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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

「クシャン…!」
 仕事帰りに寄った、ブルーの家。
 夕食までの間にお茶とお菓子で寛いでいたら、ブルーが小さなクシャミをしたから。
 ハーレイは「どうした?」と問うてやる。急に鼻でもムズムズしたか、と。
「なんでもないよ」
 いきなりクシャンと出ちゃっただけ。もう平気。
「そうか? ならいいが…」
 鳶色の瞳でブルーを見詰めた。
 自分は車でやって来たけれど、今日は午後から風があった。小さなブルーはバス通学だが、バス停から家まで歩く途中は少し身体が冷えたかもしれない。秋の風でも冷たかった風。
 風邪を引いてはいないだろうな、と念を押したけれど。
「平気!」
 クシャミが一回だといい噂でしょ?
 二回だったら悪い噂で、三回だったら風邪だとハーレイも言っていたじゃない。
 ぼくは一回クシャミしただけだよ、誰かが噂をしていたんだよ。
「ふうむ…。そういう話もしたっけな」
 古典の授業の中での雑談。生徒を飽きさせない工夫。
 ブルーはそれを覚えていたのか、と嬉しくなる。クシャミの回数と噂とを巡る言い伝え。
「ね、そうでしょ? だから風邪なんかは引いていないよ」
 一回だったらいい噂だから、どんな噂をしてくれたのかな?
 ぼくのことを褒めてくれていたかな、ご近所さんとか、でなきゃ、友達。



 それは嬉しそうに、楽しそうにクシャミの言い伝えで自分のクシャミを打ち消すブルー。
 ただのクシャミだと、噂されただけだと、何の心配も要らないと。
 そんなブルーについつい釣られて長居をした。
 ブルーの両親も一緒の夕食の後も、ブルーの部屋に食後のお茶を運んで貰って。
 どうせ明日にはまた会うのに。
 午前中から訪ねて来る日だと決まっているのに、ついゆっくりと腰を落ち着けていた。
 「明日は土曜日だから、帰りが少し遅くなっても平気だよね」と引き留められて。
 小さなブルーにせがまれるままに、あれこれと話が弾むままに。



 そして次の日。
 いつも週末にしているように、朝食を済ませて家を出て。
 天気がいいからブルーの家までのんびり歩いて、門扉の脇のチャイムを鳴らした。ブルーの母が門扉を開けにくるまでの間、二階を見上げてみたのだけれど。
 すっかり馴染んだブルーの部屋。其処の窓からブルーが手を振る筈なのだけれど。
(…部屋にいないのか?)
 珍しいな、と人影が見えない窓を眺めた。他の部屋にでも行っているのか、でなければ。
(あいつが迎えに出て来るとかな)
 たまたま階下に下りていたなら、そういうこともあるかもしれない。ブルーが門扉を開けに来たことは一度も無かったが、もしも出て来てくれるのならば。
(未来へと時間を越えた気分になるな)
 結婚した後、「おかえりなさい」とブルーが出迎えに来てくれたようで。
 それもいいな、と頬が緩んだけれども、間もなく開いた玄関のドアから現れた人影はブルーではなくて。



 門扉を開けに来た、ブルーの母。申し訳なさそうに告げられた言葉。
「風邪ですか?」
「ええ、少し…」
 寝かせてあります、と聞かされたハーレイは、ブルーの姿が見えなかった理由を理解した。風邪では仕方ないだろう。窓に駆け寄って手を振るどころかベッドの住人、可哀相にと溜息をつく。
 これでは二人で休日を過ごすどころではないな、と思ったのだが。
 「お大事に」とだけ言葉を残して帰ろうとしたが。
 ブルーの母は「でも…」と門扉を大きく開くと、ハーレイを庭へと招き入れた。
 息子が風邪を引いていてもいいなら、側に居てやって頂けませんか、と。
 ブルーは朝から先生に会いたがっていますから、と。
「ええ、お邪魔してもいいのでしたら…」
 このとおり丈夫な身体ですしね、風邪なんかうつりはしませんよ。
 ご心配なく、マスクなんかも要りませんから。



 恐縮しているブルーの母に案内されて、二階のブルーの部屋に入れば。
 来てくれるとは思っていなかったのだろうか、ベッドに居たブルーの顔が輝く。
「ハーレイ、おはよう!」
「お前、おはようじゃないだろうが!」
 風邪はどうした、と言えばベッドから起きようとするから。
 ベッドの脇に置かれたガウンを取ろうと手を伸ばすから。
「こら、寝てろ! 起きるヤツがあるか!」
 俺がそっちの方に行くから、と椅子を引っ張って来てベッドの側に座った。
 普段だったら、ブルーと向かい合わせで座っている椅子。テーブルとセットになっている椅子。
 テーブルの上にはブルーの母が置いて行った紅茶のカップとポット。それにお菓子と。
 部屋の扉はとうに閉められ、ブルーと二人きりの部屋。
 ベッドの中のブルーは嬉しさを隠そうともせずに微笑んでいる。
 けれど…。



「クシャン!」
 昨日も聞いた、ブルーのクシャミ。
 あの時はただのクシャミに聞こえたけれども、今のブルーは病人だから。
「おい、大丈夫か?」
 熱は無いのか、クシャミだけではなさそうだがな?
「ちょっぴり…」
 ほんのちょっぴりだよ、ホントに微熱。それなのにママが寝ていなさい、って。
 今日はハーレイが来てくれる日なのに、寝ていなさいって言われたんだよ。
「当然だろうが、お前、風邪だろ?」
 ふうむ、と手を伸ばしてブルーの額に触ってみて。
 くすぐったそうにしているブルーに「少し熱いか?」と尋ねてみれば。
「ちょっとだけね」
 ホントにちょっぴり、熱って言うほどの熱でもないよ。
「測れ!」
 お前の言うことは信用出来ん。
 熱が高けりゃ俺が帰ってしまうかと思って、微熱だと嘘を言いかねないしな。
 俺がきちんと納得するよう、今の体温ってヤツを測るんだな。



 ほら、と枕元にあった体温計を渡して、ブルーに測らせている間に。
 小さなブルーが渋々熱を測っている間に。
(ん…?)
 脳裏を掠めた、遠い日の記憶。遥かな昔に過ぎ去った記憶。
(そういえば…)
 あれも体温計の記憶だった、と白いシャングリラでの日々が蘇ってきた。
 ブルーと暮らした白い鯨での懐かしい日々が。



 青い地球の上に生まれ変わる前、キャプテン・ハーレイだった前の生。
 あの頃の自分には特技があった。
 ソルジャー・ブルーだった前のブルーには、些か迷惑とも言える特技が。
(そうだったっけな…)
 ブルーの額に軽く触れるだけで、熱の有無が分かった前の自分。
 銀色の前髪をそっとかき上げ、額にピタリと手を当てたならば、より正確に。
(前のあいつは、顔だけしか外に出ていなかったしな?)
 ソルジャーの衣装はそういう風に出来ていたから。
 華奢な手さえも手袋で覆われ、透けるような肌が見える部分は顔くらいだった。その顔の上の、白い額に手を当てる。あるいは触れる。
 額に熱さを感じた時には、触れるだけだった手をピタリと押し付け、ブルーを睨んだ。
 「熱がおありのようですね」と。
 お休みになって頂かなければと、言い訳なさっても無駄ですよと。



 「大丈夫だよ」が口癖だったブルーの嘘を、何度も何度も見抜いていた。
 ソルジャーだからと気を張って無理をしようとしていたブルーが平然とつく嘘を。
(額は嘘をつけないからなあ、正直だからな?)
 熱があると分かれば、たとえブルーが何処に居ようと、もう強引に青の間へ。「大丈夫だよ」と言い訳されても耳も貸さずに、逃げないようにと監視しながら付き添って。
 青の間に着いたら熱を測らせ、そうしてベッドに送り込んだ。
 ソルジャーの衣装は脱がせてしまって、柔らかなパジャマを着せ付けて。
(…そういう時のためのパジャマだっけな…)
 以前は確かに着ていたくせに、いつの間にやらパジャマを着なくなってしまったブルー。
 ハーレイの温もりと身体とをパジャマ代わりに眠ったブルー。
 それでも病気の時はパジャマで、流石のブルーも文句は言えない。ドクター・ノルディが診察に来るし、その時に何も着ていないのでは酷く叱られるに決まっているから。
 「裸で寝るとは何事ですか」と、「病人の自覚がおありですか」と。



 一度ベッドに入ってしまえば、張っていた気が緩むから。
 ブルーは寝込んでしまうのが常で、そうなればもう眠っているだけ。溜まった疲れを眠ることで癒すという面も多分、あったろう。
 放っておいたら食事も摂らずに眠り続けるから、ブルーが好んだ素朴な野菜スープをキッチンで作って食べさせ、その他にもあれこれ世話をしていた。ブリッジを抜けては、様子を見て。
 ドクターよりもブルーの体調に詳しかった自分。
 こういう時にはこうすればいいと、こうすれば早く良くなる筈だと。
 今と同じで虚弱だったブルーの弱い身体は薬だけでは治りが遅い。精神の疲れも取ってやらねばいけなかったし、野菜スープをスプーンで掬って口に入れてやるだけでもかなり違った。
 甘えていいのだと、甘えられるのだとブルーの心がほぐれるから。
 それから優しいスキンシップ。
 恋人としての愛撫ではなく、幼子を慈しむように。
 そうっと額を撫でてやったり、普段なら昼間は手袋に包まれている手を握ってやったり。
 何かと手がかかる恋人だったけれど、愛おしかった。
 自分がベッドに送り込まねば、倒れてしまうまで無理をし続けそうな前のブルーが。



(朝、起きたら熱があったりするんだ)
 それは気付かずに無理を重ねた結果であったり、弱い身体だけに病に負けたり。
 前の自分の腕の中のブルーの身体が熱い、と気付かされる朝。
(服なんか着てはいなかったしなあ、余計に分かりやすかったよな?)
 肌と肌とが触れ合っているだけに、額に触れずとも分かった異変。
 それでも起きようとしていたブルーを何度止めたことか。
 「大丈夫だよ」と微笑むブルーに熱を測らせ、「駄目です」と体温計の表示を突き付けて。



(俺が一緒に寝ていなかったなら…)
 どれほどの無茶をしたのだろうか、あの頃のブルーは?
 熱で足元がふらついていても、「大丈夫だよ」と視察に回って、新しく見付けたミュウの子供の救出などにも出掛けて行ったに違いない。
 アルテメシアに着いて間もない頃ならともかく、居を定めた後は救出班を設けてブルーの負担を減らす工夫をしてあったのに。ブルー自ら出掛けなくとも、救出班には充分な力があったのに。
 それでもブルーは出掛けて行ったし、救出作戦を見守っていた。いざという時のために。
(病人が行っても意味が無いんです、と俺は何回怒鳴ったことか…)
 絶対に駄目だ、と叱り付けてブルーをベッドに押し込み、外に出ないよう見張りもした。
 「少し外す」とブリッジを離れて、青の間から指揮を執りながら。
 ブルーのベッドの側に運んだ椅子にどっかりと座り、無茶をしがちなブルーが逃げないように。



 何度もブルーとの攻防を繰り返し、無理やりベッドに押し込める内に、身体が覚えた。
 この熱さならばブルーの体温は何度くらい、と、身体が、額に当てる手のひらが。
「ハーレイはぼくの体温計だね」
 そう言ったブルーを覚えている。肩を竦めて苦笑したブルー。
 本物の体温計には嘘がつけるが、ハーレイには嘘がつけないと。
(うん、体温計なら誤魔化せたんだ)
 前のブルーのサイオンがあれば、簡単に。
 相手は単純な仕組みなのだし、一瞬で数値を書き換えられた。
 けれどもハーレイの手だけは誤魔化せないから、大人しくベッドで寝ていたブルー。
 「熱がありますよ」と体温計でも測られてしまって、ドクターを部屋に呼ばれてしまって。
 一度ベッドに送り込んだら、後は癒えるまで静かに寝ていてくれだのだけれど…。



 そういったことを考えていたら。
 遠い記憶を思い出していたら、ピピッと微かな体温計の音が聞こえた。
 小さなブルーに「測れ」と渡した体温計。
「見せてみろ」
 貸せ、と手を伸ばせば、ブルーは上掛けの下に潜り込みそうな顔で不安そうに。
「…怒らない?」
「いいから、ちゃんと申告しろ!」
 何度あるんだ、と体温計を奪って見てみれば表示は微熱で。
「まあ、この程度だったら、話すくらいは…」
 別にいいだろう、はしゃぎすぎて咳き込まないように気を付けるならな。
 それとベッドから出て来ないことだ、そうするんなら許してやる。
「ホント?」
「その代わり、喋るのは主に俺だぞ、お前は聞き役に徹していろ」
 質問と相槌は許してやるがな、自分からあれこれ喋らないことだ。疲れちまうからな。
 ついでに、後できちんと昼寝するんだぞ、でないと早く治らんだろうが。
「昼寝って…。ハーレイ、帰ってしまわない?」
 ぼくが寝てたら、その間に。いつもだったら、土曜日は夜まで居てくれるのに…。
「居てやるさ。今日は土曜日だからな」
 お前が昼寝をしてる間は、本でも読ませて貰うとするかな。
 シャングリラの写真集もいいがだ、たまにはお前の本棚の本を適当にな。



 ブルーの母が運んでおいてくれたお茶がポットにたっぷりとあったから。
 のんびりと飲みつつ、合間に菓子も口へと運んだ。
 小さなブルーにも枕元の水分補給用のドリンクを何度か飲ませたりしながら、学生時代の武勇伝などを聞かせていたら。
「ハーレイ、ぼくの体温計だね」
「はあ?」
 唐突な言葉に目を丸くしたが。
 思い出した、とブルーが笑った。
 前のぼくは何度も測られていたと、叱られていたと。
「ハーレイ、ぼくのおでこに触っただけで熱が分かるんだもの」
 何度あるのか、触っただけで。
 そして睨むんだよ、怖い顔して。「熱がありますね」って、「直ぐに測って下さい」って。
 ぼくが測るまでじっと見てるし、体温計を誤魔化したってハーレイに嘘はつけないし…。
 あれで何度も叱られていたよ、熱があるのにウロウロするな、って。
 ベッドに入るまで監視されてて、ドクターを呼ばれちゃうんだよ。



「ああ、あれなあ…」
 実は俺もさっき思い出していたんだ、とハーレイはブルーの小さな額に手を当てた。
 ほんの少しだけ熱く感じる、小さな額。
 体温計が示した数字に嘘は全く無いのだろうが、今の自分にはブルーの熱が分からない。微熱があるということだけしか、高熱ではないということしか。
 前の自分が言い当てたように、体温計の表示と同じ数字を弾き出せはしない。
 だから溜息をつくしかなくて。
「今の俺にあの腕があったらなあ…」
 お前の体温計をやっていた頃と同じ腕があれば良かったんだが。
「なんで?」
「あの腕があったら、昨日のお前の不調が分かった」
 そうすれば俺は早めに帰っただろうし、お前だって早くベッドに入れた。
 風邪は引き始めが肝心だからな、暖かくして早い時間に眠れば朝には治っているとも言うんだ。
 あの頃の腕が俺にあったなら、お前、寝込みはしなかったろうに。
「だけど…。昨日は熱は無かったよ?」
 クシャミが出ただけ、それっきりだよ。体温計の出番なんかは無かったよ。
 ぼくだって、朝に身体が熱いと思うまでは測っていなかったもの。



「それでも、多分、分かっていたな」
 体温計だった頃の俺だったなら、と返してやれば。
 小さなブルーは不満そうに唇を尖らせ、ハーレイを恨めしそうに見上げた。
「ぼくと一緒に寝ていないのに?」
 あの頃のぼくはハーレイと一緒に眠っていたから、夜の間に熱が出て来たら分かるだろうけど。
 そうでもないのに分かるわけがないよ、ぼくがクシャミをしてたくらいで。
 クシャミくらいは誰だってするし、一回だけのクシャミだったらいい噂だよ?
「そうでなくても分かるんだ!」
 一緒に寝ていたからだけではない、とハーレイは生意気な恋人の額を小突いた。
 前の自分が体温計などという特技を体得したのは、前のブルーと長く一緒に暮らしたからだと。
 白い鯨で三百年も共に生きたし、青の間が立派に出来た後でも二百年以上。
 それほどの時を側で生きたから、ブルーに生じた僅かな変化。
 体調の変化を決して見逃さないのだと、そうした経験を積み重ねた末に体温計になったのだと。
 触れるだけで熱の有無が分かって、手のひらを当てれば正確な数値。
 サイオンで誤魔化せる体温計よりも正しく測れる、ブルー専用の体温計に。



