シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
夏休み真っ只中の八月の初め。ブルーはハーレイが訪ねて来られない日に一人でバスに乗り、町の中心部にある百貨店へ出掛けた。目指すは文房具を売っているフロア。其処でハーレイの誕生日プレゼントを買うつもりだった。
ハーレイが前の生で愛用していた羽根ペン。予算はうんと奮発してブルーのお小遣い一ヶ月分。
前世でハーレイが書いた航宙日誌は今や超一級の歴史資料となり、様々な形で出版されている。中でもとびきり高価なものがハーレイの筆跡をそっくりそのまま再現してある研究者向けの書籍。大人でも気軽に買える値段ではないが、データベースでなら同じ内容のものを無料で読めた。
ハーレイによると、活字になった航宙日誌は「ただの日誌」だが、当時の筆跡を留めたものならそれを書いた時の自分の心境が鮮やかに蘇るらしい。キャプテン・ハーレイであったハーレイだけしか真の意味が読めないタイムカプセルのような航宙日誌。
羽根ペンでそれを綴っていたから、今の生でも羽根ペンを持って欲しかった。
ハーレイは「最近、欲しいような気もしてきたんだ」とは言ったけれども、使いこなせる自信が無いから買わないという。ならば自分がプレゼントしようと決心したのに。
(……高すぎるなんて……)
勇んで買いに行った羽根ペンはブルーが買うには高価すぎた。もちろん貯金を使えば買えるが、そこまで背伸びして贈ったところでハーレイは手放しで喜んではくれないだろう。子供には高価に過ぎる羽根ペン。ブルーのお小遣いが減ったのでは、と心配されるのが目に見えていた。
(でも…。ぼくはハーレイに羽根ペンをあげたいのに…)
他のプレゼントなど思い付かない。航宙日誌に纏わる話を聞いた時から「特別な」羽根ペン。
再会してから初めてのハーレイの誕生日だからこそ、前の生での記憶を今なお留める航宙日誌を書いた羽根ペンに似た羽根ペンを探して贈りたかったのに…。
百貨店には予算分のお金しか持って行かなかったから、諦めて帰宅するしかなかった。そうして家には戻ったものの、どうしても羽根ペンが諦め切れない。
(…他の物なんて思い付かないよ…)
羽根ペンを買うのだと決めていただけに、買えなかったショックは大きかった。ハーレイは今の生でも日々の出来事を簡単に綴っていると聞いたし、それを思い出深い羽根ペンで書けるようにと考えて決めたプレゼントなのに…。
潔く諦めて別の物にするか、貯金を使って羽根ペンを買うか。
(羽根ペンがあんなに高いなんて知らなかったもの…)
ハーレイに羽根ペンを贈りたい気持ちは変わらない。贈りたいのに、子供が買うには高すぎる。
(…羽根ペンを買おうって決めていたのに…)
どうすればいいのか、ブルー自身にも分からなかった。自分の意志を貫いて買うか、ハーレイの気持ちを考えて子供らしい品物に変更するか。いくら考えても答えは出なくて、次の日が来て…。
「ブルー、おはよう」
訪ねて来てくれたハーレイをブルーは笑顔で迎えた。庭で一番大きな木の下にあるお気に入りの場所、白いテーブルと椅子でお茶にし、それほど暑くはならなかったから昼食も其処で。
昼過ぎになると流石に暑さが増してきたため、二階のブルーの部屋へと移った。それまでの間も自分の部屋に移動した後も、元気に振舞っていたブルーだけれど。
ハーレイと向き合っていると昨日買いそびれた羽根ペンのことが頭を掠める。ハーレイには羽根ペンが良く似合うのに、と思う度に気分が少し落ち込む。
ブルー自身は上手く隠したつもりだったが、ハーレイにはすっかり見抜かれていた。とはいえ、ハーレイも原因が羽根ペンだとまでは分からない。
(…ブルーに何があったんだか…)
それとなく探りを入れてみても判然としなかった。あくまで普通に振舞うブルー。
(夏休みの宿題で行き詰まったか? …いや、こいつに限ってそれだけは無いな)
友人と喧嘩をしそうにもないし、原因が思い当たらない。しかし明らかに落ち込んでいる。
(うーん…。俺にも言わないとなったら、どうしたもんかな)
無理に訊き出すにはまだ早い、と教師の勘が告げていた。この状態が何日間も続くようならば、それから訊くのが良さそうだ。
(とりあえず今は気分転換をさせてやるのが一番か。…深刻な悩みでなければそれで消えるさ)
その気分転換をどうするか、とブルーと向かい合わせでテーブルを挟んで考えてみて。
(そうだ、あれがいい)
ブルーが喜びそうなこと。それを思い付いたハーレイは「お母さんに用があるから」とブルーに言って階下へ下りた。リビングに居たブルーの母に相談ごとを持ち掛ける。「お手数をおかけしてすみません」と頭を下げたが、彼女は「いいえ、お世話になるのはブルーですもの」と二つ返事で引き受けてくれた。
ハーレイが二階に戻って、ブルーの母がお茶のおかわりを持って来て。二人でゆっくりと過ごす間に夏の長い日も暮れて来た。夕闇が迫って来る頃、夕食の支度が出来たと呼ばれたのだけれど。
