シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
カテゴリー「ハレブル」の記事一覧
(今日は、いろんな雲…)
形が色々、とブルーが見上げた窓の外。学校から帰って、おやつの後で。
二階の自分の部屋の窓から眺めた空。青い空には、雲が幾つも。モコモコなのやら、筋雲やら。
様々な姿をしている雲たち。前の自分ならば、アルテメシアで雲の上を飛んでいたけれど…。
青い地球の上に生まれ変わった自分は、サイオンがすっかり不器用になった。空を飛ぶなど夢のまた夢、思念波さえもろくに紡げないレベル。雲の上は、文字通り「雲の上」。
(こうやって見上げるだけになっても…)
雲の上には行けなくなっても、それも平和の証拠だよね、と考える。前の自分の強いサイオン、あれが無ければ、ミュウは一人も生きられなかった酷い時代。SD体制の時代は遥かな昔。
そのサイオンが不器用でも誰も困らないのも、今が平和な証だけれど…。
(今みたいに、雲…)
地上から雲を見上げる贅沢。
踏みしめる地面を持たなかったミュウには、まるで考えられないこと。雲を仰ぐなんて。
前の自分も、アルテメシアに降りた時には、空に浮かんだ雲を見上げていたけれど…。
(いつも地上にいたわけじゃないし…)
シャングリラは、常に雲の海の中。消えない雲海を隠れ蓑にして、あの星に潜み続けていた。
踏みしめる地面を持たないままで、いつか地球へと願いながら。ミュウと判断され、処分される運命の子たちを救い出しながら。
船の周りは雲の海でも、展望室の窓の向こうは真っ白。雲の形は分からなかった。とても細かい水の粒子が、無数に浮かんでいるだけで。強化ガラスを隔てて流れてゆくだけで。
(まるで霧の中にいるみたいに…)
白いだけだった、船の中から見えた雲。モコモコなのか、そうでないのか、それさえも謎で。
地上に降りれば雲の形は色々だけれど、様々な雲たちが空に浮かんでいたけれど。
(それを見られるのは、前のぼくだけで…)
他の仲間たちは仰ぐことさえ出来なかったし、後ろめたい気持ちになることもあった。潜入班や救出班の仲間も地上に降りるけれども、任務が優先。雲をゆっくり見る暇は無い。
空を仰げない仲間たちを思うと、そうそう雲には酔えなかった。どんなに綺麗な雲があっても、刻一刻と形を変えてゆくのが面白くても。
前の自分が見ていた雲は、そういった雲。のんびり見られはしなかったもの。
見上げる時間はたっぷりあっても、いつも心に仲間たちのことが引っ掛かっていたものだから。
(今だと、ゆっくり…)
こうして考え事だって出来る。仲間たちや白いシャングリラのことは、何も心配しないまま。
SD体制の時代は遠い時の彼方で、今は本当に平和な時代。考え事だって、好きに選べる。空に浮かんだ雲を見ながら、色々なことを。
雲の上には天国があるし、白い翼の天使たちもいる。きっと自分は、其処から来た。青い地球の上で新しい命と身体を貰って、ハーレイと生きてゆけるようにと。
残念なことに、天国の記憶は無いけれど。…ハーレイだって、何も覚えていないのだけれど。
(雲の隙間から、光が射したら…)
地上に向かう光の道が空にあったら、「天使の梯子」の名前で呼ばれる。天使たちが使う、空と地上を結ぶための梯子。
そういう時に空を観察したなら、雲の端から天使が覗いているらしい。眩しい光の中に紛れた、遠い空にいる天使の顔を見られるチャンス。
(天使の梯子が無くっても…)
天使が何処かにいないかな、と目を凝らしてみる。雲の端っこに見えはしないかと、翼を持った天の使いが顔だけを出していないかと。天使を探すだけでも楽しい、雲を仰ぐこと。
(それに、雲の形…)
色々な形の雲がある上、同じ雲でも形が変わる。空の上の気流や、湿度のせいで。
見る間に形が変わってゆく雲もあるし、同じ形を暫く保ち続ける雲も。
(ホントに見てるだけでも楽しい…)
モコモコとした雲の羊がいたり、丸くなった猫のように見えたり。空に浮かんだ雲の彫刻。どの彫刻も雲で出来ているから、すぐに崩れてしまうけれども。
(崩れちゃっても、また違う形…)
羊が猫になったりもする。猫が龍みたいになることだって。
素敵だよね、と眺めていたら、雲の一つが隠した太陽。空を悠々と流れる間に、太陽の道と交差して。太陽の顔を隠す形で横切って。
たちまちサッと陰ったけれども、雲が通り過ぎたら出て来た太陽。元の通りに、青い空の上に。
一瞬だけの曇り空。ほんの一部だけ、雲の影に入っていた所だけで「消えた」太陽。通り過ぎた雲の下にいなかった人は、陰ったことさえ知らないだろう。青空に白い雲があるだけで。
(面白いよね?)
太陽が消えてしまった所と、そうでない所。雲の下にいたか、いなかったかの違いで変わる。
こういうのだって楽しいよ、と考えていたら気が付いた。前の自分が生きた時代のことに。
(シャングリラは雲の中だったけど…)
いつもアルテメシアの雲海の中を飛んだけれども、赤いナスカでは違っていた。前の自分は深く眠っていたから、ナスカに降りてはいないのだけれど。
(ナスカに着いたら、シャングリラは宇宙に浮かんだままで…)
地上に降りようと決めた仲間は、赤い星へと降下した。何機ものシャトルで、船を離れて。
踏みしめる大地を手に入れたミュウ。若い世代が夢中になった、赤い星。
その星にあった二つの太陽の光や、恵みの雨の話だったら、今のハーレイに聞いたけれども…。
(雲の話は聞いていないよ?)
シャングリラから離れて、皆が仰いだ空の雲。ラベンダー色だったというナスカの空に、幾つも浮かんでいただろう雲。
その雲たちは嫌われ者だったのか、愛されたのか。
(曇っちゃったら、お日様の光が遮られるから…)
作物に光が届かなくなる。直ぐに晴れればいいのだけれども、曇ったままなら、気を揉む仲間もいたかもしれない。「こんな空模様で大丈夫かな」と、収穫のことを心配して。
(お日様の光を、うんと沢山浴びないと…)
甘くならない果物もあるし、トマトなどの野菜もそうかもしれない。酸っぱくなるとか、綺麗な色にならないだとか。
それに季節が冬だったならば、太陽が隠れてしまうと寒い。雲に覆われて消えてしまったら。
(…寒くなったり、野菜が美味しくならなかったり…)
雲にはそういう面もあるから、嫌われたろうか?
それとも、今の自分みたいに「眺めて楽しむ」ものだったろうか。雲海の中を飛ぶ船と違って、いつでも空を仰げたから。雲の形を観察することも出来たから。
「今日は羊だ」とか、「あれは猫だ」とか、雲の彫刻を探すことだって。
ナスカの雲は嫌われていたか、愛されていた雲だったのか。…前の自分はまるで知らない。深く眠ったままでいたから、目覚めた時には滅びの時が迫っていたから。
もちろん今の自分も知るわけがなくて、想像の域を出ないもの。ナスカの雲を、仲間たちがどう見ていたのかは。
(えーっと…?)
答えを出せる人がいるなら、ハーレイだけ。赤いナスカにも降りたキャプテン・ハーレイ。
今のハーレイはその生まれ変われりだし、記憶もきちんと引き継いでいる。ハーレイに訊けたらいいんだけれど、と考えていたら、聞こえたチャイム。
(…ハーレイだ!)
この時間なら、と窓に駆け寄ったら、門扉の向こうで手を振るハーレイ。生き証人が訪ねて来てくれたのだし、ハーレイと部屋でテーブルを挟んで、向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、雲って嫌われていた?」
空にある雲、嫌われてたのか、それとも好かれていたのか、どっち…?
「はあ? 雲って…。何の話だ?」
昔の地球の雲の話か、俺が教えている古典の世界の。…まあ、雲によって色々なんだが…。
めでたいと喜ばれる雲もあったし、不吉だと嫌われた雲もあったが…?
喜ばれた雲にも色々あって…、と話し始めたハーレイの言葉を遮った。「そうじゃなくて」と、「前のぼくたちの頃の話」と。
「ぼくが知りたいのは、ナスカの雲だよ。あそこの雲はどうだったのか」
ナスカの太陽や雨の話は聞いたけど…。今のハーレイから、いろんな話を。
虹の話も聞いたけれども、雲の話は聞いていないよ。…ナスカの雲って、嫌われてたの?
「嫌うって…。どうして雲を嫌うんだ?」
何処からそういう話になるんだ、大昔の人間じゃあるまいし…。雲は雲だぞ?
めでたい雲でも、不吉だと言われた雲でも雲の一種だ、とハーレイは「雲」で片付けた。迷信が生きていた時代ならばともかく、SD体制の時代に嫌いはしない、と。
「そうだろうけど…。でも、シャングリラはずっと雲海の中だったし…」
展望室の窓の向こうを隠していたのは、いつだって雲。あれじゃ好きにはなれないよ。
ナスカに着いた後になったら、雲はお日様を隠してしまうから…。
嫌われそうな感じだけれど、と説明をした。
雲が太陽を隠してしまえば、降り注ぐ筈の日射しが地上に届かなくなる。作物を育てたり、実を甘くしたりする光が。
それに冬なら、人間だって「寒い」と感じる。日が照っていたら暖かいのに、雲が太陽を覆って隠してしまったら。
「今のぼくだと、雲があるな、って見上げておしまいだけど…。あるのが当たり前だもの」
前と違って、空を飛ぶのは無理だから…。ホントに見ているだけなんだけど。
今日も見ていて、シャングリラの頃を思い出したら気になったんだよ。ナスカに降りた仲間たちには、雲はどういうものだったかな、って。
「なるほどな…。それで雲だと言い出したのか。ナスカの雲なあ…」
どうだったっけな、とハーレイも考え込んでいる。「あそこじゃ、雲は当たり前に空に浮かんでいたから」と、「前の俺もそれほど気にしてないな」と。
「そうなんだ…。前のハーレイでも、そうだったんなら…」
他の仲間もきっと同じだね、「雲だ」って空を見上げておしまい。好きとか嫌いとか、そういう気持ちは生まれないままで。
「そんなトコだろうな、なんと言ってもただの雲だし」
アルテメシアの雲海の方なら、雲は大事なものだったが…。消えたりしたなら、シャングリラが外に出てしまうから。…ステルス・デバイスが作動してても、そいつはキツイぞ。
監視衛星からは捉えられなくても、視認できる距離に船がいたなら見付かっちまう。正体不明の大型船だ、と調べられたらおしまいだしな?
元はコンスティテューション号だった船だとバレちまうから、とハーレイが言っている通り。
「未知の大型船」と認識されたら、固有周波数から特定可能な船の正体。
記録の上から、いつ消えたのか。何処で消えたか、此処にあるなら、乗っているのは何者かも。
「そうだっけね…。アルテメシアで雲が消えたら、ホントに大変」
だからいつでも雲の中を飛んで、雲海のデータを集め続けていたんだっけ。
一年中、消えないって分かっていたって、星が相手じゃ何が起こるか分からないから…。
なんのはずみで気流が変わるか、雲の流れがどうなるのかは、誰にも正確に読み取れないもの。
何かありそうだ、って予兆があったら、航路を変えて飛ぶくらいしか出来ないものね。
アルテメシアでは大切だった、雲海のデータを集めること。雲が厚い場所を常に選んで、雲海の中を飛び続けること。
けれど、ナスカでは雲の海はもう、必要なかった。懸命に雲に隠れなくても、人類軍が来たりはしない。船から降りて地面にいたって、何も襲っては来ないのだから。
「…ナスカの雲だと、あっても無くても、関係ないよね」
あれが無ければ困っちゃう、っていうわけじゃないから。…アルテメシアの雲と違って。
「うむ。太陽や雨とは違うからなあ、星の上にいても、直接、影響を受けたりはしない」
お前の言ってる作物にしても、旱魃だとか、大雨だったら、皆、大慌てをしたんだろうが…。
雲が太陽を隠した程度じゃ、そうそう困りはしなかったろう。長雨となったら、話は別だが。
しかし、大雨や長雨だったら、問題は雨の方でだな…。それを降らせてる雨雲の方は、さっさと消えてくれればいいのに、と思われておしまいだったんじゃないか?
もっとも、大雨は降っちゃいないし、雨は喜ばれていただけだ。恵みの雨だと、「これで作物がよく育つだろう」と。
そんな具合だから、誰も雲には注目しない。…隠れ家だったわけでもないしな、アルテメシアの頃と違って。
だが、待てよ…?
本当にそれで全部だったか…、とハーレイは顎に手を当てた。「雲だろう…?」と。
「他にも何かありそうなの?」
ナスカの雲にも、何か素敵な話でもあった…?
トォニィが生まれた時の雨で生まれた花園みたいに、とても特別で、みんなが喜びそうなこと。
それとも、前のハーレイが虹を追い掛けて歩いてたような、ちょっと悲しいお話だとか…?
前のハーレイ、虹の橋のたもとを探していたって言うから…。宝物が埋まっているって聞いて。
眠ったままの前のぼくの魂、其処に埋まっていそうだから、って…。
「あれは悲しい話ではないぞ、俺にとっては希望の一つだ。虹を追い掛けて歩いてたのも」
前のお前に目覚めて欲しくて、それを考え付いてだな…。
歩いている時は、ちゃんと幸せだったんだ。「今日こそ宝物を見付けてやろう」と。
追い付けないままで虹が消えても、次の機会がまたあるだろう?
ガッカリしながら歩いていたって、希望までは消えちゃいないんだからな。
其処の所を間違えるなよ、と訂正してから、またハーレイは考えている。「何だった?」と。
ナスカにあった雲の話を、それに纏わるらしい記憶を。
「雲には違いなかった筈だと思うんだが…。しかし、俺には縁のないことで…」
キャプテンの俺が無関係なら、若い世代の連中だよな?
あの星の上でだけ、意味があったか、何かいいことでもあったのか…。雲ってヤツで…。
そうだ、その雲を使ってたんだ!
ナスカにいた若い連中が、とハーレイがポンと叩いた手。「天気予報だ」と。
「…天気予報?」
なんなの、それは?
天気予報っていうのは、ホントに天気予報のことなの、今のぼくたちが知ってるような…?
今日は一日晴れるでしょうとか、明日は午後から雨になりますとか、そういう天気予報のこと?
ぼくは他には知らないけれど、と首を傾げた。天気予報は天気予報で、この先の天気を予想するもの。傘を持たずに出ても大丈夫か、持って出た方がいいのかなどと、暮らしの参考になる予報。
農家の人やら、海で漁をする漁師だったら、仕事などにも役立てる。
けれど、ハーレイは「雲だ」と言った。雲を使った天気予報と言われても…。
(…天気予報は、気象衛星とかを使っているんじゃなかった?)
今の時代も、前の自分が生きた時代も、基本の仕組みは変わらない筈。白いシャングリラでも、似たようなことをやっていた。船の周りの雲海の動きを読むために。
「お前、すっかり忘れているな? その様子だと」
今の俺が得意としているだろうが、雲で天気を読むってヤツ。
空模様を見て、「この雨だったらじきに止むな」とか、「予報じゃ晴れだが、降るぞ」だとか。
あれも天気予報の一種ってヤツだ、観天望気と呼ぶんだがな。
ずっと昔は、天気予報の仕組みは無かったモンだから…。雲だの風だの、自然の動きを観察して天気を読んでいたんだ。漁師も、作物を育てる農家も。
「雲の天気予報…。今のハーレイ、そういえば得意だったっけね」
でも、ナスカでそれをやってたの?
雲の流れや形を眺めて、晴れになるとか、雨になるとか…?
「やっていたとも。…もっとも、そいつをやっていたのは俺じゃないがな」
前の俺じゃなくて、若い世代だ。さっき、お前に言った通りに。
ナスカに入植した連中だな、とハーレイは懐かしそうな顔。「あいつらだった」と。
人類が放棄した植民惑星、かつてジルベスター・セブンと呼ばれていた星。その星にフィシスが「ナスカ」と名付けて、何機ものシャトルが降下していった。
其処で暮らそうと夢を抱いた、若い世代のミュウたちを乗せて。彼らの希望と、未来への大きな夢を積み込んで。
そうして始まった、ナスカでの日々。踏みしめられる地面の上で。
赤いナスカに降りたからには、必要なものが天気予報。様々な作物を育ててゆくにも、ナスカで暮らしてゆくためにも。
作物を上手く育てるためには、気温などのチェックが欠かせない。寒くなりそうなら、そうなる前に保温をするとか、暑くなりそうなら早い間に水を撒くとか。
人間の暮らしの方も同じで、外に出掛けて作業をするなら、準備するものが日によって変わる。雨はシールドで防ぐにしたって、作業の方はそうはいかない。シートで覆って中断するとか、最初から作業を延期するとか。…予定の作業を、別の仕事に切り替えたりして。
防水用のシートを持って出掛けるのか、それは持たずに出ていいのか。作業そのものを、屋内のものに切り替えるのか。持ってゆく工具や道具なんかも、そっくり変わってしまうとしても。
そういったことを決めてゆくには、天気予報が必要だった。雨になるのか、晴れるのかと。
シャングリラの中だけで暮らした頃なら、一部の者しか気にしなかった天気予報。
アルテメシアの雲の流れや、他の様々な気象データは、ブリッジクルーだけが見れば良かった。船の航路を決めてゆくのに、それらは必須のデータだから。
長い年月、船の仲間が見てもいなかった天気予報。この先、どういう天気になるか。どう天候が変わってゆくのか、変わるタイミングは、どの辺りなのか。
それらがナスカで、皆に共有されることになった。赤い星に降りた若い世代に。
ナスカでも気象観測は可能だけれども、シャングリラの方が遥かに優れた機能を持っていた船。長い年月、アルテメシアで観測を続けていただけに。
もちろん船のデータベースにも、膨大な情報が入っていた。人類が暮らす都市があった幾つもの植民惑星や育英惑星、其処で得られた観測データ。
船のコンピューターに計算させれば、ナスカでの天気予報も可能。衛星軌道上に停泊した船で、ナスカを観測し続けながら。どの雲がどう動いてゆくのか、風の流れはどう変わるかと。
白いシャングリラで弾き出された、計算の結果。赤いナスカの天気予報。
それは直ちに、地上で暮らす仲間たちの所に届いたけれども…。
「やっぱり外れちまうんだ。…どんなに計算し直してみても、これで確実だと思っていても」
アルテメシアにいた頃だって、常に観測し続けてないと、急に変わるってことがよくあった。
あの頃よりも遥かに技術が進んだ、今の時代の天気予報だって、百パーセントじゃないだろう?
だからだな…。仕方ないっていうヤツだよなあ、ナスカで予報が外れちまっても。
そうは言っても、頼りにしていた連中からすれば、とても納得できないわけで…。予定していた作業がパアとか、作業を控えて別のにしたのに、雨なんか降りもしなかったとか。
朝から晩まで快晴でな…、とハーレイが浮かべた苦笑い。今の時代でも、よくあること。予報がすっかり外れてしまって、持って出た傘が荷物になっただけで終わるとか。
赤いナスカで天気予報が外れた時には、文句を言っていた仲間たち。
入植地からは遠すぎて見えない、白いシャングリラが浮かぶ方を仰いで、「何やってんだ」と。
けれど、彼らは次第に気付き始めた。
ラベンダー色の空の上にある、雲の形や流れなど。…それが天気と共に動いていることに。
何処に雲が湧けば雨になるのか、あるいは雲は其処にあるだけで晴れるのか。
「…それって、今のハーレイみたいに?」
じきに晴れるぞ、って言ってるみたいに、ナスカの仲間も予報をしてたの?
雲の形だとか、どっちの方に流れて行くかで、雨が降るのか、降らないのかを…?
若い世代の仲間だよね、と赤い瞳を瞬かせた。前の自分がアルテメシアで救い出させた、大勢のミュウの子供たち。彼らが育って、ナスカに降りた。「あの子供たちが、天気予報を?」と。
「そういうことだ。今の俺と同じに、読み始めたんだな、雲の動きを」
ナスカの上で暮らす間に、色々な経験を積んで知識を増やしていって。
シャングリラの方で出した予報が外れちまったら、そいつに腹を立てたりしながら。
あの星と一緒に暮らしていれば、星の気分にも詳しくなる。シャングリラの中で、観測データを見ているだけのヤツらと違って。
あっちの方に雲が出たなら、降るだとか。…あの雲なら、じきに消えるとか。
シャングリラから届く予報と、ヤツらの経験。それを組み合わせりゃ、けっこう当たった。
だが、季節によって変わっちまう部分も沢山あるから、すっかり定着する前に…。
赤いナスカは燃えてしまった。キースが放ったメギドの炎で、跡形もなく。
ミュウの安住の地になるよりも前に。…雲の予報を完成させて、次の世代に伝える前に。
「それでも、ヤツらは楽しんでいたな。自分たちが作った天気予報を」
たった四年しか暮らせなかった星だが、俺が視察に降りた時には、皆、生き生きとしてた。
あいつらが出した予報が当たって、シャングリラが出した予報が外れた、と喜んだりして。もう何年か此処で暮らしたら、天気予報は自分たちだけでも出来るだろう、とな。
そしていつかは、この星の天気をすっかり当ててみせる、と勢い込んでいたもんだ。「俺たちのナスカの天気くらいは、俺たちの力で当ててみせるぞ」と。
「そうなんだ…。みんな、ナスカで、ホントに幸せだったんだね」
雲の予報を見付けたりして、シャングリラよりも当たる天気予報が出来たくらいに。…ナスカのことが好きでなければ、そんなの、絶対、無理だから…。
毎日、ナスカを観察してなきゃ、出来るわけがないことなんだから。…雲の予報なんて。
その方法で、いつか自分たちで天気予報をしようと、みんなはナスカで思ってたのに…。
でも、それよりも前に、そのナスカは…。
メギドの炎で焼かれちゃった、と俯いた。あの星に降りた若い世代は、前の自分も知っていた者ばかりだから。…白いシャングリラで育った世代で、幼かった頃に船に迎えた仲間たち。
彼らはどんなに幸せな日々を、あの星で送ったのだろう。…ナスカの空を流れてゆく雲、それを見上げて生きていたろう…?
彼らが夢を膨らませた星は、夢と一緒に儚く消えた。あの星で生まれた、自然出産児のトォニィたちだけを残して、暗い宇宙に。…ラベンダー色の空も、其処に浮かぶ雲も炎に焼かれて。
「残念だったが、仕方あるまい」
前の俺たちがナスカを選んだのも、それがメギドで滅ぼされたのも、歴史の流れというヤツだ。
ミュウの時代を手に入れるためには、ああなるしかなかったんだろう。
前のお前も失くしちまって、とんでもないことになった星だが…。
あの時代に生きた俺から見たなら、疫病神のような星だったのがナスカなんだが…。
そんな星でも、雲を眺めて楽しめた時代もあったんだ、とハーレイは微笑む。
「雲で予報をしていたんだぞ」と、「ほんの短い間でもな」と。
前のハーレイは、それを確かに見ていたから。…雲の姿で天気予報を始めた、若い仲間たちを。
ラベンダー色だったという、ナスカの空。其処に幾つも浮かんでいた雲。
幼かった頃にシャングリラに来た若い世代は、雲を仰ぐのは初めてと言っても良かっただろう。養父母に育てられた時代は短かったし、シャングリラで暮らした年数の方が遥かに長い。
アルテメシアの地上で仰いだ雲の記憶は、すっかり薄れてしまっていた筈。自分が本当にそれを見たのか、映像などで仕入れた知識か、それさえ区別がつかないほどに。
シャングリラの中では、雲と言ったら「展望室の窓の向こう」を覆い尽くすもの。太陽が昇る、昼の間は真っ白に。太陽が沈んだ後の夜には、闇を含んだ重たい色に。
そんな雲しか知らなかった世代が、赤いナスカで雲と出会った。空にある雲を仰いで暮らして、天気予報までするようになった。「あそこに雲があるから雨」とか、「雨は降らない」とか。
今のハーレイは、それが得意で、観天望気という言葉も口にしていたけれど…。
「ねえ、ハーレイ…。前のぼくは、それを知らないよ」
雲の形や流れなんかで、天気を読むっていう方法は。…雲の予報は。
ナスカには一度も降りてないから、そんなの、耳にしてもいないし…。眠っていたから、教えてくれる人も一人もいなかったしね。
アルテメシアに隠れてた頃も、前のぼく、やっていないから…。
雲で天気が分かるなんてことには、気付いてさえもいなかったから…。
何度も地上に降りてたのにね、と零した小さな溜息。「前のぼくって、駄目だったかも…」と。
「駄目ってことは無いだろう。前のお前は、立派なソルジャーだったんだから」
とはいえ、雲の予報ってヤツに関しちゃ、そうなるのかもしれないな。アルテメシアも、星には違いなかったんだし、やろうと思えば出来ただろう。…雲の予報も。
雲海だらけの星ではあったが、育英都市は雲海を避けて作ってあったしな。
アタラクシアとか、エネルゲイアの天気予報は出来ただろうさ、とハーレイは笑む。
「前のお前にその気があったら、恐らく出来ていただろう」と。
「…雲の予報を知っていたら、っていうことだよね?」
そういうやり方があるって話を、前のぼくが何処かで読んだりしていたら…。
ううん、ナスカで雲の予報をやってた若い仲間たちは、そんなの知らなかったんだし…。
ナスカで暮らして覚えたんだし、前のぼくでも出来た筈…。
雲の予報は知らなくっても、アタラクシアのも、エネルゲイアの天気予報も…。
若い世代の仲間たちが気付いて始めたのなら、前の自分にも出来たのだろう。アタラクシアや、エネルゲイアの天気予報が。…雲の予報が。
予知能力など使いもしないで、雲の形や流れなどを読む天気予報。白いシャングリラのデータも使わず、コンピューターにも計算させずに。
「雲の天気予報…。今のハーレイは凄く得意だけど、コツはある?」
ぼくにはちっとも分からないけど、天気予報をするためのコツが。…ナスカでも出来た天気予報だし、前のぼくでも、その気になったら、アタラクシアやエネルゲイアで出来たんなら。
コツはあるの、と興味津々で投げ掛けた問い。今のハーレイは、雲の予報の名人だから。
「雲の予報のコツってか? これというコツは無いんだが…」
あるとしたなら、場数を踏むってことだろうな。ナスカでやってた若い世代は、そうだった。
あの星の上で毎日暮らして、新鮮だった空を見上げて、そして覚えていったんだ。こういう雲が出て来た時には、天気ってヤツはこう変わるんだ、と。
今のお前がやりたいのならば、毎日、窓から見ているだけでも、ある程度まではいけるだろう。
関心を持って、きちんと雲を観察してれば。
どういう具合に流れて行ったら、どんな形なら、その後の天気はどうなるのか。
天気の変化と結び付けて覚えることが大事だ、と教えられた。ただ漠然と雲を見ていても、雲の予報は身につかない。雲や風向きをちゃんと覚えて、天気と結び付けないと。
「難しそうだね、雲の予報って…」
雲を観察する所から始めて、それを覚えるだなんて…。その後のお天気、どうなったのかも。
何度も何度も見ている間に、やっと方法が見付かるんだね…?
「そういうことだな、自分で一から始めるんなら」
ナスカのヤツらはそうしたわけだが、幸いなことに、今はデータというヤツがある。
データと呼ぶより、言い伝えとでも呼びたいんだがな、俺の好みとしては。
この地球の上で生きた先人、その人たちが集めてくれた情報を生かしてやればいい。雲の予報をする名人は、代々、そうして来たもんだ。何世代もの積み重ねで。
人間が地球しか知らなかった頃には、その予報しか無かった時代もあったしな?
俺の場合も、そうした知識を幾つも貰って活かしてる。
あの雲だったら、もう確実に降るだとか…。あの雲は雨が降る雲じゃないとか。
雲の形だけで、幾らかは分かるものらしい。雷雲だったら、この形、といった具合に。
それに風向きを加えてやれば、雷雲が来るかどうかが分かる。頭上の雲の流れを読んだら、風の方向が分かるから。
「雷雲ってヤツは基礎の基礎だな、形も覚えやすいだろう?」
あれが雲の予報の入門編ってトコか、子供でも直ぐに覚えられるから。雷雲の形と、風向き。
他に面白いヤツと言ったら、場所が変わると当たらなくなる予報だな。
ナスカでも使われていた方法なんだが、雲が湧く方向や風向きなんかで決まるヤツ。あの方向に雲が湧いたら、必ず雨になるだとか…。この方向に雲が流れて行ったら、明日は晴れるとか。
その手のヤツは、地形で変わってしまうんだ。
同じような雲があったとしたって、場所が違えば、もうそのままでは当て嵌まらない。すっかり逆になるってこともあるほどだから。
こっちは迂闊に使えないぞ、とハーレイは鳶色の瞳で見据える。「覚えたからって、何処ででも使えるモンじゃない」と。
「そうなんだ…。地形で変わってしまうっていうのは分かるけど…」
山に囲まれた場所か、そうじゃないかでも違うんだろうし…。
おんなじように山があっても、その山の向こうがどんな風かは、何処でも同じじゃないものね。
山の向こうは海があったり、ずうっと山が続いていたり…、と考えてみる。地理の授業で習った地図を思い浮かべて、「ホントにいろんな場所があるよね」と。
「よしよし、分かってるじゃないか。変わっちまう理屈というヤツを」
しかし、世の中、理屈だけでは済まないってな。
この地形だからこうだろう、と決めつけるのは素人判断ってヤツで、愚の骨頂だ。何処にでも、色々な気象条件がある。…初めて其処に行ったヤツには、分からないことが山ほどな。
だから、釣りなんかで知らない所へ出掛けた時には、だ…。
自分では「こうだ」と思っていたって、それを使っちゃ駄目なんだ。
思い込みで勝手に動いちまう前に、地元の人の考えを聞く。今日の天気はどうなりますか、と。
そうすりゃ親切に教えて貰えて、天気予報よりも良く当たるってな。
「今日は晴れだと言ってましたが、雨になりますよ」と言われたりもして。
その手の情報、大切なんだぞ。自然が相手の釣りなんかだと。
晴れていたって、急に荒れる時もあるもんだから、とハーレイは首を竦めてみせた。
「そういった時に小さな船で沖に出てたら、大変だぞ?」と、恐ろしそうに。
「今の時代はサイオンがあるから、そう簡単に遭難したりはしないんだが…」
それでも漂流しちまったりしたら、大勢の人に迷惑をかけてしまうしな?
釣りに行った人が帰って来ない、と船を出したり、場合によっては空からも捜索するんだから。
いくら思念波で連絡が取れても、船を見付けて連れ帰らないと駄目だろう?
嵐で流された船の中だと、乗ってる人間もヘトヘトだ。食料や水も流されちまって、腹ペコってこともあるんだから。
そうならないためにも、事前の準備が大切なのだ、と説くハーレイ。天気予報を確かめた上で、地元の人にも話を聞く。自分の考えだけで決めたりしないで、慎重に。
「ふうん…。雲の予報って、難しいんだね」
ナスカでもやってた予報なんだし、簡単なのかと思ったけれど…。ホントにそれを使う時には、自分一人で決めてしまっちゃ駄目なんだ…。
「そうでもないぞ? いつも住んでる町の中なら、何も心配要らんしな」
其処が自分の地元なんだし、他所から来た人に教える方の立場だろうが。こうなりますよ、と。
他所の町でも、何度も通えば自然と覚える。
ナスカでさえも、ちゃんと予報をしてたんだから。たった四年しか住めなかったのに。
それと同じだ、そっちも場数が大切だ。色々な場所に出掛けて行っては、其処ならではの天気の動きを覚えることが。
俺も親父に連れて行かれて、あちこち出掛けて、けっこう覚えた。…色々なことを。
お蔭で、この町と隣町なら、ほぼ大丈夫だな、雲の予報は。
滅多に外れん、とハーレイは自信たっぷりな様子。そして実際、ハーレイの予報は良く当たる。天気予報が「晴れです」と言っても、ハーレイが「降るぞ」と言った日は雨。
「ぼくも覚えたいな、雲の天気予報…」
難しそうでも、覚えたら役に立ちそうだから。
傘を持ってた方がいいのか、持って行かなくてもいいか、自分で分かれば素敵だもの。
天気予報だけだと、外れちゃう時も多いから…。
それに、「所によっては雨」って言うでしょ、あれがどうなるか分かるといいよね…。
天気予報で、気になる言い回しの一つ。「所によっては雨」というもの。
予報の対象区域は広いし、何処で降るのかは分からない。そういった時に雲の予報が出来たら、きっと便利に違いない。「傘が要るよ」とか、「要らないよね」と自分で判断出来たなら。
「ふうむ…。お前がやるなら、まずは頑張って観察からだな」
どの雲が出たら、どういう天気になったのか。そいつを覚えろ、窓から雲を何度も眺めて。
先人の知恵も大切なんだが、自分の力で身につけたことは忘れない。
現にナスカじゃ、本当に一からやったんだから。…あそこで暮らしていた連中は。
もっとも、ヤツらを船に連れて来た前のお前は、そんな予報に気付きもしなかったようだがな。
アルテメシアじゃ、何度も外に出てたのに…。
雲を見上げる機会ってヤツも、前のお前には、山ほどあった筈なんだが…。
それでも気付かなかったのか、とハーレイが言うから、逆に質問してやった。まるで同じのを。
「じゃあ、ハーレイは気付いてたの?」
前のハーレイは、その方法を知ってたって言うの、船の外には出ていなくても…?
アタラクシアとかエネルゲイアの方に動いていく雲、何度もデータを見ている内に…?
「おいおいおい…。前のお前でも気付かないんだぞ、俺に分かると思うのか?」
俺もナスカで目から鱗というヤツだ。「そんな方法があったのか」と。
言われてみれば、確かに筋は通ってた。雲は大気の流れで動くし、それで予報は可能だからな。大気の流れや雲の性質を掴んでいたなら、答えを弾き出せるんだから。
もっとも、そいつを知った後でも、やはりシャングリラで気象データを見ている方が…。
俺の場合は主だったがな、というのが前のハーレイ。
白いシャングリラを纏め上げていた、船の最高責任者。今は英雄のキャプテン・ハーレイ。
船を預かるキャプテンなのだし、天気予報を勘だけで決めてはいけないから。
赤いナスカでそれを覚えて、「こうなるだろう」と思っても。
シャングリラのコンピューターが計算して出した天気予報を見て、「これは外れる」とナスカに送る前に手直ししたくても。
キャプテンは、それをしてはいけない。
たとえナスカの天気予報でも、自分一人の判断だけでは変えられない。「こうなるんだ」という答えを自分が持っていたって、それは雲の予報。ナスカで暮らす仲間に習った、雲の形を読み取る不思議な天気予報。…SD体制の時代には誰も、それを使いはしなかったから。
前のハーレイは使わなかった、雲の天気予報。赤いナスカで聞いてはいても。
「そっちの方が当たるようだ」と感じてはいても、白いシャングリラのデータが全て。其処から計算される答えが「本当のこと」で、赤いナスカの天気予報。
「また外れた」と言われていても。ナスカの仲間は、雲の予報を使っていても。
「…今の俺なら、あの予報でも使えるんだがなあ…」
こういう雲が出たからこうだ、と自信を持って言ってやれるし、それで問題ないんだが…。
「だよね、みんなの命は懸かってないもんね」
学校で天気予報をしたって、誰の命も懸かってないから…。生徒も、それに先生たちだって。
「そうなんだよなあ、柔道部員のヤツらも別に困りはしないぞ。俺の予報が外れても」
せいぜい、降らないと言っていた筈の雨に降られて濡れる程度で…。あいつらだったら、濡れるよりかはシールドだろうな、ちゃっかりと。…俺を信じてしまったお蔭で、傘が無いなら。
そんな平和な時代なんだし、お前もゆっくり覚えていけ。雲の予報を。
観察するのが一番だぞ、とハーレイがまた繰り返すから、「でも…」と恋人の瞳を見詰めた。
「雲の観察は頑張るけれども、ハーレイもぼくに教えてよ?」
大勢の人が雲を見上げて、覚えた知識も大切なんでしょ。何世代もの経験ってヤツの積み重ね。
ハーレイもそれを使ってるんだし、ぼくに教えてくれるよね?
いつか一緒に出掛けられるようになったら、いろんな場所で。
「もちろんだ。…この町でも、隣町でもな」
俺の師匠の、親父と一緒に教えてやるさ。あちこち一緒に出掛けて行っては、雲を指差して。
「あの雲がこう流れているから、今日の天気は…」といった具合にな。
楽しみに待っていることだ、と約束をして貰ったのだし、雲の予報を覚えたい。赤いナスカで、若い世代の仲間たちもしていた天気予報。
それを地球の上でやってみる。…まずは窓から雲の観察、其処から始めて。
天気予報も頼もしいけれど、自分で補足出来たら幸せ。
いつかハーレイに教えて貰って、とても上手になれたらいい。
ハーレイと二人で「降るんだよね?」と傘を持ったり、「大丈夫」と置いて出掛けたり。
そういう予報が出来たらいい。
雲の形を二人で見ながら、「明日は晴れるね」などと、雲が流れてゆく方向を眺めながら…。
雲の天気予報・了
※雲を仰ぐ機会が無かった、アルテメシア時代のミュウたち。ナスカで出会った空の雲。
若い世代は雲を眺めて、天気予報が出来たようです。今のブルーも、ハーレイに習える予定。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
形が色々、とブルーが見上げた窓の外。学校から帰って、おやつの後で。
二階の自分の部屋の窓から眺めた空。青い空には、雲が幾つも。モコモコなのやら、筋雲やら。
様々な姿をしている雲たち。前の自分ならば、アルテメシアで雲の上を飛んでいたけれど…。
青い地球の上に生まれ変わった自分は、サイオンがすっかり不器用になった。空を飛ぶなど夢のまた夢、思念波さえもろくに紡げないレベル。雲の上は、文字通り「雲の上」。
(こうやって見上げるだけになっても…)
雲の上には行けなくなっても、それも平和の証拠だよね、と考える。前の自分の強いサイオン、あれが無ければ、ミュウは一人も生きられなかった酷い時代。SD体制の時代は遥かな昔。
そのサイオンが不器用でも誰も困らないのも、今が平和な証だけれど…。
(今みたいに、雲…)
地上から雲を見上げる贅沢。
踏みしめる地面を持たなかったミュウには、まるで考えられないこと。雲を仰ぐなんて。
前の自分も、アルテメシアに降りた時には、空に浮かんだ雲を見上げていたけれど…。
(いつも地上にいたわけじゃないし…)
シャングリラは、常に雲の海の中。消えない雲海を隠れ蓑にして、あの星に潜み続けていた。
踏みしめる地面を持たないままで、いつか地球へと願いながら。ミュウと判断され、処分される運命の子たちを救い出しながら。
船の周りは雲の海でも、展望室の窓の向こうは真っ白。雲の形は分からなかった。とても細かい水の粒子が、無数に浮かんでいるだけで。強化ガラスを隔てて流れてゆくだけで。
(まるで霧の中にいるみたいに…)
白いだけだった、船の中から見えた雲。モコモコなのか、そうでないのか、それさえも謎で。
地上に降りれば雲の形は色々だけれど、様々な雲たちが空に浮かんでいたけれど。
(それを見られるのは、前のぼくだけで…)
他の仲間たちは仰ぐことさえ出来なかったし、後ろめたい気持ちになることもあった。潜入班や救出班の仲間も地上に降りるけれども、任務が優先。雲をゆっくり見る暇は無い。
空を仰げない仲間たちを思うと、そうそう雲には酔えなかった。どんなに綺麗な雲があっても、刻一刻と形を変えてゆくのが面白くても。
前の自分が見ていた雲は、そういった雲。のんびり見られはしなかったもの。
見上げる時間はたっぷりあっても、いつも心に仲間たちのことが引っ掛かっていたものだから。
(今だと、ゆっくり…)
こうして考え事だって出来る。仲間たちや白いシャングリラのことは、何も心配しないまま。
SD体制の時代は遠い時の彼方で、今は本当に平和な時代。考え事だって、好きに選べる。空に浮かんだ雲を見ながら、色々なことを。
雲の上には天国があるし、白い翼の天使たちもいる。きっと自分は、其処から来た。青い地球の上で新しい命と身体を貰って、ハーレイと生きてゆけるようにと。
残念なことに、天国の記憶は無いけれど。…ハーレイだって、何も覚えていないのだけれど。
(雲の隙間から、光が射したら…)
地上に向かう光の道が空にあったら、「天使の梯子」の名前で呼ばれる。天使たちが使う、空と地上を結ぶための梯子。
そういう時に空を観察したなら、雲の端から天使が覗いているらしい。眩しい光の中に紛れた、遠い空にいる天使の顔を見られるチャンス。
(天使の梯子が無くっても…)
天使が何処かにいないかな、と目を凝らしてみる。雲の端っこに見えはしないかと、翼を持った天の使いが顔だけを出していないかと。天使を探すだけでも楽しい、雲を仰ぐこと。
(それに、雲の形…)
色々な形の雲がある上、同じ雲でも形が変わる。空の上の気流や、湿度のせいで。
見る間に形が変わってゆく雲もあるし、同じ形を暫く保ち続ける雲も。
(ホントに見てるだけでも楽しい…)
モコモコとした雲の羊がいたり、丸くなった猫のように見えたり。空に浮かんだ雲の彫刻。どの彫刻も雲で出来ているから、すぐに崩れてしまうけれども。
(崩れちゃっても、また違う形…)
羊が猫になったりもする。猫が龍みたいになることだって。
素敵だよね、と眺めていたら、雲の一つが隠した太陽。空を悠々と流れる間に、太陽の道と交差して。太陽の顔を隠す形で横切って。
たちまちサッと陰ったけれども、雲が通り過ぎたら出て来た太陽。元の通りに、青い空の上に。
一瞬だけの曇り空。ほんの一部だけ、雲の影に入っていた所だけで「消えた」太陽。通り過ぎた雲の下にいなかった人は、陰ったことさえ知らないだろう。青空に白い雲があるだけで。
(面白いよね?)
太陽が消えてしまった所と、そうでない所。雲の下にいたか、いなかったかの違いで変わる。
こういうのだって楽しいよ、と考えていたら気が付いた。前の自分が生きた時代のことに。
(シャングリラは雲の中だったけど…)
いつもアルテメシアの雲海の中を飛んだけれども、赤いナスカでは違っていた。前の自分は深く眠っていたから、ナスカに降りてはいないのだけれど。
(ナスカに着いたら、シャングリラは宇宙に浮かんだままで…)
地上に降りようと決めた仲間は、赤い星へと降下した。何機ものシャトルで、船を離れて。
踏みしめる大地を手に入れたミュウ。若い世代が夢中になった、赤い星。
その星にあった二つの太陽の光や、恵みの雨の話だったら、今のハーレイに聞いたけれども…。
(雲の話は聞いていないよ?)
シャングリラから離れて、皆が仰いだ空の雲。ラベンダー色だったというナスカの空に、幾つも浮かんでいただろう雲。
その雲たちは嫌われ者だったのか、愛されたのか。
(曇っちゃったら、お日様の光が遮られるから…)
作物に光が届かなくなる。直ぐに晴れればいいのだけれども、曇ったままなら、気を揉む仲間もいたかもしれない。「こんな空模様で大丈夫かな」と、収穫のことを心配して。
(お日様の光を、うんと沢山浴びないと…)
甘くならない果物もあるし、トマトなどの野菜もそうかもしれない。酸っぱくなるとか、綺麗な色にならないだとか。
それに季節が冬だったならば、太陽が隠れてしまうと寒い。雲に覆われて消えてしまったら。
(…寒くなったり、野菜が美味しくならなかったり…)
雲にはそういう面もあるから、嫌われたろうか?
それとも、今の自分みたいに「眺めて楽しむ」ものだったろうか。雲海の中を飛ぶ船と違って、いつでも空を仰げたから。雲の形を観察することも出来たから。
「今日は羊だ」とか、「あれは猫だ」とか、雲の彫刻を探すことだって。
ナスカの雲は嫌われていたか、愛されていた雲だったのか。…前の自分はまるで知らない。深く眠ったままでいたから、目覚めた時には滅びの時が迫っていたから。
もちろん今の自分も知るわけがなくて、想像の域を出ないもの。ナスカの雲を、仲間たちがどう見ていたのかは。
(えーっと…?)
答えを出せる人がいるなら、ハーレイだけ。赤いナスカにも降りたキャプテン・ハーレイ。
今のハーレイはその生まれ変われりだし、記憶もきちんと引き継いでいる。ハーレイに訊けたらいいんだけれど、と考えていたら、聞こえたチャイム。
(…ハーレイだ!)
この時間なら、と窓に駆け寄ったら、門扉の向こうで手を振るハーレイ。生き証人が訪ねて来てくれたのだし、ハーレイと部屋でテーブルを挟んで、向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、雲って嫌われていた?」
空にある雲、嫌われてたのか、それとも好かれていたのか、どっち…?
「はあ? 雲って…。何の話だ?」
昔の地球の雲の話か、俺が教えている古典の世界の。…まあ、雲によって色々なんだが…。
めでたいと喜ばれる雲もあったし、不吉だと嫌われた雲もあったが…?
喜ばれた雲にも色々あって…、と話し始めたハーレイの言葉を遮った。「そうじゃなくて」と、「前のぼくたちの頃の話」と。
「ぼくが知りたいのは、ナスカの雲だよ。あそこの雲はどうだったのか」
ナスカの太陽や雨の話は聞いたけど…。今のハーレイから、いろんな話を。
虹の話も聞いたけれども、雲の話は聞いていないよ。…ナスカの雲って、嫌われてたの?
「嫌うって…。どうして雲を嫌うんだ?」
何処からそういう話になるんだ、大昔の人間じゃあるまいし…。雲は雲だぞ?
めでたい雲でも、不吉だと言われた雲でも雲の一種だ、とハーレイは「雲」で片付けた。迷信が生きていた時代ならばともかく、SD体制の時代に嫌いはしない、と。
「そうだろうけど…。でも、シャングリラはずっと雲海の中だったし…」
展望室の窓の向こうを隠していたのは、いつだって雲。あれじゃ好きにはなれないよ。
ナスカに着いた後になったら、雲はお日様を隠してしまうから…。
嫌われそうな感じだけれど、と説明をした。
雲が太陽を隠してしまえば、降り注ぐ筈の日射しが地上に届かなくなる。作物を育てたり、実を甘くしたりする光が。
それに冬なら、人間だって「寒い」と感じる。日が照っていたら暖かいのに、雲が太陽を覆って隠してしまったら。
「今のぼくだと、雲があるな、って見上げておしまいだけど…。あるのが当たり前だもの」
前と違って、空を飛ぶのは無理だから…。ホントに見ているだけなんだけど。
今日も見ていて、シャングリラの頃を思い出したら気になったんだよ。ナスカに降りた仲間たちには、雲はどういうものだったかな、って。
「なるほどな…。それで雲だと言い出したのか。ナスカの雲なあ…」
どうだったっけな、とハーレイも考え込んでいる。「あそこじゃ、雲は当たり前に空に浮かんでいたから」と、「前の俺もそれほど気にしてないな」と。
「そうなんだ…。前のハーレイでも、そうだったんなら…」
他の仲間もきっと同じだね、「雲だ」って空を見上げておしまい。好きとか嫌いとか、そういう気持ちは生まれないままで。
「そんなトコだろうな、なんと言ってもただの雲だし」
アルテメシアの雲海の方なら、雲は大事なものだったが…。消えたりしたなら、シャングリラが外に出てしまうから。…ステルス・デバイスが作動してても、そいつはキツイぞ。
監視衛星からは捉えられなくても、視認できる距離に船がいたなら見付かっちまう。正体不明の大型船だ、と調べられたらおしまいだしな?
