シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
カテゴリー「ハレブル」の記事一覧
(今日はこっちに…)
行ってみようかな、と歩き始めたブルー。学校からの帰りに、いつものバス停で降りて。
たまには普段と違った道から帰るのもいいよね、と住宅街の中を歩いていたら…。
(あれっ?)
夾竹桃だ、と目を丸くした。道沿いの家の庭に、ひときわ鮮やかなピンク。真夏の空が似合いの色。今の季節には咲かない花。
見間違いかと思ったけれども、本当に夾竹桃だった。花も葉っぱも、夾竹桃そのもの。
(狂い咲き…)
夏と間違えて咲いちゃったのかな、と見詰めた夾竹桃。ブルーの背よりも大きな木。家の庭には他にも夾竹桃があるのに、花が咲いているのは一本だけ。
(他の木は咲いていないなら…)
変わった種類の夾竹桃ではないのだろう。何故か一本だけ、花の季節に出遅れて咲いた。今頃の季節に満開になって。
(別の道から帰って良かった…!)
ちょっと得をしたような気分にもなる。珍しいものに出会えたから。
温室でもないのに、季節外れのピンク色の花。他所の庭では、とうの昔に散った後。此処の庭の他の夾竹桃と同じに、夏の終わりに。
(ふふっ…)
いいもの見付けた、と眺めて満足。花は好きだし、今の季節には見られない花は、なおのこと。植物園なら季節外れの花も咲くけれど、普通の場所で出会えるなんて、ツイている。
御機嫌でたっぷり花を楽しみ、足取りも軽く家に帰った。「いいものを見たよ」と、弾む心で。
制服を脱いで、おやつを食べに行ったダイニングで母にも話した。
「夾竹桃が咲いていたよ」と、「ママも見に行くなら、この家だから」と。
「あらまあ…。運が良かったのねえ」
ママも見に行ってみるわ、明日、お買い物に行くついでに。
「やっぱり見たくなっちゃうでしょ? ホントに綺麗だったんだよ!」
今が満開。綺麗な間に行ってあげてね、せっかく素敵に咲いてるんだから…!
母にも勧めた「真夏の花」。季節外れの夾竹桃は、一人占めしてはもったいない。母に話せば、近所の人にも伝わるだろう。
(知ってる人は、とっくに見に行ってるかもしれないけれど…)
母が知らないなら、この辺りではまだ情報が回っていない。きっと明日には、見物人が増えて、夾竹桃も喜びそう。満開の花を見て貰えて。
あの家の人も、きっと嬉しくなるに違いない。自分たちだけで見ているよりも、花のお裾分け。
ホントにいいものを見付けちゃった、と上機嫌で二階の部屋に戻って、勉強机の前に座った。
今の季節は花が咲かない夾竹桃。とうに咲き終わって、緑の葉っぱばかりになって。
けれど、あの木は今が見頃で花が一番映える時期。
(季節外れでも、綺麗なものは綺麗だもんね?)
狂い咲きしちゃった花だって、と思った途端に気が付いた。その言葉が持っている意味に。何の気なしに繰り返していた、花の咲き方。
(狂い咲き…)
そう呼ぶほどだし、「尋常ではない咲き方」の意味。季節外れの、変な咲き方をした花のこと。今の季節に咲いた夾竹桃やら、冬の最中に花をつけている桜やら。
(…狂い咲きって、花の異分子?)
仲間外れの夾竹桃。
普通だったら夏に咲くのに、今頃の季節に咲いているなんて、夾竹桃の中の異分子。
最初から季節外れに花をつけるよう、改良された品種だったら、何の問題も無いのだけれど…。
(だけど、あの木は違うよね…)
夾竹桃は他にもあったし、あの木だけが違う季節に花を咲かせた。他の木たちが葉だけをつけている中で、鮮やかなピンクの色を纏って。
(一本だけ、違っているなんて…)
まるでミュウのよう。
今の時代のミュウとは違って、遠く遥かな時の彼方で生まれたミュウ。
前の自分が生きた時代に、SD体制が敷かれた世界で。
ミュウも人間だったというのに、異分子だからと忌み嫌われた。サイオンを持っていたせいで。…人類には無かった能力のせいで。
嫌われ、排除されたミュウ。見付かれば端から殺されていって。
その場で処分されずに済んでも、実験動物として扱われた。檻に入れられ、過酷な実験をされて奪われた命。人間扱いされることなく。
それが「異分子」だったミュウたちの末路。すると、さっきの夾竹桃も…。
(うんと綺麗に咲いていたのに…)
夾竹桃の仲間の中では、嫌われたりもするのだろうか?
あの庭にあった、他の夾竹桃たちに。「あれは変だ」と、「今頃、咲いているなんて」と。
声も掛けては貰えないまま、仲間外れの夾竹桃。異分子だからと、そっぽを向かれて。
(どんな花でも…)
狂い咲きは異分子なのかもしれない。
遠い昔のミュウたちのように、仲間たちから忌み嫌われて。
サイオンは持っていないけれども、代わりに季節外れに咲く花。他の仲間とは違った能力、別の季節に「花を咲かせる」力。
「普通ではない」と花を毟り取られたり、根こそぎ切り倒されてしまっても、仕方ないとか。
他の仲間が嫌うのだったら、花も、存在も抹殺されて。
(植物は自分で動けないから…)
そんなことにはならないだけで、動けたとしたら、滅ぼされるのが狂い咲きした植物たち。
仲間外れにされた挙句に、「異分子だから」と処分されて。
花を毟られ、二度と花など咲かないようにと、根元から切られて、それでおしまい。
(…そうなのかも…)
植物は自分で動けはしないし、滅ぼされないというだけのことで、本当は嫌われる狂い咲き。
「今頃、咲いた」と仲間外れで、口さえも利いて貰えない世界なのかもしれない。
人の目には綺麗に映っても。
珍しいから、と写真を撮る人たちが大勢いても。
(…植物の世界では、変なんだものね?)
狂い咲きした植物は。
帰り道に出会った、今が満開の夾竹桃も、雪の季節に花を咲かせる桜でも。
植物の世界では異分子だろう、狂い咲きの花。仲間たちとは違った季節に咲かせる花。
(狂い咲きって、植物のミュウ…?)
仲間たちから嫌われちゃうの、と考えていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで話してみた。
「あのね、帰りに夾竹桃を見たよ。花が一杯咲いてる木」
今が満開で、とても綺麗なピンク色の花…。夏の夾竹桃と少しも変わらない色で。
「ほほう…。今の季節に夾竹桃とは、何処の温室だ?」
この家の近所にあるんだろうが、変わった趣味だな。夾竹桃を温室で育ててるなんて。
夾竹桃が好きな人なのかもな、とハーレイは勘違いをした。狂い咲きとは思いもしないで。
そう考えるのが普通だろうし、ますます「狂い咲き」が異分子に思える。人間さえもが、変だと眺める現象。季節外れに咲いている花。
「温室じゃなくて、外なんだってば。狂い咲きだよ」
普通の庭にあった夾竹桃でね、一本だけが今が満開…。他の木には花が咲いてないのに。
「そりゃ珍しいものを見たなあ…。綺麗だったろ?」
季節外れでも満開だったら、とハーレイも褒める方へと行った。「夾竹桃は華やかだしな」と、「夏の青空にも負けないピンク色だから」と。
「うん。とても綺麗で、いいものを見付けたと思ったんだけど…」
ママにも話して、ツイてると思っていたんだけれど…。
おやつの後に部屋で考えていたら、「狂い咲き」っていう言葉が引っ掛かったんだよ。
咲いてる季節が普通じゃないから、そういう呼び方になるんでしょ?
変な花だ、って思われてるから「狂い咲き」。
それって「変だ」っていう意味なんだし、花の世界の異分子みたいなものだから…。
狂い咲きをしている花って、なんだかミュウに似てるよね、って…。
今の時代のミュウじゃなくって、前のぼくたちが生きてた頃のミュウたち。
異分子なんだ、って忌み嫌われてて、見付かったら処分されちゃって…。
狂い咲きの花もそうじゃないかな、同じ仲間の目から見たなら。
「あれは変だ」って嫌われちゃって、そっぽを向かれて、ミュウみたいに処分されるのかも…。
植物は自分で動けないから、そんなことにはならないだけで。
狂い咲きの花は嫌われ者かも、とハーレイに説明した考え。「植物の世界では異分子かも」と。
「もしも植物が動けるんなら、花を毟られちゃうだとか…。根こそぎ切られちゃうだとか」
人類がミュウを端から殺したみたいに、花の世界から抹殺しちゃった方がいい、って…。
「なるほどなあ…。そういう考えになっちまったんだな、狂い咲きの花から」
狂い咲きってヤツは、植物の世界じゃ嫌われ者かもしれない、と。
植物が自分で動けたとしたら、狂い咲きしたヤツは仲間に滅ぼされるかも、と思うわけだな?
前の俺たちが滅ぼされそうになっていたのと同じで…、とハーレイも分かってくれた考え。狂い咲きした花たちは全て、異分子扱いされるのでは、と。
「ぼくはそう思ったんだけど…。ハーレイはどう?」
やっぱり異分子なんだと思う?
人間の目には綺麗で珍しくっても、同じ仲間の植物からしたら、嫌われ者になっちゃうのかな?
「さてなあ…。植物の世界じゃ、特に気にしちゃいないんじゃないか?」
人間みたいに戦争なんかはしないで、ずっと昔から、平和に生きて来たのが植物だしな。
それに、どちらかと言えば、同情して貰えそうなんだが…。狂い咲きしている時なんかは。
同じ仲間の植物からな、とハーレイが言うから首を傾げた。どうして同情されるのだろう、と。
「なんで同情?」
変なヤツだ、って嫌うんだったら分かるけれども、同情するって…。どうしてなの?
「狂い咲きというヤツの仕組みのせいだ。…そうなっちまう原因だな」
気温がおかしくなった時にも、狂い咲きすることは多いんだが…。そういう時は仲間も多い。
他の木たちも狂い咲きしてて、一本だけではなくなるんだ。全部が狂い咲きではなくても。
しかし、一本だけが狂い咲きなら、木が傷んでいるってことも少なくない。虫に食われて弱っているとか、病気になっているとかな。
そういう理由が無かったとしても、狂い咲きしたら木は傷んでしまう。季節じゃないのに、花を咲かせるエネルギーを使ったわけだから。
木が傷んでの狂い咲きにしても、これから傷んじまう方でも、植物にとっては大変なことだ。
とても負担が大きいからな、と教えて貰った狂い咲きのこと。
季節外れに花を咲かせた時には、植物は既に弱っているか、花を咲かせたことで弱ってゆくか。植物が受ける負担は大きく、弱った身体が更に弱るか、これから弱ってゆくことになるか。
知らなかった、と目を瞬かせた「狂い咲き」。珍しいものに出会えて良かった、と夾竹桃の花を眺めたけれども、あの木は弱っていたのだろうか?
「じゃあ、ぼくが見た夾竹桃も…。木が弱ってたの?」
そんな風には見えなかったけど、幹の中に虫がいるだとか…。何か病気にかかってるとか…?
「弱ってるとは限らないがな。何かのはずみで、花を咲かせる仕組みが狂ったのかもしれん」
だが、狂い咲きをしたのは確かだ。しかも満開の花となったら、相当なエネルギーだから…。
その木は弱っちまうだろう。…木そのものは弱らなくても、花を咲かせる力の方は。
来年の夏には花が咲かないとか、咲いても少しだけになるってこともある。他の木にはドッサリ咲いているのに、その木だけ花が少ないとかな。
狂い咲きというのは、そうしたモンだ、とハーレイはフウと溜息をついた。人間の目には珍しく映る現象だけども、その舞台裏は厳しいものだ、と。
「そうなんだ…。あの木、来年は花が咲かないか、花が少なくなっちゃうか…」
せっかく綺麗に咲いたのに…。今の季節には珍しいよね、って得をした気分だったのに…。
あの木が弱ってしまうだなんて、と木があった家の方に目を遣る。この部屋の窓から、あの家の庭は見えないけれど。
「お前だって、可哀相だと思うだろ? 弱っちまうと聞いたなら」
だから植物の仲間同士でも、同じことだな。
嫌うよりかは、同情の方になるだろう。狂い咲きする理由ってヤツを知っているんだから。
弱った仲間や、これから弱りそうな仲間を嫌ったりはしない。
狂い咲きした木は、異分子じゃなくて、病人みたいなものだしな?
前の俺たちが生きてた時代の人類だって、ミュウには酷いことをしてたが、人類同士じゃ、全く事情が違ったろうが。
俺が嫌いなキースの野郎も、友達のサムの病院にせっせと通っていた。…あんなヤツでもな。
キースでさえもそうだったんだぞ、他の人類も病人には優しかっただろう。ミュウの子供を処分していた、ユニバーサルのヤツらにしたって、病気の人には親切だった筈だと思うぞ。
もちろん、怪我で不自由している人にも親切に。荷物を持つとか、席を譲るとか。
狂い咲きした植物だって、植物の世界じゃ、そんな具合に親切にして貰えるだろう。
しかしだ…。
狂い咲きを忌み嫌うヤツがいるとしたなら、人間だよな、とハーレイが言うから驚いた。
嫌うだなんて、とても信じられない。
帰り道に出会った、季節外れの夾竹桃は綺麗だったのに。母に話したら、母も見に行くつもり。母から話を聞いた人たちも、早速、出掛けてゆきそうなのに。
「嫌うって…。仲間の植物たちじゃなくって、人間が忌み嫌うだなんて、どうして嫌うの?」
綺麗なんだし、珍しい季節に花が見られるんだし…。いいことずくめだと思うけど?
木の持ち主の人は「弱ってしまう」ってショックだろうけど、それと嫌うのとは違うよね?
あの夾竹桃が咲いてた家の人だって、頑張って世話をするんだと思うよ。
咲いちゃったものは仕方ないから、弱らないように肥料を沢山あげたりもして。
来年は駄目でも、次の年にはまた綺麗な花を咲かせるように…、とあの庭の持ち主の心を思う。きっと大切に世話してやって、木が弱らないよう、あれこれと手を尽くすだろうから。
「持ち主の人は頑張るだろうな。弱っちまってても、元気を取り戻してくれるように」
もちろん、嫌うわけがない。自分の家の庭にある木が嫌いなヤツなんか、いやしないぞ。
人間が狂い咲きを嫌うと言うのは、狂い咲きという言葉の通りだ。…ずっと昔の話なんだが。
まだ狂い咲きの仕組みさえ分かっていなかった時代。人間が地球しか知らなかった頃だな。
その花が咲く季節じゃないのに、花が咲いたりするもんだから…。
不吉なことだと思われたりした。今じゃ喜ばれる、冬の桜も。
「ええっ!?」
冬の桜って、とても人気が高いじゃない。冬にも花が咲く、冬桜まであるくらいだよ?
あれは毎年花が咲くから、狂い咲きとは違うけど…。
でも、本物の桜が狂い咲きしたら、みんなとっても喜ぶじゃない…!
新聞にだって写真が載るよ、と直ぐに頭に浮かんだ写真。寒い季節に桜が咲いたら、新聞を飾るものだから。「此処で見られます」と地図などもつけて。
「今の時代はそうなんだが…。昔のことだと言っただろ?」
季節外れの花は気味悪がられたらしい。天変地異の前触れだとか、不吉なことと結び付けてな。
特に嫌われた花が桜だ。
ずっと昔は、桜の季節は疫病が流行ると思われていた。花鎮めの祭りがあったくらいに、疫病を恐れていたんだし…。その桜が季節外れに咲いたら、怖いだろうが。
遠い昔は、桜の花の頃に疫病が流行る年が多かったという。桜の花が散ると、疫病の神も一緒に舞い散るのだと恐れた人々。それを防ぐのが花鎮めの祭り。
春に祭りで疫病を封じておいたというのに、季節外れの桜が咲いたらどうなるか。疫病が流行る前兆だ、と誰もが恐れおののいた。冬の桜を愛でる代わりに、「なんと恐ろしい花なのだ」と。
「…桜、そういう花だったんだ…」
昔の人たちもお花見してたし、冬の桜は珍しいから、うんと喜びそうなのに…。
違ったんだね、お祭りの用意もしていないのに咲いちゃった、って怖がられたんだ…。
今だと見に行く人も沢山いるのに、と価値観の違いに驚くばかり。冬の桜は本当に人気で、冬に花が咲く品種を選んで植えている人も少なくないから。
「所違えば品変わる、っていうヤツかもなあ…。場所とは違って、時代なんだが」
似たような例じゃ、竹の花だってそうだ。
竹の花は滅多に咲かない上に、咲いた後には竹がすっかり枯れちまうから…。
そいつが咲いたら、不吉なことの前兆なんだと言われてた。実際の所は、竹は自分の都合で花を咲かせていたのにな?
そろそろ花を咲かせる頃だ、と何十年に一度とかの開花期がやって来る度に。
季節外れの桜にしたって、竹の花にしたって、悪いことは何もしちゃいないんだが…。
ただ咲いたというだけのことで…、とハーレイが浮かべた苦笑い。「人間ってヤツは勝手だな」などと、「人間が一番偉いわけでもないのになあ…」と。
「…狂い咲きの桜も、竹の花が咲くのも、どう捉えるかは人間の都合で決まっちゃったんだ…」
気味の悪い花が咲いたから、って嫌っていたのが昔の人で、今だと珍しくて大人気。
おんなじ花でも、それを見る人の考え方で変わってくるなんて…。
狂い咲きの花、ホントにミュウとおんなじだね。…前のぼくたちが生きてた頃の。
異分子だから処分すべきだ、って端から殺されちゃったけど…。滅ぼさないと、ってメギドまで二回も持ち出してたけど、あれは間違い。
ミュウは進化の必然だったし、滅ぼす方が間違いだったのに。
滅ぼしたりないで、人類はミュウと手を取り合わなきゃいけなかったのに…。
「まったくだ。…もっとも、前の俺たちにだって、それは分かっていなかったんだが…」
異分子なんだ、と迫害されてりゃ、そういうモンだと思っちまうよな。…ミュウの方でも。
前のハーレイたちも驚いたという、キースがスウェナ・ダールトンに託したメッセージ。
全宇宙帯域で流されたメッセージの中で、キースは「ミュウは進化の必然だった」と明言した。それをユグドラシルの一室で見るまで、ハーレイたちでさえ夢にも思っていなかった。
追われ続けたミュウが「異分子ではなかった」とは。
人類の進化の次の段階、それが「ミュウ」という新しい人種だったとは。
「あれは本当に驚いたんだ」と苦笑しながら、ハーレイは「そういえば…」と顎に手を当てた。
「人間の解釈次第だと言えば、文字通り、そういう花もあったっけなあ…」
不吉なんだか、めでたい印の吉兆なんだか、意見が分かれちまった花。
その花が咲いた当時でさえも、どう受け取るのか、人によって違ってしまった花が。
「意見が分かれたって…。その花も狂い咲きしたの?」
それとも竹の花と同じで、滅多に咲かない花だったとか…?
どっちの花、と興味津々。昔の人たちの考え方は、今と全く違うから。
春になったら桜を愛でていたのに、その一方で恐れていた人々。花見の宴を催す傍ら、花鎮めの祭りを行ったほど。同じ桜の花だというのに、愛でたり、それを怖がったり。
そんな人々の意見が分かれた花とは、いったいどんな花なのだろう…?
「狂い咲きではなかったな。咲いた季節は普通だったから」
それに滅多に咲かない花でもない。毎年、季節になれば山ほど咲いた筈だぞ。そいつが生えてる場所に行ったら。
ただ、咲き方の方が問題になった。
蓮の花だったが、双頭蓮と呼ばれるヤツでだな…。
「双頭蓮…?」
「名前の通りの蓮の花だ。一つの茎に二つの花をつけている蓮」
茎が途中で分かれるんじゃなくて、天辺に蕾が二つ生まれて、二つとも咲く。頭が二つあるってことで、双頭蓮という名前になるんだな。
蓮池があれば、たまにヒョッコリ現れるそうだ。
今は幸せを呼ぶと言われて、皆が見に行くほどなんだがなあ…。
うんと昔は嫌われたんだ。
縁起が良くない、と歴史にまで書き残されたくらいに。…しかしだな…。
今じゃすっかり幸せの花になっちまった、とハーレイは笑う。同じ双頭蓮なのに。
その辺りは狂い咲きや冬の桜と同じだけれども、双頭蓮は当時に意見が分かれていたという。
凶兆なのだと考えた人と、吉兆だと捉えていた人とに。
「飛鳥時代は知っているだろう? 歴史じゃお馴染みの時代だからな」
古典の方だと、それほど中身は無いんだが…。せいぜい万葉集くらいってトコで。
お前たちに授業で教えられるものは…、とハーレイが嘆く飛鳥時代。まだ日本では、物語などは書かれていなかった。古典の授業で扱えるものは、万葉集に編まれた歌くらい。
その飛鳥時代、都が置かれた飛鳥に剣池と呼ばれる池があった。
池には沢山の蓮が茂って、其処に現れた双頭蓮。一つの茎に二つの花をつけた蓮。
日本書紀に書かれた最初の記録は、舒明天皇の時。
なんとも不思議な蓮の花だから、恐れる人もいたのだけれども、何も起こりはしなかった。天変地異も、戦争なども。
それでも珍しい花だったからこそ、日本書紀にも書かれたのだろう。当時の人が後世に残そうと思わなければ、記録は残らず、忘れ去られた筈だから。
次に双頭蓮が現れたのが、女帝だった皇極天皇の時代。やはり前と同じ剣池で。
時の権力者だった蘇我氏の長は、双頭蓮が出現したのを、自分に都合よく解釈した。
世にも珍しい蓮の花だし、「蘇我氏が栄える吉兆だ」と。
せっかくだからと、その花の絵を絵師に描かせた。それも高価な金泥を使って、贅沢に。
出来上がった絵は、大仏があった寺に奉納して、「これで蘇我氏はますます栄える」と上機嫌。吉兆の蓮が咲いただけでも素晴らしいのに、その絵を奉納したのだから。
けれど、それから丁度、一年が経った時。
乙巳の変で、蘇我氏は滅びてしまったという。双頭蓮の絵を描かせた長の息子の入鹿は殺され、長の蝦夷は館に火を放った。全ては炎の中に飲まれて、蝦夷の命も其処で潰えた。
「…なんだか怖いね…」
たったの一年で、全部滅びてしまったなんて。…まるで蓮の花に呪われたみたい…。
「そうだろう?」
蘇我氏が滅びる前兆だったか、そうじゃないかは分からないがな。…ただの花だけに。
とはいえ、当時の人間にすれば、不吉としか思えなかっただろう。あんな不吉な花を喜ぶから、余計に酷いことになった、と。
立派な絵まで描かせたんだからな、と軽く両手を広げたハーレイ。「軽はずみだと思われても、仕方あるまい」と。
「昔の人間は、不吉なことが起こりそうだと考えた時は、大人しくしたものなんだが…」
家に引きこもって外へ出ないとか、神仏に助けを祈るだとか。
そうする代わりに、怪しげな蓮の絵まで描かせていたわけだから…。自業自得だ、と考える人も多かったろうな。「あれさえ描かせて奉納しなけりゃ、無事だったものを」と。
そういう話があったお蔭で、双頭蓮を嫌う人間が多かったのに…。
いつの間にやら、双頭蓮と言えば、縁起のいい花になっちまってた。咲いたと聞いたら、大勢の人が一目見ようと押し掛けるほどに。
昔の人には凶兆だった花だというのに、後の時代だと吉兆なんだな。
その辺りのことは、狂い咲きした冬の桜なんかも、似たようなものだと言えるんだが…。
双頭蓮の場合は、咲いた当時に意見が分かれていたのがなあ…。
あれは不吉な花なのでは、と思う連中と、「吉兆なんだ」と思った蘇我氏の方と、真っ二つに。
「…ホントは凶兆だったのに?」
だってそうでしょ、蘇我氏は滅びちゃったんだから。
不吉な花なんて、本当は存在しないんだけど…。その蓮の花も、今、咲いていたら、幸せを呼ぶ花が咲いてるから、って見に行く人がドッサリだけど…。
でも、その頃だと、大真面目に信じていたんだよね?
季節外れの桜の花は不吉だとか…。狂い咲きした花や、変な形で咲いてる花も良くないとか。
そんな時代なら、双頭蓮も凶兆ってことになるんでしょ?
蘇我氏が滅びてしまう予兆で、それを知らせるために咲いていたんだ、って…。
なのに勘違いをしたんだよね、と確認した。蘇我氏が滅びる凶事の前兆、それが双頭の蓮の花。
けれど蘇我氏の長は、吉兆だと捉えたから。絵まで描かせて、大仏に奉納したのだから。
「そうなるな。…権力者ってヤツには、ありがちなんだが」
自分が一番偉いと思っているから、世の中のことは、全部自分のためにあるんだ。
皆が「不吉だ」と恐れていたって、自分が「素晴らしい」と思っちまえば、不吉なことも吉兆になってしまうってな。権力者の頭の中でだけ。
だから蘇我氏も、不吉な蓮が咲いているのに大喜びして、絵まで奉納しちまった、と。
昔からよくある話だよな、とハーレイは頭を振っている。「この手の話は多いんだ」と。
大きな権力を手にした者は、何も恐れはしないから。何もかも自分の意のままに出来て、不吉なことさえ覆せると思うほどだから。
「だがなあ…。前の俺たちを滅ぼそうとしていた、グランド・マザーの場合は、だ…」
ミュウを吉兆とは思ってくれずに、せっせと殺していただけだったが。
人類の中から出て来た異分子、邪魔なものだと考えるだけで。
グランド・マザーは人間じゃなくて機械だったが、権力者には違いない。驕った考えってヤツを持っていたなら、ミュウも吉兆になりそうだがなあ…。
「妙な連中が現れたようだが、上手く使えばきっと世の中の役に立つ」とでも考えて。
自分なら使いこなせる筈だ、と役立てる方法をあれこれ検討してみたりもして。
人類が何度も「ミュウは不吉です」と進言しようが、「いや、吉兆だ」の一点張りでな。
しかし、そうなりはしなかった。…ミュウはSD体制の時代の中では、殲滅すべき生き物だ。
最初からそうプログラムされていたから、グランド・マザーに他の考え方は無い。
ミュウ因子の排除が不可能だっただけで、生まれて来たミュウは皆殺しにするのが仕事だから。
グランド・マザーが、ああいう機械でさえなかったら…。
権力者ってヤツには珍しくない、自分に都合のいい解釈をするタイプだったらなあ…。
ミュウも吉兆になれていたかもしれないのに、と残念そうな顔のハーレイ。
時の権力者が一つ間違えれば、凶兆でさえも吉兆になる。不吉なように思える花でも、双頭蓮の出現を蘇我氏が喜んだように、それは素晴らしい吉兆に。
それと同じで異分子のミュウも、考え方次第で吉兆になれた。グランド・マザーが「吉兆だ」と判断していたら。
人類たちが何と唱えても、聞く耳を持たなかったなら。
「…ミュウが吉兆になっちゃうんだ?」
人類から見たら気味が悪くて、サイオンを持った異分子でも。
とても不吉で、早い間に処分しなくちゃ、って誰もが思って、そう言っていても…?
「グランド・マザーが、自分勝手な思考の持ち主ならな」
きちんとプログラムされた機械ではなくて、ミュウについての思考を一から始めていたら。
ついでに、デカイ権力を握ったヤツらが陥りがちな、自分中心な世界を描いていたとすればな。
前の俺たちは吉兆になり損ねたか、とハーレイは腕組みをした。「本当は吉兆だったのに」と。
「正真正銘の吉兆だったぞ、見た目は如何にも不吉そうでも」
今の世の中ってヤツを見てみろ、それが証明されてるじゃないか。ミュウが吉兆だったこと。
ミュウの時代がやって来たお蔭で、今じゃすっかり平和な世界になったってな。宇宙の何処にも戦争は無いし、武器も兵器も作られちゃいない。軍も無ければ、戦艦も無いし…。
おまけに地球まで青く蘇って、俺たちがこうして住んでいられる。前の俺が辿り着いた時には、何も棲めない星だったのに…。毒の海と砂漠が広がっているだけだったのにな?
その地球の姿を元に戻したのは、結局の所はミュウなんだぞ?
キースの野郎が関わってはいても、ジョミーがいなけりゃ、青い地球には戻っていない。それを思うと、ミュウは吉兆だったんだがなあ…。
どんなに人類に嫌われていても…、とハーレイが言いたくなるのも分かる。
遠い昔には、季節外れの桜や狂い咲きの花たちは嫌われたのだけれども、今では喜ばれる存在。珍しい花が咲いているから、と新聞に写真が載ったりもして。
前の自分たちも、それと似たようなものだったろう。
サイオンという、人類には無い特殊な能力を持った人間。だから「異分子」だと忌み嫌われて、端から処分されていた。「生かしておいても、ろくなことはない」と。
けれど、本当は「進化の必然」。
ミュウの時代がやって来ないと、人間は先へ進めなかった。平和な時代も、青く蘇った地球も、人類の時代からミュウの時代へ移ったからこそ、此処にあるもの。
それに気付かず、グランド・マザーは「ミュウの殲滅」を続けさせた。そうすることは、歴史に逆らうことなのに。…けして上手くは運ばないのに。
もっとも、追われ続けたミュウの方でも、まるで気付いていなかったけれど。
自分たちは「異分子」なのだと思い込んだままで、懸命にもがき続けていた。異分子を排除するマザー・システムから、なんとか逃れようとして。
そのシステムを変えるためにと、地球を目指して。
(グランド・マザーが、勘違いをしてくれてたら…)
ミュウは吉兆になれただろうか?
人類の指導者が何と言おうと、滅ぼされない道を歩んで行けたのだろうか…?
遥かな昔に、蘇我氏の長が犯した勘違い。不吉の前兆だった双頭蓮を、吉兆と思い込んだこと。わざわざ立派な絵まで描かせて、奉納させたという思い上がり。
世間の人々は、その蓮の花を恐れていたのに。「不吉なことが起こらねばいいが」と、怖そうに眺めていたのだろうに。
それと同じにグランド・マザーも、ミュウの存在を読み誤っていたならば。自分の治世に現れたミュウを、吉兆なのだと思い込んで保護していたのなら…。
(前のぼくたちは、アルタミラで星ごと滅ぼされずに…)
生きて、どういう道を歩んだか。人類はミュウを嫌うわけだし、やはり戦いになっていたのか。人類との戦いが始まったならば、目指すべき場所は…。
(やっぱり地球になるんだよね…?)
人類の指導者が誰であろうと、その後ろにはグランド・マザーがいる。それを倒してしまわない限り、ミュウの時代は手に入らない。…いつまで経っても異分子のままで。
(グランド・マザーが、「ミュウを滅ぼせ」って言っていなくても…)
人類がそう考えるのなら、人類の世界を変えるしかない。地球に行き着き、グランド・マザーを破壊して。…SD体制を根幹から覆して。
そうなった時は、グランド・マザーは蘇我氏と同じ。自分だけが「吉兆なのだ」と信じ続けた、不吉なものに滅ぼされるから。
人類たちが「あれは不吉だ」と唱え続けた、ミュウが滅びを呼び込むのだから。
そうなると、つまり…。
「えっと、ハーレイ…。前のぼくたち、本当は吉兆だったけど…」
グランド・マザーにとっては、吉兆だろうと、不吉だろうと、結果は全く同じじゃない。
吉兆だから、って保護されていても、人類がミュウを見る目は違うよ?
サイオンを持っているっていうだけで気味が悪くて、やっぱり忌み嫌うんだろうから…。
そういう世界を変えるためには、地球まで行って、グランド・マザーを倒すしか…。
どっちにしたって、グランド・マザーはミュウに滅ぼされてしまって、おしまい。
だから、グランド・マザーがミュウをせっせと排除してても、保護していても、最後は同じ。
グランド・マザーにはミュウは凶兆なんだよ、どう転がっても。
「吉兆なんだ」って喜ぶ方でも、前のぼくたちにやったみたいに、排除しようとする方でもね。
どっちに転んでも不吉だったよ、とクスッと笑った。グランド・マザーにしてみれば、ミュウは不吉な存在だから。
蘇我氏が不吉な双頭蓮を喜んだように、「吉兆」として捉えていても。
実際の歴史がそうだったように、「異分子」として徹底的に排除していた方でも。
「そう思わない? 最後はミュウに壊されちゃうんだよ、グランド・マザーは」
吉兆だから、って保護していたって、異分子として排除し続けたって。
最後は同じで、ホントに蘇我氏の蓮みたい…。グランド・マザーは勘違いをしてくれなくって、ミュウは保護されなかったけれど…。嫌われ続けただけだったけどね。
「なるほどなあ…。どう転んだとしても、最後は同じになっちまうのか…」
ミュウって種族は、地球や宇宙には吉兆だったが、グランド・マザーには凶兆だった、と。
たとえ吉兆だと喜んでいても、蘇我氏みたいに滅びちまっておしまいなんだな…?
「うん。本当に双頭の蓮とおんなじだよね。…前のぼくたち」
捉える人の心次第で決まっちゃうんだよ、吉兆なのか、凶兆なのか。
グランド・マザーは機械だったから、人間とは全く違うけど…。とても驕った思考を持ってて、ミュウの殲滅をプログラムされてなかったら、ミュウを保護していたかもね。
さっきハーレイが言ってたみたいに、自分に都合よく考えちゃって。
吉兆のミュウを保護した可能性はあるよね、と可笑しくなる。機械がそういう思考をしたなら、歴史の流れが変わっていたかもしれないから。最後は同じ結末になっても、途中の道が。
「あったのかもなあ、そういう道も…」
実際には有り得なかった道だが、そいつはプログラムのせいだ。
グランド・マザーが、「ミュウを発見したら処分しろ」という命令を一切、組み込まれないで、自由に思考していたら…。
権力ってヤツに酔っちまっていたら、ミュウの保護だって充分、有り得た。
人類が何と言っていようと、「自分なら上手く使いこなせる筈だ」と思い込んで。
そうやってミュウを放っておいたら、牙を剥かれるというわけだな。
人類がミュウを忌み嫌うせいで、ミュウの堪忍袋の緒が切れちまって。
「こんな世界が悪いんだ」とSD体制を倒しにかかって、グランド・マザーも倒されるのか…。
役に立ちそうだと保護した筈の、ミュウに足元を掬われちまって、マザー・システムごと。
それも面白かったかもしれん、とハーレイは感慨深そうな顔。「別の道か」と。
「前の俺たちは、その道を歩めはしなかったが…。捉えるヤツの心次第なんだな」
ミュウが不吉か、そうでないかは。…吉兆には違いなかったんだが。
そうか、前の俺たちは双頭の蓮だったのか…。剣池には咲いちゃいないが、蘇我氏の代わりに、グランド・マザーを滅ぼしちまった蓮の花。
「どうだろう? 狂い咲きだって、不吉なんだと思われていたって言うんだから…」
双頭蓮じゃなくって、ぼくが見たような、狂い咲きしてる夾竹桃かもしれないよ?
それとも冬の桜の花かな…、と言ったのだけれど。
「桜とかも悪くないんだが…。俺としてはだ、双頭の蓮の方が好みだな」
そっちがいい、とハーレイは双頭の蓮の方。どの花だろうと、捉え方次第で、不吉なものにも、喜ばれる花にも変わるのに。
「…なんで双頭の蓮がいいって言うの?」
蘇我氏を滅ぼしちゃった花だよ、縁起の悪さが他の花より凄くない…?
今は、おめでたい花みたいだけど、あんな話を聞かされちゃったら、他の花の方が…。
「どう捉えるかは心次第だと、お前、自分で言ったじゃないか。そいつを忘れてくれるなよ?」
双頭蓮をよく考えてみろ。一つの茎に二つの花だぞ、其処がいいんだ。
お前と二人で一本の茎なら、前の俺たちにはピッタリじゃないか。
生まれた時期こそ違ってはいたが、出会ってから後は、ずっと二人一緒に生きていたんだから。
お前がメギドに行っちまうまでは…、とハーレイに言われて気が付いた。確かに双頭蓮の花は、前の自分たちの姿に良く似合う。一つの茎に二つの花をつける蓮なら。
「そうだね、ああいう花だったよね…。前のぼくたち」
本当は花じゃなかったけれども、花だとしたなら、それだと思う。双頭の蓮…。
今度も一緒に生きていけるよ、今度こそ、絶対に離れないで。
ぼくはメギドに行ったりしないし、本当に、うんと幸せ一杯に…。
「一つの茎に二つの花か…。いつまでも離れないカップルの蓮というわけだな」
そういったことを考えた人が、幸せの花にしたかもなあ…。双頭蓮を。幸せを運んで来てくれる花だと、仲のいいカップルなんかになぞらえて。
「きっとそうだよ、花のカップルだもの」
最初から一つの茎に生まれて、二つ一緒に咲くんだものね。
いつか本物の双頭蓮を見てみたいな、と強請ってみた。
滅多に咲かない花だけれども、何処かで咲いたら見に行きたい、と。
「蓮の花が咲く場所、色々あるでしょ? その内に何処かで咲く筈だから…」
ハーレイと二人で出掛けられるようになってから咲いたら、見に行きたいな…。
前のぼくたちみたいな花を。
「よしきた、俺の車で行こうじゃないか。双頭蓮を見にドライブだな」
前の俺たちだけじゃなくてだ、今の俺たちにも似合いの花を。
一本の茎に二つの花だし、本当にお前と俺みたいに一緒の花だからなあ、離れずに咲いて。
俺が蓮の花に見えるかどうかはともかくとして…、とハーレイは困り顔だけど。
「大丈夫! ぼくと一緒に咲いてるんなら、ハーレイだって蓮の花に見える筈だから!」
だから約束、双頭蓮を見に連れて行ってね。…いつか咲いたら。
咲いたっていうニュースが出たら…、と指切りをして約束した。「見に行こうね」と。
珍しいという双頭蓮。何年かに一度、咲くか咲かないかも分からない花。
それが咲いたら、いつかハーレイと二人で見に行こう。それが咲いている蓮池まで。
狂い咲きの花も、双頭の蓮も、まるで異分子だったミュウのようでも、今の時代は幸せの花。
ミュウが本当は吉兆だったように、その花たちも今は喜ばれる。
「珍しいから」と写真を撮られて、ニュースにもなって。
誰も不吉だと嫌わない花を、ハーレイと二人、いつか仲良く眺めにゆこう。
一つの茎に二つの花の双頭蓮。生まれた時から、同じ茎で育った二つの花を。
「ぼくとハーレイみたいだよね」と、しっかりと手を繋ぎながら。
「いつまでも二人、一緒だものね」と、握り合った手にキュッと力をこめたりもして…。
花たちの異分子・了
※ブルーが出会った季節外れの夾竹桃の花。違う季節に咲いているだけに、異分子かも。
前の生の頃のミュウも、異分子でしたけど、実の所は進化の必然。吉兆と考えてもいい存在。
ハレブル別館、長いこと書き続けて来ましたが、pixiv に置いている、アニテラ創作。
ここ数ヶ月、全く読まれなくなりました。
アニテラの時代は終わったようだ、と思いますので、年度末で、終了にするつもりです。
最終回などは書きません。来年3月まで、今の調子で続けてゆきます。
それ以降、どうするのかは、pixiv の動き次第でしょうか。
まだ読む人が残っているなら、ごくごく短い「その後の二人」を書くかもしれません。
おバカなシャングリラ学園生徒会室の方は、来年も今まで通りです。
他の二つのサイトについては、続けられる間は、書き続けると思います。
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行ってみようかな、と歩き始めたブルー。学校からの帰りに、いつものバス停で降りて。
たまには普段と違った道から帰るのもいいよね、と住宅街の中を歩いていたら…。
(あれっ?)
夾竹桃だ、と目を丸くした。道沿いの家の庭に、ひときわ鮮やかなピンク。真夏の空が似合いの色。今の季節には咲かない花。
見間違いかと思ったけれども、本当に夾竹桃だった。花も葉っぱも、夾竹桃そのもの。
(狂い咲き…)
夏と間違えて咲いちゃったのかな、と見詰めた夾竹桃。ブルーの背よりも大きな木。家の庭には他にも夾竹桃があるのに、花が咲いているのは一本だけ。
(他の木は咲いていないなら…)
変わった種類の夾竹桃ではないのだろう。何故か一本だけ、花の季節に出遅れて咲いた。今頃の季節に満開になって。
(別の道から帰って良かった…!)
ちょっと得をしたような気分にもなる。珍しいものに出会えたから。
温室でもないのに、季節外れのピンク色の花。他所の庭では、とうの昔に散った後。此処の庭の他の夾竹桃と同じに、夏の終わりに。
(ふふっ…)
いいもの見付けた、と眺めて満足。花は好きだし、今の季節には見られない花は、なおのこと。植物園なら季節外れの花も咲くけれど、普通の場所で出会えるなんて、ツイている。
御機嫌でたっぷり花を楽しみ、足取りも軽く家に帰った。「いいものを見たよ」と、弾む心で。
制服を脱いで、おやつを食べに行ったダイニングで母にも話した。
「夾竹桃が咲いていたよ」と、「ママも見に行くなら、この家だから」と。
「あらまあ…。運が良かったのねえ」
ママも見に行ってみるわ、明日、お買い物に行くついでに。
「やっぱり見たくなっちゃうでしょ? ホントに綺麗だったんだよ!」
今が満開。綺麗な間に行ってあげてね、せっかく素敵に咲いてるんだから…!
母にも勧めた「真夏の花」。季節外れの夾竹桃は、一人占めしてはもったいない。母に話せば、近所の人にも伝わるだろう。
(知ってる人は、とっくに見に行ってるかもしれないけれど…)
母が知らないなら、この辺りではまだ情報が回っていない。きっと明日には、見物人が増えて、夾竹桃も喜びそう。満開の花を見て貰えて。
あの家の人も、きっと嬉しくなるに違いない。自分たちだけで見ているよりも、花のお裾分け。
ホントにいいものを見付けちゃった、と上機嫌で二階の部屋に戻って、勉強机の前に座った。
今の季節は花が咲かない夾竹桃。とうに咲き終わって、緑の葉っぱばかりになって。
けれど、あの木は今が見頃で花が一番映える時期。
(季節外れでも、綺麗なものは綺麗だもんね?)
狂い咲きしちゃった花だって、と思った途端に気が付いた。その言葉が持っている意味に。何の気なしに繰り返していた、花の咲き方。
(狂い咲き…)
そう呼ぶほどだし、「尋常ではない咲き方」の意味。季節外れの、変な咲き方をした花のこと。今の季節に咲いた夾竹桃やら、冬の最中に花をつけている桜やら。
(…狂い咲きって、花の異分子?)
仲間外れの夾竹桃。
普通だったら夏に咲くのに、今頃の季節に咲いているなんて、夾竹桃の中の異分子。
最初から季節外れに花をつけるよう、改良された品種だったら、何の問題も無いのだけれど…。
(だけど、あの木は違うよね…)
夾竹桃は他にもあったし、あの木だけが違う季節に花を咲かせた。他の木たちが葉だけをつけている中で、鮮やかなピンクの色を纏って。
(一本だけ、違っているなんて…)
まるでミュウのよう。
今の時代のミュウとは違って、遠く遥かな時の彼方で生まれたミュウ。
前の自分が生きた時代に、SD体制が敷かれた世界で。
ミュウも人間だったというのに、異分子だからと忌み嫌われた。サイオンを持っていたせいで。…人類には無かった能力のせいで。
嫌われ、排除されたミュウ。見付かれば端から殺されていって。
その場で処分されずに済んでも、実験動物として扱われた。檻に入れられ、過酷な実験をされて奪われた命。人間扱いされることなく。
それが「異分子」だったミュウたちの末路。すると、さっきの夾竹桃も…。
(うんと綺麗に咲いていたのに…)
夾竹桃の仲間の中では、嫌われたりもするのだろうか?
あの庭にあった、他の夾竹桃たちに。「あれは変だ」と、「今頃、咲いているなんて」と。
声も掛けては貰えないまま、仲間外れの夾竹桃。異分子だからと、そっぽを向かれて。
(どんな花でも…)
狂い咲きは異分子なのかもしれない。
遠い昔のミュウたちのように、仲間たちから忌み嫌われて。
サイオンは持っていないけれども、代わりに季節外れに咲く花。他の仲間とは違った能力、別の季節に「花を咲かせる」力。
「普通ではない」と花を毟り取られたり、根こそぎ切り倒されてしまっても、仕方ないとか。
他の仲間が嫌うのだったら、花も、存在も抹殺されて。
(植物は自分で動けないから…)
そんなことにはならないだけで、動けたとしたら、滅ぼされるのが狂い咲きした植物たち。
仲間外れにされた挙句に、「異分子だから」と処分されて。
花を毟られ、二度と花など咲かないようにと、根元から切られて、それでおしまい。
(…そうなのかも…)
植物は自分で動けはしないし、滅ぼされないというだけのことで、本当は嫌われる狂い咲き。
「今頃、咲いた」と仲間外れで、口さえも利いて貰えない世界なのかもしれない。
人の目には綺麗に映っても。
珍しいから、と写真を撮る人たちが大勢いても。
(…植物の世界では、変なんだものね?)
狂い咲きした植物は。
帰り道に出会った、今が満開の夾竹桃も、雪の季節に花を咲かせる桜でも。
植物の世界では異分子だろう、狂い咲きの花。仲間たちとは違った季節に咲かせる花。
(狂い咲きって、植物のミュウ…?)
仲間たちから嫌われちゃうの、と考えていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで話してみた。
「あのね、帰りに夾竹桃を見たよ。花が一杯咲いてる木」
今が満開で、とても綺麗なピンク色の花…。夏の夾竹桃と少しも変わらない色で。
「ほほう…。今の季節に夾竹桃とは、何処の温室だ?」
この家の近所にあるんだろうが、変わった趣味だな。夾竹桃を温室で育ててるなんて。
夾竹桃が好きな人なのかもな、とハーレイは勘違いをした。狂い咲きとは思いもしないで。
そう考えるのが普通だろうし、ますます「狂い咲き」が異分子に思える。人間さえもが、変だと眺める現象。季節外れに咲いている花。
「温室じゃなくて、外なんだってば。狂い咲きだよ」
普通の庭にあった夾竹桃でね、一本だけが今が満開…。他の木には花が咲いてないのに。
「そりゃ珍しいものを見たなあ…。綺麗だったろ?」
季節外れでも満開だったら、とハーレイも褒める方へと行った。「夾竹桃は華やかだしな」と、「夏の青空にも負けないピンク色だから」と。
「うん。とても綺麗で、いいものを見付けたと思ったんだけど…」
ママにも話して、ツイてると思っていたんだけれど…。
おやつの後に部屋で考えていたら、「狂い咲き」っていう言葉が引っ掛かったんだよ。
咲いてる季節が普通じゃないから、そういう呼び方になるんでしょ?
