シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(ふうむ…)
ハーレイは目の前の菓子を眺めた。
仕事帰りに寄ったブルーの家で出されたマドレーヌ。
それ自体は特に珍しくもなく、型によって大きさや形が変わる程度でよく出てくる菓子。今日は小さめ、ホタテ貝の貝殻を思わせる形。円形ではなくて細長い形。
「マドレーヌだな」
それも小さなマドレーヌか…、と呟くとブルーが首を傾げた。
「どうかしたの?」
ハーレイ、今日はマドレーヌを食べたい気分じゃなかった?
それとも学校でおやつに食べたの、他の先生がおやつに買って来たとか。今日のハーレイ、もうマドレーヌは充分だった?
「いや…。そういうわけではないんだ、うん。マドレーヌだな、と思ってな」
それでだ…、とハーレイは小さなマドレーヌを手に取った。
ブルーの母の手作りのそれをしみじみと眺め、ホタテ貝の端を一口分ほどのサイズに割って。
「少し行儀が悪いんだが…」と小さなブルーに断ってから、そのマドレーヌを紅茶に落とした。一口分に割ったマドレーヌの欠片を、カップに入った紅茶の中へ。
ポチャン、と微かな音を立てて沈んだマドレーヌの欠片。カップの底へと沈んだ欠片。
「何をしてるの?」
ブルーの瞳が丸くなった。
それはそうだろう、マドレーヌはそのままで食べるもの。紅茶に浸すものではない。
第一、ハーレイがこういったことをしたこと自体が、今までに一度も無かったのだから。
けれども、ハーレイは穏やかな笑みを浮かべてブルーに尋ねる。
「思い出さんか?」
このマドレーヌ。紅茶にマドレーヌを入れるというヤツで何かを思い出さないか?
「何を?」
それにどうするの、そのマドレーヌ。
ちょっと浸すのなら分かるけれども、沈んじゃったよ?
「ん、こいつか?」
こうするのさ、と紅茶ごとマドレーヌをスプーンで掬って見せてやったが、ブルーはキョトンとしているだけで。
ハーレイがそれを口に入れても、不思議そうな顔で見ているだけで。
「ハーレイ、そういう食べ方、好きなの?」
お行儀が悪いって言っていたから、今日まで我慢していただけとか?
お客様の前とか、お店だとか。そういう所でやっていたなら、確かにお行儀、悪そうだし…。
それをぼくの家ならやってもいい、って思えるくらいに馴染んでくれたの、ぼくの家に?
「さてな?」
やっぱりこいつは行儀が悪いな、紅茶にポトンと落とすんだしな?
端を浸して食べる程度なら、人前でやっても通用するかもしれないが…。焼き上げた菓子に酒を染み込ませて食うって方法もあるからな。その菓子はマドレーヌってわけではないんだが…。
「そんなのがあるの?」
わざわざお酒を染み込ませて食べるの、焼き上がったお菓子に?
「うむ。サバランって菓子だ、ブリオッシュに酒をたっぷりと…な。下手に食ったら飲酒運転って噂なんだぞ、それほどの量の酒を吸わせる。お前には無理だな」
「お酒はね…。ぼくも無理だし、前のぼくも無理。だけどちょっぴり美味しそうだよ」
マドレーヌに紅茶もそれとおんなじ?
端っこを浸すだけじゃなくって、そんな風に紅茶に沈めちゃったら美味しいの?
「美味いかどうかは、自分で試してみるんだな」
「うんっ!」
お酒を染み込ませるっていうお菓子を聞いたら、うんと興味が出て来たよ。
サバランだっけ、ハーレイが好きそうなお菓子だよね。お酒がたっぷり。
マドレーヌだとどうなるのかな、とブルーは一切れ千切って紅茶に落とした。
カップの底に沈んでいったそれを眺めて、興味津々で問い掛けてくる。
「これって、ハーレイのオリジナル?」
サバランを食べるには小さすぎた頃に、お酒が飲めなかった子供の頃に考え出したの?
