シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
ハーレイの涙
「あれっ、ハーレイ?」
どうしたの、と恋人に向かって尋ねたブルー。休日の午後に。
今日は土曜日、午前中からハーレイが家に来てくれた。お昼御飯もこの部屋で二人、ゆっくり。午後のお茶は庭か部屋かと迷って、部屋の方を選んだ。
庭で一番大きな木の下、据えてある白いテーブルと椅子。其処に行くのも素敵だけれど、庭だと気になる両親の視線。ダイニングからも庭は見えるし、リビングからも。一階の他の場所からも。
ハーレイと初めてデートした場所が、庭で一番大きな木の下。
特別な場所には違いなくても、両親の視線は避けられないから、やっぱり部屋の方がいい。そう思ったから、いい天気だけれど部屋でお茶。恋人同士で過ごすなら此処、と。
そのハーレイとお茶を飲んでいたら、起こった事件。褐色の肌の恋人の上に。
「いや、ちょっと…」
大したことはないんだがな、とハーレイは微笑んでいるけれど。
瞬きをしたら零れた涙。鳶色をした瞳の片方、其処から溢れて頬を伝って。つうっと、一粒。
「涙って…。もしかして、ゴミが入っちゃった?」
片方だけが涙だもんね、と問い掛ける間も、ハーレイはパチパチと瞬きしながら。
「そのようだ。…何処かに入っちまったんだな」
上手く流れりゃいいんだが…。俺の目玉がデカイ分だけ、入り込める場所も多いから。
お前の目玉に負けていないぞ、とハーレイが飛ばす愉快な冗談。「お前の目玉は大きいが」と。チビでも目玉はやたらデカイと、「俺の目玉と変わらんだろうが」と。
確かにそうかもしれないけれども、ハーレイの目玉に飛び込んだゴミ。宙に浮かんだ小さな埃。
「…ごめん、ぼくの掃除…」
朝にきちんと掃除したけど、埃、残っていたのかも…。
テーブルの下に落っこちてたとか、ぼくが見落としちゃっていたとか。
それがハーレイの目に飛び込んじゃった、と項垂れた。「ぼくのせいだよ」と謝って。
「お前のせいって…。そうでもないだろ、小さいのは何処にでも浮かんでるモンだ」
綺麗に掃除したての場所でも、運が悪けりゃ飛び込まれちまう。目に見えないから防げないし。
避けようがないなら、こうなるのは運の問題で…。
しかしだな…。
まだ取れないか、とハーレイが繰り返している瞬き。何処へ入ったのか分からない埃。
(涙、ポロポロ…)
洗面所に行った方がいいんじゃあ、と思うくらいに零れる涙。瞬きの度に目から溢れて。幾つも頬を伝ってゆくのに、埃は一向に流れてくれないらしいから…。
(洗った方が早いよね?)
小さな涙の粒に頼るより、蛇口からザアザア流れる水。それで洗えば、アッと言う間に何処かへ流れてゆくだろう。何処にあるのか謎の埃でも、目ごと洗ってやりさえすれば。
泣いているよりそっちがいいよ、と「洗面所に行く?」と提案しようとして。
(ハーレイの涙…)
まだ泣いてるよ、と眺めたらドキリと跳ねた心臓。「ゴミのせいだ」と思っていた時は、まるで気付いていなかったこと。…ハーレイの涙。
片方の目からしか零れていないし、原因は小さな埃だけれど。ハーレイは埃を洗い流すために、涙を使っているのだけれど。
(だけど、涙は涙だもんね…?)
泣いているのとは違っても。目玉の掃除に使うものでも、涙は涙。ハーレイの目から零れる涙。悲しい時には流れ出すもので、嬉しい時にも溢れたりする。頬を濡らして落ちる涙は。
(…ハーレイの涙、いつ見たんだっけ…?)
考えてみれば、前の自分だった頃に見たきりのような、ハーレイの涙。褐色の頬を伝う涙を見た覚えが無い。鳶色の瞳が潤むのも。…今の自分は。
(今のハーレイ、泣かないから…)
まるで記憶に無い、今のハーレイが泣く所。もしかしたら、涙が滲む瞳も。
きっとハーレイの涙を見てはいないと思う。笑顔はすっかりお馴染みだけれど、泣き顔の方。
この地球の上で、ハーレイと再会した時ですらも。
(…ハーレイ、泣いていなかった…)
そうだったよね、と手繰ってみる記憶。
教室で聖痕が現れた時は、仕方ないとも思うけれども、その後のこと。家まで訪ねて来てくれた時に、ハーレイは泣きはしなかった。
「ただいま」と恋人に呼び掛けたのに。「帰って来たよ」と、思いをこめて告げたのに…。
あの時もハーレイは泣かなかった、と今頃になって気が付いた。前の自分たちが別れた時から、長い長い時が経ったのに。…やっと再会出来た二人だったのに。
それでも泣かなかったのがハーレイなのだし、ちょっとしたことで泣くわけがない。ハーレイの涙は知らなくて当然、「見たことがない」と思って当然。
(ぼくは、しょっちゅう泣いているのに…)
泣かないなんて、なんだかズルイ、と見詰めてしまった恋人の顔。洗面所のことなど、すっかり忘れて。瞬きする度に零れる涙に目を奪われて。
そうする間に、止まった涙。ハーレイが手でゴシゴシと擦っている頬。ついでに目元も。
「よし、もういいぞ。厄介だったが、取れてくれたようだ」
こんなに時間がかかるんだったら、洗面所を借りれば良かったな。洗えば一発なんだから。
俺としたことがウッカリしていた、席を外したくなかったもんだから…。
せっかくお前と二人きりなのに、「ちょっと行ってくる」というのもなあ…?
しかし、話も途切れちまってたし、俺がいたって大して意味は無かった、と。…瞬きばかりで、ゴミを取るのに夢中になって、結局だんまりだったんだから。…ん?
なんだ、お前、変な顔をして…、とハーレイに覗き込まれた瞳。「どうかしたのか?」と。
「えっと…。ハーレイの涙を見てる間に、気が付いたんだけど…」
今のハーレイ、泣かないよね。
目にゴミが入った時の涙じゃなくって、ホントの涙。…今のハーレイ、泣かないでしょ?
「はあ? 泣かないって…」
俺のことなのか、とハーレイが指差す自分の顔。「今の俺か?」と確認するように。
「そうだよ、今のハーレイのこと。…ハーレイの涙、一度も見たことがないよ」
ぼくは何度も泣いちゃってるのに、ハーレイは泣いていないんだよ。
さっきはポロポロ泣いていたけど、あれはゴミのせいで、本当に泣いたわけじゃないもんね。
涙の中には入らないよ、と数えてやらない、さっき見た涙。数は沢山あったけれども。
「泣いていないって…。そうだったか?」
今の俺は一度も泣いていないか、お前の前では…?
「うん、知らない。ハーレイの涙は、さっきが初めて」
泣いてる内には入らないけど、あれだって涙。でも、本当の涙は一度も見ていないんだよ。
ゴミじゃなくって、心のせいで出てくる涙、と話した「本当の涙」の意味。悲しい時も、嬉しい時にも涙は零れてくるものだよね、と。
「そういう涙を、今のハーレイは流してないよ。ただの一度も」
ぼくに初めて会った時にも、ハーレイは泣かなかったじゃない、と指摘してやった。教室でも、この家を訪ねて来た時だって、と。
ようやく会えて、「ただいま、ハーレイ」と言ったのに。「帰って来たよ」と、愛おしい人に。
「そういや、そうか…」
泣いていないな、あの時の俺は。…教室の方は、驚いちまってそれどころではなかったが…。
最初は事故だと思ってたんだし、お前、教え子なんだしな?
教師の俺が先に立つぞ、とハーレイが持ち出した自分の立場。「教室では泣けん」と。
「それは分かるけど、ぼくの家に来た時は違うでしょ?」
記憶はすっかり戻ってるんだし、ぼくが誰かも分かってるから…。
他の先生には「生徒の様子を見に行ってくる」って言っていたって、ハーレイの中では生徒じゃないでしょ?
恋人に会いに出掛けるんだよ、ずっと昔に別れたきりの。…シャングリラで別れて、それっきり会えていなかった、ぼくに。
部屋に入ったら、そのぼくがちゃんといるんだから…。「ただいま」って挨拶したんだから…。
それでも少しも泣かないだなんて、ハーレイ、とっても酷いじゃない。
感動の再会だったのに涙も流さないなんて…、と恋人を責めた。目の中に入った小さなゴミで、今のハーレイは涙を流したから。…涙が溢れる瞳を持っているのだから。
「そうは言うがな、あの時のことをよく思い出してみろよ?」
泣かなかったのは俺だけじゃない。…お前だって泣いていなかったぞ。
メギドじゃ散々泣いたそうだが、あの時は涙の一粒も無しだ。…デカイ目は大きめだったがな。
いつもよりかは大きかった、とハーレイが言うのは当たっている。零れ落ちそうに見開いていた覚えがあるから。…泣くよりも前に。
二度と会えない筈のハーレイ、そのハーレイにまた会えたのだから。
「本当に本物のハーレイなんだ」と、現れた恋人を見詰めていたのが自分だから。
確かに泣いてはいなかったけれど。…自分の方も、涙を流して恋人を迎えはしなかったけれど。
とはいえ、あの時、泣かなかったことには理由がある。…泣けなかったと言うべきか。
「…ぼくだって泣きたかったよ、ホントは…。またハーレイに会えたんだもの」
教室の時には、聖痕の傷がとても痛くて、泣く前に気絶しちゃったけれど…。泣いていたって、きっと「痛いよ」っていう方の涙だったと思うけど…。
ハーレイが家に来てくれた時は、ママがいたから我慢しただけ。
あそこでウッカリ泣いてしまったら、涙、止まらなくなりそうだから…。ハーレイと恋人同士なことまで、ママに知られてしまいそうだから…。
恋人同士だってバレてしまったら大変だものね、と明かした理由。ハーレイは実は恋人なのだと母に知れたら、二人きりにはして貰えない。…せっかく再会出来たのに。少しでいいから、二人で一緒に過ごしたいのに。
「俺の方も同じ理由だが…?」
事情はお前と全く同じだ、泣くわけにはいかなかったこと。…俺の方がお前より大変だったぞ。
学校じゃ生徒が山ほどいたから、感動の再会どころじゃない。教師の俺を優先させないと。
お前の付き添いで乗った救急車の中でも、俺はあくまで教師だからな。
救急隊員が側にいるのに、涙なんか流していられるもんか。…いい年をした大人の俺が。
若い女の先生だったら、泣きながら生徒の手を握ってても、救急隊員も分かってくれそうだが。先生だってパニックなんだ、と。「大丈夫ですよ」と慰めてくれもするだろう。
しかし俺だと、「頼りない先生もいたもんだ」と、呆れられちまうのがオチなんじゃないか?
