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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

拾って欲しい

「あっ…!」
 コロン、とブルーが床に落としたコイン。学校ではなくて、自分の部屋で。
 手にした財布の中から一枚、転がっていって、ベッドの下へ。アッと言う間に、コロコロと。
(あーあ…)
 落としちゃった、と零れた溜息。学校から帰って、おやつの後で戻った小さなお城。母に貰った昼食代とお小遣い。それを入れようと財布を出していた時の事故。勉強机の前に座って。
 落ちたコインはベッドの下。取ろうと床に屈み込んだのだけれど…。
(届かないよ…)
 手を突っ込んでも取れないコイン。腕の長さが足りないから。
(んーと…)
 こういう時には長さを足せば、と机から物差しを取って来た。充分に長いし、これで引っ掛けて取ればいいや、と。
 なのに、コインが薄いせいなのか、自分の腕前が悪いのか。物差しを何度入れてみたって、先にくっついてはくれないコイン。少しも上手く引っ掛からない。床にコロンと横倒しのまま。
(ちょっとくらい動いてくれたって…)
 どうして駄目なの、と格闘している内に聞こえたチャイム。まだ早いから、と眺めた時計が示す時間は、思った以上に遅い時間で。
(まさか、ハーレイ!?)
 物差しを床に放って窓に駆け寄ったら、門扉の向こうで手を振るハーレイ。落としたコインは、諦めるしかないだろう。ハーレイが帰ってゆくまでは。
(…拾ってるような時間があったら、ハーレイとお喋り…)
 後にしよう、と片付けた物差し。それに財布も。



 コインは後で、と決めていたのに、やっぱり気になるベッドの下。あそこにコイン、と。
 お茶とお菓子が置かれたテーブル、それを挟んでハーレイと向かい合わせに座っても。ついつい目が行くベッドの方。コインを拾い損なっちゃった、と。
 きっと何度も見ていたのだろう、ハーレイに「おい」と掛けられた声。
「さっきから何を見てるんだ?」
 心がお留守になってるようだが、何度も見ているベッドの方。…それも下だな、床の方だ。
 あそこに何か隠しているのか、ベッドの下に?
 どうなんだ、と鳶色の瞳が見詰めてくるから、慌てて「ごめん」と謝った。
「何も隠してないけれど…。余所見しちゃって、ごめんなさい…」
 隠すんじゃなくて、落っことしちゃった。ベッドの下に入ってしまったんだよ、コインが一枚。
 ママに貰ったお小遣いを財布に入れてた時にね、床に落としたら転がっちゃって…。
 ベッドの下、と項垂れた首。あの下に入ったままになってる、と。
「拾えばいいだろ、落としたんなら」
 俺が来た途端に落としたとしても…。ちょっと拾うから、と言えばいいだけのことだろうが。
 余所見ばかりをされるよりかは、待たされた方が俺は気にならないがな?
「…拾えないんだよ、手が届かなくて…」
 知っているでしょ、ぼくはサイオンじゃ拾えないこと。うんと不器用になっちゃったから。
 だから手でしか拾えないんだし、それでも頑張ったんだけど…。
 物差しで引っ掛けようともしたけど、コイン、ちっとも引っ掛からなくて…。
「そういうことか…。何処だ?」
 俺なら拾ってやれるだろう。手が届かないほどの場所にしたって、サイオンもあるし…。
 コインくらいはお安い御用だ、どの辺りなんだ?



