シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(あれ…?)
オレンジの匂い、とブルーが覗き込んだバスルーム。お風呂に入ろうとパジャマを抱えてやって来たのだけれど。
洗面台がある部屋との境の扉を開けた途端に、湯気と一緒にオレンジの香り。さっきより強くてオレンジそのもの、まるでお風呂にオレンジの木でも生えているよう。
湯気の向こうのバスタブを見たら、ぽっかりと袋が浮かんでいるから。直ぐに分かった、あれが匂いの正体だと。母が浮かべておいたオレンジ。
(ふうん…?)
今日はオレンジ風呂の日なんだ、と納得して扉をパタンと閉めた。
たまにある、オレンジの香りのお風呂。本物のオレンジを浮かべたバスタブ。これからの季節は身体が温まるから、と母が入れておくことがある。バスエッセンスやバスソルトと同じ感覚で。
ただし、オレンジは丸ごと浮かべても駄目だから。せっかくの成分が何の役にも立たないから。二つに切られて薄い袋に入れられて浮かぶ、熱いお風呂に。
役に立つ成分は袋を通り抜けてお風呂に、お湯を濁らせてしまう種や皮などは袋の中に。だから濁らない、お風呂のお湯。オレンジの香りが強くても。オレンジを溶かしたようであっても。
服を脱いで入ったバスルーム。いい匂いのお湯を早速かぶった、シャワーよりも先に。ふわりと身体に纏い付く香り、柑橘系のフレッシュな匂い。
バスエッセンスではこうはいかない、本物のオレンジにはとても敵わない。母が入れたような、本物のオレンジの香りには。切ったばかりの実から立ち昇る匂いには。
(いい匂い…)
身体を洗って、浸かったバスタブ。たっぷりのお湯。そこに浮かんだオレンジの袋。手に取るとツンとオレンジの香り、持ってみた手にも香りが移った。アッと言う間に。
(ふふっ)
ぼくの手がオレンジになったみたい、と眺めた手。その手がツルリとしているから。オレンジの袋から出て来る果汁か皮の成分か、触ってみるとツルツルだから。
これは面白い、と顔やら肩やら腕に塗ってみた、そのツルツルを。するりと滑りそうな肌。
見た目に光ったりはしていないのに。ただ濡れているというだけなのに。何故だかツルリとしている手触り、目には見えないオレンジの膜。オレンジの香りの透明な膜。
(傷とかがあったら、しみて痛いんだろうけど…)
これだけの香りがしていれば、きっと。小さな傷でも、このオレンジの膜をすり込んだなら。
そういう傷は全く無いから、顔も腕も肩も、塗り付けた分だけ本当にツルツル、スベスベの肌。
オレンジ風呂は身体が温まるお風呂だけれども、美肌効果もあるのだったか。前に母から聞いた気がする、「肌が綺麗になるお風呂なのよ」と。
このツルツルを塗り付けていると、オレンジの袋を触っていると、肌が綺麗になるのも分かる。如何にも効きそうなオレンジのお風呂、お風呂上がりの肌もツルツルなのだろう。
(今は関係無いけどね?)
チビの自分の肌がツルツルでも、スベスベでも誰も喜ばない。褒めてもくれない。せいぜい父か母に頬っぺたをチョンとつつかれる程度、「お餅みたいに柔らかい」と。
けれど、大きくなったなら。前の自分と同じ背丈に育ったら…。
美肌効果もきっと必要、オレンジ風呂にも入らなくてはいけないだろう。肌がスベスベになってくれるよう、オレンジを浮かべたバスタブに。
(だって、結婚するんだもんね?)