変な花だ、って思われてるから「狂い咲き」。
それって「変だ」っていう意味なんだし、花の世界の異分子みたいなものだから…。
狂い咲きをしている花って、なんだかミュウに似てるよね、って…。
今の時代のミュウじゃなくって、前のぼくたちが生きてた頃のミュウたち。
異分子なんだ、って忌み嫌われてて、見付かったら処分されちゃって…。
狂い咲きの花もそうじゃないかな、同じ仲間の目から見たなら。
「あれは変だ」って嫌われちゃって、そっぽを向かれて、ミュウみたいに処分されるのかも…。
植物は自分で動けないから、そんなことにはならないだけで。
狂い咲きの花は嫌われ者かも、とハーレイに説明した考え。「植物の世界では異分子かも」と。
「もしも植物が動けるんなら、花を毟られちゃうだとか…。根こそぎ切られちゃうだとか」
人類がミュウを端から殺したみたいに、花の世界から抹殺しちゃった方がいい、って…。
「なるほどなあ…。そういう考えになっちまったんだな、狂い咲きの花から」
狂い咲きってヤツは、植物の世界じゃ嫌われ者かもしれない、と。
植物が自分で動けたとしたら、狂い咲きしたヤツは仲間に滅ぼされるかも、と思うわけだな?
前の俺たちが滅ぼされそうになっていたのと同じで…、とハーレイも分かってくれた考え。狂い咲きした花たちは全て、異分子扱いされるのでは、と。
「ぼくはそう思ったんだけど…。ハーレイはどう?」
やっぱり異分子なんだと思う?
人間の目には綺麗で珍しくっても、同じ仲間の植物からしたら、嫌われ者になっちゃうのかな?
「さてなあ…。植物の世界じゃ、特に気にしちゃいないんじゃないか?」
人間みたいに戦争なんかはしないで、ずっと昔から、平和に生きて来たのが植物だしな。
それに、どちらかと言えば、同情して貰えそうなんだが…。狂い咲きしている時なんかは。
同じ仲間の植物からな、とハーレイが言うから首を傾げた。どうして同情されるのだろう、と。
「なんで同情?」
変なヤツだ、って嫌うんだったら分かるけれども、同情するって…。どうしてなの?
「狂い咲きというヤツの仕組みのせいだ。…そうなっちまう原因だな」
気温がおかしくなった時にも、狂い咲きすることは多いんだが…。そういう時は仲間も多い。
他の木たちも狂い咲きしてて、一本だけではなくなるんだ。全部が狂い咲きではなくても。
しかし、一本だけが狂い咲きなら、木が傷んでいるってことも少なくない。虫に食われて弱っているとか、病気になっているとかな。
そういう理由が無かったとしても、狂い咲きしたら木は傷んでしまう。季節じゃないのに、花を咲かせるエネルギーを使ったわけだから。
木が傷んでの狂い咲きにしても、これから傷んじまう方でも、植物にとっては大変なことだ。
とても負担が大きいからな、と教えて貰った狂い咲きのこと。
季節外れに花を咲かせた時には、植物は既に弱っているか、花を咲かせたことで弱ってゆくか。植物が受ける負担は大きく、弱った身体が更に弱るか、これから弱ってゆくことになるか。
知らなかった、と目を瞬かせた「狂い咲き」。珍しいものに出会えて良かった、と夾竹桃の花を眺めたけれども、あの木は弱っていたのだろうか?
「じゃあ、ぼくが見た夾竹桃も…。木が弱ってたの?」
そんな風には見えなかったけど、幹の中に虫がいるだとか…。何か病気にかかってるとか…?
「弱ってるとは限らないがな。何かのはずみで、花を咲かせる仕組みが狂ったのかもしれん」
だが、狂い咲きをしたのは確かだ。しかも満開の花となったら、相当なエネルギーだから…。
その木は弱っちまうだろう。…木そのものは弱らなくても、花を咲かせる力の方は。
来年の夏には花が咲かないとか、咲いても少しだけになるってこともある。他の木にはドッサリ咲いているのに、その木だけ花が少ないとかな。
狂い咲きというのは、そうしたモンだ、とハーレイはフウと溜息をついた。人間の目には珍しく映る現象だけども、その舞台裏は厳しいものだ、と。
「そうなんだ…。あの木、来年は花が咲かないか、花が少なくなっちゃうか…」
せっかく綺麗に咲いたのに…。今の季節には珍しいよね、って得をした気分だったのに…。
あの木が弱ってしまうだなんて、と木があった家の方に目を遣る。この部屋の窓から、あの家の庭は見えないけれど。
「お前だって、可哀相だと思うだろ? 弱っちまうと聞いたなら」
だから植物の仲間同士でも、同じことだな。
嫌うよりかは、同情の方になるだろう。狂い咲きする理由ってヤツを知っているんだから。
弱った仲間や、これから弱りそうな仲間を嫌ったりはしない。
狂い咲きした木は、異分子じゃなくて、病人みたいなものだしな?
前の俺たちが生きてた時代の人類だって、ミュウには酷いことをしてたが、人類同士じゃ、全く事情が違ったろうが。
俺が嫌いなキースの野郎も、友達のサムの病院にせっせと通っていた。…あんなヤツでもな。
キースでさえもそうだったんだぞ、他の人類も病人には優しかっただろう。ミュウの子供を処分していた、ユニバーサルのヤツらにしたって、病気の人には親切だった筈だと思うぞ。
もちろん、怪我で不自由している人にも親切に。荷物を持つとか、席を譲るとか。
狂い咲きした植物だって、植物の世界じゃ、そんな具合に親切にして貰えるだろう。
しかしだ…。
狂い咲きを忌み嫌うヤツがいるとしたなら、人間だよな、とハーレイが言うから驚いた。
嫌うだなんて、とても信じられない。
帰り道に出会った、季節外れの夾竹桃は綺麗だったのに。母に話したら、母も見に行くつもり。母から話を聞いた人たちも、早速、出掛けてゆきそうなのに。
「嫌うって…。仲間の植物たちじゃなくって、人間が忌み嫌うだなんて、どうして嫌うの?」
綺麗なんだし、珍しい季節に花が見られるんだし…。いいことずくめだと思うけど?
木の持ち主の人は「弱ってしまう」ってショックだろうけど、それと嫌うのとは違うよね?
あの夾竹桃が咲いてた家の人だって、頑張って世話をするんだと思うよ。
咲いちゃったものは仕方ないから、弱らないように肥料を沢山あげたりもして。
来年は駄目でも、次の年にはまた綺麗な花を咲かせるように…、とあの庭の持ち主の心を思う。きっと大切に世話してやって、木が弱らないよう、あれこれと手を尽くすだろうから。
「持ち主の人は頑張るだろうな。弱っちまってても、元気を取り戻してくれるように」
もちろん、嫌うわけがない。自分の家の庭にある木が嫌いなヤツなんか、いやしないぞ。
人間が狂い咲きを嫌うと言うのは、狂い咲きという言葉の通りだ。…ずっと昔の話なんだが。
まだ狂い咲きの仕組みさえ分かっていなかった時代。人間が地球しか知らなかった頃だな。
その花が咲く季節じゃないのに、花が咲いたりするもんだから…。
不吉なことだと思われたりした。今じゃ喜ばれる、冬の桜も。
「ええっ!?」
冬の桜って、とても人気が高いじゃない。冬にも花が咲く、冬桜まであるくらいだよ?
あれは毎年花が咲くから、狂い咲きとは違うけど…。
でも、本物の桜が狂い咲きしたら、みんなとっても喜ぶじゃない…!
新聞にだって写真が載るよ、と直ぐに頭に浮かんだ写真。寒い季節に桜が咲いたら、新聞を飾るものだから。「此処で見られます」と地図などもつけて。
「今の時代はそうなんだが…。昔のことだと言っただろ?」
季節外れの花は気味悪がられたらしい。天変地異の前触れだとか、不吉なことと結び付けてな。
特に嫌われた花が桜だ。
ずっと昔は、桜の季節は疫病が流行ると思われていた。花鎮めの祭りがあったくらいに、疫病を恐れていたんだし…。その桜が季節外れに咲いたら、怖いだろうが。
遠い昔は、桜の花の頃に疫病が流行る年が多かったという。桜の花が散ると、疫病の神も一緒に舞い散るのだと恐れた人々。それを防ぐのが花鎮めの祭り。
春に祭りで疫病を封じておいたというのに、季節外れの桜が咲いたらどうなるか。疫病が流行る前兆だ、と誰もが恐れおののいた。冬の桜を愛でる代わりに、「なんと恐ろしい花なのだ」と。
「…桜、そういう花だったんだ…」
昔の人たちもお花見してたし、冬の桜は珍しいから、うんと喜びそうなのに…。
違ったんだね、お祭りの用意もしていないのに咲いちゃった、って怖がられたんだ…。
今だと見に行く人も沢山いるのに、と価値観の違いに驚くばかり。冬の桜は本当に人気で、冬に花が咲く品種を選んで植えている人も少なくないから。
「所違えば品変わる、っていうヤツかもなあ…。場所とは違って、時代なんだが」
似たような例じゃ、竹の花だってそうだ。
竹の花は滅多に咲かない上に、咲いた後には竹がすっかり枯れちまうから…。
そいつが咲いたら、不吉なことの前兆なんだと言われてた。実際の所は、竹は自分の都合で花を咲かせていたのにな?
そろそろ花を咲かせる頃だ、と何十年に一度とかの開花期がやって来る度に。
季節外れの桜にしたって、竹の花にしたって、悪いことは何もしちゃいないんだが…。
ただ咲いたというだけのことで…、とハーレイが浮かべた苦笑い。「人間ってヤツは勝手だな」などと、「人間が一番偉いわけでもないのになあ…」と。
「…狂い咲きの桜も、竹の花が咲くのも、どう捉えるかは人間の都合で決まっちゃったんだ…」
気味の悪い花が咲いたから、って嫌っていたのが昔の人で、今だと珍しくて大人気。
おんなじ花でも、それを見る人の考え方で変わってくるなんて…。
狂い咲きの花、ホントにミュウとおんなじだね。…前のぼくたちが生きてた頃の。
異分子だから処分すべきだ、って端から殺されちゃったけど…。滅ぼさないと、ってメギドまで二回も持ち出してたけど、あれは間違い。
ミュウは進化の必然だったし、滅ぼす方が間違いだったのに。
滅ぼしたりないで、人類はミュウと手を取り合わなきゃいけなかったのに…。
「まったくだ。…もっとも、前の俺たちにだって、それは分かっていなかったんだが…」
異分子なんだ、と迫害されてりゃ、そういうモンだと思っちまうよな。…ミュウの方でも。
前のハーレイたちも驚いたという、キースがスウェナ・ダールトンに託したメッセージ。
全宇宙帯域で流されたメッセージの中で、キースは「ミュウは進化の必然だった」と明言した。それをユグドラシルの一室で見るまで、ハーレイたちでさえ夢にも思っていなかった。
追われ続けたミュウが「異分子ではなかった」とは。
人類の進化の次の段階、それが「ミュウ」という新しい人種だったとは。
「あれは本当に驚いたんだ」と苦笑しながら、ハーレイは「そういえば…」と顎に手を当てた。
「人間の解釈次第だと言えば、文字通り、そういう花もあったっけなあ…」
不吉なんだか、めでたい印の吉兆なんだか、意見が分かれちまった花。
その花が咲いた当時でさえも、どう受け取るのか、人によって違ってしまった花が。
「意見が分かれたって…。その花も狂い咲きしたの?」
それとも竹の花と同じで、滅多に咲かない花だったとか…?
どっちの花、と興味津々。昔の人たちの考え方は、今と全く違うから。
春になったら桜を愛でていたのに、その一方で恐れていた人々。花見の宴を催す傍ら、花鎮めの祭りを行ったほど。同じ桜の花だというのに、愛でたり、それを怖がったり。
そんな人々の意見が分かれた花とは、いったいどんな花なのだろう…?
「狂い咲きではなかったな。咲いた季節は普通だったから」
それに滅多に咲かない花でもない。毎年、季節になれば山ほど咲いた筈だぞ。そいつが生えてる場所に行ったら。
ただ、咲き方の方が問題になった。
蓮の花だったが、双頭蓮と呼ばれるヤツでだな…。
「双頭蓮…?」
「名前の通りの蓮の花だ。一つの茎に二つの花をつけている蓮」
茎が途中で分かれるんじゃなくて、天辺に蕾が二つ生まれて、二つとも咲く。頭が二つあるってことで、双頭蓮という名前になるんだな。
蓮池があれば、たまにヒョッコリ現れるそうだ。
今は幸せを呼ぶと言われて、皆が見に行くほどなんだがなあ…。
うんと昔は嫌われたんだ。
縁起が良くない、と歴史にまで書き残されたくらいに。…しかしだな…。
今じゃすっかり幸せの花になっちまった、とハーレイは笑う。同じ双頭蓮なのに。
その辺りは狂い咲きや冬の桜と同じだけれども、双頭蓮は当時に意見が分かれていたという。
凶兆なのだと考えた人と、吉兆だと捉えていた人とに。
「飛鳥時代は知っているだろう? 歴史じゃお馴染みの時代だからな」
古典の方だと、それほど中身は無いんだが…。せいぜい万葉集くらいってトコで。
お前たちに授業で教えられるものは…、とハーレイが嘆く飛鳥時代。まだ日本では、物語などは書かれていなかった。古典の授業で扱えるものは、万葉集に編まれた歌くらい。
その飛鳥時代、都が置かれた飛鳥に剣池と呼ばれる池があった。
池には沢山の蓮が茂って、其処に現れた双頭蓮。一つの茎に二つの花をつけた蓮。
日本書紀に書かれた最初の記録は、舒明天皇の時。
なんとも不思議な蓮の花だから、恐れる人もいたのだけれども、何も起こりはしなかった。天変地異も、戦争なども。
それでも珍しい花だったからこそ、日本書紀にも書かれたのだろう。当時の人が後世に残そうと思わなければ、記録は残らず、忘れ去られた筈だから。
次に双頭蓮が現れたのが、女帝だった皇極天皇の時代。やはり前と同じ剣池で。
時の権力者だった蘇我氏の長は、双頭蓮が出現したのを、自分に都合よく解釈した。
世にも珍しい蓮の花だし、「蘇我氏が栄える吉兆だ」と。
せっかくだからと、その花の絵を絵師に描かせた。それも高価な金泥を使って、贅沢に。
出来上がった絵は、大仏があった寺に奉納して、「これで蘇我氏はますます栄える」と上機嫌。吉兆の蓮が咲いただけでも素晴らしいのに、その絵を奉納したのだから。
けれど、それから丁度、一年が経った時。
乙巳の変で、蘇我氏は滅びてしまったという。双頭蓮の絵を描かせた長の息子の入鹿は殺され、長の蝦夷は館に火を放った。全ては炎の中に飲まれて、蝦夷の命も其処で潰えた。
「…なんだか怖いね…」
たったの一年で、全部滅びてしまったなんて。…まるで蓮の花に呪われたみたい…。
「そうだろう?」
蘇我氏が滅びる前兆だったか、そうじゃないかは分からないがな。…ただの花だけに。
とはいえ、当時の人間にすれば、不吉としか思えなかっただろう。あんな不吉な花を喜ぶから、余計に酷いことになった、と。
立派な絵まで描かせたんだからな、と軽く両手を広げたハーレイ。「軽はずみだと思われても、仕方あるまい」と。
「昔の人間は、不吉なことが起こりそうだと考えた時は、大人しくしたものなんだが…」
家に引きこもって外へ出ないとか、神仏に助けを祈るだとか。
そうする代わりに、怪しげな蓮の絵まで描かせていたわけだから…。自業自得だ、と考える人も多かったろうな。「あれさえ描かせて奉納しなけりゃ、無事だったものを」と。
そういう話があったお蔭で、双頭蓮を嫌う人間が多かったのに…。
いつの間にやら、双頭蓮と言えば、縁起のいい花になっちまってた。咲いたと聞いたら、大勢の人が一目見ようと押し掛けるほどに。
昔の人には凶兆だった花だというのに、後の時代だと吉兆なんだな。
その辺りのことは、狂い咲きした冬の桜なんかも、似たようなものだと言えるんだが…。
双頭蓮の場合は、咲いた当時に意見が分かれていたのがなあ…。
あれは不吉な花なのでは、と思う連中と、「吉兆なんだ」と思った蘇我氏の方と、真っ二つに。
「…ホントは凶兆だったのに?」
だってそうでしょ、蘇我氏は滅びちゃったんだから。
不吉な花なんて、本当は存在しないんだけど…。その蓮の花も、今、咲いていたら、幸せを呼ぶ花が咲いてるから、って見に行く人がドッサリだけど…。
でも、その頃だと、大真面目に信じていたんだよね?
季節外れの桜の花は不吉だとか…。狂い咲きした花や、変な形で咲いてる花も良くないとか。
そんな時代なら、双頭蓮も凶兆ってことになるんでしょ?
蘇我氏が滅びてしまう予兆で、それを知らせるために咲いていたんだ、って…。
なのに勘違いをしたんだよね、と確認した。蘇我氏が滅びる凶事の前兆、それが双頭の蓮の花。
けれど蘇我氏の長は、吉兆だと捉えたから。絵まで描かせて、大仏に奉納したのだから。
「そうなるな。…権力者ってヤツには、ありがちなんだが」
自分が一番偉いと思っているから、世の中のことは、全部自分のためにあるんだ。
皆が「不吉だ」と恐れていたって、自分が「素晴らしい」と思っちまえば、不吉なことも吉兆になってしまうってな。権力者の頭の中でだけ。
だから蘇我氏も、不吉な蓮が咲いているのに大喜びして、絵まで奉納しちまった、と。
昔からよくある話だよな、とハーレイは頭を振っている。「この手の話は多いんだ」と。
大きな権力を手にした者は、何も恐れはしないから。何もかも自分の意のままに出来て、不吉なことさえ覆せると思うほどだから。
「だがなあ…。前の俺たちを滅ぼそうとしていた、グランド・マザーの場合は、だ…」
ミュウを吉兆とは思ってくれずに、せっせと殺していただけだったが。
人類の中から出て来た異分子、邪魔なものだと考えるだけで。
グランド・マザーは人間じゃなくて機械だったが、権力者には違いない。驕った考えってヤツを持っていたなら、ミュウも吉兆になりそうだがなあ…。
「妙な連中が現れたようだが、上手く使えばきっと世の中の役に立つ」とでも考えて。
自分なら使いこなせる筈だ、と役立てる方法をあれこれ検討してみたりもして。
人類が何度も「ミュウは不吉です」と進言しようが、「いや、吉兆だ」の一点張りでな。
しかし、そうなりはしなかった。…ミュウはSD体制の時代の中では、殲滅すべき生き物だ。
最初からそうプログラムされていたから、グランド・マザーに他の考え方は無い。
ミュウ因子の排除が不可能だっただけで、生まれて来たミュウは皆殺しにするのが仕事だから。
グランド・マザーが、ああいう機械でさえなかったら…。
権力者ってヤツには珍しくない、自分に都合のいい解釈をするタイプだったらなあ…。
ミュウも吉兆になれていたかもしれないのに、と残念そうな顔のハーレイ。
時の権力者が一つ間違えれば、凶兆でさえも吉兆になる。不吉なように思える花でも、双頭蓮の出現を蘇我氏が喜んだように、それは素晴らしい吉兆に。
それと同じで異分子のミュウも、考え方次第で吉兆になれた。グランド・マザーが「吉兆だ」と判断していたら。
人類たちが何と唱えても、聞く耳を持たなかったなら。
「…ミュウが吉兆になっちゃうんだ?」
人類から見たら気味が悪くて、サイオンを持った異分子でも。
とても不吉で、早い間に処分しなくちゃ、って誰もが思って、そう言っていても…?
「グランド・マザーが、自分勝手な思考の持ち主ならな」
きちんとプログラムされた機械ではなくて、ミュウについての思考を一から始めていたら。
ついでに、デカイ権力を握ったヤツらが陥りがちな、自分中心な世界を描いていたとすればな。
前の俺たちは吉兆になり損ねたか、とハーレイは腕組みをした。「本当は吉兆だったのに」と。
「正真正銘の吉兆だったぞ、見た目は如何にも不吉そうでも」
今の世の中ってヤツを見てみろ、それが証明されてるじゃないか。ミュウが吉兆だったこと。
ミュウの時代がやって来たお蔭で、今じゃすっかり平和な世界になったってな。宇宙の何処にも戦争は無いし、武器も兵器も作られちゃいない。軍も無ければ、戦艦も無いし…。
おまけに地球まで青く蘇って、俺たちがこうして住んでいられる。前の俺が辿り着いた時には、何も棲めない星だったのに…。毒の海と砂漠が広がっているだけだったのにな?
その地球の姿を元に戻したのは、結局の所はミュウなんだぞ?
キースの野郎が関わってはいても、ジョミーがいなけりゃ、青い地球には戻っていない。それを思うと、ミュウは吉兆だったんだがなあ…。
どんなに人類に嫌われていても…、とハーレイが言いたくなるのも分かる。
遠い昔には、季節外れの桜や狂い咲きの花たちは嫌われたのだけれども、今では喜ばれる存在。珍しい花が咲いているから、と新聞に写真が載ったりもして。
前の自分たちも、それと似たようなものだったろう。
サイオンという、人類には無い特殊な能力を持った人間。だから「異分子」だと忌み嫌われて、端から処分されていた。「生かしておいても、ろくなことはない」と。
けれど、本当は「進化の必然」。
ミュウの時代がやって来ないと、人間は先へ進めなかった。平和な時代も、青く蘇った地球も、人類の時代からミュウの時代へ移ったからこそ、此処にあるもの。
それに気付かず、グランド・マザーは「ミュウの殲滅」を続けさせた。そうすることは、歴史に逆らうことなのに。…けして上手くは運ばないのに。
もっとも、追われ続けたミュウの方でも、まるで気付いていなかったけれど。
自分たちは「異分子」なのだと思い込んだままで、懸命にもがき続けていた。異分子を排除するマザー・システムから、なんとか逃れようとして。
そのシステムを変えるためにと、地球を目指して。
(グランド・マザーが、勘違いをしてくれてたら…)
ミュウは吉兆になれただろうか?
人類の指導者が何と言おうと、滅ぼされない道を歩んで行けたのだろうか…?
遥かな昔に、蘇我氏の長が犯した勘違い。不吉の前兆だった双頭蓮を、吉兆と思い込んだこと。わざわざ立派な絵まで描かせて、奉納させたという思い上がり。
世間の人々は、その蓮の花を恐れていたのに。「不吉なことが起こらねばいいが」と、怖そうに眺めていたのだろうに。
それと同じにグランド・マザーも、ミュウの存在を読み誤っていたならば。自分の治世に現れたミュウを、吉兆なのだと思い込んで保護していたのなら…。
(前のぼくたちは、アルタミラで星ごと滅ぼされずに…)
生きて、どういう道を歩んだか。人類はミュウを嫌うわけだし、やはり戦いになっていたのか。人類との戦いが始まったならば、目指すべき場所は…。
(やっぱり地球になるんだよね…?)
人類の指導者が誰であろうと、その後ろにはグランド・マザーがいる。それを倒してしまわない限り、ミュウの時代は手に入らない。…いつまで経っても異分子のままで。
(グランド・マザーが、「ミュウを滅ぼせ」って言っていなくても…)
人類がそう考えるのなら、人類の世界を変えるしかない。地球に行き着き、グランド・マザーを破壊して。…SD体制を根幹から覆して。
そうなった時は、グランド・マザーは蘇我氏と同じ。自分だけが「吉兆なのだ」と信じ続けた、不吉なものに滅ぼされるから。
人類たちが「あれは不吉だ」と唱え続けた、ミュウが滅びを呼び込むのだから。
そうなると、つまり…。
「えっと、ハーレイ…。前のぼくたち、本当は吉兆だったけど…」
グランド・マザーにとっては、吉兆だろうと、不吉だろうと、結果は全く同じじゃない。
吉兆だから、って保護されていても、人類がミュウを見る目は違うよ?
サイオンを持っているっていうだけで気味が悪くて、やっぱり忌み嫌うんだろうから…。
そういう世界を変えるためには、地球まで行って、グランド・マザーを倒すしか…。
どっちにしたって、グランド・マザーはミュウに滅ぼされてしまって、おしまい。
だから、グランド・マザーがミュウをせっせと排除してても、保護していても、最後は同じ。
グランド・マザーにはミュウは凶兆なんだよ、どう転がっても。
「吉兆なんだ」って喜ぶ方でも、前のぼくたちにやったみたいに、排除しようとする方でもね。
どっちに転んでも不吉だったよ、とクスッと笑った。グランド・マザーにしてみれば、ミュウは不吉な存在だから。
蘇我氏が不吉な双頭蓮を喜んだように、「吉兆」として捉えていても。
実際の歴史がそうだったように、「異分子」として徹底的に排除していた方でも。
「そう思わない? 最後はミュウに壊されちゃうんだよ、グランド・マザーは」
吉兆だから、って保護していたって、異分子として排除し続けたって。
最後は同じで、ホントに蘇我氏の蓮みたい…。グランド・マザーは勘違いをしてくれなくって、ミュウは保護されなかったけれど…。嫌われ続けただけだったけどね。
「なるほどなあ…。どう転んだとしても、最後は同じになっちまうのか…」
ミュウって種族は、地球や宇宙には吉兆だったが、グランド・マザーには凶兆だった、と。
たとえ吉兆だと喜んでいても、蘇我氏みたいに滅びちまっておしまいなんだな…?
「うん。本当に双頭の蓮とおんなじだよね。…前のぼくたち」
捉える人の心次第で決まっちゃうんだよ、吉兆なのか、凶兆なのか。
グランド・マザーは機械だったから、人間とは全く違うけど…。とても驕った思考を持ってて、ミュウの殲滅をプログラムされてなかったら、ミュウを保護していたかもね。
さっきハーレイが言ってたみたいに、自分に都合よく考えちゃって。
吉兆のミュウを保護した可能性はあるよね、と可笑しくなる。機械がそういう思考をしたなら、歴史の流れが変わっていたかもしれないから。最後は同じ結末になっても、途中の道が。
「あったのかもなあ、そういう道も…」
実際には有り得なかった道だが、そいつはプログラムのせいだ。
グランド・マザーが、「ミュウを発見したら処分しろ」という命令を一切、組み込まれないで、自由に思考していたら…。
権力ってヤツに酔っちまっていたら、ミュウの保護だって充分、有り得た。
人類が何と言っていようと、「自分なら上手く使いこなせる筈だ」と思い込んで。
そうやってミュウを放っておいたら、牙を剥かれるというわけだな。
人類がミュウを忌み嫌うせいで、ミュウの堪忍袋の緒が切れちまって。
「こんな世界が悪いんだ」とSD体制を倒しにかかって、グランド・マザーも倒されるのか…。
役に立ちそうだと保護した筈の、ミュウに足元を掬われちまって、マザー・システムごと。
それも面白かったかもしれん、とハーレイは感慨深そうな顔。「別の道か」と。
「前の俺たちは、その道を歩めはしなかったが…。捉えるヤツの心次第なんだな」
ミュウが不吉か、そうでないかは。…吉兆には違いなかったんだが。
そうか、前の俺たちは双頭の蓮だったのか…。剣池には咲いちゃいないが、蘇我氏の代わりに、グランド・マザーを滅ぼしちまった蓮の花。
「どうだろう? 狂い咲きだって、不吉なんだと思われていたって言うんだから…」
双頭蓮じゃなくって、ぼくが見たような、狂い咲きしてる夾竹桃かもしれないよ?
それとも冬の桜の花かな…、と言ったのだけれど。
「桜とかも悪くないんだが…。俺としてはだ、双頭の蓮の方が好みだな」
そっちがいい、とハーレイは双頭の蓮の方。どの花だろうと、捉え方次第で、不吉なものにも、喜ばれる花にも変わるのに。
「…なんで双頭の蓮がいいって言うの?」
蘇我氏を滅ぼしちゃった花だよ、縁起の悪さが他の花より凄くない…?
今は、おめでたい花みたいだけど、あんな話を聞かされちゃったら、他の花の方が…。
「どう捉えるかは心次第だと、お前、自分で言ったじゃないか。そいつを忘れてくれるなよ?」
双頭蓮をよく考えてみろ。一つの茎に二つの花だぞ、其処がいいんだ。
お前と二人で一本の茎なら、前の俺たちにはピッタリじゃないか。
生まれた時期こそ違ってはいたが、出会ってから後は、ずっと二人一緒に生きていたんだから。
お前がメギドに行っちまうまでは…、とハーレイに言われて気が付いた。確かに双頭蓮の花は、前の自分たちの姿に良く似合う。一つの茎に二つの花をつける蓮なら。
「そうだね、ああいう花だったよね…。前のぼくたち」
本当は花じゃなかったけれども、花だとしたなら、それだと思う。双頭の蓮…。
今度も一緒に生きていけるよ、今度こそ、絶対に離れないで。
ぼくはメギドに行ったりしないし、本当に、うんと幸せ一杯に…。
「一つの茎に二つの花か…。いつまでも離れないカップルの蓮というわけだな」
そういったことを考えた人が、幸せの花にしたかもなあ…。双頭蓮を。幸せを運んで来てくれる花だと、仲のいいカップルなんかになぞらえて。
「きっとそうだよ、花のカップルだもの」
最初から一つの茎に生まれて、二つ一緒に咲くんだものね。
いつか本物の双頭蓮を見てみたいな、と強請ってみた。
滅多に咲かない花だけれども、何処かで咲いたら見に行きたい、と。
「蓮の花が咲く場所、色々あるでしょ? その内に何処かで咲く筈だから…」
ハーレイと二人で出掛けられるようになってから咲いたら、見に行きたいな…。
前のぼくたちみたいな花を。
「よしきた、俺の車で行こうじゃないか。双頭蓮を見にドライブだな」
前の俺たちだけじゃなくてだ、今の俺たちにも似合いの花を。
一本の茎に二つの花だし、本当にお前と俺みたいに一緒の花だからなあ、離れずに咲いて。
俺が蓮の花に見えるかどうかはともかくとして…、とハーレイは困り顔だけど。
「大丈夫! ぼくと一緒に咲いてるんなら、ハーレイだって蓮の花に見える筈だから!」
だから約束、双頭蓮を見に連れて行ってね。…いつか咲いたら。
咲いたっていうニュースが出たら…、と指切りをして約束した。「見に行こうね」と。
珍しいという双頭蓮。何年かに一度、咲くか咲かないかも分からない花。
それが咲いたら、いつかハーレイと二人で見に行こう。それが咲いている蓮池まで。
狂い咲きの花も、双頭の蓮も、まるで異分子だったミュウのようでも、今の時代は幸せの花。
ミュウが本当は吉兆だったように、その花たちも今は喜ばれる。
「珍しいから」と写真を撮られて、ニュースにもなって。
誰も不吉だと嫌わない花を、ハーレイと二人、いつか仲良く眺めにゆこう。
一つの茎に二つの花の双頭蓮。生まれた時から、同じ茎で育った二つの花を。
「ぼくとハーレイみたいだよね」と、しっかりと手を繋ぎながら。
「いつまでも二人、一緒だものね」と、握り合った手にキュッと力をこめたりもして…。
花たちの異分子・了
※ブルーが出会った季節外れの夾竹桃の花。違う季節に咲いているだけに、異分子かも。
前の生の頃のミュウも、異分子でしたけど、実の所は進化の必然。吉兆と考えてもいい存在。
ハレブル別館、長いこと書き続けて来ましたが、pixiv に置いている、アニテラ創作。
ここ数ヶ月、全く読まれなくなりました。
アニテラの時代は終わったようだ、と思いますので、年度末で、終了にするつもりです。
最終回などは書きません。来年3月まで、今の調子で続けてゆきます。
それ以降、どうするのかは、pixiv の動き次第でしょうか。
まだ読む人が残っているなら、ごくごく短い「その後の二人」を書くかもしれません。
おバカなシャングリラ学園生徒会室の方は、来年も今まで通りです。
他の二つのサイトについては、続けられる間は、書き続けると思います。
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「さてと…。今日は、ちょっぴり暑いしな?」
季節外れな話をするか、と笑みを浮かべたハーレイ。
今はブルーのクラスで授業の真っ最中。古典を教えているのだけれども、眠くなる生徒も次第に増える。いくらハーレイが人気者でも、それと授業は別のこと。勉強が好きな生徒は珍しい。
生徒の集中力が切れて来た時、絶妙なタイミングで繰り出す雑談。ハーレイの人気が高い理由の一つは、それ。
(確かに今日は暑いよね?)
夏ほどじゃないけど、とブルーも思う。日向に出たら汗ばむ陽気。
クラスの誰もが「暑い」と感じているのだろうし、季節外れな怪談だったら、まさにピッタリ。きっと怪談なのだろう、とクラス中が考えただろうに…。
(…怪談じゃないの?)
ハーレイが教室の前のボードに書いた文字。「扇」と大きく、一文字だけ。
扇と言ったら扇子と同じで、扇いで風を送るもの。夏のものだし、季節外れには違いない。
「お前たち、怪談だと思っていただろう? 残念ながら、今日はこいつだ」
古典の授業じゃ、お馴染みだよな。扇ってヤツは。…いわゆる扇子。
その扇子だが、何処で生まれたか知ってるか?
最初に作られた場所のことだな、というハーレイの問い。「分かったヤツは?」と。
(えーっと…?)
ずっと昔の中国だっけ、と考えた扇子の生まれ故郷。歴史が古い道具の筈だし、遠い昔の日本に文化を輸出したのは中国だから。
「中国ですよね!」
他の生徒に先を越された。何人もが「はいっ!」と元気に手を挙げ、「中国です!」。
出遅れちゃった、と本当にガッカリしたのだけれど…。
「残念だったな、お前たち」
扇という言葉は中国に昔から存在したから、間違いじゃないが…。
言葉は中国生まれなんだが、扇子の方は違うってな。
そう簡単に分かるようなことを俺が訊くか、とハーレイはフフンと鼻で笑った。勇み足で答えた生徒たちを。「お前たち、まだまだ甘すぎるぞ」と。
お蔭で、ホッとつけた息。出遅れたけれど、恥はかかずに済んだから。
(怪我の功名…)
ホントにそれだよ、と思ってしまう。もしも一番に手を挙げていたなら、今頃は耳まで真っ赤になっていただろう。「間違えちゃった」と俯いて。
ハーレイは「中国です」と答えた生徒たちを見回し、「中国の扇は団扇なんだ」と「扇」の字を指でトンと叩いた。
団扇は今の時代もある。扇子と同じで、復活して来た日本の文化。夏に使う風を作り出す道具、扇子との違いは「畳めない」こと。
昔の中国で「扇」が意味していたものは団扇。そういう形の風を送る道具なら、古代エジプトの壁画などにもあるらしい。大きさや形、材料などは地域によって様々で。
けれど、折り畳める扇子が最初に生まれた場所は…。
「中国じゃなくて、この日本なんだ。…今の日本とは違うがな」
「ええっ!?」
日本ですか、とクラス中の生徒がどよめいた。
SD体制の時代には文化ごと消された扇子だけれども、今は普通に見られるもの。
遠い昔の小さな島国、この辺りにあったと伝わる日本。其処の文化として復活している、扇子や団扇。古典の授業でも挿絵などで見る扇子だけれど…。
(日本で作って、あちこちに輸出していただけで…)
元は中国からやって来たのだ、と頭から思い込んでいた。他の生徒と全く同じに。
日本人は手先がとても器用で、他所の国から伝わったものをアレンジするのを得意としていた。それは細かい細工物やら、美しい絵を描いたものやら、日本の品物は引っ張りだこ。
扇子もそれだと考えた。日本の製品が美しいから、きっと人気が高かったのだ、と。
(だって、昔の他所の国にも…)
広く知られていたのが扇子。
ヨーロッパの貴婦人たちも持っていたのだし、肖像画にも描かれているほど。
それほど有名だった扇子が日本生まれだなんて、俄かにはとても信じられない。そういった頃に世界に広がったものは、中国のものが多いから。
紅茶に陶磁器、絹だって元は中国生まれ。だから扇子も中国だろうと思うのに…。
なんとも解せない、日本生まれだという扇子。「中国生まれ」の方がしっくりくる。遥かな昔に中国で生まれて、日本に渡って、更に洗練されたのだ、と考える方が。
けれどハーレイは「間違えるなよ?」と念を押した。
「勘違いしているヤツらは多いが、正真正銘、扇子ってヤツは日本生まれだ」
歴史もうんと古いってな。平安時代には完成してたし、古典の中にも出てくるだろう?
そんな具合に、日本には扇子の記録がある。折り畳んで使っていたってことも。
ところが中国の方になったら、別の記録が残されている。日本から扇子が入ってくるまで、折り畳める形の扇は存在しなかった、とな。
つまり本当に扇子は日本生まれで、面白いことに、お前たちも知っている通り…。
高貴な女性は扇で顔を隠すものだ、とハーレイが交えた古典の復習。源氏物語などが描き出した当時の貴族の習慣。身分が高い女性の場合は、人前では顔を隠すもの。扇をかざして。
それと同じに、扇子が伝わったヨーロッパでも…。
「顔を隠していたんですか!?」
今度もクラスがざわめいた。「扇で顔を隠す」というのは、日本だけだと皆、思っていたから。
「日本ほどにルールは厳しくないがな。…それに自発的に隠していたわけだから」
そうそう顔は見せてやらない、と半ば意地悪かもしれん。
日本の場合は、扇で顔を隠さなかったら、「なんて行儀が悪いんだ」と思われちまって、縁談も来やしなかった。そういうマナーが定着していたもんだから。
ヨーロッパの方だと、其処までは行かん。自分を安売りしないために顔を隠していただけだ。
扇子は女性の大切な持ち物の一つでだな…。
お蔭で扇言葉というのまであった、とボードに書かれた「扇言葉」の文字。
「…扇言葉ですか?」
何だろう、と声があちこちで上がったけれど。
「書いた通りだ、言葉なんだ。一種の暗号みたいなモンだな、扇言葉は」
気になるヤツは自分で調べろ、こっちの方まで話していたらキリが無いから。
もう充分に聞いただろうが、扇子の話は。…眠かったヤツらも、目が覚めたな?
授業に戻る、と終わった雑談。
扇子の話は其処でおしまい、「扇」も「扇言葉」も消された。教室の前のボードから。
ハーレイの授業で扇子の話を聞いた日の帰り。
いつものようにバス停から家まで歩いていたら、この時間でも暖かすぎる日差しが降って来る。小春日和と言うのだろうか、季節外れの陽気だから。制服の上着を着ていると暑い。
(こういう時に、扇子があったら…)
パッと広げて、パタパタと涼しい風を送れる。顔や首筋なんかに向けて。
(男の人でも、昔だったら扇子を持ってて…)
粋に扇いでいたのだろう。今日のような日や、夏の暑い日は。
今の時代も、お洒落な人なら紳士物を持っているのだけれども、滅多に見ない。だから自分も、鞄に扇子を入れてはいない。
あったら便利なんだけど、と考えながら帰った家。「暑い日は、扇子が便利そう」と。
そうは思っても、今ではすっかり女性の持ち物になっている扇子。
(ママだって、夏は使っているし…)
出掛ける時には持って行くよね、とダイニングでおやつを頬張りながら扇子を思い浮かべる。
小さい頃から、母の扇子はよく見ていた。暑い日には外で、扇いで貰っていたことも。
(公園の東屋なんかに入って…)
パタパタと風を送って貰った。ジュースを飲んでいる時とかに。
母の扇子は、日本の文化が復活して来た時に戻って来たものの一つ。女性用の方が断然多くて、父は扇子を持ってはいない。
(前のぼくたちが生きてた頃は…)
SD体制の時代なのだし、無かった扇子。文化ごと消されてしまっていて。
人類の輸送船から物資を奪って暮らした時代も、物資の中に扇子は混じっていなかった。扇子が作られていなかったのでは、存在するわけもないし、物資に紛れ込んでもいない。
(もしもあったら、うんとレトロなものだから…)
前のハーレイが貰って行ったのだろうか、「これはいいな」と目を付けて。
とてもレトロだった、羽根ペンや木で出来た机を好んだハーレイ。他の仲間は見向きもしない、遠い昔の文化の名残を。
だから扇子が混じっていたなら、喜んで貰いそうではある。
船にはきちんと空調があって、扇子なんかの出番は全く無い世界でも。
ハーレイだったら貰ったかも、と思ったけれど。いそいそと扇子を貰いそうだけれど…。
(扇子、ヨーロッパじゃ女性用…)
今の時代の日本でも同じ。主に女性が持っているもの。
もしも扇子が混じっていたなら、明らかに女性用だったろう。花の模様だとか、ヨーロッパ風のレースで飾られた扇だとか。
(うーん…)
それじゃ駄目だ、と頭を振って戻った二階の自分の部屋。空になったカップやケーキのお皿を、キッチンの母に返してから。
(前のぼくが奪った物資の中に、扇子が混じっていたとしたって…)
男性用の扇子ならともかく、女性用だと、どうなったろう?
勉強机に頬杖をついて考える。前のハーレイなら、扇子を見付けてどうしただろう、と。
物資の中に紛れた扇子。誰も欲しがる者が無ければ、不要品として捨てられて終わり。倉庫には余計な物は置かずに、大切なものを仕舞っていたから。後で役立ちそうなものとか。
船では使わない扇子。空調があれば、暑すぎたりはしないから。
機関部などの暑い場所では、扇子で扇ぐ暇があったら、作業を早く済ませて立ち去るだけ。あの船の中では、扇子は要らない。
(いくらハーレイでも、使わないよね?)
物資の中に混じった扇子を見付けて、「レトロなものだ」と見惚れていても。
きっと女性用の扇子なのだし、「俺が貰う」とは言いそうにない。ハーレイは男なのだから。
それとも、貰って使うのだろうか?
女性用でも全く気にせず、「これはいいな」と手に取って。…他に希望者はいない扇子を。
(扇言葉とかって言ってたし…)
扇ぐ他にも使い道があるのが扇子というもの。
けれども、あれも女性の世界のものだろう。扇子は女性の持ち物なのだし、扇言葉も女性たちの間で交わしていたのに違いない。
そういうことなら、前のハーレイが扇子を貰って行っても役に立たない。
扇言葉を知っていたとしたって、男性はそれを使わないから。女性の間だけで使う言葉で。
そんな扇子を欲しがるだろうか、レトロ趣味だった前のハーレイが…?
羽根ペンと、それに木で出来た机。シャングリラの仲間たちが見向きもしなかったもの。
あまりにレトロで時代遅れで、欲しがる者は誰もいなかった。前のハーレイを除いては。それを喜んで貰って行ったのが前のハーレイで、白い鯨になった船でも使っていたほど。
あのハーレイが扇子と出会っていたなら、欲しがったのか、それとも見ていただけか。
(うーん…)
物資の中に扇子があったら、どうしていたのか訊きたい気分。
何処から見たって女性用でも、「俺が貰う」と持ち去ったのか。あるいは「誰も欲しがらない」まま、扇子は宇宙に廃棄されたか。
(いったい、どっちだったんだろう…?)
知りたいな、と思っていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、早速、訊いてみることにした。テーブルを挟んで向かい合わせに腰掛けて。
「あのね、ハーレイ…。扇子があったら欲しかった?」
「はあ? 扇子って…」
いきなり何だ、とハーレイは怪訝そうな顔。「扇子がどうかしたのか?」と。
「今日の授業で言っていたでしょ、扇子は日本で生まれたんだ、って」
扇子があったら、ハーレイ、欲しい?
貰っちゃおうって思うのかな…?
「扇子なあ…。渋くてなかなかいいとは思うが、持っちゃいないな」
あれを持つには、もう少し年を取らないと…。粋に使いこなせるようになるには。
「え? 年を取るって…。なんで?」
どうして扇子に年が関係してくるわけ、と目を丸くした。扇子は風を送るための道具で、誰でも使いこなせそう。広げたり閉じたり、それさえ出来る年になったら。
「いや、男性用の扇子を持つには、俺の年だと、ちと若すぎて…」
絵にならないしな、とハーレイは軽く肩を竦めた。「扇子が似合うだけの貫禄が無い」と。
「ハーレイ、やっぱり欲しいんだ…。扇子…」
「年を重ねた男の魅力はいいもんだしな。親父もたまに使っているし」
あれが渋くていいんだ、うん。
夏の盛りにヒョイと広げて、パタパタとやっているのがな。…団扇よりもずっと絵になるから。
団扇だと余所行きの感じがしない、というのがハーレイの言い分。家で気楽に扇ぐのが団扇で、扇子は出掛けた先でお洒落に使うものらしい。
今のハーレイの父は紳士物の扇子を持っているから、ハーレイもそれに憧れる。もう少しばかり年を取ったら、自分も扇子が似合うのに、と。
今のハーレイの扇子に対する気持ちは分かったけれども、問題は前のハーレイの方。遠く遥かな時の彼方で、シャングリラで生きていたハーレイ。
「今のハーレイは、扇子が欲しいらしいけど…。そのために、年を取らないでよ?」
もう止めるって約束したでしょ、年を取るのは。
だから扇子が似合うような姿になるまで、年を取ったら駄目だからね。…いくら欲しくても。
でも…。前のハーレイなら、どうだった?
扇子があったら欲しかったのかな、うんとレトロな道具でしょ、扇子。
風を送るんなら空調がちゃんとあったものね、と扇子のレトロさを強調した。羽根ペンや木製の机を愛用していた前のハーレイは、明らかにレトロ趣味だったから。
「扇子が欲しいかと訊かれても…。扇子なんか無いぞ、あの時代には」
機械が文化を消しちまってたし、何処を探しても無いってな。前の俺たちが生きた頃には。
無いものには出会いようがないってモンだろ、前の俺と扇子。いくらレトロな道具だとしても、出会いが無いなら話にならんぞ。
「そうだけど…。それは分かっているんだけれど…。でも…」
もしも扇子が、前のぼくが奪った物資の中に混じっていたら、どうしてた…?
あの時代に扇子は無かったんだし、あったとしたら、の話だけれど。
扇子があったら、前のハーレイはどうするわけ…?
貰って行くのか、要らないからって廃棄処分に回すのか、どっち?
ハーレイくらいしか欲しがらないでしょ、とてもレトロな扇子なんかは…?
船では要らない道具だものね、と重ねて言った。シャングリラでは出番のない道具、と。
「ふうむ…。うんとレトロな扇子と出会っちまった時か…」
ちょいと手に取ってはみるんだろうなあ、「これが扇子というものか」と確かめに。
大いに興味が湧くと思うぞ、風を送るための道具だなんて。
しかも自分で扇ぐためのもので、空調みたいに自動になってはいないんだしな?
