シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(んー…)
大きすぎる目が問題なんだよ、とブルーが覗き込む鏡。自分の部屋の壁にある鏡。
子供っぽい顔の原因はコレ、と。学校から帰って、おやつの後で。
いつもハーレイに「チビ」と言われている自分。前の自分と同じ背丈に育ちたいのに、伸びてはくれない自分の背丈。ハーレイと再会した五月の三日から、ほんの一ミリも。
伸びない背丈も問題だけれど、顔立ちだって子供の顔。せめて顔だけでも少し大人っぽくなってくれたら、ハーレイの態度も変わるかもしれない。
(チビはチビでも、もうちょっと…)
子供扱いではなくて、恋人扱い。キスは許してくれなくても。「俺のブルーだ」と言ってくれる日が増えるだとか。
そうなってくれるといいんだけれど、と思い浮かべる理想の顔立ち。ソルジャー・ブルーだった頃の自分の顔。そっくりそのままの顔は無理でも、もう少し大人びた顔がいいのに、と。
鏡を覗けば、其処に映った子供の顔。丸みを帯びた輪郭も子供、柔らかそうな頬っぺたも。
何処もかしこも子供だけれども、一番の違いは目元だと思う。赤い瞳の色は同じでも、瞳と顔のバランスの違い。クルンと大きな子供らしい瞳、前の自分はこうではなかった。
アルタミラからの脱出直後は、こうだったけれど。今の自分と瓜二つだったけれど。
(育っていったら、こんなに大きな目じゃなかったし…)
それでも、細くも小さすぎもしなかった瞳。大人にしては大きな瞳だったと思う。船で暮らした他の仲間や、キースの瞳と比べてみれば。
(大人にも色々あるけれど…)
今の自分の顔にある目は、誰が見たって子供の目。大人びた目には見えない大きさ。
これが駄目だ、と零れた溜息。この目のせいで子供の顔、と。
なんとかしたい、子供っぽい目。やたらと目立つ大きな瞳。明らかに大きすぎるから…。
(もうちょっと…)
小さくなってくれないものか、と細めてみたら、なんだかキースみたいになった。白目の部分はキースよりかは少ないけれど。
細すぎたかな、と調整したって、前の自分の目にはならない。細めるだけでは駄目らしい。
(縦だけじゃなくて、横も一緒に小さくしないと…)
そうすればきっと、と目元に力を入れてみたのに、狭まってくれない左右の幅。前の自分の目になるどころか、眉間にピッと皺が出来るだけ。
(上手くいかない…)
小さくならない自分の瞳。キースみたいになってしまうか、眉間に皺か。魅力は増さずに、変な顔になる。子供っぽい方がマシなくらいに。
今度こそは、と細めながら幅を狭めようとしたら、さっきより深くなった皺。眉間にくっきりと皺が刻まれ、小さくはなってくれない目。
(これじゃハーレイ…)
眉間の皺は、今も昔もハーレイの顔にくっついている。笑っている時も、消えない皺。
だからハーレイの顔が浮かんだけれども、途端に蘇った遠い遠い記憶。前の自分と眉間の皺。
ソルジャー・ブルーの眉間には、皺は無かったけれど。…そんな写真も無いのだけれど。
でも皺だっけ、とクスッと笑った。あれは確かに眉間の皺。白いシャングリラにいた頃に。
「ちょいと、その顔は頂けないねえ…」
ハーレイみたいになっちまうよ、とライブラリーで声を掛けて来たブラウ。何の本を読んでいた時だったか、考え事をしていたら。
「ぼくの顔がどうかしたのかい?」
何か問題があるだろうか、と本から顔を上げたら、トンとブラウにつつかれた額。
「これだよ、これ」
此処に皺が、とブラウの指がつつくけれども、分からない意味。
「皺だって…? ぼくの額に?」
「出来ちまっていたよ、もう消えたけどさ」
でもね、さっきまでは皺だったんだよ。眉が寄ってて、眉間にくっきり。
ハーレイみたいな顔ならともかく、あんたの顔には皺は駄目だね。絵にならないから。
「…そうなのかい?」
「当たり前だよ、分からないなら自分で鏡を覗くんだね。皺を作って」
まるで似合っちゃいないどころか、酷いもんだよ。さっきも言ったよ、頂けないって。
そんなのが癖になってしまったら大変だからね、皺を寄せながら考え事をするのはやめときな。
みんなも幻滅しちまうから、と笑ってブラウは去って行った。
シャングリラの自慢のソルジャーの額は、滑らかなのが一番なのさ、と。
そういう事件があったんだっけ、と懐かしく思い出したこと。前の自分の眉間の皺。
「分からないなら鏡を見な」と言われたけれども、結局、鏡は見なかった。そんな必要は無いと思ったのか、それとも忘れてしまったのか。だから知らない、眉間に皺を作った前の自分の顔。
