿やカップを返して戻った部屋。勉強机の前に座って、改めてサボテンを思い浮かべてみた。さっきの新聞記事のサボテン。
(いくらなんでも…)
前の自分が憧れた中に、サボテンは入っていないだろう。西部劇が大好きだったならともかく、それ以外ではサボテンを夢見る理由が無いから。
(他の種類のサボテンにしたって…)
見たいと焦がれる植物とは少し違うと思う。夢もロマンも無さそうなサボテン。
サトウカエデの森のようにメイプルシロップが採れるのだったら、それは素敵な植物だけれど。高い峰にしか咲かない青いケシやエーデルワイスだったら、見に行く価値もあるのだけれど。
(サボテンだしね…?)
人の役には立ちそうもないし、夢が広がる植物でもない。多分。
けれど、頭から消えないサボテン。どうしたわけだか、しっかりと心に絡み付いたまま。
サボテンは何かの役に立つのだろうか、前の自分が夢見る価値があっただろうか…?
(ドラゴンフルーツ…)
役に立つと言えば、そのくらいしか思い付かない。あれはサボテンの実なのだから。
美味しい果物には違いないけれど、今ならではの味覚の一つ。白い鯨では育てていないし、前の自分は食べてはいない。味を知らないのでは、見たいとも思わないだろう。いつか地球に着いたらドラゴンフルーツが実るサボテンを見に出掛けたいと夢見もしない。
(それとも、前のぼくが奪ったわけ?)
シャングリラがまだ白い鯨ではなかった頃に。食料は人類の輸送船から奪うものだった時代に、ドラゴンフルーツも奪って来たのだろうか。他の食料と一緒にコンテナに入っていたとかで。
それならば食べて気に入ったかもしれないけれども、そういうのとは違う感覚。
サボテンの記憶はもっと別の、と心が訴えている違和感。ドラゴンフルーツの味は違う、と。
ならば何だと言うのだろう。サボテンだった、と思う自分は。
(サボテンは役に立たないのに…)
あんなのだよ、と思い浮かべたさっきの写真。赤い岩砂漠に生えていたサボテン。
白いシャングリラには、あれは無かったと断言出来る。あのサボテンは何処にも無かった、と。
(それに、棘だらけ…)
種類にもよるけれど、サボテンは大抵、棘があるもの。鋭い棘を生やしているもの。
栗のイガでもゼルが「危険じゃ」と言ったほどだし、役立たずで棘だらけのサボテンなどは…。
(あるわけないよね、シャングリラに)
うん、と納得したのだけれど。まだ引っ掛かってくるサボテンの記憶。
サボテンの棘が刺さったかのように、心から抜けてくれないサボテンという言葉。あった筈などないものなのに。白い鯨で役に立たないサボテンを育てたわけがないのに。
(絶対、無いって…!)
役に立たないし、棘だらけだし、と思うけれども、だんだん自信が無くなって来た。サボテンの棘が心に刺さって抜けないから。今も刺さったままだから。「サボテンなのだ」と。
(サボテンなんかは、シャングリラには…)
必要無かった筈の植物。余計なものなど乗せていなかった船がシャングリラ。
役に立たないから、蝶さえも飛んでいなかった。青い小鳥も飼えなかった。そのシャングリラに役立たずのサボテンがあったと言われれば驚くしかない、「なんでそんなものが」と。
誰も導入しようとしないし、育てた筈もないのだけれど。
やっぱりサボテンの棘が抜けない、心に刺さった「サボテン」の名前。不思議なことに。
(…ハーレイに訊く?)
まさかあったとは思えないけれど、あったなら知っているだろう。キャプテンは船の全てを把握していたのだから、サボテンがあれば。誰かがコッソリ育てていたというのでなければ。
(…コッソリだったら、ぼくだって…)
もっと記憶がハッキリ残っていそうではある。それを育てていた仲間の顔や名前まで。どうしてサボテンをコッソリ育てているのだろう、と疑問に思ったことだろうから。
なんとユニークなことをするのかと、そんなにサボテンが気に入ったのか、と。
ハーレイに訊くのが確実そうなサボテンの記憶。仕事の帰りに寄ってくれれば、と思っていたらチャイムが鳴った。窓に駆け寄ってみれば、門扉の所で手を振るハーレイ。丁度いいタイミングで来てくれた恋人。
母がお茶とお菓子を置いて行ったテーブルを挟んで向かい合うなり、訊いてみた。
「あのね、サボテンを覚えてる?」
「サボテン?」
なんだそれは、とハーレイの鳶色の瞳が丸くなるから。
「やっぱり無いよね…。サボテンなんか」
役に立たないし、棘だらけで危ない感じだし…。あったわけがないよね、サボテンは。
「なんの話だ?」
どうやら植物のサボテンらしいが、サボテンがどうかしたのか、お前?
「んーと…。シャングリラにサボテン、あったかなあ、って…」
ドラゴンフルーツは食べていないと思うんだけど…。他のサボテン。
「前の俺は料理はしてないぞ。サボテンは食えるそうだがな」
お前の言ってるドラゴンフルーツはサボテンの実だが、そうじゃないサボテン。
「そうだったの?」
他のサボテンの実も食べられるの、ドラゴンフルーツじゃないサボテンも?
「実だって食えるが、サボテン料理というのがあるんだ」
種類によっては、サボテンそのものを料理しちまう。野菜と同じ扱いだな。
サラダにもするし、炒めたり、フライにするだとか…。もちろん棘は綺麗に抜いて。
「へえ…!」
棘があるのに、それを抜いてまで食べるんだ?
そこまでするなら美味しいんだろうね、サボテンの料理。
「らしいな、俺も食ったことは一度もないんだが…」
ドラゴンフルーツがせいぜいなんだが、いつかは食ってみたいもんだな、サボテン料理。
お前と好き嫌い探しの旅をする時は、是非とも食いに行こうじゃないか。俺たちの口に合うのかどうか、サボテン料理を色々とな。
サボテンの名産地だという、かつてメキシコと呼ばれた国があった辺りの地域。サボテン料理は其処の名物で、SD体制の時代には無かった食べ物らしい。サボテンを食べる文化が独特過ぎて。
ドラゴンフルーツは果物だったから残ったけれども、サボテンそのものを料理するのは。
「…それじゃ、シャングリラにサボテンがあったのかも、っていうのは、ぼくの勘違い…?」
前のぼくたちが生きてた頃には、サボテン、野菜じゃなかったんだし…。
シャングリラで育てる意味が無いよね、食べられないんじゃ。
「だろうな、サボテンなんぞがあるわけがないぞ」
食おうって文化が無かったからには、あの船では役に立たんしなあ…。花と違って癒されるってわけでもないし…。棘だらけでウッカリ触れもしないし、公園にだって向かないんだ。
今の時代も、その辺の公園にサボテンなんかは植わっていないぞ、危ないからな。子供が触って怪我でもしたら大変だから、って所だろうが…。
それにサボテンは寒さに弱いし、公園に植えたら冬の間は特別な世話が要るだろう。囲いをして霜や雪から守ってやらんと…。それだけの手間をかけた挙句に、子供が怪我しちゃ話にならん。
つまりだ、今の時代でもサボテンってヤツは、役に立つどころか手間だけかかって…。
いや、待てよ…?
役に立つどころか手間だけと来たか…。
ちょっと待ってくれ、と眉間を指でトントンと叩いているハーレイ。
そうすれば記憶が戻るかのように、まるで魔法の仕草のように。「サボテンなあ…」と呟いて。
「…サボテンには色々と種類があって、だ…」
同じサボテンとはとても思えん姿形のが山のようにあって、大きさだって色々で…。
中には食えたり、薬になったり、人間様の役に立つものも…って、そうだ、思い出したぞ!
シャングリラにサボテンはあったようだぞ、お前の勘違いでも記憶違いでもなくて。
「ホント?」
何か役に立つサボテンがあったの、あの船に?
ぼくはすっかり忘れているけど、ぼくもそのサボテンのお世話になってた…?
「いや、違う。お前がサボテンの世話になるどころか…」
逆だ、逆。シャングリラにあったサボテンは、全く逆のサボテンだった。
「えっ?」
逆っていうのはどういう意味なの、いったいどんなサボテンだったの?
「文字通りに逆っていうことだ。人間様の役には立たない」
前の俺たちにも、船で飼ってた動物たちにも、まるで役に立たない、ただのサボテン。
世話されるばかりで、恩返しは一度もしなかった。
役立たずの極め付けってヤツだな、あのシャングリラにあったこと自体が奇跡のような。
普通だったら「これは駄目だ」と放り出されて終わりだったぞ、あのサボテンは。
シャングリラの中には、役に立たないものなど一つも無かったからな。
前のお前が「青い鳥を飼いたい」と言っても、却下されたのがシャングリラだ。
だが、あの役立たずのサボテンはのうのうと乗っていたんだ、何もしないでドッカリとな。
ヤツが来たのはまさに偶然というヤツで…、とハーレイが浮かべた苦笑い。
「前のお前が奪った物資の中にだ、コッソリ紛れていやがったんだ」
覚えていないか、ヤツがシャングリラに来た時のこと。
このくらいのサボテンが植わった鉢が混ざっていただろうが、と手で示された小さな球形。
本当に小さな、直径三センチほどの丸い形をハーレイが指で作っているから。
「そうだっけ…?」
丸いサボテンみたいだけれども、そんなの、シャングリラにあったかなあ…?
ぼくは全然覚えていないよ、サボテンが物資に混ざってたことも。
「そうだろうなあ、その様子じゃな。すっかり忘れてしまったようだが…」
ヒルマンの金鯱と言えば分かるか、あのサボテン。
「ああ…!」
思い出したよ、あったね、金鯱!
ヒルマンが育てていたんだっけね、何の役にも立たないサボテンだったけど…!
シャングリラが白い鯨になるよりも昔、前の自分が物資を奪って、それで生活していた頃。
ある時、人類の輸送船から失敬して来たコンテナの中に、何故か混ざっていたサボテンの鉢。
さっきハーレイが手で作ったような小さなサボテンが植えられた鉢が一個だけ。
どう見ても船の役には立ちそうにない上、小さいながらも鋭い棘を纏ったサボテン。廃棄処分にするしかない、と捨てる方へと選り分けられた。それがシャングリラの鉄則だから。役に立たないものは廃棄し、そうでないものは出番が来るまで倉庫で保管、と。
ところが、サボテンが混ざっていたと聞き付けたヒルマンが鉢を検分しにやって来たことから、ガラリと変わったサボテンの運命。
ヒルマンはサボテンを矯めつ眇めつ調べた末に、前の自分たちを招集した。キャプテンは当然、ゼルにブラウにエラといった面々。誰もがまだまだ若かったけれど。
シャングリラでの決定権を持つ者たちを集めて、サボテンの鉢を指差したヒルマン。テーブルに置かれた小さな鉢を。
「このサボテンだがね…。廃棄処分に決まったようだが、かまわないのなら…」
私が育ててみたいのだがね。…何の役にも立たないことは承知なのだが。
「育てるって、また…。なんでだい?」
今、役に立たないって言わなかったかい?
なんだってそんなものを育てようって言うのさ、エネルギーと時間の無駄じゃないか。
分からないねえ、とブラウが頭を振って、前の自分たちも頷いた。役に立たない上に棘だらけのサボテン、それを育てて何になるのか、と。
「これは大きくなるらしいのだよ、今はまだ小さいサボテンだがね」
ほんの子供だ、赤ん坊と言ってもいいくらいの年の頃だろう。育てばもっと大きくなるそうだ。直径が一メートルになると言うから、いやはや、この姿からは想像もつかない大きさで…。
そこまで育とうというサボテンだけに、花が咲くのは三十年後だということだよ。
「三十年だって?」
ちょいとお待ちよ、三十年って、十年の三倍の三十年かい?
そんなに経たないと花が咲かない赤ん坊なのかい、このおチビさんは…?
ブラウが思わず「おチビさん」と呼んでしまったくらいに小さなサボテン。三十年後までは花が咲かないらしいサボテン。
誰もが唖然としたのだけれども、それがサボテンの正体だった。二百年とも言われる長い寿命を持ったサボテン、金鯱という名前があるらしい。
「この金鯱は人類の世界で人気だそうだよ、ただし問題は寿命の長さだ」
花が咲くまでに三十年だけに、どのくらい経てば花を見られるかを考えてもみたまえ。
いいかね、今から育てて三十年もかかるのだよ…?
「…教育ステーションを卒業してから、直ぐに育て始めても長そうだねえ…」
大負けに負けて、ステーション時代に育て始めたと勘定しても…、と考え込んだブラウ。
その金鯱の鉢を抱えて社会に出てから二十六年、そんなに経たないと花は無理か、と。
養父母になるコースに進んだのなら、最初の子供が成人検査を受けて旅立った後になるね、と。
「えらく気の長い話だな、おい」
最初の子供は、いつまで経っても花の咲かないサボテンを見ながら育つわけか、と呆れたゼル。
次に来た子供も成人検査を受ける二年ほど前まで花を見られそうもないじゃないか、と。
サボテンの金鯱は花が咲くまでに三十年かかるもの。ブラウが計算していた通りに、成人検査を受けた直後から育て始めても、社会に出てから二十六年が経つまで花は咲かない。
養父母になるなら、二人目の子供が成人検査を受けて巣立ってゆく二年前まで咲かない花。先の子供は花が咲くことさえ知らないままで旅立つことになるだろう。
養父母になってから金鯱を育て始めたのなら、二人目の子供も花が咲くのを見られない。子供は十四歳で成人検査を受けるものだし、二人育てても二十八年、三十年には足りないから。
そういう平凡な人生を歩む者たちと違って、地位のある者。高い地位と収入を得ている者なら、高価な金額をポンと支払い、直ぐに花の咲く金鯱の立派な鉢を買えるシステムらしいけれども。
「へえ…。メンバーズ様の御用達かい、このサボテンは?」
これは一般人向けらしいけどね、とブラウが鉢を顎でしゃくった。
もっと育って立派になったら、メンバーズ様が高い値段でお買い上げになるのかい、と。
「そんな所だろう。直ぐに花が咲く金鯱を買えるとなったら、そういう人種になるだろうね」
メンバーズ・エリートだの、元老だのという社会を牛耳る連中だけの特権だよ。
だから育ててみたいわけだよ、幸い、時間はたっぷりとあるし…。
寿命の長いミュウの船には、ピッタリの植物だと思わないかね?
三十年は人類にとっては人生の三分の一になってしまうが、我々はそうではないのだから。
「いいねえ、ちょいと偉くなった気分になれるよ」
今はチビでも、いずれはメンバーズ様がお買い上げになるような立派な姿になるんだし…。
そんな御大層なサボテンってヤツが、あたしたちの船にあるっていうのも素敵じゃないか。
育ててみよう、とブラウが賛成、ゼルも「俺も賛成だな」と手を挙げた。役に立たなくても実に愉快な話だから、と。
前の自分も、ハーレイも、エラも異存は無かった。
ごくごく少数の人類のエリート、彼らだけが直ぐに花が咲くのを見られるサボテン。他の者なら三十年も待たないと花を見られないサボテン、それを育てるのも一興だろうと。
ミュウにとっては、三十年は大したものではないのだから。十年の三倍に過ぎないのだから。
そうしてシャングリラで育てることに決まった小さなサボテン。ほんの赤ん坊だった頃の金鯱。
ヒルマンが正体に気付いたお蔭で、廃棄処分を免れた。宇宙に捨てられてゴミになる代わりに、船の中に居場所を得ることが出来た。何の役にも立たないけれども、花さえ咲かないのだけれど。三十年が経たない限りは、ただの棘だらけの丸いサボテン。
そのサボテンの鉢をヒルマンがせっせと世話していた。白い鯨になる前の船で。
「…シャングリラを改造しようって話が出始めた頃だぞ、花が咲いたのは」
ヒルマンがサボテンを育て始めた時には、誰も想像さえしなかったがなあ、改造だなんて。
…それだけの技術を前の俺たちが手に出来るなんて、夢にも思っていなかった頃だ。いつまでもあの船で宇宙を旅していくんだろうと信じていたがな、前の俺でさえも。
「うん、ぼくだって…」
ずっとあの船で、修理をしながら旅をするんだと思ってた。前のぼくが物資を奪いながら。
自給自足で生きていける船なんて、考えてさえもいなかったよ。白い鯨の欠片さえもね。
…だけど、あのサボテンの花が咲いた頃には、そういう話になっていたんだよ。
三十年なんて大したことはないって思って育てていたけど、そういう意味では凄かったかも…。
とんでもない長い年数をかけて育って、やっと花が咲いたあのサボテン。
シャングリラがすっかり生まれ変わるような話が出て来る頃まで、花を咲かせずにいたなんて。
「まったくだ。気が長いにも程があるってな」
ほんのこれくらいだったのに、花が咲く頃にはデカく育っていたからなあ…。
ついでに、花が咲くようになっても、まだまだ育つと来たもんだ。
「そうだったよね…」
ヒルマンが言った通りにぐんぐん育っていったんだっけ。
育つスピードは遅かったけれど、人類だったら、育ち切るより前に寿命が尽きただろうけど。
寿命は二百年ともヒルマンが話していた金鯱。直径一メートルくらいに育つのだとも。
予言通りに、それは大きく育ったのだった、あのサボテンは。
サボテンの鉢を手に入れたシャングリラの改造が無事に終わって、白い鯨になった後にも…。
「まだ育っている最中だったっけね、サボテンは…」
寿命が尽きる気配さえ無くて、少しずつ大きくなっていって。
「逞しく生きてやがったなあ…」
最初の姿はこんなのだった、と言っても信じて貰えないくらいにデカくなっちまって。
あいつ専用の場所まで貰って、次の代まで育てられていて…。
ヒルマンの世話が上手かったんだろうな、あんなにでっかく育ったってことは。
人類のお偉方だって、これほど立派な金鯱を持っちゃいないだろう、と思って見ていたもんだ。
パルテノンの庭にはあったかもしれんが、個人じゃとても持てなかっただろう。
自分の寿命が尽きてしまって、世話するどころじゃなくなるからな。
…今と違って血の繋がった家族はいないし、代々、受け継いでいくのは無理なんだから。
「そうだよね…。後継者に譲る、っていう発想は無さそうだし…」
人類は自分のことだけしか考えていない種族だったし、次の誰かに譲りはしないね。
そうするくらいなら捨ててしまえとか言い出しそうだよ、自分が死んだら処分しろ、って。
「如何にもありそうな話だな。…寄付すらしそうになさそうだな、うん」
これがミュウなら、次の世代のためにと残しておくものなんだが…。
次の世代の金鯱を育てていたっていうのも、そのためなんだが、人類だとな…。
自分が死んだら墓場まで持って行きそうだよなあ、実際の所はどうなっていたのか知らないが。
「処分しろ」と遺言を遺したとしても、マザー・システムが回収させた可能性もある。なにしろ高価なサボテンだしなあ、処分よりかは高く売り付けた方がいいかもしれん。
…マザー・システムがどう考えていたか、俺は知りたいとも思わんが…。
人類が遺した遺言でさえも、機械が勝手に踏みにじっていたとは考えたくもないし、知りたくもないな。…いくら人類でも、同じ人間には違いない。
そいつらが愛した金鯱をマザー・システムが掻っ攫っては、利用していたとしたら腹が立つ。
死んじまったからもういいだろう、と遺言も無視して売っていたとかな。
本当に考えたくもない、とハーレイが呻くように呟く通り。
マザー・システムならやりかねなかった、人類の遺言を握り潰して、遺産を奪ってしまうこと。恐らく本当にやっていたただろう、金鯱だけのことに限らず。
養父母として生きた人類のささやかな財産も、権力者たちの財産も。
次の世代など存在しなかったのが人類の社会なのだし、何もかも奪われていったのだろう。その持ち主の命が尽きれば、マザー・システムに。高価な金鯱も、ささやかな物も。
シャングリラに乗っていた金鯱は仲間たちに愛され、次の世代までが育てられていたけれど。
最初の金鯱がいなくなった後も、次の金鯱が立派に育って後を継げるようにと。
多分、幸運だった金鯱。
シャングリラに連れて来られた時こそ廃棄処分の危機だったけれど、その後は持ち主がコロコロ変わりもしないで育っていった。
前の自分が生きていた間も、その後もずっと世話をしていた係はヒルマン。
地球でヒルマンが命尽きるまで、金鯱の世話は最初に金鯱を育て始めた人物のまま。金鯱の方が先に寿命が尽きてしまって、ヒルマンが地球で死んだ時には、二代目が船にいたのだから。
人間が全てミュウになった今の時代なら、そういう金鯱も珍しいことはないけれど。あの時代に生きた金鯱の中では、同じ人間が最後まで世話した唯一の金鯱だっただろう。
シャングリラの他にはミュウの船は無くて、金鯱は人類のものだったから。二百年も生きる金鯱よりも遥かに寿命の短い、人類の時代だったのだから。
それを思うと、愛おしい金鯱。
すっかり忘れてしまっていたけれど、シャングリラにあった丸いサボテン。
「ねえ、ハーレイ。…あれって、名前はあったんだっけ?」
金鯱っていう名前じゃなくって、あのサボテンだけについてた名前。
ぼくがブルーとか、ハーレイがハーレイって名前みたいに、あれにも何か。
「いや、ヒルマンは金鯱とだけ…」
でなきゃサボテンだな、それで充分通じたからなあ、アレしか無かったんだから。
シャングリラには他のサボテンは乗っていなくて、あの金鯱と跡継ぎが乗っていただけだ。
わざわざ名前を付けるまでもないし、金鯱かサボテンとしか聞いていないが…。
しかし名前はあったかもなあ、俺が聞いてはいなかっただけで。
船の仲間たちが自分で好きな名前を付けては、そいつで呼んでいたかもしれん。ペット感覚で、名付けた仲間の数だけ名前があったとしても俺は驚かないぞ。
「その可能性もあるかもね。…ヒルマンだって、本当は名前を付けていたかも…」
ハーレイは何か名前を付けた?
