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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(んーと…)
 たまにはこっちに行ってみよう、とブルーが曲がった道。学校からの帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
 いつもの道とは違うけれども、そちらに行っても家には帰れる。少し遠回りになるけれど。
(ハーレイが仕事の帰りに来てくれるとしても、まだ早いから…)
 時間はたっぷり余裕がある筈。回り道してから家に帰って、のんびりおやつを食べていたって。
 だから安心、家の近くを散歩しようという気分。天気が良くて綺麗な青空、心地良い気温。
(こんな日は散歩したくもなるよね?)
 帰るついでに、と歩き始めた普段とはまるで違う道。知らない場所とは言わないけれど、滅多に通らない道を歩いてゆくから、何を見たって新鮮な感じ。
 あちこちキョロキョロ眺め回して、目に付いた花を観察したり、出て来た犬に手を振ったり。
(ホントに、いつもと全然違う…)
 道沿いの家も、庭の木なども。面白いから、もっと色々見たくなる。「次はこっち」と行きたい方へと角を曲がって、どんどん家から離れていって。
 下の学校に通っていた頃は、この辺りでもよく遊んだ。友達の家まで行く途中だとか、公園から何処かへ行く時などに。
(犬と遊んだこともあったし…)
 おやつを貰ったこともある。何人かで賑やかに歩いていたら、「丁度良かった」と、焼き立てのクッキーをくれた奥さん。「沢山作ったから、持って行ってね」と。
(他にも色々…)
 思い出が一杯、と歩いてゆく道。転んで泣いてしまった場所やら、友達の家に続く道やら。
(こっちに行ったら…)
 着くんだけどな、と友達の顔が浮かぶけれども、出掛けて行ったら、きっと帰して貰えない。
 「上がって行けよ」と引き止められて、制服のままで家に上がって、おやつを食べて、遊んだりしてアッと言う間に時間が経って…。
(家に帰ったら、ママが「ハーレイ先生がいらしてたわよ」って…)
 そのハーレイは、とっくに帰ってしまった後。「なんだ、留守か」と、ガレージに停めておいた車の方へと戻って行って。エンジンをかけて、そのまま自分の家に向かって。



 それは困るから、友達の家の方には行かない。途中でバッタリ出会ったとしたら、「来いよ」と誘われてしまうから。誘われたならば断われなくて、家に上がって時間が経って…。
 楽しく遊んで家に帰ったら、「帰った後」かもしれないハーレイ。そんなのは困る。
(君子危うきに近寄らず…)
 そう言うものね、と別の方へと角を曲がって、家に繋がる道に入った。遠回りしたから、バス停から直接家に帰るのとは逆の方向。そっちから歩いて家へと向かう。
(反対側から歩いて行くと…)
 家の見え方も変わっちゃうよ、と馴染んだ我が家を目指して歩いて…。
(ちょっぴりだったけど、立派に散歩!)
 帰りに沢山歩いちゃった、と門扉を開けて庭に入った。いつもの何倍歩いただろう、と表の道を振り返りながら。二倍くらいでは、きっと足りない。三倍、もっと歩いただろうか?
 制服を脱いで、ダイニングでおやつを食べる間も、庭を眺めて上機嫌。
 「あっちの方から帰って来たよ」と、帰りに歩いた方の生垣などを眺めて。
(いつもは真っ直ぐ帰って来るけど、今日は散歩をしてたから…)
 健康にもいいことだろう。ほんの少しの距離にしたって、普段よりも多めに歩いたのだから。
 ハーレイのようにジョギングするのは無理でも、散歩も身体にいい影響を与える筈。足を動かす筋肉を使って、前へ前へと進んでゆくのだから。
(散歩も運動の内だよね?)
 身体に負担をかけない運動。自分のように弱い身体でも、無理なく出来る運動が散歩。運動した分、背が伸びるといいな、と考えたりも。
(ぼくの背、ちっとも伸びてくれなくて…)
 チビのまんま、と零れる溜息。
 前の自分と同じ背丈に育たない限り、ハーレイはキスをしてくれない。恋人同士の唇へのキスは貰えないままで、キスは額と頬にだけ。
 それが悔しくて、とても悲しくて、早く大きくなりたいのに…。
(一ミリも伸びてくれないんだよ…!)
 ハーレイと再会した五月の三日から、まるで伸びてはくれない背丈。百五十センチのままで春も夏も過ぎて、制服も小さくならなくて…。



 いつまでもチビでいたくはない。少しでも早く背を伸ばしたい。あと二十センチ。
(今日の散歩で、背が伸びるかな?)
 伸びるといいな、と考えながら戻った二階の自分の部屋。空になったカップやケーキのお皿を、キッチンの母に返してから。
(帰りに余計に歩いた分だけ…)
 運動したよ、と勉強机の前に座って、歩いた道を思い出す。新鮮に思えた帰り道の散歩。景色も道順も、何もかもが。
 あれだけ歩いて運動をして、家に帰ったらおやつも食べた。きっと身体の栄養になるし、背丈も伸びてくれるかもしれない。散歩という名の軽い運動と、おやつの分だけ。
(散歩は身体にいいんだものね)
 きちんと歩けば育つんだよ、と思った所で気が付いた。そういう言葉を前に聞いたよ、と。
(ブラウとエラ…)
 遠く遥かな時の彼方で、まだ若かった彼女たちに言われた。「散歩は身体にいいのだから」と。前の自分が、今の自分と変わらない姿のチビだった時に。
 アルタミラの檻で長く暮らした前の自分は、心も身体も成長を止めてしまっていた。本当の年はブラウたちよりも遥かに上で、子供などではなかったのに。
(だけど、育っても何もいいことは無いし…)
 人体実験だけの日々では、未来も希望も見えては来ない。自分でも気付いていなかったけれど、深い絶望に覆われた心は、「育ってゆく」ことを放棄した。身体を「育ててゆく」ことも。
 外見の年齢を止めることが出来るミュウの特性、それが悪い方へと働いた結果。成長するより、「今のままで」と考えた心。
(十四歳の誕生日が来たから、成人検査で…)
 大人の社会へ旅立つのだ、と前の自分も考えた筈。順調に育って来たからこその成人検査。
 けれども、其処で失くした「未来」。成人検査をパスする代わりに、ミュウと判断された自分。
(…育たなかったら、成人検査を受けることもなくて…)
 地獄のような日々が始まることも無かったわけだし、「育つ」ことを捨てもするだろう。一人で檻に閉じ込められて、人体実験ばかりの日々では。
 来る日も来る日も苦しみばかりで、未来など見えもしない中では、育つだけ無駄。



 前の自分は育つことをやめて、心も育ちはしなかった。「脱出しよう」とも思わないまま、檻の中に蹲っていたというだけ。研究施設で誰よりも長く暮らしていたのに、子供のままで。
 ブラウやエラや、前のハーレイたちは、成長を止めはしなかったのに。
 成人検査を通過できずに檻に入れられても、酷い実験を繰り返されても、彼らは「諦める」道を選ばなかった。「いつか必ず此処を出てやる」と、見えもしない「未来」を見詰め続けて。
 彼らはそうして成長したから、前の自分と出会った時には「子供がいる」と思ったらしい。成人検査を受けて間もない、十四歳になったばかりの子供なのだ、と。
(あの船の中で、ぼくだけがチビで…)
 子供として可愛がられる間に、本当のことが判明した。「心も身体も子供だけれども、実年齢は船の誰よりも上だ」ということが。
 そうなった理由に、前のハーレイたちは直ぐに気付いて、前の自分を育てることに力を入れた。これからは未来も希望もあるから、「大きく育ってゆかないと」と。
(育つためには、運動しなきゃ、って…)
 ブラウとエラに、船の中を散歩に連れてゆかれた。「運動するのが一番だよ」と、選んで貰った運動が「散歩」。今と同じに弱い身体だから、無理なく運動するなら「散歩」がいいだろうと。
 白い鯨になる前の船は、「シャングリラ」と言っても名前だけの楽園。
 公園も無ければ、緑さえも無かったような船。散歩に出掛けてゆくと言っても、船の中を歩いてゆくだけのことで、通路を辿って進むだけ。「次はこっち」と曲がったりして。
 ずいぶん味気ない散歩だけれども、あれも散歩には違いなかった。幾つものフロアを順に回って歩いた時やら、船で一番長い通路を何度も往復した時やら。
(ブラウたちと散歩をしてる間に、育ち始めて…)
 再び成長を始めた身体。少しずつ背が伸び、チビの子供から、いつしか大人の姿へと。
 散歩のお蔭で大きくなれたし、今日の散歩もきっと効果があるのだろう、と思ったけれど。背が伸びるかも、と夢を描いたけれど…。
(そんなに沢山、歩いてないよ…)
 今日のぼくは、と散歩した距離を考えてみたら分かったこと。前の自分が散歩した距離、それに比べれば僅かなものだ、と。
 白い鯨ではなかった頃でも、充分に大きかった船。大勢の仲間が暮らしていた船。
 あの頃にしていた散歩の分を、家の近くで歩くなら…。



(…公園の方まで行かなくちゃ駄目?)
 其処まで行ったら遠すぎるから、と行かずに帰って来た公園。夏休みの間は、朝に体操をやっているほどだから、公園としては大きい部類。大勢の人が一度に体操出来る広さがある公園。
 その辺りまで行って来ないと足りないらしい、と気付いた散歩の距離。軽い運動と言える散歩をするのだったら、今日の散歩は充分ではない。もっと遠くまで行かないと。
 けれど、いくら近所で散歩と言っても、一人でトコトコ歩いてゆくのは…。
(きっと途中で飽きてしまうし、ハーレイだって…)
 前に「散歩に行こう」と誘ったら、「それはデートだ」と断られた。恋人同士で散歩するなら、デートということになるらしい。家の近所を歩くだけでも。
 そうやって断られてしまわなければ、一緒に歩いて欲しかったのに。
 今日は行かずに帰った公園、そっちの方まで行くだとか。もっと遠くの川の方まで、休みながら歩いてゆくだとか。…川に着いたら河原で休憩、帰りも散歩で、歩いて家まで。
 前の自分がしていた散歩は、川までの散歩には敵わなくても、公園までなら充分にあった。毎日ブラウやエラと歩いて、大きく育っていったのだから…。
(今のぼくって、運動不足…)
 明らかに足りていない運動。前の自分がチビだった頃に比べたら。
 それで自分は、いくら経っても育たないのに違いない。運動の量が足りないせいで、チビのまま伸びてくれない背丈。
(これじゃ大きくなれないよ…)
 そうは思っても、一人で散歩はつまらない。歩く距離が長くなればなるほど。
 おまけに、一人で歩く間に、ウッカリ友達に出会ったら…。
(遊んで行けよ、って…)
 そのまま家に連れて行かれて、ゲームをするとか、一緒におやつを食べるとか。友達によっては家にペットがいたりもするから、夢中で遊んでいる内に…。
(すっかり遅くなっちゃって…)
 「さよなら!」と手を振って家に帰ったら、母に言われるかもしれない。ハーレイが家に来て、「ブルー君はお留守ですか」と、帰って行ってしまった、と。
 散歩に出掛けて行ってそのまま、いつまで経っても家に戻らなかったのだから。



 一人で散歩は、つまらない上に危険が一杯。友達と遊ぶのは楽しいけれども、ハーレイと二人で過ごせる方がずっといい。毎日のように来てくれるとは限らないから、その分、余計に。
(散歩に出掛けて、そのまま留守にしちゃうよりかは…)
 ハーレイを巻き込むべきだろう。前は「駄目だ」と言われた散歩に、ハーレイも一緒に出掛けてくれるようにと、きちんと頼んで。
(デートじゃなくって、運動なんだし…)
 断られないかも、という気がする。前に散歩に誘った時には、運動の話を出してはいない。あの時は散歩に行きたかっただけで、「ハーレイと二人で歩く」ことが目当て。二人並んで、いろんな話をしたりしながら。
(ただ歩きたいって言うのと、運動したいって言うのとでは…)
 ずいぶん違う、と自分でも分かる。運動だったら、ハーレイは乗り気になるかもしれない。
(夏休みに公園でやってた体操…)
 「行きたいんだったら、付き合うが?」と誘われたことを覚えている。毎朝、家まで迎えに来るとも言っていた。朝の体操に出掛けるのなら。
(もしも体操に行っていたなら、毎朝、公園まで二人で散歩…)
 行きも帰りも二人で歩いて、公園に着いたら他の人たちも一緒に体操。「健康的だぞ」と勧めていたハーレイだし、運動のための散歩となったら、断らない可能性だって。
(頼んでみなきゃね…?)
 ハーレイが来てくれた時に、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、ハーレイ…。散歩に連れて行って欲しいんだけど」
 ぼくのお願い。ぼくと一緒に散歩をしてよ。この家の近くだけでいいから。
「はあ? 散歩って…」
 何を言うんだ、前に断ったと思うがな?
 お前と散歩に行けばデートになっちまうから、そいつは駄目だと。…デートにはまだ早いしな。
 忘れたのか、とハーレイに軽く睨まれたけれど、此処で引き下がるわけにはいかない。
「デートの散歩じゃないってば! 運動だよ!」
 でないと、ちっとも育たないんだよ、いつまでもチビのままなんだから…!



