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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧
(あれ…?)
 どうしたんだろ、とブルーは首を傾げた。学校からの帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
 道沿いの家の庭に、その家の御主人の姿。家と庭を囲む生垣からは、少し離れた奥の方。其処で大きな木を見上げながら、難しい顔。困ったようにも見える表情。
(あの木が、どうかしたのかな?)
 木の葉や枝を眺めたけれども、弱っているという感じは受けない。むしろ生き生きしている木。本当に元気そうだけれども、素人だから元気に見えているだけで…。
(ホントは病気になっちゃってるとか?)
 しかも簡単には治らない病気。木の姿がすっかり変わるくらいに、枝を何本も切り落とさないと駄目だとか。
(そういう病気もあるらしいものね…)
 治療した後は、太い幹には似合わない細い枝が数本、そんな姿になってしまう木。元通りに枝が茂るまでには何年もかかる、荒療治とも言える治療法。
 それが必要な病気の兆しを発見したなら、難しい顔にもなるだろう。もちろん困るし、御主人が悩んでしまうのも分かる。あの木は庭のシンボルツリーなのだから。
(…どうしたの、って訊いてみたいけど…)
 御主人の気持ちを考えてみると、黙っている方がいいかもしれない。声を掛けようか、このまま通り過ぎようか、と迷っていたら…。
 御主人がこちらに顔を向けたから、慌ててピョコンとお辞儀した。
「こんにちは!」
「おや、ブルー君。今、帰りかい?」
 身体もこっちに向けた御主人は、両腕で猫を抱いていた。白地に黒のブチがある猫。しっかりと胸に抱いているから、服と混じって気付かなかった猫の存在。
(白と黒のブチ…)
 この家に猫はいただろうか?
 いなかったように思うけれども、もう子猫とは呼べない大きさ。滅多に外に出ない猫なら、いることも分からないだろう。知らない間に飼われ始めて、育っていても。



 初めて出会った猫にも驚いたけれど、それよりも木の方がずっと気になる。物心ついた時には、もうこの家の庭にあった木。自分も馴染みのシンボルツリー。
「おじさん、その木…。どうかしちゃったの?」
 弱っているようには見えないけれども、病気になっちゃってるだとか…?
「この木かい? ちょっぴり困ったことになってねえ…」
 其処からだと見えないだろうから…。入って見てやってくれるかい?
 どうぞ、と入れて貰った庭。御主人が門扉を開けに来てくれて。
 其処まで来るのも、門扉を開けるのも、御主人は猫を抱いたまま。使わない方の腕にしっかり。
(よっぽど可愛がっているんだね)
 少しも離さないんだもの、と猫にも挨拶。「こんにちは」と。返事は「ミャア!」。
 御主人は木の側に案内してくれて、猫を抱いていない手で木を指差した。
「ほら、見てごらん。…可哀相なことになっちゃったんだ」
「えっと…?」
 側で見ても、やっぱり元気そうな木。病気のことは分からないから、何処を見ればいいのか謎。葉っぱに妙な斑点なんかもついてはいない。枝の茂り具合が変なのだろうか?
(可哀相なことになったんだったら、病気だよね…?)
 何処で分かるの、と上から下まで何度見たって、元気そのものに思える木。立派な幹も、幹から伸びた枝たちも。
「ブルー君は気が付かないかな? これだよ、これ」
 この通り、苔がすっかり剥げちゃってね。この間までは、綺麗な緑だったんだがねえ…。
「本当だ…!」
 あちこち剥げてる、と目を丸くした。太い木の幹を覆うようにして、濃い緑の苔が生えている。まるで上等の絨毯みたいにフカフカに見える、薄い割には存在感のある苔たち。
 それが無残に剥がれた場所が、幹に幾つも。
(何かで無理やり、剥がしたみたい…)
 削り取られたように、長い線になって剥げている苔。剥がれた跡は直線だったり、少し曲がっていたりと色々。剥げてしまった場所は木の皮がむき出しになって、痛々しいくらい。
 本当だったら、木の幹はそれでいいのだけれど。…苔が無くても、木の皮だけで充分。



 普通の木ならば、幹に苔など生えてはいない。生えていたって、ほんの少しだけ。家の庭の木を思い浮かべても、幹にビッシリ苔を生やした木などは無い。
(この木も、普通の木なんだけどな…)
 ありふれた木で、珍しくない木。けれども、苔がよく似合う。こんな風に剥がれてしまった姿を目にした途端に、「可哀相だ」と感じるほどに。
「剥げちゃったって…。この木、どうなっちゃったの?」
 病気じゃないよね、苔が剥げちゃう病気なんかは知らないし…。
 それに無理やり剥がしたみたいで、虫なんかだと、こんな風にはならないだろうし…。
 いったい何が起こったわけ、と御主人の顔を見上げたら。
「この子だよ。…気付かなかった私も悪いんだがね」
 御主人がコツンと軽く叩いた、腕の中にいる猫の小さな頭。「駄目じゃないか」と。
 猫の方では「ニャア…」と鳴いたものの、謝ったりするわけがない。猫は言葉を話さない上に、元が気ままな生き物だから。
「剥がしちゃったの、猫だったの?」
 おじさん、この子、前から飼ってた?
 ぼくは初めて会ったんだけど…。子猫の時から、家の中だけで飼ってたとか…?
「いや、この子は孫が飼ってる猫でね…。孫の家は別の所なんだよ」
 暫く旅行に行くと言うから、ウチで預かることにしたんだが…。お蔭で、こういう有様なんだ。
 庭で遊んで、あちこちの木に登っていたんだろうね。きっと最初は、片っ端から。
 それで気に入ったのがこの木で、今じゃすっかり遊び場になって…。
 庭に飛び出しては、これに登ったり、下りて来たりするのさ。猫には爪があるからねえ…。
 そのせいで剥げてしまったんだ、と御主人が溜息をついている苔。
(猫の爪なら、こうなっちゃうよね…)
 登る時にも剥げるだろうし、下りる時にも爪に引っ掛かりそう。そうやって苔が剥げてゆくのも遊びの一つなのかもしれない。「面白いよね」と、わざと爪を余計に出したりして。
(爪の幅だけ、剥がれちゃうから…)
 爪を広げて、滑り下りたりもするのだろう。苔を一緒に引き剥がしながら、体重をかけて上からズルズル。如何にも猫が好きそうな遊び。



 猫には楽しい遊びだけれども、苔にとっては大いに迷惑。木の幹から無理やり引き剥がされて、その後は枯れてしまっただろう。水分も栄養も摂れなくなって。
 苔に覆われていた木の幹だって、みっともない姿にされてしまった。あちこちが剥げて、自慢の服がボロボロだから。
 御主人は苔が剥がれた跡を見詰めて、フウと溜息。
「弱ったよ…。今じゃすっかり、こうなんだから。…一目で分かるハゲだらけでね」
 せっかく綺麗に生えていたのに、台無しだ。見た目も悪いし、どうにもこうにも…。
「苔はくっつけられないの?」
 剥がされた苔は、根っこ…って言うのか、そういうのが駄目になっているから無理だろうけど。
 でも、苔だって売っているでしょ、苗とかを扱うお店に行けば…?
 苔を買って来て、剥がれちゃった所にくっつけたら、と提案してみた。同じ種類の苔が売られているのだったら、問題は解決しそうだから。…くっつける手間はかかるけれども。
「苔ねえ…。もちろん店にはあるだろうけど、それじゃ不自然になるからね」
 後からくっつけてやった場所だけ、変に目立ってしまうんだよ。人間の手が加わるから。
 自然に生えるのを待つのが一番いい方法で、この木の苔もそうなんだ。苔なんか一度も植えてはいないよ、勝手に生えて来ただけさ。暮らしやすい条件が揃ったんだろうね。
 しかし、これだけ剥げてしまうと、元の通りに戻るには…。
 下手をしたら何年もかかるんじゃないかな、と御主人が言うから驚いた。相手は苔だし、じきに元通りに生えて来そうなのに。
「何年もって…。何ヶ月とかの間違いじゃなくて?」
 苔って、そんなに分厚くないでしょ。剥げたのが此処で、剥げてないのが此処だから…。
 ほんのちょっぴり、と眺めた厚み。数ミリくらいしか無さそうに見える苔の層。
「それが何年もかかるのさ。…こういう風になるにはね」
 毎年、毎年、少しずつ育って厚くなるのが苔なんだよ。とても小さな胞子を飛ばしては、自分の仲間を増やしながら。
 人間の手で植えてやるには、気難しすぎて手に負えないのが苔ってヤツかな。
 庭に植えても、なかなか思うようには育ってくれなくてね。
 それを木の幹に植えるとなったら、厄介だろうと思わないかい…?



 「盆栽が趣味の人なんかだと、頑張るらしいよ」と御主人は教えてくれた。
 大きく育つ筈の木たちを、小さなサイズに育てる盆栽。とても小さいのに、樹齢の方は一人前。何十年とか、百年だとか、そういう木たちを楽しむ世界。
 けれど最初から「丁度いい木」は無いわけだから、育て始めて直ぐの間は木だって若い。樹齢は一年、二年とかで。
 そういう木たちを少しでも立派に見せたいから、と生やすのが苔。年ふりた木にも負けない幹を作り出そうと、せっせと苔をつけてやる。
 ただし、自然に見えないと駄目。年数を経て生えたかのように、色々な苔を枝や幹に。
「幹につく苔と、枝とでは違うらしくてねえ…」
 趣味の人たちはうるさいらしいよ、苔の生え具合や種類なんかに。…少しでもいい木に見せたいからねえ、自分の大切な盆栽を。
「そうなんだ…。盆栽って、苔も大事なんだね」
 木の形だとか、大きさだけかと思ってた…。小さくても立派に花が咲くとか、そんなので。
「盆栽の趣味は無いんだけどね…。この木の幹は好きだったんだよ」
 勝手に苔が生えてくれたお蔭で、堂々として見えるじゃないか。…森の中にある木みたいにね。
 友達が来ても、とても羨ましがってくれるから…。
 庭の自慢にしていた木なのに、気が付いたらこうなってたんだよ。この子が登ってしまってね。
 今ではすっかりお気に入りだし、この子がウチに泊まっている間に、丸禿げじゃないかな。
 残っている苔も剥がされちゃって、と御主人は本当に困り顔。御自慢の木の幹を前にして。
「猫を繋いでおくのは駄目?」
 そうでなきゃ、家から出さないとか…。
 繋いでおいたら、この木に勝手に登りはしないし、家から出なけりゃ登れないよ?
 苔を守るのにはいいと思う、と言ったのだけれど。
「それだと、この子が可哀相じゃないか。好きなように遊べないなんて」
 庭が大好きで、「出して」と頼みに来るんだよ?
 だから何度も出してやっていたら、こうなっていたというわけさ。この木が最高の遊び場で。
 この木に登って遊んじゃ駄目だ、と覚えてくれればいいんだけどねえ…。
 おっと!



 御主人の腕の中にいるのに退屈したのか、遊びたい気分になったのか。ピョンと飛び出した猫が木にスルスルと登って行った。
 それは身軽に、アッと言う間に上の方まで。きっと爪だって出ていた筈。爪を立てないと、猫の足では木に登れない。人間みたいに長い指など持っていないから。
「…また剥がれちゃった?」
 木についてる苔、今ので剥がれちゃったのかな…?
 どうなんだろう、と見上げた木の上。猫は大きな枝の一つで遊んでいる。枝から伸びている枝や葉っぱを、足でチョンチョンつついたりして。
「苔ねえ…。よく分からないけど、剥げたんだろうね。あの勢いで登ったんだから」
 それに木の上で楽しく遊んで、下りてくる時に、また剥げるんだよ。
 わざわざ幹にへばりつくようにして、ズルズル滑って下りて来るのも大好きだしね…。
 もう諦めるしかなさそうだ、と御主人は両手を大きく広げて、お手上げのポーズ。
 きっとその内に、苔は丸禿げになるのだろう。白と黒のブチ猫、お孫さんの猫が全部剥がして。この木に登って、また下りて来ては、生えている苔を爪で引っ掛けて。
(なんだか気の毒…)
 御自慢の木の幹を駄目にされそうで、困った顔をしている御主人が。
 今も木の上にいる猫を呼んでは、「下りる時には、気を付けてくれよ?」と叫んでいるほど。猫さえ注意してくれたならば、苔はそれほど剥げないから。少しは剥げても、全部は剥げない。
(猫が登るの、やめさせちゃったら剥げないんだけど…)
 それが一番だと承知していても、猫を繋ごうとはしない御主人。家に閉じ込めないのも分かる。猫を自由にさせてやりたいから、どちらもしない。
 お孫さんから預かった猫を、繋ぐのも、家に閉じ込めるのも。
 そうしたならば、御自慢の木の幹は丸禿げになったりしないのに。丸禿げよりかは、あちこちが剥げた今のままの方が、元に戻るのも早いだろうに。
(でも…)
 御主人はそうしないのだから、猫に任せるしかないだろう。あんまり苔を剥がさないように。
 木に登る時も、下りて来る時も、出来るだけ爪を立てないで。
 もっとも、猫はその逆のことが好きらしいから、絶望的な状況だけど。



 御主人に「さよなら」と挨拶してから、帰った家。庭の木たちを見回したけれど、幹をすっかり苔が覆っている木は無かった。庭で一番大きな木だって、幹に苔など生えてはいない。
(おじさんが自慢するわけだよね)
 盆栽が好きな人たちだったら、頑張って生やすらしい苔。まるで自然に生えたかのように。
 そういった苔が勝手に幹を覆っていたのが、御自慢のあの木。何の手入れもしてはいなくても、森の奥の木のように見えた風格。緑色の苔が幹を覆っていただけで。
(だけど、あちこち剥げちゃって…)
 このままだと丸禿げになりそうな苔。猫が遊んで剥がしてしまって、苔の欠片も無くなって。
 そうなったら、あの木は「ただの大きな木」でしかない。庭のシンボルツリーと言っても、ただそれだけ。「立派な木ですね」と褒めてくれる人も減るのだろう。
 あれ以上は剥げないといいんだけどね、と玄関を開けて家に入った。「ただいま!」と、元気に奥に向かって呼び掛けて。
 二階の部屋で制服を脱いだら、おやつの時間。ダイニングの窓から庭の木を見て、さっきの木と似たような大きさのを探す。その幹に苔が生えていたなら、どんな風だろうと。
(…此処から見たら、ただの緑色だけど…)
 庭に出て側に立ってみたなら、とても立派に違いない。木の皮だけに覆われているより、緑色の苔を纏った方が。…それも剥げてはいない苔で。
(剥げてしまったら、木の皮が見えて…)
 痛々しいし、見た目も悪い。
 その原因は病気ではなくて、猫が悪戯した結果でも。「こうすれば剥がれて面白いんだよ」と、爪を立てて登り下りされたせいでも。
(絶対、カッコ悪いよね…)
 ああして剥がされてしまった苔。
 御主人の友達がやって来たなら、皆、驚いて眺めるのだろう。「どうなったんだ?」と。
 その頃にはもう、あの猫はいない。お孫さんの家に帰ってしまって、知らん顔。
 御主人は苔が丸禿げになった木だとか、あちこち剥げてみっともないのを、「実は…」と溜息を幾つも交えて、友達に説明するのだろう。
 御自慢の苔がどうして剥げてしまったか、犯人は何処の誰だったのかを。



 おやつの間は、木と苔のことを考え続けて、食べ終えてからは二階の自分の部屋に戻って、また考える。勉強机の前に座って。
 猫が登る度に木の苔は剥げて、下手をしたなら丸禿げになってしまいそう。お孫さん一家が旅行から帰って、あの猫を迎えにやって来る前に。
 苔が生えた木は、猫の一番好きな遊び場。苔を剥がすのが面白いのか、木そのものもお気に入りなのか。せっせと登って下りて来る度に、御自慢の苔が剥げてゆく。猫の爪のせいで。
(おじさんは登って欲しくないけど、猫は登りたくて…)
 庭に出たいと駄々をこねては、あの木に向かってまっしぐら。その度に剥がれてしまう苔。
 御主人が気付いた時には、とうにああなっていた。あちこちが剥げて、無残なことに。
(おじさん、困っていたけれど…)
 それでも猫を繋ぐつもりは無いらしい。家に閉じ込めておくこともしない。
 「可哀相じゃないか」と言っていた御主人。猫を力ずくで止めないだなんて、凄いと思う。猫は御自慢の木とは知らずに、これからも登り続けるだろうに。
 「駄目じゃないか」と頭をコツンとされても、きっと分かっていないだろうに。
 お手上げのポーズをしていた御主人。猫が登った木を見上げて。
(とっても優しい人だよね…)
 御自慢の木が駄目になっても、猫を繋ごうとはしない人。家の中に閉じ込めることも。
 猫にとっても、本当に優しい人なのだけれど、問題はあの木。
 このままだったら、苔は丸禿げ。
 御主人の自慢の苔とも知らない、あの猫がすっかり剥がしてしまって。
 爪を立てては上まで登って、苔を剥がしながら幹にしがみ付いてズルズル下りて来たりもして。
(あちこち剥げただけの苔でも…)
 元の姿に戻るまでには、何年もかかるかもしれない。苔は気難しいと教わったから。
 剥げた所に、買って来た苔をペタリと貼っても駄目らしいから。
(丸禿げなんかになっちゃったら…)
 御自慢の苔が幹を覆うまでには、どのくらいかかることだろう。ほんの数日で丸禿げになって、戻るまでには年単位。…三年も四年もかかるのだったら、あの御主人が気の毒すぎる。
 いくら御主人は承知でも。「仕方ないよ」と、猫の悪戯を許していても。



 放っておいたら、苔が丸禿げになってしまいそうな幹。元の通りに苔が生えるまでには、何年もかかってしまうのだから…。
 いいアイデアは無いのだろうか、そうなる前に猫を止める方法。
 繋いだり、家に閉じ込める以外に、猫が木に登らないようにする方法が何かあればいいのに。
(あの木の周りに柵をしたって、猫じゃ登って越えちゃうし…)
 木の幹に何か巻いたりしたなら、今度は苔が駄目になる。太陽の光や、雨の雫が当たらなくて。ほんの短い期間にしたって、小さな苔には致命的な時間だろうから。
(何かあの木を守る方法…)
 猫の爪から、と考えていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、いつものテーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。猫が木に登らない方法を知っている?」
 知ってるんなら教えて欲しいな、その方法を。
「はあ? 木に登らない方法って…。木に登らせない方法のことか?」
 どうすれば猫が木に登らないように、止められるか。…お前はそいつを知りたいのか?
 そうなのか、と尋ねられたから頷いた。知りたい方法はそれだから。
「ハーレイの家にはミーシャがいたでしょ?」
 隣町の家に住んでた頃には、真っ白なミーシャ。…登らせないようにしていた木は無い?
 この木は駄目、ってハーレイのお父さんが決めていたとか、お母さんが大事にしていた木とか。
「俺の家には、そういった木は無かったなあ…」
 だからもちろん、ミーシャは好きに登っていたが?
 誰も止めたりしないもんだから、勝手気ままに登って遊んで、飽きたら下りて。
 そうやって好きに登った挙句に、下りられなくなっちまった木の話をしたと思うがな?
 下りられない、とミャーミャー鳴くから、親父が梯子で登って助けてやったんだが。
「そういえば…。前に聞いたね、その話…」
 どの木にも好きに登っていいから、ミーシャ、自分じゃ手に負えない木に登っちゃったんだ…。
 登る時には楽しい気分で、どんどん登って行っちゃったけど…。
 上に着いたら、下りる方法、ミーシャには分からなかったんだものね。
 高い木に登ったまではいいけど、どうすれば下に下りられるのか。



 そうだったっけ、と蘇って来た記憶。ミーシャは自分の好きに登って、酷い目に遭った。登った木から下りられなくなって、「助けて」と人間を呼ぶしかなくて。
 そんな騒ぎが起こっていたのに、ハーレイの両親は、ミーシャの木登りを止めてはいない。どの木も好きに登れるようにと、そのまま放っておいたのだろう。何の工夫もしないままで。
 ならば、ハーレイも策を持ってはいない。あの木の苔を守ってやれる方法。
「そっか、駄目かあ…。ハーレイなら、って思ったのに…」
 ぼくだと何にも思い付かないけど、ハーレイは知っているかもね、って…。
「なんだ、どうしたんだ?」
 猫を木に登らせない方法だなんて、お前、いったい何をしようとしてるんだ?
 この家に猫はいない筈だぞ、友達の誰かが困ってるのか?
 しょっちゅう下りられなくなる猫ってヤツもいるそうだから、とハーレイは至極、真面目な顔。登ったら自分では下りられないのに、繰り返す猫がいるらしい。同じ木に何度も登る猫。
「えっと…。そういう猫の話じゃなくって…」
 ちゃんと上手に下りられるんだよ、登った後は。…お気に入りの木だから、登るのも上手。
 だけど、登る木が問題で…。
 今日の帰りに、ぼくも見せて貰ったんだけど…。
 苔が丸禿げの危機なんだよ、とハーレイにあの木の説明をした。
 帰り道に出会った御主人の自慢の、幹に緑の苔が生えた木。その木の苔を猫が剥がすのだ、と。
 剥がれた苔が元の通りに生えるまでには、何年もかかるものらしい、とも。
「なるほどなあ…。猫には爪があるからな」
 木に登ったら剥げちまうだろうな、幹に生えてる苔なんかは。
 それに猫には、楽しいオモチャになるんだろう。剥がしながらズルズル下りて来るなら。
「やっぱり、遊んでるんだよね…?」
 おじさんが大事にしてる苔なのに、そんなの、猫には分かんないから…。
 どんどん剥がして、今のままだと丸禿げになってしまいそう。
 でもね、おじさんは猫を繋ぐつもりは無いんだよ。…家に閉じ込めたりもしない、って。
 それは猫には可哀相だから、苔は丸禿げでも仕方ない、って…。
 すっかり諦めているみたいだけど、でも、何か方法があるんなら…。



 いいアイデアがあるなら教えて、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。
 ミーシャには使っていなかったとしても、誰かから聞いた方法があるとか、そういったケースもまるで無いとは言い切れないから。
「お願い、ハーレイ。…何か知らない?」
 知ってるんなら、ぼく、おじさんに教えに行くから…!
 ううん、ママに頼んで通信を入れて貰うよ、今日の間に…!
 おじさんの大事な苔を守れる方法、少しでも早く教えてあげたいもの…!
 このままだとホントに丸禿げになっちゃう、とハーレイの知識に縋ったのだけれど。三十八年も生きている分、アイデアも持っていそうだと期待したのだけれど…。
「生憎と、俺は知らないなあ…。お前が知りたがってるような方法は」
 苔の大切さなら分かるんだがな、俺だって。…親父もたまに気にしてたから。
 庭の木の幹、調べてみては、ちょっと溜息をついたりもして。
「ハーレイ、それって…。ミーシャのせいで剥げちゃった?」
 木に登るためには爪を出すから、剥がすつもりは無かったとしても。…お気に入りの木っていうほどじゃなくても、登れば剥げちゃいそうだから…。
「うむ。登る時にも、下りる時にも、爪を立てるのが猫だしな?」
 たまにツルッと滑りでもしたら、いつもより派手に剥がれちまう。爪を広げてた幅の分だけ。
 もっとも、ミーシャはとっくにいないし、今じゃすっかり元通りに苔が生えてるが…。
 その苔、たまに剥げるそうだぞ、とハーレイが言うからキョトンとした。
「え? 剥げるって…?」
 ミーシャがいないのに、なんで剥げるの?
 新しい猫は飼ってないでしょ、それとも何処かで貰って来たの…?
 今は別の猫が飼われているの、と高鳴った胸。もしも別の猫を飼い始めたなら、知りたいことは山のよう。どんな猫なのか、名前は何か。今はどのくらいの大きさなのか、と。
「おいおい、慌てるんじゃない。俺はまだ何も話していないぞ」
 たまに剥げると言っただけでだ、犯人の名前も出しちゃいないが…?
 とはいえ、お前の勘もまるっきり外れているわけじゃない。
 犯人は猫には違いないしな、親父たちの猫じゃないってだけで。



