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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧
(鍵だ…)
 本物じゃないよね、とブルーが見詰めたもの。学校からの帰りに、路線バスの中で。
 ふと見た、通路を挟んだ席。其処に座った若い女性のペンダント。
(金色の鍵…)
 細い金色の鎖を通して、首から下げた金色の鍵。そういう形のペンダント。きっとアクセサリーなのだと思う。鍵の形をしているだけの。
 アクセサリーだから、何処の扉が開くわけでもない。鍵の形の飾りというだけ。
 でも…。
(本物だったら素敵だよね?)
 アクセサリーではなくて、本物の鍵。ちゃんと使えて、扉が開く。
 そうだとしたなら、開く扉は特別な場所の扉だろう。女性の家の扉の一つではなくて、箱などに使う鍵でもなくて…。
 恋人に貰った、家の合鍵。それを使えば、留守の時にも家に入って待てる鍵。
 せっかくだからと、わざわざ金色に作って貰って、ペンダントにしてくれた優しい恋人。いつも首から下げられるように、いつでも持っていられるように。
(恋人の家に出掛けて行ったら、あのペンダントで…)
 鍵を開けて入って、料理しながら恋人の帰りを待つだとか。お菓子も作るかもしれない。恋人が家に帰って来たなら、作った料理やお菓子の出番。「おかえりなさい」と笑顔で迎えて。
(鍵さえあったら、先に入っていられるもんね?)
 恋人が仕事に出掛けていたって、家の表で待っていないで。
 「今日は帰りが遅くなるから」と言われた日だって、恋人の家で夕食の支度。帰って来たなら、直ぐに食べられるように。「料理だけ作って置いておくから」と手紙を残して帰ったりもして。
 そういうのも素敵、と夢見てしまう。
 自分だったら、そのための鍵が欲しいから。ハーレイの家に入って待っていたいから。
 前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
 ハーレイの家の合鍵があれば、どんなに素敵なことだろう。
 それで扉を開けられたなら。
 ハーレイが家にいない時にも、中に入って帰りを待っていられたら。



 いいな、と眺めた金色の鍵。アクセサリーか、本物なのかは謎だけれども。
(ああいう形の鍵もあるしね?)
 本当に扉が開く鍵。扉についた鍵穴に入れて、回してやったらカチャリと小さな音がして。
 あれが本物の合鍵だったら、と羨ましく思いながら降りたバス。恋人の家の扉が開く鍵、恋人に貰った金色の鍵。それを首から下げているなら、本当に幸せだろうから。
 家に帰って、ダイニングでおやつを食べる間も、鍵が頭から離れない。ペンダントになっていた金色の鍵は、本物だった気がするものだから。
 アクセサリーのように見えても、恋人の家の扉の合鍵。使う時には首から外して、あれを鍵穴に差し込んでやる。鍵が外れる方へ回して、鍵が開いたら扉を開けて家の中へと。
 恋人が帰るまでの時間に、色々なことをするために。料理の支度や、お菓子作りや。
(ぼくも合鍵…)
 もしもハーレイが贈ってくれたら、大切に持つことだろう。宝物みたいなものだから。いつでもハーレイの家に入れて、中で帰りを待てるのだから。
 それを貰えたら、帰りに見掛けた女性みたいに、ペンダントにして肌身離さず持っておく。細い鎖を通してやって。
(金色の鍵じゃなくたって…)
 実用的な鍵にしたって、やっぱり首から下げておく。アクセサリーには出来ないものでも、誰が見たって「ただの鍵」でも。ごく平凡な銀色でも。
 どんな時でも持っていたいし、大切な鍵と一緒にいたい。首から下げておくのが一番。
(お風呂に入る時くらいしか…)
 きっと外しはしないだろう。何処に行くにも、鍵と離れたくないものだから。
(学校は、アクセサリーは禁止だけれど…)
 その学校でも、なんとかして持っていたいと思う。ハーレイに貰った大切な鍵を。
 「家の鍵なんです」と言い張ったならば、持てるだろうか?
 帰った時に母が留守なら、それを使って入らないと、と「家の鍵です」と嘘をついたら。
(首に下げるのは駄目かもだけど…)
 家の鍵なら、きっと許して貰える筈。持っていないと困るものだし、「アクセサリーは駄目」と注意されても、他の形で持てるだろう。
 制服のポケットに入れておいたら、いつでも一緒。「家の鍵です」と言い張りながら。



 そんなのも素敵、と思った「制服のポケットに入れておく」鍵。落っことさないように、紐でも通して、それを何処かに結んでやって。
 家の鍵なら先生だって怒らない。紐がポケットから覗いていたって、その先に鍵があったって。
(…ぼくの家じゃなくて、ハーレイの家の鍵なんだけどね?)
 家の鍵には違いないもの、と考えながら戻った二階の自分の部屋。空になったカップやケーキのお皿を、キッチンの母に返してから。
(合鍵かあ…)
 勉強机の前に座った後にも、金色の鍵ばかり思い出す。アクセサリーか本物なのか、本当の所は分からないけれど。
(だけど、合鍵…)
 自分がそれを貰ったならば、あんな風にして持つだろう。学校では首から下げられないのなら、制服のポケットに入れる形で。
(家の鍵です、って言えば絶対、大丈夫…)
 先生に注意された時にはそれだよね、と言い訳までスラスラ浮かんでくる。本当に家の鍵なのかどうか、先生は確かめないだろうから。家に来てまで、鍵穴に入れたりするわけがない。
(鍵は鍵だし、何処かの扉が開くんだから…)
 自分の家の鍵にしたって、ハーレイの家の鍵にしたって、鍵は鍵。先生たちに区別はつかない。
 「持つための言い訳」まで思い付いたら、欲しくてたまらなくなった合鍵。
 ハーレイの家の扉の鍵穴、其処に突っ込んだらカチャリと鍵が開く合鍵。
(チビの間は、ハーレイの家には行けないけれど…)
 悲しいことに、そういう決まりになっている。
 前の自分と同じ背丈に育たない内は、ハーレイの家には遊びに行けない。柔道部員たちは何度も呼んで貰って、暑い季節は庭で賑やかにバーベキューまでやっていたのに。
(…ぼくは一回、呼んで貰って、それっきりで…)
 後はメギドの悪夢を見た夜、瞬間移動で飛んで行っただけ。あの時だって、朝食が済んだら車に乗せられて、家に帰されてしまっておしまい。
 けれど、いつかは出掛けてゆける。大きくなったら、「遊びに来たよ」と何度でも。
 思い付いた時には「行ってもいい?」と尋ねてみたり、予告もしないで押し掛けてみたり。



 今は無理でも、何年か待てばその時が来る。前の自分とそっくり同じに育ったら。
 いつかハーレイの家に行けるという、お守りに合鍵があったらいい。お守りに持っていられたらいい。「家の鍵です」と嘘をつきながら、学校に行く時もポケットに入れて。
 ハーレイに頼めば作って貰えるだろうか、ただ「持っておく」だけならば?
 留守の間に家まで出掛けて、合鍵を使って中に入るのではなかったら…?
 使える時がやって来るまで使わないなら、お許しが貰えるかもしれない。約束通りに、育つまで家に行かないのなら。
(駄目で元々なんだしね…?)
 合鍵が欲しいと頼んでみたい、と思っていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、合鍵、作ってくれる?」
 作ってくれる所は色々あるでしょ、そういうお店。其処で作って欲しいんだけど…。駄目?
「はあ? 合鍵って…?」
 なんでまた、とハーレイは怪訝そうな顔。「何処の合鍵が欲しいと言うんだ?」と。
 学校の中の扉だったら、どれも最初から合鍵がある。生徒が個人的に使うロッカーでも、万一の時に困らないよう、合鍵の束が職員室にあるほどだから。
「ぼくが欲しいの、ハーレイの家の合鍵だけど…」
 作ってくれたら嬉しいんだけどな、ハーレイの家の玄関の扉が開く合鍵。
 一番安いヤツでいいから、とも頼んでみた。合鍵を作る店は色々、値段も色々だろうから。
「俺の家の玄関の合鍵だって…?」
 お前、そんなので何をする気だ、空き巣の真似か?
 俺が出掛けて留守の間に、勝手に入って中でゴソゴソするって言うのか、帰る時間はお前の方が早いんだからな?
 俺が柔道部に行っていたなら、家は留守だし…。お前は放課後で暇なんだし。
 もっとも空き巣は、今の時代はいやしないんだが。…泥棒なんかはいない時代だ、空き巣なんて言葉は本の中にしか出て来ないがな。
 そいつをお前がやるって言うのか、盗っていくものは色々ありそうだから…。
 他のヤツらの目にはガラクタでも、お前にとっては宝物ってヤツが山ほどドッサリとな。



 俺の愛用のマグカップだって盗られそうだ、とハーレイは空き巣の心配中。コーヒーを飲む時のお気に入りのカップで、ハーレイの家で見掛けたそれ。とても大きなマグカップ。
 「茶碗も危ないかもしれん」だとか、「箸だって危なそうだよな」とか。
「俺が愛用してるってだけで、お前は欲しがりそうだから…。茶碗だろうが、カップだろうが」
 消えていたなら新しいのを買えばいいだろう、と鞄に詰めて行きそうなんだ。俺に黙って。
 お宝を奪って逃げる時には、元通りに鍵までかけて行ってな。
 俺が仕事から帰って来たって、最初は気付かないんだろう。鍵はきちんとかかってるから、何も知らずに開けて入って、さて、とカップを使おうとしたら、見事に消えているってな。
 マグカップどころか、茶碗も箸も…、とハーレイが的外れなことを並べ立てるものだから。
「違うよ、空き巣をするんじゃなくて…。留守の間に家に入りたいわけでもなくて…」
 お守りに欲しいんだよ、ハーレイの家の合鍵を。…ぼくのお守り。
「…お守りだって?」
 俺の家の鍵には、何の御利益も詰まっちゃいないと思うがな?
 玄関の扉が開くってだけで、他の役には立たないぞ。本物の鍵でもその有様だし、合鍵となれば御利益の無さは想像がつくと思わんか?
 どんなものでも、本家本元が一番御利益があるもんだ。複製品だと、ちょいと落ちるし…。
 ただでも御利益の無い鍵の合鍵なんかが、何のお守りになると言うんだ…?
 俺にはサッパリ分からんのだが、とハーレイは首を捻っている。「何に効くんだ?」と。
「えっと、お守りには違いないけど…。それ、ぼくにしか効かないから…」
 ぼくの心に効くお守りだよ、持っているだけで幸せになれるお守り。それが御利益。
 これがハーレイの家の合鍵、って思うだけでホントに幸せだから…。
「お前だけに効くお守りだって? 何処から思い付いたんだ?」
 何かのおまじないでも読んだか、合鍵を持ったら幸せになるとか、そういう記事を…?
 それとも本に書いてあったか、何かのついでに…?
「おまじないじゃないよ、今日の帰りにバスで見掛けたペンダント…」
 若い女の人が首から下げてたんだよ、金色の鍵のペンダントを。
 アクセサリーかな、って思ったけれども、そうじゃないかもしれないよね、って…。
 恋人に貰った家の合鍵で、アクセサリーに使えるように、金色に作ってあるのかも、って…。



 細い鎖で下げていたよ、と話した鍵のペンダント。金色の鍵。
 「あんな風に合鍵を持っていたい」と、「ハーレイの家のが欲しいんだけど」と。
「学校はアクセサリーが禁止で、ペンダントにしてたら叱られるかもしれないけれど…」
 家の鍵です、って言ったら許して貰えそう。ペンダントは駄目でも、制服のポケットに入れるのならね。家に帰った時に誰もいなかったら、鍵が無いと入れないんだから。
 何処の鍵かは確かめないでしょ、先生だって。…「家の鍵か」って眺めるだけで。
 だから、ハーレイの家の鍵でも大丈夫。ぼくの家の鍵だと思われておしまい。
 大切にするから、合鍵、欲しいな…。
 今はまだハーレイの家に行くのは無理だし、合鍵があっても、鍵を開けたり出来ないけれど…。
 持っていたって使えはしなくて、何の役にも立たないんだけど…。だけど、お守り。
 いつか使える時が来るよ、って考えるだけで幸せじゃない。ぼくが大きくなった時には、合鍵、使っていいんだから。
 ハーレイが留守にしている時には、それで入って…、と瞳を輝かせた。玄関に鍵がかかっていた時も、合鍵があれば中に入れる。「留守なんだ…」と溜息をついて帰る代わりに、扉を開けて中に入って、ハーレイの帰りを待つことが出来る。お気に入りの椅子に座ったりして、のんびりと。
 いつか使えるだろう合鍵、それがあったら幸せな気分。今は出番がまるで無くても。
「そういう理由で合鍵なのか…。お守りという意味も良く分かったが…」
 生意気だぞ、お前。チビのくせして、俺の家の合鍵が欲しいだなんて。
 前のお前と同じに育って、俺の家に出入りが出来るようになったら、合鍵だって作ってやらないわけではないが…。欲しいんだったら、幾らでも作ってやるんだが…。
 チビのお前じゃ話にならんな、文字通り、役に立たないんだから。
 お前がワクワク持っているだけで、その鍵、出番が来やしないからな。
 それじゃ鍵だって可哀相だろうが、とハーレイが眉間に寄せた皺。「使われない鍵じゃ、ただの飾りになっちまう」と。
 合鍵とはいえ、鍵の姿に生まれたからには、使われてこそ。人間の役に立つ道具でないと、と。
「…やっぱり駄目?」
 ぼくがお守りにするだけだったら、ハーレイの家の合鍵は作ってくれないの?
 一番安いヤツでいいのに、綺麗な金色の鍵じゃなくても…。



 合鍵だったら何でもいいよ、と食い下がったけれど。本当に欲しいのだけれど…。
「俺が駄目だと言ったら、駄目だ。お前にはまだ、合鍵ってヤツは早すぎる」
 考えてもみろよ、前のお前だって、キャプテンの部屋の合鍵なんぞは持ってなかった。ちゃんと育った立派な大人で、俺と恋人同士でも。
 もっとも、お前に鍵は必要無かったがな。鍵も扉も、お前には無いも同然だったし。
 どんな場所でも、瞬間移動でヒョイと入ってしまうんだから…。鍵があろうが、扉があろうが。
 いや、その前にだ…。
 鍵が無いのか、と苦笑したハーレイ。「今の時代とは、鍵が違ってたよな」と。
「え? 鍵って…」
 前のぼくたちが生きてた頃でも、鍵はきちんとあったでしょ?
 シャングリラの中にも鍵はあったし、アルタミラの檻にも、あそこで閉じ込められたシェルターにも鍵…。檻もシェルターも、内側からは開けられなかったんだから。
 そうなったのは鍵のせいだよ、と例に挙げた忌まわしい記憶。
 前の自分は、アルタミラで狭い檻の中に押し込められていた。人体実験の時だけ、外に出される牢獄に。もちろん中から開くわけがないし、逃げることさえ諦めた。未来に何の希望も無いから、心も身体も成長を止めて。
 メギドの炎がアルタミラを星ごと滅ぼした時は、人類はミュウをシェルターの中に閉じ込めた。けして外には出られないよう、星ごと焼き滅ぼされるように。
 その中で悟った「終わりの時」。このままでいたら死んでしまう、と懸命に扉を叩いてみても、扉は開きはしなかった。前の自分のサイオンが扉を、シェルターの壁ごと破壊するまで。
 つまり、存在していた鍵。檻もシェルターも、鍵が無いなら簡単に開いた筈なのだから。
 それにシャングリラにも、鍵は幾つも。キャプテンの部屋にも、倉庫などにも。
「アルタミラの檻に、シェルターなあ…」
 あそこにも確かに鍵はあったな、俺たちには歯が立たなかったのが。
 忌々しい鍵の話はともかく、シャングリラにも鍵は幾つもあったってわけで…。
 白い鯨に改造する前から、個人の部屋にも鍵はかかった。住人が閉めようと思いさえすれば。
 改造した後の船になったら、鍵がかかる場所もグンと増えたが…。
 船が大きくなった分だけ、部屋も増えたし、施錠しなけりゃ駄目な区画も増えたから…。



 だが…、とハーレイは鳶色の瞳をゆっくり瞬かせた。「鍵ってヤツが問題だ」と。
「シャングリラにあった色々な部屋は、こういう鍵で開いてたのか?」
 今の俺の家の鍵はコレだが、シャングリラで俺たちが使ってた鍵もこんなのだったか…?
 これなんだが、とハーレイが取り出したキーホルダー。背広の上着のポケットから。テーブルの上にコトリと置いて、それにつけられた鍵を順に指してゆく。
 家のがこれで、車がこれで、と。柔道部の部室の鍵がこいつで…、と色々な鍵を。
「…一杯あるね、ハーレイの鍵…」
 やっぱり大人の人は違うね、ぼくだと鍵も持っていないし、キーホルダーの出番も無いよ。家の鍵だって、要りそうな時だけ、ママから借りて持って行くから。
 ホントに沢山、とキーホルダーについた鍵の数に感心していたら…。
「そういや、車のキーも無いよな」
 今の俺には当たり前のものだが、前の俺だとキーは無縁で…。うん、無かったよな、車のは。
「車?」
 あった筈だよ、車のキー。…前のぼくは運転しなかったけれど、人類の世界に車はあったし…。
 人類が車を動かす時には、今と同じでキーだった筈だと思うけど…。
 基本は変わっていないものね、と前の自分が生きた時代の車の形を思い浮かべる。今の車たちの隣に並べてみたって、さほど違いはしないだろう。車は車で、人間を乗せて道路を走るもの。
 形が変わっていないのだったら、あの頃だってキーがあった筈。使った記憶は無いのだけれど。
「車のキーはあっただろうな、お前が言っている通りに。…俺も使っちゃいないんだが」
 シャングリラにあったのは自転車くらいで、車は無かったモンだから。
 俺が言うのは、前の俺の車というヤツだ。いわゆる車よりも遥かにデカくて、シャングリラって名前がついてたんだが。
 …今の俺の車に、いずれその名をつける予定だし、シャングリラだって俺の車と言っていい。
 俺の私物じゃなかっただけで、俺が動かしていたんだから。大勢の仲間を乗っけてな。
 シャングリラの運転手は前の俺だが、あの船にキーは無かったぞ。
 車みたいに、これさえ使えば動くってヤツは。…エンジンがスタートするキーなんかは。
「…無かったね…」
 ホントだ、同じシャングリラって名前をつけてみたって、車と船とじゃ違うんだね…。



 全然違う、と遠く遥かな時の彼方に思いを馳せた。懐かしい白いシャングリラに。
 今のハーレイの愛車は白くないのだけれども、いつか二人でドライブ出来る時が来たなら、あの船の名前をつけてやる。二人だけのために走ってくれる車に、「シャングリラ」と。
 けれど本物の白いシャングリラと、ハーレイの車は全く違う。シャングリラの方は宇宙船だし、道路を走る車とは違って当たり前。
 シャングリラを動かしていたエンジンは、小さなキーを差し込むだけでは始動などしない。船を動かすには幾つもの手順、それを正しく実行してゆくことが必要。
(メイン・エンジン点火、って…)
 キャプテンや機関長が指示して、それに携わる仲間が動く。各自の持ち場で、安全確認やデータ確認などをして。何人もが「いける」と判断を下して、その作業をして、ようやくシャングリラが動き始める。巨大な白い鯨のような船体が。
(物凄く沢山の手順だけれども、点火までには、ほんの一瞬…)
 皆が瞬時にこなした作業。エンジンに点火するために。
 でないと船は動かないから、危険を回避することすらも出来ない。それもあって、完全に止まることはなかったシャングリラ。前の自分が生きていた頃には、ただの一度も。
(メイン・エンジンが、メンテナンスで止まっていたって…)
 補助エンジンが常に動いていた。そちらの方も、小さなキーを使うだけでは動かない。何人もの仲間が関わらないと、安全やデータを確認しないと。
(…本物の方のシャングリラには…)
 こういうキーは無かったのか、と見詰めた車のためのキー。
 今のハーレイの自慢の車は、このキーがあれば動くのに。前のハーレイのマントと同じ色の車、あれを動かすにはキーを差し込んでやればいいのに。
(船のシャングリラは、とても大変…)
 キーだけじゃ動いてくれないんだ、と納得させられたけれど、鍵は確かに無かったけれど。
 そのシャングリラの船体の中には、幾つもの部屋や倉庫や、様々な区画。
 居住区にあった個人の部屋には鍵がついていたし、立ち入りを制限すべき場所にも、同じに鍵。
 部屋も、立ち入り制限区画も、倉庫なども鍵が間違いなくあった。鍵がかかるなら、鍵を開けるための方法がある。でないと、扉は開かないから。



(鍵が無いと、開いてくれないよ…?)
 今の自分の家の扉も、ハーレイの家の玄関も。学校のロッカーも開きはしないし、シャングリラでも同じだと思う。鍵がかかる場所があった以上は、それを開けるための鍵が欠かせない。それが無ければ、誰も入れはしないのだから。
(瞬間移動で飛び込むんなら、別だけど…)
 ジョミーを船に迎える前には、瞬間移動が出来たのは前の自分だけ。他の仲間には無理だった。その方法で入れないなら、鍵が無かった筈はないのに…。
(どうなってるの…?)
 今のハーレイの「鍵は無かった」という言葉。鍵はあったし、鍵がかかるなら開けるための鍵が必要なのに。
「やれやれ…。まだ思い出せないって顔をしてるな、お前ときたら」
 俺は嘘なんかついちゃいないし、お前を騙そうともしてはいないぞ。鍵が無かった話の件で。
 いいか、前のお前の青の間にしても、俺がいたキャプテンの部屋にしてもだな…。
 どちらにも鍵はあったわけだが、少なくとも、こういう鍵じゃなかった。今日のお前が見かけたような、こんな形の鍵なんかでは…な。
 こいつだ、とハーレイは鍵の一つを指で弾いた。キーホルダーについている中の一つを。
 それを使えば、柔道部の部室の扉が開くらしい。他の幾つもの鍵との違いは、見ているだけではよく分からない。車のキーなら、一目で「あれだ」と分かるけれども。
 鍵の基本の形は同じ。刻まれた溝や、差し込む部分の僅かな違いで別の鍵になる。
 けれどシャングリラでは、もっと厳重だったシステム。
 基本の鍵など何処にも無かった。「これがそうだ」という形も無かった。
 キーホルダーなどあるわけがなくて、鍵の数だけあったと言っても良かった鍵。その場所の鍵を開ける方法。部屋も倉庫も、立ち入り制限区画の扉も。
(鍵なんか、誰も差し込まなくて…)
 回してカチャリと開けてもいない。
 そんなシステムではないのだから。鍵を開けるには、様々な手順。
(方法だって、ホントに色々…)
 一つだけで開く扉もあれば、幾つも組み合わされていた場所も。其処の重要性に応じて。



 そうだったっけ、と蘇って来た遠い遠い記憶。
 施錠が必要だった場所では、誰も鍵など使わなかった。開ける時にも、閉める時にも。…鍵穴に入れて回す鍵など、誰一人として。
 前の自分は瞬間移動であらゆる扉を通り抜けたけれど、それが出来ない船の仲間たちは皆、扉を相手に苦労していた。鍵がかかっていたならば。
 施錠されたキャプテンの部屋に入る時には、ハーレイに頼んで中から開けて貰っていたか…。
(パスワードを幾つも打ち込むだとか、そんなので…)
 部屋の掃除をする係などが入っていただけ。部屋の主が留守にしていた時は。
 キャプテンは船の最高責任者だけに、たやすく入れる部屋ではいけない。本人の許可か、入れる資格を持つ者だけが知っている手順か、それが無ければ開かなかった扉。
 今のハーレイのキーホルダーについているような、鍵一つでは開けられない。そういう形の鍵も無ければ、鍵穴だって無いのだから。
 前の自分が長く暮らした青の間も同じ。ソルジャーに用がある者は多いだろうから、昼間は施錠しなかったけれど、施錠したなら…。
(入るの、大変…)
 ちょっと視察に出掛けるから、と鍵をかけてから出ようものなら、厄介なことになっただろう。
 「ソルジャーがお戻りにならない間に、掃除をしよう」と部屋付きの係がやって来たって、鍵を開けるのに幾つもの手順。
 船で一番偉いとされた、ソルジャーの私室なのだから。…キャプテンとは比較にならない存在。
 そのソルジャーの部屋の鍵だし、そう簡単には開かない。
(掃除しに来た係の名前を打ち込んで…)
 係の名前と、それを打ち込んだ仲間が同じ人間かどうか、その照合から始まる仕組み。無関係な者には、ソルジャー不在の時の青の間には、立ち入り許可が下りないから。
 間違いなく同じ人間なのだ、と証明したって、今度はロックを解除するための作業が必要。
 どういう理由で鍵を開けたいのか、目的によって違う色々なパスワードなど。
 掃除したいのなら、掃除の時に使うものを入力、それが通れば扉を開くための別のパスワードを入れて、と複雑すぎた青の間の鍵。
 たとえ部屋付きの係にしたって、ミスをしたなら、けして開いてくれないほどに。



