シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「ブルー、爪が少し伸びてるわよ」
切っておきなさいね、と母に言われた。
学校から帰って、ダイニングでおやつを食べようとした時、それを運んで来た母に。
「はあーい!」
返事を返して、シフォンケーキにフォークを入れたら。
「忘れないでよ? 後でちゃんと切るのよ」
食べてる間に切りなさい、とは言わないけれど…。そっちの方がお行儀が悪いものね。
でも、ママに切って貰うような小さな子供じゃないんだから。
忘れないで、と念を押されたから。
「うんっ!」
食べ終わったら、忘れずに切るよ。ぼくの手だもの、忘れないって!
おやつを食べ終えて、空になったお皿やカップをキッチンに居た母に返しに行った。
それから爪切りを取り出し、桜貝のような爪を切ろうとして。
(ちょっぴり伸びてる…)
爪の先、白くなっている部分。気を付けていたつもりだけれども、そういえば最近、爪を切った覚えが全く無かった。
自分の部屋には置いていない爪切り。階段を下りないと切りに行けない爪。
後でいいや、と思ってしまえば、それきり忘れてしまうのだろう。こうして伸びてしまうまで。母に注意をされてしまうまで。
(ママに切って貰うような子供、って…)
そこまで幼くはないけれど。
自分で切るのを忘れるようでは、そう言われても仕方ない、とクスッと笑いかかった所で。
(…あれ?)
前のぼく、と遠い記憶が蘇って来た。
切って貰っていたじゃない、と。
幼い子供ではなかったのに。今の自分よりも、ずっと大きくなっていたのに。
(ハーレイ…)
そう、ハーレイに切って貰っていた。伸びていた爪を。
病気で寝込んでしまった時とか、身体が弱ってしまっていた時。
ジョミーを後継者として迎える頃には、すっかりハーレイに任せていた。起き上がることすらも億劫な日が多かったから。
ベッドの中から手を差し出すだけで、「爪を切って」と頼むだけで切ってくれたハーレイ。
大きな褐色の手をブルーの手に添えて、そうっと、そうっと切ってくれていた。
切り終えた後も引っ掛からないかと指で触って、滑らかに削って整えていた。爪切りのヤスリの部分を使って、それは丁寧に、爪を傷つけないように。
(爪、あんな風に切って欲しいな…)
あの大きな手で切って欲しいな、と自分の小さな両手を眺めた。
またハーレイが切ってくれたらと、この爪を切ってくれたなら、と。
(前のぼくより小さい手だけど…)
切れないこともないだろう。赤ん坊の手と比べたなら、立派な大人と言ってもいい手。前よりも小さな手ではあっても、そこそこ大きさはあるのだから。
(もしハーレイが来てくれたなら…)
頼んでみよう、と決心した。断られたって、それはその時。
頼むだけの価値は充分あるから、爪切りを持って部屋に戻った。
ハーレイが仕事帰りに来なかったならば、あるいは「駄目だ」と断られたなら。
その時は後で自分で切ろうと、明日までに切ればいいのだから、と。
爪切りはそうそう使うものではないから、部屋に持って行っても叱られたりはしないだろうし。
(…今日はハーレイ、来てくれるかな?)
爪切りを机の引き出しに仕舞って、ドキドキしながら待つことにした。
ハーレイが来たなら、「爪を切って」と手を見せようと。
上手くいくといいな、と心を躍らせ、どうかチャイムが鳴りますように、と。
門扉の脇にあるチャイム。いつもハーレイが鳴らしているチャイム。
そろそろ鳴るかと、それとも駄目かと、気もそぞろだから、読んでいる本が全く頭に入らない。文字の上を目が辿るだけ。ページの上を滑ってゆくだけ。
(…ハーレイ、来るかな?)
窓の方へと目を向けてみたら、チャイムが鳴った。慌てて窓辺に駆け寄ってみれば、門扉の前で手を振る人影。間違えようもない長身の影。
(やった!)
来てくれたよ、と大きく手を振り返した。
少しだけ爪が伸びている手を、母に言われた爪を切らずにコッソリ残しておいた手を。
ハーレイを部屋に案内して来て、お茶とお菓子を運んで来た母。
その母に見付かってしまわないよう、さりげなく隠した爪の伸びた手。
母が出て行った後で、テーブルを挟んで向かい合ったハーレイに手を出してみせた。両方の手をテーブルに乗せて、爪が伸びていると分かるようにして。
「ハーレイ、切って」
「何をだ?」
何を切るんだ、お前の菓子か? そいつをフォークで切ればいいのか?