(前のハーレイ…)
ブラウが例に挙げたほどだったのだし、白いシャングリラで眉間の皺と言えばハーレイ。他にも何人かいただろうけれど、トレードマークのようだったキャプテン・ハーレイの眉間の皺。
あの皺も含めて、ハーレイの顔が好きだった自分。前のハーレイと恋をしていた自分。
(…前のぼくの顔だと、眉間の皺は駄目なんだけど…)
ハーレイだったら似合うんだよね、と鏡から離れて、座った勉強机の前。どう頑張っても、前の自分の顔は作れないらしいから。瞳は小さくならないから。
無駄な努力をしているよりかは、眉間の皺を考える方がよっぽど有意義。前のハーレイの顔には良く似合っていた、あの皺について。
(最初は皺なんか無かったっけ…)
アルタミラの地獄で出会った頃には、ハーレイの額に皺は無かった。前の自分の額のように。
まだ若かったからだろうか。皺が出来るような年ではなかった、青年時代のハーレイだから。
アルタミラの檻や実験室では、酷い目に遭わされていた筈だけれど、出来なかった皺。耐え難い苦痛を味わった時は、皺だって出来ていたろうに。眉間に寄せていたのだろうに。
出会った頃には無かった皺。前のハーレイのトレードマークの眉間の皺。
(いつ出来たの…?)
あの皺はいつからあるのだろうか、と遠い記憶を手繰ってみる。ハーレイが厨房にいた時代にも皺は無かった。滑らかだったハーレイの額。
前の自分がブラウに指摘された時のように、皺を寄せていることも無かった、と思ったけれど。厨房時代のハーレイはいつも、朗らかだったと記憶していたけれど。
(あったっけ…)
青年だったハーレイの額に見付けた皺。
アルタミラから脱出した船で、食料が尽きると前の自分に打ち明けた時に。船に最初からあった食料、それがもうすぐ尽きてしまうと。一ヶ月分ほどはあるのだけれども、それで全部だと。
せっかく生き延びて脱出したのに、飢え死にするしかない運命。食料が尽きても、補給する術が無いのだから。…何処に行っても、ミュウは追われるだけなのだから。
船の仲間にはまだ明かせない、と話していた時、今から思えば、寄せていた皺。滑らかな額に。
どうすることも出来ないけれども、これからどうしたらいいのかと。
ハーレイの頭を悩ませていた食料問題は、前の自分が解決した。自分でも驚いたほどの強い力を秘めたサイオン、それを使って人類の船から奪った食料。
慣れない間は奪った食料が偏ってしまって、ジャガイモだらけのジャガイモ地獄や、キャベツが溢れるキャベツ地獄もあったけれども、飢える心配は無くなった。
ハーレイは眉間に皺を作らず、せっせと料理を作っていた。ジャガイモ地獄に見舞われた時も、キャベツ地獄になっていた時も。
厨房時代は出来ていなかった、ハーレイの皺。けれども、それを目にした自分。食料が尽きると悩んでいた時、ハーレイの額には確かに皺があったから。
(考え事をする時の癖だったんだ…)
前の自分がブラウに額をつつかれた皺は、たまたま寄せただけだったけれど。普段は皺など全く作りはしなかったけれど、ハーレイは癖。
多分、難しいことを考える時の。手に負えないような難題だとか、全力で取り組む時だとか。
厨房だったら、そこまでの事態は起こらないけれど。ジャガイモ地獄もキャベツ地獄も、腕さえあれば乗り切れたけれど。
(ハーレイ、キャプテンになっちゃったから…)
きっと色々あったんだよね、とチビの自分でも想像がつく。前の自分も推したハーレイ。迷っていた所へ出掛けて行って。「ハーレイがキャプテンになってくれるといいな」と。
フライパンも船も似たようなものだ、と話したことを覚えている。どちらも命を守るものだと。フライパンで出来る料理も、皆を乗せて宇宙を飛んでゆく船も。
キャプテンの任を受けたハーレイは、それを覚えていてよく言ったものだ。「フライパンも船も似たようなものさ」と、「どっちも焦がしちゃ駄目だからな」と。
けれども、フライパンと船の共通点はその部分だけ。他は全く似ていないもの。
ハーレイはきっと、沢山の苦労をしたのだろう。厨房時代とは違う仕事に就いたのだから。船を纏める役目のキャプテン。そういう者が必要だからと、適任だからと見込まれて。
「船は動かせなくてもいいから」とまで、ヒルマンたちが頼んでいた。操船は慣れた仲間たちがやるから、船を纏めてくれればいいと。
そうだった、と頭に浮かんだハーレイの皺。いつしか眉間に刻まれていたトレードマーク。前のハーレイの額に、またあの皺を見付けたのは…。
(航宙学…!)