「…あれっ、ママ?」
先に立って階段を下り、ダイニングの扉を開けたブルーは目を丸くした。父も帰っていて食事の用意が整っているのに、父と母の分しか置かれていない。普段、ハーレイとブルーが座る席の前のテーブルはがらんとしていて何ひとつない。
「…ママ、御飯は?」
何ごとなのかと訝るブルーに、母が明るい笑顔を返した。
「御飯なら外よ」
「外?」
「ハーレイ先生がね、授業の補足を兼ねて外で夕食にしたいので、って仰ったのよ」
「えっ?」
それホント? とハーレイを見上げれば「本当だ」と大きな手がブルーの頭に置かれた。
「お母さんにお願いしておいたんだ。セッティングは俺も手伝ったんだが…。ちょっと移動させるだけだとはいえ、お母さんに力仕事は向かんしな」
「力仕事?」
「ああ。俺にとっては力仕事とは言えんレベルだが…。まあ来てみろ」
ハーレイが玄関を出るのに続いて庭に出たブルーは驚いた。木の下が定位置の筈の白いテーブルと椅子が芝生の真ん中に移動させられている。
「…ハーレイがやったの?」
「もちろんだ。もっとも俺は動かしただけで、その後はお母さんに頼んだんだが…」
テーブルの上に母がたまに灯しているガラスのランプ。ほのかで柔らかい光の中に夕食の用意。
「…あそこで食べるの?」
「そうさ、たまには課外授業もいいだろう?」
ちゃんとしっかり勉強しろよ、と笑いながらハーレイはブルーを促してテーブルに着いた。
「…よし、丁度いい頃合いだな」
上を見てみろ、とハーレイの指が頭上を示して。
「ほら、ブルー。あれが夏の大三角形というヤツだ。アルタイルとベガとデネブだな。アルタイルとベガは俺の授業で教えただろう? 七夕の時に」
「…あっ…!」
そうだった、とブルーは思い出した。それを習った後、家でハーレイと話をした。もし自分たちが一年に一度しか会えない恋人同士だったら…、という話。
「ハーレイ、天の川でも泳いで渡って来てくれるんだっけね」
「お前との間に天の川が出来てしまったならな。…お前を決して泣かせやしないさ、どんな川でも渡ってみせると言っただろう? たとえ向こう岸が見えなくてもな」
「…外で授業って、これのことなの?」
「立派に七夕の補足だろうが。学校で星は見上げていないぞ、昼間だったからな」
授業なんだぞ、とハーレイは片目を軽く瞑ってみせた。
「そして本当なら、あの辺りに天の川がある筈なんだが…。流石に此処からはちょっと見えんか」
「ハーレイは天の川、見たことあるの?」
「何回もあるぞ。明かりの少ない郊外へ行けば良く見える。海辺なんかも狙い目だな。いつか俺の車でドライブに行くか、天の川を見に」
そう言われてブルーの心臓がドキリと跳ねた。羽根ペンが買えなかったことなど綺麗に忘れて、ハーレイの話に夢中になる。この家の庭からは見えない天の川。写真でしか知らない天の川を見にハーレイの車でドライブだなんて、どんなに楽しいことだろう。
「天の川が見える所って、遠い?」
「そうでもないぞ。郊外なら少し走れば着くさ。雄大な天の川を見るなら断然、海だが」
「そっか…。じゃあ、ハーレイが泳ぐなら郊外の天の川がいいね。そっちの方が川幅が狭そう」
「川幅と来たか…。確かに少しでも狭い方が泳いで渡るには好都合だな」
そして此処なら、とハーレイは天の川が見えない頭上を仰いだ。
「天の川は水が無いようだ。俺は泳がなくても渡れるらしい」
「ふふっ、そうだね。それなら走って渡って欲しいな。少しでも早く会いたいもの」
「おいおい、俺だけが走るのか? 水が無いならお前も歩けばいいだろう」
早く会いたいのなら歩いて来い、とハーレイが笑う。天の川は自分しか泳ぎ渡れそうもないから泳ぐことにするが、水が無いならブルーも頑張って歩くべきだと。
「いい運動になると思うぞ、なんなら少しは走ってみるか?」
「ハーレイが来てよ、泳ぐのよりはずっと楽だよ」
「こらっ、お前は動かないで待つつもりだな? 運動不足になっても知らんぞ」
「ぼくが歩き疲れて倒れちゃったら、ハーレイも困ると思うんだけど…」
一年に一度しか会えない場面で寝込むわけにはいかないから、と主張するブルーと、運動不足は身体に悪いと言うハーレイと。
星空の下での特別授業は妙な所で平行線を辿り、やがて二人して笑い合った。天の川があっても無くても、体力勝負になりそうな距離を越えてゆくにはハーレイの方が適任だと。
「…結局、俺が頑張らないといけないんだな」
「うん。ハーレイの方が丈夫だもの」
「そしてお前は俺を待つ間、のんびりと飯を食うつもりだな?」
「御飯の用意が出来ていたらね」
今みたいに、とブルーは微笑む。
ランプの明かりに照らされた夕食はいつもよりもずっと特別に見えた。
冷たいスープとチキンのハーブ焼き。同じものでも明るい部屋で父や母も一緒の夕食だったら、これほど美味しいと思えただろうか?