 前のぼくは散歩のお蔭で大きく育ったんだもの、という説明から始めることにした。前の自分を育てた運動、それがブラウたちとの散歩だった、と。
「船の中の通路を歩いていたでしょ、前のハーレイが横を走って行ってたじゃない」
 前のハーレイは走って運動、ぼくはブラウやエラたちと散歩。
 あれのお蔭で大きくなれたよ、それまでは育っていなかったのに…。アルタミラの檻で暮らした間は、少しも育ちはしなかったのに。
 エラもブラウも、ぼくに言ったよ、「運動しなきゃ」って。
 運動したら身体も育つし、船の中の散歩も大切だから、って毎日のように連れてってくれて…。
 前のぼくは散歩のお蔭で育ち始めて、ちゃんと大きくなれたんだってば。
 でも、今のぼくは、ハーレイと会ってから少しも育たなくって…。一ミリも背が伸びなくて…。
 これって、運動不足だからだよ、前と同じで。
 ぼくの運動が足りていないせいで、ちっとも大きくなれないんだよ。…チビのまんまで。
 だから散歩に連れて行って、と頭を下げた。「運動不足じゃなくなるように」と。
「運動不足で育たないだと? 今のお前がか?」
 そいつは違うと思うがなあ…。どう考えても、運動不足だとは思わんが?
 なにしろ今のお前だからな、とハーレイは至極真面目な顔。「デートは駄目だ」と切って捨てる代わりに、「運動不足ではない」と来た。
「運動不足じゃないなんて…。なんで?」
 どうしてハッキリそう言えちゃうの、今のぼくのことも知ってるくせに。
 ぼくは今でも身体が弱くて、ろくに運動してなくて…。
 学校だってバス通学になってるくらいで、他の子みたいに歩いて通っていないのに…。
 自転車で通う子だっているよ、と挙げた運動不足の一例。学校までは歩ける距離で、自転車でも軽く走ってゆける。身体さえ丈夫に出来ていたなら、普通はそう。…体力自慢の猛者ともなれば、学校まで一気に走り抜くほど。「これくらい軽い」と、ギリギリの時間に家を出て。
「それだ、それ。バス通学になってる所が大切だ」
 歩いて学校に通うように、とは誰も言ったりしないだろうが。先生は大勢いるのにな?
 お前はお前の身体に見合った運動をしてるってわけだ、バス停から家まで歩くってトコで。
 後は学校で校舎の中を移動するとか、もうそれだけで充分なんだということだな。



 体育だって、見学してない時もあるだろ、と指摘された。
 見学が多い体育だけれど、体操服を着ている時だってある。身体が悲鳴を上げない程度に、他の生徒とグラウンドを駆けている時だって。
「そうだけど…。でも、途中から見学になっちゃう時も多いよ?」
 サッカーの途中で抜けてしまったり、走ってる途中で座り込んだり。
 無理をし過ぎたら、後で寝込んでしまうから…。それは困るし、ちゃんと用心しているもの…。
 だから運動、足りていないよ。他のみんなと同じくらいに走ったりなんかは出来ないから。
 それなのに、学校に行く時までバスで通っているなんて…。もっと運動しなくっちゃ…。
 前のぼくみたいに散歩しないと、と頼み込んだ。「ハーレイ、一緒に散歩してよ」と。
「分かっちゃいないな、お前ってヤツは。本当に運動不足だと言うんだったら、その辺はだ…」
 きちんと周りが考えるってな、出来る範囲でお前が運動するように。
 散歩もそうだし、他にも軽い運動ってヤツは幾つもある。この部屋で出来るようなのも。
 しかし、お前は、お医者さんにも何も言われちゃいないだろ?
 「毎日これだけ歩くように」だとか、「こういう体操をするように」とかは…?
 どうなんだ、と尋ねられたから、素直に答えた。「お医者さんは何も言わないよ」と。
「体育の授業も、学校に行く時も、無理しないように、って言われてるだけ…」
 家でも、あんまり無理しちゃ駄目だ、って。…具合が悪くなった時には、直ぐに寝ないと…。
 そのくらいかな、と考えてみる。散歩も体操も、医師からは何も言われないから。
「ほら見ろ、やっぱり運動不足じゃないってな。それだけしか言われていないってことは」
 医者って仕事は、患者の健康管理ってヤツも考えないと駄目だから…。
 必要だったら、運動の内容を指示されるぞ。場合によっては、そのための教室なんかの紹介も。水泳がいいと思った場合は、患者が集まる水泳教室。体操の方も同じだな。
 本物の運動不足となったら、医者はそこまでするもんだ。でないと治らない病気もあるから。
 運動ってヤツを馬鹿にするなよ、とハーレイは運動の大切さを説いた。運動不足が酷くなったら悪化する病気もあるらしい。そうなった時は、とにかく運動。医師の指示通りに。
 「それに比べたら、お前はきちんと運動している」というのがハーレイの意見。バス通学でも、体育は見学ばかりの日々でも、運動は足りているらしい。
 散歩なんかは必要ない、とも言われてしまった。「お前の運動、充分だろう?」と。



 運動不足などではなくて、散歩の必要も無いらしい自分。確かに主治医には何も言われないし、両親も「運動しなさい」などとは言わない。ただの一度も。
 けれども自分は育たないわけで、アルタミラの檻の中でもないのに、一ミリも背が伸びない今。幸せな日々を過ごしているのに、食事もおやつも足りているのに。
「運動不足じゃないなんて…。それじゃ、どうして背が伸びないわけ?」
 前のぼくの背が伸びなかった頃は、ずっと檻の中で暮らしてて…。
 ハーレイたちみたいに強くなくって、ぼくは育たなかったんだよ。大きくなっても、いいことは何も無いんだから。…ぼくに自覚は無かったけれど。
 お蔭でぼくだけチビの子供で、前のハーレイたちが育ててくれて…。身体も、中身の心の方も。
 でも、今のぼくは檻で暮らしていないから…。ぐんぐん育つと思わない?
 それがちっとも育たないのは、運動不足で、散歩に行かないからじゃないかな…?
 前のぼくは散歩をしてたんだから、と食い下がったけれど、ハーレイは笑うだけだった。
「そいつは、お前の考え違いというヤツだ。…そうでなければ、思い込みだな」
 散歩に行ったら背が伸びるだろう、と前のお前を重ねちまって、夢を見てるといった所か。
 だがな、本当はそうじゃない。
 いつも言ってるだろ、今のお前がチビのままなのは、神様のお考えだろう、と。
 前のお前が失くしちまった子供時代を、今のお前は体験中だ。前よりも、ずっと素敵な世界で。
 成人検査なんかは何処にも無い上、血の繋がった本物のお父さんとお母さんがいて…。
 幸せ一杯に過ごしてるわけで、それが出来るのは今だけだ。…お前がチビの子供の間。
 背が伸びて大きくなっちまったら、今みたいに甘えられないぞ?
 お父さんやお母さんたちにとっては、いつまでも「可愛い一人息子」だろうが、周りの目というヤツもあるから…。家では良くても、外ではなあ…?
 我儘を言ったり出来なくなるぞ、と言われてみれば、その通り。
 前の自分のような姿に育った時には、両親と何処かに出掛けたとしても…。
(パパが食べてるお料理、とっても美味しそうでも…)
 「それ、ちょうだい!」と手を伸ばせはしない。一切れ欲しい、とフォークで突き刺すことは。
 母の方でもそれは同じで、「これも美味しいわよ。食べてみる?」と、お皿に載せてはくれないだろう。スプーンで掬って、「食べる?」と差し出してくれることだって。



 チビの自分だから出来ること。家の外でも、両親に甘えて過ごせる自分。…まだ子供だから。
 けれど大きくなってしまったら、他の人たちの目があるだろう。甘えたくても、甘えたい気分になった時でも。
(家で御飯を食べてる時なら、「それ、ちょうだい!」って言えるけど…)
 レストランでは、とても言えない。喫茶店でも言えはしないし、言える場所など何処にも無い。食事だけではなくて、一休みしたい時だって…。
(今のぼくなら、「疲れちゃった」って…)
 ペタンと座り込んでしまっていたら、両親がせっせと世話してくれる。ジュースを飲ませたり、甘い物を買いに走ったり。チビの自分はチョコンと座って、小さな王様みたいだけれど…。
(大きくなった姿だったら、偉そうに見えるか、頼りなさそうか…)
 どっちにしたって、いい評価は得られそうもない。「身体ばっかり大きいんだな」と、ジロジロ眺められたりもして。
 そう考えると、ハーレイの言葉が正しいのだろう。チビの自分はとても幸せで、満ち足りた今を過ごしているから。…大きくなったら出来ないことも、今の自分は出来るのだから。
 育ってしまえばそれでおしまい、チビの姿には戻れない。「あの頃の方が楽しかったよ」などと思ってみたって、身体は縮んでくれたりしない。
 でも…。
「ハーレイと散歩、行きたいんだけどな…」
 運動不足になってるんなら、散歩に行けると思ったのに…。デートじゃなくって運動だから。
 そっちの方なら、ハーレイは断らないんだろうし…。
 散歩に連れてってくれていたでしょ、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。「どうなるの?」と。
「お前が運動不足だったら、そりゃまあ、断ったりはしないな」
 健康のために散歩をしたい、と言うんだったら、俺も断るような真似はしないぞ。
 もっとも、デートじゃないわけなんだし、其処をきちんと詰めないと…。
 デート気分で散歩されたら、俺の方は愉快じゃないからな。運動はあくまで運動なんだし、俺は手抜きをしない主義だ。こと、運動に関しては。
 ダテに柔道部だの、水泳部だのの顧問をやってはいない。
 お前を散歩に連れて行くにしても、きちんとコースを決めるだろうな、時間なんかも。