亜空間理論や位相幾何学、他にも山ほどハーレイが机に積み上げた本。愛用していた木の机に。
シャングリラを自分で操るために、と専門外の本を読み始めてから、何度も眉間にあるのを見た皺。一度では理解出来ない箇所やら、幾つもの本を調べながら読まねばならない時やら。
そうやって操舵を覚えた後にも、船の中のことを真剣に考える度に出来ていた皺。眉間に何度も刻まれた皺。ブリッジや、ハーレイの部屋や、休憩室で。
腕組みをしたり、目を閉じていたり、ポーズは色々だったけれども、眉間の皺はいつでも同じ。眉を寄せて、深く考え込んで。
(前のぼくの代わりに考えてたんだ…)
ソルジャーだった前の自分は、物資を奪って来るのが仕事。船をシールドで丸ごと包んで守ったこともあったけれども、船の中までは守っていない。様々な設備も、仲間たちの暮らしも。
船を守るのはキャプテンの役目。船体そのものの維持管理から、船での暮らしを守ることまで。食料は充分足りているのか、他の物資は揃っているかと。
眉間に皺を寄せて考えることは、本当に沢山あったのだろう。メンテナンスの進め方やら、前の自分が奪った物資の管理まで。備品倉庫の管理人から報告を聞いて、配分などを決めてゆく仕事。
ハーレイはキャプテンとして船を守って、眉間に皺が出来てしまった。いつの間にやら。
難しい本を何冊も読んでいた頃には、常に刻まれてはいなかったけれど。シャングリラの操舵を引き継いだ時にも、まだ眉間には無かった皺。
けれど、外見の年齢を止めたハーレイの額にはもう、あの皺があった。くっきりと深く。
そうなるまでに、考え事を重ねたから。何度も何度も、眉間に皺を寄せていたから。
(…ハーレイ、考え込むことが多すぎたから…)
キャプテンになったハーレイの前には、難問が山積みだったのだろう。ジャガイモやキャベツが相手の仕事ではなかったから。船の仲間の命を預かっていたのだから。
フライパンなら、料理を作って生きる糧にすればいいのだけれど。船の方だと、そうではない。料理を作る材料を揃えて、料理人を乗せて、出来上がった料理を食べる仲間の安全を守る。
フライパンと船では重みが違う。本当の意味での重量が違うのと同じくらいに。
そんなシャングリラを守り続けて、考え続けて、ハーレイの額に刻まれた皺。眉間にくっきり。
前の自分もちゃんと気付いていたのだろうか?
ハーレイの眉間にいつもあった皺、あの皺が何故出来たのか。
(気付いてたよね…?)
