シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
水溜まり
(すっかり止んで良かったよね)
通り雨、とブルーが眺める窓の外。学校からの帰りに、いつもの路線バスの中から。
午後の授業の時間に、いきなり降って来た雨。晴れていた空が急に曇ったかと思うと、突然に。
最初はパラパラ、それから本降り。叩き付けるように激しく降ったのだけれど…。
帰る時間までには止んで、今ではすっかり青い空。雨など降ってはいなかったように。
(でも、降った証拠…)
バスの窓には、ちょっぴり水滴。このバスはきっと、雨の間も何処かを走っていたのだろう。
雨が降り続けている間だったら、雨粒は窓を流れるけれど。バスが走れば後ろの方へと、ガラス伝いに走るのだけれど…。
雨の名残の水の雫は、もう動かない。窓に貼り付いて微かに揺れているだけ。
(その内に乾いて消えちゃうんだよ)
太陽の光と、雨上がりの空気に吸い取られて。「空へお帰り」と連れてゆかれて。
雫が全部消えてしまったら、バスの窓だって元通り。ちょっぴりの埃がガラスに残って、雨粒の形を教えてくれるかもしれないけれど。
(…ぼくが乗ってる間は無理そう…)
ほんの少ししか乗らないから、と思う間に着いたバス停。家の近くの。
バスから降りて歩く途中に、道に見付けた水溜まり。道路は平らなように見えても、沢山の車がへこみを作ってゆくもの。普段は全く分からないけれど、雨が降ったらよく分かる。
(こうやって水が溜まるから…)
雨が降った証拠、と水溜まりの中を覗き込んだら青い空。
何の気なしに見たのだけれども、水溜まりの中は舗装されている道路ではなくて…。
(映ってる…)
地球の空が、と仰いだ遥か頭の上。今は青空、ぽっかりと白い雲が幾つか。
それがそっくり映っていた。水溜まりが鏡になったみたいに。
地面にも地球の空があるよ、と気付いたら、とても素敵な気分。
前の自分が焦がれた地球。青い水の星にいつか行こうと、行きたいと願い続けていた。
遠く遥かな時の彼方で、地球を夢見たソルジャー・ブルー。けれど、叶わなかった夢。
(…行く前に死んでしまったから…)
夢の星のままで終わった地球。あの頃の地球は死の星だったと、知りもしないで。青い水の星が何処かにあると信じたままで。
(今はホントに青い地球だよ)
それに自分は地球まで来た。新しい命と身体を貰って、蘇った青い地球の上に。
水溜まりの中にも、その地球の空。頭の上にも、地面の上にも、「此処は地球だ」と空がある。青く澄み切って、白い雲まで浮かべた空が。
(水溜まり…)
もっと無いかな、と嬉しくなった水溜まりの中に映る空。地面に散らばる青空の欠片。
それが見たくて、もっと見付けたくて、水溜まりを探しながら歩いた道。あそこにもあるよ、と道を渡ったり、「次はあっち」と急いだり。
生垣に囲まれた家に着いても、探したくなる水溜まり。門扉を開けて入ったけれども…。
(…庭は無理かな?)
芝生の上には、見付けられない水溜まり。芝生は水はけがいいものだから、窪んでいたって水は溜まらない。直ぐに吸い込まれて消えてしまって。
(うーん…)
こっちはどうかな、と見に行った庭で一番大きな木の下。
其処に置かれた白いテーブルと椅子に、雨の名残がくっついていた。庭の景色が主だけれども、よく見れば青い空の欠片も映った水滴。
(殆ど庭の景色なんだけど…)
よし、と眺めた幾つもの水の雫たち。
地球の空の欠片が地面の上にも一杯だよ、と。ぼくの家の庭の中にもあるよ、と。
家に入って、制服を脱いで。ダイニングでおやつを食べる間にも眺めた外。
ダイニングの大きなガラス窓の向こう、青空と、たまに木の枝などから落ちる水滴。急に降った雨が庭に残した、水の粒がポタリと落ちてゆく。家の軒やら、木の葉先から滴って。
あの水たちも、やがて庭から消える。太陽の光と風が空へと連れ戻すから。
そうでなければ地面に吸われて、土の下へと潜り込んで。
(…さっき見た道路の水溜まりも…)
白いテーブルと椅子についた雫も、その内に消えてゆくのだろう。
水溜まりや雫が消えていったら、空たちも消える。今は地面に落ちている欠片、水溜まりや雫に映った地球の空たちは。
(…空の欠片が地面に一杯…)
いずれ空へと帰るのだけれど、なんとも心が弾む光景。
空を仰げば本物の空で、地面の上には空の欠片たち。それも本物の地球の空。
(…こんな体験、地球でないとね?)
出来っこないよ、と外を見ながら食べていたおやつ。「ぼくが地球まで来たからだよ」と。
おやつを食べ終えて部屋に帰っても、窓から外を覗いてみる。
(此処から見たって…)
空は映っていないんだけど、と濡れた木々の枝を見れば、やっぱり雫。
もっと近くに寄ってみたなら、あの雫にも空があるのだろう。ポタリと滴り落ちる前にも、下へ向かって落ちる時にも。
まあるい水の鏡になって、空を映しているだろう雫。
空から降って来た雨の粒たちは、空の欠片を連れて来る。まるで空からの贈り物のよう。
「地面の上にも空をどうぞ」と、「好きなだけ眺めて下さいね」と。
ホントに地球でなきゃ見られない景色、と考える。地球の空からのプレゼント。
雨が降ったら、地面にも空。水溜まりの中を覗き込んだら、水の雫たちを覗いてみたら。
(…前のぼくだと…)
前の自分が見ていた雨。白いシャングリラが長く潜んだ雲海の星、アルテメシア。
あの星にも雨は降ったけれども、其処で水溜まりに空が映っても…。
(アルテメシアの空なんだよ)
地面に落ちた空の欠片は、アルテメシアの空でしかない。前の自分が焦がれ続けた、青い地球の空とは違ったもの。同じ空でも、天と地ほどに違う空。
だから、しみじみ覗いてもいない。地面の上に空を見付けても。雨上がりだったアルテメシアに降りても、水溜まりに空が映っていても。
(地球に行っても、こんな風かな、って…)
思った程度で、感激などはしなかった。
地面に落ちた空の欠片が幾つあっても。「映ってるな」と気付いた時も。
アルテメシアでさえ、そういった具合だったから。水溜まりを探して歩きはしないし、あちこち覗き込んだりもしない。「此処にも空があるだろうか」と、水溜まりや水の雫の中を。
曲がりなりにも雨が降っていたアルテメシア。
テラフォーミングされた星でも、雨は空から降ってくるもの。
けれど…。
(シャングリラだと…)
空の欠片を見付けるどころか、雨さえ降らなかった船。
いくらシャングリラが巨大な船でも、所詮は閉ざされた小さな世界。空も地面も何も無かった。船の周りに雲はあっても、雲海の中を飛ぶ船でも。
雨が無かったシャングリラ。踏みしめる地面も持たずに生きていたミュウたち。
白いシャングリラはそういう船だし、雨が降らないから水溜まりなんて、と思ったけれど。あの船の中に小さな空の欠片たちが、落ちていた筈もないのだけれど…。
(公園…)
不意に頭を掠めた記憶。シャングリラが誇った広い公園、ブリッジが浮かんでいた公園。
一面の芝生だったけれども、そうでない場所も幾つかあった。芝生の下の土が見えている場所。散歩道やら、子供が遊ぶための場所やら、土と触れ合うための場所。地面の代わり。
そういった場所に、たまに水溜まりが出来ていた。
(今日の帰りの道路みたいに…)
自然に窪んでしまった所。通る仲間や、遊ぶ子供の足に踏まれて低くなった部分。
水溜まりは其処に姿を現わし、子供たちがはしゃいだりもしていた。歓声を上げて、小さな足で踏んで回っていた水溜まり。
水溜まりの中で遊んでいたなら、靴が汚れてしまうのに。バシャバシャと踏んで走り回ったら、土を含んだ水が飛び散って、服まで汚れてしまうのに。
(子供たち、遊んでいたんだっけ…)
公園にあった水溜まりで、と懐かしく蘇って来た光景。それは賑やかに、水溜まりと戯れていた子供たち。広い公園にそれが出来たら、地面を模した土の上に水があったなら。
そうだった、と思うけれども、その水溜まり。子供たちの足が跳ね上げた水。土が混じっていた筈なのだし、靴も、子供たちの服も台無し。
せっかく係が洗ったのに。毎日、綺麗な服を着られるよう、心を配っていた係。
子供たちの靴も、養育部門の者たちがせっせと磨いていた。小さな子供は靴の手入れどころか、下手をすれば裸足で走りかねないほどだから。
(…非効率的…)
昼間に散水するなんて、と水溜まりのことを考えた。
あの公園に出来た水溜まりは、散水で出来たものだから。芝生や木たちに水をやろうと、公園に備えられた散水用のシステム。それが撒いた水で水溜まりが出来て、遊んでいたのが子供たち。
夜の間に済ませておいたら、水溜まりは朝までに消えるのに。
そうしておいたら、子供たちの服や靴などが、泥で汚れはしないのに。
非効率的だとしか思えないのが、あの水溜まり。
子供たちの服を洗う係や、靴を磨いていた仲間たち。彼らの手間を増やした悪者、それが公園の水溜まり。もしも水溜まりが無かったならば、子供たちは其処で遊ばないのに。
(…なんで昼間にやってたわけ?)
