シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
扇の言葉
「さてと…。今日は、ちょっぴり暑いしな?」
季節外れな話をするか、と笑みを浮かべたハーレイ。
今はブルーのクラスで授業の真っ最中。古典を教えているのだけれども、眠くなる生徒も次第に増える。いくらハーレイが人気者でも、それと授業は別のこと。勉強が好きな生徒は珍しい。
生徒の集中力が切れて来た時、絶妙なタイミングで繰り出す雑談。ハーレイの人気が高い理由の一つは、それ。
(確かに今日は暑いよね?)
夏ほどじゃないけど、とブルーも思う。日向に出たら汗ばむ陽気。
クラスの誰もが「暑い」と感じているのだろうし、季節外れな怪談だったら、まさにピッタリ。きっと怪談なのだろう、とクラス中が考えただろうに…。
(…怪談じゃないの?)
ハーレイが教室の前のボードに書いた文字。「扇」と大きく、一文字だけ。
扇と言ったら扇子と同じで、扇いで風を送るもの。夏のものだし、季節外れには違いない。
「お前たち、怪談だと思っていただろう? 残念ながら、今日はこいつだ」
古典の授業じゃ、お馴染みだよな。扇ってヤツは。…いわゆる扇子。
その扇子だが、何処で生まれたか知ってるか?
最初に作られた場所のことだな、というハーレイの問い。「分かったヤツは?」と。
(えーっと…?)
ずっと昔の中国だっけ、と考えた扇子の生まれ故郷。歴史が古い道具の筈だし、遠い昔の日本に文化を輸出したのは中国だから。
「中国ですよね!」
他の生徒に先を越された。何人もが「はいっ!」と元気に手を挙げ、「中国です!」。
出遅れちゃった、と本当にガッカリしたのだけれど…。
「残念だったな、お前たち」
扇という言葉は中国に昔から存在したから、間違いじゃないが…。
言葉は中国生まれなんだが、扇子の方は違うってな。
そう簡単に分かるようなことを俺が訊くか、とハーレイはフフンと鼻で笑った。勇み足で答えた生徒たちを。「お前たち、まだまだ甘すぎるぞ」と。
お蔭で、ホッとつけた息。出遅れたけれど、恥はかかずに済んだから。
(怪我の功名…)
ホントにそれだよ、と思ってしまう。もしも一番に手を挙げていたなら、今頃は耳まで真っ赤になっていただろう。「間違えちゃった」と俯いて。
ハーレイは「中国です」と答えた生徒たちを見回し、「中国の扇は団扇なんだ」と「扇」の字を指でトンと叩いた。
団扇は今の時代もある。扇子と同じで、復活して来た日本の文化。夏に使う風を作り出す道具、扇子との違いは「畳めない」こと。
昔の中国で「扇」が意味していたものは団扇。そういう形の風を送る道具なら、古代エジプトの壁画などにもあるらしい。大きさや形、材料などは地域によって様々で。
けれど、折り畳める扇子が最初に生まれた場所は…。
「中国じゃなくて、この日本なんだ。…今の日本とは違うがな」
「ええっ!?」
日本ですか、とクラス中の生徒がどよめいた。
SD体制の時代には文化ごと消された扇子だけれども、今は普通に見られるもの。
遠い昔の小さな島国、この辺りにあったと伝わる日本。其処の文化として復活している、扇子や団扇。古典の授業でも挿絵などで見る扇子だけれど…。
(日本で作って、あちこちに輸出していただけで…)
元は中国からやって来たのだ、と頭から思い込んでいた。他の生徒と全く同じに。
日本人は手先がとても器用で、他所の国から伝わったものをアレンジするのを得意としていた。それは細かい細工物やら、美しい絵を描いたものやら、日本の品物は引っ張りだこ。
扇子もそれだと考えた。日本の製品が美しいから、きっと人気が高かったのだ、と。
(だって、昔の他所の国にも…)
広く知られていたのが扇子。
ヨーロッパの貴婦人たちも持っていたのだし、肖像画にも描かれているほど。
それほど有名だった扇子が日本生まれだなんて、俄かにはとても信じられない。そういった頃に世界に広がったものは、中国のものが多いから。
紅茶に陶磁器、絹だって元は中国生まれ。だから扇子も中国だろうと思うのに…。
なんとも解せない、日本生まれだという扇子。「中国生まれ」の方がしっくりくる。遥かな昔に中国で生まれて、日本に渡って、更に洗練されたのだ、と考える方が。
けれどハーレイは「間違えるなよ?」と念を押した。
「勘違いしているヤツらは多いが、正真正銘、扇子ってヤツは日本生まれだ」
歴史もうんと古いってな。平安時代には完成してたし、古典の中にも出てくるだろう?
そんな具合に、日本には扇子の記録がある。折り畳んで使っていたってことも。
ところが中国の方になったら、別の記録が残されている。日本から扇子が入ってくるまで、折り畳める形の扇は存在しなかった、とな。
つまり本当に扇子は日本生まれで、面白いことに、お前たちも知っている通り…。
高貴な女性は扇で顔を隠すものだ、とハーレイが交えた古典の復習。源氏物語などが描き出した当時の貴族の習慣。身分が高い女性の場合は、人前では顔を隠すもの。扇をかざして。
それと同じに、扇子が伝わったヨーロッパでも…。
「顔を隠していたんですか!?」
今度もクラスがざわめいた。「扇で顔を隠す」というのは、日本だけだと皆、思っていたから。
「日本ほどにルールは厳しくないがな。…それに自発的に隠していたわけだから」
そうそう顔は見せてやらない、と半ば意地悪かもしれん。
日本の場合は、扇で顔を隠さなかったら、「なんて行儀が悪いんだ」と思われちまって、縁談も来やしなかった。そういうマナーが定着していたもんだから。
ヨーロッパの方だと、其処までは行かん。自分を安売りしないために顔を隠していただけだ。
扇子は女性の大切な持ち物の一つでだな…。
お蔭で扇言葉というのまであった、とボードに書かれた「扇言葉」の文字。
「…扇言葉ですか?」
何だろう、と声があちこちで上がったけれど。
「書いた通りだ、言葉なんだ。一種の暗号みたいなモンだな、扇言葉は」
気になるヤツは自分で調べろ、こっちの方まで話していたらキリが無いから。
もう充分に聞いただろうが、扇子の話は。…眠かったヤツらも、目が覚めたな?
授業に戻る、と終わった雑談。
扇子の話は其処でおしまい、「扇」も「扇言葉」も消された。教室の前のボードから。
ハーレイの授業で扇子の話を聞いた日の帰り。
いつものようにバス停から家まで歩いていたら、この時間でも暖かすぎる日差しが降って来る。小春日和と言うのだろうか、季節外れの陽気だから。制服の上着を着ていると暑い。
(こういう時に、扇子があったら…)
パッと広げて、パタパタと涼しい風を送れる。顔や首筋なんかに向けて。
(男の人でも、昔だったら扇子を持ってて…)
粋に扇いでいたのだろう。今日のような日や、夏の暑い日は。
今の時代も、お洒落な人なら紳士物を持っているのだけれども、滅多に見ない。だから自分も、鞄に扇子を入れてはいない。
あったら便利なんだけど、と考えながら帰った家。「暑い日は、扇子が便利そう」と。
そうは思っても、今ではすっかり女性の持ち物になっている扇子。
(ママだって、夏は使っているし…)
出掛ける時には持って行くよね、とダイニングでおやつを頬張りながら扇子を思い浮かべる。
小さい頃から、母の扇子はよく見ていた。暑い日には外で、扇いで貰っていたことも。
(公園の東屋なんかに入って…)
パタパタと風を送って貰った。ジュースを飲んでいる時とかに。
母の扇子は、日本の文化が復活して来た時に戻って来たものの一つ。女性用の方が断然多くて、父は扇子を持ってはいない。
(前のぼくたちが生きてた頃は…)
SD体制の時代なのだし、無かった扇子。文化ごと消されてしまっていて。
人類の輸送船から物資を奪って暮らした時代も、物資の中に扇子は混じっていなかった。扇子が作られていなかったのでは、存在するわけもないし、物資に紛れ込んでもいない。
(もしもあったら、うんとレトロなものだから…)
前のハーレイが貰って行ったのだろうか、「これはいいな」と目を付けて。
とてもレトロだった、羽根ペンや木で出来た机を好んだハーレイ。他の仲間は見向きもしない、遠い昔の文化の名残を。
だから扇子が混じっていたなら、喜んで貰いそうではある。
船にはきちんと空調があって、扇子なんかの出番は全く無い世界でも。
ハーレイだったら貰ったかも、と思ったけれど。いそいそと扇子を貰いそうだけれど…。
(扇子、ヨーロッパじゃ女性用…)
今の時代の日本でも同じ。主に女性が持っているもの。
もしも扇子が混じっていたなら、明らかに女性用だったろう。花の模様だとか、ヨーロッパ風のレースで飾られた扇だとか。
(うーん…)
それじゃ駄目だ、と頭を振って戻った二階の自分の部屋。空になったカップやケーキのお皿を、キッチンの母に返してから。
(前のぼくが奪った物資の中に、扇子が混じっていたとしたって…)
男性用の扇子ならともかく、女性用だと、どうなったろう?
