シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
※葵アルト様の無料配布本からの再録です。
人の目に映る其処は機械やモニターが並ぶ無機質な印象の実験室。それ以上でも以下でもありは
しないが、足を踏み入れた者がミュウであったなら一秒たりとも自分の意思で留まることは出来
ないであろう。
壁に、床に、その天井に…余すところなく染み込み、塗り込められた怨嗟の思念。理不尽に握り
潰された命が残した断末魔の悲鳴…。
「今日はここまで…か」
白衣の男が顎で促し、部下の研究員が台の上に仰向けに固定されていた被験者のヘッドギアを
取る。
此処は惑星ガニメデの育英都市、アルタミラに設けられたサイオン研究所という名の実験施設。
サイオンを持つ新人種、ミュウの研究と分析と称して幾多の人体実験を重ねてきた場所。
「こいつは当分、使えないな」
ひくり、と喉を震わせただけの被験者を研究者は鼻で嘲笑った。
「檻を壊してくれたサイオン・バーストは凄まじかったが、お蔭で興味深いデータが取れた。
…だが、あの檻の修理と補強には時間がかかる。こいつのサイオンを封じ込めるにはそれ相応の
設備が無いと…。まあいい、適当に放り込んでおけ」
「それが…。今日、新たなミュウどもが到着しまして、檻は満杯になっております」
「ふむ。では、一匹連れて来て処分するか。…ん?」
研究者の視線が止まった先には時計があった。勤務時間を大幅に過ぎたことを示しているそれを
眺めた彼は忌々しげに舌打ちをして。
「貴重な時間をネズミ退治に費やすというのも腹が立つ。空きが無いなら詰めればよかろう。
適当にな」
後は任せた、と手を振って彼は出てゆき、残されたのは研究員たちと意識を失くした銀髪の
被験者。まだ手足を拘束された状態の被験者は、成人検査を終えて間もないと思われる年頃の
少年だった。
「適当に詰めろと言われてもなあ…。どうする?」
「その辺の檻に詰め込んだって、窮屈になるだけで死にやしないさ。ちゃんと換気はしてるんだ
からな。…そうだ、あいつの所はどうだ? あの体格だ、狭さで言ったら一番だぞ」
「なるほど…。どうせ退屈してるだろうしな」
相談を始めた研究員たちの顔に酷薄そうな笑みが浮かんだ。
研究所の厳重な管理区域に研究員たちが『檻』と呼ぶミュウの独房が並ぶ。
生を繋ぐのに必要な最低限の設備と広さしかない文字通りの檻。外に出られるのは人体実験を
される時だけという檻の一つに放り込まれて、もうどのくらい経ったのだろう?
成人検査に脱落してからの月日を数えることは止めて久しい。ただ、青年と呼ぶのが相応しく
なった自分の身体に、彼………ウィリアム・ハーレイは流れ去った時間の長さを思う。
ミュウは概して虚弱らしいが、ハーレイは聴力が少し弱いという点を除けば身体的な異常は
無かった。そのせいだろうか、最初の頃は頻繁にあった心理探査は殆ど無くなり、今では肉体に
負荷をかける実験に思い付いたように呼ばれる程度だ。
どうやら研究員たちはハーレイを「飼って」データを取ることだけに集中し始めているらしい。
今日も何事も起こらないまま一日が終わる、と毛布さえ無い床に転がった時、ガチャリと檻の
扉が開いた。
「おい、お仲間だぞ」
声と共に乱暴に放り込まれたのは幼さの残る銀髪の少年。
「この馬鹿が檻を壊したんだが、生憎と檻の空きが無い。毎日退屈してるんだろう? 面倒を
見てやるんだな」
「………?」
意図が掴めないハーレイに、研究員は苛立ったように声を荒げた。
「こいつの檻の修理が済むまで同居してろと言っているんだ! 痛めつけてやったから当分は
目を覚まさんだろうが、扱いはせいぜい丁重にな。…こう見えても年はお前より上だ。お前たちの
オリジンだと言えば分かるか?」
「…オリジン…?」
「一番最初に生まれたミュウだ。そしてサイオンは誰よりも強い。悪夢を見たショックで起こした
サイオン・バーストで頑丈な檻を壊した程にな。…何度も繰り返されてはたまらん。今は夢すら
見てないだろうよ」
自我が崩壊する寸前まで実験を続けてやったのだから、と研究員はせせら笑った。
「檻の修理が済んだら引き取りに来る。…言い忘れたが、名前はブルーだ」
一方的に告げられ、檻の扉が再び厳重に閉ざされた。
外の物音は檻の中まで届かない。研究員が立ち去ったのかどうかは分からなかったが、どうせ
檻は一日中、監視されている。それに面倒を見ろと言ったのは研究員だ。意識を失くした少年に
近付き、触れたところで咎められることは無いだろう。
ハーレイはブルーと呼ばれた少年の手首をそっと握った。
激しい人体実験を受けたというブルーは高い熱があり、苦しげに浅い呼吸をしている。細い手首
から伝わってくる脈も速くて、ハーレイの眉が顰められた。ブルーの腕に無数に残る注射の痕。
幼い少年に惨いことを…、と溜息をつくが、研究員の言葉が真実だとしたら…?