あの水撒きを。
遊ぶのが好きな小さな子たちは、ヒルマンが止めても聞くわけがない。水溜まりがあったら遊び始めるし、服も、靴だって泥だらけ。
そうなることが見えているのに、昼間に公園に撒かれた水。窪みに溜まってしまう水。
しかも、毎日ではなかった昼間の散水。毎日だったら、公園の木々には欠かせないものだと思うけれども、水溜まりが出来ていたのは毎日ではない。夜の間に散水した日もあったのだろう。
(非効率的だって分かっていたから、夜だよね?)
夜の方が何かと便利な筈だ、と今の自分にも分かること。公園は皆の憩いの場だから、来た時に水を撒かれたならば…。
(公園から逃げるか、東屋に入ってやり過ごすか…)
そのどちらかしか無かった筈。雨が降らないシャングリラには、雨傘などは無かったから。
シールドで水を防ぐにしたって、それでは水は防げても…。
(公園に来た意味が無いよね?)
一息つこう、と来たのだろうに、いきなり上から降り注ぐ水。のんびり過ごそうと選んだ公園、其処で張らねばならないシールド。
(それじゃサイオンの訓練だってば…!)
シールドが嫌なら公園を出るか、東屋に飛び込んで雨宿りならぬ散水よけ。今日はこれだけ、と撒かれる水が止まるまで。…もう水の粒は落ちて来ない、と分かるまで。
(迷惑すぎるよ…)
非効率的な上に、うんと迷惑、と考えてしまう昼間の散水。
子供たちの服や靴は泥にまみれて、大人たちは憩いの場所が台無し。それに憩いの時間だって。
なんとも解せない、昼間にやっていた散水。公園に出来ていた水溜まり。
何故、あんなことをしたのだろう、と首を傾げていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「あのね、シャングリラの公園…。ブリッジが見えた、一番広い公園だけど…」
なんで昼間に水撒きしてたの、あそこって?
「はあ? 水撒きって…?」
なんの話だ、とハーレイは怪訝そうな顔。「あそこの水撒きがどうかしたのか?」と。
「そのままだってば、水撒きをする話だよ。…その時間のこと」
たまにやってたでしょ、昼間に水撒き。いつもは昼間じゃなかったのに。
昼間にやるから、あちこちに水溜まりが出来ちゃって…。其処で子供たちが遊んでいたよ。
水溜まりの中に足を突っ込んだり、踏んづけて走り回ったり。
子供たちが着ていた服も、靴だって、水溜まりで遊ぶと泥だらけ…。
そうなっちゃうのに決まっているから、水を撒くのは夜の間にしておけばいいのに…。
でなきゃ、子供は公園に立ち入り禁止だとか。…水溜まりがちゃんと消えるまで。
どうしても昼間に撒くんだったら、その方がずっと良さそうだよ。
公園に来た大人も、いきなり水が撒かれちゃったら困っちゃうでしょ…?
昼間に撒くのは非効率的だよ、と述べてみた今の自分の意見。それなのに何故、と時の彼方ではキャプテンだった恋人に訊いてみたのだけれど…。
「おいおいおい…。忘れちまったのか?」
昼間には意味があったんだぞ、とハーレイは目を丸くした。「なんてこった」と。そして続けてこうも言われた。「そもそも、お前が原因なんだが?」と。
「原因って…。ぼくが?」
前のぼくなの、昼間に公園で水撒きしていた理由って…?
どうして、と今度はこちらが驚く番。前の自分は、いったい何をしたのだろう?
「本当に忘れちまったのか…。仕方ないヤツだな、お前が自分で言い出したくせに」
前のお前が言ったんだぞ。雨も降らない船なんて、とな。
「あ…!」
ホントだ、前のぼくだった…。雨が降らない、って言ったんだっけ…。
思い出した、と戻って来た記憶。ソルジャー・ブルーと呼ばれていた頃。
シャングリラは白い鯨に改造されて、アルテメシアの雲海の中を居場所に決めた。人類が住んでいる星だったら、いざという時に頼りにもなる。物資の調達が容易だから。
消えない雲海と船そのものを隠すステルス・デバイス、それさえあれば安心な船。
白いシャングリラは名前通りにミュウの楽園、白い鯨の形の箱舟。
船の中だけが世界の全てだけれども、自給自足で生きてゆけるし、何も不自由はしなかった。
(公園だって、船に幾つも…)
ブリッジが見える広い公園と、居住区に鏤められた公園。
どの公園にも人工の風が吹いたものだし、水撒きは何処も夜の間に。昼間に撒くと、仲間たちの憩いの場所が駄目になる。ベンチも何もかも濡れてしまうし、居合わせた仲間も濡れるから。
そういう風に決めたプログラム。散水は人がいない夜間に、自動で。
けれども、前の自分がアルテメシアに降り立った時に…。
(水溜まり…)
雨上がりに降りた、郊外の野原。其処に水溜まりがあった。たまたま土が窪んでいて。
その水溜まりに映った空に気付いて、覗き込んだ。「こんな所に空がある」と。
空を映していた水溜まり。まるで自然の鏡のように。
いつか行きたい地球の空もきっと、こういう風に映るのだろう。雨が降ったら。
(シャングリラには、空なんか無かったから…)
考えたこともなかった景色。水さえあったら、空が地面に映るだなんて。
シャングリラには無いのが空。何処も天井が見えるだけ。せいぜい、公園の天窓くらい。船では一番広い公園、その上に窓はあるけれど…。
(…いつも雲の中で、空なんか…)
見えはしないし、その上、肝心の水溜まり。それさえも船では目にしない。
どの公園も夜の間に散水するから、朝には消えてしまっている水。その雫さえも残さずに。
(船の外なら、空から雨が降って来て…)
こういう水溜まりも出来る。自然に出来た窪みに溜まって、空を映している水溜まり。
シャングリラの中には無い空を。…青く晴れ渡った、雨上がりの空を。
地球でもきっとこう見えるだろう、と暫く見ていた水の中の空。地面の上に映し出された空。
テラフォーミングで人が住めるようになった星でも、水溜まりを覗けば空がある。地球の空とは違っていたって、空は空。
なのに、シャングリラは水溜まりさえも出来ない船。
空が無いどころか、その空を映す水溜まりの一つも無いのが今のシャングリラ。
(これじゃ駄目だ、って…)
そう思ったから、招集した会議。キャプテンと、長老の四人を集めて提案した。シャングリラの公園に雨を降らせることは無理だろうか、と。
「本物の雨が無理だというのは分かっている。…だが、似せることは出来るだろう?」
今の公園の散水システム、あれを改造してやれば。…雨そっくりに水を撒けるような形に。
「出来ないことはないだろうがね…」
今の設備が無駄になる、とヒルマンが答えた。「それに非効率的でもあるね」と。
少ない水でも木々に充分に行き渡るよう、出来ているのが今のシステム。それの代わりに、ただザーザーと降らせるだけでは、水だって無駄になるのだから、と。
「でも…。今は水溜まりも無い船なんだよ、シャングリラは」
「水溜まり…?」
それはいったい、と誰もが不思議そうな顔をしたけれど、「水溜まりだよ」と繰り返した。
「アルテメシアで水溜まりを見たんだ。その中に空が映っていたよ」
雨上がりの青く晴れた空がね。あれが自然な景色なんだよ、水溜まりも無い船と違って。
「この船に自然は無いんじゃがな?」
空も無いわい、とゼルが呆れた風に鼻を鳴らしたけれども、諦めずに続けようとした説得。
「自然は無くても、真似られるよ。公園に雨を降らせたら」
「それを言うなら、雨とセットで雪も降らせようって言うのかい?」
そこまでやるなら賛成だけどね、と笑ったのがブラウ。
「雪が降ったら楽しいけれども、そんな余裕は無い船だよ」とも。
いくらこの船が楽園の名前を持っていたって、雪を降らせる余裕までは…、と。
ブラウにも笑い飛ばされた雨。しかも「雪まで降らせたいのか」と。
雪は考えてもいなかったけれど、魅力的な言葉ではあった。アルテメシアには雪も降るから。
「…雪…。雨が出来るのなら、雪だって…」
降らせられそうな気がするよ。人工の雪があると聞くから、冬になったら…。
雪も降らせてはどうだろう、と更に推し進めた話。シャングリラの公園に雨と雪を、と。
けして不可能ではなさそうだから。検討する価値はありそうなように思えたから。
けれど、ヒルマンは賛成してはくれなかった。
「雪を降らせることは可能だ。雨と同じで、システムを作り替えさえすれば」
ただ、問題がありすぎる。この船は確かに楽園だがね…。
そうした部分にエネルギーを割くより、もっと有効に利用しないと。船の中が全てなのだから。
「…駄目かな?」
雪はともかく、雨の方も…?
