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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




今年も夏休みがやって来ました。毎年恒例、柔道部の合宿とサム君とジョミー君が行かされる璃慕恩院での修行体験ツアーも無事に終わって、マツカ君の山の別荘へ。乗馬や湖でのボート遊びや、ちょっとした登山もしてみたりして満足して帰って来たのですけど。
「くっそぉ…。あの親父め…!」
まただ、とキース君が歯ぎしりしている会長さんの家のリビング。「また」で「親父」とくればアレですかね、お馴染みのアドス和尚ですかねえ?
「親父さんかよ…。卒塔婆のノルマか?」
増えたのかよ、とサム君が訊くと。
「お前は遊んで来たんだろう、と五十本も増えていやがった! 俺が書く分が!」
「…五十本とは厳しいねえ…。此処でサボッていないで早く帰りたまえ」
そして卒塔婆を書いてきたまえ、と会長さんが促したのですけれど。
「やってられるか、ストレスが溜まる! 発散しないとミス連発だ!」
そっちの方がよっぽど悲劇で効率が悪い、とキース君。
「俺の家は卒塔婆削り器は原則的に使用禁止なんだ! 失敗したら手で削らないと…」
削ってからまた書き直しで、と嘆き節。
「時間はかかるし、イライラしたら次のミスへと繋がるし…。ストレスは敵だ!」
だからこうして息抜きした方がマシなんだ、と言ってますけど。卒塔婆が必要なお盆の方だって刻一刻と近付いて来ていませんか?
「だからこそ、サボッて英気を養い、一気に書く!」
それが俺の流儀なんだ、とキース君がブチ上げた所で部屋の空気がフワリと揺れて。
「うん、分かるよ! 君の気持ちはとっても分かる」
「「「???」」」
誰だ、と振り向いてみれば紫のマント。例によってソルジャー登場です。合宿行きと山の別荘の間は来ませんでしたし、ストレスが溜まっているんでしょうか?



降ってわいたソルジャーは当然のように「ぼくにもおやつ!」と要求しました。
「かみお~ん♪ 今日はライチとマンゴーのパフェなの! スパイスたっぷり!」
カルダモンとかシナモン入りのパンを千切って入れてあるから、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。ソルジャー好みのアイスティーも一緒に出て来て、ソルジャーは嬉しそうにスプーンを入れながら。
「此処はやっぱり落ち着くねえ…。なによりドアが閉まっているのがいいよ」
「「「ドア?」」」
誰もが眺めたドアの方向。廊下に繋がるリビングのドアはキッチリ閉まっています。でないとクーラーの効きが悪くなりますから、開けたら閉めるのがお約束で。
「…普通は閉まっていると思うけど?」
今の季節は、と会長さん。
「開けっ放しにしたら文句が出るしね、出入りする時はきちんと閉める!」
「…俺の家だと逆だがな…」
卒塔婆書き中の部屋の障子や襖が閉まったら地獄、とキース君。
「親父が言うんだ、クーラーを入れて卒塔婆書きとは何事か、とな。心頭滅却すれば火もまた涼しで、お盆の卒塔婆はクーラー無しで書くものだ、と…」
「「「あー…」」」
そうだったっけ、と同情しきりなキース君の卒塔婆書き事情。セミがうるさいと嘆くことも多いですけど、障子が全開になっているならセミも半端じゃないですよね?
「そうか、キースの家では逆なんだ? でもねえ…。ドアはやっぱり閉めてこそだよ」
開けっ放しなんて論外だから、とパフェを口へと運ぶソルジャー。
「もうストレスが溜まって溜まって…。ぼくは本当に限界なんだよ」
「「「へ?」」」
ドアが開けっ放しでストレスって…。なに?
「そのまんまだよ、開けっ放しなんだよ!」
「…ドアが?」
会長さんの問いに、ソルジャーは「うん」と。いったい何処のドアが開けっ放しだと?



ドアが開けっ放しだとストレスが溜まるとぼやくソルジャー。ドアの話なんかは日頃、聞いた覚えがありません。会長さんも首を捻って。
「…それはアレかい、君のシャングリラの?」
「そうなんだよ! もう本当に悲劇だとしか!」
「…うーん…。それは確かに大変そうだね、何処かのハッチか格納庫とか?」
会長さんの言葉にアッと息を飲んだ私たち。ソルジャーが暮らしているシャングリラは宇宙船ですから、今は宇宙を飛んでなくても大気圏内を航行中。そんな所でハッチや格納庫のドアと呼ぶのか、そういったものが開けっ放しだと大変なことになりそうです。
「お、おい…。誰か其処から落ちたのか?」
キース君の声が震えて、シロエ君が。
「落ちてなくても、シールドする必要が出て来ますよね…。事故防止に」
「そういうことだね、君はその作業でストレスが溜まっているのかい?」
本来は君の仕事じゃないし、と会長さん。
「ドアの修理は修理班だろうけど、故障中の部分をフォローするには君のサイオンしか無かったというオチなのかな?」
「そっちだったら、立ち入り禁止で対処するよ!」
隔壁で遮断しておけば何とかなるから、とソルジャーの返事。
「多少あちこち回り道とか、格納庫に行くのに命綱とか、そういう必要は出て来るけれど…。ぼくがサイオンで落下防止のシールドを張る必要は…」
「それじゃ、どうしてストレスなわけ?」
「開けっ放しになってるからだよ!」
あれが困る、と言ってますけど、対処方法はちゃんとあるんじゃあ…?
「ハッチとか格納庫の方だったらね!」
そうじゃないから困っているのだ、とソルジャー、ブツブツ。
「…ぼく一人しか困らないんでは、修理も急いで貰えないし…」
「何処のドアだい?」
ぼくにはサッパリ見当が…、と会長さんが尋ねると。
「青の間のドアに決まってるだろう!」
他に何があると! と苛立った声が。…青の間のドアが壊れたんですか?



開けっ放しになっているらしい、ソルジャーの世界の青の間のドア。それでストレスが溜まると嘆くソルジャーですけど、優先的に修理をして貰えそうな気もします。会長さんも同じことを考えたらしく…。
「君のストレスが溜まるんだったら、修理を急いでくれそうだけどね?」
「俺もそう思う。…俺のように「修行だ」と切って捨てられる世界じゃないしな」
あんたが一番偉いんだろうが、とキース君も。
「それにシャングリラを守っているのもあんただよな? ストレスで使い物にならなくなったら困るだろうし、その辺の所はきちんと気を付けてくれそうなんだが…」
「逆なんだってば、そっちの件に関しては!」
ぼくは機嫌が悪ければ悪いほど無敵なタイプ、と愚痴るソルジャー。
「ぼくしか出来ない役目と言ったら人類軍との戦闘なんだよ、戦って壊してなんぼなんだよ!」
手加減無用で問答無用、と怖い台詞が。
「だから怒っていればいるほど強いわけ! 鬱憤晴らしに壊しまくるから!」
「「「あー…」」」
だったら放っておかれるだろうな、と素直に納得出来ました。たとえストレスが溜まっていたってソルジャーの務めは果たすわけですし、おまけに無敵と来た日には…。
「そういうことだよ。それにシャングリラの連中にすれば、壊れている方が嬉しいわけで!」
「…君が無敵になるからかい?」
それで喜ばれるのだろうか、と会長さんが問いを投げると。
「違うね、日常生活の方! 青の間に入り放題だから!」
「…見学希望者多数だとか?」
「その方がよっぽど平和だよ!」
見学だったら時間を決めて定員も決めて仕切れるから、とソルジャー、溜息。
「…ぼくが困るのは、プライバシーが皆無だってこと! 落ち着かないんだよ、毎日が!」
「見学希望者は仕切れると言っていなかったかい?」
「物見遊山のお客じゃなくって、来るのはお掃除部隊なんだよ!」
開いているからやって来るのだ、とソルジャーが不満たらたらのお掃除部隊。それって青の間を清掃するために結成されると噂のお掃除隊でしたっけか…?



掃除が嫌いと聞くソルジャー。お掃除大好き「そるじゃぁ・ぶるぅ」とは正反対なタイプのソルジャー、青の間は足の踏み場も無いとの話です。ベッドに行くための通路さえあれば他はどうでもいいという人、キャプテンが掃除をしている筈で。
「お掃除部隊の出番は滅多に無いんじゃあ…?」
そう聞いてるよ、と会長さん。
「もう限界だ、という頃に突入するって君が自分で何度も言ったし」
ニューイヤーのパーティーの後で散らかり放題になった時とか…、という指摘にソルジャーは。
「それが大原則だけど…。普段は存在しないんだけど…」
ぼくが好きなように散らかすだけ、と再び溜息。
「片付いた部屋は落ち着かないから、お掃除部隊が来ちゃった後には、ぼくの部屋とも思えなくてねえ…。リラックス出来る部屋になるまでに暫くかかるよ」
いい感じに散らかってくるまでには、と零すソルジャー。
「ぼくはああいう部屋が好きなのに、ドアが開けっ放しになってから後はそうもいかなくて…」
まずは初日に突入された、とソルジャーのぼやき。ドアが壊れて閉まらないから、と思念を飛ばしたら、修理班の代わりにやって来たのがお掃除部隊。
「今の間に掃除をさせて頂きます、と踏み込まれちゃって…。「邪魔になりますから、ソルジャーは外に出ていて下さい」と大掃除が始まってしまったんだよ!」
ソルジャーは驚いたらしいですけど、掃除さえ済めば修理班が来るのだと大人しく待っていたそうです。ところがお掃除部隊が引き揚げた後も修理班は来てくれなくて。
「どうなったんだろう、と訊きに出掛けたら、ゼルたちが会議の真っ最中で!」
議題は壊れたドアのことだった、という話。ソルジャーの世界で長老と呼ばれる人たちが会議、いい機会だから当分は修理しないでおこうと決まったとかで。
「…青の間のドアさえ壊れていればね、毎日掃除に入れるわけだし…」
「いいことじゃないか。綺麗に掃除をして貰いたまえ」
会長さんが言うと、「そるじゃぁ・ぶるぅ」も。
「かみお~ん♪ ピカピカのお部屋は気持ちがいいよ!」
サッパリしていて気分も最高! と跳ねてますけど、ソルジャーはそういう部屋だと落ち着かないんですよね…?



青の間のドアが壊れたばかりに、毎日お掃除部隊に入られているらしい今のソルジャー。憩いの場の筈の部屋を自分の好みには出来ず、ピカピカにされているわけで…。
「…ぼくはホントに限界なんだよ、あれのストレスは凄いんだから!」
ぼくの部屋とも思えない部屋はもう嫌だ、と本当に困っている模様。
「それにね、ハーレイも来てくれないんだよ、今の青の間には!」
「「「へ?」」」
ハーレイと言えばキャプテンのこと。ソルジャーへの報告なんかも多そうですから、青の間に出入りしないとなったら全く話にならないんじゃあ…?
「もちろん、仕事のことでは毎日来てるんだけど…。ちゃんと報告に来るんだけれども、それが終わったら、「では、本日はこれで」と帰っちゃうんだよ!」
ぼくのベッドに来てくれない、とブツブツブツ。
「いつも言ってるけど、ぼくのハーレイは見られていると意気消沈なヘタレだからねえ…。ドアが開けっ放しになった部屋だと、その気になれないらしいんだよ!」
「ヘタレでなくても、普通はそうだと思うけど?」
ぼくだって開けっ放しの部屋は御免だ、と会長さん。
「なんのためにラブホテルとかが存在するのかという問題だよ、そこの所は! ああいったことは閉鎖空間でするべきことでね、開けっ放しなんて、とんでもないから!」
それじゃ変態か、エロい動画の撮影とかだ、と会長さんはビシバシと。
「君のハーレイの行動はごくごく自然なことだと思うけどねえ?」
「そうなのかい? …仕方ないから、ぼくの方から出掛けて行こうとしたんだけれど…」
そっちの方も断られた、と肩を落としているソルジャー。
「夜の間に青の間にいないとバレてしまったらどうするんです、と言うんだよ! きっと探しに行くだろうから、ぼくたちの仲もバレそうだ、と!」
とっくの昔にバレバレなのに、と大きな溜息、もう幾つ目だか数えていません。
「そんなわけでね、部屋にいたって落ち着かない上に、夫婦の時間も御無沙汰なんだよ。これがストレスでなければ何だと…!」
もう限界だ、と頭を抱えているソルジャー。…青の間のドアは今も壊れて開けっ放しのままなんでしょうが、その状態でどうやって此処へ来られたと?



いい機会だからと修理されずに放置されている青の間のドア。お掃除部隊が掃除しに来たり、キャプテンが夫婦の時間を避けたりと何かと問題があるようです。ただし、ソルジャー限定で。ソルジャーの世界の人にとっては壊れている方が嬉しいドア。
「…えーっと…。君の青の間、ドアは今でも開けっ放しの筈だよね?」
だから愚痴りに来てるんだよね、と会長さん。
「君の不在がバレそうだけど? お掃除部隊は掃除を済ませて帰ったのかもしれないけれども、ドアが開いてるなら誰でもヒョイと入れそうだし」
バレないように早く帰って部屋にいたまえ、と会長さんが注意をすると。
「その点だったら大丈夫! ちゃんとぶるぅに頼んで来たから!」
「「「ぶるぅ?」」」
大食漢の悪戯小僧か、と目を剥いてしまった私たち。あんなのが役に立つんでしょうか?
「ぶるぅは充分、役立つけどねえ? 出すものを出せば」
御礼は山ほどのスナック菓子とコンビニデザート! とソルジャーは威張り返りました。
「ぼくの代わりに留守番をすれば買ってあげると言ってあるから、今も青の間で頑張ってるよ。ぼくのふりをして座るくらいは、サイオンも大して必要ないし…」
エネルギー切れにはならないのだ、という自慢。そういえば「ぶるぅ」はサイオン全開だと三分間しか持たないというカップ麺みたいなヤツでしたっけ…。
「だからね、今の内なんだよ! こっちの世界でストレス解消!」
せめてパフェくらいは食べさせてくれ、とソルジャーはペロリと平らげた上に、今日は一日居座るつもりみたいです。いえ、今日だけで済めばいいですけれど…。
「あんた、ドアが直るまでは毎日、こっちに来る気じゃないだろうな?」
まさかな、とキース君が言うなり、ソルジャーは。
「君だって言えた義理じゃないよね、ストレス解消に関しては!」
卒塔婆書きをサボッて来てるんだろう、と切り返し。キース君はグッと詰まってしまって。
「そ、それは…。それは確かにそうなんだが…」
「ほらね、立派にお仲間だよ! 今日からよろしく!」
ぼくは開けっ放しのドアの不満を愚痴りに来るから、君は卒塔婆書きを愚痴りたまえ、と何故だかソルジャーの御同輩にされてしまったキース君。ひょっとしたら明日から来なかったりして、余計にストレスが溜まりそうだと逃げちゃって…。



今日はともかく、明日以降もストレス解消にやって来る気のソルジャー。青の間のドアが直らない限りは本気で毎日来そうです。キース君どころか、私たちの平和も脅かされてしまいそうで…。
「あのう…。そのドア、キャプテンの権限でなんとかならないんですか?」
シロエ君が声を上げました。
「確かキャプテン、長老よりも上だったんじゃあ…。詳しいことは知りませんけど、シャングリラでの実権ってヤツは大きそうですよ」
特に修理に関しては、とシロエ君。
「トイレの修理もキャプテンの指示を仰がなきゃ駄目だと聞いた気がしますし、ドアの修理はキャプテン次第でどういう風にも出来そうですけど」
「そうだよなあ? 急がせろ、って言いさえすればよ、すげえ短時間で済みそうだぜ」
モノがソルジャーの部屋のドアなんだからよ、とサム君も。
「会議で決まったことでも何でも、船のことならキャプテンが最高責任者なんじゃねえのかよ?」
「それっぽいよね、いちいち会議を開いていたら間に合わないよね…」
緊急事態って時もあるし、とジョミー君。
「即断即決で修理班を出せなきゃ、キャプテンの意味が無さそうだよ?」
「…うん。そこはジョミーの言う通りでさ…」
普段だったらそうなんだけど、と頷くソルジャー。
「隔壁閉鎖とか、もう文字通りに一人でバンバン決めていけるのがキャプテンだけどさ…。今回の件は例外なんだよ、実害を全く伴わないから」
むしろ有難がられる故障だから、とソルジャーの嘆き。
「そりゃね、ハーレイだって会議で反対はしたよ? 開けっ放しにされてしまったら自分も困ってしまうわけだし…。ぼくの所に来られないから」
夫婦の時間がお預けというのはハーレイだって辛いんだから、と言うソルジャー。
「日頃ヘタレだと詰られていたって、、海の別荘行きの特別休暇の獲得のために仕事三昧で疲れていたって、やっぱりたまにはリフレッシュだよ!」
ぼくと一発、愛の時間でエネルギー充填したくもなるよ、と話すソルジャー。
「その辺もあって、「直ぐに修理をさせましょう」と言ったんだけれど、一人だけがそれを言ってもねえ…。他の四人が「現状維持で」と主張しちゃえば勝てない仕組み」
ゆえに敗北、とフウと溜息。キャプテン権限も通らなかったと言うんだったら、ドアは当分、開けっ放しになりそうですねえ…。



明日から毎日ソルジャーが来るのか、と泣きたい気持ちの私たち。楽しかった筈の夏休みが此処で一気に暗転、キース君の卒塔婆書きだって思い切り滞ってしまいそうです。青の間のドアさえ直ってくれればいいんですけど、直る見込みは無さそうですし…。
「…そのドア、どうにもならんのか?」
あんたが自分で修理するとか、とキース君が訊くと。
「見た目だけなら、サイオニック・ドリームでどうとでも…。でもねえ、根本的な修理になってはいないわけだし、やるだけ無駄だね」
お掃除部隊は幻のドアを突破して入って来るんだろうし、ハーレイはやっぱり夫婦の時間を避けるだろうし…、という答え。
「だって、所詮は幻だしね? ドアは閉まっていないわけでさ、何のはずみで幻のドアが消滅するかもしれないわけで…。それじゃハーレイも来てくれないよ」
ぼくが訪ねて行く方も駄目、と続いてゆく愚痴。
「修理したくても、ぼくはそっちの方面は駄目で…。工具を持ったら余計に壊してしまう方でさ」
「「「あー…」」」
そうだろうな、という気がしました。歩くトラブルメーカーなソルジャー、お裁縫もロクに出来ないレベルの不器用さだと判明しています。下手に修理に挑もうものなら、今なら数時間で直せそうな故障が一日がかりになってしまうとか、ドアも部品も総入れ替えとか…。
「ホントに色々とハードルだらけで、あのドアは直せないんだよ。…ハーレイが会議で頑張ってくれたお蔭で、海の別荘に行くまでには直る予定だけれど…」
別荘に行ってる間はぶるぅの留守番作戦も使えないものだから、と言うソルジャー。
「それまでには直すっていうことになっているけど、まだまだ先だし…」
「海の別荘は、お盆が終わってからだしねえ…」
でないとキースが暇にならないし、ジョミーもサムも忙しくなるし、と会長さん。
「仕方ないねえ、諦めて君も棚経修行をしてみるかい?」
お経の練習、と会長さんが持ちかけましたが、ソルジャーは。
「そういうのは求めていないんだよ! とにかくストレス解消だってば!」
美味しいおやつと食事があれば、とソルジャーはこっちに逃げ込む気。青の間のドアが直らないからには仕方ないですが、そのドア、なんとか直せないかな…?



お経の練習をする気も無ければ、私たちに迷惑をかけそうなことさえ全く考えていないのがソルジャー。今日の所はドアが壊れた愚痴だけで済んでいますけれども、日数が経てば夫婦の時間が取れない愚痴とか怪しい方へと向かいそうです。会長さんも当然、それに気付くわけで。
「あのね…。お経の練習をしないと言うなら、せめて別の方面で修行をね」
「修行って? ぼくはそういうのは好きじゃないけど」
楽なのが好き、とソルジャー、ケロリと。
「普段からSD体制で苦労しているわけだし、こっちの世界では羽を伸ばしたいねえ…!」
「それは自由にしてくれていいけど、言葉の方で修行をお願い」
「言葉?」
「そう、言葉! ぼくがイエローカードやレッドカードを出さずに済むよう、口を慎む!」
この夏はそういう修行をしてくれ、と会長さん。
「ドアが壊れて逃げて来るなら、ぼくたちのストレスも考慮して欲しいと思うわけだよ。怪しい発言さえしないでくれたら、相当マシになるんだから」
「でも…。ぼくも努力はしてみるけれども、セックスは心のオアシスなわけで…」
「どうして其処でもう言うかな!」
その一言が我慢出来ないのか、と会長さんが怒鳴り付けると。
「え、だって。…ハーレイとの時間は癒しの時間で、それがあるから頑張れるわけで…。そのオアシスが今は無い状態でさ、もう本当に限界なんだよ!」
癒しの一発も夫婦の時間も当分お預け、とソルジャーの方も負けてはいなくて。
「君はともかく、他の子たちは万年十八歳未満お断りだし、ぼくの話は意味が殆ど分かっていないよ、話をしたって無問題!」
「それが困るんだよ、喋らないでいるっていう選択肢は君には無いわけ?」
「努力はすると言ってるじゃないか! だけど自然に口からポロリと出ちゃうんだよ!」
日々の暮らしに欠かせないものがセックスだから、と余計な一言、会長さんが「また言うし!」と吊り上げる柳眉。
「本当に迷惑しているってことが分からないかな、君という人は! …ん?」
ちょっと待てよ、と顎に手を当てる会長さん。何か名案でも思い付きましたか、ソルジャーの怪しい喋りを封じる方法だとか…?



