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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

苔が生えた木
(あれ…?)
 どうしたんだろ、とブルーは首を傾げた。学校からの帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
 道沿いの家の庭に、その家の御主人の姿。家と庭を囲む生垣からは、少し離れた奥の方。其処で大きな木を見上げながら、難しい顔。困ったようにも見える表情。
(あの木が、どうかしたのかな?)
 木の葉や枝を眺めたけれども、弱っているという感じは受けない。むしろ生き生きしている木。本当に元気そうだけれども、素人だから元気に見えているだけで…。
(ホントは病気になっちゃってるとか?)
 しかも簡単には治らない病気。木の姿がすっかり変わるくらいに、枝を何本も切り落とさないと駄目だとか。
(そういう病気もあるらしいものね…)
 治療した後は、太い幹には似合わない細い枝が数本、そんな姿になってしまう木。元通りに枝が茂るまでには何年もかかる、荒療治とも言える治療法。
 それが必要な病気の兆しを発見したなら、難しい顔にもなるだろう。もちろん困るし、御主人が悩んでしまうのも分かる。あの木は庭のシンボルツリーなのだから。
(…どうしたの、って訊いてみたいけど…)
 御主人の気持ちを考えてみると、黙っている方がいいかもしれない。声を掛けようか、このまま通り過ぎようか、と迷っていたら…。
 御主人がこちらに顔を向けたから、慌ててピョコンとお辞儀した。
「こんにちは!」
「おや、ブルー君。今、帰りかい?」
 身体もこっちに向けた御主人は、両腕で猫を抱いていた。白地に黒のブチがある猫。しっかりと胸に抱いているから、服と混じって気付かなかった猫の存在。
(白と黒のブチ…)
 この家に猫はいただろうか?
 いなかったように思うけれども、もう子猫とは呼べない大きさ。滅多に外に出ない猫なら、いることも分からないだろう。知らない間に飼われ始めて、育っていても。



 初めて出会った猫にも驚いたけれど、それよりも木の方がずっと気になる。物心ついた時には、もうこの家の庭にあった木。自分も馴染みのシンボルツリー。
「おじさん、その木…。どうかしちゃったの?」
 弱っているようには見えないけれども、病気になっちゃってるだとか…?
「この木かい? ちょっぴり困ったことになってねえ…」
 其処からだと見えないだろうから…。入って見てやってくれるかい?
 どうぞ、と入れて貰った庭。御主人が門扉を開けに来てくれて。
 其処まで来るのも、門扉を開けるのも、御主人は猫を抱いたまま。使わない方の腕にしっかり。
(よっぽど可愛がっているんだね)
 少しも離さないんだもの、と猫にも挨拶。「こんにちは」と。返事は「ミャア!」。
 御主人は木の側に案内してくれて、猫を抱いていない手で木を指差した。
「ほら、見てごらん。…可哀相なことになっちゃったんだ」
「えっと…?」
 側で見ても、やっぱり元気そうな木。病気のことは分からないから、何処を見ればいいのか謎。葉っぱに妙な斑点なんかもついてはいない。枝の茂り具合が変なのだろうか?
(可哀相なことになったんだったら、病気だよね…?)
 何処で分かるの、と上から下まで何度見たって、元気そのものに思える木。立派な幹も、幹から伸びた枝たちも。
「ブルー君は気が付かないかな? これだよ、これ」
 この通り、苔がすっかり剥げちゃってね。この間までは、綺麗な緑だったんだがねえ…。
「本当だ…!」
 あちこち剥げてる、と目を丸くした。太い木の幹を覆うようにして、濃い緑の苔が生えている。まるで上等の絨毯みたいにフカフカに見える、薄い割には存在感のある苔たち。
 それが無残に剥がれた場所が、幹に幾つも。
(何かで無理やり、剥がしたみたい…)
 削り取られたように、長い線になって剥げている苔。剥がれた跡は直線だったり、少し曲がっていたりと色々。剥げてしまった場所は木の皮がむき出しになって、痛々しいくらい。
 本当だったら、木の幹はそれでいいのだけれど。…苔が無くても、木の皮だけで充分。



