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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧
(ふうん…?)
 夢なら持っているけれど、と小さなブルーが眺めた新聞。学校から帰って、おやつの時間に。
 その紙面の中、「夢は大きく持ちましょう」と書いてあるコラム。子供向けにと書かれた記事。夢は大きく持つべきだ、という中身。夢を大きく持てば持つほど、可能性も広がるものだから。
 どんな夢でも、大きく持つもの。小さい夢だと、未来も小さくなってしまうから。
(当然だよね?)
 わざわざ書いて貰わなくても分かってるよ、と思ったけれど。相手は子供向けの記事だし、下の学校に通う生徒が対象だろう。自分の年なら分かって当然、教えて貰うようでは駄目。
(先生だって、よく言ってたから…)
 下の学校に通っていた頃に。今の学校でも、入学式の時に聞いたと思う。「夢は大きく」と。
 自分の夢なら、とうに決まっているけれど。あまり大きくないのだけれど…。
(お嫁さん…)
 結婚できる年になったら、ハーレイのお嫁さんになることが夢。十八歳になったら結婚式。
 お嫁さんだけに、誰でもなれそうな感じだけれども、本当はとても…。
(大きくて、叶えるのが難しすぎた夢なんだよ…)
 それに叶わなかったんだから、と今の自分は知っている。「お嫁さんになる」ことが、どれほど難しい夢だったのか。叶えたくても、困難を伴うものだったのか。
(今のぼくなら、簡単だけれど…)
 十八歳になれば結婚、ハーレイのプロポーズを受けるだけ。結婚式を挙げればいいだけ。
 けれど、そのハーレイと恋をしていた前の自分は、結婚式を挙げるどころか…。
(ハーレイに恋をしてたのも内緒…)
 お互いの立場がそうさせた。白いシャングリラを守るソルジャーと、船を預かるキャプテンと。船の頂点に立っていた二人、恋人同士だと明かせはしない。もしも知れたら、誰一人として…。
(ついて来てなんか、くれないものね…)
 船を私物化しているのだ、と背を向けて。何を言っても、そっぽを向かれて。
 そうなることが分かっていたから、明かせないままで終わった恋。地球まで辿り着いたなら、と夢見た結婚、それも叶わずに死んでいった自分。
 結婚さえも出来なかったのが前の自分で、だから今度の夢は大きい。小さいようでも大きな夢。



 前の自分の夢が叶うから、充分に大きく持っている夢。結婚するというだけの夢でも。
(ハーレイのお嫁さんになれるんだものね?)
 ぼくには大きすぎる夢、と幸せな気分で閉じた新聞。なんて大きな夢なんだろう、と。ついでに言うなら、前の自分の夢だって大きかったから、と考えながら戻った自分の部屋。
(前のぼくの夢、今よりもずっと…)
 大きくて凄かったんだものね、と勉強机の前に座って思い出す。前の自分が描いた夢を。
 遠く遥かな時の彼方で、ソルジャー・ブルーと呼ばれた自分。白いシャングリラで見ていた夢。
(いつか必ず、地球に行こう、って…)
 青い地球にも焦がれたけれども、それは自分の個人的な夢。青く輝く星への憧れ。
 それとは違って、ミュウの未来を手に入れるために、地球に行こうと考えていた。青い地球まで辿り着けたなら、きっと未来を掴める筈。人類に追われない未来。ミュウが殺されない世界を。
 だから地球へ、と目指そうとした青い水の星。
 前のハーレイと恋に落ちた後には、もう一つ夢が加わった。ミュウの未来を手に入れたならば、白いシャングリラの役目も終わる。もう要らなくなるミュウの箱舟。
 シャングリラが役目を終える時には、ソルジャーもキャプテンも必要なくなる筈だから…。
 船の仲間たちに恋を明かして、二人で生きようと思っていた。シャングリラを降りて、何処かで二人。ほんの小さな家でいいから、青い地球の上に住める所を手に入れて。
 ミュウの未来を掴み取ることと、ハーレイと二人で暮らすこと。そのために行きたかった地球。
(どっちも叶わなかったけど…)
 前の自分が持っていた夢は、どちらも叶いはしなかった。
 ミュウの未来も、ハーレイと二人で生きてゆける家も、前の自分は手に入れられずに、地球さえ見ずに宇宙に散った。ハーレイからも遠く離れたメギドで、独りぼっちで。
(本当に全部、夢だったまま…)
 何も叶わなかったんだよ、と思うけれども、繰り返し描き続けた夢。いつか必ず、と。
 前の自分が夢を大きく持っていたから、神様は叶えてくれたのだろう。ずいぶん時間がかかったけれども、それは仕方ない。前の自分が生きた頃には、青い地球が無かったのだから。
 白いシャングリラが辿り着いた地球は、赤茶けた死の星だったのだから。



 前の自分が夢見た通りに、地球で開けたミュウたちの未来。
 地球は燃え上がって、ジョミーも、前のハーレイたちも命を落としたけれども、機械が支配する時代は終わった。SD体制が倒れた後には、もう人類もミュウも無かった。同じ人間なのだから。
(地球は、メチャメチャになっちゃったけど…)
 大規模な地殻変動を起こした地球。ユグドラシルと呼ばれた地球再生機構の建造物さえ、地の底深く沈んだという。海も大陸も全てが壊れて、燃えて崩れていったのだけれど…。
 それが再生への引き金。何も棲めない死の星だった地球は再び蘇った。青い星として。
 気が遠くなるほどの時が流れて、今の時代は人が住んでいる地球。自分は其処に生まれて来た。前とそっくり同じに育つ身体を貰って、ハーレイも先に生まれて来ていた。同じ姿で。
 地球はとっくに手に入れているし、次はハーレイと暮らす未来。今度は結婚できるから。
(そっちも沢山、夢は大きく…)
 持たなくっちゃ、と記事の通りに考える。ハーレイとの未来に描く夢。
 結婚式のことはよく分からないけれど、その前に、まずはプロポーズ。結婚を申し込まれる時。どんなプロポーズになるのだろうか、ハーレイは何をしてくれるだろう?
(ガラスの靴が欲しいよね、って思ったことも…)
 あるのだけれども、他にも夢を見ていそう。こういうプロポーズもいいね、とハーレイに伝えてありそうな夢。すぐには思い出せないだけで。
(だから、プロポーズも夢だよね?)
 きっと素敵なサプライズ。その日が来たなら、きっと感激で胸が一杯。ガラスの靴を貰っても。他の形で結婚を申し込まれても。
 プロポーズされたら、もちろん「嫌」とは言わない自分。両親が結婚を許してくれたら、晴れてハーレイの婚約者。結婚式の用意も始めて。
 婚約したら、忘れないようにシャングリラ・リングを申し込む。白いシャングリラの船体だった金属の一部、それを使って作られる結婚指輪。申し込みのチャンスは一度きりだから…。
(シャングリラ・リング、当たりますように…)
 それが最初の大きな夢。指輪の形に姿を変えた、シャングリラを指に嵌めること。
 前のハーレイと二人で暮らした白い船。懐かしい船が生まれ変わった指輪を、ハーレイと二人で結婚式で交換して。お互いの左手の薬指に嵌めて、そうして交わす誓いのキス。



 ウェディングドレスで結婚するのか、ハーレイの母が着たと聞いている白無垢か。何を着るのか分からないけれど、誓いのキスはあるだろう。結婚指輪の交換だって。
(結婚式が終わったら…)
 もうハーレイのお嫁さん。誰に紹介される時にも、「俺の嫁さんだ」とハーレイが言ってくれる筈。ハーレイの父や母たちだったら、「うちの息子のお嫁さんです」と。
 考えただけで弾む胸。「ハーレイのお嫁さん」になるということ。前の自分が夢に見たこと。
 夢が叶って結婚したら、新婚旅行は地球を見に行く。それもハーレイとの約束。
(ぼくは宇宙に出たことが無いし…)
 まだ見てはいない、青い地球。足の下には地球があるのに、宇宙に浮かぶ地球を知らない。前の自分が焦がれ続けた、銀河の海に浮かぶ真珠を。
 だからハーレイとの新婚旅行は、宇宙から地球を眺める旅。青い真珠のような地球。それが良く見える部屋に泊まって、ハーレイと二人、心ゆくまで地球を見詰めて、キスを交わして…。
 きっと何日も飽きずに過ごし続けるのだろう。月にも火星にも行きはしないで、地球の周りしか飛ばない旅でも。…地球を見るだけで終わる旅でも。
 前の自分の夢の星だし、そういう旅でかまわない。何処の宙港にも降りない旅で。
(そんな旅行でも、疲れちゃったら大変だから…)
 せっかく新婚旅行に行くのに、寝込んでしまったら意味が無い。いくら窓から地球が見えても、ハーレイが側にいてくれても。
(看病して貰って、船のお医者さんに注射されちゃったりもして…)
 きっとハーレイは優しく看病してくれるけれど、問題は船のお医者さん。大嫌いな注射を宇宙の旅で打たれるのは御免蒙りたい。青い地球が見える医務室で注射されるとしたって。
(嫌いなものは嫌いなんだよ!)
 前の自分も嫌った注射。アルタミラでの酷い体験のせいで。
 新婚旅行で注射は嫌だし、寝込んだら旅も台無しになる。地球を見ながらの食事なんかも、全部お流れになってしまって、ベッドで寝ているだけになるから。
 そうならないよう、元気に旅に出掛けられること、それも大切。
 前と同じに弱い身体に生まれたけれども、新婚旅行の間は健康を損ねないこと。それだって夢。



 元気一杯で出掛けなくちゃ、と夢を抱くのが新婚旅行。ハーレイと青い地球を見る旅。宇宙から青い地球を見ようと、何度ハーレイと語ったことか。…白いシャングリラで暮らした頃に。
 その夢が叶う新婚旅行。しかも結婚してから見られる青い地球。前の自分が描いた夢だと、結婚するのは地球に辿り着いてからだったのに。
 夢よりも素敵になった現実。ハーレイのお嫁さんになって、新婚旅行で地球を見に行くなんて。
(旅行の約束、他にも一杯…)
 今のハーレイと交わした約束。前の自分だった頃から夢を見た旅も、新しく出来た旅の予定も。
 好き嫌い探しに出掛けてゆくのは、今の約束。好き嫌いが全く無い二人だから、あちこち回って苦手なものやら好物やらを探す旅。好き嫌いが無いのは、多分、前の生の影響だろうと思うから。
(砂糖カエデの森も見に行かなくちゃね…)
 前の自分が地球で食べたかった、夢の朝食。ホットケーキを食べること。地球の草で育った牛のミルクで作ったバターと、本物のメープルシロップを添えて。
 今のハーレイにそう話したら、砂糖カエデの森を見に行く約束が出来た。雪の季節が終わる頃に始まる、メープルシロップになる樹液の採取。その季節に二人で行ってみようと。
(ヒマラヤの青いケシだって…)
 出来るものなら、高い山に咲く本物を見たい。前の自分が夢見たように、空を飛んでは行けないけれど。今の自分は空を飛べないから、ヤクの背に乗って運んで貰うしかないのだけれど。
 そして、ハーレイと今の地球で結婚するのなら…。
(マードック大佐のお墓にだって…)
 挨拶に行ってみたいと思う。マードック大佐とパイパー少尉の墓碑がある場所へ。
 SD体制が崩壊した時、地球を破壊しようとした六基のメギド。トォニィやキースの部下たちが防ぎに飛び立ったけれど、残ってしまった最後の一基。
(マードック大佐の船が体当たりして…)
 メギドを止めたと今も伝わる。退艦しないで船に残ったパイパー少尉がいたことも。
 青い水の星が蘇った後、風化したメギドが発見された。二人の墓碑は其処にあるという。墓碑は森の奥にあるらしいけれど、その入口まで行く恋人たちが今も大勢。結婚の報告をするために。
 花束や花輪を捧げて祈る恋人たち。マードック大佐たちのように最後まで共に、と。
 知ったからには、挨拶をしたい二人の墓碑。「パパのお花」が咲く季節に。



 今の時代は「パパのお花」と呼ばれている花。淡い桃色の豆の花。
 幼かったトォニィがそう呼んだから、シャングリラ育ちだった豆にその名が付いた。トォニィが種子を残させた豆。「いつか地球へ」と、願いをこめて。
 その種子が根付いたのが「パパのお花」だから、マードック大佐たちに挨拶するなら、花が咲く季節。墓碑がある地域に自生する花で、他の地域にはあえて広げないと聞いたから。
(夢は大きく…)
 うんと沢山持たなくっちゃね、と思う旅行だけでも数え切れない。ハーレイと二人で行く旅行。デートの約束だって山ほど、もう本当に山のよう。
(新婚旅行は地球を見るんだ、って決まってるけど…)
 次の旅行は何処にしようか、それも楽しみでたまらない。結婚してさえいない内から。こうして夢を見る間から。
 前の自分の夢を叶える旅に出るのか、今の自分たちが交わした約束を叶えにゆくか。青い地球を見る新婚旅行から帰ったら直ぐに、もう計画を立てていそう。ハーレイとお茶でも飲みながら。
(今度は何処に出掛けようか、って…)
 旅の計画、きっと最初は近い場所。新婚旅行は、ハーレイが長く休める時期に行くのだろうし、学校が休みになっている間。春休みだとか、夏休み。
 同じ休みの間にまた行けそうな場所にするなら、家からもきっと近い筈。休みが終わってからの旅となったら、もう本当に近い場所。
(週末に行って、一泊二日で帰れる所…)
 そんな感じ、と思う行き先。一泊二日で行ける所も色々あるから、何処にするかで大いに迷ってしまいそう。海に行くのか山に行くのか、旅の目的は何なのか。
(観光するのか、名物を食べに行くのかも…)
 同じ行き先で回る所が変わってくるから、目的選びも大切なこと。充実した旅にするのなら。後から「しまった」と思わないよう、きちんと下調べもしておいて。
(せっかく行ったのに、知らずに帰って来ちゃったよ、っていうのは残念…)
 食べ物にしても、観光名所にしても。
 ハーレイと二人で旅をするなら、夢は大きく、欲張りに。あれもこれもと詰め込んで。御馳走を食べて観光だって、とギュウギュウ詰めになるだろう夢。



 旅行するにも夢は大きく持たなくちゃ、と思ったけれど。夢は山ほど、と思うけれども、旅行に出掛けてゆく前に…。
(新婚旅行の次の旅行に行く前に、デート?)
 結婚したら一緒に暮らすのだから、二度目の旅に出る前にデート。間違いなく、そう。
 同じ家に住む二人なのだし、思い付いたら直ぐにデートに出掛けてゆける。時間さえあれば。
(ハーレイと食事をしに行くとか…?)
 食事くらいなら、新婚旅行から戻った次の日にだって、と膨らむ夢。ハーレイとデート。食事に行くのはハーレイの家の近所の店だっていいし、ドライブに行くというのもいい。
 車で少し走って行ったら、幾らでも選べる食事できる店。「此処がいいな」と思い付きだけで、選んで車を駐車場に停めて。
 家の近所の店に行くなら、ハーレイと歩いてゆくのもいい。手を繋ぎ合って、のんびりと。
(夢は大きく…)
 それに沢山、と思った所で気が付いた。次の旅行やデートの夢を見ていたけれど…。
 ハーレイと結婚して、新婚旅行に出掛けた後。宇宙から青い地球を眺めて、大満足の新婚旅行が終わった後には、ハーレイの家で暮らすことになる。今の自分の家ではなくて。
 旅行が済んだら、帰ってゆく先はハーレイの家。二人で家に帰り着いた時には、一番最初に何をすることになるのだろう…?
(ただいまのキス…?)
 二人一緒に帰ったのだし、「おかえりなさい」ではないけれど。どちらが迎える側でもないのに「ただいま」は変かもしれないけれども、ただいまのキス。
 二人きりの家に帰って来られた、と抱き合ってキスを交わすのだろう。これからはずっと一緒に暮らしてゆけるし、此処が二人の家なのだ、と。
(キスは絶対、しそうだけれど…)
 結婚している二人だったら、ただいまのキスは挨拶代わり。「最初にすること」と考えるには、足りない重み。今の自分なら、キスは大切なのだけど。
(…ハーレイ、キスしてくれないものね…)
 子供にキスは絶対しない、と言われているから憧れのキス。けれど結婚した二人ならば、キスは当たり前のように交わす筈のもので、「最初にすること」には数えられないほどだろうから…。



 キスは違う、と考えた「家に帰ったら最初にすること」。ただいまのキスの後が問題。
 新婚旅行はもう終わったから、ハーレイと一緒に過ごすのだけれど。結婚している恋人同士で、夜はもちろん同じベッドで眠るけれども…。
(いくらなんでも、帰って直ぐにベッドになんか…)
 行かないだろうという気がする。帰って来たのが夜だとしても。宙港に着いた時間によっては、家に着いたら夜更けなのかもしれないけれども、直ぐにシャワーを浴びに行くのも…。
(あんまりだよね?)
 二人で暮らす家に着くなりシャワーだなんて、夢もロマンも無い感じ。どう考えても、ベッドに入る準備だから。「早くベッドに行かなくちゃ」と宣言するようなものだから。
 二人一緒でも狭くないだろう、ベッドには行きたいのだけれど…。
 それとこれとは話が別。家に帰って最初にすることがシャワーだと、恥じらいさえも無さそう。
(ハーレイ、きっと結婚するまで…)
 キスしかしないままなのだろう、と思ってはいる。何故だか、そういう予感がするから。
 婚約した後もキスだけで我慢していたのならば、ベッドに行きたくなりそうだけれど。
(だけど、新婚旅行だったんだし…)
 二人で旅行に出掛けたのなら、とうにベッドに行った筈。青い地球が見えるだろう部屋で。
 大きな窓越しに地球を眺めて、何度もキスを交わした後には、やっと本物の恋人同士。長いこと我慢させられていた分、満ち足りた時を過ごせる筈。
(朝御飯なんかは、抜きでいいから…)
 ハーレイとベッドで抱き合っていたい。今の幸せに酔いしれながら、愛を交わして、甘い睦言を交わし合って。
(旅行とセットの御飯、何度も抜けちゃったって…)
 きっと二人とも気にしない。豪華な料理を食べそびれても、ルームサービスばかりでも。食事をするより、二人一緒にいたいから。前の生からの夢が叶って、ようやく結婚出来たのだから。
 そういう旅行をして来たのならば、家に帰ってまでベッドなんかに急がなくてもいいだろう。
 もっとのんびり、家でゆっくり。
 此処が二人の家なのだから、と前の生から夢に見ていた地球にある家で。



 前の自分たちが夢見た地球。いつか地球まで辿り着いたら、欲しいと思った小さな家。青の間のように広くなくていいから、ほんの小さな家でいいから。
 その夢を叶えてくれるのが今のハーレイの家。この町で教師になろうと決めて、ハーレイの父に買って貰ったらしい家。其処にハーレイと二人で帰ったら…。
(家の中、色々…)
 案内して貰えるのだろうか。一度だけ遊びに行った時にも、案内はして貰ったけれど…。それはあくまでチビの自分用、他の生徒を案内するのと大して変わりはしなかった筈。
 けれど、一緒に暮らすとなったら、必要だろう様々な案内。それこそキッチンの棚の中まで。
 ちゃんと案内して貰わないと、直ぐに困ってしまうだろうから。「あれは何処?」とハーレイに尋ねなくては、日用品さえ見付けられなくて。
(最初にすること、家の案内?)
 そうなのかもね、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来たから、早速ぶつけてみた質問。テーブルを挟んで向かい合わせで。
「あのね、最初は何をすると思う?」
「はあ?」
 最初って何だ、お前が何かしたいのか、とハーレイは目を丸くした。「意味が分からん」と。
「ごめん、色々すっ飛ばしちゃった…。ぼくは長いこと考えてたから」
 おやつの後から考え続けて、そしたら気になり始めちゃって…。
 いつかハーレイと結婚するでしょ、ぼくが十八歳になったら。…結婚できる年になったら。
 その時のことだよ、訊いているのは。…最初は何かな、って思ったから。
 ハーレイと結婚してから、ぼくが一番最初にすること。
 何だと思う、と訊いたら顔を顰めたハーレイ。眉間の皺まで深くして。
「その手の話はお断りだが?」
 お前はチビだし、まだ早すぎる。…何度言ったら分かるんだ?
 キスも駄目だと言ってる筈だな、とハーレイが怖い顔をするから、慌てて首を左右に振った。
「違うってば…!」
 ぼくは真面目に訊いてるんだよ、叱られるような話じゃないんだってば…!
 ホントのホントに違う話で、ただ気になってただけなんだから…!



