シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
入試の合格発表が終わるとバレンタインデーが目前でした。温室の噴水が期間限定のチョコレートの滝に変わって大人気。去年も目にした光景ですが、ミカンやバナナをコーティングして楽しんでいる生徒が大勢います。ちょっとしたお祭り気分ですね。そんな平和なある朝のこと。
「諸君、おはよう」
1年A組の教室に現れたグレイブ先生は1枚の紙を持っていました。
「バレンタインデーが近づいているが、校長先生から諸君へのお言葉がある。読み上げるから静粛に」
なんでしょう?首を傾げるA組一同。グレイブ先生は紙を掲げて軍人のみたいに直立不動。
「在校生の諸君、我がシャングリラ学園はバレンタインデーにおけるチョコレートのやり取りを非常に重視するものである。この時期、温室の噴水をチョコレートの滝に変えてあるのは、懐の寂しい生徒が容易にチョコレートを入手できるようにとの配慮であるから、持ち帰りは大いに奨励される」
えっ、チョコレートの滝はお遊びじゃなくて実用品!じゃあ、去年お小遣いをパンドラの箱の要求で使い果たしてしまった私が、あの滝のチョコを取って固めて「そるじゃぁ・ぶるぅ」にプレゼントしたのは正しい利用法だったんですね。
「なお、ここまでお膳立てをしてもチョコレートのやり取りをしない生徒は礼法室にてバレンタインデーに説教をする。当日の終礼までにチョコを1個も貰えなかった男子および1個も渡しに行かなかった女子は覚悟するように。…以上」
グレイブ先生が朗読を終え、眼鏡を指先で押し上げて。
「校長先生もこのようにおっしゃっている。風紀に厳しい我が学園だが、バレンタインデーは特別なのだ。年に一度くらい男女の交遊をさせてやろうという、校長先生の寛大な思し召しを無駄にしないよう心がけたまえ」
「質問です!」
男の子がサッと手を挙げました。
「もしもチョコレートを貰えなかったらどうなるんですか?」
「礼法室で説教だ。その後は何故チョコレートを貰えなかったか、自分の至らなかった点を自問自答し、反省文を校長宛に提出する。反省文は四百字詰め原稿用紙に手書きで2枚以上。書き終えるまで下校は不可」
ひゃああ!…女子はチョコを誰かに渡しさえすればオッケーですけど、男子はそうはいきません。誰からもチョコを貰えなかったら、お説教の上、反省文…。
「男子諸君は頑張りたまえ。…そうそう、一つ教えておく。どう頑張っても女子にチョコを下さいと言えない生徒もいるだろう。少々不甲斐無い気がしないでもないが、そういう男子は友人同士でチョコをやり取りするのが許可されている。我が学園では『友チョコ』と呼ばれ、これがけっこう評判がいい」
おぉぉっ、と男子がどよめきました。それならチョコレートを手に入れる道が開けます。
「要するに、説教と反省文の対象になるのは男女ともに努力しなかった者だけだ。男子に渡す度胸の無い女子も友チョコが許されているからな。…諸君、ベストを尽くすように」
そう言ってグレイブ先生は朝のホームルームを終えました。チョコレートの滝に加えて友チョコ制度。これだけ揃えてもらっているのにお説教と反省文の刑を食らう生徒がいるんでしょうか?…後で口コミで知った話では、過去に該当者は無いそうです。でも期末試験が近づいているのに、浮かれ騒いでいていいのかな?まぁ、そんな所がシャングリラ学園の校風なのかもしれませんけど。
その日はクラス中がバレンタインデーの話で持ちきりでした。チョコレートの滝と真剣に向き合ってきたクラスメイトもいたみたい。放課後になって「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋へ行くと、テーブルの上に乗っていたのは…何種類ものケーキとスコーン、それにフィンガーサンドイッチ。アフタヌーンティー用の食べ物です。こんな準備がしてある日は…。
「かみお~ん♪みんな座って、座って!もうすぐフィシスとリオが来るよ」
ティーセットを用意してお湯を沸かしながら「そるじゃぁ・ぶるぅ」は御機嫌でした。
「今日のスコーンも自信作なんだ。ケーキも好きなだけ食べていってね、沢山作ったんだもん」
会長さんに促されてソファに座るとすぐに紅茶が出てきます。その内にフィシスさんとリオさんが来て、和やかなお茶会が始まりました。
「…今日はいったい何があるの?」
ジョミー君がクロテッドクリームをたっぷり塗ったスコーンを頬張りながら尋ねます。アフタヌーンティーの時は決まって生徒会の用事があるのでした。私たちは何の役目も持ってませんから、ただ聞いているだけなんですけど。
「バレンタインデーに決まってるじゃないか」
会長さんが即座に答え、詳しいことはキース君たちが来てからだ…と言いました。珍しいこともあるものです。いつもなら会長さんとフィシスさん、リオさんの三人でテキパキと話を終えてしまって、キース君たちがやって来る頃にはおしゃべりタイムになっているのに…。
「君たちにも聞いておいて欲しい話だからさ。普段している仕事と違って、ちょっと特殊な仕事なんだよ」
普段の生徒会の仕事は他の学校と変わりません。行事の準備や学校側との打ち合わせなど、会長さんがサボリを決め込む用事が殆どです。そのサボリ大好き会長さんが乗り気に見える特殊な行事って何でしょう?早くキース君たちが来ないかなぁ…。あっ、やっと入ってきましたよ。いつも練習、お疲れ様です!