 とんでもない鍵があったんだった、と思い出した前の自分の部屋。青の間と呼ばれた、やたらと大きすぎた部屋。「ソルジャーの威厳を高めるために」と、余計な工夫が凝らされた場所。
 あの部屋の鍵は、誰も開けたくなかっただろう。あまりにも仕組みが厄介すぎて。
 居住区にあった他の仲間たちの部屋にしたって、鍵というものは…。
(青の間に入る係を確認するのと同じで、いろんな認証システムとか…)
 持ち主の好みや、肩書きなどで違った種類。パスワードを打ち込んでやれば開く扉や、その前に立った人間が誰かを確認しないと開いてくれない扉やら。
 どれにしたって、今の時代の鍵とは違った。青の間も、前のハーレイの部屋も、ごくごく普通の仲間たちの部屋の扉にしても。
 そんな具合だから、合鍵だって無かった船。何処の部屋にも、倉庫や様々な区画にも。
 鍵を開ける方法からして違ったからには、合鍵があるわけがない。作りたくても、作る方法などありはしないのだから。
「…前のぼくたちの部屋、こんな鍵だと開かないね…」
 合鍵だって作れやしないよ、どう頑張っても。今の鍵とは違うんだから。
 ゼルやヒルマンがどんなに研究したって、あのタイプの鍵の合鍵は無理。…作れやしないよ。
 絶対に無理、と今の自分でも分かる。そう簡単には開けられないように工夫された鍵は、それに応じた開け方だけしか、受け付けてなどはくれないから。
「分かったか? まるで時代が違ったんだな、前の俺たちが生きていた頃は」
 鍵は開けられないことが大事で、合鍵なんぞは論外だった。合鍵があれば開いちまうから。
 あの時代にも、こういった形の鍵は一応、あったんだが…。
 何処にも無かったわけではないし、形を見たなら「鍵だ」と分かるものではあったが…。
 残念なことに、前の俺だけが好きで使っていた、羽根ペンってヤツと同じでだな…。
 レトロなアイテムの一つだったぞ、と今のハーレイが言う通り。
 SD体制が敷かれた時代も、鍵穴に差し込む鍵ならばあった。鍵を差し込む鍵穴がついた、箱や机の引き出しなども。
 とはいえ、それらは「信用されてはいなかった」鍵で、一種の飾り。
 本当に隠しておきたい文書や品物、そういったものを其処に仕舞いはしなかった。誰が見たってかまわないものや、鍵を開けて「どうだ」と自慢したいものを入れておくだけで。



 ハーレイ曰く、「レトロなアイテム」だった鍵。白いシャングリラが在った頃には。
「今だと、本物なんだがな…」
 どれも立派に現役の鍵で、家の扉も、部室の扉も、学校の門を開けられる鍵もあるんだが…。
 前の俺たちの目には頼りなくても、どれも本物の鍵ばかりだ。これも、これも、この鍵だって。
 どの鍵も何処かの鍵なんだ、とハーレイはキーホルダーを元のポケットの中に仕舞った。
「こいつらは大事な鍵だしな?」と。
 失くしちまったら大変だ、と大切に仕舞い込まれた鍵たちの束。その中の一つを選んで使えば、車も動くし、家にも入れる。
 ハーレイが柔道着を入れたりしているロッカーも開けば、柔道部の部室に入ることも出来る。
「鍵って、昔に戻ったんだね。…ぼくたちは未来に来ちゃったのに」
 前のぼくたちが生きた頃よりも、ずっと昔の時代の人は、今みたいな鍵を使ってたんでしょ?
 シャングリラの時代には、レトロなアイテムだったんだから。…そういう鍵は。
「うむ。前の俺が好きそうな鍵ではあった」
 いくら好きでも、キャプテンの部屋には使えないんだが…。あの時代ではな。
 今の俺たちには、こっちの方が普通になっちまったが。
 学校だろうが、ロッカーだろうが、家であろうが、何処もこの手の鍵ばっかりで…。
 お蔭で合鍵を作る店だって、幾つもあるというわけだ。道具さえあれば、直ぐに作れるから。
 店で少しだけ待ってる間に出来ちまう、とハーレイは笑う。「早くて安くて、便利だよな」と。
「そうなんだけど…。でも、どうしてだろう?」
 鍵の形が、昔に戻っちゃったのは。…シャングリラの頃には、うんと複雑だったのに。
 もっと複雑になったんだったら分かるけれども、どうして逆になっちゃったのかな…?
「なあに、簡単なことだってな。…平和な時代になったからさ」
 人間がみんなミュウになったら、戦争も武器も無くなった。誰も争ったりしないから。
 平和なんだし、暗殺なんて物騒なことも無ければ、泥棒もいない世の中だ。
 厳重に鍵をかけなくっても、誰も困りはしないってな。殺されも、盗まれもしないんだから。
 そうは言っても、やっぱり鍵は欲しいモンだし、ああいう鍵で充分だろう、ということだ。
 鍵穴に入れて回してやったら、カチャリと開いたり、閉まったりする鍵。
 もっとも、宇宙船となったら、昔と変わらないだろうがな。…シャングリラの頃と。



 客船にしても、輸送船にしても、大勢の人の命を預かる宇宙船。外は真空の宇宙空間だから。
 いくら乗客がミュウばかりでも、宇宙はやはり危険な場所。咄嗟にシールドを張れなかったら、命を落としかねない所。
 そんな宇宙を飛んでゆく船は、車みたいに鍵一つでは動かせない。
 キーを差し込んだだけでエンジンが始動したりはしなくて、多分、昔と同じなのだろう。技術が進歩している分だけ、手順が多少変わっていても。
 宙港を離陸してゆく前には、何人もが自分の担当する部分の安全やデータを確認する。そのまま離陸してもいいのか、前の段階に戻って整備すべきかなどを。
 それが済んだら、ようやく発進できる船。乗客を乗せて、遥か宇宙へと。
「前の俺の頃と大して変わってないのが、宇宙船の方の鍵ってヤツだが…」
 車みたいに、キーを使えばいいってわけにはいかないんだが…。行き先は宇宙なんだから。
 しかし、個人の家とかだったら、レトロな鍵で足りるってこった。
 合鍵を作ろうと思った時には、店に出掛けて頼んだらポンと出来ちまうような。
 ゼルやヒルマンにも無理だったのにな…、とハーレイは可笑しそうな顔。シャングリラで一番の技術力を自慢していたゼルと、博識だったヒルマンと。
 白いシャングリラを設計したような二人がやっても、青の間の合鍵は作れなかった、と。それにキャプテンの部屋の合鍵も、他の仲間たちの部屋や、倉庫なんかの合鍵も。
「面白いよね、今だと簡単なんだけど…。家の鍵でも、学校の鍵でも、直ぐに出来ちゃう」
 せっかく簡単に作れるんだし、ぼくも欲しいよ。ハーレイの家の鍵の合鍵。
 お守りに作って欲しいんだけどな、ホントに一番安い合鍵でかまわないから。
「今は駄目だと言ったがな? チビのお前には早すぎると」
 前のお前と同じくらいに大きくなったら、作ってやる。俺が留守でも、入れるように。
 お前、金色のが欲しいのか?
 アクセサリーが好きなタイプだとは思えないんだが、どうやら憧れらしいしな?
 首から下げて自慢したいのなら、そういうヤツを作ってやるが。
 金色の鍵を作る値段も、そんなに高くはないだろう。本物の金じゃないんだから。
「うーん…?」
 首から下げておくんだったら、金色の方がいいのかな…。銀色の鍵でも、お洒落なのかも…。



 バスで見掛けた女性の鍵は、金色の鍵。アクセサリーか、合鍵なのかは謎だった鍵。
 自分が貰うのは合鍵なのだし、アクセサリーらしく金色にするか、銀色の鍵でもお洒落なのか。服によっては金よりも銀で、自分の髪の色も銀色。
(…金色の合鍵を作って貰うか、銀色でいいか…)
 どっちだろう、と考えたけれど、合鍵を貰える頃になったら、自分は大きく育っている。堂々とハーレイの家に出掛けて、合鍵を使って入れるほどに。
 そういう姿に育ったのなら、結婚の日も遠くない。婚約しているかもしれない。
(結婚したら、大抵の時は、ハーレイと一緒にいるんだろうし…)
 ハーレイが仕事に行っている間に、何処かに行くなら、合鍵で扉を閉めてゆく。それが普通で、当たり前の日々。戻った時には、合鍵で扉を開けて入って。
 その頃にはもう、珍しくもないものが合鍵。失くさないよう気を付けるだけで、宝物だとまでは思わないだろう。「自分の家の鍵」なのだから。
 そうなる前の、結婚までの短い間だけなら、合鍵を仕舞っておく場所は…。
(ポケットの中とかでもいいのかな?)
 いつも首から下げておかなくても、使う時だけ出してくるとか。「留守なんだ…」とポケットを探って、頼もしい合鍵で扉を開けてやるために。
 でも…。
(やっぱり、首から下げておくのも…)
 幸せだろうし、迷ってしまう。
 どういう合鍵を貰うのがいいか。金色の鍵か、銀色の鍵か、どちらが自分に似合うだろうかと。
「ねえ、ハーレイ…。ぼくが首から下げるんだったら、どっちの鍵が似合いそう?」
 金色の鍵か、銀色の方か。…ぼくの髪の毛、銀色なんだし、銀色なのかな…?
 だけど金色の鍵も素敵だったし、似合わなくても金色の鍵にした方がいいかもしれないし…。
「お前に似合いの鍵の色ってか? 俺のセンスに期待しないで、今の間に悩んでおけ」
 いつも着ている服の色とか、そういったこともよく考えて。
 金がいいのか、銀がいいのか、鏡の前でも悩むんだな。俺はお前の注文通りに作ってやるから。
 しかし、お前のことだしなあ…。明日には忘れていそうだが。合鍵のことは、すっかり全部。
「酷いよ、ハーレイ!」
 ぼくは真剣に悩んでいるのに、忘れそうだなんて…。酷いよ、ホントに酷すぎるってば!



 あんまりだよ、と文句を言ったけれども、きっと本当に忘れるのだろう。
 下手をしたなら、まだハーレイが家にいる内に。母が「夕食よ」と呼びに来るよりも前に。
(…ホントに、今日中に忘れちゃいそう…)
 ハーレイが「またな」と帰る頃には、頭から消えていそうな合鍵。金色の鍵も、銀色の鍵も。
 けれど、いつかは貰える合鍵。
 ハーレイが留守にしていた時には、入って待っていられるように。玄関の扉をそれで開いて。
 平和になった今の時代は、鍵一つだけで何処でも入れる。
 学校だろうと、ハーレイが暮らしている家だろうと、何処だって、合鍵がありさえすれば。
 そういう素敵な合鍵を一個、ハーレイにプレゼントして貰おう。
 学校だとか、柔道部の部室の鍵は要らないけれども、ハーレイの家の合鍵を一つ。
 「これで入れる」と貰えた時には、きっと嬉しい。金色だろうと、銀色だろうと、もう最高に。
 鎖を通して首から下げたり、握り締めたり、枕の下にも入れそうな感じ。眠る時には。
(早く欲しいな…)
 ハーレイの家に入れる合鍵、と未来の自分の姿を夢見る。
 出掛けて行ったら留守だった時も、鍵を開けてハーレイの家に入って、中でのんびり。
 お気に入りの椅子に座って本を読んだり、ダイニングのテーブルでお茶を飲んだり。
 時には料理も出来たらいい。
 ハーレイが好きな、「おふくろの味」のパウンドケーキを焼いたりも。
(勝手に入って、キッチンでお料理…)
 お菓子作りもしたっていい。冷蔵庫とかの中身を勝手に出してしまって、使ったりして。
 そのために合鍵があるのだから。
 ハーレイの留守に家に入って、ハーレイを待つための幸せな道具が合鍵だから。
 出来上がった料理が焦げていたって、パウンドケーキが下手くそだって、かまわない。
 家に帰ったハーレイはきっと、笑顔で食べてくれるから。
 「お前がいるとは思わなかったな」と、「美味いの、作ってくれたんだよな?」と…。



              欲しい合鍵・了


※ハーレイの家の合鍵が欲しくなったブルー。持っているだけで幸せ気分になれるお守り。
 断られてしまったわけですけれど、いつか貰える日が来るのです。何色の鍵になるか楽しみ。
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(重たそうな荷物…)
 ドッサリだよね、とブルーが眺めた若い女性。学校からの帰りに乗り込んだバスで。
 先から乗っていた女性だけれども、彼女が座った座席の横の床。其処に置かれている荷物。膝の上にあるバッグとは別に、それは重そうな荷物が一つ。
(ワインの瓶まで入ってる…)
 蓋が無いタイプの買い物袋で、溢れるほどにギッシリ詰まった中身。ワインの瓶も覗いている。町の中心部の食料品店まで行って来たのだろう。珍しい食材も豊富に揃った、大きな店へ。
(あれだけ重たい荷物だと…)
 サイオンを使って持っていたって、マナー違反とは言われない。
 誰もがミュウになった時代は、「人間らしく」が社会のマナーでルール。出来るだけサイオンは使わないのが、一人前の大人というもの。本当に困ってしまった時や、必要な時を除いては。
 手に余る重さの荷物を持つなら、サイオンを使ってもかまわない。サイオンも「力」の一つではある。筋肉の力ではないというだけで。
 それを使って「重い荷物」を軽々と運んでいたとしたって、皆、温かく見守るだけ。落とさずに頑張って運べるようにと、心の中で応援しながら。
 あの女性だって、きっとそうしたのだろう。買った荷物をそうやって持って、バスに乗り込んで家に帰る途中。今は荷物は床の上だし、持つ必要は無いのだけれど。
(ぼくだと、サイオン、無理なんだけどね…)
 どんなに重い荷物であろうと、腕の力だけで持つしかない。不器用すぎる今の自分のサイオン、使いたくても使えない力。「これを持ちたい」と考えたって。
(いいな…)
 ああいう荷物を、サイオンで軽く持ち上げること。それが出来たら、と願ってしまう。
 そうする間に、女性は降車ボタンを押した。次のバス停で降りるために。
 バスが停まったら、バッグを持つのとは違う方の手で、床の買い物袋を持った。腰掛けていた席から立ち上がりながら。
(やっぱりサイオン…)
 軽そうにスッと持ち上げたから、間違いない。サイオンで支えて軽くした荷物。空気みたいに。
 なのに…。



(えっ?)
 羨ましいな、と眺めた女性の足がよろけた。降りるために、お金を払った所で。
 いきなり、重たくなったらしい荷物。あの重そうな買い物袋に、引き摺られるようにバランスが崩れてしまった身体。一瞬だけれど。
(…失敗したの?)
 もうサイオンでは支えていない買い物袋。とても重そうに提げている女性。よろけていなくても見ただけで分かる、「荷物が重い」という事実。さっきは軽く持ち上げたのに。
(サイオンで上手く支えられないんだ…)
 集中していれば出来るけれども、何かのはずみで駄目になる人。「お金を払おう」と意識が別の方へと向いた途端に、サイオンが使えなくなったのだろう。それで慌てて、元には戻せないまま。
(ホントに重そう…)
 ぼくみたいに不器用な人なんだろうか、と降りてゆく女性を見送っていたら…。
(あ…!)
 降りた先のバス停にいた、若い男性。彼が女性の大きな荷物に手を伸ばした。ごくごく自然に、「ぼくが持つよ」という風に。
(持ってあげるんだ!)
 恋人だったら当然だよね、と思った荷物。あれほど重い荷物なのだし、おまけに女性は不器用でサイオンを上手く扱えない。此処は恋人の出番だろう。
 けれど女性は、重そうな買い物袋の持ち手の片方しか…。
(渡してない…)
 もう片方は女性の手の中、男性と二人で買い物袋を持つ形になった。半分ずつ、というように。
 男性と女性と、一緒に仲良く提げてゆく荷物。ワインの瓶まで入った袋。
 サイオンはもう使っていないのか、ズシリと重たそうなのを。
 それでも二人で笑い合いながら、それは楽しそうに、足取りも軽く。
(んーと…?)
 どうしてサイオンを使わないの、と思っている間にバスが動き出して、遠ざかっていった二人の姿。重たい荷物を、分け合うように持ったまま。
 二人で一つの買い物袋を、半分ずつ提げて重さを分かち合いながら。



 サイオンを使わなかったカップル。女性の方も、本当は上手くサイオンを扱えるのに違いない。バスを降りるまでは軽々と荷物を持っていたのだし、降りる時に使うのをやめただけ。
(うんと軽そうに持っていたんじゃ、荷物は持って貰えないかも…)
 それに二人で提げることにしても、幸せが減るのかもしれない。空気のように軽い荷物を二人で持っても、「半分ずつ」という気がしないだろうから。
 きっとそうだ、と思ったけれども、それよりも前に、あの大荷物。ワインの瓶まで入った袋。
 あれほどの買い物をして来ることを、男性が知っていたのなら…。
(迎えに行ってあげればいいのにね?)
 バスで来させずに車を出すとか、買い物に一緒に出掛けるだとか。
 そうしていたなら、女性は荷物を持たないで済む。車だったら乗せておくだけ。二人で買い物に出掛けたのなら、男性が持つとか、最初から二人で持つだとか。
 そっちの方が、と考えたけれど。女性に重たい荷物を持たせた、男性が悪く思えたけれど。
 仲が良さそうなカップルだったし、もしかしたら…。
(あの女の人、買い物のことは話してなくて…)
 男性の家に招かれただけで、待ち合わせ場所がバス停だったかもしれない。到着時間を知らせておいたら、男性が其処に来てくれるから。
 せっかく家に行くのだから、と女性が用意して来た食材。ワインまで買って。
(家に着いたらお料理を作って、二人でパーティー?)
 それとも友達も招くのだろうか。買い物袋に詰まっていたのが全部食材なら、二人で食べるには多すぎるから。もっと大勢、人がいないと食べ切れない。
(内輪の婚約パーティーとか…?)
 其処まで大袈裟なものではなくても、友達を呼んで「結婚を決めた」と披露するだとか。
(そうなのかもね?)
 男性の方は、ケータリングでも頼むつもりでいたかもしれない。気軽に頼める店も多いし、家で料理をするよりもずっと楽だから。
 けれど、手料理の方がいい、と女性が考えてサプライズ。
 「作るから」とも、「食材も用意していくから」とも伝えないまま、一人で買い物。重たすぎる荷物を一人で運んで、あの路線バスに乗り込んで。



 そうだったのかも、と合点がいった。女性が一人で大荷物なのも、サプライズの内。男性の方はビックリしたろう、「その荷物は何?」と。
 一目で分かることだけど。ワインの瓶まで覗いているから、「食材なんだ」と。
 女性が料理を作ろうと思って買って来たことも、それが「内緒の計画」だったということも。
(そんなのも素敵…)
 待っている恋人を驚かせたくて、重たい荷物を提げていた女性。サイオンで軽く持てる筈のを、降りる時には「腕の力だけで」提げる形に切り替えたのも。
(ビックリして貰って、喜んで貰えて、荷物も二人で一緒に提げて…)
 きっと幸せに違いない。どんなに荷物が重くったって。
 そう思っている間に、着いた自分が降りるバス停。さっきの女性と同じに降車ボタンを押して、席から立ち上がったのだけど。バスのステップも降りたけれども…。
 降りる途中で、描いた夢。
 もしも自分が重たい荷物を、ドッサリと持っているのなら…。
(ハーレイがいたらいいのにね?)
 降りようとしている、このバス停に。今、足がついた、この場所に。
 にこやかな笑顔で、「持ってやろう」と手を差し伸べてくれるハーレイ。「重そうだから」と、「俺に寄越せ」と。
 本当にハーレイが立っていたなら、「持つぞ」と言ってくれたなら…。
(それを断って、二人で荷物…)
 仲良く提げて行くのがいいよ、と思うけれども、自分の荷物は通学鞄。中身はせいぜい教科書やノート、ワインの瓶なんかは入らない。重くなっても、たかが知れている鞄の重さ。
 それに通学鞄というのは、生徒が一人で提げてゆくもの。学校に出掛けてゆく時に。そのために作られた鞄なのだし、一人で持つように出来ている。形そのものが。
 鞄の重さも問題だけれど、形の方も大いに問題。ハーレイと二人では提げられない。
(…まだ早いってこと?)
 結婚できるくらいの年にならないと、ああいう風にして重たい荷物を提げるのは。
 恋人と重さを分かち合うのは、二人で一つの荷物を持って歩くには。
 やってみたいと思ってみたって、自分がバスから提げて降りる荷物は、通学鞄なのだから。



(あんなの、いいな…)
 重い荷物を持ってたカップル、と家に帰っても思い出す。おやつの後で、自分の部屋で。
 勉強机に頬杖をついて、あのカップルの姿を頭に描く。仲が良さそうだった二人は、今頃は何をしているのかと。
 男性の家に着いたら、多分、一休みしただろう。お茶を飲んだり、お菓子をつまんだりして。
 買い物をして来た女性がホッと一息入れた後には、重そうだった荷物の中身の出番。中から色々出て来た食材、それで女性が料理を始めていそうな時間。
 野菜を刻んだり、皮を剥いたり、肉に下味をつけたりして。パーティーの時間に、丁度美味しく出来上がるように、あれやこれやと。
(男の人も手伝うのかも…)
 女性が「私が勝手に決めたことだし、一人でやるわ」と言ったって。
 「ぼくもやるよ」と出来る範囲で、二人一緒にキッチンに立って。腕に覚えがある人だったら、役割分担。「これはぼくが」と、「こっちは君が」と、キッチンでの作業を割り振って。
 料理が下手なら、お皿の用意をするだとか。「その料理に合いそうなお皿は、どれだろう?」と女性の意見を聞いては、使いやすいように並べていって。
 料理が出来たら、お客を迎えてパーティーの始まり。
 重たそうだった袋から覗いていたワイン、あれの封を切って。みんなで賑やかに乾杯して。
(ぼくが、ああいうのをやるんなら…)
 ハーレイの家に行くことになる。
 何ブロックも離れた所で、何も持たずに訪ねてゆくにも、路線バスのお世話にならないと無理。
 ハーレイだったら、時間がたっぷりある休日なら楽々と歩いて来るけれど。…天気が良ければ、軽い運動と散歩を兼ねて。時には回り道までして。
(…ぼくは歩けないし、ただ行くだけでもバスなんだから…)
 バス停に着く時間を知らせておいたら、ハーレイは待っていてくれるだろう。帰りに見掛けた、重い荷物の女性を待っていた男性のように。バス停に立って、「もうすぐだよな」と。
 そのハーレイを驚かせるには、約束の時間よりもずっと早くに家を出る。
 ハーレイの家の近くのバス停、其処へと向かうバスに乗らずに、違う方へと行くバスに乗りに。
 いつものバス停からバスに乗っかって、まずは街まで出掛けて行って…。