元はコンスティテューション号だった船だとバレちまうから、とハーレイが言っている通り。
「未知の大型船」と認識されたら、固有周波数から特定可能な船の正体。
記録の上から、いつ消えたのか。何処で消えたか、此処にあるなら、乗っているのは何者かも。
「そうだっけね…。アルテメシアで雲が消えたら、ホントに大変」
だからいつでも雲の中を飛んで、雲海のデータを集め続けていたんだっけ。
一年中、消えないって分かっていたって、星が相手じゃ何が起こるか分からないから…。
なんのはずみで気流が変わるか、雲の流れがどうなるのかは、誰にも正確に読み取れないもの。
何かありそうだ、って予兆があったら、航路を変えて飛ぶくらいしか出来ないものね。
アルテメシアでは大切だった、雲海のデータを集めること。雲が厚い場所を常に選んで、雲海の中を飛び続けること。
けれど、ナスカでは雲の海はもう、必要なかった。懸命に雲に隠れなくても、人類軍が来たりはしない。船から降りて地面にいたって、何も襲っては来ないのだから。
「…ナスカの雲だと、あっても無くても、関係ないよね」
あれが無ければ困っちゃう、っていうわけじゃないから。…アルテメシアの雲と違って。
「うむ。太陽や雨とは違うからなあ、星の上にいても、直接、影響を受けたりはしない」
お前の言ってる作物にしても、旱魃だとか、大雨だったら、皆、大慌てをしたんだろうが…。
雲が太陽を隠した程度じゃ、そうそう困りはしなかったろう。長雨となったら、話は別だが。
しかし、大雨や長雨だったら、問題は雨の方でだな…。それを降らせてる雨雲の方は、さっさと消えてくれればいいのに、と思われておしまいだったんじゃないか?
もっとも、大雨は降っちゃいないし、雨は喜ばれていただけだ。恵みの雨だと、「これで作物がよく育つだろう」と。
そんな具合だから、誰も雲には注目しない。…隠れ家だったわけでもないしな、アルテメシアの頃と違って。
だが、待てよ…?
本当にそれで全部だったか…、とハーレイは顎に手を当てた。「雲だろう…?」と。
「他にも何かありそうなの?」
ナスカの雲にも、何か素敵な話でもあった…?
トォニィが生まれた時の雨で生まれた花園みたいに、とても特別で、みんなが喜びそうなこと。
それとも、前のハーレイが虹を追い掛けて歩いてたような、ちょっと悲しいお話だとか…?
前のハーレイ、虹の橋のたもとを探していたって言うから…。宝物が埋まっているって聞いて。
眠ったままの前のぼくの魂、其処に埋まっていそうだから、って…。
「あれは悲しい話ではないぞ、俺にとっては希望の一つだ。虹を追い掛けて歩いてたのも」
前のお前に目覚めて欲しくて、それを考え付いてだな…。
歩いている時は、ちゃんと幸せだったんだ。「今日こそ宝物を見付けてやろう」と。
追い付けないままで虹が消えても、次の機会がまたあるだろう?
ガッカリしながら歩いていたって、希望までは消えちゃいないんだからな。
其処の所を間違えるなよ、と訂正してから、またハーレイは考えている。「何だった?」と。
ナスカにあった雲の話を、それに纏わるらしい記憶を。
「雲には違いなかった筈だと思うんだが…。しかし、俺には縁のないことで…」
キャプテンの俺が無関係なら、若い世代の連中だよな?
あの星の上でだけ、意味があったか、何かいいことでもあったのか…。雲ってヤツで…。
そうだ、その雲を使ってたんだ!
ナスカにいた若い連中が、とハーレイがポンと叩いた手。「天気予報だ」と。
「…天気予報?」
なんなの、それは?
天気予報っていうのは、ホントに天気予報のことなの、今のぼくたちが知ってるような…?
今日は一日晴れるでしょうとか、明日は午後から雨になりますとか、そういう天気予報のこと?
ぼくは他には知らないけれど、と首を傾げた。天気予報は天気予報で、この先の天気を予想するもの。傘を持たずに出ても大丈夫か、持って出た方がいいのかなどと、暮らしの参考になる予報。
農家の人やら、海で漁をする漁師だったら、仕事などにも役立てる。
けれど、ハーレイは「雲だ」と言った。雲を使った天気予報と言われても…。
(…天気予報は、気象衛星とかを使っているんじゃなかった?)
今の時代も、前の自分が生きた時代も、基本の仕組みは変わらない筈。白いシャングリラでも、似たようなことをやっていた。船の周りの雲海の動きを読むために。
「お前、すっかり忘れているな? その様子だと」
今の俺が得意としているだろうが、雲で天気を読むってヤツ。
空模様を見て、「この雨だったらじきに止むな」とか、「予報じゃ晴れだが、降るぞ」だとか。
あれも天気予報の一種ってヤツだ、観天望気と呼ぶんだがな。
ずっと昔は、天気予報の仕組みは無かったモンだから…。雲だの風だの、自然の動きを観察して天気を読んでいたんだ。漁師も、作物を育てる農家も。
「雲の天気予報…。今のハーレイ、そういえば得意だったっけね」
でも、ナスカでそれをやってたの?
雲の流れや形を眺めて、晴れになるとか、雨になるとか…?
「やっていたとも。…もっとも、そいつをやっていたのは俺じゃないがな」
前の俺じゃなくて、若い世代だ。さっき、お前に言った通りに。
ナスカに入植した連中だな、とハーレイは懐かしそうな顔。「あいつらだった」と。
人類が放棄した植民惑星、かつてジルベスター・セブンと呼ばれていた星。その星にフィシスが「ナスカ」と名付けて、何機ものシャトルが降下していった。
其処で暮らそうと夢を抱いた、若い世代のミュウたちを乗せて。彼らの希望と、未来への大きな夢を積み込んで。
そうして始まった、ナスカでの日々。踏みしめられる地面の上で。
赤いナスカに降りたからには、必要なものが天気予報。様々な作物を育ててゆくにも、ナスカで暮らしてゆくためにも。
作物を上手く育てるためには、気温などのチェックが欠かせない。寒くなりそうなら、そうなる前に保温をするとか、暑くなりそうなら早い間に水を撒くとか。
人間の暮らしの方も同じで、外に出掛けて作業をするなら、準備するものが日によって変わる。雨はシールドで防ぐにしたって、作業の方はそうはいかない。シートで覆って中断するとか、最初から作業を延期するとか。…予定の作業を、別の仕事に切り替えたりして。
防水用のシートを持って出掛けるのか、それは持たずに出ていいのか。作業そのものを、屋内のものに切り替えるのか。持ってゆく工具や道具なんかも、そっくり変わってしまうとしても。
そういったことを決めてゆくには、天気予報が必要だった。雨になるのか、晴れるのかと。
シャングリラの中だけで暮らした頃なら、一部の者しか気にしなかった天気予報。
アルテメシアの雲の流れや、他の様々な気象データは、ブリッジクルーだけが見れば良かった。船の航路を決めてゆくのに、それらは必須のデータだから。
長い年月、船の仲間が見てもいなかった天気予報。この先、どういう天気になるか。どう天候が変わってゆくのか、変わるタイミングは、どの辺りなのか。
それらがナスカで、皆に共有されることになった。赤い星に降りた若い世代に。
ナスカでも気象観測は可能だけれども、シャングリラの方が遥かに優れた機能を持っていた船。長い年月、アルテメシアで観測を続けていただけに。
もちろん船のデータベースにも、膨大な情報が入っていた。人類が暮らす都市があった幾つもの植民惑星や育英惑星、其処で得られた観測データ。
船のコンピューターに計算させれば、ナスカでの天気予報も可能。衛星軌道上に停泊した船で、ナスカを観測し続けながら。どの雲がどう動いてゆくのか、風の流れはどう変わるかと。
白いシャングリラで弾き出された、計算の結果。赤いナスカの天気予報。
それは直ちに、地上で暮らす仲間たちの所に届いたけれども…。
「やっぱり外れちまうんだ。…どんなに計算し直してみても、これで確実だと思っていても」
アルテメシアにいた頃だって、常に観測し続けてないと、急に変わるってことがよくあった。
あの頃よりも遥かに技術が進んだ、今の時代の天気予報だって、百パーセントじゃないだろう?
だからだな…。仕方ないっていうヤツだよなあ、ナスカで予報が外れちまっても。
そうは言っても、頼りにしていた連中からすれば、とても納得できないわけで…。予定していた作業がパアとか、作業を控えて別のにしたのに、雨なんか降りもしなかったとか。
朝から晩まで快晴でな…、とハーレイが浮かべた苦笑い。今の時代でも、よくあること。予報がすっかり外れてしまって、持って出た傘が荷物になっただけで終わるとか。
赤いナスカで天気予報が外れた時には、文句を言っていた仲間たち。
入植地からは遠すぎて見えない、白いシャングリラが浮かぶ方を仰いで、「何やってんだ」と。
けれど、彼らは次第に気付き始めた。
ラベンダー色の空の上にある、雲の形や流れなど。…それが天気と共に動いていることに。
何処に雲が湧けば雨になるのか、あるいは雲は其処にあるだけで晴れるのか。
「…それって、今のハーレイみたいに?」
じきに晴れるぞ、って言ってるみたいに、ナスカの仲間も予報をしてたの?
雲の形だとか、どっちの方に流れて行くかで、雨が降るのか、降らないのかを…?
若い世代の仲間だよね、と赤い瞳を瞬かせた。前の自分がアルテメシアで救い出させた、大勢のミュウの子供たち。彼らが育って、ナスカに降りた。「あの子供たちが、天気予報を?」と。
「そういうことだ。今の俺と同じに、読み始めたんだな、雲の動きを」
ナスカの上で暮らす間に、色々な経験を積んで知識を増やしていって。
シャングリラの方で出した予報が外れちまったら、そいつに腹を立てたりしながら。
あの星と一緒に暮らしていれば、星の気分にも詳しくなる。シャングリラの中で、観測データを見ているだけのヤツらと違って。
あっちの方に雲が出たなら、降るだとか。…あの雲なら、じきに消えるとか。
シャングリラから届く予報と、ヤツらの経験。それを組み合わせりゃ、けっこう当たった。
だが、季節によって変わっちまう部分も沢山あるから、すっかり定着する前に…。
赤いナスカは燃えてしまった。キースが放ったメギドの炎で、跡形もなく。
ミュウの安住の地になるよりも前に。…雲の予報を完成させて、次の世代に伝える前に。
「それでも、ヤツらは楽しんでいたな。自分たちが作った天気予報を」
たった四年しか暮らせなかった星だが、俺が視察に降りた時には、皆、生き生きとしてた。
あいつらが出した予報が当たって、シャングリラが出した予報が外れた、と喜んだりして。もう何年か此処で暮らしたら、天気予報は自分たちだけでも出来るだろう、とな。
そしていつかは、この星の天気をすっかり当ててみせる、と勢い込んでいたもんだ。「俺たちのナスカの天気くらいは、俺たちの力で当ててみせるぞ」と。
「そうなんだ…。みんな、ナスカで、ホントに幸せだったんだね」
雲の予報を見付けたりして、シャングリラよりも当たる天気予報が出来たくらいに。…ナスカのことが好きでなければ、そんなの、絶対、無理だから…。
毎日、ナスカを観察してなきゃ、出来るわけがないことなんだから。…雲の予報なんて。
その方法で、いつか自分たちで天気予報をしようと、みんなはナスカで思ってたのに…。
でも、それよりも前に、そのナスカは…。
メギドの炎で焼かれちゃった、と俯いた。あの星に降りた若い世代は、前の自分も知っていた者ばかりだから。…白いシャングリラで育った世代で、幼かった頃に船に迎えた仲間たち。
彼らはどんなに幸せな日々を、あの星で送ったのだろう。…ナスカの空を流れてゆく雲、それを見上げて生きていたろう…?
彼らが夢を膨らませた星は、夢と一緒に儚く消えた。あの星で生まれた、自然出産児のトォニィたちだけを残して、暗い宇宙に。…ラベンダー色の空も、其処に浮かぶ雲も炎に焼かれて。
「残念だったが、仕方あるまい」
前の俺たちがナスカを選んだのも、それがメギドで滅ぼされたのも、歴史の流れというヤツだ。
ミュウの時代を手に入れるためには、ああなるしかなかったんだろう。
前のお前も失くしちまって、とんでもないことになった星だが…。
あの時代に生きた俺から見たなら、疫病神のような星だったのがナスカなんだが…。
そんな星でも、雲を眺めて楽しめた時代もあったんだ、とハーレイは微笑む。
「雲で予報をしていたんだぞ」と、「ほんの短い間でもな」と。
前のハーレイは、それを確かに見ていたから。…雲の姿で天気予報を始めた、若い仲間たちを。
ラベンダー色だったという、ナスカの空。其処に幾つも浮かんでいた雲。
幼かった頃にシャングリラに来た若い世代は、雲を仰ぐのは初めてと言っても良かっただろう。養父母に育てられた時代は短かったし、シャングリラで暮らした年数の方が遥かに長い。
アルテメシアの地上で仰いだ雲の記憶は、すっかり薄れてしまっていた筈。自分が本当にそれを見たのか、映像などで仕入れた知識か、それさえ区別がつかないほどに。
シャングリラの中では、雲と言ったら「展望室の窓の向こう」を覆い尽くすもの。太陽が昇る、昼の間は真っ白に。太陽が沈んだ後の夜には、闇を含んだ重たい色に。
そんな雲しか知らなかった世代が、赤いナスカで雲と出会った。空にある雲を仰いで暮らして、天気予報までするようになった。「あそこに雲があるから雨」とか、「雨は降らない」とか。
今のハーレイは、それが得意で、観天望気という言葉も口にしていたけれど…。
「ねえ、ハーレイ…。前のぼくは、それを知らないよ」
雲の形や流れなんかで、天気を読むっていう方法は。…雲の予報は。
ナスカには一度も降りてないから、そんなの、耳にしてもいないし…。眠っていたから、教えてくれる人も一人もいなかったしね。
アルテメシアに隠れてた頃も、前のぼく、やっていないから…。
雲で天気が分かるなんてことには、気付いてさえもいなかったから…。
何度も地上に降りてたのにね、と零した小さな溜息。「前のぼくって、駄目だったかも…」と。
「駄目ってことは無いだろう。前のお前は、立派なソルジャーだったんだから」
とはいえ、雲の予報ってヤツに関しちゃ、そうなるのかもしれないな。アルテメシアも、星には違いなかったんだし、やろうと思えば出来ただろう。…雲の予報も。
雲海だらけの星ではあったが、育英都市は雲海を避けて作ってあったしな。
アタラクシアとか、エネルゲイアの天気予報は出来ただろうさ、とハーレイは笑む。
「前のお前にその気があったら、恐らく出来ていただろう」と。
「…雲の予報を知っていたら、っていうことだよね?」
そういうやり方があるって話を、前のぼくが何処かで読んだりしていたら…。
ううん、ナスカで雲の予報をやってた若い仲間たちは、そんなの知らなかったんだし…。
ナスカで暮らして覚えたんだし、前のぼくでも出来た筈…。
雲の予報は知らなくっても、アタラクシアのも、エネルゲイアの天気予報も…。
若い世代の仲間たちが気付いて始めたのなら、前の自分にも出来たのだろう。アタラクシアや、エネルゲイアの天気予報が。…雲の予報が。
予知能力など使いもしないで、雲の形や流れなどを読む天気予報。白いシャングリラのデータも使わず、コンピューターにも計算させずに。
「雲の天気予報…。今のハーレイは凄く得意だけど、コツはある?」
ぼくにはちっとも分からないけど、天気予報をするためのコツが。…ナスカでも出来た天気予報だし、前のぼくでも、その気になったら、アタラクシアやエネルゲイアで出来たんなら。
コツはあるの、と興味津々で投げ掛けた問い。今のハーレイは、雲の予報の名人だから。
「雲の予報のコツってか? これというコツは無いんだが…」
あるとしたなら、場数を踏むってことだろうな。ナスカでやってた若い世代は、そうだった。
あの星の上で毎日暮らして、新鮮だった空を見上げて、そして覚えていったんだ。こういう雲が出て来た時には、天気ってヤツはこう変わるんだ、と。
今のお前がやりたいのならば、毎日、窓から見ているだけでも、ある程度まではいけるだろう。
関心を持って、きちんと雲を観察してれば。
どういう具合に流れて行ったら、どんな形なら、その後の天気はどうなるのか。
天気の変化と結び付けて覚えることが大事だ、と教えられた。ただ漠然と雲を見ていても、雲の予報は身につかない。雲や風向きをちゃんと覚えて、天気と結び付けないと。
「難しそうだね、雲の予報って…」
雲を観察する所から始めて、それを覚えるだなんて…。その後のお天気、どうなったのかも。
何度も何度も見ている間に、やっと方法が見付かるんだね…?
「そういうことだな、自分で一から始めるんなら」
ナスカのヤツらはそうしたわけだが、幸いなことに、今はデータというヤツがある。
データと呼ぶより、言い伝えとでも呼びたいんだがな、俺の好みとしては。
この地球の上で生きた先人、その人たちが集めてくれた情報を生かしてやればいい。雲の予報をする名人は、代々、そうして来たもんだ。何世代もの積み重ねで。
人間が地球しか知らなかった頃には、その予報しか無かった時代もあったしな?
俺の場合も、そうした知識を幾つも貰って活かしてる。
あの雲だったら、もう確実に降るだとか…。あの雲は雨が降る雲じゃないとか。
雲の形だけで、幾らかは分かるものらしい。雷雲だったら、この形、といった具合に。
それに風向きを加えてやれば、雷雲が来るかどうかが分かる。頭上の雲の流れを読んだら、風の方向が分かるから。
「雷雲ってヤツは基礎の基礎だな、形も覚えやすいだろう?」
あれが雲の予報の入門編ってトコか、子供でも直ぐに覚えられるから。雷雲の形と、風向き。
他に面白いヤツと言ったら、場所が変わると当たらなくなる予報だな。
ナスカでも使われていた方法なんだが、雲が湧く方向や風向きなんかで決まるヤツ。あの方向に雲が湧いたら、必ず雨になるだとか…。この方向に雲が流れて行ったら、明日は晴れるとか。
その手のヤツは、地形で変わってしまうんだ。
同じような雲があったとしたって、場所が違えば、もうそのままでは当て嵌まらない。すっかり逆になるってこともあるほどだから。
こっちは迂闊に使えないぞ、とハーレイは鳶色の瞳で見据える。「覚えたからって、何処ででも使えるモンじゃない」と。
「そうなんだ…。地形で変わってしまうっていうのは分かるけど…」
山に囲まれた場所か、そうじゃないかでも違うんだろうし…。
おんなじように山があっても、その山の向こうがどんな風かは、何処でも同じじゃないものね。
山の向こうは海があったり、ずうっと山が続いていたり…、と考えてみる。地理の授業で習った地図を思い浮かべて、「ホントにいろんな場所があるよね」と。
「よしよし、分かってるじゃないか。変わっちまう理屈というヤツを」
しかし、世の中、理屈だけでは済まないってな。
この地形だからこうだろう、と決めつけるのは素人判断ってヤツで、愚の骨頂だ。何処にでも、色々な気象条件がある。…初めて其処に行ったヤツには、分からないことが山ほどな。
だから、釣りなんかで知らない所へ出掛けた時には、だ…。
自分では「こうだ」と思っていたって、それを使っちゃ駄目なんだ。
思い込みで勝手に動いちまう前に、地元の人の考えを聞く。今日の天気はどうなりますか、と。
そうすりゃ親切に教えて貰えて、天気予報よりも良く当たるってな。
「今日は晴れだと言ってましたが、雨になりますよ」と言われたりもして。
その手の情報、大切なんだぞ。自然が相手の釣りなんかだと。
晴れていたって、急に荒れる時もあるもんだから、とハーレイは首を竦めてみせた。
「そういった時に小さな船で沖に出てたら、大変だぞ?」と、恐ろしそうに。
「今の時代はサイオンがあるから、そう簡単に遭難したりはしないんだが…」
それでも漂流しちまったりしたら、大勢の人に迷惑をかけてしまうしな?
釣りに行った人が帰って来ない、と船を出したり、場合によっては空からも捜索するんだから。
いくら思念波で連絡が取れても、船を見付けて連れ帰らないと駄目だろう?
嵐で流された船の中だと、乗ってる人間もヘトヘトだ。食料や水も流されちまって、腹ペコってこともあるんだから。
そうならないためにも、事前の準備が大切なのだ、と説くハーレイ。天気予報を確かめた上で、地元の人にも話を聞く。自分の考えだけで決めたりしないで、慎重に。
「ふうん…。雲の予報って、難しいんだね」
ナスカでもやってた予報なんだし、簡単なのかと思ったけれど…。ホントにそれを使う時には、自分一人で決めてしまっちゃ駄目なんだ…。
「そうでもないぞ? いつも住んでる町の中なら、何も心配要らんしな」
其処が自分の地元なんだし、他所から来た人に教える方の立場だろうが。こうなりますよ、と。
他所の町でも、何度も通えば自然と覚える。
ナスカでさえも、ちゃんと予報をしてたんだから。たった四年しか住めなかったのに。
それと同じだ、そっちも場数が大切だ。色々な場所に出掛けて行っては、其処ならではの天気の動きを覚えることが。
俺も親父に連れて行かれて、あちこち出掛けて、けっこう覚えた。…色々なことを。
お蔭で、この町と隣町なら、ほぼ大丈夫だな、雲の予報は。
滅多に外れん、とハーレイは自信たっぷりな様子。そして実際、ハーレイの予報は良く当たる。天気予報が「晴れです」と言っても、ハーレイが「降るぞ」と言った日は雨。
「ぼくも覚えたいな、雲の天気予報…」
難しそうでも、覚えたら役に立ちそうだから。
傘を持ってた方がいいのか、持って行かなくてもいいか、自分で分かれば素敵だもの。
天気予報だけだと、外れちゃう時も多いから…。
それに、「所によっては雨」って言うでしょ、あれがどうなるか分かるといいよね…。
天気予報で、気になる言い回しの一つ。「所によっては雨」というもの。
予報の対象区域は広いし、何処で降るのかは分からない。そういった時に雲の予報が出来たら、きっと便利に違いない。「傘が要るよ」とか、「要らないよね」と自分で判断出来たなら。
「ふうむ…。お前がやるなら、まずは頑張って観察からだな」
どの雲が出たら、どういう天気になったのか。そいつを覚えろ、窓から雲を何度も眺めて。
先人の知恵も大切なんだが、自分の力で身につけたことは忘れない。
現にナスカじゃ、本当に一からやったんだから。…あそこで暮らしていた連中は。
もっとも、ヤツらを船に連れて来た前のお前は、そんな予報に気付きもしなかったようだがな。
アルテメシアじゃ、何度も外に出てたのに…。
雲を見上げる機会ってヤツも、前のお前には、山ほどあった筈なんだが…。
それでも気付かなかったのか、とハーレイが言うから、逆に質問してやった。まるで同じのを。
「じゃあ、ハーレイは気付いてたの?」
前のハーレイは、その方法を知ってたって言うの、船の外には出ていなくても…?
アタラクシアとかエネルゲイアの方に動いていく雲、何度もデータを見ている内に…?
「おいおいおい…。前のお前でも気付かないんだぞ、俺に分かると思うのか?」
俺もナスカで目から鱗というヤツだ。「そんな方法があったのか」と。
言われてみれば、確かに筋は通ってた。雲は大気の流れで動くし、それで予報は可能だからな。大気の流れや雲の性質を掴んでいたなら、答えを弾き出せるんだから。
もっとも、そいつを知った後でも、やはりシャングリラで気象データを見ている方が…。
俺の場合は主だったがな、というのが前のハーレイ。
白いシャングリラを纏め上げていた、船の最高責任者。今は英雄のキャプテン・ハーレイ。
船を預かるキャプテンなのだし、天気予報を勘だけで決めてはいけないから。
赤いナスカでそれを覚えて、「こうなるだろう」と思っても。
シャングリラのコンピューターが計算して出した天気予報を見て、「これは外れる」とナスカに送る前に手直ししたくても。
キャプテンは、それをしてはいけない。
たとえナスカの天気予報でも、自分一人の判断だけでは変えられない。「こうなるんだ」という答えを自分が持っていたって、それは雲の予報。ナスカで暮らす仲間に習った、雲の形を読み取る不思議な天気予報。…SD体制の時代には誰も、それを使いはしなかったから。
前のハーレイは使わなかった、雲の天気予報。赤いナスカで聞いてはいても。
「そっちの方が当たるようだ」と感じてはいても、白いシャングリラのデータが全て。其処から計算される答えが「本当のこと」で、赤いナスカの天気予報。
「また外れた」と言われていても。ナスカの仲間は、雲の予報を使っていても。
「…今の俺なら、あの予報でも使えるんだがなあ…」
こういう雲が出たからこうだ、と自信を持って言ってやれるし、それで問題ないんだが…。
「だよね、みんなの命は懸かってないもんね」
学校で天気予報をしたって、誰の命も懸かってないから…。生徒も、それに先生たちだって。
「そうなんだよなあ、柔道部員のヤツらも別に困りはしないぞ。俺の予報が外れても」
せいぜい、降らないと言っていた筈の雨に降られて濡れる程度で…。あいつらだったら、濡れるよりかはシールドだろうな、ちゃっかりと。…俺を信じてしまったお蔭で、傘が無いなら。
そんな平和な時代なんだし、お前もゆっくり覚えていけ。雲の予報を。
観察するのが一番だぞ、とハーレイがまた繰り返すから、「でも…」と恋人の瞳を見詰めた。
「雲の観察は頑張るけれども、ハーレイもぼくに教えてよ?」
大勢の人が雲を見上げて、覚えた知識も大切なんでしょ。何世代もの経験ってヤツの積み重ね。
ハーレイもそれを使ってるんだし、ぼくに教えてくれるよね?
いつか一緒に出掛けられるようになったら、いろんな場所で。
「もちろんだ。…この町でも、隣町でもな」
俺の師匠の、親父と一緒に教えてやるさ。あちこち一緒に出掛けて行っては、雲を指差して。
「あの雲がこう流れているから、今日の天気は…」といった具合にな。
楽しみに待っていることだ、と約束をして貰ったのだし、雲の予報を覚えたい。赤いナスカで、若い世代の仲間たちもしていた天気予報。
それを地球の上でやってみる。…まずは窓から雲の観察、其処から始めて。
天気予報も頼もしいけれど、自分で補足出来たら幸せ。
いつかハーレイに教えて貰って、とても上手になれたらいい。
ハーレイと二人で「降るんだよね?」と傘を持ったり、「大丈夫」と置いて出掛けたり。
そういう予報が出来たらいい。
雲の形を二人で見ながら、「明日は晴れるね」などと、雲が流れてゆく方向を眺めながら…。
雲の天気予報・了
※雲を仰ぐ機会が無かった、アルテメシア時代のミュウたち。ナスカで出会った空の雲。
若い世代は雲を眺めて、天気予報が出来たようです。今のブルーも、ハーレイに習える予定。
PR
(今日はハーレイの古典の授業…)
楽しみだよね、とブルーが思ったバスの中。朝、学校へと向かう路線バス。
いつも乗っているバスだけれども、幸いなことに座席は常に一つくらいは空いているもの。朝の通勤時間帯だけれど、乗客たちの行き先のお蔭か、はたまた乗ってゆく区間のせいか。
今日も乗ったら直ぐに座れたから、通学鞄を膝の上に置いて、学校のことを考える。ハーレイに会える、古典の授業。それがあるのが今日だから。
ハーレイは学校の教師だけれども、まるで会えずに終わる日もある。お互いが通る廊下や階段、それが全く重ならなくて。姿さえもチラと見られないまま、放課後になってしまう日も。
(古典がある日は、もう絶対に会えるんだから…)
自分のクラスで座っていたなら、ハーレイの方からやって来る。「ハーレイ先生」の貌で、古典を教えに来るのだとしても。…二人きりで話は出来なくても。
(運が良ければ、当てて貰えるし…)
そうなれば、自分が答える間は、ハーレイと一対一の時間。教師と生徒の間柄でも、ハーレイを独占できるのは確か。「当てて貰えたら嬉しいよね」と出てくる欲。
早くハーレイに会えないだろうか、学校に着いて、古典の時間が始まって。
(宿題も、ちゃんとやってあるもの…)
ハーレイが出した古典の宿題。目を通すのはハーレイなのだし、宿題をするにも力が入る。他の科目で出た宿題より、ずっと真剣に取り組みたくなる。「頑張らなくちゃ」と。
(感想文だけどね?)
問題を解いてゆくのではなくて、ハーレイが指示した古典を読むだけ。普通の本と全く同じに。
読み終わったら、感想を書く。自分がそれをどう感じたか。何処が気に入ったのか、とか。
(古文が苦手な生徒だったら、うんと困るだろうけれど…)
そうでなければ、読書感想文を書くのと何処も変わらない。自分が思ったことを書くだけ。
けれど古文がとても苦手な生徒も多いし、充分に設けられていた「宿題の時間」。
提出期限が今日だっただけで、宿題はもっと前から出ていた。古文が苦手な生徒たちでも、最後まできちんと読めるように。…読み終わった後は、感想文を書くための時間も必要になる。
宿題をやる時間はたっぷりあったし、早くに仕上げた。宿題が出た日に、早速、ハーレイが指示した古典を読んで。その日の間に、気になった箇所も書き出して。
張り切って早く仕上げた宿題。感想文だから、「決まった答え」が無い宿題。何処のクラスも、生徒の数だけ違った答えがあるだろう。「こう思った」とか、「主人公は間違ってる」とか。
(そういう宿題なんだから…)
ハーレイも採点するのではなくて、皆の感想を読んでゆく。書いた生徒たちを思い浮かべては、「あいつらしいな」と笑みを浮かべたりして。
「ブルー」と名前が書いてあったら、熱心に読んで貰えるだろう。古典の授業では教え子の中の一人だけれども、本当は恋人なのだから。…それも生まれてくる前からの。
(感想文の中に、「ハーレイが好き」とは書けないけれど…)
思いをこめて書き上げた。読みやすいよう、丁寧な字で。
「頑張ったんだな」と分かって貰えるようにと、表現などにも気を付けて。「いいと思います」ばかりを繰り返すよりは、「素敵でした」とか、「感動しました」。
もちろん誤字や脱字は論外、些細なミスも見落とさないよう、何度も何度も読み返して…。
(もう完璧…)
書き直した所も幾つもあったものね、と考えた所でハタと気付いた。
欠点など、もう何処にも無いだろう感想文。会心の出来で、自信満々なのだけれども…。
(昨夜、寝る前に…)
ベッドに腰掛けて「明日は提出」と思っていたら、書き直したくなった箇所。頭に浮かんだ違う表現、そっちの方がずっといい。「どうして今まで思い付かないの?」と呆れたくらいに。
書き直さなくちゃ、と鞄から出した感想文。読み返してみて、「やっぱりこっち」と消しゴムで消して、その部分を新しく書き直した。「この方がずっといいんだから」と。
それから全体をまた読み直して、「これがピッタリ」と大満足。でも、その後に…。
(宿題、ちゃんと鞄に入れた…?)
まるで記憶に残っていなくて、心配なことに自信も無い。「鞄に入れた」という自信。
なにしろ、早くに仕上げてあった宿題。提出期限の今日が来るより、ずっと前から。
それを何度も書き直したり、読み返したりしていたものだから…。
(感想文の置き場所、机の引き出しの中で…)
其処から出しては、また戻す日々。書き直した日も、「読んだだけ」の日も。
あまりに何度も、引き出しの中に入れたり、出したりしていたのだし…。
(もしかして、あの引き出しに…)
戻しちゃってはいないよね、と慌てて鞄の中を覗いた。膝の上で開けて、手を突っ込んで…。
まずは古典のノートの隣。次は教科書の方を調べて、「こっちかな?」と他の教科の方も見た。何も考えずに突っ込んだのなら、そちらに混じっていそうだから。
鞄の中をゴソゴソ探って、底の底まで捜してみたけれど…。
何処を調べても無かった宿題。入ってはいない感想文。ノートを端から広げてみたって、中には挟まっていなかった。鞄の中に無いのなら…。
(引き出しだ…!)
書き直した後に鞄に入れずに、引き出しに入れたに違いない。何度も出し入れしていたせいで、自分でも全く意識しないで。
(やっちゃった…)
家に置いて来てしまった宿題。それの提出期限は今日。
ハーレイが古典の時間に集めて、持って帰って読む感想文。忘れて行ったら、赤っ恥で大恥。
(ぼくの宿題、出せないんだから…)
宿題を集める方のハーレイはもちろん、クラス中の生徒が見るだろう。「やってないんだ」と。「家に忘れて来たんです」は、宿題をやらずに登校した生徒の「言い訳」の定番なのだから。
普段に出される宿題もそうだし、夏休みなんかの宿題もそう。
本当は「やっていない」というのに、「家に忘れました」と答える生徒。それは堂々と、まるで宿題は「完璧に出来ている」かのように。
(…家に帰って取ってこい、って言う先生は…)
一人もいないし、皆、そうやって言い訳をする。「家に忘れて来ちゃったんです」と。
だから自分が「本当のこと」を言ったって…。
(…宿題なんかやっていなくて、宿題が出たのも忘れてて…)
提出できないというだけのこと。ハーレイから見ても、クラスメイトたちの目から見たって。
(宿題を家に忘れるなんて…)
あんまりだよ、と自分の頭を叩きたい気分。よりにもよって、それを忘れて来るなんて。
家に忘れたのが教科書だったら、他のクラスの誰かに頼めば借りられる。ノートなら別の教科のノートを使って、「古典のノートを持っている」ふり。
でも、宿題だと、そうはいかない。借りるのも、「持っているふり」も。
宿題を家に忘れて来たなら、「同じ宿題」をやるしかない。学校に着いたら、懸命に。
出された問題を解くものだったら、友達に問題用紙を借りて。…生徒によっては、その答えまで丸写しにする「宿題のやり方」。自分なら、ちゃんと解くけれど。
何かをノートに書き写すだとか、そういったものでも、頑張って書けばいいけれど…。
(感想文なんて、学校じゃ無理…!)
レポート用紙や原稿用紙は手に入っても、とても書いてはいられない。時間が足りない。課題の古典は覚えていたって、その感想が丸ごと頭にあったって。
時間が無いなら、感想文を書けはしなくて、提出することが出来ない宿題。…ハーレイが教室にやって来たって、「この前の宿題、集めるぞ」と、クラスをぐるりと見回したって。
持ってはいない宿題は「出せない」。家に忘れたのが本当でも、結果が全て。ハーレイだって、意外そうな顔をするのだろう。「お前が宿題、忘れたってか?」と。
どう聞いたって「やっていません」の意味でしかない、「家に忘れて来ました」という言い訳。かなり前から出ていた宿題だけに、余計に恥ずかしい。
(ハーレイの宿題、持って来るのを忘れるだなんて…)
そのせいで「宿題をやっていない」ことになるなんて。
ハーレイが聞いても、クラスメイトが聞いても、そうなってしまう。宿題を出さずに、「忘れて来ました」と、正直に本当のことを言っても。
(そんなの、嫌だ…)
出来るわけない、と腕の時計を眺めた。今の時間は何時だろう、と。
余裕を持って家を出るから、針が指している時間は遅くはない。学校が始まる時間を知らせる、チャイムの音。遅刻しそうな生徒が慌てる、あの音が鳴るのは、まだずっと先。
(まだ大丈夫…!)
今だったら、きっと間に合う筈。宿題を取りに家に戻って、出直して来ても。
(帰って、取って来た方が…)
宿題を忘れて恥をかくより、ずっとマシ。学校に着くのが少し遅れても、遅刻はしない。
家に帰ろう、と降車ボタンを押した。「次で降ります!」と大急ぎで。
いつもだったら、そのボタンを押すバス停には、まだ着かないのに。
学校の側にあるバス停なら、もう少し先になるというのに。
とにかく急いで帰らなきゃ、と降りたバス停。今までに降りた経験は無い。そんな所に用などは無いし、いつも窓から見ているだけ。
(初めて此処で降りちゃった…)
けれど、余分な料金などは一切かからない。何ヶ月も先まで支払い済みで、鞄につけたチップを機械が読み取るだけ。その期間だったら、いつでも何処でも、乗り降り出来る仕組みのものを。
側の横断歩道を渡って、道路の向かいのバス停に行った。家に帰るなら、そっちでないと。
(此処からだったら…)
自分が使っているバスの他に、違う路線バスもあるらしい。家の方へと走ってゆくのが。
二つもあるなら頼もしいよね、と時刻表を眺めてホッとしたけれど。じきに、どちらかのバスが走って来そうな時間なのだけれど…。
(……来ない……)
待っているのに、時間通りに来てくれないバス。いつものバスも、違う路線のも。
途中の道が混んでいるのか、ずっと向こうで道路工事でもしているか。
(街路樹の枝を切ってるのかも…)
そういう時には、車線が減ってしまうもの。「工事中」だとか「剪定中」とか、理由が書かれた看板がドンと据えられて。場合によっては、誘導係の人までがいて。
(そうなっちゃった…?)
直ぐに来そうなバスが走って来ないなら。…予定の時刻を過ぎているなら。
腕の時計に視線を遣っては、バスが走って来る方を見る。「まだ来ないの?」と伸び上がって。
何度もそれを繰り返していたら、ようやく見えた路線バス。他の車たちのずっと向こうに。早く来ないかと待って、待ち続けて、「やっと来たよ」と乗り込んで…。
(大丈夫だよね?)
家の方へと走ってゆくバス、空いていた席に腰を下ろして考える。
バスが来なくて、思った以上に無駄に時間を費やしたけれど、まだ学校には間に合う筈、と。
いつも通りに余裕を持って家を出たから、始業のチャイムが鳴り響く前に学校に着ける。此処で家まで戻って行っても、家に忘れた宿題を取りに帰っても。
けれど、遅れて走って来たバス。ずいぶん待ったし、これで戻って、またバス停から学校の方へ行くバスに乗るなら、到着時間は、多分ギリギリ。
家の近くのバス停で降りて、腕の時計を確かめた。「ホントにギリギリになっちゃいそう」と。
此処から家まで歩いて帰って、二階の部屋まで駆け上がる。引き出しに忘れた宿題を取りに。
大切な宿題を鞄に入れたら、後は学校に戻るだけ。…時間は本当にギリギリだけれど。
(パパが家にいればいいけれど…)
出勤前なら、頼んで車に乗せて貰おう。「会社に行く前に、ぼくを学校まで送ってよ」と。父の車なら速いし、安心。時刻表なんかも関係なくて、乗ったら直ぐに走り出すだけ。
(それなら、ギリギリなんかじゃなくて…)
もっと早くに着ける筈だよ、と急ぎ足で帰って行った家。本当は走りたいのだけれども、万一の時を考えたならば、体力は残した方がいい。父はとっくに出掛けてしまって、残る手段は路線バスしか無いことだってあるのだから。
急がなくちゃ、と速足で着いて、門扉を開けて庭に飛び込んだ。玄関まで一直線に走って、扉を大きく開け放ったら…。
「あら、ブルー?」
どうしたの、と母が目の前で驚いた顔。掃除の途中か、庭へ出ようとしていたのか。
「忘れ物…!」
取りに戻って来たんだよ、と返事しながら脱ぎ捨てた靴。そのままバタバタ二階に走って、机の引き出しから宿題を出して、鞄の中へ。
(これで宿題は、もう大丈夫…!)
ちゃんと提出できるんだから、と鞄の蓋を閉めて、ポンと軽く叩いた。「大丈夫!」と、忘れて出掛けた自分に言い聞かせるように。
そして大慌てで、階段を下へと駆け下りて行って…。
「ママ、パパは!?」
まだ家にいるの、と母に尋ねた。階段の下に立っていたから。…忘れ物をした一人息子を、その行動を見守るように。
「パパって…。とっくに会社に行ったわよ?」
「本当に…!?」
ど、どうしよう…。それじゃ送って貰えないよね、パパがいるかと思ってたのに…。
パパの車で送って貰えば、学校、直ぐに着けるのに…!
そう叫んだって、父は会社に出掛けた後。母は車を持っていないし、タクシーを呼んで貰うのも妙な話ではある。
(タクシーで来ちゃいけません、っていう決まりなんかは…)
無いのだけれども、学校の前でタクシーから降りたら、目立つだろう。バス通学だって、自分が例外のようなもの。丈夫な生徒は同じ距離でも、自転車だったり、歩いていたり。
(ただでも目立っているんだから…)
それがタクシーで乗り付けたならば、きっと注目を浴びる筈。「いったい何があったんだ?」と皆が眺めて、理由を訊かれるかもしれない。「今日は具合が悪いのか?」とか。
(そうだよ、って嘘はつけるけど…!)
本当は宿題を忘れて取りに戻ったわけだし、いたたまれない気分になってしまいそう。一日中、朝の出来事が頭の中でグルグル、もちろんハーレイの授業中にも。
(そんなの嫌だよ…!)
タクシーが駄目なら、残った手段は路線バスだけ。この時間ならば、本当にギリギリ。
今、バス停に向かっているだろうバス、それを逃してたまるもんか、と家を飛び出して、全力で走った。普段はのんびり歩く道筋、それをバス停までまっしぐらに。
途中で出会った近所の人にも、すれ違いざまに「おはようございます!」と叫んだだけで。
バス停が見えたら、ラストスパート。目の前でバスに行かれたくはない。
(間に合った…!?)
時刻表を見て、辺りをキョロキョロ。バスの後ろ姿などは無いから、走り去ってはいない筈。
大丈夫だよね、と確認する間に、見えて来たバス。「あれに乗らなくちゃ」と気ばかり焦って、バス停の椅子に座って休みもしないで、やって来たバスに乗り込んで…。
(席、空いてない…)
それほど混んではいないのだけれど、一つも無いのが座れる席。どの席にも先客が座っている。「次で降ります」と降車ボタンを押す人もいない。
家から走って、息を切らしたままで立ち続けて、此処にいるのに。…バスに乗ったら、座れると思い込んでいたのに。
(…それに、信号…)
いつも以上に引っ掛かる。タイミング悪く赤に変わって、其処で止まってしまうバス。
「早く」と腕の時計を見ても。「間に合うよね?」と心配しても。
どんどん過ぎてゆく時間。座れないのも辛いのだけれど、時間の方が遥かに気掛かり。
(もう本当にギリギリかも…)
もしかしたら遅刻しちゃうのかも、と焦る間に、なんとかバスは学校の近くのバス停に着いた。とうとう最後まで座れなかったし、息は乱れたままだけれども…。
(走らなくっちゃ…)
でないとチャイムに間に合わない、と鞄を手にして必死に走った。バス停から校門までの間を、もう文字通りに死力を尽くして。…これが体育の授業中なら、見学に回るだろう身体に鞭打って。
(息が苦しくて…)
心臓の鼓動も激しいけれども、遅刻は出来ない。それでは此処まで来た意味がない。遅刻してもいいと思うのだったら、走ってバスには乗らないから。のんびり出掛けて遅刻するから。
そうして目指す校門の前に、先生がいるということは…。
(ホントにギリギリ…!)
「じきに閉めるぞ?」と見張っているのが、先生の役目。チャイムが鳴ったら、閉まってしまう学校の門。それから後に登校したなら、脇の小さな門の方から…。
(入ることになって、先生が名前を確認して…)
遅刻者のリストに入れられる。大きな門から入れたならば、其処に名前は載らないのに。
その前に間に合いますように、と転がるように走り込んだ所でチャイムが鳴った。学校に入った生徒たちにも、遅刻しそうな生徒の耳にも聞こえるように、遠くの方まで木霊しながら。
(間に合った…!)
遅刻じゃないよ、とホッとした途端に、聞こえた声。
「珍しいな」というハーレイの声で、そっちの方を眺めたら…。
(もう朝練が終わった後…)
柔道着ではなくて、スーツを着込んだハーレイ。
校門を閉めている先生とは別に、小さな門の側に立っているから、遅刻した生徒のチェック係。今日はハーレイがその当番で、「名前は?」と訊いて名簿に書き込むのだろう。クラスも、遅刻の理由なんかも聞き出して。
そのハーレイに、「遅刻しないで済んで良かったな」と笑顔を向けられて、気が緩んだのか。
それとも身体が限界だったか。…走った上にバスでは座れず、今も走って来たのだから。
ぐらりと身体が傾いだ気がして、もつれた足。もう走ってはいないのに。
(…嘘……!)
スウッと視界が暗くなってしまって、ハーレイの笑顔が見えなくなった。周りの景色も、足元の地面も、何もかもが。
「ブルー!?」
ハーレイに抱き留められたようにも思うけれども、薄れてゆく意識。重い身体は自分のものではないかのようで、立っているのか、そうでないかも分からない。
(…倒れちゃったの…?)
どうなってるの、と思ったのが最後。
ハッと気付いたら、目に入ったものは白い天井。ベッドの上に寝かされていて、保健室だと直ぐ分かった。何度もお世話になった場所だし、常連と言ってもいいほどだから。
「ブルー君、大丈夫?」
目が覚めたのね、と保健室の先生がベッドの側にやって来た。「何処か痛い?」と。
壁の時計にふと目を遣ったら、もう二時間目が始まる時間。遅刻寸前に駆け込んだものの、朝のクラスでのホームルームも、一時間目も、知らずに眠っていたらしい。
それに、二時間目と言えば…。
(ハーレイの授業…!)
古典の授業は二時間目だよ、と慌てて起き上がろうとした。「宿題を持って行かなくちゃ」と。
そのために家まで帰ったのだし、早く教室に行かなくては。ハーレイが「持って来てるか?」とクラスを見渡す前に。宿題を集め始める前に。
けれどグルンと目が回って…。
(…ぼくの鞄…!)