 運動不足で散歩となったら、俺はコーチだ、とハーレイは厳しい顔をしてみせた。手加減なしでビシバシやるぞ、と。
「お前が嫌だと言い出したって、引き摺って出掛けて行くかもなあ…。ほら、行くぞ、と」
 そういう散歩は、お前も嬉しくないだろう?
「うん…。ハーレイと二人で散歩するのはいいけれど…」
 今日のコースはもっと先まで、って歩かされるとか、行きたくない日も行かされるとか…。
 そんなのは嫌だし、ホントに普通の散歩がいい。…ハーレイがコーチにならない散歩。その日の気分で好きに歩けて、好きな所で家に帰って来られる散歩が。
 でも駄目みたい…、と肩を落とした。自分は運動不足ではなくて、ハーレイと散歩に行くことは無理。それに運動不足だとしても、その時はコーチのハーレイの指導で散歩になるから。
「今は駄目だが、いずれは俺と散歩に行けるさ」
 シャンと背筋を伸ばして歩け、なんてことは言わない俺と一緒に。…それこそデート気分でな。
 しかし、散歩か…。前のお前は、いつも散歩をしていたが…。
 船の中をな、とハーレイが顎に手を当てているから、首を傾げた。
「どうかしたの?」
 前のぼくの散歩、今のハーレイだと気に入らないとか…?
 もっとシャキシャキ歩くべきだとか、歩いてた距離が足りないだとか…。コーチをしよう、っていう今のハーレイの目で見てみたら、あんな散歩じゃ駄目だった…?
 ハーレイは運動のプロだものね、と分からないではない気分。今のハーレイは柔道と水泳で鍛え続けて、プロの選手の道まで開けていたほどの腕。トレーニングにも詳しいだろうし、散歩という軽い運動にしても、歩き方などに理想の形があるだろうから。
「いや、そういうのじゃないんだが…。前のお前は頑張っていたし」
 あの船の中じゃ、あれだけ出来れば上等だ。今の平和な時代だったら、色々と注文するんだが。
 平らな所ばかりを歩かず、少しは坂も歩いてみろとか、歩くペースの配分なんかも。
 今の地球なら、どんなコースでも選び放題だが、前のお前が歩いていたのは宇宙船の中で…。
 なんともデカイ船だったよな、と思ってな。
 白い鯨になる前の船でも、あれは相当にデカかったんだ。船の中で散歩が出来るくらいに。
 前のお前が散歩していた距離は、かなりのモンだぞ。毎日、歩いていたわけだがな。



 景色も無いような船の通路を飽きもしないで…、と今のハーレイが感心している散歩。そこそこ距離があった筈だと、「この辺りであれだけ歩くとなったら、何処までだろうな?」と。
「お前の家から歩き始めたら、かなり遠くへ行けるんじゃないか?」
 夏休みに朝の体操をしていた公園、あそこまでは充分、行けそうだ。前のお前の散歩の距離。
「あっ、ハーレイも気が付いた?」
 前のぼくの散歩、うんと長い距離を歩いてたんだ、っていう所。船の中しか歩いてないのに…。
 だけど散歩にかかった時間はけっこうあったし、あの距離はかなり長いよね、って…。
 そのせいで散歩だと思ったんだよ、と「運動不足だ」と散歩を頼んだ理由を話した。学校からの帰りに、バス停から家まで真っ直ぐ帰らず、散歩したこと。いつもの道を外れていって。
 あちこち歩いて満足したのに、後から思い返してみたなら、前の自分が散歩をした頃に比べて、相当に短かった距離。
 それに気付いて、「今の自分は運動不足だ」と考えたのだ、と。何もしていないのに、いきなり散歩や運動不足という言葉などを、ポンと思い付いたわけではない、と。
「そうだったのか…。前のお前の散歩と比べていたんだな、お前」
 あれに比べりゃ、今のお前は運動不足な気もするだろう。歩いている距離が違い過ぎるから。
 しかしだ、今のお前は他にも色々と動いているから、何の心配も要らないってな。
 前のお前に体育の授業は無かったんだし、それだけでも大きく違うってモンだ。見学の時が多い授業でも、まるで無いよりは遥かにマシなものなんだから。
 前のお前は船の中を歩いて、運動代わりにしていたが…。前の俺たちは、けっこう歩いていたと思うぞ、地面なんか何処にも無かった割には。
 お前はともかく、俺の方はだ、よく頑張って歩いてたよなあ…。
「え? ハーレイって…」
 前のハーレイは散歩じゃないでしょ、いつも船の中を走っていたよ。ジョギングみたいに。
 ぼくやブラウが歩いてる横を、凄い速さで追い越して行って…。
 行っちゃった、って見送っていたら、違う方から走って戻って来たりもして。
 ついていける人は誰もいなかったでしょ、と前のハーレイを思い出す。一緒に走ろうとしていた仲間は、皆、置き去りにされるのが常。ハーレイが走り去ってしまって。
 だからハーレイが「頑張った」ものは、走ることだと考えたのに…。



「あの船じゃなくて、白い鯨になった後だな。…シャングリラには違いないんだが」
 俺が頑張って歩いていたのは、そっちの船だ、とハーレイは手を広げてみせた。
 「とんでもなくデカイ船だったぞ?」と、「どれだけの大きさがあったんだ、アレは?」と。
 言われてみれば、白いシャングリラは巨大な船。人類軍さえ、あれほどの巨艦は持たなかった。民間船もそこまで大きくはなくて、宇宙最大の船でもあったシャングリラ。
「大きかったね、シャングリラは…。白い鯨になった後には」
 もっと大きく出来る筈だ、っていう案を取り入れていって、ああいう船になったから…。
 船の端から端まで歩いて行くのは大変だから、ってコミューターまで走っていたくらいに。
 最初の頃には、たまに止まってしまったけどね、と船の中を結んでいた乗り物を懐かしむ。皆が使っていたのだけれども、止まった時には歩く以外に移動手段が無いものだから…。
(早く直して、みんなが使えるようにしないと…)
 大変なことになってしまう、とゼルが自転車で走っていた。修理の指揮を執るために。少しでも早く現場に着こうと、倉庫から引っ張り出してきた古い自転車で。
 ゼルが現場に急ぐ時には、前のハーレイも同じに走った。やはり自転車で、船の通路を。背中のマントを翻しながら、せっせとペダルを踏み続けて。
「自転車なあ…。ああいう便利なものもあったが、壊れちまったら、それっきりでだ…」
 もうコミューターも安定してたし、誰も作りやしなかった。新しい自転車というヤツは。
 そういうやたらとデカかった船で、前の俺は仕事柄、あちこちにだな…。
 テクテク歩いて出掛けたもんだ、というハーレイの言葉は間違っていない。コミューターが無い所にだって、キャプテンの仕事はあったのだから。
「そうだね、農場の見回りだったら、端から端まで歩くんだし…」
 やっと終わった、と思った途端に、機関部の奥に呼ばれちゃったら、また歩くしか…。
「そういうことだな、キャプテン稼業は忙しいんだ」
 何も無ければ、ブリッジだけで一日が終わる時だってあるが…。
 そうじゃない日は、どれだけの距離を歩いたんだか…。下手なミュウなら参っちまうぞ。
 同じ船でも、前のお前は視察くらいでしか歩いちゃいないが。
「うん。瞬間移動でズルもしてたし…」
 ハーレイみたいに真面目に通路を歩いていないよ、前のぼくはね。



 コミューターも使わなかった時があるもの、とクスクス笑った。あんな乗り物で移動するより、瞬間移動の方が遥かに速い。何処へ行くにも、一瞬だったから。
「前のぼくは瞬間移動で飛んで行くことが多かったけど…」
 青の間からブリッジ、かなり遠いね。…ブリッジの入口までしか、瞬間移動はしていないけど。
 あそこまでの距離って、ぼくの家からバス停まで行くより遠くない…?
 もう一つ向こうのバス停まで行けてしまえそう、と頭の中に描いた距離。それとも、もっと遠いだろうか。バス停で二つほど向こうにあるのがブリッジだろうか、此処が青の間なら…?
「バス停か…。それより向こうにあるっていうのは確かだろうな、ブリッジは」
 次のバス停までになるのか、もう一つ向こうか、その辺は直ぐにはピンと来ないが…。
 あの通りを歩いて来る日もあるんだがなあ、お前の家まで歩く時には。
 シャングリラってヤツは、実に馬鹿デカイ船だった。その中を歩いていたのが俺か…。
 いったいどれだけ歩いたのやら、とハーレイが回想している「忙しかった日」。船のあちこちでキャプテンが呼ばれて、シャングリラの中を歩き回って終わっていた日。
「…シャングリラの中って…。全部歩いたら、どのくらいかかるものだったのかな?」
 船の端から端まで回って、全部の通路を歩いていたら。
「それは時間を訊いているのか?」
 全部歩くのにかかる時間は、どれほどかという質問なのか?
「そうだけど…。どのくらいなの?」
 青の間からブリッジまでの距離でも、バス停の所を通り過ぎていってしまうんでしょ?
 全部の通路を歩いて行ったら、時間はどのくらいかかるのかなあ、って思ったんだけど…。
 ホントに大きな船だったから、と白いシャングリラの姿を思い浮かべる。前の自分が思念の糸を張り巡らせていた巨大な船。その中を歩いて通って行くなら、どのくらいの時間が要るのかと。
「さてなあ…?」
 前の俺も一度に歩いちゃいないし、実際の所はよく分からん。
 キャプテンのくせに、と言われそうだが、とても歩けるような船ではなかったからな。
 俺の身体は一つだけだし、一日の間に行ける範囲は限られている。どうしても無理だと判断した時は、伝令を走らせることもあったし…。
 日を改めて行くことにする、と後回しにした案件だって多いってな。



 だがデータなら、と挙げられた数字。白いシャングリラの桁外れな巨大さを示すもの。
 船の端から端までの長さを示すものはともかく、通路を全て繋いだ距離は、どれほどなのか。
「シャングリラの通路って…。全部繋いだら、そんなにあったの?」
 前のぼくも、多分、一度くらいは耳にしたことがあっただろうけど…。
 ハーレイと違って、その数字を使うことが無いから、何も覚えていなかったよ。船の中だなんて信じられないくらい…。一つの町がスッポリ入ってしまいそう…。
「当たり前だろ、船だけでもデカイわけだから」
 その中を結ぶ通路となったら、全長ってヤツの何倍になるか、外からは想像もつかないってな。
 全部の通路を走ることになれば、マラソンどころの距離じゃないんだ。
 前の俺でも、あの船の方だと、とてもじゃないが全部を走ろうって気にはなれんぞ。
 ダウンしちまう、とハーレイでさえも白旗を掲げる白いシャングリラの通路。全部を繋いだ距離など走ってゆけはしないと。
「そうみたいだね…。今のハーレイなら、走れるようにも思うけど…」
 走れたとしても相当かかるね、走り始めてからゴールインまでに。
「うむ。やってやれないことは無いとは思うんだがなあ、ダテに鍛えちゃいないから」
 とはいえ、給水ポイントと軽い何かが食える所は欲しいモンだな。
 走った分だけエネルギーを使うし、水分だって抜けていくから補給しないと。
 お前じゃとても歩けやしないぞ、あれだけの距離は。…途中で何度も休むにしたって。
 前のお前は歩いちゃいないが、と苦笑している今のハーレイ。「いつも瞬間移動だっけな」と。
「そうだよ、楽で速かったからね」
 だから歩こうとは一度も思わなかったけど…。歩いてみたことも無いんだけれど…。
 今なら、歩いてみたいかな。とんでもない距離になるみたいだけど…。
「なんだって?」
 歩くって、何処を歩くんだ?
 シャングリラはもう宇宙の何処にも無いんだが、とハーレイは怪訝そうな顔をするけれど。
「分かってるってば、本物はもう無いってことは。でもね…」
 代わりに青い地球があるでしょ、ぼくたちが生きてる今の地球が。
 その地球の上で、おんなじ距離を歩いてみるんだよ。ハーレイが言った、さっきの距離をね。



 同じ歩くのなら、この町の中で、ハーレイと一緒に。
 青の間から出発したつもりになって、ずっと歩いて同じ距離をゆく。白いシャングリラの通路を全て繋いだ距離だけ、二本の足で歩き続けて。
「ふうむ…。あの距離を歩いてみようってか?」
 面白いかもしれないな、それは。…シャングリラのデカさを俺と二人で体験する、と。
 しかし、お前は参っちまうぞ、それだけの距離を歩くとなると。もはや散歩とも言えないし…。
 かなりハードな運動になると思うんだが、とハーレイは心配そうだけれども、その心配は多分、要らない。此処は地球の上で、シャングリラの中ではないのだから。
「大丈夫。休憩する場所、幾つもあるでしょ」
 この町の中を歩いていくだけで、シャングリラの中とは違うんだから。
 喫茶店もあるし、ジュースを売ってるお店も沢山。食事が出来るお店だってね。
「なるほどなあ…。確かに船の中とは違うな、休める場所はドッサリある、と」
 そいつを星座のように繋いで、あれだけの距離を歩くってか。お前が疲れてしまわない程度に。
 歩き疲れた時には休んで、飯を食ったりなんかもして。
「いい方法だと思うんだけど…。シャングリラの中を二人で歩く方法」
 船は無いけど、視察気分で、散歩でデート。こんなのはどう?
 此処まで来たね、って、シャングリラの中なら何処になるのか考えたりして。
「それも悪くはないかもしれん。お前が参ってしまわないなら」
 最初の間は参っちまっても、何度も出掛けて、少しずつ距離を伸ばすつもりだな…?
 全部を歩くつもりだろうが、とハーレイが訊くから頷いた。
「そう! いつかは全部を歩くんだよ」
 シャングリラの中の通路を全部、繋いだだけの距離を歩いて散歩。
 走ったんなら一日で行けても、散歩だったら、一日じゃ無理な気もするけれど…。
 それにホントは、今すぐにだって行きたいんだけど…。
「今は駄目だな、デートにはまだ早いと言ったぞ」
 連れては行けん、とハーレイが睨むから、小さな声で言ってみた。
「ぼくの背、伸ばしたいんだけど…」
 運動不足で背が伸びないなら、散歩で伸びてくれそうだけど…。駄目…?