 さっきの女性も行ったのだろう、街の大きな食料品店。珍しい食材も沢山揃ったお店に入る。
 ズラリと並んだ食料品の棚。新鮮な野菜や肉のコーナー、瓶詰や缶詰なども一杯。二階にだって棚が山ほど、揃わないものなど無さそうな店。
 どんな食材の名前を挙げても、「それでしたら…」と案内される棚。そういう店で買い物から。
(ぼくは飲めないけど、ワインも買わなきゃ…)
 ハーレイはお酒が大好きなのだし、ワインの瓶は欠かせない。赤ワインにしても、白ワインとかロゼワインでも。…ワインには詳しくないけれど。
(このお料理なら、どれが合いますか、って…)
 店で訊いたら、きっと教えて貰える筈。予算に合わせて、「このワインなど如何ですか?」と、棚から瓶を取り出してくれて。
 ワインの瓶は重たいけれども、店の籠に入れて貰って提げる。サイオンで支えられはしないし、自分の腕の力だけで。ガラスのボトルと、中に詰まったワインの重みが凄くても。
(ワインの瓶には負けないんだから…)
 目当ての食材も、メモを見ながら買い込んでゆく。作ろうと思う料理の分だけ、肉や魚や野菜などを。予算の範囲で、けれど出来るだけ上等なのを。
(婚約披露のパーティーとかじゃなくっても…)
 お客は誰も招いていなくて、ハーレイと二人きりの食卓でも、食材はきっとドッサリ山ほど。
 身体が大きいハーレイは普段から沢山食べるし、かなりの量を用意しなくては。それに数だって多いほど喜んで貰えそう。大皿に盛った料理が一つだけより、二つも、三つも。
(お料理が幾つも並んでいたら、それだけで嬉しくなるもんね?)
 食が細い自分でも、色々な料理があれば嬉しい。どれから食べようか、どういう味かと、並んだ料理を目にしただけで心が躍る。「食べ切れるかな?」と少し心配でも。
 だから沢山食べるハーレイには、料理の数も多いほどいいに違いない。「こんなにあるのか」と目移りするほど、色々な料理を作って並べて。
(それだけのお料理を、ハーレイが満腹するほど作るなら…)
 籠の重さは、とんでもないことになるだろう。
 食材だけでも重いというのに、選んで貰ったワインの瓶まで入った籠。会計のためにレジに行くにも、よろめきながらになるのだろうか。「この籠、ホントに重いんだけど…!」と。



 会計が済んだら、もう後戻りは出来ない荷物。それがどんなに重くても。食料品店の人が詰めてくれた中身が、腕が痺れるほどの量でも。
(普通の人なら、そこでサイオン…)
 バスの中で女性がやっていたように、重たい荷物もサイオンで支えてヒョイと提げてゆく。凄い重さをものともしないで、楽々と店の扉の外へ。
 けれど不器用な自分の場合は、そうはいかない。レジの人が「重いですよ?」と声を掛けながら渡す袋は、もう本当に「重い」もの。「ありがとうございます」と受け取ったって、サイオンでは支えられないから。
(…レジの人たち、「大丈夫かな」って見送っていそう…)
 重たすぎる袋にヨロヨロしながら、店を出て行く客の姿を。「サイオンは使わないのかな?」と不思議がったり、「使わない主義の人なのかな?」と感心しつつも、危なっかしいと思ったり。
 なにしろ荷物を落としてしまえば、ワインの瓶が割れそうだから。ワインの他にも瓶詰だとか、脆い食材が詰まっているかもしれないから。
(卵だって、落っことしたらメチャメチャ…)
 使いたい数の卵が無事でも、割れてしまったらやっぱり悲しい。割れた卵で、予定外のお菓子や料理なんかを作るにしても。
 そうならないよう、頑張るしかない。ワインの瓶も、瓶詰も、卵も割らないように。重たすぎる荷物をしっかりと持って、バス停のある所まで。
(バス停の椅子が、空いていたならいいけれど…)
 運悪くどれも塞がっていたら、重たい荷物を提げたまま。人が少なければ、バス停の所で足元に置いてもいいのだけれども、人が多かったらそれも無理。他の人たちの邪魔になるから。
(大きな荷物は、立つ場所を塞いじゃうもんね?)
 提げたり、抱えたりするのがマナーで、普通の人なら、サイオンの出番。軽々と支えて、バスが来るのを待てばいいだけ。荷物には指の一本だけでも添えて。
(…それが出来たら、苦労しないよ…)
 バス停までの道でよろけはしないし、必死の思いで重い袋を提げてもいない。泣きそうな気分になりもしないし、「バスはまだかな?」と何度も伸び上がるだけ。
 「まだ来ないかな」と時刻表を見ては、バスが走って来る方向を。



 ところが、そうはいかない自分。タイプ・ブルーとは名前ばかりで、サイオンの扱いはとことん不器用。思念波さえもろくに紡げないのだし、荷物をサイオンで支えるのは無理。
(誰も気付いてくれないよね?)
 サイオンで荷物を支えられないから、ヨロヨロと立っているなんて。
 ワインの瓶まで詰まった袋を、腕の力だけで提げているなんて。
(そういう主義の人なんだ、って思われちゃって…)
 誰も声など掛けてはくれない。椅子に座った人が「持ちましょうか?」と言ってくれるだとか、隣に立っている人が「重そうですね」と力を貸してくれるとか。
 とても小さな子供だったら、「あら、お使い?」と持ってくれる人もいるのだろうに。赤ん坊を抱いたお母さんでも、空いた方の手を貸してくれるだろうに。…サイオンを使えば簡単だから。
(だけど、ぼくだと…)
 チビの姿の今でさえ、きっと、「腕の筋肉を鍛えているのか」と勘違いされておしまいだろう。
 ひ弱そうに見える子供だけれども、スポーツでもやっているのだろうと。
(今でもそうだし、ハーレイの家に行くような頃のぼくだったら…)
 前の自分とそっくり同じ姿に育って、見た目はすっかり一人前。サイオンを上手く扱えないとは誰も思わないし、「使わない理由があるんだな」と眺めるだけ。「重そうなのに、大変だ」と。
 誰一人助けてくれないのだから、バスに乗るだけでも一苦労。
 バス停で待って、やっとバスが来て、乗り込む時にも提げてゆく荷物。とても重いのに。
(うんと重たいのを、バスの中まで引っ張り上げて…)
 ようやくのことで乗った車内に、空いた座席はあるのだろうか。ハーレイの家に行く途中だし、きっと世間の人も休日。土曜日だとか、日曜日だとか。
(お休みの日には、空いてる路線も多いけど…)
 それとは逆に混むバスもある。平日の昼間は空いていたって、休日の昼間はギュウギュウ詰め。もしもそういう路線だったら、バスの中でも荷物を提げているしかない。
(空いてる席が一つも無いなら、座れないし…)
 今日の女性がやっていたように、座席の脇の床にも置けない。車内が人で一杯だったら、荷物を置くと邪魔になる。邪魔にならなくても、誰かの足が当たったら…。
(ワインの瓶とかは大丈夫でも、卵は割れちゃう…)
 それが嫌なら、自分で提げているしかない。腕が痺れても、卵が壊れてしまわないように。



 考えただけでも大変そうな、ハーレイの家に出掛けるまでの道のり。
 ハーレイの家だけを目指すのだったら、約束の時間に間に合うバスに乗るだけなのに。ゆっくりのんびり支度をしてから、「そろそろだよね」とバス停に行って。
(でも、ハーレイを喜ばせようと思ったら…)
 先に街まで出掛けて買い出し、それも自分には重すぎる量の食料品だのワインだのを。
 店で買う間も「重いんだけど…」と籠を提げて歩いて、店を出た後はもっと大変。運が悪いと、ハーレイと待ち合わせているバス停に着くまで、重たい荷物を提げ続けるしかないのだから。
 そうは思っても、今日のカップルがあまりに幸せそうだったから…。
 あんな風に自分もやってみたいから、頑張るだけの価値はあるだろう。ハーレイの家に出掛ける前に、街の食料品店へ。食材を買って、作りたい料理に似合うワインも買い込んで。
(物凄く重たい袋になっても、頑張って提げて、バスに乗っかって…)
 ハーレイの家の近所のバス停に着く。
 約束の時間に、よろめきながら重たい荷物を手にして、バスのステップを降りて。
 そんな姿で、自分がバスから降りて来たなら…。
(ハーレイ、きっとビックリして…)
 大慌てで荷物を持とうとしてくれるだろう。
 帰りに見掛けた男性みたいに、「俺に寄越せ」と手を伸ばして。あの褐色の腕を差し出して。
 柔道と水泳で鍛えた逞しい腕は、重い荷物も楽々と持てるだろうけれど。「指でも持てるぞ」と言いかねないのがハーレイだけれど、其処で荷物を渡しはしない。
 渡してしまったら、ハーレイに内緒で買い出しに行った意味が無くなるから。
 ヨロヨロしながら其処まで運んで、頑張った意味も、消えて無くなる。
(ハーレイに持って貰うんだったら、一緒に買い出しに出掛けてるってば…)
 こういう料理を作りたいから、と頼んで車を出して貰って。
 あるいは二人で路線バスに乗って、街の大きな食料品店まで。
 そうしなかったのは、ハーレイをビックリさせたいからでもあるけれど…。
(重たい荷物を、半分ずつ…)
 二人で分けて持ちたいから。
 ハーレイに持ち手の片方を渡して、もう片方は自分が持つ。二人で一つの荷物を提げに。



 そうしたいのだし、ハーレイが手を伸ばして来たって、「いいよ」と断る。
 「だけど、半分だけお願い」と荷物の持ち手を片方だけ。「ハーレイが持つのは、こっち側」と二つある持ち手の片方を託す。ハーレイの、褐色の逞しい手に。
 そうして持ったら、半分になる荷物の重さ。半分だったら、きっとよろけもしなくて…。
(ハーレイとお喋りしながら楽しく歩いて、家に着くんだよ)
 素敵だよね、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来たから、いつものテーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。いつか荷物を持ってくれる?」
 ぼくが重そうな荷物を持っていたなら、ハーレイ、半分、持ってくれない…?
 全部じゃなくって、半分だけ。…半分だけ持って欲しいんだけど…。
「はあ? 半分って…。どういう意味だ?」
 お前の荷物を持つんだったら、お安い御用というヤツで…。重くなくても、引き受けてやるが?
 ついでに重たい荷物にしたって、お前が持てる程度のヤツなら、俺にとっては軽いモンだな。
 半分と言わず、全部纏めて寄越しちまっていいんだが…。俺にわざわざ断らなくても。
 お前が「お願い」と言い出す前から、俺が横から奪ってそうだが?
 恋人に重たい荷物を持たせるような馬鹿はいないぞ、とハーレイは余裕たっぷりだけれど。重い荷物を持っていたなら、ヒョイと取り上げてしまいそうだけど…。
「ううん、全部じゃ駄目なんだよ」
 半分だけっていうのが幸せ。…ぼくとハーレイと、二人で持つのが。
 ぼくが持つ分、半分になっても重たくてもね。ぼくはサイオンで持つのは無理だし、もう本当に重くっても。
 …でも、それまでは一人で持ってたんだし、半分になったら、きっと楽だよ。
 今日の帰りに、そういう人を見掛けたから…。
 ぼくと違って、ちゃんとサイオンが使える女の人だったけど…。
 凄く重そうな荷物だよね、って見ていた時には、サイオンで楽に持ち上げたんだけど…。
 バス停に着いて降りる時には、サイオン、使っていなかったんだよ。
 急によろけたから、ぼくと同じで不器用なのかと思ったら…。
 そうじゃなくって、サイオンを使わなかったのは、わざとらしくて…。そうなったのはね…。



 バス停で恋人が待っていたから、と話した帰り道の光景。二人で一つの荷物を提げて、楽しげに歩いていったカップル。
 ワインの瓶まで詰め込んだ袋、それを半分ずつ持って。サイオンは使わず、重たいままで。
 「あんな風に二人で歩きたいよ」と、「だから半分だけがいい」と。
「ハーレイが一人で持ってしまったら、荷物を二人で分けられないもの…」
 重さも半分ずつにしたいよ、ハーレイとぼくとで、半分こで。
 重たくっても半分がいい、と繰り返した。腕が痺れるほど重たい荷物を提げ続けた後でも、と。
「腕が痺れるほどって…。そんな荷物を提げ続けるって、いったいどういう状況なんだ?」
 お前は何をやらかすつもりだ、家から持って来るんじゃないのか、その荷物は?
 あのバスはそれほど混みはしないぞ、とハーレイが挙げる路線バス。それはハーレイの家へ直接向かう時のバスで、街へ出掛けた帰りに乗ってゆくバスではない。食料品店で買い出しを済ませた後に乗り込むだろうバスとは。
「えっとね…。ぼくが乗るバス、それじゃないから…」
 バスの路線は調べてないから、空いているのかもしれないけれど…。乗ってみたらね。
 でも、今のぼくは知らないわけだし、混んでいるかもしれないじゃない。…バス停だって。
 ハーレイの家に出掛ける前に、買い物をして行きたいんだよ。今日の女の人みたいに。
 バス停で待ってた男の人は、きっと知らなかったんだろうから…。買い物をして来ることを。
 知っていたなら一緒に行くでしょ、そんな重たい荷物を一人で持たせてないで。
 でも…。あのサプライズも素敵だろうと思うから…。
 ぼくも買い出し、と未来の計画を打ち明けた。実行できるのはずっと先だし、話してしまっても大丈夫。その日が「いつ」かは、自分にも分からないのだから。
「サプライズって…。それで食料品店に行くってか?」
 俺と待ち合わせた時間よりも早くに出掛けて、街の方まで回って来て?
 食材を山ほど買い込んだ上に、ワインまで買って来るって言うのか、お前は酒は駄目なのに。
 ついでにバスが混んでいたなら、重たい荷物を提げっ放しで、座れもしなくて…。
 とんでもない目に遭いそうなのに、お前、街まで出掛けたいのか…?
「だって、サプライズっていうのは、そういうものでしょ?」
 ハーレイがうんとビックリしちゃって、喜んでくれるのが一番。荷物がとっても重たくっても。



 だから楽しみに待っていてね、と微笑んだ。そのサプライズは、ずっと未来のことだから。
「ぼくが学校に通っている間は、多分、無理だと思うから…。よっぽど運が良くないと」
 早い間にハーレイと婚約できていたなら、そういうのだって出来そうだけど…。
 今はチビだし、婚約どころじゃないものね。…サプライズはきっと何年も先になっちゃうから。
 でも頑張る、と右手をキュッと握った。
 前の生の最後にメギドで冷たく凍えた右手。ハーレイの温もりを失くした右の手。悲しい記憶を秘めた右手が、今度は凄い重さに耐える。左手も一緒に添えるけれども、重い荷物を持つために。
 山ほどの食材と、作りたい料理に似合うワインが入った袋を提げてゆくために。
「ふうむ…。俺を驚かせるために、買い出しに出掛けて行くってか…」
 そいつがお前の夢なのか?
 俺が待ってるバス停までに、重たい荷物で苦労したって。…サイオンで支えて持てはしなくて、バス停でも、バスの中でも座れないままで…。
 床とかに置けるチャンスも無くって、腕がすっかり痺れちまっても…?
 サプライズで提げて来ると言うのか、とハーレイが訊くから頷いた。
「そうだよ、あれをやってみたくて…。それに荷物を二人で持つっていうのもね」
 あのカップルは、とても幸せそうだったから…。
 見ていたぼくまで幸せになって、こんな夢まで見られるくらいに。半分ずつの荷物がいいとか、ハーレイの家に出掛ける前には、街まで買い出しに行こうとか…。
 いいと思うでしょ、ハーレイだって…?
 そのサプライズ、と鳶色の瞳を覗き込んだ。「ハーレイだって、嬉しくならない?」と。
「…それはまあ…。俺だって、お前と二人で荷物を持つのは、楽しそうだと思うんだが…」
 お前の夢の方はともかく、俺としてはだ…。
 そういった時は、俺がお前を迎えに出掛けて行くのがいいな。…バス停で待っているよりも。
 迎えに行くなら車の出番で、車を出したら、もちろん街での買い出しもだ…。
 お前と一緒にしたいと思うわけなんだが?
 バス停で待つよりそっちがいいな、とハーレイが言うから驚いた。自分の夢とは逆様だから。
「…そうなの?」
 ハーレイは迎えに来る方がいいわけ、バス停で待っているよりも…?
 買い出しもぼくと一緒に行くって、本当にそんなのがいいの…?



 それじゃサプライズにならないじゃない、と首を傾げた。楽しさが半減しそうだから。
「ぼくと一緒に出掛けて行ったら、何を作るのか分かってしまうよ…?」
 メモを見ながら籠にどんどん入れてる間は、分からないかもしれないけれど…。
 ワインを買ったらバレてしまうよ、ぼくはワインの選び方なんか分からないんだもの。…お店の人に訊くしかないでしょ、「このお料理に合うのは、どれなんですか?」って。
 ハーレイも横で聞いていたなら、おしまいじゃない…!
 ぼくが作りたいお料理がバレちゃう、と肩を竦めた。食材だけでは謎のままでも、ワイン選びで料理の名前がバレるのだから。
「バレるって…。そんなに必死に隠さなくても、食材を選ぶ所から一緒がいいと思わんか?」
 こういう料理を作るんだから、と言ってくれれば、俺だって食材を選んでやれる。
 同じ野菜を買うんだったら、こっちの方がお勧めだとか。…肉なら、これが美味そうだとか。
 サプライズも悪くはないんだがなあ、共同作業も楽しいもんだぞ?
 食材選びから二人でやって、料理も一緒に作るってヤツ。…俺がお前を手伝って。
 それに第一、お前の腕ってヤツがだな…。
 お前、サプライズで見事に料理が出来るのか…?
 俺の舌を唸らせるほどの美味い料理が、と尋ねられたら自信が無い。今のハーレイの料理の腕はなかなかのもの。プロ顔負けとも言えそうなほどに。
(前に財布を忘れた時に…)
 昼食代を借りに行ったら、「丁度良かった」と、ハーレイのお弁当を分けて貰えた。
 他の先生たちは留守だから、とハーレイが作って来た特製弁当。「クラシックスタイルだぞ」と自慢していた、二段重ねの本格的な和食のもの。
(あんなのも作っちゃうんだし…)
 パウンドケーキも焼けるハーレイ。
 「どうしても、俺のおふくろの味には焼けないんだが」などと言ってはいても。
 それほどの料理の腕の持ち主、そのハーレイに「美味い」と喜んで貰える料理は、今の自分には作れない。少なくとも、今の段階では。
 料理は調理実習くらいしか経験が無くて、レシピを見ながらそれを再現出来たら上等。
 結婚が決まって母に教えて貰うにしたって、ハーレイほどの腕に上達するには時間が必要。



(…ママに習って、頑張ったって…)
 結婚式の日まではアッと言う間で、サプライズの日は、それまでの何処か。料理の腕は、大して上がっていないのだろう。今と全く変わらないままか、少しはマシという程度で。
「…ハーレイを感心させるお料理、難しいかも…」
 どれも上手に作れないとか、一つくらいしか上手く出来ないとか…。そうなっちゃいそう。
 ぼくは頑張ったつもりでいたって、ハーレイの方が、ずっとお料理、上手だから…。
 凄いお料理はきっと無理だよ、と項垂れた。本当にそうなるだろうから。
「ほらな。お前が一人で買いに出掛けて、重たい荷物を提げて来たって、その有様だ」
 そうなるよりかは、買い出しの時から一緒に出掛けて、食材も俺が選んだ方が確かだぞ?
 何を作りたいのか言ってくれれば、肉も魚も、野菜も選んでやれるから。
 食材選びも、日頃の経験ってヤツが大切で…。お前、目利きも出来ないだろうが。
 違うのか、と言われれば、そう。食材を買いに出掛けた経験はまるで無いから、どういう具合に選べばいいのか分かりはしない。魚だったら、魚としか。肉にしたって、豚や牛としか。
「そうだよね…。ぼくだと、ホントに分かってないから…」
 シチュー用とか、ステーキ用とか、そういう風に書いてあるのしか選べないかも…。
 ハーレイだったら、「この料理にはこれだ」って選べるんだろうけど。色々なのがお店に並んでいても。お勧めの魚が色々あっても。
 だからハーレイに任せておくのがいいんだろうけど、でも、荷物…。
 お店で沢山買った荷物を、ハーレイと二人で持ちたいんだよ。
 お料理に合うワインも選んで、うんと重たくなった荷物を。…レジで袋に詰めて貰ったら、凄い重さでよろけそうなのを。…普通の人なら、サイオンで支えて持つようなヤツを。
 それをハーレイと分けたいんだけど…。ぼくが半分、ハーレイが半分。
 ホントに二人で半分ずつ、と頼み込んだ。それでいいなら、買い出しも一緒に行くから、と。
「おいおいおい…。荷物を二人で持つんだったら、買い出しも俺と一緒でいいって…」
 お前ってヤツは、サプライズで料理をするよりも前に、其処がいいのか?
 俺に内緒で買い出しに行って、重たい荷物を提げて来ようって理由はそれか…?
 美味い料理で驚かせるより、凄い荷物で俺の度肝を抜くのか、バスからヨロヨロ降りて来て…?
 「半分持って」と頼むためにだけ、その大荷物を抱えてやって来るってか…?



 なんてヤツだ、とハーレイは呆れているけれど。「荷物なのか?」と目まで丸いけれども…。
「ぼくが最初に、羨ましいな、って思った時には、荷物を持ってただけだったしね…」
 あのカップルは、二人で一つの荷物を持っていただけ。話の中身も聞こえなかったし…。
 重たそうな荷物を持ってた理由は何だったのかな、っていうのは、後から考えたこと。
 バスが走り出してからと、家に帰ってからとで、本当のことは謎なんだけど…。
 でも、ハーレイだって、ぼくの想像、間違っていないと思うでしょ?
「まあ…。当たりだろうな、お前が色々考えてるヤツで」
 きっと今頃は、パーティーの用意で大忙しって所だろう。二人で料理か、女性の腕の見せ所かは知らんがな。…こればっかりは、現場を見ないと分からんことだ。知り合いでなけりゃ。
 それでお前は、あれこれ想像している間に、色々とやりたくなっちまった、と。
 荷物を二人で持つだけじゃなくて、買い出しに出掛けてサプライズだとか。
 しかし、お前は料理の経験は少ないわけだし、腕を磨けるチャンスの方も無さそうだしな…?
 料理は俺に任せておいてだ、荷物だけ、お前も持ってみるか?
 お前の憧れの山ほどの荷物は、俺が選んで買ってやるから。食材も。それにワインの方も。
 それでどうだ、とハーレイが訊くから、「いいの?」と瞳を瞬かせた。食材選びも、料理に合うワインを選ぶのも全部、ハーレイだなんて。…自分は荷物を持つだけだなんて。
「そんなのでいいの、ぼくは荷物を持つだけなんて…?」
 半分だけ持ってみたいから、って我儘を言ってるだけだよ、それじゃ…?
「我儘も何も、美味い料理の方がいいだろ? 同じ食うなら」
 お前が悪戦苦闘するより、経験者の俺に任せておけ。うんと美味いのを食わせてやるから。
 前の俺は厨房出身だったし、今の俺も料理は好きだしな?
 お前は買い出しの荷物だけ持ってくれればいい、と言われたけれど…。
「ハーレイがお料理するんだったら、手伝いたいな。…料理をするのは無理そうだけど」
 前のぼくだって、ハーレイが厨房にいた頃だったら、タマネギを刻んだりしていたよ?
 ジャガイモの皮も剥いてたんだし、今でも少しは手伝えると思う。
 調理実習でやったこととか、簡単なことしか出来ないけれど…。でも…。
 何もやらないより、ずっとマシだと思うから…。
 買い出しを二人でやった時には、ぼくもハーレイのお手伝い…。駄目…?