それが何処かも分からないまま、背中からベッドに沈み込んだ。上半身を起こせもしないで。
「駄目よ、静かに寝ていないと。お母さんには連絡したわ」
じきに迎えに来て下さるから、それまでベッドで寝ていなさいね。
倒れたんだから起きちゃ駄目よ、と念を押された。
まだ宿題を提出できていないのに。
二時間目の授業に行かなかったら、それをハーレイに渡せないのに。
頑張って取りに帰った宿題。バスで戻って、懸命に走って、ちゃんと学校まで持って来たのに、渡せない。…保健室でこうして寝ているからには、「忘れた」ことにはならなくても。
このまま鞄ごと持って帰っても、誰も咎めはしなくても…。
(頑張った意味が無くなっちゃうよ…)
倒れて保健室に来たのは、その宿題を取りに帰ったせい。「ハーレイに渡そう」と、ただ一心に頑張り続けて、こうなってしまったのだから…。
「……宿題……」
「え?」
なあに、と顔を覗き込まれた。「宿題が、どうかしたのかしら?」と。
「…ハーレイ先生の宿題があって…」
今なんです、と訴えた。二時間目が古典の授業なことと、今日が提出期限なことを。その宿題が鞄に入っているから、教室まで持って行きたい、と。
「あらまあ…。やっぱり真面目ね、ブルー君は」
保健室まで来ちゃった生徒は、宿題なんか気にしないのに…。「出さなくていい」と思う生徒もいるわね、やらずに来ちゃったような時だと。
宿題だったら、ハーレイ先生に渡しておいてあげるわよ。お昼休みに。
様子を見に来ると仰ってたから、という先生の言葉は心強いけれど、宿題はちゃんとハーレイに届きそうなのだけど…。
(その時は、ぼく…)
母に連れられて早退した後。ハーレイに自分で渡せはしない。
会心の出来の宿題なのに。それを忘れて来たと気付いて、家まで取りに戻った結果が、こういうことになっているのに。
けれど、どうにもならない状況。教室に行く許可は出なくて、第一、ろくに歩けもしない。
仕方ないから、先生に頼んで鞄を受け取り、中から宿題を引っ張り出した。
「これ、お願いします。…ハーレイ先生に渡して下さい」
「分かったわ。ちゃんと忘れずに渡しておくから、安心しなさい」
あ、お母さんがいらしたみたい。
帰ったら無理をしないで寝るのよ、明日の授業とか宿題のことは気にしないでね。
「無茶は駄目よ」という先生の声に送られ、母と一緒に出た保健室。
そうして連れて帰られた家。学校の駐車場に待たせてあったタクシーに乗せられ、真っ直ぐに。
家に着くなり、押し込まれたベッド。制服を脱がされ、パジャマに着替えさせられて。
母は叱らなかったけれども、原因には気付いているだろう。宿題を取りに戻った時に会ったし、父の車が無かったからには、一人息子がどうなったかも。
(バス停まで走って行っちゃったのも、バスで座れなかったのも…)
母ならば、きっとお見通し。そうやって乗ったバスが遅れて、学校の前でも走ったことも。遅刻寸前に走り込もうと、弱い身体で全力疾走していたことも。
(大失敗…)
ホントに失敗、と情けない気分。
頑張って仕上げた宿題も出せず、ハーレイの授業にも出られずに帰って来たなんて。
昨夜、ウッカリしていたばかりに、宿題を引き出しに入れてしまって。一度は鞄に入れた宿題、それを手直ししていたせいで、家に置き忘れて出たなんて。
(途中で気付いて、取りに戻ったのはいいんだけれど…)
その宿題は、保健室の先生がハーレイに渡してくれる筈。「ブルー君から預かりました」と。
宿題をきちんと「やって来た」ことはハーレイに伝わるけれども、たったそれだけ。期限までに提出したというだけ、他には何の役にも立たない。
あんなに頑張って取りに戻ったのに、ハーレイに届けようとしたのに…。
(きっと心配させちゃっただけ…)
ハーレイは事情を知らないのだから、「ブルーが倒れた」と大慌てしたことだろう。いつもなら早い時間に登校するのに、どうしたわけだか遅刻間際のギリギリの時間に走って来て。ハアハアと息を切らせたままで、門の所で倒れたなんて。
(何があったのかと思うよね…?)
寝坊したから必死だったか、バスの中でウトウト眠ってしまって、終点まで行って戻ったのか。
まさか宿題を取りに戻ったとは思わないだろうし、思い付くのはそういったケース。
(…宿題を取りに家まで帰って、遅刻しそうなのも酷いけど…)
寝坊するのも、乗り過ごして終点から戻ってくるのも、馬鹿のよう。どちらも間抜け。
考えるほどに、涙がポロポロ零れてくる。
「ぼくって、駄目だ」と。「ホントにウッカリしてた馬鹿だよ」と、「ぼくの大馬鹿!」と。
そんな調子だから、気分はドン底。それに身体がだるくて重い。無理をし過ぎて、とても負担をかけたから。…下手な体育の授業の時より、ずっと体力を使ったから。
(ホントに馬鹿だ…)
身体まで駄目にしちゃうだなんて、と後悔したって、もう遅い。弱い身体はとうに限界、悲鳴を上げている状態。「もう動けない」と、「走るどころか、歩くのも無理」と。
それでは食欲があるわけもなくて、昼食は母が作ったスープとプリンだけ。
「何か食べられそう?」と母に訊かれても、首を横に振るしかなかったから。「欲しくない」とベッドで丸くなるだけで、本当に欲しくなかったから。
(それでスープと、甘いプリンと…)
喉ごしが良くて、栄養がつきそうなコーンのポタージュスープ。卵を使った柔らかなプリン。
なんとか食べられはしたのだけれども、夕食も食べられないかもしれない。昼と同じにスープとプリンで、他には何も口にしないで。
(明日の学校…)
保健室の先生は、「明日の授業も宿題も気にしないでね」と言っていた。具合が悪くて早退した子は、宿題をやって行かなくてもいい。欠席していて、復帰した子も。
だから自分も、その注意を受けた。登校するなら、宿題のことは気にせずに。休むのだったら、明日の授業で出される宿題、それは「やらなくてもいい」と。
(……宿題……)
それで頑張りすぎちゃったんだよ、と涙が溢れる。
ハーレイが授業で出した宿題、今日が提出期限だった感想文を「素晴らしいもの」にしたくて、何度も何度も手直しして。昨夜も「こっちの方がいいよ」と書き直したりして。
(いつも机の引き出しに…)
入れたり出したりしていたせいで、昨夜も引き出しに入れてしまった。慣れた方へと、ついついウッカリ。「鞄から出した」ことも忘れて、引き出しの方に。
(そのせいで、持って出るのを忘れて…)
途中で気付いて、取りに戻ろうと頑張った。バスから降りて、家の方へと向かうバスに乗って。
家に戻って宿題を持って、遅刻しないように全力疾走。宿題を持ってゆくために。
頑張って走って学校に着いて、其処までで力尽きてしまった。…宿題は持って行けたけれども。
頑張りすぎてしまった宿題。感想文を書いていた段階でも、それを提出する所でも。
(…家に忘れて来たんです、って…)
本当のことを告げていたなら、きっと倒れたりしなかった。「宿題、やっていないんだな?」と笑われたって、大恥をかいて、赤っ恥だって。
(ハーレイに笑われても、クラスのみんなも笑っていても…)
その方が良かったのだろう。こんな結果を招いてしまって、母やハーレイにまで、心配をかけるくらいなら。…身体がすっかり壊れてしまって、食欲も失せるくらいなら。
(ぼく、明日は…)
学校を休んじゃうんだろうか、と辛くて悲しい。古典の授業は無い日だけれども、休めば学校でハーレイに会えない。チラと姿を見掛けることさえ、チャンスそのものが無くなるから。
(そうなっちゃうの…?)
今日もハーレイに少ししか会えていないのに、と零れる涙。
本当だったら授業でたっぷり会えたのに。好きでたまらない笑顔が見られて、大好きな声が沢山聞ける授業。…それを逃して、おまけに心配までさせた。ハーレイの目の前で倒れてしまって。
(…ごめんね、ハーレイ…)
ぼくがウッカリしてたから…、と思う間に、訪れた眠気。少しでも疲れを取りたい身体が、休む時間を欲しがって。「眠って治そう」と訴え掛けて。
引き摺られるように眠ってしまって、次に意識が浮上した時は…。
「おい、大丈夫か?」
寝ちまってるのか、と聞こえた声。直ぐ耳元で。
「…ハーレイ?」
どうしたの、と目をパチクリとさせた。
ハーレイはまだ学校だろうに、どうして此処にいるのだろう、と。それともこれは夢の世界で、目が覚めたらハーレイは消えるのだろうか…?
「どうしたの、って…。そうか、寝ぼけてるのか」
時間の感覚、寝ていたせいで無くなったんだな。
学校ならとうに終わっちまったさ、いつもの柔道部の方も。
俺の仕事は終わったってわけで、お前の見舞いに来てやったんだが…?
そういえば…、とハーレイは椅子を運んで来た。いつもこの部屋で座る椅子。窓辺に置かれた、ハーレイ専用になっている椅子を、ベッドの側に。
それに座って、ハーレイが浮かべた穏やかな笑み。
「お前の宿題、ちゃんと受け取ったぞ。…保健室の先生が渡してくれた」
昼休みに様子を見に行ってみたら、お前は帰った後だったから…。
どんな具合だったか訊くよりも前に、「ブルー君からです」と渡されちまった。教室まで持って行こうとしたから、代わりに預かっておいたんだ、とな。
「ホント? ちゃんと届いたんなら良かった…。でも、失敗…」
大失敗だよ、今日のぼく…。ごめんね、心配かけちゃって…。
「失敗なあ…。朝から倒れちまったことか?」
お前が遅刻しそうだなんて、珍しい日もあるもんだ、とは思ったが…。あんな時間に、校門まで走って来るなんてな。
気分が悪くて遅れたんなら、あそこで走っているわけがないし…。
いったい何をやらかしたんだ、と鳶色の瞳が覗き込む。「寝坊でもしたか?」と。
「そうじゃなくって…。いつも通りに家を出たけど、あの宿題…」
ハーレイが前に出してた宿題、家に忘れて出ちゃったんだよ。…昨日の晩にも手直しをしてて、鞄に戻すの忘れちゃって…。机の引き出しに入れてしまってて…。
学校へ行くバスに乗ってから、忘れて来たのに気が付いたから…。
宿題を忘れて行きたくなくって、家まで取りに戻らなきゃ、って…。だって、宿題、家に忘れて来たっていうのは、「やっていません」の意味になるでしょ…?
普通はそっちの意味に取るよね、と投げ掛けた問いを、ハーレイは否定しなかった。
「まあ、そうなるのが普通だろうな。…言い訳ってヤツの王道だから」
家まで確かめに行きはしないし、宿題が本当に忘れてあるかどうかは謎ってことで。
「やったんです」と主張されたら、「嘘をつくな」と言い返すのも、教師の仕事の一つだから。
「やっぱりね…。そうなるだろうと思ったから…」
頑張って取りに帰ったんだよ、まだ間に合うよね、って時計を見て。
いつもは降りないバス停で降りて、家の方へ行くバスに乗ろう、って…。
そしたら宿題を取りに帰れて、ハーレイの授業の時にきちんと渡せるから…。
それをやってて遅刻寸前、と目の前の恋人に白状した。
時刻表の通りにバスが来なくて、家に帰るのが遅くなったこと。父は会社に出掛けた後で、車で送って貰えなかったこと。
残る手段はバスだけだから、と乗り遅れないように走ったことも。
「家からバス停まで走ったんだよ、ホントに全力疾走で…。挨拶だって走りながらで」
バス停の椅子は空いていたけど、座ろうって思い付かなくて…。バスが早く来ないか、そっちの方を立って見ていて、一度も座らないままで…。
やっとバスが来て乗り込んでみたら、空いた席、一つも無かったんだよ。…ヘトヘトなのに。
おまけに信号で止まってばかりで、うんと時間がかかってしまって…。
学校の近くのバス停に着いたら、ギリギリの時間。…先生が表に立っているような。
だから急いで走らなくちゃ、って頑張って走って、間に合ったけど…。
門を入ったら、そこでチャイムが鳴ったんだけど…。でも…。
ぼくの力も其処でおしまい、とベッドの中でシュンとした。倒れてしまって、この通りだから。学校を早退する羽目になって、ハーレイにも心配をかけたのだから。
「そうだったのか…。宿題を取りに戻ったとはなあ…」
命懸けで提出したってわけだな、お前が出した感想文。なら、心して読まないと…。
そうとも知らずに受け取って来たが、お前の命が懸かってたなら。
コーヒー片手に読んじゃ駄目だな、とハーレイが表情を引き締めるから、瞳を瞬かせた。
「…命までは懸かっていないけど…」
ぼくは倒れてしまったけれども、それだけだよ?
救急車で病院に行ってはいないし、家の近所の病院にも行っていないから…。
ちょっぴり具合が悪いだけだよ、死にそうにはなっていないってば。
命なんかは懸かってないよ、と言ったのだけれど。
「俺にしてみりゃ、似たようなモンだ」
目の前でお前が倒れたんだぞ、駆け込んで来たかと思ったら。
元気そうだな、と思った途端に、お前、倒れてしまうんだから…。
何事なのかと大慌てな上に、お前の命の心配もする。
お前、元から弱いんだしなあ…。走っちまって、急に具合が悪くなっても不思議じゃないから。
俺の寿命まで縮んじまうだろうが、と大きな手で頭をクシャリと撫でられた。
「命懸けで宿題を持って来るのは結構なんだが、身体のことも考えろよ?」と。
「お前らしいと言ってしまえば、それまでなんだが…。お前、根っから真面目だからな」
宿題の一つや二つくらいは、忘れたって死にやしないのに…。減点だって知れてるのにな?
まあ、お蔭でお前を運べたんだし、俺は文句は言わないが。
あれは役得と言えるんだろう、と不思議な言葉。いったいどういう意味なのだろう…?
「運んだって…。それに、役得って、何?」
ハーレイがぼくを運んだってことは分かるけど…。保健室まで運んだんでしょ?
先生の仕事の内なんだろうし、何処が役得なのか分からないけれど…?
「簡単なことだ、お前を運んだ方法だな。他の先生たちが、担架を取りに行こうとしたから…」
これで行けます、とお前をヒョイと持ち上げただけだ。
お前の憧れの「お姫様抱っこ」だ、普通の男子生徒だったら、アレは嫌がるものなんだが…?
「えーっ!?」
覚えていないよ、ハーレイが運んでくれていたこと…!
せっかくの、お姫様抱っこ…。前から何度も頼んでたのに…。「いつか、お願い」って。
ぼくは何にも覚えてないのに、ハーレイだけが楽しんでたの…?
お姫様抱っこで、ぼくを運んで…、と尖らせた唇。本当に欠片も覚えていなくて、思い出しさえしないから。「お姫様抱っこだ」と聞かされても。
「当然だろうが、意識不明じゃ覚えているわけがない」
ついでに言うなら、あの状態だと、アレで運んでいても誰も笑わん。何処から見たって、病人を運んでいるわけだから。…それも意識が無い状態の。
もっとも、生徒はもういなかったが…。
チャイムが鳴ったし、みんな教室に行っちまってな、という話。「お姫様抱っこ」で運んでゆく所を目撃したのは、先生たちだけ。
「大丈夫ですか?」と覗き込んでいた先生だとか、例の宿題入りの鞄を手にして、保健室までの道を一緒に歩いた先生だとか。
「聖痕を持った一年生」が「守り役の先生」に運ばれたことは、学校の先生たちしか知らない。生徒は一人も知らないままで、目撃した生徒もいないまま。
幻みたいな「お姫様抱っこ」。覚えていないのは残念だけれど、先生たちしか知らないのなら、まだ諦めがつくというもの。「誰も見ていなかったんだものね?」と。
「そっか…。生徒は誰も見ていないんなら、ホントに病人を一人運んだだけだよね…」
お姫様抱っこで運ばれてたぞ、って噂になることも無いだろうから。
ごめんね、心配かけちゃって…。役得はいいけど、寿命が縮んだらしいから…。
ホントにごめん、と謝った。悪いのは全部自分なのだし、申し訳ないと思うから。
「いや、いいが…。俺のことは気にしなくてもいい」
しかし次から無理はするなよ、宿題は忘れてもかまわないから。…今日みたいにパタリと倒れるよりかは、潔く忘れてくれた方がな…?
「やだ…!」
本当に家に忘れたのかも、って思っていたって、ハーレイ、ぼくに言うんでしょ?
「その宿題は、やっていないんだな?」って、先生なら誰でも言いそうなことを。宿題をやっていない生徒の言い訳、大抵、それなんだから…。
でも…。無茶をしたぼく、何も食べられそうにないから…。
野菜スープを作ってくれる、と尋ねてみた。母のスープとプリンでもかまわないのだけれども、ハーレイが来てくれたのだったら、あのスープがいい。
前の生から好きだったスープ、とても素朴な「野菜スープのシャングリラ風」が。
「野菜スープだな、お安い御用だ」
お前、命懸けで頑張ったんだからな、俺に宿題を提出しようと。
それに比べりゃ、スープ作りの手間は大したことじゃない。だがな…。
頑張りすぎってヤツは良くないんだ、お前だって今日ので懲りたんだろう?
明日も学校に来られるかどうか怪しいくらいで、今だって飯が食えないんだから。
命懸けの無茶をするってヤツはだ、前のお前のメギドだけで終わりにしておいてくれ。あれでも充分、今の俺にはダメージがデカい。…生まれ変わって来た今でもな。
いいな、あれがお前の最後の無茶で、最大の無茶だ。
とはいえ、今日のも命懸けの無茶だぞ、あの時と並ぶくらいにな。
二度と無茶なんかをするんじゃない。…命懸けのは、もう沢山というヤツなんだ。
前のお前は、本当に頑張りすぎちまったから。
分かったな、とハーレイが怖い顔をするから、もう無茶はしたくないけれど。
ハーレイにも、母にも、自分の無茶のせいで、心配をかけたくはないのだけれど…。
(きっと、また…)
似たようなことをやりそうだから、ハーレイの宿題には気を付けよう。ウッカリ家に置き忘れてしまわないよう、鞄の中を何度も確認して。
(…ぼくがウッカリしていて、失敗…)
せっかくの「お姫様抱っこ」を覚えていないのは、きっと神様の罰だろう。
ハーレイにも母にも心配をかけて、その原因は自分だから。
自分がウッカリしていたばかりに、酷い無茶をして、学校で倒れてしまったから。
(次から宿題…)
忘れないようにしなくっちゃ、と思いながらも、目の前のハーレイにリクエストする。
「野菜スープのシャングリラ風」は、ちゃんとスプーンで食べさせて、と。
身体がだるくて起き上がれないから、その食べ方がいいんだけれど、と。
「お姫様抱っこは覚えてないから、スプーンでスープ…。駄目…?」
「仕方ないヤツだな、甘えやがって…。だが、命懸けで宿題、持って来たしな…?」
そのくらいの我儘は許してやろう、とハーレイは優しく微笑んでくれた。
「だが、無茶はいかんぞ?」と、「それをしっかり覚えておけよ」と。
(…だけど、無茶して倒れちゃったから…)
こんな時間を持てるんだよね、と思うと、それも幸せではある。
ハーレイに甘えられる時。
「スープをスプーンで食べさせて」などと注文をして。
無茶をし過ぎた身体はだるくてたまらなくても、心の中は幸せ一杯。
ハーレイと二人きりの時間で、もう少ししたら、あの懐かしい野菜スープも食べられるから…。
忘れた宿題・了
※ハーレイの授業で出された宿題。頑張ったのに、置き忘れて家を出てしまったブルー。
懸命に取りに帰った結果は、学校でダウン。憧れだった、お姫様抱っこ、記憶に無いのです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
楽しみだよね、とブルーが思ったバスの中。朝、学校へと向かう路線バス。
いつも乗っているバスだけれども、幸いなことに座席は常に一つくらいは空いているもの。朝の通勤時間帯だけれど、乗客たちの行き先のお蔭か、はたまた乗ってゆく区間のせいか。
今日も乗ったら直ぐに座れたから、通学鞄を膝の上に置いて、学校のことを考える。ハーレイに会える、古典の授業。それがあるのが今日だから。
ハーレイは学校の教師だけれども、まるで会えずに終わる日もある。お互いが通る廊下や階段、それが全く重ならなくて。姿さえもチラと見られないまま、放課後になってしまう日も。
(古典がある日は、もう絶対に会えるんだから…)
自分のクラスで座っていたなら、ハーレイの方からやって来る。「ハーレイ先生」の貌で、古典を教えに来るのだとしても。…二人きりで話は出来なくても。
(運が良ければ、当てて貰えるし…)
そうなれば、自分が答える間は、ハーレイと一対一の時間。教師と生徒の間柄でも、ハーレイを独占できるのは確か。「当てて貰えたら嬉しいよね」と出てくる欲。
早くハーレイに会えないだろうか、学校に着いて、古典の時間が始まって。
(宿題も、ちゃんとやってあるもの…)
ハーレイが出した古典の宿題。目を通すのはハーレイなのだし、宿題をするにも力が入る。他の科目で出た宿題より、ずっと真剣に取り組みたくなる。「頑張らなくちゃ」と。
(感想文だけどね?)
問題を解いてゆくのではなくて、ハーレイが指示した古典を読むだけ。普通の本と全く同じに。
読み終わったら、感想を書く。自分がそれをどう感じたか。何処が気に入ったのか、とか。
(古文が苦手な生徒だったら、うんと困るだろうけれど…)
そうでなければ、読書感想文を書くのと何処も変わらない。自分が思ったことを書くだけ。
けれど古文がとても苦手な生徒も多いし、充分に設けられていた「宿題の時間」。
提出期限が今日だっただけで、宿題はもっと前から出ていた。古文が苦手な生徒たちでも、最後まできちんと読めるように。…読み終わった後は、感想文を書くための時間も必要になる。
宿題をやる時間はたっぷりあったし、早くに仕上げた。宿題が出た日に、早速、ハーレイが指示した古典を読んで。その日の間に、気になった箇所も書き出して。
張り切って早く仕上げた宿題。感想文だから、「決まった答え」が無い宿題。何処のクラスも、生徒の数だけ違った答えがあるだろう。「こう思った」とか、「主人公は間違ってる」とか。
(そういう宿題なんだから…)
ハーレイも採点するのではなくて、皆の感想を読んでゆく。書いた生徒たちを思い浮かべては、「あいつらしいな」と笑みを浮かべたりして。
「ブルー」と名前が書いてあったら、熱心に読んで貰えるだろう。古典の授業では教え子の中の一人だけれども、本当は恋人なのだから。…それも生まれてくる前からの。
(感想文の中に、「ハーレイが好き」とは書けないけれど…)
思いをこめて書き上げた。読みやすいよう、丁寧な字で。
「頑張ったんだな」と分かって貰えるようにと、表現などにも気を付けて。「いいと思います」ばかりを繰り返すよりは、「素敵でした」とか、「感動しました」。
もちろん誤字や脱字は論外、些細なミスも見落とさないよう、何度も何度も読み返して…。
(もう完璧…)
書き直した所も幾つもあったものね、と考えた所でハタと気付いた。
欠点など、もう何処にも無いだろう感想文。会心の出来で、自信満々なのだけれども…。
(昨夜、寝る前に…)
ベッドに腰掛けて「明日は提出」と思っていたら、書き直したくなった箇所。頭に浮かんだ違う表現、そっちの方がずっといい。「どうして今まで思い付かないの?」と呆れたくらいに。
書き直さなくちゃ、と鞄から出した感想文。読み返してみて、「やっぱりこっち」と消しゴムで消して、その部分を新しく書き直した。「この方がずっといいんだから」と。
それから全体をまた読み直して、「これがピッタリ」と大満足。でも、その後に…。
(宿題、ちゃんと鞄に入れた…?)
まるで記憶に残っていなくて、心配なことに自信も無い。「鞄に入れた」という自信。
なにしろ、早くに仕上げてあった宿題。提出期限の今日が来るより、ずっと前から。
それを何度も書き直したり、読み返したりしていたものだから…。
(感想文の置き場所、机の引き出しの中で…)
其処から出しては、また戻す日々。書き直した日も、「読んだだけ」の日も。
あまりに何度も、引き出しの中に入れたり、出したりしていたのだし…。
(もしかして、あの引き出しに…)
戻しちゃってはいないよね、と慌てて鞄の中を覗いた。膝の上で開けて、手を突っ込んで…。
まずは古典のノートの隣。次は教科書の方を調べて、「こっちかな?」と他の教科の方も見た。何も考えずに突っ込んだのなら、そちらに混じっていそうだから。
鞄の中をゴソゴソ探って、底の底まで捜してみたけれど…。
何処を調べても無かった宿題。入ってはいない感想文。ノートを端から広げてみたって、中には挟まっていなかった。鞄の中に無いのなら…。
(引き出しだ…!)
書き直した後に鞄に入れずに、引き出しに入れたに違いない。何度も出し入れしていたせいで、自分でも全く意識しないで。
(やっちゃった…)
家に置いて来てしまった宿題。それの提出期限は今日。
ハーレイが古典の時間に集めて、持って帰って読む感想文。忘れて行ったら、赤っ恥で大恥。
(ぼくの宿題、出せないんだから…)
宿題を集める方のハーレイはもちろん、クラス中の生徒が見るだろう。「やってないんだ」と。「家に忘れて来たんです」は、宿題をやらずに登校した生徒の「言い訳」の定番なのだから。
普段に出される宿題もそうだし、夏休みなんかの宿題もそう。
本当は「やっていない」というのに、「家に忘れました」と答える生徒。それは堂々と、まるで宿題は「完璧に出来ている」かのように。
(…家に帰って取ってこい、って言う先生は…)
一人もいないし、皆、そうやって言い訳をする。「家に忘れて来ちゃったんです」と。
だから自分が「本当のこと」を言ったって…。
(…宿題なんかやっていなくて、宿題が出たのも忘れてて…)
提出できないというだけのこと。ハーレイから見ても、クラスメイトたちの目から見たって。
(宿題を家に忘れるなんて…)
あんまりだよ、と自分の頭を叩きたい気分。よりにもよって、それを忘れて来るなんて。
家に忘れたのが教科書だったら、他のクラスの誰かに頼めば借りられる。ノートなら別の教科のノートを使って、「古典のノートを持っている」ふり。
でも、宿題だと、そうはいかない。借りるのも、「持っているふり」も。
宿題を家に忘れて来たなら、「同じ宿題」をやるしかない。学校に着いたら、懸命に。
出された問題を解くものだったら、友達に問題用紙を借りて。…生徒によっては、その答えまで丸写しにする「宿題のやり方」。自分なら、ちゃんと解くけれど。
何かをノートに書き写すだとか、そういったものでも、頑張って書けばいいけれど…。
(感想文なんて、学校じゃ無理…!)
レポート用紙や原稿用紙は手に入っても、とても書いてはいられない。時間が足りない。課題の古典は覚えていたって、その感想が丸ごと頭にあったって。
時間が無いなら、感想文を書けはしなくて、提出することが出来ない宿題。…ハーレイが教室にやって来たって、「この前の宿題、集めるぞ」と、クラスをぐるりと見回したって。
持ってはいない宿題は「出せない」。家に忘れたのが本当でも、結果が全て。ハーレイだって、意外そうな顔をするのだろう。「お前が宿題、忘れたってか?」と。
どう聞いたって「やっていません」の意味でしかない、「家に忘れて来ました」という言い訳。かなり前から出ていた宿題だけに、余計に恥ずかしい。
(ハーレイの宿題、持って来るのを忘れるだなんて…)
そのせいで「宿題をやっていない」ことになるなんて。
ハーレイが聞いても、クラスメイトが聞いても、そうなってしまう。宿題を出さずに、「忘れて来ました」と、正直に本当のことを言っても。
(そんなの、嫌だ…)
出来るわけない、と腕の時計を眺めた。今の時間は何時だろう、と。
余裕を持って家を出るから、針が指している時間は遅くはない。学校が始まる時間を知らせる、チャイムの音。遅刻しそうな生徒が慌てる、あの音が鳴るのは、まだずっと先。
(まだ大丈夫…!)
今だったら、きっと間に合う筈。宿題を取りに家に戻って、出直して来ても。
(帰って、取って来た方が…)
宿題を忘れて恥をかくより、ずっとマシ。学校に着くのが少し遅れても、遅刻はしない。
家に帰ろう、と降車ボタンを押した。「次で降ります!」と大急ぎで。
いつもだったら、そのボタンを押すバス停には、まだ着かないのに。
学校の側にあるバス停なら、もう少し先になるというのに。
とにかく急いで帰らなきゃ、と降りたバス停。今までに降りた経験は無い。そんな所に用などは無いし、いつも窓から見ているだけ。
(初めて此処で降りちゃった…)
けれど、余分な料金などは一切かからない。何ヶ月も先まで支払い済みで、鞄につけたチップを機械が読み取るだけ。その期間だったら、いつでも何処でも、乗り降り出来る仕組みのものを。
側の横断歩道を渡って、道路の向かいのバス停に行った。家に帰るなら、そっちでないと。
(此処からだったら…)
自分が使っているバスの他に、違う路線バスもあるらしい。家の方へと走ってゆくのが。
二つもあるなら頼もしいよね、と時刻表を眺めてホッとしたけれど。じきに、どちらかのバスが走って来そうな時間なのだけれど…。
(……来ない……)
待っているのに、時間通りに来てくれないバス。いつものバスも、違う路線のも。
途中の道が混んでいるのか、ずっと向こうで道路工事でもしているか。
(街路樹の枝を切ってるのかも…)
そういう時には、車線が減ってしまうもの。「工事中」だとか「剪定中」とか、理由が書かれた看板がドンと据えられて。場合によっては、誘導係の人までがいて。
(そうなっちゃった…?)
直ぐに来そうなバスが走って来ないなら。…予定の時刻を過ぎているなら。
腕の時計に視線を遣っては、バスが走って来る方を見る。「まだ来ないの?」と伸び上がって。
何度もそれを繰り返していたら、ようやく見えた路線バス。他の車たちのずっと向こうに。早く来ないかと待って、待ち続けて、「やっと来たよ」と乗り込んで…。
(大丈夫だよね?)
家の方へと走ってゆくバス、空いていた席に腰を下ろして考える。
バスが来なくて、思った以上に無駄に時間を費やしたけれど、まだ学校には間に合う筈、と。
いつも通りに余裕を持って家を出たから、始業のチャイムが鳴り響く前に学校に着ける。此処で家まで戻って行っても、家に忘れた宿題を取りに帰っても。
けれど、遅れて走って来たバス。ずいぶん待ったし、これで戻って、またバス停から学校の方へ行くバスに乗るなら、到着時間は、多分ギリギリ。
家の近くのバス停で降りて、腕の時計を確かめた。「ホントにギリギリになっちゃいそう」と。
此処から家まで歩いて帰って、二階の部屋まで駆け上がる。引き出しに忘れた宿題を取りに。
大切な宿題を鞄に入れたら、後は学校に戻るだけ。…時間は本当にギリギリだけれど。
(パパが家にいればいいけれど…)
出勤前なら、頼んで車に乗せて貰おう。「会社に行く前に、ぼくを学校まで送ってよ」と。父の車なら速いし、安心。時刻表なんかも関係なくて、乗ったら直ぐに走り出すだけ。
(それなら、ギリギリなんかじゃなくて…)
もっと早くに着ける筈だよ、と急ぎ足で帰って行った家。本当は走りたいのだけれども、万一の時を考えたならば、体力は残した方がいい。父はとっくに出掛けてしまって、残る手段は路線バスしか無いことだってあるのだから。
急がなくちゃ、と速足で着いて、門扉を開けて庭に飛び込んだ。玄関まで一直線に走って、扉を大きく開け放ったら…。
「あら、ブルー?」
どうしたの、と母が目の前で驚いた顔。掃除の途中か、庭へ出ようとしていたのか。
「忘れ物…!」
取りに戻って来たんだよ、と返事しながら脱ぎ捨てた靴。そのままバタバタ二階に走って、机の引き出しから宿題を出して、鞄の中へ。
(これで宿題は、もう大丈夫…!)
ちゃんと提出できるんだから、と鞄の蓋を閉めて、ポンと軽く叩いた。「大丈夫!」と、忘れて出掛けた自分に言い聞かせるように。
そして大慌てで、階段を下へと駆け下りて行って…。
「ママ、パパは!?」
まだ家にいるの、と母に尋ねた。階段の下に立っていたから。…忘れ物をした一人息子を、その行動を見守るように。
「パパって…。とっくに会社に行ったわよ?」
「本当に…!?」
ど、どうしよう…。それじゃ送って貰えないよね、パパがいるかと思ってたのに…。
パパの車で送って貰えば、学校、直ぐに着けるのに…!
そう叫んだって、父は会社に出掛けた後。母は車を持っていないし、タクシーを呼んで貰うのも妙な話ではある。
(タクシーで来ちゃいけません、っていう決まりなんかは…)
無いのだけれども、学校の前でタクシーから降りたら、目立つだろう。バス通学だって、自分が例外のようなもの。丈夫な生徒は同じ距離でも、自転車だったり、歩いていたり。
(ただでも目立っているんだから…)
それがタクシーで乗り付けたならば、きっと注目を浴びる筈。「いったい何があったんだ?」と皆が眺めて、理由を訊かれるかもしれない。「今日は具合が悪いのか?」とか。
(そうだよ、って嘘はつけるけど…!)
本当は宿題を忘れて取りに戻ったわけだし、いたたまれない気分になってしまいそう。一日中、朝の出来事が頭の中でグルグル、もちろんハーレイの授業中にも。
(そんなの嫌だよ…!)
タクシーが駄目なら、残った手段は路線バスだけ。この時間ならば、本当にギリギリ。
今、バス停に向かっているだろうバス、それを逃してたまるもんか、と家を飛び出して、全力で走った。普段はのんびり歩く道筋、それをバス停までまっしぐらに。
途中で出会った近所の人にも、すれ違いざまに「おはようございます!」と叫んだだけで。
バス停が見えたら、ラストスパート。目の前でバスに行かれたくはない。
(間に合った…!?)
時刻表を見て、辺りをキョロキョロ。バスの後ろ姿などは無いから、走り去ってはいない筈。
大丈夫だよね、と確認する間に、見えて来たバス。「あれに乗らなくちゃ」と気ばかり焦って、バス停の椅子に座って休みもしないで、やって来たバスに乗り込んで…。
(席、空いてない…)
それほど混んではいないのだけれど、一つも無いのが座れる席。どの席にも先客が座っている。「次で降ります」と降車ボタンを押す人もいない。
家から走って、息を切らしたままで立ち続けて、此処にいるのに。…バスに乗ったら、座れると思い込んでいたのに。
(…それに、信号…)
いつも以上に引っ掛かる。タイミング悪く赤に変わって、其処で止まってしまうバス。
「早く」と腕の時計を見ても。「間に合うよね?」と心配しても。
どんどん過ぎてゆく時間。座れないのも辛いのだけれど、時間の方が遥かに気掛かり。
(もう本当にギリギリかも…)
もしかしたら遅刻しちゃうのかも、と焦る間に、なんとかバスは学校の近くのバス停に着いた。とうとう最後まで座れなかったし、息は乱れたままだけれども…。
(走らなくっちゃ…)
でないとチャイムに間に合わない、と鞄を手にして必死に走った。バス停から校門までの間を、もう文字通りに死力を尽くして。…これが体育の授業中なら、見学に回るだろう身体に鞭打って。
(息が苦しくて…)
心臓の鼓動も激しいけれども、遅刻は出来ない。それでは此処まで来た意味がない。遅刻してもいいと思うのだったら、走ってバスには乗らないから。のんびり出掛けて遅刻するから。
そうして目指す校門の前に、先生がいるということは…。
(ホントにギリギリ…!)
「じきに閉めるぞ?」と見張っているのが、先生の役目。チャイムが鳴ったら、閉まってしまう学校の門。それから後に登校したなら、脇の小さな門の方から…。
(入ることになって、先生が名前を確認して…)
遅刻者のリストに入れられる。大きな門から入れたならば、其処に名前は載らないのに。
その前に間に合いますように、と転がるように走り込んだ所でチャイムが鳴った。学校に入った生徒たちにも、遅刻しそうな生徒の耳にも聞こえるように、遠くの方まで木霊しながら。
(間に合った…!)
遅刻じゃないよ、とホッとした途端に、聞こえた声。
「珍しいな」というハーレイの声で、そっちの方を眺めたら…。
(もう朝練が終わった後…)
柔道着ではなくて、スーツを着込んだハーレイ。
校門を閉めている先生とは別に、小さな門の側に立っているから、遅刻した生徒のチェック係。今日はハーレイがその当番で、「名前は?」と訊いて名簿に書き込むのだろう。クラスも、遅刻の理由なんかも聞き出して。
そのハーレイに、「遅刻しないで済んで良かったな」と笑顔を向けられて、気が緩んだのか。
それとも身体が限界だったか。…走った上にバスでは座れず、今も走って来たのだから。
ぐらりと身体が傾いだ気がして、もつれた足。もう走ってはいないのに。
(…嘘……!)
スウッと視界が暗くなってしまって、ハーレイの笑顔が見えなくなった。周りの景色も、足元の地面も、何もかもが。
「ブルー!?」
ハーレイに抱き留められたようにも思うけれども、薄れてゆく意識。重い身体は自分のものではないかのようで、立っているのか、そうでないかも分からない。
(…倒れちゃったの…?)
どうなってるの、と思ったのが最後。
ハッと気付いたら、目に入ったものは白い天井。ベッドの上に寝かされていて、保健室だと直ぐ分かった。何度もお世話になった場所だし、常連と言ってもいいほどだから。
「ブルー君、大丈夫?」
目が覚めたのね、と保健室の先生がベッドの側にやって来た。「何処か痛い?」と。
壁の時計にふと目を遣ったら、もう二時間目が始まる時間。遅刻寸前に駆け込んだものの、朝のクラスでのホームルームも、一時間目も、知らずに眠っていたらしい。
それに、二時間目と言えば…。
(ハーレイの授業…!)
古典の授業は二時間目だよ、と慌てて起き上がろうとした。「宿題を持って行かなくちゃ」と。
そのために家まで帰ったのだし、早く教室に行かなくては。ハーレイが「持って来てるか?」とクラスを見渡す前に。宿題を集め始める前に。
けれどグルンと目が回って…。
(…ぼくの鞄…!)
それが何処かも分からないまま、背中からベッドに沈み込んだ。上半身を起こせもしないで。
「駄目よ、静かに寝ていないと。お母さんには連絡したわ」
じきに迎えに来て下さるから、それまでベッドで寝ていなさいね。
倒れたんだから起きちゃ駄目よ、と念を押された。
まだ宿題を提出できていないのに。
二時間目の授業に行かなかったら、それをハーレイに渡せないのに。
頑張って取りに帰った宿題。バスで戻って、懸命に走って、ちゃんと学校まで持って来たのに、渡せない。…保健室でこうして寝ているからには、「忘れた」ことにはならなくても。
このまま鞄ごと持って帰っても、誰も咎めはしなくても…。
(頑張った意味が無くなっちゃうよ…)
倒れて保健室に来たのは、その宿題を取りに帰ったせい。「ハーレイに渡そう」と、ただ一心に頑張り続けて、こうなってしまったのだから…。
「……宿題……」
「え?」
なあに、と顔を覗き込まれた。「宿題が、どうかしたのかしら?」と。
「…ハーレイ先生の宿題があって…」
今なんです、と訴えた。二時間目が古典の授業なことと、今日が提出期限なことを。その宿題が鞄に入っているから、教室まで持って行きたい、と。
「あらまあ…。やっぱり真面目ね、ブルー君は」
保健室まで来ちゃった生徒は、宿題なんか気にしないのに…。「出さなくていい」と思う生徒もいるわね、やらずに来ちゃったような時だと。
宿題だったら、ハーレイ先生に渡しておいてあげるわよ。お昼休みに。
様子を見に来ると仰ってたから、という先生の言葉は心強いけれど、宿題はちゃんとハーレイに届きそうなのだけど…。
(その時は、ぼく…)
母に連れられて早退した後。ハーレイに自分で渡せはしない。
会心の出来の宿題なのに。それを忘れて来たと気付いて、家まで取りに戻った結果が、こういうことになっているのに。
けれど、どうにもならない状況。教室に行く許可は出なくて、第一、ろくに歩けもしない。
仕方ないから、先生に頼んで鞄を受け取り、中から宿題を引っ張り出した。
「これ、お願いします。…ハーレイ先生に渡して下さい」
「分かったわ。ちゃんと忘れずに渡しておくから、安心しなさい」
あ、お母さんがいらしたみたい。
帰ったら無理をしないで寝るのよ、明日の授業とか宿題のことは気にしないでね。
「無茶は駄目よ」という先生の声に送られ、母と一緒に出た保健室。
そうして連れて帰られた家。学校の駐車場に待たせてあったタクシーに乗せられ、真っ直ぐに。
家に着くなり、押し込まれたベッド。制服を脱がされ、パジャマに着替えさせられて。
母は叱らなかったけれども、原因には気付いているだろう。宿題を取りに戻った時に会ったし、父の車が無かったからには、一人息子がどうなったかも。
(バス停まで走って行っちゃったのも、バスで座れなかったのも…)
母ならば、きっとお見通し。そうやって乗ったバスが遅れて、学校の前でも走ったことも。遅刻寸前に走り込もうと、弱い身体で全力疾走していたことも。
(大失敗…)
ホントに失敗、と情けない気分。
頑張って仕上げた宿題も出せず、ハーレイの授業にも出られずに帰って来たなんて。
昨夜、ウッカリしていたばかりに、宿題を引き出しに入れてしまって。一度は鞄に入れた宿題、それを手直ししていたせいで、家に置き忘れて出たなんて。
(途中で気付いて、取りに戻ったのはいいんだけれど…)
その宿題は、保健室の先生がハーレイに渡してくれる筈。「ブルー君から預かりました」と。
宿題をきちんと「やって来た」ことはハーレイに伝わるけれども、たったそれだけ。期限までに提出したというだけ、他には何の役にも立たない。
あんなに頑張って取りに戻ったのに、ハーレイに届けようとしたのに…。
(きっと心配させちゃっただけ…)
ハーレイは事情を知らないのだから、「ブルーが倒れた」と大慌てしたことだろう。いつもなら早い時間に登校するのに、どうしたわけだか遅刻間際のギリギリの時間に走って来て。ハアハアと息を切らせたままで、門の所で倒れたなんて。
(何があったのかと思うよね…?)
寝坊したから必死だったか、バスの中でウトウト眠ってしまって、終点まで行って戻ったのか。
まさか宿題を取りに戻ったとは思わないだろうし、思い付くのはそういったケース。
(…宿題を取りに家まで帰って、遅刻しそうなのも酷いけど…)
寝坊するのも、乗り過ごして終点から戻ってくるのも、馬鹿のよう。どちらも間抜け。
考えるほどに、涙がポロポロ零れてくる。
「ぼくって、駄目だ」と。「ホントにウッカリしてた馬鹿だよ」と、「ぼくの大馬鹿!」と。
そんな調子だから、気分はドン底。それに身体がだるくて重い。無理をし過ぎて、とても負担をかけたから。…下手な体育の授業の時より、ずっと体力を使ったから。
(ホントに馬鹿だ…)
身体まで駄目にしちゃうだなんて、と後悔したって、もう遅い。弱い身体はとうに限界、悲鳴を上げている状態。「もう動けない」と、「走るどころか、歩くのも無理」と。
それでは食欲があるわけもなくて、昼食は母が作ったスープとプリンだけ。
「何か食べられそう?」と母に訊かれても、首を横に振るしかなかったから。「欲しくない」とベッドで丸くなるだけで、本当に欲しくなかったから。
(それでスープと、甘いプリンと…)
喉ごしが良くて、栄養がつきそうなコーンのポタージュスープ。卵を使った柔らかなプリン。
なんとか食べられはしたのだけれども、夕食も食べられないかもしれない。昼と同じにスープとプリンで、他には何も口にしないで。
(明日の学校…)
保健室の先生は、「明日の授業も宿題も気にしないでね」と言っていた。具合が悪くて早退した子は、宿題をやって行かなくてもいい。欠席していて、復帰した子も。
だから自分も、その注意を受けた。登校するなら、宿題のことは気にせずに。休むのだったら、明日の授業で出される宿題、それは「やらなくてもいい」と。
(……宿題……)
それで頑張りすぎちゃったんだよ、と涙が溢れる。
ハーレイが授業で出した宿題、今日が提出期限だった感想文を「素晴らしいもの」にしたくて、何度も何度も手直しして。昨夜も「こっちの方がいいよ」と書き直したりして。
(いつも机の引き出しに…)
入れたり出したりしていたせいで、昨夜も引き出しに入れてしまった。慣れた方へと、ついついウッカリ。「鞄から出した」ことも忘れて、引き出しの方に。
(そのせいで、持って出るのを忘れて…)
途中で気付いて、取りに戻ろうと頑張った。バスから降りて、家の方へと向かうバスに乗って。
家に戻って宿題を持って、遅刻しないように全力疾走。宿題を持ってゆくために。
頑張って走って学校に着いて、其処までで力尽きてしまった。…宿題は持って行けたけれども。
頑張りすぎてしまった宿題。感想文を書いていた段階でも、それを提出する所でも。
(…家に忘れて来たんです、って…)
本当のことを告げていたなら、きっと倒れたりしなかった。「宿題、やっていないんだな?」と笑われたって、大恥をかいて、赤っ恥だって。
(ハーレイに笑われても、クラスのみんなも笑っていても…)
その方が良かったのだろう。こんな結果を招いてしまって、母やハーレイにまで、心配をかけるくらいなら。…身体がすっかり壊れてしまって、食欲も失せるくらいなら。
(ぼく、明日は…)
学校を休んじゃうんだろうか、と辛くて悲しい。古典の授業は無い日だけれども、休めば学校でハーレイに会えない。チラと姿を見掛けることさえ、チャンスそのものが無くなるから。
(そうなっちゃうの…?)
今日もハーレイに少ししか会えていないのに、と零れる涙。
本当だったら授業でたっぷり会えたのに。好きでたまらない笑顔が見られて、大好きな声が沢山聞ける授業。…それを逃して、おまけに心配までさせた。ハーレイの目の前で倒れてしまって。
(…ごめんね、ハーレイ…)
ぼくがウッカリしてたから…、と思う間に、訪れた眠気。少しでも疲れを取りたい身体が、休む時間を欲しがって。「眠って治そう」と訴え掛けて。
引き摺られるように眠ってしまって、次に意識が浮上した時は…。
「おい、大丈夫か?」
寝ちまってるのか、と聞こえた声。直ぐ耳元で。
「…ハーレイ?」
どうしたの、と目をパチクリとさせた。
ハーレイはまだ学校だろうに、どうして此処にいるのだろう、と。それともこれは夢の世界で、目が覚めたらハーレイは消えるのだろうか…?
「どうしたの、って…。そうか、寝ぼけてるのか」
時間の感覚、寝ていたせいで無くなったんだな。
学校ならとうに終わっちまったさ、いつもの柔道部の方も。
俺の仕事は終わったってわけで、お前の見舞いに来てやったんだが…?