それじゃ困るし、俺は泣けずに付き添いだ。…「頑張れよ」とお前に声を掛けながら。
病院に着いて「大丈夫らしい」と分かった後には、学校に戻らなきゃいけなかったし…。
お前の守り役になることも含めて、色々な仕事を片付けてホッとしたものの…。
やっとお前の家に行ったら、お母さんがお前の部屋にいた。…お前と同じ理由で涙は駄目だ。
俺が涙を流しちまったら、お前も一緒に泣いちまう。それまでは我慢してたって。
マズイ、と涙を堪えたわけでだ、おあいこだな。
あの時の俺は、お前と同じ理由で泣けなかったんだから、というのがハーレイの言い分。
もしも涙を流したならば、目の前の恋人も、きっと泣き出すだろうと懸命に堪えていた涙。
お互い、涙を流していたなら、利かなくなるだろう心の歯止め。会いたかったと繰り返す内に、恋人同士なことだって知れる。…部屋に出入りする母の耳に入って、聞き咎められて。
泣かなかった理由は同じなのだ、と言われてみれば一理あるから、再会した時は仕方ない。涙のせいで母に恋が知れたら、ハーレイは出入りを禁じられるか、制限されるか。
(…ぼくはチビだし、恋をするには早すぎる年で…)
いつもハーレイに言われていること、それをそのまま両親が口にしていただろう。もっと大きく育ってから恋をするように、と。…「子供に恋はまだ早い」とも。
恋の相手は分かっているから、近付けないようにされるハーレイ。二人きりで会うなど、きっと厳禁。二人でお茶を飲むにしたって、「客間にしなさい」と厳命されて監視付きとか。
そうなっていたら、前の自分たちの恋の続きを楽しむどころか、まるで引き裂かれた恋人同士。どんなにハーレイのことが好きでも、甘えることさえ出来そうにない。
(…あの時、ハーレイが泣いちゃっていたら、そういうコース…)
辛い恋をする羽目になっていそうだし、涙を堪えたハーレイを評価せねばならない。自分たちの恋を守るためにと、ハーレイは泣かなかったのだから。
「…分かったよ。あの時にハーレイが泣かなかったのは、きっと正しいだろうけど…」
それで正解なんだろうけど、その後のことはどうなるの…?
前のぼくたちのことを、幾つも二人で思い出したよ。シャングリラで暮らしていた頃のことを。
だけど、ハーレイ、何を思い出しても、ちっとも泣いたりしないじゃない…!
泣き出すのはいつも、ぼくばかりだよ。…ハーレイは慰めてくれるけれども、泣かないよ。
今のハーレイ、ホントは心が冷たいんじゃないの、と意地悪い言葉をぶつけてみた。
「泣かないなんて冷たすぎるよ」と、「ぼくと二人きりの時でも、絶対、泣かないものね」と。
いくら記憶を探ってみたって、覚えが無いのがハーレイの涙。
前のハーレイなら泣いていたのに、前のハーレイが流した涙は、今も記憶にあるというのに。
まさか本当に冷たいわけでもないだろうに…、と見据えてやったら、ハーレイも心外そうな顔。
「おいおい、俺が冷たいってか…?」
前より冷たくなったと言うのか、泣くのはお前ばかりだから。…思い出話をした時だって。
そいつはお前の勘違いだな、今の俺だってちゃんと泣いてる。
悲しくなったら、涙は溢れてくるもんだ。…俺がどんなに堪えてみたって、さっきみたいに。
もっともゴミのせいではないがな、そういう時に出てくる涙は。
目にゴミなんかが入らなくても、泣く時は泣く、とハーレイが言うものだから。今のハーレイも泣くらしいから、「何処で?」と問いを投げ掛けてみた。
今の自分はハーレイの涙を見たことが無いし、涙の理由も分からないから。
「…ハーレイ、何処で泣いてるの?」
ぼくの前では泣いてないよね、いったい何処で泣いているわけ…?
「お前が知らない所でだ。…いつも一緒にいるわけじゃないしな、俺の家は違う場所だから」
俺が一人で家にいる時、とうしているのか、お前、全く知らないだろうが。
機嫌よく飯を食ってる時だってあるが、泣いちまう時もあるってことだ。…一人きりだと。
酒に逃げちまうほどに泣きたい気分の時もあるから、と聞かされてキョトンと見開いた瞳。今の時代は平和な時代で、前の自分たちが生きた頃とは違うのに。
今のハーレイの毎日は充実していて、泣きたくなるような悲しみとは縁が無さそうなのに。
「一人きりだと泣いちゃうって…。なんで?」
ハーレイの家には、悲しいことなんて無さそうだけど…。今のハーレイの暮らしにも。
仕事とかで大変な時はあっても、そんなことくらいで泣きはしないでしょ?
お酒を飲みたくなってしまうくらいに悲しいだなんて、普通じゃないよ。…お酒、楽しく飲んでいるんじゃなかったの…?
地球の水で作ったお酒だもんね、と瞳を瞬かせた。前のハーレイも酒が好きだったけれど、今のハーレイも大好きな酒。…合成ではない本物の酒を、楽しんでいる筈だから。前のハーレイが見た死の星とは違う、青く蘇った地球の水。それで仕込んだ酒は格別だと聞いたから。
もっとも、酒の美味しさは分からないけれど。…子供になった今の自分はもちろん、前の自分も飲めなかった酒。何処が美味しいのかまるで分からず、悪酔いしていたソルジャー・ブルー。
それでもハーレイが酒を愛する気持ちは分かるし、同じ酒なら、断然、楽しく飲む方がいい。
悲しい酒を飲むよりも。…悲しみを酒で紛らわすよりも、楽しい酒の方が素敵だろうに。
それなのに何故、と不思議に思うこと。悲しい酒を飲むハーレイもそうだし、そうなる理由も。
「…俺が泣いちまうのは何故か、ってか…?」
確かに地球の酒は美味いし、俺にとっては最高の酒だ。…前の俺の記憶が戻ってからは。
地球の水で仕込んだ酒だと思えば、どの酒も美酒になるんだが…。もう格別の美味さなんだが。
そいつが悲しい酒になるのは、前のお前が原因だな。…前の俺が失くしちまったお前。
前のお前を思い出しちまった夜は駄目だ、と呟くハーレイ。「悲しい酒になっちまう」と。
「…酒に逃げたい気分になるんだ、前の俺じゃなくて今の俺がな」
俺はこうして平和な時代に生きてるわけだが、いなくなっちまったソルジャー・ブルー。
前のお前が、今も何処かで寂しがってるような気がしてな…。独りぼっちで、膝を抱えて。
そういう気持ちに捕まった夜は、俺だって泣きたい気持ちになる。前のお前に引き摺られて。
どうして止めなかったんだ、と最後に見た背中を思い出してな…。
泣き始めたらもう止まらない、と今のハーレイを悲しませるらしいソルジャー・ブルー。悲しい酒を呷らせるほどに、前の自分が今のハーレイを悲しみの淵の底に沈めるらしいから…。
「…ぼく、此処にいるよ?」
死んじゃったけれど、新しい命を貰って生きてるよ。生まれ変わって来て、前のぼくも一緒。
ぼくの中には、ちゃんと前のぼくも入っているから…。中身は同じなんだから。
寂しいだなんて思ってないよ、と前の自分の代わりに言った。ハーレイと会い損なった日には、少し寂しくなるけれど。同じ家で一緒に暮らせないことも、たまに寂しく思うけれども。
「それは分かっちゃいるんだが…。前のお前は、お前の中にいるってことはな」
俺だって充分、承知してるが、そのお前。…前のお前を魂の中に持っているお前も、前のお前に嫉妬して膨れているだろうが。「前のぼくなら、こんな風に扱わないくせに」と。
それと同じだ、俺にとっても前のお前はまだ特別だ。
今のお前がそっくり同じ姿になったら、前のお前もすっかり溶けてしまうんだろうが…。幸せに生きてる今のお前と重なっちまって、何処かに消えるんだろうがな。
だが今は無理だ、とハーレイの心を占めているらしいソルジャー・ブルー。一人きりの夜には、涙さえ流させるほどに。…地球の酒さえ、悲しい酒になるほどに。
「…前のぼく、今のぼくより特別?」
ハーレイの中では、特別だって言ったよね…?
ぼくが生きてハーレイの前にいたって、前のぼくの方が特別なの…?
