シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(お白粉…)
昔は有毒だったんだ、とブルーが驚いた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
記事に添えられている、昔の美女の絵。多分、江戸時代の浮世絵だろう。誰が描いたものかは、新聞には書かれていないけれども。
髪を結い上げた、白い肌の女性。今の感覚だと「美人なの?」と思うけれども、その時代ならば絶世の美女。だからこそ絵のモデルにもなる。女性の肌は雪のように白い。
(色の白いは七難隠す、って…)
言われたくらいに、白い肌が美しいとされていた時代。
当時の日本は小さな島国、おまけに鎖国をしていたほど。白人の血などは殆ど入って来なくて、日本人と言えば黄色人種。けして「白い」とは呼べない肌。肌が白くても、白人ほどには。
(この絵の人は真っ白だけど…)
実際、真っ白だったという。まるで雪のように、白い絵具を塗ったかのように。
その白い肌の秘密が「お白粉」。白い粉を溶いて、肌にたっぷりと塗り付けた。黄色人種の肌の色など、欠片も見えなくなるように。顔はもちろん、首にも、襟元から覗く胸にまで。
(そうすれば、誰でも真っ白な肌で…)
素晴らしい美人になれるのだけれど、お白粉には毒が含まれていた。
材料だった鉛の中毒、肌から身体に回ってゆく毒。本人の身体を蝕むばかりか、赤ん坊の乳母をしていた場合は、その子供にまで。
胸元まで塗り付けられたお白粉、それを飲んでしまう赤ん坊。お乳と一緒に、何も知らずに。
鉛の中毒は恐ろしいもので、毒が全身に回った時には命も失くしてしまったという。
(…そんな…)
お化粧で命を落とすなんて、と思うけれども、誰もやめようとはしなかった。お白粉の毒が原因なのだと分かった後にも、やめずに使い続けた人たち。
(鉛のお白粉の方が、肌に綺麗にのびるから…)
鉛を含まないお白粉なんて、と使いたがらなかった人が多かった。命よりも肌が大切だ、と。
そんな時代だから、女性ばかりか、役者も鉛の中毒になった。舞台に立つには、白い肌がいい。より美しく、と鉛の毒を知っても使い続けたという。「美しい」ことが役者の仕事だから。
女性も役者も、まさに命懸けだった白い肌。お白粉の毒で、命を落としてしまった時代。
なんてことだろう、と震え上がった。記事に添えられた浮世絵の美女も、お白粉で命を落とした可能性がある。こうして浮世絵に描かれた後には、鉛の中毒になってしまって。
其処まで誰もが追い求めていた「白い肌」。
当時の日本で生きた人なら、肌は「真っ白ではない」ものなのに。お白粉で覆い隠さない限り、何処か黄色くなるものなのに。
どんなに肌が白い人でも、白人の肌には敵わない。黄色人種に生まれた以上は。
(ぼくだと、生まれつき真っ白だけど…)
今の自分は、色素を全く持たないアルビノ。まるで色素を持っていないから、肌は真っ白、瞳も赤い。瞳の奥を流れる血の色、それを映した透き通る赤。
(昔の日本人だって…)
こういうアルビノに生まれて来たなら、理想の肌を手に入れただろう。七難隠すという肌を。
(だけど、肌だけ白くても…)
他が駄目だよ、と眺める浮世絵。古典の授業で教わるように、「緑の黒髪」が美女の条件。緑と言っても色とは違って、艶やかさをそう表すだけ。本当の髪の色は黒。夜の闇のように黒い髪。
(アルビノだったら、髪の毛が黒くなくなっちゃって…)
瞳の色も黒くなくなる。昔の日本人が見たなら、そういう女性は美人どころか…。
(雪女みたい、って怖がられちゃった…?)
人間離れしているのだから、どれほど美しい顔立ちでも。肌が雪のように白くても。
それでは駄目だ、と思うアルビノ。「昔の日本じゃ、誰も相手にしてくれないよね」と。
真っ白な肌を持つのがアルビノだけれど、自分のようなミュウに生まれなかったら、アルビノはとても大変らしい。今の時代は誰もがミュウだし、誰も困りはしないのだけれど…。
(お日様に当たったら、肌は火傷で…)
日焼けくらいでは済まなかった。真っ赤に焼けて、時には火ぶくれが出来たほど。
だから極力、避けた日光。日焼け止めを塗って、帽子を被って、手足も出来るだけ服で覆って。
(昔だったら…)
やっぱり真っ白な肌は大変。
お白粉の毒は無関係でも、場合によっては。
色素を持たないアルビノに生まれてしまった時には、弱すぎる肌を守らなければいけないから。
(お化粧だって、怖い時代があったんだね…)
鉛の中毒になっちゃうなんて、と驚かされた昔のお白粉。今日まで全く知らなかった。
今はもちろん、何の心配も無いけれど。お化粧品を使っていたって、どれも安全なものばかり。
遥かな昔に「身体に悪い」と騒がれたらしい、太陽からの紫外線だって…。
(ミュウには、なんの危険も無いから…)
まるで問題にはならない時代。夏の日盛りに外を歩いていたって、日が燦々と照ったって。
身体の中を流れるサイオン、それが防いでいる紫外線の害。遠い昔は恐れられたもの。
(日焼けしちゃったら、皺が増えるって…)
そう言われた時代もあったらしいけれど、今の時代は日焼けしたって、老化したりはしない肌。ミュウは外見の年齢を止められるのだし、若い姿で年を止めれば、若いまま。
(顔だけ若くて、皺が増えちゃう人もいないし…)
やはりサイオンは凄いと思う。アルビノの自分が、太陽の下でも平気なのと同じ。
夏になったら、日焼けしている人だって多い。子供でなくても、大人でも。
(お休みを取って、海とか山とか…)
出掛けて行って太陽を浴びて、すっかり日焼け。腕に半袖の跡がつく人や、水着の跡がくっきり残る人たちもいる。太陽の下で過ごした証拠で、本人たちは至って満足。
夏だけでなくて、一年中、日焼けで真っ黒な人も少なくはない。
きっと太陽が照っている時に、せっせと外でジョギングや散歩。そうして自慢の日焼けを保つ。日差しが弱い冬になっても、「今の内だ!」と外に飛び出して行って。
(真っ白よりかは、日焼けした方が…)
健康的に見えるものね、と自分だって思う。青白い肌より、断然、小麦色の肌。
アルビノの自分には無理だけれども、友達はみんな、自分みたいな「真っ白な肌」の代わりに、適度に日焼け。…夏になったら。
夏でなくても白すぎはしなくて、「男の子らしい」肌の色だから。
ああいう肌の方が健康的だよ、と新聞を閉じて、戻った二階の自分の部屋。空になったカップやお皿を、キッチンの母に返してから。
(夏になったら、友達はみんな…)
日焼けしているし、それ以外の季節も自分のように白くはない。「色の白いは七難隠す」という言葉は女性向けだから、男の自分が真っ白な肌をしていても…。
(江戸時代でも、誰も褒めてはくれないかも…)
役者になって舞台に立つなら、「お白粉無しでも白い肌」だけに、大人気かもしれないけれど。顔もこういう顔立ちだから、女性を演じる「女形」になっていたならば。
けれど自分は「今」の生まれで、江戸時代などに生きてはいない。真っ白な肌でも、いいことは何も無さそうな感じ。ひ弱に見えるというだけで。
(ぼくが日焼けをしていたら…)
どんな風だろう、と壁の鏡を覗いてみた。もっと健康的に見えるか、悪戯っ子のようにも見えるだろうか、と。
前にも少し、考えたことがあるけれど。…あの時はハーレイと二人だった。
今日は一人だし、鏡の向こうをじっと眺めて、自分の顔の観察から。日焼けしている肌を持った自分は、どんな具合になるのだろうか、と。
(んーと…?)
今と同じに銀色の髪でも、まるで違ってくる印象。肌の色が白くなかったら。
際立って見える赤い瞳も、肌が日焼けをしていたならば、今ほどには目立たないだろう。周りの肌色に溶けてしまって、「赤かったかな?」と思われる程度で。
(今だと、みんな振り返るけど…)
銀色の髪に赤い瞳で、ソルジャー・ブルー風の髪型の子供。すれ違ったら、誰もが驚く。本物のソルジャー・ブルーみたいだ、と振り返って見たりもするのだけれど…。
(日焼けしてたら、もうそれだけで…)
ソルジャー・ブルーとは変わる印象。同じ髪型でも、銀の髪でも。
(ああいう髪型の子供なんだ、って…)
眺めて終わりで、瞳の色にも気付かないまま、通り過ぎる人も多いと思う。真っ白な肌なら赤い瞳は目立つけれども、小麦色の肌に赤い瞳だと、「茶色かな?」と思われたりもして。
光の加減で瞳の色が違って見えるのは、よくあること。それと同じで、肌の色でも起こりそうな錯覚。白い肌なら赤く見える瞳が、小麦色の肌なら茶色っぽく見えてしまうとか。
(同じぼくでも、日焼してたら、かなり違うよ…)
ホントに違う、と勉強机の前に座って考えてみる。「日焼けした自分の姿」というのを。今とは全く違う肌の色、真っ白な肌でなかったならば、と。
(アルビノなんだし、日焼けは難しそうだけど…)
小麦色の肌など夢のまた夢、ほんのりと肌に色がついたら、それだけで上等だという気がする。真っ白な肌を少しだけでも、普通の肌色に近付けられたら。
(そうなったら、うんと健康的…)
自然に作れる肌の色はそれが限界でも、お化粧したなら、小麦色の肌にもなれるだろう。太陽の光をたっぷりと浴びて、こんがりと焼けた肌の色に。
遠い昔の人たちは「白い肌になりたい」と願ったけれども、その逆で。
鉛の毒を含んだお白粉、身体に毒だと分かった後にも、「白くなりたい」と使い続けた日本人。彼らとは逆に、真っ白な肌を日焼けした色に変えてみる。お白粉とは違う、化粧品で。
(いろんな色があるもんね?)
肌に乗せてゆく化粧品。母がドレッサーの前で使っているもの。
元の肌の色に合わせて選ぶようだけれど、きっと色々な色がある筈。同じ人でも、日焼けしたら色が変わるから。日焼けする前の化粧品だと、それまでの肌の色には合わない。
(日焼けの色を隠したいなら、そのままの色でいいけれど…)
こだわる人なら、買い替えたりもするのだろう。「今の肌なら、この色がいい」と。
それから、生まれつきの肌の色も様々。自分みたいなアルビノもいれば、とても濃い色の人も。
(ブラウみたいに黒い肌だと、そういう色の…)
化粧品が売られていると聞いたことがある。白くなるための化粧品ではなくて、黒い肌をもっと美しく見せるためのもの。艶やかになるのか、どう変わるのかは知らないけれど。
(黒い肌でも、そうなんだから…)
ハーレイのような褐色の肌でも、それに合わせて様々な色合いの化粧品。
褐色の肌を引き立たせるとか、逆に控えめに見せるとか。真っ白にするのは不自然だとしても、ほんの少しだけ控えた褐色。それだけで印象が変わるだろうから。
思い浮かべた、褐色の肌を持つ恋人。前の生から愛した人。
(ハーレイかあ…)
青い地球の上に生まれ変わった今も、褐色の肌を持つハーレイ。前のハーレイと全く同じに。
あの褐色の肌は、とてもハーレイに似合うと思う。柔道も水泳もプロ級の腕を持っているから、なんとも強くて逞しい感じ。
(夏に半袖を初めて見た時は、ドキッとしたし…)
柔道着を着たハーレイだって、かっこいい。褐色の肌をしているお蔭で、より強そうに見えると思ってしまう。日焼けした人が健康的に見えるのと同じで、あの褐色も「元気の色」。
(ハーレイの肌が、あの色だから…)
自分が日焼けした肌になったら、ハーレイの横に並んで立てば似合うだろうか?
二人で街を歩いていたなら、「お似合いのカップル」だと誰もに思って貰えるだろうか…?
(今のぼくだと、全然違う色なんだけど…)
お白粉も塗っていないというのに、雪のように白い色素の無い肌。アルビノだから、もう本当に真っ白でしかない肌の色。
そんな自分があのハーレイと並んでいたら、とても弱そうに見えることだろう。空に輝く太陽の日射し、それを浴びてもいないような肌。
(お日様の下で散歩をしたり、ジョギングしたり…)
そういった運動などとは無縁の、ひ弱な人間。肌の色だけで、そう思われそう。
実際、弱く生まれたけれども、それ以上に弱く見えるアルビノ。…肌の色が白いというだけで。小麦色の肌になれはしなくて、日焼けしたとしても、ほんのちょっぴり。
(このままだったら、そうなるけれど…)
化粧品を使って「日焼けした肌」を作り出したら、ガラリと変わるだろう印象。銀色の髪と赤い瞳は同じままでも、今とは違って見える筈の姿。
「日焼けした肌」でハーレイと一緒に歩いていたなら、健康的なカップルだと思って貰えそう。二人とも運動が好きなカップル、ジョギングだとか、水泳だとか。
(ハーレイ、ひ弱な恋人を連れているんじゃなくて…)
趣味のスポーツで知り合ったような、元気一杯の恋人とデート。傍目にはそう映るのだろう。
真っ白な肌の自分でなければ、「化粧した肌」でも、日焼けした肌の恋人ならば。
そんな話もしたんだっけ、と思い出す。ハーレイと二人で、「ぼくが日焼けしたら?」と。
あの時は、自然な日焼けばかりを考えていた。海に出掛けて日光浴とか、ハーレイが引っ張ってくれるゴムボートに乗って沖まで出掛けて、その間に日焼けするだとか。
化粧品などは思いもしなくて、日焼け止めとか、日焼け用のオイルの話をしただけ。化粧品など縁が無いから、そうなって当然なのだけど。
けれども、今日の自分は違う。お白粉の記事を読んだお蔭で、化粧品というものに気が付いた。黒い肌でも、褐色の肌でも、それに似合いの化粧品がある。
(ぼくみたいな肌でも、小麦色になれる化粧品…)
きっと売られているだろうから、それを使えば出来上がるのが日焼けした肌。アルビノの自分の限界を越えて、ほんのりとした日焼けよりもずっと、こんがりと小麦色の肌。
化粧品で日焼けした肌を作ってみようかな、と思っていた所へ、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。ぼくが日焼けしてたら、どう思う?」
うんと元気な子供みたいに、小麦色に。…夏になったら沢山いるでしょ、日焼けした子供。
大人の人でも大勢いるよね、ああいう肌をした、ぼくはどう?
今じゃないけど…。前のぼくと同じ背丈に育って、ハーレイとデートに行ける頃だけど。
「日焼けって…。しかも、小麦色ってか?」
ハーレイは目を丸くした。「この前も言ったが、こんがり焼くのは無理ってモンだろ」と。どう考えても無理に決まってる、というのがハーレイの意見。「太陽で火傷しちまうぞ」と。
「分かってるってば、ぼくだと火傷しちゃうってことは…」
ほんのちょっぴり日焼けするだけでも、きっと火傷をしちゃうんだよ。真っ赤になって、痛くて皮も剥けちゃって…。それでもいいから、って頑張ったって、日焼け出来るのは少しだけ。
だからホントに小麦色になるのは無理だけど…。
どう頑張っても無理だけれども、お化粧品を使えば出来るよ。ぼくだってね。
「化粧品だと?」
いったい何を使うと言うんだ、日焼け止めだと日焼けを防いじまう方だぞ?
日焼け用のオイルは、肌を保護してくれるモンだが…。
そいつを何度も塗り重ねたって、お前の肌だと、小麦色にはなれそうもないが…?
その前に痛くて泣いちまうんだ、とハーレイは呆れたような顔。「無茶はいかんぞ」と。
「お前は、日焼けで泣いた経験、無いらしいから…。その分、余計に大変だ」
普通はチビの間に泣いて、日焼けで痛くなっちまうのを避けるサイオンを身につけるんだが…。
お前の場合はそうじゃないだろ、身体が大きくなっているから、痛い部分も増えるんだぞ?
子供の背中と大人の背中じゃ、大きさがまるで違うんだから。
小麦色の肌など、アルビノの身体じゃ無理なんだし…。やめておくんだな、そんな挑戦。
結果はとっくに見えてるじゃないか、とハーレイが言うから、首を横に振った。
「ホントに焼くって言っていないよ、お化粧品って言ったじゃない」
昔のお白粉の逆だってば。
今日の新聞に載っていたんだよ、ずっと昔はお白粉に毒があったんだ、って…。鉛の毒が入ったお白粉。肌が白いほど美人なんだ、って思われてたから、鉛の中毒が多かった、って…。
「おっ、そんな記事が載ってたか?」
化粧も命懸けだった時代の話だよなあ、毒だと分かっちまった後は。…きっとその前から、何か変だと思っていた人はいたんだろうが…。
鉛入りのお白粉は毒なんだ、と分かった後にも、使いたいヤツが大勢いたのが凄い所だ。
人間、綺麗になるためだったら、命も惜しくないのかもなあ…。
俺にはサッパリ分からんが、とハーレイがフウと零した溜息。「何も其処までしなくても」と。
「ぼくも分からないよ。いくら綺麗だって褒めて貰っても、死んじゃったらおしまい…」
生まれ変わって来られた時には、記憶は無くなっちゃってるから。…ぼくたちみたいに、神様が奇跡を起こしてくれない限りは。
それなのに命懸けでお化粧なんて、って考えていたら、日焼けの方に頭が行っちゃって…。
ぼくだと生まれつき真っ白だけれど、お化粧したら違う色にもなれるよね、って思ったんだよ。
肌の色って色々あるでしょ、ハーレイみたいな褐色だとか、ブラウみたいな黒だとか…。
どんな肌でも、それに合わせたお化粧品があるものね…?
「確かにあるなあ、黒い肌だとビックリだよな」
何度も見てるが、化粧をしようと取り出すケース。…なんて呼ぶんだか、小さな鏡つきのヤツ。
あれの蓋をパカッと開けてみるとだ、中身がちゃんと真っ黒なんだ。
顔にパタパタはたいてるんだが、俺が見たってよく分からん。化粧する前と、どう違うのか。
学生時代によく見たもんだ、とハーレイは懐かしそうな顔。柔道も水泳も、あちこちの地域から選手が来るから、黒い肌の女性もいたという。
試合で汗を流した後には、着替えて懇親会などもあった。其処で見ていた化粧する女性。
「そっか…。やっぱり黒い肌だと、お化粧品だって黒いんだよね?」
だったら小麦色のもあるでしょ、日焼けしている人用に。…顔だけ違う色にならないように。
ぼくが言うのは、そういうお化粧品のこと。それを使えば、ぼくだって小麦色の肌になれるよ。うんと健康的な感じで、ハーレイと並んだら絵になりそう。
スポーツで知り合ったカップルみたいで、ハーレイの恋人にピッタリじゃない…?
真っ白な肌のぼくよりも、と自信たっぷりで提案した。「ちゃんとお化粧すればいいよね」と。きっと賛成して貰えるだろう、と考えたのに…。
「お前なあ…。健康的なカップルってヤツは、ともかくとしてだ…」
俺の気持ちはどうなるんだ?
小麦色の肌に見えるよう、化粧しているお前を連れてる、俺の気持ちは…?
ちゃんと其処まで考えたのか、と問い掛けられた。「俺の気持ちまで考えてるか?」と。
「え? ハーレイの気持ちって…」
それならきちんと考えたってば、やっぱり絵になる方がいいでしょ?
真っ白な肌で、見るからに弱そうなぼくを連れているより、元気一杯に日焼けしている、ぼく。
ハーレイは運動が大好きなんだし、そういうぼくが好きだよね、って…。
ひ弱に見えるぼくよりも、と瞳を瞬かせた。中身は変わらず弱いままでも、見た目だけでも健康そうなら、ハーレイに似合いの恋人だから。
「何を考えているんだか…。お前らしいと言ってしまえば、それまでだがな」
いいか、俺は今のままのお前が好きなんだ。…今のお前が。
間違えるなよ、チビのお前っていう意味じゃない。チビなのは横に置いておいて、だ…。
俺はアルビノのお前が好きだと、前にも言ったと思うがな?
前のお前が成人検査で失くしちまった、金色の髪と水色の瞳。それを知ってはいるんだが…。
俺がこの目で見ていたお前は、出会った時からアルビノだった。金色と水色のお前は知らない。
だから、お前はアルビノに限る。…アルビノだからこそ、俺が知ってるお前なんだ。
なのに日焼けをするって言うのか、わざわざ化粧で小麦色の肌に…?
それはお前の姿じゃないぞ、とハーレイは少しも喜ばなかった。小麦色の肌の恋人になったら、とてもハーレイに似合うのに。…ひ弱な恋人を連れているより、絵になるのに。
「日焼けした、ぼく…。小麦色の肌のぼくだと、駄目なの…?」
本当に日焼けするんじゃないから、ぼくは「痛い」って泣いたりしないよ?
出掛ける前に、お化粧するのに時間がかかるかもしれないけれど…。でも、今のぼくより、肌の色はずっと、丈夫そうな感じになるんだから…。
いいと思うよ、と重ねて言った。本物の日焼けは大変な上に、小麦色の肌にもなれそうにない。けれど化粧をするなら簡単、そのための時間を取りさえしたら。
「小麦色の肌になったお前か…。試してみたいと言うんだったら、止めはしないが…」
化粧をするって手もあるんだが、俺としては白い肌のままのお前がいいな。
そういうお前しか知らない、ってことは抜きにしたって、真っ白な肌のお前がいい。健康そうに日焼けしている、小麦色の肌のお前よりもな。
断然、白だ、と一歩も譲らないハーレイ。「白い肌のお前の方がいい」と。
「どうして? …なんで、白い肌のぼくの方がいいわけ?」
白い肌だと、誰が見たって弱そうにしか見えないよ?
普通に白いだけならいいけど、ぼくはアルビノなんだから。…少しも色が無くて、真っ白。
そんな色のぼくを連れているより、小麦色の肌が良さそうだけど…。お化粧で小麦色に見せてるだけでも、本当は真っ白な肌のままでも。
ちゃんと上手にお化粧をすれば、きっと自然に見えるから…。お化粧だなんて、バレないから。
そういうぼくと並んでいたら、絶対に絵になりそうなのに…。
弱そうなぼくとデートするより、ハーレイだって鼻高々だと思うんだけど…。
元気そうな恋人の方がいいでしょ、と繰り返した。柔道と水泳で鍛えた今のハーレイ。その隣に並んで歩くのだったら、同じように鍛えていそうな恋人、と。
身体が華奢に出来ていたって、日焼けしていれば印象は変わる。「細いけれども、強いんだ」と勘違いだってして貰える。「ああ見えてもきっと、スポーツが上手いに違いない」と。
「俺はそのようには思わんが?」
柔道部のヤツらを連れて歩くのとは違うんだ。…誰と歩こうが俺の勝手で、俺の趣味だぞ。
俺が「素敵だ」と思ったからこそ、連れて歩くのが恋人だろうが。
それに、真っ白な肌のお前の方が守り甲斐がある、とハーレイは笑みを浮かべてみせた。
「そう思わんか?」と。「小麦色の肌をしたお前だったら、そうはいかんぞ」とも。
「お前が元気一杯だったら、俺の出番が無くなるだろうが」
化粧とはいえ、小麦色の肌になっちまったら、見た目は元気一杯だしなあ…。弱くはなくて。
そんなお前を連れていたって、俺としては、あまり愉快じゃないぞ?
お前と一緒なことは嬉しくても、さて、どう言えばいいんだか…。
真っ白な肌のお前だったら、もう見るからに弱そうだしなあ、強い俺が守ってやれるんだが…。小麦色の肌で元気一杯のお前となったら、守る必要、無さそうだろうが。
お前は充分、強いわけだし、俺の後ろに隠れる代わりに、一緒に戦いそうだから。
今はすっかり平和な時代で、戦う敵など何処にもいないわけだが、イメージってヤツだな。
強いお前だとそうなっちまうし、弱いお前の方がいい、とハーレイは至極真面目な顔。小麦色の肌の元気な恋人よりも、真っ白な肌の弱そうな恋人の方がいいのだ、と。
「弱いぼくがいいって…。そういうものなの?」
ハーレイが連れて歩く恋人、見た目からして弱そうなのがいいの…?
「俺としてはな。そっちの方が俺の好みだ」
恋人を守ってやれる強さを誇れるんだぞ、弱そうなのを連れてたら。…俺が守っているんだと。
しかしだ、元気一杯で強そうなのを連れていたなら、大人しく守られていそうにないし…。
俺が「隠れていろ」と言っても、「ぼくも戦う!」と出て来そうでな。
「でも、ハーレイには似合いそうだと思うんだけど…」
一緒に戦いそうな恋人。…柔道の技で投げ飛ばすだとか、そういうことが出来そうな、ぼく。
ハーレイも自慢できそうじゃない、と恋人の鳶色の瞳を見詰めた。今のハーレイはプロの道への誘いが来たほど、柔道も水泳も腕が立つ。とても強いのだし、それに相応しい恋人が似合い。
「そいつはお前の思い込みだな、残念ながら」
お前が何と言っていようが、俺の考えは変わりやしない。周りのヤツらがどう見ようとも。
「弱そうなのを連れているな」と思われたって、お前の肌はだ…。
健康そうな小麦色より、今の真っ白な肌がいい。少し日に焼けても、火傷しそうな白いのが。
そういうお前に俺は惹かれるし、わざわざ化粧で小麦色なんかにしなくても…。
お前が納得いかんというなら、逆を想像してみるんだな。…逆のケースを。
想像力を逆に働かせてみろ、と言われたけれども、分からない。逆というのは何だろう?
「…逆って?」
逆のケースって、どんな意味なの?
ぼくの肌の色は真っ白なんだし、逆になったら小麦色だよ。…もう何回も言ったけれども。逆にしたなら何だって言うの、ぼくが最初から小麦色の肌の子供っていう意味なの…?
今のアルビノのぼくじゃなくって…、と自分の顔を指差したけれど、ハーレイは「逆だぞ?」と即座に否定した。「逆と言ったら、逆なんだ」と。
「よく考えてみるんだな。…幸いにして俺たちは、前の通りに生まれ変わって来たが…」
お前も俺も、前とそっくり同じ姿になれる器を手に入れたんだが、其処の所が問題だ。
さっきからお前は、自分のことばかり言ってるが…。アルビノよりも小麦色の肌だとか、化粧で小麦色の肌を手に入れるとか。
そいつはお前の問題なんだが、もしもだな…。俺が白い肌だったらどうするんだ?
お前はアルビノのままだったとしても、今の俺の肌が、褐色じゃなくて白い肌だったら…?
真っ白なお前には及ばないにしても、白い肌をした人間ってヤツは幾らでもいるんだからな…?
こういう肌の俺でなければどうなんだ、とハーレイが指先でトンと叩いた自分の手。前と少しも変わらない色で、とても馴染みの深い褐色。
その肌の色が、この褐色ではなかったら。…白い肌に生まれたハーレイだったら、どうだろう?
(…顔立ちも身体も、前のハーレイと同じだけれど…)
肌の色が白くなってたら…、と恋人の姿をまじまじと見た。
眉間に刻まれた癖になった皺、それは同じでも、肌が白ければ見た目が変わる。鳶色の瞳を囲む肌だって、やはり同じに白くなる。武骨な手だって、逞しくて太い首筋だって。
「…なんだかハーレイじゃないみたい…」
ハーレイの顔だけど、ハーレイじゃないよ。…肌の色が白くなっちゃったら。
ぼくの知ってるハーレイじゃなくて、だけどやっぱりハーレイで…。ハーレイなんだけど…。
「よし。その俺の姿は、強そうに見えるか?」
今の俺と少しも変わらないくらい、強そうな姿のハーレイなのか…?
「…強そうかって…。うーん…」
どうなんだろう、白い肌でも、ハーレイには違いないんだけれど…。
白い肌を持っている人間でも、強い人なら大勢いる。プロのスポーツ選手も沢山。
だから「白い肌の人は弱い」などとは思わないけれど、それを見慣れたハーレイの身体で考えるならば、答えは違ってきてしまう。
褐色の肌に慣れているから、その色が白くなったなら。…今よりもずっと薄い色になって、白い肌だと言える姿になったなら。
「…ハーレイが白くなっちゃったら…。逞しさ、ちょっぴり減っちゃうかも…」
今とおんなじ強さのままでも、見た目が弱い気がするよ。ホントにそんなに強いのかな、って。
日焼けした人と、していない人なら、日焼けした人の方が強そうに見えてくるのと同じで。
…ハーレイの肌の色、日焼けなんかじゃないんだけれど…。
「ほら見ろ、お前もそうだろうが。ただし、俺とは逆なんだが」
俺が同じ強さを持っていたって、肌の色一つで印象が変わる。強そうなのか、弱そうなのか。
前の俺は柔道なんかは全くやっていなかったんだが、お前が知ってた俺はこういう姿だし…。
白い肌になってしまっていたなら、お前、ガッカリしていたかもなあ…。再会した時に。
ただのキャプテンでも、褐色の肌を持っていただけで、見た目の逞しさが何割かは増していたと思うし…。それがすっかり無くなっちまって、白い肌になった俺だとな。
白い肌だと、弱いハーレイに見えないか、という質問。「前よりも腕は立つんだがな」と。
「そうなのかも…。なんだか弱くなっちゃったかも、って…」
でも、ハーレイはハーレイなんだし、直ぐに慣れるよ。
最初はビックリしちゃいそうだけれど、今のハーレイが強いってこともじきに分かるし…。
ぼくなら少しも困らないってば、同じハーレイなんだもの。
肌の色が前とは違うってだけで、顔立ちとかは前のハーレイとおんなじだから…。
その内に慣れて平気になるよ、と言ったのだけれど、ハーレイは「そうか?」と返して来た。
「慣れてしまえば、それでいいのかもしれないが…」
だが、どちらかを選べるんなら、元のままの俺がいいだろう?
褐色の肌を失くしちまって白い肌になった、何処か弱そうに見える俺よりは。
お前は強そうに見えた時代を知ってるんだし、その頃の俺と同じだったら、と思わんか…?
「うん…」
選べるんなら、その方がいいよ。…白い肌より、褐色の肌をしたハーレイの方が…。
肌の色で強さは変わらないけど、と頷いた。選べるものなら、褐色がいいに決まっているから。白い肌をしたハーレイよりかは、褐色の肌のハーレイがいい。
「分かったか? それと同じだ、俺の方もな」
生まれ変わって健康的な小麦色の肌になったお前より、真っ白な肌のお前がいいわけで…。
守り甲斐があるし、連れて歩きたいと思うお前は、真っ白な肌の弱そうなお前だ。
お前がアルビノに生まれてくれてて、本当に良かった。
弱い身体になっちまったのは可哀相だが、それでもやっぱり、今のお前が一番いい。…俺はな。
日焼けしたお前に再会してたら、俺も途惑う。
お前が白い肌をした俺に会うのと同じくらいに、いや、それ以上にショックだろうなあ…。
健康的なお前だなんて、とハーレイが嘆きたくなるのも分かる。
サイオンは不器用だったとしたって、とても健康に生まれていたなら、ハーレイには恋人を守ることが出来ない。「大丈夫か?」と気遣わなくても、健康そのもの。倒れもしなくて元気一杯。
「そうだよね…。パタリと倒れてしまいもしないし、病気で寝込んだりもしないし…」
いつ見ても元気一杯のぼくで、ハーレイの隣ではしゃいでるだけ。…疲れもせずに。
ハーレイはとてもガッカリだろうし、なんだか悪い気がするから…。
そうなっていたら、ぼく、白くなろうと頑張ったかも…。
ハーレイに前のぼくを見せたくて、せっせとお化粧するんだよ。白い肌で弱く見えるように。
二人で並んで歩いてる時は、ひ弱な感じになるように。
…命懸けでお化粧していた人の気持ちが、今、少しだけ分かったよ。
ハーレイが喜んでくれるんだったら、命懸けでも、お化粧、するかも…。
したくなるかも、と思った昔のお白粉。それが毒だと分かった後にも使い続けた、小さな島国で生きた人たち。肌を美しく見せるためにと、鉛が入っていた毒のお白粉を身体に塗って。
「命懸けで化粧するだって?」
穏やかじゃないな、お前、何をするつもりなんだ…?
「さっきの話だよ、昔のお白粉…」
毒なんだって分かっていたのに、使うなんて、と思ったけれど…。
ハーレイに素敵なぼくを見て貰うためなら、ぼくだって使っちゃうのかも…。毒のお白粉でも。
「ああ、あれなあ…」
そういう女性もいたかもしれんな、健気な人が。…毒でも、恋人に喜んで貰おうと使った人。
命が懸かっていたとしたって、やはり気になるものなんだろうな、とハーレイが言う肌の色。
遠い昔の日本の女性は、真っ白な肌が美人の条件だからと、毒のお白粉を使い続けた。少しずつ身体を蝕んでゆく鉛の毒に気付いた後にも、「これが一番いいお白粉だから」と。
毒入りではない新しいお白粉、それが毒入りのものと変わらない品質になるまでは。
(…ハーレイのためなら、ぼくだって…)
きっと使おうとするのだろう。小麦色に日焼けする肌に生まれていたなら、アルビノだった前の自分の真っ白な肌に近付けるために。
(…ぼくが小麦色の肌をしてたら、ハーレイだって気にするし…)
いくら慣れても、前の自分の白い肌を思い出すだろう。「ブルーの肌はこうじゃなかった」と。それと同じに自分も気にする。「前のぼくなら、こうじゃない」と。もっと白い肌をしていたと。
(真っ白な肌に戻れるんなら、毒のお白粉でも使っちゃいそう…)
前の通りであろうとして。ハーレイが今も見たいであろう、真っ白な肌を見せようとして。
「ねえ、ハーレイ…。ぼくがアルビノじゃない身体に生まれてしまってて…」
すっかり日焼けしてしまってたら、白くなろうと頑張るけれど…。
毒のお白粉は使わなくても、お日様に当たらないようにするとか、頑張って白くするけれど…。
ハーレイが白い肌に生まれていたら、どうするの?
ぼくと出会って記憶が戻っても、ハーレイの肌が今の褐色じゃなかったら…?
どうすると思う、と尋ねてみた。褐色の肌を手に入れようと努力するのか、しないのか。
「俺の場合か? もちろん、日焼けしようとするな」
元が白い肌がこの色になるまで、日焼けするのは大変そうだという気がするが…。
化粧よりかは、自然な日焼けが一番だ。
お前みたいに弱くはないしな、太陽の下を走り回っても倒れちまうことは無いモンだから。
暇を見付けてはせっせと日焼けで、こういう色を手に入れるまで頑張ることは間違いないぞ。
化粧なんぞは誤魔化しだ、とハーレイは日焼けするらしい。褐色の肌に生まれなかったら、前と同じ色を手に入れるために。
「肌の色だけで逞しさが増す」という、褐色の肌。
白い肌より強く見える色を、前のハーレイとそっくり同じな色を身体に取り戻すために、重ねる努力。夏の盛りの頃はもちろん、他の季節も太陽の光を浴び続けて。
化粧はしないで、自分で色を取り戻すのが今のハーレイ。褐色の肌になりたいのならば、化粧をすれば簡単なのに。いくらでも楽に染められるのに。
「お化粧じゃなくて、日焼けするなんて…。ハーレイらしいね、今のハーレイ」
うんと大変そうな道でも、日焼けの方を選ぶんだ。…直ぐに手に入る化粧品じゃなくて。
「当たり前だろうが、俺はお前とは違うしな?」
お前が日焼けしようとしたって限界があるし、化粧品だと言うのも分かる。
小麦色の肌に生まれちまった時にも、化粧品で白くしようとするのも。
しかしだ、俺の場合はガキの頃から外ばかり走り回っていたしな、白い肌でも日焼けしたろう。白い肌に生まれていたとしたって、お前と再会する頃になったら、この通りっていう褐色に。
もっとも、俺はこの肌の色が好きなんだが…。
生まれた時からこの色なんだし、白くなりたいと思ったことなど一度も無いぞ。
前の俺の記憶が戻って来ようが、戻って来るより前だろうが…、とハーレイは笑う。これが今の俺の肌の色だから、と。
「ぼくもそうだよ、生まれた時から真っ白だから」
日焼けした肌の方がいいよね、って思ったことは一度も無いけれど…。ぼくはぼくだから…。
ハーレイと日焼けの話をしていたりして、ちょっぴり憧れてしまっただけで。
…ぼくの肌の色、ハーレイだって、このままの色がいいんだね?
デートする時に連れて歩くの、弱そうに見える白い肌のぼくでも…?
「うむ。日焼けしたように見える化粧まではしなくていい」
俺は守り甲斐のあるお前が好きだし、そういうお前を連れて歩くのが俺の幸せなんだから。
自然に日焼けをしちまった時は、話は別になるんだがな。
それに、お前が…。
どうしてもやってみたいと言うなら、止めないが。
人間、誰しも、持っていないものに憧れる。お前が小麦色の肌が欲しいなら、俺は止めない。
化粧してでも、そういう色になってみたいと思うんだったら、それもいいだろう。
好きにしていいぞ、と言われたけれども、化粧する気は無くなった。
いいアイデアだと考えたけれど、ハーレイに似合いの恋人の肌だと思ったけれど…。
(…でも、ハーレイが好きな肌の色は真っ白で…)
アルビノだったソルジャー・ブルーの肌の色。今の自分が持っている色。
自分もハーレイの肌は褐色がいいし、ハーレイも本当に白い肌の「ブルー」が好きなのだろう。
そう繰り返して言っていたから、小麦色をした肌の「ブルー」より、白い肌の「ブルー」。
ハーレイが好きな、その色に生まれて来た自分。
色素を持たないアルビノに生まれて、小麦色には日焼けできない真っ白な肌。
違う色に生まれて来たのだったら、懸命に白くしようとしたって、今の自分の肌の色は…。
(今のハーレイだって、一番好きな真っ白の筈で…)
小麦色の肌など必要ない、とハーレイが断言しているのだから、化粧はしない。
健康的な肌の色も素敵だと思うけれども、自分はこの色。
ハーレイが一番好きでいてくれる色は、前と同じに真っ白な色のアルビノの肌。
その色なのだと分かっているから、小麦色の肌になってみたりはしない。
命懸けで毒のお白粉を使って白くしなくても、最高の色の肌を持っているのが自分だから。
ハーレイが好きな色の肌があるなら、それ以上は何も望まないから…。
肌とお白粉・了
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昔は有毒だったんだ、とブルーが驚いた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
記事に添えられている、昔の美女の絵。多分、江戸時代の浮世絵だろう。誰が描いたものかは、新聞には書かれていないけれども。
髪を結い上げた、白い肌の女性。今の感覚だと「美人なの?」と思うけれども、その時代ならば絶世の美女。だからこそ絵のモデルにもなる。女性の肌は雪のように白い。
(色の白いは七難隠す、って…)
言われたくらいに、白い肌が美しいとされていた時代。
当時の日本は小さな島国、おまけに鎖国をしていたほど。白人の血などは殆ど入って来なくて、日本人と言えば黄色人種。けして「白い」とは呼べない肌。肌が白くても、白人ほどには。
(この絵の人は真っ白だけど…)
実際、真っ白だったという。まるで雪のように、白い絵具を塗ったかのように。
その白い肌の秘密が「お白粉」。白い粉を溶いて、肌にたっぷりと塗り付けた。黄色人種の肌の色など、欠片も見えなくなるように。顔はもちろん、首にも、襟元から覗く胸にまで。
(そうすれば、誰でも真っ白な肌で…)
素晴らしい美人になれるのだけれど、お白粉には毒が含まれていた。
材料だった鉛の中毒、肌から身体に回ってゆく毒。本人の身体を蝕むばかりか、赤ん坊の乳母をしていた場合は、その子供にまで。
胸元まで塗り付けられたお白粉、それを飲んでしまう赤ん坊。お乳と一緒に、何も知らずに。
鉛の中毒は恐ろしいもので、毒が全身に回った時には命も失くしてしまったという。
(…そんな…)
お化粧で命を落とすなんて、と思うけれども、誰もやめようとはしなかった。お白粉の毒が原因なのだと分かった後にも、やめずに使い続けた人たち。
(鉛のお白粉の方が、肌に綺麗にのびるから…)
鉛を含まないお白粉なんて、と使いたがらなかった人が多かった。命よりも肌が大切だ、と。
そんな時代だから、女性ばかりか、役者も鉛の中毒になった。舞台に立つには、白い肌がいい。より美しく、と鉛の毒を知っても使い続けたという。「美しい」ことが役者の仕事だから。
女性も役者も、まさに命懸けだった白い肌。お白粉の毒で、命を落としてしまった時代。
なんてことだろう、と震え上がった。記事に添えられた浮世絵の美女も、お白粉で命を落とした可能性がある。こうして浮世絵に描かれた後には、鉛の中毒になってしまって。
其処まで誰もが追い求めていた「白い肌」。
当時の日本で生きた人なら、肌は「真っ白ではない」ものなのに。お白粉で覆い隠さない限り、何処か黄色くなるものなのに。
どんなに肌が白い人でも、白人の肌には敵わない。黄色人種に生まれた以上は。
(ぼくだと、生まれつき真っ白だけど…)
今の自分は、色素を全く持たないアルビノ。まるで色素を持っていないから、肌は真っ白、瞳も赤い。瞳の奥を流れる血の色、それを映した透き通る赤。
(昔の日本人だって…)
こういうアルビノに生まれて来たなら、理想の肌を手に入れただろう。七難隠すという肌を。
(だけど、肌だけ白くても…)
他が駄目だよ、と眺める浮世絵。古典の授業で教わるように、「緑の黒髪」が美女の条件。緑と言っても色とは違って、艶やかさをそう表すだけ。本当の髪の色は黒。夜の闇のように黒い髪。
(アルビノだったら、髪の毛が黒くなくなっちゃって…)
瞳の色も黒くなくなる。昔の日本人が見たなら、そういう女性は美人どころか…。
(雪女みたい、って怖がられちゃった…?)
