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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(あいつ、あの日は此処にいたんだ…)
 ハーレイの目にふと留まったソファ。ブルーの家には寄れなかった日、帰って来た家で。自分の家だから何の遠慮も要らないとばかりに、鞄をドサリと投げ出した。ソファの上へと。
 それから着替えを済ませて戻って、放り出してあった鞄を端にきちんと置き直そうとして。
(…此処だったんだ…)
 此処にブルーが座ってたんだ、と小さな恋人の姿を思い出した。このソファにチョコンと座った恋人、パジャマ姿だった小さなブルー。
 どうして気付かなかったのだろう。今日まで何度もソファに座ったし、鞄も何度も置いたのに。着替え用の服を置いて出掛けて、此処で着替えることもあるのに。
 たった一度だけブルーを座らせたソファ。小さなブルーが座っていたソファ。
 ブルーと出会って間もない頃に。メギドの悪夢に襲われたブルーが恐怖に怯えながら眠った夜。瞬間移動など出来ない筈のブルーが此処まで飛んで来た。何ブロックも離れた此処まで、寝ていた自分のベッドの中へと。



(あの夜は俺もパニックだったしなあ…)
 寝ぼけ眼で「何かがベッドにいる」と感じて、母の猫かと思った自分。隣町の家にいた真っ白な猫のミーシャが来たなと、潰してしまってはマズイだろうと。
 けれども、自分の子供時代にミーシャはいなくなっていたから。何かが変だと手で探ろうとした時、耳に届いたブルーの寝言。「ハーレイ」と漏らして、「会いたいよ」と。
 何が起こったのか、それで分かった。前のブルーと同じ背丈に育つまでは家に来るな、と言っておいたブルーが瞬間移動でやって来たのだと。自分でも知らずに、無意識の内に。
(…実際、アレは驚いたんだ…)
 小さなブルーが自分のベッドに飛び込んで来た上、懐にもぐり込んで来たのだから。
 今とは違って、再会してから間もない頃。
 前のブルーと長く過ごした恋人同士だった頃の記憶が勝っていたから、ブルーを求める気持ちもあった。幼い身体でもブルーは同じにブルーなのだし、身体ごと手に入れてしまいたいと。
 そうは思っても、無垢で小さなブルーにはまだ早すぎる行為。いくらブルーがそれを望んでも、心も身体も耐えられはしないと分かっていたから、懸命に自分を抑えていた。
 「家には来るな」と釘を刺したのも、その一つ。ブルーが家に遊びに来た時、見せた表情が前のブルーと重なったから。思わず抱き締めてしまいたくなる前のブルーに見えたから。
(…重なっちまったら、もう止まらないんだ…)
 たとえブルーが幼くても。悲鳴を上げても、もう止まらない。力の限りに抱き締めるどころか、強引にキスして、服も剥ぎ取って…。
 そうならないよう、「来るな」と言っておいたブルーが同じベッドに入って来た。眠ったままで胸に縋り付いて来た、これでパニックにならない方が不思議だろう。
(ウッカリ俺まで眠っちまったら、何をやらかすか…)
 なにしろブルーがいるのだから。腕の中で眠っているわけなのだし、そのまま自分が夢の世界の住人になれば、前のブルーと同じつもりで眠りこけながら何をするやら…。



 指が、手が、眠るブルーの身体にけしからぬことをしてしまいそうで。悪ふざけの範囲で済めばまだしも、それで済まなくなったなら。ブルーのパジャマを脱がせるだとか、その下の肌を探ってズボンの中まで手を入れるだとか…。
(そいつは大いにマズイんだ…!)
 ブルーはきっと眠りながらでも、そういった行為に応えるから。幼い心も、小さな身体も眠りの前には何の歯止めにもなりはしなくて、前のブルーの動きをなぞってしまうだろうから。
 一度ブルーが応えてしまえば、きっととんでもないことになる。気付けば小さなブルーの身体を組み敷いてしまって、もう本当に止まれない所まで行っていそうな予感がしたから。そうなってもブルーは微塵も困りはしないだろうけれど、自分の方は…。
(取り返しのつかないことをやっちまったと、きっと一生…)
 悔やみ続けることだろう。ブルーが大きく育った後にも、二人で暮らせるようになっても。
 それだけは御免蒙りたいと、いくらブルーは平気だとしても自分の良心が咎めるから、と朝まで必死に抑え続けた自分の劣情。ブルーが欲しいとざわめく心。
 眠っても駄目だし、欲望に負けてブルーに触れてしまえば、もうおしまいで。ブルーは腕の中にいるのだけれども、「愛おしい」と思う以上の気持ちを持ってしまえば破滅するだけで。
 朝まで眠らずに耐えて耐え続けて、ようやくブルーが目覚めてくれて。
 「ハーレイの家に来られたんだね」と無邪気に喜ぶブルーと一緒に寝室を出て、階段を下りて、リビングに来て。
 「此処に座れ」と座らせたソファ。一人用ではなくて、ゆったりと座れる大きなソファ。
 ブルーが座ったのは、その一度きり。あの朝にチョコンと腰掛けたきり。



(遊びに来た日は座っていないし…)
 教え子を招くようなつもりで、ブルーを家に呼んでやった日。前のブルーとそっくりな貌をするブルーに驚き、心をかき乱された挙句に「大きくなるまで来るな」と告げねばならなかった日。
 けしからぬ気持ちになっては駄目だ、と心の何処かで考えていたのかどうなのか。
 この部屋でブルーと話す時には、一人用のソファに腰掛けて向かい合っていた、これとは別の。二人で並んでも充分すぎる余裕のあるソファ、これではなくて。
 リビングの端の、大きなガラス窓越しに庭が見える場所。其処にブルーと座っていた。
 けれども、ブルーがベッドに飛び込んで来た後に迎えた朝。あの朝はブルーを此処に座らせた、何も思わずに。広いソファの方がいいだろう、とパジャマ姿の小さなブルーを。
(あいつが一人で座るだけだっていうのも、あったんだろうな)
 自分はブルーの家に通信を入れたり、顔を洗って着替えたりと用があったから。ブルーと一緒に腰掛けて話すどころではなくて、するべきことがあったから。
 ブルーが一人で座るだけなら、邪心の入る余地などは無い。ソファはただの椅子で、一人用でも大きなものでも、座り心地が良ければそれでいいのだから。
(それっきりか…)
 あの朝だけか、と眺めるソファ。小さなブルーが座っていたソファ。
 此処に腰掛けたブルーを見たくなっても、ブルーは来ないし、招きも出来ない。
 今はまだ。
 十四歳にしかならないブルーが大きく育って、前のブルーと同じ姿になるまでは。



 柔道部員たちが押し掛けて来た日は、このソファも寿司詰めになるのだけれど。冬の寒い日に、木の枝にギュウギュウと連なって止まるメジロさながらの光景だけれど。
 メジロ押しだか、寿司詰めだかの賑やかな教え子たちの集団、そんな見慣れた光景よりも。
(…此処にあいつなあ…)
 此処にブルーがいてくれればな、と思いが募る。けして叶いはしないけれども、小さなブルーが前と同じに育つ日までは無理だけれども。
(…柔道部員どもとは、まるで値打ちが違うんだ)
 端から端までギュウ詰めに座って、その連中の膝の上にも乗ろうという輩がいるくらい。もっと座れるとメジロ押し並みにギュウギュウとやって、零れ落ちたりしているくらい。
 そういう彼らも面白いけれど、見ていて飽きはしないのだけれど。彼らがギュウギュウ押し合うソファより、満載になって溢れるソファより、ブルーが座っているソファがいい。
(小さなあいつは、もう呼べないし…)
 いつか大きく育つ時まで、待っているしか無いのだけれど。
 ソファに気付いたら、其処にブルーが座っていたのだと思い出したら、いて欲しいブルー。
 柔道部員たちのメジロ押しも愉快で笑えるけれども、ブルーに座って欲しいものだと。



 そう思ったから、夕食の後はコーヒーを淹れて、そのソファに座ることにした。熱いコーヒーを満たした愛用の大きなマグカップ。それを片手に「今日は此処だ」と。
 自分がドッカリ腰を下ろしても、大人が二人は楽に座れる余裕があるソファ。柔道部員たちなら四人は基本で、大抵、五人は詰まっている。「もっと詰めろ」と、「まだいけるだろ」と。
 そのソファの丁度真ん中あたりに座って、隣にブルーがいるつもり。マグカップを持っていない方の手、その手でブルーの肩を抱けたなら、と。
 ブルーは苦手なコーヒーだけれど、隣に座るのを嫌とは言うまい。「ぼくは紅茶の方がいい」と紅茶を手にしていそうだけれども、きっと隣に座ってくれる。
 早くその日が来ないものかと、此処にブルーがいてくれれば、と誰もいない隣に溜息をついて。いつになったら此処にブルーが来てくれるのかと、空っぽの隣を眺めていて。
(…そうだ)
 ブルーなら家にいるじゃないか、とマグカップをコトリとテーブルに置いて向かった書斎。あの書斎にはブルーがいるのだった、と。
 よくコーヒーを飲んでいる書斎、本たちに囲まれた憩いの空間。其処に据えてある机の上には、小さなブルーの写真を収めたフォトフレーム。夏休みの終わりにブルーと写した記念写真。
 フォトフレームの中、自分の左腕にギュッと抱き付いた笑顔のブルーに「すまん」と詫びて頭を下げて。そうっと開けた机の引き出し、日記の下から引っ張り出した写真集。
 正面を向いた前のブルーの写真が表紙に刷られた、『追憶』のタイトルを持つ写真集。最終章はメギドへと飛ぶ前のブルーの最後の飛翔で始まり、爆発するメギドで終わっている。
 悲しくて辛い本だけれども、前のブルーが愛おしいから。こうして自分の日記を上掛け代わりに被せてやって、いつも引き出しの中に。泊まりの研修にも持ってゆくほど愛おしいブルー。



 これだ、と大切にリビングへ運んだ写真集。それをソファの上、自分の隣に置いたら、ブルーが其処にいるかのようで。前のブルーが幻となって、隣に座っているかのようで。
 これでいいのだと、今夜はブルーと二人なのだと、少し温くなったコーヒーを口にしながら。
「なあ、ブルー…」
 いつかは座ってくれるんだよな?
 今はこういう写真しか無いが、ちゃんと本物のお前になって。俺の隣に、この姿で。
 …おっと、ソルジャーの衣装はもう要らないんだぞ、お前の好きな格好でいい。普段着だろうがパジャマだろうが、俺は全く気にしないからな。
 此処に座ってくれればいいんだ、俺の隣に。…お前の苦手なコーヒーを飲めとは言わないから。
 そうは言っても、お前は飲みたがるんだよな、と語り掛けても返らない返事。
 写真のブルーは何も言わずに見上げてくるだけ、瞳の奥深く悲しみと憂いを揺らめかせて。前のブルーが強くあろうと隠し続けた真の表情、それを湛えた眼差しで。
 どの写真よりも有名なそれを見詰めて、前のブルーに思いを馳せて。
 「今はゆっくりしていい時代だぞ」と、「俺の家だから、のんびりしてくれ」と、和らぐ筈などないブルーの表情を和らげたいと話し掛けていて…。
 そこで気付いた、これが初めてではないと。
 こうしてブルーと語り合った時間、それが確かにあった筈だと。



 ブルーと話していた記憶。今と同じに、前のブルーと。
 けれどブルーは幻ではなくて、もちろん写真であったわけもなくて。
(待てよ…?)
 青の間には一つも無かったソファ。一人用さえ無かったのだから、二人用などある筈もない。
 なのに、並んで座った記憶。前の自分の隣に座っていたブルー。
 ソファに腰掛け、隣を向いたらブルーがいた。前のブルーが微笑んでいた。そうして二人並んで話した、何度も何度も語り合っていた。
 まるで今夜の自分のように。前のブルーの写真集と隣り合わせに座って、答えが無くても自分の想いを語り掛けては、話しているつもりで頬を緩める自分のように。
 青の間にソファは無かったというのに、あれは一体、何処だったろう?
 何処でブルーと並んで座っていたのだろうかと、遠い記憶を懸命に手繰り寄せていて…。
(そうか、俺の部屋か…!)
 あそこだった、と蘇った記憶。
 白いシャングリラの中、広かった前の自分の部屋。キャプテン・ハーレイが暮らしていた部屋。仕事柄、様々な者たちが出入りするから、応接用のスペースも設けられていた。寝室や航宙日誌を書いていた部屋とは違った空間。其処に置かれていた応接セット。ソファとテーブル。
 前のブルーが訪ねて来た時は、ソファで語らうのが常だった。
 恋人同士の仲になるまでは低いテーブルを挟んで向かい合わせで、前の自分が淹れた紅茶などをお供に笑い合ったり、地球への夢を語り合ったり。
 そうして恋が実った後には…。



(あいつが俺の隣にいたんだ…)
 もう向かい合わせに座ることは無くて、いつも並んで座ったソファ。
 ブルーの居場所は前の自分の隣で、すぐ側にあった前のブルーの温もり。たまに向かい合わせで座った時にも、いつの間にか隣に来ていたブルー。前の自分の隣に座っていたブルー。
 横を向いたら、其処にブルーの笑顔があった。幸せそうに微笑む顔が。
 わざわざ肩を抱き寄せなくても、ブルーの方から自然ともたれて来ていた記憶。前の自分の肩に身体を預けてしまって、眠くもないのに目を閉じていたり。…そう、幸せを噛み締めるように。
(あいつが俺の部屋に来たがったのは…)
 ソファのせいでもあったのだろうか?
 青の間には無かった、二人並んで座れる場所。並んで腰掛け、語り合える場所。
 今の時代も、恋人たちは並んで座るのが常だから。白いシャングリラでも、そうだったから。
 ブルーはそれを真似てみたくて、恋人同士で座る気分を味わいたくて、ソファが備えられていた前の自分の部屋を訪ねて来たのだろうか…?
 それだけではないと思うけれども、ソファも理由の一つだったろうか、と。
(どうなんだかな…)
 真相を小さなブルーに訊いたら、喜ばせるだけの質問だけれど。
 ソファが関係していようが、まるで全く無関係だろうが、問われたブルーは間違いなく赤い瞳を輝かせて喜ぶだろうけれども。
 尋ねてみようか、明日は土曜日だから。ブルーの家へ行く日だから。
(…お前は知っているんだろうがな…?)
 どうだったのかを俺に教えてくれはしないんだろうな、と問い掛けた写真集の表紙のブルー。
 答えは返って来なかったけれど、憂いを秘めた顔のブルーが一瞬、微笑んだようにも見えた。
 「思い出してくれたんだね」と。
 ぼくたちのことを、君の部屋のソファに並んで座っていたことを、と。



 その夜は前のブルーとソファで過ごして、それから書斎で日記を書いて。その日記を『追憶』の上にそっと被せて、「おやすみ、ブルー」と引き出しを閉めた。
 一晩眠ってもソファの思い出を覚えていたから、頭にきちんと残っていたから。小さなブルーに尋ねてみようと、ブルーの家へと歩いてのんびり出掛けて行って。
 生垣に囲まれた馴染みの家に着いて、二階のブルーの部屋で向かい合わせに腰掛けてから質問をヒョイと投げ掛けてみた。
「お前、ソファのことを覚えているか?」
 ソファと言ったら家具のソファだが…。こういう椅子とは違って、ソファだ。
「ハーレイの家の?」
 うん、覚えてるよ、リビングに置いてあったよね。大きなソファにも、一人用のにも座ったよ。どっちも座り心地が良くって、フカフカのソファ。
「いや、それじゃなくて…」
 今の俺の家にあるソファじゃなくてだ、前の俺の部屋の…。
「え?」
 ブルーがキョトンと首を傾げるから、「キャプテンの部屋にあったヤツだ」と説明をした。
「忘れちまったか、前の俺の部屋にあったソファ」
 キャプテンの部屋には客も来るしな、応接セットがあったわけだが…。ソファとテーブルが。
 お前、座っていたろうが。いつでもソファで俺の隣に。
「ああ、キャプテンの部屋のソファ…!」
 あったっけね、と嬉しそうに頷いたブルー。
 大きなソファが置いてあったと、あれは青の間には無かったものだと。
 来客が多いキャプテンの部屋ならではの家具で、ソルジャーの部屋には無かったっけ、と。



 ブルーはキャプテンの部屋のソファも、青の間にソファが無かったことも思い出したから。前の自分たちの部屋にあった家具の違いに気付いてくれたから。
 これはチャンスだと、昨夜からの疑問をぶつけることにした。ブルーはソファが好きだったのか否か、それを訊くのが自分の目的なのだから、と。
「よし、ソファがあったことは思い出したな? それでだな…。お前に訊いてみたいんだが…」
 前のお前が俺の部屋に来たがっていたのは、あのソファのせいか?
「…ソファ?」
 ソファのせいって、どういう意味なの?
 前のハーレイの部屋は好きだったけれど、何度も泊まりに行っていたけど…。
「いや、もしかしたら、あのソファに座りたくて来ていたのかもな、と思ってな…」
 友達同士だった頃には向かい合わせで座ったもんだが、恋人同士になってからは、だ。いつでも俺の隣に座っていたしな、前のお前は。
 たまに向かい合わせで座った時にも、気が付いたら俺の隣に来てた。当たり前のように。
 …だからだ、お前、あのソファに座ろうとして来ていたのかと思ったんだが…。
 青の間にソファは無かったからなあ、並んで座れはしなかったからな。
 どうだったんだ、と尋ねたら、ブルーの顔が花が開くようにふわりと綻んで。
「うん、そうだよ」
 あのソファに座りたいから行ってたんだよ、ハーレイの部屋に。
 ソファが目当てじゃない時だって、もちろん何度もあったけど…。ソファが無くても、行きたい部屋ではあったんだけれど。
 …だって、ハーレイの部屋だから。ハーレイのためにあった部屋だから、何処もハーレイの色で一杯。緑とかそういう色じゃなくって、ハーレイの好きな色なら何でも。机も床も、壁の色もね。
 あの部屋の全部が好きだったけれど、ソファに座るのも大好きだったよ。
 すっかり忘れてしまっていたけど、あのソファ、お気に入りだったんだよ…。



 ソファそのものもハーレイらしくて好きだったけれど、ハーレイの隣が好きだった、とブルーは笑みを浮かべて答えた。前のハーレイの隣に並んで座るのが、と。
「あそこでしか並んで座れなかったしね…」
 どんなにハーレイの隣に座りたくっても、あのソファだけしか無かったから。
「…そうか?」
 お前、しょっちゅう俺の隣にくっついていたと思うんだが…。
 もたれていたり、俺の腕にギュウッと抱き付いていたり。
「それはそうだけど…。間違いないけど、そういう時にはベッドだったよ」
 ベッドの上とか、ベッドの端に並んで座っていた時だとか。そんな時だよ、くっついてたのは。
 だけど、椅子はね、ハーレイの部屋のソファだけだった。
 ハーレイと同じ椅子に並んで座れる所は、あのソファだけしか無かったんだよ…。



