シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
上も下もなく、時すらも無い白い空間。
ただ暖かく、穏やかな光に包まれてブルーは眠る。
どのくらい、こうしているのだろう。どのくらい、こうしていたのだろう。
意識すらも心地よく溶けて定まらない眠りの中で、時折、胸がツキンと痛む。
失くしてしまった。
…何を?
もう会えない。
…誰に?
それが何なのか思い出せないし、思い出すことすらも億劫に思えてしまうのだけれど…。
違う、と心に小さな漣が立つ。意識が目覚めそうになる。
(ぼくはもう何も失くしたくない)
嫌だ、とブルーは目覚めを拒否して胎児のように手足を丸めた。この穏やかな光の中では自分は決して傷つきはしない。何ものもブルーを傷つけはしない。
かつて何かに傷ついたのか、あるいは傷つけられたのか。それすらも此処ではどうでもいい。
それなのに胸がツキンと痛む。何故なのか、それを探りたいとも思わないのに。
(…もう何も、誰も失くしたくない…)
何を失くしたのか、誰を失くしたのか。
胸がツキンと痛むのは嫌で、ずうっと眠っていたいのに…。
眠りの中でキュッと握った右の手が冷たい。此処は暖かくて心地よいのに、こんなにも穏やかで暖かい光の中で眠っているのに、胸がツキンと痛む時には右の手だけが冷たくなる。
(……何故?)
暖かいのに。何もかもが優しくブルーを包み込むのに、どうしてこの手は冷たいのか。
それを知りたいとは思わない。…知ったならばきっと辛くなる。きっと悲しくて泣いてしまう。
何も考えずに眠ればいい。眠っていればいつか右手は温かくなるし、心も再び光に溶ける。
そう、眠ってさえいれば痛みも辛さも、何も感じはしないのだから……。
自分は何を失くしたのか。誰を失くしてしまったのかも、いつしか眠りと光とに溶けて。
けれど時々、胸がツキンと微かに痛む。右の手が凍えて冷たくなる。
ブルーはむずかる幼子のように「嫌、嫌」と首を振り、丸くなってそれをやり過ごす。
痛いのは嫌。手が冷たいのも、心が痛くなるから嫌。
忘れたいのに。何もかも忘れていたいのに…。
(……嫌だ)
また冷たい。手が冷たくて胸が痛い、と丸くなろうとしたブルーの右の手が、ふっ、と柔らかな温もりに包まれた。
柔らかだけれども、がっしりとした感触と確かな温もり。
「ブルー」
穏やかな声に名前を呼ばれた。低く優しい響きの声。
(……誰?)
この声を自分は知っている。そう、ずうっと前から知っていた声……のような気がする。
(…ううん、そうじゃない)
知っているのではなくて、待ち続けていた。
ぼくはこの手を、この温もりを、この声が呼ぶのを長い長い間、待っていた。
此処で独りで眠り続けながら。
上も下も無く、時すらも無い場所で心を光の中に溶かして、傷つかないように眠りながら……。
「ブルー、やっと会えた。…やっと見つけた」
くるり。
光の世界がくるりと回って、穏やかな渦がブルーを包んでふうわりと回る。
上も下も無い空間がゆっくりと回ってそれを止めた時、ブルーは一人ではなくなっていた。
側に在る優しい、懐かしい温もり。
おずおずと閉じていた瞳を開ければ、広い胸の中に抱かれていて。
「……ハーレイ……」
褐色の肌に鳶色の瞳、逞しく大きな身体を持ったブルーの恋人。
ブルーをそうっと抱き締めながら、懐かしい声が問い掛ける。
「…ブルー…。何故、こんな所に一人きりで?」
訝しむ声に問われて思い出した。
どうして自分が一人きりで此処で眠っていたのか、どうして時々、胸が痛んだのか。
胸がツキンと痛む時には、どうして右手が冷たくなってしまったのかを。
「……もう何も失くしたくなかったから。温もりを失くしてしまったから」
「…温もりを?」
怪訝そうな声に小さく頷く。
「……最期まで覚えていたかった…。最後に君に触れた手に残った温もり。あの温もりがあれば、ぼくは一人じゃないと思った。……それなのに、ぼくは失くしてしまった」
メギドで撃たれた傷の痛みがあまりに酷くて、それに耐えるのが精一杯で。身体に弾が食い込む度に右手に残った温もりは薄れ、最後には何も残らなかった。
一人きりで死んでゆくのがとても辛くて、悲しくて…。