皺が刻まれてしまうよりも前に、眉間を何度も指でつついた記憶があるから。ハーレイの部屋を訪ねた時やら、休憩室で出会った時に。
「考えすぎは良くないよ」と、「此処に皺が」と。
どういう時に出来る皺かを知っていたから、前の自分はそうしたのだろう。ハーレイの気持ちをほぐそうと。気分が変われば、いいアイデアが浮かぶことだって多いのだから。
(でも、普段でも皺が消えなくなるほど…)
ハーレイは船を守り続けた。考え続けたことの証が常に額に刻まれるまで。楽しい気分で笑っていたって、額から消えなかった皺。眠る時にも消えなかった皺。
前の自分がいなくなった後も。メギドへと飛んで、二度と戻らなかった後にも。
歴史の教科書には必ず載っている、偉大なキャプテン・ハーレイの写真。その写真が撮影された時には、前の自分はもういなかった。ミュウの勢力が広がり始めた時代に撮られた写真だから。
その写真でも眉間に刻まれた皺。前の自分の記憶にあるのと、少しも変わっていないけれども。
(前のぼくがいなくなったら…)
皺はきっと、深くなったろう。前のハーレイの孤独を宿して、前よりも深く。
誰も気付いていなかったとしても、写真では見分けられなくても。
前の自分を失くしてしまったハーレイの深い悲しみと孤独、それを何度も聞いているから。前の自分を追うことも出来ず、地球まで行くしかなかったハーレイ。
一人残されたことを思っては、眉間の皺を深くしたろう。どうして自分は生きているのか、と。
(ごめんね…)
独りぼっちにしちゃってごめんね、と前のハーレイに心で謝ってから、ふと覗き込んだ机の上のフォトフレーム。今のハーレイと一緒に写した記念写真。
夏休みの一番最後の日に。庭で一番大きな木の下、ハーレイの左腕にギュッと抱き付いて。その写真の中、とびきりの笑顔のハーレイだけれど。
(今のハーレイも…)
前と同じに、眉間に皺。写真でもそれと見て取れる皺がくっきりと。
今のハーレイも、考え事をし過ぎただろうか。前のハーレイがそうだったように。
けれども、今は平和な時代。前のハーレイが厨房にいた頃でさえも、あの皺は見ていないのに。食料が尽きると打ち明けられた時しか目にしていないのに。
シャングリラの厨房とは比較にならない、蘇った青い地球での暮らし。まるで天国。人間は全てミュウになった世界、争い事はけして起こりはしない。せいぜい、喧嘩。
そういう世界に生まれ変わったのに、何故、ハーレイの眉間には皺があるのだろう。皺が出来るほどの考え事など、今のハーレイには無さそうなのに。
厨房時代のハーレイでさえも癖になってはいなかった皺が、何故、今も…?
謎だ、と考え込んでしまった。今のハーレイの眉間にも皺がある理由。
(今のハーレイに深刻な考え事って、あるの?)
仕事のことは分からないけれど、教師の仕事がそういうものなら、眉間に皺がある教師が多いと思う。考え事をする時の癖が同じなら、ハーレイのようになるのだから。
(そんな先生、いないよね…?)
少なくとも自分は出会っていない。下の学校でも、今の学校でも。
(仕事のせいじゃないんだったら、柔道とか…?)
それなら、プロのスポーツ選手は眉間に皺があることだろう。柔道にしても水泳にしても、癖が同じなら出来る筈。
(…あんまり詳しくないけれど…)
ハーレイが得意なスポーツだから、と新聞記事になっていた時は選手の写真を覗き込んでいる。もしもハーレイがプロの選手になっていたら、と重ねながら。
(見たことないよね、皺がある人…)
まだ一回も見ていないよ、と振り返った記憶。眉間に皺がある選手がいたなら、ハーレイと同じ特徴だけに印象に残っているだろう。「おんなじ皺だ」と。
つまり、スポーツの方でもない。今のハーレイの眉間に皺が刻まれた原因は。
仕事でもないしスポーツでもない、と不思議でならない眉間の皺。どうして今もあるのだろう?
深刻な考え事をしなければならない場面は全く無さそうなのに。今は平和な時代なのに。
(…なんで?)