勉強机に頬杖をついて考える。前のハーレイなら、扇子を見付けてどうしただろう、と。
物資の中に紛れた扇子。誰も欲しがる者が無ければ、不要品として捨てられて終わり。倉庫には余計な物は置かずに、大切なものを仕舞っていたから。後で役立ちそうなものとか。
船では使わない扇子。空調があれば、暑すぎたりはしないから。
機関部などの暑い場所では、扇子で扇ぐ暇があったら、作業を早く済ませて立ち去るだけ。あの船の中では、扇子は要らない。
(いくらハーレイでも、使わないよね?)
物資の中に混じった扇子を見付けて、「レトロなものだ」と見惚れていても。
きっと女性用の扇子なのだし、「俺が貰う」とは言いそうにない。ハーレイは男なのだから。
それとも、貰って使うのだろうか?
女性用でも全く気にせず、「これはいいな」と手に取って。…他に希望者はいない扇子を。
(扇言葉とかって言ってたし…)
扇ぐ他にも使い道があるのが扇子というもの。
けれども、あれも女性の世界のものだろう。扇子は女性の持ち物なのだし、扇言葉も女性たちの間で交わしていたのに違いない。
そういうことなら、前のハーレイが扇子を貰って行っても役に立たない。
扇言葉を知っていたとしたって、男性はそれを使わないから。女性の間だけで使う言葉で。
そんな扇子を欲しがるだろうか、レトロ趣味だった前のハーレイが…?
羽根ペンと、それに木で出来た机。シャングリラの仲間たちが見向きもしなかったもの。
あまりにレトロで時代遅れで、欲しがる者は誰もいなかった。前のハーレイを除いては。それを喜んで貰って行ったのが前のハーレイで、白い鯨になった船でも使っていたほど。
あのハーレイが扇子と出会っていたなら、欲しがったのか、それとも見ていただけか。
(うーん…)
物資の中に扇子があったら、どうしていたのか訊きたい気分。
何処から見たって女性用でも、「俺が貰う」と持ち去ったのか。あるいは「誰も欲しがらない」まま、扇子は宇宙に廃棄されたか。
(いったい、どっちだったんだろう…?)
知りたいな、と思っていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、早速、訊いてみることにした。テーブルを挟んで向かい合わせに腰掛けて。
「あのね、ハーレイ…。扇子があったら欲しかった?」
「はあ? 扇子って…」
いきなり何だ、とハーレイは怪訝そうな顔。「扇子がどうかしたのか?」と。
「今日の授業で言っていたでしょ、扇子は日本で生まれたんだ、って」
扇子があったら、ハーレイ、欲しい?
貰っちゃおうって思うのかな…?
「扇子なあ…。渋くてなかなかいいとは思うが、持っちゃいないな」
あれを持つには、もう少し年を取らないと…。粋に使いこなせるようになるには。
「え? 年を取るって…。なんで?」
どうして扇子に年が関係してくるわけ、と目を丸くした。扇子は風を送るための道具で、誰でも使いこなせそう。広げたり閉じたり、それさえ出来る年になったら。
「いや、男性用の扇子を持つには、俺の年だと、ちと若すぎて…」
絵にならないしな、とハーレイは軽く肩を竦めた。「扇子が似合うだけの貫禄が無い」と。
「ハーレイ、やっぱり欲しいんだ…。扇子…」
「年を重ねた男の魅力はいいもんだしな。親父もたまに使っているし」
あれが渋くていいんだ、うん。
夏の盛りにヒョイと広げて、パタパタとやっているのがな。…団扇よりもずっと絵になるから。
団扇だと余所行きの感じがしない、というのがハーレイの言い分。家で気楽に扇ぐのが団扇で、扇子は出掛けた先でお洒落に使うものらしい。
今のハーレイの父は紳士物の扇子を持っているから、ハーレイもそれに憧れる。もう少しばかり年を取ったら、自分も扇子が似合うのに、と。
今のハーレイの扇子に対する気持ちは分かったけれども、問題は前のハーレイの方。遠く遥かな時の彼方で、シャングリラで生きていたハーレイ。
「今のハーレイは、扇子が欲しいらしいけど…。そのために、年を取らないでよ?」
もう止めるって約束したでしょ、年を取るのは。
だから扇子が似合うような姿になるまで、年を取ったら駄目だからね。…いくら欲しくても。
でも…。前のハーレイなら、どうだった?
扇子があったら欲しかったのかな、うんとレトロな道具でしょ、扇子。
風を送るんなら空調がちゃんとあったものね、と扇子のレトロさを強調した。羽根ペンや木製の机を愛用していた前のハーレイは、明らかにレトロ趣味だったから。
「扇子が欲しいかと訊かれても…。扇子なんか無いぞ、あの時代には」
機械が文化を消しちまってたし、何処を探しても無いってな。前の俺たちが生きた頃には。
無いものには出会いようがないってモンだろ、前の俺と扇子。いくらレトロな道具だとしても、出会いが無いなら話にならんぞ。
「そうだけど…。それは分かっているんだけれど…。でも…」
もしも扇子が、前のぼくが奪った物資の中に混じっていたら、どうしてた…?
あの時代に扇子は無かったんだし、あったとしたら、の話だけれど。
扇子があったら、前のハーレイはどうするわけ…?
貰って行くのか、要らないからって廃棄処分に回すのか、どっち?
ハーレイくらいしか欲しがらないでしょ、とてもレトロな扇子なんかは…?
船では要らない道具だものね、と重ねて言った。シャングリラでは出番のない道具、と。
「ふうむ…。うんとレトロな扇子と出会っちまった時か…」
ちょいと手に取ってはみるんだろうなあ、「これが扇子というものか」と確かめに。
大いに興味が湧くと思うぞ、風を送るための道具だなんて。
しかも自分で扇ぐためのもので、空調みたいに自動になってはいないんだしな?
まず間違いなく手に取るだろう、とハーレイは大きく頷いた。「前の俺なら、そうなるな」と。
「レトロ趣味だったのは本当なんだし、扇子もレトロなんだから…。手が伸びちまう」
物資の分配を始める前に見付け出すのか、分配した後に残った中から掘り出すのか。
どっちにしたって、触りもしないで廃棄処分に回しはしないぞ。使い心地ってヤツはどうかと、そいつを確かめない内は。
「使い心地って…。その扇子が女の人用のでも?」
扇子、今も殆どは女の人のためのものでしょ、昔だってそう。…日本には男の人のための扇子もあったけれども、ヨーロッパだと女の人用ばかりだから…。
前のぼくたちの時代に扇子があったら、女の人用だと思うんだけど…。
花模様だとか、レースつきだとか。そういう扇子でも、ハーレイは触って使ってみた…?
女の人用の扇子だよ、と念を押したけれど、ハーレイは「気にしないな」と直ぐに答えた。
「どんなに華やかな扇子だろうが、扇子は扇子だ。レトロなものには違いない」
俺にしてみりゃ、大いに興味があるわけだから…。
ちゃんと手に取って、広げてみたりするんだろう。広げたら畳んで、「こうなるのか」と扇子の凄さに感動もして。一本の棒がパッと広がるわけだしな?
でもって、そいつで扇いだりもして、貰っておくか、どうすべきかを考えるんだ。
女物だろうが、俺が自分の部屋の中だけで使う分には、誰も笑いやしないんだから。
ただし、俺がゆっくり考える前に、エラが持って行ってしまわなければ、だが。
「エラ…?」
なんでエラなの、エラはレトロな趣味なんか持っていなかったよ?
木の机だって欲しがらなくて、羽根ペンも見向きもしていなくって…。なのにどうして、エラが扇子を持って行っちゃうの…?
有り得ないでしょ、と指摘したのだけれども、ハーレイは「そうでもないぞ」と返した。
「レトロな趣味は持っていなくても、知識は豊富だったしな。調べ物だって好きだったから…」
扇子があるような時代だったら、扇言葉を知っていそうだと思わんか?
なにしろ相手は、あのエラだから。
「そうかも…!」
本物の扇子は初めて見たって、色々なことを知っていそう…。扇言葉があることも。
確かにエラなら、きっとピンと来たことだろう。物資の中に混ざった扇子を目にしたら。
とてもレトロな扇子という道具も、それが使われた遠い昔の文化なども。
「あの時代でも、ちゃんと調べれば、扇言葉のデータなんかもあったよね?」
扇子が消されちゃってた頃でも、扇子について調べていけば。…データは残っていたんだから。
「恐らくな。…扇子を持ってる肖像画なんかも、データの形で残っていたし」
元の肖像画は、とうに失われてしまっていたって、どういう絵かは分かったんだ。絵に描かれた人が誰なのかも。
だから扇子に興味さえあれば、いくらでも調べられただろう。何に使ったのか、どういう具合に発展していったのか。…扇言葉が作り出されたトコまでな。
エラなら調べられただろう、と今のハーレイが言う通り。
レトロ趣味ではなかったけれども、遠い昔の歴史などにも詳しかったエラ。扇子に興味を持っていたなら、扇言葉にも辿り着いただろう。
そして本物の扇子に出会った時には、それを試そうと持って行ったりもして。
「ねえ、ハーレイ…。扇言葉って、どんなものなの?」
授業では話していなかったけれど、ハーレイは知っているんでしょ?