 迷惑をかけたりしないから、と頼んでみた。「ぼくも手伝いたいんだけれど」と。
 ハーレイの邪魔にならない範囲で、お手伝い。タマネギを細かく刻んでみるとか、ジャガイモの皮を剥くだとか。
「ぼくがやったら焦げちゃいそうだし、お鍋とかには触らないから…。お手伝いだけ」
 包丁で怪我をしそうだったら、「駄目だ」って止めてくれればいいから。
「手伝いなあ…。そのくらいなら、いいだろう」
 同じ切るのでも、カボチャは任せられないが…。あれは固いし、お前だと怪我をしかねない。
 だから何でもいいわけじゃないが、やりたいことは俺に訊け。「やっていいか」と。
 大丈夫だな、と思った時には任せるから。
 お前のペースでやればいいさ、とハーレイは笑顔で許してくれた。俺は急かしはしないから、と「落ち着いてゆっくりやるといい」と。
「ホント?」
 ハーレイがやるより時間がかかっても、いいって言うの?
 鮮度が命のお魚とかだと、ぼくのペースじゃ駄目なんだけど…。
「安心しろ。その辺のことも、ちゃんと考えて任せることにするから。…お前の分の作業はな」
 お前が楽しんでするんだったら、止める理由は無いんだし…。
 重たい荷物を持ちたがるのも、俺は「駄目だ」と止めにかかってはいないんだから。
 ただし荷物は半分だけだぞ、サプライズとやらで全部を一人で買って来るなよ?
 俺が一緒に買いに出掛けて、最初から半分ずつだからな、と念を押された。一人で重たい荷物を持つなと、「サプライズよりは、二人で料理だ」と。
 料理と言っても、ハーレイが料理をするのだけれど。自分は手伝うだけなのだけれど。
「ありがとう、ハーレイ!」
 最初から半分ずつの荷物でも、二人で持てたら幸せだから…。
 お料理だって、ハーレイがやってるのを横で手伝えたら、それだけでぼくは充分だから…!



 ハーレイが「一緒に行こうな」と約束してくれたから、いつか二人で買い出しに行こう。
 街の大きな食料品店まで二人で出掛けて、山のように買って、重たい荷物を半分ずつ持とう。
 ワインの瓶まで入った袋の、持ち手を二人で片方ずつ。重さを二人で半分に分けて。
 家に着いたら、ハーレイがそれで料理を作る。「今日はこれだな」と、慣れた手つきで。
 そのハーレイを手伝いながら、色々なことを教えて貰おう。料理の他にも、様々なことを。
(お皿は其処とか、お鍋は此処とか…)
 そういう風に習って覚えて、ハーレイの家に慣れていったら…。
(結婚だよね?)
 待ち焦がれていた結婚の日がやって来るから、その頃には料理も覚えていたい。
 幾つも上手に作るのは無理でも、一つくらいは「美味いな」と言って貰えるものを。
 ハーレイに「美味い!」と褒めて貰えて、沢山食べて貰える何かを。
(何でも美味しいって言いそうだけど…)
 嬉しそうな顔で食べて貰える何かが作れたらいい。
 基本の中の基本みたいな料理でいいから、自信を持って作れる料理。
(ママが焼いてるパウンドケーキは、ハーレイのお母さんのとおんなじ味で…)
 おふくろの味だと聞いているから、あのケーキはマスターするつもり。
 そうは言っても、パウンドケーキだけが自慢のお嫁さんより、やっぱり得意な料理も持ちたい。
 「おかえりなさい!」とハーレイを迎えて、「今日はこれだよ」と披露できる何か。
 重たい荷物を提げて二人で買い出しをしたら、そういう料理も覚えられたらいい。
 今の腕ではまるで駄目でも、半分ずつの荷物を持てる時が来たなら…。



             半分ずつの荷物・了


※ブルーが見掛けた、荷物の重さを分かち合うカップル。将来、やってみたいと描いた夢。
 叶う時は来そうですけど、ハーレイに任せる部分が大きいかも。荷物の重さを分ける程度で。
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「水切りという遊びがあってだな…」
 知ってるか、と始まったハーレイの雑談。ブルーのクラスで、古典の時間に。
 生徒の集中力が切れて来た時、織り込まれるのが雑談の時間。居眠りしそうな生徒も起きるし、他の生徒も興味津々で耳を傾ける。
 今日の話題は「水切り」なるもの。ハーレイ曰く、調理用語の「水切り」とは全く違うらしい。
「俺が言うのは、石の水切りというヤツだ」
 水の上を石がピョンピョン跳ねて行くんだな、投げてやっただけで。
 普通はドボンと沈みそうだが、そうはならない。先へ先へと弾んで飛んでゆくわけで…。
 だが、サイオンは一切使わないんだ、この遊びには。
 それでも石は水の上を跳ねて飛んでゆく、と言うものだから。
「本当ですか?」
 何人もの生徒が上げた声。サイオン無しで、石が跳ねてゆくわけがない。水の上などを。
 石は水より重いものだし、水に投げたら沈むもの。それが常識、跳ね返ることは無いのだから。
「俺が嘘をつくと思うのか? お前たちを全員騙してやろう、と狙った時なら別だがな」
 しかし、その手の嘘の時には、後で本当のことを言ってる筈だぞ。「騙されたな」と。
 今日の話は嘘じゃない。石の水切りに、サイオンは一切要らないんだ。
 なんと言っても、ずっと昔からあった遊びだからなあ…。この地球の上に。
 人間が地球しか知らなかった時代で、ミュウなんかは何処にもいない頃から。…世界中でな。
 広い水面と石さえあれば出来た、という遊び。石の水切り。
 投げられた石が跳ねた回数を競って遊んだらしい。沈むまでに何度、弾んだのか。
「世界記録ともなれば、信じられないような数だったんだぞ」
 八十回くらいは跳ねたそうだ、と聞かされて皆が仰天した。水面に向かって投げられた石ころ、それが跳ねるだけでも驚きなのに、八十回など、凄すぎるから。
「八十回ですか?」
 誰もがポカンと口を開ける中、ハーレイは「嘘じゃないぞ?」と楽しそうな顔。
「今の時代だと、サイオンなんてヤツがあるから…。ちと厄介になっちまったが」
 昔みたいに世界記録は無理だろうなあ、実際、記録は破られてないし。
 そもそも、記録を取ろうってヤツが何処にもいないんだがな。



 SD体制の時代が挟まったせいじゃないぞ、とハーレイはクラスを見回した。
 機械が統治していた時代は、様々な文化が消された時代。世界記録を作って遊ぶ余裕も無かった時代だけれども、「石の水切り」の新しい記録が生まれない理由は、それではない、と。
「石の水切りは今でもある。遊んでるヤツも多いわけだが、時代は変わった」
 人間は誰でもミュウになったのが今の時代だ。みんながサイオンを持ってる時代。
 サイオンを使えば、石を水の上で跳ねさせるくらいは簡単だから…。千回だって可能だろう。
 そんな時代に、サイオンを使ったか、使わないかを正確に測定してまでは…。
 誰も記録を作らないよな、元々が遊びなんだから。…スポーツじゃなくて。
 そしてサイオンなんかがあるから、純粋に遊ぼうという人間の方も…。
 大昔ほどには数がいないというわけだ。サイオンでズルをしたくなっちまうし、本人にその気が無くてもだな…。
 もう少しだけ、と願えば石は跳ねちまうだろ?
 サイオンの力を受けちまって、というハーレイの説明は正しい。サイオンを使わないのが社会のマナーになってはいても、誰しも使いたくなるもの。何かのはずみに、少しくらいは。
 まして遊びに夢中になったら、無意識に使いもするだろう。水の上を跳ねて飛んでゆく石、その回数を競うのだったら「あと一回」と願ってしまう。石に向かって。
 そうすれば石は一回余計に弾んで、「もっと」と思えば幾らでも。
 サイオンを使った人間の方では、まるで自覚を持たなくても。「もっと飛べばいいのに」と願う気持ちだけで、石を眺めているつもりでも。
 サイオンがあるから、きちんと記録を作るとなったら「ただの遊び」では済まない時代。
 腕に覚えのある人を集めて、サイオンの測定をしながら競うことになる。其処までやって新しい記録を作らなくても、と誰もが考え、今は更新されない記録。水の上で石が跳ねた回数。
「スポーツだったら、世界記録にこだわるヤツらも多いんだが…」
 ただの遊びじゃ、どうにもならん。
 ついでに、石の水切り自体も、遊んでる内にサイオンが絡んでしまうから…。
 「使わないぞ」と自分を戒めながら遊ぶとなったら、それは遊びと呼べるんだか…。
 そんなわけでだ、このクラスだと、純粋に遊べそうなのは…。
 サイオンってヤツを気にもしないで、石を投げて気軽に楽しめるのはだな…。



 ハーレイが其処で言葉を切ったら、クラス中の生徒の視線が集中した。ブルーの上に。
(まだ名前、呼ばれていないのに…!)
 酷い、と思ったら挙げられた名前。「あそこのブルーだ」と。
 ドッと笑ったクラスメイトたち。確かにサイオンを気にもしないで、気軽に遊べそうだから。
 サイオンがとことん不器用なのは、周知の事実。クラスの誰もが知っていること。
(これでもタイプ・ブルーなのに…!)
 ちゃんと出席簿にも書かれている。生徒のサイオンタイプが何かは、何処の学校でも。
 最強のサイオンを誇るタイプ・ブルーは、前の自分が生きた頃ほど珍しくはない。あの時代には前の自分と、ジョミーと、ナスカの子供たちしかいなかったけれど。
 気が遠くなるほどの時が流れて、タイプ・ブルーもずいぶん増えた。そうは言っても、その数はけして多くない。現に、このクラスでも自分一人だけ。
 本当だったら、「タイプ・ブルーなんだって?」と羨ましがられて、尊敬されて、注目の的。
 空を飛べるのか、瞬間移動は出来るのかなどと、皆が「力」を知りたがる筈。
(こんな所で、笑われてなくて…)
 もっと凄くて、何でも出来て、と悔しいけれども、これが現実。
 ハーレイが名前を挙げる前から、皆がこっちを見ていたくらい。「ブルーなんだ」と、不器用なサイオンの持ち主の方を。
 もしも自分が、石の水切りとやらをしようとしても…。
(サイオンなんかは使えないから、自分の力で投げるしか…)
 方法が無くて、石はドボンと沈むのだろう。ただの一回すら弾みもせずに。
 水の上で石が跳ねる遊びは、誰からも聞いたことが無い。跳ねると思ったことさえも無い。
 もちろんコツなんか習っていないし、やり方だって分からない。
「ブルーだったら、もう間違いなく、昔の人間と同じ気分で遊べるだろうな」
 サイオンでズルをしようとしたって、あいつの力じゃ無理だから。
 だが、他のヤツらには難しい。「あと一回」と思えば石は跳ねちまうだろ?
 その辺を心してやってみるんだな、石の水切りに挑むのなら。さて…。
 授業に戻る、と背中を向けたハーレイ。
 みんなの笑いの渦を残して。…笑いの渦の中心に、「不器用なタイプ・ブルー」を置いて。



 とんでもなかった古典の授業。正確に言うなら、雑談の時間。
(今日のハーレイ…)
 酷かったよね、と家に帰ってプリプリと怒る。おやつを美味しく食べ終えた後で、自分の部屋に戻って来て。勉強机の前に座って、今日の出来事を思い返して。
(あんまりだってば…)
 サイオンを全く気にもしないで、石の水切りで遊べる生徒。その例に名前を出すなんて。
 いくら不器用でも、それが本当のことであっても。…クラスのみんながよく知っていても。
(…ぼくだって、タイプ・ブルーなんだよ…?)
 前の自分と何処も変わらない。サイオンタイプも、秘めている筈の能力も。
 けれど、表に出て来ない力。出そうとしたって出ても来なくて、石の水切りなど出来はしない。水面に向かって石を投げたら、沈んでしまって跳ねてくれない。本当に、ほんの一回さえも。
(うー…)
 前の自分だったら、そんなことにはならないのに。
 サイオンを上手く使いさえすれば、世界記録を軽く破れる。八十回くらいは簡単なのだし、千回だろうと容易いこと。なにしろ「ソルジャー・ブルー」だったから。
(シャングリラにあったプールの水面だって…)
 沈みもしないで、水の上を歩いてゆけたほど。
 白い鯨に改造した後、船の中に作られたプール。前のハーレイが其処で泳いでいた時、その横に並んで「歩いて」いた。「ぼくは君みたいに泳げないしね」と、プールの水面を足で踏みながら。
(だけど、今だと…)
 歩くどころか、たちまちドボンと沈むだけ。
 プールに足を踏み出したら。「水の上を歩こう」と考えたなら。
 不器用すぎる今の自分は、プールの水面などを歩けはしない。「タイプ・ブルー」は名前だけ。それに見合った能力となれば無いも同然、思念波さえもろくに紡げないレベル。
(うんと小さい、幼稚園の子でも…)
 今の自分よりはマシにサイオンを使う。それは器用に。
 情けないくらいに「駄目」なのが自分、どうにもこうにもならないサイオン。
 タイプ・ブルーでなかったならば、クラスメイトも、あそこまで笑いはしないのに。



 笑い転げていたクラスメイトたち。「ブルーだったら、確かにそうなる」と可笑しそうに。
 とことん不器用になったサイオン、それは石にも作用はしない。「跳ねて欲しい」と心の底から願っていたって、まるで反映されたりはしない。
(ぼくの力じゃ、どんな小さな石ころだって…)
 跳ねさせられやしないんだから、と分かっている。水面に石を弾かせるなどは、絶対に無理。
 サイオンを使わない方にしたって、やはり跳ねてはくれない石。どうすれば石が水の上で跳ねて飛んでゆくのか、仕組みを全く知らないから。
(どう転がっても、出来やしないよ…)
 水切りなんて、と膨れていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来たから、もう早速に文句を言った。テーブルを挟んで、向かい合わせで座るなり。
「酷いじゃない、今日の古典の授業!」
 なんでぼくなの、ぼくの名前をあそこで出すの?
 これでも、ぼくはタイプ・ブルーで、ぼくのクラスには一人だけしかいないのに…!
「タイプ・ブルーなあ…。確かに名簿にもそう書いてあるが、お前の場合は名前だけだし…」
 俺は本当のことを言ったまでだぞ、サイオン抜きで石の水切りを楽しめそうなヤツの名前を。
 みんなも笑ってくれてただろうが、それは楽しそうに。俺が授業に戻った後にも、まだ笑い声がしていたからな。あっちこっちで。
 雑談ってヤツは生徒に楽しんで貰ってこそだ、とハーレイは謝りさえしない。石の水切りは好評だったし、クラスの生徒の心を見事に掴んだのだから。
 でも…。
「ハーレイは、それでいいかもしれないけれど…。ぼくは笑われちゃったんだよ!?」
 ぼくの名前が出てくる前から、みんなこっちを見ていたし…。
 ハーレイがホントに名前を出すから、クラスのみんなが大笑いで…。
 あんまりじゃない、と不満をぶつけた。不器用すぎるのが悪いとはいえ、タイプ・ブルーだとも思えないサイオン。それを笑われてしまったわけだし、酷すぎる、と。
 なんとも意地悪すぎる恋人。
 あそこで名前を出して来なくても、雑談は充分、クラスのみんなが楽しめた筈。
 石が水の上で跳ねてゆくなど、それだけで「凄いこと」だから。俄かには信じられないほどに。



 何も自分を「笑いの種」に使わなくても、とプンプン怒った。「水切りだけでいいのに」と。
「だってそうでしょ、みんなビックリしていたじゃない!」
 サイオンなんかを使わなくても、石が水の上で跳ねるだなんて…。昔からあった遊びだなんて。
 その話だけで止めてくれればいいのに、ぼくの名前を出すのは酷いよ…!
 ホントに酷い、と膨れたけれども、ハーレイはこう問い掛けて来た。
「なら、訊くが…。そのせいで酷い目に遭ったのか、お前?」
 恥ずかしくて顔が真っ赤になっちまったとか、情けなかったとか、そんな気持ちは別にして。
 俺の授業が終わった後で、誰かに苛められでもしたか?
 笑いの種にされちまったのが原因で…、と鳶色の瞳が覗き込む。「どうだったんだ?」と。
「…ううん……」
 誰も苛めてなんか来ないよ、「やっぱり、お前だったよな」とかは言われたけれど…。誰だって直ぐにピンと来るしね、ぼくだってこと。
 「本当にタイプ・ブルーなのかよ?」って、笑う友達もいたけれど…。でも…。
 苛めた子なんか誰もいないよ、と素直に答えた。
 今の時代は、他の誰かを苛めるような人間はいない。広い宇宙の何処を探しても、どんな辺境の星や基地などに出掛けてみても。
 人間はみんなミュウになったし、ミュウは優しい生き物だから。他の人間の心が見える生き物、そうなればとても出来ない「苛める」こと。相手に与えた痛みの分だけ、自分の心に跳ね返るのが伝わるから。…心を読もうとしていなくても。
 そうやって長い時が流れて、今は誰一人「苛めない」。
 今日も同じで、「サイオンが不器用すぎる」ことを誰もが笑いはしたって、ただそれだけ。皆で笑ってしまえばおしまい、それを種にして苛めはしない。授業が終わった後になっても。
「ほらな。誰もお前を苛めてないなら、問題なんかは無いじゃないか」
 お前が苛められたんだったら、俺も謝らなきゃいけないが…。苛められる種を作ったんだし。
 しかし、そうなってはいない。みんなが賑やかに笑っただけで、それで全部だ。
 ああいった話の種を上手に作ってやるのも、教師の腕の見せ所でだな…。
 クラスの生徒の心を掴んで、ドッと笑って貰うというのが大切なんだぞ、あの手の話は。
 ついでに、サイオンがうんと不器用なヤツが、お前でなければ…。



 名前を挙げてはいないかもな、とハーレイは笑んだ。「お前だからだぞ」と。
「俺が名前を出しちまったのは、お前がクラスにいたからかもなあ…」
 丁度いいのが一人いるぞ、と目に付いたのがお前だったから。
「え?」
 ぼくじゃなかったら、黙っていたわけ?
 名簿とかで誰か分かっていたって、その不器用な子が、ぼくじゃなかったら…?
 どうしてなの、と目をパチクリと瞬かせた。あの雑談を他のクラスでしたなら、ハーレイは名を挙げないかもしれないという。同じように不器用な生徒が一人いたって、伏せたまんまで。
「何故ってか? ごく単純な理由だってな、深く考えてみなくても」
 なんと言っても、お前は俺の恋人だ。いくらチビでも、学校じゃ俺の教え子でも。
 恋人なんだし、みんなに散々笑われちまって赤っ恥でも、ちゃんと許してくれそうじゃないか。
 今みたいに怒って膨れていたって、俺がきちんと「お前でないと」と言ったなら。
 俺の雑談の手伝いが出来たと、お前、思ってくれないのか?
 お前がいなけりゃ、あそこまで皆を笑わせることは出来ないからなあ…。お前の名前を出さない内から、みんなお前を見ていたろうが。「さては、あいつか」と。
 其処で「誰かは想像に任せておく」と終わらせるのと、お前の名前を出しちまうのと…。
 どっちが笑いの種になるかは、考えなくても分かるだろう?
 お前のクラスだったお蔭で、最高に笑って貰えたんだぞ。お前が手伝ってくれたからだな、俺は名前を出しただけだが。
 お前は立派に俺の手伝いをしてくれたんだ、とハーレイは真っ直ぐ見詰めて来た。鳶色の瞳で。
 「そう思わんか?」と、「お前だったから、遠慮なく名前を言えたんだが」と。
「えーっと…。不器用なのが、ぼくだったから…?」
 ぼくはハーレイのお手伝いをしたわけ、「こんなに不器用なのが一人います」って…?
 石の水切り、サイオン抜きでしか遊べないほど、うんと不器用なタイプ・ブルーの生徒が…?
 ぼくの名前だけで、ハーレイの雑談のお手伝いって…。
 そうだったんだ、と気付かされたら悪い気はしない。クラス中の生徒が笑ったけれども、それでハーレイの手伝いが出来たというのなら。
 恋人が授業でやった雑談、それが見事に成功したのが、自分の名前が使われた結果だったなら。



(…みんなに笑われちゃったけれども、あれがハーレイのお手伝い…)
 不器用な生徒が自分でなければ、ハーレイは名前を出さずに終わっていたかもしれない。
 笑われた子が怒っていたって、「すまん」と謝るしかないから。
 「俺を手伝ってくれただろう?」と言うにしたって、御礼が必要。「これで許してくれ」と後でお菓子を渡してやるとか、「次の宿題、お前は出さなくてもいいぞ?」と許可を出すとか。
 けれど、そうではなかった自分。名前を出されて笑われたって、「お手伝い」。大好きな恋人の手伝いが出来て、それは「自分にしか出来ないこと」で…。
 それを思うと、ついつい緩んでしまう頬。許せてしまう、ハーレイのこと。
 さっきまで「酷い!」と怒っていたのに、頬を膨らませもしていたのに。
「どうした、急に黙っちまって? 膨れっ面もやめてしまって、もうニコニコとしているし…」
 お前、嬉しくなってきたのか、俺の手伝いだと聞いた途端に?
 恋人だからこそ出来る手伝いで、他の生徒じゃ出来やしないと聞いちまったら…?
 分かりやすいヤツだな、お前ってヤツは。…お前らしいと言っちまったら、それまでなんだが。
 一人前の恋人気取りでいると言っても、まだ子供だし…。見た目通りのチビだしな?
 心がそのまま顔に出るよな、とハーレイは可笑しそうな顔。「機嫌、直ったじゃないか」と。
「そうだけど…。だって、ホントに嬉しかったから…」
 顔に出ちゃうのも仕方ないでしょ、どうせ、ぼくは子供でチビだってば!
 前のぼくとは全然違うよ、まだ十四年しか生きていなくて、生きた中身も平和すぎるから…。
 嬉しかったら顔に出ちゃうし、悲しい時でも、怒った時でも、それはおんなじ。
 前のぼくみたいに、何があっても表情を変えずにいるなんて、無理。
 三百年ほど生きた後なら、今のぼくでも、頑張ったら出来るかもしれないけれど…。
 でも今は無理で、何でもかんでも顔に出ちゃうよ、本当に子供なんだから…!
 どう頑張っても無理だからね、と繰り返してから、子供ついでに訊いてみた。
 「石の水切りは、どうやるの?」と。
 笑われてしまった原因は、それ。
 水面に石を投げてやったら、弾んで飛んでゆくという雑談。
 サイオンを使えば簡単そうでも、サイオンなどは無かった頃から、地球にあった遊び。
 教室で聞いた話は其処まで、どうすれば石がサイオン抜きでも跳ねるかは聞いていないから。



 子供は好奇心旺盛なもの。同じ子供なら、石の水切りの秘密を知りたい。
 学校では何も聞いていないし、教えて貰ってもいいだろう。こうしてハーレイと二人なのだし、不思議な話の種明かしを。
「サイオンを少しも使わなくても、石が跳ねるって言ったよね? 水の上で…?」
 ずっと昔の世界記録だと、八十回くらいは飛んでくものだったんでしょ?
 どういう仕組みになっているわけ、石は水より重いのに…。投げ込んだら沈みそうなのに。
 それにハーレイ、あんな話をするくらいだから…。水切り、上手に出来るんじゃないの?
 サイオンは抜きで、石を投げたって。…サイオンは少しも使わなくても。
 世界記録に届くくらいは無理だとしても…、と尋ねてみた。ハーレイはきっと、水切りが上手いだろうから。今のハーレイなら、出来る筈だという気がするから。
「そりゃまあ、なあ…? 雑談の種にしてたわけだし…」
 まるで出来ないんじゃ話にならんぞ。お前みたいな質問をするヤツがいたら、困るだろうが。
 「仕組みは知らん」なんて言おうものなら、話自体が「嘘くさい」ってことになっちまう。石が水の上で跳ねるだなんて、嘘に違いないと普通は思うだろうからな。
 とはいえ、世界記録には遠すぎる。八十回なんて、俺には無理だ。
 上手く飛んでも、せいぜい十回くらいってトコか。二十回の壁は厚すぎるってな、サイオンってヤツを使わないなら。
 俺の限界は其処なんだが…、と話すハーレイは、水切りを父に習ったという。隣町に住む、釣り名人のハーレイの父。
 釣りに出掛けたら、川でも池でも水面はある。石の水切りは水面があったら何処でも出来るし、小さい頃から仕込まれたハーレイ。「こうやるんだ」と、水切りのコツを。
「ハーレイの先生、お父さんなんだ…」
 お父さんが得意だったの、趣味の釣りだけじゃないんだね。
 釣りに行くなら、水面は何処でもあるけれど…。水面が無いと、釣りは無理なんだけど…。
「うむ。魚ってヤツは、水の中にしか住まないからな」
 そういう魚が相手の趣味が釣りってヤツだし、水が相手の色々な技もついてくる。
 釣り仲間の間じゃ、水切りの名人、特に珍しくもないってな。
 親父もそうだし、俺に教えないわけがない。「よく見てろよ?」と石をブン投げてな。