前のぼくだって、ぼくなのに…、とチリッと胸が痛むけれども、これだって嫉妬。どうして前の自分の方が特別なのかと、ハーレイの心を惹き付けるのかと。
ハーレイの答えを知りたい気持ちと、聞きたくないと思う気持ちと。
二つに分かれて乱れる心も、前の自分に嫉妬しているせいなのだろう。前の自分も自分なのに。
今のハーレイが「特別だ」と言うソルジャー・ブルー。遠く遥かな時の彼方で生きていた自分。
ハーレイは何と答えるだろうか、自分の問いに。「今のぼくより特別なの?」という質問に。
どうなのだろう、とチリチリと痛む胸を抱えて待っている内に、ハーレイがフウと零した溜息。
「…お前には悪いが、特別だろうな。今の俺にとっても、前のお前は」
前のお前が、今のお前よりも可哀想だった分だけ、特別になる。
幸せに生きてた時間が少なかった分だけ。…前のお前はそうだったろうが、長く生きていても。
今のお前よりも遥かに長い時間を生きたが、幸せは少なかったんだ。…今のお前よりも。
それがソルジャー・ブルーだろうが、とハーレイの鳶色の瞳が翳る。時の彼方で失くした恋人、逝ってしまった恋人を想う悲しみで。
その恋人は、今の自分の中にいるのに。…ソルジャー・ブルーは、確かに自分だったのに。
チリリと痛む小さな胸。前の自分に対する嫉妬。「前のぼくだって、ぼくなのに」と。
どうして今のハーレイの心を縛るのだろうと、今もハーレイの特別のままでいるのだろうと。
「…ぼく、前のぼくに勝てないの…?」
今のハーレイの特別になれるの、前のぼくで今のぼくじゃないよね…?
ぼくは前のぼくに勝てないままなの、いつか大きくなるまでは…?
ハーレイが前のぼくの姿を、今のぼくに重ねられるようになる時までは…、と俯いた。その日が来るまで、今の自分は負けっ放しのようだから。前の自分に敵わないままで、ハーレイの涙も前の自分のもの。ハーレイは前の自分を想って泣いても、今の自分の前では泣いたりしないから。
「お前なあ…。俺はきちんと説明したぞ。前のお前は、どうして俺の特別なのか」
今のお前よりも可哀想だった分だけ特別なんだ、と話した筈だ。ついさっき、今のお前にな。
お前、可哀想さで勝ちたいと言うのか、前のお前に?
俺の特別になりたいのならば、そうする以外に方法は無いと思うがな…?
今よりもずっと可哀想なお前になりたいのか、と尋ねられた。ソルジャー・ブルーの人生よりも辛い人生、それをお前は生きたいのか、と。
「…前のぼくより可哀想って…。それは嫌だよ…!」
生きたくないよ、と悲鳴を上げた。前の自分はハーレイと恋をしていたけれども、それ以外では悲しい記憶が多かった生。アルタミラでの地獄はもちろん、白いシャングリラにも悲しい思い出。
最期を迎えたメギドともなれば尚更のことで、あんな人生は二度と御免だから。
今もハーレイの特別らしいソルジャー・ブルー。…今のハーレイが涙を流して想う人。
ハーレイの涙は見たいけれども、前の自分には敵わない。同じようにも生きられはしない。今の自分は平和な時代に生まれた子供で、甘えん坊のチビなのだから。
「…ハーレイの涙、前のぼくしか見られないんなら、見られなくても仕方ないかも…」
前のぼくより可哀想になれる生き方なんか、今のぼくには無理だもの。…弱虫だから。
だけど前のぼくは幸せだよね。今もハーレイに泣いて貰えるほど、ハーレイに覚えて貰ってて。
可哀想だった、って言って貰えて、今もハーレイの特別のままで…。
あれっ、でも…。前のハーレイの涙って…。
最後に見たのはアルテメシアだよ、ぼくがジョミーを追い掛けて行って、船に戻った後。
あの時、ハーレイ、泣いていたっけね、青の間に来て。
とっくに日付が変わってたけど…、と思い出した前のハーレイの涙。ジョミーの騒ぎが起こった時は夜で、前の自分が飛び出して行ったのも夜の闇の中。遥か上空で意識を失ったのも。
「そりゃまあ、なあ…?」
泣きもするだろうが、前のお前が船の仲間に、あんな思念を送るから…。
俺が勘違いしたのも無理はあるまい、あれが最期の言葉なんだと。お前の魂は逝ってしまって、船を離れてゆくんだとな。
あの時の言葉を思い出してみろ、と今のハーレイに睨まれた。「最初の所を、きちんとな」と。
「…ごめん…。前のぼくの言い方、悪かったよね…」
死んじゃうようにしか聞こえないよね、と蘇って来た前の自分の言葉。船の仲間に伝えた思念。
「長きにわたる友よ、家族よ。そして仲間たちよ」とシャングリラの仲間に語り掛けた。自分の力はもう尽きようとしている、と。人類との対話を望んでも時間が足りないようだ、とも。
あの言い方では、勘違いされても仕方なかったと思う。「遺言なのだ」と。
考えてみれば、あれから時が流れた後にも…。
(ホントに死んじゃう前にも、おんなじ…)
メギドへ飛ぶ時、同じように心で仲間たちに語り掛けていた。もうシャングリラは遠く離れて、思念さえ届かないと分かっていても。
「長きにわたる私の友よ。…そして、愛する者よ」と、何処か似ている言い回しで。
不思議なくらいに重なった言葉。前のハーレイは、むろん後のを知らないけれど。だから…。
自分でも遺言だったのだと思う、前のハーレイが勘違いした言葉。アルテメシアの遥か上空から落下した後、前の自分が抱いた気持ち。…今の今まで、すっかり忘れていたのだけれど。
「…ぼくの言い方、悪かったけど…。あの時は、死ぬかもって思ってたんだよ、ぼくだって」
勘違いしてたの、ハーレイだけじゃないってば。…前のぼくだって、同じだったよ。
死んじゃうんだと思ったんだから…、と告げたら、向けられた疑いの眼差し。「本当か?」と。
「嘘をついてはいないだろうな? 前の俺が勘違いして泣いたってことを言ったから」
今の俺もお前を睨んだしな、とハーレイが疑うのも分かる。けれども、これは本当のこと。
「嘘じゃないってば、本当に。…だってね、メギドに飛んだ時にも…」
おんなじ言葉を送ってたんだよ、シャングリラに。届かないのは分かっていたけど。
最初の所がそっくりだったよ、「長きにわたる私の友よ」って。…ジョミーの時と同じでしょ?
別の言葉に聞こえるの、と聞かせた前の自分の言葉。メギドに向かって飛んで行った時の。
「うーむ…。確かに同じに聞こえるな…。細かい所は少し違うが…」
お前、気に入っちまっていたのか、あの言い回しが。船の仲間たちを「友」と呼ぶのが。
昔からの仲間は友達みたいな船だったがな…、とハーレイが思い返す船。アルタミラからずっと一緒の仲間は、最初の頃には誰もが友達だったから。肩書も何も無かった頃は。
「どうだったのかな、分かんないけど…。気に入ってたのかな、前のぼく…」
でもね、前のハーレイを泣かせちゃった時には、死んじゃうかも、って思ってた…。
シャングリラには戻って来られたけれども、ぼくの命はおしまいかな、って…。
力は本当に残っていなくて、あの思念だけで精一杯…、と前の自分の心を思う。ジョミーに後を託さなければと、最後の力で紡いだ思念。でないと船は長を失い、ミュウの未来も潰えるから。
「そうは言うがな、あれを聞かされた俺の身にもなってくれ」
お前の所へ駆け付けようにも、俺はブリッジにいたわけで…。
持ち場を離れられる状態じゃなくて、なのにお前の遺言が聞こえて来るんだぞ…?
お前の顔も見られないままで…、とハーレイが眉間に寄せた皺。「俺の辛さが分かるか?」と。
「ぼくだって悲しかったってば!」
ハーレイだけじゃないよ、ぼくだって悲しかったんだよ…!
これで死ぬんだ、って思っていたって、ハーレイは側にいなかったから…。
青の間に来て欲しくったって、そんなこと言えやしなかったから…!