お酒が駄目なら紅茶にしようと、マドレーヌに紅茶たっぷりだ、って。
「いや。俺のオリジナルというわけではないが」
「だったら、お父さんの趣味?」
お父さんに教えて貰ったとか?
こうやって食べると美味しいんだぞ、って教えてくれた?
「親父でもないな、残念ながら」
「じゃあ、お母さん?」
お菓子作りも好きだって聞くし、ハーレイのためにサバランをアレンジしてくれた?
紅茶で食べるならブリオッシュよりもマドレーヌがいいって、子供向けのサバランはこんな風に作って食べればいい、って。
「おふくろってわけでもないんだが…」
だが、マドレーヌだ。紅茶に落として食おうってわけだ。
「ふうん…?」
知らないけれども流行りなのかな、こういう食べ方。
ちょっと美味しいって評判なのかな、お行儀はあまり良くなくっても。
カップの中を見ているブルーに「もういいだろう」と声を掛けた。
「充分、紅茶を吸っただろうしな。スプーンで掬って飲んでみるんだ」
「飲むって…。マドレーヌと一緒に紅茶も飲むの?」
マドレーヌだけを掬うんじゃないの、余分な紅茶が混じらないようにスプーンでそうっと。
「その辺は注意しなくてもいい。ただマドレーヌを掬うだけだ」
紅茶も一緒に掬っちまうし、そいつは捨てずに飲めばいいんだ。
「お酒じゃないから、飲んでも問題ないんだろうけど…」
紅茶たっぷりのマドレーヌだけを食べてみるより、紅茶もセットにするのがいいの?
「そこがこいつの肝なのさ」
マドレーヌは特に意識しないで、紅茶のついでにスプーンで掬ったような感じで。
そうやって食うのが俺のお勧めだ、紅茶に浸したマドレーヌのな。
「そっか…」
紅茶ごとだね、どんな感じの味がするかな?
サバランを浸すお酒と違って紅茶なんだね、ブリオッシュの代わりにマドレーヌで。
紅茶の味かな、とブルーはスプーンでマドレーヌを掬って、口へと運んだ。
柔らかくなったマドレーヌの欠片を紅茶と一緒に含んで、食べて。
その表情が不意に変わって、赤い瞳が見開かれた。
「あっ…!」
これ、知ってるよ。この食べ方、ぼくも知っていたよ…!
「思い出したか、マドレーヌ?」
「シャングリラだ…!」
あそこで食べたよ、白い鯨で。
紅茶に浸したマドレーヌの欠片、シャングリラで何度も食べていたよ…!
「そうさ、こいつはヒルマンの趣味だ。俺の飲み友達だったヒルマンのな」
あいつが最初に始めたんだ、とハーレイは笑う。
それを思い出したと、真似てみたのだと。
サバランは何の関係も無くて、ただのマドレーヌ。紅茶に浸したマドレーヌだった、と。
「ホントだね!」
あの頃はサバランなんかは無くって、一度も作っていなかったっけ。
合成のお酒はあったけれども、サバラン、一度も作らなかったね。
ハーレイがサバランなんて言うから、シャングリラだなんて思わなかった。今の地球にある食べ方なんだと思い込んでいたよ、紅茶に浸したマドレーヌ…。
シャングリラが巨大な白い鯨へと改造されて、自給自足の生活が完全に軌道に乗って。
日々の食事の他に菓子も作れる余裕が充分に出来てきた頃。
誰もが菓子を口にし始め、お茶の時間も当たり前になってきた頃のこと。
ある日、長老が集まった会議の席で菓子にマドレーヌが付いて来た。紅茶と一緒にマドレーヌ。ホタテ貝の形に焼き上げられたそれを一切れ千切って、紅茶のカップに落としたヒルマン。
誰もが唖然と眺めていた。
何をするのかと、マドレーヌを紅茶に落とすなどと、と。
ヒルマンがそれを紅茶ごとスプーンで掬って口に運ぶのも、ゆっくりと味わっている姿をも。
マドレーヌはそのままで食べる焼き菓子、あんな食べ方をしてどうするのか、と。
しかしヒルマンは気にもしない風で、そのマドレーヌを飲み下してから溜息をついた。
「やはり無理か…」
溜息に混じったその一言に、ブラウが怪訝そうに問い掛けた。
「無理って、何が無理なんだい?」
今の食べ方、随分と奇妙だったけどねえ、あんたの口には合わなかったというわけかい?
