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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

「ソルジャー。…ちと、邪魔してもよろしいじゃろうか?」
 青の間を訪れたのは、ゼルだった。彼だけではなくて、後ろに続く長老たち。更にキャプテンまでがいるから、ブルーはコクリと頷いた。
 何処から見たって、断れるような状況ではない。用件が薄々、分かってはいても。
「…入りたまえ。それで一体、どうしたんだい?」
 みんな揃って…、と一応、尋ねてはみた。このシャングリラのキャプテンと、4人の長老たち。彼らが揃っての訪問となれば、暇つぶしなどでは有り得ないから。
「それが、そのぅ…。あの、クソガキのことなんじゃがな…」
 もうワシらでは手に負えんのじゃ、とゼルはお手上げのポーズを取った。船中を混乱の渦に陥れている、クソガキについて。
「やっぱり、ぶるぅのことなんだね…?」
「そうなんじゃが…。そもそも、あいつの名前からして…」
 なんとか出来ないモンじゃろうか、と苦虫を噛み潰したようなゼルの表情。
 シャングリラの善良な住人たちは皆、日々、困っていた。たった一人のクソガキのせいで、もう、ケッタクソに。
 クリスマスの朝に青の間に湧いた、「小さなソルジャー・ブルー」のお蔭で。
 それが初めて現れた時は、誰も気付いていなかった。偉大なる長、ソルジャー・ブルーを小さく縮めたような幼児で、服装までが、そっくりそのまま。
 「なんて可愛い子が来たんだろう」と、女性陣などは沸き立ったほど。
 名前はブルーが自ら付けた。とても小さなブルーなのだし、「そるじゃぁ・ぶるぅ」と。
 シャングリラで暮らす皆も喜び、「そるじゃぁ・ぶるぅ」を心から歓迎したのだけれど…。
 ところがどっこい、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、悪戯好きのクソガキだった。かてて加えて大食漢で、食べ物と見れば食い散らかす。
 それが食堂に配膳されたものであろうが、調理が終わって盛り付けを待つばかりだろうが。
 今や、船中の者が怯えている。
 「かみお~ん♪」と声が聞こえて来たなら、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の登場だから。
 うっかりクソガキを止めようものなら、ガブリ、ガブリと噛まれるから。



 そんなこんなで、ついに直訴と相成った。
 シャングリラを束ねるキャプテンと、それに長老たち。「流石に我慢の限界ですぞ」と、敬語モードも交えるゼルを筆頭にして。
「ソルジャー、せめて、あの名前をじゃ…。もっと、こう…」
 クソガキらしい名前に改名できんじゃろうか、とゼルは呻いた。
 恐れ多くもソルジャー・ブルーと似たり寄ったり、それがクソガキの「そるじゃぁ・ぶるぅ」という名前。
 もうそれだけで腰が引けるから、心おきなく「どつき倒せる」名前に変えては貰えないか、と。
「ぼくは、あれでいいと思うけれどね? ぶるぅは、ぶるぅなんだから」
 ぼくの分身みたいなもので…、とブルーは「そるじゃぁ・ぶるぅ」の味方。いくらクソガキでも、船の仲間が大混乱でも、大切な分身なのだから。
(…きっと、サンタクロースがくれた子供で…)
 本当に、ぼくの分身なんだ、と思っているから、「そるじゃぁ・ぶるぅ」。他の名前などは考えられない。長老たちが直訴に来ようと、キャプテンが顔を顰めようとも。
「…改名は無理だと仰るか…。なら、悪戯を止められんかのう…?」
 盗み食いと、派手に噛み付くのもじゃ、とゼルは言い募るけれど、そちらも無理な相談だった。まだ幼児とも言えるような子に、我慢など出来る筈もない。悪戯も、大食いも、機嫌が悪いと噛み付くのも。
 ブルーにも良く分かっているから、「無理だ」と首を左右に振った。
「ぶるぅは、まだまだ子供だからね…。大目に見てやってくれないだろうか?」
「ですが、限度がございます。船の仲間は疲労困憊、ノイローゼ気味の者もおりまして…」
 あの「かみお~ん♪」という声の幻聴を聞く者までが…、とキャプテンが船の報告をした。
 「そるじゃぁ・ぶるぅ」が登場する時、高らかに叫ぶ声が「かみお~ん♪」。
 元はカラオケでお気に入りの歌、『かみほー♪』が「なまった」ものらしい。その雄叫びが響く所に、大食漢の悪戯小僧あり。
 お蔭で「かみお~ん♪」の幻聴に怯え、いもしないのに動悸がする者だとか、貧血でクラリとする者だとか。
 メディカル・ルームは大入り満員、そうでなくても「噛まれた」者が列を成すのに。



「…それで、このぼくに、どうしろと? ぶるぅを閉じ込めておけとでも?」
 部屋から出すなと言うのだろうか、とブルーは訊いた。そうでなければ、青の間の中に軟禁するとか、そんな具合にしろとでも、と。
「出来れば、お願い致したく…。その、ぶるぅはソルジャーの仰せだけは…」
 おとなしく聞くようですので、とキャプテンが頷き、ゼルたちの意見も一致していた。悪戯小僧を止められないなら、外に出さないでおくのが一番。
 「そるじゃぁ・ぶるぅ」専用の部屋に閉じ込めておくか、ブルーが青の間で監視をするか。
「…可哀想だとは思わないのかい? あんな小さな子を閉じ込めて…」
 ブルーの抗議は、ゼルたちに見事に遮られた。
「可哀想なのは、船の連中の方じゃ! 今もハーレイが言ったじゃろうが!」
「噛み傷で包帯だらけのもいるし、幻聴に怯えるヤツもいるしさ…」
「ゼルやブラウの言う通りです。シャングリラ中が、もう限界です!」
「うむ。子供たちにも、あれでは示しがつかないからね…」
「閉じ込める方向で、対処をお考え頂きたく…。キャプテンとして、強く希望します」
 クソガキが一人やって来ただけで、このシャングリラの平和も秩序も乱れまくりで…、とキャプテン・ハーレイが作った渋面。
 長老たちの顔も似たようなもので、ブルーは渋々、承知せざるを得なかった。
 シャングリラに平和を取り戻すために、「そるじゃぁ・ぶるぅ」を閉じ込める。悪戯三昧させないためには、そうするのもやむを得ないだろう、と。



(……しかし、困った……)
 ぶるぅを閉じ込めておくなんて…、とブルーは心で溜息をつく。長老たちが退室した後、青の間のベッドに腰を下ろして。
(…ぶるぅは少しヤンチャなだけで、まだ小さいから食べ盛りで…)
 それを軟禁してしまったなら、今度は「そるじゃぁ・ぶるぅ」の方がノイローゼになってしまうだろう。子供なのだし、赤ちゃん返りをするかもしれない。
(毎日、おんおん泣きじゃくるだけで…)
 遊ぼうともしなくなった姿は、ブルーには、とても耐えられない。船の平和も大切だけれど、「そるじゃぁ・ぶるぅ」も守ってやりたい。
(でも、どうしたら……)
 ぶるぅを部屋に閉じ込めないで、自由にさせてやれるのだろう。叱ってみたって悪戯はするし、大食いだって止まるわけがない。
(……ぶるぅだって、ストレスを発散したくて……)
 悪戯と盗み食いに燃えているのだし…、とシャングリラという船の特殊性を思う。人類に追われるミュウの箱舟、それが巨大なシャングリラだった。
 船の中だけが世界の全てで、外に出たなら死が待つだけ。「そるじゃぁ・ぶるぅ」も船から出られず、なまじ元気が余っている分、悪戯と大食いに突っ走っていて…。
(…あれ?)
 そういえば…、とブルーは今更ながらに気が付いた。
 「そるじゃぁ・ぶるぅ」は小さいとはいえ、ブルーと同じでタイプ・ブルーのミュウ。外の世界に出て行ったって、困らないのではないのだろうか。
(……空も飛べるし、瞬間移動も出来るんだし……)
 だったら外で遊んで来れば…、と閃いた名案。
 シャングリラの中が狭すぎるのなら、人類の世界に出てゆけばいい。悪戯したなら捕まるけれども、ただ食べまくるだけならば…。
(…船の中では食べられない物が、山のようにあって…)
 端から名店巡りをしたって、簡単には回り尽くせない。行きつけの店も出来るだろうし、そうなれば船は留守がちになる。
 「そるじゃぁ・ぶるぅ」はグルメ三昧で御機嫌な日々で、船には平和が戻って来るのに違いない。食べ終えて船に帰った途端に、また悪戯をやらかそうとも。



(よし…!)
 それだ、と決めたブルーは早速、潜入班の指揮をしているクルーを呼び出した。
「IDカードを偽造して欲しい。そるじゃぁ・ぶるぅでお願いするよ」
「ぶるぅですか!?」
 アレを潜入班に入れるおつもりですか、と男性クルーはドン引きした。タイプ・ブルーには違いなくても、悪戯小僧が役に立つとは思えない。逆に他の者たちの足を引っ張り、最悪、人類軍に気付かれ、ほうほうの体で逃げ帰る羽目になるのでは…、と。
「そうじゃない。…ぶるぅがやるのは、単独行だ」
 人類の世界で食べ歩きをさせてやりたくてね…、とブルーは笑んだ。「小さな子供が一人だったら、身元なんかを訊かれることもあるだろう」と、説いたIDカードの必要性。
 「何処の子かな?」と尋ねられたら、子供の言葉で説明するより、「これ!」とカードを見せればいい。誰だって一目で納得するから、ユニバーサルにも通報されない、と。
「…はあ……。すると、ぶるぅはシャングリラの外で……」
「好き放題に過ごすわけだよ。君たちの心労も減ると思うし、是非、IDカードを…」
 よろしく頼む、とのブルーの言葉に、「はっ!」と最敬礼した男性クルー。
「承知いたしました! 腕によりをかけて、子供用のIDカードを偽造させて頂きます!」
 名前も「そるじゃぁ・ぶるぅ」のままで…、と男性クルーは約束をした。なにしろ小さな子供なのだし、偽名なんかは厄介なだけ。たとえミュウの長と良く似ていようと、誰も疑わないカードの偽造は潜入班の腕の見せ所。
 それでシャングリラに平和が戻って来るのなら。
 悪戯小僧の大食漢が「船の中で」暴れ回る時間が、少しでも減ってくれるのならば。



 かくして「そるじゃぁ・ぶるぅ」専用の、IDカードが出来上がった。
 それが青の間に届けられた日、ブルーは「ちょっとおいで」と、「そるじゃぁ・ぶるぅ」に思念を飛ばして…。
「かみお~ん♪ 呼んだ?」
「ああ。ぶるぅ、これから一緒に外へ出掛けないかい?」
「外って?」
「今日は、ぼくも身体の調子がいいから…。食事はどうかと思ってね」
 船の中とは、まるで違うよ、とブルーが誘った船の外。
 瞬間移動で降りたアタラクシアの街に、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は目を丸くした。美味しそうな料理が食べられる店が、ズラリと軒を連ねている。
「えとえと…。これって、入ってもいいの?」
「もちろんだよ。ぶるぅは、何が食べたい? 最初はお子様ランチがいいかな?」
 ほら、地球の旗が立っているよ、とブルーが指差すショーウインドウ。
 シャングリラでは見ないランチプレートに、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は歓声を上げた。
「それにする! んとんと、ブルーも、お子様ランチ?」
「そうだね、お揃いにするのがいいかな。あんまり沢山は食べられないし…」
 だけど、ぶるぅは山ほど食べていいからね、と二人並んで入った店内。誰もミュウとは思わないから、「いらっしゃいませ!」と案内されたテーブル。グラスに入った水が置かれて、それにメニューも。
「お子様ランチを二つ頼めるかな? 他はゆっくり決めるから」
「かしこまりました!」
 店員が残していったメニューを、ブルーは「そるじゃぁ・ぶるぅ」に見せて…。
「好きなのを頼んでいいからね。何処のお店も、基本は似たようなものだから…」
 次からは一人で好きに食事に来るといいよ、と教えてやった外食の方法。お子様ランチを二人で食べて、その後は「そるじゃぁ・ぶるぅ」が山のように注文しまくる中で。
「ねえねえ、ブルー…。ホントに、一人で来ちゃっていいの?」
「いいよ、お金は次から自分で払うようにして貰うけど…。お金は、ちゃんと…」
 ぼくが沢山渡すからね、とブルーは笑顔で頷いた。「お小遣いで何をするのも、自由」と。



 悪戯小僧の大食漢は、こうして「外」にデビューした。
 シャングリラへと戻って直ぐに、ブルーが渡したIDカード。「何か訊かれたら、これを見せればいいからね」と。
「これ、なあに?」
「アルテメシアの子供です、という目印かな? ミュウじゃなくてね」
 それさえあったら、安心だから…、とブルーが浮かべた極上の笑み。人類軍に追われはしないし、ユニバーサルの職員がやって来ることも無いから、と。
「そうなんだ…。お店で一人で食事してても?」
「うん。ショッピングモールを歩いていたって、誰も文句は言わないからね」
「ありがとう、ブルー! 美味しいもの、いっぱい見付けるよ!」
 ブルーにもお土産、買って来るね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は飛び跳ねた。船の中だけで暮らしているより、断然、外がいいものだから。
(…これで良し、と…)
 きっと苦情も減ることだろう、とブルーは胸を撫で下ろしたけれど、それは些か甘かった。外に出ようが、グルメ三昧の日々を送ろうが…。
「ソルジャー、あのクソガキのことなんじゃがな…」
 なんとか出来ないモンじゃろうか、とゼルたちの苦情はエンドレス。
 相手は「そるじゃぁ・ぶるぅ」だから。
 「かみお~ん♪」と雄叫びが聞こえた途端に、騒ぎになるのがシャングリラのお約束だから…。




          船とクソガキ・了

※「そるじゃぁ・ぶるぅ」お誕生日記念創作、読んで下さってありがとうございました。
 管理人の創作の原点だった「ぶるぅ」、2017年8月28日にいなくなりました。
 葵アルト様のサイトのペットでしたけど、CGIエラーで消え去ったんです。
 そうならなければ、今年の11月末で「初めて出会ってから」10年目。
 節目の年に、お別れになってしまいました。

 いなくなったので、もう祝えない「お誕生日」。
 だけど忘れていないんだよ、と記念創作を書きました。「ぶるぅ」のために。
 「そるじゃぁ・ぶるぅ」、11歳のお誕生日、おめでとう!