そういえば…、とハーレイは椅子を運んで来た。いつもこの部屋で座る椅子。窓辺に置かれた、ハーレイ専用になっている椅子を、ベッドの側に。
それに座って、ハーレイが浮かべた穏やかな笑み。
「お前の宿題、ちゃんと受け取ったぞ。…保健室の先生が渡してくれた」
昼休みに様子を見に行ってみたら、お前は帰った後だったから…。
どんな具合だったか訊くよりも前に、「ブルー君からです」と渡されちまった。教室まで持って行こうとしたから、代わりに預かっておいたんだ、とな。
「ホント? ちゃんと届いたんなら良かった…。でも、失敗…」
大失敗だよ、今日のぼく…。ごめんね、心配かけちゃって…。
「失敗なあ…。朝から倒れちまったことか?」
お前が遅刻しそうだなんて、珍しい日もあるもんだ、とは思ったが…。あんな時間に、校門まで走って来るなんてな。
気分が悪くて遅れたんなら、あそこで走っているわけがないし…。
いったい何をやらかしたんだ、と鳶色の瞳が覗き込む。「寝坊でもしたか?」と。
「そうじゃなくって…。いつも通りに家を出たけど、あの宿題…」
ハーレイが前に出してた宿題、家に忘れて出ちゃったんだよ。…昨日の晩にも手直しをしてて、鞄に戻すの忘れちゃって…。机の引き出しに入れてしまってて…。
学校へ行くバスに乗ってから、忘れて来たのに気が付いたから…。
宿題を忘れて行きたくなくって、家まで取りに戻らなきゃ、って…。だって、宿題、家に忘れて来たっていうのは、「やっていません」の意味になるでしょ…?
普通はそっちの意味に取るよね、と投げ掛けた問いを、ハーレイは否定しなかった。
「まあ、そうなるのが普通だろうな。…言い訳ってヤツの王道だから」
家まで確かめに行きはしないし、宿題が本当に忘れてあるかどうかは謎ってことで。
「やったんです」と主張されたら、「嘘をつくな」と言い返すのも、教師の仕事の一つだから。
「やっぱりね…。そうなるだろうと思ったから…」
頑張って取りに帰ったんだよ、まだ間に合うよね、って時計を見て。
いつもは降りないバス停で降りて、家の方へ行くバスに乗ろう、って…。
そしたら宿題を取りに帰れて、ハーレイの授業の時にきちんと渡せるから…。
それをやってて遅刻寸前、と目の前の恋人に白状した。
時刻表の通りにバスが来なくて、家に帰るのが遅くなったこと。父は会社に出掛けた後で、車で送って貰えなかったこと。
残る手段はバスだけだから、と乗り遅れないように走ったことも。
「家からバス停まで走ったんだよ、ホントに全力疾走で…。挨拶だって走りながらで」
バス停の椅子は空いていたけど、座ろうって思い付かなくて…。バスが早く来ないか、そっちの方を立って見ていて、一度も座らないままで…。
やっとバスが来て乗り込んでみたら、空いた席、一つも無かったんだよ。…ヘトヘトなのに。
おまけに信号で止まってばかりで、うんと時間がかかってしまって…。
学校の近くのバス停に着いたら、ギリギリの時間。…先生が表に立っているような。
だから急いで走らなくちゃ、って頑張って走って、間に合ったけど…。
門を入ったら、そこでチャイムが鳴ったんだけど…。でも…。
ぼくの力も其処でおしまい、とベッドの中でシュンとした。倒れてしまって、この通りだから。学校を早退する羽目になって、ハーレイにも心配をかけたのだから。
「そうだったのか…。宿題を取りに戻ったとはなあ…」
命懸けで提出したってわけだな、お前が出した感想文。なら、心して読まないと…。
そうとも知らずに受け取って来たが、お前の命が懸かってたなら。
コーヒー片手に読んじゃ駄目だな、とハーレイが表情を引き締めるから、瞳を瞬かせた。
「…命までは懸かっていないけど…」
ぼくは倒れてしまったけれども、それだけだよ?
救急車で病院に行ってはいないし、家の近所の病院にも行っていないから…。
ちょっぴり具合が悪いだけだよ、死にそうにはなっていないってば。
命なんかは懸かってないよ、と言ったのだけれど。
「俺にしてみりゃ、似たようなモンだ」
目の前でお前が倒れたんだぞ、駆け込んで来たかと思ったら。
元気そうだな、と思った途端に、お前、倒れてしまうんだから…。
何事なのかと大慌てな上に、お前の命の心配もする。
お前、元から弱いんだしなあ…。走っちまって、急に具合が悪くなっても不思議じゃないから。
俺の寿命まで縮んじまうだろうが、と大きな手で頭をクシャリと撫でられた。
「命懸けで宿題を持って来るのは結構なんだが、身体のことも考えろよ?」と。
「お前らしいと言ってしまえば、それまでなんだが…。お前、根っから真面目だからな」
宿題の一つや二つくらいは、忘れたって死にやしないのに…。減点だって知れてるのにな?
まあ、お蔭でお前を運べたんだし、俺は文句は言わないが。
あれは役得と言えるんだろう、と不思議な言葉。いったいどういう意味なのだろう…?
「運んだって…。それに、役得って、何?」
ハーレイがぼくを運んだってことは分かるけど…。保健室まで運んだんでしょ?
先生の仕事の内なんだろうし、何処が役得なのか分からないけれど…?
「簡単なことだ、お前を運んだ方法だな。他の先生たちが、担架を取りに行こうとしたから…」
これで行けます、とお前をヒョイと持ち上げただけだ。
お前の憧れの「お姫様抱っこ」だ、普通の男子生徒だったら、アレは嫌がるものなんだが…?
「えーっ!?」
覚えていないよ、ハーレイが運んでくれていたこと…!
せっかくの、お姫様抱っこ…。前から何度も頼んでたのに…。「いつか、お願い」って。
ぼくは何にも覚えてないのに、ハーレイだけが楽しんでたの…?
お姫様抱っこで、ぼくを運んで…、と尖らせた唇。本当に欠片も覚えていなくて、思い出しさえしないから。「お姫様抱っこだ」と聞かされても。
「当然だろうが、意識不明じゃ覚えているわけがない」
ついでに言うなら、あの状態だと、アレで運んでいても誰も笑わん。何処から見たって、病人を運んでいるわけだから。…それも意識が無い状態の。
もっとも、生徒はもういなかったが…。
チャイムが鳴ったし、みんな教室に行っちまってな、という話。「お姫様抱っこ」で運んでゆく所を目撃したのは、先生たちだけ。
「大丈夫ですか?」と覗き込んでいた先生だとか、例の宿題入りの鞄を手にして、保健室までの道を一緒に歩いた先生だとか。
「聖痕を持った一年生」が「守り役の先生」に運ばれたことは、学校の先生たちしか知らない。生徒は一人も知らないままで、目撃した生徒もいないまま。
幻みたいな「お姫様抱っこ」。覚えていないのは残念だけれど、先生たちしか知らないのなら、まだ諦めがつくというもの。「誰も見ていなかったんだものね?」と。
「そっか…。生徒は誰も見ていないんなら、ホントに病人を一人運んだだけだよね…」
お姫様抱っこで運ばれてたぞ、って噂になることも無いだろうから。
ごめんね、心配かけちゃって…。役得はいいけど、寿命が縮んだらしいから…。
ホントにごめん、と謝った。悪いのは全部自分なのだし、申し訳ないと思うから。
「いや、いいが…。俺のことは気にしなくてもいい」
しかし次から無理はするなよ、宿題は忘れてもかまわないから。…今日みたいにパタリと倒れるよりかは、潔く忘れてくれた方がな…?
「やだ…!」
本当に家に忘れたのかも、って思っていたって、ハーレイ、ぼくに言うんでしょ?
「その宿題は、やっていないんだな?」って、先生なら誰でも言いそうなことを。宿題をやっていない生徒の言い訳、大抵、それなんだから…。
でも…。無茶をしたぼく、何も食べられそうにないから…。
野菜スープを作ってくれる、と尋ねてみた。母のスープとプリンでもかまわないのだけれども、ハーレイが来てくれたのだったら、あのスープがいい。
前の生から好きだったスープ、とても素朴な「野菜スープのシャングリラ風」が。
「野菜スープだな、お安い御用だ」
お前、命懸けで頑張ったんだからな、俺に宿題を提出しようと。
それに比べりゃ、スープ作りの手間は大したことじゃない。だがな…。
頑張りすぎってヤツは良くないんだ、お前だって今日ので懲りたんだろう?
明日も学校に来られるかどうか怪しいくらいで、今だって飯が食えないんだから。
命懸けの無茶をするってヤツはだ、前のお前のメギドだけで終わりにしておいてくれ。あれでも充分、今の俺にはダメージがデカい。…生まれ変わって来た今でもな。
いいな、あれがお前の最後の無茶で、最大の無茶だ。
とはいえ、今日のも命懸けの無茶だぞ、あの時と並ぶくらいにな。
二度と無茶なんかをするんじゃない。…命懸けのは、もう沢山というヤツなんだ。
前のお前は、本当に頑張りすぎちまったから。
分かったな、とハーレイが怖い顔をするから、もう無茶はしたくないけれど。
ハーレイにも、母にも、自分の無茶のせいで、心配をかけたくはないのだけれど…。
(きっと、また…)
似たようなことをやりそうだから、ハーレイの宿題には気を付けよう。ウッカリ家に置き忘れてしまわないよう、鞄の中を何度も確認して。
(…ぼくがウッカリしていて、失敗…)
せっかくの「お姫様抱っこ」を覚えていないのは、きっと神様の罰だろう。
ハーレイにも母にも心配をかけて、その原因は自分だから。
自分がウッカリしていたばかりに、酷い無茶をして、学校で倒れてしまったから。
(次から宿題…)
忘れないようにしなくっちゃ、と思いながらも、目の前のハーレイにリクエストする。
「野菜スープのシャングリラ風」は、ちゃんとスプーンで食べさせて、と。
身体がだるくて起き上がれないから、その食べ方がいいんだけれど、と。
「お姫様抱っこは覚えてないから、スプーンでスープ…。駄目…?」
「仕方ないヤツだな、甘えやがって…。だが、命懸けで宿題、持って来たしな…?」
そのくらいの我儘は許してやろう、とハーレイは優しく微笑んでくれた。
「だが、無茶はいかんぞ?」と、「それをしっかり覚えておけよ」と。
(…だけど、無茶して倒れちゃったから…)
こんな時間を持てるんだよね、と思うと、それも幸せではある。
ハーレイに甘えられる時。
「スープをスプーンで食べさせて」などと注文をして。
無茶をし過ぎた身体はだるくてたまらなくても、心の中は幸せ一杯。
ハーレイと二人きりの時間で、もう少ししたら、あの懐かしい野菜スープも食べられるから…。
忘れた宿題・了
※ハーレイの授業で出された宿題。頑張ったのに、置き忘れて家を出てしまったブルー。
懸命に取りに帰った結果は、学校でダウン。憧れだった、お姫様抱っこ、記憶に無いのです。
(あ…)
塞がってる、とブルーが眺めた座席。学校からの帰りに乗り込んだバスで。
いつも腰掛ける、お気に入りの席が塞がっていた。車内が混んでいるわけではなくて、座席なら他にも空いている。もちろん立っている人もいない。
けれど、先客が座っている席。其処に座りたかったのに。
(反対側のも…)
同じに人が腰掛けている。お気に入りの席がある場所は。
通路を挟んだ反対側なら、空いていたっていいと思うのに。空いている席は他に幾つも、其処を塞がなくても良さそうなのに。
(だけど、みんなの席なんだから…)
何処に座るのも、その人の自由。今日はたまたま、そうなっただけ。先に乗った人が腰掛けて。
「ぼくの席だよ」と言えはしないし、仕方ないから別の席に座った。「此処でいいや」と。通学鞄を膝の上に置いて。
(眺めはそれほど変わらないけど…)
窓の向こうを眺めるのならば、いつもの席と全く同じ。ただ、バスの前がよく見えない。普段の席なら、通路の行く手に大きな窓が見えるのに。これから進む先の道路や、対向車などが真っ直ぐ前に見える窓。
(此処からでも、ちょっと通路に乗り出したら…)
見えるんだけどね、と首を傾けて前を見る。ちゃんと道路も、対向車とかも見えるけれども…。
それでも損をした気分。「ツイてないよ」と。
座れなかったわけではなくても、ほんのちょっぴり。いつものようには開けない視界。前の方を眺めたいのなら。…直ぐ横の窓の向こうではなくて。
(ぼくの我儘…)
不満に思うのも、「ツイていない」のも、我儘なのだと分かってはいる。路線バスは公共の交通機関で、誰が乗るのも、何処に座るのも自由。指定席など無いのだから。
そうは思っても、残念な気持ちが拭えない。
お気に入りの席を取ってしまった人が、今日は二人もいたということ。
立つ人がいるほど混んでいるなら、何とも思わないけれど。自分も同じに立つのだけれど。
そっちだったら、「ツイていない」と思いはしない。今日のような気分になったりはしない。
(こんな日もあるよね、って…)
吊り革を握って立つだけのことで、塞がっている席を未練がましく見たりもしない。空いている席があれば良かったのに、と車内を眺めているだけで。
ところが、混んではいないバス。座れる席なら幾つもある。自分が座った席の他にも、あちこち空いている座席。
こんな時には、普段の席のどちらかは空いているものなのに。通路を挟んで右か左か、運のいい日なら両方だって。
(だからお気に入り…)
バスに乗り込んだら、自分を迎えてくれるかのように、待っていてくれる席だから。
「どうぞ座って下さい」と。バスは言葉を話さないけれど、思念波だって来ないけれども。
(でも本当に、ぼくを待ってるみたいに空いてるから…)
いつもストンと腰掛けるわけで、窓の向こうを見ながら帰る。席の横の窓や、バスの前の窓を。面白いものが見えはしないかと、今日の天気はどんな具合かと、色々なことを考えながら。
その席が無いから、気分はガッカリ。
首を伸ばして前を見たって、なんだか違ってしまうから。少し見えにくいものだから。
(仕方ないけど…)
こういう日だって、たまにはある。滅多に無いというだけのことで。
だから余計に「ツイていない」気分。「どうして、今日はこうなんだろう」と。
家の近くのバス停までには、幾つか挟まる他のバス停。其処で誰かが降りてくれれば、いつもの席に移動も出来る。ほんのバス停一つ分でも、「ぼくの席だよ」と座れるのに…。
(…降りる人、他の席ばかり…)
降車ボタンを押して降りるのは、他の座席の人だった。「お気に入り」の二つの席は空かずに、自分が降車ボタンを押す番。「次で降ります」と。
(…ぼくの席、座りたかったのに…)
とうとう空いてくれなかったよ、と降りるしかなかった路線バス。
お気に入りの席には座れないまま、運転手さんに「ありがとうございました」と御礼を言って。降りる時にも振り返ってみて、「やっぱり今も塞がってる」と席を確かめて。
こんな日だってあるんだけどね、とトボトボと歩いて帰った家。「ツイていない」気分を抱えたままで、「何かいいこと、起こらないかな」と。お気に入りの席が無かった代わりに、と。
けれど、そうそう「いいこと」が降ってくるわけもない。ツイていなくもなかったけれど。
「ただいま」と玄関の扉を開けたら、その家の中は普段と同じ。
母がおやつを用意してくれて、ダイニングのテーブルでのんびり食べた。自分の席で、いつもと同じ景色を眺めて。
「御馳走様」とキッチンの母に空のカップやお皿を返して、戻った二階の部屋だって、そう。
勉強机の前に座ったら、周りは見慣れた自分の部屋。角度の一つも違いはしなくて。
(ぼくのための席って…)
大切だよね、と感じてしまう。ダイニングの席も、勉強机の前も落ち着く。いつも通りだというだけで。特に素敵なことが無くても、「いいこと」が起こってくれなくても。
(もしも、この席が無かったら…)
「ツイていない」どころの騒ぎではない。ダイニングに行っても、自分の椅子が無かったら。
自分の部屋に入ってみたって、勉強机の前から椅子が消えていたなら。
(そんなの、困る…)
バスの中の席が無かった程度で、文句を言っては駄目だろう。「お気に入りの席」は、誰のものでもないのだから。バスに乗った人が好きに座っていい場所だから。
(やっぱりホントに、ぼくの我儘…)
ツイていないなんて思ったら駄目、と我儘な自分を叱っていたら、ふと気が付いた。
今の自分は、バスの中にも「お気に入りの席」を持っているほど。自分が勝手に選んだ座席で、他の誰かが座っていたって、「ぼくのだよ」と言えはしないけど。
(でも、お気に入りで…)
空いていたなら、其処が自分の指定席。他に幾つも席があっても、迷わずに腰を下ろす場所。
家に帰れば、ダイニングのテーブルに「自分のための」席がある。おやつを食べるのも、食事も其処で、母がお皿を置いてくれる場所。
(この部屋だったら…)
勉強机の前が指定席だし、窓際にあるテーブルと椅子も、「自分の場所」は決まっている。使う時には、「ぼくがこっち」と座る椅子。バスにも、家にも、自分の席。
幾つも席を持っている自分。家なら本物の指定席だし、バスの中なら「勝手に決めた」指定席。座れば、とても落ち着く場所。
(その席が、今日は塞がってたから…)
ツイてないよ、とガッカリしたのが帰りのバス。「何かいいこと、あればいいのに」と思ったりしながら、家まで帰って来たほどに。
そうなったくらいに、「自分の席」は大切なもの。あって当然、消えていたなら残念な気分。
もしも自分の家で起きたら、大騒ぎすることだろう。「ぼくの席は?」と大声を上げて、消えてしまった椅子を探して。「ママ、ぼくの椅子は何処へ行ったの!?」と。
(学校に行ってる間に、ママが何かを零したとか…)
それで椅子ごと洗うことになって、何処かに干されているだとか。ちょっとした傷みに気付いた母が、修理に出してしまったとか。
(そういうことになっちゃってても…)
代わりの椅子が置いてあるなら、其処まで騒ぎはしないだろう。座り心地が少し違っても、席は同じにあるのだから。いつもの場所に座ることが出来て、見える景色も全く同じ。
(ぼくの家なら、そうなるけれど…)
「席が無いよ」と慌てていたなら、じきに現れるだろう母。「ごめんなさいね」と、別の椅子を運んで来てくれて。「暫く、これを使ってくれる?」と。
そうやって普段の席が戻って、ストンと座って、おやつに食事。この部屋だったら、勉強したり読書をしたりと、満喫できる「自分の席」。
(今のぼくだと、そうなんだけど…)
当たり前のように持っている「自分の席」。家はもちろん、バスの中でも勝手に決めている席があるくらい。塞がっていたら「ツイていない」と思う席が。
でも…。
(前のぼくだと、自分の席…)
無かったっけ、と白いシャングリラを思い出す。前の自分が生きていた船を。
シャングリラは巨大な船だったけれど、あの船には無かった「ソルジャーの席」。
ソルジャー・ブルーと呼ばれた前の自分は、「自分の席」を持っていなかった。青の間に椅子はあったけれども、他の場所には。ブリッジにも、天体の間にも、食堂にだって。
まるで無かった、ソルジャー・ブルーのためにある席。青の間の椅子を除いては。
(あれはあれで理由があったんだけど…)
仲間外れにされていたとか、意地悪をされたわけではない。誰もソルジャーに、そんな真似などしないから。…敬い、大切に扱いはしても。
そうされた結果が「席が無かった」こと。ソルジャーだったから、席は無かった。あの船の中の何処を探しても、何処に行っても。
(前のぼくの席は無かったから…)
寂しい気持ちになる時もあった。他の仲間たちの姿を眺めて、「ぼくの席だけ、無いんだ」と。
そうして、いつも踵を返した。其処に「自分の席は無い」から。
もしも自分の席があったら、もっと愛着を覚えただろうか。視察が済んでも直ぐ立ち去らずに、「時間なら、まだあるだろう?」と腰を落ち着けたりもして。
ブリッジにしても、食堂にしても、のんびりとあちこち眺め回して。
(あれは何だい、って訊いてみるとか、「美味しそうだな」って見てるとか…)
きっと印象が変わっただろう。「自分の席」が其処にあったら、ゆっくり出来る場所だったら。
其処にいる仲間と話したりして、もう本当に「自分の居場所」。今の自分が暮らしている家の、ダイニングなどと変わらずに。
(いつでも行ったら、ストンと座れて…)
食堂だったら、飲み物なんかも注文する。「今日は紅茶で」とか、「あれと同じのを」と、他の誰かが飲んでいるものを真似るとか。
注文の品が届いた後には、自分の席でゆったりと。ソルジャーは暇な仕事だったから。
(そう出来ていたら、食堂だって、もっと身近で…)
居心地のいい場所だったろう。視察だけでなく、いつ出掛けても「自分の席」があったなら。
けれど、そうなったら仲間たちが困る。
船で一番偉いソルジャー、そんな人がフラリとやって来たなら。いつもの席に腰を落ち着けて、立ち去ってくれなかったなら。
(ソルジャーがいたら、マナーなんかも気になるし…)
誰もが緊張し切ってしまって、食堂の空気がピンと張り詰めてしまうだろう。賑やかだった声も静まり返って、黙々と食べているだけだとか。
ブリッジにしても、きっと同じこと。あそこにソルジャーの席が無かったのは、そんな理由ではなかったけれど。他に理由があったのだけれど、無理やりに席を設けていたら…。
(ぼくが座ってたら、みんなが大変…)
息抜きの会話も出来はしなくて、ひたすら仕事に打ち込むだけ。
「ソルジャーが見ていらっしゃるから」と、私語の一つもしようとせずに。
(…食堂もブリッジも、それじゃ、みんなが落ち着かないし…)
もっと寛いで貰わなければ、と自分の方から話し掛けても、きっと緊張は解けないまま。それを頑張って解いていったら、今度は「ソルジャーの威厳」が台無し。
子供たちと遊んでいるならともかく、大人相手に気さくに話し掛けたなら。…食堂で隣に座った誰かに、「それ、美味しいかい?」と声を掛けては、「ぼくもそれにしよう」とやっていたなら。
(その辺のことも、ちゃんと考えて…)
何処にも作りはしなかったんだよね、と分かってはいる「ソルジャーの席」。
旗振り役のエラはもちろん、ヒルマンたちも賛成だった。そういった席を「作らない」ことに。
船で一番偉いソルジャー、ミュウたちの長を「雲の上の人」にしておくために。
誰もが気軽に話せるようでは、ソルジャーの重みが無くなるから。「ソルジャーの席」を設けておいたら、皆との垣根が低くなるから。…其処にいるのが常になったら、気が向いた時はいつでも座っているとなったら。
(青の間だけでも沢山なのにね…)
ソルジャーを「偉く見せる」ための演出というものは。
やたらと広くて、大きな貯水槽まで作って、「特別な部屋」に仕立てられた青の間。其処に入る仲間が息を飲むように、「ソルジャーは凄い」と感動されるように。
あの部屋だけでも充分すぎると思っていたのに、たまに食堂に出掛けた時には、特別に席を用意された。其処で何かを食べる時には、他の仲間と相席にならないテーブルを。
(一緒に座るの、ハーレイだけで…)
でなければゼルたち、いわゆる長老と呼ばれた面々。彼らがソルジャーの周りを固めて、一緒に試食などをしていただけ。他の仲間たちは近付けないで。
広いテーブルに、一人きりのことも多かった。キャプテンも長老たちも忙しくしていて、食堂に来られない時は。…ポツンと一人で、他の仲間たちとは離れた場所で。
ブリッジはともかく、いつ出掛けても「席が無かった」食堂。ソルジャー用にと用意されても、まるで寛げなかった席。「お気に入り」とは思えもしなくて、食べ終わったら直ぐ、立っていた。
其処でゆっくりしていた所で、少しも楽しめないのだから。
他の仲間たちは寄って来ないし、こちらからも話し掛けられはしない。気軽に声を掛けた所で、相手が緊張するだけだから。「な、何でしょうか!?」と、立って敬礼したりもして。
そうならないよう、いつも急いで出ていた食堂。自分の席など持てないままで。
(酷かったよね…)
前のぼくだってツイてなかった、と思ってしまう。
いくら理由があったとはいえ、「お気に入りの席」を持てなかったのだから。食堂に行っても、ブリッジに行っても、何処にも無かった「ソルジャーの席」。
其処にストンと座りさえすれば、「いつもの時間」が始まる席。ごくごく平凡で、特別なことは何も起こりはしなくても。普段通りの時間が流れてゆくだけでも。
それがあったら、落ち着ける。「ぼくの席だ」と、「此処が、ぼくの場所」と。
(今のぼくでも、バスの中にまで…)
お気に入りの席を持っているのに。
ソルジャーではないチビの自分でも、十四歳にしかならない「ただの子供」でも。
もっとも、バスの中の座席は、貰ったものではないけれど。指定席にさえもなってはいなくて、自分が勝手に「お気に入り」に決めた座席だけれど。
(ぼくのじゃないから、今日みたいに…)
誰かが先に座ってしまって、座れない日も出来てくる。「空かないかな?」と待っていたって、空いてくれずに終わる日が。
(今日はホントに、ツイてなかったけど…)
前のぼくよりは、よっぽどマシ、と「お気に入りの席」を考えずにはいられない。今の自分でも持っているのが、ダイニングの椅子や、今、座っている勉強机の前の椅子。
家にいる時はいつでも座れて、のんびり寛いでいられる場所。
バスの中の席は少し違うけれども、「お気に入り」には違いない。其処に座れば、窓の向こうは見慣れた景色。いつもの風景。
運が無ければ座り損ねて、今日の帰りのようになっても。他の席しか空いていなくても。
今日は無かった「お気に入り」の席。取られてしまった、いつも座る席。それも二つとも。
けれど、たまには消えてしまって「ツイていない」と思う席でも…。
(そういうのでもいいから、欲しかったよね…)
ソルジャーの席、と白いシャングリラを思い浮かべる。あそこに一つ欲しかった、と。
出掛けて行ったら座れる席が。いつも自分を待ってくれていて、「どうぞ」と迎えてくれる席。他の仲間が座っていたなら、その日は諦めたっていいから。
(ソルジャーの席だし、他の仲間が座ったりすることは無いかもだけど…)
皆が遠慮して、常に空いたままかもしれないけれど。
そんな席でも、無いよりはいい。食堂でも、ブリッジでも、天体の間でもかまわないから。
あれば良かった、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで切り出した。
「あのね、シャングリラの、ぼくの席…。どう思う?」
ぼくは酷いと思うんだけどな、何処を探しても無かったなんて…。
「はあ? 席って…?」
何の話だ、とハーレイは怪訝そうな顔。「お前の席が、どうかしたのか?」と。
「ソルジャーの席だよ、前のぼくの席。…シャングリラの中の何処にも無かったでしょ?」
ブリッジにも、食堂にも、天体の間にも。
青の間には椅子があったけれども、あそこはぼくの部屋だったから…。無い方が変。
だけど、他の場所には席が一つも無かったんだよ。何処に行っても、ぼくのための席は。
まさか忘れたとは言わないよね、とハーレイを真っ直ぐ見詰めたけれども、いとも簡単に返った答え。少しも考え込んだりせずに。
「忘れるわけがないだろう。…俺を誰だと思ってるんだ?」
シャングリラを纏めていたキャプテンだぞ、前のお前の席くらい分かる。あったかどうかも。
確かに席など無かったんだが、そいつは「要らない」からだったろうが。
前のお前はソルジャーだったし、ソルジャーには青の間という立派な居場所があってだな…。
用がある時は、皆が出向いて行くもんだ、とハーレイは澱みもせずに続けた。他の仲間が行けば済むから、ソルジャーの席は青の間にだけあれば充分だ、と。
「それに、会議の時には席があったぞ」とも。…長老たちを集めた会議の場では。
ハーレイに指摘されたこと。会議の時のソルジャーの席。それは間違いなくあった。
キャプテンの他にもヒルマンやゼルを集めて、六人で会議をする時は。「この席がそうだ」と、皆が空けておく席。…後から遅れて行った時にも、その席はいつも空いていたから。
「会議の時って…。それはそうだけど…」
あの席には誰も座っていなかったけれど、でも…。あそこ以外に、前のぼくの席は…。
無かったじゃない、と訴えたけれど、ハーレイはフンと鼻を鳴らした。「あれで充分だろ」と。
「会議の時にも席が無かったのなら、文句を言ってくれてもいいが?」
俺やヒルマンたちは座っていたのに、お前だけが突っ立っていたのなら。…椅子なんか無しで。
しかし、そうなってはいない。ソルジャーの席は一番奥だ、と決まっていたろうが。
お前が遅れてやって来たって、誰もあそこに座っちゃいないぞ。他の席に座って待つだけで。
誰も座りに行かない以上は、あれがお前の席だったわけで…。
お前の席はきちんとあった、と言われたらグウの音も出ない。ソルジャーのための席の件では。今、ハーレイが言った通りに、「まるで無かった」わけではないから。
会議の時なら、いつも「此処だ」と決まっていた席。扉から一番離れた所がそうなのだ、と。
皆よりも早く着いた時には、迷わずに其処に座っていた。先にストンと腰を下ろして、その日の会議の中身なんかを考えながら。
とはいえ、本当に「会議の時だけ」だった席。それもハーレイたちとの会議。他の仲間たちまで集まる時には、ソルジャーの席は「あって無いようなもの」。一番奥には違いなくても、お飾りのように座っていただけ。発言の機会も得られないままで。
(ああいう大きな会議の時には、ハーレイたちが進行役で…)
ソルジャーは最後に承認するだけ。「こういう具合に決まりました」と報告されたら、頷いて。
「それで頼むよ」とか、「それなら、続きは日を改めて検討するように」とか。
あの席は少し違うだろう。「自分の場所」と呼ぶよりは…。
(此処に座っていて下さい、って…)
座らされたわけで、お気に入りでも何でもない。
自分で選んでいいのだったら、あれだけ大勢が集まるからこそ、真ん中の方にいたかった。皆の意見がよく聞ける場所で、自分の考えも述べられる席。「こうしたらどうかな?」と。
ソルジャーの肩書きにこだわりはせずに、船の仲間の一人として。
なのに、貰えなかった席。会議の時でも、無かったも同じな席だったから…。
「ハーレイたちとの会議だったら、ぼくの席は確かにあったけど…。決まってたけど…」
でも、他のみんなと会える時には、前のぼくの席は無かったんだよ。会議の時でも。
ソルジャーは此処、って決まってはいても、あの席じゃ何も出来なかったし…。ぼくの意見は、先にハーレイたちが聞いてて、それを伝えるだけだったし。
酷いよ、ぼくだけ自分の席が無かったなんて。…青の間で座っているだけなんて…。
前のぼくの席が欲しかったよ、と重ねて言っても、ハーレイは耳を貸そうともせずに。
「ソルジャーの席は必要ない。シャングリラがどんなにデカイ船でも」
エラはもちろん、前の俺やヒルマンやゼルやブラウたち。…それに各部門の責任者もだな。
船の誰もがそう考えたせいで、ソルジャーの席は何処にも作られなかったんだが?
お前も分かっていた筈だろうが、どうしてそういうことになったか。…何のためにソルジャーの席を作らず、皆が青の間に行くという形を取っていたのか。
それにしてもだ、どうしていきなり席の話だ?
いったい何処から持って来たんだ、前のお前の席が無かった苦情だなんて…?
とうの昔に時効だろうが、とハーレイは呆れたような顔。「何年経ったと思ってるんだ?」と。
「それは分かっているけれど…。シャングリラだって、もう無いんだけれど…」
思い出したんだよ、前のぼくには自分の席が無かったことを。
今日の帰りに乗ったバスでね、ぼくの席が空いていなくって…。あれは普通の路線バスだから、ぼくが勝手に決めている席で、指定席とは違うんだけど…。
二つあるんだよ、ぼくのお気に入り。いつもだったら、どっちかに座って帰れるのに…。今日は二つとも塞がっちゃってて、空かないままになっちゃった…。
席は他にも空いてたけどね。別の席には座って帰れたんだけど…。
それでもツイていない気分、と帰り道に感じたことを話した。お気に入りの席に座れないまま、家まで帰る羽目になったから。「ツイてないよ」と何度も心で零したから。
勝手に選んだバスの座席でさえ、空いていなかったら気分が沈む。
逆にストンと座れた時には、「ぼくの席だよ」と嬉しいもの。家で座る場所は尚更、この部屋の椅子も、ダイニングの椅子も、あったら心が安らぐもの。「ぼくの席は此処」と。
そういう席が、前の自分も欲しかった、と。バスの席のようなものでもいいから。
誰かが座っていたっていいし、と例に挙げたのが食堂の席。船の仲間が集まる食堂、あそこには指定席は無かった。誰もが空いている席を探して、腰を下ろして食べていた場所。
「お気に入りの席がある仲間だって、きっと多かった筈なんだよ。今のぼくみたいに」
今日もあそこの席で食べよう、って思って行ったら、他の誰かに座られてたとか…。
前のぼくの席も、そういう席で良かったんだよ。此処がいいな、って勝手に選んだ場所で。
気が向いた時に出掛けて座れれば充分だから、と言ったのだけれど。塞がっていたら、他の席を探して座るから、とも訴えたけれど…。
「お前なあ…。今のお前なら、その考えでも別にかまいはしないんだが…」
前のお前が生きてた時代と、場所をよくよく考えてみろ。いったい何処で暮らしてたのか。
シャングリラは大勢の仲間が乗ってた船だが、路線バスとは違うんだ。
踏みしめる大地を手に入れるために地球を目指す船で、ミュウの箱舟。外の世界じゃ、ミュウは生きてはいけないからな。…人類に端から殺されちまって。
シャングリラがそういう船だった上に、前のお前がソルジャーだから…。
バスの乗客気分じゃ困る、とハーレイは顔を顰めてみせた。「皆はともかく、お前は駄目だ」と眉間の皺まで深くして。
ソルジャーは、船の仲間たちを導く灯台。他の仲間と一緒の席には座れない、と。
「そんな…。食堂の席くらい、一緒でいいのに…」
ぼくのお気に入りの席を見付けて、其処に座れたら良かったのに…。塞がってた時は、ちゃんと他のを探すから。…「ぼくの席だ」って、座ってる人を追っ払ったりはしないから…。
「それが駄目だと言っているんだ。シャングリラって船は、路線バスではなかったからな」
ソルジャーと気軽に触れ合えるような、遠足気分の旅じゃなかった。…地球を目指す旅は。
地球の座標は掴めなくても、誰もが地球を目指してたんだ。あの船の中じゃ。
前のお前も承知してたろ、自分の立場というヤツを。…ソルジャーはどう生きるべきかを。
仲間たちが何を期待したかも…、と鳶色の瞳が見据えてくる。「覚えてるよな?」と。
「…覚えてるけど…。前のぼくだって、ちゃんと分かっていたけど…」
でも、今のぼくは…。
今のぼくだと、前のぼくとは生きてる時代が違うから…。周りも全く違っちゃうから…。
頭では分かっているつもりだって、心がついていかないんだよ…!
今のぼくが同じことになったら、寂しい気分になっちゃうよ、と白いシャングリラを思い出す。
長く暮らした懐かしい船に、もう戻ることは出来ないけれど。
前の自分は死んでしまって、シャングリラも時の彼方に消えた。けれど今でも、忘れてはいない白い船。忘れることなど出来ない船。
あの船にソルジャーの席があったとしたなら、もっと身近な船だったのに、と思いは募る。
「そう思わない? ぼくのお気に入りの席があったら、今よりもずっと懐かしくって…」
もう戻れないって分かっていたって、座ってみたくなるんだよ。好きだった席に。
他の仲間に座られていたら、ガッカリしちゃった席でいいから…。ぼくが勝手に決めちゃってた席で、指定席なんかじゃなくていいから…。
食堂にあったら良かったのにね、と夢見るけれど。そういう席が欲しかったけれど…。
「さっきから何度も言ったがな? それは駄目だと」
お前が懐かしむ気持ちは分かるが、思い出す時に「身近な船だ」と言われる船では話にならん。
シャングリラは船の仲間たちにとっては、箱舟というヤツだったんだ。船の他には、生きられる場所は何処にも無かった。
世界の全てになってた船だぞ、あれだけが全てで、外の世界は無いのと同じだ。
その頂点に立ってたお前が、身近な存在になっていたなら、皆の気が緩む。ソルジャーが好きな席を選んで、「此処がいい」と座るような船では。
ついでに、ソルジャーの席が決まってても同じことだな。お前が食堂やブリッジなんかに、日に何回も顔を出してたら…。皆と気軽に話すようになるし、そんな船では駄目なんだ。
今の平和な時代だったら、それでも困りはしないんだがな。
ソルジャーが身近な存在だろうが、シャングリラが身近な船だろうが。
平和な時代の宇宙船なら…、と説くハーレイの意見は正しい。ミュウの箱舟だった船では、皆の気分が緩めばおしまい。ソルジャーや船が身近になったら、緊張感が消えてしまうから。
「そうだろうけど…。ハーレイが言う通りだけれど…」
前のぼくだって、ホントに分かっていた筈だけど…。
そういうものだと思っていたから、ぼくの席、無くても良かったんだと思う。
作って欲しいって言わなかったし、自分で勝手に選んで決めてもいなかったから…。
食堂とかに出掛けた時にも、用事が済んだら、いつでも直ぐに出て行ったから…。
でも寂しいよ、と拭えない思い。前の自分に「お気に入りの席」が無かったことは確かだから。
懐かしい白い鯨の中には、そんな席など無かったから。
「前のぼくの席、欲しかったのに…。欲しいのは、今のぼくだけど…」
欲しがったって、シャングリラはもう無いけれど…。前のぼくだって、もういないけど…。
でも…、と何度も繰り返していたら。
「そう言うな。寂しい気持ちは分からんでもないが、済んじまったことはどうにもならん」
だがな、じきにお前の席が出来るから。…シャングリラの中に。
あと少しだけの辛抱だ、というハーレイの言葉に目を丸くした。白いシャングリラは時の彼方に消えたし、宇宙の何処にも残っていない。その中に席を作ろうだなんて、不可能なこと。
「ハーレイ、それって…。どういう意味?」
シャングリラはとっくに消えちゃったんだよ、どうやってぼくの席を作るの?
遊園地にあるヤツのことなの、シャングリラの形の乗り物なら色々あるけれど…?
デートに出掛けてそれに乗るの、と瞬かせた瞳。遊具の中なら、お気に入りの座席も選べそう。一番前に乗るのがいいとか、真ん中だとか。…一番後ろがいいだとか。
「いや、遊園地のヤツじゃない。それだと、お前、困るだろうが」
シャングリラは今も一番人気の宇宙船だし、遊園地のも行列だ。お気に入りの席が出来たって、次に並んだら、全く違う場所にしか乗せて貰えないとか…。ありそうだろ?
俺が言うのは、今の俺たちのシャングリラだ。
いつかお前とドライブする予定の俺の車だ、お前の席は助手席だろう…?
ちゃんとお前の席が出来るぞ、と言われてようやく気が付いた。白いシャングリラの代わりに、今ならではのシャングリラ。車の形になったシャングリラがあることに。
「そうだっけ…!」
船のシャングリラは無くなったけれど、今のハーレイのシャングリラ…。
あれがあるよね、あの中だったら、ぼくの席だって出来るんだっけ…!
ハーレイが運転席に座って、ぼくは助手席。運転するのを横で見てたり、地図を広げたり…。
ちゃんとあるね、と嬉しくなった自分のための席。
前の自分には「お気に入りの席」さえ無かったけれども、今度は貰えるのだった。
いつか大きくなった時には、ハーレイと二人きりのシャングリラの中に、自分の席を。
そう考えたら、綻んだ顔。前の自分が持てなかった席を、今の自分は貰うことが出来る。
白い鯨のようだった船より、ずっと小さい車の中に。ハーレイと二人で乗るシャングリラに。
楽しみだよね、と夢を膨らませていたら、ハーレイの瞳に覗き込まれた。
「ずいぶんと嬉しそうな顔だが…。機嫌、直ったか?」
バスでお気に入りの席を逃しちまって、ツイていないと嘆いてたのがお前だが…。
前のお前の席のことまで思い出した挙句に、俺に文句を言っていたのも、お前なんだが…?
ツイてる気分になって来たのか、と尋ねられたから「うんっ!」と笑顔になった。
「今日は駄目だよ、って思ってたけど、もう平気。いいこと、ちゃんとあったから!」
大きくなったら、シャングリラの中に、ぼくの席を貰えるんだから。
ハーレイと指切りしなくったって、席は絶対、貰えるものね。ドライブの時は。ぼくを乗せずに走って行ったら、ハーレイ、慌てて戻ってくるのに決まってるもの。
凄く大きな忘れ物だよ、とクスクス笑った。
恋人とドライブに行こうというのに、その恋人を乗せるのを忘れて走り出すなんて、可笑しくて笑いが止まらない。ハーレイはどれほど慌てることかと、きっと平謝りだろうと。
「うーむ…。お前を忘れて行っちまうってか?」
やりかねないよな、「ちゃんと乗ったか?」って訊いていたって、お前、勝手に返事だけして、ドアを開けて降りていそうだから。
ドライブの途中の休憩の時に、可愛い動物か何かを見付けて行っちまうとか…。何か美味そうなものを見付けて、「買ってこよう」と降りちまうだとか。
「やっちゃいそう…。ドアをバタンと閉めた途端に、また開けちゃって降りるんだよ」
ハーレイ、ちゃんと確かめてよね。ぼくを忘れて行かないように。
忘れて走って行かれちゃっても、ぼくは思念波、飛ばせないから…。
それに動物とかに夢中で、気が付くまでにも、うんと時間がかかっちゃいそう。ハーレイの車が行っちゃった、ってポカンと道端に立つまでにはね。
「まったくだ。俺も大概ウッカリ者だが、お前の方でも負けちゃいないな」
下手をしたなら、俺が慌てて戻って来た時、「どうしたの?」と訊きかねないぞ。
置いて行かれたことにも気付いていなくて、動物と遊んでいるだとか…。
何かを買おうと列に並んでて、俺の方には目もくれないとか、そんな具合で。
ありそうだよな、とハーレイも心配する「恋人を乗せるのを忘れて走ってゆく」こと。知らない間に降りてしまって、「忘れて行かれた」ことにも気付かない恋人の方も、大いに有り得る。
「ぼく、本当にそうなっちゃうかも…。ハーレイが気を付けてくれないと…」
置き去りなことにも気が付かないなら、ハーレイ、謝るどころじゃないね。ぼくの方が、うんと叱られちゃいそう。…「置き去りだぞ」って、凄い勢いで。
前のぼくなら、ハーレイに叱られたりはしないんだけど…、と肩を竦めた。前の自分はウッカリ者ではなかったのだし、「自分の席」さえ貰えないほど、雲の上の人という扱い。
そんなソルジャーを、キャプテンは叱りはしなかった。叱る理由が無かったから。
「前のお前か…。確かに、そういうことで叱っちゃいないな、俺は」
無理をしすぎて熱を出したとか、そんな時しか叱っていない。今のお前とはかなり違うな、前のお前というヤツは。…自分の席さえ持てないくらいに、偉すぎたしっかり者だったから。
それに比べて、お前ときたら…。俺に置き去りにされたことさえ、気付かないってか…?
そうだ、面白いことを思い付いたぞ。前のお前と今のお前が違いすぎるなら、これはどうだ?
今のお前をソルジャー扱いするというのは。…置き去り防止にも良さそうだし。
いいかもしれん、とハーレイは顎に手を当てている。「これなら置き忘れも無いからな」と。
「ソルジャー扱いって?」
それって何なの、どうして置き去り防止になるの?
今のぼくをソルジャー扱いするって、どういう風に…?
分かんないよ、と目をパチクリとさせたけれども、ハーレイは「ソルジャーだしな?」と笑う。
「ソルジャーは偉くて、雲の上の存在だったんだから…。そいつをお前に反映するのさ」
車の中でのお前の席に。…お前を乗せて行く場所に。
お前の気に入りの場所は助手席だろうが、車ってヤツは、目上の人を乗せる時にはだな…。
助手席じゃなくて後部座席に乗せて行くものなんだぞ、違うのか?
タクシーなんかはそうなってるが、という解説。車の中での偉い人の場所。
「そうだけど…。それじゃ、ハーレイがぼくを乗せて行くのは…」
助手席じゃなくて、後ろの席なわけ?
ぼくは隣に乗っていたいのに、ソルジャー扱いで後ろになるの…?
酷くない、とハーレイを縋るように見た。後部座席では、ハーレイの姿もよく見えないから。
「いや、酷いとは思わんが?」
お前をそっちの席に乗っけて、俺は運転に専念する、と。
「ソルジャー、次はどちらに参りましょうか?」といった具合にな。
後ろだったら、ドアの開け閉めも俺がきちんと確認しないと…。目上の人はドアを閉めるのも、運転手任せというヤツだから。
お前を乗せるのを忘れる心配も無くなるわけだ、とハーレイは自信たっぷりだけれど。
「それって、酷い…」
ハーレイの姿が見えないじゃないの、ぼくの席から!
助手席だったら隣同士で楽しいけれども、後ろなんかに乗せられちゃったら…!
「そうでもないだろ、楽しめる筈だと思うんだがな?」
お前は偉そうに言えばいいんだ、後ろの席から。次はあっちだの、此処で停めろだの。
好き放題に命令してればいいだろうが、と言われたソルジャー扱い。助手席の代わりに、後ろの席に座って、偉そうに出掛けてゆくドライブ。
「うーん…。どう見ても、偉そうだけど…」
今のぼくは少しも偉くないのに、ソルジャー扱いで後ろだなんて…。でも…。
置き去りの心配はしなくていいよね、と考えてみたら、そんなドライブも愉快かもしれない。
前の自分だった時と違って、今はハーレイと二人きりなのだし、後ろで偉そうにしていても…。
(ソルジャーごっこで遊んでるだけで…)
その状況を楽しめばいい。
キャプテン・ハーレイに命令をして。…ソルジャー・ブルーになったつもりで。
(あの店に寄ってくれたまえ、って…)
やってみるのもいいかもしれない。
「かしこまりました」と車を運転してゆくハーレイ。
二人きりで乗るシャングリラのハンドルを握って、大真面目に。キャプテン・ハーレイだった頃さながらに、「面舵一杯!」と声を上げたりもして。
(ぼくがソルジャーなら、ハーレイはキャプテン…)
そういうドライブも悪くはない。遊びで偉そうに乗ってゆくなら、後部座席が自分の席でも。
置き去り防止のために乗せられる後部座席と、それとセットのソルジャー扱い。
ハーレイの車がシャングリラになって、自分のための席がその中に出来て…。
「…ハーレイ、それって、着いたらドアも開けてくれるの?」
運転手さんだと、着いたら開けてくれるけど…。ハーレイが運転してくれる時も…?