ナチュラルに怪しい発言を連発するのがソルジャー、会長さんが出すイエローカードもレッドカードも効果ゼロ。毎日来るならそれをやめろと言われた端から喋ってしまって、迷惑をかけている自覚も全く無さそうですけど。
「…そうか、迷惑…。その手があったか、君の青の間」
もしかしたらドアの修理をして貰えるかも、という会長さんの台詞にソルジャーが。
「なんだい、何かいい方法が見付かったのかい?」
「…方法の方はまだ何も…。ただ、アイデアの種と言うべきか…」
この種が芽を出してくれたら方法になる、と謎かけのようなアイデアの種。私たちは互いに顔を見合わせ、キース君が。
「なんだ、アイデアの種というのは? 禅問答でもするのか、あんた」
「そっちの宗派は修行していないよ、恵須出井寺でも座禅はするけど禅問答までは…」
範疇外で、と会長さん。
「でもね、このアイデアの種は使えると思う。芽を出しさえすれば」
「そのアイデアの種が分からんのだが…」
俺には謎だ、とキース君が言い、私たちも揃って頷きましたが。
「え、アイデアの種は何なのかって? 本当に種という意味なんだよ、アイデアの素」
育ってくれないと使えないから種なのだ、という説明。
「いいかい、ブルーの世界の青の間のドアは壊れっ放しで、修理はまだまだ先になりそう。…そこまでは分かるね、誰だって?」
「それはまあ…」
そのせいで明日から迷惑なんだ、とキース君が応えて、私たちも「うん」と。
「じゃあ、次に行くよ? ドアの修理が先送りにされた理由というヤツ、それは修理をしない方が喜ばしいからで…。いつも散らかってる青の間が綺麗に片付くからで」
「ぼくは困っているんだけどね!」
ストレスも溜まるし、とソルジャーが嘆くと、会長さんは。
「そこなんだよ。…君は困るし、ぼくたちは迷惑。ドアが直ってくれないと困る。…それをさ、君のシャングリラの人たちも感じてくれたらドアは直るかと」
「「「は?」」」
ソルジャーのストレスや、別の世界に住む私たちが感じている迷惑。そんな代物をソルジャーの世界のシャングリラの人たちにどうやって分かって貰えますか…?



ソルジャーが長をやっているのがシャングリラ。その長の意向をキッパリ無視して青の間のドアの故障を修理せずに放置、それがソルジャーの世界のシャングリラ。おまけに私たちの世界の存在なんかは知られてもおらず、迷惑したって苦情も届けられない現状。
「おい。…あんた、凄い無茶を言っていないか?」
こいつの意見も通らないのが向こうの世界のシャングリラだが、とキース君。
「ソルジャーが修理してくれと言っても直さずに放置しているドアをだ、俺たちが迷惑しているからと直してくれるわけが無いと思うが」
第一、どうやって苦情を届けに行くと言うんだ、と正論が。
「あんたも自力では飛べない筈だぞ、向こうまでは」
「誰も陳情に行くとは言っていないよ、要は迷惑という種なんだよ。…アイデアのさ」
ぼくの頭にあるのは其処まで、と会長さん。
「青の間のドアが壊れたままだと有難いから修理しないで放っているなら、その逆になれば修理するかと思ってさ…。つまりは迷惑」
「「「迷惑?」」」
「そう! ドアが壊れて開けっ放しだと誰もが迷惑することになれば、大急ぎで修理しそうだよ」
それこそ、船を挙げてでも! と会長さんは指を一本立てました。
「修理班の手が塞がってるなら、もう文字通りに猫の手だね! ちょっとでも使えそうな人を総動員して必死で修理するんじゃないかと」
早く直さないと船中が迷惑するんだから…、と会長さん。
「開けっ放しよりも閉まってる方が有難い、と気付けば修理をすると踏んだね」
「なるほどねえ…。でもさ、今はとっても有難がられて放置されてるわけなんだけど…」
誰も直してくれないんだけど、とソルジャーは溜息。
「実際、その方がお得らしくて、直そうっていう声も出ないし…。君のその案、どう使えと?」
「それがぼくにも分からないから、アイデアの種だと言ったんだよ」
どうすれば開けっ放しのドアが迷惑になるのか思い付かない、と会長さんにも無いらしい案。
「誰かこの種、育てられる人がいればいいんだけどねえ…」
「「「うーん…」」」
アイデアの種とはそういう意味か、と考え込んでしまった私たち。開けっ放しのドアが迷惑をかけると言ったら、このリビングだとクーラーの風が逃げてしまって効きが悪くなるとかですけれど。青の間のドアが開けっ放しだと、果たして迷惑かかるのでしょうか…?



壊れてしまった青の間のドア。けれど開けっ放しの状態が歓迎されているとかで、修理はされずに先延ばし。そのせいでストレスが溜まったソルジャー、こちらの世界を避難所にするつもりです。ソルジャーが来るのを防ぎたかったら、ドアを直すしかないわけで。
「ドアが開けっ放しの方が迷惑ですか…」
普通は冷暖房の効率が一番の問題ですが、とシロエ君。
「でも、それを考えても開けっ放しで問題無し、と結論が出てるわけですね?」
「そうなんだよねえ…。あのデカイ部屋の空調よりもさ、掃除が先に立つらしいんだよ」
ぼくはそんなに片付けられない人間だろうか、と頭を振っているソルジャー。
「お掃除部隊なんていうのは、たまに入れば充分だろうと…」
「そう思ってるのは君だけだよ、多分。だから壊れたドアを放っておかれるんだよ!」
日頃のツケが回って来たのだ、と会長さんが唱える因果応報。けれどもドアが直らない限り、そのソルジャーの巻き添えを食らって迷惑を蒙るのが私たちなわけで…。
「…困りましたね…」
何かいい案は無いでしょうか、とシロエ君が呟き、キース君が。
「俺の家だと、開けっ放しにしてある場所から蚊が入って苦労するんだが…。蚊取り線香が必須なわけだが、シャングリラに蚊はいないだろうしな…」
「あー…。キースの家だと藪蚊も山ほどいそうだよな」
裏山は木が茂ってるしよ、とサム君。
「ついでにアレかよ、庭池とかが天国になっていそうだよな、ボウフラの」
「いや、そこは…。そうならないように定期的に掃除をしてるが、何処からかな…」
ヤツらは湧いて来るんだよな、とキース君が零せば、ジョミー君が。
「人魂と同じで湧きそうだよねえ、お寺だと」
「失礼な! 元老寺の墓地に人魂が出たという話など無い!」
皆さん、立派に成仏しておられる、と合掌しているキース君。お参りする人が無くなってしまった無縁仏さんも毎年キッチリ供養だとかで、人魂も幽霊も目撃例は無いのだそうで。
「えーっ? それはある意味、間違ってない?」
墓地があるなら幽霊と人魂はセットもの、と言い出すジョミー君は心霊スポット大好き少年。また始まった、と思った私たちですが、そのジョミー君が「あっ!」と。
「使えるんじゃないかな、アイデアの種!」
これで芽が出る気がするんだけど、と言われましても。これって何のことですか?



墓地と人魂はセットものだと主張しかけたジョミー君。其処でアイデアの種がどうこう、青の間のドアが壊れている件と、元老寺の墓地がどう繋がるというのでしょう。会長さんまで怪訝そうな顔になってますけど、ジョミー君は。
「青の間のドアだよ、開けっ放しだと困るってヤツ!」
人魂と幽霊でどうだろうか、とジョミー君の口から出て来た怪談もどき。
「ほら、ブルーの世界と繋がった切っ掛け、キースが持って来た掛軸じゃない! 妖怪とかがゾロゾロ出るから、ってブルーが供養を頼まれてさ…」
「あったな、そういう事件もな。ぶるぅが飛び出して来やがったが」
あの掛軸は今も元老寺にあるんだが、とキース君。
「檀家さんに引き取る気が無いからなあ、月下仙境の軸」
「あれと同じだってことにするんだよ、青の間のドア! 閉まっていれば封印出来ても、開けっ放しだと色々ゾロゾロ出て来るってことで!」
大勢のミュウが死んでるんでしょ、とジョミー君はソルジャーの方に視線を向けて。
「その人たちもさ、シャングリラに乗ってるんだっていうことにしてさ…。普段は青の間の中で暮らしているけど、ドアが開いてるから外に出ようという気になったっていう方向でさ…」
サイオニック・ドリームで出来ないかな、と訊かれたソルジャーは。
「ああ、なるほど! 人魂と幽霊で迷惑をかければいいわけなんだね?」
ぼくのシャングリラに、とニッコリと。
「その手は大いに使えそうだよ、青の間の奥には亡くなった仲間の遺品が置いてあるわけで…。残留思念があまりに強くて、ハーレイくらいしか触れない話は有名なわけで…」
それでいこう、とポンと手を打つソルジャー。
「仲間たちの顔も姿もバッチリ覚えているからねえ…。もう今夜からやらせて貰うよ、人魂と幽霊のセットもの! これで青の間のドアの修理も急いでやって貰えそうだよ!」
「えーっと…。ジョミーのアイデアは良さそうだけれど、今日まで幽霊が出なかった理由はなんと説明するんだい?」
ドアはずうっと開けっ放しだったわけなんだけど、と会長さんが尋ねると。
「そんなの、至って簡単だってね! 幽霊っていうのは少しずつ近付くと言うじゃないか!」
こっちの世界の怪談の王道、と言われてみればそうでした。幽霊との距離が日毎に縮まり、連れて行かれる怪談の世界。青の間のドアから外に出るまでに日数がかかったという言い訳をすればバッチリですよね、今夜から幽霊が出没しても…?



ひょんな切っ掛けで芽吹いてしまった会長さんのアイデアの種。ソルジャーが暮らす青の間のドアは開けっ放しの方がいい、と修理されずに放置されているなら、修理したくなるよう迷惑をかければいいというヤツ。
ジョミー君のアイデアを使うと決めたソルジャーはウキウキと幽霊や人魂に関する怪談を夜までやらかした挙句に、「ありがとう!」と帰って行ってしまって…。
「…これで明日から来なくなるかな?」
ぼくはアイデアを出したんだけど、とジョミー君が首を傾げて、キース君が。
「さあな? どうなったのかの報告ってヤツに来そうな気もするがな…」
ともあれ俺には卒塔婆のノルマ、とブツブツと。今日は丸一日サボりましたし、明日から再び大車輪でしょう。早朝から書いて昼前までには抜けて来るとか言ってますけど…。



そして翌日、私たちはまた会長さんの家に集まって朝からダラダラと。この暑いのにプールへ行くのも面倒ですから、涼しいお部屋が一番です。リビングのドアをピッタリと閉めて午前中からブルーベリーのフラッペを美味しく食べていたら…。
「こんにちはーっ!」
ぼくにもフラッペ、と現れたソルジャー。空いていたソファにストンと腰掛け、「そるじゃぁ・ぶるぅ」がサッと用意したフラッペをシャクシャクとスプーンで掬って。
「青の間のドアね、大急ぎで直してくれるそうだよ。今日の夜には間に合うように!」
「本当かい?」
そんなに早く、と会長さん。
「昨日の今日だよ、例の作戦、もう効いたのかい?」
「それはもう! こっちで夜まで怪談三昧やって帰った甲斐があったね、サイオニック・ドリーム全開でシャングリラ中に大迷惑をね!」
ジョミーの案をちょっとアレンジさせて貰った、と満面の笑顔。
「ぼくが頑張って封印していた霊がとうとう外に出てしまった、という話にしたよ。日頃の苦労をみんなに言うのはソルジャーとしてどうかと思って黙っていた、とね!」
こういう事態になるまで必死に引き留めていた霊がとうとう外に…、とソルジャーは朝からお詫び行脚をして来たそうです。サイオニック・ドリームの幽霊や人魂で怖い思いをしたシャングリラ中の人たちに。
「ぼくの力が足りなくてごめん、と謝ったら誰もが怒るどころか労ってくれてねえ…。ゼルなんかは号泣していたよ。懐かしい仲間に会えたというのに、怖がってしまって済まなかった、と」
「「「………」」」
そんな大嘘をついたのかい! と呆れましたが、嘘だと知っている人はキャプテンだけしかいないのだそうで。
「ハーレイには言っておかなきゃねえ…。青の間のドアを修理するための嘘とお芝居だということをね! でないとドアの修理が終わった後の夫婦の時間が素晴らしいものにならないし!」
あの幽霊だの人魂だのが本物なんだと思われたんでは…、とソルジャー、パチンとウインク。
「何度も言うけど、ハーレイは見られていると意気消沈で…。それが幽霊でも駄目だしね!」
「もういいから!」
ドアの修理が済んだら帰ってくれたまえ! と会長さん。青の間には今も「ぶるぅ」がソルジャーのふりをして真面目に座っているそうです。「ドアの修理はまだなのかい?」と。



こんな具合で、開けっ放しで放置されていた青の間のドアは凄いスピードで修理完了、次の日からソルジャーはもう来ませんでした。昨日までの間に溜まったストレス発散とばかりに散らかしまくって、キャプテンと夫婦の時間を満喫しているのでしょう。
「…ジョミーのお蔭で助かった。まさか怪談が役に立つとはな」
平和な日常が戻って来た分、俺も卒塔婆書きを頑張らないと…、とキース君が誓うと、そのジョミー君が。
「それだけど…。助かったと思ってくれるんだったら、今年の棚経、ぼくは休みで」
サムだけで行ってくれないかな、というお願いが。今回の功労者ですから、それもいいかな、と私たちは思ったんですけれど。
「俺はやぶさかではないが…。間違えるなよ、棚経のトップは親父なんだ」
そしてお前は今年は親父と回る予定になっている、と可哀相すぎる宣告が。
「ちょ、ちょっと…! だったら、ぼくはアイデアの出し損だったわけ?」
「悪く思うな、俺にもどうにもならんのだ」
礼が欲しいなら他のヤツらに頼んでくれ、とキース君が言った所でクーラーの効いたリビングの空気がユラリと揺れて。
「この間はどうもありがとう! 御礼だったら、このぼくが!」
みんなに御礼、とソルジャーが姿を現しました。御礼って何かくれるんでしょうか、何も持ってはいないみたいに見えるんですけど…?
「凄い御礼をするからさ! 海の別荘、ぼくたちの夜を完全公開!」
「「「は?」」」
「公開だってば、ドアの故障から始まった事件の御礼だからね! ぼくのハーレイには内緒だけれども、寝室のドアを完全開放、いつでも覗きがオッケーなんだよ!」
ぼくとハーレイの夫婦の時間をお楽しみに、とソルジャー、ニコニコ。
「あっ、写真撮影とかは駄目だよ、見るだけだからね!」
「「「要らないから!!!」」」
会長さん以下、綺麗にハモッた叫びですけど、ソルジャーはと言えば。
「えーっ? こっちのハーレイにも見せてあげたいし、出血大サービスなんだけど…!」
是非見に来てよ、と今度はドアを自分で開けっ放しにするつもり。こんな結果になるんだったら、青の間のドア、開けっ放しで壊れたままの方が良かったでしょうか、迷惑でも。恩を仇で返している気は無さそうですよね、そんなサービス、誰も頼んでいないんです~!




              閉まらない扉・了


※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 壊れてしまった、ソルジャーの世界の青の間の扉。その上、自業自得で先延ばしな修理。
 こちらの世界が迷惑なわけで、ジョミー君が出したアイデア。怪談好きが役に立ちましたね。
 次回は 「第3月曜」 4月18日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、3月といえば春のお彼岸。毎年恒例なんですけれど…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv









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(航宙日誌…)
 やっぱり人気、とブルーが眺めた新聞広告。学校から帰って、おやつの時間に。
 キャプテン・ハーレイの航宙日誌。前のハーレイが綴った日誌が色々、気軽に買える文庫版から本物そっくりの復刻版まで。
 値段も違えばサイズも違う。復刻版と文庫版の他にも様々な大きさ、それから値段。元の日誌の抜粋だとか、子供でも読める簡単な文章になったものとか。
(買う人、沢山いるものね…)
 キャプテン・ハーレイの日誌は、超一級の歴史資料だから。前の自分たちが生きた時代の歴史を知るには、欠かせない資料。歴史が好きな子供だったら、読んでみることもあるだろう。
 研究者向けの復刻版だと、値段はとても高くなる。前のハーレイが羽根ペンで綴った文字たち、それをそのまま写しているから。
 歴史好きとか、研究者だとか、読みたい人が大勢いる日誌。趣味で買う人がいるということも、最近になって耳にした。
(…キャプテン・ハーレイのファンの人…)
 一人だけしか知らないけれども、今のハーレイの馴染みの人。行きつけの理髪店の店主が、前のハーレイのファンだった。ハーレイに「キャプテン・ハーレイ風」の髪型を勧めたほどに。恋人がいると聞いた途端に、「ソルジャー・ブルー風にカットしたい」と言い出したほどに。
(…その人、研究者向けの復刻版も欲しいって…)
 ハーレイがそう話していたから、研究者でなくてもファンなら買うのが復刻版。いくら高くても揃えてみたいと考えるらしい。
 色々な人が買って読むのが航宙日誌。文庫に、子供向けの仕様に、本物そっくりの復刻版やら。
 こうして広告を眺めていると、本当に凄いロングセラー。
 古典の本にも負けない勢い、今も売れ続けているのだから。ずっと昔から売られているのに。
(ハーレイ、有名作家だよ…)
 小説の形はしていないけれど、エッセイとも違う中身だけれど。
 それでも充分、有名作家。これだけのロングセラーなら。時代を越えて売れているなら。



 何百年も書いていたんだものね、と戻った二階の自分の部屋。おやつの後で。
 勉強机の前に座って、思い返した航宙日誌。前のハーレイがせっせと綴っていたけれど…。
(人気があるのも分かる気がするよ)
 日誌の中身がどうであろうと、ハーレイの文章に遊びがまるで無かったとしても、綴られた文はミュウの歴史そのもの。初代のミュウたちがどう生きていたか、それが分かるのが航宙日誌。
 人類側の記録は多くあるけれど、ミュウの側から書かれたものは他に無いから。
 広い宇宙の何処を探しても、ミュウが書いた記録はあの一つだけ。
(誰も日誌は書かなかったから…)
 シャングリラで生きた仲間たち。アルタミラからの時代をずっと、あの船で生きた仲間は何人もいたのだけれど。けして少なくなかったけれども、誰も日誌は残さなかった。
 彼らが書いた記録となったら、自分の仕事の覚え書きくらい。引き継ぎの時に使う程度の。
 長老と呼ばれたゼルもブラウも、博識だったヒルマンとエラの二人も、そのタイプ。日誌の形で書き残すよりは、覚え書きやら、レポートやら。
(…ヒルマンとエラなら論文だったし、ゼルだったら図面とかなんだよ)
 それらが今に残っていたって、ミュウの歴史の記録にはならない。研究資料になるという程度。例の航宙日誌と突き合わせないと、時期の特定すらも危うい。
 白いシャングリラの設計図にしても、いつから在ったか分からないから。
 初めての自然出産だって、ジョミーがそれを宣言した日は、航宙日誌の中にしか無い。カリナは日記を書かなかったし、ノルディが記録を残していたって…。
(…カリナが診察に来てからだよね?)
 身ごもったのかも、とメディカル・ルームにやって来るまで出来ないカルテ。それまでに色々と勉強したって、それはカルテに書かれはしない。
(前のハーレイ、ホントに凄いよ…)
 日々の出来事を淡々と綴っていたのが、後の時代に役立つなんて。
 今でもロングセラーになるほど、色々な人が必要としている日誌を残しておいただなんて。



 改めて思う、キャプテン・ハーレイの日誌の偉大さ。コツコツと毎日書き続けたこと。
 他の仲間たちは、誰も書いてはいなかったのに。前の自分も、何も綴りはしなかったのに。
 ソルジャーだった前のぼくでも書かなかった、と思ったけれど。日誌は存在しないのだけれど。
(もしも、ソルジャー・ブルーの日誌があったら…)
 物凄い人気だっただろう。キャプテン・ハーレイの航宙日誌が、これだけ売れているのだから。見た目の人気と関係無く。…前のハーレイのファンの数とは無関係に。
(前のハーレイ、あんまり人気が無いものね…)
 写真集が出版されていないのだから、注目されていないということ。出版したって、売れそうにない前のハーレイの写真集。
 けれど、ソルジャー・ブルーは違う。自分でもちょっぴり恥ずかしいけれど、写真集が出ている数なら誰にも負けない。ジョミーにも、もちろんキースにだって。
 そんな具合だから、もしも日誌があったなら…。
(日誌だけでも売れるんだろうし…)
 写真集に日誌の抜粋があれば、きっと人気を集める筈。手軽に読めて、写真も楽しめるから。
 それとは逆に、写真が豊富な日誌も売れる。ふんだんに写真を鏤めたならば、文字だけの日誌を売り出すよりも。
(凄く売れそう…)
 キャプテン・ハーレイの航宙日誌を越える売り上げ、ついでにロングセラーにも。
 そうなったろう、と容易に想像出来るのに…。



(前のぼくの日誌…)
 なんで無いわけ、と首を傾げた。どうしてハーレイの航宙日誌しか無いのだろう、と。
 書かなかったものは、存在する筈がないけれど。残っていなくて当然だけれど、書かずにおいた理由が分からない。ソルジャー・ブルーとしての日誌を。
 今の自分は日記をつけてはいないのだけれど、前の自分は事情が違う。置かれた立場も、生き方だって。…長い年月、たった一人のソルジャーだったし、ミュウの長として生きていた。
(前のぼくなら…)
 ハーレイのように、日誌を書いていたって不思議ではない。
 日々の出来事や、ソルジャーが下した判断などを。船の中で見聞きしたことも。
(ソルジャーの日誌…)
 それは日誌で日記ではないし、ハーレイとの恋は書けないけれど。プライベートなことも書けはしないけれども、前の自分はソルジャーだから…。
(日誌、書いておけば良かったのに…)
 どういう日々を過ごしていたのか、様々な出来事にどう対処したか。会議の議題や、長老たちと交わした意見。それに彼らがどう答えたのか、そういったことを。
 自分が書いておきさえしたなら、後々、ジョミーの参考にもなった。判断に迷った時に開いて、似たような例が何処かに無いかと探したりして。
(…記憶装置はあったけど…)
 ジョミーに遺した記憶装置に、それらも入っていたのだけれど。
 記憶装置にしか入っていない記録は、他の仲間は見られない。ジョミーの言葉が本当かどうか、誰も確かめることは出来ない。
 「ソルジャー・ブルーの意志でもある」と言われても。ジョミーがそうだと主張しても。
 その点、日誌の形だったら、他の仲間も読むことが出来る。長老だったヒルマンやエラも、若いナスカの子供たちも。
 前の自分の意志を確かめ、それに従って動けた筈。
 ジョミーが「こうだ」と述べた意見が、前の自分のとは違っていたって、溜息をついても従った筈。もしも日誌を書いていたなら、「これから先は、ジョミーに従え」と綴ったろうから。



