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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

水族館の鯨

(わあ…!)
 鯨、とブルーは新聞の記事を覗き込んだ。
 学校から帰って、おやつの後に広げた新聞。シロエ風のホットミルクを飲みながら。
(とっても綺麗…)
 海を思わせる青いイルミネーションが輝く広場に浮かんだ鯨。写真に添えられた解説によると、ザトウクジラという種類。
 夜の広場に浮かび上がったザトウクジラは本物そっくり、空中を泳いでいるかのようで。
(これって実物大なんだ…)
 しかも鯨は動くという。新聞の写真では分からないけれど、海で見られる姿さながら、尾びれや身体をダイナミックにくねらせて空を泳ぐのだと。



 水族館の前の広場で立体映像を投影中。
 ただし夜のみ、夜に水族館まで来ようという人への御礼の期間限定イベントなるもの。
 立体映像だけに、鯨が泳ぎ回る範囲は広場の上空だけなのだけれど。
(見たいな…)
 水族館のイベントだから、様々な鯨が投影される。ありとあらゆる種類の鯨。
 中でも目玉は最大の動物と名高いシロナガスクジラで、それが泳ぐさまを見られるという記事がブルーの心を惹き付けた。
 シロナガスクジラ。
 前の生で暮らした白い鯨にそっくりだという巨大な鯨。
 シャングリラは鯨によく似ていた。意図したわけではなかったけれども、改造の過程でそういう形に落ち着いた。
(人類軍にも鯨に見えてたみたいだしね?)
 彼らが名付けたシャングリラの名前はモビー・ディック。SD体制よりも遥かな昔の小説に出てくる白い鯨から取られた名前。
(モビー・ディックはシロナガスクジラじゃないんだけどな…)
 シャングリラでキースと対峙した時、彼の心を読んでモビー・ディックの名を知った。キースに逃亡されてから後、ナスカの悲劇に至るまでの間に気付いて苦笑したものだ。
(あっちはマッコウクジラなんだよ)
 人類のネーミングセンスはなかなかだったが、モビー・ディックはマッコウクジラ。元になった小説にマッコウクジラとあった筈だ、と些か可笑しく、愉快でもあった。
 シャングリラはマッコウクジラに見えはしないと思うのだが、と。



(このイベントだと…)
 マッコウクジラも見られるのだろう。
 投影の順番は分からないけれど、広場で夜空を見ていれば、きっと。
 シャングリラを思わせるシロナガスクジラに、モビー・ディックなマッコウクジラ。
(見に行きたいなあ…)
 水族館まで行ってみたいな、と記事と写真を何度も眺める。鯨の立体映像を見に、水族館へ。
 ブルーの住む町に海は無かったが、代わりに大きな水族館。
 巨大な水槽を泳ぎ回る魚や、色とりどりのイソギンチャクなどの生物も居た。幼い頃には両親と一緒にイルカのショーを見ていたものだ。
 充実した水族館だったけれども、流石に鯨はいなかった。水族館で飼うには大きすぎる鯨。
 小さな種類の鯨は飼えても、シロナガスクジラはとても飼えない。マッコウクジラも。
 だから立体映像で見て貰おうという夜のイベント、夜空を泳ぐ鯨たち。
 青いイルミネーションに彩られた広場に浮かぶ姿は、どれほど素敵な光景だろう。次から次へと映し出される実物大の鯨たち。
 シロナガスクジラにマッコウクジラ。
 前の自分が守った船にゆかりの鯨が実物大で。



(どっちも見たことないんだよ…)
 今の自分も知らないけれども、前の自分も本物の鯨を知らなかった。
 シャングリラを白い鯨のようだと思ってはいても、それは知識を持っていただけ。データベースから得ていた知識で、生きて泳いでいた鯨は知らない。
(わざわざ探しに行けないしね…)
 アルテメシアの海に鯨は居たらしいのだが、泳ぐ姿は見かけなかった。海の上を飛んだり、海に潜って隠れたりもしたのに、出会わなかった。
 シャングリラそっくりのシロナガスクジラに会えはしなくて、影さえ一度も見られなかった。
(海の中には居た筈なのに…)
 運が良ければ出会えそうだ、と思っていたのに、とうとう会えずに終わってしまった。あの星に辿り着いた時には「鯨が見られるかもしれない」と心躍らせていたというのに。