 ベッドの下は暗くて見えにくいからな、と椅子から立ち上がってくれたハーレイ。拾ってくれるつもりなのだし、「ここ…」と指差したベッドの下。
「この奥の方…。見える?」
「…あそこか、確かに落ちてるな。コインが一枚」
 床に屈んで、「届くかもな」とハーレイが伸ばしてくれた腕。長い腕がしっかり捕まえたから、コインは無事に戻って来た。「ほら」と渡されたコインが一枚。ハーレイの手の温もりつきで。
「ありがとう…!」
 御礼を言って、財布に入れようとしたけれど。…ほんのり温かい、一枚のコイン。拾ってくれた大きな褐色の手から移った温もり、コインは冷たいものなのに。
(ハーレイが拾ってくれたコイン…)
 それに温かい、と気付いた幸せなコイン。これは特別、ハーレイに拾って貰えたのだから。
 ただのコインなら財布に戻しておしまいだけれど、幸せな道を歩んだコイン。落っこちた時には不幸だったのに、今はハーレイに拾って貰って幸せ一杯、幸運なコイン。
(…うんと幸せ…)
 とても幸せなコインなのだし、他のとは別に残しておきたい。使ったりせずに、大切に。
 だから財布に入れる代わりに、引き出しの奥に仕舞っておこうとしたのだけれど…。
「どうして財布に入れないんだ?」
 引き出しなんかに入れてどうする、行方不明になっちまうぞ。きちんと財布に入れないと。
「大丈夫だよ、後で入れ物を探すから。…失くさないように」
 これはハーレイに拾って貰ったコインだもの。特別だから、大事にするよ。
 財布に入れたら無くなっちゃうでしょ、使ってしまって。
「馬鹿野郎!」
 何が特別だ、たかがコインが一枚だ。第一、俺は拾っただけで…。
 元はお前のコインなわけだし、プレゼントとは全く違うだろうが!



 そんなことをするなら、次から二度と拾ってやらんぞ、と睨まれた。腕組みまでして、眉間には皺。「特別も何も」と、「せっかく手伝ってやったのに」と。
「手が届かなくて拾えない、と困っているから、手伝ったんだぞ」
 ついでに、そいつはお前の昼飯代だろうが。それ一枚でランチ、食えるだろ?
「そうだけど…。一日分なら充分だけど…」
 ちょっと足したら、ジュースとかも一緒に買えちゃうけれど…。
「なら、入れておけ。財布の中にな」
 貴重な小遣いというヤツだ。ランチが一回分なんだから。
 貯めて何かに使うならいいが、記念に取っておくには少々、高すぎるってな。
 もっとも、もっと安いコインでもだ…。俺が拾った記念なんかに残しておくのは禁止だ、禁止。
 そういう魂胆でまた落とさないように、今からきちんと言っておく。厳禁だぞ。
 分かったら、さっさと入れるんだな。元の財布に。
「うー…」
 ハーレイのケチ!
 ぼくのコインだもの、どう使っても良さそうなのに…。取っておくのも自由なのに!
 なんで駄目なの、一枚くらい…!
 いいでしょ、と抗議したって出ないお許し。ハーレイは「財布に入れろ」と睨んだまま。
 仕方ないから、「残念…」と財布に戻したコイン。同じコインたちが入っている中に。
 チャリンと入れたら、どれだったのかは、もう分からない。
 コインの見た目はまるで同じで、他にもコインが入っていたから。色々な額のコインと一緒に、紛れてしまった幸せなコイン。同じ種類のコインは三枚、その中にすっかり混じってしまって。



 こういう時に限ってコインが一杯、と嘆いた財布。同じ種類は三枚だけでも、他のコインが沢山あったら、滑り込める場所も多いから。財布を閉じてしまった後には、中で動きもするのだから。
(幸せなコイン、無くなっちゃった…)
 ホントにどれだか分かんないよ、と財布を鞄に戻したけれど。元の椅子へと座ったけれど。
(…作られた年とか…)
 見ておけば良かった、と後悔しきり。コインの製造年が分かれば、目印になった筈だから。運が良ければ「これだ」と見付け出せたから。…他のコインに紛れていても。
(同じ年に作ったコインばかりでも、傷があるとか…)
 ほんの小さな引っ掻き傷。それがあったら分かったのに、と相も変わらず上の空。ベッドの方を何度も見ていた時と変わらないから、「お前なあ…」とハーレイがついた大きな溜息。
「拾ってやっても、拾わなくても、今日のお前は上の空ってな」
 俺よりもコインが気になるらしいな、お前ってヤツは。…まったく、どうしようもないヤツだ。
 恋人よりもコインの方か、と俺が怒って帰っちまったらどうするつもりだ?
 だが、まあ、一つ思い出せたし…。許してやるがな、ボーッとしてても。
「え?」
 思い出せたって…。何の話なの?
「ようやく聞く気になったってか。俺の話を、ちょっとは真面目に」
 コインよりも俺だって気持ちになったか、さっきよりは?
「ごめんなさい…。ちゃんと聞くから、その話、教えて」
 何か思い出があるんでしょ?
 コインか、何かを拾う話か、そういうので。…今のハーレイのお話だよね?