 普通の木ならば、幹に苔など生えてはいない。生えていたって、ほんの少しだけ。家の庭の木を思い浮かべても、幹にビッシリ苔を生やした木などは無い。
(この木も、普通の木なんだけどな…)
 ありふれた木で、珍しくない木。けれども、苔がよく似合う。こんな風に剥がれてしまった姿を目にした途端に、「可哀相だ」と感じるほどに。
「剥げちゃったって…。この木、どうなっちゃったの?」
 病気じゃないよね、苔が剥げちゃう病気なんかは知らないし…。
 それに無理やり剥がしたみたいで、虫なんかだと、こんな風にはならないだろうし…。
 いったい何が起こったわけ、と御主人の顔を見上げたら。
「この子だよ。…気付かなかった私も悪いんだがね」
 御主人がコツンと軽く叩いた、腕の中にいる猫の小さな頭。「駄目じゃないか」と。
 猫の方では「ニャア…」と鳴いたものの、謝ったりするわけがない。猫は言葉を話さない上に、元が気ままな生き物だから。
「剥がしちゃったの、猫だったの?」
 おじさん、この子、前から飼ってた?
 ぼくは初めて会ったんだけど…。子猫の時から、家の中だけで飼ってたとか…?
「いや、この子は孫が飼ってる猫でね…。孫の家は別の所なんだよ」
 暫く旅行に行くと言うから、ウチで預かることにしたんだが…。お蔭で、こういう有様なんだ。
 庭で遊んで、あちこちの木に登っていたんだろうね。きっと最初は、片っ端から。
 それで気に入ったのがこの木で、今じゃすっかり遊び場になって…。
 庭に飛び出しては、これに登ったり、下りて来たりするのさ。猫には爪があるからねえ…。
 そのせいで剥げてしまったんだ、と御主人が溜息をついている苔。
(猫の爪なら、こうなっちゃうよね…)
 登る時にも剥げるだろうし、下りる時にも爪に引っ掛かりそう。そうやって苔が剥げてゆくのも遊びの一つなのかもしれない。「面白いよね」と、わざと爪を余計に出したりして。
(爪の幅だけ、剥がれちゃうから…)
 爪を広げて、滑り下りたりもするのだろう。苔を一緒に引き剥がしながら、体重をかけて上からズルズル。如何にも猫が好きそうな遊び。



 猫には楽しい遊びだけれども、苔にとっては大いに迷惑。木の幹から無理やり引き剥がされて、その後は枯れてしまっただろう。水分も栄養も摂れなくなって。
 苔に覆われていた木の幹だって、みっともない姿にされてしまった。あちこちが剥げて、自慢の服がボロボロだから。
 御主人は苔が剥がれた跡を見詰めて、フウと溜息。
「弱ったよ…。今じゃすっかり、こうなんだから。…一目で分かるハゲだらけでね」
 せっかく綺麗に生えていたのに、台無しだ。見た目も悪いし、どうにもこうにも…。
「苔はくっつけられないの?」
 剥がされた苔は、根っこ…って言うのか、そういうのが駄目になっているから無理だろうけど。
 でも、苔だって売っているでしょ、苗とかを扱うお店に行けば…?
 苔を買って来て、剥がれちゃった所にくっつけたら、と提案してみた。同じ種類の苔が売られているのだったら、問題は解決しそうだから。…くっつける手間はかかるけれども。
「苔ねえ…。もちろん店にはあるだろうけど、それじゃ不自然になるからね」
 後からくっつけてやった場所だけ、変に目立ってしまうんだよ。人間の手が加わるから。
 自然に生えるのを待つのが一番いい方法で、この木の苔もそうなんだ。苔なんか一度も植えてはいないよ、勝手に生えて来ただけさ。暮らしやすい条件が揃ったんだろうね。
 しかし、これだけ剥げてしまうと、元の通りに戻るには…。
 下手をしたら何年もかかるんじゃないかな、と御主人が言うから驚いた。相手は苔だし、じきに元通りに生えて来そうなのに。
「何年もって…。何ヶ月とかの間違いじゃなくて?」
 苔って、そんなに分厚くないでしょ。剥げたのが此処で、剥げてないのが此処だから…。
 ほんのちょっぴり、と眺めた厚み。数ミリくらいしか無さそうに見える苔の層。
「それが何年もかかるのさ。…こういう風になるにはね」
 毎年、毎年、少しずつ育って厚くなるのが苔なんだよ。とても小さな胞子を飛ばしては、自分の仲間を増やしながら。
 人間の手で植えてやるには、気難しすぎて手に負えないのが苔ってヤツかな。
 庭に植えても、なかなか思うようには育ってくれなくてね。
 それを木の幹に植えるとなったら、厄介だろうと思わないかい…?



 「盆栽が趣味の人なんかだと、頑張るらしいよ」と御主人は教えてくれた。
 大きく育つ筈の木たちを、小さなサイズに育てる盆栽。とても小さいのに、樹齢の方は一人前。何十年とか、百年だとか、そういう木たちを楽しむ世界。
 けれど最初から「丁度いい木」は無いわけだから、育て始めて直ぐの間は木だって若い。樹齢は一年、二年とかで。
 そういう木たちを少しでも立派に見せたいから、と生やすのが苔。年ふりた木にも負けない幹を作り出そうと、せっせと苔をつけてやる。
 ただし、自然に見えないと駄目。年数を経て生えたかのように、色々な苔を枝や幹に。
「幹につく苔と、枝とでは違うらしくてねえ…」
 趣味の人たちはうるさいらしいよ、苔の生え具合や種類なんかに。…少しでもいい木に見せたいからねえ、自分の大切な盆栽を。
「そうなんだ…。盆栽って、苔も大事なんだね」
 木の形だとか、大きさだけかと思ってた…。小さくても立派に花が咲くとか、そんなので。
「盆栽の趣味は無いんだけどね…。この木の幹は好きだったんだよ」
 勝手に苔が生えてくれたお蔭で、堂々として見えるじゃないか。…森の中にある木みたいにね。
 友達が来ても、とても羨ましがってくれるから…。
 庭の自慢にしていた木なのに、気が付いたらこうなってたんだよ。この子が登ってしまってね。
 今ではすっかりお気に入りだし、この子がウチに泊まっている間に、丸禿げじゃないかな。
 残っている苔も剥がされちゃって、と御主人は本当に困り顔。御自慢の木の幹を前にして。
「猫を繋いでおくのは駄目?」
 そうでなきゃ、家から出さないとか…。
 繋いでおいたら、この木に勝手に登りはしないし、家から出なけりゃ登れないよ?
 苔を守るのにはいいと思う、と言ったのだけれど。
「それだと、この子が可哀相じゃないか。好きなように遊べないなんて」
 庭が大好きで、「出して」と頼みに来るんだよ?
 だから何度も出してやっていたら、こうなっていたというわけさ。この木が最高の遊び場で。
 この木に登って遊んじゃ駄目だ、と覚えてくれればいいんだけどねえ…。
 おっと!