 初めて見た時は驚いたのだ、とハーレイが語る石の水切り。水面を跳ねて行った石。
「サイオンなのかと思ったんだが、親父は「違う」とハッキリ言った」
 そんなズルなどしてはいないと、「サイオンを使えば、もっと遠くまで飛ぶもんだ」とも。
 「お前も、コツを覚えれば出来るようになる」と、何度も石を投げるんだよなあ…。
 こうやって、と池に向かって、勢いをつけて。「こういう石を選んで、こう」と。
 「覗き込み過ぎて落ちるんじゃないぞ?」と注意もされていたハーレイ。初めて見た日は、食い入るように池を見詰めていたものだから。石が飛んでゆく方に向かって、「凄い!」と叫んで。
「勢いっていうのは分かったけれど…。石を選ぶの?」
 小さい石だとよく跳ねるだとか、同じ大きさなら軽い石の方がいいだとか…?
 石の重さは色々だものね、と河原の石を思い浮かべる。水が磨いた丸っこい石は、大きさが似た石でも重さが違っているもの。石の詳しい名前はともかく、軽い石やら、重い石やら。
「選ぶってトコは間違いないが…。重さはあまり関係ないな」
 もちろんデカすぎる石じゃ駄目だし、重すぎる石もまるで話にならないが…。
 これくらいだな、という大きさだったら、跳ねやすい石というのがあるんだ。色や重さとは違う基準だな、石の形が大切だから。
 平たい石が一番なんだ、とハーレイは手で示してくれた。「こんな具合に」と形を作って。
 水切りに丁度いい石が見付かったら、水面に向かって投げてやるだけ。
 サイオンなんかは使いもしないで、手だけで石に回転をつけて。それから水に投げる時の角度、それも狙って投げ込むのがコツ。長く跳ねさせるには、スピードも大事。
「んーと…? 最初に石を選んで…」
 幾つも落ちてる石の中から、ピッタリの石を選ぶんだね?
 平たくて、よく飛びそうな石。それを見付けたら、後は投げるだけ…。
 でも、回転をつけてやるとか、石を投げる時の角度とか…。それにスピードも要るんだよね?
 やっぱりそれって難しそうだよ、手品みたい…。
 普通に石を投げただけだと駄目なんだ、と頭の中に描いていたイメージと比べてみる。あの話を教室で聞いた時には、どんな石でも跳ねるものだと考えたから…。
(ウサギみたいにピョンピョン跳ねて…)
 飛んでゆくのだと思い込んでいた。鋭い角度で跳ねてゆくとは思いもせずに。



 石の水切りは、言葉通りに「切るように」石が飛んでゆく。ピョンピョンではなく、ピッピッと水の面を切るようにして。
 サイオンを使わずに飛ぶだけあって、本当にまるで手品のよう。石さえ選べばいいと言っても、回転をつけたり、投げる角度を狙ったり。その上、速いスピードも要る。
「…ハーレイでも二十回の壁があるなら、ぼくの壁だと一回かも…」
 一回も跳ねずにドボンと沈んで、それっきり。…そんな感じになっちゃいそう。
 サイオンを使ってズルも出来ないし、使わずに投げても、絶対に上手くいきっこないし…。
 駄目に決まってる、と肩を落とした。
 ハーレイは雑談の時に「サイオンの心配をせずに遊べそう」だと言ったけれども、そんな自分に水切りは無理。子供の頃から練習を積んだハーレイでさえも、十回くらいしか跳ねないのなら。
「そう悲観したモンでもないぞ?」
 要はコツだし、練習さえすれば、お前でも出来る。二回か三回でいいのならな。
 下手なヤツでも、そのくらいは出来るようになるから、とハーレイに励まされた。才能が無いと嘆く人でも、一回くらいなら石を跳ねさせられる、と。
「ホント?」
 ぼくなんかでも、ちゃんと水切り、出来るの…?
 石の選び方は覚えられても、その先が大変そうなんだけど…。身体が弱いから、キャッチボールとかは滅多にしなくて、投げるだけでも難しくって…。
 角度の方ならまだ分かるけれど、回転なんかは無理だってば。石を回転させるんでしょ?
 野球をやってる友達なんかが、ボールに回転をつけて投げたりするけれど…。
 いつも「凄い」って見ているだけで、ぼくには真似が出来ないんだもの。
 ストンと落っこちていくボールとか…、と思い浮かべた変化球。「こうやるんだぜ」と投げ方をレクチャーして貰っても、一度も投げられたことが無い。ボールの持ち方までがせいぜい。
「変化球なあ…。俺も投げられるが、あれに比べりゃ簡単だぞ?」
 一度覚えりゃ、どんな石でも上手く回転させられるから。
 ボールみたいに大きくはないし、回転をつけるのも楽だってな。それに向いてる石を使えば。
 お前に才能が無いにしたって、一回くらいは跳ねるようになるさ。
 でなきゃ昔に流行りやしないぞ、水切りなんていう遊びが。



 あくまで回数を競っていたんだから、というのがハーレイの励まし。より多く石を跳ねさせれば勝ちで、そんな遊びが普及するには、下手な人間もいないと駄目だ、と。
「俺だと十回くらいなわけだが、ずっと昔の世界記録は八十回を越えてたわけで…」
 八十回も跳ねさせられるヤツが一人で遊んでいたって、誰も注目してくれないぞ?
 十回ほどしか出来ないヤツだの、もっと少ないヤツらだの…。そんなヤツらが「凄い」と褒めてくれたからこそ、腕が上がって記録も残った、と。
 どんなスポーツだってそうだろ、輝いているヤツはほんの一部だ。プロと呼ばれる連中は。
 水切りだってそれと同じで、ずっと昔に流行ってた頃は、下手くそなヤツらが星の数ほどいたと思うぞ。一回跳ねれば上等だ、というような才能の無い連中が。
 だから、お前も頑張ればいい。まずは一回、其処からだよな。
 幸いなことに、お前の場合は、サイオンというズルが出来ないわけだから…。一回だけでも石が跳ねたら、それはお前の実力だ。もう間違いなく、本物の水切りが出来たってな。
 その一回をモノにしたなら、後はお前の努力次第で上を目指せる。二回、三回と。
 三回くらいが限界だろうとは思うんだがなあ、一回きりでは終わらんだろう。いくら下手でも、きちんと練習しさえしたなら。
 お前の腕でも三回くらいは…、とハーレイが言うから、是非やってみたい。三回も続けて跳ねてくれなくても、一回くらいは跳ねさせてみたい。頑張って投げて、サイオンは抜きで。
「ぼくでも投げられるようになるなら、やってみたいな」
 どうせサイオンは使えないんだから、ホントに実力。魔法か手品みたいな水切り、やりたいよ。
 ハーレイ、ぼくに教えてくれない?
 石の選び方とか、どうやって回転をつけて投げるか、そういうのを…。
 お願い、とペコリと頭を下げた。せっかく話を聞いたからには、水切りを覚えてみたいから。
「教えてやりたいのは山々なんだが…」
 しかし、そこそこ大きな水面が無いと、アレを教えるのは無理だ。
 池とか川とか、そういった場所。
 学校のプールなら、初心者用の大きさとしては充分なんだが、石が沈んで迷惑をかけるし…。
 次にプールを使うシーズンがやって来た時に、石拾いもしなきゃいかんから。
 お前一人なら、まだいいとしても、他の生徒も来ちまうからな。練習しようって連中が。



 学校でやってりゃ、そうなるだろう、というハーレイの意見は間違っていない。
 今の季節は使われていない、学校のプール。其処で休み時間にハーレイと水切りの練習をやっていたとしたなら、他の生徒もやって来る。
(ハーレイ、人気者だから…)
 それだけで覗きに来る生徒が大勢。「水切り」などという珍しい遊びの練習となれば、入門する生徒が引きも切らないことだろう。「ハーレイ先生!」と、石まで沢山用意して来て。
(こういう石がいいんですよね、ってホントに山ほど…)
 大勢の生徒が石を持参で、次から次へとプールに投げたら、来年のプールはきっと大変。水泳の授業が始まる前には、何処の学校でもプールの掃除をするけれど…。
(水を抜いて掃除をしようとしたら、石が一杯沈んでて…)
 拾うだけで時間がかかりそうだし、場合によっては「水切り」の練習をしていた生徒を集めて、「石拾い」ということになるかもしれない。「自分で投げた石には、自分で責任を持て」と。
(プールの掃除は、業者さんだけど…)
 石拾いなどは、普通の学校のプール掃除には必要ないこと。綺麗に洗って磨くだけだし、まるで関係ない石拾いの方は「投げた生徒」がするのだろうか…?
「…プールに石を投げ込んじゃったら、確かにホントに大変かも…」
 来年、プールを使う前には、ぼくも呼ばれて「石を拾いなさい」って言われちゃいそう。
 水切りの練習をやっていたのはバレてるんだし、他の生徒もみんな呼ばれて。
「分かったか? 俺だって、きっと呼ばれるぞ」
 お前たちの石拾いの監督ついでに、俺だって拾わされるんだ。投げさせてたのは俺だから。
 そうなっても俺は気にしないんだが、やはり教師としてはだな…。
 学校に迷惑はかけられないから、プールはいかん。初心者向けには似合いの場所でも、あそこで練習するのは駄目だ。
 諦めるんだな、とハーレイは腕組みをした。このポーズが出たら、お許しは無理。
「…水切り、教えて欲しいのに…」
 学校のプールで出来るんだったら、昼休みとかに頑張るのに…。
 石だって毎日、気を付けて探して、いいのを集めて、学校に持って行くのにな…。
 そしたら早く上手くなるのに…。直ぐには無理でも、ぼくでも出来るようになるのに…。



 学校のプールは駄目だなんて、と残念な気分。駄目な理由は分かっていても。
「いい場所、他にあればいいのに…。学校に大きな池があるだとか…」
「無茶を言うな。今の学校じゃ、そういう池は無いと分かっているんだろうが」
 俺もお前に教えてやりたい気持ちはあるが、今は無理だな。プールは使えないんだから。
 いつかお前が大きくなったら、デートのついでに練習するか。
 池がある公園は幾つもあるしな、景色が綺麗な池もあちこちにあるってわけで…。そういう所に出掛けた時には、石を拾って投げればいい。…白鳥とかがいたら駄目だが。
 石が当たったら可哀相だろう、というのは分かる。普通に投げるだけならまだしも、跳ねてゆく石は水鳥たちには危険すぎるから。…飛び過ぎた時に怪我をさせかねないから。
「分かってる…。鳥がいる時には投げないよ」
 ぼくにはそんなつもりが無くても、跳ねちゃった石が当たっちゃうこともありそうだもの。
 二回くらいしか跳ねない石でも、浮かんでる鳥は、急には避けられないもんね?
「そういうこった。石が飛んで来たら逃げはするがな…」
 中には動きが鈍いのもいるし、疲れてる鳥もいるモンだから…。逃げ損なったら可哀相だ。
 気を付けて石を投げることだな、潜ってる鳥もいたりするから、ちゃんと確かめて。
 それに、デートに行けるようになったお前なら…。
 親父に習うという手もあるぞ、とハーレイは思わぬ提案をした。「親父はどうだ?」と。
「お父さんって…。ハーレイのお父さん、名人だよね?」
 水切り、とても上手いとか…?
 ハーレイは二十回の壁があるとか言っていたけど、お父さんには壁が無いとか…?
 八十回は無理だろうけれど、と質問したら、「それは流石に無理ってモンだ」と返った答え。
「親父が其処まで凄いんだったら、今日の授業で自慢してるな」
 俺の親父は、サイオンが普通の時代でなければ、世界記録に挑んでいたかもしれないと。
 親父の方でも、きっとその気で記録を目指していただろう。公式記録には残らなくても、ずっと昔の世界記録と並ぶヤツとか、抜けそうな数を叩き出そうと。
 それは親父には難しすぎるが、なんたって、俺の師匠だぞ?
 「こう投げるんだ」と教えた腕はダテじゃない。
 今も現役で投げてるからなあ、教え方は俺より上手いんじゃないか…?



 ハーレイの父の趣味は釣り。水面が無いと出来ない趣味。
 今でも釣りに出掛けた時には、気が向けば投げるらしい石。落ちている石をヒョイと拾っては、回転をつけて、角度を狙って。
 釣りを始める前に投げたり、竿を仕舞った後だったり。
 もちろんサイオンは使いもしないで、石が跳ねた回数を数えるという。自分が出した最高記録を塗り替えられるか、それとも駄目か、と水を切ってゆく石を見送りながら。
「釣りを始める前か、後って…。釣りの間は投げないの?」
 魚がかかるのを待っている時間、とても長いと思うんだけど…。狙ってる魚によるだろうけど。
 退屈しのぎに投げればいいと思うんだけどな、練習にもなるし。
 腕がグンと上がりそうなのに、と首を傾げたら、「釣りの最中だぞ?」と呆れたハーレイ。
「魚は水の中にいるんだ、そんな所へ石を投げ込んでみろ」
 餌なら寄っても来るんだろうが、石だと魚が逃げちまうじゃないか。…怖がっちまって。
「そっか…。鳥でも逃げてしまうんだものね…」
 魚も逃げるね、頭の上を石がピョンピョン跳ねて行ったら。…音にもビックリするんだろうし。
 だけど、水切り…。
 面白い遊びだね、石と水面があれば何処でも出来るんだから。
「サイオンが普通になった今では、上手く出来ても尊敬しては貰えないがな。昔のようには」
 世界記録を作ろうって動きが無くなるくらいだ、上手く投げてもサイオンだろうと思われる。
 本人は全く使ってなくても、傍から見ればそうなるだろうし…。
 下手な間は、無意識の内にサイオンを使っちまうだろうし。
 俺だって、正直、使っていないという自信は無い。十回を越えたら危ういかもなあ、もう少しと思うモンだから。…自分では使っていないつもりでも。
 この俺でさえ、その始末だ、とハーレイが明かす水切りの事情。今の時代は、誰もがサイオンを持っているから、昔のようには数えられない記録。ただの遊びにサイオンの計測装置は無粋。
「それがちょっぴり残念かも…」
 ぼくなら、サイオン、少しも関係ないのにな…。
 ハーレイが授業で言ったみたいに、ぼくだけは昔の人と同じに遊べるんだよ。
 うんと不器用で、サイオンなんかは使いたくても使えないから…。ホントに実力なんだから。



 石が跳ねていく回数を増やせはしないよね、と零した溜息。
 今の時代は、ハーレイでさえも「自信が無い」と言うほど、誰もがズルをしそうな時代。跳ねてゆく石に向かって「もう少し」と願ってしまって、無意識の内に使うサイオン。
 けれども、今の自分には無理。どんなに強く願ってみたって、石は跳ねてはくれないから。
「お前が石を投げた場合は、実力か…。サイオンでズルは出来なくて」
 皮肉だよなあ、今のお前も前と同じでタイプ・ブルーなのに。
 前のお前なら、水の上でも平気で歩いてたのに…。石をサイオンで跳ねさせるどころか、少しも濡れずに水の上を歩いていたもんだ。
 あの力は何処へ行ったんだか…。とことん不器用になっちまって。
「今だと沈んでおしまいだよ!」
 石の水切りも出来ないけれども、ぼくだって沈んじゃうってば!
 プールでも池でも、水の上なんかを歩こうとしたら、ドボンと沈んでしまうんだよ…!
 もう真っ直ぐに落っこちちゃって…、と嘆いた自分の不器用さ。石さえ跳ねさせられない力は、自分の身体も支えてくれない。重いものは沈む水の上では。
「真っ直ぐにドボンと沈むのか。その姿が目に浮かぶようだが…」
 沈んじまうようなお前がいいな、とハーレイが浮かべた優しい笑み。
 石の水切りでさえもズルが出来ない、不器用なサイオンを持った今のお前が…、と。
「…なんで?」
 沈んじゃうほど不器用なんだよ、そんなぼくの何処がいいって言うの?
 クラスのみんなも笑っちゃうほど、ぼくのサイオン、不器用すぎてどうしようもないのに…。
「何度も言ったと思うがな? そんなお前だから、今度こそ俺が守ってやれると」
 前のお前だと、俺にはとても守れなかったが、今のお前なら…。
 水切りの練習中に池にドボンと落ちてしまっても、飛び込んで助けられるしな?
「ホントだ、前のぼくだったら…。落っこちたって、濡れもしないんだものね」
 バランスを崩したら、すぐにシールドを張ってしまって、落っこちた池からヒョイと上がって。
 助けに飛び込んで貰わなくても、ちゃんと自分で。
「そうなんだよなあ、前のお前だと」
 俺の出番は全く無かった。…今のお前が同じ力を持っていたって、そうなるんだが…。



 お前は持っちゃいないから、とハーレイがパチンと瞑った片目。
 「今度はお前を守らせてくれ」と、「不器用なお前は、俺が守る」と。
 水切りの練習をしている最中に池に落ちたら、今の自分は沈むだけ。ドボンと真っ直ぐ。
 そうなった時は、ハーレイが飛び込んで助けてくれて、ちゃんと岸にも押し上げてくれる。
 頼もしい腕でグイと支えて、「早く上がれ」と。
 そのハーレイは、真剣な顔でこう口にした。
「しかしだ…。頼むから、お前は池には落ちてくれるなよ?」
 濡れたら風邪を引いちまうから、と気を付けるように念を押されたけれど。
 そう注意するハーレイの気持ちも、分からないではないけれど…。
 落ちてみたい気がしないでもない。
 水切りの練習中に落ちた時には、ハーレイが飛び込んで、直ぐに引き上げてくれるから。
 「石でも上手に跳ねていくのに、お前が落ちてどうするんだ」と、小言なんかを言いながら。
 ゴシゴシ拭かれて、「風邪を引くぞ」と心配されて、そんな時間もきっと幸せだろう。
 水の上を歩けない不器用な自分になったからこそ、池の水にも落っこちられる。
 冷たくても、風邪を引いてしまっても、ハーレイと持てる幸せな時間。
 だから池にも落ちたっていい。石を思い切り投げたはずみに、頭からドボンと落っこちても…。



              石の水切り・了


※石の水切りという遊び。サイオンが普通な時代の今、ズルが出来ないのはブルーくらい。
 サイオンが不器用になってしまったせいですけど、その分、ハーレイに守って貰えるのです。
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(あれっ、ウサギだ…)
 それに大きい、とブルーが眺めたもの。学校の帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
 ウサギと言っても本物ではなくて、彫刻のウサギ。道沿いの家の門扉の前に置かれていた。道をゆく人によく見えるように、空きスペースの真ん中に。
 なんという石か、ブルーグレーの石を彫り上げて作ったウサギ。座った形でコロンと丸い。
(おじさんの趣味かな?)
 この家の御主人は顔馴染み。
 よく出来ている、と石のウサギの頭を撫でた。側に屈み込んで。
 膝の下あたりまで高さがあるほど、大きなウサギ。石は綺麗に磨き上げられて、触るとスベスベしている表面。いい天気だから、太陽の光で温まって…。
(本物のウサギみたいにホカホカ…)
 あったかい、と背中や尻尾も撫で回していたら、突然、上から声がした。
「ブルー君、今、帰りかい?」
 えっ、と見上げると、門扉の向こうに家の御主人。慌ててピョコンと頭を下げた。
「こんにちは! ウサギ、勝手に触っちゃって…」
 ごめんなさい、と謝ったけれど、御主人は「かまわないよ」と門扉を開けて表に出て来た。
「道を通る人に見て貰うために置いたんだしね。見るのも触るのも、お好きにどうぞ」
 でなきゃ置いてる意味がないよ、と笑顔の御主人。「撫でて貰えばウサギも喜ぶからね」とも。
「このウサギ、おじさんが作ったの?」
「まさか。粘土のウサギだったらともかく、石の彫刻なんかは作れないよ」
 腕も無ければ、道具も無いさ、と御主人はウサギの頭をポンと叩いた。「とても無理だね」と。
 ブルーグレーの石で出来たウサギは、御主人の友達が作ったらしい。石の彫刻を趣味にしている人。せっかく見事に出来たのだから、大勢の人に見て貰いたい、と巡回中。
 この家の御主人の所にやって来たように、彫り上げた人の友達の家を順番に。一週間ほど飾って貰って、次の家へと引越してゆく。運ぶ途中で壊れないよう、梱包されて。
 そう聞くととても立派だけれども、石のウサギは「趣味の作品」。
 何かの賞を取ったわけではないという。今の所は、コンクールなどに出されてもいない。本当にただの趣味の彫刻、知り合いの家を順に回ってゆくだけの。



 御主人の話では、「ただの趣味」のウサギ。ちゃんとウサギに見えるどころか、今にもピョンと跳ねそうなのに。座っているのに飽きてしまったら、「遊びに行こう」と。
 石で出来ていても、生き生きしているブルーグレーの大きなウサギ。いい彫刻だと思うのに…。
「これでも賞は取れないの?」
 凄く素敵なウサギなのに…。動き出しそうなほど、よく出来てるけど…。
「ただの趣味ではねえ…。コンクールなんかに出してみたって、難しいんじゃないかな」
 本人もそれが分かっているから、こんな具合に展覧会をしているんだよ。あちこちの家で。
 もっとも、趣味で彫るだけはあって、いっぱしのことを言ってるけどね。
 この石の中にはウサギがいたとか、そういう一人前の台詞を。
 上手なんだか、下手なんだか…、と御主人はウサギを眺めている。「それでウサギだよ」と。
「ウサギって…。この石の中に?」
 これ、とウサギを指差した。ブルーグレーの石の塊を。…今はウサギになっている石。
「そうさ。この石はウサギになりたかったらしいよ、こういうウサギに」
 同じ動物でも、ライオンとかでは駄目なんだ。犬も駄目だし、猫も駄目だね。ウサギでないと。
 ウサギになりたい石なんだから、と笑った御主人。
 このウサギを彫った人が言うには、ウサギになりたい石の中にはウサギがいるもの。ただの石にしか見えないようでも、中にはウサギが住んでいる。それを彫り出すのが彫刻家。
 石に隠れているウサギを見付けて、「出して欲しい」という声を聞いて。
「そうなんだ…。最初からウサギが入ってたんだね」
 この石の中に、このウサギが。…それを見付けたのが、おじさんの友達…。
「そうらしいねえ、彫った本人に言わせると。この石にはウサギが隠れてたようだ」
 昔からそう言われるようだよ、彫刻をする人の間では。…その友達から聞いたんだけどね。
 本当の彫刻家は、彫るものの声を聞くらしい。…いや、見付ける目を持ってるのかな?
 彫ろうとしている材料の中に何がいるのか、何になりたいと思っているか。
 石だけでなくて、木の彫刻でも同じだね。名作と言われる彫刻なんかは、どれも彫刻家が中身を上手く彫り出した結果だという話だよ。
 彼に言わせれば、このウサギだって「ウサギになりたい」と言っていたわけだから…。
 声だけは聞こえたというわけなのかな、ちゃんとウサギになっているしね。