 シャングリラを白い鯨に仕上げた時には、まだ海さえも見ていなかった。
 メギドに滅ぼされたアルタミラが在った星、ガニメデに海があったかどうかも覚えてはいない。だから知らない、海というもの。もちろん鯨も知りはしなくて。
 いつかは地球の海で本物の鯨を見たいものだ、と夢を見ていた。
 母なる地球でシャングリラと鯨が出会えればいい、と。
 けれども地球への道は遠くて、辿り着いたのが雲海の星。それでも海はあったから。
 そこに鯨がいないものかと、見られないものかと期待したのに、雲海からは海は見えない。外に出た時しか見られはしない。
(偶然に賭けるしかなかったんだよ、アルテメシアで鯨に会うには)
 シャングリラが堂々と海の上を飛べたら、きっと鯨も見られただろうが、出来ない相談。
 だから更なる夢へと広がる。
 鯨を見るならいつか地球でと、青い水の星で鯨を見ようと。
(だけど…)
 地球には行けずに終わってしまった。前の自分はメギドで散った。
 本物の鯨も見られないまま、ただの一度も出会えないままに。



(鯨…)
 見たかったんだけどな、と零れた溜息は前の自分のものだろう。
 冷めてしまったホットミルクの残りを飲み干し、名残惜しげに新聞を閉じた。
 キッチンの母にお皿やカップを返しに行って、階段を上がって自分の部屋に戻ってから。
(本物の鯨…)
 今だと何処で出会えるだろう、と勉強机の前に座って考えた。
 水族館には鯨はいない。シャングリラを思わせる巨大なシロナガスクジラを飼ってはいない。
 鯨に会うなら、本物の海。何処までも広がる海に行かないと出会えない鯨。
 しかも鯨は大きいから。
 砂浜に泳いで来たりはしないし、海水浴に出掛けて見られるわけでもなさそうだ。もっと深くて船が通ってゆくような海。そういう所を鯨は自由に泳ぐのだろう。
(ハーレイ、見たことあるのかな?)
 水泳が得意な今のハーレイ。
 海が好きだし、普通の人なら泳がないような沖にまで泳いで出てゆくと聞いた。
 それにハーレイの父は釣りをするから、船に乗って遠い遥かな沖へも一緒に出掛けている筈だ。
(もしかしたら…)
 ハーレイは鯨を見たかもしれない。
 この地球の上で、シャングリラそっくりのシロナガスクジラが泳ぐ姿を。



 出会ったかもね、とブルーが思いを巡らせていたら、来客を知らせるチャイムが鳴った。窓から下を見下ろしてみれば、門扉の向こうで手を振る人影。ブルーの大切な想い人。
 母に案内されたハーレイが部屋を訪れ、テーブルを挟んで向かい合わせ。
 ブルーは早速、鯨の話を切り出した。
「ハーレイ、鯨を見たことはある?」
「何を今更…。そりゃまあ、俺は見たことが無いが」
 前の俺には馴染みだったぞ、シャングリラ。もっとも、大抵は俺は鯨の中だったがな。
「シャングリラじゃなくて、本物の鯨」
 大きなヤツだよ、シロナガスクジラを何処かで見てない?
「今の俺がか?」
「そう。ハーレイ、シロナガスクジラに会ったかなあ、って…」
 海が好きだから、一度くらいは会ってるかも、って思うんだけど…。
「生憎と俺は見てないなあ…」
「シロナガスクジラ、ハーレイが行くような海にはいないの?」
 もっと遠くに行かなきゃ駄目なの、簡単に行ける海では無理?
「そういうわけでもないんだが…」
 運の問題っていうヤツもあるな、親父とおふくろは見てるんだがな。
 でかかったぞ、って話してくれたが、俺は一緒じゃなかったんだよな、その時にはな。



「そっか…。ハーレイも知らないなら、連れてってくれない?」
 シロナガスクジラ、見たいんだよ。だから連れてって欲しいんだけど…。
「何処にだ?」
「水族館」
 この町にあるでしょ、あの水族館。
「はあ?」
 ハーレイは鳶色の瞳を丸くした。あの水族館にそんな大きな鯨がいたかと、シロナガスクジラを飼っているなど一度も聞いてはいないのだが、と。
「違うよ、本物の鯨じゃなくて…」
 立体映像の鯨なのだ、とブルーはハーレイに説明した。
 実物大の様々な鯨が夜の広場を泳ぐイベント。それの目玉がシロナガスクジラで、是非とも夜に行ってみたいと。暫くはやっているようだから、と。