※過去のお誕生日創作は、下のバナーからどうぞです。
 お誕生日とは無関係ですけど、ブルー生存EDなんかもあるようです(笑)
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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「ママ、おやつ!」
「そこにあるでしょ?」
 学校から帰って、着替えをして。
 ダイニングに下りて行ったら、そう答えたママ。テーブルの上に置いてあるケーキ。お皿の上に一人分だけ、ママは一緒に食べないみたい。
「ママはご近所まで出掛けて来るから、紅茶は自分で淹れて飲んでね」
「うんっ!」
 行ってらっしゃい、って手を振った。どうやら用事は焼いたケーキのお裾分け。そういう感じの紙箱を持って出掛けたから。
(何処の家かな?)
 お隣さんかな、それとも向かい?
 ママがケーキを持って行く先はとても沢山、何処の家でもお待ちかね。持って行ったら、其処でお喋り。お茶を御馳走になることも多いから、大抵はぼくが学校に行ってる間に済ませてる。
(今日は通信が入っていたんだよ、きっと)
 お祖母ちゃんとかから。お喋りに夢中になってしまって、お裾分けに行くのが遅れたんだ。遠い地域に住んでるお祖母ちゃん、見た目の年はママとあんまり変わらないけど、お祖母ちゃん。
 ぼくの話もしてたのかな、って考えながらキッチンに行った。飲み物を作りに。



 いつもはママが立ってるキッチンにぼくが一人だけ。
 ママは「ミルクでもいいわよ」って言って出掛けたけれども、どうしよう?
 シロエ風のホットミルクも捨て難い。今日のケーキには合いそうな感じ。マヌカの蜂蜜を多めに入れて、シナモンを振って。
 ミルクパンを手に取ろうとしたけど、ハタと気付いた。
 温めすぎると一気に沸騰しちゃう牛乳。ブワーッと泡が立ってしまって、ミルクパンから溢れて零れる。ママは上手に温めるけれど、ぼくがやったら…。
(早めに止めすぎて温くなっちゃうか、ブワーッと吹きこぼれてしまうか、どっちか…)
 調理実習では習ってないから、自信も無ければコツも知らない。失敗した数が多いだけ。
(ブワッと噴いたら、もう遅いんだよ…)
 ミルクパンは吹きこぼれがついて失敗したのがママにバレるし、キッチンだって汚れちゃう。
 ママは優しいから「あらあらあら…」って眺めるだけで、ぼくを叱りはしないけど…。
(ぼくの自信がまた減っちゃうしね?)
 ホットミルクは失敗するんだ、って変な勲章が増えちゃって。
 それは困るから、紅茶にしよう。お湯を沸かすならケトルにお任せ、牛乳みたいに大変なことになってしまいはしないから。



(えーっと…)
 ケトルに水をたっぷりと入れて、沸かす間にポットを用意した。
 ママもお気に入りの使いやすいポット、お客様用のポットと違って普段用。シンプルな白。
 蓋を開けて紅茶の葉っぱを入れた。このくらいかな、ってスプーンで計って、一人分。
 ミルクと違って目を離してても溢れたりしないし、安心のケトル。沸いたらピーッて音も鳴る。お湯が沸いたら、湯気の力でピーッって音が。
 ポットの用意が出来ても、ピーッと鳴らないケトル。沸いてないお湯。まだ沸かないお湯。
(前のぼくの頃と同じ…)
 ケトルでお湯を沸かすのにかかる時間は、前のぼくが生きてた時代と同じ。
 長い長い時が流れたけれども、死の星だった地球が青くなるほどの時間が経ったけれども。今の時代もお湯を沸かすのにかかる時間は変わらない。
 ちょっぴりシステムは変わっているかもしれないけれど。熱源の仕組みは違うかもだけど。
(でも…)
 ケトルを乗っけてお湯を沸かす間、待つのは同じ。入れたお湯の分だけ、時間がかかる。沢山のお湯なら、時間も沢山。水がブクブクと沸騰するまで待たされる。
 それも楽しみの一つだから。沸くまでの間、のんびり待つのも幸せな気分。



(すぐに沸いちゃうお湯なんてね?)
 あまり有難味が無いものね、ってケトルを見てたら、沸々とお湯が沸き始めた音。まだ沸騰していないけど。この音がもっと大きくなったら、ピーッって音が鳴り出して…。
(沸いた!)
 紅茶を淹れるなら沸騰したお湯、ブクブクと泡を立てて滾ったお湯。
 暫くピーッと鳴らしておいてから、よく沸いたお湯をポットに注いだ。勢いよく。
(後は葉っぱが開いたら…)
 紅茶は飲み頃、ちょうどいい濃さ。おかわりするなら濃くなった紅茶を薄めなくっちゃ、と差し湯の用意も。
 ダイニングに運んで、カップに紅茶を注いで、お砂糖。軽く混ぜてから一口飲んで。
(うん、上出来!)
 ケーキもフォークで切って口へと、こっちも美味しい。ママがお裾分けに持って行くんだから、最高に美味しいに決まってる。
 紅茶を飲みながらのんびりと食べて、紅茶もおかわり。濃くなってたから、お湯で薄めて。
 飲み終えた所へママが「ただいま」って帰って来たから、「御馳走様」って空になったカップとお皿をキッチンに運んで行った。
 「ケーキ、とっても美味しかったよ」って、「また作ってね」って。



 部屋に戻ってから、勉強机に頬杖をついて考えた。
 さっき沸かしてた、お湯のこと。ケトルがピーッと音を立てるまで、待ってたキッチン。
(ホントに変わっていないよね…)
 前のぼくの頃から、キッチンとかは。食器もケトルも、まるで別物になってはいない。
 記憶が戻って来た後のぼくも、あまり驚いたりしない。こんなのじゃない、と思いはしない。
 そのキッチンで出来上がる料理は違うけれども。うんと種類が増えたけれども。
(前のぼくの頃に、和風の料理は無かったしね?)
 お茶だって種類が増えちゃった。
 前のぼくがお茶と言ったら紅茶で、緑茶なんかは何処にも無かった。紅茶も緑茶も、同じお茶の木から出来るのに。同じ葉っぱから作るのに。
 種類がグンと増えたお茶だけれども。
(沸かす手間は同じ…)
 お茶を淹れるためにお湯を沸かすって所は同じ。かかる時間も前とおんなじ。
 それでこそだ、と思っちゃう。
 お湯が沸くのを待ってる時間も、お茶を飲むには大切なんだ、って。



(前のハーレイだって…)
 言っていたっけ、直ぐに出来上がってしまう料理は楽しくないって。
 手間をかけた分だけ美味しくなるって、作る時から楽しんでこそだ、って。
 まだ厨房に立っていた頃に、キャプテンになる前にフライパンとかお鍋を手にしてそう言った。
 ゼルが「一瞬で料理が出来る機械を作ってやろうか」って話を持ち出した時も。
 発明好きだったゼルの提案、何処まで時間を短縮できるかやってみたい、という提案。
 ハーレイは蹴った。その場で「邪道だ」と却下しちゃった。
(一瞬で出来るオムレツなんてね…)
 卵をセットしたらボタン一つでパッとオムレツ、そんなの、ちっとも楽しくない。便利そうでもワクワクしない。フライパンの上で引っくり返して、焼き上げてこそのオムレツだから。
 「ほら、出来たぞ」って、ホカホカのをお皿にポンと移すのがいいんだから。
 お茶だって、お湯を沸かしてこそで。
 ケトルに入れたお湯が沸くまで、沸騰するまで待っていてこそで。
(一瞬でお湯が沸くなんて…)
 邪道だよね、と前のハーレイの台詞を頭の中でなぞってみた。
 そう思ったけど、一瞬でお湯が沸くケトルなんかは味気ない、って思ったけれど。



(…あれ?)
 蘇って来た、遠い遠い記憶。
 一瞬でお湯を沸かしていた、ぼく。
 サイオンを使って、ポットに注ぐためのお湯をケトルで一瞬で。
 ほんの一瞬で沸騰したケトル。待ち時間などはまるで無くって、アッと言う間にブクブクと。
(あれって…)
 前のハーレイと恋人同士になった後。
 ブリッジでの仕事を終えたハーレイが青の間に来て、一日の報告が済んだら二人でお茶を飲んでいた頃。ぼくはソルジャーの衣装の手袋を外して、素手で紅茶を淹れていた。
 青の間の奥にあったキッチン、其処でケトルでお湯を沸かして、ポットに注いで二人分。
 白いシャングリラで採れたお茶の葉から作った紅茶を二人分。
 香り高くはなかったけれど。
 前のぼくが人類から奪っていた頃の紅茶の香りには遠く及ばなかったけれども、立派な紅茶。
 ちゃんと紅茶の色をしていて、味もそんなに悪くはなかった。足りなかったものは香りだけ。
 宇宙船の中で育てていたから、霧が出たりはしなかったから。朝と夜との気温の差だって、外の世界と同じようには出来なかったし、香り高い葉は生まれなかった。
 白いシャングリラの紅茶。香りこそ足りない紅茶だったけど、前のぼくたちの船で作った紅茶。
 それを淹れようとして、ふと思ったんだった。
 ケトルで沸かそうとしていたお湯。
 サイオンで沸かしたら一瞬だよねと、そういうのもたまにやりたいよね、と。
 ちょっとしたぼくの悪戯心。
 前のぼくだったからこそ出来た芸当。



 ケトルを見詰めて、ホントに一瞬。
 沸かそうと頭で考えただけで、魔法みたいに一瞬で沸いた。
 沸騰したお湯をポットに注いで、カップとかと一緒に持って行ったら、驚いたハーレイ。
「早かったですね、私が来る前に一度沸かしてあったのですか?」
 報告をしに来るとお気付きになって、先に沸かしておかれたとか…。そして保温を?
 保温しておいて温め直せば早いですしね。
「ううん、君が嫌がりそうなお湯だよ」
「は?」
 嫌がりそうとは、それはどういう…。
「一瞬で沸かしてしまったからね」
 ケトルで沸くのを待つんじゃなくって、一瞬で。…それじゃ味わいが無いんだろう?
 君の言う邪道というヤツだろう、って微笑んでみせた。
 料理だって一瞬で出来たら邪道なんだし、お湯を沸かすのも同じだろう、と。
「それはまあ…。ゼルが機械を作ったのですか?」
 一瞬でお湯が沸く機械を。
 ゼルならば作りそうですが…。作ってみたんじゃ、と一番に此処に持ち込みそうですが。
「そうじゃなくって…」
 機械なんかは貰っていないよ、ゼルからも、他の誰からも。
 種も仕掛けも無いと言えば無いね、一瞬でお湯を沸かすには。



 こう、ってカップに注いだ紅茶を沸かしてやった。
 二つ並べて置いたカップの片方を。
 指差しただけでボコボコと泡立った紅茶。沸騰してしまった、カップの中身。
 ハーレイが目を剥いたから。
 信じられないという顔で沸いた紅茶と、ぼくの顔とを見比べてるから。
 ぼくは沸騰させるのをやめて、まだ細かい泡がフツフツと沸き上がるカップを手に取った。
「分かったかい? サイオンなんだよ、これなら一瞬で沸いてしまうんだ」
 でもね…。これは美味しくないと思うし、淹れ直すよ。
 沸騰したお湯で淹れたお茶ならともかく、そのお茶をもう一度沸かしたからね。ただでも少ない香りがすっかり飛んでしまって、きっと不味いと思うから。
 キッチンに行って捨てて来る、と言ったんだけれど。
「いえ、頂きます」
 私が飲みます、と止めたハーレイ。
「…君が? この不味そうな紅茶をかい?」
 それくらいなら、ぼくが飲むよ。
 やってしまった責任を取って、ぼくが飲む。そうするべきだと思うけどね…?



 君が飲まなくてもかまわない、とカップをテーブルにコトリと置いたら。
 ぼくの方へと引き寄せようとしたら、「いえ」とハーレイの手がカップを取った。ソーサーごと自分の前に移して、唇に笑み。
「もったいないからではないのですよ」
 私が飲もうと言っているのは、紅茶が無駄になってしまうのを防ぐためではありません。
 もちろん責任の問題でもなくて…。
 要は味わってみたいのですよ、この紅茶を。さて…。
 どんな味でしょうか、と熱すぎる紅茶の湯気を息で飛ばして、一口飲んで。
 「美味しいですよ」と微笑んだハーレイ。吹いて冷ましながら飲んだハーレイ。
 この紅茶はぼくが淹れた紅茶で、ぼくが沸かした紅茶だから、って。
 それが美味しくない筈がないと、不味い紅茶になるわけがないと。



「本当に美味しい紅茶ですよ。…私にとっては」
 どんな紅茶よりも美味しいのですが、他の者が飲んだらどう評するかは分かりません。あなたがお飲みになったとしても、美味しいとは仰らないのでは…。
「それがどうして美味しいということになるんだい?」
 君の言い方だと不味い紅茶だとしか聞こえないけれどね、その紅茶は。
「美味しさに秘密があるのですよ。あなたの愛情入りだと言えればいいのでしょうが…」
 そうではなくて悪戯でしょうね、一瞬でお湯を沸かしてみたのも、カップの紅茶が沸いたのも?
「悪戯だけど…。やったらどんな顔をするかな、と試してみたくて沸かしたけれど…」
 愛情入りというのは何だい、それはどういう意味なんだい…?
「そういう言い回しがあるそうですよ。愛情をこめて作りました、という意味で」
 手料理などを指すようですね、と笑ったハーレイ。
 恋人のためにと作った料理は愛情入り。愛情がこもった料理なんだから、愛情入り。
 このシャングリラでも手料理を作っている恋人たちがいるんですよ、と。
 厨房で材料を分けて貰って、空いた時間に手料理作り。
 そうやって出来た料理やお菓子は愛情入りだと、だからぼくが悪戯で沸かした紅茶も愛情入り。
 ぼくがサイオンで沸かしたから。
 普通に淹れた紅茶と違って、お湯も紅茶も、ぼくのサイオンで沸いたから。



「愛情入りねえ…」
 ふうん、と感心してしまった、ぼく。
 きっと不味いだろう紅茶を美味しいと飲んでくれたハーレイ。
 初めて耳にした「愛情入り」という言葉の響きも、それに例えたハーレイの温かな心も、とても嬉しくて心が弾んだものだから。
 それから時々、お茶を淹れる時にはお湯を一瞬で沸かしていた。ケトルのお湯をサイオンで。
 カップに注いだ紅茶の方は、二度と沸かしはしなかったけれど。
 紅茶の香りが飛んでしまうと分かっているから、それはやらずにお湯の方だけ。ポットにお湯を注ぐ前なら、どんな風に沸こうが、紅茶の味に影響は出ない筈だから。
 このくらい、とケトルに入れた水を一瞬で沸騰させてしまって、ポットに注いで運んでゆく。
 ハーレイの分とぼくの分とのカップを添えて、トレイに載せて。
「はい、ハーレイ。今日の紅茶は愛情入りだよ?」
 そう前置きしてカップに注いで、ハーレイの前に差し出したら。
 褐色の手がそうっとカップを持ち上げ、紅茶をゆっくりと口に含んで。
「美味しいですね」
 やはり一味違いますよ。あなたのサイオンで沸かして下さったお湯で淹れた紅茶は。
「いつもの紅茶なんだけれどね?」
 何も違わないよ、この船で作った紅茶なんだし…。香りが薄くて、色と味しか無い紅茶。
「それでもです。本当に美味しく思えるのですよ」
 あなたのサイオンで沸かして下さったお湯が、味に深みを出すのでしょう。
 文字通りあなたの愛情入りです、あなたのサイオンが無ければ淹れられない紅茶なのですから。



(思い出した…!)
 前のぼくがハーレイのために淹れてた、愛情入りっていう謳い文句の紅茶。
 サイオンを使って一瞬で沸かした、ケトルに入った愛のお湯。愛情入りの沸騰したお湯。
 何度もハーレイに淹れてあげたし、ハーレイも喜んで飲んでくれた。「美味しいですよ」って。
 でも…。
(今のぼくには無理…)
 前と同じにタイプ・ブルーに生まれたけれども、サイオンの扱いが不器用なぼく。思念波さえもロクに紡げないレベルで、とことん不器用。
 そんなぼくには出来ない芸当、逆立ちしたって無理な芸当。
 サイオンでお湯を沸かすなんて。ケトルの水を一瞬で沸騰させるだなんて。
 ボコボコと沸騰させるどころか、泡の一つも立たないだろう。
 いくらケトルを睨み付けても、お湯にもならずに水のまま。温度は一度も上がりやしない。
 そうなることが分かり切ってる、今のぼく。
 愛情入りのお茶は淹れられない。
 紅茶も緑茶も、愛情入りのを淹れられやしない。
 前のぼくなら簡単に出来たことだったのに。愛情入りだよ、って淹れられたのに…。



