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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧
(あれ?)
 降ってるの、とブルーが見上げた空。学校の帰り、バス停から家まで歩く途中に。
 空は確かに曇り空。バスを降りた時には気付かなかったけれど、頬に微かに感じた水滴。
(小糠雨…)
 まるで見えないような雨粒、それが漂い、落ちてくる空。鞄に入れている折り畳み傘を、広げるほどではないけれど。この程度ならば、家に帰るまで大丈夫。本当に霧のようだから。
 小糠雨というのは霧雨のことだと、ハーレイの授業で教わった。いつだったかは忘れたけれど。
(授業じゃなくて、雑談だっけ?)
 ハーレイの授業で人気の雑談、そっちの中身の方かもしれない。あるいは授業か、記憶は定かでないのだけれども、小糠雨を習ったのは本当。
 これがそうか、と思った雨。濡れないくらいに細かい雨粒。
 生憎と自分は糠の方を殆ど知らないけれど。精米した時に出来る粉だ、という程度の知識。
(糠を使って、お漬物…)
 今はお漬物もある時代。遠い昔の日本の文化を復活させている地域なのだし、色々なのが。糠を使って漬けるお漬物もあるのだけれども、母はキッチンで漬けてはいない。糠漬けなんかは。
 つまり家では出番が無い糠、自分とは馴染みが薄すぎる。家で精米する人もいるらしいけれど、それとも縁の無い家だから。
 料理上手の母だとはいえ、其処まではしない。精米機を買って、自分の好みで精米なんて。
(ハーレイもそう言っていたかな?)
 小糠雨について説明する時、「家に糠のあるヤツ、少ないだろうな」と。
 この地域の主食は米だけれども、普通は店で買ってくるだけ。精米されて袋に入っているのを、必要な分だけ買って来て炊く。家族が多いとか、食べ盛りの子供がいるなら配達を頼んだりして。
(お米、とっても重たいもんね…)
 小さな袋でもズシリとするから、大きな袋は買い物のついでに持って帰るのは無理だろう。今の自分には馴染み深い米、けれどそこまで。精米までは家ではしなくて、見かけない糠。
 ならば、やっぱり雑談だったろうか、ハーレイの授業の小糠雨。授業で話題にしたのだったら、本物の糠を持って来そうなのがハーレイだから。「これが糠だ」と。



 雑談かもね、と思う小糠雨。たまたま授業中に降っていたとか、雨が降りそうな空だったとか。大粒ではなくて、こういう雨が。傘が無くても、少しの距離なら濡れずに歩いてゆける雨。
(…雨の名前…)
 小糠雨の他にも、今は色々。霧雨はもちろん、村雨だとか時雨だとか。同じ雨でも春なら春雨、秋なら秋雨、そんな具合に。
 挙げていったら幾つでもある雨たちの名前。季節の雨やら、雨の降り方を表す言葉。沢山の名は日本ならではだと、こちらは古典の授業で聞いた。遠い昔の日本人たちが名付けた雨。
 他の国だと、大抵はただの雨なのに。雨は「雨」とだけで、細かく分かれてはいないのに。
(何処の国でも、いろんな降り方…)
 しそうだけどね、と考えながら帰った家。熱帯だったら、叩き付けるように降り出すスコール。渇いた砂漠をしっとりと潤す雨だってきっと、あるのだろうに。
(昔の日本の人たちが繊細だったのかな…?)
 移り変わる季節を歌に詠んでいた日本人。花たちも木々も、その上に降って来る雨も。
 自然を細かく観察したなら、色々な名前も生まれるだろうか。この雨はこう呼ぶのがいい、と。一人がそれを思い付いたら、歌を通して伝わるだろう。様々な人が見て、それを口にして。
(そういうトコから出来た名前かな…?)
 幾つもの雨の名前たち。ダイニングでおやつを食べる間も、小糠雨は降っていたものだから…。
 二階の自分の部屋に戻って窓から見たら、しっとりとしている庭の木々の枝。それに葉っぱも。いくら細かい霧のような雨でも、これだけ長く降り続いたら、そこそこの量になってくる。
(今はこうだけど、本降りになったら…)
 もしもハーレイが来てくれたならば傘だよね、と思う「本降り」。
 仕事の帰りに寄ってくれたら、車を降りるなりハーレイは傘を広げるだろう。傘を差さないと、濡れてしまうから。門扉の所でチャイムを鳴らして待っている間に、ずぶ濡れだから。
 その「本降り」も遠い昔の日本で生まれた言葉。本格的に降る雨のこと。
 細かい霧雨、小糠雨を降らせる時間はおしまい、と音を立てて空から落ちてくる。もっと激しい雨になったら、土砂降りと呼ばれる時だって。
 傘では防ぎ切れない雨が土砂降り、地面で跳ね返って靴などを濡らしたりもする酷い雨。



 ハーレイが来た時に土砂降りだったら大変だよね、と思うけれども、様々な雨の名前たち。空の上から落ちてくる雨、それに名前が幾つもある。
(なんだか素敵…)
 雨の名前が多いのは日本の文化だけれども、それだけ色々な降り方をするのが地球の雨。空から地上に降り注ぐ時に、小糠雨やら、土砂降りやら。
(前のぼくが暮らしたシャングリラだと…)
 雨さえも降りはしなかった。船での暮らしに雨は不要で、それを真似た散水システムも無し。
 前の自分が提案してみても、「非効率的だ」と反対された。白いシャングリラの公園に水を撒くシステムは今のが一番だから、と。
 長老たちと協議した末、決まったのがランダムな時間に散水すること。それまでは夜間に撒いていたのを、「何日の何時」とも決めないで。
 いきなり公園に降り注ぐ水は人気を集めたけれども、あくまで雨の紛い物。本物ではないから、小糠雨が降りはしなかった。土砂降りの雨も。
 人工の雨でさえなかったものね、と考えていたら聞こえたチャイム。この時間なら、ハーレイが来たのに決まっている、と駆け寄った窓。
(ハーレイ、傘かな?)
 小糠雨でも、雨は雨。きっと傘だ、と庭を隔てた門扉の向こうを見下ろしたのに。
 こちらに手を振るハーレイは傘を持ってはいなくて、母が出てゆくのが見えた。門扉を開けに。その母の手に、男物の傘。父が持っている傘の中の一つ。
(パパの傘…)
 此処まで声は聞こえないけれど、「どうぞ」と渡しているのだろう。受け取ったハーレイが頭を下げて、その傘をポンと広げたから。母の傘より大きな傘を。
(…ぼく、一階にいれば良かった…)
 ダイニングでもリビングでも。キッチンでもいいから、とにかく一階。
 其処にいたなら、今のチャイムで出てゆけたから。母の代わりに「ぼくが行くよ」と。
 そうしていたら、きっとハーレイと相合傘。母はハーレイの分の傘を手にして行ったけれども、傘を一つだけ持って出掛けて。二人で入れる傘を一本だけ差して。
 土砂降りではなくて小糠雨だし、傘は無くてもかまわない程度の霧雨だから。



 父が差している傘は大きくて、小糠雨なら二人で一本でも充分。ハーレイを迎えに門扉の所まで出て行ったならば、「濡れるから入って」と言えばいい。濡れないくらいの小糠雨でも。
 ハーレイと二人で傘を一本、門扉から玄関までの庭を歩くだけの距離でも相合傘。
 チビの自分が傘を持っていたって、ハーレイの背には届かない。傘をハーレイの手に「はい」と渡して、自分は隣に入って歩く。ハーレイと二人、仲良く並んで。
(相合傘、前に一回だけ…)
 折り畳みの傘を忘れて登校した時、ハーレイに傘を借りに出掛けた。サイオンが不器用すぎて、シールドではとても防げない雨。学校で借りられる傘も一本も残っていなくて、困り果てて。
 「傘を貸して下さい」と職員室へ頼みに行ったら、「ほら」とハーレイが貸してくれた傘。その上、バス停まで送ってくれた。ハーレイが差す傘に入れて貰って、相合傘で。
(貸してくれた傘、バスに乗るまで使わなくって…)
 家から近いバス停で降りて、初めて差した。ハーレイの肩は濡れていたのに、気にも留めないでバス停まで送ってくれた。バスに乗る時も傘を差し掛けてくれて。
 それが一度きりの相合傘。あれっきり二度と出来ていないから、今日のチャンスを逃したことが残念な気分。「一階にいれば良かったよ」と。
 そう思うから、ハーレイが部屋に来てくれてテーブルを挟んで向かい合うなり、口にした。
「ぼくが迎えに行きたかったな…。ママの代わりに」
 チャイムが鳴ったら、門扉のトコまで。…一階にいたら行けたのに…。
「はあ?」
 なんでお前が迎えに出るんだ、いつだって部屋で待っているだろ。窓から俺に手を振るだけで。
 いったいどういう風の吹き回しだ、とハーレイは怪訝そうな顔。「何かあるのか?」と。
「相合傘だよ、ぼくが行ったら出来たでしょ?」
 ママが傘を持って迎えに行くのが見えたから…。パパの傘を。
 ちょっぴりだけど、雨が降っているもの。
 小糠雨でも雨は雨だよ、ハーレイを迎えに出て行くんなら傘を持たなくちゃ。
 でもね、ぼくはママとは違うから…。持って行く傘は一本だけ。
 二人で差してくればいいでしょ、相合傘で玄関まで。



 傘はハーレイが持ってくれればいいものね、と話した相合傘のこと。母の代わりに自分が迎えに行っていたなら、きっと出来た筈の相合傘。門扉の所から玄関まで。
 けれど、ハーレイは「無理だと思うが」と外にチラリと目をやった。窓の向こうに。
「まだ降っちゃいるが、こんな雨だと…。お前と相合傘はしないな」
 お前が傘を差していたって、俺は並んで歩くだけだ。お前の傘には入らないで。
「入らないって…。なんで?」
 雨だよ、ママだってパパの傘を渡しに行ったじゃない…!
 ハーレイが傘を持ってないから、濡れないようにパパの大きな傘…。
 だから、ぼくでも同じでしょ、と首を傾げた。傘を借りるか、相合傘かの違いだけだよ、と。
「そいつはお前の考え方で、俺にとってはそうじゃないってな」
 確かに雨は降ってたんだが、この雨だったら傘は要らないと思ったから持っていなかった。
 車には積んでおいたんだがなあ、あの程度なら降ろすまでもない。小糠雨だから。
 ついでに、俺が此処から帰る頃には、すっかり止んでいるだろうしな。
 酷くなりそうなら傘を持って降りたが、というのがハーレイの返事。傘が要らない小糠雨。
「傘は要らないって…。ハーレイの予報?」
 この雨は夜までに止んじゃうから、って傘を車に置いて来たわけ?
「そんなトコだな。天気予報でも、雨だとは言っていなかったから」
 今朝見た予報も雨じゃなかったし、車の中で聞いたのもそうだ。…明日の予報も雨じゃない。
 こういう雨なら、単なる空の気まぐれだな。ちょっと降らすか、といった具合で。
 それで車に傘を置いて来たんだが、お母さんがわざわざ傘を届けに来てくれたから…。
 「要りません」なんて言えやしないだろ、お母さんの好意が台無しだ。
 有難く借りて差してこそだな、せっかく「どうぞ」と俺に渡してくれたんだから。
 お母さんだったから、俺は傘を借りたが…。
 もしもお前が一人で迎えに出て来ていたなら、お前の傘は借りないな。
 「パパの傘だけど」と別のを渡された時は、「すまんな」と広げて差すんだろうが…。
 お前が「入って」と一本きりの傘を差し出したら、俺は決して受け取らないぞ。
 「濡れちまうから、お前が一人で差しておけ」って、断るだけで。



 お前は傘を差して、俺は隣で傘無しで玄関まで行くってだけだな、というのがハーレイの意見。小糠雨なら傘には入ってくれないらしい。ハーレイ用にと別の傘があれば、差してくれても。
「それ、つまらないよ! なんで入ってくれないわけ?」
 どうして相合傘は駄目なの、前に一度だけやったじゃない!
 ぼくが折り畳みの傘を忘れて困っていた時に、ハーレイ、バス停まで送ってくれたよ?
 あの時は学校の帰りだったのに、と食い下がらずにはいられない。学校だったら出来た相合傘。先生と生徒でも出来たというのに、家だとそれが出来ないなんて、と。
「相合傘なあ…。確かに一度送ってやったが、あれを狙っているのか、お前?」
 俺と相合傘がしたくて、今日も迎えに出たかった、と。…一階にいて、俺に気付いたら。
 傘を持ってはいないと分かれば、お前の分の傘を一本だけ差して。
 俺用の傘は持たないで…、とハーレイが確認するものだから、「うん」と素直に頷いた。
「そうだけど…。駄目?」
 今日みたいな雨だと断られちゃうなら、もっと降ってる日じゃないと無理…?
 でも、本降りの雨の日だったら、ハーレイ、傘を持ってるよね…。車に置いて来たりしないで。
「当然だろうが、でないと濡れてしまうからな。…ジョギング中なら気にしないんだが」
 学校の帰りだと、スーツが駄目になっちまう。シールドするのも、この年だとなあ…。
 お前くらいのガキならともかく、大人ってヤツはシールドだけで雨の中を歩きはしないから。
 つまり、お前の家では無理だな、俺と相合傘をするのは。
 だからと言って、わざと傘を忘れて学校に来るのは許さんぞ。不幸な忘れ物なら許すが。
 わざと忘れたなら、傘だけ持たせて放り出すからな、と睨むハーレイ。「送ってやらん」と。
「そんなこと、絶対やらないってば。わざと忘れて行くなんて」
 だけど、ぼくだって人間だから…。忘れる時には忘れちゃうんだってば、気を付けていても。
 本当だよ、と言ったけれども、「どうなんだか…」とハーレイは疑いの眼差し。
「今日の出来事が切っ掛けになって、やるかもしれんって気がするんだが?」
 午後から雨が降りそうです、と予報を聞いて、鞄から傘を出しちまうこと。チャンス到来、と。
 もっとも、お前の企みは顔に出るからな…。でなきゃ心の中身がすっかり零れちまうか。
 俺には全てお見通しだぞ、と鳶色の瞳で見据えられた。「悪だくみをしても無駄だからな」と。



 傘を忘れて学校に行っても、わざとだったら断られるらしい相合傘。ハーレイは傘を「ほら」と渡して、それっきり。相合傘でバス停までは送ってくれない。「わざとだろう?」と睨まれて。
(…嘘をついてもバレちゃうもんね…)
 相合傘は無理なんだ、と残念でガックリ落とした肩。家では無理だし、学校でも無理。ウッカリ傘を忘れない限り、二人で入ってゆけない傘。一本の傘で相合傘で歩くこと。
 こんな雨でも駄目なんだよね、と眺めた窓の向こうの庭。まだ降っている小糠雨。
「ハーレイ、この雨、小糠雨だよね?」
 相合傘とは関係ないけど、前にハーレイが教えてくれたよ。学校で、古典の授業の時に。
 細かくて糠みたいに見える雨だから小糠雨…、と指差したガラスの向こう側。霧のような雨。
「おっ、覚えてたか? 小糠雨のこと」
 雑談で話しただけだったんだが、よく覚えてたな。授業とは関係無かったのに。
 ただの糠の話だったのにな、とハーレイは嬉しそうな顔。「ちゃんと聞いててくれたか」と。
「雑談だって、ハーレイの話ならきちんと聞くよ。他の生徒も雑談の時間は大好きだよ?」
 授業の時には居眠ってる子も、雑談の時には起きるんだから。
 でもアレ、授業じゃなかったんだ…。小糠雨、授業だったかも、って思ってて…。
 ちょっぴり自信が無かったんだよ、と白状したら、「そうだろうな」と返った笑み。
「まるで関係無くはなかった。あの時の授業には雨も出て来ていたから」
 授業のついでに脱線しておくことにしたんだ、糠ってヤツを教えてやろうと。
 お前たちには馴染みが薄いモンだろ、小糠雨はともかく、糠の方は。
 米の飯を食ってりゃ、その前に糠がある筈なんだが、と教室で聞いた話の繰り返し。精米したら出来るのが糠で、白い御飯を食べようとしたら糠は必ず出来るもの。…目にしないだけで。
「授業でもそう言ってたけれど…。糠って何かの役に立つの?」
 美味しいお米を食べるためには、くっついていない方がいいから取り除いて糠になるんでしょ?
 お米の邪魔者みたいなもので、お店でお米を買って来る時は、もうくっついていないもの。
 わざと残したお米もあるけど、普通はくっついていないんだよね…?
 白い御飯に糠の部分は無いんでしょ、と忘れてはいない糠のこと。御飯粒が光る御飯の時だと、糠の元になる部分は取り除かれた後だから。
 糠の元を纏ったままだと玄米、好き嫌いが分かれてしまう米だとハーレイの授業で聞いたから。



 真っ白な御飯にならないらしい米が玄米、お店に並んでいるお米は綺麗に精米したものが殆ど。健康志向で玄米を食べる人はいたって、それ以外で糠が役立つかどうか。
 普通はお目にかからないし…、と思った糠。多分、家にも無いだろうから。
 そうしたら…。
「授業でも言ったぞ、漬物に使うと。…糠漬けだな」
 糠漬けは糠が無いと作れん、他の物じゃ駄目だ。糠で漬けるからこそ、糠漬けなんだし。
 そいつを馬鹿にしちゃいけないぞ、とハーレイが言うから驚いた。糠漬けは漬物の一種なのに。
「…糠漬け、そんなに大事なの?」
 馬鹿にしちゃ駄目だ、って言うくらいに大切なお漬物なの、糠漬けは…?
 お漬物の中の一つじゃないの、と不思議でたまらない糠漬け。お漬物は和風の料理に欠かせないけれど、糠漬けでなくても良さそうな感じ。お漬物なら何でもいいんじゃないの、と思うから。
「今はそうでもないんだが…。漬物ってヤツも色々あるから、好みで選べばいいんだが…」
 うんと昔は、漬物とくれば糠漬けだった。そして大切だったんだ。
 糠味噌女房って言葉があったくらいに、糠漬けは毎日の生活に欠かせない漬物だったらしいぞ。
「…なにそれ?」
 糠漬けはなんとなく分かったけれども、糠味噌女房って何のことなの…?
 分かんないよ、とキョトンと見開いた瞳。「女房」なのだし、糠味噌女房は奥さんだろうか?
 まるで初耳な言葉だけれど。…糠味噌と言われてもピンと来ないけれども。
「知らんだろうなあ、糠味噌女房は。…古典の授業じゃ、そうそう出番が無いから」
 しかし昔の日本って国では、馴染みの言葉だったんだ。糠漬けと同じくらいにな。
 糠漬けを作るには、糠床っていうヤツが要る。それに使うのが糠味噌だ。糠に塩と水を加えて、混ぜ合わせて発酵させるんだが…。
 ずっと昔は、何処の家にも糠床があった。今みたいに沢山の料理が無いから、おかずは糠漬け。それしか無いって家も珍しくなかったほどだ。おかずは糠漬けだけだ、ってな。
 その糠漬けを作る糠味噌、そいつの匂いがしみつくくらいに、長い年月、一緒に暮らす奥さん。
 糠味噌女房はそういう女性を指す言葉なんだ、長年連れ添った大事な女性だとな。
 ところが、途中で勘違いをして、けなす言葉だと間違えたヤツらも多かった。所帯じみた女性を指しているのが、糠味噌女房なんだとな。



 それは間違いだったんだが…、とハーレイが浮かべた苦笑い。「本当は褒め言葉なんだぞ」と。
「匂いがしみつくって辺りで誤解が生まれたんだろうな、所帯じみてると」
 だが、実際の所は違う。糠味噌の匂いがしみついたのは何故なのか、という理由が大切なんだ。
 糠味噌は毎日世話をしないと、腐って駄目になっちまう。腐ったら糠漬けはもう作れない。
 そうならないよう、糠味噌の世話を決して忘れないからこそ、匂いが身体にしみつくわけで…。
 手抜きをしない気の利いた女性という意味なんだな、糠味噌女房の本当の意味は。
 そんなわけだから、もしも前のお前が、俺の嫁さんだったなら…。
 まさに糠味噌女房ってトコだな、長い長い間、ずっと一緒にいたんだから。
 糠味噌の世話はしていなかったが、シャングリラを守っていた自慢の嫁さんだ。糠味噌よりも、ずっと大事な俺たちのミュウの箱舟を。
 本当に気の利いた嫁さんだった、とハーレイは懐かしそうな顔。前の自分たちが恋をしたことは誰にも話せなかったし、最後まで秘密だったのだけれど。…結婚式も挙げていないのだけれど。
 それでも「気の利いた嫁さんだった」と言って貰えるのがソルジャー・ブルー。
 今のハーレイが思い出しても、「糠味噌女房だった」という褒め言葉が直ぐに出てくる人。
 それに比べて、今の自分はどうだろう?
 シャングリラを守って生きるどころか、本物の糠味噌さえも知らない有様。糠味噌を守ることも出来ない、情けない「お嫁さん」になりそうな自分。
「…今のぼくだと、どうなっちゃうの?」
 前のぼくは糠味噌女房になれるけれども、今のぼくだと無理みたい…。
 シャングリラを守る代わりに糠味噌の方を守ってろ、って言われても…。ぼくは糠味噌、触ったこともないよ。糠だってよく分かってないから、糠味噌、作るのも無理そうだけど…。
 お塩と水は分かるんだけど、と項垂れた。肝心の糠の知識が無いから。
「ふうむ…。今度は本物の糠味噌女房になるのも難しそうだ、というわけか」
 糠ってヤツは、なかなかの優れものなんだがなあ…。米にとっては邪魔者だが。
 真っ白な飯を炊きたかったら、糠の部分は取っちまわないと駄目なんだが…。
 そうやって出来た糠の方はだ、漬物を作る他にも使えるんだぞ。
 料理をするなら、タケノコのアク抜きに大活躍だ。タケノコを茹でる時に糠を入れるんだな。
 糠を入れずにタケノコを茹でても、美味いタケノコにはなってくれんし。