「ううん、ケーキのことじゃなくって…。ぼくの爪だよ」
「爪!?」
なんだ、とハーレイは驚いたけれど。鳶色の瞳が丸くなったけれど。
伸びてるんだよ、と左手の爪を指差した。
両手とも爪が伸びているのだと、母に「切りなさい」と注意された、と。
「…ハーレイ、前のぼくの爪、切ってくれてたでしょ?」
あんな風に切って欲しいんだよ。ハーレイが切ってくれていたっけ、って思い出したから。
前のぼくより小さな手だけど、赤ちゃんの手よりはずっと大きくて爪も大きいし…。
きっと切れると思うんだけれど、切ってくれない?
…駄目なの、ハーレイ?
「お前、自分じゃ切るつもり、ないな?」
お母さんに切れと言われたというのに放っておいた、と。
俺が来るとは限らないのに、切りもしないで俺が来るのを待っていたな…?
「…駄目なんだったら、ハーレイが帰った後で切るけれど…」
ちゃんと自分で切ることにするよ、伸びたままにはしておけないから。
…本当は切って欲しいんだけどな…。
「要するに今は切らないんだな?」
俺がいる間には切らないってわけだ、爪を切る時間も惜しいと思っているんだな?
仕方ない、とハーレイは溜息をついた。
切ってやるから爪切りを此処に持ってこい、と。
「ホント!?」
爪切りはとっくに用意したんだよ、そのために持って来ておいたから。
ちょっと待ってね、今、引き出しから取ってくるから…!
母に内緒で持ち出した爪切り。勉強机の引き出しに仕舞っておいた爪切り。
それを取りに行き、ハーレイに「はい」と手渡した。
ハーレイは爪切りの手触りを確かめ、何度か動かしてみた後で。
「よし、手を出せ」
こらこら、お茶やお菓子に飛んじまったらどうするんだ、爪。
もっとお前がこっちに来てだな…。うん、それでいい。そんな具合でじっとしてろよ?
まずは右手だ、と大きな手で右手を掴まれた。
親指を押さえられたかと思うと、パチンと爪を切り取る音。懐かしい音。
爪を切る音は今の自分も知っているけれど、それとは違ったように聞こえた。遠い昔にこの音を聞いたと、ハーレイが爪を切ってくれる時には聞こえていたと。
パチン、パチンと切り取られてゆく爪の音。
親指の次は人差し指で、それが済んだら中指で。薬指に小指、と順に移ったハーレイの指と爪を切る音と。右手が終われば左手の番で、そちらも順番にパチン、パチンと。
(そう、この音…。それに、この感じ…)
もう懐かしくてたまらなかった。ワクワクしながら切って貰った。
こんな風だったと、こんな音だったと、もう本当に嬉しくて。前の自分に戻ったようで…。
(うん、これも!)
切り終わったハーレイが爪の先を指で確かめてゆく。ギザギザしてはいないか、と。
確認してから、軽くヤスリをかけられた。滑らかな爪に仕上げるために。
(こんなの、ぼくはやっていないよ…)
爪を切ったら切りっ放しで、ヤスリで整える所まではしない。前の自分も、今の自分も。
ハーレイならではの心遣いで、それは丁寧に、両方の手の爪を一枚、一枚。
全部の爪を整え終わったハーレイが「済んだぞ」と爪切りを返して来たから。
「ありがとう!」
ブルーはピョコンと頭を下げると、爪切りを引き出しに仕舞いに行った。元の椅子に戻って腰を下ろすと、改めて御礼を言ったのだけれど。
「いや…。まあ、前のお前よりも小さな手だしな、少し怖かったが」
お前の指まで切っちまわないかとハラハラしてたぞ、お前は気付かなかったようだが。
「うん。ハーレイ、余裕たっぷりに見えたもの。でも…」
思ったよりもアッサリ切ってくれたし、嬉しかったよ。
絶対ダメだ、って断られるかと思ってたんだよ、だってハーレイなんだもの…。
「普通だったら断るんだがな、夜に切られちゃたまらんからな」
俺が帰った後に切るなら、とっくに夜になってるだろうが。
そんな時間に切られたんでは困るんだ。爪だけにな。
「えっ?」
時間って…。爪を切るのに時間が何か関係するわけ、ねえ、ハーレイ?