前のぼくは名前を付けてないけど、前のハーレイは名前を付けてあげたの、あの金鯱に?
「名付けていたなら覚えているさ。あの船にサボテンがあったことをな」
…忘れちまっていたとしてもだ、お前にサボテンと訊かれた途端にアレだと思い出しただろう。前の俺が名前を付けてたヤツだと、その名前ごとな。
「そっか…」
ハーレイも名前は付けてないんだね、あの金鯱はずうっと船にいたのに。
シャングリラが改造されるよりも前から船に乗ってて、大きく育って花を咲かせて、代替わりもしたサボテンなのに…。
ちょっと残念、名前があったなら知りたかったな。ヒルマンが付けてた名前でもいいし、仲間の誰かがコッソリ呼んでた名前でも。
…長いこと一緒にいたサボテンなんだもの、名前を付ければ良かったかな、ぼくも。
今となっては、名前があったかどうかも分からないサボテン。ヒルマンが世話をしていた金鯱。
ミュウの船ならではの気長なペットのような植物だった。何の役にも立たなかったけれど、花が咲くまで三十年もかかったという代物だったのだけれど。
「…ハーレイ、あのサボテンはトォニィの時代もあったかな?」
ちゃんと二代目から三代目に変わって乗っていたかな、シャングリラに…?
「多分な。なんでサボテンなんだ、と言われながらも乗ってただろうな」
そもそも、ジョミーもアレの由来を知ってたかどうか…。
俺は話した覚えなんか無いし、ヒルマンがジョミーに言ったかどうかも分からんし…。
ジョミーの代で既に謎だったかもな、あのサボテンがどういう理由でシャングリラに来ることになったのか。廃棄処分にされる所を救われたとは思っていなかったかもな、ジョミーもな。
なんたって、ジョミーが船に来た時には、二代目になっていたんだから。
「そういえば…。ジョミーが来た時には、とっくに二代目…」
最初の金鯱はいなくなってて、二代目が育ってたんだっけ…。それと跡継ぎの三代目と。
それじゃジョミーは知らなかったかもね、一代目が船に来た理由。
シャングリラにはサボテンも乗ってるんだ、って思っておしまいだったかも…。
どうしてサボテンが乗っかってたのか、不思議にも思わないままで。
シャングリラが白い鯨になるよりも前から、役立たずなのに乗っていたサボテン。捨てられずに堂々と船に居座り、代替わりまでした丸いサボテン。
あの金鯱もきっと、他の木たちと一緒に引越したのだろう。白いシャングリラが解体される時、アルテメシアか他の何処かの惑星に。
アルテメシアに行ったとしたなら、今もシャングリラの森の何処かにいるかもしれない。大きく育った丸いサボテンが、もう何代目か数えられないほどに代替わりをした金鯱が。
「…金鯱、今も人気なの?」
もうメンバーズとか、元老とかはいないけど…。今でも金鯱、人気なのかな?
「人気らしいぞ、ミュウと同じで長生きだからな」
二百年ほど生きるわけだし、並みのペットより一緒にいられる期間が長い。
花を咲かせる楽しみもあるし、デカく育つのも見ていられるし…。
育てている人は多いらしいぞ、いわゆるサボテン愛好家だな。
俺たちもまた育ててみてもいいかもしれんな、前の俺たちが育て始めたくらいのヤツから。
今度は名前も付けてやってだ、デカくなるまでちゃんと世話して。
「いいかもね。…かなり大きくなっちゃうんだけど」
家の中に置いたら凄いことになってしまいそうだけど、大きくなったら庭に置く…?
雪とかが降っても大丈夫なように、ちゃんと温室を作ってやって。
「そいつもいいなあ、リビングにデカイ金鯱がいるのも面白いがな」
ギリギリまでリビングでデカくしてから外に出すかな、運び出すのも大変そうだが…。
今のお前じゃ瞬間移動でヒョイと運べやしないし、俺が抱えて運んで行くしかなさそうだがな。
人間が全てミュウになった今は、誰でも気軽に育てて大きく出来るサボテン。丸い金鯱。
花が咲くまでの三十年はミュウの世界では長くはないから。
メンバーズも元老院もマザー・システムも消えて、ミュウの時代になったから。
金鯱は高価なサボテンではなくて、愛好家が好きに育てているもの。花を咲かせて楽しむもの。
そういう時代に生まれ変わって、青い地球の上でハーレイと一緒に生きてゆく。
今度も前の自分たちのように、サボテンを育ててみるのもいい。
小さな金鯱の鉢を買って来て、こんなに大きく育てられたと、そろそろ花が咲きそうだと。
前のように大きく育ってしまったら、ハーレイが苦労しそうだけれど。
「こんなにデカイのを俺が運ぶのか」と、温室まで抱えてゆく羽目になっていそうだけれど。
けれども、それも平和の証。青い地球に二人で来られたからこそ、金鯱を運ぶことになる。
だから自分も鉢を運ぶのを手伝おう。ハーレイと一緒に抱えてゆこう。
「落とさないでよ」と声を掛けたら、「落とすなよ?」と返りそうな声。
ハーレイと二人で大きな金鯱の鉢を抱えて、庭の温室まで笑い合いながらの引っ越し作業。
青い地球の上で、今度はハーレイと一緒に育てた金鯱の鉢を抱え上げて…。
船とサボテン・了
※役に立たない植物などは無かった船がシャングリラ。それなのに育てられていたサボテン。
廃棄処分を免れてまで、改造前からずっと船にいた立派な金鯱。ミュウの箱舟ならではの話。
←拍手して下さる方は、こちらからv
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※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
食欲の秋がやって来ました。美味しい料理もお菓子も食べなきゃ損々、放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋でお菓子をパクパク、週末は会長さんの家に出掛けて食べ放題。今日も土曜日、何が食べられるかと遊びに行けば。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
今日は手作りピザパーティーなの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお出迎え。あれこれ注文、いろんなソースや具材のピザを作って貰えるらしいです。
「すげえな、うんと食わなきゃな!」
サム君が歓声を上げれば、ジョミー君も。
「一人何枚? それとも切り分けて何種類でも?」
「えとえと、そこはお好みだよ! シェアしてもいいし、一人占めもオッケー!」
「そうなのか…。俺はどうするかな」
シェアか独占か、とキース君が顎に手を当てると、シロエ君が。
「それこそ、その場のノリってヤツじゃないですか? ピザのアイデア次第ですしね」
「確かにな。で、もう始めるのか?」
昼には早いが、とキース君が訊けば「そるじゃぁ・ぶるぅ」は。
「始めちゃってもいいと思うの、ゆっくり沢山食べられるしね! 食欲の秋!」
「そうだよ、ぶるぅの言う通り!」
会長さんが「始めちゃおう」と宣言を。
「ティラミスとかのお菓子もあるから、まずはそっちで準備運動かな? それからどんどん焼いては食べる! それでこそピザパーティーってね!」
楽しくやろう、とダイニングに案内されて紅茶やコーヒー、それにマロンのティラミスが。美味しく食べている間にピザの注文、第一弾。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が注文を取って回って、ソースを塗ったりトッピングしたり。やがていい匂いが漂って来て…。
「お待たせー! 出来たよ、これがキースので、こっちがシロエで…」
広いテーブルにピザがズラリと。シェア用に取り皿も沢山あります。やっぱり他の人のも食べてみたいですし、まずはスウェナちゃんのを一切れ貰おうかな?
「「「いっただっきまーす!」」」
みんなで合掌、賑やかに始まるピザパーティー。うん、スウェナちゃんと交換したのも美味しいです。あっ、ジョミー君のも美味しそう! 次はああいうのを頼もうかな?
ワイワイガヤガヤ、ピザ食べ放題。アイデア次第で色々出来て、思いがけない組み合わせなんかも飛び出したりして、楽しさ最高。もう入らない、とギブアップするまで三時間くらいは余裕で食べたと思います。休憩してはまた食べて、といった具合に。
「美味しかったあー!」
こんなのもいいね、とジョミー君が満足そうに言って、他のみんなも大満足。おやつは当分入りそうになく、飲み物だけを手にしてリビングに座って寛ぎの時間。
「実に美味かったな、好き放題にやった割には」
妙なピザは一つも出来なかったし、とキース君。
「ぶるぅの準備のお蔭じゃないですか? 厳選された具材とソースで」
きっとそうですよ、とシロエ君。
「適当にあれこれ注文したって、元がきちんとしたものだったらおかしなことにはなりませんよ」
「そうかもしれんな、基本から外したつもりでやっても美味いわけか…」
ゲテモノを食いたくてやっていたわけじゃないからな、というのもある意味、正論。なにしろ自分が食べるのですから、変わり種ピザを頼むにしたって味は想像してみますし…。
「要は美味けりゃいいってな!」
多少ビジュアルが変でもよ、とサム君も自分のピザのチョイスに自信を持っている様子。誰が一番ヘンテコなピザを注文したのか、「お前だ」「違う!」と面白半分、やり合っていると。
「楽しそうだねえ?」
「「「!!?」」」
「こんにちは。君たちは何を食べていたわけ?」
いきなり現れたお客様。私服姿のソルジャーです。私服ってことは、お出掛け前かお出掛けの帰りに決まっていますし、今日も今日とてエロドクターとデートですか?
「あっ、分かる? ノルディと食事に行って来たんだ」
「「「………」」」
またか、と誰もが深い溜息。食事を済ませて来たってことは、今度はこっちに居座るんですね?
「そうだよ、おやつはあるんだろう?」
「不本意ながらね!」
会長さんがフンと鼻を鳴らし、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「えとえと、梨とブドウのタルトだけれど…」
「食べる!」
それと紅茶、という御注文。うーん、早くもティータイムですか…。
乱入して来たソルジャーに仕切られ、始まったおやつの時間ですけど。デザートは別腹とはよく言ったもので、あれだけピザを食べた割にはタルトも美味しく食べられます。ソルジャーも御機嫌で頬張りながら。
「今日はね、イワナ尽くしを食べて来たんだよ!」
「イワナねえ…。ノルディの趣味かい?」
会長さんが訊くと、ソルジャーは「うん」と。
「何処の名物だったかな? ノルディの行きつけの店が大イワナってヤツを仕入れたとかで」
「「「大イワナ?」」」
「そう! 普通のイワナの倍のサイズに育つと評判らしいんだよねえ、大イワナ!」
美味しかった、とソルジャーは気に入ったみたいです。でも、普通のイワナの倍に育つって、そういう品種か何かなのかな?
「それが品種じゃないんだな! 卵の段階で工夫を凝らしてあるとかで…」
「「「工夫?」」」
「らしいよ、卵を産まないイワナだってさ」
「「「はあ?」」」
そんなイワナがいるんでしょうか? 卵を産まないイワナだなんて、それじゃ絶滅しちゃいませんかね、次の世代が出来ないんですし…。
「え、絶滅って…。普通のイワナから作るらしいから、一代限りでも問題無し!」
「ああ、あれか…」
思い出したよ、と会長さんが。
「卵を産む時期にはやせ細っちゃうから、卵を産ませない方向で…、っていうイワナだよね、大イワナ。卵さえ産まなきゃ成長し続けるわけで、倍のサイズに」
「ピンポーン♪ 生簀にいるのを見せて貰ったけど、ホントに大きなイワナだったよ」
味も良かったし、とソルジャーは笑顔。
「それでね、卵を産ませないための工夫とか、色々と聞いて来たんだけれど…。素晴らしいよね、技術ってヤツは」
「まあね、食の欲求ってヤツは凄いからねえ…」
美味しいものを食べるためなら努力もするさ、と会長さん。
「今日のピザパーティーもそうだよ、あれが美味しそうだと思うのが出来たら、みんながそっちに突っ走るとかね」
あはは、そう言えばそうでした。誰かが絶品の組み合わせを作れば、アッと言う間に真似しましたっけね、みんな揃って…。
「なるほど、食の欲求ねえ…」
分かる気がする、と頷くソルジャー。
「ぼくも自分の世界ではあまり食べる気にならないんだけど…。栄養剤とお菓子だけあれば充分かな、って思っちゃうけど、こっちに来たら食べたい気持ちがグンと増すしね」
やっぱり地球の食材は違う、という話。ソルジャーが自分の世界では食事をマトモに食べないことはキャプテンからも聞いています。私たちの世界に来た時だけは食欲旺盛、それもあってキャプテンはソルジャーがせっせとお出掛けしてても止めないのだ、とも。
「君の場合は極端なんだよ、栄養バランスも考えたまえ!」
会長さんが叱りましたが、ソルジャーは。
「ぼくの世界の栄養剤ならバランスはいいよ? 実際、あれだけで生きて行けるし」
「食事というのはそういうものじゃないんだよ!」
食べて栄養を摂取することに意味がある、と会長さん。
「きちんとしっかり食べていないと、心身に影響が出て来ることもあるんだからね」
「それは分かるよ、ぼくも日頃から考えてるから」
「だったら、どうして栄養剤って発言に!」
「栄養剤は身体の栄養! ぼくが言うのは心の栄養!」
そっちが大切、とソルジャーらしからぬ台詞が飛び出しました。心の栄養って、いわゆる癒しとかリラックスとか、およそソルジャーとは縁が無さそうな気がします。それともアレかな、SD体制で苦労していると言っているだけに、実は癒しも必要だとか?
「うーん…。SD体制のせいってわけでもないんだけどねえ…。心に栄養は欲しいね、うん」
愛されているという証、と妙な言葉が。それって何?
「分からないかな、ぼくのハーレイとの満ち足りた時間! それが心の栄養なんだよ!」
そっち方面の欲求に関してはぼくは貪欲、と言われたら一発で理解したものの、放っておいたらヤバイ方向へと行きませんか?
「はいはい、分かった。栄養の話はもういいから!」
会長さんがシッシッと手を振っています。けれどソルジャーは気にもしないで。
「実はさ、心の栄養だけど…。今日のイワナで閃いたんだよ、実に素敵なアイデアが!」
「「「イワナ?」」」
「そう、食べて来たばかりの大イワナだよ!」
あれは凄い、と褒めてますけど、この話、聞いても大丈夫ですか…?
ソルジャーがエロドクターとのデートで食べた大イワナ。卵を産まないために産卵期も痩せず、普通のイワナの倍に育つという話ですが、そこからどういうアイデアが湧いて出たのでしょう?
「それはもう! 倍ってトコだよ、つまり大きさ!」
大きなサイズに憧れるのだ、とソルジャーは瞳を輝かせました。
「ぼくのハーレイ、シャングリラでは一番のガタイを誇っているわけだけど…。それに見合ったモノも持ってて、多分、一番大きいんだけど!」
「その先、禁止!」
会長さんが止めに入っても止まらないのがソルジャーで。
「いいって、いいって! このくらいは別に…。それでね、つまりはシャングリラで一番、立派なモノを持ってるんだと思うんだけど…。もっと大きくならないかなあ、って!」
「「「はあ?」」」
「アソコだよ! 大きいほどイイっていう話だから、もっと大きくしてみたくって!」
「退場!!!」
叩き付けられたレッドカード。けれどもソルジャー、鼻で笑って。
「まだまだ、話は始まったトコ! 万年十八歳未満お断りだと通じないかもだけど、男のシンボルはデカイほど立派とされていてねえ、それは素晴らしいエッチが出来ると!」
「君の場合は当てはまらないし!」
女性と一緒にしないように、と会長さんがテーブルをダンッ! と。
「何を考えたかは理解したけど、普通にケガするオチだから! でなければ痔とか!」
「そうかなあ? ヤッてみないと分からないじゃないか、とってもイイかもしれないよ?」
ハーレイのがもっと大きくなったら、とソルジャーはウットリした表情。
「奥の奥まで突っ込まれる時も、今よりもグッと奥の奥まで! イイ所への刺激もより強力に、太くなった分、パワフルに!」
「絶対、切れ痔なオチになるから!」
「三日や四日は腰が立たなくても、一時の快楽もいいものだよ!」
選ぶんだったら断然そっち、と言い切るソルジャー。
「たとえ、ぼくの世界のノルディに頼んで薬を貰う羽目になろうと、ハーレイのアソコがデカイ素晴らしさを味わいたいねえ、ぼくとしては!」
「ケガしてもいいと!?」
「それがエッチのついでならね!」
流血沙汰でも大いに歓迎、と言ってますけど、痔だの切れ痔だのと強烈ですよ…?
