シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
ぽつり。
パジャマ姿で寛いでいたブルーの耳に届いた音。何かが屋根に当たって、ぽつりと。
ベッドの端っこに腰掛けたままで、窓の方へと視線を向けた。
夜だからカーテンが閉まっているけれど。
今のブルーには厚いカーテンに閉ざされた向こうを透視する力は無いのだけれど。
(雨…?)
今のは雨の音だったろうか、と考えた所へ、また、あの音。
ぽつり。
今度ははっきりと耳が捉えた。
雨の音だと、雨粒が屋根を叩いたのだと。
(降って来ちゃった…)
そんな予報では無かったのに。
この週末は晴れの予報で、絶好の行楽日和だと言っていたのに。
(外れちゃったよ…)
前の生で暮らしたシャングリラの中では、雨などは降らなかったから。四季の変化も自分たちで全て調節したから、こういった事態は一度も無かった。
けれども、今のブルーが暮らす地球。
青く蘇った地球の上では天気も気温も自然の意のまま、地球に任せて手出しはしない。人工降雨などの技術はもちろんあったが、それはテラフォーミングが必要な他の星でのこと。
地球では天候への干渉は禁止。
ゆえに気まぐれな地球が雨だと思ってしまえば、どんなに願っても雨は降るもの。天気予報とて万能ではなく、こうした時には地球の偉大さと人の小ささを思い知らされることになる。
本来、タイプ・ブルーともなれば、雲さえも散らすことが可能だけれど。
雨雲を散らし、雨を止めるなど簡単なことではあったけれども。
それをしようという者は無い。
人は人らしく、それが今の世の中の約束事。
地球でなくとも、人は自然に決して干渉してはならない。自分一人の意志では、決して。
それこそ天変地異でも起こらない限り、タイプ・ブルーの力を自然に向けてはならない。自然は神が創り上げたもの。神の恵みで息づくもの。
たとえテラフォーミングされた星であっても、自然は神の領域だから、と。
(雨だなんて…)
ベッドから腰を上げ、窓辺に寄ってカーテンの向こうを覗いてみた。二階から見える黒々とした庭にもう色は無くて、夜の闇が支配する世界。
其処に灯った庭園灯が描いた淡い光の輪の中、降り注ぎ始めた無数の雨粒。
幾筋もの細い糸が光を横切り、下へ下へと落ちてゆく。後から後から、暗い夜空から。
(明日は庭の椅子、座れないかも…)
庭で一番大きな木の下、据えられた白いテーブルと椅子。
最初はハーレイが持って来てくれたキャンプ用のテーブルと椅子だった。初夏の日射しが明るい庭で、木漏れ日の下でデートをした。初めてのハーレイとのデート。
それが気に入って、庭に置かれたテーブルと椅子とが大好きになって。
いつもハーレイに持って来て貰うのは悪いから、と父が買ってくれた白いテーブルと椅子。今も庭園灯の光を受けてほのかな白が見えている。此処に在ると、此処に置かれていると。
(ハーレイと座りたかったのに…)
午後のお茶は外のテーブルにするから、と夕食の時に母に頼んだ。外で食べるのが似合う菓子がいいと、飲み物もそれに合わせて欲しいと。
「いいわよ」と笑顔で応えてくれた母。何を作ってくれるのだろう、と心が躍った。
それなのに、雨。後から後から降ってくる雨。
もしも朝までに止んでくれれば、午後には庭の木々もすっかり乾いて外でティータイムが出来るだろうと思うけれども。
この季節の雨は、急な冷え込みを連れて来てしまうこともあるから。
そうならないよう、早い間に止んでしまって欲しい雨。庭を濡らすだけで過ぎて欲しい雨。
(止んで欲しいな…)
出来るだけ早く止みますように、と暗い空を見上げて願ってしまう。祈ってしまう。
降り注ぐ銀の糸の群れが止まらないかと、ぴたりと止んでくれないかと。
(てるてる坊主…)
幼かった頃に何度も作った。幼稚園で教わった、紙の人形。紙だけれども、頼もしい神様。雨を止ませてくれる神様。
ティッシュペーパーを丸めて、上から一枚、ふわりと被せて糸で縛って、目鼻を描いて。
そうして吊るせば晴れになるのだと習って作った。作って吊るした。
遠足の前や、両親とハイキングなどに出掛ける時や。
効いたかどうかは忘れたけれども、何度も作って吊るしたのだし、きっと効いたに違いない。
ユーモラスな形のてるてる坊主。
前の自分が生きた頃には、何処にも無かった紙の神様。晴れた空を運んで来てくれる神様。
(ハーレイ、作ってくれているかな?)