 ぼくにも聞かせて、と興味が出て来たハーレイの思い出。幸せなコインはもう捜し出せないし、考えていても無駄なこと。それを追うより、ハーレイの過去を知りたいから。
(今のハーレイ、ぼくよりもずっと年上だものね?)
 思い出だってきっと沢山、と瞳を輝かせて、思い出話を待っていたのに。
「生憎と、俺じゃないってな」
 前のお前だ、コインのお蔭で思い出したのは。
「…前のぼくって…。何かやってた?」
 コインを落としてしまうなんてこと、前のぼく、しないと思うけど…。
 お小遣いなんかは貰っていないし、お金だって持っていなかったもの。使うことが無いから。
「コインじゃないがだ、俺に拾わせていたってな」
 今日と同じで、「拾ってくれ」と。
「拾って貰うって…。何を?」
 何をハーレイに拾わせていたの、前のぼくならサイオンで拾えた筈なのに。
 わざわざハーレイに頼まなくても、ちゃんと自分で拾えそうなのに…。
「一つだけじゃない、いろんな物だな。お前が俺に拾わせたのは」
 最初は偶然だったんだが…。お前が狙っていたわけじゃなくて。
 俺に拾わせるつもりは無かったんだが、お前、拾えなかったんだ。頑張ったのに。
 青の間のベッドの馬鹿デカイ枠、あれの下に見事に挟まっちまって。
「ああ…!」
 そういえばあったね、頼んだことが。
 ぼくの力じゃ拾えなくって、ホントに困っていた時だっけ…。



 思い出した、と蘇って来た前の自分の記憶。ソルジャー・ブルーだった頃の、遠い昔の。
 もうハーレイとは恋人同士になっていた時代。夜になったら、青の間を訪ねて来たハーレイ。
(でも、キャプテンの仕事もあったから…)
 一日分の報告だったり、キャプテンとしてソルジャーの指示を仰いだり。
 その夜も、ハーレイが来たら訊くべきことがあるかどうか、と書類を見ていた。昼の間に開いた会議。其処で「次回までに」と配られたもの。次の会議で検討する議題や、その資料など。
 順にめくって読んでゆく内に、うっかり落とした一枚の書類。
 それはスルリとベッドの下へと滑り込んでしまって、枠と床の間に挟まって…。
(引っ張っても、ビクともしなくって…)
 何処かに端が引っ掛かったらしくて、動かない書類。無理に抜いたら、きっと破れる。ビリッと真ん中から破れてしまって、真っ二つに裂けてしまいそう。
(瞬間移動で…)
 それなら取れる。一瞬の内に、書類は手の中に戻って来る。
 けれど、エラやヒルマンたちなら言うだろう。「人間らしく」と。安易にサイオンに頼るなと。自分の肉体が持っている力、それを使って拾うべきだと。
 サイオンはミュウだけの力だから。人類には無い能力なのだし、人間らしくあるべきだと。
 だから駄目だ、と瞬間移動をさせるのはやめて、枠を持ち上げようとした。両方の腕で。
(この枠が、ほんの少しだけ…)
 床から離れて隙間が出来たら、足で書類を蹴ればいい。引っ掛かっているのも外れるだろう。
 そう考えて挑んだけれども、重くてとても持ち上げられない。動いてくれないベッドの枠。
 何度、両腕に力をこめても。今度こそ、と歯を食いしばっても。