前の生から愛したハーレイ、結婚出来る年の十八歳になったら結婚しようと決めているから。
結婚したなら、今度こそハーレイと二人きりで暮らして、身体中に幾つもキスを貰って…。
そのためにはきっと、艶やかな肌がいいのだろう。
ハーレイがキスを落としてくれる時に、優しい感触がするように。手触りだっていいように。
同じキスなら、同じ手触りなら、ハーレイが喜びそうな肌。
(ガサガサよりかは…)
荒れてガサガサの肌は論外、乾燥しすぎた肌だって。
ハーレイと二人で暮らす時には、断然、スベスベの肌がいい。「吸い付くような」とか、磁器のようだとか、そんな風に表現される肌。滑らかで、いつまでも触っていたくなるような肌。
(…お風呂にも気を付けなくちゃ…)
肌の手入れをしたいけれども、化粧水は自分には似合わないから。使いたい気もしないから。
前の自分も化粧水など、まるでつけてはいなかった。青の間に化粧水の瓶などは無くて、一度も使いはしなかった。それと同じで今の自分も使いたいとは思わないけれど。
それでも綺麗にしておきたい肌、スベスベにしたい自分の肌。
化粧水の類を使わないなら、頼りになりそうなものはお風呂で、今のように身体ごと浸かるバスタブ。そのお湯に工夫をするのが一番、浸かるだけで美肌効果があるお風呂。
(バスソルトとか…)
バスタブに垂らすバスエッセンスとか、お風呂に入れる様々なもの。オレンジ風呂もその一つ。
今は母任せで、香りのするお湯が入っている日も、入っていない日もあるけれど。
母の気分で透明だったり、色がついたりするお風呂。
オレンジ風呂だと透明だけれど、効果は抜群、スベスベの肌。それに香りもいいお風呂。
いつかハーレイと結婚したなら、お風呂のお湯を何にするかは自分で決めることになるから。
ハーレイに「俺はこれだ」というこだわりが無いのだったら、お風呂は好きに決められるから。
(きちんとお手入れ…)
肌がしっとりとするお風呂。ツルツルのスベスベ、艶々の肌になるお風呂。
オレンジ風呂だとか、美肌効果のあるバスエッセンスとか、バスソルトとか。そういうお風呂に浸かって肌の手入れをしなければ、と考えていて。
それに限ると、ハーレイもきっと喜んでくれると、未来の自分の肌を思い描いていて…。
(でも、待って…!)
自分の肌を磨くお風呂はいいけれど。大切だけれど、ハーレイも入るのだった、そのお風呂に。
二人一緒に住んでいるのだし、お風呂も同じバスルーム。バスタブも同じ。
白いシャングリラで暮らしていた頃、「薔薇のジャムが似合わない」と言われていたハーレイ。面と向かってそう言った者はいなかったけれど、ハーレイにだけは「如何ですか?」と尋ねる者が無かったクジ引き、シャングリラの薔薇で作られたジャムが当たるクジ引き。
クジを入れた箱はブリッジにも持ってゆかれたけれど。ゼルでさえもが「どれ、運試しじゃ」とクジを引いていたけれど、そのクジの箱はハーレイの前をいつも素通りして行った。ただの一度も止まることは無くて、「如何ですか?」と声も掛からなかった。
誰も不思議だと思いもしなくて、変だとも失礼だと言いもしなくて、クジは素通り。ハーレイに薔薇のジャムは似合わないから、皆がそうだと思っていたから。
白いシャングリラがあった頃から、長い長い時が流れたけれど。二人で青い地球に来たけれど。
前と少しも変わらないハーレイ、仕事や立場が変わっただけ。姿は前とそっくり同じで、背丈も顔立ちもキャプテン・ハーレイそのままで。
つまりは今でも薔薇のジャムが似合わないハーレイ。乙女心の結晶のようなジャムは似合わず、薔薇の花だって似合わない。自分にはそうは思えないけれど、ハーレイ自身もそう考えている。
そんなハーレイが入るお風呂に、バスエッセンスだの、バスソルトだの。
肌を綺麗に保ちたいからと、オレンジ風呂もやってみようと思ったけれど…。
(ハーレイに似合うの…?)
艶やかな肌を保つためのお風呂、肌を滑らかにしてくれるお湯。香りも花やらオレンジやらで。
自分の肌がスベスベになるのはいいことだけれど、ハーレイの方はどうだろう?