公園に降らせられたらいいのに、と言い募っても、ゼルにまで「駄目じゃ!」と否定された。
「余計なエネルギーは回せん、たかが水撒きの話じゃからな」
第一、システムの改造だけでも手間暇がかかる。今のシステムで充分なんじゃ!
さっきブラウも余裕が無いと言ったじゃろうが、と水を向けられたブラウは頷いたけれど。
「でもねえ…。ソルジャーの案にも一理あるねえ、雨が降らないのは本当だから」
そうは言っても、雨を降らせる余裕は無いし…。もちろん雪もね。
だからさ、昼間に水撒きするっていうのはどうだい?
今は夜中にやっているのを、昼間に変えれば公園はずぶ濡れになるわけだろう?
そうすりゃ水溜まりも出来るだろうさ、とブラウが出した代替案。
雨とはかなり違うけれども、散水すれば木々は濡れるし、きっと水溜まりも出来る筈。今よりは自然に近付くだろう、と。気分だけでも雨が降った後を味わえるのでは、と。
「そうか、その手があったんだ…。昼の間に水を撒いたら、水溜まりも…」
ブラウの案がいいと思うよ、ぼくは。…この方法でも駄目かい、ヒルマン?
散水システムを使う時間を変えるだけだし、非効率的でもないと思うんだけどね…?
その方法でやってみたい、とヒルマンの顔を窺った。
本物の雨が駄目だと言うなら、せめて水に濡れた公園だけでも、と考えたから。散水システムで水を撒いても、水溜まりは出来るだろうから。
「夜の間に水を撒くのは、みんなの都合を考えてだけのことだろう?」
濡れた公園より、快適に過ごせる公園の方がいいからね。
でも、それだけでは駄目なんだ。…雨も降らない船のままでは、やっぱり駄目だよ。
昼の間に水撒きしたなら、水溜まりが出来て、気分だけでも…。
雨が降ったように見える筈だ、と畳み掛けたら、ヒルマンの顔に浮かんだ笑み。
「反対する理由は全く無いね。…エネルギーの無駄にならないのなら」
それに子供たちにも、雨上がりの景色を見せてやれるよ。紛い物だがね。
所詮は公園の中だけなのだし、水の降らせ方も本物の雨とは違うのだから。
「それでもいいよ。水溜まりも出来ない船よりは」
雨は無理でも、水溜まりが出来れば充分だ。…その上に空は映らなくても。
昼の間に水を撒こう、と乗り出した膝。「その方法があったじゃないか」と。
「ですが、ソルジャー…。毎日というのは、私は賛成しかねます」
今の散水方法は色々と検討した結果なのですから、とエラが口を挟んだ。効率よく水やりをしてやるのならば、仲間たちの都合を考えて夜。昼間の散水はたまにでいい、と。
「それもそうだね…。公園が濡れていたら、困る仲間もいそうだし…」
月に一回くらいだろうか、今までは全く無かったことを思ったら。
好評だったら、様子を見ながら徐々に回数を増やしていけば…。
「そんな所じゃろうな、皆も慣れてはおらんから」
濡れた公園も気に入った、という声が上がってからでいいじゃろ、増やすのは。
最初は月に一回じゃな、と髭を引っ張ったゼル。
「皆が慣れたら、自然を真似ればいいじゃろう」と。
「では、散水を昼間に実施してみる、ということでよろしいですか?」
キャプテンとしても、反対は全くございません、とハーレイが纏めにかかった会議。
雨を真似るシステムを作る代わりに、昼間に散水。最初は月に一回程度で実施してゆく、と。
そして行われた昼間の散水。あらかじめ皆に予告した上で、時間通りに水が撒かれた。船で一番大きな公園、ブリッジが端に浮かんでいる公園で。
雨の降り方とは違ったけれども、木々も芝生もしっとりと水を含んだ散水。枝や葉先から落ちる水滴、土が見える場所には水溜まり。東屋にもベンチにも、散歩道にも降り注いだ水。
集まっていた船の誰もが、濡れた景色を楽しんだ。「本物の雨が降ったようだ」と。
ヒルマンが連れて来た子供たちだって、走り回って喜んだ。水溜まりを踏んではしゃぐ他にも、木々から滴る水に当たっては「冷たい!」だの、「頭が濡れちゃった」だのと。
(みんな、とっても大喜びで…)
最初は月に一度の予定が、早々に二度目をやることになった。二度目をやったら、次は三度目。
すっかり公園に定着したら、「他の公園でもやって欲しい」という声が出て…。
「昼間の散水、いろんな公園でやったっけね」
みんなが濡れた景色に慣れたら、それが当たり前になっちゃったから。
昼間はいつも乾いてるなんてつまらない、ってことで他の公園でも昼間に水撒き。
「うむ。一斉にやらずに、日をずらしてな」
少しでも多く楽しめる方がいいだろう、と実施する公園を俺が中心になって決めてたんだが…。
面白いもんだな、人間ってヤツは。
暫くの間はそれで良かったが、どうせやるならランダムに、っていう声が増えて来てだな…。
予告も要らん、と言うもんだから、お望み通りにしてやった。
もう文字通りに予告無しで、とハーレイは懐かしそうな顔。
月一回で始めた筈の昼間の散水、それは全部の公園が対象になって、ついには全く予告無し。
散水時間を決めるプログラムもランダムになったものだから、うっかり公園に入っていると…。
「いきなり水撒きが始まっちゃって、びしょ濡れになる仲間、いたっけね」
シールドで防ぐ暇もなくって、頭から水を被っちゃって。
其処でシールドすればいいのに、一度濡れたら、もうそれっきり。降って来ちゃった、って。
「いたなあ、そういうヤツらもな」
子供たちだって、ヒルマンもろとも濡れてたが…。
「早く入りなさい!」と、ヒルマンが東屋に走り込ませたモンだったが…。
しかし、そいつが大人気だった、とハーレイが顔を綻ばせる。「愉快だったな」と。
「俺はブリッジからよく見てたんだが、大人も子供も大はしゃぎだ」
こういうモンだ、と慣れちまってからも、プログラムはランダムのままだったから…。
やっぱり慌てて走って行くんだ、いきなり降られた仲間がな。
正確に言えば、雨じゃないんだから、水を撒かれたわけなんだが…。
「忘れちゃってたよ、あのイベント…」
子供たちは喜んで遊んでたのにね、水溜まりで。…公園に水が撒かれた時は。
「俺もすっかり忘れていたなあ、お前が話を持ち出すまでは」
昼間の水撒きで直ぐに思い出したが、それはキャプテンだったからなんだろう。定着するまでに色々考えたりもしたから、そのせいで覚えていたってわけだ。前の俺の記憶の中できちんと。
とはいえ、アルテメシアを離れた後には、もう無かったしな…。
ジョミーを迎えた時の騒ぎで、既に無くなっちまっていたが…。爆撃であちこち壊れたから。
ナスカに着いて本物の雨に感動してたが、その雨を見るまでに十二年だ。
それだけの間、ずっと宇宙を放浪していて、人類軍に発見されては追われてたしな…。
昼間にやってた水撒きのことも、水溜まりも忘れちまっていたさ。
ナスカに着いた時にはとっくに、俺はそのことを忘れてた。
前のお前が「雨を降らせたい」と言っていたことも、水溜まりを作りたいと言い出したことも。
雨上がりの虹なら、せっせと追い掛けていたんだがなあ…。
虹の橋のたもとには、宝物が埋まっていると聞いたからな、と話すハーレイ。その宝物は、深い眠りに就いてしまったソルジャー・ブルーの魂だった、と前にハーレイから聞いている。
「じゃあ、ナスカでは水溜まりの中を覗いていないの?」
ラベンダー色だったっていうナスカの空が地面にあるのは、見ていないわけ…?