「これ以上はキリが無いからな」って、授業に戻ってしまったけれど…。
一種の暗号みたいなヤツって、どうやって扇子で暗号になるの…?
中に何か書いておくだとか、と問い掛けた。扇子の素材にもよるだろうけれど、文字などを中に書くことは出来る。だから暗号を其処に書くのか、と。
「おいおい、それじゃ無粋だろうが。まあ、暗号としては使えそうだが…。そのやり方でも」
だがな、よくよく考えてみろよ?
扇言葉を使っていたのは貴婦人なんだぞ、本物の暗号を使うと思うか?
本当に秘密のやり取りだったら、そういったヤツも使ったりはしていたんだが…。命が懸かった脱出劇とか、そんなのもあった時代だから。
しかし、扇言葉を使ってた場所じゃ、物騒なことは起こらなかった。
舞踏会とか、皆で集まっての晩餐会とか、華やいだ席で優雅に扇を持ってたんだぞ?
扇言葉は、扇の動きだけで色々なことを伝えるための手段だってな。
こう動かしたら、この意味だとか。声は出さずに、扇子だけで言葉を伝えられた、と。
扇子の動きだけで言葉を伝えた、遠い昔の貴婦人たち。確かに、ある意味、暗号のよう。扇子の動きに意味があるとは、知らないと気付きもしないから。
大勢の貴婦人たちが扇子で言葉を交わしていたって、傍目には扇子が優雅に動いているだけ。
働いたことなど一度もない手に操られて。彼女たちだけの秘密の暗号、それを語るために。
「扇言葉って、そういうものだったんだ…。ホントに暗号みたいだね」
ぼくが見たって、暗号だなんて思いもしないよ。扇子を持ってる、って眺めるだけで。
…前のぼくたちが生きた頃には、扇子は存在しなかったけれど…。
前のハーレイも出会えないままになっちゃったけれど、もしも出会えることがあったら。
エラが本物の扇子に出会っていたなら、どうなったかな?
前のハーレイよりも先に持ってっちゃうかな、きっと女の人用の扇子だろうし…。
「間違いなく持って行ったと思うぞ、俺が「どれ」と扇子に手を伸ばすよりも前に」
これは私が貰っておきます、と掻っ攫う姿が目に浮かぶようだ。前の俺には触らせもしないで。
そうやって持って行っちまった後は、女性の間で流行ったんじゃないか?
扇言葉というヤツが。…それこそ船で扇子を作る所から始めて。
その気になれば作れただろう、とハーレイが言う扇子。構造自体は単純なのだし、最初の一つが手に入ったなら、真似て作ってゆけばいいだけ。
船の中でも揃う材料、それを使って。折り畳める扇子の形に仕上げて、欲しい女性たちに配ってゆくことも出来た。扇言葉を使いたい女性は、扇子を貰って扇言葉を使う。
「本当に?」
流行ったのかな、扇子を使う言葉だなんて…。暗号なんかを使わなくてもいい世界なのに。
こっそり話をしたいんだったら、思念波だってあったんだけど…?
「扇言葉は貴族の習慣だったんだぞ。ずっと昔の、本物の貴婦人たちが使った言葉だ」
そいつを真似て話せるんだぞ、扇子が一本ありさえすれば。
お姫様みたいなドレスは無くても、贅沢な宝石だって無くても。
それでも言葉は共通だってな、貴婦人たちと。扇子を使って話しさえすれば。
「…夢が一杯で、流行りそうだね…。あの船の中で、お姫様ごっこ…」
「そうだろう? だから流行ると言ったんだ」
エラが扇子と出会っちまったら、扇言葉があったと思うぞ。…あのシャングリラに。
白い鯨じゃなかった船でも、とハーレイは笑う。人類の船から物資を奪って、皆が懸命に生きていた船。名前だけが「楽園」だった時代のシャングリラ。
そんな船でも、扇子があったら扇言葉が流行ったろう、と。扇子を手にした女性たちは皆、遠い昔の貴婦人気分で。
「うん、本当に流行っていそう…。貴婦人なんて、あの船じゃ誰もなれなかったから」
ミュウは見付かったら殺されるだけで、人間扱いさえもされてなくって…。
だから余計に夢を見たいよね。…扇子を一本持っているだけで、貴婦人の言葉を喋れるんなら。
ずっと昔に、地球にいた本物のお姫様たち。その人たちと同じ言葉を使えるんなら…。
とても素敵で、みんなが喜びそうだけど…。エラのアイデア、みんなが飛び付きそうだけど…。
どんなのがあるの、扇言葉って?
扇子の動きで伝えられること、中身はどういう風になるわけ…?
普通の言葉と同じなのかな、と投げ掛けた問い。暗号めいた扇の言葉で会話が出来たか、遊びに過ぎなかったのか。なにしろ使うのは扇子だけだし、語彙が多そうには思えないから。
「扇言葉の中身ってか? そりゃあ、色々あったってな」
なんと言っても言葉なんだし、伝えられることは多いに越したことはない。
「はい」と「いいえ」は基本の中の基本ってヤツだな、これが無ければ始まらん。質問されたら答えるのが会話の基本だろうが。
そして本当に凄かったらしいぞ、扇言葉で伝えられる中身というヤツは。
「あなたが好きです」とか、そんなのはまだマシな方でだ…。「あなたは残酷です」なんていう言葉もあったらしいから。
声に出さなくても、扇子だけでそれを伝えるんだぞ。男の方も大変だってな。
「男の人って…。なんで?」
扇言葉は、女の人が使うものでしょ。女の人しか扇子は持っていないんだから。
女の人の言葉だよね、とキョトンと首を傾げていたら、ハーレイは「甘いぞ」と可笑しそう。
「男も、そいつを知らなきゃいけなかったんだ。女性がそれで話す以上は、読み取らないと」
扇言葉の意味ってヤツを。…自分は使う方でもないのに、あれはどういう意味なのか、とな。
「えーっ!?」
男の人も覚えなくっちゃ駄目なの、とても沢山の言葉があるのに?
自分は扇子を持ってないのに、扇言葉を覚えていないと駄目だったなんて…!
酷すぎだよ、と叫んだけれども、それは本当にあったこと。
人間が地球しか知らなかった時代に、東洋の小さな島国で生まれた扇子が海を渡って行って。
ヨーロッパで貴婦人たちに愛され、必須の持ち物に変身を遂げて。
扇子の動きで意味を表す扇言葉は、紳士淑女のための教本までが作られていた。貴婦人が持った扇子がこう動いたら、こう、と意味を詳しく書き記して。
それをきちんと覚えていないと、舞踏会などで気持ちを伝えられない。相手の気持ちを読み取ることも出来ない。しかも…。
「その教本を持って話をするなど、論外だからな? 場の雰囲気がブチ壊しになる」
とにかく中身を覚えるしかなくて、そいつが社交のルールってヤツだ。
「好きです」と言ってくれているのに気付かないなら、自業自得で悲しいことになるんだが…。
「あなたを追い払いたい」ってヤツもあるんだ、そう言ってるのに側を離れなかったら…。
周りから見れば非常識なヤツで、評判までが地に落ちちまう。「あいつは駄目だ」と噂が流れて命取りってな。
だから男もきちんと覚えておかないと、と言われれば分かる。貴族の世界は社交が大切、人との関わり方が重要。彼らの仕事は、社交そのものだったから。
「なんだか凄いね…。男の人まで巻き込んじゃってた言葉だなんて」
扇子を持つのは女の人だし、女の人同士でお喋りするんだと思ってたのに…。
そうじゃなくって、男の人にも扇言葉で話すだなんて。…男の人まで扇言葉を覚えたなんて…。
本まで出ていたくらいなんだし、みんな頑張って覚えたんだと思うけど…。
働く必要が無かった分だけ、時間はたっぷりありそうだけど…。でも…。
扇言葉を覚えて使っていたのは、機械じゃなくって人間だよ?
人間に「絶対」なんかは無くって、ミスすることも多いんだけど…。うっかりミスとか。
そんな風にして、間違えちゃったらどうなるんだろう?
扇子を持ってる女の人も、それを読み取る男の人も…。
「間違いなあ…。扇言葉で伝え損なったり、読み損なったりするってか…?」
確かに無いとは言い切れないよな、なにしろ人間なんだから。
「あなたが好きです」と言われてるのに、「嫌いなのか…」と諦めて去っていくヤツだとか。
逆に「好きです」と伝えたつもりで、「追い払いたい」と言っちまうとか…。
ありそうだよな、とハーレイも頷く「扇言葉の間違い」。きちんと声で話していたなら、そんな間違いは起こらないのに。…自分の気持ちを伝えるために、人間は声を持っているのに。
「ね、間違えちゃうことも起こりそうでしょ?」
扇言葉は厄介そうだよ、見た目はとても優雅でも。…扇子の動きだけで気持ちを伝えられても。
間違えちゃったら、それでおしまいになっちゃうこともありそうだもの。本当は上手くいく筈の恋が、間違えたせいで壊れてしまって。
良かったね、前のぼくたちが生きてた時代に、扇子が無くて。
シャングリラには扇子も扇言葉も無くって、声と思念波だけの世界で。
もしもシャングリラに扇言葉があったら、ぼく、間違えてしまいそうだから…。
ホントにやりそう、と舌をちょっぴり覗かせた。何か悪戯して、叱られた時の子供みたいに。
「なんだって?」
お前が何を間違えるんだ、シャングリラに扇言葉があったら…?
