シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
カテゴリー「ハレブル」の記事一覧
(あ…)
塞がってる、とブルーが眺めた座席。学校からの帰りに乗り込んだバスで。
いつも腰掛ける、お気に入りの席が塞がっていた。車内が混んでいるわけではなくて、座席なら他にも空いている。もちろん立っている人もいない。
けれど、先客が座っている席。其処に座りたかったのに。
(反対側のも…)
同じに人が腰掛けている。お気に入りの席がある場所は。
通路を挟んだ反対側なら、空いていたっていいと思うのに。空いている席は他に幾つも、其処を塞がなくても良さそうなのに。
(だけど、みんなの席なんだから…)
何処に座るのも、その人の自由。今日はたまたま、そうなっただけ。先に乗った人が腰掛けて。
「ぼくの席だよ」と言えはしないし、仕方ないから別の席に座った。「此処でいいや」と。通学鞄を膝の上に置いて。
(眺めはそれほど変わらないけど…)
窓の向こうを眺めるのならば、いつもの席と全く同じ。ただ、バスの前がよく見えない。普段の席なら、通路の行く手に大きな窓が見えるのに。これから進む先の道路や、対向車などが真っ直ぐ前に見える窓。
(此処からでも、ちょっと通路に乗り出したら…)
見えるんだけどね、と首を傾けて前を見る。ちゃんと道路も、対向車とかも見えるけれども…。
それでも損をした気分。「ツイてないよ」と。
座れなかったわけではなくても、ほんのちょっぴり。いつものようには開けない視界。前の方を眺めたいのなら。…直ぐ横の窓の向こうではなくて。
(ぼくの我儘…)
不満に思うのも、「ツイていない」のも、我儘なのだと分かってはいる。路線バスは公共の交通機関で、誰が乗るのも、何処に座るのも自由。指定席など無いのだから。
そうは思っても、残念な気持ちが拭えない。
お気に入りの席を取ってしまった人が、今日は二人もいたということ。
立つ人がいるほど混んでいるなら、何とも思わないけれど。自分も同じに立つのだけれど。
そっちだったら、「ツイていない」と思いはしない。今日のような気分になったりはしない。
(こんな日もあるよね、って…)
吊り革を握って立つだけのことで、塞がっている席を未練がましく見たりもしない。空いている席があれば良かったのに、と車内を眺めているだけで。
ところが、混んではいないバス。座れる席なら幾つもある。自分が座った席の他にも、あちこち空いている座席。
こんな時には、普段の席のどちらかは空いているものなのに。通路を挟んで右か左か、運のいい日なら両方だって。
(だからお気に入り…)
バスに乗り込んだら、自分を迎えてくれるかのように、待っていてくれる席だから。
「どうぞ座って下さい」と。バスは言葉を話さないけれど、思念波だって来ないけれども。
(でも本当に、ぼくを待ってるみたいに空いてるから…)
いつもストンと腰掛けるわけで、窓の向こうを見ながら帰る。席の横の窓や、バスの前の窓を。面白いものが見えはしないかと、今日の天気はどんな具合かと、色々なことを考えながら。
その席が無いから、気分はガッカリ。
首を伸ばして前を見たって、なんだか違ってしまうから。少し見えにくいものだから。
(仕方ないけど…)
こういう日だって、たまにはある。滅多に無いというだけのことで。
だから余計に「ツイていない」気分。「どうして、今日はこうなんだろう」と。
家の近くのバス停までには、幾つか挟まる他のバス停。其処で誰かが降りてくれれば、いつもの席に移動も出来る。ほんのバス停一つ分でも、「ぼくの席だよ」と座れるのに…。
(…降りる人、他の席ばかり…)
降車ボタンを押して降りるのは、他の座席の人だった。「お気に入り」の二つの席は空かずに、自分が降車ボタンを押す番。「次で降ります」と。
(…ぼくの席、座りたかったのに…)
とうとう空いてくれなかったよ、と降りるしかなかった路線バス。
お気に入りの席には座れないまま、運転手さんに「ありがとうございました」と御礼を言って。降りる時にも振り返ってみて、「やっぱり今も塞がってる」と席を確かめて。
こんな日だってあるんだけどね、とトボトボと歩いて帰った家。「ツイていない」気分を抱えたままで、「何かいいこと、起こらないかな」と。お気に入りの席が無かった代わりに、と。
けれど、そうそう「いいこと」が降ってくるわけもない。ツイていなくもなかったけれど。
「ただいま」と玄関の扉を開けたら、その家の中は普段と同じ。
母がおやつを用意してくれて、ダイニングのテーブルでのんびり食べた。自分の席で、いつもと同じ景色を眺めて。
「御馳走様」とキッチンの母に空のカップやお皿を返して、戻った二階の部屋だって、そう。
勉強机の前に座ったら、周りは見慣れた自分の部屋。角度の一つも違いはしなくて。
(ぼくのための席って…)
大切だよね、と感じてしまう。ダイニングの席も、勉強机の前も落ち着く。いつも通りだというだけで。特に素敵なことが無くても、「いいこと」が起こってくれなくても。
(もしも、この席が無かったら…)
「ツイていない」どころの騒ぎではない。ダイニングに行っても、自分の椅子が無かったら。
自分の部屋に入ってみたって、勉強机の前から椅子が消えていたなら。
(そんなの、困る…)
バスの中の席が無かった程度で、文句を言っては駄目だろう。「お気に入りの席」は、誰のものでもないのだから。バスに乗った人が好きに座っていい場所だから。
(やっぱりホントに、ぼくの我儘…)
ツイていないなんて思ったら駄目、と我儘な自分を叱っていたら、ふと気が付いた。
今の自分は、バスの中にも「お気に入りの席」を持っているほど。自分が勝手に選んだ座席で、他の誰かが座っていたって、「ぼくのだよ」と言えはしないけど。
(でも、お気に入りで…)
空いていたなら、其処が自分の指定席。他に幾つも席があっても、迷わずに腰を下ろす場所。
家に帰れば、ダイニングのテーブルに「自分のための」席がある。おやつを食べるのも、食事も其処で、母がお皿を置いてくれる場所。
(この部屋だったら…)
勉強机の前が指定席だし、窓際にあるテーブルと椅子も、「自分の場所」は決まっている。使う時には、「ぼくがこっち」と座る椅子。バスにも、家にも、自分の席。
幾つも席を持っている自分。家なら本物の指定席だし、バスの中なら「勝手に決めた」指定席。座れば、とても落ち着く場所。
(その席が、今日は塞がってたから…)
ツイてないよ、とガッカリしたのが帰りのバス。「何かいいこと、あればいいのに」と思ったりしながら、家まで帰って来たほどに。
そうなったくらいに、「自分の席」は大切なもの。あって当然、消えていたなら残念な気分。
もしも自分の家で起きたら、大騒ぎすることだろう。「ぼくの席は?」と大声を上げて、消えてしまった椅子を探して。「ママ、ぼくの椅子は何処へ行ったの!?」と。
(学校に行ってる間に、ママが何かを零したとか…)
それで椅子ごと洗うことになって、何処かに干されているだとか。ちょっとした傷みに気付いた母が、修理に出してしまったとか。
(そういうことになっちゃってても…)
代わりの椅子が置いてあるなら、其処まで騒ぎはしないだろう。座り心地が少し違っても、席は同じにあるのだから。いつもの場所に座ることが出来て、見える景色も全く同じ。
(ぼくの家なら、そうなるけれど…)
「席が無いよ」と慌てていたなら、じきに現れるだろう母。「ごめんなさいね」と、別の椅子を運んで来てくれて。「暫く、これを使ってくれる?」と。
そうやって普段の席が戻って、ストンと座って、おやつに食事。この部屋だったら、勉強したり読書をしたりと、満喫できる「自分の席」。
(今のぼくだと、そうなんだけど…)
当たり前のように持っている「自分の席」。家はもちろん、バスの中でも勝手に決めている席があるくらい。塞がっていたら「ツイていない」と思う席が。
でも…。
(前のぼくだと、自分の席…)
無かったっけ、と白いシャングリラを思い出す。前の自分が生きていた船を。
シャングリラは巨大な船だったけれど、あの船には無かった「ソルジャーの席」。
ソルジャー・ブルーと呼ばれた前の自分は、「自分の席」を持っていなかった。青の間に椅子はあったけれども、他の場所には。ブリッジにも、天体の間にも、食堂にだって。
まるで無かった、ソルジャー・ブルーのためにある席。青の間の椅子を除いては。
(あれはあれで理由があったんだけど…)
仲間外れにされていたとか、意地悪をされたわけではない。誰もソルジャーに、そんな真似などしないから。…敬い、大切に扱いはしても。
そうされた結果が「席が無かった」こと。ソルジャーだったから、席は無かった。あの船の中の何処を探しても、何処に行っても。
(前のぼくの席は無かったから…)
寂しい気持ちになる時もあった。他の仲間たちの姿を眺めて、「ぼくの席だけ、無いんだ」と。
そうして、いつも踵を返した。其処に「自分の席は無い」から。
もしも自分の席があったら、もっと愛着を覚えただろうか。視察が済んでも直ぐ立ち去らずに、「時間なら、まだあるだろう?」と腰を落ち着けたりもして。
ブリッジにしても、食堂にしても、のんびりとあちこち眺め回して。
(あれは何だい、って訊いてみるとか、「美味しそうだな」って見てるとか…)
きっと印象が変わっただろう。「自分の席」が其処にあったら、ゆっくり出来る場所だったら。
其処にいる仲間と話したりして、もう本当に「自分の居場所」。今の自分が暮らしている家の、ダイニングなどと変わらずに。
(いつでも行ったら、ストンと座れて…)
食堂だったら、飲み物なんかも注文する。「今日は紅茶で」とか、「あれと同じのを」と、他の誰かが飲んでいるものを真似るとか。
注文の品が届いた後には、自分の席でゆったりと。ソルジャーは暇な仕事だったから。
(そう出来ていたら、食堂だって、もっと身近で…)
居心地のいい場所だったろう。視察だけでなく、いつ出掛けても「自分の席」があったなら。
けれど、そうなったら仲間たちが困る。
船で一番偉いソルジャー、そんな人がフラリとやって来たなら。いつもの席に腰を落ち着けて、立ち去ってくれなかったなら。
(ソルジャーがいたら、マナーなんかも気になるし…)
誰もが緊張し切ってしまって、食堂の空気がピンと張り詰めてしまうだろう。賑やかだった声も静まり返って、黙々と食べているだけだとか。
ブリッジにしても、きっと同じこと。あそこにソルジャーの席が無かったのは、そんな理由ではなかったけれど。他に理由があったのだけれど、無理やりに席を設けていたら…。
(ぼくが座ってたら、みんなが大変…)
息抜きの会話も出来はしなくて、ひたすら仕事に打ち込むだけ。
「ソルジャーが見ていらっしゃるから」と、私語の一つもしようとせずに。
(…食堂もブリッジも、それじゃ、みんなが落ち着かないし…)
もっと寛いで貰わなければ、と自分の方から話し掛けても、きっと緊張は解けないまま。それを頑張って解いていったら、今度は「ソルジャーの威厳」が台無し。
子供たちと遊んでいるならともかく、大人相手に気さくに話し掛けたなら。…食堂で隣に座った誰かに、「それ、美味しいかい?」と声を掛けては、「ぼくもそれにしよう」とやっていたなら。
(その辺のことも、ちゃんと考えて…)
何処にも作りはしなかったんだよね、と分かってはいる「ソルジャーの席」。
旗振り役のエラはもちろん、ヒルマンたちも賛成だった。そういった席を「作らない」ことに。
船で一番偉いソルジャー、ミュウたちの長を「雲の上の人」にしておくために。
誰もが気軽に話せるようでは、ソルジャーの重みが無くなるから。「ソルジャーの席」を設けておいたら、皆との垣根が低くなるから。…其処にいるのが常になったら、気が向いた時はいつでも座っているとなったら。
(青の間だけでも沢山なのにね…)
ソルジャーを「偉く見せる」ための演出というものは。
やたらと広くて、大きな貯水槽まで作って、「特別な部屋」に仕立てられた青の間。其処に入る仲間が息を飲むように、「ソルジャーは凄い」と感動されるように。
あの部屋だけでも充分すぎると思っていたのに、たまに食堂に出掛けた時には、特別に席を用意された。其処で何かを食べる時には、他の仲間と相席にならないテーブルを。
(一緒に座るの、ハーレイだけで…)
でなければゼルたち、いわゆる長老と呼ばれた面々。彼らがソルジャーの周りを固めて、一緒に試食などをしていただけ。他の仲間たちは近付けないで。
広いテーブルに、一人きりのことも多かった。キャプテンも長老たちも忙しくしていて、食堂に来られない時は。…ポツンと一人で、他の仲間たちとは離れた場所で。
ブリッジはともかく、いつ出掛けても「席が無かった」食堂。ソルジャー用にと用意されても、まるで寛げなかった席。「お気に入り」とは思えもしなくて、食べ終わったら直ぐ、立っていた。
其処でゆっくりしていた所で、少しも楽しめないのだから。
他の仲間たちは寄って来ないし、こちらからも話し掛けられはしない。気軽に声を掛けた所で、相手が緊張するだけだから。「な、何でしょうか!?」と、立って敬礼したりもして。
そうならないよう、いつも急いで出ていた食堂。自分の席など持てないままで。
(酷かったよね…)
前のぼくだってツイてなかった、と思ってしまう。
いくら理由があったとはいえ、「お気に入りの席」を持てなかったのだから。食堂に行っても、ブリッジに行っても、何処にも無かった「ソルジャーの席」。
其処にストンと座りさえすれば、「いつもの時間」が始まる席。ごくごく平凡で、特別なことは何も起こりはしなくても。普段通りの時間が流れてゆくだけでも。
それがあったら、落ち着ける。「ぼくの席だ」と、「此処が、ぼくの場所」と。
(今のぼくでも、バスの中にまで…)
お気に入りの席を持っているのに。
ソルジャーではないチビの自分でも、十四歳にしかならない「ただの子供」でも。
もっとも、バスの中の座席は、貰ったものではないけれど。指定席にさえもなってはいなくて、自分が勝手に「お気に入り」に決めた座席だけれど。
(ぼくのじゃないから、今日みたいに…)
誰かが先に座ってしまって、座れない日も出来てくる。「空かないかな?」と待っていたって、空いてくれずに終わる日が。
(今日はホントに、ツイてなかったけど…)
前のぼくよりは、よっぽどマシ、と「お気に入りの席」を考えずにはいられない。今の自分でも持っているのが、ダイニングの椅子や、今、座っている勉強机の前の椅子。
家にいる時はいつでも座れて、のんびり寛いでいられる場所。
バスの中の席は少し違うけれども、「お気に入り」には違いない。其処に座れば、窓の向こうは見慣れた景色。いつもの風景。
運が無ければ座り損ねて、今日の帰りのようになっても。他の席しか空いていなくても。
今日は無かった「お気に入り」の席。取られてしまった、いつも座る席。それも二つとも。
けれど、たまには消えてしまって「ツイていない」と思う席でも…。
(そういうのでもいいから、欲しかったよね…)
ソルジャーの席、と白いシャングリラを思い浮かべる。あそこに一つ欲しかった、と。
出掛けて行ったら座れる席が。いつも自分を待ってくれていて、「どうぞ」と迎えてくれる席。他の仲間が座っていたなら、その日は諦めたっていいから。
(ソルジャーの席だし、他の仲間が座ったりすることは無いかもだけど…)
皆が遠慮して、常に空いたままかもしれないけれど。
そんな席でも、無いよりはいい。食堂でも、ブリッジでも、天体の間でもかまわないから。
あれば良かった、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで切り出した。
「あのね、シャングリラの、ぼくの席…。どう思う?」
ぼくは酷いと思うんだけどな、何処を探しても無かったなんて…。
「はあ? 席って…?」
何の話だ、とハーレイは怪訝そうな顔。「お前の席が、どうかしたのか?」と。
「ソルジャーの席だよ、前のぼくの席。…シャングリラの中の何処にも無かったでしょ?」
ブリッジにも、食堂にも、天体の間にも。
青の間には椅子があったけれども、あそこはぼくの部屋だったから…。無い方が変。
だけど、他の場所には席が一つも無かったんだよ。何処に行っても、ぼくのための席は。
まさか忘れたとは言わないよね、とハーレイを真っ直ぐ見詰めたけれども、いとも簡単に返った答え。少しも考え込んだりせずに。
「忘れるわけがないだろう。…俺を誰だと思ってるんだ?」
シャングリラを纏めていたキャプテンだぞ、前のお前の席くらい分かる。あったかどうかも。
確かに席など無かったんだが、そいつは「要らない」からだったろうが。
前のお前はソルジャーだったし、ソルジャーには青の間という立派な居場所があってだな…。
用がある時は、皆が出向いて行くもんだ、とハーレイは澱みもせずに続けた。他の仲間が行けば済むから、ソルジャーの席は青の間にだけあれば充分だ、と。
「それに、会議の時には席があったぞ」とも。…長老たちを集めた会議の場では。
ハーレイに指摘されたこと。会議の時のソルジャーの席。それは間違いなくあった。
キャプテンの他にもヒルマンやゼルを集めて、六人で会議をする時は。「この席がそうだ」と、皆が空けておく席。…後から遅れて行った時にも、その席はいつも空いていたから。
「会議の時って…。それはそうだけど…」
あの席には誰も座っていなかったけれど、でも…。あそこ以外に、前のぼくの席は…。
無かったじゃない、と訴えたけれど、ハーレイはフンと鼻を鳴らした。「あれで充分だろ」と。
「会議の時にも席が無かったのなら、文句を言ってくれてもいいが?」
俺やヒルマンたちは座っていたのに、お前だけが突っ立っていたのなら。…椅子なんか無しで。
しかし、そうなってはいない。ソルジャーの席は一番奥だ、と決まっていたろうが。
お前が遅れてやって来たって、誰もあそこに座っちゃいないぞ。他の席に座って待つだけで。
誰も座りに行かない以上は、あれがお前の席だったわけで…。
お前の席はきちんとあった、と言われたらグウの音も出ない。ソルジャーのための席の件では。今、ハーレイが言った通りに、「まるで無かった」わけではないから。
会議の時なら、いつも「此処だ」と決まっていた席。扉から一番離れた所がそうなのだ、と。
皆よりも早く着いた時には、迷わずに其処に座っていた。先にストンと腰を下ろして、その日の会議の中身なんかを考えながら。
とはいえ、本当に「会議の時だけ」だった席。それもハーレイたちとの会議。他の仲間たちまで集まる時には、ソルジャーの席は「あって無いようなもの」。一番奥には違いなくても、お飾りのように座っていただけ。発言の機会も得られないままで。
(ああいう大きな会議の時には、ハーレイたちが進行役で…)
ソルジャーは最後に承認するだけ。「こういう具合に決まりました」と報告されたら、頷いて。
「それで頼むよ」とか、「それなら、続きは日を改めて検討するように」とか。
あの席は少し違うだろう。「自分の場所」と呼ぶよりは…。
(此処に座っていて下さい、って…)
座らされたわけで、お気に入りでも何でもない。
自分で選んでいいのだったら、あれだけ大勢が集まるからこそ、真ん中の方にいたかった。皆の意見がよく聞ける場所で、自分の考えも述べられる席。「こうしたらどうかな?」と。
ソルジャーの肩書きにこだわりはせずに、船の仲間の一人として。
なのに、貰えなかった席。会議の時でも、無かったも同じな席だったから…。
「ハーレイたちとの会議だったら、ぼくの席は確かにあったけど…。決まってたけど…」
でも、他のみんなと会える時には、前のぼくの席は無かったんだよ。会議の時でも。
ソルジャーは此処、って決まってはいても、あの席じゃ何も出来なかったし…。ぼくの意見は、先にハーレイたちが聞いてて、それを伝えるだけだったし。
酷いよ、ぼくだけ自分の席が無かったなんて。…青の間で座っているだけなんて…。
前のぼくの席が欲しかったよ、と重ねて言っても、ハーレイは耳を貸そうともせずに。
「ソルジャーの席は必要ない。シャングリラがどんなにデカイ船でも」
エラはもちろん、前の俺やヒルマンやゼルやブラウたち。…それに各部門の責任者もだな。
船の誰もがそう考えたせいで、ソルジャーの席は何処にも作られなかったんだが?
お前も分かっていた筈だろうが、どうしてそういうことになったか。…何のためにソルジャーの席を作らず、皆が青の間に行くという形を取っていたのか。
それにしてもだ、どうしていきなり席の話だ?
いったい何処から持って来たんだ、前のお前の席が無かった苦情だなんて…?
とうの昔に時効だろうが、とハーレイは呆れたような顔。「何年経ったと思ってるんだ?」と。
「それは分かっているけれど…。シャングリラだって、もう無いんだけれど…」
思い出したんだよ、前のぼくには自分の席が無かったことを。
今日の帰りに乗ったバスでね、ぼくの席が空いていなくって…。あれは普通の路線バスだから、ぼくが勝手に決めている席で、指定席とは違うんだけど…。
二つあるんだよ、ぼくのお気に入り。いつもだったら、どっちかに座って帰れるのに…。今日は二つとも塞がっちゃってて、空かないままになっちゃった…。
席は他にも空いてたけどね。別の席には座って帰れたんだけど…。
それでもツイていない気分、と帰り道に感じたことを話した。お気に入りの席に座れないまま、家まで帰る羽目になったから。「ツイてないよ」と何度も心で零したから。
勝手に選んだバスの座席でさえ、空いていなかったら気分が沈む。
逆にストンと座れた時には、「ぼくの席だよ」と嬉しいもの。家で座る場所は尚更、この部屋の椅子も、ダイニングの椅子も、あったら心が安らぐもの。「ぼくの席は此処」と。
そういう席が、前の自分も欲しかった、と。バスの席のようなものでもいいから。
誰かが座っていたっていいし、と例に挙げたのが食堂の席。船の仲間が集まる食堂、あそこには指定席は無かった。誰もが空いている席を探して、腰を下ろして食べていた場所。
「お気に入りの席がある仲間だって、きっと多かった筈なんだよ。今のぼくみたいに」
今日もあそこの席で食べよう、って思って行ったら、他の誰かに座られてたとか…。
前のぼくの席も、そういう席で良かったんだよ。此処がいいな、って勝手に選んだ場所で。
気が向いた時に出掛けて座れれば充分だから、と言ったのだけれど。塞がっていたら、他の席を探して座るから、とも訴えたけれど…。
「お前なあ…。今のお前なら、その考えでも別にかまいはしないんだが…」
前のお前が生きてた時代と、場所をよくよく考えてみろ。いったい何処で暮らしてたのか。
シャングリラは大勢の仲間が乗ってた船だが、路線バスとは違うんだ。
踏みしめる大地を手に入れるために地球を目指す船で、ミュウの箱舟。外の世界じゃ、ミュウは生きてはいけないからな。…人類に端から殺されちまって。
シャングリラがそういう船だった上に、前のお前がソルジャーだから…。
バスの乗客気分じゃ困る、とハーレイは顔を顰めてみせた。「皆はともかく、お前は駄目だ」と眉間の皺まで深くして。
ソルジャーは、船の仲間たちを導く灯台。他の仲間と一緒の席には座れない、と。
「そんな…。食堂の席くらい、一緒でいいのに…」
ぼくのお気に入りの席を見付けて、其処に座れたら良かったのに…。塞がってた時は、ちゃんと他のを探すから。…「ぼくの席だ」って、座ってる人を追っ払ったりはしないから…。
「それが駄目だと言っているんだ。シャングリラって船は、路線バスではなかったからな」
ソルジャーと気軽に触れ合えるような、遠足気分の旅じゃなかった。…地球を目指す旅は。
地球の座標は掴めなくても、誰もが地球を目指してたんだ。あの船の中じゃ。
前のお前も承知してたろ、自分の立場というヤツを。…ソルジャーはどう生きるべきかを。
仲間たちが何を期待したかも…、と鳶色の瞳が見据えてくる。「覚えてるよな?」と。
「…覚えてるけど…。前のぼくだって、ちゃんと分かっていたけど…」
でも、今のぼくは…。
今のぼくだと、前のぼくとは生きてる時代が違うから…。周りも全く違っちゃうから…。
頭では分かっているつもりだって、心がついていかないんだよ…!
今のぼくが同じことになったら、寂しい気分になっちゃうよ、と白いシャングリラを思い出す。
長く暮らした懐かしい船に、もう戻ることは出来ないけれど。
前の自分は死んでしまって、シャングリラも時の彼方に消えた。けれど今でも、忘れてはいない白い船。忘れることなど出来ない船。
あの船にソルジャーの席があったとしたなら、もっと身近な船だったのに、と思いは募る。
「そう思わない? ぼくのお気に入りの席があったら、今よりもずっと懐かしくって…」
もう戻れないって分かっていたって、座ってみたくなるんだよ。好きだった席に。
他の仲間に座られていたら、ガッカリしちゃった席でいいから…。ぼくが勝手に決めちゃってた席で、指定席なんかじゃなくていいから…。
食堂にあったら良かったのにね、と夢見るけれど。そういう席が欲しかったけれど…。
「さっきから何度も言ったがな? それは駄目だと」
お前が懐かしむ気持ちは分かるが、思い出す時に「身近な船だ」と言われる船では話にならん。
シャングリラは船の仲間たちにとっては、箱舟というヤツだったんだ。船の他には、生きられる場所は何処にも無かった。
世界の全てになってた船だぞ、あれだけが全てで、外の世界は無いのと同じだ。
その頂点に立ってたお前が、身近な存在になっていたなら、皆の気が緩む。ソルジャーが好きな席を選んで、「此処がいい」と座るような船では。
ついでに、ソルジャーの席が決まってても同じことだな。お前が食堂やブリッジなんかに、日に何回も顔を出してたら…。皆と気軽に話すようになるし、そんな船では駄目なんだ。
今の平和な時代だったら、それでも困りはしないんだがな。
ソルジャーが身近な存在だろうが、シャングリラが身近な船だろうが。
平和な時代の宇宙船なら…、と説くハーレイの意見は正しい。ミュウの箱舟だった船では、皆の気分が緩めばおしまい。ソルジャーや船が身近になったら、緊張感が消えてしまうから。
「そうだろうけど…。ハーレイが言う通りだけれど…」
前のぼくだって、ホントに分かっていた筈だけど…。
そういうものだと思っていたから、ぼくの席、無くても良かったんだと思う。
作って欲しいって言わなかったし、自分で勝手に選んで決めてもいなかったから…。
食堂とかに出掛けた時にも、用事が済んだら、いつでも直ぐに出て行ったから…。
でも寂しいよ、と拭えない思い。前の自分に「お気に入りの席」が無かったことは確かだから。
懐かしい白い鯨の中には、そんな席など無かったから。
「前のぼくの席、欲しかったのに…。欲しいのは、今のぼくだけど…」
欲しがったって、シャングリラはもう無いけれど…。前のぼくだって、もういないけど…。
でも…、と何度も繰り返していたら。
「そう言うな。寂しい気持ちは分からんでもないが、済んじまったことはどうにもならん」
だがな、じきにお前の席が出来るから。…シャングリラの中に。
あと少しだけの辛抱だ、というハーレイの言葉に目を丸くした。白いシャングリラは時の彼方に消えたし、宇宙の何処にも残っていない。その中に席を作ろうだなんて、不可能なこと。
「ハーレイ、それって…。どういう意味?」
シャングリラはとっくに消えちゃったんだよ、どうやってぼくの席を作るの?
遊園地にあるヤツのことなの、シャングリラの形の乗り物なら色々あるけれど…?
デートに出掛けてそれに乗るの、と瞬かせた瞳。遊具の中なら、お気に入りの座席も選べそう。一番前に乗るのがいいとか、真ん中だとか。…一番後ろがいいだとか。
「いや、遊園地のヤツじゃない。それだと、お前、困るだろうが」
シャングリラは今も一番人気の宇宙船だし、遊園地のも行列だ。お気に入りの席が出来たって、次に並んだら、全く違う場所にしか乗せて貰えないとか…。ありそうだろ?
俺が言うのは、今の俺たちのシャングリラだ。
いつかお前とドライブする予定の俺の車だ、お前の席は助手席だろう…?
ちゃんとお前の席が出来るぞ、と言われてようやく気が付いた。白いシャングリラの代わりに、今ならではのシャングリラ。車の形になったシャングリラがあることに。
「そうだっけ…!」
船のシャングリラは無くなったけれど、今のハーレイのシャングリラ…。
あれがあるよね、あの中だったら、ぼくの席だって出来るんだっけ…!
ハーレイが運転席に座って、ぼくは助手席。運転するのを横で見てたり、地図を広げたり…。
ちゃんとあるね、と嬉しくなった自分のための席。
前の自分には「お気に入りの席」さえ無かったけれども、今度は貰えるのだった。
いつか大きくなった時には、ハーレイと二人きりのシャングリラの中に、自分の席を。
そう考えたら、綻んだ顔。前の自分が持てなかった席を、今の自分は貰うことが出来る。
白い鯨のようだった船より、ずっと小さい車の中に。ハーレイと二人で乗るシャングリラに。
楽しみだよね、と夢を膨らませていたら、ハーレイの瞳に覗き込まれた。
「ずいぶんと嬉しそうな顔だが…。機嫌、直ったか?」
バスでお気に入りの席を逃しちまって、ツイていないと嘆いてたのがお前だが…。
前のお前の席のことまで思い出した挙句に、俺に文句を言っていたのも、お前なんだが…?
ツイてる気分になって来たのか、と尋ねられたから「うんっ!」と笑顔になった。
「今日は駄目だよ、って思ってたけど、もう平気。いいこと、ちゃんとあったから!」
大きくなったら、シャングリラの中に、ぼくの席を貰えるんだから。
ハーレイと指切りしなくったって、席は絶対、貰えるものね。ドライブの時は。ぼくを乗せずに走って行ったら、ハーレイ、慌てて戻ってくるのに決まってるもの。
凄く大きな忘れ物だよ、とクスクス笑った。
恋人とドライブに行こうというのに、その恋人を乗せるのを忘れて走り出すなんて、可笑しくて笑いが止まらない。ハーレイはどれほど慌てることかと、きっと平謝りだろうと。
「うーむ…。お前を忘れて行っちまうってか?」
やりかねないよな、「ちゃんと乗ったか?」って訊いていたって、お前、勝手に返事だけして、ドアを開けて降りていそうだから。
ドライブの途中の休憩の時に、可愛い動物か何かを見付けて行っちまうとか…。何か美味そうなものを見付けて、「買ってこよう」と降りちまうだとか。
「やっちゃいそう…。ドアをバタンと閉めた途端に、また開けちゃって降りるんだよ」
ハーレイ、ちゃんと確かめてよね。ぼくを忘れて行かないように。
忘れて走って行かれちゃっても、ぼくは思念波、飛ばせないから…。
それに動物とかに夢中で、気が付くまでにも、うんと時間がかかっちゃいそう。ハーレイの車が行っちゃった、ってポカンと道端に立つまでにはね。
「まったくだ。俺も大概ウッカリ者だが、お前の方でも負けちゃいないな」
下手をしたなら、俺が慌てて戻って来た時、「どうしたの?」と訊きかねないぞ。
置いて行かれたことにも気付いていなくて、動物と遊んでいるだとか…。
何かを買おうと列に並んでて、俺の方には目もくれないとか、そんな具合で。
ありそうだよな、とハーレイも心配する「恋人を乗せるのを忘れて走ってゆく」こと。知らない間に降りてしまって、「忘れて行かれた」ことにも気付かない恋人の方も、大いに有り得る。
「ぼく、本当にそうなっちゃうかも…。ハーレイが気を付けてくれないと…」
置き去りなことにも気が付かないなら、ハーレイ、謝るどころじゃないね。ぼくの方が、うんと叱られちゃいそう。…「置き去りだぞ」って、凄い勢いで。
前のぼくなら、ハーレイに叱られたりはしないんだけど…、と肩を竦めた。前の自分はウッカリ者ではなかったのだし、「自分の席」さえ貰えないほど、雲の上の人という扱い。
そんなソルジャーを、キャプテンは叱りはしなかった。叱る理由が無かったから。
「前のお前か…。確かに、そういうことで叱っちゃいないな、俺は」
無理をしすぎて熱を出したとか、そんな時しか叱っていない。今のお前とはかなり違うな、前のお前というヤツは。…自分の席さえ持てないくらいに、偉すぎたしっかり者だったから。
それに比べて、お前ときたら…。俺に置き去りにされたことさえ、気付かないってか…?
そうだ、面白いことを思い付いたぞ。前のお前と今のお前が違いすぎるなら、これはどうだ?
今のお前をソルジャー扱いするというのは。…置き去り防止にも良さそうだし。
いいかもしれん、とハーレイは顎に手を当てている。「これなら置き忘れも無いからな」と。
「ソルジャー扱いって?」
それって何なの、どうして置き去り防止になるの?
今のぼくをソルジャー扱いするって、どういう風に…?
分かんないよ、と目をパチクリとさせたけれども、ハーレイは「ソルジャーだしな?」と笑う。
「ソルジャーは偉くて、雲の上の存在だったんだから…。そいつをお前に反映するのさ」
車の中でのお前の席に。…お前を乗せて行く場所に。
お前の気に入りの場所は助手席だろうが、車ってヤツは、目上の人を乗せる時にはだな…。
助手席じゃなくて後部座席に乗せて行くものなんだぞ、違うのか?
タクシーなんかはそうなってるが、という解説。車の中での偉い人の場所。
「そうだけど…。それじゃ、ハーレイがぼくを乗せて行くのは…」
助手席じゃなくて、後ろの席なわけ?
ぼくは隣に乗っていたいのに、ソルジャー扱いで後ろになるの…?
酷くない、とハーレイを縋るように見た。後部座席では、ハーレイの姿もよく見えないから。
「いや、酷いとは思わんが?」
お前をそっちの席に乗っけて、俺は運転に専念する、と。
「ソルジャー、次はどちらに参りましょうか?」といった具合にな。
後ろだったら、ドアの開け閉めも俺がきちんと確認しないと…。目上の人はドアを閉めるのも、運転手任せというヤツだから。
お前を乗せるのを忘れる心配も無くなるわけだ、とハーレイは自信たっぷりだけれど。
「それって、酷い…」
ハーレイの姿が見えないじゃないの、ぼくの席から!
助手席だったら隣同士で楽しいけれども、後ろなんかに乗せられちゃったら…!
「そうでもないだろ、楽しめる筈だと思うんだがな?」
お前は偉そうに言えばいいんだ、後ろの席から。次はあっちだの、此処で停めろだの。
好き放題に命令してればいいだろうが、と言われたソルジャー扱い。助手席の代わりに、後ろの席に座って、偉そうに出掛けてゆくドライブ。
「うーん…。どう見ても、偉そうだけど…」
今のぼくは少しも偉くないのに、ソルジャー扱いで後ろだなんて…。でも…。
置き去りの心配はしなくていいよね、と考えてみたら、そんなドライブも愉快かもしれない。
前の自分だった時と違って、今はハーレイと二人きりなのだし、後ろで偉そうにしていても…。
(ソルジャーごっこで遊んでるだけで…)
その状況を楽しめばいい。
キャプテン・ハーレイに命令をして。…ソルジャー・ブルーになったつもりで。
(あの店に寄ってくれたまえ、って…)
やってみるのもいいかもしれない。
「かしこまりました」と車を運転してゆくハーレイ。
二人きりで乗るシャングリラのハンドルを握って、大真面目に。キャプテン・ハーレイだった頃さながらに、「面舵一杯!」と声を上げたりもして。
(ぼくがソルジャーなら、ハーレイはキャプテン…)
そういうドライブも悪くはない。遊びで偉そうに乗ってゆくなら、後部座席が自分の席でも。
置き去り防止のために乗せられる後部座席と、それとセットのソルジャー扱い。
ハーレイの車がシャングリラになって、自分のための席がその中に出来て…。
「…ハーレイ、それって、着いたらドアも開けてくれるの?」
運転手さんだと、着いたら開けてくれるけど…。ハーレイが運転してくれる時も…?
「当然だろうが。俺は運転手に徹するまでだ」
お前をウッカリ置き去りにしないよう、後ろの席に乗せるからには頑張らんとな?
乗り降りの時は、ドアを恭しく開け閉めしてやる。「どうぞ」と、それは丁寧に…な。
任せておけ、とハーレイは運転手になる気でいるらしい。ソルジャー扱いでドライブしようと。
「ホントに偉そうな恋人だけど…」
そんなのでいいの、ハーレイは…?
ソルジャーごっこだって知らない人が見たなら、恋人に馬鹿にされてるみたいじゃない…?
「いいんじゃないのか、俺がお前に首ったけってことで。…恋人同士だとは分かるんだから」
甘やかされて我儘放題なんだな、と誰もが温かく見てくれるさ。
本当は置き去り防止のためとか、ソルジャー扱いだとかは気付きもせずに。
「ふふっ、熱々?」
ハーレイはぼくにぞっこんなわけで、運転手までしてるってわけ…?
