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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

(ふうむ…)
 こいつはどうやら当たりだな、とハーレイが手に取って眺めた卵。
 ブルーの家には寄れなかった日の夜、夕食の支度をしていて出会った。具沢山のオムレツを作るつもりで卵を出して来たけれど。幾つ使おうかと、卵が盛られた器から一つ取ったのだけれど。
 どうも大きい、そういう印象。他の卵と比べてみたら、やはり大きい。
 平飼いが売りの農場の卵、自然の中に鶏が産んでゆく卵。それを集めて出荷している、大きさが不揃いなことは珍しくなくて。器に盛られた卵は色々、それが気に入ってよく買っている。
 卵といえども自然が一番、人の手は最小限でいい。前の自分の記憶が戻る前からそうだった。
(揃った卵も悪くないんだが…)
 きちんと揃えて出荷される卵も嫌いではないし否定しないけれど、この盛り合わせの卵がいい。大きめの卵や小さめのものや、如何にも産み立てという感じがするから。
 放し飼いにされて土の中の虫をついばんだりして育った鶏、元気な鶏。その鶏の元気が詰まった卵で、力を貰える気がするから。



 それにしても大きい、手の中の卵。どう見比べても、他の卵よりも大きな卵。
 不揃いな大きさの卵たちだし、そういったこともあるけれど。ここまで大きな卵となると…。
(この卵は、多分…)
 どうやら双子。一つの卵に黄身は普通は一つだけれども、双子の卵には二つの黄身。
 きっとそうだ、と大きさと重さを改めて手で確かめた。ずしりと重い気がする卵。大きめの卵。
(ほぼ間違いなく双子だろうな)
 透視はさほど得意ではないし、卵の中身を気軽に覗けるレベルではない。
 光に翳せば分かるだろうかと思ったけれども、ここは割ってのお楽しみといこう。
 あらかじめ結果が分かっているより、当たりかハズレか、それを待つのも心が弾むものだから。自分の運を試されるようで、当たれば幸福感も倍。
 まずは割って…、とオムレツのつもりで用意していた器よりも小ぶりの器を出して来た。
 もしも卵が双子だったら、他の卵と混ぜてしまうようなオムレツにするのはもったいないから。



 卵をコツンとキッチンの台の角にぶつけて、軽くヒビを入れて。
 器の真上でパカリと割ったら、スルリと零れ落ちた黄身。一つ落ちたのに、もう一つ。殻の中に一つ黄身が残った、やはり双子の黄身だった卵。
 半分に割れた殻の中にチョコンと鎮座している黄身は小さめ、普通の卵の黄身より小さい。器の中に入っている黄身も。
 観察してから、そうっと二つ目の黄身を器の中に移した。仲良く並んだ二つの黄身。色の濃さも大きさもそっくり同じで、もう本当に瓜二つの双子。
 三十八年生きて来たけれど、双子の卵はそうそうお目にはかかれないから。
 狙って手に入るものではないから、予定変更、オムレツはやめて双子が生きる目玉焼き。双子の卵を堪能するなら、目玉焼きにするのが一番いい。
 オムレツ用にと用意した具はグラタンにしよう、ソーセージや野菜などだから。バターで炒めて粉を振り入れ、ザッと混ぜてから牛乳を少しずつ入れてやったらホワイトソース。粉末の調味料を加えて味見してから塩胡椒。オーブン用の器に移して、チーズを載せて…。
 オーブンに入れて仕上げる間に味噌汁に味噌を溶き、それから小さなフライパン。さっきの卵を流し入れて目玉焼きにかかった、軽く蓋をして。
 間もなく完成、今夜の夕食。グラタンの方が見た目に立派だけれども、食卓の主役は目玉焼き。双子の卵が美味しそうに焼けた、目玉焼きを載せた皿が今夜の主役。



(さて、と…)
 テーブルに着いて、グラタンの方から食べ始めた。目玉焼きも熱々がいいと思うけれども、まだ見ていたい。偶然の出会いを、一個の卵で黄身が二つの目玉焼きを。
(双子の卵なあ…)
 ワクワクするような卵ではある、滅多に出会えはしないから。
 綺麗に揃った卵を買ったらまず出会えないし、不揃いな卵を選んで買っても、そうは会えない。あの平飼いの農場の卵をよく買うけれども、双子の卵には滅多に出会わない。
(前に出会ったのはいつだったか…)
 思い出せないくらいなのだから、何年も見てはいないのだろう。黄身が二つの双子の卵。
 こうして出会うと嬉しい気分になってくる。一つの卵に黄身が二つで得をした気分、一個の卵で栄養が倍、と。その上、珍しい卵。幸運を引き当てた気分になれる。
 SD体制が始まるよりも遥かな昔の地球にあった国、中国では双子の卵は縁起が良かったという話も聞いた。黄身が二つだから双黄卵の名があったほど。
 縁起がいいから探し求められ、普通の卵よりも高値で売れた。喜ばれていた双黄卵。



(しかしだ…)
 その中国の隣に位置した、かつての日本。今、自分が住む地域の辺りにあった小さな島国、その日本では双子の卵は好まれなかったらしい。
 黄身が二つの卵どころか、双子というだけで忌み嫌われた。双子が人間の子供であっても。
 どうしたわけだか嫌われた双子、色々と説はあるようだけれど。
 人間の場合は片方の子供を捨ててしまったり、養子に出したり、最悪の場合は殺したり。双子に生まれて来たというだけで親に育てて貰えなかった子供。
 そうした双子を思わせるから、双子の卵も嫌われた。食べずに捨てたか、どうなったのか。
 けれども後世、双黄卵を尊ぶ文化が入って来たら売れたというから勝手なものだ。黄身が二つの卵ばかりを集めたパックが飛ぶように売れた、かつての日本。
 今ではそういう卵のパックは無いけれど。双子の卵に出会いたかったら、不揃いな卵が詰まったパッケージを買っては、大きめの卵を端から割ってみるしかないのだけれど。



 遠い昔には人間の都合で評価が分かれた双子の卵。忌み嫌われたり、尊ばれたり。
 人の双子もそれと同じで、いつの間にやら嫌われる代わりに人気者。そっくりな双子にお揃いの服を着せ、得意満面だった親。周囲も可愛いともてはやしたから、人は変われば変わるもの。
 見方ひとつで、考え方が一つ変わっただけで。
(そんな調子だから、SD体制なんぞを作っちまえたんだ)
 人を人とも思わない世界、機械が人間を作った時代。
 無から生まれたフィシスでなくとも、人間は全て人工子宮から作り出されていた時代。
(…生まれたんじゃなくて、作るんだよなあ…。あれは)
 人の誕生とはそうしたものだと、前の自分はすっかり信じていたけれど。人工子宮から生まれてくるのだと、人はそうして生まれるのだと。
 前の自分も、それにブルーも、人工子宮で作られた子供。人工子宮で育った子供。
 誰もおかしいとは思わなかったし、それが正しいのだと思い込んでいた。
 そう、トォニィが生まれるまでは、ずっと。
 SD体制が始まって以来、初めての自然出産児としてトォニィがナスカで生を享けるまでは。



(あの時代には、双子ってヤツは…)
 きっといなかったのだろう。広い宇宙の何処を探しても、双子の子供というものは。
 機械が完璧に管理していた出産システムでは有り得ないから。
 人工子宮に二つの受精卵を入れはしないし、受精卵が二つに分裂するのも止めただろうから。
 一卵性の双子も、二卵性の双子もいなかった時代。
 そういう時代に自分たちは生きた、前の自分と前のブルーは。
(今だと双子もいるんだがな?)
 自然出産が当たり前の時代、もちろん双子も生まれてくる。一卵性の双子も、二卵性の双子も。
 今の学校にも、双子の生徒がちゃんといる。
 前の自分が生きた時代にはいなかった双子が、今は普通に生まれる双子が。
 まるで双子の卵のように。何も思わずに買った卵たちの中に混ざっていた少し大きめの卵、目の前の双子の卵のように。
 目玉焼きにしてしまったけれど。割ってフライパンで焼いてしまったけれど。



 双子の卵は自然の証明、それを思うと可哀相だったろうか、この卵。
 割って目玉焼きなどにしてしまって…、と冷蔵庫までパッケージを確認しに行った。もしも卵が有精卵なら、命が入った卵だから。親鳥が抱いて温めてやれば、ヒヨコが孵る卵だから。
 パッケージに貼られていなかったシール、有精卵と書かれたシールは無くて。
 違ったのか、とホッとした。珍しい双子を食べてしまっては可哀相だ、と。
 安心してダイニングのテーブルに戻り、グラタンの後は目玉焼き。白身の方から食べ始めて。
(一つの黄身の卵だったら、有精卵でも平気で食ってたっけな…)
 可哀相だと思いもしないで、とハタと気付いて苦笑する。酷いもんだと、食べているな、と。
 有精卵はたまに食べるから。そう書かれているシールつきのを、選んで買う日もあるのだから。温めればヒヨコが孵る卵を、命が入っている卵を。
(栄養がつく気がするんだよなあ…)
 思えば卵が可哀相だけれど、それとこれとは別問題。特別な気がする有精卵。
 遠い昔のバロットとやらではないけれど。孵化する前のヒヨコごと卵を茹でてしまって、食べる文化ではないけれど。
 ヒヨコが入った卵を茹でてしまうバロット、今でも一部の地域では食べると聞いた。SD体制が崩壊した後、復活して来た食文化。栄養がつくと、滋養があると。



(…流石の俺もそこまではな?)
 旅行先でバロットを食べて来た先輩は「美味い」と語ったけれども、挑戦する気はまるで無い。好き嫌いが無いのが自慢とはいえ、ヒヨコ入りの卵は心臓に悪い。同じ栄養でも有精卵止まりで、その先は御免蒙りたい。
 ヒヨコ入りの卵を食べる文化や、双子の卵を尊ぶ文化や。
 卵の文化も色々あるなと、前の自分たちの時代とは違うと考えていて。黄身が二つの目玉焼きを美味しく頬張っていて…。
(…待てよ?)
 双子の黄身の片方を口へと運んだ所で、双子の卵が引っ掛かった。
 遠い記憶に、今の自分よりもずっと昔の記憶の端に。双子の卵だと、黄身が二つの卵なのだと。



 前の自分の、遠い遠い記憶。それと重なる双子の卵。
(あったのか…?)
 双子の卵がシャングリラに、と記憶を掴んで手繰り寄せてみたら。
 白いシャングリラで暮らしていた日々を、鶏の卵があっただろう時期の記憶を探ってみたら。
(そうだった…!)
 あの船で鶏を飼っていた時、双子の卵が生まれたのだった。普通よりも大きく生まれた卵。
 これは何かと透視してみた仲間が見付けた、二つの黄身が入っているのを。
 そんな卵は誰も知らないから、大騒ぎになってしまったけれど。変な卵が生まれたらしいと皆が押し掛け、農場にあった卵置き場は時ならぬ賑わいだったけれども。
 ヒルマンがデータベースを調べに行ったら、黄身が二つの卵というのはたまにある話。
 卵を産み始めたばかりの雌鶏が産むことが多いらしくて、条件が揃えば他にも色々。
 SD体制が始まるよりも遠い昔は、卵としては出荷されずに製菓用などとして卸されていたり、逆に喜ばれて双子の卵ばかりを詰めたパッケージが人気を博したり。
 双子の卵はそういったもので、シャングリラで飼っている鶏が産んでも不思議ではなくて…。



 そうは言っても珍しいから、前の自分たちも見に行った。見物客が一段落した後、前のブルーも一緒に出掛けて。
 卵置き場の中の一角、小さな机に置かれた卵。黄身が二つの双子の卵。
「孵るのかい?」
 温めてやれば、と尋ねたブラウ。親鳥が温めればヒヨコが二羽孵るのかい、と。
「どうなのだろうね…?」
 そこまでは調べていなかった、とヒルマンがデータベースを調べに出掛けて、直ぐ戻って来た。双子の卵を孵化させることは、けして不可能ではないらしい。
 親鳥に任せておくのではなくて、人が手助けしてやれば。適切な手段を講じてやれば。
 卵を温める親鳥は何度も卵の向きを変えるけれど、双子の卵にはそれでは足りない。黄身同士が癒着してしまうだとか、偏りすぎて死んでしまうとか。
 それではヒヨコは孵りはしないし、もっと何度も卵の向きを変えるためには人工孵化。
 親鳥の代わりに孵卵器で温め、何度も卵を回転させては、中身がくっつかないように。ヒヨコが無事に生まれてくるよう、せっせと付き添い、世話をしてやる。
 そうすれば孵る、双子のヒヨコ。二羽のヒヨコが一つの卵の殻を破って生まれるという。



「へえ…!」
 凄いじゃないか、とブラウが上げた感嘆の声。ゼルも、ブルーも、前の自分も同様だった。
 今の時代の人間には有り得ない双子。養父母が育てる兄弟はいても、血の繋がりは全く無い。
 鶏の世界でも人が手助けしてやらないと生まれない双子、孵化しないらしい双子の卵。
 けれども、双子の卵は孵る。
 人間の双子は今の時代は生まれないけれど、双子の卵なら孵すことが出来る。一つの卵から命が二つ。双子のヒヨコが生まれてくるから。
「やってみたいねえ…!」
 あたしたちの手で双子のヒヨコを孵したいよ、と言い出したブラウ。ゼルも大きく頷いた。
「マザー・システムとはまた違うからのう…。双子のヒヨコもいいもんじゃ」
 わしは双子ではなかったんじゃが、とゼルが呟いたハンスは弟、同じ年齢ではなくて血縁関係も皆無。機械が選んで組み合わせただけの兄と弟、そういう兄弟だったけれども。
 それでも兄弟には思い入れのあったゼル、双子のヒヨコはゼルの夢を大きく掻き立てた。双子の卵を孵してみたいと、双子の鶏を育ててみたいと。
 前の自分もブルーも夢見た、双子のヒヨコを孵してみようと。白いシャングリラの仲間たちも。



 是非、と願った双子の鶏。誕生を祈った双子のヒヨコ。
 切っ掛けになった双子の卵は、残念なことに無精卵。ヒヨコが孵化するわけがなかった。
 だから誰もが待ったのだけれど、有精卵の双子の卵が生まれたならば、と頑張ったけれど。鶏が大きな卵を産む度、双子の卵だと判明する度、有精卵かと調べたのだけれど。
(とうとう無かったんだったか…)
 双子の卵の有精卵は見付からなかった。
 あれほどに皆が待ったのに。双子のヒヨコを孵してみようと、双子の鶏を育てたいと。
 一つの卵に二つの黄身が入った双子の卵。人間がせっせと世話をしないと孵らない卵。
 双子のヒヨコを孵化させることは、神の悪戯と、人間の手との合わせ技。
 だからこそ白いシャングリラの皆が夢見た、自分たちの手で奇跡の命を、と。
 けれど双子の有精卵はついに生まれず、シャングリラでは生まれなかった奇跡の双子。同じ卵の殻を破って二羽のヒヨコは生まれなかった。そっくりに育つであろうヒヨコは。



(今の時代だと…)
 双子の卵はどうなるのだろう、とデータベースで調べてみたら。
 流石は今の平和な世の中、個人的な趣味で孵化させている人が撮影した画像までがあった。卵を孵卵器で温める所から、二羽のヒヨコの誕生までを。
 卵の殻を中からつついて破って、覗いた二つの黄色い嘴。そうして出て来たヒヨコが二羽。
(本当にちゃんと孵化するのか…)
 こういうものか、と見入ってしまった。
 同じ卵からヒヨコが二羽。双子の鶏、シャングリラでは叶わなかった夢。
 管理出産の時代に抗うかのように、双子のヒヨコを孵そうとしていた前の自分たち。
(…あいつも何度も見に出掛けてたが…)
 双子の卵が生まれたと聞けば、農場に出掛けていたブルー。「今度は有精卵なのかい?」と。
 あれから長い時が流れて、ブルーも自分も生まれ変わった。青い地球の上に。
 人工子宮から生まれるのではなく、母の胎内で育まれて。
 そうして生まれた今のブルーは覚えているのだろうか、双子の卵を?
 前の自分たちが夢を見ていた双子の卵を、奇跡の誕生を待ち焦がれていた双子の卵を。
(明日は土曜か…)
 訊いてみようか、小さなブルーに。双子の卵を覚えているか、と。
 双子の卵に出くわしたことも、きっと何かの縁だから。黄身が二つの目玉焼きを美味しく食べていることも、シャングリラで生まれた双子の卵を思い出したことも。



 次の日、目覚めたら直ぐに思い出した双子の卵。昨夜の双子の目玉焼き。
 これはブルーに訊かなければ、と青空の下を歩いて出掛けて、生垣に囲まれた家に着いて。
 ブルーの部屋でテーブルを挟んで向かい合うなり、早速、問いを投げ掛けた。
「双子の卵を知ってるか?」
「なに、それ?」
 双子ってなあに、卵は幾つも生まれるんじゃないの?
 鳥の種類で違うかもだけど、温める卵が一個だけより、二つとかの方が多そうだけど…。
「双子の卵は卵の数のことじゃなくてだ、本当に双子だ、一つの卵に黄身が二つだ」
 鶏の卵でたまにあるんだ、他の鳥でも生まれるのかは知らんがな。
 この卵は妙に大きいぞ、と思った時には双子だってことがあるんだよなあ…。
「ふうん…?」
 ハーレイ、それに出会ったの?
 黄身が二つの双子の卵を見付けたの…?
「うむ。昨夜、オムレツを作ろうとして卵を出したら、そいつが当たりで」
 もしかしたら、と思ったんだが大当たりだ。ちゃんと双子の卵だったさ。



