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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

 明日は必ず、帰りに寄るから。
 ハーレイが学校帰りに寄ってそう言ったことをブルーは不思議に思っていた。
 夕食を食べてゆくには遅い時間だから、と両親の誘いを固辞して帰って行ったハーレイ。明日の予定だけを告げて帰ったハーレイ。
(…御飯、食べてってくれれば良かったのに…)
 母の「今日は多めに作りましたから、ハーレイ先生の分もありますよ」という言葉は来客向けのものではなくて事実だったし、ブルーたちは既に食べ始めていたのだけれども、ハーレイが食卓に着きさえすれば一緒に食事は出来た筈。それが残念でたまらない。
(…ハーレイにはキッチンの中までは分からないしね…)
 ハーレイは母が追加で料理をせねばならなくなることを気遣って帰ったのだろう。今日の夕食は本当に多めに作ってあったのに。
 余れば明日の朝に父が食べるから、と大皿一杯のキッシュ。スープだって鍋にたっぷり。もしもハーレイが食べたとしたって、明日の朝食が普段通りの卵料理になるだけなのに…。
(ホントに残念…)
 せっかくハーレイの顔を見られたというのに、明日の約束だけ。
 ブルーが胸を高鳴らせたハーレイの愛車のエンジン音は夜の向こうへと消えてしまった。
 夕食を終えて、お風呂に入って。
 ベッドの端にチョコンと腰掛けても、まだ残念な気持ちが残る。夕食を一緒に食べたかった。
 けれど、それ以上に気になってたまらないこと。
 何故、ハーレイは「明日は寄るから」とわざわざ言いに寄ったのだろう?



 明日は普通に学校がある日。
 ハーレイの訪問は休日が基本だからだろうか、とも思ったけれども、平日は「時間が出来た」と寄ってゆくのだし、突然の来訪はよくあること。
(…なんで、予告?)
 何の記念日でも無い筈なのに、とブルーは首を傾げて考え込んだ。記念日だったとしたら、必ず来ようとハーレイが決めていたとしても分かる。けれどブルーには覚えが無い。
(んーと…)
 いくら考えても、ハーレイが帰りに寄った理由が分からない。
 明日に約束をしたという記憶も無ければ、前の生での記念日の類でも無さそうだ。しかし、二日続けての急な訪問は特に珍しくないのに、帰り道に寄っての予告付き。
 よほど特別な日なのだろうとしか思えない。
(…何の日だろう?)
 もしかしたら自分が忘れているだけで、前の生での記念日だろうか?
 どうにも気になってたまらないから、ブルーは記憶を遡ってみることにした。



(…ハーレイとの記念日…)
 もちろん忘れてなどいない。生まれ変わっても忘れはしない。
 ハーレイとシャングリラで過ごした日々。閉ざされた世界だけが全てだったけれど、ハーレイが居てくれたから幸せだった。二人一緒だったから幸せだった…。
(…キスした日かな?)
 初めて貰った唇へのキス。触れ合うだけだった優しいキス。
 今でも鮮やかに思い出せるけれど、その日は明日ではなかったと思う。
(…ハーレイと初めて…?)
 ハーレイが初めて青の間に泊まって行った日。本物の恋人同士として結ばれた夜。
 その日も違う。明日とは違うと記憶している。
 想いを打ち明けられた日でもなかった……と思う。
(…それとも、ぼくが覚え間違ってる?)
 キスさえ出来ない今の生ではこだわるだけ無駄だと思っていたから、ハーレイには一度も話していない。確認だってしていない。
 それに今度は、どの記念日も確実に違う日になるだろうと考えていたし…。



(…やっぱり、明日は記念日なのかな?)
 もしかして、と胸がときめいた。
 自分の記憶が間違っているだけで、実は記念日なのかもしれない。
(…そうなのかも…)
 記念日だったら、キスは駄目でも何か素敵なこと。
 ハーレイは予告までして行ったのだし、大いに期待していてもいい。
 両親も一緒の食卓では何も無いだろうけれど、食後のお茶の時にブルーの部屋で何か。
 キスは駄目でも甘い言葉とか、優しい抱擁。
(だって、大切な記念日だしね?)
 恋人同士ならではのイベントが何かあるかもしれない。
 そう、プレゼントを貰うとか…。
(ハーレイとのお揃いが一つ増えるかも!)
 二つだけしか無い、ハーレイとブルーのお揃いの持ち物。
 その片方はシャングリラの豪華版の写真集。ハーレイが先に買って来て、教えてくれて。自分のお小遣いで買うには高すぎたから、父に強請って買って貰った。
 もう片方は勉強机の上に飾ってあるフォトフレーム。夏休みの最後の日にハーレイと二人、庭で一番大きな木の下で写した記念写真が入っている。ハーレイがプレゼントしてくれたお揃いの品。お互いのフォトフレームを交換して持っている、大切な飴色の木製のそれ。
(…三つ目のお揃いが出来るのかも…)
 しかも記念日に貰えるとなれば、嬉しさは何十倍、何百倍にも膨らみそうだから。
(何か貰えると嬉しいんだけど…)
 考えただけで胸が弾むし、笑みだって零れそうになる。
 きっとドキドキして眠れない、とベッドにもぐり込んだのに、いつの間にか眠って朝だった。



(…ふふっ、記念日…)
 いよいよ今日だ、と制服に着替えて学校に行って。
 ハーレイの授業がある日だったから、脈打つ心臓を懸命に抑えて教室の扉が開くのを待った。
 学校ではあくまで教師と生徒。それは分かっているのだけれど。
(今日はハーレイが家まで来てくれるんだよ、記念日だから)
 緩みそうになる頬を引き締め、現れたハーレイを迎えたのに。
 褐色の肌をした恋人は、開口一番、こう言った。
「さて、今日は何の日か知ってるか?」
(えっ?)
 どうして、と驚くブルーの方を特に見もせず、ハーレイは教室の前のボードに「仲秋の名月」と大きく書いた。SD体制よりも遙かな昔、この地域にあった月を愛でる習慣。
(……お月見……)
 記念日ではなくてこれだったのか、と愕然としたブルーだけれど。
 遠い遠い昔、貴族と呼ばれた偉い人たちは月を直接見上げる代わりに池や杯の酒に映して眺めていたとか、仲秋の名月を見たなら翌月の十三夜の月も見ないと片月見とされて忌まれたとか。
 月にはウサギが住んでいて餅をついているとか、大きな桂の木があるのだとか。
 そういった話は面白かったから、それはそれで楽しかったと思う。
 でも……。



(…何の記念日でもなかったよ…)
 帰宅したブルーは部屋でしょんぼりと肩を落としつつ、それでもハーレイの来訪は確実だから。大好きな恋人が来てくれることは間違いないから、早く来てくれないかと待ち侘びていた。
(学校の帰りだし、車だよね?)
 いつもハーレイの車が来る方向を窓から見下ろしていると、暗くなった道路に見慣れた車。深い緑色をした車体の色までは分からないけれど、間違えはしない。
 車が駐車スペースに入って、門扉の前に大きな人影。チャイムが鳴って母が出て行って…。
(あっ…!)
 ハーレイの授業で教わったススキ。仲秋の名月に供えると聞いた穂のついたススキ。ハーレイがそれを庭のテーブルの上に飾っている。庭で一番大きな木の下が定位置の白いテーブルと椅子とを動かし、月が見えそうな場所へと移して。
(もしかして、御飯…。外なのかな?)
 それは考えてもみなかった。
(そういえば…)
 おやつの後で覗いたキッチンに枝豆が置いてあっただろうか?
 ハーレイの授業で聞いた枝豆。仲秋の名月に供えていたという枝豆、それに栗と里芋。
(…ハーレイ、昨日、ママにも何か話してたよね?)
 特に気に留めていなかったけれど、今夜の相談だったかもしれない。
 仲秋の名月に相応しい料理を作って欲しい、と母に頼んでいたのかも…。



「ブルー、ハーレイ先生がいらっしゃったわよ!」
 お庭で食事よ、と母に呼ばれてブルーの心臓がドキリと跳ねた。
 ハーレイと二人きりでの夕食。庭のテーブルを使うなら、そういうこと。
 何の記念日でもなかったけれども、夕食を二人で。
 いつもは必ず両親も一緒に食べる夕食をハーレイと二人、両親抜きでの庭での夕食。
 夏休みに一度経験したきりの特別な席。
(ハーレイと二人…!)
 記念日でなくてもかまわないや、とブルーは急いで階段を下りた。
 仲秋の名月だから、とハーレイが母に提案してくれたのだろう。
 もうそれだけで嬉しくなる。
 大好きなハーレイと二人きりでの夕食だったら、立派にデートな気分だから。



 月が見える場所へと移されたテーブルに、ハーレイが持って来てくれたススキを生けた花瓶。
 ほんのりとテーブルを照らし出す母のお気に入りのランプ。月明かりを邪魔しない控えめな光。
 庭の向こうから昇って来た月は見事に丸くて、煌々と光り輝いていた。
 月とランプとが照らす食卓に、栗御飯と茹でた枝豆、里芋の煮物。授業で聞いたとおりの献立。それだけではハーレイには足りないからと、他の料理もあるのだけれど。
 ハーレイが美味しそうに栗御飯を頬張り、月を仰いだ。
「地球に来たからには月見をせんとな。一年で一番綺麗な月だぞ、今夜の月は」
 前の俺は地球の満月を見てはいるんだが、残念なことに季節が違った。
 ついでに月も赤かったしな。
 汚染されちまった酷い大気を通して見てもだ、こんな綺麗な月にはならん。
「そうだったんだ…。今はピカピカのお月様だよ、鏡みたいだね」
 ホントにウサギが住んでいそうだし、大きな桂の木だってありそう。
 でも…。



 でも、とブルーは口ごもった。
 月を見ながらのデートは素敵だけれども、記念日なのかと勘違いして期待したから。
 残念な気持ちが残っているから、それをハーレイに告げたくなる。
「…ぼく、勘違いをしてたんだけど…」
 お月見だなんて思わなかった。
 何かの記念日かと思っていたのに。前のハーレイと、ぼくとの記念日…。
「記念日なあ…」
 ハーレイは苦笑しつつも、「なら、記念日にしておくか?」と月を見上げた。
「これから毎年、月見をするとか。それもまた良し、だ」
「ホント!?」
 嬉しい、とブルーは笑顔になった。
「それに、来月もお月見、出来るんだよね? 今日の月だけだと駄目なんでしょ?」
 片月見になる、ってハーレイが授業で言ってたじゃない。
「ああ、あれな。あれはなあ…。つまらん説もあるから、却下だ。やらなくてもいい」
「つまらないって…。なんで?」
「遊郭から始まった習慣だという話がある。遊郭という言葉は知ってるだろう?」
「…知ってるけど…」
 そんな場所から生まれた習慣だったとは、とブルーは驚く。
「ホントにそうなの?」
「さあな? SD体制よりも前の話だ、本当の所は分からんさ」
 しかし授業でわざわざ教えることもあるまい。片月見だけで充分だ。
「そっか…」
 月見が記念日に加わるとしても、次回は来年。来月の十三夜とやらは月見が出来ないらしい、と少し悲しい気持ちになる。
 ハーレイと二人、夜の庭で月を見ながらのデート。それが年に二回だと思ったのに。
「片方だけを見たんじゃ駄目、って、お月様を池に映して見るのと同じくらいにロマンチックだと思ったんだけど…。それ、駄目なんだ…」
「あんまり褒められた由来じゃなさそうだしな? しかしだ、月を映して見る方は、だ」
 そっちの月見は是非、しないとな?



 ほら、とテーブルの上に杯。まるでお正月の御屠蘇に使う杯のよう。
 ハーレイは「これでなければ気分が出ない」と片目を瞑った。そのために出して来たのだ、と。
「御屠蘇くらいでしか見ないだろうがな、月を映していた頃の杯はこういう形だ」
「ふうん…。だけど、前のぼくたちの頃にはこんな杯、無かったよね?」
「無かっただろうな、地球と一緒に復活してきた文化の一つさ」
 これも今の時代の地球ならではだ、とハーレイがテーブルの端に置いてあった器から杯に何かを注ぐ。ブルーは酒かと思ったのだけれど、それとは違った不思議な匂い。けれど…。
「お前は酒は駄目だしな? 俺は酒で、だ。お前は自分のグラスに月を映しておけ」
 やはり中身は酒だったらしい。確かに未成年のブルーには飲めないけれども、水のグラスに月を映しても素敵ではないし、面白味もない。
 月を映すならこの杯でないと、と言ったハーレイではないが気分が出ない。
 だから唇を尖らせた。
「なんで杯、一つだけなの? ぼくの水を入れる分も持って来て欲しかったのに…」
「杯に水を入れるだと? お前、別れたいのか、俺と」
「えっ?」
 なんで、と尋ねたブルーは水杯という言葉と意味とを聞かされて心底震え上がった。
 今生の別れに際して汲み交わす杯が、酒の代わりに水を満たした水杯。そんな恐ろしい杯などは遠慮したいから、つまらなくても水の入ったグラスでいい。
 そうは思うが、ハーレイが美味そうに傾ける酒。
 今のブルーも、酒に弱かったソルジャー・ブルーにも飲めない酒。



(…いいな…)
 杯の酒に映った月は、グラスの水に映る月よりも綺麗に見えるから。
 それを酒と一緒に飲み干せるハーレイはいいな、と羨ましく眺めていたのだけれど。
(…あれ?)
 ハーレイは車でやって来た。駐車スペースに停めるのを部屋の窓から確かに見ていた。
 酒を飲んだら飲酒運転になってしまうのでは、とハタと気付いて青ざめる。
(そうだよ、飲酒運転だよ!)
 飲酒運転は法律で禁止。違反したなら運転免許は取り消しになるし、なにより危ない。
(…ハーレイ、飲酒運転なんかはしないよね?)
 前のハーレイは無免許で巨大なシャングリラを動かしていたが、それはそれ。あの頃は無免許になってしまった理由があったし、無免許でも熟練のキャプテンだった。酒を飲んでシャングリラの舵を握ることなど決して無かった。
(うん、今のハーレイだって絶対しないよ)
 車は置いて帰るのかも、と嬉しくなった。それならば明日の朝、ハーレイと一緒に登校出来る。
 きっと朝一番に車を取りに来るから、頼めば乗せてくれるだろう。



 そう思ったから、ブルーは早速、ハーレイに強請ることにした。
「ハーレイ、明日はぼくも学校まで車に乗せてってくれる?」
「なんでだ?」
 ハーレイが杯を片手に怪訝そうな顔をするから。
「なんでって…。車、明日の朝に取りに来るんでしょ?」
「いや、乗って帰る」
 サラリと返したハーレイに、ブルーはギョッと息を飲んで叫んだ。
「ハーレイ、それって飲酒運転…!」
「…ははっ、バレたか。実はこいつは酒じゃなくて、だ。ノンアルコールの日本酒ってヤツだな、この地域の昔ながらの酒が日本酒だ。月見には日本酒でないと気分が乗らない」
 ノンアルコールじゃイマイチだからな、味を付けてみた。屠蘇風味だ。
「そっか、御屠蘇…」
 不思議な匂いがしたのはそれだったのか、と酒の正体ともども納得したブルーなのだけど。
 本物の酒ではないと聞いたら、欲しくなる。
 酒は飲めない自分だけれども、酒でなければ飲めるのだから。
 ハーレイが仲秋の名月を映して飲んでいる酒。それを自分も飲みたいと思う。
 だから…。