予報に無かった急な雨だし、明日は二人で会う日なのだし、てるてる坊主。
庭のテーブルと椅子が使えるよう、てるてる坊主を作ってくれているといいのだけれど。
(てるてる坊主も作りそうだもんね?)
SD体制よりも遥かな昔に、この地域に在った小さな島国。日本と呼ばれていた島国。
其処の文化を復活させては楽しんでいるのが、今のブルーたちが住む地域。
一時はすっかり失われていた日本の文化や、古い習慣。それが好きな家で育ったハーレイ。古い道具や習慣を愛する両親に育てられた、今のハーレイ。
隣町にあるハーレイが育った家のシンボルとも言える大きな夏ミカンの木。マーマレードになる実を採る時、梢に一つだけ残すと聞いた。木守りという遠い昔の習慣。翌年の豊作を祈って一個。
(木守りの実だってあるんだものね…)
てるてる坊主も幼い頃から作っていたに違いない。
幼かった頃のハーレイならばきっと、出掛けるとなったら前の夜にはてるてる坊主。釣り好きの父と釣りにゆく時も、海や川へ泳ぎに出掛ける時も。
(てるてる坊主かあ…)
作ろうかな、と思うけれども、母に見られたら恥ずかしい。
作って、吊るして、明日の朝は綺麗に晴れていたなら。てるてる坊主に御礼を言うのは忘れずにいそうな自分だけれども、嬉しさのあまり吊るしたままにしておきそうで。
頑張ってくれた神様を外して捨てるだなんて、と窓辺に残したままにしそうで。
そんな部屋へ母がハーレイを案内して来たら。
窓辺のテーブルにお茶とお菓子を運んで来たなら、てるてる坊主に気が付くだろう。
まあるい頭に白い衣装のてるてる坊主に、晴れを運んで来る神様に。
「明日の午後のお茶は外にしたいよ」と母に頼んだから、もちろん意味にも気付かれる。きっと母は笑って言うだろう。これを吊るすほどハーレイ先生と庭に出たいのと、庭のテーブルで先生とお茶にしたかったの、と。
(ブルーはハーレイ先生のことが大好きだものね、って言うんだよ、ママは)
それは本当のことだけど。
ハーレイが好きなことは本当だけれど、「好き」の意味がまるで違うから。
母が思っている「好き」とは違って、恋人としての「好き」だから。
てるてる坊主を吊るしていたのが見付かったならば、恥ずかしい。恋を知られてしまったような気がして、きっと耳まで赤くなる。
(子供っぽいことをしたのがバレたからだな、ってママは思うんだろうけど…)
そう考えるのが普通だけれども、本当は恋。
子供っぽいどころか、十四歳という年を考えれば早熟に過ぎる今の自分の恋心。
知られたらとても恥ずかしいから、てるてる坊主は作れない。吊るしたくても作れない。
(他におまじない…)
雨が止むようなおまじないは無いか、と考えたけれど、何も浮かんで来なかった。
残念なことに、他には知らない。てるてる坊主の他には知らない。
仕方がないから、降る雨に向かって小さな声で歌ってみた。
「てるてる坊主、てる坊主…。あした天気にしておくれ…」
幼稚園で教わって歌っていた歌。てるてる坊主を吊るした時には歌った歌。
(ハーレイが作ってくれていたなら、この歌がきっと効く筈なんだよ)
作ってくれているかもしれない、てるてる坊主。まあるい頭のてるてる坊主。
歌に晴れへの願いを託して、歌い終えてから窓を離れた。
明日までに雨が止みますようにと、明日はいいお天気になりますようにと。
部屋の明かりを消し、ベッドにもぐって丸くなったら。
てるてる坊主の歌を歌ったのに、雨だれの音。降る雨が軒を叩く音。
(まだ降ってる…)
止まないんだ、と思った所で遠い記憶が頭を掠めた。
(雨の音…?)