 どんなに努力を重ねてみたって、ベッドの枠は動きもしない。僅かな隙間も出来てはくれない。
 やっぱり無理だ、とサイオンを使って取ろうとしたら、開いた扉。緩やかなカーブを描いて下へ伸びるスロープ、その端に見えたハーレイの姿。
 恋人が来てくれたのだから、と書類の件は一時中断。なのにハーレイには分かるらしくて、側に来るなり問い掛けて来た。
「どうなさいました?」
 何か困ってらっしゃることでも…?
 気になることでもおありなのですか、そういう風に見えるのですが…。
「分かるのかい? 大したことではないんだけれど…」
 この下に書類が挟まっちゃってね、引っ掛かったらしくて取れないんだ。
 サイオンを使えば直ぐに取れるけど、エラたちがいつも言うだろう?
 「人間らしく」と、肉体の力を使うべきだと。
 ぼくも頑張ってはみたんだけれど…。ぼくの力ではビクともしないよ、このベッドの枠は。
「枠に挟まったのですか?」
「そう、此処の下」
 覗いてみれば見えるよ、これ。…ほら、引っ張っても出て来ないんだ。
「無理に引っ張ったら破れそうですね、真ん中から」
 この枠の下敷きということは…。
 此処だけ浮いたら、引っ張り出せると思いますよ。ですが、あなたの力では…。
 まず無理でしょうね、この枠はとても重いですから。
「そうだよね…」
 サイオンで抜くよ、瞬間移動で。そうしようと思っていた所だから。
「お待ち下さい、私の力なら動かせるかもしれません」
 あなたよりは力が強いですから、このくらいは…。サイオン無しでも、少しくらいなら…。



 やってみましょう、とハーレイが両腕で持ち上げた枠。それは本当に少し浮き上がったから…。
「今です、ブルー!」
 抜いて下さい、今の間に…!
「ありがとう、ハーレイ!」
 取れた、と素早く抜き出した書類。端には皺が残ったけれども、破れずにちゃんと取り出せた。人間らしい方法で。サイオンの助けを借りることなく。
 ハーレイが「もういいですね?」枠を下ろした後に、「君は凄いね」と褒めたのだけれど。
「いえ、それほどでも…」
 馬鹿力だというだけですよ。こういう身体ですからね。
 昔からゼルに言われたものです、「このデカブツ」だの、「独活の大木」だのと。
 この程度のことも出来ないようでは、本当に独活の大木ですから…。
 持ち上げられて良かったですよ。馬鹿力などは、褒めて頂くほどのことでは…。
「馬鹿力って…。凄い力だと思うけれどね?」
 ぼくには出来なかったことだよ、この枠を腕の力だけで持ち上げるのは。
 それを軽々とやってのけたんだし、凄いことだと思うけど…。馬鹿力なんて言わなくても。
「ありがとうございます。…ゼルにかかれば、馬鹿力だろうとは思いますがね」
 ですが、お力になれて良かった。
 こんなことでしたら、いつでもお手伝いさせて頂きますよ。
 人間らしくなさりたいのに、あなたのお力が足りない時には。



 私がお役に立てるのでしたら、と力強い言葉を貰ったから。ハーレイが手伝ってくれるから。
(前のぼく、調子に乗っちゃって…)
 何かを落として取れない時には、いつもハーレイに頼っていた。「ぼくじゃ無理だ」と、恋人がやって来るのを待って。「あれを取って」と、「拾って欲しい」と。
 ベッドの枠の下に挟まるどころか、青の間の巨大な貯水槽に落とした時だって。
(…ハーレイ、どうやって拾ってたんだっけ?)
 思い出せない、貯水槽に落としてしまった時。サイオンを使わずにどうやって、と。
 首を捻って考えてみても、答えが出ないものだから…。
「あのね…。ハーレイが拾ってくれていた話…」
 色々な時に拾って貰ったけれども、貯水槽の時はどうしてたっけ?
 あそこ、深くて、水が一杯だったのに…。手を突っ込んでも、底まで届くわけがないのに。
「頭を使えよ、シャングリラの基本は「人間らしく」だ」
 あの貯水槽の係にしたって、例外じゃない。深いからって、サイオンで掃除するのはなあ…?
 メンテナンスをしてたヤツらが使う道具が奥にあったろ。
 普段はきちんと仕舞ってあったが、貯水槽の掃除をしようって時には出て来たヤツが。
「そうだっけね…!」
 道具、色々、入ってたっけ…。
 ぼくが会議とかで留守の間に、係が掃除をしてたから…。あの貯水槽にも係がいて。