 他所の猫だ、とハーレイが教えてくれた犯人。ハーレイの両親が暮らす隣町の家で、緑色の苔が生えた木に登って、苔を剥がしてしまう猫たち。
「お前が出会った猫と違って、犯人は一匹じゃないようだがな…?」
 ふらりと庭を通り掛かって、登って遊んで剥がしていくんだ。少しだけとか、派手にとか…。
 親父に言わせりゃ、もう明らかに木登り失敗、といった感じのハゲも見つかるらしいな、うん。
 猫が滑って落ちた跡だ、とハーレイは可笑しそうな顔。「そういう時には派手にハゲるぞ」と。
「派手にハゲるって…。ハーレイのお父さん、怒らないの?」
 生えている苔、お父さんも大事にしている苔でしょ、ミーシャの頃から…?
 他所の猫なんかに剥がされちゃっても、許しちゃうわけ…?
 入って来たら叱ればいいのに、と思った庭に入って来る猫。追い出されたなら、木登りなんかはしていかない。木の幹に生えた苔は無事だし、派手に剥がれもしないのに。
「追い出すって…。親父も、おふくろも、そんなことは考えもしないだろうなあ…」
 俺も同じだ、仮に大事な木があったって。…その木に悪戯されちまっても。
 猫が平気で遊べる庭があるっていうのは、いいもんだろ?
 公園と同じで、車も走っていないんだから。…猫にとっては、人間様の庭が公園なんだ。
 本当に困る理由が無いなら、遊ばせておいてやりたいじゃないか。猫に食われちまうような鳥がいるとか、そういう庭でないのなら。
「そうなんだ…。人間の家にくっついてる庭は、猫の公園…」
 猫のための公園なんかは無いから、そう言われたら、そうなのかも…。
 車も来ないし、安心して遊べる場所だもの。…木の幹に生えた、苔が剥げるのは困るけど…。
 だけど、猫たちが幸せに遊んでいるなら、叱ったりしない方がいいよね…。
 その方が猫も嬉しいものね、と口にしたら思い出したこと。
(…遊んでて、それで叱られちゃうって…)
 あったっけ、と心が遠く遥かな時の彼方へと飛ぶ。
 白いシャングリラにあった、広い農場。あそこに植えていた、沢山の木たち。
 自給自足で生きてゆく船には、様々な木々が必要だった。オリーブや果樹や、他にも色々。
 その大切な農場の木たちに、子供たちが登って叱られていた。
 農場の木たちは、公園の木とは違って、作物を育てるために植えられたものばかりだから。



 オリーブオイルを採るためのオリーブ。果樹はもちろん、チョコレートの代用品だったイナゴ豆だって、木に実っていた。
 農場の木たちは、船の暮らしに欠かせないもの。眺めて楽しむ公園の木とは、まるで違っていた目的。けれど、子供たちの目から見たなら、どちらも木には違いないから…。
「猫の公園で思い出したよ。…シャングリラの木を」
「シャングリラだと?」
 前の俺たちが暮らしてた船か、木なら山ほど植えてたもんだが…。白い鯨の方ならな。
「そう、そっち。あの船の農場に植えていた木は、どれも大切な作物ばかりだったから…」
 公園と違って、木登りは禁止だったんだよ。作物が傷んだりしたら大変だから、って。
 でも、子供たち…。
 あの木に登っちゃっていたよね、木の苔を剥がす猫じゃないけど…。遊ぶために。
「登ってたなあ、そういえば…!」
 思い出したぞ、あのシャングリラの悪ガキどもを。…猫より酷い連中だったな。
 猫には言葉が通じないから、「その木は駄目だ」と怒鳴るだけ無駄というヤツなんだが…。
 あいつらは立派に人間だったし、思念波も持っていたってな。「駄目」が通じる連中だった。
 なのに、言うことを少しも聞きやしないんだ。農場の木には登るんじゃない、と何度言っても。
 何度注意を繰り返そうが、「登るな」と教え続けようが。
 まるで聞いてはいなかったよな、とハーレイが浮かべた苦笑い。シャングリラに迎えたミュウの子たちは、農場にあった木に関して言うなら、悪ガキだった。
 大切な作物を育てるための木なのだから、と口を酸っぱくして教えたって、彼らは聞かない。
 公園とは違った木が植わっていて、面白そうだと考えるだけ。
 けれど大人は「駄目だ」と叱るし、登って遊べば大目玉。「駄目だと言われた筈だろう」と。
 それを承知で、コッソリ出掛けていた子供たち。
 「バレては駄目だ」と、船の仲間たちの目を盗んでは、農場に向かう通路に入って。
 農場に着いたら、見張りも立てた。大人が来た時は、直ぐに逃げないと叱られるから。
 そうやって入り込んだと言うのに、子供というのは無邪気なもの。
 木登りの遊びに夢中になったら、もう何もかもを忘れてしまう。自分たちが何処にいるのかも。
 その内に、見張りの子までが持ち場を離れて登り始めて、ワイワイ騒いで…。



 子供たちの末路は、もう見えていた。彼らが農場に向かった時から、どうなるのかは。
 農場に向かう姿には、誰も気付かなくても。…途中の通路ですれ違った仲間がいなくても。
 白いシャングリラの食生活を支える農場、其処が終日、無人のままの筈がない。夜はともかく、人工の光が煌々と照らす昼の間は。
 収穫のために出掛ける者とか、作物の世話に向かう者とか。
 いずれ大人が現れるわけで、彼らの耳には直ぐに届いた。木登りに興じる、子供たちの賑やかな歓声が。それは楽しそうに遊ぶ声が。
「あれって、いつでもバレちゃったんだよ。逃げる前に大人に見付かっちゃって」
 いつだってバレて、それでお説教…。猫と違って、言葉がちゃんと通じるから。
「その説教。…俺も駆り出されてたぞ、ヒルマンに」
 あいつだけでは話にならん、とキャプテンの俺を引っ張り出すんだ。船の最高責任者だから。
 「農場の大切さを説いて、大目玉を食らわせてくれ」というのが、ヒルマンの注文だったが…。
 俺が大声で怒鳴ってみたって、シュンとするのは、その時だけで…。
 何日か経ったら、また同じことを繰り返してた。農場に出掛けて、木登りをして、見付かって。
 まるで駄目だから、ソルジャーの出番になったんだがなあ…。
 前のお前を呼んだ効果はどうだったんだ、とハーレイの鳶色の瞳が瞬く。「効果、あったか?」などと、確かめるように。
「ううん…。前のぼく、子供たちとは、しょっちゅう一緒に遊んでたから…」
 農場で木登りはしなかったけれど、でも、子供たちの心は分かるし…。
「何の役にも立たなかったってな、肝心のソルジャーは子供の味方で」
 叱るどころか、悪党どもの肩を持つんだ。「許してやってもいいだろう?」と寛大な顔で。
「そう…。ああやって遊べる場所があるのがいいじゃないか、って言っていたっけね」
 農場は大事な場所だけれども、人類に見付かって撃たれもしないし、安全だから、って…。
 だってそうでしょ、本当に安全なんだから。…人間の家の庭が、猫の公園なのと同じで。
「猫の公園なあ…。前のお前はそうは言わなかったが、アレを言われると弱かった」
 子供たちにとっては安全な場所だ、と言われちまうとグウの音も出ない。
 前の俺はもちろん、俺を担ぎ出したヒルマンもな。
 ゼルは元々、子供好きだし、叱ろうって気はまるで無かったわけだから…。



 何度叱られても、子供たちは農場の木たちに登り続けた。徒党を組んで出掛けて行って。
 船の大人たちの目を盗んでは、白いシャングリラの食生活を支える、大切な木に。
 オリーブの木も、イナゴ豆の木も、他の木や果樹も、子供たちに狙われ、登られていた。梯子は使わず、手と足だけで。…サイオンも、木から滑った時くらいしか使っていなかった。
 彼らがせっせと登るものだから、そのせいで収穫量が減ったりしないようにと、農場の係たちは頑張っていた。悪ガキたちと遭遇したなら、叱り飛ばすのは基本だったけれど…。
 それと同時に、「この枝には足を掛けるな」だとか、「今の季節は、この木に登るな」だとか、出来る限りの指図をして。「木が傷んだら、お前たちも食えなくなるんだぞ!」などと。
(…前のぼくが、本気で止めてたら…)
 木登りは直ぐに止んだだろう。
 白いシャングリラを導くソルジャー、その人が「駄目だ」と叱ったら。登ってもいい木は公園の木だけで、農場の木には登るんじゃない、と。
 けれども、一度も叱ってはいない。
 ヒルマンに請われて出掛けて行っても、前のハーレイまでが腕組みをして子供たちを睨み付けていても。…農場は大切な場所だとはいえ、安心して遊べる所だったから。
「ねえ、ハーレイ…。前のぼくたち、今日のおじさんと同じだね」
 木の幹に生えてる苔が丸禿げになってしまったとしても、猫を繋いだりするよりはいい、って。
 庭に出さずに閉じ込めるよりも、好きに遊ばせてやりたいから、って…。
 農場の木だって、それと同じだよ。木登りさせなきゃ、収穫が増えたかもしれないのにね。
 …きっと増えたよ、木が傷むことは無いんだから。
「それは分かっちゃいたんだが…。キャプテンとして見ていた、報告書とかで」
 あのガキどもを止めさえしたなら、もう少しくらい増えるだろう、と書かれていたから。
 しかし、所詮は「もう少し」だ。誤差の範囲と呼べるくらいの違いでしかない。その量が減って誰が飢えるというわけでもなし、目くじら立てても仕方あるまい。
 その程度のことで縛っちまうよりは、自由にのびのびさせてやりたかったしな、子供たちを。
 「絶対に駄目だ」と叱るのも俺の仕事だったが、其処まででいい。
 規則まで作って徹底させるとか、立ち入り禁止にしちまうよりかは、あれで良かった。
 お蔭で逞しく育ってくれたさ、どの子たちもな。…農場で悪事を働きながら。



 シドもリオも…、とハーレイが懐かしむ子供たち。白いシャングリラで育った子たち。
 後に最後のキャプテンになったシドも、地球で命尽きた英雄のリオも、みんな木登りをしながら育った。公園にある木とは違って、農場に植えられた大切な木で。
「みんな登っていたんだっけね…。子供だった頃は」
 大人に見付かって叱られたって、農場に何度も出掛けて行って。…色々な木に。
 オリーブの木にも、イナゴ豆の木にも、と子供たちの姿が目に浮かぶよう。前の自分は、何度もサイオンで覗き見たから。「また登っている」と笑みを浮かべて、青の間から。
「公園の木にも登ってはいたが、農場の方が良かったらしいな。…同じ木登りするのなら」
 収穫を控えた木には登れなかったし、盗み食いが出来たわけでもないのに…。
 リンゴの一つも食えやしないのに、なんだって農場が良かったんだか…。
 叱られてエライ目に遭うだけなんだが、とハーレイが顎に手を当てる。何のメリットも無かった農場、どうして其処で木登りなどを…、と。
「きっとスリリングだったんだろうね。農場の木には、苔が生えてはいなかったけど」
 登る時とか、下りる時とかに派手に滑って、苔がハゲるわけじゃなかったけれど…。
 だけどスリルはあったと思うよ、農場だもの。見張りを立てなきゃいけないような場所だから。
「叱られるのと、背中合わせのスリルってヤツか…」
 苔でツルリと滑っちまうか、大人に見付かって怒鳴り付けられるか。…その違いなんだな。
 お前が出会った猫の場合は、苔の手ごたえを楽しんでいる、というトコだ。頑張って爪を立てたつもりでも、滑る時だってあるんだし…。その跡がお前の見て来たハゲだな。
 シャングリラの農場で木登りしていたガキの場合は、見付かって怒鳴られるスリルをワクワクと楽しみにしていた、と。苔で滑ってしまうのを楽しむ猫みたいに。
 まあいいだろうさ、シャングリラの方では、船の役に立つ子たちが立派に育ったんだから。
 前のお前が「安全な場所で遊ばせてやれ」と、何度も許してやったお蔭で。
 本当にいい子たちだった、とハーレイが挙げてゆく名前。白いシャングリラの悪ガキたち。
「そうだね、みんな立派に育ってくれたよ。でも…」
 今日の猫は、どうなっちゃうんだろう?
 苔を剥がして登ってもいい、って許して貰って、立派な猫になれるのかな…?
「そっちは役に立ちそうにないな、猫だけに」
 第一、子猫じゃなかったんだろうが。既に育った後の猫だぞ、それ以上、どう育つんだ…?



 「たとえ立派に育ったとしても、猫の手だからな」とハーレイが笑う、猫の木登り。
 御主人の自慢の苔を剥がして、せっせと登り続ける猫。お孫さんが迎えにやって来るまで。
(…猫の手どころか、大迷惑だよ…)
 苔が丸禿げになりそうだ、と御主人がしていた、お手上げのポーズ。
 猫の手は役に立たないものだし、あの木登りで立派に育っても、どうしようもない厄介な猫。
 けれど、白いシャングリラの思い出を連れて来てくれたから、役には立った。
 御主人の与り知らない所で、今の自分とハーレイのために。
 それに、御主人の役には立たないようでも、ああやって猫が庭で楽しんでいるのなら…。
(お孫さん、きっと喜ぶよね?)
 旅行から帰って迎えに来た時、「お気に入りの木が出来たようだよ」と聞かされて。
 もしかしたら、あの木の上から下りて来るかもしれない。お孫さんの声で、大喜びで。
 木の幹に生えた苔の最後の欠片を、爪でズルズルと引き剥がしながら。
 丸禿げになってしまった幹で溜息をつく御主人だって、お孫さんの笑顔で、きっと御機嫌。
 「旅行は楽しかったかい?」と訊いたり、猫を眺めて「いい子にしてたよ」と微笑んだり。
 猫が最後の苔の欠片を剥がしても。…本当に丸禿げにされてしまっても。
(あの木の苔も、早く元に戻るといいんだけれど…)
 今はまだ丸禿げになってはいなくて、あちこちが剥がれてしまっていた苔。
 元の緑色を取り戻すまでには、何年もかかるかもしれない苔。
(やっと生えて来ても、あの猫が来て…)
 また剥げるかもしれないけれども、それもいい。
 子供は未来の宝だから。
 白いシャングリラの農場の木で、木登りしていた子供たち。彼らは立派な大人になった。
 あの御主人のお孫さんだって、いつか大きく成長する。
 苔を剥がしてしまった猫は育たなくても、お孫さんは立派に育ってくれる。
 だから御主人も、きっと怒りはしないのだろう。
 ようやく元に戻った木の幹の苔を、お孫さんの猫がすっかり丸禿げにしてしまっても…。



           苔が生えた木・了


※ブルーが見掛けた猫の遊び。木の幹を覆っている苔を、剥がしてしまうような木登り。
 御主人は困り顔で見守るだけ。止めようとしないのですけど、シャングリラでも事情は同じ。
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(そういえば…)
 いないかも、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 子供からの質問に答えるコーナー。其処に載っている、下の学校に通う男の子の問い。
 「どうして青い毛皮の動物はいないんですか?」と。
 鳥だったら青いのも沢山いるのに、と男の子が抱いた「青い毛皮」への疑問。言われてみれば、確かに頭に浮かんでこない。青い毛皮の動物などは。
(答えは…?)
 回答するのは専門の学者。小さな子供にも分かりやすいよう、易しい言葉を選びながら。
 青い毛皮の動物が存在しない理由は、色覚の問題なのだという。色を識別するための能力。
 どの生き物でも、自分自身が感知できない体色は持っていないのが基本。持っていたって、その色は意味を成さないから。…他の仲間が見た時に、「分からない」ような色は要らない。
 霊長類以外の哺乳類だと、青い色を見ることは出来ないらしい。犬や猫も、他の哺乳類たちも。
(哺乳類は、夜行性の生活が長くて…)
 そのせいで色覚が退化した。青い色が見えなくなってしまった。
 長い年月、天敵だった爬虫類に追われて隠れる内に。夜の闇に紛れて生きる間に、鮮やかな色が無い夜の世界で暮らす間に。
 爬虫類から進化した鳥類、そちらだったら色覚を維持し続けたのに。
 鳥たちは空を飛んでゆくから、哺乳類ほどには爬虫類を恐れなくても良かった。昼の間も堂々と飛んで、色のある世界を眺め続けた。
(それで鳥には、青いのがいて…)
 セキセイインコや、オオルリなどや、青い色を持つ鳥は沢山。
 けれど、青い毛皮を持つ動物はいない。人間やサルのような霊長類、それを除けば、青い色など分からないのだから。青い毛皮でアピールしたって、仲間たちは見てくれないから。
(色覚ってヤツが問題で…)
 鳥と同じに青が分かる魚類は、青い身体の種類も多い。他の仲間も「青い」と認識出来るから。
 哺乳類の場合は、そうはいかなくて、青い毛皮の動物はいない。鳥には青い色のがいても。
 そうだったんだ、と納得して閉じた質問コーナー。「賢くなった」と。
 下の学校の男の子の疑問、それに学者が答えたお蔭で。



 学校では教えてくれないこと。色覚について習いはしたって、毛皮の色は教わらない。
(もっと学年が上になったら、習うのかもね)
 一足お先に教わっちゃった、と嬉しい気分で戻った二階の自分の部屋。空になったカップなどを「御馳走様」と、キッチンの母に返してから。
 勉強机の前に座って、さっきの答えを思い出す。青い毛皮を持つ動物は、存在しない。哺乳類は青が見えないのだから、青くなっても仕方ない。
(犬も猫も、みんな青くはないし…)
 青いウサギもいないよね、と考えていたら、ふと掠めた記憶。
(あれ…?)
 いたじゃないの、と気が付いた。
 青い毛皮を持った動物。それを自分は知っている。遠く遥かな時の彼方で、ちゃんと目にした。あれは確かに青い毛皮で、間違いなく哺乳類だった。
(ナキネズミ…)
 白いシャングリラで、ミュウが開発した生き物。とうに絶滅したのだけれど。
 思念波を上手く扱えない子供のサポート役に、とヒルマンやゼルたちが作り上げた。元になった動物はリスとネズミで、遺伝子レベルの操作や交配などを重ねて。
 リスのようにも、ネズミのようにも見えた動物。シャングリラの外にはいない生き物。
(前のぼくが、青い毛皮の個体を選んで…)
 この血統を育ててゆこう、という指示を下した。「青い毛皮をした子がいいよ」と。
 そうして繁殖させて増やして、ナキネズミは青い毛皮になった。ナキネズミと言ったら、誰もが青い毛皮を思い浮かべたほどに。
 思念波を持つ「ナキネズミ」が完成した時だったら、他の毛皮の個体もいたのに。白いのやら、茶色や、黒もブチもいた。研究室のケージの中には、様々な毛皮のナキネズミたち。
(だけど、そっちは選ばなかったし、一代限りで…)
 希望者が貰って、ペットにしていた。思念波で会話が出来たのだから、希望者多数で。
 けれど、繁殖させてはいない。船の仲間たちと楽しく暮らして、それで終わった。一代きりで。
 繁殖したのは青い毛皮を持った血統。
 前の自分が「この子にしよう」と選んだ、青い毛皮のナキネズミ。他の色には目もくれないで、一目惚れ。青い毛皮を持っていたから。



 そうなったのには理由がある。前の自分が青い毛皮に惹かれたこと。
(青い鳥…)
 幸せを運ぶ青い鳥。それを飼いたいと願った自分。船に沢山の幸せを運んでくれるよう。
 けれど、一言で切り捨てられた。「青い鳥など役に立たんわ」と、ゼルに言われた。鶏だったら卵を産むし、肉にもなる。シャングリラで飼う価値は、充分にある。
(でも、青い鳥は…)
 眺めて楽しむことしか出来ない。卵を産んでも、それは栄養豊富ではなくて、肉にすることさえ出来ない小鳥。まるで反論出来なかった。「それでも飼おう」と押し切ることも。
 これでは無理だと諦めたものの、忘れられなかった青い鳥。地球の青色を纏った小鳥。
 青い鳥は飼えない船だったから、青い生き物が欲しかった。青い水の星の色を持つものが。
 其処へ現れた、青い毛皮のナキネズミ。惹き付けられないわけがない。鳥ではなくても、毛皮が青い生き物だから。…青いナキネズミがいたのだから。
 迷うことなく青を選んだ。「この血統を増やしてゆこう」と、青い毛皮のナキネズミを。
 前の自分は、何の疑問も抱くことなく、青いナキネズミに決めたのだけれど…。
(青い毛皮を持った動物、何処にもいないって言うのなら…)
 ナキネズミは、青い薔薇のよう。
 人間が地球しか知らなかった頃、薔薇には青い色が無かった。青い色素を持たなかったから。
 青い薔薇と言えば、「不可能」の意味とされていたほど。どう頑張っても、青い薔薇を作り出すことは出来はしない、と。
 それでも、無ければ欲しくなるもの。人間は青い薔薇を求めて、改良に改良を重ね続けた。紫に近い青が生み出された時、「ようやく出来た」と愛好家たちが喜んだ青薔薇。
 けれども、それが限界だった。本当に「青い」薔薇は出来ずに、紫を帯びた薔薇があっただけ。
 なのに、SD体制が敷かれた時代には、存在していた青い薔薇。青い色素を持っていた薔薇。
 今の時代もある青薔薇とは違うもの。人工的に青い色素を組み込まれた薔薇。
(真っ青で、綺麗な薔薇だったけど…)
 それは不自然な青だから、とシャングリラでは育てなかった。滅びゆく地球と引き換えのように生まれた青薔薇。地球の青を吸い取り、その身に纏ったかのように。
 本当にそうではなかっただろうけれど、人間の驕りの象徴だったとも言えた青薔薇。



 ヒルマンたちは「青い薔薇は駄目だ」と唱えた。存在してはならない色を持つから、あの船には相応しくないと。「本来の色の薔薇だけでいい」と。
 白いシャングリラに薔薇は何本も植えられたけれど、一本も無かった青い薔薇。当時はごくごく当たり前の色で、「青い薔薇が船に無い」ことを、不思議に思った仲間もいたというのに。
(シャングリラはそういう船だったのに、青いナキネズミ…)
 哺乳類は持たない、青い色の毛皮。ナキネズミの身体は、青く柔らかな毛に覆われていた。
 前の自分は「青い鳥の代わりに育てていこう」と、その色を選んだのだけど。青い毛皮の動物が存在するかどうかも、まるで考えたりはしないで、一目見ただけで。
(この子がいいよ、って決めちゃったけど…)
 そう決まったから、ナキネズミは青い毛皮の血統だけが増やされ、青くて当然。誰も不自然だと思いはしなくて、「ナキネズミだな」と見ていただけ。
 シャングリラの中で、青い毛皮を持つ生き物に出会ったら。思念波で話し掛けられたら。
(前のぼくも、船のみんなも、すっかり慣れてしまってて…)
 「青い」とさえ意識していなかった。それがナキネズミの色だったから。
 青い毛皮を持った動物などは存在しないのに。…人類の世界にあった動物園、それを端から見学したって、青い毛皮の動物はいない。図鑑のページを繰ってみたって、データベースに収められた膨大なデータを解析したって。
(青い毛皮の哺乳類は、何処にもいないんだから…)
 さっき読んでいた新聞にあった。「青い毛皮の動物がいない」ことの理由。
 青を認識できない色覚、それでは青い毛皮は持てない。青くなっても、仲間たちの目には青色が映らないのだから。
(だけど、ナキネズミは青くって…)
 有り得ない筈の青い毛皮を纏っていた。あの時代にはあった、青い薔薇のように。人工的に青い色素を組み込み、鮮やかな青に仕立てた薔薇さながらに。
(ナキネズミは動物で、薔薇じゃないけど…)
 考えてみれば、ナキネズミだって、青薔薇と同じに「不自然な生き物」。
 自然には血が混じらない筈の、リスとネズミを交配した上、DNAなどを弄って作られたもの。動物は持たない筈の思念波、それを使って人間と会話が出来るようにと。