 日誌があったら、大いに役立ったことだろう。ジョミーがソルジャーを継いだ後には。
 前のハーレイの航宙日誌も、そのために綴られていたものだった。ハーレイの代で地球まで辿り着けなかったら、次のキャプテンが立つだろうから。…その時に日誌が助けになれば、と。
 前の自分はそれを知っていたのに、どうして日誌を書こうと思わなかったのか。
 キャプテンが次の世代を意識していたなら、ソルジャーの自分も同じように考えるべきなのに。
(大失敗…)
 前のぼくも日誌を書けば良かった、とコツンと叩いた頭。そうすればジョミーの役に立ったし、船の仲間たちの参考にもなった筈なのに。
 ゼルたちだって、ジョミーの考えを頭から否定したりはしなかったろうに。「若すぎる」というだけのことで。アルタミラを知らない世代は駄目だと、決めてかかって。
 そうならないよう、日誌を書いておくべきだった、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで口にした。
「あのね、ハーレイ…。前のぼくの日誌…」
「日誌?」
 前のお前の日誌なのか、と丸くなったハーレイの鳶色の瞳。
「そう。前のハーレイの航宙日誌みたいなヤツ」
「日誌って…。お前、書いてはいないだろう?」
 俺は知らんぞ、とハーレイは怪訝そうな顔。「お前の日誌なんかが、あったか?」と。
「そうなんだけど…。前のぼく、日誌を書いてはいないんだけれど…」
 日誌、書いておけば良かったかな、って思ったんだよ。日誌があったら、役に立ちそう。
 ジョミーも参考に出来ただろうし、船のみんなも悩んだ時には、開いて読んでみたりして。
「そりゃまあ、あればそうなったろうが…」
 役に立っただろうとは思うが、無かったものは仕方ない。お前は日誌を書かなかったんだから。
「そのことなんだよ。…前のぼく、日誌を書けば良かったのに、思い付きさえしなくって…」
 今頃になって気が付いちゃった。ぼくも日誌を書くべきだった、って。
 ハーレイが書くのを見ていたくせに、駄目だよね。前のぼくの目、節穴だったよ…。
 もっときちんと考えていたら、ぼくも日誌を書いたのに。
 …ハーレイの航宙日誌とは別に、ソルジャーの日誌。



 ホントに駄目なソルジャーだよね、と零した溜息。まるで気付かなかっただなんて、と。
 日誌があったら、どれほど役に立つかということに。後の時代に、自分の命が燃え尽きた後に。
「…今まで気付きもしないだなんて、ホントに駄目で考えなしだよ」
 前のぼく、長生きしてたってだけで、後のことまでは少しも考えてなくて…。
 ソルジャーだったら、きちんと記録を残しておくべきだったのにね。みんなのために。
 馬鹿で間抜けだよ、前のぼくって。
「それは違うぞ、お前が忘れているだけだ」
 前のお前は、そのことを思い付いていた。ソルジャーの日誌を書き残すことを。
 俺は知ってる、とハーレイが言うから驚いた。そんな馬鹿な、と。
「え…?」
 忘れてるって…。どういうこと?
 それに日誌を思い付いたんなら、前のぼくは書いたと思うんだけど…?
「本当に忘れちまったんだな、綺麗サッパリ…。お前ってヤツは」
 生まれ変わる時に落として来たのか、その後の人生が長すぎたせいで忘れちまったか。
 お前、俺に相談に来たろうが。…日誌の件で。
 ソルジャーになって間も無い頃だな、此処まで言っても思い出せんか?
 俺の所に来たんだがなあ、日誌の書き方を教えてくれと。日誌は俺の方が先輩だから。
「そうだったっけ…!」
 ハーレイ、日誌を書いていたから…。
 どういう風に書けばいいのか、書き方、教えて貰いたくって…。



 思い出した、と蘇った記憶。遠く遥かな時の彼方で、前の自分がやったこと。
 まだ名前だけがシャングリラだった船で、ソルジャーの任に就いた後。ご大層な尊称で呼ばれる日々にも慣れて来た頃、ハーレイの日誌が気になり始めた。
 一日の終わりに、必ず書いている航宙日誌。船の出来事を記すキャプテン。
 その姿を何度も目にしていたから、考えた。ソルジャーになった自分も、あんな風に日誌を書くべきだろうか、と。
(ソルジャーはキャプテンよりも偉いんだしね…?)
 単なるリーダーだった頃とは違うのだ、と嫌でも思い知らされるのがソルジャーの立場。歩いていれば誰もが礼を取るほど、それまでとは違ってしまった生活。
 皆の頂点に立つのがソルジャーなのだし、キャプテンよりも責任は重い。ならば、記録も必要になってくるだろう。どういう日々を過ごしているのか、ソルジャーの役目は何なのか。
(だけど、日誌の書き方なんて…)
 分からなかったのが前の自分。心も身体も長く成長を止めていたから、ソルジャーとはいえ姿は少年。中身の方も、姿に見合った少年の心。ハーレイのような大人になってはいない。
(…子供が日誌を書いたって…)
 きっと大人のようにはいかない。子供っぽいだけならマシだけれども、書くべきことを抜かしているとか、まるで日誌の体を成してはいないとか。
 それでは日誌を書く意味が無いし、相談に出掛けて行ったのだった。いつも航宙日誌を忘れずに綴る、大先輩のハーレイに。
 シャングリラの中の一日が終わって、通路の灯りが「夜なのだから」と落とされた後に。



 遊びに行くのとは違っていたから、少し緊張した扉の前。「開いてるぞ」というハーレイの声を聞いたら、いつもの自分に戻ったけれど。
 扉を開けて中に入って、勧められるままに座った椅子。もうハーレイは日誌を書き終えた後で、机の上には閉じられたそれ。
 そちらの方に視線をやって、訪問の用件を切り出した。
「航宙日誌…。今日の分はもう書いたんだね。…ぼくも日誌を書こうと思って…」
 ソルジャーだからね、日誌も書いておくべきだろうと思うんだ。でも…。
 日誌というのは、どんなことを書けばいいんだい?
 書き方を教わりたいんだけれど、と質問したら、「見せてやらんぞ」と返したハーレイ。
「何度も言ったが、航宙日誌は俺の日記だ。…いくらソルジャーでも見せられんな」
 勝手に覗いたりもするなよ、と軽く睨んだハーレイの言葉遣いは、まだ普通だった。エラが色々言っていたけれど、こうして二人で話す時には、まだ敬語ではなかったハーレイ。
「分かっているよ。覗こうとは思っていないけど…」
 だから教えて欲しくって…。勝手に見るより、教わる方がいいからね。
 ぼくだと何を書くべきなのかな、ソルジャーの日誌を作るのならば。
 君は日誌の先輩だから、と訊いたのだけれど、ハーレイは逆に尋ねて来た。
「書き方って…。お前、日誌を書きたいのか?」
「そうだよ、日誌を書いておいたら、いつかは役に立つだろう?」
 君の日誌と同じようにね。
 ぼくは地球まで行くつもりだけど、辿り着けなかった時は日誌が役に立つ。
 それが誰かは分からないけれど、ぼくの跡を継いでくれる人。…迷った時には、ぼくの日誌。
 読んでくれたら、其処に答えがあるだろうから。
「どうなんだか…。俺はそういうつもりで日誌を書いてはいるが…」
 お前は俺とは立場が違う。
 ソルジャーとキャプテンってだけじゃなくてだ、何から何まで違いすぎるってな。
 誰も参考に出来やしないぞ、お前の生き方。
 俺の生き方なら、真似られるヤツも、参考にするヤツもいるんだろうが…。



 違うのか、と覗き込まれた瞳。射るような視線で、真っ直ぐに。
 ミュウという種族が発見されて以来、一人しかいないタイプ・ブルー。「それがお前だ」と。
 宇宙に一人きりの存在、そんなお前と同じに生きられる人間が誰かいるのか、と。
「考えてもみろ。お前だからこそ、ソルジャーなんだ」
 お前と同じに生きられないなら、誰もソルジャーにはなれないが…。
 いるのか、タイプ・ブルーの仲間。…お前と同じサイオンを使いこなせるヤツが?
 どうなんだ、と見詰められたから。
「…誰もいないね…」
 この船には誰も乗っていないよ、ぼくのようなことが出来る仲間は。
 アルタミラでも、タイプ・ブルーは他に誰もいなくて…。だから殺されずに生かされていて…。
 これで死ぬんだ、と思った時でも、いつも治療されて、気が付いたら檻の中だった…。
「そうだろう? 人類ですらも分かっていたんだ。お前の代わりはいないってことを」
 俺たちミュウも気付いてるってな、お前だけしかいないということ。
 お前しかソルジャーになれやしないし、お前の仕事はお前にしか出来ん。
 その分、お前の責任も重い。…一人きりしかいないんだから。
 俺の方なら、厨房からキャプテンになったほどだし、船を操れる仲間は他にもいる。他の仕事が山ほどあっても、俺にしか出来ないわけじゃない。俺が纏めているってだけで。
 だがな、お前は違うんだ。…お前がいなくなっちまったら、誰がこの船を守ってくれる?
 仲間たちが食う飯にしたって、もう何処からも来やしない。お前が奪いに行かなかったら。
 お前は船の仲間の命を預かってるんだ、お前自身が責任の重さをまるで気にしていなくても。
 俺よりも遥かに重く出来てて、誰も代わりに持っちゃくれない責任ってヤツ。
 お前はそいつを背負ってるわけだ、仲間たちの命も、このシャングリラも、ミュウの未来も。



 そんな毎日を書き残しておいて楽しいか、と問い掛けられた。
 一人、日誌を読み返してみては、後悔することにならないか、と。
「今みたいな夜の時間に、だ。…その日の分の日誌をお前が書いた後だな」
 こういう時間に、前に書いた日誌を読んでみて。…そうだった、と思い返して。
「後悔だって…?」
 日誌を書いたことを後悔するのかい?
 書こうと決めた日誌だったら、後悔しないと思うけれどね…?
 ぼくが自分で決めたことなのに、どうして後悔するんだい?
 君は不思議なことを言うね、とハーレイを見詰め返したけれども、「違う」と返った静かな声。
「日誌を書くってことじゃない。…其処に書かれている中身が問題なんだ」
 お前が自分で残した記録。そいつを読んだら、色々なことを思い出すから…。
 あの時、こうすりゃ良かったんだ、と悔やむことだってあるだろう。
 幸い、今の所は平穏無事でだ、何も起こっちゃいないんだが…。
 お前、アルタミラから脱出した後、ハンスのことを悔やんでいただろう。思い出す度に。
 もっとサイオンがあったなら、と。
 救おうと思う気持ちが強かったならば、サイオンを使えていたんじゃないか、とも。
 お前のサイオンは尽きちまってたが、意識はあったわけだから…。
 その分、余力があった筈だと。…もう無理だ、と思っていなかったならば、救えていたとな。
「…うん…。今でも、たまに思い出すよ」
 どうして救えなかったのかと。…あそこで力を使えていたなら、ハンスも船にいた筈だとね。
「ほらな。…そういう記録を書いていくのがソルジャーなんだ」
 それがソルジャーの日誌になるんだ、お前は船の仲間たちの命を背負うんだから。
 読み返してみても辛いだけだぞ、自分を責めるばかりでな。
「でも…。楽しいことも幾つもあるよ?」
 生きていて良かった、と思えることが。ジャガイモ地獄もキャベツ地獄も、楽しかったよ。
「それはまあ…。だが、それだけじゃ済まない時が来ないと何故言えるんだ?」
 いくら平穏無事な日々でも、俺たちは追われる存在だ。
 ミュウに生まれたというだけでな。



 この先も無事とは限らないんだ、とハーレイの瞳は穏やかだけれど、真剣だった。
 人類軍に見付かった時は、逃げるだけしか術がない船。武装していない民間船では、とても戦うことは出来ない。改造する技術も、今はまだ無い。
 それがシャングリラで、ミュウの仲間たちを乗せた箱舟。何処かに着弾したとしたって、空気が流れ出さないようにと、隔壁で遮断して逃げることしか出来ない船が。
「俺たちの船は、そういう船だ。いくらお前が守っていたって、運が悪けりゃ被弾しちまう」
 その時、其処に誰かがいたなら、そいつも危ない。シールドを張り損なっちまえばな。
 もしも、そういう不幸な事故が起こったら…。
 お前、その事故を、どんな思いで日誌に書くんだ?
 きっと涙が出るのを堪えて、懸命に書くんだろうがな…。書いた後にはどうするんだ?
「…何度でも読むよ。忘れないように」
 同じようなことが二度と起こらないように、何度でも。…どうすれば良かったかを考えながら。
 ぼくはどうするべきだったのかを。
「俺が思った通りじゃないか。ハンスの事故の時と同じだ」
 何度も日誌を読み返しては、その度にお前は後悔するんだ。ちゃんと最善を尽くしたのか、と。
 読み返す度に、過ぎ去った過去に囚われちまう。自分のせいだ、と自分を責めて。
 そういう辛い日誌を書いていきたいか、お前?
 とっくに終わっちまったことまで、お前に突き付けてくるような辛い日誌を…?
「それが必要なんだったら…」
 船のみんなの役に立つなら、きちんと書いておこうと思う。辛いだなんて言わないでね。
 それもソルジャーの役目だろう、と答えたけれど。
「お前にそれは必要無い。…辛い日誌は要らないんだ」
 さっきも言ったが、お前の代わりはいないんだから。…今も、これから先にもな。
 辛い思いをして書き残したって、日誌は誰の役にも立たん。そんな日誌に意味は無いだろ?
 この船のことは俺が書くから、お前は何も書かなくていい。
 ソルジャーの日誌は無くていいんだ、お前が辛くなるだけだから。
 いいな、と肩に置かれたハーレイの手。
 「日誌は書くな」と。「仲間たちには、俺の航宙日誌があれば足りる」と。



 そうだった、と蘇って来た、あの夜のこと。「日誌は要らない」と諭したハーレイ。
 日誌の書き方を教わりに行って、止められてしまった前の自分。「書くな」と日誌の大先輩に。
 ハーレイは一番の友達でもあったし、そのハーレイが止めるからには、書くべきではない。そう思ったから、日誌は書かないことにした。ソルジャーの日誌はやめておこう、と。
「…前のぼくの日誌…。前のハーレイが止めたんだ…」
 ぼくは書こうと思っていたのに、書かなくていい、って。…必要無い、って。
「そうだが、お前、書きたかったか?」
 俺は生まれ変わって別の俺だし、今だから、もう一度訊いてみるんだが。
 お前は日誌を書いた方が良かったと思っているのか、ソルジャーの日誌を…?
「どうだろう…?」
 書いておいた方が良かったのかな、と改めて考えた日誌のこと。前の自分が書かずに終わった、ソルジャーの日誌。
 あれから長い時が流れて、ジョミーを見付け出したのだけれど。
 奇跡のように現れた二人目のタイプ・ブルーで、シャングリラに迎え入れたけれども。
 補聴器に仕込んだ記憶装置を持っていたから、日誌はまるで必要無かった。文字にしなくても、記憶を丸ごと渡せたから。…下手に文章の形にするより、正確に全てを伝えられたから。
 もっとも、十五年間もの深い眠りに就いていた間は、渡しそびれてしまったけれど。
 ああいう時こそ、ジョミーは記憶装置が欲しかったろうに。
 ソルジャー候補でしかなかったのが、いきなりソルジャーになったのだから。
 何の引き継ぎもしてはいなくて、正式なお披露目もされないままで。
 皆を導くにはどうすればいいか、手探りで歩くしか無かったジョミー。
 記憶装置さえ持っていたなら、ヒントも答えも、その中に山と詰まっていたのに。



 何の前触れもなく導き手を失い、放り出されてしまったジョミー。ただでも味方が少ない船で。
 それでも懸命に頑張り続けて、人類に向けての思念波通信を行ったけれど…。
(…裏目に出ちゃって、責められちゃって…)
 ブリッジにも顔を出さない日が長く続いていたという。青の間に来ては、佇むだけで。
 きっとジョミーは、前の自分の導きを欲していたのだろう。進むべき道が分からなくて。
 何処に向かって歩めばいいのか、教えてくれる者が誰もいなくて。
 それを思うと、前の自分がすべきだったことは…。
「…前のぼく、ジョミーに記憶装置を渡しそびれて眠っちゃって…」
 まさか目が覚めないとは思わないしね、寝ちゃう前には少し眠かっただけなんだから。
 十五年間も眠っちゃうんだと分かっていたなら、記憶装置、ジョミーに渡しておいたのに…。
 あんなことになるなら、ソルジャーの日誌、書いておけば良かったんだよね。
 そしたらジョミーも読めたのに…。色々と参考になっただろうし、自信も持てたよ。
 ぼくが眠ってしまっていたって、ぼくの考えは日誌に書いてあるんだから。…やり方だって。
「おいおい、お前の日誌って…。お前が生きているのにか?」
 深く眠っているだけなんだし、あの状態では勝手に開いて読めはしないぞ。
 いくらジョミーがソルジャーになっても、青の間に出入り自由でもな。
「読めないって…。なんで?」
 どうして駄目なの、ぼくの日誌はそういう時に読むためのものでしょ…?
「いや、無理だ。俺の航宙日誌と同じだ、書いた人間が生きてる間は許可が要る」
 読んでもいい、という許しがな。
 それをお前が出してないなら、ジョミーは勝手に読むことは出来ん。其処に日誌があったって。
 ついでに言うなら、許可を出せるような余裕があったら、記憶装置を渡したろうが。
「…そうだね、そっちの方がずっと早いし、正確だし…」
 眠っちゃうんだ、って分かっていたなら、記憶装置を渡していたよ。ジョミーのために。
「俺たちも記憶装置を知ってはいたが…。外してジョミーに渡してはいない」
 必要だろうと分かっていたって、お前の許可が無いんだからな。…眠っちまって。
 だから日誌が書いてあっても同じことだ。「読め」とは言わんな、ジョミーにだって。
「そっか…」
 書いておいても、無駄だったんだ…。本当に役に立ちそうな時に、出番が無いなら。



 ソルジャーの日誌は、あったとしても役に立たないものだったらしい。ジョミーがそれを求めていた時、読むための許可は出なかったから。
 ハーレイたちは記憶装置の存在さえも、ジョミーに教えなかったのだから。
 もしもジョミーが手にしていたなら、求める答えを得られただろうに。迷った時には、導く声も記憶装置から聞こえたろうに。
「…駄目だよね、ぼく…。記憶装置は渡しそびれるし、日誌も書いていなかったし…」
 ホントに駄目なソルジャーだったよ、ジョミーに悪いことをしちゃった…。
「ジョミーの件はともかくとして…。要らなかったんだ、お前の日誌は」
 お前が辛くなるだけだから、とハーレイは慰めてくれるのだけど。
「でも…。ハンスの事故みたいなことは起こっていないよ?」
 死んじゃった仲間もいたけれど…。事故じゃないでしょ、病気だったよ。
 日誌に書いても、そんなに辛くはなかったと思う。…悲しいけどね。
「船じゃそうだが、外の世界にはミュウの子供たちがいたろうが」
 助け損なった子だって多いぞ、ユニバーサルのヤツらに先を越されて。
 お前はそいつを書かなきゃならん。…日誌を書いていたならな。
 子供たちの悲鳴が聞こえて来そうな、読み返す度に辛い気持ちになる日誌を。
「そうなっちゃうね…」
 助け出せなかった子供たちのことも、きちんと書かなきゃいけないから…。
 子供たちの名前も、助け損ねた状況とかも。
 それもソルジャーの役目だもの、と今でも心が痛くなる。死んでいった子供たちを思うと。
「今のお前でも、そういう顔になるんだから…。思い出しただけで」
 書くなと止めて正解だったな、前のお前のソルジャーの日誌。
 お前が思い出して泣くのを、俺は防げたようだから…。お前の心を少しは軽く出来たから。
「うん、ハーレイのお蔭だよ。…毎晩のように後悔しなくて済んだから」
 それにね…。もしも日誌を書いてたら…。



 ハーレイのように強くない自分は、恋を書けないのが辛かっただろう。
 日々の出来事を綴ってゆくのに、恋の思い出を鏤めることは出来ないから。どんなにハーレイを想っていたって、欠片も記せはしないのだから。
「…前のハーレイのことを書けないなんて…。何も残しておけないなんて…」
 そんなの辛いよ、辛すぎるよ。
 日誌はぼくの日記なのに。…ソルジャーとしてのことは書けても、本当のぼくのことは駄目。
 きっと毎晩、辛かったと思う。ハーレイに恋をしちゃった後は。
 ハーレイとのことを何も書いたらいけないだなんて、悲しくて辛くて、泣いちゃったかも…。
「なるほどな…。確かに書けんな、俺とのことは」
 俺は平気で嘘を書けたが、お前の心は俺よりも遥かに繊細だったというわけだ。
 恋をしているのに書けないことが、辛くて悲しくなっちまうなら。
 ソルジャーの日誌、書いていなくて良かったな。
 俺のアドバイスは思った以上に、前のお前を助けた、と。書くな、とお前を止めたことで。
「そうみたい…」
 ありがとう、あの時、ぼくを止めてくれて。
 ハーレイが止めてくれなかったら、ぼく、書いてたと思うから…。
 書き方を習って、毎晩、真面目に。…これもソルジャーの仕事だから、って。
 色々なことを思い出しては、後悔で泣くのはいいけれど…。それも勉強なんだけど…。
 二度と後悔しないように、って避ける方法も考えるだろうから。
 だけど、ハーレイのことを書けない方は…。
 どんなに悲しくて泣いていたって、勉強になんかならないから…。
 ただ辛いだけで、涙が零れて、日誌、書くのも辛くなるから…。