「じゃあ、今のぼくは?」
 まだ測れないの、チビだから?
 子供は体温が高いって言うし、そのせいでハーレイ、測れないかな?
「そうじゃなくって、データ不足だ」
 いいか、前の俺は死んじまっているんだ、ずうっと昔にこの地球でな。
 前の俺の記憶は残っちゃいるがだ、その頃の感覚とまるで同じっていうわけじゃない。
 お前だってそうだろ、右手が冷たいと覚えてはいても、その冷たさは同じじゃない。
 だからだな…。
 前の俺の記憶を総動員して、お前の体温を測ろうにも、だ。俺の身体がついていかない。こんな感じでいいんだったか、と曖昧なことしか分からないのさ。
 今じゃせいぜい、熱っぽいな、と分かる程度だ。もっと修行を積むまではな。
「それじゃ、いつかは分かるようになる?」
 前のハーレイがやってたみたいに、ぼくの体温、ピタリと測れるようになるかな?
「当然だ!」
 俺は意地でも測れるようになってみせるぞ、出来ないだなんて情けないしな。
 前の俺より、ずっと近くにいられるようになるっていうのに…。
 お前を嫁さんにするっていうのに、嫁さんの体温も測れんようでは情けなくって涙が出るぞ。
 恋人同士なことさえ秘密だった頃には出来ていたことが、まるで出来なくなったんではな。



「えーっと、ハーレイ…。ぼくの体温計になれる頃って…」
 結婚してから? とブルーが訊くから。
 一緒に暮らせるようになるまで無理なのかな、と尋ねてくるから。
「それまでにマスターしたいもんだが…」
 前の俺だって、早い頃から体温計の片鱗は見えていたんだからな。
 お前と恋人同士になってない頃も、お前の具合が悪い時には誰よりも早く気付いていたし…。
 だから結婚するよりも前に体温計になれるといいなあ、お前が無理をしないようにな。
「どうやって?」
 ぼくと一緒に暮らしてないのに、どうやってマスターするつもり?
 本物の体温計を使って測りたくっても、しょっちゅう測れやしないのに…。
「お前に何度も会ってる間に分かるようになるさ」
 今日のお前の額の熱さと、体温計に出てた数字と。
 これでデータは一つ手に入れたし、後は地道な積み重ねだな。
 お前がクシャンとクシャミをしたなら、サッと額に手を当てて熱を確かめるとか。
 具合が悪くて学校を休んでしまってる時も、せっせと見舞いに来ては額に手を当てるとかな。



 そして、とハーレイは微笑んでみせる。
 結婚して共に暮らすようになれば、どんな不調も見逃さないと。
 また体温計になってみせると、目覚めるなり「熱があるぞ」と一目で見抜いてみせると。
 ブルーの発熱に気付いたならば、前の生でしていた通りにベッドに押し込む。起きようとしても駄目だと叱って、ベッドに戻して、上掛けを掛けて…。
「それなら、仕事も休んでくれる?」
 ぼくは熱が出ていて病気なんだよ、世話をしてくれる人、いないのに…。
 パパもママも一緒に暮らしてないのに、ぼくはベッドで独りぼっちだよ、熱があるのに。
「前の俺がブリッジを抜けたようにか?」
 少し外す、と青の間で指揮を執りながら、お前を監視していたように。
 無茶しないよう見張ってもいたが、スープも作っていたっけな。野菜スープのシャングリラ風。
 あんな風にお前についてりゃいいのか、仕事は二の次、三の次で。
「うん」
 ハーレイが仕事に行ってしまって、鍵がかかった家で一人は嫌だよ。
 少しくらいなら我慢するけど、一日中とか、大丈夫かな…。
「努力してみよう」
 お前が寂しくて嫌だと言うなら、なんとか都合をつけられるように。
 熱にうなされて目が覚めた時に独りぼっちだと、お前、泣くかもしれないからなあ…。
 うんと甘えん坊になっちまった上に、思念で連絡も取れないんだしな?



 嫁が風邪を引いたようでして、と仕事を休めばいいんだな、とハーレイは笑う。
 休みを取るのが無理な日だったら、授業の合間に車を飛ばして真っ直ぐブルーの待つ家へ。
 そしてベッドで寝ているブルーの世話をする。
 熱を測って、スープを作って。
 もちろん熱は自分の手のひらをブルーの額に当てて測って、体温計の数字はあくまでオマケ。
 スープは何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んで、野菜スープのシャングリラ風を。
 他にも色々、ブルーの世話。
 遠い昔に白いシャングリラでやっていたように、もう愛おしさを隠すことなく。
 ブルーはハーレイの伴侶なのだし、誰に遠慮も要らないから。
 たとえスープを、水を口移しで飲ませていようと、誰も不思議には思わないから。



「ふふっ、楽しみ」
 ハーレイが世話をしてくれるなんて、とっても幸せ。
 今度のハーレイはぼくの体温計っていうだけじゃなくって、堂々と世話が出来るんだものね。
 ぼくをベッドに押し込んだ後は、ハーレイが世話してくれるんだものね…。
 前のぼくだと、部屋付きの係や医療スタッフが殆どの世話をしに来ていたのに。
「おいおい、楽しみなのも分かるが…」
 少しは丈夫になってくれ。
 クシャミを一つしていたくらいで次の日はベッドの住人だなんて、弱すぎるぞ。
 俺がしょっちゅう言ってるだろうが、しっかり食べて大きくなれよ、と。
 大きく育つ方もそうだが、しっかり食ったら身体も丈夫になるんだからな。
「努力はするけど…」
 そんなに丈夫になれるのかな、ぼく…。
 前のぼくよりも弱いんじゃないかな、頑張らなくちゃっていう場所、学校だけだし…。
 ソルジャーなんかをやってない分、病気とかには弱いのかも…。



 今度のぼくは弱い気がする、と言った途端に。
「クシャン!」
 ブルーの口から飛び出したクシャミ。
 ハーレイはハッと我に返った。ついつい話し込んでしまったけれども、ブルーは病人。
(しまった、俺だけが喋るって予定でいたのにな?)
 これではブルーが休めないから、たかが風邪でも良くならない。早く治すには充分な眠り。まだ太陽は高いけれども、昼前だけれど、休ませなければ。
 ブルーの肩を上掛けの上からポンポンと叩き、髪をクシャリと撫でてやった。
「いかんな、クシャミが出ちまったぞ」
 ほら、少し眠れ。大人しくしてな。
「お昼前なのに?」
 ハーレイ、昼寝をしろって言ったよ、昼寝はお昼が過ぎてからじゃないの?
「屁理屈を言うな。スープを作って来てやるから」
 お前、好きだろ、野菜スープのシャングリラ風。
 寝てる間にじっくり煮込んで、うんと美味いのを作ってやるさ。その間にゆっくり寝るんだな。
「うん…」
 ちゃんと寝るから、帰らないでよ?
 今日は夜まで居てくれるんでしょ、土曜日だから。
「ああ、お前の部屋に居ることにするから、その風邪、しっかり治すんだな」
 そうすりゃ、明日には起きられるしな?
 いいか、ぐっすり寝るんだぞ。野菜スープが出来上がるまでな。
「うん…。うん、ハーレイ…」
 約束だよ、ホントに帰っちゃ嫌だよ?
 野菜スープを作りに行くって、ぼくを騙して帰ってしまったりしないでよね…?



 スープが出来るの待ってるからね、と上掛けの下から出て来た右手。
 その手の小指とハーレイの小指を絡め合わせて、約束をしたと満足そうにしているブルー。
 いつもより僅かに体温の高い、微熱で温かくなっている小指。
(…さっきより熱いんだか、同じなんだか…)
 まだ触れただけで体温は測れないけれど。
 いつかはこれだけでブルーの体温を測ってやろう、とハーレイは思う。
 前の生で測っていたように。
 あの頃よりももっと腕を上げて、絡めた小指で正確に測ってしまえるくらいになるように。
(ブルーのためだけの体温計なあ…)
 前の自分が持っていた特技。今の自分にはまだ無い特技。
 早くブルーの体温計になってやらなければ。
 今度こそブルーを守ると決めたし、愛しいブルーに病も近付けないように。
 不調を見抜いて、きちんと体温を測ってやって。
 仕事の合間に家へと走ることになっても、ブルーが愛おしくてたまらないから。
 だから、体温計になる。
 ブルーの熱なら、体温計よりも正確無比に測ることが出来る、ブルー専用の体温計に…。




            体温計・了

※触れるだけでブルーの体温が分かった、前のハーレイ。熱があるかどうか。
 ブルー専用の体温計だったらしいですけど、今はまだ無理。でも将来は体温計です。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








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(何の匂い?)
 ふうわりと鼻をくすぐった香り。
 お風呂のドアを開けた途端に、温かい湯気の湿気に混じって。
 いつもはこういう香りはしないし、この匂いは何処から来てるんだろう?
 ママが新しいバスキューブでも入れたかな、ってバスタブを覗いてみたんだけれども、色なんかついていないお湯。湯気だって何の匂いもしない。
(でも…)
 確かに甘い香りがするんだ、お風呂とも思えない香り。どちらかと言えば…。
(お菓子みたいだよ?)
 だけど分からない、香りの正体。バスキューブじゃないなら何だろう、って首を捻っても答えは出ないし、とにかくお湯に浸からなくっちゃ。風邪を引く前に。
 まずは身体を洗ってから…、とシャワーを浴びながら手を伸ばした先に。



(石鹸…)
 昨日までは無かった、ピンクの石鹸。白い陶器のお皿に載ってる。他のとは別に。
(もしかして、これ?)
 ボディーソープで身体を洗って、お湯で流して。
 それから新しく来た石鹸を観察してみた。ママのなんだろう、ぼくは初めて見るけれど。
 予想通りに、あの香りの元は石鹸だった。甘いイチゴの香りの石鹸。
(美味しそう…)
 まるで食べられそうな石鹸。ちっとも石鹸臭くなくって、ホントのホントにイチゴの匂い。甘く熟したイチゴの匂いがする石鹸。
 それに本物のイチゴを潰して搾って作ったみたいな石鹸なんだ。半透明のストロベリーピンク、種の粒々まで綺麗に見える。イチゴのジュースを固めたようにしか見えない石鹸。



(んーと…)
 もっとゆっくり眺めたいから、陶器のお皿ごとバスタブの縁まで持ってった。
 ちょっとしたものを乗っけられるように小さな棚が作ってあるから、そこに陶器のお皿を置いてイチゴの石鹸をつついてみる。
 ぼくはお湯の中、あったかいお風呂にゆったり浸かって、チョンチョンと指で。
(これってホントに石鹸だよね?)
 だって、お風呂にあるんだから。だけどイチゴの香りは甘くて、これがダイニングやキッチンにあったらお菓子なのかと間違えそう。ちょっぴり固めのゼリー菓子とか、そんな感じで。



 そう思って見てたら、お風呂のドアを開けてママが覗いた。
 食べちゃ駄目よ、って。
 美味しそうだとは思っていたけど、ぼくってそんなに食いしん坊に見えるんだろうか?
「ママ、これなあに?」
 昨日まではお風呂に無かったよ?
 それにとっても甘い匂いがするんだけれど…。
「手作り石鹸なんですって。お友達から頂いたのよ」
 何処だったかしら、他所の地域で作っているって聞いたわねえ…。
 本物のイチゴを使っているから、お肌にいいって話だったわ。
 まるで食べ物みたいでしょ?
 でもね、本当にちゃんと泡が立つのよ、ママもビックリしたくらいにね。



 ママが扉を閉めてった後で、ぼくは改めて石鹸を見詰めた。
 ストロベリーピンクのイチゴの石鹸、種まで入った手作り石鹸。
(本物のイチゴ…)
 イチゴの香料を使ったわけじゃなくって、本物のイチゴで出来た石鹸。イチゴは果物で、食べるものだと思っていたのに。イチゴのジュースも飲み物だと思っていたんだけどな…。
(イチゴで石鹸、作れるんだ…)
 使っちゃ駄目とは聞かなかったし、ちょっと好奇心。
 陶器のお皿ごと石鹸を取って、バスタブの側の床にそうっと下ろして…。
(うわあ、つるつる…)
 バスタブから手で掬ったお湯をかけたら、濡れた石鹸を両手で擦ってみたら。
 ちゃんと泡立つ。綺麗に泡立つ。
 ママが「お肌にいい」って言っていたのも納得、きめ細かな泡がモコモコ出てくる。生クリームみたいな泡がこんもり、ぼくの両手の上にこんもり。



(石鹸かあ…)
 無かったよね、って肩を竦めた。
 前のぼくが生きていた頃は。シャングリラじゃなくて、あの船がまだ無かった頃は。
 未来なんかは見えもしなかった、生き地獄だったアルタミラ。
 人体実験の繰り返しの日々に、石鹸なんかはありもしなかった。ボディーソープもシャンプーも無くて、あそこじゃ洗浄液だった。
 実験動物の身体は清潔にしておく必要があるけど、所詮は実験動物だから。
 手間暇かけて洗ってやるより、自分で自由に洗わせるより、自動で丸洗い出来る部屋。
 実験が終わって意識があったら、丸洗い用の部屋はそれこそ地獄。身体中の皮膚が火傷や凍傷で覆われてたって、薬品で無残に爛れていたって、容赦なく吹き付ける洗浄液。
 消毒を兼ねたそれの痛みに悲鳴を上げても、のたうち回っても、四方八方から洗浄液。
 それが済んだら次は冷水、洗い流すための冷たい水。お湯なんか一度も出なかった。
 洗い終わると乾燥用の風が送られてくる。皮膚が引き攣れてひび割れようが、血が流れようが、実験動物を洗う係はまるで気にしちゃいなかった。スイッチ一つで済むことだから。



 そういう地獄を味わったせいで、前のぼくはお風呂が大好きになった。
 白い鯨が出来上がる前からのお風呂好き。あったかいバスタブに浸かるのが好き。
 具合が悪くても入ってたほどで、今のぼくだって前のぼくの記憶が影響したのか、熱があっても入りたいほどお風呂が大好き、浸かるのが好き。
(…地球まで来たってお風呂なんだよ)
 生まれ変わってもお風呂好きのぼく。青い地球に来たって、やっぱりお風呂。
 そして今ではイチゴの石鹸。
 アルタミラでは石鹸なんか影も形も無かったというのに、イチゴから作った素敵な石鹸、しかも手作り。イチゴのジュースのストロベリーピンクで、小さな種まで入ってる。
 美味しそうな匂いがする石鹸。
 食べ物と言ったら餌しか無かったアルタミラ時代のぼくが見たなら、齧ってしまいそうな石鹸。
 だけど泡立つ、しっかり泡立つ。
 イチゴジュースの色じゃなくって、真っ白な泡がたっぷりと。



(もこもこ、こんもり…)
 泡立てた生クリームみたいな泡。きめが細かくて滑らかな泡。
 普通の泡は出来ないのかな、って軽く擦ったら、ぷくっと膨らんだ泡がヒョコッと出来て。
(こういう泡も出来るんだ…)
 面白いよね、って泡をフウッって吹いたら、ふわりと飛んだ。
 バスタブの湯気に乗ってふわりと、温められた空気の中をふんわりふわふわ、泡の珠。
 明かりを映してキラリと泡が光った途端に思い出した。
(シャボン玉…!)
 小さかった頃によく遊んでた。虹色に煌めくシャボン玉。石鹸の泡で出来た玉。
 もう懐かしくてたまらない。あれで遊んでいたんだよね、って。



 せっかくだからと指を輪っかにして、フウッて吹いて。
 こんもり、もこもこの泡の山でも、これならシャボン玉になる。親指と人差し指を繋いで作った輪っかで泡を広げてやったなら。フウッと息を吹きかけたら。
 小さい小さいシャボン玉だけど、幾つも幾つも舞い上がる。真っ白な泡を指で掬って、フウッと吹いたら。上手に息を吹きかけたなら。
 何度もシャボン玉をバスルームの天井に飛ばす間に、だんだんコツが掴めてきた。
 泡を広げる時はゆっくり、石鹸の膜が破れないように。
 息を吹き付ける時もゆっくり、石鹸の玉が少しずつ膨らんでゆくように。
(もっと大きく…)
 同じ作るなら、小さかった頃に作ったみたいなシャボン玉。大きくて立派なシャボン玉。
 もっと大きく、もっと、もっと、って頑張っていたら。
「ブルー、のぼせるわよ!」
 いつまでお風呂に入っているの、ってママの声。
「はーい!」
 すぐに上がるよ、ちょっとのんびりしちゃってただけ。
 大丈夫、のぼせていないから!