 そうやって生まれたナキネズミ。白いシャングリラの実験室から生み出されたもの。
 思念波を上手く扱えない子たちの、いい友達になるように。思念波増幅装置の代わりに、生きた増幅装置として。…子供たちを支えるサポート役で、パートナーだったナキネズミ。
(完成した頃には、それで良かったけれど…)
 シャングリラがミュウの箱舟だった時代は、重宝がられたナキネズミ。広い船の中を自由に行き来し、子供たちを手伝う役目が無ければ、農場でのんびり暮らしていた。
(牛小屋に入って、牛の背中を走り回ってみたり…)
 農場にある木に登ったりして、生き生きとしていたナキネズミたち。子供も生まれて、仲のいいカップルや親子もよく見かけた。農場に視察に行った時には。
 けれど、SD体制が倒された後。
 人類との長い戦いが終わって、平和な時代が訪れた後は、繁殖力が衰えていったナキネズミ。
 生まれる子供の数が減り始めて、やがて生まれなくなって、そして滅びた。
 最後の一匹だったオスが死んでしまって、ナキネズミは何処にもいなくなって。
(そうならないよう、絶滅を防ぐ方法は…)
 当時でもちゃんと分かっていた。
 白いシャングリラで蓄積されていた、様々なデータ。それにナキネズミを作り出した時の方法。そういった情報は残っていたから、分析さえすれば答えは導き出せる。
 滅びそうなくらいに減ったナキネズミを、遺伝子レベルで操作したなら、繁殖力は元に戻ると。
 シャングリラがあった時代と同じに、いくらでも子供が生まれて来ると。
(方法は、みんな分かってたのに…)
 生物学者も、動物園でナキネズミの飼育を担当していた係たちも。
 ナキネズミの絶滅を防ぎたかったら、どうすればいいか。まだ充分な数のナキネズミたちがいた間ならば、手を打つことは可能だった。近親交配にならない内に、遺伝子を操作してやれば。
 けれども、彼らはそうしなかった。
 放っておいたら滅びることに気付いていながら、自然に任せようと決めた人間たち。
 「生き物は全て、自然のままに」と。「人間が手を加えることは許されない」と。
 青い薔薇も同じ理由で消えた。
 地球の青さを吸い取ったかのように生まれた、不自然な青は。青い色素を組み込んだ薔薇は。



 今の時代は無い、青い薔薇。青い色素を持っていたから、完璧な青を誇った薔薇。
 そういった青薔薇は全て失われて、今では紫を帯びた青薔薇だけ。薔薇が本来持つ色素だけで、出来るだけ青に近付けたもの。
 それ以外の青は、「不自然だから」と二度と作り出されず、この宇宙から滅びていった。
 青いナキネズミが、今は何処にもいないのと同じで。
(ナキネズミは、毛皮が青かったせいで、滅びたわけじゃないけれど…)
 不自然とされたのは青い毛皮ではなくて、その生まれの方。
 人間の手で作り出された、「本当だったら、存在しない筈」の生き物。リスとネズミは、自然の中では血が混じり合いはしないから。…全く別の生き物だから。
(それを交配して、おまけに遺伝子操作まで…)
 繰り返して出来たのがナキネズミ。青い色素を薔薇に組み込むより、もっと不自然で有り得ないもの。人間が母なる地球に「還ってゆく」なら、そんな生き物を作っていてはいけない。
(だから、滅びるって分かっていても…)
 誰も救いはしなかった。ナキネズミの滅びを止めるためには、不自然すぎる操作が必要。それは行ってはならないことだ、と皆が考え、賛同して。
 けれど、そうして滅びていったナキネズミ。今は何処にもいない生き物。
 彼らがその身に纏った毛皮は、どうして青かったのだろう。
 哺乳類は青い色を持たない筈だというのに、ナキネズミは何故、青い毛皮になったのだろう?
(ナキネズミの元になってた、リスもネズミも…)
 どちらも青い毛皮ではない。哺乳類だし、青い毛皮を持ってはいない。
 彼らをベースに作り出されたナキネズミだって、哺乳類というものだったろう。卵ではなくて、子供を産んでいたのだから。…生まれた子供は、母親の乳で育ったから。
 そのナキネズミを青い毛皮にしたいのならば、あの頃にあった青い薔薇と同じで…。
(生き物の仕組みは、分かんないけど…)
 どうやるのか見当もつかないけれども、青い色素を組み込む以外に無かっただろう。
 目を青色にするのとは違って、毛皮に青が出るように。
 青い目だったら、猫だって持っているわけなのだし、目を青くするなら方法はある。けれども、毛皮はそうはいかない。青い毛皮を持った動物、それは存在しないのだから。



 青い毛皮だったナキネズミ。哺乳類には無い筈の色。どうして、青色だったのか。ナキネズミの毛皮に、青を発色させたのか。
(なんで、そんなことをしていたわけ…?)
 自然界には存在しない、青い毛皮を持った動物。それがナキネズミで、白いシャングリラで作り出された生き物。平和になったら、「不自然だから」と、滅びの道を皆が選択したような存在。
(…有り得ない生き物には違いないけど…)
 そのことを承知で、「不自然な生き物」の象徴として青にしたなら、青い毛皮のナキネズミしかいなかった筈。実験室で生まれたナキネズミは全て青い毛皮で、他の毛色のナキネズミは無しで。
(青がシンボルなんだしね?)
 どのナキネズミも、青い毛皮にしておけばいい。白や茶色や、ブチの個体を作らなくても、青い毛皮のものだけでいい。
 「不自然だから青でいいのだ」と考えたのなら、そうなっている。他の毛色は全部排除で、どのナキネズミも青くして。「これがナキネズミの色なのだから」と。
 けれど、様々な色の個体がいたのがナキネズミ。思念波を持った生き物として、シャングリラに姿を現した時は。「どの血統を育てたいのか」と、前の自分が訊かれた時には。
(…青い毛皮のナキネズミは…)
 あの段階では、他のナキネズミたちに「混ざっていただけ」の試作品。
 どれを選ぶかは前の自分の自由で、白も茶色も、好きに選べた。黒でもブチでも、気に入りさえすれば。「これにしよう」と考えたなら。
(…白も茶色も、黒いのも、ブチも…)
 動物の毛皮としては、ありきたりのもの。リスとネズミがベースにしたって、遺伝子まで何度も操作していれば、様々なものが生まれただろう。三毛でも、縞の毛皮でも。
(でも、青だけは、絶対に…)
 生まれて来ないし、青い毛皮になるわけがない。哺乳類が持っていない色なら、遺伝子レベルで弄ってみたって、青などは出ない。…何らかの方法で、青い色素を組み込まない限り。
 その筈なのに、青い毛皮のナキネズミがいた。白や茶色やブチに混じって。
 つまり、わざわざ青い毛皮の個体を作って、「どれがいいのか」前の自分に選ばせた。
 ヒルマンとゼルが。…あのナキネズミたちを開発していた、二人の最高責任者が。



(まさか、ゼルたち…)
 もしかしたら、と頭に閃いたこと。
 彼らは青い毛皮を持ったナキネズミを、意図的に作り出したのだろうか?
 白や茶色や黒やブチでも、能力に差は生まれないのに。…青い毛皮を作ってみたって、色だけのことで能力は別。青い色素を組み込む分だけ、余計な手間がかかる代物。
 それでも彼らは作っただろうか、青い毛皮のナキネズミを。…前の自分に選ばせるために。
 青い鳥を飼いたいと願った、ソルジャー・ブルー。幸せを運ぶ青い鳥が欲しくて、それでも夢は叶わないまま。青い鳥は役に立たないから、と一蹴されて。
(代わりに青いナキネズミなの…?)
 「青い鳥など役に立たんわ」と言ったお詫びに、ゼルたちは青いナキネズミを作ろうと努力したかもしれない。ナキネズミならば「役に立つ」から、シャングリラの中で飼ってもいい。
 幸せを運ぶ青い鳥は駄目でも、青い毛皮のナキネズミなら飼える。ソルジャー・ブルーのペットではなくても、船の中に「青い生き物」が生まれる。
 しかも、シャングリラの外の世界には「いないもの」。ミュウの船にしかいない生き物。それの毛皮が青かったならば、前の自分が如何にも喜びそうではある。
(…ホントに喜んじゃったしね?)
 一目惚れした、青い毛皮のナキネズミ。「この子がいいよ」と、直ぐに選んで。
 ゼルとヒルマンは、そのために青い毛皮の個体を作って混ぜておいたのだろうか。哺乳類ならば持たない色素を、ナキネズミの中に組み込んで。
 「これで喜んで貰えるのなら」と、青い毛皮を持った個体を生み出して。
(そうだったの…?)
 手間暇をかけて、青い毛皮のナキネズミを作った二人。哺乳類には無い、青い毛皮を。
 本当の所はまるで分からないけれど、あの時、確かに前の自分は「青い毛皮の個体」を選んだ。完成したという報告を受けて、実験室に出掛けて行って。
 様々な毛皮のナキネズミたちをグルリと見回し、青い毛皮に惹き付けられて。
 「この子にしよう」と、青い毛皮の血統を育ててゆくことに決めた。他の色には目もくれないで青にしたけれど、他の色を選んでいたならば…。
(青い毛皮を頑張って作った意味なんか…)
 無かったのだし、そうなった可能性もある。ゼルとヒルマンの努力は、すっかり水の泡で。



 選ばれるとは限られなかった、青い毛皮のナキネズミ。前の自分ならば、ほぼ間違いなく選んでいたのだろうけれど。「青い毛皮だ」と、幸せの青い鳥に重ねて。
(だけど、青いのがいなくても…)
 何も困りはしなかった筈。ナキネズミの血統を決めるだけだし、白でもブチでも、気に入りさえすれば問題はない。「この子がいいよ」と選び出すだけ。
(青い毛皮の動物なんかは、いないんだから…)
 ナキネズミたちの色に「青」が無くても、「青いのがいない」と責めたりはしない。青い毛皮の個体を作れとゴネたりもしない。どれにしようかと、白や茶色の個体を見比べるだけで。
(…前のぼくは、何も考えていなかったけれど…)
 青い毛皮のナキネズミが如何に貴重な存在なのか、有り得ない色を持っているのか。本当に何も気付きはしないで、「青い子がいい」と思っただけ。…青いナキネズミがいたものだから。
(でも、あれは…)
 考えるほどに、不思議な色。哺乳類の毛皮には「無い筈の」青。
 その青色を、ゼルたちが作った理由が分からない。白や茶色で充分だろうに、混ぜ込んであった青い毛皮のナキネズミ。遺伝子レベルで弄ってみたって、作れない色の毛皮が青。
(ナキネズミを作る実験とは別に、その研究もしてないと…)
 青いナキネズミは出来ないけれども、前の自分は何も知らない。ゼルたちが青い個体を開発した理由も、どうやってそれを作ったのかも。
 ナキネズミの開発は、生き物を使っていた実験。リスとネズミを何匹も飼っては、交配したり、遺伝子操作を試みたりと、生き物を相手に続ける研究。まるでアルタミラの研究所のように。
(リスやネズミか、ミュウなのかっていう違いだけで…)
 どっちも実験動物なのだ、と思っていたから、見たくなかったケージの中の動物たち。狭い檻の中で生きていた頃の、自分の姿が重なりそうで。
 そのせいで、ナキネズミたちを開発中だった実験室には…。
(入っていないし、覗いてもいない…)
 前の自分はその場所を避けて、ただ報告を聞いていただけ。会議の席で。
 研究の進捗状況を聞いては、「続けてくれ」と指示を下しただけ。実験室には行きもしないで、扉の向こうをサイオンで覗くこともしないで。



 そんな具合で、実験室には顔を見せなかったソルジャー・ブルー。
 ナキネズミの研究が完成するまで、どの血統を育ててゆくのか、意見を求められた時まで。
 実験室に一度も姿を現さないなら、研究内容にも興味を示すわけがない。思念波を使える動物を作っていようが、青い毛皮を持った動物を作り出すべく、懸命に努力していようが。
(青い毛皮を持ったナキネズミは、ぼくには内緒で…)
 ゼルとヒルマンがコッソリ作って、前の自分にプレゼントしてくれたのだろうか?
 青い鳥が欲しかったソルジャー・ブルーに、「代わりにこれを」と、青い毛皮のナキネズミを。鳥でなくてもかまわないのなら、「青いナキネズミ」を選ぶといい、と。
(そうだとしか思えないんだけれど…)
 白や茶色もいたのだったら、青いナキネズミを作り出す意味は全くない。能力だけなら、白でもブチでも、どれでも同じなのだから。
 「不自然な生き物」の象徴として青を選んだのなら、どのナキネズミも青かった筈。前の自分に選ばせなくても、最初から「青い毛皮」の個体だけしかいなくて。
(前のぼくのために、青いナキネズミを作ってくれたの…?)
 そうだったの、と尋ねたくても、ゼルもヒルマンも此処にはいない。二人とも遠い時の彼方で、叫んでみたって届きはしない。前の自分の強い思念波でも、時の流れは遡れない。
 本当の所はどうだったのだろうか、青いナキネズミが生まれた理由。
(ハーレイだったら…)
 知ってるのかな、と今のハーレイに訊きたくなった。
 今は学校の教師だけれども、前のハーレイはキャプテン・ハーレイ。白いシャングリラを預かるキャプテンだったわけだし、あるいは知っているかもしれない。
(研究のことには、ノータッチでも…)
 詳しい報告を受けていたとか、視察に出掛けていただとか。
 ゼルとヒルマンの報告書などに目を通しながら、「これは何だ?」と質問したり、視察の途中でケージの中を覗き込んだり。…「青くないか?」と、妙な毛色に気が付いて。
(青が完成する前だったら、ちょっぴり青くなるだけだとか…)
 部分的に青い所があるとか、なんとなく青く見えるとか。其処でハーレイが気付いていたなら、青くしようとしている理由も聞いただろう。「青い毛皮」を目指す理由を。



 今となっては、頼りになるのはハーレイだけ。青い毛皮の謎が知りたくて、仕事の帰りに訪ねて来てくれないか、耳を澄ませていたら聞こえたチャイム。窓から覗けば、手を振るハーレイ。
(やった…!)
 これで訊けるよ、と部屋に来たハーレイとテーブルを挟んで向かい合うなり、切り出した。
「あのね、青い毛皮の動物はいないってことを知っている?」
 青い毛皮だよ、フサフサの毛皮。…そんな動物はいないんだ、って。
「いないって…。いただろ、青いナキネズミが」
 お前だってよく知ってる筈だが、とハーレイは大真面目な顔で返した。「あれは青いぞ」と。
「そうだけど…。それは昔で、ナキネズミはもう、宇宙の何処にもいなくって…」
 絶滅しちゃった生き物なんだよ、だから数には入らないよ。とっくにいない生き物だから。
 ナキネズミの他に青いの、知ってる?
 毛皮が青い動物だけど、と繰り返した。「他にはいない筈なんだけど?」と。
「青い毛皮の動物だって…?」
 ナキネズミが直ぐに浮かんじまったが、アレの他に青いヤツってか…?
 青い毛皮なあ…。犬や猫には青なんか無いし、ウサギも青くないわけで…。毛皮だろ…?
 毛皮が青い生き物か…、と考え込んでから、ハーレイも「いないな」と答えた。青い身体のは、鳥や蛇とか魚だっけな、と。
「でしょ? 鳥や蛇なら青い色のも多いんだけれど…。魚もいるけど…」
 哺乳類には、青い色のはいないんだって。
 今日の新聞に書いてあったよ、子供向けの質問コーナーに。…でも、答えてたのは専門の学者。
 人間とかの霊長類以外は、色覚が退化しちゃってるから、青い色を見ることが出来なくて…。
 もし青かったら、自分の色がどうなってるのか、他の仲間がどんな色かも分かんないでしょ?
 でも、ナキネズミは青かったんだよ。…あれだって哺乳類なのに。
 赤ちゃんを産んで、お乳で育てていたものね、と確認してみたナキネズミのこと。生物学的には哺乳類だよね、と。
「それはまあ…。元になったのがリスとネズミだから…」
 哺乳類には違いないだろう。鳥でも爬虫類でもなければ、魚でもないし。
 だが、青かったな、あいつらは。…間違いなく哺乳類だった筈だが。



 とんでもない色をしてたってわけか、とハーレイは何度か瞬きをした。「青かったんだが」と。
「俺には見慣れた色だったんだが、あの色は有り得ないんだな?」
 青い毛皮をした動物ってヤツは、確かにいない。あいつらは色まで特別だったのか…。思念波を持っていただけじゃなくて、毛皮も特別製だったってな。
「あの毛皮…。あの青色は、前のぼくが選んだんだけど…」
 青い鳥を飼うのは無理だったから、その代わりに青いナキネズミにしたんだけれど…。
 どうして青いナキネズミがいたのか、ハーレイ、知らない?
 聞いてないかな、と問い掛けた。それが「知りたいこと」だから。
「どうしてって…。そいつは、どういう意味だ?」
 青いナキネズミは青かっただけで、そういう特徴を持った個体だったと思うんだが…?
「其処だよ、青かった所が問題。…哺乳類には無い筈の色で、有り得ない色を作った理由」
 哺乳類に青い色が無いなら、青い毛皮にしてやるためには、必要な色素を組み込まないと駄目。生き物の身体に青い色をね。…それって、不自然すぎるでしょ?
 あの時代には当たり前だった青い薔薇だって、シャングリラには無かったんだよ。自然の中では生まれない色で、人工的に青い色素を組み込んでたから。…そんな不自然な色は駄目だ、って。
 青い薔薇でも植えなかったような船なのに、なんでわざわざナキネズミを青くしちゃったわけ?
 船で作った動物なんだし、特別だから、っていう意味だったら、青いのしか作らない筈で…。
 不自然な青い毛皮のナキネズミだけで充分なのに、他の毛皮の色、ちゃんとあったよ?
 前のぼくが選ばなかっただけで…、と挙げていった白や茶色のナキネズミ。繁殖させずに、一代限りのペットとして配られたナキネズミを。
「いたなあ、そういうヤツらもな。…希望者多数で大人気だったぞ」
 もっとも、選ぶ権利を持っていたのは、人間様じゃなかったが。…ナキネズミの方で。
「そうだっけね。…それでね、青いナキネズミのことだけど…。もしかしたら、って…」
 ゼルとヒルマン、前のぼくに「青い鳥」の代わりをくれたのかな、って…。
「なんだって?」
 青い鳥の代わりというのは何だ、とハーレイは怪訝そうな顔。「あれは鳥じゃないぞ?」と。
「そうだけど…。鳥じゃなくってナキネズミだけど、青かったでしょ?」
 ほら、青い鳥は駄目だって言われちゃったから…。前のぼくが欲しかった、青い鳥…。



 ゼルにハッキリ言われてたでしょ、と説明をした。「青い鳥など何の役にも立たん」と、一刀の下に切って捨てられた日のことを。
 けれど、ゼルたちはそれを覚えていて、青い鳥の代わりに、青い毛皮のナキネズミをプレゼントしてくれたのでは、と。
「そんな気がしているんだけれど…。でも、前のぼくは何も知らなくて…」
 実験室を覗いてもいないし、研究のことも会議で聞いていただけで…。どうして有り得ない色の青を作っていたのか、ホントに分からないんだよ。
 ハーレイ、青いナキネズミを作ろうとしていた理由を知らない?
 キャプテンだったし、船のことには詳しそうだよ。ナキネズミの実験室にしたって。
 前のぼくは、アルタミラの記憶と重なっちゃいそうで、あそこは避けてしまっていたから…。
 サイオンで覗いてもいない、と白状したら、ハーレイは「すまん」と謝った。
「実は、俺もだ。…キャプテンにあるまじきことなんだろうが、どうにも好きになれなくて…」
 キャプテンの仕事は忙しいんだ、と理由をつけては、あそこは避けて通っていた。
 まるで行かないわけにもいかんし、出来るだけ、ということではあるが…。
 行った時には、最低限の視察程度で、ザッと見渡したらそれで終わりだ。異常は無いな、と確認するのが俺の仕事で、研究のことはサッパリだしな?
 ゼルもヒルマンも俺の飲み友達ではあったが、あいつらだって、ナキネズミの開発の話は滅多にしなかった。動物を使った実験なんだし、愉快なことではないからな。
 だから、青い毛皮のナキネズミが生まれた理由は分からん。
 あいつらが上げて来た細かい報告ってヤツも、形だけしか見ていないから。…この段階だな、と最後だけ見て、専門用語を並べ立てた部分はすっ飛ばして。
 だがな…。
 あいつらだったら作っただろう、とハーレイは笑んだ。
 ゼルとヒルマンが青い鳥の話を覚えていたなら、青い毛皮のナキネズミを。
「…作っていそう?」
 前のぼくには内緒にしといて、青い毛皮のナキネズミ…。
 哺乳類には青い毛皮が無くても、なんとかして青くしてやろう、って…?