 公園のベンチや、シャングリラの中を移動するための小さな車両の座席やら。
 そうした場所なら並んで座ったことも珍しくなかったけれども、ソルジャーとキャプテンの貌で座っていただけ、とブルーに言われてみれば。
 確かにそういう記憶しか無くて、休憩中のソルジャーの隣に座って話をするとか、視察の途中に隣り合わせで座ってゆくとか、それだけのこと。同じ椅子に並んで腰を下ろしていても。ベンチや座席で隣り合っていても、あくまでソルジャーとキャプテンだった。
「…ハーレイと恋人同士で並んで座っていられる椅子は、本当にあのソファだけだったんだよ」
 シャングリラはうんと広かったけれど、あそこだけが誰にも見付かる心配が無かった場所。
 どんなに二人でくっついてたって、恋人同士なんだって分かる話をしてたって。
 あの船の中に、恋人たちのための場所は幾つもあったのに…。
 公園のベンチも、休憩室とかに置いてあったソファも、恋人たちが並んで座ってたのに。
「そういや、そうだな…」
 仲良く並んで座っているな、ってヤツらを見掛けることが多かったっけな。
 並んで座るってだけじゃなくって、手を繋いでたり、肩を抱いてたりしたっけな…。
「でしょ?」
 だから、あのソファが好きだったんだよ。あそこなら並んで座れるから。
 恋人同士の気分になれたよ、他の恋人たちみたいに公園とかではなかったけれど。
 何処でも恋人同士の顔をして堂々と並べはしなかったけれど、あのソファは別。ハーレイの肩にもたれていたって、くっついてたって、何の心配も無かったんだもの。
 …キャプテンの部屋に断りも無しに入ろうって人は無いものね。誰か来たなら、パッと離れて、ハーレイの向かいに座り直せばいいんだから。
 でなきゃ瞬間移動で逃げてしまうとか、誤魔化す方法は山ほどあったし…。
 だけど、そんなことは一度も無かったんじゃないかな、行ってたのはいつも夜だったから。



 本当に素敵なソファだったよ、と小さなブルーは懐かしそうで。
 どうして今まで忘れていたのかと、あのソファがとても好きだったのにと遠く遥かな時の彼方に消え去った船を、キャプテンの部屋を、其処にあったソファを思い浮かべているようだから。
「…お前、やっぱり、アレが目的だったんだな?」
 あのソファに座ろうと思って来ていたんだな、俺の部屋まで。
「それだけってわけじゃないけどね」
 ハーレイの部屋も好きだったと言ったよ、何処を見たってハーレイの色で。
 航宙日誌を書いてるハーレイを眺めているのも大好きだったし、お酒を飲んでるハーレイも…。
 青の間だと見られないものばかりが揃っていたから、いつ出掛けたって楽しかったよ。
 それにね、ハーレイと過ごせる時間。
 恋人同士でいられる時間も大切だったよ、ソファだけに限った話じゃなくて。
 キスとか、その先のことだとか…、と小さなブルーがチラリと意味ありげな視線を寄越すから。
(…そうだ、あのソファでも…!)
 二人並んで座っていたから、隣同士でくっつき合っていたのだから。
 ソファに座ったまま、キスを交わしたりしたのだった。ただ触れるだけのキスとは違って、恋人同士の深いキス。そのまま溶け合ってしまえそうなほどに熱くて激しいキスを。
 ふざけ合ったこともあったのだった、ベッドに行く前の恋人同士の戯れの時間。互いの肌を探り合ったり、ブルーの補聴器を外してしまって柔らかな耳を味わってみたり。
 流石にソファでは愛は交わしていないけれども。
 そういう気分になって来たなら、ブルーを抱き上げてベッドに運んでいたけれど…。



 実はとんでもない場所だったのか、と今頃になって思い出したソファ。
 小さなブルーに質問したのはマズかったろうかと、藪蛇だったかと慌てた所で手遅れなのだし、此処は平静を装っておくのが一番だろう。ブルーが何処まで覚えているかは謎だから。忘れている可能性も高いのだから、自分さえ口を噤んでおけば、と。
 そんな祈りが天に届いたか、ブルーはキスだの本物の恋人同士だのと言いはしないで。
「ねえ、ハーレイ。…ぼくもハーレイに質問があるんだけれど…」
 訊いていいかな、ソファのことで。
「ん?」
 ソファがどうかしたか、前のお前が好きだったソファか、前の俺の部屋の?
「ううん、そうじゃなくて…。今度もソファに並んで座っていいんだよね?」
 今のハーレイの家にあるソファ。
 あの大きなソファ、ハーレイと並んで座っちゃってもかまわないよね…?
「もちろんだ」
 どうして駄目ってことになるんだ、お前、俺の嫁さんになるんだろうが。
 俺と一緒に暮らすわけだし、あのソファはお前のためのものでもあるわけだ。
 俺が仕事に行ってる間に寝転んで本を読んでいようが、昼寝しようが、お前の自由だ、誰からも文句は出ないってな。
 キャプテンの部屋にあったヤツはだ、俺の私物か、そうでないのか微妙だったが…。
 仕事用って側面もあったわけだし、半分ほどは公共の物かもしれなかったが…。
 今度は違うぞ、明らかに俺の私物だからな。好きに使ってかまわないんだ、昼寝でもなんでも。
 そうでなくても、柔道部のヤツらに既に蹂躙されている。
 ヤツらが来たなら、あのソファは遠慮なく奪い合いなんだ、挙句の果てにはメジロ押しってな。ギュウギュウ詰まって、端っこのヤツが零れ落ちてる有様だぞ。それでも足りずに上に乗るヤツも現れるわけだ、他のヤツらの膝の上にな。



 だからお前も好きに使え、と許可を出してやった。
 今はまだまだ早すぎるけども、いつか大きく育った時には、まずは二人で並んで座る所から。
 結婚したなら、ソファはブルーのものでもあるから、もう本当に好き放題に。昼寝をしようが、寝そべって本を読んでいようが、どんな風にも使っていいと。
「お茶を飲んだり、菓子を食ったりするのなんかは基本だな。ソファ本来の使い方だし」
 何に使おうが、俺は小言を言いはしないぞ。
 お前なら大事に使うだろうしな、柔道部のヤツらみたいな無茶はしないで、それは大切に。
「ありがとう、ハーレイ! ぼくのソファにもなるんだね、あれは」
 それなら、今度はキスだけじゃなくて、もっと他にも…。
「はあ?」
 キスとはなんだ、と背中に冷汗が流れたけれども、冷静なふりで訊き返したら。
「えーっと…。前は一応、遠慮してたし…」
 前のハーレイの部屋にあったソファはね、ハーレイがさっき言ってた通りだったし…。
 ハーレイの部屋のソファではあったけれども、ハーレイの私物かどうかは難しくって…。
 だから、遠慮はしていたんだよ。
 これよりも先はちょっとマズイかもしれないよね、って。



 あのソファはヒルマンやゼルや他の仲間たちも座るソファだったから、と染まっている頬。
 そういうソファでは流石にどうかと、前の自分も考えて遠慮していたと。
「…キスと、ちょっぴりふざけ合うくらいは大丈夫かな、って思ったけれど…」
 ベッドの代わりにするっていうのはあんまりかな、って。
 このままソファで出来たらいいのに、って思っていたって、ハーレイにベッドに運ばれちゃっておしまいだったし、やっぱりそういうことだよね、って…。
 ぼくから強請っちゃ駄目だと思って、ソファでは我慢をしていたんだよ。
 とても大好きな場所だったんだし、本当はあそこをベッド代わりにしたかったけど…。
 だからね、今度はソファでもお願い。キスだけじゃなくて、ホントはベッドですることまで。
「こら、お前…!」
 キスも駄目だと言っているのに、何の話をしてるんだ…!
 第一、お前は何歳なんだ、十四歳にしかなっていないだろうが…!
 背伸びしてベラベラ喋ってる中身、今のお前には意味が分かっているかも謎だぞ、馬鹿者が…!



 子供のくせに、とブルーを叱り付けたけれど。
 小さな子供が何を言うかと、前と同じに育ってから言えと顔を顰めてやったけれども。
「…でも、ソファの話…。言い出したのはハーレイだよ?」
 ハーレイが先にぼくに訊いたんだよ、あのソファのことを覚えてるか、って。
 あれに座りたくてハーレイの部屋に行ってたのか、って質問したのはハーレイじゃない…!
「だから訊きたくなかったんだ…!」
 お前を喜ばせるだけかもしれん、と思ってはいたが、真相ってヤツを知りたかったし…。
 それだけを訊ければ充分なんだと腹を括ってやって来たのに、お前ときたら…。
 余計なことまで思い出しちまって、ソファの使い方の注文だと?
 今のお前に似合いのソファの使い方はだ、昼寝と寝そべって本を読むことだ…!



 チビが、とブルーの額を拳で軽くコツンと小突いたけれど。
 ブルーは「ハーレイが先に言ったくせに」と膨れっ面をしているけれど。
(…まあ、いずれはな?)
 小さなブルーが前と同じに育ちさえすれば、今度は二人でソファに座れる。今はまだ二人並んで座れないソファに、隣り合わせで。
 最初はそこから、隣同士で仲良く座って、お茶やお菓子や、他愛ない話。
 ブルーの肩を抱いたりしながら、微笑み交わして、くっつき合って。
 そうして始まる、今の生でのブルーとのソファの使い方。恋人同士での座り方。
 二人並んでソファに座って、それからキスも、その先のことも、前の生では無理だったことも。
 ブルーも自分も遠慮していて、出来なかったソファの使い方。
 あのソファをベッド代わりに使ってみようか、いつかブルーと結婚したら。
 同じ家で暮らして、同じソファを使える時が来たなら。
 ブルーもあのソファの持ち主になって、昼寝に使うような時が来たなら。
 それもいいな、と零れそうな笑みを今は懸命に堪えるけれど。
 小さなブルーを喜ばせてしまう結果を招かないよう、威厳を保っておくけれど。
 いつかはブルーと使いたいソファ。恋人同士の熱い時間を、甘い営みをあのソファの上で…。




            二人のソファ・了

※前のハーレイのキャプテン時代に、部屋にあったソファ。前のブルーのお気に入りの場所。
 恋人同士で並んで座れる所は、その一つだけ。今の生でも、素敵な場所になりそうです。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









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(うー…)
 暑い、とブルーが思わず零した学校からの帰り道。路線バスを降りて家まで歩く途中で、口からポロリと漏れた一言。本当に暑く感じるから。
 夏の季節はとうに終わって、秋と呼ぶのが相応しい今。カレンダーでも、日々の気温も、草木の様子も空の色も。なのに何故だか暑く思えてしまう今日。長袖の制服が身体に絡み付くよう。
(…ホントに暑い…)
 ハーレイは今日の古典の授業で「小春日和」と言っていたけれど。秋らしくない暖かすぎる日、それを指すのが小春日和という言葉。遥かな遠い昔にこの地域にあった小さな島国、日本の言葉。アメリカでは「インディアン・サマー」と呼ばれていたらしい、遠い昔に。
 小春日和は晩秋のものだとかで、こう付け加えていたハーレイ。「正確には、小春日和ってヤツには少しばかり早いんだがな」と、「季節外れの残暑と言うべき所かもな」と。
(小春日和でも、季節外れの残暑でも…)
 気温が高すぎ、と零れる溜息。学校や路線バスは空調が効いていたけれど、外へ出たなら空調は無くて。日射しが痛いとまでは思わなくても、夏が戻って来た気分。
 実際の気温は、きっと夏には及ばないけれど。真夏だったら涼しく感じる程だろうけれど。
(…でも、暑いよ…)
 この季節には珍しい、汗ばむ陽気。制服が夏服でない分、余計に。
 あまりに暑くて、家に帰ったら冷たいものが欲しいけれども。
(アイスは無理…)
 ひんやりと溶けるアイスクリームが食べたいけれど、母は買ってくれてはいないだろう。作ってくれているわけもない。
 夏の盛りの頃ならともかく、今は秋。本来だったら涼しい季節にアイスクリームを食べるなど、身体に悪いと母は考えるに決まっているから。丈夫ではないのが自分だから。



 それでも冷たい何かが欲しい、と祈るような気持ちで家まで帰って。
 門扉を開けて庭を通り抜け、玄関の扉に辿り着くなり、中に入るなり「ただいま」の続きに奥に向かって叫んでしまった、「お帰りなさい」と出て来た母に。
「暑かったー!」
 とても暑かったよ、もうヘトヘトだよ…!
「そうねえ、暑い日になっちゃったわね。疲れたでしょう、早く着替えていらっしゃい」
 冷たいものを用意してあげるから、と笑顔の母。着替えたらダイニングにいらっしゃい、と。
「ありがとう、ママ!」
 一気に元気が湧き上がって来た。家までの道は暑かったけれど、冷たいものが待っているらしいダイニング。おやつの時間を過ごすテーブル。
(もしかして、アイス?)
 母がわざわざ口にするからには、その可能性もあるだろう。買い物に行ったか、庭仕事なのか、外の暑さをじかに感じて、その中を帰って来る自分のために用意してくれたとか…。
(買ってくれたのかな、それとも作った?)
 どちらにしたって期待出来る、と大喜びで着替えを済ませた。半袖は流石に叱られそうだから、薄手の長袖。制服よりはずっと涼しくなった。
 後は冷たいアイスクリームで身体の中から冷やすだけ、と階段を下りて行ったのだけれど…。



 ダイニングのテーブルに着いて、ワクワクしながら待った自分の前にコトリと置かれたグラス。心を躍らせたアイスクリームの代わりにグラスで、パフェなどの類にも見えないから。
「なにこれ…」
 これはなあに、と指差したグラス。うっすらと露はついているけれど、氷も入っていないから。
「ミルクセーキよ。ちゃんと冷たい牛乳を使って作ったのよ」
 シロエ風のホットミルクよりいいでしょう、と微笑む母。今日は暑いから、これの方が、と。
 確かにシロエ風のホットミルクよりはいいけれど。マヌカの蜂蜜がたっぷり入った温かい牛乳を出されるよりかは、この方がずっとマシだけれども。
「…アイスじゃないんだ…」
 うんと暑かったから、アイスクリームが欲しかったのに…。
 冷たいものってママが言うから、もしかしたら、って期待してたのに…。アイスクリーム。
「あら、材料は似たようなものよ。アイスクリームも、ミルクセーキも」
 どっちも牛乳と卵とお砂糖で出来るの、作り方と冷やし方の違いで変わるのよ。
 アイスクリームも作れるけれども、それじゃ身体に悪いでしょう?
 暑いのは今だけ、夕方になったら一気に冷えてくると思うわ。だから身体を冷やしちゃ駄目よ。
 ミルクセーキに氷も入れていないでしょう。このくらいがいいのよ、ブルーの身体とお腹には。
 冷やしすぎは本当に良くないの、という母の心遣いに我儘は言えないから。
 今のハーレイの好物だというパウンドケーキも焼いてくれてあるから。
 文句は言えない、アイスクリームが出て来なくても。ミルクセーキしか無いテーブルでも。



 仕方なく飲むことにしたミルクセーキ。氷も浮かんでいないグラス。
 外側に露がついていたって、きっとそれほど冷えてはいない。冷たい牛乳を使った分だけ、その分だけの冷たさなのに違いない。
 そう考えたら悔しくなる。同じ材料で出来ると言うなら、アイスの方が良かったのに、と。
(でも、今日はハーレイが好きなパウンドケーキ…)
 母が焼くパウンドケーキは、ハーレイの母が作るパウンドケーキと同じ味だと聞いている。別の人が作ったとは思えないほどに似ていると。それを知って以来、特別なパウンドケーキ。
 ミルクセーキをお供に食べるおやつは、パウンドケーキなのだから。
 それに小春日和という言葉をハーレイの授業で教わったから。
 いい日なんだと、きっと幸せな日なのだろうと思うことにして、ミルクセーキをグラスから一口飲んだら。コクリと喉へと送り込んだら。
(あれ…?)
 知っている味、と弾んだ心。
 この味をぼくは知っているよ、と。
(…当たり前でしょ?)
 味は知っていて当然だもの、と呆れてしまった自分の反応。喜んでいる自分の舌と喉。
 ミルクセーキなら幼い頃から何度も何度も飲んでいるのだから、お馴染みの味。暑い夏が過ぎて御縁が無くなっただけで、この夏だって何度も飲んでいた筈。
 それをそこまで喜ばなくても、と自分の単純さに驚かされる。小春日和の暑い日に飲んだ冷たい飲み物、それだけで嬉しくなるのだろうか、と。
 でも…。



(ハーレイ…?)
 何故だか浮かぶハーレイの顔。パウンドケーキが好きな恋人の顔。
 ミルクセーキを夏休みに二人で飲んだだろうか?
 夏休みでなくても、ミルクセーキが似合いの季節に。初夏の頃とか、残暑だとか。
(そうなのかも…)
 部屋では確かに飲んだ筈。今日のよりも冷たいミルクセーキを、氷が浮かんでいたものを。部屋だけでなくて、きっと庭でも飲んだのだろう。庭で一番大きな木の下、白いテーブルと椅子がある場所、初めてのデートの思い出の場所で。お気に入りの庭のテーブルと椅子。
 あそこだったら、何でも特別に思えるから。デートの気分で過ごしているから、ミルクセーキも素敵な味がしたのだろう。今日のデートはミルクセーキ、と。
(…でも…)
 一度は納得しかけたけれども、それにしては妙に懐かしすぎる。ミルクセーキの味わいが。喉をスルリと滑り落ちて行った味が、滑らかで甘い独特のコクが。
 舌と喉とが喜んだ味が、その記憶が何故か遠すぎる。庭のテーブルと椅子で飲んでいたのなら、間違いなく夏のことなのに。夏の終わりでも残暑の頃でも、一つ前の季節のことなのに。
 けれど遥かに遠い気がする、さっき心が弾んだ味。ミルクセーキの味を知っているのだと喜んだ心、飛び跳ねた心は夏よりも前のものに思えて。
(なんで…?)
 ミルクセーキは夏のものなのに。それにハーレイとミルクセーキを飲んだ夏なら、今年の夏しか無い筈なのに。
 どうしてそういう風に感じるのか分からない、とミルクセーキをもう一口。
 まさか前のぼくだったわけでもあるまいし、と。
 そうしたら…。



 牛乳と卵黄、それから砂糖。滑らかになるまで泡立て器で混ぜたミルクセーキ。喉の奥へと滑り落ちた味、舌に残った優しい甘さ。
(ハーレイのだ…!)
 思い出した、と蘇った記憶。遠い遠い昔、遠く遥かな時の彼方で飲んだミルクセーキ。白い鯨になる前の船で、シャングリラと呼ばれていた船で。
 あの船の厨房で、前のハーレイがミルクセーキを作ってくれた。まだキャプテンの任に就いてはいなくて、あそこで料理をしていた頃に。
 「まあ、飲んでみろ」とハーレイが差し出したミルクセーキ。作り立てのものを。
(…あの味だっけ…)
 知っている筈だ、とミルクセーキを味わってみる。この味だったと、同じ味だと。
(…牛乳と卵と、それからお砂糖…)
 たったそれだけの材料で出来る飲み物だけれど。今の自分には珍しくもないものだけど。
 シャングリラで飲んだミルクセーキの味は、とても大切な思い出だから。
(此処のテーブルで考えてるより…)
 部屋で懐かしい記憶を追いたい、時の彼方の遠い記憶を手繰り寄せたい。ミルクセーキの味だけ舌に残して戻って、部屋でゆっくり。
(うん、この味…)
 こういう甘さで、この舌触り、と舌と喉とに覚え込ませて。ハーレイが好きなパウンドケーキも慌てずにしっかり味わってから、空になったお皿やグラスをキッチンの母に返しに行って。
 「御馳走様」と二階へと続く階段を上った、一刻も早く戻らなくては、と。