人間離れしているのだから、どれほど美しい顔立ちでも。肌が雪のように白くても。
それでは駄目だ、と思うアルビノ。「昔の日本じゃ、誰も相手にしてくれないよね」と。
真っ白な肌を持つのがアルビノだけれど、自分のようなミュウに生まれなかったら、アルビノはとても大変らしい。今の時代は誰もがミュウだし、誰も困りはしないのだけれど…。
(お日様に当たったら、肌は火傷で…)
日焼けくらいでは済まなかった。真っ赤に焼けて、時には火ぶくれが出来たほど。
だから極力、避けた日光。日焼け止めを塗って、帽子を被って、手足も出来るだけ服で覆って。
(昔だったら…)
やっぱり真っ白な肌は大変。
お白粉の毒は無関係でも、場合によっては。
色素を持たないアルビノに生まれてしまった時には、弱すぎる肌を守らなければいけないから。
(お化粧だって、怖い時代があったんだね…)
鉛の中毒になっちゃうなんて、と驚かされた昔のお白粉。今日まで全く知らなかった。
今はもちろん、何の心配も無いけれど。お化粧品を使っていたって、どれも安全なものばかり。
遥かな昔に「身体に悪い」と騒がれたらしい、太陽からの紫外線だって…。
(ミュウには、なんの危険も無いから…)
まるで問題にはならない時代。夏の日盛りに外を歩いていたって、日が燦々と照ったって。
身体の中を流れるサイオン、それが防いでいる紫外線の害。遠い昔は恐れられたもの。
(日焼けしちゃったら、皺が増えるって…)
そう言われた時代もあったらしいけれど、今の時代は日焼けしたって、老化したりはしない肌。ミュウは外見の年齢を止められるのだし、若い姿で年を止めれば、若いまま。
(顔だけ若くて、皺が増えちゃう人もいないし…)
やはりサイオンは凄いと思う。アルビノの自分が、太陽の下でも平気なのと同じ。
夏になったら、日焼けしている人だって多い。子供でなくても、大人でも。
(お休みを取って、海とか山とか…)
出掛けて行って太陽を浴びて、すっかり日焼け。腕に半袖の跡がつく人や、水着の跡がくっきり残る人たちもいる。太陽の下で過ごした証拠で、本人たちは至って満足。
夏だけでなくて、一年中、日焼けで真っ黒な人も少なくはない。
きっと太陽が照っている時に、せっせと外でジョギングや散歩。そうして自慢の日焼けを保つ。日差しが弱い冬になっても、「今の内だ!」と外に飛び出して行って。
(真っ白よりかは、日焼けした方が…)
健康的に見えるものね、と自分だって思う。青白い肌より、断然、小麦色の肌。
アルビノの自分には無理だけれども、友達はみんな、自分みたいな「真っ白な肌」の代わりに、適度に日焼け。…夏になったら。
夏でなくても白すぎはしなくて、「男の子らしい」肌の色だから。
ああいう肌の方が健康的だよ、と新聞を閉じて、戻った二階の自分の部屋。空になったカップやお皿を、キッチンの母に返してから。
(夏になったら、友達はみんな…)
日焼けしているし、それ以外の季節も自分のように白くはない。「色の白いは七難隠す」という言葉は女性向けだから、男の自分が真っ白な肌をしていても…。
(江戸時代でも、誰も褒めてはくれないかも…)
役者になって舞台に立つなら、「お白粉無しでも白い肌」だけに、大人気かもしれないけれど。顔もこういう顔立ちだから、女性を演じる「女形」になっていたならば。
けれど自分は「今」の生まれで、江戸時代などに生きてはいない。真っ白な肌でも、いいことは何も無さそうな感じ。ひ弱に見えるというだけで。
(ぼくが日焼けをしていたら…)
どんな風だろう、と壁の鏡を覗いてみた。もっと健康的に見えるか、悪戯っ子のようにも見えるだろうか、と。
前にも少し、考えたことがあるけれど。…あの時はハーレイと二人だった。
今日は一人だし、鏡の向こうをじっと眺めて、自分の顔の観察から。日焼けしている肌を持った自分は、どんな具合になるのだろうか、と。
(んーと…?)
今と同じに銀色の髪でも、まるで違ってくる印象。肌の色が白くなかったら。
際立って見える赤い瞳も、肌が日焼けをしていたならば、今ほどには目立たないだろう。周りの肌色に溶けてしまって、「赤かったかな?」と思われる程度で。
(今だと、みんな振り返るけど…)
銀色の髪に赤い瞳で、ソルジャー・ブルー風の髪型の子供。すれ違ったら、誰もが驚く。本物のソルジャー・ブルーみたいだ、と振り返って見たりもするのだけれど…。
(日焼けしてたら、もうそれだけで…)
ソルジャー・ブルーとは変わる印象。同じ髪型でも、銀の髪でも。
(ああいう髪型の子供なんだ、って…)
眺めて終わりで、瞳の色にも気付かないまま、通り過ぎる人も多いと思う。真っ白な肌なら赤い瞳は目立つけれども、小麦色の肌に赤い瞳だと、「茶色かな?」と思われたりもして。
光の加減で瞳の色が違って見えるのは、よくあること。それと同じで、肌の色でも起こりそうな錯覚。白い肌なら赤く見える瞳が、小麦色の肌なら茶色っぽく見えてしまうとか。
(同じぼくでも、日焼してたら、かなり違うよ…)
ホントに違う、と勉強机の前に座って考えてみる。「日焼けした自分の姿」というのを。今とは全く違う肌の色、真っ白な肌でなかったならば、と。
(アルビノなんだし、日焼けは難しそうだけど…)
小麦色の肌など夢のまた夢、ほんのりと肌に色がついたら、それだけで上等だという気がする。真っ白な肌を少しだけでも、普通の肌色に近付けられたら。
(そうなったら、うんと健康的…)
自然に作れる肌の色はそれが限界でも、お化粧したなら、小麦色の肌にもなれるだろう。太陽の光をたっぷりと浴びて、こんがりと焼けた肌の色に。
遠い昔の人たちは「白い肌になりたい」と願ったけれども、その逆で。
鉛の毒を含んだお白粉、身体に毒だと分かった後にも、「白くなりたい」と使い続けた日本人。彼らとは逆に、真っ白な肌を日焼けした色に変えてみる。お白粉とは違う、化粧品で。
(いろんな色があるもんね?)
肌に乗せてゆく化粧品。母がドレッサーの前で使っているもの。
元の肌の色に合わせて選ぶようだけれど、きっと色々な色がある筈。同じ人でも、日焼けしたら色が変わるから。日焼けする前の化粧品だと、それまでの肌の色には合わない。
(日焼けの色を隠したいなら、そのままの色でいいけれど…)
こだわる人なら、買い替えたりもするのだろう。「今の肌なら、この色がいい」と。
それから、生まれつきの肌の色も様々。自分みたいなアルビノもいれば、とても濃い色の人も。
(ブラウみたいに黒い肌だと、そういう色の…)
化粧品が売られていると聞いたことがある。白くなるための化粧品ではなくて、黒い肌をもっと美しく見せるためのもの。艶やかになるのか、どう変わるのかは知らないけれど。
(黒い肌でも、そうなんだから…)
ハーレイのような褐色の肌でも、それに合わせて様々な色合いの化粧品。
褐色の肌を引き立たせるとか、逆に控えめに見せるとか。真っ白にするのは不自然だとしても、ほんの少しだけ控えた褐色。それだけで印象が変わるだろうから。
思い浮かべた、褐色の肌を持つ恋人。前の生から愛した人。
(ハーレイかあ…)
青い地球の上に生まれ変わった今も、褐色の肌を持つハーレイ。前のハーレイと全く同じに。
あの褐色の肌は、とてもハーレイに似合うと思う。柔道も水泳もプロ級の腕を持っているから、なんとも強くて逞しい感じ。
(夏に半袖を初めて見た時は、ドキッとしたし…)
柔道着を着たハーレイだって、かっこいい。褐色の肌をしているお蔭で、より強そうに見えると思ってしまう。日焼けした人が健康的に見えるのと同じで、あの褐色も「元気の色」。
(ハーレイの肌が、あの色だから…)
自分が日焼けした肌になったら、ハーレイの横に並んで立てば似合うだろうか?
二人で街を歩いていたなら、「お似合いのカップル」だと誰もに思って貰えるだろうか…?
(今のぼくだと、全然違う色なんだけど…)
お白粉も塗っていないというのに、雪のように白い色素の無い肌。アルビノだから、もう本当に真っ白でしかない肌の色。
そんな自分があのハーレイと並んでいたら、とても弱そうに見えることだろう。空に輝く太陽の日射し、それを浴びてもいないような肌。
(お日様の下で散歩をしたり、ジョギングしたり…)
そういった運動などとは無縁の、ひ弱な人間。肌の色だけで、そう思われそう。
実際、弱く生まれたけれども、それ以上に弱く見えるアルビノ。…肌の色が白いというだけで。小麦色の肌になれはしなくて、日焼けしたとしても、ほんのちょっぴり。
(このままだったら、そうなるけれど…)
化粧品を使って「日焼けした肌」を作り出したら、ガラリと変わるだろう印象。銀色の髪と赤い瞳は同じままでも、今とは違って見える筈の姿。
「日焼けした肌」でハーレイと一緒に歩いていたなら、健康的なカップルだと思って貰えそう。二人とも運動が好きなカップル、ジョギングだとか、水泳だとか。
(ハーレイ、ひ弱な恋人を連れているんじゃなくて…)
趣味のスポーツで知り合ったような、元気一杯の恋人とデート。傍目にはそう映るのだろう。
真っ白な肌の自分でなければ、「化粧した肌」でも、日焼けした肌の恋人ならば。
そんな話もしたんだっけ、と思い出す。ハーレイと二人で、「ぼくが日焼けしたら?」と。
あの時は、自然な日焼けばかりを考えていた。海に出掛けて日光浴とか、ハーレイが引っ張ってくれるゴムボートに乗って沖まで出掛けて、その間に日焼けするだとか。
化粧品などは思いもしなくて、日焼け止めとか、日焼け用のオイルの話をしただけ。化粧品など縁が無いから、そうなって当然なのだけど。
けれども、今日の自分は違う。お白粉の記事を読んだお蔭で、化粧品というものに気が付いた。黒い肌でも、褐色の肌でも、それに似合いの化粧品がある。
(ぼくみたいな肌でも、小麦色になれる化粧品…)
きっと売られているだろうから、それを使えば出来上がるのが日焼けした肌。アルビノの自分の限界を越えて、ほんのりとした日焼けよりもずっと、こんがりと小麦色の肌。
化粧品で日焼けした肌を作ってみようかな、と思っていた所へ、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。ぼくが日焼けしてたら、どう思う?」
うんと元気な子供みたいに、小麦色に。…夏になったら沢山いるでしょ、日焼けした子供。
大人の人でも大勢いるよね、ああいう肌をした、ぼくはどう?
今じゃないけど…。前のぼくと同じ背丈に育って、ハーレイとデートに行ける頃だけど。
「日焼けって…。しかも、小麦色ってか?」
ハーレイは目を丸くした。「この前も言ったが、こんがり焼くのは無理ってモンだろ」と。どう考えても無理に決まってる、というのがハーレイの意見。「太陽で火傷しちまうぞ」と。
「分かってるってば、ぼくだと火傷しちゃうってことは…」
ほんのちょっぴり日焼けするだけでも、きっと火傷をしちゃうんだよ。真っ赤になって、痛くて皮も剥けちゃって…。それでもいいから、って頑張ったって、日焼け出来るのは少しだけ。
だからホントに小麦色になるのは無理だけど…。
どう頑張っても無理だけれども、お化粧品を使えば出来るよ。ぼくだってね。
「化粧品だと?」
いったい何を使うと言うんだ、日焼け止めだと日焼けを防いじまう方だぞ?
日焼け用のオイルは、肌を保護してくれるモンだが…。
そいつを何度も塗り重ねたって、お前の肌だと、小麦色にはなれそうもないが…?
その前に痛くて泣いちまうんだ、とハーレイは呆れたような顔。「無茶はいかんぞ」と。
「お前は、日焼けで泣いた経験、無いらしいから…。その分、余計に大変だ」
普通はチビの間に泣いて、日焼けで痛くなっちまうのを避けるサイオンを身につけるんだが…。
お前の場合はそうじゃないだろ、身体が大きくなっているから、痛い部分も増えるんだぞ?
子供の背中と大人の背中じゃ、大きさがまるで違うんだから。
小麦色の肌など、アルビノの身体じゃ無理なんだし…。やめておくんだな、そんな挑戦。
結果はとっくに見えてるじゃないか、とハーレイが言うから、首を横に振った。
「ホントに焼くって言っていないよ、お化粧品って言ったじゃない」
昔のお白粉の逆だってば。
今日の新聞に載っていたんだよ、ずっと昔はお白粉に毒があったんだ、って…。鉛の毒が入ったお白粉。肌が白いほど美人なんだ、って思われてたから、鉛の中毒が多かった、って…。
「おっ、そんな記事が載ってたか?」
化粧も命懸けだった時代の話だよなあ、毒だと分かっちまった後は。…きっとその前から、何か変だと思っていた人はいたんだろうが…。
鉛入りのお白粉は毒なんだ、と分かった後にも、使いたいヤツが大勢いたのが凄い所だ。
人間、綺麗になるためだったら、命も惜しくないのかもなあ…。
俺にはサッパリ分からんが、とハーレイがフウと零した溜息。「何も其処までしなくても」と。
「ぼくも分からないよ。いくら綺麗だって褒めて貰っても、死んじゃったらおしまい…」
生まれ変わって来られた時には、記憶は無くなっちゃってるから。…ぼくたちみたいに、神様が奇跡を起こしてくれない限りは。
それなのに命懸けでお化粧なんて、って考えていたら、日焼けの方に頭が行っちゃって…。
ぼくだと生まれつき真っ白だけれど、お化粧したら違う色にもなれるよね、って思ったんだよ。
肌の色って色々あるでしょ、ハーレイみたいな褐色だとか、ブラウみたいな黒だとか…。
どんな肌でも、それに合わせたお化粧品があるものね…?
「確かにあるなあ、黒い肌だとビックリだよな」
何度も見てるが、化粧をしようと取り出すケース。…なんて呼ぶんだか、小さな鏡つきのヤツ。
あれの蓋をパカッと開けてみるとだ、中身がちゃんと真っ黒なんだ。
顔にパタパタはたいてるんだが、俺が見たってよく分からん。化粧する前と、どう違うのか。
学生時代によく見たもんだ、とハーレイは懐かしそうな顔。柔道も水泳も、あちこちの地域から選手が来るから、黒い肌の女性もいたという。
試合で汗を流した後には、着替えて懇親会などもあった。其処で見ていた化粧する女性。
「そっか…。やっぱり黒い肌だと、お化粧品だって黒いんだよね?」
だったら小麦色のもあるでしょ、日焼けしている人用に。…顔だけ違う色にならないように。
ぼくが言うのは、そういうお化粧品のこと。それを使えば、ぼくだって小麦色の肌になれるよ。うんと健康的な感じで、ハーレイと並んだら絵になりそう。
スポーツで知り合ったカップルみたいで、ハーレイの恋人にピッタリじゃない…?
真っ白な肌のぼくよりも、と自信たっぷりで提案した。「ちゃんとお化粧すればいいよね」と。きっと賛成して貰えるだろう、と考えたのに…。
「お前なあ…。健康的なカップルってヤツは、ともかくとしてだ…」
俺の気持ちはどうなるんだ?
小麦色の肌に見えるよう、化粧しているお前を連れてる、俺の気持ちは…?
ちゃんと其処まで考えたのか、と問い掛けられた。「俺の気持ちまで考えてるか?」と。
「え? ハーレイの気持ちって…」
それならきちんと考えたってば、やっぱり絵になる方がいいでしょ?
真っ白な肌で、見るからに弱そうなぼくを連れているより、元気一杯に日焼けしている、ぼく。
ハーレイは運動が大好きなんだし、そういうぼくが好きだよね、って…。
ひ弱に見えるぼくよりも、と瞳を瞬かせた。中身は変わらず弱いままでも、見た目だけでも健康そうなら、ハーレイに似合いの恋人だから。
「何を考えているんだか…。お前らしいと言ってしまえば、それまでだがな」
いいか、俺は今のままのお前が好きなんだ。…今のお前が。
間違えるなよ、チビのお前っていう意味じゃない。チビなのは横に置いておいて、だ…。
俺はアルビノのお前が好きだと、前にも言ったと思うがな?
前のお前が成人検査で失くしちまった、金色の髪と水色の瞳。それを知ってはいるんだが…。
俺がこの目で見ていたお前は、出会った時からアルビノだった。金色と水色のお前は知らない。
だから、お前はアルビノに限る。…アルビノだからこそ、俺が知ってるお前なんだ。
なのに日焼けをするって言うのか、わざわざ化粧で小麦色の肌に…?
それはお前の姿じゃないぞ、とハーレイは少しも喜ばなかった。小麦色の肌の恋人になったら、とてもハーレイに似合うのに。…ひ弱な恋人を連れているより、絵になるのに。
「日焼けした、ぼく…。小麦色の肌のぼくだと、駄目なの…?」
本当に日焼けするんじゃないから、ぼくは「痛い」って泣いたりしないよ?
出掛ける前に、お化粧するのに時間がかかるかもしれないけれど…。でも、今のぼくより、肌の色はずっと、丈夫そうな感じになるんだから…。
いいと思うよ、と重ねて言った。本物の日焼けは大変な上に、小麦色の肌にもなれそうにない。けれど化粧をするなら簡単、そのための時間を取りさえしたら。
「小麦色の肌になったお前か…。試してみたいと言うんだったら、止めはしないが…」
化粧をするって手もあるんだが、俺としては白い肌のままのお前がいいな。
そういうお前しか知らない、ってことは抜きにしたって、真っ白な肌のお前がいい。健康そうに日焼けしている、小麦色の肌のお前よりもな。
断然、白だ、と一歩も譲らないハーレイ。「白い肌のお前の方がいい」と。
「どうして? …なんで、白い肌のぼくの方がいいわけ?」
白い肌だと、誰が見たって弱そうにしか見えないよ?
普通に白いだけならいいけど、ぼくはアルビノなんだから。…少しも色が無くて、真っ白。
そんな色のぼくを連れているより、小麦色の肌が良さそうだけど…。お化粧で小麦色に見せてるだけでも、本当は真っ白な肌のままでも。
ちゃんと上手にお化粧をすれば、きっと自然に見えるから…。お化粧だなんて、バレないから。
そういうぼくと並んでいたら、絶対に絵になりそうなのに…。
弱そうなぼくとデートするより、ハーレイだって鼻高々だと思うんだけど…。
元気そうな恋人の方がいいでしょ、と繰り返した。柔道と水泳で鍛えた今のハーレイ。その隣に並んで歩くのだったら、同じように鍛えていそうな恋人、と。
身体が華奢に出来ていたって、日焼けしていれば印象は変わる。「細いけれども、強いんだ」と勘違いだってして貰える。「ああ見えてもきっと、スポーツが上手いに違いない」と。
「俺はそのようには思わんが?」
柔道部のヤツらを連れて歩くのとは違うんだ。…誰と歩こうが俺の勝手で、俺の趣味だぞ。
俺が「素敵だ」と思ったからこそ、連れて歩くのが恋人だろうが。
それに、真っ白な肌のお前の方が守り甲斐がある、とハーレイは笑みを浮かべてみせた。
「そう思わんか?」と。「小麦色の肌をしたお前だったら、そうはいかんぞ」とも。
「お前が元気一杯だったら、俺の出番が無くなるだろうが」
化粧とはいえ、小麦色の肌になっちまったら、見た目は元気一杯だしなあ…。弱くはなくて。
そんなお前を連れていたって、俺としては、あまり愉快じゃないぞ?
お前と一緒なことは嬉しくても、さて、どう言えばいいんだか…。
真っ白な肌のお前だったら、もう見るからに弱そうだしなあ、強い俺が守ってやれるんだが…。小麦色の肌で元気一杯のお前となったら、守る必要、無さそうだろうが。
お前は充分、強いわけだし、俺の後ろに隠れる代わりに、一緒に戦いそうだから。
今はすっかり平和な時代で、戦う敵など何処にもいないわけだが、イメージってヤツだな。
強いお前だとそうなっちまうし、弱いお前の方がいい、とハーレイは至極真面目な顔。小麦色の肌の元気な恋人よりも、真っ白な肌の弱そうな恋人の方がいいのだ、と。
「弱いぼくがいいって…。そういうものなの?」
ハーレイが連れて歩く恋人、見た目からして弱そうなのがいいの…?
「俺としてはな。そっちの方が俺の好みだ」
恋人を守ってやれる強さを誇れるんだぞ、弱そうなのを連れてたら。…俺が守っているんだと。
しかしだ、元気一杯で強そうなのを連れていたなら、大人しく守られていそうにないし…。
俺が「隠れていろ」と言っても、「ぼくも戦う!」と出て来そうでな。
「でも、ハーレイには似合いそうだと思うんだけど…」
一緒に戦いそうな恋人。…柔道の技で投げ飛ばすだとか、そういうことが出来そうな、ぼく。
ハーレイも自慢できそうじゃない、と恋人の鳶色の瞳を見詰めた。今のハーレイはプロの道への誘いが来たほど、柔道も水泳も腕が立つ。とても強いのだし、それに相応しい恋人が似合い。
「そいつはお前の思い込みだな、残念ながら」
お前が何と言っていようが、俺の考えは変わりやしない。周りのヤツらがどう見ようとも。
「弱そうなのを連れているな」と思われたって、お前の肌はだ…。
健康そうな小麦色より、今の真っ白な肌がいい。少し日に焼けても、火傷しそうな白いのが。
そういうお前に俺は惹かれるし、わざわざ化粧で小麦色なんかにしなくても…。
お前が納得いかんというなら、逆を想像してみるんだな。…逆のケースを。
想像力を逆に働かせてみろ、と言われたけれども、分からない。逆というのは何だろう?
「…逆って?」
逆のケースって、どんな意味なの?
ぼくの肌の色は真っ白なんだし、逆になったら小麦色だよ。…もう何回も言ったけれども。逆にしたなら何だって言うの、ぼくが最初から小麦色の肌の子供っていう意味なの…?
今のアルビノのぼくじゃなくって…、と自分の顔を指差したけれど、ハーレイは「逆だぞ?」と即座に否定した。「逆と言ったら、逆なんだ」と。
「よく考えてみるんだな。…幸いにして俺たちは、前の通りに生まれ変わって来たが…」
お前も俺も、前とそっくり同じ姿になれる器を手に入れたんだが、其処の所が問題だ。
さっきからお前は、自分のことばかり言ってるが…。アルビノよりも小麦色の肌だとか、化粧で小麦色の肌を手に入れるとか。
そいつはお前の問題なんだが、もしもだな…。俺が白い肌だったらどうするんだ?
お前はアルビノのままだったとしても、今の俺の肌が、褐色じゃなくて白い肌だったら…?
真っ白なお前には及ばないにしても、白い肌をした人間ってヤツは幾らでもいるんだからな…?
こういう肌の俺でなければどうなんだ、とハーレイが指先でトンと叩いた自分の手。前と少しも変わらない色で、とても馴染みの深い褐色。
その肌の色が、この褐色ではなかったら。…白い肌に生まれたハーレイだったら、どうだろう?
(…顔立ちも身体も、前のハーレイと同じだけれど…)
肌の色が白くなってたら…、と恋人の姿をまじまじと見た。
眉間に刻まれた癖になった皺、それは同じでも、肌が白ければ見た目が変わる。鳶色の瞳を囲む肌だって、やはり同じに白くなる。武骨な手だって、逞しくて太い首筋だって。
「…なんだかハーレイじゃないみたい…」
ハーレイの顔だけど、ハーレイじゃないよ。…肌の色が白くなっちゃったら。
ぼくの知ってるハーレイじゃなくて、だけどやっぱりハーレイで…。ハーレイなんだけど…。
「よし。その俺の姿は、強そうに見えるか?」
今の俺と少しも変わらないくらい、強そうな姿のハーレイなのか…?
「…強そうかって…。うーん…」
どうなんだろう、白い肌でも、ハーレイには違いないんだけれど…。
白い肌を持っている人間でも、強い人なら大勢いる。プロのスポーツ選手も沢山。
だから「白い肌の人は弱い」などとは思わないけれど、それを見慣れたハーレイの身体で考えるならば、答えは違ってきてしまう。
褐色の肌に慣れているから、その色が白くなったなら。…今よりもずっと薄い色になって、白い肌だと言える姿になったなら。
「…ハーレイが白くなっちゃったら…。逞しさ、ちょっぴり減っちゃうかも…」
今とおんなじ強さのままでも、見た目が弱い気がするよ。ホントにそんなに強いのかな、って。
日焼けした人と、していない人なら、日焼けした人の方が強そうに見えてくるのと同じで。
…ハーレイの肌の色、日焼けなんかじゃないんだけれど…。
「ほら見ろ、お前もそうだろうが。ただし、俺とは逆なんだが」
俺が同じ強さを持っていたって、肌の色一つで印象が変わる。強そうなのか、弱そうなのか。
前の俺は柔道なんかは全くやっていなかったんだが、お前が知ってた俺はこういう姿だし…。
白い肌になってしまっていたなら、お前、ガッカリしていたかもなあ…。再会した時に。
ただのキャプテンでも、褐色の肌を持っていただけで、見た目の逞しさが何割かは増していたと思うし…。それがすっかり無くなっちまって、白い肌になった俺だとな。
白い肌だと、弱いハーレイに見えないか、という質問。「前よりも腕は立つんだがな」と。
「そうなのかも…。なんだか弱くなっちゃったかも、って…」
でも、ハーレイはハーレイなんだし、直ぐに慣れるよ。
最初はビックリしちゃいそうだけれど、今のハーレイが強いってこともじきに分かるし…。
ぼくなら少しも困らないってば、同じハーレイなんだもの。
肌の色が前とは違うってだけで、顔立ちとかは前のハーレイとおんなじだから…。
その内に慣れて平気になるよ、と言ったのだけれど、ハーレイは「そうか?」と返して来た。
「慣れてしまえば、それでいいのかもしれないが…」
だが、どちらかを選べるんなら、元のままの俺がいいだろう?
褐色の肌を失くしちまって白い肌になった、何処か弱そうに見える俺よりは。
お前は強そうに見えた時代を知ってるんだし、その頃の俺と同じだったら、と思わんか…?
「うん…」
選べるんなら、その方がいいよ。…白い肌より、褐色の肌をしたハーレイの方が…。
肌の色で強さは変わらないけど、と頷いた。選べるものなら、褐色がいいに決まっているから。白い肌をしたハーレイよりかは、褐色の肌のハーレイがいい。
「分かったか? それと同じだ、俺の方もな」
生まれ変わって健康的な小麦色の肌になったお前より、真っ白な肌のお前がいいわけで…。
守り甲斐があるし、連れて歩きたいと思うお前は、真っ白な肌の弱そうなお前だ。
お前がアルビノに生まれてくれてて、本当に良かった。
弱い身体になっちまったのは可哀相だが、それでもやっぱり、今のお前が一番いい。…俺はな。
日焼けしたお前に再会してたら、俺も途惑う。
お前が白い肌をした俺に会うのと同じくらいに、いや、それ以上にショックだろうなあ…。
健康的なお前だなんて、とハーレイが嘆きたくなるのも分かる。
サイオンは不器用だったとしたって、とても健康に生まれていたなら、ハーレイには恋人を守ることが出来ない。「大丈夫か?」と気遣わなくても、健康そのもの。倒れもしなくて元気一杯。
「そうだよね…。パタリと倒れてしまいもしないし、病気で寝込んだりもしないし…」
いつ見ても元気一杯のぼくで、ハーレイの隣ではしゃいでるだけ。…疲れもせずに。
ハーレイはとてもガッカリだろうし、なんだか悪い気がするから…。
そうなっていたら、ぼく、白くなろうと頑張ったかも…。
ハーレイに前のぼくを見せたくて、せっせとお化粧するんだよ。白い肌で弱く見えるように。
二人で並んで歩いてる時は、ひ弱な感じになるように。
…命懸けでお化粧していた人の気持ちが、今、少しだけ分かったよ。
ハーレイが喜んでくれるんだったら、命懸けでも、お化粧、するかも…。
したくなるかも、と思った昔のお白粉。それが毒だと分かった後にも使い続けた、小さな島国で生きた人たち。肌を美しく見せるためにと、鉛が入っていた毒のお白粉を身体に塗って。
「命懸けで化粧するだって?」
穏やかじゃないな、お前、何をするつもりなんだ…?
「さっきの話だよ、昔のお白粉…」
毒なんだって分かっていたのに、使うなんて、と思ったけれど…。
ハーレイに素敵なぼくを見て貰うためなら、ぼくだって使っちゃうのかも…。毒のお白粉でも。
「ああ、あれなあ…」
そういう女性もいたかもしれんな、健気な人が。…毒でも、恋人に喜んで貰おうと使った人。
命が懸かっていたとしたって、やはり気になるものなんだろうな、とハーレイが言う肌の色。
遠い昔の日本の女性は、真っ白な肌が美人の条件だからと、毒のお白粉を使い続けた。少しずつ身体を蝕んでゆく鉛の毒に気付いた後にも、「これが一番いいお白粉だから」と。
毒入りではない新しいお白粉、それが毒入りのものと変わらない品質になるまでは。
(…ハーレイのためなら、ぼくだって…)
きっと使おうとするのだろう。小麦色に日焼けする肌に生まれていたなら、アルビノだった前の自分の真っ白な肌に近付けるために。
(…ぼくが小麦色の肌をしてたら、ハーレイだって気にするし…)
いくら慣れても、前の自分の白い肌を思い出すだろう。「ブルーの肌はこうじゃなかった」と。それと同じに自分も気にする。「前のぼくなら、こうじゃない」と。もっと白い肌をしていたと。
(真っ白な肌に戻れるんなら、毒のお白粉でも使っちゃいそう…)
前の通りであろうとして。ハーレイが今も見たいであろう、真っ白な肌を見せようとして。
「ねえ、ハーレイ…。ぼくがアルビノじゃない身体に生まれてしまってて…」
すっかり日焼けしてしまってたら、白くなろうと頑張るけれど…。
毒のお白粉は使わなくても、お日様に当たらないようにするとか、頑張って白くするけれど…。
ハーレイが白い肌に生まれていたら、どうするの?
ぼくと出会って記憶が戻っても、ハーレイの肌が今の褐色じゃなかったら…?
どうすると思う、と尋ねてみた。褐色の肌を手に入れようと努力するのか、しないのか。
「俺の場合か? もちろん、日焼けしようとするな」
元が白い肌がこの色になるまで、日焼けするのは大変そうだという気がするが…。
化粧よりかは、自然な日焼けが一番だ。
お前みたいに弱くはないしな、太陽の下を走り回っても倒れちまうことは無いモンだから。
暇を見付けてはせっせと日焼けで、こういう色を手に入れるまで頑張ることは間違いないぞ。
化粧なんぞは誤魔化しだ、とハーレイは日焼けするらしい。褐色の肌に生まれなかったら、前と同じ色を手に入れるために。
「肌の色だけで逞しさが増す」という、褐色の肌。
白い肌より強く見える色を、前のハーレイとそっくり同じな色を身体に取り戻すために、重ねる努力。夏の盛りの頃はもちろん、他の季節も太陽の光を浴び続けて。
化粧はしないで、自分で色を取り戻すのが今のハーレイ。褐色の肌になりたいのならば、化粧をすれば簡単なのに。いくらでも楽に染められるのに。
「お化粧じゃなくて、日焼けするなんて…。ハーレイらしいね、今のハーレイ」
うんと大変そうな道でも、日焼けの方を選ぶんだ。…直ぐに手に入る化粧品じゃなくて。
「当たり前だろうが、俺はお前とは違うしな?」
お前が日焼けしようとしたって限界があるし、化粧品だと言うのも分かる。
小麦色の肌に生まれちまった時にも、化粧品で白くしようとするのも。
しかしだ、俺の場合はガキの頃から外ばかり走り回っていたしな、白い肌でも日焼けしたろう。白い肌に生まれていたとしたって、お前と再会する頃になったら、この通りっていう褐色に。
もっとも、俺はこの肌の色が好きなんだが…。
生まれた時からこの色なんだし、白くなりたいと思ったことなど一度も無いぞ。
前の俺の記憶が戻って来ようが、戻って来るより前だろうが…、とハーレイは笑う。これが今の俺の肌の色だから、と。
「ぼくもそうだよ、生まれた時から真っ白だから」
日焼けした肌の方がいいよね、って思ったことは一度も無いけれど…。ぼくはぼくだから…。
ハーレイと日焼けの話をしていたりして、ちょっぴり憧れてしまっただけで。
…ぼくの肌の色、ハーレイだって、このままの色がいいんだね?
デートする時に連れて歩くの、弱そうに見える白い肌のぼくでも…?
「うむ。日焼けしたように見える化粧まではしなくていい」
俺は守り甲斐のあるお前が好きだし、そういうお前を連れて歩くのが俺の幸せなんだから。
自然に日焼けをしちまった時は、話は別になるんだがな。
それに、お前が…。
どうしてもやってみたいと言うなら、止めないが。
人間、誰しも、持っていないものに憧れる。お前が小麦色の肌が欲しいなら、俺は止めない。
化粧してでも、そういう色になってみたいと思うんだったら、それもいいだろう。
好きにしていいぞ、と言われたけれども、化粧する気は無くなった。
いいアイデアだと考えたけれど、ハーレイに似合いの恋人の肌だと思ったけれど…。
(…でも、ハーレイが好きな肌の色は真っ白で…)
アルビノだったソルジャー・ブルーの肌の色。今の自分が持っている色。
自分もハーレイの肌は褐色がいいし、ハーレイも本当に白い肌の「ブルー」が好きなのだろう。
そう繰り返して言っていたから、小麦色をした肌の「ブルー」より、白い肌の「ブルー」。
ハーレイが好きな、その色に生まれて来た自分。
色素を持たないアルビノに生まれて、小麦色には日焼けできない真っ白な肌。
違う色に生まれて来たのだったら、懸命に白くしようとしたって、今の自分の肌の色は…。
(今のハーレイだって、一番好きな真っ白の筈で…)
小麦色の肌など必要ない、とハーレイが断言しているのだから、化粧はしない。
健康的な肌の色も素敵だと思うけれども、自分はこの色。
ハーレイが一番好きでいてくれる色は、前と同じに真っ白な色のアルビノの肌。
その色なのだと分かっているから、小麦色の肌になってみたりはしない。
命懸けで毒のお白粉を使って白くしなくても、最高の色の肌を持っているのが自分だから。
ハーレイが好きな色の肌があるなら、それ以上は何も望まないから…。
肌とお白粉・了
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(降り出しそう…)
大丈夫かな、とブルーが眺めた窓の外。学校から帰る途中の、路線バスの中で。
今にも降り出しそうな空。大粒の雨か、小雨になるかは分からないけれど。
(…ホントに降りそう…)
こんなに暗くなっちゃうなんて、と雲を眺めて不安で一杯。「降り始めたら、どうしよう」と。
学校を出る時、「曇ってるよ」と思ってはいた。最後の授業が始まる頃から曇り始めて、授業が終わる頃には無かった青空。広い空の何処を探しても。
けれど、朝、家を出る前の天気予報では、雨だとは言っていなかった。午後は「曇り時々晴れ」だったのだし、降らないだろうと考えた。単に曇っているだけで。
(じきにお日様が顔を出すとか、お日様無しでも…)
青空が見えて来ないだけだよ、と終礼の後は真っ直ぐバス停に向かった。グラウンドの横を通り過ぎてから、校門を抜けて。
いつも帰りに使うバス停、其処に立って待った路線バス。その間にも空はどんどん暗さを増していったけれど、雨の予報は出ていなかったし…。
(降るにしたって、まだ平気、って…)
まだ当分は降らないだろう、と思った自分。夕方から降るとか、夜が雨だとか、そんな具合で。
何の根拠も無いというのに、「大丈夫」などと楽観的に。
そう思ったから、「傘を借りよう」と学校に戻りはしなかった。急な雨の日には、貸して貰える学校の傘。降り始める前なら、まだ充分に数がある筈なのに。
(家に帰る方が、ずっと早いよ、って…)
バス停にある時刻表を見て、出した結論。もうすぐバスがやって来る。それに乗ったら、幾つかバス停を通った後に、家の近くのバス停に着く。
(傘を借りに、学校に戻っていたら…)
そのバスは行ってしまうだろう。次のバスを待つことになるから、その間に…。
(雨が降り始めて、傘の出番で…)
帰りの道は雨の中になるかもしれない。
じきに来るバスに乗って帰れば、雨に遭わずに帰れても。…一粒の雨にも出会わないまま、家の中に入ることが出来ても。
傘を借りに戻って行ったばかりに、雨になっては馬鹿々々しい。それに降らない可能性も充分。だから要らない、と傘は借りずに、バスに乗り込む道を選んだ。
なのに、すっかり降りそうな空。こんなに暗くなるなんて。
(……傘……)
雨の予報が出ていなかったから、折り畳み傘も持ってはいない。あったら心強いのに。
ここまで空が暗くなるなら、やっぱり学校に戻れば良かった。「降りそうですから、傘を貸して下さい」と、頼めば直ぐに借りられたのに。
(ぼくの馬鹿…)
道を間違えちゃったかも、と窓から暗い空を仰いで、祈るような気持ち。「降らないで」と。
今にも降りそうな空だけれども、もう少しだけ降らないでいて欲しい、と。
(家に帰るまで…)
なんとか降らずに持ってくれれば、と祈り続けて、ようやく着いた家の近所のバス停。普段より長く感じた道のり、バスはいつもと同じ速さで走っていたのに。
(まだ大丈夫…)
降っていないよ、とバスから降りた途端に、ポツリと頭に落ちた雨粒。まるで降りるのを待っていたかのように。
冷たい、と頭に手をやる間に、もう次の粒が降って来た。その手に、足の下の地面に。
(降って来ちゃった…!)