 やっぱり駄目かな、と縋るような視線を向けたけれども、ハーレイはフンと鼻で笑った。
「さっきも言ったが、今のお前の運動の量は足りている。充分にな」
 だから散歩の必要は無くて、俺と一緒に歩かなくても安心だ。運動不足になってはいない。
 俺と結婚した後にだって、運動不足を解消するより、体力作りの方の散歩だな。その視察は。
 シャングリラの中を歩くつもりの長い散歩は…、とハーレイが言うから心配になった。コーチの方のハーレイが出てくるのだろうか、と。
「ハーレイ、ぼくを鍛えるつもり?」
 散歩をするならシャキシャキ歩け、って号令したり、「背筋を伸ばせ」って叱ったり。
 そういうコーチになったハーレイと一緒に歩くの、シャングリラの中を歩くつもりの散歩は…?
「お前なあ…。それじゃお前が楽しくないだろ、コーチと歩いて行くなんて」
 体力作りはそのままの意味だ、少しでも風邪を引かない身体になるように。
 お前に体力をつけさせようにも、ジョギングは、お前、無理だから…。
 シャングリラの中を歩いていると思えば、長い距離でも楽しい気分で歩けるだろ?
 無理をしないで、お前のペースで…、という提案にホッとした。それなら歩けそうだから。
「言い出したのは、ぼくだしね…。運動不足だから散歩したい、って…」
 じゃあ、運動…。体力作りのために、ハーレイと散歩。
 最初にぼくが思っていたより、とんでもない距離になっちゃったけど…。でも、歩くよ。
「よし、決まりだな。そうとなったら…」
 シャングリラの設計図と町を重ねてみるかな、最初は船の端から端まで歩いてみよう。
 それで距離感を掴んだ後には、距離を伸ばして、通路を全部繋いだ長さを歩いてゆく、と。
 休憩場所を幾つも挟んで、二人でルートを決めようじゃないか、とハーレイが言うから、今から楽しみでたまらない散歩。この町の中を、ハーレイと歩いてゆける時。
 いつか二人で出掛けてみよう、長い散歩に。一日ではとても歩き切れない距離のコースを。
 白い鯨の巨大さを二人で実感できて、身体も健康になる散歩。
 疲れたら休んで、無理はしないで。
 少しずつ距離を伸ばしてゆけたら、きっと幸せ一杯だろう。
 ハーレイに「頑張ったな」と褒めて貰えて、「もっと歩くよ」と歩き続けて。
 白いシャングリラの中を歩く代わりに、青い地球の上で、手をしっかりと繋ぎ合って…。



             行きたい散歩・了


※白い鯨と呼ばれたシャングリラ。船の通路を全て繋げば、町が丸ごと入るくらいに。
 もうシャングリラは無いのですけど、ハーレイとブルーで、いつか散歩に行ってみたい距離。
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(今日はちょっぴり…)
 暑いかな、とブルーが見上げた太陽。学校の帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
 今日は快晴、そのせいなのか、この季節にしては強く感じる日射し。燦々と照っているように。
(夏みたい…)
 今日のお日様、と思うくらいに眩しい太陽。照らされていたら、頬が痛いという気もする。気のせいなのか、本当に日射しが強すぎるのか。
 頬っぺたが痛いのは嬉しくないから、影の中に入ることにした。道に木たちが落としている影。そうして日射しが遮られたら、頬の痛さは無くなった。さっきまで感じていた暑さも。
(これでピッタリ…)
 痛くもないし、暑くもないよ、とホッと息をついた木の影の中。何処の家にも庭木があるから、道まで影が差している。上手い具合に、途切れないように。
 そういう日陰を選んでいこう、と歩き始めた帰り道。丁度いい具合の日陰という場所。家までは遠くないのだけれども、同じ歩くなら心地良い方がずっといいから。
 大きく道に張り出した枝が作る影やら、背の高い木が落とす影やら。その中を通って、日射しを避けて家まで帰り着いたのだけれど…。
(あれ?)
 生垣の所の門扉を開けようとして、ハタと気付いた。気持ちがいい、と選んで歩いて来た日陰。木たちの影が落ちている場所を、ずっと家まで来たのだけれど。
 日陰という場所、それを寒いと感じる日もある。今の季節はそうではなくても、冬になったら。
(おんなじ日陰なんだけど…)
 寒い時には、とっても寒いよ、と歩いて来た道を振り返ってみた。同じ日陰でも、真冬になれば雪が残ったり、一日中、ツルツルに凍っていたり。太陽が当たらないせいで。
 そんな時には、日向を選んで歩きたくなるもの。少しでも暖かい方がいいから。
(あっちの方とか、よく凍っているしね…)
 ツルリと滑るのは面白いけれど、直ぐに日向へ出たくなる。少し遊んで、満足したら。
 残っている雪で遊ぶ時も同じ。「まだ残ってる」と、足や傘なんかでつついてみたって、日向に戻ってゆきたくなる。「此処は寒いよ」と、暖かな太陽の光の中へ。
 同じ道路で、同じように日陰なんだけど、と見てみる道。「今日は日陰がいいんだけどな」と。



 門扉を開けて庭に入って、「ただいま」と帰り着いた家。制服を脱いだら、ダイニングに行っておやつの時間なのだけど。
(えーっと…)
 日向と日陰と、自分はどっちが好きなんだろう、と首を捻った。母が焼いたケーキを頬張って。
 ダイニングの大きなガラス窓の向こう、庭にも見える日向と日陰。太陽が明るく照らす日向と、影に入っている日陰。
 庭で一番大きな木の下、其処に据えられた、お気に入りの白いテーブルと椅子。木の下だから、今はもちろん、日陰に置かれているけれど…。
(お天気のいい日は、日向に出して…)
 ハーレイと午後のお茶を楽しむこともある。二人でゆっくり過ごせる週末、その日がいい天気で晴れていたなら。日射しも今日ほど強くない日で、柔らかな光だったなら。
(だけど、あのテーブルと椅子が届いた夏の間は…)
 お茶にする時は、必ず日陰。木陰から出しはしなかった。
 父が白いテーブルと椅子を買うよりも前は、ハーレイが愛車で運んで来てくれた、キャンプ用の椅子とテーブルでお茶。そのテーブルたちを、ハーレイが最初に据えたのも…。
(あそこの木の下…)
 日射しが強くて、飲み物だって冷えたレモネードだったような季節。日向だったら、弱い身体が悲鳴を上げる。「こんな場所には、とてもいられない」と。
 お蔭で庭のテーブルと椅子は、今でも庭で一番大きな木の下が定位置のまま。お茶にする時は、その日の気分で日向を選びもするけれど…。
(それは今だからで、夏の間は絶対に無理で…)
 日向でお茶など、とんでもない。今日よりもずっと眩しくて肌に痛い日射しが、上からジリジリ照り付けるから。…ハーレイとお茶を楽しむどころか、それではまるで我慢大会。
(ぼくって、どっちが好きなのかな…?)
 日向と日陰と、どちらか一つを選ぶなら。
 今日の帰り道は、日陰を選んだのだけど。そちらがいいと思ったけれども、季節で変わるだろう自分の好み。日向がいいのか、日陰が好きか。
 お気に入りの白いテーブルと椅子でも、日によってそれを置きたい場所が変わるのだから。



 簡単に決められはしないよね、と考えながら戻った二階の自分の部屋。空になったお皿やカップなんかを、キッチンの母に「御馳走様」と返してから。
(日向と日陰かあ…)
 部屋の窓から見下ろしてみても、両方がある家の庭。日が当たる場所と、当たらない場所。同じ芝生でも変わる表情、日向か、日陰か、どっちなのかで。
(日が当たってたら、うんと明るい緑色で…)
 とても元気そうに見えるのが芝生。日陰の方だと、少し弱々しい感じ。どちらもきちんと手入れしてあるし、見た目は変わらない筈なのに。
 なんとも面白いのが日向と日陰で、それを考えてみたくなる。勉強机の前に座って。
(今のぼくだと、その日の気分で変わるんだけど…)
 日向と日陰を選ぶ時。暑い日だったら断然、日陰。寒い日だったら、日向を選びたい気分。融け残った雪で遊んでみようと、日陰に入る時はあっても。
(前のぼくだと、どっちが好き?)
 ソルジャー・ブルーと呼ばれた頃なら、どちらを好んでいたのだろう。日向か、日陰か。
 白いシャングリラで長く暮らした、青の間は薄暗かったけれども。
(あれは、前のぼくが暗くしていたわけじゃなくって…)
 青の間を広く見せるためにと、勝手に決められた明るさだった。薄暗くして、照明の数を絞っておいたら、部屋の全貌は見渡せない。サイオンを使って見ない限りは。
 「ソルジャーの部屋は広いほどいい」と、演出のために暗くされてしまった青の間。部屋の壁が見えてしまっているより、壁も天井も見えない方が広く感じられるから。
(部屋を作る時には、あんな暗さじゃ作業できないから…)
 工事用にと明るい照明もあったというのに、完成したら取り外された。「もう要らない」と。
 お蔭で、青の間は昼でも薄暗いまま。深い海の底にあるかのように。
(暗い方がいいよ、って前のぼくは思っていなかったのに…)
 仕方なく諦めていただけのことで、あれは自分の好みではない。もっと明るい方が良かった。
 暮らす分には、特に不自由は無かったけれども、こけおどしの演出で暗い部屋よりは…。
(全体が見えて、みんながビックリしない部屋…)
 そういう部屋が欲しかった。「ソルジャーの部屋はこうか」と思える、親しみやすい部屋が。