 そうして戻った自分のお城。青の間とは比べようもない小さな部屋でも、今の自分が住んでいるお城。勉強机の前に座って、頬杖をついて遠い記憶の中に浸った。
(ハーレイのミルクセーキ…)
 あの味だった、と舌と喉とに残っている味を思い出す。あれとおんなじ、と。
 シャングリラが自給自足の船ではなかった、ハーレイが厨房にいた時代。食料は全て前の自分が人類の輸送船から奪って手に入れ、ハーレイはそれを料理していた。食材が偏ってしまった時でも工夫を凝らして、皆を飽きさせないように。あれこれ試作し、様々なものを。
 何かと言えば試作品を作っていたハーレイに、ある時、「厨房に来ないか」と声を掛けられた。栄養のつくものを飲ませてやろう、と。
 栄養を摂るなら料理だとばかり思っていたから、新作のスープかシチューだろうと思ってついて行ったのに。飲むならそれだと考えたのに。
「…なあに?」
 ハーレイが用意した材料はたったの三つで、しかも一つは砂糖だから。砂糖の入ったシチューやスープは知らないけれど、と首を傾げて何が出来るのか尋ねたら。
「いいから、見てろ」
 こいつはだな…。シチューでもスープでもなくてだな…。
 ハーレイがパカリと割った卵は、白身は使わないようで。他の器に入れて冷蔵庫の中へ片付けてしまった、「こっちは何に使うかな…」などと言いながら。
 牛乳と卵黄、それから砂糖。ボウルの中で泡立て器でシャカシャカ手際よく混ぜて、「ほら」と作ってくれた飲み物。ガラスのコップにたっぷりと注いで渡された。
「ミルクセーキだ、そういう名前の飲み物なんだ」
 ちょっと美味いぞ、この前、コッソリ作ってみたからな。少しだけの量で。
 卵の料理を作っていた時に、とハーレイが悪戯小僧のような笑みを浮かべて保証するから。
「ふうん…?」
 ミルクセーキって言うんだ、これ?
 卵の黄身しか使わないなんて、なんだかとっても贅沢そうだね…。



 興味津々でミルクセーキなるものをコクリと飲んだら、甘くて、卵黄のせいかコクがあって。
 ハーレイが自信を持って勧めたわけだと、誘われたわけだと嬉しくなった。餌と水しか無かったアルタミラ時代のせいで好き嫌いは全く無いのだけれども、美味しいものは分かるから。美味しい食べ物を口にしたなら、幸せが胸に広がるから。
「美味しいね、これ。…ミルクセーキ」
 ハーレイ、ぼくのために作ってくれたの、コッソリ試してみてたってことは?
「偶然、レシピを見付けたからな。しかしだ、この通り、材料がなあ…」
 卵の白身は使わないと来た、飲み物にしては贅沢すぎだ。他のヤツらには出せんぞ、これは。
 だが、栄養はたっぷりあるし…。背も伸びそうだから、お前に作ってやることにした。
「背が伸びるって…。ホント?」
 ミルクセーキでぼくの背が伸びるの、本当に?
「作るのを見てたろ、牛乳が入っているからな。背を伸ばすんなら牛乳だぞ」
 おまけに骨も丈夫になるんだ、お前にピッタリの飲み物じゃないか、ミルクセーキは。
 頑張って早く大きくならんとな、と大きな手でクシャリと撫でられた頭。
 お前はずっと子供の姿でいたんだから、と。
 もう成長を止める必要は無いし、こいつを飲んで大きくなれよ、と。



(ミルクセーキで背が…)
 伸びるぞ、と微笑んでくれたハーレイ。卵黄で栄養もつくからと。
 ただ、材料が贅沢だから。食堂で他の仲間たちにも飲ませていたなら、卵白が余りすぎるから。嗜好品とも言える飲み物にそれは出来ない、と頭を振っていたハーレイ。食料事情が安定しないと作れはしないと、この船の中で牛乳も卵も賄えるようになれば別なんだが、と。
 それでも、ハーレイはミルクセーキを作ってくれた。「一人分ならなんとかなるさ」と、何度も厨房に呼んでくれては、「コッソリだぞ」と念を押して。「お前の分しか無いんだから」と。
(そうだったっけ…)
 他の仲間が厨房にいない、試作の時間。ハーレイが好きに厨房を使える時間。
 そういう時に何度も作って貰った、ミルクセーキを。「作ってやるから」と厨房に呼ばれて。
 牛乳と卵黄と砂糖から作る栄養たっぷりの甘い飲み物、背が伸びるというミルクセーキ。何度も飲ませて貰っていたのに、ハーレイが厨房にいなくなったら、ミルクセーキはなくなった。
 シャングリラのキャプテンになったハーレイはもう、厨房には立たなかったから。厨房で試作をすることは無くて、ミルクセーキをコッソリ作れはしなかったから。



 飲めなくなってしまったミルクセーキ。作ってくれるハーレイがいなくなったから。ハーレイは前と変わらずいたのだけれども、居場所が変わってしまったから。
(あれっきりだっけ…?)
 ミルクセーキは消えてしまったんだっけ、と遠い記憶を探ってみる。前の自分の背はぐんぐんと伸びて、年齢を止める所まで育ったけれど。ミルクセーキの助けは無かった、背が伸びる美味しい飲み物はもう貰えなかった。
(…他の栄養で伸びたんだよね?)
 前のぼくの背、と溜息をつく。ミルクセーキが無くても栄養は充分に摂れたし、牛乳も卵も他の食べ物に入っていたのだから、と。
 ハーレイが作るミルクセーキで伸ばせなかったことは寂しいけれど。あれで育ったのなら幸せも大きかっただろうに、と思うけれども、ハーレイは別の所で助けてくれたから。
 キャプテンとして船を纏めて、リーダーと呼ばれていた自分を補佐してくれたし、ソルジャーになった後にもずっと右腕でいてくれたのだし、ミルクセーキを残念がっても仕方ない。
 「コッソリだぞ?」と作ってくれていたミルクセーキよりも、ずっと自分の役に立つことをしてくれていたのがハーレイだから。キャプテン・ハーレイだったのだから…。



 そうは思っても、寂しい心。ハーレイが作るミルクセーキは消えたのだった、と。
(あんなに優しい味だったのに…)
 前のハーレイのミルクセーキ、と遠い遥かな記憶を手繰れば、不意に現れたハーレイの笑顔。
 とびきりの笑顔のハーレイが青の間に立っていた。「懐かしいでしょう?」と。
 キャプテンの制服をカッチリと着込んだハーレイの手にあった、厨房のトレイ。青の間へ食事を運ぶ係が使っているものと同じトレイで、上にはグラス。ミルクセーキが入ったグラスが二つ。
 持って来てくれたのだった、懐かしい飲み物を厨房から。
 こういう贅沢な飲み物が作れるくらいに、シャングリラの食料事情は安定しましたよ、と。
「覚えていらっしゃいますか、ブルー?」
 ミルクセーキですよ、私が厨房の責任者だった頃には何度も作っていたものですが…。
 これを堂々と作れる時代になりました。卵も牛乳も、もう当たり前のものになりましたからね。
「…君が作ってくれたのかい?」
 グラスは二つあるようだけれど、君の分まで作れたのかい?
 ぼくが作って貰っていた頃には一人分だけで、君は味見に少し飲んでいただけだったのに。
「いえ、残念ながら…。材料は豊富にあるのですが…。私の分まで作れるのですが…」
 ここで私が「自分でやるから」と作り始めたら、大変なことになりますよ。
 いくら厨房の出身だったと知られていたって、初めての筈のミルクセーキを慣れた手つきで作り始めたら、昔のコッソリがバレますからね。作る機会がいつあったんだ、と。
「それもそうだね、君の手際が良すぎるわけだね」
 あれだけ何度も作ってたんだし、わざと失敗してみせたのでは不自然すぎるし…。
 バレないためには作らないのが一番いいよね、ミルクセーキは。



 ハーレイが厨房でコッソリ作っていたミルクセーキ。シャングリラの中だけで卵も牛乳も賄える時代になった今では、バレても時効で笑い話で済みそうだけれど。
 キャプテンが盗みはやっぱりマズイと、ソルジャーが一人だけ贅沢な飲み物を飲んでいたこともマズイだろうと、ミルクセーキの話は隠しておくことになった。
「犯罪者は私だけなのですが…」
 厨房で盗みを働いていたのは私一人で、あなたはミルクセーキを飲んでらっしゃっただけで…。
「コッソリなんだと知っていて飲んでいたわけだからね、共犯と言うんじゃないのかな?」
 ぼくが「作って」と頼んだわけではないけれど…。「作るな」とも言っていないから。
「なるほど、止めてらっしゃらないなら、共犯なのかもしれませんね」
 卵の貴重さは、あなたも充分に御存知でしたし…。
 飲み物に仕立ててしまうよりかは料理するのが本当だろうと、承知しておられたわけですし。
 それでも「やめろ」と仰らないまま、作る所を御覧になっていらっしゃったということは…。
 犯罪行為を放っておいでになったのですから、リーダーらしからぬ行動ですね。
「そうだろう?」
 だから共犯だよ、ぼくだって。
 一生隠しておくしかないってことなんだろうね、君が本当はミルクセーキを作れることは。



 どうやら二人して犯罪者らしい、と笑い合って飲んだミルクセーキ。
 ハーレイが作ったものではなかったけれども、とても懐かしい味がする、と。
 牛乳と卵黄、それから砂糖。白い鯨になったシャングリラだからこそ出来る贅沢、誰もが飲めるミルクセーキ。ずっと昔に飲んでいたとは言えはしないと、作っていたことも秘密にせねばと。
(あれから何度も…)
 頼んだのだった、ハーレイが青の間へ来る時に「ミルクセーキを持って来て」と。
 とっくに背丈は伸びていたのに、とうの昔に年齢も止めてしまっていたのに。
 だから笑っていたハーレイ。ミルクセーキを満たしたグラスを持ってくる度に。
「これを飲んでも、あなたの背丈はもう伸びませんよ?」
 私があなたに作っていた頃とは、すっかり事情が違うのですが…。
 シャングリラの食料事情も変わってしまいましたが、あなたのお身体にもミルクセーキはとうに必要ないのでは…?
「骨を丈夫にするんだよ。牛乳が入っているんだから」
 牛乳と言えばカルシウムだろう、骨が丈夫になる筈だよ。ミルクセーキを飲んでいればね。



 そんな屁理屈を言いながら飲んだ。年齢を止めてしまった身体の骨が丈夫になるなどと言えば、ノルディに笑い飛ばされたろうに。「そういうことはありませんよ」と、「カルシウムはとっくに足りているものと思われますが」と。
 それでも、かつてはハーレイが作ってくれていたミルクセーキ。その懐かしい味が飲みたくて、何度もハーレイに注文していた。「本当は君が作ったミルクセーキが飲みたいのに」と。
 恋人同士になった後にも、何度その望みを口にしたことか。
「君が作ったのが飲みたいな…」
 共犯だったことがバレてもいいから、またあのミルクセーキを作って欲しいな。
 こうしてミルクセーキを飲むとね、君が作ってくれていた頃を思い出すんだよ、今でもね。
「野菜スープが限界ですよ」
 ソルジャーのためにキャプテンが何か作るとなったら、あれくらいです。
 あのスープでしたら、誰もが承知しておりますし…。ブリッジを抜けて作りに行っても、変だと思う者は一人もいませんが…。
 ミルクセーキとなったら話は別です、ソルジャーのお好きな飲み物を何故キャプテンがわざわざ作りに行くのです?
 野菜スープは私のレシピだと知られていますから、誰かに「任せる」と言わない限りは作るのは私の仕事でしょうが…。ミルクセーキは既にレシピがあるのですからね、厨房に。



 それを私が作っていたなら恋人同士なのがバレますよ、と指摘されればそうだから。他の仲間に仲を疑われ、本当にバレるかもしれないから。
 ハーレイが作るミルクセーキを味わえないことは、仕方ないとは思ったけれど。
「でも、いつかまた飲んでみたいよ」
 君が作れそうなチャンスが来たなら、あの懐かしいミルクセーキを。
「では、シャングリラが地球に着いたら作りましょう」
 地球に着いたら、ソルジャーもキャプテンも、お役御免になるでしょうから。
 肩書きが無くなってただのミュウになれば、恋人同士だと皆に明かしても大丈夫ですし…。
 私たちの仲を隠さなくても良くなったならば、また作りますよ。地球に着いたら。
 あなたのためにミルクセーキを、とハーレイは約束してくれたけれど。
 地球の牛乳や卵黄や砂糖、それを使って作ると言ってくれたのだけれど。
(…ぼくの寿命が…)
 尽きると分かって、夢は儚く消えてしまった。地球へ行く夢。白いシャングリラで辿り着く夢。
 自分がシャングリラを守り続けて、ハーレイが舵を握って、いつか。青い地球まで。
 その夢は消えて、ミルクセーキも頼まなくなった。飲めば悲しくなってしまうし、胸がツキンと痛くなるから。「ハーレイが作るミルクセーキはもう飲めない」と涙が零れてしまうから。
(それっきり…)
 ハーレイに「ミルクセーキを持って来て」とは頼まなくなって、やがてジョミーを船に迎えて。
 前の自分は深い眠りに就いてしまって、目覚めた時には永遠の別れが待っていた。たった一人でメギドへと飛んで、別れてしまった前のハーレイ。
 飲めなくなったミルクセーキ。
 前の自分は死んでしまって、ミルクセーキを頼むことさえ出来なくなってしまったから…。



 幸せな思い出も沢山あるのだけれども、最後は悲しい思い出しか無いミルクセーキ。
 前のハーレイにもう一度作って貰えないまま、終わってしまったミルクセーキ。
(…ハーレイ、覚えているのかな?)
 今も覚えてくれているのだろうか、あの懐かしい飲み物を。皆には内緒でコッソリ作って、前の自分に飲ませてくれていたミルクセーキを。
 訊いてみたい、と窓の方へと視線を向けたら、聞こえたチャイム。窓に駆け寄れば、門扉の所で手を振るハーレイ。
 最高のタイミングで来てくれた恋人、仕事の帰りに寄ってくれたハーレイ。母がお茶とお菓子をテーブルに置いて去ってゆくなり、勢い込んで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ。…ミルクセーキを覚えてる?」
「ミルクセーキ?」
 覚えてるかって…。俺にわざわざ訊くってことはだ、レシピの話ってわけじゃなさそうだな?
 たまに作って飲んではいるがだ、そいつのことではないんだろうな…?
「…今も作るの、ミルクセーキを?」
 前のハーレイが作ってたんだよ、まだ厨房にいた頃に。卵の黄身しか使わないなんて、凄く贅沢だった時代に。…飲み物のためにだけ、そういう使い方をしたらマズイだろう、っていう頃に。
 前のぼくのために作ってくれたよ、「コッソリだぞ」って。ぼくの分しか無いんだから、って。
「ああ、あれなあ…!」
 ミルクセーキを作っていたんだっけな、前の俺もな。
 前のお前がチビだった頃に、厨房に呼んでは「背が伸びるぞ」って。
 だが、キャプテンになっちまった後は、コッソリ作りには行けなくて…。シャングリラの改造が済んでミルクセーキが作れるようになった時には、コッソリがバレるから作りに行けなくて。
 バレてもいいから作ってくれ、って前のお前が言い出した頃には、お前との仲がバレそうで…。
 地球に着いて恋人同士だと言えるようになったら、作ってやるって約束したんだっけな…。



 とうとう作ってやれなかったな、とハーレイも思い出したから。
 「前のお前は、ミルクセーキを頼むことさえしなくなっちまって、それっきりだったな」と深い溜息をついたから。
「…それは仕方ないよ、前のぼくの寿命が尽きると分かってしまったら…」
 もう頼みたくはなかったんだよ、ハーレイが作るミルクセーキは二度と飲めないんだから。
 厨房の誰かが作ったヤツでも、飲んだらハーレイのミルクセーキを思い出しちゃうし、飲めずに死んでしまうんだってことを思い知らされちゃうんだし…。
 だから飲まなくなっちゃったんだよ、ミルクセーキは。
 ハーレイに届けて貰ったとしても、思い出よりも悲しさの方が強くなるのに決まっているから。
「…そうだったな…。俺が約束を果たしてやれる日が来ない以上は、辛いだけだな…」
 いつか必ず作ってやるから、と言ってやれた間は温かな思い出の味だったろうが…。
 そんな日は来ないと分かっちまったら、悲しい味にしかならないからな…。
「うん。…それで頼まなくなっちゃったけれど、それまでは大好きだったんだよ」
 誰が作ったミルクセーキでも、前のハーレイが作ってくれてたミルクセーキを思い出すから。
 あの味だった、って幸せだったし、コッソリ作ってくれてた姿も覚えていたから。
 …前のハーレイは、前のぼくにもう一度作ってくれないままで終わってしまったけれど…。
 前のぼくがメギドで死んでしまって、それっきりになってしまったけれど。
 …今度はぼくに作ってくれる?
 今のハーレイのレシピでいいから、またミルクセーキ。
「作ってもいい時が来たらな」
 俺がお前に手料理ってヤツを御馳走するとか、家に呼んでやることが出来る日が来たら。
 お前が前のお前とそっくり同じ姿に育って、キスもデートも出来るようになったら、またアレを作って飲ませてやろう。
 コッソリじゃなくて、堂々とだ。材料はあるし、俺たちの仲も隠さなくてもいいんだからな。



 今は駄目だぞ、と言われたけれど。
 前と同じに育たない内は、ミルクセーキも作ってやらないと釘を刺されたけれど。
「…まあ、焦らずにゆっくり育つことだな、今度は約束を守ってやれるんだし」
 お前がきちんと大きくなったら、うんと美味いのを作ってやるさ。
 ミルクセーキのレシピも今は色々あるわけなんだが、前の俺のレシピでやっても美味い筈だぞ。
 今は材料がいいからな。牛乳も卵も、それに砂糖も、地球のヤツを使うわけなんだし…。
 シャングリラの頃とも、前のお前が奪ってた頃のヤツとも、まるで違った味わいだぞ、うん。
「そうだね…!」
 ハーレイが作ってくれる野菜スープも、今はとっても美味しいんだし…。
 レシピを変えてしまったのかな、って思ったくらいに、同じ野菜でも美味しいんだし。
 牛乳も卵も、ずっと美味しいに決まっているよね、あの頃よりも。
 ハーレイが作るミルクセーキも凄く美味しくなっているよね、ハーレイの腕が落ちてなければ。
「こら、俺の料理の腕前は前より凄いと何度言ったら分かるんだ…!」
 前の俺よりも色々な料理を作っているのが今の俺だぞ、腕が落ちるわけないだろう。
 あまりの美味さにお前の頬っぺたが落っこちるようなミルクセーキを飲ませてやろう。
 頬っぺたが落ちて行方不明になっちまわんよう、しっかり押さえておくことだな。
「落っこちてもいいよ」
 行方不明になっちゃってもいいよ、ハーレイが作るミルクセーキがまた飲めるなら。
 美味しく全部飲み終わってから、落ちた頬っぺたを探しに行くよ。
 だって、ハーレイも一緒に探してくれるに決まっているもの。
 「押さえておけって言っただろうが」って、ぼくのおでこをコツンとやって。



