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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

座れる椅子

(ハーレイの椅子…)
 ふと、ブルーの目に留まった窓際の椅子。学校から帰って、おやつを食べて戻った部屋で。
 テーブルとセットで置かれた二脚の片方、二脚とも同じデザインのもの。どっしりと重い、木で出来た椅子。背もたれの部分は籐で編まれて、それを木枠が取り巻いている。
 座面は淡い苔の緑色、前のハーレイのマントの色を薄めたような優しい緑。ハーレイに似合うと思うけれども、「ハーレイの椅子」は、そういう意味ではなくて…。
(たまにはいいよね?)
 こっち、と座ってみたハーレイの椅子。いつもハーレイが腰掛ける側。二つの片方、ハーレイが座るための椅子だから「ハーレイの椅子」。「ハーレイの席」ともいうべき場所。
 其処に座ってキョロキョロ部屋を眺め回して、それから向かいの自分の椅子へ。テーブルの横を回り込んで。チョコンと座ってみた感じでは…。
(どっちも、おんなじ…)
 見えるものはともかく、椅子の座り心地。ハーレイの椅子は、ほんの少しだけ、座面がへこんでいるのだけれど。
(ハーレイは重いし、ぼくが膝の上に乗ったりもするし…)
 そのせいでクッションの厚みが変わった。自分が座っている椅子に比べて、本当に少し。座ったくらいでは分からない程度、見比べて気付くか、気付かないか。
 僅かな違いしか無い椅子なのに、ハーレイの椅子の方が胸が高鳴る。腰掛けた時に。
(もう一度…)
 ちょっとだけだよ、とハーレイの椅子に戻って座ってみて。
 それから自分の椅子に戻って、また「ちょっとだけ」とハーレイの椅子へ。満足するまで交互に座って、嬉しくなった。「どっちもぼくの椅子だもの」と。
 ハーレイの椅子も自分の持ち物、この部屋にある椅子だから。ハーレイの椅子と呼んでいても。



 二脚の椅子は、両親が買ってくれたもの。テーブルとセットで、来客用にと。
 買って貰った時は立派過ぎると思ったけれども、今では自分にピッタリのもの。来てくれる人が出来たから。前の生から愛した恋人、ハーレイが座るのに丁度いいから。
 テーブルも椅子も、大人のハーレイには良く似合う。チビの自分には立派過ぎても。
(いつかは持って行くんだから…)
 ハーレイの椅子を、ハーレイの家へ。
 結婚して二人で暮らす時が来たら、この椅子たちも連れてゆく。いつも二人で座った椅子。間に挟んだテーブルもつけて、沢山の幸せな思い出ごと。
(ハーレイの家でも、ちゃんと二人で座るんだよ)
 何処に置くかは分からないけれど、きっとハーレイが素敵な場所を見付けてくれる。椅子たちも居心地が良さそうな場所を。「此処がいいぞ」と運んでくれて。
(引越し屋さんにトラックで運んで貰っても…)
 この辺に、と頼んで椅子とテーブルを置いて貰っても、「こっちの方が…」と楽々と持ち上げ、運んでしまいそうなハーレイ。「俺は此処だと思うがな?」と、テーブルも椅子も。
(ハーレイの家は、ハーレイが一番分かってるものね?)
 椅子もテーブルも、着いたその日にまた引越しだよ、と可笑しくなる。そうでなければ、何日か経ってから突然に。
 「この場所も悪くないんだが…」とハーレイが椅子を抱え上げて。「此処なんかどうだ?」と、別の場所へと運んで行って。「お前も此処に座ってみろ」と、「こっちの方が良くないか?」と。
 きっとそうなることだろう。テーブルも椅子も、似合いの場所を決めて貰って。