止まないかな、と空を見上げたら、顔にも落ちて来た雨粒。パラッと降っただけで通り過ぎる雨ではなさそうな感じ。
(ママが迎えに来てくれたら…)
いいんだけどな、と急ぎ足で家を目指して歩いた。「ママ、お願い」と。
母が迎えに来てくれないなら、道沿いの家の誰かが気付いて、「持って行きなさい」と傘を一本貸してくれるとか。「返してくれるのは、いつでもいいよ」と。
(だけど、降り出しちゃったから…)
庭には誰も出ていない。庭仕事をしていた人も、とうに家へと入っただろう。
降って来る雨を防ぎたくても、不器用なサイオンではシールドは無理。走って帰っても、時間が少し短くなるだけ。濡れてしまうのは変わらないから、体力を無駄に費やすだけ。
下手に疲れてしまうよりは、と降る雨の中をトボトボ歩いて、家に着いたら、しっとりと濡れてしまった制服。すっかり湿って、雨の雫が落ちそうな髪。
門扉を開けて庭を横切る間も雨で、玄関の扉を濡れた手で開けた。扉をパタンと閉めてから…。
「ただいま、ママ…」
タオルちょうだい、と奥に向かって呼び掛けた。このままでは家に上がれない。靴下まで濡れているわけなのだし、歩いた後に水の雫が点々と落ちもするだろうから。
「おかえりなさい、ブルー! タオルって…?」
濡れちゃったの、とタオルを持って来た母は、きっと鞄が濡れたと思っていたのだろう。傘では防ぎきれなかった雨粒、それが濡らした通学鞄。
ところが玄関先にいたのは、びしょ濡れの息子。鞄どころか、髪も制服も、何もかもが。
母は見るなり「大変!」と叫んで、タオルで頭を拭くように言った。追加のタオルを取ってくる間、髪だけでもしっかり拭くように、と。
パタパタと奥へ走って行った母が、大きなバスタオルを持って戻って来て…。
「ブルー、早くお風呂に入りなさい」
これを羽織って、とバスタオルで身体を包まれた。「床は濡れてもいいから、上がって」とも。
「お風呂って…?」
「身体がすっかり冷えているでしょ、こういう時には、お風呂が一番」
ああ、でも、お湯を入れなくちゃ…。お風呂の準備には早い時間だから、お湯がまだ…。
だけど、シャワーを浴びてる間に、お湯も溜まるわ、と連れて行かれたバスルーム。大きなバスタオルにくるまれたままで、通学鞄を取り上げられて。
バスルームに着いたら、手前の部屋で制服を脱がされ、母がコックを捻ったシャワー。熱そうな湯気が立っているそれと、バスタブに落とし込まれるお湯と。
「ほら、ブルー。早く入って、シャワーから浴び始めなさい」
着替えはママが用意しておくから、しっかり中で温まるのよ。
お湯が溜まるまではシャワーを浴びて、溜まってきたら、ゆっくり浸かって。
そうしなさい、と母は大慌てで、「早く」と急かすものだから…。
「はーい…」
ちゃんと温まるよ、大丈夫。…ごめんなさい、ママをビックリさせて…。
そう謝ってから、「着替え、お願い」と頼んで入ったお風呂。バスタブのお湯は、まだ底の方に溜まり始めているだけだから…。
(もっと溜まるまで、シャワーを浴びて…)
温まらなくちゃ、と浴びたら、「熱い!」と悲鳴を上げそうになった。思わずお湯の温度を確認したくらいに。「ママ、慌てていて、間違えちゃった?」と。
(…いつもとおんなじ…)
だけど熱い、と感じるシャワー。熱湯を浴びているかのように。
バスタブに落とし込まれるお湯も、溜まり始めているお湯も熱い。本当に火傷しそうなくらい。
普段の温度と変わらないなら、自分の方が冷えたのだろう。いつもお風呂に入る時より、遥かに下がってしまった体温。
(中まで冷えてしまっているのか、外側だけか…)
其処までは分からないけれど。体温を測ってはいないけれども、冷えたのは確か。心地良い筈のお湯の温度を、「熱すぎる」と思うくらいにまで。
(風邪を引いちゃったら大変だから…)
しっかり温まらないと、と我慢して熱いシャワーを浴びた。バスタブにお湯が満ち始めるまで。
(半分ほどは溜まったから…)
もういいかな、と足を踏み入れてみて「熱い!」と引っ込め、けれど浸からないと温まらない。少しずつ慣らして、そうっと入って、ゆっくりと身体を沈めていって…。
(ホントに熱すぎ…)
お鍋で茹でられているみたい、と思うけれども、それは気のせい。冷えた身体が「熱い」と錯覚しているだけ。「熱すぎるから」と水で温度を下げてしまったら…。
(お風呂でも冷えて、もう本当に…)
風邪を引くのに決まっているから、溜まってゆくお湯に肩まで浸かった。立ち昇る湯気で顔まで熱いけれども、これだって我慢しなくては。
(……右手……)
右手もちゃんと温めないと、とバスタブの中で何度もキュッと固く握った。
前の生の最後に、メギドで冷たく凍えた右手。ハーレイの温もりを失くしてしまって、悲しみの中で死んでいった前の自分。あの時の悪夢を呼ばないように、右手を温めてやらなくては。
溜まったお湯にゆっくり浸かって、のぼせるくらいに温まってから、手に取ったタオル。身体の水気を軽く拭って、「次はバスタオル」と浴室を出たら。
(パジャマ…?)
着替え用にと置かれていたのは、服ではなくて寝る時のパジャマ。それから、パジャマの上から羽織れるようにと大きめの上着。
夜だったなら分かるけれども、まだ日が沈んでもいない時間。パジャマを着るには早すぎる。
そう思ったから、廊下に顔だけ出して叫んだ。
「ママ、なんでパジャマ!?」
ぼくが着る服は何処へ行ったの、此処にあるのはパジャマじゃない!
服を持って来て、と呼び掛けたけれど、やって来た母は何も持ってはいなかった。
「パジャマでいいのよ。寝なきゃ駄目でしょ、風邪を引いちゃうから」
あんなに濡れてしまっていたのよ、制服もシャツも、びしょ濡れだったわ。身体の芯まで冷えている筈よ、お風呂だけでは足りないの。
ベッドに入って寝ていなさい、と母が言うから抗議した。
「平気だってば!」
お風呂、ちょっぴり熱かったけれど、ちゃんと我慢して浸かったし…。もう平気。
服をちょうだい、パジャマでベッドじゃ、病気になったみたいじゃない!
ぼくは平気、と頬を膨らませたのに、母は許してくれなくて。
「駄目よ、暖かくして寝ていないと…。おやつだったら、部屋に運んであげるから」
先に帰って待っていなさい、と強引に二階に追い上げられた。仕方なく行くしかなかった部屋。扉を開けて中に入ったら、母が届けに来たケーキのお皿と、ホットミルクと。
湯気を立てているカップの中身は、前にハーレイが教えてくれたシロエ風。風邪の予防にいいというマヌカの蜂蜜たっぷり、それにシナモンを振りかけてあるホットミルク。
(…風邪を引きそうだから、シロエ風…)
此処までされたら、どうしようもない。濡れて帰った自分が悪い。
(昼間からパジャマで、風邪でもないのにベッドの中…)
仕方ないけど、と椅子に腰掛けてケーキを頬張る。いつも以上に熱く思えるホットミルクも。
やはり身体の内側まで冷えているのだろう。シロエ風のミルクが熱いのならば。
シュンとしながら、食べ終えたおやつ。母が見張っている中で。
「御馳走様」と空になったカップを置いたら、ベッドに入るように言われた。上掛けもすっぽり肩まで引き上げられて。
「出ちゃ駄目よ? ベッドで本を読むのも駄目」
また冷えちゃうから、と本まで禁じられる始末。これでは本当に「寝ている」しかない。宿題は出ていないけれども、その宿題で思い出した。学校と関係がある恋人を。
「ママ、ハーレイは…?」
来てくれるかどうか分からないけど、もし来てくれたら、起きてもいい?
ちゃんと服を着て暖かくするから、起きて話をしてもいいでしょ…?
いつものテーブルと椅子の所で、と窓辺のテーブルを指差した。上掛けの下から、手の先だけを覗かせて。
「起きるって…。あんなに濡れて冷えちゃったんでしょ、大事を取って寝ていなさい」
今日は一日、ベッドにいること。そのくらいしないと駄目なのは、分かっているでしょう?
ブルーは身体が弱いんだから、と母が心配すのも分かる。弱い身体は直ぐに熱を出すし、風邪を引くことも珍しくない。帰り道に雨でずぶ濡れだなんて、母は心臓が縮み上がったに違いない。
けれど、気になるハーレイのこと。
このままベッドの住人だったら、ハーレイが仕事の帰りに訪ねて来てくれたって…。
「ぼくが寝てたら、晩御飯、どうなっちゃうの?」
今はいいけど、晩御飯…。おやつは此処で食べられたけど…。
「食べられそうなら、此処で食べればいいでしょ。おやつと同じよ、ママが運んであげるから」
温まりそうなメニューにしなくっちゃ、と母は思案をしているよう。夕食の支度まで、段取りが狂ってしまったろうか。母が思っていた料理は中止で、別の料理になるだとか。
母には迷惑を掛けっ放しで、それは悪いと思うのだけれど…。
「…ママ、ハーレイの晩御飯は?」
来てくれた時は、ハーレイ、何処で食べるの?
晩御飯を食べずに帰ることはないでしょ、せっかく来てくれるんだから…。
だけど、ぼくがベッドで寝たままだったら、ハーレイの御飯…。
ぼくの晩御飯は此処になるなら、ハーレイは何処で晩御飯なの…?
それが心配になって尋ねた。母に料理で迷惑をかけることよりも先に、恋人が気になるのは我儘だけれど、本当に気掛かりなのだから。
「ハーレイ先生なら、その時次第ね。…先生が来て下さるかどうか、そっちが先でしょ?」
いらっしゃったら、晩御飯は食べて帰って頂くけれど…。先生、お一人暮らしだから。
ブルーが此処で晩御飯なんだし、先生も此処になるかしら?
先生が此処は嫌だと仰らなければね。
お嫌だったら、先生にはダイニングで召し上がって頂くわ、と母が言うから声を上げた。
「ハーレイ、そんなの言うわけないよ!」
ぼくと一緒に食べるのは嫌なんて、絶対に言いやしないんだから!
ハーレイも此処で晩御飯だよ、ハーレイの分も運んで来てよ。土曜日とかのお昼御飯みたいに。
ちゃんと二人分、此処に運んで来て、と頼んだけれど。ハーレイも此処で夕食なのだ、とホッと安心したのだけれど…。
「…どうかしら? ブルーはベッドで寝てるわけだし…」
ブルーが病気で寝込んでいる時は、ハーレイ先生、いつもママたちと食事をなさってるわよ?
野菜スープを作りに来て下さっても、先生のお食事はダイニングじゃない。
此処で食べてはいらっしゃらないわ、と母に指摘された。「いつもそうでしょ?」と。
「……そうだっけ……」
ぼくは病気で起きられないから、御飯、一緒に食べられなくて…。
野菜スープを持って来てくれても、ハーレイの御飯は持って来ていないね…。
「ほら、ごらんなさい。暖かくして寝ていることね」
ハーレイ先生と一緒に御飯を食べたいのなら。
本当に風邪を引いてしまったら、晩御飯どころじゃないでしょう…?
ベッドで本を読むのも駄目よ、と念を押してから、母は部屋から出て行った。空になったカップなどを載せたトレイを手に持って。
(…風邪を引いちゃったら、ホントに病気…)
夕食までに具合が悪くなったら、この部屋でハーレイと二人で食べることは出来ない。
ハーレイが見守る中で一人きりで食べるか、野菜スープのシャングリラ風を作って貰うのか。
病人だったら、ベッドを出られはしないから。…椅子に座らせて貰えないから。
ハーレイは両親と夕食を食べて、自分は此処で一人の夕食。ハーレイと同じメニューでも、下のダイニングに下りては行けない。
(ぼくだけ先に食べて、ハーレイは後でママたちと…)
きっとそうなることだろう。そうでなければ、野菜スープのシャングリラ風が今夜の夕食。前の生から好んだ素朴なスープで、ハーレイが作ってくれるのだけれど…。
(一人で御飯も、シャングリラ風も、どっちも嫌だよ…)
晩御飯を食べるなら、ハーレイと一緒に食べたいんだもの、とベッドの中で丸くなる。今の間に温まらないと、晩御飯が駄目になってしまいそう。雨に濡れたせいで、風邪を引いてしまって。
(…風邪引いたら、嫌だ…)
引きたくないよ、と考える内に、ウトウトと落ちた眠りの淵。暖かなベッドは気持ちいいから、いつしか瞼を閉じてしまって。
夢も見ないでぐっすり眠って、時間が静かに流れて行って…。
「おい、ブルー?」
耳に届いた優しい声。気遣うような響きの、大好きでたまらないハーレイの声。
「あれっ、ハーレイ?」
ふと目を開けたら、ハーレイが側で見下ろしていた。ベッドの脇で、大きな身体を屈めて。
「すまんな、起こしちまったか? よく寝てるとは思ったんだが…」
ちょっと声だけ掛けてみるかな、と思ったら、起こしちまったようだ。…声がデカすぎたか。
それはともかく、お前、帰りに濡れちまったって?
帰る途中で雨に降られて、家に帰った時にはびしょ濡れ。…頭の天辺から足の先まで。
玄関に靴が干してあったぞ、よく乾くように水を吸い取る紙を沢山詰め込んで。
お前の靴だろ、あんなになるまで濡れたのか…?
濡れた服は此処には無いようだがな、とハーレイが部屋を見回しているから頷いた。
「…うん…。制服とかはママが洗濯してると思う…」
ぼくの鞄も下じゃないかな、濡れちゃったから…。鞄、その辺に置いてある…?
通学鞄、と身体を起こして探そうとしたら、叱られた。
「こら、起きるな。風邪を引くだろうが」
お前の鞄なあ…。見当たらないなあ、やっぱり何処かで干してるんじゃないか?
そう簡単には乾かんからな、とハーレイは部屋を眺めて、「無いな」と鞄探しを放棄した。母が何処かに干しているなら、此処で見付かるわけがないから。
「鞄は無いが、中身の方は無事だと思うぞ。学校指定の鞄ってヤツは、優れものだから」
外側はすっかり濡れちまっても、教科書やノートなんかは濡れない。…雨に降られた程度なら。池や川なんかにドボンと落ちたら、流石に防ぎ切れないんだがな。
明日の朝には鞄もすっかり乾くだろうさ、とハーレイは保証してくれた。乾いた鞄に明日の分の教科書やノートを詰めて、登校できるといいんだが、と。
「そうしたいよ、ぼくも…。時間割、ちゃんと準備しないと…」
明日の授業は何だっけ、と勉強机の方を見ようとして、また止められた。「お前は寝てろ」と。
「俺が見てやる。あれだな、明日の時間割」
よし、とハーレイは勉強机の所まで行って、時間割表を確かめてくれた。ついでに必要な教科書も引き出しから出して、勉強机の上に揃えて…。
「あれでいいだろ、登校できそうなら鞄の中身はあんな所だ」
今日と同じ教科のヤツは抜けてるから、ちゃんと忘れずに入れるんだぞ?
それにノートだ、お前のノートを勝手に見るというのもなあ…。ノートは自分で追加してくれ。
学校に来られるようならな、とハーレイは椅子を運んで来た。窓際に置いてあった、ハーレイの指定席の椅子。それをベッドの脇に持って来て、「さて」と座って…。
「明日の準備はしてやったから、大人しくベッドで寝てるんだぞ?」
ノートと抜けてる分の教科書、明日の朝、自分で足せるといいな。…乾いた鞄に入れるために。
「ありがとう、ハーレイ…。行きたいな、学校…」
このまま風邪を引くのは嫌だよ、とハーレイの顔を見上げた。「休みたくない」と。
「その心意気があれば、気持ちの面では大丈夫だな」
元気でいるぞ、という心構えも大切なんだ。「病は気から」と言うだろう?
しかし、お前が濡れちまったのは本当で…。
靴も鞄もびしょ濡れってトコが心配だ。寒気、しないか?
寒くないか、とハーレイが訊くから「大丈夫だよ」と微笑んだ。
「今はちっとも…。ベッドの中は暖かいから」
帰って直ぐにお風呂に入って、おやつの後はずっとベッドで寝ていたしね。
お風呂は熱すぎたんだけど、と正直に白状しておいた。いつもの温度で火傷しそうだったほど、冷えていたのは本当だから。
「だけど、きちんとお湯に浸かって温まったし…。その後はベッドの中だから…」
今は少しも寒くなんかないよ、寒気なんかもしないから…。ぼくなら、平気。
「それなら、いいが…。唇も紫色になっちゃいないし、冷え切っちまった分は取り戻したか」
お母さんから聞かされた時は、正直、寿命が縮んだぞ。お前がずぶ濡れになっただなんて。
俺もウッカリしていたな…。お前の守り役、失格らしい。恋人の方も怪しいもんだ。
ただでも身体が弱いお前を、ずぶ濡れにしちまったんだから。
俺のせいだ、とハーレイが溜息をつくから、首を傾げた。何のことか、まるで分からないから。
「え? 失格って…」
なんでハーレイが失格になるの、守り役も、それに恋人の方も…?
ぼくは一人で家に帰って、帰りに雨が降って来ただけで…。ハーレイは何も悪くはないよ…?
「それがそうでもないってな。…お前が気付いていなかっただけで」
俺はお前が帰って行くのを見てたんだ。たまたまグラウンドを通り掛かった時に。
雨が降りそうなのは分かってたんだし、傘を持ってるのか訊けば良かった。…追い掛けてな。
お前、用意はいい方だから、折り畳みの傘、鞄に入れているのかと思ったんだが…。
前に忘れたことがあったし、とハーレイは覚えていてくれた。雨の予報を知っていたのに、鞄に折り畳みの傘を入れるのを忘れて登校した日。
(学校で借りられる傘、全部なくなっちゃってて…)
ハーレイに傘を借りに行ったら、バス停まで送ってくれたのだった。貸してくれた傘とは別に、ハーレイの傘に入れて貰って、相合傘で。…幸せだった、相合傘の思い出。
「折り畳みの傘、雨の予報が出ていない日は持っていないよ」
今日の予報は曇り時々晴れだったから…。傘は鞄に入れなかったし、帰りもきっと大丈夫、って思い込んでて、学校の傘、借りて来なくって…。
「そうだったのか…。確かに予報じゃ、そうなってたな」
俺も降らないと思ってたんだが、午後から雲行きが変わっちまった。…降りそうな方へ。
次からは気を付けんとな。お前が傘を持たずに歩いていたなら、呼び止めて傘を持たせないと。
今日みたいに、急に降りそうな日には、お前を見掛けたら追い掛けてって。
ずぶ濡れになってからでは遅いんだ、とハーレイは「すまん」と謝ってくれた。ハーレイは何も悪くないのに、何度も、何度も。
「お前の手も冷えちまっただろ? 身体中、すっかり濡れたんではなあ…」
今は温かくなってるが、と上掛けの下でハーレイの手に包み込まれた右手。前の生の終わりに、メギドで冷たく凍えた右の手。
その手にハーレイが温もりを移してくれる。「温めてよ」と頼まなくても、右手だけを上掛けの下から出さなくても。
「ごめんね、心配かけちゃって…」
ハーレイに何度も謝らせちゃって。…ハーレイは悪くなんかないのに…。
ぼく、学校の傘のことを考えてたのに、「家に帰った方が早いよ」ってバスに乗っちゃって…。
借りに戻って行けば良かった。バスが一本遅くなっても、帰る時間は遅くならないのに…。
悪いのは、ぼくの方なんだよ、と謝った。実際、そうだと思うから。
学校で傘を借りずに帰ったばかりに、母にも、ハーレイにも心配をかけた。母には、うんと迷惑までも。「大変!」と悲鳴を上げさせた上に、お風呂の用意に、靴や鞄の手入れもさせて…。
「そう思うんなら、風邪を引かずにいることだ。ベッドでしっかり温まって」
お母さんも俺も、其処が一番心配だからな。お前が寝込んでしまわないかと、気が気じゃない。
だからベッドの中で過ごして、明日は元気に登校してくれ。そいつが一番嬉しいな、うん。
晩飯、此処で食ってやるから。
お前と一緒に此処で食うさ、とハーレイが浮かべた穏やかな笑み。「それでいいだろ?」と。
「ホント?」
ハーレイも此処で食べてくれるの、パパやママと一緒に下で食べずに…?
ぼくは下では食べられないから、この部屋で…?
「ああ。お母さんから聞いたしな」
ずぶ濡れになっちまった話の続きに、晩飯のことを教えて貰った。
お前がベッドに押し込まれた時、晩飯の心配をしていた、とな。
俺が仕事の帰りに寄ったら、飯を御馳走になるもんだから…。その場所が何処になるのか、と。
お前さえ元気でいてくれるんなら、晩飯を此処で食うってくらいは何でもない。
晩飯を食える元気があるなら、俺はそれだけでホッとするから。
お前と一緒に食べるくらいはお安い御用だ、と言われて気付いたこと。
ハーレイとは何度も一緒に食事をしたけれど、この部屋で夕食を食べたことは一度も無い、と。
夕食はいつも、両親も交えてダイニングで和やかに食べるもの。そういう決まり。
(決まりがあるってわけじゃないけど…)
ごくごく自然にそうなった。
ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイが恋人同士だったことを、両親は知らない。ただの友達だと思っているから、今の自分が十四歳にしかならない子供なせいで…。
(ハーレイが子供の相手をするのは大変だろう、って…)
そう考えたのが両親だった。「子供のお相手ばかりをさせては申し訳ない」と。
だから夕食は両親も一緒にダイニングで。…ハーレイが年相応の話し相手と寛げるように。
その決まりが今夜は崩れるらしい。ハーレイが此処で食事だったら、初めての二人きりの夕食。夏休みに星を見ながら庭で食べたのと、お月見の夜を除いたら。
「ねえ、ハーレイ…。晩御飯を此処で二人で食べるの、初めてだね」
お昼御飯はいつも二人だけれども、晩御飯はママが呼びに来るから…。用意が出来た、って。
パパもママも一緒にダイニングでしか食べていないよ、この部屋は一度も無いんだよ。
「そういや、そうだな」
お前にスープを食わせに来たりしているもんで、気が付かなかった。
寝ているお前を起こしたりして、何度も食わせたモンだから…。野菜スープのシャングリラ風。
いいか、しっかり温まっておけよ?
俺と一緒に、此処で晩飯を食いたかったら。
野菜スープのシャングリラ風じゃなくて、お前のお母さんが作る料理を。
「分かってる…。風邪を引いちゃったら、ハーレイのスープになっちゃうってことは…」
具合が悪くなってしまったら、そうなるんでしょ…?
「その通りだ。病人が食うのは病人食だと決まってる。特にお前は、食欲が落ちやすいから…」
前のお前だった頃から、あの野菜スープしか食えなくなるんだ。
そうならないよう、夜まで大人しく寝ていることだな、ベッドから出ずに。
冷えた身体をきちんと温めておいてやったら、風邪だって逃げて行くだろう。
退屈だったら、俺が話を聞かせてやるから。
そしてハーレイが聞かせてくれた、色々な話。ベッドの中で退屈しないようにと。
子供時代の思い出話や、悪ガキだった頃の武勇伝やら。ハーレイの父と釣りに出掛けた時の話も沢山、ハーレイの母が庭で育てる花などの話も。
(…こういう時間も幸せだよね…)
ぼくはベッドから出られないけど、と思う間に、訪れた眠気。ずぶ濡れになった疲れが出たか、冷えた身体が温まったせいで眠くなったのか。
なんだか眠い、と欠伸を幾つか、それきり眠ってしまったらしくて…。
「…ブルー?」
そっと額に当てられた手。ふうわりと浮上する意識。「ハーレイの手だ」と、直ぐに分かって。
目を覚ましたら、ハーレイが側で微笑んでいた。ベッドに屈み込むようにして。
「熱は無いようだな、よく寝ていたぞ。…元気が出たか?」
大丈夫なようなら、飯にするかな。お母さんが運んで来てくれたから。
ほらな、とハーレイが示した窓辺のテーブル。其処にハーレイの椅子はまだ無いけれども、上に載せられた湯気を立てる器。温かいスープかシチューだろうか、食欲をそそる匂いもする。
「…起きていいの?」
ママ、起きていいって言っていた?
それともベッドで食べなきゃ駄目なの、病気になってる時みたいに…?
ぼくは此処かな、と上掛けを被ったままで問い掛けた。ハーレイの椅子はベッドの側だし、その椅子で食べるつもりだろうか、と。テーブルの上から、料理だけを此処へ持って来て。
「起きていいぞ。お母さんもそう言っていたしな」
熱が無いなら、ベッドから出て食べてもいいと。…だが、冷えちまったら駄目だから…。
パジャマだけだと身体が冷えるし、暖かくして起きるんだぞ。
そら、これを着ろ、とハーレイが手にした上着。母が渡して行ったのだろう。お風呂を出た後に羽織ったものより、ずっと大きな父の服。
(うわあ、大きい…)
ベッドから下りて袖を通したら、本当にダブダブ。けれど腰の下まで丈があるから暖かい。
ハーレイが「こりゃ大きいな」と袖口を折り返してくれて、袖丈は余らなくなった。それを着て窓際の椅子に腰を下ろしたら、「これもだ」と膝に母のストール。暖かな膝掛け。
足には靴下とスリッパも履いて、少しも寒いと感じない部屋。陽だまりのような暖かさ。
「ふむ。これで良し、と…」
寒くないな、とハーレイが自分の椅子を運んで来たから、向かい合わせで囲んだテーブル。上に夕食が載っているけれど、両親が一緒ではない食卓。
(ママ、温かい食事にしてくれたんだ…)
クリームシチューに、ボリュームたっぷりの焼き野菜。沢山食べるハーレイ用にと、母が考えた料理だろう。野菜の他に鶏肉やソーセージも鏤められたオーブン用の皿。
「熱い内に食えよ? 冷めちまったら、お母さんの心遣いが台無しだからな」
俺も遠慮なく頂くとするか、とハーレイが取り分けている焼き野菜。思った通りに豪快に。
「ハーレイ、沢山食べるんだね…」
お肉とソーセージが一杯…。野菜の量も凄いけど…。ぼくだと、其処のジャガイモだけで…。
お腹が一杯になっちゃいそう、と見詰めるジャガイモ。小ぶりのものに幾つも切り込みを入れて焼いてあるから、一切れがジャガイモ一個分。
「これか? とりあえず、これが一皿目だが?」
俺が食べる量、お前、いつでも見てるだろうが。…お母さんだって承知だってな。
で、お前、そんなに少しでいいのか、もっと沢山食わないと…。栄養をつけんと風邪を引くぞ?
今日は頑張って食っておけ、と焼き野菜を皿に追加された。ジャガイモも、それに鶏肉も。
「…こんなに沢山?」
シチューだけでも充分なのに、と言ったけれども、ハーレイは至極真面目に答えた。
「駄目だな、身体が冷えちまった時は栄養補給も大切なんだ」
しっかり食べればエネルギーになるし、身体を内側から温めてくれる。そのくらいは食え。
ソーセージまでは入れてないんだ、文句を言わずによく噛みながら食うんだな。
風邪を引きたいのか、と軽く睨まれたら、とても言い返せない。
ハーレイにも母にも心配をかけたし、此処で本当に風邪を引いたら、ハーレイは自分の責任だと考えそうだから。「俺がついていたのに、無理をさせた」と。
(ママだって、起きて御飯を食べさせたから、って…)
自分を責めるに決まっているから、風邪などは引いていられない。部屋でハーレイと食べたいと頼んだ以上は、きちんと食べねば。…栄養不足で風邪を引かないように。
頑張らなくちゃ、と口に運んだ焼き野菜。シチューをスプーンで掬う合間に、少しずつ。
(ジャガイモ、一個でいいんだけどな…)
そう思っても、ハーレイがじっと見据えているから、追加されたジャガイモも食べてゆく。切り込み通りに薄く切っては、頬張って。
「ジャガイモ、ちょっぴり多すぎるけど…。なんだか幸せ…」
夜なのに、ハーレイと二人で御飯。パパもママもいなくて、二人きりだよ。
ハーレイが見張っているけどね、と焼き野菜の皿の鶏肉をフォークでつついた。こんなに沢山、食べられそうもないんだけれど、と。
「食えと言っただろ、そのくらいは。…ソーセージも追加されたいのか?」
恨むんだったら、雨を恨むんだな。お前を頭からずぶ濡れにした、今日の帰りの雨を。
とっくに止んでしまっているが、とハーレイは可笑しそうに笑った。天気予報に無かった雨は、一時間ほどで止んだのだという。言われてみれば、お風呂の後で部屋に戻った時には…。
(…雨の音、聞こえていなかった…?)
窓の向こうは見ていないけれど、青空が覗いていたろうか。曇り時々晴れの予報通りに。
「あの雨、止んでしまってたんだ…。ぼくはずぶ濡れになったのに…」
「運が無かったというわけだな。傘を借りずに帰っちまったことといい…」
今日のお前はツイていなかったが、今、幸せなら、「終わり良ければ全て良し」ってな。
ただし、いくら幸せだからって、余計なことを考えるなよ?
お前がベッドの住人になりそうな危機だからこそ、今夜は此処で晩飯なんだ。
其処の所を忘れるな、と釘を刺されても、幸せな気分は止まらない。夕食の時にハーレイと二人きりになるなど、家の中では初めてだから。
(星を見た時も、お月見も、外…)
庭のテーブルと椅子だったわけで、家の中にいる両親からも見える場所。
けれども今は自分の部屋で、両親はダイニングで食事中。
(ぼくとハーレイ、二人きりだよ…)
おまけに夕食、と思うと顔が綻ぶ。
今は夕食の席に両親がいるのが当たり前だけれど、いつかはハーレイと二人きりで食べる夕食。結婚して一緒に暮らし始めたら、夕食は二人で。
その時間を少し先取りしたようで、心がじんわり温かくなる。今は本当に二人きりだから。
「余計なことを考えるな、って言うけれど…。でも…」
結婚したら、いつもこうでしょ、ハーレイと二人で晩御飯。…パパもママもいなくて。
「まあな。…そうなることは否定はしない」
もっとも、お前はパジャマなんかを着てはいないと思うんだが…。
俺が仕事から帰って来るような時間は、まだ充分に起きている筈だ。欠伸もしないで。
たまには帰りを待っていられなくて、寝ちまってる日もあるかもしれんが。
晩飯も先に食っちまってな、とハーレイが言うから、目を丸くした。
「…そんなに遅くなる日もあるの?」
学校のお仕事、ずいぶん遅くまであるんだね…。ぼくが寝ちゃっているほどなんて…。
「仕事とはちょっと違うだろうな。他の先生との付き合いってヤツだ、酒や食事や」
俺は車で仕事に行くから、酒は飲まずに運転手だが…。
けっこう遅くなっちまうってな、大いに盛り上がった時なんかは。
「そうなんだ…」
お仕事だったら仕方ないよね、他の先生たちと出掛けるのも大切なんだもの。それは分かるよ、きっとシャングリラの頃と同じこと。
他の人たちと仲良くしないと、どんな仕事も上手くいかないのは当たり前だよね…?
そういうことなら我慢するよ、と笑顔を見せた。「一人で先に晩御飯でも」と。
「分かってくれるというのがいいなあ、前のお前の記憶に感謝だ」
見た目通りのチビの恋人なら、今頃は「酷い!」と怒って膨れていそうだから。
とはいえ、お前が家にいる以上は、早く帰れるようにはするが。
お前を寂しがらせたくはないしな、「お先に失礼」と帰る日だって、あってもいいだろう。先に帰りたいヤツらだけを乗せて、一足お先に帰っちまう日。
「先に帰るって…。お酒は飲まなくても、他の先生たちと一緒に食事でしょ?」
毎日だったら寂しいけれども、滅多に無いことなんだから…。
たまには楽しんで来てくれていいよ、ぼくは一人で晩御飯を食べて、先に寝てるから。
「みんなでワイワイやるのもいいが…。お前の側が一番なんだ、と知ってるだろう?」
前の俺だった頃からそうだし、今だってそうだ。…早く帰りたい日だってあるさ。
だが、今の所は、俺もだな…。
帰らなきゃいけない家があるから、とハーレイは苦笑しているけれども、二人きりの夕食。
両親はいなくて、幸せな時間。
まるで未来に来てしまったように、ハーレイと二人で暮らしている家に来たかのように。
(ぼくの部屋だけど、ぼくの部屋だっていう感じがしないよ…)
とても心が満たされているし、今夜はきっと、メギドの悪夢も襲っては来ない。雨に濡れていた身体はすっかり温まったし、心も温まったから。
(ハーレイが「食べろ」って、沢山ぼくに食べさせちゃって…)
身体の内側からも温まったし、右手が凍えてもいない。身体中、もうポカポカと暖かい気分。
それに、こうして二人で向かい合っていたら、どんな悪夢も逃げてゆくから。
メギドの悪夢は遠い昔で、今の自分には幸せな未来が待っているのだから。
(また帰り道で雨に降られて、ずぶ濡れになってしまった時は…)
こんな日だって悪くない。
パジャマの上から父の大きな服を羽織って、膝の上には母のストールでも。
食事が済んだら、「冷えちまう前に、ベッドに戻れよ?」とハーレイに注意される夜でも。
そうは言っても、この次からはハーレイが追って来そうだけれど。
空模様が怪しい日に、校門に向かって歩いていたなら、「傘は持ったか?」と。
(そっちも、うんと幸せだよね…?)
傘を持たされたら、もうずぶ濡れにはなれないけれども、きっと幸せ。
ハーレイが気にかけていてくれるという証拠だから。
仕事を放って追って来てくれて、「持って帰れ」と傘を渡してくれるのだから。
今日はずぶ濡れになってしまったけれども、きっと風邪など引いたりはしない。
(身体も心も、こんなにポカポカあったかいから…)
大丈夫、と勉強机の上を眺める。ハーレイが出して揃えてくれた、明日の授業の教科書を。
明日の朝には、あれとノートを通学鞄に詰め込もう。母が乾かしてくれた鞄に。
そして元気に学校に行こう、ハーレイにも母にも、心配なんかをかけないように…。
雨に濡れても・了
※帰り道で、雨に降られてしまったブルー。傘を持っていなかったせいで、濡れた全身。
家に着いたら直ぐにお風呂で、ベッドで寝かされる羽目に。けれど、ハーレイと幸せな時間。
ハレブル別館は、次回から月に1度の更新になります。
毎月、第3月曜に更新、よろしくお願いします。
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大丈夫かな、とブルーが眺めた窓の外。学校から帰る途中の、路線バスの中で。
今にも降り出しそうな空。大粒の雨か、小雨になるかは分からないけれど。
(…ホントに降りそう…)
こんなに暗くなっちゃうなんて、と雲を眺めて不安で一杯。「降り始めたら、どうしよう」と。
学校を出る時、「曇ってるよ」と思ってはいた。最後の授業が始まる頃から曇り始めて、授業が終わる頃には無かった青空。広い空の何処を探しても。
けれど、朝、家を出る前の天気予報では、雨だとは言っていなかった。午後は「曇り時々晴れ」だったのだし、降らないだろうと考えた。単に曇っているだけで。
(じきにお日様が顔を出すとか、お日様無しでも…)
青空が見えて来ないだけだよ、と終礼の後は真っ直ぐバス停に向かった。グラウンドの横を通り過ぎてから、校門を抜けて。
いつも帰りに使うバス停、其処に立って待った路線バス。その間にも空はどんどん暗さを増していったけれど、雨の予報は出ていなかったし…。
(降るにしたって、まだ平気、って…)
まだ当分は降らないだろう、と思った自分。夕方から降るとか、夜が雨だとか、そんな具合で。
何の根拠も無いというのに、「大丈夫」などと楽観的に。
そう思ったから、「傘を借りよう」と学校に戻りはしなかった。急な雨の日には、貸して貰える学校の傘。降り始める前なら、まだ充分に数がある筈なのに。
(家に帰る方が、ずっと早いよ、って…)
バス停にある時刻表を見て、出した結論。もうすぐバスがやって来る。それに乗ったら、幾つかバス停を通った後に、家の近くのバス停に着く。
(傘を借りに、学校に戻っていたら…)
そのバスは行ってしまうだろう。次のバスを待つことになるから、その間に…。
(雨が降り始めて、傘の出番で…)
帰りの道は雨の中になるかもしれない。
じきに来るバスに乗って帰れば、雨に遭わずに帰れても。…一粒の雨にも出会わないまま、家の中に入ることが出来ても。
傘を借りに戻って行ったばかりに、雨になっては馬鹿々々しい。それに降らない可能性も充分。だから要らない、と傘は借りずに、バスに乗り込む道を選んだ。
なのに、すっかり降りそうな空。こんなに暗くなるなんて。
(……傘……)
雨の予報が出ていなかったから、折り畳み傘も持ってはいない。あったら心強いのに。
ここまで空が暗くなるなら、やっぱり学校に戻れば良かった。「降りそうですから、傘を貸して下さい」と、頼めば直ぐに借りられたのに。
(ぼくの馬鹿…)
道を間違えちゃったかも、と窓から暗い空を仰いで、祈るような気持ち。「降らないで」と。
今にも降りそうな空だけれども、もう少しだけ降らないでいて欲しい、と。
(家に帰るまで…)
なんとか降らずに持ってくれれば、と祈り続けて、ようやく着いた家の近所のバス停。普段より長く感じた道のり、バスはいつもと同じ速さで走っていたのに。
(まだ大丈夫…)
降っていないよ、とバスから降りた途端に、ポツリと頭に落ちた雨粒。まるで降りるのを待っていたかのように。
冷たい、と頭に手をやる間に、もう次の粒が降って来た。その手に、足の下の地面に。
(降って来ちゃった…!)
