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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧
(あ…!)
 素敵だよね、とブルーが手に取った本。学校の休み時間に、図書室で。
 生徒の注目を浴びるようにと、表紙を見せて置いてあった一冊。大きめの本で、目に入ったのはカラーで刷られた古代の遺跡。それが表紙になっている。
 遺跡なのだし、遠い昔に地球と一緒に滅びたもの。
 大気汚染による劣化を免れた遺跡も、地球が燃え上がった時の地殻変動で全て壊れてしまった。今は何一つ残ってはいない。「此処にあった」と復元されたものはあっても。
(えーっと…?)
 ページを繰ったら、遺跡の写真と、それに添えられた解説など。遠い昔の「地球」が一杯。
 前の自分が焦がれた地球。青い星だと信じていた頃、地球というだけで憧れた。自然にも、人の営みにも。この写真のような、遥か昔の遺跡などにも。
(人間が住めない星になっても…)
 遺跡は残っていたかもしれない。そう思ったのが前の自分。
 SD体制を敷いたお蔭で、地球が青い星に戻ったのなら、その遺跡たちを訪ねる人も何人も。
(昔みたいに写真を撮ったり、観光したり…)
 そういう平和な光景だってあるのだろう、と夢を見ていた。いつか自分も行けたらいい、と。
(だけど、何もかも無くなっちゃった…)
 今はもう、何処を探しても無い古代の遺跡。遠い昔の人が築いた、都市や神殿などが崩れた跡。かつて其処にも人がいたのだ、と教えてくれる加工された石や、壊れてしまった柱やら。
(この本の写真は、全部本物…)
 遺跡があった頃に撮られた写真で、データを元に印刷されたものばかり。
 気が遠くなるほどの時を越えて来て、この本の中に収まっている。SD体制に入る前の滅びと、SD体制の終わりと共に訪れた地球の炎上を、ちゃんと生き延びて。
 恐らくノアや他の惑星に、データが残してあったのだろう。
 地球が蘇る時に備えて、動植物を保護し続けたように。「かつての地球の姿」も同じに、けして失われてしまわないように。
 復元するつもりは無かったとしても、「人が生きた証」を残そうとして。
 母なる地球でどう「生きた」のか、どんな文化を築いたのかと。



 SD体制の時代は様々な文化が消されたけれども、この遺跡たちの写真は残った。二度の滅びを立派に乗り越え、こうして編まれて本にもなって。
(せっかくだから…)
 此処でパラパラ眺めているより、家に帰ってゆっくり読みたい。自分の部屋で、気の向くままにページを繰って。
 勉強机で読むのもいいし、ベッドに腰掛けて読むのもいい。こんなに素敵な本なのだから。
(借りて帰ろうっと!)
 いそいそと抱えて、早速借りることにした。図書室の貸し出しカウンターに行って、その一冊を差し出して。「お願いします」と、係の人に。
 手続きは直ぐに済んだけれども、借りられる期間は三日だという。三日だけしか借りられない。たったの三日で、今週の内に返却期限が来てしまう。
(…なんで?)
 三日だなんて、と目を丸くした。図書室の本は、普通は一週間借りられるのに。本によっては、もっと借りられるものもあるのに。
(どうしてなの…?)
 係の人に尋ねてみたら、教えて貰えた貸し出し期間が短い理由。
 この本は人気が高いけれども、それと同じに値段の方も高かった。裏表紙に刷られている値段。
(お小遣いで買うには、ずいぶん高くて…)
 よほど惚れ込んだ生徒くらいしか、この値段で本は買わないだろう。これだけあったら、色々なものが買えるから。安い本なら、何冊も。お菓子は山ほど、他にもあれこれ買えそうな額。
 遊びたい盛りの生徒たちだと、こういった本は買いもしないで、お小遣いを使うなら違う目的。本屋に行っても、別の棚へと出掛けて行って。「これと、これ」などと選び出して。
 そうなるだろう本を、少しでも多くの生徒に読んで貰いたい、と短くされた貸し出し期間。
 読み終えた生徒が返しに来たなら、次の生徒の所に行く。
(一日あったら読める生徒でも…)
 貸し出し期間が一週間だと、なかなか返しに来ないもの。「図書室に行くのは面倒だ」などと。
 けれど三日なら、急いで返しにやって来る。ウッカリしていて延滞したなら、次に借りる時に、面倒なことになってしまうから。「遅れた罰」と、暫くの間、何も貸し出しては貰えないとか。



 三日間しか貸して貰えない本。図書室の他の本と違って。
(ぼくが病気で休んじゃったら…)
 もちろん返しに来られないから、自動的に返却期限が延びるけれども、他には延長方法は無い。三日間借りて返せばおしまい、次の生徒に回るだけ。
(続けて貸して下さい、って…)
 頼みたくても、それは出来ない。係の人に返した本は、その場では棚に戻らない。貸した間に、本が傷んだりしていないかとチェックするから。傷んでいたなら、補修もする。
(奥に運んで、ちゃんと調べて…)
 それから棚に戻すのだから、早くても次の休み時間までは出て来ない。そうやって棚に置かれたならば、図書室に来た生徒が手に取り、貸し出し手続きを始めてしまう。
 こうして自分がやっているように、「この本を貸して下さい」と。
 係の人は、貸し出し記録が書いてあるノートを広げてくれた。「この本は、これ」と指差して。
(…本当だ…)
 見せて貰った貸し出し記録は、日付がビッシリ詰まっていた。三日間ずつ借りた生徒が、次々に本を借りて行った結果。
(ぼくが今、これを借りたけど…)
 自分の名前の前の記録は、今日の日付になっている。朝一番に返した生徒がいたのだろう。
 返却された本は奥に運ばれ、傷んでいないかチェックを済ませて、あそこに置かれた。カラーの表紙がよく見えるように、目立つ所に。
 きっと自分は、たまたま運よく出会えただけで…。
(もうちょっと遅く来ていたら…)
 他の誰かが借りてしまって、この本はもう無かったのだろう。誰かの家で三日を過ごして、また戻っては来るけれど…。
(今日まで、一度も見てないんだから…)
 次に戻って来た時だって、存在にさえも気付かないまま。他の誰かが借りて帰って、あの棚には置かれていないから。…其処に無ければ、「ある」とも思いはしないから。
 目の前で誰かが借りて行ったら気付くけれども、今日まで一度も出会ってはいない。もう本当に運の問題、出会えもしないで終わっていたかもしれない本。



 そうだったんだ、と気付かされたら、本との出会いの重みが増す。三日間しか一緒にいられないだけに、とても大切で素敵な出会い。
 大事に家に持って帰って、おやつの後に部屋で広げた。勉強机の前に座って。
 図書室で一目で惹き付けられた、古代遺跡が刷られた表紙をめくったら…。
(ホントに地球だ…)
 どれも地球だよ、と載っている遺跡たちの写真に心が温かくなる。遥かな昔の、汚染される前の地球で撮られた写真たち。何処までも青く澄んだ空やら、遺跡の向こうに広がる海や。
(SD体制の開始を決めた頃には…)
 この空も海も、とうに無かった。大気は汚れて濁ってしまって、海からは魚影が失われて。
 残っていた遺跡も、くすんでしまっていたことだろう。有毒の塵や、砂漠化した場所から飛んでくる砂に包まれて。白かった石の柱なんかも、元の色など分からないほどに。
(そうなる前の、青かった地球…)
 其処で撮られた、何枚もの写真。撮影時期は二十世紀だと書かれたものまでがある。
 二十世紀は、本当に遠い昔のこと。SD体制が始まった時代より、千五百年は優に遡る。そんな頃なら、地球は文字通り青かったろう。蘇った今の地球と同じに、空も海も青い水の星。
(この写真も、二十世紀ので…)
 ホントに綺麗、と見惚れた遺跡。
 他の写真も、どれも本物。古代の遺跡を彩る植物、それは確かに「生えていた」もの。写真家がカメラを構えた時に、其処に息づいていた植物たち。
 白い遺跡に映える赤いケシも、砂漠の中の遺跡の池で花開いている睡蓮も。
 遺跡の上を飛んでゆく姿が写った小鳥も、崩れた遺跡の庭で昼寝をしている猫も、全てが本物。
 遠い昔に其処に「いた」もの、写真の中には幾つもの命。
(遺跡は崩れちゃってても…)
 もっと昔に其処で暮らした人の営み、それは壊れて廃墟になっても、別の命が息づいていた。
 砂漠だろうと、遺跡を覆って飲み込んでゆく熱帯雨林だろうと。
 地球はそうして命を紡いで、また新しい国や文化があちこちに出来ていったのだろう。
 全ての命は地球から生まれて、地球へと還ってゆくべきもの。
 前の自分が夢見た世界が、写真の中に詰まっている。母なる地球の真の姿が。



 ページをめくれば、遺跡と其処に息づく命。一枚の写真を見詰めてゆくと、色々なものが見えてくる。隅っこの方に小さな花が咲いているとか、猫の尻尾だけが写っているとか。
 古代の遺跡は、廃墟とも言える。其処で暮らした人間たちは消えてしまって、建物なども崩れてしまった後なのだから。
 それでも新たな命が見える。人間ではなくて、植物でも。遥か上空を飛ぶ鳥たちでも。
(いいな…)
 本当に本物の地球が一杯、と見れば見るほど惹き付けられる。この本が欲しくなってくる。
 三日しか貸して貰えないなら、自分で買えばいつでも見られる。次に借りられる機会を狙って、図書室通いをしなくても。
(貸し出し記録が、あんなにビッシリ…)
 それなのに今日まで出会えなかったし、借りたいと思って通い続けても、出会えるかどうか。
 ほんの少しの時間の差だけで、他の生徒が借りてしまうとか。「あった!」と見付けて、棚へと歩いて行った途端に、他の生徒が先に掴んでしまうとか。
(…そういうことって、ありそうだよね…)
 運にはあまり自信が無いから、悲しい目に遭ってしまう時だって来そう。「今日も無かった」と別の本の貸し出しを頼んでいたら、他の生徒が「お願いします!」と隣で手続きを始めるだとか。
(一度に何冊も借りる子だっているんだから…)
 この本を借りようと決めた後にも、他の本を探してウロウロしても不思議ではない。山のようにカウンターに差し出した中に、この本が一緒に混じっていても。
(それって、悔しい…)
 せっかく会えても、別の生徒が「借りる権利」を持っているなんて。
 自分よりも先に見付けてしまって、家へと持って帰るだなんて。
(そんなの、嫌だよ…)
 とても素敵で、飽きない遺跡の写真たち。本物の地球が詰まっている本。
 前の自分が此処にいたなら、きっと抱き締めることだろう。「地球だ」と、それは嬉しそうに。
 自分の場合は地球に生まれたから、其処までのことはしないだけ。
 けれど惹かれて、離したくない。
 三日間の貸し出し期間が過ぎたら、返さなくてはいけない本でも。



 返した後にも読みたいのならば、目の前で誰かに掻っ攫われても、この本を手にしたいなら…。
(自分で買うしかないんだよね?)
 それよりも他に方法は無くて、買えばこの本は自分のもの。本棚に仕舞って、いつでも読める。見たいページを好きに広げて、遥かな昔の地球へと飛べる。二十世紀の世界にだって。
(…いつの本かな?)
 そんなに古くはなさそうだけど、と奥付を見ると、初版は何年か前だった。それから何刷も版を重ねて、この本が刷られたのは去年。
 こんなに何度も重版している人気の本なら、街の大きな書店に行ったら買えそうだけれど…。
(…お金……)
 生憎と、本を買うためのお金が足りない。子供が買うには高すぎる本。
 お小遣いの一ヶ月分をはたいてみたって、とても買えない。お小遣いを貯めて買おうにも…。
(んーと…?)
 この本の他にも、欲しいものなら色々とある。お小遣いを使うべき場面。
 学校で食べるランチ代は貰っているのだけれども、それ以外に何か食べる時にはお小遣いから。そう両親と約束したから、友達と休み時間にジュースを買ったら、お金は減る。その分だけ。
 ちょっとした本などが欲しくなっても、同じこと。払った分だけ、減るお小遣い。
(この本、買うには…)
 お金を貯めていかないと無理。お小遣いの中から、少しずつ。
 一ヶ月分を取っておくのは無理だし、毎月、残った分だけを貯める。引き出しの中に別の財布を入れておくとか、「本を買うお金」と書いた封筒を作るとかして。
 一ヶ月分のお小遣いでは買えない値段の本を買うなら、その方法で何ヶ月かかることだろう?
 余った分だけ貯める方法、それでお金を貯めてゆくなら。
 今すぐに買いに行けはしないし、どう頑張っても三ヶ月以上かかりそう。三ヶ月だって、多分、ギリギリ。友達とジュースを飲む回数を減らしてみるとか、工夫が必要。
(貯金を使えば、直ぐに買えるけど…)
 小さい頃から貯めている貯金は、本に使うより、もっと大切な何かの時に使いたい。ハーレイの誕生日のプレゼントにさえ、貯金は使わなかったのだから。
 もっとも、あれは「背伸びして」買っても、喜んで貰えないだろうと思ったせいなのだけど。



 誰よりも好きな、ハーレイに贈りたかった羽根ペン。お小遣いでは買えない値段だった品。
 あれを贈った時にも貯金は使っていないのだから、本を買うのに使うのは自分が納得できない。本が欲しいのは自分の我儘、そんなものに貯金を使うだなんて。
 そうなってくると、この本は…。
(諦めるしかないんだよね…?)
 いくら欲しくても、買うためのお金が無いのだから。お小遣いではとても買えなくて、頑張って貯めてゆくしかない。何ヶ月もかけて、節約のための工夫もして。
(そうやって、お金を貯めたって…)
 本当に先が見えない計画。「今月はこれだけ貯めなくちゃ」と思っていたって、ウッカリ何かを買ってしまったら、それで狂ってしまう計画。ジュースを飲むのを我慢したって、使ってしまった分の穴を埋められないままで。
 三ヶ月くらい、と目標を立てて貯めようとしても、果たして貯まっているのかどうか。三ヶ月の筈が四ヶ月になって、四ヶ月から五ヶ月、更に六ヶ月。…そういったことも、充分、ありそう。
(貯めて買うのは無理そうだから…)
 お小遣いで買うのは、諦めるのが正しいと思う。計画倒れに終わってしまいそうだから。貯めるために封筒を用意したって、専用の財布を引き出しに入れておいたって。
 父に「買って」と強請りたくても、本の中身は遠い昔の遺跡の写真。前の自分が生きた時代とは無縁のもので、シャングリラとも何の関係も無い。
(シャングリラの写真集は買って貰えたけれど…)
 豪華版のそれは、この本よりもずっと高いけれども、父は気前よく買って来てくれた。「お前が欲しがってたヤツだ」と、頼んでから何日も経たない内に。
(前のぼくのこと、パパは知っているから…)
 懐かしい白い鯨の写真を集めて編まれた本を、ポンとプレゼントしてくれたけれど。高価な本をくれたけれども、この本はそうはいかないだろう。
(いくら前のぼくがソルジャー・ブルーでも…)
 地球に惹かれることを父が知っていても、この手の本を端から買ったらキリが無い。青い地球の本は沢山あるから、あれも、これも、と強請られて。
 学校の図書室や新聞の紹介欄で見る度、「これが欲しいな」と言うだろうから。



 いくらでもある地球の本。この本は古代の遺跡だけれども、自然の風景を収めた本も多い筈。
 他にも色々、滅びる前の地球に関する本たちがあって、これからも出版されるだろうし…。
(この本よりも、もっと欲しい本が出ちゃった時に…)
 強請れなかったら、とても困るから、父に「欲しい」とは頼めない。買って貰って喜んだ後に、別の本に出会って欲しくなっても…。
(この前、買ってやっただろう、って…)
 きっと言われて、それでおしまい。「欲しいなら、お小遣いを貯めて買うんだな」などと。
 そうなった時に後悔しても遅いし、諦めるしかなさそうな本。お小遣いを貯めて買うという道で挫折しそうなら、今の間に、潔く。
(…三日間だけ…)
 三日しかない、この本を読んでいられる期間。買うのは無理で、父に買っても貰えないなら。
 返却の日がやって来たなら、其処でお別れ。またいつか借りることが出来るかは、運次第。運が良ければ出会えるだろうし、悪かったならば出会えないまま。
(三日しか持っていられないんだし…)
 学校に行く時も持って出掛けようか?
 返却の日はまだ来ていなくても、休み時間に広げて楽しめるように。
 家ではもちろん、寸暇を惜しんで。…食事やお風呂や寝る時間以外は、この本に充てて。
(…ハーレイが来ちゃったら、駄目だけど…)
 本を読むより、ハーレイと話す方がいい。だからその間は本はお休み、と思った途端に閃いた。
 「ハーレイだよ!」と、それは素晴らしいアイデアが。
(お土産、たまにくれるんだから…)
 いつも食べ物ばかりだけれども、貰えるお土産。「美味そうだから」などと、提げて来て。
 そのハーレイに、「この本が欲しい」と強請ってみよう。
 プレゼントしてはくれないだろうし、代わりに本の代金を借りる。お小遣いのように。
(ママには前借り、頼めないけど…)
 お小遣いの前借りなどは無理。「何に使うの?」と訊かれて、「駄目ね」と返ってくるだろう。
 「充分、渡してある筈よ」と言われた上に、「それで買えないなら、貯めなさい」と。
 「貯めて買えるだけは渡してあるのに、前借りだなんて、無駄遣いでしょ」などと叱られて。



 母に頼めば、「前借りなんか、絶対に駄目」と言われておしまい。母の考えは正しいから。
(ぼくの友達、お小遣いを前借りした時は…)
 誰もが、きちんと約束をする。「来月の分は要らないよ」だとか、「三ヶ月、お小遣いは無しでいい」とか。そう約束して、誓約書だって書く友達もいるけれど…。
(…みんな、絶対、守らないんだよ…)
 お小遣いを貰っている日がやって来たなら、当たり前のように頼む「お小遣い」。その月の分は前に貰って、使ってしまった後なのに。場合によっては、三ヶ月も先のお小遣いまで。
 それでも「ちょうだい」と手を差し出しては、自分のピンチを訴えるもの。お小遣いが無いと、何処にも遊びに行けないだとか、じきに発売の新商品を買いに行けないだとか。
 そういうケースは母も充分、知っている筈。同じ年頃の子供の親から聞いたり、新聞などで目にしたりして。「お小遣いの前借り」を頼んだ子供が、その後で何をしでかすかは。
(ぼくはきちんと守るから、って言ったって…)
 きっと信用して貰えない。今までに一度もやっていないだけで、「初の前借り」をして踏み倒すことは大いに有り得る。母から見たなら、自分も「子供」に違いないから。
(ママは絶対、駄目って言うよね…?)
 どんなに頭を下げてみたって、「無駄遣いでしょ」と切り捨てられるだけ。
 けれど、ハーレイになら借りられそう。
 なんと言っても恋人なのだし、前の生からの信用だって大きい筈。ソルジャー・ブルーはお金を使わなかったけれども、約束は守る人間だった。…メギドに向かって飛んで行った時を除いては。
(あれが例外で、他の時には約束を守っていたんだし…)
 頭ごなしに「踏み倒すだろう」と、決めつけたりはしないと思う。世間の母親たちのようには。
 それに、少しずつ返してゆくことも出来そうな感じ。
 お小遣いを貰う日がやって来た時に、前の月のが残った分だけ。「今月はこれだけ」と、本当に僅かな額にしたって、ハーレイなら、きっと叱らない。
(お小遣いが残っていた分だけ…)
 精一杯の額を返す形でも、「返した」ことは間違いない。踏み倒さずに、ちゃんと。
 そうやってハーレイに返していったら、いつかは全額返せるだろう。
 塵も積もれば山となる。ジュースなどを無理に我慢しなくても、きっといつかは。



 それがいいかも、とポンと打った手。まさに名案。
 母に借りるのは無理だけれども、ハーレイなら貸してくれるかもしれない。恋人同士で、信用もあって、おまけに立派な大人なのだから。
(ハーレイだったら、貸してくれそうだよね?)
 家に来てくれた時に頼もう、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、広げていた本をパタンと閉じた。ハーレイと過ごす時間に読みはしないし、次に開くのは、お風呂上がりになるだろう。
 けれど、その前に大切なことをしなければ。…あの本を手に入れたかったら。
 本は勉強机に残して、ハーレイと向かい合わせで座ったテーブル。其処で早速、切り出した。
「あのね、お願いがあるんだけれど…。ぼくにお金を貸してくれない?」
 これだけほど、と口にした本を買うのに必要な額。お小遣いの一ヶ月分より、ずっと高い値段。
「はあ? 貸してくれって…」
 俺にか、とハーレイは自分の顔を指差した。「お父さんたちは、どうなったんだ?」と。まずはそっちに頼んでみろ、という意見は当然なのだけど…。
「頼んでみたって、パパやママには借りられないから…」
 ぼくみたいな年の子供が借りても、お金、絶対、返さないでしょ?
 友達の話を聞けば分かるよ。前借りしたって、返す友達、いないから…。借りたまんまで、次のお小遣いを貰いに行くのが当たり前。…ぼくが聞くのは、そんな話ばかり。
 ぼくは前借り、したこと無いけど、パパもママも「駄目」って言いそうだよ。返しに来ないの、何処の子供でも同じだから…。ぼくもそうだと思われちゃって。
 だから貸しては貰えないのに、欲しいものがあって…。でも、お小遣いじゃ買えなくて…。
 ハーレイは買ってくれないだろうし、お金だけ貸して。…それでいいから。
「ほほう…。プレゼントを寄越せと言うんじゃないんだな?」
 お前の小遣いでは買えない何かを、俺にプレゼントして欲しいとは…?
「それは駄目だって言いそうだもの。…ハーレイがくれるの、いつも食べ物ばかりだし…」
 プレゼントして、って頼んでも無駄でしょ、ぼくが欲しいのは食べ物じゃないから。
「よく分かってるじゃないか、チビの割には」
 一度だけとか、今度だけとか、そう言わないのが。…プレゼントして、と頼まない辺りはな。



 ガキの場合は、そいつの方も王道なんだが、とハーレイは可笑しそうな顔。確かに、それだって多そうではある。「今度だけだよ」と駄々をこねる子供も。
「ぼくは、そんなの言わないから…。我儘じゃないから、だから、お願い!」
 お金を貸して欲しいんだってば、借りたいのはこれだけ…。それだけあったら買えるから。
 借りたお金は、踏み倒さないで少しずつ返すよ、と頭を下げた。
 ハーレイがお金を貸してくれたら、借用書を書いて、毎月、少しずつ返してゆく。その月の分のお小遣いの中から、残った分だけ、ハーレイに。
 決まった額を返してゆくのは難しいけれど、無理なく返してゆくことは出来る。お小遣いが残り僅かな時には、少しだけ。多めに残っていた時だったら、その分だけ。
 そうして返して、ハーレイに借りたお金と差し引きゼロになったら、それでおしまい。
 何ヶ月かかるかは謎だけれども、その方法なら、必ず全額返せそうだから。
「ふむ…。借金を返す方法としては、現実的なヤツではあるな。お前が返せる分だけってのが」
 その方法なら、お前も無理に我慢しなくても大丈夫だし…。返せない月があったっていいし。
 だが、其処までして何が欲しいんだ?
 食べ物じゃないというのは聞いたが、お前が買いたいヤツというのが気になるなあ…。
 俺には尋ねる権利があるぞ、とハーレイに訊かれた、借りるお金の使い道。ハーレイも、其処は気になるだろう。無駄遣いをするというのだったら、とてもお金は貸せないから。
 だから、素直に「本だよ」と答えた。
「図書室で借りた本なんだけど…。とても素敵で、それが欲しくて…」
 だけど、お小遣いだと買えないんだよ。
 …シャングリラの写真集みたいな豪華版とは違うけれども、子供が買うには高すぎる本。
 貯金を使えば買えるけど…。でも、本を買うのに貯金を使うのは嫌だから…。
 貯金はもっと大切な時に使うものでしょ、と話したら、ハーレイも否定しなかった。
「その考えは間違っていないぞ、うん。貯金ってヤツは、ここ一番って時に使ってこそだ」
 少しずつ使って無くなったんでは、貯金していた意味が無い。もっとデカイことに使わんと。
 それにしても、お前が其処まで欲しがるだなんて、珍しいなあ…。何の本なんだ?
 俺も俄かに興味が出て来た。
 図書室で借りた本だと言ったな、あるんなら見せてくれないか…?