 シャングリラでハーレイが作った頃とは違って、白い鯨で注文していた頃とも違って、今ならば地球の食材で作ったミルクセーキ。牛乳も卵も、それに砂糖も、青い地球のものばかりだから。
 前の自分が生きた頃には無かった贅沢な食材、ミルクセーキはきっと美味しいに違いない。
 本当に頬っぺたが落っこちるほどに、行方不明になりそうなほどに。
 前の自分がミルクセーキを飲まないようになってしまってから、長い長い時が流れたけれども、約束が叶う。青い地球の上で。
 ハーレイがまた、ミルクセーキを作ってくれる。
 最初のミルクセーキがいつになるかは分からないけれど、その後はもう何度でも飲める。
 いつか結婚して二人で暮らす家で作って貰って、あの思い出のミルクセーキを。
 ハーレイと二人、何度も何度も、「あの味だよね」と微笑み交わしながら…。




          ミルクセーキ・了

※前のハーレイが厨房にいた頃、ブルーだけに作っていたミルクセーキ。贅沢だった飲み物。
 けれど手作りはその時代だけで、それっきり。次に手作りして貰えるのは、青い地球の上で。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




シャングリラ学園、今日も平和に事も無し。春うららかな日に登校してみれば、なんだか面子が足りないような。いつもだったら一番に登校するほどの真面目人間が…。
「あれっ、キースは?」
ジョミー君がキョロキョロと見回し、サム君が。
「そういや今日からだったっけか…。なんかボランティアって言ってたじゃねえかよ」
「そういえば…」
聞いてましたね、とシロエ君も。
「三日間ほどお休みでしたか? 何処へ行くのかは聞いてませんが」
「それじゃ、今週はお休みなのね」
三日間なら金曜までね、とスウェナちゃん。キース君のボランティアはお馴染みですけど、内容の方は実に様々。他のお寺のお手伝いやら、文字通りのボランティア活動やら。
「キース、今回は何なのかな?」
ジョミー君の疑問に答えられる人はいませんでした。要するに誰も突っ込んでは聞いていなかったという結果です。朝のホームルームで出欠を取るグレイブ先生に期待するしかないですが…。
「キース・アニアン。欠席だな」
金曜日まで、と呆気なく流され、行き先はおろか欠席理由も謎のまま。これは放課後まで待つしかなくて…。



「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
放課後に出掛けた、生徒会室の奥に隠された溜まり場、「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋では。
「やあ、来たね。キースが足りないみたいだけどね」
どうぞ座って、と会長さんが。「そるじゃぁ・ぶるぅ」はいそいそとイチゴたっぷりのベイクドチーズケーキを切り分けてくれて、紅茶やコーヒーなどの飲み物も。
「えとえと…。キースはボランティアだよね?」
「うーん…。あれもボランティアと言うのかなあ…」
難しいね、と会長さん。ということは、ボランティアという名のタダ働きに出掛けて行きましたか? 先輩さんのお寺のお手伝いとか、そういうの…。
「ちょっと違うね、異業種交流会と言っておくのが早いかな?」
「「「は?」」」
異業種交流会って何でしょう?
「そのまんまのヤツだよ、璃慕恩院の主催でキリスト教との交流会でね」
「キース先輩、そんなのに出席させて貰えるほど偉かったんですか!?」
ああいうのはトップが出るんですよね、とシロエ君。言われてみればその手の記事には偉そうなお坊さんとかの写真が載っているもので、キース君もそういうレベルに実は達していたんですか?
「まさか。…キースがそこまでのレベルだったら、欠席は明日だけって所だね」
「「「えっ?」」」
「お偉いさんの出番は明日の会議だけ。でもねえ、会議の他にも親睦会とか、茶話会だとか。こう色々と細かいおもてなしの行事があるから…。手始めが今日の夕食会で」
そういった各種行事を円滑に進めるためには裏方が必須。璃慕恩院で普段からお役目のある人の他にも動員がかかり、キース君はそれに出掛けたのだとか。
「璃慕恩院かよ…。それじゃ、働いた分のバイト料とかは出ねえな、全く」
サム君が呟き、会長さんが「うん」と。
「お手伝いは名誉なことだからねえ、どちらかと言えば参加料を支払わなければならないほどのイベントだねえ? 支払ってでも手伝いたい、って坊主は山ほどいるわけで…」
「だったら、キースはエリートなのかよ?」
「そういうわけでも…。単に動員しやすいだけだね、自分のお寺の仕事を簡単に抜けられる上に、自由に休めるシャングリラ学園特別生だし!」
要は便利な助っ人なのだ、と言われると何だか気の毒なような。名誉な仕事でもタダ働きの日々が今日から金曜までですか…。



璃慕恩院までお手伝いに出掛けたキース君。金曜日まではキッチリ欠席、さて、土曜日はどうなるのだろう、と思っていれば「俺も行くぞ」と金曜の夜に思念波が。「どうせブルーの家だろう?」と集合時間を尋ねてきて…。
「あっ、キース、おはよう!」
ジョミー君が手を振る土曜日の朝。会長さんのマンションから近いバス停にキース君が降り立ちました。タダ働きが三日間の割には元気そうです。
「久しぶりだな、三日ぶりのシャバだ」
「シャバって…。キース、苦労したわけ?」
ジョミー君が訊くと、「それほどでもないが」という答え。後はワイワイ近況報告、会長さんの家の玄関まで行ってチャイムを鳴らして…。
「かみお~ん♪ キース、お帰りなさい~っ!」
入って、入って! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。私たちはリビングに通され、桜の餡をサンドしたふんわりブッセが出て来ました。キース君は「有難いな」と合掌すると。
「こういった菓子も久しぶりだ。…俺たちには所詮、おさがりだからな」
「「「おさがり?」」」
「言っただろうが、裏方だった、と。裏方なんぞのための菓子は無い。お偉いさんたちから「ご苦労様」と頂けるだけだ、菓子の残りを」
しかも種類がバラバラなんだ、とキース君。裏方さんの数が多いだけに、纏まった数が無いおさがりのお菓子は寄せ集め。お饅頭やらお煎餅やら、クッキー、マドレーヌなど実に様々。
「というわけでな、裏方同士で集まっていても、なかなか菓子が揃わなくってな…」
「なんか思いっ切り大変そうだね…」
お菓子だけでも、とジョミー君が言うと、「まあな」と返事が。
「そういった菓子を融通し合っている内に、だ。三日目ともなれば好みが分かって譲り合いとか、交換だとか…。なかなか有意義な日々ではあった。坊主だけではないからな」
「キリスト教の裏方さんもいたのかよ?」
サム君の問いに、キース君は。
「来ていたぞ? ただなあ、あっちはバラエティー豊かで…」
「「「えっ?」」」
裏方さんがバラエティー豊かって、何なのでしょう? キリスト教なんかはサッパリですけど、バラエティーに富んでいるものですか?



「キース先輩、それって服装とかですよね?」
確認したのはシロエ君でした。
「確か色々あるんですよね、お坊さんと一緒で階級別に」
「いや、そういうのとは別口だ。今度の交流会は修道会とのヤツだったからな、それこそ色々な修道服ってヤツが揃っていたわけで…」
「「「修道服!?」」」
それってアレですか、シスターですかね? なんか色々とあるらしいのは知ってます。アルテメシアで見かけるヤツだと茶色とか…。
「ああ、シスターももちろん居たが…。シスターが一番モロに出るなあ、バラエティーの豊かさ」
「なんで?」
なんでシスター、とジョミー君が不思議そうに。
「分からんか? 相手は女性だ、異教徒の男性と一緒に仕事はしない、という宗派もある」
そうかと思えばフレンドリーな宗派もあったりして…、と溜息が。
「記念写真を撮りましょう、と言い出すシスターがいるかと思えば、すれ違っても会釈だけとか…。そっち系だと、修道士の方も難しいんだ」
「「「へ?」」」
「会の方針が沈黙らしい。余計なお喋りの類は厳禁と来たもんだ。しかし喋らんと仕事が出来んし、何処まで喋っていいものやら…」
距離の取り方が実に難しかった、とキース君。
「この菓子、お食べになりますか、と訊いたら「ありがとうございます、大好物です」なんて言ってくるから、これはいけると喋ろうとしたら…」
「駄目なのかよ?」
「こう、穏やかに微笑まれてだな、「お互い、静かに祈りましょう」と来たもんだ。あちらさんは飯の時間も黙って祈っているらしい。黙って食え、というのは仏教の方でももちろんあるが…」
俺たちの宗派も修行中だとそうなんだが、とキース君。
「しかしだな! たかが菓子を食う時間くらいは息抜きだろうが!」
「祈りましょう、はキツイかもですね…」
ちょっとぼくには無理そうです、とシロエ君。
「ご苦労様でした、キース先輩。毎日、祈りの日々だったんですね?」
「うっかり気に入られてしまったもんでな!」
お菓子の時間も祈りましょう、という修道士に気に入られたらしいキース君。何かと言えば一緒に作業で、掃除や部屋の設えやら。三日間、キッチリ沈黙ですか…。



璃慕恩院の異業種交流会だか、親睦会だか。お偉いさんたちはもちろん交流、お手伝いの裏方同士も積極的に交流すべし、という方針で。キース君たちも顔馴染みの坊主仲間よりもキリスト教な人たちとの親睦が奨励されていたとか。
「ところがだ。沈黙なんぞが基本のヤツらと交流したいヤツはそうそういないし、気に入られた俺はババを引いたというわけだな。行きましょう、と声を掛けられたらおしまいだ」
作業も一緒なら、食事も隣同士で祈りながらの三日間。坊主仲間と羽目を外したくても、霊的な会話とやらに誘われてしまって宗教談義。
「宗教談義はいいのかよ?」
「それは許されるらしくてな…。お蔭様であちらさんの事情もかなり分かったが…」
俺には絶対、真似は出来ん! とキース君。
「必要最低限しか喋れない日々だぞ、ストレスが溜まって死にそうだ!」
この三日間だけでも死にそうなんだ、と相当に沈黙がこたえた模様。でもでも、他のお坊さんとかと喋れるチャンスもあったわけですよね?
「それはあったが、上の方でも俺が気に入られているらしい、と事実を把握しているからな? 他の連中にも指示が出るんだ、キースの交流の邪魔をするな、と」
「だったら、本気で沈黙の三日間だったのかよ?」
「あの修道士に気に入られてからはな!」
一日目の昼には既にロックオンされていた、とキース君の激白。朝一番に璃慕恩院に出掛けて、裏方同士で挨拶をして。その後の掃除で偶然、一緒の担当になって何故か気に入られたという話。
「俺は外見がコレなお蔭で、他の連中と違って酒だ女だと派手に遊んだことは一度も無いしな…。恐らくその辺を見抜いたんだろう、あちらさんは完全に禁欲だ」
「らしいね、そもそも修道院から外へは出ないと言うからねえ…」
会長さんが相槌を打って、キース君が。
「あんた、知ってるのか?」
「少しくらいはね。選挙と病院に行く時だけしか出ないっていうのが基本だろ? 坊主みたいに寺を抜け出して遊ぶわけにはいかないねえ…」
「そのようだ。霊的会話とやらのついでに聞きはしたがだ、本当に神が全てのようだな」
祈りのための沈黙らしい、とキース君はそれなりに情報を引き出して来た様子。つまりは間の取り方が上手かったと言うか、必要最低限の会話で済ませるスキルがあったと言うべきか。そりゃあ相手に気に入られますよ、異業種でも話が通じるんなら…。



キース君と三日間、一緒だったらしい修道士。名前は聞いたそうですけれども、お互い、住所の交換は無し。メールアドレスなんかは論外、三日間だけのお付き合いだったらしくって。
「二度と会うことも無いんだろうが、だ…。あの沈黙の日々はキツかった…」
「仏教でも私語厳禁ってトコはあるんだけどねえ?」
会長さんが混ぜっ返せば、キース君は。
「表向きだろうが、表向き! 私語厳禁の時間が終わった後には喋りまくりで、山奥の寺でもタクシーを呼んで街に繰り出すとかは基本だろうが!」
「まあねえ、食事は精進料理と言いつつ、お寿司を食べていたりもするし…。坊主はどうしても羽目を外すね、何処かでね。中には真面目な人もいるけど、お寺が丸ごとってことは無いねえ…」
外出禁止を真面目に守って沈黙の日々なんてとてもとても、と会長さん。
「それを思うと、異業種ながら学ぶべき所も多いってことになるけれど…」
「沈黙は金と言うからな…。あそこまで徹底しろとは言わんが、黙って欲しいヤツならいるな」
「「「は?」」」
「誰とは言わんが、俺たちに迷惑をかけまくるヤツだ」
あいつが沈黙の欠片だけでも守ってくれたら…、という台詞で誰のことだか分かりました。会長さんがレッドカードを叩き付けてる相手です。何かと言えばアヤシイ話をしたがるソルジャー、その手のアヤシイ話だけでもせずに沈黙してくれていれば…。
「沈黙してくれたら平和だろうねえ…」
毎日が変わるね、とジョミー君。会長さんも大きく頷いています。
「あの手の話に関しては沈黙、それだけで平和になるんだけどねえ…。聞きたい人なんか誰もいないし、気付いてくれればいいんだけどね」
「分かるよ、そういう時間に沈黙するのはいいことだよね!」
「「「!!?」」」
何故このタイミングで湧いて出るのか。紫のマントのソルジャーが現れ、ソファにストンと腰を下ろして。
「ぶるぅ、ぼくにも紅茶とブッセ!」
「かみお~ん♪ 紅茶はミルクティーだよね?」
「そう! 今日のブッセに合いそうだからね!」
桜餡だよね、と嬉しそうですが。何処から話を聞いていたのか、そもそも何しに来たんだか…。



ソルジャーが沈黙してくれたなら、という話の真っ最中に現れてしまった当のソルジャー。ミルクティーと桜のブッセが前に置かれると、早速ブッセを頬張りながら。
「ああいう時間に沈黙っていうのは素敵なんだよ、うん」
「分かっているなら沈黙したまえ!」
会長さんがすかさず切り込みました。
「君はこれから喋らなくていい。まるで喋るなとまで言いはしないから、その手のヤツだけ!」
「ぼくの努力でどうなるものでもないからねえ…」
「「「は?」」」
沈黙は自分で守るもの。自分自身で努力しないと出来ないことだと思いますが?
「その手の時間の沈黙は別! 黙らせよう、って意志が無いとね!」
「じゃあ、沈黙!」
黙ってくれ、と会長さんが命令すると。
「そうじゃなくって…。猿ぐつわだとか、手で押さえるとか、こう、無理やりに!」
それが燃える、と妙な発言。何のことだ、と私たちは首を傾げましたが。
「分からないかな、真っ最中の話だよ! 声が出せないっていうのは燃えるよ、本当に!」
「退場!」
会長さんがレッドカードをピシャリと叩き付けると、ソルジャーは。
「まだまだ話の途中なんだよ! 昨日ね、ノルディとランチに出掛けて、たまたまそういう話になって…。あのシチュエーションは燃えるんだけどさ、ぼくのハーレイには向いてなくって…」
なにしろヘタレなものだから、と溜息をフウと。
「猿ぐつわなんて絶対、出来っこないし…。自分でしたんじゃ馬鹿みたいだし、たまには口を押えてみてよ、って言うんだけどねえ…。ぼくは燃えるけど、ハーレイの方は…」
とことん腰が引けているのだ、と嘆くソルジャー。
「仕方ないかな、って思っていたらさ、こっちも似たような話をしてるし…。耳寄りな言葉も聞こえて来たし! 沈黙は金、って言ったよね?」
「確かに言ったが、分かっているなら黙ってくれ!」
キース君が返すと、ソルジャーは。
「その、沈黙は金って言葉で閃いたんだよ! ちょっと素敵なイベントが!」
「「「イベント?」」」
「そう、イベント!」
実に楽しいイベントなのだ、と言っていますが、どういうイベント…?



「沈黙は金って言うほどなんだし、これは人間の金の方にも効くのかな、とね」
「さっさと退場!」
もう帰れ、と会長さんが怒鳴りましたが、ソルジャーは我関せずで。
「金と言ったら大事な部分! 黙っていればエネルギー充填、すっごいパワーが出るのかな、なんて思っちゃったけれど、どうなんだか…」
「君のハーレイで試せばいいだろ、効くかどうか!」
猿ぐつわでも何でもやってくれ、と会長さんは半ば捨て鉢。ところがソルジャーの方は「そういうのはちょっと…」と乗り気ではなく。
「ぼくのハーレイには効きっこないねえ、その手の趣味が無いからね? こっちのハーレイも多分、効かない。それを承知で遊んでみたいと!」
「…誰で?」
「もちろん、こっちのハーレイで!」
黙って貰うイベントなのだ、とソルジャーは顔を輝かせながら。
「ライブラリーで読んだことがあるんだよ! 黙っていないと魔法が解ける、という話! 魔法じゃなくって呪いを解くんだったかな…」
タイトルは忘れてしまったけれども白鳥なのだ、という話。白鳥に変えられてしまった王子たちを妹のお姫様が助けるそうで。
「ああ、あれね…。黙ってイラクサの帷子を編むんだったか、それなら知ってる」
でも、その話をどうすると、と会長さんが訊けば。
「黙って編み物をして貰うんだよ、こっちのハーレイに! そして編み物をやってる間はぼくがせっせと妨害を!」
喋って貰う方向で、とソルジャーはニヤリ。
「当然、タダでは編まないだろうし、編み終えた時はぼくと一発! ただし黙って最後まで編めば、という御褒美だけどね!」
「ちょ、ちょっと…!」
「どうせヘタレだし、一発なんかは無理じゃないかと思うけど? でもねえ、それでも一発ヤれるようなら、沈黙は金に効くっていうことが証明されるし!」
万一、沈黙が効いた場合はぼくのハーレイでも試してみよう、と抜け目ない策。でもでも、黙って編み物だなんて、教頭先生はイラクサの帷子を編むんでしょうか…?



「えーっと…。それって、ハーレイはイラクサを編むのかい?」
痛そうだけど、と会長さんが。
「あれは葉っぱと茎とに棘があるしね? でもまあ、ハーレイの手なら問題ないかもだけど…」
面の皮と同じで手の皮も厚い、と酷い言いよう。けれどソルジャーの答えはといえば。
「イラクサの帷子なんかを何に使うと! 使えないし!」
もっと実用的なものがいいのだ、と瞳がキラリ。
「「「実用的?」」」
「そう、実際に使えるもの! レースなんかは実にいいねえ、あの太い指でせっせと大判のストールとかね! 編み上がったらぼくが使わせて貰うよ、有難くね!」
ぼくのハーレイとの夫婦の時間に…、とソルジャーの目的は予想以上に良からぬものでした。素肌にレースもいいものだとか言っていますが、それを教頭先生が編むと…?
「決まってるだろう、同じ編むなら使えるもの! それも有意義に!」
是非ともレースを編んで貰う、とニヤニヤニヤ。
「仕事が仕事だけに、学校では喋るしかないからねえ…。その間の沈黙は免除するけど、それ以外! 一切喋らず、沈黙を守ってレースを編みつつ、あわよくば金も!」
大事な部分もエネルギーが充填出来ればいいな、と欲が丸出し。あまつさえ…。
「エネルギー充填を目指すんだしねえ、妨害もエロい方向で! ぼくとハーレイとの夫婦の時間をダイレクトにお届けするんだよ! 中継で!」
「やり過ぎだから!」
それは絶対に鼻血で死ぬから、と会長さんが止めに入りました。
「ハーレイはヘタレで鼻血体質ってコト、君だって知っているだろう! レース編みが鼻血で駄目になるのは間違いないよ!」
「さあ、どうだか…。沈黙するぞ、って気合を入れていたら乗り切れるかもね?」
編んでる間は中継画面も見られないし、と言われてみればその通り。レースを編みつつ余所見だなんて絶対に無理に決まっています。
「つまりさ、チラリと画面に目を走らせては編み続ける、と! 編み上がった時はぼくと一発、それを夢見て編んでいたなら、金だってエネルギー充填で!」
「…早い話が、止めるだけ無駄っていうことなんだね、君の計画は?」
「そういうこと!」
ハーレイにはレースを編んで貰う、とソルジャーはカッ飛んだ方向へと。キース君が仕入れて来た沈黙のネタとは真逆に走っていませんか…?