 御主人の腕の中にいるのに退屈したのか、遊びたい気分になったのか。ピョンと飛び出した猫が木にスルスルと登って行った。
 それは身軽に、アッと言う間に上の方まで。きっと爪だって出ていた筈。爪を立てないと、猫の足では木に登れない。人間みたいに長い指など持っていないから。
「…また剥がれちゃった?」
 木についてる苔、今ので剥がれちゃったのかな…?
 どうなんだろう、と見上げた木の上。猫は大きな枝の一つで遊んでいる。枝から伸びている枝や葉っぱを、足でチョンチョンつついたりして。
「苔ねえ…。よく分からないけど、剥げたんだろうね。あの勢いで登ったんだから」
 それに木の上で楽しく遊んで、下りてくる時に、また剥げるんだよ。
 わざわざ幹にへばりつくようにして、ズルズル滑って下りて来るのも大好きだしね…。
 もう諦めるしかなさそうだ、と御主人は両手を大きく広げて、お手上げのポーズ。
 きっとその内に、苔は丸禿げになるのだろう。白と黒のブチ猫、お孫さんの猫が全部剥がして。この木に登って、また下りて来ては、生えている苔を爪で引っ掛けて。
(なんだか気の毒…)
 御自慢の木の幹を駄目にされそうで、困った顔をしている御主人が。
 今も木の上にいる猫を呼んでは、「下りる時には、気を付けてくれよ?」と叫んでいるほど。猫さえ注意してくれたならば、苔はそれほど剥げないから。少しは剥げても、全部は剥げない。
(猫が登るの、やめさせちゃったら剥げないんだけど…)
 それが一番だと承知していても、猫を繋ごうとはしない御主人。家に閉じ込めないのも分かる。猫を自由にさせてやりたいから、どちらもしない。
 お孫さんから預かった猫を、繋ぐのも、家に閉じ込めるのも。
 そうしたならば、御自慢の木の幹は丸禿げになったりしないのに。丸禿げよりかは、あちこちが剥げた今のままの方が、元に戻るのも早いだろうに。
(でも…)
 御主人はそうしないのだから、猫に任せるしかないだろう。あんまり苔を剥がさないように。
 木に登る時も、下りて来る時も、出来るだけ爪を立てないで。
 もっとも、猫はその逆のことが好きらしいから、絶望的な状況だけど。



 御主人に「さよなら」と挨拶してから、帰った家。庭の木たちを見回したけれど、幹をすっかり苔が覆っている木は無かった。庭で一番大きな木だって、幹に苔など生えてはいない。
(おじさんが自慢するわけだよね)
 盆栽が好きな人たちだったら、頑張って生やすらしい苔。まるで自然に生えたかのように。
 そういった苔が勝手に幹を覆っていたのが、御自慢のあの木。何の手入れもしてはいなくても、森の奥の木のように見えた風格。緑色の苔が幹を覆っていただけで。
(だけど、あちこち剥げちゃって…)
 このままだと丸禿げになりそうな苔。猫が遊んで剥がしてしまって、苔の欠片も無くなって。
 そうなったら、あの木は「ただの大きな木」でしかない。庭のシンボルツリーと言っても、ただそれだけ。「立派な木ですね」と褒めてくれる人も減るのだろう。
 あれ以上は剥げないといいんだけどね、と玄関を開けて家に入った。「ただいま!」と、元気に奥に向かって呼び掛けて。
 二階の部屋で制服を脱いだら、おやつの時間。ダイニングの窓から庭の木を見て、さっきの木と似たような大きさのを探す。その幹に苔が生えていたなら、どんな風だろうと。
(…此処から見たら、ただの緑色だけど…)
 庭に出て側に立ってみたなら、とても立派に違いない。木の皮だけに覆われているより、緑色の苔を纏った方が。…それも剥げてはいない苔で。
(剥げてしまったら、木の皮が見えて…)
 痛々しいし、見た目も悪い。
 その原因は病気ではなくて、猫が悪戯した結果でも。「こうすれば剥がれて面白いんだよ」と、爪を立てて登り下りされたせいでも。
(絶対、カッコ悪いよね…)
 ああして剥がされてしまった苔。
 御主人の友達がやって来たなら、皆、驚いて眺めるのだろう。「どうなったんだ?」と。
 その頃にはもう、あの猫はいない。お孫さんの家に帰ってしまって、知らん顔。
 御主人は苔が丸禿げになった木だとか、あちこち剥げてみっともないのを、「実は…」と溜息を幾つも交えて、友達に説明するのだろう。
 御自慢の苔がどうして剥げてしまったか、犯人は何処の誰だったのかを。