 お風呂から上がって、パジャマを着て。
 部屋に戻ったら、ベッドに腰掛けてシャボン玉の続き。
 もう石鹸は無いけれど。イチゴの石鹸は部屋に無いけど、他の石鹸だって無いんだけれど。
 親指と人差し指とで輪っかを作って、フウッと吹いてみて、飛ばしてるつもり。
 ぼくの部屋の中に幾つも、幾つも、目には見えないシャボン玉。ぼくにだけ見えるシャボン玉。
 もっとサイオンの扱いが上手だったら、石鹸、持って来られるんだけど。
 瞬間移動をちょっと使って、バスルームからヒョイと石鹸の泡。
 でも、今のぼくには無理な相談、出来っこないから夢のシャボン玉、想像するだけの泡の玉。
 部屋一杯に飛んでるつもりで、幾つも、幾つも、フウッって吹いた。
(昼間だったらキラキラ綺麗…)
 窓から入るお日様を映してきっと虹色、七色の玉。
 部屋の中でシャボン玉遊びをやったことは一度も無いけれど。
 シャボン玉は庭のものなんだけど。
 お日様の下で、青空の下で、自然に吹いてくる風に任せて飛ばして遊ぶものなんだけれど…。



(あれ…?)
 何処かで遊んだシャボン玉の記憶。シャボン玉を作って遊んだ記憶。
 庭じゃなくって、もっと昔に。
 大きなシャボン玉を上手に作れるようになった頃より、もっともっと前に。
(…幼稚園かな?)
 幼稚園の庭でやってたのかな、と思ったけれども、その頃だったら庭でもやってる。
 お気に入りの遊びは、ぼくの家でも出来るようなものなら絶対にやる。幼稚園にしか無い道具を使う遊びだったら諦めるけれど、シャボン玉はそんな遊びじゃない。
 石鹸と水と、それからストロー。
 たったそれだけで出来る遊びを庭でやらないわけがない。幼稚園でやったら、家でも、絶対。
(庭じゃなくって、幼稚園でもなくて…)
 もっと昔。
 ずうっと昔に遊んだ筈のシャボン玉。ぼくが作ったシャボン玉。
 でも、何処で…?
 流石に幼稚園よりも古い記憶は曖昧だろうし、探れないかと思ったんだけど。
(シャングリラ…!)
 ぼくが持ってたシャボン玉の記憶は、あのシャングリラのものだった。
 ハーレイが舵を握っていた船。ぼくが守った、白い鯨の。



(…石鹸の記憶が繋がっちゃったよ…)
 お風呂で思い出してた石鹸。アルタミラには無かった石鹸。
 あのアルタミラから宇宙へと逃げて、シャングリラと名付けた船で暮らして。
 白い鯨が出来上がるよりも前に、誰かが始めたシャボン玉。
 最初は多分、偶然だったと思うんだ。
 お風呂で身体を洗っていた時、石鹸の泡が飛んでっただけで。
 何かのはずみに生まれた泡の真ん丸な玉が、ふうわりと宙に浮かんだだけで。
 でも…。



「何処かで見たねえ?」
 そう言ったのはブラウだったっけ。
 まだ公園なんか無かった時代で、シャボン玉はガランと広い部屋の中をフワフワ飛んでいた。
 軽い運動がしたい時とかに使われる部屋で、意味もなくのんびりしたい時にも。
 その部屋で仲間の一人が吹いて作ったシャボン玉。こんなのが出来ると、石鹸なのだと。
「ああ、見たような気がするな」
 初めてじゃないな、ってハーレイも言った。たまたま居合わせた他のみんなも、思いは同じで。
 ヒルマンもゼルも、それにエラだって。もちろん、ぼくも。
(シャボン玉なんか、成人検査よりも後には作ってないのに…)
 作って遊ぶ余裕も無ければ、石鹸さえも無かった日々。地獄だった日々。
 おまけに実験動物になるよりも前の記憶もすっかり失くして、まるで残っちゃいなかった。
 育ててくれた養父母の顔も忘れて、声さえも思い出せなくて。
 どんな所で暮らしていたのか、何をしていたのか、全く覚えていなかったのに。
 欠片さえも頭に無いというのに、シャボン玉を見たと誰もが思った。
 きらきらと光る泡で出来た玉。石鹸と水で出来る玉。
 それを確かに何処かで見たのだと、幸せだった頃の記憶の名残に違いないと。



 シャボン玉の話はたちまち広がり、作ってみた人は嬉しくなった。そう、ぼくだって。
 記憶は残っていないけれども、これを作って遊んでいたと。
 アルタミラの檻に閉じ込められるよりも前の時代に、育った家とかで遊んだ筈だと。
(シャボン玉の記憶…)
 すぐにパチンと壊れちゃうけれど、割れちゃうけれど。
 ふわふわと宙を漂う薄い薄い玉は子供時代の夢の思い出、失くした記憶の優しい名残。
 そうだと気付くと作りたくなる。シャボン玉を作って飛ばしたくなる。
(ついでに自慢もしたくなるしね?)
 こんなに大きく作れるんだと、自分は誰よりもシャボン玉作りが上手いんだと。
 あれこれ工夫を凝らす仲間やら、腕を磨こうと頑張る仲間。
 シャボン玉が最初に飛んでいた部屋は練習用の部屋に化けてしまって、他の部屋でも通路でも。
 ちょっとした時間が出来たらフワフワ、ふんわりふわふわ、シャボン玉が舞う。



 そうして競って、みんなが作った。子供時代の思い出を追った。
 戻ってはこない記憶であっても、シャボン玉を見たのは確かだから。幼い自分が飛ばして遊んだことだけは間違いないのだから。
(作りたくなるよね、シャボン玉…)
 ぼくはハーレイと一緒に作っていたっけ、他のみんなに負けないように。
 うんと大きなシャボン玉にしようと、シャングリラで一番大きなのを二人で作るんだと。
 ハーレイとぼくと、頑張った記憶。
 石鹸と水を混ぜるコツだの、大きく膨らませるための工夫だの。
(シャボン玉…)
 遠い遠い昔、シャングリラで作ったシャボン玉。ハーレイと飛ばしたシャボン玉。
 明日は土曜日、懐かしい思い出をハーレイと二人で話したいから。
 シャボン玉、ってメモに書き付けた。
 明日の朝まで忘れないように、ハーレイが来た時にシャボン玉だと思い出せるように。



 次の日の朝、目が覚めたぼくは勉強机の上に置いてあるメモに気が付いた。
(そうだ、シャボン玉!)
 ハーレイと思い出話をするんだった、って急いで階段を下りて行った、ぼく。
 顔を洗う前に、着替えるよりも前に、ママにお願いしなくっちゃ。
「ママ、おはよう!」
 キッチンを覗いて、挨拶をして。
 あの石鹸を貸してと頼んだ。イチゴの石鹸を貸してほしいと、悪戯なんかはしないからと。
「あら、石鹸? 何に使うの?」
 ブルーもあれで顔を洗うの、そうしたいならブルー用のも貰ってあげるわよ?
 気に入ったのなら分けてあげる、とママのお友達が言っていたから。
「ううん、石鹸で顔を洗うんじゃなくて…」
 前のぼくのことを思い出したんだよ、あの石鹸で。
 ハーレイにも教えてあげたいな、って思うから、石鹸、借りたいだけ。
「あらまあ、イチゴの石鹸で?」
 きっと美味しそうな匂いのせいね、ってママはニッコリ笑ってくれた。
 石鹸はいくらでも貸してあげると、お部屋がイチゴの匂いになるわよ、って。
(…ママ、食べ物の話だと思ってるかな?)
 ホントはちょっぴり悲しい思い出だけれど、ママに話したら心配するから。
 シャボン玉の話はしないでおいた。
 ママがイチゴのお菓子の話だと思っていたって別にいいんだ、あの石鹸さえ借りられたなら。



 そうして借りて来た、イチゴの石鹸。ストロベリーピンクのイチゴの石鹸。
 白い陶器のお皿ごと借りて、勉強机に乗っけておいたら、ハーレイが訪ねて来てくれて。
 テーブルを挟んでぼくと向かい合わせ、石鹸の甘い匂いはママが置いてってくれた紅茶の香りに負けずに部屋に漂ってるから。
 ハーレイはクンと鼻を鳴らして、ぼくの部屋の中を見回した。
「なんだかイチゴの匂いがしないか、今日はイチゴの菓子ではないようだが…」
 この部屋に来るまでもイチゴの匂いはしていなかったし、イチゴのガムとかキャンディーか?
「食べ物じゃないよ、石鹸だよ」
 これ、って立ち上がって、あの石鹸を取って来た。
 テーブルの上にコトリと置いたら、ハーレイがまじまじとイチゴの石鹸を見て。
「お前、こういう趣味なのか?」
 やたらと美味そうな匂いではあるが、お前がイチゴの石鹸なあ…。
「違うよ、これはママのだよ」
 ママが友達から貰ったんだって、本物のイチゴで作った手作り石鹸。
 お肌にいいって言っていたけど、ぼくは石鹸にはこだわらないし…。洗えればいいんだ、石鹸の種類は何でもいいよ。ボディーソープでも、こういう固形の石鹸でも。



 でも石鹸、って指差した。白い陶器のお皿の上のストロベリーピンクの塊を。
 「思い出さない?」って、「石鹸だよ」って。
 ハーレイは石鹸とぼくとを交互に見たけど、なんにも思い出せないようで。
「石鹸って…。何をだ?」
 こいつで何を思い出せと言うんだ、俺もイチゴの石鹸なんかは全く御縁が無いんだが…。
 俺がこういうのを使っていたらだ、似合わないどころか笑われちまうと思うがな?
「そうだろうけど…。そんなのじゃなくて、石鹸で出来る遊びだよ」
 シャングリラでやったよ、シャボン玉遊び。
 ぼくはハーレイと組んでたんだよ、忘れちゃってる?
「ああ、作ったな…!」
 まだソルジャーだのキャプテンだのと、仰々しい肩書きが無かった頃にな。
 俺がお前を「お前」と呼んでも誰も叱らない時代だったな、エラも怒鳴って来なかったしな。
 二人でデカイのを作っていたなあ、シャングリラで一番の名人ってヤツを目指してな。
 誰よりも大きなシャボン玉を二人で作ってやろうと、シャングリラの中で飛ばすんだと。



 前のぼくとハーレイ、シャボン玉を沢山作ってた。
 うんと大きいのを、もっと大きいのを作ろうと。
 シャボン玉遊びが流行ってた間は二人でせっせと、石鹸と水とを使って、せっせ、せっせと。
「頑張ってたでしょ、シャボン玉遊び」
 まだシャングリラは白い鯨じゃなかったけれど。
 公園なんかは無かったけれども、シャボン玉、あちこちで作っては自慢してたよね。ハーレイと二人で作ってみせては、これより大きいのは作れないだろう、って。
 公園があったら、ぼくたち、もっと頑張ってたかな…?
「あの頃もやったが、公園が出来た後にもやったろ」
 お前と俺とで、シャボン玉遊び。…うん、俺は一気に思い出したぞ。
「そうだっけ?」
 公園が出来た後って言うなら、ぼくはとっくにソルジャーだよ?
 ハーレイだってキャプテンなんだし、二人でシャボン玉なんかを作って遊んでいられたかな?
「覚えていないか、半ば仕事で、半ば遊びだ。公園が出来た後のはな」
 お前はソルジャー、俺はキャプテン。
 この二人がシャングリラのシャボン玉のプロだとヒルマンたちが紹介してな。
 ヒルマン率いる子供たちとだ、シャボン玉作りの腕を競っていたろうが。
「あったね、そういう楽しいのも…!」
 ゼルまで出て来て頑張ってたっけ、「こういうのはわしに任せておけ」って。
 「シャボン玉のプロでもわしには勝てん」と、「わしには技術があるんじゃからな」って。



 白い鯨に変身を遂げたシャングリラ。
 アルテメシアの雲海に潜んで、ミュウの子供たちを救い出すようになったシャングリラ。
 そうして船の仲間に加わった子供たちと一緒にシャボン玉勝負。
 ヒルマンが子供たちを連れて公園に出て来て、前のぼくとハーレイが紹介されて。
(シャボン玉作りのプロは負けてはいられないもんね?)
 最初の間は、圧倒的にハーレイとぼくの勝ちだった。
 子供たちが作ったシャボン玉はプロが作るシャボン玉に敵うわけがなくて、ハーレイとぼくとはヒーローだった。とても大きなシャボン玉を作ると、ソルジャーとキャプテンはやっぱり凄いと。
 シャボン玉のプロを尊敬の眼差しで見ていた子供たち。
 ソルジャーとキャプテンが遊んでくれるというのも嬉しかったんだろう。
 何度も何度も勝負を挑まれ、ぼくとハーレイとは受けて立った。
 負けやしないと、シャボン玉作りのプロなんだからと。



 ところがどっこい、途中から参加して来たゼル。
 見た目に似合わず子供たちが好きで、いつもポケットにお菓子を忍ばせていたようなゼル。
(ポケットのお菓子、人気だったんだよ)
 子供たちにワッと囲まれる度に、ゼルは魔法を披露した。ポケットのお菓子が増えてゆく魔法。歌を歌いながらポケットをポンと軽く叩くと、お菓子が次々増えるんだ。
(ポケットの中にはビスケットが一つ…、って)
 ビスケットだったり、キャンディーだったり。中身に合わせて変わっていた歌詞。
 マントの下に隠れて見えない袋の中から、お菓子がポケットに瞬間移動。ゼルでも動かせる短い距離での瞬間移動を使った魔法で、子供たちの目には本物の魔法。
 そんな魔法を使うほどの子供好きのゼルが、敗北続きの子供たちに肩入れをしないわけがない。
 「この勝負、わしが勝たせてやるわい」って、それは大真面目に参戦して来た。
 ずっと昔はぼくとハーレイとに負けていたくせに、シャボン玉の大きさで負けてたくせに。



(勝てるわけないと思ったんだけどなあ…)
 大きなことを言って勝負に出たって、ゼルはゼル。
 シャングリラが白い鯨じゃなかった頃にも負けてた勝負に勝てやしないと高を括った。
 ハーレイもぼくも、そういうつもりで余裕の笑みを浮かべていたのに…。
(あんなの、誰も考えないから…!)
 遠い日のプロは、ゼルが加わったヒルマン率いる子供たちのチームにアッサリと負けた。
 シャボン玉の大きさでは充分に勝っていたんだけれども、その強さ。
(あれはパチンと割れるものなのに…!)
 どんなに慎重に吹いて作っても、パチンと壊れるシャボン玉。儚く割れちゃうシャボン玉。
 そういうものだと思っていたのに、壊れないのを出して来たゼル。
 ぼくとハーレイとが頑張って作った大きなシャボン玉が壊れてなくなっちゃっても、子供たちが作ったシャボン玉は割れずに浮いているんだ、ふわふわと。
 シャングリラの公園をふんわりふわふわ、人工の風に揺られてふわりふわりと。



「おい、あのシャボン玉は反則だろう!」
 ハーレイが珍しく、敬語を使わずに文句をつけた。
 キャプテンっていう立場にいるから、他の仲間が見ている場所ではゼルにも敬語を使うのに。
 そういう習慣がついているせいで、長老しかいない会議の席でもハーレイだけが敬語で話すのが普通みたいになっているのに、この時ばかりは敬語じゃなかった。
 よっぽどカチンと来てたんだろうな、割れないシャボン玉を出されて。
 ぼくだってうんと悔しかったし、ハーレイに拍手を送りたい気持ちだったけど。
 ゼルはと言えば、勝ち誇った顔でこう言い放った。
「反則も何も、こういったものは日進月歩じゃ、日頃の努力の積み重ねじゃ!」
 わしは真面目に研究したんじゃ、子供たちでもプロに勝つにはこれしか無いと。
 大きさでプロに敵わないなら、強さで勝てればいいじゃろうが!