「やあ、三人とも、待っていたよ。…まずは座ってゆっくりしたまえ」
会長さんが「そるじゃぁ・ぶるぅ」の淹れた紅茶をキース君たちに渡し、お腹を空かせた三人組がサンドイッチやスコーンをたっぷり食べてケーキの方に移るのを待って。
「そろそろいいかな。…リオ、今年のチョコレートの手配の方は?」
「順調です。注文書が届いてすぐに発注してありますし、間もなく全て完了するかと」
えっ、チョコレートの手配ですって?…もしかして生徒会もバレンタインデーにチョコを配るんでしょうか。でも、それなら『友チョコ』なんていう制度が無くても、全員チョコを貰えそうな気が…。あ、女の子は渡しに行かないといけないんですし、貰うだけではダメなのかな?
「違うよ、チョコレートを手配してるのは同じシャングリラでも学校じゃなくて船の方」
「「「船!?」」」
私たちは驚きのあまり、ケーキやサンドイッチを取り落としそうになりました。シャングリラという名前の船は宇宙クジラしかありません。二十光年の彼方を航行中の宇宙船にバレンタインデーのチョコレートを?
「シャングリラは今、月の裏側まで帰ってきてる。何光年も離れた場所までチョコレートは届けられないからね」
賞味期限の問題もあるし、と会長さん。
「あらかじめ送ってもらった注文書どおりにチョコレートを用意するんだよ。みんな色々こだわりがあるし、これがなかなか大変で。…リオがいなけりゃ、全員チロルチョコかもね」
「そんなことになったら、皆、泣きますよ。とても楽しみにしてるんですから」
「分かってるって。リオには感謝してるんだ」
会長さんはクスクスと笑い、「そるじゃぁ・ぶるぅ」を呼びました。
「ぶるぅ、もうすぐチョコレートが用意できるそうだよ。今年はどうする?シャトルを降ろしてもらって運ぶか、一気にシャングリラまで移動させるか。…ぼくはどっちでも構わないけど」
「うーんと…。シャトルを降ろしてもらっても、そこまで運ばなきゃいけないし。面倒だから送っちゃおうよ、シャングリラまで」
いつも一気に送ってるもん、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」はニコニコ顔です。
「分かった。…それじゃ、リオ。チョコレートが全部用意できたら、シャングリラに衛星軌道上に移動してくるよう連絡を。ステルス・デバイスは月を離れた時点で起動」
「「「ステルス・デバイス?」」」
聞き慣れない単語をオウム返しに聞き返してしまう私たち。ステルス・デバイスって何でしょう?