 どんなに頑張って格闘したって、もう淹れられない愛情入りのお茶。
 悪戯じゃなくて大真面目にやっても、ハーレイのために愛情入りのお茶を淹れられはしない。
 ぼくのサイオンは不器用になってしまったから。
 タイプ・ブルーだなんて名前ばかりで、無いも同然のサイオンだから。
(ハーレイ、忘れているといいんだけれど…)
 前のぼくが淹れてたお茶のことを。「愛情入りだよ」と一瞬で沸かしたお湯のことを。
 もしもハーレイが覚えていたって、あれはもう作れないんだから。
 淹れてあげたいと挑戦したって、ケトルの水はぬるま湯にさえもなってはくれないんだから。
(…ハーレイ、覚えていないよね…?)
 ぼくの家で何度も出してる紅茶。ママが運んで来てくれる紅茶。
 ハーレイにとっては馴染みの飲み物、ぼくの部屋で何度も飲んでいるけど、お湯の話は今までに一度も出ていない。一瞬で沸かしたお湯かどうかも、話題になんかなってはいない。
(忘れているとは思うんだけど…)
 それとも黙っているだけだろうか、今のぼくには出来っこないから。
 忘れているなら、愛情入りの紅茶を二度と淹れられなくても何の問題も無いけれど。
 覚えているなら、「今度はあれは飲めないのか」と思っているなら、大いに問題。
 ぼくの愛情が足りないってことにならないだろうか、ハーレイへの愛が?
 愛情入りの紅茶が淹れられない分、愛情不足ってことになったら…。



(どうしよう…)
 ハーレイが愛情入りのお茶を覚えていたなら、ぼくはどうすればいいんだろう?
 今度のぼくには淹れられないのに、一瞬でお湯を沸かせないのに。
(愛情不足になっちゃうわけ…?)
 どうなんだろう、と心配になってきた所へチャイムの音。
 仕事帰りに寄ってくれたハーレイ、いつものようにママが運んで来た紅茶とお菓子。ハーレイとぼくのために置かれたカップ、ママが注いだ紅茶が入ったカップが二つ。それにポットも。
(前のぼくなら愛情入り…)
 カップの紅茶も、ポットの中身のおかわり用も愛情入り。
 サイオンで一瞬で沸かしたお湯を使って、淹れて。愛情たっぷりの紅茶に出来た。同じ紅茶でも違う紅茶に、ハーレイにだけは味の違いが分かる紅茶に。
 そう、前のぼくには分からなかった。どう違うのかが、いくら飲んでも。
(きっと今だって…)
 サイオンで一瞬で沸かしたお湯でも、ケトルのお湯でも、ぼくに違いは分からないと思う。
 ママはサイオンでお湯を沸かせはしないけど。そこまでのサイオン、持ってないけど。



(同じお湯なら、やっぱりケトル…)
 沸くまで待ってる時間がいい。ゆっくり、のんびり待つのがいい。
 今日だってゆっくり待ってたんだし、と思い出したから、ついついウッカリ。
「ねえ、ハーレイ。一瞬で沸くお湯なんかきっと、つまらないよね?」
「はあ?」
 鳶色の瞳が丸くなったから、付け加えた。
「えーっと…。お茶を飲むなら、お湯を沸かす時間も大切だよね、って」
 まだかな、って沸くのを待ってる間も楽しみの内だよ、お茶を淹れる時の。
 一瞬でボコッと沸いてしまったら、お茶を淹れる楽しみ、減っちゃわない…?
「ああ、あれな…!」
 前のお前の愛情入りな、ってハーレイがポンと手を打ったから。
 失敗した、って気が付いたけれど、もう遅い。そういう話になってしまったら戻れない。きっとハーレイは覚えていたんだ、あのことを。
 今日まで黙っていただけで。今のぼくには無理そうだから、って沈黙を守っていただけで。
 お湯の話を始めたぼくが馬鹿だったんだ、と俯き加減で呟いた。
「…覚えてたの?」
 だけど今まで言わなかったの、あのお茶のこと?
「いや? たった今、思い出したんだが」
 一瞬で沸かした湯じゃつまらない、と聞いた途端に思い出した。前のお前がやっていたな、と。
「えっ…」
 それじゃすっかり忘れていたわけ、ハーレイも?
 愛情入りのお茶ですね、って自分で言い出したくせに、ハーレイも忘れてしまってたんだ…!



 墓穴を掘ってしまったぼく。
 ハーレイは忘れてしまっていたのに、思い出させてしまった、ぼく。
 前のぼくがハーレイのために淹れてた、サイオンで沸かしたお湯のお茶。愛情入りのお茶。
 もうあのお茶は淹れられないのに。
 今のぼくがどんなに頑張ってみても、愛情入りのお茶を淹れることなんか出来はしないのに…。
(…ハーレイ、思い出しちゃった…)
 思い出したからには、愛情入りのお茶が無理なことにも気付くだろう。
 今のぼくには淹れられないって、愛情入りのお茶を飲むことはもう出来ないんだ、って。
(…愛情不足…)
 今度のぼくには愛が足りない。ハーレイにあげられる愛が足りない。
 愛情入りのお茶を淹れられない分、ぼくのハーレイへの愛は足りない。
 ハーレイが好きでたまらなくても、結婚するんだともう決めていても、決定的に足りない愛情。
 だって、淹れられない、愛情入りのお茶。
 ハーレイのためにとサイオンで一瞬でお湯を沸かしてあげられない。
 こんなにハーレイが好きなのに。
 ハーレイのことが誰よりも好きで、愛はいっぱいの筈なのに…。



 それでも愛情不足なんだ、と落ち込んでいたら。
 紅茶のカップに目を落としたまま、何も言えずに項垂れていたら。
「…どうした?」
 何を黙ってしょげているんだ、せっかく懐かしい昔話が出て来たのに…。
 前のお前の愛情入り。何度も飲ませて貰ったよなあ、仕事が終わって一日の報告を済ませたら。
 お前がいそいそとトレイを手にして持って来た日は愛情入りなんだ、同じ紅茶でも。
 あれは不思議に美味い気がしたな、お前がサイオンで沸かしたってだけで。
 一瞬で出来る料理はつまらん、と言った俺だが、あれに関しては話は全く別だってな。
「…ごめん、ハーレイ。ぼく、あのお茶はもう…」
 ぼくのサイオン、不器用になってしまったから…。
 ケトルをどんなに睨んでも、きっと…。
「うんうん、淹れられないってな」
 分かるぞ、お前には無理だってこと。あんな芸当、今のお前には出来ないんだろう?
 淹れられなくても当たり前だな、サイオンが上手く扱えないんじゃな。
「…ごめん…」
 ごめんね、愛情不足なぼくで。愛情入りのお茶も淹れられないぼくで…。
 ハーレイのことは大好きだけれど、今度は愛が足りないみたい。
 愛情入りのお茶が淹れられない分だけ、ぼくの愛、今度は足りないんだよ…。
「何を言うんだ、この馬鹿者が」
 前のお前よりも愛情が足りていないってか?
 そんなことがあるか、今のお前も愛情ってヤツはたっぷりだろうが。
 足りてないのはサイオンだけだな、それでかまわないと俺は何度も言った筈だが?
 今度のお前はそれでいいんだと、その分、俺が守るから、と。
 もっとも、前のお前と違って。
 命の危機ってヤツから守るのは無理な世界になっちまったがな。
 敵なんかは何処にもいないからなあ、うんと平和に暮らせる世界を前のお前が作ったお蔭で。
 お前は違うと言うんだろうが、前のお前がメギドを沈めて、そのお蔭で今の世界がある。
 ミュウが主役になった世界も、青い地球もお前が作ったんだ。
 ソルジャー・ブルーが大英雄なことは、お前だって学校で習うんだろうが…?



 不器用なお前でかまわないのさ、ってハーレイはウインクしてくれた。
 その方が俺にも守り甲斐があると、今度こそ守ってやるからと。
「いいな、俺はお前が居てくれるだけで充分なんだ」
 不器用だろうが、愛情入りのお茶が淹れられないレベルのサイオンだろうが、俺は気にせん。
 俺の嫁さんになってくれるんだろう?
 今度のお前は、俺の嫁さんに。
「そうだけど…。だけど、愛情不足だよ?」
 愛情入りのお茶が淹れられなくても、ハーレイ、残念だと思わない?
 前のぼくの方が愛情たっぷりで良かったのに、って心で溜息ついたりはしない…?
「まったく、もう…。お前、なんだって愛情入りのお茶にこだわるんだか…」
 思い出したんなら、こだわりたい気持ちも分からないではないんだがな。
 しかしだ、今じゃ出来ないことをだ、振り返って嘆いてみたって何にもならんだろうが。
 前のお前と今のお前は繋がっちゃいるが、出来ないことまでやれとは言わん。
 それで愛情が不足してるとも、足りないとも俺は言わないぞ。
「…本当に?」
 あのお茶が飲みたい、って思ったりしない?
 前のぼくなら淹れられたのに、ってポットを眺めてガッカリしない…?



 愛情入りのお茶を淹れられないことは本当だから。
 これから先だって、きっと進歩はしそうにないから、何度も念を押してたら。
 大丈夫なのかと、それでいいのかと訊き続けてたら、「大丈夫さ」と髪を撫でられた。大好きな褐色の手でクシャリと髪を。そして笑っている鳶色の瞳。
「そんなに心配しなくってもなあ…?」
 心配無用だ、愛情入りのお茶なら俺が淹れてやるから。
 紅茶だろうが、緑茶だろうが、今度は俺が淹れる番だな、愛情入りで。
「愛情入りって…。ハーレイ、出来るの!?」
 今度のハーレイは愛情入りのお茶を淹れられるの?
 一瞬でお湯を沸かせるっていうの、ハーレイはタイプ・グリーンなのに…?
「落ち着け、愛情入りって言葉の本当の意味を覚えているか?」
 シャングリラにタイプ・ブルーは何人いたんだ、あれが流行っていた頃に?
 お前の他には誰一人としていはしなかったろうが、なのにどうして愛情入りって言葉を前の俺が知っていたんだっけな?
「…え? えーっと…。確か、手料理…」
 愛情をこめて作りました、っていう意味だった…んだよね、元々は…。
「そうさ、そいつが本来の意味だ」
 前のお前の愛情入りってヤツが少々ズレてしまっていたんだ、言葉自体の持つ意味からな。
 でもって、シャングリラで流行っていた方の愛情入りなら、俺でも出来る。
 お前のためにと愛情をこめてお茶を淹れれば、立派に愛情入りだってな。
「それだったら、ぼくにも淹れられそう…!」
 愛情入りのお茶は、今度のぼくでも淹れられるよ。
 ハーレイのために淹れるんだ、って心をこめてお茶を淹れたら愛情入りになるんだね。
 サイオンで一瞬でお湯を沸かさなくても、愛情入り。
 そっちの方のお茶で頑張ってみるよ、うんと美味しく淹れられるように…!



 今度のぼくでも、ちゃんと淹れられそうなお茶。
 前のぼくが淹れてた愛情入りのお茶は無理だけれども、本当の意味での愛情入り。
 ハーレイのために、って心をこめて淹れるお茶。
 サイオンじゃなくてケトルでお湯を沸かして、一瞬じゃなくて時間をかけて。
 ハーレイを少し待たせちゃうけど、前のぼくみたいに「はい」って直ぐには出せないけれど。
(…だけど、愛情入りだしね?)
 愛をこめてきちんと淹れてる分だけ、時間だってかかる。
 前のぼくと違って不器用な分だけ、お湯が沸くまでの分だけ、時間がかかる愛情入りのお茶。
 ハーレイに「美味いな」って言って欲しいから。
 「今度のお前の愛情入りのお茶も実に美味いな」って、顔を綻ばせて欲しいから。
 お茶の淹れ方、ママに頼んで習っておこう。
 今は適当に淹れているけど、まずは紅茶の淹れ方から。
 なんだったっけか、ポットの分にもお茶の葉をスプーンに一杯分?
 それからポットにお湯を注ぐ時には、葉っぱが中で動き回れるように充分、勢いをつけて。
 他にも色々、何かあるかもしれないから。
 ママが変だと思わない程度に少しずつ。
 習って、覚えて、うんと美味しい紅茶の淹れ方、マスターしなきゃ。
 不器用なぼくでも気にしない、って言ってくれてるハーレイのために。
 「愛情入りのお茶なら俺が淹れるさ」って、約束してくれたハーレイのために。
 ぼくからも愛情入りのお茶。
 お湯をケトルでしっかり沸かして、愛情入りのお茶をハーレイのカップに注ぐんだ。
 心をこめて淹れたお茶。
 ハーレイのことが大好きだよ、って愛情をこめて、丁寧に淹れたお茶をカップにたっぷりと…。




           愛情のお茶・了

※前のブルーなら、一瞬で沸かせたケトルのお湯。それで淹れていた愛情入りの紅茶。
 今度は淹れられないことに気付いたブルーですけれど…。心をこめればいいんですよね。
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(ふうむ…)
 無いのか、とハーレイは棚を覗き込んだ。
 仕事帰りに寄った、いつもの食料品店。備え付けの籠にあれこれ入れたけれども、足りない品。
 買おうと思った品が見当たらない。端から端まで眺め回しても、何処にも無い。
 四つ葉のクローバーのマークの牛乳。幸せの四つ葉のクローバーがシンボルマークのメーカー。
 その牛乳が一つも無かった。瓶入りはおろか、パック入りまで売り切れたらしい。
 他には色々と並んでいるのに。バラエティー豊かに揃っているのに。



(特にこだわりはしないんだが…)
 美味しい牛乳には違いないけれど。巷での評判も高いけれども、特別高価でもない牛乳。
 値段は他のとさほど変わらないし、高級な牛乳とはまた違う。牧草にまでこだわって育てた牛のミルクというわけでもない、ごくごく平凡なミルクの一種。
 他のメーカーの牛乳も、以前だったら買ったのだけれど。
 どれを買おうと特には決めずに、目に付いたものを買っていたけれど。
 今では少し事情が違った。四つ葉のクローバーのマークを買わねば、と探してしまう。味わいに惹かれたわけではないから、こだわりと言っていいのかどうか。
 それでも、いつも棚から取るのは四つ葉のクローバーのマークの牛乳。
 これにしようと、これを買って家に帰るのだと。



(あいつが飲んでるヤツだからなあ…)
 小さなブルーが飲んでいるミルク。背丈を伸ばそうと祈りをこめて、毎日、せっせと。
 最初の間は笑って聞いていただけだった。「まあ、頑張れ」と。
 何処のミルクかは気にもしなかったし、訊こうとも思わなかったのだけれど。
 ひょんなことからメーカーを知った。
 四つ葉のクローバーのマークなのだと、幸せの四つ葉のクローバーだ、と。
 小さなブルーが庭のクローバーの茂みで見付けた四つ葉。それは嬉しそうに話したものだ。庭にあったと、ハーレイの家にもきっとあるよ、と。
 それを聞いて帰って、翌朝、一番に探してみた。まだ朝露が光っている庭で。
 そうして見付けた幸せの四つ葉のクローバー。幸運の印。自分の家の庭にもあった。前の生では何度探しても、決して見付からなかったのに。
 自分もブルーも、白いシャングリラの公園で何度探したことか。
 けれども四つ葉のクローバーは無くて、何故だか自分たちが探した後の場所で子供たちが探すと見付かっていた。どうしたわけだか、どう頑張っても出会えなかった四つ葉。
 クローバーは予言をしたのかもしれない。前の自分たちの悲しい別れのことを。
 運命に引き裂かれてしまう恋だと、最後まで共にいられはしないと。



 ところが、今度は簡単に見付かった幸せの四つ葉のクローバー。
 ブルーの家の庭にも、自分の家の庭にも、幸せの四つ葉。
 それを探そうとブルーが思い立った切っ掛けが、ミルクの瓶に描かれたマークだったらしい。
 今度は見付けられるかも、と庭に向かったと顔を輝かせていた小さなブルー。
 「ハーレイもきっと見付けられるよ」と言われた通りに、四つ葉のクローバーが見付かった。
 前の自分たちは一度も出会えなかった四つ葉が、幸運の印のクローバーの葉が。
 あれ以来、買うなら四つ葉のマークがついた牛乳。小さなブルーも飲んでいるミルク。
 たまに今日のように買い逃すけれど。
 牛乳が並んだ棚に行っても、売り切れてしまっているけれど。