「当然だろうが。俺は運転手に徹するまでだ」
お前をウッカリ置き去りにしないよう、後ろの席に乗せるからには頑張らんとな?
乗り降りの時は、ドアを恭しく開け閉めしてやる。「どうぞ」と、それは丁寧に…な。
任せておけ、とハーレイは運転手になる気でいるらしい。ソルジャー扱いでドライブしようと。
「ホントに偉そうな恋人だけど…」
そんなのでいいの、ハーレイは…?
ソルジャーごっこだって知らない人が見たなら、恋人に馬鹿にされてるみたいじゃない…?
「いいんじゃないのか、俺がお前に首ったけってことで。…恋人同士だとは分かるんだから」
甘やかされて我儘放題なんだな、と誰もが温かく見てくれるさ。
本当は置き去り防止のためとか、ソルジャー扱いだとかは気付きもせずに。
「ふふっ、熱々?」
ハーレイはぼくにぞっこんなわけで、運転手までしてるってわけ…?
「そんなトコだな、お前、本当にやってみたいか?」
置き去り防止の方はともかく、ソルジャー扱いで後ろの席に乗って行くこと。
「ちょっぴりね」
ほんのちょっぴりなんだけど…。でも、そういうのも楽しそう…。
前のぼくには、ソルジャーの席が無かったから…。その分、今のぼくが欲しいな、その席。
「よしきた、お前にソルジャーの席をプレゼントだな?」
かまわないぞ、とハーレイが片目を瞑るから。「好きにしていいぞ」と言ってくれたから。
いつかドライブしてゆく時には、たまに頼んでみるのもいい。
「今日はソルジャーの席がいいな」と。
白いシャングリラには、ソルジャーの席など無かったけれども、今なら貰える。
今のハーレイの車にだったら、ソルジャーの席を作れるから。
偉そうに座る席だけれども、きっと二人で楽しくドライブしてゆけるから…。
お気に入りの席・了
※シャングリラには無かった、前のブルーの席。お気に入りの席が無かったソルジャー。
けれど、今度は専用の席を貰えるようです。ハーレイが運転する車の中に、自分だけの座席。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
塞がってる、とブルーが眺めた座席。学校からの帰りに乗り込んだバスで。
いつも腰掛ける、お気に入りの席が塞がっていた。車内が混んでいるわけではなくて、座席なら他にも空いている。もちろん立っている人もいない。
けれど、先客が座っている席。其処に座りたかったのに。
(反対側のも…)
同じに人が腰掛けている。お気に入りの席がある場所は。
通路を挟んだ反対側なら、空いていたっていいと思うのに。空いている席は他に幾つも、其処を塞がなくても良さそうなのに。
(だけど、みんなの席なんだから…)
何処に座るのも、その人の自由。今日はたまたま、そうなっただけ。先に乗った人が腰掛けて。
「ぼくの席だよ」と言えはしないし、仕方ないから別の席に座った。「此処でいいや」と。通学鞄を膝の上に置いて。
(眺めはそれほど変わらないけど…)
窓の向こうを眺めるのならば、いつもの席と全く同じ。ただ、バスの前がよく見えない。普段の席なら、通路の行く手に大きな窓が見えるのに。これから進む先の道路や、対向車などが真っ直ぐ前に見える窓。
(此処からでも、ちょっと通路に乗り出したら…)
見えるんだけどね、と首を傾けて前を見る。ちゃんと道路も、対向車とかも見えるけれども…。
それでも損をした気分。「ツイてないよ」と。
座れなかったわけではなくても、ほんのちょっぴり。いつものようには開けない視界。前の方を眺めたいのなら。…直ぐ横の窓の向こうではなくて。
(ぼくの我儘…)
不満に思うのも、「ツイていない」のも、我儘なのだと分かってはいる。路線バスは公共の交通機関で、誰が乗るのも、何処に座るのも自由。指定席など無いのだから。
そうは思っても、残念な気持ちが拭えない。
お気に入りの席を取ってしまった人が、今日は二人もいたということ。
立つ人がいるほど混んでいるなら、何とも思わないけれど。自分も同じに立つのだけれど。
そっちだったら、「ツイていない」と思いはしない。今日のような気分になったりはしない。
(こんな日もあるよね、って…)
吊り革を握って立つだけのことで、塞がっている席を未練がましく見たりもしない。空いている席があれば良かったのに、と車内を眺めているだけで。
ところが、混んではいないバス。座れる席なら幾つもある。自分が座った席の他にも、あちこち空いている座席。
こんな時には、普段の席のどちらかは空いているものなのに。通路を挟んで右か左か、運のいい日なら両方だって。
(だからお気に入り…)
バスに乗り込んだら、自分を迎えてくれるかのように、待っていてくれる席だから。
「どうぞ座って下さい」と。バスは言葉を話さないけれど、思念波だって来ないけれども。
(でも本当に、ぼくを待ってるみたいに空いてるから…)
いつもストンと腰掛けるわけで、窓の向こうを見ながら帰る。席の横の窓や、バスの前の窓を。面白いものが見えはしないかと、今日の天気はどんな具合かと、色々なことを考えながら。
その席が無いから、気分はガッカリ。
首を伸ばして前を見たって、なんだか違ってしまうから。少し見えにくいものだから。
(仕方ないけど…)
こういう日だって、たまにはある。滅多に無いというだけのことで。
だから余計に「ツイていない」気分。「どうして、今日はこうなんだろう」と。
家の近くのバス停までには、幾つか挟まる他のバス停。其処で誰かが降りてくれれば、いつもの席に移動も出来る。ほんのバス停一つ分でも、「ぼくの席だよ」と座れるのに…。
(…降りる人、他の席ばかり…)
降車ボタンを押して降りるのは、他の座席の人だった。「お気に入り」の二つの席は空かずに、自分が降車ボタンを押す番。「次で降ります」と。
(…ぼくの席、座りたかったのに…)
とうとう空いてくれなかったよ、と降りるしかなかった路線バス。
お気に入りの席には座れないまま、運転手さんに「ありがとうございました」と御礼を言って。降りる時にも振り返ってみて、「やっぱり今も塞がってる」と席を確かめて。
こんな日だってあるんだけどね、とトボトボと歩いて帰った家。「ツイていない」気分を抱えたままで、「何かいいこと、起こらないかな」と。お気に入りの席が無かった代わりに、と。
けれど、そうそう「いいこと」が降ってくるわけもない。ツイていなくもなかったけれど。
「ただいま」と玄関の扉を開けたら、その家の中は普段と同じ。
母がおやつを用意してくれて、ダイニングのテーブルでのんびり食べた。自分の席で、いつもと同じ景色を眺めて。
「御馳走様」とキッチンの母に空のカップやお皿を返して、戻った二階の部屋だって、そう。
勉強机の前に座ったら、周りは見慣れた自分の部屋。角度の一つも違いはしなくて。
(ぼくのための席って…)
大切だよね、と感じてしまう。ダイニングの席も、勉強机の前も落ち着く。いつも通りだというだけで。特に素敵なことが無くても、「いいこと」が起こってくれなくても。
(もしも、この席が無かったら…)
「ツイていない」どころの騒ぎではない。ダイニングに行っても、自分の椅子が無かったら。
自分の部屋に入ってみたって、勉強机の前から椅子が消えていたなら。
(そんなの、困る…)
バスの中の席が無かった程度で、文句を言っては駄目だろう。「お気に入りの席」は、誰のものでもないのだから。バスに乗った人が好きに座っていい場所だから。
(やっぱりホントに、ぼくの我儘…)
ツイていないなんて思ったら駄目、と我儘な自分を叱っていたら、ふと気が付いた。
今の自分は、バスの中にも「お気に入りの席」を持っているほど。自分が勝手に選んだ座席で、他の誰かが座っていたって、「ぼくのだよ」と言えはしないけど。
(でも、お気に入りで…)
空いていたなら、其処が自分の指定席。他に幾つも席があっても、迷わずに腰を下ろす場所。
家に帰れば、ダイニングのテーブルに「自分のための」席がある。おやつを食べるのも、食事も其処で、母がお皿を置いてくれる場所。
(この部屋だったら…)
勉強机の前が指定席だし、窓際にあるテーブルと椅子も、「自分の場所」は決まっている。使う時には、「ぼくがこっち」と座る椅子。バスにも、家にも、自分の席。
幾つも席を持っている自分。家なら本物の指定席だし、バスの中なら「勝手に決めた」指定席。座れば、とても落ち着く場所。
(その席が、今日は塞がってたから…)
ツイてないよ、とガッカリしたのが帰りのバス。「何かいいこと、あればいいのに」と思ったりしながら、家まで帰って来たほどに。
そうなったくらいに、「自分の席」は大切なもの。あって当然、消えていたなら残念な気分。
もしも自分の家で起きたら、大騒ぎすることだろう。「ぼくの席は?」と大声を上げて、消えてしまった椅子を探して。「ママ、ぼくの椅子は何処へ行ったの!?」と。
(学校に行ってる間に、ママが何かを零したとか…)
それで椅子ごと洗うことになって、何処かに干されているだとか。ちょっとした傷みに気付いた母が、修理に出してしまったとか。
(そういうことになっちゃってても…)
代わりの椅子が置いてあるなら、其処まで騒ぎはしないだろう。座り心地が少し違っても、席は同じにあるのだから。いつもの場所に座ることが出来て、見える景色も全く同じ。
(ぼくの家なら、そうなるけれど…)
「席が無いよ」と慌てていたなら、じきに現れるだろう母。「ごめんなさいね」と、別の椅子を運んで来てくれて。「暫く、これを使ってくれる?」と。
そうやって普段の席が戻って、ストンと座って、おやつに食事。この部屋だったら、勉強したり読書をしたりと、満喫できる「自分の席」。
(今のぼくだと、そうなんだけど…)
当たり前のように持っている「自分の席」。家はもちろん、バスの中でも勝手に決めている席があるくらい。塞がっていたら「ツイていない」と思う席が。
でも…。
(前のぼくだと、自分の席…)
無かったっけ、と白いシャングリラを思い出す。前の自分が生きていた船を。
シャングリラは巨大な船だったけれど、あの船には無かった「ソルジャーの席」。
ソルジャー・ブルーと呼ばれた前の自分は、「自分の席」を持っていなかった。青の間に椅子はあったけれども、他の場所には。ブリッジにも、天体の間にも、食堂にだって。
まるで無かった、ソルジャー・ブルーのためにある席。青の間の椅子を除いては。
(あれはあれで理由があったんだけど…)
仲間外れにされていたとか、意地悪をされたわけではない。誰もソルジャーに、そんな真似などしないから。…敬い、大切に扱いはしても。
そうされた結果が「席が無かった」こと。ソルジャーだったから、席は無かった。あの船の中の何処を探しても、何処に行っても。
(前のぼくの席は無かったから…)
寂しい気持ちになる時もあった。他の仲間たちの姿を眺めて、「ぼくの席だけ、無いんだ」と。
そうして、いつも踵を返した。其処に「自分の席は無い」から。
もしも自分の席があったら、もっと愛着を覚えただろうか。視察が済んでも直ぐ立ち去らずに、「時間なら、まだあるだろう?」と腰を落ち着けたりもして。
ブリッジにしても、食堂にしても、のんびりとあちこち眺め回して。
(あれは何だい、って訊いてみるとか、「美味しそうだな」って見てるとか…)
きっと印象が変わっただろう。「自分の席」が其処にあったら、ゆっくり出来る場所だったら。
其処にいる仲間と話したりして、もう本当に「自分の居場所」。今の自分が暮らしている家の、ダイニングなどと変わらずに。
(いつでも行ったら、ストンと座れて…)
食堂だったら、飲み物なんかも注文する。「今日は紅茶で」とか、「あれと同じのを」と、他の誰かが飲んでいるものを真似るとか。
注文の品が届いた後には、自分の席でゆったりと。ソルジャーは暇な仕事だったから。
(そう出来ていたら、食堂だって、もっと身近で…)
居心地のいい場所だったろう。視察だけでなく、いつ出掛けても「自分の席」があったなら。
けれど、そうなったら仲間たちが困る。
船で一番偉いソルジャー、そんな人がフラリとやって来たなら。いつもの席に腰を落ち着けて、立ち去ってくれなかったなら。
(ソルジャーがいたら、マナーなんかも気になるし…)
誰もが緊張し切ってしまって、食堂の空気がピンと張り詰めてしまうだろう。賑やかだった声も静まり返って、黙々と食べているだけだとか。
ブリッジにしても、きっと同じこと。あそこにソルジャーの席が無かったのは、そんな理由ではなかったけれど。他に理由があったのだけれど、無理やりに席を設けていたら…。
(ぼくが座ってたら、みんなが大変…)
息抜きの会話も出来はしなくて、ひたすら仕事に打ち込むだけ。
「ソルジャーが見ていらっしゃるから」と、私語の一つもしようとせずに。
(…食堂もブリッジも、それじゃ、みんなが落ち着かないし…)
もっと寛いで貰わなければ、と自分の方から話し掛けても、きっと緊張は解けないまま。それを頑張って解いていったら、今度は「ソルジャーの威厳」が台無し。
子供たちと遊んでいるならともかく、大人相手に気さくに話し掛けたなら。…食堂で隣に座った誰かに、「それ、美味しいかい?」と声を掛けては、「ぼくもそれにしよう」とやっていたなら。
(その辺のことも、ちゃんと考えて…)
何処にも作りはしなかったんだよね、と分かってはいる「ソルジャーの席」。
旗振り役のエラはもちろん、ヒルマンたちも賛成だった。そういった席を「作らない」ことに。
船で一番偉いソルジャー、ミュウたちの長を「雲の上の人」にしておくために。
誰もが気軽に話せるようでは、ソルジャーの重みが無くなるから。「ソルジャーの席」を設けておいたら、皆との垣根が低くなるから。…其処にいるのが常になったら、気が向いた時はいつでも座っているとなったら。
(青の間だけでも沢山なのにね…)
ソルジャーを「偉く見せる」ための演出というものは。
やたらと広くて、大きな貯水槽まで作って、「特別な部屋」に仕立てられた青の間。其処に入る仲間が息を飲むように、「ソルジャーは凄い」と感動されるように。
あの部屋だけでも充分すぎると思っていたのに、たまに食堂に出掛けた時には、特別に席を用意された。其処で何かを食べる時には、他の仲間と相席にならないテーブルを。
(一緒に座るの、ハーレイだけで…)
でなければゼルたち、いわゆる長老と呼ばれた面々。彼らがソルジャーの周りを固めて、一緒に試食などをしていただけ。他の仲間たちは近付けないで。
広いテーブルに、一人きりのことも多かった。キャプテンも長老たちも忙しくしていて、食堂に来られない時は。…ポツンと一人で、他の仲間たちとは離れた場所で。
ブリッジはともかく、いつ出掛けても「席が無かった」食堂。ソルジャー用にと用意されても、まるで寛げなかった席。「お気に入り」とは思えもしなくて、食べ終わったら直ぐ、立っていた。
其処でゆっくりしていた所で、少しも楽しめないのだから。
他の仲間たちは寄って来ないし、こちらからも話し掛けられはしない。気軽に声を掛けた所で、相手が緊張するだけだから。「な、何でしょうか!?」と、立って敬礼したりもして。
そうならないよう、いつも急いで出ていた食堂。自分の席など持てないままで。
(酷かったよね…)
前のぼくだってツイてなかった、と思ってしまう。
いくら理由があったとはいえ、「お気に入りの席」を持てなかったのだから。食堂に行っても、ブリッジに行っても、何処にも無かった「ソルジャーの席」。
其処にストンと座りさえすれば、「いつもの時間」が始まる席。ごくごく平凡で、特別なことは何も起こりはしなくても。普段通りの時間が流れてゆくだけでも。
それがあったら、落ち着ける。「ぼくの席だ」と、「此処が、ぼくの場所」と。
(今のぼくでも、バスの中にまで…)
お気に入りの席を持っているのに。
ソルジャーではないチビの自分でも、十四歳にしかならない「ただの子供」でも。
もっとも、バスの中の座席は、貰ったものではないけれど。指定席にさえもなってはいなくて、自分が勝手に「お気に入り」に決めた座席だけれど。
(ぼくのじゃないから、今日みたいに…)
誰かが先に座ってしまって、座れない日も出来てくる。「空かないかな?」と待っていたって、空いてくれずに終わる日が。
(今日はホントに、ツイてなかったけど…)
前のぼくよりは、よっぽどマシ、と「お気に入りの席」を考えずにはいられない。今の自分でも持っているのが、ダイニングの椅子や、今、座っている勉強机の前の椅子。
家にいる時はいつでも座れて、のんびり寛いでいられる場所。
バスの中の席は少し違うけれども、「お気に入り」には違いない。其処に座れば、窓の向こうは見慣れた景色。いつもの風景。
運が無ければ座り損ねて、今日の帰りのようになっても。他の席しか空いていなくても。
今日は無かった「お気に入り」の席。取られてしまった、いつも座る席。それも二つとも。
けれど、たまには消えてしまって「ツイていない」と思う席でも…。
(そういうのでもいいから、欲しかったよね…)
ソルジャーの席、と白いシャングリラを思い浮かべる。あそこに一つ欲しかった、と。
出掛けて行ったら座れる席が。いつも自分を待ってくれていて、「どうぞ」と迎えてくれる席。他の仲間が座っていたなら、その日は諦めたっていいから。
(ソルジャーの席だし、他の仲間が座ったりすることは無いかもだけど…)
皆が遠慮して、常に空いたままかもしれないけれど。
そんな席でも、無いよりはいい。食堂でも、ブリッジでも、天体の間でもかまわないから。
あれば良かった、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで切り出した。
「あのね、シャングリラの、ぼくの席…。どう思う?」
ぼくは酷いと思うんだけどな、何処を探しても無かったなんて…。
「はあ? 席って…?」
何の話だ、とハーレイは怪訝そうな顔。「お前の席が、どうかしたのか?」と。
「ソルジャーの席だよ、前のぼくの席。…シャングリラの中の何処にも無かったでしょ?」
ブリッジにも、食堂にも、天体の間にも。
青の間には椅子があったけれども、あそこはぼくの部屋だったから…。無い方が変。
だけど、他の場所には席が一つも無かったんだよ。何処に行っても、ぼくのための席は。
まさか忘れたとは言わないよね、とハーレイを真っ直ぐ見詰めたけれども、いとも簡単に返った答え。少しも考え込んだりせずに。
「忘れるわけがないだろう。…俺を誰だと思ってるんだ?」
シャングリラを纏めていたキャプテンだぞ、前のお前の席くらい分かる。あったかどうかも。
確かに席など無かったんだが、そいつは「要らない」からだったろうが。
前のお前はソルジャーだったし、ソルジャーには青の間という立派な居場所があってだな…。
用がある時は、皆が出向いて行くもんだ、とハーレイは澱みもせずに続けた。他の仲間が行けば済むから、ソルジャーの席は青の間にだけあれば充分だ、と。
「それに、会議の時には席があったぞ」とも。…長老たちを集めた会議の場では。
ハーレイに指摘されたこと。会議の時のソルジャーの席。それは間違いなくあった。
キャプテンの他にもヒルマンやゼルを集めて、六人で会議をする時は。「この席がそうだ」と、皆が空けておく席。…後から遅れて行った時にも、その席はいつも空いていたから。
「会議の時って…。それはそうだけど…」
あの席には誰も座っていなかったけれど、でも…。あそこ以外に、前のぼくの席は…。
無かったじゃない、と訴えたけれど、ハーレイはフンと鼻を鳴らした。「あれで充分だろ」と。
「会議の時にも席が無かったのなら、文句を言ってくれてもいいが?」
俺やヒルマンたちは座っていたのに、お前だけが突っ立っていたのなら。…椅子なんか無しで。
しかし、そうなってはいない。ソルジャーの席は一番奥だ、と決まっていたろうが。
お前が遅れてやって来たって、誰もあそこに座っちゃいないぞ。他の席に座って待つだけで。
誰も座りに行かない以上は、あれがお前の席だったわけで…。
お前の席はきちんとあった、と言われたらグウの音も出ない。ソルジャーのための席の件では。今、ハーレイが言った通りに、「まるで無かった」わけではないから。
会議の時なら、いつも「此処だ」と決まっていた席。扉から一番離れた所がそうなのだ、と。
皆よりも早く着いた時には、迷わずに其処に座っていた。先にストンと腰を下ろして、その日の会議の中身なんかを考えながら。
とはいえ、本当に「会議の時だけ」だった席。それもハーレイたちとの会議。他の仲間たちまで集まる時には、ソルジャーの席は「あって無いようなもの」。一番奥には違いなくても、お飾りのように座っていただけ。発言の機会も得られないままで。
(ああいう大きな会議の時には、ハーレイたちが進行役で…)
ソルジャーは最後に承認するだけ。「こういう具合に決まりました」と報告されたら、頷いて。
「それで頼むよ」とか、「それなら、続きは日を改めて検討するように」とか。
あの席は少し違うだろう。「自分の場所」と呼ぶよりは…。
(此処に座っていて下さい、って…)
座らされたわけで、お気に入りでも何でもない。
自分で選んでいいのだったら、あれだけ大勢が集まるからこそ、真ん中の方にいたかった。皆の意見がよく聞ける場所で、自分の考えも述べられる席。「こうしたらどうかな?」と。
ソルジャーの肩書きにこだわりはせずに、船の仲間の一人として。
なのに、貰えなかった席。会議の時でも、無かったも同じな席だったから…。
「ハーレイたちとの会議だったら、ぼくの席は確かにあったけど…。決まってたけど…」
でも、他のみんなと会える時には、前のぼくの席は無かったんだよ。会議の時でも。
ソルジャーは此処、って決まってはいても、あの席じゃ何も出来なかったし…。ぼくの意見は、先にハーレイたちが聞いてて、それを伝えるだけだったし。
酷いよ、ぼくだけ自分の席が無かったなんて。…青の間で座っているだけなんて…。
前のぼくの席が欲しかったよ、と重ねて言っても、ハーレイは耳を貸そうともせずに。
「ソルジャーの席は必要ない。シャングリラがどんなにデカイ船でも」
エラはもちろん、前の俺やヒルマンやゼルやブラウたち。…それに各部門の責任者もだな。
船の誰もがそう考えたせいで、ソルジャーの席は何処にも作られなかったんだが?
お前も分かっていた筈だろうが、どうしてそういうことになったか。…何のためにソルジャーの席を作らず、皆が青の間に行くという形を取っていたのか。
それにしてもだ、どうしていきなり席の話だ?
いったい何処から持って来たんだ、前のお前の席が無かった苦情だなんて…?
とうの昔に時効だろうが、とハーレイは呆れたような顔。「何年経ったと思ってるんだ?」と。
「それは分かっているけれど…。シャングリラだって、もう無いんだけれど…」
思い出したんだよ、前のぼくには自分の席が無かったことを。
今日の帰りに乗ったバスでね、ぼくの席が空いていなくって…。あれは普通の路線バスだから、ぼくが勝手に決めている席で、指定席とは違うんだけど…。
二つあるんだよ、ぼくのお気に入り。いつもだったら、どっちかに座って帰れるのに…。今日は二つとも塞がっちゃってて、空かないままになっちゃった…。
席は他にも空いてたけどね。別の席には座って帰れたんだけど…。
それでもツイていない気分、と帰り道に感じたことを話した。お気に入りの席に座れないまま、家まで帰る羽目になったから。「ツイてないよ」と何度も心で零したから。
勝手に選んだバスの座席でさえ、空いていなかったら気分が沈む。
逆にストンと座れた時には、「ぼくの席だよ」と嬉しいもの。家で座る場所は尚更、この部屋の椅子も、ダイニングの椅子も、あったら心が安らぐもの。「ぼくの席は此処」と。
そういう席が、前の自分も欲しかった、と。バスの席のようなものでもいいから。
誰かが座っていたっていいし、と例に挙げたのが食堂の席。船の仲間が集まる食堂、あそこには指定席は無かった。誰もが空いている席を探して、腰を下ろして食べていた場所。
「お気に入りの席がある仲間だって、きっと多かった筈なんだよ。今のぼくみたいに」
今日もあそこの席で食べよう、って思って行ったら、他の誰かに座られてたとか…。
前のぼくの席も、そういう席で良かったんだよ。此処がいいな、って勝手に選んだ場所で。
気が向いた時に出掛けて座れれば充分だから、と言ったのだけれど。塞がっていたら、他の席を探して座るから、とも訴えたけれど…。
「お前なあ…。今のお前なら、その考えでも別にかまいはしないんだが…」
前のお前が生きてた時代と、場所をよくよく考えてみろ。いったい何処で暮らしてたのか。
シャングリラは大勢の仲間が乗ってた船だが、路線バスとは違うんだ。
踏みしめる大地を手に入れるために地球を目指す船で、ミュウの箱舟。外の世界じゃ、ミュウは生きてはいけないからな。…人類に端から殺されちまって。
シャングリラがそういう船だった上に、前のお前がソルジャーだから…。
バスの乗客気分じゃ困る、とハーレイは顔を顰めてみせた。「皆はともかく、お前は駄目だ」と眉間の皺まで深くして。
ソルジャーは、船の仲間たちを導く灯台。他の仲間と一緒の席には座れない、と。
「そんな…。食堂の席くらい、一緒でいいのに…」
ぼくのお気に入りの席を見付けて、其処に座れたら良かったのに…。塞がってた時は、ちゃんと他のを探すから。…「ぼくの席だ」って、座ってる人を追っ払ったりはしないから…。
「それが駄目だと言っているんだ。シャングリラって船は、路線バスではなかったからな」
ソルジャーと気軽に触れ合えるような、遠足気分の旅じゃなかった。…地球を目指す旅は。
地球の座標は掴めなくても、誰もが地球を目指してたんだ。あの船の中じゃ。
前のお前も承知してたろ、自分の立場というヤツを。…ソルジャーはどう生きるべきかを。
仲間たちが何を期待したかも…、と鳶色の瞳が見据えてくる。「覚えてるよな?」と。
「…覚えてるけど…。前のぼくだって、ちゃんと分かっていたけど…」
でも、今のぼくは…。
今のぼくだと、前のぼくとは生きてる時代が違うから…。周りも全く違っちゃうから…。
頭では分かっているつもりだって、心がついていかないんだよ…!
今のぼくが同じことになったら、寂しい気分になっちゃうよ、と白いシャングリラを思い出す。
長く暮らした懐かしい船に、もう戻ることは出来ないけれど。
前の自分は死んでしまって、シャングリラも時の彼方に消えた。けれど今でも、忘れてはいない白い船。忘れることなど出来ない船。
あの船にソルジャーの席があったとしたなら、もっと身近な船だったのに、と思いは募る。
「そう思わない? ぼくのお気に入りの席があったら、今よりもずっと懐かしくって…」
もう戻れないって分かっていたって、座ってみたくなるんだよ。好きだった席に。
他の仲間に座られていたら、ガッカリしちゃった席でいいから…。ぼくが勝手に決めちゃってた席で、指定席なんかじゃなくていいから…。
食堂にあったら良かったのにね、と夢見るけれど。そういう席が欲しかったけれど…。
「さっきから何度も言ったがな? それは駄目だと」
お前が懐かしむ気持ちは分かるが、思い出す時に「身近な船だ」と言われる船では話にならん。
シャングリラは船の仲間たちにとっては、箱舟というヤツだったんだ。船の他には、生きられる場所は何処にも無かった。
世界の全てになってた船だぞ、あれだけが全てで、外の世界は無いのと同じだ。
その頂点に立ってたお前が、身近な存在になっていたなら、皆の気が緩む。ソルジャーが好きな席を選んで、「此処がいい」と座るような船では。
ついでに、ソルジャーの席が決まってても同じことだな。お前が食堂やブリッジなんかに、日に何回も顔を出してたら…。皆と気軽に話すようになるし、そんな船では駄目なんだ。
今の平和な時代だったら、それでも困りはしないんだがな。
ソルジャーが身近な存在だろうが、シャングリラが身近な船だろうが。
平和な時代の宇宙船なら…、と説くハーレイの意見は正しい。ミュウの箱舟だった船では、皆の気分が緩めばおしまい。ソルジャーや船が身近になったら、緊張感が消えてしまうから。
「そうだろうけど…。ハーレイが言う通りだけれど…」
前のぼくだって、ホントに分かっていた筈だけど…。
そういうものだと思っていたから、ぼくの席、無くても良かったんだと思う。
作って欲しいって言わなかったし、自分で勝手に選んで決めてもいなかったから…。
食堂とかに出掛けた時にも、用事が済んだら、いつでも直ぐに出て行ったから…。
でも寂しいよ、と拭えない思い。前の自分に「お気に入りの席」が無かったことは確かだから。
懐かしい白い鯨の中には、そんな席など無かったから。
「前のぼくの席、欲しかったのに…。欲しいのは、今のぼくだけど…」
欲しがったって、シャングリラはもう無いけれど…。前のぼくだって、もういないけど…。
でも…、と何度も繰り返していたら。
「そう言うな。寂しい気持ちは分からんでもないが、済んじまったことはどうにもならん」
だがな、じきにお前の席が出来るから。…シャングリラの中に。
あと少しだけの辛抱だ、というハーレイの言葉に目を丸くした。白いシャングリラは時の彼方に消えたし、宇宙の何処にも残っていない。その中に席を作ろうだなんて、不可能なこと。
「ハーレイ、それって…。どういう意味?」
シャングリラはとっくに消えちゃったんだよ、どうやってぼくの席を作るの?
遊園地にあるヤツのことなの、シャングリラの形の乗り物なら色々あるけれど…?
デートに出掛けてそれに乗るの、と瞬かせた瞳。遊具の中なら、お気に入りの座席も選べそう。一番前に乗るのがいいとか、真ん中だとか。…一番後ろがいいだとか。
「いや、遊園地のヤツじゃない。それだと、お前、困るだろうが」
シャングリラは今も一番人気の宇宙船だし、遊園地のも行列だ。お気に入りの席が出来たって、次に並んだら、全く違う場所にしか乗せて貰えないとか…。ありそうだろ?
俺が言うのは、今の俺たちのシャングリラだ。
いつかお前とドライブする予定の俺の車だ、お前の席は助手席だろう…?
ちゃんとお前の席が出来るぞ、と言われてようやく気が付いた。白いシャングリラの代わりに、今ならではのシャングリラ。車の形になったシャングリラがあることに。
「そうだっけ…!」
船のシャングリラは無くなったけれど、今のハーレイのシャングリラ…。
あれがあるよね、あの中だったら、ぼくの席だって出来るんだっけ…!
ハーレイが運転席に座って、ぼくは助手席。運転するのを横で見てたり、地図を広げたり…。
ちゃんとあるね、と嬉しくなった自分のための席。
前の自分には「お気に入りの席」さえ無かったけれども、今度は貰えるのだった。
いつか大きくなった時には、ハーレイと二人きりのシャングリラの中に、自分の席を。
そう考えたら、綻んだ顔。前の自分が持てなかった席を、今の自分は貰うことが出来る。
白い鯨のようだった船より、ずっと小さい車の中に。ハーレイと二人で乗るシャングリラに。
楽しみだよね、と夢を膨らませていたら、ハーレイの瞳に覗き込まれた。
「ずいぶんと嬉しそうな顔だが…。機嫌、直ったか?」
バスでお気に入りの席を逃しちまって、ツイていないと嘆いてたのがお前だが…。
前のお前の席のことまで思い出した挙句に、俺に文句を言っていたのも、お前なんだが…?
ツイてる気分になって来たのか、と尋ねられたから「うんっ!」と笑顔になった。
「今日は駄目だよ、って思ってたけど、もう平気。いいこと、ちゃんとあったから!」
大きくなったら、シャングリラの中に、ぼくの席を貰えるんだから。
ハーレイと指切りしなくったって、席は絶対、貰えるものね。ドライブの時は。ぼくを乗せずに走って行ったら、ハーレイ、慌てて戻ってくるのに決まってるもの。
凄く大きな忘れ物だよ、とクスクス笑った。
恋人とドライブに行こうというのに、その恋人を乗せるのを忘れて走り出すなんて、可笑しくて笑いが止まらない。ハーレイはどれほど慌てることかと、きっと平謝りだろうと。
「うーむ…。お前を忘れて行っちまうってか?」
やりかねないよな、「ちゃんと乗ったか?」って訊いていたって、お前、勝手に返事だけして、ドアを開けて降りていそうだから。
ドライブの途中の休憩の時に、可愛い動物か何かを見付けて行っちまうとか…。何か美味そうなものを見付けて、「買ってこよう」と降りちまうだとか。
「やっちゃいそう…。ドアをバタンと閉めた途端に、また開けちゃって降りるんだよ」
ハーレイ、ちゃんと確かめてよね。ぼくを忘れて行かないように。
忘れて走って行かれちゃっても、ぼくは思念波、飛ばせないから…。
それに動物とかに夢中で、気が付くまでにも、うんと時間がかかっちゃいそう。ハーレイの車が行っちゃった、ってポカンと道端に立つまでにはね。
「まったくだ。俺も大概ウッカリ者だが、お前の方でも負けちゃいないな」
下手をしたなら、俺が慌てて戻って来た時、「どうしたの?」と訊きかねないぞ。
置いて行かれたことにも気付いていなくて、動物と遊んでいるだとか…。
何かを買おうと列に並んでて、俺の方には目もくれないとか、そんな具合で。
ありそうだよな、とハーレイも心配する「恋人を乗せるのを忘れて走ってゆく」こと。知らない間に降りてしまって、「忘れて行かれた」ことにも気付かない恋人の方も、大いに有り得る。
「ぼく、本当にそうなっちゃうかも…。ハーレイが気を付けてくれないと…」
置き去りなことにも気が付かないなら、ハーレイ、謝るどころじゃないね。ぼくの方が、うんと叱られちゃいそう。…「置き去りだぞ」って、凄い勢いで。
前のぼくなら、ハーレイに叱られたりはしないんだけど…、と肩を竦めた。前の自分はウッカリ者ではなかったのだし、「自分の席」さえ貰えないほど、雲の上の人という扱い。
そんなソルジャーを、キャプテンは叱りはしなかった。叱る理由が無かったから。
「前のお前か…。確かに、そういうことで叱っちゃいないな、俺は」
無理をしすぎて熱を出したとか、そんな時しか叱っていない。今のお前とはかなり違うな、前のお前というヤツは。…自分の席さえ持てないくらいに、偉すぎたしっかり者だったから。
それに比べて、お前ときたら…。俺に置き去りにされたことさえ、気付かないってか…?
そうだ、面白いことを思い付いたぞ。前のお前と今のお前が違いすぎるなら、これはどうだ?
今のお前をソルジャー扱いするというのは。…置き去り防止にも良さそうだし。
いいかもしれん、とハーレイは顎に手を当てている。「これなら置き忘れも無いからな」と。
「ソルジャー扱いって?」
それって何なの、どうして置き去り防止になるの?
今のぼくをソルジャー扱いするって、どういう風に…?
分かんないよ、と目をパチクリとさせたけれども、ハーレイは「ソルジャーだしな?」と笑う。
「ソルジャーは偉くて、雲の上の存在だったんだから…。そいつをお前に反映するのさ」
車の中でのお前の席に。…お前を乗せて行く場所に。
お前の気に入りの場所は助手席だろうが、車ってヤツは、目上の人を乗せる時にはだな…。
助手席じゃなくて後部座席に乗せて行くものなんだぞ、違うのか?
タクシーなんかはそうなってるが、という解説。車の中での偉い人の場所。
「そうだけど…。それじゃ、ハーレイがぼくを乗せて行くのは…」
助手席じゃなくて、後ろの席なわけ?
ぼくは隣に乗っていたいのに、ソルジャー扱いで後ろになるの…?
酷くない、とハーレイを縋るように見た。後部座席では、ハーレイの姿もよく見えないから。
「いや、酷いとは思わんが?」
お前をそっちの席に乗っけて、俺は運転に専念する、と。
「ソルジャー、次はどちらに参りましょうか?」といった具合にな。
後ろだったら、ドアの開け閉めも俺がきちんと確認しないと…。目上の人はドアを閉めるのも、運転手任せというヤツだから。
お前を乗せるのを忘れる心配も無くなるわけだ、とハーレイは自信たっぷりだけれど。
「それって、酷い…」
ハーレイの姿が見えないじゃないの、ぼくの席から!
助手席だったら隣同士で楽しいけれども、後ろなんかに乗せられちゃったら…!
「そうでもないだろ、楽しめる筈だと思うんだがな?」
お前は偉そうに言えばいいんだ、後ろの席から。次はあっちだの、此処で停めろだの。
好き放題に命令してればいいだろうが、と言われたソルジャー扱い。助手席の代わりに、後ろの席に座って、偉そうに出掛けてゆくドライブ。
「うーん…。どう見ても、偉そうだけど…」
今のぼくは少しも偉くないのに、ソルジャー扱いで後ろだなんて…。でも…。
置き去りの心配はしなくていいよね、と考えてみたら、そんなドライブも愉快かもしれない。
前の自分だった時と違って、今はハーレイと二人きりなのだし、後ろで偉そうにしていても…。
(ソルジャーごっこで遊んでるだけで…)
その状況を楽しめばいい。
キャプテン・ハーレイに命令をして。…ソルジャー・ブルーになったつもりで。
(あの店に寄ってくれたまえ、って…)
やってみるのもいいかもしれない。
「かしこまりました」と車を運転してゆくハーレイ。
二人きりで乗るシャングリラのハンドルを握って、大真面目に。キャプテン・ハーレイだった頃さながらに、「面舵一杯!」と声を上げたりもして。
(ぼくがソルジャーなら、ハーレイはキャプテン…)
そういうドライブも悪くはない。遊びで偉そうに乗ってゆくなら、後部座席が自分の席でも。
置き去り防止のために乗せられる後部座席と、それとセットのソルジャー扱い。
ハーレイの車がシャングリラになって、自分のための席がその中に出来て…。
「…ハーレイ、それって、着いたらドアも開けてくれるの?」
運転手さんだと、着いたら開けてくれるけど…。ハーレイが運転してくれる時も…?
「当然だろうが。俺は運転手に徹するまでだ」
お前をウッカリ置き去りにしないよう、後ろの席に乗せるからには頑張らんとな?
乗り降りの時は、ドアを恭しく開け閉めしてやる。「どうぞ」と、それは丁寧に…な。
任せておけ、とハーレイは運転手になる気でいるらしい。ソルジャー扱いでドライブしようと。
「ホントに偉そうな恋人だけど…」
そんなのでいいの、ハーレイは…?
ソルジャーごっこだって知らない人が見たなら、恋人に馬鹿にされてるみたいじゃない…?
「いいんじゃないのか、俺がお前に首ったけってことで。…恋人同士だとは分かるんだから」
甘やかされて我儘放題なんだな、と誰もが温かく見てくれるさ。
本当は置き去り防止のためとか、ソルジャー扱いだとかは気付きもせずに。
「ふふっ、熱々?」
ハーレイはぼくにぞっこんなわけで、運転手までしてるってわけ…?
「そんなトコだな、お前、本当にやってみたいか?」
置き去り防止の方はともかく、ソルジャー扱いで後ろの席に乗って行くこと。
「ちょっぴりね」
ほんのちょっぴりなんだけど…。でも、そういうのも楽しそう…。
前のぼくには、ソルジャーの席が無かったから…。その分、今のぼくが欲しいな、その席。
「よしきた、お前にソルジャーの席をプレゼントだな?」
かまわないぞ、とハーレイが片目を瞑るから。「好きにしていいぞ」と言ってくれたから。
いつかドライブしてゆく時には、たまに頼んでみるのもいい。
「今日はソルジャーの席がいいな」と。
白いシャングリラには、ソルジャーの席など無かったけれども、今なら貰える。
今のハーレイの車にだったら、ソルジャーの席を作れるから。
偉そうに座る席だけれども、きっと二人で楽しくドライブしてゆけるから…。
お気に入りの席・了
※シャングリラには無かった、前のブルーの席。お気に入りの席が無かったソルジャー。
けれど、今度は専用の席を貰えるようです。ハーレイが運転する車の中に、自分だけの座席。
(鍵だ…)
本物じゃないよね、とブルーが見詰めたもの。学校からの帰りに、路線バスの中で。
ふと見た、通路を挟んだ席。其処に座った若い女性のペンダント。
(金色の鍵…)
細い金色の鎖を通して、首から下げた金色の鍵。そういう形のペンダント。きっとアクセサリーなのだと思う。鍵の形をしているだけの。
アクセサリーだから、何処の扉が開くわけでもない。鍵の形の飾りというだけ。
でも…。
(本物だったら素敵だよね?)
アクセサリーではなくて、本物の鍵。ちゃんと使えて、扉が開く。
そうだとしたなら、開く扉は特別な場所の扉だろう。女性の家の扉の一つではなくて、箱などに使う鍵でもなくて…。
恋人に貰った、家の合鍵。それを使えば、留守の時にも家に入って待てる鍵。
せっかくだからと、わざわざ金色に作って貰って、ペンダントにしてくれた優しい恋人。いつも首から下げられるように、いつでも持っていられるように。
(恋人の家に出掛けて行ったら、あのペンダントで…)
鍵を開けて入って、料理しながら恋人の帰りを待つだとか。お菓子も作るかもしれない。恋人が家に帰って来たなら、作った料理やお菓子の出番。「おかえりなさい」と笑顔で迎えて。
(鍵さえあったら、先に入っていられるもんね?)
恋人が仕事に出掛けていたって、家の表で待っていないで。
「今日は帰りが遅くなるから」と言われた日だって、恋人の家で夕食の支度。帰って来たなら、直ぐに食べられるように。「料理だけ作って置いておくから」と手紙を残して帰ったりもして。
そういうのも素敵、と夢見てしまう。
自分だったら、そのための鍵が欲しいから。ハーレイの家に入って待っていたいから。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
ハーレイの家の合鍵があれば、どんなに素敵なことだろう。
それで扉を開けられたなら。
ハーレイが家にいない時にも、中に入って帰りを待っていられたら。
いいな、と眺めた金色の鍵。アクセサリーか、本物なのかは謎だけれども。
(ああいう形の鍵もあるしね?)
本当に扉が開く鍵。扉についた鍵穴に入れて、回してやったらカチャリと小さな音がして。
あれが本物の合鍵だったら、と羨ましく思いながら降りたバス。恋人の家の扉が開く鍵、恋人に貰った金色の鍵。それを首から下げているなら、本当に幸せだろうから。
家に帰って、ダイニングでおやつを食べる間も、鍵が頭から離れない。ペンダントになっていた金色の鍵は、本物だった気がするものだから。
アクセサリーのように見えても、恋人の家の扉の合鍵。使う時には首から外して、あれを鍵穴に差し込んでやる。鍵が外れる方へ回して、鍵が開いたら扉を開けて家の中へと。
恋人が帰るまでの時間に、色々なことをするために。料理の支度や、お菓子作りや。
(ぼくも合鍵…)
もしもハーレイが贈ってくれたら、大切に持つことだろう。宝物みたいなものだから。いつでもハーレイの家に入れて、中で帰りを待てるのだから。
それを貰えたら、帰りに見掛けた女性みたいに、ペンダントにして肌身離さず持っておく。細い鎖を通してやって。
(金色の鍵じゃなくたって…)
実用的な鍵にしたって、やっぱり首から下げておく。アクセサリーには出来ないものでも、誰が見たって「ただの鍵」でも。ごく平凡な銀色でも。
どんな時でも持っていたいし、大切な鍵と一緒にいたい。首から下げておくのが一番。
(お風呂に入る時くらいしか…)
きっと外しはしないだろう。何処に行くにも、鍵と離れたくないものだから。
(学校は、アクセサリーは禁止だけれど…)
その学校でも、なんとかして持っていたいと思う。ハーレイに貰った大切な鍵を。
「家の鍵なんです」と言い張ったならば、持てるだろうか?
帰った時に母が留守なら、それを使って入らないと、と「家の鍵です」と嘘をついたら。
(首に下げるのは駄目かもだけど…)
家の鍵なら、きっと許して貰える筈。持っていないと困るものだし、「アクセサリーは駄目」と注意されても、他の形で持てるだろう。
制服のポケットに入れておいたら、いつでも一緒。「家の鍵です」と言い張りながら。
そんなのも素敵、と思った「制服のポケットに入れておく」鍵。落っことさないように、紐でも通して、それを何処かに結んでやって。
家の鍵なら先生だって怒らない。紐がポケットから覗いていたって、その先に鍵があったって。
(…ぼくの家じゃなくて、ハーレイの家の鍵なんだけどね?)
家の鍵には違いないもの、と考えながら戻った二階の自分の部屋。空になったカップやケーキのお皿を、キッチンの母に返してから。
(合鍵かあ…)
勉強机の前に座った後にも、金色の鍵ばかり思い出す。アクセサリーか本物なのか、本当の所は分からないけれど。
(だけど、合鍵…)
自分がそれを貰ったならば、あんな風にして持つだろう。学校では首から下げられないのなら、制服のポケットに入れる形で。
(家の鍵です、って言えば絶対、大丈夫…)
先生に注意された時にはそれだよね、と言い訳までスラスラ浮かんでくる。本当に家の鍵なのかどうか、先生は確かめないだろうから。家に来てまで、鍵穴に入れたりするわけがない。
(鍵は鍵だし、何処かの扉が開くんだから…)
自分の家の鍵にしたって、ハーレイの家の鍵にしたって、鍵は鍵。先生たちに区別はつかない。
「持つための言い訳」まで思い付いたら、欲しくてたまらなくなった合鍵。
ハーレイの家の扉の鍵穴、其処に突っ込んだらカチャリと鍵が開く合鍵。
(チビの間は、ハーレイの家には行けないけれど…)
悲しいことに、そういう決まりになっている。
前の自分と同じ背丈に育たない内は、ハーレイの家には遊びに行けない。柔道部員たちは何度も呼んで貰って、暑い季節は庭で賑やかにバーベキューまでやっていたのに。
(…ぼくは一回、呼んで貰って、それっきりで…)
後はメギドの悪夢を見た夜、瞬間移動で飛んで行っただけ。あの時だって、朝食が済んだら車に乗せられて、家に帰されてしまっておしまい。
けれど、いつかは出掛けてゆける。大きくなったら、「遊びに来たよ」と何度でも。
思い付いた時には「行ってもいい?」と尋ねてみたり、予告もしないで押し掛けてみたり。
今は無理でも、何年か待てばその時が来る。前の自分とそっくり同じに育ったら。
いつかハーレイの家に行けるという、お守りに合鍵があったらいい。お守りに持っていられたらいい。「家の鍵です」と嘘をつきながら、学校に行く時もポケットに入れて。
ハーレイに頼めば作って貰えるだろうか、ただ「持っておく」だけならば?
留守の間に家まで出掛けて、合鍵を使って中に入るのではなかったら…?
使える時がやって来るまで使わないなら、お許しが貰えるかもしれない。約束通りに、育つまで家に行かないのなら。
(駄目で元々なんだしね…?)