 キスとかの話は全部抜きで、とハーレイに懸命に説明をした。どうして質問したのかを。
 夢は大きく持ちたいから、と新聞のコラムを読んだお陰で、膨らませてしまった未来の夢。新婚旅行から帰った後には、最初は何をするのだろう、と。
「えっとね…。最初にすること、ハーレイの家の中の案内?」
 そうじゃないかと思ったんだけど、それで合ってる…?
 ねえ、とハーレイの瞳を覗き込んだら、「なんでそうなる?」と返った言葉。
「家の案内って、何処から思い付いたんだ。それが最初にすることだなんて…?」
「それが一番大事かな、って…。ぼく、ハーレイの家の中には詳しくないし…」
 何度も遊びに行ってる柔道部員とかの方が詳しそうだよ。何処に何があるか、棚まで覗いて。
 ぼくは一度しか、家の中、案内して貰ってないし…。
 ハーレイと一緒に帰ってみたって、直ぐに困ってしまいそう。分からないことばっかりで。
 だから案内、と自信を持って答えたのに。
「おいおい、そいつは今だけだろう?」
 確かにお前は、俺の家には全く詳しくないよな、うん。…柔道部のヤツらの方が詳しい。
 あいつら、遠慮なく家探しするから、冷蔵庫の中まで覗いて勝手に中身を飲み食いするし…。
 だがな、お前も俺と結婚するとなったら、嫌というほど来るだろうが。
 一度も来ないで結婚ってことは絶対に無いぞ、考えてみろよ?
 俺の家でデートもするだろうし、と言われてみればそうだった。婚約したなら、ハーレイの家は未来の自分の家になる。今と違って出入りも自由。
「そっか、ハーレイの家でデートもあるよね…」
 ハーレイが作ってくれるお料理とか、お菓子を食べに行くだとか…。
「お前を家に呼びもしないで、結婚ってことは有り得んな。デートでなくても来て貰わんと」
 俺の家に引越して来るんだろうが、俺と一緒に暮らすんだから。
 結婚の準備を進めるためには、お前が俺の家に来ないと始まらない。
 お前の部屋を決めなきゃならんし、荷物だって運び込まないと…。でないとお前、宿無しだぞ?
 この部屋からは出るんだろうが、というハーレイの言葉でやっと気付いた。
 ハーレイの家で暮らしてゆくのだったら、それまでに準備。新婚旅行から帰ったら直ぐに、荷物などを置ける自分用の部屋が要るのだから。



 まるで気付いていなかった、とポカンと開けてしまった口。結婚して同じ家で暮らすためには、先に必要なのが引越し。今のこの部屋から、ハーレイの家へ。
 自分の引越しは新婚旅行の後だけれども、荷物は先に運ばれてゆく。それの置き場や、貰う部屋やら、決めるべきことが幾つもあった。…ハーレイの家まで出掛けて行って。
 何度も出入りしていたならば、家の中のこともすっかり覚えてしまうだろう。新婚旅行から家に帰った途端に、困ってしまわない程度には。
「…最初にすること、家の中の案内じゃなかったんだ…」
 きっとそれだと思っていたのに、違ったなんて…。もう案内は要らないだなんて…。
 ぼくは色々覚えちゃってて、と零した溜息。「ぼくの考え、間違ってたよ」と。
「そのようだな。…あれこれ夢を見てはいたって、チビはチビだということだ」
 まるで必要無い、家の案内が最初だと頭から考えちまうようでは。…チビならではの発想だな。
 そんなお前の質問ってヤツに、あえて真面目に答えてやるとしたなら、だ…。
 新婚旅行から帰った後に、一番最初にすることは何か、それが知りたいわけだよな…?
 俺が思うに、お前、ペタンと座り込んじまって、何もしようとしないんじゃないか?
 最初も何も…、とハーレイが唇に浮かべている笑み。ちょっぴり悪戯小僧の顔で。
「何もしないって…。なんで?」
 どうしてそういうことになるわけ、新婚旅行から一緒に帰って来たんだよ?
 やっとハーレイと二人で暮らせる家に帰って来られたのに…!
 何もしないなんてこと、絶対に無い、と主張したのに、「そうか?」と腕組みをしたハーレイ。
「俺はそうなると思うがなあ…。まず間違いなく、そのコースだと」
 お前が何もしない理由は、エネルギー切れというヤツだ。
 身体中の力が抜けちまうんだな、家に帰ってホッとしたから、緊張の糸が切れたみたいに。
 小さな子供がよくやるだろうが、何処かへ出掛けて、はしゃぎ過ぎた後に眠っちまうとか。
 それと同じだ、お前の場合は眠る代わりに座り込むんだ。
 新婚旅行ではしゃぎ過ぎちまった分がドカンと来るんだな、と指摘されたら反論出来ない。多分そうなるだろうから。
 自分では注意しているつもりでいたって、新婚旅行の間中、はしゃいでいそうだから。
 宙港から宇宙へ飛び立つ前から、もうワクワクが止まらない筈。結婚式の時から、ずっと。



 きっとそうなっちゃうんだよ、と気付いてしまったエネルギー切れ。
 ハーレイと結婚式を挙げて出掛けた新婚旅行で、青い地球だの、二人きりの時間だのと、存分に味わい過ぎて。来る日も来る日もはしゃぎ続けて、体力も気力も、すっかり限界。
 自分では気付いていなくても。…まだまだ元気は充分にあると思っていても。
 ハーレイの家に着いた途端に、プツンと切れるエネルギー。それこそ床にペタンと座って、もう動けないといった具合で。
「…エネルギー切れって…。じゃあ、それが最初にすることなの?」
 ぼくがハーレイの家で最初にすること、エネルギーが切れて座っちゃうこと…?
 床にペタンと座り込んじゃって、「動けないよ」って情けない声を出すしかないの…?
 悔しいけれど、と認めざるを得ない、エネルギー切れで座り込むこと。きっと自分はそうなった末に、ハーレイの顔を見上げることしか出来ないから。
「そうなるだろうと思うんだが? …流石に床では可哀想だし…」
 ちゃんと椅子には座らせてやる。玄関先でへたり込んだら、リビングとかまで抱えて運んで。
 後は紅茶を淹れてやるとか、疲れが取れそうなホットココアとか…。
 そういう飲み物をお前に渡して、時間によっては俺は飯の支度を始めるってトコか。
 帰りは多分、夜なんだろうが、もっと早い時間に到着する便もあるからなあ…。晩飯は家で、と思って帰って来たなら、手早く何か作らんと。
 お前は座って待ってるだけだな、紅茶やココアを淹れるにしても、飯の支度をする方にしても。
 エネルギー切れが治るまでゆっくり座っていろ、とハーレイは微笑む。最初にすること、これで決まったも同じだろうが、と。
「ハーレイが言うの、当たっていると思うんだけど…。エネルギー切れになりそうだけど…」
 それじゃホントに、役に立たないお嫁さんだよ。
 せっかくハーレイと結婚したのに、最初から座っているだけなんて…。
 ぼくだって、ハーレイに何かしてあげたいよ、と言ったのに…。
「何もしなくていいと何度も言ってるだろうが」
 俺の嫁さんになってくれれば、それだけでいいと。…お前は何もしなくても。
 料理も掃除も俺がするから、お前は威張っていればいいんだ。
 俺の所へ嫁に来てやったと、こうして嫁に来てやったんだし、うんと丁重に扱えとな。



 座り込んだまま動けなくても、座っていられるなら充分だ、とハーレイがパチンと瞑った片目。
 「座れるんなら、まだエネルギーが残っているからな」と。
「そういうことだろ、自分の身体を支える力はあるわけだ。椅子には座れるんだから」
 もっと力が無くなっちまえば、お前は倒れてしまうってわけで…。
 新婚旅行から帰ってくるなり倒れて寝込んじまって、早速スープの出番じゃ困る。
 俺が最初に作ってやる料理が、野菜スープのシャングリラ風になっちまったら。
 料理の腕の揮い甲斐さえ無いだろうが、とハーレイが恐れるエネルギー切れの酷いもの。最悪の場合は、倒れることだって起こり得るから。
「それだと、ぼくも困ってしまうよ…!」
 やっとハーレイと暮らせる家に着いたのに…。座り込むどころか、寝込むだなんて…!
 ハーレイに作って貰うお料理、野菜スープが最初だなんて…!
 そんなの嫌だよ、と身体が震え上がりそう。新婚旅行の素敵な思い出、それがすっかり台無しになってしまいそうだから。…寝込んでしまえば、そうなるのだから。
「俺も勘弁願いたいんだが…。寝込むお前も悲しいだろうが、俺も同じに悲しいからな」
 せっかくお前を嫁に貰って、薔薇色の日々が来たっていうのに、野菜スープを煮込むだなんて。
 そいつは勘弁して欲しいからな、お前がはしゃぎ過ぎないように注意はするが…。
 それでもお前は疲れちまって、エネルギー切れを起こすんだろう。軽く済むよう、祈ってくれ。
 防ぐ方法はそのくらいしか無いってわけだが、お前が疲れちまうとなると…。
 そうだな、俺の車が要るかもしれないな。
 俺の車だ、とハーレイは至って真剣な顔。「アレの出番が来るかもしれん」と。
「車って…?」
 ハーレイの車の出番って、何処で?
 まさか病院に連れて行くわけ、ぼくに注射を打って貰いに…!?
 酷い、と上げてしまった悲鳴。ハーレイの家から近い病院の医師は、注射好きだと聞いたから。問答無用でブスリと注射で、「これで治る」というタイプだと前に聞かされたから。
 新婚旅行から帰った途端にエネルギー切れも嫌だけれども、それを治すのに注射だなんて。
 ハーレイの車に押し込まれた上に、病院へ連れて行かれるなんて…!



 酷すぎるよ、と抗議した車の出番。注射を打たれてしまうよりかは、寝込んだ方がマシだから。最初の食事が野菜スープのシャングリラ風でも、注射を打たれるよりはいいから。
 そうしたら…。
「何を勘違いしているんだか…。お前の注射嫌いくらいは、俺だってよく知っている」
 俺の家での最初の思い出、注射に連れて行かれたことになったら、お前に恨まれちまうしな…。
 いきなり車を出しやしないさ、暫くは様子を見てやるから。…病院は無しで治るかどうか。
 だからだ、俺が言っているのは違う車の使い方だ。
 お前、宙港からの帰り道には、とっくに疲れていそうだし…。
 タクシーの中で俺にもたれて寝るのと、俺の車の助手席で寝るのと、どっちがいい?
 好きに選べよ、と訊かれたこと。新婚旅行に出掛けた帰りに、家までの道をどうするか。
「えーっと…?」
 タクシーの中だと、ハーレイの肩にもたれて寝られるけれど…。
 それは嬉しいけど、タクシーだったら、運転手さんが乗っているよね、運転席に。
 バックミラーで見えてしまうかな、ぼくがハーレイにくっついてるの…。わざわざ見たりはしていなくても、何かのはずみに。
 それって、ちょっぴり恥ずかしいかも…。運転手さんは、お仕事だけど…。
 見られちゃった、って後で真っ赤になるより、ハーレイの車の方がいいかも…。
 ハーレイの肩では寝られないけど、寝ちゃっていたって恥ずかしいことは無いものね…。
 そっちの方がいいのかも、と選びたくなったハーレイの車。新婚旅行から帰る時には。
「ほらな、選びたくなっただろうが。俺の車を」
 新婚旅行に出掛ける時もそうするか?
 タクシーに乗って行くんじゃなくって、最初から俺の運転で。
 そうするんなら、車を宙港まで運んで貰うサービスも要らなくなるからな。
「うん、ハーレイと二人がいいよ」
 ハーレイが運転してくれるんなら、ハーレイと二人で行きたいな…。
 せっかく結婚出来たんだものね、前のぼくたちの話もしたいよ。
 運転手さんには聞こえなくても、タクシーの中では、やっぱり話しにくいから…。



 車を出してくれるんだったら、その方がいい、と頼んだ車。ハーレイの車で出掛ける宙港。
「よし。それなら俺の車の出番だ、俺たちだけのシャングリラのな」
 そいつで出掛けて帰って来るなら、家に着いたらガレージに停めて、荷物を降ろして…。
 おっと、その前に、疲れちまってるお前を家に入れてやらんといけないな。
 荷物は後だな、お前の休憩が先だから。
 ペタンと床に座り込む前に、抱き上げて家に運び込んでだ…。
 お疲れ様、と椅子に座らせてやって、何か飲み物を渡してやって…。
 それをお前が飲んでる間に、俺が荷物を降ろして来る、と。…俺のも、お前の荷物も、全部。
 そんなトコだな、とハーレイが立てている段取り。椅子に座っているだけらしい、自分。
「…ハーレイの家で最初にすること、椅子に座ること?」
 床に座り込む方じゃなくても、やっぱり座ることなんだ…?
 ハーレイに椅子に座らせて貰うのが最初、と尋ねた「一番最初にすること」。ハーレイの家で。
「さっきも言ったろ、そうなっちまいそうな気がしているんだが…」
 それじゃ不満か、最初にすること。もっと劇的な何かを期待してるのか…?
 劇的に倒れるのは無しで頼むぞ、とハーレイに念を押されたから。
「ぼくだって嫌だよ、そんなのは…! それにね…」
 不満じゃないよ、うんと幸せだと思う。座ってることしか出来なくっても。
 此処が今日からぼくの家だよ、って胸が一杯になっちゃって。
 ハーレイが荷物を降ろしている間も、幸せ一杯。…椅子に一人で座っててもね。
 きっと幸せ、と弾けた笑顔。最初にすることは椅子に座っているだけにしても、ハーレイと結婚出来るのだから。ずっと一緒に暮らすのだから。
「なら、決まりだな。…新婚旅行に出掛ける時には俺の車で宙港までだ」
 今の所は、そういうことにしておこう。お前もそうしたいらしいから。
 いつかお前と二人で行こうな、宇宙から地球を見る旅に。
 しかしだ、何処でどう変わるかが分からないから面白いんだぞ、夢ってヤツは。
 今のお前の夢の形が、明日も同じとは限らない。
 もっと大きく育った時には、俺の車よりもタクシーがいいと言い出すってこともあるからな。



 まあ、存分に夢を見ておけ、と言われた新婚旅行のこと。家で最初にすることも。
 けれど、夢なら幾らでもあるし、前の自分の一番大きな夢は必ず叶うから…。
「前のぼくの夢、叶うんだよ。…ハーレイと結婚できるから」
 それに叶ってる夢もあるもの、青い地球に生まれて来ちゃったから。
 まだ宇宙からは見ていないけれど、前のぼくが見たかった地球まで来られちゃったよ。
「ふうむ…。前のお前の大きかった夢が、二つとも叶うというわけか」
 それで今度も欲張るわけだな、あれもこれもと。
 俺と新婚旅行はもちろん、他にも山ほど夢を抱えて。
「そう!」
 夢は沢山持たなくっちゃね、でないと何も叶わないから。…未来もちっぽけになっちゃうから。
 今度のぼくも欲張りだよ、と欲張り自慢。夢は本当に山ほどだから。
「いいさ、お前の夢なら全部叶えてやるから」
 どれも端から、と請け合ってくれた、頼もしい恋人。優しいハーレイ。
「…ハーレイの夢は?」
 ハーレイも夢を持っているでしょ、どんな夢なの?
「俺の夢か? そいつはお前と一緒に叶えていくんだ、これからな」
 なにしろ今度は、前の俺の夢も叶うんだから。お前と結婚出来たらな。
 前の俺の一番の夢だった、とハーレイの夢も結婚すること。白いシャングリラで生きた頃から。あの船で地球を夢見た頃から。
「そうだよね…!」
 ハーレイの夢もおんなじだったよね、前のぼくのと。
 いつか地球まで辿り着いたら、きっと結婚出来るんだから、って…。



 同じだったね、と思う前の自分とハーレイの夢。いつか結婚するということ。地球に行くこと。
 夢は大きく持たなければ、と改めて思う。
 前の自分の大きな夢が叶うのだから、今度も沢山、幾つもの夢を。
 前よりはささやかな夢だけれども、持っていればきっと、夢は叶うと知っているから。
 最初の夢は、ハーレイと結婚式を挙げて新婚旅行に行くこと。
 宇宙から青い地球を眺めて、旅を終えたら、ハーレイの家に二人で帰ってゆくこと。
 それから二人で暮らし始めて、幾つもの夢を叶えてゆく。
 前の自分だった時からの夢も、今の自分が持っている夢も。
 ハーレイは全部叶えてくれるし、ハーレイの夢も二人で全部叶えてゆけるから。
 今度は二人で生きてゆけるから、どんな夢でも、青い地球なら何もかも叶う筈なのだから…。




               夢は大きく・了


※夢は大きく持つべきだ、という記事を読んだブルー。前の生での夢なら、大きなもの。
 けれど今度は、前に比べると小さな夢ばかり。それでも夢は幾つも持って、二人で叶えて…。
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(ふふっ、お休み…)
 今日は土曜日、と目覚めたブルー。自分の部屋のベッドの上で。
 休みなんだ、と思った途端に幸せな気分。「ハーレイが来てくれるんだよ」と。仕事が何も無い週末なら、午前中から来てくれるハーレイ。いつの間にか出来た約束事。
 カーテンの隙間から射し込む光で、いい天気だと分かる朝。こういう日には、歩いてやって来るハーレイ。何ブロックも離れた所に家があるのに、楽々と。
(回り道までしちゃうんだから…)
 早すぎる時間に着きそうだったら、遠回りをするのが常らしい。「お母さんに悪いしな?」と。両親は「よろしかったら、朝食も」と言うのだけれども、ハーレイは来てはくれない朝食。
(たまには一緒に食べてくれてもいいのにね?)
 朝御飯も、と考えたって、ハーレイの流儀なら仕方ない。その内に来てくれるのだから、と顔を洗って着替えて朝食。キツネ色のトーストを齧る間も心が弾む。もうすぐ会える筈の恋人。
 食べ終わったら部屋の掃除で、そちらの方も張り切った。いつもハーレイと使うテーブルの上を綺麗に拭いて、椅子の置き場所も整えて。
(これで良し、っと!)
 後はハーレイの到着を待つばかり。この時間なら、とっくに家を出ているだろう。どの辺りまで歩いて来たのか、それとも回り道しているか。
(今日はミーシャの家かもね?)
 自分は見たことが無いのだけれども、真っ白な猫が日向ぼっこをしている家があるらしい。此処まで歩く途中の道に。何通りもあるルートの一つで、ハーレイのお気に入りの場所。
 ハーレイが子供だった頃には、家に本物のミーシャがいたから。ハーレイの母が飼っていた猫。甘えん坊だった白いミーシャの写真を前に見せて貰った。
(ミーシャにそっくりの猫に会えたら、楽しいものね?)
 きっとハーレイは声を掛けてやって、撫でてやったりもするのだろう。何度も顔を合わせる間にすっかりお馴染み、ミーシャの方でも「来ないかな?」と待っていたりして。
 「お休みの日には通る人だ」と、「今日も通ってくれないかな?」などと。



 そう、今日は休みで午前中からハーレイが家に来てくれる。用があるとは聞いていないし、母に通信も来なかったから。「明日は伺えません」という悲しい通信。
(ハーレイに用事が無くて良かった…)
 ホントに良かった、と心から思う。学校の用事や、柔道部の生徒たちとの行事。そういう予定が入った時には、ハーレイは来てはくれないから。
 ハーレイに何も用事が無ければ、週末は此処で一緒に過ごせる。土曜日も、それに日曜だって。明日も予定は入っていない筈だから…。
(二日も一緒!)
 午前中から二人一緒で、夕食の後のお茶が済むまでハーレイと二人。夕食は両親も一緒の席で、食後のお茶も両親つきになることだってあるけれど。
 それでも朝から晩までハーレイと一緒、幸せな日が二日も続く。今日と明日との二日間。二日も続けて休みなのだし、どうせなら泊まって欲しいけれども…。
(ママたちに頼めば、きっと大丈夫だと思うんだけどな…)
 来客用のゲストルームもあるから、両親も歓迎だと思う。ハーレイはすっかり家族の一員、平日だって仕事の帰りに寄ってくれたら一緒に夕食。お客様用の御馳走ではない普段の料理で。
(ハーレイ専用の御飯茶碗とお箸が無いだけ…)
 そんなハーレイが泊まるとなったら、大歓迎だろう父と母。「ごゆっくりどうぞ」と、お風呂も一番に入って貰ったりもして。
 そうは思っても、ハーレイが断るに決まっているから、頼むだけ無駄。「泊まりに来てよ」と。
 誘ってみたって、断られるだけ。「お母さんたちに迷惑かけられないしな?」と、やんわりと。
(でも、今日は夜までゆっくりで…)
 土曜日なのだし、ハーレイが帰る時間も遅め。平日の夜に比べたら。
 明日は日曜、今日と同じで午前中からハーレイと一緒。夕食の後のお茶が済むまで。
 ハーレイが泊まりに来てくれなくても、それで充分。会えて、二人で過ごせるなら。ハーレイに用事が入っていなくて、二日も続けて会えるのならば。
(泊まりに来て、っていうのは無理でも…)
 幸せ一杯の週末になる。今日に続けて、明日もハーレイに会えるのだから。



 土曜と日曜、学校に行かなくてもいい日。時間を好きに使える週末。
(ぼくだって用事、作らないから…)
 友達と遊びに出掛けてゆくより、断然、家で過ごすのがいい。ハーレイが家に来てくれるなら。駄目だと分かっている時だったら、友達と遊びもするけれど。
 そうでない時は、土曜も日曜もハーレイと一緒。午前中から夜になるまで、ずっと。
(週末があって良かったよね)
 ハーレイと二人で過ごせる週末。それにハーレイは学校の先生、その点でもとてもツイている。自分と同じで、週末は休みになるのだから。
(パパの仕事も…)
 週末が休みになっているけれど、違う仕事も色々ある。週末も開いている店などだったら、働く人の休みは違う日。スポーツ選手なんかも同じ。週末も試合が当たり前のようにあるのだから。
(ハーレイがプロの選手になっていなくて良かった…)
 柔道と水泳、どちらもプロの選手になれた筈のハーレイ。プロの選手になっていたなら、今日も試合があったかもしれない。週末に人気のスポーツ観戦、出掛ける友達も多いから。
 もしもハーレイがプロの選手だったら、二人で過ごせはしない週末。ハーレイは試合で、自分は観戦しているだけ。他の地域や他所の星での試合だったら、観戦すらも出来ない始末。
 そうならなくてホントに良かった、と思った所で気が付いた。
(今のハーレイは、土曜と日曜がお休みだけど…)
 教師ではなかった前のハーレイ、キャプテンの休日はいつだったっけ、と。
 前の自分と恋をしていたキャプテン・ハーレイ。きっと休日は二人で過ごしていたのだろうに、思い出せない休日のこと。それが何曜日だったのか。
(土曜と日曜…?)
 休日といえば直ぐに浮かぶのが週末だけれど、そんな筈はなかったと思う。週末以外の曜日だとしても、キャプテンは連休などは取れない。…多分。
(シャングリラは毎日、飛んでたんだし…)
 降りる地面を持たなかった船、前の自分が生きていたのはそういう船。けして休みはしない船。漆黒の宇宙を飛んでいた時も、アルテメシアに着いた後にもシャングリラは停まりはしなかった。
 白い鯨への改造のために惑星に降りても、動き続けていたエンジン。でないと酸素や水の供給、照明などの設備も止まってしまうから。