「水溜まりに映っていた空か? そりゃ、気付いてはいたんだろうが…」
俺の足元にあるわけなんだし、目に入ってはいただろう。
しかし、感慨深くは見てないな。前のお前が思ったように、「空がある」と感激しちゃいない。
お前の魂を探しに行くには、水溜まりは余計なものだったんだ。
虹を追い掛けて歩くんだからな、水溜まりがあったら邪魔だろうが。
靴は汚れるし、足は滑るし…、というのが前のハーレイが感じたこと。
赤いナスカで虹がかかる度、ハーレイは虹を追っていた。虹の橋のたもとに辿り着いたら、手に入るという宝物。橋のたもとを掘り起こして。
宝物を見付けたら、眠り続けるソルジャー・ブルーの魂、それが目覚めてくれるのかも、と。
「俺の目当ては虹だったんだし、消えちまう前に追い掛けないと…」
結局、一度も辿り着けないままだったがな。…なにしろ、相手は虹なんだから。
虹を追い掛けて歩く間は、水溜まりは俺の邪魔をするもので…。
虹の橋まで辿り着けなくて帰る時には、俺はガッカリしてたから…。
水溜まりをわざわざ覗きはしないし、跨ぐか、避けて通るかだよな。…俺の前にあったら。
だから知らん、と言われたナスカの水溜まりの空。
きっとあっただろう、ラベンダー色をした空の欠片たち。雨上がりの赤いナスカの地面に。
「そうだよね…。前のハーレイ、水溜まりどころじゃなかったよね…」
ぼくがちっとも目覚めないから、虹を追い掛けて宝物探し。…前のぼくの魂。
そっちに必死になっていたなら、水溜まりの中まで楽しめないよね。水溜まりに映ったナスカの空に見惚れているより、避ける方。…その水溜まりを。
ごめんね、眠っちゃっていて…。
ずっとハーレイのことを放りっ放しで、十五年間も眠っちゃっていたなんて…。
「かまわんさ。…お前は生きててくれたんだから」
眠ったままでも、目覚めなくても、お前が生きていてくれただけで充分だった。
青の間に行けばお前がいたしな、深く眠っていただけで。
このまま地球まで行けそうだよな、と夢を見たこともあったんだ。…眠ったままでも。
もしも地球まで辿り着けたら、どうやってお前を起こしたもんか、って考えたりもな。
「ほら、着いたぞ」って起こしてやらんと駄目だから。
俺は幸せな夢を見てたし、それでいい。水溜まりに映る空なんかよりも、幸せな夢。
お前と一緒に地球に着いたら、という夢をまた見られたからな。
ところで…、とハーレイに向けられた視線。
ハーレイの話が話だっただけに、メギドへ飛んでしまったことかと思ったけれど。あんなに虹を追い掛けたのに、無駄骨だったと言われるのかと、内心ギクリとしたのだけれど。
「…お前、どうして水撒きの話になったんだ?」
シャングリラの昼間の水撒きのこと、とハーレイはまるで違う方へと話を向けた。そういう話になった理由は、今日の午後に降ってた通り雨か、と。
それもハーレイの優しさだと分かる。前のハーレイの深い悲しみを、あえて口にはしないこと。
だから自分も、それに応えることにした。ナスカで起こった悲劇は無かったかのように。
「…ううん、降ってた雨じゃなくって、帰り道に見付けた水溜まり」
バス停から家まで歩く途中で見付けたんだよ、道路にあった水溜まりをね。
それで覗いたら、水溜まりの中に頭の上の空が映ってて…。
この空は地球の空だよね、って水溜まりを覗き込んじゃった。地面にも地球の空が一杯。
水溜まりがあったら空が映るし、小さな水の雫にだって。
こういう景色は地球だから見られるんだよね、って考えていたら思い出したんだよ。子供たちがよく遊んだりしてた、シャングリラの公園の水溜まりのことを。
それで水溜まりが出来た原因の方に頭が行っちゃった、とハーレイにきちんと説明したら。
「なるほどな…。地面にも地球の空が一杯だったか、水溜まりに映るもんだから」
そりゃ良かったなあ、嬉しかっただろう?
頭の上には地球の空があって、足の下にも地球の空が幾つもあるわけだしな。
「そうだよ、空の欠片が一杯。感動しちゃった」
水溜まりを端から覗きながら帰って、家の庭でも見ていたよ。…水溜まりは無かったんだけど。
ぼくの家の庭、芝生だから…。水はけが良すぎて、水溜まりは無し。
だからね、水の雫を覗いたわけ。
庭でハーレイと使うテーブルと椅子に、水の雫が幾つもあって…。
それを覗いたら、庭の景色と一緒に空も映ってた。小さいけど、ちゃんと地球の空がね。
次はハーレイと一緒に覗きたいな、と持ちかけた。
水の雫を覗くだけなら、家の庭でも出来るから。雨上がりなら、いつでも出来ることだから。
「いいでしょ、庭に出て覗こうよ」
雨が止んでから直ぐの時なら、水溜まりだって何処かにありそう。花壇とかに。
覗いたら地球の空が見えるよ、ハーレイと一緒に見てみたいな。地面に落ちてる空の欠片を。
この次に雨が降った時に…、と頼んだら。
「水溜まりもいいが、もっとデカいスケールでいこうじゃないか」
せっかく地球の空が映るのを見るんだからなあ、どうせだったら逆さ富士とか。
そういうのをな、と言われたけれども、掴めない意味。
「逆さ富士?」
それって何なの、どんなものなの?
水溜まりよりも大きいってことは分かるけれども、逆さ富士なんて知らないよ…?
「知らんだろうなあ、今は無いから。…富士山って山は知っているだろ?」
昔の日本で一番高くて、綺麗だと言われていた山だ。
その富士山は、今は何処にも無いがだな…。まだ富士山があった頃に、だ…。
人気だったのが逆さ富士だ、とハーレイが教えてくれたこと。
富士山の麓にあった湖、其処に逆さに映る富士山。その風景が逆さ富士。
それが美しかったというから、見に出掛けようという話。富士山はもう無いのだけれども、他の湖や山があるから。湖に映る姿が美しい山は、今の時代もあちこちに。
そういう湖がハーレイのお勧め。地球の空も景色もそっくりそのまま、映し出す湖面。
「いいね、大きな水溜まりだね」
水溜まりだなんて名前で呼んだら、湖が怒りそうだけど…。だけど、大きな水溜まり。
うんと大きな空が映って、地球の景色も映るんだね?
「そういうことだな、同じ水溜まりならデカいのがいい」
いつか二人で見に行こう。お前が大きくなったら旅行だ、そういう景色が見られる場所へ。
シャングリラの水溜まりとはスケールが違うぞ、相手は湖なんだから。
あのシャングリラよりも遥かにデカい湖、地球には幾つもあるんだからな。
もちろん普通の水溜まりだって二人で見よう、とハーレイは約束してくれた。
この次に雨が降って来た時、一緒にいる間に止んだなら。晴れて青空が覗いたら。
まだ水溜まりがありそうな内に庭に出てみて、地面の上の小さな空の欠片を眺める。水溜まりを二人で覗き込んで。
「地面の上にも地球の空があるね」と、「そうだな」と頷き合ったりして。
ハーレイと二人で青い地球までやって来たから、それが見られる。地面の上の空の欠片が。
もっと大きな水溜まりみたいな、湖にだって出掛けてゆける。
いつか自分が大きくなったら、水溜まりよりを覗くよりもずっと素敵な、空を映し出す湖へ。
(…逆さ富士、今だと、どんな景色になるのかな…?)