 その光景が目に浮かぶようだから、ふふっ、と笑って立ち上がった。椅子たちの未来。
(ハーレイの椅子も、ぼくの椅子も、一緒にお引越し…)
 最初はハーレイの家に引越して、次はハーレイの家の中で。部屋から部屋へと引越しして。早く見てみたい椅子たちの引越し、まずは梱包されるのだろう。この家から運び出すために。
(まだまだ先の話だけど…)
 結婚出来る年でもないし、と勉強机の前に座った。ストンと、其処に置かれた椅子に。
 勉強や読書に使っている椅子、その椅子から窓辺の椅子を眺めて…。
(ぼくの椅子が三つ…)
 全部で三つ、と数えて幸せな気分。三つの椅子のどれにも思い出、幸せな日々も詰まった椅子。
 それにベッドにも座っていいから、この部屋には…。
(椅子が四つも…)
 あるんだものね、と弾む胸。ただ椅子があるというだけなのに、もう嬉しくてたまらない。
 一つ、二つと椅子を数えて、「やっぱりベッドは椅子じゃないかな」と思ってみたり。
 どうなのかな、とベッドに座りに出掛けて、「違うかな?」とポンと叩いて…。
(椅子とベッドは見た目が違うし…)
 椅子は全部で三つだよね、と戻った勉強机の前。元通りに椅子に座った途端に…。
(あれ…?)



 不意に掠めた、ドキドキしながら椅子に座っていた記憶。これはぼくの椅子、と胸を弾ませて。
 遠い遠い記憶で、おぼろげなもの。自分は椅子に座っているだけ。
(前のぼく…?)
 あれは青の間での出来事だろうか、立派な椅子を貰ったから。やたらと広くて大きすぎた部屋、青の間に釣り合う椅子やテーブル。
 でも…。
(ぼくの心、もっとドキドキしてた…)
 そういう記憶。今と同じに子供の心で、腰掛けて「ぼくの椅子だよ」と。
(なんで…?)
 どうしてドキドキしていたのだろう。子供の心だった頃なら、特に立派でもなかった椅子。船に元からあった椅子だし、平凡なもの。
 誰の部屋にもあったような椅子が部屋に二つだけ、最初は一つ。部屋に備え付けの椅子は一脚、それをそのまま使っていた。椅子は椅子だし、座れればいいから。
(後で、もう一個貰って来て…)
 二つになった部屋の椅子。
 ハーレイが来た時に座れるように、と貰った二つ目。それを貰うまでは、ハーレイと二人で話す時には、ベッドを椅子の代わりにしていた。一人しか椅子に座れないのでは落ち着かないから。
 一人は椅子で、一人はベッドを椅子代わりに。
 ベッドの方に座っていたのは、自分だったり、ハーレイだったり。
 二人並んで、ソファのように使っていたこともあった。ベッドに背もたれは無いのだけれど。
 そんな具合だから…。
(二つ目の椅子が嬉しかった…?)
 ドキドキしたのは、そのせいだろうか。今の自分と同じくらいに、心も身体もチビだった頃。
 やっとお客様用の椅子が出来たから。
 椅子の代わりにベッドを使わなくても、ハーレイと二人で座れるから。ちゃんとした椅子に。



 そうなのかな、と考えたけれど。きっとそうだと思ったけれど。
(ぼくの分…?)
 さっきよりもハッキリしてきた記憶。「自分用の椅子だ」と弾んだ心。自分用ならば、一つ目の椅子。最初から部屋に置かれていた椅子だから…。
(何か特別…?)
 平凡な椅子で、自分で選んだわけでもないのに。部屋にあったものを使っただけなのに。
 わざわざ誰かが運んでくれた椅子だったならば、少しは事情も変わるけれども。
(ただの椅子だよ…?)
 これとあんまり変わらないかも、と今の自分の椅子を眺める。勉強机で使うための椅子を。
 座り心地は悪くないけれど、シンプルな椅子。窓辺の来客用とは違って、立派ではない。
(あっちみたいな椅子だったんなら、分かるけど…)
 普通の椅子で何故、あんなに心が弾んでいたのだろう?
 自分用だと御機嫌で腰掛けていたのだろうか、本当にただの椅子だったのに。
(椅子なんて…)
 何処にでもあるし、珍しくもない家具なんだけど、と思った所で気が付いた。椅子は違う、と。
 そうじゃなかったと、椅子は特別だったんだ、と。
(…アルタミラ…)
 前の自分が長い年月、閉じ込められていた研究所。心も身体も成長を止めて。
 あそこでは檻で暮らしたけれども、檻には無かった椅子などの家具。
 檻だけがあった、狭くて何も無い檻が。自分用の物があったと言うなら、ただ、檻だけ。 
 椅子も机も無かった場所。床に転がるしかなかった檻。ベッドさえも持っていなかったから。