どうせデータベースの何処かで仕入れた食べ方だろうと思うけれどさ…。
合いやしないよ、マドレーヌを紅茶にどっぷりだなんて。そのままで食べるのが一番だよ。
「いや、こうすれば思い出せると…」
食べ方が云々というのではなくて、失った記憶。
それが戻るというんだがねえ、マドレーヌを紅茶に浸して食べると。
「へえ?」
そりゃまたどういうわけなんだい?
どういう仕掛けで失くした記憶を思い出すんだい、マドレーヌのそんな食べ方なんかで?
「それはだね…」
必ず戻るというわけではなくて、現に私も戻らなかったが。
食べたマドレーヌが切っ掛けになって、遠い昔に自分が送った日々の記憶が蘇ってくる。
そんな話を読んだわけだよ、ライブラリーでね…。
SD体制が始まるよりも遥かな昔に、そういう小説があったという。
「失われた時を求めて」というタイトルの。
作者の自伝にも似た小説。
その小説の中で主人公の記憶が戻る切っ掛け、それが紅茶に浸したマドレーヌを口に含んだ瞬間だった。プチット・マドレーヌの欠片を紅茶に落として、柔らかくしたものを食べた瞬間。一匙の紅茶と共に口へ運んで、含んだ瞬間。
「プチット・マドレーヌと言うから、小さなマドレーヌのことかと思ったのだがね…」
そうではない、という説もあったね、マドレーヌとはまた別の菓子だと。
けれども、マドレーヌだと考える者たちが多かったようで、マドレーヌ派が多数だね。
マドレーヌを見て、一連の話をふと思い出したものだから…。
この機会に一つ試してみよう、と食べたわけだよ、紅茶に浸したマドレーヌを。
残念ながら、何も戻っては来なかったがねえ…。
機械に消された記憶ともなると駄目なものなのか、私にはマドレーヌの記憶自体が全く無いか。
しかしマドレーヌの記憶が無いにしたって、切っ掛けにはなってくれそうだがねえ…。
それで記憶が蘇ったという小説に感銘を受けたのだから。
ヒルマンの言葉に皆は一様に、マドレーヌへの思いを深くした。
妙なことをすると観察していた、ヒルマンの変わった食べ方にも。
紅茶に浸したマドレーヌを食べた瞬間、失ってしまった記憶が鮮やかに蘇ってくるという小説。
誰もが記憶を失くしていたから、それに惹かれた。真似てみたくなった。
ブラウも、エラも、ゼルも。ハーレイもブルーも、ヒルマンを真似た。
マドレーヌの欠片を紅茶に落として、浸して。スプーンで掬うと胸を高鳴らせて口へと入れた。
しかし記憶は戻って来なくて、誰の記憶も戻りはしなくて。
マドレーヌの最後の欠片を食べ終えた後で、ブラウが残念そうに頭を振った。
「戻らなかったねえ、ほんのちょっとでいいから戻って欲しいと思ったんだけどね…」
機械に消されてしまった記憶じゃ無理なのかもねえ…。
自分が勝手に忘れてしまった、自然に忘れた記憶じゃないと。
「駄目だと決まったわけでもなかろう」
まだ分からんわい、とゼルが返した。
「紅茶に浸して食べておったものがマドレーヌじゃとは限らんからのう、そう思わんか?」
「他の菓子か…。可能性はゼロということもないな」
人によってはビスケットもあるな、とヒルマンが頷き、ブラウが「トーストはどうだい?」と。
「あれは朝食の定番だよ。トーストを浸した可能性もあるよ」
「トーストならば…」
それならば、とエラが微笑んだ。
「人によっては紅茶ではなくて、スープにパンかもしれませんね」
スープに固めのパンを浸して、柔らかく。
そういう食べ方が好みだった人も、中にはいるかもしれません。
けれども、スープにパンを浸した時にではなくて、紅茶にマドレーヌを浸した時でも。そういう時でも「自分も似たようなことをしていた」と思い出すかもしれませんよ?