日頃のソルジャーの猥談のお蔭で、少しくらいは大人の時間が理解出来ている私たち。大イワナの大きさからインスピレーションを得たらしいソルジャー、キャプテンのアソコを大きくしたいらしいです。でも、本当にケガで切れ痔な世界じゃないかと思いますけどね?
「それもいいんだよ、ぼくはケガには慣れているから! 戦闘でケガすることに比べれば、大きなアソコでケガするくらいは掠り傷ってね!」
そして掠り傷を越えた先にロマンが…、とソルジャーはそれはウットリと。
「元々、少しは痛みを伴うものだしねえ? その痛みすらも吹っ飛ぶ快感! デカくなったら、快感の方もより深く!」
「…それで?」
会長さんは疲れ果てた顔でレッドカードをつついています。もはや効力など微塵も残ってはいないカードを。ソルジャーに効くわけないんですってば、レッドカードは…。
「大イワナで閃いたって言ったよ、デカくなるかもしれない方法!」
まあ聞いてくれ、とソルジャーは膝を乗り出しました。
「イワナの場合は卵を産むからやせ細るんだよ、卵を産まなきゃデカくなるってね!」
「ぼくの記憶じゃ、大イワナってヤツは雌だったんじゃあ、と思うけど?」
確か雌しかいない筈だ、と会長さん。
「卵を産めないように細工してある雌ばかりだと記憶してるよ、雄はいない筈!」
「そう聞いたけどさ、要は卵を産むのに凄いパワーが生殖器の方に集まった結果、痩せてしまうという話だし…」
ヤらなかったらハーレイのアソコもグンと大きくなるのかも、とカッ飛んだ話が飛び出しました。大きくなるって、キャプテンの場合は成長期ってヤツをとっくに過ぎていますけど…?
「試してみなくちゃ分からないじゃないか! それにさ、ヤッたらエネルギーを使うってことは本当だしね! 発射直後は萎えてるんだし、エネルギーの再充填が完了しないと出来ないし!」
発射出来ないようにしておけば色々な面で成長するかも、と斜め上な理論。
「大きさもそうだし、持ちとか硬さもグンと増すとか、期待出来そう!」
「君のハーレイはイワナじゃないから! そう簡単にはいかないから!」
それに第一…、と会長さん。
「出来ないようにして待つってことは…。その間、君も禁欲なんだよ?」
「最高のセックスを目指すためなら、ちょっとくらいの禁欲くらいは我慢出来るよ!」
天国が待っているんだからね、と主張してますけど、それってリスクは無いんでしょうか? もう絶対に成功する、と決まったわけではなさそうですが…?
卵を産まない大イワナとやらに刺激を受けて、キャプテンのアソコを大きくしようと目論むソルジャー。けれど方法も確立していないのに、万一、失敗しちゃったら…。禁欲して待った努力がパアだという気がするんですけどね…?
「それは充分、分かっているさ。だから事前に実験をね!」
「「「実験?」」」
「そうだよ、こっちのハーレイで!」
「「「ええっ!?」」」
教頭先生で実験するって、いったい何をやらかす気ですか、大イワナの真似とかいうヤツで?
「実験と言っても人体実験とはかなり違うね、ハーレイはお風呂に入るだけだし」
「「「お風呂?」」」
「うん、お風呂。大イワナが卵を産まなくなる理由はお風呂なんだよ」
「おい、本当か?」
騙されていないか、とキース君が突っ込みました。
「イワナなんぞを風呂に入れたら死ぬんじゃないかという気がするが…。あれは渓流の魚の筈だぞ、冷たい水を好みそうだが?」
「その辺はどうか知らないけれど…。大イワナについて聞いた話はお風呂だったよ、これは絶対、間違いないから!」
ねえ? とソルジャーの視線が会長さんに。
「大イワナの話、ブルーも知ってるみたいだし? 作り方だって知ってるよねえ?」
「…あれをお風呂と言うのであればね」
「マジかよ、マジで風呂なのかよ!?」
サム君が驚き、マツカ君も。
「…イワナが煮えてしまいませんか? お風呂だなんて…」
「ぼくも温度が何度なのかは知らないからねえ、人間から見てお風呂と言えるかどうかは分からないけど…」
でもお風呂だと言われればお風呂、と会長さんの答え。本当にイワナがお風呂に入ると?
「正確に言えば、イワナじゃなくって卵だけどね」
「「「卵!?」」」
それは魚のイワナよりも熱に弱そうな感じですけれど? 卵なんかをお風呂に入れたら煮えそうですけど、本当にお風呂なんですか…?
「お風呂と言うより温水なんだよ、だから温めの水じゃないかな」
その辺りは企業秘密であろう、と会長さん。大イワナは名物として売り出すだけあって、そのノウハウは秘中の秘。こういう風にして作るのだ、としか一般人には分からないとか。
「ぼくやブルーなら技術はサイオンで簡単に盗めるけどねえ、たかがイワナの養殖方法、そこまで極める必要も無い。とにかく温水、ここがポイント!」
「らしいよ、卵の間に温水に一定の時間、浸けておいたら生殖能力が無くなるとかでさ…。それで卵を産まないイワナが出来るってわけ」
だからハーレイにもお風呂に入って貰うべし! とソルジャーはブチ上げましたけれども。
「あのう…。生殖能力が無くなるっていうのはヤバくないですか?」
シロエ君が恐る恐るといった風で。
「この手の話に首を突っ込みたいとは思わないんですけど…。生殖能力が無くなるとしたら、この先、大いに困りませんか?」
「平気だってば、無くなるわけがないからね! ハーレイはもう卵じゃないから!」
充分に成長してるんだから、とソルジャーからの反論が。
「アソコが一時的に休眠状態とでも言うのかな? ヤらずにパワーを溜め込む方へと!」
そしてビッグなサイズに変身、とソルジャーは自説を滔々と。
「大きなサイズに成長するのか、それとも持ちが良くなるか…。あるいは硬さがググンと増して、もうビンビンのガンガンになるとか、きっとそういう方向なんだよ!」
「…そうでしょうか?」
まだ食い下がるシロエ君。けれども気持ちは分かります。万一上手くいかなかったらソルジャーがキレて当たり散らすとか、大暴れだとか、大いにありそうな展開ですし…。
けれど。
「ぼくはいけると踏んでるんだよ、だけど禁欲期間もあるしね…。まずは実験、適切な温度を見付け出したら、それからぼくのハーレイで!」
「本気なのかい?」
会長さんが些か呆れた顔で。
「こっちのハーレイで実験するって、あのハーレイを毎日お風呂に入れるって?」
「もちろんさ! 何度くらいのお風呂がいいのか、それをしっかり確認しなくちゃ!」
せっかく同じ顔と身体のハーレイがこっちにいるんだから、とソルジャーはやる気満々です。教頭先生をお風呂に入れる実験らしいですけど、どうやって適温を見付け出すと…?
イワナの卵を温水とやらに突っ込んでおくと、生殖能力が無くなってしまって卵を産まないイワナが誕生。生殖器にパワーがいかなくなる分、普通のイワナの倍に育って大イワナ。それをキャプテンに応用したい、とソルジャーは力説しているわけで。
「ハーレイに丁度いい音頭を見付け出すには、お風呂の温度を変えるトコから! ハーレイの家のお風呂も、お湯の温度はちゃんと調節出来るよねえ?」
「そりゃ出来るけど…。無駄に凝ってるバスルームだから、バスタブのお湯の温度調節も細かいけれど…」
腹立たしいことに、と唸る会長さん。なにしろ教頭先生ときたら、会長さんとの結婚生活を夢見てバスルームにも凝っているのです。いつ会長さんが入りに来たって大丈夫なようにボディーソープやシャンプーを揃え、バスルームそのものも快適に。
「うんうん、そのお風呂、今夜から大いに役立つってね!」
「「「今夜から!?」」」
「決まってるじゃないか、善は急げと言うんだろう?」
もう早速に今夜からだ、とソルジャーは拳を握り締めています。
「まずはハーレイに話を通して、ぼくがお風呂のお世話をね!」
「なんだって!?」
会長さんが悲鳴に近い声を上げました。
「お風呂の世話って、何をする気さ!? まさか一緒に入るとか…!」
「入りはしないよ、それじゃ勢いでヤッてしまってどうにもこうにも…。もっとも、勢いでヤリたくってもヤることが出来ない休眠状態を保つ温度を探すんだけどね」
それと時間と…、と指を折るソルジャー。
「この温度のお風呂にこれだけの時間、浸けてみました、っていう実験だから! その結果としてハーレイがサカるかサカらないかが問題で!」
「サカるって…?」
あまり訊きたくないんだけれど、と顔を顰める会長さん。
「それはどういう状態なのかな、君の姿で欲情するかどうかって意味だったりする?」
「それに近いね。ぼくはお風呂の世話をした後、さっさと姿を消すんだよ。ヤリたくなってもヤれないからねえ、孤独に寂しく噴火するしかないってね!」
せっせと一人で寂しく噴火、とソルジャーはニヤリ。
「今でも孤独にやっているけど、それをやらない夜が来たなら、それが適温! 適切な時間!」
ハーレイを浸けるのにピッタリのお風呂、という話ですが。ソルジャー、本気でそれを探すと?
「本気に決まっているってば! もう最高のプロジェクトだから!」
ハーレイのアソコが立派に変身を遂げるのだ、とソルジャーの思い込みは至って激しく、もはや実験あるのみといった様相です。会長さんがフウと溜息をついて。
「…その計画。君が一人でやるんだろねえ、ぼくは手伝わないからね?」
「手伝って貰おうとも思わないけど…。監視はした方がいいんじゃないかな、万一ってこともあるからね」
「万一?」
「ハーレイがサカる前に逃げようと思っているけど、ぼくがウッカリその気になるとか」
ちょっと味見をしたくなるとか…、とソルジャーの舌が自分の唇をペロリ。会長さんは震え上がって、「それは困る!」と抗議の声を。
「ただの実験だと言ったじゃないか! そんな方向に行くんだったら止めるから!」
「ほらね、止めたくなるかもしれない。だからさ、一応、監視ってことで覗き見をね。今日は初日だから、シールドに入って見学するのをお勧めするよ」
そこのみんなも一緒にどうだい、とソルジャーからのお誘いが。教頭先生のお風呂なんかは誰も見たいと思いませんから、我先に断ったんですけれど。
「遠慮しておく! 俺は覗きの趣味は全く無いからな!」
「ぼくもです! それに教頭先生だったら、柔道部の合宿で一緒にお風呂もありますからね」
キース君とシロエ君を筆頭に懸命に逃げを打ったんですけど、私たちは見事に忘れていました。ソルジャーは天邪鬼だという事実を。逃げれば逃げるだけ追い掛けて来て強引に引っ張り戻され、巻き込まれるという傾向を。つまり…。
「ふうん…? そんなに遠慮をされてしまうと、なんだか申し訳ないねえ…」
「いや、かまわん! 気にしないでくれ!」
俺たちのことは忘れてくれ、とキース君が必死に断っているのに、ソルジャーは。
「それじゃ、ぼくの気が済まないよ。是非とも見学に来てくれたまえ!」
遠慮しないで今夜だけでも、と有無を言わさぬ命令が。
「ぼくの素敵なお風呂プロジェクト、見学しないって手は無いだろう? ぶるぅかブルーにシールドして貰って、今夜は楽しく見学をね!」
「かみお~ん♪ ハーレイのお家に行くんだね!」
ぼく、頑張る! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は大はしゃぎです。何も分からないお子様っていいな、と思いますけど、既に手遅れ。でもまあ、教頭先生のお風呂見学だけなんですから、普段のコースよりかはマシかな…。
夕食はボリュームたっぷりステーキ丼。熱々のガーリックライスの上に焼き立てステーキ肉が何切れもドッカンと。クレソンも添えられ、ソースも美味で。
「いいねえ、地球の肉はやっぱり違うってね!」
力が湧いてくるんだよね、と頬張るソルジャー。ステーキ丼で元気一杯、教頭先生の家に殴り込みだか実験だかにお出掛けしようと意気盛ん。
「最初は何度にしておこうかなあ、お風呂の温度」
「さあねえ? 長く浸けたいなら温めがお勧め、短くするなら熱めだけれど?」
会長さんが半ばヤケクソといった体で答えると、ソルジャーは。
「それじゃ温めでいこうかな? 初日はゆっくり、じっくりとね!」
「ハーレイの普段の入浴時間は知っているわけ?」
「知らないよ? その辺はハーレイに訊いてみないと…。温度の方はバスルームを見れば分かるんじゃないかな、ハーレイ好みにしてあるだろうし」
その温度よりも低めに設定してみよう、というのがソルジャーの計画。ついでに今夜は長湯の方向、温めのお湯にゆっくり、じっくり。
「記録もきちんと取らなくっちゃね、何度のお湯に何分浸けた、と」
「好きにしたまえ、実験するのは君だから」
「もちろんだよ! ハーレイがサカらなくなる適温と時間、必ず見付けてみせるから!」
応援よろしく、と言われましても、私たちは言わば部外者です。シールドの中から応援も何も、そもそも教頭先生からは姿なんか見えていませんってば…。
教頭先生のアソコが休眠状態に陥ってしまうお風呂の温度と入浴時間とを見付け出す計画、ソルジャーは思い立ったが吉日とばかり今日から実行するつもり。夕食が済むとサイオンで教頭先生の家を窺い、「よし!」と一声。
「ハーレイの食事も済んだようだし、出掛けようか。ブルー、用意はいい?」
「…仕方なく…だけどね」
「かみお~ん♪ しゅっぱぁ~つ!!」
パアアッと青いサイオンが溢れ、私たちの身体がフワリと浮いて。瞬間移動で教頭先生の家のリビングへと飛び込みましたが、ソルジャー以外はシールドの中。ソルジャーだけがニッコリと。
「こんばんは。お邪魔するよ」
「こ、これは…! 直ぐにお茶を用意いたしますので…!」
紅茶でよろしかったでしょうか、と教頭先生はいそいそと用意。買ってあったらしいフィナンシェまでが出て来ました。自分は甘いものが苦手なくせして、こういうお菓子が置いてある辺り、会長さんの来訪を待ち侘びているのが分かります。
「悪いね、ブルーの方じゃなくって」
「いえ、ブルーは一人では来てくれませんし、おいで下さって嬉しいです」
それで御用は…、と教頭先生。
「今日は私服でいらっしゃいますが、何処かへお出掛けでらっしゃいましたか?」
「うん、ちょっと…。ノルディと食事に行ったんだけどね、其処で食べたイワナで閃いたことがあったから…」
「イワナですか?」
「そう、イワナ。美味しかったよ、イワナ尽くしで」
それでね…、とソルジャーは教頭先生の顔を見詰めて。
「そのイワナが特別なイワナだったというわけ! 普通のイワナの倍に育つと評判の!」
「大イワナですね、聞いたことならありますよ。まだ食べたことは無いのですが…」
「本当かい? だったら話が早くて助かる。ちょっとね、君の大事な部分を大イワナみたいにビッグサイズに育てたくってね…」
「は?」
キョトンとしている教頭先生。そりゃそうでしょう、大イワナとアソコのサイズなんかは普通じゃ絶対、繋がりませんって!
「君は大イワナが出来る仕組みは知らないのかな? 普通のイワナの卵に細工をするんだけどね」
「すみません、私は生物の教師ではありませんので…」
古典ですので、と教頭先生は大真面目。アソコがどうとかというアヤシイ部分は聞き逃したか、意味が全く掴めてないかに決まっています。
「ぼくもそれほど詳しくないけど、生殖器に集まるパワーを止めれば倍のサイズに育つらしいよ。卵を産まなくしてやれば」
「ほほう…。あれはそういう仕組みでしたか、一つ勉強になりました」
「勉強ついでに、君も成長してみないかい? アソコに集まるパワーを止めれば、止められたパワーがググンと溜まってサイズがグンと大きくなるかもしれないよ?」
君の大事な部分だよね、とソルジャー、ニッコリ。
「サイズが大きくならなくっても、持ちがとっても良くなるとか! あるいは硬さがグンと増してさ、もうビンビンのガンガンだとか!」
「あ、あのう…。わ、私の大事な部分というのは…」
「もちろん君の息子だよ! 君の分身とか、君自身だとか、言い方の方は色々あるねえ!」
それを大きく育ててみよう! とソルジャーは瞳を煌めかせて。
「イワナの場合は卵の間に一定の時間、温水に浸ければ生殖能力が無くなるらしい。君のアソコも休眠状態に入る温度とか時間があるんじゃないかな、それを見付けてパワーアップ!」
「は、はあ…。ですが…」
「それを使うアテが無いってことかい? いつかは出番が来ると思うよ、ブルー相手に!」
結婚した時に生かしたまえ、と煽りにかかっているソルジャー。
「ぼくがキッチリ記録を取るから、データはきちんと残るんだ。ブルーと結婚した暁には、たまに休眠状態に! そして目覚めてパワフルに攻める!」
「…ぱ、パワフル…」
「いいと思うよ、大きさが増しても、持ちや硬さが増してもね!」
ブルーも大いに悦ぶであろう、と会長さんそっくりのソルジャーがせっせと勧めるのですし、教頭先生がその気にならないわけがなく…。
「そうですか、ブルーが喜びますか…」
「そこはバッチリ、保証するってね! ぼくはこの道、長いんだよ?」
パワフルなアソコは男の最大の魅力なのだ、と強調されると、教頭先生はもうフラフラと。
「良さそうですねえ…」
「良さそうだろう?」
だから是非とも協力をね…、とソルジャーの笑みが。教頭先生、大きく頷いちゃってますよ~!