(本当に…この少年がオリジンなのか? 私よりも年上だと…?)
少年が目覚めたら言葉遣いに気を付けねば、とハーレイは思う。年長者は常に敬うべきだと彼に
教えたのは記憶も薄れた両親だったか、それとも教師だったのか…。
敬語など長らく使ってはいない。研究員に強制されて使ったことは幾度もあったが、自発的に
使うのは何年ぶりになるのだろうか。人間らしい生活の欠片を取り戻したような気分になった。
(子供相手に敬語で話す、か…。傍から見れば滑稽かもな)
忘れ果てていた笑みを唇に刻んで、ハーレイはブルーの身体を抱え上げた。
研究員が放り込んでいった場所よりも落ち着ける所を知っている。檻の奥に近い、自分の
寝場所。
照明がやや暗くなる其処をブルーに譲り、ハーレイは消えることの無い明かりに背中を向けると
入口付近に横になった。
彼らミュウには人権など無い。監視するのに不都合だからと夜になっても完全な闇は与えて
貰えず、檻の中は黄昏の一歩手前程度の明るさを保つ。心安らぐ闇が欲しいなら光源から遠ざかる
より他に無いのだ。
そんな生活にももう慣れた。だが、深い眠りが心身の回復を促すことを忘れてはいない。
ブルーの身体が少しでも早く癒えるようにと、ハーレイは祈るだけだった。
翌日…と言っても明確な時間の感覚は無いが、檻の扉が開いた音で目が覚める。すっかり
明るくなった照明の下でパック入りの食事が入口に置かれ、扉はすぐに閉じられた。
いつもより多いな、と感じてすぐに思い出したのは昨夜連れて来られた少年のこと。食事の量は
二人分だが、彼は食事を摂れるのだろうか…?