 青の間の薄暗さを、前の自分が好んだわけではないのなら。好きでああいう照明にした、という話などまるで無いのなら…。
(前のぼくが好きなの、日向なのかな?)
 日陰よりは、と遠い記憶を探ってみる。青の間とは逆の、明るい場所が好きだったろうか、と。
 アルテメシアに降りた時には、日射しの中にいたことが多い。太陽の光を浴びられる場所に。
(太陽の下にいるっていうのが、とても嬉しくて…)
 その光の中にいようとしたから、前の自分は、きっと日向が好きだった。日向か日陰か、好みで選び取るならば。好きに選んでいいのなら。
 でも…。
(シャングリラの中には、日向、無かった…)
 それに日陰も、何処にも無かった。
 青の間でなくても、あの船の中で一番広かった公園でも。…ブリッジが見えた、シャングリラの皆が大好きだった大きな公園。あそこでさえも、無かった日向。
 白いシャングリラに太陽は無くて、人工の照明が作る影だと、その向きさえもバラバラだった。日陰を選んで歩きたくても、きちんと並んではいなかった影。同じ方へと、同じ角度では。
 その上、本物の太陽ではなくて照明だから…。
(日向も日陰も、選べないよ…)
 暑すぎるだとか、寒すぎるだとか、そういったことは無かった船。公園の温度は季節に合わせて調整されたし、照明の明るさや強さなどとは無関係。
 本物の太陽が照らしていたなら、眩しすぎる日もあっただろうに。逆に日陰では寒いと感じて、日向に出たいと思う時だって。
 けれど船には無かった太陽。日向も日陰も出来はしない船。
 だから日向が好きだったろうか、前の自分は?
 シャングリラの外に出掛けた時には、太陽の下を好んだろうか。本物の太陽の明るい日射しを。
(地球の太陽ではなかったけれど…)
 太陽と呼ばれる恒星の一つではあった、アルテメシアの空に輝く太陽。朝に昇って、夜は沈んでしまう本物の「太陽」があって、それの下にいるのが好きだった自分。
 だとしたら…。



 船の外へと出られた自分。ソルジャーとしての役目を果たしに、アルテメシアに何度も降りた。ミュウの子供の救出作戦を手伝うだとか、人類側の動きを探るためなどに。
 前の自分は、そうやって外に出られたけれど。外に出た時に太陽があれば、日射しを浴びられる日向にいたりしたけれど…。
(シャングリラの外に出られなかった、ハーレイたちは…)
 前の自分よりも、もっと太陽に憧れたろうか。日向に出たいと、太陽の下に立ってみたいと。
 日向も日陰も、無かった船にいたのでは。公園の温度が低めに設定された冬にも、日向ぼっこも出来ないような船で暮らしていたのでは。
(公園の温度が低すぎるから、って…)
 凍えてしまうことなどは無いし、日向ぼっこの必要は無い。けれど、代わりに太陽も無い。太陽さえ空に輝いていたら、冬でもあるのが日向と日陰。暖かい日向と、寒い日陰と。
(そっちの方が、断然いいよね?)
 此処は寒い、と日向を求めることになっても、人工の光の公園よりは。…暑すぎる夏は、日陰を探して入らなければ、肌に光が痛いほどでも。
(空にお日様があるんなら…)
 きっと光を浴びたくなる。前の自分がそうだったように、船から外に出られたならば。
 そうする機会が無いとなったら、増してゆくだろう太陽への憧れ。船の仲間たちは、そう考えていたのだろうか。「太陽の下に立ってみたい」と、「日向に出たい」と。
(そうだったの…?)
 まるで考えてもみなかった。
 白いシャングリラの中だけで暮らした、ミュウの仲間たちの太陽への思い。
(外の世界で暮らしたいだろう、って…)
 踏みしめる地面を求めたけれども、そのために地球を目指したけれど。
 地面があるなら、もちろん空には太陽がある。夜の間は沈むけれども、朝になったら東の空から昇って来て。
 夏には避けたくなるほどの日射し、冬には恋しくなる陽だまり。
 それらをもたらす太陽の光、その下に立つ日を夢見た仲間は、きっと少なくなかっただろう。
 前の自分は思いもしなくて、ただ地面だけを求めたけれど。宙に浮いたままの箱舟よりは、と。



 ようやく気付いた、仲間たちの気持ち。「日向に出たかったかもしれない」と。
 もっとも、日向を手に入れるのなら、やはり地面が必要だけれど。…足の下に踏みしめる地面が無ければ、日向や日陰を作る太陽も無いのだけれど。
(だけど、お日様、欲しかったよね…?)
 前のハーレイたちもそうだよ、と前の自分と重ねてみる。アルテメシアに降りた時には、太陽の下を好んだ自分。「日向が好きだ」という自覚は無くても、自然とそちらを選んでいた。
 ならば、船から外に出られなかった前のハーレイや、船の仲間たちは…。
(ぼくよりもずっと、日向が大好き…)
 願っても手に入らない分だけ、憧れも増したことだろう。輝く太陽の下に立つこと、日向に出て日射しを浴びること。たとえ肌には痛かったとしても、それが本物の太陽ならば。
 きっとそうだ、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。日向と日陰と、どっちが好き?」
 ハーレイが好きなのはどっちなのかな、日向か、日陰か。
「はあ? どっちかって…」
 何の話だ、とハーレイは怪訝そうな顔。「日向か日陰かって、どういう意味だ?」と。
「そのままだってば、お日様のことだよ。お日様があれば、出来るでしょ?」
 日向も、それに日陰だってね。ハーレイはどっちの方が好きなの、日向と日陰じゃ…?
「そりゃ日向だなあ、選ぶとなれば。外で泳ぐんなら、断然、日向だ」
 海にしたって、プールにしたって、お日様ってヤツが似合うじゃないか。水飛沫には。
 こうキラキラと光って弾けて、「泳いでるんだ」と実感できる。太陽の下で。
 もっとも、海だと、日陰なんぞは無いに等しいようなモンだが…。浜辺以外では。
 ついでに無駄に暑い時には、日陰が恋しくなったりもするな。ちょいと休憩しようって時には、日陰に入ることだってある。「こりゃ、たまらんぞ」と日射しを避けて。
「同じだね、ぼくと」
 その日の気分で、日向か日陰か、好きな方を選んでるんだけど…。
 庭のテーブルと椅子もそうでしょ、木の下でお茶を飲む時もあるし、日向に出す時も。
 ハーレイも、今だとぼくと同じみたいだけど、前のハーレイだったら、どう…?



 前のハーレイなら、どうだったの、と投げ掛けた問い。「どっちの方が好きだった?」と。
「ハーレイがシャングリラで暮らした頃だよ、好きだったのは、どっち?」
 日向だったか、それとも日陰か。前のハーレイだと、どっちになるの…?
「前の俺だって? キャプテン・ハーレイだった頃の、俺の好みのことだよな…?」
 改めて、そう訊かれても…。そもそも太陽が無かったからなあ、あの船じゃ…。
 農場用だとか、公園用にと、それらしい光を作っちゃいたが…。自然光に似せた照明ってヤツはあったが、あれは所詮は照明だ。日向や日陰は出来なかったな、船の中では。
 そういったことを考えてみると、日向の方になるのかもしれん。どちらかを一つ選ぶなら。
 日陰に入れば、太陽の光を直接浴びるのは無理だから…。遮られちまって、届かなくて。
 空に太陽があるんだったら、そいつの光をたっぷりと浴びてみたいじゃないか。暑すぎようが、クラクラするほど眩しかろうが。
 そうだな、やはり日向だよなあ、前の俺なら…。
 選ぶなら日向の方だろう、と返った答え。前のハーレイが憧れたものは、やはり太陽の光。踏みしめられる地面の上に立つのと同じに、太陽の下に立ってみたかった、と。
「そうなんだ…。やっぱり、思った通りだったよ…」
 日向か日陰か、前のぼくはどっちが好きだったのか、思い出してみていたんだけれど…。
 前のぼくも日向が大好きだった。アルテメシアに降りた時には、太陽の下にいようとしてた…。
 それで、前のハーレイや船の仲間も、そうだったかも、って気が付いて…。
 ぼくの考えで合ってたんだね、前のハーレイも日向が好き。太陽の光が当たってる場所が。
 前のぼくはちっとも気付いていなくて、地面のことばかり考えていたよ。シャングリラは降りる地面が無かった船だし、「この船は宙に浮いているんだ」って。
 いつか降りられる地面が欲しくて、そればかり思っていたけれど…。
 地面だけじゃなくて、お日様だって欲しかったよね。地面に降りたら、太陽も一緒についてくるもので、手に入れることは出来るんだけど…。ミュウが地面に降りられたなら。
 だけど、其処まで考えが回っていなくって…。
 ごめんね、前のハーレイたちの気持ちも知らずに、あの船の中に閉じ込めちゃって。
 お日様の光も当たらない船で、日向も日陰も出来ない船。
 みんな、太陽が欲しかったんだろうと思うのに…。地面のことばかり言うような、ぼくで…。



 何も分かっていないソルジャーだったよ、と項垂れた。
 船の仲間たちが焦がれているもの、それが太陽だと気付きもしない、愚かなソルジャー。いつか地球へと繰り返しはしても、目指していたものは地面だけ。ミュウが踏みしめられる地面で、その上を照らす太陽の方には、まるで関心が無いままで。
「ホントにごめん…。太陽が無かった船だったのに、ぼくは地面の方ばかり見てて…」
 船のこと、分かっていなかったかも…。船のみんなが、何を求めていたのかも…。
 あの船だけで満足しちゃって、と零した溜息。「足りないものは地面だけだ」と、地球に辿り着く日を夢見ていたとは、どれほど愚かだったのか、と。
 白いシャングリラは、地面ばかりか太陽も持たない船だったのに。皆が焦がれただろう日向は、船の何処にも無かったのに。
「何を言うんだ、シャングリラは立派な船だったのに…。ただの船じゃなくて、箱舟だぞ」
 人類に追われるミュウたちを乗せて、いつか地面に降りられる日まで、命を繋ぐための箱舟。
 乗りさえしたなら、殺されずに生きてゆけるんだ。箱舟だからな。
 それだけでも素晴らしい船だというのに、名前通りに楽園だったぞ?
 船の中だけで全て賄えて、自給自足で飛んでいられる船。前の俺たちには充分すぎる船だった。あれよりも凄い船が欲しいと言うようなヤツは、ただの一人もいなかったろうと思うがな…?
 そんな贅沢な仲間は知らん、とハーレイは自信たっぷりだった。船を預かるキャプテンとして、皆の要望にも目を通し続けていたわけだから。
「でも、お日様…」
 誰も文句を言わない船でも、お日様が無かったことは本当。
 農場も公園も、何処も人工の照明ばかりで、温度の調節と照明は別…。
 本物の太陽があるんだったら、太陽の熱が必ず関係してくるのにね。季節の移り変わりにも。
 だけど、シャングリラはそうじゃなくって…。
 太陽が無いから、日向も日陰も出来なかった船で、前のハーレイだって日向が憧れ…。
 選べるんなら、日向が良かった、って言ったでしょ?
 前のハーレイがそう思うんなら、他のみんなが考えたことも同じだろうし…。
 それでも、あの船は充分すぎる船だって言うの?
 地面も無ければ、太陽も無いような船の中だけが、みんなの世界の全部になっていたんだよ…?