 ソルジャーの日誌が無くて良かった、とハーレイに「ありがとう」と頭を下げた。
 前のハーレイが止めずにいたなら、きっと日誌を書いていたから。毎晩、日誌を綴り続けては、何度も泣いていただろうから。
「ホントにハーレイのお蔭だよ。…前のぼくが泣かずに済んだのは」
 もしも日誌を書いていたなら、何度泣いたか、数えることも出来ないくらい。
 ハーレイのことを書けないだけでも、涙が溢れて止まらなかったと思うから…。
「礼を言ってくれるのは嬉しいんだが…。先の先まで読めたわけではないからな、俺も」
 あの時、お前を止めた理由は、お前の代わりは誰もいない、ってヤツだったんだが…。
 来ちまったからな、タイプ・ブルーの後継者が。
 ソルジャーの日誌、あれば参考になっただろうに…。記憶装置と同じようにな。
 お前がいなくなっちまった後しか、出番が無かったとしても。
「それでもだよ。…あれば良かったかな、とは思うけれどね」
 無かったお蔭で、辛い思いをしなくて済んだよ。日誌を書いたり、読み返したりで。
 どうして書いたら駄目なんだろう、ってハーレイのことを思う度に涙が止まらないとか。
「そりゃあ良かった。…結果的にお前を救えたんなら」
 今のお前も、色々なことを思い出さずに済むからな。
 お前の日誌は書かれていないし、何処にも残っていないんだから。
「それなんだけど…。ハーレイは平気?」
 航宙日誌が残ってるのに…。本屋さんに行ったら、一杯並んでいたりするのに。
 今日も新聞に広告があったよ、そのせいで前のぼくの日誌のことを考えちゃったんだけど…。
「俺の航宙日誌のことか?」
 大丈夫だ、こうして俺を心配してくれるお前がいるからな。
 前の俺はお前を失くしちまったが、お前は戻って来てくれたから。



 お蔭で今の俺は幸せ者なんだ、と笑顔のハーレイ。「宇宙で一番の幸せ者だ」と。
 「お前と一緒に青い地球まで来られた上に、すっかり平和な時代だから」と。
 今は幸せなのだろうけれど、辛かった時もあっただろうに。
 前のハーレイの地球までの道は、最後は生ける屍のような日々だけで埋め尽くされたのに。
 それでも「幸せ者だ」と言ってくれる人、前の自分が日誌を書こうとしたのを止めてくれた人。
 「辛い思いをすることはない」と、「俺の日誌があればいいから」と。
 この優しくて愛おしい人と、また巡り会えて同じ時間を生きてゆく。
 今度こそ、離れてしまわずに。
 青く蘇った水の星の上で、しっかりと手を繋ぎ合って。
 いつまでも、何処までも二人一緒に、幸せを幾つも拾い集めて、心の日誌に書き記しながら…。




           無かった日誌・了


※ソルジャー・ブルーの日誌は無いのですけど、実は、書こうとしたことがあったのです。
 けれど、書かれずに終わった日誌。前のハーレイが止めたお蔭で、救われた前のブルーの心。
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(…これが野菜で出来てるの?)
 本当に、とブルーが見詰めた新聞の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
 綺麗な花や葉っぱの形に彫られた彫刻。鳥や龍だってあるのだけれども、その材料はどれも…。
(野菜に、フルーツ…)
 キュウリで出来た花や白鳥、それから亀。ニンジンで彫られた龍や火の鳥。赤いカブラを彫った薔薇やら、メロンを丸ごと使って彫り上げた花籠なんかも。
 材料はこれ、と言われなければ分からないほどの芸術品。本物そっくりに見える花まで。
 この作品たちは名前もそのまま、ベジタブルカービングにフルーツカービング。野菜を彫ったらベジタブル。果物を彫ったら、フルーツカービングになるらしい。
(復活して来た文化なんだ…)
 SD体制が崩壊した後、復活して来た様々な文化。遠い昔に地球のあちこちで生まれた料理や、伝統文化や、他にも色々。
 この彫刻たちも、その一つ。元はタイという国の宮廷の文化。食卓を美しく彩るために、様々な花や鳥などを彫った。野菜に果物、食べられる素材ばかりを使って。
 今の時代は趣味でやる人が多いという。タイの文化を復活させた地域はもちろん、この地域にもいる愛好家たち。
 新聞に載っている作品の一部は、この地域の人が彫ったもの。花も、細かく彫られた鳥も。
(柔らかい材料を彫るんだしね?)
 野菜や、パイナップルなどの果物。歯で簡単に噛み切れるのだし、木彫りや石の彫刻とは違う。楽々と彫れて、簡単なのだと思ったのに。
 愛好家が多いのも、直ぐに上達出来るからだと考えたのに…。



 嘘、と大きく見開いた瞳。新聞の記事を読み進めたら。
(使うの、ナイフが一本だけなの?)
 ベジタブルカービングも、フルーツカービングも、専用のナイフが一本だけ。道具はそれだけ、どちらにも使える共通のナイフ。相手が野菜でも、果物でも。
 鳥やら花やら、色々な形を彫り上げなくてはいけないのに。細かい部分まで彫り込まなければ、繊細な鳥は出来上がらない。翼を広げたキュウリの白鳥も、誇らしげなニンジンの火の鳥だって。
(こんなに細かいのを彫っていくのも…)
 メロンを丸ごと刳りぬいた花籠、それを作るのもナイフ一本。途中で道具を変えたりはしない。挑む相手が野菜だろうと、果物だろうと。
 硬い部分を彫ってゆく時も、柔らかな部分に細かい彫刻を施す時も。
(彫刻刀は使わないんだ…)
 初心者向けの教室だったら、用意しているらしいけれども。普通の彫刻と同じように。
 どういう風に彫ればいいのか、初心者にはまるで謎だから。野菜や果物の硬さがどうかも、まだ見当がつかないから。
(…コツを掴んだら、彫刻刀は卒業…)
 これからはナイフを使いましょう、と渡されるナイフ。それも一本、彫刻刀なら色々あるのに。目的に合わせて、違うタイプのを使えるのに。
(…何を彫るのも、このナイフだけ…)
 凄い、と改めて眺めた作品の数々。花も、花籠も、鳥たちも、龍や亀なども。
 ナイフ一本でこんなに彫れるだなんて、と。花を彫るのも、鳥の羽根を彫るのも、道具は同じ。
 きっと、ナイフをどう使うかで変わる彫り方。こう彫りたいなら、こんな具合、と。



(ぼくには無理…)
 そんな器用な彫り方はとても出来ないよ、と感心しながら戻った部屋。おやつのケーキと紅茶をのんびり味わった後で、もう一度さっきの新聞を見て。
 勉強机の前に座って、考えてみたベジタブルカービング。それにフルーツカービングも。
 人間が地球しか知らなかった頃に、タイで生まれた工芸品。ナイフ一本だけで彫り上げる、花や鳥たち。野菜や果物、食べられる材料だけを使って。
 どれも見事なものだったけれど、自分にはとても彫れそうにない。ナイフしか使えないのでは。大まかに彫るのも、細かい模様を刻み込むのも、全く同じナイフだけでは。
 美術の授業で彫刻刀を使うのだって、鮮やかとは言えない腕前の自分。
(おっかなびっくり…)
 彫刻刀の刃は鋭いから、先生に何度も脅された。木を削っていて、自分の手までウッカリ一緒に削らないように、と。
 手を滑らせたら削ってしまうし、そうでなくても何かのはずみで削りがちだから、と。
 それから、笑顔で注意もされた。「シールドなんかは反則ですよ」と。
 今の時代は、サイオンは使わないのがマナー。彫刻刀で削ってしまわないよう、手にシールドを張るのは反則。あくまで自分で注意すること、それが大切なことだから、と。
(反則したくても、出来ないから!)
 やっている子も多かったけれど、使えなかった反則技。サイオンを上手く扱えないから、片手にシールドを張っておくのは無理。
(…両方の手にだって張れないよ…)
 彫刻刀での怪我を防ぐシールド、それを左手にだけ張りたくても。彫刻刀の刃が怖くても。
 いつもビクビク、怪我をしないかと。手まで一緒に削らないかと。



 幸い、一度もしていない怪我。とても慎重にやっていたからか、たまたま運が良かったのか。
 彫刻刀で怪我をした子は、何人か見ているのだから。保健室に連れて行かれた子たち。
(ぼくが果物や野菜を彫ろうとしたら…)
 きっと怪我してしまうのだろう。今日まで無事に過ごして来たのに、あっさりと。
 野菜はともかく、果物は滑りやすそうな感じ。甘いメロンもパイナップルも、みずみずしい分、水気がたっぷり。彫っている間に、ツルッと滑ってしまいそう。
 おまけにナイフ一本で彫ってゆくのだから、余計に手元が危ういだろう。彫刻刀とは違うから。
(力加減が難しそうだよ…)
 どういう具合に彫りたいのかは、ナイフを握った自分次第。彫刻刀なら、目的に合わせて選んで替えてゆけるのに。「今度はこっち」と。
 そうする代わりに、変えるナイフの使い方。刃先で彫るとか、全体を上手く使うとか。
(使い方、想像もつかないんだけど…)
 ナイフなんかでどうやるの、と首を傾げても分からない。繊細な模様の彫り方も。クルンと中を刳りぬいた花籠、それをナイフで彫る方法も。
 あれを彫る人たちは器用だよね、と本当に感心してしまう。ナイフ一本で色々な形、花も鳥も、龍も作るのだから。
(ぼくと違って、ホントに器用…)
 自分だったら、出来上がる前に怪我をして終わり。ナイフでスパッと指とかを切って。大騒ぎで怪我の手当てをするだけ、絆創膏や傷薬で。
(絶対、そっち…)
 そうなるのが目に見えている。ナイフ一本で挑んだら。
 野菜や果物、それを使って花や鳥たちを彫り上げようと挑戦したら。



 世の中には器用な人がいるよね、と感動させられるベジタブルカービング。果物を使うフルーツカービングも。
 彫刻刀も使わずに彫るなんて、と技術の高さを思ったけれど。ナイフ一本で仕上げる腕前、その素晴らしさに脱帽だけれど。
(…あれ?)
 ナイフ、と掠めた遠い遠い記憶。ナイフで彫ってゆくということ。
 前のハーレイもそうだった、と蘇って来た前の自分の記憶。何度も目にした、ハーレイの趣味。木の塊から色々なものを彫っていた。実用品から、宇宙遺産のウサギまで。
(あのウサギ、ホントはナキネズミで…)
 宇宙のみんなが騙されてるよ、と呆れるしかない木彫りのウサギ。今の時代は博物館にあって、百年に一度の特別公開の時は長蛇の列。
 ナキネズミだとは誰も知らないから。「ミュウの子供が沢山生まれますように」と、ハーレイが彫ったウサギのお守り、そう信じられているものだから。
 ナキネズミがウサギに化けたくらいに、酷い腕前の彫刻家。前のハーレイはそうだったけれど、使った道具はナイフだけ。それも一本きりのナイフで、彫刻刀は使わなかった。
 何を彫るにも、いつでもナイフ。それだけを使って作った木彫りの作品たち。
(ハーレイ、ホントは器用だったの?)
 あまりにも下手な彫刻だったし、不器用なのだと頭から思っていたけれど。不器用すぎる下手の横好き、そうだと評価していたけれど。
 ナイフ一本で彫っていたなら、ベジタブルカービングやフルーツカービングと同じこと。
 新聞で眺めた綺麗な彫刻、あれを彫るのもナイフ一本。前のハーレイがやっていたのと同じに。
(木の方がずっと硬いんだから…)
 果物や野菜よりも硬い素材を、ナイフ一本で彫っていたハーレイ。彫刻刀を使いもせずに。
 もしかしたら、芸術的センスが無かっただけで、本当は器用だったのだろうか。ナイフがあれば何でも彫ることが出来たハーレイは。…酷すぎた腕の彫刻家は。



 そうだったのかも、と今頃になって気付いたこと。前のハーレイは器用だったのでは、と。
(芸術品の出来は最悪だったけど…)
 ナキネズミがウサギに化ける腕だったけれど、実用品の方は違った。スプーンとかなら、見事に仕上げていたハーレイ。注文する仲間が大勢いたほど、評価が高かった木彫りの実用品。
 それを思うと、彫刻の才能はあったのだろうか。まるで才能が無かったのなら、ナイフ一本では無理だという気がしてくる木彫り。彫刻刀を使っていいなら、別だけれども。
(スプーンを一本、彫るにしたって…)
 自分にはとても彫れそうにない。ナイフ一本しか使えないのでは。
 彫刻刀を使って彫ろうとしたって、木の塊から彫るのは無理。どう削るのかが分からないから。鉛筆で下絵を描いてみたって、大まかな形を削り出すのも難しそうに思えるから。
(やっぱりハーレイ、才能があったの?)
 あんなに下手くそだったのに、と考えていたら、聞こえたチャイム。そのハーレイが仕事帰りに訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり訊いてみた。
「あのね、ハーレイ、器用だった?」
 本当は手先が器用だったの、ハーレイは…?
「はあ?」
 何の話だ、と目を丸くしているハーレイ。「料理の話か?」と。「包丁さばきは自信があるが」などと言っているから、「そうじゃないよ」と首を横に振った。
「今のハーレイだと、料理なのかもしれないけれど…。前のハーレイの話だよ」
 木彫りで色々作っていたでしょ、だから手先が器用だったのかな、って…。
 ハーレイ、何でも作れたから。
「ほほう…。俺の芸術をやっと認めてくれたのか?」
 今のお前にも馬鹿にされたが、ようやく腕を分かってくれたか。いいだろ、例のナキネズミ。
 勝手にウサギにされちまったが、あれは立派にナキネズミだしな?
「そっちじゃなくって、前のハーレイの彫り方だよ」
 ナイフ一本で彫っていたでしょ、どんな物でも。…スプーンも、他の芸術品も。
「その通りだが?」
 あれさえあれば何処でも彫れたし、お蔭で色々作れたってな。暇な時にはナイフを出して。
 例のナキネズミも、ブリッジで彫っていたくらいだから。



 ナイフ一本で出来る趣味だ、とハーレイが見せた誇らしげな顔。「他に道具は何も要らん」と。木の塊とナイフさえあれば、後は下絵用の鉛筆くらい、と。
「スケッチよりも簡単だぞ? スケッチブックが要らないからな」
 それに何処でも出来るのがいい。俺が座れる場所さえあったら、木彫りを始められるんだから。
「やっぱり…! ナイフ一本だけだよね、あれ」
 前のハーレイ、本当は器用だったんじゃないの?
 ナイフ一本で何でも彫っていたなんて、物凄く器用だったとか…。だって、ナイフが一本だよ?
 彫刻刀とかじゃないんだもの。…彫刻だったら、普通は彫刻刀なのに…。
 何を彫りたいかで、使う彫刻刀だって変わるものでしょ?
 それなのにナイフだけなんて…。ホントに凄すぎ、前のハーレイ。
「なんだ、今頃気が付いたのか? 前の俺が使っていた道具の凄さに」
 確かにナイフ一本で彫るというのは難しいだろうな、慣れていないと。…前の俺みたいに。
 器用だったことを分かって貰えて光栄なんだが、何故、今なんだ?
 どうして今頃、前の俺の木彫りの腕に注目したんだ、お前は?
 それが謎だ、と鳶色の瞳に見詰められたから、「えっとね…」と始めた新聞の話。
「今日の新聞に載ってたんだよ、とても綺麗な花とか鳥の彫刻が」
 彫刻なのに、材料が野菜と果物で…。ベジタブルカービングとフルーツカービング。
 どっちもナイフ一本だけで彫るんです、って書いてあったからビックリしちゃって…。
「あれか、丸ごと食える彫刻だな」
 使った部分にもよるんだろうが、その気になったら食っちまえるヤツ。あれは凄いよな。
 出来も凄いが、野菜や果物を芸術品にしちまう所がなあ…。



 実に凄い、とハーレイも知っていたベジタブルカービングとフルーツカービング。野菜や果物をナイフ一本で彫って仕上げる彫刻。
 知っているなら作れるのだろうか、と胸を躍らせて、ぶつけた質問。
「ハーレイも出来る?」
 あれって、ハーレイにも作れるの?
 包丁さばきには自信があるって言っていたよね、ベジタブルカービングも出来たりする…?
「ナイフと包丁とは違うしな…。それに今の俺は木彫りをやってはいないから…」
 挑んでみたって無理なんだろうが、前の俺なら出来ただろう。
 彫るものが木から野菜に変わるだけだし、果物だって彫れただろうな。
「本当に? 前のハーレイ、ホントに出来たの?」
 もしかしたら、って思ってたけど、あんな凄いのも作れたわけ…?
 野菜や果物を彫ってあったの、とても綺麗で芸術品って感じだったよ?
 前のハーレイが作った芸術品って、ナキネズミがウサギになっちゃうくらいに酷くって…。
「見本さえ見せて貰えれば彫れたな、こういう風に彫ってくれ、と」
 前の俺たちが生きた時代に、ああいう文化は無かったが…。昔の写真でもあれば。
 こいつは野菜で出来ているんだ、と花の写真でも渡して貰って、野菜を寄越してくれればな。
 どういう形に仕上げればいいか、それさえ分かれば充分だ。
 ナイフ一本で彫ってみせたさ、薔薇の花だろうが、小鳥だろうが。



 簡単なもんだ、と自信たっぷりだけれど。見本さえあれば出来たと、本人も言っているけれど。
 前のハーレイが本当に器用だったとしたなら、彫刻の出来はどうして酷かったのだろう?
 芸術的なセンスが無かったにしても、綺麗な花や小鳥を彫れる腕前があったなら…。
「…野菜や果物の花や小鳥は彫れるのに…。上手に彫れたって言ってるのに…」
 前のハーレイ、なんで駄目だったの?
「駄目って、何がだ?」
 ちゃんと彫れると言っただろうが、とハーレイは野菜と果物のつもりでいるようだから。
「木彫りだよ! 前のハーレイが作った彫刻!」
 どれも酷かったよ、実用品じゃなかったヤツは。…スプーンとかなら上手かったけれど。
 だけど、芸術だって言ってた彫刻、とんでもない出来のヤツばっかりで…。
 宇宙遺産のウサギもそうだし、ヒルマンが頼んだフクロウはトトロになっちゃったでしょ?
 もっと上手に彫れた筈だよ、野菜や果物で花や小鳥が彫れるなら。
 本物そっくりのナキネズミだとか、空を飛びそうなフクロウだとか…。
 どうして彫れなかったわけ、と問い詰めた。素晴らしい腕があったのに、と。
「そりゃあ、作れたかもしれないが…。やれと言われれば…」
 しかし、それを芸術とは言わんだろうが。本物そっくりに彫るってだけじゃ。
「芸術って?」
「独創性ってヤツだ、同じ彫るなら独創性が大切だ。彫刻家としての俺の腕だな」
 同じ木の塊を彫るにしたって、俺の魂のままに彫るんだ。
 本物そっくりに作るんじゃなくて、これはこうだ、と俺の魂が捉えた姿に仕上げるんだな。
 ナキネズミにしても、ヒルマンの注文だったフクロウにしても。
「…それ、ホント?」
 前のハーレイには、そう見えたわけ?
 ナキネズミはウサギみたいに見えてて、フクロウはトトロだったって言うの…?
「いや、それは…。その…」
 そう見えたというわけではなくて…。
 俺の独創性を発揮する前に、こう、基本になる彫刻と言うか…。
 普通に彫るなら、こう彫るべきだ、という当たり前の手本というヤツがだな…。



 何処にも無かったモンだから、というのがハーレイの言い訳。
 ベジタブルカービングや、フルーツカービングのように見本があったならば、と聞かされた話。ナキネズミもフクロウも、基本の形があったら手本に出来たんだが、と。 
 一理あるとは思うけれども、ナキネズミはともかく、フクロウの方。
 ミュウが作り出した生き物ではないし、データベースを端から探せば、彫刻の写真もあった筈。それこそ様々な形のものが。
 だから生まれてくる疑問。ハーレイの話は本当だろうか、と。
「お手本が何処にも無かったから、って言うんだね?」
 それがあったら前のハーレイでも、凄い芸術品を彫り上げることが出来たわけ?
 ナキネズミはウサギにならなくて済んで、フクロウはちゃんとフクロウのままで…。
 きちんとしたのを彫れたって言うの、お手本になる基本の彫刻があれば…?
 本当なの、と問いただしたら、「どうだかなあ…」とハーレイは顎に手を当てた。
「見本はこうだ、と資料を貰ったとしても…。はてさて、出来はどうなったんだか…」
 木の塊と向き合っちまえば、俺の考えが入っちまうしな?
 下絵をきちんと描いていたって、「こうじゃないんだ」と何処かで変えたくなっちまう。
 この通りに彫ったら、そいつは俺の作品じゃない、と思い始めて。
 そうやってあちこち変えていったら、見本とは別のが出来ちまうから…。
「本当に?」
 言い訳にしか聞こえないんだけれども、ハーレイの彫刻の腕が酷かったのは芸術なの?
 本当は上手に彫れるんだけれど、ハーレイが好きに彫ってた結果があれなわけ?
 ナキネズミがウサギになってしまったのも、フクロウがトトロになっちゃったのも。
「芸術っていうのは、そういうもんだと思うがな?」
 世の中の芸術ってヤツを見てみろ、彫刻でも絵でも、何でもいいから。
 これを彫りました、って言われていたって、その通りに見えない彫刻が山ほどあるだろうが。
 絵の方にしても、凄い美人をモデルにしたのに、落書きみたいに見えるヤツとか。