嫌がられるかもしれない、そんなお風呂は。
滑らかな肌を作るお風呂で磨いた身体は好きだろうけれど、ハーレイ自身がその巻き添えで同じお風呂に入るのは。花やオレンジの香りのお湯は。
そうなってくると、お風呂に入る順番を決めるしかないだろう。ハーレイが花などの香りが漂う変なお風呂に入らなくても済むように。被害を及ぼさないように。
(…ぼくの方が先に入ったら駄目…)
お風呂に花の香りのバスエッセンスやバスソルトを入れてしまうから。
母が入れているバスエッセンスなどの類は大抵、ふうわりと花の香りがするから。でなければ、今日のオレンジ風呂。そういう香りの柑橘系。
ハーレイがそれを嫌がりそうなら、お風呂に入るのは、自分が後で。ハーレイがのんびり入った後で、バスソルトとかをポチャンと入れて。たまにはオレンジも浮かべたりして。
でも…。
(ハーレイが先にお風呂って…!)
ゆっくり入って、ゆったり浸かって。「お風呂、空いたぞ」と言ってくれるのだろうけれど。
お前も早く入るといい、と笑顔を向けてくれるだろうけれど、そのハーレイ。お風呂から出て、冷たい水でも飲んでいるかもしれないハーレイ。
バスローブかパジャマかは知らないけれども、水かコーヒーでも飲みながら…。
(…待っているんだよね?)
空いたバスルームに向かった自分を、お風呂に入りに行った自分を。
肌を磨きに出掛けた自分が、お風呂から出て戻って来るのを。
(それって、とっても…)
恥ずかしいかも、と思ったけれど。
ハーレイが待っている間に肌を、身体を磨くというのは恥ずかしすぎると思ったけれど。
先に入っても、それはそれで違う恥ずかしさ。
バスエッセンスだのバスソルトだのを入れたお風呂に、ハーレイが入りに出掛けても。そういうお風呂でもかまわないから、と後から入ってくれたとしても…。
(待ってるの、ぼくが?)
ハーレイがお風呂から戻って来るのを、ベッドに腰掛けて、パジャマ姿で。
それともバスローブを羽織ってだろうか、いい匂いをさせて。磨いたばかりのスベスベの肌で。
早くハーレイが戻らないかと、まだ少し上気している身体で。
(…ハーレイのために磨いたって感じ…)
それに間違いは無いけれど。ハーレイが喜んでくれるようにと、自分の肌を磨くのだけれど。
いい匂いをさせて待つ自分。
スベスベの肌で、花やオレンジの香りを纏って、「美味しいですよ」と言わんばかりに。
それでは恥ずかしすぎるから。
いくらハーレイに食べて貰おうと待っているにしても、頬が真っ赤になりそうな気分。
そんな思いで待っているのは恥ずかしいから、やっぱり後に入ろうか?
ハーレイに先に入って貰って、「空いたぞ」と笑顔で声を掛けられたら、バスエッセンスなどは入っていないお湯に「今日はこれ」と美肌効果のあるものを入れて。その日の気分でオレンジでもいい、ゆったりと浸かって、肌が綺麗になるように。
(…でも、やっぱり…)
お風呂から出たら、「磨いて来ました」という感じ。いい香りをさせて、スベスベの肌。
考えると顔が熱くなるから、恥ずかしくて火が出そうだから。
ここはやっぱり、ハーレイも同じ香りを漂わせるお湯で、先に入って貰うべきだろうか。薔薇のジャムが似合わないハーレイだけれど、バスエッセンスが似合わなくてもかまわないから。
ハーレイは嫌かもしれないけれど。「俺に似合うと本気で思っているのか?」と顔を顰めるかもしれないけれども、ハーレイを先にバスルームへ。ハーレイの身体も同じ香りをさせていたなら、恥ずかしさが少し紛れるから。
(ハーレイが入るのを嫌がったって…)
その上、ハーレイまでがスベスベの肌になったとしたって、同じ香りを纏って欲しい。二人とも同じ香りがするなら、恥ずかしさも減ってくれるから。