教頭先生のアソコが休眠状態になる温度と時間。ソルジャーは「今日から当分、お風呂で実験!」と言い放ちました。
「今日は温めのお湯で行こうと思うんだよ。時間も長めで」
「長湯ですか…」
「お湯はこれから張るトコだよね? ぼくが調節してもいいかな、お風呂の温度を少し低めに」
「ええ、お任せします」
どういう実験だかイマイチ分かっていないらしい教頭先生、ごくごく普通の顔付きです。ソルジャーはいそいそとバスルームに向かい、お風呂の用意をして来たようで。
「お湯が張れたら、君に入浴して貰うけど…。実験の内容が内容だけにね、ぼくからのサービスが毎日つくから!」
「サービス…ですか?」
「そう! 背中を流してあげるわけだよ、ぼくが腰タオル一枚で!」
「ちょ、ちょっと…!」
会長さんが叫んだものの、シールドの中だけに声は届かず。代わりにソルジャーの思念が送られて来て…。
『平気だってば、腰タオル一枚は演出だから! 下着はちゃんと着けておくから!』
「そ、それならいいけど…」
『そのくらいやって煽らないとね、単にお風呂に入れただけでは駄目なんだってば!』
サカるかどうかを見極めないと…、と思念は其処でブッツリと。ソルジャーは教頭先生に愛想のいい笑みを浮かべてみせて。
「ぼくの姿で興奮してもね、アフターケアは無いんだな。ぼくは実験をしているだけだし、君の相手をしに来たわけじゃないからね。だけど毎日、背中を流してあげるから!」
「そ、それはどういった意味なのでしょう…?」
「えっ、意味かい? 普通だったら君は興奮、ぼくが帰った後はせっせと抜かなきゃいけないわけだけど…。それをしなくてもいい日が来たなら、それが休眠状態なんだよ!」
その時のお風呂の温度と入浴時間が肝になるのだ、とソルジャー、ニッコリ。
「休眠状態になるお風呂ってヤツを見付け出したら、継続あるのみ! アソコが日に日に大きく育つか、パワーが溜まって持ちが良くなるか…」
「でなければビンビンのガンガンというわけですね!」
「そうなんだよ!」
二人で頑張って見付け出そう! とソルジャーが教頭先生にパチンとウインク。教頭先生もすっかり乗せられ、チャレンジする気でらっしゃいますねえ…。
やがてソルジャーがバスルームを見に行き、満面の笑顔で戻って来て。
「ハーレイ、お湯が入ったよ!」
「では、行きましょうか」
「君の普段の入浴時間はどのくらいだい? それよりも五分ほど長めにしようか、今日の所は」
語らいながらバスルームに向かった教頭先生とソルジャー、実験とあってアヤシイ会話も炸裂しないみたいです。教頭先生が脱いでいる間、ソルジャーは「まだかい?」と声掛けのみで。
「お待たせしました。…もう入ってもいいですか?」
「ああ、掛かり湯を忘れないでよ?」
「もちろんです!」
教頭先生がバスタブに浸かると、ソルジャーは何処からか取り出したストップウォッチで計測開始。まだ腰タオル一枚ではなくて服を着たまま、のんびり計って。
「あと三分って所かな? ぼくが合図をしたら上がって、それから背中を流すってことで!」
「は、はい…!」
楽しみにお待ちしております、と返した教頭先生にクルリと背中を向けたソルジャーは服を脱ぎ捨て、腰にタオルを。会長さんとの約束通りに下着は着けているんですけど…。
「実験終了~! さあ、上がって!」
ゆっくり背中を流してあげる、と現れたソルジャーの姿に教頭先生は耳まで真っ赤。ソルジャーが背中を流す間もドキドキらしくて、時々、鼻の付け根を押さえていたり…。
「うーん…。今日の温度と時間じゃ休眠しないかな?」
元気モリモリって所かな、とソルジャーが何をやらかしたのかは知りませんけど、教頭先生、鼻血がツツーッと。
「す、すびばせん…!」
「いいって、いいって。まだまだ明日も明後日も…ね」
休眠状態になれる温度と時間がバッチリ分かる時まで頑張ろう! とソルジャーは本気。教頭先生に「また明日ね」と手を振った後は、私たちと示し合わせて会長さんの家に戻って…。
「うーん…。やっぱり今日はサカッているねえ…」
寝室で孤独に頑張ってるね、と大きな溜息。
「当たり前だろ、あの状態だと!」
会長さんが怒鳴りましたが、ソルジャーの方は。
「だけど絶対、ある筈なんだよ! 休眠状態になるってヤツが!」
それを見付けてパワーアップ! と闘志満々、これって当分、続くんですよね…?
ソルジャーと教頭先生のお風呂での実験は条件を変えては毎日、毎晩。会長さんも最初の内こそ危機感を抱いて監視していたようなのですけど、まるで危険は無いらしくって。
「平和なものだよ、ハーレイとブルー。昨日も背中を流していただけ」
とある土曜日、会長さんからの定例報告。
「うーん…。休眠状態なんていうのがあるのかなあ?」
イワナじゃなくって人間だけど、とジョミー君。
「さあなあ…。俺もサッパリ見当が付かんが、あったとしてもだ…」
あいつが言うような効果があるのか、とキース君が。
「「「…さあ…?」」」
無いんじゃないの、と言いたい所が本音でしたが、ソルジャーに逆らうと後が怖いと知っているだけに言えません。そしてその夜、会長さんの家でお泊まりだ、と寛いでいると。
「発見したよーっ!」
ついに休眠状態だよ、とソルジャーが瞬間移動で飛び込んで来ました。
「とうとうハーレイがサカらない温度と入浴時間を発見したんだ、これで完璧!」
「間違いないと言えるのかい?」
偶然ってことも…、と会長さんが指摘すると。
「だから明日からデータの裏付け! 毎日これが続くようなら、使えるデータに間違いないよ!」
アソコが眠ってパワーアップをするデータ、とソルジャーは頭から決めてかかって…。
「…あれって結局、どうなったわけ?」
ジョミー君が尋ねた、一週間後の土曜日のこと。会長さんの家に集まってリンゴのシフォンケーキを頬張る私たちに向かって、会長さんが。
「休眠状態をキープしたまま、昨日まで続けていたけどねえ…。これは使えると判断したみたいで、この週末が終わった後はあっちで実践するようだよ」
「すると本気でやらかすつもりか…」
効くんだろうか、と首を捻っているキース君。ソルジャーが実践するのはかまいませんけど、キャプテンは本当にパワーアップをするんでしょうか?
「どうだかねえ…。ぼくが思うに、イワナじゃないから休眠するだけ?」
「「「休眠するだけ?」」」
どういう意味だ、と会長さんの方に視線を向ければ。
「あえて言うなら開店休業? こう、使い物にならないと言うか、何と言うか…」
「それはEDとか言わないか!?」
キース君の叫びに、会長さんが「まあね」と遠い目を。
「でもまあ、ものは考えようだし? 禁欲明けに一発ヤッたら新鮮なのかもしれないからさ…」
それならパワーアップと言える、という話ですが、どうなんでしょう? ソルジャー、わざわざキャプテンをEDにしたと知ったらキレそうです。どうか真実に気付くことなく、禁欲明けを満喫して欲しいものですが…。どうなりますかね、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…。
特別なイワナ・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
卵を生まないイワナは大きくなる、と知ったソルジャーのアイデアでしたけど…。
実験台にされた教頭先生、EDになっただけのようです。ソルジャーは大満足ですけどね。
次回は 「第3月曜」 9月16日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、8月は、恒例のお盆。スッポンタケの棚経ですけど、今年は…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
「クシャン!」
学校から帰って部屋に入った途端に、クシャミが一つ。立て続けには出なくて、一回きり。
制服を脱いで着替える間も、クシャミは一度も出なかったけれど。
(…風邪引いちゃった?)
ちょっと心配、とブルーは壁の鏡を覗いてみた。大きく口を開けて。喉は赤くないし、今の所は痛みも痒いような違和感も無い。風邪の兆候か、ただのクシャミか、難しい所。
風邪を引いていたクラスメイトは誰もいなかったし、バスの中にもいなかったと思う。けれども少し心配ではある、クシャミがたった一回きりでも。
(…本物の風邪だと、これからクシャミ…)
それに始まって喉が痛み出して、その内に熱も。そうなったらもう、寝込むしかなくて。
前と同じに虚弱に生まれた身体は無理が利かないのだから、欠席するしかない学校。ハーレイが教師をしている学校。ハーレイに会えるチャンスを失くしてしまう欠席。
(風邪を引いちゃったら、ホントに大変…)
クシャミの間に治さなければ、と決心した。風邪でなくても何かのはずみにクシャミは出たりもするけれど。そういうクシャミだと油断していて、本物の風邪にはなりたくないから。
帰ったら食べに行くおやつ。階段を下りて、ダイニングまで。覗いてみたら、ちゃんとケーキがあったけれども、その前に風邪を退治しようと向かったキッチン。
(金柑…)
貯蔵用の棚に置いてある瓶。ハーレイの母が作った金柑の甘煮がビッシリ詰まっている。隣町に住むハーレイの両親の家の庭で実る金柑、それをハーレイの母がコトコト煮込んだ甘煮。
風邪の予防にいいのだから、とハーレイが持って来てくれた。夏ミカンのマーマレードは両親も食べているのだけれども、金柑の甘煮はブルー専用。両親はつまんだりしない。
その瓶を開けて、金色の実をスプーンで掬って小皿へと。
(三つくらいかな…?)
クシャミは一回きりだったのだし、一粒でいい気もするけれど。二粒で充分効きそうだけれど、念のために三つ。金柑の甘煮が減って来たなら、またハーレイがくれるのだから。
(そっちの方がお得だよね?)
前に大事にし過ぎて食べなかったら引いた風邪。ハーレイに「馬鹿」と叱られた。金柑の甘煮は毎年沢山作るのだから、いくらでも持って来てやると。それなら食べて減らした方が…。
(また貰えるんだよ、金柑の甘煮)
ハーレイの両親からのプレゼントを。自分のことを「新しい子供が一人増えた」と喜んでくれた優しい人たちからの贈り物を。ハーレイの両親は、いつか自分たちが結婚すると知っているから。
甘いけれども、ほろ苦い金柑の甘煮。一粒ずつ口に運んで噛み締め、味わって食べた。ついでに甘煮が浸かったシロップ、それもスプーンに一杯分を掬って湯呑みに。
(お湯で薄めて…)
飲めば効くのだとハーレイに聞いた。金柑のエキスがたっぷり溶け込んだシロップだから。薬を薄めて飲むようなもので、ハーレイの両親はもっと簡単な方法で作っているらしい。
(金柑入りの薬缶って言った…?)
専用の小さな薬缶に金柑の実を幾つか入れて、砂糖を加えて煮ておくだけ。溶け出したエキスをお茶の代わりに飲むのだという。
(こんな味かな?)
同じ味だと嬉しいんだけどな、と薄めたシロップを飲んでいた所へ入って来た母。
「あら、金柑のシロップ、飲んでるの?」
金柑もちゃんと食べたみたいね、幾つ食べたの?
「三つ…。さっきクシャミが出ちゃったから」
だけどクシャミは一回だけだよ、風邪じゃないとは思うけど…。念のために、って。
「いい心掛けだと思うわよ。用心するのが大切なんだし」
やっと風邪を引くのに懲りたかしら、と母は可笑しそうにクスクスと笑った。
おやつを食べに来ないと思ったら、おやつの前に金柑だなんて、と。
(バレちゃってるよ…)
金柑の甘煮を大事にし過ぎていちゃったこと、とダイニングのテーブルでついた溜息。ケーキを食べながら、さっきの母の顔を思い返して。
ハーレイに金柑の甘煮を貰ったまではいいのだけれども、食べずに何度か引いてしまった風邪。ほんの少しの喉の痛みで食べるのは惜しいと取っておいたり、重ねた失敗。
風邪を引く度、「ちゃんと食べろと言っただろうが」とハーレイに叱られたり、睨まれたり。
予防のためにと渡してあるのに、どうしてお前は食べないのかと。
(でも…)
金柑が減るのが惜しかったことも大きいけれども、寝込んでしまったらハーレイの野菜スープが飲めるから。前の自分が好きだったスープ、それを作って貰えるから。
まるっきり損だというわけではない、学校で会えなくなるというだけ。教師としてのハーレイに会えない、それだけのこと。大抵の時は、ハーレイはスープを作りに来てくれるから。
(…学校で会えないのは、惜しいんだけど…)
ハーレイの授業がある日だったら、手を挙げれば当てて貰えたりする。教師と生徒でも、会話は会話。質問に答えるだけであっても、ハーレイと一対一で話せる。楽しい雑談もきっと聞けるし、魅力的なハーレイの古典の授業。
それが無い日でも、何処かで会える。チラリと姿を見掛けるだけでも、挨拶だけでも。
運が良ければ立ち話を少し、昼休みなどに。もっと運が良ければ、柔道着のハーレイとバッタリ出会えたりする、朝に登校した時に。
学校に行ったら会えるハーレイ、学校でしか会えない教師のハーレイ。
そういう姿も大好きだったし、「ハーレイ先生」に会える学校は貴重な場所なのだけれど…。
学校もいい、と分かっていたって、ハーレイが作る野菜スープが飲みたくなる。
何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけで煮込んだスープ。素朴で優しい、滋味深いスープ。今ではお洒落に「野菜スープのシャングリラ風」などと呼ばれているそれ。
あの味が欲しくて、たまに引きたくなってしまう風邪。
金柑の甘煮もパクパク食べるには惜しい気がして、やっぱり大事にしてしまう。風邪の予防にと毎日食べるなど、とんでもない。いざという時にだけ食べれば充分。
(だけどハーレイにはバレちゃってるし…)
金柑の甘煮を惜しがることも、スープが欲しいと機会を狙っていることも。
風邪を引いたら「またか」と叱られるに決まっているから、今日は早めに食べた金柑。ちゃんとシロップも飲んでおいたし、きっと効き目があることだろう。
(金柑、三つも食べたんだから…)
風邪は退散、とケーキをパクリと頬張った。ケーキで栄養も可笑しいけれども、エネルギーにはなる筈だから。金柑で風邪をきちんと治して、ケーキで栄養補給なんだよ、と。
おやつを食べ終えて、戻った部屋。入ってもクシャミは出なかった。
(うん、平気かな?)
学校から戻って直ぐのクシャミだけ、あれっきりクシャミはしていない。おやつの間も、部屋に戻っても出て来ないクシャミ。
たまたまクシャンと出ただけだったか、風邪の兆候だったのか。分からないけれど、クシャミが何度も出ないからには風邪を引いてはいないのだろう。引きかけていても治った風邪。ハーレイの母が作った金柑の甘煮を食べたお蔭で。
もう大丈夫、と本を読んでいたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが来てくれたから、自慢した。風邪だったかもしれないけれども、もう治ったと。
「ちゃんと金柑、食べたんだよ。クシャミは一回だけだったけれど、三つもね」
シロップも薄めて飲んでおいたよ、だからクシャミは出てないし…。
いつもハーレイに叱られてるから、今日は早めに食べておいたよ。
「そいつは素晴らしい心掛けだな」
風邪は引き始めが肝心だからな、引いたかもしれん、と思った時には金柑だ。
「でしょ?」
怪しいな、って思ったから…。ただのクシャミってこともあるけど、用心しないと…。
風邪を引いちゃったら、また学校を休んじゃうことになっちゃうもの。
金柑の甘煮を惜しがらずに食べたことを、ハーレイは「偉いぞ」と褒めてくれたから。
「いつもその調子だといいんだがな」と頭をクシャリと撫でてくれたから、嬉しくなった。
(…食べて良かった…)
こうしていても、やはり出ないクシャミ。風邪は本当にすっかり治ってくれたのだろう。早めに食べて正解だった、と金柑の味を思い出す。食べるお薬、と。甘いけれども、ほろ苦い甘煮。
その金柑をくれたハーレイと楽しく話している途中で気が付いた。
(あれ…?)
前に風邪を引いた時、ハーレイが作ってくれた風邪引きスペシャル。白いシャングリラの頃にはそういう名前は無かったけれども、野菜スープにとろみをつけて溶いた卵を入れたもの。
前の自分も馴染んでいた味、喉が痛い時には作って貰った。卵が貴重だった頃から。自給自足の生活を始めて、鶏の卵がまだ充分には無かった頃から。「ソルジャーだから」と卵を一個。
それはともかく、「俺のおふくろの風邪引きスペシャルなんだ」と出て来たお粥。鶏のささみと白ネギにニンニク、生姜も入った優しい味。鶏のスープでコトコトと炊いた、ハーレイの母の風邪引きスペシャル。
ハーレイの母がそういうレシピを持っているからには、ハーレイも風邪を引くわけで…。
そうでなければ、風邪引きスペシャルはきっと存在しないだろう。作る必要が無いのだから。
けれど、丈夫に見えるハーレイ。風邪などは縁が無さそうだから。
(…なんで風邪引きスペシャルなわけ…?)
風邪を引きやすい自分ならばともかく、と質問してみることにした。まずは風邪から、と。
「えーっと…。ハーレイは風邪は引かないの?」
風邪を引いたって言ってたことは無いけど、ぼくと違って風邪は引かない…?
「引かないが?」
見れば分かるだろう、風邪を引きそうに見えるのか、俺が?
日頃からきちんと鍛えているんだ、酷い風邪が流行っているような時でも、まず引かないな。
「…でも、ハーレイのお母さんの風邪引きスペシャル…」
そう言ってお粥を作ってくれたよ、ぼくが風邪を引いてしまった時に。
鶏のささみが入ったヤツだよ、ハーレイのお母さんの風邪引きスペシャル。それがあるんだし、ハーレイも風邪を引いてたのかと思ったんだけど…。
「なんだ、そいつか。…それはまあ…。ガキの頃には無茶もするしな」
風邪だって引くさ、いくら頑丈に出来ていたって。物事には限度ってヤツがあるんだ。
「無茶って…。ハーレイ、子供の頃から鍛えてたんでしょ?」
柔道も水泳もやってた筈だよ、それなのに風邪を引いちゃったの?
「引いちまったな、冬の最中に川に入った時のが一番酷かったか…」
鍛えるために入ったんなら、心構えが出来ているから引かないが…。上がった時にも、ちゃんと着替えを用意してあるし、大丈夫なんだが…。
聞いたことはないか、寒稽古ってヤツを。冬の寒い時期に川に入るってヤツだな、武道で。
水泳の方でも寒中水泳っていうのがあるだろ、ああいうのなら俺もやってたが…。
「冬に川って…。泳いだりもするって、聞いたことならあるけれど…」
それをやっても平気なハーレイが、なんで風邪を引くの?
おんなじように川に入っただけでしょ、ハーレイ、いったい何をやったの…?
聞いただけでも風邪を引きそうな寒稽古だの、寒中水泳だの。そういったもので鍛えていたのにハーレイは風邪を引いたと言うから、興味津々で尋ねてみたら。
「…笑うなよ? 本当に無茶の極みって言うか、馬鹿としか言いようのない話だからな」
親父と一緒に釣りに行ったんだ、冬の川にな。雪がちらつくような日だったんだが…。
俺は魚がまるで釣れなくて、ふと覗き込んだら魚はいるんだ、デカイ鯉とかが。
網で掬ったら獲れるだろうな、と網を持って川に入ってだな…。もちろん最初は浅い所だ、靴を脱いでズボンの裾をまくって入れる程度の。
ところが魚は逃げるわけでだ、そいつを夢中で追い掛けていて…。気が付いたら首まで浸かっていたのさ、魚を待ち構えようと川の中にドッカリ座り込んで。
「座ってたって…。冷たい川に首まで浸かって?」
「魚の動きをしっかり見るなら、その方がいいと思ったんだよなあ…」
それで掬おうとしたわけなんだが、親父の雷が落ちたってな。何をしてるんだ、と。
直ぐに上がれと叱られたものの、着替えなんかは持っちゃいないし…。服はビショ濡れで冷たいだけだし、風邪を引くしかないだろうが。
親父の上着を着せて貰っても、俺のズボンとかは何処にも無いんだから。
濡れ鼠になったハーレイは三日間ほど寝込んだらしい。ハーレイの父が家へと急いだ車の暖房も役に立たなくて、身体がすっかり凍えてしまって。
「ハーレイ、凄すぎ…。それでも三日で起きられるなんて」
たったそれだけで、酷い風邪が治ってしまったなんて。
「そうか? 単に冷えちまっただけだしなあ…」
熱さえ下がれば、どうってことは…。こじれちまったら大変だったろうが。
「ぼくなら何日も寝込んじゃうよ! 三日じゃ、とっても起きられないよ!」
一週間で済めばいいけど、二週間くらいは寝ていそう…。
その前に川には入らないけど。冬の寒い時に川に入るなんて、足だけでも風邪を引いちゃうよ。
「まあ、そうだろうな。お前だったら」
しかしだな…。足を浸けただけで風邪を引きそうなヤツは、お前くらいなものじゃないか?