 オムレツはやめて目玉焼きにして食ったんだが、と話したら。
 せっかくの双子の卵なのだし、黄身が二つの目玉焼きにしたと言ってやったら。
「食べちゃったの!?」
 ハーレイ、双子を食べちゃったんだ!?
 双子の卵を割ってしまって、目玉焼きにしてしまったなんて…!
 酷い、と反応したブルー。あまりに酷いと、食べてしまうなんて酷すぎると。
「安心しろ。…俺も確かめたんだが、普通の卵と何も変わらん。無精卵だった」
 あれを温めてもヒヨコが生まれて来たりはしないぞ、有精卵ではなかったからな。
「なんだ…。それなら、いいよ。食べちゃっても」
 双子のヒヨコが孵る卵を、食べてしまったわけじゃないなら。
「その卵なんだが…」
 覚えていないか、前の俺たちと双子の卵の話なんだが…。
 シャングリラで孵そうとしていただろうが、鶏が産んだ双子の卵を。
 人間が手助けしてやらないと孵らないらしい、ってことで、双子のヒヨコを孵そうとした。
 あの時代の人間にはいなかった双子、そいつを鶏で見てみたい、とな。
「そういえば…!」
 ブラウが言い出したんだったっけね、それでみんなが賛成して…。前のぼくだって。
 ゼルが一番熱心に孵そうとしていたっけね、双子の卵。ハンスと重ねていたんだろうね、双子の鶏。同じ卵から孵る兄弟、それが見たい、って。
「結局、出来なかったがな…」
 卵を孵す用意はあったが、手伝おうと意気込むヤツらも充分揃っていたが…。
 肝心の卵が生まれないままで終わったっけな、双子の卵はいつも無精卵ばかりでな…。



 そうそう上手くはいかんものだな、と苦笑いを浮かべてしまったけれど。
 今の時代は趣味で孵している人もあるのに、と前の自分たちの夢が夢のままで終わってしまったことに溜息をついたけれども。
「ううん、前のぼくたちが頑張った分は評価されたかも」
「はあ?」
 小さなブルーが何を言ったのか、何を言わんとしているのか。それが分からず、思わず漏らした間抜けな声。けれどブルーは笑う代わりに、こう続けた。
「トォニィたちだよ。…自然出産で生まれた子供たち」
 最初はトォニィ、ナスカで生まれた最初の子供。
 SD体制の時代に入って、初めて生まれた本当の子供。人工子宮じゃなくて、お母さんのお腹の中で育った本物の子供。
 今のぼくたちもそうして生まれたけれども、あの時代には誰も思いはしなかったよ。お母さんがいないと子供は生まれてこないってことも、それが正しい道だってことも。
 …前のぼくは全く気付きもしなくて、ヒルマンやエラたちも気付かなかった。
 なのにトォニィたちが生まれたんだよ、ミュウの未来を拓いた子たち。
 トォニィたちが生まれたからこそ、次の時代に人工子宮は無くなったんだよ、SD体制が壊れたせいだけじゃないと思うよ。
 …人はそうして生まれるものだと、お母さんから生まれるものだと、みんなが気付いたからこそなんだよ。トォニィたちが生まれていたから、立派な子供たちだったから。
 前のぼくたちが頑張ってた分、トォニィたちへと繋がったかもね…。



 親鳥任せにしておいたのでは孵化しないという双子の卵。
 それを孵そうとしたくらいだから、管理出産だった時代に双子のヒヨコを誕生させようと夢見て努力していたから。
 有精卵の双子の卵を寄越す代わりに、神様がアイデアをくれたのだろう、と微笑むブルー。
 双子の卵よりも、双子のヒヨコなどよりも。
 もっと素晴らしいものを誕生させてみてはどうかと、本物の子供を育ててみないかと。
 アイデアを貰ったのは前の自分ではなくてジョミーだったけれど、と。
「もしかしたら、と思うんだよ。…神様がくれたアイデアかもね、って」
 双子の卵を孵化させるよりも、本物の子供の方がずっと凄いよ。
 そっちの方が遥かに凄くて、ミュウの未来も、人の未来も正しい方へと向かったんだよ。
 人工子宮になっちゃってたのを、元へと戻したんだから。
 あんなアイデア、そうそう出ないよ、神様がジョミーにくれたアイデアかもしれないよ?
「だが、ジョミーの時代に双子の卵は…」
 もう孵そうとはしちゃいなかったぞ、農場では生まれていたんだろうが…。
 鶏は変わらず飼ってたんだし、双子の卵もたまには生まれていた筈なんだが…。
「とっくに飽きちゃった後なんだけどね、ジョミーがシャングリラに来た頃にはね」
 双子の卵が生まれました、って報告も無くて、見ようと出掛けて行く人も無くて。
 有精卵か無精卵かのチェックなんかもしていなかったよ、卵は食堂に直行だったよ。普通の卵も双子の卵も関係なくって、食堂行き。
 ヒヨコを孵すための卵以外は、全部みんなで食べちゃっていたよ。



 ブルーを継いだジョミーの時代は、既にやってはいなかった。それよりも前になくなっていた。
 すっかり忘れ去られてしまった、双子の卵を孵すこと。双子のヒヨコを孵化させる夢。
「ねえ、ハーレイ。双子の卵を孵そうっていう夢、どうして飽きちゃったんだっけ…?」
 疲れちゃったって覚えは無いけど、待ちくたびれて投げ出しちゃったのかなあ?
 いくら待っても有精卵の双子が生まれてこなくて、もう駄目だ、って放り出しちゃった…?
「そうじゃないだろ、本物の子供で忙しくなって来たせいだろうが」
 …本物と言っても、トォニィたちのような意味での本物の子供とは違ったんだが…。
 人工子宮から生まれた子供たちだが、もう本当に小さな子たち。
 前の俺たちがそれまで見たこともなかったチビが何人もやって来たんだ、双子のヒヨコを育てるどころじゃないってな。
 人間の子供の方が大事だ、そいつを立派に育てにゃならん。なにしろミュウの子供だからなあ、いずれシャングリラを担う予定の新しい世代が来たんだからな。



 雲海の星、アルテメシアで保護した子たち。
 一人から二人、二人が三人、少しずつ増えてシャングリラの中に子供たちの元気な声が響いた。養育部門が必要になって、子供たちはシャングリラの宝物になった。
 双子の卵を孵すよりかは、本物の人間の子供たちを育てる方が遥かに楽しく、夢もある。それに心も惹かれるから。ヒヨコよりかは断然子供で、誰もがそちらに向かったから。
 双子の卵は忘れ去られた、孵そうという夢も消え去った。
 同じ育てるなら人間の子だと、ミュウの未来を担う子たちを育てねばと。



「そっか…。子供たちの方が大切だものね、鶏の双子なんかより…」
 双子の卵を孵しているより、子供たちを育てていかなきゃね…。
「うむ。もっとも、あの時代に双子の子供はいなかったんだがな」
 双子を見たいなら卵を孵してヒヨコの方でだ、人間の双子はまるでいなかったわけなんだが…。
 マヒルとヨギが双子だったと言ってはいたがだ、あれも怪しいもんだしなあ…。
 一卵性の双子なら機械の気まぐれでいたかもしれんが、二卵性の双子は有り得ない。人工子宮に二人は入れん、そういう風に出来てはいない。
 あれはどういう双子だったか、調べようとも思わなかったが、はてさて、どうだか…。
 双子なんだと頭から信じて育てられただけの、他人同士だったかもしれないなあ…。
「前のぼくもマヒルとヨギとは調べていないよ、双子なんだと思っているなら、それでいいから」
 もう兄弟は認めない時代になっていたのに、兄弟で双子。それに一卵性じゃなかった。
 何か理由があったんだろうけど、それは機械が考え出した理由だから。機械の都合は知りたくもないし、マヒルとヨギとが幸せだったらそれで充分。
 …だけど、今では双子もいるよね、本物の双子。一卵性の双子も、二卵性の双子も。
「ああ、いい時代だ」
 神様が双子を創って下さる、本当に本物の双子をな。
 母親のお腹の中で育った、そっくりな双子や、似ていない双子を。
 前の俺たちが頑張って孵そうとしていた双子の卵は二卵性だな、もしも孵っていたならな…。



 本物の双子が存在する時代、機械に管理されない時代。
 人が普通に生まれられる世界、母親の胎内に宿って育って、時には双子になったりもして。
 前の自分たちが生きた時代には無理だった双子、双子の卵で夢を見るのが精一杯だった双子。
 それを二人で語り合っていたら、小さなブルーが瞬きをして。
「…ちょっと双子に生まれたかったかも…」
 ぼくとそっくり同じ兄弟、生まれてたら楽しかったかも…。
 パパにもママにも、どっちがどっちか分からないくらい、そっくりな双子。ハーレイにも区別がつかない双子で、「ぼくはどっち?」って訊いてみたりして。
「いいのか、俺を独占出来んぞ?」
 お前が二人で、そっくりだったら、俺も平等に相手をせんとな?
 片方だけを優先するってわけにはいかんぞ、双子なんだし。
「それは困るよ…!」
 ぼくはぼくだよ、もう一人のぼくにハーレイを取られちゃったら困っちゃうよ…!
「俺だって困る、お前が二人になっちまっていたら」
 ぼくが本物、って主張するお前が二人もいるんだ、いったい俺はどうすりゃいいんだ。
 そっくりってことは一卵性だし、元は一人のお前の筈だぞ。
 二人揃って聖痕つきでだ、右手が凍えて冷たいってトコまで同じお前が二人なんだぞ…!



 有り得なかったと思うけれども、もしもブルーが二人だったら。
 母親の胎内に宿る間に、二人に分かれてしまっていたら…。
 一卵性の双子のブルーで、姿形も心もそっくり同じ。そんなブルーが生まれていたならば…。
「ハーレイ、どうした?」
 ぼくが本当に双子だったら、そっくりのぼくが二人もいたら。
 どっちも同じで、どっちも本物。前のぼくが二人になっちゃった双子。
「二人とも貰うさ、お前は俺のものなんだからな」
 片方だけを選んじまったら、もう一人のお前が可哀相だ。二人一緒に貰ってやらんと。
「…お嫁さんが二人?」
 そんなの出来るの、お嫁さんが二人もいる人だなんて、ぼくは聞いたこともないけれど…。
「さてなあ、なんと言ったもんかなあ…」
 俺が教えてる古典の世界じゃ、嫁さんが二人も別に珍しくはないんだが…。
 今の時代にそれは無いしな、同居人とでも言っておくかな、嫁さんじゃなくて。
 結婚式も挙げてはやれんが、俺と一緒に暮らせるんなら、お前はそれで満足だろう?
 もう一人のお前と俺を取り合いでも、奪い合いでも、毎日一緒に暮らせるのなら。



 ブルーが二人いたとしたなら、本当に双子だったなら。
 二人と結婚するのは無理だし、同居するのが精一杯。二人のブルーを家に迎えて、住まわせて。
 けれども、自分は二人ともきっと愛しただろう。
 二人に分かれてもブルーなのだし、二人ともブルーなのだから。
 どんなに大変だったとしたって、愛情もきっと倍だったろう。
 ブルーが二人に増えた分だけ、そっくり同じな双子になってしまった分だけ。
(こいつが二人に増えるんだな)
 双子に生まれてみたかったかも、と言ったブルーが、小さなブルーが。
 そうして自分を巡って喧嘩で、あるいは二人で膨れっ面で。
(うん、きっとそうだ)
 想像してみて可笑しくなる。
 自分を取り合う二人のブルーを、自分が本物のブルーなのだと言い合うブルーを。



 今は双子が生まれられる時代、そんな光景もまるで夢ではないかもしれない。
 愛したブルーが二人に分かれて、両手に花ならぬブルーというのも。
 双子の卵から生まれて来た夢、ブルーが二人に増える夢。
 それも楽しい、こうして心で夢見て描いて、どうなったろうかと考えるのも。
 本当に双子になっていたなら、ブルーも自分も困るけれども、きっと幸せに暮らしただろう。
 青い地球の上に生まれ変わって、自分と、双子で二人のブルーと。
 幸せはきっと三人分。
 ブルーが一人増えた分だけ、ブルーが二人になった分だけ、幸せの量も増えるのだから…。




            双子の卵・了

※遠い昔にシャングリラで夢見た、双子の卵を孵化させること。叶わなかった夢ですけど。
 その夢がナスカの子たちに繋がったのなら、神様からの贈り物。未来を作るための。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv







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「ブルー、一匹いらねえか?」
 今なら選び放題だぜ、って見せられた写真。
 食堂で昼御飯を食べてから戻った教室、ランチ仲間が持ってる写真に、子猫が四匹。小さいのが四匹、フカフカのクッションの上に乗っかってる。真ん丸な目をして。
「えーっと…?」
 一匹いらないか、って訊かれたけれど。ちゃんと写真を見せられたけれど、猫を飼っているって話は一度も聞いたことが無い。猫好きかどうかも記憶に無いけど、いたのかな、って考えてたら。
 お祖母ちゃんの家の猫だって。
 近所に住んでて猫が大好き、二匹飼ってて生まれた子猫。全部飼ってもいいらしいけれど、猫が好きな人は多いから。欲しいんだったらあげますよ、って。



(んーと…)
 クルンと丸い目の子猫が四匹、どれもカメラの方を向いてる。あれはなんだろう、って好奇心で一杯、そういう顔で。白黒のブチが二匹と、三毛っぽいのと、真っ白なのと。
 白いの、とっても可愛いんだけど。
 前に写真を見せて貰った、ハーレイのミーシャみたいなんだけど…。
 ハーレイのお母さんが飼っていたミーシャ、ハーレイが子供だった頃に隣町の家に住んでいた。甘えん坊で、生のお魚よりも焼いたお魚が大好きで…。
 ケーキ作りの時にはミルクを欲しがったミーシャ、ミルクなんかは入らないパウンドケーキでもミルクを欲しがったから。ちょうだい、って足元でおねだりするから、ハーレイがミルクを入れてあげてた。おねだりしているミーシャを踏んだら大変だから。床に転がってると危ないから。
 庭の木に登って降りられなくなって、お父さんが梯子をかけて助けに行ったり、ミーシャの話は幾つも聞いた。ハーレイが沢山話してくれた。
 だからすっかりお馴染みのミーシャ、真っ白で甘えん坊の猫。とっくの昔にいないんだけれど、ハーレイのお母さんたちも今は猫を飼ってはいないんだけど。



(ミーシャ…)
 写真の子猫を覗き込んだ。白い子猫を。ぼくが飼うなら、断然、この子。ミーシャって名前で。
 ハーレイが子供の頃に一緒に暮らしたミーシャの真似して一匹欲しい、っていう気がするけど。貰うならこの子で、名前はミーシャ。
 パパもママも駄目とは言わないだろうけど…。
 ぼくの家には猫が好きそうなソファも絨毯もあるし、庭には登って遊べる木も沢山。芝生だって他所の家の猫が日向ぼっこをしてたりするから、きっと居心地はいい筈なんだ。
(この子を貰ってみようかな…)
 パパとママに頼んで、写真を持ってる友達と一緒に、友達のお祖母ちゃんの家まで真っ白な子を貰いに行く。お父さん猫とお母さん猫に「よろしくね」って挨拶して。
 そうして真っ白な子猫を抱っこして家まで帰るか、ペット専用の籠に入って貰うか。ぼくの家に着いたら直ぐにミルクをたっぷりとあげて、「ぼくの家だよ」って家の中を案内して回って…。
 ぼくの部屋にも連れて行かなくちゃ、階段を上がって。
 もしもミーシャが気に入るようなら、ぼくが家にいる間は、ぼくの部屋で過ごして欲しいかも。椅子の上とかベッドの上とか、好きな所で丸くなって。



 ぼくの家に、部屋にミーシャがやって来る。真っ白なミーシャが。
 今は子猫だけど、育ったらミーシャそっくりになる。ハーレイに見せて貰った写真のミーシャ。甘えん坊のミーシャがやって来るんだ、ぼくの家にも。
(ミルクをあげて、抱っこしてあげて…)
 きっと素敵な毎日になる。ハーレイが来られない日もミーシャがいたら…、って思ったけれど。
(駄目だ、ハーレイ…!)
 そのハーレイが問題だった。真っ白なミーシャは、ハーレイのお母さんが飼っていたんだから。子供の頃のハーレイはミーシャとおんなじ家で暮らしていたんだから。
 ミーシャの思い出を沢山沢山持ってるハーレイ、ぼくがミーシャを飼い始めたら取られちゃう。猫のミーシャにハーレイを持って行かれちゃう。
 「可愛いな」って、ハーレイの目が、手が、ミーシャの方に行っちゃって。
 ぼくを見るよりミーシャを眺めて、ぼくの頭を撫でる代わりにミーシャの毛皮。真っ白な毛皮。もうそうなるに決まっているから、ミーシャは飼えない。
 欲しいけれども飼っちゃいけない、ハーレイを取られてしまいたくなければ。
 だから、真っ白な子猫を貰う話は諦めた。今なら選び放題だけれど、真っ白な子を貰えることになるんだけれど。



「…ううん、いらない」
 いらないよ、って断った。可愛いけれども、ぼくはいらない、って。
「そうかあ? 一瞬、欲しそうな顔してたぜ?」
 小さい間は可哀相だと思うんだったら、もう少し大きく育ってからでも、って言われたけれど。貰う予定で今から仲良くなっておいたら、大きくなっても大丈夫だから、って。
 選んだ子猫に会いに行くなら、お祖母ちゃんの家まで何度でも付き合って行ってやるから、って親切な話もしてくれたけれど、飼えない子猫。ハーレイを取っちゃうミーシャは飼えない。
「ちょっと欲しいとは思ったけれど…。やっぱり、いらない」
 ぼくは身体が弱いから、って嘘をついておいた。
 寝込んじゃったりしたら世話出来ないよ、って、それじゃ猫だって可哀相だよ、って。
「ふうん…? お前の家、お母さんだって世話してくれそうじゃないか」
 気が変わったらいつでも言ってくれよ、って友達は写真を鞄に仕舞った。誰かが貰ってしまった後だともう駄目だけれど、そうでなければ子猫はいつでも貰えるから、って。



 それきり子猫の話は出なくて、帰る時にもう一度言われただけ。「考えとけよ?」って。
 家に帰って、ダイニングのテーブルでおやつの時間。思い出しちゃった、真っ白な猫。
(ミーシャ…)
 此処にミーシャがいてくれたら、って考えた。おやつの間は何処にいるだろう、あの猫を飼っていたならば。ダイニングの何処かで白いミーシャもおやつなんだろうか、ミルクを貰って。
 おやつが済んだら、ぼくと一緒に暫く遊ぶ。きっと部屋までついて来てくれる。
(ぼくの後ろから、階段を上って…)
 甘えん坊のミーシャはそうしていたらしいから。誰かの後ろをついて歩いて、行く先々で甘えて回って。おねだりをしたり、撫でてと身体をすり付けたり。
 猫のミーシャは、ちょっぴり欲しくはあるんだけれど。
 ペットも飼ってはみたいんだけど…。