同じ香りを纏うだけなら、自分が先でもいいのだけれど。先に入ってバスエッセンスを入れて、「お風呂、空いたよ」とハーレイに言えば、ハーレイの身体も同じ香りになるけれど。
自分が先にお風呂に入って、そのお湯を残しておいたなら。
それだと、自分がベッドに腰掛けてハーレイを待つことになってしまうから。
とても恥ずかしい、如何にも準備を整えて待っているようで。
肌を綺麗に磨いて来ましたと、早く食べてねと、ベッドという名のお皿にチョコンと乗っかっているかのようで。
ナイフもフォークも準備したからと、後はハーレイが食べるだけだよ、と頬を染めながら、甘い時間を過ごすための大きなお皿の上に座っている自分。
どう食べるのも好きにしてねと、ナイフとフォークでも、手づかみでも、と。
そう考えたら、お風呂の順番。ハーレイと暮らす家でお風呂に入る順番。
(やっぱり、ぼくが後の方が…)
恥ずかしくないだろうか、肌を磨くためのバスエッセンスなどを入れるなら。
磨いた身体でベッドという名のお皿に座って、食べて貰おうと待っていなくて済むのだから。
そうでなければ、恥ずかしさが薄らいでくれるようにと、ハーレイも自分と同じ香りを纏う道。先にハーレイに入って貰って、その時に、お湯にバスエッセンス。
たとえハーレイが「俺はちょっと…」と腰が引けていようが、ハーレイの身体まで上から下までスベスベになってしまおうが。
薔薇のジャムが似合わないハーレイだけれど。バスエッセンスも無理がありそうだけれど。
(花の香りも似合わないけど、オレンジだって…)
オレンジ風呂も似合いそうにないんだけどね、と思ったら。
ぽっかりとお湯に浮かんだ袋はともかく、オレンジの香り、とハーレイの顔を思い浮かべたら。
(えーっと…?)
オレンジの香りがするお風呂。今、浸かっているオレンジ風呂。
何かが記憶に引っ掛かる。
今の自分の記憶ではなくて、もっと遥かに遠い何処かで。流れ去った遠い時の彼方で。
そういう記憶があるとしたなら、そのオレンジの香りがしていたお風呂は…。
(シャングリラ…?)
白い鯨でしか有り得ない。アルタミラではお風呂などは無かったのだから。シャングリラの名を持っていた船も、白い鯨になるよりも前は、オレンジ風呂など多分、無い筈。
けれども白い鯨にしたって、オレンジ風呂などあっただろうか?
オレンジは栽培していたけれども、それをお風呂に入れただろうか?
自給自足の船の中では、オレンジも大切な食べ物だから。余ったにしても、お風呂だなんて、と記憶を探って、オレンジの香りを辿っていって…。
(…そうだ!)
これだ、と捕まえた遠い遠い記憶。前の自分が持っていた記憶。
あったのだった、白いシャングリラにオレンジのお風呂。
いつもあったというわけではなくて、備蓄していたオレンジが傷んでしまった時に。廃棄処分にするには惜しい、と考案したのはエラだったか。データベースであれこれ調べて。
食べるには難のあるオレンジとはいえ、オレンジ風呂なら食べるわけではないから。その成分をお湯を通して貰うだけだから、傷んだ時にはオレンジ風呂。
傷んだオレンジを切って袋に入れて浮かべるオレンジ風呂。
女性に人気のお風呂だったけれど、入りたいからと貰ってゆくのは圧倒的に女性だったけど。
(肌がスベスベになるって聞いて…)
前の自分が貰いに出掛けて行ったのだった。「オレンジ風呂は身体が温まると聞いたから」と。
もちろん本当の目的は違った、身体を温めたいというわけではなかった。
(だって、スベスベ…)
女性たちの間で評判だったオレンジ風呂。入れば肌がスベスベになると、綺麗になると。