 やり方は分かんないけどね、と首を竦めた。
 青い薔薇なら植物だから、動物よりは簡単に出来たことだろう。青い色素を組み込んでやって、目が覚めるような青に仕上げることも。
 けれど、ナキネズミは動物なのだし、仕組みがまるで分からない。どうすれば青い色素なんかを組み込めたのか、毛皮に発色させられたのか。
「俺にも見当もつかないが…。前はキャプテンだし、今は古典の教師だぞ?」
 動物の毛皮を青くしてくれ、と注文されたら、染める以外に無いってな。食っちまっても毒にはならない、青い色素を探して来て。…ゼリーとかを青く染めるヤツとか。
 そういうのを毛皮にペタペタと塗って、「青くなったぞ」としか言えないんだが…。
 ゼルとヒルマンの場合は違う。あいつらは根っから研究が好きで、才能も充分あったんだ。
 そんなヤツらが、前のお前の夢を諦めさせたから…。青い鳥は駄目だ、と切り捨てたから…。
 代わりに青いナキネズミだ、と頑張った可能性ってヤツは高いな。
 俺には話しても通じんだろう、と放っておいて、二人であれこれ研究して。
 そうやって出来たのがアレじゃないか、とハーレイは顎に手を当てた。「他にもいたし…」と、「青の他にもいたんだったら、青はお前へのプレゼントだろう」と。
「本当に?」
 やっぱりそうなの、青いナキネズミは、ゼルとヒルマンがぼくにくれたの…?
 好きなのを選んでいい、って言っていたのは、ぼくに青いのをくれるためだった…?
 全部が青いナキネズミよりも、その方がずっと素敵だもんね…。
 色々な毛皮のナキネズミたちが揃ってる中に、青いのが混じっている方が…。
 幸せの青い鳥を見付けたみたいな気がするよ、と白いシャングリラに思いを馳せた。実験室まで出掛けて行った日、青いナキネズミを選んだ日に。
「裏付けは何も無いんだが…。データを見たって、分からんだろうな」
 青い色素を組み込んだ時のデータが今もあったとしたって、目的までは書かれていまい。
 前のお前へのプレゼントならば、なおのこと、そうは書いていないぞ。…あいつらだけに。
 だが、飲み友達だった俺の勘だな、「多分、そうだ」と。…お前のために青くしたんだな、と。
「そうだったんだ…」
 ナキネズミの毛皮が青かったのは、青い鳥の代わりだったんだ…。
 前のぼくが飼いたがっていたから、鳥は駄目でも、ナキネズミなら、って…。



 どうやったのかは謎だけれども、青い毛皮のナキネズミを作ったゼルとヒルマン。
 哺乳類は持っていない筈の青い毛皮を、青い小鳥を思わせる色を纏うようにと努力を重ねて。
 それが出来たら、前の自分に選ばせてくれた。白や茶色や、ブチの毛皮をしたナキネズミたちと一緒に並べて、「どれにしたい?」と。
 大喜びで青を選んだ、前の自分。「この子にしよう」と、一目惚れして迷いもせずに。
 青い鳥を飼うことは諦めざるを得なかったから、青いナキネズミが嬉しくて。
 その青色が「有り得ない色」だとは考えもせずに、青い個体を選んでいた。「この血統を育てていこう」と、青色の毛皮のナキネズミに決めた。
 お蔭で、ナキネズミと言えば今も「青」。誰に訊いても「青だ」と返る、毛皮の色。
(前のぼく、ナキネズミに青い鳥を重ねて…)
 見ていたこともよくあった。
 農場の木に巣箱をかけて、ナキネズミが入るのを待ったことまであったほど。青い鳥の代わりに住んで欲しくて、青いナキネズミのために設けた巣箱。
 青いナキネズミは、前の自分にとっては、幸せの青い鳥のようなもの。
 鳥ではなくても、空は飛ばなくても、四本の足でトコトコと船の中を歩く生き物でも。それでも充分、青い鳥の代わりになってはいた。幸せの青い鳥の代わりに、あれがいるよ、と。
 青い毛皮のナキネズミを作った、ゼルとヒルマンの読みは見事に当たったのだから…。
「ゼルたちに御礼を言いたいな。…ナキネズミの御礼」
 青い鳥の代わりに、青い毛皮のを作ってくれてありがとう、って。
 前のぼくは少しも気付いていなかったから、御礼、言えずに終わっちゃったし…。
 でも、二人とも、今は何処にいるのか分かんなくて…。
 前のぼく、ホントにウッカリ者だよね…。せっかく青いのを作ってくれていたのに、青い毛皮が珍しいことには少しも、気付かないままでいたなんて…。
「その辺のことは、ヤツらも気にしちゃいないだろう。気にしていたなら、言うだろうから」
 何かのはずみに、恩着せがましく。「作ってやったのに、礼も無しか」と、ズケズケと。
 礼を言いたいなら、今からだって、気持ちだけでも伝わるさ。…あいつらのトコに。
 俺も一緒に言ってやるから、窓に向かって言うといい。「ありがとう」とな。
「うんっ!」
 ゼルとヒルマンに届くといいよね、ぼくたちの御礼。…青いナキネズミを貰った御礼…。



 二人で言おうね、とハーレイと声を揃えて、窓の向こうに頭を下げた。「ありがとう」と。
 白いシャングリラにいた、青い毛皮のナキネズミ。有り得ない色を持っていた生き物。
 あのナキネズミはきっと、ゼルとヒルマンがくれた、青い鳥の代わり。
 「青い鳥を諦めたソルジャー・ブルー」のためにと作ってくれた、青い毛皮をしたナキネズミ。
 その青いナキネズミを乗せていた船は、ちゃんと幸せを手に入れた。ミュウの未来を。
 誰もが幸せに暮らせる世界を、ミュウが殺されない平和な時代を。
 それに今の十四歳の自分と、学校の先生になったハーレイにだって…。
(幸せ、ちゃんと来たからね…!)
 前の生では手に入らなかった、夢のような世界にやって来た。ハーレイと一緒に、離れないで。
 青く蘇った地球の上に生まれて、幸せに生きてゆける今。
(これって、きっと…)
 青い鳥の代わりに、青い毛皮のナキネズミが運んでくれた幸せだろう。
 シャングリラに青い鳥はいなくて、青い毛皮のナキネズミたちがいたのだから。
 翼を広げて空を飛ぶ代わりに、四本の足でトコトコ歩いたナキネズミが。
 そのナキネズミを貰った御礼を、ゼルとヒルマンの二人に届けたい。
 「青いナキネズミを作ってくれて、ありがとう」と。
 今では、とても幸せだから。この地球の上で、ハーレイと二人、幸せに生きてゆくのだから…。



          ナキネズミの青・了


※青い毛皮だったナキネズミ。哺乳類は青を認識出来ないので、青い色を持たないのに。
 ナキネズミを作ったヒルマンとゼルが、前のブルーに青い鳥の代わりに、くれた生き物かも。
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(今日は、いろんな雲…)
 形が色々、とブルーが見上げた窓の外。学校から帰って、おやつの後で。
 二階の自分の部屋の窓から眺めた空。青い空には、雲が幾つも。モコモコなのやら、筋雲やら。
 様々な姿をしている雲たち。前の自分ならば、アルテメシアで雲の上を飛んでいたけれど…。
 青い地球の上に生まれ変わった自分は、サイオンがすっかり不器用になった。空を飛ぶなど夢のまた夢、思念波さえもろくに紡げないレベル。雲の上は、文字通り「雲の上」。
(こうやって見上げるだけになっても…)
 雲の上には行けなくなっても、それも平和の証拠だよね、と考える。前の自分の強いサイオン、あれが無ければ、ミュウは一人も生きられなかった酷い時代。SD体制の時代は遥かな昔。
 そのサイオンが不器用でも誰も困らないのも、今が平和な証だけれど…。
(今みたいに、雲…)
 地上から雲を見上げる贅沢。
 踏みしめる地面を持たなかったミュウには、まるで考えられないこと。雲を仰ぐなんて。
 前の自分も、アルテメシアに降りた時には、空に浮かんだ雲を見上げていたけれど…。
(いつも地上にいたわけじゃないし…)
 シャングリラは、常に雲の海の中。消えない雲海を隠れ蓑にして、あの星に潜み続けていた。
 踏みしめる地面を持たないままで、いつか地球へと願いながら。ミュウと判断され、処分される運命の子たちを救い出しながら。
 船の周りは雲の海でも、展望室の窓の向こうは真っ白。雲の形は分からなかった。とても細かい水の粒子が、無数に浮かんでいるだけで。強化ガラスを隔てて流れてゆくだけで。
(まるで霧の中にいるみたいに…)
 白いだけだった、船の中から見えた雲。モコモコなのか、そうでないのか、それさえも謎で。
 地上に降りれば雲の形は色々だけれど、様々な雲たちが空に浮かんでいたけれど。
(それを見られるのは、前のぼくだけで…)
 他の仲間たちは仰ぐことさえ出来なかったし、後ろめたい気持ちになることもあった。潜入班や救出班の仲間も地上に降りるけれども、任務が優先。雲をゆっくり見る暇は無い。
 空を仰げない仲間たちを思うと、そうそう雲には酔えなかった。どんなに綺麗な雲があっても、刻一刻と形を変えてゆくのが面白くても。



 前の自分が見ていた雲は、そういった雲。のんびり見られはしなかったもの。
 見上げる時間はたっぷりあっても、いつも心に仲間たちのことが引っ掛かっていたものだから。
(今だと、ゆっくり…)
 こうして考え事だって出来る。仲間たちや白いシャングリラのことは、何も心配しないまま。
 SD体制の時代は遠い時の彼方で、今は本当に平和な時代。考え事だって、好きに選べる。空に浮かんだ雲を見ながら、色々なことを。
 雲の上には天国があるし、白い翼の天使たちもいる。きっと自分は、其処から来た。青い地球の上で新しい命と身体を貰って、ハーレイと生きてゆけるようにと。
 残念なことに、天国の記憶は無いけれど。…ハーレイだって、何も覚えていないのだけれど。
(雲の隙間から、光が射したら…)
 地上に向かう光の道が空にあったら、「天使の梯子」の名前で呼ばれる。天使たちが使う、空と地上を結ぶための梯子。
 そういう時に空を観察したなら、雲の端から天使が覗いているらしい。眩しい光の中に紛れた、遠い空にいる天使の顔を見られるチャンス。
(天使の梯子が無くっても…)
 天使が何処かにいないかな、と目を凝らしてみる。雲の端っこに見えはしないかと、翼を持った天の使いが顔だけを出していないかと。天使を探すだけでも楽しい、雲を仰ぐこと。
(それに、雲の形…)
 色々な形の雲がある上、同じ雲でも形が変わる。空の上の気流や、湿度のせいで。
 見る間に形が変わってゆく雲もあるし、同じ形を暫く保ち続ける雲も。
(ホントに見てるだけでも楽しい…)
 モコモコとした雲の羊がいたり、丸くなった猫のように見えたり。空に浮かんだ雲の彫刻。どの彫刻も雲で出来ているから、すぐに崩れてしまうけれども。
(崩れちゃっても、また違う形…)
 羊が猫になったりもする。猫が龍みたいになることだって。
 素敵だよね、と眺めていたら、雲の一つが隠した太陽。空を悠々と流れる間に、太陽の道と交差して。太陽の顔を隠す形で横切って。
 たちまちサッと陰ったけれども、雲が通り過ぎたら出て来た太陽。元の通りに、青い空の上に。



 一瞬だけの曇り空。ほんの一部だけ、雲の影に入っていた所だけで「消えた」太陽。通り過ぎた雲の下にいなかった人は、陰ったことさえ知らないだろう。青空に白い雲があるだけで。
(面白いよね?)
 太陽が消えてしまった所と、そうでない所。雲の下にいたか、いなかったかの違いで変わる。
 こういうのだって楽しいよ、と考えていたら気が付いた。前の自分が生きた時代のことに。
(シャングリラは雲の中だったけど…)
 いつもアルテメシアの雲海の中を飛んだけれども、赤いナスカでは違っていた。前の自分は深く眠っていたから、ナスカに降りてはいないのだけれど。
(ナスカに着いたら、シャングリラは宇宙に浮かんだままで…)
 地上に降りようと決めた仲間は、赤い星へと降下した。何機ものシャトルで、船を離れて。
 踏みしめる大地を手に入れたミュウ。若い世代が夢中になった、赤い星。
 その星にあった二つの太陽の光や、恵みの雨の話だったら、今のハーレイに聞いたけれども…。
(雲の話は聞いていないよ?)
 シャングリラから離れて、皆が仰いだ空の雲。ラベンダー色だったというナスカの空に、幾つも浮かんでいただろう雲。
 その雲たちは嫌われ者だったのか、愛されたのか。
(曇っちゃったら、お日様の光が遮られるから…)
 作物に光が届かなくなる。直ぐに晴れればいいのだけれども、曇ったままなら、気を揉む仲間もいたかもしれない。「こんな空模様で大丈夫かな」と、収穫のことを心配して。
(お日様の光を、うんと沢山浴びないと…)
 甘くならない果物もあるし、トマトなどの野菜もそうかもしれない。酸っぱくなるとか、綺麗な色にならないだとか。
 それに季節が冬だったならば、太陽が隠れてしまうと寒い。雲に覆われて消えてしまったら。
(…寒くなったり、野菜が美味しくならなかったり…)
 雲にはそういう面もあるから、嫌われたろうか?
 それとも、今の自分みたいに「眺めて楽しむ」ものだったろうか。雲海の中を飛ぶ船と違って、いつでも空を仰げたから。雲の形を観察することも出来たから。
 「今日は羊だ」とか、「あれは猫だ」とか、雲の彫刻を探すことだって。



 ナスカの雲は嫌われていたか、愛されていた雲だったのか。…前の自分はまるで知らない。深く眠ったままでいたから、目覚めた時には滅びの時が迫っていたから。
 もちろん今の自分も知るわけがなくて、想像の域を出ないもの。ナスカの雲を、仲間たちがどう見ていたのかは。
(えーっと…?)
 答えを出せる人がいるなら、ハーレイだけ。赤いナスカにも降りたキャプテン・ハーレイ。
 今のハーレイはその生まれ変われりだし、記憶もきちんと引き継いでいる。ハーレイに訊けたらいいんだけれど、と考えていたら、聞こえたチャイム。
(…ハーレイだ!)
 この時間なら、と窓に駆け寄ったら、門扉の向こうで手を振るハーレイ。生き証人が訪ねて来てくれたのだし、ハーレイと部屋でテーブルを挟んで、向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、雲って嫌われていた?」
 空にある雲、嫌われてたのか、それとも好かれていたのか、どっち…?
「はあ? 雲って…。何の話だ?」
 昔の地球の雲の話か、俺が教えている古典の世界の。…まあ、雲によって色々なんだが…。
 めでたいと喜ばれる雲もあったし、不吉だと嫌われた雲もあったが…?
 喜ばれた雲にも色々あって…、と話し始めたハーレイの言葉を遮った。「そうじゃなくて」と、「前のぼくたちの頃の話」と。
「ぼくが知りたいのは、ナスカの雲だよ。あそこの雲はどうだったのか」
 ナスカの太陽や雨の話は聞いたけど…。今のハーレイから、いろんな話を。
 虹の話も聞いたけれども、雲の話は聞いていないよ。…ナスカの雲って、嫌われてたの?
「嫌うって…。どうして雲を嫌うんだ?」
 何処からそういう話になるんだ、大昔の人間じゃあるまいし…。雲は雲だぞ?
 めでたい雲でも、不吉だと言われた雲でも雲の一種だ、とハーレイは「雲」で片付けた。迷信が生きていた時代ならばともかく、SD体制の時代に嫌いはしない、と。
「そうだろうけど…。でも、シャングリラはずっと雲海の中だったし…」
 展望室の窓の向こうを隠していたのは、いつだって雲。あれじゃ好きにはなれないよ。
 ナスカに着いた後になったら、雲はお日様を隠してしまうから…。



 嫌われそうな感じだけれど、と説明をした。
 雲が太陽を隠してしまえば、降り注ぐ筈の日射しが地上に届かなくなる。作物を育てたり、実を甘くしたりする光が。
 それに冬なら、人間だって「寒い」と感じる。日が照っていたら暖かいのに、雲が太陽を覆って隠してしまったら。
「今のぼくだと、雲があるな、って見上げておしまいだけど…。あるのが当たり前だもの」
 前と違って、空を飛ぶのは無理だから…。ホントに見ているだけなんだけど。
 今日も見ていて、シャングリラの頃を思い出したら気になったんだよ。ナスカに降りた仲間たちには、雲はどういうものだったかな、って。
「なるほどな…。それで雲だと言い出したのか。ナスカの雲なあ…」
 どうだったっけな、とハーレイも考え込んでいる。「あそこじゃ、雲は当たり前に空に浮かんでいたから」と、「前の俺もそれほど気にしてないな」と。
「そうなんだ…。前のハーレイでも、そうだったんなら…」
 他の仲間もきっと同じだね、「雲だ」って空を見上げておしまい。好きとか嫌いとか、そういう気持ちは生まれないままで。
「そんなトコだろうな、なんと言ってもただの雲だし」
 アルテメシアの雲海の方なら、雲は大事なものだったが…。消えたりしたなら、シャングリラが外に出てしまうから。…ステルス・デバイスが作動してても、そいつはキツイぞ。
 監視衛星からは捉えられなくても、視認できる距離に船がいたなら見付かっちまう。正体不明の大型船だ、と調べられたらおしまいだしな?
 元はコンスティテューション号だった船だとバレちまうから、とハーレイが言っている通り。
 「未知の大型船」と認識されたら、固有周波数から特定可能な船の正体。
 記録の上から、いつ消えたのか。何処で消えたか、此処にあるなら、乗っているのは何者かも。
「そうだっけね…。アルテメシアで雲が消えたら、ホントに大変」
 だからいつでも雲の中を飛んで、雲海のデータを集め続けていたんだっけ。
 一年中、消えないって分かっていたって、星が相手じゃ何が起こるか分からないから…。
 なんのはずみで気流が変わるか、雲の流れがどうなるのかは、誰にも正確に読み取れないもの。
 何かありそうだ、って予兆があったら、航路を変えて飛ぶくらいしか出来ないものね。



 アルテメシアでは大切だった、雲海のデータを集めること。雲が厚い場所を常に選んで、雲海の中を飛び続けること。
 けれど、ナスカでは雲の海はもう、必要なかった。懸命に雲に隠れなくても、人類軍が来たりはしない。船から降りて地面にいたって、何も襲っては来ないのだから。
「…ナスカの雲だと、あっても無くても、関係ないよね」
 あれが無ければ困っちゃう、っていうわけじゃないから。…アルテメシアの雲と違って。
「うむ。太陽や雨とは違うからなあ、星の上にいても、直接、影響を受けたりはしない」
 お前の言ってる作物にしても、旱魃だとか、大雨だったら、皆、大慌てをしたんだろうが…。
 雲が太陽を隠した程度じゃ、そうそう困りはしなかったろう。長雨となったら、話は別だが。
 しかし、大雨や長雨だったら、問題は雨の方でだな…。それを降らせてる雨雲の方は、さっさと消えてくれればいいのに、と思われておしまいだったんじゃないか?
 もっとも、大雨は降っちゃいないし、雨は喜ばれていただけだ。恵みの雨だと、「これで作物がよく育つだろう」と。
 そんな具合だから、誰も雲には注目しない。…隠れ家だったわけでもないしな、アルテメシアの頃と違って。
 だが、待てよ…?
 本当にそれで全部だったか…、とハーレイは顎に手を当てた。「雲だろう…?」と。
「他にも何かありそうなの?」
 ナスカの雲にも、何か素敵な話でもあった…?
 トォニィが生まれた時の雨で生まれた花園みたいに、とても特別で、みんなが喜びそうなこと。
 それとも、前のハーレイが虹を追い掛けて歩いてたような、ちょっと悲しいお話だとか…?
 前のハーレイ、虹の橋のたもとを探していたって言うから…。宝物が埋まっているって聞いて。
 眠ったままの前のぼくの魂、其処に埋まっていそうだから、って…。
「あれは悲しい話ではないぞ、俺にとっては希望の一つだ。虹を追い掛けて歩いてたのも」
 前のお前に目覚めて欲しくて、それを考え付いてだな…。
 歩いている時は、ちゃんと幸せだったんだ。「今日こそ宝物を見付けてやろう」と。
 追い付けないままで虹が消えても、次の機会がまたあるだろう?
 ガッカリしながら歩いていたって、希望までは消えちゃいないんだからな。



 其処の所を間違えるなよ、と訂正してから、またハーレイは考えている。「何だった?」と。
 ナスカにあった雲の話を、それに纏わるらしい記憶を。
「雲には違いなかった筈だと思うんだが…。しかし、俺には縁のないことで…」
 キャプテンの俺が無関係なら、若い世代の連中だよな?
 あの星の上でだけ、意味があったか、何かいいことでもあったのか…。雲ってヤツで…。
 そうだ、その雲を使ってたんだ!
 ナスカにいた若い連中が、とハーレイがポンと叩いた手。「天気予報だ」と。
「…天気予報?」
 なんなの、それは?
 天気予報っていうのは、ホントに天気予報のことなの、今のぼくたちが知ってるような…?
 今日は一日晴れるでしょうとか、明日は午後から雨になりますとか、そういう天気予報のこと?
 ぼくは他には知らないけれど、と首を傾げた。天気予報は天気予報で、この先の天気を予想するもの。傘を持たずに出ても大丈夫か、持って出た方がいいのかなどと、暮らしの参考になる予報。
 農家の人やら、海で漁をする漁師だったら、仕事などにも役立てる。
 けれど、ハーレイは「雲だ」と言った。雲を使った天気予報と言われても…。
(…天気予報は、気象衛星とかを使っているんじゃなかった?)
 今の時代も、前の自分が生きた時代も、基本の仕組みは変わらない筈。白いシャングリラでも、似たようなことをやっていた。船の周りの雲海の動きを読むために。
「お前、すっかり忘れているな? その様子だと」
 今の俺が得意としているだろうが、雲で天気を読むってヤツ。
 空模様を見て、「この雨だったらじきに止むな」とか、「予報じゃ晴れだが、降るぞ」だとか。
 あれも天気予報の一種ってヤツだ、観天望気と呼ぶんだがな。
 ずっと昔は、天気予報の仕組みは無かったモンだから…。雲だの風だの、自然の動きを観察して天気を読んでいたんだ。漁師も、作物を育てる農家も。
「雲の天気予報…。今のハーレイ、そういえば得意だったっけね」
 でも、ナスカでそれをやってたの?
 雲の流れや形を眺めて、晴れになるとか、雨になるとか…?
「やっていたとも。…もっとも、そいつをやっていたのは俺じゃないがな」
 前の俺じゃなくて、若い世代だ。さっき、お前に言った通りに。



 ナスカに入植した連中だな、とハーレイは懐かしそうな顔。「あいつらだった」と。
 人類が放棄した植民惑星、かつてジルベスター・セブンと呼ばれていた星。その星にフィシスが「ナスカ」と名付けて、何機ものシャトルが降下していった。
 其処で暮らそうと夢を抱いた、若い世代のミュウたちを乗せて。彼らの希望と、未来への大きな夢を積み込んで。
 そうして始まった、ナスカでの日々。踏みしめられる地面の上で。
 赤いナスカに降りたからには、必要なものが天気予報。様々な作物を育ててゆくにも、ナスカで暮らしてゆくためにも。
 作物を上手く育てるためには、気温などのチェックが欠かせない。寒くなりそうなら、そうなる前に保温をするとか、暑くなりそうなら早い間に水を撒くとか。
 人間の暮らしの方も同じで、外に出掛けて作業をするなら、準備するものが日によって変わる。雨はシールドで防ぐにしたって、作業の方はそうはいかない。シートで覆って中断するとか、最初から作業を延期するとか。…予定の作業を、別の仕事に切り替えたりして。
 防水用のシートを持って出掛けるのか、それは持たずに出ていいのか。作業そのものを、屋内のものに切り替えるのか。持ってゆく工具や道具なんかも、そっくり変わってしまうとしても。
 そういったことを決めてゆくには、天気予報が必要だった。雨になるのか、晴れるのかと。
 シャングリラの中だけで暮らした頃なら、一部の者しか気にしなかった天気予報。
 アルテメシアの雲の流れや、他の様々な気象データは、ブリッジクルーだけが見れば良かった。船の航路を決めてゆくのに、それらは必須のデータだから。
 長い年月、船の仲間が見てもいなかった天気予報。この先、どういう天気になるか。どう天候が変わってゆくのか、変わるタイミングは、どの辺りなのか。
 それらがナスカで、皆に共有されることになった。赤い星に降りた若い世代に。
 ナスカでも気象観測は可能だけれども、シャングリラの方が遥かに優れた機能を持っていた船。長い年月、アルテメシアで観測を続けていただけに。
 もちろん船のデータベースにも、膨大な情報が入っていた。人類が暮らす都市があった幾つもの植民惑星や育英惑星、其処で得られた観測データ。
 船のコンピューターに計算させれば、ナスカでの天気予報も可能。衛星軌道上に停泊した船で、ナスカを観測し続けながら。どの雲がどう動いてゆくのか、風の流れはどう変わるかと。



 白いシャングリラで弾き出された、計算の結果。赤いナスカの天気予報。
 それは直ちに、地上で暮らす仲間たちの所に届いたけれども…。
「やっぱり外れちまうんだ。…どんなに計算し直してみても、これで確実だと思っていても」
 アルテメシアにいた頃だって、常に観測し続けてないと、急に変わるってことがよくあった。
 あの頃よりも遥かに技術が進んだ、今の時代の天気予報だって、百パーセントじゃないだろう?
 だからだな…。仕方ないっていうヤツだよなあ、ナスカで予報が外れちまっても。
 そうは言っても、頼りにしていた連中からすれば、とても納得できないわけで…。予定していた作業がパアとか、作業を控えて別のにしたのに、雨なんか降りもしなかったとか。
 朝から晩まで快晴でな…、とハーレイが浮かべた苦笑い。今の時代でも、よくあること。予報がすっかり外れてしまって、持って出た傘が荷物になっただけで終わるとか。
 赤いナスカで天気予報が外れた時には、文句を言っていた仲間たち。
 入植地からは遠すぎて見えない、白いシャングリラが浮かぶ方を仰いで、「何やってんだ」と。
 けれど、彼らは次第に気付き始めた。
 ラベンダー色の空の上にある、雲の形や流れなど。…それが天気と共に動いていることに。
 何処に雲が湧けば雨になるのか、あるいは雲は其処にあるだけで晴れるのか。
「…それって、今のハーレイみたいに?」
 じきに晴れるぞ、って言ってるみたいに、ナスカの仲間も予報をしてたの?
 雲の形だとか、どっちの方に流れて行くかで、雨が降るのか、降らないのかを…?
 若い世代の仲間だよね、と赤い瞳を瞬かせた。前の自分がアルテメシアで救い出させた、大勢のミュウの子供たち。彼らが育って、ナスカに降りた。「あの子供たちが、天気予報を?」と。
「そういうことだ。今の俺と同じに、読み始めたんだな、雲の動きを」
 ナスカの上で暮らす間に、色々な経験を積んで知識を増やしていって。
 シャングリラの方で出した予報が外れちまったら、そいつに腹を立てたりしながら。
 あの星と一緒に暮らしていれば、星の気分にも詳しくなる。シャングリラの中で、観測データを見ているだけのヤツらと違って。
 あっちの方に雲が出たなら、降るだとか。…あの雲なら、じきに消えるとか。
 シャングリラから届く予報と、ヤツらの経験。それを組み合わせりゃ、けっこう当たった。
 だが、季節によって変わっちまう部分も沢山あるから、すっかり定着する前に…。