前の自分が懸命に思念を紡いでいた時、側にいたのは看護師たち。それからノルディ。
長老たちさえ一人も姿が無かったのだし、キャプテンを呼べるわけがない。いくらソルジャーの最期と言っても、シャングリラの方が大切だから。
人類軍の注意を逸らすために浮上し、猛攻を浴びたシャングリラ。あちこち大破し、怪我をした者も多かった。そんな状態では、キャプテンは持ち場を離れられない。一個人のためには。
ソルジャーといえども、シャングリラと秤にかけた時には、負ける存在。
それだけにハーレイを呼ぶことは出来ず、怯えていたのが前の自分。
「…ホントだよ? ハーレイが側に来てくれるまでに、死んでしまったらどうしよう、って…」
とても怖かったよ、もしもハーレイが間に合わなかったら、独りぼっちで死ぬんだから。
いくらノルディや看護師がいても、ハーレイがいないと独りぼっちで…。
本当に会いたい人に会えずに死んじゃう、と思い出しただけで震える身体。あの時のことを。
「そうだったのか…。しかし、お前は無事に生き延びたんだよな」
皆に遺言を伝えたくせにだ、死なずに持ち堪えてくれた。臥せったままにはなっちまったが。
「うん、自分でも死んじゃうと思っていたのにね…」
あの言葉をみんなに伝えた時には、おしまいなんだと思ってた。…もう死ぬんだ、って。
最後にハーレイに会いたいけれども、もう無理だよね、って思っていたよ、と話したら辛そうな顔のハーレイ。それはそうだろう、ハーレイも勘違いをしたのだから。遺言なのだ、と。
「俺は寿命が縮むどころじゃなかったぞ。…お前の思念が終わった後は」
どう聞いたってあれは遺言なんだし、時間の問題だと思うじゃないか。お前の命が終わるのは。
ソルジャーはまだ御無事なのか、と誰かを捕まえて訊きたくてもだ…。
シャングリラが爆撃でボロボロなんだぞ、そっちのことを訊かなきゃならん。何処の区画が破壊されたか、無事な部分で代わりに使える場所はあるのか。
キャプテンの仕事は次から次へとやって来るから、どうにもならない状態だった。
お前の消息は聞こえて来なくて、誰も伝えに来てくれない。…口を開けば船のことだし、通信が来ても船の修理をしているヤツらのばかりで…。
それでも流石に、お前が死んだら、何処からか聞こえて来るだろう。
そういう知らせが来ない間は、無事だと思っておくしかない。…まだ生きている、と。
俺は確認さえ出来なかったんだぞ、と今のハーレイがぼやく前の自分の生死。意識はあるのか、瀕死なのかも分からないままで、務めに忙殺されたハーレイ。
ようやく青の間に行ける時間が取れた頃には、とうに日付が変わっていた。ノルディや看護師も引き揚げた後で、前の自分は青の間に一人。
「…青の間に走って行った時には、お前がちゃんと生きているってことは知ってたが…」
ノルディから「御無事だ」と知らされちゃいたが、顔を見るまで安心は出来ん。
生きていたって、どんな状態かは分からないからな。…昏睡状態ってこともあるんだから。
そしたら、お前が目を開けたから…。俺の名前を呼んでくれたから…。
あれで一気に緊張が解けて、お前の前で泣いてしまったんだ。お前が生きていてくれたから。
皆に遺言まで伝えてたくせに、お前はちゃんと生きていたから…、と語るハーレイが流した涙を覚えている。前のハーレイの涙だけれど。
「…ぼくも一緒に泣いちゃったけどね」
またハーレイに会えたのがとても嬉しくて…。独りぼっちで死なずに済んだんだ、って…。
本当に嬉しかったんだよ、と今でも忘れてはいない。ハーレイの涙も、前の自分の涙のことも。
生きて会えたことが嬉しかったから、二人、抱き合って泣き続けた。夜が更けた部屋で。
前のハーレイには、「無茶をなさらないで下さい」と叱られもした。生きて戻れたから良かったけれども、そうでなければ、船は大混乱なのだから、と。
ジョミーが船に戻ってくれても、前の自分が次のソルジャーに指名しなければ、問題児が増えるだけのこと。何一つ解決しないどころか、シャングリラの未来も見えはしない、と。
それがハーレイの涙を見た最後。
あれからも自分は生きていたのに、目にしたという覚えが無い。遠い記憶を手繰ってみたって、一つも無いハーレイの涙の記憶。
アルテメシアを後にしてからも、ハーレイとは何度も会っていたのに。
メギドに向かって飛んでゆくまで、何度となく会って、言葉を交わしていた筈なのに。
そう思ったから、今のハーレイに訊いてみた。前のハーレイの涙のことを。
「…前のぼく、あれから後には一度も、ハーレイの涙を見てないよ?」
アルテメシアで見たのが最後で、それきり見てないみたいだけれど…。忘れちゃったのかな?
あの時ほど派手には泣いていないから、ぼくが覚えていないだけかな…?
死にかけたわけじゃないものね、と首を傾げたら、「今と同じだ」と返った答え。
「今のお前は、俺の涙を知らないだろうが。…お前の前では泣かないから」
それと似たような状態だってな、前のお前は深い眠りに就いちまったから。…十五年もの。
俺はお前が知らない間に泣いてたってわけだ、お前は目覚めてくれなかったから。
青の間のお前の側でも泣いたし、俺の部屋でも泣いていたな、と今のハーレイは話してくれた。目覚めない前の自分を想って、ハーレイが何度も流した涙。前の自分が知らない間に。
「ナスカでぼくが起きた時にも、泣いていないの?」
ハーレイ、お見舞いに来てくれてたでしょ。あの時も泣いていなかったっけ…?
「よく思い出せよ、再会の場にはゼルたちも揃っていたんだが…?」
俺とお前の二人きりじゃなかった、お前は俺の恋人じゃなくてソルジャー・ブルーだったんだ。感動の再会が台無しってヤツだな、残念なことに。
あいつらがいたんじゃ泣けるもんか、とハーレイが苦い顔をする通り。泣いても許されるだろうけれども、恋人同士の涙の再会は無理。一番の友達同士なだけ。
「そっか…。ハーレイの部屋では泣かなかったの?」
ぼくの目が覚めたら嬉しいだろうし、こっそり一人で泣かなかった…?
「あの時は泣いていなかったな。これからはお前と一緒なんだ、と勘違いしたもんだから」
お前の寿命が残り少なくても、暫くは側にいられるだろうと…。前と同じに。
アルテメシアにいた頃みたいに…、とハーレイが言う勘違い。目覚めた意味を読み違えたこと。
「前のハーレイ、あの時も勘違いをしたの…?」
遺言なんだと思い込んでた時のも勘違いだけど、前のぼくが目覚めた時だって…?
「誰が気付くんだ、死ぬために目覚めて来たなんて」
そのためだけにお前が目を覚ますなんて、前の俺が気付くと思うのか?
フィシスでさえも気付いていなかったんだぞ、気付いていたなら俺に知らせていただろうから。
「ソルジャー・ブルーを止めて下さい」と、シャングリラのソーシャラーとして。
前のお前を失うわけにはいかないからな、と今のハーレイが言うのも分かる。フィシスが未来を読んでいたなら、前の自分は軟禁されていただろう。青の間から一歩も出られないように。
フィシスでさえも読めなかったなら、ハーレイにはとても無理なこと。前の自分が目覚めた真の理由に気付くなどは。
「…勘違いでなくても、思わないよね…」
目覚めたら直ぐに死んじゃうだなんて、そうするために起きただなんて…。
誰も気付いていなかったお蔭で、前のぼくの「ナスカに残った仲間の説得に行く」っていう嘘、バレずに出して貰えたんだもの。…シャングリラから。
「そういうことだな。前の俺が涙を流した時には、お前はいなくなっちまってた」
何もかも終わっちまった後まで、キャプテンの俺は泣けなかったんだ。…天体の間に移るまで。
前のお前には散々泣かされちまって、今も泣かされ続けてる。
ふとしたはずみに思い出しては、俺の家で独りぼっちでな。今のお前が知らない間に。
うんと悲しい酒なんだぞ、と今もハーレイが想い続けるソルジャー・ブルー。今でもハーレイは前の自分を忘れない。「可哀想だった」と、心の中の特別な場所を与え続けて。
「ホントにごめんね…。前のぼくのこと」
ハーレイを何度も泣かせてしまって、最後は独りぼっちにしちゃって。
でも、ハーレイの涙、懐かしかったよ。片目だけしか見られなかったの、惜しいから…。
泣いてみせてくれない、ほんのちょっぴり。…今度は両目で。
「なんだって?」
泣けって言うのか、今、此処でか?
それも両目で、わざと泣くのか、とハーレイが驚いた顔をするから、「お願い」と強請った。
「思い出したら泣けるんでしょ? 前のぼくのことを」
可哀想だった前のぼくを思い出して泣いてよ、少しでいいから。
メギドの時だと酷すぎるから、他の何かで。アルタミラでも何でもいいから。
「…思い出したくても、お前が目の前にいたんじゃ無理だ」
お前は元気に生きてるんだし、今も我儘一杯だからな。俺に涙を注文するほど。
「えーっ!?」
酷いよ、思い出せないだなんて…。ぼくがいたら、それだけで泣けないなんて…!
ケチ、と膨れても断られた。「俺の涙は見世物じゃない」と。
「見世物じゃないって…。そんなの酷い…」
だったら、いつか見せてくれるの、今のハーレイが泣く所を…?
両目にゴミとか、そんなのじゃなくて、ちゃんと前みたいに流してる涙…。
「頼まなくても、見られる筈だと思うがな?」
今のお前なら見られるだろう、とハーレイが言うから「いつ?」と訊いてみた。今は駄目らしいハーレイの涙、それを見られる日はいつなのか、と。
「見られる筈だって言ったでしょ? それって、いつなの?」
「さてなあ…?」
お前と結婚できた時には、確実だろうと思っているが。結婚式の日には見られるんじゃないか?