湖に映る景色の方も、それを映し出す湖も。…ハーレイのお勧め、今の時代の逆さ富士。
ハーレイと二人で暮らし始めたら、地球の大きな湖に映る空を、景色を眺めにゆこう。
この星は水の星だから。
地面の上にも、空を映す水がある星だから。
前の自分が焦がれ続けた、青い地球ならではの水溜まり。
湖という名のとても大きな水溜まりにだって、地球の空が綺麗に映るのだから…。
水溜まり・了
※ブルーが気付いた、水溜まりの中に映った空。シャングリラでは見られなかった光景。
船にあったのは、ただの水溜まりだけ。けれど喜んだ仲間たち。今なら水溜まりどころか湖。
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通り雨、とブルーが眺める窓の外。学校からの帰りに、いつもの路線バスの中から。
午後の授業の時間に、いきなり降って来た雨。晴れていた空が急に曇ったかと思うと、突然に。
最初はパラパラ、それから本降り。叩き付けるように激しく降ったのだけれど…。
帰る時間までには止んで、今ではすっかり青い空。雨など降ってはいなかったように。
(でも、降った証拠…)
バスの窓には、ちょっぴり水滴。このバスはきっと、雨の間も何処かを走っていたのだろう。
雨が降り続けている間だったら、雨粒は窓を流れるけれど。バスが走れば後ろの方へと、ガラス伝いに走るのだけれど…。
雨の名残の水の雫は、もう動かない。窓に貼り付いて微かに揺れているだけ。
(その内に乾いて消えちゃうんだよ)
太陽の光と、雨上がりの空気に吸い取られて。「空へお帰り」と連れてゆかれて。
雫が全部消えてしまったら、バスの窓だって元通り。ちょっぴりの埃がガラスに残って、雨粒の形を教えてくれるかもしれないけれど。
(…ぼくが乗ってる間は無理そう…)
ほんの少ししか乗らないから、と思う間に着いたバス停。家の近くの。
バスから降りて歩く途中に、道に見付けた水溜まり。道路は平らなように見えても、沢山の車がへこみを作ってゆくもの。普段は全く分からないけれど、雨が降ったらよく分かる。
(こうやって水が溜まるから…)
雨が降った証拠、と水溜まりの中を覗き込んだら青い空。
何の気なしに見たのだけれども、水溜まりの中は舗装されている道路ではなくて…。
(映ってる…)
地球の空が、と仰いだ遥か頭の上。今は青空、ぽっかりと白い雲が幾つか。
それがそっくり映っていた。水溜まりが鏡になったみたいに。
地面にも地球の空があるよ、と気付いたら、とても素敵な気分。
前の自分が焦がれた地球。青い水の星にいつか行こうと、行きたいと願い続けていた。
遠く遥かな時の彼方で、地球を夢見たソルジャー・ブルー。けれど、叶わなかった夢。
(…行く前に死んでしまったから…)
夢の星のままで終わった地球。あの頃の地球は死の星だったと、知りもしないで。青い水の星が何処かにあると信じたままで。
(今はホントに青い地球だよ)
それに自分は地球まで来た。新しい命と身体を貰って、蘇った青い地球の上に。
水溜まりの中にも、その地球の空。頭の上にも、地面の上にも、「此処は地球だ」と空がある。青く澄み切って、白い雲まで浮かべた空が。
(水溜まり…)
もっと無いかな、と嬉しくなった水溜まりの中に映る空。地面に散らばる青空の欠片。
それが見たくて、もっと見付けたくて、水溜まりを探しながら歩いた道。あそこにもあるよ、と道を渡ったり、「次はあっち」と急いだり。
生垣に囲まれた家に着いても、探したくなる水溜まり。門扉を開けて入ったけれども…。
(…庭は無理かな?)
芝生の上には、見付けられない水溜まり。芝生は水はけがいいものだから、窪んでいたって水は溜まらない。直ぐに吸い込まれて消えてしまって。
(うーん…)
こっちはどうかな、と見に行った庭で一番大きな木の下。
其処に置かれた白いテーブルと椅子に、雨の名残がくっついていた。庭の景色が主だけれども、よく見れば青い空の欠片も映った水滴。
(殆ど庭の景色なんだけど…)
よし、と眺めた幾つもの水の雫たち。
地球の空の欠片が地面の上にも一杯だよ、と。ぼくの家の庭の中にもあるよ、と。
家に入って、制服を脱いで。ダイニングでおやつを食べる間にも眺めた外。
ダイニングの大きなガラス窓の向こう、青空と、たまに木の枝などから落ちる水滴。急に降った雨が庭に残した、水の粒がポタリと落ちてゆく。家の軒やら、木の葉先から滴って。
あの水たちも、やがて庭から消える。太陽の光と風が空へと連れ戻すから。
そうでなければ地面に吸われて、土の下へと潜り込んで。
(…さっき見た道路の水溜まりも…)
白いテーブルと椅子についた雫も、その内に消えてゆくのだろう。
水溜まりや雫が消えていったら、空たちも消える。今は地面に落ちている欠片、水溜まりや雫に映った地球の空たちは。
(…空の欠片が地面に一杯…)
いずれ空へと帰るのだけれど、なんとも心が弾む光景。
空を仰げば本物の空で、地面の上には空の欠片たち。それも本物の地球の空。
(…こんな体験、地球でないとね?)
出来っこないよ、と外を見ながら食べていたおやつ。「ぼくが地球まで来たからだよ」と。
おやつを食べ終えて部屋に帰っても、窓から外を覗いてみる。
(此処から見たって…)
空は映っていないんだけど、と濡れた木々の枝を見れば、やっぱり雫。
もっと近くに寄ってみたなら、あの雫にも空があるのだろう。ポタリと滴り落ちる前にも、下へ向かって落ちる時にも。
まあるい水の鏡になって、空を映しているだろう雫。
空から降って来た雨の粒たちは、空の欠片を連れて来る。まるで空からの贈り物のよう。
「地面の上にも空をどうぞ」と、「好きなだけ眺めて下さいね」と。
ホントに地球でなきゃ見られない景色、と考える。地球の空からのプレゼント。
雨が降ったら、地面にも空。水溜まりの中を覗き込んだら、水の雫たちを覗いてみたら。
(…前のぼくだと…)
前の自分が見ていた雨。白いシャングリラが長く潜んだ雲海の星、アルテメシア。
あの星にも雨は降ったけれども、其処で水溜まりに空が映っても…。
(アルテメシアの空なんだよ)
地面に落ちた空の欠片は、アルテメシアの空でしかない。前の自分が焦がれ続けた、青い地球の空とは違ったもの。同じ空でも、天と地ほどに違う空。
だから、しみじみ覗いてもいない。地面の上に空を見付けても。雨上がりだったアルテメシアに降りても、水溜まりに空が映っていても。
(地球に行っても、こんな風かな、って…)
思った程度で、感激などはしなかった。
地面に落ちた空の欠片が幾つあっても。「映ってるな」と気付いた時も。
アルテメシアでさえ、そういった具合だったから。水溜まりを探して歩きはしないし、あちこち覗き込んだりもしない。「此処にも空があるだろうか」と、水溜まりや水の雫の中を。
曲がりなりにも雨が降っていたアルテメシア。
テラフォーミングされた星でも、雨は空から降ってくるもの。
けれど…。
(シャングリラだと…)
空の欠片を見付けるどころか、雨さえ降らなかった船。
いくらシャングリラが巨大な船でも、所詮は閉ざされた小さな世界。空も地面も何も無かった。船の周りに雲はあっても、雲海の中を飛ぶ船でも。
雨が無かったシャングリラ。踏みしめる地面も持たずに生きていたミュウたち。
白いシャングリラはそういう船だし、雨が降らないから水溜まりなんて、と思ったけれど。あの船の中に小さな空の欠片たちが、落ちていた筈もないのだけれど…。
(公園…)
不意に頭を掠めた記憶。シャングリラが誇った広い公園、ブリッジが浮かんでいた公園。
一面の芝生だったけれども、そうでない場所も幾つかあった。芝生の下の土が見えている場所。散歩道やら、子供が遊ぶための場所やら、土と触れ合うための場所。地面の代わり。
そういった場所に、たまに水溜まりが出来ていた。
(今日の帰りの道路みたいに…)
自然に窪んでしまった所。通る仲間や、遊ぶ子供の足に踏まれて低くなった部分。
水溜まりは其処に姿を現わし、子供たちがはしゃいだりもしていた。歓声を上げて、小さな足で踏んで回っていた水溜まり。
水溜まりの中で遊んでいたなら、靴が汚れてしまうのに。バシャバシャと踏んで走り回ったら、土を含んだ水が飛び散って、服まで汚れてしまうのに。
(子供たち、遊んでいたんだっけ…)
公園にあった水溜まりで、と懐かしく蘇って来た光景。それは賑やかに、水溜まりと戯れていた子供たち。広い公園にそれが出来たら、地面を模した土の上に水があったなら。
そうだった、と思うけれども、その水溜まり。子供たちの足が跳ね上げた水。土が混じっていた筈なのだし、靴も、子供たちの服も台無し。
せっかく係が洗ったのに。毎日、綺麗な服を着られるよう、心を配っていた係。
子供たちの靴も、養育部門の者たちがせっせと磨いていた。小さな子供は靴の手入れどころか、下手をすれば裸足で走りかねないほどだから。
(…非効率的…)
昼間に散水するなんて、と水溜まりのことを考えた。
あの公園に出来た水溜まりは、散水で出来たものだから。芝生や木たちに水をやろうと、公園に備えられた散水用のシステム。それが撒いた水で水溜まりが出来て、遊んでいたのが子供たち。
夜の間に済ませておいたら、水溜まりは朝までに消えるのに。
そうしておいたら、子供たちの服や靴などが、泥で汚れはしないのに。
非効率的だとしか思えないのが、あの水溜まり。
子供たちの服を洗う係や、靴を磨いていた仲間たち。彼らの手間を増やした悪者、それが公園の水溜まり。もしも水溜まりが無かったならば、子供たちは其処で遊ばないのに。
(…なんで昼間にやってたわけ?)