合鍵が欲しいと頼んでみたい、と思っていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、合鍵、作ってくれる?」
作ってくれる所は色々あるでしょ、そういうお店。其処で作って欲しいんだけど…。駄目?
「はあ? 合鍵って…?」
なんでまた、とハーレイは怪訝そうな顔。「何処の合鍵が欲しいと言うんだ?」と。
学校の中の扉だったら、どれも最初から合鍵がある。生徒が個人的に使うロッカーでも、万一の時に困らないよう、合鍵の束が職員室にあるほどだから。
「ぼくが欲しいの、ハーレイの家の合鍵だけど…」
作ってくれたら嬉しいんだけどな、ハーレイの家の玄関の扉が開く合鍵。
一番安いヤツでいいから、とも頼んでみた。合鍵を作る店は色々、値段も色々だろうから。
「俺の家の玄関の合鍵だって…?」
お前、そんなので何をする気だ、空き巣の真似か?
俺が出掛けて留守の間に、勝手に入って中でゴソゴソするって言うのか、帰る時間はお前の方が早いんだからな?
俺が柔道部に行っていたなら、家は留守だし…。お前は放課後で暇なんだし。
もっとも空き巣は、今の時代はいやしないんだが。…泥棒なんかはいない時代だ、空き巣なんて言葉は本の中にしか出て来ないがな。
そいつをお前がやるって言うのか、盗っていくものは色々ありそうだから…。
他のヤツらの目にはガラクタでも、お前にとっては宝物ってヤツが山ほどドッサリとな。
俺の愛用のマグカップだって盗られそうだ、とハーレイは空き巣の心配中。コーヒーを飲む時のお気に入りのカップで、ハーレイの家で見掛けたそれ。とても大きなマグカップ。
「茶碗も危ないかもしれん」だとか、「箸だって危なそうだよな」とか。
「俺が愛用してるってだけで、お前は欲しがりそうだから…。茶碗だろうが、カップだろうが」
消えていたなら新しいのを買えばいいだろう、と鞄に詰めて行きそうなんだ。俺に黙って。
お宝を奪って逃げる時には、元通りに鍵までかけて行ってな。
俺が仕事から帰って来たって、最初は気付かないんだろう。鍵はきちんとかかってるから、何も知らずに開けて入って、さて、とカップを使おうとしたら、見事に消えているってな。
マグカップどころか、茶碗も箸も…、とハーレイが的外れなことを並べ立てるものだから。
「違うよ、空き巣をするんじゃなくて…。留守の間に家に入りたいわけでもなくて…」
お守りに欲しいんだよ、ハーレイの家の合鍵を。…ぼくのお守り。
「…お守りだって?」
俺の家の鍵には、何の御利益も詰まっちゃいないと思うがな?
玄関の扉が開くってだけで、他の役には立たないぞ。本物の鍵でもその有様だし、合鍵となれば御利益の無さは想像がつくと思わんか?
どんなものでも、本家本元が一番御利益があるもんだ。複製品だと、ちょいと落ちるし…。
ただでも御利益の無い鍵の合鍵なんかが、何のお守りになると言うんだ…?
俺にはサッパリ分からんのだが、とハーレイは首を捻っている。「何に効くんだ?」と。
「えっと、お守りには違いないけど…。それ、ぼくにしか効かないから…」
ぼくの心に効くお守りだよ、持っているだけで幸せになれるお守り。それが御利益。
これがハーレイの家の合鍵、って思うだけでホントに幸せだから…。
「お前だけに効くお守りだって? 何処から思い付いたんだ?」
何かのおまじないでも読んだか、合鍵を持ったら幸せになるとか、そういう記事を…?
それとも本に書いてあったか、何かのついでに…?
「おまじないじゃないよ、今日の帰りにバスで見掛けたペンダント…」
若い女の人が首から下げてたんだよ、金色の鍵のペンダントを。
アクセサリーかな、って思ったけれども、そうじゃないかもしれないよね、って…。
恋人に貰った家の合鍵で、アクセサリーに使えるように、金色に作ってあるのかも、って…。
細い鎖で下げていたよ、と話した鍵のペンダント。金色の鍵。
「あんな風に合鍵を持っていたい」と、「ハーレイの家のが欲しいんだけど」と。
「学校はアクセサリーが禁止で、ペンダントにしてたら叱られるかもしれないけれど…」
家の鍵です、って言ったら許して貰えそう。ペンダントは駄目でも、制服のポケットに入れるのならね。家に帰った時に誰もいなかったら、鍵が無いと入れないんだから。
何処の鍵かは確かめないでしょ、先生だって。…「家の鍵か」って眺めるだけで。
だから、ハーレイの家の鍵でも大丈夫。ぼくの家の鍵だと思われておしまい。
大切にするから、合鍵、欲しいな…。
今はまだハーレイの家に行くのは無理だし、合鍵があっても、鍵を開けたり出来ないけれど…。
持っていたって使えはしなくて、何の役にも立たないんだけど…。だけど、お守り。
いつか使える時が来るよ、って考えるだけで幸せじゃない。ぼくが大きくなった時には、合鍵、使っていいんだから。
ハーレイが留守にしている時には、それで入って…、と瞳を輝かせた。玄関に鍵がかかっていた時も、合鍵があれば中に入れる。「留守なんだ…」と溜息をついて帰る代わりに、扉を開けて中に入って、ハーレイの帰りを待つことが出来る。お気に入りの椅子に座ったりして、のんびりと。
いつか使えるだろう合鍵、それがあったら幸せな気分。今は出番がまるで無くても。
「そういう理由で合鍵なのか…。お守りという意味も良く分かったが…」
生意気だぞ、お前。チビのくせして、俺の家の合鍵が欲しいだなんて。
前のお前と同じに育って、俺の家に出入りが出来るようになったら、合鍵だって作ってやらないわけではないが…。欲しいんだったら、幾らでも作ってやるんだが…。
チビのお前じゃ話にならんな、文字通り、役に立たないんだから。
お前がワクワク持っているだけで、その鍵、出番が来やしないからな。
それじゃ鍵だって可哀相だろうが、とハーレイが眉間に寄せた皺。「使われない鍵じゃ、ただの飾りになっちまう」と。
合鍵とはいえ、鍵の姿に生まれたからには、使われてこそ。人間の役に立つ道具でないと、と。
「…やっぱり駄目?」
ぼくがお守りにするだけだったら、ハーレイの家の合鍵は作ってくれないの?
一番安いヤツでいいのに、綺麗な金色の鍵じゃなくても…。
合鍵だったら何でもいいよ、と食い下がったけれど。本当に欲しいのだけれど…。
「俺が駄目だと言ったら、駄目だ。お前にはまだ、合鍵ってヤツは早すぎる」
考えてもみろよ、前のお前だって、キャプテンの部屋の合鍵なんぞは持ってなかった。ちゃんと育った立派な大人で、俺と恋人同士でも。
もっとも、お前に鍵は必要無かったがな。鍵も扉も、お前には無いも同然だったし。
どんな場所でも、瞬間移動でヒョイと入ってしまうんだから…。鍵があろうが、扉があろうが。
いや、その前にだ…。
鍵が無いのか、と苦笑したハーレイ。「今の時代とは、鍵が違ってたよな」と。
「え? 鍵って…」
前のぼくたちが生きてた頃でも、鍵はきちんとあったでしょ?
シャングリラの中にも鍵はあったし、アルタミラの檻にも、あそこで閉じ込められたシェルターにも鍵…。檻もシェルターも、内側からは開けられなかったんだから。
そうなったのは鍵のせいだよ、と例に挙げた忌まわしい記憶。
前の自分は、アルタミラで狭い檻の中に押し込められていた。人体実験の時だけ、外に出される牢獄に。もちろん中から開くわけがないし、逃げることさえ諦めた。未来に何の希望も無いから、心も身体も成長を止めて。
メギドの炎がアルタミラを星ごと滅ぼした時は、人類はミュウをシェルターの中に閉じ込めた。けして外には出られないよう、星ごと焼き滅ぼされるように。
その中で悟った「終わりの時」。このままでいたら死んでしまう、と懸命に扉を叩いてみても、扉は開きはしなかった。前の自分のサイオンが扉を、シェルターの壁ごと破壊するまで。
つまり、存在していた鍵。檻もシェルターも、鍵が無いなら簡単に開いた筈なのだから。
それにシャングリラにも、鍵は幾つも。キャプテンの部屋にも、倉庫などにも。
「アルタミラの檻に、シェルターなあ…」
あそこにも確かに鍵はあったな、俺たちには歯が立たなかったのが。
忌々しい鍵の話はともかく、シャングリラにも鍵は幾つもあったってわけで…。
白い鯨に改造する前から、個人の部屋にも鍵はかかった。住人が閉めようと思いさえすれば。
改造した後の船になったら、鍵がかかる場所もグンと増えたが…。
船が大きくなった分だけ、部屋も増えたし、施錠しなけりゃ駄目な区画も増えたから…。
だが…、とハーレイは鳶色の瞳をゆっくり瞬かせた。「鍵ってヤツが問題だ」と。
「シャングリラにあった色々な部屋は、こういう鍵で開いてたのか?」
今の俺の家の鍵はコレだが、シャングリラで俺たちが使ってた鍵もこんなのだったか…?
これなんだが、とハーレイが取り出したキーホルダー。背広の上着のポケットから。テーブルの上にコトリと置いて、それにつけられた鍵を順に指してゆく。
家のがこれで、車がこれで、と。柔道部の部室の鍵がこいつで…、と色々な鍵を。
「…一杯あるね、ハーレイの鍵…」
やっぱり大人の人は違うね、ぼくだと鍵も持っていないし、キーホルダーの出番も無いよ。家の鍵だって、要りそうな時だけ、ママから借りて持って行くから。
ホントに沢山、とキーホルダーについた鍵の数に感心していたら…。
「そういや、車のキーも無いよな」
今の俺には当たり前のものだが、前の俺だとキーは無縁で…。うん、無かったよな、車のは。
「車?」
あった筈だよ、車のキー。…前のぼくは運転しなかったけれど、人類の世界に車はあったし…。
人類が車を動かす時には、今と同じでキーだった筈だと思うけど…。
基本は変わっていないものね、と前の自分が生きた時代の車の形を思い浮かべる。今の車たちの隣に並べてみたって、さほど違いはしないだろう。車は車で、人間を乗せて道路を走るもの。
形が変わっていないのだったら、あの頃だってキーがあった筈。使った記憶は無いのだけれど。
「車のキーはあっただろうな、お前が言っている通りに。…俺も使っちゃいないんだが」
シャングリラにあったのは自転車くらいで、車は無かったモンだから。
俺が言うのは、前の俺の車というヤツだ。いわゆる車よりも遥かにデカくて、シャングリラって名前がついてたんだが。
…今の俺の車に、いずれその名をつける予定だし、シャングリラだって俺の車と言っていい。
俺の私物じゃなかっただけで、俺が動かしていたんだから。大勢の仲間を乗っけてな。
シャングリラの運転手は前の俺だが、あの船にキーは無かったぞ。
車みたいに、これさえ使えば動くってヤツは。…エンジンがスタートするキーなんかは。
「…無かったね…」
ホントだ、同じシャングリラって名前をつけてみたって、車と船とじゃ違うんだね…。
全然違う、と遠く遥かな時の彼方に思いを馳せた。懐かしい白いシャングリラに。
今のハーレイの愛車は白くないのだけれども、いつか二人でドライブ出来る時が来たなら、あの船の名前をつけてやる。二人だけのために走ってくれる車に、「シャングリラ」と。
けれど本物の白いシャングリラと、ハーレイの車は全く違う。シャングリラの方は宇宙船だし、道路を走る車とは違って当たり前。
シャングリラを動かしていたエンジンは、小さなキーを差し込むだけでは始動などしない。船を動かすには幾つもの手順、それを正しく実行してゆくことが必要。
(メイン・エンジン点火、って…)
キャプテンや機関長が指示して、それに携わる仲間が動く。各自の持ち場で、安全確認やデータ確認などをして。何人もが「いける」と判断を下して、その作業をして、ようやくシャングリラが動き始める。巨大な白い鯨のような船体が。
(物凄く沢山の手順だけれども、点火までには、ほんの一瞬…)
皆が瞬時にこなした作業。エンジンに点火するために。
でないと船は動かないから、危険を回避することすらも出来ない。それもあって、完全に止まることはなかったシャングリラ。前の自分が生きていた頃には、ただの一度も。
(メイン・エンジンが、メンテナンスで止まっていたって…)
補助エンジンが常に動いていた。そちらの方も、小さなキーを使うだけでは動かない。何人もの仲間が関わらないと、安全やデータを確認しないと。
(…本物の方のシャングリラには…)
こういうキーは無かったのか、と見詰めた車のためのキー。
今のハーレイの自慢の車は、このキーがあれば動くのに。前のハーレイのマントと同じ色の車、あれを動かすにはキーを差し込んでやればいいのに。
(船のシャングリラは、とても大変…)
キーだけじゃ動いてくれないんだ、と納得させられたけれど、鍵は確かに無かったけれど。
そのシャングリラの船体の中には、幾つもの部屋や倉庫や、様々な区画。
居住区にあった個人の部屋には鍵がついていたし、立ち入りを制限すべき場所にも、同じに鍵。
部屋も、立ち入り制限区画も、倉庫なども鍵が間違いなくあった。鍵がかかるなら、鍵を開けるための方法がある。でないと、扉は開かないから。
(鍵が無いと、開いてくれないよ…?)
今の自分の家の扉も、ハーレイの家の玄関も。学校のロッカーも開きはしないし、シャングリラでも同じだと思う。鍵がかかる場所があった以上は、それを開けるための鍵が欠かせない。それが無ければ、誰も入れはしないのだから。
(瞬間移動で飛び込むんなら、別だけど…)
ジョミーを船に迎える前には、瞬間移動が出来たのは前の自分だけ。他の仲間には無理だった。その方法で入れないなら、鍵が無かった筈はないのに…。
(どうなってるの…?)
今のハーレイの「鍵は無かった」という言葉。鍵はあったし、鍵がかかるなら開けるための鍵が必要なのに。
「やれやれ…。まだ思い出せないって顔をしてるな、お前ときたら」
俺は嘘なんかついちゃいないし、お前を騙そうともしてはいないぞ。鍵が無かった話の件で。
いいか、前のお前の青の間にしても、俺がいたキャプテンの部屋にしてもだな…。
どちらにも鍵はあったわけだが、少なくとも、こういう鍵じゃなかった。今日のお前が見かけたような、こんな形の鍵なんかでは…な。
こいつだ、とハーレイは鍵の一つを指で弾いた。キーホルダーについている中の一つを。
それを使えば、柔道部の部室の扉が開くらしい。他の幾つもの鍵との違いは、見ているだけではよく分からない。車のキーなら、一目で「あれだ」と分かるけれども。
鍵の基本の形は同じ。刻まれた溝や、差し込む部分の僅かな違いで別の鍵になる。
けれどシャングリラでは、もっと厳重だったシステム。
基本の鍵など何処にも無かった。「これがそうだ」という形も無かった。
キーホルダーなどあるわけがなくて、鍵の数だけあったと言っても良かった鍵。その場所の鍵を開ける方法。部屋も倉庫も、立ち入り制限区画の扉も。
(鍵なんか、誰も差し込まなくて…)
回してカチャリと開けてもいない。
そんなシステムではないのだから。鍵を開けるには、様々な手順。
(方法だって、ホントに色々…)
一つだけで開く扉もあれば、幾つも組み合わされていた場所も。其処の重要性に応じて。
そうだったっけ、と蘇って来た遠い遠い記憶。
施錠が必要だった場所では、誰も鍵など使わなかった。開ける時にも、閉める時にも。…鍵穴に入れて回す鍵など、誰一人として。
前の自分は瞬間移動であらゆる扉を通り抜けたけれど、それが出来ない船の仲間たちは皆、扉を相手に苦労していた。鍵がかかっていたならば。
施錠されたキャプテンの部屋に入る時には、ハーレイに頼んで中から開けて貰っていたか…。
(パスワードを幾つも打ち込むだとか、そんなので…)
部屋の掃除をする係などが入っていただけ。部屋の主が留守にしていた時は。
キャプテンは船の最高責任者だけに、たやすく入れる部屋ではいけない。本人の許可か、入れる資格を持つ者だけが知っている手順か、それが無ければ開かなかった扉。
今のハーレイのキーホルダーについているような、鍵一つでは開けられない。そういう形の鍵も無ければ、鍵穴だって無いのだから。
前の自分が長く暮らした青の間も同じ。ソルジャーに用がある者は多いだろうから、昼間は施錠しなかったけれど、施錠したなら…。
(入るの、大変…)
ちょっと視察に出掛けるから、と鍵をかけてから出ようものなら、厄介なことになっただろう。
「ソルジャーがお戻りにならない間に、掃除をしよう」と部屋付きの係がやって来たって、鍵を開けるのに幾つもの手順。
船で一番偉いとされた、ソルジャーの私室なのだから。…キャプテンとは比較にならない存在。
そのソルジャーの部屋の鍵だし、そう簡単には開かない。
(掃除しに来た係の名前を打ち込んで…)
係の名前と、それを打ち込んだ仲間が同じ人間かどうか、その照合から始まる仕組み。無関係な者には、ソルジャー不在の時の青の間には、立ち入り許可が下りないから。
間違いなく同じ人間なのだ、と証明したって、今度はロックを解除するための作業が必要。
どういう理由で鍵を開けたいのか、目的によって違う色々なパスワードなど。
掃除したいのなら、掃除の時に使うものを入力、それが通れば扉を開くための別のパスワードを入れて、と複雑すぎた青の間の鍵。
たとえ部屋付きの係にしたって、ミスをしたなら、けして開いてくれないほどに。
とんでもない鍵があったんだった、と思い出した前の自分の部屋。青の間と呼ばれた、やたらと大きすぎた部屋。「ソルジャーの威厳を高めるために」と、余計な工夫が凝らされた場所。
あの部屋の鍵は、誰も開けたくなかっただろう。あまりにも仕組みが厄介すぎて。
居住区にあった他の仲間たちの部屋にしたって、鍵というものは…。
(青の間に入る係を確認するのと同じで、いろんな認証システムとか…)
持ち主の好みや、肩書きなどで違った種類。パスワードを打ち込んでやれば開く扉や、その前に立った人間が誰かを確認しないと開いてくれない扉やら。
どれにしたって、今の時代の鍵とは違った。青の間も、前のハーレイの部屋も、ごくごく普通の仲間たちの部屋の扉にしても。
そんな具合だから、合鍵だって無かった船。何処の部屋にも、倉庫や様々な区画にも。
鍵を開ける方法からして違ったからには、合鍵があるわけがない。作りたくても、作る方法などありはしないのだから。
「…前のぼくたちの部屋、こんな鍵だと開かないね…」
合鍵だって作れやしないよ、どう頑張っても。今の鍵とは違うんだから。
ゼルやヒルマンがどんなに研究したって、あのタイプの鍵の合鍵は無理。…作れやしないよ。
絶対に無理、と今の自分でも分かる。そう簡単には開けられないように工夫された鍵は、それに応じた開け方だけしか、受け付けてなどはくれないから。
「分かったか? まるで時代が違ったんだな、前の俺たちが生きていた頃は」
鍵は開けられないことが大事で、合鍵なんぞは論外だった。合鍵があれば開いちまうから。
あの時代にも、こういった形の鍵は一応、あったんだが…。
何処にも無かったわけではないし、形を見たなら「鍵だ」と分かるものではあったが…。
残念なことに、前の俺だけが好きで使っていた、羽根ペンってヤツと同じでだな…。
レトロなアイテムの一つだったぞ、と今のハーレイが言う通り。
SD体制が敷かれた時代も、鍵穴に差し込む鍵ならばあった。鍵を差し込む鍵穴がついた、箱や机の引き出しなども。
とはいえ、それらは「信用されてはいなかった」鍵で、一種の飾り。
本当に隠しておきたい文書や品物、そういったものを其処に仕舞いはしなかった。誰が見たってかまわないものや、鍵を開けて「どうだ」と自慢したいものを入れておくだけで。
ハーレイ曰く、「レトロなアイテム」だった鍵。白いシャングリラが在った頃には。
「今だと、本物なんだがな…」
どれも立派に現役の鍵で、家の扉も、部室の扉も、学校の門を開けられる鍵もあるんだが…。
前の俺たちの目には頼りなくても、どれも本物の鍵ばかりだ。これも、これも、この鍵だって。
どの鍵も何処かの鍵なんだ、とハーレイはキーホルダーを元のポケットの中に仕舞った。
「こいつらは大事な鍵だしな?」と。
失くしちまったら大変だ、と大切に仕舞い込まれた鍵たちの束。その中の一つを選んで使えば、車も動くし、家にも入れる。
ハーレイが柔道着を入れたりしているロッカーも開けば、柔道部の部室に入ることも出来る。
「鍵って、昔に戻ったんだね。…ぼくたちは未来に来ちゃったのに」
前のぼくたちが生きた頃よりも、ずっと昔の時代の人は、今みたいな鍵を使ってたんでしょ?
シャングリラの時代には、レトロなアイテムだったんだから。…そういう鍵は。
「うむ。前の俺が好きそうな鍵ではあった」
いくら好きでも、キャプテンの部屋には使えないんだが…。あの時代ではな。
今の俺たちには、こっちの方が普通になっちまったが。
学校だろうが、ロッカーだろうが、家であろうが、何処もこの手の鍵ばっかりで…。
お蔭で合鍵を作る店だって、幾つもあるというわけだ。道具さえあれば、直ぐに作れるから。
店で少しだけ待ってる間に出来ちまう、とハーレイは笑う。「早くて安くて、便利だよな」と。
「そうなんだけど…。でも、どうしてだろう?」
鍵の形が、昔に戻っちゃったのは。…シャングリラの頃には、うんと複雑だったのに。
もっと複雑になったんだったら分かるけれども、どうして逆になっちゃったのかな…?
「なあに、簡単なことだってな。…平和な時代になったからさ」
人間がみんなミュウになったら、戦争も武器も無くなった。誰も争ったりしないから。
平和なんだし、暗殺なんて物騒なことも無ければ、泥棒もいない世の中だ。
厳重に鍵をかけなくっても、誰も困りはしないってな。殺されも、盗まれもしないんだから。
そうは言っても、やっぱり鍵は欲しいモンだし、ああいう鍵で充分だろう、ということだ。
鍵穴に入れて回してやったら、カチャリと開いたり、閉まったりする鍵。
もっとも、宇宙船となったら、昔と変わらないだろうがな。…シャングリラの頃と。
客船にしても、輸送船にしても、大勢の人の命を預かる宇宙船。外は真空の宇宙空間だから。
いくら乗客がミュウばかりでも、宇宙はやはり危険な場所。咄嗟にシールドを張れなかったら、命を落としかねない所。
そんな宇宙を飛んでゆく船は、車みたいに鍵一つでは動かせない。
キーを差し込んだだけでエンジンが始動したりはしなくて、多分、昔と同じなのだろう。技術が進歩している分だけ、手順が多少変わっていても。
宙港を離陸してゆく前には、何人もが自分の担当する部分の安全やデータを確認する。そのまま離陸してもいいのか、前の段階に戻って整備すべきかなどを。
それが済んだら、ようやく発進できる船。乗客を乗せて、遥か宇宙へと。
「前の俺の頃と大して変わってないのが、宇宙船の方の鍵ってヤツだが…」
車みたいに、キーを使えばいいってわけにはいかないんだが…。行き先は宇宙なんだから。
しかし、個人の家とかだったら、レトロな鍵で足りるってこった。
合鍵を作ろうと思った時には、店に出掛けて頼んだらポンと出来ちまうような。
ゼルやヒルマンにも無理だったのにな…、とハーレイは可笑しそうな顔。シャングリラで一番の技術力を自慢していたゼルと、博識だったヒルマンと。
白いシャングリラを設計したような二人がやっても、青の間の合鍵は作れなかった、と。それにキャプテンの部屋の合鍵も、他の仲間たちの部屋や、倉庫なんかの合鍵も。
「面白いよね、今だと簡単なんだけど…。家の鍵でも、学校の鍵でも、直ぐに出来ちゃう」
せっかく簡単に作れるんだし、ぼくも欲しいよ。ハーレイの家の鍵の合鍵。
お守りに作って欲しいんだけどな、ホントに一番安い合鍵でかまわないから。
「今は駄目だと言ったがな? チビのお前には早すぎると」
前のお前と同じくらいに大きくなったら、作ってやる。俺が留守でも、入れるように。
お前、金色のが欲しいのか?
アクセサリーが好きなタイプだとは思えないんだが、どうやら憧れらしいしな?
首から下げて自慢したいのなら、そういうヤツを作ってやるが。
金色の鍵を作る値段も、そんなに高くはないだろう。本物の金じゃないんだから。
「うーん…?」
首から下げておくんだったら、金色の方がいいのかな…。銀色の鍵でも、お洒落なのかも…。
バスで見掛けた女性の鍵は、金色の鍵。アクセサリーか、合鍵なのかは謎だった鍵。
自分が貰うのは合鍵なのだし、アクセサリーらしく金色にするか、銀色の鍵でもお洒落なのか。服によっては金よりも銀で、自分の髪の色も銀色。
(…金色の合鍵を作って貰うか、銀色でいいか…)
どっちだろう、と考えたけれど、合鍵を貰える頃になったら、自分は大きく育っている。堂々とハーレイの家に出掛けて、合鍵を使って入れるほどに。
そういう姿に育ったのなら、結婚の日も遠くない。婚約しているかもしれない。
(結婚したら、大抵の時は、ハーレイと一緒にいるんだろうし…)
ハーレイが仕事に行っている間に、何処かに行くなら、合鍵で扉を閉めてゆく。それが普通で、当たり前の日々。戻った時には、合鍵で扉を開けて入って。
その頃にはもう、珍しくもないものが合鍵。失くさないよう気を付けるだけで、宝物だとまでは思わないだろう。「自分の家の鍵」なのだから。
そうなる前の、結婚までの短い間だけなら、合鍵を仕舞っておく場所は…。
(ポケットの中とかでもいいのかな?)
いつも首から下げておかなくても、使う時だけ出してくるとか。「留守なんだ…」とポケットを探って、頼もしい合鍵で扉を開けてやるために。
でも…。
(やっぱり、首から下げておくのも…)
幸せだろうし、迷ってしまう。
どういう合鍵を貰うのがいいか。金色の鍵か、銀色の鍵か、どちらが自分に似合うだろうかと。
「ねえ、ハーレイ…。ぼくが首から下げるんだったら、どっちの鍵が似合いそう?」
金色の鍵か、銀色の方か。…ぼくの髪の毛、銀色なんだし、銀色なのかな…?
だけど金色の鍵も素敵だったし、似合わなくても金色の鍵にした方がいいかもしれないし…。
「お前に似合いの鍵の色ってか? 俺のセンスに期待しないで、今の間に悩んでおけ」
いつも着ている服の色とか、そういったこともよく考えて。
金がいいのか、銀がいいのか、鏡の前でも悩むんだな。俺はお前の注文通りに作ってやるから。
しかし、お前のことだしなあ…。明日には忘れていそうだが。合鍵のことは、すっかり全部。
「酷いよ、ハーレイ!」
ぼくは真剣に悩んでいるのに、忘れそうだなんて…。酷いよ、ホントに酷すぎるってば!
あんまりだよ、と文句を言ったけれども、きっと本当に忘れるのだろう。
下手をしたなら、まだハーレイが家にいる内に。母が「夕食よ」と呼びに来るよりも前に。
(…ホントに、今日中に忘れちゃいそう…)
ハーレイが「またな」と帰る頃には、頭から消えていそうな合鍵。金色の鍵も、銀色の鍵も。
けれど、いつかは貰える合鍵。
ハーレイが留守にしていた時には、入って待っていられるように。玄関の扉をそれで開いて。
平和になった今の時代は、鍵一つだけで何処でも入れる。
学校だろうと、ハーレイが暮らしている家だろうと、何処だって、合鍵がありさえすれば。
そういう素敵な合鍵を一個、ハーレイにプレゼントして貰おう。
学校だとか、柔道部の部室の鍵は要らないけれども、ハーレイの家の合鍵を一つ。
「これで入れる」と貰えた時には、きっと嬉しい。金色だろうと、銀色だろうと、もう最高に。
鎖を通して首から下げたり、握り締めたり、枕の下にも入れそうな感じ。眠る時には。
(早く欲しいな…)
ハーレイの家に入れる合鍵、と未来の自分の姿を夢見る。
出掛けて行ったら留守だった時も、鍵を開けてハーレイの家に入って、中でのんびり。
お気に入りの椅子に座って本を読んだり、ダイニングのテーブルでお茶を飲んだり。
時には料理も出来たらいい。
ハーレイが好きな、「おふくろの味」のパウンドケーキを焼いたりも。
(勝手に入って、キッチンでお料理…)
お菓子作りもしたっていい。冷蔵庫とかの中身を勝手に出してしまって、使ったりして。
そのために合鍵があるのだから。
ハーレイの留守に家に入って、ハーレイを待つための幸せな道具が合鍵だから。
出来上がった料理が焦げていたって、パウンドケーキが下手くそだって、かまわない。
家に帰ったハーレイはきっと、笑顔で食べてくれるから。
「お前がいるとは思わなかったな」と、「美味いの、作ってくれたんだよな?」と…。
欲しい合鍵・了
※ハーレイの家の合鍵が欲しくなったブルー。持っているだけで幸せ気分になれるお守り。
断られてしまったわけですけれど、いつか貰える日が来るのです。何色の鍵になるか楽しみ。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
本物じゃないよね、とブルーが見詰めたもの。学校からの帰りに、路線バスの中で。
ふと見た、通路を挟んだ席。其処に座った若い女性のペンダント。
(金色の鍵…)
細い金色の鎖を通して、首から下げた金色の鍵。そういう形のペンダント。きっとアクセサリーなのだと思う。鍵の形をしているだけの。
アクセサリーだから、何処の扉が開くわけでもない。鍵の形の飾りというだけ。
でも…。
(本物だったら素敵だよね?)
アクセサリーではなくて、本物の鍵。ちゃんと使えて、扉が開く。
そうだとしたなら、開く扉は特別な場所の扉だろう。女性の家の扉の一つではなくて、箱などに使う鍵でもなくて…。
恋人に貰った、家の合鍵。それを使えば、留守の時にも家に入って待てる鍵。
せっかくだからと、わざわざ金色に作って貰って、ペンダントにしてくれた優しい恋人。いつも首から下げられるように、いつでも持っていられるように。
(恋人の家に出掛けて行ったら、あのペンダントで…)
鍵を開けて入って、料理しながら恋人の帰りを待つだとか。お菓子も作るかもしれない。恋人が家に帰って来たなら、作った料理やお菓子の出番。「おかえりなさい」と笑顔で迎えて。
(鍵さえあったら、先に入っていられるもんね?)
恋人が仕事に出掛けていたって、家の表で待っていないで。
「今日は帰りが遅くなるから」と言われた日だって、恋人の家で夕食の支度。帰って来たなら、直ぐに食べられるように。「料理だけ作って置いておくから」と手紙を残して帰ったりもして。
そういうのも素敵、と夢見てしまう。
自分だったら、そのための鍵が欲しいから。ハーレイの家に入って待っていたいから。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
ハーレイの家の合鍵があれば、どんなに素敵なことだろう。
それで扉を開けられたなら。
ハーレイが家にいない時にも、中に入って帰りを待っていられたら。
いいな、と眺めた金色の鍵。アクセサリーか、本物なのかは謎だけれども。
(ああいう形の鍵もあるしね?)
本当に扉が開く鍵。扉についた鍵穴に入れて、回してやったらカチャリと小さな音がして。
あれが本物の合鍵だったら、と羨ましく思いながら降りたバス。恋人の家の扉が開く鍵、恋人に貰った金色の鍵。それを首から下げているなら、本当に幸せだろうから。
家に帰って、ダイニングでおやつを食べる間も、鍵が頭から離れない。ペンダントになっていた金色の鍵は、本物だった気がするものだから。
アクセサリーのように見えても、恋人の家の扉の合鍵。使う時には首から外して、あれを鍵穴に差し込んでやる。鍵が外れる方へ回して、鍵が開いたら扉を開けて家の中へと。
恋人が帰るまでの時間に、色々なことをするために。料理の支度や、お菓子作りや。
(ぼくも合鍵…)
もしもハーレイが贈ってくれたら、大切に持つことだろう。宝物みたいなものだから。いつでもハーレイの家に入れて、中で帰りを待てるのだから。
それを貰えたら、帰りに見掛けた女性みたいに、ペンダントにして肌身離さず持っておく。細い鎖を通してやって。
(金色の鍵じゃなくたって…)
実用的な鍵にしたって、やっぱり首から下げておく。アクセサリーには出来ないものでも、誰が見たって「ただの鍵」でも。ごく平凡な銀色でも。
どんな時でも持っていたいし、大切な鍵と一緒にいたい。首から下げておくのが一番。
(お風呂に入る時くらいしか…)
きっと外しはしないだろう。何処に行くにも、鍵と離れたくないものだから。
(学校は、アクセサリーは禁止だけれど…)
その学校でも、なんとかして持っていたいと思う。ハーレイに貰った大切な鍵を。
「家の鍵なんです」と言い張ったならば、持てるだろうか?
帰った時に母が留守なら、それを使って入らないと、と「家の鍵です」と嘘をついたら。
(首に下げるのは駄目かもだけど…)
家の鍵なら、きっと許して貰える筈。持っていないと困るものだし、「アクセサリーは駄目」と注意されても、他の形で持てるだろう。
制服のポケットに入れておいたら、いつでも一緒。「家の鍵です」と言い張りながら。
そんなのも素敵、と思った「制服のポケットに入れておく」鍵。落っことさないように、紐でも通して、それを何処かに結んでやって。
家の鍵なら先生だって怒らない。紐がポケットから覗いていたって、その先に鍵があったって。
(…ぼくの家じゃなくて、ハーレイの家の鍵なんだけどね?)
家の鍵には違いないもの、と考えながら戻った二階の自分の部屋。空になったカップやケーキのお皿を、キッチンの母に返してから。
(合鍵かあ…)
勉強机の前に座った後にも、金色の鍵ばかり思い出す。アクセサリーか本物なのか、本当の所は分からないけれど。
(だけど、合鍵…)
自分がそれを貰ったならば、あんな風にして持つだろう。学校では首から下げられないのなら、制服のポケットに入れる形で。
(家の鍵です、って言えば絶対、大丈夫…)
先生に注意された時にはそれだよね、と言い訳までスラスラ浮かんでくる。本当に家の鍵なのかどうか、先生は確かめないだろうから。家に来てまで、鍵穴に入れたりするわけがない。
(鍵は鍵だし、何処かの扉が開くんだから…)
自分の家の鍵にしたって、ハーレイの家の鍵にしたって、鍵は鍵。先生たちに区別はつかない。
「持つための言い訳」まで思い付いたら、欲しくてたまらなくなった合鍵。
ハーレイの家の扉の鍵穴、其処に突っ込んだらカチャリと鍵が開く合鍵。
(チビの間は、ハーレイの家には行けないけれど…)
悲しいことに、そういう決まりになっている。
前の自分と同じ背丈に育たない内は、ハーレイの家には遊びに行けない。柔道部員たちは何度も呼んで貰って、暑い季節は庭で賑やかにバーベキューまでやっていたのに。
(…ぼくは一回、呼んで貰って、それっきりで…)
後はメギドの悪夢を見た夜、瞬間移動で飛んで行っただけ。あの時だって、朝食が済んだら車に乗せられて、家に帰されてしまっておしまい。
けれど、いつかは出掛けてゆける。大きくなったら、「遊びに来たよ」と何度でも。
思い付いた時には「行ってもいい?」と尋ねてみたり、予告もしないで押し掛けてみたり。
今は無理でも、何年か待てばその時が来る。前の自分とそっくり同じに育ったら。
いつかハーレイの家に行けるという、お守りに合鍵があったらいい。お守りに持っていられたらいい。「家の鍵です」と嘘をつきながら、学校に行く時もポケットに入れて。
ハーレイに頼めば作って貰えるだろうか、ただ「持っておく」だけならば?
留守の間に家まで出掛けて、合鍵を使って中に入るのではなかったら…?
使える時がやって来るまで使わないなら、お許しが貰えるかもしれない。約束通りに、育つまで家に行かないのなら。
(駄目で元々なんだしね…?)
合鍵が欲しいと頼んでみたい、と思っていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、合鍵、作ってくれる?」
作ってくれる所は色々あるでしょ、そういうお店。其処で作って欲しいんだけど…。駄目?
「はあ? 合鍵って…?」
なんでまた、とハーレイは怪訝そうな顔。「何処の合鍵が欲しいと言うんだ?」と。
学校の中の扉だったら、どれも最初から合鍵がある。生徒が個人的に使うロッカーでも、万一の時に困らないよう、合鍵の束が職員室にあるほどだから。
「ぼくが欲しいの、ハーレイの家の合鍵だけど…」
作ってくれたら嬉しいんだけどな、ハーレイの家の玄関の扉が開く合鍵。
一番安いヤツでいいから、とも頼んでみた。合鍵を作る店は色々、値段も色々だろうから。
「俺の家の玄関の合鍵だって…?」
お前、そんなので何をする気だ、空き巣の真似か?
俺が出掛けて留守の間に、勝手に入って中でゴソゴソするって言うのか、帰る時間はお前の方が早いんだからな?
俺が柔道部に行っていたなら、家は留守だし…。お前は放課後で暇なんだし。
もっとも空き巣は、今の時代はいやしないんだが。…泥棒なんかはいない時代だ、空き巣なんて言葉は本の中にしか出て来ないがな。
そいつをお前がやるって言うのか、盗っていくものは色々ありそうだから…。
他のヤツらの目にはガラクタでも、お前にとっては宝物ってヤツが山ほどドッサリとな。
俺の愛用のマグカップだって盗られそうだ、とハーレイは空き巣の心配中。コーヒーを飲む時のお気に入りのカップで、ハーレイの家で見掛けたそれ。とても大きなマグカップ。
「茶碗も危ないかもしれん」だとか、「箸だって危なそうだよな」とか。
「俺が愛用してるってだけで、お前は欲しがりそうだから…。茶碗だろうが、カップだろうが」
消えていたなら新しいのを買えばいいだろう、と鞄に詰めて行きそうなんだ。俺に黙って。
お宝を奪って逃げる時には、元通りに鍵までかけて行ってな。
俺が仕事から帰って来たって、最初は気付かないんだろう。鍵はきちんとかかってるから、何も知らずに開けて入って、さて、とカップを使おうとしたら、見事に消えているってな。
マグカップどころか、茶碗も箸も…、とハーレイが的外れなことを並べ立てるものだから。
「違うよ、空き巣をするんじゃなくて…。留守の間に家に入りたいわけでもなくて…」
お守りに欲しいんだよ、ハーレイの家の合鍵を。…ぼくのお守り。
「…お守りだって?」
俺の家の鍵には、何の御利益も詰まっちゃいないと思うがな?
玄関の扉が開くってだけで、他の役には立たないぞ。本物の鍵でもその有様だし、合鍵となれば御利益の無さは想像がつくと思わんか?
どんなものでも、本家本元が一番御利益があるもんだ。複製品だと、ちょいと落ちるし…。
ただでも御利益の無い鍵の合鍵なんかが、何のお守りになると言うんだ…?
俺にはサッパリ分からんのだが、とハーレイは首を捻っている。「何に効くんだ?」と。
「えっと、お守りには違いないけど…。それ、ぼくにしか効かないから…」
ぼくの心に効くお守りだよ、持っているだけで幸せになれるお守り。それが御利益。
これがハーレイの家の合鍵、って思うだけでホントに幸せだから…。
「お前だけに効くお守りだって? 何処から思い付いたんだ?」
何かのおまじないでも読んだか、合鍵を持ったら幸せになるとか、そういう記事を…?
それとも本に書いてあったか、何かのついでに…?
「おまじないじゃないよ、今日の帰りにバスで見掛けたペンダント…」
若い女の人が首から下げてたんだよ、金色の鍵のペンダントを。
アクセサリーかな、って思ったけれども、そうじゃないかもしれないよね、って…。
恋人に貰った家の合鍵で、アクセサリーに使えるように、金色に作ってあるのかも、って…。
細い鎖で下げていたよ、と話した鍵のペンダント。金色の鍵。
「あんな風に合鍵を持っていたい」と、「ハーレイの家のが欲しいんだけど」と。
「学校はアクセサリーが禁止で、ペンダントにしてたら叱られるかもしれないけれど…」
家の鍵です、って言ったら許して貰えそう。ペンダントは駄目でも、制服のポケットに入れるのならね。家に帰った時に誰もいなかったら、鍵が無いと入れないんだから。
何処の鍵かは確かめないでしょ、先生だって。…「家の鍵か」って眺めるだけで。
だから、ハーレイの家の鍵でも大丈夫。ぼくの家の鍵だと思われておしまい。
大切にするから、合鍵、欲しいな…。
今はまだハーレイの家に行くのは無理だし、合鍵があっても、鍵を開けたり出来ないけれど…。
持っていたって使えはしなくて、何の役にも立たないんだけど…。だけど、お守り。
いつか使える時が来るよ、って考えるだけで幸せじゃない。ぼくが大きくなった時には、合鍵、使っていいんだから。
ハーレイが留守にしている時には、それで入って…、と瞳を輝かせた。玄関に鍵がかかっていた時も、合鍵があれば中に入れる。「留守なんだ…」と溜息をついて帰る代わりに、扉を開けて中に入って、ハーレイの帰りを待つことが出来る。お気に入りの椅子に座ったりして、のんびりと。
いつか使えるだろう合鍵、それがあったら幸せな気分。今は出番がまるで無くても。
「そういう理由で合鍵なのか…。お守りという意味も良く分かったが…」
生意気だぞ、お前。チビのくせして、俺の家の合鍵が欲しいだなんて。
前のお前と同じに育って、俺の家に出入りが出来るようになったら、合鍵だって作ってやらないわけではないが…。欲しいんだったら、幾らでも作ってやるんだが…。
チビのお前じゃ話にならんな、文字通り、役に立たないんだから。
お前がワクワク持っているだけで、その鍵、出番が来やしないからな。
それじゃ鍵だって可哀相だろうが、とハーレイが眉間に寄せた皺。「使われない鍵じゃ、ただの飾りになっちまう」と。
合鍵とはいえ、鍵の姿に生まれたからには、使われてこそ。人間の役に立つ道具でないと、と。
「…やっぱり駄目?」
ぼくがお守りにするだけだったら、ハーレイの家の合鍵は作ってくれないの?
一番安いヤツでいいのに、綺麗な金色の鍵じゃなくても…。
合鍵だったら何でもいいよ、と食い下がったけれど。本当に欲しいのだけれど…。
「俺が駄目だと言ったら、駄目だ。お前にはまだ、合鍵ってヤツは早すぎる」
考えてもみろよ、前のお前だって、キャプテンの部屋の合鍵なんぞは持ってなかった。ちゃんと育った立派な大人で、俺と恋人同士でも。
もっとも、お前に鍵は必要無かったがな。鍵も扉も、お前には無いも同然だったし。
どんな場所でも、瞬間移動でヒョイと入ってしまうんだから…。鍵があろうが、扉があろうが。
いや、その前にだ…。
鍵が無いのか、と苦笑したハーレイ。「今の時代とは、鍵が違ってたよな」と。
「え? 鍵って…」
前のぼくたちが生きてた頃でも、鍵はきちんとあったでしょ?
シャングリラの中にも鍵はあったし、アルタミラの檻にも、あそこで閉じ込められたシェルターにも鍵…。檻もシェルターも、内側からは開けられなかったんだから。
そうなったのは鍵のせいだよ、と例に挙げた忌まわしい記憶。
前の自分は、アルタミラで狭い檻の中に押し込められていた。人体実験の時だけ、外に出される牢獄に。もちろん中から開くわけがないし、逃げることさえ諦めた。未来に何の希望も無いから、心も身体も成長を止めて。
メギドの炎がアルタミラを星ごと滅ぼした時は、人類はミュウをシェルターの中に閉じ込めた。けして外には出られないよう、星ごと焼き滅ぼされるように。
その中で悟った「終わりの時」。このままでいたら死んでしまう、と懸命に扉を叩いてみても、扉は開きはしなかった。前の自分のサイオンが扉を、シェルターの壁ごと破壊するまで。
つまり、存在していた鍵。檻もシェルターも、鍵が無いなら簡単に開いた筈なのだから。
それにシャングリラにも、鍵は幾つも。キャプテンの部屋にも、倉庫などにも。
「アルタミラの檻に、シェルターなあ…」
あそこにも確かに鍵はあったな、俺たちには歯が立たなかったのが。
忌々しい鍵の話はともかく、シャングリラにも鍵は幾つもあったってわけで…。
白い鯨に改造する前から、個人の部屋にも鍵はかかった。住人が閉めようと思いさえすれば。
改造した後の船になったら、鍵がかかる場所もグンと増えたが…。
船が大きくなった分だけ、部屋も増えたし、施錠しなけりゃ駄目な区画も増えたから…。
だが…、とハーレイは鳶色の瞳をゆっくり瞬かせた。「鍵ってヤツが問題だ」と。
「シャングリラにあった色々な部屋は、こういう鍵で開いてたのか?」
今の俺の家の鍵はコレだが、シャングリラで俺たちが使ってた鍵もこんなのだったか…?