 青の間には部屋付きの係が配属されていたけれど、それとは別にメンテナンスの係がいた。青の間の空調やら貯水槽やら、そういった設備を専門に扱っていた係。
 彼らのための道具を収めた小さな物置。
 貯水槽に何か落とした時には、ハーレイは其処の道具で拾った。網だの、マジックハンドだの。
「…何回、お前に拾わされたか…」
 ベッドの下やら、貯水槽やら。
 俺が青の間に出掛けて行ったら、「あれを拾って欲しいんだけど」と頼まれるんだ。
「さっき、ハーレイも言ったじゃない。人間らしく、だよ」
 シャングリラの基本はそれだったんだし、ハーレイ、手伝ってくれるって言ったし…。
 ぼくの力で拾えない時は、ハーレイが拾ってくれるって。
「そう言っては待っているんだからなあ、俺の仕事が終わるまで」
 ブリッジ勤務が終わって報告に出掛けてゆくまで、お前、拾おうともせずに。
 たまには自分で拾えばいいんだ、「人間らしく」にこだわらずに。
 どうしても出来そうにないって時には、使っていいのがサイオンだったぞ。サイオンってヤツは本来、そうするためにあるんだから。…足りない能力を補うために。
「自分で拾った時もあったよ!」
 何もかもハーレイ任せにしてはいないよ、前のぼくだって!
 ベッドの下なら放っておいても大丈夫だけど、貯水槽はそうじゃないんだから…。
 あそこに書類を落としちゃったら、ハーレイが来るまで待っていちゃ駄目。
 書類はすっかりふやけてしまって、読めなくなってしまうんだから。
 他の物でも、水に落ちたら駄目になっちゃうものはあるでしょ?
 そういう時には拾っていたよ。道具は上手く使えないから、緊急事態だ、ってサイオンでね。



 長い時間、水に浸かっていたなら、使えなくなってしまう物。それをウッカリ落とした時には、サイオンでヒョイと拾っておいた。ハーレイが来るまで待っていないで。
 ちゃんと拾った、と胸を張ったら、「まあな…」と苦笑いしているハーレイ。
「お前の都合で決まるんだっけな、俺に拾わせるか、お前が自分で拾うかは」
 そういや、俺が拾った中でも一番デカイの。
 お前だっけな、大物ってな。
「えっ、ぼくって…?」
 どうしてハーレイがぼくを拾うの、前のぼく、迷子の子猫なんかじゃないよ?
 落ちていないと思うんだけど…。
 いくらハーレイが拾うのを仕事にしてたとしたって、落ちていないものは拾えないよ?
「落っこちたろうが、前のお前は」
 そして間違いなく俺が拾った。…いつも通りに。
「落ちたって…。何処に?」
「いつも通りと言っただろうが、その言葉だけで分からんか?」
 お前が俺に拾わせてた場所は青の間ばかりで、あそこで落ちるとなったなら…。
 貯水槽の他に何があるんだ、お前、あそこに落っこちたんだ。
「…そういえば…」
 ぼくが落ちちゃったんだっけ…。
 いつもと同じで拾って貰って、それを見ていて、今度はぼくが…。