「お酒でないなら、ぼくにもちょうだい。お月見、したいよ」
「うーむ…」
 子供のお前には思い切り不味いと思うがな?
 いくら好き嫌いが無いと言っても、こいつは御屠蘇だ。薬臭いと思うのがオチだ。
 それに杯は一つだけしか無いんだが…。
「パパに頼んで借りて来る!」
 ブルーは急いで家に駆け込み、父がたまに楽しんでいる酒杯を一つ借りて来た。ハーレイの手にある杯とは違って、陶器の杯。いわゆるお猪口。
 お猪口でも月はグラスよりも綺麗に映るし、ハーレイと同じものを注いで貰って大満足で口へと運んだブルーだけれど。
「うー…」
 本当に薬の味がする、と顔を顰めれば、「俺も本物の酒の方がいい」とハーレイが笑った。
 アルコール抜きでは気分が出ないと、屠蘇風味に仕立ててみても雰囲気だけだ、と。



 それでも二人、杯とお猪口に満たした酒に仲秋の名月を映してみた。
 雲ひとつ無い夜空に昇った月。
 その月が小さな水面で輝く。まるで夜空を切り取ったように、酒の中に月が宿ったように。
「綺麗だね…」
 ホントに綺麗、とブルーが呟けば、ハーレイも「ああ」と杯に映った月を眺めた。
「まさに名月だな、一番綺麗な月だと言うだけはある。これで本物の酒ならばもっと…」
「そこでお酒?」
 ブルーは「本当にハーレイはお酒が好きだ」と自分には理解しかねる嗜好に首を捻ったけれど。今のハーレイも前のハーレイも酒好きなのだし、好きな人にはこたえられない味なのだろう。
 遙かな昔の貴族とやらも月を杯などに映して見ていた、と今日の授業で教わった。
 池に映った月を眺めるか、こうして杯の酒に映すか。昔の偉い人たちの月見はずいぶん変わったものだったのだな、と思うけれども、悪くはない。それに…。
「ねえ、ハーレイ。こんな風にしてお月見してると、ちょっと偉い人になった気分だよね」
「偉い人か…。ソルジャーとキャプテンだったら、どうだ?」
 問われて、暫し考えてみる。
 シャングリラに居た頃の自分とハーレイも偉い立場ではあったと思う。
 皆を導くソルジャーだったブルーと、シャングリラのキャプテンだったハーレイ。
 どちらが欠けても船は守れず、その立場ゆえに恋人同士であったことを伏せねばならなかった。
 時の流れが連れ去ってしまったシャングリラ。
 ブルーが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
 あの頃の自分たちも偉い立場ではあったけれども、今となっては既に当時の比ではない。
 ソルジャー・ブルーもキャプテン・ハーレイも、歴史の教科書に名が載るレベル。
 ブルーに至っては、学校の先生の長い挨拶で名前と共に「感謝しましょう」と言われる有様。



「……凄く偉いね……」
 偉すぎだよ、とブルーが嘆けば、「そのようだ」と笑いを含んだ声が返った。
「とてつもなく偉くなっちまったらしいな、お前も俺も。特にお前は」
 偉い人になっちまった前の俺たちに敬意を表して、もう一杯、綺麗に飲み干しておくか。
 二人で乾杯といかんか、ブルー?
 前の俺が見た赤い月から数えて何度目の満月になるかは知らんが、地球の月にな。
「うん。とっても薬臭い飲み物だけどね」
「お前にはな。俺にはちゃんと御屠蘇の味がする。…アルコール分が無いから物足りんがな」
 それでも酒だ、とハーレイは月を映した杯を掲げた。
「乾杯!」
 ブルーも自分のお猪口を掲げて「乾杯!」と唱和し、飲んでみたけれど。
 屠蘇風味の飲み物は薬臭くて、美味しいとはとても思えなかった。
 月を映したものでなければ、ハーレイと二人で飲むのでなければ、飲み物ならぬ薬の味。
 好き嫌いの無いブルーであっても、好んで飲みたいとは思わぬ飲み物。
 これなら水の方がよっぽど…、と思ったけれども、杯に水は厳禁だから。
 ハーレイに教わった水杯は御免だから、と頑張って酒を飲み干した。
 そうしたら再び酒が注がれ、お猪口に仲秋の名月が映る。
「まだ飲むの?」
「いや。飲めとは言わんが、こうしないと気分が出ないだろうが」
 飲まなくていいから、せっかくの月を映しておけ。
 月はこうして見るものなんだぞ、前の俺たちみたいに偉い人はな。



 今のブルーには薬だとしか思えない味の、お猪口の中の飲み物だったけれども。
 いつか二人で本物の御屠蘇をちゃんと飲もうな、とハーレイが笑う。
 お前は酒に弱いけれども、御屠蘇は縁起物だから、と。
「うん…。うん、ハーレイ…」
 ブルーの期待した記念日の類では無かったけれども、気分は充分に特別だった。
 ハーレイと二人、庭での夕食。
 仲秋の名月の夜に二人きり。ススキを飾って、栗御飯に枝豆、里芋の煮物なんかを食べて。
 それに杯とお猪口に、月。
 遙かな昔の偉い人たちがしていたように、月を映して眺めて、飲んで。
(…こんなお月見が出来るだなんて…)
 ソルジャー・ブルーだった頃には思いもよらなかった、ハーレイと二人きりでの月見。
 焦がれ続けた地球の上に居て、空には仲秋の名月があって。
 青い地球に生まれて来られた幸せを思い、ブルーは澄んだ夜空を見上げる。
 ハーレイが地球に降りた夜には赤かったという月。その月が白く煌々と輝く下で…。




        名月の夜に・了

※ハーレイとブルー、二人でお月見。地球から月を見上げられる世界に来たのです。
 前のハーレイが見た赤い月とは違う月。あれから幾つ目の満月でしょうか…。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv




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(…ふふっ、サッパリした!)
 バスルームから自分の部屋に戻ったブルーは、パジャマ姿で大きく伸びをした。
 体調を崩して学校を欠席してしまった上、昨日は母に止められた入浴。やっと入れた、と嬉しくなる。たった一日だけだったけれど、お風呂に入れないと気分が落ち着かない。
 高熱を出して寝込んでいたって、何故かお風呂に入りたくなる。それも小さな頃からずっと。
(やっぱりお風呂は気分がいいよね)
 御機嫌でベッドの端っこに腰掛けた。今日はお風呂に入れたのだし、明日は学校に行けるといいのだけれど…。大好きなハーレイに会うことが出来る学校に。
(…行きたいな、学校…。ハーレイに会いに)
 もっとも、学校の中では大好きなハーレイとは教師と生徒の関係になってしまうから、名を呼ぶ時には「ハーレイ先生」。話す時にも敬語が必須。それでもブルーはハーレイに会いたい。
 そのハーレイなら昨日、スープを作りに来てくれたのだけれど。何種類もの野菜を細かく刻んで基本の調味料だけでコトコト煮込んだ素朴なスープ。前の生からブルーが好んだ、ハーレイが作る野菜のスープ。ハーレイ曰く、「野菜スープのシャングリラ風」。
 昨日はそれを作って貰って、今日も見舞いに寄ってくれたのだけれど…。
 それでもブルーには足りなさすぎる。
 もっとハーレイの顔を見ていたい。大好きなハーレイの声を聞いていたい。
 明日こそ学校に行きたいけれども、生まれつき弱い身体だから。お風呂に入れたくらいで明日の健康が保証されているわけではない。あまりに弱すぎるブルーの身体。



(もしも明日も休まなくっちゃいけなくっても、ハーレイに会う前にサッパリ出来たよ)
 お風呂に入れて良かった、と思う。
 母はあまり良い顔をしなかったけれど、もう諦めているのだろう。それに父だって。
 熱が高くて足元が危ういような時でも「お風呂に入りたい」と訴えるのだし、少し熱が下がれば入ろうとする。母がタオルで拭いてくれても、それよりお風呂に入りたいと願う。軽くシャワーを浴びるどころか、バスタブに浸かってゆっくりと。
(今日は浸からせて貰えて良かった!)
 ホントに良かった、ともう一度伸びをし、湯冷めしないようベッドに入った。まだ眠るつもりは無いから明かりは点けたまま、寛いだ気分で天井を見上げる。
 気持ちが良かった二日ぶりのお風呂。
(…ふふっ)
 やっぱりお風呂は気分がいい。無理をしてでも入るだけの価値は充分にある。
 ずっと幼い子供の頃から、お風呂に入るのが好きだった。赤ん坊の頃から好きだったと聞くし、筋金入りのお風呂好き。
 お気に入りのオモチャを浮かべて遊んだ頃ならともかく、今は浸かっているだけだけれど。特に何をするというわけでもないのに、入らずにいられないお風呂…。



(…そういえば…)
 どうしてお風呂好きなのだろうか、と記憶を遡っていて思い出した。
(前のぼくもお風呂が好きだったよね)
 ソルジャー・ブルーだった頃にも好きだったお風呂。
 今と同じでシャワーよりもバスタブに浸かる方が好きで、青の間の広いバスルームでゆったりと手足を伸ばして浸かっていた。
(うん、ドクターに文句を言われても入ってたっけ)
 前の自分が「お風呂くらいはかまわないだろう?」と言う度、苦い顔をしていたシャングリラの医師。ブルーの主治医だったドクター・ノルディ。何度叱られたか分からない。
 彼が「駄目です」と言っているのに、お風呂に入っては叱られた。それでも懲りなかった覚えがある。「自分の身体は自分が一番分かるんだよ」などと言い訳をしては入っていた。
 体調がかなり良くない時でもハーレイの手を借りて入浴していたのだから、その頃の記憶が今も何処かに残っているのかもしれない。自分でも気が付かないような意識の底に。
(…そうなのかもね?)
 だからお風呂が好きなのだろうか、とブルーはクスッと小さく笑った。
 お風呂好きだったソルジャー・ブルー。
 ドクターに止められてもコッソリ入って、何度も叱られていたソルジャー・ブルー。
(今のぼくと一緒で綺麗好きだったんだよ)
 部屋の掃除も自分でしていたソルジャー・ブルー。
 広い青の間を全部は無理だし、部屋付きの係も居たから少しだけ。ハーレイと二人で使っていた洗面台とか、キッチン周りとかの掃除をしては「私たちの仕事が無くなります」と部屋付きの係を困らせていた。
 お風呂好きなのもそれと同じで、綺麗好きゆえだと思い込んでいたのだけれど。



(…あれ?)
 何かが記憶に引っ掛かる。
 ソルジャー・ブルーだった頃には、今の自分よりもずっとお風呂が好きだったような…。
 どうにもそういう気がしてならない。
 ハーレイの手を煩わせてまで入浴しようとしていたのだから、今の自分の比ではない。今ならば自力で入れなければ諦める。もちろん両親が手を貸してくれないこともあるけれど…。
(だけど、パパとママが「入れてあげる」って言ってくれても、入るかなあ…?)
 そこまでしてお風呂に入るよりかは、身体を拭いて貰うだけの方が楽だろう。お風呂に浸かれる時間は魅力的だが、どちらかと言えば楽な道の方を選びたい。
 しかし記憶の彼方のソルジャー・ブルーはバスタブに浸かる方が好きだったのだ。今のブルーを遙かに上回るお風呂好き。ベッドで身体を拭いて貰う楽な道より、お風呂が好き。



(なんで?)
 そこまでのお風呂好きが完成するまでに至った理由が気になってきた。今の自分にも少なからず影響が出ているようだし、追究せずにはいられない。
(…宇宙船の中だったからかな?)
 白い鯨のようだった巨大なシャングリラが完成した後ならともかく、それ以前は水の量に限りがあった可能性もある。特に初期の頃は。
 限られた量の水しか使えないなら、当然、お風呂どころではない。
 青の間が出来上がった頃には水もお湯も自由に使い放題、広いバスルームも備えられていたし、其処でお風呂の気持ちよさに目覚めて大好きになってしまったとか…?
(でも…)
 そういった理由ではないような気もする。
 いくら青の間のバスルームの居心地と使い心地が良くても、それだけで「何が何でもバスタブに浸かりたい」ほどのお風呂好きになるとは思えない。
 確かにバスタブに浸かればホッとするけれど、其処へ至るまでの道を思えば一日や二日くらいは浸かれなくてもいい気がするのが今の自分だ。
 ソルジャー・ブルーだって楽な道の方を選べばいいのに、そうしなかった。
 無理をしてでもバスタブに浸かってゆったりする方が好きだった。
 何故だろう、とブルーは考える。
 前の自分はどうしてそんなにお風呂好きだったのか、バスタブに浸かりたがったのかを。



(…前のぼくと、お風呂…)
 遠い記憶を手繰り寄せれば、とても幸せな気分でバスタブに浸かっていたソルジャー・ブルー。気持ちよく寛いでいると、ハーレイが「湯加減は如何ですか?」と訊いたりしていた。
 温度は自動で調節出来たし、望めば常に適温を保っておけるのだけれど。
 わざわざ装置をオフにしておいて、冷めて来たら熱いお湯を足すのも大好きだった。
(うん、冷めたお湯を少し抜いて減らして、代わりに熱いのを沢山入れて…)
 シャングリラの水の循環やエネルギーの供給が上手くいっているからこその贅沢。
 やはりその点が大きいだろうか、と首を捻って、湯加減を訊いていた恋人に思い至った。
(…ひょっとして、ハーレイと一緒に入ってたとか?)
 どうだったろう、と記憶を遡るまでもなく脳裏に蘇った遠い日の思い出。
(…………)
 ブルーは耳まで赤く染まった。
 ハーレイと一緒にお風呂に入った記憶が山のようにある。そればかりか…。
(ダメダメダメ~~~っ!)
 二人でバスタブでふざけ合った記憶まで蘇って来た。
 ゆったりと二人で浸かれる大きなバスタブ。
 褐色の肌をした恋人と其処でキスを交わして、それから、それから…。
(……ベッドの中だけじゃなかったんだ……)
 本物の恋人同士だからこそ持つことが出来る、幸せな時間。
 バスルームでも、バスタブの中でもハーレイと本物の恋人同士。
 幸せな記憶はそのせいなのか、と思ったけれども。
 それがあるからお風呂好きだったのか、と納得しかかったブルーだけれど。