嬉し涙を流す俺の姿を、もうたっぷりと。
「…本当に?」
「ああ、人前では泣かんがな。…そうそう大盤振る舞いは出来ん」
一世一代の涙なんだから、と笑うハーレイだけれど、二人きりになれた途端に泣くだろう、との読みだから。嬉し涙を流してくれるらしいから…。
今のハーレイの涙は楽しみに取っておくことにしよう、今は無理やり見ようとせずに。
可哀想な前の自分に譲って、今の自分は見られないままで。
「見せて」とハーレイに強請らなくても、いつか幸せで流す涙を自分は見られる筈だから。
その時は自分も泣くだろうから、ハーレイと二人、幸せの涙を流して泣こう。
いつかハーレイと結婚したら。
可哀想な前の自分の姿が、今の自分と重なって溶けて、ハーレイの前から消える日が来たら…。
ハーレイの涙・了
※今のブルーは見たことが無い、今のハーレイの涙。ブルーの前では泣かないのです。
ハーレイが涙を流すのは、前のブルーを想う時だけ。いつかブルーが大きく育つ時までは…。
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どうしたの、と恋人に向かって尋ねたブルー。休日の午後に。
今日は土曜日、午前中からハーレイが家に来てくれた。お昼御飯もこの部屋で二人、ゆっくり。午後のお茶は庭か部屋かと迷って、部屋の方を選んだ。
庭で一番大きな木の下、据えてある白いテーブルと椅子。其処に行くのも素敵だけれど、庭だと気になる両親の視線。ダイニングからも庭は見えるし、リビングからも。一階の他の場所からも。
ハーレイと初めてデートした場所が、庭で一番大きな木の下。
特別な場所には違いなくても、両親の視線は避けられないから、やっぱり部屋の方がいい。そう思ったから、いい天気だけれど部屋でお茶。恋人同士で過ごすなら此処、と。
そのハーレイとお茶を飲んでいたら、起こった事件。褐色の肌の恋人の上に。
「いや、ちょっと…」
大したことはないんだがな、とハーレイは微笑んでいるけれど。
瞬きをしたら零れた涙。鳶色をした瞳の片方、其処から溢れて頬を伝って。つうっと、一粒。
「涙って…。もしかして、ゴミが入っちゃった?」
片方だけが涙だもんね、と問い掛ける間も、ハーレイはパチパチと瞬きしながら。
「そのようだ。…何処かに入っちまったんだな」
上手く流れりゃいいんだが…。俺の目玉がデカイ分だけ、入り込める場所も多いから。
お前の目玉に負けていないぞ、とハーレイが飛ばす愉快な冗談。「お前の目玉は大きいが」と。チビでも目玉はやたらデカイと、「俺の目玉と変わらんだろうが」と。
確かにそうかもしれないけれども、ハーレイの目玉に飛び込んだゴミ。宙に浮かんだ小さな埃。
「…ごめん、ぼくの掃除…」
朝にきちんと掃除したけど、埃、残っていたのかも…。
テーブルの下に落っこちてたとか、ぼくが見落としちゃっていたとか。
それがハーレイの目に飛び込んじゃった、と項垂れた。「ぼくのせいだよ」と謝って。
「お前のせいって…。そうでもないだろ、小さいのは何処にでも浮かんでるモンだ」
綺麗に掃除したての場所でも、運が悪けりゃ飛び込まれちまう。目に見えないから防げないし。
避けようがないなら、こうなるのは運の問題で…。
しかしだな…。
まだ取れないか、とハーレイが繰り返している瞬き。何処へ入ったのか分からない埃。
(涙、ポロポロ…)
洗面所に行った方がいいんじゃあ、と思うくらいに零れる涙。瞬きの度に目から溢れて。幾つも頬を伝ってゆくのに、埃は一向に流れてくれないらしいから…。
(洗った方が早いよね?)
小さな涙の粒に頼るより、蛇口からザアザア流れる水。それで洗えば、アッと言う間に何処かへ流れてゆくだろう。何処にあるのか謎の埃でも、目ごと洗ってやりさえすれば。
泣いているよりそっちがいいよ、と「洗面所に行く?」と提案しようとして。
(ハーレイの涙…)
まだ泣いてるよ、と眺めたらドキリと跳ねた心臓。「ゴミのせいだ」と思っていた時は、まるで気付いていなかったこと。…ハーレイの涙。
片方の目からしか零れていないし、原因は小さな埃だけれど。ハーレイは埃を洗い流すために、涙を使っているのだけれど。
(だけど、涙は涙だもんね…?)
泣いているのとは違っても。目玉の掃除に使うものでも、涙は涙。ハーレイの目から零れる涙。悲しい時には流れ出すもので、嬉しい時にも溢れたりする。頬を濡らして落ちる涙は。
(…ハーレイの涙、いつ見たんだっけ…?)
考えてみれば、前の自分だった頃に見たきりのような、ハーレイの涙。褐色の頬を伝う涙を見た覚えが無い。鳶色の瞳が潤むのも。…今の自分は。
(今のハーレイ、泣かないから…)
まるで記憶に無い、今のハーレイが泣く所。もしかしたら、涙が滲む瞳も。
きっとハーレイの涙を見てはいないと思う。笑顔はすっかりお馴染みだけれど、泣き顔の方。
この地球の上で、ハーレイと再会した時ですらも。
(…ハーレイ、泣いていなかった…)
そうだったよね、と手繰ってみる記憶。
教室で聖痕が現れた時は、仕方ないとも思うけれども、その後のこと。家まで訪ねて来てくれた時に、ハーレイは泣きはしなかった。
「ただいま」と恋人に呼び掛けたのに。「帰って来たよ」と、思いをこめて告げたのに…。
あの時もハーレイは泣かなかった、と今頃になって気が付いた。前の自分たちが別れた時から、長い長い時が経ったのに。…やっと再会出来た二人だったのに。
それでも泣かなかったのがハーレイなのだし、ちょっとしたことで泣くわけがない。ハーレイの涙は知らなくて当然、「見たことがない」と思って当然。
(ぼくは、しょっちゅう泣いているのに…)
泣かないなんて、なんだかズルイ、と見詰めてしまった恋人の顔。洗面所のことなど、すっかり忘れて。瞬きする度に零れる涙に目を奪われて。
そうする間に、止まった涙。ハーレイが手でゴシゴシと擦っている頬。ついでに目元も。
「よし、もういいぞ。厄介だったが、取れてくれたようだ」
こんなに時間がかかるんだったら、洗面所を借りれば良かったな。洗えば一発なんだから。
俺としたことがウッカリしていた、席を外したくなかったもんだから…。
せっかくお前と二人きりなのに、「ちょっと行ってくる」というのもなあ…?
しかし、話も途切れちまってたし、俺がいたって大して意味は無かった、と。…瞬きばかりで、ゴミを取るのに夢中になって、結局だんまりだったんだから。…ん?
なんだ、お前、変な顔をして…、とハーレイに覗き込まれた瞳。「どうかしたのか?」と。
「えっと…。ハーレイの涙を見てる間に、気が付いたんだけど…」
今のハーレイ、泣かないよね。
目にゴミが入った時の涙じゃなくって、ホントの涙。…今のハーレイ、泣かないでしょ?
「はあ? 泣かないって…」
俺のことなのか、とハーレイが指差す自分の顔。「今の俺か?」と確認するように。
「そうだよ、今のハーレイのこと。…ハーレイの涙、一度も見たことがないよ」
ぼくは何度も泣いちゃってるのに、ハーレイは泣いていないんだよ。
さっきはポロポロ泣いていたけど、あれはゴミのせいで、本当に泣いたわけじゃないもんね。
涙の中には入らないよ、と数えてやらない、さっき見た涙。数は沢山あったけれども。
「泣いていないって…。そうだったか?」
今の俺は一度も泣いていないか、お前の前では…?
「うん、知らない。ハーレイの涙は、さっきが初めて」
泣いてる内には入らないけど、あれだって涙。でも、本当の涙は一度も見ていないんだよ。
ゴミじゃなくって、心のせいで出てくる涙、と話した「本当の涙」の意味。悲しい時も、嬉しい時にも涙は零れてくるものだよね、と。
「そういう涙を、今のハーレイは流してないよ。ただの一度も」
ぼくに初めて会った時にも、ハーレイは泣かなかったじゃない、と指摘してやった。教室でも、この家を訪ねて来た時だって、と。
ようやく会えて、「ただいま、ハーレイ」と言ったのに。「帰って来たよ」と、愛おしい人に。
「そういや、そうか…」
泣いていないな、あの時の俺は。…教室の方は、驚いちまってそれどころではなかったが…。
最初は事故だと思ってたんだし、お前、教え子なんだしな?
教師の俺が先に立つぞ、とハーレイが持ち出した自分の立場。「教室では泣けん」と。
「それは分かるけど、ぼくの家に来た時は違うでしょ?」
記憶はすっかり戻ってるんだし、ぼくが誰かも分かってるから…。
他の先生には「生徒の様子を見に行ってくる」って言っていたって、ハーレイの中では生徒じゃないでしょ?
恋人に会いに出掛けるんだよ、ずっと昔に別れたきりの。…シャングリラで別れて、それっきり会えていなかった、ぼくに。
部屋に入ったら、そのぼくがちゃんといるんだから…。「ただいま」って挨拶したんだから…。
それでも少しも泣かないだなんて、ハーレイ、とっても酷いじゃない。
感動の再会だったのに涙も流さないなんて…、と恋人を責めた。目の中に入った小さなゴミで、今のハーレイは涙を流したから。…涙が溢れる瞳を持っているのだから。
「そうは言うがな、あの時のことをよく思い出してみろよ?」
泣かなかったのは俺だけじゃない。…お前だって泣いていなかったぞ。
メギドじゃ散々泣いたそうだが、あの時は涙の一粒も無しだ。…デカイ目は大きめだったがな。
いつもよりかは大きかった、とハーレイが言うのは当たっている。零れ落ちそうに見開いていた覚えがあるから。…泣くよりも前に。
二度と会えない筈のハーレイ、そのハーレイにまた会えたのだから。
「本当に本物のハーレイなんだ」と、現れた恋人を見詰めていたのが自分だから。
確かに泣いてはいなかったけれど。…自分の方も、涙を流して恋人を迎えはしなかったけれど。
とはいえ、あの時、泣かなかったことには理由がある。…泣けなかったと言うべきか。
「…ぼくだって泣きたかったよ、ホントは…。またハーレイに会えたんだもの」
教室の時には、聖痕の傷がとても痛くて、泣く前に気絶しちゃったけれど…。泣いていたって、きっと「痛いよ」っていう方の涙だったと思うけど…。
ハーレイが家に来てくれた時は、ママがいたから我慢しただけ。
あそこでウッカリ泣いてしまったら、涙、止まらなくなりそうだから…。ハーレイと恋人同士なことまで、ママに知られてしまいそうだから…。
恋人同士だってバレてしまったら大変だものね、と明かした理由。ハーレイは実は恋人なのだと母に知れたら、二人きりにはして貰えない。…せっかく再会出来たのに。少しでいいから、二人で一緒に過ごしたいのに。
「俺の方も同じ理由だが…?」
事情はお前と全く同じだ、泣くわけにはいかなかったこと。…俺の方がお前より大変だったぞ。
学校じゃ生徒が山ほどいたから、感動の再会どころじゃない。教師の俺を優先させないと。
お前の付き添いで乗った救急車の中でも、俺はあくまで教師だからな。
救急隊員が側にいるのに、涙なんか流していられるもんか。…いい年をした大人の俺が。
若い女の先生だったら、泣きながら生徒の手を握ってても、救急隊員も分かってくれそうだが。先生だってパニックなんだ、と。「大丈夫ですよ」と慰めてくれもするだろう。
しかし俺だと、「頼りない先生もいたもんだ」と、呆れられちまうのがオチなんじゃないか?