エラたちが喋っているのを眺めて、まるで違うことをやったりするのか?
「ソルジャーがおいでになった」と話してるのに、「来ないで下さい」と間違えちまって、何も言わずにそそくさと消えてしまうとか…?
「ううん、それならまだいいけれど…。間違いの中ではマシだと思う」
ぼくが扇言葉を読み取り損ねて、何か失敗してるくらいは。…ぼくが恥をかくだけだから。
だけど、扇言葉を使っているのが、ぼくだったら…?
エラが船の中で扇言葉を流行らせていたら、ぼく、面白がって扇子を貰っちゃうかも…。
女の人しか持っていなくても、「ぼくにも一本貰えるかな?」って。
白い鯨になった後なら、扇子を作るの、ずっと簡単になっていそうだし…。
扇言葉の詳しい本も、船の中で刷られていそうだし…。
そういう頃でしょ、前のぼくがハーレイのことを好きになったの。…一番古い友達だったのが、恋人同士に変わった頃って。
その大切な時に間違えてしまいそう。
ハーレイに「好き」って気持ちを伝えるのがとても恥ずかしくって、扇子を貰って…。
扇言葉の本で勉強して、「好きです」っていう時はこうするんだ、って…。
青の間で何度も練習してから、ハーレイに伝えに行くんだけれど…。
扇子を持って、とクスッと笑った。「其処で失敗するんだよ」と。
「失敗って…。お前が俺に扇言葉で伝えようとしてか?」
俺の部屋まで来たのはいいが、わざわざ扇子を使って「嫌い」と俺に言っちまって…?
嫌われた俺は酷いショックで、お前に「帰って頂けますか」と返事するのか?
お前と話す理由が無いしな、とハーレイが唸る「言葉を伝え損ねた」結果。「嫌いだ」と告げにやって来た人と、ゆっくり話しはしないだろう。酷い喧嘩になるだけだから。
「そう。…そしたら、おしまい…」
ぼくは「好き」って伝えたつもりで、間違えたなんて思わないもの。とても緊張していて、胸もドキドキだろうから…。「やっと言えた」ってホッとするだけ。
それの返事が「帰って頂けますか」だったら、ぼくの方だって大ショックだよ。
「好き」の返事が「帰れ」だなんて、どう考えても「俺の方は好きだと思っていない」っていうことだもの。…振られちゃった、って泣きそうな気分。
だけどホントに振られたんだし、仕方ないよね…。
青の間に帰って泣くしかなくって、ハーレイとの恋は始まりさえもしないんだよ。…ハーレイは「嫌われた」と思ってぼくを避けるし、ぼくは「振られた」と思っているし…。
それじゃ二人で話しもしなくて、いつまでも間違えちゃったまま。
ホントはお互い、大好きなのに…。ぼくが扇言葉を間違えなければ、恋が実っていたのにね…。
そういう失敗、起こりそうでしょ、と自分の顔を指差した。
前の自分も、人間だから。ソルジャー・ブルーでも、失敗することはあったのだから。
「お前の方が失敗なあ…。それも無いとは言えないが…」
それとは逆に、お前が正しく送っていたって、俺が間違えるかもしれないぞ?
「好きだ」と伝えてくれているのに、「大嫌いだ」と読み取っちまって、その後のことは、今の話と全く同じで。…お前に向かって「帰って頂けますでしょうか?」と言っちまって。
「ハーレイだったら間違えないでしょ。ぼくと違って」
キャプテンだものね、知識も沢山あったもの。シャングリラの中のことだったら。
扇言葉も完璧なんだよ、わざわざ勉強しなくったって。
「はてさて、そいつはどうなんだか…」
扇言葉は、ブリッジじゃ使わないからな?
あそここそ声と思念波の世界だ。優雅に扇子を使って話す余裕なんかは、誰も全く無いってな。
エラだって扇子は封印だろう、とハーレイが苦笑する「ブリッジ」という場所。
ブリッジは白いシャングリラの心臓なのだし、どんなに空気が和やかな時も、「正しく伝える」ために努力をするべき所。
船の周りの観測データも、航路設定などの数値も。
キャプテンからの指示はもちろん、機関長やら、航海長やらが発する声も、どれも正確に、皆の持ち場に伝わってこそ。
伝え損ねれば船が傷つき、最悪の場合は沈むこともある。人類軍から船を守っている、システムなどがダウンして。…ステルス・デバイスが作動しないとか、シールドも張れなくなるだとか。
そんな場所では、扇言葉は使えない。
「面舵」や「取舵」を扇言葉で伝えてみたって、誰も瞬時に動けはしない。
もっとも、キャプテンは男なのだし、扇子で指示は出さないけれど。
航海長のブラウだったら、扇子を持てる女性だけれども、扇言葉でカウントダウンは出来ない。数字を表すことは出来ても、ブリッジクルーは、そちらを向いてはいられないから。
「そっか…。扇言葉は、ブリッジには向いていないよね…」
普段に使っていないんだったら、ハーレイも詳しくなさそうだから…。
ぼくが「好きだよ」って扇言葉で伝えていたって、間違えちゃいそう。「嫌われたんだ」って。
それにハーレイが詳しくっても、ぼくが間違えちゃったらおしまい。
「ハーレイが好き」って伝えたつもりで、「大嫌いだよ!」ってやっちゃうとか。
そんなのホントに悲しすぎだよ、ちゃんと伝わったら恋人同士になれたのに…。
扇言葉を間違えちゃって、「振られたんだ」とか、「嫌われた」って思い込んじゃって…。
一度そうなったら、話しに出掛けて、また傷付きたくないものね…。
ぼくはハーレイを避けるんだろうし、ハーレイもぼくを避けるだろうから…。
きっと誤解は解けないままだよ、二人きりで話さないんなら。
ソルジャーとキャプテンとしての話だけしか、しようと思わないんなら…。
「まったくだ。多分、そうなっちまうしな…」
船の仲間たちに、俺たちのことで迷惑なんかはかけられん。
距離を置くのが一番いい、と俺だって思うことだろう。…傷口を広げたくないのなら。
お前に嫌われちまったってことを、直視したくはないからなあ…。
遠く遥かな時の彼方で、お互い、間違えたかもしれない言葉。
恋が実るか実らないかの、とても大切な局面で。
間に扇子が入っていたなら、扇言葉の「好き」と「嫌い」を取り違えて。
「…ぼく、ハーレイに扇言葉は使わないよ」
ママの扇子は家にあるけど、間違えちゃったら大変だから。
扇子の動きで色々な言葉が伝わるだなんて、ちょっぴり面白そうだけど…。扇言葉のことが沢山書いてある本、学校の図書室にあったら借りるかもだけど。
でも、読むだけで使わないからね、と宣言した。
扇言葉を間違えたならば、大変なことが起こるから。
せっかく来てくれたハーレイに向かって、「大嫌い!」と扇子で伝えてしまいそうだから。
「扇言葉なあ…。お前の場合は、使うまでもないと思うがな?」
あれは声を出さずに気持ちを伝えるための言葉で、今のお前には必要ないぞ。
思念波の方はサッパリにしても、お前からは「好き」が溢れているから。
心の欠片が零れてなくても、顔だけを見れば充分、分かる。…俺を嫌いじゃないってことが。
「ホントだね!」
ハーレイのことが、誰よりも好きでたまらないから、きっと顔にも出てるよね。
わざわざ扇子を使わなくても、黙っていたって、伝わっていそう。
ぼくがどんなにハーレイが好きか、前のぼくだった頃よりも好きか。
ハーレイは分かってくれているから、扇言葉で伝えなくてもいいんだものね…!
遠い昔の扇の言葉。
貴婦人たちが扇子で伝えて、男性もそれを読み取った。本まで読んで、扇言葉の勉強をして。
とても頑張って勉強したのに、間違った人もいたかもしれない。
たった一度の間違いのせいで、恋が壊れた人だって。
(でも、ぼくたちなら大丈夫…)
大丈夫だよ、と自信を持って言えそうな気分。
遥かな昔の恋人たちは、間違えたかもしれないけれども、自分たちは間違えたりしない。
扇言葉なんかは使わないから、それが無い時代に恋をして、生まれ変わって来たから。
宇宙の何処にも扇子が無かった時代に生きて、扇子がある今の時代に来たから。
死の星だった地球が青く蘇るほどの時が流れても、今も変わらず恋人同士。
(ぼくが、ママの扇子を借りて来ちゃって…)
間違えて「嫌い」と出していたって、ハーレイは「好きだぞ」とプロポーズしてくれる。
扇言葉を使っても。
好きなのに「嫌い」と間違えていても。
その程度のことで、恋が壊れはしないから。
今度こそ幸せに生きてゆくために、ハーレイと二人、地球に生まれて来たのだから…。
扇の言葉・了
※遠い昔の貴婦人たちの言葉。扇を使って伝えるもので、男性にも扇言葉の知識は必須。
間違えて使ってしまいそうだ、と心配なブルーですけど、相手がハーレイなら、伝わる言葉。
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季節外れな話をするか、と笑みを浮かべたハーレイ。
今はブルーのクラスで授業の真っ最中。古典を教えているのだけれども、眠くなる生徒も次第に増える。いくらハーレイが人気者でも、それと授業は別のこと。勉強が好きな生徒は珍しい。
生徒の集中力が切れて来た時、絶妙なタイミングで繰り出す雑談。ハーレイの人気が高い理由の一つは、それ。
(確かに今日は暑いよね?)