(…ハーレイが居ない時でも幸せだったよ?)
 キャプテンだったハーレイは青の間に来るのが遅くなることも多かったから。
 そういう時には湯加減を訊いてくれる優しい声も無いまま、一人でバスタブに浸かっていた。
 一人ゆったりと手足を伸ばして、温度の自動調節をオフにして…。
(やっぱり、ホントにお風呂好きだよ)
 どうしてだろう、と更に記憶を遡った先で。
 ブルーは思わず首を竦めた。
「ぐずぐずするな!」
「さっさとしろ!」
 男たちの荒々しい怒鳴り声。
 今の生では聞いたこともない、蔑みに満ちた男たちの声。
(……アルタミラ……)
 過酷な人体実験の後で放り込まれた、バスルームならぬ洗浄用の小部屋。
 服を剥がされ、蹴り込まれた。
 家具ひとつ無い部屋の天井から、壁から、容赦なく吹き付ける洗浄液や水。
 そう、実験の内容によってはお湯ですらなくて水だった。
(…寒い…)
 ブルーはブルッと身体を震わせ、上掛けの下で右手をキュッと握り締める。
 温もりが逃げていかないように。
 ハーレイが何度も褐色の手で温めて移してくれた、温もりが逃げていかないように…。



(…あれのせいだ…)
 アルタミラでの記憶のせいだ、と思い当たった。
 来る日も来る日も、引き摺り出されては繰り返される人体実験。
 人間扱いさえもされずに、実験動物のように洗われた。あの研究所にはシャワーもバスルームも無くて、洗浄のための小部屋だけ。
 湯の温度どころか水量すらも調節は出来ず、洗浄が終わればタオルの代わりに乾燥用の風が四方の壁と天井から吹き付けて来る。酷い火傷を負っていようが凍傷だろうが、肌へのダメージなどは考慮されない。それはまた別に為されること。実験動物の洗浄と治療はまるで別のこと。
 痛みに呻きながら床に倒れ伏していれば、治療用の部屋へと移される。そうして傷が癒えるのを待って、再び実験の日々が始まる。
 実験が終われば洗われる日々。実験動物のように洗われる日々…。



 そんな扱いの中で、いつしかシャワーもバスタブも忘れてしまっていたから。
 アルタミラから脱出した後、初めて船で浴びたシャワーに感激した。その心地よさに涙が出た。
 エネルギーの使用量を最小限に抑えていたから、シャワーの温度はあくまでぬるめ。その水量も少なかったけれども、自分の意志で浴びられるシャワー。洗いたいように洗えるシャワー。
 それはアルタミラが崩壊してゆく地獄の中で被った埃を洗い落とすには充分すぎるものだった。
 ぬるい水を浴びながら、ブルーは何度思ったことか。
 身体を洗うことはこんなにも嬉しいものかと、こんなにも心地よいものなのか、と。
(…あれでお風呂が大好きになったんだ…)
 思い出した、と小さなブルーは遠い記憶の海を漂う。
 最初の間は温度も水量も、使用時間も限られていたシャワー。船にバスタブはあったけれども、満たすだけのお湯は使えなかった。いつか使えるといい、と思って見ていた。
 船での暮らしが軌道に乗って、設備も次第に充実してきて。
 初めてバスタブに浸かれた時には、またしても涙が出そうになった。
 自分たちもようやく此処まで来られたと、実験動物のように洗われることはもう無いのだ、と。
(順番に入るお風呂でも、お風呂には自分で入れるんだしね?)
 放り込まれるのでもなく、蹴り込まれるのでもなく、自分の足で歩いて入れるお風呂。使用規則さえ守れば、どんな入り方をするのも自由。ゆったり浸かるのも、さっさと上がるのも…。
(うん、あれだよ。前のぼくがお風呂好きになっちゃった理由)
 青の間が出来てシャワーもバスタブも一人で好きなように使えるようになった時、どれほど幸せだったことか。どれほど嬉しく思ったことか。
 そう、まだハーレイと結ばれていなかった頃から、ソルジャー・ブルーはお風呂好きだった…。



(筋金入りのお風呂好きが出来上がるわけだよ)
 ちょっと凄すぎ、と小さなブルーは前の自分に思いを馳せる。
 あれだけの目に遭った後なら、お風呂好きにもなるだろう。体調が悪くても浸かりたいほどに、ドクターが顔を顰めようとも入りたいほどに。
 それほどに幸せな記憶があったお風呂だから、記憶が戻る前のブルーもお風呂好きだった。
 赤ん坊の頃から大好きだった、と両親が話してくれるお風呂好きな子供になった。学校を休んだ時にも入りたいほどに、高熱があっても入りたいほどに…。
(…ハーレイもお風呂、好きだったよね?)
 前のハーレイはブルーと同じで大好きだった。シャワーよりも断然、バスタブ派。大きな身体をゆったりと沈め、気持ち良さそうに浸かっていた。青の間でも、自分の部屋のバスルームでも。
(今のハーレイはどうなのかな?)
 そういえば、訊いてみたことが無かった。
 是非訊かねば、と小さなブルーの心が好奇心で一杯になってゆく。
 今のハーレイも自分と同じでお風呂好きなのか、それとも今は違うのか…。



 次の日、登校は出来なかったけれども、仕事帰りのハーレイが見舞いに寄ってくれたから。
 ベッドで終日、退屈していたブルーはしっかり覚えていたから、問い掛けた。
「ハーレイ、今もお風呂は好き?」
「風呂?」
 唐突な問いに鳶色の目を瞬かせたハーレイだけども。
 ブルーに「ぼくはお風呂が大好きだけれど、ハーレイは?」と重ねて訊かれて、遠く過ぎ去ったアルタミラの話まで持ち出されて「ふむ…」と腕組みをした。
「そういえば俺もガキの頃から風呂が好きだな」
 てっきりスポーツをやってるせいかと思ってたんだが、アルタミラか…。
 そんな時代もあったっけな。



 忘れていたな、とハーレイが笑う。
 ブルーよりも長く生きている分、なかなか思い出すだけの余裕が無い、と。
「なんたって今の俺として生きて三十八年近くの間は前の記憶がゼロだったしな? なかなか昔を懐かしむ所まで到達出来ん。その前に今の記憶に捕まっちまう」
 風呂の話にしたってそうだ。
 今じゃ風呂上がりのビールが美味いわけだが、ガキの頃の俺はビールなんかは飲めんしな。
 風呂上がりのビールが飲める幸せってヤツに浸っちまって、風呂まではなあ…。
「風呂が幸せって前にビールだ、そいつが俺だ」
「そういうものなの?」
「まあな。枝豆でも茹でればもう最高だな」
 そう言っているくせに、前の生での幸せな記憶をハーレイは幾つも思い出してくれる。
 こんなこともあった、これもそうだ、と。
 幾つもの幸せな記憶を手繰り寄せてくれるハーレイのことがブルーは好きでたまらない。
 そのハーレイがブルーが尋ねた言葉を切っ掛けに、遠い昔を、アルタミラを語る。本当に悲惨な時代だったと、よく生き残って脱出できた、と。
「いや、実に酷い記憶だとしか言いようがないな、アルタミラは」
「お風呂くらいゆっくり入りたいよね、自分の好きな時に」
「まったくだ。実験が終われば丸洗いだしな」
 あのせいで俺は風呂好きなのか、とハーレイは苦い笑いを浮かべた。
 あの時代に比べれば今は天国のような生活だと、風呂上がりにビールまでついてくるから、と。



「ハーレイはお風呂、楽しんでるんだ…」
 いいな、とブルーは羨ましくなった。
 自分もお風呂好きではあるけれど、入りたいというだけのこと。
 入れば身体も気持ちもサッパリするものの、ハーレイのビールのようにお風呂とセットの素敵なお楽しみは無い。お風呂は確かに好きなのだけれど、ハーレイには負けている気がする。
 ゆったりと浸かることは好きでも、それでは前の生の自分の頃と変わらない。
 ハーレイはお風呂上がりのビールという新しい楽しみ方を見付けて満喫しているのに…。
 ちょっぴり羨ましくなってしまったから、ブルーは「いいな」とポツリと零した。
「ハーレイは今の自分のお風呂を楽しんでるのに…。ぼくは前のぼくと変わってないみたい」
 お風呂好きな所はそっくりなんだよ、入ると気分はいいんだけれど…。
 ぼく、今だって身体の具合が悪い時でも入りたくなるくらいに引き摺ってるよ、前の記憶を…。



 ハーレイはいいな、と呟いたブルーに、ハーレイが驚いた顔をする。
「そうだったのか? 具合が悪くても入るのか、お前」
「うん…。ママに止められなかったら、だけどね」
 昨日もお風呂に入ったんだよ、でも今日は学校に行けなかった。
 そんな時でも入りたいほど、ぼくはお風呂が好きなのに…。
 好きだってだけで何もオマケが付いて来ないよ、ハーレイのビールみたいな何か。
「俺のビールなあ…」
 お前は酒は苦手だろうが、とハーレイは首を捻ったけれども。
 前のブルーは酒が飲めなかったから、今のブルーが酒を飲める年齢になっても無理であろう、と考え込んだのだけれど。
 ふと閃いた、とある考え。
 それをハーレイは口にしてみる。



「だったら、アレだ。お前が風呂を楽しめるように、結婚したら温泉巡りに行くか?」
「温泉?」
 キョトンとするブルーに「温泉はいいぞ」とハーレイは片目を瞑ってみせた。
「お前、殆ど旅行はしてないらしいしな? 温泉巡りもしてないだろう?」
「うん…」
「温泉巡りはいいもんなんだぞ。あちこちにあるし、行った先でも何種類も温泉があったりする」
 同じ場所なのに、湯が違うんだ。
 色が違ったり、湯の成分が違ったりもするぞ。
「聞いたことはあるよ。でも、見に行ったことは無いかも…」
 うんと小さい頃なら行っているかもしれないけれど、とブルーが言うから。
「なら、行くとするか。いろんな種類の湯に入れる上、温泉卵なんかもあるしな」
「温泉卵は知ってるよ? 半熟のでしょ?」
 美味しいよね、とブルーが微笑む温泉卵は温泉卵という名の料理だった。それはハーレイが意図するものとは違う。
 ハーレイがブルーを連れて行きたい温泉の卵はそれではない。
 そしてブルーはどうやら知らないようだったから、ハーレイは大いに満足した。
 お風呂の楽しみ方が広がらないことを嘆く恋人には、やはり温泉巡りがピッタリだろう。



「違うぞ、ブルー。そういう卵のことじゃなくて、だ」
 俺が言うのは本物の温泉でしか作れん温泉卵だ。
 温泉のお湯に浸けて茹でたり、蒸気で蒸したりして作るんだ。
「本物の温泉で卵を茹でるの!?」
 ブルーの赤い瞳が丸くなる。
「ああ。蒸す方は危ないから観光客は見ているだけだが、茹でる方なら自分で作れる所もあるぞ」
「それ、やりたい!」
 茹でてみたい、と瞳を煌めかせる小さな恋人。ハーレイの読みは見事に当たった。
 ブルーのお風呂の楽しみ方は温泉巡りで広がりそうだが…。
「ふむ。まずは温泉卵を作るのか、お前? 俺と一緒に風呂ではなくて、だ」
 温泉地に行けば風呂も沢山あるんだが?
 宿の部屋でも入れたりするのに、俺と一緒に風呂に入るより温泉卵がいいんだな?
(え?)
 たちまちブルーは思い出した。
 前の生でハーレイと青の間で入ったお風呂。二人で浸かって、それから、それから…。
(…え、えーっと……)
 何と返事をしたらいいのか分からない。
 ブルーは耳まで赤くなったが、ハーレイは「卵でいいさ」と可笑しそうに笑った。
 今のブルーには温泉卵くらいで丁度いいのだと、無理して背伸びをしなくてもいいと。
(…ぼく、背伸びなんかしていないのに…)
 けれど、温泉と聞いて浸かるよりも先に、温泉卵に釣られてしまったことは事実だから。
 それもいいな、とブルーは考える。
 今の所は、温泉卵。
 いつかハーレイと結婚したなら、二人で温泉。
 お風呂上がりにビールを楽しむハーレイお勧めの温泉巡り。お風呂の楽しみ方が広がる温泉。
 地球の恵みの温泉に行って、ハーレイと二人で熱いお湯に卵を浸けてみよう、と…。




         大好きなお風呂・了

※ブルーがお風呂好きだった理由は、アルタミラの悲惨な体験のせい。可哀相かも。
 けれど、今度は温泉巡りに行けるのです。温泉卵も作ってみたいですよね。
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「ブルー。右の手、温めてやろうか?」
 庭の木の葉が色づき始めて、朝晩は肌寒く感じる日も混じり始めたから。休日にブルーの部屋を訪れたハーレイが問えば、「うん」と嬉しそうに小さな右手が差し出された。
 お茶とお菓子が置かれたテーブルを間に挟んで、ハーレイの大きな右手がブルーの手をそうっと握って包む。
「ふふっ、温かい」
 くすぐったそうに微笑みながらもブルーの心が幸せに満ちてゆくのが、ハーレイの心にも握った手を通して伝わって来た。
 遠く過ぎ去った遙かな昔に、前の生の最期に、温もりを失くしてしまったブルーの右の手。
 忌まわしいメギドでハーレイの温もりを失くした右の手。
 ソルジャー・ブルーだった時のブルーが最期まで覚えていたいと願った、シャングリラを離れる前にハーレイの腕に触れた手に感じた確かな温もり。それを抱いて逝きたいと願った温もり。
 けれどもブルーは失くしてしまった。銃で撃たれた痛みの酷さがブルーから温もりを奪い去ってしまった。
 最期まで共に在りたいと願ったハーレイの温もりを失くしてしまって、メギドにブルーはたった一人きり。恋人の温もりは消えてしまって、ハーレイはもう何処にも居ない。
 もう会えないと、独りぼっちになってしまったと、泣きじゃくりながらブルーは逝った。右手が冷たいと、凍えて冷たいと泣きじゃくりながら、温もりを取り戻す術も無いまま…。



 ソルジャー・ブルーだった自分の悲しい最期を今のブルーも覚えている。
 右の手が冷たく凍えた記憶は小さな胸に深く刻まれている。
 だから小さな右の手はハーレイの温もりを求め、幾度も幾度も縋って来た。前の自分が失くした温もりを取り戻すかのように、それが欲しいと縋って来た。
 再会した春から暑い夏を経て、秋までの月日を共に過ごして。
 ずいぶん落ち着いたブルーだけれども、今でもやはり右の手の温もりは特別なまま。
 以前ほどに強請って求めはしないけれども、こうして問われれば右手を差し出して来る。それが欲しいと、ハーレイの温もりを移して欲しいと。
 今も右の手を包み込まれて、ブルーは幸せそうだから。
 利き手を握られているというのに、何の不自由も無いとばかりに湯気の立ち昇る紅茶のカップを放っているから、ハーレイは前のブルーがどれほどの寂しさと悲しみの中で逝ってしまったのかを思わずにはとてもいられない。
 こうして今もなお、自分と向かい合っていてさえ、ブルーの心は癒えていないのかと。
 熱い紅茶を楽しむことより、失くした温もりを取り戻す方が大切なのかと…。
 そうしてハーレイは溜息をつく。
 前のブルーを失くした自分がどうであったかを思い出したから。