 名作と呼べるかどうかはともかく、と御主人はウサギを撫でていた。「でもウサギだね」と。
 それから暫くウサギを眺めて、撫で回したりして、「ありがとう」と御礼を言って家に帰った。石のウサギにも、「さようなら!」と手を振って。
 自分の部屋で制服を脱いで、ダイニングに行って、おやつを食べながら考えたこと。さっき見て来た、石で出来たウサギ。あの家の門扉の前に置かれて、今も座っているのだけれど…。
(ウサギになりたかった石…)
 御主人はそう言っていた。ブルーグレーの石の元の形は知らないけれども、中にウサギを隠していた石。今のウサギになる前は。
(丸い石だったか、ゴツゴツの石か、ぼくには分からないけれど…)
 御主人の友達はあの石に出会って、「ウサギの石だ」と中身を見抜いた。彫刻が趣味の人だから分かった、石の正体。さっきの御主人や自分が見たって、きっとウサギは見付からない。
(ああいう色の石の塊…)
 石があるな、とチラリと眺めて、そのまま通り過ぎるのだろう。ウサギには気付かないままで。石の中に隠れて、「外に出たいな」と、待ち焦がれているウサギが入っているのに。
(分かる人にしか、分からないウサギ…)
 そう考えると面白い。ウサギを隠していた石のこと。
 河原などにある丸い石だったか、山にあるようなゴツゴツの石か。ウサギは其処に隠れていた。あの御主人の友達が見付け出すまで、「ウサギを彫ろう」と考えるまで。
 自分はウサギを見付けることは出来ないけれども、とても素敵だという気がする。ああいう風にウサギなんかが、石の中から出てくるなんて。
(地球の上には、石が一杯…)
 山にも川にも、海辺にも石が転がっている。それは沢山、数え切れないほどの石たちが。
 丸い石やら、ゴツゴツの石や。抱え切れないような石から、ヒョイと持ち上げられる石まで。
 大理石のような石になったら、石切り場から切り出されもする。彫刻の素材や、建築用にと。
 そういう石に隠れたものを、見付け出すのが彫刻家。「この石は何になりたいのだろう?」と。
 石をじっくり見ている間に声がするのか、一目で中身が分かるのか。
 色々なものになりたい石を、彫刻家たちが彫ってゆく。石の声を聞いて、中に隠れたものを。
 今も昔も、せっせと彫っては石の中身を外に出す。帰り道に見たウサギみたいに。



 地球の上には石が沢山、ウサギになりたい石もいる。ライオンとかになりたい石も、他の動物が隠れている石も。
(地球じゃなくって、他の星でも…)
 探してみたなら、ウサギになりたい石が見付かるのだろうか?
 彫刻家ではない自分には無理でも、それが趣味の人や、プロの彫刻家が探しに出掛けたならば。
 地球は一度は滅びたけれども、生命を生み出した母なる星。
 その地球の上にある石だったら、ウサギもライオンも知っている。滅びる前の地球には、沢山の生き物たちがいた。地球は彼らの姿を見ていて、石たちも記憶しただろう。ウサギやライオンや、空を飛んでゆく鳥たちを。
(ちゃんと知ってるから、石の中にもウサギやライオン…)
 彼らの姿が入り込む。ウサギになりたい石も生まれれば、ライオンになりたい石だって。
 けれど、地球とは違う星。
 テラフォーミングされた星の上にも、そういった石はあるのだろうか?
 今は宇宙に幾つも散らばる、人間が暮らしている星たち。生命の欠片も無かった星でも、年月をかけて整備していって。木や草を植えて、海も作って。
 その星の上にも石はある。それこそ人が来るより前から、何も棲んでいない星だった頃から。
 其処にあった石はどうなのだろうか、中にウサギは入っているのか。
(最初からウサギがいない星でも、ウサギになりたい石とかがあるの?)
 中にウサギを隠している石。「早く出たいな」と、ウサギになれる日を待っている石。そういう石が他の星にもあるのか、それともまるで無いというのか。
(ウサギとかが住んでた、地球の石でないと…)
 中にウサギは入っていなくて、いい彫刻は作れないだとか。彫刻家たちが頑張ってみても、中にいるものが無かったならば、名作は生まれて来ないとか。
(まさかね…?)
 今の時代は、彫刻家だって大勢いる。あちこちの星で活躍している芸術家たち。
 石を相手にする彫刻家も多いわけだし、地球の石だけでは足りないだろう。どれほど地球の石が多くても、山にも川にも沢山の石が転がっていても。
 地球の石でしか名作を彫ることが出来ないのならば、彫刻家の数もグンと減ってしまいそう。



(…石を探しに地球に来るのも…)
 大変だよね、と思う宇宙の広さ。ソル太陽系の第三惑星、水の星、地球。
 此処まで来ないと「名作を作れる石」に出会えないなら、彫刻家を志す人だって減る。ふらりと山や河原を歩いてみたって、「石の声」に出会えないのなら。地球でしか、それが出来ないなら。
(地球に来るには、時間もお金も…)
 かかるのだから、彫刻家の卵たちは諦めてしまうことだろう。余程の才能が無い限り。師と仰ぐ人が褒めちぎってくれて、「君なら出来る」と何度も励ましてくれない限り。
(褒めて貰ったら、いつかは地球の石を使って名作を、って思うだろうけど…)
 そうでない人は「どうせ才能が無いのだから」と投げ出してしまって、それでおしまい。地球の石にさえ出会えていたなら、名作を彫れたかもしれないのに。
(そんなのだったら、彫刻をする人、ホントにうんと少なくなって…)
 高名な彫刻家は地球の人ばかりで、でなければ地球から近い星の人。いつでも気軽に石を探しに地球まで旅が出来る人。
 けれど、そうなってはいない。ソル太陽系から遠く離れた星にも、彫刻家たちは大勢いる。石があったら、とても見事な作品を彫り上げる人たちが。
 「地球の石でないと駄目だ」と聞いたことなどは無いし、何処の星でも彫刻に向いた石はある。大理石だって、他の様々な石だって。
(他所の星でも、きっと、神様が色々な魂…)
 それを石の中に入れるのだろう、と考えながら戻った二階の自分の部屋。
 空になったカップやケーキのお皿を、「御馳走様」とキッチンの母に返してから。
(…さっきのウサギは、地球の石だけど…)
 地球の石だから、中にウサギが入っていたって少しも不思議は無いけれど。
 他の星でも、きっと神様が、石の中に色々入れてくれるに違いない。人間が暮らすようになった星なら、石の中にもウサギや、ライオン。犬や猫だって、鳥だって。
(人が暮らせる星になったら、彫刻家になりたい人も生まれてくるし…)
 その人たちが困らないよう、神様が石に魂を入れる。ウサギやライオンを隠しておく。
 今の仕組みはきっとそうだ、と勉強机の前に座って頬杖をついた。
 何処の星でも、ウサギが入った石が見付かるのだろう、と。人間が暮らす星なら、きっと。



 今日の自分が出会ったウサギは、石の彫刻。ブルーグレーの石を彫り上げたもの。
 あのウサギを家の前に飾っていた御主人の友達は、石の中に隠れたウサギを見付けた。彫刻家が石を目にした時には、「何になりたい石」なのか分かる。ウサギだろうと、ライオンだろうと。
(木彫りも同じなんだよね?)
 石と同じで、木の中に何かが隠れているもの。御主人はそう話していた。石と木とでは、素材が違うというだけのこと。中にいるものを「見付けて」外に出してやるのが彫刻家。
 あちこちの星の石に神様が魂を入れるのだったら、木だって同じことだろう。テラフォーミングして木を植えたならば、その星の上には人間が住む。ちゃんと環境が整ったなら。
(海を作って、川とかも出来て…)
 もう充分だ、と判断されたら、作業員たちは引き揚げて行って、代わりに移住してゆく人たち。其処で人間たちが暮らし始めたら、石にも木にも、神様が魂を入れてゆく。
(彫刻をする人がそれに出会ったら、中のウサギとかが見付かるように…)
 中に隠れたものを見付けて彫っては、いろんな彫刻が出来るのだろう。地球でなくても、元々は何も棲んでいなかったような星でも。
 神様が中に入れた魂、ウサギやライオンを見付け出しさえすれば。木や石を彫る彫刻家たちが、中に隠れた色々なものを、上手く彫り上げてやったなら。
(そうやって、何処の星でも、名作…)
 地球でなくても、素晴らしい彫刻が生まれるのだ、と思った所で気が付いた。
 帰り道に見た石のウサギは、なかなかの出来。今にも跳ねてゆきそうだったのに、コンクールで賞を取ってはいない。あの御主人は「難しいだろうね」と言ったけれども、上手ではあった。
 けれど、あれとは正反対のものを、前の自分は知っている。
(前のハーレイ…)
 遠く遥かな時の彼方で、前の自分が愛した人。キャプテン・ハーレイと呼ばれていた人。
 前のハーレイは木彫りを趣味にしていたけれども、とても下手くそな腕前だった。あれが本当の下手の横好き、「彫らない方がマシ」と言えるほど。
 何を彫っても、ハーレイが目指した「芸術品」が出来はしなかった。彫ろうとしていたものとは違った彫刻が出来て、誰もが笑ったり、顔を顰めたり。
 どう見ても、「そうは見えない」から。まるで違った「変なもの」しか出来ないから。



 木彫りが趣味でも、お世辞にも「上手い」とは言えなかったのが、前のハーレイ。懸命になって芸術品を彫れば彫るほど、「下手だ」と呆れられ、墓穴を掘っていたようなもの。
 スプーンやフォークといった実用品なら、それは上手に彫れたのに。頼んで彫って貰う仲間も、何人もいたほどなのに。
 けして「腕が悪かった」わけではない彫刻家が、前のハーレイ。腕が悪いのなら、実用品などを彫っても下手くそな筈。曲がったようなスプーンが出来たり、歪んだフォークが出来上がったり。
 けれど、そうなってはいない。
 実用品なら引っ張りだこの腕前、芸術品だけが「とんでもない出来」に仕上がったのなら…。
(…ひょっとして、ハーレイ…)
 神様が木の中に入れた魂、それを見ないで芸術品を彫っていたのだろうか?
 石や木たちの声が聞こえる、本物の彫刻家たちとは違って。…「これを彫るのだ」という自分の考えだけで、木に挑んでいた「彫刻家」。
 木という素材を相手にするのが上手かっただけの、芸術とは無縁の製作者。学校の授業で工作をするのと同じレベルで、「上手く彫れる」というだけのことで。
(前のハーレイ、そうだったのかも…)
 なまじ上手に彫れるものだから、ハーレイ自身は芸術家気取り。ナイフ一本で器用に仕上げて、スプーンもフォークも誰もが喜ぶ出来だったから。
 ところがハーレイの中身はと言えば、「木の声なんかは聞こえない人」。本物の彫刻家の域には達していなくて、木の塊の中に「何かがいる」とは気付かないタイプ。
 木の中に何が隠れているのか、それを見ないで強引に彫っていったなら…。
(…ナキネズミだって、ウサギになるよね?)
 前のハーレイが、彫ろうとしていたナキネズミ。
 赤いナスカで生まれたトォニィ、SD体制始まって以来の初めての自然出産児。ミュウの未来を担う子供で、誰もが誕生を喜んだ。古い世代も、新しい世代も。
 そのトォニィの誕生を祝って、前のハーレイは自慢の木彫りを始めた。ブリッジで仕事の合間を見付けて、いつものナイフ一本で。トォニィにオモチャを作ってやろうと。
 きっとトォニィも喜ぶだろうと、ナキネズミを彫ることにしたハーレイ。ミュウとは馴染み深い生き物、思念波を使える動物を。…けれど出来上がったものは、誰が見たってウサギそのもの。



 ああなったのは、ハーレイの腕のせいではなくて、「彫刻家ではなかった」せいなのだろう。
 前の自分は深い眠りの中にいたから、現場を見てはいないけれども…。
(…ハーレイがナキネズミを彫るために…)
 倉庫に出掛けて、取り出して来た木の塊。趣味の彫刻のためにと残しておいた、シャングリラで育てた木材用の木の切れ端。狂いが出ないよう乾燥させては、取り出して彫っていたけれど…。
(これにしよう、って選んで、倉庫の中から出して来たヤツ…)
 その木の中に隠れていたのは、ナキネズミではなくて、ウサギだったに違いない。ナキネズミになりたい木とは違って、ウサギになりたいと思っていた木。
(でもハーレイには、木の声なんかは聞こえなくって…)
 木の中にいるものも見えはしなかった。彫刻家ではなくて、「木」という素材を彫るのが得意なだけだから。スプーンやフォークを上手く作れる、器用なだけのただの人間。
 ハーレイは「ウサギになりたい」木とは気付かず、木の塊を彫り進めた。自分が彫ろうと思った動物、ナキネズミを木から彫り出すために。
 けれど中には、ウサギだけしか入っていない木。ナキネズミなどは何処にもいない。ハーレイが頑張って彫れば彫るほど、ウサギは外に出たくなるから…。
(中のウサギが、我慢できずに出て来ちゃって…)
 ハーレイの木彫りが完成した時、其処にいたのは一匹のウサギ。…ナキネズミとはまるで違った尻尾の、長い二本の耳をしたウサギ。
(…出来上がったのが、ウサギだったから…)
 トォニィの母のカリナはもちろん、他の仲間たちも「ウサギなのだ」と思い込んだ。ハーレイも「違う」と言えはしなくて、それっきり。
 トォニィは「ウサギになった」ナキネズミを大切にし続け、後の時代まで残った「ウサギ」。
 「ミュウの子供が沢山生まれるように」という祈りがこもった、お守りなのだと信じられて。
 今ではウサギは宇宙遺産で、博物館の収蔵庫の中。レプリカの展示も大人気。
(…なんでナキネズミがウサギになるの、って思ってたけど…)
 前のハーレイの木彫りの腕にも呆れたけれども、原因は「ウサギになりたかった木」。
 それなら分かる、ナキネズミがウサギに変身したこと。前のハーレイが選んだ木には、ウサギが入っていたのなら。…ナキネズミが入っていなかったなら。



 きっとそういうことなんだ、と納得がいった「宇宙遺産のウサギ」。今のハーレイに聞かされるまでは、今の自分も「ウサギなのだ」と思い込んでいた、ナキネズミの木彫り。
(前のハーレイが作った、他の木彫りも…)
 あれと同じで、無理やり彫るから変な出来上がりになったのだろう。
 ヒルマンが頼んだ、知恵の女神ミネルヴァの使いのフクロウ。それはトトロになってしまった。SD体制が始まるよりもずっと昔の日本で愛された、可愛いオバケのトトロの姿に。
 他にも酷い彫刻は沢山、どれも原因は同じだと思う。前のハーレイが強引に彫ったこと。
(木の声を聞いてあげないから…)
 神様が木たちに与えた魂、その声を聞かずに彫ったハーレイ。自分が彫ろうと思ったものを。
 そのせいで酷くなったんだ、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね…。前のハーレイ、木の声をちゃんと聞いていた?」
 神様に貰った魂の声を、前のハーレイは、きちんと聞こうとしていたの…?
「はあ? 魂って…?」
 魂の声を聞いていたかと言われても…。前の俺は、そういう仕事をしてはいないが…?
 俺がキャプテンだったことを抜きにしてもだ、前の俺たちが生きた時代に、そんな仕事は…。
 今の時代も無いんじゃないのか、ずっと昔の地球にだったら、幾つもあった職業なんだが。
 神様の声を聞く人間とか、魂を呼び出す人間だとか、と見当違いなことを言い出したハーレイ。とうの昔に廃れてしまった、古典や歴史の世界の職業の名前を挙げ始めて。
「そうじゃなくって、木彫りだってば!」
 前のハーレイ、いろんなものを彫っていたでしょ、シャングリラで!
 あれを彫る前に、木の声を聞いてあげていたのか、それを質問しているんだよ…!
「木の声だって?」
 いったいお前は何が言いたいんだ、木は喋らないと思うがな…?
 黙って生えているだけなんだし、せいぜい葉っぱや枝が擦れて鳴るだけで…。
「それは生きてる木のことじゃない! ぼくが言うのは、木彫り用の木!」
 伐採した木の残り、貰って倉庫に仕舞っていたでしょ?
 あれを使って何かを彫る時、その木の声を聞いていたのか、知りたいんだよ…!



 今日の帰りに聞いたからね、と披露した話。顔馴染みの御主人に教えて貰ったこと。
 ブルーグレーの石の中にいて、御主人の友達に彫って貰って出て来たウサギ。中にウサギがいる石なのだ、と見付けて貰えて、今は立派なウサギの彫刻。門扉の前にチョコンと座って。
 彫刻の類はそういったもので、「中にいるもの」を彫り出してゆく。木の彫刻でも同じだ、と。
「ぼくが見たウサギは、あの石の中にいたんだよ。…ウサギの彫刻になる前にはね」
 丸い石だったのか、ゴツゴツの石かは知らないけれど…。中にウサギが入った石。
 そういう石を何処かで見付けて、中のウサギを出してあげたのがアレなんだよ。
「中に入っているってか…。その手の話はよく聞くな」
 古典の世界でも、定番ではある。
 木の中に有難い神様の姿が隠れているとか、そんな具合で。…それを彫ったら霊験あらたかで、お参りの人が大勢やって来たという話は多いぞ。
 今の時代も、何になりたいのか、耳を傾ける彫刻家とかは少なくないよな、うん。
 いい素材なんかが手に入った時は…、と今のハーレイは知っていた。石や木の声、それを捉えて中に隠れたものたちを彫ってゆく人。彫刻家と呼ばれる人たちのことを。
「ほらね。昔もそうだし、今だって同じなんだけど…」
 前のハーレイ、そういうのをちゃんと見付けてた?
 木彫りをしようと木を取り出したら、木の声を聞いてあげていたわけ?
 中には何が隠れているのか、何になりたいと思ってる木か。…声の通りに彫ってあげてた?
 石の中にいたウサギみたいに…、と問い掛けたけれど。
「いや…? なんたって、木彫りは俺の趣味だったしな?」
 今の俺は全くやっていないが、前の俺はあれが好きだった。いい息抜きにもなるもんだから。
 木の塊とナイフさえあれば、何処でも直ぐに始められるし…。
 空いた時間にポケットから出せば、ブリッジだろうが、休憩室だろうが、俺の憩いの空間だ。
 其処で気ままに彫ってゆくんだから、何を彫ろうが俺の自由だと思わんか?
 木の塊なんかの指図は受けんぞ、俺は彫りたいものを彫るんだ。…その時の気分で。
 スプーンやフォークの注文が入っていたなら別だが、そうでなければ気の向くままだな。
 こいつがいいな、と思い立ったら、そいつを彫ってゆくだけだ、と返った答え。
 予想した通り、ハーレイは「聞いていなかった」。木の塊の中に隠れたものたちの声を。



 それでは駄目だ、と零れた溜息。前のハーレイの彫刻が「下手だ」と評判だったのは、木の中にいるものを無視したから。…声を聞こうとしなかったから。
「やっぱりね…。ハーレイ、聞いていなかったんだ…」
 木の塊が何になりたいのか、まるで聞こうとしなくって…。中にいるのは何だろう、って眺めてみたりもしなかったから…。
 それでウサギになっちゃったんだよ、ウサギになるのも仕方がないよ。
「ウサギだと? 俺はウサギを見てもいないが…?」
 お前が言ってる、ブルーグレーの石で出来てるウサギってヤツ。石の彫刻で、そこそこ大きさがあるんだったら、夜の間も出しっ放しだと思うんだが…。
 気を付けて車を走らせていれば、此処へ来る途中に気付いただろうが、生憎と…。
 違う方でも見てたんだろうな、ウサギは知らん。…それで、ウサギがどうかしたのか?
 見ておけと言うなら帰りに見るが、とハーレイは勘違いをした。ブルーグレーの石で出来ていたウサギ、それが話の中心なのだと。…石のウサギではなくて、木のウサギのことを言いたいのに。
「違うってば。…石のウサギに出会ったお蔭で、前のハーレイのことに気が付いたんだよ」
 前のハーレイがやっちゃったことで、宇宙遺産になってるウサギ…。
 博物館でレプリカが展示されてるけれども、ハーレイ、あれはウサギじゃないって言ったよね?
 ぼくには今でもウサギに見えるし、博物館の説明なんかもウサギになっているけれど…。
 でも、本当は前のハーレイが彫ったナキネズミ。
 トォニィが生まれたお祝いに作って、プレゼントしてあげたナキネズミで…。
 いったい何処がナキネズミなの、って思っていたけど、今日のウサギで分かったよ。あの石の中にはウサギが入っていたらしい、って聞いて来たから。
 宇宙遺産のウサギになった木、ウサギが入った木だったんだよ。…あの石と同じで。
 ウサギになりたい、って思っていたのに、前のハーレイが無理やり彫ったから…。
 木の声は少しも聞いてあげずに、中にいるものも探さないままで…。
 ハーレイ、自分が彫りたいものが出来たら、好きなように彫っていたんでしょ?
 あの木もそうだよ、中にはウサギが隠れてたのに…。ウサギになりたい木だったのに…。
 トォニィにナキネズミを贈るんだ、って決めて勝手に彫っていくから…。
 ウサギの木なのに、ナキネズミにしようと思ってどんどん彫っちゃったから…。



 それでウサギになったのだ、と今のハーレイに向かって詰った。彫刻家の魂を持っていなかった前のハーレイを。実用品なら上手に彫れても、芸術品はまるで駄目だった彫刻家を。
「ハーレイが酷いことをするから、ウサギも酷い目に遭ったんだよ…!」
 いい彫刻家と出会えていたなら、ちゃんと最初から素敵なウサギになれたのに…。
 前のハーレイに捕まってしまったお蔭で、ナキネズミにされそうになっちゃって…。そんなの、ウサギも嫌だろうから、頑張ったんだよ。
 ハーレイがせっせと彫ってる間に、必死に抵抗し続けて。「ウサギになるんだ」って。
 うんと頑張って暴れ続けて、なんとかウサギになれたんだと思う。…下手なウサギだけど。
 でも、ナキネズミにされちゃうよりかはずっといいよね、ウサギなんだから。
 下手くそな出来のウサギでもね、と赤い瞳を瞬かせた。「ナキネズミにされるよりはマシ」と。
「おいおいおい…。そういう話になっちまうのか?」
 俺はナキネズミを彫ったというのに、ウサギなんだと思われちまって…。今もやっぱりウサギのままで、宇宙遺産にされちまってて…。
 あれが悔しいと思っているのに、お前はウサギだと言いたいのか?
 俺はナキネズミを彫ったつもりでも、出来上がったものは、木の中にいたウサギなんだと…?
 正真正銘、ウサギなのか、とハーレイが目を丸くするから、「そうだけど?」と返してやった。
「あれはウサギだよ、何処から見ても。…誰が見たってウサギだものね」
 そうなっちゃうのも当然だってば、元からウサギなんだから。…木の中に隠れて、ウサギになる日を待っていたウサギだったんだから。
 ヒルマンに彫ってあげたんだっていう、フクロウの木彫りだってそうでしょ?
 トトロにしか見えないフクロウだったけど、あれもハーレイが無茶をしたからだよ!
 本当はトトロになりたかった木を、フクロウにしようと彫ったから…。
 フクロウが出来上がるわけがないよね、木の中にいたのはトトロなんだもの…!
 どれもハーレイが悪いんだよ、と恋人の顔を睨み付けた。「木の声を聞いてあげないから」と。
「ちょっと待ってくれ。ウサギはともかく、トトロはだな…」
 トトロは子供向けの映画で、それに出て来たオバケに過ぎん。トトロは実在してなくて…。
「でも、魂はありそうじゃない!」
 魂があったら、ちゃんと神様が入れてくれるよ。木の中にも、石の中にもね…!