ソルジャーという人は思い込んだら一直線。沈黙が効くかもしれないというのと、教頭先生で遊んでみたいのと目的は二つ。こうと決めたら梃子でも動かず、お昼御飯の時間まで大いに盛り上がった末に、教頭先生の家へ出掛けると言い出して…。
「後はハーレイとの直談判! 編んでくれると決まった時には、もう今夜から!」
レースを編んで貰うのだ、とブチ上げつつもピラフをパクパクと。シーフードと菜の花のピラフは美味しいんですけど、ソルジャーの悪だくみが無ければもっと美味しく…。
「ホントだよ。黙って欲しいのは君だったのにさ」
誰もが同じ考えだったらしくて、会長さんがソルジャーに文句を付けましたが。
「別にいいだろ、ぼくが黙るなんて最初から誰も期待はしてないだろうし!」
「「「………」」」
そう来たか、としか思えない答え。ソルジャーに沈黙して欲しかったのに、黙るどころか喋りまくって教頭先生を追い込む方へと。教頭先生、果たして黙ってレースを編みますかねえ?
「編むと思うよ、ハーレイだしね!」
御褒美をチラつかせてやればいくらでも、とソルジャーは自信たっぷりでした。
「どんなレースにしようかなあ…。ぼくのマントくらいのサイズで編んでくれれば素敵だけどねえ、ぼくのハーレイとの時間がグッと楽しく!」
「ハーレイにレース編みの技術があるとでも?」
「無いだろうから面白いんだよ、一から始めるレース編み! 始めたからには最後まで! たとえ喋って御褒美がパアになろうとも!」
そのくらいのリスクは覚悟して貰う、と恐ろしい台詞が。
「パアになっても編ませる気か!?」
そこで終わりにならないのか、とキース君が訊くと、「ならないねえ!」と明快な答え。
「ぼくはレース編みの大判のストールも欲しい気持ちになって来たんだ、それも手編みだよ? 夫婦の時間が贅沢なアイテムでうんと充実、豪華に演出!」
もちろん真っ白なレースなのだ、とソルジャーはウットリと夢見る瞳で。
「花模様が幾つも繋がるのがいいかな、ロマンティックで」
「かみお~ん♪ お花模様のレース編みなら、編めるようになる本、持ってるよ!」
「本当かい!?」
「レース編み、やってたことがあるしね!」
こんなのはどう? と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が宙からヒョイと取り出した本がドサドサドサッと何冊も。レース編みまでやってましたか、「そるじゃぁ・ぶるぅ」…。



ソルジャーは「そるじゃぁ・ぶるぅ」の本を参考にして編んで貰うレースを決めました。花模様の連続、大きさはマントと同じサイズで。
「よし、これでいこう! ハーレイが受けてくれるんだったら、糸を買って!」
「えとえと、糸もね、買うんだったら、お店、案内するからね~!」
意気投合してしまったソルジャーと「そるじゃぁ・ぶるぅ」。糸はソルジャーが買い、必要な道具は「そるじゃぁ・ぶるぅ」のを貸すようです。此処まで決まれば後は教頭先生のお宅訪問、瞬間移動での電撃訪問あるのみで…。
お昼御飯の片付けが済んだら、教頭先生のお宅へ出発。有無を言わさず巻き込まれてしまった私たちも青いサイオンにパアアッと包まれて…。
「うわあっ!?」
仰け反っておられる教頭先生。これも毎度のパターンだよね、と思っている間にソルジャーが。
「こんにちは。今日はね、君に提案があって」
「提案…ですか?」
「そう! 沈黙は金って知ってるかい?」
「それはまあ…。これでも古典の教師ですから」
それが何か、と怪訝そうな教頭先生に、ソルジャーは「それは良かった」と満足そうに。
「色々あってね、沈黙は金に効くんじゃないかと思ったわけ! 君も持ってる、その金だよ!」
いわゆる大事な部分のことだね、と教頭先生の股間にチラリと視線を。
「…き、効くとは…。いったいどういう…?」
「文字通りの意味だよ、喋れないのは燃えるものだし…。ヤッてる時にね、口を押さえられたら堪らないんだ、だから君なんかも同じじゃないかな、と!」
我慢することでパワーが高まる、とソルジャーは自説を展開しました。
「黙っている間にエネルギー充填、まさに弾けんばかりのパワー! それを目指して黙って貰おう、と思うんだけれど、ただ黙るっていうだけではねえ…」
「私が黙ればいいのですか?」
「話が早くて助かるよ。こういう話を知っているかな、白鳥にされた王子を助けるために黙ってイラクサを編む妹姫。喋ってしまうと王子は助からないらしくって…」
「あの話ですか…」
知っています、と答えた教頭先生に向かって、ソルジャーは。
「それの真似をして欲しいんだよ! 黙って黙々とレースを編むんだ、君の場合は!」
これでお願い、とレース編みの本が突き付けられましたけれど。教頭先生、そんなの、お受けになりますか…?



「お花模様のレース編み…」
これを編めと、と教頭先生がレース編みの本のページを覗き込んだら、ソルジャーが。
「そうなんだよねえ、このパターンを幾つも繋いでいったら大きなサイズになるらしいし…。ぼくやブルーのマントくらいに仕上げてくれれば文句なし!」
「そこまでですか!?」
そんなサイズを編むのですか、と教頭先生は唖然呆然。
「わ、私はレース編みなどは…。それに、それほどのサイズを編むとなったら、どれほどかかるか…。第一、黙って編むんですよね、そのレースは?」
「そうだけど? ただし、学校へ行ってる間は免除だから! 黙るのは家の中だけだから!」
「し、しかし…」
「君にも美味しい話じゃないかと思うんだけどね? ぼくはさ、沈黙が金かどうかを試してみたいと言っただろ? だから黙って最後まで無事に編み上げられたら、ぼくと一発!」
溜め込んだエネルギーで一発やろうじゃないか、とソルジャーはズイと踏み出しました。
「ブルーそっくりのぼくと一発だよ? 絶対、悪い話じゃないって!」
「で、ですが、私は、初めての相手はブルーだと決めておりまして…!」
「パワーが溜まれば、ブルーだろうが、そうでなかろうが! 一発ヤリたい気分になるって!」
ぼくの身体で練習してくれ、とソルジャーに言われた教頭先生、ウッと詰まって。
「…れ、練習…」
「そう、練習! ぶっつけ本番で失敗するより、ぼくの身体で稽古をね!」
手取り足取り教えるから、と殺し文句が。
「この提案を受けてくれたら、編み上がった時には最高の時間を約束するよ。でもね…。もしも途中で喋っちゃったら、練習の話は無かったことに! 君にはレース編みのノルマだけが残る」
レース編みは最後まで仕上げて貰う、とキッツイ台詞で。
「の、ノルマ…」
「それくらいのリスクは覚悟しないとね? 白鳥の王子の話だってそうだろ、最後は処刑の危機だった筈だと思うけどねえ?」
「そ、そうでした…」
「じゃあ、ノルマ」
処刑までされるわけじゃなし、とレース編みのノルマの登場ですけど、教頭先生、黙ってレースを編む方に行くか、断るか、どっち…?



「…喋ってしまえばノルマだけが残るわけですか…」
教頭先生はレース編みの本を広げて編み方をチェックし、それから暫く考え込んだ末に。
「私も男です、やってみましょう! 要は黙って編むのですね?」
「やってくれるのかい? だったら契約成立ってことで!」
ソルジャーは満面の笑みで教頭先生と握手を交わすと、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の方に視線を。
「編んでくれるらしいよ、道具をよろしくお願いするね」
「かみお~ん♪ 糸も沢山買わなくっちゃね!」
「それじゃ二人で用意しようか、道具と糸と」
「オッケー!」
行ってくるねー! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」の元気な声が響いて、二人の姿が消え失せました。教頭先生は「レース編みか…」と本を眺めておられますけど。
「…スケベ」
会長さんの冷ややかな声に、教頭先生の顔が凍り付いて。
「い、いや…! こ、これはだな…!」
「言い訳のしようも無いと思うんだけどねえ、編み上げたらブルーと一発だろう?」
ただし一言も喋らなければ、と冷たい微笑み。
「ブルーは沈黙は金って言葉も実践したいようだしねえ? おまけに遊びが半分なんだよ、君が黙って最後まで編めなかった場合に備えてノルマも課していたくらいだしね」
「…どういう意味だ?」
「喋ってしまう方向で妨害をするって言ってたけれど? エロい方向で!」
毎日毎晩、夫婦の時間を中継でお届けらしいんだけど、と聞かされた教頭先生は一気に耳まで真っ赤に染まってしまって。
「ま、毎晩…?」
「うん、毎晩。それでも喋らずにせっせと編む! 最後まで!」
喋らずに編み上がった時だけがブルーの美味しい御褒美、と会長さんの笑みは冷ややかで。
「どうだろうねえ、喋らずに編み上げられるのかな? そういうエロい妨害付きで?」
「う、うう…。しゃ、喋らなければいいわけで…」
「ふうん、挑戦するわけなんだ? ヘタレ返上で頑張るのかな? まあ、既に契約は成立しちゃっているからねえ…」
ブルーは糸を買いに行っちゃったし、と会長さんは冷淡でした。契約成立で編むしかないのだと、今更白紙には戻せないのだと。そして…。



「糸、買って来たよーっ!」
これで充分、足りると思うの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が紙袋を抱え、ソルジャーがレース編みの道具が入っているらしい箱を手にして戻って来ました。
「それじゃ今日からよろしく、ハーレイ。ぼくたちはこれで失礼するけど、喋っちゃ駄目だよ?」
しっかり監視してるんだから、とソルジャーが。
「ぼくのサイオンを舐めないようにね? 君が喋ったか喋らないかくらいは簡単に分かることなんだしね」
こうやって、とソルジャーの手が教頭先生の背中をバンッ! と。
「な、何ですか!?」
「ん? 今のでぼくのサイオンの波長の一部を君のとシンクロさせたわけ。君がウッカリ喋ったりすれば、「しまった」という感情が心に生まれる。それがダイレクトに伝わる仕組み!」
喋った瞬間にバレるから、とソルジャーは自信たっぷりで。
「だからね、君が御褒美を貰える資格を失くした時には隠し通せはしないからね? ノルマだけが残るし、そこを間違えないように」
「…わ、分かっております…」
「それと、ブルーから聞いているかもしれないけれど。沈黙で金のパワーを高めるためにね、これから毎晩、ぼくとハーレイとの夫婦の時間を中継画面でお届けするから!」
「ほ、本当だったのですか、その話は!?」
教頭先生、やはり疑っておられたようです。ソルジャーは「嘘じゃないよ?」とクスッと笑って。
「ぼくはハーレイとの時間に夢中だからねえ、中継はぶるぅに任せるつもり! 元から覗きが大好きな子だし、喜び勇んで中継するよ!」
その妨害に負けないように、と激励された教頭先生は。
「…が、頑張ります…! 喋ったら最後、ノルマしか残らないわけですし…」
「よく出来ました。それじゃ始めてくれていいからね、レース編み!」
マントのサイズは縦横がこれだけ、と書き付けたメモを差し出すソルジャー。教頭先生はそれを受け取り、レース編みの本に挟みました。マントサイズのお花の模様のレース編み。どのくらいかかるか分かりませんけど、その間、ずっと沈黙ですか…。



私たちが瞬間移動で立ち去った後に、教頭先生はレース編みの本を広げて道具を取り出し、いざ挑戦。私たちの方は午後のおやつを口にしながら中継画面での見物です。
「教頭先生、本気で編むんだ…」
レースなんか、とジョミー君が言えば、マツカ君が。
「ノルマだっていう話ですしね…。そうなれば編むしかないでしょう」
「契約、成立しちゃいましたしね」
どう転んでも編むしか道は無いですよ、とシロエ君も。とはいえ、素人がレース編み。お花模様でマントサイズなんかが編めるのだろうか、と案じていれば。
「えっとね、ハーレイ、筋は良さそうだよ?」
見れば分かるの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がニコニコと。
「初めての人でも編める本だけど、コツを掴んでいるみたいだし…。綺麗なレースが編めると思うな、お花模様のレースのマント!」
真っ白だよね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。ソルジャーも瞳を煌めかせて。
「そりゃね、マントサイズのレースともなれば花嫁衣装を意識したいしねえ…。色は白しかないと思って! 素肌に纏える真っ白なレース!」
手編みで出来ててうんとゴージャス、と大いに悦に入っているソルジャー。沈黙の方はもはやどうでもいいのだろうか、と思いましたが。
「えっ、金かい? 無駄だろうとは思うけれどさ、出来れば頑張って欲しいものだねえ…。沈黙を守れば金のパワーも高まるとあれば、ぼくのハーレイにも真似させたいし!」
そして充実の夫婦の時間を! とソルジャー、グッと拳を。
「そのためにも今夜から妨害あるのみ! こっちのハーレイが沈黙していられないような凄い映像を生中継でバンバンお届け!」
きっと「ぶるぅ」も張り切るよ、とソルジャーだって張り切っています。教頭先生、妨害に耐えて無事に沈黙を守れるでしょうか? それとも残るはノルマだけとか…?



その夜は春らしい豪華ちらし寿司の夕食を御馳走になって解散。教頭先生に異変が起きたら、会長さんから速報の思念が入ると聞いていましたが、何も無いまま次の日になり、日曜日。
「…何も起こらなかったようだな…」
俺は正直、反省している…、とキース君が沈痛な面持ちでバス停からの道を歩きながら。
「こんな方向に話が転ぶと分かっていたなら、あんな話はしなかったんだが…」
「仕方ないですよ、キース先輩。場外から乱入して来る人の動きまでは読めませんから」
不可抗力です、とシロエ君の慰めが。私たちも口々に「責任を感じる必要は無い」と言いつつ、会長さんの家まで辿り着いてみれば。
「かみお~ん♪ ハーレイ、かなり編んだの!」
筋がいいよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。その隣ではソルジャーが。
「沈黙の方も頑張ってるよ。昨夜は遠慮なくやらかしたけれど、一言も喋らなかったようだね」
集中力が半端ではない、と大絶賛。中継していた「ぶるぅ」は音声の方も大音量で流したらしいのですけど、教頭先生は黙々とレースを編んでいただけで。
「…もしかして、マントサイズが仕上がるでしょうか?」
精神力はお強いですよ、とシロエ君が青ざめ、キース君が。
「まずいな、俺はブルーに殺されるのか?」
あのレース編みが無事に仕上がってしまったならば…、と震え上がっているキース君。レース編みのマントが沈黙を守って出来上がったなら、ソルジャーが教頭先生に…。
「「「………」」」
ヤバイ、と誰もが顔面蒼白、キース君の処刑も覚悟しましたが。
「沈黙は金…ね。ハーレイ、確かにヘタレなりにもパワーを蓄えつつあるようだけど!」
ブルーの読みもある意味、当たっていたようだけど、と会長さんがフンと鼻を鳴らして。
「そうそう美味しい思いをさせてはあげないってね。もっとも、ぼくが何もせずとも、その内に自爆しそうだけどねえ?」
「うん…。多分、今夜か明日くらいかと…」
こっちのハーレイの我慢の限界、とソルジャーが少し残念そうに。
「なまじ万年童貞だから…。溜まったパワーを持て余しちゃって派手に爆発、何か叫ぶんだよ」
「その叫び、何か賭けようか? ぼくは「一発」が入ると見たね」
「ぼくもだけどね?」
君たちは何に賭けるのかな? と言われましても、困ります。会長さんとソルジャーが始めたトトカルチョには入れそうもない私たちですが、教頭先生も今日明日で夢が砕けそう。沈黙を破った後にはノルマで、ただ延々とレース編みの日々。教頭先生、ご苦労様です~!