 俺の木彫りもそれと同じだ、とハーレイは大真面目に言い切った。「芸術品だ」と。
 木彫りの腕とはまるで関係無く、魂のままに彫った作品。酷いようでも俺の自慢の作品だ、と。
「ナキネズミがウサギに見えるヤツらが悪いんだ。…フクロウがトトロに見えるのもな」
 俺が違うと言っているんだ、作った俺の言葉が正しい。俺の芸術なんだから。
 そういや、お前…。前の俺にも言わなかったか?
「言うって…。何を?」
 何のことなの、とキョトンとしたら、「今と同じだ」と答えたハーレイ。
「きちんと上手に彫れないのか、と言ってくれたぞ」
 全く違うものに見えるし、酷すぎると。…俺の芸術作品を。
「いつのこと?」
 それって、いつなの、ハーレイが何を彫っていた時?
「いつだっけかなあ…。お前に言われたことは確かで…」
 お前なんだから、ナキネズミってことだけは有り得ない。トォニィがナスカで生まれた時には、お前は眠ってたんだしな。
 フクロウの方も、お前、存在自体を知らなかったから違うわけで…。
 あれは何だったか、俺が彫ってた芸術品は、だ…。
 そうだ、鶏を彫ろうとしてたんだっけな、あの時の俺は。
「鶏?」
 ハーレイ、鶏なんかも彫ってた?
 下手くそな木彫りは幾つも見たけど、鶏も誰かの注文だったの?
「俺が彫りたかったというだけなんだが…。ちょっといいじゃないか、鶏も」
 シャングリラでも飼っていたしな、本物をじっくり見られるだろうが。生きたモデルを。
 雄鶏を彫ったらいいかもしれん、と思い付いたんだ。
 朝一番に時をつくるし、なかなかに堂々としているからなあ…。雄鶏ってヤツは。
「思い出した…!」
 あったよ、ハーレイが彫ってた鶏。
 ハーレイの芸術作品だったし、どう見ても鶏じゃなかったけれど…。



 確かにあった、と浮かび上がって来た記憶。前のハーレイが彫った雄鶏。
 最初の出会いは、キャプテンの部屋へ泊まりに出掛けて行った時。恋人同士になっていたから、たまに泊まったハーレイのベッド。恋人の部屋で過ごす時間が好きだったから。
 その日も夜に出掛けてみたら、ハーレイが机で向き合っていた木の塊。木彫りを始める前の常。
 暫くじっと木を見詰めてから、鉛筆で線を描いてゆく。彫ろうとしている物の下絵を。
 そこそこ大きな塊だったし、興味津々で問い掛けた自分。ハーレイの手許を覗き込みながら。
「今度は何が出来るんだい?」
 スプーンとかではなさそうだけれど、君の得意な芸術だとか…?
「鶏ですよ。雄鶏を彫ってみようと思いまして…」
 雌鶏と違って絵になりますしね、雄鶏は。高らかに鳴いている時などは、特に。
 あの堂々とした姿を彫り上げられたら、この木も大いに満足かと…。スプーンになるより。
 いい作品に仕上げてみせますよ、とハーレイは自信満々だったけれど、日頃の腕が腕だけに…。
(ちっとも期待出来ない、って…)
 前の自分は考えた。ハーレイの腕では、雄鶏など彫れるわけがない、と。
 そうは思っても、雄鶏と聞けば好奇心がむくむくと湧いて来るもの。白いシャングリラの農場で時をつくっている雄鶏。立派な鶏冠を持った鶏。
 ハーレイが彫ったら何が出来るか、ちゃんと雄鶏に見えるかどうか。
 其処が大いに気になる所で、行く末を見届けたくなった。結果はもちろん、彫ってゆく間も。
 下絵では雄鶏らしく見えているのが、どんな形に出来上がるかを。



 木彫りの雄鶏が完成するまで、時々、泊まりに来ようと思った自分。ハーレイがナイフで彫っているのを、側で見学するために。
 何度か足を運ぶ間に、木の塊から雄鶏が姿を現したけれど。雄鶏が生まれる筈なのだけれど…。
「…別の物になって来ていないかい?」
 君は雄鶏だと言っていたよね、とハーレイが彫っている木を指差した。
 「ぼくの目には、これが雄鶏のようには見えないけれど」と。
「…そうでしょうか?」
 雄鶏のつもりなのですが、と彫る手を止めて眺め回したハーレイ。持ち上げてみたり、真横からしげしげ見詰めたりと。
 その結論が「雄鶏ですよ?」と出たものだから、「違うだろう?」と呆れ返った。雄鶏らしくは見えない木。どう贔屓目に見ても、譲っても。
「雄鶏だなんて…。これじゃアヒルだよ、本物のアヒルはシャングリラにはいないけど…」
 君もアヒルは知っているだろう、鶏とは違うことくらいは。…これはアヒルだね。
 クチバシも駄目だし、尻尾の辺りも、本物の雄鶏とは違いすぎるよ。
 雄鶏らしく見せるんだったら、あちこち直してやらないと…。
 ちょっと貸して、とハーレイから奪った雄鶏とナイフ。
 「ぼくが上手に直してあげる」と宣言して。
 ハーレイに「どいて」と椅子を譲らせて、自分が机の前に座って。



 さて、と彫り始めた木彫りの雄鶏。左手で持って、右手にナイフ。
 ハーレイの部屋では恋人同士で過ごすのだから、とうに外していた手袋。ソルジャーの手袋は、二人きりの時には外すもの。他の衣装は着けていたって。
 素手で木彫りに取り掛かったけれど、硬かったのが素材の木。バターのように切れはしないし、削るだけでも一苦労。ほんの僅かな修正でさえも。
(えっと…?)
 どう直すのがいいのかな、とナイフを握って悪戦苦闘する内に…。
「危ない!」
 叫びと共に飛んで来た、ハーレイの緑のサイオンの光。
 アッと思ったら、シールドされていた左手。ハーレイが放ったサイオンで。
 それが弾いたナイフの刃。左手にグサリと食い込む代わりに、キンと響かせた金属音。
「………?」
 ナイフを持ったまま、呆然と見詰めた自分の手許。何が起こったのか、直ぐ分からなくて。
「良かった…。お怪我は無いですか?」
 ブルー、と呼び掛けるハーレイの声で、やっと気付いた。さっき自分が見舞われた危機に。
「…大丈夫だけど……」
 なんともないよ、と返事してから、ナイフを置いて眺めた左手。
 もう少しで怪我をする所だった。ハーレイがシールドしてくれなかったら、雄鶏の木彫りを削る代わりに、自分の左手をナイフで抉って。
 手袋をはめていないから。
 爆風も炎も防げる手袋、ソルジャーの手を守る手袋は、自分で外してしまったから。



 もしもナイフで抉っていたら、とゾッとした左手。木が硬いだけに、上手く削ろうと力を入れていたナイフ。あれが左手を襲っていたなら、掠り傷では済まなかっただろう。
(…当たった所が悪かったら…)
 ノルディに縫われていたかもしれない。パックリと口を開いた傷を。
 「いったい何をなさったのです?」と尋ねられながら、何針も。「手袋はどうなさいました」と睨み付けられて、包帯をグルグル巻き付けられて。
 助かった、とホッと息をついて、「ありがとう」とハーレイに御礼を言った。自分では気付いていなかったのだし、ハーレイが弾いてくれなかったら、間違いなく怪我をしていたから。
「…君のお蔭で助かったよ。もう少しで、ノルディにお説教をされる所だったかも…」
 縫うような傷になっていたなら、酷く叱られただろうね。「手袋を外すとは何事です」と。
 油断してたよ、こういう作業をしている時こそ、あの手袋が役に立つのに…。
 ナイフの怖さを思い知ったけど、君は怪我をしたりはしないのかい?
 手に包帯を巻いた姿は、まるで覚えが無いんだけれど…?
「慣れていますからね、これが私の趣味ですし」
 怪我をするようでは、話になりはしませんよ。ゼルたちにも叱られてしまいます。
 「何をウカウカしとるんじゃ!」と。…手を怪我したなら、舵が握れなくなりますから。
「慣れているのは分かるけれども、最初の頃は?」
 君だって最初は初めての筈だよ、木彫りをするのは。…ナイフには慣れていそうだけれど…。
 厨房でもナイフを使っていたけど、木と野菜とは違うだろう?
「そうですね。慣れなかった頃は、こういう時に備えてシールドですよ」
 キャプテンは手が大切ですから、怪我をしないよう、シールドしながら彫っていました。
 それならナイフが当たったとしても、切れる心配はありませんから。
「…ぼくにもそれを言ってくれれば良かったのに…」
 左手をシールドするくらいのことは、ぼくには何でもないんだから。
「忘れていました、初心者でらっしゃるということを」
 私の作品を直すだなどと仰ったので…。木彫りには慣れてらっしゃるつもりでおりました。
 あなたが木彫りをなさらないことは、誰よりも知っている筈ですのに…。
 ブルー、申し訳ありません。…あなたにお怪我をさせる所でした。私の不注意のせいで。



 無事で良かった、と左手に落とされたハーレイのキス。左手にも詫びるかのように。
 ハーレイの彫刻は下手だけれども、木彫りの腕はいいらしい、と思った自分。その時に、ふと。
 自分と違って、怪我をしないで彫れるのだから。
 雄鶏には見えないような物でも、アヒルにしか見えない木の塊でも。
「…前のハーレイ、腕は良かったんだね、本当に」
 木彫りの腕は確かだったよ。ぼくよりも、ずっと。
「おっ、認めたか?」
 俺の芸術を分かってくれたか、今頃になってしまったが…。前のお前は認めてくれなかったが、そうか、認めてくれるのか。俺も頑張った甲斐があったな、何と言われても。
「怪我をしないで彫れたんだもの。それだけで充分、凄いと思うよ」
 前のハーレイなら、ベジタブルカービングも、きっと出来たね。フルーツカービングだって。
 ナイフだけで花とか鳥とかを彫って、シャングリラの食卓を飾れそう。
 ソルジャー主催の食事会なら、思い切り腕を揮えそうだよ。テーブルに飾れば映えるものね。
「前の俺が知っていさえすればな、あの文化をな…」
 果物や野菜で見事な彫刻が作れるんだ、ということを。そうすりゃ、俺の評価も上がった。
 厨房を離れた後にしたって、趣味の範囲で野菜や果物をナイフで彫って。
「無かったっけね、あんな文化は…」
 ヒルマンもエラも、見付けて来たりはしなかったから…。見付けていたら素敵だったのに。
 前のハーレイの出番が増えるし、評価もグンと上がっていたよ。果物や野菜を彫る度に。
 木彫りは駄目でも、こういうヤツなら凄く綺麗に彫れるんだ、って。
 そういえば、あの雄鶏はどうなったっけ?
 ぼくが直そうとして怪我をしかけた雄鶏、ちゃんと雄鶏に仕上がってた…?
「あれなら、お前に散々笑われて終わりだったが?」
 完成した後に、「何処から見たってアヒルだ」と言われちまってな。直せもしない、と。
「ごめん…。あの時のぼくも、腕はいいんだと思ったけれど…」
 ハーレイの木彫りの腕はいいけど、その腕を使って出来上がるものが酷かったから…。
 やっぱり下手くそなんだよね、って思うしかなくて、あの雄鶏も…。



 出来上がったらアヒルにしか見えなかったから、と肩を竦めた。
 どうしてああなっちゃうんだろうね、と。
「前のハーレイ、本当に腕は良かったのに…」
 怪我をしないで彫れたのもそうだし、ナイフ一本で何でも彫れたのだって上手な証拠。
 木彫りの腕は確かなんだよ、なのにどうして変な物ばかりが出来上がったわけ?
 ナキネズミはウサギで、フクロウはトトロで、雄鶏はアヒルになっちゃったなんて。
「さてなあ…? そいつはお前の思い込みっていうヤツで…」
 前の俺は下手ではなかったんだ。木彫りも、そいつで出来上がる物も。
 芸術っていうのはそうしたモンだろ、理解して貰うまでには時間がかかる。
 とても有名な芸術家にしても、作品が本当に評価されたのは、死んじまった後の時代だとかな。
「…宇宙遺産のウサギは今でもウサギのままだよ、理解されてないよ?」
 誰が見たって、ナキネズミには見えないんだから。…ウサギで通っているんだから。
「しかし、あれは立派な宇宙遺産だぞ。評価はされてる」
 キャプテン・ハーレイの木彫りの腕も、立派に評価されたってな。
 ああして宇宙遺産になってだ、特別公開される時には大勢の人が並んで見物するんだから。
「言い訳にしか聞こえないけど…」
 ナキネズミがウサギになっちゃったことは、どうするの?
 ウサギと間違えられちゃったから、ミュウの子供が沢山生まれますように、ってお守りで…。
 ナキネズミのままだと、ただのオモチャで終わりなんだよ、あのウサギは。
「どうだかな? 前の俺なら、ベジタブルカービングだって出来たんだ」
 やろうと思えば作れたわけで、そういう文化が無かっただけで…。
 俺の木彫りの腕は確かだ、だからこそ宇宙遺産のウサギも見事に彫れたってな。
「…野菜や果物を彫るのを見てれば、みんなの評価も変わってたかな?」
 ナキネズミもフクロウも、ハーレイの芸術作品なんだ、って。…下手なんじゃなくて。
「そうかもなあ…」
 実は綺麗な物も彫れるんです、と腕前を披露するべきだったか…。
 生憎とチャンスは無かったわけだが、野菜や果物で花だの鳥だのを見事に彫って。



 スプーンやフォークを彫っていたんじゃ、俺の本当の腕は分かって貰えないしな、とハーレイが浮かべた苦笑い。「ナイフ一本で彫れる凄さを、披露するチャンスを逃しちまった」と。
 前の自分たちが生きた時代に、ベジタブルカービングは無かったから。フルーツカービングも。
 ナイフ一本で野菜や果物に施す彫刻、それを愛でるという文化も。
 今の時代なら、ハーレイの腕を生かせそうなのに。ナイフ一本で彫刻する腕、それを生かす場がありそうなのに。
「…ねえ、今のハーレイにはホントに無理なの?」
 ベジタブルカービングとかは出来そうにないの、木彫りをやっていないから…?
 包丁でお魚とかを上手に切れても、野菜や果物に彫刻は無理…?
「やってみたことがないからなあ…。やろうと思ったことだって無いし」
 いつか試すか、お前と一緒に。
 料理のついでに、ちょいと綺麗に飾りを作ってみるっていうのも悪くはないぞ。
 食卓を凝った彫刻で飾れて、果物だったら後で丸ごと食えるしな。
「一緒にって…。ぼく、今度こそ怪我をしそうだよ!」
 左手、シールド出来ないんだから…。美術の授業の、彫刻刀だって怖いんだから…!
「今度は俺も怪我をするかもしれないぞ。今の時代は、サイオンは使わないのが基本だからな」
 俺だって使わないのが好みで、もうキャプテンでもないわけだから…。
 左手をグサリとやっちまうかもな、前の俺なら使い慣れてた筈のナイフで。
 だが、野菜や果物は木彫りよりかは、柔らかい分だけ彫りやすいし…。
 手が滑らないように気を付けていれば、木彫りよりは怪我も少ないだろう。
 怪我をしたって、前のお前が危なかったみたいな、縫うような怪我にはならんだろうし…。
「だったら、二人で練習してみる?」
 ぼくは初心者だから、彫刻刀で彫る所から。…ハーレイは最初からナイフ一本で。
「それもいいなあ、前の俺たちに戻ったつもりで」
 きっと楽しいぞ、野菜や果物を彫ってみるのも。
 前のお前は彫刻刀を使っちゃいないが、今のお前は彫刻刀なら使えるからな。



 どうだ、と誘って貰ったから。
 ナイフ一本で木彫りをしていた、ハーレイからの誘いだから。
 結婚した時にも覚えていたなら、二人であれこれ彫ってみようか。
 野菜や果物をナイフ一本で、それに彫刻刀で。
 今のハーレイの腕前はどうか、本当に綺麗に彫れるのか。変な芸術にならないで。
 野菜や果物で出来た花やら、鳥たちやら。
 ハーレイと二人で綺麗に彫れたら、きっと最高に楽しい筈。
 前の自分たちは全く知らなかったもので、今ならではの文化だから。
 蘇った青い地球に来たから、そんなものをナイフで、彫刻刀で彫れるのだから…。




            木彫りとナイフ・了

※出来上がった作品は散々でしたが、木彫りの腕だけは確かだったらしい、前のハーレイ。
 野菜やフルーツも、ナイフ一本で彫れたかもしれません。あの時代に、それがあったならば。
 パソコンが壊れたせいで2月になった、1月分の2度目の更新。今月は普通に2度目です。
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※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




シャングリラ学園、今日も平和に事も無し。桜の季節が終わって新年度スタートに伴うドタバタも終了、私たちは今年も不動の1年A組。担任はグレイブ先生です。もうすぐ朝のホームルームが始まりますけど、ここに困った問題が。
「…キース先輩、まだ来ませんよ?」
「変だよなあ…。欠席、昨日までの筈だぜ」
昨日の夜には帰った筈で、とサム君が。
「アレだろ、大学の同期の寺の法要だろ? なんか飛行機で」
「そうみたいねえ、キースの大学、お坊さんの世界じゃエリート大学らしいものね」
全国区で学生が集まるのよね、とスウェナちゃん。
「何処まで行ったんだったかしら? 遠かったわよね、飛行機なほどに」
「電車も通ってはいますけどねえ…」
あそこは流石に飛行機の方が早いですよ、とシロエ君。
「でも、最終便で飛んだとしたって、今日は学校に来る筈ですけど」
「飛行機、飛ばなかったとか?」
そういうこともあるし、とジョミー君が言い、マツカ君も。
「その可能性はありますね。だとしたら今日は欠席ですか…」
「この時間に来てなきゃ、それっぽいよな?」
来ねえもんな、とサム君が教室の扉の方を眺めた所で予鈴がキンコーンと。暫く経ったら本鈴が鳴って、グレイブ先生が靴音も高く現れて。
「諸君、おはよう。…それでは今から出席を取る」
グレイブ先生は順に名を呼び、キース君の所になると。
「キース・アニアン…。欠席だったな」
よし、と名簿をペンで叩いてますから、欠席の連絡があったのでしょう。飛行機、飛ばなかったんでしょうか、そういうケースもありますよねえ?



グレイブ先生はキース君の欠席理由を言わなかったため、飛行機が飛ばなかったんだと思った私たちですが。休み時間に携帯端末を操作していたシロエ君が「えっ?」と。
「なんだよ、どうかしたのかよ?」
サム君の問いに、シロエ君は。
「いえ…。キース先輩が乗る予定だった飛行機、ちゃんと飛んでますよ?」
「「「え?」」」
まさか、と顔を見合わせた私たち。
「最終便は飛んだかもしれねえけどよ、他の便かもしれねえぜ?」
欠航しちまって、最終便も満席で乗れなかったとか、とサム君が意見を述べましたけれど。
「その線は、ぼくも考えました。…でもですね、昨日の便は全部飛んでるんですよ」
定刻通りのフライトです、とシロエ君。
「ついでに、こっちの空港の方も調べましたけど…。せいぜい五分遅れの到着くらいで」
「マジかよ、それじゃキースは飛行機、乗ってねえのかよ?」
「さあ…。帰っては来たのかもしれませんが…」
法要疲れで今日は欠席ということも、とシロエ君は心配そうな顔。
「キース先輩に限って、それだけは無さそうなんですけれど…。それが本当に休みとなったら…」
「相当に具合が悪いってこともあるよね、うん」
風邪は無いだろうけど食あたりとか、とジョミー君が。
「遠い所まで行ったわけだし、法要の他にも観光とかに連れて貰っていそうだし…。珍味だからって何かを食べてさ、あたったとか」
「「「あー…」」」
それはあるかもしれません。地元の人なら慣れた味でも、観光客の舌には合わないというケース。普通だったら「不味い」と残してしまう所を「もったいないから」と食べそうなのがキース君です。無理をして食べて、自分は良くても身体が悲鳴を上げたとか…。
「…やっぱり、食あたりの線でしょうか?」
シロエ君が見回し、スウェナちゃんが。
「風邪よりは、そっちがありそうよねえ…」
「そうですよねえ…。明日は来られるといいんですけど、キース先輩」
早く治るといいですよね、というシロエ君の台詞で、欠席理由は食あたりに決定してしまいました。何を食べたんでしょうか、キース君。早く治るといいんですけど…。



キース君の欠席で一人欠けた面子。とはいえ、法要で一昨日からお休みでしたし、それが一日延びただけ。こんな日もあるさ、と放課後は「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋へ揃って出掛けて行ったんですけど…。
「かみお~ん♪ 授業、お疲れ様!」
「いらっしゃい。キースが一足お先に来てるよ」
「「「えっ!?」」」
なんで、とビックリ、会長さんの言葉通りにソファに座っているキース君。「よっ!」と軽く右手を挙げて。
「すまん、急いで来てみたんだが…。最後の授業の後半に滑り込んでもな…」
無駄に迷惑を掛けるだけだからこっちに来た、とキース君。
「コーヒーだけで待っていたんだ、一人だけ菓子を食うのも悪いし」
「…キース先輩、食あたりだったんじゃないんですか?」
シロエ君が口をパクパクとさせて、キース君は不審そうな顔。
「食あたりだと? 何処からそういう話になったんだ、シロエ」
「え、えっと…。先輩が乗る筈だった飛行機は全部飛んでましたし、欠席となったら食あたりという線じゃないかと…。地元密着型のグルメで」
「そういうものなら御馳走になったが、俺はそんなに腹は弱くない!」
もっとも、まるでハズレというわけでもないが…、とキース君。
「法要の後で食べに行かないか、と誘って貰って車で出掛けた。それが欠席の原因ではある」
「…食あたりとは違うのに…ですか?」
「ああ。美味しく食べて、ちゃんと車で空港まで送って貰ったんだが…。おっと」
菓子が来たか、とキース君が言葉を切って、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「今日はイチゴのジャンボシュークリーム! はい、どうぞ!」
イチゴたっぷりだよ! と配って回られた大きなシュークリームが乗っかったお皿。飲み物の注文も取って貰ってティータイムですけど、キース君の欠席転じて放課後だけ登校って、いったい何があったんでしょう…?