それじゃ困るし、俺は泣けずに付き添いだ。…「頑張れよ」とお前に声を掛けながら。
病院に着いて「大丈夫らしい」と分かった後には、学校に戻らなきゃいけなかったし…。
お前の守り役になることも含めて、色々な仕事を片付けてホッとしたものの…。
やっとお前の家に行ったら、お母さんがお前の部屋にいた。…お前と同じ理由で涙は駄目だ。
俺が涙を流しちまったら、お前も一緒に泣いちまう。それまでは我慢してたって。
マズイ、と涙を堪えたわけでだ、おあいこだな。
あの時の俺は、お前と同じ理由で泣けなかったんだから、というのがハーレイの言い分。
もしも涙を流したならば、目の前の恋人も、きっと泣き出すだろうと懸命に堪えていた涙。
お互い、涙を流していたなら、利かなくなるだろう心の歯止め。会いたかったと繰り返す内に、恋人同士なことだって知れる。…部屋に出入りする母の耳に入って、聞き咎められて。
泣かなかった理由は同じなのだ、と言われてみれば一理あるから、再会した時は仕方ない。涙のせいで母に恋が知れたら、ハーレイは出入りを禁じられるか、制限されるか。
(…ぼくはチビだし、恋をするには早すぎる年で…)
いつもハーレイに言われていること、それをそのまま両親が口にしていただろう。もっと大きく育ってから恋をするように、と。…「子供に恋はまだ早い」とも。
恋の相手は分かっているから、近付けないようにされるハーレイ。二人きりで会うなど、きっと厳禁。二人でお茶を飲むにしたって、「客間にしなさい」と厳命されて監視付きとか。
そうなっていたら、前の自分たちの恋の続きを楽しむどころか、まるで引き裂かれた恋人同士。どんなにハーレイのことが好きでも、甘えることさえ出来そうにない。
(…あの時、ハーレイが泣いちゃっていたら、そういうコース…)
辛い恋をする羽目になっていそうだし、涙を堪えたハーレイを評価せねばならない。自分たちの恋を守るためにと、ハーレイは泣かなかったのだから。
「…分かったよ。あの時にハーレイが泣かなかったのは、きっと正しいだろうけど…」
それで正解なんだろうけど、その後のことはどうなるの…?
前のぼくたちのことを、幾つも二人で思い出したよ。シャングリラで暮らしていた頃のことを。
だけど、ハーレイ、何を思い出しても、ちっとも泣いたりしないじゃない…!
泣き出すのはいつも、ぼくばかりだよ。…ハーレイは慰めてくれるけれども、泣かないよ。
今のハーレイ、ホントは心が冷たいんじゃないの、と意地悪い言葉をぶつけてみた。
「泣かないなんて冷たすぎるよ」と、「ぼくと二人きりの時でも、絶対、泣かないものね」と。
いくら記憶を探ってみたって、覚えが無いのがハーレイの涙。
前のハーレイなら泣いていたのに、前のハーレイが流した涙は、今も記憶にあるというのに。
まさか本当に冷たいわけでもないだろうに…、と見据えてやったら、ハーレイも心外そうな顔。
「おいおい、俺が冷たいってか…?」
前より冷たくなったと言うのか、泣くのはお前ばかりだから。…思い出話をした時だって。
そいつはお前の勘違いだな、今の俺だってちゃんと泣いてる。
悲しくなったら、涙は溢れてくるもんだ。…俺がどんなに堪えてみたって、さっきみたいに。
もっともゴミのせいではないがな、そういう時に出てくる涙は。
目にゴミなんかが入らなくても、泣く時は泣く、とハーレイが言うものだから。今のハーレイも泣くらしいから、「何処で?」と問いを投げ掛けてみた。
今の自分はハーレイの涙を見たことが無いし、涙の理由も分からないから。
「…ハーレイ、何処で泣いてるの?」
ぼくの前では泣いてないよね、いったい何処で泣いているわけ…?
「お前が知らない所でだ。…いつも一緒にいるわけじゃないしな、俺の家は違う場所だから」
俺が一人で家にいる時、とうしているのか、お前、全く知らないだろうが。
機嫌よく飯を食ってる時だってあるが、泣いちまう時もあるってことだ。…一人きりだと。
酒に逃げちまうほどに泣きたい気分の時もあるから、と聞かされてキョトンと見開いた瞳。今の時代は平和な時代で、前の自分たちが生きた頃とは違うのに。
今のハーレイの毎日は充実していて、泣きたくなるような悲しみとは縁が無さそうなのに。
「一人きりだと泣いちゃうって…。なんで?」
ハーレイの家には、悲しいことなんて無さそうだけど…。今のハーレイの暮らしにも。
仕事とかで大変な時はあっても、そんなことくらいで泣きはしないでしょ?
お酒を飲みたくなってしまうくらいに悲しいだなんて、普通じゃないよ。…お酒、楽しく飲んでいるんじゃなかったの…?
地球の水で作ったお酒だもんね、と瞳を瞬かせた。前のハーレイも酒が好きだったけれど、今のハーレイも大好きな酒。…合成ではない本物の酒を、楽しんでいる筈だから。前のハーレイが見た死の星とは違う、青く蘇った地球の水。それで仕込んだ酒は格別だと聞いたから。
もっとも、酒の美味しさは分からないけれど。…子供になった今の自分はもちろん、前の自分も飲めなかった酒。何処が美味しいのかまるで分からず、悪酔いしていたソルジャー・ブルー。
それでもハーレイが酒を愛する気持ちは分かるし、同じ酒なら、断然、楽しく飲む方がいい。
悲しい酒を飲むよりも。…悲しみを酒で紛らわすよりも、楽しい酒の方が素敵だろうに。
それなのに何故、と不思議に思うこと。悲しい酒を飲むハーレイもそうだし、そうなる理由も。
「…俺が泣いちまうのは何故か、ってか…?」
確かに地球の酒は美味いし、俺にとっては最高の酒だ。…前の俺の記憶が戻ってからは。
地球の水で仕込んだ酒だと思えば、どの酒も美酒になるんだが…。もう格別の美味さなんだが。
そいつが悲しい酒になるのは、前のお前が原因だな。…前の俺が失くしちまったお前。
前のお前を思い出しちまった夜は駄目だ、と呟くハーレイ。「悲しい酒になっちまう」と。
「…酒に逃げたい気分になるんだ、前の俺じゃなくて今の俺がな」
俺はこうして平和な時代に生きてるわけだが、いなくなっちまったソルジャー・ブルー。
前のお前が、今も何処かで寂しがってるような気がしてな…。独りぼっちで、膝を抱えて。
そういう気持ちに捕まった夜は、俺だって泣きたい気持ちになる。前のお前に引き摺られて。
どうして止めなかったんだ、と最後に見た背中を思い出してな…。
泣き始めたらもう止まらない、と今のハーレイを悲しませるらしいソルジャー・ブルー。悲しい酒を呷らせるほどに、前の自分が今のハーレイを悲しみの淵の底に沈めるらしいから…。
「…ぼく、此処にいるよ?」
死んじゃったけれど、新しい命を貰って生きてるよ。生まれ変わって来て、前のぼくも一緒。
ぼくの中には、ちゃんと前のぼくも入っているから…。中身は同じなんだから。
寂しいだなんて思ってないよ、と前の自分の代わりに言った。ハーレイと会い損なった日には、少し寂しくなるけれど。同じ家で一緒に暮らせないことも、たまに寂しく思うけれども。
「それは分かっちゃいるんだが…。前のお前は、お前の中にいるってことはな」
俺だって充分、承知してるが、そのお前。…前のお前を魂の中に持っているお前も、前のお前に嫉妬して膨れているだろうが。「前のぼくなら、こんな風に扱わないくせに」と。
それと同じだ、俺にとっても前のお前はまだ特別だ。
今のお前がそっくり同じ姿になったら、前のお前もすっかり溶けてしまうんだろうが…。幸せに生きてる今のお前と重なっちまって、何処かに消えるんだろうがな。
だが今は無理だ、とハーレイの心を占めているらしいソルジャー・ブルー。一人きりの夜には、涙さえ流させるほどに。…地球の酒さえ、悲しい酒になるほどに。
「…前のぼく、今のぼくより特別?」
ハーレイの中では、特別だって言ったよね…?
ぼくが生きてハーレイの前にいたって、前のぼくの方が特別なの…?