まず間違いなく手に取るだろう、とハーレイは大きく頷いた。「前の俺なら、そうなるな」と。
「レトロ趣味だったのは本当なんだし、扇子もレトロなんだから…。手が伸びちまう」
物資の分配を始める前に見付け出すのか、分配した後に残った中から掘り出すのか。
どっちにしたって、触りもしないで廃棄処分に回しはしないぞ。使い心地ってヤツはどうかと、そいつを確かめない内は。
「使い心地って…。その扇子が女の人用のでも?」
扇子、今も殆どは女の人のためのものでしょ、昔だってそう。…日本には男の人のための扇子もあったけれども、ヨーロッパだと女の人用ばかりだから…。
前のぼくたちの時代に扇子があったら、女の人用だと思うんだけど…。
花模様だとか、レースつきだとか。そういう扇子でも、ハーレイは触って使ってみた…?
女の人用の扇子だよ、と念を押したけれど、ハーレイは「気にしないな」と直ぐに答えた。
「どんなに華やかな扇子だろうが、扇子は扇子だ。レトロなものには違いない」
俺にしてみりゃ、大いに興味があるわけだから…。
ちゃんと手に取って、広げてみたりするんだろう。広げたら畳んで、「こうなるのか」と扇子の凄さに感動もして。一本の棒がパッと広がるわけだしな?
でもって、そいつで扇いだりもして、貰っておくか、どうすべきかを考えるんだ。
女物だろうが、俺が自分の部屋の中だけで使う分には、誰も笑いやしないんだから。
ただし、俺がゆっくり考える前に、エラが持って行ってしまわなければ、だが。
「エラ…?」
なんでエラなの、エラはレトロな趣味なんか持っていなかったよ?
木の机だって欲しがらなくて、羽根ペンも見向きもしていなくって…。なのにどうして、エラが扇子を持って行っちゃうの…?
有り得ないでしょ、と指摘したのだけれども、ハーレイは「そうでもないぞ」と返した。
「レトロな趣味は持っていなくても、知識は豊富だったしな。調べ物だって好きだったから…」
扇子があるような時代だったら、扇言葉を知っていそうだと思わんか?
なにしろ相手は、あのエラだから。
「そうかも…!」
本物の扇子は初めて見たって、色々なことを知っていそう…。扇言葉があることも。
確かにエラなら、きっとピンと来たことだろう。物資の中に混ざった扇子を目にしたら。
とてもレトロな扇子という道具も、それが使われた遠い昔の文化なども。
「あの時代でも、ちゃんと調べれば、扇言葉のデータなんかもあったよね?」
扇子が消されちゃってた頃でも、扇子について調べていけば。…データは残っていたんだから。
「恐らくな。…扇子を持ってる肖像画なんかも、データの形で残っていたし」
元の肖像画は、とうに失われてしまっていたって、どういう絵かは分かったんだ。絵に描かれた人が誰なのかも。
だから扇子に興味さえあれば、いくらでも調べられただろう。何に使ったのか、どういう具合に発展していったのか。…扇言葉が作り出されたトコまでな。
エラなら調べられただろう、と今のハーレイが言う通り。
レトロ趣味ではなかったけれども、遠い昔の歴史などにも詳しかったエラ。扇子に興味を持っていたなら、扇言葉にも辿り着いただろう。
そして本物の扇子に出会った時には、それを試そうと持って行ったりもして。
「ねえ、ハーレイ…。扇言葉って、どんなものなの?」
授業では話していなかったけれど、ハーレイは知っているんでしょ?
「これ以上はキリが無いからな」って、授業に戻ってしまったけれど…。
一種の暗号みたいなヤツって、どうやって扇子で暗号になるの…?
中に何か書いておくだとか、と問い掛けた。扇子の素材にもよるだろうけれど、文字などを中に書くことは出来る。だから暗号を其処に書くのか、と。
「おいおい、それじゃ無粋だろうが。まあ、暗号としては使えそうだが…。そのやり方でも」
だがな、よくよく考えてみろよ?
扇言葉を使っていたのは貴婦人なんだぞ、本物の暗号を使うと思うか?
本当に秘密のやり取りだったら、そういったヤツも使ったりはしていたんだが…。命が懸かった脱出劇とか、そんなのもあった時代だから。
しかし、扇言葉を使ってた場所じゃ、物騒なことは起こらなかった。
舞踏会とか、皆で集まっての晩餐会とか、華やいだ席で優雅に扇を持ってたんだぞ?
扇言葉は、扇の動きだけで色々なことを伝えるための手段だってな。
こう動かしたら、この意味だとか。声は出さずに、扇子だけで言葉を伝えられた、と。
扇子の動きだけで言葉を伝えた、遠い昔の貴婦人たち。確かに、ある意味、暗号のよう。扇子の動きに意味があるとは、知らないと気付きもしないから。
大勢の貴婦人たちが扇子で言葉を交わしていたって、傍目には扇子が優雅に動いているだけ。
働いたことなど一度もない手に操られて。彼女たちだけの秘密の暗号、それを語るために。
「扇言葉って、そういうものだったんだ…。ホントに暗号みたいだね」
ぼくが見たって、暗号だなんて思いもしないよ。扇子を持ってる、って眺めるだけで。
…前のぼくたちが生きた頃には、扇子は存在しなかったけれど…。
前のハーレイも出会えないままになっちゃったけれど、もしも出会えることがあったら。
エラが本物の扇子に出会っていたなら、どうなったかな?
前のハーレイよりも先に持ってっちゃうかな、きっと女の人用の扇子だろうし…。
「間違いなく持って行ったと思うぞ、俺が「どれ」と扇子に手を伸ばすよりも前に」
これは私が貰っておきます、と掻っ攫う姿が目に浮かぶようだ。前の俺には触らせもしないで。
そうやって持って行っちまった後は、女性の間で流行ったんじゃないか?
扇言葉というヤツが。…それこそ船で扇子を作る所から始めて。
その気になれば作れただろう、とハーレイが言う扇子。構造自体は単純なのだし、最初の一つが手に入ったなら、真似て作ってゆけばいいだけ。
船の中でも揃う材料、それを使って。折り畳める扇子の形に仕上げて、欲しい女性たちに配ってゆくことも出来た。扇言葉を使いたい女性は、扇子を貰って扇言葉を使う。
「本当に?」
流行ったのかな、扇子を使う言葉だなんて…。暗号なんかを使わなくてもいい世界なのに。
こっそり話をしたいんだったら、思念波だってあったんだけど…?
「扇言葉は貴族の習慣だったんだぞ。ずっと昔の、本物の貴婦人たちが使った言葉だ」
そいつを真似て話せるんだぞ、扇子が一本ありさえすれば。
お姫様みたいなドレスは無くても、贅沢な宝石だって無くても。
それでも言葉は共通だってな、貴婦人たちと。扇子を使って話しさえすれば。
「…夢が一杯で、流行りそうだね…。あの船の中で、お姫様ごっこ…」
「そうだろう? だから流行ると言ったんだ」
エラが扇子と出会っちまったら、扇言葉があったと思うぞ。…あのシャングリラに。
白い鯨じゃなかった船でも、とハーレイは笑う。人類の船から物資を奪って、皆が懸命に生きていた船。名前だけが「楽園」だった時代のシャングリラ。
そんな船でも、扇子があったら扇言葉が流行ったろう、と。扇子を手にした女性たちは皆、遠い昔の貴婦人気分で。
「うん、本当に流行っていそう…。貴婦人なんて、あの船じゃ誰もなれなかったから」
ミュウは見付かったら殺されるだけで、人間扱いさえもされてなくって…。
だから余計に夢を見たいよね。…扇子を一本持っているだけで、貴婦人の言葉を喋れるんなら。
ずっと昔に、地球にいた本物のお姫様たち。その人たちと同じ言葉を使えるんなら…。
とても素敵で、みんなが喜びそうだけど…。エラのアイデア、みんなが飛び付きそうだけど…。
どんなのがあるの、扇言葉って?
扇子の動きで伝えられること、中身はどういう風になるわけ…?
普通の言葉と同じなのかな、と投げ掛けた問い。暗号めいた扇の言葉で会話が出来たか、遊びに過ぎなかったのか。なにしろ使うのは扇子だけだし、語彙が多そうには思えないから。
「扇言葉の中身ってか? そりゃあ、色々あったってな」
なんと言っても言葉なんだし、伝えられることは多いに越したことはない。
「はい」と「いいえ」は基本の中の基本ってヤツだな、これが無ければ始まらん。質問されたら答えるのが会話の基本だろうが。
そして本当に凄かったらしいぞ、扇言葉で伝えられる中身というヤツは。
「あなたが好きです」とか、そんなのはまだマシな方でだ…。「あなたは残酷です」なんていう言葉もあったらしいから。
声に出さなくても、扇子だけでそれを伝えるんだぞ。男の方も大変だってな。
「男の人って…。なんで?」
扇言葉は、女の人が使うものでしょ。女の人しか扇子は持っていないんだから。
女の人の言葉だよね、とキョトンと首を傾げていたら、ハーレイは「甘いぞ」と可笑しそう。
「男も、そいつを知らなきゃいけなかったんだ。女性がそれで話す以上は、読み取らないと」
扇言葉の意味ってヤツを。…自分は使う方でもないのに、あれはどういう意味なのか、とな。
「えーっ!?」
男の人も覚えなくっちゃ駄目なの、とても沢山の言葉があるのに?
自分は扇子を持ってないのに、扇言葉を覚えていないと駄目だったなんて…!
酷すぎだよ、と叫んだけれども、それは本当にあったこと。
人間が地球しか知らなかった時代に、東洋の小さな島国で生まれた扇子が海を渡って行って。
ヨーロッパで貴婦人たちに愛され、必須の持ち物に変身を遂げて。
扇子の動きで意味を表す扇言葉は、紳士淑女のための教本までが作られていた。貴婦人が持った扇子がこう動いたら、こう、と意味を詳しく書き記して。
それをきちんと覚えていないと、舞踏会などで気持ちを伝えられない。相手の気持ちを読み取ることも出来ない。しかも…。
「その教本を持って話をするなど、論外だからな? 場の雰囲気がブチ壊しになる」
とにかく中身を覚えるしかなくて、そいつが社交のルールってヤツだ。
「好きです」と言ってくれているのに気付かないなら、自業自得で悲しいことになるんだが…。
「あなたを追い払いたい」ってヤツもあるんだ、そう言ってるのに側を離れなかったら…。
周りから見れば非常識なヤツで、評判までが地に落ちちまう。「あいつは駄目だ」と噂が流れて命取りってな。
だから男もきちんと覚えておかないと、と言われれば分かる。貴族の世界は社交が大切、人との関わり方が重要。彼らの仕事は、社交そのものだったから。
「なんだか凄いね…。男の人まで巻き込んじゃってた言葉だなんて」
扇子を持つのは女の人だし、女の人同士でお喋りするんだと思ってたのに…。
そうじゃなくって、男の人にも扇言葉で話すだなんて。…男の人まで扇言葉を覚えたなんて…。
本まで出ていたくらいなんだし、みんな頑張って覚えたんだと思うけど…。
働く必要が無かった分だけ、時間はたっぷりありそうだけど…。でも…。
扇言葉を覚えて使っていたのは、機械じゃなくって人間だよ?
人間に「絶対」なんかは無くって、ミスすることも多いんだけど…。うっかりミスとか。
そんな風にして、間違えちゃったらどうなるんだろう?
扇子を持ってる女の人も、それを読み取る男の人も…。
「間違いなあ…。扇言葉で伝え損なったり、読み損なったりするってか…?」
確かに無いとは言い切れないよな、なにしろ人間なんだから。
「あなたが好きです」と言われてるのに、「嫌いなのか…」と諦めて去っていくヤツだとか。
逆に「好きです」と伝えたつもりで、「追い払いたい」と言っちまうとか…。
ありそうだよな、とハーレイも頷く「扇言葉の間違い」。きちんと声で話していたなら、そんな間違いは起こらないのに。…自分の気持ちを伝えるために、人間は声を持っているのに。
「ね、間違えちゃうことも起こりそうでしょ?」
扇言葉は厄介そうだよ、見た目はとても優雅でも。…扇子の動きだけで気持ちを伝えられても。
間違えちゃったら、それでおしまいになっちゃうこともありそうだもの。本当は上手くいく筈の恋が、間違えたせいで壊れてしまって。
良かったね、前のぼくたちが生きてた時代に、扇子が無くて。
シャングリラには扇子も扇言葉も無くって、声と思念波だけの世界で。
もしもシャングリラに扇言葉があったら、ぼく、間違えてしまいそうだから…。
ホントにやりそう、と舌をちょっぴり覗かせた。何か悪戯して、叱られた時の子供みたいに。
「なんだって?」
お前が何を間違えるんだ、シャングリラに扇言葉があったら…?
エラたちが喋っているのを眺めて、まるで違うことをやったりするのか?
「ソルジャーがおいでになった」と話してるのに、「来ないで下さい」と間違えちまって、何も言わずにそそくさと消えてしまうとか…?
「ううん、それならまだいいけれど…。間違いの中ではマシだと思う」
ぼくが扇言葉を読み取り損ねて、何か失敗してるくらいは。…ぼくが恥をかくだけだから。
だけど、扇言葉を使っているのが、ぼくだったら…?
エラが船の中で扇言葉を流行らせていたら、ぼく、面白がって扇子を貰っちゃうかも…。
女の人しか持っていなくても、「ぼくにも一本貰えるかな?」って。
白い鯨になった後なら、扇子を作るの、ずっと簡単になっていそうだし…。
扇言葉の詳しい本も、船の中で刷られていそうだし…。
そういう頃でしょ、前のぼくがハーレイのことを好きになったの。…一番古い友達だったのが、恋人同士に変わった頃って。
その大切な時に間違えてしまいそう。
ハーレイに「好き」って気持ちを伝えるのがとても恥ずかしくって、扇子を貰って…。
扇言葉の本で勉強して、「好きです」っていう時はこうするんだ、って…。
青の間で何度も練習してから、ハーレイに伝えに行くんだけれど…。
扇子を持って、とクスッと笑った。「其処で失敗するんだよ」と。
「失敗って…。お前が俺に扇言葉で伝えようとしてか?」
俺の部屋まで来たのはいいが、わざわざ扇子を使って「嫌い」と俺に言っちまって…?
嫌われた俺は酷いショックで、お前に「帰って頂けますか」と返事するのか?
お前と話す理由が無いしな、とハーレイが唸る「言葉を伝え損ねた」結果。「嫌いだ」と告げにやって来た人と、ゆっくり話しはしないだろう。酷い喧嘩になるだけだから。
「そう。…そしたら、おしまい…」
ぼくは「好き」って伝えたつもりで、間違えたなんて思わないもの。とても緊張していて、胸もドキドキだろうから…。「やっと言えた」ってホッとするだけ。
それの返事が「帰って頂けますか」だったら、ぼくの方だって大ショックだよ。
「好き」の返事が「帰れ」だなんて、どう考えても「俺の方は好きだと思っていない」っていうことだもの。…振られちゃった、って泣きそうな気分。
だけどホントに振られたんだし、仕方ないよね…。
青の間に帰って泣くしかなくって、ハーレイとの恋は始まりさえもしないんだよ。…ハーレイは「嫌われた」と思ってぼくを避けるし、ぼくは「振られた」と思っているし…。
それじゃ二人で話しもしなくて、いつまでも間違えちゃったまま。
ホントはお互い、大好きなのに…。ぼくが扇言葉を間違えなければ、恋が実っていたのにね…。
そういう失敗、起こりそうでしょ、と自分の顔を指差した。
前の自分も、人間だから。ソルジャー・ブルーでも、失敗することはあったのだから。
「お前の方が失敗なあ…。それも無いとは言えないが…」
それとは逆に、お前が正しく送っていたって、俺が間違えるかもしれないぞ?
「好きだ」と伝えてくれているのに、「大嫌いだ」と読み取っちまって、その後のことは、今の話と全く同じで。…お前に向かって「帰って頂けますでしょうか?」と言っちまって。
「ハーレイだったら間違えないでしょ。ぼくと違って」
キャプテンだものね、知識も沢山あったもの。シャングリラの中のことだったら。
扇言葉も完璧なんだよ、わざわざ勉強しなくったって。
「はてさて、そいつはどうなんだか…」
扇言葉は、ブリッジじゃ使わないからな?
あそここそ声と思念波の世界だ。優雅に扇子を使って話す余裕なんかは、誰も全く無いってな。
エラだって扇子は封印だろう、とハーレイが苦笑する「ブリッジ」という場所。
ブリッジは白いシャングリラの心臓なのだし、どんなに空気が和やかな時も、「正しく伝える」ために努力をするべき所。
船の周りの観測データも、航路設定などの数値も。
キャプテンからの指示はもちろん、機関長やら、航海長やらが発する声も、どれも正確に、皆の持ち場に伝わってこそ。
伝え損ねれば船が傷つき、最悪の場合は沈むこともある。人類軍から船を守っている、システムなどがダウンして。…ステルス・デバイスが作動しないとか、シールドも張れなくなるだとか。
そんな場所では、扇言葉は使えない。
「面舵」や「取舵」を扇言葉で伝えてみたって、誰も瞬時に動けはしない。
もっとも、キャプテンは男なのだし、扇子で指示は出さないけれど。
航海長のブラウだったら、扇子を持てる女性だけれども、扇言葉でカウントダウンは出来ない。数字を表すことは出来ても、ブリッジクルーは、そちらを向いてはいられないから。
「そっか…。扇言葉は、ブリッジには向いていないよね…」
普段に使っていないんだったら、ハーレイも詳しくなさそうだから…。
ぼくが「好きだよ」って扇言葉で伝えていたって、間違えちゃいそう。「嫌われたんだ」って。
それにハーレイが詳しくっても、ぼくが間違えちゃったらおしまい。
「ハーレイが好き」って伝えたつもりで、「大嫌いだよ!」ってやっちゃうとか。
そんなのホントに悲しすぎだよ、ちゃんと伝わったら恋人同士になれたのに…。
扇言葉を間違えちゃって、「振られたんだ」とか、「嫌われた」って思い込んじゃって…。
一度そうなったら、話しに出掛けて、また傷付きたくないものね…。
ぼくはハーレイを避けるんだろうし、ハーレイもぼくを避けるだろうから…。
きっと誤解は解けないままだよ、二人きりで話さないんなら。
ソルジャーとキャプテンとしての話だけしか、しようと思わないんなら…。
「まったくだ。多分、そうなっちまうしな…」
船の仲間たちに、俺たちのことで迷惑なんかはかけられん。
距離を置くのが一番いい、と俺だって思うことだろう。…傷口を広げたくないのなら。
お前に嫌われちまったってことを、直視したくはないからなあ…。
遠く遥かな時の彼方で、お互い、間違えたかもしれない言葉。
恋が実るか実らないかの、とても大切な局面で。
間に扇子が入っていたなら、扇言葉の「好き」と「嫌い」を取り違えて。
「…ぼく、ハーレイに扇言葉は使わないよ」
ママの扇子は家にあるけど、間違えちゃったら大変だから。
扇子の動きで色々な言葉が伝わるだなんて、ちょっぴり面白そうだけど…。扇言葉のことが沢山書いてある本、学校の図書室にあったら借りるかもだけど。
でも、読むだけで使わないからね、と宣言した。
扇言葉を間違えたならば、大変なことが起こるから。
せっかく来てくれたハーレイに向かって、「大嫌い!」と扇子で伝えてしまいそうだから。
「扇言葉なあ…。お前の場合は、使うまでもないと思うがな?」
あれは声を出さずに気持ちを伝えるための言葉で、今のお前には必要ないぞ。
思念波の方はサッパリにしても、お前からは「好き」が溢れているから。
心の欠片が零れてなくても、顔だけを見れば充分、分かる。…俺を嫌いじゃないってことが。
「ホントだね!」
ハーレイのことが、誰よりも好きでたまらないから、きっと顔にも出てるよね。
わざわざ扇子を使わなくても、黙っていたって、伝わっていそう。
ぼくがどんなにハーレイが好きか、前のぼくだった頃よりも好きか。
ハーレイは分かってくれているから、扇言葉で伝えなくてもいいんだものね…!
遠い昔の扇の言葉。
貴婦人たちが扇子で伝えて、男性もそれを読み取った。本まで読んで、扇言葉の勉強をして。
とても頑張って勉強したのに、間違った人もいたかもしれない。
たった一度の間違いのせいで、恋が壊れた人だって。
(でも、ぼくたちなら大丈夫…)
大丈夫だよ、と自信を持って言えそうな気分。
遥かな昔の恋人たちは、間違えたかもしれないけれども、自分たちは間違えたりしない。
扇言葉なんかは使わないから、それが無い時代に恋をして、生まれ変わって来たから。
宇宙の何処にも扇子が無かった時代に生きて、扇子がある今の時代に来たから。
死の星だった地球が青く蘇るほどの時が流れても、今も変わらず恋人同士。
(ぼくが、ママの扇子を借りて来ちゃって…)
間違えて「嫌い」と出していたって、ハーレイは「好きだぞ」とプロポーズしてくれる。
扇言葉を使っても。
好きなのに「嫌い」と間違えていても。
その程度のことで、恋が壊れはしないから。
今度こそ幸せに生きてゆくために、ハーレイと二人、地球に生まれて来たのだから…。
扇の言葉・了
※遠い昔の貴婦人たちの言葉。扇を使って伝えるもので、男性にも扇言葉の知識は必須。
間違えて使ってしまいそうだ、と心配なブルーですけど、相手がハーレイなら、伝わる言葉。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
季節外れな話をするか、と笑みを浮かべたハーレイ。
今はブルーのクラスで授業の真っ最中。古典を教えているのだけれども、眠くなる生徒も次第に増える。いくらハーレイが人気者でも、それと授業は別のこと。勉強が好きな生徒は珍しい。
生徒の集中力が切れて来た時、絶妙なタイミングで繰り出す雑談。ハーレイの人気が高い理由の一つは、それ。
(確かに今日は暑いよね?)
夏ほどじゃないけど、とブルーも思う。日向に出たら汗ばむ陽気。
クラスの誰もが「暑い」と感じているのだろうし、季節外れな怪談だったら、まさにピッタリ。きっと怪談なのだろう、とクラス中が考えただろうに…。
(…怪談じゃないの?)
ハーレイが教室の前のボードに書いた文字。「扇」と大きく、一文字だけ。
扇と言ったら扇子と同じで、扇いで風を送るもの。夏のものだし、季節外れには違いない。
「お前たち、怪談だと思っていただろう? 残念ながら、今日はこいつだ」
古典の授業じゃ、お馴染みだよな。扇ってヤツは。…いわゆる扇子。
その扇子だが、何処で生まれたか知ってるか?
最初に作られた場所のことだな、というハーレイの問い。「分かったヤツは?」と。
(えーっと…?)
ずっと昔の中国だっけ、と考えた扇子の生まれ故郷。歴史が古い道具の筈だし、遠い昔の日本に文化を輸出したのは中国だから。
「中国ですよね!」
他の生徒に先を越された。何人もが「はいっ!」と元気に手を挙げ、「中国です!」。
出遅れちゃった、と本当にガッカリしたのだけれど…。
「残念だったな、お前たち」
扇という言葉は中国に昔から存在したから、間違いじゃないが…。
言葉は中国生まれなんだが、扇子の方は違うってな。
そう簡単に分かるようなことを俺が訊くか、とハーレイはフフンと鼻で笑った。勇み足で答えた生徒たちを。「お前たち、まだまだ甘すぎるぞ」と。
お蔭で、ホッとつけた息。出遅れたけれど、恥はかかずに済んだから。
(怪我の功名…)
ホントにそれだよ、と思ってしまう。もしも一番に手を挙げていたなら、今頃は耳まで真っ赤になっていただろう。「間違えちゃった」と俯いて。
ハーレイは「中国です」と答えた生徒たちを見回し、「中国の扇は団扇なんだ」と「扇」の字を指でトンと叩いた。
団扇は今の時代もある。扇子と同じで、復活して来た日本の文化。夏に使う風を作り出す道具、扇子との違いは「畳めない」こと。
昔の中国で「扇」が意味していたものは団扇。そういう形の風を送る道具なら、古代エジプトの壁画などにもあるらしい。大きさや形、材料などは地域によって様々で。
けれど、折り畳める扇子が最初に生まれた場所は…。
「中国じゃなくて、この日本なんだ。…今の日本とは違うがな」
「ええっ!?」
日本ですか、とクラス中の生徒がどよめいた。
SD体制の時代には文化ごと消された扇子だけれども、今は普通に見られるもの。
遠い昔の小さな島国、この辺りにあったと伝わる日本。其処の文化として復活している、扇子や団扇。古典の授業でも挿絵などで見る扇子だけれど…。
(日本で作って、あちこちに輸出していただけで…)
元は中国からやって来たのだ、と頭から思い込んでいた。他の生徒と全く同じに。
日本人は手先がとても器用で、他所の国から伝わったものをアレンジするのを得意としていた。それは細かい細工物やら、美しい絵を描いたものやら、日本の品物は引っ張りだこ。
扇子もそれだと考えた。日本の製品が美しいから、きっと人気が高かったのだ、と。
(だって、昔の他所の国にも…)
広く知られていたのが扇子。
ヨーロッパの貴婦人たちも持っていたのだし、肖像画にも描かれているほど。
それほど有名だった扇子が日本生まれだなんて、俄かにはとても信じられない。そういった頃に世界に広がったものは、中国のものが多いから。
紅茶に陶磁器、絹だって元は中国生まれ。だから扇子も中国だろうと思うのに…。
なんとも解せない、日本生まれだという扇子。「中国生まれ」の方がしっくりくる。遥かな昔に中国で生まれて、日本に渡って、更に洗練されたのだ、と考える方が。
けれどハーレイは「間違えるなよ?」と念を押した。
「勘違いしているヤツらは多いが、正真正銘、扇子ってヤツは日本生まれだ」
歴史もうんと古いってな。平安時代には完成してたし、古典の中にも出てくるだろう?
そんな具合に、日本には扇子の記録がある。折り畳んで使っていたってことも。
ところが中国の方になったら、別の記録が残されている。日本から扇子が入ってくるまで、折り畳める形の扇は存在しなかった、とな。
つまり本当に扇子は日本生まれで、面白いことに、お前たちも知っている通り…。
高貴な女性は扇で顔を隠すものだ、とハーレイが交えた古典の復習。源氏物語などが描き出した当時の貴族の習慣。身分が高い女性の場合は、人前では顔を隠すもの。扇をかざして。
それと同じに、扇子が伝わったヨーロッパでも…。
「顔を隠していたんですか!?」
今度もクラスがざわめいた。「扇で顔を隠す」というのは、日本だけだと皆、思っていたから。
「日本ほどにルールは厳しくないがな。…それに自発的に隠していたわけだから」
そうそう顔は見せてやらない、と半ば意地悪かもしれん。
日本の場合は、扇で顔を隠さなかったら、「なんて行儀が悪いんだ」と思われちまって、縁談も来やしなかった。そういうマナーが定着していたもんだから。
ヨーロッパの方だと、其処までは行かん。自分を安売りしないために顔を隠していただけだ。
扇子は女性の大切な持ち物の一つでだな…。
お蔭で扇言葉というのまであった、とボードに書かれた「扇言葉」の文字。
「…扇言葉ですか?」
何だろう、と声があちこちで上がったけれど。
「書いた通りだ、言葉なんだ。一種の暗号みたいなモンだな、扇言葉は」
気になるヤツは自分で調べろ、こっちの方まで話していたらキリが無いから。
もう充分に聞いただろうが、扇子の話は。…眠かったヤツらも、目が覚めたな?
授業に戻る、と終わった雑談。
扇子の話は其処でおしまい、「扇」も「扇言葉」も消された。教室の前のボードから。
ハーレイの授業で扇子の話を聞いた日の帰り。
いつものようにバス停から家まで歩いていたら、この時間でも暖かすぎる日差しが降って来る。小春日和と言うのだろうか、季節外れの陽気だから。制服の上着を着ていると暑い。
(こういう時に、扇子があったら…)
パッと広げて、パタパタと涼しい風を送れる。顔や首筋なんかに向けて。
(男の人でも、昔だったら扇子を持ってて…)
粋に扇いでいたのだろう。今日のような日や、夏の暑い日は。
今の時代も、お洒落な人なら紳士物を持っているのだけれども、滅多に見ない。だから自分も、鞄に扇子を入れてはいない。
あったら便利なんだけど、と考えながら帰った家。「暑い日は、扇子が便利そう」と。
そうは思っても、今ではすっかり女性の持ち物になっている扇子。
(ママだって、夏は使っているし…)
出掛ける時には持って行くよね、とダイニングでおやつを頬張りながら扇子を思い浮かべる。
小さい頃から、母の扇子はよく見ていた。暑い日には外で、扇いで貰っていたことも。
(公園の東屋なんかに入って…)
パタパタと風を送って貰った。ジュースを飲んでいる時とかに。
母の扇子は、日本の文化が復活して来た時に戻って来たものの一つ。女性用の方が断然多くて、父は扇子を持ってはいない。
(前のぼくたちが生きてた頃は…)
SD体制の時代なのだし、無かった扇子。文化ごと消されてしまっていて。
人類の輸送船から物資を奪って暮らした時代も、物資の中に扇子は混じっていなかった。扇子が作られていなかったのでは、存在するわけもないし、物資に紛れ込んでもいない。
(もしもあったら、うんとレトロなものだから…)
前のハーレイが貰って行ったのだろうか、「これはいいな」と目を付けて。
とてもレトロだった、羽根ペンや木で出来た机を好んだハーレイ。他の仲間は見向きもしない、遠い昔の文化の名残を。
だから扇子が混じっていたなら、喜んで貰いそうではある。
船にはきちんと空調があって、扇子なんかの出番は全く無い世界でも。
ハーレイだったら貰ったかも、と思ったけれど。いそいそと扇子を貰いそうだけれど…。
(扇子、ヨーロッパじゃ女性用…)
今の時代の日本でも同じ。主に女性が持っているもの。
もしも扇子が混じっていたなら、明らかに女性用だったろう。花の模様だとか、ヨーロッパ風のレースで飾られた扇だとか。
(うーん…)
それじゃ駄目だ、と頭を振って戻った二階の自分の部屋。空になったカップやケーキのお皿を、キッチンの母に返してから。
(前のぼくが奪った物資の中に、扇子が混じっていたとしたって…)
男性用の扇子ならともかく、女性用だと、どうなったろう?
勉強机に頬杖をついて考える。前のハーレイなら、扇子を見付けてどうしただろう、と。
物資の中に紛れた扇子。誰も欲しがる者が無ければ、不要品として捨てられて終わり。倉庫には余計な物は置かずに、大切なものを仕舞っていたから。後で役立ちそうなものとか。
船では使わない扇子。空調があれば、暑すぎたりはしないから。
機関部などの暑い場所では、扇子で扇ぐ暇があったら、作業を早く済ませて立ち去るだけ。あの船の中では、扇子は要らない。
(いくらハーレイでも、使わないよね?)
物資の中に混じった扇子を見付けて、「レトロなものだ」と見惚れていても。
きっと女性用の扇子なのだし、「俺が貰う」とは言いそうにない。ハーレイは男なのだから。
それとも、貰って使うのだろうか?
女性用でも全く気にせず、「これはいいな」と手に取って。…他に希望者はいない扇子を。
(扇言葉とかって言ってたし…)
扇ぐ他にも使い道があるのが扇子というもの。
けれども、あれも女性の世界のものだろう。扇子は女性の持ち物なのだし、扇言葉も女性たちの間で交わしていたのに違いない。
そういうことなら、前のハーレイが扇子を貰って行っても役に立たない。
扇言葉を知っていたとしたって、男性はそれを使わないから。女性の間だけで使う言葉で。
そんな扇子を欲しがるだろうか、レトロ趣味だった前のハーレイが…?
羽根ペンと、それに木で出来た机。シャングリラの仲間たちが見向きもしなかったもの。
あまりにレトロで時代遅れで、欲しがる者は誰もいなかった。前のハーレイを除いては。それを喜んで貰って行ったのが前のハーレイで、白い鯨になった船でも使っていたほど。
あのハーレイが扇子と出会っていたなら、欲しがったのか、それとも見ていただけか。
(うーん…)
物資の中に扇子があったら、どうしていたのか訊きたい気分。
何処から見たって女性用でも、「俺が貰う」と持ち去ったのか。あるいは「誰も欲しがらない」まま、扇子は宇宙に廃棄されたか。
(いったい、どっちだったんだろう…?)
知りたいな、と思っていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、早速、訊いてみることにした。テーブルを挟んで向かい合わせに腰掛けて。
「あのね、ハーレイ…。扇子があったら欲しかった?」
「はあ? 扇子って…」
いきなり何だ、とハーレイは怪訝そうな顔。「扇子がどうかしたのか?」と。
「今日の授業で言っていたでしょ、扇子は日本で生まれたんだ、って」
扇子があったら、ハーレイ、欲しい?
貰っちゃおうって思うのかな…?
「扇子なあ…。渋くてなかなかいいとは思うが、持っちゃいないな」
あれを持つには、もう少し年を取らないと…。粋に使いこなせるようになるには。
「え? 年を取るって…。なんで?」
どうして扇子に年が関係してくるわけ、と目を丸くした。扇子は風を送るための道具で、誰でも使いこなせそう。広げたり閉じたり、それさえ出来る年になったら。
「いや、男性用の扇子を持つには、俺の年だと、ちと若すぎて…」
絵にならないしな、とハーレイは軽く肩を竦めた。「扇子が似合うだけの貫禄が無い」と。
「ハーレイ、やっぱり欲しいんだ…。扇子…」
「年を重ねた男の魅力はいいもんだしな。親父もたまに使っているし」
あれが渋くていいんだ、うん。
夏の盛りにヒョイと広げて、パタパタとやっているのがな。…団扇よりもずっと絵になるから。
団扇だと余所行きの感じがしない、というのがハーレイの言い分。家で気楽に扇ぐのが団扇で、扇子は出掛けた先でお洒落に使うものらしい。
今のハーレイの父は紳士物の扇子を持っているから、ハーレイもそれに憧れる。もう少しばかり年を取ったら、自分も扇子が似合うのに、と。
今のハーレイの扇子に対する気持ちは分かったけれども、問題は前のハーレイの方。遠く遥かな時の彼方で、シャングリラで生きていたハーレイ。
「今のハーレイは、扇子が欲しいらしいけど…。そのために、年を取らないでよ?」
もう止めるって約束したでしょ、年を取るのは。
だから扇子が似合うような姿になるまで、年を取ったら駄目だからね。…いくら欲しくても。
でも…。前のハーレイなら、どうだった?
扇子があったら欲しかったのかな、うんとレトロな道具でしょ、扇子。
風を送るんなら空調がちゃんとあったものね、と扇子のレトロさを強調した。羽根ペンや木製の机を愛用していた前のハーレイは、明らかにレトロ趣味だったから。
「扇子が欲しいかと訊かれても…。扇子なんか無いぞ、あの時代には」
機械が文化を消しちまってたし、何処を探しても無いってな。前の俺たちが生きた頃には。
無いものには出会いようがないってモンだろ、前の俺と扇子。いくらレトロな道具だとしても、出会いが無いなら話にならんぞ。
「そうだけど…。それは分かっているんだけれど…。でも…」
もしも扇子が、前のぼくが奪った物資の中に混じっていたら、どうしてた…?
あの時代に扇子は無かったんだし、あったとしたら、の話だけれど。
扇子があったら、前のハーレイはどうするわけ…?
貰って行くのか、要らないからって廃棄処分に回すのか、どっち?
ハーレイくらいしか欲しがらないでしょ、とてもレトロな扇子なんかは…?
船では要らない道具だものね、と重ねて言った。シャングリラでは出番のない道具、と。
「ふうむ…。うんとレトロな扇子と出会っちまった時か…」
ちょいと手に取ってはみるんだろうなあ、「これが扇子というものか」と確かめに。
大いに興味が湧くと思うぞ、風を送るための道具だなんて。
しかも自分で扇ぐためのもので、空調みたいに自動になってはいないんだしな?
まず間違いなく手に取るだろう、とハーレイは大きく頷いた。「前の俺なら、そうなるな」と。
「レトロ趣味だったのは本当なんだし、扇子もレトロなんだから…。手が伸びちまう」
物資の分配を始める前に見付け出すのか、分配した後に残った中から掘り出すのか。
どっちにしたって、触りもしないで廃棄処分に回しはしないぞ。使い心地ってヤツはどうかと、そいつを確かめない内は。
「使い心地って…。その扇子が女の人用のでも?」
扇子、今も殆どは女の人のためのものでしょ、昔だってそう。…日本には男の人のための扇子もあったけれども、ヨーロッパだと女の人用ばかりだから…。
前のぼくたちの時代に扇子があったら、女の人用だと思うんだけど…。
花模様だとか、レースつきだとか。そういう扇子でも、ハーレイは触って使ってみた…?
女の人用の扇子だよ、と念を押したけれど、ハーレイは「気にしないな」と直ぐに答えた。
「どんなに華やかな扇子だろうが、扇子は扇子だ。レトロなものには違いない」
俺にしてみりゃ、大いに興味があるわけだから…。
ちゃんと手に取って、広げてみたりするんだろう。広げたら畳んで、「こうなるのか」と扇子の凄さに感動もして。一本の棒がパッと広がるわけだしな?
でもって、そいつで扇いだりもして、貰っておくか、どうすべきかを考えるんだ。
女物だろうが、俺が自分の部屋の中だけで使う分には、誰も笑いやしないんだから。
ただし、俺がゆっくり考える前に、エラが持って行ってしまわなければ、だが。
「エラ…?」
なんでエラなの、エラはレトロな趣味なんか持っていなかったよ?
木の机だって欲しがらなくて、羽根ペンも見向きもしていなくって…。なのにどうして、エラが扇子を持って行っちゃうの…?
有り得ないでしょ、と指摘したのだけれども、ハーレイは「そうでもないぞ」と返した。
「レトロな趣味は持っていなくても、知識は豊富だったしな。調べ物だって好きだったから…」
扇子があるような時代だったら、扇言葉を知っていそうだと思わんか?
なにしろ相手は、あのエラだから。
「そうかも…!」
本物の扇子は初めて見たって、色々なことを知っていそう…。扇言葉があることも。
確かにエラなら、きっとピンと来たことだろう。物資の中に混ざった扇子を目にしたら。
とてもレトロな扇子という道具も、それが使われた遠い昔の文化なども。
「あの時代でも、ちゃんと調べれば、扇言葉のデータなんかもあったよね?」
扇子が消されちゃってた頃でも、扇子について調べていけば。…データは残っていたんだから。
「恐らくな。…扇子を持ってる肖像画なんかも、データの形で残っていたし」
元の肖像画は、とうに失われてしまっていたって、どういう絵かは分かったんだ。絵に描かれた人が誰なのかも。
だから扇子に興味さえあれば、いくらでも調べられただろう。何に使ったのか、どういう具合に発展していったのか。…扇言葉が作り出されたトコまでな。
エラなら調べられただろう、と今のハーレイが言う通り。
レトロ趣味ではなかったけれども、遠い昔の歴史などにも詳しかったエラ。扇子に興味を持っていたなら、扇言葉にも辿り着いただろう。
そして本物の扇子に出会った時には、それを試そうと持って行ったりもして。
「ねえ、ハーレイ…。扇言葉って、どんなものなの?」
授業では話していなかったけれど、ハーレイは知っているんでしょ?
「これ以上はキリが無いからな」って、授業に戻ってしまったけれど…。
一種の暗号みたいなヤツって、どうやって扇子で暗号になるの…?
中に何か書いておくだとか、と問い掛けた。扇子の素材にもよるだろうけれど、文字などを中に書くことは出来る。だから暗号を其処に書くのか、と。
「おいおい、それじゃ無粋だろうが。まあ、暗号としては使えそうだが…。そのやり方でも」
だがな、よくよく考えてみろよ?
扇言葉を使っていたのは貴婦人なんだぞ、本物の暗号を使うと思うか?
本当に秘密のやり取りだったら、そういったヤツも使ったりはしていたんだが…。命が懸かった脱出劇とか、そんなのもあった時代だから。
しかし、扇言葉を使ってた場所じゃ、物騒なことは起こらなかった。
舞踏会とか、皆で集まっての晩餐会とか、華やいだ席で優雅に扇を持ってたんだぞ?
扇言葉は、扇の動きだけで色々なことを伝えるための手段だってな。
こう動かしたら、この意味だとか。声は出さずに、扇子だけで言葉を伝えられた、と。
扇子の動きだけで言葉を伝えた、遠い昔の貴婦人たち。確かに、ある意味、暗号のよう。扇子の動きに意味があるとは、知らないと気付きもしないから。
大勢の貴婦人たちが扇子で言葉を交わしていたって、傍目には扇子が優雅に動いているだけ。
働いたことなど一度もない手に操られて。彼女たちだけの秘密の暗号、それを語るために。
「扇言葉って、そういうものだったんだ…。ホントに暗号みたいだね」
ぼくが見たって、暗号だなんて思いもしないよ。扇子を持ってる、って眺めるだけで。
…前のぼくたちが生きた頃には、扇子は存在しなかったけれど…。
前のハーレイも出会えないままになっちゃったけれど、もしも出会えることがあったら。
エラが本物の扇子に出会っていたなら、どうなったかな?
前のハーレイよりも先に持ってっちゃうかな、きっと女の人用の扇子だろうし…。
「間違いなく持って行ったと思うぞ、俺が「どれ」と扇子に手を伸ばすよりも前に」
これは私が貰っておきます、と掻っ攫う姿が目に浮かぶようだ。前の俺には触らせもしないで。
そうやって持って行っちまった後は、女性の間で流行ったんじゃないか?
扇言葉というヤツが。…それこそ船で扇子を作る所から始めて。
その気になれば作れただろう、とハーレイが言う扇子。構造自体は単純なのだし、最初の一つが手に入ったなら、真似て作ってゆけばいいだけ。
船の中でも揃う材料、それを使って。折り畳める扇子の形に仕上げて、欲しい女性たちに配ってゆくことも出来た。扇言葉を使いたい女性は、扇子を貰って扇言葉を使う。
「本当に?」
流行ったのかな、扇子を使う言葉だなんて…。暗号なんかを使わなくてもいい世界なのに。
こっそり話をしたいんだったら、思念波だってあったんだけど…?
「扇言葉は貴族の習慣だったんだぞ。ずっと昔の、本物の貴婦人たちが使った言葉だ」
そいつを真似て話せるんだぞ、扇子が一本ありさえすれば。
お姫様みたいなドレスは無くても、贅沢な宝石だって無くても。
それでも言葉は共通だってな、貴婦人たちと。扇子を使って話しさえすれば。
「…夢が一杯で、流行りそうだね…。あの船の中で、お姫様ごっこ…」
「そうだろう? だから流行ると言ったんだ」
エラが扇子と出会っちまったら、扇言葉があったと思うぞ。…あのシャングリラに。
白い鯨じゃなかった船でも、とハーレイは笑う。人類の船から物資を奪って、皆が懸命に生きていた船。名前だけが「楽園」だった時代のシャングリラ。
そんな船でも、扇子があったら扇言葉が流行ったろう、と。扇子を手にした女性たちは皆、遠い昔の貴婦人気分で。
「うん、本当に流行っていそう…。貴婦人なんて、あの船じゃ誰もなれなかったから」
ミュウは見付かったら殺されるだけで、人間扱いさえもされてなくって…。
だから余計に夢を見たいよね。…扇子を一本持っているだけで、貴婦人の言葉を喋れるんなら。
ずっと昔に、地球にいた本物のお姫様たち。その人たちと同じ言葉を使えるんなら…。
とても素敵で、みんなが喜びそうだけど…。エラのアイデア、みんなが飛び付きそうだけど…。
どんなのがあるの、扇言葉って?
扇子の動きで伝えられること、中身はどういう風になるわけ…?
普通の言葉と同じなのかな、と投げ掛けた問い。暗号めいた扇の言葉で会話が出来たか、遊びに過ぎなかったのか。なにしろ使うのは扇子だけだし、語彙が多そうには思えないから。
「扇言葉の中身ってか? そりゃあ、色々あったってな」
なんと言っても言葉なんだし、伝えられることは多いに越したことはない。
「はい」と「いいえ」は基本の中の基本ってヤツだな、これが無ければ始まらん。質問されたら答えるのが会話の基本だろうが。
そして本当に凄かったらしいぞ、扇言葉で伝えられる中身というヤツは。
「あなたが好きです」とか、そんなのはまだマシな方でだ…。「あなたは残酷です」なんていう言葉もあったらしいから。
声に出さなくても、扇子だけでそれを伝えるんだぞ。男の方も大変だってな。
「男の人って…。なんで?」
扇言葉は、女の人が使うものでしょ。女の人しか扇子は持っていないんだから。
女の人の言葉だよね、とキョトンと首を傾げていたら、ハーレイは「甘いぞ」と可笑しそう。
「男も、そいつを知らなきゃいけなかったんだ。女性がそれで話す以上は、読み取らないと」
扇言葉の意味ってヤツを。…自分は使う方でもないのに、あれはどういう意味なのか、とな。
「えーっ!?」
男の人も覚えなくっちゃ駄目なの、とても沢山の言葉があるのに?
自分は扇子を持ってないのに、扇言葉を覚えていないと駄目だったなんて…!
酷すぎだよ、と叫んだけれども、それは本当にあったこと。
人間が地球しか知らなかった時代に、東洋の小さな島国で生まれた扇子が海を渡って行って。
ヨーロッパで貴婦人たちに愛され、必須の持ち物に変身を遂げて。
扇子の動きで意味を表す扇言葉は、紳士淑女のための教本までが作られていた。貴婦人が持った扇子がこう動いたら、こう、と意味を詳しく書き記して。
それをきちんと覚えていないと、舞踏会などで気持ちを伝えられない。相手の気持ちを読み取ることも出来ない。しかも…。
「その教本を持って話をするなど、論外だからな? 場の雰囲気がブチ壊しになる」
とにかく中身を覚えるしかなくて、そいつが社交のルールってヤツだ。
「好きです」と言ってくれているのに気付かないなら、自業自得で悲しいことになるんだが…。
「あなたを追い払いたい」ってヤツもあるんだ、そう言ってるのに側を離れなかったら…。
周りから見れば非常識なヤツで、評判までが地に落ちちまう。「あいつは駄目だ」と噂が流れて命取りってな。
だから男もきちんと覚えておかないと、と言われれば分かる。貴族の世界は社交が大切、人との関わり方が重要。彼らの仕事は、社交そのものだったから。
「なんだか凄いね…。男の人まで巻き込んじゃってた言葉だなんて」
扇子を持つのは女の人だし、女の人同士でお喋りするんだと思ってたのに…。
そうじゃなくって、男の人にも扇言葉で話すだなんて。…男の人まで扇言葉を覚えたなんて…。
本まで出ていたくらいなんだし、みんな頑張って覚えたんだと思うけど…。
働く必要が無かった分だけ、時間はたっぷりありそうだけど…。でも…。
扇言葉を覚えて使っていたのは、機械じゃなくって人間だよ?