「ああ、まあ…な」
夜は駄目だな、そいつが俺の信条だってな。
爪は夜には切るものではない、と聞かされた。
夜は駄目だと、夜に切ってはいけないのだ、と。
「…なんで?」
爪を切るくらい、いつでもいいと思うんだけど…。
「そりゃ、かまわんさ。俺が言うのは古典の世界の話だからな」
SD体制が始まるよりも昔の話だ、この辺りに日本って国があった頃だな。そこで伝わっていた話じゃ、夜に爪を切ると寿命が縮んでしまうと言うんだ。
親の死に目に会えないとも言われた、寿命が縮めば親よりも先に死んじまうだろうが。
夜に爪を切るから、「よづめ」。世が詰まるんだな、自分が生きてる世界ってヤツが。
だから駄目だ、とハーレイは小さなブルーに教えた。
単なる昔の語呂合わせ。根拠など無い、古い迷信。
しかし縁起は担ぐ方だと、知ったからには避けたいのだ、と。
「前の俺なら夜専門だったわけなんだが…」
自分のはともかく、お前の爪。夜にしか切っていなかったしな。
もっとも、あの頃は古典の教師でもないし、夜に爪を切ったら駄目だと思いもしなかったが。
「…覚えてた?」
夜だったってこと、ちゃんと覚えてた?
「当たり前だ」
お前の爪を切っていたことを思い出したら、芋づる式に出て来るさ。
いつも夜なんだ、仕事が終わって青の間に行ったら「爪を切って」と頼まれるんだ。
お前、自分じゃ切らなかったからな、と笑われた。
病気の時には切らされていたと、身体がすっかり弱った後にも切らされたと。
これはハーレイの係だからと、ぼくの爪を切るのはハーレイだから、と。
「俺の特権だとまで言いやがって…」
何が特権だ、俺をこき使うための口実だろうが。
爪を切ってくれと、自分じゃ切れないと甘えやがって、いつも、いつも…。
「だって、前のぼくはいつも手袋をはめていたから…」
手袋の下の手はハーレイにしか見せなかったよ、ハーレイだけが見ていたんだよ。
後はノルディと医療スタッフくらいだったよ、手袋をはめてちゃ治療とかだって出来ないし…。
「その医療スタッフでいいんじゃないかと思うがな?」
あいつらの方が上手かった筈だ、そういったことの専門家だぞ?
ベッドから全く動けないヤツらの世話をするのも医療スタッフの仕事だからな。
「ううん、断然、ハーレイだよ」
恋人の方が上手いに決まっているよ。
誰よりもぼくのことを詳しく知ってるんだし、爪を切るのも上手だってば。
前のブルーがそう考えたのはいつだったか。
ハーレイと恋をして、同じベッドで眠るようになって。
あれこれ我儘を言って困らせてみたり、甘えたりして、二人、幸せに暮らしていた頃。
弱かった身体が悲鳴を上げたか、はたまた病に捕まったか。
ベッドで臥せる羽目になってしまって、医療スタッフが身の回りの世話をしてくれていた。髪を整えたり、身体を拭いたり、それは丁寧に心をこめて。
(だけど退屈なんだよね…)
身体はとても重いけれども、熱にうかされてはいなかったから。
元気でさえあれば、視察と称してブリッジに顔も出せるのに。ハーレイに会いに行けるのに。
それが全く叶わない日々、夜になるまで恋人の顔を見られない日々。
病の床にあるソルジャーに定時以外の報告は来ないし、キャプテンは青の間を訪ねては来ない。一日の勤務が終わる時まで、定時報告を兼ねてやって来るまで。
あまりに退屈で、それに寂しくもあったから。
ふと思い付いて、医療スタッフに「自分で切るから」と言って爪切りを置いて行かせた。具合のいい時に自分で切るから、気分転換にもなるから、と。
そしてその夜、ハーレイに手と爪切りとを差し出した。
「君が切って」と。
医療スタッフは断ったのだと、代わりに切って欲しいのだけれど、と。
ハーレイの方は面食らった。
自分の爪しか切ったことが無いのに、ブルーの爪。華奢な手をしたブルーの爪。
それは無理だと断ったけれど、ブルーは頑として譲らなかった。
恋人だったら切ってくれないかと、この手は君にしか見せない手なのだから、と。
押し問答をしていた所で、ブルーは諦めそうもないから。ただでも寝込んでしまっているのを、余計に疲れさせるから。
仕方なく爪切りを手にしたハーレイ。嬉々として右手を差し出したブルー。