ガキってヤツは丈夫なもんだぞ、お前の友達はどうなんだ。
その程度で風邪を引きそうな感じか、と尋ねられてみれば、自分の周りにも頑丈な身体の友達。
真冬でも薄着をしている友人もいれば、真冬の川に自転車ごと落ちたと笑っていた友人。怪我はしたけれど、風邪など引いてはいなかった。怪我だってほんの掠り傷で。
「…ホントだ、みんな丈夫だね…」
自転車ごと川に落ちた子だって、風邪は引いてないよ。浅い川だけど…。
でも、濡れたのは濡れたんだろうし、ぼくだったら、やっぱり風邪を引くと思う…。
「お前が弱いというだけのことだ、ガキは本来、丈夫なもんだ」
多少の無茶なら風邪など引かんし、「子供は風の子」と言うだろうが。
お前が昔と変わらないだけだ、前のお前だった頃とそっくり同じに弱い身体で。
もっとも、耳は普通に聞こえてるんだし、お前の身体も前よりは立派になってるわけだが…。
ミュウも丈夫になったもんだぞ、と笑みを浮かべているハーレイ。
前の俺たちが生きた頃とはまるで違って、と。
「…そうだっけ?」
医学が進んだってだけのことじゃないの、今の時代ならリオだって喋れるようになるんだよ?
ヒルマンの腕だって、今は本物の自分の腕を作って貰えるんだし…。
だから丈夫に見えるだけじゃないの、病気だって簡単に治せるものね。
「医学の進歩ってヤツは認めるが…。それだけじゃないぞ」
考えてみろよ、シャングリラの中はどうだった?
あの船に風邪はあったのか、うん…?
「風邪は…。ぼくも引いてたし、普通にあったよ」
ハーレイの野菜スープに風邪引きスペシャルがあったくらいだもの、風邪はお馴染み。
酷い感染症とかは無かったけれども、風邪くらいはね。
「ほら見ろ、あの船でさえも引いていたんだ、風邪を」
お前が普通だと言ってるくらいに風邪を引いてた、それほどにミュウは弱かったんだ。
「えっ? 弱いって…」
風邪だよ、風邪は今でも普通にあるよ?
今のハーレイだって子供の頃に引いちゃったんだし、前のぼくたちだって風邪くらい引くよ。
「いいか、前の俺たちが暮らしていたのはシャングリラだぞ?」
名前の意味でのシャングリラじゃない、あの船の性質を考えてみろ。
前の俺たちにとってはシャングリラが世界の全てだったし、あの船の外に居場所は無かった。
何か起こっても避難場所など無かったんだぞ、どういう風にしてたんだっけな…?
外界からは完全に切り離されていた、とハーレイが指摘する通り。
新しい仲間の救出に向かった者たちは医療チェックを受けたし、救出に使われた小型艇は消毒。
それ以外にも、シャングリラの中は定期的に消毒されていた。外の世界から感染症などが入って来ないよう、入ったとしても未然に食い止められるよう。
「そうだったっけね…。神経質なほどにやっていたよね、消毒とかを」
格納庫なんかは特に厳しくやっていたっけ、外から直接、小型艇が戻って来るんだから。
「分かったか。…あれだけやってりゃ、普通は風邪を引かないぞ」
前の俺たちの頃はともかく、今の時代なら引きっこないんだ。今の世界はどうなっている?
「んーと…。何処も消毒はしてないね…」
学校だって、手を洗いましょう、って言われるだけだよ。
夏休みとかには消毒だってするんだろうけど、毎週とかはやっていないよね…。
「当然だ。それにだ、買い食いだって普通だろうが」
お前だって友達と遊びに行ったら、公園とか店で何か買っては食べているんだろう?
渡されたものを、その場で、そのまま。
「うん。手が汚れてたら洗いに行くけど…」
そうじゃなかったら、そのままだね。ウガイなんかはしてないし…。
「前の俺たちの時代だったら、それだけで風邪を引いてるな」
「そうなの?」
「うむ。風邪のウイルスが口から入って、喉にくっついちまってな」
間違いなく風邪だ、シャングリラに乗ってた仲間たちなら。元気そうだったゼルやブラウでも。
「そんなに酷いの、今の世界は?」
風邪のウイルスで一杯だって言うの、シャングリラがあった頃とは違って…?
「外の世界の状況ってヤツは、今でも大して変わらない筈だと思うんだがなあ…」
酷くなっちまったってことは無いと思うぞ、ことウイルスに関しては。
ただし根絶してもいないな、それをやったら人間は弱い生き物になってしまうんだから。
SD体制が敷かれていた時代も、今の時代も。
人間が弱くなりすぎないよう、この地球も他の惑星なども無菌状態ではないという。酷い疫病は根絶されたけれども、それ以外の菌は残されたまま。風邪のウイルスも。
「それにだ、虫刺されだって普通のことだろうが。家の庭で蚊に刺されたりとか」
毒を持ってる生き物もいるし、世の中、決して無害ってわけではないってことだ。
「前のぼくたちの頃は、毒のある生き物はいなかったんだっけ?」
「そうらしいなあ、毒キノコも無かったんだしな」
あの時代だったらキノコは何処でも取り放題で食べ放題だったのに、と言うヤツもいるし…。
キノコ狩りなんて出来なかったんだがなあ、あの時代にミュウに生まれていたら。
「ふふっ、そうだね。シャングリラに乗れたら運が良かった時代だものね」
「まったくだ。乗れなかったヤツらの方が遥かに多かったんだが、あれから時が経ちすぎたな」
SD体制の時代にキノコ狩りをしたかった、と言っても頷くヤツらばかりだ。
その時代に生きたミュウの仲間たちに申し訳ない、と思う時代は過ぎちまったらしい。
キノコ狩りに出掛けて、毒キノコかどうかと悩む羽目になって、SD体制の頃なら良かった、と寝言を言える平和な時代だ。
今の俺たちも、その恩恵を蒙って生きてるわけだし、文句を言おうとは思わないがな。
前の自分たちが生きた時代とは違って、元に戻されている生態系。毒のある生き物も毒キノコも排除されていない世界、毒は自分で気を付けて避けてゆかねばならない。
それと同じで、ミュウに合わせて消毒してあるわけではない世界。白いシャングリラとは違った世界で、風邪のウイルスは何処にでもあるものらしいから。買い食いで風邪を引くそうだから。
「それじゃ、今のみんなが風邪を引かないのは…」
前のぼくより丈夫だったゼルやブラウでも引きそうな風邪を、ぼくが引いたりしないのは…。
風邪のウイルスが少ないからだ、ってわけじゃなくって…。
「ミュウが頑丈に進化したってな」
前の俺たちの時代みたいに、ミュウと言えば虚弱と決まったものではなくなったんだ。とっくの昔に人類並みに頑丈になって、そう簡単には風邪も引かん、と。
「…ハーレイも?」
前より丈夫になったわけなの、それで柔道とか水泳なの…?
「俺は元から引いていないぞ、風邪なんて」
ついでに身体も頑丈だったな、耳以外はな。
あの時代だから柔道も水泳も今のようには出来なかっただけで、機会さえあれば…。
仮に成人検査をパスしてたとすれば、水泳の方は今と似たようなものだったかもしれん。
柔道は無かった時代だからなあ、そっちの腕前は謎なわけだが。
シャングリラの時代から俺は頑丈だったろうが、と言われてみれば。
船の中では運動不足になりがちだから、と初めの頃から通路で走ったりしていたハーレイ。白い鯨になった後には水泳だってしていたのだった。そんなハーレイだから、風邪だって…。
「ハーレイ、滅多に引いていなかったっけ…」
前のぼくは何度も引いていたけど、風邪を引いたハーレイは殆ど知らないかも…。
「引いても鼻風邪程度だったな、寝込むようなヤツを引いてはいない」
同じ風邪でも、前のお前が引いた時には寝込んでいたが。
シャングリラの風邪は同じウイルスの筈だからなあ、俺なら鼻風邪で済んだわけだが。
「うん…。おんなじ時期に流行った風邪なら、ウイルスも同じ筈だよね…」
でも、ハーレイは平気だったんだよ、風邪を引かない時の方が多くて。
たまに引いても鼻風邪程度で、ぼくの方が遥かに重症で…。
だから野菜スープを作ってくれたよ、「このくらいは食べて下さい」って。
喉が痛いよ、って言ってた時には、卵が入った風邪引きスペシャル。
…ハーレイがスープを作ってくれなきゃ、ぼくはもっと酷い風邪になっていたかも…。
体力がすっかり落ちてしまって、何も食べられなくなって。
「…そこまで酷くはならんだろう」
ノルディもいたんだ、そうなる前に注射をするとか、頑張って治療をしただろうさ。
お前は注射は嫌いだったが、酷い風邪なら押さえ付けてでもブスッとな。
俺がお前の腕を押さえて、ノルディが問答無用で注射だ。
風邪でそこまでの悲劇にはならなかった筈だが…、と可笑しそうにしていたハーレイだけれど。
「そういや、お前の鼻風邪もあったな」
ノルディに注射はされていないが、とんでもないのが。
「鼻風邪?」
「ああ、酷いヤツだ。とびきり酷い鼻風邪だったな」
どういうわけだか、鼻の症状が最悪だった。いつもだったら喉に出る分が鼻に出たのか…。
鼻水が酷くて鼻をかみ過ぎて、鼻が真っ赤になっちまって。
「あ…!」
そうだったっけ、と思わず押さえてしまった鼻。
前の自分が引いたのだった、そういう風邪を。鼻の症状が酷すぎる風邪を。
シャングリラの仲間たちに移さないよう、青の間に引っ込んでいたのだけれど…。
「あの時のお前、皆に見せられたモンじゃなかったな」
自発的に閉じ籠もっていてくれたからなあ、キャプテンとしては有難かったが。
あんなお前がシャングリラの中を出歩いていたら、俺は即座に捕まえたな。
「ソルジャーのお仕事は私が代わりますから、どうか青の間にお戻り下さい」とな。
「捕まえるって…。どうしてなの?」
他のみんなに移すからなの、そうならないように青の間から一歩も出なかったよ?
「移す方もそうだが、お前の顔だ。見せられたものじゃないと言ったろ」
鼻がすっかり真っ赤なんだぞ、見ただけで誰でも笑い出しちまう。
その場ではなんとか持ち堪えたとしても、お前の姿が見えなくなった途端に大笑いだな。
「笑うって…。ぼくは病気で…!」
風邪を引いたんだよ、笑わなくてもいいじゃない…!
可哀相だと思って欲しいよ、あの鼻風邪はホントに鼻が痛くて辛かったんだし…!
前の自分が引いた鼻風邪。喉の痛みや熱の代わりに、本当に鼻にだけ出た症状。酷すぎた鼻水と鼻詰まりとで、鼻は真っ赤で、鼻の周りの肌がヒリヒリと痛くて辛くて…。
その時の顔が可笑しかったとハーレイは笑ってくれるけれども、そんなに酷い顔だったろうか?
「…お前にしてみりゃ、単に自分の鼻が赤かったっていうだけなんだろうが…」
前のお前はだ、綺麗すぎるほどの顔も含めてソルジャーだったわけだ、美人が売りだ。
お前にそういう自覚が無くても、船のヤツらは綺麗なお前が長だというのが自慢だったし…。
ソルジャーの服にしたってそうだろ、前のお前に似合うようにと特別にデザインしてあった。
そんなお前が鼻だけ真っ赤な顔を見せてみろ、もう間違いなくイメージダウンだ。
キャプテンとしては避けたい事態だ、ソルジャーはあくまで完璧に、だ。
…恋人だった俺にしてみりゃ、そういうお前も可愛いとしか思えなかったがな。
「えーっと…。それでノルディが青の間に閉じ込めてた…ってわけじゃないよね?」
ぼくは最初から出るつもりなんか無かったけれども、「出ないで下さい」って厳しい顔で…。
鼻風邪だから、動くのは平気で動けたけれども、絶対に出るな、って。
「ノルディの指示は、ただの感染予防策だが?」
俺がノルディの立場だったとしても、同じように対処していたろうさ。
いくらソルジャーでも、酷い風邪の患者がウロウロしたんじゃたまらないからな。
行く先々で移しちまって、シャングリラ中が鼻風邪になったら大惨事なんだ…!
酷い鼻風邪だった時に限らず、前の自分が風邪を引いたら。
青の間に入る者たちは全員、感染防止にマスクを着用するものだった。治療にあたるノルディはもちろん、長老の中では丈夫な部類のゼルもブラウも。
けれど…。
「ハーレイ、マスクしていなかった…」
一度もマスクをしていなかったよ、前のぼくが酷い風邪を引いても。
鼻風邪だったら、移っても鼻風邪で済むだろうけど、もっと酷いヤツ。高い熱を出したのとか、声がすっかり出なくなったのとか、他にも一杯…。
ノルディたちはマスクで来ていたけれども、ハーレイはマスクは無しだったよ。
マスクなんかしないで青の間に来て、野菜スープも作っていたよ。
「移らない自信があったからな」
前の俺が一番頑丈だっただろうが、シャングリラでは。
どんなに酷い風邪が流行った時でも、俺は引かないか、引いても鼻風邪程度だったんだ。
前のお前は弱かったせいで、他のヤツなら酷くならない風邪でもダウンしちまってたろう?
お前がダウンする程度の風邪では、前の俺はとても倒せんな。掠りもしないといった所か。
だからマスクは要らなかったわけだ、俺には移らないんだからな。
わざわざマスクをする意味も無いし、そうしたいとも思わなかった。
ただでも病気で弱っているお前を避けるような真似はしたくないじゃないか、マスクをして。
今のお前には近寄りたくない、と言っているのと同じだしな、マスク。
それが必要な仲間たちなら、そういう意味にはならないんだが…。
自分の身体を守るための鎧で、そいつが無ければ危険なんだから着けるしかあるまい。
しかし、前の俺みたいに頑丈な場合は、お前にウッカリ近付きたくない、ということになる。
マスクをしなくても移らないのに、「移さないで下さい」とマスクを着けていたんではな。
第一…、とハーレイが瞑った片目。
眠る時までマスクなんぞをしていられるか、と。
「前の俺はお前と眠ってたんだぞ、恋人同士になってからはな」
そうなったら俺のベッドはお前と同じで、お前が風邪を引いてるからってマスクはなあ…。
あんまりだろうが、それじゃ恋人失格ってもんだ。俺がゼルたち程度に弱くて、風邪を引いたらマズイと言うなら「すまん」とマスクをしてただろうが。…キャプテンだしな。
キャプテンが風邪で休みとなったら、シャングリラの仲間に迷惑がかかるし、仕方なくマスクもしていただろう。ところが俺は風邪なんか引かない丈夫な身体で、マスクは必要無かったわけだ。
その点は大いに感謝せんとな、マスク無しでお前の側にいられた。
お前が風邪で辛い思いをしている時にも、マスクをしないで抱き締めてやれた。一晩中な。
それにだ、お前に「おやすみ」のキスも要るんだ、こいつはマスクじゃ出来ないってな。
「…キス…」
「してやっただろうが、忘れちまったか?」
前のお前が鼻だけ真っ赤になってた時にも、風邪でゴホゴホやってた時も。
…今のお前にはまだ早いキスだ、俺が弱かったら、あのキスで風邪を貰っていたぞ。
「う、うん…」
引いちゃうだろうね、おやすみのキスは…。
して貰っていたの、頬っぺたとかおでこじゃなかったものね…。
今はまだ貰えない、唇へのキス。それがおやすみのキスだった。風邪を引いていても、唇に。
もっと深いキスを貰ったことも…、と真っ赤になったブルーだけれど。
「安心しろ。今度の俺もマスクは要らん」
いずれは、お前が風邪を引いちまった時にも、おやすみのキスをしてやるさ。
だがな、風邪は引かないに越したことはないぞ、辛いのはお前だ。
野菜スープのシャングリラ風を作って欲しいという気持ちは分かるが、わざと引くなよ?
「うん、分かってる…」
ちゃんと金柑で予防するよ、と答えたけれど。
今日のクシャミを運んで来たかもしれない風邪は、金柑の甘煮で退治出来たけれど。
いつかハーレイと結婚したなら、風邪を防がずに引いてみようか、金柑の甘煮を食べないで。
マスク無しでも風邪を引かないハーレイ、頼もしい姿をまた見たいから。
「俺は平気だ」と抱き締めてくれて、おやすみのキスまでくれるハーレイ。
前と同じに頑丈な身体の恋人のキスが、強い腕が欲しいと欲が出る。
ハーレイはきっと、優しいから。
風邪を引いた自分を叱りはしなくて、野菜スープのシャングリラ風もきっと作ってくれるから。
たまには引いてみたい風邪。
ハーレイと二人で暮らせるようになったら、おやすみのキスが貰えるようになったなら…。
引きたい風邪・了
※風邪を引かないよう、金柑の甘煮で予防したブルー。褒めては貰えたんですけれど…。
寝込んでいたなら、野菜スープなどの特典が。風邪を引きたいような気持ちもあるのです。
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(よし、と…)
やるとするか、とハーレイが覗き込んだメモ。夕食後のひと時、ダイニングで。ブルーの家には寄れなかった日、試してみるなら今日が吉日、と。
氷ギッシリがコツ、ウイスキーを一にソーダが四。そっと一回し、たったそれだけ。
新聞に載っていたハイボールの作り方、それをメモしてあったもの。「美味そうだな」とピンと来たから、目にした時に書き抜いた。失くさないよう、酒類を入れてある棚に仕舞って。
作りたい気分になった時が飲み時、ウイスキーと一緒に出して来たメモ。まずは氷、とグラスにギッシリ、もう文字通りに縁まで幾つも。
(こう、ギッシリと…)
かき氷やフラッペを作ろうというわけではないから、ウイスキー用のスペースは空けておかねばならないけれど。すっかり氷で埋めてしまっては駄目なのだけれど。
冷凍庫で作った大小の氷、それを工夫して詰めてゆく。氷でギッシリ埋まるようにと、グラスの縁まで届く高さに、と。
ギュウギュウ詰めにはしなかったけれど、丁度いい感じに詰まった氷。グラスが冷えてゆくのが分かる。氷の冷たさで白く曇って、その内に露もつくことだろう。
(その前に、だ…)
ウイスキーを一、と計っておいた秘蔵のウイスキー。それを注いで、お次はソーダ。
(こいつもコツの内なんだろうな)
今までの自分のやり方だったら、ウイスキーを入れた所で混ぜていた。氷と一緒にしっかりと。当然、氷は溶けて減るから、減った分だけ足していた氷。またギッシリと。
その後に入れていたソーダ。そこで一回混ぜて出来上がり、そういうものだと思っていた。酒を好むようになった頃から、家でも飲むようになってから。
ところが出会った、このレシピ。ウイスキーを入れても混ぜてはならない、ソーダを入れてから一度混ぜるだけ。自分が知っている方法とは違った、まるで別物のハイボールのレシピ。
提案していたのがバーテンダーだの、通を気取った輩だのなら、気にしないけれど。「こいつはこういうやり方なんだな」と考えるだけで、メモに残そうとも思わないけれど。
(…なにしろウイスキー作りのだな…)
プロが紹介していたのだった、それも有名なウイスキー会社の。自分も愛飲している銘柄を作る会社が載っていた記事、其処に書かれていたレシピ。
試すだけの価値は充分にある、と酒好きの血が反応した。きっと美味いに違いないと。
(ソーダを入れて、と…)
これも分量通りに計っておいたソーダ、入れたらマドラーでそっと一回し。今までに作って来たハイボールとは違うやり方、たった一回混ぜるだけ。
(出来上がり、ってな!)