 赤いナスカは燃えてしまった。キースが放ったメギドの炎で、跡形もなく。
 ミュウの安住の地になるよりも前に。…雲の予報を完成させて、次の世代に伝える前に。
「それでも、ヤツらは楽しんでいたな。自分たちが作った天気予報を」
 たった四年しか暮らせなかった星だが、俺が視察に降りた時には、皆、生き生きとしてた。
 あいつらが出した予報が当たって、シャングリラが出した予報が外れた、と喜んだりして。もう何年か此処で暮らしたら、天気予報は自分たちだけでも出来るだろう、とな。
 そしていつかは、この星の天気をすっかり当ててみせる、と勢い込んでいたもんだ。「俺たちのナスカの天気くらいは、俺たちの力で当ててみせるぞ」と。
「そうなんだ…。みんな、ナスカで、ホントに幸せだったんだね」
 雲の予報を見付けたりして、シャングリラよりも当たる天気予報が出来たくらいに。…ナスカのことが好きでなければ、そんなの、絶対、無理だから…。
 毎日、ナスカを観察してなきゃ、出来るわけがないことなんだから。…雲の予報なんて。
 その方法で、いつか自分たちで天気予報をしようと、みんなはナスカで思ってたのに…。
 でも、それよりも前に、そのナスカは…。
 メギドの炎で焼かれちゃった、と俯いた。あの星に降りた若い世代は、前の自分も知っていた者ばかりだから。…白いシャングリラで育った世代で、幼かった頃に船に迎えた仲間たち。
 彼らはどんなに幸せな日々を、あの星で送ったのだろう。…ナスカの空を流れてゆく雲、それを見上げて生きていたろう…?
 彼らが夢を膨らませた星は、夢と一緒に儚く消えた。あの星で生まれた、自然出産児のトォニィたちだけを残して、暗い宇宙に。…ラベンダー色の空も、其処に浮かぶ雲も炎に焼かれて。
「残念だったが、仕方あるまい」
 前の俺たちがナスカを選んだのも、それがメギドで滅ぼされたのも、歴史の流れというヤツだ。
 ミュウの時代を手に入れるためには、ああなるしかなかったんだろう。
 前のお前も失くしちまって、とんでもないことになった星だが…。
 あの時代に生きた俺から見たなら、疫病神のような星だったのがナスカなんだが…。
 そんな星でも、雲を眺めて楽しめた時代もあったんだ、とハーレイは微笑む。
 「雲で予報をしていたんだぞ」と、「ほんの短い間でもな」と。
 前のハーレイは、それを確かに見ていたから。…雲の姿で天気予報を始めた、若い仲間たちを。



 ラベンダー色だったという、ナスカの空。其処に幾つも浮かんでいた雲。
 幼かった頃にシャングリラに来た若い世代は、雲を仰ぐのは初めてと言っても良かっただろう。養父母に育てられた時代は短かったし、シャングリラで暮らした年数の方が遥かに長い。
 アルテメシアの地上で仰いだ雲の記憶は、すっかり薄れてしまっていた筈。自分が本当にそれを見たのか、映像などで仕入れた知識か、それさえ区別がつかないほどに。
 シャングリラの中では、雲と言ったら「展望室の窓の向こう」を覆い尽くすもの。太陽が昇る、昼の間は真っ白に。太陽が沈んだ後の夜には、闇を含んだ重たい色に。
 そんな雲しか知らなかった世代が、赤いナスカで雲と出会った。空にある雲を仰いで暮らして、天気予報までするようになった。「あそこに雲があるから雨」とか、「雨は降らない」とか。
 今のハーレイは、それが得意で、観天望気という言葉も口にしていたけれど…。
「ねえ、ハーレイ…。前のぼくは、それを知らないよ」
 雲の形や流れなんかで、天気を読むっていう方法は。…雲の予報は。
 ナスカには一度も降りてないから、そんなの、耳にしてもいないし…。眠っていたから、教えてくれる人も一人もいなかったしね。
 アルテメシアに隠れてた頃も、前のぼく、やっていないから…。
 雲で天気が分かるなんてことには、気付いてさえもいなかったから…。
 何度も地上に降りてたのにね、と零した小さな溜息。「前のぼくって、駄目だったかも…」と。
「駄目ってことは無いだろう。前のお前は、立派なソルジャーだったんだから」
 とはいえ、雲の予報ってヤツに関しちゃ、そうなるのかもしれないな。アルテメシアも、星には違いなかったんだし、やろうと思えば出来ただろう。…雲の予報も。
 雲海だらけの星ではあったが、育英都市は雲海を避けて作ってあったしな。
 アタラクシアとか、エネルゲイアの天気予報は出来ただろうさ、とハーレイは笑む。
 「前のお前にその気があったら、恐らく出来ていただろう」と。
「…雲の予報を知っていたら、っていうことだよね?」
 そういうやり方があるって話を、前のぼくが何処かで読んだりしていたら…。
 ううん、ナスカで雲の予報をやってた若い仲間たちは、そんなの知らなかったんだし…。
 ナスカで暮らして覚えたんだし、前のぼくでも出来た筈…。
 雲の予報は知らなくっても、アタラクシアのも、エネルゲイアの天気予報も…。



 若い世代の仲間たちが気付いて始めたのなら、前の自分にも出来たのだろう。アタラクシアや、エネルゲイアの天気予報が。…雲の予報が。
 予知能力など使いもしないで、雲の形や流れなどを読む天気予報。白いシャングリラのデータも使わず、コンピューターにも計算させずに。
「雲の天気予報…。今のハーレイは凄く得意だけど、コツはある?」
 ぼくにはちっとも分からないけど、天気予報をするためのコツが。…ナスカでも出来た天気予報だし、前のぼくでも、その気になったら、アタラクシアやエネルゲイアで出来たんなら。
 コツはあるの、と興味津々で投げ掛けた問い。今のハーレイは、雲の予報の名人だから。
「雲の予報のコツってか? これというコツは無いんだが…」
 あるとしたなら、場数を踏むってことだろうな。ナスカでやってた若い世代は、そうだった。
 あの星の上で毎日暮らして、新鮮だった空を見上げて、そして覚えていったんだ。こういう雲が出て来た時には、天気ってヤツはこう変わるんだ、と。
 今のお前がやりたいのならば、毎日、窓から見ているだけでも、ある程度まではいけるだろう。
 関心を持って、きちんと雲を観察してれば。
 どういう具合に流れて行ったら、どんな形なら、その後の天気はどうなるのか。
 天気の変化と結び付けて覚えることが大事だ、と教えられた。ただ漠然と雲を見ていても、雲の予報は身につかない。雲や風向きをちゃんと覚えて、天気と結び付けないと。
「難しそうだね、雲の予報って…」
 雲を観察する所から始めて、それを覚えるだなんて…。その後のお天気、どうなったのかも。
 何度も何度も見ている間に、やっと方法が見付かるんだね…?
「そういうことだな、自分で一から始めるんなら」
 ナスカのヤツらはそうしたわけだが、幸いなことに、今はデータというヤツがある。
 データと呼ぶより、言い伝えとでも呼びたいんだがな、俺の好みとしては。
 この地球の上で生きた先人、その人たちが集めてくれた情報を生かしてやればいい。雲の予報をする名人は、代々、そうして来たもんだ。何世代もの積み重ねで。
 人間が地球しか知らなかった頃には、その予報しか無かった時代もあったしな?
 俺の場合も、そうした知識を幾つも貰って活かしてる。
 あの雲だったら、もう確実に降るだとか…。あの雲は雨が降る雲じゃないとか。



 雲の形だけで、幾らかは分かるものらしい。雷雲だったら、この形、といった具合に。
 それに風向きを加えてやれば、雷雲が来るかどうかが分かる。頭上の雲の流れを読んだら、風の方向が分かるから。
「雷雲ってヤツは基礎の基礎だな、形も覚えやすいだろう?」
 あれが雲の予報の入門編ってトコか、子供でも直ぐに覚えられるから。雷雲の形と、風向き。
 他に面白いヤツと言ったら、場所が変わると当たらなくなる予報だな。
 ナスカでも使われていた方法なんだが、雲が湧く方向や風向きなんかで決まるヤツ。あの方向に雲が湧いたら、必ず雨になるだとか…。この方向に雲が流れて行ったら、明日は晴れるとか。
 その手のヤツは、地形で変わってしまうんだ。
 同じような雲があったとしたって、場所が違えば、もうそのままでは当て嵌まらない。すっかり逆になるってこともあるほどだから。
 こっちは迂闊に使えないぞ、とハーレイは鳶色の瞳で見据える。「覚えたからって、何処ででも使えるモンじゃない」と。
「そうなんだ…。地形で変わってしまうっていうのは分かるけど…」
 山に囲まれた場所か、そうじゃないかでも違うんだろうし…。
 おんなじように山があっても、その山の向こうがどんな風かは、何処でも同じじゃないものね。
 山の向こうは海があったり、ずうっと山が続いていたり…、と考えてみる。地理の授業で習った地図を思い浮かべて、「ホントにいろんな場所があるよね」と。
「よしよし、分かってるじゃないか。変わっちまう理屈というヤツを」
 しかし、世の中、理屈だけでは済まないってな。
 この地形だからこうだろう、と決めつけるのは素人判断ってヤツで、愚の骨頂だ。何処にでも、色々な気象条件がある。…初めて其処に行ったヤツには、分からないことが山ほどな。
 だから、釣りなんかで知らない所へ出掛けた時には、だ…。
 自分では「こうだ」と思っていたって、それを使っちゃ駄目なんだ。
 思い込みで勝手に動いちまう前に、地元の人の考えを聞く。今日の天気はどうなりますか、と。
 そうすりゃ親切に教えて貰えて、天気予報よりも良く当たるってな。
 「今日は晴れだと言ってましたが、雨になりますよ」と言われたりもして。
 その手の情報、大切なんだぞ。自然が相手の釣りなんかだと。



 晴れていたって、急に荒れる時もあるもんだから、とハーレイは首を竦めてみせた。
 「そういった時に小さな船で沖に出てたら、大変だぞ?」と、恐ろしそうに。
「今の時代はサイオンがあるから、そう簡単に遭難したりはしないんだが…」
 それでも漂流しちまったりしたら、大勢の人に迷惑をかけてしまうしな?
 釣りに行った人が帰って来ない、と船を出したり、場合によっては空からも捜索するんだから。
 いくら思念波で連絡が取れても、船を見付けて連れ帰らないと駄目だろう?
 嵐で流された船の中だと、乗ってる人間もヘトヘトだ。食料や水も流されちまって、腹ペコってこともあるんだから。
 そうならないためにも、事前の準備が大切なのだ、と説くハーレイ。天気予報を確かめた上で、地元の人にも話を聞く。自分の考えだけで決めたりしないで、慎重に。
「ふうん…。雲の予報って、難しいんだね」
 ナスカでもやってた予報なんだし、簡単なのかと思ったけれど…。ホントにそれを使う時には、自分一人で決めてしまっちゃ駄目なんだ…。
「そうでもないぞ? いつも住んでる町の中なら、何も心配要らんしな」
 其処が自分の地元なんだし、他所から来た人に教える方の立場だろうが。こうなりますよ、と。
 他所の町でも、何度も通えば自然と覚える。
 ナスカでさえも、ちゃんと予報をしてたんだから。たった四年しか住めなかったのに。
 それと同じだ、そっちも場数が大切だ。色々な場所に出掛けて行っては、其処ならではの天気の動きを覚えることが。
 俺も親父に連れて行かれて、あちこち出掛けて、けっこう覚えた。…色々なことを。
 お蔭で、この町と隣町なら、ほぼ大丈夫だな、雲の予報は。
 滅多に外れん、とハーレイは自信たっぷりな様子。そして実際、ハーレイの予報は良く当たる。天気予報が「晴れです」と言っても、ハーレイが「降るぞ」と言った日は雨。
「ぼくも覚えたいな、雲の天気予報…」
 難しそうでも、覚えたら役に立ちそうだから。
 傘を持ってた方がいいのか、持って行かなくてもいいか、自分で分かれば素敵だもの。
 天気予報だけだと、外れちゃう時も多いから…。
 それに、「所によっては雨」って言うでしょ、あれがどうなるか分かるといいよね…。



 天気予報で、気になる言い回しの一つ。「所によっては雨」というもの。
 予報の対象区域は広いし、何処で降るのかは分からない。そういった時に雲の予報が出来たら、きっと便利に違いない。「傘が要るよ」とか、「要らないよね」と自分で判断出来たなら。
「ふうむ…。お前がやるなら、まずは頑張って観察からだな」
 どの雲が出たら、どういう天気になったのか。そいつを覚えろ、窓から雲を何度も眺めて。
 先人の知恵も大切なんだが、自分の力で身につけたことは忘れない。
 現にナスカじゃ、本当に一からやったんだから。…あそこで暮らしていた連中は。
 もっとも、ヤツらを船に連れて来た前のお前は、そんな予報に気付きもしなかったようだがな。
 アルテメシアじゃ、何度も外に出てたのに…。
 雲を見上げる機会ってヤツも、前のお前には、山ほどあった筈なんだが…。
 それでも気付かなかったのか、とハーレイが言うから、逆に質問してやった。まるで同じのを。
「じゃあ、ハーレイは気付いてたの?」
 前のハーレイは、その方法を知ってたって言うの、船の外には出ていなくても…?
 アタラクシアとかエネルゲイアの方に動いていく雲、何度もデータを見ている内に…?
「おいおいおい…。前のお前でも気付かないんだぞ、俺に分かると思うのか?」
 俺もナスカで目から鱗というヤツだ。「そんな方法があったのか」と。
 言われてみれば、確かに筋は通ってた。雲は大気の流れで動くし、それで予報は可能だからな。大気の流れや雲の性質を掴んでいたなら、答えを弾き出せるんだから。
 もっとも、そいつを知った後でも、やはりシャングリラで気象データを見ている方が…。
 俺の場合は主だったがな、というのが前のハーレイ。
 白いシャングリラを纏め上げていた、船の最高責任者。今は英雄のキャプテン・ハーレイ。
 船を預かるキャプテンなのだし、天気予報を勘だけで決めてはいけないから。
 赤いナスカでそれを覚えて、「こうなるだろう」と思っても。
 シャングリラのコンピューターが計算して出した天気予報を見て、「これは外れる」とナスカに送る前に手直ししたくても。
 キャプテンは、それをしてはいけない。
 たとえナスカの天気予報でも、自分一人の判断だけでは変えられない。「こうなるんだ」という答えを自分が持っていたって、それは雲の予報。ナスカで暮らす仲間に習った、雲の形を読み取る不思議な天気予報。…SD体制の時代には誰も、それを使いはしなかったから。



 前のハーレイは使わなかった、雲の天気予報。赤いナスカで聞いてはいても。
 「そっちの方が当たるようだ」と感じてはいても、白いシャングリラのデータが全て。其処から計算される答えが「本当のこと」で、赤いナスカの天気予報。
 「また外れた」と言われていても。ナスカの仲間は、雲の予報を使っていても。
「…今の俺なら、あの予報でも使えるんだがなあ…」
 こういう雲が出たからこうだ、と自信を持って言ってやれるし、それで問題ないんだが…。
「だよね、みんなの命は懸かってないもんね」
 学校で天気予報をしたって、誰の命も懸かってないから…。生徒も、それに先生たちだって。
「そうなんだよなあ、柔道部員のヤツらも別に困りはしないぞ。俺の予報が外れても」
 せいぜい、降らないと言っていた筈の雨に降られて濡れる程度で…。あいつらだったら、濡れるよりかはシールドだろうな、ちゃっかりと。…俺を信じてしまったお蔭で、傘が無いなら。
 そんな平和な時代なんだし、お前もゆっくり覚えていけ。雲の予報を。
 観察するのが一番だぞ、とハーレイがまた繰り返すから、「でも…」と恋人の瞳を見詰めた。
「雲の観察は頑張るけれども、ハーレイもぼくに教えてよ?」
 大勢の人が雲を見上げて、覚えた知識も大切なんでしょ。何世代もの経験ってヤツの積み重ね。
 ハーレイもそれを使ってるんだし、ぼくに教えてくれるよね?
 いつか一緒に出掛けられるようになったら、いろんな場所で。
「もちろんだ。…この町でも、隣町でもな」
 俺の師匠の、親父と一緒に教えてやるさ。あちこち一緒に出掛けて行っては、雲を指差して。
 「あの雲がこう流れているから、今日の天気は…」といった具合にな。
 楽しみに待っていることだ、と約束をして貰ったのだし、雲の予報を覚えたい。赤いナスカで、若い世代の仲間たちもしていた天気予報。
 それを地球の上でやってみる。…まずは窓から雲の観察、其処から始めて。
 天気予報も頼もしいけれど、自分で補足出来たら幸せ。
 いつかハーレイに教えて貰って、とても上手になれたらいい。
 ハーレイと二人で「降るんだよね?」と傘を持ったり、「大丈夫」と置いて出掛けたり。
 そういう予報が出来たらいい。
 雲の形を二人で見ながら、「明日は晴れるね」などと、雲が流れてゆく方向を眺めながら…。



            雲の天気予報・了


※雲を仰ぐ機会が無かった、アルテメシア時代のミュウたち。ナスカで出会った空の雲。
 若い世代は雲を眺めて、天気予報が出来たようです。今のブルーも、ハーレイに習える予定。
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(今日はハーレイの古典の授業…)
 楽しみだよね、とブルーが思ったバスの中。朝、学校へと向かう路線バス。
 いつも乗っているバスだけれども、幸いなことに座席は常に一つくらいは空いているもの。朝の通勤時間帯だけれど、乗客たちの行き先のお蔭か、はたまた乗ってゆく区間のせいか。
 今日も乗ったら直ぐに座れたから、通学鞄を膝の上に置いて、学校のことを考える。ハーレイに会える、古典の授業。それがあるのが今日だから。
 ハーレイは学校の教師だけれども、まるで会えずに終わる日もある。お互いが通る廊下や階段、それが全く重ならなくて。姿さえもチラと見られないまま、放課後になってしまう日も。
(古典がある日は、もう絶対に会えるんだから…)
 自分のクラスで座っていたなら、ハーレイの方からやって来る。「ハーレイ先生」の貌で、古典を教えに来るのだとしても。…二人きりで話は出来なくても。
(運が良ければ、当てて貰えるし…)
 そうなれば、自分が答える間は、ハーレイと一対一の時間。教師と生徒の間柄でも、ハーレイを独占できるのは確か。「当てて貰えたら嬉しいよね」と出てくる欲。
 早くハーレイに会えないだろうか、学校に着いて、古典の時間が始まって。
(宿題も、ちゃんとやってあるもの…)
 ハーレイが出した古典の宿題。目を通すのはハーレイなのだし、宿題をするにも力が入る。他の科目で出た宿題より、ずっと真剣に取り組みたくなる。「頑張らなくちゃ」と。
(感想文だけどね?)
 問題を解いてゆくのではなくて、ハーレイが指示した古典を読むだけ。普通の本と全く同じに。
 読み終わったら、感想を書く。自分がそれをどう感じたか。何処が気に入ったのか、とか。
(古文が苦手な生徒だったら、うんと困るだろうけれど…)
 そうでなければ、読書感想文を書くのと何処も変わらない。自分が思ったことを書くだけ。
 けれど古文がとても苦手な生徒も多いし、充分に設けられていた「宿題の時間」。
 提出期限が今日だっただけで、宿題はもっと前から出ていた。古文が苦手な生徒たちでも、最後まできちんと読めるように。…読み終わった後は、感想文を書くための時間も必要になる。
 宿題をやる時間はたっぷりあったし、早くに仕上げた。宿題が出た日に、早速、ハーレイが指示した古典を読んで。その日の間に、気になった箇所も書き出して。



 張り切って早く仕上げた宿題。感想文だから、「決まった答え」が無い宿題。何処のクラスも、生徒の数だけ違った答えがあるだろう。「こう思った」とか、「主人公は間違ってる」とか。
(そういう宿題なんだから…)
 ハーレイも採点するのではなくて、皆の感想を読んでゆく。書いた生徒たちを思い浮かべては、「あいつらしいな」と笑みを浮かべたりして。
 「ブルー」と名前が書いてあったら、熱心に読んで貰えるだろう。古典の授業では教え子の中の一人だけれども、本当は恋人なのだから。…それも生まれてくる前からの。
(感想文の中に、「ハーレイが好き」とは書けないけれど…)
 思いをこめて書き上げた。読みやすいよう、丁寧な字で。
 「頑張ったんだな」と分かって貰えるようにと、表現などにも気を付けて。「いいと思います」ばかりを繰り返すよりは、「素敵でした」とか、「感動しました」。
 もちろん誤字や脱字は論外、些細なミスも見落とさないよう、何度も何度も読み返して…。
(もう完璧…)
 書き直した所も幾つもあったものね、と考えた所でハタと気付いた。
 欠点など、もう何処にも無いだろう感想文。会心の出来で、自信満々なのだけれども…。
(昨夜、寝る前に…)
 ベッドに腰掛けて「明日は提出」と思っていたら、書き直したくなった箇所。頭に浮かんだ違う表現、そっちの方がずっといい。「どうして今まで思い付かないの?」と呆れたくらいに。
 書き直さなくちゃ、と鞄から出した感想文。読み返してみて、「やっぱりこっち」と消しゴムで消して、その部分を新しく書き直した。「この方がずっといいんだから」と。
 それから全体をまた読み直して、「これがピッタリ」と大満足。でも、その後に…。
(宿題、ちゃんと鞄に入れた…?)
 まるで記憶に残っていなくて、心配なことに自信も無い。「鞄に入れた」という自信。
 なにしろ、早くに仕上げてあった宿題。提出期限の今日が来るより、ずっと前から。
 それを何度も書き直したり、読み返したりしていたものだから…。
(感想文の置き場所、机の引き出しの中で…)
 其処から出しては、また戻す日々。書き直した日も、「読んだだけ」の日も。
 あまりに何度も、引き出しの中に入れたり、出したりしていたのだし…。



(もしかして、あの引き出しに…)
 戻しちゃってはいないよね、と慌てて鞄の中を覗いた。膝の上で開けて、手を突っ込んで…。
 まずは古典のノートの隣。次は教科書の方を調べて、「こっちかな?」と他の教科の方も見た。何も考えずに突っ込んだのなら、そちらに混じっていそうだから。
 鞄の中をゴソゴソ探って、底の底まで捜してみたけれど…。
 何処を調べても無かった宿題。入ってはいない感想文。ノートを端から広げてみたって、中には挟まっていなかった。鞄の中に無いのなら…。
(引き出しだ…!)
 書き直した後に鞄に入れずに、引き出しに入れたに違いない。何度も出し入れしていたせいで、自分でも全く意識しないで。
(やっちゃった…)
 家に置いて来てしまった宿題。それの提出期限は今日。
 ハーレイが古典の時間に集めて、持って帰って読む感想文。忘れて行ったら、赤っ恥で大恥。
(ぼくの宿題、出せないんだから…)
 宿題を集める方のハーレイはもちろん、クラス中の生徒が見るだろう。「やってないんだ」と。「家に忘れて来たんです」は、宿題をやらずに登校した生徒の「言い訳」の定番なのだから。
 普段に出される宿題もそうだし、夏休みなんかの宿題もそう。
 本当は「やっていない」というのに、「家に忘れました」と答える生徒。それは堂々と、まるで宿題は「完璧に出来ている」かのように。
(…家に帰って取ってこい、って言う先生は…)
 一人もいないし、皆、そうやって言い訳をする。「家に忘れて来ちゃったんです」と。
 だから自分が「本当のこと」を言ったって…。
(…宿題なんかやっていなくて、宿題が出たのも忘れてて…)
 提出できないというだけのこと。ハーレイから見ても、クラスメイトたちの目から見たって。
(宿題を家に忘れるなんて…)
 あんまりだよ、と自分の頭を叩きたい気分。よりにもよって、それを忘れて来るなんて。
 家に忘れたのが教科書だったら、他のクラスの誰かに頼めば借りられる。ノートなら別の教科のノートを使って、「古典のノートを持っている」ふり。
 でも、宿題だと、そうはいかない。借りるのも、「持っているふり」も。