 茹でるなら糠を入れてやらんと、とハーレイが教えてくれたタケノコの茹で方。茹でるのに糠が要るのだったら。この家にも糠があるかもしれない。タケノコが出回るシーズンならば。
「そっか、タケノコにも糠なんだ…。ハーレイ、糠に詳しいんだね」
 雑談の種にしただけじゃなくて、本物の糠にも詳しそう。…タケノコ、糠で茹でたりするの?
 一人暮らしでも茹でているの、と尋ねたら。
「それは流石にやらないなあ…。けっこう手間がかかるもんだし、俺は貰って来る方だ」
 おふくろが好きでな、春になったら茹でるから…。そいつの瓶詰を分けて貰って使ってる。
 親父が釣りのついでに沢山採って来たのを、茹でては端から保存用の瓶に詰めるんだ。
 そのおふくろは、実は糠漬けも得意でな。色々なものを漬け込んでいるぞ、旬の野菜を中心に。
 俺にも届けてくれるんだ、とハーレイ自慢の「おふくろの味」。隣町の家で、毎日世話をされているのが糠味噌。美味しい糠漬けが食べられるように。
 きちんと世話をしてやらないと、糠味噌は腐ってしまうから。腐ったら糠漬けが作れないから。
 ということは、糠漬けが得意なハーレイの母は…。
「ちょっと待ってよ、ハーレイのお母さんが糠漬けが得意だってことは…」
 ハーレイのお母さんは糠味噌女房になるの、そういうことなの?
 本物の糠味噌女房だよね、と確認したら、「そうなるな」という返事が返って来た
「俺の嫁さんじゃなくて、親父の嫁さんではあるが…。立派に糠味噌女房だろう」
 糠味噌を腐らせたこともないしな、俺の記憶にある限り。…糠床はいつも働いてるから。
 親父たちの家で活躍中だ、と聞かされた糠床。…美味しい糠漬けが生まれる糠味噌。壺に入っているらしいそれは、ハーレイが幼かった頃から隣町の家にあるそうだから…。
「…ハーレイのお母さんが糠味噌女房だったら、ぼく、どうなるの…?」
 ぼくが糠味噌、使えなかったらどうなっちゃうの…?
 ハーレイのお嫁さんになっても、糠漬けが作れないままだったら…?
 今のままだとそうなっちゃうよ、と心配でたまらない未来のこと。糠さえも縁が無い自分。
 糠味噌女房になれやしない、と不安な気持ちがこみ上げてくる。
 前の自分は糠味噌女房だったのに。…糠味噌ではなくてシャングリラだけれど、立派に守って、世話を欠かさなかったのに。



 今度の自分は駄目かもしれない、と気掛かりな糠味噌女房のこと。今のハーレイに褒めて貰える糠味噌女房、それにはなれないかもしれない、と。
 けれどハーレイは気付いていないらしくて、「何の話だ?」と逆に問い返して来た。
「お前がいったいどうなると言うんだ、何の話をしてるんだ、お前…?」
 俺にはサッパリ分からないんだが、と思い当たる節が無いらしい。ソルジャー・ブルーを糠味噌女房だったと褒めて、ハーレイの母も糠味噌女房だと語っていたというのに。
 それを言う前には、糠味噌女房は褒め言葉だと説明してくれたのに。…理由もきちんと。
 だからおずおずと問い掛けた。糠味噌女房になれそうもない今の自分のことを。
「…あのね、今のぼく…。駄目なお嫁さんだ、っていうことになってしまわない…?」
 糠漬けなんかは作れそうになくて、シャングリラだって守ってなくて…。
 前のぼくなら糠味噌女房になれたけれども、今のぼくだとホントに駄目そう…。
 糠漬けが作れないようなお嫁さんだったら、と俯き加減。本当にそうなってしまいそうだから。
「おいおい、糠漬けって…。お前、最初から料理はしないだろうが」
 何度もそういう話になったぞ、お前は何もしなくていいと。料理も掃除も、何一つとして。
 お前が嫁さんになってくれるだけで俺は幸せだし、お前は何もしなくていいんだ。
 前のお前は頑張りすぎたし、今度はのんびりすればいい。家のことなんか、何もしないで。
 それに料理は、俺の方が上手なんだから。…前の俺だった時からな。
 なんたって厨房出身だぞ、とハーレイが威張るキャプテン・ハーレイ時代。シャングリラの舵を握る前にはフライパンを握っていたわけなのだし、料理は昔から得意だと。前のハーレイが料理をしていた時代も、「お前は見ていただけだろうが」と。
「そうだけど…。前のぼくも料理はしていないけど…」
 今のぼくはソルジャー・ブルーじゃないから、いいお嫁さんになれるんだったら、頑張らないと駄目なのかな、って…。
 糠味噌女房になるためだったら、糠漬けも作れた方がいいかな、って…。
 ちっとも自信が無いけれど、と今も分からない糠漬けのこと。糠味噌の作り方だって。
「お前が糠味噌女房なあ…」
 その心意気は大したもんだが、お前、本気なのか?
 なにしろ相手は糠味噌なわけで、糠床の世話が日課になるわけなんだが…?



 糠味噌の匂いがしみつくのが糠味噌女房だぞ、と鳶色の瞳に覗き込まれた。「本気か?」と。
「お前が糠床の世話をするのか、どうにも似合っていないんだが…」
 なんたってアレは臭いからなあ、とハーレイが言うから目を丸くした。糠味噌の匂いとだけしか聞いていないけれども、臭いのだろうか、糠味噌は…?
「えっと…。糠味噌、臭いの?」
 ホントに臭いの、何かの例えで臭いって言ってるわけじゃなくって…?
 ただの匂いじゃないと言うの、と重ねて訊いたら、「こんな匂いだが?」とハーレイが思念波で送って来たイメージ。プンと鼻をついた独特の匂い。…確かに臭い。
「いいか、こいつを毎日、手で掻き回すのが糠床の世話ってヤツだぞ。…出来るのか?」
 蓋を開けては中を掻き回して、いい具合に漬かったヤツを取り出す、と。
 糠漬けになった野菜ももちろん臭いからなあ、匂わないよう、糠味噌をきちんと落とすんだ。
 そういう作業を毎日やってりゃ、糠味噌臭くもなるだろうが。
 糠味噌女房はそういうモンだが、お前、そいつになりたいのか、と尋ねられた。こういう匂いを嗅いだ後でも、まだ頑張って目指すのか、と。
「…ぼく、無理かも…。毎日世話するくらいだったら、って思っていたけど…」
 臭いだなんて思わないから、糠漬けも作れた方がいいかな、って…。糠味噌女房、今のぼくでもなれるなら、って…。前のぼくみたいなのは絶対、無理なんだけど…。
 この糠味噌も無理みたい、と音を上げざるを得ない糠味噌の匂い。いい香りとは呼べないから。
「ほら見ろ、無理はしなくていい。この俺だって漬けていないぞ、糠漬けは」
 臭いからっていうのはともかく、一人分だと面倒だしな。…漬かりすぎちまって。
 お前と結婚した後も、おふくろのを貰えばいいだろう。今まで通りに、「分けてくれ」とな。
 糠漬け、お前も食べるんだったら、お前の分も。
 おふくろは喜んで分けてくれるさ、とハーレイは保証してくれたけれど。ハーレイの母ならば、きっとそうだろうけれど、その糠漬け。
「でも…。糠漬けが上手に作れたら…」
 糠床の世話がきちんと出来てて、美味しい糠漬けを漬けられたら褒めて貰えるんでしょ?
 ちゃんと糠味噌女房なんだし、ハーレイだって自慢出来るだろうから…。



 糠味噌女房のお嫁さん…、と思ったけれど。ハーレイの自慢のお嫁さんになれると、そのために努力するべきだろうと考えたけれど…。
「そりゃまあ…。褒めて貰えるだろうな、おふくろにな」
「え?」
 なんでハーレイのお母さんなの、褒めてくれる人…?
 ハーレイのお嫁さんのぼくを褒めるの、どうしてハーレイのお母さんになるの…?
 もっと他にも大勢いるでしょ、と思い浮かべたハーレイの友人や知人たち。家に来た人に御馳走したなら、本当に立派な糠味噌女房になれそうなのに…。
「他のヤツらがどう褒めるんだ? 俺の友達は滅多に家に来ないぞ」
 普段から出入りするのは親父とおふくろ、もちろん親父も褒めるだろう。「いい嫁さんだ」と。
 だがな、他に何度もやって来るのは、俺の教え子たちだから…。
 お前、糠漬けを御馳走するのか、柔道部員や水泳部員といった連中に…?
 あいつらは確かに食べ盛りだが、と挙げられたハーレイの教え子たち。運動部員で、スポーツに励む男の子たち。
(えーっと…?)
 どうだろう、と考えてみなくても分かる。今の自分も、あまり馴染みのない糠漬け。他にも色々あるお漬物も、子供の口に合いはしないだろう。好き嫌いが無い自分はともかく、あれこれ好物を選んで食べたがる子供たちには。
「…ハーレイのクラブの生徒だと…。糠漬け、喜ばれそうな感じじゃないね…」
 遠慮なくどうぞ、って沢山出しても、殆ど残ってしまうのかも…。
「当たり前だろうが。バーベキューだの、宅配ピザだのでワイワイやるのが定番なんだぞ?」
 そんなメニューに糠漬けが合うのか、同じキュウリならピクルスだろうと思うがな?
 糠漬けで出して貰うよりは…、とハーレイが苦笑している通り。きっと運動部員たちが大喜びでつまむ漬物はピクルスの方。同じキュウリでも、糠漬けよりは。
「…ぼくもピクルスだと思う…」
 糠漬けを美味しく食べて貰うのは無理そうだよ。
 バーベキューとかピザが台無し、ぼくが糠漬けを山ほど運んで行ったらね。



 いくらハーレイも自慢の糠漬けでも…、とションボリせざるを得ない糠漬けの末路。臭い糠床でせっせと漬けても、ハーレイの教え子たちには喜ばれない。同じキュウリなら断然、ピクルス。
「そう思うんなら、糠漬けはやめておくんだな」
 お前がドッサリ漬けてみたって、来る日も来る日も糠漬けだらけになるだけなんだし…。
 毎日続くと飽きるだろうが。少しずつなら、ちょいと楽しみってことにもなるが。
 食べたい時にサッと出て来てこそだ、とハーレイが言うから、それも糠味噌女房の条件だろう。長年一緒に暮らしているから、何も言われなくても、好みの物を「これだ」と出せること。
「ハーレイのお母さんはどうやってるの?」
 沢山漬けすぎたりはしないんでしょ。普段はお父さんと二人で暮らしているんだから。
「おふくろか? そこは長年やってる達人だから、加減が上手い」
 漬かりすぎない内に出しておくのも、次のを漬けるタイミングもな。
 だが、お前が同じことをやり始めても、そういうコツを掴むまでには、色々失敗もありそうだ。
 もっとも、おふくろに教わって糠漬けを始めると言うんなら…。
 何度も失敗したとしたって、上手く漬かれば、おふくろの味になるんだがな。
 俺のおふくろの味の糠漬けに…、とハーレイは自信たっぷりだから。
「それ、簡単なの?」
 糠漬け、難しそうなのに…。そんなのでハーレイのお母さんの味、ぼくでも出せるの…?
「うむ。下手な料理より簡単だろうな、糠漬けだったら」
 糠床は家によって違うし、出来る糠漬けもその家の味になるらしい。
 塩と水を混ぜて発酵させると言っただろ?
 それぞれの家の菌があるんだ、糠床を発酵させてるヤツが。…それぞれの場所で。
 糠床は腐らせなければ子々孫々まで受け継げるという話だからなあ、おふくろの糠床もそうだ。
 親父と結婚しようって時に、家から持って来たんだから。
 おふくろの家にあった糠床を少し分けて貰って、同じ菌で発酵するようにとな。
「ええっ!?」
 だったら、ハーレイのお母さんに糠漬けを習えば、同じ糠床を分けて貰えるわけで…。
 ぼくがきちんと世話をしてたら、ハーレイのお母さんとおんなじ糠漬けが作れるんだよね…?



 糠床を分けて貰いさえすれば、隣町に住むハーレイの母のと同じ味になるという糠漬け。世話を忘れさえしなければ。きちんと毎日、掻き混ぜたなら。
 そうと聞いたら、それを受け継ぐのが「おふくろの味」の早道だろうか。同じ味になる糠床さえあれば、後は世話だけなのだから。漬けるタイミングをしっかり覚えて。
「ぼく、やってみたい!」
 ハーレイのお母さんの糠床を分けて貰えば、ぼくの糠漬け、おふくろの味になるんでしょ?
 それなら作るよ、ハーレイのために。…頑張って糠味噌女房になるよ。
 今度のぼくも、と意気込んだ。白いシャングリラを守る代わりに糠床だよ、と。
「いいのか、おふくろの味と言っても、糠漬け限定になっちまうんだが…?」
 お前のお母さんが焼くパウンドケーキだけでいいんだがなあ、俺の場合は。…おふくろの味。
 あれと同じ味のをお前が焼いてくれたら、もう最高だと思うわけだが…。
 糠床の管理は大変なんだぞ、毎日、掻き混ぜないといけないから。でないと腐っちまうしな。
「ハーレイのお母さん、旅行の時にはどうしているの?」
 旅行にも持って行って混ぜるの、まさか其処までしていないよね…?
 留守の間は誰かに預けてるとか…、と投げ掛けた問い。でないと駄目になる糠床。なのに…。
「それはだな…。預かった方も大変だろうが」
 同じ糠漬け仲間がいるならいいがだ、いない人だっているんだろうし…。
 今の時代は秘密兵器があるんだ、糠床を管理してくれる機械。
 ダテにSD体制の時代を経ちゃいないようだ、と笑うハーレイ。留守の間は機械の出番だ、と。
「糠床専門の機械だなんて…。それがあるなら簡単じゃない!」
 ぼくでも出来るよ、機械が番をしてくれるんなら。…忘れていたって、代わりに管理。
「それは駄目だな、普段から機械に手伝わせるだなんて。そんな糠床は俺は認めん」
 毎日自分で掻き混ぜるのが、糠漬け作りの基本なんだ。糠床をしっかり管理すること。
 臭くても、手にも身体にも糠味噌の匂いがしみついてもな。
 どうするんだ、糠味噌女房、目指すか?
 今度こそ本物になると言うなら、おふくろには俺から頼んでやるが…?
 いつかお前と結婚した時は、糠床を分けて貰うこと、とハーレイは請け合ってくれたけれども。



「どうしよう…?」
 糠床、分けて貰ったんなら、途中で投げ出しちゃ駄目だよね…?
 臭いから嫌だって言っても駄目だし、毎日混ぜるのが面倒になってしまっても駄目…。
 どうしようかな、と思う糠漬け作り。ハーレイの母に糠床を分けて貰って頑張ること。
 難しそうな気もするけれども、せっかくだから挑んでみようか。
 白いシャングリラを守り続けた前の自分には、けして出来ないことだったから。糠床などは無い時代だったし、糠味噌女房になりたくてもハーレイと結婚出来なかったから。
「…考えておくよ、糠漬け作り…」
 ハーレイと結婚する頃までには、作るかどうかを決めておくから、作るんだったら頼んでね。
 お母さんが自分の家から持って来た糠床、ぼくにも分けて貰えるように。
「もちろんだ。…それに、おふくろの糠漬けを食ってから決めてもいいと思うぞ」
 俺のおふくろの味を食ってみてから、お前も欲しいと思ったら。…あの味をな。
 おっ、小糠雨、止んでしまってるじゃないか。糠味噌の話をしている間に。
 木の葉が乾き始めているぞ、とハーレイが指差す窓の外。細かい雨はもう止んだ後。
「ホントだ。ハーレイ、傘を持って来なくて正解だったね」
 車に乗せたままで来たこと。…帰りも傘なら、送って行こうと思ってたのに…。相合傘で。
 ちょっと残念、と思ったけれども、仕方ない。小糠雨は止んでしまったから。
「当たるだろうが、俺の天気予報」
 今日は相合傘は無しだが、いつかはお前と相合傘だな。…小糠雨でも。
「糠味噌女房になっちゃっていても?」
 せっせと糠床の世話をしているお嫁さん。…なるかどうかは分かんないけど。
 糠床は難しそうだから、と舌を出したら、「まあな」と笑うハーレイ。「無理かもな」とも。
「しかしだ、本当に糠味噌を掻き混ぜているかどうかは、ともかくとして…」
 今度こそなってくれてこそだろ、糠味噌女房。…前のお前は、俺の嫁さんになれなかったから。
 お前とはいつまでも一緒なんだし、正真正銘、俺の糠味噌女房だってな。



 ちゃんと嫁さんになってくれよ、と言うハーレイと指切りしたから、いつまでも一緒。
 青く蘇った、この地球の上で。
 今度はいつまでも二人一緒に暮らして、糠味噌女房になれたら素敵だと思う。
 同じハーレイのお嫁さんになるなら、糠味噌の匂いがしみつくくらいの糠味噌女房。
 出来れば本物の糠床を世話して、おふくろの味のパウンドケーキも焼いて。
 今のハーレイが喜ぶ「おふくろの味」を、ちゃんと作れる糠味噌女房になれたら、きっと幸せ。
 ハーレイとしっかり手を繋ぎ合って、いつまでも何処までも、青い地球の上で二人一緒で…。




               小糠雨・了


※前のハーレイの糠味噌女房だった、ソルジャー・ブルー。糠漬けは作っていなくても。
 本物の糠味噌女房になりたいブルーですけど、どうなるのでしょう。糠床の世話は大変かも。
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(絵本、色々…)
 いろんな絵本があるんだね、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 子供のための絵本特集、広告記事とは違ったもの。様々な絵本を紹介する記事。
(赤ちゃん用から揃っているよ)
 文字も読めない赤ちゃん用から、自分で読める子供のための絵本まで。赤ちゃん用だと、紙ではなくて布で出来ている本だって。ページをめくって遊べる絵本。布のオモチャが詰まった中身。
(ぼくも持ってたよね?)
 こういう絵本。布だから分厚くなっていた絵本、ページにくっついた小さなオモチャ。剥がして遊んだ布の動物、別の所にくっつけたりして。布のニンジンやリンゴもあったと思う。
 文字が入った絵本の方だと、懐かしいものも、知らないものも。
(絵本、卒業しちゃったけれど…)
 今の年では読まないけれども、母がきちんと仕舞っている筈。大切なものを入れておく箱に。
 誰かにあげていないなら。知り合いに譲っていないのなら。
(あげちゃった本も…)
 何冊かあるのかもしれない。小さすぎて覚えていないだけで。
(赤ちゃん用の絵本だったら…)
 幼稚園の頃に「この本、あげていいかしら?」と訊かれて、「うん」と。何処かの家に生まれた赤ちゃん、その子に譲ってあげようと。
 一人前のお兄ちゃん気取りで、「あげていいよ」と笑顔になって。
(得意な顔して言ってそう…)
 赤ちゃん絵本は卒業だから、と大人になったような気分。卒業という言葉は、幼稚園児ではまだ知らないけれど。耳にしたって、意味が分からないほどだけれども。
 それでも赤ちゃん絵本は卒業、絵本は他所の家に行く。他の赤ちゃんが読むために。
 文字の入った絵本の方も、学校に入る年になったら誰かに譲ったかもしれない。繰り返し読んだ本は手放さなくても、お気に入りは残しておいたとしても。
 もう読まないよね、と思った本なら、これから絵本を読むだろう年の子供がいる家に。



 ぼくは卒業したんだから、と持っていた絵本を誰かにあげたら、貰った方でも…。
(きっと、大切に何度も読んで…)
 その子が絵本を卒業する時、まだ綺麗なら、次の誰かにプレゼント。絵本を読む年の子供がいる家、自分よりも小さな子供の家に。
 自分だってまだ小さいくせに、うんと大きなお兄ちゃんや、お姉ちゃんになったような気分で、「あげていいよ」と。読みたい子供に譲ってあげる、と。
(それって、幸せなリレー…)
 家から家へと旅をする絵本。欲しがりそうな子供がいる家へ。
 赤ちゃん用の絵本だったら、何軒もの家を旅していそう。赤ちゃん絵本は卒業するのも早いし、次の赤ちゃんがいる家へ。お気に入りの絵本が他に出来たら、次の赤ちゃんにプレゼント。
(赤ちゃんだったら、わざわざ「あげていい?」って訊かなくっても…)
 様子を見ながら「もう読まないわね」と、譲ることだってあるだろう。絵本で遊ばなくなったら卒業、持ち主だった赤ちゃんの方も、絵本のことは思い出しさえしないまま。
 文字が入った絵本になったら、お気に入りは手放さないけれど。
 両親だってちゃんと分かっているから、「あげてもいい?」とは訊かないだろうけど。
(ぼくのだよ、って怒るに決まっているもんね?)
 大切な本を手放すなんて、とんでもないから。他の誰かにプレゼントなんて出来ないから。
(何処かに隠してしまいそうだよ、幼稚園に行ってる間に消えないように…)
 幼稚園児でも、ちゃんと頑張って隠すんだから、と思いながら戻った二階の部屋。ケーキなどのお皿を母に返して、階段をトントン上っていって。
(お気に入りの絵本を誰かにあげられそうになったら、隠してたよね?)
 もうこの部屋はあったんだから、と勉強机の前に座って考える。旅をしてゆく絵本のこと。
 この家から旅に出た絵本があるなら、赤ちゃん用の絵本か、あげてもいい本。部屋に隠して守る代わりに、「あげてもいいよ」と頷いた本。一人前のお兄ちゃんになった気分で。
(絵本だって、きっと幸せだよね?)
 そうやって旅に出る方が。この家で仕舞い込まれているより、他の家へと。
 旅をする間に、「あげてもいい本」から「お気に入りの本」になって、見付かる棲み家。絵本の旅は其処でおしまい、読まなくなった後も大切に何処かに仕舞われたりして。



 本の好みは人によって色々、同じ絵本でも分かれる反応。
(表紙を見ただけで気に入っちゃうとか、「好きじゃないよ」って思うとか…)
 子供の数だけあるだろう個性、どんな絵本でも「気に入ってくれる人」が何処かにいる筈。広い世界の何処かに、きっと。
 子供の間は、お気に入りはうんと大切なのだし、隠してでも守り抜きたいほど。幼稚園児の頭で思い付くような隠し場所なら、大人はお見通しだろうけれど。「やっぱり此処ね」と探し当てて、笑って、元通りにしておきそうだけれど。「隠すくらいに大切なんだわ」と。
 お気に入りの絵本は、子供にとっては宝物。誰にも譲ってあげない絵本。
(そういう宝物になってるといいな…)
 この家から何処かへ旅に出た絵本があるのなら。幼かった自分が読んだ絵本が旅に出たなら。
 文字が入った絵本はもちろん、赤ちゃん用の絵本にしたって、あちこち旅をして回って…。
(宝物にはなれないままで、くたびれちゃっても、幸せだよね?)
 一番最後に辿り着いた家で、もうこれ以上の旅は無理だ、と卒業の後で捨てられたって、御礼の言葉を貰えるだろう。「うちの子供と遊んでくれて、ありがとう」と。
 赤ちゃんや子供は知らん顔でも、その家の大人たちから、きっと。「お疲れ様」と労われて。
(絵本だから、幸せな旅が出来るんだよね?)
 家から家へと旅を続けて、何人もの子供たちと出会って、読まれて。
 お気に入りの絵本になれたら旅は終わりで、その家の子供と一緒に暮らす。とても幸せに。
 けれども、それは絵本だから。
 同じ本でも、自分くらいの年に育ってしまっていたなら、お気に入りの一冊があったって…。
(ぼくの本だよ、って抱き締めたりはしないし…)
 留守の間に消えないようにと、隠すことだってしないだろう。両親が勝手に誰かに譲ってしまうことなど無いのだから。「あの子にあげよう」と棚から出して。
 お気に入りの数も増えてしまって、本棚一杯に詰まった本。
 此処から見ても、背表紙だけで本の中身が思い出せるほど。「あの本は…」と、直ぐに。
 わざわざ広げて眺めなくても、どの本もお気に入りばかりだから。