「そんなトコだな、お前、本当にやってみたいか?」
置き去り防止の方はともかく、ソルジャー扱いで後ろの席に乗って行くこと。
「ちょっぴりね」
ほんのちょっぴりなんだけど…。でも、そういうのも楽しそう…。
前のぼくには、ソルジャーの席が無かったから…。その分、今のぼくが欲しいな、その席。
「よしきた、お前にソルジャーの席をプレゼントだな?」
かまわないぞ、とハーレイが片目を瞑るから。「好きにしていいぞ」と言ってくれたから。
いつかドライブしてゆく時には、たまに頼んでみるのもいい。
「今日はソルジャーの席がいいな」と。
白いシャングリラには、ソルジャーの席など無かったけれども、今なら貰える。
今のハーレイの車にだったら、ソルジャーの席を作れるから。
偉そうに座る席だけれども、きっと二人で楽しくドライブしてゆけるから…。
お気に入りの席・了
※シャングリラには無かった、前のブルーの席。お気に入りの席が無かったソルジャー。
けれど、今度は専用の席を貰えるようです。ハーレイが運転する車の中に、自分だけの座席。
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塞がってる、とブルーが眺めた座席。学校からの帰りに乗り込んだバスで。
いつも腰掛ける、お気に入りの席が塞がっていた。車内が混んでいるわけではなくて、座席なら他にも空いている。もちろん立っている人もいない。
けれど、先客が座っている席。其処に座りたかったのに。
(反対側のも…)
同じに人が腰掛けている。お気に入りの席がある場所は。
通路を挟んだ反対側なら、空いていたっていいと思うのに。空いている席は他に幾つも、其処を塞がなくても良さそうなのに。
(だけど、みんなの席なんだから…)
何処に座るのも、その人の自由。今日はたまたま、そうなっただけ。先に乗った人が腰掛けて。
「ぼくの席だよ」と言えはしないし、仕方ないから別の席に座った。「此処でいいや」と。通学鞄を膝の上に置いて。
(眺めはそれほど変わらないけど…)
窓の向こうを眺めるのならば、いつもの席と全く同じ。ただ、バスの前がよく見えない。普段の席なら、通路の行く手に大きな窓が見えるのに。これから進む先の道路や、対向車などが真っ直ぐ前に見える窓。
(此処からでも、ちょっと通路に乗り出したら…)
見えるんだけどね、と首を傾けて前を見る。ちゃんと道路も、対向車とかも見えるけれども…。
それでも損をした気分。「ツイてないよ」と。
座れなかったわけではなくても、ほんのちょっぴり。いつものようには開けない視界。前の方を眺めたいのなら。…直ぐ横の窓の向こうではなくて。
(ぼくの我儘…)
不満に思うのも、「ツイていない」のも、我儘なのだと分かってはいる。路線バスは公共の交通機関で、誰が乗るのも、何処に座るのも自由。指定席など無いのだから。
そうは思っても、残念な気持ちが拭えない。
お気に入りの席を取ってしまった人が、今日は二人もいたということ。
立つ人がいるほど混んでいるなら、何とも思わないけれど。自分も同じに立つのだけれど。
そっちだったら、「ツイていない」と思いはしない。今日のような気分になったりはしない。
(こんな日もあるよね、って…)
吊り革を握って立つだけのことで、塞がっている席を未練がましく見たりもしない。空いている席があれば良かったのに、と車内を眺めているだけで。
ところが、混んではいないバス。座れる席なら幾つもある。自分が座った席の他にも、あちこち空いている座席。
こんな時には、普段の席のどちらかは空いているものなのに。通路を挟んで右か左か、運のいい日なら両方だって。
(だからお気に入り…)
バスに乗り込んだら、自分を迎えてくれるかのように、待っていてくれる席だから。
「どうぞ座って下さい」と。バスは言葉を話さないけれど、思念波だって来ないけれども。
(でも本当に、ぼくを待ってるみたいに空いてるから…)
いつもストンと腰掛けるわけで、窓の向こうを見ながら帰る。席の横の窓や、バスの前の窓を。面白いものが見えはしないかと、今日の天気はどんな具合かと、色々なことを考えながら。
その席が無いから、気分はガッカリ。
首を伸ばして前を見たって、なんだか違ってしまうから。少し見えにくいものだから。
(仕方ないけど…)
こういう日だって、たまにはある。滅多に無いというだけのことで。
だから余計に「ツイていない」気分。「どうして、今日はこうなんだろう」と。
家の近くのバス停までには、幾つか挟まる他のバス停。其処で誰かが降りてくれれば、いつもの席に移動も出来る。ほんのバス停一つ分でも、「ぼくの席だよ」と座れるのに…。
(…降りる人、他の席ばかり…)
降車ボタンを押して降りるのは、他の座席の人だった。「お気に入り」の二つの席は空かずに、自分が降車ボタンを押す番。「次で降ります」と。
(…ぼくの席、座りたかったのに…)
とうとう空いてくれなかったよ、と降りるしかなかった路線バス。
お気に入りの席には座れないまま、運転手さんに「ありがとうございました」と御礼を言って。降りる時にも振り返ってみて、「やっぱり今も塞がってる」と席を確かめて。
こんな日だってあるんだけどね、とトボトボと歩いて帰った家。「ツイていない」気分を抱えたままで、「何かいいこと、起こらないかな」と。お気に入りの席が無かった代わりに、と。
けれど、そうそう「いいこと」が降ってくるわけもない。ツイていなくもなかったけれど。
「ただいま」と玄関の扉を開けたら、その家の中は普段と同じ。
母がおやつを用意してくれて、ダイニングのテーブルでのんびり食べた。自分の席で、いつもと同じ景色を眺めて。
「御馳走様」とキッチンの母に空のカップやお皿を返して、戻った二階の部屋だって、そう。
勉強机の前に座ったら、周りは見慣れた自分の部屋。角度の一つも違いはしなくて。
(ぼくのための席って…)
大切だよね、と感じてしまう。ダイニングの席も、勉強机の前も落ち着く。いつも通りだというだけで。特に素敵なことが無くても、「いいこと」が起こってくれなくても。
(もしも、この席が無かったら…)
「ツイていない」どころの騒ぎではない。ダイニングに行っても、自分の椅子が無かったら。
自分の部屋に入ってみたって、勉強机の前から椅子が消えていたなら。
(そんなの、困る…)
バスの中の席が無かった程度で、文句を言っては駄目だろう。「お気に入りの席」は、誰のものでもないのだから。バスに乗った人が好きに座っていい場所だから。
(やっぱりホントに、ぼくの我儘…)
ツイていないなんて思ったら駄目、と我儘な自分を叱っていたら、ふと気が付いた。
今の自分は、バスの中にも「お気に入りの席」を持っているほど。自分が勝手に選んだ座席で、他の誰かが座っていたって、「ぼくのだよ」と言えはしないけど。
(でも、お気に入りで…)
空いていたなら、其処が自分の指定席。他に幾つも席があっても、迷わずに腰を下ろす場所。
家に帰れば、ダイニングのテーブルに「自分のための」席がある。おやつを食べるのも、食事も其処で、母がお皿を置いてくれる場所。
(この部屋だったら…)
勉強机の前が指定席だし、窓際にあるテーブルと椅子も、「自分の場所」は決まっている。使う時には、「ぼくがこっち」と座る椅子。バスにも、家にも、自分の席。
幾つも席を持っている自分。家なら本物の指定席だし、バスの中なら「勝手に決めた」指定席。座れば、とても落ち着く場所。
(その席が、今日は塞がってたから…)
ツイてないよ、とガッカリしたのが帰りのバス。「何かいいこと、あればいいのに」と思ったりしながら、家まで帰って来たほどに。
そうなったくらいに、「自分の席」は大切なもの。あって当然、消えていたなら残念な気分。
もしも自分の家で起きたら、大騒ぎすることだろう。「ぼくの席は?」と大声を上げて、消えてしまった椅子を探して。「ママ、ぼくの椅子は何処へ行ったの!?」と。
(学校に行ってる間に、ママが何かを零したとか…)
それで椅子ごと洗うことになって、何処かに干されているだとか。ちょっとした傷みに気付いた母が、修理に出してしまったとか。
(そういうことになっちゃってても…)
代わりの椅子が置いてあるなら、其処まで騒ぎはしないだろう。座り心地が少し違っても、席は同じにあるのだから。いつもの場所に座ることが出来て、見える景色も全く同じ。
(ぼくの家なら、そうなるけれど…)
「席が無いよ」と慌てていたなら、じきに現れるだろう母。「ごめんなさいね」と、別の椅子を運んで来てくれて。「暫く、これを使ってくれる?」と。
そうやって普段の席が戻って、ストンと座って、おやつに食事。この部屋だったら、勉強したり読書をしたりと、満喫できる「自分の席」。
(今のぼくだと、そうなんだけど…)
当たり前のように持っている「自分の席」。家はもちろん、バスの中でも勝手に決めている席があるくらい。塞がっていたら「ツイていない」と思う席が。
でも…。
(前のぼくだと、自分の席…)
無かったっけ、と白いシャングリラを思い出す。前の自分が生きていた船を。
シャングリラは巨大な船だったけれど、あの船には無かった「ソルジャーの席」。
ソルジャー・ブルーと呼ばれた前の自分は、「自分の席」を持っていなかった。青の間に椅子はあったけれども、他の場所には。ブリッジにも、天体の間にも、食堂にだって。
まるで無かった、ソルジャー・ブルーのためにある席。青の間の椅子を除いては。
(あれはあれで理由があったんだけど…)
仲間外れにされていたとか、意地悪をされたわけではない。誰もソルジャーに、そんな真似などしないから。…敬い、大切に扱いはしても。
そうされた結果が「席が無かった」こと。ソルジャーだったから、席は無かった。あの船の中の何処を探しても、何処に行っても。
(前のぼくの席は無かったから…)
寂しい気持ちになる時もあった。他の仲間たちの姿を眺めて、「ぼくの席だけ、無いんだ」と。
そうして、いつも踵を返した。其処に「自分の席は無い」から。
もしも自分の席があったら、もっと愛着を覚えただろうか。視察が済んでも直ぐ立ち去らずに、「時間なら、まだあるだろう?」と腰を落ち着けたりもして。
ブリッジにしても、食堂にしても、のんびりとあちこち眺め回して。
(あれは何だい、って訊いてみるとか、「美味しそうだな」って見てるとか…)
きっと印象が変わっただろう。「自分の席」が其処にあったら、ゆっくり出来る場所だったら。
其処にいる仲間と話したりして、もう本当に「自分の居場所」。今の自分が暮らしている家の、ダイニングなどと変わらずに。
(いつでも行ったら、ストンと座れて…)
食堂だったら、飲み物なんかも注文する。「今日は紅茶で」とか、「あれと同じのを」と、他の誰かが飲んでいるものを真似るとか。
注文の品が届いた後には、自分の席でゆったりと。ソルジャーは暇な仕事だったから。
(そう出来ていたら、食堂だって、もっと身近で…)
居心地のいい場所だったろう。視察だけでなく、いつ出掛けても「自分の席」があったなら。
けれど、そうなったら仲間たちが困る。
船で一番偉いソルジャー、そんな人がフラリとやって来たなら。いつもの席に腰を落ち着けて、立ち去ってくれなかったなら。
(ソルジャーがいたら、マナーなんかも気になるし…)
誰もが緊張し切ってしまって、食堂の空気がピンと張り詰めてしまうだろう。賑やかだった声も静まり返って、黙々と食べているだけだとか。
ブリッジにしても、きっと同じこと。あそこにソルジャーの席が無かったのは、そんな理由ではなかったけれど。他に理由があったのだけれど、無理やりに席を設けていたら…。
(ぼくが座ってたら、みんなが大変…)
息抜きの会話も出来はしなくて、ひたすら仕事に打ち込むだけ。
「ソルジャーが見ていらっしゃるから」と、私語の一つもしようとせずに。
(…食堂もブリッジも、それじゃ、みんなが落ち着かないし…)
もっと寛いで貰わなければ、と自分の方から話し掛けても、きっと緊張は解けないまま。それを頑張って解いていったら、今度は「ソルジャーの威厳」が台無し。
子供たちと遊んでいるならともかく、大人相手に気さくに話し掛けたなら。…食堂で隣に座った誰かに、「それ、美味しいかい?」と声を掛けては、「ぼくもそれにしよう」とやっていたなら。
(その辺のことも、ちゃんと考えて…)
何処にも作りはしなかったんだよね、と分かってはいる「ソルジャーの席」。
旗振り役のエラはもちろん、ヒルマンたちも賛成だった。そういった席を「作らない」ことに。
船で一番偉いソルジャー、ミュウたちの長を「雲の上の人」にしておくために。
誰もが気軽に話せるようでは、ソルジャーの重みが無くなるから。「ソルジャーの席」を設けておいたら、皆との垣根が低くなるから。…其処にいるのが常になったら、気が向いた時はいつでも座っているとなったら。
(青の間だけでも沢山なのにね…)
ソルジャーを「偉く見せる」ための演出というものは。
やたらと広くて、大きな貯水槽まで作って、「特別な部屋」に仕立てられた青の間。其処に入る仲間が息を飲むように、「ソルジャーは凄い」と感動されるように。
あの部屋だけでも充分すぎると思っていたのに、たまに食堂に出掛けた時には、特別に席を用意された。其処で何かを食べる時には、他の仲間と相席にならないテーブルを。
(一緒に座るの、ハーレイだけで…)
でなければゼルたち、いわゆる長老と呼ばれた面々。彼らがソルジャーの周りを固めて、一緒に試食などをしていただけ。他の仲間たちは近付けないで。
広いテーブルに、一人きりのことも多かった。キャプテンも長老たちも忙しくしていて、食堂に来られない時は。…ポツンと一人で、他の仲間たちとは離れた場所で。
ブリッジはともかく、いつ出掛けても「席が無かった」食堂。ソルジャー用にと用意されても、まるで寛げなかった席。「お気に入り」とは思えもしなくて、食べ終わったら直ぐ、立っていた。
其処でゆっくりしていた所で、少しも楽しめないのだから。
他の仲間たちは寄って来ないし、こちらからも話し掛けられはしない。気軽に声を掛けた所で、相手が緊張するだけだから。「な、何でしょうか!?」と、立って敬礼したりもして。
そうならないよう、いつも急いで出ていた食堂。自分の席など持てないままで。
(酷かったよね…)
前のぼくだってツイてなかった、と思ってしまう。
いくら理由があったとはいえ、「お気に入りの席」を持てなかったのだから。食堂に行っても、ブリッジに行っても、何処にも無かった「ソルジャーの席」。
其処にストンと座りさえすれば、「いつもの時間」が始まる席。ごくごく平凡で、特別なことは何も起こりはしなくても。普段通りの時間が流れてゆくだけでも。
それがあったら、落ち着ける。「ぼくの席だ」と、「此処が、ぼくの場所」と。
(今のぼくでも、バスの中にまで…)
お気に入りの席を持っているのに。
ソルジャーではないチビの自分でも、十四歳にしかならない「ただの子供」でも。
もっとも、バスの中の座席は、貰ったものではないけれど。指定席にさえもなってはいなくて、自分が勝手に「お気に入り」に決めた座席だけれど。
(ぼくのじゃないから、今日みたいに…)
誰かが先に座ってしまって、座れない日も出来てくる。「空かないかな?」と待っていたって、空いてくれずに終わる日が。
(今日はホントに、ツイてなかったけど…)
前のぼくよりは、よっぽどマシ、と「お気に入りの席」を考えずにはいられない。今の自分でも持っているのが、ダイニングの椅子や、今、座っている勉強机の前の椅子。
家にいる時はいつでも座れて、のんびり寛いでいられる場所。
バスの中の席は少し違うけれども、「お気に入り」には違いない。其処に座れば、窓の向こうは見慣れた景色。いつもの風景。
運が無ければ座り損ねて、今日の帰りのようになっても。他の席しか空いていなくても。
今日は無かった「お気に入り」の席。取られてしまった、いつも座る席。それも二つとも。
けれど、たまには消えてしまって「ツイていない」と思う席でも…。
(そういうのでもいいから、欲しかったよね…)
ソルジャーの席、と白いシャングリラを思い浮かべる。あそこに一つ欲しかった、と。
出掛けて行ったら座れる席が。いつも自分を待ってくれていて、「どうぞ」と迎えてくれる席。他の仲間が座っていたなら、その日は諦めたっていいから。
(ソルジャーの席だし、他の仲間が座ったりすることは無いかもだけど…)
皆が遠慮して、常に空いたままかもしれないけれど。
そんな席でも、無いよりはいい。食堂でも、ブリッジでも、天体の間でもかまわないから。
あれば良かった、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで切り出した。
「あのね、シャングリラの、ぼくの席…。どう思う?」
ぼくは酷いと思うんだけどな、何処を探しても無かったなんて…。
「はあ? 席って…?」
何の話だ、とハーレイは怪訝そうな顔。「お前の席が、どうかしたのか?」と。
「ソルジャーの席だよ、前のぼくの席。…シャングリラの中の何処にも無かったでしょ?」
ブリッジにも、食堂にも、天体の間にも。
青の間には椅子があったけれども、あそこはぼくの部屋だったから…。無い方が変。
だけど、他の場所には席が一つも無かったんだよ。何処に行っても、ぼくのための席は。
まさか忘れたとは言わないよね、とハーレイを真っ直ぐ見詰めたけれども、いとも簡単に返った答え。少しも考え込んだりせずに。
「忘れるわけがないだろう。…俺を誰だと思ってるんだ?」
シャングリラを纏めていたキャプテンだぞ、前のお前の席くらい分かる。あったかどうかも。
確かに席など無かったんだが、そいつは「要らない」からだったろうが。
前のお前はソルジャーだったし、ソルジャーには青の間という立派な居場所があってだな…。
用がある時は、皆が出向いて行くもんだ、とハーレイは澱みもせずに続けた。他の仲間が行けば済むから、ソルジャーの席は青の間にだけあれば充分だ、と。
「それに、会議の時には席があったぞ」とも。…長老たちを集めた会議の場では。
ハーレイに指摘されたこと。会議の時のソルジャーの席。それは間違いなくあった。
キャプテンの他にもヒルマンやゼルを集めて、六人で会議をする時は。「この席がそうだ」と、皆が空けておく席。…後から遅れて行った時にも、その席はいつも空いていたから。
「会議の時って…。それはそうだけど…」
あの席には誰も座っていなかったけれど、でも…。あそこ以外に、前のぼくの席は…。
無かったじゃない、と訴えたけれど、ハーレイはフンと鼻を鳴らした。「あれで充分だろ」と。
「会議の時にも席が無かったのなら、文句を言ってくれてもいいが?」
俺やヒルマンたちは座っていたのに、お前だけが突っ立っていたのなら。…椅子なんか無しで。
しかし、そうなってはいない。ソルジャーの席は一番奥だ、と決まっていたろうが。
お前が遅れてやって来たって、誰もあそこに座っちゃいないぞ。他の席に座って待つだけで。
誰も座りに行かない以上は、あれがお前の席だったわけで…。
お前の席はきちんとあった、と言われたらグウの音も出ない。ソルジャーのための席の件では。今、ハーレイが言った通りに、「まるで無かった」わけではないから。
会議の時なら、いつも「此処だ」と決まっていた席。扉から一番離れた所がそうなのだ、と。
皆よりも早く着いた時には、迷わずに其処に座っていた。先にストンと腰を下ろして、その日の会議の中身なんかを考えながら。
とはいえ、本当に「会議の時だけ」だった席。それもハーレイたちとの会議。他の仲間たちまで集まる時には、ソルジャーの席は「あって無いようなもの」。一番奥には違いなくても、お飾りのように座っていただけ。発言の機会も得られないままで。
(ああいう大きな会議の時には、ハーレイたちが進行役で…)
ソルジャーは最後に承認するだけ。「こういう具合に決まりました」と報告されたら、頷いて。
「それで頼むよ」とか、「それなら、続きは日を改めて検討するように」とか。
あの席は少し違うだろう。「自分の場所」と呼ぶよりは…。
(此処に座っていて下さい、って…)
座らされたわけで、お気に入りでも何でもない。
自分で選んでいいのだったら、あれだけ大勢が集まるからこそ、真ん中の方にいたかった。皆の意見がよく聞ける場所で、自分の考えも述べられる席。「こうしたらどうかな?」と。
ソルジャーの肩書きにこだわりはせずに、船の仲間の一人として。
なのに、貰えなかった席。会議の時でも、無かったも同じな席だったから…。
「ハーレイたちとの会議だったら、ぼくの席は確かにあったけど…。決まってたけど…」
でも、他のみんなと会える時には、前のぼくの席は無かったんだよ。会議の時でも。
ソルジャーは此処、って決まってはいても、あの席じゃ何も出来なかったし…。ぼくの意見は、先にハーレイたちが聞いてて、それを伝えるだけだったし。
酷いよ、ぼくだけ自分の席が無かったなんて。…青の間で座っているだけなんて…。
前のぼくの席が欲しかったよ、と重ねて言っても、ハーレイは耳を貸そうともせずに。
「ソルジャーの席は必要ない。シャングリラがどんなにデカイ船でも」
エラはもちろん、前の俺やヒルマンやゼルやブラウたち。…それに各部門の責任者もだな。
船の誰もがそう考えたせいで、ソルジャーの席は何処にも作られなかったんだが?
お前も分かっていた筈だろうが、どうしてそういうことになったか。…何のためにソルジャーの席を作らず、皆が青の間に行くという形を取っていたのか。
それにしてもだ、どうしていきなり席の話だ?
いったい何処から持って来たんだ、前のお前の席が無かった苦情だなんて…?
とうの昔に時効だろうが、とハーレイは呆れたような顔。「何年経ったと思ってるんだ?」と。
「それは分かっているけれど…。シャングリラだって、もう無いんだけれど…」
思い出したんだよ、前のぼくには自分の席が無かったことを。
今日の帰りに乗ったバスでね、ぼくの席が空いていなくって…。あれは普通の路線バスだから、ぼくが勝手に決めている席で、指定席とは違うんだけど…。
二つあるんだよ、ぼくのお気に入り。いつもだったら、どっちかに座って帰れるのに…。今日は二つとも塞がっちゃってて、空かないままになっちゃった…。
席は他にも空いてたけどね。別の席には座って帰れたんだけど…。
それでもツイていない気分、と帰り道に感じたことを話した。お気に入りの席に座れないまま、家まで帰る羽目になったから。「ツイてないよ」と何度も心で零したから。
勝手に選んだバスの座席でさえ、空いていなかったら気分が沈む。
逆にストンと座れた時には、「ぼくの席だよ」と嬉しいもの。家で座る場所は尚更、この部屋の椅子も、ダイニングの椅子も、あったら心が安らぐもの。「ぼくの席は此処」と。
そういう席が、前の自分も欲しかった、と。バスの席のようなものでもいいから。
誰かが座っていたっていいし、と例に挙げたのが食堂の席。船の仲間が集まる食堂、あそこには指定席は無かった。誰もが空いている席を探して、腰を下ろして食べていた場所。
「お気に入りの席がある仲間だって、きっと多かった筈なんだよ。今のぼくみたいに」
今日もあそこの席で食べよう、って思って行ったら、他の誰かに座られてたとか…。
前のぼくの席も、そういう席で良かったんだよ。此処がいいな、って勝手に選んだ場所で。
気が向いた時に出掛けて座れれば充分だから、と言ったのだけれど。塞がっていたら、他の席を探して座るから、とも訴えたけれど…。
「お前なあ…。今のお前なら、その考えでも別にかまいはしないんだが…」
前のお前が生きてた時代と、場所をよくよく考えてみろ。いったい何処で暮らしてたのか。
シャングリラは大勢の仲間が乗ってた船だが、路線バスとは違うんだ。
踏みしめる大地を手に入れるために地球を目指す船で、ミュウの箱舟。外の世界じゃ、ミュウは生きてはいけないからな。…人類に端から殺されちまって。
シャングリラがそういう船だった上に、前のお前がソルジャーだから…。
バスの乗客気分じゃ困る、とハーレイは顔を顰めてみせた。「皆はともかく、お前は駄目だ」と眉間の皺まで深くして。
ソルジャーは、船の仲間たちを導く灯台。他の仲間と一緒の席には座れない、と。
「そんな…。食堂の席くらい、一緒でいいのに…」
ぼくのお気に入りの席を見付けて、其処に座れたら良かったのに…。塞がってた時は、ちゃんと他のを探すから。…「ぼくの席だ」って、座ってる人を追っ払ったりはしないから…。
「それが駄目だと言っているんだ。シャングリラって船は、路線バスではなかったからな」
ソルジャーと気軽に触れ合えるような、遠足気分の旅じゃなかった。…地球を目指す旅は。
地球の座標は掴めなくても、誰もが地球を目指してたんだ。あの船の中じゃ。
前のお前も承知してたろ、自分の立場というヤツを。…ソルジャーはどう生きるべきかを。
仲間たちが何を期待したかも…、と鳶色の瞳が見据えてくる。「覚えてるよな?」と。
「…覚えてるけど…。前のぼくだって、ちゃんと分かっていたけど…」
でも、今のぼくは…。
今のぼくだと、前のぼくとは生きてる時代が違うから…。周りも全く違っちゃうから…。
頭では分かっているつもりだって、心がついていかないんだよ…!
今のぼくが同じことになったら、寂しい気分になっちゃうよ、と白いシャングリラを思い出す。
長く暮らした懐かしい船に、もう戻ることは出来ないけれど。
前の自分は死んでしまって、シャングリラも時の彼方に消えた。けれど今でも、忘れてはいない白い船。忘れることなど出来ない船。
あの船にソルジャーの席があったとしたなら、もっと身近な船だったのに、と思いは募る。
「そう思わない? ぼくのお気に入りの席があったら、今よりもずっと懐かしくって…」
もう戻れないって分かっていたって、座ってみたくなるんだよ。好きだった席に。
他の仲間に座られていたら、ガッカリしちゃった席でいいから…。ぼくが勝手に決めちゃってた席で、指定席なんかじゃなくていいから…。
食堂にあったら良かったのにね、と夢見るけれど。そういう席が欲しかったけれど…。
「さっきから何度も言ったがな? それは駄目だと」
お前が懐かしむ気持ちは分かるが、思い出す時に「身近な船だ」と言われる船では話にならん。
シャングリラは船の仲間たちにとっては、箱舟というヤツだったんだ。船の他には、生きられる場所は何処にも無かった。
世界の全てになってた船だぞ、あれだけが全てで、外の世界は無いのと同じだ。
その頂点に立ってたお前が、身近な存在になっていたなら、皆の気が緩む。ソルジャーが好きな席を選んで、「此処がいい」と座るような船では。
ついでに、ソルジャーの席が決まってても同じことだな。お前が食堂やブリッジなんかに、日に何回も顔を出してたら…。皆と気軽に話すようになるし、そんな船では駄目なんだ。
今の平和な時代だったら、それでも困りはしないんだがな。
ソルジャーが身近な存在だろうが、シャングリラが身近な船だろうが。
平和な時代の宇宙船なら…、と説くハーレイの意見は正しい。ミュウの箱舟だった船では、皆の気分が緩めばおしまい。ソルジャーや船が身近になったら、緊張感が消えてしまうから。
「そうだろうけど…。ハーレイが言う通りだけれど…」
前のぼくだって、ホントに分かっていた筈だけど…。
そういうものだと思っていたから、ぼくの席、無くても良かったんだと思う。
作って欲しいって言わなかったし、自分で勝手に選んで決めてもいなかったから…。
食堂とかに出掛けた時にも、用事が済んだら、いつでも直ぐに出て行ったから…。
でも寂しいよ、と拭えない思い。前の自分に「お気に入りの席」が無かったことは確かだから。
懐かしい白い鯨の中には、そんな席など無かったから。
「前のぼくの席、欲しかったのに…。欲しいのは、今のぼくだけど…」
欲しがったって、シャングリラはもう無いけれど…。前のぼくだって、もういないけど…。
でも…、と何度も繰り返していたら。
「そう言うな。寂しい気持ちは分からんでもないが、済んじまったことはどうにもならん」
だがな、じきにお前の席が出来るから。…シャングリラの中に。
あと少しだけの辛抱だ、というハーレイの言葉に目を丸くした。白いシャングリラは時の彼方に消えたし、宇宙の何処にも残っていない。その中に席を作ろうだなんて、不可能なこと。
「ハーレイ、それって…。どういう意味?」
シャングリラはとっくに消えちゃったんだよ、どうやってぼくの席を作るの?
遊園地にあるヤツのことなの、シャングリラの形の乗り物なら色々あるけれど…?
デートに出掛けてそれに乗るの、と瞬かせた瞳。遊具の中なら、お気に入りの座席も選べそう。一番前に乗るのがいいとか、真ん中だとか。…一番後ろがいいだとか。
「いや、遊園地のヤツじゃない。それだと、お前、困るだろうが」
シャングリラは今も一番人気の宇宙船だし、遊園地のも行列だ。お気に入りの席が出来たって、次に並んだら、全く違う場所にしか乗せて貰えないとか…。ありそうだろ?
俺が言うのは、今の俺たちのシャングリラだ。
いつかお前とドライブする予定の俺の車だ、お前の席は助手席だろう…?
ちゃんとお前の席が出来るぞ、と言われてようやく気が付いた。白いシャングリラの代わりに、今ならではのシャングリラ。車の形になったシャングリラがあることに。
「そうだっけ…!」
船のシャングリラは無くなったけれど、今のハーレイのシャングリラ…。
あれがあるよね、あの中だったら、ぼくの席だって出来るんだっけ…!
ハーレイが運転席に座って、ぼくは助手席。運転するのを横で見てたり、地図を広げたり…。
ちゃんとあるね、と嬉しくなった自分のための席。
前の自分には「お気に入りの席」さえ無かったけれども、今度は貰えるのだった。
いつか大きくなった時には、ハーレイと二人きりのシャングリラの中に、自分の席を。
そう考えたら、綻んだ顔。前の自分が持てなかった席を、今の自分は貰うことが出来る。
白い鯨のようだった船より、ずっと小さい車の中に。ハーレイと二人で乗るシャングリラに。
楽しみだよね、と夢を膨らませていたら、ハーレイの瞳に覗き込まれた。
「ずいぶんと嬉しそうな顔だが…。機嫌、直ったか?」
バスでお気に入りの席を逃しちまって、ツイていないと嘆いてたのがお前だが…。
前のお前の席のことまで思い出した挙句に、俺に文句を言っていたのも、お前なんだが…?
ツイてる気分になって来たのか、と尋ねられたから「うんっ!」と笑顔になった。
「今日は駄目だよ、って思ってたけど、もう平気。いいこと、ちゃんとあったから!」
大きくなったら、シャングリラの中に、ぼくの席を貰えるんだから。
ハーレイと指切りしなくったって、席は絶対、貰えるものね。ドライブの時は。ぼくを乗せずに走って行ったら、ハーレイ、慌てて戻ってくるのに決まってるもの。
凄く大きな忘れ物だよ、とクスクス笑った。
恋人とドライブに行こうというのに、その恋人を乗せるのを忘れて走り出すなんて、可笑しくて笑いが止まらない。ハーレイはどれほど慌てることかと、きっと平謝りだろうと。
「うーむ…。お前を忘れて行っちまうってか?」
やりかねないよな、「ちゃんと乗ったか?」って訊いていたって、お前、勝手に返事だけして、ドアを開けて降りていそうだから。
ドライブの途中の休憩の時に、可愛い動物か何かを見付けて行っちまうとか…。何か美味そうなものを見付けて、「買ってこよう」と降りちまうだとか。
「やっちゃいそう…。ドアをバタンと閉めた途端に、また開けちゃって降りるんだよ」
ハーレイ、ちゃんと確かめてよね。ぼくを忘れて行かないように。
忘れて走って行かれちゃっても、ぼくは思念波、飛ばせないから…。
それに動物とかに夢中で、気が付くまでにも、うんと時間がかかっちゃいそう。ハーレイの車が行っちゃった、ってポカンと道端に立つまでにはね。
「まったくだ。俺も大概ウッカリ者だが、お前の方でも負けちゃいないな」
下手をしたなら、俺が慌てて戻って来た時、「どうしたの?」と訊きかねないぞ。
置いて行かれたことにも気付いていなくて、動物と遊んでいるだとか…。
何かを買おうと列に並んでて、俺の方には目もくれないとか、そんな具合で。
ありそうだよな、とハーレイも心配する「恋人を乗せるのを忘れて走ってゆく」こと。知らない間に降りてしまって、「忘れて行かれた」ことにも気付かない恋人の方も、大いに有り得る。
「ぼく、本当にそうなっちゃうかも…。ハーレイが気を付けてくれないと…」
置き去りなことにも気が付かないなら、ハーレイ、謝るどころじゃないね。ぼくの方が、うんと叱られちゃいそう。…「置き去りだぞ」って、凄い勢いで。
前のぼくなら、ハーレイに叱られたりはしないんだけど…、と肩を竦めた。前の自分はウッカリ者ではなかったのだし、「自分の席」さえ貰えないほど、雲の上の人という扱い。
そんなソルジャーを、キャプテンは叱りはしなかった。叱る理由が無かったから。
「前のお前か…。確かに、そういうことで叱っちゃいないな、俺は」
無理をしすぎて熱を出したとか、そんな時しか叱っていない。今のお前とはかなり違うな、前のお前というヤツは。…自分の席さえ持てないくらいに、偉すぎたしっかり者だったから。
それに比べて、お前ときたら…。俺に置き去りにされたことさえ、気付かないってか…?
そうだ、面白いことを思い付いたぞ。前のお前と今のお前が違いすぎるなら、これはどうだ?
今のお前をソルジャー扱いするというのは。…置き去り防止にも良さそうだし。
いいかもしれん、とハーレイは顎に手を当てている。「これなら置き忘れも無いからな」と。
「ソルジャー扱いって?」
それって何なの、どうして置き去り防止になるの?
今のぼくをソルジャー扱いするって、どういう風に…?
分かんないよ、と目をパチクリとさせたけれども、ハーレイは「ソルジャーだしな?」と笑う。
「ソルジャーは偉くて、雲の上の存在だったんだから…。そいつをお前に反映するのさ」
車の中でのお前の席に。…お前を乗せて行く場所に。
お前の気に入りの場所は助手席だろうが、車ってヤツは、目上の人を乗せる時にはだな…。
助手席じゃなくて後部座席に乗せて行くものなんだぞ、違うのか?
タクシーなんかはそうなってるが、という解説。車の中での偉い人の場所。
「そうだけど…。それじゃ、ハーレイがぼくを乗せて行くのは…」
助手席じゃなくて、後ろの席なわけ?
ぼくは隣に乗っていたいのに、ソルジャー扱いで後ろになるの…?
酷くない、とハーレイを縋るように見た。後部座席では、ハーレイの姿もよく見えないから。
「いや、酷いとは思わんが?」
お前をそっちの席に乗っけて、俺は運転に専念する、と。
「ソルジャー、次はどちらに参りましょうか?」といった具合にな。
後ろだったら、ドアの開け閉めも俺がきちんと確認しないと…。目上の人はドアを閉めるのも、運転手任せというヤツだから。
お前を乗せるのを忘れる心配も無くなるわけだ、とハーレイは自信たっぷりだけれど。
「それって、酷い…」
ハーレイの姿が見えないじゃないの、ぼくの席から!
助手席だったら隣同士で楽しいけれども、後ろなんかに乗せられちゃったら…!
「そうでもないだろ、楽しめる筈だと思うんだがな?」
お前は偉そうに言えばいいんだ、後ろの席から。次はあっちだの、此処で停めろだの。
好き放題に命令してればいいだろうが、と言われたソルジャー扱い。助手席の代わりに、後ろの席に座って、偉そうに出掛けてゆくドライブ。
「うーん…。どう見ても、偉そうだけど…」
今のぼくは少しも偉くないのに、ソルジャー扱いで後ろだなんて…。でも…。
置き去りの心配はしなくていいよね、と考えてみたら、そんなドライブも愉快かもしれない。
前の自分だった時と違って、今はハーレイと二人きりなのだし、後ろで偉そうにしていても…。
(ソルジャーごっこで遊んでるだけで…)
その状況を楽しめばいい。
キャプテン・ハーレイに命令をして。…ソルジャー・ブルーになったつもりで。
(あの店に寄ってくれたまえ、って…)
やってみるのもいいかもしれない。
「かしこまりました」と車を運転してゆくハーレイ。
二人きりで乗るシャングリラのハンドルを握って、大真面目に。キャプテン・ハーレイだった頃さながらに、「面舵一杯!」と声を上げたりもして。
(ぼくがソルジャーなら、ハーレイはキャプテン…)
そういうドライブも悪くはない。遊びで偉そうに乗ってゆくなら、後部座席が自分の席でも。
置き去り防止のために乗せられる後部座席と、それとセットのソルジャー扱い。
ハーレイの車がシャングリラになって、自分のための席がその中に出来て…。
「…ハーレイ、それって、着いたらドアも開けてくれるの?」
運転手さんだと、着いたら開けてくれるけど…。ハーレイが運転してくれる時も…?
「当然だろうが。俺は運転手に徹するまでだ」
お前をウッカリ置き去りにしないよう、後ろの席に乗せるからには頑張らんとな?
乗り降りの時は、ドアを恭しく開け閉めしてやる。「どうぞ」と、それは丁寧に…な。
任せておけ、とハーレイは運転手になる気でいるらしい。ソルジャー扱いでドライブしようと。
「ホントに偉そうな恋人だけど…」
そんなのでいいの、ハーレイは…?
ソルジャーごっこだって知らない人が見たなら、恋人に馬鹿にされてるみたいじゃない…?
「いいんじゃないのか、俺がお前に首ったけってことで。…恋人同士だとは分かるんだから」
甘やかされて我儘放題なんだな、と誰もが温かく見てくれるさ。
本当は置き去り防止のためとか、ソルジャー扱いだとかは気付きもせずに。
「ふふっ、熱々?」
ハーレイはぼくにぞっこんなわけで、運転手までしてるってわけ…?
「そんなトコだな、お前、本当にやってみたいか?」
置き去り防止の方はともかく、ソルジャー扱いで後ろの席に乗って行くこと。
「ちょっぴりね」
ほんのちょっぴりなんだけど…。でも、そういうのも楽しそう…。
前のぼくには、ソルジャーの席が無かったから…。その分、今のぼくが欲しいな、その席。
「よしきた、お前にソルジャーの席をプレゼントだな?」
かまわないぞ、とハーレイが片目を瞑るから。「好きにしていいぞ」と言ってくれたから。
いつかドライブしてゆく時には、たまに頼んでみるのもいい。
「今日はソルジャーの席がいいな」と。
白いシャングリラには、ソルジャーの席など無かったけれども、今なら貰える。
今のハーレイの車にだったら、ソルジャーの席を作れるから。
偉そうに座る席だけれども、きっと二人で楽しくドライブしてゆけるから…。
お気に入りの席・了
※シャングリラには無かった、前のブルーの席。お気に入りの席が無かったソルジャー。
けれど、今度は専用の席を貰えるようです。ハーレイが運転する車の中に、自分だけの座席。
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(鍵だ…)
本物じゃないよね、とブルーが見詰めたもの。学校からの帰りに、路線バスの中で。
ふと見た、通路を挟んだ席。其処に座った若い女性のペンダント。
(金色の鍵…)
細い金色の鎖を通して、首から下げた金色の鍵。そういう形のペンダント。きっとアクセサリーなのだと思う。鍵の形をしているだけの。
アクセサリーだから、何処の扉が開くわけでもない。鍵の形の飾りというだけ。
でも…。
(本物だったら素敵だよね?)
アクセサリーではなくて、本物の鍵。ちゃんと使えて、扉が開く。
そうだとしたなら、開く扉は特別な場所の扉だろう。女性の家の扉の一つではなくて、箱などに使う鍵でもなくて…。
恋人に貰った、家の合鍵。それを使えば、留守の時にも家に入って待てる鍵。
せっかくだからと、わざわざ金色に作って貰って、ペンダントにしてくれた優しい恋人。いつも首から下げられるように、いつでも持っていられるように。
(恋人の家に出掛けて行ったら、あのペンダントで…)
鍵を開けて入って、料理しながら恋人の帰りを待つだとか。お菓子も作るかもしれない。恋人が家に帰って来たなら、作った料理やお菓子の出番。「おかえりなさい」と笑顔で迎えて。
(鍵さえあったら、先に入っていられるもんね?)
恋人が仕事に出掛けていたって、家の表で待っていないで。
「今日は帰りが遅くなるから」と言われた日だって、恋人の家で夕食の支度。帰って来たなら、直ぐに食べられるように。「料理だけ作って置いておくから」と手紙を残して帰ったりもして。
そういうのも素敵、と夢見てしまう。
自分だったら、そのための鍵が欲しいから。ハーレイの家に入って待っていたいから。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
ハーレイの家の合鍵があれば、どんなに素敵なことだろう。
それで扉を開けられたなら。
ハーレイが家にいない時にも、中に入って帰りを待っていられたら。
いいな、と眺めた金色の鍵。アクセサリーか、本物なのかは謎だけれども。
(ああいう形の鍵もあるしね?)
本当に扉が開く鍵。扉についた鍵穴に入れて、回してやったらカチャリと小さな音がして。
あれが本物の合鍵だったら、と羨ましく思いながら降りたバス。恋人の家の扉が開く鍵、恋人に貰った金色の鍵。それを首から下げているなら、本当に幸せだろうから。
家に帰って、ダイニングでおやつを食べる間も、鍵が頭から離れない。ペンダントになっていた金色の鍵は、本物だった気がするものだから。
アクセサリーのように見えても、恋人の家の扉の合鍵。使う時には首から外して、あれを鍵穴に差し込んでやる。鍵が外れる方へ回して、鍵が開いたら扉を開けて家の中へと。
恋人が帰るまでの時間に、色々なことをするために。料理の支度や、お菓子作りや。
(ぼくも合鍵…)
もしもハーレイが贈ってくれたら、大切に持つことだろう。宝物みたいなものだから。いつでもハーレイの家に入れて、中で帰りを待てるのだから。
それを貰えたら、帰りに見掛けた女性みたいに、ペンダントにして肌身離さず持っておく。細い鎖を通してやって。
(金色の鍵じゃなくたって…)
実用的な鍵にしたって、やっぱり首から下げておく。アクセサリーには出来ないものでも、誰が見たって「ただの鍵」でも。ごく平凡な銀色でも。
どんな時でも持っていたいし、大切な鍵と一緒にいたい。首から下げておくのが一番。
(お風呂に入る時くらいしか…)
きっと外しはしないだろう。何処に行くにも、鍵と離れたくないものだから。
(学校は、アクセサリーは禁止だけれど…)
その学校でも、なんとかして持っていたいと思う。ハーレイに貰った大切な鍵を。
「家の鍵なんです」と言い張ったならば、持てるだろうか?
帰った時に母が留守なら、それを使って入らないと、と「家の鍵です」と嘘をついたら。
(首に下げるのは駄目かもだけど…)
家の鍵なら、きっと許して貰える筈。持っていないと困るものだし、「アクセサリーは駄目」と注意されても、他の形で持てるだろう。
制服のポケットに入れておいたら、いつでも一緒。「家の鍵です」と言い張りながら。
そんなのも素敵、と思った「制服のポケットに入れておく」鍵。落っことさないように、紐でも通して、それを何処かに結んでやって。
家の鍵なら先生だって怒らない。紐がポケットから覗いていたって、その先に鍵があったって。
(…ぼくの家じゃなくて、ハーレイの家の鍵なんだけどね?)
家の鍵には違いないもの、と考えながら戻った二階の自分の部屋。空になったカップやケーキのお皿を、キッチンの母に返してから。
(合鍵かあ…)
勉強机の前に座った後にも、金色の鍵ばかり思い出す。アクセサリーか本物なのか、本当の所は分からないけれど。
(だけど、合鍵…)
自分がそれを貰ったならば、あんな風にして持つだろう。学校では首から下げられないのなら、制服のポケットに入れる形で。
(家の鍵です、って言えば絶対、大丈夫…)
先生に注意された時にはそれだよね、と言い訳までスラスラ浮かんでくる。本当に家の鍵なのかどうか、先生は確かめないだろうから。家に来てまで、鍵穴に入れたりするわけがない。
(鍵は鍵だし、何処かの扉が開くんだから…)
自分の家の鍵にしたって、ハーレイの家の鍵にしたって、鍵は鍵。先生たちに区別はつかない。
「持つための言い訳」まで思い付いたら、欲しくてたまらなくなった合鍵。
ハーレイの家の扉の鍵穴、其処に突っ込んだらカチャリと鍵が開く合鍵。
(チビの間は、ハーレイの家には行けないけれど…)
悲しいことに、そういう決まりになっている。
前の自分と同じ背丈に育たない内は、ハーレイの家には遊びに行けない。柔道部員たちは何度も呼んで貰って、暑い季節は庭で賑やかにバーベキューまでやっていたのに。
(…ぼくは一回、呼んで貰って、それっきりで…)
後はメギドの悪夢を見た夜、瞬間移動で飛んで行っただけ。あの時だって、朝食が済んだら車に乗せられて、家に帰されてしまっておしまい。
けれど、いつかは出掛けてゆける。大きくなったら、「遊びに来たよ」と何度でも。
思い付いた時には「行ってもいい?」と尋ねてみたり、予告もしないで押し掛けてみたり。
今は無理でも、何年か待てばその時が来る。前の自分とそっくり同じに育ったら。
いつかハーレイの家に行けるという、お守りに合鍵があったらいい。お守りに持っていられたらいい。「家の鍵です」と嘘をつきながら、学校に行く時もポケットに入れて。
ハーレイに頼めば作って貰えるだろうか、ただ「持っておく」だけならば?
留守の間に家まで出掛けて、合鍵を使って中に入るのではなかったら…?
使える時がやって来るまで使わないなら、お許しが貰えるかもしれない。約束通りに、育つまで家に行かないのなら。
(駄目で元々なんだしね…?)
合鍵が欲しいと頼んでみたい、と思っていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、合鍵、作ってくれる?」
作ってくれる所は色々あるでしょ、そういうお店。其処で作って欲しいんだけど…。駄目?
「はあ? 合鍵って…?」
なんでまた、とハーレイは怪訝そうな顔。「何処の合鍵が欲しいと言うんだ?」と。
学校の中の扉だったら、どれも最初から合鍵がある。生徒が個人的に使うロッカーでも、万一の時に困らないよう、合鍵の束が職員室にあるほどだから。
「ぼくが欲しいの、ハーレイの家の合鍵だけど…」
作ってくれたら嬉しいんだけどな、ハーレイの家の玄関の扉が開く合鍵。
一番安いヤツでいいから、とも頼んでみた。合鍵を作る店は色々、値段も色々だろうから。
「俺の家の玄関の合鍵だって…?」
お前、そんなので何をする気だ、空き巣の真似か?
俺が出掛けて留守の間に、勝手に入って中でゴソゴソするって言うのか、帰る時間はお前の方が早いんだからな?
俺が柔道部に行っていたなら、家は留守だし…。お前は放課後で暇なんだし。
もっとも空き巣は、今の時代はいやしないんだが。…泥棒なんかはいない時代だ、空き巣なんて言葉は本の中にしか出て来ないがな。
そいつをお前がやるって言うのか、盗っていくものは色々ありそうだから…。
他のヤツらの目にはガラクタでも、お前にとっては宝物ってヤツが山ほどドッサリとな。
俺の愛用のマグカップだって盗られそうだ、とハーレイは空き巣の心配中。コーヒーを飲む時のお気に入りのカップで、ハーレイの家で見掛けたそれ。とても大きなマグカップ。
「茶碗も危ないかもしれん」だとか、「箸だって危なそうだよな」とか。
「俺が愛用してるってだけで、お前は欲しがりそうだから…。茶碗だろうが、カップだろうが」
消えていたなら新しいのを買えばいいだろう、と鞄に詰めて行きそうなんだ。俺に黙って。
お宝を奪って逃げる時には、元通りに鍵までかけて行ってな。
俺が仕事から帰って来たって、最初は気付かないんだろう。鍵はきちんとかかってるから、何も知らずに開けて入って、さて、とカップを使おうとしたら、見事に消えているってな。
マグカップどころか、茶碗も箸も…、とハーレイが的外れなことを並べ立てるものだから。
「違うよ、空き巣をするんじゃなくて…。留守の間に家に入りたいわけでもなくて…」
お守りに欲しいんだよ、ハーレイの家の合鍵を。…ぼくのお守り。
「…お守りだって?」
俺の家の鍵には、何の御利益も詰まっちゃいないと思うがな?
玄関の扉が開くってだけで、他の役には立たないぞ。本物の鍵でもその有様だし、合鍵となれば御利益の無さは想像がつくと思わんか?
どんなものでも、本家本元が一番御利益があるもんだ。複製品だと、ちょいと落ちるし…。
ただでも御利益の無い鍵の合鍵なんかが、何のお守りになると言うんだ…?
俺にはサッパリ分からんのだが、とハーレイは首を捻っている。「何に効くんだ?」と。
「えっと、お守りには違いないけど…。それ、ぼくにしか効かないから…」
ぼくの心に効くお守りだよ、持っているだけで幸せになれるお守り。それが御利益。
これがハーレイの家の合鍵、って思うだけでホントに幸せだから…。
「お前だけに効くお守りだって? 何処から思い付いたんだ?」
何かのおまじないでも読んだか、合鍵を持ったら幸せになるとか、そういう記事を…?
それとも本に書いてあったか、何かのついでに…?
「おまじないじゃないよ、今日の帰りにバスで見掛けたペンダント…」
若い女の人が首から下げてたんだよ、金色の鍵のペンダントを。
アクセサリーかな、って思ったけれども、そうじゃないかもしれないよね、って…。
恋人に貰った家の合鍵で、アクセサリーに使えるように、金色に作ってあるのかも、って…。
細い鎖で下げていたよ、と話した鍵のペンダント。金色の鍵。
「あんな風に合鍵を持っていたい」と、「ハーレイの家のが欲しいんだけど」と。
「学校はアクセサリーが禁止で、ペンダントにしてたら叱られるかもしれないけれど…」
家の鍵です、って言ったら許して貰えそう。ペンダントは駄目でも、制服のポケットに入れるのならね。家に帰った時に誰もいなかったら、鍵が無いと入れないんだから。
何処の鍵かは確かめないでしょ、先生だって。…「家の鍵か」って眺めるだけで。
だから、ハーレイの家の鍵でも大丈夫。ぼくの家の鍵だと思われておしまい。
大切にするから、合鍵、欲しいな…。
今はまだハーレイの家に行くのは無理だし、合鍵があっても、鍵を開けたり出来ないけれど…。
持っていたって使えはしなくて、何の役にも立たないんだけど…。だけど、お守り。
いつか使える時が来るよ、って考えるだけで幸せじゃない。ぼくが大きくなった時には、合鍵、使っていいんだから。
ハーレイが留守にしている時には、それで入って…、と瞳を輝かせた。玄関に鍵がかかっていた時も、合鍵があれば中に入れる。「留守なんだ…」と溜息をついて帰る代わりに、扉を開けて中に入って、ハーレイの帰りを待つことが出来る。お気に入りの椅子に座ったりして、のんびりと。
いつか使えるだろう合鍵、それがあったら幸せな気分。今は出番がまるで無くても。
「そういう理由で合鍵なのか…。お守りという意味も良く分かったが…」
生意気だぞ、お前。チビのくせして、俺の家の合鍵が欲しいだなんて。
前のお前と同じに育って、俺の家に出入りが出来るようになったら、合鍵だって作ってやらないわけではないが…。欲しいんだったら、幾らでも作ってやるんだが…。
チビのお前じゃ話にならんな、文字通り、役に立たないんだから。
お前がワクワク持っているだけで、その鍵、出番が来やしないからな。
それじゃ鍵だって可哀相だろうが、とハーレイが眉間に寄せた皺。「使われない鍵じゃ、ただの飾りになっちまう」と。
合鍵とはいえ、鍵の姿に生まれたからには、使われてこそ。人間の役に立つ道具でないと、と。
「…やっぱり駄目?」
ぼくがお守りにするだけだったら、ハーレイの家の合鍵は作ってくれないの?
一番安いヤツでいいのに、綺麗な金色の鍵じゃなくても…。
合鍵だったら何でもいいよ、と食い下がったけれど。本当に欲しいのだけれど…。
「俺が駄目だと言ったら、駄目だ。お前にはまだ、合鍵ってヤツは早すぎる」
考えてもみろよ、前のお前だって、キャプテンの部屋の合鍵なんぞは持ってなかった。ちゃんと育った立派な大人で、俺と恋人同士でも。
もっとも、お前に鍵は必要無かったがな。鍵も扉も、お前には無いも同然だったし。
どんな場所でも、瞬間移動でヒョイと入ってしまうんだから…。鍵があろうが、扉があろうが。
いや、その前にだ…。
鍵が無いのか、と苦笑したハーレイ。「今の時代とは、鍵が違ってたよな」と。
「え? 鍵って…」
前のぼくたちが生きてた頃でも、鍵はきちんとあったでしょ?
シャングリラの中にも鍵はあったし、アルタミラの檻にも、あそこで閉じ込められたシェルターにも鍵…。檻もシェルターも、内側からは開けられなかったんだから。
そうなったのは鍵のせいだよ、と例に挙げた忌まわしい記憶。
前の自分は、アルタミラで狭い檻の中に押し込められていた。人体実験の時だけ、外に出される牢獄に。もちろん中から開くわけがないし、逃げることさえ諦めた。未来に何の希望も無いから、心も身体も成長を止めて。
メギドの炎がアルタミラを星ごと滅ぼした時は、人類はミュウをシェルターの中に閉じ込めた。けして外には出られないよう、星ごと焼き滅ぼされるように。
その中で悟った「終わりの時」。このままでいたら死んでしまう、と懸命に扉を叩いてみても、扉は開きはしなかった。前の自分のサイオンが扉を、シェルターの壁ごと破壊するまで。
つまり、存在していた鍵。檻もシェルターも、鍵が無いなら簡単に開いた筈なのだから。
それにシャングリラにも、鍵は幾つも。キャプテンの部屋にも、倉庫などにも。
「アルタミラの檻に、シェルターなあ…」
あそこにも確かに鍵はあったな、俺たちには歯が立たなかったのが。
忌々しい鍵の話はともかく、シャングリラにも鍵は幾つもあったってわけで…。
白い鯨に改造する前から、個人の部屋にも鍵はかかった。住人が閉めようと思いさえすれば。
改造した後の船になったら、鍵がかかる場所もグンと増えたが…。
船が大きくなった分だけ、部屋も増えたし、施錠しなけりゃ駄目な区画も増えたから…。
だが…、とハーレイは鳶色の瞳をゆっくり瞬かせた。「鍵ってヤツが問題だ」と。
「シャングリラにあった色々な部屋は、こういう鍵で開いてたのか?」
今の俺の家の鍵はコレだが、シャングリラで俺たちが使ってた鍵もこんなのだったか…?