「…実はな、飛行機に間に合わなかったんだ」
最終便に乗り損なった、とキース君はシュークリームを頬張りながら報告を。
「仕方ないから朝一番の便で、と思ったんだが、これが満席で…。次の便にキャンセル待ちで乗れたが、こっちの空港で荷物が出るのが遅れたりして…」
なんだかんだで学校には間に合わなかったんだ、とキース君。そういうケースも想定したため、朝一番で学校に欠席の連絡をしたのだそうで。
「…乗り損なったんですか、最終便…」
まさか空港で転んだとか、とシロエ君が尋ねると。
「いや、そうじゃない。…空港に着いた時には離陸して行く飛行機が見えたな」
俺が乗る筈だったヤツが、ということは…。道が混んでましたか?
「渋滞したらマズイから、と早めに出ては貰ったんだが…。途中で踏切に捕まったんだ!」
「「「踏切?」」」
「そうだ、電車の踏切だ!」
そこで全てが狂ってしまった、とキース君はブツブツと。
「一本通過するだけなんだが、その電車が途中でトラブルらしくて…。閉まった踏切が開いてくれんのだ、信号か何かの関係で!」
「「「あー…」」」
それは不幸な、と誰もが納得。踏切は一つ間違えたら事故になりかねない場所、一度閉まったらそう簡単には開きません。たとえ電車が止まっていても。
「…電車の駅がすぐそこだったら、駅員さんが駆け付けて対応出来るんだろうが…」
「近くに駅が無かったんですか?」
「あるにはあったが、立派な無人駅だったんだ!」
どうにもならん、と頭を振っているキース君。結局、踏切は多くの車を踏切停止に巻き込んだままで閉まり続けて、後ろからは何も知らない車が次々来る始末で。
「…バックで出ようにも、横道に入ろうにも、逃げ場無しでな…」
やっとのことで踏切が開いて、キース君を乗せた同期のお坊さんはスピード違反ギリギリの速度で突っ走ってくれたらしいのですけど、目の前で離陸して行ってしまった最終便。キース君は法要があったお寺に逆戻り、もう一泊して帰って来たというわけで…。



「開かずの踏切だったんですか…」
踏切相手じゃ勝てませんね、とシロエ君。
「お疲れ様でした、キース先輩。…食あたりだなんて言ってすみませんでした」
「いや、地元グルメは本当だから別に…。ただ、あの踏切には泣かされた」
いくら電車とぶつからないためだと分かってはいても、あの遮断機が恨めしかった、とキース君は嘆いています。何度も時計を見ては焦って、次第に諦めの境地だったとか。
「なんとか乗れるように頑張ってやる、と言ってはくれたが、ヤバイというのは分かるしな…」
「そうだろうねえ、刻一刻と時間は過ぎてゆくわけなんだし」
あった筈の余裕が削られてゆくのは非常に辛い、と会長さん。
「ぼくみたいに瞬間移動が出来れば、「失礼するよ」と車から消えて終わりだけどさ」
「俺にあんたの真似が出来るか!」
「うん、だからこそ飛行機に乗り損なって放課後ギリギリの登校だよねえ…」
踏切ってヤツは最強だよね、と会長さんは笑っています。「普通人だと勝てない」と。
「あれは瞬間移動で抜けるか、踏切の上を飛び越えるか…。どっちにしたってサイオンが無いと」
「かみお~ん♪ ぼくも踏切、抜けられちゃうよ!」
引っ掛かったら瞬間移動で通るもん! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「周りに人はいないかな~、って見てからパッと!」
「「「うーん…」」」
そういう技は私たちにはありません。遮断機が下りたらそこでおしまい、電車の通過を黙って待つだけ。たとえ飛行機が飛んでゆこうが、乗る予定だった電車が走り去ろうが。
「…踏切、ホントに最強っぽいね…」
アレに捕まったらおしまいだもんね、とジョミー君も言ってますけど、事故防止には欠かせないのが踏切。遮断機が下りてくれるからこそ、電車とぶつからずに済むわけで…。
「…それはそうだが、俺のような目に遭ってしまうと恨むぞ、踏切」
「なまじ最強の相手なだけに、文句も言えませんからねえ…」
文句があるなら黙って電車とぶつかってこい、と叱られそうです、とシロエ君が零した言葉に、会長さんが「そうか、踏切…」と呟いて。
「踏切があったらいいんだけどね?」
「「「へ?」」」
踏切って、何処に踏切があればいいんでしょう? 通行人には迷惑っぽい踏切ですけど…?



キース君が捕まってしまった開かずの踏切。そうでなくても通行するには困り物なのが踏切だという流れだったと思いますけど、「あったらいいのに」と会長さんの妙な台詞が。
「あんた、踏切の肩を持つのか、いくら自分は引っ掛からないのか知らないが!」
俺はあいつのせいで欠席になってしまったんだが、とキース君が噛み付くと。
「えーっと、本物の踏切じゃなくて…。それっぽいモノ…?」
「「「それっぽい…?」」」
ひょっとしてオモチャの踏切でしょうか、電車の模型を走らせる時とかについてくるヤツ。電車好きの人だと本格的なのを家の敷地内で走らせて駅だの踏切だのと…。
「ううん、電車を走らせるわけでもないんだな。…相手は勝手に走って来るから」
「「「はあ?」」」
何が走って来るというのだ、と顔を見合わせ、キース君が。
「イノシシか? 確かにヤツらは墓地で暴れるしな、踏切で遮断出来たら有難いんだが…」
こう、警報機が鳴って遮断機が下りたらイノシシが入れない仕組みとか…、と。
「そっち系で何か開発するなら、ウチの寺にも是非、分けてくれ!」
「うーん…。それはイノシシを止める方だし…」
ぼくが思うのとは逆のモノかも、と会長さん。
「ぶつかりたくないという意味ではイノシシに似てはいるんだけどさ…。止めるよりかは、通過させた方がマシっぽいかな、と」
「なんですか、それは?」
意味が全く謎なんですが、とシロエ君が口を挟むと、会長さんは。
「アレだよ、アレ。…何かって言えばやって来る誰か」
「「「あー…」」」
理解した、と無言で頷く私たち。その名前を出す馬鹿はいません、来られたら真面目に困りますから、名前を出すのもタブーなソルジャー。別の世界から来る会長さんのそっくりさんで…。
「アレが来た時に遮断機が下りて、ぼくたちとアレの間をキッチリ分けてくれればねえ…」
「なるほど、アレだけが勝手に走り去るわけだな、遮断機の向こうを」
そういう踏切なら俺も欲しい、とキース君。
「たとえ開かずの踏切だろうが、有難いことだと合掌しながら通過を待つな」
「ぼくもです! お念仏は唱えませんけど、踏切に文句は言いませんよ」
アレとぶつからずに済むのなら…、とシロエ君も。私だって欲しい踏切ですけど、会長さんのサイオンとかで作れませんかね、その踏切…?



別の世界から踏み込んで来ては、迷惑を振り撒いて去ってゆくソルジャー。歩くトラブルメーカーと名高いソルジャーと遭遇せずに済むなら、踏切の設置は大歓迎です。遮断機が下りているせいで「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に入れなくなるとか、会長さんの家に行けないオチでも。
「あんた、作れるのか、その踏切を?」
サイオンでなんとか出来そうなのか、と開かずの踏切の恨みも忘れたらしいキース君。
「作れるんなら、是非、作ってくれ! アレとぶつからない踏切を!」
「会長、ぼくからもお願いします! 文句は絶対、言いませんから!」
ぶるぅの部屋に入れなくても表で待っていますから、とシロエ君も土下座せんばかりで。
「会長の家に出掛けた時にエレベーター前で三時間待ちでも、本当に黙って待ってますから!」
「俺もだぜ。まだ遮断機が上がらねえのかよ、なんて言わねえよ、それ」
踏切は事故防止のためにあるんだからよ、とサム君も賛成、ジョミー君たちも。
「作れるんなら作ってよ! 閉まりっ放しの踏切になってもいいからさ!」
「そうよね、開かずの踏切になってしまっても、ぶつかるよりずっといいものねえ…」
「ぼくもです。…踏切、作れそうですか?」
マツカ君までがお願いモードで、私たちもペコペコ頭を下げたんですけど。
「…どうだろう? なにしろ相手はアレだからねえ…」
接近を感知して遮断機を下ろす所からして難しそうだ、と会長さん。
「電車と違って、定刻に走っているわけじゃないし…。信号機だって無いんだし…」
「そうだな、時刻表も信号も無視の方向だな、アレは」
俺の家の墓地に出るイノシシと変わらん、とキース君が溜息を。
「これから行きます、と予告して走って来るわけでもなし、踏切は無理か…」
「ぼくのサイオンがもう少しレベルが高かったらねえ…」
来るぞと思った所で遮断機を下ろすんだけれど、と会長さんも残念そうに。
「でもって、後は通過待ちでさ…。走り去るのを待つってだけなら、どんなにいいか…」
「やはり無理だというわけだな?」
開かずの踏切以前に設置が無理なんだな、とキース君が尋ねると。
「それもそうだし、アレの方がね…。踏切があっても、乗り越えて走って来そうだってば」
「「「うわー…」」」
電車の方から飛び出して来たのでは勝てません。けれど相手はアレでソルジャー、踏切できちんと待っていたって、遮断機の向こうから出て来そうです、はい~。



あったら嬉しいソルジャー遮断機、けれども実現は不可能っぽい夢のアイテム。それさえあったら何時間でも通過を待てる、と誰もが思っているんですけど。
「…いろんな意味で難しいんだよ、ぼくも出来れば欲しいんだけどね…」
アレとぶつからないで済む踏切、と会長さんが言った所へ。
「こんにちはーっ!」
遊びに来たよ、と飛び込んで来たのが当のソルジャー、ふわりと翻った紫のマント。空いていたソファにストンと腰掛け、「ぼくにもおやつ!」と。
「オッケー、ちょっと待っててねーっ!」
キッチンに走った「そるじゃぁ・ぶるぅ」がイチゴのジャンボシュークリームと紅茶を持って戻って来て、ソルジャーは「ありがとう」とシュークリームにフォークを入れながら。
「…キースが災難だったんだって?」
「あ、ああ…。飛行機に乗り損なったというだけなんだが」
「開かずの踏切だったんだってね、踏切は何かと面倒だよねえ…」
ノルディとドライブしている時にも捕まっちゃうし、とソルジャー、相槌。
「車ごと瞬間移動で抜けられないこともないんだけれど…。こっちの世界のルールもあるしね」
踏切くらいは我慢しようと思っていた、と言うソルジャー。
「だけど、ブルーとぶるぅは我慢してないみたいだねえ? さっきの話じゃ」
「う、うん…。まあ…。時と場合によるけれど…」
「かみお~ん♪ ちゃんと待ってることも多いよ、踏切!」
電車がすぐに通るんだったら待つんだもーん! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」はニコニコと。
「どんな電車が走って来るかな、って見てて、手を振る時だってあるし!」
「そうなのかい?」
「うんっ! 運がいいとね、沢山の人が電車から手を振ってくれるの!」
それが楽しみ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。確かに小さな子供が手を振っていたら、振り返してくれる人も多そうです。ソルジャーは「なるほどねえ…」と顎に手を当てて。
「踏切はコミュニケーション手段としても役立つわけだね、手を振るとかで」
「それはまあ…。ぶるぅみたいな子供の場合は…」
「だったら、作ってみる価値はあるね! その踏切!」
「「「はあ?」」」
ソルジャーとぶつからないように踏切を作れないかという話だったと思うんですけど、ソルジャーが自分でその踏切を作るんですか…?



会長さんが作りたかったソルジャー遮断機、夢の踏切。けれど無理だと諦めの境地だった所へ来たのがソルジャー、しかも「踏切を作ってみる価値はある」という発言。
「…君が踏切を作るのかい?」
どういうヤツを、と会長さん。
「まさか本物じゃないだろうねえ、それは法律に反するからね!」
踏切は勝手に設置出来ない、とソルジャーに釘を。
「此処に踏切があればいいのに、と思ったとしても作れないんだよ、許可が出ないと!」
「ふうん…? 面倒なんだね、踏切ってヤツは」
「電車がスムーズに走れるようにという意味もあるし、事故を起こさないためでもあるし…。色々と決まりがややこしいんだよ、踏切は!」
「本物はそうかもしれないけれど…。君が言ってたようなヤツならいいんだろう?」
ぶつからないように作る踏切、とソルジャーは会長さんを見詰めて。
「ぼくとぶつからないようにしたいんだっけね、君の理想の踏切は?」
「…そ、そうだけど…。でも、そこまで分かってくれているなら、踏切は別に…」
要らないと思う、と会長さん。
「君が自分で心得てくれればいいだけのことで、踏切で遮断しようとまでは…。君にも事情があるんだってことは知っているから」
こっちの世界でストレス解消してるんだよね、という確認にソルジャーは。
「その通り! SD体制で苦労しているぼくにとっては、こっちの世界はパラダイス!」
ついでに地球だし余計に美味しい、と満面の笑顔。
「おまけに君たちとも遊べるんだしね、今度は踏切で遊んでみたいと!」
「「「踏切?」」」
どう遊ぶのだ、と思いましたが、ソルジャー遮断機な踏切だったら、遮断機を越えて出て来るソルジャーとぶつからないように逃げ回るだとか、そういうゲームをするんでしょうか?
「えーっと…。コミュニケーションとしては、それも面白いんだけど…」
鬼ごっこみたいでいいんだけれど、と言うソルジャー。…その踏切、他に遊び方がありますか?
「遊び方と言うより、踏切の仕組みが別物かな、うん」
「「「別物?」」」
どんな踏切を作る気でしょうか、ソルジャー遮断機と似たような感じで、かつ別物の踏切って?



踏切で遊びたいと言い出したソルジャー、基礎になるものは会長さんのアイデアの筈。ソルジャーが暴走している時でも遮断機が下りて待てば済むだけ、暴走ソルジャーが去って行ったら踏切が開いて通れる仕組みだと思いましたが…。
「そう、そこなんだよ、踏切は電車と人とが出会う場所なんだよ!」
片方は待って、片方は通過してゆく場所で…、とソルジャーは指を一本立てました。
「…でもね、さっき、ぶるぅが言ってたみたいに、電車に手を振る人もいるわけで…。電車の方でも手を振るわけで!」
「それは電車が手を振るっていう意味じゃないから!」
乗客だから、と会長さんが間違いを正すと、「分かってるってば!」という返事。
「そのくらいは分かるよ、だけどアイデアが出来たんだよ! 踏切を使ってコミュニケーション、うんと仲良くなれる方法!」
「「「…へ?」」」
ソルジャーと仲良くなるんでしょうか、踏切の向こうを暴走中の? 今でも充分に仲がいいんだと思ってましたが、もっと仲良くしたいんですかね?
「だから、別物だと言ったじゃないか! 踏切の仕組みが!」
まるで違うのだ、とソルジャー、キッパリ。
「この踏切はね、ある意味、開かずの踏切に近いものかもねえ…」
「「「開かずの踏切?」」」
「そうだよ、行く先々で踏切に出会って通れなかったら、開かずの踏切みたいだろう?」
「…何を作る気?」
何処へ行っても君とバッタリ出会う仕組みじゃないだろうね、と会長さんが訊くと。
「惜しい! もうちょっとってトコだよ、出会いの踏切には違いないしね!」
「「「…出会いの踏切?」」」
ますます分からん、と首を捻った私たちですが、ソルジャーは。
「そのまんまだよ、出会うんだよ! 踏切があれば!」
「…誰に?」
会長さんの問いに、ソルジャーが「出会いで察してくれたまえ」と。
「もうハーレイしかいないじゃないか、こっちの世界の!」
「「「教頭先生!?」」」
教頭先生と出会う踏切って、どんなのですかね、しかも開かずの踏切ですよね…?



ソルジャー曰く、出会いの踏切。それを作ると教頭先生に出会うって…。どういう仕組みの踏切でしょうか、まるで全く謎なんですけど…。
「平たく言うとね、ブルー限定の踏切なんだよ、ぼくじゃなくって、こっちのブルーで!」
そこのブルー、とソルジャーが指差す会長さんの顔。
「ブルーが歩くと出くわす踏切、行く先々でハーレイとぶつかる羽目になるってね!」
「「「ええっ!?」」」
どういうヤツだ、と思いましたが、ソルジャーは自信満々で。
「ぼくはブルーと違って経験値が遥かに高いからねえ、もう簡単なことなんだよ! ブルーとこっちのハーレイの間をちょちょっと細工するだけで!」
「何をするわけ?」
会長さんの声が震えていますが、ソルジャーが気にする筈などが無くて。
「出会えるようにと行動パターンをシンクロさせれば、それでオッケー! 何処へ行ってもバッタリ出会えて、挨拶するしか無いってね!」
出会ったからには挨拶だろう、と極上の笑み。
「ただでも教師と教え子なんだし、別の方面だとソルジャーとキャプテンって関係になるし…。無視して通るというのは無いねえ、それにハーレイはブルーにぞっこん!」
たとえブルーが無視したとしても、ハーレイからは挨拶が来る、と鋭い指摘も。
「一度目は偶然で済むだろうけれど、何度も重なれば偶然とは思えないからねえ…。ハーレイにしてみれば運命の出会いで、もう間違いなく赤い糸だよ!」
そういう糸があるらしいじゃないか、とソルジャーは自分の左手の小指を右手でキュッと。
「小指と小指で赤い糸なんだってね、いつか結婚する二人! それで結ばれているに違いないとハーレイが思い込むのが見えるようだよ、出会いの踏切!」
「迷惑だから!」
そんな踏切は要らないから、と会長さんが叫びましたが、ソルジャーにサラッと無視されて。
「素晴らしいよね、運命の赤い糸に引かれて出会う踏切! ブルー限定!」
「だから、要らないと言ってるのに!」
「ダメダメ、こうでもしないと出会えないしね、もう永遠に!」
「出会いたいとも思わないから!」
あんなのと出会う趣味は無いから、と懸命に断る会長さん。けれどソルジャーは自分の素敵なアイデアに夢中、これは諦めるしか道は無いんじゃあ…?



出会いの踏切は御免蒙ると、お断りだと会長さんは必死に言ったのですけど。ソルジャーは「照れないで、ぼくに任せておいてよ」と片目をパチンと。
「踏切の話が出たのも何かの縁だし、キースが開かずの踏切に捕まって飛行機に乗り遅れたのも、神様からのお告げなんだよ! 出会いの踏切を作れという!」
「お、お告げって…。神様って、それは絶対、違うと思う…!」
キースが出掛けた先はお寺で…、と会長さんが「違う」と主張し、キース君も。
「神様の線は限りなく薄いと思うんだが…。そりゃまあ、行った先の寺の境内にはお稲荷さんの祠もあったが、主役は仏様でだな…!」
「そこはどうでもいいんだよ! 神様だろうが、仏様だろうが、細かいことは!」
誰のお告げかは細かいことだ、とソルジャーも負けてはいませんでした。
「とにかく、ぼくはお告げを受けたし、受けたからには引き受けなくちゃね! ブルーよりも強いサイオンを持っているというメンツにかけても、ここは踏切!」
出会いの踏切を作らなくては、とソルジャーが立てた右手の人差し指。
「えーっと…。まずはブルーで…」
スイッと指が円を描いて、私たちは「ん?」と。
「今の、なんだよ?」
サム君が訊いて、ジョミー君が。
「さあ…? 別になんにも見えなかったけど…?」
いつもだったら青いのがキラッと光る筈で、と言い終わらない内に、ソルジャーの指がスッと壁の方へ。あの方向には本館があったと思います。教頭室も入っている本館。
「お次が、こっち、と。よし、ハーレイは仕事中だし…」
こんな感じで、とスイッと円が描かれ、それから左手の指も出て来てチョイチョイと。えーっと、何かを結んでるように見えますが…?
「はい、正解! 結んだってね、別にやらなくてもいいんだけれど…。ビジュアルってヤツも大切かなあ、と思ってね!」
運命の赤い糸を結んでみましたー! とソルジャーは胸を張りました。
「これで出会いの踏切は完璧、行く先々でバッタリと!」
「ちょ、ちょっと!」
ぼくは頼んでいないんだけど、と会長さんが慌てましたが、ソルジャーの耳には聞こえないのか、都合よく聞き間違えているのか。
「遠慮しないで、受け取っておいて! ぼくのプレゼント、出会いの踏切!」
お幸せにー! と消えたソルジャー、自分の世界へ帰ってしまったみたいですねえ…?