 まだ返却していないんならな、という注文。もちろん見せない理由など無い。お金を借りたいと頼むからには、欲しいものだって見せるべきだろう。
 三日間しか貸して貰えない本だと言っても、見せたって減りはしないのだから。
「…この本だよ」
 椅子から立って、勉強机から本を取って来た。古代の遺跡のカラー写真が表紙の本を。
 その本をテーブルの上に置いたら…。
「ああ、これか。…如何にもお前が好きそうだよな」
 本の中には、昔の地球が一杯だから。すっかり滅びてしまうよりも前の、元気だった頃の地球。
 空も海も今と同じに青くて、それでいて、遠い昔の遺跡がドッサリだ。
 二十世紀に撮られた写真も、山ほど入っているんだから。
 実に見応えのある本だ、とハーレイがスラスラと語った中身。本の表紙をめくりもせずに。
「…知ってるの?」
 ハーレイ、中を見ていないよね?
 サイオンで覗きもしてないだろうし、この本の中身、見たことがあるの…?
「それはまあ…。図書室の目玉の本だしな。お前の学校の教師だったら、知ってるだろう」
 図書室に行けば、誰でも一度くらいは見掛けるから。貸し出し前に、チェックをする所とか。
 仕事柄、貸し出しカウンターの奥の世界も、教師には馴染みの空間だってな。
 どの本がよく借りられているか、そういった話も耳にする。新しく入る本の情報なんかも。
 もっとも俺は、そうでなくても知ってるんだが。…その本の中身。
「え?」
 それって、先生じゃなくても知ってるってこと…?
 何処かで見掛けたことがあるとか、前にいた学校の図書室にも置いてあったとか…?
 それとも誰かに借りて読んだの、ちゃんと解説まで見てなかったら、二十世紀の写真なんかには気が付かないよね…?
 ただの綺麗な写真だもの、と問い掛けた。「どうして中身を知っているの?」と。
「簡単なことだ、俺が持ってる。…その本は俺の家にあるんだ、俺の書斎の本棚にな」
「えーっ!?」
 この本がハーレイの家にあるって、本当に?
 それで中身を知っていたわけ、表紙を見ただけで中身が分かっちゃったんだ…?



 嘘みたい、と目をパチクリと瞬かせたけれど、ハーレイの言葉は嘘ではなかった。
 何年か前に出版されて、今でも版を重ねている本。それをハーレイは、前のハーレイだった頃の記憶が戻る前から、手元に置いているという。
 本屋で見付けて、迷いもしないで手に取って。パラパラめくって、直ぐに買おうと決めて。
「いいな…。ハーレイ、この本、持っているんだ…」
 ぼくは三日間しか貸して貰えないのに、ハーレイは家で好きに見られて、返さなくて良くて…。
 それに、この本、ぼくが買ったら、ハーレイとお揃いになるんだよね。…この本だって。
 お願い、ハーレイ、お金、貸してよ。
 借用書だったら直ぐに書くから。次のお小遣いを貰った時から、ちゃんとお金を返すから…!
 これだけ貸して、と本の値段をもう一度言った。ハーレイにそれを借りようと。
 なのに…。
「いや、断る」
 お前に金は貸してやれない。いい本を買いたいことは分かったが、駄目なものは駄目だ。
 俺は貸さん、と断られてしまった「ハーレイにお金を借りる」こと。ついさっきまでは、貸してくれそうだったのに。
「貸してくれないって…。どうしてなの?」
 ぼくはきちんと返すって約束をしたし、ハーレイだって、返せそうだって言ってたじゃない!
 何に使うのかも訊いていたのに、どうして駄目だっていう方に行くの…?
 この本はいい本だと思うんでしょ、と食い下がった。ハーレイも一目惚れをして買った本だし、スラスラと口にしていた中身。本の良さが分かっているのだったら、断らなくてもいいのに、と。
「いい本には違いないんだが…。俺だって持ってるんだしな? 其処の所が問題だ」
 お揃いを買うって方に行っちまっただろ、お前の頭。…俺が持ってるのと、お揃いの本を。
 俺とお揃いの本が欲しい気持ちで一杯なんだよな、今のお前は…?
「そうだけど…?」
 だって、お揃いになるんだもの。この本を、ぼくが買いさえしたら。
 ハーレイの家には、もうちゃんと買ってあるんだから…。何年も前から、あそこの書斎に。
 後はぼくがハーレイから借りたお金で、この本を買いに行くだけだよ。
 そしたら、お揃い。…シャングリラの写真集と同じで、お揃いの本がもう一冊。



 新しいお揃いは地球の本だよ、と念を押すのも忘れなかった。
 「前のぼくたちが行きたかった、地球」と、「滅びちゃう前の地球の遺跡の写真が一杯」と。
「本当に青かった頃の地球だよ、それに今では無くなっちゃった遺跡が沢山…」
 海も空もホントに凄く青くて、植物もあって、空には鳥が飛んでて…。昼寝をしている猫だっているよ、命が溢れているんだってば。…遺跡は廃墟になっちゃっていても。
 ぼくがどれほど欲しい本なのか、ハーレイに分からないわけがないでしょ…?
 おまけにハーレイとお揃いの本になるんだから、と「お金を貸して」と頼んだけれど…。
「俺が持ってる本と、お揃いなあ…。それが無ければ貸したんだろうが…」
 この本が欲しいと言うだけだったら、俺だって貸してやっただろう。借用書だなんて言わずに、それこそ口約束だけで。…お前が踏み倒して逃げちまっても、「子供だから」と許してやって。
 だが、お揃いの本が欲しいだなんていう、不純な目的。
 そいつのためには貸せやしないな、ビタ一文というヤツだって。
 俺は貸さん、とハーレイは腕を組んでしまった。財布を取り出してくれる代わりに。
「そんな…!」
 ハーレイが持っていることなんて、ぼくはさっきまで少しも知らなかったんだよ…?
 この本が欲しいと思ってただけで、だけど、お金が足りなくて…。パパに強請っても、この本は買ってくれそうにないし…。ママはお小遣いの前借り、絶対、許してくれそうにないし…。
 だからハーレイに頼んでいたのに、そんな理由でお金を貸してくれないだなんて…!
 酷い、と悲鳴を上げたけれども、ハーレイの考えは変わらなかった。駄目なものは駄目で、腕を組んだまま。「貸してやろう」と財布を出してはくれずに。
「お前には気の毒ではあるが…。お揃いってヤツを増やす手伝いはしてやれん」
 何かと言えば、お揃いを欲しがってるのがお前だ。
 俺とお揃いのものが欲しくて、持っていないってわけじゃないのに、まだ欲しがってる。
 そんなお前が大喜びする、俺とお揃いの本とやら。…そいつを俺が買ってどうする?
 俺の金を貸してやるってことはだ、お前は俺の金で買うんだ。お揃いの本を。
 借りた金を全部返さない限り、お前は俺の金で買った本を持ってるわけで…。
 まるでプレゼントしたみたいじゃないか、俺がお前にお揃いの本を買ってやって。
 本屋まで買いに出掛けて行くのは、お前だったとしたってな。



 断固、貸さんぞ、と揺るぎもしないハーレイの答え。何度頼んでも、頭を下げても。
 ハーレイにお金を借りられないなら、じきに本との別れの日が来る。貸し出し期間は三日だけ。それが過ぎたら、図書室に行って係に返すしか無いのだから。
「…それじゃ、この本、たったの三日…」
 三日だけしか読めないって言うの、ぼくが自分で買えないんなら…?
 図書室に返しておしまいになるの、他の誰かが借りてしまって、二度と借りられなくて…?
「そうなるな。休み時間の間だけしか、生徒は図書室にいられないんだし…」
 返した後にまた借りようと、カウンターの前に立って待ってはいられんだろう。もう一度、棚に並ぶ時まで、あそこで待つのは無理ってもんだ。
 授業の合図のチャイムが鳴ったら、生徒は出てゆく決まりだからな。
 係の人に追い出されるぞ、というのは正しい。図書室に残っていることは無理で、生徒が授業を受けている間に、次の貸し出しのためのチェックが済む。必要だったら、補修なども。
 そうして本は棚に並んで、授業が終わった生徒を待つ。「これを借りよう」と思う誰かが、手に取るのを。今日の自分がそうやったように、貸し出しカウンターに運んでゆくのを。
 今日は運よく出会えたけれども、二度目のチャンスは無さそうな本。貸し出し期間は三日だけという短さの本で、貸し出し記録がビッシリ並んでいたのだから。
「やっぱり、次は借りられないんだ…。本の予約は出来ないし…」
 凄く素敵な本なのに…。前のぼくなら、抱き締めそうなくらいの本なんだけどな…。
 だけど、たったの三日でお別れ。…そういう決まりなんだもの…。
 短すぎだよ、と嘆いた本の貸し出し期間。せっかく出会えた本だというのに、三日でお別れ。
 これが特別な本でなければ、一週間は借りていられるのに。
 もっと値段が安かったならば、街の大きな書店に出掛けて、同じ本を買って帰れるのに…。
「どうするんだ、チビ」
 俺は金など貸してやれんが、頑張って金を貯めて買うのか?
 計画的に貯めていったら、お前の小遣いでも、いつかは買えると思うがな…?
 まだまだ絶版にはならない筈だし、本の方では、お前を待っていてくれそうなんだが…?
「どうしよう…?」
 欲しいんだけど…。買いたいんだけど、でも、お金…。ぼくのお小遣い…。



 そう簡単には貯まらないよ、と絶望的な気分。ハーレイが来る前に考えた結果が、お金を借りることだったほど。自分でそれだけ貯めてゆくのは、きっと難しいだろうから。
(…凄く欲しいけど、でも、高くって…)
 ぼくのお小遣いじゃ買えやしない、と項垂れた。計画的に貯めようとしても、ウッカリ何処かで使ってしまう。友達とジュースを飲んでしまったり、他の本を買ってしまったりして。
 お小遣いでは、貯められそうにない金額。どんなにこの本が欲しくても。どんなに素敵で、前の自分が出会っていたなら、胸に抱き締めそうな本でも。
(…お金が無ければ、本屋さんに行っても買えないし…)
 三日だけでお別れなんだよね、とカラーで刷られた表紙を眺めて俯いていたら…。
「そうしょげるな。…心配しなくても、俺が貸してやる」
 この本ならな、とハーレイが腕組みを解いた。気が変わったとでも言うのだろうか?
「貸してくれるって…。さっき、駄目って言わなかった?」
 ぼくが何度もお願いしたのに、絶対に貸してやらない、って…。ぼくがお揃いを欲しがるから。
「それは金だろ、俺が貸さないと言ったのは。…本となったら話は別だ」
 気に入ったんなら、俺が持ってるのを貸してやるから。俺の書斎に置いてある本。
 お前が読みたがっているのに、貸さないと言うほどケチではないぞ。…本を買う金は、お前には貸してやれないがな。
 本の方なら貸してやろう、と思いがけない言葉を貰った。ハーレイの蔵書を貸してくれると。
「ハーレイの本って…。ホントにいいの?」
 ぼくが借りちゃっても本当にいいの、ハーレイ、後で後悔しない…?
 貸しちゃっていたら、その間は、ハーレイ、この本を家で見られないのに…。
「そのくらいは別にかまわんさ。本なら他にもドッサリあるしな、違う本を読むというだけだ」
 お前に貸してあったんだっけな、と別の本を出して読んでいればいい。…俺の方なら。
 だが、無期限で貸すというわけじゃないぞ。金を貸すのとは話が別だ。
 図書室みたいに三日とは言わんが、一週間といった所だな。次の週末に返してくれ、とでも。
 それで良ければ、貸して欲しけりゃ、いつでも言え。…来る時に持って来てやるから。
「ありがとう…!」
 一週間でもいいよ、借りられるんなら。…何度頼んでもいいんでしょ、それ…?
 返して直ぐに読みたくなったら、その次にまた「貸して」って頼んでもいいんだよね…?



 ハーレイは「いいぞ」と微笑んでくれた。「借りっ放しにはしてくれるなよ?」と言いながら。
 「プレゼントするわけじゃないから、俺の家にも、たまには持って帰らんと」と。
 けれど、貸しては貰えるらしい。
 頑張ってお金を貯めて買わなくても、「買えやしない」とガッカリしなくても。
 読みたい気分になった時には、ハーレイに頼めば借りられる。図書室で借りるより、ずっと長い間。三日どころか、一週間も。
(一週間もあれば、ぼくが持ってる本と同じで読み放題だよ)
 良かった、と嬉しくなった本。…遠い昔の地球の写真が詰まった本。
 その夜、ハーレイが夕食を食べて、「またな」と帰って行った後にも、勉強机で広げてみて…。
(ハーレイとお揃いの本もいいけど、ハーレイの本を貸して貰うのも…)
 きっと素敵に違いない。
 自分の本とは違うけれども、ハーレイの指がページを繰っていた本をめくるのも。
 しかも中身は遠い昔の地球の遺跡を捉えた写真で、ハーレイだってお気に入りの本。記憶が戻るよりも前から、一目惚れして書斎に置いていたほどに。
(今日は、いい本、借りちゃった!)
 うんとツイてる、と心が弾む。なんて素敵な本に出会えて、こうして家で読めるのだろうと。
 貸し出し期間は短いけれども、三日間、これを楽しもう。空いている時間は、こうして広げて。
 三日間が過ぎて、図書室にこれを返しに行っても、名残が尽きないままだったなら…。
(ハーレイに頼んで…)
 同じ本をまた借りればいい。「あの本を貸して」と、頼んで家に届けて貰って。
 そんな読み方が出来るだなんて、なんて幸せな出会いだろう、と嬉しくなる。ハーレイの書斎の本棚にある本、それを借りては読めるだなんて。
 とても気に入った本だけれども、お小遣いを頑張って貯めて買うより、借りる方がずっと素敵で幸せ。ハーレイが持っている本を。
 一週間しか借りられなくても、誰よりも好きなハーレイが貸してくれる本。
 「ぼくに貸して」と頼みさえすれば、この本が家にやって来る。ハーレイの家の書斎から。
 そうして本を貸して貰ったら、ハーレイの指が繰っていた本のページを開く。
 ハーレイが何度も読み返した本を、今も大切にしている本を。



 そんな風に本を借りられたならば、何度も貸して貰ったならば…。
(この本を読んだ、感想だって…)
 ハーレイと二人でゆっくり話せる。貸して貰った本を間に、テーブルを挟んで向かい合わせで。
 どのページがお気に入りだとか。
 好きな遺跡の写真はどれで、好きな理由は何なのか、とか。
 猫が昼寝をしている遺跡の写真もいいし、尻尾だけしか写っていない猫がいる写真もいい。赤いケシの花が咲いているのも、空をゆく鳥の群れがいるのも。
 ハーレイはどれが好きなのだろうか、尻尾だけの猫にも気付いたろうか…?
 そういったことを色々話して、二人で本を眺めていたら…。
(まるで一緒に暮らしてるみたい…)
 二人きりの家にいるみたいだよね、と思えてくる。実際にいるのは、この部屋だとしても。
 そういう時間も、うんと素敵、と本のページをめくってゆく。
 自分で買って持つのも素敵だけれども、ハーレイに借りて読むのも素敵。
 いい本に会えたと、三日間だけしか貸し出して貰えない本で良かったよね、と。
 もっと長く借りられる本だったならば、こんな話は出なかったから。
 ハーレイが持っている本を借して貰える約束などは、出来る筈さえなかったのだから…。



           借りて読む本・了


※ブルーが気に入った、遠い昔に撮られた遺跡などの本。けれど、貸出期間は三日間。
 買うには高すぎる値段ですけど、思いがけない方法で読めるのです。ハーレイの本を借りて。

 ハレブル別館、いよいよ来月で終了となります。
 「その後の二人」を書くかどうかは、気分次第としか言えません。

 おバカなシャングリラ学園生徒会室の方は、今年も今まで通りです。
 他の二つのサイトについては、続けられる間は、書き続けると思います。
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(アサギマダラ…)
 知らなかった、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 印象的な蝶の写真が載っている。前の翅は黒地に白い模様で、後ろの翅は褐色の地に白い模様。もっとも記事の説明によると、黒と茶色の方が翅脈、そちらが模様らしいのだけど。
 アサギマダラという名前。大型の蝶で、鮮やかな模様だけでも目を引いたのに…。
 この蝶は海を渡るという。渡り鳥が海を渡ってゆくのと同じに。
 遠い昔に在った小さな島国、日本を名乗る地域の中では、渡りをしてゆく唯一の蝶。
 夏の間は此処で過ごして、寒い季節は南の方へと移動する。海を渡って、南の地域に向かって。冬の間を其処で過ごして、暖かくなったら、また戻ってくる。まるでツバメのような蝶。
(渡る前には、ちゃんと集合して…)
 群れを作って、皆で南を目指す。陸がある間は、陸を伝って。
 この地域の中には、渡ってゆく前のアサギマダラの群れに出会える所も多いという。その季節に其処へ出掛けて行ったら、群れているアサギマダラたち。好物の花の蜜を吸おうと。
 一番南の場所を離れたら、海の上を飛んでゆく蝶たち。海の上に花は、もう無いのに。
 遥か南へと飛ぶアサギマダラは、凄い距離を移動するらしい。場合によっては二千キロも。
 鳥ではなくて蝶なのに。
 いくら大型の蝶だと言っても、蝶の翅には違いないのに。
 風切り羽根も持っていなければ、逞しい翼も持ってはいない。人の指が触れれば剥がれる鱗粉、それが模様を描いているだけの薄い翅。骨さえも中に入ってはいない。
(雨とか風に弱そうだよ…)
 アサギマダラが持つ翅は。
 雨が降る日は、蝶は飛ばない。鳥たちだったら飛びもするけれど、蝶は姿を潜めるもの。雨粒に翅を打たれないよう、大きな木の葉の裏に隠れて。…雨粒を防ぐ木などを隠れ家にして。
 雨の中を飛ぶ蝶は、まずいない。降り始めたなら、直ぐに隠れるから。
 風が強い日も、やはり蝶たちは飛んだりしない。
 鳥の翼とは違った翅は、風に煽られるだけだから。まるで木の葉が舞い散るみたいに、吹く風に巻かれて飛ばされるだけ。
 強い風には逆らえなくて、翻弄されてしまうのが蝶。鳥とは違った生き物だから。



 雨にも風にも弱い蝶たち。普段だったら、姿を隠す。雨や風を避けて、安全な場所へ。
 そういう翅を持っているのに、海を渡ってゆくアサギマダラたち。寒くなる前には南へ渡って、暖かくなれば戻ってくる。他の蝶よりも丈夫な翅を、持っているわけではないというのに。
(そう簡単には破れないとか、鱗粉が剥がれないだとか…)
 とても強くて特別な翅を持つのだったら、渡りをしても不思議ではない。渡りに向くよう、進化している蝶だから。他の蝶とは違うのだから。
(でも、そうじゃなくて…)
 アサギマダラが持っている翅は、他の蝶たちと変わらない。乱暴に捕まえようとしたなら、呆気なく破れてしまう翅。時には折れてしまったりもして、海を越えてはゆけなくなる。
 これが鳥なら、網でバサリと捕らえられても、羽は折れたりしないのに。
(そんな翅でも飛んで行くんだ…)
 二千キロも離れた所まで。
 鳥よりもずっと小さな身体で、儚く脆くて薄い翅で。
 地球が滅びてしまう頃には、もう無くなっていたアサギマダラの「渡り」。汚染されてしまった大気の中では、蝶たちも生きてゆけなかったから。
 全て滅びてしまう前にと、人間が保護したアサギマダラ。他の動物たちを、そうしたように。
 いつか青い地球が蘇ったならば、その上に再び戻してやろうと。
 人間たちが地球を離れて、SD体制が敷かれた時代。機械が統治していた時代も、動植物たちは保護されていた。いつの日か地球に戻すためにと。
(SD体制が終わって、地球が燃え上がって…)
 何もかもが壊れて、青い水の星が宇宙に戻った。炎の中から再生してくる不死鳥のように。
 アサギマダラは地球に戻され、昔と同じに海を渡ってゆくようになった。個体数が増えて充分な数になった後には、前のように群れを組むようになって。
 他の地域にも、アサギマダラのように渡りをする蝶がいるらしい。季節が移れば、凄い距離を。
(再生した地球に戻した後でも、渡りをするなら…)
 渡り鳥たちと同じで、まさしく本能。「この季節には渡ってゆかなければ」と飛んでゆく蝶。
 夜も眠らず、暗い海の上を飛ぶのだろう。
 風に乗ってか、翅を使うのか、どちらにしても、眠れば海に落ちてしまうから。



 なんという強い蝶なのだろう、と感心させられたアサギマダラ。雨にも風にも弱いだろう翅で、遥か南まで渡りをする蝶。
 渡り鳥でも大変な旅を、鳥よりも弱い蝶の身体でするだなんて、と。
(渡り鳥かあ…)
 そういえば、と思い出したこと。おやつを食べ終えて、二階の部屋に戻った後で。勉強机の前に座って、アサギマダラの渡りを考えていたら。
 海を越えてゆく渡り鳥たち。
 今のハーレイと、何度も話した。夜も眠らず、休憩する場所も無い海の上を、懸命に飛んでゆく鳥たちのことを。
(もしも、ぼくたちが鳥だったなら…)
 渡りをする鳥に生まれたのなら、もちろんハーレイと一緒に飛ぶ。渡りの季節が訪れたならば、他の鳥たちと群れを作って。
 そうして渡ってゆくのだけれども、眠くなったり、翼が疲れてしまった時には…。
(ハーレイが支えて飛んでくれるって…)
 落っこちないよう、寄り添って。逞しい翼で横から支えて、群れから離れないように。遥か下に広がる大海原へと、真っ直ぐに落ちてゆかないように。
(渡り鳥なら、ちゃんと支えてくれるんだから…)
 アサギマダラに生まれたとしても、きっとハーレイが守ってくれる。渡りの旅に出る時は。
 他の地域の渡りをする蝶、それに生まれても同じこと。
 ハーレイと二人で飛んでゆくなら、隣を飛んで支えてくれる。眠りそうになった時にも、海へと落っこちないように。
(鳥だったら、海に落っこちたって…)
 羽根が濡れるだけで、塩辛い水を振り払いながら、また飛び立ってゆけばいい。
 海に落ちたら目だって覚めるし、「落っこちちゃった」と大慌てで。沈んでしまう前に、力強く翼を羽ばたかせて。
 けれど、蝶だとそうはいかない。
 雨にも弱い蝶の翅だと、海に落ちたらそれでおしまい。水面に翅ごと縫い付けられて、どんなにもがいても、翅は自由にならないから。…水面に落ちた虫の末路は、そうなるだけ。



 幼かった頃から、何度も虫を助けてやった。水たまりなどに落ちてしまって、自由を失くした虫たちを。水面に翅がペタリと貼り付き、逃れられない可哀相な虫を。
 だからこそ分かる、海に落っこちたアサギマダラの行く末。もう一度空へと飛び立ちたくても、塩辛い水に捕まった翅はもう剥がせない。もがくほどに鱗粉が剥がれていって。
 そうする間に波に飲まれて、命は消えてしまうのだろう。水の下へと引き込まれて。波を被って海の底へと、ゆっくり沈んでいってしまって。
(そうなっちゃったら、おしまいだから…)
 ハーレイが支えて飛び続けてくれる。眠りそうになっても、落っこちそうになった時にも。
 横に並んで、自分の翅で支えてくれて。「落っこちるなよ?」と呼び掛けてくれて。
(頼もしいよね…)
 ぼくだけだったら落っこちちゃうよ、と分かっているから、渡ってゆくならハーレイと一緒。
 蝶でも鳥でも、ハーレイと二人で飛んでゆけたら、無事に渡りを終えられる。休憩できる場所が無くても、何日も飲まず食わずでも。…気が遠くなるような長い距離でも。
 ハーレイと一緒なら安心だよね、とアサギマダラの写真を思い浮かべたけれど。蝶になっても、きっと頼りになるんだから、と考えたけれど。
(えっと…?)
 渡り鳥の方ならともかく、ハーレイには蝶は似合わないかも、と頭を掠めた考え。
 ハーレイの姿に、蝶の姿が上手く重ならない。イメージが合わないとでも言うのだろうか。渡り鳥なら、綺麗に重なってくれたのに。
 羽ばたく姿も、大海原の上を何処までも飛んでゆくのも。隣に並んだ鳥を支えて、落ちないよう守り続ける姿も。
(なんで蝶だと重ならないわけ…?)
 蝶の姿は、儚く頼りないからだろうか。雨にも風にも弱いのが蝶で、そんな日は姿を隠すから。
 それとも甘い蜜を吸うのが、ハーレイには似合わないのだろうか?
(パウンドケーキは、甘くても似合っているけれど…)
 今のハーレイの「おふくろの味」だという、大好物のパウンドケーキ。母が焼いたら、見ている方まで嬉しくなるような笑顔で食べる。「俺はこいつが大好きなんだ」と。
 幸せそうにパウンドケーキを頬張る姿は、何処もおかしいとは思わない。むしろ良く似合う。