 船に休みが無いのだったら、キャプテンの方も二日続けて休むことなど出来そうにない。休みの間も船は休まず動き続けて、刻一刻と状況が変わってゆくのだから。
 宇宙でも、アルテメシアの雲の中でも、事情は同じ。キャプテンの指示が必要な場面の方でも、時を選びはしないから。いつ呼び出しがかかったとしても、走ってゆかねばならないキャプテン。
 前のハーレイはそういう仕事で、取れそうにないと思う連休。それが週末でなくたって。
(それとも、取れた…?)
 ブリッジの仲間が頑張っていたら、キャプテンも休めたかもしれない。急な呼び出しがあったとしたって、基本は休みになる二日間。週末だとか、ブリッジの他の仲間とずらして平日だとか。
 どうだったろう、と考えてみても思い出せないキャプテンの休み。
 その上、前の自分にしても…。
(土曜と日曜、お休みだった?)
 ソルジャー・ブルーと呼ばれた自分。シャングリラで一番偉い立場で、ミュウたちの長。
 そのソルジャーに休みがあったという覚えがない。この曜日、と決まっていた休み。此処は必ず休みだから、と自分でも承知していた休日。週末にしても、平日にしても。
 どうにも思い出せない休日、曜日も、それに連休が取れていたかも分からない。もしかしたら、休みは無かったろうか。前のハーレイが休めなかったように、ソルジャーだって。
(ソルジャーもキャプテンと同じだったかもしれないけれど…)
 それにしたって、休みがまるで無いというのもどうだろう。今の時代は、誰でも持っているのが休日。幼稚園にも休みはあったし、休日は多分、欠かせないもの。どんな仕事でも。
(いくらソルジャーでも、休みが無いってことなんか…)
 あったのかな、と頭を悩ませていたら、ハーレイが訪ねて来てくれた。思った通りに、青い空の下をのんびり歩いて。
 回り道して、ミーシャとも遊んで来たらしい。家の表で日向ぼっこをしていたから。
 ついでに朝にはジョギングまで。早い時間に目が覚めたからと走りに出掛けて、足の向くままに公園などを。まだ土曜日の午前中なのに、休日を満喫しているハーレイ。
 そうとなったら、やはり訊かねばならないだろう。前の自分たちの休日のことを。



 まずは質問、とテーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。鳶色の瞳の恋人に。
「あのね、ハーレイは今日、お休みだよね?」
 土曜日だから仕事はお休み。何も用事が入ってなければ、ハーレイが好きに使える日でしょ?
「そうでなければ、俺は此処にはいないんだが?」
 お前だって今日は休みだろうが、と当然のように返った答え。「学校は週末は休みだしな」と。
「それなんだけど…。ハーレイに訊いてみたくって…」
 前のハーレイ、お休みはいつ?
「はあ?」
 休みってなんだ、キャプテン・ハーレイだった頃の俺の休みを言っているのか…?
 仕事が休みになる日のことか、と質問の意図は通じたらしい。訊きたいことはそれだから。
「うん、キャプテンのお休みのこと。土曜と日曜じゃなかっただろうと思うんだけど…」
 週末がお休みってことはないよね、と確認してみた。そういう記憶は自分には無い。
「違うだろうな、キャプテンは週末は休みじゃなかった」
「やっぱりそう? それでね、ぼくのお休みも思い出せなくて…」
 ハーレイ、覚えているのかな…。それを訊こうと思ったんだよね、気になったから。
「訊きたいって何だ、お前は何が気になってるんだ?」
 俺で分かるなら教えてやるが、とハーレイは怪訝そうな顔。「休みがどうかしたのか?」と。
「お休みだってば、前のぼくたちの。…今は土曜と日曜がお休みだけど…」
 ぼくもハーレイも、週末が休みになっているけど、前のぼくたちはどうだったかな、って。
 いつだったのかが思い出せなくて、朝から考えていたんだよ。
 前のハーレイのお休みの日と、前のぼくの休み。…今はお休み、誰でもあるでしょ?
 シャングリラでも、きっとあっただろうし…。
 何曜日だったか、ハーレイ、覚えていないかな…?
 覚えてるんなら教えてよ、と頼んでみたのに、ハーレイの方は「おいおいおい…」と呆れ顔。
 「前の俺たちの休みだって?」と。
 「ソルジャー・ブルーと、キャプテン・ハーレイの休みだよな?」と、念まで押して。



 答えを教えてくれる代わりに、「大丈夫か?」と覗き込まれた顔。正気を疑うかのように。
「お前、寝ぼけていないだろうな? 俺が此処に来る少し前まで寝ていただとか…」
 寝ぼけてるんなら、その質問でも俺は全く気にしないがな。
 休みはいつかと尋ねられても、前のお前はソルジャーだったし、俺はキャプテンだったんだが?
 忘れてるわけじゃないだろうな、と出された前の自分の肩書き。ハーレイの分も。
「それがどうかした? 忘れるわけがないと思うけど?」
 ぼくは寝ぼけてなんかいないよ、ちゃんと起きたから気になって訊いているんだってば。
 朝、起きた時に、「今日は土曜日でお休みだよね」って、とても嬉しくなったから…。
 土曜と日曜はハーレイに用事が入らなかったら、絶対に会える日なんだもの。
 幸せだよね、って考えてる内に、シャングリラにいた頃のお休み、気になっちゃって…。
 そのお休みが思い出せないから訊いてるんだよ、と重ねて尋ねた。「お休みはいつ?」と。
「お前なあ…。全く分かっていないようだな、なら訊くが…」
 ノルディの休日、いつだったのかを覚えているか?
 答えてみろ、とハーレイにぶつけられた問い。今の話とは、まるで関係無さそうなのを。
「え? ノルディって…?」
「ノルディと言ったら、ドクター・ノルディだ。病院にも休みはあるだろう?」
 今のお前が世話になってる、近所の病院なんかでも。診察は無しで、閉まっている日が。
「あるけれど…。今日は土曜だから午前中だけで、日曜日は休み」
 後は、木曜日もお休みかも…。急患だったら、先生がいたら診てくれるけど。
 そうだったと思う、と思い浮かべた診察券。裏に休日や診療時間が書いてあるから。
「俺の近所の病院もそんな具合だが…。シャングリラって船はどうだった?」
 ノルディはメディカル・ルームにいたわけなんだが、あそこに休みはあったのか?
 今の俺たちの言葉で言うなら休診日だな、と訊かれた休み。
 白いシャングリラにあったメディカル・ルーム。其処が閉まっていた日はいつだ、と。
「えーっと…?」
 お休みの日だよね、メディカル・ルームの…?
 すっかり閉まって急患だけしか診ない時とか、午後は閉まっていた日とか…?



 思い出そうとしたのだけれども、今の自分が行く病院とはまるで違ったメディカル・ルーム。
 シャングリラの病院と言えば病院、けれど無かった診察券。船の顔ぶれは誰もが承知で、顔さえ見れば誰だか分かる。診察券を持って出掛けなくても、診て貰えたのがメディカル・ルーム。
(診察券があったら、お休みの日が書いてあるけれど…)
 大抵の病院はそういう仕組み。規模の大きな病院だったら、診察券の裏に書かずに分かりやすい場所にプレートがある。玄関の脇や、診察室の前などに。診療科目が沢山あるから。
(眼科は休みでも、内科は診察してるとか…)
 大病院なら珍しくない、診療科によって異なる休み。だからプレート、「此処が休み」と。
 けれどシャングリラの病院の方は、プレートも出されていなかった。自分の記憶にある限りは。
 お蔭で掴めない手掛かり。メディカル・ルームが休みだった日を問われても。
「…いつがお休みだったっけ?」
 覚えていないよ、診察券が無かったから…。お休みの日を書いたプレートも無かったから。
 思い出せなくても仕方ないでしょ、と開き直ったら、ハーレイが浮かべた苦笑い。
「寝ぼけてるんだか、そうじゃないんだか…。まったく、今日のお前ときたら…」
 メディカル・ルームに休みなんかがあるわけないだろ、あそこは年中無休だったろうが。
 病人と怪我人、いつ来るか分からないからな。
 他に病院があるならともかく、シャングリラにはメディカル・ルームしか無かったんだから。
 最初に医務室が出来た頃には、ノルディが一人で寝泊まりしていたぞ、と言われればそう。
 白い鯨になる前の船で、ノルディが医務室を開設した時。
 ノルディは独学で医者になったし、初期のシャングリラでは一人きりの医者。ヒルマンも医者の真似事くらいは出来たけれども、ノルディの腕には及ばなかった。
 そんな船だから、ノルディの助手たちが育つまでの間は、ノルディの住まいは医務室そのもの。
 頼りになる助手たちが立派に育った後にも、ノルディはいつも…。
「…メディカル・ルームにいたんだっけ…。昼間はずっと」
 あそこに住んではいなかったけれど、直ぐ側の部屋で暮らしてたよね。
 誰か病気になった時には、駆け付けないと駄目だから…。助手や看護師に呼ばれたら。
 ノルディのお休み、無かったかも…。
 メディカル・ルームに休みが無いなら、ノルディが休める日だって無いよね…。



 今日は休み、と閉めるわけにはいかなかったのがメディカル・ルーム。その前身の医務室も。
 病院が幾つもあるのだったら、閉めても問題無いけれど。…患者は他の病院に行くし、急ぐなら救急病院もある。年中無休で二十四時間、医師が詰めている救急病院。
 メディカル・ルームはそれと似たようなもので、違いは医師が一人だったこと。ノルディだけが医者で、他は看護師と助手ばかり。つまりノルディには無かった休み。
「ほら見ろ、ノルディですらもそうだったんだ」
 休み無しだぞ、年中無休で。…週末どころか、平日も休みじゃなかったってな。
 シャングリラはそういう船だったんだし、ソルジャーとキャプテンに休みがあると思うのか?
 もっともお前は、白い鯨が出来上がってからは暇そうだったが…。
 物資を奪いに行く必要が無くなったせいで、暇を持て余しては子供たちと遊んでいたんだが…。
 俺はそれまでよりも忙しくなったぞ、船が大きくなった分だけ。
 おまけに自給自足の世界だ、船で全てを賄う以上は、キャプテンの仕事も増えるってな。報告が次々上がってくる上、目を配らないといけない場所もドカンと増えたんだから。
 目の回るような忙しさだった、とハーレイは両手を広げてみせた。
 「キャプテンだって年中無休だ」と、「メディカル・ルームと同じだよな」と。
 やはり無かったキャプテンの休み。前の自分もそうらしいけれど、本当にそうだっただろうか?
「前のぼくたち、お休みの日は無かったんだ…。だけど、ホントにそうだった?」
 シャングリラって、お休みが無い船じゃなかったように思うんだけど…。
 船のみんなが年中無休で、ずっと働いてたわけじゃないような気がするんだけれど…。
「当然だろうが、あの船にだって休みはあった。でないと疲れてしまうからな」
 毎日が同じような船でも、メリハリってヤツは必要だ。
 いつでも全力で走っていたんじゃ、ここぞという時に走れやしない。力を発揮出来ないんだ。
 それに何処かで休憩しないと、走り続けることも出来ない。…すっかり力を使い果たして。
 船の仲間たちがそれじゃ困るし、全力の時と休む時とを作ってやった方がいい。
 あれはヒルマンが言い出したんだったか…。
 シャングリラにも、平日と休日を作るべきだと。白い鯨じゃなかった頃にな。
 お前だって、まだリーダーだった頃の話だぞ。ソルジャーじゃなくて。
 俺も厨房担当だったな、キャプテンになっちゃいなかった。そんな話も無かったんじゃないか?



 船であの話が出て来た時は…、というハーレイの言葉で蘇った記憶。「そうだったっけ」と。
 アルタミラから脱出した後、名前だけがシャングリラだった船。もう人類のものではないから、新しい名前の船にしようと皆で名付けた。
 船の名前を変えるほどだし、各自の持ち場も出来ていた頃。前のハーレイならば厨房、ゼルならブリッジといった具合に。
 持ち場があるなら仕事も当然あるのだけれども、まだ平日も休日も無かった船。予定表が食堂の壁に貼られていただけ。カレンダーの形で、主な予定を書き込むものが。
 そんな日々の中、ある日、夕食後にヒルマンがそれを指差した。
「あのカレンダーを、もっと生かすべきだと思うんだがね。…せっかく貼ってあるのだから」
 予定を書き込むだけではなくて、と言うから、ブラウが首を傾げた。
「生かすって、何のことなのさ?」
 もう充分に生かしているだろ、みんなの予定がビッシリじゃないか。けっこう先の方までね。
「書くスペースのことではなくて…。曜日の方だよ、カレンダーには曜日がつきものだ」
 日曜日を是非、生かしたい。それに土曜日もだね、この二つだ。
 カレンダーというものがあるからにはね、とヒルマンが挙げた日曜と土曜。続きに並んだ曜日というだけ、他には何ということもない。
「日曜に土曜? 何の意味があるというんだ、それに?」
 ただの曜日の呼び名だろうが、と若かったゼルも訝しがった。「あれが何だと?」と。
「休日だよ。…日曜日は本来、休むためにあったものらしい」
 世界を創った神様も日曜は休んだと伝えられている。神様さえも休んだくらいだ、人間も日曜は休まないとね。ずっと昔は、日曜は仕事をしない決まりもあったそうだよ。
 日曜日に働くことは悪いことだったのだ、という話に皆が驚いた。働くことが悪いなんて、と。
「へえ…? いいことのように思うけどねえ…」
 働くことは、とブラウが言ったけれども、ヒルマンは「そうでもないだろう」と返した。
「人類の世界でも、日曜は休みが基本のようだ。…仕事によって変わりはしても」
 この船でも取り入れるべきだと思うよ、日曜日は休むという習慣を。
 ああしてカレンダーもあるから、じきに定着するだろう。
 そうすればこの船も変わると思うね、いい方向へと劇的に。



 きっと変身する筈だ、とヒルマンが提案した休日。カレンダーの通りに休むこと。日曜日には。更に日曜日の前の土曜日、その日も出来れば休むべき。一日は無理なら、午後だけでも。
 そのようにすれば船は変わる、というものだから、ブラウが飛ばした質問。
「どう変わるって言うんだい? 休日ってのを船で作ったら?」
 まさか神様が褒めてくれるわけでもないだろうに、と茶化すのもブラウは忘れなかった。ずっと昔は、日曜日は仕事をしないことが正しかったのだから。
「簡単なことだよ。休みを作れば、その日を励みに頑張れる。どんな仕事でもね」
 もうすぐ休みが貰えるんだから、と思えば辛い仕事でも軽くなるだろう?
 今のこの船では、疲れが溜まって来たら、自分の判断で休む形になっているんだが…。
 そうなる前に、休みの日を決めておけばいい。休む日が初めから決まっていたなら、力の配分も楽になる筈だよ。じきに休みだ、と頑張るのも良し、まだ先だからと無理をしないのも良し、だ。
 いい方法だと思うのだがね、というヒルマンの案に皆が頷いた。
「なるほどなあ…!」
 そいつは俺も賛成だ。同じ仕事なら、自分の力に合わせてやるのが効率的だしな。
 いいじゃないか、とゼルが真っ先に高く挙げた手。他の仲間も賛成する中、決まった休み。
 まだ重要な役職も無かった時代だったし、日曜日は大抵の者が休みになった船。土曜日も殆どの者が休みで、午後だけ休む者たちも。
 日曜日は大切な休日だから、と休むためのシフトも組まれたほど。同じ持ち場でも交代で休み、仕事への英気を養うために。
「しかしだな…。俺がキャプテンになった頃から、風向きがだ…」
 変わっていったぞ、「休める時に休め」という風に。
 ノルディは一人で医者の仕事を頑張っていたし、俺もノルディを見習ったし…。
 休まないのが偉い、といった雰囲気になりかかったんだ、船全体が。
 俺やノルディはともかくとして、休める立場にいた連中まで休まないのはマズイだろうが。
 休み無しだと、ブッ倒れるヤツも出て来るからなあ…。頑張りすぎて、限界を越えて。
 それでは皆が倒れてしまうし、そうなったら船の暮らしにも響いてきちまうから…。
 なんとかして休ませないと駄目だろ、頑張りすぎてる連中を。
 休んでも問題がない仕事のヤツらは、決めた通りに日曜日はキッチリ休むってことで。



 それでだな…、とハーレイの話は続いた。日曜日はきちんと休む習慣、それを取り戻そうとしたシャングリラ。皆が頑張り続けたままだと、いつか倒れる時が来るから。
「お前は物資の調達の都合で、休めない時もあるもんだから…」
 ヒルマンたちが休みを取ったんだ。ヒルマンとゼルとブラウとエラ。あの四人がな。
 まだ長老にはなってなかったが、船じゃリーダー格だったから…。
 日曜は休む、と四人で宣言したってわけだ。緊急の仕事以外は一切受け付けない、と。
 あいつらが完全に休むとなったら、連絡が必須の仕事をやっても意味なんか全く無いだろう?
 お蔭でまた日曜日が復活したんだ、シャングリラにな。
 それからはずっと日曜日があったし、土曜日も半日休むヤツらが多かった、という懐かしい船の思い出話。一度は消えて、また復活した日曜日。それに土曜日も。
「あったね、そういう事件もね…。せっかく作った日曜日が消えてしまったこと」
 本当に消えて無くなる前に、ちゃんと戻って来たけれど…。ヒルマンたちの作戦のお蔭で。
 だけど、前のハーレイと、前のぼくとは…。
 あれから後もお休みは無しで、日曜日も土曜日も無くて…。
 他の曜日も決まった休みは無かったっけ、と蘇った前の自分の記憶。週末は休みだった船でも、休みが無かったソルジャー・ブルー。それにキャプテン・ハーレイだって。
「俺たちだけじゃないぞ、ノルディもだからな。其処の所を忘れてやるなよ」
 その代わり、いつでも休めるという特権も持っていたっけな。日曜だろうが、平日だろうが。
 日頃、仕事を頑張っているから、此処で休ませて欲しい、と言えば休みが取れたんだ。
 もっとも、俺は殆ど使っていなかったが…。
 キャプテンの役目ってヤツを思えば、そうそう休んでいられやしない。
 俺の指示が無いと全く進まないことや、始められさえしない仕事が山のようにあった船だから。白い鯨になった後には、そいつがドカンと増えたってわけで…。
「覚えてるよ、ハーレイが頑張ってたこと」
 仲間たちが色々尋ねるんだものね、ハーレイに。「これをやってもいいでしょうか」って。
 ハーレイがブリッジで仕事してても、別の場所から呼ばれたり…。
 その度に走って行っていたものね、やってた仕事をキリのいい所までやって。
 「直ぐに行くから、ちょっと待ってろ」って、どんな時でも。



 前のハーレイはそうだった、と忙しかったキャプテンの姿を思い出す。まるで無かった、日曜と土曜。殆どの者たちが休んでいたって、仕事をしていた仲間がいたから。週末だって。
 シャングリラが宇宙を、雲の海の中を飛んでいる限り、キャプテンの仕事に終わりは無い。船と一緒に生きるのがキャプテン、船の全てを掴んでいないと話になりはしないから。
「前のハーレイ、決まった休みは無かったけれど…」
 特別に取れる休みも滅多に使ってないけど、前のぼくだって使っていないよ。
 白い鯨になった後には暇だったから、お休みみたいなものだったかもしれないけれど…。
 改造前の船だった頃も、お休みは使っていないんだよ。…ハーレイが頑張っていたんだもの。
 ハーレイをキャプテンにしたのは、前のぼくだったんだし…。
 キャプテンが休んでいないんだったら、ぼくだけ休むのは悪いような気がしてたから…。
 でも、寝込んじゃったら、お休みと一緒…。
 白い鯨じゃなかった船でも、前のぼく、休んじゃってたね、と肩を竦めた。今と同じに弱かった前の自分の身体。弱い身体は、休み無しだと悲鳴を上げてしまうから。
 そうなった時はベッドで休んでいるしかなくて、休暇ではなくても事実上の休み。ソルジャーにしか出来ない仕事は少なかったけれど、休んだことには変わりはない。
 たとえ仕事が無かった日でも。…船の中をウロウロ歩いてみたって、手伝う仕事も見付からないような日曜日や暇な日だったとしても。
「前のお前は休んでたっけな、休むつもりがまるで無くても」
 寝込んじまったら、自動的に休みになっちまうから。…ソルジャーでも、それにリーダーでも。
 前の俺もそういう休みだけだな、ノルディもだが。
 いくら頑丈でも、俺も人間には違いない。…たまにはダウンしちまうこともあるってな。
 ゼルやブラウには「鬼の霍乱」と言われたもんだが、と笑うハーレイ。
 実際、前のハーレイが寝込んでしまったことなど、滅多に無かった。
 寝込むと言うより、大事を取っての早めの休み。
 キャプテンの仕事に判断ミスは許されないから、疲れが溜まった時などに。
「…ハーレイ、寝込んでいないよね…」
 前のぼくみたいに、ホントに動けなくなっちゃうような形では。
 部屋のベッドで寝てたってだけで、ちゃんと自分で食事もしてたし、休みも一日程度だから。



 凄かったよね、と感心してしまう前のハーレイのこと。週末どころか、決まった休みも取りさえしないで働き続けたキャプテン・ハーレイ。
「俺も改めて考えてみると、凄い働きぶりだったんだな…」
 我ながらよく頑張ったもんだ、休みも無しで。…週末は全く無かった上に、他の日にも決まった休みは貰っていなかったわけで…。
 前のお前もそうだったんだな、病気で寝込んだ時くらいしか休みは無しだ。
 とはいえ、お前は、白い鯨じゃ暇だったんだが。
 物資を奪いに出掛けなくても、何もかも船で賄えていたし…。大抵は暇そうだったよな。
 ミュウの子供を助け出す時は、お前の出番だったんだが…。
 あれにしたって、救出班が出来た後には、お前はサポート役だったから。…それと情報収集と。
 毎日が休みみたいなモンだな、とハーレイが言うのは当たっている。白いシャングリラに思念の糸を張っていたって、それの出番も殆ど無かった。船の中は平和だったから。
「…ぼくはのんびり過ごしていたけど、ハーレイは忙しかったじゃない」
 シャングリラを改造しちゃった後には仕事が増えた、ってハーレイも自分で言ってたものね。
 船が大きいと仕事も増えるし、仲間の数も増えていったから…。
 アルテメシアに着いた途端に、ミュウの子供たちが船に来るようになったから。
 最初の間は、キャプテンが子守りもしていたでしょ、と今の自分も覚えていること。養育部門を立ち上げる前は、キャプテン自ら子供たちの相手を務めたりもした。
 他にも仕事があったのに。
 子供たちの相手に時間を割いたら、その分、ハーレイが使える時間が減ってゆくのに。
「まあな、色々やったよなあ…」
 あれも仕事だと思っていたから、子守りもやっていたんだが…。
 子供と言っても、シャングリラに乗って来たってことはだ、立派な乗組員なんだ。
 キャプテンが世話をしないでどうする、知らん顔など出来ないぞ…?
 どんな船でも、キャプテンって仕事は、船に乗ってる全員の面倒を見るモンだからな。
「そうなんだけど…。でも、ハーレイは凄すぎたよ」
 お休みも無しで頑張り続けて、それで倒れもしなかったなんて。
 ちょっと疲れたら早めに休んで、ベッドで一日寝ていた後には、仕事に戻っていたなんて…。