これなんだが、とハーレイが取り出したキーホルダー。背広の上着のポケットから。テーブルの上にコトリと置いて、それにつけられた鍵を順に指してゆく。
家のがこれで、車がこれで、と。柔道部の部室の鍵がこいつで…、と色々な鍵を。
「…一杯あるね、ハーレイの鍵…」
やっぱり大人の人は違うね、ぼくだと鍵も持っていないし、キーホルダーの出番も無いよ。家の鍵だって、要りそうな時だけ、ママから借りて持って行くから。
ホントに沢山、とキーホルダーについた鍵の数に感心していたら…。
「そういや、車のキーも無いよな」
今の俺には当たり前のものだが、前の俺だとキーは無縁で…。うん、無かったよな、車のは。
「車?」
あった筈だよ、車のキー。…前のぼくは運転しなかったけれど、人類の世界に車はあったし…。
人類が車を動かす時には、今と同じでキーだった筈だと思うけど…。
基本は変わっていないものね、と前の自分が生きた時代の車の形を思い浮かべる。今の車たちの隣に並べてみたって、さほど違いはしないだろう。車は車で、人間を乗せて道路を走るもの。
形が変わっていないのだったら、あの頃だってキーがあった筈。使った記憶は無いのだけれど。
「車のキーはあっただろうな、お前が言っている通りに。…俺も使っちゃいないんだが」
シャングリラにあったのは自転車くらいで、車は無かったモンだから。
俺が言うのは、前の俺の車というヤツだ。いわゆる車よりも遥かにデカくて、シャングリラって名前がついてたんだが。
…今の俺の車に、いずれその名をつける予定だし、シャングリラだって俺の車と言っていい。
俺の私物じゃなかっただけで、俺が動かしていたんだから。大勢の仲間を乗っけてな。
シャングリラの運転手は前の俺だが、あの船にキーは無かったぞ。
車みたいに、これさえ使えば動くってヤツは。…エンジンがスタートするキーなんかは。
「…無かったね…」
ホントだ、同じシャングリラって名前をつけてみたって、車と船とじゃ違うんだね…。
全然違う、と遠く遥かな時の彼方に思いを馳せた。懐かしい白いシャングリラに。
今のハーレイの愛車は白くないのだけれども、いつか二人でドライブ出来る時が来たなら、あの船の名前をつけてやる。二人だけのために走ってくれる車に、「シャングリラ」と。
けれど本物の白いシャングリラと、ハーレイの車は全く違う。シャングリラの方は宇宙船だし、道路を走る車とは違って当たり前。
シャングリラを動かしていたエンジンは、小さなキーを差し込むだけでは始動などしない。船を動かすには幾つもの手順、それを正しく実行してゆくことが必要。
(メイン・エンジン点火、って…)
キャプテンや機関長が指示して、それに携わる仲間が動く。各自の持ち場で、安全確認やデータ確認などをして。何人もが「いける」と判断を下して、その作業をして、ようやくシャングリラが動き始める。巨大な白い鯨のような船体が。
(物凄く沢山の手順だけれども、点火までには、ほんの一瞬…)
皆が瞬時にこなした作業。エンジンに点火するために。
でないと船は動かないから、危険を回避することすらも出来ない。それもあって、完全に止まることはなかったシャングリラ。前の自分が生きていた頃には、ただの一度も。
(メイン・エンジンが、メンテナンスで止まっていたって…)
補助エンジンが常に動いていた。そちらの方も、小さなキーを使うだけでは動かない。何人もの仲間が関わらないと、安全やデータを確認しないと。
(…本物の方のシャングリラには…)
こういうキーは無かったのか、と見詰めた車のためのキー。
今のハーレイの自慢の車は、このキーがあれば動くのに。前のハーレイのマントと同じ色の車、あれを動かすにはキーを差し込んでやればいいのに。
(船のシャングリラは、とても大変…)
キーだけじゃ動いてくれないんだ、と納得させられたけれど、鍵は確かに無かったけれど。
そのシャングリラの船体の中には、幾つもの部屋や倉庫や、様々な区画。
居住区にあった個人の部屋には鍵がついていたし、立ち入りを制限すべき場所にも、同じに鍵。
部屋も、立ち入り制限区画も、倉庫なども鍵が間違いなくあった。鍵がかかるなら、鍵を開けるための方法がある。でないと、扉は開かないから。
(鍵が無いと、開いてくれないよ…?)
今の自分の家の扉も、ハーレイの家の玄関も。学校のロッカーも開きはしないし、シャングリラでも同じだと思う。鍵がかかる場所があった以上は、それを開けるための鍵が欠かせない。それが無ければ、誰も入れはしないのだから。
(瞬間移動で飛び込むんなら、別だけど…)
ジョミーを船に迎える前には、瞬間移動が出来たのは前の自分だけ。他の仲間には無理だった。その方法で入れないなら、鍵が無かった筈はないのに…。
(どうなってるの…?)
今のハーレイの「鍵は無かった」という言葉。鍵はあったし、鍵がかかるなら開けるための鍵が必要なのに。
「やれやれ…。まだ思い出せないって顔をしてるな、お前ときたら」
俺は嘘なんかついちゃいないし、お前を騙そうともしてはいないぞ。鍵が無かった話の件で。
いいか、前のお前の青の間にしても、俺がいたキャプテンの部屋にしてもだな…。
どちらにも鍵はあったわけだが、少なくとも、こういう鍵じゃなかった。今日のお前が見かけたような、こんな形の鍵なんかでは…な。
こいつだ、とハーレイは鍵の一つを指で弾いた。キーホルダーについている中の一つを。
それを使えば、柔道部の部室の扉が開くらしい。他の幾つもの鍵との違いは、見ているだけではよく分からない。車のキーなら、一目で「あれだ」と分かるけれども。
鍵の基本の形は同じ。刻まれた溝や、差し込む部分の僅かな違いで別の鍵になる。
けれどシャングリラでは、もっと厳重だったシステム。
基本の鍵など何処にも無かった。「これがそうだ」という形も無かった。
キーホルダーなどあるわけがなくて、鍵の数だけあったと言っても良かった鍵。その場所の鍵を開ける方法。部屋も倉庫も、立ち入り制限区画の扉も。
(鍵なんか、誰も差し込まなくて…)
回してカチャリと開けてもいない。
そんなシステムではないのだから。鍵を開けるには、様々な手順。
(方法だって、ホントに色々…)
一つだけで開く扉もあれば、幾つも組み合わされていた場所も。其処の重要性に応じて。
そうだったっけ、と蘇って来た遠い遠い記憶。
施錠が必要だった場所では、誰も鍵など使わなかった。開ける時にも、閉める時にも。…鍵穴に入れて回す鍵など、誰一人として。
前の自分は瞬間移動であらゆる扉を通り抜けたけれど、それが出来ない船の仲間たちは皆、扉を相手に苦労していた。鍵がかかっていたならば。
施錠されたキャプテンの部屋に入る時には、ハーレイに頼んで中から開けて貰っていたか…。
(パスワードを幾つも打ち込むだとか、そんなので…)
部屋の掃除をする係などが入っていただけ。部屋の主が留守にしていた時は。
キャプテンは船の最高責任者だけに、たやすく入れる部屋ではいけない。本人の許可か、入れる資格を持つ者だけが知っている手順か、それが無ければ開かなかった扉。
今のハーレイのキーホルダーについているような、鍵一つでは開けられない。そういう形の鍵も無ければ、鍵穴だって無いのだから。
前の自分が長く暮らした青の間も同じ。ソルジャーに用がある者は多いだろうから、昼間は施錠しなかったけれど、施錠したなら…。
(入るの、大変…)
ちょっと視察に出掛けるから、と鍵をかけてから出ようものなら、厄介なことになっただろう。
「ソルジャーがお戻りにならない間に、掃除をしよう」と部屋付きの係がやって来たって、鍵を開けるのに幾つもの手順。
船で一番偉いとされた、ソルジャーの私室なのだから。…キャプテンとは比較にならない存在。
そのソルジャーの部屋の鍵だし、そう簡単には開かない。
(掃除しに来た係の名前を打ち込んで…)
係の名前と、それを打ち込んだ仲間が同じ人間かどうか、その照合から始まる仕組み。無関係な者には、ソルジャー不在の時の青の間には、立ち入り許可が下りないから。
間違いなく同じ人間なのだ、と証明したって、今度はロックを解除するための作業が必要。
どういう理由で鍵を開けたいのか、目的によって違う色々なパスワードなど。
掃除したいのなら、掃除の時に使うものを入力、それが通れば扉を開くための別のパスワードを入れて、と複雑すぎた青の間の鍵。
たとえ部屋付きの係にしたって、ミスをしたなら、けして開いてくれないほどに。
とんでもない鍵があったんだった、と思い出した前の自分の部屋。青の間と呼ばれた、やたらと大きすぎた部屋。「ソルジャーの威厳を高めるために」と、余計な工夫が凝らされた場所。
あの部屋の鍵は、誰も開けたくなかっただろう。あまりにも仕組みが厄介すぎて。
居住区にあった他の仲間たちの部屋にしたって、鍵というものは…。
(青の間に入る係を確認するのと同じで、いろんな認証システムとか…)
持ち主の好みや、肩書きなどで違った種類。パスワードを打ち込んでやれば開く扉や、その前に立った人間が誰かを確認しないと開いてくれない扉やら。
どれにしたって、今の時代の鍵とは違った。青の間も、前のハーレイの部屋も、ごくごく普通の仲間たちの部屋の扉にしても。
そんな具合だから、合鍵だって無かった船。何処の部屋にも、倉庫や様々な区画にも。
鍵を開ける方法からして違ったからには、合鍵があるわけがない。作りたくても、作る方法などありはしないのだから。
「…前のぼくたちの部屋、こんな鍵だと開かないね…」
合鍵だって作れやしないよ、どう頑張っても。今の鍵とは違うんだから。
ゼルやヒルマンがどんなに研究したって、あのタイプの鍵の合鍵は無理。…作れやしないよ。
絶対に無理、と今の自分でも分かる。そう簡単には開けられないように工夫された鍵は、それに応じた開け方だけしか、受け付けてなどはくれないから。
「分かったか? まるで時代が違ったんだな、前の俺たちが生きていた頃は」
鍵は開けられないことが大事で、合鍵なんぞは論外だった。合鍵があれば開いちまうから。
あの時代にも、こういった形の鍵は一応、あったんだが…。
何処にも無かったわけではないし、形を見たなら「鍵だ」と分かるものではあったが…。
残念なことに、前の俺だけが好きで使っていた、羽根ペンってヤツと同じでだな…。
レトロなアイテムの一つだったぞ、と今のハーレイが言う通り。
SD体制が敷かれた時代も、鍵穴に差し込む鍵ならばあった。鍵を差し込む鍵穴がついた、箱や机の引き出しなども。
とはいえ、それらは「信用されてはいなかった」鍵で、一種の飾り。
本当に隠しておきたい文書や品物、そういったものを其処に仕舞いはしなかった。誰が見たってかまわないものや、鍵を開けて「どうだ」と自慢したいものを入れておくだけで。
ハーレイ曰く、「レトロなアイテム」だった鍵。白いシャングリラが在った頃には。
「今だと、本物なんだがな…」
どれも立派に現役の鍵で、家の扉も、部室の扉も、学校の門を開けられる鍵もあるんだが…。
前の俺たちの目には頼りなくても、どれも本物の鍵ばかりだ。これも、これも、この鍵だって。
どの鍵も何処かの鍵なんだ、とハーレイはキーホルダーを元のポケットの中に仕舞った。
「こいつらは大事な鍵だしな?」と。
失くしちまったら大変だ、と大切に仕舞い込まれた鍵たちの束。その中の一つを選んで使えば、車も動くし、家にも入れる。
ハーレイが柔道着を入れたりしているロッカーも開けば、柔道部の部室に入ることも出来る。
「鍵って、昔に戻ったんだね。…ぼくたちは未来に来ちゃったのに」
前のぼくたちが生きた頃よりも、ずっと昔の時代の人は、今みたいな鍵を使ってたんでしょ?
シャングリラの時代には、レトロなアイテムだったんだから。…そういう鍵は。
「うむ。前の俺が好きそうな鍵ではあった」
いくら好きでも、キャプテンの部屋には使えないんだが…。あの時代ではな。
今の俺たちには、こっちの方が普通になっちまったが。
学校だろうが、ロッカーだろうが、家であろうが、何処もこの手の鍵ばっかりで…。
お蔭で合鍵を作る店だって、幾つもあるというわけだ。道具さえあれば、直ぐに作れるから。
店で少しだけ待ってる間に出来ちまう、とハーレイは笑う。「早くて安くて、便利だよな」と。
「そうなんだけど…。でも、どうしてだろう?」
鍵の形が、昔に戻っちゃったのは。…シャングリラの頃には、うんと複雑だったのに。
もっと複雑になったんだったら分かるけれども、どうして逆になっちゃったのかな…?
「なあに、簡単なことだってな。…平和な時代になったからさ」
人間がみんなミュウになったら、戦争も武器も無くなった。誰も争ったりしないから。
平和なんだし、暗殺なんて物騒なことも無ければ、泥棒もいない世の中だ。
厳重に鍵をかけなくっても、誰も困りはしないってな。殺されも、盗まれもしないんだから。
そうは言っても、やっぱり鍵は欲しいモンだし、ああいう鍵で充分だろう、ということだ。
鍵穴に入れて回してやったら、カチャリと開いたり、閉まったりする鍵。
もっとも、宇宙船となったら、昔と変わらないだろうがな。…シャングリラの頃と。
客船にしても、輸送船にしても、大勢の人の命を預かる宇宙船。外は真空の宇宙空間だから。
いくら乗客がミュウばかりでも、宇宙はやはり危険な場所。咄嗟にシールドを張れなかったら、命を落としかねない所。
そんな宇宙を飛んでゆく船は、車みたいに鍵一つでは動かせない。
キーを差し込んだだけでエンジンが始動したりはしなくて、多分、昔と同じなのだろう。技術が進歩している分だけ、手順が多少変わっていても。
宙港を離陸してゆく前には、何人もが自分の担当する部分の安全やデータを確認する。そのまま離陸してもいいのか、前の段階に戻って整備すべきかなどを。
それが済んだら、ようやく発進できる船。乗客を乗せて、遥か宇宙へと。
「前の俺の頃と大して変わってないのが、宇宙船の方の鍵ってヤツだが…」
車みたいに、キーを使えばいいってわけにはいかないんだが…。行き先は宇宙なんだから。
しかし、個人の家とかだったら、レトロな鍵で足りるってこった。
合鍵を作ろうと思った時には、店に出掛けて頼んだらポンと出来ちまうような。
ゼルやヒルマンにも無理だったのにな…、とハーレイは可笑しそうな顔。シャングリラで一番の技術力を自慢していたゼルと、博識だったヒルマンと。
白いシャングリラを設計したような二人がやっても、青の間の合鍵は作れなかった、と。それにキャプテンの部屋の合鍵も、他の仲間たちの部屋や、倉庫なんかの合鍵も。
「面白いよね、今だと簡単なんだけど…。家の鍵でも、学校の鍵でも、直ぐに出来ちゃう」
せっかく簡単に作れるんだし、ぼくも欲しいよ。ハーレイの家の鍵の合鍵。
お守りに作って欲しいんだけどな、ホントに一番安い合鍵でかまわないから。
「今は駄目だと言ったがな? チビのお前には早すぎると」
前のお前と同じくらいに大きくなったら、作ってやる。俺が留守でも、入れるように。
お前、金色のが欲しいのか?
アクセサリーが好きなタイプだとは思えないんだが、どうやら憧れらしいしな?
首から下げて自慢したいのなら、そういうヤツを作ってやるが。
金色の鍵を作る値段も、そんなに高くはないだろう。本物の金じゃないんだから。
「うーん…?」
首から下げておくんだったら、金色の方がいいのかな…。銀色の鍵でも、お洒落なのかも…。
バスで見掛けた女性の鍵は、金色の鍵。アクセサリーか、合鍵なのかは謎だった鍵。
自分が貰うのは合鍵なのだし、アクセサリーらしく金色にするか、銀色の鍵でもお洒落なのか。服によっては金よりも銀で、自分の髪の色も銀色。
(…金色の合鍵を作って貰うか、銀色でいいか…)
どっちだろう、と考えたけれど、合鍵を貰える頃になったら、自分は大きく育っている。堂々とハーレイの家に出掛けて、合鍵を使って入れるほどに。
そういう姿に育ったのなら、結婚の日も遠くない。婚約しているかもしれない。
(結婚したら、大抵の時は、ハーレイと一緒にいるんだろうし…)
ハーレイが仕事に行っている間に、何処かに行くなら、合鍵で扉を閉めてゆく。それが普通で、当たり前の日々。戻った時には、合鍵で扉を開けて入って。
その頃にはもう、珍しくもないものが合鍵。失くさないよう気を付けるだけで、宝物だとまでは思わないだろう。「自分の家の鍵」なのだから。
そうなる前の、結婚までの短い間だけなら、合鍵を仕舞っておく場所は…。
(ポケットの中とかでもいいのかな?)
いつも首から下げておかなくても、使う時だけ出してくるとか。「留守なんだ…」とポケットを探って、頼もしい合鍵で扉を開けてやるために。
でも…。
(やっぱり、首から下げておくのも…)
幸せだろうし、迷ってしまう。
どういう合鍵を貰うのがいいか。金色の鍵か、銀色の鍵か、どちらが自分に似合うだろうかと。
「ねえ、ハーレイ…。ぼくが首から下げるんだったら、どっちの鍵が似合いそう?」
金色の鍵か、銀色の方か。…ぼくの髪の毛、銀色なんだし、銀色なのかな…?
だけど金色の鍵も素敵だったし、似合わなくても金色の鍵にした方がいいかもしれないし…。
「お前に似合いの鍵の色ってか? 俺のセンスに期待しないで、今の間に悩んでおけ」
いつも着ている服の色とか、そういったこともよく考えて。
金がいいのか、銀がいいのか、鏡の前でも悩むんだな。俺はお前の注文通りに作ってやるから。
しかし、お前のことだしなあ…。明日には忘れていそうだが。合鍵のことは、すっかり全部。
「酷いよ、ハーレイ!」
ぼくは真剣に悩んでいるのに、忘れそうだなんて…。酷いよ、ホントに酷すぎるってば!
あんまりだよ、と文句を言ったけれども、きっと本当に忘れるのだろう。
下手をしたなら、まだハーレイが家にいる内に。母が「夕食よ」と呼びに来るよりも前に。
(…ホントに、今日中に忘れちゃいそう…)
ハーレイが「またな」と帰る頃には、頭から消えていそうな合鍵。金色の鍵も、銀色の鍵も。
けれど、いつかは貰える合鍵。
ハーレイが留守にしていた時には、入って待っていられるように。玄関の扉をそれで開いて。
平和になった今の時代は、鍵一つだけで何処でも入れる。
学校だろうと、ハーレイが暮らしている家だろうと、何処だって、合鍵がありさえすれば。
そういう素敵な合鍵を一個、ハーレイにプレゼントして貰おう。
学校だとか、柔道部の部室の鍵は要らないけれども、ハーレイの家の合鍵を一つ。
「これで入れる」と貰えた時には、きっと嬉しい。金色だろうと、銀色だろうと、もう最高に。
鎖を通して首から下げたり、握り締めたり、枕の下にも入れそうな感じ。眠る時には。
(早く欲しいな…)
ハーレイの家に入れる合鍵、と未来の自分の姿を夢見る。
出掛けて行ったら留守だった時も、鍵を開けてハーレイの家に入って、中でのんびり。
お気に入りの椅子に座って本を読んだり、ダイニングのテーブルでお茶を飲んだり。
時には料理も出来たらいい。
ハーレイが好きな、「おふくろの味」のパウンドケーキを焼いたりも。
(勝手に入って、キッチンでお料理…)
お菓子作りもしたっていい。冷蔵庫とかの中身を勝手に出してしまって、使ったりして。
そのために合鍵があるのだから。
ハーレイの留守に家に入って、ハーレイを待つための幸せな道具が合鍵だから。
出来上がった料理が焦げていたって、パウンドケーキが下手くそだって、かまわない。
家に帰ったハーレイはきっと、笑顔で食べてくれるから。
「お前がいるとは思わなかったな」と、「美味いの、作ってくれたんだよな?」と…。
欲しい合鍵・了
※ハーレイの家の合鍵が欲しくなったブルー。持っているだけで幸せ気分になれるお守り。
断られてしまったわけですけれど、いつか貰える日が来るのです。何色の鍵になるか楽しみ。
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本物じゃないよね、とブルーが見詰めたもの。学校からの帰りに、路線バスの中で。
ふと見た、通路を挟んだ席。其処に座った若い女性のペンダント。
(金色の鍵…)
細い金色の鎖を通して、首から下げた金色の鍵。そういう形のペンダント。きっとアクセサリーなのだと思う。鍵の形をしているだけの。
アクセサリーだから、何処の扉が開くわけでもない。鍵の形の飾りというだけ。
でも…。
(本物だったら素敵だよね?)
アクセサリーではなくて、本物の鍵。ちゃんと使えて、扉が開く。
そうだとしたなら、開く扉は特別な場所の扉だろう。女性の家の扉の一つではなくて、箱などに使う鍵でもなくて…。
恋人に貰った、家の合鍵。それを使えば、留守の時にも家に入って待てる鍵。
せっかくだからと、わざわざ金色に作って貰って、ペンダントにしてくれた優しい恋人。いつも首から下げられるように、いつでも持っていられるように。
(恋人の家に出掛けて行ったら、あのペンダントで…)
鍵を開けて入って、料理しながら恋人の帰りを待つだとか。お菓子も作るかもしれない。恋人が家に帰って来たなら、作った料理やお菓子の出番。「おかえりなさい」と笑顔で迎えて。
(鍵さえあったら、先に入っていられるもんね?)
恋人が仕事に出掛けていたって、家の表で待っていないで。
「今日は帰りが遅くなるから」と言われた日だって、恋人の家で夕食の支度。帰って来たなら、直ぐに食べられるように。「料理だけ作って置いておくから」と手紙を残して帰ったりもして。
そういうのも素敵、と夢見てしまう。
自分だったら、そのための鍵が欲しいから。ハーレイの家に入って待っていたいから。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
ハーレイの家の合鍵があれば、どんなに素敵なことだろう。
それで扉を開けられたなら。
ハーレイが家にいない時にも、中に入って帰りを待っていられたら。
いいな、と眺めた金色の鍵。アクセサリーか、本物なのかは謎だけれども。
(ああいう形の鍵もあるしね?)
本当に扉が開く鍵。扉についた鍵穴に入れて、回してやったらカチャリと小さな音がして。
あれが本物の合鍵だったら、と羨ましく思いながら降りたバス。恋人の家の扉が開く鍵、恋人に貰った金色の鍵。それを首から下げているなら、本当に幸せだろうから。
家に帰って、ダイニングでおやつを食べる間も、鍵が頭から離れない。ペンダントになっていた金色の鍵は、本物だった気がするものだから。
アクセサリーのように見えても、恋人の家の扉の合鍵。使う時には首から外して、あれを鍵穴に差し込んでやる。鍵が外れる方へ回して、鍵が開いたら扉を開けて家の中へと。
恋人が帰るまでの時間に、色々なことをするために。料理の支度や、お菓子作りや。
(ぼくも合鍵…)
もしもハーレイが贈ってくれたら、大切に持つことだろう。宝物みたいなものだから。いつでもハーレイの家に入れて、中で帰りを待てるのだから。
それを貰えたら、帰りに見掛けた女性みたいに、ペンダントにして肌身離さず持っておく。細い鎖を通してやって。
(金色の鍵じゃなくたって…)
実用的な鍵にしたって、やっぱり首から下げておく。アクセサリーには出来ないものでも、誰が見たって「ただの鍵」でも。ごく平凡な銀色でも。
どんな時でも持っていたいし、大切な鍵と一緒にいたい。首から下げておくのが一番。
(お風呂に入る時くらいしか…)
きっと外しはしないだろう。何処に行くにも、鍵と離れたくないものだから。
(学校は、アクセサリーは禁止だけれど…)
その学校でも、なんとかして持っていたいと思う。ハーレイに貰った大切な鍵を。
「家の鍵なんです」と言い張ったならば、持てるだろうか?
帰った時に母が留守なら、それを使って入らないと、と「家の鍵です」と嘘をついたら。
(首に下げるのは駄目かもだけど…)
家の鍵なら、きっと許して貰える筈。持っていないと困るものだし、「アクセサリーは駄目」と注意されても、他の形で持てるだろう。
制服のポケットに入れておいたら、いつでも一緒。「家の鍵です」と言い張りながら。
そんなのも素敵、と思った「制服のポケットに入れておく」鍵。落っことさないように、紐でも通して、それを何処かに結んでやって。
家の鍵なら先生だって怒らない。紐がポケットから覗いていたって、その先に鍵があったって。
(…ぼくの家じゃなくて、ハーレイの家の鍵なんだけどね?)
家の鍵には違いないもの、と考えながら戻った二階の自分の部屋。空になったカップやケーキのお皿を、キッチンの母に返してから。
(合鍵かあ…)
勉強机の前に座った後にも、金色の鍵ばかり思い出す。アクセサリーか本物なのか、本当の所は分からないけれど。
(だけど、合鍵…)
自分がそれを貰ったならば、あんな風にして持つだろう。学校では首から下げられないのなら、制服のポケットに入れる形で。
(家の鍵です、って言えば絶対、大丈夫…)
先生に注意された時にはそれだよね、と言い訳までスラスラ浮かんでくる。本当に家の鍵なのかどうか、先生は確かめないだろうから。家に来てまで、鍵穴に入れたりするわけがない。
(鍵は鍵だし、何処かの扉が開くんだから…)
自分の家の鍵にしたって、ハーレイの家の鍵にしたって、鍵は鍵。先生たちに区別はつかない。
「持つための言い訳」まで思い付いたら、欲しくてたまらなくなった合鍵。
ハーレイの家の扉の鍵穴、其処に突っ込んだらカチャリと鍵が開く合鍵。
(チビの間は、ハーレイの家には行けないけれど…)
悲しいことに、そういう決まりになっている。
前の自分と同じ背丈に育たない内は、ハーレイの家には遊びに行けない。柔道部員たちは何度も呼んで貰って、暑い季節は庭で賑やかにバーベキューまでやっていたのに。
(…ぼくは一回、呼んで貰って、それっきりで…)
後はメギドの悪夢を見た夜、瞬間移動で飛んで行っただけ。あの時だって、朝食が済んだら車に乗せられて、家に帰されてしまっておしまい。
けれど、いつかは出掛けてゆける。大きくなったら、「遊びに来たよ」と何度でも。
思い付いた時には「行ってもいい?」と尋ねてみたり、予告もしないで押し掛けてみたり。
今は無理でも、何年か待てばその時が来る。前の自分とそっくり同じに育ったら。
いつかハーレイの家に行けるという、お守りに合鍵があったらいい。お守りに持っていられたらいい。「家の鍵です」と嘘をつきながら、学校に行く時もポケットに入れて。
ハーレイに頼めば作って貰えるだろうか、ただ「持っておく」だけならば?
留守の間に家まで出掛けて、合鍵を使って中に入るのではなかったら…?
使える時がやって来るまで使わないなら、お許しが貰えるかもしれない。約束通りに、育つまで家に行かないのなら。
(駄目で元々なんだしね…?)
合鍵が欲しいと頼んでみたい、と思っていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、合鍵、作ってくれる?」
作ってくれる所は色々あるでしょ、そういうお店。其処で作って欲しいんだけど…。駄目?
「はあ? 合鍵って…?」
なんでまた、とハーレイは怪訝そうな顔。「何処の合鍵が欲しいと言うんだ?」と。
学校の中の扉だったら、どれも最初から合鍵がある。生徒が個人的に使うロッカーでも、万一の時に困らないよう、合鍵の束が職員室にあるほどだから。
「ぼくが欲しいの、ハーレイの家の合鍵だけど…」
作ってくれたら嬉しいんだけどな、ハーレイの家の玄関の扉が開く合鍵。
一番安いヤツでいいから、とも頼んでみた。合鍵を作る店は色々、値段も色々だろうから。
「俺の家の玄関の合鍵だって…?」
お前、そんなので何をする気だ、空き巣の真似か?
俺が出掛けて留守の間に、勝手に入って中でゴソゴソするって言うのか、帰る時間はお前の方が早いんだからな?
俺が柔道部に行っていたなら、家は留守だし…。お前は放課後で暇なんだし。
もっとも空き巣は、今の時代はいやしないんだが。…泥棒なんかはいない時代だ、空き巣なんて言葉は本の中にしか出て来ないがな。
そいつをお前がやるって言うのか、盗っていくものは色々ありそうだから…。
他のヤツらの目にはガラクタでも、お前にとっては宝物ってヤツが山ほどドッサリとな。
俺の愛用のマグカップだって盗られそうだ、とハーレイは空き巣の心配中。コーヒーを飲む時のお気に入りのカップで、ハーレイの家で見掛けたそれ。とても大きなマグカップ。
「茶碗も危ないかもしれん」だとか、「箸だって危なそうだよな」とか。
「俺が愛用してるってだけで、お前は欲しがりそうだから…。茶碗だろうが、カップだろうが」
消えていたなら新しいのを買えばいいだろう、と鞄に詰めて行きそうなんだ。俺に黙って。
お宝を奪って逃げる時には、元通りに鍵までかけて行ってな。
俺が仕事から帰って来たって、最初は気付かないんだろう。鍵はきちんとかかってるから、何も知らずに開けて入って、さて、とカップを使おうとしたら、見事に消えているってな。
マグカップどころか、茶碗も箸も…、とハーレイが的外れなことを並べ立てるものだから。
「違うよ、空き巣をするんじゃなくて…。留守の間に家に入りたいわけでもなくて…」
お守りに欲しいんだよ、ハーレイの家の合鍵を。…ぼくのお守り。
「…お守りだって?」
俺の家の鍵には、何の御利益も詰まっちゃいないと思うがな?
玄関の扉が開くってだけで、他の役には立たないぞ。本物の鍵でもその有様だし、合鍵となれば御利益の無さは想像がつくと思わんか?
どんなものでも、本家本元が一番御利益があるもんだ。複製品だと、ちょいと落ちるし…。
ただでも御利益の無い鍵の合鍵なんかが、何のお守りになると言うんだ…?
俺にはサッパリ分からんのだが、とハーレイは首を捻っている。「何に効くんだ?」と。
「えっと、お守りには違いないけど…。それ、ぼくにしか効かないから…」
ぼくの心に効くお守りだよ、持っているだけで幸せになれるお守り。それが御利益。
これがハーレイの家の合鍵、って思うだけでホントに幸せだから…。
「お前だけに効くお守りだって? 何処から思い付いたんだ?」
何かのおまじないでも読んだか、合鍵を持ったら幸せになるとか、そういう記事を…?
それとも本に書いてあったか、何かのついでに…?
「おまじないじゃないよ、今日の帰りにバスで見掛けたペンダント…」
若い女の人が首から下げてたんだよ、金色の鍵のペンダントを。
アクセサリーかな、って思ったけれども、そうじゃないかもしれないよね、って…。
恋人に貰った家の合鍵で、アクセサリーに使えるように、金色に作ってあるのかも、って…。
細い鎖で下げていたよ、と話した鍵のペンダント。金色の鍵。
「あんな風に合鍵を持っていたい」と、「ハーレイの家のが欲しいんだけど」と。
「学校はアクセサリーが禁止で、ペンダントにしてたら叱られるかもしれないけれど…」
家の鍵です、って言ったら許して貰えそう。ペンダントは駄目でも、制服のポケットに入れるのならね。家に帰った時に誰もいなかったら、鍵が無いと入れないんだから。
何処の鍵かは確かめないでしょ、先生だって。…「家の鍵か」って眺めるだけで。
だから、ハーレイの家の鍵でも大丈夫。ぼくの家の鍵だと思われておしまい。
大切にするから、合鍵、欲しいな…。
今はまだハーレイの家に行くのは無理だし、合鍵があっても、鍵を開けたり出来ないけれど…。
持っていたって使えはしなくて、何の役にも立たないんだけど…。だけど、お守り。
いつか使える時が来るよ、って考えるだけで幸せじゃない。ぼくが大きくなった時には、合鍵、使っていいんだから。
ハーレイが留守にしている時には、それで入って…、と瞳を輝かせた。玄関に鍵がかかっていた時も、合鍵があれば中に入れる。「留守なんだ…」と溜息をついて帰る代わりに、扉を開けて中に入って、ハーレイの帰りを待つことが出来る。お気に入りの椅子に座ったりして、のんびりと。
いつか使えるだろう合鍵、それがあったら幸せな気分。今は出番がまるで無くても。
「そういう理由で合鍵なのか…。お守りという意味も良く分かったが…」
生意気だぞ、お前。チビのくせして、俺の家の合鍵が欲しいだなんて。
前のお前と同じに育って、俺の家に出入りが出来るようになったら、合鍵だって作ってやらないわけではないが…。欲しいんだったら、幾らでも作ってやるんだが…。
チビのお前じゃ話にならんな、文字通り、役に立たないんだから。
お前がワクワク持っているだけで、その鍵、出番が来やしないからな。
それじゃ鍵だって可哀相だろうが、とハーレイが眉間に寄せた皺。「使われない鍵じゃ、ただの飾りになっちまう」と。
合鍵とはいえ、鍵の姿に生まれたからには、使われてこそ。人間の役に立つ道具でないと、と。
「…やっぱり駄目?」
ぼくがお守りにするだけだったら、ハーレイの家の合鍵は作ってくれないの?
一番安いヤツでいいのに、綺麗な金色の鍵じゃなくても…。
合鍵だったら何でもいいよ、と食い下がったけれど。本当に欲しいのだけれど…。
「俺が駄目だと言ったら、駄目だ。お前にはまだ、合鍵ってヤツは早すぎる」
考えてもみろよ、前のお前だって、キャプテンの部屋の合鍵なんぞは持ってなかった。ちゃんと育った立派な大人で、俺と恋人同士でも。
もっとも、お前に鍵は必要無かったがな。鍵も扉も、お前には無いも同然だったし。
どんな場所でも、瞬間移動でヒョイと入ってしまうんだから…。鍵があろうが、扉があろうが。
いや、その前にだ…。
鍵が無いのか、と苦笑したハーレイ。「今の時代とは、鍵が違ってたよな」と。
「え? 鍵って…」
前のぼくたちが生きてた頃でも、鍵はきちんとあったでしょ?
シャングリラの中にも鍵はあったし、アルタミラの檻にも、あそこで閉じ込められたシェルターにも鍵…。檻もシェルターも、内側からは開けられなかったんだから。
そうなったのは鍵のせいだよ、と例に挙げた忌まわしい記憶。
前の自分は、アルタミラで狭い檻の中に押し込められていた。人体実験の時だけ、外に出される牢獄に。もちろん中から開くわけがないし、逃げることさえ諦めた。未来に何の希望も無いから、心も身体も成長を止めて。
メギドの炎がアルタミラを星ごと滅ぼした時は、人類はミュウをシェルターの中に閉じ込めた。けして外には出られないよう、星ごと焼き滅ぼされるように。
その中で悟った「終わりの時」。このままでいたら死んでしまう、と懸命に扉を叩いてみても、扉は開きはしなかった。前の自分のサイオンが扉を、シェルターの壁ごと破壊するまで。
つまり、存在していた鍵。檻もシェルターも、鍵が無いなら簡単に開いた筈なのだから。
それにシャングリラにも、鍵は幾つも。キャプテンの部屋にも、倉庫などにも。
「アルタミラの檻に、シェルターなあ…」
あそこにも確かに鍵はあったな、俺たちには歯が立たなかったのが。
忌々しい鍵の話はともかく、シャングリラにも鍵は幾つもあったってわけで…。
白い鯨に改造する前から、個人の部屋にも鍵はかかった。住人が閉めようと思いさえすれば。
改造した後の船になったら、鍵がかかる場所もグンと増えたが…。
船が大きくなった分だけ、部屋も増えたし、施錠しなけりゃ駄目な区画も増えたから…。
だが…、とハーレイは鳶色の瞳をゆっくり瞬かせた。「鍵ってヤツが問題だ」と。
「シャングリラにあった色々な部屋は、こういう鍵で開いてたのか?」
今の俺の家の鍵はコレだが、シャングリラで俺たちが使ってた鍵もこんなのだったか…?
これなんだが、とハーレイが取り出したキーホルダー。背広の上着のポケットから。テーブルの上にコトリと置いて、それにつけられた鍵を順に指してゆく。
家のがこれで、車がこれで、と。柔道部の部室の鍵がこいつで…、と色々な鍵を。
「…一杯あるね、ハーレイの鍵…」
やっぱり大人の人は違うね、ぼくだと鍵も持っていないし、キーホルダーの出番も無いよ。家の鍵だって、要りそうな時だけ、ママから借りて持って行くから。
ホントに沢山、とキーホルダーについた鍵の数に感心していたら…。
「そういや、車のキーも無いよな」
今の俺には当たり前のものだが、前の俺だとキーは無縁で…。うん、無かったよな、車のは。
「車?」
あった筈だよ、車のキー。…前のぼくは運転しなかったけれど、人類の世界に車はあったし…。
人類が車を動かす時には、今と同じでキーだった筈だと思うけど…。
基本は変わっていないものね、と前の自分が生きた時代の車の形を思い浮かべる。今の車たちの隣に並べてみたって、さほど違いはしないだろう。車は車で、人間を乗せて道路を走るもの。
形が変わっていないのだったら、あの頃だってキーがあった筈。使った記憶は無いのだけれど。
「車のキーはあっただろうな、お前が言っている通りに。…俺も使っちゃいないんだが」
シャングリラにあったのは自転車くらいで、車は無かったモンだから。
俺が言うのは、前の俺の車というヤツだ。いわゆる車よりも遥かにデカくて、シャングリラって名前がついてたんだが。
…今の俺の車に、いずれその名をつける予定だし、シャングリラだって俺の車と言っていい。
俺の私物じゃなかっただけで、俺が動かしていたんだから。大勢の仲間を乗っけてな。
シャングリラの運転手は前の俺だが、あの船にキーは無かったぞ。
車みたいに、これさえ使えば動くってヤツは。…エンジンがスタートするキーなんかは。
「…無かったね…」
ホントだ、同じシャングリラって名前をつけてみたって、車と船とじゃ違うんだね…。
全然違う、と遠く遥かな時の彼方に思いを馳せた。懐かしい白いシャングリラに。
今のハーレイの愛車は白くないのだけれども、いつか二人でドライブ出来る時が来たなら、あの船の名前をつけてやる。二人だけのために走ってくれる車に、「シャングリラ」と。
けれど本物の白いシャングリラと、ハーレイの車は全く違う。シャングリラの方は宇宙船だし、道路を走る車とは違って当たり前。
シャングリラを動かしていたエンジンは、小さなキーを差し込むだけでは始動などしない。船を動かすには幾つもの手順、それを正しく実行してゆくことが必要。
(メイン・エンジン点火、って…)
キャプテンや機関長が指示して、それに携わる仲間が動く。各自の持ち場で、安全確認やデータ確認などをして。何人もが「いける」と判断を下して、その作業をして、ようやくシャングリラが動き始める。巨大な白い鯨のような船体が。
(物凄く沢山の手順だけれども、点火までには、ほんの一瞬…)
皆が瞬時にこなした作業。エンジンに点火するために。
でないと船は動かないから、危険を回避することすらも出来ない。それもあって、完全に止まることはなかったシャングリラ。前の自分が生きていた頃には、ただの一度も。
(メイン・エンジンが、メンテナンスで止まっていたって…)
補助エンジンが常に動いていた。そちらの方も、小さなキーを使うだけでは動かない。何人もの仲間が関わらないと、安全やデータを確認しないと。
(…本物の方のシャングリラには…)
こういうキーは無かったのか、と見詰めた車のためのキー。
今のハーレイの自慢の車は、このキーがあれば動くのに。前のハーレイのマントと同じ色の車、あれを動かすにはキーを差し込んでやればいいのに。
(船のシャングリラは、とても大変…)
キーだけじゃ動いてくれないんだ、と納得させられたけれど、鍵は確かに無かったけれど。
そのシャングリラの船体の中には、幾つもの部屋や倉庫や、様々な区画。
居住区にあった個人の部屋には鍵がついていたし、立ち入りを制限すべき場所にも、同じに鍵。
部屋も、立ち入り制限区画も、倉庫なども鍵が間違いなくあった。鍵がかかるなら、鍵を開けるための方法がある。でないと、扉は開かないから。
(鍵が無いと、開いてくれないよ…?)
今の自分の家の扉も、ハーレイの家の玄関も。学校のロッカーも開きはしないし、シャングリラでも同じだと思う。鍵がかかる場所があった以上は、それを開けるための鍵が欠かせない。それが無ければ、誰も入れはしないのだから。
(瞬間移動で飛び込むんなら、別だけど…)
ジョミーを船に迎える前には、瞬間移動が出来たのは前の自分だけ。他の仲間には無理だった。その方法で入れないなら、鍵が無かった筈はないのに…。
(どうなってるの…?)
今のハーレイの「鍵は無かった」という言葉。鍵はあったし、鍵がかかるなら開けるための鍵が必要なのに。
「やれやれ…。まだ思い出せないって顔をしてるな、お前ときたら」
俺は嘘なんかついちゃいないし、お前を騙そうともしてはいないぞ。鍵が無かった話の件で。
いいか、前のお前の青の間にしても、俺がいたキャプテンの部屋にしてもだな…。
どちらにも鍵はあったわけだが、少なくとも、こういう鍵じゃなかった。今日のお前が見かけたような、こんな形の鍵なんかでは…な。
こいつだ、とハーレイは鍵の一つを指で弾いた。キーホルダーについている中の一つを。
それを使えば、柔道部の部室の扉が開くらしい。他の幾つもの鍵との違いは、見ているだけではよく分からない。車のキーなら、一目で「あれだ」と分かるけれども。
鍵の基本の形は同じ。刻まれた溝や、差し込む部分の僅かな違いで別の鍵になる。
けれどシャングリラでは、もっと厳重だったシステム。
基本の鍵など何処にも無かった。「これがそうだ」という形も無かった。
キーホルダーなどあるわけがなくて、鍵の数だけあったと言っても良かった鍵。その場所の鍵を開ける方法。部屋も倉庫も、立ち入り制限区画の扉も。
(鍵なんか、誰も差し込まなくて…)
回してカチャリと開けてもいない。
そんなシステムではないのだから。鍵を開けるには、様々な手順。
(方法だって、ホントに色々…)
一つだけで開く扉もあれば、幾つも組み合わされていた場所も。其処の重要性に応じて。
そうだったっけ、と蘇って来た遠い遠い記憶。
施錠が必要だった場所では、誰も鍵など使わなかった。開ける時にも、閉める時にも。…鍵穴に入れて回す鍵など、誰一人として。
前の自分は瞬間移動であらゆる扉を通り抜けたけれど、それが出来ない船の仲間たちは皆、扉を相手に苦労していた。鍵がかかっていたならば。
施錠されたキャプテンの部屋に入る時には、ハーレイに頼んで中から開けて貰っていたか…。
(パスワードを幾つも打ち込むだとか、そんなので…)
部屋の掃除をする係などが入っていただけ。部屋の主が留守にしていた時は。
キャプテンは船の最高責任者だけに、たやすく入れる部屋ではいけない。本人の許可か、入れる資格を持つ者だけが知っている手順か、それが無ければ開かなかった扉。
今のハーレイのキーホルダーについているような、鍵一つでは開けられない。そういう形の鍵も無ければ、鍵穴だって無いのだから。
前の自分が長く暮らした青の間も同じ。ソルジャーに用がある者は多いだろうから、昼間は施錠しなかったけれど、施錠したなら…。
(入るの、大変…)
ちょっと視察に出掛けるから、と鍵をかけてから出ようものなら、厄介なことになっただろう。
「ソルジャーがお戻りにならない間に、掃除をしよう」と部屋付きの係がやって来たって、鍵を開けるのに幾つもの手順。
船で一番偉いとされた、ソルジャーの私室なのだから。…キャプテンとは比較にならない存在。
そのソルジャーの部屋の鍵だし、そう簡単には開かない。
(掃除しに来た係の名前を打ち込んで…)
係の名前と、それを打ち込んだ仲間が同じ人間かどうか、その照合から始まる仕組み。無関係な者には、ソルジャー不在の時の青の間には、立ち入り許可が下りないから。
間違いなく同じ人間なのだ、と証明したって、今度はロックを解除するための作業が必要。
どういう理由で鍵を開けたいのか、目的によって違う色々なパスワードなど。
掃除したいのなら、掃除の時に使うものを入力、それが通れば扉を開くための別のパスワードを入れて、と複雑すぎた青の間の鍵。
たとえ部屋付きの係にしたって、ミスをしたなら、けして開いてくれないほどに。
とんでもない鍵があったんだった、と思い出した前の自分の部屋。青の間と呼ばれた、やたらと大きすぎた部屋。「ソルジャーの威厳を高めるために」と、余計な工夫が凝らされた場所。
あの部屋の鍵は、誰も開けたくなかっただろう。あまりにも仕組みが厄介すぎて。
居住区にあった他の仲間たちの部屋にしたって、鍵というものは…。
(青の間に入る係を確認するのと同じで、いろんな認証システムとか…)
持ち主の好みや、肩書きなどで違った種類。パスワードを打ち込んでやれば開く扉や、その前に立った人間が誰かを確認しないと開いてくれない扉やら。
どれにしたって、今の時代の鍵とは違った。青の間も、前のハーレイの部屋も、ごくごく普通の仲間たちの部屋の扉にしても。
そんな具合だから、合鍵だって無かった船。何処の部屋にも、倉庫や様々な区画にも。
鍵を開ける方法からして違ったからには、合鍵があるわけがない。作りたくても、作る方法などありはしないのだから。
「…前のぼくたちの部屋、こんな鍵だと開かないね…」
合鍵だって作れやしないよ、どう頑張っても。今の鍵とは違うんだから。
ゼルやヒルマンがどんなに研究したって、あのタイプの鍵の合鍵は無理。…作れやしないよ。
絶対に無理、と今の自分でも分かる。そう簡単には開けられないように工夫された鍵は、それに応じた開け方だけしか、受け付けてなどはくれないから。
「分かったか? まるで時代が違ったんだな、前の俺たちが生きていた頃は」
鍵は開けられないことが大事で、合鍵なんぞは論外だった。合鍵があれば開いちまうから。
あの時代にも、こういった形の鍵は一応、あったんだが…。
何処にも無かったわけではないし、形を見たなら「鍵だ」と分かるものではあったが…。
残念なことに、前の俺だけが好きで使っていた、羽根ペンってヤツと同じでだな…。
レトロなアイテムの一つだったぞ、と今のハーレイが言う通り。
SD体制が敷かれた時代も、鍵穴に差し込む鍵ならばあった。鍵を差し込む鍵穴がついた、箱や机の引き出しなども。
とはいえ、それらは「信用されてはいなかった」鍵で、一種の飾り。
本当に隠しておきたい文書や品物、そういったものを其処に仕舞いはしなかった。誰が見たってかまわないものや、鍵を開けて「どうだ」と自慢したいものを入れておくだけで。
ハーレイ曰く、「レトロなアイテム」だった鍵。白いシャングリラが在った頃には。
「今だと、本物なんだがな…」
どれも立派に現役の鍵で、家の扉も、部室の扉も、学校の門を開けられる鍵もあるんだが…。
前の俺たちの目には頼りなくても、どれも本物の鍵ばかりだ。これも、これも、この鍵だって。
どの鍵も何処かの鍵なんだ、とハーレイはキーホルダーを元のポケットの中に仕舞った。
「こいつらは大事な鍵だしな?」と。
失くしちまったら大変だ、と大切に仕舞い込まれた鍵たちの束。その中の一つを選んで使えば、車も動くし、家にも入れる。
ハーレイが柔道着を入れたりしているロッカーも開けば、柔道部の部室に入ることも出来る。
「鍵って、昔に戻ったんだね。…ぼくたちは未来に来ちゃったのに」
前のぼくたちが生きた頃よりも、ずっと昔の時代の人は、今みたいな鍵を使ってたんでしょ?
シャングリラの時代には、レトロなアイテムだったんだから。…そういう鍵は。
「うむ。前の俺が好きそうな鍵ではあった」
いくら好きでも、キャプテンの部屋には使えないんだが…。あの時代ではな。
今の俺たちには、こっちの方が普通になっちまったが。
学校だろうが、ロッカーだろうが、家であろうが、何処もこの手の鍵ばっかりで…。
お蔭で合鍵を作る店だって、幾つもあるというわけだ。道具さえあれば、直ぐに作れるから。
店で少しだけ待ってる間に出来ちまう、とハーレイは笑う。「早くて安くて、便利だよな」と。
「そうなんだけど…。でも、どうしてだろう?」
鍵の形が、昔に戻っちゃったのは。…シャングリラの頃には、うんと複雑だったのに。
もっと複雑になったんだったら分かるけれども、どうして逆になっちゃったのかな…?