前のぼくだって、ぼくなのに…、とチリッと胸が痛むけれども、これだって嫉妬。どうして前の自分の方が特別なのかと、ハーレイの心を惹き付けるのかと。
ハーレイの答えを知りたい気持ちと、聞きたくないと思う気持ちと。
二つに分かれて乱れる心も、前の自分に嫉妬しているせいなのだろう。前の自分も自分なのに。
今のハーレイが「特別だ」と言うソルジャー・ブルー。遠く遥かな時の彼方で生きていた自分。
ハーレイは何と答えるだろうか、自分の問いに。「今のぼくより特別なの?」という質問に。
どうなのだろう、とチリチリと痛む胸を抱えて待っている内に、ハーレイがフウと零した溜息。
「…お前には悪いが、特別だろうな。今の俺にとっても、前のお前は」
前のお前が、今のお前よりも可哀想だった分だけ、特別になる。
幸せに生きてた時間が少なかった分だけ。…前のお前はそうだったろうが、長く生きていても。
今のお前よりも遥かに長い時間を生きたが、幸せは少なかったんだ。…今のお前よりも。
それがソルジャー・ブルーだろうが、とハーレイの鳶色の瞳が翳る。時の彼方で失くした恋人、逝ってしまった恋人を想う悲しみで。
その恋人は、今の自分の中にいるのに。…ソルジャー・ブルーは、確かに自分だったのに。
チリリと痛む小さな胸。前の自分に対する嫉妬。「前のぼくだって、ぼくなのに」と。
どうして今のハーレイの心を縛るのだろうと、今もハーレイの特別のままでいるのだろうと。
「…ぼく、前のぼくに勝てないの…?」
今のハーレイの特別になれるの、前のぼくで今のぼくじゃないよね…?
ぼくは前のぼくに勝てないままなの、いつか大きくなるまでは…?
ハーレイが前のぼくの姿を、今のぼくに重ねられるようになる時までは…、と俯いた。その日が来るまで、今の自分は負けっ放しのようだから。前の自分に敵わないままで、ハーレイの涙も前の自分のもの。ハーレイは前の自分を想って泣いても、今の自分の前では泣いたりしないから。
「お前なあ…。俺はきちんと説明したぞ。前のお前は、どうして俺の特別なのか」
今のお前よりも可哀想だった分だけ特別なんだ、と話した筈だ。ついさっき、今のお前にな。
お前、可哀想さで勝ちたいと言うのか、前のお前に?
俺の特別になりたいのならば、そうする以外に方法は無いと思うがな…?
今よりもずっと可哀想なお前になりたいのか、と尋ねられた。ソルジャー・ブルーの人生よりも辛い人生、それをお前は生きたいのか、と。
「…前のぼくより可哀想って…。それは嫌だよ…!」
生きたくないよ、と悲鳴を上げた。前の自分はハーレイと恋をしていたけれども、それ以外では悲しい記憶が多かった生。アルタミラでの地獄はもちろん、白いシャングリラにも悲しい思い出。
最期を迎えたメギドともなれば尚更のことで、あんな人生は二度と御免だから。
今もハーレイの特別らしいソルジャー・ブルー。…今のハーレイが涙を流して想う人。
ハーレイの涙は見たいけれども、前の自分には敵わない。同じようにも生きられはしない。今の自分は平和な時代に生まれた子供で、甘えん坊のチビなのだから。
「…ハーレイの涙、前のぼくしか見られないんなら、見られなくても仕方ないかも…」
前のぼくより可哀想になれる生き方なんか、今のぼくには無理だもの。…弱虫だから。
だけど前のぼくは幸せだよね。今もハーレイに泣いて貰えるほど、ハーレイに覚えて貰ってて。
可哀想だった、って言って貰えて、今もハーレイの特別のままで…。
あれっ、でも…。前のハーレイの涙って…。
最後に見たのはアルテメシアだよ、ぼくがジョミーを追い掛けて行って、船に戻った後。
あの時、ハーレイ、泣いていたっけね、青の間に来て。
とっくに日付が変わってたけど…、と思い出した前のハーレイの涙。ジョミーの騒ぎが起こった時は夜で、前の自分が飛び出して行ったのも夜の闇の中。遥か上空で意識を失ったのも。
「そりゃまあ、なあ…?」
泣きもするだろうが、前のお前が船の仲間に、あんな思念を送るから…。
俺が勘違いしたのも無理はあるまい、あれが最期の言葉なんだと。お前の魂は逝ってしまって、船を離れてゆくんだとな。
あの時の言葉を思い出してみろ、と今のハーレイに睨まれた。「最初の所を、きちんとな」と。
「…ごめん…。前のぼくの言い方、悪かったよね…」
死んじゃうようにしか聞こえないよね、と蘇って来た前の自分の言葉。船の仲間に伝えた思念。
「長きにわたる友よ、家族よ。そして仲間たちよ」とシャングリラの仲間に語り掛けた。自分の力はもう尽きようとしている、と。人類との対話を望んでも時間が足りないようだ、とも。
あの言い方では、勘違いされても仕方なかったと思う。「遺言なのだ」と。
考えてみれば、あれから時が流れた後にも…。
(ホントに死んじゃう前にも、おんなじ…)
メギドへ飛ぶ時、同じように心で仲間たちに語り掛けていた。もうシャングリラは遠く離れて、思念さえ届かないと分かっていても。
「長きにわたる私の友よ。…そして、愛する者よ」と、何処か似ている言い回しで。
不思議なくらいに重なった言葉。前のハーレイは、むろん後のを知らないけれど。だから…。
自分でも遺言だったのだと思う、前のハーレイが勘違いした言葉。アルテメシアの遥か上空から落下した後、前の自分が抱いた気持ち。…今の今まで、すっかり忘れていたのだけれど。
「…ぼくの言い方、悪かったけど…。あの時は、死ぬかもって思ってたんだよ、ぼくだって」
勘違いしてたの、ハーレイだけじゃないってば。…前のぼくだって、同じだったよ。
死んじゃうんだと思ったんだから…、と告げたら、向けられた疑いの眼差し。「本当か?」と。
「嘘をついてはいないだろうな? 前の俺が勘違いして泣いたってことを言ったから」
今の俺もお前を睨んだしな、とハーレイが疑うのも分かる。けれども、これは本当のこと。
「嘘じゃないってば、本当に。…だってね、メギドに飛んだ時にも…」
おんなじ言葉を送ってたんだよ、シャングリラに。届かないのは分かっていたけど。
最初の所がそっくりだったよ、「長きにわたる私の友よ」って。…ジョミーの時と同じでしょ?
別の言葉に聞こえるの、と聞かせた前の自分の言葉。メギドに向かって飛んで行った時の。
「うーむ…。確かに同じに聞こえるな…。細かい所は少し違うが…」
お前、気に入っちまっていたのか、あの言い回しが。船の仲間たちを「友」と呼ぶのが。
昔からの仲間は友達みたいな船だったがな…、とハーレイが思い返す船。アルタミラからずっと一緒の仲間は、最初の頃には誰もが友達だったから。肩書も何も無かった頃は。
「どうだったのかな、分かんないけど…。気に入ってたのかな、前のぼく…」
でもね、前のハーレイを泣かせちゃった時には、死んじゃうかも、って思ってた…。
シャングリラには戻って来られたけれども、ぼくの命はおしまいかな、って…。
力は本当に残っていなくて、あの思念だけで精一杯…、と前の自分の心を思う。ジョミーに後を託さなければと、最後の力で紡いだ思念。でないと船は長を失い、ミュウの未来も潰えるから。
「そうは言うがな、あれを聞かされた俺の身にもなってくれ」
お前の所へ駆け付けようにも、俺はブリッジにいたわけで…。
持ち場を離れられる状態じゃなくて、なのにお前の遺言が聞こえて来るんだぞ…?
お前の顔も見られないままで…、とハーレイが眉間に寄せた皺。「俺の辛さが分かるか?」と。
「ぼくだって悲しかったってば!」
ハーレイだけじゃないよ、ぼくだって悲しかったんだよ…!
これで死ぬんだ、って思っていたって、ハーレイは側にいなかったから…。
青の間に来て欲しくったって、そんなこと言えやしなかったから…!