 ホントに凄すぎ、と前のハーレイを手放しで褒めた。休み無しで働いたキャプテン・ハーレイ、疲れた時にも少し休んだらブリッジに戻ったキャプテンを。
「ハーレイのお休み、前はホントに無かったんだね…。船のみんなは休んでたのに」
 シャングリラでも週末はお休み、って決まっていたのに、前のハーレイにはお休みは無し…。
 そんなのでよく頑張れたよね、と考えるほどに偉大なキャプテン・ハーレイ。同じように休みが無かった前の自分は、寝込んで休みを取っていたのに。
「あれを思うと今は天国だな、土曜も日曜もあるってな。…カレンダーの通りに」
 ついでに俺は教師だからなあ、夏休みとかもあると来たもんだ。春と夏と冬に長い休みを貰えるわけだな、他の仕事の連中よりも。
「そうだね、先生も夏休みとかは休みだもんね…」
 今のハーレイ、お休みが無くなったら困る?
 夏休みとかは例外にしても、土曜日と、それに日曜日。…どっちも休みじゃなくなったら。
「当たり前だろう、俺も人間だぞ?」
 休み無しの生活なんぞは考えられんな、前の俺だって休みは取っていたんだから。
 傍目には休み無しに見えても、俺自身もそう思っていても。…きっと何処かで、きちんとな。
 だからだ、今の俺だって休みが消えたら困る。休みは無しで頑張ってくれ、と言われたら。
 そいつは断固、御免蒙る、とハーレイは休みが欲しいらしい。今は休みの週末の日々が。
「…プロのスポーツ選手だったら?」
 今のハーレイ、そういう話も来ていたんでしょ?
 プロの選手は日曜日だって試合をしてるよ、お休みの日が無さそうだけど…。
 試合が無い日も練習だものね、プロはそういうものだ、って…。
 練習しないと身体が駄目になるんでしょ、と尋ねたら「そうなんだが…」とハーレイは笑う。
「そうは言っても、プロのスポーツ選手にしたって、休みはちゃんとあるもんだ」
 体力が落ちてしまわないよう、自主的に練習したりはするがな。
 今の俺がジョギングしているみたいに、身体を保つための運動。休みの日にはその程度だ。
 休み無しの仕事なんかは無いだろうなあ、宇宙の何処を探しても。
 人間、何処かで休まないことには、力を保てやしないから。



 前の俺だって、何処かで休んだ筈なんだ、というのが今のハーレイの話。休み無しで働き続けたキャプテン・ハーレイ、そう見えていた前のハーレイも休んだだろう、と。
「前の俺たちが生きた時代でも、休み無しの仕事なんていうのは…」
 無かっただろうな、人類どもの世界にしても。
 ミュウとの戦いが始まってからの人類軍の連中くらいか、休みが無かった人間と言えば。
 それでも休んでいたとは思うが…。移動の途中の船とかではな。
 なんと言っても、ミュウの方でも休んでいたんだ、あの時だって。
 週末の休みは何処かへ消えてしまっていたがだ、シャングリラにも休みはあったんだぞ。
 ジョミーは見て見ぬふりをしていたっけな、とハーレイが言うものだから。
「…本当に?」
 人類と戦っていた最中でも、シャングリラにお休み、ちゃんとあったの…?
「前に言ったろ、買い物に出掛けたヤツらもいたって話。人類の住む星を落とした時は」
 船のヤツらに、ちゃんと休みは取らせてた。もちろん、トォニィたちにもな。
 土曜や日曜が駄目だった時は、他の曜日に代休だとか…。
 星を落としたら、其処で休みにするだとか。そんな具合で、休みにしたんだ。
 船の連中の休みを確保するのも、キャプテンの大切な仕事だろうが、と微笑むハーレイ。休みが無ければ、人は疲れてしまうから。
「そっか…。お休みって、とても大切なんだね」
 人類軍との戦いの中でも、ハーレイが休みを作ってたなら…。船のみんなを休ませたのなら。
 ハーレイはお休み無しのままでも、船の仲間には、きちんとお休み。
「俺も改めて実感したぞ。…休みってヤツの大切さをな」
 今の俺だと、前の俺の一生分を休んでしまったかもなあ、とうの昔に。…もしかしたら。
 週末は大抵休みなんだし、他の仕事には無い夏休みや春休みまであるんだから。
 ちょいと休みを取り過ぎだろうか、とハーレイは苦笑するけれど。
「いいじゃない、今度は沢山お休み」
 前のハーレイが頑張った分までお休みなんだよ、今のハーレイは。
 これからもお休みは沢山あるでしょ、夏休みも、春休みも、冬休みだって。
 ハーレイ、先生なんだから。



 結婚したら、お休みには旅行に行ったりしようね、と強請ってみた。前の自分たちには、旅行は出来なかったから。船で宇宙を旅しただけで。
「いろんな所に行けると思うよ、ハーレイのお休み、長いんだから」
 夏休みが一番長いけれども、他にもお休み、沢山あるしね。
「もちろんだ。まだまだ沢山休めるからなあ、今の俺はな。キャプテンだった頃と違って」
 お前と二人で、あちこち出掛けて行かないと…、とハーレイがパチンと瞑った片目。
 「今度こそ地球で、前の俺たちの沢山の夢を叶えよう」と。
 前の自分たちが行きたかった場所は山ほどあるから、其処へ二人で出掛けてゆこうと。
 キャプテンだった前のハーレイに休日は無かったけれども、今度は沢山ある休み。
 前のハーレイの分まで楽しんで貰おう、そして自分も楽しもう。今のハーレイが貰える休みを。
 土曜も日曜も、他の休みも。一番長くなる休みの夏休みも。
 今のハーレイは、もうキャプテンではないのだから。
 ただの教師で、土曜と日曜は休みになるのが当たり前の暮らしなのだから…。




             無かった休日・了


※前のブルーとハーレイには、決まった休日が無かったのです。立場上、仕方ないですが。
 けれどシャングリラの仲間たちには、ちゃんと休日がありました。土曜と日曜は、休みの日。
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(うーん…)
 ちょっぴり熱い、と小さなブルーが顰めた顔。学校から帰って、おやつの時間に。
 熱いと感じたものは紅茶で、本当は「ちょっぴり」どころではない。カップからホカホカと立ち昇る湯気は、まだ衰えてはいないから。
(これじゃ飲めない…)
 珍しく喉が渇いているから、ゴクゴク飲みたい気分なのに。水みたいに飲んでしまいたいのに、熱すぎる紅茶。母が淹れてくれたカップの中身は、さっき注がれたばかりだから。
(冷ましながらだと…)
 息を吹きかけて飲んでゆくなら、少しずつ。一口分ずつ時間をかけて。
 それでは乾きが癒えてくれないし、飲み終えて次を飲もうとしたら、また熱い紅茶なのだろう。おかわり用のポットの中身も、同じに熱い筈だから。
 指で触れてみたら、やっぱり熱い陶器のポット。「中身も熱いですよ」と知らせるように。
(蓋を取っても、あんまり効果ないよね?)
 きっとそうだ、と眺めるポット。蓋の部分は小さいのだから、そうそう冷めないポットの中身。まだ熱いカップの中の紅茶をやっとの思いで飲んだ後にも、熱いままだろう母が淹れた紅茶。
(これじゃゴクゴク飲めないよ…)
 冷やさなくちゃ、とキッチンに行くことにした。
 ポットの中身の方はともかく、カップに注がれた紅茶だけでも冷やしたい。今ある一杯、これを一息に飲んでしまえたら、乾きが少し癒えそうだから。
(飲んじゃっても喉が渇いていたら…)
 その時はまた冷やせばいい。おかわり用に注いだ分を。
 カップの紅茶を冷やすくらいは、自分でも出来る簡単なこと。キッチンに行けば氷があるから、それをポチャンと落とすだけ。熱い紅茶に。
 冷凍庫の氷を、母は切らしはしないから。
(お料理で、急いで冷やさなきゃ駄目なものもあるしね?)
 そういった時に困らないよう、夏でなくても氷は沢山。熱い紅茶に幾つか入れたら、飲みやすい温度に冷める筈。「冷たい」と思うくらいにだって。



 よし、と出掛けて行ったキッチン。カップを手にして、それに氷を入れようと。
 キッチンには母がいたのだけれども、気にせずに開けた冷凍庫。「氷は此処」と。そうしたら、音で振り向いた母。
「あら、ブルー? どうしたの、冷凍庫を開けて」
 アイスクリームの季節じゃないわよ、と軽くたしなめられた。冷凍庫の中にはアイスクリームの器も入っているものだから。アップルパイなどに添えたりもするし、そのためのものが。
「アイスじゃなくって、普通の氷…」
 紅茶、熱くて飲めないんだよ。だから氷が欲しくって…。
 入れに来ただけ、と指差したカップ。冷凍庫からの冷気を浴びても、消えない湯気。
「そのくらい、直ぐに冷めるでしょ。夏じゃないんだから」
 今の季節はそれでいいの、と母に言われたけれども、自然に冷めるのを待てないから来た。喉は今でも乾いたままだし、中身を一気に飲みたいのだから。
「…喉が渇いてて、待てないんだもの…」
 少しずつ飲んでも、飲んだ気分がしないから…。いっぺんに飲んでしまわないと。
 だから氷、と強請ったものの、冷凍庫の扉は仕方なく閉めた。中の氷などが溶けないように。
「紅茶だったら、ミルクを入れれば冷えるわよ」
 冷蔵庫の方に入っているでしょ、いつものミルク。そっちを入れておきなさいな。
 カップに少し入れるだけでも違うわよ、という母の意見も分かるのだけれど。冷蔵庫のミルクは冷たいのだから、紅茶も冷えてくれそうだけれど…。
「…今日は普通の紅茶がいいよ」
 ミルクティーじゃなくって、このままがいい、と少し我儘。本当にそのままで飲みたかったし、ミルクティーはまたの機会でいい。
(…ミルクを飲むと背が伸びるって言うけれど…)
 毎朝、「早く大きくなれますように」と祈りをこめて飲んでいるけれど、それとこれとは問題が別。今の気分はミルクティーより、普通の紅茶。
 いくらミルクが背を伸ばすための魔法でも。頼もしい力を持つ飲み物でも、今の所は見られない効果。チビの自分の背は伸びないから、紅茶に少し入れたくらいでは、きっと効かない。
 効くのだったらミルクティーでもいいのだけれども、効果が無いなら普通の紅茶。



 背を伸ばしたい祈りのことは、母は知らない。背丈が伸びて前の自分と同じになったら、恋人にキスして貰えることも。その恋人がハーレイなことも。
(早く大きくなりたいよ、って所までしか…)
 母は全く知らないのだから、「ミルクティーの気分じゃない」と言っても、「仕方ないわね」と困ったような顔をしただけ。「今日はミルクじゃ駄目なのね」と。
「ミルクが嫌なら氷ってことね、分かったわ」
 じゃあ、これだけ、と冷凍庫を開けて、母がポチャンと入れてくれた氷。たったの一個。それも大きくないものを。自分で入れようと開けた時には、幾つも入れたかったのに。
「…これだけなの?」
 一個しか入れてくれないの、とカップの中を覗いたけれども、もう閉められた冷凍庫。氷の数は増えてくれない。カップの中では氷が溶けてゆく所。紅茶の方が熱いから。
「冷たすぎるのは良くないの。…お腹も身体も冷やしちゃうのよ」
 丈夫だったら冷えてもいいけど、ブルーは身体が弱いでしょう?
 だから氷は一個でいいのよ、それ以上は駄目。…そうそう、ポットの紅茶も熱すぎるのね?
 今日のブルーの気分だと、と母が訊くから、ここぞとばかりに頼んでみた。
「そうなんだけど…。氷、入れてもいい?」
 ポットの分の氷もくれるんだったら、持って行って自分で入れるから。
 氷、何かに入れてちょうだい、と指差した食器たちの棚。紅茶のカップは片手で持てるし、もう片方の手で氷を運んでゆけばいいから。適当な器に入れて貰って。
 そのつもりなのに、「駄目よ」と返した母。
「氷を持って行くのは駄目。ポットを此処に持って来て」
 紅茶のポットよ、そのままでね。…熱い紅茶は困るんでしょう?
「ポット…?」
 ママが氷を入れてくれるの、ぼくだと沢山入れすぎちゃうから…?
 これだけ、って渡して貰った氷を、全部ポットに入れそうだから…?
「それもあるけど、紅茶の方が問題なのよ」
 冷めるとお砂糖、溶けにくいでしょ。
 ブルーは甘い紅茶が好きだし、お砂糖を入れずに飲んだりしていないものね。



 ポットごと持って来なさいな、と母が言うから運んで行った。氷を入れて貰ったカップを、元のテーブルに戻してから。…ダイニングにある大きなテーブル。
 それから母にポットを渡して、また戻って来て飲んでみた紅茶。椅子に座って。
(氷、一個しか貰えないなんて…)
 もう溶けちゃった、と溜息を零していたのだけれども、舌に熱くはない感じ。火傷しそうだった熱は取れてしまって、ぬるくなったと思える温度。
(さっきほど熱くないかな、これ)
 冷ましながらでなくても飲めそう、とコクコクと飲んで、乾きが癒えてくれた喉。良かった、とホッと息をついたら、おかわり用もやって来た。母が運んで来てくれたポット。
 それは嬉しいことなのだけれど、ポットがさっきのとは違う。「氷、お願い」とキッチンの母に届けた、熱すぎた紅茶のポットとは。…大きさはともかく、模様も形も。
「ママ、ポットは?」
 持って行ったポットはどうなっちゃったの、このポット、違うポットだよ…?
 冷たい紅茶にしてくれたの、と尋ねてみたら、「少しだけね」と微笑んだ母。
「ほんの少しよ、冷たいっていうほどじゃないわね」
 ポットごと中身を冷やして来たのよ、冷たいお水で。…その前にちゃんとお砂糖も入れて。
 今はアイスティーの季節じゃないでしょ、カップの紅茶にシロップはちょっと…。
 似合わないから、最初から甘くしてみたの。
 ブルーが入れたいお砂糖の量は、ママだって知っているものね。このくらい、って。
 熱い間にお砂糖を溶かして、溶けたらポットごと冷やすんだけど…。
 さっきのポットは熱くなってたから、早く冷えるように入れ替えたのよ。冷たいポットに。
 最初から冷えたポットだったら、冷えてくれるのも早くなるでしょ、と母は説明してくれた。
 「お砂糖を入れなくても甘い筈よ」と、置いて行ってくれたポットの中身は…。
(ホントだ、熱くなくって、甘い…)
 カップに注いで一口飲んだら、直ぐに分かった。
 アイスティーの冷たさとは違った、ぬるめの紅茶。氷を一個落として貰ったカップと、似ている温度。母が「身体にいい」と思う温度がこれなのだろう。
 それに甘さも丁度いいもの、自分の好み。甘すぎもしなくて、甘さが足りないほどでもなくて。



 流石はママ、とゴクゴクと飲んだカップの中身。喉の渇きは消えていたけれど、せっかくだから一息に、と。これでカップに二杯も飲んだし、充分、満足。
 次はケーキ、と母が焼いてくれた美味しいケーキを頬張った。喉が渇いていた間には、ケーキな気分ではなかったから。
 ケーキをフォークで口に運んで、眺める新しいポット。母が入れ替えて来てくれたもの。
(アイスティー、こうやって淹れていたっけ…)
 夏の間に見た光景。
 熱い季節は紅茶もアイスティーだったけれど、淹れた時には当然、熱い。紅茶を美味しく淹れるためには欠かせないのが熱いお湯。いくら夏でも、うだるような暑さが続いていても。
 夏の室温では、熱い紅茶はなかなか冷めない。冷房を入れてある部屋でも。
(だから、ポットごと…)
 母は急いで冷やしていた。茶葉が開きすぎてしまわない間に、冷たい水にポットごと浸けて。
 ポットを浸けた水がぬるくなる前に、捨てては注いだ冷たい水。時には氷も加えたりして。
 きちんと冷えたら、紅茶を移したガラスのポット。とても涼しげに見えるから。
(ガラスのポットでも、紅茶は淹れられるんだけど…)
 フルーツティーを作る時なら、母はガラスのポットを使う。茶葉と、色々なフルーツを入れて。中の果物がよく見えるようにガラスのポット。熱いお湯でも割れないガラス。
 夏に何度も飲んだアイスティーは、そういうポットに入っていた。冷えているから、沢山の露を纏ったガラスのポットに。
 あの時はシロップ入りの小さな器が、ポットに添えられていたけれど…。
(お砂糖を先に入れておく方法、あったんだ…)
 熱い間に溶かしてしまえば、充分に甘くなる紅茶。シロップ無しでも。
 考えてみれば、そう難しくはないのだろう。出来上がりの甘さが分かっているなら、必要な量の砂糖を溶かして冷やすだけ。
(ママ、お砂糖の量、ちゃんと分かってくれているしね?)
 だからこういう作り方だって出来るんだ、と思った紅茶の冷やし方。
 シロップは無しで、初めからつけておく甘み。冷めた紅茶だと砂糖は溶けてくれないのだから、考えてくれた優しい母。自分が勝手にやっていたなら、氷を放り込んだだろうに。



 母のお蔭で美味しく飲めた、甘くしてあったポットの紅茶。ケーキも食べ終えて、戻った二階の自分の部屋。勉強机の前に座って、考えてみた紅茶のこと。
(さっきの紅茶はぬるかったけれど、アイスティーだって…)
 きっと母なら同じように手早く作るのだろう。最初から甘くしてあるものを。シロップ無しでも充分に甘い、自分の舌にピッタリなのを。
(アイスティーがいいな、って急に言っても…)
 淹れて貰えるだろうと思う。自分の身体が弱くなければ、それこそ冬の最中でも。家まで走って帰って来たから暑かった、と注文すれば。「冷たい紅茶がいいんだけれど」と言ったなら。
 弱い身体に毒でさえなければ、アイスティーもホットも注文出来る。その日の気分で。
(もうちょっと丈夫だったらね…)
 今日だってもっと冷たい紅茶、と思ったら不意に掠めた記憶。
 冷たいのがいい、と強請った自分。幼かった頃の記憶ではなくて、遠く遥かな時の彼方で。
(前のぼく…?)
 いったい誰に言ったのだろう、と首を傾げてしまった記憶。誰に強請っていたのだろう、と。
 今日の自分がやっていたように、「冷たいのがいい」と強請ったソルジャー・ブルー。それともチビの頃だったろうか、まだソルジャーではなかった頃の。
 シャングリラにも紅茶はあったけれども、その紅茶。あの船で淹れていた紅茶なら…。
(食堂だったら、アイスかホット…)
 白い鯨になった船なら、好みの方を選べた筈。誰でも、それを注文すれば。
 紅茶も、それにコーヒーだって、アイスかホットか、好きに選んで飲めた食堂。シャングリラで栽培された紅茶は、香り高くはなかったけれど。コーヒーは代用品だったけれど。
(…紅茶は本物のお茶の葉っぱで、コーヒーはキャロブ…)
 今の時代はヘルシー食品になっているキャロブ、イナゴ豆とも呼ばれる豆。元はチョコレートの代用品で、コーヒーやココアも作れるからと栽培していた。合成よりは代用品の方がいい、と。
 贅沢を言いさえしなかったなら、紅茶もコーヒーもあった船。
 アイスクリームまで作っていた船なのだし、食堂には常に氷が沢山。皆が気軽に注文していた、氷が入った冷たい飲み物。
 白い鯨なら、強請る必要など無かっただろう。「冷たいのがいい」と、船の誰かに。
 食堂に出掛けて「アイスで」と言えばいいのだから。強請るのではなくて、注文するだけ。



 前の自分はソルジャーだったけれど、食事は青の間で食べていたけれど。
 食堂に行ったこともあったし、注文したって誰も困りはしない。頼んだ物が出て来るだけ。
(改造前の船だって…)
 飲み物を冷たくするかどうかは、充分に選べたと思う。氷を作って入れる程度ならば、それほど手間はかからないから。
 船での暮らしに馴染んで来たなら、誰でも自由に頼めただろう。食堂に出掛けて、好きな温度の飲み物を。その日の気分で、ホットでも、氷をたっぷりと入れた冷たいアイスでも。
(休憩室にも…)
 飲み物を淹れられる設備はあったし、氷も備えられていた。あの時代ならば、コーヒーは本物のコーヒー豆から出来たコーヒー。紅茶もコーヒーも、全て略奪品だったから。
 前の自分が人類の船から奪った物資で、皆の暮らしを維持していた船。自給自足の白い鯨とは、まるで違っていた生き方。
 それでも自由に頼めた飲み物、アイスもホットも。休憩室で淹れるのだったら、自分たちの手で好きに作れた。熱い紅茶も、氷で冷たくしたものも。
(前のぼくでも、冷たいの…)
 作ろうと思えば作れた筈で、作っていたという覚えもある。青の間でだって。
 青の間で食べた三度の食事は、食堂の者たちが作りに来ていた。小さなキッチンで出来る料理は其処で作って、時間がかかる料理だったらキッチンでは最後の仕上げだけ。
 だから常駐していなかった料理人。食事の時だけ、当番の者がやって来た。
 部屋付きの係も掃除などが済んだら帰ってゆくから、大抵は一人で過ごしていた部屋。
(何か飲みたくなったから、って…)
 わざわざ係を呼びはしないし、自分で淹れていた紅茶。冷たい紅茶が飲みたくなったら、冷凍庫から出した氷を入れた。シロップも多分、あったのだろう。
(前のぼく、ママとは違うから…)
 先に砂糖を加えることなど、思い付きさえしなかった筈。熱い紅茶を氷で冷やして、シロップを入れて、それで満足。「甘くなった」と、「今日は冷たい紅茶の気分」と。
 前の自分でも、好きに選べただろう飲み物。熱いホットか、冷たいアイスか。
 白い鯨になる前の船でも、青の間の住人になった後でも。