表面に露が浮かんだグラスに、弾ける気泡。水割りではなくてソーダだから。ウイスキーの色も美味しそうだし、なかなかに期待出来そうではある。
飲むなら書斎だ、と足取りも軽く運んで行った。本に囲まれた部屋は落ち着くし、ハイボールの味も引き立ちそうだから。一人暮らしで言うのもおかしいけれども、隠れ家といった趣きだから。
ゆったりと寛げる気に入りの空間、それが書斎で、机も椅子も好きだけれども。腰を落ち着けてハイボールを飲もうとしたのだけれども、その机の上。
(…すまん)
お前は飲めなかったんだっけな、と小さなブルーに謝った。優しい飴色のフォトフレームの中、小さなブルーと写した写真。夏休みの一番最後の日に。
ブルーの家の庭で一番大きな木の下、小さなブルーがギュッと自分の左腕に抱き付いて、笑顔。それは嬉しそうに輝いている顔、幸せ一杯のブルーの笑顔。
そういう笑みを向けてくれているブルーには飲めないハイボール。わざわざレシピをメモして、作って、さて味わおうと持って来たのに、ブルーは飲めない。
写真のブルーが飲めるわけがない、という意味ではなくて。
(本物のあいつが此処にいたって、飲めないんだ…)
まだ十四歳にしかならないブルーは未成年。今の時代は酒を飲むなら二十歳から、そういう風に決められている。前の自分が生きた頃には、十四歳なら…。
(よくは知らんが、飲んでは駄目だとは言われなかっただろうな)
なんと言っても、十四歳の誕生日が成人検査の日だった時代。成人検査と銘打つからには、その日を境に大人の仲間入りだったろう。前の自分は検査をパスしなかったけれども。
(…落っこちちまって、後はミュウへとまっしぐらでだ…)
実験動物として檻に放り込まれた、餌と水しか無い生活へと。実験動物に酒は振舞われないし、酒の美味さを知ったのはアルタミラを脱出した後だから。
(とうに二十歳にはなってた筈だな)
だから知らない、前の自分が生きた時代の酒事情。シャングリラは人類の世界のルールなどとは無縁だった船だし、ヒルマンの方針で子供たちの飲酒は禁止でもあった。身体に悪い、と。
(今から思えば、先見の明…)
あれから遥かな時が流れた今、未成年には酒は駄目だと二十歳までは禁止なのだから。ブルーのような十四歳の子供が酒と知らずに飲もうとしたなら、周りが慌てて止めるのだから。
そういった理由で、ハイボールは飲めない小さなブルー。
自分が美味しそうに飲み始めたなら、「いいな…」と零すことだろう。美味しそうだよ、と。
だから写真といえども詫びたのだけれど、そのブルー。前と同じに大きく育って、二十歳になる日を迎えたとしても…。
(やっぱり飲めない気がするなあ…)
ハイボールも、他の色々な酒も。
育った所で、ブルーはブルーなのだから。前のブルーは酒に弱くて、全く飲めなかったから。
生まれ変わった身体だとはいえ、劇的に変わりはしないだろう。二日酔いに苦しんでいたようなブルーが酒豪になるなど、まず有り得ない。きっと同じに弱い筈の酒。
(あいつ、今度は頑張るんだと言ってはいるが…)
どうなんだか、と浮かべた苦笑い。
ブルーの家に行くと、たまに「一杯どうです?」とブルーの父が出してくれる酒。いける口だと知られているから、美味しい酒が手に入ったら勧めてくれるブルーの父。
そんな時には酌み交わす酒、ブルーの父は今や飲み友達の一人で、楽しい時間になるけれど。
チーズやナッツや、ブルーの母が作ってくれるつまみをお供に過ごすけれども、小さなブルーは必然的に仲間外れで、酒を飲ませては貰えない。会話に混ざることは出来ても、違う飲み物。
話題が酒へと行ってしまえば、置き去りにされる小さなブルー。大抵そうなる、ブルーの父との酒宴の流れ。
たとえシャングリラの酒について自分が語ったとしても、ブルーはついては来られないから。
合成の酒と本物の酒との味の違いも分かっていないし、酒は一括りに「不味かった」だけ。前のブルーにとってはそれだけ、それでは話が弾まない。「不味かったよ」だけで終わるのでは。
「ハーレイをパパに盗られちゃった」とブルーは何度も膨れて、今度は酒を飲めるように努力をするつもり。父に自分を盗られないよう、二人で酒を楽しめるよう。
(はてさて、どうなることやらなあ…)
いずれブルーが挑戦する酒、自分を鍛えるつもりの酒。前のブルーだった頃の苦手を克服したい気持ちは、分からないでもないけれど…。
「どう思う、お前?」
今度のお前が挑むそうだが、と引き出しから出したソルジャー・ブルーの写真集。前のブルーの一番有名な写真が表紙に刷られた『追憶』、真正面を向いたブルーに訊いてみる。
「酒だぞ、酒。俺の飲み友達の座を父親に持って行かれたくない、というのは分かるがなあ…」
だからと言ってだ、酒が飲めるようになるかと言ったら、そいつは話が別ってもので…。
お前とそっくり同じだったら、どう頑張っても酒は無理だぞ、現にお前がそうだったんだし…。
何度も飲んでは文句を言ったろ、胸やけしただの、頭痛だのと。
…やっぱりお前も、今度も駄目だと思うよなあ?
あいつがどんなに努力したって、酒を美味しく飲めるようにはならないってな。
だが、このハイボールはけっこういけるぞ、メモしておいた甲斐があったというもんだ。
俺のやり方で作ったヤツより遥かに美味い。プロが勧めるだけのことはある。
ん?
ハイボールっていうのは何だ、ってか?
そいつはだな…。
ウイスキーの飲み方の一つでソーダ割りだ、と掲げたグラス。ソーダの泡が見えるだろう、と。
「ハイボールって名前がまた面白い。…ボールなんぞは何処にも無いだろ?」
ボウルの中でかき混ぜて作っていたわけじゃないし、そもそも料理用のボウルじゃない。
諸説あるがだ、ボールは玉の方のボールだ、ゴルフボールとかな。
ゴルフってヤツは、前の俺たちはやっていないが、だ…。
ずっと昔は紳士のスポーツの一つでだな…、と前のブルーの写真に向かって話していて。
(待てよ…?)
前に誰かから聞かされた薀蓄。ハイボールの名前の由来を色々。
同じゴルフでも、様々な説。自分の順番が回って来たから慌てて飲もうと、酒をソーダで割って飲んだら美味だったのが始まりだとか。ソーダ割りの酒を作って貰って「美味い」と喜んだ所へ、高く上がったゴルフボールが飛び込んで来たからハイボールだとか。
他にも色々と語った誰か。ゴルフボールとはまるで関係ない、鉄道のボール信号機。それを見る駅員がボールが上がった時に飲んだからとか、滔々と。
(…誰だ?)
あれは自分に披露していたのか、それとも他の飲み友達にか。
自分が『追憶』の表紙のブルーに語り聞かせているのと同じに、ハイボールを語っていた誰か。
話していたのは誰だったろう、と酒好きの友人たちを端から思い浮かべてみるけれど。学生時代からの友人や教師仲間や、柔道や水泳をやる仲間。次々に顔は浮かんでくるのに、「こいつだ」と思う顔が無い。こいつだった、と自分の記憶が反応しない。
(はて…?)
楽しく薀蓄を聞いていたなら、きっと覚えているのだろうに。酒が入っても、一緒に飲んでいた友人の顔を忘れはしない。話の中身が今も記憶にあるというなら、なおのこと。
なのに浮かんでこない顔。誰だったのかが思い出せない飲み友達。記憶が飛ぶほど酷い飲み方は決してしないし、酒に弱くもない筈なのに。
(まさか、前の俺の方だったってことは…)
有り得ないんだが、と思った所で気が付いた。その考えは間違いだったと。
(そっちだ、そっち…!)
前の俺だ、とコツンと叩いた頭。すっかり忘れてしまっていた、と。
「…すまん、せっかく教えてくれてたのにな…」
生まれ変わってくる時に落としちまったってことで許してくれ、と詫びた昔の飲み友達。遥かな昔に白いシャングリラで一緒に飲んでいた仲間。今と同じにハイボールを。
それの由来についての薀蓄はヒルマンが語ったのだった。ゴルフの話も、ボール信号についての話も。どれもシャングリラとは無縁のものだったけれど、ハイボールの名前の由来はこうだ、と。
白い鯨に改造された後のシャングリラ。自給自足で暮らしてゆく船、人類の輸送船からブルーが物資を奪う時代はもう終わっていた。
(あの船では酒は合成だったし…)
単なる嗜好品に過ぎない酒は、船では作っていなかった。葡萄から出来る赤ワインだけが例外、その赤ワインも本物はほんの少しだけ。新年を迎えるイベントで乾杯に使われた特別なワイン。
本物の酒はたったそれだけ、他は全てが合成だった。ワインもウイスキーもブランデーも。
そんな船でも美味しく飲もうと、あれこれ工夫を重ねていたのがゼルとヒルマン。酒好きだった前の自分の飲み友達。
ゼルもヒルマンも酒好きだったし、ブルーが奪った本物の酒があった時代の味を再び、と手間を惜しみはしなかった。合成の酒でも工夫さえすれば、きっと美味しく飲めるだろうと。
(色々とやってたみたいだが…)
詳しいことは知らないけれども、研究会だの、勉強会だのと称して飲んでいたゼルとヒルマン。互いの部屋を行き来しては「研究室だ」と笑い合っていた。研究会だか勉強会だか、それが始まる頃合いに通路でバッタリ会ったら「参加しないか」と誘われたものだ。
(…あれに捕まったら終わりだからなあ…)
まず間違いなく、夜更けまで逃がして貰えない。前のブルーと過ごす筈の時間が見事に潰れて、自分はともかく、ブルーの方が…。
(…寂しかったと言われちまうか、御機嫌斜めか、そんなトコなんだ)
次の日に会ったら、そういうブルー。皆の前ではソルジャーらしく振舞うけれども、前の自分と二人きりの時には寂しそうなブルーか、御機嫌斜めか。
そうならないよう、勉強会への参加は出来るだけ遠慮しておいた。「仕事が残っているから」と嘘をついたり、「キャプテンはそうそう飲んでいられない」と生真面目な顔で返したり。
前の自分も酒好きだったけれど、酒よりもブルーの方が大切だったから。
ゼルとヒルマン主催の勉強会は極力避けて、研究にも協力しなかった。足を踏み入れたら二度と逃がして貰えはしなくて、研究者の仲間入りだから。
そうした事情で、進み具合も知らないままだった酒の研究。ある日、「出来た」とゼルが呼びに来るまで。「これでいける」とヒルマンの部屋に招かれるまで。
自信作だ、と二人が出して来たのがハイボールだった。
(…ヒルマンが用意をしていてだな…)
合成のウイスキーが入ったボトルと、氷とソーダ。それからグラス。
ゼルとヒルマンは得意げに披露してくれた。グラスに氷をギッシリと入れて、ウイスキーを注ぐ飲み方を。「これにソーダを入れるのが決め手だ」と、小さな気泡が立つハイボールを。
(美味かったんだ、あれが…)
ソーダが合成品の味を誤魔化すのか、本物の酒のように思えた喉ごし。合成の酒だとは思えない味、ゼルもヒルマンも「これに限る」と飲んでいた。ハイボールという名前なのだ、と。
「ハイボール?」とオウム返しに尋ねた自分にヒルマンが語ってくれた薀蓄。ゴルフだのボール信号だのと。由緒正しい飲み方らしいと、もっと早くに気付くべきだったと。
要はソーダを入れるだけ。合成の酒が持つ独特の味を消すのがソーダ。
グラスにギッシリ詰めた氷とソーダとがあれば、美味しく飲めるウイスキー。合成品でも本物のウイスキーに負けない喉ごし、満足の味になるハイボール。
ゼルとヒルマンの勉強会だか研究会だかは、見事な成果を生み出した。
そして二人に言われたのだった、「この味を守るためにも氷と炭酸水を決して切らすな」と。
キャプテンならば心しておけと、シャングリラの美味しい酒のためには必須のものだ、と。
(…妙な注文ではあったがな)
氷と炭酸水、いわゆるソーダ。どちらも大した材料も手間もかかりはしない。氷は厨房で大量に作られていたし、炭酸水の方も同じこと。ジュースなどには欠かせないから。
そうそう切れるものでもなかろう、と考えつつも気は配ったのだった、と蘇って来た前の自分の記憶。キャプテン・ハーレイの任務の一つ。氷と炭酸水との確保。
あまりに愉快な任務だったし、ハイボールも美味しかったから。
(前のあいつの前でウッカリ…)
喋ったのだった、氷と炭酸水さえあったら酒は美味い、と。合成品のウイスキーが本物のように変身すると、合成の酒に特有の味が消えるのだと。
ブルーの方は興味津々、研究会の存在も知っていたものだから。それに捕まったら、前の自分が青の間を訪ねることが出来なくなって、寂しい思いをしたり機嫌を損ねたりしていたから…。
(ハイボールを飲みたがったんだ…)
研究が成功したのだったら、自分にもそれを飲ませて欲しいと。美味しい酒なら、此処で作って貰えないかと。
断ることなど出来はしないし、ウイスキーと氷とソーダを用意した自分。次の日の夜、青の間を訪ねてゆく時に。
ゼルとヒルマンに教わった通り、自分のグラスとブルーのグラスに氷をギッシリ。ウイスキーを注いで、よくかき混ぜてから氷を足して、それからソーダ。一回だけ混ぜて「どうぞ」と渡した。赤い瞳を輝かせていた、前のブルーに。
(ソーダがある分、あいつも多少は…)
飲めたのだった、ウイスキーをそのまま飲もうとした時はいつも、顔を顰めていたくせに。水で割っても氷を入れても、「美味しくない」と言っていたくせに。
けれども、酒は酒だったから。ソーダで味わいが変わっただけで、正体はウイスキーだから。
結局、悪酔いしたブルー。頭痛に胸やけといった、お決まりのコース。
翌日の朝には、大して美味しいとも思えない上に、酷い目に遭ったと怒っていた。ハイボールの美味しさとやらも謎だと、研究会は所詮、酒好きが集まる場所なのだと。
(…今度のあいつは…)
どうなんだろうな、と『追憶』の表紙を飾るブルーに語り掛ける。
「お前と同じでハイボールも駄目なヤツだと思うか?」と、「しかし挑戦するんだろうな」と。
生まれ変わってもブルーはブルーで、頑固さは変わっていないから。まだ十四歳にしかならないブルーも、前と同じに頑固だから。
(…きっと飲むんだ、今のあいつも)
ハイボールが美味しいと言ってやったら、きっと飲もうとするのだろう。今は無理でも、大きく育って酒が飲める年になったなら。二十歳の誕生日を迎えたならば。
(そうなってくると…)
このハイボールのレシピを話してやるとしようか、明日は土曜日なのだから。
ブルーの家を訪ねてゆく日なのだし、「氷ギッシリがコツなんだぞ」と。
そうして土曜日、ブルーの家へと歩いて出掛けて。
お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせで、小さなブルーに訊いてみた。
「こんな飲み物をどう思う?」
新聞に載ってて、俺がメモしておいたんだが。
「え? 飲み物って…」
今日はお土産は持って来てないよね、何処かで売ってるジュースか何か?
「氷ギッシリがコツなんだそうだ」
グラスに氷をギッシリ詰め込む。そいつがコツってことらしいぞ。
「ふうん…?」
作り方なんだね、どういう飲み物?
「氷を入れたら、ウイスキーを一。それからソーダが四って所だ」
そっと一回し、それで全部というわけなんだが…。お前にとっては、こいつはどうだ?
「えーっと…。ウイスキーはちょっと心配だけど…。お酒だから…」
でも、そっと一回しって、面白そうだね。たった一回、混ぜておしまい?
そんな作り方でも美味しいの、それは?
「美味かったぞ。どうやら、そこもポイントらしい」
俺が知ってた作り方だと、ウイスキーを入れたらよく混ぜるんだが…。そこで氷も足すんだが。
そうする代わりに一回だけしか混ぜないって所が美味さの秘訣の一つだろうな。
「じゃあ、作ってよ、それ!」
今はまだお酒は飲めないけれども、ぼくが大きくなったら作って。美味しいのなら。
「いいのか、これはハイボールだが?」
「……ボール?」
ボールって何なの、お料理に使うヤツのこと…?
「覚えていないか? 前のお前が酔っ払ったのも、こいつなんだが」
ハイボールだったぞ、美味かったと話したら作ってくれと強請った挙句に二日酔いでな。
シャングリラでは氷と炭酸水は切らしちゃ駄目なんだ、と真面目な顔を作ってやった。前の俺の重要な任務の一つだったと、ゼルとヒルマンから任されたのだと。
「あいつらの研究会の成果だ、勉強会とも言ってたが…」
合成のウイスキーを美味しく飲むにはハイボールに限ると、氷とソーダだと言われたんだが?
「…アレなわけ?」
思い出したよ、その話。…合成のウイスキーでも美味しく飲める、って前のハーレイが…。
研究会のことは知っていたから、美味しいのなら、って作って貰って、酷い目に…。
「そいつなんだが…。あれもハイボールだったわけだが」
俺が話した氷ギッシリも同じハイボールだ、作り方が違うというだけでな。
そのハイボールを、お前、飲むのか?
「…飲んでみたいよ、今だと地球のお酒だし…。合成のウイスキーとは違うんだし…」
それだけでもグンと美味しそうだし、それに、ぼくだって。
今度はお酒に強くなってるかも、前のぼくとは違うんだから…!
「ふうむ…。今度のお前もハイボールに挑戦してみる、と」
そう言うだろうとは思っていたがだ、宣言されると嬉しくなるな。
今度はお前と楽しく酒を飲めるといいなあ、前の俺には叶わない夢で終わったからな。
飲めるように是非頑張ってくれ、とブルーの肩をポンと叩いた。
お前と二人で飲める日が来るのは、まだまだ先のことなんだが、と。
「結婚したって、十八歳では酒は飲めないしな?」
酒を飲むなら二十歳からで、それまでは俺は一人で飲むか、お前のお父さんと一緒に飲むか…。
当分は待っているしかないなあ、お前が二十歳になるまでは。
「そうだけど…!」
ホントに飲むなら二十歳だけど、その前から練習しておくよ。
お酒が飲めるようにちょっとずつ練習、毒と同じで少しずつだよ。
「毒…?」
何の話だ、毒っていうのは毒薬とかの毒か?