 おやつの間は、木と苔のことを考え続けて、食べ終えてからは二階の自分の部屋に戻って、また考える。勉強机の前に座って。
 猫が登る度に木の苔は剥げて、下手をしたなら丸禿げになってしまいそう。お孫さん一家が旅行から帰って、あの猫を迎えにやって来る前に。
 苔が生えた木は、猫の一番好きな遊び場。苔を剥がすのが面白いのか、木そのものもお気に入りなのか。せっせと登って下りて来る度に、御自慢の苔が剥げてゆく。猫の爪のせいで。
(おじさんは登って欲しくないけど、猫は登りたくて…)
 庭に出たいと駄々をこねては、あの木に向かってまっしぐら。その度に剥がれてしまう苔。
 御主人が気付いた時には、とうにああなっていた。あちこちが剥げて、無残なことに。
(おじさん、困っていたけれど…)
 それでも猫を繋ぐつもりは無いらしい。家に閉じ込めておくこともしない。
 「可哀相じゃないか」と言っていた御主人。猫を力ずくで止めないだなんて、凄いと思う。猫は御自慢の木とは知らずに、これからも登り続けるだろうに。
 「駄目じゃないか」と頭をコツンとされても、きっと分かっていないだろうに。
 お手上げのポーズをしていた御主人。猫が登った木を見上げて。
(とっても優しい人だよね…)
 御自慢の木が駄目になっても、猫を繋ごうとはしない人。家の中に閉じ込めることも。
 猫にとっても、本当に優しい人なのだけれど、問題はあの木。
 このままだったら、苔は丸禿げ。
 御主人の自慢の苔とも知らない、あの猫がすっかり剥がしてしまって。
 爪を立てては上まで登って、苔を剥がしながら幹にしがみ付いてズルズル下りて来たりもして。
(あちこち剥げただけの苔でも…)
 元の姿に戻るまでには、何年もかかるかもしれない。苔は気難しいと教わったから。
 剥げた所に、買って来た苔をペタリと貼っても駄目らしいから。
(丸禿げなんかになっちゃったら…)
 御自慢の苔が幹を覆うまでには、どのくらいかかることだろう。ほんの数日で丸禿げになって、戻るまでには年単位。…三年も四年もかかるのだったら、あの御主人が気の毒すぎる。
 いくら御主人は承知でも。「仕方ないよ」と、猫の悪戯を許していても。



 放っておいたら、苔が丸禿げになってしまいそうな幹。元の通りに苔が生えるまでには、何年もかかってしまうのだから…。
 いいアイデアは無いのだろうか、そうなる前に猫を止める方法。
 繋いだり、家に閉じ込める以外に、猫が木に登らないようにする方法が何かあればいいのに。
(あの木の周りに柵をしたって、猫じゃ登って越えちゃうし…)
 木の幹に何か巻いたりしたなら、今度は苔が駄目になる。太陽の光や、雨の雫が当たらなくて。ほんの短い期間にしたって、小さな苔には致命的な時間だろうから。
(何かあの木を守る方法…)
 猫の爪から、と考えていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、いつものテーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。猫が木に登らない方法を知っている?」
 知ってるんなら教えて欲しいな、その方法を。
「はあ? 木に登らない方法って…。木に登らせない方法のことか?」
 どうすれば猫が木に登らないように、止められるか。…お前はそいつを知りたいのか?
 そうなのか、と尋ねられたから頷いた。知りたい方法はそれだから。
「ハーレイの家にはミーシャがいたでしょ?」
 隣町の家に住んでた頃には、真っ白なミーシャ。…登らせないようにしていた木は無い?
 この木は駄目、ってハーレイのお父さんが決めていたとか、お母さんが大事にしていた木とか。
「俺の家には、そういった木は無かったなあ…」
 だからもちろん、ミーシャは好きに登っていたが?
 誰も止めたりしないもんだから、勝手気ままに登って遊んで、飽きたら下りて。
 そうやって好きに登った挙句に、下りられなくなっちまった木の話をしたと思うがな?
 下りられない、とミャーミャー鳴くから、親父が梯子で登って助けてやったんだが。
「そういえば…。前に聞いたね、その話…」
 どの木にも好きに登っていいから、ミーシャ、自分じゃ手に負えない木に登っちゃったんだ…。
 登る時には楽しい気分で、どんどん登って行っちゃったけど…。
 上に着いたら、下りる方法、ミーシャには分からなかったんだものね。
 高い木に登ったまではいいけど、どうすれば下に下りられるのか。