 パウンドケーキが似合っているなら、甘い蜜のせいではないだろう。蝶と重ならない原因は。
(…蜜じゃなくって、花の方かな?)
 蝶が吸うのは花たちの蜜。人間が食べる、砂糖や蜂蜜などではなくて。
 長い管のようなものを伸ばして、ストローみたいに吸い上げてゆく花の中の蜜。その辺りが駄目なのかもしれない。
 瓶詰の蜂蜜をハーレイがスプーンで掬っていたって、ごくありふれた日常の光景。きっと瓶から掬い上げては、色々なことに使うのだろう。菓子の材料にしたり、果物の上に振りかけたりと。
 そういう姿は普通だけれども、蜂蜜の元になる花たちの蜜。それを花から直接吸うのが蝶たち、同じことをハーレイがストローでやっていたならば…。
(…薔薇が似合わない、って言われてたのが前のハーレイだしね?)
 白いシャングリラで囁かれた噂。「キャプテンに薔薇は似合わない」などと、女性たちの間で。
 薔薇が似合わないキャプテンだから、薔薇の花びらのジャムも貰えなかった。希少なジャムは、いつもクジ引きで分けられたけれど、ハーレイの前だけはクジ引きの箱が素通りしたくらい。
(薔薇の花もジャムも似合わないなら、花の蜜だって駄目なのかも…)
 ストローで蜜を吸おうとしていたならば、誰もが笑い出すかもしれない。あまりにも似合わない姿だからと、それは可笑しそうに。
(ぼくが見たって、笑わないけど…)
 そういうハーレイも微笑ましい。ストローで花の蜜を吸っても。
 ジュースをストローで飲んでいるのと、何処も変わりはしないから。透き通ったガラスで出来た器が、生きている花になるというだけ。
(変じゃないよね…?)
 おかしくないよ、と思うけれども、それは自分が「ハーレイのことを好き」だから、そのように感じるだけかもしれない。「コップか、花かの違いだけだよ」と、単純に。
(…他の人たちが見たんなら…)
 白いシャングリラの頃と同じに、今のハーレイでも「似合わない」と噂が立つのだろうか。
 蜂蜜を食べているならともかく、花から直接、蜜を吸ったら。
 花たちに集まる蝶さながらに、ハーレイがストローで吸っていたなら。蝶はそうして、花たちの蜜を吸って生きるもの。花の蜜を吸って、それを食事にしているのだから。



 原因は其処にあるのだろうか、と考え込む。ハーレイの姿に、蝶が重ならない理由。
(渡り鳥なら、餌は虫とか…)
 花の蜜が好きな鳥もいるけれど、そういった鳥は少数派。大抵の鳥の餌は虫や、木の実や穀物。魚を捕まえて食べる鳥も多いし、蝶よりは逞しいイメージがある。花の蜜で命を繋ぐ蝶より。
(やっぱり花の蜜を吸うせいかな…?)
 それでハーレイには蝶が重なってくれないのかな、と思っていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。ちょっと訊きたいんだけど…」
 花の蜜を吸うのが似合わない人って、あるのかな?
 イメージしようと思ってみたって、ちっとも頭に浮かばないほど。
「はあ? 花の蜜を吸うのが似合わないって…。なんの話だ?」
 どういったヤツに似合わないんだ、とハーレイは怪訝そうな顔。「心当たりがあるのか?」と。
「…ハーレイのことなんだけど…。似合わないかな、花の蜜…」
 蜂蜜だったら似合うだろうけど、花から直接吸おうとしてたら駄目なのかな、って…。
 前のハーレイ、薔薇の花もジャムも似合っていない、ってシャングリラで言われていたものね。
 薔薇の花びらのジャムのクジ引きだって出来なかったし…、と挙げた例。
 他の様々な花たちのことは知らないけれども、薔薇の花だけは「似合わない」と噂だったから。
「…失礼なヤツだな、お前ってヤツは。花の蜜なら吸ってたぞ」
「ええっ!?」
 いつの間に、と目を丸くした。
 白いシャングリラに幾つも設けられた公園。ブリッジが見える一番大きな公園の他に、居住区の中に憩いの空間。色々な花が植えられていたし、蜜を吸うのは自由だけれど…。
(…前のハーレイが花の蜜って…)
 そんなの知らない、と前の自分の記憶を手繰る。
 キャプテンとしての視察の合間に、公園で吸っていたのだろうか。一息つこうと入った時には、花の蜜で英気を養ったとか…?
「勘違いするなよ、前の俺だと思ったな、お前?」
 前の俺じゃなくて、今の俺の方だ。…シャングリラじゃ、花の蜜なんか吸っていないしな。



 第一、それを知らなかった、とハーレイが浮かべた苦笑い。
 白いシャングリラの公園で咲いた花たち、その蜜はミツバチたちのもの。どの公園にも、巣箱が置かれていたものだった。ミツバチはせっせと蜜を集めて、その蜜を人間たちが集める。
 そういう決まりで、約束事。あの船で人間が食べていたのは蜂蜜だけ。
「俺が思うに、子供たちだって吸っていなかっただろう。花たちを駄目にしちまうからな」
 人間様が蜜を吸うには、花を毟らないと無理だから。…花は小さいのに、人間の身体は、ずっと大きく出来てるだろうが。幼稚園に通う子供にしたって、花たちから見ればデカすぎだ。
 その子供たちの遊びだな、と教えて貰った、花を毟って蜜を吸うこと。
 花の形が筒に似ていると、たっぷりと蜜が吸えるという。ツツジやサルビア、スイカズラなど。小さくてもかまわないのだったら、レンゲの蜜も美味らしい。
 遠い昔は、おやつになった花たちの蜜。人間が地球しか知らなかった時代は、子供たちが遊びのついでに食べた。花を毟って、中に溜まっている蜜を。
「そうなんだ…。花の蜜なら、甘いだろうしね…」
 ミツバチが集める蜂蜜の元で、それを直接食べるんだから。…味は薄いかもしれないけれど。
「蜂蜜に比べりゃ、味は薄いな。しかし、甘さは充分あるぞ」
 だからこそ、おやつ代わりになっていたんだ。咲いてれば、ヒョイと毟って、吸って。
 俺は親父に色々教えて貰ったなあ…。蜜がある花も、どうやって蜜を吸うのかも。
 つまりだ、俺の親父も花の蜜を美味しく吸っていたわけで…。ガキだった俺の目の前で。
 今でも釣りに出掛けた時には、吸ってるんだと思うがな?
 俺の親父だし、俺とは全く似ていないってわけじゃない。今の時代は本物の親子で、親父の顔は俺にも似てる。…ついでに俺より年を食ってる爺さんで…。
 その親父にも、花の蜜を吸うのは似合わないってことになるんだが…。
 お前が言ってる、「前の俺には似合いそうにない」って理屈だと。親父は俺の親父なんだから。
「ごめんなさい…。ハーレイのお父さんの悪口を言う気は無かったんだよ」
 花の蜜の吸い方、詳しいなんて知らなかったから…。
 きっと似合っているんだろうね、釣りの合間に花を毟って蜜を吸っていたら。
 側で見てても、のんびりしていて素敵な景色。
 きっと真似する人もいるよね、「この花の蜜は美味しいらしい」って。



 ハーレイの父には似合うのだろう、花を毟って蜜を吸うこと。今のハーレイがそれをやっても、充分、絵になりそうな光景。
(学校の花壇のを、ちょっと毟って…)
 吸っていたなら、たちまち生徒が集まるだろう。「先生、何をしてるんですか?」と、好奇心に瞳を輝かせて。
 そうなったならば、ハーレイは余裕たっぷりに…。
(こうやって中の蜜を吸うんだ、って…)
 手本を見せつつ、「だが、学校の花でやるなよ?」と釘を刺すのに違いない。寄って来た生徒が花を毟ったら、花壇の花はすっかり消えてしまうから。次から次へと毟り取られて。
(一人や二人じゃないもんね?)
 ハーレイを真似て、蜜を吸おうとする生徒たち。それに情報は直ぐに伝わり、其処にいなかった生徒たちまでが花壇を目指す。「あそこに咲いてる、この花の蜜が美味しいらしい」と。
 そんな具合だから、誰もハーレイを笑いはしない。「似合わない」とも言ったりはしない。
 でも…。
「…ハーレイには、やっぱり似合わないように思うんだけど…」
 ちょっと無理そう、と頭の中にアサギマダラを描く。花の蜜を吸うハーレイだったら、ごくごく自然に浮かんでくるのに、アサギマダラは重ならない。…ハーレイの姿に似合いはしない。
「似合わないって…。俺に、花の蜜がか?」
 ガキの頃には吸っていたって、今はデカすぎて似合っていないと言いたいのか、お前…?
 まあ、昔ほどには似合わんだろうが…、とハーレイは勘違いをした。花の蜜を吸う姿だったら、今でも似合っているというのに。
「ううん、そうじゃなくて…。それかと思っていたんだけれど…」
 花の蜜を直接吸っているのが、似合わないのかと思ったんだけど…。
 蜂蜜だったら、ハーレイでもちゃんと似合いそうだから。
 蜂蜜の瓶からスプーン掬って、お菓子の材料に混ぜていくとか、果物にかけて食べるとか。
 そっちだったら似合うけれども、花から直接は駄目なのかな、って…。
「なんだ、どうした?」
 俺と花の蜜がどうかしたのか、直接吸ったら何か問題でもありそうなのか…?



 花の蜜は美味いものなんだがな、とハーレイは蜜にこだわるけれど。花の蜜の話だと思い込んでいるのだけれども、そうではない。
 事の起こりはアサギマダラで、それがハーレイと重ならないこと。同じように海を渡る鳥なら、自然にピタリと重なるのに。
 だから…。
「似合わないのは花の蜜じゃなくて、アサギマダラが似合わないんだよ」
 蝶の名前だけど、それがハーレイと重ならなくて…。ハーレイには似合っていないよね、って。
 そう思うんだけど、と打ち明けた。自分の頭を悩ませている原因を。
「アサギマダラだと? そいつなら俺も知ってるが…」
 有名な蝶だし、本物を見掛けたこともある。親父と一緒に出掛けた先の山の中でな。
 だが、あれが俺に似合わないとは…。何処からそういうことになるんだ、他の蝶より俺向けだ。
 蝶の中ではデカイ方だし、華奢な印象ではないからな。蝶の世界では、デカブツだから。
 色合いだって俺に似てるぞ、黒と茶色がよく目立つんだ。白い部分のせいで、引き立って。
 俺の色に似ているだろうが、とハーレイが指差す自分の顔。褐色の肌と鳶色の瞳は、黒と茶色の蝶に似ていないこともない。アサギマダラが持っている色に。
「そうなのかも…。大きな蝶だって書いてあったし、色もハーレイに似ているかも…」
 でもね、あの蝶は海を渡るでしょ?
 アサギマダラは、渡り鳥みたいに渡りをするって、新聞に載っていたんだよ。寒くなってしまう前に、南の地域へ。…群れを作って、海を渡って。
 暖かくなったら、それとは逆に戻って来るって…。もう一度、海の上を越えてね。
「渡りの話は有名だよな。…それのお蔭で名前が知られているんだから」
 この地域では、渡りをする蝶はアサギマダラしかいないんだ。それこそ、ずっと昔から。人間が地球しか知らなかった頃から、あの蝶は渡りを続けていた。
 今の時代も、記録を取っている愛好家たちが多いよな。何処まで飛んだか、調べてるんだ。翅に記号を書き込んだりして、移動してゆく距離やルートを。
 アサギマダラと言えば渡りだが、渡ってゆく話がどうだと言うんだ?
 俺に似合わないと言うんだったら、それも大いに心外だな。
 アサギマダラほどの距離は無理だが、長距離を走るのも、泳ぐのも俺は得意なんだし。



 俺に似合いの蝶だと思うが、とハーレイが言うアサギマダラ。共通点は確かに多い。
 けれど、重ならないのも事実。これだけ色々と並べられても、ハーレイの姿とアサギマダラは、やはり重なってはくれないから。
「えっとね…。渡りをするのが問題なんだよ、飛んでゆく距離とかは別にして」
 ハーレイと何度も渡り鳥の話をしたでしょ、海を越えて飛んでゆく鳥たち。…夜も寝ないで。
 ぼくとハーレイが渡り鳥だったら、渡りの時には、ハーレイがぼくを守ってくれるって…。
 疲れちゃったり、眠くなったりしちゃった時でも、落ちないように支えてくれるって。
 ハーレイが一緒に飛んでくれるから、とても頼もしいんだけど…。
 うんと遠くまで飛ばなくちゃ駄目で、休む場所なんか何処にも無くても、ハーレイとだったら、きっと落ちずに飛んでゆけるから。
 渡り鳥なら、そうなるんだし…。アサギマダラでも大丈夫だよね、って思っていたら…。
 ぼくとハーレイがアサギマダラに生まれていたなら、一緒に飛べると思っていたんだけれど…。
 ハーレイと上手く重ならないんだよ、アサギマダラが。…ぼくの頭の中で、ちっとも。
 今もやっぱり重ならないよ、と瞳を瞬かせた。渡り鳥なら、無理なく重なるのに。
「アサギマダラが俺と重ならないって…。色なら俺とよく似ているが?」
 さっきも言ったが、黒と茶色で、俺の色に似てると思うがな?
 蝶の中ではデカブツってトコも、俺に似てると言えるだろう。…他所の地域には、もっとデカイ蝶もいるんだが…。この地域なら、あれでも充分デカイんだし。
 俺に似てるぞ、とハーレイは繰り返した。「アサギマダラは、蝶の中では俺に似てるな」と。
「そうかもだけど…。似てる所はあるんだけれど…」
 それよりも前に、蝶そのものだよ。…色だけじゃなくて、大きさの方も問題じゃなくて。
 渡り鳥なら、どんな鳥でも、ハーレイを重ねられるんだけど…。
 ハーレイ、自分にアサギマダラが似合うと思う?
 アサギマダラになって、飛ぶこと。
 あの蝶になって、海を渡って、ずうっと南の遠い所まで飛んでゆくことが…?
「なんだって…?」
 色や大きさは問題じゃなくて、この俺が蝶になることだってか?
 アサギマダラになって飛んで行く姿が問題なんだな、海の上を越えて渡りをして…?



 俺が蝶か、とハーレイは腕組みをして考え込んだ。「アサギマダラが、俺そのものか」と。
 それからフウとついた溜息。「似合わんな」と、呆れた風に。
「俺らしい色だし、蝶の中ではデカブツなんだが…。似合っていないな、お前が言う通り」
 確かに俺には似合わないようだ、アサギマダラというヤツは。
 俺がそっくりアレになるなど、自分でも全く想像がつかん。「あれが俺だ」と思ってみたって、まるで重なってはくれないな。…共通点なら幾つもあるのに。
「でしょ? ハーレイとアサギマダラは、ちっとも重ならないんだよ」
 ぼくが一人で考えてた時は、共通点には気付いていなかったけど…。色も、大きさも。
 共通点を教えて貰った後でも、やっぱり重ならないけどね。
 …それでね、ぼくが考えていた重ならない原因、花の蜜を吸ってることだったんだよ。花の蜜を吸って生きてる所が、ハーレイらしくないのかな、って。
 前のハーレイには薔薇が似合わないって話があったし、花の蜜を吸うのが駄目なのかも、って。
 渡り鳥なら、食べ物は花の蜜じゃないから…。虫とか木の実で、蝶とは全く違うもの。
 しっかり食べているんだものね、と渡り鳥の食べ物を持ち出した。花の蜜だけで生きる蝶より、遥かに「生き物」らしい生き方。その辺りで違いが出るのだろうか、と。
「花の蜜なあ…。それだけで生きているとなったら、まるで精霊みたいだが…」
 アサギマダラと俺が重ならない原因ってヤツは、花の蜜を吸うせいじゃないだろう。
 それはどうやら、蝶そのものが駄目なんだ。…俺には全く似合わなくて。
「蝶そのものが駄目って…。どういう意味?」
 ハーレイ、自分で言ってたじゃない。…アサギマダラはハーレイの色に似てる、って。
 蝶の中では大きい所も、ハーレイにとても良く似てて…。
 渡りで長い距離を飛ぶのも、今のハーレイなら同じようなことをしてるんだから。ジョギングで長い距離を走るし、遠泳だって得意なんでしょ…?
 似ているじゃない、と改めて数えた、ハーレイとアサギマダラの共通点。…それだけあっても、今も重なってはくれないけれど。
 ハーレイはハーレイで、アサギマダラの姿は重なって来ない。
 渡り鳥なら、本当に無理なく重なるのに。
 身体の小さなツバメだろうと、「あれがハーレイだよ」と、頭の中に浮かぶのに。



 どうしてだろう、と首を傾げることしか出来ない。何故、ハーレイと重ならないのか、と。
「ねえ、ハーレイ…。蝶だと、何がいけないの?」
 アサギマダラとハーレイだったら、似ている所も多いのに…。何処が駄目なの?
 分からないよ、と鳶色の瞳を見詰めて尋ねた。ハーレイは「簡単だがな?」と自分の肩を指先でトンと叩いて、「答えは此処だ」と肩の後ろを指しながら…。
「一つ訊くがな…。俺の背中に、蝶の翅ってヤツは似合いそうか?」
 どう思う、と投げられた問い。背後を指で示したままで。
「…背中?」
「ああ。俺の背中だ、今は後ろに壁くらいしか無いんだが…。想像力を働かせてくれ」
 俺の背中に、天使の翼みたいな具合に、蝶の翅っていうヤツをくっつけてみろ。…頭の中で。
 アサギマダラでも何でもいいから、蝶の翅だ。どういう感じになりそうなのか。
 翅を広げたら、こうなるよな、とハーレイの指が描いた線。何もない空間に、スイと左に、次は右にと。見えない翅があるかのように。
 線を描いたら、ハーレイは手をテーブルの上に戻して笑んだ。「想像力の出番だぞ?」と。
「えーっと…? 蝶の翅だよね…?」
 アサギマダラでもいいし、他の蝶でもよくて…。ハーレイの背中に、蝶の翅…。
 頭の中でくっつけなくちゃ、とハーレイを前にして、イメージしてみた蝶の翅。ハーレイの指がさっき描いていたように、まずは透明な翅の形から。
(右と左に、おんなじ翅…)
 蝶の翅だとこんな感じ、と描こうとしても、翅の形が浮かんでこない。蝶の翅なら、いくらでも頭の中にあるのに。…アサギマダラの写真だったら、今日、新聞で見たばかりなのに。
(…蝶の翅…)
 くっつかないよ、と何度もパチパチ瞬き。天使の羽なら、ちゃんとイメージ出来るのに。純白の翼も、ハーレイらしい茶色の羽根が生えた翼も。
 なのに浮かばない、蝶の翅の方。どう頑張っても、天使の翼と置き換えたくても。
(全然駄目…)
 まるで想像できない姿。蝶の翅を背中に持ったハーレイ。それが少しも浮かんでくれない。
 色合いだったら似合いそうな筈のアサギマダラも、ただ透明なだけの蝶の翅さえ。



 じっとハーレイの後ろを眺めて、くっつけようと試みた翅。蝶の翅なら片方に二枚、大きな翅と少し小ぶりの翅と。それを左右につけるだけのことが、少しも出来ない。
 天使の翼はくっついたのに。…ハーレイらしい茶色の翼を、アサギマダラの翅にしたいのに。
(…ホントに翅がくっつかない…)
 透明な翅さえ描けないなら、それは「似合っていない」ということ。ハーレイに似合いの天使の翼は、ちゃんと描けているのだから。真っ白な翼も、茶色の羽根に覆われた翼も。
 悪戦苦闘している所へ、ハーレイの愉快そうな声。
「どうだった、おい?」
 俺の背中に、蝶の翅を見事にくっつけられたのか?
 アサギマダラでも何でもいいがだ、その翅、俺に似合っているか…?
 どうなんだ、とハーレイには答えが見えているよう。蝶の翅など描けないまま、似合いそうにもないと思っていることが。
 きっと隠しても無駄だろうから、素直に答えた。「くっつかないよ」と。
「うんと頑張ってみたんだけれど…。ハーレイの背中に、蝶の翅、くっつけられないんだよ」
 天使の翼はくっついたけれど、蝶の翅は駄目。…アサギマダラも、透明なだけの翅だって。
 ハーレイには似合わないみたい…。天使の翼はくっつくけれども、蝶の翅だと駄目なんだもの。
 もしもピッタリ似合うんだったら、蝶の翅、くっついてくれそうでしょ…?
 ハーレイに似合っている翅が、と天使の翼のことを話した。白い翼もくっつけられるし、茶色の羽根の翼も直ぐに浮かんでくるよ、と。「でも、蝶の翅は無理みたい」とも。
「そうか、頑張っても無理だったか。…そうなるだろうとは思ってたがな」
 それだ、アサギマダラと俺が重ならない原因は。
 俺の背中に、蝶の翅ってヤツは似合わない。…俺には似合いの色を持ってるアサギマダラでも。
 どうやっても俺には似合わないのが蝶の翅でだ、だから蝶とも重ならない。
 アサギマダラと共通点はあっても、俺は蝶にはなれないんだな。
 なれないのならば、重なるわけがないだろう?
 俺の姿と重ねたくても、アサギマダラは重なりはしない。…俺は蝶にはなれないから。
 どんなに色合いが俺に似ていようと、デカブツな所がそっくりだろうと、無理な相談というヤツだな。アサギマダラを俺と重ねるのは。



 努力するだけ無駄ってことだ、とハーレイは可笑しそうな顔。「蝶だしな?」と。
「お前、妖精、知ってるだろう?」
 花の妖精とか、いろんなヤツがいるんだが…。妖精くらいは知っているよな?
「うん。見たことは一度も無いけどね」
 今の地球なら、妖精だって戻って来ていそう。花が咲いてる野原に行ったら、きっといるよね。人間の目には見えなくっても、輪になって踊っていたりもして。
「フェアリーリングなあ…。そういう話も前にしたっけな、妖精が踊った後に出来る輪」
 その妖精だが、あれには蝶の翅が似合いだ。そういう絵、幾つも描かれているだろ?
 だがな、どの絵も女ばかりだ。…男の妖精に蝶の翅ってヤツはくっついてるか…?
 背中に蝶の翅を背負った、男の妖精を知っているか、と問い掛けられて首を捻った。知っている知識を総動員して、妖精たちの姿を思い浮かべて。
「んーと…? 男の妖精だよね? それで背中に蝶の翅があって…」
 どうだろう、と懸命に探すけれども、出て来ない。背中に蝶の翅を持っている、男の妖精。女の姿の妖精だったら、いくらでも頭に浮かぶのに。挿絵や絵画や、様々なものが。
 けれど、男の妖精はいない。蝶の翅を持った妖精どころか、背中に翅が無いかもしれない。翅を持った妖精がいるとしたって、咄嗟には何も出て来てくれない。
(…男の妖精は、蝶の翅を持っていないわけ…?)
 あれは女の妖精だけなの、と高い壁にぶつかってしまった思考。妖精といえば、背中にあるのが蝶などの翅。そうだと思い込んでいたのに、男の妖精は、それを持ってはいないようだから。
「どうだ、ブルー? …浮かばんだろうが、蝶の翅を持った男の妖精は」
 女の妖精なら山といるがな、とハーレイは今度も先回りした。答えは知っているとばかりに。
「…そうみたいだけど…。いくら考えても、出て来ないけど…」
 蝶の翅がある男の妖精、いないものなの?
 誰も出会ったことがなくって、絵を描いた人もいなかったりする…?
「どうなんだかなあ…。俺も詳しくはないんだが…。妖精は日本のものじゃないから」
 しかしだ、人魚なんかだと、男の人魚は醜いそうだぞ。女の人魚は、それは綺麗なのに。
 それと同じで、男の妖精も醜いヤツが多いんだ。
 妖精の世界じゃ、女は綺麗で、男は醜いのが普通なのかもな。