 前にハーレイに見せて貰った、遠い昔のトトロの映画。断片しか残っていない映画だけれども、ハーレイの記憶に刻まれた中身は温かかった。人間が自然を愛していた頃、思いをこめて作られた映画だったから。
 SD体制の時代までデータが残ったほどだし、オバケのトトロにも、立派に魂が宿っていそう。
 地球が滅びてしまった後にも、神様の手で拾い上げられて。…壊れないように守られて。
 白いシャングリラの中で育った、木にまで入り込むほどに。トトロになりたいと願う木の塊が、あの船の中にも生まれるほどに。
「うーむ…。トトロが入った木だったと言うのか、俺がフクロウを彫っていた木は?」
 ヒルマンがフクロウを頼んで来たから、腕によりをかけて彫ろうと選んだ木だったんだが…。
 あれの中にはフクロウはいなくて、代わりにトトロがいたんだな?
 でもって、トォニィにナキネズミを彫ってやった木には、ウサギが入っていやがった、と…。
 どっちも中身が外に出たがるから、フクロウはトトロになってしまって、ナキネズミはウサギに化けたってか…?
 俺の彫刻が下手だったのは、俺が選んだ木に入っていたヤツらのせいか…?
 フクロウもナキネズミも、そのせいで変になっちまったのか、とハーレイが嘆くものだから…。
「自業自得って言うんでしょ、それ。…木の声を聞いてあげないんだもの」
 何になりたいと思っている木か、ちゃんと聞いてから彫っていたなら、前のハーレイでも上手く彫ることが出来たんじゃないの?
 スプーンやフォークは上手に彫れたし、不器用だったわけじゃないんだから。
 だけど、芸術品は無理。…木の声を聞いてあげもしないし、中にいるものも探さないんだもの。
 これが本物の彫刻家の人たちだったら、きちんと探して彫るんだものね?
 ぼくが見て来たウサギもそうだよ、趣味の彫刻らしいけど…。コンクールに出しても、賞とかは取れないみたいだけれども、とても上手に出来てたってば。今にも跳ねて行きそうなほどに。
 あれを彫った人は、ちゃんと「石の中にウサギがいる」って見抜いていたんだよ…?
 ウサギの石だって分かってたんだよ、それでウサギを彫ったんだよ…!
 同じ趣味でも、前のハーレイのとは大違い。
 石の声を聞いて、中に隠れたウサギを見付けて、きちんと出してあげたんだから。
 ウサギになりたい木を捕まえて、ナキネズミにしようとしたハーレイとは違うんだから…!



 ホントのホントに大違いだよ、と下手な彫刻家だった恋人を責めた。「あんまりだよ」と。
 ウサギになりたかった木や、トトロになりたいと思っていた木。そういう木たちの声を聞こうとしないで、好き勝手に彫ろうとしたハーレイ。
 それでは木だって可哀相だし、出来上がった彫刻も可哀相。ウサギになろうと思っていたのに、「ナキネズミだ」と主張されるとか、トトロなのにフクロウにされるとか。
「ぼくだったら、悲しくて泣いちゃうよ…。自分が自分じゃなくなるだなんて…」
 ウサギに生まれたのにナキネズミだとか、トトロだったのにフクロウだとか。…悲しすぎるよ。
 宇宙遺産になったウサギは、みんなが間違えてくれたお蔭で、ちゃんとウサギになれたけど…。
 でも、ハーレイは今も「ナキネズミだ」って言うんだから。…本当はウサギの筈なのに。
 ハーレイに木の声が聞こえていたなら、そんなことにはならないんだよ…?
 出来上がった彫刻も褒めて貰えて…、と尖らせた唇。「前のハーレイ、ホントに酷すぎ」と。
「…要するにお前は、前の俺は彫刻家として、失格だったと言いたいんだな?」
 彫ろうと向き合った木の声が聞こえる才能が無くて、木の中身だって見えなくて。
 中身はウサギだと気付きもしないで、そいつで無理やりナキネズミを彫ろうと悪戦苦闘していた大馬鹿野郎。…そんなトコだろ、木の魂に逆らっちまって、下手なヤツしか彫れない人間。
 彫刻家としては失格な上に、才能の欠片も皆無だった、と。
 やらない方がマシな趣味だと言うわけか、とハーレイが眉間に寄せた皺。「下手だったが」と。
「スプーンやフォークは上手だったし、やらない方がマシだとまでは言わないけれど…」
 だけどウサギやトトロなんかは、芸術性の欠片も無いから…。
 その割に、ウサギが残っているけど…。百年に一度の特別公開、大人気のウサギなんだけど…。
 博物館をぐるっと取り巻く行列が出来るらしいもんね、と思い浮かべた宇宙遺産のウサギ。今はウサギとして知られている、キャプテン・ハーレイが彫ったナキネズミ。
「宇宙遺産のウサギだったら、立派なもんだぞ。…名前が少々、不本意だが」
 俺はナキネズミを彫ったというのに、ウサギだなんて間違えやがって…。今もそのままで…。
 とはいえ、芸術は後世に残ってこそだし、前の俺にも才能ってヤツがきちんとだな…。
「あったって言うの? あれが今でも残っているのは、ウサギが出て来てくれたからでしょ!」
 ハーレイがナキネズミにしようとしたって、ウサギになろうと頑張ったウサギ。
 ナキネズミだったら宇宙遺産になるのは無理だ、ってハーレイも言っていたじゃない…!



 宇宙遺産のウサギは、ミュウの子供が沢山生まれるようにという祈りがこもった大事なお守り。
 ウサギは豊穣と多産のシンボル、皆が勘違いをしてしまったから、ウサギは残った。宇宙遺産の指定を受けて、博物館に収められて。
 ただのナキネズミの木彫りだったら、オモチャとして扱われただろう。宇宙遺産になって残りはしないで、時の流れに消えていたのに違いない。
 ウサギにしか見えなかったお蔭で、ナキネズミの木彫りは今まで残った。前のハーレイがいくら頑張って「ナキネズミにしよう」と彫り進めたって、「ウサギになりたい」と思った木。
 彫ろうとしている木の声も聞かない、酷い彫刻家の腕にも負けずに、表に姿を現したウサギ。
「あのウサギが頑張ってくれたお蔭で、前のハーレイの彫刻が今でも残ってるんだよ」
 ナキネズミにされてたまるもんか、って、諦めないで、ちゃんとウサギになったから。
 ウサギに見える姿を手に入れたから、宇宙遺産のウサギなんだよ。
 木の中にいたウサギに感謝してよね、ハーレイの才能だなんて言わずに。無理やりナキネズミにしようとされても、ウサギは頑張ったんだから。
「…俺の腕ではないってか?」
 宇宙遺産のウサギがあるのは、前の俺が心をこめて彫ったお蔭だと思うんだが…。
「違うよ、木の中のウサギのお蔭!」
 ウサギが隠れていてくれたことと、頑張って表に出てくれたこと。その両方だよ、あのウサギが今も宇宙に残っている理由はね…!
 いつか本物の宇宙遺産のウサギに会えた時には御礼を言わなきゃ、とハーレイに注文をつけた。
 展示ケースの前に立ったら、「出て来てくれてありがとう」と。
 木の中のウサギが出て来たお蔭で、立派に宇宙遺産になれたし、今でも残る芸術だから。彫ったハーレイの腕はどうあれ、美術の教科書にも載るほどだから。
「御礼を言えって言われてもだな…。俺にとってはナキネズミだが…」
 あれは断じてウサギじゃなくてだ、ナキネズミというヤツなんだが…?
 訂正できる機会が無いだけだ、とハーレイは不満そうだけれども。
「ウサギになったから、宇宙遺産になって今まで残れたんでしょ!」
 ナキネズミじゃ残れないんだから!
 ただのオモチャの一つなんだし、何処かに消えて行方不明でおしまいだから…!



 絶対、残っていないからね、とハーレイに言葉をぶつけてやった。「残るわけが無いよ」と。
 木彫りのオモチャのナキネズミなどは、実際、残りそうにないから。
「しかしだな…。俺はナキネズミを彫ったのに…」
 そいつをウサギにされちまった上に、そのウサギにだな…。
 御礼を言わなきゃいけないのか、とハーレイは呻いているけれど。情けなさそうな顔をしているけれども、ナキネズミは今もウサギ扱い。前のハーレイが彫った頃から、ずっと。
 木の中のウサギの声も聞かずに、ナキネズミにしようと彫ったから。…ウサギらしい姿になってきたって、強引に彫った結果だから。
(木の声を聞いてあげもしなかった、酷い彫刻家が悪いんだしね?)
 ナキネズミがウサギになってしまうのは当たり前だし、悪いのは前のハーレイだと思う。
 それに、そんな彫刻家の作品が今まで残っているのも、木の中にいたウサギのお蔭。懸命に声を上げていたって、ナキネズミにされてゆくだけだから、と抵抗を続けたウサギが強かったお蔭。
 いつか本物の彫刻に会えた時には、ハーレイが何と文句を言っても、御礼を言おう。
 「出て来てくれてありがとう」と。
 前のハーレイがナキネズミにしようと彫り続けても、ちゃんと姿を見せたウサギに。
 ナキネズミにならずに、ウサギの姿になったウサギに。
 お蔭で、前のハーレイがトォニィのために作った木彫りを、今の自分が見ることが出来る。赤いナスカでは深い眠りの中にいたから、見そびれてしまったのだけど。
 とても下手くそな木彫りを眺めて、「ウサギだ」「いやいやナキネズミだ」と喧嘩も出来る。
 「ナキネズミだ」と譲ろうとしないハーレイと二人、傍から見たなら馬鹿みたいな喧嘩を。
(…ウサギに、御礼を言わなくちゃね…)
 今の時代まで宇宙遺産になって残れたのは、木の中のウサギのお蔭だから。
 ハーレイは無視して彫ったけれども、ウサギが頑張ってウサギの形になってくれたから。
 木の中に隠れていたウサギ。なりたかった姿を手に入れたウサギ。
 それにペコリと頭を下げよう、ハーレイが隣で「ナキネズミだぞ?」と低く唸っていても…。



              彫刻家と魂・了


※前のハーレイが作った、宇宙遺産の木のウサギ。実はナキネズミだったそうですが…。
 ウサギの形になったのは、木の中に隠れていた魂のせいかも。ウサギの姿になりたかった木。
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(お白粉…)
 昔は有毒だったんだ、とブルーが驚いた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 記事に添えられている、昔の美女の絵。多分、江戸時代の浮世絵だろう。誰が描いたものかは、新聞には書かれていないけれども。
 髪を結い上げた、白い肌の女性。今の感覚だと「美人なの?」と思うけれども、その時代ならば絶世の美女。だからこそ絵のモデルにもなる。女性の肌は雪のように白い。
(色の白いは七難隠す、って…)
 言われたくらいに、白い肌が美しいとされていた時代。
 当時の日本は小さな島国、おまけに鎖国をしていたほど。白人の血などは殆ど入って来なくて、日本人と言えば黄色人種。けして「白い」とは呼べない肌。肌が白くても、白人ほどには。
(この絵の人は真っ白だけど…)
 実際、真っ白だったという。まるで雪のように、白い絵具を塗ったかのように。
 その白い肌の秘密が「お白粉」。白い粉を溶いて、肌にたっぷりと塗り付けた。黄色人種の肌の色など、欠片も見えなくなるように。顔はもちろん、首にも、襟元から覗く胸にまで。
(そうすれば、誰でも真っ白な肌で…)
 素晴らしい美人になれるのだけれど、お白粉には毒が含まれていた。
 材料だった鉛の中毒、肌から身体に回ってゆく毒。本人の身体を蝕むばかりか、赤ん坊の乳母をしていた場合は、その子供にまで。
 胸元まで塗り付けられたお白粉、それを飲んでしまう赤ん坊。お乳と一緒に、何も知らずに。
 鉛の中毒は恐ろしいもので、毒が全身に回った時には命も失くしてしまったという。
(…そんな…)
 お化粧で命を落とすなんて、と思うけれども、誰もやめようとはしなかった。お白粉の毒が原因なのだと分かった後にも、やめずに使い続けた人たち。
(鉛のお白粉の方が、肌に綺麗にのびるから…)
 鉛を含まないお白粉なんて、と使いたがらなかった人が多かった。命よりも肌が大切だ、と。
 そんな時代だから、女性ばかりか、役者も鉛の中毒になった。舞台に立つには、白い肌がいい。より美しく、と鉛の毒を知っても使い続けたという。「美しい」ことが役者の仕事だから。
 女性も役者も、まさに命懸けだった白い肌。お白粉の毒で、命を落としてしまった時代。



 なんてことだろう、と震え上がった。記事に添えられた浮世絵の美女も、お白粉で命を落とした可能性がある。こうして浮世絵に描かれた後には、鉛の中毒になってしまって。
 其処まで誰もが追い求めていた「白い肌」。
 当時の日本で生きた人なら、肌は「真っ白ではない」ものなのに。お白粉で覆い隠さない限り、何処か黄色くなるものなのに。
 どんなに肌が白い人でも、白人の肌には敵わない。黄色人種に生まれた以上は。
(ぼくだと、生まれつき真っ白だけど…)
 今の自分は、色素を全く持たないアルビノ。まるで色素を持っていないから、肌は真っ白、瞳も赤い。瞳の奥を流れる血の色、それを映した透き通る赤。
(昔の日本人だって…)
 こういうアルビノに生まれて来たなら、理想の肌を手に入れただろう。七難隠すという肌を。
(だけど、肌だけ白くても…)
 他が駄目だよ、と眺める浮世絵。古典の授業で教わるように、「緑の黒髪」が美女の条件。緑と言っても色とは違って、艶やかさをそう表すだけ。本当の髪の色は黒。夜の闇のように黒い髪。
(アルビノだったら、髪の毛が黒くなくなっちゃって…)
 瞳の色も黒くなくなる。昔の日本人が見たなら、そういう女性は美人どころか…。
(雪女みたい、って怖がられちゃった…?)
 人間離れしているのだから、どれほど美しい顔立ちでも。肌が雪のように白くても。
 それでは駄目だ、と思うアルビノ。「昔の日本じゃ、誰も相手にしてくれないよね」と。
 真っ白な肌を持つのがアルビノだけれど、自分のようなミュウに生まれなかったら、アルビノはとても大変らしい。今の時代は誰もがミュウだし、誰も困りはしないのだけれど…。
(お日様に当たったら、肌は火傷で…)
 日焼けくらいでは済まなかった。真っ赤に焼けて、時には火ぶくれが出来たほど。
 だから極力、避けた日光。日焼け止めを塗って、帽子を被って、手足も出来るだけ服で覆って。
(昔だったら…)
 やっぱり真っ白な肌は大変。
 お白粉の毒は無関係でも、場合によっては。
 色素を持たないアルビノに生まれてしまった時には、弱すぎる肌を守らなければいけないから。



(お化粧だって、怖い時代があったんだね…)
 鉛の中毒になっちゃうなんて、と驚かされた昔のお白粉。今日まで全く知らなかった。
 今はもちろん、何の心配も無いけれど。お化粧品を使っていたって、どれも安全なものばかり。
 遥かな昔に「身体に悪い」と騒がれたらしい、太陽からの紫外線だって…。
(ミュウには、なんの危険も無いから…)
 まるで問題にはならない時代。夏の日盛りに外を歩いていたって、日が燦々と照ったって。
 身体の中を流れるサイオン、それが防いでいる紫外線の害。遠い昔は恐れられたもの。
(日焼けしちゃったら、皺が増えるって…)
 そう言われた時代もあったらしいけれど、今の時代は日焼けしたって、老化したりはしない肌。ミュウは外見の年齢を止められるのだし、若い姿で年を止めれば、若いまま。
(顔だけ若くて、皺が増えちゃう人もいないし…)
 やはりサイオンは凄いと思う。アルビノの自分が、太陽の下でも平気なのと同じ。
 夏になったら、日焼けしている人だって多い。子供でなくても、大人でも。
(お休みを取って、海とか山とか…)
 出掛けて行って太陽を浴びて、すっかり日焼け。腕に半袖の跡がつく人や、水着の跡がくっきり残る人たちもいる。太陽の下で過ごした証拠で、本人たちは至って満足。
 夏だけでなくて、一年中、日焼けで真っ黒な人も少なくはない。
 きっと太陽が照っている時に、せっせと外でジョギングや散歩。そうして自慢の日焼けを保つ。日差しが弱い冬になっても、「今の内だ!」と外に飛び出して行って。
(真っ白よりかは、日焼けした方が…)
 健康的に見えるものね、と自分だって思う。青白い肌より、断然、小麦色の肌。
 アルビノの自分には無理だけれども、友達はみんな、自分みたいな「真っ白な肌」の代わりに、適度に日焼け。…夏になったら。
 夏でなくても白すぎはしなくて、「男の子らしい」肌の色だから。



 ああいう肌の方が健康的だよ、と新聞を閉じて、戻った二階の自分の部屋。空になったカップやお皿を、キッチンの母に返してから。
(夏になったら、友達はみんな…)
 日焼けしているし、それ以外の季節も自分のように白くはない。「色の白いは七難隠す」という言葉は女性向けだから、男の自分が真っ白な肌をしていても…。
(江戸時代でも、誰も褒めてはくれないかも…)
 役者になって舞台に立つなら、「お白粉無しでも白い肌」だけに、大人気かもしれないけれど。顔もこういう顔立ちだから、女性を演じる「女形」になっていたならば。
 けれど自分は「今」の生まれで、江戸時代などに生きてはいない。真っ白な肌でも、いいことは何も無さそうな感じ。ひ弱に見えるというだけで。
(ぼくが日焼けをしていたら…)
 どんな風だろう、と壁の鏡を覗いてみた。もっと健康的に見えるか、悪戯っ子のようにも見えるだろうか、と。
 前にも少し、考えたことがあるけれど。…あの時はハーレイと二人だった。
 今日は一人だし、鏡の向こうをじっと眺めて、自分の顔の観察から。日焼けしている肌を持った自分は、どんな具合になるのだろうか、と。
(んーと…?)
 今と同じに銀色の髪でも、まるで違ってくる印象。肌の色が白くなかったら。
 際立って見える赤い瞳も、肌が日焼けをしていたならば、今ほどには目立たないだろう。周りの肌色に溶けてしまって、「赤かったかな?」と思われる程度で。
(今だと、みんな振り返るけど…)
 銀色の髪に赤い瞳で、ソルジャー・ブルー風の髪型の子供。すれ違ったら、誰もが驚く。本物のソルジャー・ブルーみたいだ、と振り返って見たりもするのだけれど…。
(日焼けしてたら、もうそれだけで…)
 ソルジャー・ブルーとは変わる印象。同じ髪型でも、銀の髪でも。
(ああいう髪型の子供なんだ、って…)
 眺めて終わりで、瞳の色にも気付かないまま、通り過ぎる人も多いと思う。真っ白な肌なら赤い瞳は目立つけれども、小麦色の肌に赤い瞳だと、「茶色かな?」と思われたりもして。



 光の加減で瞳の色が違って見えるのは、よくあること。それと同じで、肌の色でも起こりそうな錯覚。白い肌なら赤く見える瞳が、小麦色の肌なら茶色っぽく見えてしまうとか。
(同じぼくでも、日焼してたら、かなり違うよ…)
 ホントに違う、と勉強机の前に座って考えてみる。「日焼けした自分の姿」というのを。今とは全く違う肌の色、真っ白な肌でなかったならば、と。
(アルビノなんだし、日焼けは難しそうだけど…)
 小麦色の肌など夢のまた夢、ほんのりと肌に色がついたら、それだけで上等だという気がする。真っ白な肌を少しだけでも、普通の肌色に近付けられたら。
(そうなったら、うんと健康的…)
 自然に作れる肌の色はそれが限界でも、お化粧したなら、小麦色の肌にもなれるだろう。太陽の光をたっぷりと浴びて、こんがりと焼けた肌の色に。
 遠い昔の人たちは「白い肌になりたい」と願ったけれども、その逆で。
 鉛の毒を含んだお白粉、身体に毒だと分かった後にも、「白くなりたい」と使い続けた日本人。彼らとは逆に、真っ白な肌を日焼けした色に変えてみる。お白粉とは違う、化粧品で。
(いろんな色があるもんね?)
 肌に乗せてゆく化粧品。母がドレッサーの前で使っているもの。
 元の肌の色に合わせて選ぶようだけれど、きっと色々な色がある筈。同じ人でも、日焼けしたら色が変わるから。日焼けする前の化粧品だと、それまでの肌の色には合わない。
(日焼けの色を隠したいなら、そのままの色でいいけれど…)
 こだわる人なら、買い替えたりもするのだろう。「今の肌なら、この色がいい」と。
 それから、生まれつきの肌の色も様々。自分みたいなアルビノもいれば、とても濃い色の人も。
(ブラウみたいに黒い肌だと、そういう色の…)
 化粧品が売られていると聞いたことがある。白くなるための化粧品ではなくて、黒い肌をもっと美しく見せるためのもの。艶やかになるのか、どう変わるのかは知らないけれど。
(黒い肌でも、そうなんだから…)
 ハーレイのような褐色の肌でも、それに合わせて様々な色合いの化粧品。
 褐色の肌を引き立たせるとか、逆に控えめに見せるとか。真っ白にするのは不自然だとしても、ほんの少しだけ控えた褐色。それだけで印象が変わるだろうから。



 思い浮かべた、褐色の肌を持つ恋人。前の生から愛した人。
(ハーレイかあ…)
 青い地球の上に生まれ変わった今も、褐色の肌を持つハーレイ。前のハーレイと全く同じに。
 あの褐色の肌は、とてもハーレイに似合うと思う。柔道も水泳もプロ級の腕を持っているから、なんとも強くて逞しい感じ。
(夏に半袖を初めて見た時は、ドキッとしたし…)
 柔道着を着たハーレイだって、かっこいい。褐色の肌をしているお蔭で、より強そうに見えると思ってしまう。日焼けした人が健康的に見えるのと同じで、あの褐色も「元気の色」。
(ハーレイの肌が、あの色だから…)
 自分が日焼けした肌になったら、ハーレイの横に並んで立てば似合うだろうか?
 二人で街を歩いていたなら、「お似合いのカップル」だと誰もに思って貰えるだろうか…?
(今のぼくだと、全然違う色なんだけど…)
 お白粉も塗っていないというのに、雪のように白い色素の無い肌。アルビノだから、もう本当に真っ白でしかない肌の色。
 そんな自分があのハーレイと並んでいたら、とても弱そうに見えることだろう。空に輝く太陽の日射し、それを浴びてもいないような肌。
(お日様の下で散歩をしたり、ジョギングしたり…)
 そういった運動などとは無縁の、ひ弱な人間。肌の色だけで、そう思われそう。
 実際、弱く生まれたけれども、それ以上に弱く見えるアルビノ。…肌の色が白いというだけで。小麦色の肌になれはしなくて、日焼けしたとしても、ほんのちょっぴり。
(このままだったら、そうなるけれど…)
 化粧品を使って「日焼けした肌」を作り出したら、ガラリと変わるだろう印象。銀色の髪と赤い瞳は同じままでも、今とは違って見える筈の姿。
 「日焼けした肌」でハーレイと一緒に歩いていたなら、健康的なカップルだと思って貰えそう。二人とも運動が好きなカップル、ジョギングだとか、水泳だとか。
(ハーレイ、ひ弱な恋人を連れているんじゃなくて…)
 趣味のスポーツで知り合ったような、元気一杯の恋人とデート。傍目にはそう映るのだろう。
 真っ白な肌の自分でなければ、「化粧した肌」でも、日焼けした肌の恋人ならば。



 そんな話もしたんだっけ、と思い出す。ハーレイと二人で、「ぼくが日焼けしたら?」と。
 あの時は、自然な日焼けばかりを考えていた。海に出掛けて日光浴とか、ハーレイが引っ張ってくれるゴムボートに乗って沖まで出掛けて、その間に日焼けするだとか。
 化粧品などは思いもしなくて、日焼け止めとか、日焼け用のオイルの話をしただけ。化粧品など縁が無いから、そうなって当然なのだけど。
 けれども、今日の自分は違う。お白粉の記事を読んだお蔭で、化粧品というものに気が付いた。黒い肌でも、褐色の肌でも、それに似合いの化粧品がある。
(ぼくみたいな肌でも、小麦色になれる化粧品…)
 きっと売られているだろうから、それを使えば出来上がるのが日焼けした肌。アルビノの自分の限界を越えて、ほんのりとした日焼けよりもずっと、こんがりと小麦色の肌。
 化粧品で日焼けした肌を作ってみようかな、と思っていた所へ、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。ぼくが日焼けしてたら、どう思う?」
 うんと元気な子供みたいに、小麦色に。…夏になったら沢山いるでしょ、日焼けした子供。
 大人の人でも大勢いるよね、ああいう肌をした、ぼくはどう?
 今じゃないけど…。前のぼくと同じ背丈に育って、ハーレイとデートに行ける頃だけど。
「日焼けって…。しかも、小麦色ってか?」
 ハーレイは目を丸くした。「この前も言ったが、こんがり焼くのは無理ってモンだろ」と。どう考えても無理に決まってる、というのがハーレイの意見。「太陽で火傷しちまうぞ」と。
「分かってるってば、ぼくだと火傷しちゃうってことは…」
 ほんのちょっぴり日焼けするだけでも、きっと火傷をしちゃうんだよ。真っ赤になって、痛くて皮も剥けちゃって…。それでもいいから、って頑張ったって、日焼け出来るのは少しだけ。
 だからホントに小麦色になるのは無理だけど…。
 どう頑張っても無理だけれども、お化粧品を使えば出来るよ。ぼくだってね。
「化粧品だと?」
 いったい何を使うと言うんだ、日焼け止めだと日焼けを防いじまう方だぞ?
 日焼け用のオイルは、肌を保護してくれるモンだが…。
 そいつを何度も塗り重ねたって、お前の肌だと、小麦色にはなれそうもないが…?