人間に「絶対」なんかは無くって、ミスすることも多いんだけど…。うっかりミスとか。
そんな風にして、間違えちゃったらどうなるんだろう?
扇子を持ってる女の人も、それを読み取る男の人も…。
「間違いなあ…。扇言葉で伝え損なったり、読み損なったりするってか…?」
確かに無いとは言い切れないよな、なにしろ人間なんだから。
「あなたが好きです」と言われてるのに、「嫌いなのか…」と諦めて去っていくヤツだとか。
逆に「好きです」と伝えたつもりで、「追い払いたい」と言っちまうとか…。
ありそうだよな、とハーレイも頷く「扇言葉の間違い」。きちんと声で話していたなら、そんな間違いは起こらないのに。…自分の気持ちを伝えるために、人間は声を持っているのに。
「ね、間違えちゃうことも起こりそうでしょ?」
扇言葉は厄介そうだよ、見た目はとても優雅でも。…扇子の動きだけで気持ちを伝えられても。
間違えちゃったら、それでおしまいになっちゃうこともありそうだもの。本当は上手くいく筈の恋が、間違えたせいで壊れてしまって。
良かったね、前のぼくたちが生きてた時代に、扇子が無くて。
シャングリラには扇子も扇言葉も無くって、声と思念波だけの世界で。
もしもシャングリラに扇言葉があったら、ぼく、間違えてしまいそうだから…。
ホントにやりそう、と舌をちょっぴり覗かせた。何か悪戯して、叱られた時の子供みたいに。
「なんだって?」
お前が何を間違えるんだ、シャングリラに扇言葉があったら…?
エラたちが喋っているのを眺めて、まるで違うことをやったりするのか?
「ソルジャーがおいでになった」と話してるのに、「来ないで下さい」と間違えちまって、何も言わずにそそくさと消えてしまうとか…?
「ううん、それならまだいいけれど…。間違いの中ではマシだと思う」
ぼくが扇言葉を読み取り損ねて、何か失敗してるくらいは。…ぼくが恥をかくだけだから。
だけど、扇言葉を使っているのが、ぼくだったら…?
エラが船の中で扇言葉を流行らせていたら、ぼく、面白がって扇子を貰っちゃうかも…。
女の人しか持っていなくても、「ぼくにも一本貰えるかな?」って。
白い鯨になった後なら、扇子を作るの、ずっと簡単になっていそうだし…。
扇言葉の詳しい本も、船の中で刷られていそうだし…。
そういう頃でしょ、前のぼくがハーレイのことを好きになったの。…一番古い友達だったのが、恋人同士に変わった頃って。
その大切な時に間違えてしまいそう。
ハーレイに「好き」って気持ちを伝えるのがとても恥ずかしくって、扇子を貰って…。
扇言葉の本で勉強して、「好きです」っていう時はこうするんだ、って…。
青の間で何度も練習してから、ハーレイに伝えに行くんだけれど…。
扇子を持って、とクスッと笑った。「其処で失敗するんだよ」と。
「失敗って…。お前が俺に扇言葉で伝えようとしてか?」
俺の部屋まで来たのはいいが、わざわざ扇子を使って「嫌い」と俺に言っちまって…?
嫌われた俺は酷いショックで、お前に「帰って頂けますか」と返事するのか?
お前と話す理由が無いしな、とハーレイが唸る「言葉を伝え損ねた」結果。「嫌いだ」と告げにやって来た人と、ゆっくり話しはしないだろう。酷い喧嘩になるだけだから。
「そう。…そしたら、おしまい…」
ぼくは「好き」って伝えたつもりで、間違えたなんて思わないもの。とても緊張していて、胸もドキドキだろうから…。「やっと言えた」ってホッとするだけ。
それの返事が「帰って頂けますか」だったら、ぼくの方だって大ショックだよ。
「好き」の返事が「帰れ」だなんて、どう考えても「俺の方は好きだと思っていない」っていうことだもの。…振られちゃった、って泣きそうな気分。
だけどホントに振られたんだし、仕方ないよね…。
青の間に帰って泣くしかなくって、ハーレイとの恋は始まりさえもしないんだよ。…ハーレイは「嫌われた」と思ってぼくを避けるし、ぼくは「振られた」と思っているし…。
それじゃ二人で話しもしなくて、いつまでも間違えちゃったまま。
ホントはお互い、大好きなのに…。ぼくが扇言葉を間違えなければ、恋が実っていたのにね…。
そういう失敗、起こりそうでしょ、と自分の顔を指差した。
前の自分も、人間だから。ソルジャー・ブルーでも、失敗することはあったのだから。
「お前の方が失敗なあ…。それも無いとは言えないが…」
それとは逆に、お前が正しく送っていたって、俺が間違えるかもしれないぞ?
「好きだ」と伝えてくれているのに、「大嫌いだ」と読み取っちまって、その後のことは、今の話と全く同じで。…お前に向かって「帰って頂けますでしょうか?」と言っちまって。
「ハーレイだったら間違えないでしょ。ぼくと違って」
キャプテンだものね、知識も沢山あったもの。シャングリラの中のことだったら。
扇言葉も完璧なんだよ、わざわざ勉強しなくったって。
「はてさて、そいつはどうなんだか…」
扇言葉は、ブリッジじゃ使わないからな?
あそここそ声と思念波の世界だ。優雅に扇子を使って話す余裕なんかは、誰も全く無いってな。
エラだって扇子は封印だろう、とハーレイが苦笑する「ブリッジ」という場所。
ブリッジは白いシャングリラの心臓なのだし、どんなに空気が和やかな時も、「正しく伝える」ために努力をするべき所。
船の周りの観測データも、航路設定などの数値も。
キャプテンからの指示はもちろん、機関長やら、航海長やらが発する声も、どれも正確に、皆の持ち場に伝わってこそ。
伝え損ねれば船が傷つき、最悪の場合は沈むこともある。人類軍から船を守っている、システムなどがダウンして。…ステルス・デバイスが作動しないとか、シールドも張れなくなるだとか。
そんな場所では、扇言葉は使えない。
「面舵」や「取舵」を扇言葉で伝えてみたって、誰も瞬時に動けはしない。
もっとも、キャプテンは男なのだし、扇子で指示は出さないけれど。
航海長のブラウだったら、扇子を持てる女性だけれども、扇言葉でカウントダウンは出来ない。数字を表すことは出来ても、ブリッジクルーは、そちらを向いてはいられないから。
「そっか…。扇言葉は、ブリッジには向いていないよね…」
普段に使っていないんだったら、ハーレイも詳しくなさそうだから…。
ぼくが「好きだよ」って扇言葉で伝えていたって、間違えちゃいそう。「嫌われたんだ」って。
それにハーレイが詳しくっても、ぼくが間違えちゃったらおしまい。
「ハーレイが好き」って伝えたつもりで、「大嫌いだよ!」ってやっちゃうとか。
そんなのホントに悲しすぎだよ、ちゃんと伝わったら恋人同士になれたのに…。
扇言葉を間違えちゃって、「振られたんだ」とか、「嫌われた」って思い込んじゃって…。
一度そうなったら、話しに出掛けて、また傷付きたくないものね…。
ぼくはハーレイを避けるんだろうし、ハーレイもぼくを避けるだろうから…。
きっと誤解は解けないままだよ、二人きりで話さないんなら。
ソルジャーとキャプテンとしての話だけしか、しようと思わないんなら…。
「まったくだ。多分、そうなっちまうしな…」
船の仲間たちに、俺たちのことで迷惑なんかはかけられん。
距離を置くのが一番いい、と俺だって思うことだろう。…傷口を広げたくないのなら。
お前に嫌われちまったってことを、直視したくはないからなあ…。
遠く遥かな時の彼方で、お互い、間違えたかもしれない言葉。
恋が実るか実らないかの、とても大切な局面で。
間に扇子が入っていたなら、扇言葉の「好き」と「嫌い」を取り違えて。
「…ぼく、ハーレイに扇言葉は使わないよ」
ママの扇子は家にあるけど、間違えちゃったら大変だから。
扇子の動きで色々な言葉が伝わるだなんて、ちょっぴり面白そうだけど…。扇言葉のことが沢山書いてある本、学校の図書室にあったら借りるかもだけど。
でも、読むだけで使わないからね、と宣言した。
扇言葉を間違えたならば、大変なことが起こるから。
せっかく来てくれたハーレイに向かって、「大嫌い!」と扇子で伝えてしまいそうだから。
「扇言葉なあ…。お前の場合は、使うまでもないと思うがな?」
あれは声を出さずに気持ちを伝えるための言葉で、今のお前には必要ないぞ。
思念波の方はサッパリにしても、お前からは「好き」が溢れているから。
心の欠片が零れてなくても、顔だけを見れば充分、分かる。…俺を嫌いじゃないってことが。
「ホントだね!」
ハーレイのことが、誰よりも好きでたまらないから、きっと顔にも出てるよね。
わざわざ扇子を使わなくても、黙っていたって、伝わっていそう。
ぼくがどんなにハーレイが好きか、前のぼくだった頃よりも好きか。
ハーレイは分かってくれているから、扇言葉で伝えなくてもいいんだものね…!
遠い昔の扇の言葉。
貴婦人たちが扇子で伝えて、男性もそれを読み取った。本まで読んで、扇言葉の勉強をして。
とても頑張って勉強したのに、間違った人もいたかもしれない。
たった一度の間違いのせいで、恋が壊れた人だって。
(でも、ぼくたちなら大丈夫…)
大丈夫だよ、と自信を持って言えそうな気分。
遥かな昔の恋人たちは、間違えたかもしれないけれども、自分たちは間違えたりしない。
扇言葉なんかは使わないから、それが無い時代に恋をして、生まれ変わって来たから。
宇宙の何処にも扇子が無かった時代に生きて、扇子がある今の時代に来たから。
死の星だった地球が青く蘇るほどの時が流れても、今も変わらず恋人同士。
(ぼくが、ママの扇子を借りて来ちゃって…)
間違えて「嫌い」と出していたって、ハーレイは「好きだぞ」とプロポーズしてくれる。
扇言葉を使っても。
好きなのに「嫌い」と間違えていても。
その程度のことで、恋が壊れはしないから。
今度こそ幸せに生きてゆくために、ハーレイと二人、地球に生まれて来たのだから…。
扇の言葉・了
※遠い昔の貴婦人たちの言葉。扇を使って伝えるもので、男性にも扇言葉の知識は必須。
間違えて使ってしまいそうだ、と心配なブルーですけど、相手がハーレイなら、伝わる言葉。
(あれ…?)
どうしたんだろ、とブルーは首を傾げた。学校からの帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
道沿いの家の庭に、その家の御主人の姿。家と庭を囲む生垣からは、少し離れた奥の方。其処で大きな木を見上げながら、難しい顔。困ったようにも見える表情。
(あの木が、どうかしたのかな?)
木の葉や枝を眺めたけれども、弱っているという感じは受けない。むしろ生き生きしている木。本当に元気そうだけれども、素人だから元気に見えているだけで…。
(ホントは病気になっちゃってるとか?)
しかも簡単には治らない病気。木の姿がすっかり変わるくらいに、枝を何本も切り落とさないと駄目だとか。
(そういう病気もあるらしいものね…)
治療した後は、太い幹には似合わない細い枝が数本、そんな姿になってしまう木。元通りに枝が茂るまでには何年もかかる、荒療治とも言える治療法。
それが必要な病気の兆しを発見したなら、難しい顔にもなるだろう。もちろん困るし、御主人が悩んでしまうのも分かる。あの木は庭のシンボルツリーなのだから。
(…どうしたの、って訊いてみたいけど…)
御主人の気持ちを考えてみると、黙っている方がいいかもしれない。声を掛けようか、このまま通り過ぎようか、と迷っていたら…。
御主人がこちらに顔を向けたから、慌ててピョコンとお辞儀した。
「こんにちは!」
「おや、ブルー君。今、帰りかい?」
身体もこっちに向けた御主人は、両腕で猫を抱いていた。白地に黒のブチがある猫。しっかりと胸に抱いているから、服と混じって気付かなかった猫の存在。
(白と黒のブチ…)
この家に猫はいただろうか?
いなかったように思うけれども、もう子猫とは呼べない大きさ。滅多に外に出ない猫なら、いることも分からないだろう。知らない間に飼われ始めて、育っていても。
初めて出会った猫にも驚いたけれど、それよりも木の方がずっと気になる。物心ついた時には、もうこの家の庭にあった木。自分も馴染みのシンボルツリー。
「おじさん、その木…。どうかしちゃったの?」
弱っているようには見えないけれども、病気になっちゃってるだとか…?
「この木かい? ちょっぴり困ったことになってねえ…」
其処からだと見えないだろうから…。入って見てやってくれるかい?
どうぞ、と入れて貰った庭。御主人が門扉を開けに来てくれて。
其処まで来るのも、門扉を開けるのも、御主人は猫を抱いたまま。使わない方の腕にしっかり。
(よっぽど可愛がっているんだね)
少しも離さないんだもの、と猫にも挨拶。「こんにちは」と。返事は「ミャア!」。
御主人は木の側に案内してくれて、猫を抱いていない手で木を指差した。
「ほら、見てごらん。…可哀相なことになっちゃったんだ」
「えっと…?」
側で見ても、やっぱり元気そうな木。病気のことは分からないから、何処を見ればいいのか謎。葉っぱに妙な斑点なんかもついてはいない。枝の茂り具合が変なのだろうか?
(可哀相なことになったんだったら、病気だよね…?)
何処で分かるの、と上から下まで何度見たって、元気そのものに思える木。立派な幹も、幹から伸びた枝たちも。
「ブルー君は気が付かないかな? これだよ、これ」
この通り、苔がすっかり剥げちゃってね。この間までは、綺麗な緑だったんだがねえ…。
「本当だ…!」
あちこち剥げてる、と目を丸くした。太い木の幹を覆うようにして、濃い緑の苔が生えている。まるで上等の絨毯みたいにフカフカに見える、薄い割には存在感のある苔たち。
それが無残に剥がれた場所が、幹に幾つも。
(何かで無理やり、剥がしたみたい…)
削り取られたように、長い線になって剥げている苔。剥がれた跡は直線だったり、少し曲がっていたりと色々。剥げてしまった場所は木の皮がむき出しになって、痛々しいくらい。
本当だったら、木の幹はそれでいいのだけれど。…苔が無くても、木の皮だけで充分。
普通の木ならば、幹に苔など生えてはいない。生えていたって、ほんの少しだけ。家の庭の木を思い浮かべても、幹にビッシリ苔を生やした木などは無い。
(この木も、普通の木なんだけどな…)
ありふれた木で、珍しくない木。けれども、苔がよく似合う。こんな風に剥がれてしまった姿を目にした途端に、「可哀相だ」と感じるほどに。
「剥げちゃったって…。この木、どうなっちゃったの?」
病気じゃないよね、苔が剥げちゃう病気なんかは知らないし…。
それに無理やり剥がしたみたいで、虫なんかだと、こんな風にはならないだろうし…。
いったい何が起こったわけ、と御主人の顔を見上げたら。
「この子だよ。…気付かなかった私も悪いんだがね」
御主人がコツンと軽く叩いた、腕の中にいる猫の小さな頭。「駄目じゃないか」と。
猫の方では「ニャア…」と鳴いたものの、謝ったりするわけがない。猫は言葉を話さない上に、元が気ままな生き物だから。
「剥がしちゃったの、猫だったの?」
おじさん、この子、前から飼ってた?
ぼくは初めて会ったんだけど…。子猫の時から、家の中だけで飼ってたとか…?
「いや、この子は孫が飼ってる猫でね…。孫の家は別の所なんだよ」
暫く旅行に行くと言うから、ウチで預かることにしたんだが…。お蔭で、こういう有様なんだ。
庭で遊んで、あちこちの木に登っていたんだろうね。きっと最初は、片っ端から。
それで気に入ったのがこの木で、今じゃすっかり遊び場になって…。
庭に飛び出しては、これに登ったり、下りて来たりするのさ。猫には爪があるからねえ…。
そのせいで剥げてしまったんだ、と御主人が溜息をついている苔。
(猫の爪なら、こうなっちゃうよね…)
登る時にも剥げるだろうし、下りる時にも爪に引っ掛かりそう。そうやって苔が剥げてゆくのも遊びの一つなのかもしれない。「面白いよね」と、わざと爪を余計に出したりして。
(爪の幅だけ、剥がれちゃうから…)
爪を広げて、滑り下りたりもするのだろう。苔を一緒に引き剥がしながら、体重をかけて上からズルズル。如何にも猫が好きそうな遊び。
猫には楽しい遊びだけれども、苔にとっては大いに迷惑。木の幹から無理やり引き剥がされて、その後は枯れてしまっただろう。水分も栄養も摂れなくなって。
苔に覆われていた木の幹だって、みっともない姿にされてしまった。あちこちが剥げて、自慢の服がボロボロだから。
御主人は苔が剥がれた跡を見詰めて、フウと溜息。
「弱ったよ…。今じゃすっかり、こうなんだから。…一目で分かるハゲだらけでね」
せっかく綺麗に生えていたのに、台無しだ。見た目も悪いし、どうにもこうにも…。
「苔はくっつけられないの?」
剥がされた苔は、根っこ…って言うのか、そういうのが駄目になっているから無理だろうけど。
でも、苔だって売っているでしょ、苗とかを扱うお店に行けば…?
苔を買って来て、剥がれちゃった所にくっつけたら、と提案してみた。同じ種類の苔が売られているのだったら、問題は解決しそうだから。…くっつける手間はかかるけれども。
「苔ねえ…。もちろん店にはあるだろうけど、それじゃ不自然になるからね」
後からくっつけてやった場所だけ、変に目立ってしまうんだよ。人間の手が加わるから。
自然に生えるのを待つのが一番いい方法で、この木の苔もそうなんだ。苔なんか一度も植えてはいないよ、勝手に生えて来ただけさ。暮らしやすい条件が揃ったんだろうね。
しかし、これだけ剥げてしまうと、元の通りに戻るには…。
下手をしたら何年もかかるんじゃないかな、と御主人が言うから驚いた。相手は苔だし、じきに元通りに生えて来そうなのに。
「何年もって…。何ヶ月とかの間違いじゃなくて?」
苔って、そんなに分厚くないでしょ。剥げたのが此処で、剥げてないのが此処だから…。
ほんのちょっぴり、と眺めた厚み。数ミリくらいしか無さそうに見える苔の層。
「それが何年もかかるのさ。…こういう風になるにはね」
毎年、毎年、少しずつ育って厚くなるのが苔なんだよ。とても小さな胞子を飛ばしては、自分の仲間を増やしながら。
人間の手で植えてやるには、気難しすぎて手に負えないのが苔ってヤツかな。
庭に植えても、なかなか思うようには育ってくれなくてね。
それを木の幹に植えるとなったら、厄介だろうと思わないかい…?
「盆栽が趣味の人なんかだと、頑張るらしいよ」と御主人は教えてくれた。
大きく育つ筈の木たちを、小さなサイズに育てる盆栽。とても小さいのに、樹齢の方は一人前。何十年とか、百年だとか、そういう木たちを楽しむ世界。
けれど最初から「丁度いい木」は無いわけだから、育て始めて直ぐの間は木だって若い。樹齢は一年、二年とかで。
そういう木たちを少しでも立派に見せたいから、と生やすのが苔。年ふりた木にも負けない幹を作り出そうと、せっせと苔をつけてやる。
ただし、自然に見えないと駄目。年数を経て生えたかのように、色々な苔を枝や幹に。
「幹につく苔と、枝とでは違うらしくてねえ…」
趣味の人たちはうるさいらしいよ、苔の生え具合や種類なんかに。…少しでもいい木に見せたいからねえ、自分の大切な盆栽を。
「そうなんだ…。盆栽って、苔も大事なんだね」
木の形だとか、大きさだけかと思ってた…。小さくても立派に花が咲くとか、そんなので。
「盆栽の趣味は無いんだけどね…。この木の幹は好きだったんだよ」
勝手に苔が生えてくれたお蔭で、堂々として見えるじゃないか。…森の中にある木みたいにね。
友達が来ても、とても羨ましがってくれるから…。
庭の自慢にしていた木なのに、気が付いたらこうなってたんだよ。この子が登ってしまってね。
今ではすっかりお気に入りだし、この子がウチに泊まっている間に、丸禿げじゃないかな。
残っている苔も剥がされちゃって、と御主人は本当に困り顔。御自慢の木の幹を前にして。
「猫を繋いでおくのは駄目?」
そうでなきゃ、家から出さないとか…。
繋いでおいたら、この木に勝手に登りはしないし、家から出なけりゃ登れないよ?
苔を守るのにはいいと思う、と言ったのだけれど。
「それだと、この子が可哀相じゃないか。好きなように遊べないなんて」
庭が大好きで、「出して」と頼みに来るんだよ?
だから何度も出してやっていたら、こうなっていたというわけさ。この木が最高の遊び場で。
この木に登って遊んじゃ駄目だ、と覚えてくれればいいんだけどねえ…。
おっと!
御主人の腕の中にいるのに退屈したのか、遊びたい気分になったのか。ピョンと飛び出した猫が木にスルスルと登って行った。
それは身軽に、アッと言う間に上の方まで。きっと爪だって出ていた筈。爪を立てないと、猫の足では木に登れない。人間みたいに長い指など持っていないから。
「…また剥がれちゃった?」
木についてる苔、今ので剥がれちゃったのかな…?
どうなんだろう、と見上げた木の上。猫は大きな枝の一つで遊んでいる。枝から伸びている枝や葉っぱを、足でチョンチョンつついたりして。
「苔ねえ…。よく分からないけど、剥げたんだろうね。あの勢いで登ったんだから」
それに木の上で楽しく遊んで、下りてくる時に、また剥げるんだよ。
わざわざ幹にへばりつくようにして、ズルズル滑って下りて来るのも大好きだしね…。
もう諦めるしかなさそうだ、と御主人は両手を大きく広げて、お手上げのポーズ。
きっとその内に、苔は丸禿げになるのだろう。白と黒のブチ猫、お孫さんの猫が全部剥がして。この木に登って、また下りて来ては、生えている苔を爪で引っ掛けて。
(なんだか気の毒…)
御自慢の木の幹を駄目にされそうで、困った顔をしている御主人が。
今も木の上にいる猫を呼んでは、「下りる時には、気を付けてくれよ?」と叫んでいるほど。猫さえ注意してくれたならば、苔はそれほど剥げないから。少しは剥げても、全部は剥げない。
(猫が登るの、やめさせちゃったら剥げないんだけど…)
それが一番だと承知していても、猫を繋ごうとはしない御主人。家に閉じ込めないのも分かる。猫を自由にさせてやりたいから、どちらもしない。
お孫さんから預かった猫を、繋ぐのも、家に閉じ込めるのも。
そうしたならば、御自慢の木の幹は丸禿げになったりしないのに。丸禿げよりかは、あちこちが剥げた今のままの方が、元に戻るのも早いだろうに。
(でも…)
御主人はそうしないのだから、猫に任せるしかないだろう。あんまり苔を剥がさないように。
木に登る時も、下りて来る時も、出来るだけ爪を立てないで。
もっとも、猫はその逆のことが好きらしいから、絶望的な状況だけど。
御主人に「さよなら」と挨拶してから、帰った家。庭の木たちを見回したけれど、幹をすっかり苔が覆っている木は無かった。庭で一番大きな木だって、幹に苔など生えてはいない。
(おじさんが自慢するわけだよね)
盆栽が好きな人たちだったら、頑張って生やすらしい苔。まるで自然に生えたかのように。
そういった苔が勝手に幹を覆っていたのが、御自慢のあの木。何の手入れもしてはいなくても、森の奥の木のように見えた風格。緑色の苔が幹を覆っていただけで。
(だけど、あちこち剥げちゃって…)
このままだと丸禿げになりそうな苔。猫が遊んで剥がしてしまって、苔の欠片も無くなって。
そうなったら、あの木は「ただの大きな木」でしかない。庭のシンボルツリーと言っても、ただそれだけ。「立派な木ですね」と褒めてくれる人も減るのだろう。
あれ以上は剥げないといいんだけどね、と玄関を開けて家に入った。「ただいま!」と、元気に奥に向かって呼び掛けて。
二階の部屋で制服を脱いだら、おやつの時間。ダイニングの窓から庭の木を見て、さっきの木と似たような大きさのを探す。その幹に苔が生えていたなら、どんな風だろうと。
(…此処から見たら、ただの緑色だけど…)
庭に出て側に立ってみたなら、とても立派に違いない。木の皮だけに覆われているより、緑色の苔を纏った方が。…それも剥げてはいない苔で。
(剥げてしまったら、木の皮が見えて…)
痛々しいし、見た目も悪い。
その原因は病気ではなくて、猫が悪戯した結果でも。「こうすれば剥がれて面白いんだよ」と、爪を立てて登り下りされたせいでも。
(絶対、カッコ悪いよね…)
ああして剥がされてしまった苔。
御主人の友達がやって来たなら、皆、驚いて眺めるのだろう。「どうなったんだ?」と。
その頃にはもう、あの猫はいない。お孫さんの家に帰ってしまって、知らん顔。
御主人は苔が丸禿げになった木だとか、あちこち剥げてみっともないのを、「実は…」と溜息を幾つも交えて、友達に説明するのだろう。
御自慢の苔がどうして剥げてしまったか、犯人は何処の誰だったのかを。
おやつの間は、木と苔のことを考え続けて、食べ終えてからは二階の自分の部屋に戻って、また考える。勉強机の前に座って。
猫が登る度に木の苔は剥げて、下手をしたなら丸禿げになってしまいそう。お孫さん一家が旅行から帰って、あの猫を迎えにやって来る前に。
苔が生えた木は、猫の一番好きな遊び場。苔を剥がすのが面白いのか、木そのものもお気に入りなのか。せっせと登って下りて来る度に、御自慢の苔が剥げてゆく。猫の爪のせいで。
(おじさんは登って欲しくないけど、猫は登りたくて…)
庭に出たいと駄々をこねては、あの木に向かってまっしぐら。その度に剥がれてしまう苔。
御主人が気付いた時には、とうにああなっていた。あちこちが剥げて、無残なことに。
(おじさん、困っていたけれど…)
それでも猫を繋ぐつもりは無いらしい。家に閉じ込めておくこともしない。
「可哀相じゃないか」と言っていた御主人。猫を力ずくで止めないだなんて、凄いと思う。猫は御自慢の木とは知らずに、これからも登り続けるだろうに。
「駄目じゃないか」と頭をコツンとされても、きっと分かっていないだろうに。
お手上げのポーズをしていた御主人。猫が登った木を見上げて。
(とっても優しい人だよね…)
御自慢の木が駄目になっても、猫を繋ごうとはしない人。家の中に閉じ込めることも。
猫にとっても、本当に優しい人なのだけれど、問題はあの木。
このままだったら、苔は丸禿げ。
御主人の自慢の苔とも知らない、あの猫がすっかり剥がしてしまって。
爪を立てては上まで登って、苔を剥がしながら幹にしがみ付いてズルズル下りて来たりもして。
(あちこち剥げただけの苔でも…)
元の姿に戻るまでには、何年もかかるかもしれない。苔は気難しいと教わったから。
剥げた所に、買って来た苔をペタリと貼っても駄目らしいから。
(丸禿げなんかになっちゃったら…)
御自慢の苔が幹を覆うまでには、どのくらいかかることだろう。ほんの数日で丸禿げになって、戻るまでには年単位。…三年も四年もかかるのだったら、あの御主人が気の毒すぎる。
いくら御主人は承知でも。「仕方ないよ」と、猫の悪戯を許していても。
放っておいたら、苔が丸禿げになってしまいそうな幹。元の通りに苔が生えるまでには、何年もかかってしまうのだから…。
いいアイデアは無いのだろうか、そうなる前に猫を止める方法。
繋いだり、家に閉じ込める以外に、猫が木に登らないようにする方法が何かあればいいのに。
(あの木の周りに柵をしたって、猫じゃ登って越えちゃうし…)
木の幹に何か巻いたりしたなら、今度は苔が駄目になる。太陽の光や、雨の雫が当たらなくて。ほんの短い期間にしたって、小さな苔には致命的な時間だろうから。
(何かあの木を守る方法…)
猫の爪から、と考えていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、いつものテーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。猫が木に登らない方法を知っている?」
知ってるんなら教えて欲しいな、その方法を。
「はあ? 木に登らない方法って…。木に登らせない方法のことか?」
どうすれば猫が木に登らないように、止められるか。…お前はそいつを知りたいのか?
そうなのか、と尋ねられたから頷いた。知りたい方法はそれだから。
「ハーレイの家にはミーシャがいたでしょ?」
隣町の家に住んでた頃には、真っ白なミーシャ。…登らせないようにしていた木は無い?
この木は駄目、ってハーレイのお父さんが決めていたとか、お母さんが大事にしていた木とか。
「俺の家には、そういった木は無かったなあ…」
だからもちろん、ミーシャは好きに登っていたが?
誰も止めたりしないもんだから、勝手気ままに登って遊んで、飽きたら下りて。
そうやって好きに登った挙句に、下りられなくなっちまった木の話をしたと思うがな?
下りられない、とミャーミャー鳴くから、親父が梯子で登って助けてやったんだが。
「そういえば…。前に聞いたね、その話…」
どの木にも好きに登っていいから、ミーシャ、自分じゃ手に負えない木に登っちゃったんだ…。
登る時には楽しい気分で、どんどん登って行っちゃったけど…。
上に着いたら、下りる方法、ミーシャには分からなかったんだものね。
高い木に登ったまではいいけど、どうすれば下に下りられるのか。
そうだったっけ、と蘇って来た記憶。ミーシャは自分の好きに登って、酷い目に遭った。登った木から下りられなくなって、「助けて」と人間を呼ぶしかなくて。
そんな騒ぎが起こっていたのに、ハーレイの両親は、ミーシャの木登りを止めてはいない。どの木も好きに登れるようにと、そのまま放っておいたのだろう。何の工夫もしないままで。
ならば、ハーレイも策を持ってはいない。あの木の苔を守ってやれる方法。
「そっか、駄目かあ…。ハーレイなら、って思ったのに…」
ぼくだと何にも思い付かないけど、ハーレイは知っているかもね、って…。
「なんだ、どうしたんだ?」
猫を木に登らせない方法だなんて、お前、いったい何をしようとしてるんだ?
この家に猫はいない筈だぞ、友達の誰かが困ってるのか?
しょっちゅう下りられなくなる猫ってヤツもいるそうだから、とハーレイは至極、真面目な顔。登ったら自分では下りられないのに、繰り返す猫がいるらしい。同じ木に何度も登る猫。
「えっと…。そういう猫の話じゃなくって…」
ちゃんと上手に下りられるんだよ、登った後は。…お気に入りの木だから、登るのも上手。
だけど、登る木が問題で…。
今日の帰りに、ぼくも見せて貰ったんだけど…。
苔が丸禿げの危機なんだよ、とハーレイにあの木の説明をした。
帰り道に出会った御主人の自慢の、幹に緑の苔が生えた木。その木の苔を猫が剥がすのだ、と。
剥がれた苔が元の通りに生えるまでには、何年もかかるものらしい、とも。
「なるほどなあ…。猫には爪があるからな」
木に登ったら剥げちまうだろうな、幹に生えてる苔なんかは。
それに猫には、楽しいオモチャになるんだろう。剥がしながらズルズル下りて来るなら。
「やっぱり、遊んでるんだよね…?」
おじさんが大事にしてる苔なのに、そんなの、猫には分かんないから…。
どんどん剥がして、今のままだと丸禿げになってしまいそう。
でもね、おじさんは猫を繋ぐつもりは無いんだよ。…家に閉じ込めたりもしない、って。
それは猫には可哀相だから、苔は丸禿げでも仕方ない、って…。
すっかり諦めているみたいだけど、でも、何か方法があるんなら…。
いいアイデアがあるなら教えて、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。
ミーシャには使っていなかったとしても、誰かから聞いた方法があるとか、そういったケースもまるで無いとは言い切れないから。
「お願い、ハーレイ。…何か知らない?」
知ってるんなら、ぼく、おじさんに教えに行くから…!
ううん、ママに頼んで通信を入れて貰うよ、今日の間に…!
おじさんの大事な苔を守れる方法、少しでも早く教えてあげたいもの…!
このままだとホントに丸禿げになっちゃう、とハーレイの知識に縋ったのだけれど。三十八年も生きている分、アイデアも持っていそうだと期待したのだけれど…。
「生憎と、俺は知らないなあ…。お前が知りたがってるような方法は」
苔の大切さなら分かるんだがな、俺だって。…親父もたまに気にしてたから。
庭の木の幹、調べてみては、ちょっと溜息をついたりもして。
「ハーレイ、それって…。ミーシャのせいで剥げちゃった?」
木に登るためには爪を出すから、剥がすつもりは無かったとしても。…お気に入りの木っていうほどじゃなくても、登れば剥げちゃいそうだから…。
「うむ。登る時にも、下りる時にも、爪を立てるのが猫だしな?」
たまにツルッと滑りでもしたら、いつもより派手に剥がれちまう。爪を広げてた幅の分だけ。
もっとも、ミーシャはとっくにいないし、今じゃすっかり元通りに苔が生えてるが…。
その苔、たまに剥げるそうだぞ、とハーレイが言うからキョトンとした。
「え? 剥げるって…?」
ミーシャがいないのに、なんで剥げるの?
新しい猫は飼ってないでしょ、それとも何処かで貰って来たの…?
今は別の猫が飼われているの、と高鳴った胸。もしも別の猫を飼い始めたなら、知りたいことは山のよう。どんな猫なのか、名前は何か。今はどのくらいの大きさなのか、と。
「おいおい、慌てるんじゃない。俺はまだ何も話していないぞ」
たまに剥げると言っただけでだ、犯人の名前も出しちゃいないが…?
とはいえ、お前の勘もまるっきり外れているわけじゃない。
犯人は猫には違いないしな、親父たちの猫じゃないってだけで。
他所の猫だ、とハーレイが教えてくれた犯人。ハーレイの両親が暮らす隣町の家で、緑色の苔が生えた木に登って、苔を剥がしてしまう猫たち。
「お前が出会った猫と違って、犯人は一匹じゃないようだがな…?」
ふらりと庭を通り掛かって、登って遊んで剥がしていくんだ。少しだけとか、派手にとか…。
親父に言わせりゃ、もう明らかに木登り失敗、といった感じのハゲも見つかるらしいな、うん。
猫が滑って落ちた跡だ、とハーレイは可笑しそうな顔。「そういう時には派手にハゲるぞ」と。
「派手にハゲるって…。ハーレイのお父さん、怒らないの?」
生えている苔、お父さんも大事にしている苔でしょ、ミーシャの頃から…?
他所の猫なんかに剥がされちゃっても、許しちゃうわけ…?
入って来たら叱ればいいのに、と思った庭に入って来る猫。追い出されたなら、木登りなんかはしていかない。木の幹に生えた苔は無事だし、派手に剥がれもしないのに。
「追い出すって…。親父も、おふくろも、そんなことは考えもしないだろうなあ…」
俺も同じだ、仮に大事な木があったって。…その木に悪戯されちまっても。
猫が平気で遊べる庭があるっていうのは、いいもんだろ?
公園と同じで、車も走っていないんだから。…猫にとっては、人間様の庭が公園なんだ。
本当に困る理由が無いなら、遊ばせておいてやりたいじゃないか。猫に食われちまうような鳥がいるとか、そういう庭でないのなら。
「そうなんだ…。人間の家にくっついてる庭は、猫の公園…」
猫のための公園なんかは無いから、そう言われたら、そうなのかも…。
車も来ないし、安心して遊べる場所だもの。…木の幹に生えた、苔が剥げるのは困るけど…。
だけど、猫たちが幸せに遊んでいるなら、叱ったりしない方がいいよね…。
その方が猫も嬉しいものね、と口にしたら思い出したこと。
(…遊んでて、それで叱られちゃうって…)
あったっけ、と心が遠く遥かな時の彼方へと飛ぶ。
白いシャングリラにあった、広い農場。あそこに植えていた、沢山の木たち。
自給自足で生きてゆく船には、様々な木々が必要だった。オリーブや果樹や、他にも色々。
その大切な農場の木たちに、子供たちが登って叱られていた。
農場の木たちは、公園の木とは違って、作物を育てるために植えられたものばかりだから。
オリーブオイルを採るためのオリーブ。果樹はもちろん、チョコレートの代用品だったイナゴ豆だって、木に実っていた。
農場の木たちは、船の暮らしに欠かせないもの。眺めて楽しむ公園の木とは、まるで違っていた目的。けれど、子供たちの目から見たなら、どちらも木には違いないから…。
「猫の公園で思い出したよ。…シャングリラの木を」
「シャングリラだと?」
前の俺たちが暮らしてた船か、木なら山ほど植えてたもんだが…。白い鯨の方ならな。
「そう、そっち。あの船の農場に植えていた木は、どれも大切な作物ばかりだったから…」
公園と違って、木登りは禁止だったんだよ。作物が傷んだりしたら大変だから、って。
でも、子供たち…。
あの木に登っちゃっていたよね、木の苔を剥がす猫じゃないけど…。遊ぶために。
「登ってたなあ、そういえば…!」
思い出したぞ、あのシャングリラの悪ガキどもを。…猫より酷い連中だったな。
猫には言葉が通じないから、「その木は駄目だ」と怒鳴るだけ無駄というヤツなんだが…。
あいつらは立派に人間だったし、思念波も持っていたってな。「駄目」が通じる連中だった。
なのに、言うことを少しも聞きやしないんだ。農場の木には登るんじゃない、と何度言っても。
何度注意を繰り返そうが、「登るな」と教え続けようが。
まるで聞いてはいなかったよな、とハーレイが浮かべた苦笑い。シャングリラに迎えたミュウの子たちは、農場にあった木に関して言うなら、悪ガキだった。
大切な作物を育てるための木なのだから、と口を酸っぱくして教えたって、彼らは聞かない。
公園とは違った木が植わっていて、面白そうだと考えるだけ。
けれど大人は「駄目だ」と叱るし、登って遊べば大目玉。「駄目だと言われた筈だろう」と。
それを承知で、コッソリ出掛けていた子供たち。
「バレては駄目だ」と、船の仲間たちの目を盗んでは、農場に向かう通路に入って。
農場に着いたら、見張りも立てた。大人が来た時は、直ぐに逃げないと叱られるから。
そうやって入り込んだと言うのに、子供というのは無邪気なもの。
木登りの遊びに夢中になったら、もう何もかもを忘れてしまう。自分たちが何処にいるのかも。
その内に、見張りの子までが持ち場を離れて登り始めて、ワイワイ騒いで…。
子供たちの末路は、もう見えていた。彼らが農場に向かった時から、どうなるのかは。
農場に向かう姿には、誰も気付かなくても。…途中の通路ですれ違った仲間がいなくても。
白いシャングリラの食生活を支える農場、其処が終日、無人のままの筈がない。夜はともかく、人工の光が煌々と照らす昼の間は。
収穫のために出掛ける者とか、作物の世話に向かう者とか。
いずれ大人が現れるわけで、彼らの耳には直ぐに届いた。木登りに興じる、子供たちの賑やかな歓声が。それは楽しそうに遊ぶ声が。
「あれって、いつでもバレちゃったんだよ。逃げる前に大人に見付かっちゃって」
いつだってバレて、それでお説教…。猫と違って、言葉がちゃんと通じるから。
「その説教。…俺も駆り出されてたぞ、ヒルマンに」
あいつだけでは話にならん、とキャプテンの俺を引っ張り出すんだ。船の最高責任者だから。
「農場の大切さを説いて、大目玉を食らわせてくれ」というのが、ヒルマンの注文だったが…。
俺が大声で怒鳴ってみたって、シュンとするのは、その時だけで…。
何日か経ったら、また同じことを繰り返してた。農場に出掛けて、木登りをして、見付かって。
まるで駄目だから、ソルジャーの出番になったんだがなあ…。
前のお前を呼んだ効果はどうだったんだ、とハーレイの鳶色の瞳が瞬く。「効果、あったか?」などと、確かめるように。
「ううん…。前のぼく、子供たちとは、しょっちゅう一緒に遊んでたから…」
農場で木登りはしなかったけれど、でも、子供たちの心は分かるし…。
「何の役にも立たなかったってな、肝心のソルジャーは子供の味方で」
叱るどころか、悪党どもの肩を持つんだ。「許してやってもいいだろう?」と寛大な顔で。
「そう…。ああやって遊べる場所があるのがいいじゃないか、って言っていたっけね」
農場は大事な場所だけれども、人類に見付かって撃たれもしないし、安全だから、って…。
だってそうでしょ、本当に安全なんだから。…人間の家の庭が、猫の公園なのと同じで。
「猫の公園なあ…。前のお前はそうは言わなかったが、アレを言われると弱かった」
子供たちにとっては安全な場所だ、と言われちまうとグウの音も出ない。
前の俺はもちろん、俺を担ぎ出したヒルマンもな。
ゼルは元々、子供好きだし、叱ろうって気はまるで無かったわけだから…。
何度叱られても、子供たちは農場の木たちに登り続けた。徒党を組んで出掛けて行って。
船の大人たちの目を盗んでは、白いシャングリラの食生活を支える、大切な木に。
オリーブの木も、イナゴ豆の木も、他の木や果樹も、子供たちに狙われ、登られていた。梯子は使わず、手と足だけで。…サイオンも、木から滑った時くらいしか使っていなかった。
彼らがせっせと登るものだから、そのせいで収穫量が減ったりしないようにと、農場の係たちは頑張っていた。悪ガキたちと遭遇したなら、叱り飛ばすのは基本だったけれど…。
それと同時に、「この枝には足を掛けるな」だとか、「今の季節は、この木に登るな」だとか、出来る限りの指図をして。「木が傷んだら、お前たちも食えなくなるんだぞ!」などと。
(…前のぼくが、本気で止めてたら…)
木登りは直ぐに止んだだろう。
白いシャングリラを導くソルジャー、その人が「駄目だ」と叱ったら。登ってもいい木は公園の木だけで、農場の木には登るんじゃない、と。
けれども、一度も叱ってはいない。
ヒルマンに請われて出掛けて行っても、前のハーレイまでが腕組みをして子供たちを睨み付けていても。…農場は大切な場所だとはいえ、安心して遊べる所だったから。
「ねえ、ハーレイ…。前のぼくたち、今日のおじさんと同じだね」
木の幹に生えてる苔が丸禿げになってしまったとしても、猫を繋いだりするよりはいい、って。
庭に出さずに閉じ込めるよりも、好きに遊ばせてやりたいから、って…。
農場の木だって、それと同じだよ。木登りさせなきゃ、収穫が増えたかもしれないのにね。
…きっと増えたよ、木が傷むことは無いんだから。
「それは分かっちゃいたんだが…。キャプテンとして見ていた、報告書とかで」
あのガキどもを止めさえしたなら、もう少しくらい増えるだろう、と書かれていたから。
しかし、所詮は「もう少し」だ。誤差の範囲と呼べるくらいの違いでしかない。その量が減って誰が飢えるというわけでもなし、目くじら立てても仕方あるまい。
その程度のことで縛っちまうよりは、自由にのびのびさせてやりたかったしな、子供たちを。
「絶対に駄目だ」と叱るのも俺の仕事だったが、其処まででいい。
規則まで作って徹底させるとか、立ち入り禁止にしちまうよりかは、あれで良かった。
お蔭で逞しく育ってくれたさ、どの子たちもな。…農場で悪事を働きながら。
シドもリオも…、とハーレイが懐かしむ子供たち。白いシャングリラで育った子たち。
後に最後のキャプテンになったシドも、地球で命尽きた英雄のリオも、みんな木登りをしながら育った。公園にある木とは違って、農場に植えられた大切な木で。
「みんな登っていたんだっけね…。子供だった頃は」
大人に見付かって叱られたって、農場に何度も出掛けて行って。…色々な木に。
オリーブの木にも、イナゴ豆の木にも、と子供たちの姿が目に浮かぶよう。前の自分は、何度もサイオンで覗き見たから。「また登っている」と笑みを浮かべて、青の間から。
「公園の木にも登ってはいたが、農場の方が良かったらしいな。…同じ木登りするのなら」
収穫を控えた木には登れなかったし、盗み食いが出来たわけでもないのに…。
リンゴの一つも食えやしないのに、なんだって農場が良かったんだか…。
叱られてエライ目に遭うだけなんだが、とハーレイが顎に手を当てる。何のメリットも無かった農場、どうして其処で木登りなどを…、と。
「きっとスリリングだったんだろうね。農場の木には、苔が生えてはいなかったけど」
登る時とか、下りる時とかに派手に滑って、苔がハゲるわけじゃなかったけれど…。
だけどスリルはあったと思うよ、農場だもの。見張りを立てなきゃいけないような場所だから。
「叱られるのと、背中合わせのスリルってヤツか…」
苔でツルリと滑っちまうか、大人に見付かって怒鳴り付けられるか。…その違いなんだな。
お前が出会った猫の場合は、苔の手ごたえを楽しんでいる、というトコだ。頑張って爪を立てたつもりでも、滑る時だってあるんだし…。その跡がお前の見て来たハゲだな。
シャングリラの農場で木登りしていたガキの場合は、見付かって怒鳴られるスリルをワクワクと楽しみにしていた、と。苔で滑ってしまうのを楽しむ猫みたいに。
まあいいだろうさ、シャングリラの方では、船の役に立つ子たちが立派に育ったんだから。
前のお前が「安全な場所で遊ばせてやれ」と、何度も許してやったお蔭で。
本当にいい子たちだった、とハーレイが挙げてゆく名前。白いシャングリラの悪ガキたち。
「そうだね、みんな立派に育ってくれたよ。でも…」
今日の猫は、どうなっちゃうんだろう?
苔を剥がして登ってもいい、って許して貰って、立派な猫になれるのかな…?
「そっちは役に立ちそうにないな、猫だけに」
第一、子猫じゃなかったんだろうが。既に育った後の猫だぞ、それ以上、どう育つんだ…?