 その筈なのに、誰に強請っていたのだろうか。「冷たいのがいい」と、あの船で。
 誰に向かって言っていたのか、自分でもちゃんと作れたのに。注文することも出来たのに。
(前のハーレイくらいしか…)
 思い付かない、強請った相手。
 燃えるアルタミラで出会った時から、ハーレイは一番の友達だった。恋人同士になる前から。
 他の仲間には遠慮したって、ハーレイには甘えていた自分。頼み事でも、相談でも。
 ハーレイをキャプテンに推した時でも、ハーレイだから遠慮しなかった。他の誰よりも、自分と息が合うハーレイ。そのハーレイにキャプテンになって欲しかったから…。
(なってくれるといいな、って…)
 頼んでみよう、とハーレイの部屋に行ったほど。
 厨房を居場所にしていたハーレイ、キャプテンとはまるで無縁な持ち場。フライパンを扱うのと船の操舵は違いすぎるのに、「似たようなものだと思うけどね?」とまで言った自分。
 あれがハーレイでなかったならば、そんな無茶はしていないだろう。厨房からブリッジに移ってくれと、とんでもない転身を頼むことなど。
(…ハーレイだから、無理を言えたんだけど…)
 そんな調子で色々なことを頼んだけれども、今、気になるのは冷たい飲み物。前の自分が誰かに強請った、「冷たいのがいい」という言葉。
 たかが冷たい飲み物なのだし、わざわざハーレイに頼まなくても…。
(飲めるよね?)
 冷えた飲み物くらいだったら、食堂で、それに休憩室で。白い鯨になる前の船でも、ハーレイの手を煩わせないで飲めた筈。
 青の間が出来た後の時代も、自分で好きに淹れられた。思い立った時に、氷を入れて。
 そう思うけれど、強請っていた記憶。
 かなり我儘に「冷たいのがいい」と、子供が駄々をこねるみたいに。
 そこまでのことをやっていたなら、相手はハーレイしか有り得ない。いくら親しくても、ゼルやブラウたちを相手に言うとは思えないから。
 けれど、問題はそれを強請った理由。冷たい飲み物は自由に飲めたし、食堂に行けば係が作ってくれたのだから。



 白い鯨でも、改造前の船でも、いつでも飲めた冷たい飲み物。欲しいと思いさえすれば。
 簡単に飲むことが出来たというのに、何故、ハーレイに強請ったのか。
(チビだった頃かな…?)
 今の自分と変わらないチビで、前のハーレイの後ろにくっついていた時代。あの頃ならば、船の仲間たちに遠慮もあったし、食堂の係が忙しくしていたならば…。
(冷たい飲み物、欲しくても…)
 頼みにくくて、ハーレイに強請ったかもしれない。「冷たいのが欲しい」と、食堂へ食事をしに行った時に。自分では少し言い辛いから、代わりに頼んで貰おうと。
(…ありそうな話なんだけど…)
 そう思うけれど、もっと育っていた気もする。「冷たいのがいい」と強請った自分。
 遠い記憶を探る間に、浮かび上がって来たソルジャー・ブルー。しかも青の間、其処で強請っていた記憶。一度ではなくて、何度でも。…きっとハーレイを相手にして。
(なんで青の間で強請るわけ…?)
 青の間だったら、それこそ何時でも飲み放題。食事を作る係が来ていなくても、部屋付きの係がいなくても。…自分で紅茶を淹れさえしたなら、後は氷を放り込むだけ。欲しい分だけ。
 紅茶は自分で淹れていたのだし、氷は係が切らさないようにしていた筈。食事係は必ずチェックしていたし、部屋付きの係も忘れはしない。それも仕事の内なのだから。
(氷が切れちゃうなんてことは、絶対に無いし…)
 思い当たらない、ハーレイに強請っていた理由。
 青の間では自由に飲めた飲み物、強請る必要など何処にも無い。紅茶でなくても、冷蔵庫の中にあった飲み物。欲しい時には飲めるようにと、冷やされていたジュースなど。
(ジュースだったら、注ぐだけだよ?)
 淹れる手間さえ省けるジュース。これにしよう、と冷蔵庫から出してグラスに注ぎ入れるだけ。あれも係が補充したから、切れることなど無かったと思う。
(いっぺんに全部、飲んじゃったって…)
 食事係か部屋付きの係、どちらかが気付いて新しいのを入れるだろう。そうでなくても、減って来たことに気付いたならば、新しいものを追加する。
 飲みたい時に足りなかったら、ソルジャーに対して失礼だから。前の自分が咎めなくても、係の方では平謝りになったろうから。



 飲み物に関しては何の不自由もなく、青の間で暮らしたソルジャー・ブルー。
 冷たい飲み物が欲しくなったら、自分で作るか、冷蔵庫のジュースをグラスに注ぐか。どちらも自分の好み次第で、前のハーレイに強請らなくても、好きなだけ飲んで良かったもの。
(だけど、「冷たいのがいい」って…)
 強請った記憶が確かにあるから、それが不思議でたまらない。「なんだか変だ」と。遠い記憶をいくら探っても、出て来ない答え。冷たい飲み物を強請った理由。
(何か勘違いをしてるとか…?)
 そうなのかも、と思っていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。前のぼく、ハーレイに注文してた?」
「はあ? …注文だって?」
 何を注文するというんだ、とハーレイは怪訝そうな顔。「注文と言っても色々あるが」と。
「えっとね、冷たい飲み物なんだけど…」
 前のぼく、ハーレイに注文したかな、冷たい飲み物がいいんだけど、って。
「冷たい飲み物…。それは飲み物の種類じゃなくてだ、温度の方か?」
 紅茶よりもジュースがいいとかじゃなくて、アイスかホットか、そういう意味のことなのか?
 どうなんだ、と問い返されたから、「そう」と答えた。
「それだよ、冷やしてある飲み物。…ぼく、頼んでた?」
「いつの話だ、俺が厨房にいた頃だったら、作ってやっていたと思うが」
 俺は厨房担当なんだし、冷たいのがいいと注文されたら氷だが…。お前のグラスにたっぷりと。
「だよね…。その頃だったら、ぼくも頼んだかもしれないけれど…」
 ハーレイが料理を作ってる時に、厨房を覗きに行ったりしたら。
 でもね、あの頃よりもっと後だよ、青の間なんだよ。…ハーレイに注文したらしいのは。
 厨房だったら分かるんだけど、と話したら、ハーレイが眉間に寄せた皺。ただの癖だし、怒ったわけではないのだけれど。
「青の間だってか? そいつは妙だな…」
 あそこだったら、お前、自分で作れただろうが。冷たい飲み物はいくらでも。
 冷蔵庫にジュースも入ってたんだし、好きな時に飲めた筈なんだがな…?



 なんだって俺に頼むんだ、とハーレイにも分からないらしい。その注文をされた理由が。
「俺に頼むよりも早いと思うぞ、お前が自分で用意した方が」
 ジュースだったら注ぐだけでいいし、冷たい紅茶にしてもだな…。
 湯から沸かして淹れるにしたって、俺を呼び出すより、断然、早い。
 いいか、俺の居場所はブリッジなんだ。「ソルジャーがお呼びだ」と抜けるにしても…。
 青の間まで急いで行ったとしたって、それから紅茶を淹れて冷まして、どれだけかかる?
 お前が自分で淹れるんだったら、俺が青の間に着いた頃には、冷ます段階に入っているぞ?
 間違いなくな、とハーレイも指摘した、冷たい飲み物が出来るまでの時間。ハーレイが来てから作り始めたなら、飲めるまでには余分な時間がかかる筈。ハーレイの到着を待った分だけ。
「ハーレイもそう思うよね? ぼくも変だと思ってて…」
 それで訊いたんだよ、前のハーレイに注文してたのか。冷たい飲み物が欲しい、って。
 やっぱり何かの勘違いかな、ハーレイに頼む理由が何処にも無いもんね…?
 お願い、って強請ってたように思うんだけれど、夢だったのかな…?
 そういう夢を何度も見ていたのかな、と捻った首。「それとも、本当にあったのかな?」と。
「本当も何も…。冷たい飲み物を強請ったってか?」
 有り得んだろうが、青の間だったら飲み放題だぞ、冷たいのも。
 紅茶を冷やす氷は係が切らしやしないし、ジュースも冷えているんだし…。
 元から冷えてるジュースの中にも、氷はいくらでも入れられたんだ。好きなだけな。
 誰もお前を止めやしないし、お前は好きに飲めるってわけで…。
 待て、強請ったと言ってたか…?
 お前は俺に強請ったのか、と瞳を覗き込まれた。「強請ったんだな?」と、念を押すように。
「そんな気がして仕方ないんだけれど…。ちっとも思い出せないんだよ」
 ハーレイは何か思い出したの、前のぼくはホントに強請っていたの…?
 冷たい飲み物が欲しいんだけど、ってハーレイに…?
「…思い出したとも」
 嫌というほど思い出しちまった、前のお前がやらかしたこと。
 冷たい飲み物が欲しくなったら強請って来たんだ、前の俺にな。…あの青の間で。



 実に厄介なソルジャーだった、とハーレイがついた深い溜息。
 厄介だなどと言われるだなんて、前の自分はハーレイに何をしたのだろう…?
「えっと…。前のぼく、何処が厄介だったわけ…?」
 冷たい飲み物を頼んだだけだよ、それだけだったら厄介じゃないと思うけど…。
 ハーレイがブリッジから走って来たなら大変だけれど、そんな無茶な注文、しない筈だよ…?
 仕事の邪魔をするわけないよ、と自信を持って言えること。前の自分の立場はソルジャー、前のハーレイは船を預かるキャプテン。
 恋人同士になった後にも、お互い、きちんと弁えていた。いくらハーレイに甘えたくても、前の自分は呼び付けはしない。…ハーレイが仕事をしているのならば、どんなに寂しい気分でも。
 だから冷たい飲み物くらいで呼ぶわけがない、と考えたのに…。
「厄介も何も、前のお前の我儘ってヤツだ」
 あんな我儘なヤツは知らんな、ソルジャーのくせに。…とてもソルジャーとは思えなかった。
 他のヤツらには見せられやしない、まるで示しがつかないから。
 ソルジャーは皆の手本でないと、と顰められた眉。「あれをやったお前は我儘すぎだ」と。
「我儘って…?」
 冷たい飲み物が欲しかっただけで、なんで我儘になっちゃうの?
 前のぼく、ハーレイが仕事中の時は、邪魔はしてない筈なんだけど…。
 その筈だけど、と揺らぎ始めた自信。ハーレイの邪魔をしたのだろうか、前の自分は…?
「仕事中ではなかったが…。お前に仕事の邪魔をされてはいなかったんだが…」
 厄介な注文には違いなかった、前のお前が冷たい飲み物を強請るのは。
 普段だったら、俺も困りはしないんだが…。紅茶だろうがジュースだろうが、欲しいと言うなら好きなだけ飲ませてやるんだが…。
 覚えていないか、お前が俺に強請っていたのは、ノルディが駄目だと言ってた時だ。
 お前が体調を崩しちまって、色々な制限がかかっていた時。
 食事はもちろん病人食だが、俺のスープしか飲めないわけではなかったな。
 しかし冷たい飲み物は禁止で、「飲まないように」とノルディが釘を刺してたんだが…?



 それでも欲しがったのがお前だ、と見据えられたら思い出した。前の自分と冷たい飲み物。
(…冷たいの、欲しかったんだっけ…)
 あれだ、と蘇って来た記憶。前の自分が熱を出して寝込んでしまった時。
 熱を下げることは大切だけれど、冷えすぎると身体を弱らせるから、冷たい飲み物を飲むことは禁止。熱っぽい喉には心地良さそうな、冷蔵庫や氷でキンと冷やした飲み物は全部。
 けれど、欲しくて強請ったのだった。
 食事係や部屋付きの係には断られるのが分かっているから、大人しくしていた前の自分。冷たい飲み物がいくら欲しくても、彼らが差し出す温かいスープなどを飲んで我慢して。
 そうやって夜まで続けた我慢。「夜になったら、ハーレイが此処に来るんだから」と。
 あの我儘を言った頃には、もうハーレイとは恋人同士。夜はハーレイが青の間に泊まるか、前の自分がキャプテンの部屋に泊まりにゆくか。
 具合が悪くなった時でも、ハーレイは添い寝してくれた。ソルジャーへの報告は手短に終えて、前の自分を気遣いながら。
 だからハーレイがやって来るなり、「欲しい」と駄々をこねた飲み物。ノルディが禁じた冷たい飲み物、それまで我慢していたものを。
「…あれって、ハーレイ、くれないんだよ」
 ぼくが欲しがっても、「いけません」って怖い顔をして。…睨んだりもして。
 ハーレイが来るまで我慢してた、って言ってみたって、「駄目なものは駄目です」って、絶対に飲ませてくれないんだから。
 前のハーレイもケチだったよ、と上目遣いに睨んでやった。今のハーレイはキスをくれないケチだけれども、前のハーレイもケチだったっけ、と。
「今のお前のことはともかく、前のお前の方なら、あれが当然だろうが」
 ノルディが駄目だと言った以上は駄目なんだ。お前の身体に悪いんだから。
 お前がコッソリ飲まないようにと、食事係や部屋付きの係にも徹底させていただろうが。
 上手いことを言って、係を騙して飲みかねないしな、悪知恵の働くソルジャーは。
 俺だって、お前が何を言おうが、その手には乗りやしないんだが…。
 身体に良くない飲み物は駄目で、飲ませるなんぞは論外ってことになるんだが…。



 お前というヤツは知恵をつけやがって…、と肩を竦めているハーレイ。「あれには参った」と。
 参ったと口にしているからには、前の自分は冷たい飲み物を飲ませて貰えたのだろうか?
「…知恵って、なあに?」
 それでハーレイ、飲ませてくれたの、ノルディは禁止していたけれど…?
 ぼくが欲しかった冷たい飲み物、と水を向けたら、「まったく、前のお前ときたら…」と零れた溜息。「あれは反則だと思うがな?」と。
「お前が使ったのは悪知恵ってヤツだ。…もう長くないと言い出すんだ」
 俺が「駄目だ」と苦い顔をしたら、途端に言うのが「もうすぐ死んでしまうのに」だった。
 まだ充分に寿命があった頃から、「死ぬ前に飲ませてくれ」なんだから。
 重病ってわけでもなかったくせに、と今のハーレイも呆れ顔。前のハーレイと全く同じに。
「そうだっけ…。前のぼくのお願い、それだったっけね…」
 よくハーレイを困らせていたよ、「じきに死ぬから、ぼくの最後のお願い」だってね。
 少しでいいから、冷たい飲み物をぼくに飲ませて欲しいんだけど、って。
 それでもハーレイ、くれなかったよ。…ぼくの最後のお願いなのに。
 前のハーレイもやっぱりケチだ、と唇を少し尖らせてやった。芝居とはいえ、前の自分の最後の頼みを無視したハーレイ。冷たい飲み物は貰えなかったし、前のハーレイもケチなのだから。
 どっちのハーレイもケチはおんなじ、と思ったのだけれど…。
「ケチ呼ばわりをされる覚えはないな。…俺は飲ませてやったんだから」
 そうだ、きちんと飲ませたぞ。前のお前の最後の望みだ、それは叶えてやらんとな。
 もっとも、あまり思い出して欲しくはないんだが…。
 お前が調子に乗るだけだしな、とハーレイが妙なことを言うから、キョトンとした。
「え…?」
 最後のお願い、ハーレイは聞いてくれたんだよね?
 ぼくが欲しかった冷たい飲み物、ちゃんと飲ませてくれたんでしょ…?
「其処だ、言いたくないのはな。…確かに飲ませてやったんだが…」
 冷たい飲み物を飲ませたんだが、冷たくなかったというわけだ。
 お前の身体に障らないよう、適温になっていたからな。
 早い話が、俺がお前に飲ませた時には、そこそこ温まっていたもんだから。



 「冷たかったが、冷たくなかった」というのがハーレイの言葉。
 どうやら温まっていたらしい飲み物、それでは欲しがる意味が無い。最後の望みだとまで言って強請っても、冷たい飲み物を貰えないなら。
「なんなの、それ?」
 ぼくが強請っても、ハーレイ、違うのを寄越してたわけ…?
 温かい飲み物を飲ませてたくせに、「ちゃんと飲ませた」って威張っているの…?
 覚えていないと思って酷いんだから、と膨れたけれども、ハーレイはまるで動じない。
「そう思うのはお前の勝手だ、これ以上は言わん」
 とにかく俺はお前に飲ませてやったからな、と結ばれた唇。それ以上のことは聞けないらしい。
(んーと…?)
 頼れるのは自分の記憶だけなのか、と懸命に探ることにした。前の自分の遠い記憶を。
 ハーレイに飲ませて貰えたけれども、
冷たくなかった冷たい飲み物。
 ノルディが指示していった通りに温まっていて、今のハーレイは思い出して欲しくはなくて…。
 どうやって飲ませたのだろう、と思う飲み物。
 冷たい飲み物を欲しがったのだし、温まっていたら、怒りそうなものだと考えたけれど。
 差し出されても素直に飲み込むどころか、突き返しそうだと思ったのだけど…。
(…口移し…!)
 キスだ、と気付いた冷たい飲み物の飲ませ方。前の自分の「最後のお願い」。
 これが最後のお願いだから、と言ってやったら、ハーレイはちゃんと飲ませてくれた。冷蔵庫にあった冷たいジュースや、冷やして冷たくした紅茶を。
 グラスやカップに注ぎ入れたら、ハーレイが自分の口に含んでから、ゆっくりと。
 そうっと唇を合わせて重ねて、キスをする代わりに流し込んで。
(…強請るわけだよ…)
 あんな飲み方をしていたのならば、酷い我儘を言ってまで。
 「ぼくはもうすぐ死んでしまうから、これが最後のお願いだよ」と困らせてまで。
 死にそうな気分はしていないのに、さほど重病でもなかったのに。
 それを口実に強請った飲み物、「冷たいのが欲しい」と。
 温かい飲み物は欲しくないからと、「冷えているのを最後に飲みたい」と。



 そうだったのか、と合点がいった、前の自分が強請ったもの。冷たい飲み物を欲しがった理由。
「思い出したよ、ハーレイが飲ませてくれてたんだよ」
 冷たいのを、ちょっと温めてから。…それなら冷たいままじゃないから。
 ジュースも、それに冷たい紅茶も…、と幸せな気分に包まれた。前の自分がそうだったように。
「分かったか、チビ。前の俺はケチじゃなかったとな」
 俺はきちんと飲ませていたんだ、前のお前の注文通りに。
 「ぼくの最後のお願いだよ」と強請られる度に、ジュースも、冷たい紅茶ってヤツも。
 少しもケチではないだろうが、とハーレイが胸を張るものだから。
「…もう冷たくはなかったけどね?」
 ジュースも紅茶もぬるくなってて、ちっとも冷たくなかったんだけど…。
 ぼくは冷たいのと言ったのに、と苦情を述べたけれども、ハーレイはフンと鼻を鳴らした。
「お前の身体には、あれくらいで丁度だったんだ!」
 言われた通りに飲ませていたなら、お前、具合が悪くなったに決まってるだろう…!
「…そうかもだけど…。今のぼくには?」
 病気の時にね、お願いしたら飲ませてくれるの、前みたいに…?
 冷たい飲み物が駄目な時は、と期待したのに、「まだ早い!」と叱られた。言った途端に。
「お前はチビで子供だろうが、前のお前のようにはいかん!」
「…じゃあ、育ったら飲ませてくれる?」
 ぼくが病気になっちゃった時は。…冷たい飲み物、禁止された時は。
 今のぼくでも前と同じで飲ませてくれるの、と見詰めた恋人。「ケチじゃないんでしょ?」と。
「…駄目とは言わんが…。そうなった時は飲ませてやるが…」
 そうなる前にだ、まずは丈夫になってくれ。
 せっかく新しい身体なんだし、「最後のお願い」なんてことは言えない身体にな。
 よく言うだろうが、「殺しても死にそうにないようなヤツ」と。
 そっちで頼む、とハーレイは半ば本気のようだけれども…。
「無理!」
 知っているでしょ、今のぼくも身体が弱いってこと。
 そんなに丈夫になれやしないよ、前と同じで弱くて死にそうになるんだってば…!