 今だったらどれでも選び放題、と四匹の子猫の写真が頭を離れない。選んでもいい真っ白な子。一匹だけ混じっていた、真っ白な子猫。
 今なら貰える、あの友達に頼んだら。「白い子がいいな」と声を掛けたら。
(でも、ハーレイ…)
 猫を飼ったら、絶対、取られる。ぼくのハーレイを取られちゃう。
 だけど真っ白な子猫は欲しいし、ミーシャと名前をつけてみたいし、ハーレイの子供時代を真似してみたい。家にミーシャがいる生活。真っ白な猫と暮らす毎日。
 おやつが終わって部屋に戻っても、やっぱり欲しい気がするミーシャ。真っ白な子猫。
 ベッドの上に乗っていたなら、ってチラチラ見ちゃうし、床にいる姿も浮かんでしまう。ピンと尻尾を立てて得意げに歩く姿も、丸くなってぐっすり寝ている姿も。
(ミーシャ、飼いたい…)
 飼ってみたくてたまらないミーシャ、今なら貰える真っ白な子猫。明日にだって貰って来られる子猫。欲しいと友達に頼みさえすれば。
 そこまでは素敵なプランだけれども、後が問題。きっとハーレイを取っちゃうミーシャ。ぼくの代わりにハーレイに甘えて、膝の上にも乗っかったりして。



(…ハーレイ、ミーシャに取られちゃう…)
 だから駄目だ、ってグルグルしてたら、チャイムの音。そのハーレイが仕事帰りにやって来た。ぼくの部屋まで、いつものように。
 ママがお茶とお菓子を置いて行った後、テーブルを挟んで向かい合わせで座ったけれど。ぼくの頭はミーシャで一杯、真っ白な子猫とハーレイの関係でもう一杯で。
「なんだ、どうした?」
 俺の顔に何かついているか、って鳶色の瞳で覗き込まれた。どうも変だぞ、って。
 そう訊かれたら唇からポロリ、ぼくの心が零れてしまって。
「ミーシャ…」
「はあ?」
 ハーレイは大きく目を見開くと、キョロキョロと周りを見回した。まるでミーシャがヒョッコリ姿を見せたみたいに、膝の上だか、足の辺りだかにミーシャの姿があるかのように。



 霊か、って慌てているハーレイ。ミーシャの霊が現れたのか、って。
(…ミーシャの霊って…)
 凄い勘違いだけど、ちょっぴり可笑しい。
 猫のミーシャの幽霊だなんて、前のぼくでも幽霊にはなっていないのに。
 タイプ・ブルーだった前のぼくでもなれなかったのに、ミーシャは幽霊になれるんだろうか?
「ハーレイ、前のぼくは幽霊になっていないんだけど…」
「そういやそうだな…。お前の幽霊、見てはいないな」
 出たという噂も聞いちゃいなかった、シャングリラには大勢乗っていたのに。あれだけ大勢いた船なんだ、霊感のあるヤツの一人や二人は、いたっていいと思うんだがなあ…。
「…幽霊のぼくでも会いたかった?」
 向こう側が透けて見えるようなぼくで、触ろうとしても触れなくっても。
「決まってるだろうが」
 幽霊だろうが、透けていようが、お前に会いたくないわけがない。
 出るという話を耳にしたなら捕まえに行くし、俺の部屋に出たなら逃がしはしないな。



 ぼくの幽霊が出たら閉じ込めてしまうか、捕まえに行くか、どっちかだって。
 幽霊のぼくが消えないように。シャングリラからいなくならないように。
「…そんなの出来るの?」
 幽霊なんかを捕まえられるの、触ろうとしたって触れないんだよ?
 消えてしまうものでしょ、幽霊は…?
「タイプ・グリーンのサイオンってヤツをなめるなよ?」
 防御力の高さじゃタイプ・ブルーにも負けないのがタイプ・グリーンだろうが。
 つまりはシールド能力も強い、サイオンの檻を作り出せるというわけだ。そいつを使って幽霊のお前を捕まえる。俺のサイオンで閉じ込めちまって、二度と外へは出さないってな。
 俺の部屋に出たならそれっきりだし、他の場所に出たなら捕まえて連れて帰るという寸法だ。



 ハーレイの部屋の地縛霊にしてやる、って大真面目な顔で言われたけれど。
「地縛霊って、なあに?」
 どんなものなの、普通の幽霊とは何か違うの?
「そいつはな…。本物の地縛霊っていうのは、俺がお前を捕まえるのとは少し違うが…」
 地縛霊は土地や建物に縛られてるんだ。自分が死んじまったことに気付いていないとか、其処にいなくちゃいけないと思っているだとか。理由はそれぞれ違うわけだが、他の場所へも、天国へも行かずに同じ場所に留まっているんだな。
 だから地縛だ、地面に縛ると書いて地縛霊。
 前の俺がお前の幽霊を捕まえたとしたら、俺の部屋に縛り付けておく。サイオンの檻でしっかり囲んで、抜け出せないように閉じ込めちまう。
 俺が死ぬまでサイオンの檻は解けやしないし、お前は何処へも行けないわけだ。俺の部屋で俺を待つしかないのさ、来る日も来る日も、俺が仕事から戻るまでな。
「…そうなんだ…。ハーレイの部屋から動けないんだ、地縛霊にされてしまったら…」
 サイオンの檻に入れられてしまって、ハーレイの部屋に縛り付けられて。
 …なんだか凄いね、前のハーレイだったらホントにやりそうな気もするけどね…。



 ハーレイが死ぬまで逃げられないらしい、幽霊のぼく。地縛霊にされてしまった、ぼく。
 それも良かった、ハーレイの側にいられたのなら。
 キャプテンの部屋から動けないままで、ハーレイが仕事に行ってる間は独りぼっちで待っているだけの毎日でも。シャングリラを自由に見て回れなくて、青の間に行くことも出来なくても。
 ハーレイが部屋に帰って来たなら、二人きりで過ごせるんだから。
 前のぼくの身体は透けてしまって、抱き締めて貰えなくっても。
 キスすら交わせない透けた身体でも、ハーレイの声は聞こえるんだから。ハーレイが部屋に戻りさえすれば、ちゃんと姿を見られるんだから。
 …幽霊にはなれなかったけど。
 前のぼくは幽霊になってハーレイの前に出られはしなくて、地縛霊にもなれなかったけど…。



 ちょっと残念、って考えていたら、ハーレイはハーレイで違う幽霊を考えていたようで。
「で、ミーシャの霊がどうしたって?」
 お前、見えるのか、ミーシャの霊が?
 サイオンの方はサッパリ駄目だが、霊感の方はあったのか…?
「違うよ、ミーシャの霊じゃなくって…」
 本当に本物のミーシャだってば、見えたわけじゃなくて、思い出のミーシャ。ハーレイが教えてくれたミーシャの話を色々と思い出していたんだよ。
 ぼくもミーシャに会いたいな、って。家にミーシャがいたらいいのに、って。



 ミーシャを飼えるかもしれないんだよ、って今日の昼休みの話をした。
 ランチ仲間が見せてくれた写真、子猫が四匹。白黒のブチが二匹と、三毛っぽいのと、真っ白がそれぞれ一匹、今なら選び放題の子猫。
 真っ白な子猫を貰えそうだった、って。今すぐでも、子猫が少し大きくなってからでも。
「貰えばいいじゃないか」
 可愛いもんだぞ、猫ってヤツは。犬とは違って我儘なもんだが、そこが可愛い。ミーシャだってそうだ、甘えん坊で、せっせとおねだりをして。
「ほらね、やっぱり」
 思った通りだ、って、ぼくは溜息をついたけれども。
「何がやっぱりだ?」
 どうしてそこで溜息になるんだ、俺は猫の魅力を少し語っただけだが?
「猫は可愛いって言ったじゃない!」
 ハーレイ、ぼくよりミーシャに夢中になるんだ、ぼくがミーシャを貰って来たら。
 真っ白な子猫を育て始めたら、ハーレイ、そっちに行っちゃうんだ…!
「お前なあ…」
 そりゃあ、猫がいれば「可愛いな」と撫でてやりもするが、猫とお前は違うだろうが。
 お前の頭を撫でてやるのと猫を撫でるのとは全く違うさ、撫でてやる意味も、こめる心も。
 膝の上に乗せてやるにしたって、猫とお前じゃまるで違うと思うがなあ…。



 お前は猫にも嫉妬するのか、って笑われたけれど。
 猫は猫だし、ぼくはぼくだって言われたけれども、ハーレイの笑顔は猫にも向くから。手だって猫の方にも行くから、そこが問題、とっても問題。
 ハーレイが猫の相手をしている間は、ぼくの相手はお留守だもの。ハーレイは猫のものだもの。
 ぼくは真剣、猫にだってハーレイを取られたくない。ハーレイはぼくのハーレイだから。
 でも…。
「…あのね…。猫はちょっぴり欲しいんだよ」
 ハーレイを取られたくはないから、飼うのはちょっと無理そうだけど…。
 それでもミーシャは欲しい気がするよ、きっと可愛いに決まっているから。子猫の間も、大きくなっても、甘えん坊で真っ白なミーシャ。
 …ぼくもミーシャを飼ってみたいよ。あの写真を見るまで、考えたことも無かったけれど…。
 今なら選び放題だぞ、って見せられちゃったら、なんだか飼いたくなっちゃった…。
「ふうむ…。お前はミーシャが欲しい、と」
 真っ白な猫を飼ってみたいが、俺を取られて悔しい思いをするのは嫌だというわけだな?
 俺がミーシャの相手をしてたら、お前はミーシャに嫉妬しちまう、と。



 なら、嫉妬しなくてもよくなったら飼うか、って訊かれたから。
 猫に嫉妬をしないで済むようになったら飼ってみるか、と尋ねられたから。
「なに、それ?」
 ぼくが嫉妬をしないで済むって、どういう意味なの、ねえ、ハーレイ…?
「分からないか? 俺と結婚した後のことだ」
 俺とお前は同じ家に住むし、猫がいたってかまわんだろう。
 世話だって二人ですることになるんだ、嫉妬するも何も、俺たちの大事な家族じゃないか。腹が減ったと言われたら餌で、人間様とは少し違うがな。
「そっか、それなら…!」
 ハーレイと二人で飼うんだものね、ぼくのミーシャで、ハーレイのミーシャ。
 うんと可愛がってあげられそうだよ、ハーレイと二人で。
 買い物に行ったらミーシャの好きそうなお魚を買ったり、ペットショップでおやつを買ったり。
 そうだ、ハーレイのお母さんが飼ってたミーシャみたいに、お料理した魚が好きな猫なら…。
 ハーレイと二人でお料理しようね、ミーシャ用のお魚。



 いつかハーレイと結婚したなら、真っ白な猫を飼うことにする。
 名前はミーシャで、ハーレイと一緒に世話をしてあげて、ぼくたちの家族。人間じゃないけど、可愛い家族。
 いいな、と思ったんだけど。
 その頃にも友達のお祖母ちゃんの家とかで真っ白な子猫が生まれたらいいな、と思ったけれど。
「…待て、今度は俺が駄目だった」
 結婚してからミーシャは駄目だ、とハーレイが待ったをかけて来た。
「なんで?」
 どうしてミーシャを飼っちゃ駄目なの、さっきはいいって言ったじゃない!
 結婚してから飼ったらいい、って言ってくれたの、ハーレイだよ?
「…それは言ったが…。さっきは俺もそう思ったが…」
 駄目だ、今度は俺が嫉妬だ、俺がミーシャに。だからミーシャは飼わん方がいい。
「嫉妬って…。何処からそういう話になるの?」
 ハーレイがミーシャに嫉妬する理由、なんにも思い付かないけれど…?
「いや、理由なら嫌というほどあるが」
 俺の留守中、ミーシャにお前を取られちまうんだ。俺が仕事に出掛けたが最後、ミーシャが出て来てお前を独占しちまうだろうが、そう思わないか…?



「…んーと…」
 ハーレイが仕事に行っている間、ぼくはミーシャと二人きり。猫だから一人と一匹だけど。
 とにかく留守番、二人しか家にいないんだから。
 ぼくのお昼御飯はハーレイが作ってくれるって聞いているから、ぼくはミーシャの御飯の用意。ミーシャのお皿にキャットフードをたっぷりと入れて、ミルクもミーシャが欲しいだけ入れる。
 そうやって世話して、毛皮の手入れもしてみたりする。
 可愛がってやって、二人で昼寝もいいかもしれない。ぼくがコロンと転がった隣にミーシャも。ソファかベッドか、ちょっぴりお行儀が悪い床とか。
 ふわふわの毛皮が横にくっつく、ぼくが昼寝をしようとしたら。
 そういう昼寝もきっと悪くなくて、ミーシャと二人でのんびり昼寝。暖かなベッドや、柔らかなソファや、陽だまりのフカフカの絨毯とかで。



「ほらな、やっぱりお前を取られるんだ」
 俺が仕事をしている間は、ミーシャがベッタリくっついちまって。
 邪魔なデカイのがいなくなったぞ、と甘えて、遊んで、お前をすっかり取っちまうんだ。
「大丈夫だってば、ぼくはハーレイが一番なんだから」
 ハーレイのことが一番好きだし、ミーシャと遊ぶのはハーレイが留守の間だけだよ。
 ミーシャに夢中になったりしないよ、ぼくの一番はハーレイに決まっているんだもの。
「どうなんだか…」
 そいつは大いに怪しいもんだ、ってハーレイは真顔。
 俺を放り出しちまってミーシャの方じゃないのか、って。
 ハーレイが家に帰って来ても。
 仕事が終わって、ぼくとミーシャが留守番している家に帰って来た後も。



「それはしないよ!」
 絶対にしないよ、ハーレイよりもミーシャが優先だなんて!
 ちゃんとハーレイが家にいるのに、ハーレイを放ってミーシャだなんて…!
「本当か? …ならば、訊くが…」
 ミーシャがベッドに入って来たならどうするんだ、お前。
 俺たちが二人で寝ているベッドに、ミーシャがゴソゴソもぐり込んで来たら。
 …俺もミーシャが家にいたから覚えているんだ、猫だったら来るぞ。人間様が寝ているベッドに入って来るのが大好きだからな。
「そうなの? なんだか可愛らしいじゃない」
 ちっちゃな子供みたいなんだね、ぼくも小さかった頃はパパやママのベッドで寝ていたし…。
 猫のミーシャもおんなじなんだね、ホントに家族って感じがするよ。
「…家族はともかく、お前、どっちを優先するんだ」
 俺か、ミーシャか。…お前と一緒のベッドにミーシャが入って来たら。
「えーっと…?」
 優先ってことは、ベッドの中の場所のこと?
 ハーレイの寝場所か、ミーシャの寝場所か、どっちを大事にするかってこと…?



 どうしようかと考えたけれど、ハーレイとミーシャじゃ大きさが違う。
 身体の大きさが全然違うし、重さだって違う。
 人間と猫でも違いすぎるのに、ハーレイはその人間の中でもうんと大きい方だから。体重だってうんと重くて、中身がずっしり詰まってる。
 そんなハーレイが「うーん…」と寝返りを打ったはずみに、ミーシャが下敷きになったりしたら大変だから。きっとペシャンコに潰されちゃうから。
 もしもミーシャが入って来たなら、ハーレイを邪魔にしそうな、ぼく。
 「ベッドの上を空けてやってよ」ってハーレイをどけて、ミーシャが此処、って。
 きちんと安全地帯を作って、ハーレイは其処に立ち入り禁止。ミーシャが潰されないように。
 それに安全地帯を作っておいても、ハーレイが転がって来ちゃうかもだから。ゴロンと転がってミーシャをペシャンと潰しそうだから、ぼくが間に入らなきゃ。
 ミーシャが潰れてしまわないよう、ぼくの身体で塀を作っておかないと…。
「ほら見ろ、ミーシャを取るんじゃないか」
 俺がお前を抱き寄せようとしても、「ミーシャがいるから駄目」と言うんだ、お前はな。
 お前を抱き締めたままで眠っちまって、ウッカリと横に転がったりしたら、ミーシャが下敷きになっちまうとか何とか言って。
「当たり前でしょ、潰されちゃったら可哀相じゃない!」
 ぼくとハーレイが好きでベッドに入って来たのに、下敷きにされてペシャンコだなんて!
 知らない人にやられるんじゃなくて、大好きな人に潰されるんだよ?
「まあな…」
 確かにそいつは可哀相かもな、俺だってガキの頃には気を付けてたしな…。
 ミーシャがベッドに入って来る度に、潰さないように身体を縮めて。
 なのに、この年になって新しいミーシャを潰しちまったら、俺も心底、堪えそうだな。



 そして…、って真面目な顔になったハーレイ。
 堪えるといえば、って。
「俺とお前が潰さないように気を付けていても、いくら大事にしてやっても…」
 ミーシャはいつかはいなくなるんだ、生き物だからな。それに寿命も俺たちよりはずっと短い。そのこと、きちんと分かっているか…?
「うん、知ってる」
 ずうっと前に「猫になりたかった」ってハーレイに話した時にも聞いたよ。
 ハーレイの家で飼ってたミーシャは長生きだったけれど、それでも二十年ほどだった、って。
 いなくなっちゃうことは知ってるよ、どんなに大事に飼ってやっても、ぼくたちよりも先に。
「お前、そいつに耐えられるか?」
 俺たちが二人で飼ってたミーシャがいなくなっても大丈夫か?
「ぼくにはハーレイがいてくれるから…」
 ハーレイがぼくの一番なんだし、ミーシャがいなくなっても、きっと…。
 それにハーレイ、ぼくを慰めてくれるでしょ?
 俺がいるじゃないか、って。
「もちろん、お前を放っておいたりする気は無いが…」
 ミーシャがいなくなっちまった分まで、お前をせっせとかまってはやるが。
 しかしやっぱり寂しいもんだぞ、長年一緒に暮らした家族がいなくなっちまった後というのは。
 猫は言葉を喋りはしないが、それでもいないと寂しい気分になるんだよなあ…。