 これからも何冊も増えてゆくのだろう、お気に入りの本。増えすぎて本棚に入らなくなっても、旅に出たりはしないと思う。どの本も大切なのだから。
(本棚が増えるだけだよね?)
 増えた本を入れるための本棚。そしていつかは、父やハーレイのように書斎が出来たりも。本を読むために作ってある部屋、本が暮らしてゆくための部屋。
 旅に出掛ける本があるなら、「面白そうだ」と買ってみたのに、つまらなかった本くらい。誰か欲しがる人がいないか、友達に声を掛けたりして。「良かったら、読む?」と。
 幼い頃に「欲しい人があるから、あげてもいい?」と訊かれる絵本とは違った旅。「いいよ」と一人前になったつもりで、旅に出すのが絵本だけれど…。
(今の年だと、本も自分で選ぶから…)
 買ったけれども失敗だった、と思った本を旅に出すだけ。誰か気に入る人がいれば、と。
 絵本を読んでいた頃だったら、新しい絵本を買って貰えるまで、つまらない本でも読んだのに。今ほど沢山の本は無いから、お気に入りばかり読んでいたって飽きるから。
(絵本の方が、普通の本より幸せかも…)
 家から家へと旅も出来るし、子供の宝物にもなれる。「ぼくの本だよ」と隠すくらいの。
 この年になれば、其処までの本には、そう簡単には出会えない。宝物と呼べるほどの一冊。今のぼくだと大切な本は…、と視線がゆくのが白いシャングリラの写真集。
 ハーレイに「いい本があるぞ」と教えて貰って、父に強請った豪華版。お小遣いで買うには高い本だし、「パパ、お願い」と。
 あの写真集は、ハーレイとお揃い。ハーレイの家にも同じ写真集があるから、ちゃんとお揃い。
(あれは絶対、誰にもあげたりしないんだから…)
 いつかハーレイと結婚する時も、あの写真集を持って行く。ハーレイの家へ運ぶ荷物に、大切に詰めて。運ぶ間に傷まないよう、柔らかい紙か布かでくるんでやって。
 ハーレイの書斎に二冊並べて置くことになっても、どちらも宝物の本。ハーレイの分も、自分と一緒に引っ越した本も。
 とても大事な宝物だし、「二冊あるから」と誰かに譲りはしない。
 高い値段の豪華版だけに、欲しがる人が多くても。「二冊あるなら一冊欲しい」と頼まれても。
 もう絶対に、旅には出さない宝物。いつまでも二冊並べておく本。



(欲張りだけど、宝物だしね?)
 子供の頃の絵本じゃなくて写真集だけど、と思ったはずみに掠めた記憶。
 遠く遥かな時の彼方で、前の自分が生きていた頃。あの頃の本はどうだったろう、と。
(絵本、あったっけ…?)
 前の自分が暮らしていた船、シャングリラに。あの船に絵本はあったろうか、と。
 白い鯨には、もちろんあった。子供たちも乗っていた船なのだし、何冊も揃っていた絵本。養育部門に出掛けて行ったら、本棚に沢山並べてあった。広げて読んでいた子供たちも。
 けれど、それより前の時代。白い鯨に改造する前。
(あの頃だったら…)
 本は自分たちの手で製本するか、奪った物資に紛れていたのを手に入れて読むか。その二つしか方法は無くて、製本するなら希望者の多い本から順に。「これが欲しい」と声が上がったら、係がせっせと作っていた。データベースにある本の中身を印刷して。
 船にいたのは大人ばかりで、チビだったのは前の自分だけ。年だけは誰よりも上だったけれど、心も身体も長く成長を止めていたから。
 チビとは言っても、今の自分と変わらなかった姿。絵本を欲しがる子供ではない。
(絵本が読みたい人なんか…)
 きっと一人もいなかったろう。「次は絵本を作って欲しい」と係に注文する者などは。
 人類の船から奪った物資に絵本が紛れていたとしたって、読もうと思う者は無い。他の本なら、残しておいたら読み手が現れるだろうけれど…。
(絵本、あっても…)
 読む人は誰もいないわけだし、物資に紛れて船に来た絵本は処分だったろうか?
 役に立たないガラクタと一緒に廃棄処分で、宇宙に捨てる。「これは要らない」と。
(余計な荷物は船に積んではおけないよね…?)
 ゴミと同じで邪魔になるだけ、早々に処分されたと思う。誰も読まない絵本なんかを残しておくわけが無いんだから、と分かっているのに、何故だか読んでいたような記憶。
 前の自分が、白い鯨になる前の船で。
 あった筈もない絵本を広げて、ページをめくっていたような…。



 ぱらり、とページを繰っていた記憶。絵本ならではの独特のページ。子供向けだから、ページの数は多くない本。何度かめくれば、じきに最後まで読める本。
 それを読んだ、という気がする。白い鯨になる前の船で、子供は一人もいなかった船で。
(なんで…?)
 絵本は廃棄処分にしてたんじゃないの、と不思議でたまらない記憶。無かった筈の絵本を読めはしないし、ページをめくれるわけがない。絵本は船に無いのだから。
 それなのに絵本を読んでいた自分。白い鯨の時代の記憶と混ざっているとも思えない。白い鯨で読んでいたなら、青の間にいる筈だから。…絵本の記憶はそうではないから。
(青の間が出来てから、そういう夢でも見たのかな…?)
 改造前の船にいる夢を、と考え込んでいたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、丁度いい、とぶつけてみた質問。テーブルを挟んで向かい合わせで。
「あのね…。絵本は、あっても処分だよね?」
 処分するでしょ、誰も絵本を読む人なんかはいないんだもの。
「はあ? 絵本って…」
 お前の学校の図書室のことか、何処かから本の寄贈があったら、確かに振り分けするんだが…。家のを丸ごと貰ったりしたら、絵本も混ざっていたりするしな。
 しかし処分ということはないぞ、せっかくの好意なんだから。何処に置くのが一番なのか、皆で決めるのが振り分けだ。上の学校に送るのがいいか、下の学校に届けに行くか。
 絵本だったら、幼稚園という所だな。…処分したりはしない筈だが、と今のハーレイならではの答え。学校の教師をしているのだから、当然だけれど。
「違うよ、ぼくの学校じゃなくてシャングリラだよ。白い鯨になる前のね」
 本は色々揃っていたけど、図書室もちゃんとあったけど…。
 置いてあった本は、読む人がいる本ばかりでしょ?
 物資に紛れていた本もそうだし、シャングリラで作った本だって。…読みたい人がいる本だけ。
 絵本なんかは無かった筈だよ、物資の中に混じっていたって、きっと処分で。
 船に置いても、絵本は邪魔になるだけだから、と説明したらハーレイも頷いた。
「だろうな、誰も読みやしないし」
 余計な荷物はゴミと同じだ、絵本は処分だったと思うぞ。…白い鯨じゃない頃ならな。



 お前の考えで合っている筈だ、と言うハーレイは備品倉庫の管理人を兼ねた時代もあった。まだ厨房にいた頃だったら、キャプテンではなくて備品倉庫の管理人。
 倉庫の管理をしていたのだから、其処に入れる物資のことにも詳しい。そのハーレイが「ゴミと同じだ」と断言するなら、絵本はゴミで廃棄処分になるのだけれど…。
「…えっとね…。絵本の扱い、ぼくもそうだと思うんだけど…」
 物資の中に紛れていたなら、捨てていた筈なのが絵本なんだけど…。でもね、絵本を読んでいたような気がするんだよ。前のぼくが、改造前の船でね。
 そういう記憶があるんだけれど、と話してみたら、「勘違いじゃないのか?」という返事。
「お前が絵本を読んでいたなら、白い鯨の方だろう。子供たちとも、よく遊んでたし…」
 養育部門で借りて帰って、青の間で読んでいたんじゃないか?
 読みながらウトウト眠っちまって、昔の船にいた頃の夢を見ていただとか…。
 ありそうだぞ、とハーレイの読みも似たようなもの。白い鯨で見た夢だろう、と。
「やっぱりそうかな…? 絵本、あるわけないものね…」
 だけど、夢にしてはハッキリしてるし、とても不思議で…。ページをめくっていた時の感じが、指先に残っていそうなほどだから。
 それでも、あれって夢なのかな…。前のぼくが見ていた夢だったのかな…?
 どう思う、と重ねて尋ねた。絵本の記憶は夢だろうか、と。
「うーむ…。やたらとリアルな夢ってヤツは、誰にでも覚えがあるもんだが…」
 夢の中でも痛かったとか、食っていた飯が美味かったとか。…その手の夢は確かにある。
 しかしだ、今のお前の場合は、生まれ変わって来ているわけで…。夢のことまで覚えているかというのが大いに問題だよなあ、ただの夢まで記憶に残っているかってトコが。
 要は絵本で、お前が絵本を読んでいた、と…。白い鯨じゃなかった時代のシャングリラで。
 備品倉庫の元管理人だった俺としてはだ…、とハーレイが追っている記憶。
 人類の船から奪った物資は直ぐに仕分けを始めるものだし、余計なものは船に積まないが、と。
「そうだよね。無駄な物資のためにスペースを割くわけがないし…」
 いつか役立ちそうなものなら、残しておこうって仕舞っておくこともあるだろうけど…。
 絵本はそういうものじゃないしね、役立つことも出番も無いから。
 本ならともかく絵本なんだし、絵本は子供がいないとね…。



 あの船に子供はいなかったから…、と何の気なしに言ったのだけれど。「やっぱり夢かな?」と話を終わらせようとしたのだけれども、「子供だと…?」と腕組みしたハーレイ。
「…子供は確かにいなかったよなあ、前のお前はチビだったんだが…」
 それでも成人検査の後だし、あの時代なら子供とは言わん。…俺の目にはチビの子供だったが。
 しかし、絵本を欲しがるような年の子供じゃないし…。
 子供ってヤツはいなかったんだ、とハーレイが何度も「子供」と繰り返すから。
「ハーレイ、子供がどうかしたの?」
 何か気になることでもあるわけ、あの船に子供がいなかったことで…?
「いや、子供って言葉が引っ掛かって…。絵本は子供がいないと駄目なんだ、って所がだな…」
 それだ、子供だ!
 あの船にも絵本を置いていたんだ、子供用に絵本を残していたぞ。
 お前の記憶は合っているんだ、前のお前が読んでいたのは本物の絵本だったんだ。勘違いでも、夢で見たわけでもなくて…、とハーレイが探り当てたらしい記憶。前のハーレイだった時代の。
 白い鯨ではなかった船に、絵本が乗っていたという。あの船に子供はいなかったのに。
「…絵本を残しておいたって…。子供用だ、って言ったよね?」
 もしかして、前のぼくがチビの子供だったから?
 成人検査は受けていたけど、それきり育たないままのチビ。心も身体もチビだったから…。
 ハーレイたちが育ててくれたみたいなものだし、絵本もそのためのものだったの…?
 ぼくの心の栄養にするのに絵本だったの、と訊いてみた。ハーレイたちは、あれこれ気配りしてくれたから。前の自分を育ててやろうと、食事にも、かける言葉などにも。
 絵本もその中の一つかと思った。長い年月を檻で独りぼっちで過ごす間に、心も身体も傷ついた子供。過酷な人体実験の末に、笑うことさえ忘れてしまった前の自分。
 そんな自分の心をゆっくり育ててゆくには、絵本が適していたのだろうか、と。
 けれど…。
「違う、そうじゃない。…前のお前も関係してはいたんだがな」
 船に絵本が乗っていたことと、前のお前は無関係ではないんだが…。
 お前のための絵本じゃなかった、そんな時代はとうの昔に終わっていたな。
 前のお前は絵本なんかを使わなくても、きちんと育ってくれたから…。ちゃんと大人に。



 最初の間は捨てていたんだ、とハーレイが教えてくれた絵本。奪った物資に紛れていたもの。
 ハーレイが備品倉庫の管理人だった頃には、「これは要らない」と不用品として廃棄処分。誰も欲しいと言わなかったし、読みたがる者もいなかったから。
 けれども、時が流れた船。
 ハーレイが船のキャプテンになって、前の自分はソルジャーに。身体も育って、大人になった。痩せっぽちのチビの子供は卒業、誰が見たって立派な大人。華奢で細くはあったのだけれど。
 育った後にも、ソルジャーの役目は変わらない。船を守ることと、人類の船から皆が生きるのに必要な物資を奪うこと。
「覚えていないか、お前が奪った物資の中に絵本のセットが混じってたのを」
 どういう理由で紛れてたのかは分からない。…育英都市に送る荷物だったのかもしれないな。
 子供の成長を追ってゆくように、赤ん坊のための絵本から揃っていたんだが…。
 絵だけの本から、少しだけ字が入っている本。…次は短い物語、といった風にな。
 珍しいから、と係が俺に報告して来て、お前やヒルマンたちと一緒に見に行ったんだが…。
 視察気分で絵本の検分、と聞かされたら蘇って来た記憶。ハーレイたちと見に出掛けた絵本。
 物資の仕分けをするための部屋に、備えられていたテーブルの上。絵本のセットは其処に並べて置かれていた。赤ん坊用の本から順に。
「おやまあ…。絵本と言っても、こういうセットもあるんだねえ…」
 続き物ではないみたいだけどね、と好奇心一杯で手に取ったのがブラウ。「面白そうだ」と。
「わしらも読んでいたんじゃろうなあ、何も覚えておらんのじゃが…」
 これと同じのを読んだかもしれんな、とゼルも開いてみた絵本。「生憎と思い出せんわ」とも。
「仕方ないだろう、我々はすっかり忘れてしまったからね」
 成人検査とアルタミラの檻にいた時代にね、とヒルマンにも無かった絵本の記憶。エラも、前の自分も、ハーレイもピンと来なかった。絵本のセットを前にしたって、手に取ったって。
(それでも、きっと、こういう絵本で育ったんだ、って…)
 同じ絵本を見たかもしれない、子供時代の自分が養父母に買って貰って。赤ん坊用のも、文字が入っている絵本も。
 きっと誰もが似たような気持ちだったろう。何も覚えていないけれども、自分もこういう絵本を読んで育ったのだ、と。



 皆でページを繰った本。赤ん坊用から揃った絵本のセット。感慨深く読んだ後には、この船には不要な本だから、と処分用の箱に入れたのだけれど…。
(…ぼくが読んでた絵本を箱に入れようとして…)
 先に誰かが放り込んでいた絵本、その上に重ねて置こうとした時。ふと考えた、前の自分。
 これは未来を築く本だ、と。捨てては駄目だと、慌てて箱から取り出した絵本。先に入っていた絵本も全部。「この本たちを捨てては駄目だ」と、順に並べたテーブルの上。
「まるで要らない本のようだけれど、ぼくは捨てるのには反対だ」
 分からないかい、この本たちは未来を築く本なんだよ。こうしてセットで揃ったお蔭で、これが持っている意味に気付いた。…未来を作るための本だと。
 だから捨てずに取っておこう、と提案したらブラウに問われた。「未来ってなんだい?」と。
「なんのことだかサッパリだよ。絵本の何処が未来なんだい、とうに過去じゃないか」
 あたしたちは大人なんだからね、というブラウの言葉は間違いではない。絵本を読んでいた子供時代は終わって、二度と戻って来はしないから。その記憶ごと。
 けれども、子供たちにとっては「これから」のこと。生まれて育つ子供たちには。
「…今は全く、未来なんかは見えないけれど…。でも、いつか…」
 いつかはこういう絵本を読む子が現れるかもしれないよ。人類ではなくて、ミュウの子供が。
 この船に絵本を読むような子が来て、この本を読んで育つんだよ。
 それが未来で、そのための本。…捨てずに残しておきたいじゃないか、未来のために。
 ミュウの子供を育てるためにね、と皆に話した未来のこと。絵本のセットが築くだろう未来。
「夢物語じゃ! 何が未来じゃ!」
 何処から子供が来ると言うんじゃ、この船に!
 わしらが隠れて生きてゆくだけで精一杯じゃ、とゼルは噛み付いたし、ヒルマンたちもいい顔をしなかったけれど。「現実味が無い」と皆が唱えたけれど。
「それは分かっているけれど…。これも一つの可能性だよ、未来のね」
 絵本を捨てずに残しておいたら、いつか絵本が必要な子供が来てくれるかも…。
 この本が子供を連れて来るとは言わないけれども、可能性は残しておかなければ。
 捨ててしまったら、未来も可能性も捨てることになる。…この船に未来は要らない、とね。
 子供を育てる未来が無いなら、この船はいつか終わるんだから。



 最後の一人の寿命が尽きたら終わりじゃないか、と厳しい現実を皆に突き付けた。今の船なら、その日は必ずやって来るから。…新しい仲間が、子供たちが船にやって来ないと駄目だから。
 未来への夢が一つくらいあってもいいだろう、と渋るゼルたちを説き伏せ、絵本のセットを備品倉庫に置かせた。場所はそれほど取らないから。
 今のシャングリラに子供が来る予定は無いけれど。子供を船に迎えるどころか、未来も見えない船なのだけれど。
(でも、いつか、って…)
 いつか絵本を読むような子供が来てくれたら…、と倉庫に出掛けて読んでいた絵本。赤ん坊用の絵だけの絵本も、文字が入っている絵本も。
 時には部屋にも持って帰って、絵本のページを繰っていた。前の自分の絵本の記憶は、その時のもの。白い鯨ではなかった頃の船で、何度も読んでいた絵本。
「あの本、どうなっちゃったんだろう?」
 絵本のセット、倉庫とか部屋で読んでいたけど…。あの本、何処へ行っちゃったかな…?
 その後が思い出せないんだけど…、と今のハーレイに訊いたら、直ぐに答えが返って来た。
「それはまあ…。絵本だって、いつかは駄目になるから…」
 いくら人類の船から奪った本でも、寿命ってヤツはあるもんだ。頑丈に出来ちゃいないから。
 そいつに気付いて、お前、注文をつけただろうが。
 今ある絵本がくたびれて来たから、新しい絵本を見付けた時には残しておけ、と。
 備品倉庫の管理係に命令していた筈だぞ、とキャプテンの記憶は流石に正確。船の全てを纏めていたのが、キャプテン・ハーレイなのだから。
「そうだっけ…!」
 絵本、残しておくように、って仕分けする係に言ったんだっけ…。
 セットになってる絵本じゃなくても、端から捨ててしまわずに。処分する前に、必ず報告。
 ぼくが自分でチェックするから、絵本は勝手に捨てないこと、って…。
 前のぼくが命令したんだっけ、と思い出した「その後」の絵本の扱い方。最初に残させた絵本のセットが、年数を経て古びて見え始めた頃。
 赤ちゃん用から少し大きな子供向けまで、いい本があれば残しておいた。自分で中身をチェックした後、倉庫に入れて。そして何度も読んだのだった、白い鯨ではなかった船で。



 まだ名前だけがシャングリラだった、改造前の船で読んだ絵本。この本を読むような子供たちを船に迎えられたら、と。…船の未来を築けたらいい、と。
 何度ページをめくっただろうか、来るかどうかも分からない未来を思い描きながら。絵本たちの出番がやって来る日を、ページを繰る子供が来てくれる日を。
(絵本、大切に残しておいて…)
 くたびれて駄目になった絵本のデータも、製本担当の係に頼んで取っておかせた。もちろん一番最初に船に残した、赤ちゃん用から揃っていたセットのデータだって。
 いつか絵本の出番が来たなら、それらのデータが必要だから。
 船のデータベースにも絵本はあったけれども、実物となれば重みが違う。データではなくて手に取れるもの。この手でページをめくれるもの。
(ページの重さも、紙の感じも、全部、本物…)
 絵本はこういうものなのだ、と形になっているのが絵本。人類の船から奪ったものだし、何処の星でも同じ絵本が印刷されているのだろう。育英都市で育つ子供たちのために、何冊も。
 赤ちゃんの数だけ作られていそうな、赤ちゃん用に出来ている絵本。
 文字が読めるくらいの子供になったら、養父母たちが選んでやるのだろうか。何種類もの絵本の中から、育てている子の好みに合いそうなものを。
(女の子だったら、こんなのだとか…)
 男の子だけれど繊細な子だから、こういう絵本が良さそうだ、とか。
 もう少し子供が大きくなったら、本屋に連れてゆくかもしれない。「どの本が欲しい?」と。
 幾つも並んだ絵本の中から、好きな絵本を選べるように。あれこれ比べて、お気に入りの一冊を自分で探し出せるようにと。
(絵本なんだし、絵も大事だから…)
 好みに合わない絵柄だったら、ガッカリするだろう子供。「もっと違う絵の方がいい」と。
 そうならないよう、自分で好きに選ばせて貰う幸せな子供。養父母の手をしっかり握り締めて。
 「これがいいよ」と選び出したり、決められないで迷っていたり。
 いつまでも選べずに二冊も三冊も比べていたなら、「仕方ないわね」と欲しい本を全部、買って貰える幸運な子もいるのだろう。大喜びして、歓声を上げて。
 いつかは別れる養父母だけれど、そんなことさえ知らない幼い子供だから。