「夜だって?」
 おまけに水族館の前の広場か、とハーレイは苦い顔をした。
「俺にはお前をデートに連れて行く義務なんぞ無いと思うがな?」
 どうしてわざわざ出掛けて行かんとならんのだ。お前を連れて。
「先生と生徒でいいんだよ!」
 水族館に出掛けるんだから、引率の先生と生徒で充分。恋人同士じゃなくていいから。
 ぼくは鯨を見に行きたいだけで、デートだなんて思ってないから!
「だが、そのイベント。夜しかやっていないんだろうが」
「そうだけど…」
 イルミネーションとセットで夜だよ、夜に水族館に出掛けた人だけ見られるんだよ。
「お前の家の門限、何時だ?」
「んーと…。ぼくは門限なんて一度も言われてないけど、何時だろう?」
 でも、門限があったとしても。
 ハーレイと一緒だったら延びると思うよ、遅い時間になったって平気。きっと、十時でも。
「十時だと? それは相当遅いだろうが」
「でも、鯨…。いろんな鯨を投影するから、何度も見てたら遅くなりそう」
 シロナガスクジラ、一回だけ見て帰ってくるなんてつまらないものね。二回は見たいし、時間があるなら三回だって、四回だって。
 ハーレイが一緒に行ってくれるんなら、十時を過ぎてもパパもママも何にも言わないよ。だって先生と一緒なんだし、帰りも家まできちんと送ってくれるに決まってるものね。



「家に帰るのが十時を過ぎるとは不健全だな、デートだからな」
 子供のデートは門限までには帰るもんだし、それ以前にお前のその年で、だ。
 デートなんぞに行こうというのは好ましくないな、おまけに夜のデートとくれば論外だ。
「デートじゃなくて引率だってば!」
 先生と生徒で見に行くだけだよ、手を繋ぎたいとか言わないから!
 ハーレイとはぐれないように服の裾とかを掴むだけにするから、先生の立場で連れてってよ!
「お前は先生と生徒のつもりでいいかもしれんが…」
 俺がそういう気にならないんだ、デートだとしか思えないから駄目だ。
「なんで?」
 水族館だよ、学校からでも見学に行ったりする所だよ?
 前の学校の時にも行ったし、今の学校でも何年生かで出掛ける筈だと思うんだけど…。
 引率の先生、大勢行くから、古典の先生が水族館でも全然おかしくないと思うよ?
「確かに俺も今までに何度か引率で生徒を連れては行ったが…」
 そいつは昼間だ、生徒を連れて見学するのは学校があるような時間だろうが。
 しかしだ、夜の水族館はな、デートコースの王道なんだ。
「嘘…!」
 ハーレイ、嘘をついてない?
 ぼくを連れて行くのが嫌だから、って口から出まかせ言ってるんでしょ…!



 ただの鯨の投影なのに、とブルーは怒ったのだけれども。
 ハーレイが言うには、ブルーが何も知らないだけで。
 夜の水族館と前の広場は本当に有名なデートコースで、カップルの姿が目立つ場所。立体映像もイルミネーションも、そういう来客が増えるようにと行われるイベントの一環らしい。子供たちは夜にはあまり来ないし、カップル向け。
「…そんな…。あの鯨、デート用だったの?」
 実物大だよ、本物そっくりの映像だよ?
 デートじゃなくても見たいって人が沢山いそうなイベントなのに…。
「もちろん、一般客も狙っているさ。期間中はデート目当てじゃない客だって増えるだろう」
 それこそ鯨が好きそうなチビも見に行きそうだぞ、帰りはすっかり寝ちまってそうな幼稚園児。
 だからお前もお父さんかお母さんに連れてって貰え。
 門限の心配は要らんわけだし、ついでに外で食事もするとか。
「でも…。ハーレイと晩御飯、食べられないよ」
 鯨の投影を見に出掛ける日は、ハーレイと食事が出来ないんだけど…。
「そこは潔く諦めるんだな。お前、鯨が見たいんだろうが」
 鯨と俺とは両立しない、ってコトで鯨を選んでおけ。
「えーっ!」
 酷いよ、ぼくはハーレイと食事をしたいのに!
 ハーレイが家に来てくれる日に、留守になんかはしたくないのに!