「なあに、簡単なことだってな。…平和な時代になったからさ」
人間がみんなミュウになったら、戦争も武器も無くなった。誰も争ったりしないから。
平和なんだし、暗殺なんて物騒なことも無ければ、泥棒もいない世の中だ。
厳重に鍵をかけなくっても、誰も困りはしないってな。殺されも、盗まれもしないんだから。
そうは言っても、やっぱり鍵は欲しいモンだし、ああいう鍵で充分だろう、ということだ。
鍵穴に入れて回してやったら、カチャリと開いたり、閉まったりする鍵。
もっとも、宇宙船となったら、昔と変わらないだろうがな。…シャングリラの頃と。
客船にしても、輸送船にしても、大勢の人の命を預かる宇宙船。外は真空の宇宙空間だから。
いくら乗客がミュウばかりでも、宇宙はやはり危険な場所。咄嗟にシールドを張れなかったら、命を落としかねない所。
そんな宇宙を飛んでゆく船は、車みたいに鍵一つでは動かせない。
キーを差し込んだだけでエンジンが始動したりはしなくて、多分、昔と同じなのだろう。技術が進歩している分だけ、手順が多少変わっていても。
宙港を離陸してゆく前には、何人もが自分の担当する部分の安全やデータを確認する。そのまま離陸してもいいのか、前の段階に戻って整備すべきかなどを。
それが済んだら、ようやく発進できる船。乗客を乗せて、遥か宇宙へと。
「前の俺の頃と大して変わってないのが、宇宙船の方の鍵ってヤツだが…」
車みたいに、キーを使えばいいってわけにはいかないんだが…。行き先は宇宙なんだから。
しかし、個人の家とかだったら、レトロな鍵で足りるってこった。
合鍵を作ろうと思った時には、店に出掛けて頼んだらポンと出来ちまうような。
ゼルやヒルマンにも無理だったのにな…、とハーレイは可笑しそうな顔。シャングリラで一番の技術力を自慢していたゼルと、博識だったヒルマンと。
白いシャングリラを設計したような二人がやっても、青の間の合鍵は作れなかった、と。それにキャプテンの部屋の合鍵も、他の仲間たちの部屋や、倉庫なんかの合鍵も。
「面白いよね、今だと簡単なんだけど…。家の鍵でも、学校の鍵でも、直ぐに出来ちゃう」
せっかく簡単に作れるんだし、ぼくも欲しいよ。ハーレイの家の鍵の合鍵。
お守りに作って欲しいんだけどな、ホントに一番安い合鍵でかまわないから。
「今は駄目だと言ったがな? チビのお前には早すぎると」
前のお前と同じくらいに大きくなったら、作ってやる。俺が留守でも、入れるように。
お前、金色のが欲しいのか?
アクセサリーが好きなタイプだとは思えないんだが、どうやら憧れらしいしな?
首から下げて自慢したいのなら、そういうヤツを作ってやるが。
金色の鍵を作る値段も、そんなに高くはないだろう。本物の金じゃないんだから。
「うーん…?」
首から下げておくんだったら、金色の方がいいのかな…。銀色の鍵でも、お洒落なのかも…。
バスで見掛けた女性の鍵は、金色の鍵。アクセサリーか、合鍵なのかは謎だった鍵。
自分が貰うのは合鍵なのだし、アクセサリーらしく金色にするか、銀色の鍵でもお洒落なのか。服によっては金よりも銀で、自分の髪の色も銀色。
(…金色の合鍵を作って貰うか、銀色でいいか…)
どっちだろう、と考えたけれど、合鍵を貰える頃になったら、自分は大きく育っている。堂々とハーレイの家に出掛けて、合鍵を使って入れるほどに。
そういう姿に育ったのなら、結婚の日も遠くない。婚約しているかもしれない。
(結婚したら、大抵の時は、ハーレイと一緒にいるんだろうし…)
ハーレイが仕事に行っている間に、何処かに行くなら、合鍵で扉を閉めてゆく。それが普通で、当たり前の日々。戻った時には、合鍵で扉を開けて入って。
その頃にはもう、珍しくもないものが合鍵。失くさないよう気を付けるだけで、宝物だとまでは思わないだろう。「自分の家の鍵」なのだから。
そうなる前の、結婚までの短い間だけなら、合鍵を仕舞っておく場所は…。
(ポケットの中とかでもいいのかな?)
いつも首から下げておかなくても、使う時だけ出してくるとか。「留守なんだ…」とポケットを探って、頼もしい合鍵で扉を開けてやるために。
でも…。
(やっぱり、首から下げておくのも…)
幸せだろうし、迷ってしまう。
どういう合鍵を貰うのがいいか。金色の鍵か、銀色の鍵か、どちらが自分に似合うだろうかと。
「ねえ、ハーレイ…。ぼくが首から下げるんだったら、どっちの鍵が似合いそう?」
金色の鍵か、銀色の方か。…ぼくの髪の毛、銀色なんだし、銀色なのかな…?
だけど金色の鍵も素敵だったし、似合わなくても金色の鍵にした方がいいかもしれないし…。
「お前に似合いの鍵の色ってか? 俺のセンスに期待しないで、今の間に悩んでおけ」
いつも着ている服の色とか、そういったこともよく考えて。
金がいいのか、銀がいいのか、鏡の前でも悩むんだな。俺はお前の注文通りに作ってやるから。
しかし、お前のことだしなあ…。明日には忘れていそうだが。合鍵のことは、すっかり全部。
「酷いよ、ハーレイ!」
ぼくは真剣に悩んでいるのに、忘れそうだなんて…。酷いよ、ホントに酷すぎるってば!
あんまりだよ、と文句を言ったけれども、きっと本当に忘れるのだろう。
下手をしたなら、まだハーレイが家にいる内に。母が「夕食よ」と呼びに来るよりも前に。
(…ホントに、今日中に忘れちゃいそう…)
ハーレイが「またな」と帰る頃には、頭から消えていそうな合鍵。金色の鍵も、銀色の鍵も。
けれど、いつかは貰える合鍵。
ハーレイが留守にしていた時には、入って待っていられるように。玄関の扉をそれで開いて。
平和になった今の時代は、鍵一つだけで何処でも入れる。
学校だろうと、ハーレイが暮らしている家だろうと、何処だって、合鍵がありさえすれば。
そういう素敵な合鍵を一個、ハーレイにプレゼントして貰おう。
学校だとか、柔道部の部室の鍵は要らないけれども、ハーレイの家の合鍵を一つ。
「これで入れる」と貰えた時には、きっと嬉しい。金色だろうと、銀色だろうと、もう最高に。
鎖を通して首から下げたり、握り締めたり、枕の下にも入れそうな感じ。眠る時には。
(早く欲しいな…)
ハーレイの家に入れる合鍵、と未来の自分の姿を夢見る。
出掛けて行ったら留守だった時も、鍵を開けてハーレイの家に入って、中でのんびり。
お気に入りの椅子に座って本を読んだり、ダイニングのテーブルでお茶を飲んだり。
時には料理も出来たらいい。
ハーレイが好きな、「おふくろの味」のパウンドケーキを焼いたりも。
(勝手に入って、キッチンでお料理…)
お菓子作りもしたっていい。冷蔵庫とかの中身を勝手に出してしまって、使ったりして。
そのために合鍵があるのだから。
ハーレイの留守に家に入って、ハーレイを待つための幸せな道具が合鍵だから。
出来上がった料理が焦げていたって、パウンドケーキが下手くそだって、かまわない。
家に帰ったハーレイはきっと、笑顔で食べてくれるから。
「お前がいるとは思わなかったな」と、「美味いの、作ってくれたんだよな?」と…。
欲しい合鍵・了
※ハーレイの家の合鍵が欲しくなったブルー。持っているだけで幸せ気分になれるお守り。
断られてしまったわけですけれど、いつか貰える日が来るのです。何色の鍵になるか楽しみ。
(重たそうな荷物…)
ドッサリだよね、とブルーが眺めた若い女性。学校からの帰りに乗り込んだバスで。
先から乗っていた女性だけれども、彼女が座った座席の横の床。其処に置かれている荷物。膝の上にあるバッグとは別に、それは重そうな荷物が一つ。
(ワインの瓶まで入ってる…)
蓋が無いタイプの買い物袋で、溢れるほどにギッシリ詰まった中身。ワインの瓶も覗いている。町の中心部の食料品店まで行って来たのだろう。珍しい食材も豊富に揃った、大きな店へ。
(あれだけ重たい荷物だと…)
サイオンを使って持っていたって、マナー違反とは言われない。
誰もがミュウになった時代は、「人間らしく」が社会のマナーでルール。出来るだけサイオンは使わないのが、一人前の大人というもの。本当に困ってしまった時や、必要な時を除いては。
手に余る重さの荷物を持つなら、サイオンを使ってもかまわない。サイオンも「力」の一つではある。筋肉の力ではないというだけで。
それを使って「重い荷物」を軽々と運んでいたとしたって、皆、温かく見守るだけ。落とさずに頑張って運べるようにと、心の中で応援しながら。
あの女性だって、きっとそうしたのだろう。買った荷物をそうやって持って、バスに乗り込んで家に帰る途中。今は荷物は床の上だし、持つ必要は無いのだけれど。
(ぼくだと、サイオン、無理なんだけどね…)
どんなに重い荷物であろうと、腕の力だけで持つしかない。不器用すぎる今の自分のサイオン、使いたくても使えない力。「これを持ちたい」と考えたって。
(いいな…)
ああいう荷物を、サイオンで軽く持ち上げること。それが出来たら、と願ってしまう。
そうする間に、女性は降車ボタンを押した。次のバス停で降りるために。
バスが停まったら、バッグを持つのとは違う方の手で、床の買い物袋を持った。腰掛けていた席から立ち上がりながら。
(やっぱりサイオン…)
軽そうにスッと持ち上げたから、間違いない。サイオンで支えて軽くした荷物。空気みたいに。
なのに…。
(えっ?)
羨ましいな、と眺めた女性の足がよろけた。降りるために、お金を払った所で。
いきなり、重たくなったらしい荷物。あの重そうな買い物袋に、引き摺られるようにバランスが崩れてしまった身体。一瞬だけれど。
(…失敗したの?)
もうサイオンでは支えていない買い物袋。とても重そうに提げている女性。よろけていなくても見ただけで分かる、「荷物が重い」という事実。さっきは軽く持ち上げたのに。
(サイオンで上手く支えられないんだ…)
集中していれば出来るけれども、何かのはずみで駄目になる人。「お金を払おう」と意識が別の方へと向いた途端に、サイオンが使えなくなったのだろう。それで慌てて、元には戻せないまま。
(ホントに重そう…)
ぼくみたいに不器用な人なんだろうか、と降りてゆく女性を見送っていたら…。
(あ…!)
降りた先のバス停にいた、若い男性。彼が女性の大きな荷物に手を伸ばした。ごくごく自然に、「ぼくが持つよ」という風に。
(持ってあげるんだ!)
恋人だったら当然だよね、と思った荷物。あれほど重い荷物なのだし、おまけに女性は不器用でサイオンを上手く扱えない。此処は恋人の出番だろう。
けれど女性は、重そうな買い物袋の持ち手の片方しか…。
(渡してない…)
もう片方は女性の手の中、男性と二人で買い物袋を持つ形になった。半分ずつ、というように。
男性と女性と、一緒に仲良く提げてゆく荷物。ワインの瓶まで入った袋。
サイオンはもう使っていないのか、ズシリと重たそうなのを。
それでも二人で笑い合いながら、それは楽しそうに、足取りも軽く。
(んーと…?)
どうしてサイオンを使わないの、と思っている間にバスが動き出して、遠ざかっていった二人の姿。重たい荷物を、分け合うように持ったまま。
二人で一つの買い物袋を、半分ずつ提げて重さを分かち合いながら。
サイオンを使わなかったカップル。女性の方も、本当は上手くサイオンを扱えるのに違いない。バスを降りるまでは軽々と荷物を持っていたのだし、降りる時に使うのをやめただけ。
(うんと軽そうに持っていたんじゃ、荷物は持って貰えないかも…)
それに二人で提げることにしても、幸せが減るのかもしれない。空気のように軽い荷物を二人で持っても、「半分ずつ」という気がしないだろうから。
きっとそうだ、と思ったけれども、それよりも前に、あの大荷物。ワインの瓶まで入った袋。
あれほどの買い物をして来ることを、男性が知っていたのなら…。
(迎えに行ってあげればいいのにね?)
バスで来させずに車を出すとか、買い物に一緒に出掛けるだとか。
そうしていたなら、女性は荷物を持たないで済む。車だったら乗せておくだけ。二人で買い物に出掛けたのなら、男性が持つとか、最初から二人で持つだとか。
そっちの方が、と考えたけれど。女性に重たい荷物を持たせた、男性が悪く思えたけれど。
仲が良さそうなカップルだったし、もしかしたら…。
(あの女の人、買い物のことは話してなくて…)
男性の家に招かれただけで、待ち合わせ場所がバス停だったかもしれない。到着時間を知らせておいたら、男性が其処に来てくれるから。
せっかく家に行くのだから、と女性が用意して来た食材。ワインまで買って。
(家に着いたらお料理を作って、二人でパーティー?)
それとも友達も招くのだろうか。買い物袋に詰まっていたのが全部食材なら、二人で食べるには多すぎるから。もっと大勢、人がいないと食べ切れない。
(内輪の婚約パーティーとか…?)
其処まで大袈裟なものではなくても、友達を呼んで「結婚を決めた」と披露するだとか。
(そうなのかもね?)
男性の方は、ケータリングでも頼むつもりでいたかもしれない。気軽に頼める店も多いし、家で料理をするよりもずっと楽だから。
けれど、手料理の方がいい、と女性が考えてサプライズ。
「作るから」とも、「食材も用意していくから」とも伝えないまま、一人で買い物。重たすぎる荷物を一人で運んで、あの路線バスに乗り込んで。
そうだったのかも、と合点がいった。女性が一人で大荷物なのも、サプライズの内。男性の方はビックリしたろう、「その荷物は何?」と。
一目で分かることだけど。ワインの瓶まで覗いているから、「食材なんだ」と。
女性が料理を作ろうと思って買って来たことも、それが「内緒の計画」だったということも。
(そんなのも素敵…)
待っている恋人を驚かせたくて、重たい荷物を提げていた女性。サイオンで軽く持てる筈のを、降りる時には「腕の力だけで」提げる形に切り替えたのも。
(ビックリして貰って、喜んで貰えて、荷物も二人で一緒に提げて…)
きっと幸せに違いない。どんなに荷物が重くったって。
そう思っている間に、着いた自分が降りるバス停。さっきの女性と同じに降車ボタンを押して、席から立ち上がったのだけど。バスのステップも降りたけれども…。
降りる途中で、描いた夢。
もしも自分が重たい荷物を、ドッサリと持っているのなら…。
(ハーレイがいたらいいのにね?)
降りようとしている、このバス停に。今、足がついた、この場所に。
にこやかな笑顔で、「持ってやろう」と手を差し伸べてくれるハーレイ。「重そうだから」と、「俺に寄越せ」と。
本当にハーレイが立っていたなら、「持つぞ」と言ってくれたなら…。
(それを断って、二人で荷物…)
仲良く提げて行くのがいいよ、と思うけれども、自分の荷物は通学鞄。中身はせいぜい教科書やノート、ワインの瓶なんかは入らない。重くなっても、たかが知れている鞄の重さ。
それに通学鞄というのは、生徒が一人で提げてゆくもの。学校に出掛けてゆく時に。そのために作られた鞄なのだし、一人で持つように出来ている。形そのものが。
鞄の重さも問題だけれど、形の方も大いに問題。ハーレイと二人では提げられない。
(…まだ早いってこと?)
結婚できるくらいの年にならないと、ああいう風にして重たい荷物を提げるのは。
恋人と重さを分かち合うのは、二人で一つの荷物を持って歩くには。
やってみたいと思ってみたって、自分がバスから提げて降りる荷物は、通学鞄なのだから。
(あんなの、いいな…)
重い荷物を持ってたカップル、と家に帰っても思い出す。おやつの後で、自分の部屋で。
勉強机に頬杖をついて、あのカップルの姿を頭に描く。仲が良さそうだった二人は、今頃は何をしているのかと。
男性の家に着いたら、多分、一休みしただろう。お茶を飲んだり、お菓子をつまんだりして。
買い物をして来た女性がホッと一息入れた後には、重そうだった荷物の中身の出番。中から色々出て来た食材、それで女性が料理を始めていそうな時間。
野菜を刻んだり、皮を剥いたり、肉に下味をつけたりして。パーティーの時間に、丁度美味しく出来上がるように、あれやこれやと。
(男の人も手伝うのかも…)
女性が「私が勝手に決めたことだし、一人でやるわ」と言ったって。
「ぼくもやるよ」と出来る範囲で、二人一緒にキッチンに立って。腕に覚えがある人だったら、役割分担。「これはぼくが」と、「こっちは君が」と、キッチンでの作業を割り振って。
料理が下手なら、お皿の用意をするだとか。「その料理に合いそうなお皿は、どれだろう?」と女性の意見を聞いては、使いやすいように並べていって。
料理が出来たら、お客を迎えてパーティーの始まり。
重たそうだった袋から覗いていたワイン、あれの封を切って。みんなで賑やかに乾杯して。
(ぼくが、ああいうのをやるんなら…)
ハーレイの家に行くことになる。
何ブロックも離れた所で、何も持たずに訪ねてゆくにも、路線バスのお世話にならないと無理。
ハーレイだったら、時間がたっぷりある休日なら楽々と歩いて来るけれど。…天気が良ければ、軽い運動と散歩を兼ねて。時には回り道までして。
(…ぼくは歩けないし、ただ行くだけでもバスなんだから…)
バス停に着く時間を知らせておいたら、ハーレイは待っていてくれるだろう。帰りに見掛けた、重い荷物の女性を待っていた男性のように。バス停に立って、「もうすぐだよな」と。
そのハーレイを驚かせるには、約束の時間よりもずっと早くに家を出る。
ハーレイの家の近くのバス停、其処へと向かうバスに乗らずに、違う方へと行くバスに乗りに。
いつものバス停からバスに乗っかって、まずは街まで出掛けて行って…。
さっきの女性も行ったのだろう、街の大きな食料品店。珍しい食材も沢山揃ったお店に入る。
ズラリと並んだ食料品の棚。新鮮な野菜や肉のコーナー、瓶詰や缶詰なども一杯。二階にだって棚が山ほど、揃わないものなど無さそうな店。
どんな食材の名前を挙げても、「それでしたら…」と案内される棚。そういう店で買い物から。
(ぼくは飲めないけど、ワインも買わなきゃ…)
ハーレイはお酒が大好きなのだし、ワインの瓶は欠かせない。赤ワインにしても、白ワインとかロゼワインでも。…ワインには詳しくないけれど。
(このお料理なら、どれが合いますか、って…)
店で訊いたら、きっと教えて貰える筈。予算に合わせて、「このワインなど如何ですか?」と、棚から瓶を取り出してくれて。
ワインの瓶は重たいけれども、店の籠に入れて貰って提げる。サイオンで支えられはしないし、自分の腕の力だけで。ガラスのボトルと、中に詰まったワインの重みが凄くても。
(ワインの瓶には負けないんだから…)
目当ての食材も、メモを見ながら買い込んでゆく。作ろうと思う料理の分だけ、肉や魚や野菜などを。予算の範囲で、けれど出来るだけ上等なのを。
(婚約披露のパーティーとかじゃなくっても…)
お客は誰も招いていなくて、ハーレイと二人きりの食卓でも、食材はきっとドッサリ山ほど。
身体が大きいハーレイは普段から沢山食べるし、かなりの量を用意しなくては。それに数だって多いほど喜んで貰えそう。大皿に盛った料理が一つだけより、二つも、三つも。
(お料理が幾つも並んでいたら、それだけで嬉しくなるもんね?)
食が細い自分でも、色々な料理があれば嬉しい。どれから食べようか、どういう味かと、並んだ料理を目にしただけで心が躍る。「食べ切れるかな?」と少し心配でも。
だから沢山食べるハーレイには、料理の数も多いほどいいに違いない。「こんなにあるのか」と目移りするほど、色々な料理を作って並べて。
(それだけのお料理を、ハーレイが満腹するほど作るなら…)
籠の重さは、とんでもないことになるだろう。
食材だけでも重いというのに、選んで貰ったワインの瓶まで入った籠。会計のためにレジに行くにも、よろめきながらになるのだろうか。「この籠、ホントに重いんだけど…!」と。
会計が済んだら、もう後戻りは出来ない荷物。それがどんなに重くても。食料品店の人が詰めてくれた中身が、腕が痺れるほどの量でも。
(普通の人なら、そこでサイオン…)
バスの中で女性がやっていたように、重たい荷物もサイオンで支えてヒョイと提げてゆく。凄い重さをものともしないで、楽々と店の扉の外へ。
けれど不器用な自分の場合は、そうはいかない。レジの人が「重いですよ?」と声を掛けながら渡す袋は、もう本当に「重い」もの。「ありがとうございます」と受け取ったって、サイオンでは支えられないから。
(…レジの人たち、「大丈夫かな」って見送っていそう…)
重たすぎる袋にヨロヨロしながら、店を出て行く客の姿を。「サイオンは使わないのかな?」と不思議がったり、「使わない主義の人なのかな?」と感心しつつも、危なっかしいと思ったり。
なにしろ荷物を落としてしまえば、ワインの瓶が割れそうだから。ワインの他にも瓶詰だとか、脆い食材が詰まっているかもしれないから。
(卵だって、落っことしたらメチャメチャ…)
使いたい数の卵が無事でも、割れてしまったらやっぱり悲しい。割れた卵で、予定外のお菓子や料理なんかを作るにしても。
そうならないよう、頑張るしかない。ワインの瓶も、瓶詰も、卵も割らないように。重たすぎる荷物をしっかりと持って、バス停のある所まで。
(バス停の椅子が、空いていたならいいけれど…)
運悪くどれも塞がっていたら、重たい荷物を提げたまま。人が少なければ、バス停の所で足元に置いてもいいのだけれども、人が多かったらそれも無理。他の人たちの邪魔になるから。
(大きな荷物は、立つ場所を塞いじゃうもんね?)
提げたり、抱えたりするのがマナーで、普通の人なら、サイオンの出番。軽々と支えて、バスが来るのを待てばいいだけ。荷物には指の一本だけでも添えて。
(…それが出来たら、苦労しないよ…)
バス停までの道でよろけはしないし、必死の思いで重い袋を提げてもいない。泣きそうな気分になりもしないし、「バスはまだかな?」と何度も伸び上がるだけ。
「まだ来ないかな」と時刻表を見ては、バスが走って来る方向を。
ところが、そうはいかない自分。タイプ・ブルーとは名前ばかりで、サイオンの扱いはとことん不器用。思念波さえもろくに紡げないのだし、荷物をサイオンで支えるのは無理。
(誰も気付いてくれないよね?)
サイオンで荷物を支えられないから、ヨロヨロと立っているなんて。
ワインの瓶まで詰まった袋を、腕の力だけで提げているなんて。
(そういう主義の人なんだ、って思われちゃって…)
誰も声など掛けてはくれない。椅子に座った人が「持ちましょうか?」と言ってくれるだとか、隣に立っている人が「重そうですね」と力を貸してくれるとか。
とても小さな子供だったら、「あら、お使い?」と持ってくれる人もいるのだろうに。赤ん坊を抱いたお母さんでも、空いた方の手を貸してくれるだろうに。…サイオンを使えば簡単だから。
(だけど、ぼくだと…)
チビの姿の今でさえ、きっと、「腕の筋肉を鍛えているのか」と勘違いされておしまいだろう。
ひ弱そうに見える子供だけれども、スポーツでもやっているのだろうと。
(今でもそうだし、ハーレイの家に行くような頃のぼくだったら…)
前の自分とそっくり同じ姿に育って、見た目はすっかり一人前。サイオンを上手く扱えないとは誰も思わないし、「使わない理由があるんだな」と眺めるだけ。「重そうなのに、大変だ」と。
誰一人助けてくれないのだから、バスに乗るだけでも一苦労。
バス停で待って、やっとバスが来て、乗り込む時にも提げてゆく荷物。とても重いのに。
(うんと重たいのを、バスの中まで引っ張り上げて…)
ようやくのことで乗った車内に、空いた座席はあるのだろうか。ハーレイの家に行く途中だし、きっと世間の人も休日。土曜日だとか、日曜日だとか。
(お休みの日には、空いてる路線も多いけど…)
それとは逆に混むバスもある。平日の昼間は空いていたって、休日の昼間はギュウギュウ詰め。もしもそういう路線だったら、バスの中でも荷物を提げているしかない。
(空いてる席が一つも無いなら、座れないし…)
今日の女性がやっていたように、座席の脇の床にも置けない。車内が人で一杯だったら、荷物を置くと邪魔になる。邪魔にならなくても、誰かの足が当たったら…。
(ワインの瓶とかは大丈夫でも、卵は割れちゃう…)
それが嫌なら、自分で提げているしかない。腕が痺れても、卵が壊れてしまわないように。
考えただけでも大変そうな、ハーレイの家に出掛けるまでの道のり。
ハーレイの家だけを目指すのだったら、約束の時間に間に合うバスに乗るだけなのに。ゆっくりのんびり支度をしてから、「そろそろだよね」とバス停に行って。
(でも、ハーレイを喜ばせようと思ったら…)
先に街まで出掛けて買い出し、それも自分には重すぎる量の食料品だのワインだのを。
店で買う間も「重いんだけど…」と籠を提げて歩いて、店を出た後はもっと大変。運が悪いと、ハーレイと待ち合わせているバス停に着くまで、重たい荷物を提げ続けるしかないのだから。
そうは思っても、今日のカップルがあまりに幸せそうだったから…。
あんな風に自分もやってみたいから、頑張るだけの価値はあるだろう。ハーレイの家に出掛ける前に、街の食料品店へ。食材を買って、作りたい料理に似合うワインも買い込んで。
(物凄く重たい袋になっても、頑張って提げて、バスに乗っかって…)
ハーレイの家の近所のバス停に着く。
約束の時間に、よろめきながら重たい荷物を手にして、バスのステップを降りて。
そんな姿で、自分がバスから降りて来たなら…。
(ハーレイ、きっとビックリして…)
大慌てで荷物を持とうとしてくれるだろう。
帰りに見掛けた男性みたいに、「俺に寄越せ」と手を伸ばして。あの褐色の腕を差し出して。
柔道と水泳で鍛えた逞しい腕は、重い荷物も楽々と持てるだろうけれど。「指でも持てるぞ」と言いかねないのがハーレイだけれど、其処で荷物を渡しはしない。
渡してしまったら、ハーレイに内緒で買い出しに行った意味が無くなるから。
ヨロヨロしながら其処まで運んで、頑張った意味も、消えて無くなる。
(ハーレイに持って貰うんだったら、一緒に買い出しに出掛けてるってば…)
こういう料理を作りたいから、と頼んで車を出して貰って。
あるいは二人で路線バスに乗って、街の大きな食料品店まで。
そうしなかったのは、ハーレイをビックリさせたいからでもあるけれど…。
(重たい荷物を、半分ずつ…)
二人で分けて持ちたいから。
ハーレイに持ち手の片方を渡して、もう片方は自分が持つ。二人で一つの荷物を提げに。
そうしたいのだし、ハーレイが手を伸ばして来たって、「いいよ」と断る。
「だけど、半分だけお願い」と荷物の持ち手を片方だけ。「ハーレイが持つのは、こっち側」と二つある持ち手の片方を託す。ハーレイの、褐色の逞しい手に。
そうして持ったら、半分になる荷物の重さ。半分だったら、きっとよろけもしなくて…。
(ハーレイとお喋りしながら楽しく歩いて、家に着くんだよ)
素敵だよね、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来たから、いつものテーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。いつか荷物を持ってくれる?」
ぼくが重そうな荷物を持っていたなら、ハーレイ、半分、持ってくれない…?
全部じゃなくって、半分だけ。…半分だけ持って欲しいんだけど…。
「はあ? 半分って…。どういう意味だ?」
お前の荷物を持つんだったら、お安い御用というヤツで…。重くなくても、引き受けてやるが?
ついでに重たい荷物にしたって、お前が持てる程度のヤツなら、俺にとっては軽いモンだな。
半分と言わず、全部纏めて寄越しちまっていいんだが…。俺にわざわざ断らなくても。
お前が「お願い」と言い出す前から、俺が横から奪ってそうだが?
恋人に重たい荷物を持たせるような馬鹿はいないぞ、とハーレイは余裕たっぷりだけれど。重い荷物を持っていたなら、ヒョイと取り上げてしまいそうだけど…。
「ううん、全部じゃ駄目なんだよ」
半分だけっていうのが幸せ。…ぼくとハーレイと、二人で持つのが。
ぼくが持つ分、半分になっても重たくてもね。ぼくはサイオンで持つのは無理だし、もう本当に重くっても。
…でも、それまでは一人で持ってたんだし、半分になったら、きっと楽だよ。
今日の帰りに、そういう人を見掛けたから…。
ぼくと違って、ちゃんとサイオンが使える女の人だったけど…。
凄く重そうな荷物だよね、って見ていた時には、サイオンで楽に持ち上げたんだけど…。
バス停に着いて降りる時には、サイオン、使っていなかったんだよ。
急によろけたから、ぼくと同じで不器用なのかと思ったら…。
そうじゃなくって、サイオンを使わなかったのは、わざとらしくて…。そうなったのはね…。
バス停で恋人が待っていたから、と話した帰り道の光景。二人で一つの荷物を提げて、楽しげに歩いていったカップル。
ワインの瓶まで詰め込んだ袋、それを半分ずつ持って。サイオンは使わず、重たいままで。
「あんな風に二人で歩きたいよ」と、「だから半分だけがいい」と。
「ハーレイが一人で持ってしまったら、荷物を二人で分けられないもの…」
重さも半分ずつにしたいよ、ハーレイとぼくとで、半分こで。
重たくっても半分がいい、と繰り返した。腕が痺れるほど重たい荷物を提げ続けた後でも、と。
「腕が痺れるほどって…。そんな荷物を提げ続けるって、いったいどういう状況なんだ?」
お前は何をやらかすつもりだ、家から持って来るんじゃないのか、その荷物は?
あのバスはそれほど混みはしないぞ、とハーレイが挙げる路線バス。それはハーレイの家へ直接向かう時のバスで、街へ出掛けた帰りに乗ってゆくバスではない。食料品店で買い出しを済ませた後に乗り込むだろうバスとは。
「えっとね…。ぼくが乗るバス、それじゃないから…」
バスの路線は調べてないから、空いているのかもしれないけれど…。乗ってみたらね。
でも、今のぼくは知らないわけだし、混んでいるかもしれないじゃない。…バス停だって。
ハーレイの家に出掛ける前に、買い物をして行きたいんだよ。今日の女の人みたいに。
バス停で待ってた男の人は、きっと知らなかったんだろうから…。買い物をして来ることを。
知っていたなら一緒に行くでしょ、そんな重たい荷物を一人で持たせてないで。
でも…。あのサプライズも素敵だろうと思うから…。
ぼくも買い出し、と未来の計画を打ち明けた。実行できるのはずっと先だし、話してしまっても大丈夫。その日が「いつ」かは、自分にも分からないのだから。
「サプライズって…。それで食料品店に行くってか?」
俺と待ち合わせた時間よりも早くに出掛けて、街の方まで回って来て?
食材を山ほど買い込んだ上に、ワインまで買って来るって言うのか、お前は酒は駄目なのに。
ついでにバスが混んでいたなら、重たい荷物を提げっ放しで、座れもしなくて…。
とんでもない目に遭いそうなのに、お前、街まで出掛けたいのか…?
「だって、サプライズっていうのは、そういうものでしょ?」
ハーレイがうんとビックリしちゃって、喜んでくれるのが一番。荷物がとっても重たくっても。
だから楽しみに待っていてね、と微笑んだ。そのサプライズは、ずっと未来のことだから。
「ぼくが学校に通っている間は、多分、無理だと思うから…。よっぽど運が良くないと」
早い間にハーレイと婚約できていたなら、そういうのだって出来そうだけど…。
今はチビだし、婚約どころじゃないものね。…サプライズはきっと何年も先になっちゃうから。
でも頑張る、と右手をキュッと握った。
前の生の最後にメギドで冷たく凍えた右手。ハーレイの温もりを失くした右の手。悲しい記憶を秘めた右手が、今度は凄い重さに耐える。左手も一緒に添えるけれども、重い荷物を持つために。
山ほどの食材と、作りたい料理に似合うワインが入った袋を提げてゆくために。
「ふうむ…。俺を驚かせるために、買い出しに出掛けて行くってか…」
そいつがお前の夢なのか?
俺が待ってるバス停までに、重たい荷物で苦労したって。…サイオンで支えて持てはしなくて、バス停でも、バスの中でも座れないままで…。
床とかに置けるチャンスも無くって、腕がすっかり痺れちまっても…?
サプライズで提げて来ると言うのか、とハーレイが訊くから頷いた。
「そうだよ、あれをやってみたくて…。それに荷物を二人で持つっていうのもね」
あのカップルは、とても幸せそうだったから…。
見ていたぼくまで幸せになって、こんな夢まで見られるくらいに。半分ずつの荷物がいいとか、ハーレイの家に出掛ける前には、街まで買い出しに行こうとか…。
いいと思うでしょ、ハーレイだって…?
そのサプライズ、と鳶色の瞳を覗き込んだ。「ハーレイだって、嬉しくならない?」と。
「…それはまあ…。俺だって、お前と二人で荷物を持つのは、楽しそうだと思うんだが…」
お前の夢の方はともかく、俺としてはだ…。
そういった時は、俺がお前を迎えに出掛けて行くのがいいな。…バス停で待っているよりも。
迎えに行くなら車の出番で、車を出したら、もちろん街での買い出しもだ…。
お前と一緒にしたいと思うわけなんだが?
バス停で待つよりそっちがいいな、とハーレイが言うから驚いた。自分の夢とは逆様だから。
「…そうなの?」
ハーレイは迎えに来る方がいいわけ、バス停で待っているよりも…?
買い出しもぼくと一緒に行くって、本当にそんなのがいいの…?
それじゃサプライズにならないじゃない、と首を傾げた。楽しさが半減しそうだから。
「ぼくと一緒に出掛けて行ったら、何を作るのか分かってしまうよ…?」
メモを見ながら籠にどんどん入れてる間は、分からないかもしれないけれど…。
ワインを買ったらバレてしまうよ、ぼくはワインの選び方なんか分からないんだもの。…お店の人に訊くしかないでしょ、「このお料理に合うのは、どれなんですか?」って。
ハーレイも横で聞いていたなら、おしまいじゃない…!
ぼくが作りたいお料理がバレちゃう、と肩を竦めた。食材だけでは謎のままでも、ワイン選びで料理の名前がバレるのだから。
「バレるって…。そんなに必死に隠さなくても、食材を選ぶ所から一緒がいいと思わんか?」
こういう料理を作るんだから、と言ってくれれば、俺だって食材を選んでやれる。
同じ野菜を買うんだったら、こっちの方がお勧めだとか。…肉なら、これが美味そうだとか。
サプライズも悪くはないんだがなあ、共同作業も楽しいもんだぞ?
食材選びから二人でやって、料理も一緒に作るってヤツ。…俺がお前を手伝って。
それに第一、お前の腕ってヤツがだな…。
お前、サプライズで見事に料理が出来るのか…?
俺の舌を唸らせるほどの美味い料理が、と尋ねられたら自信が無い。今のハーレイの料理の腕はなかなかのもの。プロ顔負けとも言えそうなほどに。
(前に財布を忘れた時に…)
昼食代を借りに行ったら、「丁度良かった」と、ハーレイのお弁当を分けて貰えた。
他の先生たちは留守だから、とハーレイが作って来た特製弁当。「クラシックスタイルだぞ」と自慢していた、二段重ねの本格的な和食のもの。
(あんなのも作っちゃうんだし…)
パウンドケーキも焼けるハーレイ。
「どうしても、俺のおふくろの味には焼けないんだが」などと言ってはいても。
それほどの料理の腕の持ち主、そのハーレイに「美味い」と喜んで貰える料理は、今の自分には作れない。少なくとも、今の段階では。
料理は調理実習くらいしか経験が無くて、レシピを見ながらそれを再現出来たら上等。
結婚が決まって母に教えて貰うにしたって、ハーレイほどの腕に上達するには時間が必要。
(…ママに習って、頑張ったって…)
結婚式の日まではアッと言う間で、サプライズの日は、それまでの何処か。料理の腕は、大して上がっていないのだろう。今と全く変わらないままか、少しはマシという程度で。
「…ハーレイを感心させるお料理、難しいかも…」
どれも上手に作れないとか、一つくらいしか上手く出来ないとか…。そうなっちゃいそう。
ぼくは頑張ったつもりでいたって、ハーレイの方が、ずっとお料理、上手だから…。
凄いお料理はきっと無理だよ、と項垂れた。本当にそうなるだろうから。
「ほらな。お前が一人で買いに出掛けて、重たい荷物を提げて来たって、その有様だ」
そうなるよりかは、買い出しの時から一緒に出掛けて、食材も俺が選んだ方が確かだぞ?
何を作りたいのか言ってくれれば、肉も魚も、野菜も選んでやれるから。
食材選びも、日頃の経験ってヤツが大切で…。お前、目利きも出来ないだろうが。
違うのか、と言われれば、そう。食材を買いに出掛けた経験はまるで無いから、どういう具合に選べばいいのか分かりはしない。魚だったら、魚としか。肉にしたって、豚や牛としか。
「そうだよね…。ぼくだと、ホントに分かってないから…」
シチュー用とか、ステーキ用とか、そういう風に書いてあるのしか選べないかも…。
ハーレイだったら、「この料理にはこれだ」って選べるんだろうけど。色々なのがお店に並んでいても。お勧めの魚が色々あっても。
だからハーレイに任せておくのがいいんだろうけど、でも、荷物…。
お店で沢山買った荷物を、ハーレイと二人で持ちたいんだよ。
お料理に合うワインも選んで、うんと重たくなった荷物を。…レジで袋に詰めて貰ったら、凄い重さでよろけそうなのを。…普通の人なら、サイオンで支えて持つようなヤツを。
それをハーレイと分けたいんだけど…。ぼくが半分、ハーレイが半分。
ホントに二人で半分ずつ、と頼み込んだ。それでいいなら、買い出しも一緒に行くから、と。
「おいおいおい…。荷物を二人で持つんだったら、買い出しも俺と一緒でいいって…」
お前ってヤツは、サプライズで料理をするよりも前に、其処がいいのか?
俺に内緒で買い出しに行って、重たい荷物を提げて来ようって理由はそれか…?
美味い料理で驚かせるより、凄い荷物で俺の度肝を抜くのか、バスからヨロヨロ降りて来て…?
「半分持って」と頼むためにだけ、その大荷物を抱えてやって来るってか…?
なんてヤツだ、とハーレイは呆れているけれど。「荷物なのか?」と目まで丸いけれども…。
「ぼくが最初に、羨ましいな、って思った時には、荷物を持ってただけだったしね…」
あのカップルは、二人で一つの荷物を持っていただけ。話の中身も聞こえなかったし…。
重たそうな荷物を持ってた理由は何だったのかな、っていうのは、後から考えたこと。
バスが走り出してからと、家に帰ってからとで、本当のことは謎なんだけど…。
でも、ハーレイだって、ぼくの想像、間違っていないと思うでしょ?
「まあ…。当たりだろうな、お前が色々考えてるヤツで」
きっと今頃は、パーティーの用意で大忙しって所だろう。二人で料理か、女性の腕の見せ所かは知らんがな。…こればっかりは、現場を見ないと分からんことだ。知り合いでなけりゃ。
それでお前は、あれこれ想像している間に、色々とやりたくなっちまった、と。
荷物を二人で持つだけじゃなくて、買い出しに出掛けてサプライズだとか。
しかし、お前は料理の経験は少ないわけだし、腕を磨けるチャンスの方も無さそうだしな…?
料理は俺に任せておいてだ、荷物だけ、お前も持ってみるか?
お前の憧れの山ほどの荷物は、俺が選んで買ってやるから。食材も。それにワインの方も。
それでどうだ、とハーレイが訊くから、「いいの?」と瞳を瞬かせた。食材選びも、料理に合うワインを選ぶのも全部、ハーレイだなんて。…自分は荷物を持つだけだなんて。
「そんなのでいいの、ぼくは荷物を持つだけなんて…?」
半分だけ持ってみたいから、って我儘を言ってるだけだよ、それじゃ…?
「我儘も何も、美味い料理の方がいいだろ? 同じ食うなら」
お前が悪戦苦闘するより、経験者の俺に任せておけ。うんと美味いのを食わせてやるから。
前の俺は厨房出身だったし、今の俺も料理は好きだしな?
お前は買い出しの荷物だけ持ってくれればいい、と言われたけれど…。
「ハーレイがお料理するんだったら、手伝いたいな。…料理をするのは無理そうだけど」
前のぼくだって、ハーレイが厨房にいた頃だったら、タマネギを刻んだりしていたよ?
ジャガイモの皮も剥いてたんだし、今でも少しは手伝えると思う。
調理実習でやったこととか、簡単なことしか出来ないけれど…。でも…。
何もやらないより、ずっとマシだと思うから…。
買い出しを二人でやった時には、ぼくもハーレイのお手伝い…。駄目…?
迷惑をかけたりしないから、と頼んでみた。「ぼくも手伝いたいんだけれど」と。
ハーレイの邪魔にならない範囲で、お手伝い。タマネギを細かく刻んでみるとか、ジャガイモの皮を剥くだとか。
「ぼくがやったら焦げちゃいそうだし、お鍋とかには触らないから…。お手伝いだけ」
包丁で怪我をしそうだったら、「駄目だ」って止めてくれればいいから。
「手伝いなあ…。そのくらいなら、いいだろう」
同じ切るのでも、カボチャは任せられないが…。あれは固いし、お前だと怪我をしかねない。
だから何でもいいわけじゃないが、やりたいことは俺に訊け。「やっていいか」と。
大丈夫だな、と思った時には任せるから。
お前のペースでやればいいさ、とハーレイは笑顔で許してくれた。俺は急かしはしないから、と「落ち着いてゆっくりやるといい」と。
「ホント?」
ハーレイがやるより時間がかかっても、いいって言うの?
鮮度が命のお魚とかだと、ぼくのペースじゃ駄目なんだけど…。
「安心しろ。その辺のことも、ちゃんと考えて任せることにするから。…お前の分の作業はな」
お前が楽しんでするんだったら、止める理由は無いんだし…。
重たい荷物を持ちたがるのも、俺は「駄目だ」と止めにかかってはいないんだから。
ただし荷物は半分だけだぞ、サプライズとやらで全部を一人で買って来るなよ?
俺が一緒に買いに出掛けて、最初から半分ずつだからな、と念を押された。一人で重たい荷物を持つなと、「サプライズよりは、二人で料理だ」と。
料理と言っても、ハーレイが料理をするのだけれど。自分は手伝うだけなのだけれど。
「ありがとう、ハーレイ!」
最初から半分ずつの荷物でも、二人で持てたら幸せだから…。
お料理だって、ハーレイがやってるのを横で手伝えたら、それだけでぼくは充分だから…!
ハーレイが「一緒に行こうな」と約束してくれたから、いつか二人で買い出しに行こう。
街の大きな食料品店まで二人で出掛けて、山のように買って、重たい荷物を半分ずつ持とう。
ワインの瓶まで入った袋の、持ち手を二人で片方ずつ。重さを二人で半分に分けて。
家に着いたら、ハーレイがそれで料理を作る。「今日はこれだな」と、慣れた手つきで。
そのハーレイを手伝いながら、色々なことを教えて貰おう。料理の他にも、様々なことを。
(お皿は其処とか、お鍋は此処とか…)
そういう風に習って覚えて、ハーレイの家に慣れていったら…。
(結婚だよね?)
待ち焦がれていた結婚の日がやって来るから、その頃には料理も覚えていたい。
幾つも上手に作るのは無理でも、一つくらいは「美味いな」と言って貰えるものを。
ハーレイに「美味い!」と褒めて貰えて、沢山食べて貰える何かを。
(何でも美味しいって言いそうだけど…)
嬉しそうな顔で食べて貰える何かが作れたらいい。
基本の中の基本みたいな料理でいいから、自信を持って作れる料理。
(ママが焼いてるパウンドケーキは、ハーレイのお母さんのとおんなじ味で…)
おふくろの味だと聞いているから、あのケーキはマスターするつもり。
そうは言っても、パウンドケーキだけが自慢のお嫁さんより、やっぱり得意な料理も持ちたい。
「おかえりなさい!」とハーレイを迎えて、「今日はこれだよ」と披露できる何か。
重たい荷物を提げて二人で買い出しをしたら、そういう料理も覚えられたらいい。
今の腕ではまるで駄目でも、半分ずつの荷物を持てる時が来たなら…。
半分ずつの荷物・了
※ブルーが見掛けた、荷物の重さを分かち合うカップル。将来、やってみたいと描いた夢。
叶う時は来そうですけど、ハーレイに任せる部分が大きいかも。荷物の重さを分ける程度で。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
ドッサリだよね、とブルーが眺めた若い女性。学校からの帰りに乗り込んだバスで。
先から乗っていた女性だけれども、彼女が座った座席の横の床。其処に置かれている荷物。膝の上にあるバッグとは別に、それは重そうな荷物が一つ。
(ワインの瓶まで入ってる…)
蓋が無いタイプの買い物袋で、溢れるほどにギッシリ詰まった中身。ワインの瓶も覗いている。町の中心部の食料品店まで行って来たのだろう。珍しい食材も豊富に揃った、大きな店へ。
(あれだけ重たい荷物だと…)
サイオンを使って持っていたって、マナー違反とは言われない。
誰もがミュウになった時代は、「人間らしく」が社会のマナーでルール。出来るだけサイオンは使わないのが、一人前の大人というもの。本当に困ってしまった時や、必要な時を除いては。
手に余る重さの荷物を持つなら、サイオンを使ってもかまわない。サイオンも「力」の一つではある。筋肉の力ではないというだけで。
それを使って「重い荷物」を軽々と運んでいたとしたって、皆、温かく見守るだけ。落とさずに頑張って運べるようにと、心の中で応援しながら。
あの女性だって、きっとそうしたのだろう。買った荷物をそうやって持って、バスに乗り込んで家に帰る途中。今は荷物は床の上だし、持つ必要は無いのだけれど。
(ぼくだと、サイオン、無理なんだけどね…)
どんなに重い荷物であろうと、腕の力だけで持つしかない。不器用すぎる今の自分のサイオン、使いたくても使えない力。「これを持ちたい」と考えたって。
(いいな…)
ああいう荷物を、サイオンで軽く持ち上げること。それが出来たら、と願ってしまう。
そうする間に、女性は降車ボタンを押した。次のバス停で降りるために。
バスが停まったら、バッグを持つのとは違う方の手で、床の買い物袋を持った。腰掛けていた席から立ち上がりながら。
(やっぱりサイオン…)
軽そうにスッと持ち上げたから、間違いない。サイオンで支えて軽くした荷物。空気みたいに。
なのに…。
(えっ?)