「…人の思いとは分からんものだな」
 ハーレイの口から零れた言葉に、ブルーが「何が?」と小さく首を傾げる。
 不思議そうに見詰める赤い瞳を見詰め返して、ハーレイは言葉の続きを紡いだ。
「まさか温もりとは思わなかった」
 前のお前が最期に欲しかったものが、温もりだったとは思わなかった。
 前の俺は勘違いをしていたようだ。
 てっきり灯りだと思っていたんだがな…。
「灯り? …なんで?」
 なんで灯り、と小さなブルーが目を丸くした上、パチクリと瞬きまでもしているから。
 それも忘れてしまったのか、とハーレイは恋人の手をキュッと握って。
「忘れちまったか? お前が俺に教えたんだろうが、遙か昔には蝋燭だった、と」
「……蝋燭?」
 ますます意味が分からない、といった体のブルーだったけれども。
 暫くしてから「ああ…!」とコクリと頷いた。
 忘れていたことを思い出したと、ソルジャー・ブルーだった頃の話だった、と。
 遠い遠い昔に、白いシャングリラで暮らしていた頃。
 ブルーは確かにそれを口にした。
 蝋燭を灯してやりたいのだと、死んでいったミュウたちのために灯りを灯してやりたいのだと。



 SD体制の時代を迎えて、人を弔う習慣も変わった。
 そもそも家族が存在しない。家族はあっても、ままごとのような作り物の家族。
 育英都市では養父母と、人工子宮から生まれた子供の組み合わせ。
 その他の大人が暮らす都市では、夫婦と息子や娘のいる家族。老夫婦から孫の世代までが揃う家族さえ存在したのだけれども、それらは養子縁組が成された結果。血縁関係などは無かった。
 養子縁組をして家族になっても、気が合わなければそれでおしまい。家族関係は終了となって、息子や娘はまた別の家へと移ってしまう。それが普通で誰も咎めず、不義理だとさえ思わない。
 本物ではない作り物の家族。組み合わせが上手くいった時だけ、孫世代までの家族が出来る。
 そうやって生まれた家族の中では死者を悼み、泣くこともあったけれども。
 死者を葬った墓地を幾度も訪ねて花を手向ける者たちもあったけれども、そうはしない者たちも数多く居た。
 死んでしまえばそれで終わりだと、墓標さえ作る必要は無いと。
 まして葬儀など要りはしなくて、社会的に必要な最低限の死亡通知と広告のみ。それさえも全て機械任せで、骸はマザー・システムが派遣して来る係が処理した。
 そう、弔うのではなくて「処理」だった。人類たちはそれで良しとしていた。



 けれどシャングリラに居たミュウたちは皆、家族にも似た存在であったから。
 人類たちと違って死者を深く悼み、墓碑も花を手向ける習慣もあった。
 居住区に散らばる庭の一つに設けられた墓碑。
 死んでいった仲間たちの名が刻まれた墓碑は木々や花に囲まれて静かに其処に佇んでいた。
 亡き仲間たちを思い出した時は、誰もが出掛けて祈りを捧げる。其処に眠る仲間たちを知らない子供たちも「大切な場所」だと分かっているから、遊びの合間に花を摘んで飾ったりもした。
 何人ものミュウたちが訪れる場所。死者に祈りを捧げにゆく場所。
 亡き仲間たちを前のブルーは大切に思い、決して忘れはしなかったから、幾度となく墓碑の前を訪れ、静かに祈りを捧げていた。ハーレイも共に何度も祈った。
 シャングリラに咲いた花を手向けて、亡き仲間たちが安らかであるようにと。
 そんな中でブルーが零した言葉。
 アルタミラで死んでいった仲間の数だけ、蝋燭を灯してやりたいのに…、と。
 それなのに数が分からないのだと、正確な数が分からないのだ、と。



「蝋燭ですか?」
 青の間でブルーからそれを聞かされた時、ハーレイは酷く驚いた。
 何故、蝋燭などとブルーが言うのか分からなかった。
 シャングリラに蝋燭はあったけれども、それを弔いの場で使ってはいない。墓碑のある庭も花を手向ける場所はあっても、蝋燭を灯す場所などは無い。
 首を捻ったハーレイに、ブルーは「蝋燭だよ」と静かな声音で繰り返した。
「遠い昔には、蝋燭を亡くなった人の数だけ灯して祈った。蝋燭でなくても、灯りだった。小さな器に灯りを灯して、幾つも並べた」
 そんな時代があったんだよ。
 ずっとずっと遠い昔の地球には、そうやって亡くなった人を悼んだ時代があったんだよ…。
「どうして蝋燭だったのでしょう?」
 ハーレイにとって蝋燭は光源だったのだけれど。優しい光だとは思ったけれども、あくまで光を生み出すための道具の一つだったのだけれど。
「さあ…?」
 ぼくにも由来は分からないんだ、とブルーは少し困った風で。
「だけど、ホタルを知っているかい? 暗闇で光る小さな虫だよ。そのホタルを人の魂だと考えた時代があったり、正体の分からない光を人魂と呼んだりもした」
 魂は灯りと結び付きやすいものだったんだろう。だから蝋燭だったんじゃないかな。
 あるいは、亡くなった人が暗闇で迷わないように。
「暗闇?」
「死者の世界へ向かう道はね、暗いと思われていたんだよ。そのための灯りかもしれないね」
 蝋燭を灯して、この灯りを持って行って下さい…、と。
 暗い道でも、蝋燭の光で足元を照らしながら迷わずに歩いて行けるように、と…。



 遠い日にそんな話を交わしていたから、ハーレイは灯りだと思ったと言う。
 ブルーをメギドで失くしたその日に、灯りを届けてやらねばと気付いて、そうしたかったと。
「お前のために灯りを灯してやりたかった。お前が暗闇で困らないように」
 だが、俺の部屋には蝋燭は無くて、貰いに行こうにも、もう深夜だった。
 蝋燭を何処に保管しているのか、それが分かればキャプテンの権限で何とか出来たが…。生憎と俺は知らなかったし、係のクルーはとっくに眠った後だった。
「叩き起こしてまでは訊けんしな? …遅くなったのは俺が悪いんだしな…」
 ハーレイは苦しげに呟いた。
 ジョミーがアルテメシアへの進攻を決めたから、会議や航路の策定などで遅くなったと。
 それだけでも遅い時間になっていたのに、ブルーの面影を求めて訪ねた青の間。ブルーの形見が何か無いかと、それを探しに出掛けた青の間。
 其処でハーレイを待っていたものは、塵一つ無く綺麗に掃除され、整えられた部屋で。
 ブルーの銀色の髪の一本すら落ちていなくて、ベッドには皺の一つも無かった。ブルーが最後に水を飲んだのか、それさえ分からない新しい水を満たした水差し。洗われて光を反射するグラス。
 あまりの衝撃に、ハーレイは声さえ出せなかった。
 其処でどのくらい独り立ち尽くして泣いていたのか、ブルーを失くしたと泣き続けたのか。
 ようやっと我に返って部屋に戻って、ブルーのために灯りを灯さねばと気付いたのに。
 気が付いたのに、とうに深夜になっていた。
 ハーレイの手元に蝋燭は無くて、蝋燭の在り処も分からなかった…。



「…お前が逝ってしまったというのに、俺は灯りの一つも灯してやることが出来なかったんだ」
 俺の部屋には蝋燭が無かった。
 お前のために灯りを灯してやらなければ、と気付いたのに俺は灯せなかった。
 それに、お前の形見すらも。
 お前の髪の一筋さえも手に入れることは出来なかったし…。
「酷い甲斐性なしだろう? 前の俺は…」
 ハーレイの手がブルーの右手を握る。
 甲斐性の無い自分だったから、ブルーを失くした。
 ブルーを追ってメギドへも飛べず、引き止めることも出来ずに失くしてしまったのだ、と。
「甲斐性なしの俺には祈ることしか出来なかった。祈るだけしか出来なかった…」
 お前のために灯す蝋燭も無くて、お前に灯りを渡せないから。
 ただ泣きながら祈り続けた。
 お前が暗い道で迷わぬようにと、真っ直ぐに幸せな地へと歩いて行けるようにと…。



 なのに、とハーレイは辛そうに顔を歪めた。
「…本当に人の思いは分からんものだ。お前が欲しかったものは灯りじゃなかったというのにな」
 お前は温もりが欲しかった。
 温もりを失くしたと泣きながら死んだお前には、それが必要だったのに。
 灯りなんかじゃなかったというのに、俺は灯りだと思い込んでいた。
 俺にはお前の気持ちさえも分からなかったんだ。
「どうしようもない甲斐性なしだな、前の俺はな。…温もりと灯りじゃ大違いだ」
 独り善がりにもほどがある、と呻いたハーレイだったけれども。
 小さなブルーがその顔を見上げて問い掛けた。
「ハーレイ、どうやって祈っていたの?」
「…どうって…」
「祈ってた時のポーズって言うの? …どんな風にしてたのかなあ、って」
「ああ…。あの時の俺か?」
 すまん、と断ってハーレイはブルーの右手を包んでいた手を離すと、祈る形で組み合わせた。
「…こうだったが?」
 どうかしたのか、と訊くとブルーは「うん」と微笑み、「それで合ってる」と嬉しげに言った。
「ハーレイ、それで合ってるんだよ」
 そう言われても、ハーレイには何のことだか分からないから。
 「何がだ?」と怪訝な顔で尋ねれば、「それで正解」と答えるブルー。
「その手の形で正解なんだよ。そのお祈りの形が正解」
 前のぼくが欲しいと思っていたもの。
 ハーレイがくれるなら、それしかないよ。
 そうやって両手を組み合わせないと、手から温もりは生まれて来ないよ…。



 灯りよりもそれの方が正しい、とブルーは幸せそうな笑みを浮かべた。
 ハーレイの祈りは正しかったと、それこそが前の自分が本当に欲しかったものだ、と。
 しかしハーレイには自信が無かった。
 ブルーが正解なのだと言っても、偶然の一致としか思えないから。
 温もりを届けたいと思って祈ったわけではないから、組み合わせていた両手を離すと、もう一度ブルーの右手を包む。そうやって包み込み、温めながらブルーに訊く。
「…だが……。俺の温もりはちゃんとお前に届いただろうか?」
 暗闇を照らす灯りの代わりに、お前の所に届いただろうか?
 お前の手を温められたんだろうか…。
「んーと…。ぼくは覚えていないけれども、届いた筈だよ」
 ちゃんと届いたよ、とブルーは笑顔になった。
「今はハーレイの本物の温もりが此処にあるもの。ぼくの所にはちゃんと届いた」
 届いたから右手が温かいんだよ、今も温かくて幸せだもの。
 甲斐性なしだってハーレイは言うけど、それは間違い。
 ハーレイは前のぼくが本当に欲しかったものを、ちゃんと分かってくれてたんだよ。
 蝋燭の灯りより、温もりがいいと。



「…そうだろうか?」
 ハーレイには全く自信が無いのに、ブルーは「そうだよ」と笑みを湛える。
「ハーレイはちゃんと分かっていたから、祈ってくれた。ぼくに温もりをくれたんだよ」
「…蝋燭が無かっただけだと思うが…」
 その通りだから、そう言ったけれど。
 小さなブルーが「ううん」と首を左右に振った。
「違うよ、ハーレイ。蝋燭が無かったのは、ほんの偶然。もしも蝋燭があったとしたって、灯りを灯したら、それでおしまいにはしないよね?」
「…それはまあ…。蝋燭を灯して、それからやっぱり祈っただろうな」
「ほらね」
 合ってるじゃない、と赤い瞳が煌めいた。
「ハーレイにはちゃんと分かってたんだよ、前のぼくは何が欲しかったのか」
 ぼくは蝋燭の灯りなんかより、ハーレイの温もりが欲しかった。
 右手が凍えて冷たかったから、温もりを分けて欲しかった。
 それを大切に持って、灯りの代わりにしっかりと抱いて。
 そうやって歩いて行きたかったんだよ、行き先が何処かは分からなくても…。



 ハーレイにはぼくの気持ちが通じていたよ、とブルーは微笑む。
 暗闇を照らす灯りの代わりに、ハーレイから届いた優しい温もり。
 それが自分を導いて来たと、青い地球まで連れて来たのだと。
「だからハーレイと一緒に地球まで来られた。青い地球まで来られたんだよ…」
 ぼく一人では来られないよ。
 地球までの道も分からなければ、どうやって行くのかも分からないもの。
「絶対、ハーレイのお蔭なんだよ。前のハーレイは地球まで行ったんだもの。地球まで辿り着いたハーレイが道案内して、連れて来てくれたんだとぼくは思うよ」
「おいおい、神様じゃなくってか?」
 其処は神様の出番だろう、とハーレイは慌てて遮ったけども、ブルーの答えは「両方」だった。
「神様とハーレイと、両方とも。…ハーレイが祈ってくれたからだよ、ぼくのために。前のぼくが神様の所へ行けるようにと」
 前のぼくは神様の所へ行って、其処で地球へ行って来たハーレイと会って。
 それから二人で地球に来たんだよ、ハーレイが道案内をして。
「…そうなのか? そうだといいが…」
 まだ自信の無いハーレイだったが、ブルーは「そうだよ」と自信たっぷりに頷いた。
「きっと、そう。ぼくにはそれしか思い付かない」
 ハーレイに温もりを届けて貰って、ぼくの右手が温かくなって。
 その右の手を引いて貰って、ぼくは地球まで来たんだと思う。
 地球はこっちだ、って引っ張って貰って、ハーレイと一緒に二人で歩いて…。



「だからね、ハーレイ。ぼくはハーレイからちゃんと貰ったよ、欲しかったものを」
 この手がくれる温もりだよ、とブルーは自分の右手を包み込んだ褐色の手を左手で撫でた。
「前のハーレイがくれた温もり。灯りよりも欲しかった、ハーレイの温もり…」
 蝋燭も灯りも要らなかったよ、とブルーの小さな手がハーレイの大きな手に重ねられる。
 この温かな温もりだけが自分を導く。
 暗闇を照らす灯りの代わりに、何処までも導いてくれるのだ…、と。
「ぼくを地球まで連れて来てくれたのも、ハーレイの手だよ」
「それならいいがな…」
 俺には本当に自信が無いが。
 前のお前に温もりを届けた自信も無ければ、道案内が出来た自信も無い。
 蝋燭さえも灯せなかったような俺にだ、其処までのことが出来たんだろうか…?
「出来たと思うよ、ハーレイだもの」
 だって、ハーレイはキャプテンだもの。
 あんなに大きかったシャングリラの進路も、ハーレイが決めていたんだもの。
 舵を握って運んでいたんだもの…。
 小さなぼくの行き先を決めて、連れて行くくらいは何でもないよ。
 ぼくはシャングリラよりもずっと小さくて、ハーレイの腕でも持ち運び出来る大きさだもの。
 地球までの道が遠くて歩き疲れたら、きっと背中に背負ってくれた。
 もしかしたら抱き上げて運んでくれたかもしれないね。
 「あと少しで地球に着くからな」って。
 「地球が見えたら、ちゃんと自分の足で歩くんだぞ」って…。
 そんな風にハーレイに運んで貰って、地球までの道を教えて貰って。
 二人で地球まで来たんだと思うよ、この青い地球に。
 きっと二人で、ずっと遠くから青い地球を見て。
 あれが地球だと教えて貰って、ぼくは感激して泣いたと思う。
 やっと地球まで来られたんだと、青い地球をホントに見られたんだ…、と。