いったい何が原因だろう、と今度は自分が考え事。遠い昔にブラウに注意されてしまったから、自分の眉間に皺が出来ないよう、気を付けながら。
事の起こりは、自分の眉間の皺だったけれど。大きすぎる目を小さくしようと頑張っていたら、出来てしまった皺なのだけれど。
まさかハーレイがそんな理由で眉間に皺など、作りそうだとも思えない。目の大きさを保とうと努力をし続けた末に、くっきりと皺が刻まれたなんて、きっと無い。
(分かんない…)
あの皺の原因が分からないよ、と小さな頭を悩ませていたら、聞こえたチャイム。仕事の帰りにハーレイが訪ねて来てくれたから、本人に訊いてみることにした。眉間に皺があるハーレイに。
母がお茶とお菓子を置いて去って行った後、テーブルを挟んで向かい合わせで。
「あのね、ハーレイ。皺のことでちょっと訊きたいんだけど…」
「皺?」
なんの皺だ、と怪訝そうな顔になったハーレイ。だから「此処の」と、自分の額を指差した。
「ハーレイ、此処に皺があるでしょ?」
前のハーレイも同じだったよ、若かった頃は無かったけれど…。会った頃には無かったけれど。
だけど、外見の年を止めた時には、皺がくっきり出来ちゃってたでしょ?
今のハーレイにも皺があるよね、って気が付いたから…。前のハーレイとそっくり同じに。
だから訊きたい、と見詰めたハーレイの鳶色の瞳。眉間の皺の近くで穏やかな光を湛える瞳。
「前のハーレイに皺があったのは分かるけど…。考える時の癖だったから」
難しいことを考える時は、いつでも出来てしまっていたでしょ?
前のぼくが何度も注意してたよ、「考えすぎは良くないよ」って。そういう皺が出来るから。
でも、キャプテンの仕事はとても大変で…。考えることが多すぎたから、とうとう皺が消えないままになっちゃった。楽しい時でも皺が消えなくて、寝てる時だって。
…だから、前のハーレイなら分かるんだよ。額に皺が出来たままでも仕方ないって。
だけど、どうして今のハーレイにも同じ皺があるの?
前のハーレイみたいな苦労は絶対してない筈だよ、今はとっても平和な時代なんだから。
「ああ、これなあ…。俺の眉間の、この皺のことか」
出来ちまったのは、癖ってヤツだ。前と同じだ、前の俺の頃と変わっちゃいない。
大した悩みがあるわけじゃないが、考え込んだらやっちまうんだ。こう、眉を寄せて。
ほらな、とハーレイが眉を寄せたら、皺が少し深くなったから。
「…古典、難しい?」
授業で教えてくれる時には、分かりやすく話してくれるけど…。
ぼくたちみたいな子供に教えるためには、うんと勉強しなくちゃいけない?
前のハーレイが航宙学の本を沢山積み上げて読んでたみたいに、いろんな本を山ほど読んで。
「そうでもないが…。好きで教師をやってるんだしな」
学校では教えないような中身の本でも、読みたくなるのが今の俺だし…。難しくなるほど楽しいもんだぞ、意外な発見があったりしてな。
分かりやすく書かれた本だと、深くは読み込めないものなんだ。皮だけしか無い果物みたいで。
難解な本になればなるほど、書かれた時代の作者の世界に近付ける。その時代の空気や、景色や建物。着ていた服やら、食べた物やら…。
全部ひっくるめて分かって初めて、作者の気持ちが理解できるってトコだな、うん。
そんな具合だから、難しい本を読むのも俺は大好きなんだが…。
どういうわけだか、とハーレイは額をコツンと叩いてみせた。
楽しく本を読んでいたって、考え事を始めたら此処に皺が、と。
「この部分はどう読むべきなのか、と悩んだりすると出来ちまうんだ」
学生時代には出来なかったが、いったいいつからそうなったのか…。俺にも分からん。
家を出て、この町で暮らし始めてからの癖ってヤツだな、それまでは言われたことが無いから。
いつの間にやら、そういう癖が出来ちまってた。考え込むと皺を寄せちまう癖。
親父たちの家に帰った時にも、新聞とかを熱心に読んでいたら、つい、やっちまうから…。
おふくろと親父に、何度も注意されたんだがな。前のお前に言われたみたいに、皺が出来ると。
「消えなくなってからでは遅いぞ」と、睨まれたりもしたんだが…。
癖が直らない内に、すっかり皺が出来ちまってた。前の俺だった頃と全く同じに。
「…そんな所まで、前のハーレイの真似、しなくていいのに…」
あの頃みたいな苦労はしてないんだから。
生きていくだけでも大変だった頃とは違うし、大勢の仲間の心配だってしなくていいし。
「まあな。そいつは間違いないんだが…」
今じゃ天国みたいな日々だが、出来ちまったものは仕方ない。…癖なんだから。
ついでに、この皺が無いとお前も困ってしまうんじゃないか?