 文句があるか、と偉そうに胸を張られたから。
 ぼくとハーレイとが実地で磨いたシャボン玉の腕を、シャボン玉の強度でパアにされたから。
「要は、割れなきゃいいってことだね?」
 これでどうだ、とサイオンを発動させちゃった、ぼく。
 残っていたシャボン玉の液を一気にシャボン玉へと変えてしまって、サイオンで補強。
「わあっ…!」
 凄い、と見上げた子供たち。
 ぼくが作ったシャボン玉。サイオン・カラーの青を纏った、幾つもの割れないシャボン玉。
 ハーレイもサイオンを乗っけてくれたから、うんと沢山、壊れないシャボン玉が公園に舞った。ぼくとハーレイとのサイオン・カラーが混じった青と緑のが。
 青と緑の虹を纏った、それは沢山の丈夫な丈夫なシャボン玉の群れが…。



「思いっ切り派手にやっちゃったっけね…」
 サイオンのせいで、つついても割れないシャボン玉。
 前のぼくが「これでおしまい」って言うまで割れずに飛んでいたっけ、公園の上を。
「思い出したか、あの騒ぎまで?」
 あれから時々、作ってくれと公園に呼ばれたろうが。
 何をやっても割れないシャボン玉をまた見せてくれと、あれが見たいと。
「うん…。ぼくとハーレイ、公園が出来た後でもシャボン玉作りのプロだったっけ…」
「そういうことだ。俺たちはとことん、プロだったのさ」
 キャプテンとソルジャーになっちまった後も、公園が出来た後になっても。
 シャングリラでシャボン玉を作るとなったら呼び出されていたぞ、ヒルマンたちに。
 子供たちが見たいと言っているから披露してくれと、プロならではの腕でよろしく頼むと。



 派手にやってと、綺麗なのを見せて、と子供たちにせがまれて、前のぼくとハーレイ。
 シャボン玉のプロは何度も公園に呼ばれて出掛けた。割れないシャボン玉を何度も作った。
 青と緑の虹を纏ったシャボン玉。サイオン・カラーの虹を映したシャボン玉。
 公園の上をふわりと飛び越え、ブリッジにまで飛ばして遊んだ。
 シャングリラを動かす舵の周りを飛び回らせたり、ブリッジの飾りよろしく舞わせたり。



 そういう遊びをやっていたっけ、と石鹸を見ながら思い出していたら。
 イチゴの香りの石鹸を見詰めて微笑んでいたら、ハーレイが「おい」と訊いてきた。
「今度はどうする?」
 お前、今度はどうするんだ?
「何を?」
「シャボン玉さ。俺とお前はシャボン玉作りのプロだったろうが」
 ずうっと昔からタッグを組んでて、シャングリラが白い鯨になった後でもプロだったんだ。
 そのプロがまたしても揃ったわけだが、シャボン玉は今度も作るのか?
「えーっと…。作るんだったら、ハーレイの家でやってみたいな」
 石鹸はいつでも手に入るけれど、今も目の前にあるんだけれど。
 パパとママとがビックリしちゃうよ、ぼくたちが庭でシャボン玉遊びを始めたら。
「そうだな、この家でやるのはなあ…」
 流石にマズイか、お前、シャボン玉に夢中な年でもないからな。
 もっと前からやっていたなら、キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーの得意技でした、と言いも出来るが、今からではなあ…。
 それに今度は割れないシャボン玉、お前の力じゃ無理だしな?
 俺だけのサイオンで作っていたなら、お前がシャボン玉遊びをしたくなったと思われるよな。
 割れないシャボン玉を作って欲しいと俺に強請ったと、十四歳にもなってるくせに、と。



 ぼくの年になってシャボン玉遊びは、いくらなんでも子供っぽいから。
 パパとママとが見ている庭では出来っこないから、今は無理。
 シャボン玉作りは当分お預け、ハーレイと結婚するまでお預け。
 結婚してからやっている方が、ぼくが大きくなっている分、子供っぽい気もするんだけれど。
(…だけど、シャボン玉、ハーレイと二人で作っていたし…)
 かまわないんだ、前のハーレイとぼくはシャボン玉作りのプロで通っていたんだから。
 遠い遠い昔に、白いシャングリラで。
 だから今度は青い地球の上で、ハーレイと二人でシャボン玉。
 割れないシャボン玉を作れる器用さは、今のぼくにはもう無いけれど。
 その分、ハーレイのサイオン・カラーのシャボン玉を二人で幾つも、幾つも空に浮かべる。
 幸せの色のシャボン玉。
 ぼくのサイオンの青が足りなくても、緑色の虹を纏った綺麗なシャボン玉。
 それを見上げて、ハーレイと二人。
 壊れない、割れないシャボン玉みたいに、いつまでも何処までもハーレイと二人。
 今度は結婚するんだから。二人一緒に、青い地球で生きてゆくんだから…。




           シャボン玉・了

※シャングリラでは、シャボン玉作りのプロだった、前のブルーとハーレイ。
 今のブルーに割れないシャボン玉は作れませんけど、きっとハーレイが作ってくれますね。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








「ハーレイ、どうかした?」
「いや?」
 土曜日の昼下がり、庭で一番大きな木の下のテーブルと椅子に来てるんだけれど。
 ぼくのお気に入りの白いテーブルと椅子は、初めてのデートの思い出の場所。ハーレイが持って来てくれたキャンプ用の椅子とテーブルでお茶にしたんだ、初夏の光が眩しかった日に。
 それから夏が来て、今は秋。此処でのお茶は午後が定番になったけれども。穏やかで暖かな秋の日射しを感じながらのティータイムだけど。
(…どうしたんだろ?)
 ハーレイが急にニヤニヤし始めたから。
 どうかしたの、って訊いているのに答えないから、キョロキョロ周りを見回した。ぼくの近くに何かあるの、って。
 だけど見当たらない、ハーレイをニヤニヤさせるようなもの。
 それなのにハーレイの笑みは消えないままで、唇の辺りに残っているから。



(えーっと…)
 前のぼくの失敗談でも思い出したんだろうか、と急に心配になってきた。
 だって、悪戯心が見える微笑み。とても楽しそうにぼくを見ている気がする鳶色の瞳。こういう顔をしたくなるような何かが起こって、それでニヤニヤしてるんだから…。
(どんな失敗?)
 この状況でハーレイが思い出すような失敗だったら、ティータイム絡み。
 ハーレイの好きなコーヒーを強請って、苦くて飲めないとミルクやお砂糖を足していたこと?
 あれはホイップクリームまでがこんもり、今のぼくもやって笑われた。
 すぐに思い付くのはコーヒーに纏わる失敗だけれど、なにしろ長く生きたから。シャングリラが立派な白い鯨になってからでも、二百年は軽く生きていたから。
 ハーレイと二人でお茶を飲んだことは星の数ほど、それだけあれば他にも失敗だってする。
(あれかな、それとも、あれのことかな…?)
 遠い記憶を軽く探るだけでポロリポロリと零れて出て来る失敗談。
 ハーレイにお茶のおかわりを淹れてあげようとしたら、シュガーポットを落っことしてしまって真っ白なお砂糖をぶちまけたとか。
(シュガーポットはサイオンで守れたんだけど…)
 ミュウの紋章入りの食器はソルジャー専用、シュガーポットでもそれはおんなじ。ぼく専用でも割ったらマズイ、と慌てて守った。だけどお砂糖は守り損ねて、床一杯に散らばった。
(手が滑ってタルトが飛んでったことも…)
 ちょっと切りにくい、と力を入れたらパッキリと割れて飛んでったタルト。飛んだだけならまだいいんだけど、ハーレイの膝に落っこちた。キャプテンの制服のズボンにつけちゃった、タルトに乗ってたカスタード。



(うーん…)
 前のぼくがお茶の時間にやった失敗、思い出せば山ほどあるみたいだから、焦っていたら。
 どれをハーレイが考えてるのかが分からないから、文句も言えずに困っていたら。
(えっ?)
 ぼくの右足、何かが触った。
 すりすり、って触って撫でる感触。テーブルの下で。
 すりすり、すりすり。気のせいじゃなくて、ホントにすりすり。
(…ハーレイなの?)
 庭だとパパとママの目があるからな、って言っているくせに、触ってる?
 ぼくの右足。ズボンに覆われてしまっているけど、ふくらはぎとか。
 すりすり、すりすり、触ってくるのは止まらない。



(…ハーレイったら…!)
 ぼくの頭をよく撫でてくれる、大きな両手はテーブルの上。お茶は一休みで、組み合わされてる褐色の両手。
 すると、足。
 テーブルの下ですりすりとやってる悪戯者は誰かと言ったら、ハーレイの足。
(…すりすりだなんて…!)
 こんなアプローチは全く考えていなかった。ぼくの右足にすりすりだなんて、触るだなんて。
 さっきのニヤニヤ、これだったんだ。
 「今から触るぞ」って、「お前、こういうのが好きだろう?」って。
 確かに嫌いじゃないんだけれど…。触って貰うの、嬉しいんだけれど。
(…どうすべき?)
 ぼくからも足で触り返すか、それとも足を絡めるか。
 悪戯者の足に足を絡めて捕まえたいけど、しっかりと絡め取りたいけれど。
(でも…)
 ぼくたちがいる場所はリビングとかからよく見える庭。芝生だから遮るものも無い。
 こうしている間も、ママたちが眺めているかもしれない。ぼくたちのお茶を。
 ハーレイが足で触っているだけだったら「悪戯だな」って済ませそうだけど、ぼくまでが真似をしていたら…。
 二人で足を絡め合ったり、触り合ったりしていたら…。
(マズイよね?)
 ふざけ合いには見えそうもない。どう見ても恋人同士の戯れ。
 だけど、すりすり。
 今も止まらない、ハーレイの足。
 テーブルの下ですりすり、すりすり、ぼくの右足に擦り付けられる足。



(んーと…)
 頬っぺたが赤くなるのが分かる。だって、すりすり。テーブルの下で足をすりすり。
 こんな風に足に触れられた記憶は今のぼくには全く無い。一度も無い。
 いつも「チビにはチビの扱い方があるってな」って言われてるから、足なんか触って貰えない。足と足とが触れるチャンスなんかは無いに等しいし、現に今日のが初めてだから。
 すりすり、すりすり、ぼくの右足を撫でている足。
 ぼくが真っ赤になっているのに、意地悪なハーレイはニヤニヤしてる。
(どうすればいいの?)
 ハーレイの馬鹿、って言ってみようか、一方的に悪戯されてるんだから。
 でも、そうしたら触ってくれなくなっちゃう。
 すりすりしていた足は止まって、二度と触って貰えなくなるし…。



(もうちょっとだけ…)
 恥ずかしいけれど、とっても嬉しい。ハーレイのすりすりが嬉しくてたまらない。
 もうちょっと味わっていたいから、と苦情を言うのはやめにした。
(すりすり、って…)
 こんな感じで触って来たかな、ハーレイの足。前のハーレイの長い足。
 あんまり覚えていないけれども。
 服を着たまま、足を絡めたり触れ合わせたりなんて、滅多にしてはいなかったから。
 朝御飯の時にテーブルの下でやってたくらい?
 シャングリラの仲間たちが朝の報告だと信じ込んでいた、ソルジャーとキャプテンの朝の会食。実は大嘘、前の夜から一緒に過ごして、何食わぬ顔で朝御飯のテーブルに着いていただけ。
 そんなわけだから、名残惜しくて足を絡めてみたり、触れ合わせたり。
 朝御飯を食べ終えてしまった後には、ハーレイはブリッジに行くんだから。そうしたら、夜まで二人きりの時間はもう取れない。休憩時間に寄ってくれても、恋人同士の触れ合いは無理。
(朝御飯が済んだら、ハーレイ、いなくなっちゃうもんね…)
 それが寂しく思えた朝には、テーブルの下で足を絡めた。触れ合わせたりも何度もした。
 後は、ハーレイが戻って来た夜にサンドイッチとかを二人で食べながら。
 テーブルの下で足を絡めて、触れ合わせて、互いに微笑み合って。
 幸せだった、小さな触れ合い。
 恋人同士で過ごす時間の延長だったり、そうした時間を過ごす先触れの触れ合いだったり。



(ふふっ)
 何年ぶりだろう、こんな感覚。ハーレイの足が触れてる感覚。
 今のぼくは全く経験が無いし、前のぼくだって十五年もの長い眠りに就いていたから、こうした触れ合いは長く無かった。
(おまけに、その後、死んじゃったしね?)
 この地球の上に生まれ変わるまでの長い長い時間もカウントするなら、百年なんかじゃ済まない時間。ホントのホントに久しぶりの感覚、ハーレイの足がやってる悪戯。
 すりすり、すりすり、ぼくの右足に擦り付けられているハーレイの足。
(そう、こんな感じ…)
 前のぼくたちのテーブルの下での戯れだって、こうだった。
 ハーレイ、キスも駄目だって言っているくせに、とっても大胆。テーブルの下で足をすりすり。
 ぼくの部屋じゃなくて庭に置かれたテーブルと椅子で、隠してくれる茂みも無いのに。
 庭の芝生を隔てた向こうに、リビングかダイニングにはパパとママもきっといる筈なのに。
 だけど、すりすり。
 ハーレイの悪戯は止まらなくって、ぼくの右足をすりすり、すりすり。



(…ハーレイの足…)
 ぼくからは絡められないけれど。
 前のぼくがよくやっていたように、触り返すことも出来ないけれど。
 それでも充分幸せだよね、って懐かしい感触に浸っていたら。酔っ払っていたら…。
「ニャー」
(えっ?)
 テーブルの下でニャーって言った?
 ハッキリ聞こえた、へんてこな声。信じられないニャーという声。
 何が、って覗き込んだ、ぼく。
 身体を傾けてテーブルの下を覗き込んだら、真ん丸な青と目が合った。
「ニャー!」
(猫だったの!?)
 ぼくの右足、すりすりしている真っ白な猫。身体を擦り付けてる猫。
 ハーレイに見せて貰った写真のミーシャにそっくり、ハーレイのお母さんが飼っていたと聞いた甘えん坊のミーシャにそっくりな猫。
 ぼくの右足に触っていたのは猫だった。ハーレイじゃなくて。
 ハーレイの足だと思っていたのに、猫がすりすり。
 ぼくはすっかり騙されていた。ハーレイなんだと、ハーレイが足で悪戯しているんだと。



「酷いよ、ハーレイ!」
 今度は別の意味で真っ赤になってしまった、ぼく。
 勘違いしていた恥ずかしさのせいで、猫のすりすりで幸せに酔ってた間抜けな自分の失敗で。
 ハーレイに当たっても仕方ないのに、声を張り上げずにはいられない。
 案の定、ハーレイは素知らぬ顔で。
「何のことだ?」
 俺がお前に何をしたと言うんだ、酷いと言われる覚えは無いがな?
「ハーレイの足だと思ったのに!」
 そうだと思ってじっとしてたのに、ニャーって言った!
 猫だったなんて、あんまりだってば!
「そのようだな。お前、すっかり勘違いをして幸せそうにしていたからなあ…」
 だから黙って見てたというのに、猫だと分かったら怒るのか、お前?
「…知ってたの?」
 ぼくがハーレイの足だと勘違いしたの、ハーレイ、知ってて見ていたわけ?
「そういうことだが? 今のお前は分かりやすいんだ、何度も言うがな」
 顔にも出ていりゃ、心も見事に零れていたさ。俺の足だと、俺が触っているんだと。
 それでバレない筈がないだろ、お前が何を考えてたのか。



 馬鹿め、って鼻で笑われた。
 ぼくの心は筒抜けなんだと、そうでなくても顔を見てれば直ぐに分かると。
 じゃあ、ハーレイのニヤニヤは…。
 ぼくに悪戯しようとしたんでなければ、あの時、ニヤニヤしてたのは…。
「ん? あれか?」
 あれはな、とハーレイがテーブルの下を指差した。真っ白な猫がいる場所を。
 猫はすりすりをやめてしまって、チョコンと座っているんだけれど。ぼくの右足の側に行儀よく座って、ぼくとハーレイとを交互に見上げているんだけれど。
「お前の後ろをこいつが通って行ったのさ。向こうの方から歩いて来てな」
 そしてこの下に入った、と。
「えーっ!」
 それじゃ、ハーレイがニヤニヤしてたの、猫が入るのを見ていたから?
 ぼくの足にすりすりするかどうかは、別にどうでも良かったの?
「そうなるなあ…。まさかお前が勘違いするとも思わないしな?」
 俺の足だと思い込むとか、それで真っ赤になっちまうとか。
 うん、黙っていたのは正解だったな、面白いお前が見られたからな。
 しかし、お前も触り返そうとしなくて正解だったぞ、猫をビックリさせちまう。
 人間の足でいきなり触られてみろ。大人しい猫なら怖がるだけだが、気の強い猫は噛み付くぞ。でなきゃ思い切り引っ掻くとかな。



 触り返さなくて良かったな、と言ってからハーレイはテーブルの下に向かって呼んだ。
「おい、ミーシャ!」
「ニャア!」
 そう返事をして、ハーレイの膝の上にピョンと乗っかった猫。
 膝の上だから、もうテーブルの下を覗かなくっても、真っ白な姿が見えるんだけれど。
「ハーレイ、その猫…。ミーシャなの?」
 返事してたよ、それにハーレイの膝に乗っかってるよ?
「さてな? 俺は適当に呼んだだけだが」
 猫の名前はあまり知らんし、ミーシャでいいかと声を掛けただけだ。
 俺には一番馴染みの名前だ、親しみをこめて呼んでやるならミーシャだろ?
 なかなかに人懐っこい猫だな、こいつは。
 もっとも、俺も動物ってヤツには好かれる方ではあるんだが…。猫も犬もな。