自分は紅茶ではやらなかったと、スープにパンを浸していたと。
エラの考えには一理あったから、次にシャングリラで菓子にマドレーヌが出された時。
休憩時間にそれを食べてよい、という日が来た時、ヒルマンをはじめ長老たちが食堂に出掛け、例の食べ方を実践してみせた。
ライブラリーにこういう小説があったと、その小説ではマドレーヌが記憶を呼び戻すのだと。
皆は子供のように喜び、それから暫く、マドレーヌのそういう食べ方が流行った。
一欠片を千切って紅茶に浸して、スプーンで掬って紅茶ごと。
食堂で、あるいは休憩室で。
許可を得て紅茶とマドレーヌを持ち出し、自室で試してみる者もあった。
紅茶に浸したマドレーヌ。それで記憶が戻らないかと、失くした記憶が蘇らないかと。
まさに小説のタイトルのとおり、「失われた時を求めて」といった風情の大流行。
マドレーヌは紅茶に浸すものだと、スプーンで掬った一匙の紅茶と一緒に口へと運ぶものだと。
シャングリラ中が熱狂していた食べ方なだけに、ソルジャーだったブルーも例外ではなくて。
青の間に「本日のお菓子はこれになります」とマドレーヌが届けられた時には試していた。熱い紅茶をカップに満たして、一欠片のマドレーヌをそれに浸して。
マドレーヌが幾つか纏めて届けられた時には、ハーレイと。
一日の報告のために青の間を訪れたキャプテンを労い、紅茶と一緒にマドレーヌを出した。このマドレーヌで記憶が戻るといいね、と声を掛けながら。
けれど…。
「戻らないものだね、そう簡単には…」
今日で幾つめのマドレーヌだろうね、こうして紅茶に浸してみるのは。
何度もこうして食べているのに、一向に戻って来てくれない。ぼくの記憶はどれほどに遠い所へ行ったか、まるで戻って来てくれないね…。
「お互いに…ですね」
私の記憶も同じですよ。何処まで旅をしに出掛けたのか、旅の途中で行き倒れたか。
何度マドレーヌを口にしてみても、紅茶に浸しても音沙汰なしです。
「でも、これで記憶が戻って来た人もいるんだってね?」
ぼくは耳に挟んだだけだけれども、感激のあまり泣き出した人もいるそうじゃないか。
食堂で突然記憶が戻って、マドレーヌも紅茶も放り出して。
これが自分の子供時代だと、欠片だけれども思い出した、と。
「そのようです。私も現場に居合わせたわけではありませんが…」
周りの者たちは大騒ぎだったそうです、記憶が戻ったことを祝福しようとお祭り騒ぎで。
そうした騒ぎにならないようにと、こっそり打ち明けた者もいましたが結果は全く同じです。
やはり誰でも祝ってやりたくなりますから。
どんな些細なものであろうと、失くした記憶が戻って来たなら。
消された筈の記憶が蘇ったならば、それは喜ぶべきことなのですから。ですが…。
残念ですね、とハーレイは少し寂しげに笑った。
何人もの記憶が戻っているのに、ブルーのそれが戻って来ないと。
ブルーが失くした記憶の欠片を取り戻せれば、とマドレーヌを一緒に口にする度、心の中で強く願って祈り続けているのにと。
「ぼくはハーレイの記憶を戻してあげたいんだけれど…」
だからマドレーヌを取っておくんだよ、何個か纏めて貰った時には。
君に紅茶を淹れてあげようと、マドレーヌを浸して食べるための紅茶を君のために。
「私はあなたの記憶を戻して差し上げたいのですよ」
ですから、こうして、ゆっくり、ゆっくり。
マドレーヌを少しずつ割って浸しては、紅茶と一緒に掬うのですが…。
あなたが寛いでお召し上がりになれるよう。
もっとゆっくり食べていいのだと、心ゆくまでマドレーヌを紅茶に浸して思う存分、食べる時間ごとお召し上がりになれるように、と。