「お前の手だしな、怪我をさせたらどうしようかと…」
爪切りだって、失敗しちまえば切り過ぎるだとか、肉まで切るとか。
おまけに自分の手じゃないからなあ、サッパリ加減が分からなくってな。
「おっかなびっくりだったものね」
ハーレイ、怖々、切っていたっけ。
パチンって音が一回する度にぼくに訊くんだ、「大丈夫ですか?」って。
「痛みませんか」って、「余計に切れてはいませんか」って。
切り終わった時には座り込んでたよね、もう動けない、って感じで椅子に。
細心の注意を払って爪を切り続けて、すっかり消耗したハーレイ。
精神的な緊張と疲れが身体にまで及び、文字通り椅子にへたり込むことになったのだけれど。
ブルーの方では味を占めてしまって、これに限ると内心小躍りしていた。
医療スタッフに任せておくよりもいいと、ハーレイに切って貰う方がずっと気持ちがいいと。
自分を気遣う心が伝わってくるのがいい。医療スタッフもそれは同じだけれども、恋人の心とは質が異なる。
それに、添えられた手の温もり。
寝込んでいる間は添い寝だけしかして貰えなくて、身体を重ねられないけれど。
まるでそうしているかのように、ハーレイと溶け合ってしまったかのように感じられた手。今は自分の手はハーレイのものだと、ハーレイの意のままにされて扱われているのだと。
そんな錯覚さえをも引き起こしたほどに心地良かった。
ハーレイに己の手を任せるのは、任せて爪を切って貰うのは。
もうハーレイにしようと決めた。寝込んだ時に爪を切るなら、それはハーレイに任せようと。
こうしてハーレイはブルー専属の爪切り係になった。強引に任命されてしまった。
ソルジャーではなくて、恋人の方のブルーによって。ハーレイにだけは甘えるブルーによって。
いくら断っても、「君が切って」と差し出された手。それと爪切り。
「切らないと、ぼくが医療スタッフに叱られるよ」と。「自分で切ると言ったんだから」と。
最初の間は緊張し切って、パチンと一回音がする度にドキリとしていたハーレイだけれど。
キャプテンになる前は厨房で料理をしていたほどだし、けして不器用なわけではなかった。
木彫りの才能は無かったけれども、どちらかと言えば器用な手先。
慣れてしまえば医療スタッフよりも上手かった。
丁寧に切って、ヤスリで仕上げて、「如何ですか?」と微笑んだものだ。
「暇を持て余したあなたがせっせと手入れをしたようでしょう」と、「これで医療スタッフにも小言を言われませんよ」と。
「お前の爪…。俺が切ってるとは誰も気付いていなかったんだよな…」
お前、爪切りを置いて行って、としか医療スタッフには言わないんだしな?
退屈したソルジャーが爪の手入れをして遊んでいると、暇つぶしだと思われていたわけで…。
「ふふっ、そうだね」
よく言われてたよ、「今日も綺麗に切ってありますね」って。
これじゃ医療スタッフの出番なんかは何処にも無いって、爪の手入れでは敵いません、って。
「そうだろうなあ…。だがな、お前が寝ちまった後…」
アルテメシアから逃げ出した後は、お役御免になっちまった。
お前は深く眠ってしまって、医療スタッフから爪切りを奪うどころじゃなくて。
俺が呼んでも目を覚まさなくて、思念さえも掴めなかったんだ。
それっきり二度と、お前の爪を切らせては貰えなかったんだよなあ…。
俺だけの仕事だったのに。俺が専属だったのに…。
寂しそうな瞳の色のハーレイ。鳶色の瞳に揺れる悲しみ。
もうブルーには触れられなかったと、手は握れても爪の手入れは出来なかったと。
「そっか、医療スタッフ…」
ぼくは眠ったままで目覚めないんだし、爪を切るのは医療スタッフの仕事だよね。
着替えとか身体を拭くのと同じで、医療スタッフがやってたんだね。
ぼくが仕事を取り上げる前にはやってたことだし、ぼくが起きないなら爪も切るよね…。
「うむ。本来の所に戻ったわけだな、爪切り係が」
本当を言えば、やってやれないこともなかった。俺の部屋には爪切りだってあったしな。
そいつを持って行きさえしたなら、もちろんお前の爪だって切れた。
青の間にあった爪切りだってだ、持ち出して使えばいいだけのことだ。
ただ…。