 でもね、とブルーはハーレイの手を、小さな左手と包み込まれた右手でキュッと握った。
「地球に来られたことも嬉しいけれども、ぼくの一番はハーレイだよ?」
 ハーレイと一緒に地球に来られたから嬉しいんだよ、と小さな両手に力をこめる。
 褐色の大きな手には敵わないけれど、ブルーの力の精一杯で。
「蝋燭の灯りを貰うよりも温もりが欲しかった。それを届けてくれた手が大好きだし、ハーレイの温もりも、ハーレイも大好き。ぼくはハーレイのことが誰よりも好き」
 だから、この手を離さないで。
 ぼくの手を握って、絶対に離さないで…。
「ホントに離さないっていうのは無理だし、お茶を飲むにも離さなくっちゃ駄目だけど…」
 だけど、約束。
 前のぼくはハーレイの前から勝手に消えちゃったけれど、今度は消えない。
 今度はハーレイの手を離さないから、ハーレイもぼくの手を離さないで。
「ねえ、ハーレイ。二人で何処までも一緒に行こうよ、地球まで二人で来たみたいに」
 ハーレイがぼくを連れて来てくれたみたいに、何処までも一緒。
 蝋燭の灯りよりも欲しかったものを分かっててくれたハーレイと一緒…。
「ふむ…。本当に俺が分かっていたのかどうかは、正直、自信が無さ過ぎるんだが…」
 お前を地球まで案内してきた自信ってヤツも、俺には全く無いんだが…。
 そんな俺でも、お前が一緒に歩いてくれると言うんだったら。
 俺と一緒に歩きたいなら、光栄だ。
 ブルー、今度こそ二人一緒に歩いて行こう。
 今度こそお前と一緒に行こうな、お前の右手が凍えないように。
 右手が冷たかったことさえ思い出せなくなっちまうくらいに、俺が幸せにしてやるから。
 俺がお前の手を引っ張って歩いてやるから、ずうっと幸せに歩いて行こうな。
 お前さえ側に居てくれるのなら、頑張って道を案内するさ。
 幸せ一杯の道へ案内するから、一緒に行こう。
 なあ、ブルー……。




        温もりと灯り・了

※蝋燭の灯よりも、温もりが欲しかった前のブルー。それをハーレイから貰った筈、と。
 そう信じられる今のブルーは幸せです。ハーレイが地球に連れて来てくれた、と…。
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「すまん。こういうのはマナー違反なんだがな」
 だが確認しておかないと、とハーレイは財布を取り出した。夕食の後、ぼくの部屋でテーブルを挟んで向かい合わせ。テーブルの上には食後のお茶。
 ハーレイ曰く、「人前で財布を出して中身を数えるのは行儀が悪い」らしいんだけれど、ぼくに断りつつも財布を出したことには理由があって。ハーレイは明日の朝、柔道部員たちのために買い出しをしなければならないという。
「店に行ってから、金が足りていないと悲惨だしな?」
 今の今まで忘れていたのだ、と話すハーレイ。仕事が早く終わりそうだったから、帰りにぼくの家に寄ろうと思って急いでいたら確認するのを忘れてた、って。
 そう聞かされると、なんだか嬉しい。マナー違反なんかどうでもいい。
 でも…。お店で大人が買い物するなら、現金以外にも方法があると思うんだけどな…。どうしてそっちにしないんだろう?
「その買い物って、現金でないといけないの?」
 尋ねてみたら、「ああ」と返事が返った。
「そういう決まりだ、学校に申告したい時にはな」
 もしも申告出来なかったら、ハーレイが私費で支払う羽目になるらしい。それはとっても大変なことになりそうだから、ハラハラしながらハーレイを見守ることにした。
(…お金、足りてるといいんだけれど…)
 財布にお金が足りなかったら、ぼくの家から帰る途中で補充しに行かなきゃならないから。早く帰らなくちゃいけなくなるから、それは嫌。
 せっかく寄ってくれたんだもの、時間ギリギリまで居て欲しいよ…。



 祈るような気持ちのぼくの目の前で、ハーレイは紙幣の数を数えて、小銭もあるか確認して。
「…よし。お釣りで店の人を困らせないでも済むようだな、うん」
「よかったあ…。お金、足りてたんだね」
「ああ、細かいのも持ってたようだ。おっと…!」
 ハーレイの財布からコロンと何かが転がり落ちた。コツン、と床にぶつかる音。
「ぼくが拾うよ」
「すまんな、うっかり落としちまった」
 テーブルの下には、身体が小さいぼくの方が入りやすいから。椅子から下りて床に屈んで、下を覗き込んだぼくは目を丸くした。
(…何、これ…)
 てっきり小銭だとばかり思った、それ。ハーレイの財布から落っこちた、それ。
 テーブルの下にコロンと転がっているんだけれども、ぼくの見慣れた小銭じゃなかった。金色をした小さな亀。
(…亀だよね?)
 お腹の方を上にして転がってるけど、亀だと思う。そういう形で、手足と頭と小さな尻尾。指で摘んで裏返してみたら、ちゃんと甲羅がついていた。どう見てもそれは亀でしかなくて。
(…何処かのお金?)
 亀の形をしたお金なんて、ぼくは初めて見たんだけれど。聞いたことすら一度も無いけど、この宇宙はとても広いから。前のぼくが生きてたSD体制の時代と違って、惑星ごとにいろんな文化があるから、そういう形のお金があっても不思議ではない。
(亀のお金かあ…)
 面白いね、と拾い上げた。
 きっとハーレイのコレクション。ハーレイが他所の星へ旅行をしたって話は聞いていないから、誰かに貰ったお土産なんだ。友達か、それとも親戚の人か。
(ひょっとしたら、お父さんかお母さんが出掛けたのかな?)
 素敵なものに出会ってしまった。ハーレイの財布の中の亀。きっとハーレイの大切な亀…。



「はい、ハーレイ」
 テーブルの下から這い出したぼくは、椅子に座ってから金色の亀を手のひらに乗せてハーレイの前に差し出した。
「ありがとう。小さいってのも便利だな」
 こういう時には、とハーレイの手が伸びて来て亀を摘み上げたから。小さな亀が財布に戻されてしまう前に、と好奇心一杯で訊いてみた。
「それ、何処の星のお金?」
「はあ?」
 亀を摘んだハーレイが変な顔になった。しまった、間違えちゃっただろうか。他所の星と違って地球のだった?
「もしかして、地球の? 何処のお金なの?」
 ぼくの知らない何処かのお金。亀の形をしたお金。何処の地域のお金だろう?
「…金って、こいつか?」
「うん、亀のお金。何処で使われているお金なの、それ?」
「なるほど、亀の形をした金なあ…」
 ハーレイは「はははっ」と亀をテーブルに置いて笑い始めた。
「知らんのか、これを。…まあ、知らなくても無理はないかもな」
 こいつはお金じゃないんだ、ブルー。
 ちゃんと金色だし、財布に入れるものではあるが、だ。
 亀の形に意味があるんだ、こいつを出しても何も買えんぞ。



 銭亀。
 ハーレイがぼくに教えてくれた、金色の小さな亀の名前。
(そんなの、ホントに初めて聞いたよ)
 亀の甲羅についた模様がSD体制よりも遙かに遠い昔の、ぼくたちが住んでる地域のお金の形に見えるらしくて、お金が貯まる金運のお守り。それが銭亀。
 この地域が日本という名前の島国だった頃に生まれたお守り。SD体制が始まった時には、もう銭亀は無かったかもしれないらしいんだけれど。
 SD体制が崩壊した後、地域の文化を復興させる過程で銭亀のお守りも帰って来た。ぼくたちの住む地域に戻った。
 だけど、銭亀はあくまで文化。そういったものが大好きな人たちのもの。
 誰もが知っているわけじゃないし、誰でも持ってるものでもない。古い習慣や昔の道具が好きな人たちが楽しむもの。趣味で集めたり、持ったりするもの。
 ハーレイの財布に入っていたのは、ハーレイが古典の先生だからかな、と思ったんだけど。
 きっとそうだと思ったんだけど、銭亀はハーレイのお父さんたちの趣味だった。
 隣町の庭に夏ミカンの大きな木がある家に住んでる、ハーレイのお父さんとお母さん。遠い昔の道具が大好きで、家に火鉢や七輪を持っていたりする。
 しかも銭亀だけじゃなくって、家の玄関には無事カエルっていうのが居るらしい。出掛けた人が無事に帰って来ますように、という願いがこもったカエルの置き物。
 ぼくは無事カエルも初めて聞いた。そっちは「帰る」と「カエル」の語呂合わせ。ずうっと昔の日本のお守り、銭亀と同じで復活してきた文化の一つ。



「…色々あるんだ…」
 ぼくはハーレイの銭亀を指先でチョンとつついてみた。こんなにちっちゃな金色の亀がお守りだなんて。それにカエルまでがお守りになっているなんて…。
 ハーレイが「うむ」と腕組みしながら大きく頷く。
「実に色々とあるようだぞ。…前の俺たちには赤い石しか無かったがな」
「あれは無しだよ!」
 言わないでよ、と悲鳴を上げた。
 前のぼくたちが持っていた、たった一つの大事なお守り。誰の服にもついていた石。高価な宝石などではなくって、ただの赤い石。ぼくは青でも緑でもいいと思ったのに、赤い石。
 赤い石にしようとヒルマンたちが決めた。
 遙かな昔の地球に在ったお守り、メデューサの目。青い目を象った魔除けのお守り。同じ石なら赤にしよう、と推されてしまった。魔除けの青い目と同じように、ミュウたちを守る瞳の色に。
 前のぼくの赤い瞳の色に…。
 あまりにも恥ずかしすぎる理由で決められた赤い石。ミュウたちのお守りだなんて言われても、困る。恥ずかしいから、新しい世代には絶対に言うな、と緘口令を敷いた。もちろんジョミーにも教えなかった。
 シャングリラに制服が誕生した時点で乗ってた仲間しか知らないお守り。
 次の世代には伝えずに終わった、お守りだった赤い石。



 そんなお守りはあったんだけれど。
 瞳をお守りにされてしまった、前のぼくを困らせたお守りは存在したんだけれど。
 でも、銭亀とか無事カエルとかは何処にも無かった。
 それにシャングリラには居なかった、亀。
 本物の亀は居なかった。カエルだって居はしなかった。
 どちらも役に立たない生き物。シャングリラには要らない、無用の生き物。
 閉ざされた船の中だけで生きてゆかねばならなかったから、役に立たない生き物は不要。そんな生き物を飼う余裕はない。シャングリラは生きるための世界で、水族館ではないのだから。



 そういったことを思い出していたら、ハーレイがボソリと呟いた。
「赤い石だけ持つんじゃなくって、カエルは飼っときゃ良かったなあ…」
「カエル?」
 なんで、とキョトンとしてしまった。
 カエルなんかがシャングリラの中でどう役に立つと言うんだろう?
 それとも今だから分かる理由が見付かったとか?
 あの頃はカエルは身近な生き物じゃなかったけれども、今なら雨上がりに庭で跳ねてたりする。キャプテン・ハーレイの視点で見てたら、使えそうな生き物なのかもしれない。
 ハーレイならではの凄い発見をしたんだろうか、と期待していたら。
「いや、お前が無事に帰ったかもしれんと思ってな…。メギドからな」
「………」
 よりにもよって無事カエルだった。凄い発見以前の問題。
 だけどハーレイは大真面目な顔で言うから、ぼくも真面目に訊き返した。
「…そこまでの力、カエルにある?」
「さてな? しかし、頼れるんなら何でも良かった。無事カエルでもな」
 縋れるんなら、それでお前が戻って来るなら、俺はカエルにでも頭を下げたぞ。



「……カエル……」
 ポカンと口を開けたけれども、カエルに土下座するハーレイの姿を想像したら可笑しくなった。それもキャプテンの制服で。
 威厳たっぷりの制服姿で、カエルに土下座しているハーレイ。
(…なんだか凄いよね…)
 そこまでされたら、ぼくも戻っていたかもしれない。
 戻れていたような気がして来た。
 だって、キャプテンがカエルに土下座出来る世界。それも戦闘の真っ只中に。
 そこまで間抜けな光景が広がる世界だったら、とんでもない奇跡もあるかもしれない。
 瀕死のぼくでもカエルに背負われて戻って来るとか…。
 そう言ってみたら、「ははっ、カエルか!」と鳶色の瞳が煌めいた。
「でっかいのがお前を背負って来るのか、そいつは凄い光景かもな」
 ブリッジの連中もビックリだろうが、医療班のヤツらも腰を抜かすぞ。
 前のお前を背負えるくらいのデカいカエルがノッシノッシと来るんだからな。
 そういや、ずうっと古い昔の日本の、忍者ってヤツを知ってるか?
 ものすごくデカいカエルに乗ってた忍術使いが居たそうだ。もちろん、作り話だが…。
 確か、児雷也という名前だったな。かなり人気があったようだぞ、カエルにも変身出来るんだ。
「変身出来るの?」
「そうさ、前のお前にも出来なかったよなあ、変身はな」
「うん。サイオニック・ドリームで変身したように見せかけることは出来ただろうけど」
 思い浮かべて、吹き出しかけた。
 もしもメギドで、ぼくが巨大なカエルに変身してたら。
 キースにサイオニック・ドリームは通用しなかったけれど、もしもキースがかかったならば。
 巨大なカエルで腰を抜かしていたかもしれない。
 その間にメギドを止めてしまって、ぼくは帰れていたかもしれない。
 ハーレイに話したら「そいつはいいな」と大笑いだった。
 うん、やっぱりキャプテン・ハーレイがカエルに土下座出来る世界は凄くて偉大だ。前のぼくがメギドから帰れたりする。
 カエルの背中に背負われて帰るとか、カエルに化けてキースの腰を抜かさせるとか…。



 素敵すぎる世界な、カエルがお守りのシャングリラ。
 二人して散々笑い転げた後で、ハーレイが「それはともかく…」と座り直した。
「本当にカエルを飼っときゃ良かった。…縁起担ぎでも何でもいいから」
 気休めでもいいから、無事カエルだな。
 前の俺たちは知らなかったんだから仕方ないんだが、本当に飼っておけば良かった。
「じゃあ、亀も?」
 ぼくはテーブルの上の金色の亀を指差したんだけど。
「そっちはあんまり意味が無いだろう。いや、全然、無い」
「なんで?」
 銭亀のお守りも良さそうなのに。小さくて可愛い、金色の亀。
 シャングリラで本物のカエルを飼うなら、セットで亀だって飼えばいいのに。
 そう思ったのに、ハーレイに「お前、きちんと考えたか?」と訊かれてしまった。
「無事カエルはともかく、銭亀だぞ。…シャングリラに金はあったのか?」
「………」
 お金。そういえばシャングリラにお金は無かった。そもそも使うような場所が無かった。
「……無かったね、お金」
「ほら見ろ、亀は要らないんだ」
 無事カエルだけで充分なんだ、と銭亀を摘み上げたハーレイだけれど。
「いや、待てよ…。こいつは長寿のお守りってヤツも兼ねてたっけな」
「長寿?」
「そうさ、長生きのお守りだ。ずっと昔は「鶴は千年、亀は万年」って言葉があってな。鶴と亀はとても長生きするんだと思われていた。それにあやかって長寿のお守りってわけだ」
 亀のように長生き出来ますように、と持ち歩くのさ。
 流石に万年は無理だろうがな、本物の亀も一万年も生きるってわけじゃないしな。