 アルタミラがメギドの炎に滅ぼされた時、
皆で乗り込んだ宇宙船。生き残るために、燃え上がる星を後にした。壊れ、砕けてゆく星を。
 命からがら脱出して、直ぐに貰った部屋。一人用の個室。
 空き部屋は船に幾つも備わっていたから、その日の内に。「此処を使え」と。
 後にシャングリラと名付けた船は、元々は輸送船だった船。あれで脱出した仲間たちは多くて、本当は足りていなかった個室。人数分の部屋は無かった。
 けれど、アルタミラの檻で味わった恐怖に加えて、脱出の時の地獄のような光景。空までが炎で赤く染まって、大地はひび割れ、燃えて崩れていったから…。
 とても一人ではいられない、と個室を嫌った者が殆ど。区切りさえ無い部屋で皆で雑魚寝でも、その方が心が落ち着くと。毛布などがあれば充分だから、と。
 特に希望を出さなかった者だけが個室になった。前の自分がそうだったように。



(部屋の割り振り…)
 誰がしたのかは覚えていない。多分、関心も無かったのだろう。
 何も注文をつけなかったから、ハーレイの部屋とは隣同士にならなかった。二人部屋もあったと思うけれども、同じ部屋にも入らなかった。前の自分も、ハーレイも個室。
 部屋同士の距離は近かったけれど。別のフロアに分かれることも無かったけれど。
(じゃあね、って…)
 脱出した日に、皆で食べた非常食ばかりを集めた食事。それでもパンはふわりと膨らみ、温かい料理も食べられた。アルタミラでは餌と水しか無かったのに。
 その食事の後、ハーレイと別れて入った部屋。「此処だ」と教えて貰った個室。足を踏み入れ、ベッドがある、と嬉しくなった。眠るためだけに使う家具。
 そのくらいの記憶は残っていたから、「もう床じゃない」と喜んだ。夜はベッドで眠れる生活、それを手に入れられたのだと。
 サイオンを使いすぎて疲れ果てていたから、シャワーを浴びて戻った後には倒れ込んだベッド。もう恐ろしい日々は終わりで、ゆっくり眠っていいのだから。



 疲れた身体に引き摺られるように、沈んでいった眠りの淵。夢も見ないでぐっすり眠って、目を覚ましたら…。
(檻じゃなくって、ぼくのための部屋で…)
 自分だけの部屋が周りにあった。檻よりもずっと広い部屋。ベッドの他に椅子も見付けた。一つだったけれど、自分用の椅子。好きに座ってかまわないもの。
(椅子まであるんだ…!)
 ベッドだけじゃなくて、と嬉しくて早速、座ってみた。檻には置かれていなかった椅子に。
 弾んだ心は、その時の記憶。「ぼくの椅子だ」と、胸をドキドキさせて。
(本当に、ただの椅子だったのに…)
 椅子があることが夢のように思えて、座ったり立ったり、椅子無しで床に座ってみたり。椅子のある生活を楽しみたくて。椅子はこんなに素敵なのだと、一人ではしゃいで。
 「朝飯だぞ」とハーレイが呼びに来てくれるまで。「今、行くよ」と返事して立ち上がるまで。
 それほどに胸が高鳴った椅子。自分のものだ、と喜んだ家具。