 買って貰った絵本の包みを、大切に抱えていそうな子供。養父母と家に帰るまで。
 もっと幼い子供や赤ん坊なら、「はい」とプレゼントされる絵本。どんなに胸が弾むだろうか、初めてページをめくる時には。
 何回も読んでお気に入りの絵本が出来た時には、きっと飽きずに読むのだろう。これが一番、と他の絵本には見向きもしないで、何回も。…一日の内に、何度も繰り返し。
(きっとそうだよ、って思ってた…)
 子供時代の記憶は残っていなかったけれど、絵本を何度も見ていれば分かる。育英都市がどんな場所かを、データベースで調べれば分かる。
(成人検査の日が来るまでは…)
 子供たちは幸せに育ってゆくもの。養父母の愛情を一杯に受けて。
 機械が勝手に決めた家族でも、其処に溢れる愛は本物。養父母たちは子供に愛を注ぐようにと、教育を受けて来ているから。子供を幸せに育ててゆくのが仕事だから。
(…ミュウの子供かもしれない、って思った時には通報すること、って…)
 そういう決まりが出来ていたけれど、絵本を準備していた頃の自分はまだ知らなかった。
 燃えるアルタミラから脱出した時、グランド・マザーはミュウを滅ぼしたつもりだったから。
 元はコンスティテューション号だった船のデータベースに、それから後も生まれ続けるミュウの子供がどう扱われたかのデータは無かったから。
(アルテメシアに着いて、雲海の中でミュウの子供の悲鳴を聞くまで…)
 何も知らずに過ごした自分。
 何処の星でも、子供たちは幸せに育っているのだと頭から思い込んで。
 成人検査を受ける日までは、養父母たちの愛に包まれて育つと信じて、絵本のページをめくっていた。どの子も絵本を買って貰えると、このくらいの年ならこの絵本、と夢を描きながら。
(そうやって幸せに育っているなら、絵本を読むようなミュウの子供は…)
 船に来る筈も無いというのに、気付かなかった前の自分。
 どうやってミュウの子供を船に迎えるつもりだったのか、今、考えると可笑しいけれど。
 自分に都合のいい夢を見ていたらしいけれども、絵本は大切に残しておいたのが前の自分。
 これは未来を築く本だと、ミュウの子供を迎えた時には役に立つから、と。



 そんな調子で絵本に夢を抱いていたのがソルジャー・ブルー。何処か間抜けな前の自分。絵本のページを何度も繰っては、ミュウの未来を夢見ていた。
 絵本を読む子が来てくれる日を、シャングリラに未来が生まれる時を。
(白い鯨を作る時にも…)
 自給自足の船が出来たら、もう奪いには行かない物資。…本物の絵本は手に入らなくなる。船にある絵本とデータが全てになってしまって。
(新しい絵本は、もう無理になるけど…)
 ちゃんとした絵本を船で作ってゆけるようにと、係の者たちにも本物の絵本に触れておくよう、指示しておいた。「今ある絵本を覚えて欲しい」と、「本物の絵本を忘れないように」と。
 その時点で船にあった絵本は、白い鯨にも引き継がれた。いつか子供が来る時のために。
 白い鯨は宇宙を旅して、やがてやって来た本物の子供。ミュウの未来を築いてゆく子。
 アルテメシアに着いたから。育英都市がある雲海の星に、隠れ住もうと決めたから。
「ぼくが残してた絵本、役に立ったんだっけ…」
 ミュウの子供が、本当に船に来ちゃったから。…前のぼくが助けに飛び出して行って。
 「助けて!」って悲鳴が聞こえて来たから、瞬間移動で飛び出して…。
 何が起こったのか分からなかったけど、助け出すのは間に合ったんだよ。
 まさか小さな子供の間に、ミュウを見付けて殺す時代になってたなんてね…。
 前のぼくは夢にも思わなかったよ、と溜息をついたら、「俺も同じだ」と零したハーレイ。
「成人検査を受けて初めて、ミュウになるんだと思っていたしな…」
 データ不足というヤツだ。アルタミラから後はせっせと逃げていたから、知らないままで。
 それでも、お前が助けて来た子は、お前が夢見たミュウの子だったな。絵本を読む子。
 まだ小さくて、絵本くらいしか読めない子供だったんだが…。
 前のお前が絵本をきちんと残させてたから、そいつの出番がやって来たという所だな。
 子供用の本なんか、他には無かったんだから。
 大急ぎで「作れ」と係に言ったが、一瞬で出来やしないから…。
 役に立つ日が来たんだよなあ、前のお前のコレクション。
 お前が自分で選び出しては、何度も読んでた古い絵本が日の目を見る日が来たってトコか。



 本当に古くなっちまってたが…、とハーレイも覚えている絵本。白い鯨にあった絵本は、新しいとは言えないもの。前の自分が何度も読んだし、本を作る係も読んでいたから。
 けれど、船にはそれしか無かった子供用の本。小さな子供が読める絵本。
「あの子に絵本を渡したんだっけね、前のぼくが」
 此処には古い絵本しか無いけど、読んでみるかい、って…。
 欲しいんだったら、他にも色々あるからね、って喜びそうな絵本を一冊…。
 あれは動物の絵本だったよ、と今でも思い出せる本。小さな子供にプレゼントした絵本。
「喜んで読んでくれたよなあ…。ありがとう、って本を抱き締めて」
 それまで泣きそうな顔をしてたのに、絵本で笑顔が戻って来たのが凄かった。
 船に来た時は泣きっ放しで、泣き止んだ後も、隅っこの方で塞ぎ込んでたというのにな。
「うん…。絵本、本当に嬉しかったんだね。シャングリラにも絵本があったから」
 ぼくの家にも絵本が沢山あったんだよ、って言ってたもの。
 パパとママに色々買って貰って、うんと沢山持っていたよ、って…。
 あの子をユニバーサルに通報したのは、その養父母かもしれないけれど…。でも…。
 そんなことは知らない方がいいよね、幸せに育ってゆくためには。
「違いないよな、物騒なことは知らずにいるのが一番だ」
 あの子は絵本で笑顔になったし、それでいいじゃないか。
 恐ろしい目に遭ったわけだが、また絵本が読める場所に来られたんだから。
 もう誰も銃を向けたりしない場所にな…、とハーレイが言う白いシャングリラ。ミュウの箱舟。
 それでも、絵本が無かったとしたら、あの子は笑顔になっただろうか。あんなに早く、ミュウの船に馴染んでくれたのだろうか、大人しかいない箱舟に…?
 きっと無理だ、と今の自分でも思うこと。絵本が船にあったからこそ、此処も安心していられる場所だ、と子供なりに理解したろうから。
「古くなってた絵本だったけど、残しておいて良かったね、あれ」
 直ぐに渡してあげられたのは、あれを残してあったから…。古くなっても、本物だから。
「まったくだ。本は直ぐには作れないしな」
 料理のようにはいかんからなあ、フライパンでサッと作れやしない。
 ちょっと待ってろ、と話してる間には出来上がらないのが絵本だってな。



 前のお前は、いいものを取っておいたよな、と穏やかな笑みを浮かべるハーレイ。
 ミュウの未来を築いてゆくことは出来たんだ、と。
 古びた絵本を貰った子供が最初に来た子で、それからは次々に来たミュウの子供たち。
 シャングリラは未来を担う子たちを手に入れたから。…絵本を読んで育つ子たちを。
(前のぼく、予知能力は無かったけれど…)
 未来も見えない船で絵本を残させたのなら、少しくらいはあっただろうか。
 それとも青い地球に抱いた夢と同じで…。
(前のぼくの夢ってことなのかな…?)
 あれが予知なのか、夢を描いただけだったのかは、今となっては分からないけれど。
 誰に訊いても分からないけれど、あの絵本のことを思い出させてくれたハーレイと地球にやって来た。青く蘇った水の星の上に。
 絵本が旅をしてゆく時代に、平和な地球に。
 家から家へと絵本が旅をしてゆけるのも、本物の家族が戻って来たから。
 SD体制の時代だったら、本は旅などしないから。子供のいる家を旅してゆかないから。
(今のぼくが持ってた絵本だって…)
 旅に出た絵本があるのだったら、幸せになってくれている筈。
 何処かで誰かに気に入られて。何人もの赤ちゃんたちに読まれて、旅を続けて。
 今はそういう時代だから。絵本は幸せに旅してゆけるし、本物の家族がいる時代だから…。



              旅をする絵本・了

※今の時代は、家から家へと絵本が旅をしてゆく時代。本物の家族がいる時代だからこそ。
 そうではなかった遠い昔に、シャングリラにも絵本があったのです。子供を待っている本が。
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「今日は面白いものを教えてやろう」
 こいつだ、とハーレイが教室の前のボードに書いた文字。「水琴窟」と。
(水の琴…?)
 何だろう、と首を傾げたブルー。それに「窟」の字、洞窟の中で奏でるための琴なのだろうか?
 洞窟だったら、いい音が響きそうではある。水の琴がいったいどんな琴かは、まるで分からないままだけれども。
 古典の授業でお馴染みの雑談、生徒たちの集中力を取り戻すために出される話題。楽しい話や、ためになる話。ハーレイの気分で中身は色々。
 前のボードに書かれた三文字、「すいきんくつ」と書き添えられた振り仮名。
「水琴窟は昔の日本の文化だ。江戸時代に出来たと伝わってるな」
 こういう仕組みになってるんだ、とハーレイが描いてゆく図解。
 土の中に逆さに埋められた甕。底に穴を開けて。甕は空っぽ、水が溜まるように工夫をしてから埋めてゆく。周りに石を詰めていって。
 遠い昔の庭の装飾、手水鉢の側にも作られたりした。手水鉢には水が要るから、其処から溢れた水を使って鳴らす音。甕の中に溜まった水と合わせて。
「こうやって甕を埋めておくとだ、甕の中に水が溜まるから…」
 其処へ上から水が落ちると、その雫で音がするんだな。甕の中で木霊するように。
 その音がとても綺麗だからと、「水琴窟」と呼ぶわけだ。
 特別に音も聞かせてやろう、とハーレイが取り出した専用の機械。それが動いたら…。
 ピチョーン、と教室に響いた音。澄み切った水の雫の音。
「本物の水琴窟の場合は、こんな大きな音には聞こえないんだが…」
 その周りでだけ聞こえればいい、というのが水琴窟なんだ。
 小さなものだと、音も小さくなるもんだから…。
 音を聴くための竹筒を立てて、その側で耳を澄ませるってこともあったらしいぞ。
 この教室の真ん中に水琴窟があったら、端のヤツらには聞こえないかもな。
 いい音が鳴っているわけなんだが、途中ですっかり消えてしまって。
 昔の日本の文化はそうだろ、華やかなものより控えめな方が人気だったから。



 わびさびの世界というヤツで…、と紹介された水琴窟。遠い昔の日本の人たちが好んだ音。
 お前たちもそれを暫く楽しんでみろ、と黙ったハーレイ。「一分間ほど静かに聴くように」と。
 教室に流れる水琴窟の音。機械が流している音だけれど、水の雫が鳴らす音には違いない。
 ピチョーン、コローン、と様々に響く水たちの音色。
(綺麗な音…)
 溜まった水に落ちる水滴、それが奏でる澄んだ音。まさに水の琴。
 水琴窟とは、本当によくも名付けたもの。それに仕掛けを思い付いたのも凄いと思う。
(日本って凄い…)
 遠い昔の小さな島国、独自の文化を誇った国。他の国の人たちが魅せられたほどに。
 こんな仕掛けも作ってたんだ、と驚かされた水琴窟。ほんの限られた所までしか届かないのに、その音を愛した日本人。竹筒を通して聴いたくらいに。
 いい音だよね、と水琴窟が奏でる音色に聴き入っていたら…。
(え…?)
 急に「悲しい」と思った自分。胸の奥から湧き上がって来た深い悲しみ。
 とても綺麗な音だというのに、悲しい音のように聞こえる水琴窟。今もいい音がしているのに。
(なんで…?)
 どうして悲しい音になるの、と思う間に、ハーレイが「ここまで」と止めた音。消えてしまった悲しい音。水琴窟の音色はもう聞こえない。
「もっとゆっくり聞きたいヤツは、本物を聞きに行くんだな」
 この近くで水琴窟があるのは此処と此処だ、と挙げられた場所。水琴窟があるらしい庭園。昔の日本の文化の通りに作られた庭。
(…知らないよね?)
 どちらにも自分は行ってはいない。行った記憶がまるで無いから。
 それとも、覚えていないくらいに幼い頃に出掛けて…。
(遊ぼうとしてて、何か落っことしたとか?)
 大事なおやつを水琴窟の側の地面に落とすとか。キャンディーとか、ソフトクリームとか。
 地面に落として、食べられなくなってしまったのなら…。



 悲しい音になりもするよね、と思った水琴窟の音。
 大切なおやつが駄目になったのに、響き続ける水の音。おやつを落っことす前に自分が流した、水の雫を受け止めて。ピチョーン、コローン、と澄み切った音で。
(それって、とっても悲しいよね…?)
 どんなにいい音がしていても。澄んだ水の琴が鳴り続けても。
 水琴窟を鳴らそうとしたら、おやつを落としたのだから。小さな柄杓で水を掬って流した時に、落っことしてしまった大事なおやつ。…もう食べられない、駄目になったおやつ。
(ぼくのおやつは駄目になったのに、水琴窟は鳴っているんだから…)
 きっとそれだ、と考えた音。「悲しい音だ」と思った理由。
 まるで覚えていないけれども、小さかった頃に何かあったんだ、と。…水琴窟の側で。
 そう納得して、戻った授業。ハーレイも「続きをやるぞ」とボードの文字を消したから。
 授業の続きが始まったらもう、忘れてしまった水琴窟。悲しい音に聞こえたことも。
 けれど、学校が終わって帰った家。
 ダイニングでおやつを食べていた時に、思い出した水琴窟のこと。悲しい音に聞こえた水音。
(やっぱり、原因、おやつだよね…?)
 小さな子供が悲しくなるなら、そのくらいしか思い付かない。水琴窟の側には水があるけれど、大切なオモチャを其処に落としはしないだろう。
(パパかママが預かってくれそうだから…)
 オモチャだったら、落とさないように。幼い自分も素直に「お願い」と渡していそう。水の中に落ちたら、濡れてしまうということくらいは分かるから。
(でも、おやつだと…)
 大丈夫、と言い張りそうなのが幼い子供。「落っことすわよ?」と言われても。
 ソフトクリームを預けようとはまず思わないし、「預けたりしたら、食べられちゃう」と思っていそう。相手は優しい両親でも。
 まして頬張っていたキャンディーだったら、預けようさえない代物。
(棒つきだったら、預けることも出来るけど…)
 口に含んだキャンディーは無理。それを落としてしまっただろうか、水琴窟の側の地面に。水を流そうと屈んだはずみに、うっかり、ポトンと。



 どう考えても、原因はおやつだろうから。きっとそうだという気がするから、通りかかった母を呼び止めて尋ねてみた。
「ママ、水琴窟っていうのを知ってる?」
 地面の中に甕が埋まっていて、上から水を流したら音がするんだよ。中で響いて。
 この辺りだと、此処と此処にあるって聞いたんだけど…、と伝えた場所。日本式だという庭園。
「知っているわよ、パパと行ったわ」
 いい音がするのよ、水琴窟は。遠くまでは響かないけれど、とてもいい音。
「…ぼくは?」
 ぼくもママたちと一緒に行ったの、と勢い込んで訊いたのに…。
「ブルーは生まれていなかったわねえ…」
 あの頃だとママのお腹の中にも、いなかったんじゃないかしら?
 パパとは結婚していたけれど、ブルーはまだだと思うわよ、というのが母の返事だから。
「本当に…?」
 ぼくは生まれていなかったなんて、絶対に無いと思うんだけど…。
 パパやママたちと行った筈なんだよ、水琴窟のある庭に。
 だってね…、と母に話した、古典の時間に起こったこと。悲しい音のように聞こえた水琴窟。
 原因は落としたおやつなんだと思う、と説明も。オモチャは預けるだろうから、と。
「あら、そうだった?」
 ブルーも連れて行ったのかしらね、ママは覚えていないけど…。
 小さな子供を連れて行っても、喜びそうな場所じゃないんだけれど…。あそこの庭は見るだけの場所で、遊べる道具が何も無いから。公園だったら色々あっても、お庭では…。
 だから行ってはいないと思うわ、「つまらないよ」って言いそうだもの。
 パパの友達を案内するとか、そういうので出掛けたにしても…。
 ブルーが其処で泣き出したんなら、きっと忘れはしないわよ。「そうだったわ」って、聞いたら思い出す筈よ。
 おやつを落として大変だったとか、泣き止むまでにとても時間がかかったとかね。



 ママが忘れるわけがないわ、と母が言うのも一理ある。普段は忘れていたとしたって、水琴窟の側で泣いた筈だと聞かされたら思い出すだろう。
(…ぼく、行ってないの…?)
 それじゃ何処で、と考え込んでいたら、「前のブルーの方じゃないの?」と母に問われた。
「ブルーはママのブルーだけれども、その前はソルジャー・ブルーでしょう?」
 きっとソルジャー・ブルーだった頃に聞いたのよ。水琴窟の音を、何処かで。
 ソルジャー・ブルーなら悲しい思い出も多そうだから、というのが母の推理だけれど。
「…水琴窟って、日本の文化だよ?」
 前のぼくが生きてたような時代に、日本の文化は無い筈だから…。機械が消しちゃっていた世界だったから…。
 水琴窟なんか、あるわけがないよ。何処を探しても。
「そういえばそうね…。日本の文化は、SD体制の時代には消されていた筈ね…」
 でも、似たような音があったんじゃないの?
 水琴窟にそっくりな音がするものだとか、水琴窟そのものがあっただとか…。
 シャングリラにはユニークな人たちが多かったんでしょ、と微笑んだ母。
 「ママは直接会っていないけれど、ブルーから色々聞いているわ」と。その中の誰かが水琴窟を作っていたかもしれないわよね、と。
「…シャングリラに水琴窟があったっていうの?」
 それなら、悲しい音に聞こえちゃうこともあったかも…。
 普段は「素敵な音だ」と思っていたって、悲しい気分で聞いていた日もありそうだから。
 凄いね、ママ。…ママの推理は当たっていそう。水琴窟とか、そっくりな音がする何か…。
「どういたしまして。参考になったなら良かったわ」
 後は頑張って思い出してね、シャングリラにあった水琴窟の音。
 だけど、ママには話してくれなくてもかまわないわよ。…悲しい思い出みたいだから。
 思い出したら、きっとブルーは悲しくなるもの。
 おやつを落としたどころじゃないわよ、ソルジャー・ブルーの方ならね。
 もしも悲しくなってしまったら、おやつでも食べに来なさいな。
 特別に何か食べさせてあげるわ、晩御飯が入らなくならない程度に。…少しだけね。



 いつまでも一人でしょげていちゃ駄目よ、と母に念を押されて戻った二階の自分の部屋。悲しい音を思い出したら、元気が出るように貰えるおやつ。…本当に元気が無くなったなら。
 これで悲しい音も安心、と勉強机の前に座った。「音の正体を追い掛けよう」と。
 水琴窟そのものか、水琴窟にそっくりな音がする何か。…シャングリラにあったらしいもの。
(ヒルマンかな…?)
 そういう仕掛けを作ったとしたら、可能性が高いのがヒルマン。それに仕掛けがあった船なら、間違いなく白いシャングリラ。改造を終えて白い鯨になった船。
(水琴窟…)
 今日のハーレイの雑談で教わった、綺麗な音がする仕組み。底に穴を開けた甕を地面に埋めて、中に溜まった水の上に落ちる雫の音を響かせる。
 仕組みそのものは単純なのだし、日本風の甕が無くても壺で代用出来るだろう。水琴窟に使える壺が無ければ、白い鯨で作れた筈。「こういう壺を一つ」と専門の係に注文すれば。
 ヒルマンならば好きそうなものが水琴窟。遠い昔の資料を見付けて、作ってみようと考えたって不思議ではない。思い付くだけなら、エラだって。
(…エラだと、自分で穴を掘ったりしないだろうから…)
 きっとヒルマンに話を持ち掛け、船の仲間の力を借りる。「こういう仕掛けを作りたい」と。
 船の仲間たちも、ああいう綺麗な音がするなら、大喜びで協力するだろう。穴を掘るのも、壺を埋めるのも、水を引いてくる作業なども。
(作るんだったら、公園だよね…?)
 公園には木を植えていたのだし、充分な深さに敷かれていた土。大きな壺でも埋められる。水も当然、供給されるし、其処から引いてくればいいだけ。
 小川が流れる公園だったら、その直ぐ側に作っておいたら水を引く手間が省けたろう。
(だけど、悲しい音…)
 公園だったら、楽しい音になりそうなもの。悲しい音になるよりは。
 気分が沈んでいた時だって、公園に行けば元気な子供たちがいた。はしゃぎ回る子供たちの中に混ぜて貰って、遊ぶ間に癒えていた心。
 水琴窟の音が悲しく聞こえていたって、じきに素敵な楽しい音色に変わっただろう。子供たちと一緒に水を掬って、雫の音を聞いていたなら。水の琴で遊んでいたのなら。



 好奇心の塊のような子供たち。水琴窟が公園にあれば、きっと鳴らして遊ぶ筈。水を掬う順番で喧嘩になったり、それは賑やかに騒ぎながら。
(…水琴窟の音、聞こえなくなってしまいそうだよ…)
 大きな音はしないとハーレイの授業で聞いたし、子供たちの声にかき消されて。水の雫が奏でる音より、子供たちがはしゃぐ声の方がずっと大きくて…、と思った所で気が付いた。
 その子供たちの音だったんだ、と。水琴窟の音が悲しい音になるのは、子供たちの記憶に繋がる音だったから。…とても悲しくて、寂しく響いた水の雫の音だったから…。
(ぼくたちが助けた子供だけしか…)
 シャングリラには来られなかった。白い箱舟には乗り込めなかった。
 養父母たちに通報されたりした子供たち。「この子は変だ」と、ユニバーサルに。直ちに始まるミュウかどうかを調べる調査。場合によっては、その場で処分された子供も。
 前の自分も、救助班の者たちも頑張ったけれど、助け損ねた子も多かった。悲鳴が届いた時には手遅れ、それがその子の最期の思念。「助けて」だとか、「パパ、ママ!」だとか。
(他のみんなには聞こえなくても、前のぼくには…)
 子供たちの最期の声が聞こえた。銃口を向けられ、助けを求めた子供たち。自分を通報したのが養父母たちとも知らずに、「パパ、ママ!」と。泣き叫ぶように、「助けて」と。
 それきり消えてしまった思念。…その子の命は潰えたから。
 飛び出して行っても、もう亡骸しか残ってはいない幼い子供。シャングリラに乗れずに終わってしまった、無垢な魂。もしも自分が気付いていたなら、救い出すことが出来ただろうに。
(…青の間から思念で探っていても…)
 見付け出せないミュウの子は多い。
 サイオンが強い子供だったら「あの子はミュウだ」と分かるけれども、サイオンが弱い子供だと無理。シャングリラから探るだけでは、気配も感じないのだから。
(外に出た時に気を付けてたって…)
 やはり見落とす子供たち。
 微弱なサイオンを持つだけだったら、それを掴むのは難しい。育英都市に送り込んでいた潜入班でも、強い子供しか見付けられない。どんなに注意して気を配っていても。