 銭亀は金運だけじゃなくって、長寿のお守りだったみたいだ。
 それを思い出したハーレイは「うーむ…」と唸って、銭亀をテーブルにコトリと置いて。
「やはりシャングリラでは亀も飼うべきだったな、前のお前が地球まで行けるようにな」
「…ぼく?」
「お前の寿命が延びりゃ良かった。そうすりゃ地球まで行けてたんだぞ」
「ふふっ、そうかもしれないね。メギドなんかは無かったかもね」
 シャングリラには居なかった、カエルと亀。
 そんなものまで飼える余裕があったとしたなら、本当に何もかもが全て変わっていただろう。
 前のぼくはうんと長生きをして、元気なまんまでジョミーを見付け出して来て。
 ジョミーがぼくの後継者じゃなくて、一緒に戦うソルジャーだったら。
 二人目のソルジャーだったとしたなら、それだけで戦力が倍以上になる。そしたらアルテメシアから宇宙へ逃げ出す代わりに、アルテメシアを落とせていた。
 後はナスカに寄りもしないで、真っ直ぐに地球へ。
 トォニィたちが生まれてなくても、ぼくとジョミーと、二人居ればきっと辿り着けた。
 地球が死に絶えた星であっても、間違いなく地球。人類の聖地。
 ぼくたちは地球を手に入れた上で、SD体制を崩せただろう。ミュウの未来を拓けただろう。
 全ては夢の話だけれど。
 シャングリラにはカエルも亀も居なくて、前のぼくの寿命もナスカまでしか無かったんだけど。



 赤い石のお守りだけしか持っていなかった、前のぼくたち。
 石の由来を知っていた仲間は、ぼくの瞳のお守りを魔除けに持っていたんだけれど。魔物ならぬ人類から守ってくれる赤い石を持っていたんだけれど…。
 ぼくのためのお守りは何も無かった。
 赤い石のお守りは前のぼくの瞳を指してたんだから、瞳の持ち主のぼくの身なんかは守れない。ぼくはお守りを持っていなくて、シャングリラにはカエルと亀さえ居なかった。
 無事カエルも長寿のお守りの亀も、何処にも無くって、居なかった…。
 欲しかったわけじゃないけれど。
 ぼくを守ってくれるお守りが欲しいと思ってたわけじゃないけれど…。
 だけど、こうして目の前に銭亀。
 ハーレイの財布から転がり落ちて来た金色をした小さな亀。
 こんなのを見て、無事カエルが玄関に居る家の話を聞いたら「いいな」と少し羨ましくなる。
 無事に帰れるカエルのお守りと、長生きが出来る亀のお守り。
 ほんのちょっぴり、欲しいと思う。
 とっくの昔に手遅れだけれど。前のぼくは死んでしまったけれど…。



「…ほんのちょっとだけ、欲しかったかな…」
 カエルのお守りと、亀のお守り。
 今のぼくじゃなくって前のぼくだよ、ってハーレイに夢の話をしたら。ハーレイは笑う代わりに「俺もだ」と大きく頷いた。
「あの頃の俺が知っていたなら、お前のためだけに。…誰に何を言われても飼っていただろうな、カエルと亀をな」
「飼うの?」
「もちろんだ。知っていたなら、飼っていた」
 えーっと…。ハーレイの気持ちは嬉しいんだけど…。
「ぼくの恋人だってバレないかな? それ…」
「いや、キャプテンの任務の内だ。ソルジャーの無事と長寿を祈るのもな」
「そうなるわけ?」
 キャプテンの仕事の中に「お祈り」が入るとは知らなかった。
 なんだか凄いこじつけだけれど、きっとハーレイが知っていたなら、飼っただろう。
 ぼくのためだと言うからには公園とかで飼うんじゃなくって、多分、青の間。
 青の間に満々と湛えられた水に、カエルと亀。
 あそこに生き物は居なかったけれど、あの水の中にカエルと亀。
 無事カエルと長寿のお守りの亀…。



 もしも青の間の水に、カエルと亀とが泳いでいて。
 キャプテンのハーレイが世話をしながら、ぼくの無事と長寿を祈っていたら。
 どんな時でも、戦闘中でも、祈り続けていてくれたなら。
 さっきみたいに「俺はカエルにでも頭を下げるぞ」って真剣な表情で言えるハーレイがカエルと亀とに祈ってくれていたなら、ぼくは帰れていたかもしれない。
 あのメギドから、シャングリラへ。
 前のぼくの命が尽きてしまったメギドから、懐かしいシャングリラへ。
 瀕死の重傷を負っていたとしても、メギドでは死なずに生きて帰れていたかもしれない。
 ハーレイが祈るシャングリラへ。
 カエルに土下座して祈り続けるキャプテンの許へ…。
(…そしたら、ハーレイの温もりを失くさなかったね…)
 ぼくの右の手が凍えて冷たくなっていたとしても、死ぬ前に温もりが戻っただろう。
 たとえキャプテンとしての立場であっても、ハーレイはぼくの手を握ってくれただろうから。
 死にゆくぼくの右手を握って、温もりを移してくれただろうから。
 ぼくもハーレイも、恋人同士の別れが出来ない点では同じなんだけど…。
 同じなんだけど、全然違う。
 独りぼっちで死んでゆくのと、ハーレイに手を握って貰って安心しながら死んでゆくのと…。



(…そんな風に死ねたら、前のぼくはきっと幸せだったよ…)
 最期にハーレイの腕の中に戻れて、「ブルー」とは呼んで貰えなくても「ソルジャー」と何度も呼び掛けられて。
 ぼくの大好きな声で何度も呼ばれて、あの大きくて温かな手でぼくの手を強く握って貰って。
 それだけで幸せだったと思う。
 さよならのキスを貰えなくても、抱き合うことが出来なくっても、幸せの中で死ねたと思う。
 メギドで独りぼっちで泣きながら死んでゆくんじゃなくって、幸せの中で。
 ハーレイが居ると、側に居てくれると、きっと微笑みながら死んでいったと思う。
 ぼくは最期まで幸せだったよと、君が居てくれるから幸せだよ、と…。



 だけど、全ては夢物語。
 シャングリラにはカエルも亀も居なくて、カエルと亀とに祈るキャプテンも居なかった。
 無事カエルは無くて、長寿のお守りの亀も無かった。
 前のぼくはシャングリラに帰る代わりに独りぼっちで死ぬしかなくって、ハーレイに手を握って貰うどころか温もりを失くして死んでしまった。右手が冷たいと泣きながら死んだ。
(…欲しかったかもね、無事カエルと銭亀…)
 あんな風に死なずに済むんだったら、欲しかった。
 そう思ってたら、「欲しいのか?」ってハーレイが訊いてくれるから。
 「今はいいよ」って笑って答えた。
 今のぼくは何処へ出掛けるわけでもないから、無事カエルは今すぐに欲しいわけじゃない。
 十四歳のぼくは寿命が足りなくて困っていないし、長寿のお守りの亀も要らない。金運の銭亀が欲しくなるほどお小遣いがピンチってわけでもないしね。
 ハーレイは「そうか」って穏やかな笑みを浮かべて、テーブルの銭亀を摘み上げた。
「だったら、こいつは仕舞っておこう。俺の大事な銭亀だしな」
 頑張って金を貯めておかんと、お前とあちこち旅行に行けん。
 うんと沢山約束したしな、好き嫌い探しの旅とかな?
「そっか、あったね、好き嫌い探し!」
 ぼくとハーレイには好き嫌いが無いから、探しに行こうって話もあった。
 何処かに一つくらいは食べられない食べ物があるかもしれないし、凄く美味しいものが何処かにあるかもしれないから。
 そういう旅に出るんだったら…。
「ねえ、ハーレイ。無事カエル、ぼくたちの家にも置かないとね?」
「そうだな、玄関に置くとしようか、でっかいのをな」
 無事に旅から帰れるように。
 二人揃って、怪我も病気もしないで元気に帰って来られるように…。



 今の所は銭亀も無事カエルも要らないと思う、ぼくだけれども。
 ハーレイにはきちんと持ってて欲しい。
 財布には長寿のお守りの銭亀、ハーレイのお父さんとお母さんの家には無事カエル。
 シャングリラと違って亀もカエルも揃っているから、ぼくは安心。
 ハーレイはうんと長生きをするし、何処へ行っても元気に家へ帰って来る。
 前のぼくみたいなことにはならずに、ぼくの家をいつでも訪ねてくれる。
 だけど、そんなハーレイと一緒に何処へでも出掛けて行きたいから。
 ぼくの家で待ってるだけじゃなくって、手を繋いで一緒に出掛けたいから。
 一日でも早く大きく育って、ハーレイと二人で暮らしたいと思う。
 その時が来たら、ぼくも長生きしなきゃいけないから、長寿のお守りも持たなくちゃ。
 今度こそハーレイといつまでも一緒。
 何処へ行くのも二人で、一緒。
 お互い、財布に銭亀を入れて、玄関にカエルの置物を置いて…。




           亀のお守り・了

※ハーレイの財布から出て来た銭亀。ブルーでなくても間違えますよね、何処かのお金だと。
 正体が分かったら、いつかは欲しいお守りたち。銭亀も、それに無事カエルも…。
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※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。

 シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
 第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
 お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv




シャングリラ学園の新年はお雑煮の大食い大会から。この大会で優勝すると担任の先生の他に二人の先生を指名し、闇鍋を食べさせる権利が貰えます。1年A組は例年無敵の優勝を誇り、今年もグレイブ先生と教頭先生、それにゼル先生の三人に超絶マズイのを食べさせたのですが…。
「諸君、おはよう」
翌朝のホームルームに現れたグレイブ先生の御機嫌もまた超絶最悪というヤツでした。
「闇鍋の件で私は文句を言うつもりはない。諸君は学校からの指示のとおりに食品を一品ずつ持ち寄っただけに過ぎないからな。…だが!」
グレイブ先生は教室を見回し、一番後ろに机が増えていないことを確認すると。
「ブルーは何処だ? 来ていないのか?」
「「「来てませーん!」」」
一斉に答えるクラスメイトたち。会長さんが出て来る時には机が一つ増えるのです。無いんですから来るわけがなく、来るつもりもないのは自明の理。グレイブ先生もそれは分かっている筈で…。
「そうか、いないなら仕方ない。ブルーは1年A組だったな? それでは諸君にお願いしよう」
「「「???」」」
「昨日の闇鍋は最悪だった。ここ数年でも屈指の出来で、私は今朝までトイレと友達だったのだ! この鬱憤を晴らすためにはトイレ掃除しかないだろう。諸君! 放課後は諸君に全校のトイレ掃除を命じる。終礼までに分担を決めておくから覚悟したまえ」
「「「えーーーっ!!!」」」
それはない、とクラス全員がブーイング。闇鍋は恨みっこなしがルールです。なのに…。
「やかましい! 1年A組では私が法律だ! やれと言ったら必ずだ! ブルーがいたなら一人でトイレ掃除をさせたが、いないからには諸君が連帯責任なのだ!」
分かったな、と言い捨てたグレイブ先生は靴音も高く出てゆきました。教室の中は一気にお通夜な雰囲気です。
「…トイレ掃除かよ…」
「あれって普段は業者さんだよな? 学校中ってトイレが幾つあるんだ?」
「さ、さあ…。職員用のも入るのか?」
「どうするのよ、まさか素手でやれとか言わないわよね?」
手が荒れちゃう、と嘆く女子やら、ひたすら文句の男子やら。私たち七人グループも思わぬ出来事に頭が回らず、会長さんに思念波で連絡どころか休み時間に「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋へ駆け込むことさえ考え付きませんでした。その結果…。



「諸君、覚悟は出来ているかね?」
分担表を作って来たぞ、とグレイブ先生が終礼で黒板に紙を張り出しました。
「各班ごとに受け持ちのトイレとトイレの場所が書いてある。掃除のやり方は別紙を見たまえ。掃除を終えたら順に報告に来るように。業者さんがチェックし、OKが出たら解散だ。一つでも不可の班があったら、完了するまでクラス全員下校は出来ん。そのつもりでキリキリ頑張るのだな」
「「「………」」」
掃除も連帯責任ですか! 各班の代表が黒板を見に行き、項垂れています。一つの班が掃除するトイレは男女別に二ヶ所か三ヶ所、職員用も含まれていて。
「…ウチは本館ばかり二ヶ所だ」
戻って来た班長さんの台詞で私の班がババを引いたことが分かりました。本館のトイレは教職員専用になってますけど、学校に来た偉い人たちも使います。それだけに充実の設備と備品で、掃除の手間は生徒用に比べて何割増しかは考えたくもない所。他の班も落ち込みポイント多数のようで。
「…仕方ない、行くか…」
「行かないと終わらないからな…」
帰るためにはやむを得ない、とガタガタとあちこちで立ち上がる音が聞こえた時です。
「かみお~ん♪」
ガラリと教室の前の扉が開き、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が入って来ました。
「グレイブ、みんなを苛めちゃダメ~! 闇鍋は恨みっこなしだもん!」
「ほほう…。だったらブルーはどうした? まずはあいつが顔を出すのが筋だろう」
お前ではな、と鼻先で笑うグレイブ先生。
「文句があるなら子供ではなく、しかるべき責任者が出て来るものだ」
「だから来たもん! 責任者だもん! コレはぼくしか出せないもん!」
ズイッと突き出された「そるじゃぁ・ぶるぅ」の小さな左手。
「ブルーが押して来なさいって! 気合を入れて丸一日は効く分で!」
「な、なんだと?!」
グレイブ先生が訊き返すのと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が飛び上がったのとは同時でした。小さな左手がグレイブ先生の右の頬っぺたにペタン! と押し付けられて、其処に真っ黒な手の痕が。落款よろしく白抜きで「そるじゃぁ・ぶるぅ」の名前入りです。
「わぁーい、押しちゃったぁー! 左の手形はアンラッキー!」
トイレ掃除をさせるんだったらもっと押すよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」はニコニコニコ。グレイブ先生はスーツの胸ポケットから取り出した鏡で自分の顔を呆然と眺め、トイレ掃除の刑は取り止めに。クラスメイトは狂喜乱舞で「そるじゃぁ・ぶるぅ」は胴上げですよ~!