恐る恐る近付いてみるとブルーはぐっすり眠っていた。熱も下がっているようだ。栄養を摂る
べきだと判断したハーレイはブルーの身体を揺すってみる。
「…ブルー? ブルー?」
何度か呼べば銀色の長い睫毛が眠そうに上がり、現れた瞳は血の色を宿したように鮮やかな赤。
驚きに息を飲むハーレイに、ブルーもまた怪訝そうな表情をした。
「……誰?」
細められた瞳が何度か瞬き、それから大きく見開かれて。
「誰? 今度は何を実験する気? そんな格好をしてまで何を…!」
怯えるブルーはハーレイを研究員だと勘違いしてしまったらしい。実験が目的で自分と同じ
簡素な服を着、檻に入ってきたのだ、と。
「違う、私は研究員では…。研究員ではありませんよ」
敬語を使うと決めたのだった、と途中で気付いてハーレイは言葉遣いを改めた。狭い檻の中で
後ずさろうとするブルーの手を取り、もう片方の手で己の首に嵌まったリングを示す。
「私もあなたと同じミュウです。サイオンの制御リングがあるでしょう?」
「…これも実験? ぼくは…今までずっと一人だったのに…」
ブルーは他のミュウに出会ったことが一度も無かった。ハーレイは実験室で何度もミュウを
見かけていたし、他の檻にミュウが一人ずつ入れられている事実も早くから知っていたの
だが…。
なのにブルーは何も知らない。オリジンとして隔離されていたのか、それとも記憶を
失くしたか。ハーレイが語り掛けても返って来る言葉は外見どおりの幼いもので、年上とは
とても思えなかった。
「本当に…何も覚えていないのですか?」
「うん。成人検査を受けて、そのまま射殺されそうになって…。ミュウだとかオリジンだとか
呼ばれているのは知っているけど、ぼくが君より年上だなんて…。そんなの信じられないよ」
嘘だよね? と首を傾げたブルーが覚えていたのは自分の名前だけだった。
「成人検査を受ける前には、ぼくの瞳は青かったんだ。だからブルーと名付けたんだよ、って
誰かが言ってた…。あれは父さんだったのかな? それとも…。駄目だ、なんにも思い出せない。
どうして…」
両手で顔を覆ったブルーを、ハーレイは思わず抱き締めていた。
「大丈夫ですよ、私も似たようなものですから。父も母も顔を覚えていません。…それよりも
食事をしなくては。あなたは酷く痛めつけられていて、身体が弱っている筈です」
堰を切ったように泣きじゃくるブルーの背中を擦って宥め、落ち着いた頃合いを見計らって
味気ない食事の封を切る。それを差し出せば、ブルーがふわりと笑みを浮かべた。
「…ありがとう。此処に来てから誰かと一緒に食事をするのは初めてだよ」
いつもよりずっと美味しい気がする…、と喜びながら食事とも呼べない代物を食べ終えた後、
ブルーはハーレイに問い掛けた。
「そういえば君の名前を聞いてなかった。…なんて言うの?」
「ハーレイです。…ウィリアム・ハーレイ」
「…ウィリアム…ハーレイ? そうか、名前が二つもあるんだ」
ブルーには自分のファミリーネームの記憶が無かった。そしてウィリアムの名は呼びにく
かったらしく、ハーレイと呼びかけて子供のように甘えてくる。
「ハーレイは大きくて温かいね。ずっと一緒にいられたらいいね…」
それはハーレイにとっても心が温かくなる言葉だった。
自分を頼ってくれる者がいるのは何と嬉しいことだろう。起きている間は実験のことを
忘れさせてやろうと他愛も無い話を交わして、食事を摂って…夜は二人で寄り添って眠る。
けれど…。
「ブルー、お前の檻がやっと出来たぞ。さあ、出るんだ」
無情な研究員の一言で穏やかな日々は砂上の楼閣の如く崩れ去った。ブルーは全てを諦め切った
顔でハーレイを見詰め、逞しい褐色の手をキュッと握って。
「…さよなら、ハーレイ。ありがとう…。君といられて楽しかったよ」
忘れたくないよ、と一粒の涙だけを残して、ブルーは白衣の男たちに連れてゆかれた。その先に
待っているのは人を人とも思わぬ実験。記憶も何もかもを失うほどにブルーの心身を苛む絶え間
ない責め苦…。
二度と会うことは叶わないであろうブルーを思って、ハーレイは日夜、胸を痛めた。あんなにも
細い身体を、成長し切っていない心を、研究者たちはどうして罪の意識すらも抱かず切り刻む
ことが出来るのか…。
ハーレイの思いを他所にサイオン研究所での実験は続く。
相変わらずハーレイが引き出されるのは肉体への負荷の実験のみだが、同じ実験をブルーが
あの華奢な身体で受けているのかと考えただけで心臓が凍りそうだった。丈夫な自分でも場合に
よっては起き上がれない程に疲弊する。ならばブルーは? ブルーの身体は…?
研究員はブルーを強いサイオンを持つオリジンだと言った。しかし数日間だけ一緒に暮らした
ブルーは自分よりも幼く、ハーレイという縋れる相手を見付けたせいか、弱音を吐くことも
しばしばで…。
ブルーはあれからどうしただろう? 名前以外の全てを忘れてしまったろうか…?