「…出会いの踏切って…」
迷惑にもほどがあるだろう、と会長さんはプリプリと。
「行く先々でハーレイとバッタリで運命の糸って、有り得ないから! それ自体が!」
「それは運命の糸の方なのか、バッタリ出会う方か、どっちだ?」
キース君の問いに、「両方だよ!」と会長さん。
「ぼくとハーレイの間に赤い糸なんかがあるわけがないし、バッタリ出会う方だって無いね! ぼくとハーレイの行き先が重なることなんて無い!」
現に今日だって帰るだけだし…、と会長さんがフンと鼻を鳴らして、「そるじゃぁ・ぶるぅ」も。
「えとえと…。瞬間移動で帰っちゃうんだし、ハーレイと会う場所、何処にも無いよね…」
「ほらね、ぶるぅもそう言ってるし! 会うわけがないよ!」
あれはブルーの脅しも入っているのだろう、と会長さん。
「いくらブルーでも、出会いの踏切とやらを簡単に作れるわけが…。信じて引きこもったら負けってことだよ、人間、大いに出歩かないとね!」
今日は帰って寝るだけとはいえ、この先も存分に出歩いてなんぼ! と会長さんは出会いの踏切を否定しました。騙されたらぼくの負けだから、と。
「…というわけでね、ブルーの罠には引っ掛からないよ。あ、そろそろ帰る時間だっけ?」
「そうだな、今日は邪魔をした」
早い時間から押し掛けてすまん、とキース君が謝ると、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「ううん、お客様は大歓迎! いつでも来てね!」
「そう言って貰えると有難い。…じゃあ、また明日」
帰ろうか、と立ち上ったキース君と前後して私たちも溜まり場に別れを告げることに。鞄を手にして壁をすり抜け、生徒会室から廊下へと出て歩き始めましたが…。
「あっ、忘れたあ!」
ぶるぅの部屋に携帯端末を置き忘れて来た、とジョミー君が鞄の中を探って、「無い…」と。
「ちょっと取ってくる、少し待ってて!」
「ウッカリ者だねえ…。ちゃんと届けに来たってば」
はい、と会長さんが現れて携帯端末を手渡し、ジョミー君が「ありがとう!」と返した所へ。
「おっ、お前たち、今、帰りか?」
良かったら飯でもおごってやろう、という声が。まさかまさかの教頭先生、これって偶然会っただけですよね、そうですよねえ…?



何故だかバッタリ出会ってしまった教頭先生、それに会長さん。もちろん会長さんはギョッとした筈ですが、そこは教頭先生をオモチャにして長いだけあって、平然と。
「晩御飯、おごってくれるって? ぼくの好みの店は高いよ?」
ついでに、みんなのタクシー代も出してくれるんだろうね、と注文を付けられた教頭先生は。
「任せておけ! 何処へ行くんだ、いつものパルテノンの焼肉屋か?」
「それもいいけど、たまに串カツの店もいいかな、と…。ねえ、ぶるぅ?」
「うんっ! 活けの車海老とかを揚げてくれるの、美味しいんだよ!」
あそこがいいな! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」も。そのお店には何度も行ってますけど、ハッキリ言って高いです。とても串カツとは思えないお値段、そういうお店。けれど教頭先生は…。
「分かった、私の車とタクシーで行こう。誰が私の車に乗るんだ?」
「「「え、えーっと…」」」
どうしようか、と会長さんを除いた面子でジャンケンで決めたんですけれど…。狙ったかのように柔道部三人組が乗ることになったんですけれど…。
「…おい、怖くないか?」
有り得ないことが起こっていないか、とキース君に訊かれたタクシーの車内。そう、教頭先生の車に乗って行く筈だったキース君がジョミー君と一緒に乗っています。
「うん、怖い…。ブルーがあっちに乗ってるだなんて…」
信じられないよね、とジョミー君も。私たちは学校前でタクシーを二台止めたんですけど、どうしたわけだか、タクシーの車内は芳香剤の匂いが効きすぎていました。一台は異様にオレンジの香りで、もう一台は先にお坊さんの団体様でも乗せていたのかと思うほどの抹香臭さで。
「…あいつが自分で選んだ道だが、予言通りになってるぞ」
教頭先生と出会いまくりだ、とキース君がタクシーの後ろを眺めて、ジョミー君が。
「だよねえ、キースと交代だなんて…」
どうかと思う、と頭を振っているジョミー君。運転手さんには言えませんけど、こちらが抹香臭い一台。会長さんならシールドで防ぐとか方法は色々ありそうな気がするというのに、オレンジの香りの車を見送った後のがコレだと知ったらキース君を捻じ込んで行ったのでした。
「…俺なら職業柄、慣れているだろうとは言いやがったが…」
「ブルーも思い切り、同業者だよね?」
しかも緋色の衣なんだけど、とジョミー君。伝説の高僧、銀青様が会長さんのもう一つの顔。遊びに行く時にそっちの顔は遠慮したかったのかもしれませんけど、教頭先生の車に乗って行くだなんて、例の踏切に引っ掛かったりしてないでしょうね…?



これが出会いの踏切の始まり、もう次の日から会長さんは行く先々で教頭先生とバッタリ出くわす運命に陥ってしまいました。学校はもちろん、買い物に出掛けた店でバッタリ、道でもバッタリ会うというのが恐ろしいです。
「…ど、どうしよう…。ハーレイが勘違いし始めてるのが分かるんだけど…」
運命を感じちゃってるみたいで、と会長さんが愚痴る放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋。今日も今日とてバッタバッタと出会いまくりで、昼御飯も一緒に食べる羽目になったのだとか。
「教職員専用食堂も悪くないけど…。ぶるぅもおごって貰えるんだけど…」
なんだって二日に一度というハイペースであそこで食事なのだ、と嘆かれたって困ります。教頭先生とバッタリ会うから誘われるわけで、会わなきゃ誘われないわけで…。
「それは確かにそうなんだけど…! 会ったからにはおごらせてやる、と考えちゃうのも間違いないけど、ハーレイの方では、そろそろ運命…」
赤い糸を夢見ているらしくって、と会長さんが見ている自分の小指。
「このまま行ったら、その内、いつも花束を抱えて歩きかねないから! 学校はともかく、外で買い物とか、散歩の時には!」
「…まるで無いとは言い切れないな。そのパターンもな」
元から惚れてらっしゃるんだし…、とキース君。
「出会いの踏切とはナイスなネーミングだったと思うしかないな、あんたが花束を貰うようになった暁にはな」
「そういうつもりは無いんだってば! 運命の糸も、花束を貰うパターンってヤツも!」
会長さんが反論すると、キース君は。
「しかしだ、あんた、婚約指輪も確かあるんじゃなかったか? 受け取らないで突っ返しただけの高い指輪が」
「「「あー…」」」
あったっけ、と思い出してしまったルビーの指輪。教頭先生が思い込みだけで買ってしまって、家に死蔵してらっしゃるヤツが。
「…そいつの出番が来るかもしれんぞ、花束の次は」
「嘘…。ハーレイがアレを持ち出すだなんて…」
「運命だしなあ、後は時間の問題じゃないか?」
今のペースで会い続けていたら、夏休みまでには指輪が出そうだ、とキース君。私たちだってそう思います。ソルジャーが仕掛けた出会いの踏切、それの遮断機が上がらない限り…。



こうして会長さんと教頭先生は出会いまくりで、花束も登場しそうな勢いに。私たちが校内で見掛ける教頭先生はいつも御機嫌、会長さんとセットで晩御飯も何度も御馳走になりました。豪華な食事が食べられるだけに、私たちは教頭先生と同じでホクホクですけど…。
「…今日も会えるかな、教頭先生」
帰りにバッタリ会えるといいな、とジョミー君が大きく伸びをしている放課後。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋は今日も平和で、会長さんだけが黄昏れていて。
「…もう勘弁して欲しいんだけど…。この部屋からウッカリ出てしまうパターン…」
「それはあんたの責任だろうが。俺たちは知らん」
「キース先輩が言う通りですよ。気を付けていれば、出ないで済むと思うんですけど…。あ、今日は中華が食べたいですねえ、豪華にフカヒレ尽くしとか」
「美味そうだよなあ、今日はフカヒレで頼んでくれよ!」
よろしく、とサム君に声を掛けられた会長さんは。
「…サムの頼みだったら、喜んで…。ただし、ハーレイと会ったらだけど」
出来れば会いたくないんだけれど、とブツブツブツ。サム君とは公認カップルと称して付き合えるくせに、教頭先生はお呼びじゃないのが会長さんです。でも…。
「今日も会っちゃうと思うわよ? また野次馬とか、そういう感じで」
「…ぼくは自己嫌悪に陥りそうだよ…!」
スウェナちゃんが言う野次馬というのは、会長さんが一番沢山引っ掛かったケース。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋から外に出なければ教頭先生には会わないというのに、何処かのクラブで何かが起こって野次馬多数、というのに釣られて出てしまうパターン。
「今日も野次馬かな、陸上部で新記録が出るかも、って噂だったし」
新記録だったら間違いなくお祭り騒ぎになるし、とジョミー君がフカヒレ尽くしの中華に期待で、私たちもドキドキワクワクです。新記録が出たら、真っ先に走って出掛けなくては…!
「ぼくは此処から動かないからね!」
「…あんた、そう言いつつ、百パーセントの確率で釣られているだろうが!」
自制心というのは無いのか、とキース君が笑った所へ、部屋の空気がユラリと揺れて。
「…自制心…。それがあったら困らないよ…」
ぼくとしたことがやりすぎた、とバタリと床に倒れたソルジャー。お芝居にしては上手すぎですけど、まさかホントに倒れたんですか…?



あのソルジャーが倒れるなんて、と思ったんですが、お芝居ではありませんでした。キース君たちがソファに寝かせて、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が額を冷やして、暫く経つと。
「…出会いの踏切、最高だと思ってたんだけど…。ぼくとハーレイにもかけたんだけど…」
会長さんたちの出会いっぷりが素晴らしかったので、ソルジャーは自分とキャプテンに仕掛けたらしいのです。ただし、グレードアップして。
「…ぼくとバッタリ出会ったら、ヤる! 青の間でなくても、とにかく何処かで!」
備品倉庫の奥とか場所は一杯…、と話すソルジャーが仕掛けた出会いの踏切は大人の時間とセットだった模様。これは素敵だと満喫しまくっていたようですけど…。
「…ぼくはハーレイのパワーを舐めてたみたいで、もう限界で…。体力、気力のどっちも限界、三日間ほどこっちに泊めて…」
このままでは確実に抱き殺される、と呻くソルジャー、出会いの踏切を解除するだけの力も無いのだとか。空間移動をしてきたサイオンがあれば出来ると思いますけどね?
「…それがさ…。空間移動はエイッと飛べばいいんだけど、出会いの踏切の解除の方は…」
より繊細なサイオンの操作が必要で…、とソファで伸びているソルジャーは本当に逃げて来たみたいです。自分が懲りてしまっただけに、会長さんに仕掛けた踏切も解除するそうですけど…。
「…今日の所は無理そうですね?」
寝込んでますしね、とシロエ君が言って、ジョミー君が。
「ぶるぅが運んで行ったしねえ…。ブルーの家まで。…あっ、陸上部!」
記録が出たんじゃないかな、という声の通りに騒いでいる声が聞こえて来ます。これは是非とも駆け付けなければ、そして会長さんが釣られて出て来て…。
「「「フカヒレ尽くし!」」」
ダッシュで行けーっ! と私たちは部屋を飛び出しました。出会いの踏切が有効な内に御馳走になってなんぼです。教頭先生、今夜は中華でどうぞよろしく、フカヒレ尽くしでお願いします~!




             出会いの踏切・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 ソルジャーが考案した出会いの踏切、効果は抜群みたいですけど、ソルジャーもドツボに。
 自分とキャプテンにも仕掛けた結果は、心身ともに疲労困憊。倒れるほどって、凄すぎかも。
 次回は 「第3月曜」 3月21日の更新となります、よろしくです~!
 パソコンが壊れてUPが遅れてしまった先月。今月は無事に間に合いました…。

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、2月は節分、恒例の七福神巡り。けれど今年は厄が多めで…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv











(行っちゃった…)
 帰っちゃった、とブルーが見送ったテールライト。遠ざかってゆく車の光。
 ハーレイの愛車の後ろに灯っているライト。金曜日の夜、「またな」と帰って行ったハーレイ。前のハーレイのマントと同じ色の車を運転して。濃い緑色をした愛車に乗って。
 懸命に手を振るのだけれども、ハーレイからはもう見えないだろう。テールライトは遠ざかって消えていったから。夜の住宅街の向こうへ。
(あーあ…)
 溜息をついて入った庭。見送りに出ていた道路から。門扉を閉めて鍵をかけたら、ハーレイとは別の世界の住人。チビの自分はこの家に住んで、ハーレイの家は何ブロックも離れた所。
(さよならだなんて…)
 今日は学校があった日だから、ハーレイが帰りに寄ってくれただけでも運がいい。学校の仕事が長引いた日には、訪ねて来てはくれないから。
 それは分かっているのだけれども、寂しい気持ちは拭えない。ついさっきまでは、あれこれ話が出来たのに。二人きりで部屋でお茶を飲んだり、両親も一緒の夕食だって。
(ホントに色々、お喋りしてて…)
 ハーレイの声に、姿に、夢中だった自分。「ハーレイと一緒なんだよ」と。
 キスは駄目でも恋人同士で、大好きでたまらないハーレイ。側にいられるというだけで。温かな声が耳に届いて、穏やかな瞳を見られるだけで。
 幸せ一杯で過ごしていたのに、楽しい時間はアッと言う間に過ぎるもの。気付けばとっくに通り過ぎていて、こうして終わりがやって来る。
 食後のお茶の時間も終わって、帰って行ってしまったハーレイ。「またな」と軽く手を振って。
 ガレージに停めていた愛車に乗って、エンジンをかけて走り出して。
 そのハーレイが乗った車はもう見えない。「あそこだよ」と分かるテールライトも。
 表の道路に戻ってみたって、何処にも見えないテールライト。夜の道路があるだけで。道沿いの家に灯る灯りや、街灯の光があるだけで。



 庭から家の中へと入って、戻った二階の自分の部屋。ハーレイとお茶を飲んでいた部屋。
 其処にハーレイの姿は無いから、零れてしまった小さな溜息。さっきまで一緒だったのに、と。
(寂しいよ…)
 ハーレイが運転して行った車。濃い緑色の車の助手席に乗って、ハーレイの家に帰りたいのに。自分も車に乗ってゆけるなら、それが出来たら幸せなのに。
 ハーレイが開ける運転席とは、違った方の扉を開けて。シートに座って、扉を閉めて。
 そしたら車が走り出しても、寂しい気持ちになったりはしない。自分も一緒に乗っているから、夜の道を二人で走るのだから。
 ほんの短いドライブだけれど、ハーレイの家に着くまでの道を。ガレージに車が滑り込むまで、ハーレイがエンジンを止めるまで。
(そうしたいけど、まだまだ無理…)
 十四歳にしかならない自分は、当分はこうして見送るだけ。
 今日の自分がそうだったように、家の表の道路に出て。ハーレイに「またね」と手を振って。
 車が行ってしまうのを。…テールライトが見えなくなるのを。



 お風呂に入ったら、後は寝るだけ。パジャマ姿で、窓の向こうを覗いてみた。カーテンは閉めたまま、上半身と頭を突っ込んで。
 庭園灯が灯った庭と生垣、それをぼんやり見下ろしていたら、通った車。黒っぽい影とライトが見えただけなのだけれど、表の道路を走って行った。ハーレイの車が去ったのと同じ方向へ。
(ハーレイの車も…)
 こんな風に此処から見ることがある。濃い緑色は夜の暗さに溶けてしまって、シルエット。光が当たった時以外は。街灯だとか、庭園灯だとか。
 はっきり見えるのはテールライトで、「帰って行くんだ」と分かる遠ざかる光。
 普段は表で見送るけれども、病気の時には窓からお別れ。今のようにカーテンの陰に入って。
(起きちゃ駄目だ、って言われても…)
 ハーレイが「しっかり眠って早く治せよ?」と灯りを消して部屋を出たって、足音が消えた後、何度見送ったか分からない。
 こっそりと起きて、カーテンを閉めた窓の陰から。ハーレイに気付かれないように。
 テールライトが消えてゆくのを、遠ざかって見えなくなってゆくのを。
(ああいう時には、ホントに寂しい…)
 外で見送る時よりも、ずっと。表の通りに立って手を振る時よりも。
 きっと心が弱くなっているからだろう。病気のせいで、弱ってしまった身体と一緒に心まで。
 窓から車を見送りながら、涙が零れる時だって。
 「帰っちゃった」と。
 ハーレイの車は行ってしまって、テールライトももう見えないよ、と。



 今の車で思い出しちゃった、と離れた窓。ハーレイはとっくに家に着いただろうし、ゆっくりと寛いでいそうな時間。熱いコーヒーでも淹れて。
 置いて帰ったチビの恋人、自分の心も知らないで。
(テールライト…)
 なんて寂しい光だろう、とベッドに腰掛けて考えた。消えてゆく光は寂しいよ、と。
 テールライトを点けて帰って行ったハーレイ、愛おしい人はまた来るのだと分かっていても。
 それっきりになってしまいはしなくて、再び会えると分かっていても。
(今日だと、明日には…)
 夜が明けたら土曜日なのだし、またハーレイに会うことが出来る。
 休日だから、車の出番は無いけれど。天気のいい日は、ハーレイはいつも歩いて来るから。雨が降る日や、降りそうな時だけ、車でやって来るハーレイ。休みの日には。
 仕事の帰りに寄ってくれる日は、いつでも車。今日も車で来ていたように。
 テールライトが消えていっても、ハーレイにはまた会えるのだけれど。ほんの短い間のお別れ、どんなに会えない日が続いたって、せいぜい数日なのだけれども。
(でも、会えるって分かっていたって…)
 悲しすぎる光がテールライト。いつ見送っても、何度、大きく手を振っても。
 さよなら、と小さくなってゆく光。
 ハーレイを乗せた車が点けている光、恋人の居場所はどんどん遠くなってゆくから。
 さっきまで家の前にいたのに、遠ざかって消えてしまうから。



(さよならの光…)
 テールライトはそうだよね、と思った途端に、胸を掠めていったこと。
 前の自分は見ていない。
 シャングリラが去ってゆく光を。白い鯨のテールライトを、「さよなら」と消えてゆく光を。
(テールライトじゃなかったけれど…)
 白いシャングリラも、暗い宇宙で後ろから見れば、幾つかの光が灯っていた。鯨のヒレのように見える部分などには、位置を示すための青い色の灯り。
 それにエンジンの強い光も、テールライトのようなもの。「あそこにいる」と分かるから。
 漆黒の宇宙を飛んでいたって、シャングリラの居場所を教えた光。
 けれど、メギドに飛んだ自分は…。
(テールライト、見送れなかったんだよ…)
 白い鯨が去ってゆくのを、自分が守ったシャングリラを。
 命と引き換えに守り抜いた船を、無事に飛んでゆくシャングリラを。
 あの時の自分は泣きじゃくっていたから、それどころではなかったけれど。ハーレイの温もりを失くしてしまって、右手が凍えて、悲しくて泣いていたのだけれど。
(…だけど、シャングリラが見えていたなら…)
 シャングリラがいた赤いナスカと、あんなに離れていなかったなら。メギドとナスカが、もっと近い場所にあったなら。
 泣きながらも、きっと見送れた。白いシャングリラが旅立つのを。
 自分は其処には戻れないけれど、あそこにハーレイがいるのだと。
 ハーレイがしっかりと舵を握って、シャングリラは地球に向かうのだと。
 遠ざかってゆくテールライトを、エンジンの光を見送っただろう。光が宇宙に溶けてゆくのを。漆黒の闇に吸い込まれるように、「さよなら」と消えてゆく光を。
 メギドが爆発する時まで。前の自分の命の焔が、それと一緒に消える時まで。
 あるいは倒れて命尽きるまで、意識が闇に飲まれるまで。



 もしも、そうしていられたら。白いシャングリラを見送れたなら。
(ハーレイとの絆…)
 切れてしまった、と思わずに済んだかもしれない。ハーレイの温もりを失くしていても。
 シャングリラの居場所を教えてくれる、テールライトの光の向こう。それを点けた船、ミュウの仲間たちを乗せた白い箱船。光の中にはハーレイもいる。テールライトを点けている船に。
 ハーレイの温もりは消えたけれども、今は見送るだけなのだから、と。
 温もりをくれた温かな腕は、あの光と一緒にあるのだから、と。
(さよならだけれど、ハーレイは見えているものね…)
 姿そのものは見えないけれども、ハーレイが舵を握る船。シャングリラの光が見えているなら、ハーレイが見えているのと同じ。ハーレイを乗せた船なのだから。
 右手が凍えていたとしたって、ギュッと握ったかもしれない。自分の意志で。
 失くしてしまったハーレイの温もり、それを右手に取り戻そうと。
 白いシャングリラのテールライトを見送りながら。「あそこにハーレイはいるのだから」と。
 絆は切れてしまっていないと、今もハーレイとは繋がっている、と。
(ハーレイの姿は見えなくっても…)
 白いシャングリラが其処に在るなら、ハーレイも其処に確かにいる。あの箱舟の舵を握って。
 キャプテンの務めを果たさなければ、と真っ直ぐに前を見詰めて立って。
 テールライトが遠くなったら、絆は細くなってゆくけれど。きっと切れたりしないだろう。船がどんなに遠くなっても、光が闇に溶けていっても。
 ワープして視界から消えていっても、切れることなく続きそうな絆。ハーレイと前の自分の間を繋ぎ続ける、細いけれども強い糸。けして切れずに、繋がったままの。
 白いシャングリラを、テールライトを見送ることが出来たなら。
 右の瞳は撃たれてしまって潰されたから、左の目でしか見られなくても。
 半分欠けてしまった視界が、涙で滲んでぼやけていても。