シャングリラでは聞こえて来なかった。こんな音は、雨が滴り、地面を、軒を打つ音は。
雲海の中に居たシャングリラ。
雨も嵐もあったけれども、それらの音は届かなかった。
巨大な白い鯨の船内は常に快適に保たれ、船を動かすエンジンの音すら聞こえては来ない。人の耳に邪魔だと感じられる音、騒音の類を完璧に遮断していた防音壁。
それは素晴らしかったけれども、ゆえに雨音も聞こえなかった。どんなに雨が叩き付けようとも雨粒と共に音も弾かれ、船の中には届かない。船体を打つ雨音は、けして。
(ぼくは雨の音、知っていたけど…)
アルテメシアに降り立った時に降っていたなら、その雨の音を聞いていた。ただし、シールドに落ちる雨。身体の周りに張ったシールドを叩く雨。
主にその音を聞いていたから、今の雨音とは少し違った。ただ降り注ぐ雨の音とは違った。
それでも自分は聞いていたけれど、ハーレイたちはどうだっただろう?
アルテメシアへの潜入班なら雨にも何度も出会っただろうが、ハーレイたちは…?
(ナスカの雨…)
前の自分は一度も降りずに終わってしまった赤い星。
あの星には雨が降ったという。トォニィが生まれた時にも降り始めた雨。だからジョミーがまだ名の無かったナキネズミにレインと名前を付けた。恵みの雨のレイン、と。
(ハーレイは、確か…)
ナスカで虹を探したと聞いた。
虹の橋のたもとには宝物が埋まっていると言うから、宝物を求めて雨上がりの虹を。雨が止んで空に虹が懸かれば、その虹の橋のたもとを目指して歩いていたと。
(ハーレイが探した宝物って…)
それは金銀財宝ではなく、眠ったままだった前の自分の魂。ブルーの魂。
見付け出したならば目覚めてくれるかと、目覚めるのではないかと虹を探した。其処にブルーの魂が埋まっていないかと、虹の橋のたもとに宝物のように埋まっていはしないかと。
雨が降る度、虹の懸かりそうな雨が降る度、ナスカに降りたと語ったハーレイ。
キャプテンだけに、そういった条件の日には必ず、とはいかなかっただろうけれど。降りようと思っても降りられなかった日も少なくなかっただろうけれども。
そのハーレイが降りたナスカに、優しい雨音はあっただろうか?
ただ軒を打つだけの、止んだ後には晴れ上がった空を連れて来るだけの雨音は。
地面を、軒をただ叩くだけの、しとしとと降り注ぐ雨の雫は。
(きっと無かった…)
そんな気がする。
赤いナスカに根を下ろしたとはいえ、地球は遠くて。
降りしきる雨の音だけを聞いて、これが止んだら晴れ上がるのだと何もしないで過ごす余裕など無かったと思う。
雨であったなら、上がった後を見越しての作業。あるいは雨の日ならではの作業。
夜の雨でも、きっと翌日が気にかかったろう。何をすべきかと、明日の作業はどうなるのかと。
それにナスカに在った居住地。人類が放棄した基地に手を加えたもの。
前の自分は肉眼で見てはいないけれども、あんな建物では軒を打つ優しい雨音はしない。地面を叩く雨の雫も、その音が中まで届いたかどうか…。
(明日、ハーレイに…)
訊いてみよう、とブルーは思った。
ナスカに雨の音はあったか、今のような雨音はしていたのかと。
メモに書くほどの大事なことでもないから、覚えていれば。
このまま眠って、明日の朝まで覚えていれば…、と。
翌朝、雨は止んでいたけれど。
いつの間に雨雲が去っていたのか、雨が残していった雫で庭がきらきらと煌めいていたけれど。
雨上がりの澄んだ景色を窓から見ながら、ふと思い出してブルーは嬉しくなった。
(この景色だってナスカには無かったよ、きっと)
雨の後には細かい塵が落ちてしまって、こんな風に大気が澄むのだったか。
ナスカでもそれは同じだったろうが、太陽に煌めく木々が無かった。庭など在りはしなかった。もちろん木の下に据えたテーブルも、それとセットの白い椅子たちも。
(雨の音が無いだけじゃなかったよ、ナスカ…)
ハーレイに訊いてみなければ。
ナスカに優しい雨音はあったか、ハーレイはそれを聞いていたのか、と。
朝食を食べに階下へと降りて、母に午後の外でのお茶のためのお菓子を改めて頼んで。
「晴れて良かったわね」と微笑まれて「うんっ!」と笑顔で応えた。
父は「放っておいても乾くんだろうが、拭いておくかな」と、庭のテーブルと椅子を乾いた布で拭くと約束してくれた。
木の枝から滴って落ちる雫が無くなったならば、テーブルと椅子に付いた水滴を拭っておくと。外でのお茶の時間に支障が無いよう、太陽の下にも暫く出して干しておこうと。
「ありがとう、パパ!」
「なあに、大した手間ではないからな」
ハーレイ先生の方がよっぽど手間をかけて下さっていたよ、木の下のテーブルと椅子は。
今のを買うまで、いつも持って来て下さっていたし…。
畳んで車に積み込むだけでもひと手間かかるぞ、それに比べれば拭くくらいはな?