 醜い姿の者が多いのが、妖精の男。よく知られているドワーフも、姿は醜いという。もちろん、背中に蝶の翅は無い。ただの小人で、とても醜く描かれたりもして。
「醜い姿に、蝶の翅なんぞは似合わんだろう? 蝶は綺麗なものなんだから」
 そのせいなのか、蝶の翅をくっつけた男の妖精ってヤツは、俺だって思い浮かばんな。幾つもの資料を当たっていったら、何処かにいるかもしれないが。
 だが、有名じゃないってことはだ、男には似合わないってこった。…蝶の翅がな。それは美しい姿をしてても、駄目なんだろう。そいつが男である限りは。
 だから俺にも似合わないわけだ。お前がいくら頑張ってみても、蝶の翅は俺にはくっつかない。俺も男には違いないから、駄目ってことだな。
「…そうなっちゃうわけ?」
 蝶の翅、男には似合わないから、ハーレイにも似合ってくれないの…?
 それでハーレイとアサギマダラは、どうしてもイメージが重ならないわけ…?
「結論から言えば、それに尽きるな。どう転がっても、俺には蝶の翅は似合わん」
 アサギマダラだろうが、真っ黒なカラスアゲハだろうが。…どれも俺には似合わないわけだ。
 お前のイメージは間違っちゃいない、と言われたけれど。ハーレイと蝶は、重ならなくても何も不思議は無いらしいけれど、それならば鳥はどうなるのだろう?
 渡り鳥の話で出て来たツバメは、鳥の中では可憐な方。けれどハーレイを重ねられるから。
「…ハーレイの話も分かるけど…。でも…。渡り鳥なら、ハーレイに似合っていたよ?」
 ツバメは変だと思わなかったし、渡り鳥じゃないけど、鶴だって…。
 ぼくたちを鶴に重ねて話してた時も、少しもおかしくなかったのに…。鶴とハーレイ、頭の中でピタリと重なってたのに…。
「そいつは、どれも鳥だからだろ」
 うんと可憐な鳥も多いが、逞しい鳥も多いから…。翼を広げりゃ、鶴だってとてもデカイんだ。
 だからだろうなあ、天使でなくても、翼のついてる男は昔からいるもんだ。
 神話の中にも、伝説の中にも。
 作り物の翼で空に舞い上がったイカロスにしても、鳥の翼で飛んだだろうが。
 しかし、蝶の翅を持った男の話は、俺の知る中には無いからなあ…。
 男にはよっぽど似合わないんだな、妖精だろうが、神話や伝説の人物だろうが。



 致命的に似合わないんだろう、とハーレイは笑う。「俺でなくても駄目なようだ」と。
「其処へ持って来て、俺だしな? いかつい身体に蝶の翅はなあ…」
 似合わないのが当然だろうし、アサギマダラの翅でも無理だ。あれだって蝶の翅なんだから。
 もう絶対に無理ってもんだ、とハーレイが否定する蝶の翅。「俺には無理だ」と、手を広げて。
「それって、イメージの問題なの?」
 ハーレイに蝶の翅が似合わないから、アサギマダラの姿と重ならないの…?
 共通点が幾つもあっても、ハーレイの上にアサギマダラを重ねることは出来ないわけ…?
「そうなるんだろうな、相手が蝶の翅だけに。…女の妖精しか持っていないような翅」
 前のお前でも無理だと思うぞ、蝶の翅を持つというのはな。…ソルジャー・ブルーでも。
 どう思う、前のお前に蝶の翅は似合いそうなのか…?
 そっちも、ちょいと考えてみろ、と促されなくても、答えは直ぐに弾き出された。今の時代も、人気を誇るソルジャー・ブルー。王子様扱いされるくらいなのだし、美しい容姿には違いない。
 けれど、その背に蝶の翅をつけることが出来るかと問われたら…。
「前のぼくでも、駄目だと思う…」
 なんだか変だよ、蝶の翅なんて。…アサギマダラでも、モンシロチョウでも、どんな蝶でも。
「ほら見ろ。…天使みたいだった前のお前にしたって、蝶の翅を持つのは無理なんだ」
 それが男の限界ってヤツだな、どう頑張っても蝶の翅など持てやしない。…俺でなくても。
 蝶の姿が重ならないのも仕方ないだろ、最初から違いすぎるんだから。
 俺とアサギマダラじゃ月とスッポンどころじゃないぞ、とハーレイが指摘する両者の違い。幾つ共通点があっても、ハーレイの姿にアサギマダラは重ならないらしい。
「…じゃあ、アサギマダラになって、海を越えて飛んで行くっていうのは…」
 ぼくとハーレイとでやるのは無理なの、二人で海は越えて行けない…?
「いや、その点なら大丈夫だろう。アサギマダラの世界にもオスはいるんだから…」
 お互い、蝶になっちまったなら、姿のことは気にならんだろう。蝶の翅が普通なんだしな?
 だが、今の俺の姿に、蝶の翅はどうにも似合わんぞ。アサギマダラの翅にしたって。
「…蝶の翅…。チビのぼくでも難しいよね…」
 今の間なら似合うのか、って尋ねられても、似合わないと思う…。
 子供のぼくでも似合わないなら、男の人には、本当に似合わないんだね…。蝶の翅って。



 なるほど、と納得させられた。蝶の翅が似合わない、男性という種類の人間について。
 そのせいで海を渡る蝶のアサギマダラは、ハーレイの姿に重ならなかったのか、と。
 蝶の翅自体が似合わないなら、蝶が重なる筈もない。
 もっとも、蝶の翅が全く似合わないのは、ハーレイだけではなくて、自分もだけれど。今よりも遥かに美しかった、ソルジャー・ブルーでも似合わないのだけれど。
 そうは言っても、ハーレイと二人で海を渡って飛んでゆくことには憧れる。渡り鳥はもちろん、渡り鳥のように海を渡ってゆく蝶だって。
 だから強請らずにはいられない。…蝶の翅が似合わない、褐色の肌の恋人に。
「ハーレイの背中に、蝶の翅は似合わないらしいけど…。でも…」
 ぼくたちがアサギマダラになっちゃった時は、ハーレイ、一緒に海を渡ってくれるよね?
 南まで飛んで行く旅の途中で、ぼくが落っこちちゃわないように。
 眠りそうになったら、ちゃんと隣で支えてくれて…?
「もちろんだ。…その時はきっと、お前の目には俺が頼もしく見えるだろうさ」
 翼の代わりに、蝶の翅を持った姿の俺でも。ひらひらと飛んでいるだけでも。
 お前だってきっと綺麗に見えるぞ、他の誰よりも。
 蝶の翅の模様はどれも同じにしたって、お前は、群れの中の誰よりも綺麗な蝶なんだろうな。
 俺がすっかり参っちまうほど…、とハーレイが褒めてくれるから。
「そうだといいな…」
 誰よりも綺麗だと思って貰えるアサギマダラになれたら、嬉しいんだけど…。
 そして誰よりも強いハーレイと一緒に飛んでゆけたら、もう本当に最高だけど…。
 二人一緒に飛んでゆこうね、と頼もうとしたら、「気が早いヤツだな」と返った返事。
「おいおい、アサギマダラになって二人で飛ぶのもいいが、だ…。蝶になるより前にだな…」
 今の人生を楽しまないと、と諭された。「まずは二人で、其処からだろう?」と。
 それは確かに間違っていないし、二人で今を生きてゆく。青い地球の上に生まれ変わった今を。



 そうして、忘れないでいたなら、いつかハーレイとアサギマダラを見に行きたい。
 雨にも風にも弱い筈の翅で、海を渡るという逞しい蝶を。
 「あんな風にハーレイと飛んでみたいよ」と、今の自分にさえも似合わない翅を持つ蝶を。
 きっとハーレイとなら、蝶になっても飛べるから。長い渡りも、二人なら飛べる。
 弱い翅でも、海を渡って二人で飛んでゆける筈だから、海を渡る蝶をハーレイと見よう。
 アサギマダラが海を渡る前に、群れを作るという場所に行って。
 これから海を越えてゆく群れを、ハーレイと二人で見送ろう。
 「元気に飛んで、帰って来てね」と。
 長い旅でも、海に落ちずに、みんな揃って春に戻って来て欲しいから。
 ハーレイの色を持ったアサギマダラの群れに向かって、懸命に手を振ってやりたい。
 「行ってらっしゃい」と、「海の上でも頑張ってね」と…。




            海を渡る蝶・了


※海を渡る蝶、アサギマダラ。渡り鳥のような長旅も、ハーレイならブルーを支えそう。
 けれど、ブルーには想像出来なかった、蝶のハーレイ。蝶の翅は、男性には似合わないもの。

 ハレブル別館ですが、年度末で終了することに決めました。
 例年だったら訪問者がある年末年始も、pixiv に来た人はゼロのまま。
 「その後の二人」を書くかどうかは、気分次第でしょう。

 おバカなシャングリラ学園生徒会室の方は、今年も今まで通りです。
 他の二つのサイトについては、続けられる間は、書き続けると思います。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv







(今日はこっちに…)
 行ってみようかな、と歩き始めたブルー。学校からの帰りに、いつものバス停で降りて。
 たまには普段と違った道から帰るのもいいよね、と住宅街の中を歩いていたら…。
(あれっ?)
 夾竹桃だ、と目を丸くした。道沿いの家の庭に、ひときわ鮮やかなピンク。真夏の空が似合いの色。今の季節には咲かない花。
 見間違いかと思ったけれども、本当に夾竹桃だった。花も葉っぱも、夾竹桃そのもの。
(狂い咲き…)
 夏と間違えて咲いちゃったのかな、と見詰めた夾竹桃。ブルーの背よりも大きな木。家の庭には他にも夾竹桃があるのに、花が咲いているのは一本だけ。
(他の木は咲いていないなら…)
 変わった種類の夾竹桃ではないのだろう。何故か一本だけ、花の季節に出遅れて咲いた。今頃の季節に満開になって。
(別の道から帰って良かった…!)
 ちょっと得をしたような気分にもなる。珍しいものに出会えたから。
 温室でもないのに、季節外れのピンク色の花。他所の庭では、とうの昔に散った後。此処の庭の他の夾竹桃と同じに、夏の終わりに。
(ふふっ…)
 いいもの見付けた、と眺めて満足。花は好きだし、今の季節には見られない花は、なおのこと。植物園なら季節外れの花も咲くけれど、普通の場所で出会えるなんて、ツイている。
 御機嫌でたっぷり花を楽しみ、足取りも軽く家に帰った。「いいものを見たよ」と、弾む心で。
 制服を脱いで、おやつを食べに行ったダイニングで母にも話した。
 「夾竹桃が咲いていたよ」と、「ママも見に行くなら、この家だから」と。
「あらまあ…。運が良かったのねえ」
 ママも見に行ってみるわ、明日、お買い物に行くついでに。
「やっぱり見たくなっちゃうでしょ? ホントに綺麗だったんだよ!」
 今が満開。綺麗な間に行ってあげてね、せっかく素敵に咲いてるんだから…!



 母にも勧めた「真夏の花」。季節外れの夾竹桃は、一人占めしてはもったいない。母に話せば、近所の人にも伝わるだろう。
(知ってる人は、とっくに見に行ってるかもしれないけれど…)
 母が知らないなら、この辺りではまだ情報が回っていない。きっと明日には、見物人が増えて、夾竹桃も喜びそう。満開の花を見て貰えて。
 あの家の人も、きっと嬉しくなるに違いない。自分たちだけで見ているよりも、花のお裾分け。
 ホントにいいものを見付けちゃった、と上機嫌で二階の部屋に戻って、勉強机の前に座った。
 今の季節は花が咲かない夾竹桃。とうに咲き終わって、緑の葉っぱばかりになって。
 けれど、あの木は今が見頃で花が一番映える時期。
(季節外れでも、綺麗なものは綺麗だもんね?)
 狂い咲きしちゃった花だって、と思った途端に気が付いた。その言葉が持っている意味に。何の気なしに繰り返していた、花の咲き方。
(狂い咲き…)
 そう呼ぶほどだし、「尋常ではない咲き方」の意味。季節外れの、変な咲き方をした花のこと。今の季節に咲いた夾竹桃やら、冬の最中に花をつけている桜やら。
(…狂い咲きって、花の異分子?)
 仲間外れの夾竹桃。
 普通だったら夏に咲くのに、今頃の季節に咲いているなんて、夾竹桃の中の異分子。
 最初から季節外れに花をつけるよう、改良された品種だったら、何の問題も無いのだけれど…。
(だけど、あの木は違うよね…)
 夾竹桃は他にもあったし、あの木だけが違う季節に花を咲かせた。他の木たちが葉だけをつけている中で、鮮やかなピンクの色を纏って。
(一本だけ、違っているなんて…)
 まるでミュウのよう。
 今の時代のミュウとは違って、遠く遥かな時の彼方で生まれたミュウ。
 前の自分が生きた時代に、SD体制が敷かれた世界で。
 ミュウも人間だったというのに、異分子だからと忌み嫌われた。サイオンを持っていたせいで。…人類には無かった能力のせいで。



 嫌われ、排除されたミュウ。見付かれば端から殺されていって。
 その場で処分されずに済んでも、実験動物として扱われた。檻に入れられ、過酷な実験をされて奪われた命。人間扱いされることなく。
 それが「異分子」だったミュウたちの末路。すると、さっきの夾竹桃も…。
(うんと綺麗に咲いていたのに…)
 夾竹桃の仲間の中では、嫌われたりもするのだろうか?
 あの庭にあった、他の夾竹桃たちに。「あれは変だ」と、「今頃、咲いているなんて」と。
 声も掛けては貰えないまま、仲間外れの夾竹桃。異分子だからと、そっぽを向かれて。
(どんな花でも…)
 狂い咲きは異分子なのかもしれない。
 遠い昔のミュウたちのように、仲間たちから忌み嫌われて。
 サイオンは持っていないけれども、代わりに季節外れに咲く花。他の仲間とは違った能力、別の季節に「花を咲かせる」力。
 「普通ではない」と花を毟り取られたり、根こそぎ切り倒されてしまっても、仕方ないとか。
 他の仲間が嫌うのだったら、花も、存在も抹殺されて。
(植物は自分で動けないから…)
 そんなことにはならないだけで、動けたとしたら、滅ぼされるのが狂い咲きした植物たち。
 仲間外れにされた挙句に、「異分子だから」と処分されて。
 花を毟られ、二度と花など咲かないようにと、根元から切られて、それでおしまい。
(…そうなのかも…)
 植物は自分で動けはしないし、滅ぼされないというだけのことで、本当は嫌われる狂い咲き。
 「今頃、咲いた」と仲間外れで、口さえも利いて貰えない世界なのかもしれない。
 人の目には綺麗に映っても。
 珍しいから、と写真を撮る人たちが大勢いても。
(…植物の世界では、変なんだものね?)
 狂い咲きした植物は。
 帰り道に出会った、今が満開の夾竹桃も、雪の季節に花を咲かせる桜でも。



 植物の世界では異分子だろう、狂い咲きの花。仲間たちとは違った季節に咲かせる花。
(狂い咲きって、植物のミュウ…?)
 仲間たちから嫌われちゃうの、と考えていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで話してみた。
「あのね、帰りに夾竹桃を見たよ。花が一杯咲いてる木」
 今が満開で、とても綺麗なピンク色の花…。夏の夾竹桃と少しも変わらない色で。
「ほほう…。今の季節に夾竹桃とは、何処の温室だ?」
 この家の近所にあるんだろうが、変わった趣味だな。夾竹桃を温室で育ててるなんて。
 夾竹桃が好きな人なのかもな、とハーレイは勘違いをした。狂い咲きとは思いもしないで。
 そう考えるのが普通だろうし、ますます「狂い咲き」が異分子に思える。人間さえもが、変だと眺める現象。季節外れに咲いている花。
「温室じゃなくて、外なんだってば。狂い咲きだよ」
 普通の庭にあった夾竹桃でね、一本だけが今が満開…。他の木には花が咲いてないのに。
「そりゃ珍しいものを見たなあ…。綺麗だったろ?」
 季節外れでも満開だったら、とハーレイも褒める方へと行った。「夾竹桃は華やかだしな」と、「夏の青空にも負けないピンク色だから」と。
「うん。とても綺麗で、いいものを見付けたと思ったんだけど…」
 ママにも話して、ツイてると思っていたんだけれど…。
 おやつの後に部屋で考えていたら、「狂い咲き」っていう言葉が引っ掛かったんだよ。
 咲いてる季節が普通じゃないから、そういう呼び方になるんでしょ?
 変な花だ、って思われてるから「狂い咲き」。
 それって「変だ」っていう意味なんだし、花の世界の異分子みたいなものだから…。
 狂い咲きをしている花って、なんだかミュウに似てるよね、って…。
 今の時代のミュウじゃなくって、前のぼくたちが生きてた頃のミュウたち。
 異分子なんだ、って忌み嫌われてて、見付かったら処分されちゃって…。
 狂い咲きの花もそうじゃないかな、同じ仲間の目から見たなら。
 「あれは変だ」って嫌われちゃって、そっぽを向かれて、ミュウみたいに処分されるのかも…。
 植物は自分で動けないから、そんなことにはならないだけで。



 狂い咲きの花は嫌われ者かも、とハーレイに説明した考え。「植物の世界では異分子かも」と。
「もしも植物が動けるんなら、花を毟られちゃうだとか…。根こそぎ切られちゃうだとか」
 人類がミュウを端から殺したみたいに、花の世界から抹殺しちゃった方がいい、って…。
「なるほどなあ…。そういう考えになっちまったんだな、狂い咲きの花から」
 狂い咲きってヤツは、植物の世界じゃ嫌われ者かもしれない、と。
 植物が自分で動けたとしたら、狂い咲きしたヤツは仲間に滅ぼされるかも、と思うわけだな?
 前の俺たちが滅ぼされそうになっていたのと同じで…、とハーレイも分かってくれた考え。狂い咲きした花たちは全て、異分子扱いされるのでは、と。
「ぼくはそう思ったんだけど…。ハーレイはどう?」
 やっぱり異分子なんだと思う?
 人間の目には綺麗で珍しくっても、同じ仲間の植物からしたら、嫌われ者になっちゃうのかな?
「さてなあ…。植物の世界じゃ、特に気にしちゃいないんじゃないか?」
 人間みたいに戦争なんかはしないで、ずっと昔から、平和に生きて来たのが植物だしな。
 それに、どちらかと言えば、同情して貰えそうなんだが…。狂い咲きしている時なんかは。
 同じ仲間の植物からな、とハーレイが言うから首を傾げた。どうして同情されるのだろう、と。
「なんで同情?」
 変なヤツだ、って嫌うんだったら分かるけれども、同情するって…。どうしてなの?
「狂い咲きというヤツの仕組みのせいだ。…そうなっちまう原因だな」
 気温がおかしくなった時にも、狂い咲きすることは多いんだが…。そういう時は仲間も多い。
 他の木たちも狂い咲きしてて、一本だけではなくなるんだ。全部が狂い咲きではなくても。
 しかし、一本だけが狂い咲きなら、木が傷んでいるってことも少なくない。虫に食われて弱っているとか、病気になっているとかな。
 そういう理由が無かったとしても、狂い咲きしたら木は傷んでしまう。季節じゃないのに、花を咲かせるエネルギーを使ったわけだから。
 木が傷んでの狂い咲きにしても、これから傷んじまう方でも、植物にとっては大変なことだ。
 とても負担が大きいからな、と教えて貰った狂い咲きのこと。
 季節外れに花を咲かせた時には、植物は既に弱っているか、花を咲かせたことで弱ってゆくか。植物が受ける負担は大きく、弱った身体が更に弱るか、これから弱ってゆくことになるか。



 知らなかった、と目を瞬かせた「狂い咲き」。珍しいものに出会えて良かった、と夾竹桃の花を眺めたけれども、あの木は弱っていたのだろうか?
「じゃあ、ぼくが見た夾竹桃も…。木が弱ってたの?」
 そんな風には見えなかったけど、幹の中に虫がいるだとか…。何か病気にかかってるとか…?
「弱ってるとは限らないがな。何かのはずみで、花を咲かせる仕組みが狂ったのかもしれん」
 だが、狂い咲きをしたのは確かだ。しかも満開の花となったら、相当なエネルギーだから…。
 その木は弱っちまうだろう。…木そのものは弱らなくても、花を咲かせる力の方は。
 来年の夏には花が咲かないとか、咲いても少しだけになるってこともある。他の木にはドッサリ咲いているのに、その木だけ花が少ないとかな。
 狂い咲きというのは、そうしたモンだ、とハーレイはフウと溜息をついた。人間の目には珍しく映る現象だけども、その舞台裏は厳しいものだ、と。
「そうなんだ…。あの木、来年は花が咲かないか、花が少なくなっちゃうか…」
 せっかく綺麗に咲いたのに…。今の季節には珍しいよね、って得をした気分だったのに…。
 あの木が弱ってしまうだなんて、と木があった家の方に目を遣る。この部屋の窓から、あの家の庭は見えないけれど。
「お前だって、可哀相だと思うだろ? 弱っちまうと聞いたなら」
 だから植物の仲間同士でも、同じことだな。
 嫌うよりかは、同情の方になるだろう。狂い咲きする理由ってヤツを知っているんだから。
 弱った仲間や、これから弱りそうな仲間を嫌ったりはしない。
 狂い咲きした木は、異分子じゃなくて、病人みたいなものだしな?
 前の俺たちが生きてた時代の人類だって、ミュウには酷いことをしてたが、人類同士じゃ、全く事情が違ったろうが。
 俺が嫌いなキースの野郎も、友達のサムの病院にせっせと通っていた。…あんなヤツでもな。
 キースでさえもそうだったんだぞ、他の人類も病人には優しかっただろう。ミュウの子供を処分していた、ユニバーサルのヤツらにしたって、病気の人には親切だった筈だと思うぞ。
 もちろん、怪我で不自由している人にも親切に。荷物を持つとか、席を譲るとか。
 狂い咲きした植物だって、植物の世界じゃ、そんな具合に親切にして貰えるだろう。
 しかしだ…。



 狂い咲きを忌み嫌うヤツがいるとしたなら、人間だよな、とハーレイが言うから驚いた。
 嫌うだなんて、とても信じられない。
 帰り道に出会った、季節外れの夾竹桃は綺麗だったのに。母に話したら、母も見に行くつもり。母から話を聞いた人たちも、早速、出掛けてゆきそうなのに。
「嫌うって…。仲間の植物たちじゃなくって、人間が忌み嫌うだなんて、どうして嫌うの?」
 綺麗なんだし、珍しい季節に花が見られるんだし…。いいことずくめだと思うけど?
 木の持ち主の人は「弱ってしまう」ってショックだろうけど、それと嫌うのとは違うよね?
 あの夾竹桃が咲いてた家の人だって、頑張って世話をするんだと思うよ。
 咲いちゃったものは仕方ないから、弱らないように肥料を沢山あげたりもして。
 来年は駄目でも、次の年にはまた綺麗な花を咲かせるように…、とあの庭の持ち主の心を思う。きっと大切に世話してやって、木が弱らないよう、あれこれと手を尽くすだろうから。
「持ち主の人は頑張るだろうな。弱っちまってても、元気を取り戻してくれるように」
 もちろん、嫌うわけがない。自分の家の庭にある木が嫌いなヤツなんか、いやしないぞ。
 人間が狂い咲きを嫌うと言うのは、狂い咲きという言葉の通りだ。…ずっと昔の話なんだが。
 まだ狂い咲きの仕組みさえ分かっていなかった時代。人間が地球しか知らなかった頃だな。
 その花が咲く季節じゃないのに、花が咲いたりするもんだから…。
 不吉なことだと思われたりした。今じゃ喜ばれる、冬の桜も。
「ええっ!?」
 冬の桜って、とても人気が高いじゃない。冬にも花が咲く、冬桜まであるくらいだよ?
 あれは毎年花が咲くから、狂い咲きとは違うけど…。
 でも、本物の桜が狂い咲きしたら、みんなとっても喜ぶじゃない…!
 新聞にだって写真が載るよ、と直ぐに頭に浮かんだ写真。寒い季節に桜が咲いたら、新聞を飾るものだから。「此処で見られます」と地図などもつけて。
「今の時代はそうなんだが…。昔のことだと言っただろ?」
 季節外れの花は気味悪がられたらしい。天変地異の前触れだとか、不吉なことと結び付けてな。
 特に嫌われた花が桜だ。
 ずっと昔は、桜の季節は疫病が流行ると思われていた。花鎮めの祭りがあったくらいに、疫病を恐れていたんだし…。その桜が季節外れに咲いたら、怖いだろうが。



 遠い昔は、桜の花の頃に疫病が流行る年が多かったという。桜の花が散ると、疫病の神も一緒に舞い散るのだと恐れた人々。それを防ぐのが花鎮めの祭り。
 春に祭りで疫病を封じておいたというのに、季節外れの桜が咲いたらどうなるか。疫病が流行る前兆だ、と誰もが恐れおののいた。冬の桜を愛でる代わりに、「なんと恐ろしい花なのだ」と。
「…桜、そういう花だったんだ…」
 昔の人たちもお花見してたし、冬の桜は珍しいから、うんと喜びそうなのに…。
 違ったんだね、お祭りの用意もしていないのに咲いちゃった、って怖がられたんだ…。
 今だと見に行く人も沢山いるのに、と価値観の違いに驚くばかり。冬の桜は本当に人気で、冬に花が咲く品種を選んで植えている人も少なくないから。
「所違えば品変わる、っていうヤツかもなあ…。場所とは違って、時代なんだが」
 似たような例じゃ、竹の花だってそうだ。
 竹の花は滅多に咲かない上に、咲いた後には竹がすっかり枯れちまうから…。
 そいつが咲いたら、不吉なことの前兆なんだと言われてた。実際の所は、竹は自分の都合で花を咲かせていたのにな?
 そろそろ花を咲かせる頃だ、と何十年に一度とかの開花期がやって来る度に。
 季節外れの桜にしたって、竹の花にしたって、悪いことは何もしちゃいないんだが…。
 ただ咲いたというだけのことで…、とハーレイが浮かべた苦笑い。「人間ってヤツは勝手だな」などと、「人間が一番偉いわけでもないのになあ…」と。
「…狂い咲きの桜も、竹の花が咲くのも、どう捉えるかは人間の都合で決まっちゃったんだ…」
 気味の悪い花が咲いたから、って嫌っていたのが昔の人で、今だと珍しくて大人気。
 おんなじ花でも、それを見る人の考え方で変わってくるなんて…。
 狂い咲きの花、ホントにミュウとおんなじだね。…前のぼくたちが生きてた頃の。
 異分子だから処分すべきだ、って端から殺されちゃったけど…。滅ぼさないと、ってメギドまで二回も持ち出してたけど、あれは間違い。
 ミュウは進化の必然だったし、滅ぼす方が間違いだったのに。
 滅ぼしたりないで、人類はミュウと手を取り合わなきゃいけなかったのに…。
「まったくだ。…もっとも、前の俺たちにだって、それは分かっていなかったんだが…」
 異分子なんだ、と迫害されてりゃ、そういうモンだと思っちまうよな。…ミュウの方でも。