夏ほどじゃないけど、とブルーも思う。日向に出たら汗ばむ陽気。
クラスの誰もが「暑い」と感じているのだろうし、季節外れな怪談だったら、まさにピッタリ。きっと怪談なのだろう、とクラス中が考えただろうに…。
(…怪談じゃないの?)
ハーレイが教室の前のボードに書いた文字。「扇」と大きく、一文字だけ。
扇と言ったら扇子と同じで、扇いで風を送るもの。夏のものだし、季節外れには違いない。
「お前たち、怪談だと思っていただろう? 残念ながら、今日はこいつだ」
古典の授業じゃ、お馴染みだよな。扇ってヤツは。…いわゆる扇子。
その扇子だが、何処で生まれたか知ってるか?
最初に作られた場所のことだな、というハーレイの問い。「分かったヤツは?」と。
(えーっと…?)
ずっと昔の中国だっけ、と考えた扇子の生まれ故郷。歴史が古い道具の筈だし、遠い昔の日本に文化を輸出したのは中国だから。
「中国ですよね!」
他の生徒に先を越された。何人もが「はいっ!」と元気に手を挙げ、「中国です!」。
出遅れちゃった、と本当にガッカリしたのだけれど…。
「残念だったな、お前たち」
扇という言葉は中国に昔から存在したから、間違いじゃないが…。
言葉は中国生まれなんだが、扇子の方は違うってな。
そう簡単に分かるようなことを俺が訊くか、とハーレイはフフンと鼻で笑った。勇み足で答えた生徒たちを。「お前たち、まだまだ甘すぎるぞ」と。
お蔭で、ホッとつけた息。出遅れたけれど、恥はかかずに済んだから。
(怪我の功名…)
ホントにそれだよ、と思ってしまう。もしも一番に手を挙げていたなら、今頃は耳まで真っ赤になっていただろう。「間違えちゃった」と俯いて。
ハーレイは「中国です」と答えた生徒たちを見回し、「中国の扇は団扇なんだ」と「扇」の字を指でトンと叩いた。
団扇は今の時代もある。扇子と同じで、復活して来た日本の文化。夏に使う風を作り出す道具、扇子との違いは「畳めない」こと。
昔の中国で「扇」が意味していたものは団扇。そういう形の風を送る道具なら、古代エジプトの壁画などにもあるらしい。大きさや形、材料などは地域によって様々で。
けれど、折り畳める扇子が最初に生まれた場所は…。
「中国じゃなくて、この日本なんだ。…今の日本とは違うがな」
「ええっ!?」
日本ですか、とクラス中の生徒がどよめいた。
SD体制の時代には文化ごと消された扇子だけれども、今は普通に見られるもの。
遠い昔の小さな島国、この辺りにあったと伝わる日本。其処の文化として復活している、扇子や団扇。古典の授業でも挿絵などで見る扇子だけれど…。
(日本で作って、あちこちに輸出していただけで…)
元は中国からやって来たのだ、と頭から思い込んでいた。他の生徒と全く同じに。
日本人は手先がとても器用で、他所の国から伝わったものをアレンジするのを得意としていた。それは細かい細工物やら、美しい絵を描いたものやら、日本の品物は引っ張りだこ。
扇子もそれだと考えた。日本の製品が美しいから、きっと人気が高かったのだ、と。
(だって、昔の他所の国にも…)
広く知られていたのが扇子。
ヨーロッパの貴婦人たちも持っていたのだし、肖像画にも描かれているほど。
それほど有名だった扇子が日本生まれだなんて、俄かにはとても信じられない。そういった頃に世界に広がったものは、中国のものが多いから。
紅茶に陶磁器、絹だって元は中国生まれ。だから扇子も中国だろうと思うのに…。
なんとも解せない、日本生まれだという扇子。「中国生まれ」の方がしっくりくる。遥かな昔に中国で生まれて、日本に渡って、更に洗練されたのだ、と考える方が。
けれどハーレイは「間違えるなよ?」と念を押した。
「勘違いしているヤツらは多いが、正真正銘、扇子ってヤツは日本生まれだ」
歴史もうんと古いってな。平安時代には完成してたし、古典の中にも出てくるだろう?
そんな具合に、日本には扇子の記録がある。折り畳んで使っていたってことも。
ところが中国の方になったら、別の記録が残されている。日本から扇子が入ってくるまで、折り畳める形の扇は存在しなかった、とな。
つまり本当に扇子は日本生まれで、面白いことに、お前たちも知っている通り…。
高貴な女性は扇で顔を隠すものだ、とハーレイが交えた古典の復習。源氏物語などが描き出した当時の貴族の習慣。身分が高い女性の場合は、人前では顔を隠すもの。扇をかざして。
それと同じに、扇子が伝わったヨーロッパでも…。
「顔を隠していたんですか!?」
今度もクラスがざわめいた。「扇で顔を隠す」というのは、日本だけだと皆、思っていたから。
「日本ほどにルールは厳しくないがな。…それに自発的に隠していたわけだから」
そうそう顔は見せてやらない、と半ば意地悪かもしれん。
日本の場合は、扇で顔を隠さなかったら、「なんて行儀が悪いんだ」と思われちまって、縁談も来やしなかった。そういうマナーが定着していたもんだから。
ヨーロッパの方だと、其処までは行かん。自分を安売りしないために顔を隠していただけだ。
扇子は女性の大切な持ち物の一つでだな…。
お蔭で扇言葉というのまであった、とボードに書かれた「扇言葉」の文字。
「…扇言葉ですか?」
何だろう、と声があちこちで上がったけれど。
「書いた通りだ、言葉なんだ。一種の暗号みたいなモンだな、扇言葉は」
気になるヤツは自分で調べろ、こっちの方まで話していたらキリが無いから。
もう充分に聞いただろうが、扇子の話は。…眠かったヤツらも、目が覚めたな?
授業に戻る、と終わった雑談。
扇子の話は其処でおしまい、「扇」も「扇言葉」も消された。教室の前のボードから。
ハーレイの授業で扇子の話を聞いた日の帰り。
いつものようにバス停から家まで歩いていたら、この時間でも暖かすぎる日差しが降って来る。小春日和と言うのだろうか、季節外れの陽気だから。制服の上着を着ていると暑い。
(こういう時に、扇子があったら…)
パッと広げて、パタパタと涼しい風を送れる。顔や首筋なんかに向けて。
(男の人でも、昔だったら扇子を持ってて…)
粋に扇いでいたのだろう。今日のような日や、夏の暑い日は。
今の時代も、お洒落な人なら紳士物を持っているのだけれども、滅多に見ない。だから自分も、鞄に扇子を入れてはいない。
あったら便利なんだけど、と考えながら帰った家。「暑い日は、扇子が便利そう」と。
そうは思っても、今ではすっかり女性の持ち物になっている扇子。
(ママだって、夏は使っているし…)
出掛ける時には持って行くよね、とダイニングでおやつを頬張りながら扇子を思い浮かべる。
小さい頃から、母の扇子はよく見ていた。暑い日には外で、扇いで貰っていたことも。
(公園の東屋なんかに入って…)
パタパタと風を送って貰った。ジュースを飲んでいる時とかに。
母の扇子は、日本の文化が復活して来た時に戻って来たものの一つ。女性用の方が断然多くて、父は扇子を持ってはいない。
(前のぼくたちが生きてた頃は…)
SD体制の時代なのだし、無かった扇子。文化ごと消されてしまっていて。
人類の輸送船から物資を奪って暮らした時代も、物資の中に扇子は混じっていなかった。扇子が作られていなかったのでは、存在するわけもないし、物資に紛れ込んでもいない。
(もしもあったら、うんとレトロなものだから…)
前のハーレイが貰って行ったのだろうか、「これはいいな」と目を付けて。
とてもレトロだった、羽根ペンや木で出来た机を好んだハーレイ。他の仲間は見向きもしない、遠い昔の文化の名残を。
だから扇子が混じっていたなら、喜んで貰いそうではある。
船にはきちんと空調があって、扇子なんかの出番は全く無い世界でも。
ハーレイだったら貰ったかも、と思ったけれど。いそいそと扇子を貰いそうだけれど…。
(扇子、ヨーロッパじゃ女性用…)
今の時代の日本でも同じ。主に女性が持っているもの。
もしも扇子が混じっていたなら、明らかに女性用だったろう。花の模様だとか、ヨーロッパ風のレースで飾られた扇だとか。
(うーん…)
それじゃ駄目だ、と頭を振って戻った二階の自分の部屋。空になったカップやケーキのお皿を、キッチンの母に返してから。
(前のぼくが奪った物資の中に、扇子が混じっていたとしたって…)
男性用の扇子ならともかく、女性用だと、どうなったろう?