 宿題を家に忘れて来たなら、「同じ宿題」をやるしかない。学校に着いたら、懸命に。
 出された問題を解くものだったら、友達に問題用紙を借りて。…生徒によっては、その答えまで丸写しにする「宿題のやり方」。自分なら、ちゃんと解くけれど。
 何かをノートに書き写すだとか、そういったものでも、頑張って書けばいいけれど…。
(感想文なんて、学校じゃ無理…!)
 レポート用紙や原稿用紙は手に入っても、とても書いてはいられない。時間が足りない。課題の古典は覚えていたって、その感想が丸ごと頭にあったって。
 時間が無いなら、感想文を書けはしなくて、提出することが出来ない宿題。…ハーレイが教室にやって来たって、「この前の宿題、集めるぞ」と、クラスをぐるりと見回したって。
 持ってはいない宿題は「出せない」。家に忘れたのが本当でも、結果が全て。ハーレイだって、意外そうな顔をするのだろう。「お前が宿題、忘れたってか?」と。
 どう聞いたって「やっていません」の意味でしかない、「家に忘れて来ました」という言い訳。かなり前から出ていた宿題だけに、余計に恥ずかしい。
(ハーレイの宿題、持って来るのを忘れるだなんて…)
 そのせいで「宿題をやっていない」ことになるなんて。
 ハーレイが聞いても、クラスメイトが聞いても、そうなってしまう。宿題を出さずに、「忘れて来ました」と、正直に本当のことを言っても。
(そんなの、嫌だ…)
 出来るわけない、と腕の時計を眺めた。今の時間は何時だろう、と。
 余裕を持って家を出るから、針が指している時間は遅くはない。学校が始まる時間を知らせる、チャイムの音。遅刻しそうな生徒が慌てる、あの音が鳴るのは、まだずっと先。
(まだ大丈夫…!)
 今だったら、きっと間に合う筈。宿題を取りに家に戻って、出直して来ても。
(帰って、取って来た方が…)
 宿題を忘れて恥をかくより、ずっとマシ。学校に着くのが少し遅れても、遅刻はしない。
 家に帰ろう、と降車ボタンを押した。「次で降ります!」と大急ぎで。
 いつもだったら、そのボタンを押すバス停には、まだ着かないのに。
 学校の側にあるバス停なら、もう少し先になるというのに。



 とにかく急いで帰らなきゃ、と降りたバス停。今までに降りた経験は無い。そんな所に用などは無いし、いつも窓から見ているだけ。
(初めて此処で降りちゃった…)
 けれど、余分な料金などは一切かからない。何ヶ月も先まで支払い済みで、鞄につけたチップを機械が読み取るだけ。その期間だったら、いつでも何処でも、乗り降り出来る仕組みのものを。
 側の横断歩道を渡って、道路の向かいのバス停に行った。家に帰るなら、そっちでないと。
(此処からだったら…)
 自分が使っているバスの他に、違う路線バスもあるらしい。家の方へと走ってゆくのが。
 二つもあるなら頼もしいよね、と時刻表を眺めてホッとしたけれど。じきに、どちらかのバスが走って来そうな時間なのだけれど…。
(……来ない……)
 待っているのに、時間通りに来てくれないバス。いつものバスも、違う路線のも。
 途中の道が混んでいるのか、ずっと向こうで道路工事でもしているか。
(街路樹の枝を切ってるのかも…)
 そういう時には、車線が減ってしまうもの。「工事中」だとか「剪定中」とか、理由が書かれた看板がドンと据えられて。場合によっては、誘導係の人までがいて。
(そうなっちゃった…?)
 直ぐに来そうなバスが走って来ないなら。…予定の時刻を過ぎているなら。
 腕の時計に視線を遣っては、バスが走って来る方を見る。「まだ来ないの?」と伸び上がって。
 何度もそれを繰り返していたら、ようやく見えた路線バス。他の車たちのずっと向こうに。早く来ないかと待って、待ち続けて、「やっと来たよ」と乗り込んで…。
(大丈夫だよね?)
 家の方へと走ってゆくバス、空いていた席に腰を下ろして考える。
 バスが来なくて、思った以上に無駄に時間を費やしたけれど、まだ学校には間に合う筈、と。
 いつも通りに余裕を持って家を出たから、始業のチャイムが鳴り響く前に学校に着ける。此処で家まで戻って行っても、家に忘れた宿題を取りに帰っても。
 けれど、遅れて走って来たバス。ずいぶん待ったし、これで戻って、またバス停から学校の方へ行くバスに乗るなら、到着時間は、多分ギリギリ。



 家の近くのバス停で降りて、腕の時計を確かめた。「ホントにギリギリになっちゃいそう」と。
 此処から家まで歩いて帰って、二階の部屋まで駆け上がる。引き出しに忘れた宿題を取りに。
 大切な宿題を鞄に入れたら、後は学校に戻るだけ。…時間は本当にギリギリだけれど。
(パパが家にいればいいけれど…)
 出勤前なら、頼んで車に乗せて貰おう。「会社に行く前に、ぼくを学校まで送ってよ」と。父の車なら速いし、安心。時刻表なんかも関係なくて、乗ったら直ぐに走り出すだけ。
(それなら、ギリギリなんかじゃなくて…)
 もっと早くに着ける筈だよ、と急ぎ足で帰って行った家。本当は走りたいのだけれども、万一の時を考えたならば、体力は残した方がいい。父はとっくに出掛けてしまって、残る手段は路線バスしか無いことだってあるのだから。
 急がなくちゃ、と速足で着いて、門扉を開けて庭に飛び込んだ。玄関まで一直線に走って、扉を大きく開け放ったら…。
「あら、ブルー?」
 どうしたの、と母が目の前で驚いた顔。掃除の途中か、庭へ出ようとしていたのか。
「忘れ物…!」
 取りに戻って来たんだよ、と返事しながら脱ぎ捨てた靴。そのままバタバタ二階に走って、机の引き出しから宿題を出して、鞄の中へ。
(これで宿題は、もう大丈夫…!)
 ちゃんと提出できるんだから、と鞄の蓋を閉めて、ポンと軽く叩いた。「大丈夫!」と、忘れて出掛けた自分に言い聞かせるように。
 そして大慌てで、階段を下へと駆け下りて行って…。
「ママ、パパは!?」
 まだ家にいるの、と母に尋ねた。階段の下に立っていたから。…忘れ物をした一人息子を、その行動を見守るように。
「パパって…。とっくに会社に行ったわよ?」
「本当に…!?」
 ど、どうしよう…。それじゃ送って貰えないよね、パパがいるかと思ってたのに…。
 パパの車で送って貰えば、学校、直ぐに着けるのに…!



 そう叫んだって、父は会社に出掛けた後。母は車を持っていないし、タクシーを呼んで貰うのも妙な話ではある。
(タクシーで来ちゃいけません、っていう決まりなんかは…)
 無いのだけれども、学校の前でタクシーから降りたら、目立つだろう。バス通学だって、自分が例外のようなもの。丈夫な生徒は同じ距離でも、自転車だったり、歩いていたり。
(ただでも目立っているんだから…)
 それがタクシーで乗り付けたならば、きっと注目を浴びる筈。「いったい何があったんだ?」と皆が眺めて、理由を訊かれるかもしれない。「今日は具合が悪いのか?」とか。
(そうだよ、って嘘はつけるけど…!)
 本当は宿題を忘れて取りに戻ったわけだし、いたたまれない気分になってしまいそう。一日中、朝の出来事が頭の中でグルグル、もちろんハーレイの授業中にも。
(そんなの嫌だよ…!)
 タクシーが駄目なら、残った手段は路線バスだけ。この時間ならば、本当にギリギリ。
 今、バス停に向かっているだろうバス、それを逃してたまるもんか、と家を飛び出して、全力で走った。普段はのんびり歩く道筋、それをバス停までまっしぐらに。
 途中で出会った近所の人にも、すれ違いざまに「おはようございます!」と叫んだだけで。
 バス停が見えたら、ラストスパート。目の前でバスに行かれたくはない。
(間に合った…!?)
 時刻表を見て、辺りをキョロキョロ。バスの後ろ姿などは無いから、走り去ってはいない筈。
 大丈夫だよね、と確認する間に、見えて来たバス。「あれに乗らなくちゃ」と気ばかり焦って、バス停の椅子に座って休みもしないで、やって来たバスに乗り込んで…。
(席、空いてない…)
 それほど混んではいないのだけれど、一つも無いのが座れる席。どの席にも先客が座っている。「次で降ります」と降車ボタンを押す人もいない。
 家から走って、息を切らしたままで立ち続けて、此処にいるのに。…バスに乗ったら、座れると思い込んでいたのに。
(…それに、信号…)
 いつも以上に引っ掛かる。タイミング悪く赤に変わって、其処で止まってしまうバス。
 「早く」と腕の時計を見ても。「間に合うよね?」と心配しても。



 どんどん過ぎてゆく時間。座れないのも辛いのだけれど、時間の方が遥かに気掛かり。
(もう本当にギリギリかも…)
 もしかしたら遅刻しちゃうのかも、と焦る間に、なんとかバスは学校の近くのバス停に着いた。とうとう最後まで座れなかったし、息は乱れたままだけれども…。
(走らなくっちゃ…)
 でないとチャイムに間に合わない、と鞄を手にして必死に走った。バス停から校門までの間を、もう文字通りに死力を尽くして。…これが体育の授業中なら、見学に回るだろう身体に鞭打って。
(息が苦しくて…)
 心臓の鼓動も激しいけれども、遅刻は出来ない。それでは此処まで来た意味がない。遅刻してもいいと思うのだったら、走ってバスには乗らないから。のんびり出掛けて遅刻するから。
 そうして目指す校門の前に、先生がいるということは…。
(ホントにギリギリ…!)
 「じきに閉めるぞ?」と見張っているのが、先生の役目。チャイムが鳴ったら、閉まってしまう学校の門。それから後に登校したなら、脇の小さな門の方から…。
(入ることになって、先生が名前を確認して…)
 遅刻者のリストに入れられる。大きな門から入れたならば、其処に名前は載らないのに。
 その前に間に合いますように、と転がるように走り込んだ所でチャイムが鳴った。学校に入った生徒たちにも、遅刻しそうな生徒の耳にも聞こえるように、遠くの方まで木霊しながら。
(間に合った…!)
 遅刻じゃないよ、とホッとした途端に、聞こえた声。
 「珍しいな」というハーレイの声で、そっちの方を眺めたら…。
(もう朝練が終わった後…)
 柔道着ではなくて、スーツを着込んだハーレイ。
 校門を閉めている先生とは別に、小さな門の側に立っているから、遅刻した生徒のチェック係。今日はハーレイがその当番で、「名前は?」と訊いて名簿に書き込むのだろう。クラスも、遅刻の理由なんかも聞き出して。
 そのハーレイに、「遅刻しないで済んで良かったな」と笑顔を向けられて、気が緩んだのか。
 それとも身体が限界だったか。…走った上にバスでは座れず、今も走って来たのだから。



 ぐらりと身体が傾いだ気がして、もつれた足。もう走ってはいないのに。
(…嘘……!)
 スウッと視界が暗くなってしまって、ハーレイの笑顔が見えなくなった。周りの景色も、足元の地面も、何もかもが。
「ブルー!?」
 ハーレイに抱き留められたようにも思うけれども、薄れてゆく意識。重い身体は自分のものではないかのようで、立っているのか、そうでないかも分からない。
(…倒れちゃったの…?)
 どうなってるの、と思ったのが最後。
 ハッと気付いたら、目に入ったものは白い天井。ベッドの上に寝かされていて、保健室だと直ぐ分かった。何度もお世話になった場所だし、常連と言ってもいいほどだから。
「ブルー君、大丈夫?」
 目が覚めたのね、と保健室の先生がベッドの側にやって来た。「何処か痛い?」と。
 壁の時計にふと目を遣ったら、もう二時間目が始まる時間。遅刻寸前に駆け込んだものの、朝のクラスでのホームルームも、一時間目も、知らずに眠っていたらしい。
 それに、二時間目と言えば…。
(ハーレイの授業…!)
 古典の授業は二時間目だよ、と慌てて起き上がろうとした。「宿題を持って行かなくちゃ」と。
 そのために家まで帰ったのだし、早く教室に行かなくては。ハーレイが「持って来てるか?」とクラスを見渡す前に。宿題を集め始める前に。
 けれどグルンと目が回って…。
(…ぼくの鞄…!)
 それが何処かも分からないまま、背中からベッドに沈み込んだ。上半身を起こせもしないで。
「駄目よ、静かに寝ていないと。お母さんには連絡したわ」
 じきに迎えに来て下さるから、それまでベッドで寝ていなさいね。
 倒れたんだから起きちゃ駄目よ、と念を押された。
 まだ宿題を提出できていないのに。
 二時間目の授業に行かなかったら、それをハーレイに渡せないのに。



 頑張って取りに帰った宿題。バスで戻って、懸命に走って、ちゃんと学校まで持って来たのに、渡せない。…保健室でこうして寝ているからには、「忘れた」ことにはならなくても。
 このまま鞄ごと持って帰っても、誰も咎めはしなくても…。
(頑張った意味が無くなっちゃうよ…)
 倒れて保健室に来たのは、その宿題を取りに帰ったせい。「ハーレイに渡そう」と、ただ一心に頑張り続けて、こうなってしまったのだから…。
「……宿題……」
「え?」
 なあに、と顔を覗き込まれた。「宿題が、どうかしたのかしら?」と。
「…ハーレイ先生の宿題があって…」
 今なんです、と訴えた。二時間目が古典の授業なことと、今日が提出期限なことを。その宿題が鞄に入っているから、教室まで持って行きたい、と。
「あらまあ…。やっぱり真面目ね、ブルー君は」
 保健室まで来ちゃった生徒は、宿題なんか気にしないのに…。「出さなくていい」と思う生徒もいるわね、やらずに来ちゃったような時だと。
 宿題だったら、ハーレイ先生に渡しておいてあげるわよ。お昼休みに。
 様子を見に来ると仰ってたから、という先生の言葉は心強いけれど、宿題はちゃんとハーレイに届きそうなのだけど…。
(その時は、ぼく…)
 母に連れられて早退した後。ハーレイに自分で渡せはしない。
 会心の出来の宿題なのに。それを忘れて来たと気付いて、家まで取りに戻った結果が、こういうことになっているのに。
 けれど、どうにもならない状況。教室に行く許可は出なくて、第一、ろくに歩けもしない。
 仕方ないから、先生に頼んで鞄を受け取り、中から宿題を引っ張り出した。
「これ、お願いします。…ハーレイ先生に渡して下さい」
「分かったわ。ちゃんと忘れずに渡しておくから、安心しなさい」
 あ、お母さんがいらしたみたい。
 帰ったら無理をしないで寝るのよ、明日の授業とか宿題のことは気にしないでね。



 「無茶は駄目よ」という先生の声に送られ、母と一緒に出た保健室。
 そうして連れて帰られた家。学校の駐車場に待たせてあったタクシーに乗せられ、真っ直ぐに。
 家に着くなり、押し込まれたベッド。制服を脱がされ、パジャマに着替えさせられて。
 母は叱らなかったけれども、原因には気付いているだろう。宿題を取りに戻った時に会ったし、父の車が無かったからには、一人息子がどうなったかも。
(バス停まで走って行っちゃったのも、バスで座れなかったのも…)
 母ならば、きっとお見通し。そうやって乗ったバスが遅れて、学校の前でも走ったことも。遅刻寸前に走り込もうと、弱い身体で全力疾走していたことも。
(大失敗…)
 ホントに失敗、と情けない気分。
 頑張って仕上げた宿題も出せず、ハーレイの授業にも出られずに帰って来たなんて。
 昨夜、ウッカリしていたばかりに、宿題を引き出しに入れてしまって。一度は鞄に入れた宿題、それを手直ししていたせいで、家に置き忘れて出たなんて。
(途中で気付いて、取りに戻ったのはいいんだけれど…)
 その宿題は、保健室の先生がハーレイに渡してくれる筈。「ブルー君から預かりました」と。
 宿題をきちんと「やって来た」ことはハーレイに伝わるけれども、たったそれだけ。期限までに提出したというだけ、他には何の役にも立たない。
 あんなに頑張って取りに戻ったのに、ハーレイに届けようとしたのに…。
(きっと心配させちゃっただけ…)
 ハーレイは事情を知らないのだから、「ブルーが倒れた」と大慌てしたことだろう。いつもなら早い時間に登校するのに、どうしたわけだか遅刻間際のギリギリの時間に走って来て。ハアハアと息を切らせたままで、門の所で倒れたなんて。
(何があったのかと思うよね…?)
 寝坊したから必死だったか、バスの中でウトウト眠ってしまって、終点まで行って戻ったのか。
 まさか宿題を取りに戻ったとは思わないだろうし、思い付くのはそういったケース。
(…宿題を取りに家まで帰って、遅刻しそうなのも酷いけど…)
 寝坊するのも、乗り過ごして終点から戻ってくるのも、馬鹿のよう。どちらも間抜け。
 考えるほどに、涙がポロポロ零れてくる。
 「ぼくって、駄目だ」と。「ホントにウッカリしてた馬鹿だよ」と、「ぼくの大馬鹿!」と。



 そんな調子だから、気分はドン底。それに身体がだるくて重い。無理をし過ぎて、とても負担をかけたから。…下手な体育の授業の時より、ずっと体力を使ったから。
(ホントに馬鹿だ…)
 身体まで駄目にしちゃうだなんて、と後悔したって、もう遅い。弱い身体はとうに限界、悲鳴を上げている状態。「もう動けない」と、「走るどころか、歩くのも無理」と。
 それでは食欲があるわけもなくて、昼食は母が作ったスープとプリンだけ。
 「何か食べられそう?」と母に訊かれても、首を横に振るしかなかったから。「欲しくない」とベッドで丸くなるだけで、本当に欲しくなかったから。
(それでスープと、甘いプリンと…)
 喉ごしが良くて、栄養がつきそうなコーンのポタージュスープ。卵を使った柔らかなプリン。
 なんとか食べられはしたのだけれども、夕食も食べられないかもしれない。昼と同じにスープとプリンで、他には何も口にしないで。
(明日の学校…)
 保健室の先生は、「明日の授業も宿題も気にしないでね」と言っていた。具合が悪くて早退した子は、宿題をやって行かなくてもいい。欠席していて、復帰した子も。
 だから自分も、その注意を受けた。登校するなら、宿題のことは気にせずに。休むのだったら、明日の授業で出される宿題、それは「やらなくてもいい」と。
(……宿題……)
 それで頑張りすぎちゃったんだよ、と涙が溢れる。
 ハーレイが授業で出した宿題、今日が提出期限だった感想文を「素晴らしいもの」にしたくて、何度も何度も手直しして。昨夜も「こっちの方がいいよ」と書き直したりして。
(いつも机の引き出しに…)
 入れたり出したりしていたせいで、昨夜も引き出しに入れてしまった。慣れた方へと、ついついウッカリ。「鞄から出した」ことも忘れて、引き出しの方に。
(そのせいで、持って出るのを忘れて…)
 途中で気付いて、取りに戻ろうと頑張った。バスから降りて、家の方へと向かうバスに乗って。
 家に戻って宿題を持って、遅刻しないように全力疾走。宿題を持ってゆくために。
 頑張って走って学校に着いて、其処までで力尽きてしまった。…宿題は持って行けたけれども。



 頑張りすぎてしまった宿題。感想文を書いていた段階でも、それを提出する所でも。
(…家に忘れて来たんです、って…)
 本当のことを告げていたなら、きっと倒れたりしなかった。「宿題、やっていないんだな?」と笑われたって、大恥をかいて、赤っ恥だって。
(ハーレイに笑われても、クラスのみんなも笑っていても…)
 その方が良かったのだろう。こんな結果を招いてしまって、母やハーレイにまで、心配をかけるくらいなら。…身体がすっかり壊れてしまって、食欲も失せるくらいなら。
(ぼく、明日は…)
 学校を休んじゃうんだろうか、と辛くて悲しい。古典の授業は無い日だけれども、休めば学校でハーレイに会えない。チラと姿を見掛けることさえ、チャンスそのものが無くなるから。
(そうなっちゃうの…?)
 今日もハーレイに少ししか会えていないのに、と零れる涙。
 本当だったら授業でたっぷり会えたのに。好きでたまらない笑顔が見られて、大好きな声が沢山聞ける授業。…それを逃して、おまけに心配までさせた。ハーレイの目の前で倒れてしまって。
(…ごめんね、ハーレイ…)
 ぼくがウッカリしてたから…、と思う間に、訪れた眠気。少しでも疲れを取りたい身体が、休む時間を欲しがって。「眠って治そう」と訴え掛けて。
 引き摺られるように眠ってしまって、次に意識が浮上した時は…。
「おい、大丈夫か?」
 寝ちまってるのか、と聞こえた声。直ぐ耳元で。
「…ハーレイ?」
 どうしたの、と目をパチクリとさせた。
 ハーレイはまだ学校だろうに、どうして此処にいるのだろう、と。それともこれは夢の世界で、目が覚めたらハーレイは消えるのだろうか…?
「どうしたの、って…。そうか、寝ぼけてるのか」
 時間の感覚、寝ていたせいで無くなったんだな。
 学校ならとうに終わっちまったさ、いつもの柔道部の方も。
 俺の仕事は終わったってわけで、お前の見舞いに来てやったんだが…?