あの水撒きを。
遊ぶのが好きな小さな子たちは、ヒルマンが止めても聞くわけがない。水溜まりがあったら遊び始めるし、服も、靴だって泥だらけ。
そうなることが見えているのに、昼間に公園に撒かれた水。窪みに溜まってしまう水。
しかも、毎日ではなかった昼間の散水。毎日だったら、公園の木々には欠かせないものだと思うけれども、水溜まりが出来ていたのは毎日ではない。夜の間に散水した日もあったのだろう。
(非効率的だって分かっていたから、夜だよね?)
夜の方が何かと便利な筈だ、と今の自分にも分かること。公園は皆の憩いの場だから、来た時に水を撒かれたならば…。
(公園から逃げるか、東屋に入ってやり過ごすか…)
そのどちらかしか無かった筈。雨が降らないシャングリラには、雨傘などは無かったから。
シールドで水を防ぐにしたって、それでは水は防げても…。
(公園に来た意味が無いよね?)
一息つこう、と来たのだろうに、いきなり上から降り注ぐ水。のんびり過ごそうと選んだ公園、其処で張らねばならないシールド。
(それじゃサイオンの訓練だってば…!)
シールドが嫌なら公園を出るか、東屋に飛び込んで雨宿りならぬ散水よけ。今日はこれだけ、と撒かれる水が止まるまで。…もう水の粒は落ちて来ない、と分かるまで。
(迷惑すぎるよ…)
非効率的な上に、うんと迷惑、と考えてしまう昼間の散水。
子供たちの服や靴は泥にまみれて、大人たちは憩いの場所が台無し。それに憩いの時間だって。
なんとも解せない、昼間にやっていた散水。公園に出来ていた水溜まり。
何故、あんなことをしたのだろう、と首を傾げていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「あのね、シャングリラの公園…。ブリッジが見えた、一番広い公園だけど…」
なんで昼間に水撒きしてたの、あそこって?
「はあ? 水撒きって…?」
なんの話だ、とハーレイは怪訝そうな顔。「あそこの水撒きがどうかしたのか?」と。
「そのままだってば、水撒きをする話だよ。…その時間のこと」
たまにやってたでしょ、昼間に水撒き。いつもは昼間じゃなかったのに。
昼間にやるから、あちこちに水溜まりが出来ちゃって…。其処で子供たちが遊んでいたよ。
水溜まりの中に足を突っ込んだり、踏んづけて走り回ったり。
子供たちが着ていた服も、靴だって、水溜まりで遊ぶと泥だらけ…。
そうなっちゃうのに決まっているから、水を撒くのは夜の間にしておけばいいのに…。
でなきゃ、子供は公園に立ち入り禁止だとか。…水溜まりがちゃんと消えるまで。
どうしても昼間に撒くんだったら、その方がずっと良さそうだよ。
公園に来た大人も、いきなり水が撒かれちゃったら困っちゃうでしょ…?
昼間に撒くのは非効率的だよ、と述べてみた今の自分の意見。それなのに何故、と時の彼方ではキャプテンだった恋人に訊いてみたのだけれど…。
「おいおいおい…。忘れちまったのか?」
昼間には意味があったんだぞ、とハーレイは目を丸くした。「なんてこった」と。そして続けてこうも言われた。「そもそも、お前が原因なんだが?」と。
「原因って…。ぼくが?」
前のぼくなの、昼間に公園で水撒きしていた理由って…?
どうして、と今度はこちらが驚く番。前の自分は、いったい何をしたのだろう?
「本当に忘れちまったのか…。仕方ないヤツだな、お前が自分で言い出したくせに」
前のお前が言ったんだぞ。雨も降らない船なんて、とな。
「あ…!」
ホントだ、前のぼくだった…。雨が降らない、って言ったんだっけ…。
思い出した、と戻って来た記憶。ソルジャー・ブルーと呼ばれていた頃。
シャングリラは白い鯨に改造されて、アルテメシアの雲海の中を居場所に決めた。人類が住んでいる星だったら、いざという時に頼りにもなる。物資の調達が容易だから。
消えない雲海と船そのものを隠すステルス・デバイス、それさえあれば安心な船。
白いシャングリラは名前通りにミュウの楽園、白い鯨の形の箱舟。
船の中だけが世界の全てだけれども、自給自足で生きてゆけるし、何も不自由はしなかった。
(公園だって、船に幾つも…)
ブリッジが見える広い公園と、居住区に鏤められた公園。
どの公園にも人工の風が吹いたものだし、水撒きは何処も夜の間に。昼間に撒くと、仲間たちの憩いの場所が駄目になる。ベンチも何もかも濡れてしまうし、居合わせた仲間も濡れるから。
そういう風に決めたプログラム。散水は人がいない夜間に、自動で。
けれども、前の自分がアルテメシアに降り立った時に…。
(水溜まり…)
雨上がりに降りた、郊外の野原。其処に水溜まりがあった。たまたま土が窪んでいて。
その水溜まりに映った空に気付いて、覗き込んだ。「こんな所に空がある」と。
空を映していた水溜まり。まるで自然の鏡のように。
いつか行きたい地球の空もきっと、こういう風に映るのだろう。雨が降ったら。
(シャングリラには、空なんか無かったから…)
考えたこともなかった景色。水さえあったら、空が地面に映るだなんて。
シャングリラには無いのが空。何処も天井が見えるだけ。せいぜい、公園の天窓くらい。船では一番広い公園、その上に窓はあるけれど…。
(…いつも雲の中で、空なんか…)
見えはしないし、その上、肝心の水溜まり。それさえも船では目にしない。
どの公園も夜の間に散水するから、朝には消えてしまっている水。その雫さえも残さずに。
(船の外なら、空から雨が降って来て…)
こういう水溜まりも出来る。自然に出来た窪みに溜まって、空を映している水溜まり。
シャングリラの中には無い空を。…青く晴れ渡った、雨上がりの空を。
地球でもきっとこう見えるだろう、と暫く見ていた水の中の空。地面の上に映し出された空。
テラフォーミングで人が住めるようになった星でも、水溜まりを覗けば空がある。地球の空とは違っていたって、空は空。
なのに、シャングリラは水溜まりさえも出来ない船。
空が無いどころか、その空を映す水溜まりの一つも無いのが今のシャングリラ。
(これじゃ駄目だ、って…)
そう思ったから、招集した会議。キャプテンと、長老の四人を集めて提案した。シャングリラの公園に雨を降らせることは無理だろうか、と。
「本物の雨が無理だというのは分かっている。…だが、似せることは出来るだろう?」
今の公園の散水システム、あれを改造してやれば。…雨そっくりに水を撒けるような形に。
「出来ないことはないだろうがね…」
今の設備が無駄になる、とヒルマンが答えた。「それに非効率的でもあるね」と。
少ない水でも木々に充分に行き渡るよう、出来ているのが今のシステム。それの代わりに、ただザーザーと降らせるだけでは、水だって無駄になるのだから、と。
「でも…。今は水溜まりも無い船なんだよ、シャングリラは」
「水溜まり…?」
それはいったい、と誰もが不思議そうな顔をしたけれど、「水溜まりだよ」と繰り返した。
「アルテメシアで水溜まりを見たんだ。その中に空が映っていたよ」
雨上がりの青く晴れた空がね。あれが自然な景色なんだよ、水溜まりも無い船と違って。
「この船に自然は無いんじゃがな?」
空も無いわい、とゼルが呆れた風に鼻を鳴らしたけれども、諦めずに続けようとした説得。
「自然は無くても、真似られるよ。公園に雨を降らせたら」
「それを言うなら、雨とセットで雪も降らせようって言うのかい?」
そこまでやるなら賛成だけどね、と笑ったのがブラウ。
「雪が降ったら楽しいけれども、そんな余裕は無い船だよ」とも。
いくらこの船が楽園の名前を持っていたって、雪を降らせる余裕までは…、と。
ブラウにも笑い飛ばされた雨。しかも「雪まで降らせたいのか」と。
雪は考えてもいなかったけれど、魅力的な言葉ではあった。アルテメシアには雪も降るから。
「…雪…。雨が出来るのなら、雪だって…」
降らせられそうな気がするよ。人工の雪があると聞くから、冬になったら…。
雪も降らせてはどうだろう、と更に推し進めた話。シャングリラの公園に雨と雪を、と。
けして不可能ではなさそうだから。検討する価値はありそうなように思えたから。
けれど、ヒルマンは賛成してはくれなかった。
「雪を降らせることは可能だ。雨と同じで、システムを作り替えさえすれば」
ただ、問題がありすぎる。この船は確かに楽園だがね…。
そうした部分にエネルギーを割くより、もっと有効に利用しないと。船の中が全てなのだから。
「…駄目かな?」
雪はともかく、雨の方も…?