(…こっちでいいか)
 売れてしまったものは仕方ないから、見覚えのあるものを手に取り、籠へと入れた。
 かつては何度も買ったメーカー。瓶入りも、パック入りもよく買っていた。濃厚な味わいも気に入っていたし、四つ葉のクローバーの牛乳に引けを取らないものだと分かってはいる。
 けれども損をしたような気分。
 幸運を一つ逃したような。四つ葉のクローバーが運ぶ幸運を、一つ落としてしまったような。
(…本物の四つ葉じゃないんだがなあ…)
 そいつは家にある筈なんだが、とレジに向かった。
 本物の四つ葉のクローバーなら自分の家の庭にあるから、牛乳くらい、と。
 たまにはこういう日だってあるさと、大したことではないのだから、と。



 ミルクとして飲む他に、料理などにも使ったから。
 牛乳は早めに減って行ったし、また買わねばと二日後に店に入ってみれば。
(また無いのか…)
 棚に四つ葉のクローバーは無かった。他のメーカーのものは並んでいるのに、四つ葉だけが。
 金曜日の夜に寄ったというのに。
 明日は週末、ブルーの家で過ごす土曜日が待っているのに、無い四つ葉。幸せの四つ葉。
 またしても幸運を逃した気がした。四つ葉のクローバーの幸運を。
(仕方ないがな…)
 売り切れたものは戻って来ないし、牛乳は買わねばならないし。
 諦めて他のメーカーのものを籠に入れると、早めに飲んでしまおうと決めた。
 今日、買って帰るこの牛乳が空になったら、今度は四つ葉。次こそ四つ葉のマークを買おうと、早く飲もうと決心した。



 週末の土曜と日曜日はブルーの家で過ごしていたから、自分の家では朝食だけ。
 それで飲み切れる量の牛乳を買って、朝食用に焼くオムレツにも入れてみたりして。
 四つ葉のマークの無い牛乳はちゃんと減ったから、月曜日の夜に食料品店に出掛けたけれど。
(…またなのか?)
 いったい誰があれを買いに来るというのだろう?
 選んで買って行かれたかのように無い、四つ葉のマーク。瓶入りも、それにパック入りも。
 こうも続くと気になってくるから、店員に訊くことにした。ちょうど補充をしに係が来たから、その男性を捕まえて。
「すみません。四つ葉のマークの牛乳ですが…」
 最近、いつ来ても売り切れなんですが、入荷する量が減りましたか?
「いえ、同じですが」
 たまたまでしょう、と答えが返った。
 今日も朝から入荷しましたと、さっきまでは棚にありましたよ、と。
(…たまたまでもなあ…?)
 三度続けて出会えなかった四つ葉のクローバー。
 本物のクローバーの葉とは違って、瓶やパックに描かれたシンボルマークに過ぎないけれど。
 乳製品の棚を覗けば、同じマークのバターなどが並んでいるのだけれど…。



 これだけ続けば、運が悪いという気がして来た。
 幸運を三度も、三つも逃してしまったのでは、と。たかが牛乳、けれども四つ葉。
 前の生では見付けられなかった幸せの四つ葉のクローバー。
 気にかかったまま、次の日、仕事が早く終わって、ブルーの家に寄れたから。
 小さなブルーと向かい合ったら、牛乳のことを思い出したから、問い掛けてみた。
「お前、ミルクは飲んでるか?」
 頑張って毎朝飲むと聞いたが、今朝も飲んだか?
「うん!」
 帰ってからホットミルクも飲んだよ、ハーレイに教わったシロエ風。
 ママがマヌカをたっぷり入れてくれたよ、薬っぽくなくて美味しいマヌカを。
「そうか、お前は飲んだんだな…」
 フウ、と思わず漏れた溜息。ブルーが気付かない筈がなくて。
「ハーレイ、どうかした?」
「いや…」
 そう答えたものの、心配そうな顔をしているブルー。何かあったかと、赤い瞳が揺れるから。
 大したことではないんだが、と例の事件を打ち明けた。
 四つ葉のマークが見付からないのだと、もう三回も続いていると。



「見付からないって…。売れちゃったの?」
 ハーレイよりも先に誰かが買っちゃった?
「そうらしい。…入荷量は変わっていません、と言われたんだが…」
 俺の運が悪いか、でなけりゃ誰かが気に入って沢山買うようになったか。
 そうだとしたら、いずれ入荷量を増やしてくれるかもしれないが…。一時的なものだってこともあるから、増やしてくれるとしてもいつのことやら…。
 俺は当分、あれに出会えないかもしれないなあ…。
「それなら、家に直接、届けて貰えば?」
 ぼくの家みたいに、とブルーが言った。
 四つ葉のクローバーのミルクは配達の人が朝に運んで来てくれてるから、と。一日おきに家まで届いて、その時に空になった瓶も持って帰ってくれるんだよ、と。
「配達なあ…。俺も知ってはいるんだが…」
 そいつじゃ俺には多すぎるんだ。一日おきの配達でもな。
「そうなの?」
 ぼくの家だと足りなくなっちゃって、ママが買いに行ってることもあるけど…。
 お菓子には沢山使うものね。お料理にだって。
「生憎と、俺は一人暮らしだしな」
 お前の家みたいに毎日のように菓子を作りはしないしなあ…。料理だって一人分だけだ。
 俺が飲む量にしたって、そうそう多くはないからな。
「そっか…」
 ハーレイ、配達、無理なんだ…。あれなら間違いなく届くんだけどな、四つ葉のマークが。
 だけど、無理なら仕方がないね…。



 でも…、と悲しそうに俯くブルー。
 ハーレイとお揃いじゃなくなったんだ、と桜色の唇から零れた言葉。
「はあ?」
 お揃いってなんだ、何がお前とお揃いじゃないんだ?
「ミルク、お揃い…」
 ハーレイが四つ葉のマークのを買ってくれていたら、お揃いのミルクが飲めるのに。
 この間までお揃いで飲めていたのに、ミルク、お揃いじゃなくなっちゃった…。
「ミルクがお揃いって…。お前の頭ではそうなるのか?」
 持ち物がお揃いだったら分かるが、なんでミルクでお揃いなんだ。
 飲んじまったらそれでおしまいだぞ、手元には瓶かパックだけしか残らないんだが?
 その瓶とかだって返しに行くしな、次のミルクを入れるために回収してるだろうが。
「でも、ハーレイだってそうなんでしょ?」
 お揃いとは思ってなさそうだけれど、ぼくが飲んでるから四つ葉のマーク。
 前は違うのを買っていたなら、お揃いのつもりで買っているんだと思うんだけどな…。
「そう……かもしれんな」
 俺に自覚は全く無かったが、お前に合わせて買っているなら、そうなるのか?
「そうだよ、お揃いのミルクなんだよ」
 四つ葉のマークのミルクだったら、ぼくとお揃い。ぼくが毎朝、飲んでるミルク。



 早く買えるといいね、と言われた。
 ハーレイとお揃いのミルクがいいから早く買ってね、と。
(…言われなくてもな?)
 今度こそは見付けて買ってやる、と次に出掛けた食料品店。
 他の買い物は後回しにして、真っ先にミルクの棚に向かえば、最後の一本に出くわした。幸せの四つ葉のクローバーのマーク。ブルーの家に届くミルクとお揃いの瓶。
(うん、こいつだ!)
 やっと見付けた、と幸運を籠に突っ込んだ。
 他の誰かに取られてなるかと、この幸運は俺のものなのだから、と。
 それから肉や野菜などを選んで、弾んだ心で颯爽とレジへ。牛乳の瓶が籠から出されて、買った品物を入れるための袋に移される時も心が躍った。
 今日は四つ葉を見付けられたと。幸運の印を持って帰れると。
 何より、ブルーとお揃いのミルク。
 幸せを運んでくれそうに見えて来た。とびきりの幸せをこいつが運んでくれそうだ、と。



 その週末。土曜日にブルーの家に出掛けてゆくと、真っ先に訊かれた。「牛乳、買えた?」と。
「ハーレイ、四つ葉のクローバーの牛乳、買えたの?」
「お蔭様でな」
 なんとか買えたぞ、お前とお揃いのミルクをな。
 最後の一本だったが買えた、と報告したら。
「そうなんだ…。じゃあ、配達にすればいいのに」
 四つ葉のクローバーに決めてるんなら、それが一番確実だよ。
「だから俺には多すぎるんだと言っただろう」
 一人暮らしで牛乳を頼んでも、どうにもならん。ドカンと使った時なら別だが…。
 余っちまうだけだ、そいつをどうして使ったもんかと悩む羽目になるのが見えてるからな。
「ううん、コースがあるんだって」
 一人暮らしの人用の、とブルーは得意げに説明し始めた。
 三日に一本、大きな瓶入りの牛乳が届く。ブルーの家に二日毎に届くのと同じものが。
 一人暮らしにはピッタリの量だけれども、それでも余ったりはする。そうした時には配達を一回休めるコース。逆に、多めに欲しい時には増やして貰うことも出来るらしい。
 牛乳が届く専用の箱にメモを入れるだけで。
 一回休みでとか、次は多めにとか。



 ブルーがスラスラと淀みなく話すものだから。
 まるで自分が牛乳配達の仕事をしているかのように、仕組みを教えてくれるものだから。
「お前、やたらと詳しいな」
 この間は「無理だね」って頷いてたくせに、何処で調べて来たんだ、そんなの。
「ママに話をしたんだよ。ハーレイが牛乳、買えないみたい、って」
「おい…。お揃いと言ってはいないだろうな?」
 俺がお前とお揃いの牛乳を飲みたがってる、とお母さんに喋っちゃいないだろうな、お前?
「そんな失敗、ぼくはしないよ。絶対、しない」
 ハーレイと恋人同士だってことがママにバレたら、大変なことになっちゃうもの。
 お揃いだなんて言いやしないよ、それがホントのことでもね。
 四つ葉の牛乳が気に入ったみたいと言っておいたよ、と微笑むブルー。
 そうしたら母が訊いてくれたと、配達をする店に尋ねてくれたのだと。



「ハーレイ、配達、頼んでみる?」
 一人でもこれなら余らないでしょ、沢山欲しい時だって頼めば増やして貰えるし…。
 牛乳を沢山使ってお料理したい、って思った時にも大丈夫だよ。先に予定が決まっていれば。
 その日に急に思い付いたら、買いに行くしかないけれど…。それはママだって同じだもの。
「そうだなあ…」
 確実に買えるって言うんだったら、そいつがいいかもしれないな。
 今までは普通に店で買えていたから、たまに品切れでも何とも思わなかったんだが…。
 あれだけ続けて手に入らないと、どうもツイてない気がしてな。
 俺は幸運を一つ逃したんじゃないかと、知らずに逃げられたんじゃないかと思っちまうんだ。
 この際、頼んでみるとするかな、アレの配達。
「ホント!? 配達、頼むことにするの?」
「ああ。俺もお揃いにしたい気持ちになって来たしな」
 お前が言った通りに、俺もお揃いだと何処かで思っていたんだろう。
 お前が飲んでいるのと同じミルクだと、これを買おうと四つ葉のマークを探してた、ってな。
「じゃあ、ハーレイの分、頼んであげる」
「頼む?」
 どういう意味なんだ、頼むってのは?
「ハーレイ、配達のお店、知らないでしょ?」
 調べれば分かるとは思うけど…。
 ママがね、ハーレイが頼むんだったら、コースを選べる申込書を貰ってくれるって。
 直ぐに送って来てくれるから、書き込んでぼくの家から送っていい、って。



 ぼくの家の通信機を使ってよ、と期待に満ちたブルーの瞳。
 ハーレイがお揃いの牛乳の配達を頼むんだったら、ぼくの家から申し込んで、と。
「そしたら申し込みまでお揃いになるよ、ぼくの家のと」
 同じ通信番号を使って申し込むんだもの、配達の始まりからもうお揃いだよ?
「おいおい…。お前の家の通信機を使うのはいいんだが…」
 その申込書を送るのは俺で、書き込む通信番号も住所も俺のなんだが?
 店にしてみれば、何処から送られた通信だろうが、気にしていないと思うがな…?
「ぼくがこだわりたいんだよ!」
 ハーレイの家に四つ葉の牛乳を届けて貰うための申込書だよ、ぼくの家から送りたいよ!
 ぼくの家から送りたいから、ハーレイの分を頼ませてよ!
「うーむ…。お前がそこまで言うならなあ…」
 どうせ頼もうかと思ってるんだし、そいつも悪くはないかもな。
「ぼくの家から頼んでくれる?」
「うむ。お前、最初からそのつもりだろ?」
 俺に配達の話を持ち出した時から、頼もうと思っていたんだろうが。
 実際に通信機で送ってくれるのは、お前のお母さんってことになるんだろうがな。
「やった!」
 申し込みからお揃いに出来るよ、四つ葉の牛乳。
 ママに申込書を頼まなくっちゃ!



 飛び跳ねんばかりに喜んだブルー。
 「ママー!」と階下へ駆けて行ったブルー。
 ハーレイが「参ったな…」と苦笑している間に、ブルーは一枚の紙を手にして戻って来た。
 四つ葉のクローバーのマークが描かれた牛乳配達の申込書を。
「えーっとね…。ここにコースが書いてあるから…」
 届けて貰う日と、何本届けて貰うのか、と。ママが言ってた一人暮らし用は…。
「これだな、このコースをこっちに書けばいいんだな」
 ふむ、とハーレイは申込書を読んでみた。配達用のコースは色々、どうせならブルーの家に届く日と重なっている曜日のコースがいい。
 そう考えて「お前の家には何曜日と何曜日に届くんだ?」と訊くと、ブルーは「えっとね…」と指を折ってから。
「ハーレイ、それも合わせてくれるの?」
「そいつも揃えたいだろう? 三日に一度と二日に一度じゃ、そうそう上手くは重ならんが…」
 この日はお前の家にも届いたんだな、って思える日に受け取りたいじゃないか。
 同じ配達を頼むんならな。
「だったら、これだよ、こっちのコース!」
 これ、とブルーが申込書を指差した。自分の家に届くコースがこっちなのだから、曜日が重なるコースはこれだ、と。
「なるほどな。…それじゃ申込書を書くとするか」
 お前のペンを借りるとするかな、そうすりゃペンまでお揃いだしな?
「やだ! ハーレイ、ペンは持ってるでしょ!」
 お休みの日でも、いつものあのペン。手帳と一緒に持ってるってこと、知ってるもの!
 あれで書いてよ、あれで書いた字を通信機で送りたいんだよ…!