 救い出せずに、思念だけが胸を貫いていった子供たち。白いシャングリラに乗れなかった子。
 そういう子たちを亡くした夜に、あの水音を聞いたのだった。水琴窟の音色に似た音を。
 青の間にあった貯水槽。深い海の底を思わせるような部屋に満々と湛えられた水。悲しい気分になった時には、その貯水槽に続く階段を下りていた。部屋の奥から。
 普段は係の者くらいしか下りない階段。それを下りていって、一番下の段に座って…。
(水を掬って…)
 階段に腰掛けて、手に掬った水。貯水槽から。
 水面に屈み込むのではなくて、サイオンを使って、両手に一杯。
 サイオンで両手に満たした後には、その力を解いてしまうのが常。サイオンを使わずに手の中に留めようとしたって、水は溜まっていてはくれない。どんなに隙間なく指を重ねても、手のひらを強くくっつけ合っても。
 どう頑張っても、手の中から滴り落ちてゆく水。指の隙間から、くっつけ合った手の間から。
 滲み出しては水滴になって、貯水槽へと零れ落ちる水。救い損ねたミュウの子供の命のように。
 両手一杯に水を満たしても、其処から水は漏れてゆく。一滴、また一滴と雫になって。
 滴り落ちては水面に当たって、青の間の闇に澄んだ水音を響かせて。
(…ミュウの子供を、上手く救出できたって…)
 首尾よく救って白いシャングリラに連れて来たって、その子供は運が良かっただけ。
 間に合わずに救えなかった子供の方が多くて、この水のように滴り落ちる。シャングリラという名の箱舟に乗れずに、小さな命が消えてしまって。
(アルテメシアでさえ、そうなんだから…)
 白いシャングリラが雲海に潜む、幸運な星がアルテメシア。ミュウの箱舟が浮かんでいる星。
 其処にある二つの育英都市。アタラクシアとエネルゲイアに運んで来られたミュウの子供なら、助かる術もあるけれど。…白いシャングリラに救われるチャンスを持っているけれど。
(どの子供が何処に運ばれるかは…)
 機械の判断次第なのだし、ミュウの子供が皆、アルテメシアに来るわけがない。何処の星でも、育英都市があるのならミュウの子供がいる筈。ミュウの箱舟は其処に無いのに、誰も救いに来てはくれないのに。…処分される時の最期の思念も、此処に届きはしないのに。



 今日、殺されてしまった子供。助け出すことが出来ないままで。最期の思念だけを残して。
 けれど、その子は「助かるチャンス」を持ってはいた。雲海の中にミュウの箱舟が潜む星だし、運が良ければ助かった子供。白いシャングリラに来られた子供。
 それが出来ずに死んだ子供は可哀想だけれど、他の星でもミュウの子供は殺されている。助かるチャンスさえ貰えないままで、ミュウの箱舟が無い星で。
(他の星にも、ミュウの子供が此処と同じようにいるのなら…)
 自分が、白いシャングリラが救える子供はほんの一部で、この手に一杯に満たした水のように、両手に一杯分のミュウの子供がいるというなら…。
(救い損ねて、落ちてった命…)
 手のひらから滴り落ちる水。サイオンでそれを防がないなら、何処からか漏れて滲み出して。
 青の間の闇に木霊する水滴の音。子供の命が落ちて行ったように、最期の思念が届いたように。
 自分は悲鳴を聞いたけれども、最期の思念が自分の所に届いた子供は、ごく僅かだけ。
 落ちて行った水の雫の分だけ、水面を震わせた音の分だけ。
 アルテメシアで殺された子しか、シャングリラに思念は届かないから。彼らの悲鳴が胸を貫きはしないから。
(本当は、もっと沢山の命…)
 それが喪われているのだろう。宇宙は広くて、育英都市も多いのだから。
 いったい幾つ拾い損ねたことだろう。零れ落ちようとするミュウの子供の命を、銃を向けられ、泣き叫ぶ子供たちの命を。「助けて」と、「パパ、ママ!」と泣いた子たちの命を。
 それらを拾い損ねた自分は、これからも拾い損ねるのだろう。ミュウの箱舟は此処に在るだけ、他の星の子を救う術など無いのだから。
(…助けられない命、一杯…)
 そう思ったら、落ちてゆく水の音が悲しい。滴る音が、零れる雫が、救い出せずに消えていった子供の命のようで。「此処にいるよ」と、「此処にいたよ」と訴えるようで。
(…助けてあげられなくて、ごめんね…)
 本当にごめん、と心で詫び続けながら、掬った水が全部落ちるまで、滴る音を聞いていた。
 出来るだけ手から零さないよう、指を、手のひらを強く合わせて。
 それでも零れてゆく水の音を、澄んだ水音を、まるで水琴窟の音を聞くかのように。



 思い出した、と分かった音の正体。水琴窟に似ていた音。前の自分が聞いていた音。
(悲しい音だと思うわけだよ…)
 あの音と同じだったなら、と胸の奥から湧き上がる悲しみ。「救えなかった」と。
 ソルジャー・ブルーが、白いシャングリラが、救い損ねた大勢のミュウの子供たち。彼らの命が消えてゆく音、それが滴り落ちる水音。
 前の自分の両手の中から、青の間の貯水槽へと落ちて響かせていた水の音。澄んだ水音は悲しい音で、確かに水琴窟に似ていた。…音の響きだけは美しかったから。
(忘れてたのに…)
 青い地球の上に生まれ変わって、新しい命と身体を貰って、すっかり忘れ去っていたこと。前の自分が救えなかった沢山の命。深い悲しみの中で何度となく聞いた、滴り落ちる水の音のこと。
(…今頃になって思い出すなんて…)
 ハーレイのせいだ、と噛んだ唇。母から「悲しくなったら、おやつをあげるわ」と優しい言葉を貰ったけれども、救い損ねた子供たちは、おやつも貰えなかった。
(おやつどころか、大好きなママに通報されちゃった子も…)
 ホントに大勢いた筈だもの、と分かっているから、おやつを貰える気分ではない。幸せに生きる今の自分が、おやつを貰いに行くなんて…。
(あの子供たちに悪いんだから…)
 申し訳なくて、とても出来ない。「ママ、おやつ!」と駆けてゆくなんて。悲しい気分になってしまったから、おやつが欲しいと頼むだなんて。
(今のぼくのママは、本物のママで…)
 産んで育ててくれた母。前の自分が生きた時代の「ママ」より遥かに素晴らしい「ママ」。
 そういう母を持っているのに、それで満足しないだなんて。「おやつをちょうだい」と強請りに行くなんて、ただの子どもの我儘でしかない。
 悲しい気分になっていたって、殺されるわけではないのだから。…誰も殺しに来はしないから。
(そんな我儘、言えないよ…)
 ママにおねだりなんて出来ない、とギュッと握る手。前の生の終わりに凍えた右の手。
 こうして生きていられるだけでも幸運だから、と。
 あの子供たちよりずっと幸せで、とても優しい「本物のママ」もいるんだから、と。



 我慢しなくちゃ、と思うけれども、消えてくれない悲しい気持ち。水琴窟の音で蘇った記憶。
 ハーレイがあれを聞かせるからだ、と八つ当たりしたい気分の所へ聞こえたチャイム。水琴窟の話を持ち出したハーレイが訪ねて来たものだから、向かい合うなりぶつけてやった。
 仕事帰りの恋人に。テーブルを挟んで向かいに座ったハーレイに。
「ハーレイ、今日の水琴窟の音…」
「いい音だったろ?」
 音のいいのを選んだんだぞ、と返った笑顔。こちらが文句を言う前に。本物はもっと素敵な音がするから、とハーレイは勘違いをしているらしい。「水琴窟に興味を持って貰えたようだ」と。
「いい音だなんて…。あんなの、ちっとも素敵じゃないから!」
 本物なんか、どうでもいいよ。ぼくは聞きたいとも思わないもの…!
 水琴窟なんか大嫌いだ、とハーレイにぶつけた自分の気持ち。あれは悲しい音なのだから。
「なんだ、どうした?」
 いきなり何を怒っているんだ、あの音、嫌いだったのか?
 オバケでも出そうな音に聞こえたか、洞窟の中だと似たような音もするもんだから…。
 気味が悪いと思ったのか、とハーレイはまるで分っていない。今の自分ではないというのに。
「オバケじゃないよ、ぼくには悲しい音だったんだよ!」
 最初は綺麗だと思っていたけど、急に悲しくなっちゃって…。
 そしたら思い出しちゃったんだよ、水琴窟の音は、ぼくには悲しい音なんだ、って…!
「おいおい、何があったんだ?」
 水琴窟に悲しい思い出だなんて、お前、いったい何をしたんだ?
 キャンディーでも落としちまったのか、とハーレイが連想したことも今の自分と同じ。水琴窟で遊ぼうとして、何かを落とした子供時代。もちろん、今の自分の思い出のこと。
 落っことしたものはキャンディーなのか、とハーレイは気の毒そうな顔。「そりゃ悪かった」と謝ってくれて、「お前、本物、知ってたのか」とも。
 小さかった頃に遊びに出掛けて、とても悲しい目に遭ったんだな、と。



 今のハーレイの勘違い。自分も似たようなことをしたから、仕方ないとは思うけれども、とても収まらない苛立ち。ハーレイのせいで悲しい思い出が蘇ったことは確かだから。
 「悪かった」と謝られたって、謝る相手が違うから。
 水琴窟の音が悲しいのは、自分ではなくてソルジャー・ブルーの記憶のせい。ハーレイが誰かに謝るとしたら、前の自分の方なのだから。
「ぼくは知らないってば、本物の水琴窟なんか…!」
 水琴窟って言葉も知らなかったし、音を聞いたのも今日が初めて。
 あの音が悲しいのは前のぼくだよ、前のぼくの記憶が「悲しい音だ」と思わせるんだよ…!
「…前のお前だと?」
 ヒルマン、あんなのを作っていたか?
 思い付くだけなら、エラってこともありそうだが…。シャングリラにあったか、水琴窟…?
 キャプテンの俺は覚えていないが、と勘違いを続けているハーレイ。「何処の公園だ?」などと訊くから、本当に許せない気分。悲しい音をぼくに聞かせたくせに、と。
「公園じゃなくて…!」
 青の間にあった貯水槽だよ、前のぼく、あそこで聞いてたんだよ…!
 覚えているでしょ、前のぼくが貯水槽の側まで下りていたのは、どういう気分の時だったか。
 部屋の奥にあった点検用の階段だけど、と付け加えた。「一番下に座ってた時」と。
「貯水槽に下りる階段か…。あったな、奥に」
 悲しい時にはよく下りていたな、前のお前は。…姿が見えないと思ったら、あそこに座っていたもんだ。階段の一番下の所に。
 俺も何度も一緒に座っていたっけな。お前の気分が落ち着くまで。…階段を上がって、上に戻る気になってくれるまで。
 あそこで水音、聞いていたのか?
 悲しい気分の時に聞いたら、悲しい音にもなっちまうよなあ…。普段は普通の音に聞こえても。
 おまけにあそこは、音ってヤツがよく響くしな、とハーレイは自然に落ちる水滴の音だと思っているようだから。実際、たまに水音は響いていたものだから…。
 何処かからポタリと滴り落ちて。水琴窟が鳴らす水音のように、澄んだ音色で。
 その水音とは違うのに。…自然に滴る音だったならば、悲しい音にはならないのに…。



 そうは思っても、前のハーレイも知らなかったこと。あそこで両手一杯の水を掬っていた時は、いつでも一人だったから。…ハーレイは隣にいなかったから。
 八つ当たりしても仕方ない、と今のハーレイに語ることにした。悲しい音の正体を。
「…普通に落ちてた水じゃないんだよ、前のぼくがわざと鳴らしてた」
 両手に一杯の水を掬って、その水が全部落ちていくまで…。指の間から落ちて無くなるまで。
 頑張って零さないようにしてても、いつかは全部、落ちてしまうから。
 何処かから少しずつ零れてしまって…、と明かした水音。悲しく響いていた水が滴る音。
「なんだって?」
 前のお前が鳴らしてた、って…。手のひらの水が無くなるまでか?
 ずいぶん時間がかかりそうだが、そうすることに意味があったのか…?
 なんでまた…、と怪訝そうな顔のハーレイ。「わざと悲しい水音を立てていたなんて」と。
「いつもやってたわけじゃなくって、ミュウの子供を救い損なった時…」
 救出するのが間に合わなくて、前のぼくにだけ最期の思念が届いた時とか。
 そういう時にね、両手に一杯の水を掬ってみるんだよ。…あそこの階段の下に座って。
 宇宙に生まれるミュウの子供は、きっとこのくらいいる筈だ、って…。
 アルテメシアの他にも育英都市はあるから、其処でも育っていた筈だもの。ミュウの子供が。
 その子供たちは助かるチャンスも持っていなくて、ぼくが救えるのはほんの一部だけ。
 アルテメシアで見付かったミュウの子供だけでしょ、それも救助が間に合わないと無理。
 両手に一杯の水の分だけミュウの子供が生まれていたって、全部は助けられないんだよ。ぼくの手から落ちて零れていくのが殆どだから…。
 手のひらから水の雫が落ちていったら、子供の命が消えてくみたいで…。
 最期の思念が届くみたいに、水の音が響いてくるんだよ。…水琴窟の音みたいにね。
 綺麗だけれど、悲しい音、と零した溜息。「だから悲しい音なんだよ」と。
「うーむ…。前のお前がそういうことをなあ…」
 そいつは俺も知らなかったぞ、出くわしたことが無かったから。
 お前が手のひらに水を掬って落としているのを、俺は一度も見なかったから。
 そうか、悲しい音だったのか…。水琴窟の音、前のお前にとっては。
 綺麗な音だと思ったんだが、お前には悲しい音だったんだな…。



 すまん、と謝ってくれたハーレイ。「気付かなかった俺が悪かった」と。
 いい音だからと教室の生徒に聴かせていたのに、悲しい思いをさせちまったか、と。
「前のお前の悲しい記憶を呼び起こすとは思わなかったんだ。…全く知らなかったから」
 水琴窟は日本の文化で、前の俺たちが生きた時代には無かったからな。
 お前も喜んでくれるだろうと思っていたのに、逆になっちまうなんて、俺が迂闊だった。
 どうすりゃいいかな、お詫びってヤツ。
 悲しい思いをさせたらしいし、お前に謝りたいんだが…。
「お詫びだったら、今、聞いたよ?」
 ぼくも八つ当たりしちゃっていたから、もう充分。ハーレイは悪くないんだもの。…前のぼくが一人でやってたことまで、ハーレイ、分かるわけないもんね…。
 だからいいよ、と自分の方でも謝った。「八つ当たりしちゃって、ごめんね」と。
「いや…。お前の気持ちも分からんではない。前のお前のことなら分かっているからな」
 どれほど辛い思いをしてたか、今の俺にも分かるんだ。水音がどんなに悲しく聞こえたのかも。
 なのに、そいつと同じ音をだ、いい音のつもりで聴かせたからなあ…。
 その埋め合わせに、何かお詫びをしてやりたいと思うわけだが…。
 何かあったらいいんだがな、とハーレイが顎に手を当てるから、ここぞとばかりに強請ることにした。母におやつを強請りに行くのは気が引けたけれど、ハーレイならばいいだろう、と。
 前の自分もハーレイと恋人同士だったから。…ハーレイには甘えていたのだから。
「じゃあ、お詫びに本物の水琴窟に連れて行ってよ」
 ハーレイ、授業で言っていたでしょ、「本物の音を聞きに行くなら此処だ」って場所を二つ。
 片方でいいから、ぼくを連れてって欲しいんだけど…。先生と生徒でかまわないから、水琴窟の勉強をしに。
 本物の水琴窟の音を聞いたら、きっと悲しくなくなるから。今はいい音があるんだね、って。
 庭で素敵な音がするよ、って嬉しくなると思うから…。
「そいつが一番の早道なんだろうとは思うが、先生と生徒と言ってもなあ…」
 クラスの全員を連れて行くなら問題は無いが、お前と俺の二人きりだろう?
 それじゃデートになっちまうから、連れては行けん。…お前とデートはまだ出来ないから。



 本物の水琴窟は駄目だし…、とハーレイは暫く考え込んで、「そうだ」と何かを思い付いた顔。いいアイデアでもあるのだろうか、と鳶色の瞳を見詰めたら…。
「なあ、ブルー。…俺の歌で我慢してくれないか?」
「歌?」
 キョトンと見開いてしまった瞳。お詫びはともかく、どうして歌になるのだろう?
「水琴窟は水が奏でる音だからなあ、名前の通りに水の琴だし」
 音楽みたいだと思ったわけだな、昔の日本人たちは。それで名前が水琴窟だ。
 俺は琴なんか弾けやしないし、代わりに何か聴かせてやろう。…俺の下手くそな歌で良ければ。
 何か聴きたい歌はあるか、という申し出。ハーレイが歌ってくれるらしい。水琴窟が鳴らす音の代わりに、大好きでたまらない声で。
(ハーレイが歌ってくれるんだったら、スカボローフェアがいいのかな…?)
 前の自分たちの思い出の恋歌、スカボローフェア。
 縫い目も針跡も無い亜麻のシャツを作った、ソルジャー・ブルー。そういうシャツを作ることが出来たら、本物の恋人だと歌う恋歌だから。…前の自分もハーレイの歌を聴いたから。
(…前のハーレイ、あのシャツを大事に持っててくれて…)
 前の自分がいなくなった後も、ずっと大切にしていてくれた。何度もそっと撫で続けて。
 スカボローフェアは懐かしい恋歌、それを聞きたい気もするけれども、「ゆりかごの歌」も素敵だろうか。眠り続ける前の自分に、ハーレイが歌ってくれた子守歌。赤いナスカで。
 初めての自然出産児だったトォニィのために、探し出された古い歌。前の自分は眠りの中でも、ハーレイの歌を聴いていた。今の自分も「ゆりかごの歌」が一番好きな歌だったほどに。
(前のぼくのママの歌かと思っていたら、ハーレイが歌っていたんだっけ…)
 そう聞かされた日に、ハーレイが庭で歌ってくれた。恥ずかしそうに「ゆりかごの歌」を。庭で一番大きな木の下、白いテーブルと椅子の所で。
(頼むんだったら、ゆりかごの歌かな…)
 前の自分の悲しい思い出、水琴窟が奏でる音に似ていた音は、救えなかった子供たちの命を思う音だったから。
 大勢のミュウの子供たち。おやつも強請れず、養父母たちに通報されたことも知らずに、彼らを呼びながら死んでいった子たち。「助けて」と、「パパ、ママ!」と最期の思念で。



 あの子供たちのことを思い出したのだから、聴くのなら子守歌がいい。「ゆりかごの歌」なら、子供たちも喜びそうだから。…きっと喜んでくれるから。
 それをリクエストして歌って貰って、ハーレイの歌声に聴き入った後で…。
「ありがとう、ハーレイ。…素敵な歌を歌ってくれて」
 ゆりかごの歌は、今は人気の子守歌だけど…。あの子供たちも、地球に着けたかな?
 前のぼくたちが助けられなかった、大勢のミュウの子供たち。…殺されちゃった子供たちも。
 青い地球まで来られたかな、と尋ねてみたら。
「きっと着いたさ、俺たちよりもずっと先にな」
 前と同じに育つ身体だとか、そんな贅沢は言わないだろうし…。うんと早くに。
 本物のお母さんに産んで貰って、ゆりかごの歌を聴いて育って、水琴窟だって覗き込んで。
 この地域に生まれた子供だったら、水琴窟にも行ったんじゃないか?
 おやつを落っことして泣いたりしてな、とハーレイは笑う。「小さな子供にはありがちだ」と。
「水琴窟…。そうだといいな、小さな子供の遊び場じゃないらしいけど…」
 ママが「お庭を見に行くだけで、遊び道具は何も無いわよ?」って言ってたけれど…。
 水琴窟に行った子供もいるかな、日本に生まれて来た子だったら…?
「間違いなく行ったと思うがな?」
 前のお前が聞いてたんだろ、水琴窟に似た音を。…子供たちのことを考えながら。
 神様はちゃんと、前のお前の祈りを聞いてて下さった筈だと思うから…。日本に生まれた子供はもれなく水琴窟だな、「いい音がする」と水を掬って鳴らして遊んで。
 お前もいつか本物の水琴窟に連れてってやる、とハーレイは約束してくれたから。
 前の自分と同じ背丈に育った時には、水琴窟のある庭までデートに出掛けてゆこう。
 ハーレイと二人で水琴窟の音を聴きに行ってみよう、今は悲しくない音を。
 ミュウの子供たちはもう死なないから、水の音は悲しく響かないから。今は平和な世界だから。
(水琴窟…)
 悲しい音だと思ったけれども、今のハーレイと一緒に音を聴けたらいい。
 今は幸せな音がするねと、うんと素敵な水の音が、と。
 前の自分の悲しい音が、幸せな音に変わればいい。今の時代だから聴ける、素敵な音に。
 水の雫たちが奏で続ける、澄んだ響きの琴の音色に…。



              悲しい音・了


※ハーレイが古典の授業で流した水琴窟の音。けれどブルーは、悲しい音だと感じたのです。
 それはソルジャー・ブルーの記憶。救い損ねたミュウの子供たちを思いながら聞いた水の音。
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(超新星…)
 あったっけね、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 超新星、いわゆるスーパー・ノヴァ。寿命を迎えた恒星が最後に起こす爆発。一つの星が起こす大爆発だし、人間が思う「爆発」とは違いすぎるスケール。規模も、衝撃などが広がる範囲も。
 今の時代は予測可能で、出現前に避けることが出来る、超新星が現れる宙域。
 爆発したなら、宇宙船などには危険だから。爆発に巻き込まれることはもちろん、他にも様々な障害が起きる。通信が繋がらなくなってしまうとか、機器に故障が出るだとか。
 そうならないように、避けて飛ぶよう出される指示。影響が出そうな範囲に資源採掘基地などがあれば、撤退させる命令だって。一時退避や、場合によっては基地の放棄も。
(前のぼくたちが生きた頃にも…)
 出現の予測は可能だったけれど、それよりも遥か昔のこと。
 人間が地球しか知らなかった時代、宇宙の仕組みもまるで分かっていなかった頃。太陽は地球の周りを回っていると信じて疑わなかった時代は、予測どころか星の爆発だとも思わなかった。
 ある日いきなり夜空に明るい星が現れるから、新しい星だと思った人間。
 前の自分たちが生きた時代にも残った唯一の神が、ベツレヘムの馬小屋で生まれた時にも…。
(夜空に星が現れた、って…)
 光り輝く星に導かれて、馬小屋で眠る赤ん坊を訪ねて行った者たち。羊飼いやら、遠い国でその星を見付けた三人の博士。
 その時の星も超新星だろうと早い時代から言われていた。他にも超新星の記録は色々、日本でも日記に書き残していた貴族が一人。
 遠い昔は、珍しかったスーパー・ノヴァ。
 滅多に現れることが無いから、現れた時は観測のチャンス。宇宙の仕組みを調べようと挑んだ、宇宙へ目を向け始めた時代の人間たち。
 その時代には、まだ人間は月までしか行っていなかったけれど。
 今はお馴染みの火星でさえも、観測用の機械を載せている船を送り込むのが精一杯。それでも、超新星の仕組みだけはもう知っていた。
 新しく生まれる星ではないと、星が最後に大爆発を起こして輝くのだと。