 そうだったっけ、と蘇って来た記憶。ミーシャは自分の好きに登って、酷い目に遭った。登った木から下りられなくなって、「助けて」と人間を呼ぶしかなくて。
 そんな騒ぎが起こっていたのに、ハーレイの両親は、ミーシャの木登りを止めてはいない。どの木も好きに登れるようにと、そのまま放っておいたのだろう。何の工夫もしないままで。
 ならば、ハーレイも策を持ってはいない。あの木の苔を守ってやれる方法。
「そっか、駄目かあ…。ハーレイなら、って思ったのに…」
 ぼくだと何にも思い付かないけど、ハーレイは知っているかもね、って…。
「なんだ、どうしたんだ?」
 猫を木に登らせない方法だなんて、お前、いったい何をしようとしてるんだ?
 この家に猫はいない筈だぞ、友達の誰かが困ってるのか?
 しょっちゅう下りられなくなる猫ってヤツもいるそうだから、とハーレイは至極、真面目な顔。登ったら自分では下りられないのに、繰り返す猫がいるらしい。同じ木に何度も登る猫。
「えっと…。そういう猫の話じゃなくって…」
 ちゃんと上手に下りられるんだよ、登った後は。…お気に入りの木だから、登るのも上手。
 だけど、登る木が問題で…。
 今日の帰りに、ぼくも見せて貰ったんだけど…。
 苔が丸禿げの危機なんだよ、とハーレイにあの木の説明をした。
 帰り道に出会った御主人の自慢の、幹に緑の苔が生えた木。その木の苔を猫が剥がすのだ、と。
 剥がれた苔が元の通りに生えるまでには、何年もかかるものらしい、とも。
「なるほどなあ…。猫には爪があるからな」
 木に登ったら剥げちまうだろうな、幹に生えてる苔なんかは。
 それに猫には、楽しいオモチャになるんだろう。剥がしながらズルズル下りて来るなら。
「やっぱり、遊んでるんだよね…?」
 おじさんが大事にしてる苔なのに、そんなの、猫には分かんないから…。
 どんどん剥がして、今のままだと丸禿げになってしまいそう。
 でもね、おじさんは猫を繋ぐつもりは無いんだよ。…家に閉じ込めたりもしない、って。
 それは猫には可哀相だから、苔は丸禿げでも仕方ない、って…。
 すっかり諦めているみたいだけど、でも、何か方法があるんなら…。



 いいアイデアがあるなら教えて、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。
 ミーシャには使っていなかったとしても、誰かから聞いた方法があるとか、そういったケースもまるで無いとは言い切れないから。
「お願い、ハーレイ。…何か知らない?」
 知ってるんなら、ぼく、おじさんに教えに行くから…!
 ううん、ママに頼んで通信を入れて貰うよ、今日の間に…!
 おじさんの大事な苔を守れる方法、少しでも早く教えてあげたいもの…!
 このままだとホントに丸禿げになっちゃう、とハーレイの知識に縋ったのだけれど。三十八年も生きている分、アイデアも持っていそうだと期待したのだけれど…。
「生憎と、俺は知らないなあ…。お前が知りたがってるような方法は」
 苔の大切さなら分かるんだがな、俺だって。…親父もたまに気にしてたから。
 庭の木の幹、調べてみては、ちょっと溜息をついたりもして。
「ハーレイ、それって…。ミーシャのせいで剥げちゃった?」
 木に登るためには爪を出すから、剥がすつもりは無かったとしても。…お気に入りの木っていうほどじゃなくても、登れば剥げちゃいそうだから…。
「うむ。登る時にも、下りる時にも、爪を立てるのが猫だしな?」
 たまにツルッと滑りでもしたら、いつもより派手に剥がれちまう。爪を広げてた幅の分だけ。
 もっとも、ミーシャはとっくにいないし、今じゃすっかり元通りに苔が生えてるが…。
 その苔、たまに剥げるそうだぞ、とハーレイが言うからキョトンとした。
「え? 剥げるって…?」
 ミーシャがいないのに、なんで剥げるの?
 新しい猫は飼ってないでしょ、それとも何処かで貰って来たの…?
 今は別の猫が飼われているの、と高鳴った胸。もしも別の猫を飼い始めたなら、知りたいことは山のよう。どんな猫なのか、名前は何か。今はどのくらいの大きさなのか、と。
「おいおい、慌てるんじゃない。俺はまだ何も話していないぞ」
 たまに剥げると言っただけでだ、犯人の名前も出しちゃいないが…?
 とはいえ、お前の勘もまるっきり外れているわけじゃない。
 犯人は猫には違いないしな、親父たちの猫じゃないってだけで。