どうしてもブルーのことを考えずにはいられない。実験に連れ出される時も、檻にいる時も。
その夜もハーレイは膝を抱えて蹲ったまま、銀色の髪と赤い瞳の少年を思い浮かべていた
のだが…。
「…!」
出し抜けに檻の扉が開いて何かがドサリと投げ込まれた。顔を上げたハーレイの目に映った
ものは片時も心を離れなかったブルーの姿。
「お前に仕事だ。こいつを使えるようにしろ」
白衣の研究員が冷ややかな声でハーレイに命じる。
「急ぎの実験が待っているのにダウンされてしまってな。いいか、明後日までに元に戻すんだ。
どうやらこいつは、お前と相性がいいらしい。…ミュウには相性というヤツがある。相性がいい
ヤツと一緒にすれば相乗効果でサイオンが強くなることは分かっていたが、回復まで早くなる
とはな」
この前の時は劇的だった、と研究員は愉快そうに笑ってみせた。
「当分は再起不能なレベルにまで痛めつけてやったというのに、明くる朝にはお目覚めだ。檻の
修理さえ間に合っていればすぐにでも引っ張り出せたほどにな。…今回も期待しているぞ」
実験は明後日の朝に開始する、と言い捨てて研究員は扉を閉めた。
ハーレイの身体が小刻みにガクガクと震え始める。
ブルーを実験動物としか見ていない研究員への怒りもあったが、それ以上に自分自身が憎い。
自分の存在はブルーに害を及ぼしてしまう。側にいるだけで回復を促し、実験室へと送り込む
手伝いをすることになってしまうのだから…。
(私はブルーに触れてはいけない。出来るだけ離れていなくては…)
檻の中では距離を取るのも難しかったが、ブルーには二度と触れまいと誓う。それだけでも
少しは違うだろう。
ブルーが実験に連れ出される日は少しでも先の方がいい。怒り狂った研究員に殴られようとも、
自分はブルーを守りたいのだ…。
ハーレイの悲壮な決意も空しく、翌日の朝にブルーは目覚めてしまった。宝石のような赤い
瞳がハーレイを映し、血色を取り戻した唇が無邪気に名を呼ぶ。
「…ハーレイ? ハーレイだよね?」
会いたかった、と胸に飛び込んで来たブルーをハーレイは強く抱き留めていた。触れては
ならないと昨夜決心したばかりだが、どうして突き放すことが出来よう?
ブルーが忘れているならともかく、今も自分を覚えているのに……縋り付き頬を摺り寄せて
くるのに、温もりを求めていると分かっている手をどうして振り払うことが出来よう…?
「ハーレイのことは覚えていたんだ。忘れたくないって思ったからかな? また会えるなんて…。
しばらくは一緒にいられそうだね」
前の時みたいに、と嬉しそうに身体を預けてくるブルーに、しかしハーレイは言うしか
なかった。ブルーが此処に連れて来られた恐ろしい理由を。二人きりの世界が終わる時間を…。
「………。そうだったんだ……」
ブルーは俯いて唇を噛み締め、伏せた睫毛の端から涙が零れる。ハーレイはブルーが自分から
離れると思い、細い身体に回していた腕を外したのだが、ブルーは一層強く抱きついてきた。
「…ごめん、ハーレイ。…ハーレイは嫌かもしれないけれど……実験の手伝いなんて嫌だろう
けど、ぼくはハーレイの所に来たい。ぼくが実験でボロボロになったら、ハーレイが治して
くれるんだろう? だったら……もう実験は怖くないよ。実験のためにハーレイと引き離される
のは悲しいけれど…」
「…ブルー…?」
戸惑うハーレイの腕が躊躇いがちにブルーの背中に戻され、ブルーが安堵の息をつく。
「やっぱりハーレイは温かい…。また来るから。明日になって連れて行かれても、また来る
から…。だから待っててくれると嬉しい。…ハーレイには嫌な思いをさせるけど…」
「嫌だなどと…誰が言いました…?」