 仕事帰りのハーレイが寄ってくれる日は決まってはいない。仕事が早く終われば会えるし、その逆ならば会えずに終わる。夕食の席にハーレイの姿があるかどうかは神様次第。
 もしも鯨を見に出掛けた後、ハーレイが家を訪ねて来たなら、食事の機会が一つ無くなる。鯨を眺めに行ったばかりに、ハーレイと食事が出来なくなる。
 それだけは嫌だ、とブルーは鯨を頭から追い出しにかかったのに。
 見に行きたかった鯨を忘れようと思っているのに、ハーレイは「うーむ…」と腕組みをして。
「留守にしたくないと言うんだったら、俺が来られない日を教えてやろうか?」
 この日はちょっと難しそうだな、と思ってる日があるからな。
 頑張って仕事を片付ける計画を立てちゃいたがだ、その日は俺は仕事をして。お前はお父さんやお母さんと一緒に水族館に行けばいいだろ、そうすりゃ全て解決だ。
 俺との食事を逃しはしないし、鯨だって見に行けるってな。門限の心配も要らんからなあ、気が済むまで何度でも見られるぞ、鯨。
「やだ」
「何故だ? いいアイデアだと思ったんだが」
 俺は仕事で来られないんだし、丁度いいだろ、その日に行けば。
「ハーレイが来られない日に決まってるから、って遊びに行くのは嫌だよ、ぼく」
「なんでそうなる」
 来られないって言っているんだ、遊びでも何でも自由に過ごせばいいだろうが。
「ぼくはそこまで不真面目じゃないから」
「はあ?」
「ハーレイが頑張って仕事をしてる、って分かっているのに、ぼくだけ、遊び」
 そんなの不真面目に決まっているでしょ、恋人が仕事をしてる間に遊ぶだなんて。家で大人しく過ごすべきだよ、そういう日には。
「お前なあ…」
 チビのくせして何を言うんだか、普段は普通に過ごしてるだろ?
 俺が帰りに寄らないからって、家の手伝いとか勉強ばかりをしてるってわけじゃないだろうが。
 本を読むのも立派な遊びだ、水族館へ行くのと大して変わりはしないが?



 鯨の投影を見たいんだろうが、とハーレイに勧められたけれども。
 確かに鯨は見たかったけれど、そんな方法でしか見られない鯨は要らないから。
 ハーレイの仕事と引き換えの鯨は嬉しくないから、ブルーは未練を追い払って言った。
「鯨、諦めるよ…」
 きっと御縁が無かったんだよ、最初から。
 たまたま記事を見付けたけれども、もしも新聞を読まなかったら、知らなかったと思うから。
「見たかったんじゃないのか、シロナガスクジラ」
 シャングリラそっくりの鯨だからなあ、お前、見たくてたまらないだろうに。
 諦めちまって後悔しないか、考え直すんなら今の内だぞ。俺が来られない予定の日は、だ…。
「いいよ、その日は知らなくっても。その日、ハーレイが来られなくてもかまわないよ」
 水族館に行っておけば良かった、なんて考えたりはしないから。
 ハーレイが仕事で来られないって分かっているのに、ぼくだけ遊びに行けないから。
「しかしだな…。せっかく見られるチャンスなんだし…」
 行っておけばいいと思うんだがなあ、チビはチビらしく、お父さんたちと。
「いいんだってば、いつかハーレイとデートで見るから」
「デート?」
「夜の水族館、デートコースだから連れて行けないって言ったじゃない」
 ハーレイとデートが出来るようになった頃に、またイベントをするかもしれないし…。
 そしたらハーレイと見に出掛けるから、その時でいいよ。
 デートでゆっくり好きなだけ見るんだ、シロナガスクジラ。モビー・ディックなマッコウクジラとか、他の鯨も沢山、沢山。
「ふうむ…。またイベントをやるって可能性は大いにあるなあ…」
 新聞に載ってたくらいなんだし、多分、新しいイベントだろう。
 好評だったら定番になって、年に何度もやるようになる。
 俺たちがデートに出掛けられる頃にもやっていたなら、二人で行くとするか。俺の車で夜の町を走って水族館まで、お前の知らない鯨を見にな。