 小さなブルーは頑として譲ろうとしないから。
 「そこはお揃いでなくていいのか?」とクックッと笑いながら愛用のペンを取り出した。
 ずっと昔に気に入って買った、瑠璃色のペン。人工のラピスラズリで出来たペン。一目惚れして買った時には夜空のようだと思っていた。散らばった金色の粒が星のようだと。
 その星空の中に星座は無いのか、と小さなブルーに尋ねられたのはいつだったか。地球の星座が無いということは知っていたのだが、ブルーに問われて見詰め直したら。
 ペンの中の夜空に星座があった。小さなブルーも、前のブルーも知らない星座が。
 今の自分も見たことは無くて、今の時代にはもう無い星座が。
 星が動いたという意味ではない。その星座が見えた星が消えてしまった。跡形もなく砕け散ってしまったナスカの星座。赤いナスカで仰いだ星座。
 それは種まきの季節に昇った七つの星だった。前の自分が見上げていた。赤いナスカで何度も、何度も。あの星の地上で、その季節に夜を迎える度に。



 ナスカの星座が鏤められたペンは、小さなブルーもお気に入りで。
 ハーレイ自身も「この星座が自分を呼んだのか」と、今となっては感じているペン。同じペンが何本もあった中からこれを選んだ。これが手に馴染むと、一番いいと。
 そうして小さなブルーと出会って、「星座は無いの?」と無邪気に訊かれて。
 地球の星座の他にも星座はあるからと、アルテメシアやノアの星座も、と言われるままに調べてナスカの星座を見付け出した。あの星座だと。
 前の自分がそれを仰いだ頃、前のブルーは深く眠っていたのだけれど。
 一度もナスカに降りることなく、前のブルーはメギドに飛んでしまったのだけれど…。
 赤いナスカも砕けてしまって、あの星座はもう見られない。
 種まきの季節を迎える星が無いから、昇るための空を持たないから。



 今はもう無い、七つの星を結んだ星座。それが隠されたペンで申込書を書き込んだ。
 まずは希望の配達コースを、それから住所と自分の名前に通信番号。
(…ナスカに居た頃には、こんな日が来るなんて夢にも思わなかったよなあ…)
 青い地球に住んで、地球で育った牛のミルクが自分の家に届く生活。
 それを申し込むための紙をブルーの家で書いている。ブルーの部屋のテーブルで。
 ナスカであの星座を仰いだ時には、長い眠りに就いてしまっていたソルジャー・ブルー。まるで魂が失われたかのように思えて、その魂を探していた。
(虹のたもとを追い掛けてな…)
 七色に輝く虹の橋のたもとには宝物が埋まっていると言うから。そこに辿り着けばブルーの魂が埋まっているかと、雨上がりの虹を追って歩いた。赤い星の上を。
(…前の俺は見付けられなかったが…)
 やっと目覚めてくれたブルーも、メギドへと飛んでしまって失くした。失くしてしまった。
 けれども、ブルーは小さくなって帰って来てくれて。
 自分と一緒に青い地球の上に生まれて来てくれて、今はワクワクと眺めている。牛乳配達を頼むためにと申込書に書き込む自分を。
 ナスカの星座が隠れているペンで、住所や名前を書く自分を。



「…よし、こんなトコだな」
 書けたぞ、とブルーに見せると、「ママに渡して来る!」と部屋を飛び出して行った。申込書をしっかり掴んで、階下の母に送って貰うために。
 階段を駆け下りて行った足音が消えて、お茶を飲みながら待っていると。
「送って来たよ! これはハーレイが持って帰ってね!」
 はい、と申込書を渡された。これが控えになるから、と。
「すまんな、お母さんに世話をかけちまって…」
「ううん、ママがね、お役に立てて嬉しいです、って!」
 これでハーレイ、いつでも飲めるよ、四つ葉のクローバーのマークの牛乳。
 週明けからホントのホントにお揃いで配達になるんだから!
「そうなるなあ…。ちゃんと曜日も合わせたしな?」
「重ならない曜日もあるけどね」
 だけど覚えたよ、週の最初の配達日はハーレイの家とおんなじなんだよ。
 ぼくの家に牛乳の瓶が届いたら、ハーレイの家にも届くんだよ。
 牛乳もお揃い、配達もお揃い。それにハーレイ、ぼくの家から申し込んでくれたし…。
 すごく楽しみ、あの牛乳が届くのが。
「そりゃ良かったな。頑張って牛乳、飲むんだぞ?」
 背を伸ばすんだろ、しっかりと飲んで。その割にサッパリ伸びないけどな。
「これでも頑張ってるんだよ!」
 毎朝、ミルクは飲んでるし…。シロエ風のホットミルクも飲むし!
 きっとその内にグングン伸びるよ、ハーレイとお揃いのミルクを飲めば…!



 ハーレイはとても背が高いもの、と称賛の眼差しで見詰められた。
 そのハーレイとお揃いのミルクを飲んでいたなら背丈も伸びるに違いない、と。
「お前なあ…。俺はお前が四つ葉のクローバーの牛乳だっていうのを聞いて以来、だ」
 ずっとそいつを買ってたわけだが、お前の背丈は伸びてないだろうが。
 お揃いの牛乳だった筈だぞ、もう長いことな。
「それはね、ぼくが気付いてなかったからだよ、きっと」
 お揃いだって分かったんだし、これからはお揃いで届くんだし…。きっと伸びるよ、ハーレイとお揃いのミルクだから。
「そいつに関しては、俺は責任、持たないからな?」
 お前の家から申し込んでは貰ったが…。お前の背丈が伸びるかどうかは責任は持てん。
 まあ、あれだ。お前の努力次第ってヤツだな、背の方はな。
「頑張らない筈がないじゃない!」
 お揃いのミルクが飲めるんだから。うんと頑張って背を伸ばすんだよ、出来るだけ早く。
 でないとハーレイとキスが出来ないし、ぼくだってとても困るんだから…!



 きっと背丈を伸ばしてみせる、とブルーは宣言していたけれど。
 そうそう上手くいかないだろう、と夕食を御馳走になっての帰り道でハーレイはクスリと笑う。
 牛乳で簡単に伸びるのであれば、とっくに伸びていそうだから。前のブルーと同じ背丈とまではいかないとしても、何センチかは確実に。
(ゆっくり大きくなるんだぞ、って言ってあるしな…)
 前のブルーと同じ姿を早く見たいとは思うけれども、その一方で、今のブルーも愛おしかった。
 小さなブルー。愛くるしいブルー。
 幸せそうな笑顔を眺めていたい、と思ってしまう。ゆっくり、ゆっくり育って欲しいと。
 牛乳配達がお揃いになると、お揃いのミルクが飲めるようになると手放しで喜んでいたブルー。
 申し込むなら自分の家の通信機からと、そうすれば申し込みまでお揃いになるから、と強請ったブルー。小さなブルー。
 申込書は持って帰ってしまうのに。通信機の中を通過して行っただけなのに。
(ああいう所も可愛らしいんだ…)
 ブルーのペンを借りて書いたのならば、そのペンを宝物にして仕舞い込みそうなくせに、それは嫌だと、いつものペンで、と主張したのも愛らしくて。
(…あいつの中では何処までがお揃いで、どの辺までが俺専用ってことになるんだろうな?)
 まるで予想がつかない所が子供らしくて、可愛くて。
 そんなブルーを見ていたいと思う。十四歳の小さなブルーを、その愛らしい発想を。



(…うん、確かに来たな、四つ葉の幸せ)
 最後の一本だった四つ葉のクローバーの牛乳の瓶がくれた幸せ。
 とびきりの幸せが来たと思える。
 ブルーの家で牛乳配達の申込書を貰って、書いて。その場で送って貰うことが出来た。
 もうこれからは「品切れなのか…」とガッカリすることも無いだろう。幸運を一つ逃した気分になることも。
 お揃いの牛乳が届くのだから。ブルーの家に届く牛乳と同じものが、いつも。
 一人暮らし用のコースだけれども、四つ葉のクローバーのマークが描かれた牛乳の瓶が。



 日曜日もブルーの家に出掛けて、過ごして。
 週明けの朝、庭に出てみると家の前に配達用のケースが置かれていた。
 四つ葉のクローバーのマークのケース。蓋を開けてみれば、四つ葉のクローバーの牛乳の瓶。
 よく冷えたそれを取り出しながら、ふと思い出した。
(そういや、あいつの家の前にも…)
 あったのだった、同じ箱が。ブルーの家の前に、この箱が。
 それだけで心が温かくなった。
 ブルーに一歩近付けたような気持ちがした。
 今はまだチビで小さなブルーで、愛くるしい子供の姿だけれど。
(あいつと結婚した後も…)
 前のブルーと同じに育ったブルーがこの家にやって来た後も、この箱が活躍するのだろう。
 配達して貰う量や回数を今より増やして、二人分で。
 毎朝のミルクに、日々の料理に。
 前の生では見付けられなかった四つ葉のクローバーのマークの牛乳。
 そうして二人、幸せに笑い合って生きてゆく。この地球の上で、手をしっかりと繋ぎ合って…。




          幸せの牛乳・了

※ハーレイが買い損ねてしまった牛乳。三度も続くと、やはり気になってしまうもの。
 それが御縁で、ブルーの家と同じ牛乳の配達が来ることに。幸運の四つ葉のマークの牛乳。
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「ブルー、予約をしておいたわよ?」
「えっ?」
 母の言葉にキョトンとしてしまったブルーだけれど。
 学校から帰ったばかりなのだけれど、母はブルーにこう告げた。
「髪の毛、伸びているでしょう? そろそろ切りに行かなくちゃね」
 美容室に予約を入れてあるという。ブルーの都合もあるだろうから、時間に少し幅を持たせて。
 母は笑顔で畳み掛けるように。
「おやつにするの? それとも先にカットに行ってくる?」
 どっちでもいいのよ。予約してあるから、行ったら直ぐに切ってくれるわ。
「そんな…」
 今日なの、とブルーは驚いたけれど。いきなり宣言されても困るのだけれど。
 予約されたものは仕方ないから、ダイニングに暫し突っ立った後で。本当だったら、テーブルでおやつの筈だったのに、と恨めしそうに何の用意も出来ていない其処を眺めた後で。
「先に行く!」
「やっぱりね…」
 行ってらっしゃい、と送り出された。カットの代金が入った財布を持たされて。
 おやつも食べていないのに。制服から着替えたというだけなのに。



(でも、おやつを先に食べてしまったら…)
 カットに行くのが遅くなる。帰って来る時間も当然、おやつを食べていた分だけ遅れる。
(ぼくがカットに行ってる間に、もしもハーレイが来ちゃったら…)
 仕事帰りに寄ってくれたら、留守にしていたら大変だから。
 ハーレイが母とお茶を飲みながら待っていてくれるとは限らない。留守だと聞いたら、さっさと帰ってジムへ泳ぎに行くかもしれない。
 そうなってからでは手遅れなのだし、おやつよりも、カット。
 カットも時間がかかるけれども、ハーレイが来るよりも先に終わってくれる筈だから。
(早く行ったら、早く終わるよ…!)
 急がなくちゃ、と財布を入れたポケットをポンと押さえて早足で急いだ。住宅街の中を、歩いて数分の美容室へと。
 母も行っている美容室。お洒落なガラス張りになった店。美容師も多くて、いつ行っても先客が何人かいる。カットしている間にも客が次々と入って来るのが当たり前の店。



(うー…)
 来ちゃった、とブルーは店の手前で立ち止まって中を窺ってみた。順番待ち用の椅子に腰掛けた人が数人、つまりは客が多いということ。
 予約してあるから、其処に座れば間もなく呼んで貰えるのだとは分かっていても…。
(今日もいっぱい…)
 誰もいなければ良かったのに、と思い切って店に入ってゆけば。
「いらっしゃいませー!」
 美容師たちが一斉に振り向いた。おまけに椅子に座った客たちも。
 そしてそのままブルーを見ている、美容師ならぬ他の客たち。あからさまにではなく、前の鏡に映ったブルーを見詰めていたり、雑誌に目を落としながらチラチラと見たり。
(…今日もだよ…)
 この雰囲気が苦手なのだけれど。
 美容師たちの間に流れる弾んだ空気も困るのだけれど。
 手が空いているのは誰だろうか、と目と目で牽制し合っている気配。ブルーは係を指名したりはしないものだから、誰でもカットもシャンプーも出来る。手が空いていれば。



 バチバチと見えない火花が飛び散った後で、一人の女性が前に出て来た。
 ブルーも顔馴染みの若い女性だけれど、物心ついた頃から全く姿が変わっていない。年を止めてしまっているということで、他の美容師たちも似たようなもの。若いけれども、年齢は不明。
「今日はいつもの?」
 にこやかに尋ねられたから。
「うん…。ううん、はいっ!」
 子供だと思われないように、と「はい」と言い直した途端に「可愛い!」と上がった声。仕事をしている美容師たちや、他の客たちの間から。
(…また言われちゃった…)
 これが嫌なのに。
 ウッカリ声を上げようものなら、たちまち店中の注目の的。カットの最中の客と美容師との間で始まるブルーの話題。可愛らしいとか、まるでソルジャー・ブルーだとか。



(…酷いんだから…!)
 小さな頃から苦手だったけれど、記憶が戻ったら余計に苦手になった。
 自分は自分で、人気俳優とは違うのに。どんなに騒いで貰ったとしても、いいことなどは何一つ無いのに。カット代がタダになるというわけでもないし…。
(好きでやってる顔なんじゃないよ…!)
 ハーレイのためなら、この顔が必要なのだけれど。
 前の生からの恋人と向き合うためには必要な顔で、これでなければいけないけれど。
(…ぼく、見世物じゃないんだってば…)
 そうは思っても、口に出すだけの度胸は無かった。小さい頃から、ずっとそう。
 だから未だに美容師たちに可愛がられて、ブルーの係は奪い合い。
 勝ち抜いたスタッフにシャンプーして貰って、さっきの美容師が待つ鏡の前の椅子に座って。
 あれこれと話し掛けられる間にもテキパキと仕上がってゆく、いつものソルジャー・ブルー風。
 要するに前と変わっていないのだけれど。
 鏡に映る自分を見たって、何処がどう変わったのか、サッパリ分からないのだけれど。
 それでも床には、着せられた理髪マントの上には切られた銀糸が落ちているから。
 プロの目で見れば、それに「カットに行きなさい」と言った母もきっと見分けがつくのだろう。前と変わったと、これでスッキリしたのだと。



 家では使わない艶出し用のヘアスプレーを吹き付けられて、ブラッシングされて、カット終了。
 鏡の前の椅子から解放されて代金を支払い、ドアに向かうと美容師たちの声。
「ありがとうございましたー!」
 カットしてくれた美容師が表まで見送りに来てくれたけれど。
(やっぱり嫌だ…)
 出てゆく時まで注目される。待っている人や、カット中の人の視線が追ってくる。それに声も。
 小さなソルジャー・ブルーが出来たと、可愛らしいと、賑やかな声。
 本当に恨めしい気分だけれども、時間がけっこう経ったから。カットした分だけ、過ぎたから。
(ハーレイが来ちゃう…!)
 美容室にかまっていられるものか、と急いで家へと歩き始めた。
 ハーレイが来てくれるとは限らなくても、チャンスを逃したくはないから。
 出掛けているなら、と帰られてしまってはたまらないから…。



 家に帰り着いて、手を洗ってきちんとウガイもして。
 キッチンを覗くと、「ママ、おやつ!」と叫んだけれど、振り返った母は時計を指差して。
「ハーレイ先生は?」
 いらっしゃるとしたら、もうすぐよ。おやつ、食べるの?
「…そっか…」
 駄目だよね、と素直に納得した。
 もしもハーレイが来てくれたならば、必ず出されるお茶とお菓子と。
 こんな時間におやつを食べてしまえば、ブルーの分はお茶だけになってしまうだろう。その後の夕食に差し支えないように、紅茶だけ。
 それでは寂しい。ハーレイと一緒にお菓子を食べたい。
 おやつを食べるのは諦めよう、と部屋に戻ろうとしたら、「このくらいはね」と母はシロエ風のホットミルクを作ってくれた。マヌカの蜂蜜で甘みをつけて、シナモンを振って。



 それだけを飲んで、「御馳走様」と母にカップを返して。
 二階の自分の部屋に戻ると、おやつが足りないと訴えるお腹を抱えて待った。
(ハーレイ来るかな?)
 来てくれるかな、と首を長くしていれば、チャイムの音。この時間ならば、と窓に駆け寄ると、手を振るハーレイ。
(良かった、先にカットに行って…!)
 おやつを食べてから出掛けていたなら、まだ戻ってはいなかったろう。ホットミルクだけ飲んで部屋に戻って、さほど時間は経っていないから。
 自分の選択は正しかった、とハーレイに大きく手を振り返した。待っていたよと、早く部屋まで上がって来てねと。