 前のハーレイたちも驚いたという、キースがスウェナ・ダールトンに託したメッセージ。
 全宇宙帯域で流されたメッセージの中で、キースは「ミュウは進化の必然だった」と明言した。それをユグドラシルの一室で見るまで、ハーレイたちでさえ夢にも思っていなかった。
 追われ続けたミュウが「異分子ではなかった」とは。
 人類の進化の次の段階、それが「ミュウ」という新しい人種だったとは。
 「あれは本当に驚いたんだ」と苦笑しながら、ハーレイは「そういえば…」と顎に手を当てた。
「人間の解釈次第だと言えば、文字通り、そういう花もあったっけなあ…」
 不吉なんだか、めでたい印の吉兆なんだか、意見が分かれちまった花。
 その花が咲いた当時でさえも、どう受け取るのか、人によって違ってしまった花が。
「意見が分かれたって…。その花も狂い咲きしたの?」
 それとも竹の花と同じで、滅多に咲かない花だったとか…?
 どっちの花、と興味津々。昔の人たちの考え方は、今と全く違うから。
 春になったら桜を愛でていたのに、その一方で恐れていた人々。花見の宴を催す傍ら、花鎮めの祭りを行ったほど。同じ桜の花だというのに、愛でたり、それを怖がったり。
 そんな人々の意見が分かれた花とは、いったいどんな花なのだろう…?
「狂い咲きではなかったな。咲いた季節は普通だったから」
 それに滅多に咲かない花でもない。毎年、季節になれば山ほど咲いた筈だぞ。そいつが生えてる場所に行ったら。
 ただ、咲き方の方が問題になった。
 蓮の花だったが、双頭蓮と呼ばれるヤツでだな…。
「双頭蓮…?」
「名前の通りの蓮の花だ。一つの茎に二つの花をつけている蓮」
 茎が途中で分かれるんじゃなくて、天辺に蕾が二つ生まれて、二つとも咲く。頭が二つあるってことで、双頭蓮という名前になるんだな。
 蓮池があれば、たまにヒョッコリ現れるそうだ。
 今は幸せを呼ぶと言われて、皆が見に行くほどなんだがなあ…。
 うんと昔は嫌われたんだ。
 縁起が良くない、と歴史にまで書き残されたくらいに。…しかしだな…。



 今じゃすっかり幸せの花になっちまった、とハーレイは笑う。同じ双頭蓮なのに。
 その辺りは狂い咲きや冬の桜と同じだけれども、双頭蓮は当時に意見が分かれていたという。
 凶兆なのだと考えた人と、吉兆だと捉えていた人とに。
「飛鳥時代は知っているだろう? 歴史じゃお馴染みの時代だからな」
 古典の方だと、それほど中身は無いんだが…。せいぜい万葉集くらいってトコで。
 お前たちに授業で教えられるものは…、とハーレイが嘆く飛鳥時代。まだ日本では、物語などは書かれていなかった。古典の授業で扱えるものは、万葉集に編まれた歌くらい。
 その飛鳥時代、都が置かれた飛鳥に剣池と呼ばれる池があった。
 池には沢山の蓮が茂って、其処に現れた双頭蓮。一つの茎に二つの花をつけた蓮。
 日本書紀に書かれた最初の記録は、舒明天皇の時。
 なんとも不思議な蓮の花だから、恐れる人もいたのだけれども、何も起こりはしなかった。天変地異も、戦争なども。
 それでも珍しい花だったからこそ、日本書紀にも書かれたのだろう。当時の人が後世に残そうと思わなければ、記録は残らず、忘れ去られた筈だから。
 次に双頭蓮が現れたのが、女帝だった皇極天皇の時代。やはり前と同じ剣池で。
 時の権力者だった蘇我氏の長は、双頭蓮が出現したのを、自分に都合よく解釈した。
 世にも珍しい蓮の花だし、「蘇我氏が栄える吉兆だ」と。
 せっかくだからと、その花の絵を絵師に描かせた。それも高価な金泥を使って、贅沢に。
 出来上がった絵は、大仏があった寺に奉納して、「これで蘇我氏はますます栄える」と上機嫌。吉兆の蓮が咲いただけでも素晴らしいのに、その絵を奉納したのだから。
 けれど、それから丁度、一年が経った時。
 乙巳の変で、蘇我氏は滅びてしまったという。双頭蓮の絵を描かせた長の息子の入鹿は殺され、長の蝦夷は館に火を放った。全ては炎の中に飲まれて、蝦夷の命も其処で潰えた。
「…なんだか怖いね…」
 たったの一年で、全部滅びてしまったなんて。…まるで蓮の花に呪われたみたい…。
「そうだろう?」
 蘇我氏が滅びる前兆だったか、そうじゃないかは分からないがな。…ただの花だけに。
 とはいえ、当時の人間にすれば、不吉としか思えなかっただろう。あんな不吉な花を喜ぶから、余計に酷いことになった、と。



 立派な絵まで描かせたんだからな、と軽く両手を広げたハーレイ。「軽はずみだと思われても、仕方あるまい」と。
「昔の人間は、不吉なことが起こりそうだと考えた時は、大人しくしたものなんだが…」
 家に引きこもって外へ出ないとか、神仏に助けを祈るだとか。
 そうする代わりに、怪しげな蓮の絵まで描かせていたわけだから…。自業自得だ、と考える人も多かったろうな。「あれさえ描かせて奉納しなけりゃ、無事だったものを」と。
 そういう話があったお蔭で、双頭蓮を嫌う人間が多かったのに…。
 いつの間にやら、双頭蓮と言えば、縁起のいい花になっちまってた。咲いたと聞いたら、大勢の人が一目見ようと押し掛けるほどに。
 昔の人には凶兆だった花だというのに、後の時代だと吉兆なんだな。
 その辺りのことは、狂い咲きした冬の桜なんかも、似たようなものだと言えるんだが…。
 双頭蓮の場合は、咲いた当時に意見が分かれていたのがなあ…。
 あれは不吉な花なのでは、と思う連中と、「吉兆なんだ」と思った蘇我氏の方と、真っ二つに。
「…ホントは凶兆だったのに?」
 だってそうでしょ、蘇我氏は滅びちゃったんだから。
 不吉な花なんて、本当は存在しないんだけど…。その蓮の花も、今、咲いていたら、幸せを呼ぶ花が咲いてるから、って見に行く人がドッサリだけど…。
 でも、その頃だと、大真面目に信じていたんだよね?
 季節外れの桜の花は不吉だとか…。狂い咲きした花や、変な形で咲いてる花も良くないとか。
 そんな時代なら、双頭蓮も凶兆ってことになるんでしょ?
 蘇我氏が滅びてしまう予兆で、それを知らせるために咲いていたんだ、って…。
 なのに勘違いをしたんだよね、と確認した。蘇我氏が滅びる凶事の前兆、それが双頭の蓮の花。
 けれど蘇我氏の長は、吉兆だと捉えたから。絵まで描かせて、大仏に奉納したのだから。
「そうなるな。…権力者ってヤツには、ありがちなんだが」
 自分が一番偉いと思っているから、世の中のことは、全部自分のためにあるんだ。
 皆が「不吉だ」と恐れていたって、自分が「素晴らしい」と思っちまえば、不吉なことも吉兆になってしまうってな。権力者の頭の中でだけ。
 だから蘇我氏も、不吉な蓮が咲いているのに大喜びして、絵まで奉納しちまった、と。



 昔からよくある話だよな、とハーレイは頭を振っている。「この手の話は多いんだ」と。
 大きな権力を手にした者は、何も恐れはしないから。何もかも自分の意のままに出来て、不吉なことさえ覆せると思うほどだから。
「だがなあ…。前の俺たちを滅ぼそうとしていた、グランド・マザーの場合は、だ…」
 ミュウを吉兆とは思ってくれずに、せっせと殺していただけだったが。
 人類の中から出て来た異分子、邪魔なものだと考えるだけで。
 グランド・マザーは人間じゃなくて機械だったが、権力者には違いない。驕った考えってヤツを持っていたなら、ミュウも吉兆になりそうだがなあ…。
 「妙な連中が現れたようだが、上手く使えばきっと世の中の役に立つ」とでも考えて。
 自分なら使いこなせる筈だ、と役立てる方法をあれこれ検討してみたりもして。
 人類が何度も「ミュウは不吉です」と進言しようが、「いや、吉兆だ」の一点張りでな。
 しかし、そうなりはしなかった。…ミュウはSD体制の時代の中では、殲滅すべき生き物だ。
 最初からそうプログラムされていたから、グランド・マザーに他の考え方は無い。
 ミュウ因子の排除が不可能だっただけで、生まれて来たミュウは皆殺しにするのが仕事だから。
 グランド・マザーが、ああいう機械でさえなかったら…。
 権力者ってヤツには珍しくない、自分に都合のいい解釈をするタイプだったらなあ…。
 ミュウも吉兆になれていたかもしれないのに、と残念そうな顔のハーレイ。
 時の権力者が一つ間違えれば、凶兆でさえも吉兆になる。不吉なように思える花でも、双頭蓮の出現を蘇我氏が喜んだように、それは素晴らしい吉兆に。
 それと同じで異分子のミュウも、考え方次第で吉兆になれた。グランド・マザーが「吉兆だ」と判断していたら。
 人類たちが何と唱えても、聞く耳を持たなかったなら。
「…ミュウが吉兆になっちゃうんだ?」
 人類から見たら気味が悪くて、サイオンを持った異分子でも。
 とても不吉で、早い間に処分しなくちゃ、って誰もが思って、そう言っていても…?
「グランド・マザーが、自分勝手な思考の持ち主ならな」
 きちんとプログラムされた機械ではなくて、ミュウについての思考を一から始めていたら。
 ついでに、デカイ権力を握ったヤツらが陥りがちな、自分中心な世界を描いていたとすればな。



 前の俺たちは吉兆になり損ねたか、とハーレイは腕組みをした。「本当は吉兆だったのに」と。
「正真正銘の吉兆だったぞ、見た目は如何にも不吉そうでも」
 今の世の中ってヤツを見てみろ、それが証明されてるじゃないか。ミュウが吉兆だったこと。
 ミュウの時代がやって来たお蔭で、今じゃすっかり平和な世界になったってな。宇宙の何処にも戦争は無いし、武器も兵器も作られちゃいない。軍も無ければ、戦艦も無いし…。
 おまけに地球まで青く蘇って、俺たちがこうして住んでいられる。前の俺が辿り着いた時には、何も棲めない星だったのに…。毒の海と砂漠が広がっているだけだったのにな?
 その地球の姿を元に戻したのは、結局の所はミュウなんだぞ?
 キースの野郎が関わってはいても、ジョミーがいなけりゃ、青い地球には戻っていない。それを思うと、ミュウは吉兆だったんだがなあ…。
 どんなに人類に嫌われていても…、とハーレイが言いたくなるのも分かる。
 遠い昔には、季節外れの桜や狂い咲きの花たちは嫌われたのだけれども、今では喜ばれる存在。珍しい花が咲いているから、と新聞に写真が載ったりもして。
 前の自分たちも、それと似たようなものだったろう。
 サイオンという、人類には無い特殊な能力を持った人間。だから「異分子」だと忌み嫌われて、端から処分されていた。「生かしておいても、ろくなことはない」と。
 けれど、本当は「進化の必然」。
 ミュウの時代がやって来ないと、人間は先へ進めなかった。平和な時代も、青く蘇った地球も、人類の時代からミュウの時代へ移ったからこそ、此処にあるもの。
 それに気付かず、グランド・マザーは「ミュウの殲滅」を続けさせた。そうすることは、歴史に逆らうことなのに。…けして上手くは運ばないのに。
 もっとも、追われ続けたミュウの方でも、まるで気付いていなかったけれど。
 自分たちは「異分子」なのだと思い込んだままで、懸命にもがき続けていた。異分子を排除するマザー・システムから、なんとか逃れようとして。
 そのシステムを変えるためにと、地球を目指して。
(グランド・マザーが、勘違いをしてくれてたら…)
 ミュウは吉兆になれただろうか?
 人類の指導者が何と言おうと、滅ぼされない道を歩んで行けたのだろうか…?



 遥かな昔に、蘇我氏の長が犯した勘違い。不吉の前兆だった双頭蓮を、吉兆と思い込んだこと。わざわざ立派な絵まで描かせて、奉納させたという思い上がり。
 世間の人々は、その蓮の花を恐れていたのに。「不吉なことが起こらねばいいが」と、怖そうに眺めていたのだろうに。
 それと同じにグランド・マザーも、ミュウの存在を読み誤っていたならば。自分の治世に現れたミュウを、吉兆なのだと思い込んで保護していたのなら…。
(前のぼくたちは、アルタミラで星ごと滅ぼされずに…)
 生きて、どういう道を歩んだか。人類はミュウを嫌うわけだし、やはり戦いになっていたのか。人類との戦いが始まったならば、目指すべき場所は…。
(やっぱり地球になるんだよね…?)
 人類の指導者が誰であろうと、その後ろにはグランド・マザーがいる。それを倒してしまわない限り、ミュウの時代は手に入らない。…いつまで経っても異分子のままで。
(グランド・マザーが、「ミュウを滅ぼせ」って言っていなくても…)
 人類がそう考えるのなら、人類の世界を変えるしかない。地球に行き着き、グランド・マザーを破壊して。…SD体制を根幹から覆して。
 そうなった時は、グランド・マザーは蘇我氏と同じ。自分だけが「吉兆なのだ」と信じ続けた、不吉なものに滅ぼされるから。
 人類たちが「あれは不吉だ」と唱え続けた、ミュウが滅びを呼び込むのだから。
 そうなると、つまり…。
「えっと、ハーレイ…。前のぼくたち、本当は吉兆だったけど…」
 グランド・マザーにとっては、吉兆だろうと、不吉だろうと、結果は全く同じじゃない。
 吉兆だから、って保護されていても、人類がミュウを見る目は違うよ?
 サイオンを持っているっていうだけで気味が悪くて、やっぱり忌み嫌うんだろうから…。
 そういう世界を変えるためには、地球まで行って、グランド・マザーを倒すしか…。
 どっちにしたって、グランド・マザーはミュウに滅ぼされてしまって、おしまい。
 だから、グランド・マザーがミュウをせっせと排除してても、保護していても、最後は同じ。
 グランド・マザーにはミュウは凶兆なんだよ、どう転がっても。
 「吉兆なんだ」って喜ぶ方でも、前のぼくたちにやったみたいに、排除しようとする方でもね。



 どっちに転んでも不吉だったよ、とクスッと笑った。グランド・マザーにしてみれば、ミュウは不吉な存在だから。
 蘇我氏が不吉な双頭蓮を喜んだように、「吉兆」として捉えていても。
 実際の歴史がそうだったように、「異分子」として徹底的に排除していた方でも。
「そう思わない? 最後はミュウに壊されちゃうんだよ、グランド・マザーは」
 吉兆だから、って保護していたって、異分子として排除し続けたって。
 最後は同じで、ホントに蘇我氏の蓮みたい…。グランド・マザーは勘違いをしてくれなくって、ミュウは保護されなかったけれど…。嫌われ続けただけだったけどね。
「なるほどなあ…。どう転んだとしても、最後は同じになっちまうのか…」
 ミュウって種族は、地球や宇宙には吉兆だったが、グランド・マザーには凶兆だった、と。
 たとえ吉兆だと喜んでいても、蘇我氏みたいに滅びちまっておしまいなんだな…?
「うん。本当に双頭の蓮とおんなじだよね。…前のぼくたち」
 捉える人の心次第で決まっちゃうんだよ、吉兆なのか、凶兆なのか。
 グランド・マザーは機械だったから、人間とは全く違うけど…。とても驕った思考を持ってて、ミュウの殲滅をプログラムされてなかったら、ミュウを保護していたかもね。
 さっきハーレイが言ってたみたいに、自分に都合よく考えちゃって。
 吉兆のミュウを保護した可能性はあるよね、と可笑しくなる。機械がそういう思考をしたなら、歴史の流れが変わっていたかもしれないから。最後は同じ結末になっても、途中の道が。
「あったのかもなあ、そういう道も…」
 実際には有り得なかった道だが、そいつはプログラムのせいだ。
 グランド・マザーが、「ミュウを発見したら処分しろ」という命令を一切、組み込まれないで、自由に思考していたら…。
 権力ってヤツに酔っちまっていたら、ミュウの保護だって充分、有り得た。
 人類が何と言っていようと、「自分なら上手く使いこなせる筈だ」と思い込んで。
 そうやってミュウを放っておいたら、牙を剥かれるというわけだな。
 人類がミュウを忌み嫌うせいで、ミュウの堪忍袋の緒が切れちまって。
 「こんな世界が悪いんだ」とSD体制を倒しにかかって、グランド・マザーも倒されるのか…。
 役に立ちそうだと保護した筈の、ミュウに足元を掬われちまって、マザー・システムごと。



 それも面白かったかもしれん、とハーレイは感慨深そうな顔。「別の道か」と。
「前の俺たちは、その道を歩めはしなかったが…。捉えるヤツの心次第なんだな」
 ミュウが不吉か、そうでないかは。…吉兆には違いなかったんだが。
 そうか、前の俺たちは双頭の蓮だったのか…。剣池には咲いちゃいないが、蘇我氏の代わりに、グランド・マザーを滅ぼしちまった蓮の花。
「どうだろう? 狂い咲きだって、不吉なんだと思われていたって言うんだから…」
 双頭蓮じゃなくって、ぼくが見たような、狂い咲きしてる夾竹桃かもしれないよ?
 それとも冬の桜の花かな…、と言ったのだけれど。
「桜とかも悪くないんだが…。俺としてはだ、双頭の蓮の方が好みだな」
 そっちがいい、とハーレイは双頭の蓮の方。どの花だろうと、捉え方次第で、不吉なものにも、喜ばれる花にも変わるのに。
「…なんで双頭の蓮がいいって言うの?」
 蘇我氏を滅ぼしちゃった花だよ、縁起の悪さが他の花より凄くない…?
 今は、おめでたい花みたいだけど、あんな話を聞かされちゃったら、他の花の方が…。
「どう捉えるかは心次第だと、お前、自分で言ったじゃないか。そいつを忘れてくれるなよ?」
 双頭蓮をよく考えてみろ。一つの茎に二つの花だぞ、其処がいいんだ。
 お前と二人で一本の茎なら、前の俺たちにはピッタリじゃないか。
 生まれた時期こそ違ってはいたが、出会ってから後は、ずっと二人一緒に生きていたんだから。
 お前がメギドに行っちまうまでは…、とハーレイに言われて気が付いた。確かに双頭蓮の花は、前の自分たちの姿に良く似合う。一つの茎に二つの花をつける蓮なら。
「そうだね、ああいう花だったよね…。前のぼくたち」
 本当は花じゃなかったけれども、花だとしたなら、それだと思う。双頭の蓮…。
 今度も一緒に生きていけるよ、今度こそ、絶対に離れないで。
 ぼくはメギドに行ったりしないし、本当に、うんと幸せ一杯に…。
「一つの茎に二つの花か…。いつまでも離れないカップルの蓮というわけだな」
 そういったことを考えた人が、幸せの花にしたかもなあ…。双頭蓮を。幸せを運んで来てくれる花だと、仲のいいカップルなんかになぞらえて。
「きっとそうだよ、花のカップルだもの」
 最初から一つの茎に生まれて、二つ一緒に咲くんだものね。



 いつか本物の双頭蓮を見てみたいな、と強請ってみた。
 滅多に咲かない花だけれども、何処かで咲いたら見に行きたい、と。
「蓮の花が咲く場所、色々あるでしょ? その内に何処かで咲く筈だから…」
 ハーレイと二人で出掛けられるようになってから咲いたら、見に行きたいな…。
 前のぼくたちみたいな花を。
「よしきた、俺の車で行こうじゃないか。双頭蓮を見にドライブだな」
 前の俺たちだけじゃなくてだ、今の俺たちにも似合いの花を。
 一本の茎に二つの花だし、本当にお前と俺みたいに一緒の花だからなあ、離れずに咲いて。
 俺が蓮の花に見えるかどうかはともかくとして…、とハーレイは困り顔だけど。
「大丈夫! ぼくと一緒に咲いてるんなら、ハーレイだって蓮の花に見える筈だから!」
 だから約束、双頭蓮を見に連れて行ってね。…いつか咲いたら。
 咲いたっていうニュースが出たら…、と指切りをして約束した。「見に行こうね」と。
 珍しいという双頭蓮。何年かに一度、咲くか咲かないかも分からない花。
 それが咲いたら、いつかハーレイと二人で見に行こう。それが咲いている蓮池まで。
 狂い咲きの花も、双頭の蓮も、まるで異分子だったミュウのようでも、今の時代は幸せの花。
 ミュウが本当は吉兆だったように、その花たちも今は喜ばれる。
 「珍しいから」と写真を撮られて、ニュースにもなって。
 誰も不吉だと嫌わない花を、ハーレイと二人、いつか仲良く眺めにゆこう。
 一つの茎に二つの花の双頭蓮。生まれた時から、同じ茎で育った二つの花を。
 「ぼくとハーレイみたいだよね」と、しっかりと手を繋ぎながら。
 「いつまでも二人、一緒だものね」と、握り合った手にキュッと力をこめたりもして…。



            花たちの異分子・了


※ブルーが出会った季節外れの夾竹桃の花。違う季節に咲いているだけに、異分子かも。
 前の生の頃のミュウも、異分子でしたけど、実の所は進化の必然。吉兆と考えてもいい存在。

 ハレブル別館、長いこと書き続けて来ましたが、pixiv に置いている、アニテラ創作。
 ここ数ヶ月、全く読まれなくなりました。
 アニテラの時代は終わったようだ、と思いますので、年度末で、終了にするつもりです。
 最終回などは書きません。来年3月まで、今の調子で続けてゆきます。
 それ以降、どうするのかは、pixiv の動き次第でしょうか。
 まだ読む人が残っているなら、ごくごく短い「その後の二人」を書くかもしれません。
 
 おバカなシャングリラ学園生徒会室の方は、来年も今まで通りです。
 他の二つのサイトについては、続けられる間は、書き続けると思います。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv







「さてと…。今日は、ちょっぴり暑いしな?」
 季節外れな話をするか、と笑みを浮かべたハーレイ。
 今はブルーのクラスで授業の真っ最中。古典を教えているのだけれども、眠くなる生徒も次第に増える。いくらハーレイが人気者でも、それと授業は別のこと。勉強が好きな生徒は珍しい。
 生徒の集中力が切れて来た時、絶妙なタイミングで繰り出す雑談。ハーレイの人気が高い理由の一つは、それ。
(確かに今日は暑いよね?)
 夏ほどじゃないけど、とブルーも思う。日向に出たら汗ばむ陽気。
 クラスの誰もが「暑い」と感じているのだろうし、季節外れな怪談だったら、まさにピッタリ。きっと怪談なのだろう、とクラス中が考えただろうに…。
(…怪談じゃないの?)
 ハーレイが教室の前のボードに書いた文字。「扇」と大きく、一文字だけ。
 扇と言ったら扇子と同じで、扇いで風を送るもの。夏のものだし、季節外れには違いない。
「お前たち、怪談だと思っていただろう? 残念ながら、今日はこいつだ」
 古典の授業じゃ、お馴染みだよな。扇ってヤツは。…いわゆる扇子。
 その扇子だが、何処で生まれたか知ってるか?
 最初に作られた場所のことだな、というハーレイの問い。「分かったヤツは?」と。
(えーっと…?)
 ずっと昔の中国だっけ、と考えた扇子の生まれ故郷。歴史が古い道具の筈だし、遠い昔の日本に文化を輸出したのは中国だから。
「中国ですよね!」
 他の生徒に先を越された。何人もが「はいっ!」と元気に手を挙げ、「中国です!」。
 出遅れちゃった、と本当にガッカリしたのだけれど…。
「残念だったな、お前たち」
 扇という言葉は中国に昔から存在したから、間違いじゃないが…。
 言葉は中国生まれなんだが、扇子の方は違うってな。
 そう簡単に分かるようなことを俺が訊くか、とハーレイはフフンと鼻で笑った。勇み足で答えた生徒たちを。「お前たち、まだまだ甘すぎるぞ」と。