 公園なんかでのんびりしてたら、他の人が連れて来た犬や猫に懐かれてしまうらしいハーレイ。
 猫なら、ぼくがさっきからされてたみたいに足にすりすり。膝に乗っかることもしばしば。
 犬の方だと「遊んでくれ」って言わんばかりに尻尾をパタパタ、期待に満ちた顔なんだって。
 もちろん、ハーレイは犬に頼まれたら遊んであげる。飼い主さんから借りたボールで犬と仲良くキャッチボールとか、フリスビーを投げてあげるとか。
(前のハーレイは猫とも犬とも、全く遊んでいなかったけれど…)
 シャングリラにはどちらもいなかったから。ペットの類はナキネズミしかいなかったから。
 だけど、如何にもハーレイらしいと思ってしまうのは何故だろう?
 猫にも犬にも好かれるハーレイ、何もしなくても好かれるハーレイ。食べ物なんか全く持たずに公園のベンチに座っていたって、猫が寄って来て膝に座って、犬は遊んで貰いたがって。
 そうしてハーレイは一緒に遊ぶ。猫とは流石に無理だろうけど、犬とはボールやフリスビーで。
 なんだか、そういう姿が似合う。前のハーレイがやっているのを一度も見てはいないのに。
(ハーレイ、大きくて優しいからかな?)
 シャングリラの子供たちが懐いたように、動物だって懐くんだろうか。
 前のぼくが安心して側にいたのと同じで、ハーレイの側だと動物も安心出来るんだろうか。
 さっき来たばかりの白い猫だって、ハーレイの膝に乗っかってるし…。
(この辺りの猫じゃないんだけどな…)
 ぼくは見かけたことがないから。
 人懐っこいことは分かるけれども、それでも膝に乗っかるだなんて、ハーレイを信用してなきゃ出来ない。捕まえられてしまうってこともあるから、悪戯されることもあるから。



(今のハーレイ、ホントに動物に好かれるんだ…)
 食うか、ってケーキのスポンジを手のひらに乗っけてあげてるハーレイ。
 美味しそうに食べてる真っ白な猫。
「ハーレイ、猫にケーキ…。食べさせていいの?」
「少しくらいならな」
 人間の食い物も欲しがるからなあ、こういったペットは人間と同じつもりだからな。
 たまにはこうしたおやつもいいのさ、これが普通になったら駄目だが。
「そういうものなの?」
「ああ。食ったら身体に悪いってものさえ食べさせなきゃな」
 おふくろがミーシャを飼ってたからなあ、猫の食い物なら俺にも分かる。人間様用のケーキでもたまにはいいんだ、おふくろも食わせてやっていたしな。
 しかし、この猫…。本当にミーシャにそっくりだぞ。甘えん坊な所もそっくりだ。
「いいな、ハーレイの膝の上…」
「こいつをどけてお前が座るか?」
 そうするんなら、ミーシャには下りて貰うことにするが。
「ううん、いい…」
「お父さんたちの目があるってか?」
 俺の膝の上にお前が座っていたなら、そいつは確かに何処か変だと思われそうだが…。
 その割に、お前、盛大に無視してしまっていたがな。
 お前の足に触っているのは俺だと思って、そりゃあウットリと幸せそうに赤い顔して…。
「言わないでよ…!」
 ホントに間違えたんだから!
 ハーレイが最初にニヤニヤしちゃってたせいで、余計にハーレイかと思ったんだよ…!



 恥ずかしすぎる、ぼくの勘違い。
 当分の間はハーレイにネタにされそうだよね、って思うけれども仕方ない。
 真っ白な猫が足をすりすり、それだけのことで舞い上がってしまった馬鹿なぼくだから。自分で勝手に勘違いをして、一人で真っ赤になってたんだから。
 でも…。
(ハーレイ、猫には優しいんだから…!)
 初対面の筈の、真っ白な猫。ハーレイと初めて会った筈の猫。すっかり懐いて膝の上。
 いい子だな、ってハーレイが頭を大きな手で撫でて。
 両腕でヒョイと抱っこしてやったら、猫はハーレイの顔をペロリと舐めた。
「こら、くすぐったいぞ…!」
 ペロペロ、ペロペロ、猫が小さな舌で何度も舐めているから。
「ハーレイ、顔に生クリームでもくっついてる?」
 美味しそうにしてるよ、ハーレイの顔は食べ物じゃないのに。
「さてなあ、匂いがするかもな?」
 俺はケーキを食ってたんだし…。
 おいおい、ミーシャ!



(あっ…!)
 ハーレイの唇をペロリと舐めちゃった、猫。
 それは美味しそうに、嬉しそうにペロリと、抱っこされたままで唇をペロリと。
(ぼくでもキスが出来ないのに…!)
 あろうことか、猫に先を越された。それも普段は見かけない猫に。
 ハーレイの唇を猫がペロリと、ぼくは触れるだけのキスさえ許して貰えないのにペロリと…。
 酷い、と思わず睨んじゃったら、ハーレイがぼくの方を見て。
「ん? お前、猫にも嫉妬するのか?」
 うんと可愛い猫だからなあ、ついつい嫉妬をしちまうってか?
「だって…!」
 ハーレイの唇を舐めたよ、その猫!
 ぼくはキスさえして貰えないのに、猫がハーレイの唇を舐めてるだなんて…!
「美味そうな匂いがするってだけだと思うがな?」
 ケーキを食ってた唇なんだし、ケーキの匂いも味もするだろう。
 さっきスポンジを食わせて貰って、もっと食いたくなったってことさ。
 猫にまで嫉妬していないで、だ。
 お前も心を広く持たんといけないぞ。でないとこの先、お前は嫉妬で大変だ。
 俺と一緒に公園に行けば、犬だの猫だの、いくらでも寄って来るんだからなあ、遊ぼうとな。



(うー…)
 ハーレイとキャッチボールをしたがる犬だの、フリスビーで遊んでほしがる犬なら嫉妬しないで済むけれど。足にすりすりとか、膝に乗っかる猫にも嫉妬はしないけれども。
 今の状況はぼくにはキツくて、唇を尖らせて唸るしかない。
(いくらケーキの匂いがしていて、味が残っているって言っても…!)
 ペロペロ、ペロペロ。
 ぼくには遠い記憶しかない、ハーレイの唇を猫がペロペロ。
 温かくて優しい唇だったとしか思い出せない、あの唇を猫が独占しているだなんて…!
 でも、ハーレイは構っちゃいない。
 猫を両腕で抱いて御機嫌、ぼくにチラリと視線を寄越して。
「んー、いい子だな」
 チュッとキスまでしてくれた。ぼくにではなくて、真っ白な猫に。
 それも唇に、猫に唇というものがあるなら、その辺りに。



(酷い…!)
 ぼくには絶対にくれる気も無い、唇へのキス。猫は貰えるらしいキス。
 初対面のくせに、今日、ハーレイと出会ったばかりの通りすがりの猫のくせに。
(抱っこして貰って、おまけにキス…!)
 ハーレイに唇にキスして貰った猫も大概、腹立たしいけれど。
 もっと酷いのはキスを贈ったハーレイの方で、ぼくにはキスをくれないハーレイ。
 キスさえ貰えない恋人の前で猫とキスして御満悦なんて、いくらなんでもあんまりだ。
(嫉妬するなって言われたって、絶対、無理だから!)
 これで嫉妬しない人がいたなら、それこそお目にかかりたい。恋人を猫に盗られちゃっても嫉妬しないで、広い心で見守れる人がいるのなら。
 だけどハーレイはニヤニヤしてる。猫が現れたらしい時と同じニヤニヤ、おんなじ表情。
 こいつを追っ払ってお前が来るか、って。
 キスは無理でも抱っこくらいはしてやれるが、って。



(そういう抱っこじゃないんだよ!)
 二階のぼくの部屋ならともかく、此処は庭。外に置かれたテーブルと椅子。
 家の中にいるパパやママの視線を遮ってくれる茂みも植え込みも無くて、丸見えの芝生。こんな所で抱っこは出来ない。恋人ならではの抱っこは出来ない。
 パパとママに見られても平気な抱っこって、高い高いとか、そういうの。
 力自慢のハーレイがぼくの身体を持ち上げるだけの、小さい子供にするような抱っこ。
 ぼくはそういうのは求めていない。抱き締めてくれる抱っこでなくっちゃ意味なんか無い。
 なのに…。
「よしよし、お前は温かいなあ…」
 毛皮も実にいい手触りだ、とハーレイがギュウッと抱き締めた猫。
 ぼくの部屋だったら、ぼくが甘えている筈の胸に。ぼくが抱き締めて貰って甘える指定席に。
(猫のくせに…!)
 ハーレイとキスが出来るどころか、広い胸まで持って行かれた。ぼくの居場所まで奪われた。
 庭にフラリと現れた猫に、通りすがりの見かけない猫に。
(パパとママも見ている所でキスして、抱っこ…)
 今のぼくには出来っこない。逆立ちしたって無理な相談、どうにもならない。
(猫だってキスして貰えるのに…!)
 それも唇に。チビのままのぼくが大きく育たない限り、唇へのキスは貰えないのに。
 後から来た猫に先を越されて、ハーレイのキスを盗られてしまった。唇へのキスをアッサリと。



 負けちゃった、ってドン底の、ぼく。
 もう嫉妬するだけのエネルギーも失くして、ただガックリと項垂れてるだけ。
 それでもハーレイと猫から目を離せなくて、上目遣いで恨めし気に睨んでいたんだけれど。
「ミーシャー!」
「ミーシャ、どこー!?」
 庭の向こうから聞こえて来た声。
 通りに面した生垣の向こう、ぼくも知ってるご近所さんの声と、いつもは聞かない子供の声。
「ミーシャー!」
 猫の耳がピクンと小さく動いて、聞き耳を立ててるみたいだから。
 ハーレイは「こいつのことかな」と猫を優しく両腕で抱えて、生垣の方へ歩いて行った。
 そうして丁度通り掛かった、子供連れのおじさんを呼び止めて。
「探しておられるミーシャというのは、この猫ですか?」
「ああ、そうです。飛び出して行ってしまいましてね」
 その内に帰ってくるだろう、と言っていたんですが、戻って来なくて…。
 ご迷惑をお掛けしませんでしたか、孫の猫が。
「いいえ、お行儀のいい子でしたよ。…ミーシャ、お迎えが来て良かったな」
 帰ったら御飯を貰うんだぞ、とハーレイが生垣越しに猫を渡して、ご近所さんが抱き取った。
 それから暫く、立ち話。
 餌はケーキのスポンジを少しだけしか食べていないから、お腹が空いてる筈だとか。
 生クリームの匂いが気に入っていたから、そういう風味の餌を喜ぶ筈だとか。
 ぼくは見事に放っておかれて、またハーレイを持って行かれた。猫のミーシャとご近所さんに。
 話に混ざろうと思えば出来たけれども、エネルギーが切れていたんだもの。
 下手に混ざったら、ミーシャに嫉妬して怒ってしまって何を言い出すか分からないんだもの…。



 ハーレイがご近所さんに返したミーシャは、お孫さんと一緒に遊びに来ていた猫だった。
 真っ白だった猫の名前はホントにミーシャ。正真正銘、本物のミーシャ。
 抱っこして連れて帰られたけれど。
 ぼくが散々な目に遭ってしまった、庭でのお茶も終わったけれど。
「うー…」
 二階のぼくの部屋に戻って、夕食までの間は二人きり。
 テーブルにお茶と軽いお菓子は置いてあるけど、夕食前のこの時間にはママはお茶のおかわりを持っては来ない。だからホントにハーレイと二人、扉の向こうを気にしなくてもいいけれど。
 いつもだったら甘え放題の時間だけれども、今日はなんだか…。
「膨れるな、こら」
 相手はホントに猫だったろうが。
 お前、いつまで膨れているんだ、ミーシャはとっくに帰っちまったぞ。
「…でも、猫に負けた…」
 ハーレイのキスをミーシャが持って行っちゃったんだよ、ぼくよりも先に。
 唇へのキス、ぼくは絶対、貰えないのに…!



 ミーシャに負けた、と肩を落とすぼくにハーレイが笑う。
 最初は嬉しかったんだろ、って。
 ミーシャが家の庭に現れた時は、とっても嬉しそうにしてたじゃないか、って。
(それは間違いないんだけれど…!)
 ぼくが幸せだった理由はミーシャのすりすり、足にすりすり。
 こんな感触は何年ぶりに味わったろう、って、ハーレイの足だと思って頬を染めただけ。
 テーブルの下で大胆に触れてくる足がとても嬉しくて、幸せに酔っていただけで…。
「あれは間違えただけだから!」
 猫だと知ってたら喜んでいないし、ハーレイがニヤニヤしてたからだよ!
 だからハーレイが足で悪戯してると思って、嬉しくなってただけなんだよ…!



 ハーレイと間違えただけなんだから、って殴り掛かった。
 猫のミーシャを抱っこしてた胸に、広い胸に拳でポカポカと。
「こらこら、まだ猫に嫉妬してるのか?」
「嫉妬だってするよ、ハーレイの意地悪!」
 ぼくの勘違いだって知っていたくせに、笑って見てたし!
 それにミーシャに優しくしちゃって、ぼくなんか放って遊んでたくせに…!
 バカバカバカ、って胸を拳で何度も叩いた。
 ぼくの拳で殴ったくらいじゃダメージなんかは食らわない胸を、逞しい胸を何度も、何度も。
 意地悪だけれど大好きな恋人、猫にはうんと優しい恋人。
 ぼくにはキスしてくれなくっても、猫とはキスする酷い恋人。
 この次は顔を舐めてやろうか、それはキスとは言わないから。猫のミーシャもやっていたから。
 「ハーレイ、クリームくっついてるよ」って。
 頬っぺたをペロリと、舌でペロリと。
 だけど唇だけは、きっとガードをされちゃうんだろう。
 ホントにクリームがくっついていても、「キスは駄目だ」と許してくれないハーレイだから…。





           意地悪な恋人・了

※てっきりハーレイの悪戯なんだ、と一人でドキドキしていたブルー。嬉しくもなって。
 けれど正体は猫だったわけで、それをニヤニヤ見ていたハーレイ。意地悪すぎ…?
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(ハーレイと全然キスが出来ない…)
 未だに出来ない、とブルーはパジャマ姿で溜息をついた。お風呂上がりで、ベッドに座って。
 今日は土曜日で朝から一日一緒にいたのに、「また明日な」と帰ってしまったハーレイ。
 ハーレイと二人で過ごした間はすっかり忘れていたのだけれど。
 キスのことなど、一度も思い出さずにいたのだけれど。



(強請れば良かった…)
 暫く強請っていなかったから、「キスしてもいいよ」と、久しぶりに。
 ハーレイが禁じたキスだけれども、もしかしたら。
 そのハーレイだって人間なのだし、ふとしたはずみに気持ちが揺らぐかもしれないのに。
(恋人同士には違いないもの…)
 ブルーの背丈が足りないせいで、未だに許して貰えないキス。前の自分と同じ背丈に育つまでは駄目だとハーレイに禁止されてしまった。小さな子供にキスは早いと、自分にそういう趣味などは無いと。
 だから背丈を伸ばしたいのに、再会してから一ミリも伸びてくれない背丈。ハーレイと出会った五月三日から一ミリさえも伸びない背丈。百五十センチで止まったまま。
 それでも何度もキスを強請った。「キスしてもいいよ」と何度も誘った。
 ハーレイが釣られてくれればいいのにと、キスしてくれれば嬉しいのに、と。
 今日は誘えば良かっただろうか、キスをしようと。
 ハーレイの膝に座って、甘えて、逞しい首に腕を回して。



(でも、どうせ…)
 ハーレイが「よし」と言ったとしても。誘いに応じてくれたとしても。
 瞳を閉じて上向いていたら、「キスしてやろう」と恩着せがましく頬か額に落とされるキス。
 期待して待っても、そういうオチになるのは必至。
 現に何度か、それをやられた。ハーレイに見事に躱されてしまって、貰えないキス。
(キスには違いないんだけれど…)
 頬や額に貰えるキスも、確かにキスではあるのだけれど。
 それはブルーが欲しいキスとは全く違って、別物のキス。親愛の情を表すキス。
 前の生でもそうしたキスは貰ったけれども、恋人同士になってからも幾つも貰えたけれど。
(あれはオマケで…)
 恋人同士の本当のキスは、ああではないから。
 幾度も交わしたキスは額や頬へのキスではなかったから。
(触れるだけでのキスでもかまわないのに…)
 唇にキス。
 貰いたいのは、唇へのキス。
 もう感触さえ思い出せないほどに、遠い日に貰ったハーレイのキス。