勉強机に頬杖をついて考える。前のハーレイなら、扇子を見付けてどうしただろう、と。
物資の中に紛れた扇子。誰も欲しがる者が無ければ、不要品として捨てられて終わり。倉庫には余計な物は置かずに、大切なものを仕舞っていたから。後で役立ちそうなものとか。
船では使わない扇子。空調があれば、暑すぎたりはしないから。
機関部などの暑い場所では、扇子で扇ぐ暇があったら、作業を早く済ませて立ち去るだけ。あの船の中では、扇子は要らない。
(いくらハーレイでも、使わないよね?)
物資の中に混じった扇子を見付けて、「レトロなものだ」と見惚れていても。
きっと女性用の扇子なのだし、「俺が貰う」とは言いそうにない。ハーレイは男なのだから。
それとも、貰って使うのだろうか?
女性用でも全く気にせず、「これはいいな」と手に取って。…他に希望者はいない扇子を。
(扇言葉とかって言ってたし…)
扇ぐ他にも使い道があるのが扇子というもの。
けれども、あれも女性の世界のものだろう。扇子は女性の持ち物なのだし、扇言葉も女性たちの間で交わしていたのに違いない。
そういうことなら、前のハーレイが扇子を貰って行っても役に立たない。
扇言葉を知っていたとしたって、男性はそれを使わないから。女性の間だけで使う言葉で。
そんな扇子を欲しがるだろうか、レトロ趣味だった前のハーレイが…?
羽根ペンと、それに木で出来た机。シャングリラの仲間たちが見向きもしなかったもの。
あまりにレトロで時代遅れで、欲しがる者は誰もいなかった。前のハーレイを除いては。それを喜んで貰って行ったのが前のハーレイで、白い鯨になった船でも使っていたほど。
あのハーレイが扇子と出会っていたなら、欲しがったのか、それとも見ていただけか。
(うーん…)
物資の中に扇子があったら、どうしていたのか訊きたい気分。
何処から見たって女性用でも、「俺が貰う」と持ち去ったのか。あるいは「誰も欲しがらない」まま、扇子は宇宙に廃棄されたか。
(いったい、どっちだったんだろう…?)
知りたいな、と思っていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、早速、訊いてみることにした。テーブルを挟んで向かい合わせに腰掛けて。
「あのね、ハーレイ…。扇子があったら欲しかった?」
「はあ? 扇子って…」
いきなり何だ、とハーレイは怪訝そうな顔。「扇子がどうかしたのか?」と。
「今日の授業で言っていたでしょ、扇子は日本で生まれたんだ、って」
扇子があったら、ハーレイ、欲しい?
貰っちゃおうって思うのかな…?
「扇子なあ…。渋くてなかなかいいとは思うが、持っちゃいないな」
あれを持つには、もう少し年を取らないと…。粋に使いこなせるようになるには。
「え? 年を取るって…。なんで?」
どうして扇子に年が関係してくるわけ、と目を丸くした。扇子は風を送るための道具で、誰でも使いこなせそう。広げたり閉じたり、それさえ出来る年になったら。
「いや、男性用の扇子を持つには、俺の年だと、ちと若すぎて…」
絵にならないしな、とハーレイは軽く肩を竦めた。「扇子が似合うだけの貫禄が無い」と。
「ハーレイ、やっぱり欲しいんだ…。扇子…」
「年を重ねた男の魅力はいいもんだしな。親父もたまに使っているし」
あれが渋くていいんだ、うん。
夏の盛りにヒョイと広げて、パタパタとやっているのがな。…団扇よりもずっと絵になるから。
団扇だと余所行きの感じがしない、というのがハーレイの言い分。家で気楽に扇ぐのが団扇で、扇子は出掛けた先でお洒落に使うものらしい。
今のハーレイの父は紳士物の扇子を持っているから、ハーレイもそれに憧れる。もう少しばかり年を取ったら、自分も扇子が似合うのに、と。
今のハーレイの扇子に対する気持ちは分かったけれども、問題は前のハーレイの方。遠く遥かな時の彼方で、シャングリラで生きていたハーレイ。
「今のハーレイは、扇子が欲しいらしいけど…。そのために、年を取らないでよ?」
もう止めるって約束したでしょ、年を取るのは。
だから扇子が似合うような姿になるまで、年を取ったら駄目だからね。…いくら欲しくても。
でも…。前のハーレイなら、どうだった?
扇子があったら欲しかったのかな、うんとレトロな道具でしょ、扇子。
風を送るんなら空調がちゃんとあったものね、と扇子のレトロさを強調した。羽根ペンや木製の机を愛用していた前のハーレイは、明らかにレトロ趣味だったから。
「扇子が欲しいかと訊かれても…。扇子なんか無いぞ、あの時代には」
機械が文化を消しちまってたし、何処を探しても無いってな。前の俺たちが生きた頃には。
無いものには出会いようがないってモンだろ、前の俺と扇子。いくらレトロな道具だとしても、出会いが無いなら話にならんぞ。
「そうだけど…。それは分かっているんだけれど…。でも…」
もしも扇子が、前のぼくが奪った物資の中に混じっていたら、どうしてた…?
あの時代に扇子は無かったんだし、あったとしたら、の話だけれど。
扇子があったら、前のハーレイはどうするわけ…?
貰って行くのか、要らないからって廃棄処分に回すのか、どっち?
ハーレイくらいしか欲しがらないでしょ、とてもレトロな扇子なんかは…?
船では要らない道具だものね、と重ねて言った。シャングリラでは出番のない道具、と。
「ふうむ…。うんとレトロな扇子と出会っちまった時か…」
ちょいと手に取ってはみるんだろうなあ、「これが扇子というものか」と確かめに。
大いに興味が湧くと思うぞ、風を送るための道具だなんて。
しかも自分で扇ぐためのもので、空調みたいに自動になってはいないんだしな?
まず間違いなく手に取るだろう、とハーレイは大きく頷いた。「前の俺なら、そうなるな」と。
「レトロ趣味だったのは本当なんだし、扇子もレトロなんだから…。手が伸びちまう」
物資の分配を始める前に見付け出すのか、分配した後に残った中から掘り出すのか。
どっちにしたって、触りもしないで廃棄処分に回しはしないぞ。使い心地ってヤツはどうかと、そいつを確かめない内は。
「使い心地って…。その扇子が女の人用のでも?」
扇子、今も殆どは女の人のためのものでしょ、昔だってそう。…日本には男の人のための扇子もあったけれども、ヨーロッパだと女の人用ばかりだから…。
前のぼくたちの時代に扇子があったら、女の人用だと思うんだけど…。
花模様だとか、レースつきだとか。そういう扇子でも、ハーレイは触って使ってみた…?
女の人用の扇子だよ、と念を押したけれど、ハーレイは「気にしないな」と直ぐに答えた。
「どんなに華やかな扇子だろうが、扇子は扇子だ。レトロなものには違いない」
俺にしてみりゃ、大いに興味があるわけだから…。
ちゃんと手に取って、広げてみたりするんだろう。広げたら畳んで、「こうなるのか」と扇子の凄さに感動もして。一本の棒がパッと広がるわけだしな?
でもって、そいつで扇いだりもして、貰っておくか、どうすべきかを考えるんだ。
女物だろうが、俺が自分の部屋の中だけで使う分には、誰も笑いやしないんだから。
ただし、俺がゆっくり考える前に、エラが持って行ってしまわなければ、だが。
「エラ…?」
なんでエラなの、エラはレトロな趣味なんか持っていなかったよ?
木の机だって欲しがらなくて、羽根ペンも見向きもしていなくって…。なのにどうして、エラが扇子を持って行っちゃうの…?
有り得ないでしょ、と指摘したのだけれども、ハーレイは「そうでもないぞ」と返した。
「レトロな趣味は持っていなくても、知識は豊富だったしな。調べ物だって好きだったから…」
扇子があるような時代だったら、扇言葉を知っていそうだと思わんか?
なにしろ相手は、あのエラだから。
「そうかも…!」
本物の扇子は初めて見たって、色々なことを知っていそう…。扇言葉があることも。
確かにエラなら、きっとピンと来たことだろう。物資の中に混ざった扇子を目にしたら。
とてもレトロな扇子という道具も、それが使われた遠い昔の文化なども。
「あの時代でも、ちゃんと調べれば、扇言葉のデータなんかもあったよね?」
扇子が消されちゃってた頃でも、扇子について調べていけば。…データは残っていたんだから。
「恐らくな。…扇子を持ってる肖像画なんかも、データの形で残っていたし」
元の肖像画は、とうに失われてしまっていたって、どういう絵かは分かったんだ。絵に描かれた人が誰なのかも。
だから扇子に興味さえあれば、いくらでも調べられただろう。何に使ったのか、どういう具合に発展していったのか。…扇言葉が作り出されたトコまでな。
エラなら調べられただろう、と今のハーレイが言う通り。
レトロ趣味ではなかったけれども、遠い昔の歴史などにも詳しかったエラ。扇子に興味を持っていたなら、扇言葉にも辿り着いただろう。
そして本物の扇子に出会った時には、それを試そうと持って行ったりもして。
「ねえ、ハーレイ…。扇言葉って、どんなものなの?」
授業では話していなかったけれど、ハーレイは知っているんでしょ?