(ベッドは寝転ぶ場所だけど…)
 のんびり転がってゴロゴロ出来るし、眠る時には心地良い家具。ベッドが自分にくれる安らぎ、それも大好きだったのだけれど、椅子は特別。もっと人間らしい家具。
 椅子は座れる場所だったから。座るためだけの家具だったから。
 眠るだけなら、ベッドが無くてもなんとかなった。檻の中でも、床で眠れた。柔らかなマットや枕が無いだけ、固い床しか無いというだけ。
 檻でも充分、眠れたけれども、座ることは出来はしなかった。椅子というものに。
 座るための場所は、床があるだけ。床にペタリと腰を下ろして座る以外に無かった方法。
(椅子みたいなのは…)
 実験でならば座らされたけれど、椅子ではなくて実験器具。
 突き飛ばされるようにして腰掛けたら直ぐに、手足を拘束されていた。椅子のようなものに。
 そうして始まる人体実験、拷問でしかなかったもの。
(あんなの、椅子って言わないよ…)
 苦痛を運んでくるだけのもので、苦しかっただけの椅子に似たもの。
 本物の椅子は檻には無かったのだし、座れる場所は固い床だけだった。どれくらいの歳月を檻で過ごして、床に座っていたのだろう?
 椅子を持たずに生きていたろう、あの狭苦しい檻の中で。
 やっと貰えた自分用の椅子。好きな時に座れる、人間らしい暮らしをさせてくれる家具。
 それが自分のものになった、と前の自分は大はしゃぎだった。「ぼくの椅子だ」と。



 何度も座ったり、立ったりした椅子。初めて貰った自分用の椅子。
 ベッドよりもずっと素敵に思えて、座ったままウトウトしていたくらい。此処でも眠れる、と。
(その内に慣れて、忘れちゃったけど…)
 当たり前のものになってしまったけれども、一番好きだった家具かもしれない。シャングリラと名付ける前の船では。実験動物ではなくて、人間として暮らし始めた頃は。
 そういったことを考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり訊いてみた。いつもの椅子に腰を下ろした恋人に。
「あのね、椅子のこと覚えてる?」
「はあ?」
 椅子って…。どの椅子だ、前に持って来てやったアレか、キャンプ用の椅子か?
 テーブルとセットで何度か持って来てたが、今は白いのになっちまったしな、庭の椅子は。
「それじゃなくって、最初の椅子だよ」
 前のぼくたちの、一番最初の。…ハーレイも持っていたじゃない。
「なんだ、そりゃ?」
 最初の椅子って、キャプテンの席のことなのか?
「もっと前だよ、アルタミラから逃げ出して直ぐ…。貰った個室に椅子があったよ」
 あの椅子だってば、最初の椅子。アルタミラの檻には無かったでしょ?
 椅子なんか入れて貰ってないから、座れる場所は床だけで…。
「そういや、そうだな…」
 ベッドも無かったし、家具なんてヤツは一つも無かった。…あの檻にはな。
 人間扱いしちゃいない、っていう研究者どもの態度が表れてたなあ、そういうトコにも。



 家具無しだなんて動物並みだ、とハーレイが顰めてみせる顔。あの檻は酷いモンだった、と。
「無事に逃げ出せたお蔭で、家具のある生活に戻れたってな」
 人間らしくベッドで眠って、枕も毛布も…。檻だった頃とは大違いだ。
「でしょ? それでね、ぼくはとっても嬉しかったよ、あの椅子が」
 ぼくの椅子なんだ、ってドキドキしてた。何度も立ったり座ったりしたよ、初めての椅子。
「椅子って…。そんなにか?」
 お前、それほど椅子があるのが嬉しかったのか…。あんな平凡な椅子ってヤツが。
「うん。ハーレイは?」
 ぼくね、あそこの椅子に座ったはずみに思い出しちゃって…。椅子を貰った時のことを。
 ハーレイも嬉しかった筈だよ、個室だったから椅子もついていたでしょ?
「ついてたが…。俺の場合は、どちらかと言えばベッドの有難さで…」
 椅子もあるな、と思いはしたが…。ベッドの方が素敵に見えたな。寝る場所が出来た、と。
「そうだったの?」
 椅子よりもベッドが気に入ってたんだ、前のハーレイ…。
 みんな同じだと思ったのに…。椅子があるなんて、とても人間らしいのに…。
「ベッドも充分、人間らしいぞ。床で寝なくていいんだから」
 今夜からベッドで眠れるんだ、と思ったらワクワクしたもんだ。もう王様の気分だってな。城は無くても、贅沢なベッドを手に入れた、と。
 ベッドの方がいいと思うか、椅子の方がいいと感じるか…。
 俺とお前の考え方の違いではなくて、檻にいた年数の違いなのかもしれないな。
 お前、とんでもなく長く檻にいたから。…俺とは比較にならんくらいに。