 他所の猫だ、とハーレイが教えてくれた犯人。ハーレイの両親が暮らす隣町の家で、緑色の苔が生えた木に登って、苔を剥がしてしまう猫たち。
「お前が出会った猫と違って、犯人は一匹じゃないようだがな…?」
 ふらりと庭を通り掛かって、登って遊んで剥がしていくんだ。少しだけとか、派手にとか…。
 親父に言わせりゃ、もう明らかに木登り失敗、といった感じのハゲも見つかるらしいな、うん。
 猫が滑って落ちた跡だ、とハーレイは可笑しそうな顔。「そういう時には派手にハゲるぞ」と。
「派手にハゲるって…。ハーレイのお父さん、怒らないの?」
 生えている苔、お父さんも大事にしている苔でしょ、ミーシャの頃から…?
 他所の猫なんかに剥がされちゃっても、許しちゃうわけ…?
 入って来たら叱ればいいのに、と思った庭に入って来る猫。追い出されたなら、木登りなんかはしていかない。木の幹に生えた苔は無事だし、派手に剥がれもしないのに。
「追い出すって…。親父も、おふくろも、そんなことは考えもしないだろうなあ…」
 俺も同じだ、仮に大事な木があったって。…その木に悪戯されちまっても。
 猫が平気で遊べる庭があるっていうのは、いいもんだろ?
 公園と同じで、車も走っていないんだから。…猫にとっては、人間様の庭が公園なんだ。
 本当に困る理由が無いなら、遊ばせておいてやりたいじゃないか。猫に食われちまうような鳥がいるとか、そういう庭でないのなら。
「そうなんだ…。人間の家にくっついてる庭は、猫の公園…」
 猫のための公園なんかは無いから、そう言われたら、そうなのかも…。
 車も来ないし、安心して遊べる場所だもの。…木の幹に生えた、苔が剥げるのは困るけど…。
 だけど、猫たちが幸せに遊んでいるなら、叱ったりしない方がいいよね…。
 その方が猫も嬉しいものね、と口にしたら思い出したこと。
(…遊んでて、それで叱られちゃうって…)
 あったっけ、と心が遠く遥かな時の彼方へと飛ぶ。
 白いシャングリラにあった、広い農場。あそこに植えていた、沢山の木たち。
 自給自足で生きてゆく船には、様々な木々が必要だった。オリーブや果樹や、他にも色々。
 その大切な農場の木たちに、子供たちが登って叱られていた。
 農場の木たちは、公園の木とは違って、作物を育てるために植えられたものばかりだから。



 オリーブオイルを採るためのオリーブ。果樹はもちろん、チョコレートの代用品だったイナゴ豆だって、木に実っていた。
 農場の木たちは、船の暮らしに欠かせないもの。眺めて楽しむ公園の木とは、まるで違っていた目的。けれど、子供たちの目から見たなら、どちらも木には違いないから…。
「猫の公園で思い出したよ。…シャングリラの木を」
「シャングリラだと?」
 前の俺たちが暮らしてた船か、木なら山ほど植えてたもんだが…。白い鯨の方ならな。
「そう、そっち。あの船の農場に植えていた木は、どれも大切な作物ばかりだったから…」
 公園と違って、木登りは禁止だったんだよ。作物が傷んだりしたら大変だから、って。
 でも、子供たち…。
 あの木に登っちゃっていたよね、木の苔を剥がす猫じゃないけど…。遊ぶために。
「登ってたなあ、そういえば…!」
 思い出したぞ、あのシャングリラの悪ガキどもを。…猫より酷い連中だったな。
 猫には言葉が通じないから、「その木は駄目だ」と怒鳴るだけ無駄というヤツなんだが…。
 あいつらは立派に人間だったし、思念波も持っていたってな。「駄目」が通じる連中だった。
 なのに、言うことを少しも聞きやしないんだ。農場の木には登るんじゃない、と何度言っても。
 何度注意を繰り返そうが、「登るな」と教え続けようが。
 まるで聞いてはいなかったよな、とハーレイが浮かべた苦笑い。シャングリラに迎えたミュウの子たちは、農場にあった木に関して言うなら、悪ガキだった。
 大切な作物を育てるための木なのだから、と口を酸っぱくして教えたって、彼らは聞かない。
 公園とは違った木が植わっていて、面白そうだと考えるだけ。
 けれど大人は「駄目だ」と叱るし、登って遊べば大目玉。「駄目だと言われた筈だろう」と。
 それを承知で、コッソリ出掛けていた子供たち。
 「バレては駄目だ」と、船の仲間たちの目を盗んでは、農場に向かう通路に入って。
 農場に着いたら、見張りも立てた。大人が来た時は、直ぐに逃げないと叱られるから。
 そうやって入り込んだと言うのに、子供というのは無邪気なもの。
 木登りの遊びに夢中になったら、もう何もかもを忘れてしまう。自分たちが何処にいるのかも。
 その内に、見張りの子までが持ち場を離れて登り始めて、ワイワイ騒いで…。