 病気になったら、すぐ死にそうになるんだよ、と返してやった。
 本当は其処まで弱くないけれど、今の自分もきっと育っても弱いまま。前と同じに。
 だから病気になった時には、ハーレイに強請ってみることにしよう。
 「冷たいのがいいよ」と、「ぼくの最後のお願いだから」と、前の自分が何度も言った台詞で。
 今度はハーレイと結婚してずっと一緒だけれども、死ぬ時も二人一緒だけれど。
 前の自分たちは、一度は死んで離れてしまったのだから…。
(ハーレイだって、きっと前より優しい筈だよ)
 それに、本当に寿命の残りが少なかった頃のぼくまで知ってるものね、と浮かべた笑み。
 前のハーレイと同じに優しいだろう今のハーレイ、もっと優しい筈のハーレイ。
 いつか病気になった時には、そのハーレイに冷たい飲み物を飲ませて貰おう。
 きっといつかは、口移し。
 結婚した後に病気になったら、冷たい飲み物は駄目だと言われてしまったら…。




                冷たい飲み物・了


※前のブルーがハーレイに強請った、冷たい飲み物。ノルディに禁止されても我儘な注文。
 ハーレイは、ちゃんと飲ませてくれたのです。口移しで、体温で温めて。強請ったのも当然。
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(星空テラス…)
 ふうん、とブルーが眺めた新聞。学校から帰って、おやつの時間に。
 星空テラス、そういう名前のバーの紹介。たまに見かける、記者たちが書く店などの記事。
(なんだか素敵…)
 名前に惹かれてしまったお店。星空テラスだから夜だけの店。バーだけに、当然と言えば当然。
 けれども、ソフトドリンクも沢山あるという。アルコールが入っていないカクテル。女性たちに人気で、お酒は全く注文しないでソフトドリンクだけの人も多い店。
 その上、店の名前通りに…。
(一面の星…)
 庭に面した大きなガラス窓の外。街の中だから、見える星の数は郊外ほどではないけれど。天の川だって無理なのだけれど、それでも星が瞬く夜空。外にはテラス席だって。
 天気が良ければ星空の下で傾けるグラス。寒い冬でも希望したならテラス席。冬は空気が澄んでいるから、夏よりも星が綺麗だという。凍えそうな夜も、客が絶えないのがテラス席。
(多分、シールドするんだろうけど…)
 今の時代は人間は一人残らずミュウ。自分のようにサイオンが不器用でなければ、簡単に張れてしまうシールド。もっとも、シールド越しに眺める星は色がつくかもしれないから…。
(本当に星が好きな人だと、シールドは無しで厚着かも…)
 そんな感じがしないでもない。サイオンの光を帯びた星より、夜空に見えるままの星。そっちの方が遥かにいい、と外に座っていそうな人たち。
 テラス席の上には星空だけれど、空が無い店の中だって…。
(天井が星空…)
 星空テラスの名前通りに、暗い店内を彩る星たち。バーは照明が控えめだから、それを生かした店作り。天井を使って、プラネタリウムのように見せる季節の星空。
 春には春の星座が昇るし、夏に秋にと変わってゆく。本物の空の星座と同じに。
 いつでも星が見えるものだから、ロマンチックで恋人たちにも人気の店。一人で出掛けて、星を眺めながらゆったり楽しむ常連客も。
 隅っこの方で、有名人が飲んでいることもあるらしい。誰にも知られず、ひっそりと。



 ちょっといいよね、と熱心に読んでしまった記事。チビの自分は、バーの客にはなれないのに。
(いつかハーレイと…)
 行きたい気がする星空テラス。お酒を飲める年ではなくても、デートに行けるようになったら。結婚出来る年は十八歳でも、お酒は二十歳まで禁止。
 結婚しようという頃になったら、バーに行ってもいいだろう。ハーレイはお酒が飲める年だし、お酒は飲めない自分の方も…。
(アルコール抜きのソフトドリンク…)
 それを注文すればいい。お酒が飲めなくても、星空テラスに行く人たちはいるようだから。
 行ってみたいな、と考えながら戻った二階の自分の部屋。おやつを食べ終えて、新聞を閉じて。
(星空テラスっていうのが素敵…)
 名前だけでも惹かれたけれども、中身の方も素敵なバー。お酒が駄目でも憧れの店。今の自分もお酒は多分、まるで飲めないような気がしているけれど。
(前のぼく、少しも飲めなかったし…)
 ハーレイの真似がしたくて飲んでも、すぐに酔っ払ったソルジャー・ブルー。翌日の朝には酷い二日酔い、頭痛などに苦しめられていた。今の自分も、きっと変わりはしないだろう。
 そうは思っても、行きたくなるのが星空テラス。恋人たちに人気で、星が一杯。
 テラス席なら本物の星空、大きなガラス窓の向こうも星が幾つも瞬く夜空。それが売りのバー。窓辺の席に座らなくても、店の天井に輝く星たち。
(ロマンチックだよね…)
 曇りや雨が降る夜にだって、店の中には星空がある。天井を仰げば季節の星空。春ならば春の、夏には夏の星座を映した店の天井。
(プラネタリウムとおんなじ仕掛け…)
 きっとそういう仕組みだろう。プラネタリウムのような、ドーム型の天井ではなくたって。
 投影機さえあれば映し出せるのが季節の星座。ドームになっていないのならば、機械を調整してやればいい。上手い具合に映るようにと。



 ドームでなくても映し出せること、それを自分は知っている。正確に言うなら、前の自分が。
(天体の間だって、そういうやり方…)
 あの広かった部屋の天井は、ドームにはなっていなかった。夜になったら。投影していた地球の星座たち。地球で夜空を仰いだならば、こう見えるのだ、と皆が仰いだ季節の星座。
 北半球のも、南半球のも自在に映せた投影機。前の自分もハーレイと眺めていたけれど…。
(あれ…?)
 もしかしたら、と気付いたこと。
 前のハーレイとは、天体の間に映し出される星座を何度も見に行ったのに…。
(本物の星空、見ていない…?)
 夜空に幾つも煌めく星たち。地球のそれとは違う星でも。
 考えてみたら、アルテメシアではシャングリラは雲の中にいた。消えることのない雲の海の中、それでは星を仰げはしない。星座でなくても、暮れ始めた空に最初に輝く一番星でも。
 船の外へと出た時だったら、雲の海の上にアルテメシアの星があっても…。
(ハーレイ、一緒じゃなかったから…)
 キャプテンは船を守るのが仕事、前の自分のように外へ出はしない。出たとしたって、せいぜい船体の確認程度で、前の自分と二人で出掛けることは無かった。ただの一度も。
 だからハーレイとは、星空などは見ていない。アルテメシアの夜空に輝く星は。
 それよりも前の、瞬かない星が幾つも散らばる宇宙を旅していた時代には…。
(恋人同士じゃなかったから…)
 二人で星を眺めただけ。友達同士で、船から見える星たちを。
 白い鯨になる前の船なら、窓の側を通りかかった時に。ブリッジからも星は見えていた。改造が済んで展望室が出来た後なら、あそこの大きなガラス窓から。
 アルテメシアに辿り着くまで、星は何度も二人で見ていたのだけれど…。
(…恋人同士で見ていないんだ…)
 夜空を彩る宝石箱。煌めき、星座を作る星たち。
 アルテメシアの星座でさえも、前の自分たちは仰いでいない。本物の星が輝く場所では、一度も過ごしていなかった。アルテメシアから逃げ出した後は、前の自分は臥せっていたから。
 あの時なら、星もあったのに。…展望室の窓の向こうに、瞬かない星があっただろうに。



 前のハーレイとは星を見ていなかった、と思い至ったら、俄かに行きたくなって来た。
 さっき新聞で見ていたバー。「ちょっといいよね」と記事を読んでいた星空テラスという店に。
(今はチビだから、無理だけど…)
 いつか絶対、ハーレイと二人で行かなくちゃ、と思う星空テラス。前のハーレイとは恋人同士で見ていなかった、本物の星空。その分を二人で取り戻さなくちゃいけないよ、と。
(大変…!)
 今の今まで、それに気付いていなかったなんて。一日も早く大きくなって、ハーレイとデートに行かないと、と考えていたらチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、急いで用件を切り出した。テーブルを挟んで向かい合うなり、もう早速に。
「あのね、デートの話だけれど…」
 行きたい場所が、と言った所で、ハーレイに「はあ?」と呆れられた。
「デートって…。いつの話をしてるんだ、お前。ずいぶんと気の早いヤツだな」
 今は駄目だと言ってるだろうが、何度言ったら分かるんだ?
 前のお前と同じ背丈に育ってから言え、と聞く耳さえも持たない恋人。「寝言なのか?」とも。
「寝言なんかじゃないってば…! それに駄目なことも知ってるよ」
 チビのぼくだと、ハーレイとデートに行けないことは…。育たないと駄目っていうことも。
 それは分かっているんだけれど…。星空テラスってお店、知ってる?
 バーなんだけど、と尋ねてみたら、「聞いたことはあるな」という返事。
「けっこう知られたバーの筈だが…。星空が売りで、店の中にも星空らしいな」
 生憎と俺は行っていないが…。そういう機会が無かったから。
「そうなんだ…。じゃあ、今の間に下見しといて」
 お願い、と恋人の瞳を見詰めた。「星空テラスを下見してよ」と。
「下見だと?」
「そう。ぼくとデートに行く時のために、今から下見」
 他の先生とか、友達とかとバーに行くなら、星空テラスに出掛けて欲しいな。
 ハーレイだったら大人なんだし、バーに行くこともありそうだものね。
「なんだって?」
 俺に下見に行けと言うのか、わざわざ「行くなら其処にしよう」と誘ってまで…?



 どうして俺が下見に行かなきゃならんのだ、と訊かれれば答えは決まっている。
「デートで行ってみたいから!」
 星空テラスがいいんだってば、ハーレイとデートに行くんなら…!
 だから下見、と食い下がった。チビの自分はまだ行けないから、先に下見をしておいて、と。
「下見って…。何かいいもの見付かったのか?」
 星空テラスはバーなんだが、とハーレイは怪訝そうな顔。「お前、酒なんか飲めないのに」と。「前のお前は飲めなかったし、今度も多分、同じだろう?」と。
 「俺が誘うんだったらともかく、お前が酒か?」と、不思議がられても譲れない。
「バーだけれども、ソフトドリンクもある筈だよ?」
 アルコール抜きのカクテルだとか。お酒が飲めない人もいるしね、バーに行っても。
「そりゃ、あるが…。ソフトドリンクも出せないバーでは、まるで話にならないんだが…」
 飲めない女性も多いからなあ、カップルで来て欲しい店なら用意しないと。
 男ばかりの店でいいなら、そんなのは抜きでいいんだが…。花が欲しけりゃ女性も要るから。
 しかしだ、お前、そんなのを何処で見たんだ?
 いきなり店の名前を名指しで、ソフトドリンクなんて言葉まで…。チビらしくないぞ?
 お前の年だとソフトドリンクとは言わん筈だが、という質問。「ジュースってトコだろ?」と。
「…新聞に記事が載ってたんだよ」
 こういうお店があるんです、っていう紹介。広告じゃなくて、記者とかが書くヤツ。
 ソフトドリンクも其処に書いてあったよ、アルコール抜きのカクテルです、って。
 沢山あって、それしか飲まないお客さんも多いんだって。…女の人たちみたいだけれど。
「なるほど、新聞で知識を仕入れて来たわけか」
 その記事の中に、美味そうなカクテルが載っていたんだな?
 チビのお前でも飲めそうな感じの、甘そうなヤツ。でもって、見た目も綺麗なのが。
 そいつを飲みに行きたいんだな、とハーレイは勘違いしてくれた。カクテルの味は関係なくて、お店の方が大切なのに。
「違うよ、そういうのじゃなくて…。ぼくが行きたいのは、お店だってば」
 とっても素敵なお店なんだよ、名前を聞いたら分かりそうだと思うんだけど…。



 星空テラスなんだもの、とハーレイに店の説明をした。新聞の記事で読んだ通りに。
 庭に面した大きなガラス窓の向こうは星空。本物の星が見える夜には。そういう日ならば、外にあるテラス席に座って星空の下。夜空に輝く幾つもの星。
 曇り空や雨が降っている夜も、店の天井にある季節の星たち。まるでプラネタリウムみたいに、映し出される様々な星座。
「ね、本当に星空テラスでしょ? テラス席なら本物の星で、お店の中にも星座なんだよ」
 星が一杯で、うんと素敵だと思わない?
 行きたくなるのが分かるでしょ、と瞬かせた瞳。「星空テラスなんだから」と。
「ロマンチックな感じではあるな、店の名前もピッタリだ」
 いい雰囲気の店なんだろう、と見当はつく。カップルの客が多そうだがな、とハーレイは見事に言い当てた。名前しか知らないと口にしたくせに。
「それなんだってば、恋人たちに人気のお店。凄いね、ハーレイ、当てちゃった…」
 デートに行くのにちょっといいよね、って考えていたら、気が付いたんだよ。
 ハーレイと星を見ていなかった、って…。
「星だって? 見たじゃないか、ちゃんと夏休みに」
 お前の家の庭で、夜に飯を食いながら。…中秋の名月も見た筈だがな?
 あれは月見で主役は月の方だったが、というのがハーレイの言い分。確かに二人で見上げた星。家の庭からならば、何度も。夜にハーレイを見送りに出たら、頭の上には星があるから。
「見たけれど…。あれは今でしょ、前のぼくだよ」
 前のぼくだと、ハーレイとは星を見ていないんだよ。二人一緒には、一回もね。
「今度は何を言い出すんだか…。お前、本当に寝ぼけてないか?」
 でなきゃ新聞記事のお蔭で、ちょいとカクテル気分とばかりに紅茶にブランデーだとか。
 それで酔っ払っているというなら、妙な台詞を吐くのも分かる。
 前のお前と俺とだったら、星なんかは腐るくらいに見たぞ。それこそ掃いて捨てるほどだ。
 船の外には星だらけだった、とハーレイも気付いていないらしい。二人で一緒に星を見たのは、いつの時代のことだったのか。
「…アルテメシアに着く前でしょ、それ」
 星は一杯あったけれども、ぼくとハーレイ、友達同士だったんだよ…。



 恋人同士になってからは一度も見てはいない、と話した星たちのこと。宇宙に散らばる瞬かない星も、アルテメシアの夜空に輝く星たちも。
「アルテメシアにも、星はあったんだけど…。ぼくは何度も見ていたけれど…」
 ハーレイは船を離れていないよ、キャプテンは船の側にいなくちゃ。…どんな時でも。
 だからね、前のぼくとハーレイ、一緒に星を見ていないんだよ。
 恋人同士になった時には、アルテメシアに着いていたから…。そうだったでしょ?
「そういや、そうか…。あそこだと、いつも雲の中だな、シャングリラは」
 雲海が船の隠れ蓑だし、出てゆくことは一度も無かった。ジョミーを助けに浮上するまでは。
 星が見られるわけがなかったんだな、雲の中では。
 お前とは見ていなかったのか…、とハーレイもようやく気付いてくれた。恋人同士で星を眺めたことなどは無い、と。
「展望室からも、もう見られなかったよ。夜に行っても、雲だけしかね」
 アルテメシアに着く前だったら、あそこから星が見えたんだけど…。前のハーレイとも、何度も見に行ったんだけど。せっかくの展望室だから。
 でも、あの頃には友達同士で、恋人同士になった後には、星は無くって…。
 こういう星をいつか見たいよね、って天体の間のを見ていただけ…。
 夜になったら映していたでしょ、あそこの天井に地球の星座を。
「お前とも見たな、あの部屋で…」
 人気だったからなあ、天体の間の地球の星座は。デカイ投影機も置いてあったし、天体の間って名前通りの部屋だった。あそこに行けば星が見えるから。…夜だけだが。
「基本は集会室だったしね。大きなホールも必要だから」
 それだけだと何だか味気ないから、ああいう仕掛けがしてあっただけ。
 まさか雲海の星に潜むことになるとは思わなかったし、地球の星座が見られればいい、っていう考えで作ったけれど…。
 何処からも星が見えない船だと、人気が出るのも無理はないよね。
 展望室に行ってみたって、窓の外に星は無いんだから。…重たそうな夜の雲海だけで。



 星が見えなかったシャングリラ。白い鯨から星は見えなくて、天体の間にしか無かった星空。
 投影されただけの星でも、仲間たちには人気があった。季節に合わせた地球の星座たち。
 前のハーレイとは、皆が寝静まった後によく二人で出掛けた。地球の星座を眺めるために。今の季節はこう見えるのかと、もう少し経てば次の季節の星が昇ると。
 幻の星空だったけれども、「いつか本物を地球で見よう」と仰いでいた。きっと行けると思っていたから、地球は青いと前の自分は信じていたから。
「ハーレイとキスもしていたっけね、こっそりと」
 ぼくたちの他には誰もいなかったから、「いつか二人で地球に行こう」って。
「…俺は子供にキスはしないぞ、何を言われても」
 地球に来たから記念のキスだ、と注文されても、断固、断る。お前は子供なんだから。
 前と同じに育ってからだ、とハーレイが怖い顔をするから、慌てて「違うよ」と横に振った首。
「今のは思い出話だってば、前のぼくのね。…ホントだよ?」
 キスが駄目なのは分かっているから、我儘なんかは言わないってば。
 でもね、ハーレイと二人で地球まで来ちゃったから…。地球の星座も見られるから…。
 せっかく素敵なバーがあるんだし、星空テラスに連れて行ってよ。
 ハーレイとデートが出来るようになったら、あそこに行ってみたいんだけど…。
 お願い、とピョコンと頭を下げた。「ハーレイと一緒に星空テラス」と。
「かまわんが…。いくらでも連れて行ってやるがだ、店だとキスは出来ないぞ」
 人前でのキスは御免蒙る、二人きりの場所じゃないんだからな。
 天体の間の頃のようにはいかんぞ、と念を押されて頷いた。「分かってるよ」と。
「ちゃんとデートに行けるんだったら、キスは帰ってからでいいから」
 家の庭でも見えるでしょ、星は。…お店でなくても、星は頭の上にあるもの。
「違いないなあ、本物の地球の星座がな」
 正真正銘、地球の星座というヤツだ。前の俺たちの夢の通りに、二人で夜空を見放題だな。
 俺たちは地球の上にいるんだし、星座も本物の星で出来てて…。
 ん…?
 今の俺たちの頭の上には、本物の地球の星座でだな…。本物ってことは、星なんだから…。
 どれもこれも星で出来てるわけで…。



 どの星座だって星なわけだ、と当たり前のことをハーレイが言い出したから、首を傾げた。
 夜空に散らばる幾つもの星を、様々な形に見立ててゆくのが星座。遠い昔に考え出されて、今の時代も空にある。ギリシャ神話から生まれた星座や、中国生まれの二十八宿などが。
「ハーレイ、星がどうかした?」
 急にいったいどうしちゃったの、何か気になることでもあるの…?
「いや、ちょっと…。星座ってヤツは地球の星だよな?」
 今の俺たちが見ている星座は、まさにそのものズバリなんだが…。
 ずっと昔に、前の俺たちが天体の間で見てたヤツなんだが…、と考え込んでいるハーレイ。今は本物が頭の上にあるわけで…、と。
「そうだよ、前のぼくたちが地球で見たかった星座。天体の間のとホントにそっくりだよね」
 シャングリラの自慢の設備だったよ、あそこにあった投影機。船の中だったけど、夜はいつでも地球の星座が見られたから。
 あれで覚えたよね、いろんな星座を。季節の星座も、北半球のも、南半球のも…。
 今のぼくたちが見ている星座は北半球の星座だけれど、と窓の向こうを指差した。まだ昇ってはいないけれども、日がとっぷりと暮れた後には輝く星たち。今夜もきっと見えるだろう。
「その星座だ。北半球でも、南半球でもいいんだが…」
 星座は何で出来ているんだ?
 何が星座を作ってるんだ、とハーレイが訊くから、「星だよ」と胸を張って答えた。
「星に決まっているじゃない。星を幾つも繋いだのが星座」
 こういう形に見えるよね、って覚えやすい形に繋いで、名前をつけてあるんだよ。
 ずっと昔の人が考えて、それを今でも使ってて…。星占いにも使ってるよね、今の時代でも。
 ぼくは牡羊座だったかな…、と少し自信がない星座。あまり興味が無いものだから。
「何座でもいいが、その星座を作っている星たち。どれを取っても分かりやすいよな」
 そこそこ明るい星でないとだ、何処ででも見えるわけじゃないから。
 見えない星座じゃ意味が無いんだし、どの星も地球からよく見えるんだが…。
 星座になってる、その星はだ…。
 明るい星でも惑星じゃなくて、どれでも全部、恒星なわけで…。



 なんてこった、と呻くハーレイ。「俺としたことが」と。
 深く刻まれた眉間の皺。それを指先で押さえているから、「どうしたの?」と問い掛けた。
「何があったの、星座が星だと何か駄目なの…?」
 古典の授業で習う時には、星が人だったりするけれど…。彦星も織姫もそうなんだけど…。
 授業で何か間違えちゃったの、教える時に…?
「それどころの騒ぎじゃないってな。授業だったら、訂正すればいいんだから」
 前に教えたのは間違いだった、と頭を下げれば済むことだ。教師としては赤っ恥でも。
 しかし、こいつはそうじゃない。…痛恨のミスだ、もう時効だが。
 とっくの昔に時効なんだが…、と言われても意味が掴めない。前の学校での出来事だろうか?
「時効って…。前の学校でやっちゃったとか?」
 それとも、もっと前の話で、訂正したくても、生徒は卒業しちゃってるとか…?
「生徒を相手にやらかしたんなら、痛恨のミスとまで言いはしないぞ」
 やっちまった、と頭を抱えておくか、ゴツンとやっておけばいい。それで生徒に笑われたって、笑い話になるだけだしな。他の先生にも広まったって。
 とうに時効だと言っただろうが。…前の俺なんだ、ミスをしたのは。
 今となっては取り返しがつかん、とハーレイは溜息をつくのだけれども、そんなミスなど自分は知らない。キャプテン・ハーレイはミスを犯さなかったし、常に冷静だったから。
「前のハーレイって…。何をやったわけ?」
 ぼくは報告を受けてもいないし、ミスをしたかも、と思ったことは一度も無かったけれど…?
 それにブラウやゼルたちもいたよ、何かあったら気付くってば。「それは変だ」って。
 直ぐに訂正させてただろうし、ハーレイがミスをするなんてことは…。
 有り得ないよ、と否定したミス。実際、それは起こり得なかったことだから。
 けれどハーレイは、「いいや」と首を左右に振った。「本当にやっちまったんだ」と。
「もう取り返しがつかないが…。今頃になって気付いた所で、俺はどうにも出来ないんだが…」
 地球の座標だ、前の俺たちが必死になって探していたヤツ。
 あれのヒントは、いつでも側にあったってな。…前の俺たちの、直ぐ目の前に。
「え…?」
 ヒントって、地球の座標のヒント…?
 それがあったら、地球の座標が分かったってこと…?