(…シャングリラ、見送りたかったかも…)
 そう思ったら零れた涙。両方の瞳から、涙の粒が盛り上がって。溢れて流れて、頬を伝って。
 守った船を見送ることさえ、出来ずに終わった前の自分。
 シャングリラからは遠く離れていたから、ジルベスター・エイトとナスカの間は遠すぎたから。
 もっと近くにシャングリラがいたら、テールライトを見送れたのに。
 「さよなら」と、「いつか地球まで行って」と。
 自分の命は尽きるけれども、シャングリラは無事に飛び立てたから。暗い宇宙へ船出したから、遠くなってゆくのがテールライト。白い鯨が旅立った証。
 それさえ見られず、独りぼっちで泣きじゃくりながら死んだソルジャー・ブルー。
 前の自分は、なんと悲しい最期だったか、と思うと止まらない涙。
 テールライトが見えていたなら、皆の旅立ちを見送ったのに。ハーレイとの絆もきちんと自分で結び直して、右手をギュッと握ったろうに。
 温もりは消えてしまったけれども、こうして思い出せるから、と。
 シャングリラが遠くへ去ってしまっても、自分の命が此処で尽きても、ハーレイとの絆は切れてしまいはしないから、と。
 きっと笑みさえ浮かべただろうに、見送れなかったシャングリラ。遠ざかる光を、漆黒の宇宙を飛んでゆく船のテールライトを。
(見たかったよ…)
 シャングリラの光が遠くなるのを、テールライトが消えてゆくのを。
 けれども、出来なかったこと。シャングリラから遠く離れたメギドで死んでいった自分。
 本当に悲しくてたまらないから、胸が締め付けられるようだから…。
(明日は、ハーレイに…)
 うんと甘えることにしよう、と両腕で抱き締めた自分の身体。ハーレイは此処にいないから。
 明日になっても覚えていたなら、大きな身体に抱き付いて、頬をすり寄せたりもして。
 ハーレイと一緒に地球に来られたと、今はこうして幸せだから、と。



 それがいいよね、と潜り込んだベッド。今の自分はチビの子供で、両親と地球で暮らしている。子供部屋だって持っているから、こうして眠れる自分用のベッド。
 青の間にあったベッドよりずっと小さいけれども、心地良い眠りをくれる場所。
 一晩眠れば、明日はハーレイが来てくれる。ハーレイに会ったら、抱き付いて、甘えて…。
(…メギドの夢は嫌だけれどね?)
 あそこでシャングリラを見送りたかった、と考えていたせいで、メギドの悪夢が訪れたら困る。怖くて夜中に飛び起きる夢。前の自分が死んでゆく夢。
 メギドの夢を見ませんように、と祈りながらウトウト眠ってしまって、気付けば其処はメギドの中で。青い光が消えてしまった制御室。発射されることはないメギド。
 とうに壊れて、後は沈んでゆくだけだから。爆発のせいで、装甲も破壊されているから。
(…シャングリラ……)
 あんな所に、と見付けた船。遠いけれども、白い鯨だと分かる船。
 爆発で穴が開いた装甲、それの向こうに広がる宇宙。漆黒の闇にポツンと灯ったテールライト。
 長い年月、其処で暮らしたから、シャングリラの光を間違えはしない。
 遠く離れて、小さな光の点になっても。星たちの中に紛れていても。
(シャングリラは無事に飛び立てたんだ…)
 良かった、と漏らした安堵の息。もう大丈夫だと、白い鯨は飛べたから、と。
 メギドの炎に飲まれはしないで、仲間たちを乗せて飛び立った船。この宙域から去ってゆく光。
 シャングリラの無事を確かめられたら、思い残すことは何も無い。
(どうか地球まで…)
 白いシャングリラの仲間たちが幸せであるように。ミュウの未来が幸多きものであるように。
 シャングリラの舵を今も握っているだろう恋人、ハーレイもどうか青い地球へ、と捧げた祈り。
 自分は共に行けないけれども、皆は幸せに青い地球へ、と。
 冷たいと感じはしなかった右手。
 皆の幸せを祈る間も、右手は凍えていなかった。ただ、シャングリラを見送っただけ。
 無事に飛べたと、テールライトが宇宙の闇に消えてゆくのを。



(あれ…?)
 何処、と見回した自分の周り。パチリと開いた両方の瞳。右の瞳は砕けてしまった筈なのに。
 なんだか変だ、と思った自分はベッドの上。朝の光がカーテンの向こうから射して来る。
(…今のって、夢…)
 前のぼくのつもりで夢を見てた、と気が付いた。夢が覚めたから、チビの自分がいるのだと。
 子供部屋に置かれたベッドの上に。十四歳の自分用のベッドに。
(あの夢って…)
 メギドの夢でも全然違う、と見詰めた右手。この手は冷たく凍えなかったし、いつもの悲しさや苦しさも無い。「やり遂げた」という思いがあるだけ。
 シャングリラは無事に飛び立てたから。ミュウの仲間たちとハーレイを乗せて、宇宙に船出して行ったから。宇宙の何処かにあるだろう地球、其処を目指して。…ミュウの未来へ。
 夢の中身が変わっていたのは、きっとテールライトのことを考えたせい。
 シャングリラのそれを見送りたかった、と眠る前に思って泣いていたから。白いシャングリラのテールライトを見送れたならば、前の自分は悲しい最期を迎えずに済んでいただろう、と。
 そう思ったから、夢の中身が変わった。
 同じメギドの夢だけれども、白いシャングリラを見送る夢に。



 いつもと全く違った夢。目覚めた後にも、鮮やかに思い出せる夢。
 だから、ハーレイが訪ねて来た時、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、今日はハーレイに甘える予定だったんだけど…」
 そういうつもりでいたんだけれど、と言ったらハーレイは怪訝そうな顔。
「予定だって?」
 なんだ、甘える予定というのは。…それに、その予定がどうかしたのか?
 それだけでは何も分からんぞ、というハーレイの疑問は当然だろう。普段だったら、ハーレイが何をやっていようが、甘える時には甘えるから。
 断りも無しにチョコンと膝の上に座るとか、いきなりギュッと抱き付くだとか。
「予定だってば、甘えようと思っていたんだよ。…昨日の夜から」
 甘えるつもりだったんだけど…。変わっちゃったよ、夢を見たせいで。…ぼくの気分が。
「夢ということは…。メギドなのか?」
 違うな、メギドの夢を見たなら、甘える方に行く筈だ。お前、いつでもそうなんだから。
 いったい何の夢を見たんだ、甘えたい気分が消し飛ぶだなんて…?
「えっとね…。甘えたい気分が消えたって言うより、ぼくが満足しちゃったんだよ」
 昨日の夜には、ハーレイに甘えるしかない、って思うくらいに悲しくて…。
 涙まで出ちゃったほどなんだけれど、その悲しさが無くなっちゃった。夢のお蔭で。
 見たのはメギドの夢だったけれど、ぼくの手、凍えなかったんだよ。いつも右手が凍えるのに。
「ほほう…。その夢には俺が出て来たのか?」
 俺はお前を助けられたのか、メギドの夢に登場して…?
「ううん、出て来たのはシャングリラ…」
「シャングリラだと?」
 メギドを沈めにやって来たのか、とハーレイが訊くから、「違うよ」と首を横に振った。
「ただシャングリラが出て来ただけ。うんと遠くを飛んでいたけど…」
 あれは確かにシャングリラだったよ、夢の中のぼくにも分かっていたから。
 だって見間違えるわけがないもの、シャングリラが宇宙を飛んでゆく姿。



 無事に飛び立ったことが分かったから、と説明した。
 ミュウの仲間たちを乗せた箱舟、それを見られて安心した、と。いつもの夢なら、独りぼっちで泣きじゃくるけれど、ハーレイも無事だと分かったお蔭で泣かずに済んだ、と。
「ホントだよ? ちゃんとシャングリラが見えたから…」
 シャングリラなんだ、って分かる光だったから、泣いたりしないでホッとしてたよ。ハーレイもあの船に乗っているから、みんなと地球まで行くんだよね、って。
 ぼくは一緒に行けないけれども、みんなが無事ならそれでいい、って…。
 シャングリラは飛んで行っちゃったけれど、光を見ながらお祈りしてた。夢の中でね。
「…あんな所から見えたのか、それが?」
 お前が夢に見るってことはだ、今日まで忘れてしまってただけで、見えていたのか?
 もちろん肉眼じゃ見えないだろうが、サイオンの目では見えていたとか…?
「見えなかったよ、そんな力が残っていたわけがないじゃない」
 メギドからシャングリラを探せるほどなら、前のぼくは生きて戻っていたよ。
 大怪我をしてても、シャングリラまで。…ジョミーを呼んで、途中まで迎えに来て貰って。
 力は少しも残っていなくて、シャングリラが無事かどうかも知らないままで終わったけれど…。
 無事でいて欲しい、って思いながら死んだのが前のぼくなんだけど…。
 でもね、シャングリラを見送りたかった、って思ったんだよ。
 昨日の夜に、ハーレイの車を見送った後で。
 お風呂に入って、それから暫く起きていて…。窓の外もちょっぴり眺めたりして。
 ハーレイが車で帰って行く時は、テールライトが見えるから…。じきに見えなくなるけどね。
 シャングリラだって、後ろから見たらエンジンとかの光、テールライトに見えるでしょ?
 それを見送りたかったな、って考えちゃって…。
 メギドで独りぼっちになっても、シャングリラの光が見えていたなら良かったかも、って。
 だって、みんなが乗ってる船だよ?
 シャングリラなんだ、って見送ることが出来たら、前のぼく、泣かなかったかも、って…。
 でも、シャングリラは見えなかったし、前のぼくは悲しすぎたよね、って…。
 そう思ったから、ハーレイに甘えるつもりだったんだよ。…今日、会ったらね。



 色々と考えてしまったせいで夢を見ちゃった、と打ち明けた。
 メギドの悪夢は見たくないのに、メギドの夢を見てしまった、とも。夢の中身は、まるで違っていたけれど。独りぼっちで泣きじゃくりながら、死んでゆく夢ではなかったけれど。
「夢のぼく、やっぱり独りぼっちでいたけれど…。誰も側にはいなかったけれど…」
 それでも泣いていなかったんだよ、いつもの夢とは違ってね。
 右手が凍えて冷たい感じもしなかった。この話、さっきもしていたでしょ?
 同じように死んでしまう夢でも、シャングリラを見送ることが出来たら、幸せみたい。
 シャングリラがどんどん遠くなっていって、消えてしまうような夢でもね。
 夢の中のぼく、どうして平気だったのかな…?
 シャングリラはぼくを置いて行くのに、ぼくは一人で死んじゃうのに…。
 今のぼくが幸せに生きてるからかな、おんなじようにテールライトを見てても。
 ハーレイの車、帰って行っても、また来るもんね。
 テールライトが見えなくなっても、もうハーレイに会えなくなるってわけじゃないから。
 それと重なっちゃったのかな、と傾げた首。
 「夢の中のぼくは、今のぼくと重なっちゃってたかな?」と。
 夢にいたのは前の自分でも、今の自分の幸せな経験を何処かに持っていたのだろうか、と。
「そのせいだろうな、シャングリラは行ってしまうんだから」
 行ったきり二度と戻って来ないし、お前は独りぼっちのままだ。余計に寂しくなりそうだぞ。
 いや、前のお前なら、そうは思わなかったかもしれん。
 本当にシャングリラの光が見えていたなら、満足だったかもしれないな。
 前のお前は、今のお前よりも遥かに我慢強かった。…仲間たちのことが最優先で、自分のことはいつも後回しで。
 そのせいでメギドまで行っちまったんだ、仲間たちとシャングリラを守ろうとして。
 だからシャングリラの無事を知ったら、独りぼっちで死ぬ運命でも、幸せに思ったかもしれん。
 自分の役目を果たせたんだし、ミュウの未来が続いてゆくのを、その目で確かめたんだから。



 シャングリラの光が遠ざかってゆくなら、それは仲間たちが生き延びた証拠。メギドの劫火から無事に逃れて、ミュウの未来へと旅立った証。
 「前のお前なら、幸せな気持ちで見送ったかもしれないな」と話したハーレイなのだけれども。
 ふと曇ったのが鳶色の瞳。「俺は無理だな」と。
「…俺には、とても出来んだろう。遠ざかってゆく光を見送ることは」
 お前のようには出来ないな。…たとえ夢でも、俺には無理だ。
「え…?」
 ハーレイが見送る光ってなあに、何が無理なの?
「夢でも無理だと言っただろうが。今の俺じゃなくて、前の俺だな」
 前のお前がシャングリラが飛んで行くのを見なかったように、前の俺だって見ていない。
 シャングリラじゃなくて、前のお前だが…。
 お前がメギドへ飛んで行くのを、前の俺は見てはいないんだ。…青い光が遠ざかるのを。
 ジョミーの話じゃ、お前、消えちまったらしいしな?
 瞬間移動で行ってしまって、何処へ飛んだかも分からなかった。お前が行ってしまった方向。
 シャングリラのレーダーに映っていた点、その内の一つが消えてしまって、それっきりだ。
 次にお前が現れた場所は、もうレーダーでは捉えられない所になっていたんだろう。
 お前がそれを意図していたのか、そうじゃないのかは分からんが…。
 青い光に包まれたお前が飛んで行くのを、もしも肉眼で見ていたら…。
 レーダーに映った点にしたって、そいつがどんどん遠くなっていって、消えちまったら…。



 きっと一生、悔やみ続けた、とハーレイの手が伸びて来て握られた右手。
 今日の夢では凍えていないし、「温めてよ」と頼んだわけではないというのに。甘える予定も、夢のお蔭で変わったと伝えた筈なのに。
 けれどハーレイは褐色の両手で、右手をすっぽりと包んでいるから…。
「…なんでハーレイは見送れないの?」
 前のぼくが飛んで行く姿を。…肉眼でも、それにレーダーでも。
 見送りたかった、って言うんだったら分かるけれども、その逆だなんて…。
 前のぼくは其処まで考えてないし、飛べるだけの距離を稼ぎたくって瞬間移動したんだけれど。
 どうしてそんなことを言うの、とハーレイの顔を見詰めたら…。
「いいか、見送ったら、お前を失くしてしまうんだぞ?」
 俺が見ている青い光は、二度と戻って来やしない。…お前はそのために行ったんだから。
 青い光が見えなくなったら、お前とはもうお別れだ。レーダーから影が消えた時にも。
 前のお前が見送りたかったシャングリラには、ちゃんと未来があるだろう?
 お前が見ていた夢の中でも、現実に起こった出来事でもな。シャングリラは無事に地球まで辿り着いたし、消えてしまいやしなかった。沈んだりしないで、未来があった。
 しかし、お前にはそいつが無いんだ。…メギドに向かって飛ぶお前には。
 未来なんか無くて、死んじまうだけだ。俺から遠くなればなるほど。
 そうなることが分かっているのに、俺が見送れると思うのか…?
「あ…!」
 ホントだ、前のぼくとシャングリラだったら、まるで逆様…。
 おんなじように消えて行っても、遠くなっていく光でも…。
 前のぼくだと本当に消えて、戻って来ない光だものね…。シャングリラの光は宇宙に消えても、別の所へ旅をしてゆくだけなんだけれど…。
 全然違うよ、どっちも遠くなる光だけれど。
 前のハーレイがぼくを見送れないのは、前のぼくは戻って来ないから…。



 それで「無理だ」と言ったのか、と分かったハーレイの言葉の理由。ハーレイの胸にある思い。
 もしも戻って来ないのだったら、テールライトは見送れない。
 今のハーレイが乗っている車、それの光が消えて行ったら、もうお別れだと言うのなら。二度とハーレイに会えはしなくて、テールライトが見えなくなった時が別れの瞬間ならば。
(…お別れなんだ、って分かっていたって、見送れないよ…)
 テールライトが見えなくなったら、別れを思い知らされるから。あまりにも悲しすぎる別れを、現実を目の前に突き付けられてしまうから。
 さよならと一緒に「またね」があるから、見送れる車のテールライト。「また来てね」と大きく手を振りながら。テールライトが見えなくなるまで、車が行ってしまうまで。
 メギドでシャングリラを見送る夢だって、多分、同じこと。
 また見ることは叶わなくても、シャングリラは未来がある船だから。夢も希望も乗っている船、別れた途端に消えてしまいはしないから。
「そっか…。ぼく、あんな夢まで見ちゃったから…」
 テールライトを見送ることって、幸せなんだと思ったのに…。
 さよならの光でも、幸せな光。見送っていたら、心が温かくなる光。ちょっぴり寂しい気持ちがしたって、見られないよりもずっといいよね、って…。
 でも…。
 そうじゃない時もあるんだね。…前のハーレイだと、幸せどころか悲しいだけの光だから。
 見られない方が良かったんだ、って今でも思うほどだから…。前のぼくが飛んで行った時の光。
「まあな…。前の俺にはな」
 今の時代だと、チビのお前が思う通りに幸せな光になるんだろうが。…余程でなければ。
「ホント?」
「考えてもみろ、「またな」と嘘をついたりすることはないだろう?」
 俺が「またな」と帰った時には、ちゃんとまた会いに来るんだし…。
 誰だってそういう具合だろうが、俺に限らず。



 遠くへ旅立つ宇宙船だって、とハーレイが優しく撫でてくれた右手。「お前の手だな」と。
「前の俺はお前を失くしちまったが、お前でさえも帰って来たんだ。俺の所へ」
 今はそういう時代なんだぞ、
すっかり平和で戦いも何も無い時代。
 技術もずいぶん進んだんだし、どんなに遠くへ行った船でも、いつかは帰って来るもんだ。前の俺たちが生きた頃だと、行ったきりになる船も珍しくはなかったが…。
 戻って来たって、乗組員が世代交代しちまってるとか。人類だけに、年を取り過ぎちまって。
 しかし今だと、そういうことは起こらないから…。
 他の星へ移住するんです、と引越したヤツも、それっきりにはならないだろう?
 郵便も届けば、通信だってあるからな。直接会える機会は少なくなっちまっても。
「そうだね…!」
 宙港とかまで見送りに行っても、飛んで行く船、ちゃんと帰って来るものね…。
 乗って行った人が次の便には乗ってなくても、「またね」って約束したらいつかは会えるもの。
 会えないままになったりしないよ、何年か会えずに待つってことはあってもね。
 パパやママの友達だってそうだもの、と頷いた。遠い星へと引越して行った知り合いの人。
 「あの船だな」と父が夜空を指差したことも何度かあった。友達が乗っている船だ、と。
 消えてゆく光を父と一緒に見上げたけれども、友達はまた会いに来た。宇宙船に乗って、他所の星から。「大きくなったな」と頭を撫でてくれたりもして。



 そういうものか、と納得した今の時代のこと。今は悲しいテールライトは無いらしい。
 ハーレイが「俺は無理だな」と夢に見るのさえ嫌がったような、遠ざかって消えてゆく光は。
 二度と戻れない場所へ向かって、真っ直ぐに飛んでゆく光は。
 平和な時代になったんだね、と考えていたら、ハーレイが右手を返してくれた。「お前のだ」と優しい笑みを浮かべて。
「今日のお前は、温めなくてもいいらしいしな? メギドの夢を見たくせに」
 俺の方が逆に欲しがっちまった、お前の手を。…前のお前を思い出したら、不安になって。
 前のお前がメギドへ飛んで行く時の光、夢でも見たくはないからなあ…。
 それでだ、今のお前の場合は、テールライトが好きなのか?
 俺の車を見送った後で、色々と考え事をして、ついでに泣いてたようだがな…?
「…泣いてたのは、前のぼくのことを考えてたからで…」
 前のぼく、可哀相だったよね、って。…シャングリラを見送れなかったから。
 夢でシャングリラを見送ったぼくは、いつもの夢よりずっと幸せだったんだけど…。
 今のぼくは寂しいよ、テールライトは。「またね」の光で、また会えても。
 ハーレイの車を見送るだけで、一緒に帰れないんだから。
「なるほどなあ…。また会えるんだと分かっていたって、寂しい光に見えるってことか」
 しかしだ、今は無理でも、いつかはお前も俺と一緒に帰れるんだぞ?
 何処へ出掛けても俺の車で、俺の隣に座ってな。…テールライトを見送る代わりに。
 その日を楽しみにしていちゃどうだ?
 いつかはアレに乗るんだから、と思っていれば、幸せな光に見えて来そうだぞ。
 何事も気の持ちようだってな、テールライトをどう思うかも。
「前のぼくなら出来そうだけれど、今のぼくは強くないんだよ!」
 シャングリラの光を夢で見送って、幸せだったぼくみたいには…!
 あんな風に強くなれやしないよ、今のぼくはうんと弱虫になってしまったもの…!
 だからね…。



 今日はゆっくりしていってね、と立ち上がって回り込んだテーブル。ハーレイが座る、向かい側へと。椅子の後ろから両手を回して抱き付いた。
 「テールライトは遅いほどいいよ」と。
 遠くなるのはゆっくりでいいと、うんとゆっくり走らせて、と。
「ゆっくり走れば、見えなくなるまでの時間が少しは長くなるでしょ?」
 だからお願い、テールライトが遠くなるのを遅くしてよね。
「おいおい、今日は天気がいいから、俺は車じゃないんだが?」
 此処まで歩いて来ちまったんだし、テールライトを遅くするも何も…。
 そいつは出来ない相談で…、とハーレイは苦笑しているけれど。譲る気持ちなど全く無いから、車で来てはいない恋人に出した注文。
「じゃあ、帰る時はゆっくり歩いて!」
 ハーレイ、歩くの、速いんだもの…。大股でぐんぐん行っちゃうから。
「ゆっくりか…。俺が覚えていたならな」
 帰る時まで覚えていたなら、注文通りに歩いてやろう。ちょっと遅めに。
「約束だよ?」
 ぼくも約束、忘れないから、ハーレイもちゃんと覚えておいて。今日の帰りはゆっくりだよ!
 メギドの夢まで見ちゃった日だから、と大きな身体に甘えて約束。「絶対だよ?」と。
 いくら幸せな部分があっても、遠ざかってゆくテールライトは、やっぱり何処か寂しいから。
 見送れる強さを今の自分は持っていないから、甘えたくなる。
 早く一緒に帰れるようになりたいから。
 ハーレイの車のテールライトを見送るよりかは、同じ車で帰りたいから…。



            テールライト・了

※前のブルーには見送れなかった、ナスカを離れてゆくシャングリラが遠ざかってゆく光。
 もしも見ることが出来ていたなら、きっと満足だったのでしょう。自分の務めを全て終えて。
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