此処にくっきり、こういう皺が出来ていないとな。
これが無かったら俺らしくないぞ、とハーレイが伸ばしてみせた皺。二本の指でグイと広げて。
滑らかになったハーレイの額。指で押さえているだけなのに、確かにハーレイらしくない。あの皺が消えてしまっただけで。眉間の皺が無くなっただけで。
ホントに変だ、と目を丸くして眺めていたら、ハーレイは「変だったろう?」と元に戻して。
「俺の顔にはコレが無いとな。…自分で鏡を覗き込んでも、皺があるのが普通だし…」
記憶が戻った今じゃ、大切な皺なんだ。無いとキャプテン・ハーレイの顔にならないからな。
それにだ、この皺を褒めてくれた人だっている。俺の眉間に皺が出来たことを。
「褒めるって…。誰が?」
そんな皺を誰が褒めてくれるの、ハーレイのお父さんたちは皺は駄目だと言ってたんでしょ?
褒めてくれそうな人、誰もいないと思うんだけど…。
「それがいたんだ、何人もな。ますますキャプテン・ハーレイに似て来たじゃないか、と」
生まれ変わりじゃないのか、と俺に何度も訊いてたヤツら。そういう連中は褒めてくれたぞ。
学生時代からの友達はもちろん、教師になってから出来た友達もな。
後はアレだな、俺の行きつけの…。話してやったろ、この髪型を勧めてくれた人。
俺の恋人を、ソルジャー・ブルー風のカットにしたいと言ってる人だ。
覚えてるだろう、と訊かれて思い出した、ハーレイ御用達の理髪店の店主。
彼が一番喜んだ筈だ、という話。口に出してはいなかったけれど、心の中で喜んだろう、と。
「…ハーレイのファンだっていう人だよね?」
ぼくは一度も会ったことがないけど、凄く熱烈なファンなんでしょ?
「前の俺のな。…今の俺じゃないぞ」
あくまでキャプテン・ハーレイの方だ、今の俺はただの客なんだから。古典の教師で。
とはいえ、お前の髪までソルジャー・ブルー風にカットしたいと言い出す人だし…。
俺が行くと明らかに喜んでるなあ、まるで本物のキャプテン・ハーレイが来たみたいにな。
そういう人たちや、今のお前のためにも眉間の皺は必要なんだ、という主張。
この皺があってこそ、キャプテン・ハーレイそっくりの顔になるんだから、と。
「いいか、さっきもやって見せただろうが。皺が無かったらどんな風になるか」
前の俺みたいな顔にはならんぞ、瓜二つとはとても言えない顔だ。
似てはいたって、決め手に欠ける。これでいいんだ、俺の眉間には皺なんだ。
「そっか…。ハーレイらしく見える顔には必要なんだね」
とても難しいことを考えなくても、出来ちゃった皺。…考え事をする時の癖だったせいで。
「うむ。この皺は無いと駄目なんだ」
それに前の俺だった頃にしたって、知らない間に癖がついて皺になったんだし…。
作ろうと思って出来た皺じゃないし、出来て困っていたわけでもない。この皺が無ければもっと男前に見えただろうとか、考えたことは一度も無かったな。
前の俺はこの皺が嫌いじゃなかった。いつの間にか出来た、俺の相棒なんだから。
「…前のぼくの代わりに、色々考えてくれていたんだよね…。その相棒と」
ハーレイが考え事をしていた時には、いつだって皺があったんだから。…キャプテンの時は。
厨房で料理をしていた頃だと、その相棒はいなかったんだよ。難しい考え事が無いから。
キャプテンになった後にハーレイの顔に住み着いたんだよ、相棒の皺は。
前のぼくは物資を奪ってただけで、考え事はハーレイの仕事。だって、キャプテンなんだから。
「おいおい、俺はそれほど偉くはなかったぞ」
何か決める時は、前のお前も会議に参加してただろうが。ヒルマンもゼルも、ブラウもエラも。
前のお前や、あいつらも一緒に考えていたし、船のみんなで投票もしたし…。
「でも、ハーレイにしか出来ないことも沢山あったよ」
会議で決めても、最終的には現場の判断に任せる、ってヤツ。
そうなった時は、ハーレイが一人で考えていたよ。航路も、船のメンテナンスとかも。
「そのためのキャプテンなんだしなあ…」
他のヤツらに頼ってちゃいかん、それがキャプテンの仕事ってヤツだ。
万一の時には何もかも一人で決めていくんだぞ、普段から経験を積まないとな?