 本物のミーシャは大往生だったらしいけど。
 病気じゃなくって、ホントに寿命。ポカポカ日向ぼっこをしながら幸せ一杯、ぐっすり寝たまま天国に行った。ハーレイのお父さんもお母さんも側に居たのに、気付かなかったほどに。
 だけど、花で一杯の庭にお墓を作ってあげて、ミーシャが其処に眠った後。
 暫くはリビングにぽっかり穴が開いていた、って。
 御飯をちょうだい、ってミーシャがやっては来ないから。ミルクを強請りもしないから。
 いつもミーシャが昼寝してた場所に、真っ白な猫はもういないから。



「そっか…。そんな感じになっちゃうんだ…」
 ハーレイのお父さんやお母さんがいても、まだ子供だったハーレイがいても。
 ミーシャがいなくなっちゃっただけで、リビング、ガランとしちゃってたんだね…。
「リビングだけじゃないな、ミーシャのお気に入りの場所は全部だな」
 ダイニングもキッチンも、遊んでた庭も。此処にいたんだ、とミーシャを探しちまうんだ。
 三人もいたってそんな具合だ、お前一人だと寂しいだろうが。
 俺が仕事に行っちまった後、ミーシャがいた場所、端から回ってみるんじゃないか?
「そうかも…」
 ミーシャの寝床があった場所とか、いつも御飯を食べてた場所とか。
 此処にいたのに、って座り込んでは、ミーシャがいないって思っちゃうかも…。



 真っ白な毛皮で甘えん坊のミーシャ。飼ってみたいと思ったミーシャ。
 飼ってる間は楽しくっても、ハーレイに潰されないように大事にしてても、いなくなるから。
 猫の寿命はうんと短くて、ぼくはまた一人で留守番をすることになっちゃうから。
「…いらないかな、ミーシャ…」
 飼わない方が幸せなのかな、後で寂しくなるんだったら。
「俺はそいつがお勧めかもな」
 お前の寂しそうな顔は見たくないんだ、ってハーレイが言うから。
 家に帰る度にシュンとしているぼくを見るのは、ハーレイも辛いらしいから。
「…じゃあ、ハーレイが留守の間は?」
 ぼくは一人で留守番をするの、ミーシャを飼わない方がいいなら。
 ミーシャが一緒にいてくれるだけで、きっと色々、素敵なことだって起こりそうだけど…。
「お前、そういう一人ってヤツは平気だろ?」
 前のお前の時から充分慣れてるだろうが、俺のいない昼間は一人で留守番。
「うん…。前のぼくも青の間で一人だったしね…」
 部屋付きの係は来てくれたけれど、友達付き合いってわけにはいかなかったし…。
 今のぼくだって、身体が弱い分、一人の時間は多いものね。



 一人で留守番するんだったら、時間の過ごし方は色々ある。
 本を読んだり、庭に出てみたり、ミーシャがいなくても色々なことが。
 だからミーシャと一緒に暮らすのは我慢しようか、ちょっぴり欲しい気もするけれど。
 抱っこしてみたり、撫でてやったり、猫との暮らしも楽しそうだけれど。
「ん、猫か? 俺も猫は好きだし、可愛いんだが…」
 たまに何処かで出会うのがいいのさ、家族としてベッタリ過ごすんじゃなくて。
「何処かって?」
「旅先とかだな、フラリと出掛けて友達になるんだ」
 気のいい猫がいるからなあ…。声を掛けたら寄って来てくれて、そのまま膝に乗っかるような。
 餌をやったらもう親友だな、次の日に会ったら大歓迎って感じで迎えてくれるぞ。
 待ってましたと、今日は何をして遊びますかと。



 猫は可愛いけど、一緒に暮らすと、近付きすぎると、死んじゃった時に寂しいから。
 家の中にぽっかり穴が開くから、旅の間だけの小さな友達。
 好きな名前で呼び掛けてやって、猫の方でもそのつもり。ぼくがミーシャと呼んだらミーシャ。ぼくと一緒に遊ぶ時はミーシャ。
「そういうミーシャに、ぼくでも会える?」
「親父の釣りについて行けばな」
 海の側だと、そういう所がけっこうあるんだ。
 俺が咄嗟に思い付くだけでも、三ヶ所くらいはあるってな。親父はもっと沢山知ってるぞ。この前もミーシャにそっくりな猫に会ったらしいし、釣った魚を御馳走したとも言ってたなあ…。



 海のすぐ側で漁師さんが沢山、釣りをしにくる人が沢山。魚を貰いに猫も沢山、そういう場所。
 そこで探そうか、ぼくのミーシャを。真っ白な猫を。
(真っ白な猫に会ったらミーシャで、おやつをあげて友達になって…)
 いつかミーシャを飼いたくなったら、猫を飼いたくなったなら。
 我慢出来なくなってしまったら、旅先でミーシャと友達になろう。
 ハーレイと二人で撫でて抱っこして、帰る時には「さよなら」って。また会おうね、って。
 次に行ったらきっとまた会える、別のミーシャかもしれないけれど。
 だけど友達、すぐに友達、真っ白なミーシャと海辺で過ごす。
 そういう旅もきっと楽しい、ハーレイと二人で出掛けて行こう。
 ぼくたちのミーシャに会いにゆく旅、真っ白なミーシャを探す旅。
 海辺の町までハーレイと二人、小さな友達に会える旅行に…。





        猫を飼いたい・了

※猫を飼いたいと思ったブルー。白い猫に「ミーシャ」と名前を付けて。
 とても楽しそうな暮らしですけど、問題が山積み。飼わない方がいいかも、という結論です。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









(ハーレイ先生、か…)
 可愛いもんだな、と笑みが零れる。夜の書斎で、小さなブルーを思い浮かべて。
 今日は仕事で遅くなったから、ブルーの家には寄れなかったけれど。
(…しかし、教師の特権ってヤツだ)
 ちゃんと会えた、と熱いコーヒーを満たしたマグカップを傾けた。他の仕事なら会えないままで一日が終わっていたろうに、と。
 今年の五月から赴任した学校、其処に小さなブルーが居た。そうとも知らずに着任した。思いもよらない再会を遂げた、前の生から愛した恋人。ソルジャー・ブルーの生まれ変わり。名前も前と同じにブルーで、姿形もそっくりそのまま。十四歳の少年なだけで。
 学校に行けばブルーに出会える、ブルーが休んでいなければ。前と同じに弱い身体が、ブルーをベッドに縛らなければ。
 だからこの仕事に感謝している、教師の道を選んだことに。小さなブルーが通う学校に、自分を転任させてくれた神にも。



 今朝も学校で出会えたブルー。
 柔道部の朝の練習を終えて、柔道着のままで歩いていたらバッタリ出会った。
 いや、自分ではいきなり出会ったように思うけれども、多分そうではないだろう。ブルーが先に自分を見付けて、急ぎ足でやって来たのだろう。
 「ハーレイ先生!」と呼び掛けられて、「おはようございます!」とペコリと下げられた頭。
 銀色の髪がふわりと揺れて、お辞儀が済んだら赤い瞳がキラキラと煌めいて見上げて来た。背の高さが相当に違うのだから、首が痛くなりそうなほどに上を向いて。爪先立ちしそうな勢いで。
 「おはよう、今日は元気そうだな」と言ってやったら、それは嬉しそうな笑顔になったブルー。
 「はい!」と答えて、「朝御飯もちゃんと食べて来ました!」と元気に報告してくれた。朝から何を食べて来たのか、どのくらいの量を食べたのか。
 訊いてもいないのにスラスラと話した、トーストにミルクにオムレツを半分、と。
 「オムレツは半分だけなのか?」と赤い瞳を覗き込んだら、「チーズ入りでしたから」と返った答え。「普通のオムレツだったら全部食べられますけど、チーズ入りだと半分です」と。
 食の細いブルーが朝食に食べる卵料理は、オムレツだろうが目玉焼きだろうが、卵一個分。一個よりも多いと残してしまうと聞いているから、チーズ入りでも同じこと。ボリュームが増えた分を胃に収め切れず、今朝は半分だったのだろう。
 なるほどな、と頷いていたら、「ハーレイ先生は何を召し上がったんですか?」と尋ねられた。御飯でしたか、パンでしたか、と。
 そんなことまで気になるらしいブルー、愛らしいブルー。
 「俺か? 俺はな…」と朝食のメニューを披露してやると、小さなブルーはもっと訊いてきた。トーストの厚みはどのくらいですかと、何枚ですか、と。野菜サラダの中身の野菜も。



 互いの朝食を巡って立ち話。
 トーストにはマーマレードを塗って食べたと教えてやったら、「同じですね」と喜んだブルー。ぼくもマーマレードで食べて来ましたと、ハーレイ先生に頂いたマーマレードです、と。
 他の生徒たちが次々に登校して来る中で、懸命に話していたブルー。
 自分の家で話す時とは違って、「ハーレイ先生」の時には必須の敬語を使って。
 たかがトーストやオムレツの話題で、ブルーが敬語。背筋をシャンと伸ばして丁寧な敬語、別れ際には「失礼します!」と頭を下げていたブルー。
 失礼したのはハーレイの方で、「そろそろ着替えないとマズイしな?」と言ったのに。
 「俺は行くから」と、「じゃあな」と軽く手を振ったのに、ブルーの方が「失礼します」。頭を下げて見送ってくれた、手を振る代わりに。名残惜しげに突っ立ったままで。



(すっかり逆になっちまったな…)
 前の俺たちとはまるで逆だ、と熱いコーヒーを口へと運んだ。
 小さなブルーが苦手なコーヒー、前のブルーも苦手だったコーヒー。ブルーの好みは前と同じで変わらないけれど、見た目も中身も幼いことを除けば前とそっくり同じだけれど。
(言葉遣いが違うんだ…)
 正確に言えば、ブルーと自分の立場が逆で。
 前は自分がブルーに対して敬語を使った、今のブルーとは全く逆に。
 前のブルーは先生どころか、ミュウの長でソルジャーだったから。シャングリラの誰よりも上の立場で、キャプテンだった前の自分よりも上。
 ソルジャー・ブルーと話す時には誰もが敬語で、それが当然のことだった。白いシャングリラの中の決まりで、ソルジャー・ブルーと話すなら敬語。
 前の自分もそれに倣った、ブルーがソルジャーになった時から。それまでは一番古い友人として親しく言葉を交わしていたのを、敬語へと。
 その上、自分はキャプテンだったから、船の仲間の手本になるべく、余計にけじめ。
 ソルジャーを敬い、礼儀正しくと、常に敬語で話し続けた。公私を分かたず、いつも敬語で。
 それまでの口調を殆ど変えることが無かったブラウやゼルたちとは違って、必ず敬語。



(俺のお仲間はエラだけだったな)
 長老と呼ばれた五人の中では、エラだけが常に敬語を使っていた。ブルーに対して。礼儀作法にうるさかったエラは、長老同士で話す時にも敬語が基本だったくらいなのだから、ソルジャーともなれば敬語以外では話さなかった。
(その辺も俺と似てたんだ…)
 性格は似ていなかったんだが、と苦笑する。
 前の自分も生真面目な方ではあったけれども、エラにはとても敵わなかった。あそこまでは無理だと今も思うし、当時も思った。とはいえ、公の場では自分もゼルたちに敬語を使っていたから、エラと似ている。
 肩書きの上では同じ長老、キャプテンである分、自分の方が上。それでも敬語だったから。長老同士でさえ敬語で話したのだから、ソルジャーには敬語。
 エラは「ソルジャーと話す時には必ず敬語で」と徹底させたし、仲間たちも守っていたけれど。
 ゼルやブラウは守らなかった。ヒルマンも守りはしなかった。
 前の自分とエラだけが敬語で話し続けた、前のブルーと。
 それまでの口調を一変させて。アルタミラから共に旅をして来た仲間同士の言葉遣いを捨てて。



(前のあいつと恋人同士になった後だって…)
 崩せなかった敬語、ソルジャーであるブルーを敬う言葉。
 抱き締める時も、キスを交わす時も、睦言でさえも。
 「ソルジャー」を「ブルー」と言い換えるだけで、敬語を崩したことは無かった。一度も崩さず守り続けた、ソルジャーに対する言葉遣いを。
 恋人同士だったからこそ、一層気を付け、敬語で話した。どんな時でも。
 うっかりそれを崩してしまって、外で崩れたら大変だから。
 キャプテンの自分がそれをしたなら、まず間違いなく悪目立ちする。人の耳に入る。
 エラに咎められるくらいで済めばいいけれど、何度もやったら勘ぐられることも充分有り得た。前のブルーと自分との間に何があったかと、船の仲間たちに。
 敏い者なら気付いたかもしれない、ブルーとの仲が変わったことに。
 けれども、知られるわけにはいかない。ソルジャーとキャプテンが恋仲だなどと、皆には決して明かせはしない。
 だから敬語を使い続けた、ブルーと二人で過ごす時にも。
 ベッドで熱い愛を何度も交わして、共に眠りに就く時でさえも。



(それが今では逆なんだ…)
 自分ではなくて、ブルーが敬語。小さなブルーが敬語で話し掛けてくる。
 しかもブルーの家で会った時には普通の言葉で話しているのを、学校でだけは切り替えて敬語。きちんと「ハーレイ先生」と呼んで、それに相応しい言葉遣いで。
 家で普通に話す言葉と、学校で話す時だけの敬語。
 切り替えるブルーは大変だろうと考えてしまう、相手は同じなのだから。赤い瞳が捉える自分の姿は常に一つで、学校と家とでコロリと変わりはしないのだから。
 もちろん、服装は週末だったら変わるけれども。ブルーの家を訪ねてゆくのにスーツを着込んで行きはしないし、ネクタイだって締めてはいない。ラフな格好で出掛けるけれども、普段は違う。
 学校の帰りに寄った時ならスーツ姿だし、夏でも長袖のワイシャツにネクタイだった。
 つまり、ブルーは服装で見分けることも出来ない。この服だったら敬語を使う、という方法ではミスをする。仕事帰りに寄った自分に、敬語で話し掛けるとか。



 けれどもブルーは上手く切り替え、一度も間違えたことが無かった。
 記憶に残らない程度の小さなミスなら少しくらいはあるだろうけれど、聞いていた人が気付いてしまうほどのミスは一度も無い。授業中にも、休み時間にも。
 何処で会っても「ハーレイ先生!」と声を掛けて来る敬語のブルー。
(…前の俺より器用だな)
 実に器用だ、と思ってしまう。
 前の自分は避けて通った、ソルジャー・ブルーと恋人だったブルーで言葉を使い分けるのを。
 けして失敗出来ないからこそ、そうしたのではあるけれど。
 使い分けようという努力をしないで、最初から放棄したとも言える。出来はしないと、挑みさえせずに最初から。失敗したならどうするのだ、と自分自身に言い訳しながら。



(それを、あいつは…)
 小さなブルーは楽々とこなす、家と学校とで切り替える。
 「ハーレイ先生」に会ったら敬語で話して、ただのハーレイで恋人となったら普通の言葉。
 学校で会う度、顔を合わせる度、「ハーレイ先生!」とやって来るブルー。
 そう、今朝のように、近付いて話し掛けようと。
(必死なんだな、あいつときたら)
 会ったからには話したい。姿が見えたら、話し掛けたい。きっとそんな所。
 少しでも二人で話がしたいと、懸命になっているのだろう。
 敬語でなければ話せないのに、切り替えなければ何も話せはしないのに。



(黙っているって選択は絶対しないんだ…)
 学校で会ったら、行き合わせたら、真っ直ぐにやって来るブルー。
 朝でも、休み時間でも。
 廊下でも、グラウンドでも、何処であっても。
 声を掛けて話が出来そうであれば、小さなブルーは近付いてくる。「ハーレイ先生!」と。
 ほんの少しでも話せればいいと、何か話したいと、それこそ朝食のメニューについての話でも。
 物怖じしないでやって来るブルー、敬語でせっせと話し掛けるブルー。
 家での言葉と見事に切り替え、最後まで「失礼します!」と敬語で。



(前の俺だったら…)
 白いシャングリラの通路で出会ったソルジャー・ブルー。ソルジャーの衣装を纏ったブルー。
 すれ違う時に黙って会釈だけをしたこともあった、それも一度や二度ではなかった。
 周りに誰もいなくても。
 紫のマントを着けたブルーが、もの言いたげな時であっても。
(なにしろ自信が無かったからなあ…)
 そういう瞳をしているブルーと話し始めたら、言葉遣いも怪しくなりそうで。自分を固く戒めた敬語が崩れてしまって、昔の口調に戻るとか。あるいは、言葉遣いは崩れなくても、キャプテンの顔が崩れてしまって、ブルーを抱き締めてしまうとか。
 それが怖くて、ブルーを避けた。話すのを避けて会釈しておいた。
 後でブルーに「君はつれないよ」と恨み言を言われるのが常だったけれど、それでも会釈。



(なんたって、しくじれないからな?)
 ソルジャーへの礼を失するわけにはいかない、自分はキャプテンだったのだから。
 それにブルーと恋人同士だと知られるわけにもいかなかったから。
 たとえ周りに誰もいなくとも、シャングリラの通路は公の場で。
 ブルーの私室だった青の間や前の自分の部屋とは違って、恋人同士で過ごせる場所ではなくて。
 だからこそ避けた、ブルーとの会話。会釈だけで済ませて通り過ぎた。
 自分に自信が無かった時には、ブルーをソルジャーとして扱える自信が持てない時には。
 そうして何度ブルーを避けたか、会釈だけで済ませて通ったことか。