「マドレーヌかあ…」
忘れちゃってた、とブルーはホタテ貝の形の菓子を見詰めた。
母が焼いてくれた小さなマドレーヌ。これがヒルマンの言ったプチット・マドレーヌかどうかは分からないけれども、ハーレイがそれを思い出してくれた。
遠い日にシャングリラでこの菓子を食べたと、変わった食べ方をしていたのだと。
マドレーヌが幾つか届けられる度、ハーレイのためにと取っておいた自分。
一緒に食べようと、ハーレイの記憶が戻る切っ掛けを作れればいい、と紅茶を淹れていた自分。
「あの頃、まだ前のぼくたちは…」
ソルジャーとキャプテンで、友達同士で。
二人でマドレーヌを食べていたって、食べ終わったら「おやすみなさい」で…。
「うむ。ただの友達だったんだがなあ…」
御馳走になるのは紅茶とマドレーヌだけで満足しちまって。
食い終わったら「御馳走様でした」と礼を言ってから「おやすみなさい」と帰っちまったなあ、前のお前を食いもしないで。
うんと美味そうなお前がいるのに気付きもしないで、マドレーヌだけか。
とんだ馬鹿だな、前の俺もな。
前のお前と二人きりでゆっくり茶を飲んでたのに、ただマドレーヌを食ってたとはなあ…。
「ハーレイもそうだけど、前のぼく…」
きっとハーレイのことが好きだったんだよ、あの頃にはきっと、とっくの昔に。
そうだったからハーレイの記憶を取り戻してあげたくて、マドレーヌを貰ったら残しておいて。
ハーレイが来たら紅茶を淹れては、マドレーヌを出して勧めてたんだ。
君の喜ぶ顔が見たくて、記憶が戻ったと喜ぶ姿を見たくって。
「俺もお前を好きだったんだろうな、自分じゃ気付いていなかっただけで」
お前の記憶が戻ってくれたら、とマドレーヌを食う度に祈っていた。
記憶が戻ったと喜ぶお前を見たかった。
友達だからと思い込んでいたが、違ったんだな…。
友達なんかよりも、もっと大事な片想いの相手。俺が恋したお前のために、と祈ってたんだな。
「ハーレイもぼくも、恋だってことにもっと早くに気付いていればね…」
記憶なんかはどうでもいいから、恋だってことに気付けば良かった。
気付いていたなら、あの頃からずっとハーレイの側に居られたのに…。
マドレーヌを紅茶に入れてた頃から、恋人同士でいられたのに。
「そうだな、前の俺たちが過ごしたよりも長く恋人同士でいられたな…」
あの頃に恋だと気付いていたなら、俺がお前に打ち明けていたら。
もっと長い時間をお前と一緒に過ごせたんだな、マドレーヌだって違う食べ方が出来た。紅茶に浸してスプーンで掬うのは変わらなくても、恋人同士で食べていられた。
一欠片食べてはキスをするとか、手を握り合って見詰め合うとか。
そうして食べたら、もしかしたら。
何かのはずみにヒョイと記憶が戻って来たかもしれないなあ…。
マドレーヌとはまるで関係なくても、記憶の欠片。
育ての親と一緒に暮らしてた頃の、温かな記憶の断片がな…。
とんでもない回り道をしちまったもんだ、とハーレイは苦い笑みを浮かべる。
前の自分たちは恋だと気付かず、長い時間を無駄に過ごしてしまったと。
「本当にとんだ馬鹿だったよなあ、マドレーヌだけを食って帰った俺は…」
毎晩お前の部屋に行きながら、お前の気持ちに気付きもしないで。
わざわざ紅茶を淹れて貰っても、取っておいたマドレーヌを出されてもな。
いくらお前が気付いてなくても、俺がもう少し注意していたら見抜けた筈だと思うんだがな…。
「今度はどうだろ、今も回り道しているんだけど…」
ぼくがチビだからキスも出来なくて、結婚だって出来なくて。