「シャングリラがレーダーに探知されない為の技術だよ。起動中は肉眼でしか捉えられない。…普段は使わないんだけれど、地球に近づく時には必須」
「…あんた、シャングリラの何なんだ?」
キース君が会長さんを真剣な目で見つめました。
「チョコレートの件はまあいいとして、月から地球の衛星軌道に移動させろと命令したり、ステルス・デバイスの起動を指示したり…。船長は教頭先生なんだろう?…なのに、あんたが指揮できるなんて…。本物の船長はあんただってことはないだろうな?」
「それは無いよ。この件だけは特別だから、ぼくの都合に合わせてるんだ。バレンタインデー用のチョコレートをシャングリラに配達するのに船長の手を煩わせることはないだろう?…運ぶのはぼくとぶるぅだし」
チョコレートを詰めた箱ごと瞬間移動させるんだよ、と会長さんは微笑みました。
「ついでに言うなら、チョコレートの購入資金は生徒会から出てるんだ。ほら、こないだの入試で試験問題やお守りを売って稼いだだろう?…あれでチョコレートを買うんだよ。他にも一年を通じて色々なものを差し入れしてる」
「…福利厚生って本当だったんですか…」
シロエ君が目を丸くしています。会長さんは確かに「シャングリラ号の乗組員の福利厚生に充てる」と言っていましたけれど、私も含めて誰も信じていませんでした。
「うん、本当。…たまには仲間の役に立つことだってしておかないとね」
ぼくは遊ばせて貰ってるんだし、とウインクをする会長さん。シャングリラ号に乗り組んでいる人たちの為にバレンタインデー用のチョコレートを用立てて運ぼうだなんて、驚きです。いつも生徒会をサボッてばかりなのに、私たちが知らない所できちんと仕事をしてたんですね。
それから後はバレンタインデーとチョコレートの話に花が咲き、私が1年前にチョコレートの滝のチョコをお弁当箱の蓋に入れて固めた話は大ウケしました。
「パンドラの箱って金欠になるほど凄かったんだ?」
ジョミー君が笑い、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が「いっぱい食べさせてもらったもんね」と威張っています。駅前商店街のタコ焼きに始まってアイスキャンデーを全種類だとか、他にも食べ物関係の注文満載。それは凄まじい要求で…。「そるじゃぁ・ぶるぅ」の胃袋を満たそうっていうんですから、今にして思えば当然ですけど。
「みゆの手作りチョコ、嬉しかったよ♪」
チョコレートの滝を固めたチョコでも気持ちが嬉しかったんだ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「ブルーは沢山チョコを貰うけど、ぼくにくれる人っていないんだよね。…今年は誰かくれるかな?」
こう言われてはプレゼントしないわけにはいきません。いえ、最初から贈るつもりでいましたけれど、これは会長さんと同じレベルの本命チョコをプレゼントするのが筋でしょうか?…いつも御馳走になってますしね。
「あら」
フィシスさんが私に顔を向けました。
「ブルーにチョコレートを贈るんだったら、一緒に買いに行きましょうか?」
「えっ?」
「明日はお休みですし、買いに行こうと思ってましたの。一人で行くより楽しそうですし、如何かしら?」
願ってもないお誘いです。フィシスさんなら会長さんが好きそうなチョコを知ってるでしょうし、これを断る手はありません。「行きたいです!」と勢いよく言うと、フィシスさんはニッコリ微笑んで。
「スウェナさんも御一緒にいかが?…せっかくですもの、女の子ばかりでチョコレート探し」
「いいんですか?」
スウェナちゃんもチョコレートを買いに行きたかったみたいです。話はトントン拍子に決まり、明日は3人でバレンタインデー用の特設売り場に出かけることになりました。
「ふふ、女の子って可愛いよね。…どんなのを買ってくれるのかな?」
会長さんが楽しそうに言うと、サム君が。
「なぁ、俺の分も買ってきてくれよ。義理チョコってヤツでいいからさ」
「あ、ぼくも!ぼくも義理チョコ買っといて欲しい!」
ジョミー君が叫び、シロエ君たちも義理チョコを頼むと言い出しました。お説教と反省文から逃れたいという気持ちが見え見えです。でも、サム君もジョミー君も…みんな親睦ダンスパーティーでワルツを踊るメンバーに選ばれてたじゃありませんか。義理チョコなんかに頼らなくても大丈夫だと思うんですけど…。
「ほらほら、みんな無理を言わない」
止めに入ったのは会長さん。
「心配しなくても週明けから保険の集金が始まるよ」
「「「保険!?」」」
「そう、保険。…誰からもチョコを貰えなかった場合に備える友チョコ保険さ。女の子はチョコを買いに行くから、頼まれなくても友達の分まで美味しそうなチョコを買って配ったりしてるよね。でも男の子がこの時期にチョコを買いにいくのはキツイだろう?」
言われてみれば、女性で賑わうバレンタインデー前に男の子がチョコを買いに行くのはかなり勇気が要りそうです。ジョミー君たちも顔を見合わせて「キツイかも…」と呟きました。
「ほらね。そういう君たちのために友チョコ保険があるんだよ。3年生が中心になってお金を集め、その子たちのお母さんやお姉さんたちがチョコレートを買ってきてくれる。保険金さえ払っておけば、バレンタインデー当日にチョコが届くというわけだ。友チョコ保険の主催者は複数いるから、主催者同士はお互いに交換し合えばオッケーってわけ」
ぼくは申し込んだことないけどね、と会長さん。リオさんは「ぼくは毎年お願いしてます」と言い、ジョミー君たちも申し込むことに決めたようです。男の子って大変かも…。
あくる日、スウェナちゃんと私はフィシスさんと待ち合わせをして、デパートの特設売り場へチョコレートを買いに出かけました。土曜日だけに凄い混雑ぶりですけれど、ここで負けてはいられません。まずはジョミー君たちへの義理チョコです。予算の範囲内で見栄えのするのを…って、思ったよりも難しいですね。スウェナちゃんと迷っていると、フィシスさんが。
「大きさで選ぶなら、さっきのお店はどうかしら?パッケージデザインだったら、これが素敵だと思うのだけど」
うわぁ…凄い記憶力です。私たち、何処で何を見たのか混乱しちゃって分からないのに。おかげでスウェナちゃんと私は、それぞれ別のお店で義理チョコっぽく見えないものを首尾よくゲットできました。これでジョミー君たちに2種類の義理チョコを渡せます。さて、次のお買い物は本命チョコ。スウェナちゃんはどうするのかな?