 超新星が現れる理由を人間たちが掴んだ時代は、銀河系から離れた星を観測していた。超新星が現れたから、と天文台やら、宇宙から飛んでくる粒子を捉えるための施設を総動員して。
 それが今では、超新星の出現を予測する時代。「其処は避けろ」と宇宙船などに予報まで。
(銀河系だけでも…)
 何十年かに一度は現れる超新星。昔の人間が夜空を仰いだ頃には、それは珍しかったのに。
 けれど「増えた」というわけではない。地球が浮かんでいるソル太陽系、其処からは星の爆発が見えなかっただけ。星間物質に邪魔されたりして。
 今の時代は銀河系から離れた宇宙に行く船もあるから、超新星の爆発は生きている間に耳にするニュース。「爆発するから、撤退命令が出ているらしい」といった具合に。
 その上、人間は誰もがミュウだし、寿命が長いものだから…。どんな人でも、一生の間に何度か出会う。運が良ければ、地球から見える超新星に出会える人も。
(超新星、何処かに出そうなの?)
 もしかして地球から見えるのかな、と抱いた夢。自分が住んでいる地域の夜空に、じきに明るい新しい星が出来るとか。
(最初はとても明るくて…)
 それが爆発した瞬間。何光年も離れた所で起こるのだから、地球の夜空に輝くまでには何年も。その星までの距離の分だけ、待たないと見られない超新星。
 突然夜空に生まれた星は、少しずつ輝きを失っていって、やがて見えなくなるけれど。そういう星が出来るのだろうか、近い間に?
(ぼくが生まれる前の爆発なら…)
 超新星のニュースを知るわけがないし、地球で見られるのは何年後なのかも知る筈がない。遠い何処かで爆発した星、それがもうすぐ見えますよ、という記事かと期待したのだけれど。
 ワクワクしながら文字を追い掛けたけれど、残念なことにただの読み物。
 どうして超新星と呼ぶのか、昔はどういう扱いだったか。
 人間が地球しか知らなかった時代に、ついた名前が超新星。「新しい星だ」と思われていた頃、夜空を観察していた何人もの人たちへの思いをこめて。
 遠い昔に、不吉な兆しだと思った人やら、素晴らしいことが起こると感激した人やら。超新星の仕組みを知らなかったから、いきなり生まれた星を見上げて、思いは色々。



 ふうん、と読み終えて戻った二階の自分の部屋。空になったお皿やカップを母に返してから。
 勉強机の前に座って、さっきの記事を思い返した。恒星の爆発で夜空に生まれる星。
 ずいぶん昔から、人間はそれを眺めていた。古い時代の記録に残った、超新星。今は現れる前に予測可能な、スーパー・ノヴァ。
(地球の太陽は…)
 あの記事によると、超新星にはなれないらしい。恒星はどれも太陽だけれど、種類は様々。同じ太陽でも違う大きさ、それに重量。
 地球があるソル太陽系の場合は、大きいようでも恒星としては小さめになる。この地球からは、充分に明るく見えるのに。夏になったら、暑すぎるくらいに眩しいのに。
 それでも恒星の中では小さめ、太陽が寿命を迎えた時には、重量不足で赤色巨星になるという。超新星になる星と同じに膨らんでゆくのだけれども、爆発はしない。
 膨らんだ後は縮み始めて、うんと小さくなっておしまい。もう輝かない星になってしまって。
 とはいえ、その日は遥か先のこと。太陽が生まれてから今までの年数、それと同じほどの歳月が流れ去らない限りは、寿命は来ない。
(まだまだ長持ち…)
 たっぷりとある地球の太陽の寿命。何億年どころか、何十億年。
 まるで想像もつかない年月、太陽は元気に輝き続ける。滅びを迎える日までは遠い。赤色巨星になってしまう日は、まだずっと先。
 太陽がちゃんと空にあるなら、ハーレイと何度でも地球に来られる。この青い地球に。青く輝く澄んだ水の星、太陽が生んだ奇跡の星に。
(ハーレイと一緒に、うんと沢山…)
 生まれ変わって地球にやって来ては、あれもこれも、と大きく膨らませる夢。
 今の自分は前の自分が地球に描いた夢を端から叶えてゆくから、それで満足だろう人生。沢山の夢が地球で叶ったと、とても幸せな人生だったと。
(そうやってハーレイと生きてた間に、また新しい夢…)
 きっと幾つも出来るだろうから、叶える前に寿命が尽きたら、次の人生で夢を叶える。また青い地球に生まれ変わって、ハーレイと出会って、結婚して。



 うんと沢山楽しめるよ、と思った人生。何十億年もある太陽の寿命、その間には次のチャンスも何度でも。前とそっくりに育つ身体と新しい命、それを地球の上で貰って生きて。
 今の自分たちの待ち時間はかなり長かったけれど、同じように待つことになったって。また青い地球に生まれるためには、同じくらい待つよう神様に言われても、大丈夫。
 なんと言っても、太陽の寿命は何十億年もあるんだものね、と考えたけれど。何回だって地球に来られる、と夢を描いていたのだけれど。
(えっと…?)
 その太陽がいつか滅びる時。寿命を迎えて膨らみ始めて、赤色巨星になってしまう時。
 さっき新聞で読んだ記事では、この地球どころか、火星の軌道までが膨らみ続ける太陽の中に、すっかり飲まれるらしいから…。
(太陽に飲まれてしまうより前に、地球に住めなくなっちゃうよ…)
 今でも暑く感じる太陽、それが膨らんで近くなったら。地球にどんどん近付いて来たら。
 何十億年も先だけれども、いずれ滅びてしまう地球。
 太陽が輝きを失うよりも前に、その熱で青い海を失い、陸地も焼かれて砂漠になる。緑の欠片も残らなくなって、やがて太陽に飲み込まれてゆく地球。膨らみ続ける赤色巨星に。
(大変…!)
 無くなっちゃうんだ、と慌てた地球。前の自分が焦がれた星。今の自分が住んでいる星。
 何度でも地球に来たいと思っているのに、何度でも来るつもりなのに。…その青い地球が消えてしまった時には、何処へ行けばいいというのだろう?
 いつか太陽に飲み込まれる地球。その前に人が住めなくなる地球。太陽に全て焼き尽くされて。
 そうなったならば、もはや何処にも無い地球。前の自分が焦がれ続けた青い星。
 ハーレイと二人で生まれ変われる、この青い地球が無くなったなら…。
(ぼくたち、もう生まれ変わることは出来ないの…?)
 生まれ変わる先が無いのだったら、そういうことになるかもしれない。
 今の自分が地球に生まれてくるよりも前に、いただろう何処か。きっとハーレイと片時も離れず二人一緒で、生まれ変われる時を待っていた場所。
 其処で永遠に足止めだろうか、生まれ変われないから出られなくなって。青い地球はもう消えてしまって、受け入れてくれはしないから。



 そうなるのかも、と気付いたこと。何十億年も先だけれども、宇宙から青い地球が消えたら…。
 生まれ変われる場所が無いから、ハーレイと二人で食らう足止め。其処から出られない何処か。
(うんと長いこと、其処にいたから…)
 其処で過ごしていた筈だから、永遠に足止めになったとしたって、大丈夫だと思うのだけれど。天国かどうかは分からなくても、辛く苦しい所ではないと感じるけれど…。
(だけど、地球…)
 前の自分があんなに焦がれた、青い地球が消えてしまったら。
 今の自分も大好きな地球が、この美しい星が無くなったならば、どうすればいというのだろう?
 行きたくても二度と行けない星。もうハーレイと生まれ変われない星。
 そうなったら、とても困るんだけど、と思っていた所へ、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。地球が無くなったら、どうしたらいい?」
 ねえ、どうしたらいいんだと思う、地球が無くなってしまったら…?
「はあ? 地球って…。此処にあるだろ?」
 無くなっちまったのはずっと昔だ、人間が駄目にしちまって。…そいつが宇宙に戻ったから…。
 もう滅びたりはしない筈だが、とハーレイは真っ当な意見を述べた。青い地球を二度と失わないよう、定められている幾つものこと。同じ過ちはもう繰り返すまい、と。
「そうなんだけど…。人間はちゃんと努力してるけど、そうじゃなくって…」
 宇宙の法則は変えられないでしょ、人間がどんなに頑張ってみても。
 新聞で読んだよ、超新星の爆発のこと。
 地球の太陽は超新星にはならないけれども、いつか滅びてしまうんだもの…。
 赤色巨星になってしまって、地球の軌道も飲み込んじゃうよ、と記事の中身を話したら。
「そりゃそうだろうな、太陽だって恒星だから」
 何処の太陽でも寿命ってヤツはあるもんだ。もちろん、地球の太陽だって。
 超新星爆発は引き起こさないが、いずれは寿命が来るってな。人間よりは遥かに長い寿命だが。
 しかし、超新星爆発か…。前の俺だと、気を付けなければいけない代物だったが…。
 今は気にさえせずに済むわけで、次に爆発しそうな星があるのは何処だったっけな?
 まだ何年か先のことだし、注意するよう言われているだけの超新星の卵。



 前に読んだが忘れちまった、とハーレイは至って呑気なもの。超新星の卵が爆発したって、今のハーレイには全く関係無いのだけれども、問題は地球の太陽のこと。
 地球の太陽が寿命を迎えた時には、住める所が無くなるのに。青い地球の上に生まれたくても、地球は何処にも無いのだから。
「超新星の卵どころじゃないよ。ぼくたちの居場所、無くなるよ?」
 無くなっちゃうよ、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。「居場所が無くなるんだけど」と。
「居場所だって?」
 俺たちのか、とハーレイは怪訝そうな顔。「此処にあるが?」と言わんばかりに。
「さっきも言ったよ、いつかは地球が無くなるんだ、って」
 地球が無くなったら、ぼくたちは何処へ行ったらいいの?
 無くなるまでなら、何度でも来られるだろうけど…。またハーレイと一緒に生まれ変わって。
 だけど、この地球が無くなっちゃったら、もう行ける場所が無いんだよ?
 ぼくたち、出られなくなってしまうの、死んだ後に行く所から…?
 此処に来る前にいた所、と恋人にぶつけてみた疑問。地球にいない時は其処にいるだろうから。
「何を言ってるのかと思ったら…。そんなことを心配してたのか」
 まだ当分は大丈夫そうだが、地球の太陽。…お前も俺も、地球を満喫出来ると思うぞ。
 数え切れないほど生まれて来られそうだ、と心配してさえいないハーレイ。何十億年もあれば、何回ほど地球に来られるのだろう、と。
「でも、いつかは…。いつかは地球は無くなるんだよ?」
「いつのことだと思ってるんだ。そういう所は前のお前と変わらんな。心配性なトコ」
 先へ先へと心配事を抱えなくても、案外、なんとかなるもんだ。お前は心配しすぎるんだな。
 人生ってヤツは、どうとでもなる、とハーレイは本当に気にしていないようだから。
「そうなの? …ホントに、そんなものなの?」
 ぼくは心配でたまらないのに、ハーレイは何とかなるって言うの…?
「そう思うが? …前のお前もミュウの未来を心配してたが、アッと言う間に片付いたろうが」
 ジョミーを迎えて、たった一代で全部解決しちまった。
 前のお前が山ほど抱えて、どうなるのかと心配していた未来は全部。



 あんな展開は誰だって予想もしていなかったぞ、とハーレイが指摘する通り。
 SD体制を終わらせるのも、ミュウと人類が共存できる世界を作るのも、自分の代では無理だと気付いた前の自分は…。
(そんな日が来るのは、何百年先か分かりやしない、って…)
 思っていたのに、ジョミーを見付けた。人類の強さをも秘めたミュウの少年。もしかしたら、と抱いた夢。ジョミーならば自分の夢を叶えてくれるかもしれない、と。
(…ジョミーの代では無理だとしたって、シャングリラは守ってくれるよね、って…)
 そう思って自分の意志を託した後継者。次のソルジャーに指名したジョミー。
 明るい金髪と緑の瞳を持ったジョミーは、前の自分の期待以上のことを成し遂げてくれた。彼の代で地球まで辿り着いた上に、SD体制までをも崩壊させた。
 前の自分は、それを見届けられなかったけれど。…ジョミーも命を失ったけれど。
「あれと同じだ、なんとかなるさ」
 お前がジョミーを見付けたみたいに、きっと心配要らんと思うぞ。今から心配しなくても。
 ずっと未来に、地球が無くなっちまったって。
 もう一度くらいは行けるだろう、と思っていたのに、太陽の寿命が来ちまってもな。
 太陽にすっかり飲み込まれる前に、焼かれて乾いちまうんだろうが…、とハーレイが言う地球。遠い未来に海を失い、灼熱の星になってしまうだろう地球。
 せっかく青く蘇ったのに、地球を守ろうと人間が努力したのに、その甲斐もなく。
 人の力ではどうしようもない、宇宙の摂理に逆らえなくて。
「…なんとかなるって言うけれど…。心配しすぎだって言われても…」
 ホントのことだよ、いつかは地球が消えてしまうのは。
 どんどん膨らむ太陽のせいで、人が住めない星になってから滅びちゃうのは。…真っ赤に焼けた地面も海も、全部太陽に飲み込まれて。
 それは止めようが無いことなんだよ、誰にも止めることなんて無理。
 ぼくもハーレイも、二度と地球には行けないんだから。…どんなに地球に生まれたくても。
 今みたいに地球で暮らしたくても、その地球、何処にも無いんだから…。
 ハーレイもぼくも出られないんだよ、死んだ後に帰って行く所から…。



 其処が何処かは知らないけれど…、と縋るような目で訴えた。前の自分が命尽きた後、魂だけが飛び去った何処か。前のハーレイが来るのを待っていた場所。
 今の自分たちの命が終われば、きっと其処へと帰るのだけれど。…またハーレイと二人で地球に来られるまで、其処で過ごすのだろうけれども。
「…地球が無くなったら、ぼくたち、出られなくなっちゃうよ…?」
 出られなくなっても大丈夫だって言うの、天国みたいな所から…?
 命も身体も持っていなくて、魂だけで住んでいる所から。
 ハーレイと一緒なら寂しくないけど、もう新しい身体も命も貰えないんだよ?
 今みたいに生きているんだったら、色々なことが出来るけど…。地球の空気も吸えるけど…。
 そういうのも全部無くなっちゃうよ、と心配でたまらない未来のこと。地球の太陽が赤色巨星になってゆく時。地球を滅びに巻き込みながら、星の終わりを迎える時。
「全部無くなっちまうってか? そう思うのも無理はないんだが…」
 お前は前から心配性だし、其処に気付いたら、どんどん心配になってゆくのも分かるがな…。
 なあに、今から心配していなくてもだ、神様って方がいらっしゃる。
 お前に聖痕を下さった神様、いらっしゃるのは分かるだろう?
 俺たちをこうして生まれ変わらせて、ちゃんと出会わせて下さったのが神様だ。
 その神様が放っておいたりはなさらないだろうさ、地球って星を。
 人間は地球から生まれたんだし、この地球だって、神様がお創りになった星だと思わんか?
 そいつが滅びてゆくというのに、黙って放っておかれるわけがない、とハーレイは神様の助けを信じているけれど。その神様を疑うわけではないけれど…。
(…いくら神様でも、宇宙の決まりを変えることなんて…)
 出来ないのでは、という気がする。人間ではなくて神だからこそ、それは無理だと。
 かつて人間は地球を壊したけれども、神は青い地球を返してくれた。もう一度、人が地球の上でやり直せるように。地球と共に生きてゆけるようにと。
 けれど、そうなる前は死の星だった地球。人間が好き放題をやった挙句に滅ぼした星。
 人間がその手で滅ぼした地球を、神は救いはしなかった。人間が地球を求めるまで。人間の手で地球を蘇らせようと敷いたSD体制、それを自ら覆すまで。
 神が守るのは宇宙の摂理。人間の都合で変えようとしても、けして変えられはしないもの。



 青い地球を人間に返した神だけれども、その地球が太陽と共に滅びるなら、神は救いはしないと思う。太陽が寿命を迎えるように、地球の滅びも寿命だから。
 火星の軌道まで膨らむらしい赤色巨星に飲まれてゆくのが、宇宙が定めた地球の最期だから。
「…神様が地球を助けてくれるっていうの?」
 地球の太陽が滅びてしまうのに、どうやって地球を助けられるの?
 そんなの無理だよ、神様でも無理。…ううん、神様だから無理だと思う。
 神様は奇跡を起こすけれども、地球の太陽が滅びるのは宇宙の決まりだから…。それを変えたら神様じゃないような気がするよ。
 人間が地球を滅ぼした後に、SD体制を敷いたのと同じ。…ユグドラシルまで造っていたけど、何も変えられなかったじゃない。人間の自分勝手なやり方では。
 神様だって、きっとおんなじ…。どんなに人間がお願いしたって、宇宙の決まりは変えないよ。ハーレイはそう思わない…?
 神様はきっと、地球を助けてくれないよ…、と恋人に向かってぶつけた思い。いくら神様でも、太陽もろとも滅びゆく地球は、黙って見ているだけだろうから。
「俺だってそれは分かっているさ。地球だけが助かる道なんて無いということは」
 地球があるのは、あの太陽のお蔭だからな。…ソル太陽系だったからこそ、地球が生まれた。
 他の恒星には作り出せなかった、奇跡の星が地球なんだ。前のお前が憧れた星。
 太陽無しでは、青い地球は決して生まれて来ないし、存在することも出来やしない。
 だから太陽が滅びる時には、地球も一緒に滅んでゆくのが正しい道だ。太陽から生まれた地球の寿命も、其処で終わるというわけだな。
 だが、今の時代でも見付かっちゃいない、第二の地球。…この地球と双子のような星。
 その頃までにはきっと見付かる、神様が教えて下さる筈だ。それが必要な時になったら。
 俺が言う神様の助けってヤツはそいつだ、とハーレイが挙げた新しい地球。本物の地球が滅びてゆく時、何処かで見付かるだろう星。
 前の自分たちが生きた時代にも、人類はそれを探していた。探して、見付けられないまま。
 ミュウの時代になり、青い地球が宇宙に蘇って来ても、まだ人間は探し続けている。今は純粋な興味だけで。「地球と同じような星はあるのか」と、「奇跡の星を見付けてみたい」と。



 気が遠くなるような長い年月、探し続けても見付からない星。地球に似た星。
 本物の地球が滅びる時には、その星がきっとあるのだろう、とハーレイは笑んだ。
「神様は地球で暮らしている人間を、お見捨てになることはない筈だ。きっと見付かる」
 第二の地球と呼べるような星が、宇宙の何処かで。…人間が頑張って探し続けていれば。
 銀河系の中じゃないかもしれんがなあ…。
 かなり昔から探し続けて、大抵の場所は探し尽くしているようだから。
 それでも何処かにきっとあるさ、とハーレイが見ている遠い未来の第二の地球。滅びゆく地球の代わりのように、何処かで見付かるだろう星。
「地球そっくりの星が見付かるの?」
 それが神様の助けだって言うの、地球の代わりに新しい星…。地球じゃない星。
 ぼくもハーレイも其処に行くことになるの、地球が無くなっちゃった時には?
 地球とは違う星なんだけど…、と少し寂しい。前の自分が焦がれ続けて、今の自分も何処よりも好きだと思う地球。其処を離れて、別の星に行かねばならない時が来るのか、と。
「お前の気持ちは俺にも分かるが…。本物の地球が一番なのは、俺も同じではあるんだが…」
 考えてもみろよ、今の地球だって、実は似たようなモンだってな。第二の地球っていうヤツと。
 地球の座標と、ソル太陽系の惑星無しでだ、昔の人間が今のこの地球を見たならば…。
 これが地球だと気付くと思うか、青い星には違いないがな。
 地球とそっくり同じサイズだというだけの星だぞ、今の俺たちが住んでる地球は。
 大陸も海も、形がすっかり違うんだから。…SD体制が始まった時代にあった地球とは。
 前の俺が見た地球とも違うな、とハーレイが軽く広げた手。「あれは死の星だったがな」と。
 けれど、生き物は何も棲めない星でも、地球の地形はかつてと同じだったという。大陸も海も、人間が地球を離れた時と同じまま。「地球だ」と思わざるを得なかった星。其処に生命の欠片さえ無くても、汚染された海と乾いた砂漠が広がる星でも。
「そういえば、そうかも…」
 昔の人たちが宇宙から今の地球を見たって、同じ星だとは気が付かないよね。
 青くて地球に良く似ているけど、別の星にしか見えないんだっけ…。
 海も大陸も、昔の地球とは違うから。比べてみたって、何処も重ならないんだから。
 昔の人たちに見せてあげたら、「地球にそっくりの星を見付けた」って思うよね、きっと…。



 今の地球はそういう星だったっけ、と改めて思う蘇った地球。青く輝く水の星。
 SD体制が崩壊した時に引き起こされた、地球全体が燃え上がるほどの地殻変動。激しい地震や火山の噴火で、すっかり変わってしまった地形。大陸も海も、何もかもが。
 そうやって全てが失われた後、青い地球が宇宙に戻って来た。前とは全く違う姿で、前と同じに水の星として。今の地球でも、地表の七割は海に覆われているのだから。
「分かったか? まるで別物になっちまったのが今の地球だな」
 其処でのんびり生きてるんだし、新しい地球に引越す時が来たって、直ぐに慣れるさ。
 本物の地球を懐かしく思い出すことがあったとしたって、悲しい気持ちにはならないだろう。
 今みたいに生まれて来ることが出来て、新しい命を貰えるんなら。
 それにだ、今の地球の姿ってヤツを思えば、これからも地球は変わってゆきそうだよな?
 俺たちが次にやって来る時は、陸地の形が違っているかもしれないぞ。
 丸ごと変わりはしないだろうが、一部くらいなら有り得るよな、というのがハーレイの読み。
 また新しい身体と命を貰えるまでには、長い時間が必要なのかもしれないから。今の自分たちが待っていたのと同じくらいに、待たされることも起こり得るから。
「うーん…。陸地の形が変わっちゃうほど、うんと先のことになっちゃうの?」
 次にハーレイと地球に来るのが、そんなに遠い未来だったら…。
 そしたら、文化も変わっちゃうかな?
 今の間に色々約束したって、それが無くなっちゃっているとか…。
 次も日本の文化がいいよね、って思っていたって、お寿司も天麩羅も、もう無いだとか…。
 旅行に行こうと思っていた場所の文化も変わっちゃったりしてるのかも、と心配な気分。
 前の自分が地球でやりたいと描いた夢は、今の人生で叶いそうなのに。…より素敵になった形で叶う筈なのに、今の自分が夢を見たって、次の人生では叶わないのだろうか…?
「どうなんだかなあ、文化ってヤツは…」
 今の文化はSD体制が始まるよりもずっと昔の、色々な地域の文化を復活させてるわけだし…。
 そういうやり方がいいと思ってやってるわけだし、今の文化を貫きそうな気もするが…。
 時代に合わせて変わりはしたって、基本の部分は変えないままで。
 この地球がいい、と誰もが思っているんだから。文化も、それに生き方もな。