干すのにしたって、ハーレイ先生が運んで下さっていた距離を思えばちょっぴりだ。
パパは庭の真ん中まで運ぶだけだが、ハーレイ先生はガレージから運んで下さっていたんだぞ。
お前があれが大好きだから、って何度も何度も、家から持って来て下さってな。
本当に優しい先生だよ、という父の言葉がブルーの胸の中でくるくると回る。
その通りなのだと、ハーレイは優しい恋人なのだと。
部屋に戻っても胸は弾んで、ついつい顔が綻んでしまう。それを抑えて掃除を済ませて、窓辺の椅子から見下ろしていれば。
(あっ、ハーレイ…!)
今日はもう、雨は降りそうにない予報だから。
ハーレイが颯爽と道を歩いてやって来た。軽く手を上げ、ブルーに笑顔を向けながら。
そのハーレイが部屋に来た後、母が置いて行ったお茶とお菓子が乗ったテーブルを挟み、向かい合わせで訊いてみる。
「ハーレイ、昨日、雨の音を聞いた?」
「ああ。急に降り出したし、予報に無かった雨だしな…」
止まないかもな、と心配してたが、すっかり止んだな。いい天気だ、今日は。
「てるてる坊主、作ってくれた?」
雨が止むように吊るしてくれてた、てるてる坊主を?
「なんで分かった?」
ハーレイは鳶色の瞳を丸くした。
自分がてるてる坊主を吊るしていたことが何故分かったのか、と。
「作ってくれたの?」
ハーレイ、ホントに作ってくれたの、てるてる坊主。晴れますように、って、てるてる坊主…。
「ああ。お前、庭の椅子、逃したくないだろうと思ってな」
寒くなったら、あそこでのんびりお茶ってわけにもいかないし…。貴重なチャンスだ、無駄には出来ん。いくらお前が冬でもあそこでお茶だと言っても、出来るかどうかは謎だからな。
「良かった…!」
ぼく、ハーレイが作ってくれているかも、って思ったから…。
作ってくれているならいいな、って歌ったんだよ、てるてる坊主にお願いする歌。
あした天気にしておくれ、って。
「俺は歌までは歌っていないな。作って吊るしておいただけだな、てるてる坊主を」
「そうなの?」
ハーレイは歌を歌わなかったの、てるてる坊主を作ったのに…?
「この年ではなあ…。てるてる坊主の歌を歌っちゃ可笑しいだろうが」
それにだ、歌なんていうのは俺の柄ではないからな。
「ハーレイの歌、いいと思うけど…。うんと素敵だと思うんだけれど」
前にゆりかごの歌を聞かせてくれたよ、前のハーレイがぼくに歌ってくれていた歌。
今のぼくにも聞かせてよ、って頼んだ時の歌、とっても素敵な歌だったけれど…。
「あれは例外というヤツだ!」
俺は歌なぞ、そうそう歌わん。まして可愛い歌ともなればな、俺には全く似合わんだろうが。
しかし、お前は似合いそうだな、てるてる坊主の歌なんかもな。
今日はお前との合わせ技で綺麗に晴れたってわけか、俺が作ったてるてる坊主と、お前の歌と。
「そうみたいだね」
すっかりお天気、雨が降ってたのが嘘みたい。
庭が雫で濡れてなかったら、夢でも見たのかと思いそうだよ。雨が降る夢。
それでね…、とブルーはハーレイに尋ねた。
昨夜から気になっていたことを。今朝になっても、忘れずに覚えていたことを。
「ハーレイ、ナスカで雨の音を聞いた?」
「雨の音?」
「うん。地面に降る音は聞いただろうけど、屋根や軒に落ちる雨の音」
雨が降ってるな、って感じるだけの優しい音だよ、昨日の夜にハーレイだって聞いたでしょ?