「うん、耐性がつくんでしょ?」
少しずつ毒を飲んでおいたら、ちょっとくらいの毒なら平気。そう言うじゃない。
…前のぼくでは、やってなかったみたいだけれどね、そういう実験。
毒にまで強くなってしまったら、手に負えないと思っていたのかなあ…。アルタミラの研究所にいた人間たちは。
「おいおいおい…。俺の愛する酒を毒扱いか?」
毒と同じだと言いたいのか、お前。少しずつ飲んで耐性をつけておこうだなんて。
「前のぼくには、お酒は充分、毒だったよ…!」
人体実験をされてた時でも、あんな薬は飲まされていないよ…!
薬は治療をするためのもので、飲んで吐き気や頭痛がしたって、それは副作用の中の一つで…。
最後は具合が良くなっていたよ、人類がぼくに飲ませた薬は…!
飲んだら具合が悪くなるものなんかは飲んでいないよ、ハーレイの好きなお酒くらいしか…!
人体実験と比べられてしまったほどだけれども、それでもブルーは努力をしたいらしいから。
前の自分が苦手だった酒を克服すると言ってくれるから。
「そう来たか…。なら、ウイスキーボンボンくらいから始めてみるか」
毒に耐性をつけると言うなら、まずはそういう所からだな。
「ウイスキーボンボンって…」
なにそれ、ぼくが食べるわけ?
「そうなるな。ウイスキーボンボンはシャングリラには無かったが…。今はあるだろ?」
チョコレートの中身がウイスキーなんだし、初心者向けではあるだろう。
酒だけを飲むより遥かにマシだぞ、あれならばな。
「ウイスキーボンボンは知っているけど、食べたことがないよ」
チョコレートなんだから、ちゃんと甘いの?
ウイスキーの味しかしないんじゃなくて?
「うむ。チョコレートをつまみに飲むようなモンかな、ウイスキーをな」
ただし、ちょっぴりだけの量だが…。あの中に入っているわけだしなあ、ほんの少しだ。
だが、酒に弱いヤツだと一個食べただけでも酔っ払うそうだし、間違いなく中身は酒だってな。
お前のお父さんたちは買わんだろうなあ、お前のおやつにするためには。
酔っ払っちまったらエライことだし、お前はただでも身体が丈夫じゃないんだから。
今はまだ早いが、結婚したならウイスキーボンボンを買ってみるか、と片目を瞑った。
お前の言う毒が入っている菓子を少しずつ食べればいいだろう、と。
「そうやって耐性をつけていくんだな、最初は一個で酔っ払うかもしれないが」
慣れて来たなら、二つ、三つと数を増やしていけばいい。
酒が飲める年になった頃には、ハイボールだって飲めるお前が出来ているかもしれないぞ。
二日酔いにならずに、ちゃんと美味さも分かるお前が。
酒に強いお前を作るためには、ウイスキーボンボンもいいし、酒が入った菓子とかもいいな。
たっぷりと酒が入っている菓子、探せばけっこうあるもんだ。
「…アルコールが飛んでしまっているでしょ、お菓子なら?」
ウイスキーボンボンはウイスキーが入っているんだろうけど、他のお菓子は…。
ママが焼いてるフルーツケーキもウイスキーを沢山使うけれども、ぼく、酔っ払わないよ?
「いや、酒をそのまま入れちまうパフェもあったりするしな」
チョコレートパフェだと思って食ったら、チョコレートリキュール入りだったりする。
もちろん、少ししか入っていないが…。あれでもお前は酔っ払えそうだ。
それからサバラン、あれもラム酒がたっぷりだからな、お前は酔っ払うだろう。
そんな具合で幾つもあるのさ、お前にとっては毒入りの菓子。
「じゃあ、そういうので練習する…!」
ウイスキーボンボンも頑張るけれども、パフェもサバランも頑張って食べるよ。
幾つも食べたら耐性がついて、きっと平気になるんだろうし…。
ハーレイ、そういうお菓子を食べられる所に連れて行ってよ、ぼくとデートに行く時は。
そしたら早く慣れると思うよ、デートのお菓子がいつもお酒のばかりだったら。
健気なブルーは、デートの時まで自分にとっては毒入りの菓子を食べて頑張るらしいから。
酒に耐性をつけられるように、努力を重ねるらしいから。
「そうか、せっせと食うのか、お前。そういうことなら…」
俺も頑張って作らないとな、酒が入った菓子ってヤツを。
ウイスキーボンボンは店で買って来るとしても、パフェだのラム酒たっぷりのサバランだのは。
他にも色々調べないとな、酒が入った美味い菓子をな。
「…ハーレイが作るの、お店に食べに行くんじゃないの?」
ぼくはデートで酔っ払っても、かまわないんだけど…。
次の日に頭が痛くなっても、お酒を飲むための練習なんだし、ハーレイに文句は言わないよ?
ちゃんと大人しくベッドで寝てるよ、気分が良くなって起きられるまで。
「…お前はそれでいいかもしれんが、俺の方の気分が問題なんだ」
酔っ払ったお前を他のヤツには見せたくないと、前にも言ったと思うがな?
お前は酔ったら美人になるんだ、ただでも綺麗な顔をしてるのに、もっと綺麗に色っぽくな。
頬がほんのり染まっちまって、目元も赤くて瞳なんかは潤んじまって…。
美人を芙蓉の花に例えるが、酔っ払ったお前は酔芙蓉なんだ。白から赤へと変わる芙蓉だ、花の色がな。そいつと同じで、白い顔がそりゃあ色気のある顔になる。
…あの顔は絶対、誰にも見せん。
誰かが見たって減るわけじゃないが、酔芙蓉なお前を他のヤツらにも見せてやるほど、俺は心が広くないんだ。独占したいし、俺一人だけのものにしておきたいからな。
酒に強くなろうと努力する過程で酔っ払ってしまって、酔芙蓉になったブルーの顔。
それは一人で眺めたいから、ウイスキーボンボンも、酒入りの菓子も、家でだけ。
「いいな、酒の量も俺がきちんと加減するから、俺が作る菓子だけにしておいてくれ」
ウイスキーボンボンはともかく、その他の菓子。
店で美味そうなヤツを見掛けても、外で練習するのは駄目だ。帰ったら俺が作ってやるから。
「そっか…。ハーレイが作ってくれる分だけなんだね、食べていいのは」
でも、ハーレイなら色々なお菓子を作ってくれるんだろうし、ぼく、頑張るよ。
お酒入りでも酔っ払ってしまわないように、少しずつ量を増やしていって。
「頑張れよ。そしていつかはハイボールだな?」
俺と一緒に飲むってわけだな、前のお前には無理だったヤツを。
ハイボールの美味さが分かるお前が出来るってことか、前のお前とは一味違った。
「うんっ!」
今度は美味しく飲めるようになるよ、酔っ払わないで。
ウイスキーボンボンを一個から始めて、お酒の量を少しずつ増やしていくんだから。
毒と同じできっと強くなるよ、頑張って色々と食べていったら。
だからハーレイと二人でお酒を飲めるよ、今度のぼくは。二十歳になった頃には、きっと。
それまでの間は、ハーレイと一緒にお酒を飲むのはパパだけど…。
ぼくが二十歳になったら、ぼくの番。ぼくがハーレイと一緒に飲むんだから…!
ハーレイをパパには盗られないよ、とブルーは自信満々だけれど。
前の自分が苦手だった酒を克服しようと、その日に向かって顔を輝かせているけれど。
きっと今度も酔芙蓉だろう、ハイボールを飲めはしないだろう。
ウイスキーボンボンを一個で酔っ払うとか、サバランで酔ってぐっすり眠ってしまうとか。
ブルーと二人で飲むハイボールは夢に終わって、きっと叶いはしないだろう。
それでも嬉しい、ハイボールが駄目なブルーでも。
前のブルーと全く同じに、二人で酒を酌み交わすことが出来なくても。
(…なんたって、結婚出来るんだしな?)
酒が飲めるように努力をする、と言ってくれるブルーと二人で生きてゆけるのだから。
何度ブルーが酔っ払っても、ソルジャーの務めを心配しなくていいのだから。
二日酔いになってしまった時には、好きなだけ寝かせてやることが出来る。
休日だったら添い寝してやれる、ブルーの気分が良くなるまで。
だからブルーは酔芙蓉でいい、ハイボールを飲めないままでいい。
酔っ払っても、何の心配も要らない世界。ソルジャーの務めが無い世界。
其処へ二人で来たのだから。
青い地球の上で、いつまでも、何処までも、手を繋ぎ合って歩いてゆけるのだから…。
ハイボール・了
※白いシャングリラでも楽しまれていた、ハイボール。前のブルーの耳にも入った代物。
前のブルーは酔っ払ったのに、今のブルーは苦手を克服するそうです。酔っ払わないように。
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(すっかり遅くなっちまった…)
ハーレイは愛車を走らせていた。街灯や対向車のヘッドライトはあるのだけれども、夜だから。もうすっかりと更けているから、外側から見ても車体の色は漠然としか分からないだろう。緑色を帯びた車だとしか。
前の自分のマントの色。その色と同じ色をした車。初めての車を買った時から、この色だった。今よりもずっと若かった自分。青年には些か渋すぎる色。けれど、この色しか…。
(無いと思ったんだ、俺の車には)
お似合いですよ、と勧められた鮮やかな黄色の車は論外。褐色の肌には黄色の服がよく似合うと知っていたのだけれども、車の黄色は違和感があった。それよりは白、と。
白の車をまじまじと眺めて、少しいいなと思ったけれど。どういうわけだか、「白は駄目だ」と考えた自分。「俺の車には似合いの色だが、欲しい気にならん」と。
様々な色を見比べた末に「これにします」と選んだ深い緑色。何処から見ても年配向きで、店の人にも「もっと明るい色の方が」と鮮やかな緑を勧められたけども、「違う」と感じた明るい緑。
「これが気に入ったから」と譲らずに決めた、今の緑に。前の自分のマントの色に。
まさかそうだとは、夢にも思わなかった色。縁があったとは知らなかった色。
初めての車を披露した時は、友人たちに散々呆れられたものだ。「渋すぎるぞ」と。遠慮のない者はこうも言ってくれた、「その車に乗るだけで三十歳は老けられそうだな」と。
実際、そういう色だから。
今の時代は人間は誰もがミュウになっていて、若い姿で年齢を止めてしまえる世界。年を重ねた人は少なくて、深い緑色の車が似合う姿なら、もう充分に「老けた」年齢。
そういう人たちが乗っているような車を買うとは、と何人もに笑われ、それから後も…。
(今の車に買い替えた時だって、まだ言われたんだ!)
三十代でそれは渋すぎないかと、今度は違う色の車を選んで買ったら良かったのに、と。
車は長く乗るのが信条、今で二台目になる愛車。これに乗って今の学校に赴任した時も、やはり同僚たちが「渋い趣味だ」と漏らした感想。「濃い色が好きなら青もあるのに」と言った者やら、いっそ黒の方が若い者でも似合う色なのにと評した者やら。
前の自分のマントの色の車は、この年になってもまだ渋いらしい。三十八歳くらいでは。もっと年を重ねて五十代の声でも聞かない限りは、「渋すぎる趣味だ」と言われるのだろう。
けれど…。
(この色には意味があったってな)
小さなブルーと出会って分かった、自分が何者だったのか。この色の車に惹かれた理由も、白い車を選べなかった原因も。
(…白は好きだが、好きじゃなかったんだ…)
自分ではなくて、前の自分が。キャプテン・ハーレイだった自分が。
前のブルーと共に暮らしたシャングリラ。長い長い時を共に生きた船、ブルーが守った白い船。そのシャングリラから、ブルーがいなくなったから。ブルーを失くしてしまったから。
それでも自分はシャングリラの舵を握って行くしかなかった、遠い地球まで。前のブルーがそう願ったから、「頼んだよ、ハーレイ」とジョミーの補佐を自分に託して逝ったから。
ブルーを失くして、仲間たちはいても常に孤独で。目指す地球はブルーと何度も夢見た星から、旅の終わりを告げる星へと変わってしまって。
地球に着いたら全てが終わると、ブルーの許へと旅立てるのだと、それだけを思って生きていた自分。魂はとうに死んでしまって、屍のようになった身体で。
ブルーが命を捨てて守った白いシャングリラは悲しい船になってしまった、ブルーの姿は何処を探しても無かったから。ブルーの声は二度と聞こえなかったから。
前のブルーの思い出が幾つも詰まった、白く優美なシャングリラ。船を預かるキャプテンゆえの思い入れも深い船だったけれど、ブルーを失くした悲しみの方が遥かに大きかったから。
(…白い車は…)
無意識の内に避けたのだろう、今の自分も。
白を選んでもブルーがいないと、好きな色でも悲しい思いをするだけなのだ、と。
けれどブルーは帰って来た。十四歳の少年の姿で、蘇った青い地球の上に。
前の自分の記憶も戻って、ブルーと再び巡り会えた。お蔭で車の色の謎も解けたし、次は白でもいいなと思う。ブルーがいるなら白い車も悪くないから、白はシャングリラの色だから。
とはいえ、今はまだ濃い緑色。向こう五年は乗りたい車で、大切に乗ってやりたい車。ブルーと最初のドライブに行く時は、この車に乗って出掛ける予定。
それが夢ではあるのだけれども、ブルーはまだまだ幼いから。十四歳にしかならないから。
(…こいつが現実…)
ブルーを助手席に乗せる代わりに、定員一杯に乗せた同僚たち。とうに下ろして来たけれど。
金曜日の夜、同僚たちと仕事帰りに食事に出掛けた帰り道。バスで通っている同僚たちには車が無いから、自分も運転手の一人。どうせ気ままな一人暮らしだし、遅くなってもかまわない帰宅。家が遠い者たちを送ることにした、車に乗れる人数だけ。
順に一人ずつ下ろしていって、最後の一人の家まで行ったら、自分の家からは離れた郊外。窓を開けて軽く手を振った後は、いつもより長い帰り道。時ならぬドライブ、久しぶりの。
(…ブルーは抜きだが、ドライブはだな…)
嫌いではないし、今でも時々走ってはいる。ブルーの家に寄り損なった日の帰りなどに。
車の数も減った夜更けに、やっと戻って来た自分の家がある住宅街。幹線道路から入った後には出会う車も無い時間。
其処を走って、間もなく見えて来た門灯と庭園灯の明かりと。暗くなったら自動で灯る仕掛けにしてある明かりで、自分の家。
もう寝静まっているらしい近所の家々、その前を静かに走って行って…。
(よし、帰って来たぞ!)
ブルーの家には寄れなかったけれど、いい日ではあった。同僚たちとの楽しい食事に、有意義な話題や愉快な話題。ブルーの代わりに同僚たちを満杯に乗せてのドライブの時間も悪くなかった。
(…欲を言えば、あそこはブルーとだな…)
二人きりで、と行きたかったけれど、それはまだまだ先の話で、夢だから。
小さなブルーが前と同じに育つ日までは叶わない夢だと分かっているから、欲張りはしない。
今の自分には同僚たちとのドライブが似合いで、でなければ一人きりでのドライブ。今のように一人で車を走らせ、こうして家まで。
慣れた手つきでハンドルを切って、車をガレージに入れにかかった。
「シャングリラ、無事にご到着ってな」
ついつい零れるシャングリラの名前、遠く遥かな時の彼方で前の自分が動かした船。舵を握って立っていた船、ブルーと暮らした白い船。
今の愛車はシャングリラのような宇宙船ではないけれど。大きさも形も違うけれども、いずれはブルーと乗る予定になっている愛車。ブルーと乗るなら、この車だってシャングリラ。二人だけのために動くシャングリラで、白くなくてもきっと立派なシャングリラになる。
(俺が動かすわけなんだしな?)
さて…、とガレージの所定の場所に車をピタリと停めたけれども。前も後ろも、脇のスペースも狙い通りにいったけれども。
(む…?)