 その前に痛くて泣いちまうんだ、とハーレイは呆れたような顔。「無茶はいかんぞ」と。
「お前は、日焼けで泣いた経験、無いらしいから…。その分、余計に大変だ」
 普通はチビの間に泣いて、日焼けで痛くなっちまうのを避けるサイオンを身につけるんだが…。
 お前の場合はそうじゃないだろ、身体が大きくなっているから、痛い部分も増えるんだぞ?
 子供の背中と大人の背中じゃ、大きさがまるで違うんだから。
 小麦色の肌など、アルビノの身体じゃ無理なんだし…。やめておくんだな、そんな挑戦。
 結果はとっくに見えてるじゃないか、とハーレイが言うから、首を横に振った。
「ホントに焼くって言っていないよ、お化粧品って言ったじゃない」
 昔のお白粉の逆だってば。
 今日の新聞に載っていたんだよ、ずっと昔はお白粉に毒があったんだ、って…。鉛の毒が入ったお白粉。肌が白いほど美人なんだ、って思われてたから、鉛の中毒が多かった、って…。
「おっ、そんな記事が載ってたか?」
 化粧も命懸けだった時代の話だよなあ、毒だと分かっちまった後は。…きっとその前から、何か変だと思っていた人はいたんだろうが…。
 鉛入りのお白粉は毒なんだ、と分かった後にも、使いたいヤツが大勢いたのが凄い所だ。
 人間、綺麗になるためだったら、命も惜しくないのかもなあ…。
 俺にはサッパリ分からんが、とハーレイがフウと零した溜息。「何も其処までしなくても」と。
「ぼくも分からないよ。いくら綺麗だって褒めて貰っても、死んじゃったらおしまい…」
 生まれ変わって来られた時には、記憶は無くなっちゃってるから。…ぼくたちみたいに、神様が奇跡を起こしてくれない限りは。
 それなのに命懸けでお化粧なんて、って考えていたら、日焼けの方に頭が行っちゃって…。
 ぼくだと生まれつき真っ白だけれど、お化粧したら違う色にもなれるよね、って思ったんだよ。
 肌の色って色々あるでしょ、ハーレイみたいな褐色だとか、ブラウみたいな黒だとか…。
 どんな肌でも、それに合わせたお化粧品があるものね…?
「確かにあるなあ、黒い肌だとビックリだよな」
 何度も見てるが、化粧をしようと取り出すケース。…なんて呼ぶんだか、小さな鏡つきのヤツ。
 あれの蓋をパカッと開けてみるとだ、中身がちゃんと真っ黒なんだ。
 顔にパタパタはたいてるんだが、俺が見たってよく分からん。化粧する前と、どう違うのか。



 学生時代によく見たもんだ、とハーレイは懐かしそうな顔。柔道も水泳も、あちこちの地域から選手が来るから、黒い肌の女性もいたという。
 試合で汗を流した後には、着替えて懇親会などもあった。其処で見ていた化粧する女性。
「そっか…。やっぱり黒い肌だと、お化粧品だって黒いんだよね?」
 だったら小麦色のもあるでしょ、日焼けしている人用に。…顔だけ違う色にならないように。
 ぼくが言うのは、そういうお化粧品のこと。それを使えば、ぼくだって小麦色の肌になれるよ。うんと健康的な感じで、ハーレイと並んだら絵になりそう。
 スポーツで知り合ったカップルみたいで、ハーレイの恋人にピッタリじゃない…?
 真っ白な肌のぼくよりも、と自信たっぷりで提案した。「ちゃんとお化粧すればいいよね」と。きっと賛成して貰えるだろう、と考えたのに…。
「お前なあ…。健康的なカップルってヤツは、ともかくとしてだ…」
 俺の気持ちはどうなるんだ?
 小麦色の肌に見えるよう、化粧しているお前を連れてる、俺の気持ちは…?
 ちゃんと其処まで考えたのか、と問い掛けられた。「俺の気持ちまで考えてるか?」と。
「え? ハーレイの気持ちって…」
 それならきちんと考えたってば、やっぱり絵になる方がいいでしょ?
 真っ白な肌で、見るからに弱そうなぼくを連れているより、元気一杯に日焼けしている、ぼく。
 ハーレイは運動が大好きなんだし、そういうぼくが好きだよね、って…。
 ひ弱に見えるぼくよりも、と瞳を瞬かせた。中身は変わらず弱いままでも、見た目だけでも健康そうなら、ハーレイに似合いの恋人だから。
「何を考えているんだか…。お前らしいと言ってしまえば、それまでだがな」
 いいか、俺は今のままのお前が好きなんだ。…今のお前が。
 間違えるなよ、チビのお前っていう意味じゃない。チビなのは横に置いておいて、だ…。
 俺はアルビノのお前が好きだと、前にも言ったと思うがな?
 前のお前が成人検査で失くしちまった、金色の髪と水色の瞳。それを知ってはいるんだが…。
 俺がこの目で見ていたお前は、出会った時からアルビノだった。金色と水色のお前は知らない。
 だから、お前はアルビノに限る。…アルビノだからこそ、俺が知ってるお前なんだ。
 なのに日焼けをするって言うのか、わざわざ化粧で小麦色の肌に…?



 それはお前の姿じゃないぞ、とハーレイは少しも喜ばなかった。小麦色の肌の恋人になったら、とてもハーレイに似合うのに。…ひ弱な恋人を連れているより、絵になるのに。
「日焼けした、ぼく…。小麦色の肌のぼくだと、駄目なの…?」
 本当に日焼けするんじゃないから、ぼくは「痛い」って泣いたりしないよ?
 出掛ける前に、お化粧するのに時間がかかるかもしれないけれど…。でも、今のぼくより、肌の色はずっと、丈夫そうな感じになるんだから…。
 いいと思うよ、と重ねて言った。本物の日焼けは大変な上に、小麦色の肌にもなれそうにない。けれど化粧をするなら簡単、そのための時間を取りさえしたら。
「小麦色の肌になったお前か…。試してみたいと言うんだったら、止めはしないが…」
 化粧をするって手もあるんだが、俺としては白い肌のままのお前がいいな。
 そういうお前しか知らない、ってことは抜きにしたって、真っ白な肌のお前がいい。健康そうに日焼けしている、小麦色の肌のお前よりもな。
 断然、白だ、と一歩も譲らないハーレイ。「白い肌のお前の方がいい」と。
「どうして? …なんで、白い肌のぼくの方がいいわけ?」
 白い肌だと、誰が見たって弱そうにしか見えないよ?
 普通に白いだけならいいけど、ぼくはアルビノなんだから。…少しも色が無くて、真っ白。
 そんな色のぼくを連れているより、小麦色の肌が良さそうだけど…。お化粧で小麦色に見せてるだけでも、本当は真っ白な肌のままでも。
 ちゃんと上手にお化粧をすれば、きっと自然に見えるから…。お化粧だなんて、バレないから。
 そういうぼくと並んでいたら、絶対に絵になりそうなのに…。
 弱そうなぼくとデートするより、ハーレイだって鼻高々だと思うんだけど…。
 元気そうな恋人の方がいいでしょ、と繰り返した。柔道と水泳で鍛えた今のハーレイ。その隣に並んで歩くのだったら、同じように鍛えていそうな恋人、と。
 身体が華奢に出来ていたって、日焼けしていれば印象は変わる。「細いけれども、強いんだ」と勘違いだってして貰える。「ああ見えてもきっと、スポーツが上手いに違いない」と。
「俺はそのようには思わんが?」
 柔道部のヤツらを連れて歩くのとは違うんだ。…誰と歩こうが俺の勝手で、俺の趣味だぞ。
 俺が「素敵だ」と思ったからこそ、連れて歩くのが恋人だろうが。



 それに、真っ白な肌のお前の方が守り甲斐がある、とハーレイは笑みを浮かべてみせた。
 「そう思わんか?」と。「小麦色の肌をしたお前だったら、そうはいかんぞ」とも。
「お前が元気一杯だったら、俺の出番が無くなるだろうが」
 化粧とはいえ、小麦色の肌になっちまったら、見た目は元気一杯だしなあ…。弱くはなくて。
 そんなお前を連れていたって、俺としては、あまり愉快じゃないぞ?
 お前と一緒なことは嬉しくても、さて、どう言えばいいんだか…。
 真っ白な肌のお前だったら、もう見るからに弱そうだしなあ、強い俺が守ってやれるんだが…。小麦色の肌で元気一杯のお前となったら、守る必要、無さそうだろうが。
 お前は充分、強いわけだし、俺の後ろに隠れる代わりに、一緒に戦いそうだから。
 今はすっかり平和な時代で、戦う敵など何処にもいないわけだが、イメージってヤツだな。
 強いお前だとそうなっちまうし、弱いお前の方がいい、とハーレイは至極真面目な顔。小麦色の肌の元気な恋人よりも、真っ白な肌の弱そうな恋人の方がいいのだ、と。
「弱いぼくがいいって…。そういうものなの?」
 ハーレイが連れて歩く恋人、見た目からして弱そうなのがいいの…?
「俺としてはな。そっちの方が俺の好みだ」
 恋人を守ってやれる強さを誇れるんだぞ、弱そうなのを連れてたら。…俺が守っているんだと。
 しかしだ、元気一杯で強そうなのを連れていたなら、大人しく守られていそうにないし…。
 俺が「隠れていろ」と言っても、「ぼくも戦う!」と出て来そうでな。
「でも、ハーレイには似合いそうだと思うんだけど…」
 一緒に戦いそうな恋人。…柔道の技で投げ飛ばすだとか、そういうことが出来そうな、ぼく。
 ハーレイも自慢できそうじゃない、と恋人の鳶色の瞳を見詰めた。今のハーレイはプロの道への誘いが来たほど、柔道も水泳も腕が立つ。とても強いのだし、それに相応しい恋人が似合い。
「そいつはお前の思い込みだな、残念ながら」
 お前が何と言っていようが、俺の考えは変わりやしない。周りのヤツらがどう見ようとも。
 「弱そうなのを連れているな」と思われたって、お前の肌はだ…。
 健康そうな小麦色より、今の真っ白な肌がいい。少し日に焼けても、火傷しそうな白いのが。
 そういうお前に俺は惹かれるし、わざわざ化粧で小麦色なんかにしなくても…。
 お前が納得いかんというなら、逆を想像してみるんだな。…逆のケースを。



 想像力を逆に働かせてみろ、と言われたけれども、分からない。逆というのは何だろう?
「…逆って?」
 逆のケースって、どんな意味なの?
 ぼくの肌の色は真っ白なんだし、逆になったら小麦色だよ。…もう何回も言ったけれども。逆にしたなら何だって言うの、ぼくが最初から小麦色の肌の子供っていう意味なの…?
 今のアルビノのぼくじゃなくって…、と自分の顔を指差したけれど、ハーレイは「逆だぞ?」と即座に否定した。「逆と言ったら、逆なんだ」と。
「よく考えてみるんだな。…幸いにして俺たちは、前の通りに生まれ変わって来たが…」
 お前も俺も、前とそっくり同じ姿になれる器を手に入れたんだが、其処の所が問題だ。
 さっきからお前は、自分のことばかり言ってるが…。アルビノよりも小麦色の肌だとか、化粧で小麦色の肌を手に入れるとか。
 そいつはお前の問題なんだが、もしもだな…。俺が白い肌だったらどうするんだ?
 お前はアルビノのままだったとしても、今の俺の肌が、褐色じゃなくて白い肌だったら…?
 真っ白なお前には及ばないにしても、白い肌をした人間ってヤツは幾らでもいるんだからな…?
 こういう肌の俺でなければどうなんだ、とハーレイが指先でトンと叩いた自分の手。前と少しも変わらない色で、とても馴染みの深い褐色。
 その肌の色が、この褐色ではなかったら。…白い肌に生まれたハーレイだったら、どうだろう?
(…顔立ちも身体も、前のハーレイと同じだけれど…)
 肌の色が白くなってたら…、と恋人の姿をまじまじと見た。
 眉間に刻まれた癖になった皺、それは同じでも、肌が白ければ見た目が変わる。鳶色の瞳を囲む肌だって、やはり同じに白くなる。武骨な手だって、逞しくて太い首筋だって。
「…なんだかハーレイじゃないみたい…」
 ハーレイの顔だけど、ハーレイじゃないよ。…肌の色が白くなっちゃったら。
 ぼくの知ってるハーレイじゃなくて、だけどやっぱりハーレイで…。ハーレイなんだけど…。
「よし。その俺の姿は、強そうに見えるか?」
 今の俺と少しも変わらないくらい、強そうな姿のハーレイなのか…?
「…強そうかって…。うーん…」
 どうなんだろう、白い肌でも、ハーレイには違いないんだけれど…。



 白い肌を持っている人間でも、強い人なら大勢いる。プロのスポーツ選手も沢山。
 だから「白い肌の人は弱い」などとは思わないけれど、それを見慣れたハーレイの身体で考えるならば、答えは違ってきてしまう。
 褐色の肌に慣れているから、その色が白くなったなら。…今よりもずっと薄い色になって、白い肌だと言える姿になったなら。
「…ハーレイが白くなっちゃったら…。逞しさ、ちょっぴり減っちゃうかも…」
 今とおんなじ強さのままでも、見た目が弱い気がするよ。ホントにそんなに強いのかな、って。
 日焼けした人と、していない人なら、日焼けした人の方が強そうに見えてくるのと同じで。
 …ハーレイの肌の色、日焼けなんかじゃないんだけれど…。
「ほら見ろ、お前もそうだろうが。ただし、俺とは逆なんだが」
 俺が同じ強さを持っていたって、肌の色一つで印象が変わる。強そうなのか、弱そうなのか。
 前の俺は柔道なんかは全くやっていなかったんだが、お前が知ってた俺はこういう姿だし…。
 白い肌になってしまっていたなら、お前、ガッカリしていたかもなあ…。再会した時に。
 ただのキャプテンでも、褐色の肌を持っていただけで、見た目の逞しさが何割かは増していたと思うし…。それがすっかり無くなっちまって、白い肌になった俺だとな。
 白い肌だと、弱いハーレイに見えないか、という質問。「前よりも腕は立つんだがな」と。
「そうなのかも…。なんだか弱くなっちゃったかも、って…」
 でも、ハーレイはハーレイなんだし、直ぐに慣れるよ。
 最初はビックリしちゃいそうだけれど、今のハーレイが強いってこともじきに分かるし…。
 ぼくなら少しも困らないってば、同じハーレイなんだもの。
 肌の色が前とは違うってだけで、顔立ちとかは前のハーレイとおんなじだから…。
 その内に慣れて平気になるよ、と言ったのだけれど、ハーレイは「そうか?」と返して来た。
「慣れてしまえば、それでいいのかもしれないが…」
 だが、どちらかを選べるんなら、元のままの俺がいいだろう?
 褐色の肌を失くしちまって白い肌になった、何処か弱そうに見える俺よりは。
 お前は強そうに見えた時代を知ってるんだし、その頃の俺と同じだったら、と思わんか…?
「うん…」
 選べるんなら、その方がいいよ。…白い肌より、褐色の肌をしたハーレイの方が…。



 肌の色で強さは変わらないけど、と頷いた。選べるものなら、褐色がいいに決まっているから。白い肌をしたハーレイよりかは、褐色の肌のハーレイがいい。
「分かったか? それと同じだ、俺の方もな」
 生まれ変わって健康的な小麦色の肌になったお前より、真っ白な肌のお前がいいわけで…。
 守り甲斐があるし、連れて歩きたいと思うお前は、真っ白な肌の弱そうなお前だ。
 お前がアルビノに生まれてくれてて、本当に良かった。
 弱い身体になっちまったのは可哀相だが、それでもやっぱり、今のお前が一番いい。…俺はな。
 日焼けしたお前に再会してたら、俺も途惑う。
 お前が白い肌をした俺に会うのと同じくらいに、いや、それ以上にショックだろうなあ…。
 健康的なお前だなんて、とハーレイが嘆きたくなるのも分かる。
 サイオンは不器用だったとしたって、とても健康に生まれていたなら、ハーレイには恋人を守ることが出来ない。「大丈夫か?」と気遣わなくても、健康そのもの。倒れもしなくて元気一杯。
「そうだよね…。パタリと倒れてしまいもしないし、病気で寝込んだりもしないし…」
 いつ見ても元気一杯のぼくで、ハーレイの隣ではしゃいでるだけ。…疲れもせずに。
 ハーレイはとてもガッカリだろうし、なんだか悪い気がするから…。
 そうなっていたら、ぼく、白くなろうと頑張ったかも…。
 ハーレイに前のぼくを見せたくて、せっせとお化粧するんだよ。白い肌で弱く見えるように。
 二人で並んで歩いてる時は、ひ弱な感じになるように。
 …命懸けでお化粧していた人の気持ちが、今、少しだけ分かったよ。
 ハーレイが喜んでくれるんだったら、命懸けでも、お化粧、するかも…。
 したくなるかも、と思った昔のお白粉。それが毒だと分かった後にも使い続けた、小さな島国で生きた人たち。肌を美しく見せるためにと、鉛が入っていた毒のお白粉を身体に塗って。
「命懸けで化粧するだって?」
 穏やかじゃないな、お前、何をするつもりなんだ…?
「さっきの話だよ、昔のお白粉…」
 毒なんだって分かっていたのに、使うなんて、と思ったけれど…。
 ハーレイに素敵なぼくを見て貰うためなら、ぼくだって使っちゃうのかも…。毒のお白粉でも。
「ああ、あれなあ…」
 そういう女性もいたかもしれんな、健気な人が。…毒でも、恋人に喜んで貰おうと使った人。



 命が懸かっていたとしたって、やはり気になるものなんだろうな、とハーレイが言う肌の色。
 遠い昔の日本の女性は、真っ白な肌が美人の条件だからと、毒のお白粉を使い続けた。少しずつ身体を蝕んでゆく鉛の毒に気付いた後にも、「これが一番いいお白粉だから」と。
 毒入りではない新しいお白粉、それが毒入りのものと変わらない品質になるまでは。
(…ハーレイのためなら、ぼくだって…)
 きっと使おうとするのだろう。小麦色に日焼けする肌に生まれていたなら、アルビノだった前の自分の真っ白な肌に近付けるために。
(…ぼくが小麦色の肌をしてたら、ハーレイだって気にするし…)
 いくら慣れても、前の自分の白い肌を思い出すだろう。「ブルーの肌はこうじゃなかった」と。それと同じに自分も気にする。「前のぼくなら、こうじゃない」と。もっと白い肌をしていたと。
(真っ白な肌に戻れるんなら、毒のお白粉でも使っちゃいそう…)
 前の通りであろうとして。ハーレイが今も見たいであろう、真っ白な肌を見せようとして。
「ねえ、ハーレイ…。ぼくがアルビノじゃない身体に生まれてしまってて…」
 すっかり日焼けしてしまってたら、白くなろうと頑張るけれど…。
 毒のお白粉は使わなくても、お日様に当たらないようにするとか、頑張って白くするけれど…。
 ハーレイが白い肌に生まれていたら、どうするの?
 ぼくと出会って記憶が戻っても、ハーレイの肌が今の褐色じゃなかったら…?
 どうすると思う、と尋ねてみた。褐色の肌を手に入れようと努力するのか、しないのか。
「俺の場合か? もちろん、日焼けしようとするな」
 元が白い肌がこの色になるまで、日焼けするのは大変そうだという気がするが…。
 化粧よりかは、自然な日焼けが一番だ。
 お前みたいに弱くはないしな、太陽の下を走り回っても倒れちまうことは無いモンだから。
 暇を見付けてはせっせと日焼けで、こういう色を手に入れるまで頑張ることは間違いないぞ。
 化粧なんぞは誤魔化しだ、とハーレイは日焼けするらしい。褐色の肌に生まれなかったら、前と同じ色を手に入れるために。
 「肌の色だけで逞しさが増す」という、褐色の肌。
 白い肌より強く見える色を、前のハーレイとそっくり同じな色を身体に取り戻すために、重ねる努力。夏の盛りの頃はもちろん、他の季節も太陽の光を浴び続けて。



 化粧はしないで、自分で色を取り戻すのが今のハーレイ。褐色の肌になりたいのならば、化粧をすれば簡単なのに。いくらでも楽に染められるのに。
「お化粧じゃなくて、日焼けするなんて…。ハーレイらしいね、今のハーレイ」
 うんと大変そうな道でも、日焼けの方を選ぶんだ。…直ぐに手に入る化粧品じゃなくて。
「当たり前だろうが、俺はお前とは違うしな?」
 お前が日焼けしようとしたって限界があるし、化粧品だと言うのも分かる。
 小麦色の肌に生まれちまった時にも、化粧品で白くしようとするのも。
 しかしだ、俺の場合はガキの頃から外ばかり走り回っていたしな、白い肌でも日焼けしたろう。白い肌に生まれていたとしたって、お前と再会する頃になったら、この通りっていう褐色に。
 もっとも、俺はこの肌の色が好きなんだが…。
 生まれた時からこの色なんだし、白くなりたいと思ったことなど一度も無いぞ。
 前の俺の記憶が戻って来ようが、戻って来るより前だろうが…、とハーレイは笑う。これが今の俺の肌の色だから、と。
「ぼくもそうだよ、生まれた時から真っ白だから」
 日焼けした肌の方がいいよね、って思ったことは一度も無いけれど…。ぼくはぼくだから…。
 ハーレイと日焼けの話をしていたりして、ちょっぴり憧れてしまっただけで。
 …ぼくの肌の色、ハーレイだって、このままの色がいいんだね?
 デートする時に連れて歩くの、弱そうに見える白い肌のぼくでも…?
「うむ。日焼けしたように見える化粧まではしなくていい」
 俺は守り甲斐のあるお前が好きだし、そういうお前を連れて歩くのが俺の幸せなんだから。
 自然に日焼けをしちまった時は、話は別になるんだがな。
 それに、お前が…。
 どうしてもやってみたいと言うなら、止めないが。
 人間、誰しも、持っていないものに憧れる。お前が小麦色の肌が欲しいなら、俺は止めない。
 化粧してでも、そういう色になってみたいと思うんだったら、それもいいだろう。



 好きにしていいぞ、と言われたけれども、化粧する気は無くなった。
 いいアイデアだと考えたけれど、ハーレイに似合いの恋人の肌だと思ったけれど…。
(…でも、ハーレイが好きな肌の色は真っ白で…)
 アルビノだったソルジャー・ブルーの肌の色。今の自分が持っている色。
 自分もハーレイの肌は褐色がいいし、ハーレイも本当に白い肌の「ブルー」が好きなのだろう。
 そう繰り返して言っていたから、小麦色をした肌の「ブルー」より、白い肌の「ブルー」。
 ハーレイが好きな、その色に生まれて来た自分。
 色素を持たないアルビノに生まれて、小麦色には日焼けできない真っ白な肌。
 違う色に生まれて来たのだったら、懸命に白くしようとしたって、今の自分の肌の色は…。
(今のハーレイだって、一番好きな真っ白の筈で…)
 小麦色の肌など必要ない、とハーレイが断言しているのだから、化粧はしない。
 健康的な肌の色も素敵だと思うけれども、自分はこの色。
 ハーレイが一番好きでいてくれる色は、前と同じに真っ白な色のアルビノの肌。
 その色なのだと分かっているから、小麦色の肌になってみたりはしない。
 命懸けで毒のお白粉を使って白くしなくても、最高の色の肌を持っているのが自分だから。
 ハーレイが好きな色の肌があるなら、それ以上は何も望まないから…。



             肌とお白粉・了

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