止まないかな、と空を見上げたら、顔にも落ちて来た雨粒。パラッと降っただけで通り過ぎる雨ではなさそうな感じ。
(ママが迎えに来てくれたら…)
いいんだけどな、と急ぎ足で家を目指して歩いた。「ママ、お願い」と。
母が迎えに来てくれないなら、道沿いの家の誰かが気付いて、「持って行きなさい」と傘を一本貸してくれるとか。「返してくれるのは、いつでもいいよ」と。
(だけど、降り出しちゃったから…)
庭には誰も出ていない。庭仕事をしていた人も、とうに家へと入っただろう。
降って来る雨を防ぎたくても、不器用なサイオンではシールドは無理。走って帰っても、時間が少し短くなるだけ。濡れてしまうのは変わらないから、体力を無駄に費やすだけ。
下手に疲れてしまうよりは、と降る雨の中をトボトボ歩いて、家に着いたら、しっとりと濡れてしまった制服。すっかり湿って、雨の雫が落ちそうな髪。
門扉を開けて庭を横切る間も雨で、玄関の扉を濡れた手で開けた。扉をパタンと閉めてから…。
「ただいま、ママ…」
タオルちょうだい、と奥に向かって呼び掛けた。このままでは家に上がれない。靴下まで濡れているわけなのだし、歩いた後に水の雫が点々と落ちもするだろうから。
「おかえりなさい、ブルー! タオルって…?」
濡れちゃったの、とタオルを持って来た母は、きっと鞄が濡れたと思っていたのだろう。傘では防ぎきれなかった雨粒、それが濡らした通学鞄。
ところが玄関先にいたのは、びしょ濡れの息子。鞄どころか、髪も制服も、何もかもが。
母は見るなり「大変!」と叫んで、タオルで頭を拭くように言った。追加のタオルを取ってくる間、髪だけでもしっかり拭くように、と。
パタパタと奥へ走って行った母が、大きなバスタオルを持って戻って来て…。
「ブルー、早くお風呂に入りなさい」
これを羽織って、とバスタオルで身体を包まれた。「床は濡れてもいいから、上がって」とも。
「お風呂って…?」
「身体がすっかり冷えているでしょ、こういう時には、お風呂が一番」
ああ、でも、お湯を入れなくちゃ…。お風呂の準備には早い時間だから、お湯がまだ…。
だけど、シャワーを浴びてる間に、お湯も溜まるわ、と連れて行かれたバスルーム。大きなバスタオルにくるまれたままで、通学鞄を取り上げられて。
バスルームに着いたら、手前の部屋で制服を脱がされ、母がコックを捻ったシャワー。熱そうな湯気が立っているそれと、バスタブに落とし込まれるお湯と。
「ほら、ブルー。早く入って、シャワーから浴び始めなさい」
着替えはママが用意しておくから、しっかり中で温まるのよ。
お湯が溜まるまではシャワーを浴びて、溜まってきたら、ゆっくり浸かって。
そうしなさい、と母は大慌てで、「早く」と急かすものだから…。
「はーい…」
ちゃんと温まるよ、大丈夫。…ごめんなさい、ママをビックリさせて…。
そう謝ってから、「着替え、お願い」と頼んで入ったお風呂。バスタブのお湯は、まだ底の方に溜まり始めているだけだから…。
(もっと溜まるまで、シャワーを浴びて…)
温まらなくちゃ、と浴びたら、「熱い!」と悲鳴を上げそうになった。思わずお湯の温度を確認したくらいに。「ママ、慌てていて、間違えちゃった?」と。
(…いつもとおんなじ…)
だけど熱い、と感じるシャワー。熱湯を浴びているかのように。
バスタブに落とし込まれるお湯も、溜まり始めているお湯も熱い。本当に火傷しそうなくらい。
普段の温度と変わらないなら、自分の方が冷えたのだろう。いつもお風呂に入る時より、遥かに下がってしまった体温。
(中まで冷えてしまっているのか、外側だけか…)
其処までは分からないけれど。体温を測ってはいないけれども、冷えたのは確か。心地良い筈のお湯の温度を、「熱すぎる」と思うくらいにまで。
(風邪を引いちゃったら大変だから…)
しっかり温まらないと、と我慢して熱いシャワーを浴びた。バスタブにお湯が満ち始めるまで。
(半分ほどは溜まったから…)
もういいかな、と足を踏み入れてみて「熱い!」と引っ込め、けれど浸からないと温まらない。少しずつ慣らして、そうっと入って、ゆっくりと身体を沈めていって…。
(ホントに熱すぎ…)
お鍋で茹でられているみたい、と思うけれども、それは気のせい。冷えた身体が「熱い」と錯覚しているだけ。「熱すぎるから」と水で温度を下げてしまったら…。
(お風呂でも冷えて、もう本当に…)
風邪を引くのに決まっているから、溜まってゆくお湯に肩まで浸かった。立ち昇る湯気で顔まで熱いけれども、これだって我慢しなくては。
(……右手……)
右手もちゃんと温めないと、とバスタブの中で何度もキュッと固く握った。
前の生の最後に、メギドで冷たく凍えた右手。ハーレイの温もりを失くしてしまって、悲しみの中で死んでいった前の自分。あの時の悪夢を呼ばないように、右手を温めてやらなくては。
溜まったお湯にゆっくり浸かって、のぼせるくらいに温まってから、手に取ったタオル。身体の水気を軽く拭って、「次はバスタオル」と浴室を出たら。
(パジャマ…?)
着替え用にと置かれていたのは、服ではなくて寝る時のパジャマ。それから、パジャマの上から羽織れるようにと大きめの上着。
夜だったなら分かるけれども、まだ日が沈んでもいない時間。パジャマを着るには早すぎる。
そう思ったから、廊下に顔だけ出して叫んだ。
「ママ、なんでパジャマ!?」
ぼくが着る服は何処へ行ったの、此処にあるのはパジャマじゃない!
服を持って来て、と呼び掛けたけれど、やって来た母は何も持ってはいなかった。
「パジャマでいいのよ。寝なきゃ駄目でしょ、風邪を引いちゃうから」
あんなに濡れてしまっていたのよ、制服もシャツも、びしょ濡れだったわ。身体の芯まで冷えている筈よ、お風呂だけでは足りないの。
ベッドに入って寝ていなさい、と母が言うから抗議した。
「平気だってば!」
お風呂、ちょっぴり熱かったけれど、ちゃんと我慢して浸かったし…。もう平気。
服をちょうだい、パジャマでベッドじゃ、病気になったみたいじゃない!
ぼくは平気、と頬を膨らませたのに、母は許してくれなくて。
「駄目よ、暖かくして寝ていないと…。おやつだったら、部屋に運んであげるから」
先に帰って待っていなさい、と強引に二階に追い上げられた。仕方なく行くしかなかった部屋。扉を開けて中に入ったら、母が届けに来たケーキのお皿と、ホットミルクと。
湯気を立てているカップの中身は、前にハーレイが教えてくれたシロエ風。風邪の予防にいいというマヌカの蜂蜜たっぷり、それにシナモンを振りかけてあるホットミルク。
(…風邪を引きそうだから、シロエ風…)
此処までされたら、どうしようもない。濡れて帰った自分が悪い。
(昼間からパジャマで、風邪でもないのにベッドの中…)
仕方ないけど、と椅子に腰掛けてケーキを頬張る。いつも以上に熱く思えるホットミルクも。
やはり身体の内側まで冷えているのだろう。シロエ風のミルクが熱いのならば。
シュンとしながら、食べ終えたおやつ。母が見張っている中で。
「御馳走様」と空になったカップを置いたら、ベッドに入るように言われた。上掛けもすっぽり肩まで引き上げられて。
「出ちゃ駄目よ? ベッドで本を読むのも駄目」
また冷えちゃうから、と本まで禁じられる始末。これでは本当に「寝ている」しかない。宿題は出ていないけれども、その宿題で思い出した。学校と関係がある恋人を。
「ママ、ハーレイは…?」
来てくれるかどうか分からないけど、もし来てくれたら、起きてもいい?
ちゃんと服を着て暖かくするから、起きて話をしてもいいでしょ…?
いつものテーブルと椅子の所で、と窓辺のテーブルを指差した。上掛けの下から、手の先だけを覗かせて。
「起きるって…。あんなに濡れて冷えちゃったんでしょ、大事を取って寝ていなさい」
今日は一日、ベッドにいること。そのくらいしないと駄目なのは、分かっているでしょう?
ブルーは身体が弱いんだから、と母が心配すのも分かる。弱い身体は直ぐに熱を出すし、風邪を引くことも珍しくない。帰り道に雨でずぶ濡れだなんて、母は心臓が縮み上がったに違いない。
けれど、気になるハーレイのこと。
このままベッドの住人だったら、ハーレイが仕事の帰りに訪ねて来てくれたって…。
「ぼくが寝てたら、晩御飯、どうなっちゃうの?」
今はいいけど、晩御飯…。おやつは此処で食べられたけど…。
「食べられそうなら、此処で食べればいいでしょ。おやつと同じよ、ママが運んであげるから」
温まりそうなメニューにしなくっちゃ、と母は思案をしているよう。夕食の支度まで、段取りが狂ってしまったろうか。母が思っていた料理は中止で、別の料理になるだとか。
母には迷惑を掛けっ放しで、それは悪いと思うのだけれど…。
「…ママ、ハーレイの晩御飯は?」
来てくれた時は、ハーレイ、何処で食べるの?
晩御飯を食べずに帰ることはないでしょ、せっかく来てくれるんだから…。
だけど、ぼくがベッドで寝たままだったら、ハーレイの御飯…。
ぼくの晩御飯は此処になるなら、ハーレイは何処で晩御飯なの…?
それが心配になって尋ねた。母に料理で迷惑をかけることよりも先に、恋人が気になるのは我儘だけれど、本当に気掛かりなのだから。
「ハーレイ先生なら、その時次第ね。…先生が来て下さるかどうか、そっちが先でしょ?」
いらっしゃったら、晩御飯は食べて帰って頂くけれど…。先生、お一人暮らしだから。
ブルーが此処で晩御飯なんだし、先生も此処になるかしら?
先生が此処は嫌だと仰らなければね。
お嫌だったら、先生にはダイニングで召し上がって頂くわ、と母が言うから声を上げた。
「ハーレイ、そんなの言うわけないよ!」
ぼくと一緒に食べるのは嫌なんて、絶対に言いやしないんだから!
ハーレイも此処で晩御飯だよ、ハーレイの分も運んで来てよ。土曜日とかのお昼御飯みたいに。
ちゃんと二人分、此処に運んで来て、と頼んだけれど。ハーレイも此処で夕食なのだ、とホッと安心したのだけれど…。
「…どうかしら? ブルーはベッドで寝てるわけだし…」
ブルーが病気で寝込んでいる時は、ハーレイ先生、いつもママたちと食事をなさってるわよ?
野菜スープを作りに来て下さっても、先生のお食事はダイニングじゃない。
此処で食べてはいらっしゃらないわ、と母に指摘された。「いつもそうでしょ?」と。
「……そうだっけ……」
ぼくは病気で起きられないから、御飯、一緒に食べられなくて…。
野菜スープを持って来てくれても、ハーレイの御飯は持って来ていないね…。
「ほら、ごらんなさい。暖かくして寝ていることね」
ハーレイ先生と一緒に御飯を食べたいのなら。
本当に風邪を引いてしまったら、晩御飯どころじゃないでしょう…?
ベッドで本を読むのも駄目よ、と念を押してから、母は部屋から出て行った。空になったカップなどを載せたトレイを手に持って。
(…風邪を引いちゃったら、ホントに病気…)
夕食までに具合が悪くなったら、この部屋でハーレイと二人で食べることは出来ない。
ハーレイが見守る中で一人きりで食べるか、野菜スープのシャングリラ風を作って貰うのか。
病人だったら、ベッドを出られはしないから。…椅子に座らせて貰えないから。
ハーレイは両親と夕食を食べて、自分は此処で一人の夕食。ハーレイと同じメニューでも、下のダイニングに下りては行けない。
(ぼくだけ先に食べて、ハーレイは後でママたちと…)
きっとそうなることだろう。そうでなければ、野菜スープのシャングリラ風が今夜の夕食。前の生から好んだ素朴なスープで、ハーレイが作ってくれるのだけれど…。
(一人で御飯も、シャングリラ風も、どっちも嫌だよ…)
晩御飯を食べるなら、ハーレイと一緒に食べたいんだもの、とベッドの中で丸くなる。今の間に温まらないと、晩御飯が駄目になってしまいそう。雨に濡れたせいで、風邪を引いてしまって。
(…風邪引いたら、嫌だ…)
引きたくないよ、と考える内に、ウトウトと落ちた眠りの淵。暖かなベッドは気持ちいいから、いつしか瞼を閉じてしまって。
夢も見ないでぐっすり眠って、時間が静かに流れて行って…。
「おい、ブルー?」
耳に届いた優しい声。気遣うような響きの、大好きでたまらないハーレイの声。
「あれっ、ハーレイ?」
ふと目を開けたら、ハーレイが側で見下ろしていた。ベッドの脇で、大きな身体を屈めて。
「すまんな、起こしちまったか? よく寝てるとは思ったんだが…」
ちょっと声だけ掛けてみるかな、と思ったら、起こしちまったようだ。…声がデカすぎたか。
それはともかく、お前、帰りに濡れちまったって?
帰る途中で雨に降られて、家に帰った時にはびしょ濡れ。…頭の天辺から足の先まで。
玄関に靴が干してあったぞ、よく乾くように水を吸い取る紙を沢山詰め込んで。
お前の靴だろ、あんなになるまで濡れたのか…?
濡れた服は此処には無いようだがな、とハーレイが部屋を見回しているから頷いた。
「…うん…。制服とかはママが洗濯してると思う…」
ぼくの鞄も下じゃないかな、濡れちゃったから…。鞄、その辺に置いてある…?
通学鞄、と身体を起こして探そうとしたら、叱られた。
「こら、起きるな。風邪を引くだろうが」
お前の鞄なあ…。見当たらないなあ、やっぱり何処かで干してるんじゃないか?
そう簡単には乾かんからな、とハーレイは部屋を眺めて、「無いな」と鞄探しを放棄した。母が何処かに干しているなら、此処で見付かるわけがないから。
「鞄は無いが、中身の方は無事だと思うぞ。学校指定の鞄ってヤツは、優れものだから」
外側はすっかり濡れちまっても、教科書やノートなんかは濡れない。…雨に降られた程度なら。池や川なんかにドボンと落ちたら、流石に防ぎ切れないんだがな。
明日の朝には鞄もすっかり乾くだろうさ、とハーレイは保証してくれた。乾いた鞄に明日の分の教科書やノートを詰めて、登校できるといいんだが、と。
「そうしたいよ、ぼくも…。時間割、ちゃんと準備しないと…」
明日の授業は何だっけ、と勉強机の方を見ようとして、また止められた。「お前は寝てろ」と。
「俺が見てやる。あれだな、明日の時間割」
よし、とハーレイは勉強机の所まで行って、時間割表を確かめてくれた。ついでに必要な教科書も引き出しから出して、勉強机の上に揃えて…。
「あれでいいだろ、登校できそうなら鞄の中身はあんな所だ」
今日と同じ教科のヤツは抜けてるから、ちゃんと忘れずに入れるんだぞ?
それにノートだ、お前のノートを勝手に見るというのもなあ…。ノートは自分で追加してくれ。
学校に来られるようならな、とハーレイは椅子を運んで来た。窓際に置いてあった、ハーレイの指定席の椅子。それをベッドの脇に持って来て、「さて」と座って…。
「明日の準備はしてやったから、大人しくベッドで寝てるんだぞ?」
ノートと抜けてる分の教科書、明日の朝、自分で足せるといいな。…乾いた鞄に入れるために。
「ありがとう、ハーレイ…。行きたいな、学校…」
このまま風邪を引くのは嫌だよ、とハーレイの顔を見上げた。「休みたくない」と。
「その心意気があれば、気持ちの面では大丈夫だな」
元気でいるぞ、という心構えも大切なんだ。「病は気から」と言うだろう?
しかし、お前が濡れちまったのは本当で…。
靴も鞄もびしょ濡れってトコが心配だ。寒気、しないか?
寒くないか、とハーレイが訊くから「大丈夫だよ」と微笑んだ。
「今はちっとも…。ベッドの中は暖かいから」
帰って直ぐにお風呂に入って、おやつの後はずっとベッドで寝ていたしね。
お風呂は熱すぎたんだけど、と正直に白状しておいた。いつもの温度で火傷しそうだったほど、冷えていたのは本当だから。
「だけど、きちんとお湯に浸かって温まったし…。その後はベッドの中だから…」
今は少しも寒くなんかないよ、寒気なんかもしないから…。ぼくなら、平気。
「それなら、いいが…。唇も紫色になっちゃいないし、冷え切っちまった分は取り戻したか」
お母さんから聞かされた時は、正直、寿命が縮んだぞ。お前がずぶ濡れになっただなんて。
俺もウッカリしていたな…。お前の守り役、失格らしい。恋人の方も怪しいもんだ。
ただでも身体が弱いお前を、ずぶ濡れにしちまったんだから。
俺のせいだ、とハーレイが溜息をつくから、首を傾げた。何のことか、まるで分からないから。
「え? 失格って…」
なんでハーレイが失格になるの、守り役も、それに恋人の方も…?
ぼくは一人で家に帰って、帰りに雨が降って来ただけで…。ハーレイは何も悪くはないよ…?
「それがそうでもないってな。…お前が気付いていなかっただけで」
俺はお前が帰って行くのを見てたんだ。たまたまグラウンドを通り掛かった時に。
雨が降りそうなのは分かってたんだし、傘を持ってるのか訊けば良かった。…追い掛けてな。
お前、用意はいい方だから、折り畳みの傘、鞄に入れているのかと思ったんだが…。
前に忘れたことがあったし、とハーレイは覚えていてくれた。雨の予報を知っていたのに、鞄に折り畳みの傘を入れるのを忘れて登校した日。
(学校で借りられる傘、全部なくなっちゃってて…)
ハーレイに傘を借りに行ったら、バス停まで送ってくれたのだった。貸してくれた傘とは別に、ハーレイの傘に入れて貰って、相合傘で。…幸せだった、相合傘の思い出。
「折り畳みの傘、雨の予報が出ていない日は持っていないよ」
今日の予報は曇り時々晴れだったから…。傘は鞄に入れなかったし、帰りもきっと大丈夫、って思い込んでて、学校の傘、借りて来なくって…。
「そうだったのか…。確かに予報じゃ、そうなってたな」
俺も降らないと思ってたんだが、午後から雲行きが変わっちまった。…降りそうな方へ。
次からは気を付けんとな。お前が傘を持たずに歩いていたなら、呼び止めて傘を持たせないと。
今日みたいに、急に降りそうな日には、お前を見掛けたら追い掛けてって。
ずぶ濡れになってからでは遅いんだ、とハーレイは「すまん」と謝ってくれた。ハーレイは何も悪くないのに、何度も、何度も。
「お前の手も冷えちまっただろ? 身体中、すっかり濡れたんではなあ…」
今は温かくなってるが、と上掛けの下でハーレイの手に包み込まれた右手。前の生の終わりに、メギドで冷たく凍えた右の手。
その手にハーレイが温もりを移してくれる。「温めてよ」と頼まなくても、右手だけを上掛けの下から出さなくても。
「ごめんね、心配かけちゃって…」
ハーレイに何度も謝らせちゃって。…ハーレイは悪くなんかないのに…。
ぼく、学校の傘のことを考えてたのに、「家に帰った方が早いよ」ってバスに乗っちゃって…。
借りに戻って行けば良かった。バスが一本遅くなっても、帰る時間は遅くならないのに…。
悪いのは、ぼくの方なんだよ、と謝った。実際、そうだと思うから。
学校で傘を借りずに帰ったばかりに、母にも、ハーレイにも心配をかけた。母には、うんと迷惑までも。「大変!」と悲鳴を上げさせた上に、お風呂の用意に、靴や鞄の手入れもさせて…。
「そう思うんなら、風邪を引かずにいることだ。ベッドでしっかり温まって」
お母さんも俺も、其処が一番心配だからな。お前が寝込んでしまわないかと、気が気じゃない。
だからベッドの中で過ごして、明日は元気に登校してくれ。そいつが一番嬉しいな、うん。
晩飯、此処で食ってやるから。
お前と一緒に此処で食うさ、とハーレイが浮かべた穏やかな笑み。「それでいいだろ?」と。
「ホント?」
ハーレイも此処で食べてくれるの、パパやママと一緒に下で食べずに…?
ぼくは下では食べられないから、この部屋で…?
「ああ。お母さんから聞いたしな」
ずぶ濡れになっちまった話の続きに、晩飯のことを教えて貰った。
お前がベッドに押し込まれた時、晩飯の心配をしていた、とな。
俺が仕事の帰りに寄ったら、飯を御馳走になるもんだから…。その場所が何処になるのか、と。
お前さえ元気でいてくれるんなら、晩飯を此処で食うってくらいは何でもない。
晩飯を食える元気があるなら、俺はそれだけでホッとするから。
お前と一緒に食べるくらいはお安い御用だ、と言われて気付いたこと。
ハーレイとは何度も一緒に食事をしたけれど、この部屋で夕食を食べたことは一度も無い、と。
夕食はいつも、両親も交えてダイニングで和やかに食べるもの。そういう決まり。
(決まりがあるってわけじゃないけど…)
ごくごく自然にそうなった。
ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイが恋人同士だったことを、両親は知らない。ただの友達だと思っているから、今の自分が十四歳にしかならない子供なせいで…。
(ハーレイが子供の相手をするのは大変だろう、って…)
そう考えたのが両親だった。「子供のお相手ばかりをさせては申し訳ない」と。
だから夕食は両親も一緒にダイニングで。…ハーレイが年相応の話し相手と寛げるように。
その決まりが今夜は崩れるらしい。ハーレイが此処で食事だったら、初めての二人きりの夕食。夏休みに星を見ながら庭で食べたのと、お月見の夜を除いたら。
「ねえ、ハーレイ…。晩御飯を此処で二人で食べるの、初めてだね」
お昼御飯はいつも二人だけれども、晩御飯はママが呼びに来るから…。用意が出来た、って。
パパもママも一緒にダイニングでしか食べていないよ、この部屋は一度も無いんだよ。
「そういや、そうだな」
お前にスープを食わせに来たりしているもんで、気が付かなかった。
寝ているお前を起こしたりして、何度も食わせたモンだから…。野菜スープのシャングリラ風。
いいか、しっかり温まっておけよ?
俺と一緒に、此処で晩飯を食いたかったら。
野菜スープのシャングリラ風じゃなくて、お前のお母さんが作る料理を。
「分かってる…。風邪を引いちゃったら、ハーレイのスープになっちゃうってことは…」
具合が悪くなってしまったら、そうなるんでしょ…?
「その通りだ。病人が食うのは病人食だと決まってる。特にお前は、食欲が落ちやすいから…」
前のお前だった頃から、あの野菜スープしか食えなくなるんだ。
そうならないよう、夜まで大人しく寝ていることだな、ベッドから出ずに。
冷えた身体をきちんと温めておいてやったら、風邪だって逃げて行くだろう。
退屈だったら、俺が話を聞かせてやるから。
そしてハーレイが聞かせてくれた、色々な話。ベッドの中で退屈しないようにと。
子供時代の思い出話や、悪ガキだった頃の武勇伝やら。ハーレイの父と釣りに出掛けた時の話も沢山、ハーレイの母が庭で育てる花などの話も。
(…こういう時間も幸せだよね…)
ぼくはベッドから出られないけど、と思う間に、訪れた眠気。ずぶ濡れになった疲れが出たか、冷えた身体が温まったせいで眠くなったのか。
なんだか眠い、と欠伸を幾つか、それきり眠ってしまったらしくて…。
「…ブルー?」
そっと額に当てられた手。ふうわりと浮上する意識。「ハーレイの手だ」と、直ぐに分かって。
目を覚ましたら、ハーレイが側で微笑んでいた。ベッドに屈み込むようにして。
「熱は無いようだな、よく寝ていたぞ。…元気が出たか?」
大丈夫なようなら、飯にするかな。お母さんが運んで来てくれたから。
ほらな、とハーレイが示した窓辺のテーブル。其処にハーレイの椅子はまだ無いけれども、上に載せられた湯気を立てる器。温かいスープかシチューだろうか、食欲をそそる匂いもする。
「…起きていいの?」
ママ、起きていいって言っていた?
それともベッドで食べなきゃ駄目なの、病気になってる時みたいに…?
ぼくは此処かな、と上掛けを被ったままで問い掛けた。ハーレイの椅子はベッドの側だし、その椅子で食べるつもりだろうか、と。テーブルの上から、料理だけを此処へ持って来て。
「起きていいぞ。お母さんもそう言っていたしな」
熱が無いなら、ベッドから出て食べてもいいと。…だが、冷えちまったら駄目だから…。
パジャマだけだと身体が冷えるし、暖かくして起きるんだぞ。
そら、これを着ろ、とハーレイが手にした上着。母が渡して行ったのだろう。お風呂を出た後に羽織ったものより、ずっと大きな父の服。
(うわあ、大きい…)
ベッドから下りて袖を通したら、本当にダブダブ。けれど腰の下まで丈があるから暖かい。
ハーレイが「こりゃ大きいな」と袖口を折り返してくれて、袖丈は余らなくなった。それを着て窓際の椅子に腰を下ろしたら、「これもだ」と膝に母のストール。暖かな膝掛け。
足には靴下とスリッパも履いて、少しも寒いと感じない部屋。陽だまりのような暖かさ。
「ふむ。これで良し、と…」
寒くないな、とハーレイが自分の椅子を運んで来たから、向かい合わせで囲んだテーブル。上に夕食が載っているけれど、両親が一緒ではない食卓。
(ママ、温かい食事にしてくれたんだ…)
クリームシチューに、ボリュームたっぷりの焼き野菜。沢山食べるハーレイ用にと、母が考えた料理だろう。野菜の他に鶏肉やソーセージも鏤められたオーブン用の皿。
「熱い内に食えよ? 冷めちまったら、お母さんの心遣いが台無しだからな」
俺も遠慮なく頂くとするか、とハーレイが取り分けている焼き野菜。思った通りに豪快に。
「ハーレイ、沢山食べるんだね…」
お肉とソーセージが一杯…。野菜の量も凄いけど…。ぼくだと、其処のジャガイモだけで…。
お腹が一杯になっちゃいそう、と見詰めるジャガイモ。小ぶりのものに幾つも切り込みを入れて焼いてあるから、一切れがジャガイモ一個分。
「これか? とりあえず、これが一皿目だが?」
俺が食べる量、お前、いつでも見てるだろうが。…お母さんだって承知だってな。
で、お前、そんなに少しでいいのか、もっと沢山食わないと…。栄養をつけんと風邪を引くぞ?
今日は頑張って食っておけ、と焼き野菜を皿に追加された。ジャガイモも、それに鶏肉も。
「…こんなに沢山?」
シチューだけでも充分なのに、と言ったけれども、ハーレイは至極真面目に答えた。
「駄目だな、身体が冷えちまった時は栄養補給も大切なんだ」
しっかり食べればエネルギーになるし、身体を内側から温めてくれる。そのくらいは食え。
ソーセージまでは入れてないんだ、文句を言わずによく噛みながら食うんだな。
風邪を引きたいのか、と軽く睨まれたら、とても言い返せない。
ハーレイにも母にも心配をかけたし、此処で本当に風邪を引いたら、ハーレイは自分の責任だと考えそうだから。「俺がついていたのに、無理をさせた」と。
(ママだって、起きて御飯を食べさせたから、って…)
自分を責めるに決まっているから、風邪などは引いていられない。部屋でハーレイと食べたいと頼んだ以上は、きちんと食べねば。…栄養不足で風邪を引かないように。
頑張らなくちゃ、と口に運んだ焼き野菜。シチューをスプーンで掬う合間に、少しずつ。
(ジャガイモ、一個でいいんだけどな…)
そう思っても、ハーレイがじっと見据えているから、追加されたジャガイモも食べてゆく。切り込み通りに薄く切っては、頬張って。
「ジャガイモ、ちょっぴり多すぎるけど…。なんだか幸せ…」
夜なのに、ハーレイと二人で御飯。パパもママもいなくて、二人きりだよ。
ハーレイが見張っているけどね、と焼き野菜の皿の鶏肉をフォークでつついた。こんなに沢山、食べられそうもないんだけれど、と。
「食えと言っただろ、そのくらいは。…ソーセージも追加されたいのか?」
恨むんだったら、雨を恨むんだな。お前を頭からずぶ濡れにした、今日の帰りの雨を。
とっくに止んでしまっているが、とハーレイは可笑しそうに笑った。天気予報に無かった雨は、一時間ほどで止んだのだという。言われてみれば、お風呂の後で部屋に戻った時には…。
(…雨の音、聞こえていなかった…?)
窓の向こうは見ていないけれど、青空が覗いていたろうか。曇り時々晴れの予報通りに。
「あの雨、止んでしまってたんだ…。ぼくはずぶ濡れになったのに…」
「運が無かったというわけだな。傘を借りずに帰っちまったことといい…」
今日のお前はツイていなかったが、今、幸せなら、「終わり良ければ全て良し」ってな。
ただし、いくら幸せだからって、余計なことを考えるなよ?
お前がベッドの住人になりそうな危機だからこそ、今夜は此処で晩飯なんだ。
其処の所を忘れるな、と釘を刺されても、幸せな気分は止まらない。夕食の時にハーレイと二人きりになるなど、家の中では初めてだから。
(星を見た時も、お月見も、外…)
庭のテーブルと椅子だったわけで、家の中にいる両親からも見える場所。
けれども今は自分の部屋で、両親はダイニングで食事中。
(ぼくとハーレイ、二人きりだよ…)
おまけに夕食、と思うと顔が綻ぶ。
今は夕食の席に両親がいるのが当たり前だけれど、いつかはハーレイと二人きりで食べる夕食。結婚して一緒に暮らし始めたら、夕食は二人で。
その時間を少し先取りしたようで、心がじんわり温かくなる。今は本当に二人きりだから。
「余計なことを考えるな、って言うけれど…。でも…」
結婚したら、いつもこうでしょ、ハーレイと二人で晩御飯。…パパもママもいなくて。
「まあな。…そうなることは否定はしない」
もっとも、お前はパジャマなんかを着てはいないと思うんだが…。
俺が仕事から帰って来るような時間は、まだ充分に起きている筈だ。欠伸もしないで。
たまには帰りを待っていられなくて、寝ちまってる日もあるかもしれんが。
晩飯も先に食っちまってな、とハーレイが言うから、目を丸くした。
「…そんなに遅くなる日もあるの?」
学校のお仕事、ずいぶん遅くまであるんだね…。ぼくが寝ちゃっているほどなんて…。
「仕事とはちょっと違うだろうな。他の先生との付き合いってヤツだ、酒や食事や」
俺は車で仕事に行くから、酒は飲まずに運転手だが…。
けっこう遅くなっちまうってな、大いに盛り上がった時なんかは。
「そうなんだ…」
お仕事だったら仕方ないよね、他の先生たちと出掛けるのも大切なんだもの。それは分かるよ、きっとシャングリラの頃と同じこと。
他の人たちと仲良くしないと、どんな仕事も上手くいかないのは当たり前だよね…?
そういうことなら我慢するよ、と笑顔を見せた。「一人で先に晩御飯でも」と。
「分かってくれるというのがいいなあ、前のお前の記憶に感謝だ」
見た目通りのチビの恋人なら、今頃は「酷い!」と怒って膨れていそうだから。
とはいえ、お前が家にいる以上は、早く帰れるようにはするが。
お前を寂しがらせたくはないしな、「お先に失礼」と帰る日だって、あってもいいだろう。先に帰りたいヤツらだけを乗せて、一足お先に帰っちまう日。
「先に帰るって…。お酒は飲まなくても、他の先生たちと一緒に食事でしょ?」
毎日だったら寂しいけれども、滅多に無いことなんだから…。
たまには楽しんで来てくれていいよ、ぼくは一人で晩御飯を食べて、先に寝てるから。
「みんなでワイワイやるのもいいが…。お前の側が一番なんだ、と知ってるだろう?」
前の俺だった頃からそうだし、今だってそうだ。…早く帰りたい日だってあるさ。
だが、今の所は、俺もだな…。
帰らなきゃいけない家があるから、とハーレイは苦笑しているけれども、二人きりの夕食。
両親はいなくて、幸せな時間。
まるで未来に来てしまったように、ハーレイと二人で暮らしている家に来たかのように。
(ぼくの部屋だけど、ぼくの部屋だっていう感じがしないよ…)
とても心が満たされているし、今夜はきっと、メギドの悪夢も襲っては来ない。雨に濡れていた身体はすっかり温まったし、心も温まったから。
(ハーレイが「食べろ」って、沢山ぼくに食べさせちゃって…)
身体の内側からも温まったし、右手が凍えてもいない。身体中、もうポカポカと暖かい気分。
それに、こうして二人で向かい合っていたら、どんな悪夢も逃げてゆくから。
メギドの悪夢は遠い昔で、今の自分には幸せな未来が待っているのだから。
(また帰り道で雨に降られて、ずぶ濡れになってしまった時は…)
こんな日だって悪くない。
パジャマの上から父の大きな服を羽織って、膝の上には母のストールでも。
食事が済んだら、「冷えちまう前に、ベッドに戻れよ?」とハーレイに注意される夜でも。
そうは言っても、この次からはハーレイが追って来そうだけれど。
空模様が怪しい日に、校門に向かって歩いていたなら、「傘は持ったか?」と。
(そっちも、うんと幸せだよね…?)
傘を持たされたら、もうずぶ濡れにはなれないけれども、きっと幸せ。
ハーレイが気にかけていてくれるという証拠だから。
仕事を放って追って来てくれて、「持って帰れ」と傘を渡してくれるのだから。
今日はずぶ濡れになってしまったけれども、きっと風邪など引いたりはしない。
(身体も心も、こんなにポカポカあったかいから…)
大丈夫、と勉強机の上を眺める。ハーレイが出して揃えてくれた、明日の授業の教科書を。
明日の朝には、あれとノートを通学鞄に詰め込もう。母が乾かしてくれた鞄に。
そして元気に学校に行こう、ハーレイにも母にも、心配なんかをかけないように…。
雨に濡れても・了
※帰り道で、雨に降られてしまったブルー。傘を持っていなかったせいで、濡れた全身。
家に着いたら直ぐにお風呂で、ベッドで寝かされる羽目に。けれど、ハーレイと幸せな時間。
ハレブル別館は、次回から月に1度の更新になります。
毎月、第3月曜に更新、よろしくお願いします。
今年もクリスマスシーズンがやって来た。シャングリラにも、クリスマスツリーが登場する。
ブリッジが見える広い公園にドンと、見上げるくらいに大きなツリーで、夜にはライトアップ。昼間も見に来る人は多くて、「そるじゃぁ・ぶるぅ」も、その中の一人。
「今年も、じきにクリスマスかあ…」
悪戯は我慢しなくっちゃ、と心に誓う「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、悪戯が生き甲斐な悪戯小僧。船の仲間たちを困らせるけれど、この季節だけは、当人も困る。
「悪い子供には、サンタさん、鞭をくれるって言うもんね…」
プレゼントの代わりに鞭が届くなんて、と考えただけでも、泣きそうな気分。クリスマスの朝に目を覚ましたら、靴下の中身が鞭一本では、最低最悪。悲しすぎるし、それは避けたい。
だから「悪戯は我慢」なわけで、船の仲間たちには嬉しい季節と言えるだろう。そうでなくてもクリスマス気分で、誰もが幸せそうな顔をしている。
(…大人にだって、プレゼントが届くわけだし…)
いい仕組みだよね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が眺める先に、小さめのクリスマスツリー。船の名物の「お願いツリー」で、「クリスマスに欲しい物」を書いたカードを吊るせばいい。
(子供のカードは、サンタさんが見てるらしいけど…)
大人が書いたカードは、恋人とか、友達などが見付けて、書いてある物をプレゼントする仕様。これが切っ掛けで、カップルが誕生することもある。
(……うーん……)
何をお願いしようかな、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は考えたけれど、直ぐには思い浮かばない。
(…よく考えてから、お願いしたいよね…)
年に一度のクリスマスな上、「悪戯を我慢」の御褒美なのだし、うんと素敵な物をプレゼントに届けて貰いたい。
「お願いツリー」は、まだ飾られたばかり、ゆっくり考えて頼むべきだろう。
「うん、それがいいよね!」
クリスマスまでは日があるもん、と、外に出掛けることにした。船にいたって悪戯は出来ない。人類の世界で悪戯も無理だけれども、遊ぶ分には、まるで問題無いのだから。
というわけで、シャングリラから、ヒョイと瞬間移動をして、アタラクシアの町に降り立った。もちろん町もクリスマスシーズン、あちこちに飾りやクリスマスツリーが煌めいている。
(綺麗なんだけど、食べられないしね…)
見て回るよりもグルメ活動、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、町を歩いて、何処に入るか考える。行きつけの店も多いとはいえ、隠れた名店を探すのもいい。
(何処がいいかな…)
ご飯にするか、おやつにするか、其処も問題、とキョロキョロしながら歩く間に、とある看板が目に入った。
「…うどん屋さん…?」
こんなお店、此処にあったかな、と首を捻って、よく見てみたら、開店記念サービスの張り紙。新規オープンの店となったら、無視するわけにはいかないだろう。
(入らないなんて、グルメじゃないしね!)
うどん屋さんでも入らなくちゃ、と早速、「のれん」をくぐって中に入った。
「いらっしゃいませー!」
只今、開店記念でサービス中です、とカウンターの中から、気の良さそうな店主がニコニコと、サービスの説明をしてくれた。
「うどん、おかわり自由ですよ!」
「えっ、ホント!?」
「もちろん、食べ切れる分までですけどね」
残した場合は、その一杯の分のお値段は頂戴いたします、と店主は壁のメニューを指差した。
「どれを注文して頂いてもかまいません。ただし、おかわりは、同じ品になります」
「きつねうどんを注文したら、おかわり、きつねだけ?」
「ええ。ついでに、残してしまわれた時は、きつねうどんを二杯分のお支払いです」
「そっかあ…。でもでも、どれを選んでもいいんだよね?」
お値段、きつねより高くても、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、確認する。店主は笑顔で保証してくれた。一番高い品を何杯食べても、完食出来たら、支払いは一杯分だけです、と。
(…当たりのお店に来ちゃったよ!)
何杯だって入るもんね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、もう嬉しくてたまらない。悪戯小僧でもあるのだけれど、胃袋の方も底抜けだった。何杯だろうが、軽いものだし、食べまくれるのはいい。
(…どれにしようかな?)
うどんにも色々あるもんね、と壁を眺めて、「月見うどん?」と、一枚の紙をまじまじと見る。
(…月はなくても、うどんで月見…?)
これって、どういう意味なんだろう、と読み直しても、サッパリ分からない。
(月って、お月様だろうけど…)
絵本くらいしか知らないや、と悩む「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、「月」を見たことがなかった。アタラクシアとエネルゲイアがある、育英惑星アルテメシアは、衛星を持っていない。本来の月とは「地球の月」のことで、「お月様」の正体はソレ。
(アルテメシアには、月が無いから、月見うどん…?)
空に月なんか無いのにね、と、店主に聞いてみることにした。
「あのね、あそこの紙のは、どういう意味なの? うどんで月見って?」
すると店主は、とびきりの笑顔で「よくぞ気付いて下さいました!」と、「サービスです!」とばかりに、「そるじゃぁ・ぶるぅ」をカウンターに招いて、座らせてくれた。
「お食事の前に、一杯どうぞ! おっと、お子様でしたね…」
それじゃ暖かい甘酒で、と食前酒が「タダで」ついて来たから、驚きのサービスぶり。それから店主は、紙の意味を話し始めた。
「アルテメシアには、月が無いでしょう? 私が育った星には、あったんですよ」
ステーションを出た後に、行った星にもあったんですが、と店主は懐かしそう。アルテメシアに移って店を出したけれど、此処には「月が無い」ものだから、思い入れをこめて「月見うどん」。
「空に無いなら、せめて、うどんで月を見たいじゃないですか!」
地球の月には敵いませんがね、と店主が語る「地球の月」とは、「お月様」のこと。店主も見た経験は無いらしいけれど、それは美しいものらしい。
昔の地球では、月が一番綺麗な季節に、「月見」という催しまでがあったという。その季節には「月見バーガー」や「月餅」と、月に因んだ食べ物が登場していたほどだと、店主は教えてくれた。
「そっかあ! だったら、月見うどんで!」
お願いしまぁーす! と注文してから、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は食べまくったけれど、店主は嫌な顔の一つもしないで、「また来て下さいね!」と、開店記念クーポンもプレゼント。
食べて食べまくって、お腹一杯、最高の店に当たった。
明日も行こう、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が決意したくらい、「月見うどん」は美味しかった。店主の自慢のメニューなのだろう。
町を歩いて「腹ごなし」をして、それから船に帰ったのだけれど…。
(月見うどん、美味しかったよね…)
チャンスがあったら、月見バーガーとかも食べてみたいな、と自分の部屋で考えていて、ハタと気付いた。
(月見バーガー、店主さんのいた星だと、あったらしいし…)
聞いた時には「アルテメシアにも、いつか登場しそう!」と、食い意地だけだったけれど、その「月」が問題。
店主の話では、月見は「昔の地球」で始まったわけで、きっと今でも「ある」に違いない。
(サンタクロースに頼むんだったら、コレしかないよ!)
それにしよう、と「お願いツリー」まで、瞬間移動で、急いでカードに書き込んだ。その内容は「来年のお月見のチケット、下さい」。
店主は「地球に行ける人なら、お月見も出来るんでしょうけどねえ…」と、一般人には行けない「人類の聖地」に思いを馳せていた。
その地球にしかない「お月見」のチケットがあれば、お月見の時に地球まで行ける。
(地球に行ったら、場所を覚えて…)
大好きなブルーに教えてあげれば、ブルーも「憧れの地球」に行くことが出来るだろう。
(これで良し、っと!)