見事に車を停めたというのに、肝心の台詞が出て来なかった。
シャングリラを停めるための言葉が、ガレージに車を停める所で言うべき言葉が。
今は車の形だとはいえ、シャングリラのつもりだったのに。あの白い船と同じ気分で、いつかはブルーを乗せる予定のシャングリラで家に着いたのに。
思い付かない決め台詞。シャングリラを停めるなら、言うべき言葉。
(うーむ…)
最後の最後が決まらなかった、と溜息をついて切ったエンジン。せっかくシャングリラの気分で帰って来たというのに、どうにも間抜けなオチになった、と。
キャプテン・ハーレイだけが言える台詞がある筈だけれど。こういう場面で使う言葉が。
(だが、出て来ない、と…)
ウッカリ者め、と車のキーを抜いて、降りてドアを閉めて。鍵をかけた後、玄関まで庭の芝生を横切る途中でハタと気付いた。「無かったのだ」と。
(…停めてないんだ、シャングリラは…)
だから言葉がある筈もない。車をガレージに停めるのに使えるような言葉は、何処を探しても。
愛車のエンジンは止めたけれども、キーだって抜いて来たのだけれど。
シャングリラの場合は、止めたことなど無かったエンジン。いつも動いていたシャングリラ。
雲海の星、アルテメシアの雲の中でも、ナスカの衛星軌道上にあった時でも。
衛星軌道上ならば止めても良さそうなエンジンだけれど、シャングリラはそうはいかなかった。あの船を隠すためのステルス・デバイス、それを止めることは出来ないから。エンジンを止めれば止まってしまうステルス・デバイス、そうなれば人類に姿を発見されかねないから。
(機関停止、としか…)
言えなかったのだった、シャングリラでは。
止めていい機関はどれとどれで、と確認しながら出していた指示。エンジンを切れなかった船。
シャングリラはそういう船だった。ある筈もなかった、停めるための言葉。
そうだったっけな、と頭を振り振り、横切った庭。庭園灯や門灯の明かりがほのかに照らし出す芝生。空を仰げば星空があった、白いシャングリラで旅をした空が。この地球が青く蘇るより前、遥かな昔に前の自分が地球を目指して旅した空が。
前のブルーがいなくなった後、シャングリラは地球までやって来たけれど。前の自分もミュウの代表としてシャングリラから地球へと降りたけれども、やはり止めずにおいたエンジン。
シャングリラは死の星だった地球の衛星軌道上にあった、いつでも脱出できるようにと。いざとなったら自分たちを捨てて地球を離れろと、そういう指示を下しておいた。
あれだけ巨大な船のエンジンは直ぐにかかりはしない。だから「止めるな」と主任操舵士だったシドに命じた、「会談が始まるまでには時間がかかるが、止めて待つな」と。
前の自分が最後まで停めなかった船。停めるための言葉を持たなかった船。
(なにしろ港が無かったからなあ…)
地球に着いた時もそうだったけれど、地球に宙港は無かったけれど。
それよりも前も、シャングリラには無かった港なるもの。船を停めておくためにある港。
アルテメシアを落とした直後は、宙港へと船を降下させたものの…。
(あれは人類への示威行動で…)
港に入ることが目的というわけではなかった、シャングリラの存在を誇示するためのジョミーの戦略。アルテメシアから地球へと向かう途中に落とした星々、其処の宙港でも。
「ミュウの船が下りる」ことに意味があったから、言わば作戦行動中。普通の宇宙船の入港とは違って、管制官などいようがいまいが…。
(強引に下りるだけだったんだ…)
だから自分は言ってはいない。シャングリラを停めるための言葉を、入港する時に使う言葉を。
つまり、シャングリラには無かった港。決まりに従って入港する場所。
(おまけに母港なんぞは何処にも…)
まるで存在しなかった。シャングリラが帰るべき港は無かった、宇宙の何処にも。地球への道を進んでゆくだけの船に、帰る場所など要らないから。あの船に母港が出来るとしたなら…。
(地球に辿り着いて、人類がミュウの存在を認めた時だけなんだ)
俺は港に帰って来たが、と鍵を開けた家。今の自分の家の玄関。
今の自分の愛車にとってはガレージが母港、自分にとっては家が母港といった所か。
(こうして明かりも点いてるってな)
門灯や庭園灯もそうだし、玄関の脇の明かりも同じ。夜に戻ったら点いている明かり、滑走路に灯った誘導灯のように。海にある港の灯台などのように。
玄関を入ってパチンと明かりを点けたけれども、その気になったら、帰って来た自分を出迎えるように灯る仕組みに調整できる。歩いてゆく先で順番に点くよう、センサーを使って。
(だが、俺はレトロなヤツが好きだし…)
便利な仕掛けにしておくよりかは、手動が好み。暗がりでパチンと入れるスイッチ、そうやって灯る明かりが好み。
自分の港の家だからこそ、自分の好みで。
少し暗すぎて「何処だ?」と手探りで探すスイッチ、それも楽しみの内だから。サイオンの目で見て探すよりかは断然手探り、どんなに効率が悪かろうとも。
此処は自分の家だから。母港なのだから、のびのびと羽を伸ばせばいい。船が戻って休むための場所、それが母港というものだから。
食事は同僚たちと済ませて来たし、着替えた後にはコーヒーがあればそれで充分。愛用の大きなマグカップにたっぷりと淹れて、今夜は書斎へと運んで行って。
小さなブルーが持っているのと同じシャングリラの写真集を棚から出して、机に置いた。椅子に腰掛け、コーヒーを飲みながら表紙を飾った白い船を眺める。
(…こいつに港は無かったか…)
まるで気付いていなかったが、と漏れた苦笑い。俺としたことが、と。
この写真集に収められた写真が撮られた時代。トォニィの代は、キャプテン・シドが舵を握った時代は、シャングリラにも出来ていた港。何処の星にも降りて良かったし、母港もあった。
彼らの時代はノアとアルテメシアがシャングリラの本拠地、どちらも母港。二つもあった理由は簡単、白い鯨をノアが迎えたがったから。当時の首都惑星だったノアにもシャングリラを、と。
トォニィが燃え上がる地球を後にして、向かった星はアルテメシアだったのだけれど。あの星がミュウの歴史の始まりの星だと、真っ直ぐに向かって行ったのだけれど。
そうして母港はアルテメシアになって、後からノアが加わった。
けれど、前の自分が生きた時代には…。
(アルテメシアは旅立ったきりで、戻っていないぞ)
逃げるように後にした時とは違って、陥落させた後。ジョミーがその気になりさえすれば、あの星を拠点に定めることも出来ただろう。そうしていたなら、アルテメシアは母港になった。
けれどジョミーはアルテメシアをあっさりと離れ、地球へと向かう道を選んだ。ミュウの拠点は地球にすべきだと、それでこそ向かう意味があるのだと。
何処の星を落としても、変わらなかったジョミー。母港を持たずに白い鯨は地球へ向かった。
整備する時も、ゼルとブラウとエラが指揮する船を加えて船団を組んで旅立った時も、白い鯨が下りた港は仮の港で、最後まで母港は無かったのだった。いつでも戻れる母なる港は。
前の自分が生きた時代はそういう時代。シャングリラに母港が無かった時代。
赤いナスカには長く留まったし、定住したいと若い世代が言い出したほどの星だったけれど。
彼らがナスカに執着したせいで惨劇が起こってしまったけれども、あのナスカでも衛星軌道上に浮かんでいただけのシャングリラ。港ではなくて、暗い宇宙に。
ナスカの宙港が狭かったこともあったとはいえ、やはり止められなかったエンジン。万一の時を考えるならば、シャングリラのエンジンを止めてはならない。
だからナスカには下りられなかった、シャングリラの母港はナスカでも無いままだった。
(流浪の民か…)
ナスカに基地を築いたとはいえ、地球に向かうまでの仮住まいに過ぎなかった星。長く続いた放浪の旅で疲れ果てた仲間たちを降ろして休ませた星。
いずれは地球へと旅立つのだから、ナスカがあってもミュウは流浪の民だった。乗っている者が流浪の民なら、その箱舟も同じだろう。母港を持たない流浪の船。
母港が無ければ、全機関の停止は有り得ない。けしてエンジンは止められない。
白い鯨へと改造するために無人の惑星に下りていた時も、大部分の機関は動いていた。メインのエンジンの改造中には補助のエンジンがフル稼働していたし、他の機関も、ワープドライブも。
ついに一度も見ないままだった、エンジンを止めたシャングリラ。
そんな指示など出せはしなかったし、出せる状況にもいなかった。エンジンを止めていい母港は無かったのだから。シャングリラは母港を持たないままで地球へと向かったのだから。
(…前の俺が言葉を知らないわけだ…)
船を停めるための。シャングリラを入港させる時に使う言葉を、前の自分は使わなかった。その必要が無かったから。使う場面が無かったから。
港が無いなら、船は停まらない。
陥落させた星の宙港に下りる時には、何らかの形で指示を下した筈だけれども…。
(俺は、なんて言っていたんだっけな…?)
シャングリラ発進、という言葉は何度も使った。様々な場面で、色々な場所で。
人類に追われてアルテメシアを後にした時も、「シャングリラ、発進!」と命じていた。重力圏からのワープなどという前代未聞の荒技での旅立ち、仲間たちの士気を鼓舞するように。
前のブルーを失くしてから戻ったアルテメシアでも、地球に向かって旅立つ時にはそう言った。
けれども、その後の旅路で幾つもの宙港に下りた時には…。
(…着陸でもなし…)
思い出せん、と頭を振った。これだった、という言葉が欠片も出て来ないから。
多分、その時々で違ったのだろう。
降下してゆく星の状態などに合わせて、高度をどのくらいで保持とか、そういった風に。宙港に船を停めておくにしても、エンジンは稼動したままなのだから「このまま停船しておけ」だとか。
そう、地球へ降りる時にもシドに命じた記憶があった。
「衛星軌道上で停船、ただしエンジンは万一に備えて動かしておけ」と。
その場に応じて変わっていたらしい、シャングリラを停めておくための言葉。
停めると言っても、エンジンは止まらないのだけれど。本当の意味では止まっていなくて、船は動いていたのだけれど。
(つまり決め台詞が無かったわけだな)
「シャングリラ発進」という言葉はあっても、無かったらしい、その逆の言葉。シャングリラを格好よく停めるための言葉。
ならば作るか、という気がしてくる。
白いシャングリラは時の彼方に消えたけれども、今の自分のシャングリラ。前の自分のマントの色をしている愛車。あれのためにも作ってやるか、と。
自分が「ただいま」と家に、母港に帰って来るなら、今のシャングリラにも相応しい言葉を。
ガレージという名の母港に入る時のための言葉を、ピタリと停めてやる時の言葉を。
(ただいま、と声に出して家に入ってはいないがなあ…)
そう言ってみても、待っている人がいないから。一人暮らしの家だから。
けれども帰る家があるから、心では言っている気がする。「ただいま」と一人で扉を開けて。
俺の家だと、今日も家まで帰って来たぞ、と。
それに、今は一人の家だけれども、些か大きすぎる家なのだけれど。
(いずれはブルーが…)
待っていてくれる日が訪れる。
まだ十四歳にしかならないブルーが、前と同じ姿に育ったら。結婚出来る年を迎えたら。
二人で暮らせるようになったら、「ただいま」と声に出すことだろう。今のシャングリラだとも言える愛車をガレージに停めて、庭を横切って、玄関を開けて。
ブルーは奥で待っているのか、それとも気付いて玄関先まで出て来るか。「おかえりなさい」と迎えるブルーに、「ただいま」と笑顔を向けるのだろう。
(そうなってくると…)
小さなブルーと決めるべきだろうか、シャングリラを停めるための言葉は。
ブルーとはドライブにも出掛けるのだから、いずれブルーも目にする場面。今のシャングリラをガレージに入れて、ピタリと停める時に使える決め台詞は…、と考えているのが自分だから。
(そうだな、あいつはソルジャーだしな?)
今のブルーに「何か無いか?」と尋ねてやったら、大喜びで案を出しそうだけれど。
それよりも前に、ソルジャーだった頃のブルーが案を持っていた可能性がある。いつか地球へと夢見たブルーは、シャングリラが役目を終えた後のことも何度も語っていたのだから。
地球に着いてソルジャーとキャプテンの立場から解放されたら、色々なことをやりたいと。
ソルジャーもキャプテンも要らないのならば、もうシャングリラも停まっている筈。エンジンを止めて、仲間たちも船から降りてしまって。
その日を夢見たブルーだったら、具体的な案を考えていたかもしれない。
前のブルーは言えずに終わったけれども、言おうとしていたシャングリラの旅の終わりの言葉。
キャプテンだった自分ではなくて、ソルジャーが命じる停船の言葉。
旅は終わりだと、シャングリラはついに地球まで辿り着いたのだから、と。
(その可能性は大いにあるな…)
ブルーだからな、と頬が緩んだ。
青い地球に焦がれ続けたブルー。いつか行きたいと何度も語っていたブルー。
地球に焦がれて、焦がれ続けて、とうとうフィシスを攫ったくらいに。フィシスがその身に抱く映像、青い地球へと向かう旅の景色。それが欲しいと、望んだ時にいつでも見られるようにと。
それほどに焦がれた青い地球なら、その青い地球に白いシャングリラを停める時の言葉も…。
(…持っていそうなんだ、あいつだったら)
其処までの旅路を終えた仲間を労う言葉と併せて、それも。旅をした船を停める言葉も。
キャプテンだった自分に代わって、ブリッジに立って命じる言葉を。
シャングリラの舵を握ったキャプテンに向かって言うべき言葉を、白い鯨を停める言葉を。
それがあるなら、使ってみたい。今の自分のシャングリラに。いつかはブルーと乗る愛車に。
(明日、訊いてみるか…)
あったのかどうか、と少し温くなったコーヒーのカップを傾けた。
明日は土曜日、ブルーの家に行く日だから。ブルーと一緒に過ごせる日だから。
次の日、ブルーの家に出掛けて。小さなブルーの部屋で二人で向かい合うなり、忘れないでいた質問を早速投げ掛けた。
「おい、シャングリラを停める言葉を知ってたか?」
「え?」
シャングリラって…、とブルーが首を傾げる。停める言葉って、どういう意味、と。
「白い鯨だ、前の俺たちが乗ってた船だ」
あのシャングリラを停めるための言葉ってヤツをだ、どうやら俺は知らないようだ。
…忘れちまったっていうんじゃなくてだ、最初から存在しなかったらしい。
前のお前が生きてた間は、港に入るって場面が無くてだ、一度も言ってはいなかったんだが…。
言う必要すら無かったわけだが、その後も使う場面が無かった。
シャングリラには母港が無かったからなあ、エンジンを止めることは無かったわけだ。いつでもエンジンは動きっ放しで、止めてはいない。…最後までな。
前の俺が地球に降りる時にも、「エンジンは止めるな」とシドに言って降りた。
そんな具合だから、シャングリラのエンジンを止めて本当に停める時の言葉を知らないんだ。
もちろん、アルテメシアやノアの宙港に降りてはいたんだが…。
そういう時には、状況に応じて言っていたらしい。こんな手順で停船しろ、と。エンジンは常に動かしたままで、高度なんかを保ってな。
…しかし、前のお前は地球に行こうと夢を見て、幾つもの夢を抱えて。
地球に着いたらやりたいことを山ほど持っていたのがお前だ、それだけに地球に辿り着いた後のことも考えていたのかもな、と思ってな…。
仲間たちに贈るための言葉と、シャングリラの旅の終わりを告げるための言葉と。
前の俺に向かって「エンジン停止」と命令するとか、着陸だとか。
「…えーっと…。訊いてくれたのは嬉しいけれど…」
その発想はぼくにも無かったよ。
シャングリラのエンジンは動いてるもので、止めるなんて想像もつかなかったから…。
だって、止めたらステルス・デバイスまで止まってしまうんだものね。
前のぼくは地球へ行く夢を見ていただけだから…、と困ったように微笑むブルー。
そうでなくてもシャングリラの操船はキャプテン任せで、地球に降りる時にもそのつもり、と。
仲間たちを労う言葉はともかく、シャングリラに関しては任せておくだけ、と。
「シャングリラはハーレイが動かしてたんだし、前のぼくは乗っていただけだよ?」
ハーレイから報告は聞いていたけど、ぼくはシャングリラを動かしてないし…。
地球に降りるからって、ぼくが其処だけ指揮を執ったら変になっちゃう。
間違ったことは言ってなくても、シャングリラの指揮はソルジャーの役目じゃないしね。
「なるほどな…。前のお前がそうだったのなら…」
やはり決め台詞は無しってことだな、困ったことに。
「…決め台詞?」
なんなの、それって何に使うための決め台詞なの…?
「大したことではないんだが…。今の俺が乗ってるシャングリラが、だな…」
俺の車だ、俺が運転している以上はアレもシャングリラには違いない。今の俺用の。
そいつを昨日、ガレージに入れようとしたら相応しい言葉が無かったんだ。
前の俺は散々「シャングリラ発進」と言ってたわけだが、その逆が無かった。使う場面がまるで無いんじゃ仕方ないがな、今は事情が違うだろうが。
あの頃のシャングリラには母港が無くてだ、エンジン停止は有り得なかったが…。
俺の車にはガレージという名の母港があるのに、とショックだと言うか、ガッカリと言うか…。
いっそお前と考えようかと思ったわけだな、車を停めるための決め台詞を。
それで、もしかしたら前のお前にアイデアがあったかと思ったんだが…。
前のお前も持っていなかったか、決め台詞。
さて、シャングリラをどうやって停めたもんかな、今のシャングリラは車だがな。
宇宙船とは違うんだが…、とブルーの瞳を覗き込みながら。
「お前だったら、なんと言ってみたい?」
俺の車をガレージに入れて停める時には、なんと言いたい?
「…どうして、ぼくと一緒に考えるの?」
ハーレイの車の話なんだよ、ぼくに訊くよりハーレイが自分で考えた方がいいと思わない?
その方がきっとハーレイらしくて、かっこいい言葉になりそうだけど…。
「忘れちまったか? 俺の車の役目ってヤツを」
俺の車は、俺たちのためだけのシャングリラになる予定だろうが。
今は緑の車なわけだが、いずれはシャングリラと同じ白い車にするのもいいなと言った筈だぞ。
お前は俺の隣に座って、俺に注文するわけだ。何処に行きたいとか、此処で止めてだとか。
「そうだっけね…!」
我儘を言っていいんだっけね、もっと遠くまで行ってみようとか、もう帰ろうとか。
ちょっと止めてだとか、ぼくの好きなように。
でも…、と考え込んでしまったブルー。
どんな言葉があったっけ、と。
「シャングリラを停めるための言葉は無かったし…。前のぼくだって考えてないし…」
ギブリとかなら着艦だとか言っていたけど、あれはシャングリラに降りるための時で…。
地面に下りるなら着陸だろうけど、シャングリラもそれでいいのかな?
宙港だったら、どう言って宇宙船を下ろしているわけ…?
「さてなあ…」
どう言うんだかなあ、宙港に船を下ろす時には。
「ハーレイ、ホントに知らないの?」
エンジンは止めていなかったにしても、シャングリラは宙港に下りてたんでしょ?
アルテメシアでも、ノアとかでも。
「それはそうだが…。さっきも言ったろ、エンジンを止めてなかったからな」
本当の意味で停めたわけじゃなかった、だからそいつの言い方は知らん。
キャプテン時代に使ってないしな、今の俺が知るわけないだろう。
ただの古典の教師なんだぞ、宇宙航学なんぞは知らん。
「…それじゃ、シドのを調べたら?」
データベースにあるんじゃないかな、キャプテン・シドの時代のデータも。
シャングリラは色々な星に行ったんだし、シャングリラを停める言葉だってあるよ。
エンジンを止めてもいい時代だから、ハーレイの目的にピッタリなのが。
「それも一つの方法なんだが…。他人の言葉を使うよりかは、オリジナルだろ?」
宇宙航学じゃ、なんて言うのか調べるにしても、シドに頼るよりは俺の力でだな…。
でもって、そいつをアレンジするのがいいと思わないか、本物の船じゃないんだから。
「うん、そういうのも良さそうだよね」
宇宙船だったらピッタリな言葉でも、車だったらピンと来ないかもしれないし…。
車は着陸しないんだものね、ガレージに入れるのに着陸だと可笑しくて笑っちゃいそう。
素敵な言葉が見付かるといいね、ハーレイの車にピッタリのシャングリラを停める言葉が。
今はまだ、お互い、アイデアは無いけれど。
車になったシャングリラを停める言葉は、一つも思い付かないけれど。
いつかブルーを助手席に乗せて、ドライブに出掛けられるようになったら…。
「これだ、っていうのを考えなくちゃな、シャングリラ用の」
シャングリラは車になっちまったんだが、そいつに似合いの停めるための言葉。
「ハーレイと二人で考えようね、似合いそうなのを」
ぼくも頑張ってアイデアを出すから、ハーレイも色々考えてよ。
うんとかっこいい言葉がいいよね、「シャングリラ、発進!」って言ってたハーレイはとっても素敵だったから。
あれに負けないほどかっこいい言葉で車を停めてよ、キャプテンらしく。
車だけれども、ハーレイがキャプテン。
だって、ぼくたちのシャングリラなんだから。
「分かっているさ」
制服を着るってわけにはいかんが、そこは格好よく決めないとな。
そうでなければ決め台詞にする意味が無いしな、シャングリラを停めるにはこれだ、ってな。
いつかブルーが前と同じに大きくなったら、ドライブに行けるようになったら。
ブルーと二人で言葉を決めよう、二人で乗ってゆくシャングリラを停めるための言葉を。
車になったシャングリラを母港に、ガレージに停めるための言葉を。
そして二人で車から降りて、家という名前の港に着く。
暗くなっても暖かな明かりが点く家に。
次々に明かりを点けて回って、それから始まる幸せな時間。
二人だけのためにある幸せ一杯の港に入って、笑い合ったり、食事をしたり。
今のシャングリラを停めておける家で、いつまでも二人で暮らしてゆける家で…。
船を停める言葉・了
※「シャングリラ、発進」という言葉はあっても、無かったものが停船する時の言葉。
前のハーレイは使わないままで、今でも思い付かないのです。いつかブルーと考えたいもの。
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