ハーレイはブルーの頬を濡らす涙を武骨な指先で拭ってやった。
「あなたのことをずっと心配していましたよ。…二度と会えないと思っていたのに、どうしても
忘れられなかった。私があなたと一緒にいれば研究者たちを喜ばせるだけだと知った時には
ショックでしたが、それでも…目覚めたあなたを目にしてしまうと、また会いたいと願って
しまう。あなたには酷なだけなのに…」
「実験なんて…大したことじゃないと思うよ、またハーレイに会えるのなら。明日の実験ですぐ
ボロボロになれればいいのに、そう簡単にはいかないだろうな…」
ぼくのサイオンは強いらしいから、とブルーは悲しげに微笑んだ。
「次に会えるのはいつなんだろう? ハーレイのことは忘れないから……忘れていてもきっと
思い出すから、待っていて。ぼくは必ず戻って来るから」
約束だよ、とブルーが指を絡めてくる。その仕草がたまらなく愛おしく思えて、ハーレイは
細く白い指に唇を落とした。
それは再会の約束の証。ブルーが無事に生き延びるように、と願いをこめた祈りの印…。
その翌日、ブルーはハーレイの檻から実験室へと連れて行かれてそのまま戻ってこなかった。
どんな実験が行われたのかは分からない。次にブルーが戻って来るのは心身の限界まで責め
苛まれてボロ布のようになった時だ。
それなのにハーレイはブルーに会いたいと願ってしまう。
自分の檻の中で休ませ、寄り添っていてやりたいと……疲れ果てたブルーの心を癒し、整った
顔立ちが花のように綻ぶ美しい笑みを見守りたいと。
(こんなことを願っていてはいけない。ブルーには会えない方がいいのだ。会えない間はブルーは
元気にしているのだから…)
そう思っても、心は常にブルーを追っている。檻の扉が開かれる度に銀色の髪を探してしまう。
研究者たちはハーレイの力を役立てるべく、幾度もブルーを檻の中に放り込みに来た。
再会する度にブルーは生気を取り戻してゆき、今はもう別れる時に「さようなら」と口に
することはない。「またね」と微笑み、研究員たちに背中を押されて名残惜しそうに去って
ゆくだけ…。
「明日になったら、またお別れだね」
もう何度目になるのだろう。消えない明かりから庇うように抱き込むハーレイの腕の中で
眠りにつく前、ブルーが寂しげな声音で呟くのは…。
やりきれない思いでハーレイは華奢な身体に回した腕に力を籠める。そうした所でブルーを
守れはしないのだったが、少しでも支えになれるのなら…、と。
「早くハーレイの所に来たいよ。なのに実験が終わらない…。ぼくの力がどんどん強くなって
いくから、新しい実験が増えるんだって。この実験が終わればハーレイの所で目が覚めるんだ、
と思っていても、気が付いたらまた実験室で…」
どうしてだろう、とブルーは顔を曇らせる。
「本当に強い力があるなら此処から出られそうなんだけど、出る方法が分からない。外へ
出られたらハーレイといつも一緒にいられるのに。離れなくても済むはずなのに…」
「サイオンのことは私にもよく分かりません。制御リングを嵌められているせいでしょうか?
自分がミュウだと何度言われても、以前と変わった所は何も…」
ハーレイの言葉にブルーは頷き、「ぼくも」と首のリングに触れた。
「成人検査で機械を壊したらしいんだけど、何をしたのか記憶に無いんだ。その後、銃を向け
られたのは覚えているけど……サイオンで弾を受け止めたなんてホントかな? こんな髪と
瞳になっちゃったから、何かあったのは確かだけれど…。ハーレイの所へ初めて来た時、檻を
壊したのが本当にぼくの力だったら…」
外へ出たいよ、と訴えるブルーをハーレイはただ抱き締めるだけ。
この檻から…サイオン研究所から脱出できたら、どんな世界が広がるのだろう?