 そういうデートをしようじゃないか、とウインクしたハーレイが「そうだ」と手を打った。
 いいアイデアを思い付いたと、これぞデートだと。
「なあ、ブルー。いつかデートで見ると言うなら、本物の鯨を見に行かないか?」
 立体映像もいいが、本物の鯨。水族館じゃなくて、ちゃんと海でな。
「なに、それ?」
 そんなのがあるの、海で鯨を見られるの?
 いつも必ず鯨がいます、って決まってる場所でも知っているわけ?
「ホエールウォッチングというヤツなんだが…。聞いたことないか?」
「…ホエール…?」
「ウォッチングだ、鯨を見に行くツアーさ」
 船に乗って鯨が見られる場所まで行くんだ、いろんな鯨に会えるのが売りだ。
「鯨を見に行くって…」
 船に乗っていれば鯨に会いに行けるの、いろんな鯨に?
 海に出るなら、うんと大きな鯨もいるよね、それこそシロナガスクジラとかも…!
「うむ。親父とおふくろはそれで見たんだ、釣りの途中ってわけじゃなくてな」
 俺に自慢していた、シロナガスクジラ。
 ただし、あくまで運らしいんだが…。
 この前は見られたから今回も、って風にはいかんらしいな、相手は野生の生き物だしな。



 どんな鯨に出会えるのかは、運と鯨の気分次第。
 ホエールウォッチングとはそういったものだ、とハーレイはブルーに説明してから。
「どうだ、俺と一緒に出掛けてみるか? ホエールウォッチング」
 シロナガスクジラに会えるかどうかは、本当にお前の運次第だがな。
「行く!」
 夜の水族館でデートもいいけど、ホエールウォッチングも行ってみたいよ。
 ハーレイと一緒に船に乗って行って、シロナガスクジラに会えたらいいな。とっても大きな鯨に会えたら、それがシロナガスクジラだよね?
「ちゃんと説明してくれる人だっているさ、鯨の種類を」
 プロだからなあ、影を見ただけで分かるそうだぞ、鯨の名前。
 そうして鯨が逃げて行かない距離を保って見せてくれるのさ、ゆっくりとな。
「絶対、行きたい!」
 連れて行ってよ、そういうデート。
 ハーレイと一緒に本物の鯨に会いに行けるツアー。
 立体映像のシロナガスクジラも素敵だけれども、本物の方がいいに決まっているもの…!



「分かった、いつかは連れてってやるさ。ただし、結婚してからだぞ?」
 日帰りで行くには遠すぎるからな、泊まりの旅行になっちまうからな。
「泊まりのデートは駄目なの、ハーレイ?」
 デートに行けるってことは、ぼくは大きくなってるんだし…。
 前のぼくと同じ背丈になってるんだし、泊まりでもいいと思うんだけどな。
 結婚してからだなんて言っていないで、デート出来るんなら連れて行ってよ。
「おい。お前を泊まりで連れ出すだなんて、お前のお父さんたちに何と言い訳すればいいんだ」
「えっ、先生と生徒で旅行くらいは普通でしょ?」
 ハーレイは家族みたいなものだし、ぼくを旅行に連れてってくれても問題無いよ。
 パパもママも「行ってらっしゃい」って言ってくれるよ、大丈夫。
「そのまま教師と生徒で行くならかまわないが、だ」
 いずれ結婚するんだろうが。
 その時に俺がうんと気まずい立場になるんだ、お前を旅行に連れて行ったりしてればな。
 旅行の間は何をしてたか、どういう関係だったのか。
 お父さんとお母さんの前で脂汗だぞ、「あの時はすみませんでした」とな。
「えーっと…。それじゃ、結婚よりも前に泊まりの旅行は駄目ってこと?」
「当然だ!」
 結婚しないと言うなら別だが、俺と結婚したいんだったら。
 その辺はきちんとしておかないとな、デートは日帰りの範囲ってことだ。



 元が教師と生徒だからな、とハーレイは厳しい顔をする。
 泊まりの旅行などには行かずに、デートは日帰り、門限も厳守。
 いくら恋人同士になっても、付き合いはあくまで健全に、と。
「ちょっと待ってよ、健全にだなんて…」
 それじゃ、本物の恋人同士になれるのはいつ?
 日帰りで門限厳守のデートじゃ、いい雰囲気になれそうな所が少なそうだよ…!
「そういったことは結婚するまでお預けだってな」
 お前が大きく育ったからって、すぐにやらなきゃいけないわけでもないんだし。
「そんな…!」
 嘘でしょ、ハーレイ?
 ぼくがまだまだチビだから、って嘘を言ってるだけだよね?
「いや? 少なくとも、俺はそのつもりだが?」
 嘘も冗談も言っちゃいないぞ、お前とそういう関係になるなら結婚式を挙げてからだな。
「酷い…!」
 ぼくの背丈が伸びたなら、って言ったじゃない!
 どうしてそういうことになるわけ、結婚するまで駄目だなんて…!
「酷くないだろ、お前と一生、付き合うんだからな」
 ちゃんと結婚して、一緒に暮らす。お前は俺の嫁さんになる。
 誰もが認めるカップルってわけだ、前の俺たちとは違うってな。
 秘密の恋人同士じゃない分、けじめはきちんとしておきたい。
 お前のお父さんたちに堂々とお前を下さいと言える立場で申し込みたいからなあ、不埒な行為は厳禁だ。泊まりの旅行は論外だな、うん。