「たとえ立派に育ったとしても、猫の手だからな」とハーレイが笑う、猫の木登り。
御主人の自慢の苔を剥がして、せっせと登り続ける猫。お孫さんが迎えにやって来るまで。
(…猫の手どころか、大迷惑だよ…)
苔が丸禿げになりそうだ、と御主人がしていた、お手上げのポーズ。
猫の手は役に立たないものだし、あの木登りで立派に育っても、どうしようもない厄介な猫。
けれど、白いシャングリラの思い出を連れて来てくれたから、役には立った。
御主人の与り知らない所で、今の自分とハーレイのために。
それに、御主人の役には立たないようでも、ああやって猫が庭で楽しんでいるのなら…。
(お孫さん、きっと喜ぶよね?)
旅行から帰って迎えに来た時、「お気に入りの木が出来たようだよ」と聞かされて。
もしかしたら、あの木の上から下りて来るかもしれない。お孫さんの声で、大喜びで。
木の幹に生えた苔の最後の欠片を、爪でズルズルと引き剥がしながら。
丸禿げになってしまった幹で溜息をつく御主人だって、お孫さんの笑顔で、きっと御機嫌。
「旅行は楽しかったかい?」と訊いたり、猫を眺めて「いい子にしてたよ」と微笑んだり。
猫が最後の苔の欠片を剥がしても。…本当に丸禿げにされてしまっても。
(あの木の苔も、早く元に戻るといいんだけれど…)
今はまだ丸禿げになってはいなくて、あちこちが剥がれてしまっていた苔。
元の緑色を取り戻すまでには、何年もかかるかもしれない苔。
(やっと生えて来ても、あの猫が来て…)
また剥げるかもしれないけれども、それもいい。
子供は未来の宝だから。
白いシャングリラの農場の木で、木登りしていた子供たち。彼らは立派な大人になった。
あの御主人のお孫さんだって、いつか大きく成長する。
苔を剥がしてしまった猫は育たなくても、お孫さんは立派に育ってくれる。
だから御主人も、きっと怒りはしないのだろう。
ようやく元に戻った木の幹の苔を、お孫さんの猫がすっかり丸禿げにしてしまっても…。
苔が生えた木・了
※ブルーが見掛けた猫の遊び。木の幹を覆っている苔を、剥がしてしまうような木登り。
御主人は困り顔で見守るだけ。止めようとしないのですけど、シャングリラでも事情は同じ。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
どうしたんだろ、とブルーは首を傾げた。学校からの帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
道沿いの家の庭に、その家の御主人の姿。家と庭を囲む生垣からは、少し離れた奥の方。其処で大きな木を見上げながら、難しい顔。困ったようにも見える表情。
(あの木が、どうかしたのかな?)
木の葉や枝を眺めたけれども、弱っているという感じは受けない。むしろ生き生きしている木。本当に元気そうだけれども、素人だから元気に見えているだけで…。
(ホントは病気になっちゃってるとか?)
しかも簡単には治らない病気。木の姿がすっかり変わるくらいに、枝を何本も切り落とさないと駄目だとか。
(そういう病気もあるらしいものね…)
治療した後は、太い幹には似合わない細い枝が数本、そんな姿になってしまう木。元通りに枝が茂るまでには何年もかかる、荒療治とも言える治療法。
それが必要な病気の兆しを発見したなら、難しい顔にもなるだろう。もちろん困るし、御主人が悩んでしまうのも分かる。あの木は庭のシンボルツリーなのだから。
(…どうしたの、って訊いてみたいけど…)
御主人の気持ちを考えてみると、黙っている方がいいかもしれない。声を掛けようか、このまま通り過ぎようか、と迷っていたら…。
御主人がこちらに顔を向けたから、慌ててピョコンとお辞儀した。
「こんにちは!」
「おや、ブルー君。今、帰りかい?」
身体もこっちに向けた御主人は、両腕で猫を抱いていた。白地に黒のブチがある猫。しっかりと胸に抱いているから、服と混じって気付かなかった猫の存在。
(白と黒のブチ…)
この家に猫はいただろうか?
いなかったように思うけれども、もう子猫とは呼べない大きさ。滅多に外に出ない猫なら、いることも分からないだろう。知らない間に飼われ始めて、育っていても。
初めて出会った猫にも驚いたけれど、それよりも木の方がずっと気になる。物心ついた時には、もうこの家の庭にあった木。自分も馴染みのシンボルツリー。
「おじさん、その木…。どうかしちゃったの?」
弱っているようには見えないけれども、病気になっちゃってるだとか…?
「この木かい? ちょっぴり困ったことになってねえ…」
其処からだと見えないだろうから…。入って見てやってくれるかい?
どうぞ、と入れて貰った庭。御主人が門扉を開けに来てくれて。
其処まで来るのも、門扉を開けるのも、御主人は猫を抱いたまま。使わない方の腕にしっかり。
(よっぽど可愛がっているんだね)
少しも離さないんだもの、と猫にも挨拶。「こんにちは」と。返事は「ミャア!」。
御主人は木の側に案内してくれて、猫を抱いていない手で木を指差した。
「ほら、見てごらん。…可哀相なことになっちゃったんだ」
「えっと…?」
側で見ても、やっぱり元気そうな木。病気のことは分からないから、何処を見ればいいのか謎。葉っぱに妙な斑点なんかもついてはいない。枝の茂り具合が変なのだろうか?
(可哀相なことになったんだったら、病気だよね…?)
何処で分かるの、と上から下まで何度見たって、元気そのものに思える木。立派な幹も、幹から伸びた枝たちも。
「ブルー君は気が付かないかな? これだよ、これ」
この通り、苔がすっかり剥げちゃってね。この間までは、綺麗な緑だったんだがねえ…。
「本当だ…!」
あちこち剥げてる、と目を丸くした。太い木の幹を覆うようにして、濃い緑の苔が生えている。まるで上等の絨毯みたいにフカフカに見える、薄い割には存在感のある苔たち。
それが無残に剥がれた場所が、幹に幾つも。
(何かで無理やり、剥がしたみたい…)
削り取られたように、長い線になって剥げている苔。剥がれた跡は直線だったり、少し曲がっていたりと色々。剥げてしまった場所は木の皮がむき出しになって、痛々しいくらい。
本当だったら、木の幹はそれでいいのだけれど。…苔が無くても、木の皮だけで充分。
普通の木ならば、幹に苔など生えてはいない。生えていたって、ほんの少しだけ。家の庭の木を思い浮かべても、幹にビッシリ苔を生やした木などは無い。
(この木も、普通の木なんだけどな…)
ありふれた木で、珍しくない木。けれども、苔がよく似合う。こんな風に剥がれてしまった姿を目にした途端に、「可哀相だ」と感じるほどに。
「剥げちゃったって…。この木、どうなっちゃったの?」
病気じゃないよね、苔が剥げちゃう病気なんかは知らないし…。
それに無理やり剥がしたみたいで、虫なんかだと、こんな風にはならないだろうし…。
いったい何が起こったわけ、と御主人の顔を見上げたら。
「この子だよ。…気付かなかった私も悪いんだがね」
御主人がコツンと軽く叩いた、腕の中にいる猫の小さな頭。「駄目じゃないか」と。
猫の方では「ニャア…」と鳴いたものの、謝ったりするわけがない。猫は言葉を話さない上に、元が気ままな生き物だから。
「剥がしちゃったの、猫だったの?」
おじさん、この子、前から飼ってた?
ぼくは初めて会ったんだけど…。子猫の時から、家の中だけで飼ってたとか…?
「いや、この子は孫が飼ってる猫でね…。孫の家は別の所なんだよ」
暫く旅行に行くと言うから、ウチで預かることにしたんだが…。お蔭で、こういう有様なんだ。
庭で遊んで、あちこちの木に登っていたんだろうね。きっと最初は、片っ端から。
それで気に入ったのがこの木で、今じゃすっかり遊び場になって…。
庭に飛び出しては、これに登ったり、下りて来たりするのさ。猫には爪があるからねえ…。
そのせいで剥げてしまったんだ、と御主人が溜息をついている苔。
(猫の爪なら、こうなっちゃうよね…)
登る時にも剥げるだろうし、下りる時にも爪に引っ掛かりそう。そうやって苔が剥げてゆくのも遊びの一つなのかもしれない。「面白いよね」と、わざと爪を余計に出したりして。
(爪の幅だけ、剥がれちゃうから…)
爪を広げて、滑り下りたりもするのだろう。苔を一緒に引き剥がしながら、体重をかけて上からズルズル。如何にも猫が好きそうな遊び。
猫には楽しい遊びだけれども、苔にとっては大いに迷惑。木の幹から無理やり引き剥がされて、その後は枯れてしまっただろう。水分も栄養も摂れなくなって。
苔に覆われていた木の幹だって、みっともない姿にされてしまった。あちこちが剥げて、自慢の服がボロボロだから。
御主人は苔が剥がれた跡を見詰めて、フウと溜息。
「弱ったよ…。今じゃすっかり、こうなんだから。…一目で分かるハゲだらけでね」
せっかく綺麗に生えていたのに、台無しだ。見た目も悪いし、どうにもこうにも…。
「苔はくっつけられないの?」
剥がされた苔は、根っこ…って言うのか、そういうのが駄目になっているから無理だろうけど。
でも、苔だって売っているでしょ、苗とかを扱うお店に行けば…?
苔を買って来て、剥がれちゃった所にくっつけたら、と提案してみた。同じ種類の苔が売られているのだったら、問題は解決しそうだから。…くっつける手間はかかるけれども。
「苔ねえ…。もちろん店にはあるだろうけど、それじゃ不自然になるからね」
後からくっつけてやった場所だけ、変に目立ってしまうんだよ。人間の手が加わるから。
自然に生えるのを待つのが一番いい方法で、この木の苔もそうなんだ。苔なんか一度も植えてはいないよ、勝手に生えて来ただけさ。暮らしやすい条件が揃ったんだろうね。
しかし、これだけ剥げてしまうと、元の通りに戻るには…。
下手をしたら何年もかかるんじゃないかな、と御主人が言うから驚いた。相手は苔だし、じきに元通りに生えて来そうなのに。
「何年もって…。何ヶ月とかの間違いじゃなくて?」
苔って、そんなに分厚くないでしょ。剥げたのが此処で、剥げてないのが此処だから…。
ほんのちょっぴり、と眺めた厚み。数ミリくらいしか無さそうに見える苔の層。
「それが何年もかかるのさ。…こういう風になるにはね」
毎年、毎年、少しずつ育って厚くなるのが苔なんだよ。とても小さな胞子を飛ばしては、自分の仲間を増やしながら。
人間の手で植えてやるには、気難しすぎて手に負えないのが苔ってヤツかな。
庭に植えても、なかなか思うようには育ってくれなくてね。
それを木の幹に植えるとなったら、厄介だろうと思わないかい…?
「盆栽が趣味の人なんかだと、頑張るらしいよ」と御主人は教えてくれた。
大きく育つ筈の木たちを、小さなサイズに育てる盆栽。とても小さいのに、樹齢の方は一人前。何十年とか、百年だとか、そういう木たちを楽しむ世界。
けれど最初から「丁度いい木」は無いわけだから、育て始めて直ぐの間は木だって若い。樹齢は一年、二年とかで。
そういう木たちを少しでも立派に見せたいから、と生やすのが苔。年ふりた木にも負けない幹を作り出そうと、せっせと苔をつけてやる。
ただし、自然に見えないと駄目。年数を経て生えたかのように、色々な苔を枝や幹に。
「幹につく苔と、枝とでは違うらしくてねえ…」
趣味の人たちはうるさいらしいよ、苔の生え具合や種類なんかに。…少しでもいい木に見せたいからねえ、自分の大切な盆栽を。
「そうなんだ…。盆栽って、苔も大事なんだね」
木の形だとか、大きさだけかと思ってた…。小さくても立派に花が咲くとか、そんなので。
「盆栽の趣味は無いんだけどね…。この木の幹は好きだったんだよ」
勝手に苔が生えてくれたお蔭で、堂々として見えるじゃないか。…森の中にある木みたいにね。
友達が来ても、とても羨ましがってくれるから…。
庭の自慢にしていた木なのに、気が付いたらこうなってたんだよ。この子が登ってしまってね。
今ではすっかりお気に入りだし、この子がウチに泊まっている間に、丸禿げじゃないかな。
残っている苔も剥がされちゃって、と御主人は本当に困り顔。御自慢の木の幹を前にして。
「猫を繋いでおくのは駄目?」
そうでなきゃ、家から出さないとか…。
繋いでおいたら、この木に勝手に登りはしないし、家から出なけりゃ登れないよ?
苔を守るのにはいいと思う、と言ったのだけれど。
「それだと、この子が可哀相じゃないか。好きなように遊べないなんて」
庭が大好きで、「出して」と頼みに来るんだよ?
だから何度も出してやっていたら、こうなっていたというわけさ。この木が最高の遊び場で。
この木に登って遊んじゃ駄目だ、と覚えてくれればいいんだけどねえ…。
おっと!
御主人の腕の中にいるのに退屈したのか、遊びたい気分になったのか。ピョンと飛び出した猫が木にスルスルと登って行った。
それは身軽に、アッと言う間に上の方まで。きっと爪だって出ていた筈。爪を立てないと、猫の足では木に登れない。人間みたいに長い指など持っていないから。
「…また剥がれちゃった?」
木についてる苔、今ので剥がれちゃったのかな…?
どうなんだろう、と見上げた木の上。猫は大きな枝の一つで遊んでいる。枝から伸びている枝や葉っぱを、足でチョンチョンつついたりして。
「苔ねえ…。よく分からないけど、剥げたんだろうね。あの勢いで登ったんだから」
それに木の上で楽しく遊んで、下りてくる時に、また剥げるんだよ。
わざわざ幹にへばりつくようにして、ズルズル滑って下りて来るのも大好きだしね…。
もう諦めるしかなさそうだ、と御主人は両手を大きく広げて、お手上げのポーズ。
きっとその内に、苔は丸禿げになるのだろう。白と黒のブチ猫、お孫さんの猫が全部剥がして。この木に登って、また下りて来ては、生えている苔を爪で引っ掛けて。
(なんだか気の毒…)
御自慢の木の幹を駄目にされそうで、困った顔をしている御主人が。
今も木の上にいる猫を呼んでは、「下りる時には、気を付けてくれよ?」と叫んでいるほど。猫さえ注意してくれたならば、苔はそれほど剥げないから。少しは剥げても、全部は剥げない。
(猫が登るの、やめさせちゃったら剥げないんだけど…)
それが一番だと承知していても、猫を繋ごうとはしない御主人。家に閉じ込めないのも分かる。猫を自由にさせてやりたいから、どちらもしない。
お孫さんから預かった猫を、繋ぐのも、家に閉じ込めるのも。
そうしたならば、御自慢の木の幹は丸禿げになったりしないのに。丸禿げよりかは、あちこちが剥げた今のままの方が、元に戻るのも早いだろうに。
(でも…)
御主人はそうしないのだから、猫に任せるしかないだろう。あんまり苔を剥がさないように。
木に登る時も、下りて来る時も、出来るだけ爪を立てないで。
もっとも、猫はその逆のことが好きらしいから、絶望的な状況だけど。
御主人に「さよなら」と挨拶してから、帰った家。庭の木たちを見回したけれど、幹をすっかり苔が覆っている木は無かった。庭で一番大きな木だって、幹に苔など生えてはいない。
(おじさんが自慢するわけだよね)
盆栽が好きな人たちだったら、頑張って生やすらしい苔。まるで自然に生えたかのように。
そういった苔が勝手に幹を覆っていたのが、御自慢のあの木。何の手入れもしてはいなくても、森の奥の木のように見えた風格。緑色の苔が幹を覆っていただけで。
(だけど、あちこち剥げちゃって…)
このままだと丸禿げになりそうな苔。猫が遊んで剥がしてしまって、苔の欠片も無くなって。
そうなったら、あの木は「ただの大きな木」でしかない。庭のシンボルツリーと言っても、ただそれだけ。「立派な木ですね」と褒めてくれる人も減るのだろう。
あれ以上は剥げないといいんだけどね、と玄関を開けて家に入った。「ただいま!」と、元気に奥に向かって呼び掛けて。
二階の部屋で制服を脱いだら、おやつの時間。ダイニングの窓から庭の木を見て、さっきの木と似たような大きさのを探す。その幹に苔が生えていたなら、どんな風だろうと。
(…此処から見たら、ただの緑色だけど…)
庭に出て側に立ってみたなら、とても立派に違いない。木の皮だけに覆われているより、緑色の苔を纏った方が。…それも剥げてはいない苔で。
(剥げてしまったら、木の皮が見えて…)
痛々しいし、見た目も悪い。
その原因は病気ではなくて、猫が悪戯した結果でも。「こうすれば剥がれて面白いんだよ」と、爪を立てて登り下りされたせいでも。
(絶対、カッコ悪いよね…)
ああして剥がされてしまった苔。
御主人の友達がやって来たなら、皆、驚いて眺めるのだろう。「どうなったんだ?」と。
その頃にはもう、あの猫はいない。お孫さんの家に帰ってしまって、知らん顔。
御主人は苔が丸禿げになった木だとか、あちこち剥げてみっともないのを、「実は…」と溜息を幾つも交えて、友達に説明するのだろう。
御自慢の苔がどうして剥げてしまったか、犯人は何処の誰だったのかを。
おやつの間は、木と苔のことを考え続けて、食べ終えてからは二階の自分の部屋に戻って、また考える。勉強机の前に座って。
猫が登る度に木の苔は剥げて、下手をしたなら丸禿げになってしまいそう。お孫さん一家が旅行から帰って、あの猫を迎えにやって来る前に。
苔が生えた木は、猫の一番好きな遊び場。苔を剥がすのが面白いのか、木そのものもお気に入りなのか。せっせと登って下りて来る度に、御自慢の苔が剥げてゆく。猫の爪のせいで。
(おじさんは登って欲しくないけど、猫は登りたくて…)
庭に出たいと駄々をこねては、あの木に向かってまっしぐら。その度に剥がれてしまう苔。
御主人が気付いた時には、とうにああなっていた。あちこちが剥げて、無残なことに。
(おじさん、困っていたけれど…)
それでも猫を繋ぐつもりは無いらしい。家に閉じ込めておくこともしない。
「可哀相じゃないか」と言っていた御主人。猫を力ずくで止めないだなんて、凄いと思う。猫は御自慢の木とは知らずに、これからも登り続けるだろうに。
「駄目じゃないか」と頭をコツンとされても、きっと分かっていないだろうに。
お手上げのポーズをしていた御主人。猫が登った木を見上げて。
(とっても優しい人だよね…)
御自慢の木が駄目になっても、猫を繋ごうとはしない人。家の中に閉じ込めることも。
猫にとっても、本当に優しい人なのだけれど、問題はあの木。
このままだったら、苔は丸禿げ。
御主人の自慢の苔とも知らない、あの猫がすっかり剥がしてしまって。
爪を立てては上まで登って、苔を剥がしながら幹にしがみ付いてズルズル下りて来たりもして。
(あちこち剥げただけの苔でも…)
元の姿に戻るまでには、何年もかかるかもしれない。苔は気難しいと教わったから。
剥げた所に、買って来た苔をペタリと貼っても駄目らしいから。
(丸禿げなんかになっちゃったら…)
御自慢の苔が幹を覆うまでには、どのくらいかかることだろう。ほんの数日で丸禿げになって、戻るまでには年単位。…三年も四年もかかるのだったら、あの御主人が気の毒すぎる。
いくら御主人は承知でも。「仕方ないよ」と、猫の悪戯を許していても。
放っておいたら、苔が丸禿げになってしまいそうな幹。元の通りに苔が生えるまでには、何年もかかってしまうのだから…。
いいアイデアは無いのだろうか、そうなる前に猫を止める方法。
繋いだり、家に閉じ込める以外に、猫が木に登らないようにする方法が何かあればいいのに。
(あの木の周りに柵をしたって、猫じゃ登って越えちゃうし…)
木の幹に何か巻いたりしたなら、今度は苔が駄目になる。太陽の光や、雨の雫が当たらなくて。ほんの短い期間にしたって、小さな苔には致命的な時間だろうから。
(何かあの木を守る方法…)
猫の爪から、と考えていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、いつものテーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。猫が木に登らない方法を知っている?」
知ってるんなら教えて欲しいな、その方法を。
「はあ? 木に登らない方法って…。木に登らせない方法のことか?」
どうすれば猫が木に登らないように、止められるか。…お前はそいつを知りたいのか?
そうなのか、と尋ねられたから頷いた。知りたい方法はそれだから。
「ハーレイの家にはミーシャがいたでしょ?」
隣町の家に住んでた頃には、真っ白なミーシャ。…登らせないようにしていた木は無い?
この木は駄目、ってハーレイのお父さんが決めていたとか、お母さんが大事にしていた木とか。
「俺の家には、そういった木は無かったなあ…」
だからもちろん、ミーシャは好きに登っていたが?
誰も止めたりしないもんだから、勝手気ままに登って遊んで、飽きたら下りて。
そうやって好きに登った挙句に、下りられなくなっちまった木の話をしたと思うがな?
下りられない、とミャーミャー鳴くから、親父が梯子で登って助けてやったんだが。
「そういえば…。前に聞いたね、その話…」
どの木にも好きに登っていいから、ミーシャ、自分じゃ手に負えない木に登っちゃったんだ…。
登る時には楽しい気分で、どんどん登って行っちゃったけど…。
上に着いたら、下りる方法、ミーシャには分からなかったんだものね。
高い木に登ったまではいいけど、どうすれば下に下りられるのか。
そうだったっけ、と蘇って来た記憶。ミーシャは自分の好きに登って、酷い目に遭った。登った木から下りられなくなって、「助けて」と人間を呼ぶしかなくて。
そんな騒ぎが起こっていたのに、ハーレイの両親は、ミーシャの木登りを止めてはいない。どの木も好きに登れるようにと、そのまま放っておいたのだろう。何の工夫もしないままで。
ならば、ハーレイも策を持ってはいない。あの木の苔を守ってやれる方法。
「そっか、駄目かあ…。ハーレイなら、って思ったのに…」
ぼくだと何にも思い付かないけど、ハーレイは知っているかもね、って…。
「なんだ、どうしたんだ?」
猫を木に登らせない方法だなんて、お前、いったい何をしようとしてるんだ?
この家に猫はいない筈だぞ、友達の誰かが困ってるのか?
しょっちゅう下りられなくなる猫ってヤツもいるそうだから、とハーレイは至極、真面目な顔。登ったら自分では下りられないのに、繰り返す猫がいるらしい。同じ木に何度も登る猫。
「えっと…。そういう猫の話じゃなくって…」
ちゃんと上手に下りられるんだよ、登った後は。…お気に入りの木だから、登るのも上手。
だけど、登る木が問題で…。
今日の帰りに、ぼくも見せて貰ったんだけど…。
苔が丸禿げの危機なんだよ、とハーレイにあの木の説明をした。
帰り道に出会った御主人の自慢の、幹に緑の苔が生えた木。その木の苔を猫が剥がすのだ、と。
剥がれた苔が元の通りに生えるまでには、何年もかかるものらしい、とも。
「なるほどなあ…。猫には爪があるからな」
木に登ったら剥げちまうだろうな、幹に生えてる苔なんかは。
それに猫には、楽しいオモチャになるんだろう。剥がしながらズルズル下りて来るなら。
「やっぱり、遊んでるんだよね…?」
おじさんが大事にしてる苔なのに、そんなの、猫には分かんないから…。
どんどん剥がして、今のままだと丸禿げになってしまいそう。
でもね、おじさんは猫を繋ぐつもりは無いんだよ。…家に閉じ込めたりもしない、って。
それは猫には可哀相だから、苔は丸禿げでも仕方ない、って…。
すっかり諦めているみたいだけど、でも、何か方法があるんなら…。
いいアイデアがあるなら教えて、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。
ミーシャには使っていなかったとしても、誰かから聞いた方法があるとか、そういったケースもまるで無いとは言い切れないから。
「お願い、ハーレイ。…何か知らない?」
知ってるんなら、ぼく、おじさんに教えに行くから…!
ううん、ママに頼んで通信を入れて貰うよ、今日の間に…!
おじさんの大事な苔を守れる方法、少しでも早く教えてあげたいもの…!
このままだとホントに丸禿げになっちゃう、とハーレイの知識に縋ったのだけれど。三十八年も生きている分、アイデアも持っていそうだと期待したのだけれど…。
「生憎と、俺は知らないなあ…。お前が知りたがってるような方法は」
苔の大切さなら分かるんだがな、俺だって。…親父もたまに気にしてたから。
庭の木の幹、調べてみては、ちょっと溜息をついたりもして。
「ハーレイ、それって…。ミーシャのせいで剥げちゃった?」
木に登るためには爪を出すから、剥がすつもりは無かったとしても。…お気に入りの木っていうほどじゃなくても、登れば剥げちゃいそうだから…。
「うむ。登る時にも、下りる時にも、爪を立てるのが猫だしな?」
たまにツルッと滑りでもしたら、いつもより派手に剥がれちまう。爪を広げてた幅の分だけ。
もっとも、ミーシャはとっくにいないし、今じゃすっかり元通りに苔が生えてるが…。
その苔、たまに剥げるそうだぞ、とハーレイが言うからキョトンとした。
「え? 剥げるって…?」
ミーシャがいないのに、なんで剥げるの?
新しい猫は飼ってないでしょ、それとも何処かで貰って来たの…?
今は別の猫が飼われているの、と高鳴った胸。もしも別の猫を飼い始めたなら、知りたいことは山のよう。どんな猫なのか、名前は何か。今はどのくらいの大きさなのか、と。
「おいおい、慌てるんじゃない。俺はまだ何も話していないぞ」
たまに剥げると言っただけでだ、犯人の名前も出しちゃいないが…?
とはいえ、お前の勘もまるっきり外れているわけじゃない。
犯人は猫には違いないしな、親父たちの猫じゃないってだけで。
他所の猫だ、とハーレイが教えてくれた犯人。ハーレイの両親が暮らす隣町の家で、緑色の苔が生えた木に登って、苔を剥がしてしまう猫たち。
「お前が出会った猫と違って、犯人は一匹じゃないようだがな…?」
ふらりと庭を通り掛かって、登って遊んで剥がしていくんだ。少しだけとか、派手にとか…。
親父に言わせりゃ、もう明らかに木登り失敗、といった感じのハゲも見つかるらしいな、うん。
猫が滑って落ちた跡だ、とハーレイは可笑しそうな顔。「そういう時には派手にハゲるぞ」と。
「派手にハゲるって…。ハーレイのお父さん、怒らないの?」
生えている苔、お父さんも大事にしている苔でしょ、ミーシャの頃から…?
他所の猫なんかに剥がされちゃっても、許しちゃうわけ…?
入って来たら叱ればいいのに、と思った庭に入って来る猫。追い出されたなら、木登りなんかはしていかない。木の幹に生えた苔は無事だし、派手に剥がれもしないのに。
「追い出すって…。親父も、おふくろも、そんなことは考えもしないだろうなあ…」
俺も同じだ、仮に大事な木があったって。…その木に悪戯されちまっても。
猫が平気で遊べる庭があるっていうのは、いいもんだろ?
公園と同じで、車も走っていないんだから。…猫にとっては、人間様の庭が公園なんだ。
本当に困る理由が無いなら、遊ばせておいてやりたいじゃないか。猫に食われちまうような鳥がいるとか、そういう庭でないのなら。
「そうなんだ…。人間の家にくっついてる庭は、猫の公園…」
猫のための公園なんかは無いから、そう言われたら、そうなのかも…。
車も来ないし、安心して遊べる場所だもの。…木の幹に生えた、苔が剥げるのは困るけど…。
だけど、猫たちが幸せに遊んでいるなら、叱ったりしない方がいいよね…。
その方が猫も嬉しいものね、と口にしたら思い出したこと。
(…遊んでて、それで叱られちゃうって…)
あったっけ、と心が遠く遥かな時の彼方へと飛ぶ。
白いシャングリラにあった、広い農場。あそこに植えていた、沢山の木たち。
自給自足で生きてゆく船には、様々な木々が必要だった。オリーブや果樹や、他にも色々。
その大切な農場の木たちに、子供たちが登って叱られていた。
農場の木たちは、公園の木とは違って、作物を育てるために植えられたものばかりだから。
オリーブオイルを採るためのオリーブ。果樹はもちろん、チョコレートの代用品だったイナゴ豆だって、木に実っていた。
農場の木たちは、船の暮らしに欠かせないもの。眺めて楽しむ公園の木とは、まるで違っていた目的。けれど、子供たちの目から見たなら、どちらも木には違いないから…。
「猫の公園で思い出したよ。…シャングリラの木を」
「シャングリラだと?」
前の俺たちが暮らしてた船か、木なら山ほど植えてたもんだが…。白い鯨の方ならな。
「そう、そっち。あの船の農場に植えていた木は、どれも大切な作物ばかりだったから…」
公園と違って、木登りは禁止だったんだよ。作物が傷んだりしたら大変だから、って。
でも、子供たち…。
あの木に登っちゃっていたよね、木の苔を剥がす猫じゃないけど…。遊ぶために。
「登ってたなあ、そういえば…!」
思い出したぞ、あのシャングリラの悪ガキどもを。…猫より酷い連中だったな。
猫には言葉が通じないから、「その木は駄目だ」と怒鳴るだけ無駄というヤツなんだが…。
あいつらは立派に人間だったし、思念波も持っていたってな。「駄目」が通じる連中だった。
なのに、言うことを少しも聞きやしないんだ。農場の木には登るんじゃない、と何度言っても。
何度注意を繰り返そうが、「登るな」と教え続けようが。
まるで聞いてはいなかったよな、とハーレイが浮かべた苦笑い。シャングリラに迎えたミュウの子たちは、農場にあった木に関して言うなら、悪ガキだった。
大切な作物を育てるための木なのだから、と口を酸っぱくして教えたって、彼らは聞かない。
公園とは違った木が植わっていて、面白そうだと考えるだけ。
けれど大人は「駄目だ」と叱るし、登って遊べば大目玉。「駄目だと言われた筈だろう」と。
それを承知で、コッソリ出掛けていた子供たち。
「バレては駄目だ」と、船の仲間たちの目を盗んでは、農場に向かう通路に入って。
農場に着いたら、見張りも立てた。大人が来た時は、直ぐに逃げないと叱られるから。
そうやって入り込んだと言うのに、子供というのは無邪気なもの。
木登りの遊びに夢中になったら、もう何もかもを忘れてしまう。自分たちが何処にいるのかも。
その内に、見張りの子までが持ち場を離れて登り始めて、ワイワイ騒いで…。
子供たちの末路は、もう見えていた。彼らが農場に向かった時から、どうなるのかは。
農場に向かう姿には、誰も気付かなくても。…途中の通路ですれ違った仲間がいなくても。
白いシャングリラの食生活を支える農場、其処が終日、無人のままの筈がない。夜はともかく、人工の光が煌々と照らす昼の間は。
収穫のために出掛ける者とか、作物の世話に向かう者とか。
いずれ大人が現れるわけで、彼らの耳には直ぐに届いた。木登りに興じる、子供たちの賑やかな歓声が。それは楽しそうに遊ぶ声が。
「あれって、いつでもバレちゃったんだよ。逃げる前に大人に見付かっちゃって」
いつだってバレて、それでお説教…。猫と違って、言葉がちゃんと通じるから。
「その説教。…俺も駆り出されてたぞ、ヒルマンに」
あいつだけでは話にならん、とキャプテンの俺を引っ張り出すんだ。船の最高責任者だから。
「農場の大切さを説いて、大目玉を食らわせてくれ」というのが、ヒルマンの注文だったが…。
俺が大声で怒鳴ってみたって、シュンとするのは、その時だけで…。
何日か経ったら、また同じことを繰り返してた。農場に出掛けて、木登りをして、見付かって。
まるで駄目だから、ソルジャーの出番になったんだがなあ…。
前のお前を呼んだ効果はどうだったんだ、とハーレイの鳶色の瞳が瞬く。「効果、あったか?」などと、確かめるように。
「ううん…。前のぼく、子供たちとは、しょっちゅう一緒に遊んでたから…」
農場で木登りはしなかったけれど、でも、子供たちの心は分かるし…。
「何の役にも立たなかったってな、肝心のソルジャーは子供の味方で」
叱るどころか、悪党どもの肩を持つんだ。「許してやってもいいだろう?」と寛大な顔で。
「そう…。ああやって遊べる場所があるのがいいじゃないか、って言っていたっけね」
農場は大事な場所だけれども、人類に見付かって撃たれもしないし、安全だから、って…。
だってそうでしょ、本当に安全なんだから。…人間の家の庭が、猫の公園なのと同じで。
「猫の公園なあ…。前のお前はそうは言わなかったが、アレを言われると弱かった」
子供たちにとっては安全な場所だ、と言われちまうとグウの音も出ない。
前の俺はもちろん、俺を担ぎ出したヒルマンもな。
ゼルは元々、子供好きだし、叱ろうって気はまるで無かったわけだから…。
何度叱られても、子供たちは農場の木たちに登り続けた。徒党を組んで出掛けて行って。
船の大人たちの目を盗んでは、白いシャングリラの食生活を支える、大切な木に。
オリーブの木も、イナゴ豆の木も、他の木や果樹も、子供たちに狙われ、登られていた。梯子は使わず、手と足だけで。…サイオンも、木から滑った時くらいしか使っていなかった。
彼らがせっせと登るものだから、そのせいで収穫量が減ったりしないようにと、農場の係たちは頑張っていた。悪ガキたちと遭遇したなら、叱り飛ばすのは基本だったけれど…。
それと同時に、「この枝には足を掛けるな」だとか、「今の季節は、この木に登るな」だとか、出来る限りの指図をして。「木が傷んだら、お前たちも食えなくなるんだぞ!」などと。
(…前のぼくが、本気で止めてたら…)
木登りは直ぐに止んだだろう。
白いシャングリラを導くソルジャー、その人が「駄目だ」と叱ったら。登ってもいい木は公園の木だけで、農場の木には登るんじゃない、と。
けれども、一度も叱ってはいない。
ヒルマンに請われて出掛けて行っても、前のハーレイまでが腕組みをして子供たちを睨み付けていても。…農場は大切な場所だとはいえ、安心して遊べる所だったから。
「ねえ、ハーレイ…。前のぼくたち、今日のおじさんと同じだね」
木の幹に生えてる苔が丸禿げになってしまったとしても、猫を繋いだりするよりはいい、って。
庭に出さずに閉じ込めるよりも、好きに遊ばせてやりたいから、って…。
農場の木だって、それと同じだよ。木登りさせなきゃ、収穫が増えたかもしれないのにね。
…きっと増えたよ、木が傷むことは無いんだから。
「それは分かっちゃいたんだが…。キャプテンとして見ていた、報告書とかで」
あのガキどもを止めさえしたなら、もう少しくらい増えるだろう、と書かれていたから。
しかし、所詮は「もう少し」だ。誤差の範囲と呼べるくらいの違いでしかない。その量が減って誰が飢えるというわけでもなし、目くじら立てても仕方あるまい。
その程度のことで縛っちまうよりは、自由にのびのびさせてやりたかったしな、子供たちを。
「絶対に駄目だ」と叱るのも俺の仕事だったが、其処まででいい。
規則まで作って徹底させるとか、立ち入り禁止にしちまうよりかは、あれで良かった。
お蔭で逞しく育ってくれたさ、どの子たちもな。…農場で悪事を働きながら。
シドもリオも…、とハーレイが懐かしむ子供たち。白いシャングリラで育った子たち。
後に最後のキャプテンになったシドも、地球で命尽きた英雄のリオも、みんな木登りをしながら育った。公園にある木とは違って、農場に植えられた大切な木で。
「みんな登っていたんだっけね…。子供だった頃は」
大人に見付かって叱られたって、農場に何度も出掛けて行って。…色々な木に。
オリーブの木にも、イナゴ豆の木にも、と子供たちの姿が目に浮かぶよう。前の自分は、何度もサイオンで覗き見たから。「また登っている」と笑みを浮かべて、青の間から。
「公園の木にも登ってはいたが、農場の方が良かったらしいな。…同じ木登りするのなら」
収穫を控えた木には登れなかったし、盗み食いが出来たわけでもないのに…。
リンゴの一つも食えやしないのに、なんだって農場が良かったんだか…。
叱られてエライ目に遭うだけなんだが、とハーレイが顎に手を当てる。何のメリットも無かった農場、どうして其処で木登りなどを…、と。
「きっとスリリングだったんだろうね。農場の木には、苔が生えてはいなかったけど」
登る時とか、下りる時とかに派手に滑って、苔がハゲるわけじゃなかったけれど…。
だけどスリルはあったと思うよ、農場だもの。見張りを立てなきゃいけないような場所だから。
「叱られるのと、背中合わせのスリルってヤツか…」
苔でツルリと滑っちまうか、大人に見付かって怒鳴り付けられるか。…その違いなんだな。
お前が出会った猫の場合は、苔の手ごたえを楽しんでいる、というトコだ。頑張って爪を立てたつもりでも、滑る時だってあるんだし…。その跡がお前の見て来たハゲだな。
シャングリラの農場で木登りしていたガキの場合は、見付かって怒鳴られるスリルをワクワクと楽しみにしていた、と。苔で滑ってしまうのを楽しむ猫みたいに。
まあいいだろうさ、シャングリラの方では、船の役に立つ子たちが立派に育ったんだから。
前のお前が「安全な場所で遊ばせてやれ」と、何度も許してやったお蔭で。
本当にいい子たちだった、とハーレイが挙げてゆく名前。白いシャングリラの悪ガキたち。
「そうだね、みんな立派に育ってくれたよ。でも…」
今日の猫は、どうなっちゃうんだろう?
苔を剥がして登ってもいい、って許して貰って、立派な猫になれるのかな…?
「そっちは役に立ちそうにないな、猫だけに」
第一、子猫じゃなかったんだろうが。既に育った後の猫だぞ、それ以上、どう育つんだ…?
「たとえ立派に育ったとしても、猫の手だからな」とハーレイが笑う、猫の木登り。
御主人の自慢の苔を剥がして、せっせと登り続ける猫。お孫さんが迎えにやって来るまで。
(…猫の手どころか、大迷惑だよ…)
苔が丸禿げになりそうだ、と御主人がしていた、お手上げのポーズ。
猫の手は役に立たないものだし、あの木登りで立派に育っても、どうしようもない厄介な猫。
けれど、白いシャングリラの思い出を連れて来てくれたから、役には立った。
御主人の与り知らない所で、今の自分とハーレイのために。
それに、御主人の役には立たないようでも、ああやって猫が庭で楽しんでいるのなら…。
(お孫さん、きっと喜ぶよね?)
旅行から帰って迎えに来た時、「お気に入りの木が出来たようだよ」と聞かされて。
もしかしたら、あの木の上から下りて来るかもしれない。お孫さんの声で、大喜びで。
木の幹に生えた苔の最後の欠片を、爪でズルズルと引き剥がしながら。
丸禿げになってしまった幹で溜息をつく御主人だって、お孫さんの笑顔で、きっと御機嫌。
「旅行は楽しかったかい?」と訊いたり、猫を眺めて「いい子にしてたよ」と微笑んだり。
猫が最後の苔の欠片を剥がしても。…本当に丸禿げにされてしまっても。
(あの木の苔も、早く元に戻るといいんだけれど…)
今はまだ丸禿げになってはいなくて、あちこちが剥がれてしまっていた苔。
元の緑色を取り戻すまでには、何年もかかるかもしれない苔。
(やっと生えて来ても、あの猫が来て…)
また剥げるかもしれないけれども、それもいい。
子供は未来の宝だから。
白いシャングリラの農場の木で、木登りしていた子供たち。彼らは立派な大人になった。
あの御主人のお孫さんだって、いつか大きく成長する。
苔を剥がしてしまった猫は育たなくても、お孫さんは立派に育ってくれる。
だから御主人も、きっと怒りはしないのだろう。
ようやく元に戻った木の幹の苔を、お孫さんの猫がすっかり丸禿げにしてしまっても…。
苔が生えた木・了
※ブルーが見掛けた猫の遊び。木の幹を覆っている苔を、剥がしてしまうような木登り。
御主人は困り顔で見守るだけ。止めようとしないのですけど、シャングリラでも事情は同じ。
(そういえば…)
いないかも、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
子供からの質問に答えるコーナー。其処に載っている、下の学校に通う男の子の問い。
「どうして青い毛皮の動物はいないんですか?」と。
鳥だったら青いのも沢山いるのに、と男の子が抱いた「青い毛皮」への疑問。言われてみれば、確かに頭に浮かんでこない。青い毛皮の動物などは。
(答えは…?)
回答するのは専門の学者。小さな子供にも分かりやすいよう、易しい言葉を選びながら。
青い毛皮の動物が存在しない理由は、色覚の問題なのだという。色を識別するための能力。
どの生き物でも、自分自身が感知できない体色は持っていないのが基本。持っていたって、その色は意味を成さないから。…他の仲間が見た時に、「分からない」ような色は要らない。
霊長類以外の哺乳類だと、青い色を見ることは出来ないらしい。犬や猫も、他の哺乳類たちも。
(哺乳類は、夜行性の生活が長くて…)
そのせいで色覚が退化した。青い色が見えなくなってしまった。
長い年月、天敵だった爬虫類に追われて隠れる内に。夜の闇に紛れて生きる間に、鮮やかな色が無い夜の世界で暮らす間に。
爬虫類から進化した鳥類、そちらだったら色覚を維持し続けたのに。
鳥たちは空を飛んでゆくから、哺乳類ほどには爬虫類を恐れなくても良かった。昼の間も堂々と飛んで、色のある世界を眺め続けた。
(それで鳥には、青いのがいて…)
セキセイインコや、オオルリなどや、青い色を持つ鳥は沢山。
けれど、青い毛皮を持つ動物はいない。人間やサルのような霊長類、それを除けば、青い色など分からないのだから。青い毛皮でアピールしたって、仲間たちは見てくれないから。
(色覚ってヤツが問題で…)
鳥と同じに青が分かる魚類は、青い身体の種類も多い。他の仲間も「青い」と認識出来るから。
哺乳類の場合は、そうはいかなくて、青い毛皮の動物はいない。鳥には青い色のがいても。
そうだったんだ、と納得して閉じた質問コーナー。「賢くなった」と。
下の学校の男の子の疑問、それに学者が答えたお蔭で。
学校では教えてくれないこと。色覚について習いはしたって、毛皮の色は教わらない。
(もっと学年が上になったら、習うのかもね)
一足お先に教わっちゃった、と嬉しい気分で戻った二階の自分の部屋。空になったカップなどを「御馳走様」と、キッチンの母に返してから。
勉強机の前に座って、さっきの答えを思い出す。青い毛皮を持つ動物は、存在しない。哺乳類は青が見えないのだから、青くなっても仕方ない。
(犬も猫も、みんな青くはないし…)
青いウサギもいないよね、と考えていたら、ふと掠めた記憶。
(あれ…?)