得意満面の「そるじゃぁ・ぶるぅ」を先頭に立てて、私たちはいつもの溜まり場へ。生徒会室の奥の壁を通り抜けて入った部屋では会長さんがお茶の用意をしていました。
「やあ。今日は災難だったようだね」
「誰のせいだと思ってるんだ!」
あんただろうが、とビシィと指差すキース君。けれど会長さんは涼しい顔でアップルジンジャーのショコラタルトを切り分け、ホットココアを配ってから。
「助け舟なら出しただろう? ちゃんとぶるぅを行かせたじゃないか」
「…それはそうだが…。しかしだな!」
「放課後までの間、生きた心地がしなかったって? ぼくに連絡が無かった辺りがパニックぶりの証明だけどさ、たまには普通の学生気分もいいと思うよ」
グレイブの八つ当たりは今に始まったわけじゃなし、と会長さん。
「それにね、黒い手形を披露したいと思わないかい? ぶるぅの手形は有名だけれど、それは右手の赤いヤツ。左手で押された黒い手形の効き目の方もさ、披露しといて損は無い」
生徒相手に使うつもりは無いけれど、と会長さんが言えばキース君が。
「当然だろうが! アレを一般人に使うな!」
「ふふ、究極の破壊兵器だしねえ? 早速始まったみたいだよ」
パチンと会長さんの指が鳴らされ、壁に中継画面が出現。その中ではグレイブ先生が頭からビショ濡れで廊下にへたり込み、バケツを抱えた業者さんが平謝りです。
「拭き掃除中の業者さんと目出度く正面衝突ってね。謝ってるのは業者さんだけど、グレイブが先に足を滑らせてぶつかった。目撃者多数だし、非はグレイブの方に在りだよ」
目撃者は通行人の生徒たち。グレイブ先生は怒るに怒れず、気を取り直して立ち上がったものの、今度は濡れた床で滑って顔からズベーッ! と廊下を磨く羽目に。
「「「……スゴイ……」」」
なんと激しい効き目なのだ、と見ている私たちも衝撃です。「そるじゃぁ・ぶるぅ」の黒い手形はアンラッキー。押されたが最後、それが消えるまで不運に見舞われる代物ですけど、久しぶりに見た効果のほどは凄まじく…。
「まだまだ続くよ、ぶるぅには丸一日のコースで行けって言っといたしね。明日の終礼くらいまでかな。…他の先生たちも手形に気付くし、災難は増える一方かと」
アンラッキーに加えて人的災難も大いに招く、とほくそ笑んでいる会長さん。あっ、中継画面の向こうにブラウ先生が出て来ました。グレイブ先生の頬の手形を見付けたらしくてニヤニヤニヤ。おおっ、早速、携帯端末で写真を撮って送信ですか! グレイブ先生の不幸、一気に拡散…。



右の頬っぺたに黒い手形をペッタリ押されたグレイブ先生。手形パワーに引き寄せられた不運の数々もさることながら、他の先生方が仕掛ける悪戯や罠も半端ではなかったらしいです。
「…諸君、そろそろ消えただろうか?」
憔悴しきったグレイブ先生。翌日の終礼の席で頬を指差し、私たちが。
「「「まだついてまーす!!!」」」
揃って答えた次の瞬間、黒板の上に飾られていた額が落下してグレイブ先生の頭を直撃。はずみで突っ伏した教卓で顔面を強打し、暫く呻いておられましたが…。
「「「…あっ、消えた…」」」
フラフラと身体を起こしたグレイブ先生の頬から黒い手形が消えていました。グレイブ先生は直ぐにポケットから出した鏡で確かめ、ホッと息をついて。
「…やっと消えたか…。諸君、これが恐ろしい手形パワーというヤツだ。在学中に押されないよう、くれぐれも気をつけることだな」
「「「分かってまーす!」」」
元気一杯のクラスメイトたち。黒い手形が生徒に押されることはない、と私たちが説明したため、1年A組を含めた全校生徒がグレイブ先生のアンラッキーを高みの見物だったのです。おまけに頬っぺたの手形があまりにも見事だったため、その次の日から。



「なんかすげえな、大流行りだぜ」
サム君が言う通り、先生方の間でフェイスペイントが大流行。一日目はグレイブ先生を嘲笑うように全員揃って右の頬っぺたに真っ黒なマーク。手形あり、猫やアヒルの足形ありとバラエティ豊かにキメて来ました。次の日からは思い思いのペイントで。
「これは当分、流行りそうだが…。かるた大会くらいまでか?」
それが済んだら入試前だし、とキース君。
「いくらなんでも下見の生徒が来る時期まではやらんだろうしな」
「さあ、どうだか」
なにしろウチの学校だし、と会長さんが放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋でクスクスと。
「自由な校風が売りだからねえ、生徒の服装さえキチンとしてれば逆に好感度はアップかも…。先生方の実力の方は昔から評判なんだしさ。三百年を超える実績!」
「そうだっけ…。じゃあ、当分は続くわけ?」
ジョミー君が今日の先生方のフェイスペイントのユニークさを挙げれば、シロエ君が。
「続いても不思議はないでしょう。…ぼくの読みでは鍵は教頭先生かと」
「「「教頭先生?」」」
「そうです。未だに何も描いてないのって、教頭先生だけですし」
「「「あー…」」」
そういえば、と記憶を遡ってみる私たち。フェイスペイントが流行り始めて一週間ほどになりますけれど、教頭先生だけは一度も描いてらっしゃらないのです。初日の黒いマークで揃えた日でさえ、我関せずと不参加で。
「教頭先生、柔道部の部員に訊かれて「私の柄ではないからな」と仰ってましたけど、相手はウチの学校です。柄じゃないからってやらないでいるとノリが悪いと看做されそうです」
絶対そっちの方向です、とシロエ君。
「ですから、まだまだ続くと思うんですよ。…教頭先生が参加なさるか、あるいは無理やり参加させられるか。先生方が全員揃ってフェイスペイントを披露なさる日まで、ブームは収まらないと見ました」
「そうかもなあ…」
サム君が頷き、スウェナちゃんが。
「有り得るわね。かるた大会の寸劇が済んでも教頭先生が今のままなら、入試シーズンに突入しようとフェイスペイントは続くわよ」
寸劇は弾けるイベントでしょ、とスウェナちゃん。
「それをやってもフェイスペイントをなさらなかったら、ノリが悪いじゃ済まされないわ。強制参加の方に行くわね」
きっとそうよ、というスウェナちゃんの読みが正しかったことを、それから間もなく私たちは知ることになったのでした。



新年恒例の闇鍋と並ぶシャングリラ学園の冬の名物、かるた大会。プールに散らされた大きな百人一首の取り札を奪い合うクラス対抗イベントです。これで学園一位に輝くとクラス担任の他に先生を一人指名し、寸劇をして貰えるという仕組み。これまた1年A組の学園一位がお約束で。
「…諸君、おはよう。昨日は楽しんでくれたかね?」
グレイブ先生、かるた大会の翌朝のホームルームで咳払い。今日は頬っぺたにヒエログリフが輝いています。えーっと、あれって意味があるんですよね、どう読むんだろ?
「今日のペイントは昨日の寸劇に因んでみた。…あの寸劇が誰の趣味かは知らんがね」
うぷぷぷぷぷ…。クラス中が笑いを堪えています。グレイブ先生は自分の右の頬を示すと。
「語学と歴史は私の専門ではないが、笑い物で終わるのは頂けない。これはヒエログリフと言って昨日の寸劇の舞台になった世界の文字だ。それだけではないぞ。この文字を囲む模様にも意味がある。教養の足りない諸君には何に見えるかね? 位牌かね?」
どうだ、と訊かれた模様は位牌のようにも、墓石のようにも見えました。ヒエログリフを取り囲んでいる線のことです。キース君なら知ってるかも、と盗み見れば答えを知っている様子。けれどクラスメイトたちは私と同じで分からないらしく、グレイブ先生は勝ち誇った顔で。
「この模様はカルトゥーシュと呼ばれている。王の名前を囲むためだけに存在している記号なのだよ。ヒエログリフの文章にこれを見付けたら王の名前だと思いたまえ。…そしてカルトゥーシュに囲まれたこの文字はメンフィスと読む」
「「「メンフィス!?」」」
それは昨日の寸劇でグレイブ先生が演じた役名。ピラミッドの国の王の名です。
「昨日の劇は『王家の紋章』という少女漫画から取ったらしいが、男子生徒には知らない者も多いだろう。この機会にカルトゥーシュの存在を覚えることだ。そうすれば少し教養が増える」
馬鹿騒ぎだけで終わらせるな、と靴の踵をカッと鳴らしてグレイブ先生は出欠を取り始めました。寸劇は例によって会長さんの企画です。グレイブ先生は長い黒髪のカツラを被って少女漫画のファラオを演じ、教頭先生がヒロインでしたっけ…。そしてホームルームが済み、一時間目が。
「………おはよう」
チャイムが鳴って入って来た古典の先生。いわゆる教頭先生ですけど、誰もが声を失いました。
「「「………」」」
「そんな顔をしないで欲しいのだが…。私の方も恥ずかしいのだ」
決して私の趣味ではない、と強調している教頭先生。
「これは朝からブラウとエラが…。本当だ、私が描いたのではない!」
違うのだ、と叫ぶ教頭先生を他所に1年A組は爆笑の渦に。教頭先生の顔には両目を黒々と縁取るアイラインやら、濃すぎる緑のアイシャドウやら。昨日のヒロイン、王妃キャロルさながらの派手なメイクはフェイスペイントの一種でしょうねえ…。



教頭先生が無理やり施されたフェイスペイントは悪質なことに油性でした。よほど強力なものを使ったのか、その次の日も取れないまま。その一方で他の先生方はフェイスペイントをピタリと止めてしまっただけに悪目立ち度は群を抜いていて。
「かみお~ん♪ ハーレイ、今日も凄かったね!」
似合ってないね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が子供ならではの遠慮の無さで言い放つ放課後。
「劇と違って服もカツラも無いもんね♪」
「…あった方が怖かったんだが…」
夢に出そうだ、とキース君。
「しかしスウェナが言ったとおりにフェイスペイントは収まりそうだな。教頭先生のメイクも週末までには消えるだろう」
「だろうね」
会長さんが頷いています。
「ぶるぅの手形から思わぬ方向に発展したけど、楽しかったよ。手形を披露した甲斐があった」
「うん、その点はぼくも同意見!」
えっ、会長さんの声が二人分? なんで、と振り返った先で紫のマントがフワリと揺れて。
「こんにちは。なんか凄いね、ハーレイのメイク」
似合わないなんて次元じゃなくて、と言いつつ現れた会長さんのそっくりさん。ソルジャーはスタスタと部屋を横切り、空いていたソファに腰掛けました。
「ぶるぅ、今日のおやつは何があるわけ?」
「えっとね、恵方巻ロールケーキの試作品!」
こんな感じで、と運ばれてきた大皿の上に乗っかったロールケーキはまさしく節分の恵方巻。海苔の代わりに黒いクレープで巻かれた太巻き寿司です。
「「「うわぁ…」」」
こんなケーキもアリなのか、と驚いている間に切り分けられて各自のお皿に。
「シャリの代わりにお米の粉のケーキなの! でね、中の具を何にしようかなぁ…って」
カンピョウとか色々入れるでしょ、と説明してくれる「そるじゃぁ・ぶるぅ」。色とりどりの具は甘く煮た果物だったりピューレだったり、クリームだったり。
「キュウリは今日は固めのピューレにしたけど、ホウレンソウのケーキで作ってもいいし…。節分までに色々試してみなくっちゃ!」
ケーキ作りの醍醐味だよね、と供された試作品とやらは充分に美味しいケーキです。節分の日にはきっと絶品の恵方巻ロールが出来るでしょう。これは今から楽しみかも~!



恵方巻ロールに感動しながらパクパク食べて、美味しい紅茶やコーヒーも。教頭先生のフェイスペイントのことは誰もがすっかり忘れてましたが。
「…あのさ、ハーレイのメイクだけども」
いきなりソルジャーが口を開いて。
「あれってフェイスペイントだってね、物凄いけどさ。…寸劇のメイクも強烈だったし」
「君のハーレイにもやらせたいとか?」
止めないけれど、と会長さんが言うと、ソルジャーは。
「そうじゃなくって…。せっかくフェイスペイントまで辿り着いたんだ。もう一歩踏み込んでみたらどうかな、と思ったんだよね」
「「「は?」」」
「実は昨日はノルディとディナーで」
ノルディの家で、と悪びれもせずに語るソルジャー。
「いいトリュフが入りましたから、って誘われちゃってさ…。今はトリュフの旬なんだってねえ? トリュフ尽くしで御馳走になって、その時の話題がフェイスペイント」
「…それで?」
嫌な予感しかしないんだけど、と会長さんが先を促せば。
「話が早くて助かるよ。ぼくはノルディに「飾るのは顔しかないのかい?」と訊いたわけ。どうせだったらアソコを飾るとか、そういう系のは無いのかなぁ…って」
「退場!!」
さっさと出て行け、とレッドカードを突き付ける会長さんですけど、ソルジャーは。
「嬉しいなぁ、アソコだけでバッチリ通じるなんてね。…つまりさ、ぼくはハーレイの大事な部分を飾るのとかは難しいかな、ってノルディに訊いてみたんだけれど…」
「退場だってば!」
「人の話は最後まで聞く! ノルディが言うにはアソコにチョコレートを塗ってチョコバナナ風とかが王道だけども、飾るんだったらボディーペイントっていうのがあるんだって?」
「「「ボディーペイント?」」」
なんじゃそりゃ、と首を傾げる私たち。フェイスペイントが顔なんですから、ボディーペイントだと身体でしょうか? 飾るとか言っていますから…。
「そう、身体! これがなかなか凄くってさ」
ノルディが色々と画像を見せてくれたよ、とソルジャーの顔が輝いています。ボディーペイントとやらを吹き込んだ人がエロドクターだけに、ロクでもない画像のオンパレードとか?



ソルジャーがエロドクターの家で見て来た画像について話す前から私たちの警戒感は既にMAX。何を言われても心に耳栓、驚かないぞと決めていたのに。
「服を着ているヤツもあるんだよ」
「「「え?」」」
それは普通に当たり前では? ボディーペイントでも最低限の服は必須というものでしょう。
「あれっ、もしかして通じてないかな? 服を着たように見えるヤツって意味だよ。本当はスッポンポンなんだけど」
「「「えぇっ!?」」」
スッポンポンって…全裸ですか? 裸でボディーペイントですか?
「それが王道みたいだよ? 背景の壁と同じ色に塗って透明人間風を気取るとか、動物なりきりでシマウマみたいに塗っちゃうとか…。服を着ていちゃそうはいかない」
な、なんと…! 服は無いのがデフォですって?
「そうなんだよねえ、中には上半身とかだけっていうのもあるけどさ。…ノルディが言うにはアートの域まで達するためには潔く全身ペイントらしいよ。その一環として服を着ているヤツも」
服と見せかけて実は描いてあるのだ、とソルジャーは解説を始めました。
「もうね、服の模様からボタンとかベルトまでキッチリと描いてあるんだな。近寄って見たらスッポンポンだと気付くだろうけど、遠目には絶対分からないね。ああいう世界をハーレイにやらせてみたらどうかと」
フェイスペイントから踏み込んで、と指を一本立てるソルジャー。
「もちろん自分で出来るアートじゃないからねえ? ハーレイの身体はあくまでキャンバス、ペイントするのは他の人! それをブルーがやると言ったら絶対に釣れる!」
「…あまりやりたくないんだけれど?」
スッポンポンのハーレイなんて、と会長さんは全く乗り気じゃないのですけど、ソルジャーは。
「ううん、やったら楽しいって! 漠然とそういう考えでいたら、恵方巻ロールケーキの試作品なんて素敵なモノがね…。どうだろう、ハーレイの身体をお菓子みたいに飾ってみるとか! イチゴを描いたり、クリームを塗ったり、デコレーションケーキのハーレイ風!」
でね、と微笑んでみせるソルジャー。
「デコレーションケーキなペイントにするなら、画材の方も食べられるヤツで! 上手く描けたら食欲アップで君がハーレイを食べたくなるとか、ぼくが味見とか、こう、色々と」
「却下!!!」
「誰も食べろとは言っていないし、食べるとも言っていないけど? 要するにアレだよ、ハーレイをその気にさせる餌だよ」
飾るだけ飾って後は笑い物、とソルジャーはニヤリ。つまり絵を描くだけなんですか?