ハーレイと二人きりで食べているから特別なのか、星空の下だから特別なのか。
そんな疑問を口にしてみたら、「両方だろう」とハーレイが穏やかな笑みを浮かべた。
「これもちょっとしたデートってトコだ。お母さんは授業だと信じているがな」
ハーレイはブルーに教えてやった。落ち着いた雰囲気を演出するために明かりを抑えてある店もあるのだと。店内の照明をわざと暗くし、テーブルに蝋燭やランプを置いて。
「そういうレストランもあるし、今みたいな季節だと庭にテーブルを置いている店もあるんだぞ。一人で行ってもつまらんだけだが、その内に是非行かんとな」
「つまらないのに?」
美味しいものでもあるのだろうか、とブルーは思った。ハーレイの好物とか、他では見かけない珍味だとか…。つまらなさを補ってなおあまりある料理が出るのだろう、と考えたのに。
「つまらなくないさ、お前と一緒だからな」
「ぼく?」
キョトンとするブルーに、ハーレイは「そうだ」と大きく頷いた。
「だが、今じゃないぞ? その内に是非、と言っただろう? いつかお前が大きくなったら連れて行ってやるさ。明かりを抑えた店も、庭にテーブルを出してる店もな」
そして二人で食事をしよう。
お前が帰りの時間が遅くなるのを気にしないでいい年になったら。
そう告げるハーレイの瞳は優しかったが、その奥に熱い焔が宿っていた。
「…ハーレイ、それって…」
口ごもるブルーに、ハーレイは「気が付いたのか?」と目を細めた。
「いわゆる恋人同士で食事ってヤツだ。正真正銘、デートだな。…お前の帰りが遅くなっても心配されない年になったら、そういう店にも連れてってやる。…嫌か?」
「ううん、嫌じゃない。…早くハーレイと一緒に行きたい。だって…」
今はこんな所でデートだもの、とブルーは呟く。
いつもの夕食より特別な気がして嬉しいとはいえ、所詮は自分の家の庭。こんなに素敵な未来の話が出たというのに、ハーレイの膝に座ることさえ出来ないし…。
「仕方ないだろう、お前は子供だ。子供には子供向けのデートコースがあるってことだな」
「……そうなんだけど……」
残念でたまらないといったブルーの様子に、ハーレイは少しおどけてみせた。
「子供向けのデートをしていたつもりだったが、もっとお子様向けがいいのか? なら、この次は庭でままごと遊びにしよう。本物の飯の代わりに木の葉や泥の団子でな」
「それは嫌だよ! 木の葉っぱなんて食べられないし!」
「そうでもないぞ? きちんと料理すりゃ食える葉もある」
桜餅の葉っぱとかだな、と例を出されてブルーは「もうっ!」と頬を膨らませたが、話題は子供向けのデートコースを切っ掛けに逸らされてしまって出発点には戻らなかった。「これも授業の内だしな」などと澄ました顔のハーレイを睨み付けても、「ちゃんと聞けよ」と授業は続いた。
これは果たして古典の授業の範疇だろうか、と何度も首を傾げてしまった星空の下の課外授業。
前の生のハーレイはキャプテンだけに様々な知識を持っていたけれど、今のハーレイも負けてはいなかった。
「この辺りじゃ星座は本来、二十八個だぞ」と大真面目な顔で言われた時には「嘘!」と叫んでしまったものだが、どうやら本当のことらしい。前の生の頃より遙かに古い時代の地球。そこには二十八宿と呼ばれる別の星座があったのだそうだ。
そうかと思えば「もうすぐ秋だな」などと言う。八月はまだ始まったばかりなのに、八月七日が秋の始まり。立秋という言葉を教えて貰った。ついでに八月は葉月だとも。
食べられる葉っぱの話からは「春の七草」と「秋の七草」を教わった。春の七草は食べるもの。秋の七草は見て楽しむもの。どうして両方とも食べられるものにしなかったのだろう? 間違えて食べてしまったらどうするの、と訊いたら「そんな馬鹿はお前くらいだ」と真顔で言われた。