 そういえば…、とハーレイは椅子を運んで来た。いつもこの部屋で座る椅子。窓辺に置かれた、ハーレイ専用になっている椅子を、ベッドの側に。
 それに座って、ハーレイが浮かべた穏やかな笑み。
「お前の宿題、ちゃんと受け取ったぞ。…保健室の先生が渡してくれた」
 昼休みに様子を見に行ってみたら、お前は帰った後だったから…。
 どんな具合だったか訊くよりも前に、「ブルー君からです」と渡されちまった。教室まで持って行こうとしたから、代わりに預かっておいたんだ、とな。
「ホント? ちゃんと届いたんなら良かった…。でも、失敗…」
 大失敗だよ、今日のぼく…。ごめんね、心配かけちゃって…。
「失敗なあ…。朝から倒れちまったことか?」
 お前が遅刻しそうだなんて、珍しい日もあるもんだ、とは思ったが…。あんな時間に、校門まで走って来るなんてな。
 気分が悪くて遅れたんなら、あそこで走っているわけがないし…。
 いったい何をやらかしたんだ、と鳶色の瞳が覗き込む。「寝坊でもしたか?」と。
「そうじゃなくって…。いつも通りに家を出たけど、あの宿題…」
 ハーレイが前に出してた宿題、家に忘れて出ちゃったんだよ。…昨日の晩にも手直しをしてて、鞄に戻すの忘れちゃって…。机の引き出しに入れてしまってて…。
 学校へ行くバスに乗ってから、忘れて来たのに気が付いたから…。
 宿題を忘れて行きたくなくって、家まで取りに戻らなきゃ、って…。だって、宿題、家に忘れて来たっていうのは、「やっていません」の意味になるでしょ…?
 普通はそっちの意味に取るよね、と投げ掛けた問いを、ハーレイは否定しなかった。
「まあ、そうなるのが普通だろうな。…言い訳ってヤツの王道だから」
 家まで確かめに行きはしないし、宿題が本当に忘れてあるかどうかは謎ってことで。
 「やったんです」と主張されたら、「嘘をつくな」と言い返すのも、教師の仕事の一つだから。
「やっぱりね…。そうなるだろうと思ったから…」
 頑張って取りに帰ったんだよ、まだ間に合うよね、って時計を見て。
 いつもは降りないバス停で降りて、家の方へ行くバスに乗ろう、って…。
 そしたら宿題を取りに帰れて、ハーレイの授業の時にきちんと渡せるから…。



 それをやってて遅刻寸前、と目の前の恋人に白状した。
 時刻表の通りにバスが来なくて、家に帰るのが遅くなったこと。父は会社に出掛けた後で、車で送って貰えなかったこと。
 残る手段はバスだけだから、と乗り遅れないように走ったことも。
「家からバス停まで走ったんだよ、ホントに全力疾走で…。挨拶だって走りながらで」
 バス停の椅子は空いていたけど、座ろうって思い付かなくて…。バスが早く来ないか、そっちの方を立って見ていて、一度も座らないままで…。
 やっとバスが来て乗り込んでみたら、空いた席、一つも無かったんだよ。…ヘトヘトなのに。
 おまけに信号で止まってばかりで、うんと時間がかかってしまって…。
 学校の近くのバス停に着いたら、ギリギリの時間。…先生が表に立っているような。
 だから急いで走らなくちゃ、って頑張って走って、間に合ったけど…。
 門を入ったら、そこでチャイムが鳴ったんだけど…。でも…。
 ぼくの力も其処でおしまい、とベッドの中でシュンとした。倒れてしまって、この通りだから。学校を早退する羽目になって、ハーレイにも心配をかけたのだから。
「そうだったのか…。宿題を取りに戻ったとはなあ…」
 命懸けで提出したってわけだな、お前が出した感想文。なら、心して読まないと…。
 そうとも知らずに受け取って来たが、お前の命が懸かってたなら。
 コーヒー片手に読んじゃ駄目だな、とハーレイが表情を引き締めるから、瞳を瞬かせた。
「…命までは懸かっていないけど…」
 ぼくは倒れてしまったけれども、それだけだよ?
 救急車で病院に行ってはいないし、家の近所の病院にも行っていないから…。
 ちょっぴり具合が悪いだけだよ、死にそうにはなっていないってば。
 命なんかは懸かってないよ、と言ったのだけれど。
「俺にしてみりゃ、似たようなモンだ」
 目の前でお前が倒れたんだぞ、駆け込んで来たかと思ったら。
 元気そうだな、と思った途端に、お前、倒れてしまうんだから…。
 何事なのかと大慌てな上に、お前の命の心配もする。
 お前、元から弱いんだしなあ…。走っちまって、急に具合が悪くなっても不思議じゃないから。



 俺の寿命まで縮んじまうだろうが、と大きな手で頭をクシャリと撫でられた。
 「命懸けで宿題を持って来るのは結構なんだが、身体のことも考えろよ?」と。
「お前らしいと言ってしまえば、それまでなんだが…。お前、根っから真面目だからな」
 宿題の一つや二つくらいは、忘れたって死にやしないのに…。減点だって知れてるのにな?
 まあ、お蔭でお前を運べたんだし、俺は文句は言わないが。
 あれは役得と言えるんだろう、と不思議な言葉。いったいどういう意味なのだろう…?
「運んだって…。それに、役得って、何?」
 ハーレイがぼくを運んだってことは分かるけど…。保健室まで運んだんでしょ?
 先生の仕事の内なんだろうし、何処が役得なのか分からないけれど…?
「簡単なことだ、お前を運んだ方法だな。他の先生たちが、担架を取りに行こうとしたから…」
 これで行けます、とお前をヒョイと持ち上げただけだ。
 お前の憧れの「お姫様抱っこ」だ、普通の男子生徒だったら、アレは嫌がるものなんだが…?
「えーっ!?」
 覚えていないよ、ハーレイが運んでくれていたこと…!
 せっかくの、お姫様抱っこ…。前から何度も頼んでたのに…。「いつか、お願い」って。
 ぼくは何にも覚えてないのに、ハーレイだけが楽しんでたの…?
 お姫様抱っこで、ぼくを運んで…、と尖らせた唇。本当に欠片も覚えていなくて、思い出しさえしないから。「お姫様抱っこだ」と聞かされても。
「当然だろうが、意識不明じゃ覚えているわけがない」
 ついでに言うなら、あの状態だと、アレで運んでいても誰も笑わん。何処から見たって、病人を運んでいるわけだから。…それも意識が無い状態の。
 もっとも、生徒はもういなかったが…。
 チャイムが鳴ったし、みんな教室に行っちまってな、という話。「お姫様抱っこ」で運んでゆく所を目撃したのは、先生たちだけ。
 「大丈夫ですか?」と覗き込んでいた先生だとか、例の宿題入りの鞄を手にして、保健室までの道を一緒に歩いた先生だとか。
 「聖痕を持った一年生」が「守り役の先生」に運ばれたことは、学校の先生たちしか知らない。生徒は一人も知らないままで、目撃した生徒もいないまま。



 幻みたいな「お姫様抱っこ」。覚えていないのは残念だけれど、先生たちしか知らないのなら、まだ諦めがつくというもの。「誰も見ていなかったんだものね?」と。
「そっか…。生徒は誰も見ていないんなら、ホントに病人を一人運んだだけだよね…」
 お姫様抱っこで運ばれてたぞ、って噂になることも無いだろうから。
 ごめんね、心配かけちゃって…。役得はいいけど、寿命が縮んだらしいから…。
 ホントにごめん、と謝った。悪いのは全部自分なのだし、申し訳ないと思うから。
「いや、いいが…。俺のことは気にしなくてもいい」
 しかし次から無理はするなよ、宿題は忘れてもかまわないから。…今日みたいにパタリと倒れるよりかは、潔く忘れてくれた方がな…?
「やだ…!」
 本当に家に忘れたのかも、って思っていたって、ハーレイ、ぼくに言うんでしょ?
 「その宿題は、やっていないんだな?」って、先生なら誰でも言いそうなことを。宿題をやっていない生徒の言い訳、大抵、それなんだから…。
 でも…。無茶をしたぼく、何も食べられそうにないから…。
 野菜スープを作ってくれる、と尋ねてみた。母のスープとプリンでもかまわないのだけれども、ハーレイが来てくれたのだったら、あのスープがいい。
 前の生から好きだったスープ、とても素朴な「野菜スープのシャングリラ風」が。
「野菜スープだな、お安い御用だ」
 お前、命懸けで頑張ったんだからな、俺に宿題を提出しようと。
 それに比べりゃ、スープ作りの手間は大したことじゃない。だがな…。
 頑張りすぎってヤツは良くないんだ、お前だって今日ので懲りたんだろう?
 明日も学校に来られるかどうか怪しいくらいで、今だって飯が食えないんだから。
 命懸けの無茶をするってヤツはだ、前のお前のメギドだけで終わりにしておいてくれ。あれでも充分、今の俺にはダメージがデカい。…生まれ変わって来た今でもな。
 いいな、あれがお前の最後の無茶で、最大の無茶だ。
 とはいえ、今日のも命懸けの無茶だぞ、あの時と並ぶくらいにな。
 二度と無茶なんかをするんじゃない。…命懸けのは、もう沢山というヤツなんだ。
 前のお前は、本当に頑張りすぎちまったから。



 分かったな、とハーレイが怖い顔をするから、もう無茶はしたくないけれど。
 ハーレイにも、母にも、自分の無茶のせいで、心配をかけたくはないのだけれど…。
(きっと、また…)
 似たようなことをやりそうだから、ハーレイの宿題には気を付けよう。ウッカリ家に置き忘れてしまわないよう、鞄の中を何度も確認して。
(…ぼくがウッカリしていて、失敗…)
 せっかくの「お姫様抱っこ」を覚えていないのは、きっと神様の罰だろう。
 ハーレイにも母にも心配をかけて、その原因は自分だから。
 自分がウッカリしていたばかりに、酷い無茶をして、学校で倒れてしまったから。
(次から宿題…)
 忘れないようにしなくっちゃ、と思いながらも、目の前のハーレイにリクエストする。
 「野菜スープのシャングリラ風」は、ちゃんとスプーンで食べさせて、と。
 身体がだるくて起き上がれないから、その食べ方がいいんだけれど、と。
「お姫様抱っこは覚えてないから、スプーンでスープ…。駄目…?」
「仕方ないヤツだな、甘えやがって…。だが、命懸けで宿題、持って来たしな…?」
 そのくらいの我儘は許してやろう、とハーレイは優しく微笑んでくれた。
 「だが、無茶はいかんぞ?」と、「それをしっかり覚えておけよ」と。
(…だけど、無茶して倒れちゃったから…)
 こんな時間を持てるんだよね、と思うと、それも幸せではある。
 ハーレイに甘えられる時。
 「スープをスプーンで食べさせて」などと注文をして。
 無茶をし過ぎた身体はだるくてたまらなくても、心の中は幸せ一杯。
 ハーレイと二人きりの時間で、もう少ししたら、あの懐かしい野菜スープも食べられるから…。



            忘れた宿題・了


※ハーレイの授業で出された宿題。頑張ったのに、置き忘れて家を出てしまったブルー。
 懸命に取りに帰った結果は、学校でダウン。憧れだった、お姫様抱っこ、記憶に無いのです。
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(あ…)
 塞がってる、とブルーが眺めた座席。学校からの帰りに乗り込んだバスで。
 いつも腰掛ける、お気に入りの席が塞がっていた。車内が混んでいるわけではなくて、座席なら他にも空いている。もちろん立っている人もいない。
 けれど、先客が座っている席。其処に座りたかったのに。
(反対側のも…)
 同じに人が腰掛けている。お気に入りの席がある場所は。
 通路を挟んだ反対側なら、空いていたっていいと思うのに。空いている席は他に幾つも、其処を塞がなくても良さそうなのに。
(だけど、みんなの席なんだから…)
 何処に座るのも、その人の自由。今日はたまたま、そうなっただけ。先に乗った人が腰掛けて。
 「ぼくの席だよ」と言えはしないし、仕方ないから別の席に座った。「此処でいいや」と。通学鞄を膝の上に置いて。
(眺めはそれほど変わらないけど…)
 窓の向こうを眺めるのならば、いつもの席と全く同じ。ただ、バスの前がよく見えない。普段の席なら、通路の行く手に大きな窓が見えるのに。これから進む先の道路や、対向車などが真っ直ぐ前に見える窓。
(此処からでも、ちょっと通路に乗り出したら…)
 見えるんだけどね、と首を傾けて前を見る。ちゃんと道路も、対向車とかも見えるけれども…。
 それでも損をした気分。「ツイてないよ」と。
 座れなかったわけではなくても、ほんのちょっぴり。いつものようには開けない視界。前の方を眺めたいのなら。…直ぐ横の窓の向こうではなくて。
(ぼくの我儘…)
 不満に思うのも、「ツイていない」のも、我儘なのだと分かってはいる。路線バスは公共の交通機関で、誰が乗るのも、何処に座るのも自由。指定席など無いのだから。
 そうは思っても、残念な気持ちが拭えない。
 お気に入りの席を取ってしまった人が、今日は二人もいたということ。
 立つ人がいるほど混んでいるなら、何とも思わないけれど。自分も同じに立つのだけれど。



 そっちだったら、「ツイていない」と思いはしない。今日のような気分になったりはしない。
(こんな日もあるよね、って…)
 吊り革を握って立つだけのことで、塞がっている席を未練がましく見たりもしない。空いている席があれば良かったのに、と車内を眺めているだけで。
 ところが、混んではいないバス。座れる席なら幾つもある。自分が座った席の他にも、あちこち空いている座席。
 こんな時には、普段の席のどちらかは空いているものなのに。通路を挟んで右か左か、運のいい日なら両方だって。
(だからお気に入り…)
 バスに乗り込んだら、自分を迎えてくれるかのように、待っていてくれる席だから。
 「どうぞ座って下さい」と。バスは言葉を話さないけれど、思念波だって来ないけれども。
(でも本当に、ぼくを待ってるみたいに空いてるから…)
 いつもストンと腰掛けるわけで、窓の向こうを見ながら帰る。席の横の窓や、バスの前の窓を。面白いものが見えはしないかと、今日の天気はどんな具合かと、色々なことを考えながら。
 その席が無いから、気分はガッカリ。
 首を伸ばして前を見たって、なんだか違ってしまうから。少し見えにくいものだから。
(仕方ないけど…)
 こういう日だって、たまにはある。滅多に無いというだけのことで。
 だから余計に「ツイていない」気分。「どうして、今日はこうなんだろう」と。
 家の近くのバス停までには、幾つか挟まる他のバス停。其処で誰かが降りてくれれば、いつもの席に移動も出来る。ほんのバス停一つ分でも、「ぼくの席だよ」と座れるのに…。
(…降りる人、他の席ばかり…)
 降車ボタンを押して降りるのは、他の座席の人だった。「お気に入り」の二つの席は空かずに、自分が降車ボタンを押す番。「次で降ります」と。
(…ぼくの席、座りたかったのに…)
 とうとう空いてくれなかったよ、と降りるしかなかった路線バス。
 お気に入りの席には座れないまま、運転手さんに「ありがとうございました」と御礼を言って。降りる時にも振り返ってみて、「やっぱり今も塞がってる」と席を確かめて。



 こんな日だってあるんだけどね、とトボトボと歩いて帰った家。「ツイていない」気分を抱えたままで、「何かいいこと、起こらないかな」と。お気に入りの席が無かった代わりに、と。
 けれど、そうそう「いいこと」が降ってくるわけもない。ツイていなくもなかったけれど。
 「ただいま」と玄関の扉を開けたら、その家の中は普段と同じ。
 母がおやつを用意してくれて、ダイニングのテーブルでのんびり食べた。自分の席で、いつもと同じ景色を眺めて。
 「御馳走様」とキッチンの母に空のカップやお皿を返して、戻った二階の部屋だって、そう。
 勉強机の前に座ったら、周りは見慣れた自分の部屋。角度の一つも違いはしなくて。
(ぼくのための席って…)
 大切だよね、と感じてしまう。ダイニングの席も、勉強机の前も落ち着く。いつも通りだというだけで。特に素敵なことが無くても、「いいこと」が起こってくれなくても。
(もしも、この席が無かったら…)
 「ツイていない」どころの騒ぎではない。ダイニングに行っても、自分の椅子が無かったら。
 自分の部屋に入ってみたって、勉強机の前から椅子が消えていたなら。
(そんなの、困る…)
 バスの中の席が無かった程度で、文句を言っては駄目だろう。「お気に入りの席」は、誰のものでもないのだから。バスに乗った人が好きに座っていい場所だから。
(やっぱりホントに、ぼくの我儘…)
 ツイていないなんて思ったら駄目、と我儘な自分を叱っていたら、ふと気が付いた。
 今の自分は、バスの中にも「お気に入りの席」を持っているほど。自分が勝手に選んだ座席で、他の誰かが座っていたって、「ぼくのだよ」と言えはしないけど。
(でも、お気に入りで…)
 空いていたなら、其処が自分の指定席。他に幾つも席があっても、迷わずに腰を下ろす場所。
 家に帰れば、ダイニングのテーブルに「自分のための」席がある。おやつを食べるのも、食事も其処で、母がお皿を置いてくれる場所。
(この部屋だったら…)
 勉強机の前が指定席だし、窓際にあるテーブルと椅子も、「自分の場所」は決まっている。使う時には、「ぼくがこっち」と座る椅子。バスにも、家にも、自分の席。



 幾つも席を持っている自分。家なら本物の指定席だし、バスの中なら「勝手に決めた」指定席。座れば、とても落ち着く場所。
(その席が、今日は塞がってたから…)
 ツイてないよ、とガッカリしたのが帰りのバス。「何かいいこと、あればいいのに」と思ったりしながら、家まで帰って来たほどに。
 そうなったくらいに、「自分の席」は大切なもの。あって当然、消えていたなら残念な気分。
 もしも自分の家で起きたら、大騒ぎすることだろう。「ぼくの席は?」と大声を上げて、消えてしまった椅子を探して。「ママ、ぼくの椅子は何処へ行ったの!?」と。
(学校に行ってる間に、ママが何かを零したとか…)
 それで椅子ごと洗うことになって、何処かに干されているだとか。ちょっとした傷みに気付いた母が、修理に出してしまったとか。
(そういうことになっちゃってても…)
 代わりの椅子が置いてあるなら、其処まで騒ぎはしないだろう。座り心地が少し違っても、席は同じにあるのだから。いつもの場所に座ることが出来て、見える景色も全く同じ。
(ぼくの家なら、そうなるけれど…)
 「席が無いよ」と慌てていたなら、じきに現れるだろう母。「ごめんなさいね」と、別の椅子を運んで来てくれて。「暫く、これを使ってくれる?」と。
 そうやって普段の席が戻って、ストンと座って、おやつに食事。この部屋だったら、勉強したり読書をしたりと、満喫できる「自分の席」。
(今のぼくだと、そうなんだけど…)
 当たり前のように持っている「自分の席」。家はもちろん、バスの中でも勝手に決めている席があるくらい。塞がっていたら「ツイていない」と思う席が。
 でも…。
(前のぼくだと、自分の席…)
 無かったっけ、と白いシャングリラを思い出す。前の自分が生きていた船を。
 シャングリラは巨大な船だったけれど、あの船には無かった「ソルジャーの席」。
 ソルジャー・ブルーと呼ばれた前の自分は、「自分の席」を持っていなかった。青の間に椅子はあったけれども、他の場所には。ブリッジにも、天体の間にも、食堂にだって。



 まるで無かった、ソルジャー・ブルーのためにある席。青の間の椅子を除いては。
(あれはあれで理由があったんだけど…)
 仲間外れにされていたとか、意地悪をされたわけではない。誰もソルジャーに、そんな真似などしないから。…敬い、大切に扱いはしても。
 そうされた結果が「席が無かった」こと。ソルジャーだったから、席は無かった。あの船の中の何処を探しても、何処に行っても。
(前のぼくの席は無かったから…)
 寂しい気持ちになる時もあった。他の仲間たちの姿を眺めて、「ぼくの席だけ、無いんだ」と。
 そうして、いつも踵を返した。其処に「自分の席は無い」から。
 もしも自分の席があったら、もっと愛着を覚えただろうか。視察が済んでも直ぐ立ち去らずに、「時間なら、まだあるだろう?」と腰を落ち着けたりもして。
 ブリッジにしても、食堂にしても、のんびりとあちこち眺め回して。
(あれは何だい、って訊いてみるとか、「美味しそうだな」って見てるとか…)
 きっと印象が変わっただろう。「自分の席」が其処にあったら、ゆっくり出来る場所だったら。
 其処にいる仲間と話したりして、もう本当に「自分の居場所」。今の自分が暮らしている家の、ダイニングなどと変わらずに。
(いつでも行ったら、ストンと座れて…)
 食堂だったら、飲み物なんかも注文する。「今日は紅茶で」とか、「あれと同じのを」と、他の誰かが飲んでいるものを真似るとか。
 注文の品が届いた後には、自分の席でゆったりと。ソルジャーは暇な仕事だったから。
(そう出来ていたら、食堂だって、もっと身近で…)
 居心地のいい場所だったろう。視察だけでなく、いつ出掛けても「自分の席」があったなら。
 けれど、そうなったら仲間たちが困る。
 船で一番偉いソルジャー、そんな人がフラリとやって来たなら。いつもの席に腰を落ち着けて、立ち去ってくれなかったなら。
(ソルジャーがいたら、マナーなんかも気になるし…)
 誰もが緊張し切ってしまって、食堂の空気がピンと張り詰めてしまうだろう。賑やかだった声も静まり返って、黙々と食べているだけだとか。



 ブリッジにしても、きっと同じこと。あそこにソルジャーの席が無かったのは、そんな理由ではなかったけれど。他に理由があったのだけれど、無理やりに席を設けていたら…。
(ぼくが座ってたら、みんなが大変…)
 息抜きの会話も出来はしなくて、ひたすら仕事に打ち込むだけ。
 「ソルジャーが見ていらっしゃるから」と、私語の一つもしようとせずに。
(…食堂もブリッジも、それじゃ、みんなが落ち着かないし…)
 もっと寛いで貰わなければ、と自分の方から話し掛けても、きっと緊張は解けないまま。それを頑張って解いていったら、今度は「ソルジャーの威厳」が台無し。
 子供たちと遊んでいるならともかく、大人相手に気さくに話し掛けたなら。…食堂で隣に座った誰かに、「それ、美味しいかい?」と声を掛けては、「ぼくもそれにしよう」とやっていたなら。
(その辺のことも、ちゃんと考えて…)
 何処にも作りはしなかったんだよね、と分かってはいる「ソルジャーの席」。
 旗振り役のエラはもちろん、ヒルマンたちも賛成だった。そういった席を「作らない」ことに。
 船で一番偉いソルジャー、ミュウたちの長を「雲の上の人」にしておくために。
 誰もが気軽に話せるようでは、ソルジャーの重みが無くなるから。「ソルジャーの席」を設けておいたら、皆との垣根が低くなるから。…其処にいるのが常になったら、気が向いた時はいつでも座っているとなったら。
(青の間だけでも沢山なのにね…)
 ソルジャーを「偉く見せる」ための演出というものは。
 やたらと広くて、大きな貯水槽まで作って、「特別な部屋」に仕立てられた青の間。其処に入る仲間が息を飲むように、「ソルジャーは凄い」と感動されるように。
 あの部屋だけでも充分すぎると思っていたのに、たまに食堂に出掛けた時には、特別に席を用意された。其処で何かを食べる時には、他の仲間と相席にならないテーブルを。
(一緒に座るの、ハーレイだけで…)
 でなければゼルたち、いわゆる長老と呼ばれた面々。彼らがソルジャーの周りを固めて、一緒に試食などをしていただけ。他の仲間たちは近付けないで。
 広いテーブルに、一人きりのことも多かった。キャプテンも長老たちも忙しくしていて、食堂に来られない時は。…ポツンと一人で、他の仲間たちとは離れた場所で。



 ブリッジはともかく、いつ出掛けても「席が無かった」食堂。ソルジャー用にと用意されても、まるで寛げなかった席。「お気に入り」とは思えもしなくて、食べ終わったら直ぐ、立っていた。
 其処でゆっくりしていた所で、少しも楽しめないのだから。
 他の仲間たちは寄って来ないし、こちらからも話し掛けられはしない。気軽に声を掛けた所で、相手が緊張するだけだから。「な、何でしょうか!?」と、立って敬礼したりもして。
 そうならないよう、いつも急いで出ていた食堂。自分の席など持てないままで。
(酷かったよね…)
 前のぼくだってツイてなかった、と思ってしまう。
 いくら理由があったとはいえ、「お気に入りの席」を持てなかったのだから。食堂に行っても、ブリッジに行っても、何処にも無かった「ソルジャーの席」。
 其処にストンと座りさえすれば、「いつもの時間」が始まる席。ごくごく平凡で、特別なことは何も起こりはしなくても。普段通りの時間が流れてゆくだけでも。
 それがあったら、落ち着ける。「ぼくの席だ」と、「此処が、ぼくの場所」と。
(今のぼくでも、バスの中にまで…)
 お気に入りの席を持っているのに。
 ソルジャーではないチビの自分でも、十四歳にしかならない「ただの子供」でも。
 もっとも、バスの中の座席は、貰ったものではないけれど。指定席にさえもなってはいなくて、自分が勝手に「お気に入り」に決めた座席だけれど。
(ぼくのじゃないから、今日みたいに…)
 誰かが先に座ってしまって、座れない日も出来てくる。「空かないかな?」と待っていたって、空いてくれずに終わる日が。
(今日はホントに、ツイてなかったけど…)
 前のぼくよりは、よっぽどマシ、と「お気に入りの席」を考えずにはいられない。今の自分でも持っているのが、ダイニングの椅子や、今、座っている勉強机の前の椅子。
 家にいる時はいつでも座れて、のんびり寛いでいられる場所。
 バスの中の席は少し違うけれども、「お気に入り」には違いない。其処に座れば、窓の向こうは見慣れた景色。いつもの風景。
 運が無ければ座り損ねて、今日の帰りのようになっても。他の席しか空いていなくても。