だから試してみたいと思った、ハーレイのために。
ブリッジでの勤務を終えたら訪ねて来てくれる優しい恋人、そのハーレイが喜ぶように。
オレンジ風呂で肌を磨いて待っていようと、スベスベになって待っていようと。
(でも、今と同じで恥ずかしくって…)
磨き上げた身体で、オレンジの香りを纏わせた肌で、ハーレイが来るのを待っているのが。
食べて下さいと言わんばかりに、お風呂上がりで待つ自分。
そんなことは一度もしていなかったし、恥ずかしすぎて出来そうになくて。
けれどオレンジ風呂に入って磨きたい肌、ハーレイのために磨き上げたい身体。スベスベの肌で恋人を迎えて喜ばせたいのに、ちゃんとオレンジも貰って来たのに…。
どうしようかと悩んでいる内にハーレイがやって来たんだった、と思い出した所で。
「ブルー、のぼせるわよ!」
いつまでお風呂に入っているの、と扉を開けて覗いた母。何分経ったと思っているの、と。
「はーい!」
直ぐに上がるよ、と慌ててバスタブから出た。危うく、のぼせそうだったお風呂。お湯の温度が丁度良かったから、ついつい浸かり続けてしまった。考え事をしながら、切ったオレンジが幾つも入った袋を「ツルツルになるよ」と両手で揉んだりしながら。
身体はすっかりオレンジの香り、頭の天辺から足の爪先まで。
タオルで身体をしっかり拭いても、パジャマを着ても消えない香り。
オレンジが入った袋が浮かんだバスルームから離れて、二階へと続く階段を上り始めても。足を進めても、オレンジの香りが自分と一緒についてくる。
消える代わりに、纏い付いて。まるで身体中の細胞に染み込んでしまったかのように。
部屋に帰ってもオレンジの香り、身体からふわりと立ち昇る香り。
オレンジの香水をつけたかのように、手からも、パジャマの下の肌からも。
(…この香り…)
ベッドの端に座って考える。あの時のオレンジの香りと同じ、と。
「身体が温まると聞いたから」と大嘘をついて、肌をスベスベにしようと手に入れたオレンジ。前の自分がお風呂に浮かべようとしていた、傷んだオレンジ。
それを入れるための袋まで用意して貰って、後はオレンジを切って袋に入れるだけ。バスタブに熱いお湯を満たして浮かべるだけ。
そう、この香りを纏いたかったのだった、ハーレイのために。スベスベの肌で待つために。
けれど恥ずかしくて、入る決心がつかなくて。
オレンジ風呂の用意も出来ずに、バスタブにお湯を張ることも出来ずに一人で迷い続ける内に。
勤務を終えたハーレイが何も知らずに来てしまって…。
青の間のテーブルの上に置かれたままだったオレンジ、五つくらいはあったと思う。他でもないソルジャーの御希望だから、と係の者が多めにくれた。オレンジ風呂用の袋もつけて。
白い薄布で出来た袋は小さく畳まれていたから、ハーレイの目には入っていなかったようで。
「なんですか、このオレンジは?」
お召し上がりになるのですか、ブルー?
それにしては少し皮が乾いているようですが…。このオレンジは傷んでいませんか?
「そうなんだけれど…。君が言う通り、傷んでしまったオレンジなんだけどね」
貰って来たんだ、お風呂に入れるといいと聞くから…。
「ああ、オレンジ風呂になさるのですか。女性たちに人気のようですね」
それに身体が温まるとか。ゼルとヒルマンもたまに入っているそうですし…。
「うん。…だから、ハーレイに…」
喜んで貰いたかったから、と言おうとして、それが言えなくて。「ハーレイに」までで止まった言葉で、ハーレイは見事に勘違いをした。
「私にですか?」
下さるのですか、身体が温まるようにと、これを…?
お気遣い下さるほどに冷えていますか、私の身体は、そこまで酷く…?