羨ましいな、と眺めた女性の足がよろけた。降りるために、お金を払った所で。
いきなり、重たくなったらしい荷物。あの重そうな買い物袋に、引き摺られるようにバランスが崩れてしまった身体。一瞬だけれど。
(…失敗したの?)
もうサイオンでは支えていない買い物袋。とても重そうに提げている女性。よろけていなくても見ただけで分かる、「荷物が重い」という事実。さっきは軽く持ち上げたのに。
(サイオンで上手く支えられないんだ…)
集中していれば出来るけれども、何かのはずみで駄目になる人。「お金を払おう」と意識が別の方へと向いた途端に、サイオンが使えなくなったのだろう。それで慌てて、元には戻せないまま。
(ホントに重そう…)
ぼくみたいに不器用な人なんだろうか、と降りてゆく女性を見送っていたら…。
(あ…!)
降りた先のバス停にいた、若い男性。彼が女性の大きな荷物に手を伸ばした。ごくごく自然に、「ぼくが持つよ」という風に。
(持ってあげるんだ!)
恋人だったら当然だよね、と思った荷物。あれほど重い荷物なのだし、おまけに女性は不器用でサイオンを上手く扱えない。此処は恋人の出番だろう。
けれど女性は、重そうな買い物袋の持ち手の片方しか…。
(渡してない…)
もう片方は女性の手の中、男性と二人で買い物袋を持つ形になった。半分ずつ、というように。
男性と女性と、一緒に仲良く提げてゆく荷物。ワインの瓶まで入った袋。
サイオンはもう使っていないのか、ズシリと重たそうなのを。
それでも二人で笑い合いながら、それは楽しそうに、足取りも軽く。
(んーと…?)
どうしてサイオンを使わないの、と思っている間にバスが動き出して、遠ざかっていった二人の姿。重たい荷物を、分け合うように持ったまま。
二人で一つの買い物袋を、半分ずつ提げて重さを分かち合いながら。
サイオンを使わなかったカップル。女性の方も、本当は上手くサイオンを扱えるのに違いない。バスを降りるまでは軽々と荷物を持っていたのだし、降りる時に使うのをやめただけ。
(うんと軽そうに持っていたんじゃ、荷物は持って貰えないかも…)
それに二人で提げることにしても、幸せが減るのかもしれない。空気のように軽い荷物を二人で持っても、「半分ずつ」という気がしないだろうから。
きっとそうだ、と思ったけれども、それよりも前に、あの大荷物。ワインの瓶まで入った袋。
あれほどの買い物をして来ることを、男性が知っていたのなら…。
(迎えに行ってあげればいいのにね?)
バスで来させずに車を出すとか、買い物に一緒に出掛けるだとか。
そうしていたなら、女性は荷物を持たないで済む。車だったら乗せておくだけ。二人で買い物に出掛けたのなら、男性が持つとか、最初から二人で持つだとか。
そっちの方が、と考えたけれど。女性に重たい荷物を持たせた、男性が悪く思えたけれど。
仲が良さそうなカップルだったし、もしかしたら…。
(あの女の人、買い物のことは話してなくて…)
男性の家に招かれただけで、待ち合わせ場所がバス停だったかもしれない。到着時間を知らせておいたら、男性が其処に来てくれるから。
せっかく家に行くのだから、と女性が用意して来た食材。ワインまで買って。
(家に着いたらお料理を作って、二人でパーティー?)
それとも友達も招くのだろうか。買い物袋に詰まっていたのが全部食材なら、二人で食べるには多すぎるから。もっと大勢、人がいないと食べ切れない。
(内輪の婚約パーティーとか…?)
其処まで大袈裟なものではなくても、友達を呼んで「結婚を決めた」と披露するだとか。
(そうなのかもね?)
男性の方は、ケータリングでも頼むつもりでいたかもしれない。気軽に頼める店も多いし、家で料理をするよりもずっと楽だから。
けれど、手料理の方がいい、と女性が考えてサプライズ。
「作るから」とも、「食材も用意していくから」とも伝えないまま、一人で買い物。重たすぎる荷物を一人で運んで、あの路線バスに乗り込んで。
そうだったのかも、と合点がいった。女性が一人で大荷物なのも、サプライズの内。男性の方はビックリしたろう、「その荷物は何?」と。
一目で分かることだけど。ワインの瓶まで覗いているから、「食材なんだ」と。
女性が料理を作ろうと思って買って来たことも、それが「内緒の計画」だったということも。
(そんなのも素敵…)
待っている恋人を驚かせたくて、重たい荷物を提げていた女性。サイオンで軽く持てる筈のを、降りる時には「腕の力だけで」提げる形に切り替えたのも。
(ビックリして貰って、喜んで貰えて、荷物も二人で一緒に提げて…)
きっと幸せに違いない。どんなに荷物が重くったって。
そう思っている間に、着いた自分が降りるバス停。さっきの女性と同じに降車ボタンを押して、席から立ち上がったのだけど。バスのステップも降りたけれども…。
降りる途中で、描いた夢。
もしも自分が重たい荷物を、ドッサリと持っているのなら…。
(ハーレイがいたらいいのにね?)
降りようとしている、このバス停に。今、足がついた、この場所に。
にこやかな笑顔で、「持ってやろう」と手を差し伸べてくれるハーレイ。「重そうだから」と、「俺に寄越せ」と。
本当にハーレイが立っていたなら、「持つぞ」と言ってくれたなら…。
(それを断って、二人で荷物…)
仲良く提げて行くのがいいよ、と思うけれども、自分の荷物は通学鞄。中身はせいぜい教科書やノート、ワインの瓶なんかは入らない。重くなっても、たかが知れている鞄の重さ。
それに通学鞄というのは、生徒が一人で提げてゆくもの。学校に出掛けてゆく時に。そのために作られた鞄なのだし、一人で持つように出来ている。形そのものが。
鞄の重さも問題だけれど、形の方も大いに問題。ハーレイと二人では提げられない。
(…まだ早いってこと?)
結婚できるくらいの年にならないと、ああいう風にして重たい荷物を提げるのは。
恋人と重さを分かち合うのは、二人で一つの荷物を持って歩くには。
やってみたいと思ってみたって、自分がバスから提げて降りる荷物は、通学鞄なのだから。
(あんなの、いいな…)
重い荷物を持ってたカップル、と家に帰っても思い出す。おやつの後で、自分の部屋で。
勉強机に頬杖をついて、あのカップルの姿を頭に描く。仲が良さそうだった二人は、今頃は何をしているのかと。
男性の家に着いたら、多分、一休みしただろう。お茶を飲んだり、お菓子をつまんだりして。
買い物をして来た女性がホッと一息入れた後には、重そうだった荷物の中身の出番。中から色々出て来た食材、それで女性が料理を始めていそうな時間。
野菜を刻んだり、皮を剥いたり、肉に下味をつけたりして。パーティーの時間に、丁度美味しく出来上がるように、あれやこれやと。
(男の人も手伝うのかも…)
女性が「私が勝手に決めたことだし、一人でやるわ」と言ったって。
「ぼくもやるよ」と出来る範囲で、二人一緒にキッチンに立って。腕に覚えがある人だったら、役割分担。「これはぼくが」と、「こっちは君が」と、キッチンでの作業を割り振って。
料理が下手なら、お皿の用意をするだとか。「その料理に合いそうなお皿は、どれだろう?」と女性の意見を聞いては、使いやすいように並べていって。
料理が出来たら、お客を迎えてパーティーの始まり。
重たそうだった袋から覗いていたワイン、あれの封を切って。みんなで賑やかに乾杯して。
(ぼくが、ああいうのをやるんなら…)
ハーレイの家に行くことになる。
何ブロックも離れた所で、何も持たずに訪ねてゆくにも、路線バスのお世話にならないと無理。
ハーレイだったら、時間がたっぷりある休日なら楽々と歩いて来るけれど。…天気が良ければ、軽い運動と散歩を兼ねて。時には回り道までして。
(…ぼくは歩けないし、ただ行くだけでもバスなんだから…)
バス停に着く時間を知らせておいたら、ハーレイは待っていてくれるだろう。帰りに見掛けた、重い荷物の女性を待っていた男性のように。バス停に立って、「もうすぐだよな」と。
そのハーレイを驚かせるには、約束の時間よりもずっと早くに家を出る。
ハーレイの家の近くのバス停、其処へと向かうバスに乗らずに、違う方へと行くバスに乗りに。
いつものバス停からバスに乗っかって、まずは街まで出掛けて行って…。
さっきの女性も行ったのだろう、街の大きな食料品店。珍しい食材も沢山揃ったお店に入る。
ズラリと並んだ食料品の棚。新鮮な野菜や肉のコーナー、瓶詰や缶詰なども一杯。二階にだって棚が山ほど、揃わないものなど無さそうな店。
どんな食材の名前を挙げても、「それでしたら…」と案内される棚。そういう店で買い物から。
(ぼくは飲めないけど、ワインも買わなきゃ…)
ハーレイはお酒が大好きなのだし、ワインの瓶は欠かせない。赤ワインにしても、白ワインとかロゼワインでも。…ワインには詳しくないけれど。
(このお料理なら、どれが合いますか、って…)
店で訊いたら、きっと教えて貰える筈。予算に合わせて、「このワインなど如何ですか?」と、棚から瓶を取り出してくれて。
ワインの瓶は重たいけれども、店の籠に入れて貰って提げる。サイオンで支えられはしないし、自分の腕の力だけで。ガラスのボトルと、中に詰まったワインの重みが凄くても。
(ワインの瓶には負けないんだから…)
目当ての食材も、メモを見ながら買い込んでゆく。作ろうと思う料理の分だけ、肉や魚や野菜などを。予算の範囲で、けれど出来るだけ上等なのを。
(婚約披露のパーティーとかじゃなくっても…)
お客は誰も招いていなくて、ハーレイと二人きりの食卓でも、食材はきっとドッサリ山ほど。
身体が大きいハーレイは普段から沢山食べるし、かなりの量を用意しなくては。それに数だって多いほど喜んで貰えそう。大皿に盛った料理が一つだけより、二つも、三つも。
(お料理が幾つも並んでいたら、それだけで嬉しくなるもんね?)
食が細い自分でも、色々な料理があれば嬉しい。どれから食べようか、どういう味かと、並んだ料理を目にしただけで心が躍る。「食べ切れるかな?」と少し心配でも。
だから沢山食べるハーレイには、料理の数も多いほどいいに違いない。「こんなにあるのか」と目移りするほど、色々な料理を作って並べて。
(それだけのお料理を、ハーレイが満腹するほど作るなら…)
籠の重さは、とんでもないことになるだろう。
食材だけでも重いというのに、選んで貰ったワインの瓶まで入った籠。会計のためにレジに行くにも、よろめきながらになるのだろうか。「この籠、ホントに重いんだけど…!」と。
会計が済んだら、もう後戻りは出来ない荷物。それがどんなに重くても。食料品店の人が詰めてくれた中身が、腕が痺れるほどの量でも。
(普通の人なら、そこでサイオン…)
バスの中で女性がやっていたように、重たい荷物もサイオンで支えてヒョイと提げてゆく。凄い重さをものともしないで、楽々と店の扉の外へ。
けれど不器用な自分の場合は、そうはいかない。レジの人が「重いですよ?」と声を掛けながら渡す袋は、もう本当に「重い」もの。「ありがとうございます」と受け取ったって、サイオンでは支えられないから。
(…レジの人たち、「大丈夫かな」って見送っていそう…)
重たすぎる袋にヨロヨロしながら、店を出て行く客の姿を。「サイオンは使わないのかな?」と不思議がったり、「使わない主義の人なのかな?」と感心しつつも、危なっかしいと思ったり。
なにしろ荷物を落としてしまえば、ワインの瓶が割れそうだから。ワインの他にも瓶詰だとか、脆い食材が詰まっているかもしれないから。
(卵だって、落っことしたらメチャメチャ…)
使いたい数の卵が無事でも、割れてしまったらやっぱり悲しい。割れた卵で、予定外のお菓子や料理なんかを作るにしても。
そうならないよう、頑張るしかない。ワインの瓶も、瓶詰も、卵も割らないように。重たすぎる荷物をしっかりと持って、バス停のある所まで。
(バス停の椅子が、空いていたならいいけれど…)
運悪くどれも塞がっていたら、重たい荷物を提げたまま。人が少なければ、バス停の所で足元に置いてもいいのだけれども、人が多かったらそれも無理。他の人たちの邪魔になるから。
(大きな荷物は、立つ場所を塞いじゃうもんね?)
提げたり、抱えたりするのがマナーで、普通の人なら、サイオンの出番。軽々と支えて、バスが来るのを待てばいいだけ。荷物には指の一本だけでも添えて。
(…それが出来たら、苦労しないよ…)
バス停までの道でよろけはしないし、必死の思いで重い袋を提げてもいない。泣きそうな気分になりもしないし、「バスはまだかな?」と何度も伸び上がるだけ。
「まだ来ないかな」と時刻表を見ては、バスが走って来る方向を。
ところが、そうはいかない自分。タイプ・ブルーとは名前ばかりで、サイオンの扱いはとことん不器用。思念波さえもろくに紡げないのだし、荷物をサイオンで支えるのは無理。
(誰も気付いてくれないよね?)
サイオンで荷物を支えられないから、ヨロヨロと立っているなんて。
ワインの瓶まで詰まった袋を、腕の力だけで提げているなんて。
(そういう主義の人なんだ、って思われちゃって…)
誰も声など掛けてはくれない。椅子に座った人が「持ちましょうか?」と言ってくれるだとか、隣に立っている人が「重そうですね」と力を貸してくれるとか。
とても小さな子供だったら、「あら、お使い?」と持ってくれる人もいるのだろうに。赤ん坊を抱いたお母さんでも、空いた方の手を貸してくれるだろうに。…サイオンを使えば簡単だから。
(だけど、ぼくだと…)
チビの姿の今でさえ、きっと、「腕の筋肉を鍛えているのか」と勘違いされておしまいだろう。
ひ弱そうに見える子供だけれども、スポーツでもやっているのだろうと。
(今でもそうだし、ハーレイの家に行くような頃のぼくだったら…)
前の自分とそっくり同じ姿に育って、見た目はすっかり一人前。サイオンを上手く扱えないとは誰も思わないし、「使わない理由があるんだな」と眺めるだけ。「重そうなのに、大変だ」と。
誰一人助けてくれないのだから、バスに乗るだけでも一苦労。
バス停で待って、やっとバスが来て、乗り込む時にも提げてゆく荷物。とても重いのに。
(うんと重たいのを、バスの中まで引っ張り上げて…)
ようやくのことで乗った車内に、空いた座席はあるのだろうか。ハーレイの家に行く途中だし、きっと世間の人も休日。土曜日だとか、日曜日だとか。
(お休みの日には、空いてる路線も多いけど…)
それとは逆に混むバスもある。平日の昼間は空いていたって、休日の昼間はギュウギュウ詰め。もしもそういう路線だったら、バスの中でも荷物を提げているしかない。
(空いてる席が一つも無いなら、座れないし…)
今日の女性がやっていたように、座席の脇の床にも置けない。車内が人で一杯だったら、荷物を置くと邪魔になる。邪魔にならなくても、誰かの足が当たったら…。
(ワインの瓶とかは大丈夫でも、卵は割れちゃう…)
それが嫌なら、自分で提げているしかない。腕が痺れても、卵が壊れてしまわないように。
考えただけでも大変そうな、ハーレイの家に出掛けるまでの道のり。
ハーレイの家だけを目指すのだったら、約束の時間に間に合うバスに乗るだけなのに。ゆっくりのんびり支度をしてから、「そろそろだよね」とバス停に行って。
(でも、ハーレイを喜ばせようと思ったら…)
先に街まで出掛けて買い出し、それも自分には重すぎる量の食料品だのワインだのを。
店で買う間も「重いんだけど…」と籠を提げて歩いて、店を出た後はもっと大変。運が悪いと、ハーレイと待ち合わせているバス停に着くまで、重たい荷物を提げ続けるしかないのだから。
そうは思っても、今日のカップルがあまりに幸せそうだったから…。
あんな風に自分もやってみたいから、頑張るだけの価値はあるだろう。ハーレイの家に出掛ける前に、街の食料品店へ。食材を買って、作りたい料理に似合うワインも買い込んで。
(物凄く重たい袋になっても、頑張って提げて、バスに乗っかって…)
ハーレイの家の近所のバス停に着く。
約束の時間に、よろめきながら重たい荷物を手にして、バスのステップを降りて。
そんな姿で、自分がバスから降りて来たなら…。
(ハーレイ、きっとビックリして…)
大慌てで荷物を持とうとしてくれるだろう。
帰りに見掛けた男性みたいに、「俺に寄越せ」と手を伸ばして。あの褐色の腕を差し出して。
柔道と水泳で鍛えた逞しい腕は、重い荷物も楽々と持てるだろうけれど。「指でも持てるぞ」と言いかねないのがハーレイだけれど、其処で荷物を渡しはしない。
渡してしまったら、ハーレイに内緒で買い出しに行った意味が無くなるから。
ヨロヨロしながら其処まで運んで、頑張った意味も、消えて無くなる。
(ハーレイに持って貰うんだったら、一緒に買い出しに出掛けてるってば…)
こういう料理を作りたいから、と頼んで車を出して貰って。
あるいは二人で路線バスに乗って、街の大きな食料品店まで。
そうしなかったのは、ハーレイをビックリさせたいからでもあるけれど…。
(重たい荷物を、半分ずつ…)
二人で分けて持ちたいから。
ハーレイに持ち手の片方を渡して、もう片方は自分が持つ。二人で一つの荷物を提げに。
そうしたいのだし、ハーレイが手を伸ばして来たって、「いいよ」と断る。
「だけど、半分だけお願い」と荷物の持ち手を片方だけ。「ハーレイが持つのは、こっち側」と二つある持ち手の片方を託す。ハーレイの、褐色の逞しい手に。
そうして持ったら、半分になる荷物の重さ。半分だったら、きっとよろけもしなくて…。
(ハーレイとお喋りしながら楽しく歩いて、家に着くんだよ)
素敵だよね、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来たから、いつものテーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。いつか荷物を持ってくれる?」
ぼくが重そうな荷物を持っていたなら、ハーレイ、半分、持ってくれない…?
全部じゃなくって、半分だけ。…半分だけ持って欲しいんだけど…。
「はあ? 半分って…。どういう意味だ?」
お前の荷物を持つんだったら、お安い御用というヤツで…。重くなくても、引き受けてやるが?
ついでに重たい荷物にしたって、お前が持てる程度のヤツなら、俺にとっては軽いモンだな。
半分と言わず、全部纏めて寄越しちまっていいんだが…。俺にわざわざ断らなくても。
お前が「お願い」と言い出す前から、俺が横から奪ってそうだが?
恋人に重たい荷物を持たせるような馬鹿はいないぞ、とハーレイは余裕たっぷりだけれど。重い荷物を持っていたなら、ヒョイと取り上げてしまいそうだけど…。
「ううん、全部じゃ駄目なんだよ」
半分だけっていうのが幸せ。…ぼくとハーレイと、二人で持つのが。
ぼくが持つ分、半分になっても重たくてもね。ぼくはサイオンで持つのは無理だし、もう本当に重くっても。
…でも、それまでは一人で持ってたんだし、半分になったら、きっと楽だよ。
今日の帰りに、そういう人を見掛けたから…。
ぼくと違って、ちゃんとサイオンが使える女の人だったけど…。
凄く重そうな荷物だよね、って見ていた時には、サイオンで楽に持ち上げたんだけど…。
バス停に着いて降りる時には、サイオン、使っていなかったんだよ。
急によろけたから、ぼくと同じで不器用なのかと思ったら…。
そうじゃなくって、サイオンを使わなかったのは、わざとらしくて…。そうなったのはね…。
バス停で恋人が待っていたから、と話した帰り道の光景。二人で一つの荷物を提げて、楽しげに歩いていったカップル。
ワインの瓶まで詰め込んだ袋、それを半分ずつ持って。サイオンは使わず、重たいままで。
「あんな風に二人で歩きたいよ」と、「だから半分だけがいい」と。
「ハーレイが一人で持ってしまったら、荷物を二人で分けられないもの…」
重さも半分ずつにしたいよ、ハーレイとぼくとで、半分こで。
重たくっても半分がいい、と繰り返した。腕が痺れるほど重たい荷物を提げ続けた後でも、と。
「腕が痺れるほどって…。そんな荷物を提げ続けるって、いったいどういう状況なんだ?」
お前は何をやらかすつもりだ、家から持って来るんじゃないのか、その荷物は?
あのバスはそれほど混みはしないぞ、とハーレイが挙げる路線バス。それはハーレイの家へ直接向かう時のバスで、街へ出掛けた帰りに乗ってゆくバスではない。食料品店で買い出しを済ませた後に乗り込むだろうバスとは。
「えっとね…。ぼくが乗るバス、それじゃないから…」
バスの路線は調べてないから、空いているのかもしれないけれど…。乗ってみたらね。
でも、今のぼくは知らないわけだし、混んでいるかもしれないじゃない。…バス停だって。
ハーレイの家に出掛ける前に、買い物をして行きたいんだよ。今日の女の人みたいに。
バス停で待ってた男の人は、きっと知らなかったんだろうから…。買い物をして来ることを。
知っていたなら一緒に行くでしょ、そんな重たい荷物を一人で持たせてないで。
でも…。あのサプライズも素敵だろうと思うから…。
ぼくも買い出し、と未来の計画を打ち明けた。実行できるのはずっと先だし、話してしまっても大丈夫。その日が「いつ」かは、自分にも分からないのだから。
「サプライズって…。それで食料品店に行くってか?」
俺と待ち合わせた時間よりも早くに出掛けて、街の方まで回って来て?
食材を山ほど買い込んだ上に、ワインまで買って来るって言うのか、お前は酒は駄目なのに。
ついでにバスが混んでいたなら、重たい荷物を提げっ放しで、座れもしなくて…。
とんでもない目に遭いそうなのに、お前、街まで出掛けたいのか…?
「だって、サプライズっていうのは、そういうものでしょ?」
ハーレイがうんとビックリしちゃって、喜んでくれるのが一番。荷物がとっても重たくっても。
だから楽しみに待っていてね、と微笑んだ。そのサプライズは、ずっと未来のことだから。
「ぼくが学校に通っている間は、多分、無理だと思うから…。よっぽど運が良くないと」
早い間にハーレイと婚約できていたなら、そういうのだって出来そうだけど…。
今はチビだし、婚約どころじゃないものね。…サプライズはきっと何年も先になっちゃうから。
でも頑張る、と右手をキュッと握った。
前の生の最後にメギドで冷たく凍えた右手。ハーレイの温もりを失くした右の手。悲しい記憶を秘めた右手が、今度は凄い重さに耐える。左手も一緒に添えるけれども、重い荷物を持つために。
山ほどの食材と、作りたい料理に似合うワインが入った袋を提げてゆくために。
「ふうむ…。俺を驚かせるために、買い出しに出掛けて行くってか…」
そいつがお前の夢なのか?
俺が待ってるバス停までに、重たい荷物で苦労したって。…サイオンで支えて持てはしなくて、バス停でも、バスの中でも座れないままで…。
床とかに置けるチャンスも無くって、腕がすっかり痺れちまっても…?
サプライズで提げて来ると言うのか、とハーレイが訊くから頷いた。
「そうだよ、あれをやってみたくて…。それに荷物を二人で持つっていうのもね」
あのカップルは、とても幸せそうだったから…。
見ていたぼくまで幸せになって、こんな夢まで見られるくらいに。半分ずつの荷物がいいとか、ハーレイの家に出掛ける前には、街まで買い出しに行こうとか…。
いいと思うでしょ、ハーレイだって…?
そのサプライズ、と鳶色の瞳を覗き込んだ。「ハーレイだって、嬉しくならない?」と。
「…それはまあ…。俺だって、お前と二人で荷物を持つのは、楽しそうだと思うんだが…」
お前の夢の方はともかく、俺としてはだ…。
そういった時は、俺がお前を迎えに出掛けて行くのがいいな。…バス停で待っているよりも。
迎えに行くなら車の出番で、車を出したら、もちろん街での買い出しもだ…。
お前と一緒にしたいと思うわけなんだが?
バス停で待つよりそっちがいいな、とハーレイが言うから驚いた。自分の夢とは逆様だから。
「…そうなの?」
ハーレイは迎えに来る方がいいわけ、バス停で待っているよりも…?
買い出しもぼくと一緒に行くって、本当にそんなのがいいの…?
それじゃサプライズにならないじゃない、と首を傾げた。楽しさが半減しそうだから。
「ぼくと一緒に出掛けて行ったら、何を作るのか分かってしまうよ…?」
メモを見ながら籠にどんどん入れてる間は、分からないかもしれないけれど…。
ワインを買ったらバレてしまうよ、ぼくはワインの選び方なんか分からないんだもの。…お店の人に訊くしかないでしょ、「このお料理に合うのは、どれなんですか?」って。
ハーレイも横で聞いていたなら、おしまいじゃない…!
ぼくが作りたいお料理がバレちゃう、と肩を竦めた。食材だけでは謎のままでも、ワイン選びで料理の名前がバレるのだから。
「バレるって…。そんなに必死に隠さなくても、食材を選ぶ所から一緒がいいと思わんか?」
こういう料理を作るんだから、と言ってくれれば、俺だって食材を選んでやれる。
同じ野菜を買うんだったら、こっちの方がお勧めだとか。…肉なら、これが美味そうだとか。
サプライズも悪くはないんだがなあ、共同作業も楽しいもんだぞ?
食材選びから二人でやって、料理も一緒に作るってヤツ。…俺がお前を手伝って。
それに第一、お前の腕ってヤツがだな…。
お前、サプライズで見事に料理が出来るのか…?
俺の舌を唸らせるほどの美味い料理が、と尋ねられたら自信が無い。今のハーレイの料理の腕はなかなかのもの。プロ顔負けとも言えそうなほどに。
(前に財布を忘れた時に…)
昼食代を借りに行ったら、「丁度良かった」と、ハーレイのお弁当を分けて貰えた。
他の先生たちは留守だから、とハーレイが作って来た特製弁当。「クラシックスタイルだぞ」と自慢していた、二段重ねの本格的な和食のもの。
(あんなのも作っちゃうんだし…)
パウンドケーキも焼けるハーレイ。
「どうしても、俺のおふくろの味には焼けないんだが」などと言ってはいても。
それほどの料理の腕の持ち主、そのハーレイに「美味い」と喜んで貰える料理は、今の自分には作れない。少なくとも、今の段階では。
料理は調理実習くらいしか経験が無くて、レシピを見ながらそれを再現出来たら上等。
結婚が決まって母に教えて貰うにしたって、ハーレイほどの腕に上達するには時間が必要。
(…ママに習って、頑張ったって…)
結婚式の日まではアッと言う間で、サプライズの日は、それまでの何処か。料理の腕は、大して上がっていないのだろう。今と全く変わらないままか、少しはマシという程度で。
「…ハーレイを感心させるお料理、難しいかも…」
どれも上手に作れないとか、一つくらいしか上手く出来ないとか…。そうなっちゃいそう。
ぼくは頑張ったつもりでいたって、ハーレイの方が、ずっとお料理、上手だから…。
凄いお料理はきっと無理だよ、と項垂れた。本当にそうなるだろうから。
「ほらな。お前が一人で買いに出掛けて、重たい荷物を提げて来たって、その有様だ」
そうなるよりかは、買い出しの時から一緒に出掛けて、食材も俺が選んだ方が確かだぞ?
何を作りたいのか言ってくれれば、肉も魚も、野菜も選んでやれるから。
食材選びも、日頃の経験ってヤツが大切で…。お前、目利きも出来ないだろうが。
違うのか、と言われれば、そう。食材を買いに出掛けた経験はまるで無いから、どういう具合に選べばいいのか分かりはしない。魚だったら、魚としか。肉にしたって、豚や牛としか。
「そうだよね…。ぼくだと、ホントに分かってないから…」
シチュー用とか、ステーキ用とか、そういう風に書いてあるのしか選べないかも…。
ハーレイだったら、「この料理にはこれだ」って選べるんだろうけど。色々なのがお店に並んでいても。お勧めの魚が色々あっても。
だからハーレイに任せておくのがいいんだろうけど、でも、荷物…。
お店で沢山買った荷物を、ハーレイと二人で持ちたいんだよ。
お料理に合うワインも選んで、うんと重たくなった荷物を。…レジで袋に詰めて貰ったら、凄い重さでよろけそうなのを。…普通の人なら、サイオンで支えて持つようなヤツを。
それをハーレイと分けたいんだけど…。ぼくが半分、ハーレイが半分。
ホントに二人で半分ずつ、と頼み込んだ。それでいいなら、買い出しも一緒に行くから、と。
「おいおいおい…。荷物を二人で持つんだったら、買い出しも俺と一緒でいいって…」
お前ってヤツは、サプライズで料理をするよりも前に、其処がいいのか?
俺に内緒で買い出しに行って、重たい荷物を提げて来ようって理由はそれか…?
美味い料理で驚かせるより、凄い荷物で俺の度肝を抜くのか、バスからヨロヨロ降りて来て…?
「半分持って」と頼むためにだけ、その大荷物を抱えてやって来るってか…?
なんてヤツだ、とハーレイは呆れているけれど。「荷物なのか?」と目まで丸いけれども…。
「ぼくが最初に、羨ましいな、って思った時には、荷物を持ってただけだったしね…」
あのカップルは、二人で一つの荷物を持っていただけ。話の中身も聞こえなかったし…。
重たそうな荷物を持ってた理由は何だったのかな、っていうのは、後から考えたこと。
バスが走り出してからと、家に帰ってからとで、本当のことは謎なんだけど…。
でも、ハーレイだって、ぼくの想像、間違っていないと思うでしょ?
「まあ…。当たりだろうな、お前が色々考えてるヤツで」
きっと今頃は、パーティーの用意で大忙しって所だろう。二人で料理か、女性の腕の見せ所かは知らんがな。…こればっかりは、現場を見ないと分からんことだ。知り合いでなけりゃ。
それでお前は、あれこれ想像している間に、色々とやりたくなっちまった、と。
荷物を二人で持つだけじゃなくて、買い出しに出掛けてサプライズだとか。
しかし、お前は料理の経験は少ないわけだし、腕を磨けるチャンスの方も無さそうだしな…?
料理は俺に任せておいてだ、荷物だけ、お前も持ってみるか?
お前の憧れの山ほどの荷物は、俺が選んで買ってやるから。食材も。それにワインの方も。
それでどうだ、とハーレイが訊くから、「いいの?」と瞳を瞬かせた。食材選びも、料理に合うワインを選ぶのも全部、ハーレイだなんて。…自分は荷物を持つだけだなんて。
「そんなのでいいの、ぼくは荷物を持つだけなんて…?」
半分だけ持ってみたいから、って我儘を言ってるだけだよ、それじゃ…?
「我儘も何も、美味い料理の方がいいだろ? 同じ食うなら」
お前が悪戦苦闘するより、経験者の俺に任せておけ。うんと美味いのを食わせてやるから。
前の俺は厨房出身だったし、今の俺も料理は好きだしな?
お前は買い出しの荷物だけ持ってくれればいい、と言われたけれど…。
「ハーレイがお料理するんだったら、手伝いたいな。…料理をするのは無理そうだけど」
前のぼくだって、ハーレイが厨房にいた頃だったら、タマネギを刻んだりしていたよ?
ジャガイモの皮も剥いてたんだし、今でも少しは手伝えると思う。
調理実習でやったこととか、簡単なことしか出来ないけれど…。でも…。
何もやらないより、ずっとマシだと思うから…。
買い出しを二人でやった時には、ぼくもハーレイのお手伝い…。駄目…?
迷惑をかけたりしないから、と頼んでみた。「ぼくも手伝いたいんだけれど」と。
ハーレイの邪魔にならない範囲で、お手伝い。タマネギを細かく刻んでみるとか、ジャガイモの皮を剥くだとか。
「ぼくがやったら焦げちゃいそうだし、お鍋とかには触らないから…。お手伝いだけ」
包丁で怪我をしそうだったら、「駄目だ」って止めてくれればいいから。
「手伝いなあ…。そのくらいなら、いいだろう」
同じ切るのでも、カボチャは任せられないが…。あれは固いし、お前だと怪我をしかねない。
だから何でもいいわけじゃないが、やりたいことは俺に訊け。「やっていいか」と。
大丈夫だな、と思った時には任せるから。
お前のペースでやればいいさ、とハーレイは笑顔で許してくれた。俺は急かしはしないから、と「落ち着いてゆっくりやるといい」と。
「ホント?」
ハーレイがやるより時間がかかっても、いいって言うの?
鮮度が命のお魚とかだと、ぼくのペースじゃ駄目なんだけど…。
「安心しろ。その辺のことも、ちゃんと考えて任せることにするから。…お前の分の作業はな」
お前が楽しんでするんだったら、止める理由は無いんだし…。
重たい荷物を持ちたがるのも、俺は「駄目だ」と止めにかかってはいないんだから。
ただし荷物は半分だけだぞ、サプライズとやらで全部を一人で買って来るなよ?
俺が一緒に買いに出掛けて、最初から半分ずつだからな、と念を押された。一人で重たい荷物を持つなと、「サプライズよりは、二人で料理だ」と。
料理と言っても、ハーレイが料理をするのだけれど。自分は手伝うだけなのだけれど。
「ありがとう、ハーレイ!」
最初から半分ずつの荷物でも、二人で持てたら幸せだから…。
お料理だって、ハーレイがやってるのを横で手伝えたら、それだけでぼくは充分だから…!
ハーレイが「一緒に行こうな」と約束してくれたから、いつか二人で買い出しに行こう。
街の大きな食料品店まで二人で出掛けて、山のように買って、重たい荷物を半分ずつ持とう。
ワインの瓶まで入った袋の、持ち手を二人で片方ずつ。重さを二人で半分に分けて。
家に着いたら、ハーレイがそれで料理を作る。「今日はこれだな」と、慣れた手つきで。
そのハーレイを手伝いながら、色々なことを教えて貰おう。料理の他にも、様々なことを。
(お皿は其処とか、お鍋は此処とか…)
そういう風に習って覚えて、ハーレイの家に慣れていったら…。
(結婚だよね?)
待ち焦がれていた結婚の日がやって来るから、その頃には料理も覚えていたい。
幾つも上手に作るのは無理でも、一つくらいは「美味いな」と言って貰えるものを。
ハーレイに「美味い!」と褒めて貰えて、沢山食べて貰える何かを。
(何でも美味しいって言いそうだけど…)
嬉しそうな顔で食べて貰える何かが作れたらいい。
基本の中の基本みたいな料理でいいから、自信を持って作れる料理。
(ママが焼いてるパウンドケーキは、ハーレイのお母さんのとおんなじ味で…)
おふくろの味だと聞いているから、あのケーキはマスターするつもり。
そうは言っても、パウンドケーキだけが自慢のお嫁さんより、やっぱり得意な料理も持ちたい。
「おかえりなさい!」とハーレイを迎えて、「今日はこれだよ」と披露できる何か。
重たい荷物を提げて二人で買い出しをしたら、そういう料理も覚えられたらいい。
今の腕ではまるで駄目でも、半分ずつの荷物を持てる時が来たなら…。
半分ずつの荷物・了
※ブルーが見掛けた、荷物の重さを分かち合うカップル。将来、やってみたいと描いた夢。
叶う時は来そうですけど、ハーレイに任せる部分が大きいかも。荷物の重さを分ける程度で。
「水切りという遊びがあってだな…」
知ってるか、と始まったハーレイの雑談。ブルーのクラスで、古典の時間に。
生徒の集中力が切れて来た時、織り込まれるのが雑談の時間。居眠りしそうな生徒も起きるし、他の生徒も興味津々で耳を傾ける。
今日の話題は「水切り」なるもの。ハーレイ曰く、調理用語の「水切り」とは全く違うらしい。
「俺が言うのは、石の水切りというヤツだ」
水の上を石がピョンピョン跳ねて行くんだな、投げてやっただけで。
普通はドボンと沈みそうだが、そうはならない。先へ先へと弾んで飛んでゆくわけで…。
だが、サイオンは一切使わないんだ、この遊びには。
それでも石は水の上を跳ねて飛んでゆく、と言うものだから。
「本当ですか?」
何人もの生徒が上げた声。サイオン無しで、石が跳ねてゆくわけがない。水の上などを。
石は水より重いものだし、水に投げたら沈むもの。それが常識、跳ね返ることは無いのだから。
「俺が嘘をつくと思うのか? お前たちを全員騙してやろう、と狙った時なら別だがな」
しかし、その手の嘘の時には、後で本当のことを言ってる筈だぞ。「騙されたな」と。
今日の話は嘘じゃない。石の水切りに、サイオンは一切要らないんだ。
なんと言っても、ずっと昔からあった遊びだからなあ…。この地球の上に。
人間が地球しか知らなかった時代で、ミュウなんかは何処にもいない頃から。…世界中でな。
広い水面と石さえあれば出来た、という遊び。石の水切り。
投げられた石が跳ねた回数を競って遊んだらしい。沈むまでに何度、弾んだのか。
「世界記録ともなれば、信じられないような数だったんだぞ」
八十回くらいは跳ねたそうだ、と聞かされて皆が仰天した。水面に向かって投げられた石ころ、それが跳ねるだけでも驚きなのに、八十回など、凄すぎるから。
「八十回ですか?」
誰もがポカンと口を開ける中、ハーレイは「嘘じゃないぞ?」と楽しそうな顔。
「今の時代だと、サイオンなんてヤツがあるから…。ちと厄介になっちまったが」
昔みたいに世界記録は無理だろうなあ、実際、記録は破られてないし。
そもそも、記録を取ろうってヤツが何処にもいないんだがな。
SD体制の時代が挟まったせいじゃないぞ、とハーレイはクラスを見回した。
機械が統治していた時代は、様々な文化が消された時代。世界記録を作って遊ぶ余裕も無かった時代だけれども、「石の水切り」の新しい記録が生まれない理由は、それではない、と。
「石の水切りは今でもある。遊んでるヤツも多いわけだが、時代は変わった」
人間は誰でもミュウになったのが今の時代だ。みんながサイオンを持ってる時代。
サイオンを使えば、石を水の上で跳ねさせるくらいは簡単だから…。千回だって可能だろう。
そんな時代に、サイオンを使ったか、使わないかを正確に測定してまでは…。
誰も記録を作らないよな、元々が遊びなんだから。…スポーツじゃなくて。
そしてサイオンなんかがあるから、純粋に遊ぼうという人間の方も…。
大昔ほどには数がいないというわけだ。サイオンでズルをしたくなっちまうし、本人にその気が無くてもだな…。
もう少しだけ、と願えば石は跳ねちまうだろ?
サイオンの力を受けちまって、というハーレイの説明は正しい。サイオンを使わないのが社会のマナーになってはいても、誰しも使いたくなるもの。何かのはずみに、少しくらいは。
まして遊びに夢中になったら、無意識に使いもするだろう。水の上を跳ねて飛んでゆく石、その回数を競うのだったら「あと一回」と願ってしまう。石に向かって。
そうすれば石は一回余計に弾んで、「もっと」と思えば幾らでも。
サイオンを使った人間の方では、まるで自覚を持たなくても。「もっと飛べばいいのに」と願う気持ちだけで、石を眺めているつもりでも。
サイオンがあるから、きちんと記録を作るとなったら「ただの遊び」では済まない時代。
腕に覚えのある人を集めて、サイオンの測定をしながら競うことになる。其処までやって新しい記録を作らなくても、と誰もが考え、今は更新されない記録。水の上で石が跳ねた回数。
「スポーツだったら、世界記録にこだわるヤツらも多いんだが…」
ただの遊びじゃ、どうにもならん。
ついでに、石の水切り自体も、遊んでる内にサイオンが絡んでしまうから…。
「使わないぞ」と自分を戒めながら遊ぶとなったら、それは遊びと呼べるんだか…。
そんなわけでだ、このクラスだと、純粋に遊べそうなのは…。
サイオンってヤツを気にもしないで、石を投げて気軽に楽しめるのはだな…。
ハーレイが其処で言葉を切ったら、クラス中の生徒の視線が集中した。ブルーの上に。
(まだ名前、呼ばれていないのに…!)
酷い、と思ったら挙げられた名前。「あそこのブルーだ」と。
ドッと笑ったクラスメイトたち。確かにサイオンを気にもしないで、気軽に遊べそうだから。
サイオンがとことん不器用なのは、周知の事実。クラスの誰もが知っていること。
(これでもタイプ・ブルーなのに…!)
ちゃんと出席簿にも書かれている。生徒のサイオンタイプが何かは、何処の学校でも。
最強のサイオンを誇るタイプ・ブルーは、前の自分が生きた頃ほど珍しくはない。あの時代には前の自分と、ジョミーと、ナスカの子供たちしかいなかったけれど。
気が遠くなるほどの時が流れて、タイプ・ブルーもずいぶん増えた。そうは言っても、その数はけして多くない。現に、このクラスでも自分一人だけ。
本当だったら、「タイプ・ブルーなんだって?」と羨ましがられて、尊敬されて、注目の的。
空を飛べるのか、瞬間移動は出来るのかなどと、皆が「力」を知りたがる筈。
(こんな所で、笑われてなくて…)
もっと凄くて、何でも出来て、と悔しいけれども、これが現実。
ハーレイが名前を挙げる前から、皆がこっちを見ていたくらい。「ブルーなんだ」と、不器用なサイオンの持ち主の方を。
もしも自分が、石の水切りとやらをしようとしても…。
(サイオンなんかは使えないから、自分の力で投げるしか…)
方法が無くて、石はドボンと沈むのだろう。ただの一回すら弾みもせずに。
水の上で石が跳ねる遊びは、誰からも聞いたことが無い。跳ねると思ったことさえも無い。
もちろんコツなんか習っていないし、やり方だって分からない。
「ブルーだったら、もう間違いなく、昔の人間と同じ気分で遊べるだろうな」
サイオンでズルをしようとしたって、あいつの力じゃ無理だから。
だが、他のヤツらには難しい。「あと一回」と思えば石は跳ねちまうだろ?
その辺を心してやってみるんだな、石の水切りに挑むのなら。さて…。
授業に戻る、と背中を向けたハーレイ。
みんなの笑いの渦を残して。…笑いの渦の中心に、「不器用なタイプ・ブルー」を置いて。
とんでもなかった古典の授業。正確に言うなら、雑談の時間。
(今日のハーレイ…)
酷かったよね、と家に帰ってプリプリと怒る。おやつを美味しく食べ終えた後で、自分の部屋に戻って来て。勉強机の前に座って、今日の出来事を思い返して。
(あんまりだってば…)
サイオンを全く気にもしないで、石の水切りで遊べる生徒。その例に名前を出すなんて。
いくら不器用でも、それが本当のことであっても。…クラスのみんながよく知っていても。
(…ぼくだって、タイプ・ブルーなんだよ…?)
前の自分と何処も変わらない。サイオンタイプも、秘めている筈の能力も。
けれど、表に出て来ない力。出そうとしたって出ても来なくて、石の水切りなど出来はしない。水面に向かって石を投げたら、沈んでしまって跳ねてくれない。本当に、ほんの一回さえも。
(うー…)
前の自分だったら、そんなことにはならないのに。
サイオンを上手く使いさえすれば、世界記録を軽く破れる。八十回くらいは簡単なのだし、千回だろうと容易いこと。なにしろ「ソルジャー・ブルー」だったから。
(シャングリラにあったプールの水面だって…)
沈みもしないで、水の上を歩いてゆけたほど。
白い鯨に改造した後、船の中に作られたプール。前のハーレイが其処で泳いでいた時、その横に並んで「歩いて」いた。「ぼくは君みたいに泳げないしね」と、プールの水面を足で踏みながら。
(だけど、今だと…)
歩くどころか、たちまちドボンと沈むだけ。
プールに足を踏み出したら。「水の上を歩こう」と考えたなら。
不器用すぎる今の自分は、プールの水面などを歩けはしない。「タイプ・ブルー」は名前だけ。それに見合った能力となれば無いも同然、思念波さえもろくに紡げないレベル。
(うんと小さい、幼稚園の子でも…)
今の自分よりはマシにサイオンを使う。それは器用に。
情けないくらいに「駄目」なのが自分、どうにもこうにもならないサイオン。
タイプ・ブルーでなかったならば、クラスメイトも、あそこまで笑いはしないのに。
笑い転げていたクラスメイトたち。「ブルーだったら、確かにそうなる」と可笑しそうに。
とことん不器用になったサイオン、それは石にも作用はしない。「跳ねて欲しい」と心の底から願っていたって、まるで反映されたりはしない。
(ぼくの力じゃ、どんな小さな石ころだって…)
跳ねさせられやしないんだから、と分かっている。水面に石を弾かせるなどは、絶対に無理。
サイオンを使わない方にしたって、やはり跳ねてはくれない石。どうすれば石が水の上で跳ねて飛んでゆくのか、仕組みを全く知らないから。
(どう転がっても、出来やしないよ…)
水切りなんて、と膨れていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来たから、もう早速に文句を言った。テーブルを挟んで、向かい合わせで座るなり。
「酷いじゃない、今日の古典の授業!」
なんでぼくなの、ぼくの名前をあそこで出すの?
これでも、ぼくはタイプ・ブルーで、ぼくのクラスには一人だけしかいないのに…!
「タイプ・ブルーなあ…。確かに名簿にもそう書いてあるが、お前の場合は名前だけだし…」
俺は本当のことを言ったまでだぞ、サイオン抜きで石の水切りを楽しめそうなヤツの名前を。
みんなも笑ってくれてただろうが、それは楽しそうに。俺が授業に戻った後にも、まだ笑い声がしていたからな。あっちこっちで。
雑談ってヤツは生徒に楽しんで貰ってこそだ、とハーレイは謝りさえしない。石の水切りは好評だったし、クラスの生徒の心を見事に掴んだのだから。
でも…。
「ハーレイは、それでいいかもしれないけれど…。ぼくは笑われちゃったんだよ!?」
ぼくの名前が出てくる前から、みんなこっちを見ていたし…。
ハーレイがホントに名前を出すから、クラスのみんなが大笑いで…。
あんまりじゃない、と不満をぶつけた。不器用すぎるのが悪いとはいえ、タイプ・ブルーだとも思えないサイオン。それを笑われてしまったわけだし、酷すぎる、と。
なんとも意地悪すぎる恋人。
あそこで名前を出して来なくても、雑談は充分、クラスのみんなが楽しめた筈。
石が水の上で跳ねてゆくなど、それだけで「凄いこと」だから。俄かには信じられないほどに。
何も自分を「笑いの種」に使わなくても、とプンプン怒った。「水切りだけでいいのに」と。
「だってそうでしょ、みんなビックリしていたじゃない!」
サイオンなんかを使わなくても、石が水の上で跳ねるだなんて…。昔からあった遊びだなんて。
その話だけで止めてくれればいいのに、ぼくの名前を出すのは酷いよ…!