これなんだが、とハーレイが取り出したキーホルダー。背広の上着のポケットから。テーブルの上にコトリと置いて、それにつけられた鍵を順に指してゆく。
家のがこれで、車がこれで、と。柔道部の部室の鍵がこいつで…、と色々な鍵を。
「…一杯あるね、ハーレイの鍵…」
やっぱり大人の人は違うね、ぼくだと鍵も持っていないし、キーホルダーの出番も無いよ。家の鍵だって、要りそうな時だけ、ママから借りて持って行くから。
ホントに沢山、とキーホルダーについた鍵の数に感心していたら…。
「そういや、車のキーも無いよな」
今の俺には当たり前のものだが、前の俺だとキーは無縁で…。うん、無かったよな、車のは。
「車?」
あった筈だよ、車のキー。…前のぼくは運転しなかったけれど、人類の世界に車はあったし…。
人類が車を動かす時には、今と同じでキーだった筈だと思うけど…。
基本は変わっていないものね、と前の自分が生きた時代の車の形を思い浮かべる。今の車たちの隣に並べてみたって、さほど違いはしないだろう。車は車で、人間を乗せて道路を走るもの。
形が変わっていないのだったら、あの頃だってキーがあった筈。使った記憶は無いのだけれど。
「車のキーはあっただろうな、お前が言っている通りに。…俺も使っちゃいないんだが」
シャングリラにあったのは自転車くらいで、車は無かったモンだから。
俺が言うのは、前の俺の車というヤツだ。いわゆる車よりも遥かにデカくて、シャングリラって名前がついてたんだが。
…今の俺の車に、いずれその名をつける予定だし、シャングリラだって俺の車と言っていい。
俺の私物じゃなかっただけで、俺が動かしていたんだから。大勢の仲間を乗っけてな。
シャングリラの運転手は前の俺だが、あの船にキーは無かったぞ。
車みたいに、これさえ使えば動くってヤツは。…エンジンがスタートするキーなんかは。
「…無かったね…」
ホントだ、同じシャングリラって名前をつけてみたって、車と船とじゃ違うんだね…。
全然違う、と遠く遥かな時の彼方に思いを馳せた。懐かしい白いシャングリラに。
今のハーレイの愛車は白くないのだけれども、いつか二人でドライブ出来る時が来たなら、あの船の名前をつけてやる。二人だけのために走ってくれる車に、「シャングリラ」と。
けれど本物の白いシャングリラと、ハーレイの車は全く違う。シャングリラの方は宇宙船だし、道路を走る車とは違って当たり前。
シャングリラを動かしていたエンジンは、小さなキーを差し込むだけでは始動などしない。船を動かすには幾つもの手順、それを正しく実行してゆくことが必要。
(メイン・エンジン点火、って…)
キャプテンや機関長が指示して、それに携わる仲間が動く。各自の持ち場で、安全確認やデータ確認などをして。何人もが「いける」と判断を下して、その作業をして、ようやくシャングリラが動き始める。巨大な白い鯨のような船体が。
(物凄く沢山の手順だけれども、点火までには、ほんの一瞬…)
皆が瞬時にこなした作業。エンジンに点火するために。
でないと船は動かないから、危険を回避することすらも出来ない。それもあって、完全に止まることはなかったシャングリラ。前の自分が生きていた頃には、ただの一度も。
(メイン・エンジンが、メンテナンスで止まっていたって…)
補助エンジンが常に動いていた。そちらの方も、小さなキーを使うだけでは動かない。何人もの仲間が関わらないと、安全やデータを確認しないと。
(…本物の方のシャングリラには…)
こういうキーは無かったのか、と見詰めた車のためのキー。
今のハーレイの自慢の車は、このキーがあれば動くのに。前のハーレイのマントと同じ色の車、あれを動かすにはキーを差し込んでやればいいのに。
(船のシャングリラは、とても大変…)
キーだけじゃ動いてくれないんだ、と納得させられたけれど、鍵は確かに無かったけれど。
そのシャングリラの船体の中には、幾つもの部屋や倉庫や、様々な区画。
居住区にあった個人の部屋には鍵がついていたし、立ち入りを制限すべき場所にも、同じに鍵。
部屋も、立ち入り制限区画も、倉庫なども鍵が間違いなくあった。鍵がかかるなら、鍵を開けるための方法がある。でないと、扉は開かないから。
(鍵が無いと、開いてくれないよ…?)
今の自分の家の扉も、ハーレイの家の玄関も。学校のロッカーも開きはしないし、シャングリラでも同じだと思う。鍵がかかる場所があった以上は、それを開けるための鍵が欠かせない。それが無ければ、誰も入れはしないのだから。
(瞬間移動で飛び込むんなら、別だけど…)
ジョミーを船に迎える前には、瞬間移動が出来たのは前の自分だけ。他の仲間には無理だった。その方法で入れないなら、鍵が無かった筈はないのに…。
(どうなってるの…?)
今のハーレイの「鍵は無かった」という言葉。鍵はあったし、鍵がかかるなら開けるための鍵が必要なのに。
「やれやれ…。まだ思い出せないって顔をしてるな、お前ときたら」
俺は嘘なんかついちゃいないし、お前を騙そうともしてはいないぞ。鍵が無かった話の件で。
いいか、前のお前の青の間にしても、俺がいたキャプテンの部屋にしてもだな…。
どちらにも鍵はあったわけだが、少なくとも、こういう鍵じゃなかった。今日のお前が見かけたような、こんな形の鍵なんかでは…な。
こいつだ、とハーレイは鍵の一つを指で弾いた。キーホルダーについている中の一つを。
それを使えば、柔道部の部室の扉が開くらしい。他の幾つもの鍵との違いは、見ているだけではよく分からない。車のキーなら、一目で「あれだ」と分かるけれども。
鍵の基本の形は同じ。刻まれた溝や、差し込む部分の僅かな違いで別の鍵になる。
けれどシャングリラでは、もっと厳重だったシステム。
基本の鍵など何処にも無かった。「これがそうだ」という形も無かった。
キーホルダーなどあるわけがなくて、鍵の数だけあったと言っても良かった鍵。その場所の鍵を開ける方法。部屋も倉庫も、立ち入り制限区画の扉も。
(鍵なんか、誰も差し込まなくて…)
回してカチャリと開けてもいない。
そんなシステムではないのだから。鍵を開けるには、様々な手順。
(方法だって、ホントに色々…)
一つだけで開く扉もあれば、幾つも組み合わされていた場所も。其処の重要性に応じて。
そうだったっけ、と蘇って来た遠い遠い記憶。
施錠が必要だった場所では、誰も鍵など使わなかった。開ける時にも、閉める時にも。…鍵穴に入れて回す鍵など、誰一人として。
前の自分は瞬間移動であらゆる扉を通り抜けたけれど、それが出来ない船の仲間たちは皆、扉を相手に苦労していた。鍵がかかっていたならば。
施錠されたキャプテンの部屋に入る時には、ハーレイに頼んで中から開けて貰っていたか…。
(パスワードを幾つも打ち込むだとか、そんなので…)
部屋の掃除をする係などが入っていただけ。部屋の主が留守にしていた時は。
キャプテンは船の最高責任者だけに、たやすく入れる部屋ではいけない。本人の許可か、入れる資格を持つ者だけが知っている手順か、それが無ければ開かなかった扉。
今のハーレイのキーホルダーについているような、鍵一つでは開けられない。そういう形の鍵も無ければ、鍵穴だって無いのだから。
前の自分が長く暮らした青の間も同じ。ソルジャーに用がある者は多いだろうから、昼間は施錠しなかったけれど、施錠したなら…。
(入るの、大変…)
ちょっと視察に出掛けるから、と鍵をかけてから出ようものなら、厄介なことになっただろう。
「ソルジャーがお戻りにならない間に、掃除をしよう」と部屋付きの係がやって来たって、鍵を開けるのに幾つもの手順。
船で一番偉いとされた、ソルジャーの私室なのだから。…キャプテンとは比較にならない存在。
そのソルジャーの部屋の鍵だし、そう簡単には開かない。
(掃除しに来た係の名前を打ち込んで…)
係の名前と、それを打ち込んだ仲間が同じ人間かどうか、その照合から始まる仕組み。無関係な者には、ソルジャー不在の時の青の間には、立ち入り許可が下りないから。
間違いなく同じ人間なのだ、と証明したって、今度はロックを解除するための作業が必要。
どういう理由で鍵を開けたいのか、目的によって違う色々なパスワードなど。
掃除したいのなら、掃除の時に使うものを入力、それが通れば扉を開くための別のパスワードを入れて、と複雑すぎた青の間の鍵。
たとえ部屋付きの係にしたって、ミスをしたなら、けして開いてくれないほどに。
とんでもない鍵があったんだった、と思い出した前の自分の部屋。青の間と呼ばれた、やたらと大きすぎた部屋。「ソルジャーの威厳を高めるために」と、余計な工夫が凝らされた場所。
あの部屋の鍵は、誰も開けたくなかっただろう。あまりにも仕組みが厄介すぎて。
居住区にあった他の仲間たちの部屋にしたって、鍵というものは…。
(青の間に入る係を確認するのと同じで、いろんな認証システムとか…)
持ち主の好みや、肩書きなどで違った種類。パスワードを打ち込んでやれば開く扉や、その前に立った人間が誰かを確認しないと開いてくれない扉やら。
どれにしたって、今の時代の鍵とは違った。青の間も、前のハーレイの部屋も、ごくごく普通の仲間たちの部屋の扉にしても。
そんな具合だから、合鍵だって無かった船。何処の部屋にも、倉庫や様々な区画にも。
鍵を開ける方法からして違ったからには、合鍵があるわけがない。作りたくても、作る方法などありはしないのだから。
「…前のぼくたちの部屋、こんな鍵だと開かないね…」
合鍵だって作れやしないよ、どう頑張っても。今の鍵とは違うんだから。
ゼルやヒルマンがどんなに研究したって、あのタイプの鍵の合鍵は無理。…作れやしないよ。
絶対に無理、と今の自分でも分かる。そう簡単には開けられないように工夫された鍵は、それに応じた開け方だけしか、受け付けてなどはくれないから。
「分かったか? まるで時代が違ったんだな、前の俺たちが生きていた頃は」
鍵は開けられないことが大事で、合鍵なんぞは論外だった。合鍵があれば開いちまうから。
あの時代にも、こういった形の鍵は一応、あったんだが…。
何処にも無かったわけではないし、形を見たなら「鍵だ」と分かるものではあったが…。
残念なことに、前の俺だけが好きで使っていた、羽根ペンってヤツと同じでだな…。
レトロなアイテムの一つだったぞ、と今のハーレイが言う通り。
SD体制が敷かれた時代も、鍵穴に差し込む鍵ならばあった。鍵を差し込む鍵穴がついた、箱や机の引き出しなども。
とはいえ、それらは「信用されてはいなかった」鍵で、一種の飾り。
本当に隠しておきたい文書や品物、そういったものを其処に仕舞いはしなかった。誰が見たってかまわないものや、鍵を開けて「どうだ」と自慢したいものを入れておくだけで。
ハーレイ曰く、「レトロなアイテム」だった鍵。白いシャングリラが在った頃には。
「今だと、本物なんだがな…」
どれも立派に現役の鍵で、家の扉も、部室の扉も、学校の門を開けられる鍵もあるんだが…。
前の俺たちの目には頼りなくても、どれも本物の鍵ばかりだ。これも、これも、この鍵だって。
どの鍵も何処かの鍵なんだ、とハーレイはキーホルダーを元のポケットの中に仕舞った。
「こいつらは大事な鍵だしな?」と。
失くしちまったら大変だ、と大切に仕舞い込まれた鍵たちの束。その中の一つを選んで使えば、車も動くし、家にも入れる。
ハーレイが柔道着を入れたりしているロッカーも開けば、柔道部の部室に入ることも出来る。
「鍵って、昔に戻ったんだね。…ぼくたちは未来に来ちゃったのに」
前のぼくたちが生きた頃よりも、ずっと昔の時代の人は、今みたいな鍵を使ってたんでしょ?
シャングリラの時代には、レトロなアイテムだったんだから。…そういう鍵は。
「うむ。前の俺が好きそうな鍵ではあった」
いくら好きでも、キャプテンの部屋には使えないんだが…。あの時代ではな。
今の俺たちには、こっちの方が普通になっちまったが。
学校だろうが、ロッカーだろうが、家であろうが、何処もこの手の鍵ばっかりで…。
お蔭で合鍵を作る店だって、幾つもあるというわけだ。道具さえあれば、直ぐに作れるから。
店で少しだけ待ってる間に出来ちまう、とハーレイは笑う。「早くて安くて、便利だよな」と。
「そうなんだけど…。でも、どうしてだろう?」
鍵の形が、昔に戻っちゃったのは。…シャングリラの頃には、うんと複雑だったのに。
もっと複雑になったんだったら分かるけれども、どうして逆になっちゃったのかな…?
「なあに、簡単なことだってな。…平和な時代になったからさ」
人間がみんなミュウになったら、戦争も武器も無くなった。誰も争ったりしないから。
平和なんだし、暗殺なんて物騒なことも無ければ、泥棒もいない世の中だ。
厳重に鍵をかけなくっても、誰も困りはしないってな。殺されも、盗まれもしないんだから。
そうは言っても、やっぱり鍵は欲しいモンだし、ああいう鍵で充分だろう、ということだ。
鍵穴に入れて回してやったら、カチャリと開いたり、閉まったりする鍵。
もっとも、宇宙船となったら、昔と変わらないだろうがな。…シャングリラの頃と。
客船にしても、輸送船にしても、大勢の人の命を預かる宇宙船。外は真空の宇宙空間だから。
いくら乗客がミュウばかりでも、宇宙はやはり危険な場所。咄嗟にシールドを張れなかったら、命を落としかねない所。
そんな宇宙を飛んでゆく船は、車みたいに鍵一つでは動かせない。
キーを差し込んだだけでエンジンが始動したりはしなくて、多分、昔と同じなのだろう。技術が進歩している分だけ、手順が多少変わっていても。
宙港を離陸してゆく前には、何人もが自分の担当する部分の安全やデータを確認する。そのまま離陸してもいいのか、前の段階に戻って整備すべきかなどを。
それが済んだら、ようやく発進できる船。乗客を乗せて、遥か宇宙へと。
「前の俺の頃と大して変わってないのが、宇宙船の方の鍵ってヤツだが…」
車みたいに、キーを使えばいいってわけにはいかないんだが…。行き先は宇宙なんだから。
しかし、個人の家とかだったら、レトロな鍵で足りるってこった。
合鍵を作ろうと思った時には、店に出掛けて頼んだらポンと出来ちまうような。
ゼルやヒルマンにも無理だったのにな…、とハーレイは可笑しそうな顔。シャングリラで一番の技術力を自慢していたゼルと、博識だったヒルマンと。
白いシャングリラを設計したような二人がやっても、青の間の合鍵は作れなかった、と。それにキャプテンの部屋の合鍵も、他の仲間たちの部屋や、倉庫なんかの合鍵も。
「面白いよね、今だと簡単なんだけど…。家の鍵でも、学校の鍵でも、直ぐに出来ちゃう」
せっかく簡単に作れるんだし、ぼくも欲しいよ。ハーレイの家の鍵の合鍵。
お守りに作って欲しいんだけどな、ホントに一番安い合鍵でかまわないから。
「今は駄目だと言ったがな? チビのお前には早すぎると」
前のお前と同じくらいに大きくなったら、作ってやる。俺が留守でも、入れるように。
お前、金色のが欲しいのか?
アクセサリーが好きなタイプだとは思えないんだが、どうやら憧れらしいしな?
首から下げて自慢したいのなら、そういうヤツを作ってやるが。
金色の鍵を作る値段も、そんなに高くはないだろう。本物の金じゃないんだから。
「うーん…?」
首から下げておくんだったら、金色の方がいいのかな…。銀色の鍵でも、お洒落なのかも…。
バスで見掛けた女性の鍵は、金色の鍵。アクセサリーか、合鍵なのかは謎だった鍵。
自分が貰うのは合鍵なのだし、アクセサリーらしく金色にするか、銀色の鍵でもお洒落なのか。服によっては金よりも銀で、自分の髪の色も銀色。
(…金色の合鍵を作って貰うか、銀色でいいか…)
どっちだろう、と考えたけれど、合鍵を貰える頃になったら、自分は大きく育っている。堂々とハーレイの家に出掛けて、合鍵を使って入れるほどに。
そういう姿に育ったのなら、結婚の日も遠くない。婚約しているかもしれない。
(結婚したら、大抵の時は、ハーレイと一緒にいるんだろうし…)
ハーレイが仕事に行っている間に、何処かに行くなら、合鍵で扉を閉めてゆく。それが普通で、当たり前の日々。戻った時には、合鍵で扉を開けて入って。
その頃にはもう、珍しくもないものが合鍵。失くさないよう気を付けるだけで、宝物だとまでは思わないだろう。「自分の家の鍵」なのだから。
そうなる前の、結婚までの短い間だけなら、合鍵を仕舞っておく場所は…。
(ポケットの中とかでもいいのかな?)
いつも首から下げておかなくても、使う時だけ出してくるとか。「留守なんだ…」とポケットを探って、頼もしい合鍵で扉を開けてやるために。
でも…。
(やっぱり、首から下げておくのも…)
幸せだろうし、迷ってしまう。
どういう合鍵を貰うのがいいか。金色の鍵か、銀色の鍵か、どちらが自分に似合うだろうかと。
「ねえ、ハーレイ…。ぼくが首から下げるんだったら、どっちの鍵が似合いそう?」
金色の鍵か、銀色の方か。…ぼくの髪の毛、銀色なんだし、銀色なのかな…?
だけど金色の鍵も素敵だったし、似合わなくても金色の鍵にした方がいいかもしれないし…。
「お前に似合いの鍵の色ってか? 俺のセンスに期待しないで、今の間に悩んでおけ」
いつも着ている服の色とか、そういったこともよく考えて。
金がいいのか、銀がいいのか、鏡の前でも悩むんだな。俺はお前の注文通りに作ってやるから。
しかし、お前のことだしなあ…。明日には忘れていそうだが。合鍵のことは、すっかり全部。
「酷いよ、ハーレイ!」
ぼくは真剣に悩んでいるのに、忘れそうだなんて…。酷いよ、ホントに酷すぎるってば!
あんまりだよ、と文句を言ったけれども、きっと本当に忘れるのだろう。
下手をしたなら、まだハーレイが家にいる内に。母が「夕食よ」と呼びに来るよりも前に。
(…ホントに、今日中に忘れちゃいそう…)
ハーレイが「またな」と帰る頃には、頭から消えていそうな合鍵。金色の鍵も、銀色の鍵も。
けれど、いつかは貰える合鍵。
ハーレイが留守にしていた時には、入って待っていられるように。玄関の扉をそれで開いて。
平和になった今の時代は、鍵一つだけで何処でも入れる。
学校だろうと、ハーレイが暮らしている家だろうと、何処だって、合鍵がありさえすれば。
そういう素敵な合鍵を一個、ハーレイにプレゼントして貰おう。
学校だとか、柔道部の部室の鍵は要らないけれども、ハーレイの家の合鍵を一つ。
「これで入れる」と貰えた時には、きっと嬉しい。金色だろうと、銀色だろうと、もう最高に。
鎖を通して首から下げたり、握り締めたり、枕の下にも入れそうな感じ。眠る時には。
(早く欲しいな…)
ハーレイの家に入れる合鍵、と未来の自分の姿を夢見る。
出掛けて行ったら留守だった時も、鍵を開けてハーレイの家に入って、中でのんびり。
お気に入りの椅子に座って本を読んだり、ダイニングのテーブルでお茶を飲んだり。
時には料理も出来たらいい。
ハーレイが好きな、「おふくろの味」のパウンドケーキを焼いたりも。
(勝手に入って、キッチンでお料理…)
お菓子作りもしたっていい。冷蔵庫とかの中身を勝手に出してしまって、使ったりして。
そのために合鍵があるのだから。
ハーレイの留守に家に入って、ハーレイを待つための幸せな道具が合鍵だから。
出来上がった料理が焦げていたって、パウンドケーキが下手くそだって、かまわない。
家に帰ったハーレイはきっと、笑顔で食べてくれるから。
「お前がいるとは思わなかったな」と、「美味いの、作ってくれたんだよな?」と…。
欲しい合鍵・了
※ハーレイの家の合鍵が欲しくなったブルー。持っているだけで幸せ気分になれるお守り。
断られてしまったわけですけれど、いつか貰える日が来るのです。何色の鍵になるか楽しみ。
(重たそうな荷物…)
ドッサリだよね、とブルーが眺めた若い女性。学校からの帰りに乗り込んだバスで。
先から乗っていた女性だけれども、彼女が座った座席の横の床。其処に置かれている荷物。膝の上にあるバッグとは別に、それは重そうな荷物が一つ。
(ワインの瓶まで入ってる…)
蓋が無いタイプの買い物袋で、溢れるほどにギッシリ詰まった中身。ワインの瓶も覗いている。町の中心部の食料品店まで行って来たのだろう。珍しい食材も豊富に揃った、大きな店へ。
(あれだけ重たい荷物だと…)
サイオンを使って持っていたって、マナー違反とは言われない。
誰もがミュウになった時代は、「人間らしく」が社会のマナーでルール。出来るだけサイオンは使わないのが、一人前の大人というもの。本当に困ってしまった時や、必要な時を除いては。
手に余る重さの荷物を持つなら、サイオンを使ってもかまわない。サイオンも「力」の一つではある。筋肉の力ではないというだけで。
それを使って「重い荷物」を軽々と運んでいたとしたって、皆、温かく見守るだけ。落とさずに頑張って運べるようにと、心の中で応援しながら。
あの女性だって、きっとそうしたのだろう。買った荷物をそうやって持って、バスに乗り込んで家に帰る途中。今は荷物は床の上だし、持つ必要は無いのだけれど。
(ぼくだと、サイオン、無理なんだけどね…)
どんなに重い荷物であろうと、腕の力だけで持つしかない。不器用すぎる今の自分のサイオン、使いたくても使えない力。「これを持ちたい」と考えたって。
(いいな…)
ああいう荷物を、サイオンで軽く持ち上げること。それが出来たら、と願ってしまう。
そうする間に、女性は降車ボタンを押した。次のバス停で降りるために。
バスが停まったら、バッグを持つのとは違う方の手で、床の買い物袋を持った。腰掛けていた席から立ち上がりながら。
(やっぱりサイオン…)
軽そうにスッと持ち上げたから、間違いない。サイオンで支えて軽くした荷物。空気みたいに。
なのに…。
(えっ?)
羨ましいな、と眺めた女性の足がよろけた。降りるために、お金を払った所で。
いきなり、重たくなったらしい荷物。あの重そうな買い物袋に、引き摺られるようにバランスが崩れてしまった身体。一瞬だけれど。
(…失敗したの?)
もうサイオンでは支えていない買い物袋。とても重そうに提げている女性。よろけていなくても見ただけで分かる、「荷物が重い」という事実。さっきは軽く持ち上げたのに。
(サイオンで上手く支えられないんだ…)
集中していれば出来るけれども、何かのはずみで駄目になる人。「お金を払おう」と意識が別の方へと向いた途端に、サイオンが使えなくなったのだろう。それで慌てて、元には戻せないまま。
(ホントに重そう…)
ぼくみたいに不器用な人なんだろうか、と降りてゆく女性を見送っていたら…。
(あ…!)
降りた先のバス停にいた、若い男性。彼が女性の大きな荷物に手を伸ばした。ごくごく自然に、「ぼくが持つよ」という風に。
(持ってあげるんだ!)
恋人だったら当然だよね、と思った荷物。あれほど重い荷物なのだし、おまけに女性は不器用でサイオンを上手く扱えない。此処は恋人の出番だろう。
けれど女性は、重そうな買い物袋の持ち手の片方しか…。
(渡してない…)
もう片方は女性の手の中、男性と二人で買い物袋を持つ形になった。半分ずつ、というように。
男性と女性と、一緒に仲良く提げてゆく荷物。ワインの瓶まで入った袋。
サイオンはもう使っていないのか、ズシリと重たそうなのを。
それでも二人で笑い合いながら、それは楽しそうに、足取りも軽く。
(んーと…?)
どうしてサイオンを使わないの、と思っている間にバスが動き出して、遠ざかっていった二人の姿。重たい荷物を、分け合うように持ったまま。
二人で一つの買い物袋を、半分ずつ提げて重さを分かち合いながら。
サイオンを使わなかったカップル。女性の方も、本当は上手くサイオンを扱えるのに違いない。バスを降りるまでは軽々と荷物を持っていたのだし、降りる時に使うのをやめただけ。
(うんと軽そうに持っていたんじゃ、荷物は持って貰えないかも…)
それに二人で提げることにしても、幸せが減るのかもしれない。空気のように軽い荷物を二人で持っても、「半分ずつ」という気がしないだろうから。
きっとそうだ、と思ったけれども、それよりも前に、あの大荷物。ワインの瓶まで入った袋。
あれほどの買い物をして来ることを、男性が知っていたのなら…。
(迎えに行ってあげればいいのにね?)
バスで来させずに車を出すとか、買い物に一緒に出掛けるだとか。
そうしていたなら、女性は荷物を持たないで済む。車だったら乗せておくだけ。二人で買い物に出掛けたのなら、男性が持つとか、最初から二人で持つだとか。
そっちの方が、と考えたけれど。女性に重たい荷物を持たせた、男性が悪く思えたけれど。
仲が良さそうなカップルだったし、もしかしたら…。
(あの女の人、買い物のことは話してなくて…)
男性の家に招かれただけで、待ち合わせ場所がバス停だったかもしれない。到着時間を知らせておいたら、男性が其処に来てくれるから。
せっかく家に行くのだから、と女性が用意して来た食材。ワインまで買って。
(家に着いたらお料理を作って、二人でパーティー?)
それとも友達も招くのだろうか。買い物袋に詰まっていたのが全部食材なら、二人で食べるには多すぎるから。もっと大勢、人がいないと食べ切れない。
(内輪の婚約パーティーとか…?)
其処まで大袈裟なものではなくても、友達を呼んで「結婚を決めた」と披露するだとか。
(そうなのかもね?)
男性の方は、ケータリングでも頼むつもりでいたかもしれない。気軽に頼める店も多いし、家で料理をするよりもずっと楽だから。
けれど、手料理の方がいい、と女性が考えてサプライズ。
「作るから」とも、「食材も用意していくから」とも伝えないまま、一人で買い物。重たすぎる荷物を一人で運んで、あの路線バスに乗り込んで。
そうだったのかも、と合点がいった。女性が一人で大荷物なのも、サプライズの内。男性の方はビックリしたろう、「その荷物は何?」と。
一目で分かることだけど。ワインの瓶まで覗いているから、「食材なんだ」と。
女性が料理を作ろうと思って買って来たことも、それが「内緒の計画」だったということも。
(そんなのも素敵…)
待っている恋人を驚かせたくて、重たい荷物を提げていた女性。サイオンで軽く持てる筈のを、降りる時には「腕の力だけで」提げる形に切り替えたのも。
(ビックリして貰って、喜んで貰えて、荷物も二人で一緒に提げて…)
きっと幸せに違いない。どんなに荷物が重くったって。
そう思っている間に、着いた自分が降りるバス停。さっきの女性と同じに降車ボタンを押して、席から立ち上がったのだけど。バスのステップも降りたけれども…。
降りる途中で、描いた夢。
もしも自分が重たい荷物を、ドッサリと持っているのなら…。
(ハーレイがいたらいいのにね?)
降りようとしている、このバス停に。今、足がついた、この場所に。
にこやかな笑顔で、「持ってやろう」と手を差し伸べてくれるハーレイ。「重そうだから」と、「俺に寄越せ」と。
本当にハーレイが立っていたなら、「持つぞ」と言ってくれたなら…。
(それを断って、二人で荷物…)
仲良く提げて行くのがいいよ、と思うけれども、自分の荷物は通学鞄。中身はせいぜい教科書やノート、ワインの瓶なんかは入らない。重くなっても、たかが知れている鞄の重さ。
それに通学鞄というのは、生徒が一人で提げてゆくもの。学校に出掛けてゆく時に。そのために作られた鞄なのだし、一人で持つように出来ている。形そのものが。
鞄の重さも問題だけれど、形の方も大いに問題。ハーレイと二人では提げられない。
(…まだ早いってこと?)
結婚できるくらいの年にならないと、ああいう風にして重たい荷物を提げるのは。
恋人と重さを分かち合うのは、二人で一つの荷物を持って歩くには。
やってみたいと思ってみたって、自分がバスから提げて降りる荷物は、通学鞄なのだから。
(あんなの、いいな…)
重い荷物を持ってたカップル、と家に帰っても思い出す。おやつの後で、自分の部屋で。
勉強机に頬杖をついて、あのカップルの姿を頭に描く。仲が良さそうだった二人は、今頃は何をしているのかと。
男性の家に着いたら、多分、一休みしただろう。お茶を飲んだり、お菓子をつまんだりして。
買い物をして来た女性がホッと一息入れた後には、重そうだった荷物の中身の出番。中から色々出て来た食材、それで女性が料理を始めていそうな時間。
野菜を刻んだり、皮を剥いたり、肉に下味をつけたりして。パーティーの時間に、丁度美味しく出来上がるように、あれやこれやと。
(男の人も手伝うのかも…)
女性が「私が勝手に決めたことだし、一人でやるわ」と言ったって。
「ぼくもやるよ」と出来る範囲で、二人一緒にキッチンに立って。腕に覚えがある人だったら、役割分担。「これはぼくが」と、「こっちは君が」と、キッチンでの作業を割り振って。
料理が下手なら、お皿の用意をするだとか。「その料理に合いそうなお皿は、どれだろう?」と女性の意見を聞いては、使いやすいように並べていって。
料理が出来たら、お客を迎えてパーティーの始まり。
重たそうだった袋から覗いていたワイン、あれの封を切って。みんなで賑やかに乾杯して。
(ぼくが、ああいうのをやるんなら…)
ハーレイの家に行くことになる。
何ブロックも離れた所で、何も持たずに訪ねてゆくにも、路線バスのお世話にならないと無理。
ハーレイだったら、時間がたっぷりある休日なら楽々と歩いて来るけれど。…天気が良ければ、軽い運動と散歩を兼ねて。時には回り道までして。
(…ぼくは歩けないし、ただ行くだけでもバスなんだから…)
バス停に着く時間を知らせておいたら、ハーレイは待っていてくれるだろう。帰りに見掛けた、重い荷物の女性を待っていた男性のように。バス停に立って、「もうすぐだよな」と。
そのハーレイを驚かせるには、約束の時間よりもずっと早くに家を出る。
ハーレイの家の近くのバス停、其処へと向かうバスに乗らずに、違う方へと行くバスに乗りに。
いつものバス停からバスに乗っかって、まずは街まで出掛けて行って…。
さっきの女性も行ったのだろう、街の大きな食料品店。珍しい食材も沢山揃ったお店に入る。
ズラリと並んだ食料品の棚。新鮮な野菜や肉のコーナー、瓶詰や缶詰なども一杯。二階にだって棚が山ほど、揃わないものなど無さそうな店。
どんな食材の名前を挙げても、「それでしたら…」と案内される棚。そういう店で買い物から。
(ぼくは飲めないけど、ワインも買わなきゃ…)
ハーレイはお酒が大好きなのだし、ワインの瓶は欠かせない。赤ワインにしても、白ワインとかロゼワインでも。…ワインには詳しくないけれど。
(このお料理なら、どれが合いますか、って…)
店で訊いたら、きっと教えて貰える筈。予算に合わせて、「このワインなど如何ですか?」と、棚から瓶を取り出してくれて。
ワインの瓶は重たいけれども、店の籠に入れて貰って提げる。サイオンで支えられはしないし、自分の腕の力だけで。ガラスのボトルと、中に詰まったワインの重みが凄くても。
(ワインの瓶には負けないんだから…)
目当ての食材も、メモを見ながら買い込んでゆく。作ろうと思う料理の分だけ、肉や魚や野菜などを。予算の範囲で、けれど出来るだけ上等なのを。
(婚約披露のパーティーとかじゃなくっても…)
お客は誰も招いていなくて、ハーレイと二人きりの食卓でも、食材はきっとドッサリ山ほど。
身体が大きいハーレイは普段から沢山食べるし、かなりの量を用意しなくては。それに数だって多いほど喜んで貰えそう。大皿に盛った料理が一つだけより、二つも、三つも。
(お料理が幾つも並んでいたら、それだけで嬉しくなるもんね?)
食が細い自分でも、色々な料理があれば嬉しい。どれから食べようか、どういう味かと、並んだ料理を目にしただけで心が躍る。「食べ切れるかな?」と少し心配でも。
だから沢山食べるハーレイには、料理の数も多いほどいいに違いない。「こんなにあるのか」と目移りするほど、色々な料理を作って並べて。
(それだけのお料理を、ハーレイが満腹するほど作るなら…)
籠の重さは、とんでもないことになるだろう。
食材だけでも重いというのに、選んで貰ったワインの瓶まで入った籠。会計のためにレジに行くにも、よろめきながらになるのだろうか。「この籠、ホントに重いんだけど…!」と。
会計が済んだら、もう後戻りは出来ない荷物。それがどんなに重くても。食料品店の人が詰めてくれた中身が、腕が痺れるほどの量でも。
(普通の人なら、そこでサイオン…)
バスの中で女性がやっていたように、重たい荷物もサイオンで支えてヒョイと提げてゆく。凄い重さをものともしないで、楽々と店の扉の外へ。
けれど不器用な自分の場合は、そうはいかない。レジの人が「重いですよ?」と声を掛けながら渡す袋は、もう本当に「重い」もの。「ありがとうございます」と受け取ったって、サイオンでは支えられないから。
(…レジの人たち、「大丈夫かな」って見送っていそう…)
重たすぎる袋にヨロヨロしながら、店を出て行く客の姿を。「サイオンは使わないのかな?」と不思議がったり、「使わない主義の人なのかな?」と感心しつつも、危なっかしいと思ったり。
なにしろ荷物を落としてしまえば、ワインの瓶が割れそうだから。ワインの他にも瓶詰だとか、脆い食材が詰まっているかもしれないから。
(卵だって、落っことしたらメチャメチャ…)
使いたい数の卵が無事でも、割れてしまったらやっぱり悲しい。割れた卵で、予定外のお菓子や料理なんかを作るにしても。
そうならないよう、頑張るしかない。ワインの瓶も、瓶詰も、卵も割らないように。重たすぎる荷物をしっかりと持って、バス停のある所まで。
(バス停の椅子が、空いていたならいいけれど…)
運悪くどれも塞がっていたら、重たい荷物を提げたまま。人が少なければ、バス停の所で足元に置いてもいいのだけれども、人が多かったらそれも無理。他の人たちの邪魔になるから。
(大きな荷物は、立つ場所を塞いじゃうもんね?)
提げたり、抱えたりするのがマナーで、普通の人なら、サイオンの出番。軽々と支えて、バスが来るのを待てばいいだけ。荷物には指の一本だけでも添えて。
(…それが出来たら、苦労しないよ…)
バス停までの道でよろけはしないし、必死の思いで重い袋を提げてもいない。泣きそうな気分になりもしないし、「バスはまだかな?」と何度も伸び上がるだけ。
「まだ来ないかな」と時刻表を見ては、バスが走って来る方向を。
ところが、そうはいかない自分。タイプ・ブルーとは名前ばかりで、サイオンの扱いはとことん不器用。思念波さえもろくに紡げないのだし、荷物をサイオンで支えるのは無理。
(誰も気付いてくれないよね?)
サイオンで荷物を支えられないから、ヨロヨロと立っているなんて。
ワインの瓶まで詰まった袋を、腕の力だけで提げているなんて。
(そういう主義の人なんだ、って思われちゃって…)
誰も声など掛けてはくれない。椅子に座った人が「持ちましょうか?」と言ってくれるだとか、隣に立っている人が「重そうですね」と力を貸してくれるとか。
とても小さな子供だったら、「あら、お使い?」と持ってくれる人もいるのだろうに。赤ん坊を抱いたお母さんでも、空いた方の手を貸してくれるだろうに。…サイオンを使えば簡単だから。
(だけど、ぼくだと…)
チビの姿の今でさえ、きっと、「腕の筋肉を鍛えているのか」と勘違いされておしまいだろう。
ひ弱そうに見える子供だけれども、スポーツでもやっているのだろうと。
(今でもそうだし、ハーレイの家に行くような頃のぼくだったら…)
前の自分とそっくり同じ姿に育って、見た目はすっかり一人前。サイオンを上手く扱えないとは誰も思わないし、「使わない理由があるんだな」と眺めるだけ。「重そうなのに、大変だ」と。
誰一人助けてくれないのだから、バスに乗るだけでも一苦労。
バス停で待って、やっとバスが来て、乗り込む時にも提げてゆく荷物。とても重いのに。
(うんと重たいのを、バスの中まで引っ張り上げて…)
ようやくのことで乗った車内に、空いた座席はあるのだろうか。ハーレイの家に行く途中だし、きっと世間の人も休日。土曜日だとか、日曜日だとか。
(お休みの日には、空いてる路線も多いけど…)
それとは逆に混むバスもある。平日の昼間は空いていたって、休日の昼間はギュウギュウ詰め。もしもそういう路線だったら、バスの中でも荷物を提げているしかない。
(空いてる席が一つも無いなら、座れないし…)
今日の女性がやっていたように、座席の脇の床にも置けない。車内が人で一杯だったら、荷物を置くと邪魔になる。邪魔にならなくても、誰かの足が当たったら…。
(ワインの瓶とかは大丈夫でも、卵は割れちゃう…)
それが嫌なら、自分で提げているしかない。腕が痺れても、卵が壊れてしまわないように。
考えただけでも大変そうな、ハーレイの家に出掛けるまでの道のり。
ハーレイの家だけを目指すのだったら、約束の時間に間に合うバスに乗るだけなのに。ゆっくりのんびり支度をしてから、「そろそろだよね」とバス停に行って。
(でも、ハーレイを喜ばせようと思ったら…)
先に街まで出掛けて買い出し、それも自分には重すぎる量の食料品だのワインだのを。
店で買う間も「重いんだけど…」と籠を提げて歩いて、店を出た後はもっと大変。運が悪いと、ハーレイと待ち合わせているバス停に着くまで、重たい荷物を提げ続けるしかないのだから。
そうは思っても、今日のカップルがあまりに幸せそうだったから…。
あんな風に自分もやってみたいから、頑張るだけの価値はあるだろう。ハーレイの家に出掛ける前に、街の食料品店へ。食材を買って、作りたい料理に似合うワインも買い込んで。
(物凄く重たい袋になっても、頑張って提げて、バスに乗っかって…)
ハーレイの家の近所のバス停に着く。
約束の時間に、よろめきながら重たい荷物を手にして、バスのステップを降りて。
そんな姿で、自分がバスから降りて来たなら…。
(ハーレイ、きっとビックリして…)
大慌てで荷物を持とうとしてくれるだろう。
帰りに見掛けた男性みたいに、「俺に寄越せ」と手を伸ばして。あの褐色の腕を差し出して。
柔道と水泳で鍛えた逞しい腕は、重い荷物も楽々と持てるだろうけれど。「指でも持てるぞ」と言いかねないのがハーレイだけれど、其処で荷物を渡しはしない。
渡してしまったら、ハーレイに内緒で買い出しに行った意味が無くなるから。
ヨロヨロしながら其処まで運んで、頑張った意味も、消えて無くなる。
(ハーレイに持って貰うんだったら、一緒に買い出しに出掛けてるってば…)
こういう料理を作りたいから、と頼んで車を出して貰って。
あるいは二人で路線バスに乗って、街の大きな食料品店まで。
そうしなかったのは、ハーレイをビックリさせたいからでもあるけれど…。
(重たい荷物を、半分ずつ…)
二人で分けて持ちたいから。
ハーレイに持ち手の片方を渡して、もう片方は自分が持つ。二人で一つの荷物を提げに。
そうしたいのだし、ハーレイが手を伸ばして来たって、「いいよ」と断る。
「だけど、半分だけお願い」と荷物の持ち手を片方だけ。「ハーレイが持つのは、こっち側」と二つある持ち手の片方を託す。ハーレイの、褐色の逞しい手に。
そうして持ったら、半分になる荷物の重さ。半分だったら、きっとよろけもしなくて…。
(ハーレイとお喋りしながら楽しく歩いて、家に着くんだよ)
素敵だよね、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来たから、いつものテーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。いつか荷物を持ってくれる?」
ぼくが重そうな荷物を持っていたなら、ハーレイ、半分、持ってくれない…?
全部じゃなくって、半分だけ。…半分だけ持って欲しいんだけど…。
「はあ? 半分って…。どういう意味だ?」
お前の荷物を持つんだったら、お安い御用というヤツで…。重くなくても、引き受けてやるが?
ついでに重たい荷物にしたって、お前が持てる程度のヤツなら、俺にとっては軽いモンだな。
半分と言わず、全部纏めて寄越しちまっていいんだが…。俺にわざわざ断らなくても。
お前が「お願い」と言い出す前から、俺が横から奪ってそうだが?
恋人に重たい荷物を持たせるような馬鹿はいないぞ、とハーレイは余裕たっぷりだけれど。重い荷物を持っていたなら、ヒョイと取り上げてしまいそうだけど…。
「ううん、全部じゃ駄目なんだよ」
半分だけっていうのが幸せ。…ぼくとハーレイと、二人で持つのが。
ぼくが持つ分、半分になっても重たくてもね。ぼくはサイオンで持つのは無理だし、もう本当に重くっても。
…でも、それまでは一人で持ってたんだし、半分になったら、きっと楽だよ。
今日の帰りに、そういう人を見掛けたから…。
ぼくと違って、ちゃんとサイオンが使える女の人だったけど…。
凄く重そうな荷物だよね、って見ていた時には、サイオンで楽に持ち上げたんだけど…。
バス停に着いて降りる時には、サイオン、使っていなかったんだよ。
急によろけたから、ぼくと同じで不器用なのかと思ったら…。
そうじゃなくって、サイオンを使わなかったのは、わざとらしくて…。そうなったのはね…。
バス停で恋人が待っていたから、と話した帰り道の光景。二人で一つの荷物を提げて、楽しげに歩いていったカップル。
ワインの瓶まで詰め込んだ袋、それを半分ずつ持って。サイオンは使わず、重たいままで。
「あんな風に二人で歩きたいよ」と、「だから半分だけがいい」と。
「ハーレイが一人で持ってしまったら、荷物を二人で分けられないもの…」
重さも半分ずつにしたいよ、ハーレイとぼくとで、半分こで。
重たくっても半分がいい、と繰り返した。腕が痺れるほど重たい荷物を提げ続けた後でも、と。
「腕が痺れるほどって…。そんな荷物を提げ続けるって、いったいどういう状況なんだ?」
お前は何をやらかすつもりだ、家から持って来るんじゃないのか、その荷物は?
あのバスはそれほど混みはしないぞ、とハーレイが挙げる路線バス。それはハーレイの家へ直接向かう時のバスで、街へ出掛けた帰りに乗ってゆくバスではない。食料品店で買い出しを済ませた後に乗り込むだろうバスとは。
「えっとね…。ぼくが乗るバス、それじゃないから…」
バスの路線は調べてないから、空いているのかもしれないけれど…。乗ってみたらね。
でも、今のぼくは知らないわけだし、混んでいるかもしれないじゃない。…バス停だって。
ハーレイの家に出掛ける前に、買い物をして行きたいんだよ。今日の女の人みたいに。
バス停で待ってた男の人は、きっと知らなかったんだろうから…。買い物をして来ることを。
知っていたなら一緒に行くでしょ、そんな重たい荷物を一人で持たせてないで。
でも…。あのサプライズも素敵だろうと思うから…。
ぼくも買い出し、と未来の計画を打ち明けた。実行できるのはずっと先だし、話してしまっても大丈夫。その日が「いつ」かは、自分にも分からないのだから。
「サプライズって…。それで食料品店に行くってか?」
俺と待ち合わせた時間よりも早くに出掛けて、街の方まで回って来て?
食材を山ほど買い込んだ上に、ワインまで買って来るって言うのか、お前は酒は駄目なのに。
ついでにバスが混んでいたなら、重たい荷物を提げっ放しで、座れもしなくて…。
とんでもない目に遭いそうなのに、お前、街まで出掛けたいのか…?
「だって、サプライズっていうのは、そういうものでしょ?」
ハーレイがうんとビックリしちゃって、喜んでくれるのが一番。荷物がとっても重たくっても。
だから楽しみに待っていてね、と微笑んだ。そのサプライズは、ずっと未来のことだから。
「ぼくが学校に通っている間は、多分、無理だと思うから…。よっぽど運が良くないと」
早い間にハーレイと婚約できていたなら、そういうのだって出来そうだけど…。
今はチビだし、婚約どころじゃないものね。…サプライズはきっと何年も先になっちゃうから。
でも頑張る、と右手をキュッと握った。
前の生の最後にメギドで冷たく凍えた右手。ハーレイの温もりを失くした右の手。悲しい記憶を秘めた右手が、今度は凄い重さに耐える。左手も一緒に添えるけれども、重い荷物を持つために。
山ほどの食材と、作りたい料理に似合うワインが入った袋を提げてゆくために。
「ふうむ…。俺を驚かせるために、買い出しに出掛けて行くってか…」
そいつがお前の夢なのか?
俺が待ってるバス停までに、重たい荷物で苦労したって。…サイオンで支えて持てはしなくて、バス停でも、バスの中でも座れないままで…。
床とかに置けるチャンスも無くって、腕がすっかり痺れちまっても…?
サプライズで提げて来ると言うのか、とハーレイが訊くから頷いた。
「そうだよ、あれをやってみたくて…。それに荷物を二人で持つっていうのもね」
あのカップルは、とても幸せそうだったから…。
見ていたぼくまで幸せになって、こんな夢まで見られるくらいに。半分ずつの荷物がいいとか、ハーレイの家に出掛ける前には、街まで買い出しに行こうとか…。
いいと思うでしょ、ハーレイだって…?
そのサプライズ、と鳶色の瞳を覗き込んだ。「ハーレイだって、嬉しくならない?」と。
「…それはまあ…。俺だって、お前と二人で荷物を持つのは、楽しそうだと思うんだが…」
お前の夢の方はともかく、俺としてはだ…。
そういった時は、俺がお前を迎えに出掛けて行くのがいいな。…バス停で待っているよりも。
迎えに行くなら車の出番で、車を出したら、もちろん街での買い出しもだ…。
お前と一緒にしたいと思うわけなんだが?
バス停で待つよりそっちがいいな、とハーレイが言うから驚いた。自分の夢とは逆様だから。
「…そうなの?」
ハーレイは迎えに来る方がいいわけ、バス停で待っているよりも…?
買い出しもぼくと一緒に行くって、本当にそんなのがいいの…?
それじゃサプライズにならないじゃない、と首を傾げた。楽しさが半減しそうだから。
「ぼくと一緒に出掛けて行ったら、何を作るのか分かってしまうよ…?」
メモを見ながら籠にどんどん入れてる間は、分からないかもしれないけれど…。
ワインを買ったらバレてしまうよ、ぼくはワインの選び方なんか分からないんだもの。…お店の人に訊くしかないでしょ、「このお料理に合うのは、どれなんですか?」って。
ハーレイも横で聞いていたなら、おしまいじゃない…!
ぼくが作りたいお料理がバレちゃう、と肩を竦めた。食材だけでは謎のままでも、ワイン選びで料理の名前がバレるのだから。
「バレるって…。そんなに必死に隠さなくても、食材を選ぶ所から一緒がいいと思わんか?」
こういう料理を作るんだから、と言ってくれれば、俺だって食材を選んでやれる。
同じ野菜を買うんだったら、こっちの方がお勧めだとか。…肉なら、これが美味そうだとか。
サプライズも悪くはないんだがなあ、共同作業も楽しいもんだぞ?
食材選びから二人でやって、料理も一緒に作るってヤツ。…俺がお前を手伝って。
それに第一、お前の腕ってヤツがだな…。
お前、サプライズで見事に料理が出来るのか…?