          沈黙に耐えろ・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 教頭先生が沈黙しながらレース編み。まあ、間違いなく喋って終わりなコースですけど。
 そしてキース君がロックオンされた修道士の方は、本当に実在する宗派です。厳しさ最高。
 次回は 「第3月曜」 7月15日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、6月は、梅雨で雨なシーズン。キース君には、それで悩みが。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv











(えーっと…)
 そうだったっけ、と新聞を覗き込んでしまったブルー。
 学校から帰って、おやつの時間に。ダイニングのテーブルにあった新聞、それを広げて見付けた記事。幸せそうな花嫁の写真が目を引いたから。ブーケを手にして、最高の笑顔で。
 自分もいつかはこんな写真を撮れる日が来る、とワクワクと記事を読んだのだけれど。てっきり結婚式の儀式の中身か、そんな内容だと思ったけれど。
(んーと…)
 誓いのキスとか、結婚指輪の交換だとか。二人で署名する結婚証明書と言うのだったか、それの書き方とか、そういうものだと後学のために読んだのに。
(勉強にはなったと思うんだけど…)
 記事の主役は花嫁が手にしたブーケだった。真っ白な薔薇と飾りのグリーンと、名前を知らない白く清楚な花を纏めた綺麗なブーケ。純白のリボンも結び付けてある、ブーケの花たちの美しさを更に引き立てるように。多分、レースで出来ているリボン。
 ブーケについての記事と言っても、注文の仕方や選び方というわけではなかった。花嫁のためのブーケはあって当然、それを前提として書かれた記事。ブーケの参考には全くならない。
 けれども、記事には重要なことが書かれてあった。結婚式で花嫁がすべきこと。
(ブーケトス…)
 正確に言うなら、結婚式を終えた花嫁から参列者に向けての贈り物。それがブーケトス、花嫁のブーケを空へと投げる。結婚式に集まってくれた人たちの方へと高く投げ上げ、ブーケが落ちたら其処にいた人が次の花嫁。次に結婚出来る花嫁になれるというのがブーケトス。



 実際に見たことは一度も無かったけれども、考えてみればドラマのシーンで見たかもしれない。花嫁が空へブーケを投げる姿を、ふわりと飛んでゆくリボンが結ばれた花束を。
(欲しいな、これ…)
 勉強になったと思った点は其処だった。花嫁が投げたブーケを貰えば次の花嫁になれると書いてあったから。そのためのブーケトスだったっけ、と思い出した。
 自分自身が結婚式でブーケを空へと投げるかどうかは、この際、あまり関係がない。関連行事の一つなのだと覚えておけばそれで充分、忘れていたって多分、問題は無いだろう。
(…誰かが教えてくれそうだしね?)
 ブーケを手にしたままでいたなら、「早く投げて」と声が上がるとか、結婚式を挙げた所の係に促されるとか。こうして記事になるほどだから。
(ぼくのブーケはどうでもいいけど…)
 結婚式を挙げた後なら、ブーケは本当にどうでもいい。花嫁姿を引き立てるための飾りの花束、貰って喜ぶ人がいるなら惜しげもなくポンと投げるだけ。空に向かって。
 それはどうでもいいのだけれども、問題はブーケ。この新聞の記事にあるような。自分より先に結婚式を迎える花嫁、その人が空へと投げ上げるブーケ。
(ぼくもブーケが欲しいんだけど…)
 自分の結婚式用ではなくて、先輩の花嫁が手にしたブーケ。それが欲しいと記事を眺める。白い薔薇と名前も知らない花々、それにグリーンを纏めたブーケを。
 ブーケトスのブーケを貰いさえすれば、ハーレイと早く結婚式を挙げられそうだから。結婚式を早く挙げられるように、背丈だってグンと伸びそうだから。
(ブーケを貰えば、次の花嫁になれるんだしね?)
 学校を卒業して十八歳の誕生日が来たら、直ぐに結婚出来るようにと前の自分と同じ背丈に。
 誕生日がまだ来ない内から、ハーレイとキスを交わせる背丈まで育っていたなら、結婚式だってグンと早まるに違いないから。



 結婚式に向けての力強い味方になってくれそうな花嫁のブーケ。幸せな花嫁が空に向かって投げ上げるブーケ、それが欲しいと思うけれども。
(でも…)
 ブーケトスのブーケを貰いたかったら、行くべき場所は結婚式場。花嫁のブーケを作るだけなら花屋さんで間に合うだろうけど。「こんなのが欲しい」と注文したなら、予算に合わせて幾らでも作れるのだけれど。
(…ブーケだけあっても、意味なんか無いし…)
 投げてくれる花嫁がいなくては。幸せを分けてくれる先輩の花嫁、その人が投げたブーケを手に出来なければ、次の花嫁にはなれないのだから。
 結婚式に行かない限りは、手に入らない花嫁のブーケ。本物のブーケ。
(譲って貰う、っていうのも書いてあるけど…)
 記事に載っている花嫁のブーケの入手方法、運に頼らずに確実に手に入れるための方法。
 空へと投げるブーケトスだと、誰が貰えるか分からないから。「あの人にあげたい」と力一杯に空へ投げても、狙いが外れて違う誰かが貰ってしまうかもしれないから。
 そうならないよう、あらかじめ花嫁に頼んでおく。「結婚式が終わったらブーケを下さい」と。
 一言お願いしておきさえすれば、ブーケトスの代わりにプレゼント。「どうぞ」と渡して貰えるブーケ。花嫁の手から直接、幸せのブーケ。
 次は自分が花嫁になりたいと強く願うなら、この手段。
 花嫁の方でも「是非に」と欲しがる人がいるなら、喜んで譲ってくれるから。ブーケトスという結婚式を彩る行事は出来ないけれども、他の誰かが幸福になってくれるなら。



 花嫁のブーケを貰いたいなら、ブーケトスで飛んで来たのを掴むか、花嫁に頼んで手に入れる。方法は二つもあるのだけれども、どちらのブーケも自分は貰えそうにない。
 結婚式に呼ばれる機会は無さそうな上に、結婚しそうな知り合いが何処かにいたとしたって…。
(…男の子のぼくには…)
 ブーケなんかは譲って貰えないに決まっている。
 男の子は花嫁にならないのが普通で、花嫁を貰う方だから。「譲って下さい」と大真面目な顔で頼みに行っても、きっと冗談だと思われる。結婚式を盛り上げるためのジョークで、花嫁の緊張をほぐしてくれる素晴らしい笑いをプレゼントしたと全員に誤解されるのがオチ。
 ブーケトスの方で貰おうと待っていたって、掴んだ途端に「こっちに頂戴」と言われるだろう。自分の周りにいるだろう女性、その中の誰かに「どうぞ」と笑顔で渡すしかない。たまたま自分が受け取ったけれど、これは女性のものだから、と。間違いでしたと、あなたのですよ、と。
(…カッコよく譲らなきゃ駄目なんだよ…)
 本当は自分が欲しいのに。
 次の花嫁になろうと思って、頑張って手にしたブーケなのに。
 そうは思っても、普通だったら花嫁にならない男の子。それが自分で、どんなにブーケを持っていたくても、女性陣から「頂戴」と言われたら譲るべき。
 彼女たちは何も知らないのだから。ブーケを貰った男の子だって花嫁を夢見て生きているとは、微塵も思っていないのだから。



 どう考えても、手に入りそうもない花嫁のブーケ。投げて貰う方も、譲って貰う方も。
 それさえあったら、次の花嫁は自分なのだと大いに自信がつくのだろうに。全く伸びてくれない背丈も、ぐんぐんと伸びてゆきそうなのに。
 結婚式に出掛けて行っても貰えないブーケ。頑張って掴んでも、譲らなくてはいけないブーケ。
(…ハーレイと結婚するって決まった後なら…)
 婚約したなら、花嫁になるのに違いないから、ブーケを貰おうとしても不思議ではないけれど。変だと言われもしないけれども、今度はブーケを貰う意味の方が無くなってしまう。
 もう結婚が決まっているなら、ブーケが欲しいと努力しなくても次の花嫁になれるから。周りの女性たちと順番が多少前後したとしても、花嫁になるのは確実だから。
(ちょっと早いか遅いかの違いだけだしね…)
 次の花嫁には違いない自分。ハーレイと結婚する自分。
 婚約していては、貰う意味が全く無いブーケ。他の人が貰うべきブーケ。
 まだ結婚が決まっていない誰か、そういう女性に「どうぞ」と譲ってあげるべきだし、もちろんそれでかまわない。もう欲しいとも思わない。次の花嫁は自分だから。結婚式の日が来たら花嫁になって、ハーレイと結婚出来るのだから。



 そうは言っても、今はまだ見えもしない婚約。遠すぎて見えない結婚式の日。
 少しでも早く結婚したいし、花嫁になりたいと思うから。
(…ブーケ、欲しいのに…)
 こういうブーケを投げて貰うか、頼んで譲って貰いたいのに、と眺める写真。新聞記事の花嫁のブーケ、真っ白な薔薇や名前も知らない花を纏めて純白のリボンを結んだブーケ。
 欲しくて欲しくてたまらないのに、貰えない。
 誰も自分には投げてくれないし、譲って貰えそうもない。結婚式に呼んで貰えるアテも無い上、呼んで貰えても男の子はブーケを貰えない。
(どう考えても駄目だよね…)
 貰えないよ、と溜息をついて閉じた新聞。諦めるしか無さそうなブーケ。
 せっかく耳寄りな情報を掴んでも、どうにもならない花嫁のブーケ。貰えたら心強いのに。次の花嫁は自分なのだと、幸せな気持ちになれるだろうに…。



 素晴らしい力を持っているらしい花嫁のブーケ。それがあればと、何処かで貰うことが出来たらいいのに、と部屋に帰ってからもブーケが頭から離れない。新聞で見掛けた真っ白なブーケ。
(…誰か、くれないかな…)
 本当にあれが欲しいのに、と勉強机の前に座って諦め切れずに考えていたら、耳に届いた来客を知らせるチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、もう早速にブーケの話題を持ち出した。母の足音が階段を下りて消えるなり、テーブルを挟んで向かい合わせで。
「あのね、花嫁のブーケって知っている?」
 花嫁さんが持ってる花束。白い薔薇のとか、ドレスに合わせて色々あるヤツ。
「いつかお前が持つんだろ?」
 俺と結婚する時に。ウェディングドレスのデザインに似合いの綺麗なヤツを?
 これを使いたいという好みの花でも出来たのか、
と訊かれたから。
「そうじゃなくって、ブーケトスだよ」
 結婚式の後で花嫁さんがブーケを投げるでしょ。今日の新聞にも書いてあったよ。
「ああ、あれな。…ブーケトスなら何度も見たなあ、結婚式で」
 お前は本物を見たことが無いというわけか。チビだからなあ、無理もないが…。シャングリラの頃にはやってなかったし、知らなくても仕方ないんだが…。
 ブーケトス、誰に投げてやるんだ?
 お前の従姉妹か友達あたりに、欲しがりそうなヤツがいるのか?
「ぼくが欲しいんだよ!」
 あれを貰ったら、次の花嫁になれるって言うし…。新聞にもそう書いてあったし。
 次の花嫁になれるんだったら、ハーレイと結婚出来る日だって早く来てくれそうだから…。
 でも…。



 結婚式に出掛けて行っても、花嫁に譲って欲しいと頼んでも、男の子の自分にはブーケを
貰える道が無い、と説明していて気が付いた。
「そうだ、ハーレイ、結婚式は?」
「はあ?」
 結婚式って誰の話だ、俺とお前の結婚式なら、まだまだ先の話なんだが…?
「友達の結婚式とかは無いの?」
 そういうのに呼ばれて行くことは無いの、ハーレイ、友達、多いでしょ?
 学校の頃の友達もそうだし、柔道とか水泳で出来た友達とか、学校の先生仲間とか…。
「そうだな、まるで無いとは言えんが…」
 結婚がまだの友達もいるし、後輩だったら人数はもっと増えるな、うん。
「だったら、それに呼ばれた時には、ぼくを一緒に連れて行ってよ」
 結婚式の後のパーティーは出られなくてもいいから、結婚式に。
 式だけだったら、祝福してくれる人は多いほどいいって聞いたことがあるから、結婚式だけ。
「…どうするんだ?」
 式だけだなんて、お前、何しに行くつもりなんだ。
 結婚式が無事に終わったら、俺はパーティーに行っちまうんだが?
「花嫁さんのブーケを貰うんだよ!」
 結婚式場の前で待ってるんだよ、ブーケを投げてくれるのを。
 欲しいっていう人が予約を入れてて貰っちゃったら仕方ないけど、そうでなければブーケトスで投げてくれるでしょ?



 運が良ければ受け止められるし、と話したら。
 ハーレイが隣にいてくれるのなら、「こいつは俺の花嫁になる予定で…」と周りの人に説明して貰えるから、男の子でもブーケを持って帰れそうだとアイデアを披露してみたら。
「お前なあ…。そりゃあ、説明くらいはしてやるが、だ」
 俺と一緒に結婚式なんかに行けるってことは、とっくに俺と結婚してるか、結婚が決まった後のことだと思うがな?
 今のお前は俺とデートに行けやしないし、デートに行くなら大きく育てと言ってあるよな?
 前のお前と同じに育って、俺とキスしてもかまわない背丈になるまでな。
「そっか…。そうだよね、ハーレイと一緒に行けるってことはそういうことだね…」
 ぼくも結婚式に出てみたいから連れて行って、って頼めるんならデートだし…。
 ハーレイとデートに行けるんだったら、結婚するってことは決まっているよね…。
 それならブーケを貰う意味が無いね、ぼくは結婚するんだから。
 次の花嫁になれるんだから、ブーケは他の人のものだね…。



 名案を思い付いたと思ったけれども、ハーレイと一緒に出掛けた結婚式でも貰えないブーケ。
 他の誰かが貰える筈の幸せを横から奪ってしまっては駄目だろう。花嫁のブーケを貰わなくても次の花嫁になれるのだから。ハーレイとの結婚はもう決まっていて、結婚式を待つだけだから。
(…ブーケ、やっぱり貰えないんだ…)
 結婚が早くなるおまじない。貰えば次の花嫁になれる花嫁のブーケ。
 譲って貰う方はもちろん、ブーケトスで手に入れる道もどうやら夢で終わるらしい。幸せ一杯の花嫁が投げてくれるブーケは貰えない。
 いつか自分が投げるだけで。
 結婚式の時に忘れていたって、「投げるんですよ」と注意されるか、「投げて下さい」と沢山の手が空に向かって差し伸べられるか、どちらかで。
「ぼく、あげるだけでおしまいなんだ…」
 花嫁さんのブーケは貰えなくって、ぼくのブーケを誰かにあげるだけなんだ…?
「いいじゃないか、その後は俺との結婚生活なんだぞ?」
 お前がブーケを投げるってことは、結婚式が終わりましたという意味だろうが。
 俺との結婚式を済ませて、お前は俺の嫁さんなんだ。
 いいか、嫁さんになるんだぞ?
 前のお前が三百年以上も俺と一緒に暮らしていたって、ついになれなかった嫁さんにな。



 メギドで死んじまって終わりじゃないんだ、と大きな褐色の手で握られた右手。
 この手はずっと温かいんだ、と。
 二度と温もりを失くしはしなくて、冷たく凍えはしないんだ、と。
「…そうだね、ハーレイと一緒なんだね。今度はずっと」
 ぼくの右手は欲しいだけ温もりを貰えるんだね、いつでも、欲しいと思いさえすれば。
「そうだ、死ぬ時までしっかり握っててやるさ」
 お前の右手は最後まで温かいままなんだ。俺が握っていてやるから。
 死ぬ時も俺と一緒なんだろ、今度のお前は。
「うん、ハーレイと最後まで一緒」
 ハーレイと一緒に死ぬんでなければ嫌だよ、ぼくは。
 独りぼっちで生きていくなんて、ぼくは絶対、耐えられないから…。
 前のハーレイにそれをやらせてしまったけれども、ぼくには無理に決まっているから…。
 ちゃんと心を結んでおいてよ、結婚したら。
 ハーレイの心臓が止まる時には、ぼくの心臓も一緒に止まるように。
「…それがお前の望みだったな、寿命が短くなってしまってもかまわないから、と」
「何度も言ったよ、そうしておいて、って」
 ぼくのサイオンは不器用だから、心を結ぶなんてことは出来ないし…。
 ハーレイに頼んでおくしかないから、結婚したら直ぐに結んで。
 そして最後まで一緒なんだよ、ハーレイに手を握って貰ったままで一緒に死ぬんだよ。
 ぼくの手は温かいままで。
 ハーレイの温もりを持ったまんまで、ハーレイと一緒に何処かへ還って行くんだよ…。



 いつか命が尽きた時には、ハーレイと二人で還ってゆく場所。
 この青い地球に生まれ変わる前に二人で過ごしていたのだろう場所、其処へハーレイと手を繋ぎ合ったまま還ってゆく。
 今度は温もりを失くすことなく、前の生の終わりに凍えた右手をハーレイにしっかり握り締めて貰って、包んで貰って。
 それが今度の自分の最期で、その日が来るまでハーレイと離れることなく一緒に暮らして…。
 幸せになれるに決まっているのが今の生。前と違って今度はきっと、とハーレイの手をキュッと強く握り返したら。
「よし、俺と一緒に暮らせるってことが幸せなんだとは分かっている、と」
 だったら、贅沢を言っていないで、だ…。
 お前の幸せ、分けてやるんだな。これから幸せになりたいヤツに。
「え?」
 分けるってなあに、ぼくの幸せを誰に、どうやって…?
「お前のブーケだ。…俺の花嫁になった、お前のブーケ」
 さっきから自分で言ってただろうが、次の花嫁になれるブーケが欲しいと。
 そいつをお前が投げてやるんだ、結婚式に来てくれたヤツに。
 誰が受け止めるのかは分からないがだ、お前のブーケは間違いなく最高のブーケなんだ。
 どんな花嫁のよりも凄いブーケだ、この宇宙の誰よりも幸せな花嫁がお前だからな。
 いいか、ソルジャー・ブルーの恋が実った瞬間なんだぞ、今の俺との結婚式。
 前の俺たちはいつから恋して、いつから一緒にいたんだっけな…?



 生まれ変わりだと誰にも明かしていなくても。
 前の自分たちがソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイだったことなど、誰にも話さないで結婚式の日を迎えたとしても、周りの誰もが知らなくても。
 遥かな遠い時の彼方で、あのシャングリラで三百年以上も共に暮らして、恋をして。
 ハーレイと一緒に長く長く生きた、キスを交わして、愛を交わして。
 恋は誰にも明かせないままで、最後までずっと秘密のままで。
 結婚することは叶わなかったけれど、メギドへと飛んでしまって別れたけれど。
 それまではずっと続いた恋。前の自分が深い眠りに就いてしまった後にも、その枕元で子守唄を歌ってくれたハーレイ。ナスカで生まれた子供たちのための子守唄を。「ゆりかごの歌」を。
 その歌を自分は覚えていた。ハーレイが歌った子守唄を。深い眠りの底にいたのに、その歌声を感じ取っていた。
 ハーレイとの絆はずっと続いて、メギドでも断ち切られはしなかった。
 悲しみの中で泣きじゃくりながら死んだというのに、ハーレイの温もりを失くしてしまって右の手が冷たく凍えたのに。
 独りぼっちになってしまったと、もうハーレイには会えないのだと泣いていた自分。
 けれども絆は切れはしなくて、青い地球へと続いていた。前の自分が夢に見た地球へ。その上でハーレイと暮らす未来へ、結婚して生きてゆける未来へ。



 考えてみれば、ハーレイが語るとおりに壮大な恋。遥かな時の彼方から今まで繋がった恋。
 白いシャングリラはとうに無いのに、前の自分たちは伝説の英雄になったというのに。
「ほらな、お前と俺との恋。…この宇宙の誰よりも長くて凄い恋だってな」
 ちょっと誰にも真似は出来んぞ、ここまでの恋は。
「そうかもね…」
 ぼくたちの他には誰もいないかもね、こんなに長い恋をした人。
「いないに決まっているだろう。普通は此処まで待たなくっても、何処かで結婚出来そうだぞ」
 これだけしつこく恋をしていれば、もっと早くにゴールに辿り着けそうなんだ。
 ところが俺たちはそうはいかなくて、とうとう此処まで来ちまった。恋をしてるのに、結婚式を挙げられないまま今に至る、と。
 此処に来る前は何処にいたのか知らんが、ちゃんと結婚出来ていたなら忘れはしない。そうだと思うぞ、誓いのキスを交わして結婚していたのなら。
 つまりだ、俺たちは恋をしたまま、ゴールに向かって歩き続けて来たわけだ。青い地球まで。
 お前との結婚式が恋のゴールになるってことだな、それから結婚生活になる、と。
 もう最高の結婚式だぞ、そこまでの長い恋が実って結婚しようというんだから。
 式に来てくれた誰も全く気付いていなくても、俺たちの絆はずっと続いて来たんだからな。



 自分たちが生まれ変わりだと知る両親はともかく、他の人々はまだ何も知らないだろうから。
 長く長く続いた恋が実って結婚するとは、夢にも思いはしないのだけど。
 ただの教師と教え子の結婚、そのくらいにしか考えていないわけだけれども。
「分かるな、この地球どころか宇宙の何処にも、これほどの凄い結婚式は無いってな」
 その結婚式のためのブーケは最高の愛のお裾分けだ。
 お前が幸せを分けてやれ。次の花嫁になる誰かにブーケを投げてやって。
 この手で力一杯にな、とハーレイの大きな両手で改めて包み込まれた右手。
 前の生の最後に凍えた右の手、メギドでハーレイの温もりを失くしてしまった右手。
「…ぼくが投げるの?」
 ぼくのブーケを投げてあげるの、結婚式に来てくれた人たちに?
「そうさ、この手が最高に幸せになる日だろうが。結婚式の日」
 いや、最高の幸せに向かって歩き出す日か、結婚して一緒に暮らせるようになるんだからな。
「そうだね、ずっとハーレイと一緒だものね」
 おんなじ家で二人で暮らして、何処へ行くのもハーレイと一緒。
 前のぼくたちには出来なかったことだよ、ずうっと一緒にいるなんてこと。
「なら、そいつを他のヤツらにも分けてやってこそだろ」
 俺たちのように幸せな結婚が出来ますように、と俺たちの幸せのお裾分け。
 神様だってそうお思いになるさ、幸せを分けてやれってな。
「そっか、神様…」
 結婚式には神様もセットだったんだっけね、教会で式を挙げるんだから。
 前のぼくたちが生きていた頃にも消えなかった神様、その神様がいるのが教会だから…。