最初にポツッて雨の粒が落ちて、それから幾つも、幾つもに増えて。
軒を打ったり、滴って地面で跳ね返ってみたり、そういう音。
流れるような音もするでしょ、屋根から伝い落ちていく時には…?
「そいつは無いな…」
前の俺はそれは聞いていないな、ナスカでも、地球へ向かってゆく途中の星でも。
そんな余裕は無かったと言うか、一軒の家に住んでいなかったと言うべきか…。
ナスカの居住地とか、落とした星の地上だとかで。
雨には遭ったが、ああいった音を耳にした覚えは一度も無いな。
「やっぱり無い?」
「うむ。言われてみればそいつは無かった」
雨なんだな、と眺めてただけで、音を聞くより仕事だな。まずはそいつが第一だ。
ついでに、屋根とか軒だとか。
雨の音を優しく伝えてくれるような類のものとは、まるで縁の無い生活だしな?
ナスカじゃああいう居住地だったし、落とした星でも入る建物は立派なビルばかりでな…。
「じゃあ、今ならではの音なんだね」
軒とか屋根を叩く雨の音。降って来たな、って直ぐに分かるのも屋根と軒のお蔭。
「そのようだな」
全く意識はしていなかったが、前の俺とは縁が無かった音なんだな、あれは。
「だったら平和な音ってことだね、雨の音って。嫌っちゃ駄目だね…」
雨だなんて、って怒っていたら駄目だね、あれは平和の音なんだから。
「そうだな、罰が当たりそうだな」
降りやがって、と文句を言っていたなら。
シャングリラじゃ雨音は全く聞こえなかったし、ナスカでもあそこまで優しい音はなあ…。
「前のぼくはアルテメシアでシャングリラの外に出ていたけれども…」
雨の日に外へ出たこともあるけど、あんな風に優しい音がするのは知らないよ。
シールドに当たる音とか、そういうのだけ。
屋根とか軒を叩いてる音は、前のぼくは一度も聞かなかったよ。
素敵な音だね、雨の音って。
前のぼくたちが知らなかった音が聞こえてくる日なんだね、雨の降る日は。
「音もそうだが…。この景色も前は無かったんだな、雨上がりのな」
まだあちこちで光っているよな、雨の雫が。
澄んだ空気と、光る雫と。うんと爽やかな景色ってヤツだ、普段は見られん。
「あっ、ハーレイも気が付いた?」
雨上がりは景色がとても綺麗だって、庭がきらきら光ってる、って。
「ああ。ナスカじゃ外にはこうした緑はロクに無かったしな」
赤い土が剥き出しの地面が殆どだったし、木なんかは影も形もな…。
「少しだけだよね、ナスカで何も覆いをかけずに育てられたもの」
専用の建物を使わなくっても、地面で直接育てられた緑。
「雑草以外は強い植物だけだったなあ…」
一番最初に根付いてた豆は、けっこう丈夫に広がったんだが。
ユウイが育てたアレくらいだったか、場所を選ばずに植えても育った植物はなあ…。
「地球に来たから楽しめるんだね、雨の音とか」
それに雨上がりの景色とか。雨の音も、雨が止んだ後に見られる綺麗な景色も。
「他の星でも雨は降るがな」
そういった星で屋根と軒とがある家に住んでりゃ、雨音は充分に聞けるわけだが。
俺やお前の家みたいな家を建てて住んでさえいれば、いくらでも雨音は楽しめるがな…?
「でも、地球の雨がきっと一番優しい音がするんだよ」
水の星だもの、地球は。
人が住める星は沢山あるけど、一番最初に人が生まれた星なんだもの。
いくら一度は滅びた星でも、やっぱり地球。
地球に降る雨が一番優しい音を立てるよ、広い宇宙の中で一番。
「そうかもしれんな、人間の耳には一番かもな」
この星から人が生まれたんだし、一番馴染んだ音かもしれん。
俺たちにそういう自覚は無くても、俺たちの身体。それに一番合うかもしれんな、地球の雨音。
「そんなに素敵な音がするなら、てるてる坊主で止めちゃ駄目かな?」
雨が降るのを止めたら駄目かな、てるてる坊主で?