 どんなに時が流れようとも、そうそう変わりはしないだろう、とハーレイは微笑む。次に二人で地球に来る時も、きっと似たような世界だろうと。
「少しばかり地形が変わっていたって、暮らしている人間は同じじゃないか?」
 もちろん顔ぶれは変わる筈だが、それでも同じに今の平和な世界のままで。
 …前の俺たちが生きてた時代みたいな世界に、逆戻りしちまうわけがないからな。
 今の平和と青い地球とを大切に守って、みんなのんびり地球の上で生きているんだろう。他所の星でも、きっと幸せに。…地球が宇宙の中心で。
「変わらないといいな、今の地球…」
 次に来る時も同じだといいな、色々なものが。…いろんな地域も、今の文化も。
 やりたいことが山ほどあるもの、これからだって増えていくんだよ。
 前のぼくたちの夢を叶えてゆくのが一番だけれど、今のぼくたちの夢も一杯出来るだろうから。
 生きてる間に全部叶っても、次もやりたいことが沢山。「また来ようね」っていう約束だとか。
 次に来た時も、思い出の場所に行ったりしてみたいよね、と強請ってみた。これからハーレイと行くだろう場所、其処がお気に入りになったなら。何度も行きたい土地になったら。
「そういうのもいいなあ、今の俺たちは、前の俺たちの憧れの場所を目指すんだが…」
 其処が気に入りになることもあれば、今の俺たちが旅に出掛けて、気に入る場所もあるだろう。
 美味い料理があった場所やら、綺麗な景色に出会った場所やら。
 思い出はきちんと取っておこうな、次に来た時も、忘れずに二人で出掛けて行けるように。
 俺だって今の地球が好きだからなあ、このまま変わらずにいて欲しいトコだな、この星には。
 前の俺が生きてた時代なんかより、断然いいのが今なんだから。
 そしてだ、そう思って今の時代を築いているのが、俺たちミュウって種族なわけで…。
 キースの野郎が最後に認めた進化の必然、それに相応しく進化したよな。
 すっかり丈夫になっちまって…、とハーレイが言うから、「ホントだよね」と頷いた。
 今の自分は前と同じに弱いけれども、今の時代は同じミュウでも健康なのが普通だから。かつて人類がそうだったように、健康な身体を持っているから。
 前の自分たちが生きた時代は、ミュウは「何処かが欠けている」のが殆どのケースだったのに。頑丈だった前のハーレイでさえも、補聴器が必要だったのに…。



 変わったよね、と思うミュウという種族。サイオンを使わないのが社会のマナーだとか、本当に面白い時代。前の自分には、想像すらも出来なかった世界が今の時代。それに青い地球。
「今のぼく、ホントに幸せだよ。ミュウばかりになった世界に来られて」
 おまけに地球だよ、本物の青い地球の上に住んでいるなんて…。
 地球の太陽はまだまだ沢山寿命があるから、ハーレイと何度でも地球に来ようね。
 絶対だよ、と鳶色の瞳を覗き込んだら、「もちろんだ」と頼もしい返事。
「お前と何度も地球に来ないとな、前の俺たちが憧れ続けた星なんだから」
 ミュウはこれからも進化し続けてゆくんだろうし、地球と一緒に生きるんだろうが…。
 お前が心配している頃には、どんな感じになってるやらなあ…。
 あの太陽が滅びようかってほどの遠い未来だ、進化したミュウはどういう姿なんだか…。
 なにしろ、人間ってヤツは元が猿だしな、とハーレイが考え込んでいるから。
「…ミュウが進化して、違う姿になっていったら…。今の人間の先へ進んじゃったら…」
 ぼくたちの姿も変わってしまうの、其処に生まれて来るんだから。
 進化した人間の子供なんだもの、ぼくの姿も変わっちゃう…?
 前のぼくとは違う姿になっちゃうだとか…、と見詰めた自分の細っこい手足。いつか育ったら、前の自分とそっくり同じになる筈だけれど。…今の自分はそうだけれども、未来の自分。
 地球の太陽が滅びる頃には、自分の姿は今とは違っているのだろうか…?
「お前が別の姿にか…。人間が違う姿になっているなら、無いとは言えんが…」
 その方がむしろ自然なんだが、俺の目に映るお前の姿は、ずっとお前のままだろう。
 チビの間は今のお前みたいな姿で、育てばソルジャー・ブルーになって。
 そんな気がするな、俺の目にはそう見えるんだ、と。
 お前が何に生まれて来たって、俺はお前に恋をする、って何度も言っているだろう?
 小鳥だろうが、子猫だろうが、必ず見付けて恋をするとな。
 ミュウがこれから進化していって、違う姿のお前が地球に生まれて来ても…。
 何に生まれてもお前はお前で、人間の姿が変わっちまっても、俺にとってはお前のままだ。
 赤い瞳で銀色の髪で、抜けるように白い肌のアルビノ。
 そんなトコまで変わらんだろうな、俺の目に映るお前はな…。



 お前がどんな姿になっても、お前は変わらずに俺のブルーだ、とハーレイが信じる自分の瞳。
 その瞳の色が、形が姿ごと変わってしまったとしても、ハーレイなら見付けてくれるのだろう。今と全く同じ自分を、何処も変わっていない姿で。…今の姿とそっくり同じに映し出して。
 ハーレイの瞳がそうだと言うなら、自分の方でも同じこと。ハーレイの姿がどう変わったって、瞳に映って見える姿は今のハーレイと何処も違わない。
「ぼくもハーレイはハーレイなんだと思うよ、いつまで経っても」
 人間の姿が変わっちゃっても、ハーレイはハーレイに見えると思う。…ぼくの目にはね。
 他の人が見たら、違う姿でも。今のハーレイとは違っていても。
 それでもハーレイに見える筈だよ、と確信できる自分の瞳。ハーレイと一緒に生まれ変わって、出会い続けるなら、そうなるから。…きっとハーレイの姿が見える筈だから。
「ほらな、お前もそういう気がするだろう?」
 俺とお前は何処までも一緒だ、何度も生まれ変わっても。…人間の姿が変わっちまっても。
 だから、俺たちさえ、お互いをきちんと見ていれば…。手を離さないで一緒にいれば…。
 地球が滅びてしまったとしても、神様が引越しさせて下さるさ。新しい地球へ。
 きっとその頃には見付かってる筈の、誰もが好きになる第二の地球にな。
 お前も俺も其処へ行くんだ、とハーレイが話してくれる地球。いつか太陽が寿命を迎えて、今の地球うが滅びてしまう時。…その時は新しい地球に行ける、と。
「本当に?」
 ちゃんと行けるの、地球が太陽に飲まれて無くなっちゃっても、新しい地球に?
 ぼくたちは其処に引越し出来るの、今の青い地球が消えちゃっても…?
 大丈夫かな、と首を傾げたけれども、ハーレイに覗き込まれた瞳。「お前なあ…」と。
「お前、神様を疑うっていうのか、引越しなんかさせて下さらないと?」
 俺たちがずっと一緒にいたって、もう新しい地球に生まれ変わらせては下さらない、と。
 神様はケチな方ではないと思うがなあ…。「新しい地球には行かせてやらない」と仰るような、心の狭い方ではないと思うんだが…?
「疑ってないよ、ちょっぴり心配になっただけ…」
 本当にほんのちょっぴりだけだよ、ぼくは聖痕を貰っているものね。
 神様のお蔭でハーレイに会えて、今はとっても幸せだから…。



 ハーレイが「行けるさ」と言ってくれるのが、新しい地球。いつか太陽が寿命を迎えた時は。
 地球の軌道も飲み込んでしまって、青い地球が消えてしまった時には。
「…いつかハーレイと一緒に行けるね、新しい地球へ」
 地球が無くなっちゃった時にも、太陽が地球に近付きすぎて、地球に住めなくなった時にも。
 神様の力で引越しなんだね、新しい地球にハーレイと生まれ変われるように。
 ハーレイも来てくれるんだよね、と念を押さずにはいられない。自分一人が新しい地球に引越ししたって、意味が無いから。…ハーレイと二人で行きたいのだから。
「当然だろうが、一緒でなくてどうするんだ」
 俺はお前を離しやしないし、お前の側を離れやしない。…生まれ変わって出会った時にも、二人一緒に生まれ変われるのを待っている時も。
 地球が滅びてしまうどころか、たとえ宇宙が終わってもだな…。
 何処までも俺はお前と一緒にいよう、と約束して貰えたから、いつまでも一緒なのだろう。遠く遥かな未来に地球が滅びても。…太陽に飲まれて消えてしまって、新しい地球に行く時にも。
 けれど、そうなる時までは…。
「ねえ、ハーレイ。地球が無くなっちゃうまでは…」
 太陽の寿命が終わるまでには、何度でも地球に生まれて来ようね。ハーレイと二人で何度でも。
 ぼくは青い地球が前のぼくだった頃から好きだったんだし、今も大好きなんだから。
 約束だよ、と小指を絡めようとしたら、「こら」と弾かれてしまった手。
「ずいぶんと気の早いヤツだな。お前の人生、これからだろうが」
 まずは一度目を満喫しろよ、と小突かれた額。「次の約束まで焦るんじゃない」と。
「分かってるけど、地球でやりたいことが一杯…」
 前のぼくたちの夢もそうだし、今のぼくのも。ハーレイと一緒にやりたいことが。
 ホントに山ほど、と指切りの約束をしておきたいのに、ハーレイは絡めてくれない小指。
「俺も同じだ。だがな…。大きくなるのはゆっくりだぞ?」
 そっちの方も慌てるな、と釘を刺されたから、ゆっくり育とう。子供時代を楽しむために。
 いつかこの地球が消えてしまっても、ハーレイとずっと一緒だから。
 宇宙が無くなっても一緒なのだし、いつまでも何処までも、けして離れはしないのだから…。




            地球の太陽・了


※いつかは滅びる、地球の太陽。その運命は神にも変えることは出来ず、地球も道連れ。
 けれども、地球が無くなった後も、ハーレイとブルーは、きっと離れずに生きてゆくのです。
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(今日はハーレイの授業があったし…)
 幸せだったよね、とブルーが浮かべた笑み。とうに学校から家に帰った後。
 制服を脱いで、おやつも食べて、戻って来た二階の自分の部屋。勉強机の前に座って、学校でのことを思い出す。ハーレイが教える古典の授業。
 あの時間が好きでたまらない。ハーレイの姿を見られる上に、声もたっぷり聞けるから。
(困ってた子もいたけれど…)
 当てられて、答えられなくて。「聞いてたか?」とハーレイに軽く睨まれたりもして。きちんと授業を聞いていたなら、其処で詰まりはしないから。そういう質問だったから。
 その子を叱って座らせた後に、「仕方ないな」とハーレイが始めた雑談の時間。生徒の集中力が切れて来た時に繰り出す必殺技。居眠りしていた生徒も起きるし、人気の雑談。
(雑談、みんなに人気だけれど…)
 自分は普通の授業でもいい。延々と授業が続くだけでも。難しい質問をされるだけでも。
 答えられるだけの自信はあるから、何度でも当てて欲しいくらい。ハーレイの授業なのだから。
(他の先生の授業だったら…)
 当てて欲しいとまでは思わない。成績はいいし、当てられても困りはしないけれども、アピールしたいタイプではない。自分の方から「それ、出来ます!」とサッと手を挙げもしない。
(でも、ハーレイだと…)
 張り切って手を挙げてしまう。難問でなくても、音読係を募集中でも。
 「ぼくは此処だよ」と、「当てて欲しい」と。「ぼくにやらせて」と、「お願いだから」と。
(これって、珍しいタイプ…?)
 お気に入りの先生の授業だから、と張り切る生徒。自分の方を向いて欲しいと頑張る子。
 あまりいないかとも思ったけれども、どの生徒にも「お気に入りの先生」はいる。学校の廊下で会ったりしたら、呼び止めて立ち話をしたい先生。
(授業の時間に、当てて欲しいかは別だけれどね)
 もしも当たったら困るくらいにテストの点数が酷い科目でも、先生は好きという生徒。クラブの顧問の先生だとか、単に人柄が気に入ったとか。
 何度叱られても、好きな先生。授業中に「馬鹿か?」と呆れられても、テストで酷い点数ばかり取った挙句に、放課後などに呼び出しを食らっても。



 いくらでもいる、先生が好きな生徒たち。「また補習だよ」とぼやいていたって、先生を嫌いになったりはしない。「たまには勉強の話もしろよ?」と苦笑されても、廊下なんかで立ち話。
(ぼくがハーレイを好きな気持ちとは違うけど…)
 その生徒たちは、先生に恋はしていないから。
 もっとも、見た目は自分も変わらないけれど。ハーレイに会ったら呼び止めたりして、せっせと話をしている自分。多分、傍目には「ハーレイ先生がお気に入りの生徒」に見えることだろう。
(ぼくの他にも、ハーレイが好きな生徒は沢山…)
 柔道部員以外でも。男子も、それに女子たちも。
 ハーレイの授業を受けた生徒は、全員がハーレイを好きだと言ってもいいくらい。嫌いだという声を一つも聞かない、人気のハーレイ。「来年は担任して欲しい」と夢を見ている生徒も大勢。
 前の学校で急な欠員が出来て、着任するのが少し遅れたから、ハーレイは担任をやっていない。長く教師をしているのだから、着任して直ぐに担任をすることもある筈なのに。
 来年はきっと、何処かのクラスの担任になる。ハーレイのクラスになりたい生徒が何人も。
(ハーレイのクラス…)
 なれるのだったら、来年は其処のクラスがいい。ハーレイが担任になるのなら。
 ハーレイは柔道の腕がプロ級、柔道部の指導が優先されたら、担任をしないこともあるらしい。今までの学校で何度かあったと聞いているから、まだどうなるかは分からないけれど…。
(担任になって、ぼくの学年だったら、ハーレイはぼくのクラスかも…!)
 ハーレイは自分の守り役なのだし、その方が何かと便利だろう。側にいられる時間が増えたら、充分に目を配れるから。朝と帰りのホームルームで、必ず顔を合わせるのが担任の先生。
(聖痕、あれっきり出ていないけど…)
 二度と出ないと思うけれども、両親と病院の先生以外は知らない前の自分のこと。聖痕の理由は外見のせいだと信じているから、学校は今も心配な筈。「ハーレイを側に置かないと」と。
 そんな具合だから、ハーレイが担任するのなら…。
(きっと、ぼくの学年…)
 それにぼくのクラスだよね、という気がする。守り役を自分につけておくために。
 持ち上がりで順に上がってゆくなら、最後までハーレイのクラスだろう。卒業式を迎える時までハーレイのクラス。ずっとハーレイが担任のまま。



 ハーレイが担任をするのだったら、きっとそうなる。柔道部の指導が優先されなかったら。
 卒業式には、ハーレイに向かって御礼の言葉。大勢のクラスメイトと一緒に、花束を渡したりもして。寄せ書きをした色紙なんかも。
(それで卒業して、十八歳になった途端に、ハーレイと結婚しちゃったら…)
 なんだか複雑な気分だけれども、ハーレイならきっと大丈夫。「担任の先生」の顔は卒業、次は恋人で結婚相手。「お嫁さん」にしてくれる人。
 変な噂も、ハーレイだったら立たないと思う。みんな祝福してくれる筈。ハーレイの同僚の先生たちも、自分と一緒に卒業したクラスメイトたちも、学校に残っている生徒たちも。
(聖痕が出ちゃったせいで、守り役になって貰って、仲良くなって…)
 何度も家に通って貰って過ごす間に恋が生まれても、けして変ではないだろう。ただでも人気のハーレイなのだし、人柄に惹かれても不思議ではない。「いい人だよね」と。
 守り役だったハーレイの方でも、まるでペットを可愛がるように世話する間に情が移って、恋に落ちるということだって。
 男同士のカップルだけれど、恋の前には些細なこと。好きなものは好きで、恋は恋。
(前のぼくたちだって、最初はホントに友達同士…)
 燃えるアルタミラで初めて出会って、行動を共にしたけれど。大勢の仲間たちが閉じ込められたシェルター、それを端から開けて回って、逃がしたけれど。
(息がピッタリ合うんだってこと…)
 あの時から気付いて、その後も一緒。ハーレイが厨房担当だった頃も、手伝いながら色々な話をした。試食なんかもさせて貰って、ハーレイの「一番古い友達」。
 ソルジャーになってしまった後にも、誰よりもハーレイを頼りにしていた。キャプテンに推したくらいなのだし、当然のこと。…キャプテンの方が、ソルジャーよりも先に誕生したけれど。
 あまりにも仲良く過ごしていたから、これは恋だと気が付くまでにはかなりかかった。
 シャングリラと名付けた船が白い鯨に改造されても、友達同士でいた二人。
 ようやく恋だと分かった頃には、長い年月が経っていた。初めて出会った、あの日から。燃えるアルタミラで声を、思念を掛け合いながら、懸命に走り続けた日から。
 なんとも遅咲きだった恋。前の自分たちの恋はそうだった。



 気が長すぎる恋だよね、と自分でも思う前の恋。いったい何年かかっただろう、と。互いに特別だった二人で、会った時から一目惚れだと恋が実った後に気付いた。間抜けな話なのだけど。
 とはいえ、今度は最初から恋人同士の二人が出会ったのだから…。
(恋に落ちるのも早いよね?)
 元々、恋人同士だった二人。前の自分たちの記憶が戻れば、ストンと恋に落っこちる。一目惚れとも言うかもしれない。互いが互いを認識したなら、もう一度恋に落ちるだけ。
 前の自分たちの恋の続きを、新しい身体で生きるよう。新しい命で恋の続きをしてゆけるよう。
 だから二人は恋人同士で、十八歳になったら結婚。今度こそ恋を実らせるために。
(パパとママには、説明、大変そうだけど…)
 いつからハーレイに恋をしたのか、どうして結婚したいのか。上の学校に行きもしないで、結婚できる年になった途端に。…普通だったら、まだ遊びたい盛りだろうに。
 それに両親は知っている、前の自分の正体。前世の記憶を持っていること。ハーレイのことも、前のハーレイがキャプテン・ハーレイだったことも。
 そんな二人が結婚なのだし、ソルジャー・ブルーだった頃からの恋だと打ち明けるのか、それは隠しておくことにするか。前の自分たちが恋をしたことは、まるで知られていないから。
(うーん…)
 どうなんだろう、と思う今の自分の恋。
 ただの先生と生徒の恋なら、両親だって驚きはしても「結婚したいほどだったら…」と、きっと納得してくれる。男同士でも、やたら早すぎる結婚でも。
(ちゃんとしっかり考えたのか、って何度も確かめられそうだけど…)
 とりあえず上の学校に行ってみたらどうか、とも言うかもしれない。急がなくても、一年くらい視野を広げに通ってみたら、と。
(もう考えた、って言ったら、許して貰えそうなんだけどね…)
 問題は其処に至るまで。
 前世の記憶を持っているから、そちらの方をどうしたものか。ソルジャー・ブルーだった自分がキャプテン・ハーレイと結婚したいと思う現実。二人を知っている人にとっては青天の霹靂。
 今度は友情が恋になったみたい、と話すことにするか、前から恋をしていたのだと明かすのか。嘘は簡単につけるけれども、恋は初めてだと誤魔化しておけばいいのだけれど…。



 難しいよね、と思う恋のこと。先生と生徒の恋で通すか、前の自分たちだった頃からの恋だと、両親にきちんと話すべきなのか。
 先生と生徒の恋なら簡単だったのにね、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「ねえ、ハーレイ。…先生と生徒が結婚したっておかしくないよね?」
 ちゃんと卒業した後だったら、珍しくないと思うんだけど…。先生と結婚する生徒。
 お気に入りの先生だったのが恋に変わって、結婚しちゃう人もいるよね?
 それはちっとも変じゃないでしょ、と投げ掛けた問い。そんなカップルもいる筈だから。
「先生と生徒の結婚か…。お前が言うのは俺たちのことか?」
 いずれそうなる予定だからなあ、おかしくないかと訊いてるんだな?
 先生と生徒の結婚ってヤツ、とハーレイが質問の意味を確認するから頷いた。
「そう。…ぼくとハーレイのことも含めて」
「教師をやってりゃ、特に珍しくもないってトコか。…教え子と結婚するケースはな」
 俺たちの場合は男同士だが、別にかまいはしないだろう。結婚しようと思ったんなら、誰からも文句は出ない筈だぞ。男同士のカップルだってあるんだから。
 俺たちだって結婚したっていいと思うが、どうかしたのか?
 そんな話を持ち出すなんて、何か気になることがあるのか、と逆に問われた。「何故だ?」と。
「…パパとママには、どう言えばいいのか、分かんなくて…」
 ハーレイと結婚したい、ってお願いするのはいいんだけれど…。お願いしなくちゃ駄目だから。
 だけど、いつからハーレイに恋をしたかが問題。
 前のぼくたちのことがあるでしょ、そっちの話をどうすればいいか…。
 あの頃から恋人同士だったことをね、ちゃんと話すか、隠しておくか。何も言わないで。
 先生と生徒の間の恋なら、少しもおかしくないんだから…。
 前のぼくたちのことは黙っておくのがいいのかな、と鳶色の瞳を見詰めた。「どう思う?」と。
「それか…。今の俺たちのことはともかく、前の俺たちの恋の方だな」
 実は俺にも、そいつが難しい所でなあ…。
 正直、答えが出せていなくて、先延ばしにしたまま、今も抱えているってわけで…。