 結婚前でもキスくらいはな、と笑うハーレイ。
 キスくらいならば許してもいいが、その先のことは決して駄目だと。
「ハーレイ、酷いよ…。背が伸びたら、って言ってたくせに…」
 前のぼくとおんなじ背丈になるまで我慢しろ、って言うから我慢してるのに…。
 背が伸びてもキスしか出来ないだなんて、酷すぎない?
 結婚するまで泊まりの旅行も、本物の恋人同士になることだって禁止だなんて…!
「間違えるなよ? 我慢するのはお前だけじゃなくて、俺もだからな」
 お前がチビでガキの間は俺も余裕で笑ってられるが、お前が育ち始めたら。
 前のお前と同じ姿に育っちまったら、俺だって我慢大会だ。
 しかし、お前と結婚したけりゃ耐えるしかないと思ってるわけだ、やましいことはしたくない。
 お前のお父さんとお母さんに顔向け出来ないことをしちまったらマズイだろうが。
 俺はお前の立場も考えた上で言ってるんだが、お前は不満そうだってことは。
 そういう関係になりたいから俺と付き合いたいのか、その関係がお前の目的なのか?
 俺と一緒に暮らすことより、俺と結婚することよりも。
「違うけど…」
 ハーレイのお嫁さんになって一緒に暮らすのが夢なんだけど…。でも…。
「でもも何もない。そいつが夢なら、まず結婚だ」
 それが一番大事なことだろ、俺と一緒に生きてゆくなら。
 まずはそいつをクリアせんとな、お前のお父さんとお母さんにきちんと申し込んで。



 その代わり…、とハーレイはブルーの銀色の頭をポンと叩いた。
 褐色の大きな手で軽く、優しく、そっと諭すように。
「いつか、お前と結婚したら。俺とお前は、あちこちへ旅をするんだろう?」
 宇宙から二人で青い地球を見て、その地球の上も気が向くままに。
 もちろん、ホエールウォッチングも。
「うん」
「いろんな所へ泊まりで行けるさ、もう遠慮なんかは要らないんだからな」
 何処へ行っても恋人同士だ、誰にも隠さなくてもいいだろ?
 前の俺たちとはまるで違って、何処でもいつでも恋人同士でいられるってな。
 そうしたかったら、まずは結婚。
 分かるな、俺とお前の名前を並べて書けるようになるのが大切なんだということは。
「うん…」
 結婚してから旅行なんだね、ハーレイと二人。
 いろんな所へ出掛けるんだね、泊まりの旅行で二人一緒に…。



 鯨も見ようね、とブルーは微笑む。
 シャングリラそっくりのシロナガスクジラを見に行ける旅に、船に乗って海へ出る旅に。
 そんな旅へと出掛ける日までは、立体投影の鯨が限界。
 日帰りで行けて、門限までに家へ帰れる水族館のイベントくらいがデートの限界。
(…ハーレイ、凄く早い時間に家まで送ってくれそうだよ…)
 それこそ引率教師と生徒さながらの早い時間に、家の前まで。
 名残惜しくて胸に縋っても、キスでお別れ。
(…せっかく二人でデートなのに…)
 キスよりも先はお預けだなんて、まるで思いもしなかった。
 背丈が伸びれば、前の自分と同じに伸びれば、前と同じに愛し合えると信じていた。
(…だけど、お預け…)
 結婚するまでお預けはとても悲しいけれども、ハーレイの言う「けじめ」は分かるから。
 誠心誠意、向き合ってくれているからこその言葉だから。
(結婚までは我慢しなくちゃ…)
 我慢、と自分に言い聞かせた。
 もっとも、明日にはすっかり忘れてまた言うのかもしれないけれど。
 ハーレイがそれを口にする度、唇を尖らせて、プウッと膨れて、子供ならではの我儘で。
 それは酷いと、結婚するまでお預けだなんて酷すぎるよ、と…。




          水族館の鯨・了

※立体投影の鯨をハーレイと一緒に見に行きたい、と思ったブルーですけれど…。
 夜のデートは「まだ駄目」だそうで、将来も「早い時間に」帰ることになりそう。でも幸せ。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








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