「これ以上はキリが無いからな」って、授業に戻ってしまったけれど…。
一種の暗号みたいなヤツって、どうやって扇子で暗号になるの…?
中に何か書いておくだとか、と問い掛けた。扇子の素材にもよるだろうけれど、文字などを中に書くことは出来る。だから暗号を其処に書くのか、と。
「おいおい、それじゃ無粋だろうが。まあ、暗号としては使えそうだが…。そのやり方でも」
だがな、よくよく考えてみろよ?
扇言葉を使っていたのは貴婦人なんだぞ、本物の暗号を使うと思うか?
本当に秘密のやり取りだったら、そういったヤツも使ったりはしていたんだが…。命が懸かった脱出劇とか、そんなのもあった時代だから。
しかし、扇言葉を使ってた場所じゃ、物騒なことは起こらなかった。
舞踏会とか、皆で集まっての晩餐会とか、華やいだ席で優雅に扇を持ってたんだぞ?
扇言葉は、扇の動きだけで色々なことを伝えるための手段だってな。
こう動かしたら、この意味だとか。声は出さずに、扇子だけで言葉を伝えられた、と。
扇子の動きだけで言葉を伝えた、遠い昔の貴婦人たち。確かに、ある意味、暗号のよう。扇子の動きに意味があるとは、知らないと気付きもしないから。
大勢の貴婦人たちが扇子で言葉を交わしていたって、傍目には扇子が優雅に動いているだけ。
働いたことなど一度もない手に操られて。彼女たちだけの秘密の暗号、それを語るために。
「扇言葉って、そういうものだったんだ…。ホントに暗号みたいだね」
ぼくが見たって、暗号だなんて思いもしないよ。扇子を持ってる、って眺めるだけで。
…前のぼくたちが生きた頃には、扇子は存在しなかったけれど…。
前のハーレイも出会えないままになっちゃったけれど、もしも出会えることがあったら。
エラが本物の扇子に出会っていたなら、どうなったかな?
前のハーレイよりも先に持ってっちゃうかな、きっと女の人用の扇子だろうし…。
「間違いなく持って行ったと思うぞ、俺が「どれ」と扇子に手を伸ばすよりも前に」
これは私が貰っておきます、と掻っ攫う姿が目に浮かぶようだ。前の俺には触らせもしないで。
そうやって持って行っちまった後は、女性の間で流行ったんじゃないか?
扇言葉というヤツが。…それこそ船で扇子を作る所から始めて。
その気になれば作れただろう、とハーレイが言う扇子。構造自体は単純なのだし、最初の一つが手に入ったなら、真似て作ってゆけばいいだけ。
船の中でも揃う材料、それを使って。折り畳める扇子の形に仕上げて、欲しい女性たちに配ってゆくことも出来た。扇言葉を使いたい女性は、扇子を貰って扇言葉を使う。
「本当に?」
流行ったのかな、扇子を使う言葉だなんて…。暗号なんかを使わなくてもいい世界なのに。
こっそり話をしたいんだったら、思念波だってあったんだけど…?
「扇言葉は貴族の習慣だったんだぞ。ずっと昔の、本物の貴婦人たちが使った言葉だ」
そいつを真似て話せるんだぞ、扇子が一本ありさえすれば。
お姫様みたいなドレスは無くても、贅沢な宝石だって無くても。
それでも言葉は共通だってな、貴婦人たちと。扇子を使って話しさえすれば。
「…夢が一杯で、流行りそうだね…。あの船の中で、お姫様ごっこ…」
「そうだろう? だから流行ると言ったんだ」
エラが扇子と出会っちまったら、扇言葉があったと思うぞ。…あのシャングリラに。
白い鯨じゃなかった船でも、とハーレイは笑う。人類の船から物資を奪って、皆が懸命に生きていた船。名前だけが「楽園」だった時代のシャングリラ。
そんな船でも、扇子があったら扇言葉が流行ったろう、と。扇子を手にした女性たちは皆、遠い昔の貴婦人気分で。
「うん、本当に流行っていそう…。貴婦人なんて、あの船じゃ誰もなれなかったから」
ミュウは見付かったら殺されるだけで、人間扱いさえもされてなくって…。
だから余計に夢を見たいよね。…扇子を一本持っているだけで、貴婦人の言葉を喋れるんなら。
ずっと昔に、地球にいた本物のお姫様たち。その人たちと同じ言葉を使えるんなら…。
とても素敵で、みんなが喜びそうだけど…。エラのアイデア、みんなが飛び付きそうだけど…。
どんなのがあるの、扇言葉って?
扇子の動きで伝えられること、中身はどういう風になるわけ…?
普通の言葉と同じなのかな、と投げ掛けた問い。暗号めいた扇の言葉で会話が出来たか、遊びに過ぎなかったのか。なにしろ使うのは扇子だけだし、語彙が多そうには思えないから。
「扇言葉の中身ってか? そりゃあ、色々あったってな」
なんと言っても言葉なんだし、伝えられることは多いに越したことはない。
「はい」と「いいえ」は基本の中の基本ってヤツだな、これが無ければ始まらん。質問されたら答えるのが会話の基本だろうが。
そして本当に凄かったらしいぞ、扇言葉で伝えられる中身というヤツは。
「あなたが好きです」とか、そんなのはまだマシな方でだ…。「あなたは残酷です」なんていう言葉もあったらしいから。
声に出さなくても、扇子だけでそれを伝えるんだぞ。男の方も大変だってな。
「男の人って…。なんで?」
扇言葉は、女の人が使うものでしょ。女の人しか扇子は持っていないんだから。
女の人の言葉だよね、とキョトンと首を傾げていたら、ハーレイは「甘いぞ」と可笑しそう。
「男も、そいつを知らなきゃいけなかったんだ。女性がそれで話す以上は、読み取らないと」
扇言葉の意味ってヤツを。…自分は使う方でもないのに、あれはどういう意味なのか、とな。
「えーっ!?」
男の人も覚えなくっちゃ駄目なの、とても沢山の言葉があるのに?
自分は扇子を持ってないのに、扇言葉を覚えていないと駄目だったなんて…!
酷すぎだよ、と叫んだけれども、それは本当にあったこと。
人間が地球しか知らなかった時代に、東洋の小さな島国で生まれた扇子が海を渡って行って。
ヨーロッパで貴婦人たちに愛され、必須の持ち物に変身を遂げて。
扇子の動きで意味を表す扇言葉は、紳士淑女のための教本までが作られていた。貴婦人が持った扇子がこう動いたら、こう、と意味を詳しく書き記して。
それをきちんと覚えていないと、舞踏会などで気持ちを伝えられない。相手の気持ちを読み取ることも出来ない。しかも…。
「その教本を持って話をするなど、論外だからな? 場の雰囲気がブチ壊しになる」
とにかく中身を覚えるしかなくて、そいつが社交のルールってヤツだ。
「好きです」と言ってくれているのに気付かないなら、自業自得で悲しいことになるんだが…。
「あなたを追い払いたい」ってヤツもあるんだ、そう言ってるのに側を離れなかったら…。
周りから見れば非常識なヤツで、評判までが地に落ちちまう。「あいつは駄目だ」と噂が流れて命取りってな。
だから男もきちんと覚えておかないと、と言われれば分かる。貴族の世界は社交が大切、人との関わり方が重要。彼らの仕事は、社交そのものだったから。
「なんだか凄いね…。男の人まで巻き込んじゃってた言葉だなんて」
扇子を持つのは女の人だし、女の人同士でお喋りするんだと思ってたのに…。
そうじゃなくって、男の人にも扇言葉で話すだなんて。…男の人まで扇言葉を覚えたなんて…。
本まで出ていたくらいなんだし、みんな頑張って覚えたんだと思うけど…。
働く必要が無かった分だけ、時間はたっぷりありそうだけど…。でも…。
扇言葉を覚えて使っていたのは、機械じゃなくって人間だよ?
人間に「絶対」なんかは無くって、ミスすることも多いんだけど…。うっかりミスとか。
そんな風にして、間違えちゃったらどうなるんだろう?
扇子を持ってる女の人も、それを読み取る男の人も…。
「間違いなあ…。扇言葉で伝え損なったり、読み損なったりするってか…?」
確かに無いとは言い切れないよな、なにしろ人間なんだから。
「あなたが好きです」と言われてるのに、「嫌いなのか…」と諦めて去っていくヤツだとか。
逆に「好きです」と伝えたつもりで、「追い払いたい」と言っちまうとか…。
ありそうだよな、とハーレイも頷く「扇言葉の間違い」。きちんと声で話していたなら、そんな間違いは起こらないのに。…自分の気持ちを伝えるために、人間は声を持っているのに。
「ね、間違えちゃうことも起こりそうでしょ?」
扇言葉は厄介そうだよ、見た目はとても優雅でも。…扇子の動きだけで気持ちを伝えられても。
間違えちゃったら、それでおしまいになっちゃうこともありそうだもの。本当は上手くいく筈の恋が、間違えたせいで壊れてしまって。
良かったね、前のぼくたちが生きてた時代に、扇子が無くて。
シャングリラには扇子も扇言葉も無くって、声と思念波だけの世界で。
もしもシャングリラに扇言葉があったら、ぼく、間違えてしまいそうだから…。
ホントにやりそう、と舌をちょっぴり覗かせた。何か悪戯して、叱られた時の子供みたいに。
「なんだって?」
お前が何を間違えるんだ、シャングリラに扇言葉があったら…?