(あいつの方は遠慮が無かったが…)
 ソルジャー・ブルーを避けて通った自分とは逆に、キャプテン・ハーレイを追い掛けたブルー。
 誰もいない通路を歩いていた時、瞬間移動で背後に現れ、背中からいきなり不意打ちだとか。
 腕を一杯に広げて抱き付かれた背中、何の前触れもなく飛び付いたブルー。
 驚いて振り返れば悪戯っぽい笑顔でキスを強請られた、「大丈夫、誰も見ていないから」と。
 この通路には今は誰もいないと、暫くは誰も通りはしないと。
 遠慮など無かった前のブルーの急襲、通路で無理やり強請られたキス。心臓にはとても悪かったけれど、甘美な思い出でもあった。
 ブルーの方から仕掛けられなければ出来なかったキス、通路でのキス。
 ただし、前の自分の心臓はいつも竦んで縮み上がっていたけれど。
 誰か現れたらどうしようかと、その辺りの扉を開けて突然、誰かが出ては来ないかと。
 けれどもブルーは懲りはしなくて、何度も後ろを取られたもので…。



(あいつ、その分のツケを今、払ってるってか?)
 今の自分を追い掛けたければ、使わなくてはいけない敬語。「ハーレイ先生」を追うなら敬語。普通の言葉で話せはしなくて、学校で自分と話したければ必ず敬語。
 前の生で自分を散々困らせたツケを払っているのか、と可笑しくなって来たけれど。
 思わず笑いが込み上げるけれど、きっとブルーは思ってもいまい。ソルジャー・ブルーがやったことのツケを自分が支払っているなどとは。
(うん、絶対に思いもしないな)
 自分がやりたいからやっているのだ、と小さなブルーは言うだろう。敬語でも話したいからと。
 家と学校とで言葉遣いを懸命に切り替え、それでも話したくてやって来るブルー。
 黙って会釈をしておく代わりに「ハーレイ先生!」と声を掛けて来る、どんな時でも。
 会釈だけなどとんでもない、と小さなブルーは叫ぶのだろう。ハーレイと話したいのに、と。
 可愛くて、いじらしいブルー。
 学校でも話が出来るようにと、敬語を使い続けるブルー。



(俺だったら黙る方だがなあ…)
 近付いて話し掛けるよりかは黙って会釈だ、と前の自分を思い出す。
 何度もそうして歩いた通路を、ソルジャー・ブルーとすれ違った白い鯨の中の通路を。
 自分は黙ってすれ違う方の道を選んだ、ソルジャー・ブルーとの距離の取り方を、言葉遣いを、失敗したくはなかったから。
 ミスをするわけにはいかなかったから、前の自分は。
(しかし、あいつは…)
 臆することなく、「ハーレイ先生!」と自分から近付いてくるブルー。
 敬語を使って話したがるブルー、前の自分とは比較にならない、その勇気。
(あいつの場合は、失敗したって…)
 家と同じ言葉で話し掛けても、話してしまっても、自分はブルーの守り役だから。
 普段からブルーの家を訪ねていることを誰もが知っているから、平気なのかもしれないけれど。守り役だけに親しげな口の利き方になるのも無理はない、と周りも許してくれそうだから。
 そうは言っても、ブルーは敬語。失敗しないで、切り替えて敬語。
 あの努力はとても凄いと思う。前の自分がしなかっただけに、手放しで褒めるより他にない。
 いとも鮮やかに切り替えるブルー、小さなブルー。
 学校では「ハーレイ先生!」と。



(チビだとはいえ、ブルーが俺に敬語…)
 シャングリラの皆が敬語で話したソルジャー・ブルー。小さなブルーの前の生。
 そんなブルーが生まれ変わりとはいえ、キャプテン・ハーレイに敬語で話す。前の生とはまるで逆様に、ソルジャー・ブルーがキャプテンに敬語。キャプテンの方は普通の言葉。
(しかも「俺」だと来たもんだ)
 私どころか俺なんだ、と今の自分の言葉遣いを顧み、「酷いもんだ」と呟いてみた。エラたちが見たらどう思うやら、と肩を竦めてしまったけれど。
 「ソルジャーに対して失礼ですよ!」とエラの声が聞こえた気がしたけれど。



(待てよ…?)
 今ではすっかり慣れてしまった、ブルーの敬語。小さなブルーが懸命に話している敬語。
 ところが、前のブルーの敬語。
 それを自分は聞いたことが無い、ただの一度も。
 ソルジャー・ブルーだったブルーでなくても、ソルジャーになる前のブルーにしても。
(…三百年も一緒に生きた筈だが、一回も…)
 聞きはしなかった、前の自分は敬語で話したブルーを知らない。見たことがない。
 忘れてしまったという筈はなくて、前のブルーに敬語は必要なかったから。
 アルタミラから脱出した時点で、既に敬語ではなかったブルー。
 自分が一番の年長者であると気付く前から、ブルーは普通に話していた。脱出直後の船の中では誰もが平等、敬語が必要になるような場面は無かったから。
 大人ばかりの船の中で一人、少年に見えた前のブルー。
 そんなブルーに「敬語で話せ」と、「年長者には敬語で話すものだ」と命じる者は誰一人としていなかったから。



 前のブルーは一度も話さず、聞いた者さえ無かった敬語。誰も知らないブルーの敬語。
 それを今、自分が山ほど聞いている。「ハーレイ先生!」と、学校で声を掛けられる度に。
 小さなブルーが言葉を切り替え、話をしようとやって来る度に。
(もしかして、俺は幸せ者か?)
 そこまでしてでも話したいのだ、と思ってくれるブルーに愛されて。
 前の生では一度も使いもしなかった敬語で話そうとするほどに、小さなブルーに想われて。
(…前の俺の方は…)
 敬語で話し続けたけれども、今のブルーがやっているように切り替えたりはしなかったから。
 それは出来ないと決めてかかって、挑もうとさえもしなかったから。
(あいつは尊敬に値する…)
 チビなんだが、と改めて深く感動した。
 前の生でも使わなかった敬語だったと気付いたからには、褒めてやるしかないだろう。
 明日は土曜日だから、小さなブルーを。
 お前の敬語は実に凄いと、前の俺よりもずっと立派だと。



 一晩眠っても忘れないまま、土曜日が来て。
(今日はあいつの敬語を褒めてやらんと…)
 凄いのだから、と小さなブルーを思い返しながら朝食を食べて、青い空の下を歩いて出掛けて。
 生垣に囲まれたブルーの家に着き、ブルーの部屋で二人、向かい合わせに座って切り出した。
「おい、俺はお前を尊敬するぞ」
「え?」
 何の話、とブルーの瞳が真ん丸くなる。
「学校でのお前のことなんだが…。実に凄いと気が付いたからな」
「…成績の話?」
「いや、言葉遣いというヤツだ」
「言葉…?」
 言葉遣いがどうかしたの、とブルーがキョトンとしているから。
 敬語だ、と指摘してやった。
「お前、学校で俺に会ったら敬語だろう? この家で俺と話す時とはまるで違って」
 あの切り替えは見事すぎるぞ、俺にはとても真似など出来ん。
 前の俺にも出来なかったな、最初からしようとしていなかったが…。
「…そうだったっけ?」
 前のハーレイ、敬語と切り替え、していなかった…?
「俺はいつでも敬語だったが?」
 お前がソルジャーになっちまう前は、こういう言葉で話していたが…。
 ソルジャーになってしまった後はだ、ずっと敬語のままだった。…どんな時でも敬語で通して、お前と二人きりでも敬語。
 切り替えどころか、態度も切り替えられる自信が無かったというのが前の俺だな、情けないが。



 お前にたまに恨まれたんだ、と謝った。
 シャングリラの通路ですれ違った時、何度も会釈だけで済ませてしまった、と。
「その点、今のお前はだな…」
 学校の中で俺を見付けたら、逃げる代わりにまっしぐらだろうが。
 俺の方では気付いてなくても、お前の方からやって来るんだ。逃げもしないで、敬語に頭を切り替えて。「ハーレイ先生!」と呼びさえしなけりゃ、敬語なんかは要らないのにな?
「だって、ハーレイはハーレイだもの!」
 話をしないで見送るなんて出来やしない、と笑顔のブルー。
 たとえハーレイ先生でも、と。
「それだ、それ。…お前の敬語の切り替えの凄さ」
 そいつを尊敬すると言っているんだ、全く失敗しないよな、お前。
 今みたいな言葉が出ては来ないし、見事なもんだと思ってなあ…。気付いちまったら、しっかり褒めてやらんとな。お前は頑張っているんだから。
「…失敗しちゃったら、ハーレイ、怒りそうだもの」
「俺が?」
「うん。…学校ではハーレイ先生だろう、って」
 頭をゴツンと叩かれそうだよ、ぼくが失敗しちゃった時は。
「まあな…」
 ゴツンとお見舞いするかどうかはともかく、まあ、怒るのは確かだろうな。
 学校じゃハーレイ先生だろうと、きちんとけじめをつけるもんだ、と。
「ほらね…。やっぱり、ハーレイ、怒っちゃうでしょ?」
 ハーレイ、厳しそうなんだもの。学校の中の決まりとかには。
 それにけじめも、厳しい感じ。ずっと柔道とかをやって来たから、礼儀作法にうるさそうだよ。



 おまけに失敗してしまった日は、ぼくの家に来てくれそうもない、とブルーが言うから。
 きっと罰だと寄ってくれない、と本当に恐れているようだから。
「それはしないが…」
 言葉遣いで失敗したくらいで、そんな酷い罰はやらないな。
 あれだ、せいぜい、お前が言ってたゴツンと一発、その程度だな。
「…ホント?」
 ホントに寄らずに帰ったりしない?
 仕事は早くに終わっているのに、ぼくの家に来ないでドライブやジムに行っちゃうだとか…。
「おいおい、俺を何だと思っているんだ」
 俺はそこまで薄情じゃないぞ。お前が失敗しちまったって、わざと寄らずに帰りはしない。
 仕事で遅くなったら別だが、それはお前への罰ではなくって、ただの偶然というヤツだ。
 だからお前は心配しなくていいんだ、少しも。
 しかしだな…。



 だからと言って油断して失敗するんじゃないぞ、と釘を刺したら。
 これからもきちんと切り替えろよ、と念を押したら。
「失敗しないよ、大丈夫だよ」
 だって、ハーレイ先生のことも好きだから。
 ハーレイ先生でもぼくは大好きだから、と幸せそうなブルーの笑み。
「なんだ、それは?」
 どういう意味なんだ、ハーレイ先生でも好きというのは?
 お前の中では、普通の俺とハーレイ先生は違うのか?
 何か区別があると言うのか、ハーレイ先生の俺と、そうでない俺と。
「あるよ、ホントにちょっぴりだけど」
 ほんのちょっぴり、少しだけれど…。
 ハーレイ先生は先生だものね、ぼくに教えてくれる先生。ぼくは生徒で、ハーレイは先生。
 先生の方が偉いものでしょ、生徒より?
 ぼくよりも偉いハーレイが好きだよ、ぼくよりずうっと偉いハーレイ。



 前は逆だった、と小さなブルーは赤い瞳を瞬かせた。
 白いシャングリラで暮らしていた頃、小さなブルーがソルジャー・ブルーだった頃。
 偉くもないのに自分の方が偉く扱われてしまっていた、と。
「そう思わない? 前のぼくはサイオンが強かっただけで、偉くなんかはなかったんだよ」
 サイオンで色々と奪ったりしたし、シャングリラを改造する時もシールドを張ったりして守ったけれど…。その後も守ったりしていたけれど。
 シャングリラを本当に支えていたのはハーレイの方だよ、前のハーレイ。
 前のハーレイが偉かったからシャングリラは無事に地球まで行けたし、前のぼくがいなくなった後でも混乱したりはしなかったんだよ…。
 なのに勝手にソルジャーだなんて、前のぼくの方が偉いだなんて。
 あれは絶対、間違いなんだよ。
 サイオンの強さで決めてしまうから間違ったんだよ、前のぼくよりハーレイの方が偉かったよ。
 だって、シャングリラのキャプテンだよ?
 キャプテンがいないと船はどうにもならないんだから。
 ソルジャーがいても、キャプテンがいないとシャングリラは進路も決められないよ…?



 ハーレイの方が偉かったのに、と主張するブルー。小さなブルー。
「やっと逆になったよ、こっちが本当」
 ぼくがハーレイに敬語を使って、ハーレイはぼくに普通に話して。
 これがホントの関係なんだよ、シャングリラに居た頃が間違いなんだよ。
 だからハーレイ先生が好きだよ、ぼくよりもずっと偉いハーレイ。敬語で話さないと駄目だし、失敗したならゴツンだし…。
 ぼくよりも偉いハーレイが好き。ハーレイ先生のことが大好き…。
「そうなのか?」
 お前、敬語で話したいのか、俺と話す時は?
 俺が普通に喋っていたって、お前は敬語の方がいいのか…?
「学校ではね」
 ハーレイ先生のいる学校なら、断然、敬語。
 ぼくよりも偉い先生なんだ、ってドキドキしながらハーレイを見てるよ、先生だもの。
 でもね…。



 普段はやっぱりこういう喋り方がいい、とクスッと小さく笑うからには。
 こちらが本当のブルーなのだろうけれど、本来の話し方はこうだと思うけれども。
(敬語のブルーも今の特権…)
 前の自分は一度たりとも聞けないままで終わったから。
 前のブルーは一度も敬語を使いはしなくて、誰一人として聞いていないから。
(ハーレイ先生しか聞けんぞ、これは)
 小さなブルーがせっせと敬語で話す間に、切り替えて話してくれる間に満喫しておこう、先生の間だけ聞ける言葉を。ブルーの唇が紡ぐ敬語を。
 「ハーレイ先生!」と声を掛けられて、ブルーの敬語をたっぷりと聞いて、耳に刻んでおこうと思う。前の自分は聞けなかった言葉を、ブルーが紡いでくれる敬語を。
 それはブルーが生徒の内だけ、この学校を卒業するまでの間だけのもの。
 自分が「ハーレイ先生」と呼んで貰える立場にいる今だけしか聞けないもの。
 ブルーが卒業してしまったなら、もう聞けない。
 自分は「ハーレイ先生」ではなくなるのだから、もう「先生」ではないのだから。
 けれど…。



「なあ、ブルー。…たまにはハーレイ先生と呼んでくれるか?」
「えっ?」
 ハーレイはハーレイ先生でしょ?
 学校ではハーレイ先生なんだし、見付けたらちゃんと呼んでいるけど…?
「今じゃなくてだ、俺と結婚した後だ」
 お前の、敬語。…また聞いてみたい気分になった時には、ハーレイ先生に戻ってみたい。
 俺が偉そうでもかまわないなら、お前が敬語でもいいのなら。
「いいよ?」
 前のぼくはハーレイにずっと敬語で話して貰って、それにすっかり慣れていたけど…。
 ぼくはハーレイ先生が好きだよ、ぼくよりもずっと偉い先生。
 だから先生って呼んでいいなら、ハーレイ先生って呼んでみたいな。
 毎日それだと困るけれども、たまにだったら大歓迎だよ。



 いつかハーレイ先生とデートしようね、とブルーは嬉しそうだから。
 ハーレイ先生とデートに行くのも、敬語のデートもいいと思っているようだから。
 そんなブルーとドライブに食事、「ハーレイ先生」と呼ばれて、敬語で話し掛けられて。
 きっとそういう「ごっこ」遊びも楽しい、いつかブルーと出掛けるデート。
 結婚した後もハーレイ先生、たまに先生に戻ってみる。
 自分たちの間で敬語が本当に要らなくなったら、二度と必要無くなったなら…。




         逆になった敬語・了

※今のハーレイには当たり前なのが、ブルーの敬語。「ハーレイ先生!」と呼び掛ける声も。
 けれど、前のブルーが敬語で話したことは一度も無かったのです。今のハーレイだけの特権。








(ほほう…)
 こいつはいいな、と覗き込んだ菓子。仕事からの帰り、ブルーの家には寄りそびれた日。
 ハーレイの目に留まった「和三盆」の文字、様々な色や形をした菓子。
 いつもの食料品店だけれど、店に入って直ぐの所に特設の売り場。特売ではなくて、特別出店。色々な店がやって来る場所で、覗いてみるだけでも充分、楽しい。
(和三盆と来たか…)
 書かれていなければ落雁なのかと思いそうな菓子、間違えそうな見た目の形。けれども和三盆と落雁は違う、見た目が似ているというだけで。
 自分たちが住んでいる地域で作られている最高級の砂糖、それが和三盆。名前の通りに遠い昔の日本風の砂糖、和風の砂糖。特設売り場に並んでいるのは、それを固めた砂糖菓子。
(これがなかなかに美味いんだ…)
 専門に扱う店が近くに無いから、こういう機会しか買えないけれど。その美味しさは知っているから、見掛けたら買って食べる主義。
 見ればパンフレットも置いてあった。出店している店が書かれたパンフレット。
(…土産に持って行ってやるかな)
 明日はブルーの家に行くから、たまにはこういう土産物もいい。どれにしようかと箱を眺めて、今の季節に似合いの形が詰め合わされたものを選んだ。栗や紅葉や、菊の花やら。
 ついでに自分用にも一箱、ブルーへの土産にと決めた箱より小さめのを。
 紙の袋に入れて貰って、パンフレットも貰って帰った。何の気なしに手に取り、袋に入れて。



 買い込んで来た食材で手際よく夕食を作り、のんびりと食べて後片付け。それが済んだら書斎でコーヒー、と淹れる用意にかかった所で思い出した。
 自分用にも買って来たのだった、和三盆の菓子。ブルーへの土産に持ってゆくからには、それを味わっておきたいから。
(コーヒーはいかんな)
 ここは緑茶にしておかないと、と小さな急須と茶葉を取り出し、薄めに淹れた。ほんのりと緑が見える程度に、ごくごく薄く。
 眠る前に緑茶を飲むと、目が冴えてしまうと耳にするから。ウッカリ飲んで酷い目に遭ったと、体験談も色々聞いているから。
 自分の場合はコーヒーを飲んでも眠れるのだから、大丈夫だという気もするけれど。コーヒーと緑茶は違うものだし、万が一ということもある。