 お蔭で、ホッとつけた息。出遅れたけれど、恥はかかずに済んだから。
(怪我の功名…)
 ホントにそれだよ、と思ってしまう。もしも一番に手を挙げていたなら、今頃は耳まで真っ赤になっていただろう。「間違えちゃった」と俯いて。
 ハーレイは「中国です」と答えた生徒たちを見回し、「中国の扇は団扇なんだ」と「扇」の字を指でトンと叩いた。
 団扇は今の時代もある。扇子と同じで、復活して来た日本の文化。夏に使う風を作り出す道具、扇子との違いは「畳めない」こと。
 昔の中国で「扇」が意味していたものは団扇。そういう形の風を送る道具なら、古代エジプトの壁画などにもあるらしい。大きさや形、材料などは地域によって様々で。
 けれど、折り畳める扇子が最初に生まれた場所は…。
「中国じゃなくて、この日本なんだ。…今の日本とは違うがな」
「ええっ!?」
 日本ですか、とクラス中の生徒がどよめいた。
 SD体制の時代には文化ごと消された扇子だけれども、今は普通に見られるもの。
 遠い昔の小さな島国、この辺りにあったと伝わる日本。其処の文化として復活している、扇子や団扇。古典の授業でも挿絵などで見る扇子だけれど…。
(日本で作って、あちこちに輸出していただけで…)
 元は中国からやって来たのだ、と頭から思い込んでいた。他の生徒と全く同じに。
 日本人は手先がとても器用で、他所の国から伝わったものをアレンジするのを得意としていた。それは細かい細工物やら、美しい絵を描いたものやら、日本の品物は引っ張りだこ。
 扇子もそれだと考えた。日本の製品が美しいから、きっと人気が高かったのだ、と。
(だって、昔の他所の国にも…)
 広く知られていたのが扇子。
 ヨーロッパの貴婦人たちも持っていたのだし、肖像画にも描かれているほど。
 それほど有名だった扇子が日本生まれだなんて、俄かにはとても信じられない。そういった頃に世界に広がったものは、中国のものが多いから。
 紅茶に陶磁器、絹だって元は中国生まれ。だから扇子も中国だろうと思うのに…。



 なんとも解せない、日本生まれだという扇子。「中国生まれ」の方がしっくりくる。遥かな昔に中国で生まれて、日本に渡って、更に洗練されたのだ、と考える方が。
 けれどハーレイは「間違えるなよ?」と念を押した。
「勘違いしているヤツらは多いが、正真正銘、扇子ってヤツは日本生まれだ」
 歴史もうんと古いってな。平安時代には完成してたし、古典の中にも出てくるだろう?
 そんな具合に、日本には扇子の記録がある。折り畳んで使っていたってことも。
 ところが中国の方になったら、別の記録が残されている。日本から扇子が入ってくるまで、折り畳める形の扇は存在しなかった、とな。
 つまり本当に扇子は日本生まれで、面白いことに、お前たちも知っている通り…。
 高貴な女性は扇で顔を隠すものだ、とハーレイが交えた古典の復習。源氏物語などが描き出した当時の貴族の習慣。身分が高い女性の場合は、人前では顔を隠すもの。扇をかざして。
 それと同じに、扇子が伝わったヨーロッパでも…。
「顔を隠していたんですか!?」
 今度もクラスがざわめいた。「扇で顔を隠す」というのは、日本だけだと皆、思っていたから。
「日本ほどにルールは厳しくないがな。…それに自発的に隠していたわけだから」
 そうそう顔は見せてやらない、と半ば意地悪かもしれん。
 日本の場合は、扇で顔を隠さなかったら、「なんて行儀が悪いんだ」と思われちまって、縁談も来やしなかった。そういうマナーが定着していたもんだから。
 ヨーロッパの方だと、其処までは行かん。自分を安売りしないために顔を隠していただけだ。
 扇子は女性の大切な持ち物の一つでだな…。
 お蔭で扇言葉というのまであった、とボードに書かれた「扇言葉」の文字。
「…扇言葉ですか?」
 何だろう、と声があちこちで上がったけれど。
「書いた通りだ、言葉なんだ。一種の暗号みたいなモンだな、扇言葉は」
 気になるヤツは自分で調べろ、こっちの方まで話していたらキリが無いから。
 もう充分に聞いただろうが、扇子の話は。…眠かったヤツらも、目が覚めたな?
 授業に戻る、と終わった雑談。
 扇子の話は其処でおしまい、「扇」も「扇言葉」も消された。教室の前のボードから。



 ハーレイの授業で扇子の話を聞いた日の帰り。
 いつものようにバス停から家まで歩いていたら、この時間でも暖かすぎる日差しが降って来る。小春日和と言うのだろうか、季節外れの陽気だから。制服の上着を着ていると暑い。
(こういう時に、扇子があったら…)
 パッと広げて、パタパタと涼しい風を送れる。顔や首筋なんかに向けて。
(男の人でも、昔だったら扇子を持ってて…)
 粋に扇いでいたのだろう。今日のような日や、夏の暑い日は。
 今の時代も、お洒落な人なら紳士物を持っているのだけれども、滅多に見ない。だから自分も、鞄に扇子を入れてはいない。
 あったら便利なんだけど、と考えながら帰った家。「暑い日は、扇子が便利そう」と。
 そうは思っても、今ではすっかり女性の持ち物になっている扇子。
(ママだって、夏は使っているし…)
 出掛ける時には持って行くよね、とダイニングでおやつを頬張りながら扇子を思い浮かべる。
 小さい頃から、母の扇子はよく見ていた。暑い日には外で、扇いで貰っていたことも。
(公園の東屋なんかに入って…)
 パタパタと風を送って貰った。ジュースを飲んでいる時とかに。
 母の扇子は、日本の文化が復活して来た時に戻って来たものの一つ。女性用の方が断然多くて、父は扇子を持ってはいない。
(前のぼくたちが生きてた頃は…)
 SD体制の時代なのだし、無かった扇子。文化ごと消されてしまっていて。
 人類の輸送船から物資を奪って暮らした時代も、物資の中に扇子は混じっていなかった。扇子が作られていなかったのでは、存在するわけもないし、物資に紛れ込んでもいない。
(もしもあったら、うんとレトロなものだから…)
 前のハーレイが貰って行ったのだろうか、「これはいいな」と目を付けて。
 とてもレトロだった、羽根ペンや木で出来た机を好んだハーレイ。他の仲間は見向きもしない、遠い昔の文化の名残を。
 だから扇子が混じっていたなら、喜んで貰いそうではある。
 船にはきちんと空調があって、扇子なんかの出番は全く無い世界でも。



 ハーレイだったら貰ったかも、と思ったけれど。いそいそと扇子を貰いそうだけれど…。
(扇子、ヨーロッパじゃ女性用…)
 今の時代の日本でも同じ。主に女性が持っているもの。
 もしも扇子が混じっていたなら、明らかに女性用だったろう。花の模様だとか、ヨーロッパ風のレースで飾られた扇だとか。
(うーん…)
 それじゃ駄目だ、と頭を振って戻った二階の自分の部屋。空になったカップやケーキのお皿を、キッチンの母に返してから。
(前のぼくが奪った物資の中に、扇子が混じっていたとしたって…)
 男性用の扇子ならともかく、女性用だと、どうなったろう?
 勉強机に頬杖をついて考える。前のハーレイなら、扇子を見付けてどうしただろう、と。
 物資の中に紛れた扇子。誰も欲しがる者が無ければ、不要品として捨てられて終わり。倉庫には余計な物は置かずに、大切なものを仕舞っていたから。後で役立ちそうなものとか。
 船では使わない扇子。空調があれば、暑すぎたりはしないから。
 機関部などの暑い場所では、扇子で扇ぐ暇があったら、作業を早く済ませて立ち去るだけ。あの船の中では、扇子は要らない。
(いくらハーレイでも、使わないよね?)
 物資の中に混じった扇子を見付けて、「レトロなものだ」と見惚れていても。
 きっと女性用の扇子なのだし、「俺が貰う」とは言いそうにない。ハーレイは男なのだから。
 それとも、貰って使うのだろうか?
 女性用でも全く気にせず、「これはいいな」と手に取って。…他に希望者はいない扇子を。
(扇言葉とかって言ってたし…)
 扇ぐ他にも使い道があるのが扇子というもの。
 けれども、あれも女性の世界のものだろう。扇子は女性の持ち物なのだし、扇言葉も女性たちの間で交わしていたのに違いない。
 そういうことなら、前のハーレイが扇子を貰って行っても役に立たない。
 扇言葉を知っていたとしたって、男性はそれを使わないから。女性の間だけで使う言葉で。
 そんな扇子を欲しがるだろうか、レトロ趣味だった前のハーレイが…?



 羽根ペンと、それに木で出来た机。シャングリラの仲間たちが見向きもしなかったもの。
 あまりにレトロで時代遅れで、欲しがる者は誰もいなかった。前のハーレイを除いては。それを喜んで貰って行ったのが前のハーレイで、白い鯨になった船でも使っていたほど。
 あのハーレイが扇子と出会っていたなら、欲しがったのか、それとも見ていただけか。
(うーん…)
 物資の中に扇子があったら、どうしていたのか訊きたい気分。
 何処から見たって女性用でも、「俺が貰う」と持ち去ったのか。あるいは「誰も欲しがらない」まま、扇子は宇宙に廃棄されたか。
(いったい、どっちだったんだろう…?)
 知りたいな、と思っていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、早速、訊いてみることにした。テーブルを挟んで向かい合わせに腰掛けて。
「あのね、ハーレイ…。扇子があったら欲しかった?」
「はあ? 扇子って…」
 いきなり何だ、とハーレイは怪訝そうな顔。「扇子がどうかしたのか?」と。
「今日の授業で言っていたでしょ、扇子は日本で生まれたんだ、って」
 扇子があったら、ハーレイ、欲しい?
 貰っちゃおうって思うのかな…?
「扇子なあ…。渋くてなかなかいいとは思うが、持っちゃいないな」
 あれを持つには、もう少し年を取らないと…。粋に使いこなせるようになるには。
「え? 年を取るって…。なんで?」
 どうして扇子に年が関係してくるわけ、と目を丸くした。扇子は風を送るための道具で、誰でも使いこなせそう。広げたり閉じたり、それさえ出来る年になったら。
「いや、男性用の扇子を持つには、俺の年だと、ちと若すぎて…」
 絵にならないしな、とハーレイは軽く肩を竦めた。「扇子が似合うだけの貫禄が無い」と。
「ハーレイ、やっぱり欲しいんだ…。扇子…」
「年を重ねた男の魅力はいいもんだしな。親父もたまに使っているし」
 あれが渋くていいんだ、うん。
 夏の盛りにヒョイと広げて、パタパタとやっているのがな。…団扇よりもずっと絵になるから。



 団扇だと余所行きの感じがしない、というのがハーレイの言い分。家で気楽に扇ぐのが団扇で、扇子は出掛けた先でお洒落に使うものらしい。
 今のハーレイの父は紳士物の扇子を持っているから、ハーレイもそれに憧れる。もう少しばかり年を取ったら、自分も扇子が似合うのに、と。
 今のハーレイの扇子に対する気持ちは分かったけれども、問題は前のハーレイの方。遠く遥かな時の彼方で、シャングリラで生きていたハーレイ。
「今のハーレイは、扇子が欲しいらしいけど…。そのために、年を取らないでよ?」
 もう止めるって約束したでしょ、年を取るのは。
 だから扇子が似合うような姿になるまで、年を取ったら駄目だからね。…いくら欲しくても。
 でも…。前のハーレイなら、どうだった?
 扇子があったら欲しかったのかな、うんとレトロな道具でしょ、扇子。
 風を送るんなら空調がちゃんとあったものね、と扇子のレトロさを強調した。羽根ペンや木製の机を愛用していた前のハーレイは、明らかにレトロ趣味だったから。
「扇子が欲しいかと訊かれても…。扇子なんか無いぞ、あの時代には」
 機械が文化を消しちまってたし、何処を探しても無いってな。前の俺たちが生きた頃には。
 無いものには出会いようがないってモンだろ、前の俺と扇子。いくらレトロな道具だとしても、出会いが無いなら話にならんぞ。
「そうだけど…。それは分かっているんだけれど…。でも…」
 もしも扇子が、前のぼくが奪った物資の中に混じっていたら、どうしてた…?
 あの時代に扇子は無かったんだし、あったとしたら、の話だけれど。
 扇子があったら、前のハーレイはどうするわけ…?
 貰って行くのか、要らないからって廃棄処分に回すのか、どっち?
 ハーレイくらいしか欲しがらないでしょ、とてもレトロな扇子なんかは…?
 船では要らない道具だものね、と重ねて言った。シャングリラでは出番のない道具、と。
「ふうむ…。うんとレトロな扇子と出会っちまった時か…」
 ちょいと手に取ってはみるんだろうなあ、「これが扇子というものか」と確かめに。
 大いに興味が湧くと思うぞ、風を送るための道具だなんて。
 しかも自分で扇ぐためのもので、空調みたいに自動になってはいないんだしな?



 まず間違いなく手に取るだろう、とハーレイは大きく頷いた。「前の俺なら、そうなるな」と。
「レトロ趣味だったのは本当なんだし、扇子もレトロなんだから…。手が伸びちまう」
 物資の分配を始める前に見付け出すのか、分配した後に残った中から掘り出すのか。
 どっちにしたって、触りもしないで廃棄処分に回しはしないぞ。使い心地ってヤツはどうかと、そいつを確かめない内は。
「使い心地って…。その扇子が女の人用のでも?」
 扇子、今も殆どは女の人のためのものでしょ、昔だってそう。…日本には男の人のための扇子もあったけれども、ヨーロッパだと女の人用ばかりだから…。
 前のぼくたちの時代に扇子があったら、女の人用だと思うんだけど…。
 花模様だとか、レースつきだとか。そういう扇子でも、ハーレイは触って使ってみた…?
 女の人用の扇子だよ、と念を押したけれど、ハーレイは「気にしないな」と直ぐに答えた。
「どんなに華やかな扇子だろうが、扇子は扇子だ。レトロなものには違いない」
 俺にしてみりゃ、大いに興味があるわけだから…。
 ちゃんと手に取って、広げてみたりするんだろう。広げたら畳んで、「こうなるのか」と扇子の凄さに感動もして。一本の棒がパッと広がるわけだしな?
 でもって、そいつで扇いだりもして、貰っておくか、どうすべきかを考えるんだ。
 女物だろうが、俺が自分の部屋の中だけで使う分には、誰も笑いやしないんだから。
 ただし、俺がゆっくり考える前に、エラが持って行ってしまわなければ、だが。
「エラ…?」
 なんでエラなの、エラはレトロな趣味なんか持っていなかったよ?
 木の机だって欲しがらなくて、羽根ペンも見向きもしていなくって…。なのにどうして、エラが扇子を持って行っちゃうの…?
 有り得ないでしょ、と指摘したのだけれども、ハーレイは「そうでもないぞ」と返した。
「レトロな趣味は持っていなくても、知識は豊富だったしな。調べ物だって好きだったから…」
 扇子があるような時代だったら、扇言葉を知っていそうだと思わんか?
 なにしろ相手は、あのエラだから。
「そうかも…!」
 本物の扇子は初めて見たって、色々なことを知っていそう…。扇言葉があることも。



 確かにエラなら、きっとピンと来たことだろう。物資の中に混ざった扇子を目にしたら。
 とてもレトロな扇子という道具も、それが使われた遠い昔の文化なども。
「あの時代でも、ちゃんと調べれば、扇言葉のデータなんかもあったよね?」
 扇子が消されちゃってた頃でも、扇子について調べていけば。…データは残っていたんだから。
「恐らくな。…扇子を持ってる肖像画なんかも、データの形で残っていたし」
 元の肖像画は、とうに失われてしまっていたって、どういう絵かは分かったんだ。絵に描かれた人が誰なのかも。
 だから扇子に興味さえあれば、いくらでも調べられただろう。何に使ったのか、どういう具合に発展していったのか。…扇言葉が作り出されたトコまでな。
 エラなら調べられただろう、と今のハーレイが言う通り。
 レトロ趣味ではなかったけれども、遠い昔の歴史などにも詳しかったエラ。扇子に興味を持っていたなら、扇言葉にも辿り着いただろう。
 そして本物の扇子に出会った時には、それを試そうと持って行ったりもして。
「ねえ、ハーレイ…。扇言葉って、どんなものなの?」
 授業では話していなかったけれど、ハーレイは知っているんでしょ?
 「これ以上はキリが無いからな」って、授業に戻ってしまったけれど…。
 一種の暗号みたいなヤツって、どうやって扇子で暗号になるの…?
 中に何か書いておくだとか、と問い掛けた。扇子の素材にもよるだろうけれど、文字などを中に書くことは出来る。だから暗号を其処に書くのか、と。
「おいおい、それじゃ無粋だろうが。まあ、暗号としては使えそうだが…。そのやり方でも」
 だがな、よくよく考えてみろよ?
 扇言葉を使っていたのは貴婦人なんだぞ、本物の暗号を使うと思うか?
 本当に秘密のやり取りだったら、そういったヤツも使ったりはしていたんだが…。命が懸かった脱出劇とか、そんなのもあった時代だから。
 しかし、扇言葉を使ってた場所じゃ、物騒なことは起こらなかった。
 舞踏会とか、皆で集まっての晩餐会とか、華やいだ席で優雅に扇を持ってたんだぞ?
 扇言葉は、扇の動きだけで色々なことを伝えるための手段だってな。
 こう動かしたら、この意味だとか。声は出さずに、扇子だけで言葉を伝えられた、と。



 扇子の動きだけで言葉を伝えた、遠い昔の貴婦人たち。確かに、ある意味、暗号のよう。扇子の動きに意味があるとは、知らないと気付きもしないから。
 大勢の貴婦人たちが扇子で言葉を交わしていたって、傍目には扇子が優雅に動いているだけ。
 働いたことなど一度もない手に操られて。彼女たちだけの秘密の暗号、それを語るために。
「扇言葉って、そういうものだったんだ…。ホントに暗号みたいだね」
 ぼくが見たって、暗号だなんて思いもしないよ。扇子を持ってる、って眺めるだけで。
 …前のぼくたちが生きた頃には、扇子は存在しなかったけれど…。
 前のハーレイも出会えないままになっちゃったけれど、もしも出会えることがあったら。
 エラが本物の扇子に出会っていたなら、どうなったかな?
 前のハーレイよりも先に持ってっちゃうかな、きっと女の人用の扇子だろうし…。
「間違いなく持って行ったと思うぞ、俺が「どれ」と扇子に手を伸ばすよりも前に」
 これは私が貰っておきます、と掻っ攫う姿が目に浮かぶようだ。前の俺には触らせもしないで。
 そうやって持って行っちまった後は、女性の間で流行ったんじゃないか?
 扇言葉というヤツが。…それこそ船で扇子を作る所から始めて。
 その気になれば作れただろう、とハーレイが言う扇子。構造自体は単純なのだし、最初の一つが手に入ったなら、真似て作ってゆけばいいだけ。
 船の中でも揃う材料、それを使って。折り畳める扇子の形に仕上げて、欲しい女性たちに配ってゆくことも出来た。扇言葉を使いたい女性は、扇子を貰って扇言葉を使う。
「本当に?」
 流行ったのかな、扇子を使う言葉だなんて…。暗号なんかを使わなくてもいい世界なのに。
 こっそり話をしたいんだったら、思念波だってあったんだけど…?
「扇言葉は貴族の習慣だったんだぞ。ずっと昔の、本物の貴婦人たちが使った言葉だ」
 そいつを真似て話せるんだぞ、扇子が一本ありさえすれば。
 お姫様みたいなドレスは無くても、贅沢な宝石だって無くても。
 それでも言葉は共通だってな、貴婦人たちと。扇子を使って話しさえすれば。
「…夢が一杯で、流行りそうだね…。あの船の中で、お姫様ごっこ…」
「そうだろう? だから流行ると言ったんだ」
 エラが扇子と出会っちまったら、扇言葉があったと思うぞ。…あのシャングリラに。



 白い鯨じゃなかった船でも、とハーレイは笑う。人類の船から物資を奪って、皆が懸命に生きていた船。名前だけが「楽園」だった時代のシャングリラ。
 そんな船でも、扇子があったら扇言葉が流行ったろう、と。扇子を手にした女性たちは皆、遠い昔の貴婦人気分で。
「うん、本当に流行っていそう…。貴婦人なんて、あの船じゃ誰もなれなかったから」
 ミュウは見付かったら殺されるだけで、人間扱いさえもされてなくって…。
 だから余計に夢を見たいよね。…扇子を一本持っているだけで、貴婦人の言葉を喋れるんなら。
 ずっと昔に、地球にいた本物のお姫様たち。その人たちと同じ言葉を使えるんなら…。
 とても素敵で、みんなが喜びそうだけど…。エラのアイデア、みんなが飛び付きそうだけど…。
 どんなのがあるの、扇言葉って?
 扇子の動きで伝えられること、中身はどういう風になるわけ…?
 普通の言葉と同じなのかな、と投げ掛けた問い。暗号めいた扇の言葉で会話が出来たか、遊びに過ぎなかったのか。なにしろ使うのは扇子だけだし、語彙が多そうには思えないから。
「扇言葉の中身ってか? そりゃあ、色々あったってな」
 なんと言っても言葉なんだし、伝えられることは多いに越したことはない。
 「はい」と「いいえ」は基本の中の基本ってヤツだな、これが無ければ始まらん。質問されたら答えるのが会話の基本だろうが。
 そして本当に凄かったらしいぞ、扇言葉で伝えられる中身というヤツは。
 「あなたが好きです」とか、そんなのはまだマシな方でだ…。「あなたは残酷です」なんていう言葉もあったらしいから。
 声に出さなくても、扇子だけでそれを伝えるんだぞ。男の方も大変だってな。
「男の人って…。なんで?」
 扇言葉は、女の人が使うものでしょ。女の人しか扇子は持っていないんだから。
 女の人の言葉だよね、とキョトンと首を傾げていたら、ハーレイは「甘いぞ」と可笑しそう。
「男も、そいつを知らなきゃいけなかったんだ。女性がそれで話す以上は、読み取らないと」
 扇言葉の意味ってヤツを。…自分は使う方でもないのに、あれはどういう意味なのか、とな。
「えーっ!?」
 男の人も覚えなくっちゃ駄目なの、とても沢山の言葉があるのに?
 自分は扇子を持ってないのに、扇言葉を覚えていないと駄目だったなんて…!