名案だよね、と「お願いツリー」にカードを吊るして、「そるじゃぁ・ぶるぅ」はピョンピョン跳ねて部屋まで帰って行った。
「来年のお月見の季節になったら、地球の座標をゲット出来るよ!」と、上機嫌で。
さて、そこまではいいのだけれど、今年も「そるじゃぁ・ぶるぅ」の「お願い事」は、気の毒なキャプテンを悩ませることになってしまった。
「…ソルジャー…。少しよろしいでしょうか?」
ぶるぅが、こんな願い事を、とハーレイは、回収したカードを手にして、夜に青の間を訪れた。青の間には、この時期の名物の「炬燵」が置かれている。
「どうしたんだい? また変なことでも?」
まあ、ミカンでも食べたまえ、とブルーは、ハーレイを炬燵に招いて、向かいに座らせた。
「それが…。これはどういう意味でしょう?」
お月見のチケットとは、と怪訝そうなハーレイだけれど、ブルーは、直ぐにピンと来た。日頃、「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお出掛けの時は、行先くらいは探っている。今日は、はしゃいでいた分、気になって様子を見てもいた。
「ああ、それか…。地球だと思うよ、地球にしか、お月見の催しは無いだろうしね…」
実は昼間にこういうことが、とブルーの解説を聞いて、ハーレイは唸った。
「どうするんです? そんなもの、手には入りませんよ?」
「うん。変えて貰うしかないだろうね…。ぶるぅ!」
ちょっとおいで、というブルーの思念で、「そるじゃぁ・ぶるぅ」はパッと現れた。
「なあに? おやつ、くれるの?」
「ミカンくらいならね。それより、これは、どういう意味だい?」
ブルーが指差す「お願いカード」を見るなり、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は張り切って答えた。
「あのね、地球のお月見イベントだよ! チケットがあれば、行けるでしょ?」
「なるほどね…。でも、ぶるぅ…」
行き方を知っているのかい、とブルーは苦笑して問い掛けた。
「こういうチケットは、どうやって行くか、知っていないと、どうにもならないよ?」
「えっ、そうなの!?」
ホント、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は目を丸くしたけれど、ブルーは、可笑しそうだった。
「知らなかったのかい? 最寄りの宙港とか、そういうのが書かれているだけで…」
往復は自分でなんとかしないとね、と教え諭した。「行き方を知っている」ことが前提だから、チケットだけを貰った場合は、無駄になるのだ、と。
(…いい考えだと思ったのに…)
お月見チケットは、貰っても無駄だなんて、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」はガッカリしたけれど、子供なだけに立ち直りも早い。「無駄になる」ものを頼むよりかは…。
(役に立つものを頼むべきだよね!)
何にしようかな、と考えた末に頼んだ品が、ハーレイをホッとさせたのは言うまでもない。
クリスマスイブの日の夜、ハーレイは例年通りに、サンタクロースの衣装を纏って、袋を担いで「そるじゃぁ・ぶるぅ」の部屋を訪れた。
(よしよし、今年も罠の類は仕掛けていないな、いいことだ)
悪戯も我慢していたし、鞭は勘弁しておいてやる、と「キャプテンのサンタ」は、プレゼントをベッドの側に並べてゆく。
(まったく、ソルジャーはともかく、なんで他の奴らまでから…)
悪戯小僧にプレゼントなんだ、とハーレイは、ぼやくけれども、そのハーレイも、プレゼントを用意していたりする。長老たちと一緒に贈る品の他にも、個人的に「コレがいいな」と選んで。
(どいつもこいつも、甘すぎだぞ!)
たまには鞭の年があっても、いいと思うが…、と真っ白な付け髭をしごきながらも、そんな酷いプレゼントはしない。
なんだかんだで「愛されている」のが「そるじゃぁ・ぶるぅ」で、ベッド大好き、土鍋も好きで寝床にしている、「いつまで経っても、6歳のまま」の、可愛らしい子供なのだから。
そして、クリスマスの朝、パチンと目を覚ました「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、ベッドの側の床を目にして歓声を上げた。
「わぁーい! サンタさん、ちゃんと来てくれたよ!」
ぼくが頼んだプレゼントは、この箱かな、と「いい子の、ぶるぅへ」とカードが添えられている箱を開けると、大当たり。
「凄いや、これならステージ映えしそう!」
いつものマントも悪くないけど、と広げて羽織って、鏡の前に立ってみる。普段のマントに似ているけれども、さりげなく光沢があって、それでいて上品さが漂う逸品。
「サンタさん、特注してくれたんだね!」
気に入っちゃったあ! と大喜びの「そるじゃぁ・ぶるぅ」は知らないけれど、本当に特注の品だった。ソルジャー・ブルー自ら、アタラクシアの町に降りて注文した品で、超のつく高級品。今は希少な「絹」で出来ていて、染めも「貝紫」という高価な染料が使われている。
「マントもいいけど、他にも色々! これはお菓子で、こっちは、と…」
悪戯を我慢してて良かったあ! とワクワクしながらプレゼントを開けてゆく内に、ブルーから思念が飛んで来た。
『ぶるぅ、誕生日おめでとう! 公園でケーキが待ってるよ』
早くおいで、と言われて初めて「そうだっけ、今日は誕生日!」と気付いたくらいに、すっかり忘れ果てていた。誕生日の日は「クリスマス」だった、ということを。
「待ってて、すぐ行く!」
急がなくっちゃ、と「どっちのマントにしようかな?」と考えたものの、ステージ映えと頑丈さとは両立しないかもしれない。
(ケーキがついたら、染みになっちゃうかも…)
普段のマントにしておこうっと、と決めた「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、特注のマントが特殊加工してあることにも気付かなかった。よくよく箱を確かめていたら、「丸洗い出来ます」と書いた紙が入っているのが分かったのに。
「かみお~ん♪ メリークリスマス!」
今日も悪戯は我慢するね、と瞬間移動で公園に飛んだ「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、大歓声で迎え入れられた。
「「「ハッピーバースデー、そるじゃぁ・ぶるぅ!」」」
大好きなブルーも、船の仲間も、みんな公園に揃っている。厨房のクルーが数人がかりで大きなケーキ運び込んで来て、バースデーパーティーが賑やかに始まった。
みんな笑顔で、心から祝って、悪戯小僧に「ハッピーバースデー!」。
ハッピーバースデー、「そるじゃぁ・ぶるぅ」。今年もお誕生日、おめでとう!
由来が大切・了
※「そるじゃぁ・ぶるぅ」お誕生日記念創作、読んで下さってありがとうございます。
管理人の創作の原点だった「ぶるぅ」、いなくなってから、もう7年が経ちます。
2007年の11月21日が初めての出会いで、創作をするようになって17年目。
毎日シャン学では良い子の「ぶるぅ」ばかりとはいえ、原点だった悪戯小僧も大好きです。
お誕生日のクリスマスには必ず記念創作、すっかり暮れの風物詩になりました。
「そるじゃぁ・ぶるぅ」、18歳のお誕生日、おめでとう!
2007年のクリスマスに、満1歳を迎えましたから、17年目の今年で18歳です。
アニテラの教育ステーションだと、18歳は最上級生になるわけですが…。
ステーションを卒業だなんて、メンバーズも目前。ただし、「いい子」だったら…。
※過去のお誕生日創作は、下のバナーからどうぞです。
お誕生日とは無関係ですけど、ブルー生存EDなんかもあるようです(笑)
(そっか、遠足…)
その帰りなんだ、とブルーが眺めた下の学校の生徒たち。学校からの帰りに、バス停から家まで歩く途中で目にした光景。少し前の方を賑やかに歩いてゆく姿。
普段だったら、この時間にはあまり見かけない。遊んでいる子供たちには出会うけれども、下校してゆく子たちの方は。
リュックサックを背負った子供たち。遠足の続きみたいにはしゃいで、笑い合いながら。水筒の中身を飲んだりもして。
(中身、ジュースなんだ…)
驚いたけれど、話の内容からして、水筒に詰まった中身はジュース。自分が通っていた頃は禁止だったけれども、今は許されているのだろうか?
「先生、気が付かなかったね!」
「大丈夫だって言っただろ? バレやしない、って」
先生の近くで飲まなかったら大丈夫だ、と得意そうな顔の男の子。如何にもヤンチャそうな顔。
(…常習犯…)
いつもやってる子供なんだ、とポカンとしてから気が付いた。やっぱり今でも水筒にジュースは駄目なんじゃない、と。
遠足の時も、普段の時も、水筒の中身はお茶か水だけ。下の学校はそういう決まり。
(お茶の種類は決まってないから…)
麦茶の子もいたし、他にも色々。紅茶を入れていた子は知らないけれど…。
(ミルクティーとかでなければ、良かったのかな?)
紅茶も「お茶」には違いないから、たっぷりのミルクと砂糖入りでなければ許されそう。普通に淹れただけの紅茶で、過剰な味付けをしていないなら。
(甘いミルクティーだと、ジュースとおんなじ…)
それを水筒に詰めていたなら、きっと先生に叱られる。「水筒の中身はお茶と水だけ!」と。
(だけど、ジュースを入れてくる子は…)
自分の周りにも何人かいた。常習犯も、「遠足の時だけ」だった友達も。
遠足となれば楽しみたいから、ジュースを詰めたくなるのも分かる。広々とした野原や、視界が開ける山の天辺。其処でお弁当を食べる時には、お供はジュース、と。
(ふふっ…)
今の子たちも、みんな同じ、と微笑みながら帰った家。リュックの子たちを追い抜いて。
制服を脱いで、ダイニングでおやつを頬張りながら考える。さっきのジュースと水筒のこと。
今の学校では遠足に行っていないのだけれど…。
(学校に水筒を持って行くなら…)
ジュースを中に詰めてゆくのは、やっぱり禁止。下の学校の頃と同じに。
食堂でジュースを買うことだったら、許されるのに。お昼休みに飲んでいたって、叱られない。もちろん放課後も、他の短い休み時間でも。
(なんでかな…?)
学校でジュースが売られているのに、禁止されるのが水筒のジュース。買って飲むのも、持ってくるのも同じだろうに。
ジュースの味が変わりはしないし、冷たい温度も保っておける容器が水筒。
(誰も持っては来ないけれどね…)
水筒を持って来ている生徒は、きちんとお茶を詰めてくる。先生に叱られないように。それに、同じジュースを飲むのだったら、水筒に入れて持って来るより買う方がいい。
昼休みと帰りで違うジュースが飲めるし、その時の気分で選びも出来る。どれにしようか悩んでみたり、新しい味に挑戦したり。
(だけど、遠足とかに行くなら…)
水筒にジュースを入れる生徒も現れるだろう。下の学校の子が、今もそうしているように。
今の所は、遠足の予定は無いけれど。…水筒の出番がありそうな行事も。
それでもいつか行くとなったら、ジュースを詰める子は絶対にいる。先生がどんなに「駄目」と言っても、持ち物リストに「ジュースは禁止」と書かれていても。
(水筒のジュース…)
なんで駄目なの、と考えてみても出て来ない答え。
学校に行けばジュースが買えるし、自分だって何度も飲んでいる。お昼休みや、夏の暑い頃には短い休み時間にだって。
なのに水筒にジュースを詰めてゆくのは禁止で、先生にバレたら叱られる。規則を破って詰める子たちは、今も大勢いるというのに。ジュースは人気が高い飲み物で、今は学校でも買えるのに。
分からないよ、と考えながら戻った二階の自分の部屋。おやつを美味しく食べ終えてから。
(水筒の中身…)
お茶でなくても、ジュースでもかまわないように思う。下の学校の頃ならともかく、今の学校の方ならば。
(下の学校だと、ジュースは売っていなくって…)
食堂も無かったほどなのだから、「ジュースは禁止」も分からないではない。水筒の中身として禁止する前に、学校そのものがジュースが飲めない場所だったから。
(小さい子供は、好きなものばかり欲しがるから…)
健康のことなどを考慮した上で、ジュースは禁止だったのだろう。「美味しいから」と甘いものばかり飲んでいたのでは、身体に悪いし、虫歯の原因にもなりそう。
けれども、今の学校は違う。もっと育った子たちが行く場所、義務教育の最終段階。卒業したら十八歳だし、結婚だって許される年。
(自分のことには、自分で責任…)
きちんと考えて行動するよう教えられるし、ジュースを買って飲むのも自由。飲み過ぎないよう注意しながら、自分で好きに選んで買って。
それが許されているというのに、どうして水筒にジュースを詰めては駄目なのだろう。禁止する理由が、いったい何処にあるのだろう…?
(買って飲むのも、水筒に入れて持って行くのも…)
同じなのに、と思えるジュース。
どちらかと言えば、水筒に詰めて家から持って行く方が…。
(健康的だと思うんだけど…)
朝に搾ったオレンジのジュースや、作ったばかりの野菜のジュース。冷やしたままで放課後まで持つし、買ったジュースよりも身体に良さそう。
(食堂でもジュースは売っているけど…)
生徒の数が多いのだから、その場でオレンジを搾ってはいない。野菜ジュースも、沢山の野菜をミキサーで砕いて作ってはいない。店で売られているジュースと同じ種類のジュースで…。
(注文したら、コップに注いでくれるってだけで…)
家で作るのとは全然違う。健康的だと言えそうなのは、家で作ったジュースの方。
考えるほどに、水筒に詰めて持って行く方が良さそうなジュース。野菜ジュースも、オレンジを搾ったジュースでも。その日の間に飲んでしまうなら、きっと傷みはしないから。
(絶対、そっちが良さそうなのに…)
水筒にジュースを詰めてゆくのは禁止で、ジュースは学校で買って飲むもの。なんとも不思議で奇妙な決まり。下の学校ならまだ分かるけれど、今、通っている学校では。
(ハーレイだったら知ってるかな?)
ジュースを詰めてはいけない理由。禁止する方の教師なのだし、知らない方がおかしいだろう。
何故、禁止なのか、訊いてみたいな、と思っていたら聞こえたチャイム。そのハーレイが仕事の帰りに来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。水筒にジュースは、なんで駄目なの?」
「はあ? ジュースって…?」
何の話だ、とハーレイは目を丸くした。「水筒がどうかしたのか?」と。
「水筒にジュース…。今日の帰りに、下の学校の子たちを見掛けたんだよ。遠足だったみたい」
みんなリュックを背負っていてね、とても賑やかだったんだけど…。
その子供たちが、水筒にジュースを入れていたんだよ。お茶の代わりに。
水筒にジュースは禁止だったけど、今も禁止のままなんだけど…。それでも入れていた子たち。
ああいうの、今のハーレイも、やった?
ぼくは一度もやってないけど…。ママに頼んだことも無いけど…。
ジュースを入れて欲しいだなんて、と下の学校の頃のことを話して、ハーレイの答えはどうかと待った。水筒にジュースを入れていたのか、規則を守ってお茶や水だったか。
「俺か? 俺が学校に行ってた頃だな、下の学校」
水筒の中身はジュースだったか、そうでないかと訊かれると…。
デカイ声ではとても言えんがなあ…。これでも一応、今は教師というヤツだから。
とはいえ、お前も知っての通りの悪ガキだ。武勇伝は幾つも聞いてるだろう?
その辺で察しがつかないか、とハーレイが浮かべた悪戯っ子のような表情。悪ガキだったという子供時代は、ハーレイだって水筒にジュースを入れていた。
遠足などに行く時ばかりか、普通に登校する日でも。
搾り立てのオレンジジュースでなくても、冷蔵庫にあった市販のジュースの類も。
健康的ではなさそうなジュースも、水筒に入れた子供時代のハーレイ。遠足でなくても、普通の日でも。「ジュースが飲みたい」と思った時には、迷いもしないで。
「それ、駄目なんでしょ。ハーレイが行ってた学校だって」
入れてもいいっていう学校なら、大きな声で話せるものね。「悪ガキだから」って言わなくてもいいし、誰に喋っても良さそうだもの。
そのジュース…。今の学校でも禁止されてるけど、どうしてなの?
ジュースだったら、学校で売られているじゃない。食堂にもあるし、自動販売機だって。
わざわざ水筒に詰めなくっても、いろんなジュースが飲めちゃうよ。昼休みと放課後で違うのを買ったら、水筒で持って行くよりも楽しそうだけど…。水筒だとジュースは一種類だけ。
それに、水筒に詰めるんだったら、健康的なジュースを持って行けるじゃない。家でお母さんが作ってくれたオレンジジュースや、野菜ジュースとかを。
そっちの方が身体に良さそう、とジュースについての意見を述べた。禁止するより、家で作ったジュースの持ち込みを許せばいいのに、と。
そうしたら…。
「ああ、それはな…。お前が言うのも、確かに一理あるんだが…」
ジュースの種類が問題なんだ。水筒に詰める中身ってヤツが。
禁止されてる理由はそれだ、とハーレイが言うから驚いた。家からジュースを持って行く方が、いいことが沢山ありそうなのに。
「えっ、どうして?」
家で作ったジュースだったら、うんと新鮮だし、栄養だってたっぷりだよ?
オレンジジュースなら搾ったばかりで、野菜ジュースもミキサーで作ったばかりなんだし…。
学校の食堂で買えるジュースより、ずっと健康にいいと思うよ。食堂のジュースは、工場とかで作ったジュースをコップに入れてるだけなんだから。
買ったジュースを詰めるにしたって、そっちはそっちで、お小遣いが減らなくなるもんね?
ジュースを買うお金、払わなくてもいいんだもの。家から水筒で持って行ったら。
そうでしょ、ハーレイ?
ジュースの種類が問題だって言うんだったら、決まりを作ればいいじゃない。こういうジュースだったらいい、ってメーカーを指定するだとか…。
その方法なら、市販のジュースも絞り込める。学校の食堂や自動販売機で買えるジュースと同じものだけ、などと指定してやれば。
家で作るジュースは栄養豊富に決まっているから、問題になるのはきっと市販のジュース。味は良くても栄養のバランスが良くないものとか、学校としては勧められないものも多いだろう。
てっきりそうだと思ったけれども、ハーレイは「違うな」と苦笑い。
「下の学校でジュースが禁止な理由は、栄養バランスなんかも絡んでいるんだが…」
お前が通っている学校だと、ちょいと事情が変わってくる。そう単純ではないってな。
栄養面とか、小遣いのことを考えるんなら、ジュースの持ち込みも許してやれるんだが…。
通ってる生徒の顔ぶれってヤツを思ってみろ。一番上の学年だったら、十八歳の子だっている。誕生日が四月のヤツらなんかは、もう早々に十八歳だな、一番上になった途端に。
あの学年が卒業したら、上の学校に行くわけで…。
上の学校に行けば、ちょっぴり大人の仲間入りってことになるだろう?
二十歳になれば大人だからな、とハーレイが言う、今の時代の「成人」の年。二十歳になったら立派な大人で、酒を飲むことも許される。
上の学校には二十歳になった先輩も大勢通っている上、二年も経てば自分たちも二十歳を迎えて大人。そういう学校に入れる時を、間近に控えているものだから…。
一番上の学年の生徒たちの場合は、大人になる日をちょっと先取り、アルコール入りのジュースなんかを飲んでみたくもなるという。
アルコールと言っても、ほんの少しだけ。酔っぱらうほどでもないジュース。
「学校としては、そういうジュースを、水筒に入れて持ってこられちゃ困るしな?」
見た目だけだと、普通のジュースとまるで区別がつかないから…。
元のジュースの入れ物があれば、直ぐに酒だと分かるんだがなあ…。水筒に詰められたら、もう分からん。「ちょっと寄越せ」と、取り上げて味見しない限りは。
だから禁止だ、とハーレイは怖い顔をした。「学校で酒は論外だぞ」と。
「お酒って…。水筒にジュースを入れちゃ駄目なの、そんな理由なの?」
絶対に駄目、って言っておいたら、誰もしないと思うけど…。お酒は二十歳からだもの。
誰でもきちんと知ってることだし、学校になんか持ってこないよ。
ジュースがあったらそれで充分、お酒まで飲もうとしなくたってね。
第一、学校は勉強の場所、と瞳を瞬かせた。其処に酒など持ち込まなくても、飲みたいのならば家でコッソリ飲めばいい、と。
「そう思わない? 家なら、先生にバレて叱られたりもしないし…」
好きな時間に部屋でコッソリ、それが安全。…ぼくは飲みたいとは思わないけれど。
「お前だったら、そうなるのかもしれないが…。馬鹿にしちゃいかんぞ、誘惑ってヤツを」
あと一年で上の学校なんだ、と思い始めたら、飲んでみたくなるヤツらも出てくる。
どうせだったら一人で飲むより、友達と飲みたくなるモンだ。水筒に入れて回し飲みとか、同じ日に揃って持ってくるとか。
どんな味なのか、ワクワクしながら飲むアルコールは格別だってな。…学校って場所で。
先生にバレたら大変なんだが、と話すハーレイは「悪ガキ」のような顔にも見える。今は教師で叱り付ける方の立場にいるのに、それとは逆の立場の悪ガキ。
「…ハーレイ、経験ありそうだね」
学校に水筒を持って出掛けて、中身はお酒が混じったジュース。…下の学校でジュースを入れて行っていたなら、次の学校でも似たようなことをやりそうだけど…?
そういう経験は一度も無いの、と興味津々。「ハーレイなら、やっていそうだよ」と。
「無いとは言わんな、悪ガキだしな?」
駄目だと言われりゃ、余計に挑戦してみたくなる。規則を破るのもスリル満点というヤツで…。
だが、勘違いをしてくれるなよ?
悪さをするのも大好きだったが、やるべきことはきちんとやってた。勉強も、もちろん宿題も。
そういや、水筒にジュースってか…。
同じ理由で禁止だったな、あの船でも。
「船?」
何処の船なの、学校から乗りに行くような船…?
ぼくの学校では行ってないけど、学校によっては色々あるよね。船に乗り込んで、湖を回って、水質検査の体験をしたりする学校とか…。帆船で沖に出て行くだとか。
「体験学習用の船だな、お前が言うのは」
その手の船でも、もちろん水筒にジュースを詰めるのは禁止だろう。
乗っていく子供が下の学校の子でも、お前と同じ学校でも。しかしだな…。
俺が言う船はそれじゃない、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。「シャングリラだ」と。
「シャングリラと言えば、前の俺たちが乗ってた船だ。…白い鯨だ」
覚えていないか、あの船の決まり。水筒とジュースで何かを思い出さないか…?
「えーっと…?」
シャングリラだよね、白い鯨の方の…。あの船で水筒とジュースって…?
ジュースは食堂に行けば飲めたよ、とキョトンとした。白い鯨に改造する前の船の頃でも、何か飲むなら食堂で注文。「これが飲みたい」と係に言えば、出て来た色々な種類の飲み物。
「基本は食堂、そうでなければ休憩室だな。飲み物が欲しくなった時には」
休憩室にもジュースなんかは揃っていたから、自分で好きに選んで飲めば良かったんだが…。
それが出来ない時もあったろ、休憩室とか食堂に出掛ける時間が無い時。届けて貰うという手もあったが、もっと手軽に飲み物を持って行きたいのなら…。
水筒だったぞ、と挙がった容器の名前。
持ち場に飲み物を運んで行きたい時には、休憩室か食堂で詰めてゆくのがシャングリラの規則。水筒の中身を詰める時には、必ず其処で。…自分の部屋で詰めるのではなくて。
「そうだっけ…!」
水筒、そういう決まりだっけね、白い鯨になった後には。
それまでは、水筒を持って行かなきゃいけないくらいに、大きな船じゃなかったから…。仕事の途中で喉が乾いたら、ちょっと戻って休憩室とか、食堂だとか…。
其処で飲めたよ、と今も覚えている飲み物。改造前の船の頃には、水筒の出番は殆ど無かった。忙しい時に一部の仲間が使っただけで、出番が少ないなら決まりも要らない。
ところが、改造した後の船は、改造前とは比較にならない巨大な船。食堂や休憩室はあっても、其処まで出掛ける時間が惜しい、と思う者やら、持ち場を離れられない者やら。
お蔭で水筒が脚光を浴びた。
持ち場を離れず、食事する者も少なくなかったから。メンテナンスなどに入った時は。
それに機関部など、高温になる区画も増えた。船が大きくなった分だけ。
食堂や休憩室に足を運ばず、何処ででも水分を摂れる水筒。飲みたい時に蓋を開ければ、欲しい量だけ飲むことが出来る。紅茶だろうがコーヒーだろうが、ジュースだろうが。
けれど、水筒には決まりがあった。白いシャングリラだけのための規則が。
水筒を持って出掛けてゆくなら、自分の部屋では詰められない中身。ジュースにしても、紅茶やコーヒーにしても。
中身は必ず、食堂や休憩室で詰めてゆくこと。普通の飲み物を入れる代わりに、仕事中には禁止されている酒を詰められたら大変だから。
合成の酒しか無かった船でも、酒は酒。飲みたい仲間は少なくないし、水筒という便利な容器が出来れば、持ち運びたい者も現れかねない。「仕事中にも一杯やろう」と。
「俺が思うに、今も昔も変わっちゃいないな、其処の所は」
水筒にジュースを入れちゃいかん、と言っておかないと、アルコール入りのジュースを持ち込む生徒が出ちまう学校だとか…。
中身を詰めるなら食堂と休憩室にしろ、と規則を作って決めておかないと、自分の持ち場で酒を飲みかねないヤツらが乗ってた船だとか。
ずいぶん時が流れちまって、地球がすっかり青くなっても、水筒の中身は変わらないらしい。
決まりが無ければ、ろくでもないことを考え付くヤツらがいるってこった。
学校だろうが、白い鯨だろうが…、とハーレイは懐かしそうな顔。白いシャングリラが、今でも見えているかのように。
「シャングリラの水筒、そうだったね…。ジュースじゃなくて、お酒だったけど」
お酒を詰めて仕事に行っちゃう仲間が出たら、大変だから…。中身を詰められる場所が決まっていて、自分の部屋からは詰めて行けない仕組み。必ず食堂か休憩室で、って。
あんな決まりを作らなくても、前のぼくなら、お酒なんかは詰めないけれど…。
水筒を持って何処かに行くなら、中身はジュースか紅茶だけれど…。
ぼくはコーヒーも苦手だから、と顔を顰めた。「お酒も駄目だけど、コーヒーも駄目」と。
「お前の場合は、酒を飲んだら酔っ払っちまっていたからなあ…」
ほんのちょっぴり舐めただけでも、真っ赤な顔になっちまうくらいに酒に弱くて。
あれじゃ水筒に酒を入れたら、船の何処かで行き倒れだな。
飲んだら倒れて眠っちまって、俺たちが探しに行く羽目になるんだ。行方不明のソルジャーを。
眠っていたんじゃ、思念波だって返って来ないし、さぞかし苦労したろうさ。探し出すまでに。
お前はそのくらいに酒が駄目だったし、水筒に酒を入れようとも思わなかっただろうが…。
酒好きだった、前の俺なんかになるとだな…。
欲しいと思うこともあった、と語るハーレイ。「水筒にコッソリ詰めてでもな」と。
ブリッジでの勤務が長く続いた日ともなったら、帰り際には一杯やりたい気分だった、と。
「ゼルやブラウと「お疲れ様」と飲むってわけだ」
あの二人もいける口だったしなあ、部屋に戻る前に、ちょいと飲みたいじゃないか。
誰かの部屋へ飲みに行くんじゃ、余計な時間がかかっちまうし…。軽く一杯、一口だけな。
そういう酒が欲しいじゃないか、と今のハーレイは言うのだけれど。
「でも…。お酒なんかは飲んでないでしょ?」
前のハーレイも、ゼルも、ブラウも。…誰かの部屋で飲んではいたって、ブリッジなんかじゃ。
「それがだな…」
やはり大きな声では言えんが、とハーレイがクッと漏らした笑い。教師になった今のハーレイの悪ガキ時代と同じくらいに、大きな声では言えないこと。
前のハーレイが生きた時代に、白いシャングリラのブリッジで起きていた出来事。明らかに遅くなりそうな日には…。
「ゼルがお酒を持ってたの!?」
部屋から持って来てたって言うの、知らん顔してブリッジまで…?
水筒の中身を詰めるんだったら、休憩室か食堂で、って決まっていたのに、それを破って…?
「そうなるな。…決まりは決まりで、ゼルは破っていたことになる」
もちろん百も承知の上で、マントの下にコッソリ隠して持って来ていたな。
酒専用の水筒と言うか、ちょいとレトロなアイテムと言うか…。
ゼルのお手製だぞ、こういうので…。スキットルという名前なんだが。
携帯用の酒の容器だ、歴史はけっこう長くてだな…。
尻ポケットに突っ込んでおくのに都合のいい形に出来てるんだ、とハーレイが両手で示した形。
「こんな厚みで、こう曲がってて…」と教えて貰ったスキットル。
水筒を平たい形に潰して湾曲させたら、それに似た感じになるのだろうか。真鍮で出来ていたという、ゼルお手製のスキットルの形。
見たような気がしないでもない。遠く遥かな時の彼方で、白いシャングリラで。
ハーレイの仕事はまだ終わらないかと、青の間から思念でブリッジを探った時に。
そのスキットルを、マントの下から取り出すゼルを。
遠い記憶を手繰り寄せてみれば、やはり見ていたスキットル。「変わった形の水筒だ」と思って眺めていたのだけれども、注目したのは形だけ。「ゼルの趣味かな?」と。
水筒だけに、中身はゼルの好みのジュースかコーヒーなどだと、前の自分は信じていたのに…。
「あれって、中身はお酒だったの!?」
おまけに今のハーレイの話じゃ、水筒そのものがお酒専用…。
SD体制が始まるよりも、ずっと昔の時代からあったのがスキットルで…。ゼル、そんなものを作っていたんだ…。ブリッジにお酒を持ち込むために…。
「雰囲気ってヤツが大切なんじゃ、とゼルは何度も言ってたぞ」
昔の地球の船乗りたちも、スキットルに酒を入れていたんだ、と。携帯用だから、船乗りだって持っていただろう。…人間が地球しか知らなかったような時代から。
船を操りながら一杯やるならコレに限る、と作って来たのがスキットルだ。
もっとも、ゼルがスキットルを持っていたのは、俺とブラウとゼルだけの秘密だったがな。
エラは知らんぞ、そういうものがあったことさえ。
ゼルのマントの下まで調べちゃいないからな、とハーレイは軽く肩を竦めた。「とても言えん」などと、シャングリラで一番うるさかったエラの名前を挙げて。
「当然じゃない。ブリッジにお酒を持ち込むなんて…。お酒専用の水筒だなんて」
バレたら怒るよ、エラだったら。…眉を吊り上げて、凄い勢いで。
普通の水筒を持って行くのも、全部禁止になっちゃいそう…。飲み物を飲むなら食堂に行くか、休憩室のどちらかで、って決まりが出来て。
エラならきっとそうするよ、と光景が目に浮かぶよう。「今日から水筒は禁止です!」と厳しい顔で宣言するエラ。皆が集まる食堂か何処かで、仁王立ちして。
「お前だって、そう思うだろ? エラは怖いと」
俺もゼルたちも、そいつは充分、分かっていたさ。だからだな…。
バレないように気を付けてたぞ、と前のハーレイたちは用心していたらしい。ゼルがコッソリと持ち込んでいたスキットル。それがバレたら、水筒が禁止になりかねない。シャングリラ中で。
そうならないよう、エラがブリッジから引き揚げない日は、飲めなかった酒。
一杯やりたい気分になっても、どれほど疲れた日であっても。
エラが「お先に」と姿を消してくれたら、「お疲れ様」と回し飲み。スキットルを出して。
前のハーレイたちが飲んでいた酒。白いシャングリラのブリッジで。
ゼルがマントの下に隠したスキットルを出したら、蓋を開けて、順に回していって。
「回し飲みって…。いいんだ、それで…?」
キャプテンと機関長と航海長なのに、ブリッジでお酒…。専用の水筒まで出して…。
そんなのでいいわけ、他のブリッジクルーがいても…?
一番怖いエラにバレなきゃ、水筒の中身がお酒になっちゃってても…?
みんなに示しがつかないんじゃあ…、と心配になった、前のハーレイたちがエラに内緒でやっていたこと。水筒の中に酒を入れて持ち込み、ブリッジで順に回し飲み。
いくら仕事が終わった後でも、ブリッジで酒。しかも水筒の中に仕込んで、船の決まりを破っていたのがゼルなのだから。
「ブリッジのヤツらか? そっちは気付いていないと思うぞ、スキットルなんて」
コアブリッジでは飲んでないからな。…俺たちが飲んでいたのは出口だ、出口。
あそこだったら誰の目にも入るわけがない、と前のハーレイたちは酒を飲む場所も選んでいた。船の航行の中心になるのが、ハーレイたちの席があった中央。コアブリッジと呼ばれた船の心臓。
コアブリッジを囲むようにして、他のクルーたちが配置されていた。操舵を担当する者も。
其処を離れれば、常駐する者は誰もいなかったブリッジという所。白いシャングリラで一番広い公園、その端に浮かぶ「方舟」の名を持つブリッジ自体は、無人の場所が多かった。
仕事が終わればコアブリッジを出て、もうアルコールの匂いも上までは届かない出口の近くで、コッソリと開けるスキットル。…ゼルがマントの下から出して。
それが前のハーレイたちの楽しみ。遅くまで仕事をしていた時には、ブリッジで酒。
「…ぼくにも今日まで内緒だったんだね?」
エラに内緒にしておいたのは、正しいことだと思うけど…。
バレてしまったら、シャングリラ中から水筒が無くなりそうだけど…。でも、前のぼくは…。
其処までうるさくなかったのに、と面白くない。「ぼくにも内緒だっただなんて」と。
「お前が気付かなかっただけだろ、俺もわざわざ話しちゃいないが…」
隠しておこうとも思っちゃいない。だから、お前が見ようと思えば見られた筈だぞ、水筒の中。
実は酒だということくらい…、と言われれば、そんな気もしてきた。
前のハーレイは「見るな」と止めなかったし、ゼルもブラウも何も気にしていなかった。
「ソルジャーに見られているかもしれない」とは、二人とも言わなかったのだから。
ゼルとブラウと、前のハーレイ。ブリッジで酒を飲んでいた三人。
彼らが恐れたのはエラの視線で、ソルジャー・ブルーの目ではなかった。ソルジャー・ブルーに覗き見されたら、どんな悪事も筒抜けなのに。サイオンの目は壁を通すし、サイオンの耳はどんな音でも聞き逃さない。…見聞きしようとしさえしたなら。
(前のぼくの方が、エラよりもずっと簡単に…)
ゼルたちの秘密を知ることが出来た。マントの下のスキットルとか、その中身だとか。
わざわざブリッジまで出向かなくても、青の間から覗くだけでいい。ゼルがマントの下に隠したスキットルを見付け出したら、中身の方は…。
(ハーレイたちの会話を聞いてみるとか、ゼルの部屋を監視してみるだとか…)
そうすれば分かったことだろう。「あの水筒に酒を詰めている」と。
(前のぼく、なんで気付かなかったわけ…?)
ハーレイたちがブリッジでお酒を飲んでいたことに…、と手繰ってみた記憶。前の自分は、どう思ったのか。ゼルたちの怪しい行動を。
(…スキットルっていう名前は知らなかったけど…)
妙な形をした水筒だったら、知っていた。普通の水筒を押し潰したような、平たい水筒。ゼルがマントの下から出すのも、何度もサイオンで見ていたと思う。
けれども、ゼルの趣味だとばかり考えていた。あの水筒の形も、マントの下に隠していたのも。
仕事の途中に飲むのだったら、ブリッジにだって飲み物はある。休憩室から運ぶ時やら、食堂に出前を頼む時やら。多忙な時には、食事もブリッジで摂っていたほど。
(そんな場所だったし、普通の水筒だと、仕事気分が抜けないから、って…)
ゼルが特別に作った水筒、それがスキットルだと信じていた。スキットルの名は知らないで。
マントの下に隠しているのも、仕事とプライベートな時間の切り替えのため。仕事が終わったら出して飲もう、というゼルの考え方だろう、と前の自分は思い込んだ。
(それで話が繋がっちゃうから…)
疑いさえもしなかった、スキットルの中身。
あの水筒の中身は、ゼルが食堂か休憩室で詰めて貰ったものだ、と。
まさか部屋から詰めて来たとは思いもしないし、酒だと気付く筈もない。仕事の後で、ハーレイたちが順に回して飲んでいたって。…その場所にエラの姿が無いのが、常だって。
もう少し気を付けさえしたなら、きっと分かっていたのだろう。スキットルの中身が何なのか。白いシャングリラを預かるキャプテン・ハーレイが、ゼルたちと何を飲んでいたのか。
「…前のぼく、ちょっぴり間抜けだったかも…」
スキットルのことは知っていたのに、変な形の水筒だとしか思ってなくて…。
水筒なんだし、中身はジュースかコーヒーなんだ、って思い込んでて、信じたままで…。
ジュースだったら、仕事の後で回し飲みなんかしないよね…。コーヒーとかでも。
部屋に帰ったらゆっくり飲めるし、休憩室とか食堂に寄ってもいいんだから。
あんな所で飲まなくたって…、と溜息をついた、前の自分の間抜けっぷり。何度も現場を見たというのに、酒だと見抜けなかったのだから。
「そのようだな。…キャプテンが酒を飲んでたのになあ、ブリッジで」
航海長も機関長も一緒に、出口とはいえ、ブリッジで酒だ。…しかも禁止されてる水筒の中身。絶対に酒を入れちゃならん、と決まりも作っていたわけで…。
思い込みとは酷いもんだな、と笑われた。「お前は酒が苦手だったが、間抜けすぎるぞ」と。
「うーん…。ホントに間抜けで、ソルジャー失格…」
ハーレイたちを叱るつもりはないけど、気付かないのは、あんまりだしね。
船のみんなに気を配っているつもりでいたって、お酒にも気付かないようじゃ、駄目だってば。
でも…。前のハーレイたちでも水筒にお酒だったら、今の学校の生徒たち…。
「持って来そうだろ、アルコール入りのジュースってヤツを」
水筒にジュースを入れて来るのを許可した時には、ジュースみたいなふりをして。
背伸びしてみたい年頃なんだし、好奇心の方も一杯だ。「酒というのは、どんな味か」と。
今の俺でも、ちゃんと覚えがあるんだぞ?
悪ガキとはいえ、今は教師になっているような俺でもな。…他のヤツらは言わずもがなだ。
「ジュースは駄目だ」と禁止してても、コッソリと入れて持ってくるのが生徒ってヤツで…。
前の俺たちの時代みたいに、毎日が命懸けの日々じゃないから、余計にな。
決まりを破って、アルコール入りのジュースを飲みたくなるってモンだ、と聞かされた話。今のハーレイの体験談も交えて、水筒とジュースの関係について。
「そうみたい…」
持って来たくもなっちゃうね、それ…。水筒にジュースを入れていいなら。
そういう理由で水筒にジュースは禁止なのか、と納得した。
前のハーレイたちでさえもが、ブリッジでコッソリと飲んでいた酒。ゼルお手製のスキットルという酒専用の水筒に入れて、仕事の後に。
あの船でも水筒に酒だったならば、今の時代の学校だったら、もう充分にありそうなこと。上の学校への進学を控えた最上級生たちが、水筒に酒を忍ばせること。
「どうだ、分かったか?」
水筒にジュースを入れて来るのが、学校で禁止されてる理由。
下の学校だと事情が違うが、ジュースが買える学校に上がっても、駄目な理由は酒なんだ。
前の俺たちみたいな輩は、何処にでもいる。…時代がすっかり変わっちまっても。
それと知らずに、今の俺もやってしまったようだが…、とハーレイは可笑しそうな顔。ブリッジならぬ学校へ酒を持って行ったのが、今のハーレイ。アルコール入りのジュースを水筒に入れて。
「分かったけど…。前のハーレイたちがやってたことは…」
どうなるって言うの、シャングリラの決まりを破ってたんだよ?