(泰平の眠りを覚ます上喜撰ってな)
 たった四杯で夜も眠れず、と薄い緑茶を淹れた湯呑みを指先でチンと弾いた。
 上喜撰は遠い遥かな昔に有名だった緑茶の高級品。そういう名前の緑茶は今もあるけれど、味が同じかは分からない。なにしろ一度は消えた文化で、データを元にして復活させたものだから。
 それに生産地も昔とは違う、日本は無くなってしまったから。
 前の自分が辿り着いた頃には、まだあっただろう、かつて日本であった島。荒廃した死の星でも地形は変わっていなかったのだし、きっと何処かに、昔の日本のままの形で。
 けれどもSD体制の崩壊と呼応するように地球は壊れた、燃え上がった。大地は裂かれて、海も煮えたぎった地殻変動。
 汚染された大地や海を飲み込み、命ある星として蘇った地球に、元の地形は残らなかった。海も大地もすっかり姿を変えてしまって、日本も消えた。
(昔の日本はもう無いんだよな…)
 同じ場所に新しく出来た大地はまるで別のもので、上喜撰の産地だった場所も無くなった。元の産地に近い所で作られているのが今の上喜撰、高級品ではあるけれど。
(果たして、同じ味なんだかなあ…)
 飲み比べようが無いからな、と先刻の歌を心で繰り返した。「たった四杯で夜も眠れず」と。
 古典の範囲か、はたまた歴史か。
 たまに雑談で話してやる。黒船と呼ばれた蒸気船と、お茶の上喜撰とをかけた戯れ唄。遠い昔に日本を騒がせた、異国から来た船の話を。



(海を越えて来た船っていうだけで大騒ぎなんだ)
 乗ってたのは同じ人間なんだが、と可笑しくなる。外見と言葉が違っただけで、と。
 とはいえ、当時の日本人にすれば、人類の世界にミュウが侵攻して来たほどの衝撃だったのかもしれないけれど。外交なんぞはお断りだと言っているのに、力ずくでとやって来たのだから。
(黒船なあ…)
 シャングリラは白い船だったがな、と懐かしい白い鯨を思い浮かべた。
 赤いナスカが滅ぼされた後、前のブルーを喪った後。シャングリラはアルテメシアへと向かい、人類軍との本格的な戦闘が始まった。アルテメシアの住民からすれば、いわば黒船。
(いきなり攻めて来て、テラズ・ナンバーまで壊しちまったんだしな?)
 社会の仕組みが一夜で変わった、あの星では。
 支配する者が人類からミュウへと変わってしまって、上空には巨大なシャングリラ。
(…まさに黒船か…)
 白かったけれど、四隻でやって来たという黒船と違って一隻だけの船だったけれど。蒸気船でもなかったけれども、戯れ唄にはなっていたかもしれない。
 人は逞しいものだから。支配者が人類からミュウに変わっても、ちゃんと生活していたから。
 何処の星を落としてもそれは同じで、人の生活は続いていた。途切れることなく、日々の営みを絶やすことなく。
 だからこそSD体制が崩壊した後も、世界は滅びなかったのだろう。ミュウという新しい種族を受け入れ、共に暮らして、ごくごく自然にミュウの時代になったのだろう。
 人類からミュウへと皆が進化し、地球も昔の姿に戻った。地形こそ変わってしまったけれども、青い水の星に。



 そして今では自分も青い地球にいる。前とそっくり同じ姿に生まれ変わって。前の生で誰よりも愛した恋人と共に、新しい命と身体とを得て。
(…なんとも不思議な話だよな)
 前とはまるで違う人生、平和に過ぎる今の世の中。黒船などはやって来ないし、自分が乗るのが黒船でもない。遠い昔の戯れ唄などを引き合いに出して、似ていると可笑しくなる世界。蒸気船でなくても、黒くなくても、あのシャングリラは黒船だった、と。
 たった一杯の薄い緑茶から、思わぬ方へと思考が転がったけれど。
 ともあれ今は味わうことだと、緑茶と和三盆の菓子とを書斎へ運んだ。ゆっくり飲もうと、あの部屋で寛いで食べるのがいいと。



 書斎に入って腰を落ち着け、薄い緑茶と箱ごと持って来た和三盆と。
 今の時代ならではの和風のコーヒーブレイク、緑茶と和三盆とで寛ぎの時間。
(コーヒーブレイクだが、コーヒーじゃないって所がな…)
 緑茶とコーヒーとは異なる飲み物、前の自分が生きた頃には無かった緑茶。コーヒーブレイクをどう言い換えたらいいのだろうか、と考えたりもする、和風に表現するならば、と。
(それらしい言葉は幾つもあるんだが…)
 どうもしっくりこないんだよな、と苦笑した。和風の文化を復活させた地域だとはいえ、全てが和風なわけではないから。和風の文化は、こうした椅子に座るのではなく、畳に座るものだから。
 椅子ならコーヒーブレイクだろう、と和三盆の箱から一個つまんだ。口に入れれば、ふうわりと溶けてゆく砂糖菓子。
 上品な甘みが好みではある、見付けたらこうして買って来るほどに。隣町に住む両親も好きで、和三盆の味わいはあの家で覚えた。
 釣り仲間と旅に出掛けた父が「本場物だぞ」と土産に買い込んで帰って来たこともあった、この菓子作りで有名な場所で海釣りをして来たのだと。



(こいつが砂糖の塊ってのがな…)
 そうは思えない味なんだよな、と一個つまんで、しみじみ眺めて口の中へ。やはり砂糖の塊とは違う、ただの砂糖を食べるのとは違う。
 美味い、と頬を緩めてパンフレットを開いてみた。箱と一緒に持って来ていたから。
 店の商品が載っているのだろう、と思い込んでいたのだけれど。意外なことに和三盆の作り方の方がメインで、商品の紹介の方がオマケで。
 サトウキビを搾って汁を煮詰める所までは平凡、普通の砂糖と変わらない。ところが、その先。和三盆ならではの作業工程。
(研ぐってか!?)
 独特だという「研ぎ」なる作業。砂糖をひたすら手で練ってゆく。研いだら重石を載せて圧縮、それが終わればまた研ぐらしい。研いだら再び重石で圧縮。
 最高級の砂糖になるわけだ、と納得した。機械を使わない手作りの砂糖、しかも手で研ぐ。盆の上で三度研ぐから和三盆だったのが、今では五回研いだりもする。
 SD体制の時代に消されてしまった技術だけれども、今は立派に復活していた。砂糖を研ぐのは職人技の世界、熟練の職人がせっせと手で研ぐ。
 寒い季節の水がいいから作るのなら冬、それがまたいい。冬しか作っていないのがいい。
 今の時代は建物の中で人工的に冬の気候を作り出せるし、その気になったら一年中でも和三盆の製造が可能だろうに。
 それをしていないのが売りで誇りで、職人技と自然の気候が頼りの砂糖が和三盆。



(レトロの極みだ…)
 俺の好みだ、と嬉しくなった。
 熟練の職人の手作りの砂糖、それを木型で抜いて固めて作られた菓子。手作りが売りの菓子なら沢山あるのだけれども、材料までが全て手作りの菓子はそれほど多くはないだろう。
 おまけに遠い遥かな昔の地球で生まれた砂糖の製法、それを復活させて作られている和三盆。
 砂糖の塊だとはとても思えない味、口の中でほどける上品な甘さ。様々な形を作るにあたって、加えるのは着色料くらいだろう。紅葉の赤や菊の花やら、どれもほんのり淡い色合い。それらしく見えればいいというだけ、着色料はほんの少しだけ。砂糖が殆ど、砂糖だけの菓子。



(砂糖だけでここまで出来るのか…)
 立派な菓子が出来上がるとは素晴らしいな、とパンフレットの作業工程を読み直してみて、また和三盆を一個つまんだ。砂糖の塊とは思えない菓子を。
(何度も研ぐのが味の決め手か?)
 シャングリラの頃にはそんな暇は…、と考えたけれど。砂糖作りに手間暇かけられる余裕などは全く無かった、と思ったけれども、ハタと気付いた。その逆だったと。
(暇だけは充分あったんだった…)
 自給自足の船だったけれど、コーヒーが代用品だったり、酒が合成だったりした船だけれど。
 そんな船でも暇だけはあった、戦闘をしてはいなかったから。前のブルーがジョミーを見付けてユニバーサルの手から掻っ攫うまでは、シャングリラの存在は人類に知られていなかった。
 白い鯨はアルテメシアの雲海の中に浮かんでいただけ、新しい仲間をたまに救出していただけ。
 船で育てられる作物などの種類は限られていても、加工する時間は充分にあった。サトウキビを搾って作る砂糖も、好きなだけ手をかけられた。
 あの時代ならばきっと、和三盆だって作れただろう。その気になってさえいれば。



 何度も研いだり、作るのに適した季節が冬だったりと、そう簡単には作れそうもない和三盆。
 熟練の職人技も必要、そのための人員を育てる所から始めなくてはいけないけれど。
(きっとゼルあたりが凝り始めるんだ…)
 手作業の世界でも、職人技と聞いたら出て来そうなゼル。機械弄りが得意だったゼル。
 砂糖作りには興味が無かったけれども、和三盆の世界を知ったらきっと出て来た。和三盆作りに適した冬の気候を再現しようと試みたろうし、研ぐ作業だって。
(わしに任せろと、わしが一番じゃと言い出すんだぞ)
 研ぐ腕をせっせと磨いていたろう、熟練の職人になってやろうと。自分が研いだ和三盆が一番の味だと言って貰えるまで研ぎ続けそうだし、そうなった後も研ぐのだろう。
 得意満面で、後進の指導をしつつも研いで。
 それは素晴らしい味の和三盆を作っていたかもしれない、あのゼルならば。けれど…。



(シャングリラじゃ砂糖は、ただの砂糖で…)
 それ自体が菓子のレベルに達するほどには洗練されていなかった。思い付きさえしなかった。
 要は甘みを作り出すための調味料。甘みは料理に欠かせないから、砂糖は大事な調味料だった。合成品だった時代までがあった、自給自足の船を目指していた過渡期には。
 栽培を始めたサトウキビが充分に採れなくて。収穫量が予想を下回って。
 次のサトウキビが育つまでは、とやむなく投入した合成品の砂糖。サトウキビから出来た砂糖も白くはなかった、雪のような白さを持った砂糖は作れなかった。
(黒砂糖だっけな…)
 今の時代は健康志向の人に好まれる黒砂糖。白砂糖にも負けない人気を誇るのだけれど、白い鯨では事情が違った。やむを得ず作った黒砂糖。白い砂糖が無かった時代。
 貴重なサトウキビの搾り汁から糖蜜などを分離して作る白砂糖よりも、茶色い搾り汁を煮詰めて作る黒砂糖だ、と。そのままがいいと、そのまま固めてしまおうと。



(あれはあれで…)
 美味しいと言った仲間もいたから、悪くなかったと思うけれども。
 やはり砂糖は白いものだし、黒砂糖の甘さは白砂糖よりもくどかったから。独特のコクが素材の風味を損ねたりもするから、シャングリラの砂糖はすぐに白くなった。サトウキビの栽培が軌道に乗ったら、分離するのはもったいないと言い出す者がいなくなったら。
 とはいえ、まずは料理に使う砂糖から。黒砂糖にしても、白砂糖にしても。
 コーヒーや紅茶に入れる砂糖は合成品の砂糖で、本物になるまで暫くかかった。嗜好品に本物の砂糖を入れて飲むなど贅沢だから、と合成品。サトウキビが充分、採れるようになるまで。
 それも最初は料理用と兼用、角砂糖は存在しなかった。角砂糖が欲しいなら合成品だと言われた時代。角砂糖はコーヒーや紅茶専用の砂糖だったから。砂糖を入れたいというだけだったら、器に入った普通の砂糖をスプーンで掬えばいいのだから。



 料理には不向きな角砂糖。この分量で、と量るには向かない角砂糖。
(普通の砂糖だったら、必要な分だけスプーンで掬えばいいんだが…)
 角砂糖だとそうはいかない、半分の量でいいとなったら砕かねばならない。角砂糖は一個分ずつ固めてあるから、四角く固めてしまってあるから。
(料理するのに角砂糖はなあ…?)
 レシピを見たって、砂糖はグラムで書いてあるもの。あるいは計量スプーンでどのくらい、と。角砂糖で作るレシピもまるで無いとは言わないけれども、そちらが例外。
 だからシャングリラで角砂糖までが本物の砂糖になるには時間がかかった、嗜好品に使う砂糖は後回し。合成品の角砂糖が嫌ならそれを使え、と砂糖の壺が置かれていた。
(…俺はどっちでも良かったんだが…)
 角砂糖が合成だった頃には、コーヒーも合成品だったから。キャロブのコーヒーはまだ生まれていなくて、コーヒーと言えば合成品。それに入れる砂糖が合成だろうが本物だろうが、どちらでもいいと思っていた。その日の気分で角砂糖にしたり、本物の砂糖をスプーンで入れたり。



 そんな経緯があった角砂糖にも凝り始めたのが後のシャングリラ。
 サトウキビも砂糖も充分あったし、時間も暇もあったから。角砂糖の上に砂糖細工で細かい花や星などの模様を描いたり、角砂糖どころか薔薇の形に仕上げた砂糖を作ったり。
 これがささやかな贅沢とばかりに、角砂糖に凝った女性陣。
 彼女たちが集まってお茶を飲む時は様々な砂糖が披露されていた、模様付きやら薔薇の形やら。
(…前のあいつの時代までだがな…)
 華やかな角砂糖があった時代は、前のブルーが長だった時代。アルテメシアの雲海に潜み、戦闘などは無かった時代。閉ざされた世界でも平和だったし、角砂糖にも凝っていられた。
 けれども次のジョミーの時代は余裕などは無くて、逃げていただけ。人類軍の船やら、思考機雷やら、何処に逃げても追って来た敵。
 ようやくナスカを見付けた後には開拓が一番、新天地に夢中になってしまった女性たち。もう角砂糖に凝ってはいなくて、ナスカに降りては花や野菜を育てていた。
 サトウキビも栽培した筈だけれど、それから生まれた砂糖に細工を施すよりかは、新しい植物が根付くようにと工夫を凝らす方へと向かって…。



 忘れ去られた、凝った細工の角砂糖。コーヒーや紅茶に入れるための砂糖。
 ナスカが滅びてしまった後には、砂糖の細工どころではなかった。地球を目指しての戦いが幕を開け、戦闘が無くても船の中の空気はピンと張り詰め、ジョミーが睨みを利かせていた。
(角砂糖は辛うじてあったんだったか…)
 模様も無ければ薔薇の形でもなくて、普通の四角い角砂糖。それは生産出来ていた筈。
 人類軍との全面的な対決という非常事態だからこそ、自給自足の生活の根幹が揺らがないよう、船の隅々まで気を配っていた。前のブルーが遺した言葉通りに、ジョミーを支えて。
 船の仲間など殆ど顧みなくなったほどに人が変わったジョミーの分まで、シャングリラの仲間を守らなければと。
(角砂糖はあったと思うんだがな…)
 前のブルーを思い出してしまって辛い時には、気付けにと飲んでいたコーヒー。
 熱いのを飲めば、代用品でも心が少し癒された。砂糖は入れていたように思う、いつもの癖で。前のブルーと二人でお茶を楽しんでいた頃から、身体に馴染んでしまった癖で。
 ブルーは紅茶で、自分はコーヒー。
 普段はブルーに合わせて紅茶だったけれど、自分だけがコーヒーの日もあった。そんな時やら、休憩室での一杯やらには、ポチャンと砂糖。角砂糖を落として飲んでいた。
 だからきっと、地球へ向かっての戦いの中でも、角砂糖を入れたと思うのだけれど…。



 どうにもハッキリしてこない記憶。独りきりで飲んでいたコーヒーの記憶はぼやけてしまって、砂糖の形さえ思い出せない。角砂糖だったか、スプーンで掬ったか、そんなことさえも。
 前のブルーを喪った後は、生ける屍だったから。
 ただひたすらに地球を目指して進むより他に、何も見出せない日々だったから。
(前のあいつは…)
 紅茶が好きだった前のブルー。前の自分が青の間に行くと、紅茶を淹れてくれていたブルー。
 砂糖の量にも形にもこだわらなかったブルーだけれど。
 本物の砂糖だったらもう充分だと、合成品よりもずっといいと言っていたけれど。
(和三盆の世界は…)
 好きだったかもしれない、もしも和三盆という砂糖があったなら。
 楽しんで研いでいたかもしれない、美味しい砂糖を作ってみようと。
(明日、訊いてみるか…)
 こんな砂糖を作りたかったかと、和三盆を土産に持って出掛けて。
 和三盆の作り方が詳しく書かれた、このパンフレットも読ませてやって。



 翌日の土曜日、朝食が済んだら、和三盆の箱が入った紙袋を提げてブルーの家へ。門扉を開けに出て来たブルーの母に箱を渡して、午前中のお茶菓子はこれで、と頼んでおいた。
 ブルーの部屋に案内されて間もなく、緑茶と一緒に運ばれて来た和三盆を綺麗に盛ってある皿。「ハーレイ先生が下さったのよ」という母の言葉で、ブルーは和三盆に惹かれたようで。
 母の足音が階段を下りて消えてゆくなり、和三盆の皿を指差して訊いた。
「今日のお土産、落雁なの?」
 とっても綺麗だね、秋らしい形。菊の花とか、紅葉だとか…。
「いや、落雁じゃなくて和三盆だ」
「え?」
「こいつは和三盆っていう砂糖なんだが…」
 ただの砂糖の塊なんだが、と言えばブルーが目を丸くした。そのままで食べるものなのか、と。
「もちろんだ。こうして菓子の形になってるだろうが」
 美味いんだぞ、これは。俺も好きだし、親父もおふくろも大好物でな。
「ホント…?」
 本当にただのお砂糖じゃないの、お砂糖を固めてあるだけじゃないの…?