 子供たちの末路は、もう見えていた。彼らが農場に向かった時から、どうなるのかは。
 農場に向かう姿には、誰も気付かなくても。…途中の通路ですれ違った仲間がいなくても。
 白いシャングリラの食生活を支える農場、其処が終日、無人のままの筈がない。夜はともかく、人工の光が煌々と照らす昼の間は。
 収穫のために出掛ける者とか、作物の世話に向かう者とか。
 いずれ大人が現れるわけで、彼らの耳には直ぐに届いた。木登りに興じる、子供たちの賑やかな歓声が。それは楽しそうに遊ぶ声が。
「あれって、いつでもバレちゃったんだよ。逃げる前に大人に見付かっちゃって」
 いつだってバレて、それでお説教…。猫と違って、言葉がちゃんと通じるから。
「その説教。…俺も駆り出されてたぞ、ヒルマンに」
 あいつだけでは話にならん、とキャプテンの俺を引っ張り出すんだ。船の最高責任者だから。
 「農場の大切さを説いて、大目玉を食らわせてくれ」というのが、ヒルマンの注文だったが…。
 俺が大声で怒鳴ってみたって、シュンとするのは、その時だけで…。
 何日か経ったら、また同じことを繰り返してた。農場に出掛けて、木登りをして、見付かって。
 まるで駄目だから、ソルジャーの出番になったんだがなあ…。
 前のお前を呼んだ効果はどうだったんだ、とハーレイの鳶色の瞳が瞬く。「効果、あったか?」などと、確かめるように。
「ううん…。前のぼく、子供たちとは、しょっちゅう一緒に遊んでたから…」
 農場で木登りはしなかったけれど、でも、子供たちの心は分かるし…。
「何の役にも立たなかったってな、肝心のソルジャーは子供の味方で」
 叱るどころか、悪党どもの肩を持つんだ。「許してやってもいいだろう?」と寛大な顔で。
「そう…。ああやって遊べる場所があるのがいいじゃないか、って言っていたっけね」
 農場は大事な場所だけれども、人類に見付かって撃たれもしないし、安全だから、って…。
 だってそうでしょ、本当に安全なんだから。…人間の家の庭が、猫の公園なのと同じで。
「猫の公園なあ…。前のお前はそうは言わなかったが、アレを言われると弱かった」
 子供たちにとっては安全な場所だ、と言われちまうとグウの音も出ない。
 前の俺はもちろん、俺を担ぎ出したヒルマンもな。
 ゼルは元々、子供好きだし、叱ろうって気はまるで無かったわけだから…。



 何度叱られても、子供たちは農場の木たちに登り続けた。徒党を組んで出掛けて行って。
 船の大人たちの目を盗んでは、白いシャングリラの食生活を支える、大切な木に。
 オリーブの木も、イナゴ豆の木も、他の木や果樹も、子供たちに狙われ、登られていた。梯子は使わず、手と足だけで。…サイオンも、木から滑った時くらいしか使っていなかった。
 彼らがせっせと登るものだから、そのせいで収穫量が減ったりしないようにと、農場の係たちは頑張っていた。悪ガキたちと遭遇したなら、叱り飛ばすのは基本だったけれど…。
 それと同時に、「この枝には足を掛けるな」だとか、「今の季節は、この木に登るな」だとか、出来る限りの指図をして。「木が傷んだら、お前たちも食えなくなるんだぞ!」などと。
(…前のぼくが、本気で止めてたら…)
 木登りは直ぐに止んだだろう。
 白いシャングリラを導くソルジャー、その人が「駄目だ」と叱ったら。登ってもいい木は公園の木だけで、農場の木には登るんじゃない、と。
 けれども、一度も叱ってはいない。
 ヒルマンに請われて出掛けて行っても、前のハーレイまでが腕組みをして子供たちを睨み付けていても。…農場は大切な場所だとはいえ、安心して遊べる所だったから。
「ねえ、ハーレイ…。前のぼくたち、今日のおじさんと同じだね」
 木の幹に生えてる苔が丸禿げになってしまったとしても、猫を繋いだりするよりはいい、って。
 庭に出さずに閉じ込めるよりも、好きに遊ばせてやりたいから、って…。
 農場の木だって、それと同じだよ。木登りさせなきゃ、収穫が増えたかもしれないのにね。
 …きっと増えたよ、木が傷むことは無いんだから。
「それは分かっちゃいたんだが…。キャプテンとして見ていた、報告書とかで」
 あのガキどもを止めさえしたなら、もう少しくらい増えるだろう、と書かれていたから。
 しかし、所詮は「もう少し」だ。誤差の範囲と呼べるくらいの違いでしかない。その量が減って誰が飢えるというわけでもなし、目くじら立てても仕方あるまい。
 その程度のことで縛っちまうよりは、自由にのびのびさせてやりたかったしな、子供たちを。
 「絶対に駄目だ」と叱るのも俺の仕事だったが、其処まででいい。
 規則まで作って徹底させるとか、立ち入り禁止にしちまうよりかは、あれで良かった。
 お蔭で逞しく育ってくれたさ、どの子たちもな。…農場で悪事を働きながら。