そうして暖かな光の世界で眠り続けて、心すらも光に溶かして眠った。
もう何も自分を傷つけないよう、何ひとつ失くさないように。一人きりでもかまわなかったし、それで充分だと思っていた。
温もりを失くしてしまったから。これ以上は何も、誰も失くさないでいられるのならば、一人で眠っていたかったから…。
「ブルー……」
ふわり、と右の手を温かく包み込む温もり。ハーレイの手がブルーの右手を優しく包んだ。
「一人じゃない。もう、あなたは一人きりじゃない」
側に居るから。いつまでも側を離れないから、と抱き締められてブルーはコクリと頷く。
「…うん…。ぼくはもう、一人きりじゃない…」
その幸せ。その幸い。もう胸がツキンと痛みはしないし、右の手も冷たくなったりはしない。
自分は全てを取り戻したから。…失くしたものも、失くした存在も……。
ブルーが守った白いシャングリラは遠く旅立って行ったという。青くなかった地球を離れて、新しい世代のミュウたちを乗せて。
地球の地の底で命尽きたジョミーや長老たちもまた、行くべき場所へと旅立った、と。
「…あなたも其処に居ると思った。なのに、あなたは見付からなかった」
どんなに捜し回ったことか、とハーレイがブルーの背を何度も撫でる。
「もしや何処かに新しく生まれてしまったのでは、と焦っていたのに、あなたときたら…」
「……ごめん。でも、ぼくにはそんな勇気は無いよ」
だから此処にずっと一人きりで居た、とブルーは言った。
「新しい命を貰ったとしても、君がいなければ意味が無い。…君と一緒にいられないなら、そんな生には何の価値もない。それくらいなら一人で良かった。…そうすれば何も失くしはしないし、君を失くしてしまいもしない」
「本当にそうか? 何を失くしたかも忘れてしまうような世界でも?」
「…忘れていないよ」
本当だよ、とブルーはキュッと右の手を握る。
「思い出すと辛いと分かっていたから、思い出さないようにしていただけ。……それでも胸は痛くなったし、右手が凍えて冷たくなった。ぼくは忘れていなかったから。誰を失くしたのか、何を失くしたのか、どうしても忘れられなかったから…」
だから、とハーレイの胸に縋ってブルーは大粒の涙を零した。
「ぼくは何処へも行きたくはないし、君とも二度と離れたくない。ずうっと此処で二人きりでも、君がかまわないのならそうしたい。…誰にも会うことが出来なくても」
「…ブルー……」
ほうっ、とハーレイが溜息をつく。
もしかして行ってしまうのだろうか? ハーレイはブルーを此処に残して、皆の後を追って行くのだろうか。
(でも、ぼくは…。ぼくはハーレイを忘れたくない)
ハーレイが行ってしまうのであれば、また一人きりで眠ればいい。…今度はハーレイの温もりを失くさないよう、大切に抱いて眠ればいい。そうすればハーレイが居なくなっても…。
そう思って握ろうとした右の手をハーレイが捕え、自らの指を絡ませた。
「…私もあなたを忘れたくない。あなたの望みが同じだと言うなら、何処へも行かない」
二人でずっと此処に居よう、とハーレイは言った。
「あなたさえいれば、それだけでいい。…他には何ひとつ望みはしない」
上も下も無く時間すらも無い、白い光に満たされた二人だけの世界。
其処で他愛ない言葉を交わして、寄り添い合ってブルーはハーレイと過ごす。
外では時が流れているのだろうけれど、二人きりの世界に時間などは無い。それでも時が経ったことをブルーに教えるものは、ハーレイがブルーを呼ぶ時の言葉。
いつの間にか「あなた」が「お前」に変わって、ハーレイが自分を指して言う言葉もいつしか「私」から「俺」へと変わった。
遠い昔にアルタミラで初めて出会った頃のそれと変わらない言葉。それが心地よくて、ずっとこのままでいいと思った。
上も下も、時間すらも無い白い空間でも、こうして二人きりで居られるのならば。
けれど少しずつ欲張りになる。
もっと、もっとハーレイを強く感じてみたい。
光の中で二人溶け合ったように寄り添い合ったまま、もうどのくらいになるのだろう。
(…もう一度、君を感じてみたい)
ハーレイの広い胸に身体を擦り寄せる。
(失くしてしまったヒトの身体で、もう一度ヒトとして君に会いたい)
此処で過ごしてきた緩やかで長い時に比べれば一瞬のような、ほんの短い生であっても君と同じ『時間』を過ごしてみたい。