ブルーも自分も人体実験から解放されて人間らしく暮らせるだろうか? それともやはり
化け物と呼ばれ、何処までも追撃されるのか…。
答えは全く分からなかった。けれど一つだけ確かなことは、研究所から解き放たれたらブルーと
離れずにいられること。研究員たちの都合で引き離されずに、いつも一緒にいられること…。
(…夢物語というヤツか…。どうせ死ぬまで出られはしない)
絶望感がブルーに伝わらないよう、ハーレイは努めて笑顔を作ると銀色の髪を優しく撫でた。
「もしも外の世界へ出られたら…いつまでも一緒に暮らせるのですよ。ですから希望を捨て
ないで。…いつか必ず、此処から出ると……それまで生きると誓って下さい」
「…そうだね…。実験で死んでしまったらハーレイに会うことも出来なくなるし…。外へ出られる
時が来るまで、ぼくは何度でも此処へ戻って来るよ。ハーレイが待っているのが分かっている
から、記憶も消えなくなったんだしね」
以前は過酷な実験の度に記憶を失くしたというブルーだったが、ハーレイと出会ってからの
記憶は鮮明だった。それもハーレイとの相性のせいか、と研究員たちは様々な検査を試み、
ブルーの負担は一層増える。
それでもブルーは耐え続けた。ハーレイが待つ檻の中で目覚め、共に過ごせる僅かな時間の
輝きだけに縋りながら…。
そんな日々がどのくらい続いたのか。
ある朝、ブルーが連れ去られた直後にハーレイも檻から引き出された。
こんなことは今までに一度も経験が無い。ブルーと同じ内容の実験を受けるのだろうか、と
考えながら長い通路を歩いて階段を下り、堅固な扉の前へと連れて行かれる。研究員が暗証番号を
打ち込みながら唇を歪めた。
「あの世への土産話に教えてやろう。お前たちミュウの命は今日で終わりだ」
「なんだと?」
信じ難い言葉にハーレイの瞳が見開かれる。
その前で扉のロックが外され、薄暗い空間に閉じ込められた大勢の人間が視界に飛び込んで
きた。一目でミュウだと分かる揃いの服の男女の群れ。押し寄せてくる悲鳴と怒号。
「このガニメデごと処分してしまえとグランド・マザーが仰った。惑星破壊兵器のメギドが既に
狙いを定めている。俺たちがこの星を脱出したら、お前たちは星ごと焼かれるんだ。お前の
大事なブルーもな。だが…」
ブルーの姿がありはしないかと目を凝らしていたハーレイの背に冷たい銃口が突き付けられた。
「二人一緒に死なせてやるほど酔狂ではないさ、我々は。…入れ!」
突き飛ばされるようにして潜った扉が背後で閉ざされ、それきり開くことは無かった。
部屋にいるのはサイオン制御リングを首に嵌められ、押し込められたミュウたちだけ。
泣き叫ぶ者や啜り泣く者、扉を叩いて喚く者…。
誰もが恐慌状態の中、ハーレイはブルーを探し求める。けれどブルーは見つからないまま、
遠くで爆発音が響いた。
爆発と何かが崩れ落ちる音が間断なく続き、凄まじい揺れが襲ってくる。研究員が言って
いたとおり、この惑星ごと滅ぼされるのだ。
(ブルー…!)
ハーレイの脳裏をブルーの泣き顔が掠めていった。こんな時に側にいてやれない。きっと
何処かで泣いているだろうに、自分はブルーの所に行けない…。
(くそっ、どうしてこんな時に…!)
拳を壁に打ち付けた瞬間、ブルーの叫びが耳に届いた。
『開けろ、ぼくらが何をした! 何をしたって言うんだ!』
「ブルー?」
この部屋にブルーはいないのに…自分の聴力は弱い筈なのに、それは間違いなくブルーの声。
涙交じりに絶叫する声。
何処に…、と周囲を見渡したのと、ひときわ大きな爆発音が部屋を揺るがしたのとは同時
だった。
「……!」
凄まじい爆風と衝撃が突き抜け、首に嵌められていたサイオン制御リングが砕け散る。床に
伏せていた身体を起こすと、部屋は跡形も無くなっていた。
いや、研究所そのものが吹き飛んでしまったと言うべきか…。これもメギドのせいなの
だろうか? だが、ミュウたちは一人も傷ついておらず、その首からはサイオン制御リングが
消え失せている。
(さっきの声…。まさか、ブルーが? ブルーが全てを壊したのか?)