 大切なものが欠けちゃっていた楽園じゃない、と挙げた地面と太陽。白いシャングリラが持っていなかったもの。「楽園」という名を持っていようと、所詮は箱舟。
「そんな船でも良かったって言うの、前のハーレイだって、太陽の光が欲しかったんでしょ?」
 日向が好きだ、って言えるくらいに、太陽の下に立ちたかったのに…。
 それなのに太陽が無かった船、と挙げた欠点。地面ばかりか、太陽も無かったシャングリラ。
「まあな。…それについては否定はせんが…」
 前の俺だって、太陽の光は欲しかった。アルテメシアの太陽でもいい、思い切り浴びられる日が来たならば、と考えたことが無かったとは言わん。…お前と違って、外には出られなかったから。
 前のお前と、潜入班のヤツら以外は、太陽の下には立てやしなかった。いつも船の中で。
 しかし、そういう日々だったからこそ、前の俺たちは地球を目指せたんだ。
 前のお前がいつも言ってた、踏みしめられる地面。…宙に浮いていない世界で生きたかったし、空には輝く太陽が欲しい。地球に着いたら、それが手に入るんだから。
 地面と太陽、何処かの星の上で暮らしていたなら、当たり前に其処にある筈だろう?
 地球はもちろん、アルテメシアでも、ノアでも、人間が生きられる星だったなら、何処だって。
 それを持てずにいたのがミュウだ。前の俺たちは、どちらも持っていなかった。地面も、地面を照らす太陽も、船の中では手に入らない。
 そのせいでナスカが余計に素晴らしく見えたんだろうな、若いヤツらには。
 地球とは違う星だというのに、すっかり魅せられちまったわけだ。欲しかったものが、ナスカの上にあったお蔭で。…古い世代なら、そいつを地球に求めるんだが。
 地面も太陽も、地球でこそだ、とハーレイは苦い顔をする。「ナスカは仮の宿に過ぎん」と。
「そっか、お日様…。ナスカに降りたら、太陽もついてくるものね」
 地面に降りて、其処で暮らして、野菜を育てて、トォニィたちも生まれたけれど…。
 あのナスカには、地面の他にも大切なものがあったんだね。…船のみんなが欲しかったものが。
 空には本物の太陽があって、それが地面を照らしてて…。
「地球じゃないから、太陽は二つあったがな」
 二つもあるのはどうかと思うが、若いヤツらは気にしちゃいなかったんだろう。
 ナスカはこうだ、と思ってしまえば、一つだろうと、二つだろうと…。
 太陽には違いないんだからなあ、燦々と光を降らせてくれれば、充分なように思えたんだな。



 すっかり惑わされちまって…、とハーレイが嘆くナスカという星。地球とは違った赤い惑星。
 おまけに輝く二つの太陽、ジルベスター星系の中心の星は連星だった。地球を擁するソル太陽系なら、太陽は一つきりなのに。アルテメシアがあったクリサリス星系でも、そうだったのに。
 それでも太陽には違いないから、地面の上に出来た日向や日陰。
 ナスカの夏には眩しい日射しが照り付けていたし、冬には暖かな陽だまりがあった。太陽が二つある星とはいえ、その恵みを受けて育つ作物。外にいれば降り注ぐ太陽の光。
(…ハーレイは、惑わされたって言うけど…)
 誰もが長く焦がれていたもの、それが目の前に現れたならば、誰だって夢中になるだろう。古い世代なら、ミュウの未来を憂えるけれども、若い世代が思うミュウの未来は…。
(自分たちの未来で、ミュウ全体のことじゃないよね?)
 いくら歴史を教えられても、若い世代はアルタミラの惨劇に出会ってはいない。燃える炎の中を走って、地獄で命を拾ってはいない。過酷な人体実験も知らず、人類に追われた経験さえも…。
(シャングリラに来る前に、ユニバーサルの保安部隊に追われた程度で…)
 幸運な者は、それさえ知らない始末。早い段階で救出されたら、保安部隊の姿すらも目にせず、小型艇で船に連れて来られただけなのだから。
 そういう世代に、「他のミュウたちのことを思え」と、説くだけ無駄というものだろう。彼らは言わば井の中の蛙、自分たちが見聞きしたことが全て。
(他の星でもミュウが生まれ続けてて、なんとかしないと、みんな殺されるだけで…)
 それを止めるには「地球に行き着く」ことしか無い、と唱えたところで分かる筈もない。安全に暮らせる場所があるのに、どうして危険を冒さなければいけないのか、と考えるだけ。
 「ナスカにいれば安全なのに」と、「此処で生きればいいじゃないか」と。
 踏みしめられる地面もあれば、空に輝く太陽もある。日向も日陰も生まれる世界。
(此処でなら、生きていける、って…)
 思ってしまえば、他のことはもう、頭には入らないだろう。
 ナスカを持たない頃だったならば、「いつか地球へ」と、古い世代と同じに思って育っても。
 地面と太陽が欲しいのだったら、地球へ行かねば、と考えていても。
(どっちも手に入れたんだから…)
 もう地球に行く必要は無い。自分たちだけの未来だったら、ナスカがあれば充分だから。



 そう考えた末に、彼らは道を誤った。天国のようだと思ったナスカに魅せられすぎて。赤い星に魂を奪われすぎて、取り戻すことが出来なくて。
「ナスカって…。若い世代には、地球みたいに見えていたんだと思うよ」
 地面があって、太陽もあって、欲しかったものが一度に手に入った星。…シャングリラの中には無かったものがね。地球に行かなきゃ、手に入らないと思ったものが。
 いろんな意味で、とても大事な星になってしまっていたんだと思う。地球でなくても、ナスカで何でも手に入るんだ、って。地面も、それに太陽も。
 それにトォニィたちまで生まれちゃったら、ますますナスカを手放せないよ。地球よりも素敵に思えていたかも、ミュウの故郷みたいにね。
 そうじゃないかな、と問い掛けてみたら、ハーレイも否定しなかった。
「地球とは違う、ってことを除けば、人間らしく生きられる場所ではあったな。…あの星は」
 足の下には地面があって、頭の上には太陽だから。…どっちも船には無かったものだ。
 やっと普通の暮らしが出来る、と若いヤツらは飛び付いちまって、夢中になって…。仮の宿だということさえも、いつの間にやら忘れちまった。あまりに居心地が良かったから。
 ただし、そいつにこだわり過ぎると、命を落としちまうんだが…。
 キースの野郎がやって来た時点で、危ないと思うべきなのに。しかもキースは逃げてしまって、どう動くのかも分からない。…普通だったら、逃げようと考えそうなモンだが…。
 それさえも思い付かないくらいに、ナスカという星は魅力的だったというわけか…。
 撤収しろ、と出された命令を、古い世代の陰謀みたいに考えるほどに。
 これが船なら、直ぐに危険に気付くんだが…、とハーレイがフウと零した溜息。実際、船なら、皆はそうしただろうから。
 白いシャングリラで警戒警報が鳴って、「総員退避」と繰り返されたら、誰だって逃げる。船の中央の安全な場所へ、先を争うようにして。
「そうだね、船なら、そうなってたね…」
 キースが逃げたっていう話が無くても、警報だけで逃げ出すよ。これは危ない、って。
 だけどナスカは、船の中とは違ってたから…。
 とても素敵な星を手に入れて、まだまだ夢も一杯あって…。そっちに頭が向いちゃった。
 「此処で逃げたら、全部失くしてしまう」って。行きたくもない地球に行くしかない、って。



 勘違いをした若い世代。赤いナスカを離れ難くて、「手放したくない」としがみついて。
 冷静になって考えさえすれば、身の安全が第一なのに。今はどういう状況なのか把握したなら、誰だって直ぐに危険だと気付く。逃げたキースは、メンバーズエリートなのだから。
 けれど彼らは、ナスカという星に酔っていた。其処での暮らしにすっかり魅せられ、何処よりも安全で、素晴らしい場所だと思い込んで。
「シェルターに入れば安全だ、って考えていても、メギドには敵わないんだけれど…」
 ミサイルだって、直撃されたら、シェルターなんかは一瞬で壊れてしまうんだけど…。
 それも分からずに、みんなナスカに残ってしまって…。船で警戒警報が鳴ってる時より、ずっと危ないことにも気が付かないままで…。
 地面とお日様があった場所だし、きっと気が緩んでいたんだね。「此処なら絶対、大丈夫」っていう風に。…ミュウが手に入れた星だったから。
 そうなっちゃったのも分かる気がするよ、ソルジャーじゃない、今のぼくなら。
 お日様の光はとても素敵だもの、日向も日陰も好きに選べて。
 こっちがいいな、って選びさえすれば、暖かくもなるし、涼しくもなるし…。地面もいいけど、太陽も素敵。ナスカだったら、太陽は二つらしいけれどね?
 前のぼくは見ていないけど、と苦笑したナスカの二つの太陽。赤いナスカには降りていないし、太陽を目にすることは無かった。その太陽が作る、日向も日陰も。
「日向と日陰か…。今なら選び放題だよなあ、本物の地球の太陽で」
 どっちが好みか決める時にも、その日の気分で選んでいいんだ。一日の内にも、何回も。
 のんびり日光浴も出来れば、涼しい日陰で過ごすことも出来る。
 前の俺だと、どっちも出来はしなかったんだが…。シャングリラには太陽が無かったからな。
 ナスカには二つもあったとはいえ、キャプテンの立場じゃ、ナスカに肩入れすることは出来ん。俺が率先してナスカ暮らしを楽しんでいたら、若い世代が「お墨付きを貰った」と思うしな?
 ゼルたちが何と言っていようが、「キャプテンもナスカがお好きだから」と。
「そうなっちゃうよね、ハーレイがナスカ暮らしだと…」
 キャプテンも船を降りたんだから、って勝手に噂が流れていそう。
 「地球に行くのは止めたらしい」だとか、「みんなシャングリラを降りるんだ」とか。
 ハーレイの立場じゃ動けないよね、どんなにナスカで日光浴をしたくても。



 「本当にやってみたかったの?」と尋ねてみた、ナスカでの日光浴。キャプテン・ハーレイは、そのキャプテンという立場のせいで、日光浴のチャンスを逃したのか、と。
「おいおい、まさか…。前の俺だぞ、思い付きさえしなかっただけだ」
 日光浴ってヤツを考え付いたら、試してみていた可能性はある。どんなモンかと、日向の地面にゴロンと転がったりしてな。
 健康的ではあるだろうが、と笑うハーレイなら、確かに試したかもしれない。せっかくナスカを手に入れたのだし、太陽の光を存分に浴びるためにはコレだ、と日光浴を。
「…前のハーレイが、日光浴を思い付かなかったということは…」
 やってた仲間がいなかったんだね、ハーレイの目につく所では。…それならいいかな、やろうと思ってても無理だったんなら、前のハーレイが可哀相だから…。
 今のハーレイなら、日光浴もしていそうだけれど。
「していないわけがないだろう? 俺の趣味の一つは水泳だぞ」
 海や屋外プールだったら、水から上がれば甲羅干しだってしたくなる。いい天気ならな。それが醍醐味というヤツだろうが、外で泳いでいる時の。
 前の俺の記憶が戻っていない頃からな、とハーレイはとても嬉しそう。たった今、日光浴をして来たみたいな笑顔で。「日光浴は気持ちいいぞ」と、「髪だって直ぐに乾いちまうし」と。
「ハーレイ、日光浴が好きなんだ…。外で泳ぐんなら、そうなるだろうけど」
 幸せそうな顔をしてるよ、「本当に日光浴が大好き」って、見ただけで分かるような顔。
 記憶が戻った今なら、前よりもずっと幸せなんだと思うけど…。お日様、地球のお日様だから。
「うむ。夏にたっぷり満喫したなあ、地球の太陽」
 お前の所に通っていたから、去年までのようにはいかなかったが…。
 一人で海までドライブしてって、泳いだ後には日光浴、っていうのが定番だったんだが。
 それをやってちゃ、お前が膨れちまうから…。「どうして来てくれなかったの?」と怒って。
「当たり前だよ、仕事なら仕方ないけれど…」
 そうじゃないのに、一人で海までドライブだなんて、酷すぎるから!
 ぼくでなくても怒ると思うよ、そんな恋人。
 一緒にドライブするならいいけど、一人で出掛けて、おまけに日光浴なんて…!