 酷すぎだよ、と叫んだけれども、それは本当にあったこと。
 人間が地球しか知らなかった時代に、東洋の小さな島国で生まれた扇子が海を渡って行って。
 ヨーロッパで貴婦人たちに愛され、必須の持ち物に変身を遂げて。
 扇子の動きで意味を表す扇言葉は、紳士淑女のための教本までが作られていた。貴婦人が持った扇子がこう動いたら、こう、と意味を詳しく書き記して。
 それをきちんと覚えていないと、舞踏会などで気持ちを伝えられない。相手の気持ちを読み取ることも出来ない。しかも…。
「その教本を持って話をするなど、論外だからな? 場の雰囲気がブチ壊しになる」
 とにかく中身を覚えるしかなくて、そいつが社交のルールってヤツだ。
 「好きです」と言ってくれているのに気付かないなら、自業自得で悲しいことになるんだが…。
 「あなたを追い払いたい」ってヤツもあるんだ、そう言ってるのに側を離れなかったら…。
 周りから見れば非常識なヤツで、評判までが地に落ちちまう。「あいつは駄目だ」と噂が流れて命取りってな。
 だから男もきちんと覚えておかないと、と言われれば分かる。貴族の世界は社交が大切、人との関わり方が重要。彼らの仕事は、社交そのものだったから。
「なんだか凄いね…。男の人まで巻き込んじゃってた言葉だなんて」
 扇子を持つのは女の人だし、女の人同士でお喋りするんだと思ってたのに…。
 そうじゃなくって、男の人にも扇言葉で話すだなんて。…男の人まで扇言葉を覚えたなんて…。
 本まで出ていたくらいなんだし、みんな頑張って覚えたんだと思うけど…。
 働く必要が無かった分だけ、時間はたっぷりありそうだけど…。でも…。
 扇言葉を覚えて使っていたのは、機械じゃなくって人間だよ?
 人間に「絶対」なんかは無くって、ミスすることも多いんだけど…。うっかりミスとか。
 そんな風にして、間違えちゃったらどうなるんだろう?
 扇子を持ってる女の人も、それを読み取る男の人も…。
「間違いなあ…。扇言葉で伝え損なったり、読み損なったりするってか…?」
 確かに無いとは言い切れないよな、なにしろ人間なんだから。
 「あなたが好きです」と言われてるのに、「嫌いなのか…」と諦めて去っていくヤツだとか。
 逆に「好きです」と伝えたつもりで、「追い払いたい」と言っちまうとか…。



 ありそうだよな、とハーレイも頷く「扇言葉の間違い」。きちんと声で話していたなら、そんな間違いは起こらないのに。…自分の気持ちを伝えるために、人間は声を持っているのに。
「ね、間違えちゃうことも起こりそうでしょ?」
 扇言葉は厄介そうだよ、見た目はとても優雅でも。…扇子の動きだけで気持ちを伝えられても。
 間違えちゃったら、それでおしまいになっちゃうこともありそうだもの。本当は上手くいく筈の恋が、間違えたせいで壊れてしまって。
 良かったね、前のぼくたちが生きてた時代に、扇子が無くて。
 シャングリラには扇子も扇言葉も無くって、声と思念波だけの世界で。
 もしもシャングリラに扇言葉があったら、ぼく、間違えてしまいそうだから…。
 ホントにやりそう、と舌をちょっぴり覗かせた。何か悪戯して、叱られた時の子供みたいに。
「なんだって?」
 お前が何を間違えるんだ、シャングリラに扇言葉があったら…?
 エラたちが喋っているのを眺めて、まるで違うことをやったりするのか?
 「ソルジャーがおいでになった」と話してるのに、「来ないで下さい」と間違えちまって、何も言わずにそそくさと消えてしまうとか…?
「ううん、それならまだいいけれど…。間違いの中ではマシだと思う」
 ぼくが扇言葉を読み取り損ねて、何か失敗してるくらいは。…ぼくが恥をかくだけだから。
 だけど、扇言葉を使っているのが、ぼくだったら…?
 エラが船の中で扇言葉を流行らせていたら、ぼく、面白がって扇子を貰っちゃうかも…。
 女の人しか持っていなくても、「ぼくにも一本貰えるかな?」って。
 白い鯨になった後なら、扇子を作るの、ずっと簡単になっていそうだし…。
 扇言葉の詳しい本も、船の中で刷られていそうだし…。
 そういう頃でしょ、前のぼくがハーレイのことを好きになったの。…一番古い友達だったのが、恋人同士に変わった頃って。
 その大切な時に間違えてしまいそう。
 ハーレイに「好き」って気持ちを伝えるのがとても恥ずかしくって、扇子を貰って…。
 扇言葉の本で勉強して、「好きです」っていう時はこうするんだ、って…。
 青の間で何度も練習してから、ハーレイに伝えに行くんだけれど…。



 扇子を持って、とクスッと笑った。「其処で失敗するんだよ」と。
「失敗って…。お前が俺に扇言葉で伝えようとしてか?」
 俺の部屋まで来たのはいいが、わざわざ扇子を使って「嫌い」と俺に言っちまって…?
 嫌われた俺は酷いショックで、お前に「帰って頂けますか」と返事するのか?
 お前と話す理由が無いしな、とハーレイが唸る「言葉を伝え損ねた」結果。「嫌いだ」と告げにやって来た人と、ゆっくり話しはしないだろう。酷い喧嘩になるだけだから。
「そう。…そしたら、おしまい…」
 ぼくは「好き」って伝えたつもりで、間違えたなんて思わないもの。とても緊張していて、胸もドキドキだろうから…。「やっと言えた」ってホッとするだけ。
 それの返事が「帰って頂けますか」だったら、ぼくの方だって大ショックだよ。
 「好き」の返事が「帰れ」だなんて、どう考えても「俺の方は好きだと思っていない」っていうことだもの。…振られちゃった、って泣きそうな気分。
 だけどホントに振られたんだし、仕方ないよね…。
 青の間に帰って泣くしかなくって、ハーレイとの恋は始まりさえもしないんだよ。…ハーレイは「嫌われた」と思ってぼくを避けるし、ぼくは「振られた」と思っているし…。
 それじゃ二人で話しもしなくて、いつまでも間違えちゃったまま。
 ホントはお互い、大好きなのに…。ぼくが扇言葉を間違えなければ、恋が実っていたのにね…。
 そういう失敗、起こりそうでしょ、と自分の顔を指差した。
 前の自分も、人間だから。ソルジャー・ブルーでも、失敗することはあったのだから。
「お前の方が失敗なあ…。それも無いとは言えないが…」
 それとは逆に、お前が正しく送っていたって、俺が間違えるかもしれないぞ?
 「好きだ」と伝えてくれているのに、「大嫌いだ」と読み取っちまって、その後のことは、今の話と全く同じで。…お前に向かって「帰って頂けますでしょうか?」と言っちまって。
「ハーレイだったら間違えないでしょ。ぼくと違って」
 キャプテンだものね、知識も沢山あったもの。シャングリラの中のことだったら。
 扇言葉も完璧なんだよ、わざわざ勉強しなくったって。
「はてさて、そいつはどうなんだか…」
 扇言葉は、ブリッジじゃ使わないからな?
 あそここそ声と思念波の世界だ。優雅に扇子を使って話す余裕なんかは、誰も全く無いってな。



 エラだって扇子は封印だろう、とハーレイが苦笑する「ブリッジ」という場所。
 ブリッジは白いシャングリラの心臓なのだし、どんなに空気が和やかな時も、「正しく伝える」ために努力をするべき所。
 船の周りの観測データも、航路設定などの数値も。
 キャプテンからの指示はもちろん、機関長やら、航海長やらが発する声も、どれも正確に、皆の持ち場に伝わってこそ。
 伝え損ねれば船が傷つき、最悪の場合は沈むこともある。人類軍から船を守っている、システムなどがダウンして。…ステルス・デバイスが作動しないとか、シールドも張れなくなるだとか。
 そんな場所では、扇言葉は使えない。
 「面舵」や「取舵」を扇言葉で伝えてみたって、誰も瞬時に動けはしない。
 もっとも、キャプテンは男なのだし、扇子で指示は出さないけれど。
 航海長のブラウだったら、扇子を持てる女性だけれども、扇言葉でカウントダウンは出来ない。数字を表すことは出来ても、ブリッジクルーは、そちらを向いてはいられないから。
「そっか…。扇言葉は、ブリッジには向いていないよね…」
 普段に使っていないんだったら、ハーレイも詳しくなさそうだから…。
 ぼくが「好きだよ」って扇言葉で伝えていたって、間違えちゃいそう。「嫌われたんだ」って。
 それにハーレイが詳しくっても、ぼくが間違えちゃったらおしまい。
 「ハーレイが好き」って伝えたつもりで、「大嫌いだよ!」ってやっちゃうとか。
 そんなのホントに悲しすぎだよ、ちゃんと伝わったら恋人同士になれたのに…。
 扇言葉を間違えちゃって、「振られたんだ」とか、「嫌われた」って思い込んじゃって…。
 一度そうなったら、話しに出掛けて、また傷付きたくないものね…。
 ぼくはハーレイを避けるんだろうし、ハーレイもぼくを避けるだろうから…。
 きっと誤解は解けないままだよ、二人きりで話さないんなら。
 ソルジャーとキャプテンとしての話だけしか、しようと思わないんなら…。
「まったくだ。多分、そうなっちまうしな…」
 船の仲間たちに、俺たちのことで迷惑なんかはかけられん。
 距離を置くのが一番いい、と俺だって思うことだろう。…傷口を広げたくないのなら。
 お前に嫌われちまったってことを、直視したくはないからなあ…。



 遠く遥かな時の彼方で、お互い、間違えたかもしれない言葉。
 恋が実るか実らないかの、とても大切な局面で。
 間に扇子が入っていたなら、扇言葉の「好き」と「嫌い」を取り違えて。
「…ぼく、ハーレイに扇言葉は使わないよ」
 ママの扇子は家にあるけど、間違えちゃったら大変だから。
 扇子の動きで色々な言葉が伝わるだなんて、ちょっぴり面白そうだけど…。扇言葉のことが沢山書いてある本、学校の図書室にあったら借りるかもだけど。
 でも、読むだけで使わないからね、と宣言した。
 扇言葉を間違えたならば、大変なことが起こるから。
 せっかく来てくれたハーレイに向かって、「大嫌い!」と扇子で伝えてしまいそうだから。
「扇言葉なあ…。お前の場合は、使うまでもないと思うがな?」
 あれは声を出さずに気持ちを伝えるための言葉で、今のお前には必要ないぞ。
 思念波の方はサッパリにしても、お前からは「好き」が溢れているから。
 心の欠片が零れてなくても、顔だけを見れば充分、分かる。…俺を嫌いじゃないってことが。
「ホントだね!」
 ハーレイのことが、誰よりも好きでたまらないから、きっと顔にも出てるよね。
 わざわざ扇子を使わなくても、黙っていたって、伝わっていそう。
 ぼくがどんなにハーレイが好きか、前のぼくだった頃よりも好きか。
 ハーレイは分かってくれているから、扇言葉で伝えなくてもいいんだものね…!



 遠い昔の扇の言葉。
 貴婦人たちが扇子で伝えて、男性もそれを読み取った。本まで読んで、扇言葉の勉強をして。
 とても頑張って勉強したのに、間違った人もいたかもしれない。
 たった一度の間違いのせいで、恋が壊れた人だって。
(でも、ぼくたちなら大丈夫…)
 大丈夫だよ、と自信を持って言えそうな気分。
 遥かな昔の恋人たちは、間違えたかもしれないけれども、自分たちは間違えたりしない。
 扇言葉なんかは使わないから、それが無い時代に恋をして、生まれ変わって来たから。
 宇宙の何処にも扇子が無かった時代に生きて、扇子がある今の時代に来たから。
 死の星だった地球が青く蘇るほどの時が流れても、今も変わらず恋人同士。
(ぼくが、ママの扇子を借りて来ちゃって…)
 間違えて「嫌い」と出していたって、ハーレイは「好きだぞ」とプロポーズしてくれる。
 扇言葉を使っても。
 好きなのに「嫌い」と間違えていても。
 その程度のことで、恋が壊れはしないから。
 今度こそ幸せに生きてゆくために、ハーレイと二人、地球に生まれて来たのだから…。



            扇の言葉・了


※遠い昔の貴婦人たちの言葉。扇を使って伝えるもので、男性にも扇言葉の知識は必須。
 間違えて使ってしまいそうだ、と心配なブルーですけど、相手がハーレイなら、伝わる言葉。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










(あれ…?)
 どうしたんだろ、とブルーは首を傾げた。学校からの帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
 道沿いの家の庭に、その家の御主人の姿。家と庭を囲む生垣からは、少し離れた奥の方。其処で大きな木を見上げながら、難しい顔。困ったようにも見える表情。
(あの木が、どうかしたのかな?)
 木の葉や枝を眺めたけれども、弱っているという感じは受けない。むしろ生き生きしている木。本当に元気そうだけれども、素人だから元気に見えているだけで…。
(ホントは病気になっちゃってるとか?)
 しかも簡単には治らない病気。木の姿がすっかり変わるくらいに、枝を何本も切り落とさないと駄目だとか。
(そういう病気もあるらしいものね…)
 治療した後は、太い幹には似合わない細い枝が数本、そんな姿になってしまう木。元通りに枝が茂るまでには何年もかかる、荒療治とも言える治療法。
 それが必要な病気の兆しを発見したなら、難しい顔にもなるだろう。もちろん困るし、御主人が悩んでしまうのも分かる。あの木は庭のシンボルツリーなのだから。
(…どうしたの、って訊いてみたいけど…)
 御主人の気持ちを考えてみると、黙っている方がいいかもしれない。声を掛けようか、このまま通り過ぎようか、と迷っていたら…。
 御主人がこちらに顔を向けたから、慌ててピョコンとお辞儀した。
「こんにちは!」
「おや、ブルー君。今、帰りかい?」
 身体もこっちに向けた御主人は、両腕で猫を抱いていた。白地に黒のブチがある猫。しっかりと胸に抱いているから、服と混じって気付かなかった猫の存在。
(白と黒のブチ…)
 この家に猫はいただろうか?
 いなかったように思うけれども、もう子猫とは呼べない大きさ。滅多に外に出ない猫なら、いることも分からないだろう。知らない間に飼われ始めて、育っていても。



 初めて出会った猫にも驚いたけれど、それよりも木の方がずっと気になる。物心ついた時には、もうこの家の庭にあった木。自分も馴染みのシンボルツリー。
「おじさん、その木…。どうかしちゃったの?」
 弱っているようには見えないけれども、病気になっちゃってるだとか…?
「この木かい? ちょっぴり困ったことになってねえ…」
 其処からだと見えないだろうから…。入って見てやってくれるかい?
 どうぞ、と入れて貰った庭。御主人が門扉を開けに来てくれて。
 其処まで来るのも、門扉を開けるのも、御主人は猫を抱いたまま。使わない方の腕にしっかり。
(よっぽど可愛がっているんだね)
 少しも離さないんだもの、と猫にも挨拶。「こんにちは」と。返事は「ミャア!」。
 御主人は木の側に案内してくれて、猫を抱いていない手で木を指差した。
「ほら、見てごらん。…可哀相なことになっちゃったんだ」
「えっと…?」
 側で見ても、やっぱり元気そうな木。病気のことは分からないから、何処を見ればいいのか謎。葉っぱに妙な斑点なんかもついてはいない。枝の茂り具合が変なのだろうか?
(可哀相なことになったんだったら、病気だよね…?)
 何処で分かるの、と上から下まで何度見たって、元気そのものに思える木。立派な幹も、幹から伸びた枝たちも。
「ブルー君は気が付かないかな? これだよ、これ」
 この通り、苔がすっかり剥げちゃってね。この間までは、綺麗な緑だったんだがねえ…。
「本当だ…!」
 あちこち剥げてる、と目を丸くした。太い木の幹を覆うようにして、濃い緑の苔が生えている。まるで上等の絨毯みたいにフカフカに見える、薄い割には存在感のある苔たち。
 それが無残に剥がれた場所が、幹に幾つも。
(何かで無理やり、剥がしたみたい…)
 削り取られたように、長い線になって剥げている苔。剥がれた跡は直線だったり、少し曲がっていたりと色々。剥げてしまった場所は木の皮がむき出しになって、痛々しいくらい。
 本当だったら、木の幹はそれでいいのだけれど。…苔が無くても、木の皮だけで充分。



 普通の木ならば、幹に苔など生えてはいない。生えていたって、ほんの少しだけ。家の庭の木を思い浮かべても、幹にビッシリ苔を生やした木などは無い。
(この木も、普通の木なんだけどな…)
 ありふれた木で、珍しくない木。けれども、苔がよく似合う。こんな風に剥がれてしまった姿を目にした途端に、「可哀相だ」と感じるほどに。
「剥げちゃったって…。この木、どうなっちゃったの?」
 病気じゃないよね、苔が剥げちゃう病気なんかは知らないし…。
 それに無理やり剥がしたみたいで、虫なんかだと、こんな風にはならないだろうし…。
 いったい何が起こったわけ、と御主人の顔を見上げたら。
「この子だよ。…気付かなかった私も悪いんだがね」
 御主人がコツンと軽く叩いた、腕の中にいる猫の小さな頭。「駄目じゃないか」と。
 猫の方では「ニャア…」と鳴いたものの、謝ったりするわけがない。猫は言葉を話さない上に、元が気ままな生き物だから。
「剥がしちゃったの、猫だったの?」
 おじさん、この子、前から飼ってた?
 ぼくは初めて会ったんだけど…。子猫の時から、家の中だけで飼ってたとか…?
「いや、この子は孫が飼ってる猫でね…。孫の家は別の所なんだよ」
 暫く旅行に行くと言うから、ウチで預かることにしたんだが…。お蔭で、こういう有様なんだ。
 庭で遊んで、あちこちの木に登っていたんだろうね。きっと最初は、片っ端から。
 それで気に入ったのがこの木で、今じゃすっかり遊び場になって…。
 庭に飛び出しては、これに登ったり、下りて来たりするのさ。猫には爪があるからねえ…。
 そのせいで剥げてしまったんだ、と御主人が溜息をついている苔。
(猫の爪なら、こうなっちゃうよね…)
 登る時にも剥げるだろうし、下りる時にも爪に引っ掛かりそう。そうやって苔が剥げてゆくのも遊びの一つなのかもしれない。「面白いよね」と、わざと爪を余計に出したりして。
(爪の幅だけ、剥がれちゃうから…)
 爪を広げて、滑り下りたりもするのだろう。苔を一緒に引き剥がしながら、体重をかけて上からズルズル。如何にも猫が好きそうな遊び。



 猫には楽しい遊びだけれども、苔にとっては大いに迷惑。木の幹から無理やり引き剥がされて、その後は枯れてしまっただろう。水分も栄養も摂れなくなって。
 苔に覆われていた木の幹だって、みっともない姿にされてしまった。あちこちが剥げて、自慢の服がボロボロだから。
 御主人は苔が剥がれた跡を見詰めて、フウと溜息。
「弱ったよ…。今じゃすっかり、こうなんだから。…一目で分かるハゲだらけでね」
 せっかく綺麗に生えていたのに、台無しだ。見た目も悪いし、どうにもこうにも…。
「苔はくっつけられないの?」
 剥がされた苔は、根っこ…って言うのか、そういうのが駄目になっているから無理だろうけど。
 でも、苔だって売っているでしょ、苗とかを扱うお店に行けば…?
 苔を買って来て、剥がれちゃった所にくっつけたら、と提案してみた。同じ種類の苔が売られているのだったら、問題は解決しそうだから。…くっつける手間はかかるけれども。
「苔ねえ…。もちろん店にはあるだろうけど、それじゃ不自然になるからね」
 後からくっつけてやった場所だけ、変に目立ってしまうんだよ。人間の手が加わるから。
 自然に生えるのを待つのが一番いい方法で、この木の苔もそうなんだ。苔なんか一度も植えてはいないよ、勝手に生えて来ただけさ。暮らしやすい条件が揃ったんだろうね。
 しかし、これだけ剥げてしまうと、元の通りに戻るには…。
 下手をしたら何年もかかるんじゃないかな、と御主人が言うから驚いた。相手は苔だし、じきに元通りに生えて来そうなのに。
「何年もって…。何ヶ月とかの間違いじゃなくて?」
 苔って、そんなに分厚くないでしょ。剥げたのが此処で、剥げてないのが此処だから…。
 ほんのちょっぴり、と眺めた厚み。数ミリくらいしか無さそうに見える苔の層。
「それが何年もかかるのさ。…こういう風になるにはね」
 毎年、毎年、少しずつ育って厚くなるのが苔なんだよ。とても小さな胞子を飛ばしては、自分の仲間を増やしながら。
 人間の手で植えてやるには、気難しすぎて手に負えないのが苔ってヤツかな。
 庭に植えても、なかなか思うようには育ってくれなくてね。
 それを木の幹に植えるとなったら、厄介だろうと思わないかい…?



 「盆栽が趣味の人なんかだと、頑張るらしいよ」と御主人は教えてくれた。
 大きく育つ筈の木たちを、小さなサイズに育てる盆栽。とても小さいのに、樹齢の方は一人前。何十年とか、百年だとか、そういう木たちを楽しむ世界。
 けれど最初から「丁度いい木」は無いわけだから、育て始めて直ぐの間は木だって若い。樹齢は一年、二年とかで。
 そういう木たちを少しでも立派に見せたいから、と生やすのが苔。年ふりた木にも負けない幹を作り出そうと、せっせと苔をつけてやる。
 ただし、自然に見えないと駄目。年数を経て生えたかのように、色々な苔を枝や幹に。
「幹につく苔と、枝とでは違うらしくてねえ…」
 趣味の人たちはうるさいらしいよ、苔の生え具合や種類なんかに。…少しでもいい木に見せたいからねえ、自分の大切な盆栽を。
「そうなんだ…。盆栽って、苔も大事なんだね」
 木の形だとか、大きさだけかと思ってた…。小さくても立派に花が咲くとか、そんなので。
「盆栽の趣味は無いんだけどね…。この木の幹は好きだったんだよ」
 勝手に苔が生えてくれたお蔭で、堂々として見えるじゃないか。…森の中にある木みたいにね。
 友達が来ても、とても羨ましがってくれるから…。
 庭の自慢にしていた木なのに、気が付いたらこうなってたんだよ。この子が登ってしまってね。
 今ではすっかりお気に入りだし、この子がウチに泊まっている間に、丸禿げじゃないかな。
 残っている苔も剥がされちゃって、と御主人は本当に困り顔。御自慢の木の幹を前にして。
「猫を繋いでおくのは駄目?」
 そうでなきゃ、家から出さないとか…。
 繋いでおいたら、この木に勝手に登りはしないし、家から出なけりゃ登れないよ?
 苔を守るのにはいいと思う、と言ったのだけれど。
「それだと、この子が可哀相じゃないか。好きなように遊べないなんて」
 庭が大好きで、「出して」と頼みに来るんだよ?
 だから何度も出してやっていたら、こうなっていたというわけさ。この木が最高の遊び場で。
 この木に登って遊んじゃ駄目だ、と覚えてくれればいいんだけどねえ…。
 おっと!