 ずっと檻の中で暮らす間に、忘れちまっていたんだろう、と言われた椅子。
 座るための椅子の存在を。座る時には椅子を使うと、床に直接座るのではないということを。
「忘れちまっていたんだったら、椅子ってことにもなるだろうなあ…」
 人間扱いされているんだ、と感じる家具。…昔は椅子に座ってたことを、椅子を見るまで綺麗に忘れていたんなら。椅子が記憶から消えていたなら。
 そりゃあ大切に思うんだろうな、文化的な暮らしが出来るんだから。人間らしく椅子に座って。
「…ハーレイは椅子を覚えてた?」
 椅子を使って座っていたこと、ハーレイはちゃんと覚えていたの…?
「多分な。ベッドの方を嬉しく思う程度には」
 椅子はオマケだ、ベッドつきの部屋とセットで来たオマケ。あれば便利で、それだけのことだ。
 座るだけなら、ベッドで充分、間に合うんだし…。無くても別に困らないしな?
「そうなんだ…。ハーレイがそうなら、他のみんなも椅子よりもベッド…」
 ゼルもヒルマンも、ブラウもエラも。あの船の仲間は、きっと全員、ベッドだよね…。
 椅子かベッドか、どっちが素敵な家具だったのかを尋ねたら。
 …椅子って言う人、いそうにないよね。床で寝るより、ベッドの方がいいもんね…。
「お前、つくづく酷い目に遭ったな」
 椅子まで忘れてしまうくらいに、ずっと檻の中か…。
 そりゃあ成長も止まっちまうな、心も身体も。育っても何もいいことは無いし、檻の中だし…。
 可哀相にな、ベッドよりも椅子だと思ったなんて。
 俺たちに椅子を寄越さなかった、研究者どもが悪いんだが…。床だけあれば充分だろう、と。
 動物には家具を与えなくても、餌と水だけでいいと思っていやがったんだ。あの連中は。



 囚人にだって椅子はあるもんだが…、とハーレイがついた大きな溜息。
 今の時代は囚人はもういないけれども、人間が地球だけで暮らしていた頃。囚人の扱いは相当に酷く、扉もすっかり塗り込めることがあったほど。食事を差し入れる窓だけを開けて。
「そういう所に放り込まれて、死ぬまで外には出られなかった囚人もいたんだが…」
 椅子くらいは持っていたそうだ。寝るためのベッドと、座るための椅子と。
 よほどの酷い牢獄でなけりゃ、囚人にも椅子はあったってな。死刑が決まっている囚人でも。
 前の俺たちは囚人以下だ。…人間扱いされちゃいないし、実験動物そのものだな。
 いや、待てよ…。椅子が無いのが普通だっていう国もあったか、昔だったら。
「えっ?」
 椅子が無いのが普通だなんて…。何処の国なの、うんと貧しい国だったとか…?
「貧しいから椅子が買えないんじゃない。要らないから持っていなかった」
 古典の世界だ、昔の日本。俺が授業で教えているだろ、貴族がのんびり平和に暮らしてた時代。平安時代だ、あの時代に椅子はあったのか?
「えーっと…。引き摺りそうな着物のお姫様とかがいた時代だよね?」
 あの時代に椅子って…。無かった…かな?
 椅子に座ったお姫様の絵は、そういえば一度も見たこと無いかも…。
「まるで無かったってこともないんだがな」
 立派な椅子は作られていたが、普段の暮らしに使うんじゃなくて儀式用だな、あの頃の椅子。
 一番偉い帝だけが座って、他の人間は使わなかった。椅子があっても無いのと同じだ。
 誰も使いやしないんだから。…椅子という物を知っていたって、全く活用しないんじゃな。