 仕事帰りに寄ってくれたハーレイと、テーブルを挟んで向かい合わせ。
 母がお茶と一緒に置いて行ったケーキは、ブルーの分がいつもより明らかに大きめで。おやつを抜いた分を加えておいてくれたのだろう。
 ハーレイが鳶色の目を細めて。
「ほほう…。うんうん、カットに行って来たんだな?」
「分かるの?」
 どうして、と驚くブルーに、ハーレイは「分かるとも」と片目を瞑った。
「匂いとケーキのサイズでな」
 お前の髪から普段とは違う香りがしてるし、ついでにケーキのサイズが大きい。おやつを食べる代わりにカットに出掛けていたんだな、と簡単に推理出来るってな。
「…見た目じゃないんだ…」
 見た目で違うって分かったのかと思ったのに…。ぼくは自分でも分からないのに。
「お前の髪型でそうそう変わるか」
 まるで別のにしちまったんなら、少し切っても分かるだろうが…。
 いつもと同じじゃ分からんな。ソルジャー・ブルー風がジョミー風になったら別なんだが。



 俺だって全く変わらないだろうが、と言われればそうで。
 いつ見てもキャプテン・ハーレイ風のヘアスタイルだから訊いてみた。
「ハーレイはこの前、いつ切ったの?」
 その髪、切りに行ったのはいつ?
「先週だが?」
 お前の家には寄れなかった日だな、仕事の帰りに行って来たが。
「気が付かなかった…!」
 短くなったなんて分からなかったよ、ぼくはちっとも…!
「ほらな、そういうモンだってな」
 伸びて来たな、と思ったから切って来たんだが…。
 お前にしてみりゃ気付かなかったわけで、それと同じだ。俺にもお前の髪が伸びたかどうかは、見た目だけでは分からないなあ…。



 うんと伸びれば分かるだろうが、とハーレイが腕組みをしているから。
 そのハーレイの髪は、前のハーレイとまるで変わりはしないから。キャプテン・ハーレイだった頃とそっくりだから、興味が出て来た。ハーレイはどんな店でカットをするのだろうか、と。
 興味津々、疑問をそのままぶつけてみる。
「ハーレイは何処で切ってるの?」
 髪の毛、何処へ切りに出掛けてるの、どうやって髪型、注文するの?
「ん? 行きつけの店があってな、俺の家の近くに」
 黙っていたってこうされる、と短い金髪を指差すハーレイ。
 いつでもキャプテン・ハーレイ風だ、と。



「なんで?」
 どうしてキャプテン・ハーレイ風になるわけ、何も注文しなくっても?
「ああ、それはな…。店主の趣味というヤツだ。ファンなんだそうだ」
「誰の?」
「前の俺のだ、いわゆるキャプテン・ハーレイだ」
「えーっ!」
 前のハーレイのファンって、珍しくない?
 それじゃ、キャプテン・ハーレイにそっくりのハーレイが来たから、その髪型なの?
 キャプテン・ハーレイにしようと思ってカットしてるだなんて、なんだか凄すぎるんだけど…!



 そういう趣味の持ち主もいるのか、とブルーが仰天していると。
 ハーレイは「それだけじゃないぞ」とニヤリと笑った。
「お前の髪も切りたいそうだぞ、その店主」
 俺よりも年上の紳士って感じの店主なんだが、そう言ってるな。
「ぼく? 何処からぼくが出て来るの?」
 どうしたらぼくの髪の毛を切りたいってことになるわけ、そのおじさんは?
「お前が俺の恋人だからだ。二人セットでカットしたいと言ってたが…」
「それだけなの?」
「いや。お前の髪型にこだわりがあってな、ソルジャー・ブルー風にしたいそうだ」
 ショートカットが嫌いでなければやってみたい、という話だが。
「ソルジャー・ブルー風って…。どうしてソルジャー・ブルーになるの?」
 前のぼくの髪型、それも大好きなおじさんなのかな…?
「店主が言うには、似合いだそうだぞ」
「何が?」
「前の俺と、お前」
 並んでいると絵になる二人だ、とても似合いだと熱く語ってくれてたなあ…。
「えっ…?」
 絵になるって、それ…。似合うだなんて、前のぼくとハーレイが並んでいたら…?
 それって恋人同士に見えるっていう意味なの、そういうこと…?



 バレちゃってるの、とブルーは目を真ん丸にしたけれど。
 前の生では隠し通したハーレイとの恋を見抜かれたのか、と息を飲んだのだけれど。
「いや、まだそこまではバレてはいない」
 固い信頼関係で結ばれた二人で、並ぶと絵になると言っていただけだ。けしからぬ仲だったとは思わないとも話していたから、恋人同士だったという所までは気付いていないな。
 ただしだ、お前をあの店に連れて行ったら…。
 いずれバレるかもしれないが、と鳶色の瞳が柔らかくなった。
 恋人同士で顔を出せばと、二人一緒に出掛けてゆけば、と。
「そうなんだ…。ぼくの顔、ソルジャー・ブルーだものね…」
 バレてしまうかもね、前のハーレイと前のぼくともホントは恋人同士だった、って。
「まあな。だが、あの店主は喋らんだろうさ」
 気付いたとしても誰にも喋りはしないな、そういうタイプの人間だ。
 自分だけが気付いた歴史の秘密だ、と大切に仕舞い込んでおくのさ、発表せずにな。
「良かったあ…」
 それならバレても大丈夫だよね、歴史の本だって変わらないよね。
 ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイは実は恋人同士でした、って書かれないよね…。



 ホッと安堵の吐息をついて、ブルーは尋ねた。
「じゃあ、ぼくもいつかはそのお店でカットすることになるの?」
 ハーレイの家から近いんだったら、そのお店になる?
「そうなるだろうな、俺の趣味だけにレトロな店だが…」
 店主が一人でやっているだけで、手伝いの人もいないんだが…。
 腕は確かな店主だからなあ、客はけっこう来るみたいだぞ?
「そっちの方が今より良さそう!」
 ぼくが行ってるお店、美容師さんが一杯で…。ぼくの係を取り合いなんだよ、いつ行っても。
 他のお客さんだって「ソルジャー・ブルーだ」ってジロジロ見てるし、カットに行くのが苦手になって…。今日だって仕方ないから行って来たんだ、ママが予約を入れちゃったから。
 でも、ハーレイが行ってるお店なら、そういうことにはならないよね。
 断然、そっちのお店がいいよ。行くなら、そっち!



 たとえソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイが恋人同士とバレたって、と嬉しくなった。
 その店主ならば誰にも喋らないようだし、前の自分たちの恋を大切に思ってくれそうだから。
 誰にも言えずに終わってしまった恋を誰かに知って貰うのも、きっと悪くはないだろうから。
(それに、ソルジャー・ブルー風にしてみたい、っていうほどの人だしね?)
 自分を見たなら、この銀色の髪を見たなら、きっと見事に仕上げてくれるのだろう。
 今と変わらないソルジャー・ブルー風に、前の自分と同じ髪型に。
 鏡の前の椅子に座れば、それは手際よく、かつ丁寧に。
 今の店と違って騒ぎ立てる客もいそうにないから、カットが好きになるかもしれない。仕方なく出掛けてゆくのではなくて、自分から「行きたいな」と思うくらいに。
 ハーレイに「そろそろカットして貰いに行こうよ」と声を掛けたくなるくらいに。



(キャプテン・ハーレイのファンのおじさんだものね)
 ハーレイをこの髪型にしちゃうなんて…、と出会った頃を思い浮かべた。
 記憶が戻っていなかったというのに、ハーレイは今の髪型だった。キャプテン・ハーレイと寸分違わぬ、撫で付けられた短い金髪。
 まるで別の髪型をしていたとしても、ハーレイだと気付きはしたのだろうけれど…。どうせなら同じ方がいい。この地球の上で巡り会うなら、前のままのハーレイの髪型がいい。
 そう考えてから気が付いた。前のハーレイの髪型は最初から今と同じものではなかったことに。
 アルタミラで初めて出会った時には違っていた。今よりも長く、波打っていた。
 あれは前のハーレイの好みだったろうか?
 自分と同じで成人検査を受ける前から、あの髪型をしていたのだろうか?
 十四歳の子供には似合わないような気もするのだけれども、その頃のハーレイの顔立ちだったら似合う髪型だったのだろうか…?



 気になり始めたら、確かめてみたい。前の自分も知らなかったハーレイの髪型のこと。
 三百年以上も一緒に居たのに、気にもしていなかったハーレイの髪型。
 前の自分は成人検査の前からずっと同じで、一度も変わりはしなかったから。
 アルタミラの研究所で檻に居た頃は、係がそのように切っていた。勝手に切られて、成人検査の前と同じで暮らしていた。
 だから誰もがそうだと思い込んでいて、尋ねようとも思わなかった。
 ハーレイも、ゼルも、ブラウも、エラも。ヒルマンだって成人検査の前から髪型は同じなのだと信じ込んでいて、そのままになってしまったけれど。
 今にして思えば、ゼルたちはともかく、ハーレイは十四歳の子供らしくはなかったような…。
 この際だから、とゴクリと唾を飲み込んだ。
 訊いてみようと、確かめようと。
 髪型の話になったついでに。



「えーっと…。前のハーレイの髪型のことなんだけど…」
「ん?」
 なんだ、と鳶色の瞳が穏やかな光を湛えているから。
「ハーレイの髪型、成人検査を受ける前からアレだった?」
「はあ?」
 アレって、どれだ? 何の話だ?
「ぼくたちが初めて会った時の…。アルタミラで会った時のだよ」
 ハーレイ、ずっとあの髪型をしていたの?
 成人検査を受ける前から、アレだった? あの髪型が前のハーレイのお気に入りだった?
「いや?」
「違うの、あれじゃなかったの?」
 あの髪型をしてたんじゃないの、成人検査を受けた時には?
「うむ。その頃はもっとガキっぽかったな、あれよりももっと短めでな」
 見た目はまるで違った筈だぞ、あんな髪型ではなかったな、うん。
「じゃあ、成長に合わせて髪型が変わっていったわけ?」
「そのようだ」
 俺の記憶もそんなにハッキリしてはいないし、あの髪型がいつからか、って訊かれても覚えちゃいないんだが…。成人検査の時には違った。それだけは間違いないってな。



「…そうだったんだ…」
 知らなかった、とブルーは溜息をついた。前の自分も知らなかったと、初めて聞いたと。
「ぼくはそのままだったから…。みんな同じだと思ってた…」
 だから訊こうとも思わなかったよ、前のハーレイはどんな髪型をしていたの、って。
 ゼルたちだってそうだったのかな、会った時とは違う髪型で成人検査を受けてたのかな…?
「そうだろうなあ、俺も確認しちゃいないがな」
 お前の場合は、全く成長しないんだから…。髪型だって同じでいい、ってことだったろうさ。
 しかし、俺みたいにデカく育ったヤツがだ、ガキの頃だった髪型のままだと似合わんぞ?
 いくら実験動物にしても、研究者だって気持ちよく研究したいよな?
 まるで似合わない髪型をした、みっともない動物を扱うよりかは、見た目がもっとマシなもの。そういった動物を使いたかっただろうと思うぞ、同じ実験をするのならな。
「見た目にマシって…。髪型、誰が決めてたんだろう?」
 伸びて来たから切らなくちゃ、っていうんだったら分かるけど…。
 切るだけじゃなくて、似合わなくなってきたから変えよう、って、誰が決めたのかな?
 コンピューターが決めてたのかな、それとも人間だったのかな…?



「さてなあ…。どっちが決めてたんだか…」
 データを入力されてた機械がこうだと弾き出したか、あるいは現場の人間だったか。
 実験動物の髪を切るのを仕事にしていたヤツもいただろうしな、そいつの感覚かもしれん。この動物にはこれが良さそうだと、これにするかと思い付きでな。
 もっとも、機械が決めてたにせよ、人間にせよ、だ。
 肝心の俺たちに選ぶ自由が無かったってことだけは確かだがな。
「そうなの?」
 選べなかったの、自分の髪の毛のことなのに?
「お前、選ばせて貰えたか?」
「ううん、なんにも考えてなかった…」
 切りに来たな、って思ってただけ。こうして欲しいとか、これがいいとか思わなかったよ。
 ハサミを持った人間が待っているから、今日は髪を切る日なんだな、って思っていただけ。
「…お前、本当に何もかも止めてしまっていたんだなあ…」
 成長も、心も、感情も。
 自分の髪の毛が切られるっていうのに、ボーッとしていただけだなんてな…。
「ハーレイは髪型、選びたかったの?」
 勝手にチョキチョキ切られるんじゃなくて、あれこれ注文したかったの?
「特にそうとも思わなかったが、髪の毛の持ち主の俺を放って切られてしまうというのはなあ…」
 どうなってるのか、どうされるのか。
 ハサミの音がしているだけではまるで分からん、落ちた髪の毛を見たってな。
 極端な話、丸坊主にでもされない限りは、自分のことなのに分からないわけだ。俺の好みとか、そういう以前の問題だな。自分の姿が把握出来ないのは歯痒いんだ。



 せめて鏡に向かいたかった、とハーレイが自分の顔を指差すから。
 どういう髪型にされつつあるのか、鏡を前にして見ていたかった、と金色の髪を撫でるから。
「鏡の前で切って貰えてたら美容室だよ、研究所じゃなくて」
 有り得ないけど、一部屋、そういう部屋があったらアルタミラ美容室って言うのかな?
 御大層な名前がついてそうだよ、「今日は美容室だ」って係に引き摺って行かれるんだよ。
「今の俺は美容室じゃなくって、理髪店だがな」
 アルタミラ理髪店ってことになるなあ、俺が引き摺って行かれる時にはな。
 しかしだ、どんな場所であっても、鏡さえ其処にあったらなあ…。
 それだけで気分が違ったろうに、と言われたから。
 殺風景な研究所の中であっても鏡があれば、という言葉は確かに当たっていたから。
「そういえばそうだね、鏡があるだけで違うよね…」
 ぼくの顔だ、って見ながら髪を切られているのと、そうじゃないのと。
 どっちがいいか、って尋ねられたら、鏡がある方。
 その方がきっとホッとするもの。もうすぐ切り終わるのかどうかも分かるし…。
 どんな風に切ろうとしているのかな、って想像することも出来るしね。
「そういう自由は俺たちには全く無かったがな」
 鏡を前にして美容室だの理髪店だの、そんな気分にさせちゃくれなかった。
 そもそも鏡が無かったってな、髪を切る時でなくてもな。



 自分を客観的に見られるチャンスなんぞは作らんだろう、と指摘されれば、そうだった。
 実験動物だったミュウが自我をしっかり持ったなら。
 サイオンを持った生き物なだけに、余計な力を得るかもしれない。サイオンは精神の力だから。心と結び付いていると分かっていたのだから。
 自分が何者であるかを教えてはならない。自我など確立させてはいけない。
 彼らの方針が功を奏して、ブルーですらもアルタミラが滅ぼされたあの日までサイオンを揮いはしなかった。自分の中に眠る力を知らずに成長すらも止めてしまったまま、檻の中に居た。
 前のブルーの力があったなら、研究所くらい粉微塵にしてしまえただろうに。
 指先一つで研究者たちの息の根を止め、仲間を救って脱出することも出来ただろうに。
 そうさせないために、鏡さえも無かったアルタミラ。
 自分の姿を見ることさえも叶わなかった、実験動物として生きていた日々。