いたじゃないの、と気が付いた。
青い毛皮を持った動物。それを自分は知っている。遠く遥かな時の彼方で、ちゃんと目にした。あれは確かに青い毛皮で、間違いなく哺乳類だった。
(ナキネズミ…)
白いシャングリラで、ミュウが開発した生き物。とうに絶滅したのだけれど。
思念波を上手く扱えない子供のサポート役に、とヒルマンやゼルたちが作り上げた。元になった動物はリスとネズミで、遺伝子レベルの操作や交配などを重ねて。
リスのようにも、ネズミのようにも見えた動物。シャングリラの外にはいない生き物。
(前のぼくが、青い毛皮の個体を選んで…)
この血統を育ててゆこう、という指示を下した。「青い毛皮をした子がいいよ」と。
そうして繁殖させて増やして、ナキネズミは青い毛皮になった。ナキネズミと言ったら、誰もが青い毛皮を思い浮かべたほどに。
思念波を持つ「ナキネズミ」が完成した時だったら、他の毛皮の個体もいたのに。白いのやら、茶色や、黒もブチもいた。研究室のケージの中には、様々な毛皮のナキネズミたち。
(だけど、そっちは選ばなかったし、一代限りで…)
希望者が貰って、ペットにしていた。思念波で会話が出来たのだから、希望者多数で。
けれど、繁殖させてはいない。船の仲間たちと楽しく暮らして、それで終わった。一代きりで。
繁殖したのは青い毛皮を持った血統。
前の自分が「この子にしよう」と選んだ、青い毛皮のナキネズミ。他の色には目もくれないで、一目惚れ。青い毛皮を持っていたから。
そうなったのには理由がある。前の自分が青い毛皮に惹かれたこと。
(青い鳥…)
幸せを運ぶ青い鳥。それを飼いたいと願った自分。船に沢山の幸せを運んでくれるよう。
けれど、一言で切り捨てられた。「青い鳥など役に立たんわ」と、ゼルに言われた。鶏だったら卵を産むし、肉にもなる。シャングリラで飼う価値は、充分にある。
(でも、青い鳥は…)
眺めて楽しむことしか出来ない。卵を産んでも、それは栄養豊富ではなくて、肉にすることさえ出来ない小鳥。まるで反論出来なかった。「それでも飼おう」と押し切ることも。
これでは無理だと諦めたものの、忘れられなかった青い鳥。地球の青色を纏った小鳥。
青い鳥は飼えない船だったから、青い生き物が欲しかった。青い水の星の色を持つものが。
其処へ現れた、青い毛皮のナキネズミ。惹き付けられないわけがない。鳥ではなくても、毛皮が青い生き物だから。…青いナキネズミがいたのだから。
迷うことなく青を選んだ。「この血統を増やしてゆこう」と、青い毛皮のナキネズミを。
前の自分は、何の疑問も抱くことなく、青いナキネズミに決めたのだけれど…。
(青い毛皮を持った動物、何処にもいないって言うのなら…)
ナキネズミは、青い薔薇のよう。
人間が地球しか知らなかった頃、薔薇には青い色が無かった。青い色素を持たなかったから。
青い薔薇と言えば、「不可能」の意味とされていたほど。どう頑張っても、青い薔薇を作り出すことは出来はしない、と。
それでも、無ければ欲しくなるもの。人間は青い薔薇を求めて、改良に改良を重ね続けた。紫に近い青が生み出された時、「ようやく出来た」と愛好家たちが喜んだ青薔薇。
けれども、それが限界だった。本当に「青い」薔薇は出来ずに、紫を帯びた薔薇があっただけ。
なのに、SD体制が敷かれた時代には、存在していた青い薔薇。青い色素を持っていた薔薇。
今の時代もある青薔薇とは違うもの。人工的に青い色素を組み込まれた薔薇。
(真っ青で、綺麗な薔薇だったけど…)
それは不自然な青だから、とシャングリラでは育てなかった。滅びゆく地球と引き換えのように生まれた青薔薇。地球の青を吸い取り、その身に纏ったかのように。
本当にそうではなかっただろうけれど、人間の驕りの象徴だったとも言えた青薔薇。
ヒルマンたちは「青い薔薇は駄目だ」と唱えた。存在してはならない色を持つから、あの船には相応しくないと。「本来の色の薔薇だけでいい」と。
白いシャングリラに薔薇は何本も植えられたけれど、一本も無かった青い薔薇。当時はごくごく当たり前の色で、「青い薔薇が船に無い」ことを、不思議に思った仲間もいたというのに。
(シャングリラはそういう船だったのに、青いナキネズミ…)
哺乳類は持たない、青い色の毛皮。ナキネズミの身体は、青く柔らかな毛に覆われていた。
前の自分は「青い鳥の代わりに育てていこう」と、その色を選んだのだけど。青い毛皮の動物が存在するかどうかも、まるで考えたりはしないで、一目見ただけで。
(この子がいいよ、って決めちゃったけど…)
そう決まったから、ナキネズミは青い毛皮の血統だけが増やされ、青くて当然。誰も不自然だと思いはしなくて、「ナキネズミだな」と見ていただけ。
シャングリラの中で、青い毛皮を持つ生き物に出会ったら。思念波で話し掛けられたら。
(前のぼくも、船のみんなも、すっかり慣れてしまってて…)
「青い」とさえ意識していなかった。それがナキネズミの色だったから。
青い毛皮を持った動物などは存在しないのに。…人類の世界にあった動物園、それを端から見学したって、青い毛皮の動物はいない。図鑑のページを繰ってみたって、データベースに収められた膨大なデータを解析したって。
(青い毛皮の哺乳類は、何処にもいないんだから…)
さっき読んでいた新聞にあった。「青い毛皮の動物がいない」ことの理由。
青を認識できない色覚、それでは青い毛皮は持てない。青くなっても、仲間たちの目には青色が映らないのだから。
(だけど、ナキネズミは青くって…)
有り得ない筈の青い毛皮を纏っていた。あの時代にはあった、青い薔薇のように。人工的に青い色素を組み込み、鮮やかな青に仕立てた薔薇さながらに。
(ナキネズミは動物で、薔薇じゃないけど…)
考えてみれば、ナキネズミだって、青薔薇と同じに「不自然な生き物」。
自然には血が混じらない筈の、リスとネズミを交配した上、DNAなどを弄って作られたもの。動物は持たない筈の思念波、それを使って人間と会話が出来るようにと。
そうやって生まれたナキネズミ。白いシャングリラの実験室から生み出されたもの。
思念波を上手く扱えない子たちの、いい友達になるように。思念波増幅装置の代わりに、生きた増幅装置として。…子供たちを支えるサポート役で、パートナーだったナキネズミ。
(完成した頃には、それで良かったけれど…)
シャングリラがミュウの箱舟だった時代は、重宝がられたナキネズミ。広い船の中を自由に行き来し、子供たちを手伝う役目が無ければ、農場でのんびり暮らしていた。
(牛小屋に入って、牛の背中を走り回ってみたり…)
農場にある木に登ったりして、生き生きとしていたナキネズミたち。子供も生まれて、仲のいいカップルや親子もよく見かけた。農場に視察に行った時には。
けれど、SD体制が倒された後。
人類との長い戦いが終わって、平和な時代が訪れた後は、繁殖力が衰えていったナキネズミ。
生まれる子供の数が減り始めて、やがて生まれなくなって、そして滅びた。
最後の一匹だったオスが死んでしまって、ナキネズミは何処にもいなくなって。
(そうならないよう、絶滅を防ぐ方法は…)
当時でもちゃんと分かっていた。
白いシャングリラで蓄積されていた、様々なデータ。それにナキネズミを作り出した時の方法。そういった情報は残っていたから、分析さえすれば答えは導き出せる。
滅びそうなくらいに減ったナキネズミを、遺伝子レベルで操作したなら、繁殖力は元に戻ると。
シャングリラがあった時代と同じに、いくらでも子供が生まれて来ると。
(方法は、みんな分かってたのに…)
生物学者も、動物園でナキネズミの飼育を担当していた係たちも。
ナキネズミの絶滅を防ぎたかったら、どうすればいいか。まだ充分な数のナキネズミたちがいた間ならば、手を打つことは可能だった。近親交配にならない内に、遺伝子を操作してやれば。
けれども、彼らはそうしなかった。
放っておいたら滅びることに気付いていながら、自然に任せようと決めた人間たち。
「生き物は全て、自然のままに」と。「人間が手を加えることは許されない」と。
青い薔薇も同じ理由で消えた。
地球の青さを吸い取ったかのように生まれた、不自然な青は。青い色素を組み込んだ薔薇は。
今の時代は無い、青い薔薇。青い色素を持っていたから、完璧な青を誇った薔薇。
そういった青薔薇は全て失われて、今では紫を帯びた青薔薇だけ。薔薇が本来持つ色素だけで、出来るだけ青に近付けたもの。
それ以外の青は、「不自然だから」と二度と作り出されず、この宇宙から滅びていった。
青いナキネズミが、今は何処にもいないのと同じで。
(ナキネズミは、毛皮が青かったせいで、滅びたわけじゃないけれど…)
不自然とされたのは青い毛皮ではなくて、その生まれの方。
人間の手で作り出された、「本当だったら、存在しない筈」の生き物。リスとネズミは、自然の中では血が混じり合いはしないから。…全く別の生き物だから。
(それを交配して、おまけに遺伝子操作まで…)
繰り返して出来たのがナキネズミ。青い色素を薔薇に組み込むより、もっと不自然で有り得ないもの。人間が母なる地球に「還ってゆく」なら、そんな生き物を作っていてはいけない。
(だから、滅びるって分かっていても…)
誰も救いはしなかった。ナキネズミの滅びを止めるためには、不自然すぎる操作が必要。それは行ってはならないことだ、と皆が考え、賛同して。
けれど、そうして滅びていったナキネズミ。今は何処にもいない生き物。
彼らがその身に纏った毛皮は、どうして青かったのだろう。
哺乳類は青い色を持たない筈だというのに、ナキネズミは何故、青い毛皮になったのだろう?
(ナキネズミの元になってた、リスもネズミも…)
どちらも青い毛皮ではない。哺乳類だし、青い毛皮を持ってはいない。
彼らをベースに作り出されたナキネズミだって、哺乳類というものだったろう。卵ではなくて、子供を産んでいたのだから。…生まれた子供は、母親の乳で育ったから。
そのナキネズミを青い毛皮にしたいのならば、あの頃にあった青い薔薇と同じで…。
(生き物の仕組みは、分かんないけど…)
どうやるのか見当もつかないけれども、青い色素を組み込む以外に無かっただろう。
目を青色にするのとは違って、毛皮に青が出るように。
青い目だったら、猫だって持っているわけなのだし、目を青くするなら方法はある。けれども、毛皮はそうはいかない。青い毛皮を持った動物、それは存在しないのだから。
青い毛皮だったナキネズミ。哺乳類には無い筈の色。どうして、青色だったのか。ナキネズミの毛皮に、青を発色させたのか。
(なんで、そんなことをしていたわけ…?)
自然界には存在しない、青い毛皮を持った動物。それがナキネズミで、白いシャングリラで作り出された生き物。平和になったら、「不自然だから」と、滅びの道を皆が選択したような存在。
(…有り得ない生き物には違いないけど…)
そのことを承知で、「不自然な生き物」の象徴として青にしたなら、青い毛皮のナキネズミしかいなかった筈。実験室で生まれたナキネズミは全て青い毛皮で、他の毛色のナキネズミは無しで。
(青がシンボルなんだしね?)
どのナキネズミも、青い毛皮にしておけばいい。白や茶色や、ブチの個体を作らなくても、青い毛皮のものだけでいい。
「不自然だから青でいいのだ」と考えたのなら、そうなっている。他の毛色は全部排除で、どのナキネズミも青くして。「これがナキネズミの色なのだから」と。
けれど、様々な色の個体がいたのがナキネズミ。思念波を持った生き物として、シャングリラに姿を現した時は。「どの血統を育てたいのか」と、前の自分が訊かれた時には。
(…青い毛皮のナキネズミは…)
あの段階では、他のナキネズミたちに「混ざっていただけ」の試作品。
どれを選ぶかは前の自分の自由で、白も茶色も、好きに選べた。黒でもブチでも、気に入りさえすれば。「これにしよう」と考えたなら。
(…白も茶色も、黒いのも、ブチも…)
動物の毛皮としては、ありきたりのもの。リスとネズミがベースにしたって、遺伝子まで何度も操作していれば、様々なものが生まれただろう。三毛でも、縞の毛皮でも。
(でも、青だけは、絶対に…)
生まれて来ないし、青い毛皮になるわけがない。哺乳類が持っていない色なら、遺伝子レベルで弄ってみたって、青などは出ない。…何らかの方法で、青い色素を組み込まない限り。
その筈なのに、青い毛皮のナキネズミがいた。白や茶色やブチに混じって。
つまり、わざわざ青い毛皮の個体を作って、「どれがいいのか」前の自分に選ばせた。
ヒルマンとゼルが。…あのナキネズミたちを開発していた、二人の最高責任者が。
(まさか、ゼルたち…)
もしかしたら、と頭に閃いたこと。
彼らは青い毛皮を持ったナキネズミを、意図的に作り出したのだろうか?
白や茶色や黒やブチでも、能力に差は生まれないのに。…青い毛皮を作ってみたって、色だけのことで能力は別。青い色素を組み込む分だけ、余計な手間がかかる代物。
それでも彼らは作っただろうか、青い毛皮のナキネズミを。…前の自分に選ばせるために。
青い鳥を飼いたいと願った、ソルジャー・ブルー。幸せを運ぶ青い鳥が欲しくて、それでも夢は叶わないまま。青い鳥は役に立たないから、と一蹴されて。
(代わりに青いナキネズミなの…?)
「青い鳥など役に立たんわ」と言ったお詫びに、ゼルたちは青いナキネズミを作ろうと努力したかもしれない。ナキネズミならば「役に立つ」から、シャングリラの中で飼ってもいい。
幸せを運ぶ青い鳥は駄目でも、青い毛皮のナキネズミなら飼える。ソルジャー・ブルーのペットではなくても、船の中に「青い生き物」が生まれる。
しかも、シャングリラの外の世界には「いないもの」。ミュウの船にしかいない生き物。それの毛皮が青かったならば、前の自分が如何にも喜びそうではある。
(…ホントに喜んじゃったしね?)
一目惚れした、青い毛皮のナキネズミ。「この子がいいよ」と、直ぐに選んで。
ゼルとヒルマンは、そのために青い毛皮の個体を作って混ぜておいたのだろうか。哺乳類ならば持たない色素を、ナキネズミの中に組み込んで。
「これで喜んで貰えるのなら」と、青い毛皮を持った個体を生み出して。
(そうだったの…?)
手間暇をかけて、青い毛皮のナキネズミを作った二人。哺乳類には無い、青い毛皮を。
本当の所はまるで分からないけれど、あの時、確かに前の自分は「青い毛皮の個体」を選んだ。完成したという報告を受けて、実験室に出掛けて行って。
様々な毛皮のナキネズミたちをグルリと見回し、青い毛皮に惹き付けられて。
「この子にしよう」と、青い毛皮の血統を育ててゆくことに決めた。他の色には目もくれないで青にしたけれど、他の色を選んでいたならば…。
(青い毛皮を頑張って作った意味なんか…)
無かったのだし、そうなった可能性もある。ゼルとヒルマンの努力は、すっかり水の泡で。
選ばれるとは限られなかった、青い毛皮のナキネズミ。前の自分ならば、ほぼ間違いなく選んでいたのだろうけれど。「青い毛皮だ」と、幸せの青い鳥に重ねて。
(だけど、青いのがいなくても…)
何も困りはしなかった筈。ナキネズミの血統を決めるだけだし、白でもブチでも、気に入りさえすれば問題はない。「この子がいいよ」と選び出すだけ。
(青い毛皮の動物なんかは、いないんだから…)
ナキネズミたちの色に「青」が無くても、「青いのがいない」と責めたりはしない。青い毛皮の個体を作れとゴネたりもしない。どれにしようかと、白や茶色の個体を見比べるだけで。
(…前のぼくは、何も考えていなかったけれど…)
青い毛皮のナキネズミが如何に貴重な存在なのか、有り得ない色を持っているのか。本当に何も気付きはしないで、「青い子がいい」と思っただけ。…青いナキネズミがいたものだから。
(でも、あれは…)
考えるほどに、不思議な色。哺乳類の毛皮には「無い筈の」青。
その青色を、ゼルたちが作った理由が分からない。白や茶色で充分だろうに、混ぜ込んであった青い毛皮のナキネズミ。遺伝子レベルで弄ってみたって、作れない色の毛皮が青。
(ナキネズミを作る実験とは別に、その研究もしてないと…)
青いナキネズミは出来ないけれども、前の自分は何も知らない。ゼルたちが青い個体を開発した理由も、どうやってそれを作ったのかも。
ナキネズミの開発は、生き物を使っていた実験。リスとネズミを何匹も飼っては、交配したり、遺伝子操作を試みたりと、生き物を相手に続ける研究。まるでアルタミラの研究所のように。
(リスやネズミか、ミュウなのかっていう違いだけで…)
どっちも実験動物なのだ、と思っていたから、見たくなかったケージの中の動物たち。狭い檻の中で生きていた頃の、自分の姿が重なりそうで。
そのせいで、ナキネズミたちを開発中だった実験室には…。
(入っていないし、覗いてもいない…)
前の自分はその場所を避けて、ただ報告を聞いていただけ。会議の席で。
研究の進捗状況を聞いては、「続けてくれ」と指示を下しただけ。実験室には行きもしないで、扉の向こうをサイオンで覗くこともしないで。
そんな具合で、実験室には顔を見せなかったソルジャー・ブルー。
ナキネズミの研究が完成するまで、どの血統を育ててゆくのか、意見を求められた時まで。
実験室に一度も姿を現さないなら、研究内容にも興味を示すわけがない。思念波を使える動物を作っていようが、青い毛皮を持った動物を作り出すべく、懸命に努力していようが。
(青い毛皮を持ったナキネズミは、ぼくには内緒で…)
ゼルとヒルマンがコッソリ作って、前の自分にプレゼントしてくれたのだろうか?
青い鳥が欲しかったソルジャー・ブルーに、「代わりにこれを」と、青い毛皮のナキネズミを。鳥でなくてもかまわないのなら、「青いナキネズミ」を選ぶといい、と。
(そうだとしか思えないんだけれど…)
白や茶色もいたのだったら、青いナキネズミを作り出す意味は全くない。能力だけなら、白でもブチでも、どれでも同じなのだから。
「不自然な生き物」の象徴として青を選んだのなら、どのナキネズミも青かった筈。前の自分に選ばせなくても、最初から「青い毛皮」の個体だけしかいなくて。
(前のぼくのために、青いナキネズミを作ってくれたの…?)
そうだったの、と尋ねたくても、ゼルもヒルマンも此処にはいない。二人とも遠い時の彼方で、叫んでみたって届きはしない。前の自分の強い思念波でも、時の流れは遡れない。
本当の所はどうだったのだろうか、青いナキネズミが生まれた理由。
(ハーレイだったら…)
知ってるのかな、と今のハーレイに訊きたくなった。
今は学校の教師だけれども、前のハーレイはキャプテン・ハーレイ。白いシャングリラを預かるキャプテンだったわけだし、あるいは知っているかもしれない。
(研究のことには、ノータッチでも…)
詳しい報告を受けていたとか、視察に出掛けていただとか。
ゼルとヒルマンの報告書などに目を通しながら、「これは何だ?」と質問したり、視察の途中でケージの中を覗き込んだり。…「青くないか?」と、妙な毛色に気が付いて。
(青が完成する前だったら、ちょっぴり青くなるだけだとか…)
部分的に青い所があるとか、なんとなく青く見えるとか。其処でハーレイが気付いていたなら、青くしようとしている理由も聞いただろう。「青い毛皮」を目指す理由を。
今となっては、頼りになるのはハーレイだけ。青い毛皮の謎が知りたくて、仕事の帰りに訪ねて来てくれないか、耳を澄ませていたら聞こえたチャイム。窓から覗けば、手を振るハーレイ。
(やった…!)
これで訊けるよ、と部屋に来たハーレイとテーブルを挟んで向かい合うなり、切り出した。
「あのね、青い毛皮の動物はいないってことを知っている?」
青い毛皮だよ、フサフサの毛皮。…そんな動物はいないんだ、って。
「いないって…。いただろ、青いナキネズミが」
お前だってよく知ってる筈だが、とハーレイは大真面目な顔で返した。「あれは青いぞ」と。
「そうだけど…。それは昔で、ナキネズミはもう、宇宙の何処にもいなくって…」
絶滅しちゃった生き物なんだよ、だから数には入らないよ。とっくにいない生き物だから。
ナキネズミの他に青いの、知ってる?
毛皮が青い動物だけど、と繰り返した。「他にはいない筈なんだけど?」と。
「青い毛皮の動物だって…?」
ナキネズミが直ぐに浮かんじまったが、アレの他に青いヤツってか…?
青い毛皮なあ…。犬や猫には青なんか無いし、ウサギも青くないわけで…。毛皮だろ…?
毛皮が青い生き物か…、と考え込んでから、ハーレイも「いないな」と答えた。青い身体のは、鳥や蛇とか魚だっけな、と。
「でしょ? 鳥や蛇なら青い色のも多いんだけれど…。魚もいるけど…」
哺乳類には、青い色のはいないんだって。
今日の新聞に書いてあったよ、子供向けの質問コーナーに。…でも、答えてたのは専門の学者。
人間とかの霊長類以外は、色覚が退化しちゃってるから、青い色を見ることが出来なくて…。
もし青かったら、自分の色がどうなってるのか、他の仲間がどんな色かも分かんないでしょ?
でも、ナキネズミは青かったんだよ。…あれだって哺乳類なのに。
赤ちゃんを産んで、お乳で育てていたものね、と確認してみたナキネズミのこと。生物学的には哺乳類だよね、と。
「それはまあ…。元になったのがリスとネズミだから…」
哺乳類には違いないだろう。鳥でも爬虫類でもなければ、魚でもないし。
だが、青かったな、あいつらは。…間違いなく哺乳類だった筈だが。
とんでもない色をしてたってわけか、とハーレイは何度か瞬きをした。「青かったんだが」と。
「俺には見慣れた色だったんだが、あの色は有り得ないんだな?」
青い毛皮をした動物ってヤツは、確かにいない。あいつらは色まで特別だったのか…。思念波を持っていただけじゃなくて、毛皮も特別製だったってな。
「あの毛皮…。あの青色は、前のぼくが選んだんだけど…」
青い鳥を飼うのは無理だったから、その代わりに青いナキネズミにしたんだけれど…。
どうして青いナキネズミがいたのか、ハーレイ、知らない?
聞いてないかな、と問い掛けた。それが「知りたいこと」だから。
「どうしてって…。そいつは、どういう意味だ?」
青いナキネズミは青かっただけで、そういう特徴を持った個体だったと思うんだが…?
「其処だよ、青かった所が問題。…哺乳類には無い筈の色で、有り得ない色を作った理由」
哺乳類に青い色が無いなら、青い毛皮にしてやるためには、必要な色素を組み込まないと駄目。生き物の身体に青い色をね。…それって、不自然すぎるでしょ?
あの時代には当たり前だった青い薔薇だって、シャングリラには無かったんだよ。自然の中では生まれない色で、人工的に青い色素を組み込んでたから。…そんな不自然な色は駄目だ、って。
青い薔薇でも植えなかったような船なのに、なんでわざわざナキネズミを青くしちゃったわけ?
船で作った動物なんだし、特別だから、っていう意味だったら、青いのしか作らない筈で…。
不自然な青い毛皮のナキネズミだけで充分なのに、他の毛皮の色、ちゃんとあったよ?
前のぼくが選ばなかっただけで…、と挙げていった白や茶色のナキネズミ。繁殖させずに、一代限りのペットとして配られたナキネズミを。
「いたなあ、そういうヤツらもな。…希望者多数で大人気だったぞ」
もっとも、選ぶ権利を持っていたのは、人間様じゃなかったが。…ナキネズミの方で。
「そうだっけね。…それでね、青いナキネズミのことだけど…。もしかしたら、って…」
ゼルとヒルマン、前のぼくに「青い鳥」の代わりをくれたのかな、って…。
「なんだって?」
青い鳥の代わりというのは何だ、とハーレイは怪訝そうな顔。「あれは鳥じゃないぞ?」と。
「そうだけど…。鳥じゃなくってナキネズミだけど、青かったでしょ?」
ほら、青い鳥は駄目だって言われちゃったから…。前のぼくが欲しかった、青い鳥…。
ゼルにハッキリ言われてたでしょ、と説明をした。「青い鳥など何の役にも立たん」と、一刀の下に切って捨てられた日のことを。
けれど、ゼルたちはそれを覚えていて、青い鳥の代わりに、青い毛皮のナキネズミをプレゼントしてくれたのでは、と。
「そんな気がしているんだけれど…。でも、前のぼくは何も知らなくて…」
実験室を覗いてもいないし、研究のことも会議で聞いていただけで…。どうして有り得ない色の青を作っていたのか、ホントに分からないんだよ。
ハーレイ、青いナキネズミを作ろうとしていた理由を知らない?
キャプテンだったし、船のことには詳しそうだよ。ナキネズミの実験室にしたって。
前のぼくは、アルタミラの記憶と重なっちゃいそうで、あそこは避けてしまっていたから…。
サイオンで覗いてもいない、と白状したら、ハーレイは「すまん」と謝った。
「実は、俺もだ。…キャプテンにあるまじきことなんだろうが、どうにも好きになれなくて…」
キャプテンの仕事は忙しいんだ、と理由をつけては、あそこは避けて通っていた。
まるで行かないわけにもいかんし、出来るだけ、ということではあるが…。
行った時には、最低限の視察程度で、ザッと見渡したらそれで終わりだ。異常は無いな、と確認するのが俺の仕事で、研究のことはサッパリだしな?
ゼルもヒルマンも俺の飲み友達ではあったが、あいつらだって、ナキネズミの開発の話は滅多にしなかった。動物を使った実験なんだし、愉快なことではないからな。
だから、青い毛皮のナキネズミが生まれた理由は分からん。
あいつらが上げて来た細かい報告ってヤツも、形だけしか見ていないから。…この段階だな、と最後だけ見て、専門用語を並べ立てた部分はすっ飛ばして。
だがな…。
あいつらだったら作っただろう、とハーレイは笑んだ。
ゼルとヒルマンが青い鳥の話を覚えていたなら、青い毛皮のナキネズミを。
「…作っていそう?」
前のぼくには内緒にしといて、青い毛皮のナキネズミ…。
哺乳類には青い毛皮が無くても、なんとかして青くしてやろう、って…?
やり方は分かんないけどね、と首を竦めた。
青い薔薇なら植物だから、動物よりは簡単に出来たことだろう。青い色素を組み込んでやって、目が覚めるような青に仕上げることも。
けれど、ナキネズミは動物なのだし、仕組みがまるで分からない。どうすれば青い色素なんかを組み込めたのか、毛皮に発色させられたのか。
「俺にも見当もつかないが…。前はキャプテンだし、今は古典の教師だぞ?」
動物の毛皮を青くしてくれ、と注文されたら、染める以外に無いってな。食っちまっても毒にはならない、青い色素を探して来て。…ゼリーとかを青く染めるヤツとか。
そういうのを毛皮にペタペタと塗って、「青くなったぞ」としか言えないんだが…。
ゼルとヒルマンの場合は違う。あいつらは根っから研究が好きで、才能も充分あったんだ。
そんなヤツらが、前のお前の夢を諦めさせたから…。青い鳥は駄目だ、と切り捨てたから…。
代わりに青いナキネズミだ、と頑張った可能性ってヤツは高いな。
俺には話しても通じんだろう、と放っておいて、二人であれこれ研究して。
そうやって出来たのがアレじゃないか、とハーレイは顎に手を当てた。「他にもいたし…」と、「青の他にもいたんだったら、青はお前へのプレゼントだろう」と。
「本当に?」
やっぱりそうなの、青いナキネズミは、ゼルとヒルマンがぼくにくれたの…?
好きなのを選んでいい、って言っていたのは、ぼくに青いのをくれるためだった…?
全部が青いナキネズミよりも、その方がずっと素敵だもんね…。
色々な毛皮のナキネズミたちが揃ってる中に、青いのが混じっている方が…。
幸せの青い鳥を見付けたみたいな気がするよ、と白いシャングリラに思いを馳せた。実験室まで出掛けて行った日、青いナキネズミを選んだ日に。
「裏付けは何も無いんだが…。データを見たって、分からんだろうな」
青い色素を組み込んだ時のデータが今もあったとしたって、目的までは書かれていまい。
前のお前へのプレゼントならば、なおのこと、そうは書いていないぞ。…あいつらだけに。
だが、飲み友達だった俺の勘だな、「多分、そうだ」と。…お前のために青くしたんだな、と。
「そうだったんだ…」
ナキネズミの毛皮が青かったのは、青い鳥の代わりだったんだ…。
前のぼくが飼いたがっていたから、鳥は駄目でも、ナキネズミなら、って…。
どうやったのかは謎だけれども、青い毛皮のナキネズミを作ったゼルとヒルマン。
哺乳類は持っていない筈の青い毛皮を、青い小鳥を思わせる色を纏うようにと努力を重ねて。
それが出来たら、前の自分に選ばせてくれた。白や茶色や、ブチの毛皮をしたナキネズミたちと一緒に並べて、「どれにしたい?」と。
大喜びで青を選んだ、前の自分。「この子にしよう」と、一目惚れして迷いもせずに。
青い鳥を飼うことは諦めざるを得なかったから、青いナキネズミが嬉しくて。
その青色が「有り得ない色」だとは考えもせずに、青い個体を選んでいた。「この血統を育てていこう」と、青色の毛皮のナキネズミに決めた。
お蔭で、ナキネズミと言えば今も「青」。誰に訊いても「青だ」と返る、毛皮の色。
(前のぼく、ナキネズミに青い鳥を重ねて…)
見ていたこともよくあった。
農場の木に巣箱をかけて、ナキネズミが入るのを待ったことまであったほど。青い鳥の代わりに住んで欲しくて、青いナキネズミのために設けた巣箱。
青いナキネズミは、前の自分にとっては、幸せの青い鳥のようなもの。
鳥ではなくても、空は飛ばなくても、四本の足でトコトコと船の中を歩く生き物でも。それでも充分、青い鳥の代わりになってはいた。幸せの青い鳥の代わりに、あれがいるよ、と。
青い毛皮のナキネズミを作った、ゼルとヒルマンの読みは見事に当たったのだから…。
「ゼルたちに御礼を言いたいな。…ナキネズミの御礼」
青い鳥の代わりに、青い毛皮のを作ってくれてありがとう、って。
前のぼくは少しも気付いていなかったから、御礼、言えずに終わっちゃったし…。
でも、二人とも、今は何処にいるのか分かんなくて…。
前のぼく、ホントにウッカリ者だよね…。せっかく青いのを作ってくれていたのに、青い毛皮が珍しいことには少しも、気付かないままでいたなんて…。
「その辺のことは、ヤツらも気にしちゃいないだろう。気にしていたなら、言うだろうから」
何かのはずみに、恩着せがましく。「作ってやったのに、礼も無しか」と、ズケズケと。
礼を言いたいなら、今からだって、気持ちだけでも伝わるさ。…あいつらのトコに。
俺も一緒に言ってやるから、窓に向かって言うといい。「ありがとう」とな。
「うんっ!」
ゼルとヒルマンに届くといいよね、ぼくたちの御礼。…青いナキネズミを貰った御礼…。
二人で言おうね、とハーレイと声を揃えて、窓の向こうに頭を下げた。「ありがとう」と。
白いシャングリラにいた、青い毛皮のナキネズミ。有り得ない色を持っていた生き物。
あのナキネズミはきっと、ゼルとヒルマンがくれた、青い鳥の代わり。
「青い鳥を諦めたソルジャー・ブルー」のためにと作ってくれた、青い毛皮をしたナキネズミ。
その青いナキネズミを乗せていた船は、ちゃんと幸せを手に入れた。ミュウの未来を。
誰もが幸せに暮らせる世界を、ミュウが殺されない平和な時代を。
それに今の十四歳の自分と、学校の先生になったハーレイにだって…。
(幸せ、ちゃんと来たからね…!)
前の生では手に入らなかった、夢のような世界にやって来た。ハーレイと一緒に、離れないで。
青く蘇った地球の上に生まれて、幸せに生きてゆける今。
(これって、きっと…)
青い鳥の代わりに、青い毛皮のナキネズミが運んでくれた幸せだろう。
シャングリラに青い鳥はいなくて、青い毛皮のナキネズミたちがいたのだから。
翼を広げて空を飛ぶ代わりに、四本の足でトコトコ歩いたナキネズミが。
そのナキネズミを貰った御礼を、ゼルとヒルマンの二人に届けたい。
「青いナキネズミを作ってくれて、ありがとう」と。
今では、とても幸せだから。この地球の上で、ハーレイと二人、幸せに生きてゆくのだから…。
ナキネズミの青・了
※青い毛皮だったナキネズミ。哺乳類は青を認識出来ないので、青い色を持たないのに。
ナキネズミを作ったヒルマンとゼルが、前のブルーに青い鳥の代わりに、くれた生き物かも。
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いないかも、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
子供からの質問に答えるコーナー。其処に載っている、下の学校に通う男の子の問い。
「どうして青い毛皮の動物はいないんですか?」と。
鳥だったら青いのも沢山いるのに、と男の子が抱いた「青い毛皮」への疑問。言われてみれば、確かに頭に浮かんでこない。青い毛皮の動物などは。
(答えは…?)
回答するのは専門の学者。小さな子供にも分かりやすいよう、易しい言葉を選びながら。
青い毛皮の動物が存在しない理由は、色覚の問題なのだという。色を識別するための能力。
どの生き物でも、自分自身が感知できない体色は持っていないのが基本。持っていたって、その色は意味を成さないから。…他の仲間が見た時に、「分からない」ような色は要らない。
霊長類以外の哺乳類だと、青い色を見ることは出来ないらしい。犬や猫も、他の哺乳類たちも。
(哺乳類は、夜行性の生活が長くて…)
そのせいで色覚が退化した。青い色が見えなくなってしまった。
長い年月、天敵だった爬虫類に追われて隠れる内に。夜の闇に紛れて生きる間に、鮮やかな色が無い夜の世界で暮らす間に。
爬虫類から進化した鳥類、そちらだったら色覚を維持し続けたのに。
鳥たちは空を飛んでゆくから、哺乳類ほどには爬虫類を恐れなくても良かった。昼の間も堂々と飛んで、色のある世界を眺め続けた。
(それで鳥には、青いのがいて…)
セキセイインコや、オオルリなどや、青い色を持つ鳥は沢山。
けれど、青い毛皮を持つ動物はいない。人間やサルのような霊長類、それを除けば、青い色など分からないのだから。青い毛皮でアピールしたって、仲間たちは見てくれないから。
(色覚ってヤツが問題で…)
鳥と同じに青が分かる魚類は、青い身体の種類も多い。他の仲間も「青い」と認識出来るから。
哺乳類の場合は、そうはいかなくて、青い毛皮の動物はいない。鳥には青い色のがいても。
そうだったんだ、と納得して閉じた質問コーナー。「賢くなった」と。
下の学校の男の子の疑問、それに学者が答えたお蔭で。
学校では教えてくれないこと。色覚について習いはしたって、毛皮の色は教わらない。
(もっと学年が上になったら、習うのかもね)
一足お先に教わっちゃった、と嬉しい気分で戻った二階の自分の部屋。空になったカップなどを「御馳走様」と、キッチンの母に返してから。
勉強机の前に座って、さっきの答えを思い出す。青い毛皮を持つ動物は、存在しない。哺乳類は青が見えないのだから、青くなっても仕方ない。
(犬も猫も、みんな青くはないし…)
青いウサギもいないよね、と考えていたら、ふと掠めた記憶。
(あれ…?)
いたじゃないの、と気が付いた。
青い毛皮を持った動物。それを自分は知っている。遠く遥かな時の彼方で、ちゃんと目にした。あれは確かに青い毛皮で、間違いなく哺乳類だった。
(ナキネズミ…)
白いシャングリラで、ミュウが開発した生き物。とうに絶滅したのだけれど。
思念波を上手く扱えない子供のサポート役に、とヒルマンやゼルたちが作り上げた。元になった動物はリスとネズミで、遺伝子レベルの操作や交配などを重ねて。
リスのようにも、ネズミのようにも見えた動物。シャングリラの外にはいない生き物。
(前のぼくが、青い毛皮の個体を選んで…)
この血統を育ててゆこう、という指示を下した。「青い毛皮をした子がいいよ」と。
そうして繁殖させて増やして、ナキネズミは青い毛皮になった。ナキネズミと言ったら、誰もが青い毛皮を思い浮かべたほどに。
思念波を持つ「ナキネズミ」が完成した時だったら、他の毛皮の個体もいたのに。白いのやら、茶色や、黒もブチもいた。研究室のケージの中には、様々な毛皮のナキネズミたち。
(だけど、そっちは選ばなかったし、一代限りで…)
希望者が貰って、ペットにしていた。思念波で会話が出来たのだから、希望者多数で。
けれど、繁殖させてはいない。船の仲間たちと楽しく暮らして、それで終わった。一代きりで。
繁殖したのは青い毛皮を持った血統。
前の自分が「この子にしよう」と選んだ、青い毛皮のナキネズミ。他の色には目もくれないで、一目惚れ。青い毛皮を持っていたから。
そうなったのには理由がある。前の自分が青い毛皮に惹かれたこと。
(青い鳥…)
幸せを運ぶ青い鳥。それを飼いたいと願った自分。船に沢山の幸せを運んでくれるよう。
けれど、一言で切り捨てられた。「青い鳥など役に立たんわ」と、ゼルに言われた。鶏だったら卵を産むし、肉にもなる。シャングリラで飼う価値は、充分にある。
(でも、青い鳥は…)
眺めて楽しむことしか出来ない。卵を産んでも、それは栄養豊富ではなくて、肉にすることさえ出来ない小鳥。まるで反論出来なかった。「それでも飼おう」と押し切ることも。
これでは無理だと諦めたものの、忘れられなかった青い鳥。地球の青色を纏った小鳥。
青い鳥は飼えない船だったから、青い生き物が欲しかった。青い水の星の色を持つものが。
其処へ現れた、青い毛皮のナキネズミ。惹き付けられないわけがない。鳥ではなくても、毛皮が青い生き物だから。…青いナキネズミがいたのだから。
迷うことなく青を選んだ。「この血統を増やしてゆこう」と、青い毛皮のナキネズミを。
前の自分は、何の疑問も抱くことなく、青いナキネズミに決めたのだけれど…。
(青い毛皮を持った動物、何処にもいないって言うのなら…)
ナキネズミは、青い薔薇のよう。
人間が地球しか知らなかった頃、薔薇には青い色が無かった。青い色素を持たなかったから。
青い薔薇と言えば、「不可能」の意味とされていたほど。どう頑張っても、青い薔薇を作り出すことは出来はしない、と。
それでも、無ければ欲しくなるもの。人間は青い薔薇を求めて、改良に改良を重ね続けた。紫に近い青が生み出された時、「ようやく出来た」と愛好家たちが喜んだ青薔薇。
けれども、それが限界だった。本当に「青い」薔薇は出来ずに、紫を帯びた薔薇があっただけ。
なのに、SD体制が敷かれた時代には、存在していた青い薔薇。青い色素を持っていた薔薇。
今の時代もある青薔薇とは違うもの。人工的に青い色素を組み込まれた薔薇。
(真っ青で、綺麗な薔薇だったけど…)
それは不自然な青だから、とシャングリラでは育てなかった。滅びゆく地球と引き換えのように生まれた青薔薇。地球の青を吸い取り、その身に纏ったかのように。
本当にそうではなかっただろうけれど、人間の驕りの象徴だったとも言えた青薔薇。
ヒルマンたちは「青い薔薇は駄目だ」と唱えた。存在してはならない色を持つから、あの船には相応しくないと。「本来の色の薔薇だけでいい」と。
白いシャングリラに薔薇は何本も植えられたけれど、一本も無かった青い薔薇。当時はごくごく当たり前の色で、「青い薔薇が船に無い」ことを、不思議に思った仲間もいたというのに。
(シャングリラはそういう船だったのに、青いナキネズミ…)
哺乳類は持たない、青い色の毛皮。ナキネズミの身体は、青く柔らかな毛に覆われていた。
前の自分は「青い鳥の代わりに育てていこう」と、その色を選んだのだけど。青い毛皮の動物が存在するかどうかも、まるで考えたりはしないで、一目見ただけで。
(この子がいいよ、って決めちゃったけど…)
そう決まったから、ナキネズミは青い毛皮の血統だけが増やされ、青くて当然。誰も不自然だと思いはしなくて、「ナキネズミだな」と見ていただけ。
シャングリラの中で、青い毛皮を持つ生き物に出会ったら。思念波で話し掛けられたら。
(前のぼくも、船のみんなも、すっかり慣れてしまってて…)
「青い」とさえ意識していなかった。それがナキネズミの色だったから。
青い毛皮を持った動物などは存在しないのに。…人類の世界にあった動物園、それを端から見学したって、青い毛皮の動物はいない。図鑑のページを繰ってみたって、データベースに収められた膨大なデータを解析したって。
(青い毛皮の哺乳類は、何処にもいないんだから…)
さっき読んでいた新聞にあった。「青い毛皮の動物がいない」ことの理由。
青を認識できない色覚、それでは青い毛皮は持てない。青くなっても、仲間たちの目には青色が映らないのだから。
(だけど、ナキネズミは青くって…)
有り得ない筈の青い毛皮を纏っていた。あの時代にはあった、青い薔薇のように。人工的に青い色素を組み込み、鮮やかな青に仕立てた薔薇さながらに。
(ナキネズミは動物で、薔薇じゃないけど…)
考えてみれば、ナキネズミだって、青薔薇と同じに「不自然な生き物」。
自然には血が混じらない筈の、リスとネズミを交配した上、DNAなどを弄って作られたもの。動物は持たない筈の思念波、それを使って人間と会話が出来るようにと。
そうやって生まれたナキネズミ。白いシャングリラの実験室から生み出されたもの。
思念波を上手く扱えない子たちの、いい友達になるように。思念波増幅装置の代わりに、生きた増幅装置として。…子供たちを支えるサポート役で、パートナーだったナキネズミ。
(完成した頃には、それで良かったけれど…)
シャングリラがミュウの箱舟だった時代は、重宝がられたナキネズミ。広い船の中を自由に行き来し、子供たちを手伝う役目が無ければ、農場でのんびり暮らしていた。
(牛小屋に入って、牛の背中を走り回ってみたり…)
農場にある木に登ったりして、生き生きとしていたナキネズミたち。子供も生まれて、仲のいいカップルや親子もよく見かけた。農場に視察に行った時には。
けれど、SD体制が倒された後。
人類との長い戦いが終わって、平和な時代が訪れた後は、繁殖力が衰えていったナキネズミ。
生まれる子供の数が減り始めて、やがて生まれなくなって、そして滅びた。
最後の一匹だったオスが死んでしまって、ナキネズミは何処にもいなくなって。
(そうならないよう、絶滅を防ぐ方法は…)
当時でもちゃんと分かっていた。
白いシャングリラで蓄積されていた、様々なデータ。それにナキネズミを作り出した時の方法。そういった情報は残っていたから、分析さえすれば答えは導き出せる。
滅びそうなくらいに減ったナキネズミを、遺伝子レベルで操作したなら、繁殖力は元に戻ると。
シャングリラがあった時代と同じに、いくらでも子供が生まれて来ると。
(方法は、みんな分かってたのに…)
生物学者も、動物園でナキネズミの飼育を担当していた係たちも。
ナキネズミの絶滅を防ぎたかったら、どうすればいいか。まだ充分な数のナキネズミたちがいた間ならば、手を打つことは可能だった。近親交配にならない内に、遺伝子を操作してやれば。
けれども、彼らはそうしなかった。
放っておいたら滅びることに気付いていながら、自然に任せようと決めた人間たち。
「生き物は全て、自然のままに」と。「人間が手を加えることは許されない」と。
青い薔薇も同じ理由で消えた。
地球の青さを吸い取ったかのように生まれた、不自然な青は。青い色素を組み込んだ薔薇は。
今の時代は無い、青い薔薇。青い色素を持っていたから、完璧な青を誇った薔薇。
そういった青薔薇は全て失われて、今では紫を帯びた青薔薇だけ。薔薇が本来持つ色素だけで、出来るだけ青に近付けたもの。
それ以外の青は、「不自然だから」と二度と作り出されず、この宇宙から滅びていった。
青いナキネズミが、今は何処にもいないのと同じで。
(ナキネズミは、毛皮が青かったせいで、滅びたわけじゃないけれど…)
不自然とされたのは青い毛皮ではなくて、その生まれの方。
人間の手で作り出された、「本当だったら、存在しない筈」の生き物。リスとネズミは、自然の中では血が混じり合いはしないから。…全く別の生き物だから。
(それを交配して、おまけに遺伝子操作まで…)
繰り返して出来たのがナキネズミ。青い色素を薔薇に組み込むより、もっと不自然で有り得ないもの。人間が母なる地球に「還ってゆく」なら、そんな生き物を作っていてはいけない。
(だから、滅びるって分かっていても…)
誰も救いはしなかった。ナキネズミの滅びを止めるためには、不自然すぎる操作が必要。それは行ってはならないことだ、と皆が考え、賛同して。
けれど、そうして滅びていったナキネズミ。今は何処にもいない生き物。
彼らがその身に纏った毛皮は、どうして青かったのだろう。
哺乳類は青い色を持たない筈だというのに、ナキネズミは何故、青い毛皮になったのだろう?
(ナキネズミの元になってた、リスもネズミも…)
どちらも青い毛皮ではない。哺乳類だし、青い毛皮を持ってはいない。
彼らをベースに作り出されたナキネズミだって、哺乳類というものだったろう。卵ではなくて、子供を産んでいたのだから。…生まれた子供は、母親の乳で育ったから。
そのナキネズミを青い毛皮にしたいのならば、あの頃にあった青い薔薇と同じで…。
(生き物の仕組みは、分かんないけど…)
どうやるのか見当もつかないけれども、青い色素を組み込む以外に無かっただろう。
目を青色にするのとは違って、毛皮に青が出るように。
青い目だったら、猫だって持っているわけなのだし、目を青くするなら方法はある。けれども、毛皮はそうはいかない。青い毛皮を持った動物、それは存在しないのだから。
青い毛皮だったナキネズミ。哺乳類には無い筈の色。どうして、青色だったのか。ナキネズミの毛皮に、青を発色させたのか。
(なんで、そんなことをしていたわけ…?)
自然界には存在しない、青い毛皮を持った動物。それがナキネズミで、白いシャングリラで作り出された生き物。平和になったら、「不自然だから」と、滅びの道を皆が選択したような存在。
(…有り得ない生き物には違いないけど…)
そのことを承知で、「不自然な生き物」の象徴として青にしたなら、青い毛皮のナキネズミしかいなかった筈。実験室で生まれたナキネズミは全て青い毛皮で、他の毛色のナキネズミは無しで。
(青がシンボルなんだしね?)
どのナキネズミも、青い毛皮にしておけばいい。白や茶色や、ブチの個体を作らなくても、青い毛皮のものだけでいい。
「不自然だから青でいいのだ」と考えたのなら、そうなっている。他の毛色は全部排除で、どのナキネズミも青くして。「これがナキネズミの色なのだから」と。
けれど、様々な色の個体がいたのがナキネズミ。思念波を持った生き物として、シャングリラに姿を現した時は。「どの血統を育てたいのか」と、前の自分が訊かれた時には。
(…青い毛皮のナキネズミは…)
あの段階では、他のナキネズミたちに「混ざっていただけ」の試作品。
どれを選ぶかは前の自分の自由で、白も茶色も、好きに選べた。黒でもブチでも、気に入りさえすれば。「これにしよう」と考えたなら。
(…白も茶色も、黒いのも、ブチも…)
動物の毛皮としては、ありきたりのもの。リスとネズミがベースにしたって、遺伝子まで何度も操作していれば、様々なものが生まれただろう。三毛でも、縞の毛皮でも。
(でも、青だけは、絶対に…)
生まれて来ないし、青い毛皮になるわけがない。哺乳類が持っていない色なら、遺伝子レベルで弄ってみたって、青などは出ない。…何らかの方法で、青い色素を組み込まない限り。
その筈なのに、青い毛皮のナキネズミがいた。白や茶色やブチに混じって。
つまり、わざわざ青い毛皮の個体を作って、「どれがいいのか」前の自分に選ばせた。
ヒルマンとゼルが。…あのナキネズミたちを開発していた、二人の最高責任者が。
(まさか、ゼルたち…)
もしかしたら、と頭に閃いたこと。
彼らは青い毛皮を持ったナキネズミを、意図的に作り出したのだろうか?
白や茶色や黒やブチでも、能力に差は生まれないのに。…青い毛皮を作ってみたって、色だけのことで能力は別。青い色素を組み込む分だけ、余計な手間がかかる代物。
それでも彼らは作っただろうか、青い毛皮のナキネズミを。…前の自分に選ばせるために。
青い鳥を飼いたいと願った、ソルジャー・ブルー。幸せを運ぶ青い鳥が欲しくて、それでも夢は叶わないまま。青い鳥は役に立たないから、と一蹴されて。
(代わりに青いナキネズミなの…?)
「青い鳥など役に立たんわ」と言ったお詫びに、ゼルたちは青いナキネズミを作ろうと努力したかもしれない。ナキネズミならば「役に立つ」から、シャングリラの中で飼ってもいい。
幸せを運ぶ青い鳥は駄目でも、青い毛皮のナキネズミなら飼える。ソルジャー・ブルーのペットではなくても、船の中に「青い生き物」が生まれる。
しかも、シャングリラの外の世界には「いないもの」。ミュウの船にしかいない生き物。それの毛皮が青かったならば、前の自分が如何にも喜びそうではある。
(…ホントに喜んじゃったしね?)
一目惚れした、青い毛皮のナキネズミ。「この子がいいよ」と、直ぐに選んで。
ゼルとヒルマンは、そのために青い毛皮の個体を作って混ぜておいたのだろうか。哺乳類ならば持たない色素を、ナキネズミの中に組み込んで。
「これで喜んで貰えるのなら」と、青い毛皮を持った個体を生み出して。
(そうだったの…?)