 帝しか座らなかった椅子。子供が帝だった時には、椅子に上るための専用の踏み台が使われた。それだけでも分かる、儀式用の椅子だということ。普段の暮らしに使う椅子なら、子供用の椅子を作ったろうから。踏み台を作って据える代わりに。
「そっか…。椅子はあっても、使わないんだね」
 椅子があったら座りやすいと思うけど…。床に座るより椅子だと思うよ、長い時間なら。
 前のぼくでも、椅子で感激してたのに…。椅子があるのに使わないなんて、なんだか不思議。
 平安時代の日本人なら、あの檻でも平気だったのかな?
 ベッドも無かった文化なんだし、椅子も無いなら、あの檻の中でも大丈夫かも…。
「狭すぎるとは思うんだが…。平安時代の貴族の家はデカくて、仕切りが殆ど無かったからな」
 しかし、檻には空調もあったし、考えようによっては天国かもな。
 実験と餌ってヤツさえなければ、あれでも立派な家かもしれん。
 殺風景でも、うんと狭くても、凍えはせんしな?
 貴族はともかく、あの時代の貧しい人間からすれば、きっと本当に天国だぞ。
「檻なんだけどね…。実験動物用の」
「その実験と不味い餌さえ無ければ、だ…。貴族でも入りたがるかもしれんな」
 空調システムが故障しなけりゃ、温度はいつでも適温だ。暑すぎもしないし、寒すぎもしない。
 寝苦しい夜や寒すぎる日には、「入れて欲しい」と言い出すヤツが多そうだ。
 多少狭くても、住めば都と言うんだから。
「うーん…」
 空調とかが無かった時代なんだし、それだけでも羨ましがられそう…。
 ベッドや椅子はついてないけど、元から使っていなかったんなら、平気かな…。
 前のぼくたちは、椅子とベッドの暮らしに慣れていたから、あの檻、相性が悪かっただけで。



 人体実験も不味い餌もなくて、其処で暮らすというだけならば。檻でも良かったかもしれない。狭い檻には、ベッドも椅子も無くて床だけでも。
 けれども、誰とも会えなかった檻。言わば独房、話し相手もいなかったから…。
「ねえ、ハーレイ。前のぼくたちが入れられてた檻…」
 もしも自由に出歩けていたら、他の檻の仲間と話が出来たら…。
 ベッドも椅子も無いような檻でも、気分、少しは違っていたかな…?
 出歩いた後は檻に入って、大人しくしてなきゃいけなくても。…自由時間が少しあったら。
「多分、違っていたろうな」
 人体実験と餌の毎日でも、ホッと一息つける時間があったなら…。仲間同士で愚痴を零せたら。
 しかし、人類はそいつを認めはしないな、なにしろ相手はミュウなんだ。
 ミュウ同士だと、相乗効果でサイオンが強くなるわけだが…。それが無くてもヤツらは許さん。
 一人一人は弱いミュウでも、何人か寄れば、考えを纏め始めるからな。
 檻にポツンと一人でいたんじゃ、思い付かないようなアイデアってヤツも湧いて来る。ついでに勇気百倍ってトコだな、仲間がいれば。
 反乱なんかも考えついたりするだろう。一人じゃ無理でも、何人かいれば、と。
 そうならないよう、一人ずつ閉じ込めてあったんだ。誰とも接触出来ないように。
「…その効果、ホントにあったよね…」
 顔見知りの仲間は誰もいないし、話したことさえ一度も無かったわけだから…。
 前のぼくたち、メギドで星ごと滅ぼしてやるって言われても…。
 シェルターに纏めて入れられちゃっても、出るための方法、相談しようともしなかったし…。
「何も出来なかったろ、死んじまうんだと分かっていても」
 お前がシェルターをブチ壊すまでは、みんな諦めちまってた。…前の俺もな。
 あそこでお前が膝を抱えて諦めていたら、何もかも終わりだったんだ。
 額を集めて話し合えるような関係を俺たちが築いていたなら、また違ったかもしれないが…。
 あれだけの仲間が力を合わせてぶつけていたなら、シェルターを壊せたかもしれないんだがな。
「そうかもね…」
 みんなが必死に頑張っていたら、壊せたかも…。此処だ、って一ヶ所に力を集中させたら。