 いったい何処にあったわけ、と目を丸くした。そういう風にしか聞こえないから。
(地球の座標は、謎だった筈で…)
 前の自分が生きた間には、ついに得られないままだった。いくら努力を重ねてみたって、まるで無かったその手掛かり。座標の一部分さえも。
 テラズ・ナンバー・ファイブを倒して、やっと手に入れたと歴史の授業で教わる。今のハーレイからもそう聞いた。アルテメシアを落としただけでは、地球の座標は掴めなかったと。
 それほど厳重に隠されていたのが、前の自分が生きた時代の地球の座標。国家機密よりも重要なもので、ヒントなどがあったわけがないのに。
「地球の座標のヒントだなんて…。そんなの、何処にも無かった筈だよ?」
 あったとしたって、シャングリラにあるわけないじゃない。
 元は人類の船だけれども、ただの民間船だから…。軍の船なら違っていたかもしれないけどね。
「だからミスだと言っているんだ、今の俺がな」
 キャプテンなら気付くべきだった。直ぐ側にあった座標のヒントに。
 俺のミスだ、と繰り返されても分からない。ハーレイが言うヒントとは何のことなのか。
「気付くべきだったって…。何に?」
 シャングリラにどんなヒントがあったの、ぼくはそんなの知らないよ…?
 心当たりも無いんだけれど、と首を捻ったら、「天体の間だ」と返った答え。
「あそこで見ていた地球の星座だ。…俺もお前も、何度も見たヤツ」
 星座が恒星で出来ているなら、あれを詳細に分析すれば…。
 ああいう具合に繋がって見える場所は何処にあるかを、きちんと計算してゆけば…。
 地球の座標を弾き出せたんだ、と言われれば、そう。
 星座を作る星の中には有名な恒星が幾つもあったし、それが何処からどう見えるのかを、細かく計算してゆけば。星と星とがどう繋がるのか、星間距離も考慮してゆけば。
(白鳥座が白鳥に見える場所とか、北斗七星が柄杓に見える場所とか…)
 それを計算していったならば、地球の座標が明らかになる。全ての星座が揃う地点は、銀河系の中に一ヶ所しかない。ソル太陽系の第三惑星がある所しか。
 人間の手だけで計算するなら、途方もない手間がかかるけれども…。



 そうだったのか、と目から鱗が落ちるよう。地球の座標は、天体の間が常に知らせていた。夜の天井に輝く星たち、投影されていた地球の星座が。
「…ハーレイ、地球の座標なんだけど…」
 船のコンピューターに解析させたら、簡単に分かっていたのかな?
 星座のデータを全部放り込んで、この通りに見える座標を出せ、って計算させたら…?
「多分な。そういう作業は、コンピューターの得意技だから」
 アッと言う間に出せたんじゃないか、地球の座標はこれだ、とな。
 前の俺が其処に気付いていたなら、前のお前もきっと地球まで行けたんだろう。堂々と降りては行けないとしても、ワープして一瞬、側を掠めて飛ぶとかな。
 もっとも、そうして出掛けていたなら、前の俺たちは地球という星を諦めたのかもしれないが。
 なんと言っても、あの有様だ。青い地球の代わりに、死の星が転がっていたんだから。
 誰があんな地球を欲しがるもんか、とハーレイは苦い顔をする。「俺は要らんぞ」と。
「そうなのかも…。前のぼくだって、青くない地球を見ちゃったら…」
 地球に行こう、って思うのはやめて、他の星を探していたかもね。人類の船なんか来ない辺境の星で、ナスカみたいにミュウが暮らしていける星。
 あれっ、だけど…。
 恒星がある場所は分かってたっけ、と投げ掛けた問い。
 星座を詳細に解析したなら、得ることが出来る地球の座標。そのために使う、地球の星座を構成していた恒星の位置は分かっていたのか、と。アルタイルだとか、ベガだとか。
「それはまあ…。基本の中の基本だからな?」
 キャプテン稼業をやっていたなら、「知りません」では済まないぞ。
 座標を丸ごと暗記するのは流石に無理だが、この辺りのコレだ、と見当はつく。
 アルテメシアから逃げ出した後は、宇宙を放浪していたついでに地球を探していたんだし…。
 あちこちの恒星系を回って、地球は無いかと確認してた。有名どころは端からな。
 …ありゃ?
 そういや、アルタイルが地球を連れているわけがなかったんだな、考えてみれば。
 あそこにも行って来たんだがなあ、第三惑星は青い地球じゃないかと。



 妙だぞ、とハーレイが顎に手をやる。「何故、アルタイルに行ったんだ?」と。
 アルタイルと言ったら、鷲座のアルファ星。今も昔もそれは変わらず、明るく輝く一等星。日本では彦星と呼ばれていた星、七夕の夜に天の川を渡ると伝えられた星。
 地球の夜空にある筈の星が、地球を連れているわけがない。空に瞬く小さな恒星、それが地球のあるソル太陽系の中心になりはしないのだから。
「…俺は確かに地球を探していたんだが…」
 地球があるかもしれないからな、とアルタイルに行ってしまったんだが…。
 どう間違えたら、アルタイルに行こうと思うんだ?
 アルタイルが地球から見えるんだったら、地球の太陽では有り得ないことになるんだが…。
 どういうことだ、とハーレイの眉間の皺が深くなる。「地球を探しに行っただなんて」と。
「ほらね、変だと思わない?」
 アルタイルに行っても、そんな所に地球は無いんだよ?
 地球からアルタイルが見えているなら、地球からはずっと遠いんだから。…何光年もね。
 なのに、どうして其処に行ったの、と尋ねてみたら、ハーレイは「分からん」と両手を広げた。
「俺にもサッパリ分からないんだが、それでいいんだと思っていた」
 アルタイルは有名な恒星だったし、地球がある可能性はかなり高いと踏んだんだが…。
 そのアルタイルは鷲座で光ってたわけで、天体の間でもお馴染みの星と来たもんだ。
 其処に向かって行ったってことは、もう間抜けとしか言いようがないし…。
 これまたミスってことになるのか、航路設定をしていたキャプテン・ハーレイの?
 だが、ゼルたちも反対しなかったしなあ、ヒルマンもエラも。
 誰も「アルタイルは違う」と言わなかったぞ、とハーレイにも解けないミスの理由。有り得ない場所へ、地球を探しに出掛けて行ったシャングリラ。
「どうなんだろう…。それって、もしかして機械のせい?」
 マザー・システムの仕業なのかな、シャングリラがアルタイルに行っちゃったのは…?
 SD体制があった時代は、地球の正確な地図も作れなかったじゃない。機械がデータをすっかり隠して、正確な位置をぼかしてしまって。
 そんなことをしていた機械だったし、地球の星座を見るのは許してくれたって…。
 星座を分析していけば分かる、地球の座標を引き出す方法とかは…。



 考え付かないように、思考をブロックされていたのかも、と話してみた。
 あの時代の子供は人工子宮から生まれていたから、胎児の間に細工は出来る。地球の座標を割り出す方法、それに気付きはしないよう。…恒星の位置と地球の座標を、決して結び付けないよう。
「そうだとしたなら、ハーレイたちがアルタイルに行った理由も分かるよ」
 天体の間で何度アルタイルを見ても、それは星座の星だというだけ。
 地球からどういう風に見えるか、そんな所までは考えられないようにされていたなら…。
 昔から有名な恒星なんだ、っていうだけの理由で、地球を探しに行くと思うよ。
 有名な星なら、本当に地球がありそうだもの。…アルタイルの第三惑星としてね。
「そうなのかもなあ…。生まれる前からブロックされてりゃ、そうなっちまうのも当然か…」
 ヒルマンもエラも、ゼルもブラウも、揃って同じ生まれなんだし…。
 ジョミーにしたって其処は全く同じだからなあ、変だとは思わないだろう。
 あの頃はブリッジに顔を見せない日も多かったが、行き先くらいは俺が報告していたから。
 もしも妙だと思ったんなら、「検討し直した方がいい」と言ってはいたんだろうし…。
 待てよ、そうなってくると、トォニィなら思い付いたのか?
 トォニィが急な成長をしちまった後は、もう天体の間で投影してはいなかったんだが…。
 地球を目指しての戦いだからな、そんな娯楽は必要無い、とジョミーが止めさせちまったから。
 だが…。
 それから後も、あそこに地球の星座があったなら…、というハーレイの言葉は一理ある。
「思い付いたかもね、トォニィがあれを見ていたら」
 トォニィは自然出産で生まれて来た子供だから…。機械の影響を全く受けていなかったから。
 あそこで地球の星座を見てたら、ピンと来たかもしれないね。地球の座標が分かるかも、って。
 育つ前にしか見ていなかったし、結び付けたりしなかっただけで。
 小さい子供には、ナスカの星座も地球の星座も、きっと同じに見えただろうから。
 どっちも星が光ってるだけで、どういう風に繋がってるかの見え方が違うだけなんだもの。
「ふうむ…。トォニィだったら、星座のカラクリにも気付けたのか…」
 天体の間にずっと昔から転がってたのに、誰も気付かなかった凄い宝物の地図。
 それの読み方に気付けたんだな、投影をやめずに、地球の星座を毎晩あそこに映していたら…。



 やめちまったのは失敗だったか、とハーレイは惜しそうな顔をしたけれど。
 「ジョミーがやめろと言った後にも、投影しとけば良かったか?」とも、ぼやいたけれど…。
「そうでもないよな、あのまま投影を続けていたとしたって、だ…」
 トォニィがお宝に気付く頃には、あの忌々しいテラズ・ナンバー・ファイブもだな…。
 そろそろ年貢の納め時ってトコだったかもな、という結論。それほど時間は経っていない、と。
「うん、ジョミーが倒しちゃっているよね」
 あれを倒したら、地球の座標が分かったんだし…。
 トォニィが星座から割り出せることに気付いたとしても、ほんのちょっぴり早いか、遅いか。
 きっとそのくらいの違いしかないよ、地球の星座を手に入れるまでの時間はね。
「あれが宝の地図だったとはなあ…。お前と何度も見てた星座が」
 地球に着いたら本物の星座が見られるんだ、と思っていたのに、間抜けなもんだ。
 そいつが地球の座標を割り出すヒントだったとは気付かなかった、と苦笑するハーレイ。
 「お前も気付いていなかっただろ?」と。
「当たり前だよ、ハーレイが駄目なら、ぼくも駄目だよ」
 船のことなら任せておけ、ってハーレイでも解けなかった謎なんだから。
 ぼくなんかに分かるわけがないでしょ、星座が地球の座標を教えてくれるだなんて。
 …前のぼくたちは星座のヒントに気が付かなくって、宝の持ち腐れになっちゃったけど…。
 今のぼくたちは地球に来たんだし、大きくなったら星空テラスに連れてってくれる?
 二人でゆっくり星を見たいよ、と強請ってみた。「恋人同士で星を見なくちゃ」と。
「その時まで覚えていたならな」
 前のお前とは恋人同士で星を見損ねちまったことと、お前が行きたいバーの話を。
「それなら、下見をしておいてよ!」
 下見をしとけば忘れないでしょ、そういうお店があるってこと。…ぼくと行くことも。
「いや、せっかくいい店があるんだから…」
 他の連中と行っちまうよりは、お前と一緒に行きたいんだが…。駄目か?
 忘れちまうからそれは駄目だ、と言うんだったら、誰かと下見に出掛けてくるが…。
「ううん、嬉しい!」
 最初はぼくと一緒がいい、って言ってくれるんなら、楽しみにしてる。
 忘れちゃっても怒りやしないよ、その内に思い出せるから…!



 思い出したら二人で行こうね、と指切りをした星空テラス。
 チビの自分は行けないけれども、星が一杯の憧れのバー。雨が降る日でも天井に夜空。
 いつか大きく育った時には、ハーレイとデートに出掛けてゆこう。
 今は本物の地球の星座が見えるけれども、前のハーレイとは恋人同士で眺め損ねた本物の星。
(…今度は一緒に見られるんだよ、恋人同士で)
 ハーレイと青い地球に来たから、ロマンチックな星空テラスで、星をゆっくり見上げてみよう。
 遠い昔に天体の間で見た四季の星座を、今は本物の地球の夜空に煌めき瞬く星の姿を…。




              星空と星座・了


※恋人同士で星を見たことは無かった、前のハーレイとブルー。天体の間で投影された星だけ。
 其処で見ていた地球の星座が、実は宝の地図だったのです。地球の座標は、あの星座の中に。
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(本物そっくり…)
 凄い、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 造花だという花たちの写真。様々な種類の花たちだけれど、本物と区別がつかないほど。写真のせいではないらしい。側で見ないと、造花だとは気付かないという。
 植木鉢に植わった花にも驚きだけれど、透明な花瓶も凄かった。
(水まで入っているんだけど…)
 その水までが作り物。本物の水とは違って塊、倒れても水は零れない。花瓶ごとゴトンと倒れるだけで、起こしてやれば元通り。これが本物の花瓶だったら、辺り一面、水浸しなのに。
 満たした水も無事だけれども、花たちも無傷。倒れたはずみに花びらが傷むことはない。
(ペットを飼っている家に…)
 お勧めらしい造花たち。
 家の中で人間と一緒に暮らすペットは色々、中には悪戯者もいる。部屋をあちこち走り回って、花瓶を倒すことだって。テーブルにヒョイと飛び移ったら、代わりに花瓶が落っこちることも。
 花瓶が倒れる事故の他にも、花たちを見舞う不幸な出来事。
(齧っちゃうんだ…)
 小鳥が花を齧るのだったら分かるのだけれど。…花の蜜が好きで、吸う鳥たちも多いから。
 そういう鳥とは食べ物の好みが全く異なる、猫や犬たち。彼らが齧ってしまう花。植木鉢のも、花瓶に生けてある花も。
(きっとオモチャで…)
 食べたいわけではないだろう。美味しいとは思えない花びら。
 人間だったら、食べるための花も栽培しているとはいえ、そのままで食べはしない筈。お菓子に入れたり、サラダにしたり、工夫を凝らして口に入れるもの。
 人間でさえもそうなのだから、猫や犬たちが花を喜ぶわけがない。「美味しいよね」と。
 つまり齧られる花はオモチャで、歯ごたえが楽しいだけのこと。端から毟って減ってゆくのも、愉快なのかもしれないけれど…。
 それをやられたら、人間の方は肩を落として眺めるしかない。齧られてしまった花たちを。
 倒されてしまう花瓶も困るし、蹴散らされる植木鉢だって。齧られて駄目になる花も。その手の悲劇を防ぐためにと、代わりに造花。本物そっくりに出来ているのを。



 よく出来ている、と思った造花。今ではペットを飼っている家にお勧めだけれど…。
(元々は…)
 違ったらしい、造花の歴史。新聞の記事は、そちらがメイン。どうして造花が生まれたのか。
 SD体制が始まるよりも前の時代に、作り出された造花たち。
 その原型はかなり古くて、人間が地球しか知らなかった時代に既に存在したという。本物の花が咲かない季節も、家の中で花を愛でられるように。
 そうして生まれた造花だけれども、今もある形が完成したのは地球が滅びに向かう頃。
(材料、色々…)
 どれが最適かを色々試して、選び出された特殊な布。花たちはそれで出来ている。
 本物の花の色そっくりに自由自在に染めることが出来て、専用のコテで花びらなどの姿を作ってゆける布。カーブさせたり、縮れさせたり。
(緑が自然に育たなかったから…)
 大気が汚染された地球では、特殊な設備を設けない限り、育てられなくなった植物。
 緑の木々も、人間が食べるための野菜も、日々の暮らしに彩りを添える花たちも。それでも家に緑が欲しい、と作られたのが造花たち。
 本物の花を育てることは、既に個人の家では難しかったから。
 人間が暮らす家の中では育てられても、何種類もの花を植えようとしたら足りないスペース。
 それでは花を絶やさないことは難しい。様々な花を、年中、咲かせておくことは。
(代わりに四季の花を作って、季節で入れ替え…)
 今の季節はこの花が咲く頃だから、と生ける造花たち。春の花やら、秋の花やら。
 造花だったら何種類でも作り出せるし、ふんだんに生けて楽しめる。花瓶から溢れそうなほど。本物の花では、もはや不可能になった贅沢を。
 後は気分や場面に合わせて、好きに飾っていた造花たち。冬の最中でも、夏の花とか。
(今だって、やっているものね?)
 もちろん本物の花だけれども、温室などで調整して。
 緑が育たなくなった地球の人間も、それを造花でやっていた。暮らしに花は欠かせないから。
 造花を作るのが主婦の仕事になっていたほど。
 市販のものより、気の利いたものを。他所の家には無い花たちを、と作って生けて。



 そうだったのか、と驚かされた造花の歴史。遠い昔は、本当に必要だった花たち。家でペットを飼っていなくても、花が欲しいと思うなら。…自分の家だけの花が欲しかったなら。
(ぼく、サイオンは不器用だけど…)
 手先は器用な方なのだから、こういう花なら作れそう。専用の布を買って来て染めて、庭にある花の真似をして。「薔薇の花なら、こんな風」と。
 前の自分は最強のサイオンを誇ったけれども、裁縫も下手な不器用さ。きっと造花も作れない。どう頑張っても、ソルジャー・ブルーだった前の自分には。
(これなら勝てるよ!)
 造花作りの腕前だったら、前のぼくに、と考えたけれど。
 サイオンではとても敵いはしない前の自分に、造花作りなら勝てる筈だと思ったけれど…。
(いつ作るわけ?)
 ソルジャー・ブルーに勝てそうな造花。「ほらね」と作って誇らしげに。
 作れるだろうと思うけれども、今の時代は造花作りはただの趣味。青く蘇った水の星では、緑は自然に育つもの。零れて地面に落ちた種でも、美しい花を咲かせるもの。
(特別な設備は何も要らなくて…)
 野原でも、山でも、海辺に広がる砂浜でだって、植物たちが生きている。動物の影さえ見えない砂漠に行っても、其処に適応した植物たち。
(雨が降ったら、花畑だって…)
 生まれるらしい、砂漠という場所。ほんの短い間だけ出来る、夢のような砂漠の中の花園。
 そんな時代に造花をわざわざ作らなくても、花はいくらでも手に入る。家の庭でも、沢山の花を扱う花屋でも。…野原や山に咲く花が欲しいなら、其処へ出掛けてゆきさえすれば。
 今だと造花は、趣味で作って楽しむもの。欠かせない場所があるとしたなら、ペットのいる家。この記事にも「お勧めです」と書かれているから、買っている人も多いだろう。
 けれど…。
(ハーレイと暮らす家にペットは…)
 多分いないし、造花の出番は全く無い。本物の花を生けた花瓶を蹴倒すペットがいないなら。
 まるで必要ない造花などを、作っても褒めて貰えるかどうか。…あのハーレイに。
 きっと上手に作れるだろうに。前の自分には作れそうにない、とても素敵なものなのに。



 この写真のも作れそう、と眺めた新聞にある造花たち。本物そっくり、それを作ってハーレイに披露してみても…。
(綺麗に出来たな、って言われておしまい…)
 そんな感じ、とガッカリしながら食べ終えたおやつ。新聞を閉じて二階の自分の部屋に戻って、造花のことを考える。勉強机の前に座って。
 前の自分に勝てそうだけれど、作ってみても出番が全く無い造花。
 家でペットを飼っていないなら、造花を飾る必要は無い。本物を飾っておけば済むこと。花瓶にドッサリ生けておいても、倒されることも、齧られることも無いのだから。
 同じ花なら、造花よりも本物の花の方がいいに決まっている。地球の光や水が育てた花。生命の輝きをたっぷり宿した、本物の花が。
 それに…。
(前のぼくが作っていないから…)
 作った所で、比べようもない造花作りの腕前。今の自分の自己満足。「器用なんだよ」と。
 前の自分が酷い出来のを作っていたなら、今度は見事な造花を作って威張れるのに。サイオンはまるで不器用だけれど、造花作りならソルジャー・ブルーに負けはしない、と。
(…比べるものが無いんだもの…)
 どんなに上手に作り上げても、ハーレイに褒めて貰えるだけ。「頑張ったな」という程度。
 今の自分の裁縫の腕なら、ハーレイも認めてくれたのだけれど。
(…今のお前は器用なもんだな、って…)
 言って貰えた、裁縫の腕。取れかかっていたシャツのボタンを縫い付けた時に。
 ハーレイのシャツの袖口についていたボタン。「取れかかってるよ」と気付いて言ったら、毟り取ろうとしたハーレイ。知らない間に取れてしまって、落として失くすと困るから。
 「待って」と止めて、上手に縫い付けた。家庭科で使う裁縫セットで。
(前のぼくだと、失敗なんだよ)
 ソルジャー・ブルーがやった大失敗。前のハーレイの上着の袖のほころび、それを直そうとして上手くいかなくて…。
(失敗したから、からかわれて…)
 縫い目も針跡も無いシャツを作ってプレゼントした。スカボローフェアの恋歌のシャツを。歌に出て来る言葉通りに、縫い目も針跡も無い亜麻のシャツを見事に作り上げて。



 前の自分がサイオンで作った奇跡のシャツ。縫い目も針跡も無かった亜麻のシャツはもう、今の自分には作れない。とことん不器用になったサイオン、前の自分の真似は出来ない。
 けれど、今度は器用な手先。裁縫だって上手くなったし、前の自分よりも遥かに上。
(造花、ぼくなら作れそうなのに…)
 きっと出来ると思うけれども、比べようもない前の自分の腕前の方。造花は作らなかったから。
 ついでに、造花を作ってみたって、それの出番が無い始末。ペットを飼っていないのならば。
(迷子の子猫を見付けて飼っても…)
 じきに飼い主が迎えに来る。小さな子猫が花に悪戯する前に。「造花にしなきゃ」と家中の花を取り替える前に、元の家に帰ってゆく子猫。お母さん猫がいる家へ。
(…造花の出番はホントに無さそう…)
 残念だけど、と溜息を零していたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが来てくれたけれど、造花の腕前は自慢出来ない。まだ作ってもいないわけだし、これからも作る予定は無いし…。
 考え込むから、途切れた言葉。テーブルを挟んで、向かい合わせで話していても。
「どうした、何か悩み事か?」
 黙っちまって、とハーレイに尋ねられたから、思い切って言ってみることにした。
「ハーレイ、造花を知っている?」
「はあ?」
 造花って何だ、いきなり何を言い出すんだ…?
 分からんぞ、と瞬く鳶色の瞳。「造花がどうかしたのか?」と。
「造花だってば、本物そっくりに出来た花だよ。今日の新聞に載っていて…」
 元々は地球が滅びそうだった時代に、緑が欲しくて造花を作ったらしいけど…。
 今は本物の花があるから、ペットがいる家にお勧めだって。
 ペットは花に悪戯するしね、と記事の受け売り。花瓶を倒したり、花を齧ったりするペット。
「ああ、あれなあ…!」
 本物と区別がつかんヤツだな、すぐ側に行って観察しないと。葉っぱの虫食いまで真似るから。
 俺の家にもあったっけな、とハーレイは顔を綻ばせた。
 まだハーレイが子供だった頃で、隣町の家には猫のミーシャも。ハーレイの母が飼っていた猫、真っ白で甘えん坊だったミーシャ。



 その頃だったら俺の家にもあったんだ、とハーレイは懐かしそうだから。
「あったの、造花?」
 本物みたいに見える造花が、ハーレイの家にもあったわけ…?
「そりゃまあ、なあ…? ミーシャもやっぱり猫だから…」
 甘えん坊でも、猫ってヤツには違いない。猫にしてみれば、飾ってある花はオモチャだしな?
 人間様の都合なんかは考えないぞ、と言うだけあって、遊んで駄目にしてしまう花。
 齧って花をボロボロにしたり、花瓶ごと引っくり返したり。
 普段はそれでもいいのだけれども、来客があった時には困る。楽しんで貰おうと、玄関や客間に飾った花たち。それが台無しになったなら。…油断して目を離した隙に。
 そうならないよう、用意されたのが造花たち。本物そっくりに出来ている花。
「…造花、お客様用の花だったんだ…」
 いつも造花ってわけじゃなくって、お客様の時だけ飾る花…。
「おふくろは花が好きだからなあ、飾るのも、庭で育てるのも」
 綺麗な花が咲いた時には、家の中でも見たいもんだし…。本物の花が一番だ。齧られてもな。
 しかし、誰かが来るとなったら、齧られた花じゃみっともないし…。倒れた花瓶は論外だ。
 それじゃマズイから、おふくろがせっせと作っていたぞ。
 庭の花を切って来たように見せて、玄関や客間に造花ってな。
「ハーレイのお母さん、作れちゃうの?」
 本物そっくりに見える造花を作っていたの…?
 ミーシャが家にいた頃は、と丸くなった目。ハーレイの母が、造花作りの大先輩だなんて。腕のいい先輩がいるとなったら、挑戦するのもいいだろうか、と考えたのに…。
「すまん、言い方が悪かった。おふくろは生けていただけだってな」
「え?」
 生けてただけって…。それじゃ、作っていたんじゃないの?
「そういうこった。お前も新聞で読んだんだろうが、ペットのいる家にお勧めだと」
 おふくろだって知っていたから、セットになってる花を買わずに、色々なのを買ってだな…。
 そいつを上手く生けていくんだ、花瓶とかに。
 庭から切って来たばかりです、といった感じに見えるようにな。