古典の範囲だか、そうでないのか、ブルーには全く見当もつかないハーレイの授業。そういったことを楽しげに話すハーレイを見ていると幸せな気持ちになってくる。
前の生のハーレイの膨大な知識はシャングリラのために必要だったからこそ覚えたもの。それが無ければ明日の生さえ危うかったもの。
けれど今のハーレイが身に付けた知識は古典の世界を深く味わうのに欠かせないもので、それは無くても困らないもの。あれば心が豊かになって生の喜びが増してくるもの。
沢山の知識を持っている点は同じであっても、内容が違うとこうも変わってくるものなのか、とブルーは本当に嬉しくなった。生き残るための知識ではなく、生を楽しむための知識がハーレイの中にぎっしりと詰まっていることが…。
これが自分たちの今の生。歯を食いしばって生きる代わりに、自由に羽ばたいてゆける生。
だからハーレイは柔道と水泳だけでも充分なくせに、古典の教師にまでなった。体育の教師でもやっていけるのに、よほど古典が好きなのだろうか。そう尋ねたら、「まあな」と答えが返った。「遠い昔の地球の姿が見えてくるような気がするじゃないか」と。
星空の下の課外授業と食事が終わると、ハーレイは「また明日な」と手を振って帰って行った。自分の家まで歩く間にも、きっと色々な楽しいことを見付けるのだろう。「大昔の地球じゃ、夏は怪談だったらしいぞ」などと言っていたから、オバケを探しながらの帰り道かもしれない。
「オバケかあ…」
出来ればあんまり会いたくないな、とブルーは思った。前世の自分だったらともかく、十四歳の子供の自分はオバケを倒せそうにない。今のハーレイなら投げ飛ばして倒せそうなのだけれど。
(…夜遅くなると出るのかな、オバケ)
いつかハーレイとデートに出掛けて遅くなったら、家まで送って貰わなければ。素敵なデートをして帰る途中でオバケなんかに会ってしまってはたまらない。でも…。
(そうだ、ハーレイと結婚してたら帰りの道も一人じゃないよね)
ハーレイと二人で住んでいる家に帰ってゆくなら、遅い時間でも大丈夫。オバケが出ようが一人ではないし、それに時間が遅くなっても…。
(ハーレイと一緒に帰るんだから、うんと時間が遅くなっても誰も心配しないんだっけ)
心配しそうなハーレイはブルーと帰宅時間が一緒。帰ってゆく家も全く同じ。
(…早くハーレイと結婚したいな)
そして食事に行くんだよ、とハーレイが話してくれたレストランを思い浮かべる。今日のデートよりもずっと素敵な時間を過ごして、美味しいものを食べて、ハーレイと暮らす家に帰って…。
家に着いたら強く抱き合ってキスを交わして、それから、それから……。
その夜、ブルーは幸せな気分に満たされたままで眠りに就いた。
ハーレイと星空の下で食事を始める前まで心を悩ませていた羽根ペンのこともすっかり忘れて、それは幸せだったのだけれど。
翌朝、目覚めると昨夜の星空の下での素敵なデートを思い出して再び考え始めた。
幸せな時間を作り出してくれたハーレイのために羽根ペンが欲しい。
大好きでたまらないハーレイと再会してから初めてのハーレイの誕生日。
その特別な日に羽根ペンをプレゼントしたい、とブルーの思いはますます募る。
ハーレイはブルーの「特別」だから。
前の生から愛し続けて、再び出会えた恋人だから……。
星空の下で・了
※ハーレイ先生と、星空の下での課外授業。そういう名前のデートですけど。
こういう優しい時間を過ごせるのも今の地球ならではです。
聖痕シリーズの書き下ろしショート、本編絡みのも幾つかあります。
増えても告知はしていませんから、覗いてやって下さいねv
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