前の自分が懸命に思念を紡いでいた時、側にいたのは看護師たち。それからノルディ。
長老たちさえ一人も姿が無かったのだし、キャプテンを呼べるわけがない。いくらソルジャーの最期と言っても、シャングリラの方が大切だから。
人類軍の注意を逸らすために浮上し、猛攻を浴びたシャングリラ。あちこち大破し、怪我をした者も多かった。そんな状態では、キャプテンは持ち場を離れられない。一個人のためには。
ソルジャーといえども、シャングリラと秤にかけた時には、負ける存在。
それだけにハーレイを呼ぶことは出来ず、怯えていたのが前の自分。
「…ホントだよ? ハーレイが側に来てくれるまでに、死んでしまったらどうしよう、って…」
とても怖かったよ、もしもハーレイが間に合わなかったら、独りぼっちで死ぬんだから。
いくらノルディや看護師がいても、ハーレイがいないと独りぼっちで…。
本当に会いたい人に会えずに死んじゃう、と思い出しただけで震える身体。あの時のことを。
「そうだったのか…。しかし、お前は無事に生き延びたんだよな」
皆に遺言を伝えたくせにだ、死なずに持ち堪えてくれた。臥せったままにはなっちまったが。
「うん、自分でも死んじゃうと思っていたのにね…」
あの言葉をみんなに伝えた時には、おしまいなんだと思ってた。…もう死ぬんだ、って。
最後にハーレイに会いたいけれども、もう無理だよね、って思っていたよ、と話したら辛そうな顔のハーレイ。それはそうだろう、ハーレイも勘違いをしたのだから。遺言なのだ、と。
「俺は寿命が縮むどころじゃなかったぞ。…お前の思念が終わった後は」
どう聞いたってあれは遺言なんだし、時間の問題だと思うじゃないか。お前の命が終わるのは。
ソルジャーはまだ御無事なのか、と誰かを捕まえて訊きたくてもだ…。
シャングリラが爆撃でボロボロなんだぞ、そっちのことを訊かなきゃならん。何処の区画が破壊されたか、無事な部分で代わりに使える場所はあるのか。
キャプテンの仕事は次から次へとやって来るから、どうにもならない状態だった。
お前の消息は聞こえて来なくて、誰も伝えに来てくれない。…口を開けば船のことだし、通信が来ても船の修理をしているヤツらのばかりで…。
それでも流石に、お前が死んだら、何処からか聞こえて来るだろう。
そういう知らせが来ない間は、無事だと思っておくしかない。…まだ生きている、と。
俺は確認さえ出来なかったんだぞ、と今のハーレイがぼやく前の自分の生死。意識はあるのか、瀕死なのかも分からないままで、務めに忙殺されたハーレイ。
ようやく青の間に行ける時間が取れた頃には、とうに日付が変わっていた。ノルディや看護師も引き揚げた後で、前の自分は青の間に一人。
「…青の間に走って行った時には、お前がちゃんと生きているってことは知ってたが…」
ノルディから「御無事だ」と知らされちゃいたが、顔を見るまで安心は出来ん。
生きていたって、どんな状態かは分からないからな。…昏睡状態ってこともあるんだから。
そしたら、お前が目を開けたから…。俺の名前を呼んでくれたから…。
あれで一気に緊張が解けて、お前の前で泣いてしまったんだ。お前が生きていてくれたから。
皆に遺言まで伝えてたくせに、お前はちゃんと生きていたから…、と語るハーレイが流した涙を覚えている。前のハーレイの涙だけれど。
「…ぼくも一緒に泣いちゃったけどね」
またハーレイに会えたのがとても嬉しくて…。独りぼっちで死なずに済んだんだ、って…。
本当に嬉しかったんだよ、と今でも忘れてはいない。ハーレイの涙も、前の自分の涙のことも。
生きて会えたことが嬉しかったから、二人、抱き合って泣き続けた。夜が更けた部屋で。
前のハーレイには、「無茶をなさらないで下さい」と叱られもした。生きて戻れたから良かったけれども、そうでなければ、船は大混乱なのだから、と。
ジョミーが船に戻ってくれても、前の自分が次のソルジャーに指名しなければ、問題児が増えるだけのこと。何一つ解決しないどころか、シャングリラの未来も見えはしない、と。
それがハーレイの涙を見た最後。
あれからも自分は生きていたのに、目にしたという覚えが無い。遠い記憶を手繰ってみたって、一つも無いハーレイの涙の記憶。
アルテメシアを後にしてからも、ハーレイとは何度も会っていたのに。
メギドに向かって飛んでゆくまで、何度となく会って、言葉を交わしていた筈なのに。
そう思ったから、今のハーレイに訊いてみた。前のハーレイの涙のことを。
「…前のぼく、あれから後には一度も、ハーレイの涙を見てないよ?」
アルテメシアで見たのが最後で、それきり見てないみたいだけれど…。忘れちゃったのかな?
あの時ほど派手には泣いていないから、ぼくが覚えていないだけかな…?
死にかけたわけじゃないものね、と首を傾げたら、「今と同じだ」と返った答え。
「今のお前は、俺の涙を知らないだろうが。…お前の前では泣かないから」
それと似たような状態だってな、前のお前は深い眠りに就いちまったから。…十五年もの。
俺はお前が知らない間に泣いてたってわけだ、お前は目覚めてくれなかったから。
青の間のお前の側でも泣いたし、俺の部屋でも泣いていたな、と今のハーレイは話してくれた。目覚めない前の自分を想って、ハーレイが何度も流した涙。前の自分が知らない間に。
「ナスカでぼくが起きた時にも、泣いていないの?」
ハーレイ、お見舞いに来てくれてたでしょ。あの時も泣いていなかったっけ…?
「よく思い出せよ、再会の場にはゼルたちも揃っていたんだが…?」
俺とお前の二人きりじゃなかった、お前は俺の恋人じゃなくてソルジャー・ブルーだったんだ。感動の再会が台無しってヤツだな、残念なことに。
あいつらがいたんじゃ泣けるもんか、とハーレイが苦い顔をする通り。泣いても許されるだろうけれども、恋人同士の涙の再会は無理。一番の友達同士なだけ。
「そっか…。ハーレイの部屋では泣かなかったの?」
ぼくの目が覚めたら嬉しいだろうし、こっそり一人で泣かなかった…?
「あの時は泣いていなかったな。これからはお前と一緒なんだ、と勘違いしたもんだから」
お前の寿命が残り少なくても、暫くは側にいられるだろうと…。前と同じに。
アルテメシアにいた頃みたいに…、とハーレイが言う勘違い。目覚めた意味を読み違えたこと。
「前のハーレイ、あの時も勘違いをしたの…?」
遺言なんだと思い込んでた時のも勘違いだけど、前のぼくが目覚めた時だって…?
「誰が気付くんだ、死ぬために目覚めて来たなんて」
そのためだけにお前が目を覚ますなんて、前の俺が気付くと思うのか?
フィシスでさえも気付いていなかったんだぞ、気付いていたなら俺に知らせていただろうから。
「ソルジャー・ブルーを止めて下さい」と、シャングリラのソーシャラーとして。
前のお前を失うわけにはいかないからな、と今のハーレイが言うのも分かる。フィシスが未来を読んでいたなら、前の自分は軟禁されていただろう。青の間から一歩も出られないように。
フィシスでさえも読めなかったなら、ハーレイにはとても無理なこと。前の自分が目覚めた真の理由に気付くなどは。
「…勘違いでなくても、思わないよね…」
目覚めたら直ぐに死んじゃうだなんて、そうするために起きただなんて…。
誰も気付いていなかったお蔭で、前のぼくの「ナスカに残った仲間の説得に行く」っていう嘘、バレずに出して貰えたんだもの。…シャングリラから。
「そういうことだな。前の俺が涙を流した時には、お前はいなくなっちまってた」
何もかも終わっちまった後まで、キャプテンの俺は泣けなかったんだ。…天体の間に移るまで。
前のお前には散々泣かされちまって、今も泣かされ続けてる。
ふとしたはずみに思い出しては、俺の家で独りぼっちでな。今のお前が知らない間に。
うんと悲しい酒なんだぞ、と今もハーレイが想い続けるソルジャー・ブルー。今でもハーレイは前の自分を忘れない。「可哀想だった」と、心の中の特別な場所を与え続けて。
「ホントにごめんね…。前のぼくのこと」
ハーレイを何度も泣かせてしまって、最後は独りぼっちにしちゃって。
でも、ハーレイの涙、懐かしかったよ。片目だけしか見られなかったの、惜しいから…。
泣いてみせてくれない、ほんのちょっぴり。…今度は両目で。
「なんだって?」
泣けって言うのか、今、此処でか?
それも両目で、わざと泣くのか、とハーレイが驚いた顔をするから、「お願い」と強請った。
「思い出したら泣けるんでしょ? 前のぼくのことを」
可哀想だった前のぼくを思い出して泣いてよ、少しでいいから。
メギドの時だと酷すぎるから、他の何かで。アルタミラでも何でもいいから。
「…思い出したくても、お前が目の前にいたんじゃ無理だ」
お前は元気に生きてるんだし、今も我儘一杯だからな。俺に涙を注文するほど。
「えーっ!?」
酷いよ、思い出せないだなんて…。ぼくがいたら、それだけで泣けないなんて…!
ケチ、と膨れても断られた。「俺の涙は見世物じゃない」と。
「見世物じゃないって…。そんなの酷い…」
だったら、いつか見せてくれるの、今のハーレイが泣く所を…?
両目にゴミとか、そんなのじゃなくて、ちゃんと前みたいに流してる涙…。
「頼まなくても、見られる筈だと思うがな?」
今のお前なら見られるだろう、とハーレイが言うから「いつ?」と訊いてみた。今は駄目らしいハーレイの涙、それを見られる日はいつなのか、と。
「見られる筈だって言ったでしょ? それって、いつなの?」
「さてなあ…?」
お前と結婚できた時には、確実だろうと思っているが。結婚式の日には見られるんじゃないか?
嬉し涙を流す俺の姿を、もうたっぷりと。
「…本当に?」
「ああ、人前では泣かんがな。…そうそう大盤振る舞いは出来ん」
一世一代の涙なんだから、と笑うハーレイだけれど、二人きりになれた途端に泣くだろう、との読みだから。嬉し涙を流してくれるらしいから…。
今のハーレイの涙は楽しみに取っておくことにしよう、今は無理やり見ようとせずに。
可哀想な前の自分に譲って、今の自分は見られないままで。
「見せて」とハーレイに強請らなくても、いつか幸せで流す涙を自分は見られる筈だから。
その時は自分も泣くだろうから、ハーレイと二人、幸せの涙を流して泣こう。
いつかハーレイと結婚したら。
可哀想な前の自分の姿が、今の自分と重なって溶けて、ハーレイの前から消える日が来たら…。
ハーレイの涙・了
※今のブルーは見たことが無い、今のハーレイの涙。ブルーの前では泣かないのです。
ハーレイが涙を流すのは、前のブルーを想う時だけ。いつかブルーが大きく育つ時までは…。
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