医療スタッフが切っていないのに、お前の爪がいつも綺麗に切られていたなら。
誰がやったのかということになるし、当然、白状しなけりゃならん。
そうなった時に、キャプテンの俺が切ってるとなれば、何のことかと思われるからな。どうして俺が爪を切るのか、そんな仕事をしているのか、と。
俺が厨房出身じゃなくて、ノルディの部下なら何の問題も無かったろうが…。
昔取った杵柄ってヤツでやっているんだと、このくらいはと言い抜けることも出来ただろうが。
きちんと手入れされたブルーの手を見るのが悲しかった、とハーレイは言った。
ソルジャーの正装で眠っていた日も多かったけれど、訪問者の予定が無ければパジャマ。そんな時には白い手が見えたと、切り揃えられた爪が目に入ったと。
「俺がせっせと手入れをしていたばかりに、お前、爪にはこだわりがあると思われたんだな」
いつも綺麗に切ってあったし、切り口もヤスリで仕上げてあった。
指先でいくら触ってみたって、引っ掛かりさえしないんだ。そりゃあ綺麗なモンだったさ。
あれは俺だけの役目だったのに…。お前の爪は俺しか切れなかったのに。
俺はそいつを取られちまって、手を握ることしか出来なかった。
トォニイが生まれた後にはそうして子守唄を歌っていたなあ、眠るお前の手を握ってな。
お前が夢の中でも聞こえていた、って言ってくれた歌。ゆりかごの歌だ。
お前の手を握って、何度も、何度も。
爪を切る代わりに歌っていたんだ、あの歌をな…。
前のハーレイが歌った『ゆりかごの歌』。
それはブルーの記憶にもある。微かに、微かに残った歌声。育ての母の歌かと思った子守唄。
けれども、それを歌っていたハーレイの心の中を思うと、謝ることしか出来ないから。
「…ごめん…」
眠ってしまって、本当にごめん。
「爪を切ってよ」なんて我儘、言わなかったらよかったね…。
そしたら少しはマシだったのにね、同じようにぼくが眠ったとしても。
「いいさ、また切らせて貰ったからな」
お前の爪をもう一度切れるとは思わなかった。
目覚めたお前は、俺に爪を切ってくれと言い出すよりも前にメギドに行っちまったし…。
爪なんか二度と切れないどころか、俺はお前を失くしちまった。手が届かなくなっちまった。
なのに、こうしてまた会えたんだ。
その上、爪まで切らせて貰った。
俺はすっかり忘れちまっていたのになあ…。前のお前の爪切り係をしていたことをな。
思い出させて貰った上に切らせて貰った、とハーレイの顔が綻んだ。
それも前より小さな爪をと、前のお前より小さくなった手の爪を切らせて貰った、と。
さっき悲しみの色を湛えた瞳が、今は優しい色だから。
ブルーは綺麗に爪を切って貰った両手を揃えて差し出した。
「じゃあ、また切ってくれる?」
この次、爪が伸びちゃった時は、ハーレイにお願いしてもいい?
ちゃんと爪切り、用意するから。ぼくの部屋に持って来ておくから。
「…そいつはなあ…」
次と言われても、爪なんて直ぐに伸びるしな?
前のお前だって、俺にばっかり切らせてたわけじゃないだろう?
普段は自分で切ってた筈だぞ、俺の真似をしてヤスリまでかけてキッチリとな。時間だけは充分あったからなあ、前のお前は。
こんな感じだと、ハーレイの真似をしてみたんだと自慢したじゃないか、最初の頃は。
いつの間にやら当たり前になって、それこそ暇つぶしに手入れしていたみたいだが。
だからだ、お前も前のお前を見習っておけ。
爪が伸びたら自分で切る。俺のやり方を真似したいんなら、仕上げはヤスリだ。
切ってやる方はまたいつかな、とはぐらかされた。
普段は自分で手入れをしろと、そうそう切らされてはたまらないと。
「いいか、いくら恋人同士でもだ。爪まで切るのは…」
そこまでするのはどうかと思うぞ、お前みたいなチビを相手に。
「…今だと切るのが難しい?」
ぼくの手、小さくなっちゃったから…。
前のぼくの手とはやっぱり違って、小さい分だけ切りにくいの?
赤ちゃんの手なんか、どうやって爪を切ったらいいのか、ぼくだって悩んじゃうものね…。
「チビの手だから難しいだとか、そういう問題じゃなくてだな…」
今の俺だって手先は器用だ、現に今日だって上手く切ったろ?