 きっと出来たのだと思う。前の自分が壊したシェルター、それを内側から壊すくらいは。全員が力を合わせていたなら、扉くらいは吹き飛んだ筈。
 けれど、幾つもあったシェルター。大勢の仲間が閉じ込められていたのだけれども、自分たちの力で脱出した者はいなかった。前の自分とハーレイが行くまで、皆、シェルターに入っていた。
 駆け付けた時には、壊れてしまっていたシェルターも幾つもあった。
 入れられた者たちが脱出を試みたならば、そうなる前に逃げ出せたろうに。シェルターごと命を失くす代わりに、外へ出ることは出来ただろうに。
(…みんな、知り合いじゃなかったから…)
 纏め上げようという者もいないし、纏まろうとも考えない。自分の隣や前や後ろにいる者たち。それが誰かも分からないのだし、あの状況では自己紹介など始めないから。
(知らない人だ、っていうだけで…)
 人間は声を掛けにくいもの。まるで知らない人間には。
 前の自分たちを一人ずつ檻に閉じ込めた人類、彼らのやり方は正しかったと言えるだろう。
 星ごと滅ぼされそうになっても、団結を知らなかったミュウたち。
 そうなることを知っていたから、人類はミュウをシェルターに閉じ込め、自分たちは宇宙へ逃げ出して行った。あの種族はもう滅びるだけだと、計算ずくで。
 首のサイオン制御リングも、そう読んだ上で外して行った。それが無くなっても、ミュウたちは何も出来ないから。一人ずつ自分の殻に籠って、震えることしか出来ないから。
 希少な金属を使用していた、サイオンを制御するリング。
 ミュウたちと一緒に焼き滅ぼすには惜しいものだから、人類はそれを回収した。きっと何処かで売り飛ばしたろう、凄い値をつけて。皆で山分けしたのだろう。
 ミュウは滅びたに決まっているから、もう要らないと。売ってしまってかまわないと。
 彼らの計算が正しかったから、救えなかった仲間たちがいた。シェルターの扉を壊すサイオン、それを纏めることが出来ずに。
 前の自分とハーレイが懸命に駆け付けた時には、シェルターごと瓦礫や地割れに飲まれて。



 もしも交流があったとしたなら、もっと早かっただろう行動。何をすべきか、皆で考えて。
 前の自分が一人でシェルターを壊さなくても、皆の力で扉を壊して、外へ逃れて。
「…人類の計算、合っていたけど…。誰も逃げようとしなかったから…」
 逃げるつもりで頑張っていたら、シェルターごと潰されたりはしないで、生き残れたのに…。
 ぼくとハーレイが間に合わなくても、ちゃんと逃げられた筈なのに…。
 どのシェルターでも、みんな、閉じ込められていただけ。ぼくたちが扉を開けに行くまで。
 そういう仲間しかいなかった割に、あそこからの脱出、上手くいったね。
 船はこっちだ、って見付けて離陸の準備をしてたり、逃げて来る仲間を誘導したり。
「一人残らずミュウだったからだ」
 シェルターから出られりゃ、余裕も出て来る。出られたんだから、逃げてやろうと。
 生きようって気力が湧いて来たなら、サイオンも自然と使えるってな。元々持ってる力だけに。
 思念波を飛ばせば、自己紹介なんかは一瞬で済む。
 一人が気付けば後は早いぞ、こうやって知り合いを増やせばいいと。みんな仲間だと。
 俺とお前がシェルターを開けようと走ってる内に、逃げたヤツらは信頼関係を築いてたってな。
 誰が誰かもちゃんと分かるし、得意分野も当然、分かる。
 船を見付けて準備したヤツらは、そういうのが得意だったんだ。動かしたこともないような船を前にしたって、なんとかしようと思える連中。
 もっとも、基本の知識が無いから、手順通りに実行するしかなかったが…。
 そのせいで乗降口を閉めずに離陸しちまって、ハンスの事故が起こってしまったんだがな…。