一緒にお休みになる時に寒いのでしたら、遠慮なさらずにパジャマをお召し下されば…。
「そうじゃなくて…!」
君の身体が冷たいだなんて言っていないよ、これはぼくが…。
オレンジ風呂は、ぼくが入ろうとして…。
肌が綺麗になると聞いているから、と打ち明けた。
君のために肌を磨こうと思って貰って来たのだけれど、と。
「…オレンジを貰いに行った時には、身体が温まるらしいから、と言ったんだけれど…」
本当のことは言わなかったし、係も疑いもしなかったし…。そこまでは良かったんだけど…。
そこから後がね、どうしても駄目で…。
磨き上げた身体で君を待ちたかったけど、決心がつかなくて入れなくて…。
オレンジも切れずにそのままなんだよ、バスタブにお湯も張っていないし…。
何度も入ろうと思ったけれども、恥ずかしくなって全く駄目で…。
ぼくの決心がつくよりも先に、君が来てしまって、オレンジ風呂には…。
入るどころか準備も出来ていない状態、と頬を真っ赤にして俯いた。ぼくは駄目だ、と。
「…そのためのオレンジ風呂でしたか…」
私のためにと仰ったのは、そういう意味だったのですね。…嬉しいですよ、ブルー。
あなたが肌を磨こうとなさってらっしゃったなんて…。今でも充分、滑らかな肌を毎晩のように楽しませて頂いているというのに。
「でも、ぼくは…。そうしたいと思ったというだけで…」
結局、何も出来てはいないし、オレンジだってそのままで…。
こうして此処に置いておいても、明日の夜にも入れそうにないよ、恥ずかしくて。
君に打ち明けても、まだ恥ずかしくて入れないんだ、君を待つだけの勇気が無くて。
肌は綺麗にしたいけれども、君が来る前にお風呂に入っておくなんて、とても…。
出来ない、と耳まで赤く染まった、恥ずかしさで。
ハーレイとは何度も身体を重ねているのに、毎晩、逞しい腕に抱かれて眠っているのに。
けれど、それとオレンジ風呂に入って身体を磨いて待つのとは別で。
やがて来るだろう恋人のために、先に一人でお風呂に入って肌を美しく磨くのは別で…。
出来るわけがない、と俯いていたら。無駄になりそうなオレンジたちさえ見られずにいたら…。
「それなら、一緒に入りましょうか?」
私の肌まで磨く必要は無いと思いますが、あなたがお入りになれないのなら…。
先に入るのは恥ずかしいからと仰るのでしたら、ご一緒させて頂きますが。…オレンジ風呂。
「…君と?」
君と一緒に入るのかい、と目を丸くしたら。
君までオレンジ風呂だなんて、と驚いていたら。
「お風呂でしたら、たまに入っているでしょう?」
オレンジ風呂ではなくて、普通のお風呂。
あなたと一緒に入っていることも、特に珍しくはないですからね。此処のバスルームは大きめに出来ておりますし…。バスタブも充分、広いですから。
あなたと二人で浸かっていたって、まだたっぷりと余裕があるのは御存知でしょう?
オレンジ風呂でも同じことです、お湯の質が変わるというだけですよ。
切って来ます、とオレンジを切りに奥のキッチンに行ったハーレイ。切ったオレンジを入れる、例の薄布の袋も一緒に持って。
その前にバスタブにお湯を張りに行くのも忘れなかった。二人で入るならこの量で、と。お湯が縁から溢れすぎないよう、無駄遣いになってしまわないよう、普段より幾分、控えめの量で。
間もなくキッチンから戻ったハーレイの手には、オレンジを詰めた袋があって。その袋を笑顔で掲げてみせて、バスルームへと姿を消した。袋をバスタブに浸けておくために。早めに浮かべて、オレンジの成分がたっぷりとお湯に溶け込むように。
お湯は自動で張れるから。張り終わったら、知らせる音が届くから。
それを捉えたハーレイがバスルームを確認しに出掛け、穏やかな笑みを湛えながら。
「ブルー、用意が出来ましたよ?」
あなたの御希望のオレンジ風呂。
湯加減も丁度いいようです。オレンジの香りがとても爽やかで、気持ち良さそうなお湯ですよ。
ほら、お入りになるのでしょう?
行きましょう、ブルー。
「う、うん…」
君が一緒に入ってくれると言うのなら…。
ぼくが一人で入るよりかは遥かにマシかな、別の意味で少し恥ずかしい気もするけれど…。
(あの時のお風呂…)
それからどうなったんだっけ、と記憶を手繰り寄せて真っ赤になった頬。
思わず両手で押さえてしまった、これ以上、赤くならないように。鏡を見たなら、きっと小さなトマトがいるのだろうけれど。自分の顔をした赤いトマトが、鏡の向こうに。
(…ハーレイ、ぼくを磨いてくれるって…!)
ゴシゴシと磨き上げられたのだった、柔らかな肌触りの布袋で。オレンジが詰まった布の袋で。
「此処も磨かないといけませんね」と、身体中を隈なく磨いたハーレイ。
それは恥ずかしくて、でも気持ち良くて。
ウットリと身体を委ねている内に、悪戯を始めたハーレイの手と指。
「ツルツルですよ」と、「オレンジ風呂は本当に肌がスベスベになりますね」と。
オレンジの袋で磨き上げながら悪戯するから、磨いた場所を確かめるように触れてゆくから。
「ハーレイ、それは磨いているんじゃなくて…!」
やめて、と触れる手を剥がそうとしたら、「いいんですか?」と覗き込まれた顔。
「本当にやめていいのですか」と、「まだ磨き足りない場所がこんなに」と滑ってゆく指。
拒める筈など無かったから。もう気持ち良くて、もっと、もっと、と強請りそうだから。
「馬鹿っ…!」
ハーレイの馬鹿!