恋をしてるのに恋じゃないんだよ、本物の恋人同士になれないんだから。
「スタートが早すぎだ、お前の場合は」
前のお前がこういう姿をしていた頃には、俺に恋なんかしちゃいない。
あの頃のお前の本当の年が何歳だったかを考えてもみろ。
今度のお前はませているなんていうレベルじゃない。恋をするのが早すぎなんだ。もっと遅くて充分だろうと俺は思うが、お前にとっては今でも充分遅いわけだな。
「そうだよ、回り道がまだまだ続くんだよ!」
だけど、ぼくには早すぎだなんて言うのなら。
今度のハーレイはどうだっていうの、ぼくを好きになった早さというヤツ。
ハーレイは遅いの、それとも早い?
「前の俺との年の違いを考えるんなら、俺だってかなり早すぎなんだが…」
俺は見かけがこれだしな?
それほど早いってわけでもないなあ、年相応って所だな。
だから今度は回り道とも思っちゃいないさ、お前が育つまでの時間をゆっくり楽しむ。
恋はしてるし、それが実るのをのんびり待つんだ、お前の背丈が前のお前とそっくり同じになるまでの間、あれこれと思い出しながらな。
今日のマドレーヌの食い方みたいに、ちょっとしたことを。
「マドレーヌの食べ方、ホントにすっかり忘れていたね」
今までに何度もおやつに出たのに、ハーレイは思い出さなかったし。
ぼくだって全然思い出しもせずに、紅茶は紅茶で飲んでただけだよ、マドレーヌの欠片を紅茶に入れるなんてこと、ホントのホントに忘れていたよ…。
「うむ。俺も今日まで忘れ果ててたわけだしな」
マドレーヌは紅茶に浸して食べるものだと、シャングリラじゃ一時期、流行っていたと。
前のお前にも何度となく御馳走になっていながら、綺麗に忘れた。
記憶なんてのはそんなものだな、忘れちまったら思い出すまでは無いのと同じだ。
とはいえ、前の俺たちの場合。
マドレーヌを何度紅茶に浸してみたって、記憶が戻りはしなかったがな…。
「そうだったね…。それは今でも残念だけれど…」
前のぼくはともかく、ハーレイの記憶。
それを戻してあげたかったし、戻らなかったのが今でも残念でたまらないけれど…。
今度はいろんなもので出来るね、この遊び。
失くした記憶を呼び戻すための遊び、紅茶に浸したマドレーヌの他にも山のようにあるよ。今は当たり前のように見ている何かが、ある日突然、前の記憶に結び付くから。
「おいおい、こいつは遊びと言うのか?」
紅茶にマドレーヌを浸すってヤツ。
それで記憶が戻ったと言って泣き出した奴が居たほどの真面目な食い方なんだが?
「さあ…?」
前のぼくたちは真剣にやっていたけれど…。流行ってた間は、大真面目にやっていたけれど。
それもいつの間にか忘れてたんだし、前のぼくたちでも忘れていたこと。
前のぼくたちでも忘れたんだもの、今度は遊びみたいなものだよ。
懸命に思い出さなきゃならない、思い出したい消された記憶は今度は一つも無いんだから。
「そうかもな」
生まれ変わって忘れちまっただけで、機械に消されたわけじゃないしな。
切っ掛けさえありゃあ思い出すんだ、こいつも今では遊びなんだな…。
こうやって記憶を戻そうとしたと、前の俺たちはそうしていた、って懐かしく思い出すだけの。
マドレーヌはこうして食うものなんだと、紅茶に浸して食っていたな、と。
「ねえ、ハーレイ…」
ブルーがマドレーヌの最後の欠片を紅茶に浸して、スプーンで掬い上げながら。
「今日はマドレーヌがハーレイの記憶の切っ掛けになってくれたけれども、この次は…」
何を切っ掛けに思い出すだろ、前のぼくたちがやっていたこと。
思い出すのはハーレイなのかな、それとも今度はぼくの番かな…?