 小さなブルーは和三盆を一つ、おっかなびっくり、頬張ってみて。
「美味しい…!」
 フワッと溶けちゃったよ、落雁とはちょっと違った感じ。
 お砂糖だからかな、粉っぽくなくて、甘い雪の欠片を食べてるみたい…!
「な? 美味いだろう、和三盆」
 正真正銘、こいつは砂糖の塊なんだ。出来上がった砂糖を木の型で抜いて、乾燥させてあるってだけだな、ほんの少し色をつける程度で。
 たったそれだけで美味い菓子になるが、どうやら秘密は和三盆の作り方にあるみたいだぞ。
 和三盆と言えば最高級の砂糖ってことになっているがだ、その作り方が実に凄いんだ。



 まあ読んでみろ、と渡してやったパンフレット。和三盆の作り方が詳しく書かれたそれ。
 熱心に読んだブルーだけれど。赤い瞳を煌めかせて最後まで読むと、和三盆が盛られた皿の方を見詰めて感心したように。
「手作りなんだね、和三盆って…。このお菓子を作る所だけじゃなくて」
 お砂糖を作る所から全部手作り、これはサイオンでも無理なんだね?
 熟練の職人が作っています、って書いてあるけど、お砂糖を研いでるのは職人さんの手だし…。
 サイオンじゃ加減が難しいんだね、それに機械でも無理ってことだね?
「職人技だからなあ、そうなんだろう」
 この道一筋で何年もやって、ようやく一人前なんだろうな。
 砂糖を研ぐ時の手の感覚ってヤツで、色々と調整してゆくんだろう。もっと研ぐべきか、これでやめるか、そういったことを。
 機械じゃそういう判断は無理だし、サイオンでも上手くはいかんだろうなあ…。
 前のお前がやるにしたって、サイオンよりかは手の方が多分、確実だろう。手で触るからこそ、分かる感覚。そいつが大切なんだと思うぞ。
「うん。触らないと分からないものは確かにあったよ」
 前のぼくが最後にハーレイから貰った、腕の温もり。
 あれはサイオンだと貰えないもので、ハーレイの腕に右手で触ったお蔭で貰えたもので…。
 メギドで失くしてしまったけれども、手で触ることが大切ってことは、あれだけでも分かるよ。
 それでね…。
 前のぼくの右手のことは今はいいけど、この和三盆。
 ゼルが好きそうだよ、作ってみたいと言い出しそうだよ。「わしが研ぐんじゃ」って。
「やっぱり、お前もそう思うか?」
 如何にも言いそうな気がするんだよなあ、ゼルがこれを見たら。
 わしに任せろと、美味い和三盆を食わせてやろうと、砂糖をせっせと研ぎ始めそうだ。



 ついでに前のお前も好きそうなんだが、と言ってやったら。
 作りたい気分にならなかったか、と尋ねてみたら。
「うん、ソルジャーは暇だったしね」
 みんなの仕事を手伝おうとしても、恐縮されたり、気を遣わせてしまったり…。
 仕方ないから子供たちと遊んで、養育部門を手伝ってたのがぼくだもの。
 暇な時間はたっぷりあったし、お砂糖を研いでみるのも良かったかも…。女の人たちが凝ってた角砂糖作りはやってみたい気はしなかったけれど、和三盆ならやってもいいかな。
 研げば研ぐほど美味しいお砂糖が出来るみたいだし、熟練の職人にもなれそうだしね。
「ふうむ…。やりたかったんだな、前のお前もゼルと同じで」
 熟練の職人を目指すのはいいが、ソルジャー自ら砂糖作りか…。似合わない気がするんだが?
 前のお前が砂糖作りをするとなったら、ソルジャーの威厳が台無しと言うか…。
「最初は農場も手伝っていたよ、ジャガイモ掘りとか」
 みんなが頑張って働いていたし、ぼくも手伝おうと思ったから…。
「エラに何度も止められてたがな」
 ソルジャーがなさるお仕事などではありません、ってな。
「…そうなんだけどね」
 エラは何でも止めに来たしね、ぼくが仕事をしようとしてたら。



 でも、仕事じゃなくて趣味だったら…、とブルーが言い出したから。
 好きでやっている砂糖作りなら、子供たちと遊んでいたのと同じで止めようがないと笑うから。
 砂糖作りが趣味なソルジャーでも良かったかもしれない、和三盆作りが趣味のソルジャー。
 サトウキビを搾る所から始めて、砂糖の塊を手で練って研いで。
「あのね…。前のぼくがやるなら、ホントに何度も研ぐんだよ」
 三回じゃなくて、五回は研がなきゃ。…もっと研いでも美味しいかもだし、それも試して。
「…暇だからか?」
 ソルジャーってヤツは暇だったからか、暇に飽かせて砂糖を研ぐのか?
「そう!」
 時間は山ほどあったんだもの。何度でも研げるよ、何十回でも。
 そこまで研いだら美味しくないかもしれないけれど…。
 どのくらい研ぐのが一番いいのか、それを研究する時間もたっぷり。ゼルと競争して、どっちが先に熟練の職人ってヤツになれるか、そういう勝負も出来るものね。



 子供たちの遊び相手もいいけど砂糖作り、と笑顔のブルー。
 サトウキビを搾って和三盆だと、何度も何度も手で研ぐのだと。
「…そうなっていたら、俺も巻き添えなのか?」
 お前と一緒に砂糖を研ぐのか、あと二回だとか、三回だとか、お前に数えられながら。
 もっと上手に研げないのか、と溜息なんかもつかれたりして。
「ううん、キャプテンは忙しいから…。ソルジャーみたいに暇じゃないから…」
 お砂糖を研げとは言わないよ。
 ぼくが一人で研いでいるのか、ゼルも時々研ぎに来るのか。
 お砂糖作りは趣味の世界だし、忙しいハーレイを巻き込んだりはしないよ、一人でやるよ。
「そいつは少し寂しいんだが…」
 せっかくお前が楽しんでるのに、俺が付き合えないというのはなあ…。
 子供たちと遊ぶ時には、たまに付き合っていたんだし…。砂糖を研ぐのも少しくらいは…。
「それは駄目だよ、熟練の技が要るんだよ?」
 何度も練習しなくちゃ駄目だし、時々しか研ぎに来られないんじゃ、上達しないし…。
 ハーレイはお砂糖作りは見学だけだね、見てるだけなら上手でも下手でも関係ないから。
 大丈夫、上手く出来たらハーレイに一番に食べさせてあげるに決まってるから。
「お前が作った和三盆をか…」
 木型で抜いて、乾燥させて。
 美味いのが出来たと、俺に一番に食わせてくれるんだな…?



 前のブルーがせっせと砂糖を研いで作った和三盆。
 どんな木型で抜いたのだろうか、どんな色がついていたろうか。そして味は…、と夢が広がる。
 暇なソルジャーが和三盆作り、そんなシャングリラも良かったかもしれない。夢だけれども。
 前の自分たちが生きた時代に和三盆は無くて、砂糖を研ぐソルジャーの姿も無くて…。
「…夢ってヤツだな、前のお前の和三盆」
 見てみたかったという気はするがな、ゼルと競争で職人を目指す前のお前も。
「うん、夢だね。…お砂糖みたいに溶けておしまい」
 この和三盆と同じでフワッと溶けちゃう甘い夢だよ、和三盆を作ってる前のぼくは。
 何処にもいなくて、そういうシャングリラも何処にもなくて…。
「だが、この和三盆は本物だぞ?」
 食ったらフワリと溶けてしまうが、こいつは夢じゃないってな。
「そうだね、こっちは本物だよね。ぼくたちが地球にいるって証明」
 和三盆がある地域に住んでて、こうして食べられるんだもの。
 それもハーレイが買って来てくれたのを、ハーレイと二人で、ぼくの部屋で。



 美味しいね、とブルーが顔を綻ばせるから。
 お砂糖の塊なのに本物のお菓子、と嬉しそうに口に運んでいるから。
 また見かけたら買ってやろうか、和三盆の菓子が詰まった箱を。
 前のブルーが研いだかもしれない、最高級の砂糖で作った菓子を。
 きっと幸せの味がする。
 熟練の職人が作った砂糖で、砂糖菓子が作られる今の地球。
 そんな平和な青い地球に来たと、今は砂糖はお菓子なのだと、二人で幾つもつまんで食べて…。




          和三盆の夢・了

※手間暇かけて出来る和三盆。けれど、シャングリラでも作ることは可能だったのです。
 和三盆作りに挑んでいたなら、ブルーとゼルが腕を競っていたかも。そういう砂糖菓子の夢。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








(今日は暑いな…)
 夏ほどじゃないが、とハーレイは青い空を仰いだ。
 秋にしては珍しく汗ばむ陽気。今の季節はこういう日もある、晴れて気温がぐんぐん上がる日。
 研修だからとスーツをキッチリ着込んで来たから、余計に暑く感じるのだろう。上着を脱いでも腕に抱えるしかない状態では、あまり脱ぎたい気持ちにならない。だらしないように思えるから。
(…別に脱いだってかまわないんだが…)
 誰に見られるわけでもないし、そういう格好の男性も歩いているのだけれど。上着を抱えて歩く姿もさして珍しくはない日だけれども、これは自分の性分だから。
(仕方ないってな)
 今、この場所に居ることも含めて、自分の性格、自分の考え。
 スーツの上着を脱がずにいるのも、この方向へと向かっているのも。



 午前中だけで終わった研修。昼食の時間を前にして解散だった。
 研修の日には学校に行かなくても別にいいのだけれど。大抵の教師は一日休むし、今日の会場で会った顔馴染みたちも午後は休暇だと話していた。何処かでゆっくり食事しないかと。
 けれども誘いを断った自分、彼らと別れて歩き出した自分。
(俺の性分…)
 学校に行けばブルーの顔を見られるだろうし、柔道部にも顔を出したいし。
 食事くらいは付き合っても良かったかと思わないでもないけれど。教師仲間と旧交を温め、その後で学校に行くという選択肢もあったな、と歩いて来た方を振り返ったけれど。
 仲間たちが行こうとしていた店は候補が複数挙がっていたから、今から戻っても何処の店なのか分からないまま引き返すことになるだろう。最初に覗いた店で運良く出会えたら別だけれども。
(…多分、無駄足になっちまうしな…)
 幾つも店を覗く気にはなれない、そこまでせずとも会える機会はまたやって来る。研修に行けば顔を合わせるし、食事は次の時でいい。わざわざ戻って彼らの姿を探さなくても。



 ともあれ今は、まずは昼食。学校まで歩いてゆくつもりだから、途中の何処かで。
 のんびり歩いても一時間もかかりはしない距離。今日は休んでもかまわない日で、学校の方でも休むと思っている日なのだし、急ぐ必要は全く無かった。ゆっくり食べても、休憩していても。
 何処にしようか、と見回しながら歩いてゆく内に…。
(おっ!)
 美味そうだ、と鼻が反応した店。流れて来た匂いに釣られて入った、ごくごく普通の定食屋。
 一人で座れるテーブルを見付けて腰を落ち着けたら、店主が注文を取りに来た。さっきの匂いを思い浮かべてアジフライ定食、それを注文しておいて。



(水を一杯…)
 冷たいのを、とカウンターの端まで取りに出掛けた。注文した料理はテーブルに届くけれども、水は自分で取りに行く仕組みのようだから。テーブルまでは届かないから。
 ガラスのコップに注いで来た水を一気に飲み干し、もう一杯、とまたカウンターへ。外の暑さがまだ抜けないから、冷たい水の気分だから。
 テーブルに戻って、コップの水を口に含んで。
(うむ、美味い!)
 美味い水だ、と嬉しくなった。
 さっきは気付かなかったけれども、一息に飲んでしまったけれど。暑かったからと冷たさだけを味わったけれど、いい味だと分かる二杯目の水。
 もしや、と入れて来た氷を口の中で溶かしてみれば、これまた美味しい。



(こいつはいいな…)
 つい三杯目を貰って来た所へ、注文の品が届いたから。揚げ立てのアジフライがドカンと載った皿に味噌汁、御飯などを店主が運んで来たから、「美味しい水ですね」と声を掛けた。
 おかわりさせて頂いていますと、もう三杯目になるんですが、と。
「それはそれは…。お分かりになりますか?」
「ええ、もちろん。…一杯目は気付きませんでしたがね」
 暑かったもので一気に飲んでしまって、と白状した。実にもったいないことをしました、と。
「いえいえ、気付いて頂けただけでも嬉しいですよ」
 置いておいた甲斐がありますしね、と破顔した店主。
 水は毎朝、汲みに出掛けて行くのだという。まだ暗い内に、店の準備を始める前に。



「湧き水でしたか…! 美味い筈ですね」
 地面の中を通って来た地下水は格別の味がするものだから。この味はそれか、と納得した。湧き水は何処で飲んでも美味しい。山の中でも、井戸の水でも。
「朝は競争になっていますよ。…私が汲んで帰る頃には」
 夜が明けたら散歩を兼ねて汲みに来る人も多いので、と店主が語る水争いならぬ長蛇の列。水を汲もうと人がズラリと並ぶのだという、思い思いの容器を手にして。
 美味しい水が湧くと評判の町外れにある小さな公園、本来は公園で一休みする人に提供しようと掘られた井戸から湧き出す水。蛇口などは無くて、流れ出すまま、ただ滾々と。
 水を溜めておくために設けられた大きな石の器を満たした後は、公園へ流れてゆくらしい。細い水路を巡って流れて、やがては外へと。
 水を汲みに来た人たちがいくら汲んでも尽きない水。水路が涸れてはしまわない水。
 其処の噂は耳にしていた。なるほど美味い、と思わぬ出会いに感謝する。食事をしようと入った店で噂の水が飲めるとは、と。



「この水でコーヒーを淹れると、またいいんですよ」
 朝の一杯はこれで淹れます、と話す店主はコーヒー好きらしい。仕込みの前にコーヒーを一杯、汲んで来た水で淹れるというから。
「そうでしょうねえ…! 美味い水で淹れると格別でしょうね」
 羨ましいです、と頷くと「お客さんもコーヒー党ですか?」と返って来て。
 客が一段落していたこともあって、暫し話し込んだ。美味しい湧き水を汲みに出掛けたら出会う日の出や、朝一番の水で淹れるコーヒーの美味さやら。
 店主は毎朝、たっぷりと汲んで来るらしい。店に置く分と、自分が飲む分。
 それだけ汲んでも水は尽きなくて、夜明けと共にやって来る人たちの分まで充分にあって、まだ公園へと流れてゆく。尽きることのない豊富な湧き水。
 店主が暗い内から行くのは、沢山汲むせいで他の人たちを待たせないようにとの気遣いだった。自分が飲む分だけならかまわないけれど、店に置くには大きな容器が必要だから。それにたっぷり汲んで来ないと、店の分の飲み水には足りないから。
「店をやってて、自分だけが美味い水を飲むというのも悪いですしねえ…」
 お客さんにもお出ししないと、と人のいい笑みを浮かべる店主。
 気付く人は滅多にいないけれども、それでも美味しい飲み水を用意しておきたいと。



 「お好きでしたら、いくらでもどうぞ」と店主が言ってくれたから。
 アジフライ定食を平らげた後にも有難く貰った、もう一杯、と。アジフライ定食も鼻が釣られただけのことはあって、なかなかの味で。アジフライはもちろん、味噌汁もまた美味かった。御飯もあの水で炊いているのかと考えたほどに美味しかったし…。
(まさか飯までは炊いてないとは思うんだがなあ…)
 いくら店主が早起きで水場に出掛けて行っても、御飯を炊くほどの量を汲むとなったら大仕事。流石にそこまではしないと思うし、そうなると御飯の美味しさは店主の腕だろう。御飯を炊くのに使う機械も、使い方次第で味が変わるから。微妙な水加減や浸す時間や、そういったもので。
(この店に入って当たりだったな)
 料理も御飯も美味しかった上に、評判の湧き水が飲み放題。食後の一杯とばかりに水のコップを傾けながら一休み。
 学校には急ぐわけではないから、此処でゆっくりしていてもいい。店内の客も減ってくる時間、慌てて席を空ける必要も無さそうだから。



(美味いんだ、これが)
 この水が美味い、と喉を潤す。店主が朝から汲んで来た水。美味しいと評判が高い湧き水。
 メニューにコーヒーが無いのが惜しい。定食屋だから当然と言えば当然だけれど、コーヒーなら喫茶店なのだけれど。
 これほど美味しい水があるなら、コーヒーも飲んでみたかった。メニューにあったら、迷いなく注文してみるだろうに。アジフライ定食の後にコーヒー、淹れ立ての味を試してみるのに。
 なんとも美味しい水だから。何の手も加えていないというのに、まろやかな味の水だから。
(しかも水だけならタダなんだ…)
 何杯飲んでも、おかわりをしても、氷を好きなだけ貰っても。
 この美味しさならば売ってもいいのに、店主の手間賃や運搬のための費用を足しても、そういう値段でメニューに載せても、誰も文句は言わないだろうに。
 飲んでみれば分かる、美味しい水だと。一味違うと、いい水なのだと。



 そう考えてみたのだけれども、様々な店を思い浮かべてみれば、水は無料が基本のもの。大抵の店はタダで出してくれる、テーブルまで運んで来てくれても。空になったらおかわりも出来るし、気の利いた店なら空になる前に注ぎに来てくれる。
 食料品店などに出掛けたら、ボトルに詰まった水も売られているけれど。
 飲食店で水となったら、普通は無料。気取った店だとボトル入りの水は如何ですかと有料の水を勧められるけれど、それを断ったら無料の水になるというだけ。水を買わない客向けに置いてある平凡な水がタダでグラスに注がれて来るし、水が飲めないわけではない。
 つまりは何処でも水はタダのもの、無料でいくらでも飲めるもの。
 この店のような美味しい水をとこだわらなければ、平凡な水でいいのなら。
 平凡な水と言っても侮れはしない、けして消毒薬などの匂いはしないし、喉ごしもいい。飲んでガッカリさせられたりはしない、美味しいと驚かないだけで。いい水だと思わないだけで。
 美味しい水と比べなかったら、水は水。平凡な水でも充分いける。冷やして飲んだらスッキリとするし、沸かして飲んだらホッとするもの。



(昔は苦労したもんだがなあ…)
 ずっと昔は、と前の自分が生きた頃へと思いを馳せた。シャングリラへ、白い鯨へと。
 人類のものだった船をシャングリラと名付けて、暗い宇宙を旅していた頃。白い鯨ではなかった頃には、水の浄化システムや循環システムの系統も限られていたものだから。
 メンテナンスをするとなったら、それに備えて水の備蓄が必要だった。飲料水の供給が停止する間も、水を飲まずにはいられないから。終了するまで飲み水無しではいられないから。
 飲料水が底を尽かないよう、メンテナンスの前には備蓄を充分に。メンテナンスは迅速に。
 キャプテンとして何度も指示を下した、きちんと準備をしておくようにと。メンテナンスをする作業員たちは、出来るだけ早く仕事を終えるようにと。
 白い鯨になった後には、青の間があったほどだから。常に大量の水を湛えた、あの部屋を設けたほどの船だから、浄化システムも循環システムも予備の系統があったけれども。
 それでもチェックは欠かせなかったし、メンテナンスも不可欠だった。飲料水が無くては人間は生きてゆけないから。自給自足の船の中では、飲料水はまさに命の綱だったから。
 そうやって懸命に水を作って、前の自分たちは生きていた。いつか水の星へ、地球へ行こうと。
 地表の七割を海が占めるという水の星、地球。水のせいで青く見える星へと、青い地球へと。
 あの頃の自分たちが生きたシャングリラの中を思えば…。