前のぼくは気付いていなかったんだし、どうすることも出来ないけれど…。エラが気付いてたら大変なんだよ、ブリッジの中でお酒だなんて。
シャングリラ中の水筒が禁止になっちゃいそうだし、ハーレイたちも凄く叱られそう…。
「時効だ、時効。…何年経ったと思ってるんだ?」
地球がすっかり青くなるほど、とんでもない時が流れた後だぞ。とっくに時効というヤツだ。
それに、酒のせいでヘマをやってはいないしな。俺も、ブラウも、もちろんゼルも。
シャングリラは立派に地球まで行った、と言われたらグウの音も出ない。仕事の後にはコッソリ酒でも、ゼルの水筒の中身が酒でも、前のハーレイたちは役目を果たしたのだから。
それにハーレイは、恋人だった前の自分をメギドで失くしてしまった後は…。
(独りぼっちで辛かったんだし、お酒くらいは…)
大目に見ないといけないだろう。
悲しくて辛くて、眠れない夜も幾つもあったに違いない。それでも夜が明けたら仕事で、制服を着込んでブリッジに立った。シャングリラの指揮を執るために。
夜遅くまで仕事をしたなら、「お疲れ様」とゼルたちと一杯やって別れて、また独りぼっち。
一人きりの部屋に帰る前には、酒くらい飲んでいたっていい。水筒の中に隠した酒でも。
そう思ったから、ハーレイの瞳を真っ直ぐ見詰めて謝った。
「ごめんね、ハーレイ…」
「なんだ、どうした?」
いきなり何を謝ってるんだ、お前、なんにもしてないだろうが。
それともアレか、水筒にジュースを入れていたのか、コッソリと…?
酒なんか入れて行く筈がないし、学校には無いお気に入りのジュース、持ち込んだのか…?
何のジュースだ、とハーレイが勘違いしたものだから、「前のぼくだよ」と俯いた。
「…前のぼく、いなくなっちゃって…。ハーレイを独りぼっちにしちゃって…」
ジョミーを支えてあげてくれ、って言わなかったら、ハーレイの好きに出来たのに…。
前のぼくがハーレイを縛ってしまって、シャングリラを地球まで運ばせちゃって…。
お酒くらい無いといられないよね、独りぼっちで残されちゃったら。ブリッジの仕事が終わった後も、ハーレイは独りぼっちだし…。ゼルのお酒を分けて貰って、息抜きしなくちゃ…。
「馬鹿にするなよ、キャプテン・ハーレイを。…あの時は酒に逃げてはいない」
どんなに辛い毎日だろうが、ブリッジでは普段通りの俺だ。顔にも出しちゃいなかった。
ゼルが「どうじゃ」とスキットルを出しても、「お疲れ様」の一杯程度で終わりだったな。
もっと飲もうとしてはいないぞ、ただの一度も。勝ち戦の時は、ゼルもブラウも御機嫌になって「もうちょっと」などと、二人で飲んでいたもんだが…。俺にも「もっと飲め」とか言って。
しかしだ、前のお前に頼まれたことを果たすためには、俺がきちんと頑張らないと。
勝ち戦で祝勝気分の時でも、コッソリ水筒に隠してあるような酒は、一杯分で充分なんだ。
そして前の俺が地球まで我慢した分、今では酒も飲み放題で…。
青い地球の水で仕込んだ酒だぞ、ゼルが持ってた合成の酒の何万倍も美味いってな。
お前も帰って来てくれたんだし、もう最高の気分で飲める。お前と行きたかった地球の酒をだ。
ただなあ…。その最高に美味いと思っている酒…。
お前と飲めないのが残念だがな、とハーレイが言うものだから。本当に残念そうな顔だから…。
(お酒、やっぱり…)
今度のぼくは飲めるといいな、と心から思う。
前の自分が酒が苦手で、飲むと悪酔いしていたけれど。…ハーレイと飲めはしなかったけれど。
けれど、今度は飲めたらいい。今のハーレイも気に入りの酒を、いつか二人で。
(今のぼくだと、学校に本物のジュースを持って行くのがせいぜいで…)
アルコール入りのジュースなどは絶対に無理だけれども、もっと大きくなったなら。
学校に酒を持っては行かないけれども、前の自分と同じ背丈に育った時には、酒が飲める体質になれたらいいと思ってしまう。
ハーレイと暮らせるようになったら、二人で飲んでみたいから。
「お前と飲めないのが残念だがな」と、ハーレイを寂しそうな顔にさせたくないから。
乾杯をしたり、「お疲れ様」と、ハーレイのグラスに注いだりして、楽しむ酒。
そんな時間が持てたらいい。今も昔も、酒が大好きなハーレイのために。
きっと幸せな時間になるから、ほんの一杯でも酒が飲めたら嬉しい。
「美味しいね」と微笑み交わして、キスを交わして。
青い地球の水で仕込んだ酒を酌み交わしながら、二人きりの時をゆっくり過ごせたならば…。
水筒と中身・了
※白いシャングリラで決められていた、水筒の中身。詰める場所まで指定していたほど。
なのに、ブリッジでコッソリ飲まれていた酒。前のハーレイとゼルとブラウだけの、息抜き。
先月も書いていた通り、ハレブル別館の月2更新は、今月で最後です。
来年の1月からは月に1度の更新、第3月曜のみになります。よろしくお願いします。
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その帰りなんだ、とブルーが眺めた下の学校の生徒たち。学校からの帰りに、バス停から家まで歩く途中で目にした光景。少し前の方を賑やかに歩いてゆく姿。
普段だったら、この時間にはあまり見かけない。遊んでいる子供たちには出会うけれども、下校してゆく子たちの方は。
リュックサックを背負った子供たち。遠足の続きみたいにはしゃいで、笑い合いながら。水筒の中身を飲んだりもして。
(中身、ジュースなんだ…)
驚いたけれど、話の内容からして、水筒に詰まった中身はジュース。自分が通っていた頃は禁止だったけれども、今は許されているのだろうか?
「先生、気が付かなかったね!」
「大丈夫だって言っただろ? バレやしない、って」
先生の近くで飲まなかったら大丈夫だ、と得意そうな顔の男の子。如何にもヤンチャそうな顔。
(…常習犯…)
いつもやってる子供なんだ、とポカンとしてから気が付いた。やっぱり今でも水筒にジュースは駄目なんじゃない、と。
遠足の時も、普段の時も、水筒の中身はお茶か水だけ。下の学校はそういう決まり。
(お茶の種類は決まってないから…)
麦茶の子もいたし、他にも色々。紅茶を入れていた子は知らないけれど…。
(ミルクティーとかでなければ、良かったのかな?)
紅茶も「お茶」には違いないから、たっぷりのミルクと砂糖入りでなければ許されそう。普通に淹れただけの紅茶で、過剰な味付けをしていないなら。
(甘いミルクティーだと、ジュースとおんなじ…)
それを水筒に詰めていたなら、きっと先生に叱られる。「水筒の中身はお茶と水だけ!」と。
(だけど、ジュースを入れてくる子は…)
自分の周りにも何人かいた。常習犯も、「遠足の時だけ」だった友達も。
遠足となれば楽しみたいから、ジュースを詰めたくなるのも分かる。広々とした野原や、視界が開ける山の天辺。其処でお弁当を食べる時には、お供はジュース、と。
(ふふっ…)
今の子たちも、みんな同じ、と微笑みながら帰った家。リュックの子たちを追い抜いて。
制服を脱いで、ダイニングでおやつを頬張りながら考える。さっきのジュースと水筒のこと。
今の学校では遠足に行っていないのだけれど…。
(学校に水筒を持って行くなら…)
ジュースを中に詰めてゆくのは、やっぱり禁止。下の学校の頃と同じに。
食堂でジュースを買うことだったら、許されるのに。お昼休みに飲んでいたって、叱られない。もちろん放課後も、他の短い休み時間でも。
(なんでかな…?)
学校でジュースが売られているのに、禁止されるのが水筒のジュース。買って飲むのも、持ってくるのも同じだろうに。
ジュースの味が変わりはしないし、冷たい温度も保っておける容器が水筒。
(誰も持っては来ないけれどね…)
水筒を持って来ている生徒は、きちんとお茶を詰めてくる。先生に叱られないように。それに、同じジュースを飲むのだったら、水筒に入れて持って来るより買う方がいい。
昼休みと帰りで違うジュースが飲めるし、その時の気分で選びも出来る。どれにしようか悩んでみたり、新しい味に挑戦したり。
(だけど、遠足とかに行くなら…)
水筒にジュースを入れる生徒も現れるだろう。下の学校の子が、今もそうしているように。
今の所は、遠足の予定は無いけれど。…水筒の出番がありそうな行事も。
それでもいつか行くとなったら、ジュースを詰める子は絶対にいる。先生がどんなに「駄目」と言っても、持ち物リストに「ジュースは禁止」と書かれていても。
(水筒のジュース…)
なんで駄目なの、と考えてみても出て来ない答え。
学校に行けばジュースが買えるし、自分だって何度も飲んでいる。お昼休みや、夏の暑い頃には短い休み時間にだって。
なのに水筒にジュースを詰めてゆくのは禁止で、先生にバレたら叱られる。規則を破って詰める子たちは、今も大勢いるというのに。ジュースは人気が高い飲み物で、今は学校でも買えるのに。
分からないよ、と考えながら戻った二階の自分の部屋。おやつを美味しく食べ終えてから。
(水筒の中身…)
お茶でなくても、ジュースでもかまわないように思う。下の学校の頃ならともかく、今の学校の方ならば。
(下の学校だと、ジュースは売っていなくって…)
食堂も無かったほどなのだから、「ジュースは禁止」も分からないではない。水筒の中身として禁止する前に、学校そのものがジュースが飲めない場所だったから。
(小さい子供は、好きなものばかり欲しがるから…)
健康のことなどを考慮した上で、ジュースは禁止だったのだろう。「美味しいから」と甘いものばかり飲んでいたのでは、身体に悪いし、虫歯の原因にもなりそう。
けれども、今の学校は違う。もっと育った子たちが行く場所、義務教育の最終段階。卒業したら十八歳だし、結婚だって許される年。
(自分のことには、自分で責任…)
きちんと考えて行動するよう教えられるし、ジュースを買って飲むのも自由。飲み過ぎないよう注意しながら、自分で好きに選んで買って。
それが許されているというのに、どうして水筒にジュースを詰めては駄目なのだろう。禁止する理由が、いったい何処にあるのだろう…?
(買って飲むのも、水筒に入れて持って行くのも…)
同じなのに、と思えるジュース。
どちらかと言えば、水筒に詰めて家から持って行く方が…。
(健康的だと思うんだけど…)
朝に搾ったオレンジのジュースや、作ったばかりの野菜のジュース。冷やしたままで放課後まで持つし、買ったジュースよりも身体に良さそう。
(食堂でもジュースは売っているけど…)
生徒の数が多いのだから、その場でオレンジを搾ってはいない。野菜ジュースも、沢山の野菜をミキサーで砕いて作ってはいない。店で売られているジュースと同じ種類のジュースで…。
(注文したら、コップに注いでくれるってだけで…)
家で作るのとは全然違う。健康的だと言えそうなのは、家で作ったジュースの方。
考えるほどに、水筒に詰めて持って行く方が良さそうなジュース。野菜ジュースも、オレンジを搾ったジュースでも。その日の間に飲んでしまうなら、きっと傷みはしないから。
(絶対、そっちが良さそうなのに…)
水筒にジュースを詰めてゆくのは禁止で、ジュースは学校で買って飲むもの。なんとも不思議で奇妙な決まり。下の学校ならまだ分かるけれど、今、通っている学校では。
(ハーレイだったら知ってるかな?)
ジュースを詰めてはいけない理由。禁止する方の教師なのだし、知らない方がおかしいだろう。
何故、禁止なのか、訊いてみたいな、と思っていたら聞こえたチャイム。そのハーレイが仕事の帰りに来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。水筒にジュースは、なんで駄目なの?」
「はあ? ジュースって…?」
何の話だ、とハーレイは目を丸くした。「水筒がどうかしたのか?」と。
「水筒にジュース…。今日の帰りに、下の学校の子たちを見掛けたんだよ。遠足だったみたい」
みんなリュックを背負っていてね、とても賑やかだったんだけど…。
その子供たちが、水筒にジュースを入れていたんだよ。お茶の代わりに。
水筒にジュースは禁止だったけど、今も禁止のままなんだけど…。それでも入れていた子たち。
ああいうの、今のハーレイも、やった?
ぼくは一度もやってないけど…。ママに頼んだことも無いけど…。
ジュースを入れて欲しいだなんて、と下の学校の頃のことを話して、ハーレイの答えはどうかと待った。水筒にジュースを入れていたのか、規則を守ってお茶や水だったか。
「俺か? 俺が学校に行ってた頃だな、下の学校」
水筒の中身はジュースだったか、そうでないかと訊かれると…。
デカイ声ではとても言えんがなあ…。これでも一応、今は教師というヤツだから。
とはいえ、お前も知っての通りの悪ガキだ。武勇伝は幾つも聞いてるだろう?
その辺で察しがつかないか、とハーレイが浮かべた悪戯っ子のような表情。悪ガキだったという子供時代は、ハーレイだって水筒にジュースを入れていた。
遠足などに行く時ばかりか、普通に登校する日でも。
搾り立てのオレンジジュースでなくても、冷蔵庫にあった市販のジュースの類も。
健康的ではなさそうなジュースも、水筒に入れた子供時代のハーレイ。遠足でなくても、普通の日でも。「ジュースが飲みたい」と思った時には、迷いもしないで。
「それ、駄目なんでしょ。ハーレイが行ってた学校だって」
入れてもいいっていう学校なら、大きな声で話せるものね。「悪ガキだから」って言わなくてもいいし、誰に喋っても良さそうだもの。
そのジュース…。今の学校でも禁止されてるけど、どうしてなの?
ジュースだったら、学校で売られているじゃない。食堂にもあるし、自動販売機だって。
わざわざ水筒に詰めなくっても、いろんなジュースが飲めちゃうよ。昼休みと放課後で違うのを買ったら、水筒で持って行くよりも楽しそうだけど…。水筒だとジュースは一種類だけ。
それに、水筒に詰めるんだったら、健康的なジュースを持って行けるじゃない。家でお母さんが作ってくれたオレンジジュースや、野菜ジュースとかを。
そっちの方が身体に良さそう、とジュースについての意見を述べた。禁止するより、家で作ったジュースの持ち込みを許せばいいのに、と。
そうしたら…。
「ああ、それはな…。お前が言うのも、確かに一理あるんだが…」
ジュースの種類が問題なんだ。水筒に詰める中身ってヤツが。
禁止されてる理由はそれだ、とハーレイが言うから驚いた。家からジュースを持って行く方が、いいことが沢山ありそうなのに。
「えっ、どうして?」
家で作ったジュースだったら、うんと新鮮だし、栄養だってたっぷりだよ?
オレンジジュースなら搾ったばかりで、野菜ジュースもミキサーで作ったばかりなんだし…。
学校の食堂で買えるジュースより、ずっと健康にいいと思うよ。食堂のジュースは、工場とかで作ったジュースをコップに入れてるだけなんだから。
買ったジュースを詰めるにしたって、そっちはそっちで、お小遣いが減らなくなるもんね?
ジュースを買うお金、払わなくてもいいんだもの。家から水筒で持って行ったら。
そうでしょ、ハーレイ?
ジュースの種類が問題だって言うんだったら、決まりを作ればいいじゃない。こういうジュースだったらいい、ってメーカーを指定するだとか…。
その方法なら、市販のジュースも絞り込める。学校の食堂や自動販売機で買えるジュースと同じものだけ、などと指定してやれば。
家で作るジュースは栄養豊富に決まっているから、問題になるのはきっと市販のジュース。味は良くても栄養のバランスが良くないものとか、学校としては勧められないものも多いだろう。
てっきりそうだと思ったけれども、ハーレイは「違うな」と苦笑い。
「下の学校でジュースが禁止な理由は、栄養バランスなんかも絡んでいるんだが…」
お前が通っている学校だと、ちょいと事情が変わってくる。そう単純ではないってな。
栄養面とか、小遣いのことを考えるんなら、ジュースの持ち込みも許してやれるんだが…。
通ってる生徒の顔ぶれってヤツを思ってみろ。一番上の学年だったら、十八歳の子だっている。誕生日が四月のヤツらなんかは、もう早々に十八歳だな、一番上になった途端に。
あの学年が卒業したら、上の学校に行くわけで…。
上の学校に行けば、ちょっぴり大人の仲間入りってことになるだろう?
二十歳になれば大人だからな、とハーレイが言う、今の時代の「成人」の年。二十歳になったら立派な大人で、酒を飲むことも許される。
上の学校には二十歳になった先輩も大勢通っている上、二年も経てば自分たちも二十歳を迎えて大人。そういう学校に入れる時を、間近に控えているものだから…。
一番上の学年の生徒たちの場合は、大人になる日をちょっと先取り、アルコール入りのジュースなんかを飲んでみたくもなるという。
アルコールと言っても、ほんの少しだけ。酔っぱらうほどでもないジュース。
「学校としては、そういうジュースを、水筒に入れて持ってこられちゃ困るしな?」
見た目だけだと、普通のジュースとまるで区別がつかないから…。
元のジュースの入れ物があれば、直ぐに酒だと分かるんだがなあ…。水筒に詰められたら、もう分からん。「ちょっと寄越せ」と、取り上げて味見しない限りは。
だから禁止だ、とハーレイは怖い顔をした。「学校で酒は論外だぞ」と。
「お酒って…。水筒にジュースを入れちゃ駄目なの、そんな理由なの?」
絶対に駄目、って言っておいたら、誰もしないと思うけど…。お酒は二十歳からだもの。
誰でもきちんと知ってることだし、学校になんか持ってこないよ。
ジュースがあったらそれで充分、お酒まで飲もうとしなくたってね。
第一、学校は勉強の場所、と瞳を瞬かせた。其処に酒など持ち込まなくても、飲みたいのならば家でコッソリ飲めばいい、と。
「そう思わない? 家なら、先生にバレて叱られたりもしないし…」
好きな時間に部屋でコッソリ、それが安全。…ぼくは飲みたいとは思わないけれど。
「お前だったら、そうなるのかもしれないが…。馬鹿にしちゃいかんぞ、誘惑ってヤツを」
あと一年で上の学校なんだ、と思い始めたら、飲んでみたくなるヤツらも出てくる。
どうせだったら一人で飲むより、友達と飲みたくなるモンだ。水筒に入れて回し飲みとか、同じ日に揃って持ってくるとか。
どんな味なのか、ワクワクしながら飲むアルコールは格別だってな。…学校って場所で。
先生にバレたら大変なんだが、と話すハーレイは「悪ガキ」のような顔にも見える。今は教師で叱り付ける方の立場にいるのに、それとは逆の立場の悪ガキ。
「…ハーレイ、経験ありそうだね」
学校に水筒を持って出掛けて、中身はお酒が混じったジュース。…下の学校でジュースを入れて行っていたなら、次の学校でも似たようなことをやりそうだけど…?
そういう経験は一度も無いの、と興味津々。「ハーレイなら、やっていそうだよ」と。
「無いとは言わんな、悪ガキだしな?」
駄目だと言われりゃ、余計に挑戦してみたくなる。規則を破るのもスリル満点というヤツで…。
だが、勘違いをしてくれるなよ?
悪さをするのも大好きだったが、やるべきことはきちんとやってた。勉強も、もちろん宿題も。
そういや、水筒にジュースってか…。
同じ理由で禁止だったな、あの船でも。
「船?」
何処の船なの、学校から乗りに行くような船…?
ぼくの学校では行ってないけど、学校によっては色々あるよね。船に乗り込んで、湖を回って、水質検査の体験をしたりする学校とか…。帆船で沖に出て行くだとか。
「体験学習用の船だな、お前が言うのは」
その手の船でも、もちろん水筒にジュースを詰めるのは禁止だろう。
乗っていく子供が下の学校の子でも、お前と同じ学校でも。しかしだな…。
俺が言う船はそれじゃない、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。「シャングリラだ」と。
「シャングリラと言えば、前の俺たちが乗ってた船だ。…白い鯨だ」
覚えていないか、あの船の決まり。水筒とジュースで何かを思い出さないか…?
「えーっと…?」
シャングリラだよね、白い鯨の方の…。あの船で水筒とジュースって…?
ジュースは食堂に行けば飲めたよ、とキョトンとした。白い鯨に改造する前の船の頃でも、何か飲むなら食堂で注文。「これが飲みたい」と係に言えば、出て来た色々な種類の飲み物。
「基本は食堂、そうでなければ休憩室だな。飲み物が欲しくなった時には」
休憩室にもジュースなんかは揃っていたから、自分で好きに選んで飲めば良かったんだが…。
それが出来ない時もあったろ、休憩室とか食堂に出掛ける時間が無い時。届けて貰うという手もあったが、もっと手軽に飲み物を持って行きたいのなら…。
水筒だったぞ、と挙がった容器の名前。
持ち場に飲み物を運んで行きたい時には、休憩室か食堂で詰めてゆくのがシャングリラの規則。水筒の中身を詰める時には、必ず其処で。…自分の部屋で詰めるのではなくて。
「そうだっけ…!」
水筒、そういう決まりだっけね、白い鯨になった後には。
それまでは、水筒を持って行かなきゃいけないくらいに、大きな船じゃなかったから…。仕事の途中で喉が乾いたら、ちょっと戻って休憩室とか、食堂だとか…。
其処で飲めたよ、と今も覚えている飲み物。改造前の船の頃には、水筒の出番は殆ど無かった。忙しい時に一部の仲間が使っただけで、出番が少ないなら決まりも要らない。
ところが、改造した後の船は、改造前とは比較にならない巨大な船。食堂や休憩室はあっても、其処まで出掛ける時間が惜しい、と思う者やら、持ち場を離れられない者やら。
お蔭で水筒が脚光を浴びた。
持ち場を離れず、食事する者も少なくなかったから。メンテナンスなどに入った時は。
それに機関部など、高温になる区画も増えた。船が大きくなった分だけ。
食堂や休憩室に足を運ばず、何処ででも水分を摂れる水筒。飲みたい時に蓋を開ければ、欲しい量だけ飲むことが出来る。紅茶だろうがコーヒーだろうが、ジュースだろうが。
けれど、水筒には決まりがあった。白いシャングリラだけのための規則が。
水筒を持って出掛けてゆくなら、自分の部屋では詰められない中身。ジュースにしても、紅茶やコーヒーにしても。
中身は必ず、食堂や休憩室で詰めてゆくこと。普通の飲み物を入れる代わりに、仕事中には禁止されている酒を詰められたら大変だから。
合成の酒しか無かった船でも、酒は酒。飲みたい仲間は少なくないし、水筒という便利な容器が出来れば、持ち運びたい者も現れかねない。「仕事中にも一杯やろう」と。
「俺が思うに、今も昔も変わっちゃいないな、其処の所は」
水筒にジュースを入れちゃいかん、と言っておかないと、アルコール入りのジュースを持ち込む生徒が出ちまう学校だとか…。
中身を詰めるなら食堂と休憩室にしろ、と規則を作って決めておかないと、自分の持ち場で酒を飲みかねないヤツらが乗ってた船だとか。
ずいぶん時が流れちまって、地球がすっかり青くなっても、水筒の中身は変わらないらしい。
決まりが無ければ、ろくでもないことを考え付くヤツらがいるってこった。
学校だろうが、白い鯨だろうが…、とハーレイは懐かしそうな顔。白いシャングリラが、今でも見えているかのように。
「シャングリラの水筒、そうだったね…。ジュースじゃなくて、お酒だったけど」
お酒を詰めて仕事に行っちゃう仲間が出たら、大変だから…。中身を詰められる場所が決まっていて、自分の部屋からは詰めて行けない仕組み。必ず食堂か休憩室で、って。
あんな決まりを作らなくても、前のぼくなら、お酒なんかは詰めないけれど…。
水筒を持って何処かに行くなら、中身はジュースか紅茶だけれど…。
ぼくはコーヒーも苦手だから、と顔を顰めた。「お酒も駄目だけど、コーヒーも駄目」と。
「お前の場合は、酒を飲んだら酔っ払っちまっていたからなあ…」
ほんのちょっぴり舐めただけでも、真っ赤な顔になっちまうくらいに酒に弱くて。
あれじゃ水筒に酒を入れたら、船の何処かで行き倒れだな。
飲んだら倒れて眠っちまって、俺たちが探しに行く羽目になるんだ。行方不明のソルジャーを。
眠っていたんじゃ、思念波だって返って来ないし、さぞかし苦労したろうさ。探し出すまでに。
お前はそのくらいに酒が駄目だったし、水筒に酒を入れようとも思わなかっただろうが…。
酒好きだった、前の俺なんかになるとだな…。
欲しいと思うこともあった、と語るハーレイ。「水筒にコッソリ詰めてでもな」と。
ブリッジでの勤務が長く続いた日ともなったら、帰り際には一杯やりたい気分だった、と。
「ゼルやブラウと「お疲れ様」と飲むってわけだ」
あの二人もいける口だったしなあ、部屋に戻る前に、ちょいと飲みたいじゃないか。
誰かの部屋へ飲みに行くんじゃ、余計な時間がかかっちまうし…。軽く一杯、一口だけな。
そういう酒が欲しいじゃないか、と今のハーレイは言うのだけれど。
「でも…。お酒なんかは飲んでないでしょ?」
前のハーレイも、ゼルも、ブラウも。…誰かの部屋で飲んではいたって、ブリッジなんかじゃ。
「それがだな…」
やはり大きな声では言えんが、とハーレイがクッと漏らした笑い。教師になった今のハーレイの悪ガキ時代と同じくらいに、大きな声では言えないこと。
前のハーレイが生きた時代に、白いシャングリラのブリッジで起きていた出来事。明らかに遅くなりそうな日には…。
「ゼルがお酒を持ってたの!?」
部屋から持って来てたって言うの、知らん顔してブリッジまで…?
水筒の中身を詰めるんだったら、休憩室か食堂で、って決まっていたのに、それを破って…?
「そうなるな。…決まりは決まりで、ゼルは破っていたことになる」
もちろん百も承知の上で、マントの下にコッソリ隠して持って来ていたな。
酒専用の水筒と言うか、ちょいとレトロなアイテムと言うか…。
ゼルのお手製だぞ、こういうので…。スキットルという名前なんだが。
携帯用の酒の容器だ、歴史はけっこう長くてだな…。
尻ポケットに突っ込んでおくのに都合のいい形に出来てるんだ、とハーレイが両手で示した形。
「こんな厚みで、こう曲がってて…」と教えて貰ったスキットル。
水筒を平たい形に潰して湾曲させたら、それに似た感じになるのだろうか。真鍮で出来ていたという、ゼルお手製のスキットルの形。
見たような気がしないでもない。遠く遥かな時の彼方で、白いシャングリラで。
ハーレイの仕事はまだ終わらないかと、青の間から思念でブリッジを探った時に。
そのスキットルを、マントの下から取り出すゼルを。
遠い記憶を手繰り寄せてみれば、やはり見ていたスキットル。「変わった形の水筒だ」と思って眺めていたのだけれども、注目したのは形だけ。「ゼルの趣味かな?」と。
水筒だけに、中身はゼルの好みのジュースかコーヒーなどだと、前の自分は信じていたのに…。
「あれって、中身はお酒だったの!?」
おまけに今のハーレイの話じゃ、水筒そのものがお酒専用…。
SD体制が始まるよりも、ずっと昔の時代からあったのがスキットルで…。ゼル、そんなものを作っていたんだ…。ブリッジにお酒を持ち込むために…。
「雰囲気ってヤツが大切なんじゃ、とゼルは何度も言ってたぞ」
昔の地球の船乗りたちも、スキットルに酒を入れていたんだ、と。携帯用だから、船乗りだって持っていただろう。…人間が地球しか知らなかったような時代から。
船を操りながら一杯やるならコレに限る、と作って来たのがスキットルだ。
もっとも、ゼルがスキットルを持っていたのは、俺とブラウとゼルだけの秘密だったがな。
エラは知らんぞ、そういうものがあったことさえ。
ゼルのマントの下まで調べちゃいないからな、とハーレイは軽く肩を竦めた。「とても言えん」などと、シャングリラで一番うるさかったエラの名前を挙げて。
「当然じゃない。ブリッジにお酒を持ち込むなんて…。お酒専用の水筒だなんて」
バレたら怒るよ、エラだったら。…眉を吊り上げて、凄い勢いで。
普通の水筒を持って行くのも、全部禁止になっちゃいそう…。飲み物を飲むなら食堂に行くか、休憩室のどちらかで、って決まりが出来て。
エラならきっとそうするよ、と光景が目に浮かぶよう。「今日から水筒は禁止です!」と厳しい顔で宣言するエラ。皆が集まる食堂か何処かで、仁王立ちして。
「お前だって、そう思うだろ? エラは怖いと」
俺もゼルたちも、そいつは充分、分かっていたさ。だからだな…。
バレないように気を付けてたぞ、と前のハーレイたちは用心していたらしい。ゼルがコッソリと持ち込んでいたスキットル。それがバレたら、水筒が禁止になりかねない。シャングリラ中で。
そうならないよう、エラがブリッジから引き揚げない日は、飲めなかった酒。
一杯やりたい気分になっても、どれほど疲れた日であっても。
エラが「お先に」と姿を消してくれたら、「お疲れ様」と回し飲み。スキットルを出して。
前のハーレイたちが飲んでいた酒。白いシャングリラのブリッジで。
ゼルがマントの下に隠したスキットルを出したら、蓋を開けて、順に回していって。
「回し飲みって…。いいんだ、それで…?」
キャプテンと機関長と航海長なのに、ブリッジでお酒…。専用の水筒まで出して…。
そんなのでいいわけ、他のブリッジクルーがいても…?
一番怖いエラにバレなきゃ、水筒の中身がお酒になっちゃってても…?
みんなに示しがつかないんじゃあ…、と心配になった、前のハーレイたちがエラに内緒でやっていたこと。水筒の中に酒を入れて持ち込み、ブリッジで順に回し飲み。
いくら仕事が終わった後でも、ブリッジで酒。しかも水筒の中に仕込んで、船の決まりを破っていたのがゼルなのだから。
「ブリッジのヤツらか? そっちは気付いていないと思うぞ、スキットルなんて」
コアブリッジでは飲んでないからな。…俺たちが飲んでいたのは出口だ、出口。
あそこだったら誰の目にも入るわけがない、と前のハーレイたちは酒を飲む場所も選んでいた。船の航行の中心になるのが、ハーレイたちの席があった中央。コアブリッジと呼ばれた船の心臓。
コアブリッジを囲むようにして、他のクルーたちが配置されていた。操舵を担当する者も。
其処を離れれば、常駐する者は誰もいなかったブリッジという所。白いシャングリラで一番広い公園、その端に浮かぶ「方舟」の名を持つブリッジ自体は、無人の場所が多かった。
仕事が終わればコアブリッジを出て、もうアルコールの匂いも上までは届かない出口の近くで、コッソリと開けるスキットル。…ゼルがマントの下から出して。
それが前のハーレイたちの楽しみ。遅くまで仕事をしていた時には、ブリッジで酒。
「…ぼくにも今日まで内緒だったんだね?」
エラに内緒にしておいたのは、正しいことだと思うけど…。
バレてしまったら、シャングリラ中から水筒が無くなりそうだけど…。でも、前のぼくは…。
其処までうるさくなかったのに、と面白くない。「ぼくにも内緒だっただなんて」と。
「お前が気付かなかっただけだろ、俺もわざわざ話しちゃいないが…」
隠しておこうとも思っちゃいない。だから、お前が見ようと思えば見られた筈だぞ、水筒の中。
実は酒だということくらい…、と言われれば、そんな気もしてきた。
前のハーレイは「見るな」と止めなかったし、ゼルもブラウも何も気にしていなかった。
「ソルジャーに見られているかもしれない」とは、二人とも言わなかったのだから。
ゼルとブラウと、前のハーレイ。ブリッジで酒を飲んでいた三人。
彼らが恐れたのはエラの視線で、ソルジャー・ブルーの目ではなかった。ソルジャー・ブルーに覗き見されたら、どんな悪事も筒抜けなのに。サイオンの目は壁を通すし、サイオンの耳はどんな音でも聞き逃さない。…見聞きしようとしさえしたなら。
(前のぼくの方が、エラよりもずっと簡単に…)
ゼルたちの秘密を知ることが出来た。マントの下のスキットルとか、その中身だとか。
わざわざブリッジまで出向かなくても、青の間から覗くだけでいい。ゼルがマントの下に隠したスキットルを見付け出したら、中身の方は…。
(ハーレイたちの会話を聞いてみるとか、ゼルの部屋を監視してみるだとか…)
そうすれば分かったことだろう。「あの水筒に酒を詰めている」と。
(前のぼく、なんで気付かなかったわけ…?)
ハーレイたちがブリッジでお酒を飲んでいたことに…、と手繰ってみた記憶。前の自分は、どう思ったのか。ゼルたちの怪しい行動を。
(…スキットルっていう名前は知らなかったけど…)
妙な形をした水筒だったら、知っていた。普通の水筒を押し潰したような、平たい水筒。ゼルがマントの下から出すのも、何度もサイオンで見ていたと思う。
けれども、ゼルの趣味だとばかり考えていた。あの水筒の形も、マントの下に隠していたのも。
仕事の途中に飲むのだったら、ブリッジにだって飲み物はある。休憩室から運ぶ時やら、食堂に出前を頼む時やら。多忙な時には、食事もブリッジで摂っていたほど。
(そんな場所だったし、普通の水筒だと、仕事気分が抜けないから、って…)
ゼルが特別に作った水筒、それがスキットルだと信じていた。スキットルの名は知らないで。
マントの下に隠しているのも、仕事とプライベートな時間の切り替えのため。仕事が終わったら出して飲もう、というゼルの考え方だろう、と前の自分は思い込んだ。
(それで話が繋がっちゃうから…)
疑いさえもしなかった、スキットルの中身。
あの水筒の中身は、ゼルが食堂か休憩室で詰めて貰ったものだ、と。
まさか部屋から詰めて来たとは思いもしないし、酒だと気付く筈もない。仕事の後で、ハーレイたちが順に回して飲んでいたって。…その場所にエラの姿が無いのが、常だって。
もう少し気を付けさえしたなら、きっと分かっていたのだろう。スキットルの中身が何なのか。白いシャングリラを預かるキャプテン・ハーレイが、ゼルたちと何を飲んでいたのか。
「…前のぼく、ちょっぴり間抜けだったかも…」
スキットルのことは知っていたのに、変な形の水筒だとしか思ってなくて…。
水筒なんだし、中身はジュースかコーヒーなんだ、って思い込んでて、信じたままで…。
ジュースだったら、仕事の後で回し飲みなんかしないよね…。コーヒーとかでも。
部屋に帰ったらゆっくり飲めるし、休憩室とか食堂に寄ってもいいんだから。
あんな所で飲まなくたって…、と溜息をついた、前の自分の間抜けっぷり。何度も現場を見たというのに、酒だと見抜けなかったのだから。
「そのようだな。…キャプテンが酒を飲んでたのになあ、ブリッジで」
航海長も機関長も一緒に、出口とはいえ、ブリッジで酒だ。…しかも禁止されてる水筒の中身。絶対に酒を入れちゃならん、と決まりも作っていたわけで…。
思い込みとは酷いもんだな、と笑われた。「お前は酒が苦手だったが、間抜けすぎるぞ」と。
「うーん…。ホントに間抜けで、ソルジャー失格…」
ハーレイたちを叱るつもりはないけど、気付かないのは、あんまりだしね。
船のみんなに気を配っているつもりでいたって、お酒にも気付かないようじゃ、駄目だってば。
でも…。前のハーレイたちでも水筒にお酒だったら、今の学校の生徒たち…。
「持って来そうだろ、アルコール入りのジュースってヤツを」
水筒にジュースを入れて来るのを許可した時には、ジュースみたいなふりをして。
背伸びしてみたい年頃なんだし、好奇心の方も一杯だ。「酒というのは、どんな味か」と。
今の俺でも、ちゃんと覚えがあるんだぞ?
悪ガキとはいえ、今は教師になっているような俺でもな。…他のヤツらは言わずもがなだ。
「ジュースは駄目だ」と禁止してても、コッソリと入れて持ってくるのが生徒ってヤツで…。
前の俺たちの時代みたいに、毎日が命懸けの日々じゃないから、余計にな。
決まりを破って、アルコール入りのジュースを飲みたくなるってモンだ、と聞かされた話。今のハーレイの体験談も交えて、水筒とジュースの関係について。
「そうみたい…」
持って来たくもなっちゃうね、それ…。水筒にジュースを入れていいなら。
そういう理由で水筒にジュースは禁止なのか、と納得した。
前のハーレイたちでさえもが、ブリッジでコッソリと飲んでいた酒。ゼルお手製のスキットルという酒専用の水筒に入れて、仕事の後に。
あの船でも水筒に酒だったならば、今の時代の学校だったら、もう充分にありそうなこと。上の学校への進学を控えた最上級生たちが、水筒に酒を忍ばせること。
「どうだ、分かったか?」
水筒にジュースを入れて来るのが、学校で禁止されてる理由。
下の学校だと事情が違うが、ジュースが買える学校に上がっても、駄目な理由は酒なんだ。
前の俺たちみたいな輩は、何処にでもいる。…時代がすっかり変わっちまっても。
それと知らずに、今の俺もやってしまったようだが…、とハーレイは可笑しそうな顔。ブリッジならぬ学校へ酒を持って行ったのが、今のハーレイ。アルコール入りのジュースを水筒に入れて。
「分かったけど…。前のハーレイたちがやってたことは…」
どうなるって言うの、シャングリラの決まりを破ってたんだよ?
前のぼくは気付いていなかったんだし、どうすることも出来ないけれど…。エラが気付いてたら大変なんだよ、ブリッジの中でお酒だなんて。
シャングリラ中の水筒が禁止になっちゃいそうだし、ハーレイたちも凄く叱られそう…。
「時効だ、時効。…何年経ったと思ってるんだ?」
地球がすっかり青くなるほど、とんでもない時が流れた後だぞ。とっくに時効というヤツだ。
それに、酒のせいでヘマをやってはいないしな。俺も、ブラウも、もちろんゼルも。
シャングリラは立派に地球まで行った、と言われたらグウの音も出ない。仕事の後にはコッソリ酒でも、ゼルの水筒の中身が酒でも、前のハーレイたちは役目を果たしたのだから。
それにハーレイは、恋人だった前の自分をメギドで失くしてしまった後は…。
(独りぼっちで辛かったんだし、お酒くらいは…)
大目に見ないといけないだろう。
悲しくて辛くて、眠れない夜も幾つもあったに違いない。それでも夜が明けたら仕事で、制服を着込んでブリッジに立った。シャングリラの指揮を執るために。
夜遅くまで仕事をしたなら、「お疲れ様」とゼルたちと一杯やって別れて、また独りぼっち。
一人きりの部屋に帰る前には、酒くらい飲んでいたっていい。水筒の中に隠した酒でも。
そう思ったから、ハーレイの瞳を真っ直ぐ見詰めて謝った。
「ごめんね、ハーレイ…」
「なんだ、どうした?」
いきなり何を謝ってるんだ、お前、なんにもしてないだろうが。
それともアレか、水筒にジュースを入れていたのか、コッソリと…?
酒なんか入れて行く筈がないし、学校には無いお気に入りのジュース、持ち込んだのか…?