(んーと…)
 こんな感じ、と思い出してはみるけれど。
 前のハーレイと唇を重ねた記憶。抱き締められて、顎を取られて上向かされて。
 温かな唇が触れて来た筈なのだけれど、何処かぼやけてしまった記憶。
 キスも、その先も、その先のことも。
 それは満ち足りた、幸せな時間を二人で過ごした筈なのに。恋人同士だからこそ持てる時間を、誰にも邪魔をされない時間を、数え切れないほど共にしたのに。
(…忘れちゃってる…?)
 すっかり子供になってしまって。
 十四歳の幼い身体に、心に馴染んで、今の生を生きている内に。
(……そんな……)
 思い出せない、色々なこと。
 前のハーレイと愛し合った記憶は確かにあるのに、薄れて掠れてしまった部分。
 満たされた思いだけを残して、熱い感情も激しく交わした愛の時間も今では深い靄の彼方で。
 もう漠然とした記憶しか無い。
 愛し合う時にはこうであったと、ベッドではこうして過ごしていたと。
 それでは本当に子供と同じ。年齢よりも少しませている、背伸びしている子供と同じ。
 恋の記憶を失くしてしまった。
 今も夢見て、そうなれる日が早く来ないかと待ち焦がれている本物の恋人同士で交わす愛を。



(キスだって、そう…)
 唇が触れ合う時の感覚。
 深く深く互いの唇を重ねて、それだけで終わりではなかったキス。
 けれども記憶は薄れてしまった。こうだった筈、と思い返しても実感を伴わない記憶。
(すっかり忘れてしまっちゃってる…)
 キスの記憶も、二人で交わした愛の記憶も。
(これじゃ、知識があるっていうだけ…)
 そうした知識を持っているだけの子供と何ら変わりはしない。ませた子供と変わりはしない。
(覚えてるつもりだったのに…)
 前の生で過ごした幸せな時を。恋人同士の熱い時間を。
 それなのに忘れてしまっているから。自分でも全く気付かない間に時の彼方に失くしたから。
 ハーレイのせいだ、と唇を噛んだ。
 せめてキスだけでも出来ていたなら、もっと覚えていられたろうに。
 キスを交わしたなら次はこうだと、こういう時間を恋人同士で過ごすものだと。



(ハーレイの馬鹿!)
 酷い、と恨み言を言っても始まらない。ハーレイはキスをしてはくれない。
 キスを貰えるなら頬か額に、それでおしまい。
 唇へのキスを貰いたいなら、強請るか、あるいは奪い取るか。
(ハーレイが昼寝でもしてくれたなら…)
 その隙に、キス。
 眠っているハーレイの唇にそうっと唇を重ねて、触れるだけのキス。
 たとえハーレイが即座に目覚めて叱られたとしても、キスしてみたい。あの唇に触れてみたい。
 ぼやけてしまった唇の温かさ、その柔らかさ。
 きっと触れれば一瞬で思い出すだろう。ハーレイの唇はこうだった、と。
 その唇がくれたキスのことも、唇を深く重ね合った時の甘い記憶も。



(でも、寝ないよね…)
 いくらハーレイがこの家を何度も訪ねて来ていて、家族同然の存在でも。
 父と母も一緒の夕食が珍しくなくて、仕事帰りに不意に寄っても歓待される身であっても。
(自分の家じゃないんだもの…)
 他所の家を訪れた時に昼寝をするなど、幼い子供にしか許されないこと。
 そうでなければ、泊まりがけで滞在する時くらい。ただの訪問では昼寝するなど不作法なこと。
(ハーレイ、真面目だから、「いいよ」って言っても寝るわけがないよ)
 仕事で疲れて欠伸を噛み殺しているような時でも、ハーレイは昼寝などしない。それくらいなら早めに帰って家で眠るに違いない。
 そんなハーレイが眠っている間に唇へのキスを奪うチャンスなど決して来ない。ハーレイの家に押し掛けて行って、寝込みを襲う以外には。
(だけど、飛んで行けたのは一回きりだし…)
 メギドの悪夢に怯えながら眠って、知らずに瞬間移動をした時。
 ハーレイのベッドで目覚めて驚いたけれど、あれきり飛べない、ハーレイの家。どんなに怖くて寂しい夜でも、瞬間移動で飛んでゆく代わりに自分のベッドで震えながら眠って目覚めるだけ。
 何度でも行けると思ったのに。
 意識して飛ぶことは出来ないけれども、無意識であれば何度だって、と。
 けれど来てくれない、二度目のチャンス。来ては駄目だと言われている家に入れるチャンス。
 ハーレイの寝込みを襲って唇へのキスを狙うどころか、ハーレイの家に入れない。
 あの唇に触れることは出来ず、ハーレイからもキスは貰えないまま。



(ホントにキスだけでいいんだけどな…)
 触れるだけのキスで。
 ただ唇が触れ合うだけのキスで充分、それだけで幸せになれるだろうに。
(…それも無理なの?)
 駄目なの、とハーレイの写真を眺める。
 勉強机の上に飾ったフォトフレーム。ハーレイに貰った、飴色の木で出来たお揃いの品。
 その中に自分とハーレイが居る。夏休みの最後の日に庭で写した記念写真。
 ハーレイの左腕に両腕で抱き付いて、幸せそうな自分。とびきりの笑顔をしているハーレイ。
(こんな顔のハーレイとキスが出来たら…)
 大好きでたまらないハーレイの笑顔。それを向けられて、唇が降って来てくれたなら。
 優しく顎を持ち上げられて、唇を重ねて貰えたなら…。



(前のハーレイなら、こんな笑顔で…)
 何度もキスをくれていたのに。青の間でも、通路でいきなり抱き付いた時も。
 そう、通路でもキスをしていた。周りに誰もいない時を狙って、瞬間移動でハーレイを追って。濃い緑色のマントに覆われた背中に抱き付き、驚かせた後はこういう笑顔と唇へのキス。
(ホントに何度もキスをしたのに…)
 同じ笑顔のハーレイだけれど、今では全く貰えないキス。それが悲しくて、寂しくて。
(ハーレイの笑顔は変わらないのに…)
 同じなのに、と写真をまじまじと見詰める内に。
 笑顔のハーレイとキスしたくなった。ハーレイは写真の中だけれども。



(ちょっとだけ…)
 写真にキスが出来ないものか、とフォトフレームを手にしてみた。
 ガラス越しに顔を近付けてゆけば、もれなく近付く自分の肖像。ハーレイの隣に居る自分。
(ぼくにまでキスをしちゃいそうだよ…)
 うっかり唇がズレたなら。
 おまけに写真は小さいのだからハーレイの唇だけを狙えはしない。自分の唇でキスをしたなら、キスの対象は唇どころか顔ごと全部。ハーレイの顔中にベッタリとキス。
 でも…。
(しないよりはマシ?)
 ハーレイにキス…、とフォトフレームに息がかかるほど唇を近付けた所で。



「ブルー、起きてるの?」
 母の呼び声で飛び上がった。扉越しではあったけれども、ドキリと跳ね上がってしまった心臓。
 慌ててフォトフレームを机に戻すと、顔を扉の方へと向けた。
「な、なに!?」
 裏返りそうな声を懸命に抑え、訊き返せば。
「ごめんなさい、ビックリさせちゃったかしら?」
 母が扉の向こうで詫びた。明かりが点いていたから、点けっぱなしで眠ったのかと思ったと。
「ううん、起きてる…!」
「それならいいけど…。湯冷めしないように気を付けてね?」
「はーい!」
 大丈夫、と返事をすると、母の足音は寝室の方へと消えて行ったけれど。
(び、びっくりした…)
 絶妙と言うべきか、最悪と言うか。タイミングの良さだか悪さだかに、まだ心臓がドキドキ音を立てている。
 キスをしようとしていた所を母に見咎められたようで。
 「ほら見ろ、キスは駄目だと言ったろ」とハーレイに叱られてしまったようで。



(…写真にだって、キスしちゃ駄目なの?)
 鼓動が少し落ち着いてくると、やはり写真に未練が残る。
 したかったキス。
 ハーレイの唇を目指したけれども、母の声で阻まれてしまったキス。
(…ハーレイが駄目って怒ったのかな?)
 ならば、とフォトフレームを手にして、写真に頬を擦り寄せた。ハーレイのキスは、頬か額ならいいのだから。頬と額には今でもキスを貰えるのだから。
 頬に触れた感触はガラスだけれども、その向こうにはハーレイの笑顔。笑顔のハーレイ。
(ちょっと幸せ…)
 ハーレイにキスを貰えたようで。
 「おやすみのキスだ」と頬にキスして貰えたようで。
 今の生では貰えてもいない、おやすみのキス。
 ハーレイと一緒には眠れないから。ベッドに入るような時間にハーレイは居てはくれないから。



(おやすみのキスを貰っちゃったし…)
 離れ難くなったフォトフレーム。飴色の木枠の優しい手触り、それに温もり。
 このフォトフレームと一緒に眠ってみたい、と思ったけれど。
 枕の隣に置いて眠れば素敵な夢が見られるかも、とフォトフレームを抱き締めてベッドの方へと目を遣ったけれど。
(…ハーレイと一緒にベッドで寝るの!?)
 恋人の写真を自分のベッドに。
 前の生では幾度となく愛を交わしたハーレイ。そのハーレイの写真をベッドに。
 いくら記憶が薄れていたって、それはちょっぴり恥ずかしい。
 ベッドは愛を交わす所で、ただ眠るだけの場所ではなくて。
(でも…)
 離れたくないフォトフレーム。その中の大好きな笑顔のハーレイ。
 記憶は薄れてしまったけれども、今の自分はパジャマ姿。この格好では何も出来ない。せいぜい添い寝で、それならば寄り添って眠るだけのことで。
(ぬいぐるみ感覚…)
 幼い頃にはお気に入りのぬいぐるみと眠ったものだし、フォトフレームだって似たようなもの。
 ちょっとくらい、と抱えてベッドに近付いたけれど、やはり先に立つ恥ずかしさ。
(うー…)
 ベッドは何をする場所なのかは覚えているから。
 具体的な記憶は霞んでいたって、まるで知らないわけではないから。
 これは無理だ、と耳の先まで真っ赤に染め上げてベッドに潜った。
 フォトフレームに添い寝して貰うことは諦めて。
 ハーレイの笑顔に「おやすみなさい」と挨拶だけして、上掛けをすっぽり被ってしまって。



 そして翌日、日曜日だからハーレイがやって来たのだけれど。
 午前のお茶の時間に間に合うように、と現れたハーレイは、いつもの椅子に腰を下ろして紅茶のカップを傾けながら勉強机の方を眺めて。
「おっ?」
 其処に何かを見付けたような声を上げるから。
「どうしたの?」
 ハーレイ、あそこに何かあった?
「いや、机の上に飾ってある写真…」
「あれがどうかした?」
 平静を装って尋ねたものの、勉強机の上には例のフォトフレーム。昨夜、ハーレイの写真の唇にキスしようとして母に阻まれ、添い寝したいと考えたものの果たせなかったフォトフレーム。
(えーっと…)
 たちまち思い出す昨夜の出来事。
 鎮まってくれと願っているのに、真っ赤に染まってしまった頬。



「ふん、図星か」
 ハーレイがフフンと鼻で笑った。
「えっ?」
 図星って…。なに?
 何のことなの、とブルーは早鐘のように打つ心臓を抱えて、普通に振る舞おうとしたけれど。
 努力も空しく、ハーレイの喉がクックッと鳴って。
「よからぬ思念を感じてな」
 あれはお前のだろ、フォトフレームの俺に絡み付くように…。
「嘘…!」
 ぼくはなんにもしてやしないよ、ちょっと写真を見てただけだよ…!
「どうなんだかな?」
 それにしては妙に強い気がするが…。
 俺は嘘なんかを言いはしないぞ、本当のことを言っているだけだ。
 フォトフレームの辺りにお前の心が零れてる。
 俺にキスしようか、どうしようかと。
 一緒に眠ってみたいけれども、そいつは流石に恥ずかしいとかな。
「そ、そんな…!」
 ハーレイ、ぼくの心を読んだ!?
 それで面白くてからかっているの、ねえ、ハーレイ?
「いや? 俺はあくまで零れた心を拾っただけだが」
 あの周りにたっぷりと転がって落ちているんだ、よほど未練があったらしいな?
 もっとも、俺にしか分からんだろうが…。
 写真の中でも俺に向けられた感情だしなあ、ついでにお前の心は拾いやすいんだ。
 どうしたわけだか、今のお前が零した心は俺には拾い放題だってな。



 だから堂々としていられないようなことはするなよ、とハーレイはブルーに釘を刺した。
 フォトフレームにキスをするとか、添い寝だとか。
 母の呼び声で飛び上がった事件までもがすっかり筒抜け、穴があったら入りたいような気持ちのブルーだけれど。恥ずかしくて顔も真っ赤だけれども、負けてなるものかと抗議した。
「でも、ハーレイがしてくれないから…!」
 キスも添い寝もしてくれないから、写真くらいならいいかと思って…!
 写真だったらハーレイは笑顔で写っているだけだし、ぼくを叱りもしないから…!
「それで写真にキスで添い寝か?」
 お母さんの声で心臓が止まるほどビックリしてたり、たかが添い寝も出来なかったり。
 要するに、お前には早すぎなんだ、どちらもな。
 キスも添い寝も、もっと大きく育たんことには話にならん。
 今のお前には「おやすみ」のキスはお父さんかお母さんのが似合いで、添い寝も同じだ。いや、添い寝するなら、ぬいぐるみか…。
 そのくらいで丁度いいってものだろ、お前はまだまだ子供だからな?



 チビのくせに、とハーレイの褐色の指がブルーの額をピンと弾いた。
 「痛いよ!」とブルーが叫んだ途端に、「そうか?」と椅子から立ったハーレイ。向かい合って挟んでいたテーブルを回り込み、ブルーの額にキスを落とすと、元の椅子へと戻って行って。
「もう痛くないだろ、ちゃんとキスしてやったしな?」
 小さな子供によくやるアレだ。「痛いの、痛いの、飛んで行け」とな。
「ぼくって、そういうレベルなわけ!?」
「当たり前だろ、チビだろうが」
 チビへのキスは頬と額だけで充分だ。
 それ以外の何処にキスしろと言うんだ、手の甲へのキスだってチビには要らん。お前がどんなに背伸びしたってチビはチビだし、キスをする場所もチビにピッタリの頬と額で充分なんだ。
「だけど記憶が薄れてしまうよ!」
 ハーレイのキスとか、キスの先とか…。
 気が付いたんだよ、ぼくって記憶が薄れてるんだよ!
 思い出せない部分が多くて、前のハーレイと一緒に過ごした記憶が曖昧になっているんだよ…!
「ほほう…? それで困っているのか、お前?」
 俺と過ごした記憶が曖昧だと言い出す割には、昔の記憶もしっかり残っているようだが?
 前のお前が持っていた記憶。
 俺との記憶も、大騒ぎしなきゃいけないほどには消えてはいないと思うがな?
 早い話が、お前がよく言う本物の恋人同士とやら。
 それに関する記憶だけが薄れてしまってるんだろ、違うのか…?
「そうだけど…。そうなんだけど…!」
 でも、その記憶だって大切なんだよ、ハーレイとの大事な思い出だもの!
 本物の恋人同士だったんだよ、って幸せになれる、前のぼくの思い出だったのに…!