 だが、俺たちはアルタミラから脱出できたんだ、というハーレイの言葉に間違いはない。互いに思念波を遣り取りしての交流、それを始めたら早かった。理解し合うことが。
 船で宇宙へ逃げ出してからも、役に立ったのが思念波の存在。
「ぼくたちの部屋割、あの日の内に出来ちゃったのも…」
 誰がどういう人間なのか、船のみんながきちんと分かっていたからだものね。
 個室を貰っても平気なタイプか、毛布や枕をかき集めて来て何人もで固まっている方が好きか。
「うむ。実に便利な能力だったな、ああいう時にも」
 人類ばかりの船だったならば、そうそう上手くはいかないぞ。あれだけの人数なんだから。
 全員が納得出来る部屋割、人類には多分、無理だったろう。その日の間に決めちまうなんて。
 ミュウだったからこそ、直ぐに決まって、椅子もベッドも貰えたわけだな。
 個室でもいい、と思ったヤツらは、もれなくベッドと椅子つきの部屋で。
「…あの時の部屋割…。ハーレイの隣にすれば良かった…」
 決めてしまう前に頼んでいたなら、隣同士だったと思うんだけど…。
 ぼくたちの部屋は同じフロアだったし、ぼくの隣の仲間とハーレイの部屋を取り替えていても、何も問題はなかったのに。
 ハーレイはまだキャプテンとかじゃないんだもの。きっと通った筈なんだよ。…注文すれば。
「俺も、どうして言わなかったんだか…」
 チビのお前は言いに行くのに、勇気が必要だったかもしれないが…。
 俺にしてみりゃ、部屋割を決めてたヤツらも同じ年頃の仲間なんだし、割り込むくらいは簡単なことで…。横から「ちょっといいか?」と言えば良かったんだよな、俺の部屋割。
 お前の隣の部屋にしてくれと、友達だからと、一言、頼んでおいたらなあ…。



 失敗だった、とハーレイも自分も思うけれども、隣同士ではなかった部屋。貰った個室。椅子とベッドが備え付けられた部屋は、多分、ほど良い距離だったのだろう。
 ハーレイと二人、お互いの部屋に招いて、招かれて過ごしていた。お互い、二つ目の椅子も用意して、来客に備えて。
 前の自分が好きだった椅子。人間らしいと思った家具。…すっかり忘れていたけれど。
 そして今では、自分のための小さなお城に椅子が三つもあるものだから…。
「えっとね…。前のぼく、部屋に置く椅子を増やしてたけど…」
 ハーレイが座る椅子が欲しいな、って二つ目の椅子を貰いに行ったんだけれど…。
 今のハーレイの家にも、椅子を増やしてもいい?
 前にも頼んでいるけれど…。椅子を二つほど。
「椅子を二つか…。この椅子だろ?」
 俺とお前が座っている椅子、こいつを持ってくるんだな?
 お前が俺の嫁さんになる時は、この椅子も一緒にやって来る、と。
「そう!」
 ハーレイの家に引越すんだよ、椅子と、それからテーブルも。
 これにピッタリの場所を見付けて、ハーレイの家でも二人で座っていたいから…。
 そっちの椅子がハーレイの椅子で、こっちがぼくの。
 ハーレイの家に引越した後も、いい場所があったら、ハーレイ、運んでくれるよね?
 引越し屋さんに置いて貰った場所より、素敵な場所が見付かったら。
「もちろんだ。…季節に合わせて引越しもいいぞ」
 眺めのいい部屋とか、落ち着く部屋とか。
 何処にだって俺が運んでやるさ。前のお前と椅子の話を聞いちまったら、尚更だってな。



 任せておけ、とハーレイは約束してくれたから、この椅子たちはいつか引越しをする。
 ハーレイと二人で暮らす家まで、大切に梱包して貰って。他の色々な荷物と一緒に。
 この椅子たちをハーレイの家に増やして、置いて。
 そしてハーレイの家にある椅子にもストンと座ろう、幸せな気分で。
 これも今日からぼくの椅子だよ、と。
 ぼくをよろしくと、これから一緒に暮らすんだから、と椅子にも挨拶をして。
 ハーレイの家にある椅子の全部に、自分を紹介して貰おう。
 「俺の嫁さんだ」と、「よろしくな」と。
 それが済んだらハーレイと二人、どの椅子に座って話そうか。
 手を繋ぎ合って歩く幸せな未来、これから歩いてゆく道にあるだろう夢を。
 何をしようか、何処へ行こうかと、二人、いつまでも、尽きることのない幸せな夢を…。




              座れる椅子・了


※今のブルーが持っている椅子たち。けれど、前のブルーが檻にいた時には、無かった椅子。
 ベッドよりも椅子を嬉しいと思ったくらいに、過酷だった日々。今では座れる椅子が幾つも。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv













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