 御主人の腕の中にいるのに退屈したのか、遊びたい気分になったのか。ピョンと飛び出した猫が木にスルスルと登って行った。
 それは身軽に、アッと言う間に上の方まで。きっと爪だって出ていた筈。爪を立てないと、猫の足では木に登れない。人間みたいに長い指など持っていないから。
「…また剥がれちゃった?」
 木についてる苔、今ので剥がれちゃったのかな…?
 どうなんだろう、と見上げた木の上。猫は大きな枝の一つで遊んでいる。枝から伸びている枝や葉っぱを、足でチョンチョンつついたりして。
「苔ねえ…。よく分からないけど、剥げたんだろうね。あの勢いで登ったんだから」
 それに木の上で楽しく遊んで、下りてくる時に、また剥げるんだよ。
 わざわざ幹にへばりつくようにして、ズルズル滑って下りて来るのも大好きだしね…。
 もう諦めるしかなさそうだ、と御主人は両手を大きく広げて、お手上げのポーズ。
 きっとその内に、苔は丸禿げになるのだろう。白と黒のブチ猫、お孫さんの猫が全部剥がして。この木に登って、また下りて来ては、生えている苔を爪で引っ掛けて。
(なんだか気の毒…)
 御自慢の木の幹を駄目にされそうで、困った顔をしている御主人が。
 今も木の上にいる猫を呼んでは、「下りる時には、気を付けてくれよ?」と叫んでいるほど。猫さえ注意してくれたならば、苔はそれほど剥げないから。少しは剥げても、全部は剥げない。
(猫が登るの、やめさせちゃったら剥げないんだけど…)
 それが一番だと承知していても、猫を繋ごうとはしない御主人。家に閉じ込めないのも分かる。猫を自由にさせてやりたいから、どちらもしない。
 お孫さんから預かった猫を、繋ぐのも、家に閉じ込めるのも。
 そうしたならば、御自慢の木の幹は丸禿げになったりしないのに。丸禿げよりかは、あちこちが剥げた今のままの方が、元に戻るのも早いだろうに。
(でも…)
 御主人はそうしないのだから、猫に任せるしかないだろう。あんまり苔を剥がさないように。
 木に登る時も、下りて来る時も、出来るだけ爪を立てないで。
 もっとも、猫はその逆のことが好きらしいから、絶望的な状況だけど。



 御主人に「さよなら」と挨拶してから、帰った家。庭の木たちを見回したけれど、幹をすっかり苔が覆っている木は無かった。庭で一番大きな木だって、幹に苔など生えてはいない。
(おじさんが自慢するわけだよね)
 盆栽が好きな人たちだったら、頑張って生やすらしい苔。まるで自然に生えたかのように。
 そういった苔が勝手に幹を覆っていたのが、御自慢のあの木。何の手入れもしてはいなくても、森の奥の木のように見えた風格。緑色の苔が幹を覆っていただけで。
(だけど、あちこち剥げちゃって…)
 このままだと丸禿げになりそうな苔。猫が遊んで剥がしてしまって、苔の欠片も無くなって。
 そうなったら、あの木は「ただの大きな木」でしかない。庭のシンボルツリーと言っても、ただそれだけ。「立派な木ですね」と褒めてくれる人も減るのだろう。
 あれ以上は剥げないといいんだけどね、と玄関を開けて家に入った。「ただいま!」と、元気に奥に向かって呼び掛けて。
 二階の部屋で制服を脱いだら、おやつの時間。ダイニングの窓から庭の木を見て、さっきの木と似たような大きさのを探す。その幹に苔が生えていたなら、どんな風だろうと。
(…此処から見たら、ただの緑色だけど…)
 庭に出て側に立ってみたなら、とても立派に違いない。木の皮だけに覆われているより、緑色の苔を纏った方が。…それも剥げてはいない苔で。
(剥げてしまったら、木の皮が見えて…)
 痛々しいし、見た目も悪い。
 その原因は病気ではなくて、猫が悪戯した結果でも。「こうすれば剥がれて面白いんだよ」と、爪を立てて登り下りされたせいでも。
(絶対、カッコ悪いよね…)
 ああして剥がされてしまった苔。
 御主人の友達がやって来たなら、皆、驚いて眺めるのだろう。「どうなったんだ?」と。
 その頃にはもう、あの猫はいない。お孫さんの家に帰ってしまって、知らん顔。
 御主人は苔が丸禿げになった木だとか、あちこち剥げてみっともないのを、「実は…」と溜息を幾つも交えて、友達に説明するのだろう。
 御自慢の苔がどうして剥げてしまったか、犯人は何処の誰だったのかを。



 おやつの間は、木と苔のことを考え続けて、食べ終えてからは二階の自分の部屋に戻って、また考える。勉強机の前に座って。
 猫が登る度に木の苔は剥げて、下手をしたなら丸禿げになってしまいそう。お孫さん一家が旅行から帰って、あの猫を迎えにやって来る前に。
 苔が生えた木は、猫の一番好きな遊び場。苔を剥がすのが面白いのか、木そのものもお気に入りなのか。せっせと登って下りて来る度に、御自慢の苔が剥げてゆく。猫の爪のせいで。
(おじさんは登って欲しくないけど、猫は登りたくて…)
 庭に出たいと駄々をこねては、あの木に向かってまっしぐら。その度に剥がれてしまう苔。
 御主人が気付いた時には、とうにああなっていた。あちこちが剥げて、無残なことに。
(おじさん、困っていたけれど…)
 それでも猫を繋ぐつもりは無いらしい。家に閉じ込めておくこともしない。
 「可哀相じゃないか」と言っていた御主人。猫を力ずくで止めないだなんて、凄いと思う。猫は御自慢の木とは知らずに、これからも登り続けるだろうに。
 「駄目じゃないか」と頭をコツンとされても、きっと分かっていないだろうに。
 お手上げのポーズをしていた御主人。猫が登った木を見上げて。
(とっても優しい人だよね…)
 御自慢の木が駄目になっても、猫を繋ごうとはしない人。家の中に閉じ込めることも。
 猫にとっても、本当に優しい人なのだけれど、問題はあの木。
 このままだったら、苔は丸禿げ。
 御主人の自慢の苔とも知らない、あの猫がすっかり剥がしてしまって。
 爪を立てては上まで登って、苔を剥がしながら幹にしがみ付いてズルズル下りて来たりもして。
(あちこち剥げただけの苔でも…)
 元の姿に戻るまでには、何年もかかるかもしれない。苔は気難しいと教わったから。
 剥げた所に、買って来た苔をペタリと貼っても駄目らしいから。
(丸禿げなんかになっちゃったら…)
 御自慢の苔が幹を覆うまでには、どのくらいかかることだろう。ほんの数日で丸禿げになって、戻るまでには年単位。…三年も四年もかかるのだったら、あの御主人が気の毒すぎる。
 いくら御主人は承知でも。「仕方ないよ」と、猫の悪戯を許していても。



 放っておいたら、苔が丸禿げになってしまいそうな幹。元の通りに苔が生えるまでには、何年もかかってしまうのだから…。
 いいアイデアは無いのだろうか、そうなる前に猫を止める方法。
 繋いだり、家に閉じ込める以外に、猫が木に登らないようにする方法が何かあればいいのに。
(あの木の周りに柵をしたって、猫じゃ登って越えちゃうし…)
 木の幹に何か巻いたりしたなら、今度は苔が駄目になる。太陽の光や、雨の雫が当たらなくて。ほんの短い期間にしたって、小さな苔には致命的な時間だろうから。
(何かあの木を守る方法…)
 猫の爪から、と考えていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、いつものテーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。猫が木に登らない方法を知っている?」
 知ってるんなら教えて欲しいな、その方法を。
「はあ? 木に登らない方法って…。木に登らせない方法のことか?」
 どうすれば猫が木に登らないように、止められるか。…お前はそいつを知りたいのか?
 そうなのか、と尋ねられたから頷いた。知りたい方法はそれだから。
「ハーレイの家にはミーシャがいたでしょ?」
 隣町の家に住んでた頃には、真っ白なミーシャ。…登らせないようにしていた木は無い?
 この木は駄目、ってハーレイのお父さんが決めていたとか、お母さんが大事にしていた木とか。
「俺の家には、そういった木は無かったなあ…」
 だからもちろん、ミーシャは好きに登っていたが?
 誰も止めたりしないもんだから、勝手気ままに登って遊んで、飽きたら下りて。
 そうやって好きに登った挙句に、下りられなくなっちまった木の話をしたと思うがな?
 下りられない、とミャーミャー鳴くから、親父が梯子で登って助けてやったんだが。
「そういえば…。前に聞いたね、その話…」
 どの木にも好きに登っていいから、ミーシャ、自分じゃ手に負えない木に登っちゃったんだ…。
 登る時には楽しい気分で、どんどん登って行っちゃったけど…。
 上に着いたら、下りる方法、ミーシャには分からなかったんだものね。
 高い木に登ったまではいいけど、どうすれば下に下りられるのか。



 そうだったっけ、と蘇って来た記憶。ミーシャは自分の好きに登って、酷い目に遭った。登った木から下りられなくなって、「助けて」と人間を呼ぶしかなくて。
 そんな騒ぎが起こっていたのに、ハーレイの両親は、ミーシャの木登りを止めてはいない。どの木も好きに登れるようにと、そのまま放っておいたのだろう。何の工夫もしないままで。
 ならば、ハーレイも策を持ってはいない。あの木の苔を守ってやれる方法。
「そっか、駄目かあ…。ハーレイなら、って思ったのに…」
 ぼくだと何にも思い付かないけど、ハーレイは知っているかもね、って…。
「なんだ、どうしたんだ?」
 猫を木に登らせない方法だなんて、お前、いったい何をしようとしてるんだ?
 この家に猫はいない筈だぞ、友達の誰かが困ってるのか?
 しょっちゅう下りられなくなる猫ってヤツもいるそうだから、とハーレイは至極、真面目な顔。登ったら自分では下りられないのに、繰り返す猫がいるらしい。同じ木に何度も登る猫。
「えっと…。そういう猫の話じゃなくって…」
 ちゃんと上手に下りられるんだよ、登った後は。…お気に入りの木だから、登るのも上手。
 だけど、登る木が問題で…。
 今日の帰りに、ぼくも見せて貰ったんだけど…。
 苔が丸禿げの危機なんだよ、とハーレイにあの木の説明をした。
 帰り道に出会った御主人の自慢の、幹に緑の苔が生えた木。その木の苔を猫が剥がすのだ、と。
 剥がれた苔が元の通りに生えるまでには、何年もかかるものらしい、とも。
「なるほどなあ…。猫には爪があるからな」
 木に登ったら剥げちまうだろうな、幹に生えてる苔なんかは。
 それに猫には、楽しいオモチャになるんだろう。剥がしながらズルズル下りて来るなら。
「やっぱり、遊んでるんだよね…?」
 おじさんが大事にしてる苔なのに、そんなの、猫には分かんないから…。
 どんどん剥がして、今のままだと丸禿げになってしまいそう。
 でもね、おじさんは猫を繋ぐつもりは無いんだよ。…家に閉じ込めたりもしない、って。
 それは猫には可哀相だから、苔は丸禿げでも仕方ない、って…。
 すっかり諦めているみたいだけど、でも、何か方法があるんなら…。



 いいアイデアがあるなら教えて、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。
 ミーシャには使っていなかったとしても、誰かから聞いた方法があるとか、そういったケースもまるで無いとは言い切れないから。
「お願い、ハーレイ。…何か知らない?」
 知ってるんなら、ぼく、おじさんに教えに行くから…!
 ううん、ママに頼んで通信を入れて貰うよ、今日の間に…!
 おじさんの大事な苔を守れる方法、少しでも早く教えてあげたいもの…!
 このままだとホントに丸禿げになっちゃう、とハーレイの知識に縋ったのだけれど。三十八年も生きている分、アイデアも持っていそうだと期待したのだけれど…。
「生憎と、俺は知らないなあ…。お前が知りたがってるような方法は」
 苔の大切さなら分かるんだがな、俺だって。…親父もたまに気にしてたから。
 庭の木の幹、調べてみては、ちょっと溜息をついたりもして。
「ハーレイ、それって…。ミーシャのせいで剥げちゃった?」
 木に登るためには爪を出すから、剥がすつもりは無かったとしても。…お気に入りの木っていうほどじゃなくても、登れば剥げちゃいそうだから…。
「うむ。登る時にも、下りる時にも、爪を立てるのが猫だしな?」
 たまにツルッと滑りでもしたら、いつもより派手に剥がれちまう。爪を広げてた幅の分だけ。
 もっとも、ミーシャはとっくにいないし、今じゃすっかり元通りに苔が生えてるが…。
 その苔、たまに剥げるそうだぞ、とハーレイが言うからキョトンとした。
「え? 剥げるって…?」
 ミーシャがいないのに、なんで剥げるの?
 新しい猫は飼ってないでしょ、それとも何処かで貰って来たの…?
 今は別の猫が飼われているの、と高鳴った胸。もしも別の猫を飼い始めたなら、知りたいことは山のよう。どんな猫なのか、名前は何か。今はどのくらいの大きさなのか、と。
「おいおい、慌てるんじゃない。俺はまだ何も話していないぞ」
 たまに剥げると言っただけでだ、犯人の名前も出しちゃいないが…?
 とはいえ、お前の勘もまるっきり外れているわけじゃない。
 犯人は猫には違いないしな、親父たちの猫じゃないってだけで。



 他所の猫だ、とハーレイが教えてくれた犯人。ハーレイの両親が暮らす隣町の家で、緑色の苔が生えた木に登って、苔を剥がしてしまう猫たち。
「お前が出会った猫と違って、犯人は一匹じゃないようだがな…?」
 ふらりと庭を通り掛かって、登って遊んで剥がしていくんだ。少しだけとか、派手にとか…。
 親父に言わせりゃ、もう明らかに木登り失敗、といった感じのハゲも見つかるらしいな、うん。
 猫が滑って落ちた跡だ、とハーレイは可笑しそうな顔。「そういう時には派手にハゲるぞ」と。
「派手にハゲるって…。ハーレイのお父さん、怒らないの?」
 生えている苔、お父さんも大事にしている苔でしょ、ミーシャの頃から…?
 他所の猫なんかに剥がされちゃっても、許しちゃうわけ…?
 入って来たら叱ればいいのに、と思った庭に入って来る猫。追い出されたなら、木登りなんかはしていかない。木の幹に生えた苔は無事だし、派手に剥がれもしないのに。
「追い出すって…。親父も、おふくろも、そんなことは考えもしないだろうなあ…」
 俺も同じだ、仮に大事な木があったって。…その木に悪戯されちまっても。
 猫が平気で遊べる庭があるっていうのは、いいもんだろ?
 公園と同じで、車も走っていないんだから。…猫にとっては、人間様の庭が公園なんだ。
 本当に困る理由が無いなら、遊ばせておいてやりたいじゃないか。猫に食われちまうような鳥がいるとか、そういう庭でないのなら。
「そうなんだ…。人間の家にくっついてる庭は、猫の公園…」
 猫のための公園なんかは無いから、そう言われたら、そうなのかも…。
 車も来ないし、安心して遊べる場所だもの。…木の幹に生えた、苔が剥げるのは困るけど…。
 だけど、猫たちが幸せに遊んでいるなら、叱ったりしない方がいいよね…。
 その方が猫も嬉しいものね、と口にしたら思い出したこと。
(…遊んでて、それで叱られちゃうって…)
 あったっけ、と心が遠く遥かな時の彼方へと飛ぶ。
 白いシャングリラにあった、広い農場。あそこに植えていた、沢山の木たち。
 自給自足で生きてゆく船には、様々な木々が必要だった。オリーブや果樹や、他にも色々。
 その大切な農場の木たちに、子供たちが登って叱られていた。
 農場の木たちは、公園の木とは違って、作物を育てるために植えられたものばかりだから。



 オリーブオイルを採るためのオリーブ。果樹はもちろん、チョコレートの代用品だったイナゴ豆だって、木に実っていた。
 農場の木たちは、船の暮らしに欠かせないもの。眺めて楽しむ公園の木とは、まるで違っていた目的。けれど、子供たちの目から見たなら、どちらも木には違いないから…。
「猫の公園で思い出したよ。…シャングリラの木を」
「シャングリラだと?」
 前の俺たちが暮らしてた船か、木なら山ほど植えてたもんだが…。白い鯨の方ならな。
「そう、そっち。あの船の農場に植えていた木は、どれも大切な作物ばかりだったから…」
 公園と違って、木登りは禁止だったんだよ。作物が傷んだりしたら大変だから、って。
 でも、子供たち…。
 あの木に登っちゃっていたよね、木の苔を剥がす猫じゃないけど…。遊ぶために。
「登ってたなあ、そういえば…!」
 思い出したぞ、あのシャングリラの悪ガキどもを。…猫より酷い連中だったな。
 猫には言葉が通じないから、「その木は駄目だ」と怒鳴るだけ無駄というヤツなんだが…。
 あいつらは立派に人間だったし、思念波も持っていたってな。「駄目」が通じる連中だった。
 なのに、言うことを少しも聞きやしないんだ。農場の木には登るんじゃない、と何度言っても。
 何度注意を繰り返そうが、「登るな」と教え続けようが。
 まるで聞いてはいなかったよな、とハーレイが浮かべた苦笑い。シャングリラに迎えたミュウの子たちは、農場にあった木に関して言うなら、悪ガキだった。
 大切な作物を育てるための木なのだから、と口を酸っぱくして教えたって、彼らは聞かない。
 公園とは違った木が植わっていて、面白そうだと考えるだけ。
 けれど大人は「駄目だ」と叱るし、登って遊べば大目玉。「駄目だと言われた筈だろう」と。
 それを承知で、コッソリ出掛けていた子供たち。
 「バレては駄目だ」と、船の仲間たちの目を盗んでは、農場に向かう通路に入って。
 農場に着いたら、見張りも立てた。大人が来た時は、直ぐに逃げないと叱られるから。
 そうやって入り込んだと言うのに、子供というのは無邪気なもの。
 木登りの遊びに夢中になったら、もう何もかもを忘れてしまう。自分たちが何処にいるのかも。
 その内に、見張りの子までが持ち場を離れて登り始めて、ワイワイ騒いで…。



 子供たちの末路は、もう見えていた。彼らが農場に向かった時から、どうなるのかは。
 農場に向かう姿には、誰も気付かなくても。…途中の通路ですれ違った仲間がいなくても。
 白いシャングリラの食生活を支える農場、其処が終日、無人のままの筈がない。夜はともかく、人工の光が煌々と照らす昼の間は。
 収穫のために出掛ける者とか、作物の世話に向かう者とか。
 いずれ大人が現れるわけで、彼らの耳には直ぐに届いた。木登りに興じる、子供たちの賑やかな歓声が。それは楽しそうに遊ぶ声が。
「あれって、いつでもバレちゃったんだよ。逃げる前に大人に見付かっちゃって」
 いつだってバレて、それでお説教…。猫と違って、言葉がちゃんと通じるから。
「その説教。…俺も駆り出されてたぞ、ヒルマンに」
 あいつだけでは話にならん、とキャプテンの俺を引っ張り出すんだ。船の最高責任者だから。
 「農場の大切さを説いて、大目玉を食らわせてくれ」というのが、ヒルマンの注文だったが…。
 俺が大声で怒鳴ってみたって、シュンとするのは、その時だけで…。
 何日か経ったら、また同じことを繰り返してた。農場に出掛けて、木登りをして、見付かって。
 まるで駄目だから、ソルジャーの出番になったんだがなあ…。
 前のお前を呼んだ効果はどうだったんだ、とハーレイの鳶色の瞳が瞬く。「効果、あったか?」などと、確かめるように。
「ううん…。前のぼく、子供たちとは、しょっちゅう一緒に遊んでたから…」
 農場で木登りはしなかったけれど、でも、子供たちの心は分かるし…。
「何の役にも立たなかったってな、肝心のソルジャーは子供の味方で」
 叱るどころか、悪党どもの肩を持つんだ。「許してやってもいいだろう?」と寛大な顔で。
「そう…。ああやって遊べる場所があるのがいいじゃないか、って言っていたっけね」
 農場は大事な場所だけれども、人類に見付かって撃たれもしないし、安全だから、って…。
 だってそうでしょ、本当に安全なんだから。…人間の家の庭が、猫の公園なのと同じで。
「猫の公園なあ…。前のお前はそうは言わなかったが、アレを言われると弱かった」
 子供たちにとっては安全な場所だ、と言われちまうとグウの音も出ない。
 前の俺はもちろん、俺を担ぎ出したヒルマンもな。
 ゼルは元々、子供好きだし、叱ろうって気はまるで無かったわけだから…。



 何度叱られても、子供たちは農場の木たちに登り続けた。徒党を組んで出掛けて行って。
 船の大人たちの目を盗んでは、白いシャングリラの食生活を支える、大切な木に。
 オリーブの木も、イナゴ豆の木も、他の木や果樹も、子供たちに狙われ、登られていた。梯子は使わず、手と足だけで。…サイオンも、木から滑った時くらいしか使っていなかった。
 彼らがせっせと登るものだから、そのせいで収穫量が減ったりしないようにと、農場の係たちは頑張っていた。悪ガキたちと遭遇したなら、叱り飛ばすのは基本だったけれど…。
 それと同時に、「この枝には足を掛けるな」だとか、「今の季節は、この木に登るな」だとか、出来る限りの指図をして。「木が傷んだら、お前たちも食えなくなるんだぞ!」などと。
(…前のぼくが、本気で止めてたら…)
 木登りは直ぐに止んだだろう。
 白いシャングリラを導くソルジャー、その人が「駄目だ」と叱ったら。登ってもいい木は公園の木だけで、農場の木には登るんじゃない、と。
 けれども、一度も叱ってはいない。
 ヒルマンに請われて出掛けて行っても、前のハーレイまでが腕組みをして子供たちを睨み付けていても。…農場は大切な場所だとはいえ、安心して遊べる所だったから。
「ねえ、ハーレイ…。前のぼくたち、今日のおじさんと同じだね」
 木の幹に生えてる苔が丸禿げになってしまったとしても、猫を繋いだりするよりはいい、って。
 庭に出さずに閉じ込めるよりも、好きに遊ばせてやりたいから、って…。
 農場の木だって、それと同じだよ。木登りさせなきゃ、収穫が増えたかもしれないのにね。
 …きっと増えたよ、木が傷むことは無いんだから。
「それは分かっちゃいたんだが…。キャプテンとして見ていた、報告書とかで」
 あのガキどもを止めさえしたなら、もう少しくらい増えるだろう、と書かれていたから。
 しかし、所詮は「もう少し」だ。誤差の範囲と呼べるくらいの違いでしかない。その量が減って誰が飢えるというわけでもなし、目くじら立てても仕方あるまい。
 その程度のことで縛っちまうよりは、自由にのびのびさせてやりたかったしな、子供たちを。
 「絶対に駄目だ」と叱るのも俺の仕事だったが、其処まででいい。
 規則まで作って徹底させるとか、立ち入り禁止にしちまうよりかは、あれで良かった。
 お蔭で逞しく育ってくれたさ、どの子たちもな。…農場で悪事を働きながら。



 シドもリオも…、とハーレイが懐かしむ子供たち。白いシャングリラで育った子たち。
 後に最後のキャプテンになったシドも、地球で命尽きた英雄のリオも、みんな木登りをしながら育った。公園にある木とは違って、農場に植えられた大切な木で。
「みんな登っていたんだっけね…。子供だった頃は」
 大人に見付かって叱られたって、農場に何度も出掛けて行って。…色々な木に。
 オリーブの木にも、イナゴ豆の木にも、と子供たちの姿が目に浮かぶよう。前の自分は、何度もサイオンで覗き見たから。「また登っている」と笑みを浮かべて、青の間から。
「公園の木にも登ってはいたが、農場の方が良かったらしいな。…同じ木登りするのなら」
 収穫を控えた木には登れなかったし、盗み食いが出来たわけでもないのに…。
 リンゴの一つも食えやしないのに、なんだって農場が良かったんだか…。
 叱られてエライ目に遭うだけなんだが、とハーレイが顎に手を当てる。何のメリットも無かった農場、どうして其処で木登りなどを…、と。
「きっとスリリングだったんだろうね。農場の木には、苔が生えてはいなかったけど」
 登る時とか、下りる時とかに派手に滑って、苔がハゲるわけじゃなかったけれど…。
 だけどスリルはあったと思うよ、農場だもの。見張りを立てなきゃいけないような場所だから。
「叱られるのと、背中合わせのスリルってヤツか…」
 苔でツルリと滑っちまうか、大人に見付かって怒鳴り付けられるか。…その違いなんだな。
 お前が出会った猫の場合は、苔の手ごたえを楽しんでいる、というトコだ。頑張って爪を立てたつもりでも、滑る時だってあるんだし…。その跡がお前の見て来たハゲだな。
 シャングリラの農場で木登りしていたガキの場合は、見付かって怒鳴られるスリルをワクワクと楽しみにしていた、と。苔で滑ってしまうのを楽しむ猫みたいに。
 まあいいだろうさ、シャングリラの方では、船の役に立つ子たちが立派に育ったんだから。
 前のお前が「安全な場所で遊ばせてやれ」と、何度も許してやったお蔭で。
 本当にいい子たちだった、とハーレイが挙げてゆく名前。白いシャングリラの悪ガキたち。
「そうだね、みんな立派に育ってくれたよ。でも…」
 今日の猫は、どうなっちゃうんだろう?
 苔を剥がして登ってもいい、って許して貰って、立派な猫になれるのかな…?
「そっちは役に立ちそうにないな、猫だけに」
 第一、子猫じゃなかったんだろうが。既に育った後の猫だぞ、それ以上、どう育つんだ…?



 「たとえ立派に育ったとしても、猫の手だからな」とハーレイが笑う、猫の木登り。
 御主人の自慢の苔を剥がして、せっせと登り続ける猫。お孫さんが迎えにやって来るまで。
(…猫の手どころか、大迷惑だよ…)
 苔が丸禿げになりそうだ、と御主人がしていた、お手上げのポーズ。
 猫の手は役に立たないものだし、あの木登りで立派に育っても、どうしようもない厄介な猫。
 けれど、白いシャングリラの思い出を連れて来てくれたから、役には立った。
 御主人の与り知らない所で、今の自分とハーレイのために。
 それに、御主人の役には立たないようでも、ああやって猫が庭で楽しんでいるのなら…。
(お孫さん、きっと喜ぶよね?)
 旅行から帰って迎えに来た時、「お気に入りの木が出来たようだよ」と聞かされて。
 もしかしたら、あの木の上から下りて来るかもしれない。お孫さんの声で、大喜びで。
 木の幹に生えた苔の最後の欠片を、爪でズルズルと引き剥がしながら。
 丸禿げになってしまった幹で溜息をつく御主人だって、お孫さんの笑顔で、きっと御機嫌。
 「旅行は楽しかったかい?」と訊いたり、猫を眺めて「いい子にしてたよ」と微笑んだり。
 猫が最後の苔の欠片を剥がしても。…本当に丸禿げにされてしまっても。
(あの木の苔も、早く元に戻るといいんだけれど…)
 今はまだ丸禿げになってはいなくて、あちこちが剥がれてしまっていた苔。
 元の緑色を取り戻すまでには、何年もかかるかもしれない苔。
(やっと生えて来ても、あの猫が来て…)
 また剥げるかもしれないけれども、それもいい。
 子供は未来の宝だから。
 白いシャングリラの農場の木で、木登りしていた子供たち。彼らは立派な大人になった。
 あの御主人のお孫さんだって、いつか大きく成長する。
 苔を剥がしてしまった猫は育たなくても、お孫さんは立派に育ってくれる。
 だから御主人も、きっと怒りはしないのだろう。
 ようやく元に戻った木の幹の苔を、お孫さんの猫がすっかり丸禿げにしてしまっても…。



           苔が生えた木・了


※ブルーが見掛けた猫の遊び。木の幹を覆っている苔を、剥がしてしまうような木登り。
 御主人は困り顔で見守るだけ。止めようとしないのですけど、シャングリラでも事情は同じ。
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