ホントに酷い、と膨れたけれども、ハーレイはこう問い掛けて来た。
「なら、訊くが…。そのせいで酷い目に遭ったのか、お前?」
恥ずかしくて顔が真っ赤になっちまったとか、情けなかったとか、そんな気持ちは別にして。
俺の授業が終わった後で、誰かに苛められでもしたか?
笑いの種にされちまったのが原因で…、と鳶色の瞳が覗き込む。「どうだったんだ?」と。
「…ううん……」
誰も苛めてなんか来ないよ、「やっぱり、お前だったよな」とかは言われたけれど…。誰だって直ぐにピンと来るしね、ぼくだってこと。
「本当にタイプ・ブルーなのかよ?」って、笑う友達もいたけれど…。でも…。
苛めた子なんか誰もいないよ、と素直に答えた。
今の時代は、他の誰かを苛めるような人間はいない。広い宇宙の何処を探しても、どんな辺境の星や基地などに出掛けてみても。
人間はみんなミュウになったし、ミュウは優しい生き物だから。他の人間の心が見える生き物、そうなればとても出来ない「苛める」こと。相手に与えた痛みの分だけ、自分の心に跳ね返るのが伝わるから。…心を読もうとしていなくても。
そうやって長い時が流れて、今は誰一人「苛めない」。
今日も同じで、「サイオンが不器用すぎる」ことを誰もが笑いはしたって、ただそれだけ。皆で笑ってしまえばおしまい、それを種にして苛めはしない。授業が終わった後になっても。
「ほらな。誰もお前を苛めてないなら、問題なんかは無いじゃないか」
お前が苛められたんだったら、俺も謝らなきゃいけないが…。苛められる種を作ったんだし。
しかし、そうなってはいない。みんなが賑やかに笑っただけで、それで全部だ。
ああいった話の種を上手に作ってやるのも、教師の腕の見せ所でだな…。
クラスの生徒の心を掴んで、ドッと笑って貰うというのが大切なんだぞ、あの手の話は。
ついでに、サイオンがうんと不器用なヤツが、お前でなければ…。
名前を挙げてはいないかもな、とハーレイは笑んだ。「お前だからだぞ」と。
「俺が名前を出しちまったのは、お前がクラスにいたからかもなあ…」
丁度いいのが一人いるぞ、と目に付いたのがお前だったから。
「え?」
ぼくじゃなかったら、黙っていたわけ?
名簿とかで誰か分かっていたって、その不器用な子が、ぼくじゃなかったら…?
どうしてなの、と目をパチクリと瞬かせた。あの雑談を他のクラスでしたなら、ハーレイは名を挙げないかもしれないという。同じように不器用な生徒が一人いたって、伏せたまんまで。
「何故ってか? ごく単純な理由だってな、深く考えてみなくても」
なんと言っても、お前は俺の恋人だ。いくらチビでも、学校じゃ俺の教え子でも。
恋人なんだし、みんなに散々笑われちまって赤っ恥でも、ちゃんと許してくれそうじゃないか。
今みたいに怒って膨れていたって、俺がきちんと「お前でないと」と言ったなら。
俺の雑談の手伝いが出来たと、お前、思ってくれないのか?
お前がいなけりゃ、あそこまで皆を笑わせることは出来ないからなあ…。お前の名前を出さない内から、みんなお前を見ていたろうが。「さては、あいつか」と。
其処で「誰かは想像に任せておく」と終わらせるのと、お前の名前を出しちまうのと…。
どっちが笑いの種になるかは、考えなくても分かるだろう?
お前のクラスだったお蔭で、最高に笑って貰えたんだぞ。お前が手伝ってくれたからだな、俺は名前を出しただけだが。
お前は立派に俺の手伝いをしてくれたんだ、とハーレイは真っ直ぐ見詰めて来た。鳶色の瞳で。
「そう思わんか?」と、「お前だったから、遠慮なく名前を言えたんだが」と。
「えーっと…。不器用なのが、ぼくだったから…?」
ぼくはハーレイのお手伝いをしたわけ、「こんなに不器用なのが一人います」って…?
石の水切り、サイオン抜きでしか遊べないほど、うんと不器用なタイプ・ブルーの生徒が…?
ぼくの名前だけで、ハーレイの雑談のお手伝いって…。
そうだったんだ、と気付かされたら悪い気はしない。クラス中の生徒が笑ったけれども、それでハーレイの手伝いが出来たというのなら。
恋人が授業でやった雑談、それが見事に成功したのが、自分の名前が使われた結果だったなら。
(…みんなに笑われちゃったけれども、あれがハーレイのお手伝い…)
不器用な生徒が自分でなければ、ハーレイは名前を出さずに終わっていたかもしれない。
笑われた子が怒っていたって、「すまん」と謝るしかないから。
「俺を手伝ってくれただろう?」と言うにしたって、御礼が必要。「これで許してくれ」と後でお菓子を渡してやるとか、「次の宿題、お前は出さなくてもいいぞ?」と許可を出すとか。
けれど、そうではなかった自分。名前を出されて笑われたって、「お手伝い」。大好きな恋人の手伝いが出来て、それは「自分にしか出来ないこと」で…。
それを思うと、ついつい緩んでしまう頬。許せてしまう、ハーレイのこと。
さっきまで「酷い!」と怒っていたのに、頬を膨らませもしていたのに。
「どうした、急に黙っちまって? 膨れっ面もやめてしまって、もうニコニコとしているし…」
お前、嬉しくなってきたのか、俺の手伝いだと聞いた途端に?
恋人だからこそ出来る手伝いで、他の生徒じゃ出来やしないと聞いちまったら…?
分かりやすいヤツだな、お前ってヤツは。…お前らしいと言っちまったら、それまでなんだが。
一人前の恋人気取りでいると言っても、まだ子供だし…。見た目通りのチビだしな?
心がそのまま顔に出るよな、とハーレイは可笑しそうな顔。「機嫌、直ったじゃないか」と。
「そうだけど…。だって、ホントに嬉しかったから…」
顔に出ちゃうのも仕方ないでしょ、どうせ、ぼくは子供でチビだってば!
前のぼくとは全然違うよ、まだ十四年しか生きていなくて、生きた中身も平和すぎるから…。
嬉しかったら顔に出ちゃうし、悲しい時でも、怒った時でも、それはおんなじ。
前のぼくみたいに、何があっても表情を変えずにいるなんて、無理。
三百年ほど生きた後なら、今のぼくでも、頑張ったら出来るかもしれないけれど…。
でも今は無理で、何でもかんでも顔に出ちゃうよ、本当に子供なんだから…!
どう頑張っても無理だからね、と繰り返してから、子供ついでに訊いてみた。
「石の水切りは、どうやるの?」と。
笑われてしまった原因は、それ。
水面に石を投げてやったら、弾んで飛んでゆくという雑談。
サイオンを使えば簡単そうでも、サイオンなどは無かった頃から、地球にあった遊び。
教室で聞いた話は其処まで、どうすれば石がサイオン抜きでも跳ねるかは聞いていないから。
子供は好奇心旺盛なもの。同じ子供なら、石の水切りの秘密を知りたい。
学校では何も聞いていないし、教えて貰ってもいいだろう。こうしてハーレイと二人なのだし、不思議な話の種明かしを。
「サイオンを少しも使わなくても、石が跳ねるって言ったよね? 水の上で…?」
ずっと昔の世界記録だと、八十回くらいは飛んでくものだったんでしょ?
どういう仕組みになっているわけ、石は水より重いのに…。投げ込んだら沈みそうなのに。
それにハーレイ、あんな話をするくらいだから…。水切り、上手に出来るんじゃないの?
サイオンは抜きで、石を投げたって。…サイオンは少しも使わなくても。
世界記録に届くくらいは無理だとしても…、と尋ねてみた。ハーレイはきっと、水切りが上手いだろうから。今のハーレイなら、出来る筈だという気がするから。
「そりゃまあ、なあ…? 雑談の種にしてたわけだし…」
まるで出来ないんじゃ話にならんぞ。お前みたいな質問をするヤツがいたら、困るだろうが。
「仕組みは知らん」なんて言おうものなら、話自体が「嘘くさい」ってことになっちまう。石が水の上で跳ねるだなんて、嘘に違いないと普通は思うだろうからな。
とはいえ、世界記録には遠すぎる。八十回なんて、俺には無理だ。
上手く飛んでも、せいぜい十回くらいってトコか。二十回の壁は厚すぎるってな、サイオンってヤツを使わないなら。
俺の限界は其処なんだが…、と話すハーレイは、水切りを父に習ったという。隣町に住む、釣り名人のハーレイの父。
釣りに出掛けたら、川でも池でも水面はある。石の水切りは水面があったら何処でも出来るし、小さい頃から仕込まれたハーレイ。「こうやるんだ」と、水切りのコツを。
「ハーレイの先生、お父さんなんだ…」
お父さんが得意だったの、趣味の釣りだけじゃないんだね。
釣りに行くなら、水面は何処でもあるけれど…。水面が無いと、釣りは無理なんだけど…。
「うむ。魚ってヤツは、水の中にしか住まないからな」
そういう魚が相手の趣味が釣りってヤツだし、水が相手の色々な技もついてくる。
釣り仲間の間じゃ、水切りの名人、特に珍しくもないってな。
親父もそうだし、俺に教えないわけがない。「よく見てろよ?」と石をブン投げてな。
初めて見た時は驚いたのだ、とハーレイが語る石の水切り。水面を跳ねて行った石。
「サイオンなのかと思ったんだが、親父は「違う」とハッキリ言った」
そんなズルなどしてはいないと、「サイオンを使えば、もっと遠くまで飛ぶもんだ」とも。
「お前も、コツを覚えれば出来るようになる」と、何度も石を投げるんだよなあ…。
こうやって、と池に向かって、勢いをつけて。「こういう石を選んで、こう」と。
「覗き込み過ぎて落ちるんじゃないぞ?」と注意もされていたハーレイ。初めて見た日は、食い入るように池を見詰めていたものだから。石が飛んでゆく方に向かって、「凄い!」と叫んで。
「勢いっていうのは分かったけれど…。石を選ぶの?」
小さい石だとよく跳ねるだとか、同じ大きさなら軽い石の方がいいだとか…?
石の重さは色々だものね、と河原の石を思い浮かべる。水が磨いた丸っこい石は、大きさが似た石でも重さが違っているもの。石の詳しい名前はともかく、軽い石やら、重い石やら。
「選ぶってトコは間違いないが…。重さはあまり関係ないな」
もちろんデカすぎる石じゃ駄目だし、重すぎる石もまるで話にならないが…。
これくらいだな、という大きさだったら、跳ねやすい石というのがあるんだ。色や重さとは違う基準だな、石の形が大切だから。
平たい石が一番なんだ、とハーレイは手で示してくれた。「こんな具合に」と形を作って。
水切りに丁度いい石が見付かったら、水面に向かって投げてやるだけ。
サイオンなんかは使いもしないで、手だけで石に回転をつけて。それから水に投げる時の角度、それも狙って投げ込むのがコツ。長く跳ねさせるには、スピードも大事。
「んーと…? 最初に石を選んで…」
幾つも落ちてる石の中から、ピッタリの石を選ぶんだね?
平たくて、よく飛びそうな石。それを見付けたら、後は投げるだけ…。
でも、回転をつけてやるとか、石を投げる時の角度とか…。それにスピードも要るんだよね?
やっぱりそれって難しそうだよ、手品みたい…。
普通に石を投げただけだと駄目なんだ、と頭の中に描いていたイメージと比べてみる。あの話を教室で聞いた時には、どんな石でも跳ねるものだと考えたから…。
(ウサギみたいにピョンピョン跳ねて…)
飛んでゆくのだと思い込んでいた。鋭い角度で跳ねてゆくとは思いもせずに。
石の水切りは、言葉通りに「切るように」石が飛んでゆく。ピョンピョンではなく、ピッピッと水の面を切るようにして。
サイオンを使わずに飛ぶだけあって、本当にまるで手品のよう。石さえ選べばいいと言っても、回転をつけたり、投げる角度を狙ったり。その上、速いスピードも要る。
「…ハーレイでも二十回の壁があるなら、ぼくの壁だと一回かも…」
一回も跳ねずにドボンと沈んで、それっきり。…そんな感じになっちゃいそう。
サイオンを使ってズルも出来ないし、使わずに投げても、絶対に上手くいきっこないし…。
駄目に決まってる、と肩を落とした。
ハーレイは雑談の時に「サイオンの心配をせずに遊べそう」だと言ったけれども、そんな自分に水切りは無理。子供の頃から練習を積んだハーレイでさえも、十回くらいしか跳ねないのなら。
「そう悲観したモンでもないぞ?」
要はコツだし、練習さえすれば、お前でも出来る。二回か三回でいいのならな。
下手なヤツでも、そのくらいは出来るようになるから、とハーレイに励まされた。才能が無いと嘆く人でも、一回くらいなら石を跳ねさせられる、と。
「ホント?」
ぼくなんかでも、ちゃんと水切り、出来るの…?
石の選び方は覚えられても、その先が大変そうなんだけど…。身体が弱いから、キャッチボールとかは滅多にしなくて、投げるだけでも難しくって…。
角度の方ならまだ分かるけれど、回転なんかは無理だってば。石を回転させるんでしょ?
野球をやってる友達なんかが、ボールに回転をつけて投げたりするけれど…。
いつも「凄い」って見ているだけで、ぼくには真似が出来ないんだもの。
ストンと落っこちていくボールとか…、と思い浮かべた変化球。「こうやるんだぜ」と投げ方をレクチャーして貰っても、一度も投げられたことが無い。ボールの持ち方までがせいぜい。
「変化球なあ…。俺も投げられるが、あれに比べりゃ簡単だぞ?」
一度覚えりゃ、どんな石でも上手く回転させられるから。
ボールみたいに大きくはないし、回転をつけるのも楽だってな。それに向いてる石を使えば。
お前に才能が無いにしたって、一回くらいは跳ねるようになるさ。
でなきゃ昔に流行りやしないぞ、水切りなんていう遊びが。
あくまで回数を競っていたんだから、というのがハーレイの励まし。より多く石を跳ねさせれば勝ちで、そんな遊びが普及するには、下手な人間もいないと駄目だ、と。
「俺だと十回くらいなわけだが、ずっと昔の世界記録は八十回を越えてたわけで…」
八十回も跳ねさせられるヤツが一人で遊んでいたって、誰も注目してくれないぞ?
十回ほどしか出来ないヤツだの、もっと少ないヤツらだの…。そんなヤツらが「凄い」と褒めてくれたからこそ、腕が上がって記録も残った、と。
どんなスポーツだってそうだろ、輝いているヤツはほんの一部だ。プロと呼ばれる連中は。
水切りだってそれと同じで、ずっと昔に流行ってた頃は、下手くそなヤツらが星の数ほどいたと思うぞ。一回跳ねれば上等だ、というような才能の無い連中が。
だから、お前も頑張ればいい。まずは一回、其処からだよな。
幸いなことに、お前の場合は、サイオンというズルが出来ないわけだから…。一回だけでも石が跳ねたら、それはお前の実力だ。もう間違いなく、本物の水切りが出来たってな。
その一回をモノにしたなら、後はお前の努力次第で上を目指せる。二回、三回と。
三回くらいが限界だろうとは思うんだがなあ、一回きりでは終わらんだろう。いくら下手でも、きちんと練習しさえしたなら。
お前の腕でも三回くらいは…、とハーレイが言うから、是非やってみたい。三回も続けて跳ねてくれなくても、一回くらいは跳ねさせてみたい。頑張って投げて、サイオンは抜きで。
「ぼくでも投げられるようになるなら、やってみたいな」
どうせサイオンは使えないんだから、ホントに実力。魔法か手品みたいな水切り、やりたいよ。
ハーレイ、ぼくに教えてくれない?
石の選び方とか、どうやって回転をつけて投げるか、そういうのを…。
お願い、とペコリと頭を下げた。せっかく話を聞いたからには、水切りを覚えてみたいから。
「教えてやりたいのは山々なんだが…」
しかし、そこそこ大きな水面が無いと、アレを教えるのは無理だ。
池とか川とか、そういった場所。
学校のプールなら、初心者用の大きさとしては充分なんだが、石が沈んで迷惑をかけるし…。
次にプールを使うシーズンがやって来た時に、石拾いもしなきゃいかんから。
お前一人なら、まだいいとしても、他の生徒も来ちまうからな。練習しようって連中が。
学校でやってりゃ、そうなるだろう、というハーレイの意見は間違っていない。
今の季節は使われていない、学校のプール。其処で休み時間にハーレイと水切りの練習をやっていたとしたなら、他の生徒もやって来る。
(ハーレイ、人気者だから…)
それだけで覗きに来る生徒が大勢。「水切り」などという珍しい遊びの練習となれば、入門する生徒が引きも切らないことだろう。「ハーレイ先生!」と、石まで沢山用意して来て。
(こういう石がいいんですよね、ってホントに山ほど…)
大勢の生徒が石を持参で、次から次へとプールに投げたら、来年のプールはきっと大変。水泳の授業が始まる前には、何処の学校でもプールの掃除をするけれど…。
(水を抜いて掃除をしようとしたら、石が一杯沈んでて…)
拾うだけで時間がかかりそうだし、場合によっては「水切り」の練習をしていた生徒を集めて、「石拾い」ということになるかもしれない。「自分で投げた石には、自分で責任を持て」と。
(プールの掃除は、業者さんだけど…)
石拾いなどは、普通の学校のプール掃除には必要ないこと。綺麗に洗って磨くだけだし、まるで関係ない石拾いの方は「投げた生徒」がするのだろうか…?
「…プールに石を投げ込んじゃったら、確かにホントに大変かも…」
来年、プールを使う前には、ぼくも呼ばれて「石を拾いなさい」って言われちゃいそう。
水切りの練習をやっていたのはバレてるんだし、他の生徒もみんな呼ばれて。
「分かったか? 俺だって、きっと呼ばれるぞ」
お前たちの石拾いの監督ついでに、俺だって拾わされるんだ。投げさせてたのは俺だから。
そうなっても俺は気にしないんだが、やはり教師としてはだな…。
学校に迷惑はかけられないから、プールはいかん。初心者向けには似合いの場所でも、あそこで練習するのは駄目だ。
諦めるんだな、とハーレイは腕組みをした。このポーズが出たら、お許しは無理。
「…水切り、教えて欲しいのに…」
学校のプールで出来るんだったら、昼休みとかに頑張るのに…。
石だって毎日、気を付けて探して、いいのを集めて、学校に持って行くのにな…。
そしたら早く上手くなるのに…。直ぐには無理でも、ぼくでも出来るようになるのに…。
学校のプールは駄目だなんて、と残念な気分。駄目な理由は分かっていても。
「いい場所、他にあればいいのに…。学校に大きな池があるだとか…」
「無茶を言うな。今の学校じゃ、そういう池は無いと分かっているんだろうが」
俺もお前に教えてやりたい気持ちはあるが、今は無理だな。プールは使えないんだから。
いつかお前が大きくなったら、デートのついでに練習するか。
池がある公園は幾つもあるしな、景色が綺麗な池もあちこちにあるってわけで…。そういう所に出掛けた時には、石を拾って投げればいい。…白鳥とかがいたら駄目だが。
石が当たったら可哀相だろう、というのは分かる。普通に投げるだけならまだしも、跳ねてゆく石は水鳥たちには危険すぎるから。…飛び過ぎた時に怪我をさせかねないから。
「分かってる…。鳥がいる時には投げないよ」
ぼくにはそんなつもりが無くても、跳ねちゃった石が当たっちゃうこともありそうだもの。
二回くらいしか跳ねない石でも、浮かんでる鳥は、急には避けられないもんね?
「そういうこった。石が飛んで来たら逃げはするがな…」
中には動きが鈍いのもいるし、疲れてる鳥もいるモンだから…。逃げ損なったら可哀相だ。
気を付けて石を投げることだな、潜ってる鳥もいたりするから、ちゃんと確かめて。
それに、デートに行けるようになったお前なら…。
親父に習うという手もあるぞ、とハーレイは思わぬ提案をした。「親父はどうだ?」と。
「お父さんって…。ハーレイのお父さん、名人だよね?」
水切り、とても上手いとか…?
ハーレイは二十回の壁があるとか言っていたけど、お父さんには壁が無いとか…?
八十回は無理だろうけれど、と質問したら、「それは流石に無理ってモンだ」と返った答え。
「親父が其処まで凄いんだったら、今日の授業で自慢してるな」
俺の親父は、サイオンが普通の時代でなければ、世界記録に挑んでいたかもしれないと。
親父の方でも、きっとその気で記録を目指していただろう。公式記録には残らなくても、ずっと昔の世界記録と並ぶヤツとか、抜けそうな数を叩き出そうと。
それは親父には難しすぎるが、なんたって、俺の師匠だぞ?
「こう投げるんだ」と教えた腕はダテじゃない。
今も現役で投げてるからなあ、教え方は俺より上手いんじゃないか…?
ハーレイの父の趣味は釣り。水面が無いと出来ない趣味。
今でも釣りに出掛けた時には、気が向けば投げるらしい石。落ちている石をヒョイと拾っては、回転をつけて、角度を狙って。
釣りを始める前に投げたり、竿を仕舞った後だったり。
もちろんサイオンは使いもしないで、石が跳ねた回数を数えるという。自分が出した最高記録を塗り替えられるか、それとも駄目か、と水を切ってゆく石を見送りながら。
「釣りを始める前か、後って…。釣りの間は投げないの?」
魚がかかるのを待っている時間、とても長いと思うんだけど…。狙ってる魚によるだろうけど。
退屈しのぎに投げればいいと思うんだけどな、練習にもなるし。
腕がグンと上がりそうなのに、と首を傾げたら、「釣りの最中だぞ?」と呆れたハーレイ。
「魚は水の中にいるんだ、そんな所へ石を投げ込んでみろ」
餌なら寄っても来るんだろうが、石だと魚が逃げちまうじゃないか。…怖がっちまって。
「そっか…。鳥でも逃げてしまうんだものね…」
魚も逃げるね、頭の上を石がピョンピョン跳ねて行ったら。…音にもビックリするんだろうし。
だけど、水切り…。
面白い遊びだね、石と水面があれば何処でも出来るんだから。
「サイオンが普通になった今では、上手く出来ても尊敬しては貰えないがな。昔のようには」
世界記録を作ろうって動きが無くなるくらいだ、上手く投げてもサイオンだろうと思われる。
本人は全く使ってなくても、傍から見ればそうなるだろうし…。
下手な間は、無意識の内にサイオンを使っちまうだろうし。
俺だって、正直、使っていないという自信は無い。十回を越えたら危ういかもなあ、もう少しと思うモンだから。…自分では使っていないつもりでも。
この俺でさえ、その始末だ、とハーレイが明かす水切りの事情。今の時代は、誰もがサイオンを持っているから、昔のようには数えられない記録。ただの遊びにサイオンの計測装置は無粋。
「それがちょっぴり残念かも…」
ぼくなら、サイオン、少しも関係ないのにな…。
ハーレイが授業で言ったみたいに、ぼくだけは昔の人と同じに遊べるんだよ。
うんと不器用で、サイオンなんかは使いたくても使えないから…。ホントに実力なんだから。
石が跳ねていく回数を増やせはしないよね、と零した溜息。
今の時代は、ハーレイでさえも「自信が無い」と言うほど、誰もがズルをしそうな時代。跳ねてゆく石に向かって「もう少し」と願ってしまって、無意識の内に使うサイオン。
けれども、今の自分には無理。どんなに強く願ってみたって、石は跳ねてはくれないから。
「お前が石を投げた場合は、実力か…。サイオンでズルは出来なくて」
皮肉だよなあ、今のお前も前と同じでタイプ・ブルーなのに。
前のお前なら、水の上でも平気で歩いてたのに…。石をサイオンで跳ねさせるどころか、少しも濡れずに水の上を歩いていたもんだ。
あの力は何処へ行ったんだか…。とことん不器用になっちまって。
「今だと沈んでおしまいだよ!」
石の水切りも出来ないけれども、ぼくだって沈んじゃうってば!
プールでも池でも、水の上なんかを歩こうとしたら、ドボンと沈んでしまうんだよ…!
もう真っ直ぐに落っこちちゃって…、と嘆いた自分の不器用さ。石さえ跳ねさせられない力は、自分の身体も支えてくれない。重いものは沈む水の上では。
「真っ直ぐにドボンと沈むのか。その姿が目に浮かぶようだが…」
沈んじまうようなお前がいいな、とハーレイが浮かべた優しい笑み。
石の水切りでさえもズルが出来ない、不器用なサイオンを持った今のお前が…、と。
「…なんで?」
沈んじゃうほど不器用なんだよ、そんなぼくの何処がいいって言うの?
クラスのみんなも笑っちゃうほど、ぼくのサイオン、不器用すぎてどうしようもないのに…。
「何度も言ったと思うがな? そんなお前だから、今度こそ俺が守ってやれると」
前のお前だと、俺にはとても守れなかったが、今のお前なら…。
水切りの練習中に池にドボンと落ちてしまっても、飛び込んで助けられるしな?
「ホントだ、前のぼくだったら…。落っこちたって、濡れもしないんだものね」
バランスを崩したら、すぐにシールドを張ってしまって、落っこちた池からヒョイと上がって。
助けに飛び込んで貰わなくても、ちゃんと自分で。
「そうなんだよなあ、前のお前だと」
俺の出番は全く無かった。…今のお前が同じ力を持っていたって、そうなるんだが…。
お前は持っちゃいないから、とハーレイがパチンと瞑った片目。
「今度はお前を守らせてくれ」と、「不器用なお前は、俺が守る」と。
水切りの練習をしている最中に池に落ちたら、今の自分は沈むだけ。ドボンと真っ直ぐ。
そうなった時は、ハーレイが飛び込んで助けてくれて、ちゃんと岸にも押し上げてくれる。
頼もしい腕でグイと支えて、「早く上がれ」と。
そのハーレイは、真剣な顔でこう口にした。
「しかしだ…。頼むから、お前は池には落ちてくれるなよ?」
濡れたら風邪を引いちまうから、と気を付けるように念を押されたけれど。
そう注意するハーレイの気持ちも、分からないではないけれど…。
落ちてみたい気がしないでもない。
水切りの練習中に落ちた時には、ハーレイが飛び込んで、直ぐに引き上げてくれるから。
「石でも上手に跳ねていくのに、お前が落ちてどうするんだ」と、小言なんかを言いながら。
ゴシゴシ拭かれて、「風邪を引くぞ」と心配されて、そんな時間もきっと幸せだろう。
水の上を歩けない不器用な自分になったからこそ、池の水にも落っこちられる。
冷たくても、風邪を引いてしまっても、ハーレイと持てる幸せな時間。
だから池にも落ちたっていい。石を思い切り投げたはずみに、頭からドボンと落っこちても…。
石の水切り・了
※石の水切りという遊び。サイオンが普通な時代の今、ズルが出来ないのはブルーくらい。
サイオンが不器用になってしまったせいですけど、その分、ハーレイに守って貰えるのです。
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知ってるか、と始まったハーレイの雑談。ブルーのクラスで、古典の時間に。
生徒の集中力が切れて来た時、織り込まれるのが雑談の時間。居眠りしそうな生徒も起きるし、他の生徒も興味津々で耳を傾ける。
今日の話題は「水切り」なるもの。ハーレイ曰く、調理用語の「水切り」とは全く違うらしい。
「俺が言うのは、石の水切りというヤツだ」
水の上を石がピョンピョン跳ねて行くんだな、投げてやっただけで。
普通はドボンと沈みそうだが、そうはならない。先へ先へと弾んで飛んでゆくわけで…。
だが、サイオンは一切使わないんだ、この遊びには。
それでも石は水の上を跳ねて飛んでゆく、と言うものだから。
「本当ですか?」
何人もの生徒が上げた声。サイオン無しで、石が跳ねてゆくわけがない。水の上などを。
石は水より重いものだし、水に投げたら沈むもの。それが常識、跳ね返ることは無いのだから。
「俺が嘘をつくと思うのか? お前たちを全員騙してやろう、と狙った時なら別だがな」
しかし、その手の嘘の時には、後で本当のことを言ってる筈だぞ。「騙されたな」と。
今日の話は嘘じゃない。石の水切りに、サイオンは一切要らないんだ。
なんと言っても、ずっと昔からあった遊びだからなあ…。この地球の上に。
人間が地球しか知らなかった時代で、ミュウなんかは何処にもいない頃から。…世界中でな。
広い水面と石さえあれば出来た、という遊び。石の水切り。
投げられた石が跳ねた回数を競って遊んだらしい。沈むまでに何度、弾んだのか。
「世界記録ともなれば、信じられないような数だったんだぞ」
八十回くらいは跳ねたそうだ、と聞かされて皆が仰天した。水面に向かって投げられた石ころ、それが跳ねるだけでも驚きなのに、八十回など、凄すぎるから。
「八十回ですか?」
誰もがポカンと口を開ける中、ハーレイは「嘘じゃないぞ?」と楽しそうな顔。
「今の時代だと、サイオンなんてヤツがあるから…。ちと厄介になっちまったが」
昔みたいに世界記録は無理だろうなあ、実際、記録は破られてないし。
そもそも、記録を取ろうってヤツが何処にもいないんだがな。
SD体制の時代が挟まったせいじゃないぞ、とハーレイはクラスを見回した。
機械が統治していた時代は、様々な文化が消された時代。世界記録を作って遊ぶ余裕も無かった時代だけれども、「石の水切り」の新しい記録が生まれない理由は、それではない、と。
「石の水切りは今でもある。遊んでるヤツも多いわけだが、時代は変わった」
人間は誰でもミュウになったのが今の時代だ。みんながサイオンを持ってる時代。
サイオンを使えば、石を水の上で跳ねさせるくらいは簡単だから…。千回だって可能だろう。
そんな時代に、サイオンを使ったか、使わないかを正確に測定してまでは…。
誰も記録を作らないよな、元々が遊びなんだから。…スポーツじゃなくて。
そしてサイオンなんかがあるから、純粋に遊ぼうという人間の方も…。
大昔ほどには数がいないというわけだ。サイオンでズルをしたくなっちまうし、本人にその気が無くてもだな…。
もう少しだけ、と願えば石は跳ねちまうだろ?
サイオンの力を受けちまって、というハーレイの説明は正しい。サイオンを使わないのが社会のマナーになってはいても、誰しも使いたくなるもの。何かのはずみに、少しくらいは。
まして遊びに夢中になったら、無意識に使いもするだろう。水の上を跳ねて飛んでゆく石、その回数を競うのだったら「あと一回」と願ってしまう。石に向かって。
そうすれば石は一回余計に弾んで、「もっと」と思えば幾らでも。
サイオンを使った人間の方では、まるで自覚を持たなくても。「もっと飛べばいいのに」と願う気持ちだけで、石を眺めているつもりでも。
サイオンがあるから、きちんと記録を作るとなったら「ただの遊び」では済まない時代。
腕に覚えのある人を集めて、サイオンの測定をしながら競うことになる。其処までやって新しい記録を作らなくても、と誰もが考え、今は更新されない記録。水の上で石が跳ねた回数。
「スポーツだったら、世界記録にこだわるヤツらも多いんだが…」
ただの遊びじゃ、どうにもならん。
ついでに、石の水切り自体も、遊んでる内にサイオンが絡んでしまうから…。
「使わないぞ」と自分を戒めながら遊ぶとなったら、それは遊びと呼べるんだか…。
そんなわけでだ、このクラスだと、純粋に遊べそうなのは…。
サイオンってヤツを気にもしないで、石を投げて気軽に楽しめるのはだな…。
ハーレイが其処で言葉を切ったら、クラス中の生徒の視線が集中した。ブルーの上に。
(まだ名前、呼ばれていないのに…!)
酷い、と思ったら挙げられた名前。「あそこのブルーだ」と。
ドッと笑ったクラスメイトたち。確かにサイオンを気にもしないで、気軽に遊べそうだから。
サイオンがとことん不器用なのは、周知の事実。クラスの誰もが知っていること。
(これでもタイプ・ブルーなのに…!)
ちゃんと出席簿にも書かれている。生徒のサイオンタイプが何かは、何処の学校でも。
最強のサイオンを誇るタイプ・ブルーは、前の自分が生きた頃ほど珍しくはない。あの時代には前の自分と、ジョミーと、ナスカの子供たちしかいなかったけれど。
気が遠くなるほどの時が流れて、タイプ・ブルーもずいぶん増えた。そうは言っても、その数はけして多くない。現に、このクラスでも自分一人だけ。
本当だったら、「タイプ・ブルーなんだって?」と羨ましがられて、尊敬されて、注目の的。
空を飛べるのか、瞬間移動は出来るのかなどと、皆が「力」を知りたがる筈。
(こんな所で、笑われてなくて…)
もっと凄くて、何でも出来て、と悔しいけれども、これが現実。
ハーレイが名前を挙げる前から、皆がこっちを見ていたくらい。「ブルーなんだ」と、不器用なサイオンの持ち主の方を。
もしも自分が、石の水切りとやらをしようとしても…。
(サイオンなんかは使えないから、自分の力で投げるしか…)
方法が無くて、石はドボンと沈むのだろう。ただの一回すら弾みもせずに。
水の上で石が跳ねる遊びは、誰からも聞いたことが無い。跳ねると思ったことさえも無い。
もちろんコツなんか習っていないし、やり方だって分からない。
「ブルーだったら、もう間違いなく、昔の人間と同じ気分で遊べるだろうな」
サイオンでズルをしようとしたって、あいつの力じゃ無理だから。
だが、他のヤツらには難しい。「あと一回」と思えば石は跳ねちまうだろ?
その辺を心してやってみるんだな、石の水切りに挑むのなら。さて…。
授業に戻る、と背中を向けたハーレイ。
みんなの笑いの渦を残して。…笑いの渦の中心に、「不器用なタイプ・ブルー」を置いて。
とんでもなかった古典の授業。正確に言うなら、雑談の時間。
(今日のハーレイ…)
酷かったよね、と家に帰ってプリプリと怒る。おやつを美味しく食べ終えた後で、自分の部屋に戻って来て。勉強机の前に座って、今日の出来事を思い返して。
(あんまりだってば…)
サイオンを全く気にもしないで、石の水切りで遊べる生徒。その例に名前を出すなんて。
いくら不器用でも、それが本当のことであっても。…クラスのみんながよく知っていても。
(…ぼくだって、タイプ・ブルーなんだよ…?)
前の自分と何処も変わらない。サイオンタイプも、秘めている筈の能力も。
けれど、表に出て来ない力。出そうとしたって出ても来なくて、石の水切りなど出来はしない。水面に向かって石を投げたら、沈んでしまって跳ねてくれない。本当に、ほんの一回さえも。
(うー…)
前の自分だったら、そんなことにはならないのに。
サイオンを上手く使いさえすれば、世界記録を軽く破れる。八十回くらいは簡単なのだし、千回だろうと容易いこと。なにしろ「ソルジャー・ブルー」だったから。
(シャングリラにあったプールの水面だって…)
沈みもしないで、水の上を歩いてゆけたほど。
白い鯨に改造した後、船の中に作られたプール。前のハーレイが其処で泳いでいた時、その横に並んで「歩いて」いた。「ぼくは君みたいに泳げないしね」と、プールの水面を足で踏みながら。
(だけど、今だと…)
歩くどころか、たちまちドボンと沈むだけ。
プールに足を踏み出したら。「水の上を歩こう」と考えたなら。
不器用すぎる今の自分は、プールの水面などを歩けはしない。「タイプ・ブルー」は名前だけ。それに見合った能力となれば無いも同然、思念波さえもろくに紡げないレベル。
(うんと小さい、幼稚園の子でも…)
今の自分よりはマシにサイオンを使う。それは器用に。
情けないくらいに「駄目」なのが自分、どうにもこうにもならないサイオン。
タイプ・ブルーでなかったならば、クラスメイトも、あそこまで笑いはしないのに。
笑い転げていたクラスメイトたち。「ブルーだったら、確かにそうなる」と可笑しそうに。
とことん不器用になったサイオン、それは石にも作用はしない。「跳ねて欲しい」と心の底から願っていたって、まるで反映されたりはしない。
(ぼくの力じゃ、どんな小さな石ころだって…)
跳ねさせられやしないんだから、と分かっている。水面に石を弾かせるなどは、絶対に無理。
サイオンを使わない方にしたって、やはり跳ねてはくれない石。どうすれば石が水の上で跳ねて飛んでゆくのか、仕組みを全く知らないから。
(どう転がっても、出来やしないよ…)
水切りなんて、と膨れていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来たから、もう早速に文句を言った。テーブルを挟んで、向かい合わせで座るなり。
「酷いじゃない、今日の古典の授業!」
なんでぼくなの、ぼくの名前をあそこで出すの?
これでも、ぼくはタイプ・ブルーで、ぼくのクラスには一人だけしかいないのに…!
「タイプ・ブルーなあ…。確かに名簿にもそう書いてあるが、お前の場合は名前だけだし…」
俺は本当のことを言ったまでだぞ、サイオン抜きで石の水切りを楽しめそうなヤツの名前を。
みんなも笑ってくれてただろうが、それは楽しそうに。俺が授業に戻った後にも、まだ笑い声がしていたからな。あっちこっちで。
雑談ってヤツは生徒に楽しんで貰ってこそだ、とハーレイは謝りさえしない。石の水切りは好評だったし、クラスの生徒の心を見事に掴んだのだから。
でも…。
「ハーレイは、それでいいかもしれないけれど…。ぼくは笑われちゃったんだよ!?」
ぼくの名前が出てくる前から、みんなこっちを見ていたし…。
ハーレイがホントに名前を出すから、クラスのみんなが大笑いで…。
あんまりじゃない、と不満をぶつけた。不器用すぎるのが悪いとはいえ、タイプ・ブルーだとも思えないサイオン。それを笑われてしまったわけだし、酷すぎる、と。
なんとも意地悪すぎる恋人。
あそこで名前を出して来なくても、雑談は充分、クラスのみんなが楽しめた筈。
石が水の上で跳ねてゆくなど、それだけで「凄いこと」だから。俄かには信じられないほどに。
何も自分を「笑いの種」に使わなくても、とプンプン怒った。「水切りだけでいいのに」と。
「だってそうでしょ、みんなビックリしていたじゃない!」
サイオンなんかを使わなくても、石が水の上で跳ねるだなんて…。昔からあった遊びだなんて。
その話だけで止めてくれればいいのに、ぼくの名前を出すのは酷いよ…!
ホントに酷い、と膨れたけれども、ハーレイはこう問い掛けて来た。
「なら、訊くが…。そのせいで酷い目に遭ったのか、お前?」
恥ずかしくて顔が真っ赤になっちまったとか、情けなかったとか、そんな気持ちは別にして。
俺の授業が終わった後で、誰かに苛められでもしたか?
笑いの種にされちまったのが原因で…、と鳶色の瞳が覗き込む。「どうだったんだ?」と。
「…ううん……」
誰も苛めてなんか来ないよ、「やっぱり、お前だったよな」とかは言われたけれど…。誰だって直ぐにピンと来るしね、ぼくだってこと。
「本当にタイプ・ブルーなのかよ?」って、笑う友達もいたけれど…。でも…。
苛めた子なんか誰もいないよ、と素直に答えた。
今の時代は、他の誰かを苛めるような人間はいない。広い宇宙の何処を探しても、どんな辺境の星や基地などに出掛けてみても。
人間はみんなミュウになったし、ミュウは優しい生き物だから。他の人間の心が見える生き物、そうなればとても出来ない「苛める」こと。相手に与えた痛みの分だけ、自分の心に跳ね返るのが伝わるから。…心を読もうとしていなくても。
そうやって長い時が流れて、今は誰一人「苛めない」。
今日も同じで、「サイオンが不器用すぎる」ことを誰もが笑いはしたって、ただそれだけ。皆で笑ってしまえばおしまい、それを種にして苛めはしない。授業が終わった後になっても。
「ほらな。誰もお前を苛めてないなら、問題なんかは無いじゃないか」
お前が苛められたんだったら、俺も謝らなきゃいけないが…。苛められる種を作ったんだし。
しかし、そうなってはいない。みんなが賑やかに笑っただけで、それで全部だ。
ああいった話の種を上手に作ってやるのも、教師の腕の見せ所でだな…。
クラスの生徒の心を掴んで、ドッと笑って貰うというのが大切なんだぞ、あの手の話は。
ついでに、サイオンがうんと不器用なヤツが、お前でなければ…。
名前を挙げてはいないかもな、とハーレイは笑んだ。「お前だからだぞ」と。
「俺が名前を出しちまったのは、お前がクラスにいたからかもなあ…」
丁度いいのが一人いるぞ、と目に付いたのがお前だったから。
「え?」
ぼくじゃなかったら、黙っていたわけ?
名簿とかで誰か分かっていたって、その不器用な子が、ぼくじゃなかったら…?
どうしてなの、と目をパチクリと瞬かせた。あの雑談を他のクラスでしたなら、ハーレイは名を挙げないかもしれないという。同じように不器用な生徒が一人いたって、伏せたまんまで。
「何故ってか? ごく単純な理由だってな、深く考えてみなくても」
なんと言っても、お前は俺の恋人だ。いくらチビでも、学校じゃ俺の教え子でも。
恋人なんだし、みんなに散々笑われちまって赤っ恥でも、ちゃんと許してくれそうじゃないか。
今みたいに怒って膨れていたって、俺がきちんと「お前でないと」と言ったなら。
俺の雑談の手伝いが出来たと、お前、思ってくれないのか?
お前がいなけりゃ、あそこまで皆を笑わせることは出来ないからなあ…。お前の名前を出さない内から、みんなお前を見ていたろうが。「さては、あいつか」と。
其処で「誰かは想像に任せておく」と終わらせるのと、お前の名前を出しちまうのと…。
どっちが笑いの種になるかは、考えなくても分かるだろう?
お前のクラスだったお蔭で、最高に笑って貰えたんだぞ。お前が手伝ってくれたからだな、俺は名前を出しただけだが。
お前は立派に俺の手伝いをしてくれたんだ、とハーレイは真っ直ぐ見詰めて来た。鳶色の瞳で。
「そう思わんか?」と、「お前だったから、遠慮なく名前を言えたんだが」と。
「えーっと…。不器用なのが、ぼくだったから…?」
ぼくはハーレイのお手伝いをしたわけ、「こんなに不器用なのが一人います」って…?
石の水切り、サイオン抜きでしか遊べないほど、うんと不器用なタイプ・ブルーの生徒が…?
ぼくの名前だけで、ハーレイの雑談のお手伝いって…。
そうだったんだ、と気付かされたら悪い気はしない。クラス中の生徒が笑ったけれども、それでハーレイの手伝いが出来たというのなら。
恋人が授業でやった雑談、それが見事に成功したのが、自分の名前が使われた結果だったなら。
(…みんなに笑われちゃったけれども、あれがハーレイのお手伝い…)
不器用な生徒が自分でなければ、ハーレイは名前を出さずに終わっていたかもしれない。
笑われた子が怒っていたって、「すまん」と謝るしかないから。
「俺を手伝ってくれただろう?」と言うにしたって、御礼が必要。「これで許してくれ」と後でお菓子を渡してやるとか、「次の宿題、お前は出さなくてもいいぞ?」と許可を出すとか。
けれど、そうではなかった自分。名前を出されて笑われたって、「お手伝い」。大好きな恋人の手伝いが出来て、それは「自分にしか出来ないこと」で…。
それを思うと、ついつい緩んでしまう頬。許せてしまう、ハーレイのこと。
さっきまで「酷い!」と怒っていたのに、頬を膨らませもしていたのに。
「どうした、急に黙っちまって? 膨れっ面もやめてしまって、もうニコニコとしているし…」
お前、嬉しくなってきたのか、俺の手伝いだと聞いた途端に?
恋人だからこそ出来る手伝いで、他の生徒じゃ出来やしないと聞いちまったら…?
分かりやすいヤツだな、お前ってヤツは。…お前らしいと言っちまったら、それまでなんだが。
一人前の恋人気取りでいると言っても、まだ子供だし…。見た目通りのチビだしな?
心がそのまま顔に出るよな、とハーレイは可笑しそうな顔。「機嫌、直ったじゃないか」と。
「そうだけど…。だって、ホントに嬉しかったから…」
顔に出ちゃうのも仕方ないでしょ、どうせ、ぼくは子供でチビだってば!
前のぼくとは全然違うよ、まだ十四年しか生きていなくて、生きた中身も平和すぎるから…。
嬉しかったら顔に出ちゃうし、悲しい時でも、怒った時でも、それはおんなじ。
前のぼくみたいに、何があっても表情を変えずにいるなんて、無理。
三百年ほど生きた後なら、今のぼくでも、頑張ったら出来るかもしれないけれど…。
でも今は無理で、何でもかんでも顔に出ちゃうよ、本当に子供なんだから…!
どう頑張っても無理だからね、と繰り返してから、子供ついでに訊いてみた。
「石の水切りは、どうやるの?」と。
笑われてしまった原因は、それ。
水面に石を投げてやったら、弾んで飛んでゆくという雑談。
サイオンを使えば簡単そうでも、サイオンなどは無かった頃から、地球にあった遊び。
教室で聞いた話は其処まで、どうすれば石がサイオン抜きでも跳ねるかは聞いていないから。
子供は好奇心旺盛なもの。同じ子供なら、石の水切りの秘密を知りたい。
学校では何も聞いていないし、教えて貰ってもいいだろう。こうしてハーレイと二人なのだし、不思議な話の種明かしを。
「サイオンを少しも使わなくても、石が跳ねるって言ったよね? 水の上で…?」
ずっと昔の世界記録だと、八十回くらいは飛んでくものだったんでしょ?
どういう仕組みになっているわけ、石は水より重いのに…。投げ込んだら沈みそうなのに。
それにハーレイ、あんな話をするくらいだから…。水切り、上手に出来るんじゃないの?