何のジュースだ、とハーレイが勘違いしたものだから、「前のぼくだよ」と俯いた。
「…前のぼく、いなくなっちゃって…。ハーレイを独りぼっちにしちゃって…」
ジョミーを支えてあげてくれ、って言わなかったら、ハーレイの好きに出来たのに…。
前のぼくがハーレイを縛ってしまって、シャングリラを地球まで運ばせちゃって…。
お酒くらい無いといられないよね、独りぼっちで残されちゃったら。ブリッジの仕事が終わった後も、ハーレイは独りぼっちだし…。ゼルのお酒を分けて貰って、息抜きしなくちゃ…。
「馬鹿にするなよ、キャプテン・ハーレイを。…あの時は酒に逃げてはいない」
どんなに辛い毎日だろうが、ブリッジでは普段通りの俺だ。顔にも出しちゃいなかった。
ゼルが「どうじゃ」とスキットルを出しても、「お疲れ様」の一杯程度で終わりだったな。
もっと飲もうとしてはいないぞ、ただの一度も。勝ち戦の時は、ゼルもブラウも御機嫌になって「もうちょっと」などと、二人で飲んでいたもんだが…。俺にも「もっと飲め」とか言って。
しかしだ、前のお前に頼まれたことを果たすためには、俺がきちんと頑張らないと。
勝ち戦で祝勝気分の時でも、コッソリ水筒に隠してあるような酒は、一杯分で充分なんだ。
そして前の俺が地球まで我慢した分、今では酒も飲み放題で…。
青い地球の水で仕込んだ酒だぞ、ゼルが持ってた合成の酒の何万倍も美味いってな。
お前も帰って来てくれたんだし、もう最高の気分で飲める。お前と行きたかった地球の酒をだ。
ただなあ…。その最高に美味いと思っている酒…。
お前と飲めないのが残念だがな、とハーレイが言うものだから。本当に残念そうな顔だから…。
(お酒、やっぱり…)
今度のぼくは飲めるといいな、と心から思う。
前の自分が酒が苦手で、飲むと悪酔いしていたけれど。…ハーレイと飲めはしなかったけれど。
けれど、今度は飲めたらいい。今のハーレイも気に入りの酒を、いつか二人で。
(今のぼくだと、学校に本物のジュースを持って行くのがせいぜいで…)
アルコール入りのジュースなどは絶対に無理だけれども、もっと大きくなったなら。
学校に酒を持っては行かないけれども、前の自分と同じ背丈に育った時には、酒が飲める体質になれたらいいと思ってしまう。
ハーレイと暮らせるようになったら、二人で飲んでみたいから。
「お前と飲めないのが残念だがな」と、ハーレイを寂しそうな顔にさせたくないから。
乾杯をしたり、「お疲れ様」と、ハーレイのグラスに注いだりして、楽しむ酒。
そんな時間が持てたらいい。今も昔も、酒が大好きなハーレイのために。
きっと幸せな時間になるから、ほんの一杯でも酒が飲めたら嬉しい。
「美味しいね」と微笑み交わして、キスを交わして。
青い地球の水で仕込んだ酒を酌み交わしながら、二人きりの時をゆっくり過ごせたならば…。
水筒と中身・了
※白いシャングリラで決められていた、水筒の中身。詰める場所まで指定していたほど。
なのに、ブリッジでコッソリ飲まれていた酒。前のハーレイとゼルとブラウだけの、息抜き。
先月も書いていた通り、ハレブル別館の月2更新は、今月で最後です。
来年の1月からは月に1度の更新、第3月曜のみになります。よろしくお願いします。
(んーと…)
たまにはこっちに行ってみよう、とブルーが曲がった道。学校からの帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
いつもの道とは違うけれども、そちらに行っても家には帰れる。少し遠回りになるけれど。
(ハーレイが仕事の帰りに来てくれるとしても、まだ早いから…)
時間はたっぷり余裕がある筈。回り道してから家に帰って、のんびりおやつを食べていたって。
だから安心、家の近くを散歩しようという気分。天気が良くて綺麗な青空、心地良い気温。
(こんな日は散歩したくもなるよね?)
帰るついでに、と歩き始めた普段とはまるで違う道。知らない場所とは言わないけれど、滅多に通らない道を歩いてゆくから、何を見たって新鮮な感じ。
あちこちキョロキョロ眺め回して、目に付いた花を観察したり、出て来た犬に手を振ったり。
(ホントに、いつもと全然違う…)
道沿いの家も、庭の木なども。面白いから、もっと色々見たくなる。「次はこっち」と行きたい方へと角を曲がって、どんどん家から離れていって。
下の学校に通っていた頃は、この辺りでもよく遊んだ。友達の家まで行く途中だとか、公園から何処かへ行く時などに。
(犬と遊んだこともあったし…)
おやつを貰ったこともある。何人かで賑やかに歩いていたら、「丁度良かった」と、焼き立てのクッキーをくれた奥さん。「沢山作ったから、持って行ってね」と。
(他にも色々…)
思い出が一杯、と歩いてゆく道。転んで泣いてしまった場所やら、友達の家に続く道やら。
(こっちに行ったら…)
着くんだけどな、と友達の顔が浮かぶけれども、出掛けて行ったら、きっと帰して貰えない。
「上がって行けよ」と引き止められて、制服のままで家に上がって、おやつを食べて、遊んだりしてアッと言う間に時間が経って…。
(家に帰ったら、ママが「ハーレイ先生がいらしてたわよ」って…)
そのハーレイは、とっくに帰ってしまった後。「なんだ、留守か」と、ガレージに停めておいた車の方へと戻って行って。エンジンをかけて、そのまま自分の家に向かって。
それは困るから、友達の家の方には行かない。途中でバッタリ出会ったとしたら、「来いよ」と誘われてしまうから。誘われたならば断われなくて、家に上がって時間が経って…。
楽しく遊んで家に帰ったら、「帰った後」かもしれないハーレイ。そんなのは困る。
(君子危うきに近寄らず…)
そう言うものね、と別の方へと角を曲がって、家に繋がる道に入った。遠回りしたから、バス停から直接家に帰るのとは逆の方向。そっちから歩いて家へと向かう。
(反対側から歩いて行くと…)
家の見え方も変わっちゃうよ、と馴染んだ我が家を目指して歩いて…。
(ちょっぴりだったけど、立派に散歩!)
帰りに沢山歩いちゃった、と門扉を開けて庭に入った。いつもの何倍歩いただろう、と表の道を振り返りながら。二倍くらいでは、きっと足りない。三倍、もっと歩いただろうか?
制服を脱いで、ダイニングでおやつを食べる間も、庭を眺めて上機嫌。
「あっちの方から帰って来たよ」と、帰りに歩いた方の生垣などを眺めて。
(いつもは真っ直ぐ帰って来るけど、今日は散歩をしてたから…)
健康にもいいことだろう。ほんの少しの距離にしたって、普段よりも多めに歩いたのだから。
ハーレイのようにジョギングするのは無理でも、散歩も身体にいい影響を与える筈。足を動かす筋肉を使って、前へ前へと進んでゆくのだから。
(散歩も運動の内だよね?)
身体に負担をかけない運動。自分のように弱い身体でも、無理なく出来る運動が散歩。運動した分、背が伸びるといいな、と考えたりも。
(ぼくの背、ちっとも伸びてくれなくて…)
チビのまんま、と零れる溜息。
前の自分と同じ背丈に育たない限り、ハーレイはキスをしてくれない。恋人同士の唇へのキスは貰えないままで、キスは額と頬にだけ。
それが悔しくて、とても悲しくて、早く大きくなりたいのに…。
(一ミリも伸びてくれないんだよ…!)
ハーレイと再会した五月の三日から、まるで伸びてはくれない背丈。百五十センチのままで春も夏も過ぎて、制服も小さくならなくて…。
いつまでもチビでいたくはない。少しでも早く背を伸ばしたい。あと二十センチ。
(今日の散歩で、背が伸びるかな?)
伸びるといいな、と考えながら戻った二階の自分の部屋。空になったカップやケーキのお皿を、キッチンの母に返してから。
(帰りに余計に歩いた分だけ…)
運動したよ、と勉強机の前に座って、歩いた道を思い出す。新鮮に思えた帰り道の散歩。景色も道順も、何もかもが。
あれだけ歩いて運動をして、家に帰ったらおやつも食べた。きっと身体の栄養になるし、背丈も伸びてくれるかもしれない。散歩という名の軽い運動と、おやつの分だけ。
(散歩は身体にいいんだものね)
きちんと歩けば育つんだよ、と思った所で気が付いた。そういう言葉を前に聞いたよ、と。
(ブラウとエラ…)
遠く遥かな時の彼方で、まだ若かった彼女たちに言われた。「散歩は身体にいいのだから」と。前の自分が、今の自分と変わらない姿のチビだった時に。
アルタミラの檻で長く暮らした前の自分は、心も身体も成長を止めてしまっていた。本当の年はブラウたちよりも遥かに上で、子供などではなかったのに。
(だけど、育っても何もいいことは無いし…)
人体実験だけの日々では、未来も希望も見えては来ない。自分でも気付いていなかったけれど、深い絶望に覆われた心は、「育ってゆく」ことを放棄した。身体を「育ててゆく」ことも。
外見の年齢を止めることが出来るミュウの特性、それが悪い方へと働いた結果。成長するより、「今のままで」と考えた心。
(十四歳の誕生日が来たから、成人検査で…)
大人の社会へ旅立つのだ、と前の自分も考えた筈。順調に育って来たからこその成人検査。
けれども、其処で失くした「未来」。成人検査をパスする代わりに、ミュウと判断された自分。
(…育たなかったら、成人検査を受けることもなくて…)
地獄のような日々が始まることも無かったわけだし、「育つ」ことを捨てもするだろう。一人で檻に閉じ込められて、人体実験ばかりの日々では。
来る日も来る日も苦しみばかりで、未来など見えもしない中では、育つだけ無駄。
前の自分は育つことをやめて、心も育ちはしなかった。「脱出しよう」とも思わないまま、檻の中に蹲っていたというだけ。研究施設で誰よりも長く暮らしていたのに、子供のままで。
ブラウやエラや、前のハーレイたちは、成長を止めはしなかったのに。
成人検査を通過できずに檻に入れられても、酷い実験を繰り返されても、彼らは「諦める」道を選ばなかった。「いつか必ず此処を出てやる」と、見えもしない「未来」を見詰め続けて。
彼らはそうして成長したから、前の自分と出会った時には「子供がいる」と思ったらしい。成人検査を受けて間もない、十四歳になったばかりの子供なのだ、と。
(あの船の中で、ぼくだけがチビで…)
子供として可愛がられる間に、本当のことが判明した。「心も身体も子供だけれども、実年齢は船の誰よりも上だ」ということが。
そうなった理由に、前のハーレイたちは直ぐに気付いて、前の自分を育てることに力を入れた。これからは未来も希望もあるから、「大きく育ってゆかないと」と。
(育つためには、運動しなきゃ、って…)
ブラウとエラに、船の中を散歩に連れてゆかれた。「運動するのが一番だよ」と、選んで貰った運動が「散歩」。今と同じに弱い身体だから、無理なく運動するなら「散歩」がいいだろうと。
白い鯨になる前の船は、「シャングリラ」と言っても名前だけの楽園。
公園も無ければ、緑さえも無かったような船。散歩に出掛けてゆくと言っても、船の中を歩いてゆくだけのことで、通路を辿って進むだけ。「次はこっち」と曲がったりして。
ずいぶん味気ない散歩だけれども、あれも散歩には違いなかった。幾つものフロアを順に回って歩いた時やら、船で一番長い通路を何度も往復した時やら。
(ブラウたちと散歩をしてる間に、育ち始めて…)
再び成長を始めた身体。少しずつ背が伸び、チビの子供から、いつしか大人の姿へと。
散歩のお蔭で大きくなれたし、今日の散歩もきっと効果があるのだろう、と思ったけれど。背が伸びるかも、と夢を描いたけれど…。
(そんなに沢山、歩いてないよ…)
今日のぼくは、と散歩した距離を考えてみたら分かったこと。前の自分が散歩した距離、それに比べれば僅かなものだ、と。
白い鯨ではなかった頃でも、充分に大きかった船。大勢の仲間が暮らしていた船。
あの頃にしていた散歩の分を、家の近くで歩くなら…。
(…公園の方まで行かなくちゃ駄目?)
其処まで行ったら遠すぎるから、と行かずに帰って来た公園。夏休みの間は、朝に体操をやっているほどだから、公園としては大きい部類。大勢の人が一度に体操出来る広さがある公園。
その辺りまで行って来ないと足りないらしい、と気付いた散歩の距離。軽い運動と言える散歩をするのだったら、今日の散歩は充分ではない。もっと遠くまで行かないと。
けれど、いくら近所で散歩と言っても、一人でトコトコ歩いてゆくのは…。
(きっと途中で飽きてしまうし、ハーレイだって…)
前に「散歩に行こう」と誘ったら、「それはデートだ」と断られた。恋人同士で散歩するなら、デートということになるらしい。家の近所を歩くだけでも。
そうやって断られてしまわなければ、一緒に歩いて欲しかったのに。
今日は行かずに帰った公園、そっちの方まで行くだとか。もっと遠くの川の方まで、休みながら歩いてゆくだとか。…川に着いたら河原で休憩、帰りも散歩で、歩いて家まで。
前の自分がしていた散歩は、川までの散歩には敵わなくても、公園までなら充分にあった。毎日ブラウやエラと歩いて、大きく育っていったのだから…。
(今のぼくって、運動不足…)
明らかに足りていない運動。前の自分がチビだった頃に比べたら。
それで自分は、いくら経っても育たないのに違いない。運動の量が足りないせいで、チビのまま伸びてくれない背丈。
(これじゃ大きくなれないよ…)
そうは思っても、一人で散歩はつまらない。歩く距離が長くなればなるほど。
おまけに、一人で歩く間に、ウッカリ友達に出会ったら…。
(遊んで行けよ、って…)
そのまま家に連れて行かれて、ゲームをするとか、一緒におやつを食べるとか。友達によっては家にペットがいたりもするから、夢中で遊んでいる内に…。
(すっかり遅くなっちゃって…)
「さよなら!」と手を振って家に帰ったら、母に言われるかもしれない。ハーレイが家に来て、「ブルー君はお留守ですか」と、帰って行ってしまった、と。
散歩に出掛けて行ってそのまま、いつまで経っても家に戻らなかったのだから。
一人で散歩は、つまらない上に危険が一杯。友達と遊ぶのは楽しいけれども、ハーレイと二人で過ごせる方がずっといい。毎日のように来てくれるとは限らないから、その分、余計に。
(散歩に出掛けて、そのまま留守にしちゃうよりかは…)
ハーレイを巻き込むべきだろう。前は「駄目だ」と言われた散歩に、ハーレイも一緒に出掛けてくれるようにと、きちんと頼んで。
(デートじゃなくって、運動なんだし…)
断られないかも、という気がする。前に散歩に誘った時には、運動の話を出してはいない。あの時は散歩に行きたかっただけで、「ハーレイと二人で歩く」ことが目当て。二人並んで、いろんな話をしたりしながら。
(ただ歩きたいって言うのと、運動したいって言うのとでは…)
ずいぶん違う、と自分でも分かる。運動だったら、ハーレイは乗り気になるかもしれない。
(夏休みに公園でやってた体操…)
「行きたいんだったら、付き合うが?」と誘われたことを覚えている。毎朝、家まで迎えに来るとも言っていた。朝の体操に出掛けるのなら。
(もしも体操に行っていたなら、毎朝、公園まで二人で散歩…)
行きも帰りも二人で歩いて、公園に着いたら他の人たちも一緒に体操。「健康的だぞ」と勧めていたハーレイだし、運動のための散歩となったら、断らない可能性だって。
(頼んでみなきゃね…?)
ハーレイが来てくれた時に、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、ハーレイ…。散歩に連れて行って欲しいんだけど」
ぼくのお願い。ぼくと一緒に散歩をしてよ。この家の近くだけでいいから。
「はあ? 散歩って…」
何を言うんだ、前に断ったと思うがな?
お前と散歩に行けばデートになっちまうから、そいつは駄目だと。…デートにはまだ早いしな。
忘れたのか、とハーレイに軽く睨まれたけれど、此処で引き下がるわけにはいかない。
「デートの散歩じゃないってば! 運動だよ!」
でないと、ちっとも育たないんだよ、いつまでもチビのままなんだから…!
前のぼくは散歩のお蔭で大きく育ったんだもの、という説明から始めることにした。前の自分を育てた運動、それがブラウたちとの散歩だった、と。
「船の中の通路を歩いていたでしょ、前のハーレイが横を走って行ってたじゃない」
前のハーレイは走って運動、ぼくはブラウやエラたちと散歩。
あれのお蔭で大きくなれたよ、それまでは育っていなかったのに…。アルタミラの檻で暮らした間は、少しも育ちはしなかったのに。
エラもブラウも、ぼくに言ったよ、「運動しなきゃ」って。
運動したら身体も育つし、船の中の散歩も大切だから、って毎日のように連れてってくれて…。
前のぼくは散歩のお蔭で育ち始めて、ちゃんと大きくなれたんだってば。
でも、今のぼくは、ハーレイと会ってから少しも育たなくって…。一ミリも背が伸びなくて…。
これって、運動不足だからだよ、前と同じで。
ぼくの運動が足りていないせいで、ちっとも大きくなれないんだよ。…チビのまんまで。
だから散歩に連れて行って、と頭を下げた。「運動不足じゃなくなるように」と。
「運動不足で育たないだと? 今のお前がか?」
そいつは違うと思うがなあ…。どう考えても、運動不足だとは思わんが?
なにしろ今のお前だからな、とハーレイは至極真面目な顔。「デートは駄目だ」と切って捨てる代わりに、「運動不足ではない」と来た。
「運動不足じゃないなんて…。なんで?」
どうしてハッキリそう言えちゃうの、今のぼくのことも知ってるくせに。
ぼくは今でも身体が弱くて、ろくに運動してなくて…。
学校だってバス通学になってるくらいで、他の子みたいに歩いて通っていないのに…。
自転車で通う子だっているよ、と挙げた運動不足の一例。学校までは歩ける距離で、自転車でも軽く走ってゆける。身体さえ丈夫に出来ていたなら、普通はそう。…体力自慢の猛者ともなれば、学校まで一気に走り抜くほど。「これくらい軽い」と、ギリギリの時間に家を出て。
「それだ、それ。バス通学になってる所が大切だ」
歩いて学校に通うように、とは誰も言ったりしないだろうが。先生は大勢いるのにな?
お前はお前の身体に見合った運動をしてるってわけだ、バス停から家まで歩くってトコで。
後は学校で校舎の中を移動するとか、もうそれだけで充分なんだということだな。
体育だって、見学してない時もあるだろ、と指摘された。
見学が多い体育だけれど、体操服を着ている時だってある。身体が悲鳴を上げない程度に、他の生徒とグラウンドを駆けている時だって。
「そうだけど…。でも、途中から見学になっちゃう時も多いよ?」
サッカーの途中で抜けてしまったり、走ってる途中で座り込んだり。
無理をし過ぎたら、後で寝込んでしまうから…。それは困るし、ちゃんと用心しているもの…。
だから運動、足りていないよ。他のみんなと同じくらいに走ったりなんかは出来ないから。
それなのに、学校に行く時までバスで通っているなんて…。もっと運動しなくっちゃ…。
前のぼくみたいに散歩しないと、と頼み込んだ。「ハーレイ、一緒に散歩してよ」と。
「分かっちゃいないな、お前ってヤツは。本当に運動不足だと言うんだったら、その辺はだ…」
きちんと周りが考えるってな、出来る範囲でお前が運動するように。
散歩もそうだし、他にも軽い運動ってヤツは幾つもある。この部屋で出来るようなのも。
しかし、お前は、お医者さんにも何も言われちゃいないだろ?
「毎日これだけ歩くように」だとか、「こういう体操をするように」とかは…?
どうなんだ、と尋ねられたから、素直に答えた。「お医者さんは何も言わないよ」と。
「体育の授業も、学校に行く時も、無理しないように、って言われてるだけ…」
家でも、あんまり無理しちゃ駄目だ、って。…具合が悪くなった時には、直ぐに寝ないと…。
そのくらいかな、と考えてみる。散歩も体操も、医師からは何も言われないから。
「ほら見ろ、やっぱり運動不足じゃないってな。それだけしか言われていないってことは」
医者って仕事は、患者の健康管理ってヤツも考えないと駄目だから…。
必要だったら、運動の内容を指示されるぞ。場合によっては、そのための教室なんかの紹介も。水泳がいいと思った場合は、患者が集まる水泳教室。体操の方も同じだな。
本物の運動不足となったら、医者はそこまでするもんだ。でないと治らない病気もあるから。
運動ってヤツを馬鹿にするなよ、とハーレイは運動の大切さを説いた。運動不足が酷くなったら悪化する病気もあるらしい。そうなった時は、とにかく運動。医師の指示通りに。
「それに比べたら、お前はきちんと運動している」というのがハーレイの意見。バス通学でも、体育は見学ばかりの日々でも、運動は足りているらしい。
散歩なんかは必要ない、とも言われてしまった。「お前の運動、充分だろう?」と。
運動不足などではなくて、散歩の必要も無いらしい自分。確かに主治医には何も言われないし、両親も「運動しなさい」などとは言わない。ただの一度も。
けれども自分は育たないわけで、アルタミラの檻の中でもないのに、一ミリも背が伸びない今。幸せな日々を過ごしているのに、食事もおやつも足りているのに。
「運動不足じゃないなんて…。それじゃ、どうして背が伸びないわけ?」
前のぼくの背が伸びなかった頃は、ずっと檻の中で暮らしてて…。
ハーレイたちみたいに強くなくって、ぼくは育たなかったんだよ。大きくなっても、いいことは何も無いんだから。…ぼくに自覚は無かったけれど。
お蔭でぼくだけチビの子供で、前のハーレイたちが育ててくれて…。身体も、中身の心の方も。
でも、今のぼくは檻で暮らしていないから…。ぐんぐん育つと思わない?
それがちっとも育たないのは、運動不足で、散歩に行かないからじゃないかな…?
前のぼくは散歩をしてたんだから、と食い下がったけれど、ハーレイは笑うだけだった。
「そいつは、お前の考え違いというヤツだ。…そうでなければ、思い込みだな」
散歩に行ったら背が伸びるだろう、と前のお前を重ねちまって、夢を見てるといった所か。
だがな、本当はそうじゃない。
いつも言ってるだろ、今のお前がチビのままなのは、神様のお考えだろう、と。
前のお前が失くしちまった子供時代を、今のお前は体験中だ。前よりも、ずっと素敵な世界で。
成人検査なんかは何処にも無い上、血の繋がった本物のお父さんとお母さんがいて…。
幸せ一杯に過ごしてるわけで、それが出来るのは今だけだ。…お前がチビの子供の間。
背が伸びて大きくなっちまったら、今みたいに甘えられないぞ?
お父さんやお母さんたちにとっては、いつまでも「可愛い一人息子」だろうが、周りの目というヤツもあるから…。家では良くても、外ではなあ…?
我儘を言ったり出来なくなるぞ、と言われてみれば、その通り。
前の自分のような姿に育った時には、両親と何処かに出掛けたとしても…。
(パパが食べてるお料理、とっても美味しそうでも…)
「それ、ちょうだい!」と手を伸ばせはしない。一切れ欲しい、とフォークで突き刺すことは。
母の方でもそれは同じで、「これも美味しいわよ。食べてみる?」と、お皿に載せてはくれないだろう。スプーンで掬って、「食べる?」と差し出してくれることだって。
チビの自分だから出来ること。家の外でも、両親に甘えて過ごせる自分。…まだ子供だから。
けれど大きくなってしまったら、他の人たちの目があるだろう。甘えたくても、甘えたい気分になった時でも。
(家で御飯を食べてる時なら、「それ、ちょうだい!」って言えるけど…)
レストランでは、とても言えない。喫茶店でも言えはしないし、言える場所など何処にも無い。食事だけではなくて、一休みしたい時だって…。
(今のぼくなら、「疲れちゃった」って…)
ペタンと座り込んでしまっていたら、両親がせっせと世話してくれる。ジュースを飲ませたり、甘い物を買いに走ったり。チビの自分はチョコンと座って、小さな王様みたいだけれど…。
(大きくなった姿だったら、偉そうに見えるか、頼りなさそうか…)
どっちにしたって、いい評価は得られそうもない。「身体ばっかり大きいんだな」と、ジロジロ眺められたりもして。
そう考えると、ハーレイの言葉が正しいのだろう。チビの自分はとても幸せで、満ち足りた今を過ごしているから。…大きくなったら出来ないことも、今の自分は出来るのだから。
育ってしまえばそれでおしまい、チビの姿には戻れない。「あの頃の方が楽しかったよ」などと思ってみたって、身体は縮んでくれたりしない。
でも…。
「ハーレイと散歩、行きたいんだけどな…」
運動不足になってるんなら、散歩に行けると思ったのに…。デートじゃなくって運動だから。
そっちの方なら、ハーレイは断らないんだろうし…。
散歩に連れてってくれていたでしょ、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。「どうなるの?」と。
「お前が運動不足だったら、そりゃまあ、断ったりはしないな」
健康のために散歩をしたい、と言うんだったら、俺も断るような真似はしないぞ。
もっとも、デートじゃないわけなんだし、其処をきちんと詰めないと…。
デート気分で散歩されたら、俺の方は愉快じゃないからな。運動はあくまで運動なんだし、俺は手抜きをしない主義だ。こと、運動に関しては。
ダテに柔道部だの、水泳部だのの顧問をやってはいない。
お前を散歩に連れて行くにしても、きちんとコースを決めるだろうな、時間なんかも。
運動不足で散歩となったら、俺はコーチだ、とハーレイは厳しい顔をしてみせた。手加減なしでビシバシやるぞ、と。
「お前が嫌だと言い出したって、引き摺って出掛けて行くかもなあ…。ほら、行くぞ、と」
そういう散歩は、お前も嬉しくないだろう?
「うん…。ハーレイと二人で散歩するのはいいけれど…」
今日のコースはもっと先まで、って歩かされるとか、行きたくない日も行かされるとか…。
そんなのは嫌だし、ホントに普通の散歩がいい。…ハーレイがコーチにならない散歩。その日の気分で好きに歩けて、好きな所で家に帰って来られる散歩が。
でも駄目みたい…、と肩を落とした。自分は運動不足ではなくて、ハーレイと散歩に行くことは無理。それに運動不足だとしても、その時はコーチのハーレイの指導で散歩になるから。
「今は駄目だが、いずれは俺と散歩に行けるさ」
シャンと背筋を伸ばして歩け、なんてことは言わない俺と一緒に。…それこそデート気分でな。
しかし、散歩か…。前のお前は、いつも散歩をしていたが…。
船の中をな、とハーレイが顎に手を当てているから、首を傾げた。
「どうかしたの?」
前のぼくの散歩、今のハーレイだと気に入らないとか…?
もっとシャキシャキ歩くべきだとか、歩いてた距離が足りないだとか…。コーチをしよう、っていう今のハーレイの目で見てみたら、あんな散歩じゃ駄目だった…?
ハーレイは運動のプロだものね、と分からないではない気分。今のハーレイは柔道と水泳で鍛え続けて、プロの選手の道まで開けていたほどの腕。トレーニングにも詳しいだろうし、散歩という軽い運動にしても、歩き方などに理想の形があるだろうから。
「いや、そういうのじゃないんだが…。前のお前は頑張っていたし」
あの船の中じゃ、あれだけ出来れば上等だ。今の平和な時代だったら、色々と注文するんだが。
平らな所ばかりを歩かず、少しは坂も歩いてみろとか、歩くペースの配分なんかも。
今の地球なら、どんなコースでも選び放題だが、前のお前が歩いていたのは宇宙船の中で…。
なんともデカイ船だったよな、と思ってな。
白い鯨になる前の船でも、あれは相当にデカかったんだ。船の中で散歩が出来るくらいに。
前のお前が散歩していた距離は、かなりのモンだぞ。毎日、歩いていたわけだがな。
景色も無いような船の通路を飽きもしないで…、と今のハーレイが感心している散歩。そこそこ距離があった筈だと、「この辺りであれだけ歩くとなったら、何処までだろうな?」と。
「お前の家から歩き始めたら、かなり遠くへ行けるんじゃないか?」
夏休みに朝の体操をしていた公園、あそこまでは充分、行けそうだ。前のお前の散歩の距離。
「あっ、ハーレイも気が付いた?」
前のぼくの散歩、うんと長い距離を歩いてたんだ、っていう所。船の中しか歩いてないのに…。
だけど散歩にかかった時間はけっこうあったし、あの距離はかなり長いよね、って…。
そのせいで散歩だと思ったんだよ、と「運動不足だ」と散歩を頼んだ理由を話した。学校からの帰りに、バス停から家まで真っ直ぐ帰らず、散歩したこと。いつもの道を外れていって。
あちこち歩いて満足したのに、後から思い返してみたなら、前の自分が散歩をした頃に比べて、相当に短かった距離。
それに気付いて、「今の自分は運動不足だ」と考えたのだ、と。何もしていないのに、いきなり散歩や運動不足という言葉などを、ポンと思い付いたわけではない、と。
「そうだったのか…。前のお前の散歩と比べていたんだな、お前」
あれに比べりゃ、今のお前は運動不足な気もするだろう。歩いている距離が違い過ぎるから。
しかしだ、今のお前は他にも色々と動いているから、何の心配も要らないってな。
前のお前に体育の授業は無かったんだし、それだけでも大きく違うってモンだ。見学の時が多い授業でも、まるで無いよりは遥かにマシなものなんだから。
前のお前は船の中を歩いて、運動代わりにしていたが…。前の俺たちは、けっこう歩いていたと思うぞ、地面なんか何処にも無かった割には。
お前はともかく、俺の方はだ、よく頑張って歩いてたよなあ…。
「え? ハーレイって…」
前のハーレイは散歩じゃないでしょ、いつも船の中を走っていたよ。ジョギングみたいに。
ぼくやブラウが歩いてる横を、凄い速さで追い越して行って…。
行っちゃった、って見送っていたら、違う方から走って戻って来たりもして。
ついていける人は誰もいなかったでしょ、と前のハーレイを思い出す。一緒に走ろうとしていた仲間は、皆、置き去りにされるのが常。ハーレイが走り去ってしまって。
だからハーレイが「頑張った」ものは、走ることだと考えたのに…。
「あの船じゃなくて、白い鯨になった後だな。…シャングリラには違いないんだが」
俺が頑張って歩いていたのは、そっちの船だ、とハーレイは手を広げてみせた。
「とんでもなくデカイ船だったぞ?」と、「どれだけの大きさがあったんだ、アレは?」と。
言われてみれば、白いシャングリラは巨大な船。人類軍さえ、あれほどの巨艦は持たなかった。民間船もそこまで大きくはなくて、宇宙最大の船でもあったシャングリラ。
「大きかったね、シャングリラは…。白い鯨になった後には」
もっと大きく出来る筈だ、っていう案を取り入れていって、ああいう船になったから…。
船の端から端まで歩いて行くのは大変だから、ってコミューターまで走っていたくらいに。
最初の頃には、たまに止まってしまったけどね、と船の中を結んでいた乗り物を懐かしむ。皆が使っていたのだけれども、止まった時には歩く以外に移動手段が無いものだから…。
(早く直して、みんなが使えるようにしないと…)
大変なことになってしまう、とゼルが自転車で走っていた。修理の指揮を執るために。少しでも早く現場に着こうと、倉庫から引っ張り出してきた古い自転車で。
ゼルが現場に急ぐ時には、前のハーレイも同じに走った。やはり自転車で、船の通路を。背中のマントを翻しながら、せっせとペダルを踏み続けて。
「自転車なあ…。ああいう便利なものもあったが、壊れちまったら、それっきりでだ…」
もうコミューターも安定してたし、誰も作りやしなかった。新しい自転車というヤツは。
そういうやたらとデカかった船で、前の俺は仕事柄、あちこちにだな…。
テクテク歩いて出掛けたもんだ、というハーレイの言葉は間違っていない。コミューターが無い所にだって、キャプテンの仕事はあったのだから。
「そうだね、農場の見回りだったら、端から端まで歩くんだし…」
やっと終わった、と思った途端に、機関部の奥に呼ばれちゃったら、また歩くしか…。
「そういうことだな、キャプテン稼業は忙しいんだ」
何も無ければ、ブリッジだけで一日が終わる時だってあるが…。
そうじゃない日は、どれだけの距離を歩いたんだか…。下手なミュウなら参っちまうぞ。
同じ船でも、前のお前は視察くらいでしか歩いちゃいないが。
「うん。瞬間移動でズルもしてたし…」
ハーレイみたいに真面目に通路を歩いていないよ、前のぼくはね。
コミューターも使わなかった時があるもの、とクスクス笑った。あんな乗り物で移動するより、瞬間移動の方が遥かに速い。何処へ行くにも、一瞬だったから。
「前のぼくは瞬間移動で飛んで行くことが多かったけど…」
青の間からブリッジ、かなり遠いね。…ブリッジの入口までしか、瞬間移動はしていないけど。
あそこまでの距離って、ぼくの家からバス停まで行くより遠くない…?
もう一つ向こうのバス停まで行けてしまえそう、と頭の中に描いた距離。それとも、もっと遠いだろうか。バス停で二つほど向こうにあるのがブリッジだろうか、此処が青の間なら…?
「バス停か…。それより向こうにあるっていうのは確かだろうな、ブリッジは」
次のバス停までになるのか、もう一つ向こうか、その辺は直ぐにはピンと来ないが…。
あの通りを歩いて来る日もあるんだがなあ、お前の家まで歩く時には。
シャングリラってヤツは、実に馬鹿デカイ船だった。その中を歩いていたのが俺か…。
いったいどれだけ歩いたのやら、とハーレイが回想している「忙しかった日」。船のあちこちでキャプテンが呼ばれて、シャングリラの中を歩き回って終わっていた日。
「…シャングリラの中って…。全部歩いたら、どのくらいかかるものだったのかな?」
船の端から端まで回って、全部の通路を歩いていたら。
「それは時間を訊いているのか?」
全部歩くのにかかる時間は、どれほどかという質問なのか?
「そうだけど…。どのくらいなの?」
青の間からブリッジまでの距離でも、バス停の所を通り過ぎていってしまうんでしょ?
全部の通路を歩いて行ったら、時間はどのくらいかかるのかなあ、って思ったんだけど…。
ホントに大きな船だったから、と白いシャングリラの姿を思い浮かべる。前の自分が思念の糸を張り巡らせていた巨大な船。その中を歩いて通って行くなら、どのくらいの時間が要るのかと。
「さてなあ…?」
前の俺も一度に歩いちゃいないし、実際の所はよく分からん。
キャプテンのくせに、と言われそうだが、とても歩けるような船ではなかったからな。
俺の身体は一つだけだし、一日の間に行ける範囲は限られている。どうしても無理だと判断した時は、伝令を走らせることもあったし…。
日を改めて行くことにする、と後回しにした案件だって多いってな。
だがデータなら、と挙げられた数字。白いシャングリラの桁外れな巨大さを示すもの。
船の端から端までの長さを示すものはともかく、通路を全て繋いだ距離は、どれほどなのか。
「シャングリラの通路って…。全部繋いだら、そんなにあったの?」
前のぼくも、多分、一度くらいは耳にしたことがあっただろうけど…。
ハーレイと違って、その数字を使うことが無いから、何も覚えていなかったよ。船の中だなんて信じられないくらい…。一つの町がスッポリ入ってしまいそう…。
「当たり前だろ、船だけでもデカイわけだから」
その中を結ぶ通路となったら、全長ってヤツの何倍になるか、外からは想像もつかないってな。
全部の通路を走ることになれば、マラソンどころの距離じゃないんだ。
前の俺でも、あの船の方だと、とてもじゃないが全部を走ろうって気にはなれんぞ。
ダウンしちまう、とハーレイでさえも白旗を掲げる白いシャングリラの通路。全部を繋いだ距離など走ってゆけはしないと。
「そうみたいだね…。今のハーレイなら、走れるようにも思うけど…」
走れたとしても相当かかるね、走り始めてからゴールインまでに。
「うむ。やってやれないことは無いとは思うんだがなあ、ダテに鍛えちゃいないから」
とはいえ、給水ポイントと軽い何かが食える所は欲しいモンだな。
走った分だけエネルギーを使うし、水分だって抜けていくから補給しないと。
お前じゃとても歩けやしないぞ、あれだけの距離は。…途中で何度も休むにしたって。
前のお前は歩いちゃいないが、と苦笑している今のハーレイ。「いつも瞬間移動だっけな」と。
「そうだよ、楽で速かったからね」
だから歩こうとは一度も思わなかったけど…。歩いてみたことも無いんだけれど…。
今なら、歩いてみたいかな。とんでもない距離になるみたいだけど…。
「なんだって?」
歩くって、何処を歩くんだ?
シャングリラはもう宇宙の何処にも無いんだが、とハーレイは怪訝そうな顔をするけれど。
「分かってるってば、本物はもう無いってことは。でもね…」
代わりに青い地球があるでしょ、ぼくたちが生きてる今の地球が。
その地球の上で、おんなじ距離を歩いてみるんだよ。ハーレイが言った、さっきの距離をね。
同じ歩くのなら、この町の中で、ハーレイと一緒に。
青の間から出発したつもりになって、ずっと歩いて同じ距離をゆく。白いシャングリラの通路を全て繋いだ距離だけ、二本の足で歩き続けて。
「ふうむ…。あの距離を歩いてみようってか?」
面白いかもしれないな、それは。…シャングリラのデカさを俺と二人で体験する、と。
しかし、お前は参っちまうぞ、それだけの距離を歩くとなると。もはや散歩とも言えないし…。
かなりハードな運動になると思うんだが、とハーレイは心配そうだけれども、その心配は多分、要らない。此処は地球の上で、シャングリラの中ではないのだから。
「大丈夫。休憩する場所、幾つもあるでしょ」
この町の中を歩いていくだけで、シャングリラの中とは違うんだから。
喫茶店もあるし、ジュースを売ってるお店も沢山。食事が出来るお店だってね。
「なるほどなあ…。確かに船の中とは違うな、休める場所はドッサリある、と」
そいつを星座のように繋いで、あれだけの距離を歩くってか。お前が疲れてしまわない程度に。
歩き疲れた時には休んで、飯を食ったりなんかもして。
「いい方法だと思うんだけど…。シャングリラの中を二人で歩く方法」
船は無いけど、視察気分で、散歩でデート。こんなのはどう?
此処まで来たね、って、シャングリラの中なら何処になるのか考えたりして。
「それも悪くはないかもしれん。お前が参ってしまわないなら」
最初の間は参っちまっても、何度も出掛けて、少しずつ距離を伸ばすつもりだな…?
全部を歩くつもりだろうが、とハーレイが訊くから頷いた。
「そう! いつかは全部を歩くんだよ」
シャングリラの中の通路を全部、繋いだだけの距離を歩いて散歩。
走ったんなら一日で行けても、散歩だったら、一日じゃ無理な気もするけれど…。
それにホントは、今すぐにだって行きたいんだけど…。
「今は駄目だな、デートにはまだ早いと言ったぞ」
連れては行けん、とハーレイが睨むから、小さな声で言ってみた。
「ぼくの背、伸ばしたいんだけど…」
運動不足で背が伸びないなら、散歩で伸びてくれそうだけど…。駄目…?
やっぱり駄目かな、と縋るような視線を向けたけれども、ハーレイはフンと鼻で笑った。
「さっきも言ったが、今のお前の運動の量は足りている。充分にな」
だから散歩の必要は無くて、俺と一緒に歩かなくても安心だ。運動不足になってはいない。
俺と結婚した後にだって、運動不足を解消するより、体力作りの方の散歩だな。その視察は。
シャングリラの中を歩くつもりの長い散歩は…、とハーレイが言うから心配になった。コーチの方のハーレイが出てくるのだろうか、と。
「ハーレイ、ぼくを鍛えるつもり?」
散歩をするならシャキシャキ歩け、って号令したり、「背筋を伸ばせ」って叱ったり。
そういうコーチになったハーレイと一緒に歩くの、シャングリラの中を歩くつもりの散歩は…?
「お前なあ…。それじゃお前が楽しくないだろ、コーチと歩いて行くなんて」
体力作りはそのままの意味だ、少しでも風邪を引かない身体になるように。
お前に体力をつけさせようにも、ジョギングは、お前、無理だから…。
シャングリラの中を歩いていると思えば、長い距離でも楽しい気分で歩けるだろ?