いざという時に困るだろうが、と今のハーレイが言う通り。シャングリラはそういう船だった。
虐げられたミュウの箱舟、何処からも補給の船などは来ない。遭難した時の救援だって。
白い鯨が出来上がった後も、降りられる地面は何処にも無かった。人類軍に見付かったならば、直ぐに攻撃されるだろう船。会議を開いている暇はなくて、直ちに打たねばならない対策。
前のハーレイはそれを一人でこなした。眉間に皺が刻まれるほどに考え続けた成果を生かして。船を動かすのも、戦闘のために必要な指示も。
(…全部、ハーレイに任せっきり…)
初めての本格的な戦闘、ジョミーがユニバーサルの建物を壊して成層圏へと飛び出した時。前の自分はジョミーを追い掛けて船を出たから、ハーレイが一人で執っていた指揮。
シャングリラの浮上を決めたのもハーレイ、その後の進路や戦法を決めていたのも。
揺れるシャングリラで指揮を執り続けて、額をぶつけて傷まで作って。
白いシャングリラを守り抜こうと、前の自分とジョミーを救いに戦わねばと。
それから後も、ハーレイは幾つもの危機を乗り越え、船を進めた。アルテメシアを逃れて宇宙へ旅立った時も、前の自分が深い眠りに就いていた時も。
赤いナスカが滅ぼされた時も、地球を目指しての長い旅路も。
そう考えていたら、思い出した。ハーレイの眉間の皺のこと。
前の自分がいなくなった後、皺は深まったに違いないと。誰も気付いていなかったとしても。
シャングリラに一人残されたハーレイの眉間に、深い皺があったに違いないと。
「ごめんね、ハーレイ…」
前のハーレイの皺、ぼくのせいで酷くなったよね…。前よりも深くなっちゃったよね。
「なんだ、どうした。前の俺の皺なら、気にしなくていいが」
知らない間に出来ていたんだと言っただろうが。
お前のせいだということはないな、俺にそういう癖があったというだけで。
「ううん、そうじゃなくて…。前のぼくがいなくなった後だよ」
前のぼく、ハーレイがどんな思いをするかは、全然、考えていなくって…。
ジョミーを支えてあげて、って頼んで行ってしまって、ハーレイを独りぼっちにして…。
ハーレイ、何度も言っていたでしょ、地球に着くまで辛かったって。あの船で一人だったって。
きっと皺だって深かったんだよ、辛いことしか無いんだから。…いつも悲しくて辛いんだから。
ごめんね、酷いことをしちゃって。
ハーレイの皺が深くなるような、とんでもない目に遭わせちゃって…。
「そういうことか…。安心しろ、俺に自覚は無かった」
辛いことばかりの毎日だったが、皺を寄せていたという自覚は無いな。
なにしろ魂は死んでいたんだ、皺のことなんか考えちゃいない。淡々と仕事をしていただけで。
「…そうなの?」
皺、深そうだと思ったんだけど…。前よりもずっと深かったよね、って。
「それまでと変わらなかったんじゃないか?」
俺に自覚は無かったんだし、指摘したヤツもいなかったしな。
本当に深くなっていたなら、ブラウ辺りが言う筈なんだ。やたらと目ざといヤツなんだから。
「その鬱陶しい皺、いい加減にしな」と、「勝ち戦の時は返上したらどうなんだい?」と。
不景気な顔をしてるんじゃないよ、と如何にも言いそうな感じだろうが。
それに…、とハーレイが浮かべた笑み。
もしかしたら、その時の分の皺が今の俺の顔にあるかもな、と。
「あの時に深くなる代わりにだ、今の俺の方に来ちまったとか…」
深くなろうにも、限界ってヤツがあるだろうしな、皺だけに。…顔の皮膚は厚くないんだから。
そこでだ、深さを溜め込んでおいて、今の俺の眉間にヒョイと引越しして来たとかな。
「皺の引越しって…。深くなる代わりに引越しだなんて…」
そんなことって、ホントにあるの?