「…えっと…私も会長さんに…」
だって会長さんって素敵だもの、とスウェナちゃん。ライバル出現!というところですが、焦る気持ちは出てきません。会長さんにはフィシスさんという大本命がいるんですから、勝てっこないって分かっています。私が本命チョコを買うのは、憧れの王子様へのプレゼント。渡せるだけで十分です。フィシスさんは会長さんの好みのチョコを幾つか教えてくれ、私たちは今度も別々のチョコを買いました。それに「そるじゃぁ・ぶるぅ」の分も。
「お買い物はこれで全部なのね?」
フィシスさんに聞かれて頷くと、「じゃあ、お茶にしましょう」と誘われて。
「沢山歩いて疲れたでしょ?ここのシフォンケーキは美味しいの」
ブルーと何度か来ているのよ、と素敵なカフェに連れて行ってもらったのですが。…チョコレートが入った紙袋を置こうとして気付いたのです。フィシスさんが何も買ってはいなかったことに。
「あ、あの…」
フィシスさんがシフォンケーキと紅茶を注文してくれた後で、私は頭を下げました。
「すみません!…お買い物、わざわざ付き合って下さったんですね。私が会長さんの好きなチョコ…って思ったから…」
「あら、そんなこと気にしないで?私も楽しかったんですもの」
女の子だけで出かけたかったの、とフィシスさん。いつもは会長さんとチョコレート売り場に行くのだそうです。うーん、さぞかし目立つんでしょうね。じゃあ、フィシスさんは会長さんと出直してきてチョコを買うのかもしれません。
「私がブルーにプレゼントするのはお菓子なのよ。…そうね、クイニーアマンに似てるかしら」
作るのに手間がかかるのだけど、というそれはフィシスさんの家に伝わる古いお菓子で、お祝い事の時に作るそうです。
「シャングリラ学園に来て、ブルーの誕生日に作ってみたの。そしたら…これはアルタミラのお菓子だ、って」
会長さんの故郷の記憶を持っているフィシスさんが故郷のお菓子を作ってくれた時、会長さんはどんなに嬉しかったでしょう。もうアルタミラは無いんですもの。
「それからずっと作ってるのよ。ブルーの誕生日と、バレンタインデーと」
もっと簡単に作れるのなら毎月だって作るのだけれど、と少し悲しげな笑みを浮べるフィシスさん。会長さんが『ぼくの女神』と呼ぶのも無理はありません。三百年以上前に失くしてしまった故郷の記憶を見せてあげられて、故郷のお菓子まで作れるんですから。…あ、もしかして「そるじゃぁ・ぶるぅ」も作れるのかな?
「ぶるぅはアルタミラではお料理をしてなかったんですって。だからレシピを教えたわ。でも、ブルーは私が作った方が美味しいって言って譲らないのよ。同じ味だと思うのに…」
あう。同じお菓子を作ってあげても「そるじゃぁ・ぶるぅ」よりフィシスさんですか!これじゃ、私が買ったチョコなんて意味ないかも…。
「大丈夫よ。ブルーにちゃんと言ってあるから。今年はあなたたちが大好きなチョコを買ってくれるわ、って」
おぉっ!流石は女神様です。お買い物に連れてってくれただけでなく、会長さんに伝えてくれただなんて。
「ブルー、楽しみに待ってるの。だから忘れずに渡してあげてね」
「「ありがとうございます!」」
私たちは深々と頭を下げました。会長さんもお気に入りというシフォンケーキはフィシスさんが御馳走してくれ、それから少しお散歩をして、一緒にお昼ご飯を食べて。…フィシスさんは「また三人で出かけましょうね」と優しい笑顔で手を振りながら、雑踏の中に消えていきます。もしかして会長さんと待ち合わせかな?…ずっと向こうに銀色の髪がチラッと一瞬、見えたような…。
『ここだよ。ぼくの女神、ぼくのフィシス』
会長さんの声が聞こえた気がしましたが、ふわりと落ちてきた雪のひとひらが運んでいってしまいました。