公園に降らせられたらいいのに、と言い募っても、ゼルにまで「駄目じゃ!」と否定された。
「余計なエネルギーは回せん、たかが水撒きの話じゃからな」
第一、システムの改造だけでも手間暇がかかる。今のシステムで充分なんじゃ!
さっきブラウも余裕が無いと言ったじゃろうが、と水を向けられたブラウは頷いたけれど。
「でもねえ…。ソルジャーの案にも一理あるねえ、雨が降らないのは本当だから」
そうは言っても、雨を降らせる余裕は無いし…。もちろん雪もね。
だからさ、昼間に水撒きするっていうのはどうだい?
今は夜中にやっているのを、昼間に変えれば公園はずぶ濡れになるわけだろう?
そうすりゃ水溜まりも出来るだろうさ、とブラウが出した代替案。
雨とはかなり違うけれども、散水すれば木々は濡れるし、きっと水溜まりも出来る筈。今よりは自然に近付くだろう、と。気分だけでも雨が降った後を味わえるのでは、と。
「そうか、その手があったんだ…。昼の間に水を撒いたら、水溜まりも…」
ブラウの案がいいと思うよ、ぼくは。…この方法でも駄目かい、ヒルマン?
散水システムを使う時間を変えるだけだし、非効率的でもないと思うんだけどね…?
その方法でやってみたい、とヒルマンの顔を窺った。
本物の雨が駄目だと言うなら、せめて水に濡れた公園だけでも、と考えたから。散水システムで水を撒いても、水溜まりは出来るだろうから。
「夜の間に水を撒くのは、みんなの都合を考えてだけのことだろう?」
濡れた公園より、快適に過ごせる公園の方がいいからね。
でも、それだけでは駄目なんだ。…雨も降らない船のままでは、やっぱり駄目だよ。
昼の間に水撒きしたなら、水溜まりが出来て、気分だけでも…。
雨が降ったように見える筈だ、と畳み掛けたら、ヒルマンの顔に浮かんだ笑み。
「反対する理由は全く無いね。…エネルギーの無駄にならないのなら」
それに子供たちにも、雨上がりの景色を見せてやれるよ。紛い物だがね。
所詮は公園の中だけなのだし、水の降らせ方も本物の雨とは違うのだから。
「それでもいいよ。水溜まりも出来ない船よりは」
雨は無理でも、水溜まりが出来れば充分だ。…その上に空は映らなくても。
昼の間に水を撒こう、と乗り出した膝。「その方法があったじゃないか」と。
「ですが、ソルジャー…。毎日というのは、私は賛成しかねます」
今の散水方法は色々と検討した結果なのですから、とエラが口を挟んだ。効率よく水やりをしてやるのならば、仲間たちの都合を考えて夜。昼間の散水はたまにでいい、と。
「それもそうだね…。公園が濡れていたら、困る仲間もいそうだし…」
月に一回くらいだろうか、今までは全く無かったことを思ったら。
好評だったら、様子を見ながら徐々に回数を増やしていけば…。
「そんな所じゃろうな、皆も慣れてはおらんから」
濡れた公園も気に入った、という声が上がってからでいいじゃろ、増やすのは。
最初は月に一回じゃな、と髭を引っ張ったゼル。
「皆が慣れたら、自然を真似ればいいじゃろう」と。
「では、散水を昼間に実施してみる、ということでよろしいですか?」
キャプテンとしても、反対は全くございません、とハーレイが纏めにかかった会議。
雨を真似るシステムを作る代わりに、昼間に散水。最初は月に一回程度で実施してゆく、と。
そして行われた昼間の散水。あらかじめ皆に予告した上で、時間通りに水が撒かれた。船で一番大きな公園、ブリッジが端に浮かんでいる公園で。
雨の降り方とは違ったけれども、木々も芝生もしっとりと水を含んだ散水。枝や葉先から落ちる水滴、土が見える場所には水溜まり。東屋にもベンチにも、散歩道にも降り注いだ水。
集まっていた船の誰もが、濡れた景色を楽しんだ。「本物の雨が降ったようだ」と。
ヒルマンが連れて来た子供たちだって、走り回って喜んだ。水溜まりを踏んではしゃぐ他にも、木々から滴る水に当たっては「冷たい!」だの、「頭が濡れちゃった」だのと。
(みんな、とっても大喜びで…)
最初は月に一度の予定が、早々に二度目をやることになった。二度目をやったら、次は三度目。
すっかり公園に定着したら、「他の公園でもやって欲しい」という声が出て…。
「昼間の散水、いろんな公園でやったっけね」
みんなが濡れた景色に慣れたら、それが当たり前になっちゃったから。
昼間はいつも乾いてるなんてつまらない、ってことで他の公園でも昼間に水撒き。
「うむ。一斉にやらずに、日をずらしてな」
少しでも多く楽しめる方がいいだろう、と実施する公園を俺が中心になって決めてたんだが…。
面白いもんだな、人間ってヤツは。
暫くの間はそれで良かったが、どうせやるならランダムに、っていう声が増えて来てだな…。
予告も要らん、と言うもんだから、お望み通りにしてやった。
もう文字通りに予告無しで、とハーレイは懐かしそうな顔。
月一回で始めた筈の昼間の散水、それは全部の公園が対象になって、ついには全く予告無し。
散水時間を決めるプログラムもランダムになったものだから、うっかり公園に入っていると…。
「いきなり水撒きが始まっちゃって、びしょ濡れになる仲間、いたっけね」
シールドで防ぐ暇もなくって、頭から水を被っちゃって。
其処でシールドすればいいのに、一度濡れたら、もうそれっきり。降って来ちゃった、って。
「いたなあ、そういうヤツらもな」
子供たちだって、ヒルマンもろとも濡れてたが…。
「早く入りなさい!」と、ヒルマンが東屋に走り込ませたモンだったが…。
しかし、そいつが大人気だった、とハーレイが顔を綻ばせる。「愉快だったな」と。
「俺はブリッジからよく見てたんだが、大人も子供も大はしゃぎだ」
こういうモンだ、と慣れちまってからも、プログラムはランダムのままだったから…。
やっぱり慌てて走って行くんだ、いきなり降られた仲間がな。
正確に言えば、雨じゃないんだから、水を撒かれたわけなんだが…。
「忘れちゃってたよ、あのイベント…」
子供たちは喜んで遊んでたのにね、水溜まりで。…公園に水が撒かれた時は。
「俺もすっかり忘れていたなあ、お前が話を持ち出すまでは」
昼間の水撒きで直ぐに思い出したが、それはキャプテンだったからなんだろう。定着するまでに色々考えたりもしたから、そのせいで覚えていたってわけだ。前の俺の記憶の中できちんと。
とはいえ、アルテメシアを離れた後には、もう無かったしな…。
ジョミーを迎えた時の騒ぎで、既に無くなっちまっていたが…。爆撃であちこち壊れたから。
ナスカに着いて本物の雨に感動してたが、その雨を見るまでに十二年だ。
それだけの間、ずっと宇宙を放浪していて、人類軍に発見されては追われてたしな…。
昼間にやってた水撒きのことも、水溜まりも忘れちまっていたさ。
ナスカに着いた時にはとっくに、俺はそのことを忘れてた。
前のお前が「雨を降らせたい」と言っていたことも、水溜まりを作りたいと言い出したことも。
雨上がりの虹なら、せっせと追い掛けていたんだがなあ…。
虹の橋のたもとには、宝物が埋まっていると聞いたからな、と話すハーレイ。その宝物は、深い眠りに就いてしまったソルジャー・ブルーの魂だった、と前にハーレイから聞いている。
「じゃあ、ナスカでは水溜まりの中を覗いていないの?」
ラベンダー色だったっていうナスカの空が地面にあるのは、見ていないわけ…?