 自分たちを生まれ変わらせてくれた神様。
 前とそっくり同じ姿に育つ身体に、前の自分が行きたいと願った青い地球の上に。
 聖痕をくれた、ハーレイともう一度巡り会わせてくれた神様。
 その神様の前で結婚するのだから。
 白いシャングリラには無かった教会、きっと其処での結婚式になるのだろうから。
「…ブーケ、投げなくちゃいけないね」
 結婚式の記念に取っておきたい気もするけれども、ぼくのブーケは投げなくっちゃね…。
「そうだろ、自分だけ幸せになってはいけないってな」
 前のお前ほどにやれとは言わないが…。
 自分の命も幸せも捨てて他のヤツらを幸せにしろとは、俺は絶対に言いはしないが。
「…うん、ハーレイに言われなくても、前のぼくみたいに出来はしないよ」
 今のぼくにはメギドを沈めに行くのも無理だし、ハーレイと別れて行くのも無理だよ。
 あんな強さは持っていないし、サイオンだって駄目で、うんと弱虫なんだもの…。
「それなら、ブーケくらいはな」
 幸せのお裾分けにどうぞ、と力一杯に投げてやるんだな。
 うんと遠くで「此処までは届きそうにない」と残念そうに見ているヤツにも届くくらいに。
 宇宙で最高のブーケなんだし、思いがけない幸せを貰ったと喜んで貰えるのがいいだろうが。
 貰えて当たり前のような所で待ってるヤツより、前へ行き損ねちまってしょげてるヤツに。
「そうだね、そういう人の所まで届けられるように頑張ってみるよ」
 ボールを投げるのは下手だけれども、遠くまで飛んでくれないけれど…。
 ブーケは遠くまで投げられるといいな、貰おうと思って待ち構えている人よりも遠い所まで。



 頑張って遠くに投げてみるね、と返事してから気が付いた。
 花嫁の幸せのお裾分けのブーケ、貰った人は次の花嫁になれると言われているブーケ。
 自分も欲しいと思ったくらいで、手に入らないと溜息をついていたけれど。
 それを自分が結婚式の時に投げるのだけれど、その結婚式。
 ウェディングドレスを着るのではなくて、白無垢もいいという話もあった。ハーレイの母の花嫁衣装だった白無垢、それを着るのも悪くないと。
 もしも白無垢を花嫁衣装に選んだとしたら、ブーケはいったいどうなるのだろう?
 白無垢でもブーケは持つものだろうか、持ったとしたって遠くへ投げることが出来るだろうか?
「えーっと…。ハーレイ、ブーケなんだけど…」
 ウェディングドレスじゃなかったとしても、ブーケは持っててかまわないの?
 ぼくが白無垢を着ていたとしても、花嫁さんならブーケを持つの?
「白無垢か…。そういや、そういう話もあったな、結婚式には白無垢ってヤツが」
 俺のおふくろは持ってなかったな、結婚式の写真を見ただけだが。
 アレだとブーケは無いものだしなあ、なにしろブーケはウェディングドレスとセットなんだし。
「…ブーケ、変でしょ?」
 白無垢だったら変になるでしょ、ブーケなんかを持ってたら。
 ブーケは投げてあげたいけれども、白無垢だったらちょっと無理かも…。
 白無垢だとブーケは持たないらしい、っていうのもあるけど、投げるのも難しそうだから。
 ドレスと違って袖が長いよ、あんな袖だと袖が邪魔して投げられないよ。
「それでも投げたらいいんじゃないか?」
 白無垢に似合いそうなブーケを頼んで、作って貰って。
 なあに、ブーケを作る人だってプロなんだ。注文があればきちんと作るさ、白無垢用のでもな。
 「白無垢ではブーケは持たないものです」と断られることはないと思うぞ、プロなんだから。
 プロってヤツはだ、注文どおりに仕事をこなしてこそだからなあ、どんな世界でも。



 せっかくだから白無垢でもブーケでいいじゃないか、とパチンと片目を瞑るハーレイ。
 男同士の結婚式だし、色々と型破りな式になってもかまわんだろうが、と。
「袖が邪魔をして投げられない、って所も心配無用だ、手伝ってやる」
 だからお前は思い切り投げろ、白無垢を着てても力一杯。
「手伝ってやるって…。ハーレイ、サイオンで投げてくれるの?」
 ぼくの力じゃ袖が邪魔して近くにポトンと落っこちそうだし、うんと遠くへ飛ぶように。
 ハーレイのサイオンを乗せてくれるの、ぼくのブーケに?
「おいおい、それは反則だろうが」
 ブーケトスの記事、ちゃんと読んだか?
 あれはサイオン抜きのものなんだ、どんなに器用に使える人でも使わないのが決まりだってな。
 サイオンを使えば狙った所に届いちまって、ブーケトスをする意味が無くなる。それじゃ花嫁に頼むのと何も変わらんだろうが、「ブーケを下さい」と譲って貰いに出掛けるのとな。
 だからだ、サイオンは使わずに自分の力だけで投げることになっている。
 もちろんお前もそうするべきだな、俺が手伝うのは袖を持つことだ。
「…袖?」
「白無垢の袖だ、それを押さえておいてやる」
 お前の綺麗な腕が剥き出しになっちまうんだが、仕方あるまい。
 幸せのお裾分けをしようと言うんだ、「俺だけのものだから見せてやらん」とは言えないしな。
 其処は我慢だ、お前がブーケを投げる間はグッと我慢をしておくさ、俺も。



 本当の所は、そんな大盤振る舞いはしたくないんだが…、とハーレイは笑う。
 お前の綺麗な腕を眺めていいのは俺だけなんだと、前の俺だった頃からそうだった、と。
「ふふっ、そうだね、前のぼくだと手まで隠れていたものね」
 手袋ですっかり隠れてしまって、ハーレイとドクターの前でしか手袋は外してなくて…。
 腕も同じで、誰も見てなんかいなかったものね。
「うむ。…そいつを大盤振る舞いなんだが、白無垢でもブーケは投げるべきだぞ」
 最高の愛のお裾分けが出来ると気付いたからには、ケチケチしていちゃ駄目だってな。
 神様も「投げろ」と仰るだろうさ、お前のブーケ。
 白無垢だろうが、腕が剥き出しになって誰かがヒューッと口笛を吹こうが、投げてこそだ。
 誰の所に届くか知らんが、次の花嫁は間違いなく凄い幸せを掴めるんだろう。
 この広い宇宙で多分、一番長い恋をした花嫁のブーケなんだから。
 頑張って投げろよ、力一杯。
 お前の腕が丸見えになってしまったとしても、俺は我慢して袖を押さえてやるんだからな。



 投げるんだぞ、とハーレイが強く念を押すから。
 自分でも投げなければいけないだろうという気がするから、結婚式ではブーケを持とう。
 ウェディングドレスでも、白無垢でも、ブーケ。
 花嫁衣装に似合うブーケを作って貰って、それを手にして結婚式を挙げて。
 式が終わったらブーケトス。
 きっと何処にも無い、長い長い恋が実った花嫁のブーケ、前の自分だった頃からの長い恋。
 前世は知られていないままでも、最高の愛のお裾分け。
 前の生の最後にメギドで冷たく凍えてしまった右の手に持って、力一杯に遠くへ投げて。
 それが終わったら、ハーレイと二人で歩いてゆく。
 結婚指輪を左手の薬指に嵌めて、手を繋ぎ合って、青い地球の上を。
 最高の愛のお裾分けをして、いつまでも何処までも、何度も何度もキスを交わして…。




           花嫁のブーケ・了

※ブルーが欲しくなった花嫁のブーケ。早く結婚できるように、と思ったのですが…。
 花嫁になった時に自分が投げてあげる方が、良さそうです。どんな花嫁衣裳を選んでも。
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(ふうむ…)
 これはブルーが喜びそうだ、とハーレイが目を留めたラスク。ブルーの家には寄れなかった日の帰り、いつもの食料品店で。
 ラスクは普段から菓子類の棚に並んでいるのだけれども、見付けた場所は店に入って直ぐの特設売り場。様々な店が出店してくる楽しいコーナー、其処がラスクで有名な店になっていた。
 名前を何度か耳にした店、材料にこだわり、贅沢に焼き上げられていると評判のそれ。二枚ずつ透明な袋で包装されたラスクは如何にも美味しそうだから。
(よし、土産に買って行ってやるかな)
 小さなブルーに土産を買うなら、食べたら消えて無くなるもの。ブルーの方では、手元に置いて眺められるものや、大切に使える品物が欲しいようだけど。文具や小さな置き物の類。
(欲しい気持ちは分かるんだが…)
 フォトフレームとシャングリラの写真集がお揃いだから、と無邪気に喜ぶ小さなブルー。もっと他にも、と願う気持ちは良く分かる。とはいえ、ブルーは十四歳にしかならない子供なわけで。
(残せる土産は、もっと大きく育ってからだな)
 恋人らしくなってからだ、と決めている。小さな間は土産はこういうものでいい。二人で一緒に食べてしまえば無くなってしまう菓子や果物、子供の間はそれが似合いの土産物。
 明日は土曜日、ブルーの家にゆく日だから。丁度いいな、とラスクを買ってゆこうと決めた。
 「一つ下さい」と二枚入りのラスクが幾つも詰められた箱を注文してから、自分用にも小さめの箱を試食用に一つ。美味しいに決まっているだろうけれど、自信を持って勧めるためには一足先に食べておかねば話にならない。「美味いんだぞ」と言ってやりたかったら。



 家に帰って、買って来た食材で手際よく作った満足の夕食。ゆっくりと味わい、片付けをしたらコーヒーを淹れて、さっきのラスク。二枚入りの袋を一つ箱から取り出し、熱いコーヒーが入ったマグカップも持って書斎へと。
 ダイニングで食べてもいいのだけれども、今夜は書斎の気分だから。好きな本たちが囲む空間、其処でのんびり寛ぎながら。
 小さなブルーと二人で写した写真を収めたフォトフレーム。それを飾った机の前の大きな椅子にゆったり腰掛け、コーヒーを一口、ラスクも齧って。
(これは美味いな)
 評判の店と言うだけはある、と一枚目を食べ終えてからパンフレットを開いてみた。買った時に袋に入っていたから、書斎に持って来ておいたもの。読んでおこう、と。
(ほほう…)
 書かれているラスクの作り方。材料のパンから既に特別、ラスクにするために焼くというパン。材料の小麦粉のブレンドにこだわり、焼き加減にも注意を払って。
 砂糖はもちろん高品質だし、驚いたのはバターの使い方。厳選されたバターを溶かした上澄み、それだけを使用するらしい。ゆえにバターのしつこさが無くて、何枚でも食べられそうなラスクが出来る勘定、人気の所以。
(贅沢なもんだな)
 菓子なんだが、と苦笑いした。料理だったら分かるけれども、相手はラスク。美味しいラスクを作り出すためにパンから作って、バターも上澄みだけしか使わないとは、と。
 ラスクは本来、残り物のパンで作る菓子。それをパンから作る贅沢、美味な理由も頷ける。



(専用のパンから作ったラスクなのか…)
 これは心して味わわねば、と二枚目のラスクを暫し観察することにした。ただボリボリと食べてしまっては失礼だろうと、贅沢すぎるラスクに敬意を表して。
(ラスク専用のパンと来やがったぞ)
 そのパンだけを食べてもきっと美味しいのだろう。自分が日頃食べているパン、それよりも味は上かもしれない。小麦粉のブレンドから焼き加減まで、こだわりのパンだと言うのだから。
(…ラスクにするのに最適なだけで、食事用ではないかもしれんが…)
 齧ってみたい気もするな、とパンフレットに載っているパンの写真を眺めていたら思い出した。行きつけの近所にあるパン屋。レストラン部門を併設するほどだし、店で焼き上げたパンが自慢で品揃えも豊富。
 其処で毎年、クリスマスが終わったら売られる限定商品があった。年に一度だけ、クリスマスの後の僅かな期間だけ。
 クリスマスに向けてドッサリと並ぶシュトーレン。箱に入った贈答用から、お茶の時間に気軽に切って食べられる小さなサイズまで。白い砂糖の粉を纏ったシュトーレンの山が出来るけれども、全部売れるとは限らない。クリスマスの日まで切らせはしないし、残ってしまうシュトーレン。
 けれど、クリスマスを過ぎたら売れない。シュトーレンの季節は済んだとばかりに、他の品物が売れてゆく。
(そいつを逆手に取るんだよなあ…)
 もう売れないと判断されたら、売り場から消えるシュトーレン。暫く経ったらお洒落なラスクが現れる。胡桃やレーズンがふんだんに鏤められた贅沢なラスク、その正体はシュトーレン。
 売れ残ったものを切って、バターと砂糖をまぶして焼き上げるだけ。これが人気で、飛ぶように売れる。シュトーレンだった頃より高い値段になっているのに、気にする人など無いラスク。



 あれも贅沢なラスクだった、とクリスマスの後の店の光景を思い浮かべた。新しい年が来てから間もなく並ぶのだったか、あのラスクは。限定商品と書かれた札を添えられ、誇らしげに。
(材料は売れ残りというヤツなんだが…)
 クリスマスが終わって数日の間は割引になるシュトーレン。それでも売れずに残ってしまえば、あの贅沢なラスクに化ける。期間限定の人気商品に。
(ラスクにしなくても、シュトーレンは日が経ったヤツほど美味いんだがな?)
 なのにラスクにしないと売れないのか、とクリスマス用に作られた菓子の不思議さを思う。味はクリスマスの前と後とでガラリと変わりはしないのに。
 クリスマスケーキだったら日持ちの関係で駄目になっても分かるのだけれど、シュトーレンなら日数が経つほど味が馴染んで美味しくなる。シュトーレンを生み出した地域の辺りでは、食べずに一年置いておく人があるほどに。その方が断然美味しいから、と。
(おふくろも置いていたっけなあ…)
 手作りしたものや、店で買って来たシュトーレンを外気に触れないように包んで、初夏の頃まで食料品用の棚に置いていた。この地域では夏が暑いから、流石に夏は越せないだろうと。
 今でも隣町の家に行ったら、棚にあったりするシュトーレン。自分もたまに買って置いておく、味が馴染んだ頃に食べようとパンなどを仕舞っておく棚に。



(…贅沢な時代になったもんだな)
 売れ残りのシュトーレンをラスクにしてしまう件はともかく、ラスクにするパンを焼くなんて。食べるために焼かれるパンと違って、菓子にするためにだけ焼かれるパン。
 それも小麦粉からこだわったパンで、焼き加減までラスクに最適になるように。
(シャングリラの頃だと考えられんぞ)
 焼き立てのパンを食事用にしないで、最初から菓子にしてしまうなんて。
 自給自足で生きていた頃も、前のブルーが物資を奪っていた時代にも、大切な食料だったパン。今の自分が暮らす地域では主食と言ったら米だけれども、あの時代の主食はパンだった。
 食事をするならパンが欠かせなかった船。朝食はもちろん、昼食も夕食もパンはつきもの。そのパンを菓子に変えてしまうことなど有り得ない。
 古くなってしまったパンならともかく…、と二枚目のラスクを袋から出した。これがラスク用のパンから作られた贅沢なヤツか、とガブリと齧る。上等な生まれだけあって流石に美味い、と。



 なんとも贅沢すぎるラスクはサクサクとしていて、しつこくなくて。砂糖の甘さが後を引く味、もっと持って来ておけば良かった。小さい箱でも数は入っていたのだし…、と思った所で。
(…ん?)
 ふと引っ掛かったラスクの記憶。遠く遥かな時の彼方で食べていたラスク。
 前の自分が生きていた船、白いシャングリラにもラスクはあった、と気が付いた。あの白い船でラスクを食べたと、立派なラスクがあったのだったと。
 なにしろ自給自足の船だし、前の自分が食べたラスクの材料は…。
(古いパンだよな?)
 焼かれてから日が経ってしまって、固くなったパンで作られたラスク。専用のパンを焼くのではなくて、残り物のパンから作ったラスク。
 それは間違いないけれど。シャングリラでは馴染みの菓子の一つで、保存にも適した優れもの。パンが残れば厨房のスタッフがラスクにするのが常だったけれど…。
(だが、もっと…)
 身近だったような気がするラスク。単なる残り物から生まれた菓子というだけではなくて、前の自分の思い出の菓子だという記憶。
 前のブルーと食べたのだろうか、それで覚えているのだろうか?
 贅沢ではない、固くなったパンで作られたラスク。シャングリラでは定番の菓子だったから。



 前のあいつと食べたラスク…、と遠い記憶を手繰ってみて。
(うん、食ったな)
 確かに食べた、と頷いた。
 ブリッジでの勤務を終えて出掛けた青の間、ソルジャーとしてのブルーに一日の出来事の報告をしたら、後は二人で過ごせる時間。恋人同士の二人に戻って、肩書きなどは外してしまって。
 その時間が来るのを待ちかねたように、ブルーが紅茶を淹れてくれた。紅茶のお供に菓子などもブルーが用意していた、二人分を。「キャプテンとお茶にするのだから」と。
 その菓子の中にラスクもあった、と残り物のパンから出来ていた菓子を思い浮かべたけれど。
(待てよ…?)
 懐かしいね、と微笑みながらラスクを味わっていたブルー。
 今の子供の指と違って、しなやかで長かった白い指。手袋を外した指がラスクをつまんで、桜の色をした唇に運んで、その唇から零れた言葉。「君のラスク」と。
(そうか…!)
 俺のラスクか、と一気に蘇った記憶。
 あの船で自分がラスクを作った。白い鯨になるよりも前のシャングリラ。まだキャプテンに就任してはいなくて、厨房が居場所だった頃。
 最初のラスクを作ったのだった、あのシャングリラにあった厨房で。



 あれはいつだったか、皆と食事をしていた食堂。配膳や給仕は他の仲間たちがやっていたから、
調理を終えたら皆と一緒にテーブルに着いた。前のブルーが隣に座って、ゼルやヒルマンたちとも近い席。いつの間にやら、自然と決まってしまった配置。
 そのテーブルで「パンがすっかり固くなっちまってるよ」と、ぼやいたブラウ。「あんたたち、パンを作りすぎたんじゃないのかい」と。
「ちゃんと計算して焼いてくれないとね。これじゃ風味が台無しじゃないか」
 食料が無かった頃ならともかく、なんで今頃、ガチガチのパンを食べなきゃいけないんだい?
「いや、それは…」
 俺たちがヘマをしたわけじゃないんだ、と言い訳ならぬ説明をした。
 パンが残ってしまった理由は、単なる皆の嗜好のせい。普段通りの量を焼いたけれども、パンの他にパスタなども作って出していたから、バランスが崩れて偏った。
 いつもならパンを食べる者たちがパスタをおかわり、それで満足して去って行った結果、減ってしまったパンの消費量。食べる者がいなければパンは残るし、次のパンを焼くのももったいない。まだまだパンはあるのだから。固いパンでも、お役御免だと捨てていいような船ではない。
「本当に普段と同じ分だけ焼いたんだ。作りすぎちゃいない」
 要る分だけ焼くのは無理があるだろうが、毎日、毎日、焼き立てっていうのも難しいんだ。
 焼き立ての日もありゃ、そうでない日もあるってわけで…。今はパンの在庫が山ほどあって…。
 明日くらいまでは固いパンだな、悪いが、我慢して食ってくれ。
 今の固いパンが無くなっちまえば、直ぐに焼き立てのパンを出せるってモンで…。
「それは分かっちゃいるんだけどね」
 食べないことには次のパンは無いし、これは捨てちまって新しいパンを作れとも言えないし…。
 でもねえ…、と愚痴を零したブラウ。
 同じパンなら、もっと美味しく食べたいもんだね、と。