遠い日に白いシャングリラでそうであったように、ヒトとしての温もりを分かち合いながら…。
そしてブルーは口にしてみる。
「もう一度、君と一緒に生まれてみたいな」
「…ブルー?」
「ミュウが人として生きていられる世界で。…もう一度、君と生きられるのなら」
夢なんだけれど、とブルーは呟く。
「……本当にただの夢なんだけれど、叶うのならば君と一緒に人の身体で」
「そうか…」
ハーレイの腕がブルーを抱き締め、離すまいと強く力を籠めた。
「…お前の夢なら叶えてやりたい。此処を離れてもう一度、人になりたいのならば」
「うん……。でも、それで終わりになるのは嫌だ」
ぼくは欲張りで弱虫だから、とブルーはハーレイに縋り付く。
「人として生きる生を終えたら、二人で此処に還ってこよう。また二人きりで長い長い時を一緒に過ごして、また人になって生きてみたくなる日まで…」
「そうだな。…俺もお前と離れたくはない」
この世界に居よう、とハーレイも頷き返した。此処こそが自分たちのために在る世界だと。
二人きりで過ごすためだけに在る、上も下も時も無い白い空間。
ハーレイに寄り添ってその温もりを感じる幸せの中で、ブルーは夢を言の葉に乗せる。
「ぼくは地球がいいな」
もう一度ヒトとして生まれられるのなら地球がいいな、と遠い日の記憶をうっとりと追う。
「…地球がどうなったのかは分からないけれど、もしも蘇っているのなら…。ぼくが行きたかった青い水の星が在るのだったら、その上に生まれてハーレイと一緒に暮らしてみたい」
「俺は地球にはこだわらないが…」
しかし、とハーレイがブルーの頬に両の手を添えて赤い瞳をひたと見詰めた。
「…俺はお前の姿を見たい。今とそっくり同じ姿に生まれたお前を見たいと思う」
「ぼくもだよ、ハーレイ」
それはぼくも同じ、とブルーは鳶色の瞳を見詰め返して、ハーレイの背に自分の両腕を回す。
「…ぼくもハーレイに会いたいよ。「さよなら」も言えずに別れてしまって、見詰めている暇さえ無かったから。…また人として生まれられるなら、好きなだけハーレイを眺めていたいよ…」
「俺もだ。同じ人として巡り会えるなら、この姿をしたお前でないとな。どんな姿でも俺はお前を見付けられるが、今の姿が何よりも好きだ」
同じ姿に生まれて来てくれ、と願うハーレイに「うん」と頷き返したけれど。
(…そんな時はきっと来やしない)
来るわけがない、とブルーは桜色の唇を噛んだ。
長い長い時をずうっと此処で過ごして、いつまでもきっと、このままで…。でも…。
「…ハーレイ…」
「なんだ?」
「……もしも神様が居るんだったら。願いを叶えて欲しいよ、ハーレイ…」
もう一度、君と生きてみたいな、と夢に思いを馳せるブルーをハーレイは優しく抱き締める。
「お前の夢なら叶うんじゃないか? …俺の夢なら難しそうだが、お前は世界を、ミュウの未来を守ったんだからな」
いつか叶うかもしれないな、とブルーを大切に腕に抱きながら、ハーレイは心の中で祈った。
神よ。
もしもあなたが居るというなら、ブルーの願いを、私の愛しい者の願いを叶えて下さい。
その身を、命をミュウの未来に捧げて散った、私のブルーの願い事を……。
そうして恋人たちは寄り添い続ける。
上も下も、そして時も無く、ただ二人きりの空間の中で。
穏やかに笑い合い、寄り添い合って眠り、目を覚まし、また二人で眠って、時の流れからも遠く離れた二人だけの世界で夢を語り合って。
「…ねえ、ハーレイ…」
ブルーは幾度も繰り返してきた夢の続きを歌うように紡いだ。
「もう一度生まれて、地球の上で君に会ったなら。……ぼくは必ず思い出せるよ、君が誰なのか、ぼくは誰なのか」
……でなければ会う意味が無いだろう?
思い出すよ、ぼくは誰で君が誰だったのかを…。
(……でも……)
どうやって思い出したらいいんだろう、とブルーは自分自身に問い掛ける。
此処へ来る前に自分が失くしてしまったもの。
それを失くしたことが悲しくて、何もかも忘れて眠ろうとした。胸の痛みも、右の手に時折感じた冷たさでさえも、忘れたいという願いの元にはなっても思い出す縁にはならなかった。
(…君の温もりさえも失くすようなぼくが、どうしたら思い出せるんだろう?)