サイオンは抜きで、石を投げたって。…サイオンは少しも使わなくても。
世界記録に届くくらいは無理だとしても…、と尋ねてみた。ハーレイはきっと、水切りが上手いだろうから。今のハーレイなら、出来る筈だという気がするから。
「そりゃまあ、なあ…? 雑談の種にしてたわけだし…」
まるで出来ないんじゃ話にならんぞ。お前みたいな質問をするヤツがいたら、困るだろうが。
「仕組みは知らん」なんて言おうものなら、話自体が「嘘くさい」ってことになっちまう。石が水の上で跳ねるだなんて、嘘に違いないと普通は思うだろうからな。
とはいえ、世界記録には遠すぎる。八十回なんて、俺には無理だ。
上手く飛んでも、せいぜい十回くらいってトコか。二十回の壁は厚すぎるってな、サイオンってヤツを使わないなら。
俺の限界は其処なんだが…、と話すハーレイは、水切りを父に習ったという。隣町に住む、釣り名人のハーレイの父。
釣りに出掛けたら、川でも池でも水面はある。石の水切りは水面があったら何処でも出来るし、小さい頃から仕込まれたハーレイ。「こうやるんだ」と、水切りのコツを。
「ハーレイの先生、お父さんなんだ…」
お父さんが得意だったの、趣味の釣りだけじゃないんだね。
釣りに行くなら、水面は何処でもあるけれど…。水面が無いと、釣りは無理なんだけど…。
「うむ。魚ってヤツは、水の中にしか住まないからな」
そういう魚が相手の趣味が釣りってヤツだし、水が相手の色々な技もついてくる。
釣り仲間の間じゃ、水切りの名人、特に珍しくもないってな。
親父もそうだし、俺に教えないわけがない。「よく見てろよ?」と石をブン投げてな。
初めて見た時は驚いたのだ、とハーレイが語る石の水切り。水面を跳ねて行った石。
「サイオンなのかと思ったんだが、親父は「違う」とハッキリ言った」
そんなズルなどしてはいないと、「サイオンを使えば、もっと遠くまで飛ぶもんだ」とも。
「お前も、コツを覚えれば出来るようになる」と、何度も石を投げるんだよなあ…。
こうやって、と池に向かって、勢いをつけて。「こういう石を選んで、こう」と。
「覗き込み過ぎて落ちるんじゃないぞ?」と注意もされていたハーレイ。初めて見た日は、食い入るように池を見詰めていたものだから。石が飛んでゆく方に向かって、「凄い!」と叫んで。
「勢いっていうのは分かったけれど…。石を選ぶの?」
小さい石だとよく跳ねるだとか、同じ大きさなら軽い石の方がいいだとか…?
石の重さは色々だものね、と河原の石を思い浮かべる。水が磨いた丸っこい石は、大きさが似た石でも重さが違っているもの。石の詳しい名前はともかく、軽い石やら、重い石やら。
「選ぶってトコは間違いないが…。重さはあまり関係ないな」
もちろんデカすぎる石じゃ駄目だし、重すぎる石もまるで話にならないが…。
これくらいだな、という大きさだったら、跳ねやすい石というのがあるんだ。色や重さとは違う基準だな、石の形が大切だから。
平たい石が一番なんだ、とハーレイは手で示してくれた。「こんな具合に」と形を作って。
水切りに丁度いい石が見付かったら、水面に向かって投げてやるだけ。
サイオンなんかは使いもしないで、手だけで石に回転をつけて。それから水に投げる時の角度、それも狙って投げ込むのがコツ。長く跳ねさせるには、スピードも大事。
「んーと…? 最初に石を選んで…」
幾つも落ちてる石の中から、ピッタリの石を選ぶんだね?
平たくて、よく飛びそうな石。それを見付けたら、後は投げるだけ…。
でも、回転をつけてやるとか、石を投げる時の角度とか…。それにスピードも要るんだよね?
やっぱりそれって難しそうだよ、手品みたい…。
普通に石を投げただけだと駄目なんだ、と頭の中に描いていたイメージと比べてみる。あの話を教室で聞いた時には、どんな石でも跳ねるものだと考えたから…。
(ウサギみたいにピョンピョン跳ねて…)
飛んでゆくのだと思い込んでいた。鋭い角度で跳ねてゆくとは思いもせずに。
石の水切りは、言葉通りに「切るように」石が飛んでゆく。ピョンピョンではなく、ピッピッと水の面を切るようにして。
サイオンを使わずに飛ぶだけあって、本当にまるで手品のよう。石さえ選べばいいと言っても、回転をつけたり、投げる角度を狙ったり。その上、速いスピードも要る。
「…ハーレイでも二十回の壁があるなら、ぼくの壁だと一回かも…」
一回も跳ねずにドボンと沈んで、それっきり。…そんな感じになっちゃいそう。
サイオンを使ってズルも出来ないし、使わずに投げても、絶対に上手くいきっこないし…。
駄目に決まってる、と肩を落とした。
ハーレイは雑談の時に「サイオンの心配をせずに遊べそう」だと言ったけれども、そんな自分に水切りは無理。子供の頃から練習を積んだハーレイでさえも、十回くらいしか跳ねないのなら。
「そう悲観したモンでもないぞ?」
要はコツだし、練習さえすれば、お前でも出来る。二回か三回でいいのならな。
下手なヤツでも、そのくらいは出来るようになるから、とハーレイに励まされた。才能が無いと嘆く人でも、一回くらいなら石を跳ねさせられる、と。
「ホント?」
ぼくなんかでも、ちゃんと水切り、出来るの…?
石の選び方は覚えられても、その先が大変そうなんだけど…。身体が弱いから、キャッチボールとかは滅多にしなくて、投げるだけでも難しくって…。
角度の方ならまだ分かるけれど、回転なんかは無理だってば。石を回転させるんでしょ?
野球をやってる友達なんかが、ボールに回転をつけて投げたりするけれど…。
いつも「凄い」って見ているだけで、ぼくには真似が出来ないんだもの。
ストンと落っこちていくボールとか…、と思い浮かべた変化球。「こうやるんだぜ」と投げ方をレクチャーして貰っても、一度も投げられたことが無い。ボールの持ち方までがせいぜい。
「変化球なあ…。俺も投げられるが、あれに比べりゃ簡単だぞ?」
一度覚えりゃ、どんな石でも上手く回転させられるから。
ボールみたいに大きくはないし、回転をつけるのも楽だってな。それに向いてる石を使えば。
お前に才能が無いにしたって、一回くらいは跳ねるようになるさ。
でなきゃ昔に流行りやしないぞ、水切りなんていう遊びが。
あくまで回数を競っていたんだから、というのがハーレイの励まし。より多く石を跳ねさせれば勝ちで、そんな遊びが普及するには、下手な人間もいないと駄目だ、と。
「俺だと十回くらいなわけだが、ずっと昔の世界記録は八十回を越えてたわけで…」
八十回も跳ねさせられるヤツが一人で遊んでいたって、誰も注目してくれないぞ?
十回ほどしか出来ないヤツだの、もっと少ないヤツらだの…。そんなヤツらが「凄い」と褒めてくれたからこそ、腕が上がって記録も残った、と。
どんなスポーツだってそうだろ、輝いているヤツはほんの一部だ。プロと呼ばれる連中は。
水切りだってそれと同じで、ずっと昔に流行ってた頃は、下手くそなヤツらが星の数ほどいたと思うぞ。一回跳ねれば上等だ、というような才能の無い連中が。
だから、お前も頑張ればいい。まずは一回、其処からだよな。
幸いなことに、お前の場合は、サイオンというズルが出来ないわけだから…。一回だけでも石が跳ねたら、それはお前の実力だ。もう間違いなく、本物の水切りが出来たってな。
その一回をモノにしたなら、後はお前の努力次第で上を目指せる。二回、三回と。
三回くらいが限界だろうとは思うんだがなあ、一回きりでは終わらんだろう。いくら下手でも、きちんと練習しさえしたなら。
お前の腕でも三回くらいは…、とハーレイが言うから、是非やってみたい。三回も続けて跳ねてくれなくても、一回くらいは跳ねさせてみたい。頑張って投げて、サイオンは抜きで。
「ぼくでも投げられるようになるなら、やってみたいな」
どうせサイオンは使えないんだから、ホントに実力。魔法か手品みたいな水切り、やりたいよ。
ハーレイ、ぼくに教えてくれない?
石の選び方とか、どうやって回転をつけて投げるか、そういうのを…。
お願い、とペコリと頭を下げた。せっかく話を聞いたからには、水切りを覚えてみたいから。
「教えてやりたいのは山々なんだが…」
しかし、そこそこ大きな水面が無いと、アレを教えるのは無理だ。
池とか川とか、そういった場所。
学校のプールなら、初心者用の大きさとしては充分なんだが、石が沈んで迷惑をかけるし…。
次にプールを使うシーズンがやって来た時に、石拾いもしなきゃいかんから。
お前一人なら、まだいいとしても、他の生徒も来ちまうからな。練習しようって連中が。
学校でやってりゃ、そうなるだろう、というハーレイの意見は間違っていない。
今の季節は使われていない、学校のプール。其処で休み時間にハーレイと水切りの練習をやっていたとしたなら、他の生徒もやって来る。
(ハーレイ、人気者だから…)
それだけで覗きに来る生徒が大勢。「水切り」などという珍しい遊びの練習となれば、入門する生徒が引きも切らないことだろう。「ハーレイ先生!」と、石まで沢山用意して来て。
(こういう石がいいんですよね、ってホントに山ほど…)
大勢の生徒が石を持参で、次から次へとプールに投げたら、来年のプールはきっと大変。水泳の授業が始まる前には、何処の学校でもプールの掃除をするけれど…。
(水を抜いて掃除をしようとしたら、石が一杯沈んでて…)
拾うだけで時間がかかりそうだし、場合によっては「水切り」の練習をしていた生徒を集めて、「石拾い」ということになるかもしれない。「自分で投げた石には、自分で責任を持て」と。
(プールの掃除は、業者さんだけど…)
石拾いなどは、普通の学校のプール掃除には必要ないこと。綺麗に洗って磨くだけだし、まるで関係ない石拾いの方は「投げた生徒」がするのだろうか…?
「…プールに石を投げ込んじゃったら、確かにホントに大変かも…」
来年、プールを使う前には、ぼくも呼ばれて「石を拾いなさい」って言われちゃいそう。
水切りの練習をやっていたのはバレてるんだし、他の生徒もみんな呼ばれて。
「分かったか? 俺だって、きっと呼ばれるぞ」
お前たちの石拾いの監督ついでに、俺だって拾わされるんだ。投げさせてたのは俺だから。
そうなっても俺は気にしないんだが、やはり教師としてはだな…。
学校に迷惑はかけられないから、プールはいかん。初心者向けには似合いの場所でも、あそこで練習するのは駄目だ。
諦めるんだな、とハーレイは腕組みをした。このポーズが出たら、お許しは無理。
「…水切り、教えて欲しいのに…」
学校のプールで出来るんだったら、昼休みとかに頑張るのに…。
石だって毎日、気を付けて探して、いいのを集めて、学校に持って行くのにな…。
そしたら早く上手くなるのに…。直ぐには無理でも、ぼくでも出来るようになるのに…。
学校のプールは駄目だなんて、と残念な気分。駄目な理由は分かっていても。
「いい場所、他にあればいいのに…。学校に大きな池があるだとか…」
「無茶を言うな。今の学校じゃ、そういう池は無いと分かっているんだろうが」
俺もお前に教えてやりたい気持ちはあるが、今は無理だな。プールは使えないんだから。
いつかお前が大きくなったら、デートのついでに練習するか。
池がある公園は幾つもあるしな、景色が綺麗な池もあちこちにあるってわけで…。そういう所に出掛けた時には、石を拾って投げればいい。…白鳥とかがいたら駄目だが。
石が当たったら可哀相だろう、というのは分かる。普通に投げるだけならまだしも、跳ねてゆく石は水鳥たちには危険すぎるから。…飛び過ぎた時に怪我をさせかねないから。
「分かってる…。鳥がいる時には投げないよ」
ぼくにはそんなつもりが無くても、跳ねちゃった石が当たっちゃうこともありそうだもの。
二回くらいしか跳ねない石でも、浮かんでる鳥は、急には避けられないもんね?
「そういうこった。石が飛んで来たら逃げはするがな…」
中には動きが鈍いのもいるし、疲れてる鳥もいるモンだから…。逃げ損なったら可哀相だ。
気を付けて石を投げることだな、潜ってる鳥もいたりするから、ちゃんと確かめて。
それに、デートに行けるようになったお前なら…。
親父に習うという手もあるぞ、とハーレイは思わぬ提案をした。「親父はどうだ?」と。
「お父さんって…。ハーレイのお父さん、名人だよね?」
水切り、とても上手いとか…?
ハーレイは二十回の壁があるとか言っていたけど、お父さんには壁が無いとか…?
八十回は無理だろうけれど、と質問したら、「それは流石に無理ってモンだ」と返った答え。
「親父が其処まで凄いんだったら、今日の授業で自慢してるな」
俺の親父は、サイオンが普通の時代でなければ、世界記録に挑んでいたかもしれないと。
親父の方でも、きっとその気で記録を目指していただろう。公式記録には残らなくても、ずっと昔の世界記録と並ぶヤツとか、抜けそうな数を叩き出そうと。
それは親父には難しすぎるが、なんたって、俺の師匠だぞ?
「こう投げるんだ」と教えた腕はダテじゃない。
今も現役で投げてるからなあ、教え方は俺より上手いんじゃないか…?
ハーレイの父の趣味は釣り。水面が無いと出来ない趣味。
今でも釣りに出掛けた時には、気が向けば投げるらしい石。落ちている石をヒョイと拾っては、回転をつけて、角度を狙って。
釣りを始める前に投げたり、竿を仕舞った後だったり。
もちろんサイオンは使いもしないで、石が跳ねた回数を数えるという。自分が出した最高記録を塗り替えられるか、それとも駄目か、と水を切ってゆく石を見送りながら。
「釣りを始める前か、後って…。釣りの間は投げないの?」
魚がかかるのを待っている時間、とても長いと思うんだけど…。狙ってる魚によるだろうけど。
退屈しのぎに投げればいいと思うんだけどな、練習にもなるし。
腕がグンと上がりそうなのに、と首を傾げたら、「釣りの最中だぞ?」と呆れたハーレイ。
「魚は水の中にいるんだ、そんな所へ石を投げ込んでみろ」
餌なら寄っても来るんだろうが、石だと魚が逃げちまうじゃないか。…怖がっちまって。
「そっか…。鳥でも逃げてしまうんだものね…」
魚も逃げるね、頭の上を石がピョンピョン跳ねて行ったら。…音にもビックリするんだろうし。
だけど、水切り…。
面白い遊びだね、石と水面があれば何処でも出来るんだから。
「サイオンが普通になった今では、上手く出来ても尊敬しては貰えないがな。昔のようには」
世界記録を作ろうって動きが無くなるくらいだ、上手く投げてもサイオンだろうと思われる。
本人は全く使ってなくても、傍から見ればそうなるだろうし…。
下手な間は、無意識の内にサイオンを使っちまうだろうし。
俺だって、正直、使っていないという自信は無い。十回を越えたら危ういかもなあ、もう少しと思うモンだから。…自分では使っていないつもりでも。
この俺でさえ、その始末だ、とハーレイが明かす水切りの事情。今の時代は、誰もがサイオンを持っているから、昔のようには数えられない記録。ただの遊びにサイオンの計測装置は無粋。
「それがちょっぴり残念かも…」
ぼくなら、サイオン、少しも関係ないのにな…。
ハーレイが授業で言ったみたいに、ぼくだけは昔の人と同じに遊べるんだよ。
うんと不器用で、サイオンなんかは使いたくても使えないから…。ホントに実力なんだから。
石が跳ねていく回数を増やせはしないよね、と零した溜息。
今の時代は、ハーレイでさえも「自信が無い」と言うほど、誰もがズルをしそうな時代。跳ねてゆく石に向かって「もう少し」と願ってしまって、無意識の内に使うサイオン。
けれども、今の自分には無理。どんなに強く願ってみたって、石は跳ねてはくれないから。
「お前が石を投げた場合は、実力か…。サイオンでズルは出来なくて」
皮肉だよなあ、今のお前も前と同じでタイプ・ブルーなのに。
前のお前なら、水の上でも平気で歩いてたのに…。石をサイオンで跳ねさせるどころか、少しも濡れずに水の上を歩いていたもんだ。
あの力は何処へ行ったんだか…。とことん不器用になっちまって。
「今だと沈んでおしまいだよ!」
石の水切りも出来ないけれども、ぼくだって沈んじゃうってば!
プールでも池でも、水の上なんかを歩こうとしたら、ドボンと沈んでしまうんだよ…!
もう真っ直ぐに落っこちちゃって…、と嘆いた自分の不器用さ。石さえ跳ねさせられない力は、自分の身体も支えてくれない。重いものは沈む水の上では。
「真っ直ぐにドボンと沈むのか。その姿が目に浮かぶようだが…」
沈んじまうようなお前がいいな、とハーレイが浮かべた優しい笑み。
石の水切りでさえもズルが出来ない、不器用なサイオンを持った今のお前が…、と。
「…なんで?」
沈んじゃうほど不器用なんだよ、そんなぼくの何処がいいって言うの?
クラスのみんなも笑っちゃうほど、ぼくのサイオン、不器用すぎてどうしようもないのに…。
「何度も言ったと思うがな? そんなお前だから、今度こそ俺が守ってやれると」
前のお前だと、俺にはとても守れなかったが、今のお前なら…。
水切りの練習中に池にドボンと落ちてしまっても、飛び込んで助けられるしな?
「ホントだ、前のぼくだったら…。落っこちたって、濡れもしないんだものね」
バランスを崩したら、すぐにシールドを張ってしまって、落っこちた池からヒョイと上がって。
助けに飛び込んで貰わなくても、ちゃんと自分で。
「そうなんだよなあ、前のお前だと」
俺の出番は全く無かった。…今のお前が同じ力を持っていたって、そうなるんだが…。
お前は持っちゃいないから、とハーレイがパチンと瞑った片目。
「今度はお前を守らせてくれ」と、「不器用なお前は、俺が守る」と。
水切りの練習をしている最中に池に落ちたら、今の自分は沈むだけ。ドボンと真っ直ぐ。
そうなった時は、ハーレイが飛び込んで助けてくれて、ちゃんと岸にも押し上げてくれる。
頼もしい腕でグイと支えて、「早く上がれ」と。
そのハーレイは、真剣な顔でこう口にした。
「しかしだ…。頼むから、お前は池には落ちてくれるなよ?」
濡れたら風邪を引いちまうから、と気を付けるように念を押されたけれど。
そう注意するハーレイの気持ちも、分からないではないけれど…。
落ちてみたい気がしないでもない。
水切りの練習中に落ちた時には、ハーレイが飛び込んで、直ぐに引き上げてくれるから。
「石でも上手に跳ねていくのに、お前が落ちてどうするんだ」と、小言なんかを言いながら。
ゴシゴシ拭かれて、「風邪を引くぞ」と心配されて、そんな時間もきっと幸せだろう。
水の上を歩けない不器用な自分になったからこそ、池の水にも落っこちられる。
冷たくても、風邪を引いてしまっても、ハーレイと持てる幸せな時間。
だから池にも落ちたっていい。石を思い切り投げたはずみに、頭からドボンと落っこちても…。
石の水切り・了
※石の水切りという遊び。サイオンが普通な時代の今、ズルが出来ないのはブルーくらい。
サイオンが不器用になってしまったせいですけど、その分、ハーレイに守って貰えるのです。
(あれっ、ウサギだ…)
それに大きい、とブルーが眺めたもの。学校の帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
ウサギと言っても本物ではなくて、彫刻のウサギ。道沿いの家の門扉の前に置かれていた。道をゆく人によく見えるように、空きスペースの真ん中に。
なんという石か、ブルーグレーの石を彫り上げて作ったウサギ。座った形でコロンと丸い。
(おじさんの趣味かな?)
この家の御主人は顔馴染み。
よく出来ている、と石のウサギの頭を撫でた。側に屈み込んで。
膝の下あたりまで高さがあるほど、大きなウサギ。石は綺麗に磨き上げられて、触るとスベスベしている表面。いい天気だから、太陽の光で温まって…。
(本物のウサギみたいにホカホカ…)
あったかい、と背中や尻尾も撫で回していたら、突然、上から声がした。
「ブルー君、今、帰りかい?」
えっ、と見上げると、門扉の向こうに家の御主人。慌ててピョコンと頭を下げた。
「こんにちは! ウサギ、勝手に触っちゃって…」
ごめんなさい、と謝ったけれど、御主人は「かまわないよ」と門扉を開けて表に出て来た。
「道を通る人に見て貰うために置いたんだしね。見るのも触るのも、お好きにどうぞ」
でなきゃ置いてる意味がないよ、と笑顔の御主人。「撫でて貰えばウサギも喜ぶからね」とも。
「このウサギ、おじさんが作ったの?」
「まさか。粘土のウサギだったらともかく、石の彫刻なんかは作れないよ」
腕も無ければ、道具も無いさ、と御主人はウサギの頭をポンと叩いた。「とても無理だね」と。
ブルーグレーの石で出来たウサギは、御主人の友達が作ったらしい。石の彫刻を趣味にしている人。せっかく見事に出来たのだから、大勢の人に見て貰いたい、と巡回中。
この家の御主人の所にやって来たように、彫り上げた人の友達の家を順番に。一週間ほど飾って貰って、次の家へと引越してゆく。運ぶ途中で壊れないよう、梱包されて。
そう聞くととても立派だけれども、石のウサギは「趣味の作品」。
何かの賞を取ったわけではないという。今の所は、コンクールなどに出されてもいない。本当にただの趣味の彫刻、知り合いの家を順に回ってゆくだけの。
御主人の話では、「ただの趣味」のウサギ。ちゃんとウサギに見えるどころか、今にもピョンと跳ねそうなのに。座っているのに飽きてしまったら、「遊びに行こう」と。
石で出来ていても、生き生きしているブルーグレーの大きなウサギ。いい彫刻だと思うのに…。
「これでも賞は取れないの?」
凄く素敵なウサギなのに…。動き出しそうなほど、よく出来てるけど…。
「ただの趣味ではねえ…。コンクールなんかに出してみたって、難しいんじゃないかな」
本人もそれが分かっているから、こんな具合に展覧会をしているんだよ。あちこちの家で。
もっとも、趣味で彫るだけはあって、いっぱしのことを言ってるけどね。
この石の中にはウサギがいたとか、そういう一人前の台詞を。
上手なんだか、下手なんだか…、と御主人はウサギを眺めている。「それでウサギだよ」と。
「ウサギって…。この石の中に?」
これ、とウサギを指差した。ブルーグレーの石の塊を。…今はウサギになっている石。
「そうさ。この石はウサギになりたかったらしいよ、こういうウサギに」
同じ動物でも、ライオンとかでは駄目なんだ。犬も駄目だし、猫も駄目だね。ウサギでないと。
ウサギになりたい石なんだから、と笑った御主人。
このウサギを彫った人が言うには、ウサギになりたい石の中にはウサギがいるもの。ただの石にしか見えないようでも、中にはウサギが住んでいる。それを彫り出すのが彫刻家。
石に隠れているウサギを見付けて、「出して欲しい」という声を聞いて。
「そうなんだ…。最初からウサギが入ってたんだね」
この石の中に、このウサギが。…それを見付けたのが、おじさんの友達…。
「そうらしいねえ、彫った本人に言わせると。この石にはウサギが隠れてたようだ」
昔からそう言われるようだよ、彫刻をする人の間では。…その友達から聞いたんだけどね。
本当の彫刻家は、彫るものの声を聞くらしい。…いや、見付ける目を持ってるのかな?
彫ろうとしている材料の中に何がいるのか、何になりたいと思っているか。
石だけでなくて、木の彫刻でも同じだね。名作と言われる彫刻なんかは、どれも彫刻家が中身を上手く彫り出した結果だという話だよ。
彼に言わせれば、このウサギだって「ウサギになりたい」と言っていたわけだから…。
声だけは聞こえたというわけなのかな、ちゃんとウサギになっているしね。
名作と呼べるかどうかはともかく、と御主人はウサギを撫でていた。「でもウサギだね」と。
それから暫くウサギを眺めて、撫で回したりして、「ありがとう」と御礼を言って家に帰った。石のウサギにも、「さようなら!」と手を振って。
自分の部屋で制服を脱いで、ダイニングに行って、おやつを食べながら考えたこと。さっき見て来た、石で出来たウサギ。あの家の門扉の前に置かれて、今も座っているのだけれど…。
(ウサギになりたかった石…)
御主人はそう言っていた。ブルーグレーの石の元の形は知らないけれども、中にウサギを隠していた石。今のウサギになる前は。
(丸い石だったか、ゴツゴツの石か、ぼくには分からないけれど…)
御主人の友達はあの石に出会って、「ウサギの石だ」と中身を見抜いた。彫刻が趣味の人だから分かった、石の正体。さっきの御主人や自分が見たって、きっとウサギは見付からない。
(ああいう色の石の塊…)
石があるな、とチラリと眺めて、そのまま通り過ぎるのだろう。ウサギには気付かないままで。石の中に隠れて、「外に出たいな」と、待ち焦がれているウサギが入っているのに。
(分かる人にしか、分からないウサギ…)
そう考えると面白い。ウサギを隠していた石のこと。
河原などにある丸い石だったか、山にあるようなゴツゴツの石か。ウサギは其処に隠れていた。あの御主人の友達が見付け出すまで、「ウサギを彫ろう」と考えるまで。
自分はウサギを見付けることは出来ないけれども、とても素敵だという気がする。ああいう風にウサギなんかが、石の中から出てくるなんて。
(地球の上には、石が一杯…)
山にも川にも、海辺にも石が転がっている。それは沢山、数え切れないほどの石たちが。
丸い石やら、ゴツゴツの石や。抱え切れないような石から、ヒョイと持ち上げられる石まで。
大理石のような石になったら、石切り場から切り出されもする。彫刻の素材や、建築用にと。
そういう石に隠れたものを、見付け出すのが彫刻家。「この石は何になりたいのだろう?」と。
石をじっくり見ている間に声がするのか、一目で中身が分かるのか。
色々なものになりたい石を、彫刻家たちが彫ってゆく。石の声を聞いて、中に隠れたものを。
今も昔も、せっせと彫っては石の中身を外に出す。帰り道に見たウサギみたいに。
地球の上には石が沢山、ウサギになりたい石もいる。ライオンとかになりたい石も、他の動物が隠れている石も。
(地球じゃなくって、他の星でも…)
探してみたなら、ウサギになりたい石が見付かるのだろうか?
彫刻家ではない自分には無理でも、それが趣味の人や、プロの彫刻家が探しに出掛けたならば。
地球は一度は滅びたけれども、生命を生み出した母なる星。
その地球の上にある石だったら、ウサギもライオンも知っている。滅びる前の地球には、沢山の生き物たちがいた。地球は彼らの姿を見ていて、石たちも記憶しただろう。ウサギやライオンや、空を飛んでゆく鳥たちを。
(ちゃんと知ってるから、石の中にもウサギやライオン…)
彼らの姿が入り込む。ウサギになりたい石も生まれれば、ライオンになりたい石だって。
けれど、地球とは違う星。
テラフォーミングされた星の上にも、そういった石はあるのだろうか?
今は宇宙に幾つも散らばる、人間が暮らしている星たち。生命の欠片も無かった星でも、年月をかけて整備していって。木や草を植えて、海も作って。
その星の上にも石はある。それこそ人が来るより前から、何も棲んでいない星だった頃から。
其処にあった石はどうなのだろうか、中にウサギは入っているのか。
(最初からウサギがいない星でも、ウサギになりたい石とかがあるの?)
中にウサギを隠している石。「早く出たいな」と、ウサギになれる日を待っている石。そういう石が他の星にもあるのか、それともまるで無いというのか。
(ウサギとかが住んでた、地球の石でないと…)
中にウサギは入っていなくて、いい彫刻は作れないだとか。彫刻家たちが頑張ってみても、中にいるものが無かったならば、名作は生まれて来ないとか。
(まさかね…?)
今の時代は、彫刻家だって大勢いる。あちこちの星で活躍している芸術家たち。
石を相手にする彫刻家も多いわけだし、地球の石だけでは足りないだろう。どれほど地球の石が多くても、山にも川にも沢山の石が転がっていても。
地球の石でしか名作を彫ることが出来ないのならば、彫刻家の数もグンと減ってしまいそう。
(…石を探しに地球に来るのも…)
大変だよね、と思う宇宙の広さ。ソル太陽系の第三惑星、水の星、地球。
此処まで来ないと「名作を作れる石」に出会えないなら、彫刻家を志す人だって減る。ふらりと山や河原を歩いてみたって、「石の声」に出会えないのなら。地球でしか、それが出来ないなら。
(地球に来るには、時間もお金も…)
かかるのだから、彫刻家の卵たちは諦めてしまうことだろう。余程の才能が無い限り。師と仰ぐ人が褒めちぎってくれて、「君なら出来る」と何度も励ましてくれない限り。
(褒めて貰ったら、いつかは地球の石を使って名作を、って思うだろうけど…)
そうでない人は「どうせ才能が無いのだから」と投げ出してしまって、それでおしまい。地球の石にさえ出会えていたなら、名作を彫れたかもしれないのに。
(そんなのだったら、彫刻をする人、ホントにうんと少なくなって…)
高名な彫刻家は地球の人ばかりで、でなければ地球から近い星の人。いつでも気軽に石を探しに地球まで旅が出来る人。
けれど、そうなってはいない。ソル太陽系から遠く離れた星にも、彫刻家たちは大勢いる。石があったら、とても見事な作品を彫り上げる人たちが。
「地球の石でないと駄目だ」と聞いたことなどは無いし、何処の星でも彫刻に向いた石はある。大理石だって、他の様々な石だって。
(他所の星でも、きっと、神様が色々な魂…)
それを石の中に入れるのだろう、と考えながら戻った二階の自分の部屋。
空になったカップやケーキのお皿を、「御馳走様」とキッチンの母に返してから。
(…さっきのウサギは、地球の石だけど…)
地球の石だから、中にウサギが入っていたって少しも不思議は無いけれど。
他の星でも、きっと神様が、石の中に色々入れてくれるに違いない。人間が暮らすようになった星なら、石の中にもウサギや、ライオン。犬や猫だって、鳥だって。
(人が暮らせる星になったら、彫刻家になりたい人も生まれてくるし…)
その人たちが困らないよう、神様が石に魂を入れる。ウサギやライオンを隠しておく。
今の仕組みはきっとそうだ、と勉強机の前に座って頬杖をついた。
何処の星でも、ウサギが入った石が見付かるのだろう、と。人間が暮らす星なら、きっと。
今日の自分が出会ったウサギは、石の彫刻。ブルーグレーの石を彫り上げたもの。
あのウサギを家の前に飾っていた御主人の友達は、石の中に隠れたウサギを見付けた。彫刻家が石を目にした時には、「何になりたい石」なのか分かる。ウサギだろうと、ライオンだろうと。
(木彫りも同じなんだよね?)
石と同じで、木の中に何かが隠れているもの。御主人はそう話していた。石と木とでは、素材が違うというだけのこと。中にいるものを「見付けて」外に出してやるのが彫刻家。
あちこちの星の石に神様が魂を入れるのだったら、木だって同じことだろう。テラフォーミングして木を植えたならば、その星の上には人間が住む。ちゃんと環境が整ったなら。
(海を作って、川とかも出来て…)
もう充分だ、と判断されたら、作業員たちは引き揚げて行って、代わりに移住してゆく人たち。其処で人間たちが暮らし始めたら、石にも木にも、神様が魂を入れてゆく。
(彫刻をする人がそれに出会ったら、中のウサギとかが見付かるように…)
中に隠れたものを見付けて彫っては、いろんな彫刻が出来るのだろう。地球でなくても、元々は何も棲んでいなかったような星でも。
神様が中に入れた魂、ウサギやライオンを見付け出しさえすれば。木や石を彫る彫刻家たちが、中に隠れた色々なものを、上手く彫り上げてやったなら。
(そうやって、何処の星でも、名作…)
地球でなくても、素晴らしい彫刻が生まれるのだ、と思った所で気が付いた。
帰り道に見た石のウサギは、なかなかの出来。今にも跳ねてゆきそうだったのに、コンクールで賞を取ってはいない。あの御主人は「難しいだろうね」と言ったけれども、上手ではあった。
けれど、あれとは正反対のものを、前の自分は知っている。
(前のハーレイ…)
遠く遥かな時の彼方で、前の自分が愛した人。キャプテン・ハーレイと呼ばれていた人。
前のハーレイは木彫りを趣味にしていたけれども、とても下手くそな腕前だった。あれが本当の下手の横好き、「彫らない方がマシ」と言えるほど。
何を彫っても、ハーレイが目指した「芸術品」が出来はしなかった。彫ろうとしていたものとは違った彫刻が出来て、誰もが笑ったり、顔を顰めたり。
どう見ても、「そうは見えない」から。まるで違った「変なもの」しか出来ないから。
木彫りが趣味でも、お世辞にも「上手い」とは言えなかったのが、前のハーレイ。懸命になって芸術品を彫れば彫るほど、「下手だ」と呆れられ、墓穴を掘っていたようなもの。
スプーンやフォークといった実用品なら、それは上手に彫れたのに。頼んで彫って貰う仲間も、何人もいたほどなのに。
けして「腕が悪かった」わけではない彫刻家が、前のハーレイ。腕が悪いのなら、実用品などを彫っても下手くそな筈。曲がったようなスプーンが出来たり、歪んだフォークが出来上がったり。
けれど、そうなってはいない。
実用品なら引っ張りだこの腕前、芸術品だけが「とんでもない出来」に仕上がったのなら…。
(…ひょっとして、ハーレイ…)
神様が木の中に入れた魂、それを見ないで芸術品を彫っていたのだろうか?
石や木たちの声が聞こえる、本物の彫刻家たちとは違って。…「これを彫るのだ」という自分の考えだけで、木に挑んでいた「彫刻家」。
木という素材を相手にするのが上手かっただけの、芸術とは無縁の製作者。学校の授業で工作をするのと同じレベルで、「上手く彫れる」というだけのことで。
(前のハーレイ、そうだったのかも…)
なまじ上手に彫れるものだから、ハーレイ自身は芸術家気取り。ナイフ一本で器用に仕上げて、スプーンもフォークも誰もが喜ぶ出来だったから。
ところがハーレイの中身はと言えば、「木の声なんかは聞こえない人」。本物の彫刻家の域には達していなくて、木の塊の中に「何かがいる」とは気付かないタイプ。
木の中に何が隠れているのか、それを見ないで強引に彫っていったなら…。
(…ナキネズミだって、ウサギになるよね?)
前のハーレイが、彫ろうとしていたナキネズミ。
赤いナスカで生まれたトォニィ、SD体制始まって以来の初めての自然出産児。ミュウの未来を担う子供で、誰もが誕生を喜んだ。古い世代も、新しい世代も。
そのトォニィの誕生を祝って、前のハーレイは自慢の木彫りを始めた。ブリッジで仕事の合間を見付けて、いつものナイフ一本で。トォニィにオモチャを作ってやろうと。
きっとトォニィも喜ぶだろうと、ナキネズミを彫ることにしたハーレイ。ミュウとは馴染み深い生き物、思念波を使える動物を。…けれど出来上がったものは、誰が見たってウサギそのもの。
ああなったのは、ハーレイの腕のせいではなくて、「彫刻家ではなかった」せいなのだろう。
前の自分は深い眠りの中にいたから、現場を見てはいないけれども…。
(…ハーレイがナキネズミを彫るために…)
倉庫に出掛けて、取り出して来た木の塊。趣味の彫刻のためにと残しておいた、シャングリラで育てた木材用の木の切れ端。狂いが出ないよう乾燥させては、取り出して彫っていたけれど…。
(これにしよう、って選んで、倉庫の中から出して来たヤツ…)
その木の中に隠れていたのは、ナキネズミではなくて、ウサギだったに違いない。ナキネズミになりたい木とは違って、ウサギになりたいと思っていた木。
(でもハーレイには、木の声なんかは聞こえなくって…)
木の中にいるものも見えはしなかった。彫刻家ではなくて、「木」という素材を彫るのが得意なだけだから。スプーンやフォークを上手く作れる、器用なだけのただの人間。
ハーレイは「ウサギになりたい」木とは気付かず、木の塊を彫り進めた。自分が彫ろうと思った動物、ナキネズミを木から彫り出すために。
けれど中には、ウサギだけしか入っていない木。ナキネズミなどは何処にもいない。ハーレイが頑張って彫れば彫るほど、ウサギは外に出たくなるから…。
(中のウサギが、我慢できずに出て来ちゃって…)
ハーレイの木彫りが完成した時、其処にいたのは一匹のウサギ。…ナキネズミとはまるで違った尻尾の、長い二本の耳をしたウサギ。
(…出来上がったのが、ウサギだったから…)
トォニィの母のカリナはもちろん、他の仲間たちも「ウサギなのだ」と思い込んだ。ハーレイも「違う」と言えはしなくて、それっきり。
トォニィは「ウサギになった」ナキネズミを大切にし続け、後の時代まで残った「ウサギ」。
「ミュウの子供が沢山生まれるように」という祈りがこもった、お守りなのだと信じられて。
今ではウサギは宇宙遺産で、博物館の収蔵庫の中。レプリカの展示も大人気。
(…なんでナキネズミがウサギになるの、って思ってたけど…)
前のハーレイの木彫りの腕にも呆れたけれども、原因は「ウサギになりたかった木」。
それなら分かる、ナキネズミがウサギに変身したこと。前のハーレイが選んだ木には、ウサギが入っていたのなら。…ナキネズミが入っていなかったなら。
きっとそういうことなんだ、と納得がいった「宇宙遺産のウサギ」。今のハーレイに聞かされるまでは、今の自分も「ウサギなのだ」と思い込んでいた、ナキネズミの木彫り。
(前のハーレイが作った、他の木彫りも…)
あれと同じで、無理やり彫るから変な出来上がりになったのだろう。
ヒルマンが頼んだ、知恵の女神ミネルヴァの使いのフクロウ。それはトトロになってしまった。SD体制が始まるよりもずっと昔の日本で愛された、可愛いオバケのトトロの姿に。
他にも酷い彫刻は沢山、どれも原因は同じだと思う。前のハーレイが強引に彫ったこと。
(木の声を聞いてあげないから…)
神様が木たちに与えた魂、その声を聞かずに彫ったハーレイ。自分が彫ろうと思ったものを。
そのせいで酷くなったんだ、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね…。前のハーレイ、木の声をちゃんと聞いていた?」
神様に貰った魂の声を、前のハーレイは、きちんと聞こうとしていたの…?
「はあ? 魂って…?」
魂の声を聞いていたかと言われても…。前の俺は、そういう仕事をしてはいないが…?
俺がキャプテンだったことを抜きにしてもだ、前の俺たちが生きた時代に、そんな仕事は…。
今の時代も無いんじゃないのか、ずっと昔の地球にだったら、幾つもあった職業なんだが。
神様の声を聞く人間とか、魂を呼び出す人間だとか、と見当違いなことを言い出したハーレイ。とうの昔に廃れてしまった、古典や歴史の世界の職業の名前を挙げ始めて。
「そうじゃなくって、木彫りだってば!」
前のハーレイ、いろんなものを彫っていたでしょ、シャングリラで!
あれを彫る前に、木の声を聞いてあげていたのか、それを質問しているんだよ…!
「木の声だって?」
いったいお前は何が言いたいんだ、木は喋らないと思うがな…?
黙って生えているだけなんだし、せいぜい葉っぱや枝が擦れて鳴るだけで…。
「それは生きてる木のことじゃない! ぼくが言うのは、木彫り用の木!」
伐採した木の残り、貰って倉庫に仕舞っていたでしょ?
あれを使って何かを彫る時、その木の声を聞いていたのか、知りたいんだよ…!
今日の帰りに聞いたからね、と披露した話。顔馴染みの御主人に教えて貰ったこと。
ブルーグレーの石の中にいて、御主人の友達に彫って貰って出て来たウサギ。中にウサギがいる石なのだ、と見付けて貰えて、今は立派なウサギの彫刻。門扉の前にチョコンと座って。
彫刻の類はそういったもので、「中にいるもの」を彫り出してゆく。木の彫刻でも同じだ、と。
「ぼくが見たウサギは、あの石の中にいたんだよ。…ウサギの彫刻になる前にはね」
丸い石だったのか、ゴツゴツの石かは知らないけれど…。中にウサギが入った石。
そういう石を何処かで見付けて、中のウサギを出してあげたのがアレなんだよ。
「中に入っているってか…。その手の話はよく聞くな」
古典の世界でも、定番ではある。
木の中に有難い神様の姿が隠れているとか、そんな具合で。…それを彫ったら霊験あらたかで、お参りの人が大勢やって来たという話は多いぞ。
今の時代も、何になりたいのか、耳を傾ける彫刻家とかは少なくないよな、うん。
いい素材なんかが手に入った時は…、と今のハーレイは知っていた。石や木の声、それを捉えて中に隠れたものたちを彫ってゆく人。彫刻家と呼ばれる人たちのことを。
「ほらね。昔もそうだし、今だって同じなんだけど…」
前のハーレイ、そういうのをちゃんと見付けてた?
木彫りをしようと木を取り出したら、木の声を聞いてあげていたわけ?
中には何が隠れているのか、何になりたいと思ってる木か。…声の通りに彫ってあげてた?
石の中にいたウサギみたいに…、と問い掛けたけれど。
「いや…? なんたって、木彫りは俺の趣味だったしな?」
今の俺は全くやっていないが、前の俺はあれが好きだった。いい息抜きにもなるもんだから。
木の塊とナイフさえあれば、何処でも直ぐに始められるし…。
空いた時間にポケットから出せば、ブリッジだろうが、休憩室だろうが、俺の憩いの空間だ。
其処で気ままに彫ってゆくんだから、何を彫ろうが俺の自由だと思わんか?
木の塊なんかの指図は受けんぞ、俺は彫りたいものを彫るんだ。…その時の気分で。
スプーンやフォークの注文が入っていたなら別だが、そうでなければ気の向くままだな。
こいつがいいな、と思い立ったら、そいつを彫ってゆくだけだ、と返った答え。
予想した通り、ハーレイは「聞いていなかった」。木の塊の中に隠れたものたちの声を。
それでは駄目だ、と零れた溜息。前のハーレイの彫刻が「下手だ」と評判だったのは、木の中にいるものを無視したから。…声を聞こうとしなかったから。
「やっぱりね…。ハーレイ、聞いていなかったんだ…」
木の塊が何になりたいのか、まるで聞こうとしなくって…。中にいるのは何だろう、って眺めてみたりもしなかったから…。
それでウサギになっちゃったんだよ、ウサギになるのも仕方がないよ。
「ウサギだと? 俺はウサギを見てもいないが…?」
お前が言ってる、ブルーグレーの石で出来てるウサギってヤツ。石の彫刻で、そこそこ大きさがあるんだったら、夜の間も出しっ放しだと思うんだが…。
気を付けて車を走らせていれば、此処へ来る途中に気付いただろうが、生憎と…。
違う方でも見てたんだろうな、ウサギは知らん。…それで、ウサギがどうかしたのか?
見ておけと言うなら帰りに見るが、とハーレイは勘違いをした。ブルーグレーの石で出来ていたウサギ、それが話の中心なのだと。…石のウサギではなくて、木のウサギのことを言いたいのに。
「違うってば。…石のウサギに出会ったお蔭で、前のハーレイのことに気が付いたんだよ」
前のハーレイがやっちゃったことで、宇宙遺産になってるウサギ…。
博物館でレプリカが展示されてるけれども、ハーレイ、あれはウサギじゃないって言ったよね?
ぼくには今でもウサギに見えるし、博物館の説明なんかもウサギになっているけれど…。
でも、本当は前のハーレイが彫ったナキネズミ。
トォニィが生まれたお祝いに作って、プレゼントしてあげたナキネズミで…。
いったい何処がナキネズミなの、って思っていたけど、今日のウサギで分かったよ。あの石の中にはウサギが入っていたらしい、って聞いて来たから。
宇宙遺産のウサギになった木、ウサギが入った木だったんだよ。…あの石と同じで。
ウサギになりたい、って思っていたのに、前のハーレイが無理やり彫ったから…。
木の声は少しも聞いてあげずに、中にいるものも探さないままで…。
ハーレイ、自分が彫りたいものが出来たら、好きなように彫っていたんでしょ?
あの木もそうだよ、中にはウサギが隠れてたのに…。ウサギになりたい木だったのに…。
トォニィにナキネズミを贈るんだ、って決めて勝手に彫っていくから…。
ウサギの木なのに、ナキネズミにしようと思ってどんどん彫っちゃったから…。
それでウサギになったのだ、と今のハーレイに向かって詰った。彫刻家の魂を持っていなかった前のハーレイを。実用品なら上手に彫れても、芸術品はまるで駄目だった彫刻家を。
「ハーレイが酷いことをするから、ウサギも酷い目に遭ったんだよ…!」
いい彫刻家と出会えていたなら、ちゃんと最初から素敵なウサギになれたのに…。
前のハーレイに捕まってしまったお蔭で、ナキネズミにされそうになっちゃって…。そんなの、ウサギも嫌だろうから、頑張ったんだよ。
ハーレイがせっせと彫ってる間に、必死に抵抗し続けて。「ウサギになるんだ」って。
うんと頑張って暴れ続けて、なんとかウサギになれたんだと思う。…下手なウサギだけど。
でも、ナキネズミにされちゃうよりかはずっといいよね、ウサギなんだから。
下手くそな出来のウサギでもね、と赤い瞳を瞬かせた。「ナキネズミにされるよりはマシ」と。
「おいおいおい…。そういう話になっちまうのか?」
俺はナキネズミを彫ったというのに、ウサギなんだと思われちまって…。今もやっぱりウサギのままで、宇宙遺産にされちまってて…。
あれが悔しいと思っているのに、お前はウサギだと言いたいのか?
俺はナキネズミを彫ったつもりでも、出来上がったものは、木の中にいたウサギなんだと…?
正真正銘、ウサギなのか、とハーレイが目を丸くするから、「そうだけど?」と返してやった。
「あれはウサギだよ、何処から見ても。…誰が見たってウサギだものね」
そうなっちゃうのも当然だってば、元からウサギなんだから。…木の中に隠れて、ウサギになる日を待っていたウサギだったんだから。
ヒルマンに彫ってあげたんだっていう、フクロウの木彫りだってそうでしょ?
トトロにしか見えないフクロウだったけど、あれもハーレイが無茶をしたからだよ!
本当はトトロになりたかった木を、フクロウにしようと彫ったから…。
フクロウが出来上がるわけがないよね、木の中にいたのはトトロなんだもの…!
どれもハーレイが悪いんだよ、と恋人の顔を睨み付けた。「木の声を聞いてあげないから」と。
「ちょっと待ってくれ。ウサギはともかく、トトロはだな…」
トトロは子供向けの映画で、それに出て来たオバケに過ぎん。トトロは実在してなくて…。
「でも、魂はありそうじゃない!」
魂があったら、ちゃんと神様が入れてくれるよ。木の中にも、石の中にもね…!
前にハーレイに見せて貰った、遠い昔のトトロの映画。断片しか残っていない映画だけれども、ハーレイの記憶に刻まれた中身は温かかった。人間が自然を愛していた頃、思いをこめて作られた映画だったから。
SD体制の時代までデータが残ったほどだし、オバケのトトロにも、立派に魂が宿っていそう。
地球が滅びてしまった後にも、神様の手で拾い上げられて。…壊れないように守られて。
白いシャングリラの中で育った、木にまで入り込むほどに。トトロになりたいと願う木の塊が、あの船の中にも生まれるほどに。
「うーむ…。トトロが入った木だったと言うのか、俺がフクロウを彫っていた木は?」
ヒルマンがフクロウを頼んで来たから、腕によりをかけて彫ろうと選んだ木だったんだが…。
あれの中にはフクロウはいなくて、代わりにトトロがいたんだな?