 ブラウの言うことも一理あったし、何より皆に喜んで貰える食事にしたい。パンが固いと愚痴を零すより、こんな食べ方も美味しいものだと思って欲しい。
 だから工夫した、固くなったパンをグラタンに入れて焼き上げたりして。具だくさんのスープも作ったりした、パンを一緒に混ぜ込んで。
 ソースやスープに浸されたパンは柔らかくなるから、固いパンと違って文句は出ない。またかと飽きてしまわれないよう、味付けなどに変化をつけた。
 あくまで食卓に並べられる料理、それしか思い付かなかったけれど。パンを使った菓子類などは考え付きさえしなかったけれど。



 そうやって工夫を重ねていた日々、ある時、炒め物の試作をしていたら。
 またパンが余ってしまいそうだ、と厨房の仲間から入った相談。「グラタンにするか」と返事を返して、炒め物の後はグラタンの試作を始めたのだけれど。今度はどういう味にしようかと、鍋でベースのソースを作っていたのだけれど。
 其処へブルーがやって来たのだった、まだ少年の姿をしていたブルーが。
「何が出来るの?」
 そのソースと、こっちのパンとで何が出来るの、ねえ、ハーレイ?
「固いパンには馴染みのパングラタンだが」
 今日はどういう味にするかな、グラタンに入れる具だって工夫をしないとな?
 いつも同じだと飽きられちまうし、これから研究しようってトコだ。
「パン、余ったんだ…。ハーレイ、いつも大変そうだけど…」
 それって、お菓子にならないの?
「はあ?」
 菓子とは、と驚いて訊き返した前の自分だけれど。ブルーはと言えば、調理台の脇に置いてあるパンを指差して。
「固くなったパン、ちょっとビスケットに似ていない?」
「ビスケットって…。そんなのがパンに似ているか?」
 似ても似つかん代物なんだが、と頭に描いたビスケット。ブルーが奪う物資に混ざっていたり、厨房で焼いたり、平たい菓子なら良く知っている。パンとは違って固い菓子。
「固いトコだよ。そこが似てるよ、ビスケットと固くなったパン」
 ビスケットだったら、立派なお菓子。…固いパンもお菓子にならないかな、って。
「ふうむ…。菓子か…」
 確かに菓子なら、固いヤツでも誰も文句は言わないな。
 ビスケットが固いと苦情が来たことは無いし、嫌な菓子なら食わなきゃいいだけのことだしな。



 ブルーが言い出した、菓子という案。固くなったパンで作る菓子。
 それは考えてもみなかったから、データベースを調べに出掛けた。パンから菓子を作れないかと参考になりそうなレシピを探しに。
 古くなったパンで出来そうな菓子、と調べてみたら、同じグラタンでも菓子のがあった。残ったパンを利用した菓子、マーマレードとバターを塗ったパンと甘いソースで作るもの。
 その名もブレッド・アンド・バタープディング、「ビートン夫人の家政書」という地球が滅びる前のイギリスで編まれた本にも載っていた由緒正しいレシピ。
(…こんな時代から、人間は固くなったパンの使い方で悩んでいたってか?)
 十九世紀の本なんだが、と興味を引かれて関連のレシピを探れば出て来たサマープディング。
 そちらも固くなったパンを使うのが決め手で、後の時代にはパンをわざわざ固くなるまで放っておいてまで作ったらしい菓子だけれども。ベリーを散らした赤紫の姿が美味しそうだけれど。
 これは贅沢すぎて作れない、新鮮なベリーが山ほどあるような船ではないから。仮にあっても、固くなったパンを菓子にするために使うよりかは、もっとベリーが生きる使い方をしたいから。
(固くなったパンと砂糖くらいで何か…)
 出来るものは、と調べ続けて、見付けたのだった、ラスクのレシピを。
 パンをスライスしてバターを塗り付け、その上に砂糖。どちらもたっぷり、それからオーブンで砂糖が溶けるまで焼いてゆくラスク。バターと砂糖が馴染んで縁がカリッとなったら完成品。



 こいつはいい、と書き抜いて戻ったラスクのレシピ。
 オーブンに入れたら十五分もあれば焼けるというから、試作する時はブルーに声を掛けた。例によってパンが余ってしまって固くなったから、「お前が言ってた菓子を作るぞ」と。
 ブルーが見ている前で始めたラスクの試作。パンをスライスして、バターを塗って…。
 どんな具合かと、甘い匂いが漂うオーブンの前で二人で待った。そうして出来上がったラスクを取り出し、冷ましてから「ほら」とブルーに渡してやったら。
「美味しいね!」
 ビスケットよりもずっと美味しいよ。サクサクしていて、それに甘くて。
「うむ。思った以上の出来栄えだな、これは」
 こういう菓子が作れるとはなあ、固くなったパンで。
 お前が菓子だと言ってくれなきゃ、思い付きさえしなかっただろう。今日だって、きっと試作をしてたぞ、グラタンとかの。菓子じゃなくって、いわゆる料理というヤツのな。



 前のブルーが「お菓子にならないの?」と尋ねたお蔭で生まれたラスク。
 これは使えると残りのパンで作ったラスクは好評を博し、パンが固いと苦情を言われる代わりに喜ばれた。とても美味しい菓子が出来たと、これならいくらでも食べられそうだと。
 パンが余れば、固くなったものを使ってラスクに。厨房のスタッフたちも覚えた鉄則、ラスクは船の定番になった。前の自分が厨房を離れてキャプテンになってしまった後も。
 自給自足の船にするための移行期を除けば、シャングリラでよく作られた菓子。パンが余ったらラスクの出番で、誰もが好んで口にしていた。バターと砂糖とパンで出来た菓子を。
 前のブルーは特に…。
(君のラスク、って言ったんだっけな…)
 それは嬉しそうな顔で、ラスクをつまんで。お茶のお供がラスクの時には。
 前の自分はとうに厨房を離れていたのに、「君が初めて作ってくれた」と懐かしそうに。
 二人で食べたと、作る所から側で見ていて、オーブンの前で出来るのを待ったと。



(思い出の菓子か…)
 すっかり忘れちまっていたな、と自分の額を指で弾いた。ウッカリ者め、と。
 ブルーへの土産に持ってゆこうと買って来たくせに、ラスクが何かを忘れ果てていた。ブルーと二人で食べていたことも、ブルーのアイデアで自分が作った菓子だったことも。
 こうなって来たら、自分で作って持って行ってやりたいくらいだけれど。
 白い鯨ではなかった頃のシャングリラの厨房、あそこで作った素朴なレシピでラスクを作りたい所だけれども、それは叶わない。
(手料理を持って行くのはマズイし…)
 古くなったパンを使ったラスクでも、手作りの菓子には違いない。それを持って行けばブルーの母に気を遣わせてしまうし、下手をすれば「先日のラスクの御礼に」と土産を貰いかねない。
 それを避けるには、買ったラスクを手土産にするしかないだろう。「シャングリラの頃の思い出ですから」と言えば問題無いのだから。
(忘れていたくせに、いいものを買ったというわけか…)
 あの船には贅沢すぎるんだがな、と浮かべた笑み。
 ラスク用のパンから焼いてはいないし、バターだって上澄みだけではなかったのだし、と。



 次の日、朝食を済ませて少し経ってから、歩いて出掛けたブルーの家。
 生垣に囲まれた家に着いたら、ブルーの母が門扉を開けに出て来たから。「買って来ました」と渡した、ラスクが入った紙袋。「シャングリラで食べていたんです」と断りながら。
(まるっきり嘘ってわけじゃないしな?)
 前のブルーのアイデアから生まれて来たラスク。「君のラスク」と懐かしんでくれていた頃には恋人だったブルーとの思い出のラスク、その話はブルーの母には出来ない。大切な一人息子の恋の相手が自分だなどとは、口が裂けても言えないから。
(この手の嘘は幾つ目なんだか…)
 申し訳ない気もするけれども、ブルーにはキスも許していないし、ここは大目に見て欲しい。
 いつか「ブルー君と結婚させて下さい」と申し込んで腰を抜かされる日までは、生まれ変わって再び出会った親友同士ということで。
 ラスクも前の生でお茶を飲みながら食べていた菓子で、ソルジャーだったブルーとキャプテンが過ごしたティータイムの思い出を語り合うための土産なのだということで…。



 そういうことにしておいて欲しい、と心で詫びながら渡したラスク。
 ブルーの母は「いつもありがとうございます」と礼を言って受け取り、紅茶と一緒に運んで来てくれた。綺麗な器に二枚ずつ入った袋ごと盛って、取り分けるための菓子皿もつけて。
 小さなブルーは「ハーレイ先生のお土産よ」と聞かされて喜び、母の足音が階段を下りて消えた途端に身を乗り出した。
「ハーレイ、ラスクを買いに行ってくれたの、このお店まで?」
 有名なお店だよね、よく広告を見掛けるもの。
 食べたこともあると思うんだけど…。ママのお友達か誰かに貰って。
「いや、買いに出掛けたわけじゃない。いつもの店に来ていたんでな」
 知っているだろ、俺の家の近所の食料品店の特設売り場。
 今週はラスクの店だったらしい、昨日寄ったら売っていたから買って来た。美味いと評判の高い店だし、土産にするのに丁度いいかと…。
 俺用にも買って帰って食ったが、美味かったぞ。まあ、遠慮しないで食ってみろ。
「うんっ!」
 ありがとう、と包装を嬉しそうに破っているブルー。
 二枚入りの中の一枚を愛らしい指でつまんで、パクリと齧って「美味しいね」と弾ける無邪気な笑顔。前のブルーが「君のラスク」と見せた笑みとはまるで違った子供の表情。
「まあな、こだわりの材料だからな」
 パンから作っているんだそうだ。このラスクを作るためだけのパン。
 小麦粉のブレンドにもこだわりました、っていう御大層なパンだ、並みのラスクとは違うんだ。ラスクと言ったら、古くなっちまった固いパンから作るもんだが…。
 こいつは専用に焼かれたパンを使った贅沢なヤツだ、バターも上澄みだけらしい。前の俺たちが暮らした船だとバターは大事な食料だったし、上澄みだけなんていうのはなあ…。
「そうだね、そんな使い方はとても出来ないよ」
 バターの在庫が切れそうだ、って大騒ぎになったこともあったよ、シャングリラでは。
 …アルテメシアから宇宙に逃げ出した時に、牛たちがミルクを出さなくなって。



 シャングリラの話を混ぜてやったのに、ブルーの頭は固くなったパンよりバターの方へと行ってしまった。「お菓子にならないの?」と口にした本人のくせに、パンよりもバター。
 どうやらブルーは思い出さないようだから。放っておいたら、シャングリラの酪農事情に纏わる話を次から次へと始めかねないから、ストップをかけることにした。
「…もっとケチなラスクにしておけば良かったか?」
 こういう有名店のヤツじゃなくって、食料品店の棚に並んでいるような普通のラスク。
「えっ?」
 キョトンとしている小さなブルー。「普通のラスクがどうかしたの?」と。
「そいつの方が良かったのかと思ってな」
 上澄みバターを使ったラスクじゃ、贅沢すぎて思い出せないようだしな、お前。
「何を?」
 思い出せないって、ぼくが何を?
 バターのことなら覚えてるじゃない、シャングリラじゃバターは大事な食料だった、って。
 お料理するのに欠かせなかったし、合成品だと味がガクンと落ちちゃうんだもの。
「…ほら見ろ、お前はまたバターの方に向かって行っちまうんだ」
 バターよりも大事なものがあるだろ、ラスクを作るにはパンが無くっちゃ始まらない。
 こいつはとびきり上等だからな、パンから焼いてるわけなんだが…。ラスクは本来、固くなったパンで作るもんだぞ、シャングリラでさえ嫌われ者だった固いパン。
 そいつを美味しく食べられないかと工夫したのがラスクってヤツだ、シャングリラでもな。
 …覚えていないか、俺のラスクだ。お前といつも二人で食ってた。
 お前、食べる度に言ってただろうが、「君のラスク」と。
「ああ…!」
 思い出した、と叫んだブルー。
 ハーレイのラスク、と。
 シャングリラの厨房で作ってくれたと、初めてのラスクを二人で食べたと。



 端っこを一度掴んでしまえば、戻るのは早かった一連の記憶。
 ブルーはたちまち全て思い出した、シャングリラでラスクが生まれた切っ掛けが前の自分だったことも、試作の時の光景も。甘い匂いが漂うオーブン、その前で出来るのを待っていたことも。
「ハーレイのラスク…。美味しかったよ、このラスクよりも」
 前のぼくが今でも覚えてる味は、このラスクよりもずっと上だったよ。
 …ハーレイが作ってくれたからかな、「お前が言ってた菓子を作るぞ」って。
 どんなお菓子が出来るんだろう、ってドキドキ見ていて、出来上がったのを二人で食べて。
 最初に作ったのがハーレイだったから、ラスクはいつでもハーレイのお菓子だったんだよ。
 ハーレイがキャプテンになっちゃった後も、ぼくにとってはハーレイのお菓子。
 誰が作ったラスクでも全部、ハーレイのラスク。
 だからラスクを食べる時はいつも、「君のラスク」って言ってたんだよ、とても懐かしいお菓子だったから。ハーレイが作ってくれたんだっけ、って思ってたから…。
 それでラスクを持って来てくれたの、前のぼくのことを思い出したから?
 ハーレイのラスクだって言っていたこと、ハーレイ、覚えていてくれたんだね…。
「…まあな。本当の所は、俺も忘れてしまってたんだが」
 評判のラスクを売っているな、と思ったから土産に持って来ようと買ったんだ。
 その段階では何も覚えちゃいなくて、家に帰って食ってた時にもまだ完全に忘れていたな。袋に二枚ずつ入ってるだろうが、一枚目の時は何も思っちゃいなかった。美味いラスクだと思いながら食って、二枚目に齧り付いた所で気が付いたんだ。
 だが、シャングリラにもラスクはあった、という程度でなあ…。
 前のお前と二人で食ってた、ってトコまで行ったら、お前が言ってた「君のラスク」って言葉を思い出したってわけだ。
 そいつが頭に浮かんで来たらだ、後は芋づる式だったな。最初はお前のアイデアだったことも、試作する時にお前を呼んだってことも。
 俺のラスクだと気付いちまえば、どうしてすっかり忘れていたのか不思議なくらいに昔の記憶が戻って来たな。お前と同じだ、お前も一気に思い出したろうが、ラスクのことを。



 前の自分がブルーのアイデアを元に作ったラスク。シャングリラにあったラスクの始まり。
 固くなったパンはお菓子にならないのか、と遠い昔に尋ねたブルーは、青い地球で小さな子供の姿になってしまって、首を傾げて。
「…ハーレイ、今はラスクは作っていないの?」
 料理は今でも得意なんでしょ、ラスクくらいは簡単に作れそうだけど…。
「一人暮らしで作ってもなあ…」
 パンが固くなるほど食材の管理が出来ていないっていうわけじゃないし、たまにウッカリ忘れてしまって固くなっても食べ方はそれこそ色々あるしな。
 わざわざラスクを作らなくても、その日の間にパングラタンとか…。シャングリラの頃だと苦労してたが、一人分くらいはラスク以外の食べ方で充分いけるんだ。
 ついでに、俺の教え子どもはだ、ラスクを作って御馳走しようが、何の有難さも感じてくれん。いつも食わせてる徳用袋のクッキーの味が変わった程度に思うだけだな、間違いない。
 だから今ではラスクは作らん、たまに食いたきゃ店で買えるし。贅沢でない並みのラスクがな。
「そうなんだ…。でも、ハーレイのラスク、また食べたいよ」
 思い出したら食べたくなったよ、ハーレイが作っていたラスク。
「作ってやるさ。今は駄目だが、いつかはな」
 今は手料理は持って来られないから、ラスクも駄目だ。
 しかし、いずれは手料理も持って来られるようになる勘定だし、お前も俺の家に来られる。
 そしたら幾らでもラスクを作って御馳走するから、楽しみにしてろ。
 一緒に暮らせるようになったら、もう好きなだけ食べ放題だぞ、俺が作るラスク。



 クリスマスの季節が過ぎた後にはシュトーレンで作る豪華版もやるか、と誘ったけれど。
 近所のパン屋で割引セールのシュトーレンを買って、胡桃やレーズンがたっぷりと入った豪華なラスクを作ってやろうか、と言ったのだけれど。
「ううん、普通の、あの味がいい」
 シャングリラで一番最初に食べたあの味、あの味と同じラスクをまた食べたいな。
 前のぼくが今でも覚えている味、今日のお土産よりずっと美味しいと思ってるラスク。
 あれを作ってよ、固くなったパンで。…シュトーレンとかの豪華版より。
「かまわんが…。もちろんあれを作ってはやるが、最初はその味で満足でもだ」
 いずれ贅沢を言い出すようになると思うがな?
 このラスクみたいに美味いラスクは作れないかと、パンから作ってバターも上澄みだけを使えば美味しいラスクが出来そうだけど、と俺に色々注文するんだ、美味いラスクの作り方。
「そうかもね…」
 最初は良くても、ずっとハーレイと一緒なんだし…。
 いつも二人でお茶が飲めるし、ラスクも好きなだけ食べられるんだし。
 シュトーレンで作るラスクも欲しいって言い出しそうだね、幸せだらけで贅沢になって。
 前のぼくなら大満足だったハーレイのラスク、もっと美味しくして欲しいよ、って。
「そういうコースだと思うがな?」
 俺はそういう予感がするなあ、今のお前が食べたがるラスク。
 前の俺が作ったラスクのまんまじゃ、いずれ駄目だと言われそうだと思うんだが。



 固くなったパンの食べ方で悩んだシャングリラ。そこから生まれて来たラスク。
 けれども今では、ブルーも自分も、青い地球に生まれ変わったから。
 青い地球で幸せに生きてゆける未来が待っているから、ラスクもきっと贅沢になる。
 最初は嬉しい懐かしい味も、気が付けばすっかり今風になって。
 地球ならではの食材を贅沢にたっぷり使って、地球風のラスクになってしまって。
 それでも二人で幸せな時間、地球風になったラスクを頬張る。
 「ハーレイのラスクだ」と喜ぶブルーと、二人きりの家で過ごすティータイム。
 今はまだ子供の指のブルーが、前と同じにしなやかで長い白い指を持つブルーに育ったら。
 結婚して二人で暮らし始めたら、贅沢な地球風になったラスクを幾つも幾つも作ってやって…。

             ラスクの始まり・了

※固くなったパンから生まれた、シャングリラのラスク。前のブルーのアイデアが発端でした。
 けれど作ったのは前のハーレイで、前のブルーが好んだお菓子。「君のラスク」と。
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