ぼくを磨くと言ったんだったら、ちゃんと仕事を…。だから、そうじゃなくて…!
二人で入ったオレンジ風呂。ふざけ合ったバスタブ。
お湯の中で二人、何度、唇を重ねたことか。お湯が縁から溢れて、零れて、それでもかまわずに腕を、足を絡めて、絡み合って。
すっかりのぼせそうになるまで戯れ、バスタブの中で愛を交わして。
茹だりそうになった前の自分をハーレイが逞しい両腕で抱き上げて運んで、ひんやりと肌を包むベッドに下ろされた後は、そのまま眠ってしまったのだったか。
口移しで水を飲ませて貰って、コクリ、コクリと喉を潤したら、それっきりで。
オレンジの香りに包まれたままで、ハーレイの腕に抱かれたままで…。
(…オレンジのお風呂…)
思い出した、と思うけれども、もしもハーレイに話したならば。
次に会えた時、「オレンジ風呂のこと、覚えている?」と訊いたなら。
(きっと知らんぷり…)
「なんのことだ?」と問い返す声が聞こえて来そうだ、ハーレイは此処にいないのに。
「俺は知らんな」と、「オレンジ風呂なら知っているがだ、そいつは今の俺でだな…」と。
でなければピシャリと叱られて終わり、「チビのくせに」と。
お前にはまだ早すぎるんだ、と指で額を弾かれて終わり。
(絶対、そう…)
相手はハーレイなのだから。
「キスは駄目だ」と叱るハーレイ、何度叱られたか分からない。
チビの自分は、子供の自分は、恋人だというだけだから。キスも貰えないチビの恋人、いつでも子供扱いの自分。
オレンジのお風呂は内緒にしておこう、そうして次はゆっくり浸かろう。
母がまたオレンジ風呂にしたなら、前のハーレイと二人で浸かったバスタブを思い出して。
オレンジ風呂で磨いて貰った記憶はぼんやりしているけれども、それでも充分に幸せだから。
ついでに、結婚した後は…。
(お風呂、どっちが先でなくてもいいんだよ)
小さな頭を悩ませていたことは、綺麗に解決してくれた。オレンジ風呂の記憶のお蔭で。
肌を磨くのなら、スベスベにするなら、一緒にお風呂。二人でお風呂。
そのお風呂が自分に似合わなくても、ハーレイは付き合ってくれるのだから。
前のハーレイがそうだったように、「一緒に入るか?」と尋ねてくれて。
言葉遣いは変わったけれども、誘いは同じ。「俺と入るか」と、「それでいいだろ」と。
(薔薇のお風呂でもいいのかな…?)
母のお気に入りの薔薇の香りのバスエッセンス。
薔薇が似合わないハーレイだけれど、あのエッセンスでも、一緒に入ってくれるだろう。
父も気にしていないようだし、ハーレイも、きっと。
薔薇の香りがするバスエッセンスでも、それが自分に似合わなくても…。
(スベスベの肌のぼくがいいよね?)
しっとりとした肌の恋人の方がいいだろう。スベスベの肌の恋人を愛したいだろう。
そう思うから、そうに違いないと思ってしまうから。
ハーレイも恋人の肌を磨きたがるに決まっているから、結婚したなら、二人でお風呂。
肌が綺麗になるように。スベスベの肌に、ハーレイが喜ぶ肌の持ち主になるように。
思い出のオレンジ風呂から始めて、二人でお風呂。
何度も何度もキスを交わして、磨かれて、ふざけて、愛を交わして…。
オレンジ風呂・了
※オレンジ風呂で肌を磨くべきかどうかで、悩んだブルー。実は前の生でも悩んだのです。
そして答えは出たのですけど、今のハーレイとオレンジ風呂に入れる日は、ずっと先。
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