でもって、トォニィにナキネズミを彫ってやった木には、ウサギが入っていやがった、と…。
どっちも中身が外に出たがるから、フクロウはトトロになってしまって、ナキネズミはウサギに化けたってか…?
俺の彫刻が下手だったのは、俺が選んだ木に入っていたヤツらのせいか…?
フクロウもナキネズミも、そのせいで変になっちまったのか、とハーレイが嘆くものだから…。
「自業自得って言うんでしょ、それ。…木の声を聞いてあげないんだもの」
何になりたいと思っている木か、ちゃんと聞いてから彫っていたなら、前のハーレイでも上手く彫ることが出来たんじゃないの?
スプーンやフォークは上手に彫れたし、不器用だったわけじゃないんだから。
だけど、芸術品は無理。…木の声を聞いてあげもしないし、中にいるものも探さないんだもの。
これが本物の彫刻家の人たちだったら、きちんと探して彫るんだものね?
ぼくが見て来たウサギもそうだよ、趣味の彫刻らしいけど…。コンクールに出しても、賞とかは取れないみたいだけれども、とても上手に出来てたってば。今にも跳ねて行きそうなほどに。
あれを彫った人は、ちゃんと「石の中にウサギがいる」って見抜いていたんだよ…?
ウサギの石だって分かってたんだよ、それでウサギを彫ったんだよ…!
同じ趣味でも、前のハーレイのとは大違い。
石の声を聞いて、中に隠れたウサギを見付けて、きちんと出してあげたんだから。
ウサギになりたい木を捕まえて、ナキネズミにしようとしたハーレイとは違うんだから…!
ホントのホントに大違いだよ、と下手な彫刻家だった恋人を責めた。「あんまりだよ」と。
ウサギになりたかった木や、トトロになりたいと思っていた木。そういう木たちの声を聞こうとしないで、好き勝手に彫ろうとしたハーレイ。
それでは木だって可哀相だし、出来上がった彫刻も可哀相。ウサギになろうと思っていたのに、「ナキネズミだ」と主張されるとか、トトロなのにフクロウにされるとか。
「ぼくだったら、悲しくて泣いちゃうよ…。自分が自分じゃなくなるだなんて…」
ウサギに生まれたのにナキネズミだとか、トトロだったのにフクロウだとか。…悲しすぎるよ。
宇宙遺産になったウサギは、みんなが間違えてくれたお蔭で、ちゃんとウサギになれたけど…。
でも、ハーレイは今も「ナキネズミだ」って言うんだから。…本当はウサギの筈なのに。
ハーレイに木の声が聞こえていたなら、そんなことにはならないんだよ…?
出来上がった彫刻も褒めて貰えて…、と尖らせた唇。「前のハーレイ、ホントに酷すぎ」と。
「…要するにお前は、前の俺は彫刻家として、失格だったと言いたいんだな?」
彫ろうと向き合った木の声が聞こえる才能が無くて、木の中身だって見えなくて。
中身はウサギだと気付きもしないで、そいつで無理やりナキネズミを彫ろうと悪戦苦闘していた大馬鹿野郎。…そんなトコだろ、木の魂に逆らっちまって、下手なヤツしか彫れない人間。
彫刻家としては失格な上に、才能の欠片も皆無だった、と。
やらない方がマシな趣味だと言うわけか、とハーレイが眉間に寄せた皺。「下手だったが」と。
「スプーンやフォークは上手だったし、やらない方がマシだとまでは言わないけれど…」
だけどウサギやトトロなんかは、芸術性の欠片も無いから…。
その割に、ウサギが残っているけど…。百年に一度の特別公開、大人気のウサギなんだけど…。
博物館をぐるっと取り巻く行列が出来るらしいもんね、と思い浮かべた宇宙遺産のウサギ。今はウサギとして知られている、キャプテン・ハーレイが彫ったナキネズミ。
「宇宙遺産のウサギだったら、立派なもんだぞ。…名前が少々、不本意だが」
俺はナキネズミを彫ったというのに、ウサギだなんて間違えやがって…。今もそのままで…。
とはいえ、芸術は後世に残ってこそだし、前の俺にも才能ってヤツがきちんとだな…。
「あったって言うの? あれが今でも残っているのは、ウサギが出て来てくれたからでしょ!」
ハーレイがナキネズミにしようとしたって、ウサギになろうと頑張ったウサギ。
ナキネズミだったら宇宙遺産になるのは無理だ、ってハーレイも言っていたじゃない…!
宇宙遺産のウサギは、ミュウの子供が沢山生まれるようにという祈りがこもった大事なお守り。
ウサギは豊穣と多産のシンボル、皆が勘違いをしてしまったから、ウサギは残った。宇宙遺産の指定を受けて、博物館に収められて。
ただのナキネズミの木彫りだったら、オモチャとして扱われただろう。宇宙遺産になって残りはしないで、時の流れに消えていたのに違いない。
ウサギにしか見えなかったお蔭で、ナキネズミの木彫りは今まで残った。前のハーレイがいくら頑張って「ナキネズミにしよう」と彫り進めたって、「ウサギになりたい」と思った木。
彫ろうとしている木の声も聞かない、酷い彫刻家の腕にも負けずに、表に姿を現したウサギ。
「あのウサギが頑張ってくれたお蔭で、前のハーレイの彫刻が今でも残ってるんだよ」
ナキネズミにされてたまるもんか、って、諦めないで、ちゃんとウサギになったから。
ウサギに見える姿を手に入れたから、宇宙遺産のウサギなんだよ。
木の中にいたウサギに感謝してよね、ハーレイの才能だなんて言わずに。無理やりナキネズミにしようとされても、ウサギは頑張ったんだから。
「…俺の腕ではないってか?」
宇宙遺産のウサギがあるのは、前の俺が心をこめて彫ったお蔭だと思うんだが…。
「違うよ、木の中のウサギのお蔭!」
ウサギが隠れていてくれたことと、頑張って表に出てくれたこと。その両方だよ、あのウサギが今も宇宙に残っている理由はね…!
いつか本物の宇宙遺産のウサギに会えた時には御礼を言わなきゃ、とハーレイに注文をつけた。
展示ケースの前に立ったら、「出て来てくれてありがとう」と。
木の中のウサギが出て来たお蔭で、立派に宇宙遺産になれたし、今でも残る芸術だから。彫ったハーレイの腕はどうあれ、美術の教科書にも載るほどだから。
「御礼を言えって言われてもだな…。俺にとってはナキネズミだが…」
あれは断じてウサギじゃなくてだ、ナキネズミというヤツなんだが…?
訂正できる機会が無いだけだ、とハーレイは不満そうだけれども。
「ウサギになったから、宇宙遺産になって今まで残れたんでしょ!」
ナキネズミじゃ残れないんだから!
ただのオモチャの一つなんだし、何処かに消えて行方不明でおしまいだから…!
絶対、残っていないからね、とハーレイに言葉をぶつけてやった。「残るわけが無いよ」と。
木彫りのオモチャのナキネズミなどは、実際、残りそうにないから。
「しかしだな…。俺はナキネズミを彫ったのに…」
そいつをウサギにされちまった上に、そのウサギにだな…。
御礼を言わなきゃいけないのか、とハーレイは呻いているけれど。情けなさそうな顔をしているけれども、ナキネズミは今もウサギ扱い。前のハーレイが彫った頃から、ずっと。
木の中のウサギの声も聞かずに、ナキネズミにしようと彫ったから。…ウサギらしい姿になってきたって、強引に彫った結果だから。
(木の声を聞いてあげもしなかった、酷い彫刻家が悪いんだしね?)
ナキネズミがウサギになってしまうのは当たり前だし、悪いのは前のハーレイだと思う。
それに、そんな彫刻家の作品が今まで残っているのも、木の中にいたウサギのお蔭。懸命に声を上げていたって、ナキネズミにされてゆくだけだから、と抵抗を続けたウサギが強かったお蔭。
いつか本物の彫刻に会えた時には、ハーレイが何と文句を言っても、御礼を言おう。
「出て来てくれてありがとう」と。
前のハーレイがナキネズミにしようと彫り続けても、ちゃんと姿を見せたウサギに。
ナキネズミにならずに、ウサギの姿になったウサギに。
お蔭で、前のハーレイがトォニィのために作った木彫りを、今の自分が見ることが出来る。赤いナスカでは深い眠りの中にいたから、見そびれてしまったのだけど。
とても下手くそな木彫りを眺めて、「ウサギだ」「いやいやナキネズミだ」と喧嘩も出来る。
「ナキネズミだ」と譲ろうとしないハーレイと二人、傍から見たなら馬鹿みたいな喧嘩を。
(…ウサギに、御礼を言わなくちゃね…)
今の時代まで宇宙遺産になって残れたのは、木の中のウサギのお蔭だから。
ハーレイは無視して彫ったけれども、ウサギが頑張ってウサギの形になってくれたから。
木の中に隠れていたウサギ。なりたかった姿を手に入れたウサギ。
それにペコリと頭を下げよう、ハーレイが隣で「ナキネズミだぞ?」と低く唸っていても…。
彫刻家と魂・了
※前のハーレイが作った、宇宙遺産の木のウサギ。実はナキネズミだったそうですが…。
ウサギの形になったのは、木の中に隠れていた魂のせいかも。ウサギの姿になりたかった木。
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それに大きい、とブルーが眺めたもの。学校の帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
ウサギと言っても本物ではなくて、彫刻のウサギ。道沿いの家の門扉の前に置かれていた。道をゆく人によく見えるように、空きスペースの真ん中に。
なんという石か、ブルーグレーの石を彫り上げて作ったウサギ。座った形でコロンと丸い。
(おじさんの趣味かな?)
この家の御主人は顔馴染み。
よく出来ている、と石のウサギの頭を撫でた。側に屈み込んで。
膝の下あたりまで高さがあるほど、大きなウサギ。石は綺麗に磨き上げられて、触るとスベスベしている表面。いい天気だから、太陽の光で温まって…。
(本物のウサギみたいにホカホカ…)
あったかい、と背中や尻尾も撫で回していたら、突然、上から声がした。
「ブルー君、今、帰りかい?」
えっ、と見上げると、門扉の向こうに家の御主人。慌ててピョコンと頭を下げた。
「こんにちは! ウサギ、勝手に触っちゃって…」
ごめんなさい、と謝ったけれど、御主人は「かまわないよ」と門扉を開けて表に出て来た。
「道を通る人に見て貰うために置いたんだしね。見るのも触るのも、お好きにどうぞ」
でなきゃ置いてる意味がないよ、と笑顔の御主人。「撫でて貰えばウサギも喜ぶからね」とも。
「このウサギ、おじさんが作ったの?」
「まさか。粘土のウサギだったらともかく、石の彫刻なんかは作れないよ」
腕も無ければ、道具も無いさ、と御主人はウサギの頭をポンと叩いた。「とても無理だね」と。
ブルーグレーの石で出来たウサギは、御主人の友達が作ったらしい。石の彫刻を趣味にしている人。せっかく見事に出来たのだから、大勢の人に見て貰いたい、と巡回中。
この家の御主人の所にやって来たように、彫り上げた人の友達の家を順番に。一週間ほど飾って貰って、次の家へと引越してゆく。運ぶ途中で壊れないよう、梱包されて。
そう聞くととても立派だけれども、石のウサギは「趣味の作品」。
何かの賞を取ったわけではないという。今の所は、コンクールなどに出されてもいない。本当にただの趣味の彫刻、知り合いの家を順に回ってゆくだけの。
御主人の話では、「ただの趣味」のウサギ。ちゃんとウサギに見えるどころか、今にもピョンと跳ねそうなのに。座っているのに飽きてしまったら、「遊びに行こう」と。
石で出来ていても、生き生きしているブルーグレーの大きなウサギ。いい彫刻だと思うのに…。
「これでも賞は取れないの?」
凄く素敵なウサギなのに…。動き出しそうなほど、よく出来てるけど…。
「ただの趣味ではねえ…。コンクールなんかに出してみたって、難しいんじゃないかな」
本人もそれが分かっているから、こんな具合に展覧会をしているんだよ。あちこちの家で。
もっとも、趣味で彫るだけはあって、いっぱしのことを言ってるけどね。
この石の中にはウサギがいたとか、そういう一人前の台詞を。
上手なんだか、下手なんだか…、と御主人はウサギを眺めている。「それでウサギだよ」と。
「ウサギって…。この石の中に?」
これ、とウサギを指差した。ブルーグレーの石の塊を。…今はウサギになっている石。
「そうさ。この石はウサギになりたかったらしいよ、こういうウサギに」
同じ動物でも、ライオンとかでは駄目なんだ。犬も駄目だし、猫も駄目だね。ウサギでないと。
ウサギになりたい石なんだから、と笑った御主人。
このウサギを彫った人が言うには、ウサギになりたい石の中にはウサギがいるもの。ただの石にしか見えないようでも、中にはウサギが住んでいる。それを彫り出すのが彫刻家。
石に隠れているウサギを見付けて、「出して欲しい」という声を聞いて。
「そうなんだ…。最初からウサギが入ってたんだね」
この石の中に、このウサギが。…それを見付けたのが、おじさんの友達…。
「そうらしいねえ、彫った本人に言わせると。この石にはウサギが隠れてたようだ」
昔からそう言われるようだよ、彫刻をする人の間では。…その友達から聞いたんだけどね。
本当の彫刻家は、彫るものの声を聞くらしい。…いや、見付ける目を持ってるのかな?
彫ろうとしている材料の中に何がいるのか、何になりたいと思っているか。
石だけでなくて、木の彫刻でも同じだね。名作と言われる彫刻なんかは、どれも彫刻家が中身を上手く彫り出した結果だという話だよ。
彼に言わせれば、このウサギだって「ウサギになりたい」と言っていたわけだから…。
声だけは聞こえたというわけなのかな、ちゃんとウサギになっているしね。
名作と呼べるかどうかはともかく、と御主人はウサギを撫でていた。「でもウサギだね」と。
それから暫くウサギを眺めて、撫で回したりして、「ありがとう」と御礼を言って家に帰った。石のウサギにも、「さようなら!」と手を振って。
自分の部屋で制服を脱いで、ダイニングに行って、おやつを食べながら考えたこと。さっき見て来た、石で出来たウサギ。あの家の門扉の前に置かれて、今も座っているのだけれど…。
(ウサギになりたかった石…)
御主人はそう言っていた。ブルーグレーの石の元の形は知らないけれども、中にウサギを隠していた石。今のウサギになる前は。
(丸い石だったか、ゴツゴツの石か、ぼくには分からないけれど…)
御主人の友達はあの石に出会って、「ウサギの石だ」と中身を見抜いた。彫刻が趣味の人だから分かった、石の正体。さっきの御主人や自分が見たって、きっとウサギは見付からない。
(ああいう色の石の塊…)
石があるな、とチラリと眺めて、そのまま通り過ぎるのだろう。ウサギには気付かないままで。石の中に隠れて、「外に出たいな」と、待ち焦がれているウサギが入っているのに。
(分かる人にしか、分からないウサギ…)
そう考えると面白い。ウサギを隠していた石のこと。
河原などにある丸い石だったか、山にあるようなゴツゴツの石か。ウサギは其処に隠れていた。あの御主人の友達が見付け出すまで、「ウサギを彫ろう」と考えるまで。
自分はウサギを見付けることは出来ないけれども、とても素敵だという気がする。ああいう風にウサギなんかが、石の中から出てくるなんて。
(地球の上には、石が一杯…)
山にも川にも、海辺にも石が転がっている。それは沢山、数え切れないほどの石たちが。
丸い石やら、ゴツゴツの石や。抱え切れないような石から、ヒョイと持ち上げられる石まで。
大理石のような石になったら、石切り場から切り出されもする。彫刻の素材や、建築用にと。
そういう石に隠れたものを、見付け出すのが彫刻家。「この石は何になりたいのだろう?」と。
石をじっくり見ている間に声がするのか、一目で中身が分かるのか。
色々なものになりたい石を、彫刻家たちが彫ってゆく。石の声を聞いて、中に隠れたものを。
今も昔も、せっせと彫っては石の中身を外に出す。帰り道に見たウサギみたいに。
地球の上には石が沢山、ウサギになりたい石もいる。ライオンとかになりたい石も、他の動物が隠れている石も。
(地球じゃなくって、他の星でも…)
探してみたなら、ウサギになりたい石が見付かるのだろうか?
彫刻家ではない自分には無理でも、それが趣味の人や、プロの彫刻家が探しに出掛けたならば。
地球は一度は滅びたけれども、生命を生み出した母なる星。
その地球の上にある石だったら、ウサギもライオンも知っている。滅びる前の地球には、沢山の生き物たちがいた。地球は彼らの姿を見ていて、石たちも記憶しただろう。ウサギやライオンや、空を飛んでゆく鳥たちを。
(ちゃんと知ってるから、石の中にもウサギやライオン…)
彼らの姿が入り込む。ウサギになりたい石も生まれれば、ライオンになりたい石だって。
けれど、地球とは違う星。
テラフォーミングされた星の上にも、そういった石はあるのだろうか?
今は宇宙に幾つも散らばる、人間が暮らしている星たち。生命の欠片も無かった星でも、年月をかけて整備していって。木や草を植えて、海も作って。
その星の上にも石はある。それこそ人が来るより前から、何も棲んでいない星だった頃から。
其処にあった石はどうなのだろうか、中にウサギは入っているのか。
(最初からウサギがいない星でも、ウサギになりたい石とかがあるの?)
中にウサギを隠している石。「早く出たいな」と、ウサギになれる日を待っている石。そういう石が他の星にもあるのか、それともまるで無いというのか。
(ウサギとかが住んでた、地球の石でないと…)
中にウサギは入っていなくて、いい彫刻は作れないだとか。彫刻家たちが頑張ってみても、中にいるものが無かったならば、名作は生まれて来ないとか。
(まさかね…?)
今の時代は、彫刻家だって大勢いる。あちこちの星で活躍している芸術家たち。
石を相手にする彫刻家も多いわけだし、地球の石だけでは足りないだろう。どれほど地球の石が多くても、山にも川にも沢山の石が転がっていても。
地球の石でしか名作を彫ることが出来ないのならば、彫刻家の数もグンと減ってしまいそう。
(…石を探しに地球に来るのも…)
大変だよね、と思う宇宙の広さ。ソル太陽系の第三惑星、水の星、地球。
此処まで来ないと「名作を作れる石」に出会えないなら、彫刻家を志す人だって減る。ふらりと山や河原を歩いてみたって、「石の声」に出会えないのなら。地球でしか、それが出来ないなら。
(地球に来るには、時間もお金も…)
かかるのだから、彫刻家の卵たちは諦めてしまうことだろう。余程の才能が無い限り。師と仰ぐ人が褒めちぎってくれて、「君なら出来る」と何度も励ましてくれない限り。
(褒めて貰ったら、いつかは地球の石を使って名作を、って思うだろうけど…)
そうでない人は「どうせ才能が無いのだから」と投げ出してしまって、それでおしまい。地球の石にさえ出会えていたなら、名作を彫れたかもしれないのに。
(そんなのだったら、彫刻をする人、ホントにうんと少なくなって…)
高名な彫刻家は地球の人ばかりで、でなければ地球から近い星の人。いつでも気軽に石を探しに地球まで旅が出来る人。
けれど、そうなってはいない。ソル太陽系から遠く離れた星にも、彫刻家たちは大勢いる。石があったら、とても見事な作品を彫り上げる人たちが。
「地球の石でないと駄目だ」と聞いたことなどは無いし、何処の星でも彫刻に向いた石はある。大理石だって、他の様々な石だって。
(他所の星でも、きっと、神様が色々な魂…)
それを石の中に入れるのだろう、と考えながら戻った二階の自分の部屋。
空になったカップやケーキのお皿を、「御馳走様」とキッチンの母に返してから。
(…さっきのウサギは、地球の石だけど…)
地球の石だから、中にウサギが入っていたって少しも不思議は無いけれど。
他の星でも、きっと神様が、石の中に色々入れてくれるに違いない。人間が暮らすようになった星なら、石の中にもウサギや、ライオン。犬や猫だって、鳥だって。
(人が暮らせる星になったら、彫刻家になりたい人も生まれてくるし…)
その人たちが困らないよう、神様が石に魂を入れる。ウサギやライオンを隠しておく。
今の仕組みはきっとそうだ、と勉強机の前に座って頬杖をついた。
何処の星でも、ウサギが入った石が見付かるのだろう、と。人間が暮らす星なら、きっと。
今日の自分が出会ったウサギは、石の彫刻。ブルーグレーの石を彫り上げたもの。
あのウサギを家の前に飾っていた御主人の友達は、石の中に隠れたウサギを見付けた。彫刻家が石を目にした時には、「何になりたい石」なのか分かる。ウサギだろうと、ライオンだろうと。
(木彫りも同じなんだよね?)
石と同じで、木の中に何かが隠れているもの。御主人はそう話していた。石と木とでは、素材が違うというだけのこと。中にいるものを「見付けて」外に出してやるのが彫刻家。
あちこちの星の石に神様が魂を入れるのだったら、木だって同じことだろう。テラフォーミングして木を植えたならば、その星の上には人間が住む。ちゃんと環境が整ったなら。
(海を作って、川とかも出来て…)
もう充分だ、と判断されたら、作業員たちは引き揚げて行って、代わりに移住してゆく人たち。其処で人間たちが暮らし始めたら、石にも木にも、神様が魂を入れてゆく。
(彫刻をする人がそれに出会ったら、中のウサギとかが見付かるように…)
中に隠れたものを見付けて彫っては、いろんな彫刻が出来るのだろう。地球でなくても、元々は何も棲んでいなかったような星でも。
神様が中に入れた魂、ウサギやライオンを見付け出しさえすれば。木や石を彫る彫刻家たちが、中に隠れた色々なものを、上手く彫り上げてやったなら。
(そうやって、何処の星でも、名作…)
地球でなくても、素晴らしい彫刻が生まれるのだ、と思った所で気が付いた。
帰り道に見た石のウサギは、なかなかの出来。今にも跳ねてゆきそうだったのに、コンクールで賞を取ってはいない。あの御主人は「難しいだろうね」と言ったけれども、上手ではあった。
けれど、あれとは正反対のものを、前の自分は知っている。
(前のハーレイ…)
遠く遥かな時の彼方で、前の自分が愛した人。キャプテン・ハーレイと呼ばれていた人。
前のハーレイは木彫りを趣味にしていたけれども、とても下手くそな腕前だった。あれが本当の下手の横好き、「彫らない方がマシ」と言えるほど。
何を彫っても、ハーレイが目指した「芸術品」が出来はしなかった。彫ろうとしていたものとは違った彫刻が出来て、誰もが笑ったり、顔を顰めたり。
どう見ても、「そうは見えない」から。まるで違った「変なもの」しか出来ないから。
木彫りが趣味でも、お世辞にも「上手い」とは言えなかったのが、前のハーレイ。懸命になって芸術品を彫れば彫るほど、「下手だ」と呆れられ、墓穴を掘っていたようなもの。
スプーンやフォークといった実用品なら、それは上手に彫れたのに。頼んで彫って貰う仲間も、何人もいたほどなのに。
けして「腕が悪かった」わけではない彫刻家が、前のハーレイ。腕が悪いのなら、実用品などを彫っても下手くそな筈。曲がったようなスプーンが出来たり、歪んだフォークが出来上がったり。
けれど、そうなってはいない。
実用品なら引っ張りだこの腕前、芸術品だけが「とんでもない出来」に仕上がったのなら…。
(…ひょっとして、ハーレイ…)
神様が木の中に入れた魂、それを見ないで芸術品を彫っていたのだろうか?
石や木たちの声が聞こえる、本物の彫刻家たちとは違って。…「これを彫るのだ」という自分の考えだけで、木に挑んでいた「彫刻家」。
木という素材を相手にするのが上手かっただけの、芸術とは無縁の製作者。学校の授業で工作をするのと同じレベルで、「上手く彫れる」というだけのことで。
(前のハーレイ、そうだったのかも…)
なまじ上手に彫れるものだから、ハーレイ自身は芸術家気取り。ナイフ一本で器用に仕上げて、スプーンもフォークも誰もが喜ぶ出来だったから。
ところがハーレイの中身はと言えば、「木の声なんかは聞こえない人」。本物の彫刻家の域には達していなくて、木の塊の中に「何かがいる」とは気付かないタイプ。
木の中に何が隠れているのか、それを見ないで強引に彫っていったなら…。
(…ナキネズミだって、ウサギになるよね?)
前のハーレイが、彫ろうとしていたナキネズミ。
赤いナスカで生まれたトォニィ、SD体制始まって以来の初めての自然出産児。ミュウの未来を担う子供で、誰もが誕生を喜んだ。古い世代も、新しい世代も。
そのトォニィの誕生を祝って、前のハーレイは自慢の木彫りを始めた。ブリッジで仕事の合間を見付けて、いつものナイフ一本で。トォニィにオモチャを作ってやろうと。
きっとトォニィも喜ぶだろうと、ナキネズミを彫ることにしたハーレイ。ミュウとは馴染み深い生き物、思念波を使える動物を。…けれど出来上がったものは、誰が見たってウサギそのもの。
ああなったのは、ハーレイの腕のせいではなくて、「彫刻家ではなかった」せいなのだろう。
前の自分は深い眠りの中にいたから、現場を見てはいないけれども…。
(…ハーレイがナキネズミを彫るために…)
倉庫に出掛けて、取り出して来た木の塊。趣味の彫刻のためにと残しておいた、シャングリラで育てた木材用の木の切れ端。狂いが出ないよう乾燥させては、取り出して彫っていたけれど…。
(これにしよう、って選んで、倉庫の中から出して来たヤツ…)
その木の中に隠れていたのは、ナキネズミではなくて、ウサギだったに違いない。ナキネズミになりたい木とは違って、ウサギになりたいと思っていた木。
(でもハーレイには、木の声なんかは聞こえなくって…)
木の中にいるものも見えはしなかった。彫刻家ではなくて、「木」という素材を彫るのが得意なだけだから。スプーンやフォークを上手く作れる、器用なだけのただの人間。
ハーレイは「ウサギになりたい」木とは気付かず、木の塊を彫り進めた。自分が彫ろうと思った動物、ナキネズミを木から彫り出すために。
けれど中には、ウサギだけしか入っていない木。ナキネズミなどは何処にもいない。ハーレイが頑張って彫れば彫るほど、ウサギは外に出たくなるから…。
(中のウサギが、我慢できずに出て来ちゃって…)
ハーレイの木彫りが完成した時、其処にいたのは一匹のウサギ。…ナキネズミとはまるで違った尻尾の、長い二本の耳をしたウサギ。
(…出来上がったのが、ウサギだったから…)
トォニィの母のカリナはもちろん、他の仲間たちも「ウサギなのだ」と思い込んだ。ハーレイも「違う」と言えはしなくて、それっきり。
トォニィは「ウサギになった」ナキネズミを大切にし続け、後の時代まで残った「ウサギ」。
「ミュウの子供が沢山生まれるように」という祈りがこもった、お守りなのだと信じられて。
今ではウサギは宇宙遺産で、博物館の収蔵庫の中。レプリカの展示も大人気。
(…なんでナキネズミがウサギになるの、って思ってたけど…)
前のハーレイの木彫りの腕にも呆れたけれども、原因は「ウサギになりたかった木」。
それなら分かる、ナキネズミがウサギに変身したこと。前のハーレイが選んだ木には、ウサギが入っていたのなら。…ナキネズミが入っていなかったなら。
きっとそういうことなんだ、と納得がいった「宇宙遺産のウサギ」。今のハーレイに聞かされるまでは、今の自分も「ウサギなのだ」と思い込んでいた、ナキネズミの木彫り。
(前のハーレイが作った、他の木彫りも…)
あれと同じで、無理やり彫るから変な出来上がりになったのだろう。
ヒルマンが頼んだ、知恵の女神ミネルヴァの使いのフクロウ。それはトトロになってしまった。SD体制が始まるよりもずっと昔の日本で愛された、可愛いオバケのトトロの姿に。
他にも酷い彫刻は沢山、どれも原因は同じだと思う。前のハーレイが強引に彫ったこと。
(木の声を聞いてあげないから…)
神様が木たちに与えた魂、その声を聞かずに彫ったハーレイ。自分が彫ろうと思ったものを。
そのせいで酷くなったんだ、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね…。前のハーレイ、木の声をちゃんと聞いていた?」
神様に貰った魂の声を、前のハーレイは、きちんと聞こうとしていたの…?
「はあ? 魂って…?」
魂の声を聞いていたかと言われても…。前の俺は、そういう仕事をしてはいないが…?
俺がキャプテンだったことを抜きにしてもだ、前の俺たちが生きた時代に、そんな仕事は…。
今の時代も無いんじゃないのか、ずっと昔の地球にだったら、幾つもあった職業なんだが。
神様の声を聞く人間とか、魂を呼び出す人間だとか、と見当違いなことを言い出したハーレイ。とうの昔に廃れてしまった、古典や歴史の世界の職業の名前を挙げ始めて。
「そうじゃなくって、木彫りだってば!」
前のハーレイ、いろんなものを彫っていたでしょ、シャングリラで!
あれを彫る前に、木の声を聞いてあげていたのか、それを質問しているんだよ…!
「木の声だって?」
いったいお前は何が言いたいんだ、木は喋らないと思うがな…?
黙って生えているだけなんだし、せいぜい葉っぱや枝が擦れて鳴るだけで…。
「それは生きてる木のことじゃない! ぼくが言うのは、木彫り用の木!」
伐採した木の残り、貰って倉庫に仕舞っていたでしょ?
あれを使って何かを彫る時、その木の声を聞いていたのか、知りたいんだよ…!
今日の帰りに聞いたからね、と披露した話。顔馴染みの御主人に教えて貰ったこと。
ブルーグレーの石の中にいて、御主人の友達に彫って貰って出て来たウサギ。中にウサギがいる石なのだ、と見付けて貰えて、今は立派なウサギの彫刻。門扉の前にチョコンと座って。
彫刻の類はそういったもので、「中にいるもの」を彫り出してゆく。木の彫刻でも同じだ、と。
「ぼくが見たウサギは、あの石の中にいたんだよ。…ウサギの彫刻になる前にはね」
丸い石だったのか、ゴツゴツの石かは知らないけれど…。中にウサギが入った石。
そういう石を何処かで見付けて、中のウサギを出してあげたのがアレなんだよ。
「中に入っているってか…。その手の話はよく聞くな」
古典の世界でも、定番ではある。
木の中に有難い神様の姿が隠れているとか、そんな具合で。…それを彫ったら霊験あらたかで、お参りの人が大勢やって来たという話は多いぞ。
今の時代も、何になりたいのか、耳を傾ける彫刻家とかは少なくないよな、うん。
いい素材なんかが手に入った時は…、と今のハーレイは知っていた。石や木の声、それを捉えて中に隠れたものたちを彫ってゆく人。彫刻家と呼ばれる人たちのことを。
「ほらね。昔もそうだし、今だって同じなんだけど…」
前のハーレイ、そういうのをちゃんと見付けてた?
木彫りをしようと木を取り出したら、木の声を聞いてあげていたわけ?
中には何が隠れているのか、何になりたいと思ってる木か。…声の通りに彫ってあげてた?
石の中にいたウサギみたいに…、と問い掛けたけれど。
「いや…? なんたって、木彫りは俺の趣味だったしな?」
今の俺は全くやっていないが、前の俺はあれが好きだった。いい息抜きにもなるもんだから。
木の塊とナイフさえあれば、何処でも直ぐに始められるし…。
空いた時間にポケットから出せば、ブリッジだろうが、休憩室だろうが、俺の憩いの空間だ。
其処で気ままに彫ってゆくんだから、何を彫ろうが俺の自由だと思わんか?
木の塊なんかの指図は受けんぞ、俺は彫りたいものを彫るんだ。…その時の気分で。
スプーンやフォークの注文が入っていたなら別だが、そうでなければ気の向くままだな。
こいつがいいな、と思い立ったら、そいつを彫ってゆくだけだ、と返った答え。
予想した通り、ハーレイは「聞いていなかった」。木の塊の中に隠れたものたちの声を。
それでは駄目だ、と零れた溜息。前のハーレイの彫刻が「下手だ」と評判だったのは、木の中にいるものを無視したから。…声を聞こうとしなかったから。
「やっぱりね…。ハーレイ、聞いていなかったんだ…」
木の塊が何になりたいのか、まるで聞こうとしなくって…。中にいるのは何だろう、って眺めてみたりもしなかったから…。
それでウサギになっちゃったんだよ、ウサギになるのも仕方がないよ。
「ウサギだと? 俺はウサギを見てもいないが…?」
お前が言ってる、ブルーグレーの石で出来てるウサギってヤツ。石の彫刻で、そこそこ大きさがあるんだったら、夜の間も出しっ放しだと思うんだが…。
気を付けて車を走らせていれば、此処へ来る途中に気付いただろうが、生憎と…。
違う方でも見てたんだろうな、ウサギは知らん。…それで、ウサギがどうかしたのか?
見ておけと言うなら帰りに見るが、とハーレイは勘違いをした。ブルーグレーの石で出来ていたウサギ、それが話の中心なのだと。…石のウサギではなくて、木のウサギのことを言いたいのに。
「違うってば。…石のウサギに出会ったお蔭で、前のハーレイのことに気が付いたんだよ」
前のハーレイがやっちゃったことで、宇宙遺産になってるウサギ…。
博物館でレプリカが展示されてるけれども、ハーレイ、あれはウサギじゃないって言ったよね?
ぼくには今でもウサギに見えるし、博物館の説明なんかもウサギになっているけれど…。
でも、本当は前のハーレイが彫ったナキネズミ。
トォニィが生まれたお祝いに作って、プレゼントしてあげたナキネズミで…。
いったい何処がナキネズミなの、って思っていたけど、今日のウサギで分かったよ。あの石の中にはウサギが入っていたらしい、って聞いて来たから。
宇宙遺産のウサギになった木、ウサギが入った木だったんだよ。…あの石と同じで。
ウサギになりたい、って思っていたのに、前のハーレイが無理やり彫ったから…。
木の声は少しも聞いてあげずに、中にいるものも探さないままで…。
ハーレイ、自分が彫りたいものが出来たら、好きなように彫っていたんでしょ?
あの木もそうだよ、中にはウサギが隠れてたのに…。ウサギになりたい木だったのに…。
トォニィにナキネズミを贈るんだ、って決めて勝手に彫っていくから…。
ウサギの木なのに、ナキネズミにしようと思ってどんどん彫っちゃったから…。
それでウサギになったのだ、と今のハーレイに向かって詰った。彫刻家の魂を持っていなかった前のハーレイを。実用品なら上手に彫れても、芸術品はまるで駄目だった彫刻家を。
「ハーレイが酷いことをするから、ウサギも酷い目に遭ったんだよ…!」
いい彫刻家と出会えていたなら、ちゃんと最初から素敵なウサギになれたのに…。
前のハーレイに捕まってしまったお蔭で、ナキネズミにされそうになっちゃって…。そんなの、ウサギも嫌だろうから、頑張ったんだよ。
ハーレイがせっせと彫ってる間に、必死に抵抗し続けて。「ウサギになるんだ」って。
うんと頑張って暴れ続けて、なんとかウサギになれたんだと思う。…下手なウサギだけど。
でも、ナキネズミにされちゃうよりかはずっといいよね、ウサギなんだから。
下手くそな出来のウサギでもね、と赤い瞳を瞬かせた。「ナキネズミにされるよりはマシ」と。
「おいおいおい…。そういう話になっちまうのか?」
俺はナキネズミを彫ったというのに、ウサギなんだと思われちまって…。今もやっぱりウサギのままで、宇宙遺産にされちまってて…。
あれが悔しいと思っているのに、お前はウサギだと言いたいのか?
俺はナキネズミを彫ったつもりでも、出来上がったものは、木の中にいたウサギなんだと…?
正真正銘、ウサギなのか、とハーレイが目を丸くするから、「そうだけど?」と返してやった。
「あれはウサギだよ、何処から見ても。…誰が見たってウサギだものね」
そうなっちゃうのも当然だってば、元からウサギなんだから。…木の中に隠れて、ウサギになる日を待っていたウサギだったんだから。
ヒルマンに彫ってあげたんだっていう、フクロウの木彫りだってそうでしょ?
トトロにしか見えないフクロウだったけど、あれもハーレイが無茶をしたからだよ!
本当はトトロになりたかった木を、フクロウにしようと彫ったから…。
フクロウが出来上がるわけがないよね、木の中にいたのはトトロなんだもの…!
どれもハーレイが悪いんだよ、と恋人の顔を睨み付けた。「木の声を聞いてあげないから」と。
「ちょっと待ってくれ。ウサギはともかく、トトロはだな…」
トトロは子供向けの映画で、それに出て来たオバケに過ぎん。トトロは実在してなくて…。
「でも、魂はありそうじゃない!」
魂があったら、ちゃんと神様が入れてくれるよ。木の中にも、石の中にもね…!
前にハーレイに見せて貰った、遠い昔のトトロの映画。断片しか残っていない映画だけれども、ハーレイの記憶に刻まれた中身は温かかった。人間が自然を愛していた頃、思いをこめて作られた映画だったから。
SD体制の時代までデータが残ったほどだし、オバケのトトロにも、立派に魂が宿っていそう。
地球が滅びてしまった後にも、神様の手で拾い上げられて。…壊れないように守られて。
白いシャングリラの中で育った、木にまで入り込むほどに。トトロになりたいと願う木の塊が、あの船の中にも生まれるほどに。
「うーむ…。トトロが入った木だったと言うのか、俺がフクロウを彫っていた木は?」
ヒルマンがフクロウを頼んで来たから、腕によりをかけて彫ろうと選んだ木だったんだが…。
あれの中にはフクロウはいなくて、代わりにトトロがいたんだな?
でもって、トォニィにナキネズミを彫ってやった木には、ウサギが入っていやがった、と…。
どっちも中身が外に出たがるから、フクロウはトトロになってしまって、ナキネズミはウサギに化けたってか…?
俺の彫刻が下手だったのは、俺が選んだ木に入っていたヤツらのせいか…?
フクロウもナキネズミも、そのせいで変になっちまったのか、とハーレイが嘆くものだから…。
「自業自得って言うんでしょ、それ。…木の声を聞いてあげないんだもの」
何になりたいと思っている木か、ちゃんと聞いてから彫っていたなら、前のハーレイでも上手く彫ることが出来たんじゃないの?
スプーンやフォークは上手に彫れたし、不器用だったわけじゃないんだから。
だけど、芸術品は無理。…木の声を聞いてあげもしないし、中にいるものも探さないんだもの。
これが本物の彫刻家の人たちだったら、きちんと探して彫るんだものね?
ぼくが見て来たウサギもそうだよ、趣味の彫刻らしいけど…。コンクールに出しても、賞とかは取れないみたいだけれども、とても上手に出来てたってば。今にも跳ねて行きそうなほどに。
あれを彫った人は、ちゃんと「石の中にウサギがいる」って見抜いていたんだよ…?
ウサギの石だって分かってたんだよ、それでウサギを彫ったんだよ…!
同じ趣味でも、前のハーレイのとは大違い。
石の声を聞いて、中に隠れたウサギを見付けて、きちんと出してあげたんだから。
ウサギになりたい木を捕まえて、ナキネズミにしようとしたハーレイとは違うんだから…!
ホントのホントに大違いだよ、と下手な彫刻家だった恋人を責めた。「あんまりだよ」と。
ウサギになりたかった木や、トトロになりたいと思っていた木。そういう木たちの声を聞こうとしないで、好き勝手に彫ろうとしたハーレイ。
それでは木だって可哀相だし、出来上がった彫刻も可哀相。ウサギになろうと思っていたのに、「ナキネズミだ」と主張されるとか、トトロなのにフクロウにされるとか。
「ぼくだったら、悲しくて泣いちゃうよ…。自分が自分じゃなくなるだなんて…」
ウサギに生まれたのにナキネズミだとか、トトロだったのにフクロウだとか。…悲しすぎるよ。
宇宙遺産になったウサギは、みんなが間違えてくれたお蔭で、ちゃんとウサギになれたけど…。
でも、ハーレイは今も「ナキネズミだ」って言うんだから。…本当はウサギの筈なのに。
ハーレイに木の声が聞こえていたなら、そんなことにはならないんだよ…?
出来上がった彫刻も褒めて貰えて…、と尖らせた唇。「前のハーレイ、ホントに酷すぎ」と。
「…要するにお前は、前の俺は彫刻家として、失格だったと言いたいんだな?」
彫ろうと向き合った木の声が聞こえる才能が無くて、木の中身だって見えなくて。
中身はウサギだと気付きもしないで、そいつで無理やりナキネズミを彫ろうと悪戦苦闘していた大馬鹿野郎。…そんなトコだろ、木の魂に逆らっちまって、下手なヤツしか彫れない人間。
彫刻家としては失格な上に、才能の欠片も皆無だった、と。
やらない方がマシな趣味だと言うわけか、とハーレイが眉間に寄せた皺。「下手だったが」と。
「スプーンやフォークは上手だったし、やらない方がマシだとまでは言わないけれど…」
だけどウサギやトトロなんかは、芸術性の欠片も無いから…。
その割に、ウサギが残っているけど…。百年に一度の特別公開、大人気のウサギなんだけど…。
博物館をぐるっと取り巻く行列が出来るらしいもんね、と思い浮かべた宇宙遺産のウサギ。今はウサギとして知られている、キャプテン・ハーレイが彫ったナキネズミ。
「宇宙遺産のウサギだったら、立派なもんだぞ。…名前が少々、不本意だが」
俺はナキネズミを彫ったというのに、ウサギだなんて間違えやがって…。今もそのままで…。
とはいえ、芸術は後世に残ってこそだし、前の俺にも才能ってヤツがきちんとだな…。
「あったって言うの? あれが今でも残っているのは、ウサギが出て来てくれたからでしょ!」
ハーレイがナキネズミにしようとしたって、ウサギになろうと頑張ったウサギ。
ナキネズミだったら宇宙遺産になるのは無理だ、ってハーレイも言っていたじゃない…!
宇宙遺産のウサギは、ミュウの子供が沢山生まれるようにという祈りがこもった大事なお守り。
ウサギは豊穣と多産のシンボル、皆が勘違いをしてしまったから、ウサギは残った。宇宙遺産の指定を受けて、博物館に収められて。
ただのナキネズミの木彫りだったら、オモチャとして扱われただろう。宇宙遺産になって残りはしないで、時の流れに消えていたのに違いない。
ウサギにしか見えなかったお蔭で、ナキネズミの木彫りは今まで残った。前のハーレイがいくら頑張って「ナキネズミにしよう」と彫り進めたって、「ウサギになりたい」と思った木。
彫ろうとしている木の声も聞かない、酷い彫刻家の腕にも負けずに、表に姿を現したウサギ。
「あのウサギが頑張ってくれたお蔭で、前のハーレイの彫刻が今でも残ってるんだよ」
ナキネズミにされてたまるもんか、って、諦めないで、ちゃんとウサギになったから。
ウサギに見える姿を手に入れたから、宇宙遺産のウサギなんだよ。
木の中にいたウサギに感謝してよね、ハーレイの才能だなんて言わずに。無理やりナキネズミにしようとされても、ウサギは頑張ったんだから。
「…俺の腕ではないってか?」
宇宙遺産のウサギがあるのは、前の俺が心をこめて彫ったお蔭だと思うんだが…。
「違うよ、木の中のウサギのお蔭!」
ウサギが隠れていてくれたことと、頑張って表に出てくれたこと。その両方だよ、あのウサギが今も宇宙に残っている理由はね…!
いつか本物の宇宙遺産のウサギに会えた時には御礼を言わなきゃ、とハーレイに注文をつけた。
展示ケースの前に立ったら、「出て来てくれてありがとう」と。
木の中のウサギが出て来たお蔭で、立派に宇宙遺産になれたし、今でも残る芸術だから。彫ったハーレイの腕はどうあれ、美術の教科書にも載るほどだから。
「御礼を言えって言われてもだな…。俺にとってはナキネズミだが…」
あれは断じてウサギじゃなくてだ、ナキネズミというヤツなんだが…?
訂正できる機会が無いだけだ、とハーレイは不満そうだけれども。
「ウサギになったから、宇宙遺産になって今まで残れたんでしょ!」
ナキネズミじゃ残れないんだから!
ただのオモチャの一つなんだし、何処かに消えて行方不明でおしまいだから…!
絶対、残っていないからね、とハーレイに言葉をぶつけてやった。「残るわけが無いよ」と。
木彫りのオモチャのナキネズミなどは、実際、残りそうにないから。
「しかしだな…。俺はナキネズミを彫ったのに…」
そいつをウサギにされちまった上に、そのウサギにだな…。
御礼を言わなきゃいけないのか、とハーレイは呻いているけれど。情けなさそうな顔をしているけれども、ナキネズミは今もウサギ扱い。前のハーレイが彫った頃から、ずっと。
木の中のウサギの声も聞かずに、ナキネズミにしようと彫ったから。…ウサギらしい姿になってきたって、強引に彫った結果だから。
(木の声を聞いてあげもしなかった、酷い彫刻家が悪いんだしね?)
ナキネズミがウサギになってしまうのは当たり前だし、悪いのは前のハーレイだと思う。
それに、そんな彫刻家の作品が今まで残っているのも、木の中にいたウサギのお蔭。懸命に声を上げていたって、ナキネズミにされてゆくだけだから、と抵抗を続けたウサギが強かったお蔭。
いつか本物の彫刻に会えた時には、ハーレイが何と文句を言っても、御礼を言おう。
「出て来てくれてありがとう」と。
前のハーレイがナキネズミにしようと彫り続けても、ちゃんと姿を見せたウサギに。
ナキネズミにならずに、ウサギの姿になったウサギに。
お蔭で、前のハーレイがトォニィのために作った木彫りを、今の自分が見ることが出来る。赤いナスカでは深い眠りの中にいたから、見そびれてしまったのだけど。
とても下手くそな木彫りを眺めて、「ウサギだ」「いやいやナキネズミだ」と喧嘩も出来る。
「ナキネズミだ」と譲ろうとしないハーレイと二人、傍から見たなら馬鹿みたいな喧嘩を。
(…ウサギに、御礼を言わなくちゃね…)
今の時代まで宇宙遺産になって残れたのは、木の中のウサギのお蔭だから。
ハーレイは無視して彫ったけれども、ウサギが頑張ってウサギの形になってくれたから。
木の中に隠れていたウサギ。なりたかった姿を手に入れたウサギ。
それにペコリと頭を下げよう、ハーレイが隣で「ナキネズミだぞ?」と低く唸っていても…。
彫刻家と魂・了
※前のハーレイが作った、宇宙遺産の木のウサギ。実はナキネズミだったそうですが…。
ウサギの形になったのは、木の中に隠れていた魂のせいかも。ウサギの姿になりたかった木。