「それじゃ、前のハーレイは育っていく自分…」
 髪型もそうだけど、身体だって。
 どんな風に大きくなっていったか、変わって行ったか、自分じゃ分からなかったんだ…?
「ああ。…断片的にしか知らないな」
 手とか足とか、目に入る部分は分かるんだが…。
 顔や身体は分からなかったな、見ようにも鏡が無いんだからな。
 検査機器とかに映った時にだ、今の俺はこういう姿なのか、と気付く程度だ。
 こんな風になったかと、デカくなったな、とチラッと思うが、直ぐにそいつも忘れてしまう。
 実験が始まれば、感慨なんぞは完全に吹っ飛んじまうからなあ…。



 飛び飛びにしか覚えていないんだ、と語るハーレイは少し寂しそうで。
 ブルーは「ごめん…」と謝ったけれど、「いいさ」と答えが返って来た。優しい声で、いつものハーレイの顔で。
「前の俺の成長記録ってヤツは、無いに等しいようなモンだが…」
 その分、今の俺の記録が山ほどあるってな。記憶も写真も、それこそ山ほど。
「だけど、その頃のハーレイ、記憶は戻っていなかったじゃない」
 当たり前みたいに育っただけでしょ、前のハーレイの記憶は無いんだから。
「育つ最中にはそうだったが、だ。今はすっかり思い出したしな」
 記憶が戻ればグンとお得だ、前の俺もきっとこうだったんだ、と思えるだろうが。
 全く同じ姿形に育ったからには、育つ途中も似たようなものに違いない。
 成人検査で失くしちまった子供時代からズラリと続いた成長記録だ、途切れちゃいないぞ。前の俺が失くした記憶の分まで、今度はしっかり持ってます、ってな。
 髪型だってだ、生まれたての赤ん坊の時から今に至るまで分かるってわけで…。
 お得でなければ何だと言うんだ、今の俺の記憶と成長の記録。
「そうかもね…」
 ぼくは前と同じで髪型、一回も変えていないけど…。
 ちっちゃな頃からソルジャー・ブルー風でそのままだけれど、ハーレイは色々選べたんだね。
「うむ。今の店でもコレになる前は違ったからなあ」
 アルタミラでお前に出会った頃のアレさ、あの髪型の俺だった。
 それよりも前は…。まあ、色々とやってみたよな、自分に似合う髪型ってヤツを探してな。
 もっとも、これから先はもう変えないが…。
 お前と釣り合う髪型にするなら、キャプテン・ハーレイ風しか無いんだからな。



 アルタミラでは選べなかった髪型。鏡で見ることも出来なかった髪型。
 それを今度は好きに選んで、ハーレイは今の髪型になって。
 ブルーはずうっと同じだけれども、これから先も。
 ハーレイの行きつけの店に行くようになって、鏡の向こうの自分を見ながら髪を切って貰う。
 今はこの辺りを切っているのだ、と鏡に映った自分の姿を眺めながら。
「ねえ、ハーレイ。…鏡を見ながら切って貰えるって、幸せだよね?」
 それに鏡にハーレイも映るね、ハーレイと一緒にカットに行くなら。
 …今はカットは嫌いだけれども、そのお店、きっと好きになるよ。
「そりゃ良かったな。お前を連れて行く甲斐があるってな」
 あそこの店主も待ってるらしいし、ソルジャー・ブルー風で仕上げて貰えよ?
 俺とお前と、どっちが先に切って貰うかも考えなきゃなあ…。
「うんっ!」
 それは交代でもいいんじゃないかな、ハーレイとぼくと、交代で先に。
 だけど最初にお店に行く時はどうしよう…?
 ハーレイが切って貰うのを見てからがいいかな、ぼく、そのお店は初めてだしね?
「よしきた、まずは紹介からだな」
 俺の恋人はこいつです、って紹介するから、俺が切って貰ってる間に話して仲良くなるんだな。
 そうすりゃ切って貰う時にもリラックスしていられるだろう?
 ソルジャー・ブルーにそっくりですね、って言いながら切ってくれるぞ、丁寧にな。
「その前にビックリ仰天じゃない?」
 だって、行く頃にはチビじゃなくって、前のぼくと同じに育っているもの。
 キャプテン・ハーレイがソルジャー・ブルーを連れて来た、って、ビックリだよ、きっと。



 連れてってくれるのを楽しみにしてる、とブルーは笑顔になった。
 前の自分たちが恋人同士だったと気付くかもしれない、ハーレイお気に入りの理髪店の店主。
 その人に早く会ってみたいと、美容室は早く卒業したいと。
 ハーレイと結婚か、婚約するまでは連れて行って貰えない理髪店。
 其処へ行けばきっと、カットが好きになるだろう。
 「そろそろ髪を切りに行こうよ」とハーレイを誘いたくなるほどに。
 今は苦手なカットだけれども、ハーレイお気に入りの店に行けば、きっと…。




           苦手な美容室・了

※ブルーの苦手な美容室。注目の的になってしまうからですけれど、ふと気付いたこと。
 前の生では、ハーレイたちの髪型はどうなっていたのか、と。今ならではの疑問なのかも。
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「ブルー、爪が少し伸びてるわよ」
 切っておきなさいね、と母に言われた。
 学校から帰って、ダイニングでおやつを食べようとした時、それを運んで来た母に。
「はあーい!」
 返事を返して、シフォンケーキにフォークを入れたら。
「忘れないでよ? 後でちゃんと切るのよ」
 食べてる間に切りなさい、とは言わないけれど…。そっちの方がお行儀が悪いものね。
 でも、ママに切って貰うような小さな子供じゃないんだから。
 忘れないで、と念を押されたから。
「うんっ!」
 食べ終わったら、忘れずに切るよ。ぼくの手だもの、忘れないって!



 おやつを食べ終えて、空になったお皿やカップをキッチンに居た母に返しに行った。
 それから爪切りを取り出し、桜貝のような爪を切ろうとして。
(ちょっぴり伸びてる…)
 爪の先、白くなっている部分。気を付けていたつもりだけれども、そういえば最近、爪を切った覚えが全く無かった。
 自分の部屋には置いていない爪切り。階段を下りないと切りに行けない爪。
 後でいいや、と思ってしまえば、それきり忘れてしまうのだろう。こうして伸びてしまうまで。母に注意をされてしまうまで。
(ママに切って貰うような子供、って…)
 そこまで幼くはないけれど。
 自分で切るのを忘れるようでは、そう言われても仕方ない、とクスッと笑いかかった所で。



(…あれ?)
 前のぼく、と遠い記憶が蘇って来た。
 切って貰っていたじゃない、と。
 幼い子供ではなかったのに。今の自分よりも、ずっと大きくなっていたのに。
(ハーレイ…)
 そう、ハーレイに切って貰っていた。伸びていた爪を。
 病気で寝込んでしまった時とか、身体が弱ってしまっていた時。
 ジョミーを後継者として迎える頃には、すっかりハーレイに任せていた。起き上がることすらも億劫な日が多かったから。
 ベッドの中から手を差し出すだけで、「爪を切って」と頼むだけで切ってくれたハーレイ。
 大きな褐色の手をブルーの手に添えて、そうっと、そうっと切ってくれていた。
 切り終えた後も引っ掛からないかと指で触って、滑らかに削って整えていた。爪切りのヤスリの部分を使って、それは丁寧に、爪を傷つけないように。



(爪、あんな風に切って欲しいな…)
 あの大きな手で切って欲しいな、と自分の小さな両手を眺めた。
 またハーレイが切ってくれたらと、この爪を切ってくれたなら、と。
(前のぼくより小さい手だけど…)
 切れないこともないだろう。赤ん坊の手と比べたなら、立派な大人と言ってもいい手。前よりも小さな手ではあっても、そこそこ大きさはあるのだから。
(もしハーレイが来てくれたなら…)
 頼んでみよう、と決心した。断られたって、それはその時。
 頼むだけの価値は充分あるから、爪切りを持って部屋に戻った。
 ハーレイが仕事帰りに来なかったならば、あるいは「駄目だ」と断られたなら。
 その時は後で自分で切ろうと、明日までに切ればいいのだから、と。
 爪切りはそうそう使うものではないから、部屋に持って行っても叱られたりはしないだろうし。



(…今日はハーレイ、来てくれるかな?)
 爪切りを机の引き出しに仕舞って、ドキドキしながら待つことにした。
 ハーレイが来たなら、「爪を切って」と手を見せようと。
 上手くいくといいな、と心を躍らせ、どうかチャイムが鳴りますように、と。
 門扉の脇にあるチャイム。いつもハーレイが鳴らしているチャイム。
 そろそろ鳴るかと、それとも駄目かと、気もそぞろだから、読んでいる本が全く頭に入らない。文字の上を目が辿るだけ。ページの上を滑ってゆくだけ。
(…ハーレイ、来るかな?)
 窓の方へと目を向けてみたら、チャイムが鳴った。慌てて窓辺に駆け寄ってみれば、門扉の前で手を振る人影。間違えようもない長身の影。
(やった!)
 来てくれたよ、と大きく手を振り返した。
 少しだけ爪が伸びている手を、母に言われた爪を切らずにコッソリ残しておいた手を。



 ハーレイを部屋に案内して来て、お茶とお菓子を運んで来た母。
 その母に見付かってしまわないよう、さりげなく隠した爪の伸びた手。
 母が出て行った後で、テーブルを挟んで向かい合ったハーレイに手を出してみせた。両方の手をテーブルに乗せて、爪が伸びていると分かるようにして。
「ハーレイ、切って」
「何をだ?」
 何を切るんだ、お前の菓子か? そいつをフォークで切ればいいのか?
「ううん、ケーキのことじゃなくって…。ぼくの爪だよ」
「爪!?」
 なんだ、とハーレイは驚いたけれど。鳶色の瞳が丸くなったけれど。
 伸びてるんだよ、と左手の爪を指差した。
 両手とも爪が伸びているのだと、母に「切りなさい」と注意された、と。



「…ハーレイ、前のぼくの爪、切ってくれてたでしょ?」
 あんな風に切って欲しいんだよ。ハーレイが切ってくれていたっけ、って思い出したから。
 前のぼくより小さな手だけど、赤ちゃんの手よりはずっと大きくて爪も大きいし…。
 きっと切れると思うんだけれど、切ってくれない?
 …駄目なの、ハーレイ?
「お前、自分じゃ切るつもり、ないな?」
 お母さんに切れと言われたというのに放っておいた、と。
 俺が来るとは限らないのに、切りもしないで俺が来るのを待っていたな…?
「…駄目なんだったら、ハーレイが帰った後で切るけれど…」
 ちゃんと自分で切ることにするよ、伸びたままにはしておけないから。
 …本当は切って欲しいんだけどな…。
「要するに今は切らないんだな?」
 俺がいる間には切らないってわけだ、爪を切る時間も惜しいと思っているんだな?
 仕方ない、とハーレイは溜息をついた。
 切ってやるから爪切りを此処に持ってこい、と。
「ホント!?」
 爪切りはとっくに用意したんだよ、そのために持って来ておいたから。
 ちょっと待ってね、今、引き出しから取ってくるから…!



 母に内緒で持ち出した爪切り。勉強机の引き出しに仕舞っておいた爪切り。
 それを取りに行き、ハーレイに「はい」と手渡した。
 ハーレイは爪切りの手触りを確かめ、何度か動かしてみた後で。
「よし、手を出せ」
 こらこら、お茶やお菓子に飛んじまったらどうするんだ、爪。
 もっとお前がこっちに来てだな…。うん、それでいい。そんな具合でじっとしてろよ?
 まずは右手だ、と大きな手で右手を掴まれた。
 親指を押さえられたかと思うと、パチンと爪を切り取る音。懐かしい音。
 爪を切る音は今の自分も知っているけれど、それとは違ったように聞こえた。遠い昔にこの音を聞いたと、ハーレイが爪を切ってくれる時には聞こえていたと。
 パチン、パチンと切り取られてゆく爪の音。
 親指の次は人差し指で、それが済んだら中指で。薬指に小指、と順に移ったハーレイの指と爪を切る音と。右手が終われば左手の番で、そちらも順番にパチン、パチンと。
(そう、この音…。それに、この感じ…)
 もう懐かしくてたまらなかった。ワクワクしながら切って貰った。
 こんな風だったと、こんな音だったと、もう本当に嬉しくて。前の自分に戻ったようで…。
(うん、これも!)
 切り終わったハーレイが爪の先を指で確かめてゆく。ギザギザしてはいないか、と。
 確認してから、軽くヤスリをかけられた。滑らかな爪に仕上げるために。
(こんなの、ぼくはやっていないよ…)
 爪を切ったら切りっ放しで、ヤスリで整える所まではしない。前の自分も、今の自分も。
 ハーレイならではの心遣いで、それは丁寧に、両方の手の爪を一枚、一枚。



 全部の爪を整え終わったハーレイが「済んだぞ」と爪切りを返して来たから。
「ありがとう!」
 ブルーはピョコンと頭を下げると、爪切りを引き出しに仕舞いに行った。元の椅子に戻って腰を下ろすと、改めて御礼を言ったのだけれど。
「いや…。まあ、前のお前よりも小さな手だしな、少し怖かったが」
 お前の指まで切っちまわないかとハラハラしてたぞ、お前は気付かなかったようだが。
「うん。ハーレイ、余裕たっぷりに見えたもの。でも…」
 思ったよりもアッサリ切ってくれたし、嬉しかったよ。
 絶対ダメだ、って断られるかと思ってたんだよ、だってハーレイなんだもの…。
「普通だったら断るんだがな、夜に切られちゃたまらんからな」
 俺が帰った後に切るなら、とっくに夜になってるだろうが。
 そんな時間に切られたんでは困るんだ。爪だけにな。
「えっ?」
 時間って…。爪を切るのに時間が何か関係するわけ、ねえ、ハーレイ?
「ああ、まあ…な」
 夜は駄目だな、そいつが俺の信条だってな。



 爪は夜には切るものではない、と聞かされた。
 夜は駄目だと、夜に切ってはいけないのだ、と。
「…なんで?」
 爪を切るくらい、いつでもいいと思うんだけど…。
「そりゃ、かまわんさ。俺が言うのは古典の世界の話だからな」
 SD体制が始まるよりも昔の話だ、この辺りに日本って国があった頃だな。そこで伝わっていた話じゃ、夜に爪を切ると寿命が縮んでしまうと言うんだ。
 親の死に目に会えないとも言われた、寿命が縮めば親よりも先に死んじまうだろうが。
 夜に爪を切るから、「よづめ」。世が詰まるんだな、自分が生きてる世界ってヤツが。
 だから駄目だ、とハーレイは小さなブルーに教えた。
 単なる昔の語呂合わせ。根拠など無い、古い迷信。
 しかし縁起は担ぐ方だと、知ったからには避けたいのだ、と。



「前の俺なら夜専門だったわけなんだが…」
 自分のはともかく、お前の爪。夜にしか切っていなかったしな。
 もっとも、あの頃は古典の教師でもないし、夜に爪を切ったら駄目だと思いもしなかったが。
「…覚えてた?」
 夜だったってこと、ちゃんと覚えてた?
「当たり前だ」
 お前の爪を切っていたことを思い出したら、芋づる式に出て来るさ。
 いつも夜なんだ、仕事が終わって青の間に行ったら「爪を切って」と頼まれるんだ。
 お前、自分じゃ切らなかったからな、と笑われた。
 病気の時には切らされていたと、身体がすっかり弱った後にも切らされたと。
 これはハーレイの係だからと、ぼくの爪を切るのはハーレイだから、と。



「俺の特権だとまで言いやがって…」
 何が特権だ、俺をこき使うための口実だろうが。
 爪を切ってくれと、自分じゃ切れないと甘えやがって、いつも、いつも…。
「だって、前のぼくはいつも手袋をはめていたから…」
 手袋の下の手はハーレイにしか見せなかったよ、ハーレイだけが見ていたんだよ。
 後はノルディと医療スタッフくらいだったよ、手袋をはめてちゃ治療とかだって出来ないし…。
「その医療スタッフでいいんじゃないかと思うがな?」
 あいつらの方が上手かった筈だ、そういったことの専門家だぞ?
 ベッドから全く動けないヤツらの世話をするのも医療スタッフの仕事だからな。
「ううん、断然、ハーレイだよ」
 恋人の方が上手いに決まっているよ。
 誰よりもぼくのことを詳しく知ってるんだし、爪を切るのも上手だってば。