今度は決して忘れるわけにはいかないのに、と考え続けて一つの答えに辿り着いた。
ハーレイの温もりを失くした理由。それがあるなら、それを逆手に取ればいい。そうすれば…。
「…ハーレイ。ぼくは今度は忘れないよ」
ぼくは絶対に忘れない、とハーレイの身体に腕を絡めて抱き付いた。
「本当か? …随分と自信がありそうに見えるが、いったいどんな根拠があるんだ?」
お前は俺を忘れかかっていたじゃないか、と笑うハーレイに「内緒」と囁く。
「でもね、本当にぼくは忘れない。…もしも願いが叶えば、だけど」
地球の上に生まれられなかったら出番なんか無い方法なんだよ、とブルーは微笑む。
「…確かにな。その時までは内緒なんだな」
「うん。…そういう時が来たら、だけれどね」
それまでは内緒、とハーレイの温かな胸に身体を押し付け、ブルーは遠い過去を思った。
(……大丈夫。今度は思い出せる)
きっと、きっと、ぼくは思い出すことが出来る。
君の温もりを失くしてしまったのが、あの酷かった痛みのせいならば。
あの時の傷を生まれ変わったぼくの身体に刻むよ、今度は何ひとつ失くさないように……。
穏やかな白い世界にハーレイと二人、其処には上も下も、時すらも無くて。
その暖かな光の世界で過ごしながらも、ブルーはその身に傷を刻んだ。
ハーレイに決して悟られないよう、けして身体には出さぬよう…。
魂だけで存在する身に「見えぬ傷痕」を刻み付けることはとても難しく、辛く悲しかったメギドでの時を思い返すことも嫌だったけれど、あの時の傷に頼るより他に道は無い。
(…もしもハーレイと、もう一度生まれて地球で会えるなら)
その願いがもしも叶うのならば、と切ないまでの祈りをブルーは自らの傷痕に託す。
(いつかハーレイと出会った時には、ぼくに教えて。…ハーレイなんだ、と。…ぼくが誰なのか、ハーレイはぼくの何だったのかを、その痛みでぼくに思い出させて)
いつかそんな日が来るのならば、と刻み付けた傷痕に思いを託して、願い続けて。
「…ハーレイ。…ぼくは必ず思い出すから、いつか一緒に地球に生まれたい」
「お前の願いが叶うといいな。…お前の夢が叶うんだったら、俺はいくらでも祈ってやる」
神様ってヤツに祈り続けて頼んでやるさ、とハーレイはブルーを強く抱き締めた。
腕の中のブルーがその身に刻み付けた傷痕に気付きはしなかったけれど、ブルーの願いを叶えてやりたいと心から思い、ただ神に祈る。
愛しいブルーがいつの日にか地球の上に生まれて、もう一度、人として生きられることを。
その時は自分も共に生まれて、今度こそブルーを守るのだと。
(神よ。…どうかブルーの願いを叶えて下さい)
(…ねえ、ハーレイ…。今度こそ、ぼくは忘れない。ぼくは必ず思い出すから)
いつの日か、蘇った青い水の星の上で。
今と寸分違わぬ姿で、もう一度人として巡り会いたい。
此処で過ごす長い時に比べれば短いものでも、人の身体で同じ時間を過ごしたい。
そして寿命が尽きた時には、また二人きりでこの上も下も無く、時も無い白い世界へと…。
二人して願うようになってから、どのくらいの時が流れたのかは定かではなく、謎だけれども。
神はハーレイの切なる祈りを、ブルーの願いを聞き届けた。
時は流れて、十四歳を迎えたブルーの右の瞳の奥がツキンと痛む。
瞳から零れた鮮血こそが、かつてブルーがその魂に刻んだ傷痕が蘇る証。
年度初めに少し遅れて赴任してきた古典の教師、ハーレイに出会い、ブルーの身体にメギドでの傷痕が浮かび上がって大量の血が溢れ出す。
(……ハーレイ?!)
(…ブルー?!)
ブルーは全てを思い出した。
自分が誰であったのかを。ハーレイは自分の何だったのかを。
ハーレイもまた記憶を取り戻し、二人の時間が再び流れ始めた。
上も下も無く時すらも無かった白い空間は遠いものとなり、いつか二人で還る日までは思い出すことも無いだろう。今の二人には重力を持った地球の大地と、時の流れとがあるのだから。
ブルーがその魂に刻み付けた傷痕を見た人々は『聖痕』と呼んだ。
それは神の業ではなかったけれども、ブルーの切なく強い願いが刻んだもの。
愛する者を二度と忘れることがないよう、出会えば思い出せるよう。遠い昔に失くした温もりのように、儚く消えてしまわぬようにと。
こうして出会った二人の時間がどれほど幸せに満ちたものかは、二人だけにしか分からない…。
時の無い場所で・了
※いつもハレブル別館にお越し下さってありがとうございます。
実は8月、ハーレイ先生のお誕生日という設定になっております。
ブルー君は3月31日です、と3月に公表いたしましたが、知られてないかも…。
此処ではなくて、毎日更新なシャングリラ学園生徒会室の方での発表でしたし。
それはともかく、ハーレイ先生は8月です。
ゆえに今月は3回更新の予定であります、ハレブル別館。
ハーレイ先生のお誕生日が8月の何日なのかは…。
待て、次号! 次回更新時にお知らせです~。
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