 今日は無かった「お気に入り」の席。取られてしまった、いつも座る席。それも二つとも。
 けれど、たまには消えてしまって「ツイていない」と思う席でも…。
(そういうのでもいいから、欲しかったよね…)
 ソルジャーの席、と白いシャングリラを思い浮かべる。あそこに一つ欲しかった、と。
 出掛けて行ったら座れる席が。いつも自分を待ってくれていて、「どうぞ」と迎えてくれる席。他の仲間が座っていたなら、その日は諦めたっていいから。
(ソルジャーの席だし、他の仲間が座ったりすることは無いかもだけど…)
 皆が遠慮して、常に空いたままかもしれないけれど。
 そんな席でも、無いよりはいい。食堂でも、ブリッジでも、天体の間でもかまわないから。
 あれば良かった、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで切り出した。
「あのね、シャングリラの、ぼくの席…。どう思う?」
 ぼくは酷いと思うんだけどな、何処を探しても無かったなんて…。
「はあ? 席って…?」
 何の話だ、とハーレイは怪訝そうな顔。「お前の席が、どうかしたのか?」と。
「ソルジャーの席だよ、前のぼくの席。…シャングリラの中の何処にも無かったでしょ?」
 ブリッジにも、食堂にも、天体の間にも。
 青の間には椅子があったけれども、あそこはぼくの部屋だったから…。無い方が変。
 だけど、他の場所には席が一つも無かったんだよ。何処に行っても、ぼくのための席は。
 まさか忘れたとは言わないよね、とハーレイを真っ直ぐ見詰めたけれども、いとも簡単に返った答え。少しも考え込んだりせずに。
「忘れるわけがないだろう。…俺を誰だと思ってるんだ?」
 シャングリラを纏めていたキャプテンだぞ、前のお前の席くらい分かる。あったかどうかも。
 確かに席など無かったんだが、そいつは「要らない」からだったろうが。
 前のお前はソルジャーだったし、ソルジャーには青の間という立派な居場所があってだな…。
 用がある時は、皆が出向いて行くもんだ、とハーレイは澱みもせずに続けた。他の仲間が行けば済むから、ソルジャーの席は青の間にだけあれば充分だ、と。
 「それに、会議の時には席があったぞ」とも。…長老たちを集めた会議の場では。



 ハーレイに指摘されたこと。会議の時のソルジャーの席。それは間違いなくあった。
 キャプテンの他にもヒルマンやゼルを集めて、六人で会議をする時は。「この席がそうだ」と、皆が空けておく席。…後から遅れて行った時にも、その席はいつも空いていたから。
「会議の時って…。それはそうだけど…」
 あの席には誰も座っていなかったけれど、でも…。あそこ以外に、前のぼくの席は…。
 無かったじゃない、と訴えたけれど、ハーレイはフンと鼻を鳴らした。「あれで充分だろ」と。
「会議の時にも席が無かったのなら、文句を言ってくれてもいいが?」
 俺やヒルマンたちは座っていたのに、お前だけが突っ立っていたのなら。…椅子なんか無しで。
 しかし、そうなってはいない。ソルジャーの席は一番奥だ、と決まっていたろうが。
 お前が遅れてやって来たって、誰もあそこに座っちゃいないぞ。他の席に座って待つだけで。
 誰も座りに行かない以上は、あれがお前の席だったわけで…。
 お前の席はきちんとあった、と言われたらグウの音も出ない。ソルジャーのための席の件では。今、ハーレイが言った通りに、「まるで無かった」わけではないから。
 会議の時なら、いつも「此処だ」と決まっていた席。扉から一番離れた所がそうなのだ、と。
 皆よりも早く着いた時には、迷わずに其処に座っていた。先にストンと腰を下ろして、その日の会議の中身なんかを考えながら。
 とはいえ、本当に「会議の時だけ」だった席。それもハーレイたちとの会議。他の仲間たちまで集まる時には、ソルジャーの席は「あって無いようなもの」。一番奥には違いなくても、お飾りのように座っていただけ。発言の機会も得られないままで。
(ああいう大きな会議の時には、ハーレイたちが進行役で…)
 ソルジャーは最後に承認するだけ。「こういう具合に決まりました」と報告されたら、頷いて。
 「それで頼むよ」とか、「それなら、続きは日を改めて検討するように」とか。
 あの席は少し違うだろう。「自分の場所」と呼ぶよりは…。
(此処に座っていて下さい、って…)
 座らされたわけで、お気に入りでも何でもない。
 自分で選んでいいのだったら、あれだけ大勢が集まるからこそ、真ん中の方にいたかった。皆の意見がよく聞ける場所で、自分の考えも述べられる席。「こうしたらどうかな?」と。
 ソルジャーの肩書きにこだわりはせずに、船の仲間の一人として。



 なのに、貰えなかった席。会議の時でも、無かったも同じな席だったから…。
「ハーレイたちとの会議だったら、ぼくの席は確かにあったけど…。決まってたけど…」
 でも、他のみんなと会える時には、前のぼくの席は無かったんだよ。会議の時でも。
 ソルジャーは此処、って決まってはいても、あの席じゃ何も出来なかったし…。ぼくの意見は、先にハーレイたちが聞いてて、それを伝えるだけだったし。
 酷いよ、ぼくだけ自分の席が無かったなんて。…青の間で座っているだけなんて…。
 前のぼくの席が欲しかったよ、と重ねて言っても、ハーレイは耳を貸そうともせずに。
「ソルジャーの席は必要ない。シャングリラがどんなにデカイ船でも」
 エラはもちろん、前の俺やヒルマンやゼルやブラウたち。…それに各部門の責任者もだな。
 船の誰もがそう考えたせいで、ソルジャーの席は何処にも作られなかったんだが?
 お前も分かっていた筈だろうが、どうしてそういうことになったか。…何のためにソルジャーの席を作らず、皆が青の間に行くという形を取っていたのか。
 それにしてもだ、どうしていきなり席の話だ?
 いったい何処から持って来たんだ、前のお前の席が無かった苦情だなんて…?
 とうの昔に時効だろうが、とハーレイは呆れたような顔。「何年経ったと思ってるんだ?」と。
「それは分かっているけれど…。シャングリラだって、もう無いんだけれど…」
 思い出したんだよ、前のぼくには自分の席が無かったことを。
 今日の帰りに乗ったバスでね、ぼくの席が空いていなくって…。あれは普通の路線バスだから、ぼくが勝手に決めている席で、指定席とは違うんだけど…。
 二つあるんだよ、ぼくのお気に入り。いつもだったら、どっちかに座って帰れるのに…。今日は二つとも塞がっちゃってて、空かないままになっちゃった…。
 席は他にも空いてたけどね。別の席には座って帰れたんだけど…。
 それでもツイていない気分、と帰り道に感じたことを話した。お気に入りの席に座れないまま、家まで帰る羽目になったから。「ツイてないよ」と何度も心で零したから。
 勝手に選んだバスの座席でさえ、空いていなかったら気分が沈む。
 逆にストンと座れた時には、「ぼくの席だよ」と嬉しいもの。家で座る場所は尚更、この部屋の椅子も、ダイニングの椅子も、あったら心が安らぐもの。「ぼくの席は此処」と。
 そういう席が、前の自分も欲しかった、と。バスの席のようなものでもいいから。



 誰かが座っていたっていいし、と例に挙げたのが食堂の席。船の仲間が集まる食堂、あそこには指定席は無かった。誰もが空いている席を探して、腰を下ろして食べていた場所。
「お気に入りの席がある仲間だって、きっと多かった筈なんだよ。今のぼくみたいに」
 今日もあそこの席で食べよう、って思って行ったら、他の誰かに座られてたとか…。
 前のぼくの席も、そういう席で良かったんだよ。此処がいいな、って勝手に選んだ場所で。
 気が向いた時に出掛けて座れれば充分だから、と言ったのだけれど。塞がっていたら、他の席を探して座るから、とも訴えたけれど…。
「お前なあ…。今のお前なら、その考えでも別にかまいはしないんだが…」
 前のお前が生きてた時代と、場所をよくよく考えてみろ。いったい何処で暮らしてたのか。
 シャングリラは大勢の仲間が乗ってた船だが、路線バスとは違うんだ。
 踏みしめる大地を手に入れるために地球を目指す船で、ミュウの箱舟。外の世界じゃ、ミュウは生きてはいけないからな。…人類に端から殺されちまって。
 シャングリラがそういう船だった上に、前のお前がソルジャーだから…。
 バスの乗客気分じゃ困る、とハーレイは顔を顰めてみせた。「皆はともかく、お前は駄目だ」と眉間の皺まで深くして。
 ソルジャーは、船の仲間たちを導く灯台。他の仲間と一緒の席には座れない、と。
「そんな…。食堂の席くらい、一緒でいいのに…」
 ぼくのお気に入りの席を見付けて、其処に座れたら良かったのに…。塞がってた時は、ちゃんと他のを探すから。…「ぼくの席だ」って、座ってる人を追っ払ったりはしないから…。
「それが駄目だと言っているんだ。シャングリラって船は、路線バスではなかったからな」
 ソルジャーと気軽に触れ合えるような、遠足気分の旅じゃなかった。…地球を目指す旅は。
 地球の座標は掴めなくても、誰もが地球を目指してたんだ。あの船の中じゃ。
 前のお前も承知してたろ、自分の立場というヤツを。…ソルジャーはどう生きるべきかを。
 仲間たちが何を期待したかも…、と鳶色の瞳が見据えてくる。「覚えてるよな?」と。
「…覚えてるけど…。前のぼくだって、ちゃんと分かっていたけど…」
 でも、今のぼくは…。
 今のぼくだと、前のぼくとは生きてる時代が違うから…。周りも全く違っちゃうから…。
 頭では分かっているつもりだって、心がついていかないんだよ…!



 今のぼくが同じことになったら、寂しい気分になっちゃうよ、と白いシャングリラを思い出す。
 長く暮らした懐かしい船に、もう戻ることは出来ないけれど。
 前の自分は死んでしまって、シャングリラも時の彼方に消えた。けれど今でも、忘れてはいない白い船。忘れることなど出来ない船。
 あの船にソルジャーの席があったとしたなら、もっと身近な船だったのに、と思いは募る。
「そう思わない? ぼくのお気に入りの席があったら、今よりもずっと懐かしくって…」
 もう戻れないって分かっていたって、座ってみたくなるんだよ。好きだった席に。
 他の仲間に座られていたら、ガッカリしちゃった席でいいから…。ぼくが勝手に決めちゃってた席で、指定席なんかじゃなくていいから…。
 食堂にあったら良かったのにね、と夢見るけれど。そういう席が欲しかったけれど…。
「さっきから何度も言ったがな? それは駄目だと」
 お前が懐かしむ気持ちは分かるが、思い出す時に「身近な船だ」と言われる船では話にならん。
 シャングリラは船の仲間たちにとっては、箱舟というヤツだったんだ。船の他には、生きられる場所は何処にも無かった。
 世界の全てになってた船だぞ、あれだけが全てで、外の世界は無いのと同じだ。
 その頂点に立ってたお前が、身近な存在になっていたなら、皆の気が緩む。ソルジャーが好きな席を選んで、「此処がいい」と座るような船では。
 ついでに、ソルジャーの席が決まってても同じことだな。お前が食堂やブリッジなんかに、日に何回も顔を出してたら…。皆と気軽に話すようになるし、そんな船では駄目なんだ。
 今の平和な時代だったら、それでも困りはしないんだがな。
 ソルジャーが身近な存在だろうが、シャングリラが身近な船だろうが。
 平和な時代の宇宙船なら…、と説くハーレイの意見は正しい。ミュウの箱舟だった船では、皆の気分が緩めばおしまい。ソルジャーや船が身近になったら、緊張感が消えてしまうから。
「そうだろうけど…。ハーレイが言う通りだけれど…」
 前のぼくだって、ホントに分かっていた筈だけど…。
 そういうものだと思っていたから、ぼくの席、無くても良かったんだと思う。
 作って欲しいって言わなかったし、自分で勝手に選んで決めてもいなかったから…。
 食堂とかに出掛けた時にも、用事が済んだら、いつでも直ぐに出て行ったから…。



 でも寂しいよ、と拭えない思い。前の自分に「お気に入りの席」が無かったことは確かだから。
 懐かしい白い鯨の中には、そんな席など無かったから。
「前のぼくの席、欲しかったのに…。欲しいのは、今のぼくだけど…」
 欲しがったって、シャングリラはもう無いけれど…。前のぼくだって、もういないけど…。
 でも…、と何度も繰り返していたら。
「そう言うな。寂しい気持ちは分からんでもないが、済んじまったことはどうにもならん」
 だがな、じきにお前の席が出来るから。…シャングリラの中に。
 あと少しだけの辛抱だ、というハーレイの言葉に目を丸くした。白いシャングリラは時の彼方に消えたし、宇宙の何処にも残っていない。その中に席を作ろうだなんて、不可能なこと。
「ハーレイ、それって…。どういう意味?」
 シャングリラはとっくに消えちゃったんだよ、どうやってぼくの席を作るの?
 遊園地にあるヤツのことなの、シャングリラの形の乗り物なら色々あるけれど…?
 デートに出掛けてそれに乗るの、と瞬かせた瞳。遊具の中なら、お気に入りの座席も選べそう。一番前に乗るのがいいとか、真ん中だとか。…一番後ろがいいだとか。
「いや、遊園地のヤツじゃない。それだと、お前、困るだろうが」
 シャングリラは今も一番人気の宇宙船だし、遊園地のも行列だ。お気に入りの席が出来たって、次に並んだら、全く違う場所にしか乗せて貰えないとか…。ありそうだろ?
 俺が言うのは、今の俺たちのシャングリラだ。
 いつかお前とドライブする予定の俺の車だ、お前の席は助手席だろう…?
 ちゃんとお前の席が出来るぞ、と言われてようやく気が付いた。白いシャングリラの代わりに、今ならではのシャングリラ。車の形になったシャングリラがあることに。
「そうだっけ…!」
 船のシャングリラは無くなったけれど、今のハーレイのシャングリラ…。
 あれがあるよね、あの中だったら、ぼくの席だって出来るんだっけ…!
 ハーレイが運転席に座って、ぼくは助手席。運転するのを横で見てたり、地図を広げたり…。
 ちゃんとあるね、と嬉しくなった自分のための席。
 前の自分には「お気に入りの席」さえ無かったけれども、今度は貰えるのだった。
 いつか大きくなった時には、ハーレイと二人きりのシャングリラの中に、自分の席を。



 そう考えたら、綻んだ顔。前の自分が持てなかった席を、今の自分は貰うことが出来る。
 白い鯨のようだった船より、ずっと小さい車の中に。ハーレイと二人で乗るシャングリラに。
 楽しみだよね、と夢を膨らませていたら、ハーレイの瞳に覗き込まれた。
「ずいぶんと嬉しそうな顔だが…。機嫌、直ったか?」
 バスでお気に入りの席を逃しちまって、ツイていないと嘆いてたのがお前だが…。
 前のお前の席のことまで思い出した挙句に、俺に文句を言っていたのも、お前なんだが…?
 ツイてる気分になって来たのか、と尋ねられたから「うんっ!」と笑顔になった。
「今日は駄目だよ、って思ってたけど、もう平気。いいこと、ちゃんとあったから!」
 大きくなったら、シャングリラの中に、ぼくの席を貰えるんだから。
 ハーレイと指切りしなくったって、席は絶対、貰えるものね。ドライブの時は。ぼくを乗せずに走って行ったら、ハーレイ、慌てて戻ってくるのに決まってるもの。
 凄く大きな忘れ物だよ、とクスクス笑った。
 恋人とドライブに行こうというのに、その恋人を乗せるのを忘れて走り出すなんて、可笑しくて笑いが止まらない。ハーレイはどれほど慌てることかと、きっと平謝りだろうと。
「うーむ…。お前を忘れて行っちまうってか?」
 やりかねないよな、「ちゃんと乗ったか?」って訊いていたって、お前、勝手に返事だけして、ドアを開けて降りていそうだから。
 ドライブの途中の休憩の時に、可愛い動物か何かを見付けて行っちまうとか…。何か美味そうなものを見付けて、「買ってこよう」と降りちまうだとか。
「やっちゃいそう…。ドアをバタンと閉めた途端に、また開けちゃって降りるんだよ」
 ハーレイ、ちゃんと確かめてよね。ぼくを忘れて行かないように。
 忘れて走って行かれちゃっても、ぼくは思念波、飛ばせないから…。
 それに動物とかに夢中で、気が付くまでにも、うんと時間がかかっちゃいそう。ハーレイの車が行っちゃった、ってポカンと道端に立つまでにはね。
「まったくだ。俺も大概ウッカリ者だが、お前の方でも負けちゃいないな」
 下手をしたなら、俺が慌てて戻って来た時、「どうしたの?」と訊きかねないぞ。
 置いて行かれたことにも気付いていなくて、動物と遊んでいるだとか…。
 何かを買おうと列に並んでて、俺の方には目もくれないとか、そんな具合で。



 ありそうだよな、とハーレイも心配する「恋人を乗せるのを忘れて走ってゆく」こと。知らない間に降りてしまって、「忘れて行かれた」ことにも気付かない恋人の方も、大いに有り得る。
「ぼく、本当にそうなっちゃうかも…。ハーレイが気を付けてくれないと…」
 置き去りなことにも気が付かないなら、ハーレイ、謝るどころじゃないね。ぼくの方が、うんと叱られちゃいそう。…「置き去りだぞ」って、凄い勢いで。
 前のぼくなら、ハーレイに叱られたりはしないんだけど…、と肩を竦めた。前の自分はウッカリ者ではなかったのだし、「自分の席」さえ貰えないほど、雲の上の人という扱い。
 そんなソルジャーを、キャプテンは叱りはしなかった。叱る理由が無かったから。
「前のお前か…。確かに、そういうことで叱っちゃいないな、俺は」
 無理をしすぎて熱を出したとか、そんな時しか叱っていない。今のお前とはかなり違うな、前のお前というヤツは。…自分の席さえ持てないくらいに、偉すぎたしっかり者だったから。
 それに比べて、お前ときたら…。俺に置き去りにされたことさえ、気付かないってか…?
 そうだ、面白いことを思い付いたぞ。前のお前と今のお前が違いすぎるなら、これはどうだ?
 今のお前をソルジャー扱いするというのは。…置き去り防止にも良さそうだし。
 いいかもしれん、とハーレイは顎に手を当てている。「これなら置き忘れも無いからな」と。
「ソルジャー扱いって?」
 それって何なの、どうして置き去り防止になるの?
 今のぼくをソルジャー扱いするって、どういう風に…?
 分かんないよ、と目をパチクリとさせたけれども、ハーレイは「ソルジャーだしな?」と笑う。
「ソルジャーは偉くて、雲の上の存在だったんだから…。そいつをお前に反映するのさ」
 車の中でのお前の席に。…お前を乗せて行く場所に。
 お前の気に入りの場所は助手席だろうが、車ってヤツは、目上の人を乗せる時にはだな…。
 助手席じゃなくて後部座席に乗せて行くものなんだぞ、違うのか?
 タクシーなんかはそうなってるが、という解説。車の中での偉い人の場所。
「そうだけど…。それじゃ、ハーレイがぼくを乗せて行くのは…」
 助手席じゃなくて、後ろの席なわけ?
 ぼくは隣に乗っていたいのに、ソルジャー扱いで後ろになるの…?



 酷くない、とハーレイを縋るように見た。後部座席では、ハーレイの姿もよく見えないから。
「いや、酷いとは思わんが?」
 お前をそっちの席に乗っけて、俺は運転に専念する、と。
 「ソルジャー、次はどちらに参りましょうか?」といった具合にな。
 後ろだったら、ドアの開け閉めも俺がきちんと確認しないと…。目上の人はドアを閉めるのも、運転手任せというヤツだから。
 お前を乗せるのを忘れる心配も無くなるわけだ、とハーレイは自信たっぷりだけれど。
「それって、酷い…」
 ハーレイの姿が見えないじゃないの、ぼくの席から!
 助手席だったら隣同士で楽しいけれども、後ろなんかに乗せられちゃったら…!
「そうでもないだろ、楽しめる筈だと思うんだがな?」
 お前は偉そうに言えばいいんだ、後ろの席から。次はあっちだの、此処で停めろだの。
 好き放題に命令してればいいだろうが、と言われたソルジャー扱い。助手席の代わりに、後ろの席に座って、偉そうに出掛けてゆくドライブ。
「うーん…。どう見ても、偉そうだけど…」
 今のぼくは少しも偉くないのに、ソルジャー扱いで後ろだなんて…。でも…。
 置き去りの心配はしなくていいよね、と考えてみたら、そんなドライブも愉快かもしれない。
 前の自分だった時と違って、今はハーレイと二人きりなのだし、後ろで偉そうにしていても…。
(ソルジャーごっこで遊んでるだけで…)
 その状況を楽しめばいい。
 キャプテン・ハーレイに命令をして。…ソルジャー・ブルーになったつもりで。
(あの店に寄ってくれたまえ、って…)
 やってみるのもいいかもしれない。
 「かしこまりました」と車を運転してゆくハーレイ。
 二人きりで乗るシャングリラのハンドルを握って、大真面目に。キャプテン・ハーレイだった頃さながらに、「面舵一杯!」と声を上げたりもして。
(ぼくがソルジャーなら、ハーレイはキャプテン…)
 そういうドライブも悪くはない。遊びで偉そうに乗ってゆくなら、後部座席が自分の席でも。



 置き去り防止のために乗せられる後部座席と、それとセットのソルジャー扱い。
 ハーレイの車がシャングリラになって、自分のための席がその中に出来て…。
「…ハーレイ、それって、着いたらドアも開けてくれるの?」
 運転手さんだと、着いたら開けてくれるけど…。ハーレイが運転してくれる時も…?
「当然だろうが。俺は運転手に徹するまでだ」
 お前をウッカリ置き去りにしないよう、後ろの席に乗せるからには頑張らんとな?
 乗り降りの時は、ドアを恭しく開け閉めしてやる。「どうぞ」と、それは丁寧に…な。
 任せておけ、とハーレイは運転手になる気でいるらしい。ソルジャー扱いでドライブしようと。
「ホントに偉そうな恋人だけど…」
 そんなのでいいの、ハーレイは…?
 ソルジャーごっこだって知らない人が見たなら、恋人に馬鹿にされてるみたいじゃない…?
「いいんじゃないのか、俺がお前に首ったけってことで。…恋人同士だとは分かるんだから」
 甘やかされて我儘放題なんだな、と誰もが温かく見てくれるさ。
 本当は置き去り防止のためとか、ソルジャー扱いだとかは気付きもせずに。
「ふふっ、熱々?」
 ハーレイはぼくにぞっこんなわけで、運転手までしてるってわけ…?
「そんなトコだな、お前、本当にやってみたいか?」
 置き去り防止の方はともかく、ソルジャー扱いで後ろの席に乗って行くこと。
「ちょっぴりね」
 ほんのちょっぴりなんだけど…。でも、そういうのも楽しそう…。
 前のぼくには、ソルジャーの席が無かったから…。その分、今のぼくが欲しいな、その席。
「よしきた、お前にソルジャーの席をプレゼントだな?」
 かまわないぞ、とハーレイが片目を瞑るから。「好きにしていいぞ」と言ってくれたから。
 いつかドライブしてゆく時には、たまに頼んでみるのもいい。
 「今日はソルジャーの席がいいな」と。
 白いシャングリラには、ソルジャーの席など無かったけれども、今なら貰える。
 今のハーレイの車にだったら、ソルジャーの席を作れるから。
 偉そうに座る席だけれども、きっと二人で楽しくドライブしてゆけるから…。



           お気に入りの席・了


※シャングリラには無かった、前のブルーの席。お気に入りの席が無かったソルジャー。
 けれど、今度は専用の席を貰えるようです。ハーレイが運転する車の中に、自分だけの座席。
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