(…今は凄くないか!?)
 凄すぎる生活をしてはいないか、とコップの中の水を見詰めた。美味しいと何杯も飲んだ水。
 これに限らず、前の自分たちが憧れた青い地球の水が飲み放題だった、何処へ行っても。何処の店でも水は無料で、気取った店でさえ無料の水を用意している。水の代金は何処でも要らない。
(この水だって…)
 美味い水だと分かる味なのに、店主は値段をつけてはいない。元の湧き水がタダだからだろう、汲みに行くのに必要だった費用や手間さえ水の値段に転嫁してはいない。
 それに、平凡な水ともなれば。
 有料の水を勧められるような店でもタダで出してくれる水は水道の水で、蛇口を捻れば出て来るけれど。水道さえあれば飲めるけれども、これまた悪くはない味だった。おまけに平凡でも地球の水。地球に降った雨や湧き水から生まれてくるのが水道の水。
 前の自分たちが焦がれ続けた青い地球の水は、今は何処でもタダで出るもの。
 お好きにどうぞと、好きなだけどうぞと無料でおかわりが貰えるもの。
 青い地球で生まれた水なのに。地球が作り出した水だというのに、今ではそれが無料の時代。
 何処で頼んでも、水をくれと言っても、地球の水がタダで「どうぞ」と注がれる世界。あるいは自分で注ぎ放題、湧き水を汲みに出掛けたとしても、それまたタダで。
 前の自分がこれを聞いたら、どんな顔をしたというのだろう?
 まるで想像すらもしなかっただろう、地球の水がタダで飲み放題の素晴らしい世界などは。



 タダになってしまった地球の水。無料で出るのが当たり前の水。
 何も思わないままでそれを飲んでいた、今日まで知らずに過ごしていた。店に入っても、自分の家でも、ゴクゴクと水を飲んでいた。
 前の自分が目指した地球の水とも気付かず、どれほど貴重な水だったのかも考えないままで。
 あの時代に青い地球があったら、どれほどの値段がついていたかも考えないで。
 そう、地球の水はとてつもない貴重品だった。前の自分の立場から見れば。



(今更気付いたとは遅すぎるぞ!)
 なんてこった、と思わず天井を仰いでしまった。雨を降らせる空がある方を。
 今日は汗ばむほどの陽気で、雨など降りはしないけど。その空を雲が覆い尽くしたら雨が降る。雨は地上を潤し、流れて、しみ込んで再び戻って来る。湧き水になって。
 大地にしみ込まずに流れて行った水も、また雲になって雨が降り注いだりする。
 地球はそうして水を作って、それを飲んでいるのが自分たち。水はタダだと、水道の水はタダのものだと、蛇口を捻って、コップに満たして。
 それが贅沢だと今頃気付いた、凄い贅沢をしていたのだと。



(…泳いでいてウッカリ飲んじまった水も…)
 海の水も、湖の水も、川の水も。プールに満々と湛えられた水も、もれなく地球の水だった。
 ウッカリ水を飲んでしまったような幼い頃には、それと気付いていなかったけれど。
 塩辛かったと顔を顰めたり、鼻にも入ったと激しく噎せたり、ロクな記憶が無かった水。誤って飲んでしまった水。
 それさえも贅沢な思い出なのだと、今頃になって気が付いた。
 前の自分の記憶が戻ってから随分経つのに、夏は海にも行ったのに。柔道部の生徒たちを連れて出掛けた広く青い海、地球の海だとは思ったけれども、水には気を留めていなかった。
 水は当たり前に身の回りにあるし、いつでも飲めるものだから。無料で飲める飲み物だから。
 なんという贅沢をしているのだろうか、今の自分は。
 地球の水を好きな時に好きなだけ飲んで、しかも代金は必要無いのが基本の生活だったとは…。



(これは是非ともブルーに話してやらんとな?)
 今日はブルーの家に行こうと決めていたけれど、思わぬ土産話が出来た。きっと小さなブルーも気付いてはいまい、地球の水を好きなだけ飲むことが出来る贅沢に。無料で飲める素晴らしさに。
(この店に入ったお蔭だな)
 店主が汲んで来た美味い水が無ければ、今も気付いていなかったろう。いい店に出会えたと感謝しながら勘定を済ませ、出ようとしたら店主に呼び止められた。
「お客さん、ウチの水を褒めて下さったんで…」
 これでコーヒーでも飲んで下さい、と店主が差し出した水。ボトルにたっぷり。
「…いいんですか、こんなに頂いても?」
「ええ。分かって下さる方には差し上げたくなるじゃないですか」
 ご遠慮なく、と笑顔を向けられたから、有難く貰って店を出た。午後の日射しを受けたボトルがキラリと光って、中で煌めく美味しい水。店主が朝から汲んで来た水。
(最高の土産だ…!)
 ブルーの家に持って行くには、水の話をしてやるには。
 いいものを貰った、と足取りも軽く歩いてゆく。水のボトルをしっかりと持って。



 今日は休んでもいい学校に着くと、同僚たちに「真面目ですねえ」と笑われたけれど。ブルーの姿を窓越しにチラリと見たから満足、来て良かったと笑みが零れた。制服のブルー。
 書類の整理などをしながら放課後まで居て、柔道部の指導をしてからブルーの家へと。いつもの愛車は自分の家に置いて来たから、これまた歩いて、水の入ったボトルを持って。
 見慣れた生垣に囲まれた家。門扉の脇のチャイムを鳴らすと、二階の窓からブルーが手を振る。応えて大きく手を振り返して、迎えに出て来たブルーの母にボトルを渡した。
 「美味しい水なので、このままで飲む分も出して頂けますか」と。
 ブルーと自分と、それぞれコップに一杯分。残りは沸かしてお茶を淹れてくれればと、いつもの紅茶でいいですから、と。
 そして…。



「なんで水なの?」
 キョトンと瞳を見開いたブルー。紅茶とお菓子は分かるけれども、どうして水、と。
 透明なガラスのコップに一杯ずつの水は確かに、普段だったら無いもので。ポットの紅茶が濃くなりすぎた時に使う差し湯なら、専用の器に入れるものだし、水ではなくて沸かした湯だし…。
 ブルーの疑問はもっともだけれど、今日の主役はこの水だから。
「まあ飲んでみろ」
 砂糖を入れて飲むんじゃないぞ。そのまま飲むんだ、水のままでな。
「ふうん…?」
 コクリと一口、飲んだブルーは目を丸くして。それから一口、もう一口…、と味わってから。
 頬を緩めてコップを指差し、「美味しいね」と、また一口。
 美味しい水だと、特別なのかと訊かれたから。
「そうだろう…!」
 美味い水だろ、だからこのまま飲んで欲しいと思ってな。
 お母さんにそうお願いしたのさ、このままコップで出して下さい、と。



 ただの水とは違うんだぞ、と話して聞かせた。評判の美味しい湧き水なのだ、と。
「町外れの小さな公園の水だ、公園に来た人が飲めるようにと井戸があるんだが…」
 その井戸の水さ、大勢の人が汲みに行くらしいが、それでも水は水路にまで溢れてゆくそうだ。俺も噂は知っていたものの、本物にはお目にかかっていなくってな…。
 今日、昼飯を食いに入った店の水がその水だったんだ。店のご主人が夜が明ける前に出掛けて、自分用と店で使う分とを汲んで来るらしい。
 美味いですね、と話し掛けたら、「分かりますか?」と喜ばれてなあ…。
 土産にこいつを貰ったってわけだ、コーヒーでも飲んで下さい、とな。
「凄いね、貰って来たんだ、この水…」
 お店のおじさん、嬉しかったんだね、ハーレイに味を分かって貰えて。
「らしいな、ご自慢の水のようだし」
 他の人たちの邪魔にならないよう、暗い内から出掛けて汲むんだと言ってたぞ。朝早くから大勢やって来るらしくて、長蛇の列とも言ってたなあ…。
 そいつを店で出しているんだ、俺みたいな客が勝手に好きなだけ飲めるように。同じ水で作った氷まで置いて、お好きにどうぞという感じだな。
「そうなんだ…。頑張って汲んで来たのに、そういうことは書いてないんだね?」
 飲んだお客さんが気付かなかったら、普通の水とおんなじなんだね…。
 ちょっとビックリ、こんなに美味しいお水なんだし、紙に書いて貼っておけばいいのに。



 もっとアピールしても良さそうなのに、とブルーが言うから。
 美味しい水を汲んで来たなら、そういう水だと書いておけば喜ばれそうなのに、と不思議そうに首を傾げているから。
「…そうしないトコが、あのご主人の人柄っていうヤツなんだろうな」
 美味しい水を一人占めじゃなくって、お客さんにも飲んで欲しいんだろう。人を呼び込むための水じゃないんだ、いわゆるサービスってヤツなんだろうが…。
 お蔭で俺も気が付いた。この水、地球の水なんだぞ?
「え?」
 それはそうでしょ、此処は地球だし…。地球の湧き水なら地球の水でしょ?
「むろん、そういうことになるんだが…。その地球の水。前の俺たちには貴重品だぞ?」
 ボトルに詰めて、とんでもない値段で売られていたって不思議じゃなかった。
 誰もが行きたいと願っていた星だ、人類の聖地と言われた地球だ。
 その地球の水を汲んで来ました、ってことになったら、どんな値段になってたと思う?
 …もっとも、あの頃の地球は死の星だったし、水を売るどころじゃなかったんだがな。
 その地球が見事に復活して来て、今じゃ何処でも地球の水ってヤツが飲み放題だ。高いどころかタダになっちまって、店でも家でも好きなだけ飲める。
 俺も初めて気付いたんだがな、この水をくれた店のお蔭で。
「本当だ…!」
 お水、何処でもくっついてくるね、レストランでも喫茶店でも。
 なんにも注文しない内から、お水のコップが出て来るものね。お水が減ったら入れてくれるし、お水のお金は要らないし…。
 当たり前だと思ってたけど、あのお水、全部、地球の水だね…!



 学校でもお水はいつでも飲めるよ、と驚いたブルー。
 水飲み場は学校のあちこちにあるし、お金なんかは要らない仕組み、と。家でも何処でも水道があれば水が出て来て、好きなだけ飲んでいいんだった、と。
「…前のぼくが聞いたら、冗談じゃないかと思いそうだよ」
 地球の水は全部タダなんです、って言われても、きっと信じないよね。地球に住めるような偉い人ならタダで飲めても、そうじゃない人は高い値段で買って飲むんだと思うかも…。
「俺も同じだ、前の俺ならタダだと聞いても信じないな」
 一部のエリートだけの特権だろうと、地球に住めるヤツらはタダなんだな、と思うんだろう。
 前の俺たちが飲もうと言うなら、何が何でも地球に辿り着くか、高い水を奪って飲んでみるか。どっちにしたって、そう簡単には飲めないもので、だ…。
 そんな地球の水を飲み放題っていう今の俺たちは、凄い暮らしをしてるってわけだ。蛇口を捻るだけで地球の水が飲めるし、何処に行っても水はタダだと思って生きてるわけだしな。
 これは凄いと思わないか…?
「うん…」
 お水なんかは普通なんだと思っていたけど…。
 お茶とかになったら特別だけれど、お水はサービスでついてくるものだと思い込んでたけど…。
 それって普通じゃなかったんだね、前のぼくたちには考えられないような贅沢なんだね。
 地球のお水を好きなだけ飲めるっていうのもそうだし、その地球の水がタダだなんて。
「うむ。今日まで気付かずに来たくらいなんだ、それほどにタダだと思ってるわけだ」
 生まれた時から使い放題、飲み放題で育って来たから、そうなっちまった。
 シャングリラの頃には地球の水どころか、飲料水の確保にも気を配っていたというのにな…。



 贅沢な時代になったもんだな、と紅茶のカップを傾けた。ブルーにパチンと目配せしながら。
 この紅茶もその水で淹れて貰ったと、同じ水で淹れた紅茶なのだと。
 ブルーは早速、紅茶のカップを口へと運んで。
「美味しいかも…」
 いつもの紅茶より、ずっと美味しい紅茶かも…。
「それは気のせいかもしれんがな。…俺には水ほどに違いは分からん」
 俺は紅茶は詳しくないしな、お前も前から知っている通り、コーヒーの方が好きだしな?
 それに、この水。あの店のご主人も朝一番にこれでコーヒーなんだと言っていたから、コーヒー向けの水なんじゃないか?
 コーヒーにはピッタリの水かもしれんが、紅茶の方にはどうだかなあ…?



 紅茶も美味しく飲める水とは限らないぞ、と笑ったけれど。
 コーヒーと紅茶では、淹れるのに向いている水の性質が違う部分もあるだろうけれど。
 小さなブルーは「ぼくは美味しいと思うけど…」と紅茶をコクリと飲んで。
「コーヒー向けなのか、紅茶向けかは、汲みに行ってる人たちに訊かないと分からないけど…」
 でも、いいお水には違いないよね、行列が出来るほどの水なんだから。
 そういうお水は、名水って言うんだったっけ?
「ああ、間違いなく名水だな」
 うんと昔なら、それこそ名前がついただろう。この辺りが日本だったような時代なら。
 そりゃあ立派な名前を貰って、その水で仕込んだ酒なんかもきっと出来たんだろうなあ…。
 今の時代だと、ただの公園の水なわけだが。
 公園の名前さえもついていなくて、「あそこの水」って呼ばれるわけだが、確かに美味い。
 いつかは名前がつくのかもなあ、美味いって評判がどんどん広がっていったらな。
 そうなったとしても、相変わらずタダで、好きなだけ汲める水なんだろうが。



 今の時代は、地球の水はタダが基本だから。美味しいからといって有料になりはしないから。
 この公園の水もきっと無料のままだろう、と話してやったら。
「毎日、こういう美味しいお水が飲めたらいいね」
 地球のお水っていうだけで幸せだけれど、美味しいお水はもっと幸せ。
「…水道の水でも充分なんだが…」
 前の俺たちからすれば、水道の水でも地球の水となったら格別の水ではあるんだが…。
 そうは言っても、俺たちは今の時代の人間なわけで、贅沢な地球の水に慣れているわけで…。
 欲も出るよな、同じ飲むなら美味い水、と。
 こういう美味いのに出会ってしまうと、もっと飲みたいと思うよなあ…。



 いつか山まで美味い湧き水を汲みに行こうか、と誘ってみた。
 人間が掘った井戸とは違って、地面から自然に湧き出す清水。それが飲める場所もあるからと。
「泉って言葉は知ってるだろう? そういうヤツだな」
 綺麗な水が湧き出してるんだ、親父が汲みに行ったりしてるぞ。美味い水だからな。
「ホント?」
 それじゃコーヒーに合う水なのかな、その泉って?
「さてなあ…。親父からは特に聞いちゃいないが、泉から飲んでもかまわないんだぞ」
 自分でフキの葉でコップを作って。
「…フキの葉?」
 フキって、フキノトウのフキ?
 あれの葉っぱでコップが出来るの?
「そうさ、フキの葉が大きく育った頃ならな」
 デカくて穴の無い葉っぱを選んで、茎ごとポキリと折ってくるんだ。



 そいつの茎を手前にこう折り曲げて…、と父の直伝を示してやったら。
 葉の部分がコップのようになるから、水を汲めるのだと教えてやったら。
「それ、やりたい!」
 やってみたいよ、フキの葉のコップ。それでお水も汲んでみたいし…。
「いつかはな」
 連れてってやろう、あそこの水は美味いんだ。山登りをする価値は充分にあるぞ。
 だが、山登りはお前の身体じゃ大変だろうし、普段は名水にしておくか。
 例の公園の名水を汲みに出掛けて、そいつでコーヒー。
 結婚したなら、朝は名水でコーヒーと洒落込みたいじゃないか。
「そこは紅茶だよ!」
 ぼくはコーヒー、苦手なんだから!
 美味しい水を汲みに出掛けて淹れるんだったら、断然、紅茶!
「俺はコーヒー党なんだが…」
 美味い水で朝から淹れるとなったら、俺はコーヒーにしたいんだがなあ…。
 しかしお前は紅茶なんだな、意見が分かれちまったな。
 まあ、今の所はコーヒーが美味い水ってことでだ、あの公園の水を汲みに行ってコーヒーだな。
 お前はそいつで紅茶にしておけ、今日のも美味いと言ってるんだから。



 それでいいだろ、と言っておいたけれど。ブルーもコクリと頷いたけれど。
 いつかブルーと結婚したなら、コーヒーと紅茶、どちらにも合う水を探しに、汲みに行こうか。色々な水の評判を聞いて、あちこちの水を試してみて。
 そんな結婚生活もいい。
 週末になったら、たまには朝早くから二人で、美味しい水を汲みに。多分、車で。
 そこから始まる朝の食卓、家に戻ったら紅茶にコーヒー。
 まだ暗い内から出掛けて汲んで来た水で、紅茶にもコーヒーにもピッタリの水で。
 きっと幸せの味がするだろう、地球の美味しい水だから。
 前の自分たちには思いもよらない贅沢だったけれど、今は無料の地球の水。
 それで紅茶とコーヒーを淹れて、二人でゆっくり味わう朝。
 ブルーには紅茶、自分はコーヒー。
 いい味がすると、水を汲みに出掛けた甲斐があったと、二人で微笑み交わしながら…。




           無料の水・了

※今では無料で飲めるのが水。飲食店でさえ、タダで提供してくれるほど。飲み放題で。
 シャングリラでは考えられなかった贅沢な暮らし。それに気付くと、水も輝いて見えるほど。
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