「さあなあ…」
そればっかりは俺にもサッパリ分からんな。
早ければ今日の晩飯を食った時かもしれんし、何とも言えん。
ただ、晩飯の時だった場合、それが前のお前との恋に纏わる記憶だったら。
その場でしっかりお蔵入りだな、お前のお父さんとお母さんの前では話せないからな。
「えーっ! そういう時にはメモしておいてよ、用事を思い出したふりをして!」
ちゃんと手帳に書いておいてよ、ハーレイ、手帳を持ってるんだから。
次に二人で話せる時まで覚えておいてよ、その話。
ハーレイのペンでしっかりと書いて、ナスカの星座が入ってるペンで。
種まきの季節のナスカの星座が入っているペン、ハーレイ、いつでも持っているでしょ…!
ハーレイが愛用しているペン。持ち歩いている瑠璃色のペン。
人工のラピスラズリのそれには、ナスカの星座が一つだけ鏤められていた。種まきを始める春の星座にそっくりな形の金色の粒の配列が。
両親が居て話せない時に思い出した記憶はそれで必ず書き留めてくれ、とブルーは強請って指を絡めて約束させて。
それから空になったマドレーヌの皿に残った小さな欠片を指先で摘んでカップに落とした。もうスプーンでは掬えそうもなくて、ただの屑にしかならなさそうな小さな粒を。
「マドレーヌ、明日には忘れてそうだね…」
紅茶に浸して食べるってこと。スプーンで掬って食べてたんだ、っていう記憶…。
「明日どころか今夜の内かもしれん」
賑やかに晩飯を食ってる間に消えてしまいそうだぞ、この記憶。
スプーンがついてくるような献立だったら、掬った途端に綺麗サッパリ。
「うん…。それはあるかも…」
スープを掬ったら忘れましたとか、茶碗蒸しで忘れちゃったとか。
如何にもありそうなことだけれども、そうやって忘れて、また思い出して。
色々な記憶を取り戻しながら、ずうっと恋人同士なんだね、今度は長く。
「前は気付かずに過ごしていた分、うんと長くな」
前の俺たちが無駄に過ごしてしまった分まで、恋人同士でいないとな。
今度はお前と出会った時から、お互い、恋だとちゃんと気付いているんだからな。
「そうだよ、ハーレイと結婚してね」
前のぼくたちには出来なかった結婚、ぼくは楽しみにしてるんだから。
ハーレイとずうっと二人一緒で、おんなじ家で暮らすんだから…。
そうして、結婚した後も。
同じ家で暮らすようになっても、ふとした折にこうして思い出すのだろう、と微笑み交わす。
マドレーヌは紅茶に浸して食べるものだ、と蘇った遠い記憶のように。
自分たちはそれを食べていたのだと、マドレーヌは紅茶に入れるものだと思い出したように。
二人、幸せに生きてゆく中で、何かのはずみに、失われた時を。
それを拾い上げて語り合おう、と微笑みを交わす。
時の彼方に流れ去ってしまった、前の生での思い出たちを。
其処で出会った人々や、様々な出来事などや。
それらがあるから今があるのだと、青い地球の上に二人で生まれて来られたのだと…。
マドレーヌ・了
※シャングリラで流行った、マドレーヌの食べ方。「プルースト効果」と呼ばれるものです。
この時代には、その言葉は無かったようですけれど。遠い記憶が蘇るのは、幸せなこと。
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