手間暇をかけて、青い毛皮のナキネズミを作った二人。哺乳類には無い、青い毛皮を。
本当の所はまるで分からないけれど、あの時、確かに前の自分は「青い毛皮の個体」を選んだ。完成したという報告を受けて、実験室に出掛けて行って。
様々な毛皮のナキネズミたちをグルリと見回し、青い毛皮に惹き付けられて。
「この子にしよう」と、青い毛皮の血統を育ててゆくことに決めた。他の色には目もくれないで青にしたけれど、他の色を選んでいたならば…。
(青い毛皮を頑張って作った意味なんか…)
無かったのだし、そうなった可能性もある。ゼルとヒルマンの努力は、すっかり水の泡で。
選ばれるとは限られなかった、青い毛皮のナキネズミ。前の自分ならば、ほぼ間違いなく選んでいたのだろうけれど。「青い毛皮だ」と、幸せの青い鳥に重ねて。
(だけど、青いのがいなくても…)
何も困りはしなかった筈。ナキネズミの血統を決めるだけだし、白でもブチでも、気に入りさえすれば問題はない。「この子がいいよ」と選び出すだけ。
(青い毛皮の動物なんかは、いないんだから…)
ナキネズミたちの色に「青」が無くても、「青いのがいない」と責めたりはしない。青い毛皮の個体を作れとゴネたりもしない。どれにしようかと、白や茶色の個体を見比べるだけで。
(…前のぼくは、何も考えていなかったけれど…)
青い毛皮のナキネズミが如何に貴重な存在なのか、有り得ない色を持っているのか。本当に何も気付きはしないで、「青い子がいい」と思っただけ。…青いナキネズミがいたものだから。
(でも、あれは…)
考えるほどに、不思議な色。哺乳類の毛皮には「無い筈の」青。
その青色を、ゼルたちが作った理由が分からない。白や茶色で充分だろうに、混ぜ込んであった青い毛皮のナキネズミ。遺伝子レベルで弄ってみたって、作れない色の毛皮が青。
(ナキネズミを作る実験とは別に、その研究もしてないと…)
青いナキネズミは出来ないけれども、前の自分は何も知らない。ゼルたちが青い個体を開発した理由も、どうやってそれを作ったのかも。
ナキネズミの開発は、生き物を使っていた実験。リスとネズミを何匹も飼っては、交配したり、遺伝子操作を試みたりと、生き物を相手に続ける研究。まるでアルタミラの研究所のように。
(リスやネズミか、ミュウなのかっていう違いだけで…)
どっちも実験動物なのだ、と思っていたから、見たくなかったケージの中の動物たち。狭い檻の中で生きていた頃の、自分の姿が重なりそうで。
そのせいで、ナキネズミたちを開発中だった実験室には…。
(入っていないし、覗いてもいない…)
前の自分はその場所を避けて、ただ報告を聞いていただけ。会議の席で。
研究の進捗状況を聞いては、「続けてくれ」と指示を下しただけ。実験室には行きもしないで、扉の向こうをサイオンで覗くこともしないで。
そんな具合で、実験室には顔を見せなかったソルジャー・ブルー。
ナキネズミの研究が完成するまで、どの血統を育ててゆくのか、意見を求められた時まで。
実験室に一度も姿を現さないなら、研究内容にも興味を示すわけがない。思念波を使える動物を作っていようが、青い毛皮を持った動物を作り出すべく、懸命に努力していようが。
(青い毛皮を持ったナキネズミは、ぼくには内緒で…)
ゼルとヒルマンがコッソリ作って、前の自分にプレゼントしてくれたのだろうか?
青い鳥が欲しかったソルジャー・ブルーに、「代わりにこれを」と、青い毛皮のナキネズミを。鳥でなくてもかまわないのなら、「青いナキネズミ」を選ぶといい、と。
(そうだとしか思えないんだけれど…)
白や茶色もいたのだったら、青いナキネズミを作り出す意味は全くない。能力だけなら、白でもブチでも、どれでも同じなのだから。
「不自然な生き物」の象徴として青を選んだのなら、どのナキネズミも青かった筈。前の自分に選ばせなくても、最初から「青い毛皮」の個体だけしかいなくて。
(前のぼくのために、青いナキネズミを作ってくれたの…?)
そうだったの、と尋ねたくても、ゼルもヒルマンも此処にはいない。二人とも遠い時の彼方で、叫んでみたって届きはしない。前の自分の強い思念波でも、時の流れは遡れない。
本当の所はどうだったのだろうか、青いナキネズミが生まれた理由。
(ハーレイだったら…)
知ってるのかな、と今のハーレイに訊きたくなった。
今は学校の教師だけれども、前のハーレイはキャプテン・ハーレイ。白いシャングリラを預かるキャプテンだったわけだし、あるいは知っているかもしれない。
(研究のことには、ノータッチでも…)
詳しい報告を受けていたとか、視察に出掛けていただとか。
ゼルとヒルマンの報告書などに目を通しながら、「これは何だ?」と質問したり、視察の途中でケージの中を覗き込んだり。…「青くないか?」と、妙な毛色に気が付いて。
(青が完成する前だったら、ちょっぴり青くなるだけだとか…)
部分的に青い所があるとか、なんとなく青く見えるとか。其処でハーレイが気付いていたなら、青くしようとしている理由も聞いただろう。「青い毛皮」を目指す理由を。
今となっては、頼りになるのはハーレイだけ。青い毛皮の謎が知りたくて、仕事の帰りに訪ねて来てくれないか、耳を澄ませていたら聞こえたチャイム。窓から覗けば、手を振るハーレイ。
(やった…!)
これで訊けるよ、と部屋に来たハーレイとテーブルを挟んで向かい合うなり、切り出した。
「あのね、青い毛皮の動物はいないってことを知っている?」
青い毛皮だよ、フサフサの毛皮。…そんな動物はいないんだ、って。
「いないって…。いただろ、青いナキネズミが」
お前だってよく知ってる筈だが、とハーレイは大真面目な顔で返した。「あれは青いぞ」と。
「そうだけど…。それは昔で、ナキネズミはもう、宇宙の何処にもいなくって…」
絶滅しちゃった生き物なんだよ、だから数には入らないよ。とっくにいない生き物だから。
ナキネズミの他に青いの、知ってる?
毛皮が青い動物だけど、と繰り返した。「他にはいない筈なんだけど?」と。
「青い毛皮の動物だって…?」
ナキネズミが直ぐに浮かんじまったが、アレの他に青いヤツってか…?
青い毛皮なあ…。犬や猫には青なんか無いし、ウサギも青くないわけで…。毛皮だろ…?
毛皮が青い生き物か…、と考え込んでから、ハーレイも「いないな」と答えた。青い身体のは、鳥や蛇とか魚だっけな、と。
「でしょ? 鳥や蛇なら青い色のも多いんだけれど…。魚もいるけど…」
哺乳類には、青い色のはいないんだって。
今日の新聞に書いてあったよ、子供向けの質問コーナーに。…でも、答えてたのは専門の学者。
人間とかの霊長類以外は、色覚が退化しちゃってるから、青い色を見ることが出来なくて…。
もし青かったら、自分の色がどうなってるのか、他の仲間がどんな色かも分かんないでしょ?
でも、ナキネズミは青かったんだよ。…あれだって哺乳類なのに。
赤ちゃんを産んで、お乳で育てていたものね、と確認してみたナキネズミのこと。生物学的には哺乳類だよね、と。
「それはまあ…。元になったのがリスとネズミだから…」
哺乳類には違いないだろう。鳥でも爬虫類でもなければ、魚でもないし。
だが、青かったな、あいつらは。…間違いなく哺乳類だった筈だが。
とんでもない色をしてたってわけか、とハーレイは何度か瞬きをした。「青かったんだが」と。
「俺には見慣れた色だったんだが、あの色は有り得ないんだな?」
青い毛皮をした動物ってヤツは、確かにいない。あいつらは色まで特別だったのか…。思念波を持っていただけじゃなくて、毛皮も特別製だったってな。
「あの毛皮…。あの青色は、前のぼくが選んだんだけど…」
青い鳥を飼うのは無理だったから、その代わりに青いナキネズミにしたんだけれど…。
どうして青いナキネズミがいたのか、ハーレイ、知らない?
聞いてないかな、と問い掛けた。それが「知りたいこと」だから。
「どうしてって…。そいつは、どういう意味だ?」
青いナキネズミは青かっただけで、そういう特徴を持った個体だったと思うんだが…?
「其処だよ、青かった所が問題。…哺乳類には無い筈の色で、有り得ない色を作った理由」
哺乳類に青い色が無いなら、青い毛皮にしてやるためには、必要な色素を組み込まないと駄目。生き物の身体に青い色をね。…それって、不自然すぎるでしょ?
あの時代には当たり前だった青い薔薇だって、シャングリラには無かったんだよ。自然の中では生まれない色で、人工的に青い色素を組み込んでたから。…そんな不自然な色は駄目だ、って。
青い薔薇でも植えなかったような船なのに、なんでわざわざナキネズミを青くしちゃったわけ?
船で作った動物なんだし、特別だから、っていう意味だったら、青いのしか作らない筈で…。
不自然な青い毛皮のナキネズミだけで充分なのに、他の毛皮の色、ちゃんとあったよ?
前のぼくが選ばなかっただけで…、と挙げていった白や茶色のナキネズミ。繁殖させずに、一代限りのペットとして配られたナキネズミを。
「いたなあ、そういうヤツらもな。…希望者多数で大人気だったぞ」
もっとも、選ぶ権利を持っていたのは、人間様じゃなかったが。…ナキネズミの方で。
「そうだっけね。…それでね、青いナキネズミのことだけど…。もしかしたら、って…」
ゼルとヒルマン、前のぼくに「青い鳥」の代わりをくれたのかな、って…。
「なんだって?」
青い鳥の代わりというのは何だ、とハーレイは怪訝そうな顔。「あれは鳥じゃないぞ?」と。
「そうだけど…。鳥じゃなくってナキネズミだけど、青かったでしょ?」
ほら、青い鳥は駄目だって言われちゃったから…。前のぼくが欲しかった、青い鳥…。
ゼルにハッキリ言われてたでしょ、と説明をした。「青い鳥など何の役にも立たん」と、一刀の下に切って捨てられた日のことを。
けれど、ゼルたちはそれを覚えていて、青い鳥の代わりに、青い毛皮のナキネズミをプレゼントしてくれたのでは、と。
「そんな気がしているんだけれど…。でも、前のぼくは何も知らなくて…」
実験室を覗いてもいないし、研究のことも会議で聞いていただけで…。どうして有り得ない色の青を作っていたのか、ホントに分からないんだよ。
ハーレイ、青いナキネズミを作ろうとしていた理由を知らない?
キャプテンだったし、船のことには詳しそうだよ。ナキネズミの実験室にしたって。
前のぼくは、アルタミラの記憶と重なっちゃいそうで、あそこは避けてしまっていたから…。
サイオンで覗いてもいない、と白状したら、ハーレイは「すまん」と謝った。
「実は、俺もだ。…キャプテンにあるまじきことなんだろうが、どうにも好きになれなくて…」
キャプテンの仕事は忙しいんだ、と理由をつけては、あそこは避けて通っていた。
まるで行かないわけにもいかんし、出来るだけ、ということではあるが…。
行った時には、最低限の視察程度で、ザッと見渡したらそれで終わりだ。異常は無いな、と確認するのが俺の仕事で、研究のことはサッパリだしな?
ゼルもヒルマンも俺の飲み友達ではあったが、あいつらだって、ナキネズミの開発の話は滅多にしなかった。動物を使った実験なんだし、愉快なことではないからな。
だから、青い毛皮のナキネズミが生まれた理由は分からん。
あいつらが上げて来た細かい報告ってヤツも、形だけしか見ていないから。…この段階だな、と最後だけ見て、専門用語を並べ立てた部分はすっ飛ばして。
だがな…。
あいつらだったら作っただろう、とハーレイは笑んだ。
ゼルとヒルマンが青い鳥の話を覚えていたなら、青い毛皮のナキネズミを。
「…作っていそう?」
前のぼくには内緒にしといて、青い毛皮のナキネズミ…。
哺乳類には青い毛皮が無くても、なんとかして青くしてやろう、って…?
やり方は分かんないけどね、と首を竦めた。
青い薔薇なら植物だから、動物よりは簡単に出来たことだろう。青い色素を組み込んでやって、目が覚めるような青に仕上げることも。
けれど、ナキネズミは動物なのだし、仕組みがまるで分からない。どうすれば青い色素なんかを組み込めたのか、毛皮に発色させられたのか。
「俺にも見当もつかないが…。前はキャプテンだし、今は古典の教師だぞ?」
動物の毛皮を青くしてくれ、と注文されたら、染める以外に無いってな。食っちまっても毒にはならない、青い色素を探して来て。…ゼリーとかを青く染めるヤツとか。
そういうのを毛皮にペタペタと塗って、「青くなったぞ」としか言えないんだが…。
ゼルとヒルマンの場合は違う。あいつらは根っから研究が好きで、才能も充分あったんだ。
そんなヤツらが、前のお前の夢を諦めさせたから…。青い鳥は駄目だ、と切り捨てたから…。
代わりに青いナキネズミだ、と頑張った可能性ってヤツは高いな。
俺には話しても通じんだろう、と放っておいて、二人であれこれ研究して。
そうやって出来たのがアレじゃないか、とハーレイは顎に手を当てた。「他にもいたし…」と、「青の他にもいたんだったら、青はお前へのプレゼントだろう」と。
「本当に?」
やっぱりそうなの、青いナキネズミは、ゼルとヒルマンがぼくにくれたの…?
好きなのを選んでいい、って言っていたのは、ぼくに青いのをくれるためだった…?
全部が青いナキネズミよりも、その方がずっと素敵だもんね…。
色々な毛皮のナキネズミたちが揃ってる中に、青いのが混じっている方が…。
幸せの青い鳥を見付けたみたいな気がするよ、と白いシャングリラに思いを馳せた。実験室まで出掛けて行った日、青いナキネズミを選んだ日に。
「裏付けは何も無いんだが…。データを見たって、分からんだろうな」
青い色素を組み込んだ時のデータが今もあったとしたって、目的までは書かれていまい。
前のお前へのプレゼントならば、なおのこと、そうは書いていないぞ。…あいつらだけに。
だが、飲み友達だった俺の勘だな、「多分、そうだ」と。…お前のために青くしたんだな、と。
「そうだったんだ…」
ナキネズミの毛皮が青かったのは、青い鳥の代わりだったんだ…。
前のぼくが飼いたがっていたから、鳥は駄目でも、ナキネズミなら、って…。
どうやったのかは謎だけれども、青い毛皮のナキネズミを作ったゼルとヒルマン。
哺乳類は持っていない筈の青い毛皮を、青い小鳥を思わせる色を纏うようにと努力を重ねて。
それが出来たら、前の自分に選ばせてくれた。白や茶色や、ブチの毛皮をしたナキネズミたちと一緒に並べて、「どれにしたい?」と。
大喜びで青を選んだ、前の自分。「この子にしよう」と、一目惚れして迷いもせずに。
青い鳥を飼うことは諦めざるを得なかったから、青いナキネズミが嬉しくて。
その青色が「有り得ない色」だとは考えもせずに、青い個体を選んでいた。「この血統を育てていこう」と、青色の毛皮のナキネズミに決めた。
お蔭で、ナキネズミと言えば今も「青」。誰に訊いても「青だ」と返る、毛皮の色。
(前のぼく、ナキネズミに青い鳥を重ねて…)
見ていたこともよくあった。
農場の木に巣箱をかけて、ナキネズミが入るのを待ったことまであったほど。青い鳥の代わりに住んで欲しくて、青いナキネズミのために設けた巣箱。
青いナキネズミは、前の自分にとっては、幸せの青い鳥のようなもの。
鳥ではなくても、空は飛ばなくても、四本の足でトコトコと船の中を歩く生き物でも。それでも充分、青い鳥の代わりになってはいた。幸せの青い鳥の代わりに、あれがいるよ、と。
青い毛皮のナキネズミを作った、ゼルとヒルマンの読みは見事に当たったのだから…。
「ゼルたちに御礼を言いたいな。…ナキネズミの御礼」
青い鳥の代わりに、青い毛皮のを作ってくれてありがとう、って。
前のぼくは少しも気付いていなかったから、御礼、言えずに終わっちゃったし…。
でも、二人とも、今は何処にいるのか分かんなくて…。
前のぼく、ホントにウッカリ者だよね…。せっかく青いのを作ってくれていたのに、青い毛皮が珍しいことには少しも、気付かないままでいたなんて…。
「その辺のことは、ヤツらも気にしちゃいないだろう。気にしていたなら、言うだろうから」
何かのはずみに、恩着せがましく。「作ってやったのに、礼も無しか」と、ズケズケと。
礼を言いたいなら、今からだって、気持ちだけでも伝わるさ。…あいつらのトコに。
俺も一緒に言ってやるから、窓に向かって言うといい。「ありがとう」とな。
「うんっ!」
ゼルとヒルマンに届くといいよね、ぼくたちの御礼。…青いナキネズミを貰った御礼…。
二人で言おうね、とハーレイと声を揃えて、窓の向こうに頭を下げた。「ありがとう」と。
白いシャングリラにいた、青い毛皮のナキネズミ。有り得ない色を持っていた生き物。
あのナキネズミはきっと、ゼルとヒルマンがくれた、青い鳥の代わり。
「青い鳥を諦めたソルジャー・ブルー」のためにと作ってくれた、青い毛皮をしたナキネズミ。
その青いナキネズミを乗せていた船は、ちゃんと幸せを手に入れた。ミュウの未来を。
誰もが幸せに暮らせる世界を、ミュウが殺されない平和な時代を。
それに今の十四歳の自分と、学校の先生になったハーレイにだって…。
(幸せ、ちゃんと来たからね…!)
前の生では手に入らなかった、夢のような世界にやって来た。ハーレイと一緒に、離れないで。
青く蘇った地球の上に生まれて、幸せに生きてゆける今。
(これって、きっと…)
青い鳥の代わりに、青い毛皮のナキネズミが運んでくれた幸せだろう。
シャングリラに青い鳥はいなくて、青い毛皮のナキネズミたちがいたのだから。
翼を広げて空を飛ぶ代わりに、四本の足でトコトコ歩いたナキネズミが。
そのナキネズミを貰った御礼を、ゼルとヒルマンの二人に届けたい。
「青いナキネズミを作ってくれて、ありがとう」と。
今では、とても幸せだから。この地球の上で、ハーレイと二人、幸せに生きてゆくのだから…。
ナキネズミの青・了
※青い毛皮だったナキネズミ。哺乳類は青を認識出来ないので、青い色を持たないのに。
ナキネズミを作ったヒルマンとゼルが、前のブルーに青い鳥の代わりに、くれた生き物かも。
(今日は、いろんな雲…)
形が色々、とブルーが見上げた窓の外。学校から帰って、おやつの後で。
二階の自分の部屋の窓から眺めた空。青い空には、雲が幾つも。モコモコなのやら、筋雲やら。
様々な姿をしている雲たち。前の自分ならば、アルテメシアで雲の上を飛んでいたけれど…。
青い地球の上に生まれ変わった自分は、サイオンがすっかり不器用になった。空を飛ぶなど夢のまた夢、思念波さえもろくに紡げないレベル。雲の上は、文字通り「雲の上」。
(こうやって見上げるだけになっても…)
雲の上には行けなくなっても、それも平和の証拠だよね、と考える。前の自分の強いサイオン、あれが無ければ、ミュウは一人も生きられなかった酷い時代。SD体制の時代は遥かな昔。
そのサイオンが不器用でも誰も困らないのも、今が平和な証だけれど…。
(今みたいに、雲…)
地上から雲を見上げる贅沢。
踏みしめる地面を持たなかったミュウには、まるで考えられないこと。雲を仰ぐなんて。
前の自分も、アルテメシアに降りた時には、空に浮かんだ雲を見上げていたけれど…。
(いつも地上にいたわけじゃないし…)
シャングリラは、常に雲の海の中。消えない雲海を隠れ蓑にして、あの星に潜み続けていた。
踏みしめる地面を持たないままで、いつか地球へと願いながら。ミュウと判断され、処分される運命の子たちを救い出しながら。
船の周りは雲の海でも、展望室の窓の向こうは真っ白。雲の形は分からなかった。とても細かい水の粒子が、無数に浮かんでいるだけで。強化ガラスを隔てて流れてゆくだけで。
(まるで霧の中にいるみたいに…)
白いだけだった、船の中から見えた雲。モコモコなのか、そうでないのか、それさえも謎で。
地上に降りれば雲の形は色々だけれど、様々な雲たちが空に浮かんでいたけれど。
(それを見られるのは、前のぼくだけで…)
他の仲間たちは仰ぐことさえ出来なかったし、後ろめたい気持ちになることもあった。潜入班や救出班の仲間も地上に降りるけれども、任務が優先。雲をゆっくり見る暇は無い。
空を仰げない仲間たちを思うと、そうそう雲には酔えなかった。どんなに綺麗な雲があっても、刻一刻と形を変えてゆくのが面白くても。
前の自分が見ていた雲は、そういった雲。のんびり見られはしなかったもの。
見上げる時間はたっぷりあっても、いつも心に仲間たちのことが引っ掛かっていたものだから。
(今だと、ゆっくり…)
こうして考え事だって出来る。仲間たちや白いシャングリラのことは、何も心配しないまま。
SD体制の時代は遠い時の彼方で、今は本当に平和な時代。考え事だって、好きに選べる。空に浮かんだ雲を見ながら、色々なことを。
雲の上には天国があるし、白い翼の天使たちもいる。きっと自分は、其処から来た。青い地球の上で新しい命と身体を貰って、ハーレイと生きてゆけるようにと。
残念なことに、天国の記憶は無いけれど。…ハーレイだって、何も覚えていないのだけれど。
(雲の隙間から、光が射したら…)
地上に向かう光の道が空にあったら、「天使の梯子」の名前で呼ばれる。天使たちが使う、空と地上を結ぶための梯子。
そういう時に空を観察したなら、雲の端から天使が覗いているらしい。眩しい光の中に紛れた、遠い空にいる天使の顔を見られるチャンス。
(天使の梯子が無くっても…)
天使が何処かにいないかな、と目を凝らしてみる。雲の端っこに見えはしないかと、翼を持った天の使いが顔だけを出していないかと。天使を探すだけでも楽しい、雲を仰ぐこと。
(それに、雲の形…)
色々な形の雲がある上、同じ雲でも形が変わる。空の上の気流や、湿度のせいで。
見る間に形が変わってゆく雲もあるし、同じ形を暫く保ち続ける雲も。
(ホントに見てるだけでも楽しい…)
モコモコとした雲の羊がいたり、丸くなった猫のように見えたり。空に浮かんだ雲の彫刻。どの彫刻も雲で出来ているから、すぐに崩れてしまうけれども。
(崩れちゃっても、また違う形…)
羊が猫になったりもする。猫が龍みたいになることだって。
素敵だよね、と眺めていたら、雲の一つが隠した太陽。空を悠々と流れる間に、太陽の道と交差して。太陽の顔を隠す形で横切って。
たちまちサッと陰ったけれども、雲が通り過ぎたら出て来た太陽。元の通りに、青い空の上に。
一瞬だけの曇り空。ほんの一部だけ、雲の影に入っていた所だけで「消えた」太陽。通り過ぎた雲の下にいなかった人は、陰ったことさえ知らないだろう。青空に白い雲があるだけで。
(面白いよね?)
太陽が消えてしまった所と、そうでない所。雲の下にいたか、いなかったかの違いで変わる。
こういうのだって楽しいよ、と考えていたら気が付いた。前の自分が生きた時代のことに。
(シャングリラは雲の中だったけど…)
いつもアルテメシアの雲海の中を飛んだけれども、赤いナスカでは違っていた。前の自分は深く眠っていたから、ナスカに降りてはいないのだけれど。
(ナスカに着いたら、シャングリラは宇宙に浮かんだままで…)
地上に降りようと決めた仲間は、赤い星へと降下した。何機ものシャトルで、船を離れて。
踏みしめる大地を手に入れたミュウ。若い世代が夢中になった、赤い星。
その星にあった二つの太陽の光や、恵みの雨の話だったら、今のハーレイに聞いたけれども…。
(雲の話は聞いていないよ?)
シャングリラから離れて、皆が仰いだ空の雲。ラベンダー色だったというナスカの空に、幾つも浮かんでいただろう雲。
その雲たちは嫌われ者だったのか、愛されたのか。
(曇っちゃったら、お日様の光が遮られるから…)
作物に光が届かなくなる。直ぐに晴れればいいのだけれども、曇ったままなら、気を揉む仲間もいたかもしれない。「こんな空模様で大丈夫かな」と、収穫のことを心配して。
(お日様の光を、うんと沢山浴びないと…)
甘くならない果物もあるし、トマトなどの野菜もそうかもしれない。酸っぱくなるとか、綺麗な色にならないだとか。
それに季節が冬だったならば、太陽が隠れてしまうと寒い。雲に覆われて消えてしまったら。
(…寒くなったり、野菜が美味しくならなかったり…)
雲にはそういう面もあるから、嫌われたろうか?
それとも、今の自分みたいに「眺めて楽しむ」ものだったろうか。雲海の中を飛ぶ船と違って、いつでも空を仰げたから。雲の形を観察することも出来たから。
「今日は羊だ」とか、「あれは猫だ」とか、雲の彫刻を探すことだって。
ナスカの雲は嫌われていたか、愛されていた雲だったのか。…前の自分はまるで知らない。深く眠ったままでいたから、目覚めた時には滅びの時が迫っていたから。
もちろん今の自分も知るわけがなくて、想像の域を出ないもの。ナスカの雲を、仲間たちがどう見ていたのかは。
(えーっと…?)
答えを出せる人がいるなら、ハーレイだけ。赤いナスカにも降りたキャプテン・ハーレイ。
今のハーレイはその生まれ変われりだし、記憶もきちんと引き継いでいる。ハーレイに訊けたらいいんだけれど、と考えていたら、聞こえたチャイム。
(…ハーレイだ!)
この時間なら、と窓に駆け寄ったら、門扉の向こうで手を振るハーレイ。生き証人が訪ねて来てくれたのだし、ハーレイと部屋でテーブルを挟んで、向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、雲って嫌われていた?」
空にある雲、嫌われてたのか、それとも好かれていたのか、どっち…?
「はあ? 雲って…。何の話だ?」
昔の地球の雲の話か、俺が教えている古典の世界の。…まあ、雲によって色々なんだが…。
めでたいと喜ばれる雲もあったし、不吉だと嫌われた雲もあったが…?
喜ばれた雲にも色々あって…、と話し始めたハーレイの言葉を遮った。「そうじゃなくて」と、「前のぼくたちの頃の話」と。
「ぼくが知りたいのは、ナスカの雲だよ。あそこの雲はどうだったのか」
ナスカの太陽や雨の話は聞いたけど…。今のハーレイから、いろんな話を。
虹の話も聞いたけれども、雲の話は聞いていないよ。…ナスカの雲って、嫌われてたの?
「嫌うって…。どうして雲を嫌うんだ?」
何処からそういう話になるんだ、大昔の人間じゃあるまいし…。雲は雲だぞ?
めでたい雲でも、不吉だと言われた雲でも雲の一種だ、とハーレイは「雲」で片付けた。迷信が生きていた時代ならばともかく、SD体制の時代に嫌いはしない、と。
「そうだろうけど…。でも、シャングリラはずっと雲海の中だったし…」
展望室の窓の向こうを隠していたのは、いつだって雲。あれじゃ好きにはなれないよ。
ナスカに着いた後になったら、雲はお日様を隠してしまうから…。
嫌われそうな感じだけれど、と説明をした。
雲が太陽を隠してしまえば、降り注ぐ筈の日射しが地上に届かなくなる。作物を育てたり、実を甘くしたりする光が。
それに冬なら、人間だって「寒い」と感じる。日が照っていたら暖かいのに、雲が太陽を覆って隠してしまったら。
「今のぼくだと、雲があるな、って見上げておしまいだけど…。あるのが当たり前だもの」
前と違って、空を飛ぶのは無理だから…。ホントに見ているだけなんだけど。
今日も見ていて、シャングリラの頃を思い出したら気になったんだよ。ナスカに降りた仲間たちには、雲はどういうものだったかな、って。
「なるほどな…。それで雲だと言い出したのか。ナスカの雲なあ…」
どうだったっけな、とハーレイも考え込んでいる。「あそこじゃ、雲は当たり前に空に浮かんでいたから」と、「前の俺もそれほど気にしてないな」と。
「そうなんだ…。前のハーレイでも、そうだったんなら…」
他の仲間もきっと同じだね、「雲だ」って空を見上げておしまい。好きとか嫌いとか、そういう気持ちは生まれないままで。
「そんなトコだろうな、なんと言ってもただの雲だし」
アルテメシアの雲海の方なら、雲は大事なものだったが…。消えたりしたなら、シャングリラが外に出てしまうから。…ステルス・デバイスが作動してても、そいつはキツイぞ。
監視衛星からは捉えられなくても、視認できる距離に船がいたなら見付かっちまう。正体不明の大型船だ、と調べられたらおしまいだしな?
元はコンスティテューション号だった船だとバレちまうから、とハーレイが言っている通り。
「未知の大型船」と認識されたら、固有周波数から特定可能な船の正体。
記録の上から、いつ消えたのか。何処で消えたか、此処にあるなら、乗っているのは何者かも。
「そうだっけね…。アルテメシアで雲が消えたら、ホントに大変」
だからいつでも雲の中を飛んで、雲海のデータを集め続けていたんだっけ。
一年中、消えないって分かっていたって、星が相手じゃ何が起こるか分からないから…。
なんのはずみで気流が変わるか、雲の流れがどうなるのかは、誰にも正確に読み取れないもの。
何かありそうだ、って予兆があったら、航路を変えて飛ぶくらいしか出来ないものね。
アルテメシアでは大切だった、雲海のデータを集めること。雲が厚い場所を常に選んで、雲海の中を飛び続けること。
けれど、ナスカでは雲の海はもう、必要なかった。懸命に雲に隠れなくても、人類軍が来たりはしない。船から降りて地面にいたって、何も襲っては来ないのだから。
「…ナスカの雲だと、あっても無くても、関係ないよね」
あれが無ければ困っちゃう、っていうわけじゃないから。…アルテメシアの雲と違って。
「うむ。太陽や雨とは違うからなあ、星の上にいても、直接、影響を受けたりはしない」
お前の言ってる作物にしても、旱魃だとか、大雨だったら、皆、大慌てをしたんだろうが…。
雲が太陽を隠した程度じゃ、そうそう困りはしなかったろう。長雨となったら、話は別だが。
しかし、大雨や長雨だったら、問題は雨の方でだな…。それを降らせてる雨雲の方は、さっさと消えてくれればいいのに、と思われておしまいだったんじゃないか?
もっとも、大雨は降っちゃいないし、雨は喜ばれていただけだ。恵みの雨だと、「これで作物がよく育つだろう」と。
そんな具合だから、誰も雲には注目しない。…隠れ家だったわけでもないしな、アルテメシアの頃と違って。
だが、待てよ…?
本当にそれで全部だったか…、とハーレイは顎に手を当てた。「雲だろう…?」と。
「他にも何かありそうなの?」
ナスカの雲にも、何か素敵な話でもあった…?
トォニィが生まれた時の雨で生まれた花園みたいに、とても特別で、みんなが喜びそうなこと。
それとも、前のハーレイが虹を追い掛けて歩いてたような、ちょっと悲しいお話だとか…?
前のハーレイ、虹の橋のたもとを探していたって言うから…。宝物が埋まっているって聞いて。
眠ったままの前のぼくの魂、其処に埋まっていそうだから、って…。
「あれは悲しい話ではないぞ、俺にとっては希望の一つだ。虹を追い掛けて歩いてたのも」
前のお前に目覚めて欲しくて、それを考え付いてだな…。
歩いている時は、ちゃんと幸せだったんだ。「今日こそ宝物を見付けてやろう」と。
追い付けないままで虹が消えても、次の機会がまたあるだろう?
ガッカリしながら歩いていたって、希望までは消えちゃいないんだからな。
其処の所を間違えるなよ、と訂正してから、またハーレイは考えている。「何だった?」と。
ナスカにあった雲の話を、それに纏わるらしい記憶を。
「雲には違いなかった筈だと思うんだが…。しかし、俺には縁のないことで…」
キャプテンの俺が無関係なら、若い世代の連中だよな?
あの星の上でだけ、意味があったか、何かいいことでもあったのか…。雲ってヤツで…。
そうだ、その雲を使ってたんだ!
ナスカにいた若い連中が、とハーレイがポンと叩いた手。「天気予報だ」と。
「…天気予報?」
なんなの、それは?
天気予報っていうのは、ホントに天気予報のことなの、今のぼくたちが知ってるような…?
今日は一日晴れるでしょうとか、明日は午後から雨になりますとか、そういう天気予報のこと?
ぼくは他には知らないけれど、と首を傾げた。天気予報は天気予報で、この先の天気を予想するもの。傘を持たずに出ても大丈夫か、持って出た方がいいのかなどと、暮らしの参考になる予報。
農家の人やら、海で漁をする漁師だったら、仕事などにも役立てる。
けれど、ハーレイは「雲だ」と言った。雲を使った天気予報と言われても…。
(…天気予報は、気象衛星とかを使っているんじゃなかった?)
今の時代も、前の自分が生きた時代も、基本の仕組みは変わらない筈。白いシャングリラでも、似たようなことをやっていた。船の周りの雲海の動きを読むために。
「お前、すっかり忘れているな? その様子だと」
今の俺が得意としているだろうが、雲で天気を読むってヤツ。
空模様を見て、「この雨だったらじきに止むな」とか、「予報じゃ晴れだが、降るぞ」だとか。
あれも天気予報の一種ってヤツだ、観天望気と呼ぶんだがな。
ずっと昔は、天気予報の仕組みは無かったモンだから…。雲だの風だの、自然の動きを観察して天気を読んでいたんだ。漁師も、作物を育てる農家も。
「雲の天気予報…。今のハーレイ、そういえば得意だったっけね」
でも、ナスカでそれをやってたの?
雲の流れや形を眺めて、晴れになるとか、雨になるとか…?
「やっていたとも。…もっとも、そいつをやっていたのは俺じゃないがな」
前の俺じゃなくて、若い世代だ。さっき、お前に言った通りに。
ナスカに入植した連中だな、とハーレイは懐かしそうな顔。「あいつらだった」と。
人類が放棄した植民惑星、かつてジルベスター・セブンと呼ばれていた星。その星にフィシスが「ナスカ」と名付けて、何機ものシャトルが降下していった。
其処で暮らそうと夢を抱いた、若い世代のミュウたちを乗せて。彼らの希望と、未来への大きな夢を積み込んで。
そうして始まった、ナスカでの日々。踏みしめられる地面の上で。
赤いナスカに降りたからには、必要なものが天気予報。様々な作物を育ててゆくにも、ナスカで暮らしてゆくためにも。
作物を上手く育てるためには、気温などのチェックが欠かせない。寒くなりそうなら、そうなる前に保温をするとか、暑くなりそうなら早い間に水を撒くとか。
人間の暮らしの方も同じで、外に出掛けて作業をするなら、準備するものが日によって変わる。雨はシールドで防ぐにしたって、作業の方はそうはいかない。シートで覆って中断するとか、最初から作業を延期するとか。…予定の作業を、別の仕事に切り替えたりして。
防水用のシートを持って出掛けるのか、それは持たずに出ていいのか。作業そのものを、屋内のものに切り替えるのか。持ってゆく工具や道具なんかも、そっくり変わってしまうとしても。
そういったことを決めてゆくには、天気予報が必要だった。雨になるのか、晴れるのかと。
シャングリラの中だけで暮らした頃なら、一部の者しか気にしなかった天気予報。
アルテメシアの雲の流れや、他の様々な気象データは、ブリッジクルーだけが見れば良かった。船の航路を決めてゆくのに、それらは必須のデータだから。
長い年月、船の仲間が見てもいなかった天気予報。この先、どういう天気になるか。どう天候が変わってゆくのか、変わるタイミングは、どの辺りなのか。
それらがナスカで、皆に共有されることになった。赤い星に降りた若い世代に。
ナスカでも気象観測は可能だけれども、シャングリラの方が遥かに優れた機能を持っていた船。長い年月、アルテメシアで観測を続けていただけに。
もちろん船のデータベースにも、膨大な情報が入っていた。人類が暮らす都市があった幾つもの植民惑星や育英惑星、其処で得られた観測データ。
船のコンピューターに計算させれば、ナスカでの天気予報も可能。衛星軌道上に停泊した船で、ナスカを観測し続けながら。どの雲がどう動いてゆくのか、風の流れはどう変わるかと。
白いシャングリラで弾き出された、計算の結果。赤いナスカの天気予報。
それは直ちに、地上で暮らす仲間たちの所に届いたけれども…。
「やっぱり外れちまうんだ。…どんなに計算し直してみても、これで確実だと思っていても」
アルテメシアにいた頃だって、常に観測し続けてないと、急に変わるってことがよくあった。
あの頃よりも遥かに技術が進んだ、今の時代の天気予報だって、百パーセントじゃないだろう?
だからだな…。仕方ないっていうヤツだよなあ、ナスカで予報が外れちまっても。
そうは言っても、頼りにしていた連中からすれば、とても納得できないわけで…。予定していた作業がパアとか、作業を控えて別のにしたのに、雨なんか降りもしなかったとか。
朝から晩まで快晴でな…、とハーレイが浮かべた苦笑い。今の時代でも、よくあること。予報がすっかり外れてしまって、持って出た傘が荷物になっただけで終わるとか。
赤いナスカで天気予報が外れた時には、文句を言っていた仲間たち。
入植地からは遠すぎて見えない、白いシャングリラが浮かぶ方を仰いで、「何やってんだ」と。
けれど、彼らは次第に気付き始めた。
ラベンダー色の空の上にある、雲の形や流れなど。…それが天気と共に動いていることに。
何処に雲が湧けば雨になるのか、あるいは雲は其処にあるだけで晴れるのか。
「…それって、今のハーレイみたいに?」
じきに晴れるぞ、って言ってるみたいに、ナスカの仲間も予報をしてたの?
雲の形だとか、どっちの方に流れて行くかで、雨が降るのか、降らないのかを…?
若い世代の仲間だよね、と赤い瞳を瞬かせた。前の自分がアルテメシアで救い出させた、大勢のミュウの子供たち。彼らが育って、ナスカに降りた。「あの子供たちが、天気予報を?」と。
「そういうことだ。今の俺と同じに、読み始めたんだな、雲の動きを」
ナスカの上で暮らす間に、色々な経験を積んで知識を増やしていって。
シャングリラの方で出した予報が外れちまったら、そいつに腹を立てたりしながら。
あの星と一緒に暮らしていれば、星の気分にも詳しくなる。シャングリラの中で、観測データを見ているだけのヤツらと違って。
あっちの方に雲が出たなら、降るだとか。…あの雲なら、じきに消えるとか。
シャングリラから届く予報と、ヤツらの経験。それを組み合わせりゃ、けっこう当たった。
だが、季節によって変わっちまう部分も沢山あるから、すっかり定着する前に…。
赤いナスカは燃えてしまった。キースが放ったメギドの炎で、跡形もなく。
ミュウの安住の地になるよりも前に。…雲の予報を完成させて、次の世代に伝える前に。
「それでも、ヤツらは楽しんでいたな。自分たちが作った天気予報を」
たった四年しか暮らせなかった星だが、俺が視察に降りた時には、皆、生き生きとしてた。
あいつらが出した予報が当たって、シャングリラが出した予報が外れた、と喜んだりして。もう何年か此処で暮らしたら、天気予報は自分たちだけでも出来るだろう、とな。
そしていつかは、この星の天気をすっかり当ててみせる、と勢い込んでいたもんだ。「俺たちのナスカの天気くらいは、俺たちの力で当ててみせるぞ」と。
「そうなんだ…。みんな、ナスカで、ホントに幸せだったんだね」
雲の予報を見付けたりして、シャングリラよりも当たる天気予報が出来たくらいに。…ナスカのことが好きでなければ、そんなの、絶対、無理だから…。
毎日、ナスカを観察してなきゃ、出来るわけがないことなんだから。…雲の予報なんて。
その方法で、いつか自分たちで天気予報をしようと、みんなはナスカで思ってたのに…。
でも、それよりも前に、そのナスカは…。
メギドの炎で焼かれちゃった、と俯いた。あの星に降りた若い世代は、前の自分も知っていた者ばかりだから。…白いシャングリラで育った世代で、幼かった頃に船に迎えた仲間たち。
彼らはどんなに幸せな日々を、あの星で送ったのだろう。…ナスカの空を流れてゆく雲、それを見上げて生きていたろう…?
彼らが夢を膨らませた星は、夢と一緒に儚く消えた。あの星で生まれた、自然出産児のトォニィたちだけを残して、暗い宇宙に。…ラベンダー色の空も、其処に浮かぶ雲も炎に焼かれて。
「残念だったが、仕方あるまい」
前の俺たちがナスカを選んだのも、それがメギドで滅ぼされたのも、歴史の流れというヤツだ。
ミュウの時代を手に入れるためには、ああなるしかなかったんだろう。
前のお前も失くしちまって、とんでもないことになった星だが…。
あの時代に生きた俺から見たなら、疫病神のような星だったのがナスカなんだが…。
そんな星でも、雲を眺めて楽しめた時代もあったんだ、とハーレイは微笑む。
「雲で予報をしていたんだぞ」と、「ほんの短い間でもな」と。
前のハーレイは、それを確かに見ていたから。…雲の姿で天気予報を始めた、若い仲間たちを。
ラベンダー色だったという、ナスカの空。其処に幾つも浮かんでいた雲。
幼かった頃にシャングリラに来た若い世代は、雲を仰ぐのは初めてと言っても良かっただろう。養父母に育てられた時代は短かったし、シャングリラで暮らした年数の方が遥かに長い。
アルテメシアの地上で仰いだ雲の記憶は、すっかり薄れてしまっていた筈。自分が本当にそれを見たのか、映像などで仕入れた知識か、それさえ区別がつかないほどに。
シャングリラの中では、雲と言ったら「展望室の窓の向こう」を覆い尽くすもの。太陽が昇る、昼の間は真っ白に。太陽が沈んだ後の夜には、闇を含んだ重たい色に。
そんな雲しか知らなかった世代が、赤いナスカで雲と出会った。空にある雲を仰いで暮らして、天気予報までするようになった。「あそこに雲があるから雨」とか、「雨は降らない」とか。
今のハーレイは、それが得意で、観天望気という言葉も口にしていたけれど…。
「ねえ、ハーレイ…。前のぼくは、それを知らないよ」
雲の形や流れなんかで、天気を読むっていう方法は。…雲の予報は。
ナスカには一度も降りてないから、そんなの、耳にしてもいないし…。眠っていたから、教えてくれる人も一人もいなかったしね。
アルテメシアに隠れてた頃も、前のぼく、やっていないから…。
雲で天気が分かるなんてことには、気付いてさえもいなかったから…。
何度も地上に降りてたのにね、と零した小さな溜息。「前のぼくって、駄目だったかも…」と。
「駄目ってことは無いだろう。前のお前は、立派なソルジャーだったんだから」
とはいえ、雲の予報ってヤツに関しちゃ、そうなるのかもしれないな。アルテメシアも、星には違いなかったんだし、やろうと思えば出来ただろう。…雲の予報も。
雲海だらけの星ではあったが、育英都市は雲海を避けて作ってあったしな。
アタラクシアとか、エネルゲイアの天気予報は出来ただろうさ、とハーレイは笑む。
「前のお前にその気があったら、恐らく出来ていただろう」と。
「…雲の予報を知っていたら、っていうことだよね?」
そういうやり方があるって話を、前のぼくが何処かで読んだりしていたら…。
ううん、ナスカで雲の予報をやってた若い仲間たちは、そんなの知らなかったんだし…。
ナスカで暮らして覚えたんだし、前のぼくでも出来た筈…。
雲の予報は知らなくっても、アタラクシアのも、エネルゲイアの天気予報も…。
若い世代の仲間たちが気付いて始めたのなら、前の自分にも出来たのだろう。アタラクシアや、エネルゲイアの天気予報が。…雲の予報が。
予知能力など使いもしないで、雲の形や流れなどを読む天気予報。白いシャングリラのデータも使わず、コンピューターにも計算させずに。
「雲の天気予報…。今のハーレイは凄く得意だけど、コツはある?」
ぼくにはちっとも分からないけど、天気予報をするためのコツが。…ナスカでも出来た天気予報だし、前のぼくでも、その気になったら、アタラクシアやエネルゲイアで出来たんなら。
コツはあるの、と興味津々で投げ掛けた問い。今のハーレイは、雲の予報の名人だから。
「雲の予報のコツってか? これというコツは無いんだが…」
あるとしたなら、場数を踏むってことだろうな。ナスカでやってた若い世代は、そうだった。
あの星の上で毎日暮らして、新鮮だった空を見上げて、そして覚えていったんだ。こういう雲が出て来た時には、天気ってヤツはこう変わるんだ、と。
今のお前がやりたいのならば、毎日、窓から見ているだけでも、ある程度まではいけるだろう。
関心を持って、きちんと雲を観察してれば。
どういう具合に流れて行ったら、どんな形なら、その後の天気はどうなるのか。
天気の変化と結び付けて覚えることが大事だ、と教えられた。ただ漠然と雲を見ていても、雲の予報は身につかない。雲や風向きをちゃんと覚えて、天気と結び付けないと。
「難しそうだね、雲の予報って…」
雲を観察する所から始めて、それを覚えるだなんて…。その後のお天気、どうなったのかも。
何度も何度も見ている間に、やっと方法が見付かるんだね…?
「そういうことだな、自分で一から始めるんなら」
ナスカのヤツらはそうしたわけだが、幸いなことに、今はデータというヤツがある。
データと呼ぶより、言い伝えとでも呼びたいんだがな、俺の好みとしては。
この地球の上で生きた先人、その人たちが集めてくれた情報を生かしてやればいい。雲の予報をする名人は、代々、そうして来たもんだ。何世代もの積み重ねで。
人間が地球しか知らなかった頃には、その予報しか無かった時代もあったしな?