「水溜まりに映っていた空か? そりゃ、気付いてはいたんだろうが…」
俺の足元にあるわけなんだし、目に入ってはいただろう。
しかし、感慨深くは見てないな。前のお前が思ったように、「空がある」と感激しちゃいない。
お前の魂を探しに行くには、水溜まりは余計なものだったんだ。
虹を追い掛けて歩くんだからな、水溜まりがあったら邪魔だろうが。
靴は汚れるし、足は滑るし…、というのが前のハーレイが感じたこと。
赤いナスカで虹がかかる度、ハーレイは虹を追っていた。虹の橋のたもとに辿り着いたら、手に入るという宝物。橋のたもとを掘り起こして。
宝物を見付けたら、眠り続けるソルジャー・ブルーの魂、それが目覚めてくれるのかも、と。
「俺の目当ては虹だったんだし、消えちまう前に追い掛けないと…」
結局、一度も辿り着けないままだったがな。…なにしろ、相手は虹なんだから。
虹を追い掛けて歩く間は、水溜まりは俺の邪魔をするもので…。
虹の橋まで辿り着けなくて帰る時には、俺はガッカリしてたから…。
水溜まりをわざわざ覗きはしないし、跨ぐか、避けて通るかだよな。…俺の前にあったら。
だから知らん、と言われたナスカの水溜まりの空。
きっとあっただろう、ラベンダー色をした空の欠片たち。雨上がりの赤いナスカの地面に。
「そうだよね…。前のハーレイ、水溜まりどころじゃなかったよね…」
ぼくがちっとも目覚めないから、虹を追い掛けて宝物探し。…前のぼくの魂。
そっちに必死になっていたなら、水溜まりの中まで楽しめないよね。水溜まりに映ったナスカの空に見惚れているより、避ける方。…その水溜まりを。
ごめんね、眠っちゃっていて…。
ずっとハーレイのことを放りっ放しで、十五年間も眠っちゃっていたなんて…。
「かまわんさ。…お前は生きててくれたんだから」
眠ったままでも、目覚めなくても、お前が生きていてくれただけで充分だった。
青の間に行けばお前がいたしな、深く眠っていただけで。
このまま地球まで行けそうだよな、と夢を見たこともあったんだ。…眠ったままでも。
もしも地球まで辿り着けたら、どうやってお前を起こしたもんか、って考えたりもな。
「ほら、着いたぞ」って起こしてやらんと駄目だから。
俺は幸せな夢を見てたし、それでいい。水溜まりに映る空なんかよりも、幸せな夢。
お前と一緒に地球に着いたら、という夢をまた見られたからな。
ところで…、とハーレイに向けられた視線。
ハーレイの話が話だっただけに、メギドへ飛んでしまったことかと思ったけれど。あんなに虹を追い掛けたのに、無駄骨だったと言われるのかと、内心ギクリとしたのだけれど。
「…お前、どうして水撒きの話になったんだ?」
シャングリラの昼間の水撒きのこと、とハーレイはまるで違う方へと話を向けた。そういう話になった理由は、今日の午後に降ってた通り雨か、と。
それもハーレイの優しさだと分かる。前のハーレイの深い悲しみを、あえて口にはしないこと。
だから自分も、それに応えることにした。ナスカで起こった悲劇は無かったかのように。
「…ううん、降ってた雨じゃなくって、帰り道に見付けた水溜まり」
バス停から家まで歩く途中で見付けたんだよ、道路にあった水溜まりをね。
それで覗いたら、水溜まりの中に頭の上の空が映ってて…。
この空は地球の空だよね、って水溜まりを覗き込んじゃった。地面にも地球の空が一杯。
水溜まりがあったら空が映るし、小さな水の雫にだって。
こういう景色は地球だから見られるんだよね、って考えていたら思い出したんだよ。子供たちがよく遊んだりしてた、シャングリラの公園の水溜まりのことを。
それで水溜まりが出来た原因の方に頭が行っちゃった、とハーレイにきちんと説明したら。
「なるほどな…。地面にも地球の空が一杯だったか、水溜まりに映るもんだから」
そりゃ良かったなあ、嬉しかっただろう?
頭の上には地球の空があって、足の下にも地球の空が幾つもあるわけだしな。
「そうだよ、空の欠片が一杯。感動しちゃった」
水溜まりを端から覗きながら帰って、家の庭でも見ていたよ。…水溜まりは無かったんだけど。
ぼくの家の庭、芝生だから…。水はけが良すぎて、水溜まりは無し。
だからね、水の雫を覗いたわけ。
庭でハーレイと使うテーブルと椅子に、水の雫が幾つもあって…。
それを覗いたら、庭の景色と一緒に空も映ってた。小さいけど、ちゃんと地球の空がね。
次はハーレイと一緒に覗きたいな、と持ちかけた。
水の雫を覗くだけなら、家の庭でも出来るから。雨上がりなら、いつでも出来ることだから。
「いいでしょ、庭に出て覗こうよ」
雨が止んでから直ぐの時なら、水溜まりだって何処かにありそう。花壇とかに。
覗いたら地球の空が見えるよ、ハーレイと一緒に見てみたいな。地面に落ちてる空の欠片を。
この次に雨が降った時に…、と頼んだら。
「水溜まりもいいが、もっとデカいスケールでいこうじゃないか」
せっかく地球の空が映るのを見るんだからなあ、どうせだったら逆さ富士とか。
そういうのをな、と言われたけれども、掴めない意味。
「逆さ富士?」
それって何なの、どんなものなの?
水溜まりよりも大きいってことは分かるけれども、逆さ富士なんて知らないよ…?
「知らんだろうなあ、今は無いから。…富士山って山は知っているだろ?」
昔の日本で一番高くて、綺麗だと言われていた山だ。
その富士山は、今は何処にも無いがだな…。まだ富士山があった頃に、だ…。
人気だったのが逆さ富士だ、とハーレイが教えてくれたこと。
富士山の麓にあった湖、其処に逆さに映る富士山。その風景が逆さ富士。
それが美しかったというから、見に出掛けようという話。富士山はもう無いのだけれども、他の湖や山があるから。湖に映る姿が美しい山は、今の時代もあちこちに。
そういう湖がハーレイのお勧め。地球の空も景色もそっくりそのまま、映し出す湖面。
「いいね、大きな水溜まりだね」
水溜まりだなんて名前で呼んだら、湖が怒りそうだけど…。だけど、大きな水溜まり。
うんと大きな空が映って、地球の景色も映るんだね?
「そういうことだな、同じ水溜まりならデカいのがいい」
いつか二人で見に行こう。お前が大きくなったら旅行だ、そういう景色が見られる場所へ。
シャングリラの水溜まりとはスケールが違うぞ、相手は湖なんだから。
あのシャングリラよりも遥かにデカい湖、地球には幾つもあるんだからな。
もちろん普通の水溜まりだって二人で見よう、とハーレイは約束してくれた。
この次に雨が降って来た時、一緒にいる間に止んだなら。晴れて青空が覗いたら。
まだ水溜まりがありそうな内に庭に出てみて、地面の上の小さな空の欠片を眺める。水溜まりを二人で覗き込んで。
「地面の上にも地球の空があるね」と、「そうだな」と頷き合ったりして。
ハーレイと二人で青い地球までやって来たから、それが見られる。地面の上の空の欠片が。
もっと大きな水溜まりみたいな、湖にだって出掛けてゆける。
いつか自分が大きくなったら、水溜まりよりを覗くよりもずっと素敵な、空を映し出す湖へ。
(…逆さ富士、今だと、どんな景色になるのかな…?)
湖に映る景色の方も、それを映し出す湖も。…ハーレイのお勧め、今の時代の逆さ富士。
ハーレイと二人で暮らし始めたら、地球の大きな湖に映る空を、景色を眺めにゆこう。
この星は水の星だから。
地面の上にも、空を映す水がある星だから。
前の自分が焦がれ続けた、青い地球ならではの水溜まり。
湖という名のとても大きな水溜まりにだって、地球の空が綺麗に映るのだから…。
水溜まり・了
※ブルーが気付いた、水溜まりの中に映った空。シャングリラでは見られなかった光景。
船にあったのは、ただの水溜まりだけ。けれど喜んだ仲間たち。今なら水溜まりどころか湖。
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