 それが薄れるだなんて悲しすぎる、とブルーは切々と訴えたけれど。
 記憶を留めておくためにキスが欲しいと言ったけれども、ハーレイの方はそうではなくて。
「お前、たったの十四歳だろ?」
 どう考えたって早すぎるってな、そういう思い出を噛み締めるにはな。
 チビのお前が後生大事に抱えているには向かない記憶で、だから薄れてしまうんだ。
 焦って必死に繋ぎ止めなくても、いずれ自然に戻ってくるさ。
 お前の背丈が前のお前と同じに伸びたら、そういう背丈に見合う中身になったなら。それまでは諦めて放っておくしかないだろうなあ、そういった記憶。
「酷いよ、このままにしておけって言うの?」
 思い出そうとしても駄目なのに、霞がかかったみたいに何処かがぼやけているのに…!
「忘れている方が幸せだろうと思うがな?」
 現に記憶が薄れた今でも、お前、キスばかり強請っているし…。
 もしも記憶がハッキリしてたら、いったい何を言い出したやら…。
 そうなっていても、俺は相手にしてやらん。教師と生徒じゃ、色々と問題がありすぎるからな。
 お前の記憶に感謝しておけ、ぼやけちまった記憶にな。
 その方が今のお前に似合いだ、お父さんやお母さんと一緒に暮らすチビには。



 チビはチビらしく生きるもんだ、と言われたブルーは泣きたい気持ちになったけれども。
 薄れた記憶を取り戻すどころか、忘れておけと突き放されてしまったけれど。
(でも、いつかは…)
 今は駄目でも、いつか大きくなったなら。
 前の自分と変わらない背丈に成長したなら、事情は変わってくれるのだろう。
 ハーレイはキスを許してくれるし、そうすれば薄れてしまった記憶も取り戻せるのに違いない。
 前の生で交わしたキスも、その先も、ハーレイとの甘い睦言も。
 今ではすっかりぼやけてしまって曖昧だけども、キスを交わして、それから、それから…。
 恋人同士の時を持つなら、行き先はベッド。
 何をするかは覚えているから、早くハーレイとそういう時を…、と願ったけれど。
 その心までが零れていたのか、また指先でピンと額を弾かれた。
 チビのくせにと、そういったことを思い描くには早すぎて全く話にならん、と。



 弾かれた額を押さえて大袈裟に痛がっていたら、「こっちに来い」と手招きされて。
 ハーレイはブルーを膝に座らせ、「今はこれだけだ」とキスを降らせた。
 まずは自分が弾いた額に、その次は頬に。
「チビのお前には、こういうキスしかしてやれないしな?」
 それでも無いよりマシだろうが。
 俺に会えなきゃ、お前にキスをしてくれる人はお父さんとお母さんしかいないんだぞ?
 後は友達がふざけてってトコか、少なくとも恋人からってキスは無いなあ…。
 頬と額でも恋人からのキスが貰える分だけ、お前は幸せだと思うんだがな?
 それもだ、ずうっと昔からの恋人がキスをくれるんだぞ?
 お前の年なら、まだ恋人に出会うどころか、初恋さえもしていないのが普通じゃないか?
「…そうなのかも…」
 恋人がいるって子の話なんか、一回も聞いたこと無いし…。
 今じゃ人間はみんなミュウだし、恋をするにものんびりだよね。
 上の学校に行く頃にやっと、そういう話が出てくるのかも…。
 ぼくなんか、うんと早い方だね、上の学校、行かずに結婚したいんだものね…。



 キスは駄目だと、頬と額にしかしてはやれないと、改めて言われたブルーだけれど。
 前のハーレイと交わしたキスの記憶も曖昧になってしまったけれど。
(でも、ハーレイはキスしてくれるんだしね?)
 チビにはこうだ、と頬と額へのキスであっても、恋人のキス。
 恋人が自分にくれるキス。
 これでもいいか、と思ってしまう。
 チビ扱いは癪だけれども、今の自分はこれで幸せだと心が温かくほどけてゆくから。
 頬に、額に落とされるキスに、幸せな気持ちが膨らむから。
 チビ扱いでも、自分はハーレイの恋人なのだと。
 前の生での愛の記憶は薄れたけれども、恋人の腕は今もあるから。
 こうして自分を抱き締めていてくれるから…。



(それでもやっぱり、チビはチビ…)
 ベッドに一緒に持ってゆくのは恥ずかしいから、と持ち込めなかったフォトフレーム。
 好きでたまらないハーレイの写真と、添い寝さえ出来なかったほどの小心者。
 もっと堂々と写真を抱き締め、恥ずかしがらずに眠れる日まではチビなのだろう。
 頬を真っ赤に染めたりもせずに、胸元に抱いて眠れるようになるまでは。
(…だって、いつかは本物のハーレイと一緒に眠るんだものね)
 ぼやけた記憶の向こう側でも、何をするかは分かるから。
 写真くらいで頬を染めていては、そんなことなど出来よう筈もないのだから。
(ハーレイが言う通り、ぼくってチビだ…)
 どんなに強請って誘ってみたって、頬と額へのキスが似合いの小さな子供。
 チビ扱いされて、唇へのキスを断られてしまう小さな子供。
 いつかハーレイの写真にキスを落として、添い寝出来る日が来るまでは。
 恋人の腕が無い独りの夜には、そう出来るようになるまでは。



(ねえ、ハーレイ…。それって、いつ?)
 いつのことなの、と心の中で呟いた声は確かに届いている筈なのに。
 ハーレイは「ん?」と微笑んで頬にキスをくれただけ。
 唇で優しく触れただけ。
(ハーレイってば…!)
 零れた心は拾いやすい、と言っていたくせに無視する恋人。
 そうして、また一つ、優しいキス。
 今度は額に、温かく触れて…。




            貰えないキス・了

※ハーレイの写真にキスをすることも、ベッドに持ち込むことも出来なかったブルー。
 まだまだ子供の証拠らしいです、一人前の恋人気取りでも。十四歳では仕方ないですね。
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(あ…!)
 いいもの見付けた、と屈み込んで拾い上げた、ぼく。
 学校から帰って門扉をくぐって入った庭で。まだ玄関まで着かない内に。
(何の鳥だろ?)
 ぼくの右手に、真っ直ぐに伸びた長い羽根。十センチくらいはありそうな羽根。
 濃い灰色をしているから…。
(鳩かな?)
 キジバトか、公園にいるような鳩か。きっと、その辺。
 庭に来た鳥の落とし物。忘れ物じゃなくって、落とし物。多分、自然に抜け落ちた羽根。
(小さい羽根なら、たまにあるけど…)
 ふんわりとした小さな羽根。柔らかそうな羽根は羽繕いして落としてゆくのか、けっこう庭には落ちているけど。
(今日のは大きい…)
 ふわふわじゃなくて、シュッとした羽根。長くて頑丈そうな羽根。
 こんなに立派な羽根は滅多に無いから、ドキドキしちゃう。
 小さい頃にも拾って宝物にしたりしていたけれども、今のぼくが見ると…。



(ハーレイの羽根ペンみたいだよね)
 その羽根ペンはプレゼントしてから一度も目にしていないんだけど。
 ハーレイの家へ行ってしまって、そのハーレイの家にぼくは行くことが出来ないから。
 誕生日のプレゼントにぼくが少しだけ買った羽根ペン、お小遣いの一ヶ月分だけを払って買った羽根ペン。残りのお金はハーレイが出した。これじゃ我儘を言ったり出来ない。
(持って来て見せて、って言えないもんね…)
 だからハーレイの誕生日に見たのが最後。その前に見た時は百貨店の陳列ケースに入ってた。
 前のハーレイが持っていたのと良く似た羽根ペン、白い羽根ペン。
 あれっきり会ってはいないけれども、忘れやしない。
 羽根ペンと言えば、こんな羽根。ぼくが拾ったような羽根。
 あっちはもっと大きいけれど。十センチどころじゃないんだけれど。
(でも、そっくり!)
 羽根の感じが。
 ぼくが拾ったのは小さい上に灰色だけれど、羽根ペンの羽根に似てるんだもの。



 ちょっぴり羽根ペン気分だよね、って嬉しくなって家に持って入った。
 羽根は洗ったら駄目になるから、手を洗ってウガイする間は洗面所の棚の上に乗っけた。
(消毒とかって…。要るのかな?)
 どうだろう、って思ったけれども、何度も触ってみたいんだったら、やっぱり消毒?
 少し考えてから、殺菌用のスプレーがあったのを思い出した。洗面所の棚にも置いてあったし、説明を読んでからシュッとひと吹き、殺菌完了。もう口に入れたって大丈夫。
(うん、羽根だって傷んでないしね)
 ウキウキと二階の部屋に持って上がって、勉強机の真ん中に置いた。ぼくが拾った大切な羽根。
 それから制服を脱いで着替えて、階段を下りてダイニングでおやつ。
(ふふっ、羽根ペンみたいな羽根…)
 素敵なものを拾ってしまった、とママが焼いたケーキを食べる間も、心は羽根ペン。
 羽根ペンと言えば前のハーレイで、今のハーレイも持っているから。
 トレードマークの一つみたいなものなんだから、と心はハーレイへ、羽根ペンへと飛ぶ。
 ぼくの家の庭に落っこちてた羽根、ホントに羽根ペンみたいだったよ、と。
 ハーレイが持ってる羽根ペンもああいう羽根なんだよ、と。



 おやつを食べ終えて、キッチンのママにカップやケーキのお皿を返して。
 部屋に戻って、勉強机の前に座って羽根を眺めた。今度はじっくり、うんとゆっくり。
(ホントに羽根ペンに似てるんだけど…)
 色とサイズが違うだけで、と見惚れたけれども、拾った羽根には問題が一つ。
 羽根ペンの羽根にそっくりだけれど、似てるってだけで。
(小さすぎ…)
 いつも落ちてる羽根より立派で大きな羽根でも、十センチくらいの羽根だから。ハーレイが使う羽根ペンみたいに大きな羽根ではないんだから。
(これじゃ、ペン先…)
 とてもくっつけられそうにない。
 ハーレイの羽根ペンだって、ペン先がくっつくようにと何か細工はあるだろうけれど。先っぽを補強して太くするとか、そうした細工があるんだろうけど、この羽根では無理。
(太くするにも限度があるよね)
 この倍くらいは太くなくっちゃ駄目だろう。羽根の芯と言うか、鳥の身体に生えてた部分。
(ハーレイの羽根ペン、太い芯に何か巻いてるのかな?)
 糸とか、でなけりゃ薄い金属の板だとか。そうやって太さと強さを増やして、其処にペン先。
 羽根ペンの仕組みはきっと、そんなもの。



(だけど羽根ペン…)
 うんとレトロな文具の羽根ペン。
 前のハーレイの頃にもレトロだったけど、つまりは歴史があるってこと。SD体制よりもずっと昔から人間は羽根ペンを使ってたんだし、もしかしたら。
(ペン先の方が後から来たかも…!)
 最初は尖った鳥の羽根の先で書いていたのかも、いろんな文字を。
 そう思って見てたら、どうやら使えそうな感じがしてくる鳥の羽根。尖った先っぽで書けそうな文字。インクに浸してやったなら…。
(美術の授業でガラスペンとか使ったしね?)
 尖っているだけのガラスのペン。鳥の羽根でも充分、いけそう。
(それに羽根の中、空洞の筈…)
 先を削れば、空洞はインクを吸い上げるようになるかもしれない。そしたら羽根は立派なペン。いちいちインクに浸さなくても、何文字か一気に書けてしまうペン。
(羽根ペンの始まり、そういうのかな?)
 だとしたら、ぼくも羽根ペンを持てる。
 庭に落ちてた鳥の羽根だけど。ハーレイのよりもずっと小さいけれど…。



 考え始めたら、もう止まらない。羽根ペンになるか試してみたい。
 たった一本だけしか無いから、先を削るのは駄目だけど。削り過ぎたり、削り損なって台無しにしたら悲しいから。
 でも、羽根ペンを作るアイデア、思い付いたら実行せずにはいられないから。
(ちょっとだけ…)
 削ったりしないで使ってみよう。
鳥の羽根の先っぽ、そのまんま。
 羽根ペンの始まりはそういうものかも、って、一度試してみることにした。
(ぼくの羽根ペン…)
 庭で拾った鳥の羽根。十センチくらいの灰色の羽根。
 美術の授業で使ったインクが残っていたから、先っぽにつけてみたけれど…。
(うーん…)
 白い紙に文字を書こうとしたのに、引っ掛かるだけで書けない文字。ここでカーブ、と思っても紙にカリッと引っ掛かっちゃって、ヘンテコな文字になっちゃった。
 なんだか悪戯書きみたい。でなければペンの試し書き。
 ぼくが書きたい文字は書けなくて、下手くそな線ばかり増える羽根ペン。
 本物の羽根ペンじゃないんだけれど。
 庭に来た鳥が落っことして行った、羽根ペンに似ている羽根なんだけれど…。



(やっぱりペン先…)
 ハーレイにプレゼントした羽根ペンの箱には替えのペン先が幾つもついてた。いろんなタイプのペン先だったし、書きたい文字の種類に合わせて取り替えるようになっているんだろう。
 そのペン先。あれが必要なんだと思う。
 最初からセットされていた基本のヤツでいいから、滑りを良くしてくれるペン先。
 これにはくっつかないけれど。
 ぼくが持ってる小さな羽根では、ペン先なんかは付けられないけど。
(もっと大きな羽根でないと…)
 ペン先をくっつけられるほどに丈夫な羽根。補強して太さを足してやったらペン先が付く羽根。
 ぼくの手の中の羽根とは比べ物にならない大きさがなくちゃ、ペン先はとてもくっつかない。



(ハーレイの羽根ペン、何の鳥だろ?)
 あの羽根ペンはどんな鳥の羽根で出来ていたんだろう?
 真っ白なんだし、白鳥なのかな?
 それともガチョウやアヒルだろうか、どっちも白いし、白鳥よりかは身近な鳥。
(白鳥、自然のだと渡り鳥だしね…)
 公園とかにいる白鳥なら、一年中そこにいるけれど。大自然の中で生きている白鳥は渡りをする鳥、ぼくが住んでいる地域では冬にならないと来ない。白鳥が来たら冬の始まり、冬の使者。
 まだ秋なんだから飛んで来ないし、渡って来たって水辺の鳥で。
(大きな池とか、湖だとか…)
 そういう所に行かないとお目にかかれない。この辺りでは餌もついばんでいない。
 運が良ければ渡りの時に家の上を飛ぶかもしれないけれども、それ以外は飛んでいそうもない。飛んでいなければ羽根なんか落として行ってはくれない。
(ガチョウもアヒルも…)
 ぼくの家の近所では飼われていない。白鳥と同じで公園の鳥。でなければ幼稚園とかの鳥小屋。
 そういう所じゃ、羽根ペンになりそうな立派な羽根は見付けた人が拾っちゃうだろう。誰だって拾いたくなるサイズの白くて見事な羽根なんだから。



(羽根ペン、高いし、ぼくのは買えない…)
 とんでもない値段だった、ハーレイにプレゼントした羽根ペン。ぼくの予算じゃ、一部だけしか買えなかった羽根ペン。
 あんな羽根ペンが欲しいけれども、買えやしないから考えてさえもいなかった。
 其処へ拾った灰色の羽根。羽根ペンのミニサイズみたいな羽根。
(ペン先だってくっつかないし、字も上手には書けないし…)
 見かけだけは一人前なのに。
 幼稚園くらいの子供が持ったら、充分に羽根ペンに見えるのに。
 だけど使えない、灰色の羽根。役に立たない小さな羽根。
 チビのぼくにはこの程度、って羽根を眺めて大きな溜息を一つ零した。
(ハーレイとお揃い、欲しいんだけど…)
 お揃いの文具、お揃いの羽根ペン。
 庭で拾った一本の羽根から、むくむくと夢が広がるけれど。
 実際の所は羽根ペンは高くて、子供のぼくには手が届かない。欲しくったって予算が足りない。



 チビだとお揃いはこのくらいかな、って羽根のサイズを見ていたら。
 ハーレイの羽根ペンがあの大きさなら、ぼくにはこういう羽根なのかな、って思っていたら。
 お客さんだよ、ってチャイムの音。窓に駆け寄ったら、庭の向こうで手を振るハーレイ。
 ぼくがこの羽根を拾って来た庭。門扉を開けに出掛けたママと一緒にハーレイが庭を歩いてる。もう羽根は落ちていないんだろう、二人とも屈み込まないから。
 そうしてハーレイが部屋に来たから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「ねえ、ハーレイ」
「うん?」
「ハーレイの羽根ペン、何の鳥の羽根?」
「何の鳥って…。あの羽根ペンがどうかしたのか?」
 どうした、今頃。あれを買った時には何の鳥かなんて訊かなかったくせに。
「えーっと…。ぼくの、こういうサイズなんだよ」
 おんなじように見える羽根でも、ハーレイの羽根ペンよりも小さいから…。
 ハーレイの羽根ペンになっている羽根は、どういう鳥の羽根なのかな、って。



 こんなのだよ、って勉強机から羽根を取って来て見せてみた。
 字を書こうとしたインクは綺麗に拭いてあるから、今はごくごく普通の羽根。
 ハーレイは灰色の羽根を見るなり、こう言った。
「こりゃあ、鳩だな」
「やっぱり?」
 ぼくも鳩かなって思ったんだよ、庭で拾った羽根だから。小鳥の羽根より大きいしね。
 これよりも、もっと大きな羽根が欲しいんだけど…。
「欲しいって…。庭で拾えそうな大きな羽根なら、カラスくらいなモンじゃないか?」
「カラス!?」
 そりゃあ、カラスは大きいけれど…。
 鳩よりもずっと大きいけれども、カラスの羽根なんか欲しくはないよ。