俺の舌を唸らせるほどの美味い料理が、と尋ねられたら自信が無い。今のハーレイの料理の腕はなかなかのもの。プロ顔負けとも言えそうなほどに。
(前に財布を忘れた時に…)
昼食代を借りに行ったら、「丁度良かった」と、ハーレイのお弁当を分けて貰えた。
他の先生たちは留守だから、とハーレイが作って来た特製弁当。「クラシックスタイルだぞ」と自慢していた、二段重ねの本格的な和食のもの。
(あんなのも作っちゃうんだし…)
パウンドケーキも焼けるハーレイ。
「どうしても、俺のおふくろの味には焼けないんだが」などと言ってはいても。
それほどの料理の腕の持ち主、そのハーレイに「美味い」と喜んで貰える料理は、今の自分には作れない。少なくとも、今の段階では。
料理は調理実習くらいしか経験が無くて、レシピを見ながらそれを再現出来たら上等。
結婚が決まって母に教えて貰うにしたって、ハーレイほどの腕に上達するには時間が必要。
(…ママに習って、頑張ったって…)
結婚式の日まではアッと言う間で、サプライズの日は、それまでの何処か。料理の腕は、大して上がっていないのだろう。今と全く変わらないままか、少しはマシという程度で。
「…ハーレイを感心させるお料理、難しいかも…」
どれも上手に作れないとか、一つくらいしか上手く出来ないとか…。そうなっちゃいそう。
ぼくは頑張ったつもりでいたって、ハーレイの方が、ずっとお料理、上手だから…。
凄いお料理はきっと無理だよ、と項垂れた。本当にそうなるだろうから。
「ほらな。お前が一人で買いに出掛けて、重たい荷物を提げて来たって、その有様だ」
そうなるよりかは、買い出しの時から一緒に出掛けて、食材も俺が選んだ方が確かだぞ?
何を作りたいのか言ってくれれば、肉も魚も、野菜も選んでやれるから。
食材選びも、日頃の経験ってヤツが大切で…。お前、目利きも出来ないだろうが。
違うのか、と言われれば、そう。食材を買いに出掛けた経験はまるで無いから、どういう具合に選べばいいのか分かりはしない。魚だったら、魚としか。肉にしたって、豚や牛としか。
「そうだよね…。ぼくだと、ホントに分かってないから…」
シチュー用とか、ステーキ用とか、そういう風に書いてあるのしか選べないかも…。
ハーレイだったら、「この料理にはこれだ」って選べるんだろうけど。色々なのがお店に並んでいても。お勧めの魚が色々あっても。
だからハーレイに任せておくのがいいんだろうけど、でも、荷物…。
お店で沢山買った荷物を、ハーレイと二人で持ちたいんだよ。
お料理に合うワインも選んで、うんと重たくなった荷物を。…レジで袋に詰めて貰ったら、凄い重さでよろけそうなのを。…普通の人なら、サイオンで支えて持つようなヤツを。
それをハーレイと分けたいんだけど…。ぼくが半分、ハーレイが半分。
ホントに二人で半分ずつ、と頼み込んだ。それでいいなら、買い出しも一緒に行くから、と。
「おいおいおい…。荷物を二人で持つんだったら、買い出しも俺と一緒でいいって…」
お前ってヤツは、サプライズで料理をするよりも前に、其処がいいのか?
俺に内緒で買い出しに行って、重たい荷物を提げて来ようって理由はそれか…?
美味い料理で驚かせるより、凄い荷物で俺の度肝を抜くのか、バスからヨロヨロ降りて来て…?
「半分持って」と頼むためにだけ、その大荷物を抱えてやって来るってか…?
なんてヤツだ、とハーレイは呆れているけれど。「荷物なのか?」と目まで丸いけれども…。
「ぼくが最初に、羨ましいな、って思った時には、荷物を持ってただけだったしね…」
あのカップルは、二人で一つの荷物を持っていただけ。話の中身も聞こえなかったし…。
重たそうな荷物を持ってた理由は何だったのかな、っていうのは、後から考えたこと。
バスが走り出してからと、家に帰ってからとで、本当のことは謎なんだけど…。
でも、ハーレイだって、ぼくの想像、間違っていないと思うでしょ?
「まあ…。当たりだろうな、お前が色々考えてるヤツで」
きっと今頃は、パーティーの用意で大忙しって所だろう。二人で料理か、女性の腕の見せ所かは知らんがな。…こればっかりは、現場を見ないと分からんことだ。知り合いでなけりゃ。
それでお前は、あれこれ想像している間に、色々とやりたくなっちまった、と。
荷物を二人で持つだけじゃなくて、買い出しに出掛けてサプライズだとか。
しかし、お前は料理の経験は少ないわけだし、腕を磨けるチャンスの方も無さそうだしな…?
料理は俺に任せておいてだ、荷物だけ、お前も持ってみるか?
お前の憧れの山ほどの荷物は、俺が選んで買ってやるから。食材も。それにワインの方も。
それでどうだ、とハーレイが訊くから、「いいの?」と瞳を瞬かせた。食材選びも、料理に合うワインを選ぶのも全部、ハーレイだなんて。…自分は荷物を持つだけだなんて。
「そんなのでいいの、ぼくは荷物を持つだけなんて…?」
半分だけ持ってみたいから、って我儘を言ってるだけだよ、それじゃ…?
「我儘も何も、美味い料理の方がいいだろ? 同じ食うなら」
お前が悪戦苦闘するより、経験者の俺に任せておけ。うんと美味いのを食わせてやるから。
前の俺は厨房出身だったし、今の俺も料理は好きだしな?
お前は買い出しの荷物だけ持ってくれればいい、と言われたけれど…。
「ハーレイがお料理するんだったら、手伝いたいな。…料理をするのは無理そうだけど」
前のぼくだって、ハーレイが厨房にいた頃だったら、タマネギを刻んだりしていたよ?
ジャガイモの皮も剥いてたんだし、今でも少しは手伝えると思う。
調理実習でやったこととか、簡単なことしか出来ないけれど…。でも…。
何もやらないより、ずっとマシだと思うから…。
買い出しを二人でやった時には、ぼくもハーレイのお手伝い…。駄目…?
迷惑をかけたりしないから、と頼んでみた。「ぼくも手伝いたいんだけれど」と。
ハーレイの邪魔にならない範囲で、お手伝い。タマネギを細かく刻んでみるとか、ジャガイモの皮を剥くだとか。
「ぼくがやったら焦げちゃいそうだし、お鍋とかには触らないから…。お手伝いだけ」
包丁で怪我をしそうだったら、「駄目だ」って止めてくれればいいから。
「手伝いなあ…。そのくらいなら、いいだろう」
同じ切るのでも、カボチャは任せられないが…。あれは固いし、お前だと怪我をしかねない。
だから何でもいいわけじゃないが、やりたいことは俺に訊け。「やっていいか」と。
大丈夫だな、と思った時には任せるから。
お前のペースでやればいいさ、とハーレイは笑顔で許してくれた。俺は急かしはしないから、と「落ち着いてゆっくりやるといい」と。
「ホント?」
ハーレイがやるより時間がかかっても、いいって言うの?
鮮度が命のお魚とかだと、ぼくのペースじゃ駄目なんだけど…。
「安心しろ。その辺のことも、ちゃんと考えて任せることにするから。…お前の分の作業はな」
お前が楽しんでするんだったら、止める理由は無いんだし…。
重たい荷物を持ちたがるのも、俺は「駄目だ」と止めにかかってはいないんだから。
ただし荷物は半分だけだぞ、サプライズとやらで全部を一人で買って来るなよ?
俺が一緒に買いに出掛けて、最初から半分ずつだからな、と念を押された。一人で重たい荷物を持つなと、「サプライズよりは、二人で料理だ」と。
料理と言っても、ハーレイが料理をするのだけれど。自分は手伝うだけなのだけれど。
「ありがとう、ハーレイ!」
最初から半分ずつの荷物でも、二人で持てたら幸せだから…。
お料理だって、ハーレイがやってるのを横で手伝えたら、それだけでぼくは充分だから…!
ハーレイが「一緒に行こうな」と約束してくれたから、いつか二人で買い出しに行こう。
街の大きな食料品店まで二人で出掛けて、山のように買って、重たい荷物を半分ずつ持とう。
ワインの瓶まで入った袋の、持ち手を二人で片方ずつ。重さを二人で半分に分けて。
家に着いたら、ハーレイがそれで料理を作る。「今日はこれだな」と、慣れた手つきで。
そのハーレイを手伝いながら、色々なことを教えて貰おう。料理の他にも、様々なことを。
(お皿は其処とか、お鍋は此処とか…)
そういう風に習って覚えて、ハーレイの家に慣れていったら…。
(結婚だよね?)
待ち焦がれていた結婚の日がやって来るから、その頃には料理も覚えていたい。
幾つも上手に作るのは無理でも、一つくらいは「美味いな」と言って貰えるものを。
ハーレイに「美味い!」と褒めて貰えて、沢山食べて貰える何かを。
(何でも美味しいって言いそうだけど…)
嬉しそうな顔で食べて貰える何かが作れたらいい。
基本の中の基本みたいな料理でいいから、自信を持って作れる料理。
(ママが焼いてるパウンドケーキは、ハーレイのお母さんのとおんなじ味で…)
おふくろの味だと聞いているから、あのケーキはマスターするつもり。
そうは言っても、パウンドケーキだけが自慢のお嫁さんより、やっぱり得意な料理も持ちたい。
「おかえりなさい!」とハーレイを迎えて、「今日はこれだよ」と披露できる何か。
重たい荷物を提げて二人で買い出しをしたら、そういう料理も覚えられたらいい。
今の腕ではまるで駄目でも、半分ずつの荷物を持てる時が来たなら…。
半分ずつの荷物・了
※ブルーが見掛けた、荷物の重さを分かち合うカップル。将来、やってみたいと描いた夢。
叶う時は来そうですけど、ハーレイに任せる部分が大きいかも。荷物の重さを分ける程度で。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
ドッサリだよね、とブルーが眺めた若い女性。学校からの帰りに乗り込んだバスで。
先から乗っていた女性だけれども、彼女が座った座席の横の床。其処に置かれている荷物。膝の上にあるバッグとは別に、それは重そうな荷物が一つ。
(ワインの瓶まで入ってる…)
蓋が無いタイプの買い物袋で、溢れるほどにギッシリ詰まった中身。ワインの瓶も覗いている。町の中心部の食料品店まで行って来たのだろう。珍しい食材も豊富に揃った、大きな店へ。
(あれだけ重たい荷物だと…)
サイオンを使って持っていたって、マナー違反とは言われない。
誰もがミュウになった時代は、「人間らしく」が社会のマナーでルール。出来るだけサイオンは使わないのが、一人前の大人というもの。本当に困ってしまった時や、必要な時を除いては。
手に余る重さの荷物を持つなら、サイオンを使ってもかまわない。サイオンも「力」の一つではある。筋肉の力ではないというだけで。
それを使って「重い荷物」を軽々と運んでいたとしたって、皆、温かく見守るだけ。落とさずに頑張って運べるようにと、心の中で応援しながら。
あの女性だって、きっとそうしたのだろう。買った荷物をそうやって持って、バスに乗り込んで家に帰る途中。今は荷物は床の上だし、持つ必要は無いのだけれど。
(ぼくだと、サイオン、無理なんだけどね…)
どんなに重い荷物であろうと、腕の力だけで持つしかない。不器用すぎる今の自分のサイオン、使いたくても使えない力。「これを持ちたい」と考えたって。
(いいな…)
ああいう荷物を、サイオンで軽く持ち上げること。それが出来たら、と願ってしまう。
そうする間に、女性は降車ボタンを押した。次のバス停で降りるために。
バスが停まったら、バッグを持つのとは違う方の手で、床の買い物袋を持った。腰掛けていた席から立ち上がりながら。
(やっぱりサイオン…)
軽そうにスッと持ち上げたから、間違いない。サイオンで支えて軽くした荷物。空気みたいに。
なのに…。
(えっ?)
羨ましいな、と眺めた女性の足がよろけた。降りるために、お金を払った所で。
いきなり、重たくなったらしい荷物。あの重そうな買い物袋に、引き摺られるようにバランスが崩れてしまった身体。一瞬だけれど。
(…失敗したの?)
もうサイオンでは支えていない買い物袋。とても重そうに提げている女性。よろけていなくても見ただけで分かる、「荷物が重い」という事実。さっきは軽く持ち上げたのに。
(サイオンで上手く支えられないんだ…)
集中していれば出来るけれども、何かのはずみで駄目になる人。「お金を払おう」と意識が別の方へと向いた途端に、サイオンが使えなくなったのだろう。それで慌てて、元には戻せないまま。
(ホントに重そう…)
ぼくみたいに不器用な人なんだろうか、と降りてゆく女性を見送っていたら…。
(あ…!)
降りた先のバス停にいた、若い男性。彼が女性の大きな荷物に手を伸ばした。ごくごく自然に、「ぼくが持つよ」という風に。
(持ってあげるんだ!)
恋人だったら当然だよね、と思った荷物。あれほど重い荷物なのだし、おまけに女性は不器用でサイオンを上手く扱えない。此処は恋人の出番だろう。
けれど女性は、重そうな買い物袋の持ち手の片方しか…。
(渡してない…)
もう片方は女性の手の中、男性と二人で買い物袋を持つ形になった。半分ずつ、というように。
男性と女性と、一緒に仲良く提げてゆく荷物。ワインの瓶まで入った袋。
サイオンはもう使っていないのか、ズシリと重たそうなのを。
それでも二人で笑い合いながら、それは楽しそうに、足取りも軽く。
(んーと…?)
どうしてサイオンを使わないの、と思っている間にバスが動き出して、遠ざかっていった二人の姿。重たい荷物を、分け合うように持ったまま。
二人で一つの買い物袋を、半分ずつ提げて重さを分かち合いながら。
サイオンを使わなかったカップル。女性の方も、本当は上手くサイオンを扱えるのに違いない。バスを降りるまでは軽々と荷物を持っていたのだし、降りる時に使うのをやめただけ。
(うんと軽そうに持っていたんじゃ、荷物は持って貰えないかも…)
それに二人で提げることにしても、幸せが減るのかもしれない。空気のように軽い荷物を二人で持っても、「半分ずつ」という気がしないだろうから。
きっとそうだ、と思ったけれども、それよりも前に、あの大荷物。ワインの瓶まで入った袋。
あれほどの買い物をして来ることを、男性が知っていたのなら…。
(迎えに行ってあげればいいのにね?)
バスで来させずに車を出すとか、買い物に一緒に出掛けるだとか。
そうしていたなら、女性は荷物を持たないで済む。車だったら乗せておくだけ。二人で買い物に出掛けたのなら、男性が持つとか、最初から二人で持つだとか。
そっちの方が、と考えたけれど。女性に重たい荷物を持たせた、男性が悪く思えたけれど。
仲が良さそうなカップルだったし、もしかしたら…。
(あの女の人、買い物のことは話してなくて…)
男性の家に招かれただけで、待ち合わせ場所がバス停だったかもしれない。到着時間を知らせておいたら、男性が其処に来てくれるから。
せっかく家に行くのだから、と女性が用意して来た食材。ワインまで買って。
(家に着いたらお料理を作って、二人でパーティー?)
それとも友達も招くのだろうか。買い物袋に詰まっていたのが全部食材なら、二人で食べるには多すぎるから。もっと大勢、人がいないと食べ切れない。
(内輪の婚約パーティーとか…?)
其処まで大袈裟なものではなくても、友達を呼んで「結婚を決めた」と披露するだとか。
(そうなのかもね?)
男性の方は、ケータリングでも頼むつもりでいたかもしれない。気軽に頼める店も多いし、家で料理をするよりもずっと楽だから。
けれど、手料理の方がいい、と女性が考えてサプライズ。
「作るから」とも、「食材も用意していくから」とも伝えないまま、一人で買い物。重たすぎる荷物を一人で運んで、あの路線バスに乗り込んで。
そうだったのかも、と合点がいった。女性が一人で大荷物なのも、サプライズの内。男性の方はビックリしたろう、「その荷物は何?」と。
一目で分かることだけど。ワインの瓶まで覗いているから、「食材なんだ」と。
女性が料理を作ろうと思って買って来たことも、それが「内緒の計画」だったということも。
(そんなのも素敵…)
待っている恋人を驚かせたくて、重たい荷物を提げていた女性。サイオンで軽く持てる筈のを、降りる時には「腕の力だけで」提げる形に切り替えたのも。
(ビックリして貰って、喜んで貰えて、荷物も二人で一緒に提げて…)
きっと幸せに違いない。どんなに荷物が重くったって。
そう思っている間に、着いた自分が降りるバス停。さっきの女性と同じに降車ボタンを押して、席から立ち上がったのだけど。バスのステップも降りたけれども…。
降りる途中で、描いた夢。
もしも自分が重たい荷物を、ドッサリと持っているのなら…。
(ハーレイがいたらいいのにね?)
降りようとしている、このバス停に。今、足がついた、この場所に。
にこやかな笑顔で、「持ってやろう」と手を差し伸べてくれるハーレイ。「重そうだから」と、「俺に寄越せ」と。
本当にハーレイが立っていたなら、「持つぞ」と言ってくれたなら…。
(それを断って、二人で荷物…)
仲良く提げて行くのがいいよ、と思うけれども、自分の荷物は通学鞄。中身はせいぜい教科書やノート、ワインの瓶なんかは入らない。重くなっても、たかが知れている鞄の重さ。
それに通学鞄というのは、生徒が一人で提げてゆくもの。学校に出掛けてゆく時に。そのために作られた鞄なのだし、一人で持つように出来ている。形そのものが。
鞄の重さも問題だけれど、形の方も大いに問題。ハーレイと二人では提げられない。
(…まだ早いってこと?)
結婚できるくらいの年にならないと、ああいう風にして重たい荷物を提げるのは。
恋人と重さを分かち合うのは、二人で一つの荷物を持って歩くには。
やってみたいと思ってみたって、自分がバスから提げて降りる荷物は、通学鞄なのだから。
(あんなの、いいな…)
重い荷物を持ってたカップル、と家に帰っても思い出す。おやつの後で、自分の部屋で。
勉強机に頬杖をついて、あのカップルの姿を頭に描く。仲が良さそうだった二人は、今頃は何をしているのかと。
男性の家に着いたら、多分、一休みしただろう。お茶を飲んだり、お菓子をつまんだりして。
買い物をして来た女性がホッと一息入れた後には、重そうだった荷物の中身の出番。中から色々出て来た食材、それで女性が料理を始めていそうな時間。
野菜を刻んだり、皮を剥いたり、肉に下味をつけたりして。パーティーの時間に、丁度美味しく出来上がるように、あれやこれやと。
(男の人も手伝うのかも…)
女性が「私が勝手に決めたことだし、一人でやるわ」と言ったって。
「ぼくもやるよ」と出来る範囲で、二人一緒にキッチンに立って。腕に覚えがある人だったら、役割分担。「これはぼくが」と、「こっちは君が」と、キッチンでの作業を割り振って。
料理が下手なら、お皿の用意をするだとか。「その料理に合いそうなお皿は、どれだろう?」と女性の意見を聞いては、使いやすいように並べていって。
料理が出来たら、お客を迎えてパーティーの始まり。
重たそうだった袋から覗いていたワイン、あれの封を切って。みんなで賑やかに乾杯して。
(ぼくが、ああいうのをやるんなら…)
ハーレイの家に行くことになる。
何ブロックも離れた所で、何も持たずに訪ねてゆくにも、路線バスのお世話にならないと無理。
ハーレイだったら、時間がたっぷりある休日なら楽々と歩いて来るけれど。…天気が良ければ、軽い運動と散歩を兼ねて。時には回り道までして。
(…ぼくは歩けないし、ただ行くだけでもバスなんだから…)
バス停に着く時間を知らせておいたら、ハーレイは待っていてくれるだろう。帰りに見掛けた、重い荷物の女性を待っていた男性のように。バス停に立って、「もうすぐだよな」と。
そのハーレイを驚かせるには、約束の時間よりもずっと早くに家を出る。
ハーレイの家の近くのバス停、其処へと向かうバスに乗らずに、違う方へと行くバスに乗りに。
いつものバス停からバスに乗っかって、まずは街まで出掛けて行って…。
さっきの女性も行ったのだろう、街の大きな食料品店。珍しい食材も沢山揃ったお店に入る。
ズラリと並んだ食料品の棚。新鮮な野菜や肉のコーナー、瓶詰や缶詰なども一杯。二階にだって棚が山ほど、揃わないものなど無さそうな店。
どんな食材の名前を挙げても、「それでしたら…」と案内される棚。そういう店で買い物から。
(ぼくは飲めないけど、ワインも買わなきゃ…)
ハーレイはお酒が大好きなのだし、ワインの瓶は欠かせない。赤ワインにしても、白ワインとかロゼワインでも。…ワインには詳しくないけれど。
(このお料理なら、どれが合いますか、って…)
店で訊いたら、きっと教えて貰える筈。予算に合わせて、「このワインなど如何ですか?」と、棚から瓶を取り出してくれて。
ワインの瓶は重たいけれども、店の籠に入れて貰って提げる。サイオンで支えられはしないし、自分の腕の力だけで。ガラスのボトルと、中に詰まったワインの重みが凄くても。
(ワインの瓶には負けないんだから…)
目当ての食材も、メモを見ながら買い込んでゆく。作ろうと思う料理の分だけ、肉や魚や野菜などを。予算の範囲で、けれど出来るだけ上等なのを。
(婚約披露のパーティーとかじゃなくっても…)
お客は誰も招いていなくて、ハーレイと二人きりの食卓でも、食材はきっとドッサリ山ほど。
身体が大きいハーレイは普段から沢山食べるし、かなりの量を用意しなくては。それに数だって多いほど喜んで貰えそう。大皿に盛った料理が一つだけより、二つも、三つも。
(お料理が幾つも並んでいたら、それだけで嬉しくなるもんね?)
食が細い自分でも、色々な料理があれば嬉しい。どれから食べようか、どういう味かと、並んだ料理を目にしただけで心が躍る。「食べ切れるかな?」と少し心配でも。
だから沢山食べるハーレイには、料理の数も多いほどいいに違いない。「こんなにあるのか」と目移りするほど、色々な料理を作って並べて。
(それだけのお料理を、ハーレイが満腹するほど作るなら…)
籠の重さは、とんでもないことになるだろう。
食材だけでも重いというのに、選んで貰ったワインの瓶まで入った籠。会計のためにレジに行くにも、よろめきながらになるのだろうか。「この籠、ホントに重いんだけど…!」と。
会計が済んだら、もう後戻りは出来ない荷物。それがどんなに重くても。食料品店の人が詰めてくれた中身が、腕が痺れるほどの量でも。
(普通の人なら、そこでサイオン…)
バスの中で女性がやっていたように、重たい荷物もサイオンで支えてヒョイと提げてゆく。凄い重さをものともしないで、楽々と店の扉の外へ。
けれど不器用な自分の場合は、そうはいかない。レジの人が「重いですよ?」と声を掛けながら渡す袋は、もう本当に「重い」もの。「ありがとうございます」と受け取ったって、サイオンでは支えられないから。
(…レジの人たち、「大丈夫かな」って見送っていそう…)
重たすぎる袋にヨロヨロしながら、店を出て行く客の姿を。「サイオンは使わないのかな?」と不思議がったり、「使わない主義の人なのかな?」と感心しつつも、危なっかしいと思ったり。
なにしろ荷物を落としてしまえば、ワインの瓶が割れそうだから。ワインの他にも瓶詰だとか、脆い食材が詰まっているかもしれないから。
(卵だって、落っことしたらメチャメチャ…)
使いたい数の卵が無事でも、割れてしまったらやっぱり悲しい。割れた卵で、予定外のお菓子や料理なんかを作るにしても。
そうならないよう、頑張るしかない。ワインの瓶も、瓶詰も、卵も割らないように。重たすぎる荷物をしっかりと持って、バス停のある所まで。
(バス停の椅子が、空いていたならいいけれど…)
運悪くどれも塞がっていたら、重たい荷物を提げたまま。人が少なければ、バス停の所で足元に置いてもいいのだけれども、人が多かったらそれも無理。他の人たちの邪魔になるから。
(大きな荷物は、立つ場所を塞いじゃうもんね?)
提げたり、抱えたりするのがマナーで、普通の人なら、サイオンの出番。軽々と支えて、バスが来るのを待てばいいだけ。荷物には指の一本だけでも添えて。
(…それが出来たら、苦労しないよ…)
バス停までの道でよろけはしないし、必死の思いで重い袋を提げてもいない。泣きそうな気分になりもしないし、「バスはまだかな?」と何度も伸び上がるだけ。
「まだ来ないかな」と時刻表を見ては、バスが走って来る方向を。
ところが、そうはいかない自分。タイプ・ブルーとは名前ばかりで、サイオンの扱いはとことん不器用。思念波さえもろくに紡げないのだし、荷物をサイオンで支えるのは無理。
(誰も気付いてくれないよね?)
サイオンで荷物を支えられないから、ヨロヨロと立っているなんて。
ワインの瓶まで詰まった袋を、腕の力だけで提げているなんて。
(そういう主義の人なんだ、って思われちゃって…)
誰も声など掛けてはくれない。椅子に座った人が「持ちましょうか?」と言ってくれるだとか、隣に立っている人が「重そうですね」と力を貸してくれるとか。
とても小さな子供だったら、「あら、お使い?」と持ってくれる人もいるのだろうに。赤ん坊を抱いたお母さんでも、空いた方の手を貸してくれるだろうに。…サイオンを使えば簡単だから。
(だけど、ぼくだと…)
チビの姿の今でさえ、きっと、「腕の筋肉を鍛えているのか」と勘違いされておしまいだろう。
ひ弱そうに見える子供だけれども、スポーツでもやっているのだろうと。
(今でもそうだし、ハーレイの家に行くような頃のぼくだったら…)
前の自分とそっくり同じ姿に育って、見た目はすっかり一人前。サイオンを上手く扱えないとは誰も思わないし、「使わない理由があるんだな」と眺めるだけ。「重そうなのに、大変だ」と。
誰一人助けてくれないのだから、バスに乗るだけでも一苦労。
バス停で待って、やっとバスが来て、乗り込む時にも提げてゆく荷物。とても重いのに。
(うんと重たいのを、バスの中まで引っ張り上げて…)
ようやくのことで乗った車内に、空いた座席はあるのだろうか。ハーレイの家に行く途中だし、きっと世間の人も休日。土曜日だとか、日曜日だとか。
(お休みの日には、空いてる路線も多いけど…)
それとは逆に混むバスもある。平日の昼間は空いていたって、休日の昼間はギュウギュウ詰め。もしもそういう路線だったら、バスの中でも荷物を提げているしかない。
(空いてる席が一つも無いなら、座れないし…)
今日の女性がやっていたように、座席の脇の床にも置けない。車内が人で一杯だったら、荷物を置くと邪魔になる。邪魔にならなくても、誰かの足が当たったら…。
(ワインの瓶とかは大丈夫でも、卵は割れちゃう…)
それが嫌なら、自分で提げているしかない。腕が痺れても、卵が壊れてしまわないように。
考えただけでも大変そうな、ハーレイの家に出掛けるまでの道のり。
ハーレイの家だけを目指すのだったら、約束の時間に間に合うバスに乗るだけなのに。ゆっくりのんびり支度をしてから、「そろそろだよね」とバス停に行って。
(でも、ハーレイを喜ばせようと思ったら…)
先に街まで出掛けて買い出し、それも自分には重すぎる量の食料品だのワインだのを。
店で買う間も「重いんだけど…」と籠を提げて歩いて、店を出た後はもっと大変。運が悪いと、ハーレイと待ち合わせているバス停に着くまで、重たい荷物を提げ続けるしかないのだから。
そうは思っても、今日のカップルがあまりに幸せそうだったから…。
あんな風に自分もやってみたいから、頑張るだけの価値はあるだろう。ハーレイの家に出掛ける前に、街の食料品店へ。食材を買って、作りたい料理に似合うワインも買い込んで。
(物凄く重たい袋になっても、頑張って提げて、バスに乗っかって…)
ハーレイの家の近所のバス停に着く。
約束の時間に、よろめきながら重たい荷物を手にして、バスのステップを降りて。
そんな姿で、自分がバスから降りて来たなら…。
(ハーレイ、きっとビックリして…)
大慌てで荷物を持とうとしてくれるだろう。
帰りに見掛けた男性みたいに、「俺に寄越せ」と手を伸ばして。あの褐色の腕を差し出して。
柔道と水泳で鍛えた逞しい腕は、重い荷物も楽々と持てるだろうけれど。「指でも持てるぞ」と言いかねないのがハーレイだけれど、其処で荷物を渡しはしない。
渡してしまったら、ハーレイに内緒で買い出しに行った意味が無くなるから。
ヨロヨロしながら其処まで運んで、頑張った意味も、消えて無くなる。
(ハーレイに持って貰うんだったら、一緒に買い出しに出掛けてるってば…)
こういう料理を作りたいから、と頼んで車を出して貰って。
あるいは二人で路線バスに乗って、街の大きな食料品店まで。
そうしなかったのは、ハーレイをビックリさせたいからでもあるけれど…。
(重たい荷物を、半分ずつ…)
二人で分けて持ちたいから。
ハーレイに持ち手の片方を渡して、もう片方は自分が持つ。二人で一つの荷物を提げに。
そうしたいのだし、ハーレイが手を伸ばして来たって、「いいよ」と断る。
「だけど、半分だけお願い」と荷物の持ち手を片方だけ。「ハーレイが持つのは、こっち側」と二つある持ち手の片方を託す。ハーレイの、褐色の逞しい手に。
そうして持ったら、半分になる荷物の重さ。半分だったら、きっとよろけもしなくて…。
(ハーレイとお喋りしながら楽しく歩いて、家に着くんだよ)
素敵だよね、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来たから、いつものテーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。いつか荷物を持ってくれる?」
ぼくが重そうな荷物を持っていたなら、ハーレイ、半分、持ってくれない…?
全部じゃなくって、半分だけ。…半分だけ持って欲しいんだけど…。
「はあ? 半分って…。どういう意味だ?」
お前の荷物を持つんだったら、お安い御用というヤツで…。重くなくても、引き受けてやるが?
ついでに重たい荷物にしたって、お前が持てる程度のヤツなら、俺にとっては軽いモンだな。
半分と言わず、全部纏めて寄越しちまっていいんだが…。俺にわざわざ断らなくても。
お前が「お願い」と言い出す前から、俺が横から奪ってそうだが?
恋人に重たい荷物を持たせるような馬鹿はいないぞ、とハーレイは余裕たっぷりだけれど。重い荷物を持っていたなら、ヒョイと取り上げてしまいそうだけど…。
「ううん、全部じゃ駄目なんだよ」
半分だけっていうのが幸せ。…ぼくとハーレイと、二人で持つのが。
ぼくが持つ分、半分になっても重たくてもね。ぼくはサイオンで持つのは無理だし、もう本当に重くっても。
…でも、それまでは一人で持ってたんだし、半分になったら、きっと楽だよ。
今日の帰りに、そういう人を見掛けたから…。
ぼくと違って、ちゃんとサイオンが使える女の人だったけど…。
凄く重そうな荷物だよね、って見ていた時には、サイオンで楽に持ち上げたんだけど…。
バス停に着いて降りる時には、サイオン、使っていなかったんだよ。
急によろけたから、ぼくと同じで不器用なのかと思ったら…。
そうじゃなくって、サイオンを使わなかったのは、わざとらしくて…。そうなったのはね…。
バス停で恋人が待っていたから、と話した帰り道の光景。二人で一つの荷物を提げて、楽しげに歩いていったカップル。
ワインの瓶まで詰め込んだ袋、それを半分ずつ持って。サイオンは使わず、重たいままで。
「あんな風に二人で歩きたいよ」と、「だから半分だけがいい」と。
「ハーレイが一人で持ってしまったら、荷物を二人で分けられないもの…」
重さも半分ずつにしたいよ、ハーレイとぼくとで、半分こで。
重たくっても半分がいい、と繰り返した。腕が痺れるほど重たい荷物を提げ続けた後でも、と。
「腕が痺れるほどって…。そんな荷物を提げ続けるって、いったいどういう状況なんだ?」
お前は何をやらかすつもりだ、家から持って来るんじゃないのか、その荷物は?
あのバスはそれほど混みはしないぞ、とハーレイが挙げる路線バス。それはハーレイの家へ直接向かう時のバスで、街へ出掛けた帰りに乗ってゆくバスではない。食料品店で買い出しを済ませた後に乗り込むだろうバスとは。
「えっとね…。ぼくが乗るバス、それじゃないから…」
バスの路線は調べてないから、空いているのかもしれないけれど…。乗ってみたらね。
でも、今のぼくは知らないわけだし、混んでいるかもしれないじゃない。…バス停だって。
ハーレイの家に出掛ける前に、買い物をして行きたいんだよ。今日の女の人みたいに。
バス停で待ってた男の人は、きっと知らなかったんだろうから…。買い物をして来ることを。
知っていたなら一緒に行くでしょ、そんな重たい荷物を一人で持たせてないで。
でも…。あのサプライズも素敵だろうと思うから…。
ぼくも買い出し、と未来の計画を打ち明けた。実行できるのはずっと先だし、話してしまっても大丈夫。その日が「いつ」かは、自分にも分からないのだから。
「サプライズって…。それで食料品店に行くってか?」
俺と待ち合わせた時間よりも早くに出掛けて、街の方まで回って来て?
食材を山ほど買い込んだ上に、ワインまで買って来るって言うのか、お前は酒は駄目なのに。
ついでにバスが混んでいたなら、重たい荷物を提げっ放しで、座れもしなくて…。
とんでもない目に遭いそうなのに、お前、街まで出掛けたいのか…?
「だって、サプライズっていうのは、そういうものでしょ?」
ハーレイがうんとビックリしちゃって、喜んでくれるのが一番。荷物がとっても重たくっても。
だから楽しみに待っていてね、と微笑んだ。そのサプライズは、ずっと未来のことだから。
「ぼくが学校に通っている間は、多分、無理だと思うから…。よっぽど運が良くないと」
早い間にハーレイと婚約できていたなら、そういうのだって出来そうだけど…。
今はチビだし、婚約どころじゃないものね。…サプライズはきっと何年も先になっちゃうから。
でも頑張る、と右手をキュッと握った。
前の生の最後にメギドで冷たく凍えた右手。ハーレイの温もりを失くした右の手。悲しい記憶を秘めた右手が、今度は凄い重さに耐える。左手も一緒に添えるけれども、重い荷物を持つために。
山ほどの食材と、作りたい料理に似合うワインが入った袋を提げてゆくために。
「ふうむ…。俺を驚かせるために、買い出しに出掛けて行くってか…」
そいつがお前の夢なのか?
俺が待ってるバス停までに、重たい荷物で苦労したって。…サイオンで支えて持てはしなくて、バス停でも、バスの中でも座れないままで…。
床とかに置けるチャンスも無くって、腕がすっかり痺れちまっても…?
サプライズで提げて来ると言うのか、とハーレイが訊くから頷いた。
「そうだよ、あれをやってみたくて…。それに荷物を二人で持つっていうのもね」
あのカップルは、とても幸せそうだったから…。
見ていたぼくまで幸せになって、こんな夢まで見られるくらいに。半分ずつの荷物がいいとか、ハーレイの家に出掛ける前には、街まで買い出しに行こうとか…。
いいと思うでしょ、ハーレイだって…?
そのサプライズ、と鳶色の瞳を覗き込んだ。「ハーレイだって、嬉しくならない?」と。
「…それはまあ…。俺だって、お前と二人で荷物を持つのは、楽しそうだと思うんだが…」
お前の夢の方はともかく、俺としてはだ…。
そういった時は、俺がお前を迎えに出掛けて行くのがいいな。…バス停で待っているよりも。
迎えに行くなら車の出番で、車を出したら、もちろん街での買い出しもだ…。
お前と一緒にしたいと思うわけなんだが?
バス停で待つよりそっちがいいな、とハーレイが言うから驚いた。自分の夢とは逆様だから。
「…そうなの?」
ハーレイは迎えに来る方がいいわけ、バス停で待っているよりも…?
買い出しもぼくと一緒に行くって、本当にそんなのがいいの…?
それじゃサプライズにならないじゃない、と首を傾げた。楽しさが半減しそうだから。
「ぼくと一緒に出掛けて行ったら、何を作るのか分かってしまうよ…?」
メモを見ながら籠にどんどん入れてる間は、分からないかもしれないけれど…。
ワインを買ったらバレてしまうよ、ぼくはワインの選び方なんか分からないんだもの。…お店の人に訊くしかないでしょ、「このお料理に合うのは、どれなんですか?」って。
ハーレイも横で聞いていたなら、おしまいじゃない…!
ぼくが作りたいお料理がバレちゃう、と肩を竦めた。食材だけでは謎のままでも、ワイン選びで料理の名前がバレるのだから。
「バレるって…。そんなに必死に隠さなくても、食材を選ぶ所から一緒がいいと思わんか?」
こういう料理を作るんだから、と言ってくれれば、俺だって食材を選んでやれる。
同じ野菜を買うんだったら、こっちの方がお勧めだとか。…肉なら、これが美味そうだとか。
サプライズも悪くはないんだがなあ、共同作業も楽しいもんだぞ?
食材選びから二人でやって、料理も一緒に作るってヤツ。…俺がお前を手伝って。
それに第一、お前の腕ってヤツがだな…。
お前、サプライズで見事に料理が出来るのか…?
俺の舌を唸らせるほどの美味い料理が、と尋ねられたら自信が無い。今のハーレイの料理の腕はなかなかのもの。プロ顔負けとも言えそうなほどに。
(前に財布を忘れた時に…)
昼食代を借りに行ったら、「丁度良かった」と、ハーレイのお弁当を分けて貰えた。
他の先生たちは留守だから、とハーレイが作って来た特製弁当。「クラシックスタイルだぞ」と自慢していた、二段重ねの本格的な和食のもの。
(あんなのも作っちゃうんだし…)
パウンドケーキも焼けるハーレイ。
「どうしても、俺のおふくろの味には焼けないんだが」などと言ってはいても。
それほどの料理の腕の持ち主、そのハーレイに「美味い」と喜んで貰える料理は、今の自分には作れない。少なくとも、今の段階では。
料理は調理実習くらいしか経験が無くて、レシピを見ながらそれを再現出来たら上等。
結婚が決まって母に教えて貰うにしたって、ハーレイほどの腕に上達するには時間が必要。
(…ママに習って、頑張ったって…)
結婚式の日まではアッと言う間で、サプライズの日は、それまでの何処か。料理の腕は、大して上がっていないのだろう。今と全く変わらないままか、少しはマシという程度で。
「…ハーレイを感心させるお料理、難しいかも…」
どれも上手に作れないとか、一つくらいしか上手く出来ないとか…。そうなっちゃいそう。
ぼくは頑張ったつもりでいたって、ハーレイの方が、ずっとお料理、上手だから…。
凄いお料理はきっと無理だよ、と項垂れた。本当にそうなるだろうから。
「ほらな。お前が一人で買いに出掛けて、重たい荷物を提げて来たって、その有様だ」
そうなるよりかは、買い出しの時から一緒に出掛けて、食材も俺が選んだ方が確かだぞ?
何を作りたいのか言ってくれれば、肉も魚も、野菜も選んでやれるから。
食材選びも、日頃の経験ってヤツが大切で…。お前、目利きも出来ないだろうが。
違うのか、と言われれば、そう。食材を買いに出掛けた経験はまるで無いから、どういう具合に選べばいいのか分かりはしない。魚だったら、魚としか。肉にしたって、豚や牛としか。
「そうだよね…。ぼくだと、ホントに分かってないから…」
シチュー用とか、ステーキ用とか、そういう風に書いてあるのしか選べないかも…。
ハーレイだったら、「この料理にはこれだ」って選べるんだろうけど。色々なのがお店に並んでいても。お勧めの魚が色々あっても。
だからハーレイに任せておくのがいいんだろうけど、でも、荷物…。
お店で沢山買った荷物を、ハーレイと二人で持ちたいんだよ。
お料理に合うワインも選んで、うんと重たくなった荷物を。…レジで袋に詰めて貰ったら、凄い重さでよろけそうなのを。…普通の人なら、サイオンで支えて持つようなヤツを。
それをハーレイと分けたいんだけど…。ぼくが半分、ハーレイが半分。
ホントに二人で半分ずつ、と頼み込んだ。それでいいなら、買い出しも一緒に行くから、と。
「おいおいおい…。荷物を二人で持つんだったら、買い出しも俺と一緒でいいって…」
お前ってヤツは、サプライズで料理をするよりも前に、其処がいいのか?
俺に内緒で買い出しに行って、重たい荷物を提げて来ようって理由はそれか…?
美味い料理で驚かせるより、凄い荷物で俺の度肝を抜くのか、バスからヨロヨロ降りて来て…?
「半分持って」と頼むためにだけ、その大荷物を抱えてやって来るってか…?
なんてヤツだ、とハーレイは呆れているけれど。「荷物なのか?」と目まで丸いけれども…。
「ぼくが最初に、羨ましいな、って思った時には、荷物を持ってただけだったしね…」
あのカップルは、二人で一つの荷物を持っていただけ。話の中身も聞こえなかったし…。
重たそうな荷物を持ってた理由は何だったのかな、っていうのは、後から考えたこと。
バスが走り出してからと、家に帰ってからとで、本当のことは謎なんだけど…。
でも、ハーレイだって、ぼくの想像、間違っていないと思うでしょ?
「まあ…。当たりだろうな、お前が色々考えてるヤツで」
きっと今頃は、パーティーの用意で大忙しって所だろう。二人で料理か、女性の腕の見せ所かは知らんがな。…こればっかりは、現場を見ないと分からんことだ。知り合いでなけりゃ。
それでお前は、あれこれ想像している間に、色々とやりたくなっちまった、と。
荷物を二人で持つだけじゃなくて、買い出しに出掛けてサプライズだとか。
しかし、お前は料理の経験は少ないわけだし、腕を磨けるチャンスの方も無さそうだしな…?
料理は俺に任せておいてだ、荷物だけ、お前も持ってみるか?
お前の憧れの山ほどの荷物は、俺が選んで買ってやるから。食材も。それにワインの方も。
それでどうだ、とハーレイが訊くから、「いいの?」と瞳を瞬かせた。食材選びも、料理に合うワインを選ぶのも全部、ハーレイだなんて。…自分は荷物を持つだけだなんて。
「そんなのでいいの、ぼくは荷物を持つだけなんて…?」
半分だけ持ってみたいから、って我儘を言ってるだけだよ、それじゃ…?
「我儘も何も、美味い料理の方がいいだろ? 同じ食うなら」
お前が悪戦苦闘するより、経験者の俺に任せておけ。うんと美味いのを食わせてやるから。
前の俺は厨房出身だったし、今の俺も料理は好きだしな?
お前は買い出しの荷物だけ持ってくれればいい、と言われたけれど…。
「ハーレイがお料理するんだったら、手伝いたいな。…料理をするのは無理そうだけど」
前のぼくだって、ハーレイが厨房にいた頃だったら、タマネギを刻んだりしていたよ?
ジャガイモの皮も剥いてたんだし、今でも少しは手伝えると思う。
調理実習でやったこととか、簡単なことしか出来ないけれど…。でも…。
何もやらないより、ずっとマシだと思うから…。
買い出しを二人でやった時には、ぼくもハーレイのお手伝い…。駄目…?
迷惑をかけたりしないから、と頼んでみた。「ぼくも手伝いたいんだけれど」と。
ハーレイの邪魔にならない範囲で、お手伝い。タマネギを細かく刻んでみるとか、ジャガイモの皮を剥くだとか。
「ぼくがやったら焦げちゃいそうだし、お鍋とかには触らないから…。お手伝いだけ」
包丁で怪我をしそうだったら、「駄目だ」って止めてくれればいいから。
「手伝いなあ…。そのくらいなら、いいだろう」
同じ切るのでも、カボチャは任せられないが…。あれは固いし、お前だと怪我をしかねない。
だから何でもいいわけじゃないが、やりたいことは俺に訊け。「やっていいか」と。
大丈夫だな、と思った時には任せるから。
お前のペースでやればいいさ、とハーレイは笑顔で許してくれた。俺は急かしはしないから、と「落ち着いてゆっくりやるといい」と。
「ホント?」
ハーレイがやるより時間がかかっても、いいって言うの?
鮮度が命のお魚とかだと、ぼくのペースじゃ駄目なんだけど…。
「安心しろ。その辺のことも、ちゃんと考えて任せることにするから。…お前の分の作業はな」
お前が楽しんでするんだったら、止める理由は無いんだし…。
重たい荷物を持ちたがるのも、俺は「駄目だ」と止めにかかってはいないんだから。
ただし荷物は半分だけだぞ、サプライズとやらで全部を一人で買って来るなよ?
俺が一緒に買いに出掛けて、最初から半分ずつだからな、と念を押された。一人で重たい荷物を持つなと、「サプライズよりは、二人で料理だ」と。
料理と言っても、ハーレイが料理をするのだけれど。自分は手伝うだけなのだけれど。
「ありがとう、ハーレイ!」
最初から半分ずつの荷物でも、二人で持てたら幸せだから…。
お料理だって、ハーレイがやってるのを横で手伝えたら、それだけでぼくは充分だから…!
ハーレイが「一緒に行こうな」と約束してくれたから、いつか二人で買い出しに行こう。
街の大きな食料品店まで二人で出掛けて、山のように買って、重たい荷物を半分ずつ持とう。
ワインの瓶まで入った袋の、持ち手を二人で片方ずつ。重さを二人で半分に分けて。
家に着いたら、ハーレイがそれで料理を作る。「今日はこれだな」と、慣れた手つきで。
そのハーレイを手伝いながら、色々なことを教えて貰おう。料理の他にも、様々なことを。
(お皿は其処とか、お鍋は此処とか…)
そういう風に習って覚えて、ハーレイの家に慣れていったら…。
(結婚だよね?)
待ち焦がれていた結婚の日がやって来るから、その頃には料理も覚えていたい。
幾つも上手に作るのは無理でも、一つくらいは「美味いな」と言って貰えるものを。
ハーレイに「美味い!」と褒めて貰えて、沢山食べて貰える何かを。
(何でも美味しいって言いそうだけど…)
嬉しそうな顔で食べて貰える何かが作れたらいい。
基本の中の基本みたいな料理でいいから、自信を持って作れる料理。
(ママが焼いてるパウンドケーキは、ハーレイのお母さんのとおんなじ味で…)
おふくろの味だと聞いているから、あのケーキはマスターするつもり。
そうは言っても、パウンドケーキだけが自慢のお嫁さんより、やっぱり得意な料理も持ちたい。
「おかえりなさい!」とハーレイを迎えて、「今日はこれだよ」と披露できる何か。
重たい荷物を提げて二人で買い出しをしたら、そういう料理も覚えられたらいい。
今の腕ではまるで駄目でも、半分ずつの荷物を持てる時が来たなら…。
半分ずつの荷物・了
※ブルーが見掛けた、荷物の重さを分かち合うカップル。将来、やってみたいと描いた夢。
叶う時は来そうですけど、ハーレイに任せる部分が大きいかも。荷物の重さを分ける程度で。