そういう点では全く問題無いんだが…。前の俺の記憶もある分、爪は切ることが出来るんだが。
爪は上手に切れたとしてもだ、俺の方が我慢の限界だ。
分かるか、俺が耐えられないんだ。
爪を切るだけでは済まなくなってしまいそうだ、と苦笑された。
だから断ると、もっと大きく育ってからだと。
キスを交わせるだけの背丈に、前のお前と同じ背丈にならんと駄目だ、と。
つまりはハーレイも前のブルーと思いが重なっていたということ。
爪を切る間、ブルーの手を握っている間。
ハーレイもまた、溶け合うような感覚を抱いていたということ。
手と手を通して繋がっていると、この手は自分のものでもあると。
その思いまでが同じだったと気付いたというのに、断られてしまった爪を切ること。次に伸びた時も切って欲しいと頼んでいるのに、駄目だと苦い顔のハーレイ。
せっかく思い出したのに、とブルーは諦め切れないから。
また切って欲しいと思うものだから、唇を尖らせて膨れてみせた。
ハーレイがチビだと断るからには、チビらしく。チビはチビらしく、うんと我儘に。
「今日はちゃんと切ってくれたのに…」
断らなかったじゃない、ぼくがチビでも!
次だって別に変わりやしないよ、また切ってくれればいいじゃない!
「縁起は担ぐと言っただろうが」
俺が切ってやらなきゃ、お前は夜に爪を切ることになったんだしな?
夜は駄目だと知っているのに、黙っているわけにはいかないだろうが。たとえ迷信でも、縁起は担いでおきたいんだ。俺は古典の教師だからな。
「じゃあ、次も夕方!」
頼む時には夕方にするよ、爪を切って、って。
そうすればハーレイが切ってくれるんでしょ、断ったらぼくは夜に切ることになるんだから。
そうなると知ってて放っておくほど、ハーレイ、冷たくない筈だものね。
「いや、この次からはお前に切らせる」
俺が監視して、「さっさと切れよ」と促すまでだな、夕方に頼まれた時にはな。
お茶を飲みながら待っててやるから、その爪、早く切ってしまえと。
今日のが例外だったんだ。次は自分で切って貰うぞ。
切ってやるのは一回限りだ、と突き放されたけれど。
今日だけの特別サービスなのだ、と鼻で笑われてしまったけれど。
思い出してしまった、ハーレイに爪を切って貰うこと。それがとても心地良かったこと。
そうして今日も切って貰えて、爪切りの音が嬉しかったから。
パチン、パチンと爪を切る音と、ハーレイの手の温もりが今も心を離れないから。
チビだと言われた小さなブルーは、意地悪な恋人に問い掛けた。
「…結婚したら、また切ってくれる?」
今日みたいにぼくの爪が伸びたら、ハーレイが爪切り、してくれる?
ぼくが病気で寝てない時でも、元気に起きている時でも…?
「もちろんだ」
断る理由は何も無いなあ、お前と結婚した後ならな。
お前の爪をまた切れるんだったら、お前専属の爪切り係をもう一度拝命するまでさ。
ベッドに寝てないお前の爪なら、さぞ切り甲斐があるんだろうなあ…。
ソファとかにお前と一緒に座って、甘えてくるのを「邪魔だぞ」と叱ってみたりしてな。
これじゃ切れないと、大人しくしろと。
指まで一緒に切られたいのかと、怪我をするぞと言いながらな…。
そういうお前の爪を切りたいと、切らせてくれ、と頼まれたから。
今は駄目だと断ったハーレイの口から、いつか切りたいという熱い言葉を引き出せたから。
(ふふっ、爪切り…)
切って貰おう、とブルーの心が温かくなる。
次にハーレイに爪を切って貰う時はきっと、ハーレイの家に居るのだろう。
結婚して二人、幸せに暮らしているのだろう。
そんな日々の中で爪が伸びたら、切って貰って、キスを交わして。
ソファに居たなら、そのまま其処に居るかもしれない。
あるいはハーレイの腕に抱かれて、寝室に移動するのだろうか。
そうして二人、恋人同士。
ブルーが夢見る、本物の恋人同士の時間。
前の自分たちがそうだったように、重なり合って、溶け合って、もう離れない。
爪切りから始まる、至福の時。
ハーレイに「爪を切ってよ」と強請って、甘えて。
その後はもう、二人だけの世界。
重なり合わせた手と手から溶けて、互いに互いのものになって溶けて…。
爪切り・了
※前のブルーが、ハーレイに切って貰っていた爪。医療スタッフは断ってまで。
けれど、長い眠りに入った後には、爪切りは医療スタッフが。久しぶりの爪切りです。
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