 お蔭で、親父たちにも話せやしない、とハーレイがフウとついた溜息。
 まだハーレイが両親に明かしていないこと。前世の記憶を取り戻したことと、未来の結婚相手の正体。キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーが、いつか結婚するということ。
「お前と結婚するって話は、とっくの昔にしてあるんだが…」
 どうしてお前を選んだのかは、まだ話せないままなんだ。お前が俺を選んでくれた理由もな。
 下手に話せば、前の俺たちの恋のことまで、明かしちまうことになるからなあ…。
 お前と同じで悩んでるんだ、とハーレイも持っていなかった答え。前の自分たちの恋を隠すか、打ち明けるのか。
「そうなんだ…。ハーレイにも出せていないんだ、答え…」
 ハーレイでも無理なら、ぼくがちょっぴり考えたくらいで答えが出るわけないよね。パパたちになんて話せばいいのか、先生と生徒の恋だってことにしておくか。
「すまんな、少しも頼りにならない恋人で。まあ、時間だけはたっぷりあるんだから…」
 ゆっくり考えていけばいいじゃないか、前の俺たちの恋をどうするか。今度も隠すか、前からの恋だと話しちまうか。
 最初は「違う」と言っておいてだ、後で明かすって手もあるし。
 結婚してから二人で色々話し合った末に、「やっぱり話そう」と思ったならな。
 何十年も経ってから打ち明け話をしたって、まさか叱られやしないだろう、という意見にも一理ある。急いで決めてしまわなくても、ゆっくり考えてから出す結論。
「その方法も使えそうだね。二人で一緒に考えるんなら、いいアイデアが浮かびそう」
 パパやママたちがビックリしなくて、「そうだったんだ」って分かってくれる打ち明け方とか。
 その時が来るまで黙っておくなら、今度は先生と生徒の恋だね、ぼくたちの恋。
 先生に恋をしちゃったぼく、と微笑んだ。前の自分たちの恋を隠しておくなら、そうなるから。
「そいつも悪くないと思うぞ、俺は。先生に恋でも、男同士のカップルでも」
 友情から恋になっちまうんなら、前の俺たちも同じだから。最初は友達だったんだしな?
「それはおんなじなんだけど…。ハーレイ、今は先生なんだよね」
 先生と仲良くなってしまって、それから恋人。…前は最初から友達同士だったのに。
 前のハーレイと出会った時には、先生と生徒じゃなかったものね。



 ハーレイは大人で、ぼくが見た目も中身もチビだっただけ、と今の自分たちとの違いを挙げた。前の自分の本当の年はともかくとして、大人と子供の間の友情。
「前のハーレイ、先生じゃなかったんだから…。ぼくは敬語を使っていないよ」
 ハーレイの方がずっと大人でも。…ぼくよりも、うんと大きくてもね。
 今のハーレイだと、学校では「ハーレイ先生」だから、と話したチビの自分の立ち位置。先生と生徒の間柄では、敬語の出番もやって来る。学校で出会った時だけにしても。
「其処が大きな違いだよなあ…。前の俺たちが出会った時と、見た目は変わっていなくても」
 お前にとっては俺は教師で、学校の中で話すとなったら、敬語が欠かせないからな。前の俺たちなら、いくらお前がチビの子供でも、言葉は普通で良かったんだが…。
 そういや、前の俺たちの場合。学校では出会えていないんだよなあ、燃えるアルタミラだから。
 炎の地獄で出会っちまった、とハーレイが浮かべた苦笑い。「一目惚れには似合わないな」と。
「ちっとも似合っていないよね…。地獄で一目惚れなんて」
 お互い、気付いていなかったけど。…あそこで恋をしちゃったことに。
 おまけに、ぼくの方がハーレイよりもずっと年上。とても生徒になれやしないよ、年上だもの。
 生徒だったら年下でしょ、という点も前の自分たちとの違い。今の自分はハーレイよりも年下。
「それなんだがな…。お前が年下だったとしたって、学校ってトコでは会えないぞ」
 出会えない上に、一目惚れをするチャンスも無いな、とハーレイが言うから首を傾げた。
「なんで? 前のぼくの方が年下だった時のことでしょ?」
 学校で会えると思うけど…。ハーレイが先生をしているのなら。今と同じで。
「そうはいかないのが、前の俺たちが生きた時代だ。…ミュウかどうかは抜きにしてだな…」
 俺が教師をしてるとなったら、俺は成人検査をパスしていないと駄目だから。
 ついでにお前も成人検査をパスして来ないといけないな。
 つまり、今より育ったお前になるわけだ。成人検査を通過しているわけだから。
 ほんのちょっぴりだけにしてもな、というのが出会いのための条件。成人検査をパスすること。
「…ぼくもなの?」
 パスする前でも、かまわないように思うんだけど…。
 前のぼくたちが出会った頃みたいな姿で会うなら、成人検査はあまり関係無さそうだけど…。



 パスすることは必須じゃないでしょ、と思った忌まわしい成人検査。ミュウはパス出来ない検査だけれども、今、話している「もしも」はミュウは抜きなのだから。
「ミュウかどうかは関係無いなら、成人検査はどうでもいいよ?」
 どうせ受ければパスするんだから、それよりも前にハーレイに会ってもいいじゃない。
 学校の先生をやってるハーレイにね、と言ったのだけれど、「それは甘いぞ」と返った声。
「いいか、成人検査を受ける前には何処にいたんだ? 前の俺たちが生きた頃には」
 俺たちは記憶をすっかり失くしちまって覚えていないが、アルタミラにあった育英都市だ。成人検査にパスするまでは、育英都市の学校に通うのが義務だったわけで…。
 育英都市だと、教師と生徒の恋というのは有り得んな。…ああいう時代だったんだから。
 どう転んでも恋は出来ん、とハーレイに畳み掛けられた。「育英都市にある学校だぞ?」と。
「育英都市…。あそこの学校、子供のための学校で…」
 大人の社会に旅立つ前の勉強の場所で、純粋で無垢な子供を育てる学校だから…。
 其処で先生に恋をしたって、成人検査を受けた後にはお別れで…。
 それに本気で恋をするなんて、子供には相応しくないって判断されちゃうだろうし…。
 ハーレイに恋をしちゃ駄目なんだよね、と気が付いた。
 あの時代には、恋をするなら教育ステーションに行ってから。大人の社会への入口になる場所、其処に進んでゆかないと無理。子供はあくまで子供らしく、と機械が定めていたのだから。
 それまでは恋に憧れるだけ。大人になったら、素敵な人を見付けて恋をしようと。
 育英都市にあった学校は、そういう子供が通う場所。大好きな先生に恋をしてみた所で…。
(その恋、実らないどころの騒ぎじゃなくって、カウンセリングルーム…)
 アタラクシアでジョミーを見守っていた時、何度も覗いたカウンセリングルーム。呼び出されて叱られるジョミーの姿も、ションボリと出てゆく時の姿も。
 あれと同じで、もしも自分が学校でハーレイに恋をしたなら、きっと食らってしまう呼び出し。自分を担任する教師はもちろん、場合によっては当のハーレイまでが其処に現れて…。
 指導を受けて、諦めさせられることになる。ハーレイに恋をすることを。
 それで駄目なら、記憶の処理もされるのだろう。
 恋など忘れて、子供らしく健全に生きてゆくよう。二度とハーレイに恋をしないよう、恋をする切っ掛けになった出来事や、育んだ想いを全て消されて。



 育英都市の学校で先生に恋をするのは無理だ、と思い知らされた。目覚めの日を迎えて、学校や先生に別れを告げるよりも前に、恋そのものが出来なかった場所。
 其処でハーレイが教えていても。…ハーレイのことを好きになっても、けして実りはしない恋。子供時代を過ごす間は、恋は相応しくないものだから。
「…先生のハーレイに会いたかったら、教育ステーションなんだ…」
 会うだけだったら、育英都市の学校でだって会えるけど…。ハーレイに恋をしたいなら。
 恋が出来る場所で出会うんだったら、成人検査をパスした後…。
 今のぼくより、ちょっぴり育ったくらいかな、と眺める手足。前のハーレイとは、こういう姿で出会ったけれども、あの時代に「ハーレイ先生」に会うなら、教育ステーションなのだろう。
「そうなっちまうな、E-1077かもしれないぞ」
 前の俺とお前が出会う場所。…前の俺は本物を見てはいないがな、E-1077そのものは。
 すぐ近くまでは行ったんだが、というのはシロエの船をキースが落とした時のこと。ジョミーが試みた思念波通信、それを行うための航行の真っ最中。
「E-1077って…。どうしてなの?」
 キースやシロエがいた場所だから、って言うんじゃないよね、時代が全く違うんだもの。
 ぼくが行ってもキースは生まれてさえもいないよ、と思い出すのはフィシスのこと。人類を導く指導者として、機械が無から創った生命。フィシスが最初に作り出されて、遺伝子データを使ってキースが作られた。E-1077に場所を移して、エリート候補生として。
 その実験がまだ始まってもいなかった時代、それが前の自分が成人検査を受けた頃。検査にパスしてE-1077に行っても、大して意味は無さそうだけれど…。
「俺があそこを挙げた理由か? キースの野郎は関係無いぞ」
 もちろんシロエも、サムやスウェナも。
 お前、頭が良かったからなあ、あそこじゃないかと思ったんだが…。成人検査をパスしたなら。
 待てよ、頭の方は良くても、身体が駄目か。弱い身体じゃ、訓練についていけないからな。
 それじゃメンバーズになれやしないし、E-1077は対象外になっちまうのか…。
「そうみたい…」
 他のステーションになると思うよ、前のぼくなら。
 成人検査をパスしていたって、E-1077に行く人間には選ばれないよね。



 あそこは駄目、と肩を竦めたら、浮かんだ他の可能性。教育ステーションなら幾つもあったし、身体の弱い子供用のも、多分、存在したのだろうけれど。
 そういう場所なら、そのステーションに似合いの教師が配属されて教えた筈。同じように身体が弱い教師や、弱い子供を教えるのに向いている教師。
(…今のハーレイは古典の先生だけど…)
 それは今のハーレイが選んだ仕事。柔道や水泳のプロの選手にならずに、教師になろうと決めた職業。けれど、前の自分たちが生きた時代は、自分で仕事を選べなかった。進みたい道も。
 弱い身体ではE-1077に行けないのと同じで、前のハーレイにも機械が割り当てる道。この職業に就くように、と。そんな時代に、ハーレイが教師になったなら…。
(古典の先生なんかじゃなくって、うんとハードな体育とかの…)
 教師の道が待っていそう。それこそE-1077でも通用しそうな、激しい訓練担当の。身体の弱い子供たちが行くステーションには、ハーレイは来ない。きっと配属されたりはしない。
「…前のぼく、ハーレイが教えてくれるような教育ステーションには、行けそうにないよ…」
 ハーレイはE-1077でも教えられそうだから、ぼくみたいな弱い子供が行くような場所にはいないと思う。…もっと丈夫な子供が行く教育ステーションの先生だよ、きっと。
 それに、先生じゃない可能性の方が高いかも…。仕事、自分で選べなかったんだもの。
 機械が勝手に決めてしまって、と話したら、ハーレイも「そうかもなあ…」と軽く手を広げた。
「俺もそういう気がして来た。どうやら教師は無理なようだ、と」
 あの時代だったら、ミュウじゃない俺は、有無を言わさずスポーツ選手にされてたかもな。何の選手になったかは知らんが、プロを養成する教育ステーションに送られちまって。
 でなきゃパイロットといった所か、才能はあったようだから…。
 前の俺が自分じゃ気付いていなかっただけで、キャプテンに向いていたようだしな?
 プロの選手にせよ、パイロットにせよ、そういう道に進んじまったら、引退した後に教師の道があったとしても…。
 まだ充分に若かったとしても、お前が来そうなステーションには…。
「いないでしょ、ハーレイ?」
 ぼくはスポーツのプロも無理だし、パイロットになるのも無理そうだから…。
 どっちも丈夫な身体が要るから、ハーレイが先生になっていたって、会えないんだよ…。



 先生のハーレイがいるステーションには行けないよ、と溜息をついたら、ハーレイも「うむ」と相槌を打った。「どう考えても、それは無理だよな」と。
「今のお前が柔道部員になれないみたいに、向き不向きってのがあるもんだから…」
 SD体制の時代は適性を機械が判断してたし、例外ってヤツは無いだろう。こいつは此処だ、と決めちまったら、そのコースを進ませるだけで。
 前のお前は、成人検査をパスしていたって、教師の俺には出会えないんだな。俺とお前の適性が違い過ぎるから。
 そして俺だって、生徒のお前には出会えないままになっちまう、と。成人検査を通過出来ても、俺たちの道は重なりそうにないからなあ…。
「…それじゃやっぱり、ミュウ同士で出会うしかないの?」
 せっかく恋が出来る教育ステーションに行っても、先生のハーレイがいないなら。
 …ぼくを教えてくれないのなら、アルタミラの地獄で会うしか無かった…?
 先生と生徒は無理だものね、と消えてしまった可能性。前の自分たちの、別の出会い方。
「そうかもしれんな、違う道なら何処かにあったかもしれないが…」
 教師と生徒でなくていいなら、宇宙は広いし、出会えた可能性もある。一目惚れ出来るチャンスだってな。…それこそ何処かへ旅する途中に、宇宙船の席が隣同士になったとか。
 しかし今だと、こうして出会えた。…ちゃんと、お前に。
 前の俺たちは行けずに終わっちまった、教育ステーションって所でな。
 俺は教師で、お前は俺の教え子だろうが、とハーレイは笑みを浮かべるけれども、ステーションではない学校。…教育ステーションという名前でもないし、宇宙に浮かんでもいない学校。
「ステーションじゃなくて、学校だよ?」
 ハーレイと会ったの、学校だってば。…先生と生徒なのは間違いないけど、普通の学校。
 義務教育で行く最後の所で、教育ステーションなんて名前はついていないよ…?
 今の時代は、教育ステーションっていうのも無いでしょ、何処を探しても。
 SD体制が無くなった後は、あのシステムも無くなったから…。
 人類もミュウも、自分で好きな道を選んで、行きたい学校に行くようになってしまったから。
 教育ステーションは廃止されたんだってことを習うよ、歴史の授業で。



 SD体制が崩壊した後、真っ先に廃止されたのが教育ステーション。成人検査を廃止するなら、教育ステーションだけを残しておく意味は何もない。
 同じ水準の教育をしようというなら、宇宙ではなくて何処かの星で。大人も子供も一緒に暮らす社会の中に、学校を作ればいいのだから。ちゃんと家から通えるように。
 自分の家から遠すぎる子なら、寮に入ればいいだけのこと。そして学校が休みの時期には、家に帰って家族と暮らす。…もう目覚めの日が来て、引き離されはしない養父母たちと。
(初めの間は、養父母が本物のパパやママっていう時代になって…)
 自然出産の子供が混じり始めて、じきに本当の家族ばかりになった。血が繋がった両親と子供、そういう家族しかいない世界。成人検査も教育ステーションも、時の彼方に消えてしまって。
 今は人間は全てミュウになったし、地球さえも青く蘇ったほど。そんな時代に教育ステーションなどという言葉自体が無い筈なのに、と首を捻って考えていたら…。
「分からないか? 俺がどうして教育ステーションだと言ったのか」
 お前の学校は教育ステーションじゃないが、あれはとっくに無くなったんだが…。
 あの時代の流れを継いでいるんだ、今の時代の学校も。
 成人検査も教育ステーションも廃止されたが、子供を教える学校は無いと駄目だしな?
 暫くの間は混乱していて、何処の学校も、休校みたいになっていた時期もあったそうだが…。
 じきに新しいのに整え直して、教師をしていた人間も配属し直した。新しく出来た学校に。
 今のお前が通っているのが、元は教育ステーションだったヤツなんだ。其処で教えていた教師を連れて来て、あちこちの星に置かれた学校。…教える中身も、教科書も変えて。
 お前の学校、十四歳で入って、四年間で卒業するだろう?
 在籍期間は教育ステーションってヤツと全く同じだ、気付かなかったか…?
 ステーション時代の名残なんだな、と聞かされた今の学校を卒業するまでの年数。それから入学する時の年も。
「本当だ…!」
 十四歳になったら通うんだものね、目覚めの日も十四歳だっけ…。
 それに教育ステーションで過ごすの、四年間っていう決まりだったよ。
 E-1077でも、何処でも同じ。四年経たなきゃ、どんなに優秀でも卒業は無理…。
 義務教育みたいなものだったんだね、あの時代の教育ステーションって…。



 今の自分が通う学校と、教育ステーションとの共通点。入学の年と在籍年数が同じ。ハーレイに聞くまで、まるで気付いていなかった。そっくりそのまま真似ているのに。
 前の自分には、教育ステーションは関係の無い場所だったから。子供たちを教育ステーションに送り出すための、振り分けを兼ねた成人検査を酷く憎んでいただけだから。
(…教育ステーションまで行ける子供は、みんな人類…)
 ミュウの子供は弾き出されて、その場で処分されてしまうか、研究所に送られて実験動物になる道を歩むか。どちらも人類と機械の都合で、そうならないよう救出したミュウの子供たち。
 前の自分の役目は其処まで、教育ステーションに気を配りはしない。どうせ人類しかいない場所だし、ステーションによっては、ミュウの天敵とも言えるメンバーズを育てていたのだから。
 少しも興味が無かった場所。目を向けさえもしなかった教育ステーション。
「…ハーレイ、なんで知ってるの?」
 ぼくの学校、教育ステーションを元にしてるんだ、って…。
 教えてることは違うけど。あの頃みたいに、色々な仕事のプロを育ててはいないけど…。
 もっと沢山勉強するなら、上の学校に行かないと教えて貰えないから。
「簡単なことだ、教師にとっては常識だってな。学校の仕組みと歴史ってヤツは」
 基礎の基礎だと言ってもいい。…何の科目の教師になるにも、一番最初に教わることだ。
 お前が通っている学校は、元は教育ステーションだった学校なんだな。教える中身と、場所とが変わってしまっただけで。
 つまりだ、今のお前は教育ステーションにいるってことだ。成人検査は全く抜きで。
 お前の学校、宇宙に浮いてはいないがな。…何かの仕事のプロに育ててもくれないが。
 義務教育だし、そんなモンだ、とハーレイは笑う。「SD体制の頃とは時代が違うから」と。
「ぼく、教育ステーションに入れたんだ…」
 前のぼくは門前払いになってしまって、入れて貰えずに終わったけれど…。
 どんなステーションに行ける才能を持っていたのか、それも知らないままだったけど…。
「お互い様だな、俺も教師になれたようだぞ」
 前の俺には門前払いを食らわせてくれた、教育ステーションって所でな。
 何になりたいかを選ばせて貰って、プロのスポーツ選手の道とか、パイロットとかはお断りで。



 俺とお前は教育ステーションで出会ったようだ、とハーレイはパチンと片目を瞑った。
 「教育ステーションってヤツは、今は何処にも無いんだがな」と。
「俺は教師で、お前は生徒。…E-1077とはいかなかったが、教育ステーションなんだ」
 前の俺たちの考え方だと、そういうことになるんだろう。…今の俺たちの出会いはな。
「そう考えると面白いね。前のぼく、教育ステーションには行けなかったけど、今は学校」
 それに、ハーレイまでくっついて来たよ。教育ステーションの先生になって。
 前のぼく、そんなの、夢にも思っていなかったよ。やり直せて教育ステーションなんて。
 其処に行ったら、ハーレイが先生をしてるだなんて…。
 夢よりもずっと凄い未来になっちゃった、と輝かせた顔。「ホントに凄い」と。
「俺も思いやしなかった。…考えたことさえ無かったってな」
 こういう人生も悪くないなあ、俺は教師で、お前は生徒。
 教育ステーションでバッタリ出会っちまって、一目惚れして、今度は結婚出来るだなんて。
 …教師と生徒になっちまったから、結婚します、と宣言するタイミングが難しそうだが…。
 お前のお父さんたちにとっては、俺はあくまで「ハーレイ先生」なんだから。
 その俺がお前と結婚か…、とハーレイが腕組みしているから。
「パパたちに頼むの、ハーレイに任せちゃってもいい?」
 結婚したいと思ってます、って頼む時にはハーレイにお願い出来る…?
 ぼくだとタイミングが掴めないしね、と頼んでみた。ハーレイの方が遥かに年上なのだし、肝も据わっている筈だから。
「そのつもりだが…。場合によっては、お前にも努力して貰わんと」
「努力って?」
「お父さんたちに反対された時だな。絶対に駄目だ、と俺が叩き出されたら、お前の出番だ」
 俺は家にも入れて貰えないし、お前が説得してくれないと…。なんとか入れて貰えるように。
 通信を入れても切られそうだしな、家から叩き出されてしまった時は。



 問答無用というヤツで、とハーレイが恐れる両親の反対。「結婚は駄目だ」と、一人息子を嫁に欲しがる男を家から叩き出すこと。訪ねて来たって家には入れずに、通信も切るという有様。
「…パパたち、其処まで反対するかな?」
 ハーレイを家から叩き出すほど、酷いことをやったりすると思うの…?
「どうだかなあ…?」
 こればっかりは、蓋を開けてみないと分からんし…。俺が本当に叩き出されたら、お前を頼りにするしかない。お父さんたちに会えないことには、話のしようが無いんだから。
 土下座するにしたって、会えないと出来はしないんだぞ、とハーレイは最悪のケースを予想しているけれど。父と母とに放り出されて、結婚の許可が下りないことを恐れているけれど…。
 前にそういう夢を見た。
 ハーレイと結婚したいから、と思い切って父に打ち明ける夢を。
 夢の中の父は少し怖かったけれど、最後は結婚を許してくれたし、現実もきっと…。
「パパとママなら許してくれるよ、ハーレイと結婚するのなら」
 ずっとハーレイと一緒に過ごして、先生と生徒で結婚したくなったんならね。
 ハーレイを叩き出したりなんかはしないよ、きっと話をきちんと聞いてくれるってば。
「そうなってくれればいいんだが…。どうなるんだか…」
 俺の方だと、親父たちはもう知ってるからなあ、お前を嫁に貰うってこと。
 親父たちに反対されなかった分、お前の家で苦労をする羽目になるかもしれないが…。
 お前の努力が必要な立場になっちまっても、俺も全力で努力しよう、とハーレイは結婚のために頑張ってくれるらしいから。
 先生と生徒の恋が実るよう、結婚式を挙げられるように力を尽くしてくれるから…。
 両親もきっと結婚を許してくれるし、それまでは恋を楽しもう。
 キスもデートも出来ないけれども、今はステーション時代だから。
 前の自分は行けなかった場所でハーレイと出会って、今は毎日、幸せな恋をしているから…。




              先生と生徒・了


※今のハーレイとブルーの恋は、先生と生徒の間の恋。今の時代だから、可能なのです。
 SD体制の時代だったら、制約がありすぎて叶わない恋。それが出来る今を楽しまないと…。
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