「それはいいだろ、てるてる坊主は昔からあるものだしな」
人間の都合で雨を降らせたり、晴れにしてみたり。
そういった技術が無かった時代に生まれた神様がてるてる坊主だ、前の俺たちが生きていた頃は無かったが…。SD体制に消されちまって無かったんだが、由緒正しい神様だろうが。
そいつを使って雨が止むなら、それは自然なことってわけだ。
てるてる坊主で止む程度の雨さ、神様が雨を止めて下さる程度のな。
「じゃあ、この次に雨が降っても吊るしてくれる?」
てるてる坊主を作って吊るしてくれるの、ハーレイ…?
「それでお前の喜ぶ顔が見られるんならな」
晴れて良かったと、雨じゃないんだと。
雨が止んで良かったと笑顔になるなら、幾つでも作るさ、てるてる坊主を。
「ぼくも作りたかったんだけど…」
てるてる坊主、作ろうかな、って思ったんだけど…。
「ん?」
お前、歌だけは歌ったんだろう?
歌を歌うなら、てるてる坊主も作って吊るせば良かったのに。
「…ママに見られちゃったら、恥ずかしいしね…」
ママは子供っぽいことをしてるんだな、って思うだけだろうけど。
でも、絶対に言われちゃうんだ、「ハーレイ先生と庭に出たかったのね」って。
昨日からお菓子を頼んであるから、外で食べるのにぴったりのお菓子。
「なるほどなあ…。それを言われたら、お前はすっかり真っ赤になる、と」
「うん、多分…」
ママが思ってるように子供っぽいことをしたからじゃなくて。
ハーレイと庭でデートをしたくて、雨を止めたくて作ったてるてる坊主だから…。
ママの口から「ハーレイ先生」って言葉が飛び出した途端に真っ赤になっちゃう。ママの口癖、こうなんだもの。
「ブルーは本当にハーレイ先生のことが大好きなのね」って。
好きの意味が全然違うんだけどな、ママが思っているのとは…。ぼくはハーレイと恋人同士で、庭で一緒にお菓子を食べるのはデートの時間のつもりなんだけどな…。
「ふうむ…。どうする、俺と結婚した後」
明日は出掛けるぞ、っていう時に雨になったら。
昨日みたいに予報が外れて急に降り出したら、お前はいったいどうするんだ?
「てるてる坊主を吊るすに決まっているじゃない!」
ハーレイと二人で作って吊るすよ、てるてる坊主を。
二人で一個か、一個ずつかは分からないけど、てるてる坊主。ちゃんと吊るしてお願いするよ。あした天気にしておくれ、って歌も歌うよ、晴れますように、って。
「そう来たか…。俺と一緒に家でゆっくりっていう選択肢は無いのか、お前の中には」
ハーレイがフウと溜息をつくから、ブルーは首を小さく傾げた。
「家でゆっくり?」
それって家から出ないことなの、出掛ける予定はどうなっちゃうの?
「予定は中止で、家でゆっくり過ごすってことだ」
てるてる坊主で晴れにするのが基本なんだろうが、たまには雨も悪くないとは思わんか?
今の俺たちだからこそ聞ける平和な雨音。
そいつを聞きながら二人で一日、のんびりと…な。
「それもいいかも…!」
朝からゆっくり朝御飯を食べて、出掛けないから雨が止まなくてもかまわなくって…。
一日中、雨が止まなくっても、ハーレイと二人。
地球の雨の音は平和でいいね、って家でゆっくり過ごすんだね…。
いつか結婚して一緒に暮らせる時が来たなら、天気はてるてる坊主に任せて。
晴れれば二人で外に出掛けて、雨ならば家で。
屋根を、軒を打つ雨音を聞きながら時を過ごすのもいいかもしれない。
止みそうにないね、と語り合いながら、キスを交わして。
それからベッドに入るのもいい。
明るい内から愛を交わして、合間に頬を、肩を寄せ合って。
雨音だけが聞こえる部屋の中で二人、暮れてゆくまで、雨の音がしなかった遠い昔の思い出話を交えながら微笑み、シーツの海で語らい続けるのも…。
雨音・了
※ナスカでは聞こえなかったという雨音。今の地球だからこその音で、優しい音。
てるてる坊主で止めてしまうより、じっと聞き入りたくなる音なのかもしれませんね。
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