何が起こったのかも分からないまま、ハーレイは声が聞こえたと思った方へと駆け出して
いった。
炎の色に染まった空が頭上に広がり、廃墟と化した研究所からミュウたちが先を争って
逃げ出してゆく。他人を気遣う余裕などがあろう筈もなく、倒れた者は踏み付けられて置き去りに
されてゆくだけだ。
その人波に抗うように進み、ついには誰一人いなくなった廃墟の中を探し続けて…。
「ブルー!」
ハーレイの瞳が求める者の姿を捉えた。
自分の身体を両腕で抱き、蹲っている小さなブルー。青い光をその身に纏い、瓦礫の間に
埋もれるように。
急いで駆け寄り引きよせてみれば、血の気の失せた薄い唇から漏れる言葉は…。
「嫌だ、死にたくない。ハーレイのいない所で死にたくない…」
「ブルー、私は此処にいます!」
細すぎる肩を掴んで揺すると、ブルーは何度か瞬きをしてハーレイを赤い瞳に映した。
定まらなかった焦点が合い、青い光が見る間に薄れ、唇が微かに戦慄いて…。
「…ハーレイ…? ハーレイ…!」
しがみ付いてきたブルーを抱き上げ、ハーレイは炎を掻い潜って懸命に駆けた。
街を、全てを舐め尽くそうとする悪魔の舌が大気を焦がし、噴き上げる火の粉が行く手を
阻む。
アルタミラが燃える。この惑星ごと地獄の劫火に包まれてゆく…。
(死んでたまるか! ブルーだけでも……ブルーだけでも逃がさなければ…)
何処か安全な場所は無いかと必死に考えを巡らせていると、ブルーがハーレイの名を呼び、
炎の彼方を指差した。
「…多分、あっちに宇宙船が…。あそこまで行けば逃げられるかも…」
宇宙船の影が見えた気がする、とブルーはハーレイの顔を見上げた。
「ぼくは出たいと願ったんだ」
ハーレイの負担になるから、と自分の足で走り始めたブルーが息を切らしつつハーレイに
告げる。
「殺されるって分かった時に……ハーレイは別の所に連れて行かれたって分かった時に、
あそこから出たくて泣き叫んで…。気が付いたら全部無くなっていた」
部屋も研究所も首のリングも…、と。
自分のサイオンがそれらを引き起こした事実にブルーは恐れ戦き、その場から動けなく
なってしまった。
ハーレイの名をただ繰り返すだけで、自分の殻に閉じ籠もっていたブルーを見付け、
救い出したのは力強く太い褐色の腕。
「死にたくないよ。やっと自由になれたのに…」
ハーレイと外へ出られたのに、とブルーの声に涙が滲む。
「まだ終わりではありませんよ。宇宙船が見えたのでしょう? そこまで行って
みなければ…」
諦めるのは早すぎます、とハーレイはブルーの華奢な手を強く握った。
「私たちが閉じ込められた場所を粉々にしたと言いましたよね? その力で宇宙船の在り処も
分かったのでしょう。…とにかく今は逃げることです。宇宙船に乗れれば生き延びられます」
もしも脱出できたなら…、とハーレイはブルーの手を引いて走る。
「二度とあなたの手を離しません。あなたの側から離れはしないと約束します」
「そうだね。…二人で自由にならなくっちゃね…」
ハーレイと一緒なら何処へでも行ける、とブルーが涙に濡れたままの瞳で微笑み、ハーレイの
手を握り返した。
宇宙船はまだ見えてはこない。けれどブルーも、そしてハーレイも希望に向かって走り続ける。
滅びゆく星を後に振り捨て、二人で空へと飛び立つために。
共に生きたいと願う気持ちを何と呼ぶのか、二人とも未だ気付いてはいない。互いを求めて
やまない想いが身の内に満ち、密やかに溢れて実を結ぶのは遠い宇宙へ出てからのこと…。
巡り逢いの扉・了
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