 ハーレイの母が買っていた造花。水が入っているように見える花瓶つきの花や、植木鉢がついているのは避けて。庭に咲いている季節の花と同じ種類のを、何本も。
 来客の時は、ミーシャが齧りそうな場所には、そういう造花。大きな花瓶に沢山生けたり、一輪挿しに一輪だとか。
「ミーシャが齧ったりしないように造花…」
 それに花瓶も、倒されちゃっても大丈夫なように。造花だったら水は要らないものね。
 やっぱりペットがいないと駄目かあ…。家に造花を飾るのは…。
 ハーレイの家にミーシャが住んでいた頃も、普段は本物の花を飾っていたみたいだし…。
「どうしたんだ、お前?」
 やたらと造花を気にしているが、と覗き込んでくる鳶色の瞳。「欲しいのか?」と。
「えっとね…。読んでた記事に、作り方とか歴史が書いてあったから…」
 前のぼくだと造花を作るのは無理そうだけれど、今のぼくなら作れそう、って…。
 今なら裁縫もちゃんと出来るし、ああいう造花も作れそうだと思わない?
「なるほどな。前のお前は不器用だったし…」
 裁縫の腕は不器用すぎて、俺の方が遥かにマシだったからな。お前が下手に努力するより、俺がやった方が早かったんだ。
 前のお前が「出来る」と言い張った挙句に出来たの、縫い目も針跡も無いシャツだったから…。
 俺にからかわれたのを根に持っちまって、仕返しに作り上げたっけな。
「そう。…前のぼくだと、ああいうことになっちゃうんだよ」
 今のぼくはサイオンが不器用になってしまって、あんなシャツは作れないけれど…。
 造花は上手に作れそうだよ、作り方をちゃんと覚えたら。
「だろうな、教室もあるそうだから」
 今じゃ人気の趣味の一つで、通ってる人も多い筈だぞ。
 本物の花を育てるのもいいが、ただの布から本物そっくりの花を作るのも楽しいらしい。
 ちょいと工夫すりゃ、自分だけの花が作れるからな。
「だよね、庭に咲いてる花をお手本にすればいいんだから」
 そういう教室に通って習えば、凄いのが作れそうだけど…。
 でも…。



 作っても家では出番が無いよ、と零れた溜息。いつかハーレイと暮らす家では、ペットは飼っていないだろうから。
「そうでしょ、ペットを飼おうっていう話は出てないし…」
 ペットを飼ったら、ぼくはペットに嫉妬しちゃいそう。ハーレイが可愛がってるのを見て。
 撫でて貰ったり、抱っこされてたり、ハーレイの膝に乗っかってたり…。
 そんなのを見たら、「どいて」ってペットを放り出しそう。「ぼくの場所だよ」って。
「…やりかねないよな、お前だったら」
 ミーシャに負けない甘えん坊だし、子猫相手でも本気で怒りそうではある。俺を盗られたと。
 もっとも、俺の方でも同じことなんだがな。
 お前がペットを飼い始めたなら、俺はペットに嫉妬するぞ。お前の愛情がそっちに向くから。
 つまりだ、俺もお前も、ペットを飼うには不向きなんだよなあ…。
 ちょっと預かるくらいならいいが、という話。誰かが留守にしている間に、預かるペット。
「そのくらいなら…。可愛いだろうし、じきに帰ってしまうんだから…」
 ぼくも嫉妬はしないと思う。ハーレイを放って、夢中で世話していそうだけれど…。
 だけど、ホントに少しの間だけだから…。造花が無いと、って思うほどではないものね…。
 とても残念、と項垂れた。
 造花を上手に作れそうな自分。前の自分よりも優れた部分を発見したのに、出番なしになる造花作りの腕前。いくら見事に作り上げても、飾るべき場所も場面も無いから。
「ふうむ…。造花作りの腕前なあ…」
 お前が腕を誇りたいなら、場所を作ってやってもいいが。…どうやら家じゃ無理そうだしな。
 俺もお前も、ペットを飼う気は無いんだから。
「場所って?」
 どういう場所を作ってくれるの、ぼくたちの家じゃないのなら…?
 ハーレイの学校とかなのかな、と首を傾げたら、「それに近いな」という返事。
「造花ってヤツは本物と違って頑丈だからな。夏の真っ盛りの暑い時でも萎れないし…」
 カンカンと陽が照り付ける場所に飾っておいても、少しも傷みやしないから…。
 今の俺は柔道部の顧問なんだが、赴任してゆく学校によっては、水泳部を任されることもある。
 俺が水泳部の顧問になった時にだ、夏の大会用の花束をだな…。



 造花で作ればいいじゃないか、というのがハーレイが用意してくれる場所。
 暑い夏は水の季節なのだし、水泳の大会も開催される。その大会で好成績を収めた生徒が貰える花束。優勝はもちろん、自分の学校の水泳部の中では優れた戦果を挙げた生徒も。
 会場になるプールが屋外だったら、燦々と降り注ぐ真夏の日射し。花束には過酷すぎる環境。
 大会の間に萎れないよう、置かせて貰える部屋が設けてあるのだけれども、造花だったらプールサイドに飾っておいても萎れない。応援している生徒と一緒に、太陽の下。
「勝ったらコレだ、と花束を掲げて士気を鼓舞するわけだな」
 応援ついでに振り回したって、造花は散ったりしないから…。丁度良さそうだぞ、大会用に。
 俺が水泳部の顧問になったら頑張ってくれ、と注文された花束作り。造花を束ねて、真夏の太陽にも負けない花束。見た目は本物そっくりなのに、萎れる心配が無い花束。
「そういう風にしか使えないよね…。ぼくが造花を作っても」
 ハーレイだって、あんまり褒めてくれそうにないし…。いくら上手に作っても。
 大会用の花束だったら、生徒にあげてしまうんだから。
 出来上がったら、直ぐに車に積んじゃいそう、と溜息をついた。ろくに眺めてくれもしないで、車のトランクに仕舞うハーレイ。トランクでなければ、後部座席に乗せるとか。
「お前なあ…。出番さえあれば、いいってわけではないんだな?」
 だったら俺たちの家に飾ればいいじゃないか。腕前を披露したいのならば。
 ペットなんぞは飼ってなくても、お前の趣味の作品ってことで。
 そういう人も少なくないぞ、とハーレイは許してくれたのだけれど。本物の花を飾る代わりに、造花を幾つも飾っておいてもいいらしいけれど…。
「ぼくはあんまり楽しくないかも…。造花は作ってみたいけれどね」
 家に飾っておくんだったら、本物の花が一番でしょ?
 造花よりかは、本物だってば。
 ああいう造花が出来た時代は、家に沢山の花を飾るんだったら、造花しか無かったんだけど…。
 色々な花を育てたくても、個人の家でやるのは無理だったんだけど…。
 今は好きなだけ育てられるよ、庭の花壇でも、鉢植えでも。
 本物の花が山ほどあるのに、造花だなんて…。
 自分では上手く育てられなくても、花屋さんに行ったら、花はいくらでもあるんだから。



 本物があるのに造花なんて、と賛成出来ないハーレイの意見。
 造花作りの腕はともかく、家に飾るなら、本物がいいと思うから。造花よりも断然、本物の花。
「だってそうでしょ、今のぼくたちは地球にいるんだよ?」
 前のぼくたちが生きてた頃には、青い地球は何処にも無かったけれど…。
 今は本物の青い地球だし、其処で育った花が一杯。…造花を飾るより、地球の花だよ。
 本物の地球の花がいいよ、と反対意見を述べた。造花作りは魅力的でも、家に飾るための花なら本物。ペットが悪戯しないなら。齧ってしまうペットがいないのならば。
「そう来たか…。お前が言うのも、分からないではないんだが…」
 おふくろがミーシャを飼ってた頃でも、普段は本物の花を飾っていたからな。
 俺たちだけしか見ないんだったら、齧られていようが、花瓶ごと倒れて水浸しだろうが、問題は何も無いわけだから…。ミーシャはおふくろの猫だったんだし、おふくろがそれでいいのなら。
 おふくろ、何度も拭いてたっけな、花瓶が引っくり返った床を。
 それでも花は本物に限る、と家の誰もが思っていたから、造花は客が来る時だけでだな…。
 待てよ、前のお前も同じことを言っていなかったか?
 花は本物に限るってヤツだ、とハーレイが訊くから、キョトンとした。
「なに、それ?」
 前のぼくが花の話だなんて、いつのことなの?
 ぼくは少しも覚えていないよ、本物の花がいいなんて話をしたことは。
 それに造花の話も知らない、問い返した言葉は嘘とは違う。本当に記憶に残っていないし、今の自分は何も知らない。前の自分が本当にそれを口にしたのか、そうでないのかも。
「いつだっけかな…」
 ちょっと待ってくれ、俺の記憶もハッキリしてはいないんだ。
 聞き覚えがあるな、と思った途端に、前のお前の顔が浮かんで来ただけで…。お前だった、と。
 確かにお前だったと思うが、前後がサッパリ思い出せない。
 本物の花に限るんだ、と言ったのは前のお前の筈だが…。いったい何処から花の話に…。
 前のお前と花見なんかをしてはいないと思うんだがな?
 花見ってヤツに出掛けようにも、前の俺たちにはシャングリラだけしか無かったし…。



 花見に行くのは無理だったぞ、とハーレイは考え込んでいる。「いつの話だ?」と。
「造花と本物の花を比べていたってことはだ…」
 本物の花の方が素敵だ、と前のお前は思ってたんだし、両方があった時代のことか…。
 それとも、造花しか無かったか。…本物の花は、船には無くて。
「白い鯨になる前かな?」
 あの頃だったら、花なんかは育てていないから…。改造直前の試験期間には、畑もあったけど。
 それよりも前は、食料も物資も奪い取るもので、花は物資の中に紛れていた程度…。
 本物も造花もたまに混ざっていたよね、食堂とかに飾っていたよ。
 みんなが楽しめる場所に、と思い出す遠い昔のこと。あの時代に言った言葉だろう、と。
「そうだと思うが…。花が貴重な頃だったしな」
 同じ花なら、本物の方がずっといい、と前のお前が言いそうな時代ではあった。花を奪って飾る余裕は無かった船だし、同じように物資に紛れてるんなら、本物がいいに決まってるしな。
 いや、違う…!
 白い鯨の時代だった、とハーレイがポンと手を打ったから、「まさか」と見開いた瞳。白い鯨になった船なら、花は充分あったから。どの公園にも、季節の花たち。
「白い鯨って…。ハーレイ、勘違いしていない?」
 あの船だったら、花は沢山あったじゃない。造花なんかを作らなくても、いくらでも。
 みんなが摘んで帰っちゃったら、すっかり無くなりそうだけれども…。
 きちんとルールが決まっていたでしょ、摘んでいい花とか、駄目な花とか。
 クローバーの花は摘み放題だよ、と逞しかった花の名前を挙げた。子供たちが摘んでは、花冠を作ってくれた。「ソルジャーにあげる」と、競うようにして。
 薔薇や百合などの観賞用の花も、皆が集まる場所に飾るなら切っても良かった。切った後にも、充分な花が残るなら。
 白いシャングリラには、幾つもあった花が咲く場所。
 ブリッジが見える一番広い公園の他にも、居住区のあちこちに鏤められていた小さな公園。どの公園にも花が咲いたし、造花の出番は無かった筈。
 前の自分が「本物の花に限る」と言い出さなくても、本物の花たちが船で育っていたのだから。



 きっとハーレイの勘違いだ、と思った前の自分のこと。「本物の花の方がいい」と造花と比べていたのだったら、白い鯨になる前だろう、と。
 けれどハーレイは、「間違えちゃいない」と自信たっぷり。「よく聞けよ?」と。
「本当に、白い鯨が出来上がってからの話だったんだ。俺はすっかり思い出したぞ」
 船の公園で色々な花が育ち始めて、花があるのが普通になった。
 公園は幾つもあったんだからな、何処かで花が咲いてるもんだ。花が終わった場所があっても。
 お蔭で、みんなが花を眺めて、「いい時代だ」と喜ぶようになったんだが…。
 どんなに花たちが愛されていても、場所によっては花は育てられない。飾ることもな。
 此処にも花があればいいのに、と思いはしたって、無理な環境はあるもんだ。
 花瓶や植木鉢を置いても、室温がやたらと高い場所では、アッと言う間に萎れてしまう。機関部とかだな、代表格は。
「…それで?」
 花が無理だというのは分かるよ、機関部ならね。あそこには高温の場所も沢山あったから。
 だけど、前のぼくとどう結び付くわけ、花には向かない場所の話が…?
「そういう所にも花を飾れないか、って声が出て来ちまって…」
 花がある暮らしが普通になったら、人間、欲が出てくるってな。此処でも見たい、と。
 公園や農場の係だったら、いつだって花は見放題だ。…だが、違う持ち場の仲間も多いから…。
 何か方法が無いだろうか、とエラたちが検討し始めてだな…。
 考え出したのが造花だった、という昔話。前の自分たちが、白いシャングリラで生きた頃。
 人類の船から奪った物資で暮らした時代に、何度か目にしていたのが造花。コンテナに詰まった物資に紛れて、本物そっくりの造花もあった。
 あれを作ろう、と思い付いたエラたち。
 本物の花が無理な場所には、本物そっくりの造花がいい。造花だったら萎れはしないし、高温の場所でも枯れはしないで咲き続けるから。
 データベースで調べた通りに作られた布。思い通りの色に染められて、造花を作ってゆける布。
 専用のコテなどもきちんと揃えて、女性たちが器用に作った造花。
 それは元々、女性の作業だったから。地球が滅びに向かう時代に、花たちで家を飾ろうと。



 白いシャングリラの女性たちが始めた、本物そっくりの造花作り。公園に咲いた本物の花たちを参考にしては、薔薇も百合も見事に作り上げた。布を染めたり、コテを使ったりして。
 後には子供たちも手伝うようになった、様々な造花を作ること。複雑なものは作れないけれど、簡単な花なら作れる子たちもいたものだから。
「お前、そいつに混ざり込んだんだ」
 子供たちのための造花教室。…遊びを兼ねて開かれてたヤツに、「ぼくもやるよ」と。
 ソルジャーお得意の我儘だってな、と笑うハーレイ。「子供たちと遊ぶのも仕事だったし」と。
「思い出した…!」
 出来そうな気がしたんだってば、造花を作ることくらい…。
 裁縫の腕とは関係無いしね、布を切ってコテで花びらとかに仕上げていくんだから。
 小さな子だって作ってたんだし、ぼくにも出来ると思ったんだよ。
 教室で教える花くらいなら…、と言ったけれども、そう思ったのは前の自分の勘違い。不器用な手でも作れるだろう、と勇んで参加してみたものの…。
「ソルジャー、大丈夫?」
 ちゃんと花びら、作れそうなの、と覗き込んで来た子供たち。格闘中の前の自分の手許を。
「うん、多分…」
 大丈夫だと思うけれど、と答えたものの、上手く扱えなかったコテ。こうだろうか、と花びらを曲げてゆこうとしたって、変な具合に曲がってしまう。とても花びらとは思えない風に。
「曲がっちゃったの? それ、直せない…?」
 手伝ってあげる、と横から伸びて来た小さな手。「こう直すの」と、「コテをこう当てて」と。
 下手くそな出来になっていたのを、それは器用に直してくれた子供たち。まだ小さいのに。
 負けてたまるか、と何度も教室に参加したけれど、惨憺たる成績だったソルジャー。
 いつも子供たちが手伝ってくれて、失敗したのを直してくれたり、助けたり。
 どう頑張っても、一人では完成させられなかった造花たち。ごくごく基本の花さえも。
 そんな有様だから、前のハーレイが青の間に来ては笑っていた。
 「また失敗をなさったそうで」と。
 造花教室が開かれることは、キャプテンも承知していたから。誰が教室に参加したかも、造花をきちんと仕上げることが出来たのかも。



 キャプテンの所に届いた報告。造花教室を開催したこと、ソルジャー・ブルーが参加したこと。講師を務めた女性たちが律儀に報告したから、前の自分の失敗談は筒抜けだった。
 ただし、女性たちの名誉のために言うなら、報告の中身はソルジャー・ブルーの失敗ではない。子供たちがソルジャーのために尽力したこと、そういう報告。
 「どの子たちも、よく頑張りました」と。与えられた課題以上のことをやったと、他の参加者の分も手伝い、それは見事に完成させた、と。
 女性たちはそう書いたのだけれど、前のハーレイには直ぐに分かった。「他の参加者」とは誰のことなのか、どうして手伝いが必要なのかも。
 それをハーレイに笑われる度に、仏頂面で言っていた自分。
「造花なんてね…。あんなのは紛い物だから。そっくりに見えても、よく見たら布だ」
 本物の花が一番なんだよ、布で出来てる花じゃない。自然が作った本物の花が最高なんだ。
 この船に自然は無いと言っても、花の命までは作れないだろう?
 だから自然の産物なんだよ、この船で咲く花たちも。…あれが本物で、同じ花でも全部違うよ。
 本物の花たちを真似ようとするのが間違っているね、真似られないぼくが正しいんだ。
 人間の身では神様の真似は出来ないだろう、と屁理屈ばかりこねていた。
 「自然に敬意を抱いているから、本物そっくりの造花は作れない」と。
 そっくりの造花を作るというのは、神と自然への冒涜だとも。
「お前、そう言ったわけなんだが…」
 前のお前は確かに言ったぞ、造花作りに出掛けて失敗してくる度に。
 俺が笑わずに教室のことを黙ってた時は、そんな話は全く出ては来なかったんだが…。
 本物そっくりの造花が何処にあろうが、機関部の視察で目にしようがな。
 「これは駄目だ」とは言わなかっただろうが、と今のハーレイが言う通り。
 ソルジャーとキャプテン、その組み合わせで出掛けた視察。機関部に行くことも何度もあった。
 其処で造花を目にした時には、「いいものだね」と語り合ったほど。
 「こんな所にも、花を置こうと思える時代になって良かった」と。
 皆の心に余裕が無ければ、花が欲しいとは思わないから。
 本物の花が置けない場所でも、「造花でいいから花があれば」と考えたりはしないのだから。



 白いシャングリラの機関部にあった、本物そっくりの様々な造花。季節に合わせて、替えていた造花。春らしい花が置かれていたり、高温の場所とも思えない冬の花があったり。
「前のお前は自然に敬意を抱いていたから、造花を作れなかったらしいが…」
 いくら挑んでも、本物そっくりの造花作りは、ついに成功しなかったんだが…。
 今のお前がそいつを作れるってことはだ、お前、自然に敬意を抱いていないのか?
 青い水の星に戻った地球に来たのに、自然はどうでもいいってか…?
 とても上手に造花を作れるらしいじゃないか、とハーレイが浮かべた意地の悪い笑み。前よりも上手に作れるのなら、自然への敬意が無いんだな、と。
「酷いよ、ハーレイ!」
 それ、揚げ足を取るって言わない?
 前のぼくが言ってたことを持ち出して、今のぼくと比べて苛めるだなんて…!
「これか? より正確に表現するなら、言葉尻を捉えると言うんだが…」
 揚げ足を取るって言い方よりかは、そっちの方が正しいぞ、うん。
 で、どうなっているんだ、今のお前の敬意の方は?
 自然への敬意は前に比べて、どうしようもなく減っているのか…?
 青い地球にまで来ておきながら…、と面白そうな顔で見ているハーレイ。「どうなんだ?」と。
「ちゃんと敬意を抱いてるってば…!」
 前のぼくよりもずっと多いよ、本物の地球に来たんだから…!
 テラフォーミングされた星じゃなくって、生き返った青い地球なんだから…!
「だったら、本物そっくりの造花ってヤツは、作らなくてもいいだろう」
 ペットを飼ってて、必要になって来たというなら話は別だが…。
 前のお前にも造花作りは無理だったんだし、今のお前が続きを頑張らなくてもな…?
 無理をしなくてもいいじゃないか、とハーレイは明らかに楽しんでいる。造花作りのことを。
「前のぼくのは…。あの頃はホントに作れなかったわけで、今のぼくなら…!」
 手先がずっと器用になったし、造花だって綺麗に作れるよ。きっと、本物そっくりに。
 また教室に行って習えば、今度は本物そっくりの造花…。
「ほほう…? 本物そっくりに作れるとなると…」
 自然への敬意ってヤツはどうした、前のお前が抱いていた敬意はどうなったんだ…?



 今のお前の自然への敬意は、前のお前より劣るのか、とハーレイに苛められたから。
 ソルジャー・ブルーだった頃にこねた屁理屈、それを持ち出されてしまったから。
(今のぼくなら、前のぼくより器用で凄い筈なのに…)
 前は作れなかった造花を、本物そっくりに仕上げて自慢出来そうなのに。
 「こんなに上手に作れたんだよ」と、ハーレイにも見せびらかしたいのに。
 もしも器用に作り上げたら、自然への敬意がどうこうと言った、前の自分が足を引っ張る。
 今の自分も自然に敬意を抱いているというのに、それが台無し。…前の自分の屁理屈のせいで。
(前のぼく…)
 なんて余計なことを前のハーレイに言ったんだろう、と悔しいけれども、とうに手遅れ。
 前の自分は訂正しないで死んでしまって、今のハーレイが思い出したから。
(生まれ変わるなんて、思わなかったし…)
 不器用な手先が器用になるとも、まるで思っていなかったのだし、仕方ない。
 前の自分に勝てるつもりが、無残に負けた。
 造花作りなら、ソルジャー・ブルーだった頃の自分に、鮮やかに勝てる筈だったのに。
 前よりもずっと見事に作って、「ぼくの勝ちだ」と誇れる筈だったのに…。
 ソルジャー・ブルーは、今の自分に戦わずして勝ちを収めた。
 不器用すぎた前の自分の必死の言い訳、それをハーレイが覚えていたから。
 今の自分が造花を作ると、自然への敬意が無いことになってしまうから。
(…後悔先に立たず…)
 ホントに先に立たなかったよ、と情けない気分。ハーレイのニヤニヤ笑いを前に。
 今頃だなんてスケールの大きな後悔だよねと、前のぼくにも未来は見えなかったから、と…。




               造花と本物・了


※造花作りなら前の自分に勝てる、と思ったブルー。それは間違いなかったのですが…。
 前のブルーが失敗する度、こねていた屁理屈。今のブルーには、造花を作ることは無理そう。
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