 あんな黒いの、って文句をつけた。
 それにあんまり可愛くないよ、って。
「カラスなあ…。昔は不吉な鳥だったしなあ…」
「そうなの?」
「この辺りにあった日本でもそうだし、他の国でも悪魔の使いって言われていたりな」
 もっとも、日本じゃ神様のお使いでもあったそうだが。
 太陽の中にもカラスがいるって言われたほどだし、不吉な鳥だと決まったわけでもないんだが。
 それに頭もいいそうだしな。
 クルミの実を空から地面に落として、殻を割ったりするらしいぞ。
「へえ…!」
 地面でクルミの殻を割るなんて、確かに頭は良さそうだよね。
 他の鳥なら人間がクルミを割ってくれるの、じーっと待ってるだけだろうしね…。



 ハーレイは人間に飼われたカラスの話も教えてくれた。
 巣から落っこちたヒナを人間が拾って、飼っていたキジと一緒に世話をした話。
 キジのお母さんに育てられたカラスは「カーカー」と鳴く代わりに「ケーン」と鳴いた、って。飼っていた人が出掛ける時には車を追い掛けて「ケーン」と鳴きながら飛んでいた、って。
 そんな話を聞いてしまうと、カラスも可愛く思えるけれど。
 飼っていた人は可愛がったろうな、と思うけれども、それでもカラスは真っ黒な鳥。ハーレイの羽根ペンの羽根みたいに白い鳥じゃない。大きくても白い羽根は無い。
 だからカラスの羽根は要らない。
 もっと綺麗な羽根がいいよ、って言ったんだけど。
 ハーレイの羽根ペンみたいな羽根が欲しいよ、って言ったんだけれど。



「ああいう羽根なあ…。庭に落ちては来ないんじゃないか?」
 今の俺のペンにくっついてる羽根はガチョウらしいな、暇な時に調べてみたんだが…。製造元の店の説明を読んだ具合じゃガチョウのようだ。
 前の俺のは白鳥だったかもしれないが…。あれの箱には何の説明も無かったからな。
 白鳥もガチョウも、そうそう飛んではいないだろう。白鳥は冬しか来ない鳥だし、この近くには白鳥がねぐらにしそうな場所が無いしな。ガチョウの方は飛ぶのが得意じゃない鳥なんだ。公園の外まで飛びやしないさ、帰りが大変になっちまうからな。
「ガチョウか白鳥…。どっちも大きな鳥だよね」
 カラスよりもずっと大きいよ。鳥が大きいから、羽根ペンの羽根も大きいの?
 いくらカラスの羽根が大きくったって、羽根ペンの羽根よりは小さいような気もするし…。
「鳥自体が大きいというのもあるが…。羽根が生えてる部分だな」
 そいつが大事なポイントってヤツだ、羽根ペン用の羽根を手に入れるにはな。
「何処の羽根なの?」
「風切り羽根という名前で、だ…」
 名前からして分からないか?
 風を切るのは翼だろうが、風切り羽根は鳥の翼に生えている羽根の名前なのさ。



 羽根ペンの材料になる羽根、風切り羽根。鳥の翼に生えている羽根。
 鳥の羽根では一番大きな羽根らしいけれど、取ったら飛べなくなっちゃうって。
 ぼくはビックリして、庭で拾った灰色の羽根を指差した。
「尻尾の羽根じゃなかったの!?」
「鳩の尻尾、そんなに大きいか?」
 いいか、鳩だぞ。よくよく姿を思い浮かべてみろ。
「んーと…」
 どうだったかな、と鳩の姿とサイズを思い出してみて、羽根を見詰めて。
 尻尾の羽根はそこそこ目立つけれども、こんなに大きな羽根を束ねた感じじゃない。それじゃ、この羽根は尻尾じゃなくって風切り羽根?
 でも…。
「でも、ハーレイ…。鳩は庭に落ちていなかったよ?」
 風切り羽根がなくなっちゃったら、鳥は飛べなくなるんでしょ?
 これを落っことした鳩、庭に落ちていそうな気がするけれど…。でも、鳩なんて…。
「生き物だからな、たまには抜けるさ」
 風切り羽根だって生え変わりもする。一生、おんなじ羽根ってわけではないからな。
 そいつを落として飛んでった鳩は、一本くらいは足りなくっても平気なわけだ。他の羽根で充分飛んで行けるのさ、失くしたことにも多分、気付いちゃいないだろうな。



 大丈夫だ、ってハーレイは頼もしい言葉をくれたけれども。
 鳩の心配は無くなったけども、今度はハーレイの羽根ペンが心配になってきた。
 取られちゃったら飛べなくなるという風切り羽根。それを羽根ペン用にと取られた鳥は…。
「ハーレイ、羽根ペンの鳥はどうなっちゃったの!?」
 あの羽根ペンにするために羽根を取られた鳥はやっぱり飛べないの?
「そりゃまあ、普通は飛べないだろう」
 羽根ペンを作ってる方は商売だしなあ、一羽の鳥から一本だけでは採算が取れん。同じ取るなら纏めてゴッソリ引っこ抜かないと…。もちろん、鳥はもう飛べないな。
「じゃ、じゃあ…。ハーレイの羽根ペンになった鳥…」
 羽根ペン用に羽根を抜かれちゃった鳥は、飛べなくなったから食べられちゃった?
 それとも何処かで飼われているの?
 公園とかなら、飛べない鳥でも大切に飼って貰えるものね。
「どっちだろうなあ、今の時代じゃ飼われているかもしれないが…」
 前の俺の頃だとアッサリと肉か?
 飛べない鳥なんかの世話をするより、肉にした方が手間要らずだしな。
「えーっ!」
 肉にされちゃったの、前のハーレイの羽根ペン用に羽根をくれた鳥。
 今のハーレイの羽根ペンに使ってある羽根の持ち主の鳥も、お肉にされたかもしれないんだ…?



 羽根ペンの羽根は風切り羽根。取られちゃった鳥は飛べなくなる羽根。
 飛べない鳥には用が無いから、と鳥は食べられてしまった可能性大。
(…お肉にされてしまったなんて…)
 知らなかった。羽根ペンがそんなに可哀相な鳥の羽根を使ったものだったなんて。
 羽根ペン用に羽根を提供した鳥は、大切な羽根を引っこ抜かれて、挙句にお肉になるなんて。
「そっか、羽根ペン…。鳥の命と引き換えだったら、高いの、当たり前だよね…」
 加工賃かと思っていたけど、鳥の命の代金なんだ…。
「おいおい、物騒なことを言うなよ」
 たかが羽根ペンだぞ、それを鳥の命と引き換えだとか、鳥の命の代金だとか。
「だけど、羽根ペン用の羽根を取られたら飛べないって…」
 そういう鳥はお肉なんでしょ、飛べない鳥なんかを飼っておくより。
「前の俺たちの時代と違って、今なら飼ってることだってあるさ」
 効率優先って時代じゃないしな、そうした鳥でものんびりと飼って貰える世界だ。
 ただし、普通に肉にもなるだろ、ガチョウなんかは。
 羽根布団だってガチョウの羽根だぞ、風切り羽根だってもののついでと抜いておくさ。
「そうだけど…」
 可哀相じゃない、羽根ペン用に羽根を抜かれてお肉だなんて。
「お前、鶏肉、食べるだろうが。それと変わらん」
 ガチョウか鶏かっていうだけの違いだ、どっちも鳥には違いないんだ。
 鶏の羽根は羽根ペンに向かんが、ガチョウの羽根は向いている。だから羽根ペンになるだけだ。有効活用されてるんだな、捨てる代わりに羽根ペンにな。



「でも…。ガチョウをお肉にするなんて…」
 公園のガチョウ、可愛いよ?
 小さい頃には追い掛けられちゃって、怖くて泣いちゃったこともあるけど…。そんな頃でも餌をやりたくてパパやママに買って貰ったよ。ガチョウの餌。
「ああ、あれなあ…。公園に行くと売ってるな、餌」
 お前、追い掛けられて泣いていたのか、公園のガチョウ。今でもチビがよく泣いてるが…。
 それでも餌をやりたがるんだな、チビどもは。
「だって、可愛いもの。鳩と同じで」
 餌をあげたら食べに来るしね。鳩の餌も買って貰ってたよ、ぼく。
「その鳩だって、人間様は食うんだが?」
「嘘!」
「知らなかったか、食うんだ、あれも」
 もちろん公園の鳩じゃなくって、食うために育てた鳩ではあるが…。
 種類としては公園の鳩と全く同じだ、鳩の料理は地域によっては名物だがな?



「…鳩もお肉になっちゃうんだ…」
 酷い、とショックを受けちゃった、ぼく。
 鳩もガチョウも可愛いのに。小さかった頃のぼくの、大好きな友達だったのに。
(…ガチョウはちょっぴり怖かった時もあったけど…。だけど、友達…)
 公園に行ったら餌をあげてた。パパやママに強請って餌を何度も買って貰った。小さかった頃のぼくの友達、公園の鳩やガチョウたち。なのに…。
 同じ鳩やガチョウがお肉になる。
 ガチョウの方だと、食べられちゃった上に、大切な羽根を羽根ペンにされてしまうんだ。いくら飛ぶのが下手な鳥でも、飛ぶための風切り羽根は大切。それを抜かれて、お肉にされて…。
 可哀相なんてものじゃない。
 そんなガチョウから奪って来た羽根、それが羽根ペンの羽根だったなんて。
 ぼくが拾った羽根と違って、羽根ペン用にと引っこ抜かれた命と引き換えの羽根だなんて…。



「…羽根ペン、ぼくは要らないかも…」
「ん?」
 なんだ、いきなり。お前、羽根ペン、欲しかったのか?
「この羽根を拾ったら、欲しい気持ちがして来たんだけど…」
 欲しくてたまらなくなったんだけれど、高すぎてとても買えないから…。
 羽根の部分だけでも欲しいよね、って思ったんだよ、こういう羽根だけ。
 でも、この羽根は小さすぎるし、もっと大きいのが欲しくって…。
 それでハーレイの羽根ペンの羽根の鳥は何なの、って訊いたんだよ。もしかしたら家の庭とかで拾えるかも、って。
 だけど…。
 風切り羽根だなんて知らなかったし、取られた鳥はお肉になるかも、って聞いちゃったら…。
 可哀相すぎて欲しいだなんて言えないよ。羽根も、もちろん羽根ペンだって。



「ふうむ…。結婚してても要らないのか?」
 結婚した後なら、俺がプレゼントしてやれるが?
 大きな羽根が庭に落っこちて来るのを待ってなくても、ちゃんとした本物の羽根ペンをな。
「えーっと…。結婚した後ならハーレイのがあるから、羽根ペンはいいよ」
 今、欲しかっただけだから。
 これよりも立派な羽根が欲しいと思ってるのは、今だけだから。
 結婚出来たらもう要らないんだ、こういう羽根は。
「なんだ、そいつは」
 羽根ペン用の羽根が欲しいんじゃないのか、羽根ペンは高いから羽根だけでも、と。
 なのにどうして要らなくなるんだ、俺と結婚した後は?
「お揃いが欲しくなったんだよ。この羽根を見たら」
 ハーレイの羽根ペンみたいだよね、って見てる間に欲しい気持ちになっちゃっただけ。
 だって、羽根ペンを持っていたなら、お揃いだよ?
 ぼくはハーレイとお揃いの羽根ペンが欲しかっただけ。羽根ペンが無理なら羽根だけでも、って思ったけれども、それは今だけ。
 結婚したなら、ハーレイとずうっと一緒だし…。
 お揃いの物も沢山出来るし、わざわざ羽根ペンを買わなくってもいいんだよ。
 羽根ペン、ぼくは使ってないしね、前のぼくだった時にもね。
 ハーレイの机に置いてあるのを眺めて、「幸せだな」って思えるだけで充分。
 今度のハーレイも羽根ペンだよね、って。
 やっぱりハーレイには羽根ペンが似合うと、地球に来たって羽根ペンだよね、って…。



 鳥の大事な羽根を使って作られるらしい、ハーレイの羽根ペン。
 それを取ったら飛べなくなっちゃう、風切り羽根で出来た羽根ペン。
 風切り羽根を取られたガチョウは、お肉になるかもしれないから。お肉になる道を免れたって、空を飛べなくなっちゃうから。
 それじゃガチョウが気の毒すぎる。飛ぶのが下手なのと、飛べないのとでは大違い。
 可哀相なガチョウの羽根の羽根ペンはハーレイの分だけあればいいよ、って言った、ぼく。
 結婚した後には家に一本あれば充分、ぼくの分まで買って持とうとは思わない。
 だって元々、ハーレイとお揃いが欲しいと思っただけだから。
 そんな気分は今のぼくだけ、結婚した後の幸せなぼくはお揃いを必死に探さなくても大丈夫。
(ホントに色々、お揃いが出来る筈なんだよ)
 だからそれまで、羽根ペンは我慢。羽根ペンみたいな羽根が欲しいって気持ちも、我慢。
 ハーレイとのお揃い気分を味わうだけなら鳩の羽根でいいんだ、書けなくっても。
 本物の羽根ペンの羽根より小さくっても、灰色でも。



 そして大事に仕舞っておいた鳩の羽根。
 ぼくの家の庭に来た鳩の落とし物の羽根、羽根ペン気分の宝物。
 取り出してみてはそうっと撫でてみて、持ってみて。
 もっとぼくの手が小さかったら、ホントに羽根ペンみたいだよね、って何度も思って。
 今日もドキドキ、インクの瓶を取り出した。それから真っ白な紙も一枚。
(…今日は上手に書けますように…)
 スウッと息を大きく吸い込んで、気分を落ち着けて、羽根の先っぽをインクに浸けた。あれから何度か練習したけど、いつだってカリッと引っ掛かっちゃう。上手く書けない。
(今日こそは…!)
 初のサインをものにしよう、と真っ白な紙に向かったんだけど。
 ぼくの名前をカッコよく書こうとしたんだけれど…。



「あーっ!」
 カリッと紙に引っ掛かった、と思った瞬間、ポキリと折れた。
 前のハーレイの真似をして書こうとしてたら、ポッキリと折れた、宝物。
 本物の羽根ペン用の羽根と違って、弱すぎた羽根。
 十センチくらいのミニサイズの羽根、鳩の灰色の風切り羽根。
 ぼくが持ってた辺りからポッキリと折れて、もう羽根ペンではなくなった。ハーレイが持ってる羽根ペンみたいな、素敵な羽根は折れてしまった。
(…ぼくって、力を入れすぎちゃった…?)
 もうちょっと力を弱くしておくべきだったろうか、あるいは、もっと慎重に。
 引っ掛からないように細心の注意を払って書けば良かった、と思うけれども、もう手遅れで。
 折れちゃった羽根は元に戻らない。戻したくっても、戻せやしない。
 接着剤でくっつけようにも、ポッキリと折れてしまった羽根が綺麗にくっつくわけがない。



(…ぼくの羽根ペン…)
 失くしてしまった、お揃い気分の灰色の羽根。
 ミニサイズだったぼくの羽根ペン、上手に字なんか書けない羽根ペン。
(ハーレイとお揃いだったのに…!)
 気分だけでもお揃いだよ、ってドキドキしていた、ぼくの羽根ペン。
(失くしちゃった…)
 折れちゃったよ、って見詰めたって羽根はくっつかない。もう羽根ペンには戻ってくれない。



 羽根は泣き泣き、屑籠に捨てて。
 「さよなら」って呟いて、お別れをして。
 ぼくは毎日、庭を眺める。
 羽根ペンになる羽根、庭に落っこちていないかな、って。
 出来れば大きい鳥の羽根。
 カラスはちょっと嫌だけれども、公園から逃げたガチョウでも飛んで来ないだろうか。
(…欲張ったら落ちて来ないかも…)
 それにガチョウの羽根の話は可哀相だと思ったから。
 風切り羽根を取られた挙句にお肉だなんて、そんなガチョウの羽根を欲しがるのも悪いから。
(…鳩のでいいかな、大事に使えば折れないよ、きっと)
 今度は大事に使ってみよう。うっかりポキリと折らないように。
 ハーレイとお揃いで欲しい羽根ペン、だけど今だけ欲しい羽根ペン。
 結婚した後はもう要らないから、チビのぼくには高すぎるから。
 今のぼくには鳩の風切り羽根がお似合い、十センチくらいのミニサイズの羽根が…。




           風切り羽根・了

※ハーレイとお揃いの羽根ペンだよ、とブルーが嬉しくなった鳩の風切り羽根。
 けれどポッキリ折れてしまって、それっきり。本物の羽根ペンを真似るのは無理ですよね。
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