エラたちが喋っているのを眺めて、まるで違うことをやったりするのか?
「ソルジャーがおいでになった」と話してるのに、「来ないで下さい」と間違えちまって、何も言わずにそそくさと消えてしまうとか…?
「ううん、それならまだいいけれど…。間違いの中ではマシだと思う」
ぼくが扇言葉を読み取り損ねて、何か失敗してるくらいは。…ぼくが恥をかくだけだから。
だけど、扇言葉を使っているのが、ぼくだったら…?
エラが船の中で扇言葉を流行らせていたら、ぼく、面白がって扇子を貰っちゃうかも…。
女の人しか持っていなくても、「ぼくにも一本貰えるかな?」って。
白い鯨になった後なら、扇子を作るの、ずっと簡単になっていそうだし…。
扇言葉の詳しい本も、船の中で刷られていそうだし…。
そういう頃でしょ、前のぼくがハーレイのことを好きになったの。…一番古い友達だったのが、恋人同士に変わった頃って。
その大切な時に間違えてしまいそう。
ハーレイに「好き」って気持ちを伝えるのがとても恥ずかしくって、扇子を貰って…。
扇言葉の本で勉強して、「好きです」っていう時はこうするんだ、って…。
青の間で何度も練習してから、ハーレイに伝えに行くんだけれど…。
扇子を持って、とクスッと笑った。「其処で失敗するんだよ」と。
「失敗って…。お前が俺に扇言葉で伝えようとしてか?」
俺の部屋まで来たのはいいが、わざわざ扇子を使って「嫌い」と俺に言っちまって…?
嫌われた俺は酷いショックで、お前に「帰って頂けますか」と返事するのか?
お前と話す理由が無いしな、とハーレイが唸る「言葉を伝え損ねた」結果。「嫌いだ」と告げにやって来た人と、ゆっくり話しはしないだろう。酷い喧嘩になるだけだから。
「そう。…そしたら、おしまい…」
ぼくは「好き」って伝えたつもりで、間違えたなんて思わないもの。とても緊張していて、胸もドキドキだろうから…。「やっと言えた」ってホッとするだけ。
それの返事が「帰って頂けますか」だったら、ぼくの方だって大ショックだよ。
「好き」の返事が「帰れ」だなんて、どう考えても「俺の方は好きだと思っていない」っていうことだもの。…振られちゃった、って泣きそうな気分。
だけどホントに振られたんだし、仕方ないよね…。
青の間に帰って泣くしかなくって、ハーレイとの恋は始まりさえもしないんだよ。…ハーレイは「嫌われた」と思ってぼくを避けるし、ぼくは「振られた」と思っているし…。
それじゃ二人で話しもしなくて、いつまでも間違えちゃったまま。
ホントはお互い、大好きなのに…。ぼくが扇言葉を間違えなければ、恋が実っていたのにね…。
そういう失敗、起こりそうでしょ、と自分の顔を指差した。
前の自分も、人間だから。ソルジャー・ブルーでも、失敗することはあったのだから。
「お前の方が失敗なあ…。それも無いとは言えないが…」
それとは逆に、お前が正しく送っていたって、俺が間違えるかもしれないぞ?
「好きだ」と伝えてくれているのに、「大嫌いだ」と読み取っちまって、その後のことは、今の話と全く同じで。…お前に向かって「帰って頂けますでしょうか?」と言っちまって。
「ハーレイだったら間違えないでしょ。ぼくと違って」
キャプテンだものね、知識も沢山あったもの。シャングリラの中のことだったら。
扇言葉も完璧なんだよ、わざわざ勉強しなくったって。
「はてさて、そいつはどうなんだか…」
扇言葉は、ブリッジじゃ使わないからな?
あそここそ声と思念波の世界だ。優雅に扇子を使って話す余裕なんかは、誰も全く無いってな。
エラだって扇子は封印だろう、とハーレイが苦笑する「ブリッジ」という場所。
ブリッジは白いシャングリラの心臓なのだし、どんなに空気が和やかな時も、「正しく伝える」ために努力をするべき所。
船の周りの観測データも、航路設定などの数値も。
キャプテンからの指示はもちろん、機関長やら、航海長やらが発する声も、どれも正確に、皆の持ち場に伝わってこそ。
伝え損ねれば船が傷つき、最悪の場合は沈むこともある。人類軍から船を守っている、システムなどがダウンして。…ステルス・デバイスが作動しないとか、シールドも張れなくなるだとか。
そんな場所では、扇言葉は使えない。
「面舵」や「取舵」を扇言葉で伝えてみたって、誰も瞬時に動けはしない。
もっとも、キャプテンは男なのだし、扇子で指示は出さないけれど。
航海長のブラウだったら、扇子を持てる女性だけれども、扇言葉でカウントダウンは出来ない。数字を表すことは出来ても、ブリッジクルーは、そちらを向いてはいられないから。
「そっか…。扇言葉は、ブリッジには向いていないよね…」
普段に使っていないんだったら、ハーレイも詳しくなさそうだから…。
ぼくが「好きだよ」って扇言葉で伝えていたって、間違えちゃいそう。「嫌われたんだ」って。
それにハーレイが詳しくっても、ぼくが間違えちゃったらおしまい。
「ハーレイが好き」って伝えたつもりで、「大嫌いだよ!」ってやっちゃうとか。
そんなのホントに悲しすぎだよ、ちゃんと伝わったら恋人同士になれたのに…。
扇言葉を間違えちゃって、「振られたんだ」とか、「嫌われた」って思い込んじゃって…。
一度そうなったら、話しに出掛けて、また傷付きたくないものね…。
ぼくはハーレイを避けるんだろうし、ハーレイもぼくを避けるだろうから…。
きっと誤解は解けないままだよ、二人きりで話さないんなら。
ソルジャーとキャプテンとしての話だけしか、しようと思わないんなら…。
「まったくだ。多分、そうなっちまうしな…」
船の仲間たちに、俺たちのことで迷惑なんかはかけられん。
距離を置くのが一番いい、と俺だって思うことだろう。…傷口を広げたくないのなら。
お前に嫌われちまったってことを、直視したくはないからなあ…。
遠く遥かな時の彼方で、お互い、間違えたかもしれない言葉。
恋が実るか実らないかの、とても大切な局面で。
間に扇子が入っていたなら、扇言葉の「好き」と「嫌い」を取り違えて。
「…ぼく、ハーレイに扇言葉は使わないよ」
ママの扇子は家にあるけど、間違えちゃったら大変だから。
扇子の動きで色々な言葉が伝わるだなんて、ちょっぴり面白そうだけど…。扇言葉のことが沢山書いてある本、学校の図書室にあったら借りるかもだけど。
でも、読むだけで使わないからね、と宣言した。
扇言葉を間違えたならば、大変なことが起こるから。
せっかく来てくれたハーレイに向かって、「大嫌い!」と扇子で伝えてしまいそうだから。
「扇言葉なあ…。お前の場合は、使うまでもないと思うがな?」
あれは声を出さずに気持ちを伝えるための言葉で、今のお前には必要ないぞ。
思念波の方はサッパリにしても、お前からは「好き」が溢れているから。
心の欠片が零れてなくても、顔だけを見れば充分、分かる。…俺を嫌いじゃないってことが。
「ホントだね!」
ハーレイのことが、誰よりも好きでたまらないから、きっと顔にも出てるよね。
わざわざ扇子を使わなくても、黙っていたって、伝わっていそう。
ぼくがどんなにハーレイが好きか、前のぼくだった頃よりも好きか。
ハーレイは分かってくれているから、扇言葉で伝えなくてもいいんだものね…!
遠い昔の扇の言葉。
貴婦人たちが扇子で伝えて、男性もそれを読み取った。本まで読んで、扇言葉の勉強をして。
とても頑張って勉強したのに、間違った人もいたかもしれない。
たった一度の間違いのせいで、恋が壊れた人だって。
(でも、ぼくたちなら大丈夫…)
大丈夫だよ、と自信を持って言えそうな気分。
遥かな昔の恋人たちは、間違えたかもしれないけれども、自分たちは間違えたりしない。
扇言葉なんかは使わないから、それが無い時代に恋をして、生まれ変わって来たから。
宇宙の何処にも扇子が無かった時代に生きて、扇子がある今の時代に来たから。
死の星だった地球が青く蘇るほどの時が流れても、今も変わらず恋人同士。
(ぼくが、ママの扇子を借りて来ちゃって…)
間違えて「嫌い」と出していたって、ハーレイは「好きだぞ」とプロポーズしてくれる。
扇言葉を使っても。
好きなのに「嫌い」と間違えていても。
その程度のことで、恋が壊れはしないから。
今度こそ幸せに生きてゆくために、ハーレイと二人、地球に生まれて来たのだから…。
扇の言葉・了
※遠い昔の貴婦人たちの言葉。扇を使って伝えるもので、男性にも扇言葉の知識は必須。
間違えて使ってしまいそうだ、と心配なブルーですけど、相手がハーレイなら、伝わる言葉。
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