俺の場合も、そうした知識を幾つも貰って活かしてる。
あの雲だったら、もう確実に降るだとか…。あの雲は雨が降る雲じゃないとか。
雲の形だけで、幾らかは分かるものらしい。雷雲だったら、この形、といった具合に。
それに風向きを加えてやれば、雷雲が来るかどうかが分かる。頭上の雲の流れを読んだら、風の方向が分かるから。
「雷雲ってヤツは基礎の基礎だな、形も覚えやすいだろう?」
あれが雲の予報の入門編ってトコか、子供でも直ぐに覚えられるから。雷雲の形と、風向き。
他に面白いヤツと言ったら、場所が変わると当たらなくなる予報だな。
ナスカでも使われていた方法なんだが、雲が湧く方向や風向きなんかで決まるヤツ。あの方向に雲が湧いたら、必ず雨になるだとか…。この方向に雲が流れて行ったら、明日は晴れるとか。
その手のヤツは、地形で変わってしまうんだ。
同じような雲があったとしたって、場所が違えば、もうそのままでは当て嵌まらない。すっかり逆になるってこともあるほどだから。
こっちは迂闊に使えないぞ、とハーレイは鳶色の瞳で見据える。「覚えたからって、何処ででも使えるモンじゃない」と。
「そうなんだ…。地形で変わってしまうっていうのは分かるけど…」
山に囲まれた場所か、そうじゃないかでも違うんだろうし…。
おんなじように山があっても、その山の向こうがどんな風かは、何処でも同じじゃないものね。
山の向こうは海があったり、ずうっと山が続いていたり…、と考えてみる。地理の授業で習った地図を思い浮かべて、「ホントにいろんな場所があるよね」と。
「よしよし、分かってるじゃないか。変わっちまう理屈というヤツを」
しかし、世の中、理屈だけでは済まないってな。
この地形だからこうだろう、と決めつけるのは素人判断ってヤツで、愚の骨頂だ。何処にでも、色々な気象条件がある。…初めて其処に行ったヤツには、分からないことが山ほどな。
だから、釣りなんかで知らない所へ出掛けた時には、だ…。
自分では「こうだ」と思っていたって、それを使っちゃ駄目なんだ。
思い込みで勝手に動いちまう前に、地元の人の考えを聞く。今日の天気はどうなりますか、と。
そうすりゃ親切に教えて貰えて、天気予報よりも良く当たるってな。
「今日は晴れだと言ってましたが、雨になりますよ」と言われたりもして。
その手の情報、大切なんだぞ。自然が相手の釣りなんかだと。
晴れていたって、急に荒れる時もあるもんだから、とハーレイは首を竦めてみせた。
「そういった時に小さな船で沖に出てたら、大変だぞ?」と、恐ろしそうに。
「今の時代はサイオンがあるから、そう簡単に遭難したりはしないんだが…」
それでも漂流しちまったりしたら、大勢の人に迷惑をかけてしまうしな?
釣りに行った人が帰って来ない、と船を出したり、場合によっては空からも捜索するんだから。
いくら思念波で連絡が取れても、船を見付けて連れ帰らないと駄目だろう?
嵐で流された船の中だと、乗ってる人間もヘトヘトだ。食料や水も流されちまって、腹ペコってこともあるんだから。
そうならないためにも、事前の準備が大切なのだ、と説くハーレイ。天気予報を確かめた上で、地元の人にも話を聞く。自分の考えだけで決めたりしないで、慎重に。
「ふうん…。雲の予報って、難しいんだね」
ナスカでもやってた予報なんだし、簡単なのかと思ったけれど…。ホントにそれを使う時には、自分一人で決めてしまっちゃ駄目なんだ…。
「そうでもないぞ? いつも住んでる町の中なら、何も心配要らんしな」
其処が自分の地元なんだし、他所から来た人に教える方の立場だろうが。こうなりますよ、と。
他所の町でも、何度も通えば自然と覚える。
ナスカでさえも、ちゃんと予報をしてたんだから。たった四年しか住めなかったのに。
それと同じだ、そっちも場数が大切だ。色々な場所に出掛けて行っては、其処ならではの天気の動きを覚えることが。
俺も親父に連れて行かれて、あちこち出掛けて、けっこう覚えた。…色々なことを。
お蔭で、この町と隣町なら、ほぼ大丈夫だな、雲の予報は。
滅多に外れん、とハーレイは自信たっぷりな様子。そして実際、ハーレイの予報は良く当たる。天気予報が「晴れです」と言っても、ハーレイが「降るぞ」と言った日は雨。
「ぼくも覚えたいな、雲の天気予報…」
難しそうでも、覚えたら役に立ちそうだから。
傘を持ってた方がいいのか、持って行かなくてもいいか、自分で分かれば素敵だもの。
天気予報だけだと、外れちゃう時も多いから…。
それに、「所によっては雨」って言うでしょ、あれがどうなるか分かるといいよね…。
天気予報で、気になる言い回しの一つ。「所によっては雨」というもの。
予報の対象区域は広いし、何処で降るのかは分からない。そういった時に雲の予報が出来たら、きっと便利に違いない。「傘が要るよ」とか、「要らないよね」と自分で判断出来たなら。
「ふうむ…。お前がやるなら、まずは頑張って観察からだな」
どの雲が出たら、どういう天気になったのか。そいつを覚えろ、窓から雲を何度も眺めて。
先人の知恵も大切なんだが、自分の力で身につけたことは忘れない。
現にナスカじゃ、本当に一からやったんだから。…あそこで暮らしていた連中は。
もっとも、ヤツらを船に連れて来た前のお前は、そんな予報に気付きもしなかったようだがな。
アルテメシアじゃ、何度も外に出てたのに…。
雲を見上げる機会ってヤツも、前のお前には、山ほどあった筈なんだが…。
それでも気付かなかったのか、とハーレイが言うから、逆に質問してやった。まるで同じのを。
「じゃあ、ハーレイは気付いてたの?」
前のハーレイは、その方法を知ってたって言うの、船の外には出ていなくても…?
アタラクシアとかエネルゲイアの方に動いていく雲、何度もデータを見ている内に…?
「おいおいおい…。前のお前でも気付かないんだぞ、俺に分かると思うのか?」
俺もナスカで目から鱗というヤツだ。「そんな方法があったのか」と。
言われてみれば、確かに筋は通ってた。雲は大気の流れで動くし、それで予報は可能だからな。大気の流れや雲の性質を掴んでいたなら、答えを弾き出せるんだから。
もっとも、そいつを知った後でも、やはりシャングリラで気象データを見ている方が…。
俺の場合は主だったがな、というのが前のハーレイ。
白いシャングリラを纏め上げていた、船の最高責任者。今は英雄のキャプテン・ハーレイ。
船を預かるキャプテンなのだし、天気予報を勘だけで決めてはいけないから。
赤いナスカでそれを覚えて、「こうなるだろう」と思っても。
シャングリラのコンピューターが計算して出した天気予報を見て、「これは外れる」とナスカに送る前に手直ししたくても。
キャプテンは、それをしてはいけない。
たとえナスカの天気予報でも、自分一人の判断だけでは変えられない。「こうなるんだ」という答えを自分が持っていたって、それは雲の予報。ナスカで暮らす仲間に習った、雲の形を読み取る不思議な天気予報。…SD体制の時代には誰も、それを使いはしなかったから。
前のハーレイは使わなかった、雲の天気予報。赤いナスカで聞いてはいても。
「そっちの方が当たるようだ」と感じてはいても、白いシャングリラのデータが全て。其処から計算される答えが「本当のこと」で、赤いナスカの天気予報。
「また外れた」と言われていても。ナスカの仲間は、雲の予報を使っていても。
「…今の俺なら、あの予報でも使えるんだがなあ…」
こういう雲が出たからこうだ、と自信を持って言ってやれるし、それで問題ないんだが…。
「だよね、みんなの命は懸かってないもんね」
学校で天気予報をしたって、誰の命も懸かってないから…。生徒も、それに先生たちだって。
「そうなんだよなあ、柔道部員のヤツらも別に困りはしないぞ。俺の予報が外れても」
せいぜい、降らないと言っていた筈の雨に降られて濡れる程度で…。あいつらだったら、濡れるよりかはシールドだろうな、ちゃっかりと。…俺を信じてしまったお蔭で、傘が無いなら。
そんな平和な時代なんだし、お前もゆっくり覚えていけ。雲の予報を。
観察するのが一番だぞ、とハーレイがまた繰り返すから、「でも…」と恋人の瞳を見詰めた。
「雲の観察は頑張るけれども、ハーレイもぼくに教えてよ?」
大勢の人が雲を見上げて、覚えた知識も大切なんでしょ。何世代もの経験ってヤツの積み重ね。
ハーレイもそれを使ってるんだし、ぼくに教えてくれるよね?
いつか一緒に出掛けられるようになったら、いろんな場所で。
「もちろんだ。…この町でも、隣町でもな」
俺の師匠の、親父と一緒に教えてやるさ。あちこち一緒に出掛けて行っては、雲を指差して。
「あの雲がこう流れているから、今日の天気は…」といった具合にな。
楽しみに待っていることだ、と約束をして貰ったのだし、雲の予報を覚えたい。赤いナスカで、若い世代の仲間たちもしていた天気予報。
それを地球の上でやってみる。…まずは窓から雲の観察、其処から始めて。
天気予報も頼もしいけれど、自分で補足出来たら幸せ。
いつかハーレイに教えて貰って、とても上手になれたらいい。
ハーレイと二人で「降るんだよね?」と傘を持ったり、「大丈夫」と置いて出掛けたり。
そういう予報が出来たらいい。
雲の形を二人で見ながら、「明日は晴れるね」などと、雲が流れてゆく方向を眺めながら…。
雲の天気予報・了
※雲を仰ぐ機会が無かった、アルテメシア時代のミュウたち。ナスカで出会った空の雲。
若い世代は雲を眺めて、天気予報が出来たようです。今のブルーも、ハーレイに習える予定。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
形が色々、とブルーが見上げた窓の外。学校から帰って、おやつの後で。
二階の自分の部屋の窓から眺めた空。青い空には、雲が幾つも。モコモコなのやら、筋雲やら。
様々な姿をしている雲たち。前の自分ならば、アルテメシアで雲の上を飛んでいたけれど…。
青い地球の上に生まれ変わった自分は、サイオンがすっかり不器用になった。空を飛ぶなど夢のまた夢、思念波さえもろくに紡げないレベル。雲の上は、文字通り「雲の上」。
(こうやって見上げるだけになっても…)
雲の上には行けなくなっても、それも平和の証拠だよね、と考える。前の自分の強いサイオン、あれが無ければ、ミュウは一人も生きられなかった酷い時代。SD体制の時代は遥かな昔。
そのサイオンが不器用でも誰も困らないのも、今が平和な証だけれど…。
(今みたいに、雲…)
地上から雲を見上げる贅沢。
踏みしめる地面を持たなかったミュウには、まるで考えられないこと。雲を仰ぐなんて。
前の自分も、アルテメシアに降りた時には、空に浮かんだ雲を見上げていたけれど…。
(いつも地上にいたわけじゃないし…)
シャングリラは、常に雲の海の中。消えない雲海を隠れ蓑にして、あの星に潜み続けていた。
踏みしめる地面を持たないままで、いつか地球へと願いながら。ミュウと判断され、処分される運命の子たちを救い出しながら。
船の周りは雲の海でも、展望室の窓の向こうは真っ白。雲の形は分からなかった。とても細かい水の粒子が、無数に浮かんでいるだけで。強化ガラスを隔てて流れてゆくだけで。
(まるで霧の中にいるみたいに…)
白いだけだった、船の中から見えた雲。モコモコなのか、そうでないのか、それさえも謎で。
地上に降りれば雲の形は色々だけれど、様々な雲たちが空に浮かんでいたけれど。
(それを見られるのは、前のぼくだけで…)
他の仲間たちは仰ぐことさえ出来なかったし、後ろめたい気持ちになることもあった。潜入班や救出班の仲間も地上に降りるけれども、任務が優先。雲をゆっくり見る暇は無い。
空を仰げない仲間たちを思うと、そうそう雲には酔えなかった。どんなに綺麗な雲があっても、刻一刻と形を変えてゆくのが面白くても。
前の自分が見ていた雲は、そういった雲。のんびり見られはしなかったもの。
見上げる時間はたっぷりあっても、いつも心に仲間たちのことが引っ掛かっていたものだから。
(今だと、ゆっくり…)
こうして考え事だって出来る。仲間たちや白いシャングリラのことは、何も心配しないまま。
SD体制の時代は遠い時の彼方で、今は本当に平和な時代。考え事だって、好きに選べる。空に浮かんだ雲を見ながら、色々なことを。
雲の上には天国があるし、白い翼の天使たちもいる。きっと自分は、其処から来た。青い地球の上で新しい命と身体を貰って、ハーレイと生きてゆけるようにと。
残念なことに、天国の記憶は無いけれど。…ハーレイだって、何も覚えていないのだけれど。
(雲の隙間から、光が射したら…)
地上に向かう光の道が空にあったら、「天使の梯子」の名前で呼ばれる。天使たちが使う、空と地上を結ぶための梯子。
そういう時に空を観察したなら、雲の端から天使が覗いているらしい。眩しい光の中に紛れた、遠い空にいる天使の顔を見られるチャンス。
(天使の梯子が無くっても…)
天使が何処かにいないかな、と目を凝らしてみる。雲の端っこに見えはしないかと、翼を持った天の使いが顔だけを出していないかと。天使を探すだけでも楽しい、雲を仰ぐこと。
(それに、雲の形…)
色々な形の雲がある上、同じ雲でも形が変わる。空の上の気流や、湿度のせいで。
見る間に形が変わってゆく雲もあるし、同じ形を暫く保ち続ける雲も。
(ホントに見てるだけでも楽しい…)
モコモコとした雲の羊がいたり、丸くなった猫のように見えたり。空に浮かんだ雲の彫刻。どの彫刻も雲で出来ているから、すぐに崩れてしまうけれども。
(崩れちゃっても、また違う形…)
羊が猫になったりもする。猫が龍みたいになることだって。
素敵だよね、と眺めていたら、雲の一つが隠した太陽。空を悠々と流れる間に、太陽の道と交差して。太陽の顔を隠す形で横切って。
たちまちサッと陰ったけれども、雲が通り過ぎたら出て来た太陽。元の通りに、青い空の上に。
一瞬だけの曇り空。ほんの一部だけ、雲の影に入っていた所だけで「消えた」太陽。通り過ぎた雲の下にいなかった人は、陰ったことさえ知らないだろう。青空に白い雲があるだけで。
(面白いよね?)
太陽が消えてしまった所と、そうでない所。雲の下にいたか、いなかったかの違いで変わる。
こういうのだって楽しいよ、と考えていたら気が付いた。前の自分が生きた時代のことに。
(シャングリラは雲の中だったけど…)
いつもアルテメシアの雲海の中を飛んだけれども、赤いナスカでは違っていた。前の自分は深く眠っていたから、ナスカに降りてはいないのだけれど。
(ナスカに着いたら、シャングリラは宇宙に浮かんだままで…)
地上に降りようと決めた仲間は、赤い星へと降下した。何機ものシャトルで、船を離れて。
踏みしめる大地を手に入れたミュウ。若い世代が夢中になった、赤い星。
その星にあった二つの太陽の光や、恵みの雨の話だったら、今のハーレイに聞いたけれども…。
(雲の話は聞いていないよ?)
シャングリラから離れて、皆が仰いだ空の雲。ラベンダー色だったというナスカの空に、幾つも浮かんでいただろう雲。
その雲たちは嫌われ者だったのか、愛されたのか。
(曇っちゃったら、お日様の光が遮られるから…)
作物に光が届かなくなる。直ぐに晴れればいいのだけれども、曇ったままなら、気を揉む仲間もいたかもしれない。「こんな空模様で大丈夫かな」と、収穫のことを心配して。
(お日様の光を、うんと沢山浴びないと…)
甘くならない果物もあるし、トマトなどの野菜もそうかもしれない。酸っぱくなるとか、綺麗な色にならないだとか。
それに季節が冬だったならば、太陽が隠れてしまうと寒い。雲に覆われて消えてしまったら。
(…寒くなったり、野菜が美味しくならなかったり…)
雲にはそういう面もあるから、嫌われたろうか?
それとも、今の自分みたいに「眺めて楽しむ」ものだったろうか。雲海の中を飛ぶ船と違って、いつでも空を仰げたから。雲の形を観察することも出来たから。
「今日は羊だ」とか、「あれは猫だ」とか、雲の彫刻を探すことだって。
ナスカの雲は嫌われていたか、愛されていた雲だったのか。…前の自分はまるで知らない。深く眠ったままでいたから、目覚めた時には滅びの時が迫っていたから。
もちろん今の自分も知るわけがなくて、想像の域を出ないもの。ナスカの雲を、仲間たちがどう見ていたのかは。
(えーっと…?)
答えを出せる人がいるなら、ハーレイだけ。赤いナスカにも降りたキャプテン・ハーレイ。
今のハーレイはその生まれ変われりだし、記憶もきちんと引き継いでいる。ハーレイに訊けたらいいんだけれど、と考えていたら、聞こえたチャイム。
(…ハーレイだ!)
この時間なら、と窓に駆け寄ったら、門扉の向こうで手を振るハーレイ。生き証人が訪ねて来てくれたのだし、ハーレイと部屋でテーブルを挟んで、向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、雲って嫌われていた?」
空にある雲、嫌われてたのか、それとも好かれていたのか、どっち…?
「はあ? 雲って…。何の話だ?」
昔の地球の雲の話か、俺が教えている古典の世界の。…まあ、雲によって色々なんだが…。
めでたいと喜ばれる雲もあったし、不吉だと嫌われた雲もあったが…?
喜ばれた雲にも色々あって…、と話し始めたハーレイの言葉を遮った。「そうじゃなくて」と、「前のぼくたちの頃の話」と。
「ぼくが知りたいのは、ナスカの雲だよ。あそこの雲はどうだったのか」
ナスカの太陽や雨の話は聞いたけど…。今のハーレイから、いろんな話を。
虹の話も聞いたけれども、雲の話は聞いていないよ。…ナスカの雲って、嫌われてたの?
「嫌うって…。どうして雲を嫌うんだ?」
何処からそういう話になるんだ、大昔の人間じゃあるまいし…。雲は雲だぞ?
めでたい雲でも、不吉だと言われた雲でも雲の一種だ、とハーレイは「雲」で片付けた。迷信が生きていた時代ならばともかく、SD体制の時代に嫌いはしない、と。
「そうだろうけど…。でも、シャングリラはずっと雲海の中だったし…」
展望室の窓の向こうを隠していたのは、いつだって雲。あれじゃ好きにはなれないよ。
ナスカに着いた後になったら、雲はお日様を隠してしまうから…。
嫌われそうな感じだけれど、と説明をした。
雲が太陽を隠してしまえば、降り注ぐ筈の日射しが地上に届かなくなる。作物を育てたり、実を甘くしたりする光が。
それに冬なら、人間だって「寒い」と感じる。日が照っていたら暖かいのに、雲が太陽を覆って隠してしまったら。
「今のぼくだと、雲があるな、って見上げておしまいだけど…。あるのが当たり前だもの」
前と違って、空を飛ぶのは無理だから…。ホントに見ているだけなんだけど。
今日も見ていて、シャングリラの頃を思い出したら気になったんだよ。ナスカに降りた仲間たちには、雲はどういうものだったかな、って。
「なるほどな…。それで雲だと言い出したのか。ナスカの雲なあ…」
どうだったっけな、とハーレイも考え込んでいる。「あそこじゃ、雲は当たり前に空に浮かんでいたから」と、「前の俺もそれほど気にしてないな」と。
「そうなんだ…。前のハーレイでも、そうだったんなら…」
他の仲間もきっと同じだね、「雲だ」って空を見上げておしまい。好きとか嫌いとか、そういう気持ちは生まれないままで。
「そんなトコだろうな、なんと言ってもただの雲だし」
アルテメシアの雲海の方なら、雲は大事なものだったが…。消えたりしたなら、シャングリラが外に出てしまうから。…ステルス・デバイスが作動してても、そいつはキツイぞ。
監視衛星からは捉えられなくても、視認できる距離に船がいたなら見付かっちまう。正体不明の大型船だ、と調べられたらおしまいだしな?
元はコンスティテューション号だった船だとバレちまうから、とハーレイが言っている通り。
「未知の大型船」と認識されたら、固有周波数から特定可能な船の正体。
記録の上から、いつ消えたのか。何処で消えたか、此処にあるなら、乗っているのは何者かも。
「そうだっけね…。アルテメシアで雲が消えたら、ホントに大変」
だからいつでも雲の中を飛んで、雲海のデータを集め続けていたんだっけ。
一年中、消えないって分かっていたって、星が相手じゃ何が起こるか分からないから…。
なんのはずみで気流が変わるか、雲の流れがどうなるのかは、誰にも正確に読み取れないもの。
何かありそうだ、って予兆があったら、航路を変えて飛ぶくらいしか出来ないものね。
アルテメシアでは大切だった、雲海のデータを集めること。雲が厚い場所を常に選んで、雲海の中を飛び続けること。
けれど、ナスカでは雲の海はもう、必要なかった。懸命に雲に隠れなくても、人類軍が来たりはしない。船から降りて地面にいたって、何も襲っては来ないのだから。
「…ナスカの雲だと、あっても無くても、関係ないよね」
あれが無ければ困っちゃう、っていうわけじゃないから。…アルテメシアの雲と違って。
「うむ。太陽や雨とは違うからなあ、星の上にいても、直接、影響を受けたりはしない」
お前の言ってる作物にしても、旱魃だとか、大雨だったら、皆、大慌てをしたんだろうが…。
雲が太陽を隠した程度じゃ、そうそう困りはしなかったろう。長雨となったら、話は別だが。
しかし、大雨や長雨だったら、問題は雨の方でだな…。それを降らせてる雨雲の方は、さっさと消えてくれればいいのに、と思われておしまいだったんじゃないか?
もっとも、大雨は降っちゃいないし、雨は喜ばれていただけだ。恵みの雨だと、「これで作物がよく育つだろう」と。
そんな具合だから、誰も雲には注目しない。…隠れ家だったわけでもないしな、アルテメシアの頃と違って。
だが、待てよ…?
本当にそれで全部だったか…、とハーレイは顎に手を当てた。「雲だろう…?」と。
「他にも何かありそうなの?」
ナスカの雲にも、何か素敵な話でもあった…?
トォニィが生まれた時の雨で生まれた花園みたいに、とても特別で、みんなが喜びそうなこと。
それとも、前のハーレイが虹を追い掛けて歩いてたような、ちょっと悲しいお話だとか…?
前のハーレイ、虹の橋のたもとを探していたって言うから…。宝物が埋まっているって聞いて。
眠ったままの前のぼくの魂、其処に埋まっていそうだから、って…。
「あれは悲しい話ではないぞ、俺にとっては希望の一つだ。虹を追い掛けて歩いてたのも」
前のお前に目覚めて欲しくて、それを考え付いてだな…。
歩いている時は、ちゃんと幸せだったんだ。「今日こそ宝物を見付けてやろう」と。
追い付けないままで虹が消えても、次の機会がまたあるだろう?
ガッカリしながら歩いていたって、希望までは消えちゃいないんだからな。
其処の所を間違えるなよ、と訂正してから、またハーレイは考えている。「何だった?」と。
ナスカにあった雲の話を、それに纏わるらしい記憶を。
「雲には違いなかった筈だと思うんだが…。しかし、俺には縁のないことで…」
キャプテンの俺が無関係なら、若い世代の連中だよな?
あの星の上でだけ、意味があったか、何かいいことでもあったのか…。雲ってヤツで…。
そうだ、その雲を使ってたんだ!
ナスカにいた若い連中が、とハーレイがポンと叩いた手。「天気予報だ」と。
「…天気予報?」
なんなの、それは?
天気予報っていうのは、ホントに天気予報のことなの、今のぼくたちが知ってるような…?
今日は一日晴れるでしょうとか、明日は午後から雨になりますとか、そういう天気予報のこと?
ぼくは他には知らないけれど、と首を傾げた。天気予報は天気予報で、この先の天気を予想するもの。傘を持たずに出ても大丈夫か、持って出た方がいいのかなどと、暮らしの参考になる予報。
農家の人やら、海で漁をする漁師だったら、仕事などにも役立てる。
けれど、ハーレイは「雲だ」と言った。雲を使った天気予報と言われても…。
(…天気予報は、気象衛星とかを使っているんじゃなかった?)
今の時代も、前の自分が生きた時代も、基本の仕組みは変わらない筈。白いシャングリラでも、似たようなことをやっていた。船の周りの雲海の動きを読むために。
「お前、すっかり忘れているな? その様子だと」
今の俺が得意としているだろうが、雲で天気を読むってヤツ。
空模様を見て、「この雨だったらじきに止むな」とか、「予報じゃ晴れだが、降るぞ」だとか。
あれも天気予報の一種ってヤツだ、観天望気と呼ぶんだがな。
ずっと昔は、天気予報の仕組みは無かったモンだから…。雲だの風だの、自然の動きを観察して天気を読んでいたんだ。漁師も、作物を育てる農家も。
「雲の天気予報…。今のハーレイ、そういえば得意だったっけね」
でも、ナスカでそれをやってたの?
雲の流れや形を眺めて、晴れになるとか、雨になるとか…?
「やっていたとも。…もっとも、そいつをやっていたのは俺じゃないがな」
前の俺じゃなくて、若い世代だ。さっき、お前に言った通りに。
ナスカに入植した連中だな、とハーレイは懐かしそうな顔。「あいつらだった」と。
人類が放棄した植民惑星、かつてジルベスター・セブンと呼ばれていた星。その星にフィシスが「ナスカ」と名付けて、何機ものシャトルが降下していった。
其処で暮らそうと夢を抱いた、若い世代のミュウたちを乗せて。彼らの希望と、未来への大きな夢を積み込んで。
そうして始まった、ナスカでの日々。踏みしめられる地面の上で。
赤いナスカに降りたからには、必要なものが天気予報。様々な作物を育ててゆくにも、ナスカで暮らしてゆくためにも。
作物を上手く育てるためには、気温などのチェックが欠かせない。寒くなりそうなら、そうなる前に保温をするとか、暑くなりそうなら早い間に水を撒くとか。
人間の暮らしの方も同じで、外に出掛けて作業をするなら、準備するものが日によって変わる。雨はシールドで防ぐにしたって、作業の方はそうはいかない。シートで覆って中断するとか、最初から作業を延期するとか。…予定の作業を、別の仕事に切り替えたりして。
防水用のシートを持って出掛けるのか、それは持たずに出ていいのか。作業そのものを、屋内のものに切り替えるのか。持ってゆく工具や道具なんかも、そっくり変わってしまうとしても。
そういったことを決めてゆくには、天気予報が必要だった。雨になるのか、晴れるのかと。
シャングリラの中だけで暮らした頃なら、一部の者しか気にしなかった天気予報。
アルテメシアの雲の流れや、他の様々な気象データは、ブリッジクルーだけが見れば良かった。船の航路を決めてゆくのに、それらは必須のデータだから。
長い年月、船の仲間が見てもいなかった天気予報。この先、どういう天気になるか。どう天候が変わってゆくのか、変わるタイミングは、どの辺りなのか。
それらがナスカで、皆に共有されることになった。赤い星に降りた若い世代に。
ナスカでも気象観測は可能だけれども、シャングリラの方が遥かに優れた機能を持っていた船。長い年月、アルテメシアで観測を続けていただけに。
もちろん船のデータベースにも、膨大な情報が入っていた。人類が暮らす都市があった幾つもの植民惑星や育英惑星、其処で得られた観測データ。
船のコンピューターに計算させれば、ナスカでの天気予報も可能。衛星軌道上に停泊した船で、ナスカを観測し続けながら。どの雲がどう動いてゆくのか、風の流れはどう変わるかと。
白いシャングリラで弾き出された、計算の結果。赤いナスカの天気予報。
それは直ちに、地上で暮らす仲間たちの所に届いたけれども…。
「やっぱり外れちまうんだ。…どんなに計算し直してみても、これで確実だと思っていても」
アルテメシアにいた頃だって、常に観測し続けてないと、急に変わるってことがよくあった。
あの頃よりも遥かに技術が進んだ、今の時代の天気予報だって、百パーセントじゃないだろう?
だからだな…。仕方ないっていうヤツだよなあ、ナスカで予報が外れちまっても。
そうは言っても、頼りにしていた連中からすれば、とても納得できないわけで…。予定していた作業がパアとか、作業を控えて別のにしたのに、雨なんか降りもしなかったとか。
朝から晩まで快晴でな…、とハーレイが浮かべた苦笑い。今の時代でも、よくあること。予報がすっかり外れてしまって、持って出た傘が荷物になっただけで終わるとか。
赤いナスカで天気予報が外れた時には、文句を言っていた仲間たち。
入植地からは遠すぎて見えない、白いシャングリラが浮かぶ方を仰いで、「何やってんだ」と。
けれど、彼らは次第に気付き始めた。
ラベンダー色の空の上にある、雲の形や流れなど。…それが天気と共に動いていることに。
何処に雲が湧けば雨になるのか、あるいは雲は其処にあるだけで晴れるのか。
「…それって、今のハーレイみたいに?」
じきに晴れるぞ、って言ってるみたいに、ナスカの仲間も予報をしてたの?
雲の形だとか、どっちの方に流れて行くかで、雨が降るのか、降らないのかを…?
若い世代の仲間だよね、と赤い瞳を瞬かせた。前の自分がアルテメシアで救い出させた、大勢のミュウの子供たち。彼らが育って、ナスカに降りた。「あの子供たちが、天気予報を?」と。
「そういうことだ。今の俺と同じに、読み始めたんだな、雲の動きを」
ナスカの上で暮らす間に、色々な経験を積んで知識を増やしていって。
シャングリラの方で出した予報が外れちまったら、そいつに腹を立てたりしながら。
あの星と一緒に暮らしていれば、星の気分にも詳しくなる。シャングリラの中で、観測データを見ているだけのヤツらと違って。
あっちの方に雲が出たなら、降るだとか。…あの雲なら、じきに消えるとか。
シャングリラから届く予報と、ヤツらの経験。それを組み合わせりゃ、けっこう当たった。
だが、季節によって変わっちまう部分も沢山あるから、すっかり定着する前に…。
赤いナスカは燃えてしまった。キースが放ったメギドの炎で、跡形もなく。
ミュウの安住の地になるよりも前に。…雲の予報を完成させて、次の世代に伝える前に。
「それでも、ヤツらは楽しんでいたな。自分たちが作った天気予報を」
たった四年しか暮らせなかった星だが、俺が視察に降りた時には、皆、生き生きとしてた。
あいつらが出した予報が当たって、シャングリラが出した予報が外れた、と喜んだりして。もう何年か此処で暮らしたら、天気予報は自分たちだけでも出来るだろう、とな。
そしていつかは、この星の天気をすっかり当ててみせる、と勢い込んでいたもんだ。「俺たちのナスカの天気くらいは、俺たちの力で当ててみせるぞ」と。
「そうなんだ…。みんな、ナスカで、ホントに幸せだったんだね」
雲の予報を見付けたりして、シャングリラよりも当たる天気予報が出来たくらいに。…ナスカのことが好きでなければ、そんなの、絶対、無理だから…。
毎日、ナスカを観察してなきゃ、出来るわけがないことなんだから。…雲の予報なんて。
その方法で、いつか自分たちで天気予報をしようと、みんなはナスカで思ってたのに…。
でも、それよりも前に、そのナスカは…。
メギドの炎で焼かれちゃった、と俯いた。あの星に降りた若い世代は、前の自分も知っていた者ばかりだから。…白いシャングリラで育った世代で、幼かった頃に船に迎えた仲間たち。
彼らはどんなに幸せな日々を、あの星で送ったのだろう。…ナスカの空を流れてゆく雲、それを見上げて生きていたろう…?
彼らが夢を膨らませた星は、夢と一緒に儚く消えた。あの星で生まれた、自然出産児のトォニィたちだけを残して、暗い宇宙に。…ラベンダー色の空も、其処に浮かぶ雲も炎に焼かれて。
「残念だったが、仕方あるまい」
前の俺たちがナスカを選んだのも、それがメギドで滅ぼされたのも、歴史の流れというヤツだ。
ミュウの時代を手に入れるためには、ああなるしかなかったんだろう。
前のお前も失くしちまって、とんでもないことになった星だが…。
あの時代に生きた俺から見たなら、疫病神のような星だったのがナスカなんだが…。
そんな星でも、雲を眺めて楽しめた時代もあったんだ、とハーレイは微笑む。
「雲で予報をしていたんだぞ」と、「ほんの短い間でもな」と。
前のハーレイは、それを確かに見ていたから。…雲の姿で天気予報を始めた、若い仲間たちを。
ラベンダー色だったという、ナスカの空。其処に幾つも浮かんでいた雲。
幼かった頃にシャングリラに来た若い世代は、雲を仰ぐのは初めてと言っても良かっただろう。養父母に育てられた時代は短かったし、シャングリラで暮らした年数の方が遥かに長い。
アルテメシアの地上で仰いだ雲の記憶は、すっかり薄れてしまっていた筈。自分が本当にそれを見たのか、映像などで仕入れた知識か、それさえ区別がつかないほどに。
シャングリラの中では、雲と言ったら「展望室の窓の向こう」を覆い尽くすもの。太陽が昇る、昼の間は真っ白に。太陽が沈んだ後の夜には、闇を含んだ重たい色に。
そんな雲しか知らなかった世代が、赤いナスカで雲と出会った。空にある雲を仰いで暮らして、天気予報までするようになった。「あそこに雲があるから雨」とか、「雨は降らない」とか。
今のハーレイは、それが得意で、観天望気という言葉も口にしていたけれど…。
「ねえ、ハーレイ…。前のぼくは、それを知らないよ」
雲の形や流れなんかで、天気を読むっていう方法は。…雲の予報は。
ナスカには一度も降りてないから、そんなの、耳にしてもいないし…。眠っていたから、教えてくれる人も一人もいなかったしね。
アルテメシアに隠れてた頃も、前のぼく、やっていないから…。
雲で天気が分かるなんてことには、気付いてさえもいなかったから…。
何度も地上に降りてたのにね、と零した小さな溜息。「前のぼくって、駄目だったかも…」と。
「駄目ってことは無いだろう。前のお前は、立派なソルジャーだったんだから」
とはいえ、雲の予報ってヤツに関しちゃ、そうなるのかもしれないな。アルテメシアも、星には違いなかったんだし、やろうと思えば出来ただろう。…雲の予報も。
雲海だらけの星ではあったが、育英都市は雲海を避けて作ってあったしな。
アタラクシアとか、エネルゲイアの天気予報は出来ただろうさ、とハーレイは笑む。
「前のお前にその気があったら、恐らく出来ていただろう」と。
「…雲の予報を知っていたら、っていうことだよね?」
そういうやり方があるって話を、前のぼくが何処かで読んだりしていたら…。
ううん、ナスカで雲の予報をやってた若い仲間たちは、そんなの知らなかったんだし…。
ナスカで暮らして覚えたんだし、前のぼくでも出来た筈…。
雲の予報は知らなくっても、アタラクシアのも、エネルゲイアの天気予報も…。
若い世代の仲間たちが気付いて始めたのなら、前の自分にも出来たのだろう。アタラクシアや、エネルゲイアの天気予報が。…雲の予報が。
予知能力など使いもしないで、雲の形や流れなどを読む天気予報。白いシャングリラのデータも使わず、コンピューターにも計算させずに。
「雲の天気予報…。今のハーレイは凄く得意だけど、コツはある?」
ぼくにはちっとも分からないけど、天気予報をするためのコツが。…ナスカでも出来た天気予報だし、前のぼくでも、その気になったら、アタラクシアやエネルゲイアで出来たんなら。
コツはあるの、と興味津々で投げ掛けた問い。今のハーレイは、雲の予報の名人だから。
「雲の予報のコツってか? これというコツは無いんだが…」
あるとしたなら、場数を踏むってことだろうな。ナスカでやってた若い世代は、そうだった。
あの星の上で毎日暮らして、新鮮だった空を見上げて、そして覚えていったんだ。こういう雲が出て来た時には、天気ってヤツはこう変わるんだ、と。
今のお前がやりたいのならば、毎日、窓から見ているだけでも、ある程度まではいけるだろう。
関心を持って、きちんと雲を観察してれば。
どういう具合に流れて行ったら、どんな形なら、その後の天気はどうなるのか。
天気の変化と結び付けて覚えることが大事だ、と教えられた。ただ漠然と雲を見ていても、雲の予報は身につかない。雲や風向きをちゃんと覚えて、天気と結び付けないと。
「難しそうだね、雲の予報って…」
雲を観察する所から始めて、それを覚えるだなんて…。その後のお天気、どうなったのかも。
何度も何度も見ている間に、やっと方法が見付かるんだね…?
「そういうことだな、自分で一から始めるんなら」
ナスカのヤツらはそうしたわけだが、幸いなことに、今はデータというヤツがある。
データと呼ぶより、言い伝えとでも呼びたいんだがな、俺の好みとしては。
この地球の上で生きた先人、その人たちが集めてくれた情報を生かしてやればいい。雲の予報をする名人は、代々、そうして来たもんだ。何世代もの積み重ねで。
人間が地球しか知らなかった頃には、その予報しか無かった時代もあったしな?
俺の場合も、そうした知識を幾つも貰って活かしてる。
あの雲だったら、もう確実に降るだとか…。あの雲は雨が降る雲じゃないとか。
雲の形だけで、幾らかは分かるものらしい。雷雲だったら、この形、といった具合に。
それに風向きを加えてやれば、雷雲が来るかどうかが分かる。頭上の雲の流れを読んだら、風の方向が分かるから。
「雷雲ってヤツは基礎の基礎だな、形も覚えやすいだろう?」
あれが雲の予報の入門編ってトコか、子供でも直ぐに覚えられるから。雷雲の形と、風向き。
他に面白いヤツと言ったら、場所が変わると当たらなくなる予報だな。
ナスカでも使われていた方法なんだが、雲が湧く方向や風向きなんかで決まるヤツ。あの方向に雲が湧いたら、必ず雨になるだとか…。この方向に雲が流れて行ったら、明日は晴れるとか。
その手のヤツは、地形で変わってしまうんだ。
同じような雲があったとしたって、場所が違えば、もうそのままでは当て嵌まらない。すっかり逆になるってこともあるほどだから。
こっちは迂闊に使えないぞ、とハーレイは鳶色の瞳で見据える。「覚えたからって、何処ででも使えるモンじゃない」と。
「そうなんだ…。地形で変わってしまうっていうのは分かるけど…」
山に囲まれた場所か、そうじゃないかでも違うんだろうし…。
おんなじように山があっても、その山の向こうがどんな風かは、何処でも同じじゃないものね。
山の向こうは海があったり、ずうっと山が続いていたり…、と考えてみる。地理の授業で習った地図を思い浮かべて、「ホントにいろんな場所があるよね」と。
「よしよし、分かってるじゃないか。変わっちまう理屈というヤツを」
しかし、世の中、理屈だけでは済まないってな。
この地形だからこうだろう、と決めつけるのは素人判断ってヤツで、愚の骨頂だ。何処にでも、色々な気象条件がある。…初めて其処に行ったヤツには、分からないことが山ほどな。
だから、釣りなんかで知らない所へ出掛けた時には、だ…。
自分では「こうだ」と思っていたって、それを使っちゃ駄目なんだ。
思い込みで勝手に動いちまう前に、地元の人の考えを聞く。今日の天気はどうなりますか、と。
そうすりゃ親切に教えて貰えて、天気予報よりも良く当たるってな。
「今日は晴れだと言ってましたが、雨になりますよ」と言われたりもして。
その手の情報、大切なんだぞ。自然が相手の釣りなんかだと。
晴れていたって、急に荒れる時もあるもんだから、とハーレイは首を竦めてみせた。
「そういった時に小さな船で沖に出てたら、大変だぞ?」と、恐ろしそうに。
「今の時代はサイオンがあるから、そう簡単に遭難したりはしないんだが…」
それでも漂流しちまったりしたら、大勢の人に迷惑をかけてしまうしな?
釣りに行った人が帰って来ない、と船を出したり、場合によっては空からも捜索するんだから。
いくら思念波で連絡が取れても、船を見付けて連れ帰らないと駄目だろう?
嵐で流された船の中だと、乗ってる人間もヘトヘトだ。食料や水も流されちまって、腹ペコってこともあるんだから。
そうならないためにも、事前の準備が大切なのだ、と説くハーレイ。天気予報を確かめた上で、地元の人にも話を聞く。自分の考えだけで決めたりしないで、慎重に。
「ふうん…。雲の予報って、難しいんだね」
ナスカでもやってた予報なんだし、簡単なのかと思ったけれど…。ホントにそれを使う時には、自分一人で決めてしまっちゃ駄目なんだ…。
「そうでもないぞ? いつも住んでる町の中なら、何も心配要らんしな」
其処が自分の地元なんだし、他所から来た人に教える方の立場だろうが。こうなりますよ、と。
他所の町でも、何度も通えば自然と覚える。
ナスカでさえも、ちゃんと予報をしてたんだから。たった四年しか住めなかったのに。
それと同じだ、そっちも場数が大切だ。色々な場所に出掛けて行っては、其処ならではの天気の動きを覚えることが。
俺も親父に連れて行かれて、あちこち出掛けて、けっこう覚えた。…色々なことを。
お蔭で、この町と隣町なら、ほぼ大丈夫だな、雲の予報は。
滅多に外れん、とハーレイは自信たっぷりな様子。そして実際、ハーレイの予報は良く当たる。天気予報が「晴れです」と言っても、ハーレイが「降るぞ」と言った日は雨。
「ぼくも覚えたいな、雲の天気予報…」
難しそうでも、覚えたら役に立ちそうだから。
傘を持ってた方がいいのか、持って行かなくてもいいか、自分で分かれば素敵だもの。
天気予報だけだと、外れちゃう時も多いから…。
それに、「所によっては雨」って言うでしょ、あれがどうなるか分かるといいよね…。
天気予報で、気になる言い回しの一つ。「所によっては雨」というもの。
予報の対象区域は広いし、何処で降るのかは分からない。そういった時に雲の予報が出来たら、きっと便利に違いない。「傘が要るよ」とか、「要らないよね」と自分で判断出来たなら。
「ふうむ…。お前がやるなら、まずは頑張って観察からだな」
どの雲が出たら、どういう天気になったのか。そいつを覚えろ、窓から雲を何度も眺めて。
先人の知恵も大切なんだが、自分の力で身につけたことは忘れない。
現にナスカじゃ、本当に一からやったんだから。…あそこで暮らしていた連中は。
もっとも、ヤツらを船に連れて来た前のお前は、そんな予報に気付きもしなかったようだがな。
アルテメシアじゃ、何度も外に出てたのに…。
雲を見上げる機会ってヤツも、前のお前には、山ほどあった筈なんだが…。
それでも気付かなかったのか、とハーレイが言うから、逆に質問してやった。まるで同じのを。
「じゃあ、ハーレイは気付いてたの?」
前のハーレイは、その方法を知ってたって言うの、船の外には出ていなくても…?
アタラクシアとかエネルゲイアの方に動いていく雲、何度もデータを見ている内に…?
「おいおいおい…。前のお前でも気付かないんだぞ、俺に分かると思うのか?」
俺もナスカで目から鱗というヤツだ。「そんな方法があったのか」と。
言われてみれば、確かに筋は通ってた。雲は大気の流れで動くし、それで予報は可能だからな。大気の流れや雲の性質を掴んでいたなら、答えを弾き出せるんだから。
もっとも、そいつを知った後でも、やはりシャングリラで気象データを見ている方が…。
俺の場合は主だったがな、というのが前のハーレイ。
白いシャングリラを纏め上げていた、船の最高責任者。今は英雄のキャプテン・ハーレイ。
船を預かるキャプテンなのだし、天気予報を勘だけで決めてはいけないから。
赤いナスカでそれを覚えて、「こうなるだろう」と思っても。
シャングリラのコンピューターが計算して出した天気予報を見て、「これは外れる」とナスカに送る前に手直ししたくても。
キャプテンは、それをしてはいけない。
たとえナスカの天気予報でも、自分一人の判断だけでは変えられない。「こうなるんだ」という答えを自分が持っていたって、それは雲の予報。ナスカで暮らす仲間に習った、雲の形を読み取る不思議な天気予報。…SD体制の時代には誰も、それを使いはしなかったから。
前のハーレイは使わなかった、雲の天気予報。赤いナスカで聞いてはいても。
「そっちの方が当たるようだ」と感じてはいても、白いシャングリラのデータが全て。其処から計算される答えが「本当のこと」で、赤いナスカの天気予報。
「また外れた」と言われていても。ナスカの仲間は、雲の予報を使っていても。
「…今の俺なら、あの予報でも使えるんだがなあ…」
こういう雲が出たからこうだ、と自信を持って言ってやれるし、それで問題ないんだが…。
「だよね、みんなの命は懸かってないもんね」
学校で天気予報をしたって、誰の命も懸かってないから…。生徒も、それに先生たちだって。
「そうなんだよなあ、柔道部員のヤツらも別に困りはしないぞ。俺の予報が外れても」
せいぜい、降らないと言っていた筈の雨に降られて濡れる程度で…。あいつらだったら、濡れるよりかはシールドだろうな、ちゃっかりと。…俺を信じてしまったお蔭で、傘が無いなら。
そんな平和な時代なんだし、お前もゆっくり覚えていけ。雲の予報を。
観察するのが一番だぞ、とハーレイがまた繰り返すから、「でも…」と恋人の瞳を見詰めた。
「雲の観察は頑張るけれども、ハーレイもぼくに教えてよ?」
大勢の人が雲を見上げて、覚えた知識も大切なんでしょ。何世代もの経験ってヤツの積み重ね。
ハーレイもそれを使ってるんだし、ぼくに教えてくれるよね?
いつか一緒に出掛けられるようになったら、いろんな場所で。
「もちろんだ。…この町でも、隣町でもな」
俺の師匠の、親父と一緒に教えてやるさ。あちこち一緒に出掛けて行っては、雲を指差して。
「あの雲がこう流れているから、今日の天気は…」といった具合にな。
楽しみに待っていることだ、と約束をして貰ったのだし、雲の予報を覚えたい。赤いナスカで、若い世代の仲間たちもしていた天気予報。
それを地球の上でやってみる。…まずは窓から雲の観察、其処から始めて。
天気予報も頼もしいけれど、自分で補足出来たら幸せ。
いつかハーレイに教えて貰って、とても上手になれたらいい。
ハーレイと二人で「降るんだよね?」と傘を持ったり、「大丈夫」と置いて出掛けたり。
そういう予報が出来たらいい。
雲の形を二人で見ながら、「明日は晴れるね」などと、雲が流れてゆく方向を眺めながら…。
雲の天気予報・了
※雲を仰ぐ機会が無かった、アルテメシア時代のミュウたち。ナスカで出会った空の雲。
若い世代は雲を眺めて、天気予報が出来たようです。今のブルーも、ハーレイに習える予定。