 前のブルーがそう考えたのはいつだったか。
 ハーレイと恋をして、同じベッドで眠るようになって。
 あれこれ我儘を言って困らせてみたり、甘えたりして、二人、幸せに暮らしていた頃。
 弱かった身体が悲鳴を上げたか、はたまた病に捕まったか。
 ベッドで臥せる羽目になってしまって、医療スタッフが身の回りの世話をしてくれていた。髪を整えたり、身体を拭いたり、それは丁寧に心をこめて。
(だけど退屈なんだよね…)
 身体はとても重いけれども、熱にうかされてはいなかったから。
 元気でさえあれば、視察と称してブリッジに顔も出せるのに。ハーレイに会いに行けるのに。
 それが全く叶わない日々、夜になるまで恋人の顔を見られない日々。
 病の床にあるソルジャーに定時以外の報告は来ないし、キャプテンは青の間を訪ねては来ない。一日の勤務が終わる時まで、定時報告を兼ねてやって来るまで。
 あまりに退屈で、それに寂しくもあったから。
 ふと思い付いて、医療スタッフに「自分で切るから」と言って爪切りを置いて行かせた。具合のいい時に自分で切るから、気分転換にもなるから、と。
 そしてその夜、ハーレイに手と爪切りとを差し出した。
 「君が切って」と。
 医療スタッフは断ったのだと、代わりに切って欲しいのだけれど、と。



 ハーレイの方は面食らった。
 自分の爪しか切ったことが無いのに、ブルーの爪。華奢な手をしたブルーの爪。
 それは無理だと断ったけれど、ブルーは頑として譲らなかった。
 恋人だったら切ってくれないかと、この手は君にしか見せない手なのだから、と。
 押し問答をしていた所で、ブルーは諦めそうもないから。ただでも寝込んでしまっているのを、余計に疲れさせるから。
 仕方なく爪切りを手にしたハーレイ。嬉々として右手を差し出したブルー。
「お前の手だしな、怪我をさせたらどうしようかと…」
 爪切りだって、失敗しちまえば切り過ぎるだとか、肉まで切るとか。
 おまけに自分の手じゃないからなあ、サッパリ加減が分からなくってな。
「おっかなびっくりだったものね」
 ハーレイ、怖々、切っていたっけ。
 パチンって音が一回する度にぼくに訊くんだ、「大丈夫ですか?」って。
 「痛みませんか」って、「余計に切れてはいませんか」って。
 切り終わった時には座り込んでたよね、もう動けない、って感じで椅子に。



 細心の注意を払って爪を切り続けて、すっかり消耗したハーレイ。
 精神的な緊張と疲れが身体にまで及び、文字通り椅子にへたり込むことになったのだけれど。
 ブルーの方では味を占めてしまって、これに限ると内心小躍りしていた。
 医療スタッフに任せておくよりもいいと、ハーレイに切って貰う方がずっと気持ちがいいと。
 自分を気遣う心が伝わってくるのがいい。医療スタッフもそれは同じだけれども、恋人の心とは質が異なる。
 それに、添えられた手の温もり。
 寝込んでいる間は添い寝だけしかして貰えなくて、身体を重ねられないけれど。
 まるでそうしているかのように、ハーレイと溶け合ってしまったかのように感じられた手。今は自分の手はハーレイのものだと、ハーレイの意のままにされて扱われているのだと。
 そんな錯覚さえをも引き起こしたほどに心地良かった。
 ハーレイに己の手を任せるのは、任せて爪を切って貰うのは。
 もうハーレイにしようと決めた。寝込んだ時に爪を切るなら、それはハーレイに任せようと。



 こうしてハーレイはブルー専属の爪切り係になった。強引に任命されてしまった。
 ソルジャーではなくて、恋人の方のブルーによって。ハーレイにだけは甘えるブルーによって。
 いくら断っても、「君が切って」と差し出された手。それと爪切り。
 「切らないと、ぼくが医療スタッフに叱られるよ」と。「自分で切ると言ったんだから」と。
 最初の間は緊張し切って、パチンと一回音がする度にドキリとしていたハーレイだけれど。
 キャプテンになる前は厨房で料理をしていたほどだし、けして不器用なわけではなかった。
 木彫りの才能は無かったけれども、どちらかと言えば器用な手先。
 慣れてしまえば医療スタッフよりも上手かった。
 丁寧に切って、ヤスリで仕上げて、「如何ですか?」と微笑んだものだ。
 「暇を持て余したあなたがせっせと手入れをしたようでしょう」と、「これで医療スタッフにも小言を言われませんよ」と。



「お前の爪…。俺が切ってるとは誰も気付いていなかったんだよな…」
 お前、爪切りを置いて行って、としか医療スタッフには言わないんだしな?
 退屈したソルジャーが爪の手入れをして遊んでいると、暇つぶしだと思われていたわけで…。
「ふふっ、そうだね」
 よく言われてたよ、「今日も綺麗に切ってありますね」って。
 これじゃ医療スタッフの出番なんかは何処にも無いって、爪の手入れでは敵いません、って。
「そうだろうなあ…。だがな、お前が寝ちまった後…」
 アルテメシアから逃げ出した後は、お役御免になっちまった。
 お前は深く眠ってしまって、医療スタッフから爪切りを奪うどころじゃなくて。
 俺が呼んでも目を覚まさなくて、思念さえも掴めなかったんだ。
 それっきり二度と、お前の爪を切らせては貰えなかったんだよなあ…。
 俺だけの仕事だったのに。俺が専属だったのに…。



 寂しそうな瞳の色のハーレイ。鳶色の瞳に揺れる悲しみ。
 もうブルーには触れられなかったと、手は握れても爪の手入れは出来なかったと。
「そっか、医療スタッフ…」
 ぼくは眠ったままで目覚めないんだし、爪を切るのは医療スタッフの仕事だよね。
 着替えとか身体を拭くのと同じで、医療スタッフがやってたんだね。
 ぼくが仕事を取り上げる前にはやってたことだし、ぼくが起きないなら爪も切るよね…。
「うむ。本来の所に戻ったわけだな、爪切り係が」
 本当を言えば、やってやれないこともなかった。俺の部屋には爪切りだってあったしな。
 そいつを持って行きさえしたなら、もちろんお前の爪だって切れた。
 青の間にあった爪切りだってだ、持ち出して使えばいいだけのことだ。
 ただ…。
 医療スタッフが切っていないのに、お前の爪がいつも綺麗に切られていたなら。
 誰がやったのかということになるし、当然、白状しなけりゃならん。
 そうなった時に、キャプテンの俺が切ってるとなれば、何のことかと思われるからな。どうして俺が爪を切るのか、そんな仕事をしているのか、と。
 俺が厨房出身じゃなくて、ノルディの部下なら何の問題も無かったろうが…。
 昔取った杵柄ってヤツでやっているんだと、このくらいはと言い抜けることも出来ただろうが。



 きちんと手入れされたブルーの手を見るのが悲しかった、とハーレイは言った。
 ソルジャーの正装で眠っていた日も多かったけれど、訪問者の予定が無ければパジャマ。そんな時には白い手が見えたと、切り揃えられた爪が目に入ったと。
「俺がせっせと手入れをしていたばかりに、お前、爪にはこだわりがあると思われたんだな」
 いつも綺麗に切ってあったし、切り口もヤスリで仕上げてあった。
 指先でいくら触ってみたって、引っ掛かりさえしないんだ。そりゃあ綺麗なモンだったさ。
 あれは俺だけの役目だったのに…。お前の爪は俺しか切れなかったのに。
 俺はそいつを取られちまって、手を握ることしか出来なかった。
 トォニイが生まれた後にはそうして子守唄を歌っていたなあ、眠るお前の手を握ってな。
 お前が夢の中でも聞こえていた、って言ってくれた歌。ゆりかごの歌だ。
 お前の手を握って、何度も、何度も。
 爪を切る代わりに歌っていたんだ、あの歌をな…。



 前のハーレイが歌った『ゆりかごの歌』。
 それはブルーの記憶にもある。微かに、微かに残った歌声。育ての母の歌かと思った子守唄。
 けれども、それを歌っていたハーレイの心の中を思うと、謝ることしか出来ないから。
「…ごめん…」
 眠ってしまって、本当にごめん。
 「爪を切ってよ」なんて我儘、言わなかったらよかったね…。
 そしたら少しはマシだったのにね、同じようにぼくが眠ったとしても。
「いいさ、また切らせて貰ったからな」
 お前の爪をもう一度切れるとは思わなかった。
 目覚めたお前は、俺に爪を切ってくれと言い出すよりも前にメギドに行っちまったし…。
 爪なんか二度と切れないどころか、俺はお前を失くしちまった。手が届かなくなっちまった。
 なのに、こうしてまた会えたんだ。
 その上、爪まで切らせて貰った。
 俺はすっかり忘れちまっていたのになあ…。前のお前の爪切り係をしていたことをな。



 思い出させて貰った上に切らせて貰った、とハーレイの顔が綻んだ。
 それも前より小さな爪をと、前のお前より小さくなった手の爪を切らせて貰った、と。
 さっき悲しみの色を湛えた瞳が、今は優しい色だから。
 ブルーは綺麗に爪を切って貰った両手を揃えて差し出した。
「じゃあ、また切ってくれる?」
 この次、爪が伸びちゃった時は、ハーレイにお願いしてもいい?
 ちゃんと爪切り、用意するから。ぼくの部屋に持って来ておくから。
「…そいつはなあ…」
 次と言われても、爪なんて直ぐに伸びるしな?
 前のお前だって、俺にばっかり切らせてたわけじゃないだろう?
 普段は自分で切ってた筈だぞ、俺の真似をしてヤスリまでかけてキッチリとな。時間だけは充分あったからなあ、前のお前は。
 こんな感じだと、ハーレイの真似をしてみたんだと自慢したじゃないか、最初の頃は。
 いつの間にやら当たり前になって、それこそ暇つぶしに手入れしていたみたいだが。
 だからだ、お前も前のお前を見習っておけ。
 爪が伸びたら自分で切る。俺のやり方を真似したいんなら、仕上げはヤスリだ。



 切ってやる方はまたいつかな、とはぐらかされた。
 普段は自分で手入れをしろと、そうそう切らされてはたまらないと。
「いいか、いくら恋人同士でもだ。爪まで切るのは…」
 そこまでするのはどうかと思うぞ、お前みたいなチビを相手に。
「…今だと切るのが難しい?」
 ぼくの手、小さくなっちゃったから…。
 前のぼくの手とはやっぱり違って、小さい分だけ切りにくいの?
 赤ちゃんの手なんか、どうやって爪を切ったらいいのか、ぼくだって悩んじゃうものね…。
「チビの手だから難しいだとか、そういう問題じゃなくてだな…」
 今の俺だって手先は器用だ、現に今日だって上手く切ったろ?
 そういう点では全く問題無いんだが…。前の俺の記憶もある分、爪は切ることが出来るんだが。
 爪は上手に切れたとしてもだ、俺の方が我慢の限界だ。
 分かるか、俺が耐えられないんだ。



 爪を切るだけでは済まなくなってしまいそうだ、と苦笑された。
 だから断ると、もっと大きく育ってからだと。
 キスを交わせるだけの背丈に、前のお前と同じ背丈にならんと駄目だ、と。
 つまりはハーレイも前のブルーと思いが重なっていたということ。
 爪を切る間、ブルーの手を握っている間。
 ハーレイもまた、溶け合うような感覚を抱いていたということ。
 手と手を通して繋がっていると、この手は自分のものでもあると。
 その思いまでが同じだったと気付いたというのに、断られてしまった爪を切ること。次に伸びた時も切って欲しいと頼んでいるのに、駄目だと苦い顔のハーレイ。
 せっかく思い出したのに、とブルーは諦め切れないから。
 また切って欲しいと思うものだから、唇を尖らせて膨れてみせた。
 ハーレイがチビだと断るからには、チビらしく。チビはチビらしく、うんと我儘に。



「今日はちゃんと切ってくれたのに…」
 断らなかったじゃない、ぼくがチビでも!
 次だって別に変わりやしないよ、また切ってくれればいいじゃない!
「縁起は担ぐと言っただろうが」
 俺が切ってやらなきゃ、お前は夜に爪を切ることになったんだしな?
 夜は駄目だと知っているのに、黙っているわけにはいかないだろうが。たとえ迷信でも、縁起は担いでおきたいんだ。俺は古典の教師だからな。
「じゃあ、次も夕方!」
 頼む時には夕方にするよ、爪を切って、って。
 そうすればハーレイが切ってくれるんでしょ、断ったらぼくは夜に切ることになるんだから。
 そうなると知ってて放っておくほど、ハーレイ、冷たくない筈だものね。
「いや、この次からはお前に切らせる」
 俺が監視して、「さっさと切れよ」と促すまでだな、夕方に頼まれた時にはな。
 お茶を飲みながら待っててやるから、その爪、早く切ってしまえと。
 今日のが例外だったんだ。次は自分で切って貰うぞ。



 切ってやるのは一回限りだ、と突き放されたけれど。
 今日だけの特別サービスなのだ、と鼻で笑われてしまったけれど。
 思い出してしまった、ハーレイに爪を切って貰うこと。それがとても心地良かったこと。
 そうして今日も切って貰えて、爪切りの音が嬉しかったから。
 パチン、パチンと爪を切る音と、ハーレイの手の温もりが今も心を離れないから。
 チビだと言われた小さなブルーは、意地悪な恋人に問い掛けた。
「…結婚したら、また切ってくれる?」
 今日みたいにぼくの爪が伸びたら、ハーレイが爪切り、してくれる?
 ぼくが病気で寝てない時でも、元気に起きている時でも…?
「もちろんだ」
 断る理由は何も無いなあ、お前と結婚した後ならな。
 お前の爪をまた切れるんだったら、お前専属の爪切り係をもう一度拝命するまでさ。
 ベッドに寝てないお前の爪なら、さぞ切り甲斐があるんだろうなあ…。
 ソファとかにお前と一緒に座って、甘えてくるのを「邪魔だぞ」と叱ってみたりしてな。
 これじゃ切れないと、大人しくしろと。
 指まで一緒に切られたいのかと、怪我をするぞと言いながらな…。



 そういうお前の爪を切りたいと、切らせてくれ、と頼まれたから。
 今は駄目だと断ったハーレイの口から、いつか切りたいという熱い言葉を引き出せたから。
(ふふっ、爪切り…)
 切って貰おう、とブルーの心が温かくなる。
 次にハーレイに爪を切って貰う時はきっと、ハーレイの家に居るのだろう。
 結婚して二人、幸せに暮らしているのだろう。
 そんな日々の中で爪が伸びたら、切って貰って、キスを交わして。
 ソファに居たなら、そのまま其処に居るかもしれない。
 あるいはハーレイの腕に抱かれて、寝室に移動するのだろうか。
 そうして二人、恋人同士。
 ブルーが夢見る、本物の恋人同士の時間。
 前の自分たちがそうだったように、重なり合って、溶け合って、もう離れない。
 爪切りから始まる、至福の時。
 ハーレイに「爪を切ってよ」と強請って、甘えて。
 その後はもう、二人だけの世界。
 重なり合わせた手と手から溶けて、互いに互いのものになって溶けて…。




              爪切り・了

※前のブルーが、ハーレイに切って貰っていた爪。医療スタッフは断ってまで。
 けれど、長い眠りに入った後には、爪切りは医療スタッフが。久しぶりの爪切りです。
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