 落っこちたんだ、と時の彼方から戻った記憶。前の自分がやった失敗。
 貯水槽の側に屈んでいたハーレイ。隣で「ハーレイはいつも上手に拾うね」と、感心して眺めていた自分。あの時は何を拾って貰ったのだったか、使っていた道具は何だったのか。
 「拾えましたよ」とハーレイが差し出して来たから、「ありがとう」と受け取ろうとして崩したバランス。貯水槽の直ぐ側だったのに。
 よろめいた身体はアッと言う間に落っこちた。貯水槽へと。
 サイオンで落下は止められるけれど、元の場所へも戻れるけれど。
(人間らしく…)
 拾って貰おうと思ったのだった、ハーレイに。貯水槽に落とした物たちのように。
 そして落っこちた貯水槽。シールドも張っていなかったから…。
(ドボンと落ちて、真っ直ぐ沈んで…)
 水面までの距離があった分だけ、沈んだ暗い水の中。前の自分の身長よりも深く。
 懸命に浮かび上がったまではいいけれど、闇雲に水を掻くしかなくて。
「ブルー!!」
 ハーレイが下へと差し伸ばした腕。青の間の床に腹這いになって。
 けれども、届くわけがない。水面はもっと下だったから。
 そのハーレイの顔を見上げながら必死に水を掻いていたら、サイオンで身体が浮く感覚。自分は使っていないというのに、ふうわりと。
 水から引っ張り出そうとするのは、ハーレイが使っているサイオン。
 落ちた自分を拾い上げるには、マジックハンドも網も役立たない。もっと小さな物のためにと、作られている道具だから。それで人間は拾えないから。



 水の中から救い出そうと、ハーレイが包んだ淡い緑のサイオンカラー。沈む前にと、早く水から引き上げようと。ハーレイの身体も、同じ色の光に包み込まれていたのだけれど…。
「待って…!」
 慌ててハーレイを止めようとした。人間らしく落っこちたのに、これでは何の意味も無いから。
 サイオンで助け上げられたのでは、拾って貰うことにならないから。
「ブルー!?」
 何を、とハーレイのサイオンは揺らがないけれど、伝えなければ。
 どうして自分が落っこちたのか、サイオンを使って此処から出ようとしないのか。
「人間らしく…!」
 ぼくが落ちても、人間らしく…!
 サイオンだったら、ぼくの力でも上がれるから…!
 君が拾ってくれるんだろう、ぼくが落としてしまった時は…!
 自分の力で拾えない時は、いつだって、君が…!
 だから今も、とバシャバシャと水を掻きながら叫んで、ガボッと飲んでしまった水。泳ぎ方など習っていないし、シールドもせずに深い水の中に入ったことは無いから。
 それでもハーレイが拾ってくれると、拾って貰おうと考えたのが前の自分で。
 水を飲んだせいで声も失くして、けれど思念波さえも使わないままで…。
「ブルー!!」
 一刻を争うと気付いたのだろう、貯水槽に飛び込んで来たハーレイ。キャプテンの制服を脱ぎもしないで、マントも背中に背負ったままで。
 ハーレイが上げた水飛沫を頭から被ったけれども、貯水槽の水も揺れたのだけれど。
 沈みそうな身体に回された腕。グイと脇から抱え上げるように。
 「動かないで下さい」と声を掛けられ、ハーレイは前の自分をしっかりと抱えて泳いでくれた。
 スロープに上がれる所まで。水面からスロープが近い所まで。



 泳ぎ着いたら、ハーレイに押し上げられたスロープ。「縁を掴んで下さい」と。スロープの縁を掴むのが精一杯だったけれど、ハーレイは立ち泳ぎしながら背を押してくれて…。
 やっとの思いで這い上がったら、直ぐにハーレイも上がって来た。突っ伏したままの前の自分を気遣うように掛けられた声。
「大丈夫ですか?」
「水、飲んだ…」
 後は言葉になってくれなくて、ただゲホゲホと咳き込むだけ。ハーレイは背中を擦って叩いて、飲んだ水をすっかり吐き出させてから、強い両腕で抱き上げた。前の自分を。
 そのままバスルームに連れて行かれて、頭から浴びせられた熱いシャワー。貯水槽の水で濡れてしまった服を剥ぎ取りながら、ハーレイは熱い湯をせっせと浴びせ続けて。
「とにかくシャワーで温まって下さい、お身体が冷えてしまっています」
 お湯も張りますから、バスタブにも浸かって頂かないと…。
 もう少しだけお待ち下さい、たっぷりのお湯を張ってからです。バスタブの方は。
「…君は?」
 ぼくの面倒を見てくれるのは嬉しいけれど…。
 君も一緒に落っこちたんだよ、あの貯水槽に。君も身体を温めないと…。
「このくらい、なんともありませんよ」
 プールが深いか、浅いかだけの違いです。普段から泳いでいますからね。
 貯水槽で泳ぐのは初めてでしたが、日頃の練習が役に立ちました。あなたを拾えましたから。