 シドもリオも…、とハーレイが懐かしむ子供たち。白いシャングリラで育った子たち。
 後に最後のキャプテンになったシドも、地球で命尽きた英雄のリオも、みんな木登りをしながら育った。公園にある木とは違って、農場に植えられた大切な木で。
「みんな登っていたんだっけね…。子供だった頃は」
 大人に見付かって叱られたって、農場に何度も出掛けて行って。…色々な木に。
 オリーブの木にも、イナゴ豆の木にも、と子供たちの姿が目に浮かぶよう。前の自分は、何度もサイオンで覗き見たから。「また登っている」と笑みを浮かべて、青の間から。
「公園の木にも登ってはいたが、農場の方が良かったらしいな。…同じ木登りするのなら」
 収穫を控えた木には登れなかったし、盗み食いが出来たわけでもないのに…。
 リンゴの一つも食えやしないのに、なんだって農場が良かったんだか…。
 叱られてエライ目に遭うだけなんだが、とハーレイが顎に手を当てる。何のメリットも無かった農場、どうして其処で木登りなどを…、と。
「きっとスリリングだったんだろうね。農場の木には、苔が生えてはいなかったけど」
 登る時とか、下りる時とかに派手に滑って、苔がハゲるわけじゃなかったけれど…。
 だけどスリルはあったと思うよ、農場だもの。見張りを立てなきゃいけないような場所だから。
「叱られるのと、背中合わせのスリルってヤツか…」
 苔でツルリと滑っちまうか、大人に見付かって怒鳴り付けられるか。…その違いなんだな。
 お前が出会った猫の場合は、苔の手ごたえを楽しんでいる、というトコだ。頑張って爪を立てたつもりでも、滑る時だってあるんだし…。その跡がお前の見て来たハゲだな。
 シャングリラの農場で木登りしていたガキの場合は、見付かって怒鳴られるスリルをワクワクと楽しみにしていた、と。苔で滑ってしまうのを楽しむ猫みたいに。
 まあいいだろうさ、シャングリラの方では、船の役に立つ子たちが立派に育ったんだから。
 前のお前が「安全な場所で遊ばせてやれ」と、何度も許してやったお蔭で。
 本当にいい子たちだった、とハーレイが挙げてゆく名前。白いシャングリラの悪ガキたち。
「そうだね、みんな立派に育ってくれたよ。でも…」
 今日の猫は、どうなっちゃうんだろう?
 苔を剥がして登ってもいい、って許して貰って、立派な猫になれるのかな…?
「そっちは役に立ちそうにないな、猫だけに」
 第一、子猫じゃなかったんだろうが。既に育った後の猫だぞ、それ以上、どう育つんだ…?



 「たとえ立派に育ったとしても、猫の手だからな」とハーレイが笑う、猫の木登り。
 御主人の自慢の苔を剥がして、せっせと登り続ける猫。お孫さんが迎えにやって来るまで。
(…猫の手どころか、大迷惑だよ…)
 苔が丸禿げになりそうだ、と御主人がしていた、お手上げのポーズ。
 猫の手は役に立たないものだし、あの木登りで立派に育っても、どうしようもない厄介な猫。
 けれど、白いシャングリラの思い出を連れて来てくれたから、役には立った。
 御主人の与り知らない所で、今の自分とハーレイのために。
 それに、御主人の役には立たないようでも、ああやって猫が庭で楽しんでいるのなら…。
(お孫さん、きっと喜ぶよね?)
 旅行から帰って迎えに来た時、「お気に入りの木が出来たようだよ」と聞かされて。
 もしかしたら、あの木の上から下りて来るかもしれない。お孫さんの声で、大喜びで。
 木の幹に生えた苔の最後の欠片を、爪でズルズルと引き剥がしながら。
 丸禿げになってしまった幹で溜息をつく御主人だって、お孫さんの笑顔で、きっと御機嫌。
 「旅行は楽しかったかい?」と訊いたり、猫を眺めて「いい子にしてたよ」と微笑んだり。
 猫が最後の苔の欠片を剥がしても。…本当に丸禿げにされてしまっても。
(あの木の苔も、早く元に戻るといいんだけれど…)
 今はまだ丸禿げになってはいなくて、あちこちが剥がれてしまっていた苔。
 元の緑色を取り戻すまでには、何年もかかるかもしれない苔。
(やっと生えて来ても、あの猫が来て…)
 また剥げるかもしれないけれども、それもいい。
 子供は未来の宝だから。
 白いシャングリラの農場の木で、木登りしていた子供たち。彼らは立派な大人になった。
 あの御主人のお孫さんだって、いつか大きく成長する。
 苔を剥がしてしまった猫は育たなくても、お孫さんは立派に育ってくれる。
 だから御主人も、きっと怒りはしないのだろう。
 ようやく元に戻った木の幹の苔を、お孫さんの猫がすっかり丸禿げにしてしまっても…。



           苔が生えた木・了


※ブルーが見掛けた猫の遊び。木の幹を覆っている苔を、剥がしてしまうような木登り。
 御主人は困り顔で見守るだけ。止めようとしないのですけど、シャングリラでも事情は同じ。
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