フェイスペイントならぬボディーペイント。ソルジャーの提案は実に恐ろしいものでした。教頭先生の身体をキャンバスに見立て、デコレーションケーキ風に仕上げるつもり。あまつさえ食べられる素材で絵を描き、食べて貰えると思い込ませる方向で…。
「いいアイデアだと思うけどねえ? それにさ、万に一つの可能性でさ、君がハーレイを食べたくなるかもしれないし…。食べないなら食べないで笑えばいいしね」
「……うーん……」
会長さんが葛藤していることが傍目にもハッキリ分かりました。日頃から教頭先生をオモチャにしたがる会長さん。フェイスペイントの切っ掛けになった寸劇もその一つです。ブラウ先生とエラ先生にメイクをされた教頭先生の姿も大いに楽しんでいるわけですから、ボディーペイントも…。
「…悪くないとは思うんだけど……」
落とし所をどうするか、と腕組みをする会長さん。
「笑い物にするっていうオチだったら、ボディーペイントをする価値はある。でもねえ、飾って笑ってそれで終わりに出来るかなぁ…?」
ハーレイは諦めが悪いんだ、と会長さんはブツブツブツ。それでも心はかなりボディーペイントへと傾いてしまっているようです。
「面白そうだし、食べられる画材でやるっていうのも楽しいけれど…。全身お菓子なデコレーションケーキに「食べてくれ」って追われるのはねえ…」
それだけは勘弁願いたい、と零す会長さんに、サム君が。
「外へ逃げればいいんじゃねえか?」
「ああ、そうか! 外へ出ちゃったらストリーキングか…」
服を着てないんだったっけね、と会長さんがポンと手を打ち、キース君が。
「いわゆる公然猥褻罪だな、警察を呼ばれても仕方ない。…俺はそこまでやりたくはないし、その前に教頭先生を止めに入るのが筋だと思うが」
「なるほどねえ…。ハーレイがしつこかったら外に逃げる、と。退路があるならやってもいいかな、ブルーのお勧め」
その気になった会長さんに、ソルジャーが至極満足そうに。
「いいねえ、やる気になったんだ? それじゃ顔のメイクが取れそうな頃合いで土曜日はどう? 君がいつでも逃げ出せるようにハーレイの家へ押し掛けてってさ」
「そうだね、ぼくの家では逃げても外の廊下だし…。それにスッポンポンのハーレイを家で拝むのも嬉しくないし」
「決まりだね。土曜日はハーレイをデコレーション! 美味しそうなデザインを考えといてよ、恵方巻ロールの試作ついでに!」
楽しみだなぁ、とワクワクしながらソルジャーは帰ってゆきました。やるんですか、ボディーペイントを? それも食べられる材料で…?



教頭先生の顔のメイクがなんとか消えた金曜日の放課後。「そるじゃぁ・ぶるぅ」は恵方巻ロールケーキの試作を続けているようですけど、私たちのおやつはフランボワーズのタルトでした。試作品は会長さんと試食した後、「ぶるぅ」に送っているようで。
「あのね、ぶるぅも試食をしたいらしいの! それに一人でうんと沢山食べるしね♪ 一日に三十本でも食べられるよ、って!」
頼もしい協力者の出現で恵方巻ロールは素晴らしい進化を遂げそうです。節分には最高の出来のが出て来るでしょうが、その前に明日が問題で。
「…おい」
キース君が会長さんに声を掛けました。
「教頭先生には言ってあるのか、例の話は」
「言ってないけど? そういうのって基本はサプライズだろ?」
ぼくがハーレイを食べてあげるかもしれないんだよ、と会長さん。
「鼻血を堪えてボディーペイント! 食べられる画材も用意したしね。ね、ぶるぅ?」
「うんっ! お勉強にも行ったんだよ、ぼく!」
「「「お勉強?」」」
何処へ、と尋ねた私たちに「そるじゃぁ・ぶるぅ」はエッヘンと。
「ケーキ屋さん! イラストケーキとキャラクターケーキのお店なの!」
「「「えっ?」」」
なんですか、それは? イラストケーキ…?
「えっとね、写真とか絵とかをケーキの上に描くんだよ♪ 普通のケーキも作ってるけど!」
こんな感じで、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が見せてくれた写真には会長さんとフィシスさんの似顔絵が描かれた大きなケーキが。フィシスさんはもちろん金髪、会長さんの瞳は赤です。二人の似顔絵の周囲にクリームを絞り出し、フルーツなんかもトッピング。
「お勉強に行って作って来たの! ブルーとフィシスと、ぼくと三人で食べたんだ♪」
「フィシスもとっても喜んでくれたよ、沢山写真を撮ったんだけど…。見る?」
けっこうです、と言うよりも先に会長さんがプリントした写真を何枚も。ケーキを前に笑顔の会長さんとフィシスさんやら、ウェディングケーキの入刀式風やら、御馳走様ですとしか感想の出ない甘々な写真が次から次へと…。
「というわけでね、ぶるぅは食べられる画材の知識はもうバッチリ! どんな色でも作り出せるし、ハーレイをデコレーションケーキに見立てるくらいは朝飯前さ」
「かみお~ん♪ この写真だってケーキに描くなら描けちゃうもんね!」
青でも緑でもドンとお任せ! と胸を張りつつ、こう付け加えるのも忘れなかった「そるじゃぁ・ぶるぅ」はプロ中のプロ。
「でもね、恵方巻ロールは自然の色で頑張るよ!」
食用色素は使わないんだ、との嬉しいこだわり、流石です~!



こうして迎えた運命の土曜日。私たちが会長さんのマンションに行くと、ソルジャーが先に来ていました。私服姿で会長さんと一緒にボディーペイントの材料をチェック中で。
「こんにちは。ハーレイのケーキはチョコレートクリームでいくらしいよ」
「素材の色は活かさなくっちゃね? ぶるぅもそういう意見だし」
だからチョコレートクリームたっぷり、と会長さんが指差すボウル何杯分ものクリーム。教頭先生の肌の色を見事に再現してあるようです。
「これをベースにフルーツとかを描いていくわけ。君たちに絵心は期待しないけど、クリームくらいは手伝ってよね」
「「「えぇっ!?」」」
「ムラが出来ないよう、綺麗に塗る! ケーキだとパレットナイフになるけど、相手はハーレイの身体だし…。刷毛を用意したからコレでお願い。細かい部分はこっちの筆で。ノルマは女子が腕を一本ずつ、残りは男子がジャンケンでどうぞ」
両足と顔から下の身体だ、と会長さんに言われた男子は顔面蒼白。ですが…。
「あっ、待って! 大事な部分はぼくが塗りたい!」
一度は練習しておかないと、とソルジャーが名乗りを。
「ノルディお勧めのチョコバナナをねえ、やろうと思っているんだな。もちろん、ぼくのハーレイで! デコレーション用のチョコペンもピンクとか青とか買ったんだよ。だけどベースのチョコを塗らなきゃ」
そのために予行演習を、と燃えるソルジャーのお蔭で男子の役割分担も決まった模様。私たちは会長さんたちの青いサイオンにパァッと包まれ、瞬間移動で教頭先生の家のリビングへと。



「な、なんだ!?」
教頭先生はソファで寛いでおられましたが、突然の来客に腰を抜かさんばかりです。
「御挨拶だねえ…。素敵な提案をしに来たのにさ」
まあ聞いてよ、と会長さん。
「この間からフェイスペイントが流行ってたけど、君の好みじゃなかったようだね。ボディーペイントはどうだろう? 好みだったらしてあげたいな、と」
「…ボディーペイント?」
「そう。君の身体をキャンバスに見立てて絵を描くわけ。…実はブルーのアイデアでさ。君をまるっとケーキみたいにデコレーション! 美味しそうに描けたら食べたい気持ちになる…かもしれない。ブルーは味見をしたいらしいし」
「あ、味見…?」
教頭先生の頭の中では妄想が渦巻いているようです。頬が赤いのがその証拠。そこへ会長さんが更に重ねて。
「ケーキに仕立てようって言うんだからねえ、服も下着も脱ぐんだよ? さっきシャワーを浴びたトコだろ、脱いでくれたら直ぐに描くから!」
「かみお~ん♪ 絨毯が汚れないように、この上に寝てね!」
ケーキだから寝た方が絵になるの、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が言い、会長さんも。
「全身くまなく塗るってボディーペイントもあるけどね…。今回のヤツは寝たままで! 気に入ってくれたら全身バージョンも考えるよ」
「…ほ、本当か?」
「その様子だと好みらしいね、ボディーペイント? どう、やりたい?」
「是非!!!」
教頭先生は即答でした。「そるじゃぁ・ぶるぅ」がシートを床に広げるとセーターを脱ぎ、ズボンも脱いでお次は下着をいそいそと。スウェナちゃんと私の視界にはモザイクが入り、教頭先生が仰向けに横たわって…。
「こ、こんな感じでいいのだろうか?」
「上等、上等。それじゃベースのチョコクリームから! 君の肌の色にそっくりだろう?」
ぶるぅが頑張ってチョコとかを調整したんだよ、と会長さんがボウルの中身を自慢し、私たちは刷毛を握って自分のノルマを塗り塗り塗り。あっ、教頭先生、くすぐったいのは分かりますけど、身動きしないで下さいますか? クリームがムラになっちゃいます~!



ベースが出来たら会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」の出番です。ソルジャーは未だにノルマの部分が上手に塗れないみたいですけど…。
「うーん、ぼくって不器用だから…。ブルー、並行して描いちゃってよ」
「そうだねえ…。そこの飾りは最後でいいかな、食べたい気分になるかどうかも疑問だし」
それじゃお絵描き、と会長さんは「そるじゃぁ・ぶるぅ」と手分けしてフルーツや絞り出したクリームなどの絵を描き始めました。おおっ、なんだか本格的! 教頭先生の身体が巨大なデコレーションケーキに変身しつつありますよ~!
「…見事なものだな、どうなることかと思ったが」
キース君が感心する横で、マツカ君が。
「確かにこれならアートですね。もうケーキにしか見えません」
「ですね、会長の腕も確かですよ」
シロエ君も手放しで褒めています。でもソルジャーが引き受けた部分の作業は滞り気味で…。
「もうダメだぁ~! ぼくには向いていないよ、コレ!」
ただのチョコバナナじゃダメなのかい、とぼやくソルジャー。
「塗って飾って食べるだけだし、要は食べられればいいんだろう! 塗りが下手でも!」
「ちょ、ちょっと…!」
待った、と会長さんが止めに入ったのに、ソルジャーは。
「ハーレイ、君もそう思うよね? 見た目がどうでも食べて貰えれば嬉しいよねえ?」
「そ、それは…。それは、まあ……」
「だってさ。それじゃ本人のお許しも出たし、少し味見を…」
いっただっきまーす、とソルジャーの口から赤い舌が。私たちはウッと息を飲み、ザッと後ろに下がりましたが…。



「なにさ、ヘタレ!!」
まだ味見だってしていないのに、とソルジャーは眉を吊り上げてプンプンと。デコレーションケーキと化した教頭先生は鼻血を噴いて気を失っておられました。会長さんが大きな溜息を吐き出し、「そるじゃぁ・ぶるぅ」に。
「…こうなる予感はしてたんだよね…。ぶるぅ、例のヤツを」
「かみお~ん♪ お祝いケーキには蝋燭だよね!」
何のお祝いだったっけ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が取り出した蝋燭の太さは一センチ以上ありそうです。色もピンクや緑などなど鮮やかなそれを会長さんがクスクス笑いながら。
「やっぱりケーキは飾らなくちゃね。ついでにお灸も兼ねるんだ、これは」
「「「お灸?」」」
「ぼくが本気でハーレイを食べようと考える筈がないだろう? そこを読み違える妄想男にお灸で罰を下すわけ。この蝋燭をこうして飾って……と」
刺さらないからサイオンで、と会長さんは何十本もの蝋燭を教頭先生の身体の上に並べ終えると。
『もしもし、ハーレイ? 今からお灸をすえるから! 蝋燭が燃え尽きるまで君をサイオンで縛っておくから、しっかり反省するといい。その色ボケを反省しながら熱さに耐えて頑張って!』
タイプ・グリーンなら火傷はしない筈なんだよね、と艶やかに笑ってサイオンで点火。ほ、本当に大丈夫ですか、蝋燭は熱いと思うんですが!
「だからお灸と言っただろう? タイプ・グリーンだし、お灸程度で済むと思うよ」
じわじわとお灸を一時間、と会長さんは悪魔の微笑み。一時間タイプの蝋燭だったみたいです。
『じゃあね、ハーレイ。それじゃ、さよなら~!』
バイバイ、と会長さんが私たちと瞬間移動で逃げる瞬間に教頭先生の意識が戻りました。サイオンで叩き起こしたに違いありません。
「ま、待ってくれ、ブルー! 私は動けないのだが!」
助けてくれ、という教頭先生の絶叫は中継画面の彼方から。私たちはソルジャーも一緒に会長さん宅のリビングで…。
「あーあ…。お灸が君の趣味なんだ? 食べるんじゃなくて?」
如何にも残念そうなソルジャーに、会長さんが。
「ぼくは君とは違うからね? 落とし所を考えてた時から蝋燭の案は出ていたさ」
食べるなら君の世界でどうぞ、と言われたソルジャー、少し悩んで。
「そうだね、帰って食べようかな? 最高級のチョコバナナ!」
恵方巻ロールも完成したら是非よろしく、とウインクを残してソルジャーは自分の世界へと。デコレーションケーキな教頭先生の上ではお灸な蝋燭がゆらめいています。何のお祝いか知りませんけど、歌った方がいいのでしょうか? 教頭先生、バースデーソングでよろしいですか~?




           素肌を飾ろう・了

※新年あけましておめでとうございます。
 シャングリラ学園、本年もよろしくお願いいたします。
 新年早々、下品な話でスミマセンです、でも、こういうのがシャン学ですから!
 ボディーペイントはホントに凄い世界です、画像はネットに色々あります。
 次回は 「第3月曜」 2月15日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、1月は、スッポンタケの形だという粥杖が欲しいソルジャーが…。
 ←シャングリラ学園生徒会室






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