 次はこちらへ、と浸けられたバスタブ。湯加減を調べて、手足を擦ってくれるハーレイは濡れた制服を脱いでしまって、バスローブだけという姿。「私は風邪など引きませんから」と。
「でも、ハーレイ…。君の着替えは…?」
 シャワーやお風呂は後でもいいけど、君の服…。その格好じゃ冷えるだろうに。
 誰かに頼んで持って来させるとか、きちんとした服を着た方が…。
「私の服なら、明日の分が置いてあるじゃありませんか」
 あなたと一緒に過ごすのですから、いつも運んでありますが…?
 濡れていない服はちゃんとあります、あなたが心配なさらなくても。
「だけど、バスローブしか着てないし…」
 アンダーくらいは着た方が…。
 でないと君の身体も冷えてしまうよ、ぼくの世話なんかをしている間に。
「大丈夫ですよ、頑丈に出来ていますから」
 アルタミラからの筋金入りです、体力だったら船の誰にも負けませんとも。
 私の身体を心配するより、ご自分の心配をなさって下さい。
 あんな所でサイオンも無しで、溺れそうな目に遭われるだなんて…。
 「人間らしく」と言っても程度があります、私が直ぐに引き上げていたら、こんなことには…。
 あなたがサイオンを使っておられたとしても同じです。
 落下を止めるくらいのことなら、あなたには朝飯前なのですから。



 次からは「人間らしく」は無しです、とバスルームで厳しく叱られた。普通の物を拾うだけなら今まで通りに手伝うけれども、持ち主の人間は別だから、と。
 冷えた身体が温まったら、バスタオルで水気を拭われた。髪に至るまで、ゴシゴシと。
 病気の時しか使っていないパジャマを着せられ、押し込まれたベッド。上掛けを肩まで引っ張り上げたら、ハーレイはシャワーを浴びに出掛けた。「直ぐに戻ります」と。
 戻った時にもバスローブだけで、鳶色の瞳でじっと見詰めてから奥へ入って。
「…此処で作れるのは、これだけですから」
 何の食材も無かったので、と熱い紅茶を淹れて来てくれた。火傷しそうなくらいのを。
 ベッドの上で上半身を起こして飲んでいる間も、冷えないようにと肩に毛布を掛けられた。膝はもちろん上掛けの下で、飲み終わってカップを返したら…。
 カップを片付けに行ったハーレイは、戻るなり言った。「暖かくして休んで下さい」と。
 有無を言わさぬ口調だったけれど、水に落ちた自分を拾い上げてくれたのがハーレイだから…。
「じゃあ、温めてよ」
 ぼくの身体を温めるには、何が一番か知ってるだろう?
 君の身体で温めて欲しいよ、身体も、それにぼくの心も。…いつもみたいに。
「いいえ、今夜は添い寝だけです」
 ご自分に自覚が無いというのは頂けませんが…。
 あれほどの無茶をなさるのですから、当然と言えば当然なのかもしれません。
 まさか「拾ってくれ」だなどと…。
 あなたは物ではないのですから、拾うという言葉は当て嵌まりません。救助に救出、助けるとも言っていいでしょう。
 救助の時まで「人間らしく」とは、エラもヒルマンも一度も言ってはいませんが…?
 御存知でしょう、アルテメシアから子供たちを救出して来る時はどうするか。
 人間らしくサイオンを封じるどころか、フルに使って救出するのが船の基本で鉄則ですが…?
 それも忘れてらっしゃるようでは、ご自分のお身体も分かっておられませんね。
 もう充分に弱っておられて、いつも通りの過ごし方など、無理に決まっていますとも。