引越しちゃったの、前のハーレイの皺が今のハーレイの顔の上に…?
「その方がお前、気が楽だろ?」
深くなってしまっていたんじゃないか、と気にしているより、引越しの方が。
今の俺の顔に引越しして来て、トレードマークになってる方が。
「うん…。引越しの方が、断然いいよ」
前のハーレイの皺が深くなるより、引越しして来た方が皺も幸せになるもんね。
ぼくは皺があるハーレイが好きだし、前のハーレイにそっくりなハーレイが好きな人もいるし。
キャプテン・ハーレイのファンだっていう理髪店のおじさん、皺のお蔭で大喜びだもの。
自分のお店にキャプテン・ハーレイのそっくりさんが来てくれる、って。
きっと皺だって、喜んでるよ。今のハーレイの顔に引越しして来て良かった、って。
本当に皺が引越すかどうかは分からないけれど、軽くなった気持ち。前のハーレイの眉間に一層深く刻まれる代わりに、今のハーレイの眉間に引越しして来たらしい皺。
ハーレイならではの優しい気遣い、前の自分も、今の自分も傷付けまいと。
こういった気配りなども含めて、皺は深まったのだろう。
前のハーレイも、今のハーレイも、色々なことを考えすぎて。考える度に皺を寄せていて。
そう思ったら、愛おしい皺。今もハーレイの眉間にある皺。
「ねえ、ハーレイ…。キスしてもいい?」
「駄目だと何度も言った筈だが?」
前のお前と同じ背丈に育つまでは駄目だと、お前、何回叱られたんだ?
「違うよ、唇じゃなくて、ハーレイの皺に」
引越しして来た皺にキスしたいよ、前のぼくのせいで深くなったんだから。
…深くなる代わりに、こっちに引越しして来たんだから。
「俺の皺にか…」
「そうだよ、皺がある場所も額だよね?」
額にキスをするのはいいでしょ、唇は駄目でも頬っぺたと額は。
「俺が言ったんだっけな、それも…」
断る理由は無いってことか…。皺にキスとは、なんとも不思議な感じだが…。
額ならともかく、皺にキスしたって話は俺も初耳だがなあ…。
そう言いつつも、ハーレイは「駄目だ」と叱りはしなかったから。
「ご苦労様」とハーレイの額にキスをした。眉間に刻まれている皺に。
「前のぼくのせいで、深くなっちゃったよね」と、「だから引越しして来たんだね」と。
それでも、この皺が好きだから。眉間に皺があるハーレイが大好きだから。
キスを落として微笑んだ後に、ハーレイからも額にキスを貰った。優しいキスを一つ
「お前は皺を作るなよ?」と。
皺が出来るような考え事などしなくてもいいと、俺が守ってやるんだから、と。
考え事も悩みも、今度も俺が引き受けるから、と。
「いいな、皺なんか作るなよ?」
お前には似合わないんだから。…俺と違って。
「らしいね、ブラウにもそう言われちゃった」
でも、ハーレイのお蔭で前のぼくには出来なかったし、今度もきっと出来ないんだよね?
「当たり前だろうが、お前の額は滑らかでないとな」
美人が台無しになっちまうぞ、と笑うハーレイの眉間に皺。笑っても、今も消えない皺。
前のハーレイの顔から引越しして来た皺は、やっぱりハーレイに良く似合う。
今度は深くさせてしまわないよう、ハーレイと一緒に歩いてゆこう。
いつまでも二人、手を離さずに。
青く蘇った水の星の上で、何処までも二人、幸せな道を…。
眉間の皺・了
※前のハーレイの眉間にあった皺。前のブルーがいなくなった後には、更に深くなった筈。
けれど深くはなっていなくて、皺は引っ越したらしいです。今の幸せな、ハーレイの眉間に。
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