無理をしないで、お前のペースで…、という提案にホッとした。それなら歩けそうだから。
「言い出したのは、ぼくだしね…。運動不足だから散歩したい、って…」
じゃあ、運動…。体力作りのために、ハーレイと散歩。
最初にぼくが思っていたより、とんでもない距離になっちゃったけど…。でも、歩くよ。
「よし、決まりだな。そうとなったら…」
シャングリラの設計図と町を重ねてみるかな、最初は船の端から端まで歩いてみよう。
それで距離感を掴んだ後には、距離を伸ばして、通路を全部繋いだ長さを歩いてゆく、と。
休憩場所を幾つも挟んで、二人でルートを決めようじゃないか、とハーレイが言うから、今から楽しみでたまらない散歩。この町の中を、ハーレイと歩いてゆける時。
いつか二人で出掛けてみよう、長い散歩に。一日ではとても歩き切れない距離のコースを。
白い鯨の巨大さを二人で実感できて、身体も健康になる散歩。
疲れたら休んで、無理はしないで。
少しずつ距離を伸ばしてゆけたら、きっと幸せ一杯だろう。
ハーレイに「頑張ったな」と褒めて貰えて、「もっと歩くよ」と歩き続けて。
白いシャングリラの中を歩く代わりに、青い地球の上で、手をしっかりと繋ぎ合って…。
行きたい散歩・了
※白い鯨と呼ばれたシャングリラ。船の通路を全て繋げば、町が丸ごと入るくらいに。
もうシャングリラは無いのですけど、ハーレイとブルーで、いつか散歩に行ってみたい距離。
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たまにはこっちに行ってみよう、とブルーが曲がった道。学校からの帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
いつもの道とは違うけれども、そちらに行っても家には帰れる。少し遠回りになるけれど。
(ハーレイが仕事の帰りに来てくれるとしても、まだ早いから…)
時間はたっぷり余裕がある筈。回り道してから家に帰って、のんびりおやつを食べていたって。
だから安心、家の近くを散歩しようという気分。天気が良くて綺麗な青空、心地良い気温。
(こんな日は散歩したくもなるよね?)
帰るついでに、と歩き始めた普段とはまるで違う道。知らない場所とは言わないけれど、滅多に通らない道を歩いてゆくから、何を見たって新鮮な感じ。
あちこちキョロキョロ眺め回して、目に付いた花を観察したり、出て来た犬に手を振ったり。
(ホントに、いつもと全然違う…)
道沿いの家も、庭の木なども。面白いから、もっと色々見たくなる。「次はこっち」と行きたい方へと角を曲がって、どんどん家から離れていって。
下の学校に通っていた頃は、この辺りでもよく遊んだ。友達の家まで行く途中だとか、公園から何処かへ行く時などに。
(犬と遊んだこともあったし…)
おやつを貰ったこともある。何人かで賑やかに歩いていたら、「丁度良かった」と、焼き立てのクッキーをくれた奥さん。「沢山作ったから、持って行ってね」と。
(他にも色々…)
思い出が一杯、と歩いてゆく道。転んで泣いてしまった場所やら、友達の家に続く道やら。
(こっちに行ったら…)
着くんだけどな、と友達の顔が浮かぶけれども、出掛けて行ったら、きっと帰して貰えない。
「上がって行けよ」と引き止められて、制服のままで家に上がって、おやつを食べて、遊んだりしてアッと言う間に時間が経って…。
(家に帰ったら、ママが「ハーレイ先生がいらしてたわよ」って…)
そのハーレイは、とっくに帰ってしまった後。「なんだ、留守か」と、ガレージに停めておいた車の方へと戻って行って。エンジンをかけて、そのまま自分の家に向かって。
それは困るから、友達の家の方には行かない。途中でバッタリ出会ったとしたら、「来いよ」と誘われてしまうから。誘われたならば断われなくて、家に上がって時間が経って…。
楽しく遊んで家に帰ったら、「帰った後」かもしれないハーレイ。そんなのは困る。
(君子危うきに近寄らず…)
そう言うものね、と別の方へと角を曲がって、家に繋がる道に入った。遠回りしたから、バス停から直接家に帰るのとは逆の方向。そっちから歩いて家へと向かう。
(反対側から歩いて行くと…)
家の見え方も変わっちゃうよ、と馴染んだ我が家を目指して歩いて…。
(ちょっぴりだったけど、立派に散歩!)
帰りに沢山歩いちゃった、と門扉を開けて庭に入った。いつもの何倍歩いただろう、と表の道を振り返りながら。二倍くらいでは、きっと足りない。三倍、もっと歩いただろうか?
制服を脱いで、ダイニングでおやつを食べる間も、庭を眺めて上機嫌。
「あっちの方から帰って来たよ」と、帰りに歩いた方の生垣などを眺めて。
(いつもは真っ直ぐ帰って来るけど、今日は散歩をしてたから…)
健康にもいいことだろう。ほんの少しの距離にしたって、普段よりも多めに歩いたのだから。
ハーレイのようにジョギングするのは無理でも、散歩も身体にいい影響を与える筈。足を動かす筋肉を使って、前へ前へと進んでゆくのだから。
(散歩も運動の内だよね?)
身体に負担をかけない運動。自分のように弱い身体でも、無理なく出来る運動が散歩。運動した分、背が伸びるといいな、と考えたりも。
(ぼくの背、ちっとも伸びてくれなくて…)
チビのまんま、と零れる溜息。
前の自分と同じ背丈に育たない限り、ハーレイはキスをしてくれない。恋人同士の唇へのキスは貰えないままで、キスは額と頬にだけ。
それが悔しくて、とても悲しくて、早く大きくなりたいのに…。
(一ミリも伸びてくれないんだよ…!)
ハーレイと再会した五月の三日から、まるで伸びてはくれない背丈。百五十センチのままで春も夏も過ぎて、制服も小さくならなくて…。
いつまでもチビでいたくはない。少しでも早く背を伸ばしたい。あと二十センチ。
(今日の散歩で、背が伸びるかな?)
伸びるといいな、と考えながら戻った二階の自分の部屋。空になったカップやケーキのお皿を、キッチンの母に返してから。
(帰りに余計に歩いた分だけ…)
運動したよ、と勉強机の前に座って、歩いた道を思い出す。新鮮に思えた帰り道の散歩。景色も道順も、何もかもが。
あれだけ歩いて運動をして、家に帰ったらおやつも食べた。きっと身体の栄養になるし、背丈も伸びてくれるかもしれない。散歩という名の軽い運動と、おやつの分だけ。
(散歩は身体にいいんだものね)
きちんと歩けば育つんだよ、と思った所で気が付いた。そういう言葉を前に聞いたよ、と。
(ブラウとエラ…)
遠く遥かな時の彼方で、まだ若かった彼女たちに言われた。「散歩は身体にいいのだから」と。前の自分が、今の自分と変わらない姿のチビだった時に。
アルタミラの檻で長く暮らした前の自分は、心も身体も成長を止めてしまっていた。本当の年はブラウたちよりも遥かに上で、子供などではなかったのに。
(だけど、育っても何もいいことは無いし…)
人体実験だけの日々では、未来も希望も見えては来ない。自分でも気付いていなかったけれど、深い絶望に覆われた心は、「育ってゆく」ことを放棄した。身体を「育ててゆく」ことも。
外見の年齢を止めることが出来るミュウの特性、それが悪い方へと働いた結果。成長するより、「今のままで」と考えた心。
(十四歳の誕生日が来たから、成人検査で…)
大人の社会へ旅立つのだ、と前の自分も考えた筈。順調に育って来たからこその成人検査。
けれども、其処で失くした「未来」。成人検査をパスする代わりに、ミュウと判断された自分。
(…育たなかったら、成人検査を受けることもなくて…)
地獄のような日々が始まることも無かったわけだし、「育つ」ことを捨てもするだろう。一人で檻に閉じ込められて、人体実験ばかりの日々では。
来る日も来る日も苦しみばかりで、未来など見えもしない中では、育つだけ無駄。
前の自分は育つことをやめて、心も育ちはしなかった。「脱出しよう」とも思わないまま、檻の中に蹲っていたというだけ。研究施設で誰よりも長く暮らしていたのに、子供のままで。
ブラウやエラや、前のハーレイたちは、成長を止めはしなかったのに。
成人検査を通過できずに檻に入れられても、酷い実験を繰り返されても、彼らは「諦める」道を選ばなかった。「いつか必ず此処を出てやる」と、見えもしない「未来」を見詰め続けて。
彼らはそうして成長したから、前の自分と出会った時には「子供がいる」と思ったらしい。成人検査を受けて間もない、十四歳になったばかりの子供なのだ、と。
(あの船の中で、ぼくだけがチビで…)
子供として可愛がられる間に、本当のことが判明した。「心も身体も子供だけれども、実年齢は船の誰よりも上だ」ということが。
そうなった理由に、前のハーレイたちは直ぐに気付いて、前の自分を育てることに力を入れた。これからは未来も希望もあるから、「大きく育ってゆかないと」と。
(育つためには、運動しなきゃ、って…)
ブラウとエラに、船の中を散歩に連れてゆかれた。「運動するのが一番だよ」と、選んで貰った運動が「散歩」。今と同じに弱い身体だから、無理なく運動するなら「散歩」がいいだろうと。
白い鯨になる前の船は、「シャングリラ」と言っても名前だけの楽園。
公園も無ければ、緑さえも無かったような船。散歩に出掛けてゆくと言っても、船の中を歩いてゆくだけのことで、通路を辿って進むだけ。「次はこっち」と曲がったりして。
ずいぶん味気ない散歩だけれども、あれも散歩には違いなかった。幾つものフロアを順に回って歩いた時やら、船で一番長い通路を何度も往復した時やら。
(ブラウたちと散歩をしてる間に、育ち始めて…)
再び成長を始めた身体。少しずつ背が伸び、チビの子供から、いつしか大人の姿へと。
散歩のお蔭で大きくなれたし、今日の散歩もきっと効果があるのだろう、と思ったけれど。背が伸びるかも、と夢を描いたけれど…。
(そんなに沢山、歩いてないよ…)
今日のぼくは、と散歩した距離を考えてみたら分かったこと。前の自分が散歩した距離、それに比べれば僅かなものだ、と。
白い鯨ではなかった頃でも、充分に大きかった船。大勢の仲間が暮らしていた船。
あの頃にしていた散歩の分を、家の近くで歩くなら…。
(…公園の方まで行かなくちゃ駄目?)
其処まで行ったら遠すぎるから、と行かずに帰って来た公園。夏休みの間は、朝に体操をやっているほどだから、公園としては大きい部類。大勢の人が一度に体操出来る広さがある公園。
その辺りまで行って来ないと足りないらしい、と気付いた散歩の距離。軽い運動と言える散歩をするのだったら、今日の散歩は充分ではない。もっと遠くまで行かないと。
けれど、いくら近所で散歩と言っても、一人でトコトコ歩いてゆくのは…。
(きっと途中で飽きてしまうし、ハーレイだって…)
前に「散歩に行こう」と誘ったら、「それはデートだ」と断られた。恋人同士で散歩するなら、デートということになるらしい。家の近所を歩くだけでも。
そうやって断られてしまわなければ、一緒に歩いて欲しかったのに。
今日は行かずに帰った公園、そっちの方まで行くだとか。もっと遠くの川の方まで、休みながら歩いてゆくだとか。…川に着いたら河原で休憩、帰りも散歩で、歩いて家まで。
前の自分がしていた散歩は、川までの散歩には敵わなくても、公園までなら充分にあった。毎日ブラウやエラと歩いて、大きく育っていったのだから…。
(今のぼくって、運動不足…)
明らかに足りていない運動。前の自分がチビだった頃に比べたら。
それで自分は、いくら経っても育たないのに違いない。運動の量が足りないせいで、チビのまま伸びてくれない背丈。
(これじゃ大きくなれないよ…)
そうは思っても、一人で散歩はつまらない。歩く距離が長くなればなるほど。
おまけに、一人で歩く間に、ウッカリ友達に出会ったら…。
(遊んで行けよ、って…)
そのまま家に連れて行かれて、ゲームをするとか、一緒におやつを食べるとか。友達によっては家にペットがいたりもするから、夢中で遊んでいる内に…。
(すっかり遅くなっちゃって…)
「さよなら!」と手を振って家に帰ったら、母に言われるかもしれない。ハーレイが家に来て、「ブルー君はお留守ですか」と、帰って行ってしまった、と。
散歩に出掛けて行ってそのまま、いつまで経っても家に戻らなかったのだから。
一人で散歩は、つまらない上に危険が一杯。友達と遊ぶのは楽しいけれども、ハーレイと二人で過ごせる方がずっといい。毎日のように来てくれるとは限らないから、その分、余計に。
(散歩に出掛けて、そのまま留守にしちゃうよりかは…)
ハーレイを巻き込むべきだろう。前は「駄目だ」と言われた散歩に、ハーレイも一緒に出掛けてくれるようにと、きちんと頼んで。
(デートじゃなくって、運動なんだし…)
断られないかも、という気がする。前に散歩に誘った時には、運動の話を出してはいない。あの時は散歩に行きたかっただけで、「ハーレイと二人で歩く」ことが目当て。二人並んで、いろんな話をしたりしながら。
(ただ歩きたいって言うのと、運動したいって言うのとでは…)
ずいぶん違う、と自分でも分かる。運動だったら、ハーレイは乗り気になるかもしれない。
(夏休みに公園でやってた体操…)
「行きたいんだったら、付き合うが?」と誘われたことを覚えている。毎朝、家まで迎えに来るとも言っていた。朝の体操に出掛けるのなら。
(もしも体操に行っていたなら、毎朝、公園まで二人で散歩…)
行きも帰りも二人で歩いて、公園に着いたら他の人たちも一緒に体操。「健康的だぞ」と勧めていたハーレイだし、運動のための散歩となったら、断らない可能性だって。
(頼んでみなきゃね…?)
ハーレイが来てくれた時に、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、ハーレイ…。散歩に連れて行って欲しいんだけど」
ぼくのお願い。ぼくと一緒に散歩をしてよ。この家の近くだけでいいから。
「はあ? 散歩って…」
何を言うんだ、前に断ったと思うがな?
お前と散歩に行けばデートになっちまうから、そいつは駄目だと。…デートにはまだ早いしな。
忘れたのか、とハーレイに軽く睨まれたけれど、此処で引き下がるわけにはいかない。
「デートの散歩じゃないってば! 運動だよ!」
でないと、ちっとも育たないんだよ、いつまでもチビのままなんだから…!
前のぼくは散歩のお蔭で大きく育ったんだもの、という説明から始めることにした。前の自分を育てた運動、それがブラウたちとの散歩だった、と。
「船の中の通路を歩いていたでしょ、前のハーレイが横を走って行ってたじゃない」
前のハーレイは走って運動、ぼくはブラウやエラたちと散歩。
あれのお蔭で大きくなれたよ、それまでは育っていなかったのに…。アルタミラの檻で暮らした間は、少しも育ちはしなかったのに。
エラもブラウも、ぼくに言ったよ、「運動しなきゃ」って。
運動したら身体も育つし、船の中の散歩も大切だから、って毎日のように連れてってくれて…。
前のぼくは散歩のお蔭で育ち始めて、ちゃんと大きくなれたんだってば。
でも、今のぼくは、ハーレイと会ってから少しも育たなくって…。一ミリも背が伸びなくて…。
これって、運動不足だからだよ、前と同じで。
ぼくの運動が足りていないせいで、ちっとも大きくなれないんだよ。…チビのまんまで。
だから散歩に連れて行って、と頭を下げた。「運動不足じゃなくなるように」と。
「運動不足で育たないだと? 今のお前がか?」
そいつは違うと思うがなあ…。どう考えても、運動不足だとは思わんが?
なにしろ今のお前だからな、とハーレイは至極真面目な顔。「デートは駄目だ」と切って捨てる代わりに、「運動不足ではない」と来た。
「運動不足じゃないなんて…。なんで?」
どうしてハッキリそう言えちゃうの、今のぼくのことも知ってるくせに。
ぼくは今でも身体が弱くて、ろくに運動してなくて…。
学校だってバス通学になってるくらいで、他の子みたいに歩いて通っていないのに…。
自転車で通う子だっているよ、と挙げた運動不足の一例。学校までは歩ける距離で、自転車でも軽く走ってゆける。身体さえ丈夫に出来ていたなら、普通はそう。…体力自慢の猛者ともなれば、学校まで一気に走り抜くほど。「これくらい軽い」と、ギリギリの時間に家を出て。
「それだ、それ。バス通学になってる所が大切だ」
歩いて学校に通うように、とは誰も言ったりしないだろうが。先生は大勢いるのにな?
お前はお前の身体に見合った運動をしてるってわけだ、バス停から家まで歩くってトコで。
後は学校で校舎の中を移動するとか、もうそれだけで充分なんだということだな。
体育だって、見学してない時もあるだろ、と指摘された。
見学が多い体育だけれど、体操服を着ている時だってある。身体が悲鳴を上げない程度に、他の生徒とグラウンドを駆けている時だって。
「そうだけど…。でも、途中から見学になっちゃう時も多いよ?」
サッカーの途中で抜けてしまったり、走ってる途中で座り込んだり。
無理をし過ぎたら、後で寝込んでしまうから…。それは困るし、ちゃんと用心しているもの…。
だから運動、足りていないよ。他のみんなと同じくらいに走ったりなんかは出来ないから。
それなのに、学校に行く時までバスで通っているなんて…。もっと運動しなくっちゃ…。
前のぼくみたいに散歩しないと、と頼み込んだ。「ハーレイ、一緒に散歩してよ」と。
「分かっちゃいないな、お前ってヤツは。本当に運動不足だと言うんだったら、その辺はだ…」
きちんと周りが考えるってな、出来る範囲でお前が運動するように。
散歩もそうだし、他にも軽い運動ってヤツは幾つもある。この部屋で出来るようなのも。
しかし、お前は、お医者さんにも何も言われちゃいないだろ?
「毎日これだけ歩くように」だとか、「こういう体操をするように」とかは…?
どうなんだ、と尋ねられたから、素直に答えた。「お医者さんは何も言わないよ」と。
「体育の授業も、学校に行く時も、無理しないように、って言われてるだけ…」
家でも、あんまり無理しちゃ駄目だ、って。…具合が悪くなった時には、直ぐに寝ないと…。
そのくらいかな、と考えてみる。散歩も体操も、医師からは何も言われないから。
「ほら見ろ、やっぱり運動不足じゃないってな。それだけしか言われていないってことは」
医者って仕事は、患者の健康管理ってヤツも考えないと駄目だから…。
必要だったら、運動の内容を指示されるぞ。場合によっては、そのための教室なんかの紹介も。水泳がいいと思った場合は、患者が集まる水泳教室。体操の方も同じだな。
本物の運動不足となったら、医者はそこまでするもんだ。でないと治らない病気もあるから。
運動ってヤツを馬鹿にするなよ、とハーレイは運動の大切さを説いた。運動不足が酷くなったら悪化する病気もあるらしい。そうなった時は、とにかく運動。医師の指示通りに。
「それに比べたら、お前はきちんと運動している」というのがハーレイの意見。バス通学でも、体育は見学ばかりの日々でも、運動は足りているらしい。
散歩なんかは必要ない、とも言われてしまった。「お前の運動、充分だろう?」と。
運動不足などではなくて、散歩の必要も無いらしい自分。確かに主治医には何も言われないし、両親も「運動しなさい」などとは言わない。ただの一度も。
けれども自分は育たないわけで、アルタミラの檻の中でもないのに、一ミリも背が伸びない今。幸せな日々を過ごしているのに、食事もおやつも足りているのに。
「運動不足じゃないなんて…。それじゃ、どうして背が伸びないわけ?」
前のぼくの背が伸びなかった頃は、ずっと檻の中で暮らしてて…。
ハーレイたちみたいに強くなくって、ぼくは育たなかったんだよ。大きくなっても、いいことは何も無いんだから。…ぼくに自覚は無かったけれど。
お蔭でぼくだけチビの子供で、前のハーレイたちが育ててくれて…。身体も、中身の心の方も。
でも、今のぼくは檻で暮らしていないから…。ぐんぐん育つと思わない?
それがちっとも育たないのは、運動不足で、散歩に行かないからじゃないかな…?
前のぼくは散歩をしてたんだから、と食い下がったけれど、ハーレイは笑うだけだった。
「そいつは、お前の考え違いというヤツだ。…そうでなければ、思い込みだな」
散歩に行ったら背が伸びるだろう、と前のお前を重ねちまって、夢を見てるといった所か。
だがな、本当はそうじゃない。
いつも言ってるだろ、今のお前がチビのままなのは、神様のお考えだろう、と。
前のお前が失くしちまった子供時代を、今のお前は体験中だ。前よりも、ずっと素敵な世界で。
成人検査なんかは何処にも無い上、血の繋がった本物のお父さんとお母さんがいて…。
幸せ一杯に過ごしてるわけで、それが出来るのは今だけだ。…お前がチビの子供の間。
背が伸びて大きくなっちまったら、今みたいに甘えられないぞ?
お父さんやお母さんたちにとっては、いつまでも「可愛い一人息子」だろうが、周りの目というヤツもあるから…。家では良くても、外ではなあ…?
我儘を言ったり出来なくなるぞ、と言われてみれば、その通り。
前の自分のような姿に育った時には、両親と何処かに出掛けたとしても…。
(パパが食べてるお料理、とっても美味しそうでも…)
「それ、ちょうだい!」と手を伸ばせはしない。一切れ欲しい、とフォークで突き刺すことは。
母の方でもそれは同じで、「これも美味しいわよ。食べてみる?」と、お皿に載せてはくれないだろう。スプーンで掬って、「食べる?」と差し出してくれることだって。
チビの自分だから出来ること。家の外でも、両親に甘えて過ごせる自分。…まだ子供だから。
けれど大きくなってしまったら、他の人たちの目があるだろう。甘えたくても、甘えたい気分になった時でも。
(家で御飯を食べてる時なら、「それ、ちょうだい!」って言えるけど…)
レストランでは、とても言えない。喫茶店でも言えはしないし、言える場所など何処にも無い。食事だけではなくて、一休みしたい時だって…。
(今のぼくなら、「疲れちゃった」って…)
ペタンと座り込んでしまっていたら、両親がせっせと世話してくれる。ジュースを飲ませたり、甘い物を買いに走ったり。チビの自分はチョコンと座って、小さな王様みたいだけれど…。
(大きくなった姿だったら、偉そうに見えるか、頼りなさそうか…)
どっちにしたって、いい評価は得られそうもない。「身体ばっかり大きいんだな」と、ジロジロ眺められたりもして。
そう考えると、ハーレイの言葉が正しいのだろう。チビの自分はとても幸せで、満ち足りた今を過ごしているから。…大きくなったら出来ないことも、今の自分は出来るのだから。
育ってしまえばそれでおしまい、チビの姿には戻れない。「あの頃の方が楽しかったよ」などと思ってみたって、身体は縮んでくれたりしない。
でも…。
「ハーレイと散歩、行きたいんだけどな…」
運動不足になってるんなら、散歩に行けると思ったのに…。デートじゃなくって運動だから。
そっちの方なら、ハーレイは断らないんだろうし…。
散歩に連れてってくれていたでしょ、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。「どうなるの?」と。
「お前が運動不足だったら、そりゃまあ、断ったりはしないな」
健康のために散歩をしたい、と言うんだったら、俺も断るような真似はしないぞ。
もっとも、デートじゃないわけなんだし、其処をきちんと詰めないと…。
デート気分で散歩されたら、俺の方は愉快じゃないからな。運動はあくまで運動なんだし、俺は手抜きをしない主義だ。こと、運動に関しては。
ダテに柔道部だの、水泳部だのの顧問をやってはいない。
お前を散歩に連れて行くにしても、きちんとコースを決めるだろうな、時間なんかも。
運動不足で散歩となったら、俺はコーチだ、とハーレイは厳しい顔をしてみせた。手加減なしでビシバシやるぞ、と。
「お前が嫌だと言い出したって、引き摺って出掛けて行くかもなあ…。ほら、行くぞ、と」
そういう散歩は、お前も嬉しくないだろう?
「うん…。ハーレイと二人で散歩するのはいいけれど…」
今日のコースはもっと先まで、って歩かされるとか、行きたくない日も行かされるとか…。
そんなのは嫌だし、ホントに普通の散歩がいい。…ハーレイがコーチにならない散歩。その日の気分で好きに歩けて、好きな所で家に帰って来られる散歩が。
でも駄目みたい…、と肩を落とした。自分は運動不足ではなくて、ハーレイと散歩に行くことは無理。それに運動不足だとしても、その時はコーチのハーレイの指導で散歩になるから。
「今は駄目だが、いずれは俺と散歩に行けるさ」
シャンと背筋を伸ばして歩け、なんてことは言わない俺と一緒に。…それこそデート気分でな。
しかし、散歩か…。前のお前は、いつも散歩をしていたが…。
船の中をな、とハーレイが顎に手を当てているから、首を傾げた。
「どうかしたの?」
前のぼくの散歩、今のハーレイだと気に入らないとか…?
もっとシャキシャキ歩くべきだとか、歩いてた距離が足りないだとか…。コーチをしよう、っていう今のハーレイの目で見てみたら、あんな散歩じゃ駄目だった…?
ハーレイは運動のプロだものね、と分からないではない気分。今のハーレイは柔道と水泳で鍛え続けて、プロの選手の道まで開けていたほどの腕。トレーニングにも詳しいだろうし、散歩という軽い運動にしても、歩き方などに理想の形があるだろうから。
「いや、そういうのじゃないんだが…。前のお前は頑張っていたし」
あの船の中じゃ、あれだけ出来れば上等だ。今の平和な時代だったら、色々と注文するんだが。
平らな所ばかりを歩かず、少しは坂も歩いてみろとか、歩くペースの配分なんかも。
今の地球なら、どんなコースでも選び放題だが、前のお前が歩いていたのは宇宙船の中で…。
なんともデカイ船だったよな、と思ってな。
白い鯨になる前の船でも、あれは相当にデカかったんだ。船の中で散歩が出来るくらいに。
前のお前が散歩していた距離は、かなりのモンだぞ。毎日、歩いていたわけだがな。
景色も無いような船の通路を飽きもしないで…、と今のハーレイが感心している散歩。そこそこ距離があった筈だと、「この辺りであれだけ歩くとなったら、何処までだろうな?」と。
「お前の家から歩き始めたら、かなり遠くへ行けるんじゃないか?」
夏休みに朝の体操をしていた公園、あそこまでは充分、行けそうだ。前のお前の散歩の距離。
「あっ、ハーレイも気が付いた?」
前のぼくの散歩、うんと長い距離を歩いてたんだ、っていう所。船の中しか歩いてないのに…。
だけど散歩にかかった時間はけっこうあったし、あの距離はかなり長いよね、って…。
そのせいで散歩だと思ったんだよ、と「運動不足だ」と散歩を頼んだ理由を話した。学校からの帰りに、バス停から家まで真っ直ぐ帰らず、散歩したこと。いつもの道を外れていって。
あちこち歩いて満足したのに、後から思い返してみたなら、前の自分が散歩をした頃に比べて、相当に短かった距離。
それに気付いて、「今の自分は運動不足だ」と考えたのだ、と。何もしていないのに、いきなり散歩や運動不足という言葉などを、ポンと思い付いたわけではない、と。
「そうだったのか…。前のお前の散歩と比べていたんだな、お前」
あれに比べりゃ、今のお前は運動不足な気もするだろう。歩いている距離が違い過ぎるから。
しかしだ、今のお前は他にも色々と動いているから、何の心配も要らないってな。
前のお前に体育の授業は無かったんだし、それだけでも大きく違うってモンだ。見学の時が多い授業でも、まるで無いよりは遥かにマシなものなんだから。
前のお前は船の中を歩いて、運動代わりにしていたが…。前の俺たちは、けっこう歩いていたと思うぞ、地面なんか何処にも無かった割には。
お前はともかく、俺の方はだ、よく頑張って歩いてたよなあ…。
「え? ハーレイって…」
前のハーレイは散歩じゃないでしょ、いつも船の中を走っていたよ。ジョギングみたいに。
ぼくやブラウが歩いてる横を、凄い速さで追い越して行って…。
行っちゃった、って見送っていたら、違う方から走って戻って来たりもして。
ついていける人は誰もいなかったでしょ、と前のハーレイを思い出す。一緒に走ろうとしていた仲間は、皆、置き去りにされるのが常。ハーレイが走り去ってしまって。
だからハーレイが「頑張った」ものは、走ることだと考えたのに…。
「あの船じゃなくて、白い鯨になった後だな。…シャングリラには違いないんだが」
俺が頑張って歩いていたのは、そっちの船だ、とハーレイは手を広げてみせた。
「とんでもなくデカイ船だったぞ?」と、「どれだけの大きさがあったんだ、アレは?」と。
言われてみれば、白いシャングリラは巨大な船。人類軍さえ、あれほどの巨艦は持たなかった。民間船もそこまで大きくはなくて、宇宙最大の船でもあったシャングリラ。
「大きかったね、シャングリラは…。白い鯨になった後には」
もっと大きく出来る筈だ、っていう案を取り入れていって、ああいう船になったから…。
船の端から端まで歩いて行くのは大変だから、ってコミューターまで走っていたくらいに。
最初の頃には、たまに止まってしまったけどね、と船の中を結んでいた乗り物を懐かしむ。皆が使っていたのだけれども、止まった時には歩く以外に移動手段が無いものだから…。
(早く直して、みんなが使えるようにしないと…)
大変なことになってしまう、とゼルが自転車で走っていた。修理の指揮を執るために。少しでも早く現場に着こうと、倉庫から引っ張り出してきた古い自転車で。
ゼルが現場に急ぐ時には、前のハーレイも同じに走った。やはり自転車で、船の通路を。背中のマントを翻しながら、せっせとペダルを踏み続けて。
「自転車なあ…。ああいう便利なものもあったが、壊れちまったら、それっきりでだ…」
もうコミューターも安定してたし、誰も作りやしなかった。新しい自転車というヤツは。
そういうやたらとデカかった船で、前の俺は仕事柄、あちこちにだな…。
テクテク歩いて出掛けたもんだ、というハーレイの言葉は間違っていない。コミューターが無い所にだって、キャプテンの仕事はあったのだから。
「そうだね、農場の見回りだったら、端から端まで歩くんだし…」
やっと終わった、と思った途端に、機関部の奥に呼ばれちゃったら、また歩くしか…。
「そういうことだな、キャプテン稼業は忙しいんだ」
何も無ければ、ブリッジだけで一日が終わる時だってあるが…。
そうじゃない日は、どれだけの距離を歩いたんだか…。下手なミュウなら参っちまうぞ。
同じ船でも、前のお前は視察くらいでしか歩いちゃいないが。
「うん。瞬間移動でズルもしてたし…」
ハーレイみたいに真面目に通路を歩いていないよ、前のぼくはね。
コミューターも使わなかった時があるもの、とクスクス笑った。あんな乗り物で移動するより、瞬間移動の方が遥かに速い。何処へ行くにも、一瞬だったから。
「前のぼくは瞬間移動で飛んで行くことが多かったけど…」
青の間からブリッジ、かなり遠いね。…ブリッジの入口までしか、瞬間移動はしていないけど。
あそこまでの距離って、ぼくの家からバス停まで行くより遠くない…?
もう一つ向こうのバス停まで行けてしまえそう、と頭の中に描いた距離。それとも、もっと遠いだろうか。バス停で二つほど向こうにあるのがブリッジだろうか、此処が青の間なら…?
「バス停か…。それより向こうにあるっていうのは確かだろうな、ブリッジは」
次のバス停までになるのか、もう一つ向こうか、その辺は直ぐにはピンと来ないが…。
あの通りを歩いて来る日もあるんだがなあ、お前の家まで歩く時には。
シャングリラってヤツは、実に馬鹿デカイ船だった。その中を歩いていたのが俺か…。
いったいどれだけ歩いたのやら、とハーレイが回想している「忙しかった日」。船のあちこちでキャプテンが呼ばれて、シャングリラの中を歩き回って終わっていた日。
「…シャングリラの中って…。全部歩いたら、どのくらいかかるものだったのかな?」
船の端から端まで回って、全部の通路を歩いていたら。
「それは時間を訊いているのか?」
全部歩くのにかかる時間は、どれほどかという質問なのか?
「そうだけど…。どのくらいなの?」
青の間からブリッジまでの距離でも、バス停の所を通り過ぎていってしまうんでしょ?
全部の通路を歩いて行ったら、時間はどのくらいかかるのかなあ、って思ったんだけど…。
ホントに大きな船だったから、と白いシャングリラの姿を思い浮かべる。前の自分が思念の糸を張り巡らせていた巨大な船。その中を歩いて通って行くなら、どのくらいの時間が要るのかと。
「さてなあ…?」
前の俺も一度に歩いちゃいないし、実際の所はよく分からん。
キャプテンのくせに、と言われそうだが、とても歩けるような船ではなかったからな。
俺の身体は一つだけだし、一日の間に行ける範囲は限られている。どうしても無理だと判断した時は、伝令を走らせることもあったし…。
日を改めて行くことにする、と後回しにした案件だって多いってな。
だがデータなら、と挙げられた数字。白いシャングリラの桁外れな巨大さを示すもの。
船の端から端までの長さを示すものはともかく、通路を全て繋いだ距離は、どれほどなのか。
「シャングリラの通路って…。全部繋いだら、そんなにあったの?」
前のぼくも、多分、一度くらいは耳にしたことがあっただろうけど…。
ハーレイと違って、その数字を使うことが無いから、何も覚えていなかったよ。船の中だなんて信じられないくらい…。一つの町がスッポリ入ってしまいそう…。
「当たり前だろ、船だけでもデカイわけだから」
その中を結ぶ通路となったら、全長ってヤツの何倍になるか、外からは想像もつかないってな。
全部の通路を走ることになれば、マラソンどころの距離じゃないんだ。
前の俺でも、あの船の方だと、とてもじゃないが全部を走ろうって気にはなれんぞ。
ダウンしちまう、とハーレイでさえも白旗を掲げる白いシャングリラの通路。全部を繋いだ距離など走ってゆけはしないと。
「そうみたいだね…。今のハーレイなら、走れるようにも思うけど…」
走れたとしても相当かかるね、走り始めてからゴールインまでに。
「うむ。やってやれないことは無いとは思うんだがなあ、ダテに鍛えちゃいないから」
とはいえ、給水ポイントと軽い何かが食える所は欲しいモンだな。
走った分だけエネルギーを使うし、水分だって抜けていくから補給しないと。
お前じゃとても歩けやしないぞ、あれだけの距離は。…途中で何度も休むにしたって。
前のお前は歩いちゃいないが、と苦笑している今のハーレイ。「いつも瞬間移動だっけな」と。
「そうだよ、楽で速かったからね」
だから歩こうとは一度も思わなかったけど…。歩いてみたことも無いんだけれど…。
今なら、歩いてみたいかな。とんでもない距離になるみたいだけど…。
「なんだって?」
歩くって、何処を歩くんだ?
シャングリラはもう宇宙の何処にも無いんだが、とハーレイは怪訝そうな顔をするけれど。
「分かってるってば、本物はもう無いってことは。でもね…」
代わりに青い地球があるでしょ、ぼくたちが生きてる今の地球が。
その地球の上で、おんなじ距離を歩いてみるんだよ。ハーレイが言った、さっきの距離をね。
同じ歩くのなら、この町の中で、ハーレイと一緒に。
青の間から出発したつもりになって、ずっと歩いて同じ距離をゆく。白いシャングリラの通路を全て繋いだ距離だけ、二本の足で歩き続けて。
「ふうむ…。あの距離を歩いてみようってか?」
面白いかもしれないな、それは。…シャングリラのデカさを俺と二人で体験する、と。
しかし、お前は参っちまうぞ、それだけの距離を歩くとなると。もはや散歩とも言えないし…。
かなりハードな運動になると思うんだが、とハーレイは心配そうだけれども、その心配は多分、要らない。此処は地球の上で、シャングリラの中ではないのだから。
「大丈夫。休憩する場所、幾つもあるでしょ」
この町の中を歩いていくだけで、シャングリラの中とは違うんだから。
喫茶店もあるし、ジュースを売ってるお店も沢山。食事が出来るお店だってね。
「なるほどなあ…。確かに船の中とは違うな、休める場所はドッサリある、と」
そいつを星座のように繋いで、あれだけの距離を歩くってか。お前が疲れてしまわない程度に。
歩き疲れた時には休んで、飯を食ったりなんかもして。
「いい方法だと思うんだけど…。シャングリラの中を二人で歩く方法」
船は無いけど、視察気分で、散歩でデート。こんなのはどう?
此処まで来たね、って、シャングリラの中なら何処になるのか考えたりして。
「それも悪くはないかもしれん。お前が参ってしまわないなら」
最初の間は参っちまっても、何度も出掛けて、少しずつ距離を伸ばすつもりだな…?
全部を歩くつもりだろうが、とハーレイが訊くから頷いた。
「そう! いつかは全部を歩くんだよ」
シャングリラの中の通路を全部、繋いだだけの距離を歩いて散歩。
走ったんなら一日で行けても、散歩だったら、一日じゃ無理な気もするけれど…。
それにホントは、今すぐにだって行きたいんだけど…。
「今は駄目だな、デートにはまだ早いと言ったぞ」
連れては行けん、とハーレイが睨むから、小さな声で言ってみた。
「ぼくの背、伸ばしたいんだけど…」
運動不足で背が伸びないなら、散歩で伸びてくれそうだけど…。駄目…?
やっぱり駄目かな、と縋るような視線を向けたけれども、ハーレイはフンと鼻で笑った。
「さっきも言ったが、今のお前の運動の量は足りている。充分にな」
だから散歩の必要は無くて、俺と一緒に歩かなくても安心だ。運動不足になってはいない。
俺と結婚した後にだって、運動不足を解消するより、体力作りの方の散歩だな。その視察は。
シャングリラの中を歩くつもりの長い散歩は…、とハーレイが言うから心配になった。コーチの方のハーレイが出てくるのだろうか、と。
「ハーレイ、ぼくを鍛えるつもり?」
散歩をするならシャキシャキ歩け、って号令したり、「背筋を伸ばせ」って叱ったり。
そういうコーチになったハーレイと一緒に歩くの、シャングリラの中を歩くつもりの散歩は…?
「お前なあ…。それじゃお前が楽しくないだろ、コーチと歩いて行くなんて」
体力作りはそのままの意味だ、少しでも風邪を引かない身体になるように。
お前に体力をつけさせようにも、ジョギングは、お前、無理だから…。
シャングリラの中を歩いていると思えば、長い距離でも楽しい気分で歩けるだろ?
無理をしないで、お前のペースで…、という提案にホッとした。それなら歩けそうだから。
「言い出したのは、ぼくだしね…。運動不足だから散歩したい、って…」
じゃあ、運動…。体力作りのために、ハーレイと散歩。
最初にぼくが思っていたより、とんでもない距離になっちゃったけど…。でも、歩くよ。
「よし、決まりだな。そうとなったら…」
シャングリラの設計図と町を重ねてみるかな、最初は船の端から端まで歩いてみよう。
それで距離感を掴んだ後には、距離を伸ばして、通路を全部繋いだ長さを歩いてゆく、と。
休憩場所を幾つも挟んで、二人でルートを決めようじゃないか、とハーレイが言うから、今から楽しみでたまらない散歩。この町の中を、ハーレイと歩いてゆける時。
いつか二人で出掛けてみよう、長い散歩に。一日ではとても歩き切れない距離のコースを。
白い鯨の巨大さを二人で実感できて、身体も健康になる散歩。
疲れたら休んで、無理はしないで。
少しずつ距離を伸ばしてゆけたら、きっと幸せ一杯だろう。
ハーレイに「頑張ったな」と褒めて貰えて、「もっと歩くよ」と歩き続けて。
白いシャングリラの中を歩く代わりに、青い地球の上で、手をしっかりと繋ぎ合って…。
行きたい散歩・了
※白い鯨と呼ばれたシャングリラ。船の通路を全て繋げば、町が丸ごと入るくらいに。
もうシャングリラは無いのですけど、ハーレイとブルーで、いつか散歩に行ってみたい距離。