 あなたはきっと風邪を引いておしまいになりますから、とハーレイは添い寝しかしなかった。
 パジャマ姿の前の自分を抱き締めるだけで、ハーレイの身体にはバスローブ。
 「これでも風邪を引かれますよ」と、「明日になったらお分かりになります」と繰り返して。
 自分では「まさか」と思ったけれども、翌朝、本当に引いていた風邪。
 水に落ちた結果は発熱と、熱でひりつく喉と。
 ハーレイは「やっぱり…」と深い溜息をついて、朝食の支度に来た係に野菜を持って来させた。前の自分が寝込んだ時には、作ってくれた野菜のスープ。それをコトコト煮込むために。
 何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけで煮込んだ素朴なスープ。
 出来上がったら、スプーンで掬って食べさせてくれて…。
「…熱いですから、気を付けて。それにしても、あなたという人は…」
 本当に弱くていらっしゃる。
 ご自分で落ちた水だというのに、こんな風に寝込んでおしまいになって…。
 私も後から飛び込みましたが、何処もなんともないですよ?
 こうしてスープも作りましたし、この後は仕事ですからね。いつもと同じにブリッジに行って。
「君が頑丈すぎるんだよ!」
 普段から風邪なんか引かないじゃないか、ぼくが引いても移りもしない。
 君と一緒にしないで欲しいよ、ぼくの身体は繊細なんだよ…!
「お分かりでしたら、次からは控えて頂きたいと…」
 昨日も申し上げましたよね?
 物を落としてしまわれた時は、サイオン抜きで拾わせて頂きますが…。
 持ち主の方が落ちた時には、サイオン抜きには致しません。問答無用で救出させて頂きます。
 けれど、あなたは、懲りるということを御存知ないような気もしますから…。
 貯水槽には近付かないで下さい、私が何かを拾う時には。



 あなたを拾うのは二度と御免です、とハーレイに真顔で叱り付けられた。
 それからは側で覗けなくなった、貯水槽での落とし物拾い。網を使うのも、マジックハンドも、離れた所から見るしかなかった。
「ハーレイ、危ないからそっちにいろって言うんだよ」
 もっと丁寧な言葉だったけど、意味はおんなじ。こっちに来るな、って。
「当たり前だろうが!」
 あんなのを見たら、二度とお前を近付かせないのが一番だ。
 落ちないようにするのも、自分の力で上がって来るのも、前のお前なら簡単なのに…。
 今の不器用なお前と違って、半分寝てても出来た筈なのに…!
「そうだけど…。今のぼくだと、ホントに無理だよ」
 ぼくが落っこちても拾ってくれる?
 何処かの池とか、湖だとか…。デートの途中で落っこちた時は。
「もちろん拾うが、サイオンは必ず使うからな?」
 ついでに、お前が落っこちる前。
 そうなる前に、落ちないように俺が支える。
 前の俺は油断していたわけだな、お前が落ちるとは思わないから。
 落ちても自分で落下を止めたり、シールドを張ったり、ちゃんと出来ると信じてたしな…?



 前のお前で懲りているから、俺は決して油断はしない、とハーレイは言っているけれど。
 デートで水辺に出掛けた時には、手をしっかりと握っていそうだけれど。
(…前のぼくが落っこちちゃった時…)
 抱えて貰って泳いだ思い出、あの腕が忘れられないから。
 スロープに自分を押し上げてくれた、逞しい腕の記憶も鮮やかに思い出せるから。
(…落ちてみたいかも…)
 水泳が得意な今のハーレイと、いつかデートに出掛けたら。
 落ちられそうな水があったら、前の自分が落っこちたように、バランスを崩して水の中へと。
 風邪は引きたくないのだけれども、ハーレイに助けて貰いたいから。
 サイオンは抜きで、「人間らしく」とお願いして。
 ぼくを拾ってと、懸命に水を掻いて叫んで。
 きっとハーレイは、「仕方ないな」と飛び込んで拾ってくれるから。
 拾い上げた後も、あの時みたいに、あの時以上に、きっと優しくしてくれるから…。




           拾って欲しい・了


※青の間の貯水槽に落ちてしまった、前のブルー。ハーレイに拾って欲しくてサイオン抜きで。
 望みは叶ったわけですけれど、風邪を引いてしまって叱られた結末。でも、幸せな思い出。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










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