 許すわけないでしょ、と尖らせた唇。いくらハーレイのことが好きでも、膨れたくもなる。海に一人で出掛けるだなんて、ドライブに日光浴なんて。
「ほらな、やっぱり膨れたろうが。…だから今年は、俺一人では行っていないんだが…」
 柔道部のヤツらを連れてっただけで、日光浴はそのついでだ。好きなんだがなあ、日光浴。
 とはいえ、お前はどうなんだか…。
 サイオンはとことん不器用らしいが、アルビノを補えるだけの分なら働いているようだから…。
 日焼けなんぞはしないんだろうな、日光浴をしてみても。
 俺みたいに浜辺に寝転んでても、とハーレイが言うから、首を傾げた。
「どうだろう? 夏に海に行けば日焼けするかも…」
 日光浴ほどに頑張らなくても、遊んでるだけで。夏は暑いし、あんまり外には出ていないから。
 でも、ハーレイみたいな肌になるのは無理だけれどね。ぼくの肌、元が白すぎるもの。
 そういう色にはなれそうにないよ、と見詰めた恋人の褐色の肌。如何にも健康そうな色。
「これは生まれつきだ、日焼けじゃないぞ」
 生まれた時からこういう色だし、日光浴で日焼けしたわけじゃない。勘違いしてくれるなよ?
 俺の肌はこうだ、とハーレイが指差す自分の顔。「身体中、この色なんだがな?」と。
「前のハーレイもそういう肌だったから、そうだろうとは思うけど…」
 もっと黒くはならないの?
 ブラウほどにはならなくっても、もっと色の濃い肌になるとか…?
 日光浴を沢山してたらどうなるの、と興味津々。日焼けしたハーレイも気になるから。この家をせっせと訪ねて来ていなかったら、ハーレイの夏は海で日光浴らしいから。
「日光浴の効果ってヤツか…」
 人によっては効果てきめん、小麦色になるヤツも多いが…。
 俺の場合はこのままだよなあ、元の肌の色がこういう具合なモンだから。
 ガキの頃から其処は同じだ、夏休み中、外を駆け回っていても真っ黒になりはしなかった。俺と一緒に遊んだヤツらが、こんがりと日焼けしちまっても。
 あれはちょっぴり残念だったな、子供心に。
 夏休みに遊んだ思い出ってヤツが、俺の肌には残ってくれないわけだから。



 日焼けした友達が羨ましかった、と子供時代を懐かしむハーレイ。悪ガキだったと何度も聞いているから、活動的な夏休みだったのだろう。肌の色が元から濃くなかったら、小麦色にこんがりと日焼けするほどに。
「俺は日焼けは無理なんだが…。お前だったら、日焼け出来るかもしれないな」
 元が真っ白でも、ほんの少しなら。小麦色とはいかなくても。
 真っ白ではなくなるかもしれん、とハーレイが顔を覗き込むから、想像してみた日焼けした顔。今の肌の色が日焼けしたなら、どうなるのかと。
 ほんのちょっぴり、肌に乗せてみた小麦色。ランチ仲間たちの肌の色などを参考にして。
(んーと…?)
 ぼくじゃないよ、と思った自分の顔立ち。肌の色が白くなくなっただけで。
「…白くない、ぼく…。印象、変わってしまいそう…」
 なんだかヤンチャそうな感じで、悪戯だってしていそう…。ハーレイの子供時代みたいに。
 ケガをしそうな遊びなんかは、ぼくにはとても出来ないけれど…。
「ふうむ…。そう言われれば、そうかもなあ…。お前が白くなくなったらな」
 チビのお前だと、悪戯小僧って気もしないではないが…。それはお前がチビだからで、だ。
 もっと育ったお前だったら、健康的でいい感じかもしれないな。ひ弱そうには見えないから。
 一度、日焼けをしてみるか?
 お前が大きく育ったら…、という提案。「健康的に日焼けしちゃどうだ?」と。
「日焼けって…。海で?」
 ハーレイがドライブに連れてってくれて、海で泳いで、日光浴も…?
 ぼくも一緒に日光浴なの、浜辺なんかで寝転がって…?
「その通りだが? やるんだったら、俺がオイルを塗ってやるから」
 日光浴用のオイルがあるんだ、健康的に日焼けするための。…愛用している人も多いぞ。
「日焼け用って…。日焼け止めじゃなくって、日焼け用なの?」
「夏の海辺じゃ、人気のアイテムなんだがな? その手のオイルは」
 日焼けしたいなら、ムラにならないよう、心をこめて塗ってやる。
 見たい気分になって来たしな、日焼けしたお前。
 そんなお前は、前の俺だって知りやしないし、見てみたい気持ちもしてくるだろうが。



 小麦色とはいかなくても…、とハーレイも想像しているらしい。チビではなくて、育った恋人が日焼けしたなら、どうなるか。どんな印象になるものなのか、と。
(育ったぼくだし、ソルジャー・ブルーが日焼けした顔になるんだよね?)
 思い描いた、大きく育った自分の顔。真っ白な肌の色を変えたら、ソルジャー・ブルーは消えてしまった。同じ目の色と髪の色でも、まるで変わってしまう印象。
 だから…。
「ぼくも、ちょっぴり見てみたいかも…」
 日焼けしちゃった顔になったら、ソルジャー・ブルーに見えないみたい。別の顔だよ。
 面白そうだし、日焼けもいいかも…。ハーレイにオイルを塗って貰って、浜辺で日光浴をして。
 そしたら日焼けするんだよね、と乗り気になった日焼け作戦。いつか大きくなった時には、海に出掛けて泳いで、日焼け、と。
「おっ、やろうって気になったか? だが、ほどほどにしておけよ?」
 お前の想像、小麦色の肌のソルジャー・ブルーみたいだが…。そこまでの日焼けは無理だろう。元が白いし、とてもじゃないが焼けやしないぞ。
 それに欲張って日焼けをすると痛いんだ。少しずつなら大丈夫でも。
 適度な所で切り上げないと…、とハーレイに教えられた日焼けのコツ。欲張らないこと。
「欲張るなって…。ホントに痛いの、欲張ったら?」
 もうちょっと、って頑張っていたら、日焼けで痛くなっちゃうの…?
「お前、サイオンが不器用だからな…。上手い具合にカバー出来るって気がしなくてなあ…」
 アルビノの方なら生まれつきだし、きちんとサイオンが働いてるが…。日光浴だと、サイオンはまるで働かないかもしれないぞ。日焼け、したことないだろう?
 普通はガキの間に学んで、自然と加減が出来るようになっていくんだが…。
 お前の場合は、サイオンが不器用なのに加えて、サイオン抜きだと肌が弱い筈のアルビノだ。
 うっかり日焼けを欲張った時は、「痛い」と騒いでいそうでなあ…。
 その辺のガキなら子供時代にとっくに済ませているのを、今頃になって。
「…そうなのかも…」
 言われてみれば、そういう友達、いたような気が…。
 うんと小さい頃だけれども、日焼けしちゃって、触っただけでヒリヒリする、って…。



 おぼろげだけれど、覚えていること。「痛い」とベソをかいていた友達。あれは幼稚園の頃で、どうやら普通は、その年くらいで覚えるらしい。日焼けと、それをサイオンでカバーする方法。
 けれど自分に経験は無くて、おまけにアルビノ。下手に日焼けをしたならば…。
「でも…。ぼくが日焼けして痛くなったら、ハーレイが面倒見てくれるんでしょ?」
 とっても痛い、って言い出した時は、きちんと手当て。
「手当って…。日焼けのか?」
 あれは病気じゃないんだが…。赤くなった後は、ヒリヒリ痛みはするんだがな?
 後は個人差だな、皮が剥けるってタイプもあれば、剥けないヤツもいるわけで…。お前の場合はどっちだろうなあ、アルビノの日焼けの話は知らんし…。
「火傷みたいなものでしょ、日焼けは! 手当てしてよ!」
 ぼくは痛くてたまらないんだし、冷やすとか、薬を塗ってくれるとか!
「うーむ…。日焼けしたお前は見てみたいんだが、そういったリスクを考えるとだ…」
 日焼け、やめておく方がいいよな、そうなっちまう前に。痛くなったら辛いんだから。
 痛い目に遭うのはお前だぞ、とハーレイは止める方に回った。「日焼けしてみろ」という意見を変えて。さっきまで日焼けを勧めていたのに。
「ぼくも痛いのは嫌だけど…。でも、ハーレイと海には行きたいし…」
 日光浴をするハーレイも見たいよ、海で泳いでいるハーレイもね。だから日焼けも我慢する…。
「俺と一緒に海だってか? それならパラソルを借りることにしよう」
 お前はそいつの陰にいろ。日陰だったら安心だからな、日焼けもしないし。
「やだ!」
 ハーレイが海で泳ぐんだったら、ぼくだって、ついて行きたいってば!
 日焼けをしたってかまわないから、日陰で留守番なんかはしないよ!
 絶対に嫌だ、と拒否した留守番。パラソルの陰がいくら安全でも、一人でポツンと待つなんて。
 きっと賑わっているだろう海辺、其処で一人でハーレイを待っているなんて。
「お前なあ…。俺は沖まで泳いで行っちまうんだぞ?」
 そんな所まで、お前、ついては来られんだろうが。
 ただでも水には長い間、入っていられない身体らしいしな?
 ちゃんと大人しく浜辺で待ってろ、パラソルの陰で本でも読んで。



 日光浴もするんじゃないぞ、とハーレイは諦めさせようとしているけれど。泳いで沖から戻ってくるまで、待たせるつもりらしいのだけど…。
「浮き輪を持つから、大丈夫だよ」
 上に乗っかって一休みすれば、そんなに身体は冷えないから…。
 うんと大きな浮き輪があるでしょ、上に乗っても大丈夫な形をしているヤツが。
 イルカの形とか、色々なのが…、と思い浮かべた頼もしい浮き輪。あれがあったら、沖の方まで一緒に行っても大丈夫、と。
「デカイ浮き輪か…。あれを抱えてついてくるってか、俺と一緒に?」
 そこまで言うなら、ゴムボート、曳いて泳いでやろうか?
 ゴムボートの上なら疲れないしな、浮き輪を抱えてせっせと泳いで行くよりは。
 ずいぶん楽になる筈だぞ、とゴムボートに乗せて曳いて行ってくれるらしいから…。
「ゴムボートって…。いいの?」
 ぼくを乗っけて引っ張るだなんて、ハーレイ、疲れてしまわない?
 沖まで行くなら、とても大変だと思うけど…。ホントに乗せて行ってくれるの?
「俺を誰だと思っているんだ、大したことではないってな。お前を連れて泳ぐくらいは」
 だが、パラソルまではついて来ないぞ、ゴムボートには。
 日焼けしちまってもいいと言うなら、一緒に沖まで行こうじゃないか。
 後で「痛い」と泣くんじゃないぞ、と脅された日焼け。日陰が無いなら、本当に日焼けしそうな気がしないでもないけれど…。
「痛くなっても我慢するよ!」
 日向も日陰も、本物の地球のお日様のお蔭で出来てるんだし…。日焼けも、そのせい。
 だから日焼けで痛くなっても、ぼくは後悔しないってば!
 ハーレイと一緒に沖に出られるなら、お日様で日焼けしてもいい、と宣言した。
 その時が来たら、「日陰がいい」と注文するのも忘れて、ゴムボートの上で揺られていそう。
 「地球のお日様だよ」とニコニコしながら、燦々と夏の日射しを浴びて。
 そのせいで、後で「痛い」と泣く羽目になっても、ハーレイと沖まで出掛けてみたい。
 地球の太陽を一杯に浴びて、真っ青な真夏の地球の海の上を。
 二人きりの世界を満喫しながら、日陰すら無い日向の世界を、青い水平線に向かって…。



            日向と日陰・了


※前のブルーがこだわっていた、踏みしめるための地面。ミュウは持っていない、と。
 けれど同じに持っていなかったものが、太陽。必要なものは、地面だけではなかったのです。
 ところで、ハレブル別館ですけど、アニテラ自体が、既にニーズが皆無な今。
 来年は月に1度の更新に変えて、もう1年だけ続けてみます。その後は、未定。
 毎日更新のシャングリラ学園場外編の方は、やめる予定はありませんので、よろしくです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv











「おーい、ブルー!」
 今度の土曜日は暇なのか、と訊かれたブルー。学校が終わって、帰ろうとしていた所で。
 声を掛けて来たのは、いつものランチ仲間の一人。誘われたことは嬉しいけれども、日が問題。土曜日はきっと、ハーレイが来てくれる筈だから…。
「えーっと…。今度の土曜日は…」
「そうか、ハーレイ先生な!」
 羨ましいな、と弾けた笑顔。ハーレイは生徒に人気が高くて、柔道部員の生徒でなくても、声を掛けたくなる先生。その先生と、週末を家で過ごしているのが自分。ハーレイが用事で来られない時を除いたら。
 「ブルーが来られないんだったら、俺たちだけで行って来るけど…」と、続けた友達。
 「ハーレイ先生に何か用事が入った時には、来てくれればいい」と。
「土曜日に公園で集合だから…。時間までに来れば、俺たちと一緒に行けるしな」
 あそこの公園、と教えて貰った待ち合わせ場所。それに集合する時間も。
「何処に行くの?」
「俺の親戚の家だけど…。子猫が生まれたから、会いに行くんだ」
 生まれた子猫の予約会かな、という説明。五匹いるから、今から貰い手を決めておくのだとか。お母さん猫から離れてもいい頃になったら、予約した子猫を連れて帰れる仕組み。
「子猫…。まだ小さいのが五匹もいるの?」
「おう! 白いのも黒いのもいるんだぜ。どれも可愛いんだ!」
 ハーレイ先生、断って俺たちと一緒に来るか、と尋ねられた。「今なら選び放題だぜ?」と。
「子猫はとっても好きなんだけど…。見てみたいけど、うちじゃ飼えないから…」
 可愛くても無理、と肩を落とした。
 子猫はもちろん、大きくなった猫も大好きだけれど、家では猫はとても飼えない。弱く生まれた自分だけでも、充分に手がかかるのだから。
(すぐに寝込むし、病院に行かなきゃ駄目な時もあるし…)
 母には迷惑をかけてばかりで、この上、猫までいるとなったら大変だろう。猫の分まで、食事の世話など。それに自分が学校に出掛けて留守の間は、子猫の面倒を見るのは母。
 子猫がそこそこ大きくなるまで、寂しがったりしないくらいに育つまで。



 駄目だよね、と諦めざるを得ないのが子猫を飼うこと。どんなに可愛い子猫でも。
「お前の家、駄目か…。でも、飼えなくっても、見る価値あるぜ?」
 好きなんだったら、遊ぶだけでも、と友達は気前がいいけれど。子猫たちの飼い主も、お客様は歓迎らしいのだけれど…。
「ううん、いい…。どうせ飼えないし、欲しくなったら困るから…」
 行って来たら子猫の写真でも見せて、と断って、後にした教室。友達は他のランチ仲間の方へと走って行った。きっと土曜日の打ち合わせだろう。
(…子猫、ホントに飼えないし…)
 いいんだけどね、と向かったバス停。少し待ったらバスが来たから、乗り込んだ。いつもの席に座っている間に、もう着いた家の近くのバス停。其処から歩いて、帰った家。
 母がおやつを用意してくれて、ダイニングのテーブルで頬張ったケーキ。母の手作り。
(子猫に会いに行くだけだったら…)
 本当の所は、出掛けてみたい。白いのも黒いのもいるという五匹、きっと可愛いだろう子猫に。
 貰い手でなくても、子猫たちとは遊べるのだから。誰かが予約を入れた子猫でも、「ぼくも」と抱いたり、撫でてやったり。
(だけど、土曜日だったから…)
 子猫たちに会いに出掛けるのならば、ハーレイと会うのを断るしかない。「その日は駄目」と。
 恋人が来るのを断るだなんて、そんな悲しいことは出来ない。二人きりで会える週末の土曜日、それを自分から断るなんて。
 「もっと別の日に誘ってくれれば良かったのに」と、残念な気分。
 五匹の子猫に会いに行く日が別の日だったら、自分も一緒に行けただろうに。
(でも、土曜日と日曜日は駄目…)
 週末になったら、ハーレイが訪ねて来てくれるのが当たり前。誘ってくれた友達だって、直ぐに分かってくれたくらいに。「ハーレイ先生が来る日だよな」と。
 ハーレイに特に用事が無ければ、午前中から家に来てくれる。天気のいい日は歩いたりして。
(学校のある日も、放課後に来てくれたりするし…)
 考えてみたら、「行けそうな日」がまるで無い自分。
 子猫に会いに行かないか、と誘って貰っても。五匹の子猫と遊びたくても。



 空いている日は無いみたい、と戻った二階の自分の部屋。空になったケーキのお皿やカップを、キッチンの母に返してから。
(今日も時間は空いてるけれど…)
 学校が終わった後に予定は入っていないし、のんびりおやつを食べていたくらい。面白い記事が載っていないか、新聞を広げてみたりもして。
 自由に出来る時間はたっぷり、これからも予定は無いのだけれど。こんな日だったら、放課後に「行こう」と誘われたならば、子猫たちに会いに行けるのだけれど…。
(みんなと子猫を見に行ってたら…)
 きっと帰りは遅くなる。子猫たちと遊んだり、「この子を下さい」と予約する友達を眺めたり。飼い主の人も、おやつを出してくれたりもして「ごゆっくりどうぞ」と、大歓迎だと思うから…。
(じきに時間が経っちゃうよね?)
 放課後だから少しだけ、と思って行っても、アッと言う間に経つ時間。いつもより、ずっと遅くなるだろう帰宅。もしかしたら、すっかり日が暮れて暗くなってしまっているほどに。
(遅くなっちゃった、って家に帰ったら…)
 玄関を開けて「ただいま」と声を掛けた途端に、母に言われるかもしれない。「ハーレイ先生がいらしてたわよ」と、「おかえりなさい」の声の続きに。
(そんなの、困るよ…)
 ハーレイが部屋で待っていてくれたらいいのだけれども、とっくに帰ってしまっていたら。
 「ブルー君はお留守でしたか」と、そのまま戻って、停めてあった車に乗り込んで。
(何時に帰るか分かんないんだし、何処に行ったのか、ママも知らないし…)
 ハーレイは帰ってしまうのだろう。「来てみたが、今日は留守だったか」と、人影の無い二階の窓を見上げて。「あそこがブルーの部屋だよな」と、小さく呟いたりもして。
(ぼくが子猫と遊んでいる間に、そうなっちゃって…)
 家に帰ったら、いないハーレイ。
 子猫に会いに出掛けなかったら、ハーレイと過ごせていた筈なのに。この部屋で二人でゆっくり話して、両親も一緒に夕食を食べられる筈だったのに。
(…ぼくが出掛けていたせいで…)
 逃してしまった、ハーレイと二人でいられる時間。せっかくハーレイが来てくれたのに。



 そうなるのが嫌で、いつも放課後は家にいる自分。何処かに出掛けて行きはしないで。美容室に髪を切りに行ったりした日も、終われば急いで家に帰って。
 いつハーレイが来ても、「留守か」と言われないように。帰ってしまわれないように。
(今のぼくの時間…)
 まるで、ハーレイを中心に動いているよう。
 ハーレイが来るとは限らない日も、こうして家にいるのだから。「子猫たちに会いに行こう」と誘われたって、きっと「行かない」と断って。
(放課後に行こう、って話だったとしたって、行っちゃったら…)
 そういう日に限って、来そうなハーレイ。平日に家を訪ねて来る日は、予告なんかは全く無い。仕事が早く終わった時には来てくれるけれど、そうでない日は駄目だというだけ。
(学校で会っても、そういうことは何も話してくれないし…)
 「今日は帰りに寄れそうだ」とか、「行けそうにない」といった類のことは話してくれない。
 他の生徒もいるからだろうか、「ハーレイ先生」が大好きな生徒たち。彼らが「いいな」と指をくわえて見ていたのでは、なんだか可哀相だから。
(ぼくだけ特別扱いだものね?)
 いくら聖痕を持っている子で、ハーレイがその守り役でも。「時間が許す限りは、側にいる」という役目を背負っている立場でも。
(他の子から見たら、羨ましいだけで…)
 「ハーレイ先生を一人占め」なのが、今の自分。それが表に出過ぎないよう、学校の中では他の生徒と同じ扱い。「今日は帰りに寄ってやるから」とは言ってくれずに。
(そうなんだろうと思うけど…)
 お蔭で分からない、ハーレイの予定。家に来てくれるのか、そうでないのか。
 分からないから、毎日のように待つことになる。「来てくれるといいな」と窓の方を見て。
 ハーレイがチャイムを鳴らさないかと、耳を澄ませて。
(遊びに行こうって誘われたって、断っちゃって…)
 家に帰って、ただハーレイを待っている。来るか来ないか、まるで分からない恋人を。
 もしもウッカリ出掛けてしまって、会えるチャンスを逃したならば、悲しくなってしまうから。
 週末ともなれば、もう絶対に入れない予定。今日も、子猫の予約会を断って帰ったように。



 考えるほどに、ハーレイを中心に回っているのが自分の時間。
 週末はもちろん、今日のような平日の放課後だって。ハーレイに会える機会を逃さないように、自分だけの予定は一つも入れないで。
(ぼくの時間は、ハーレイを中心にして回ってて…)
 ハーレイの方でも、似たようなもの。
 仕事をしている大人なのだし、子供の自分ほどには「縛られていない」というだけで。あくまで大人の世界が優先、教師としても、「ハーレイ」という一人の人間にしても。
(先生同士のお付き合いとか、ハーレイの古い友達だとか…)
 柔道や水泳の先輩なども、チビの恋人より優先されることだろう。ハーレイが使える時間の中でやりくりするなら、チビの自分は後回し。
(ちゃんと「恋人です」って紹介できる恋人だったら、もうちょっと…)
 優先順位が上がりそうだけれど、今の所は「ただの教え子」。…聖痕を持っている子供だから、他の生徒よりは「側にいて貰える」というだけのことで。
(だけど、順番は後の方でも…)
 ハーレイが使う時間の中では、今の自分も軸の一つになっている。自分を中心に回る時もある、ハーレイの時間。
 週末は出来るだけ、予定を入れないようにして。平日だって時間を作って、仕事の帰りに家まで来てくれたりもして。
(なんだか、待ち合わせをしているみたい…)
 自分も、それにハーレイも。
 週末はともかく、今日のような平日はそうかもしれない。会えるかどうかは分からないままで。
(ハーレイの仕事が早く終わって、ぼくが家にいたら…)
 この部屋で会えて、ゆっくり話して、夕食は両親も一緒に食べる。食後のお茶を此処で飲む日も珍しくない。ハーレイが「またな」と立ち上がるまでは、二人きりで。
(そういう時間があったらいいな、って…)
 思いながらの待ち合わせ。
 本当に待ち合わせをするのだったら、時間も場所も決めるのだけれど、それは謎のままで。
 場所は「この家」でいいとは言っても、家の前とか、そういったことは決めていないのだから。



 お互い、相手に「会えるといいな」と思いながらの待ち合わせ。
 ハーレイは待っているのではなくて、「来る」のだけれど。自分は家で「待つだけ」だけれど。
 そうして会えたら、とても嬉しくて、駄目ならガッカリ。待ち合わせの約束はしていなくても。
(ハーレイが来てくれなかったら、ぼくはガッカリだし…)
 そのハーレイの方も、訪ねて来た時に「留守」だったならば、ガッカリだろう。子猫と遊ぼうと出掛けてしまって、家に帰っていないとか。…母も一緒に家を空けていて、誰もいないとか。
(そんなの、ハーレイに悪いから…)
 こうして今日のように待つ。何も予定を入れはしないで、「来てくれないかな?」と。
 ハーレイは、どうだか知らないけれど。今日は予定が入ってしまって、来られないとか。長引く会議に出席中とか、他の先生たちと食事を食べに行くことになったとか。
 そうなっていたら残念だけれど、ハーレイの予定は分からない。学校で会っても、何も話してはくれないから。「今日は行くから」とも、「行けない」とも。
(前のぼくたちだった頃には…)
 待ち合わせなどはしなかった。今のようなものも、本当の意味での待ち合わせも。
 恋人同士になった後にも、前の自分は、青の間でハーレイを待っていただけ。前のハーレイが、ブリッジでの勤務を終えて報告にやって来るのを。…キャプテンとしての一日の締め括りを。
(航宙日誌とかも、ちゃんと書いてから…)
 青の間を訪れていたキャプテン。報告を終えたら、もうキャプテンではなくなるから。
 恋人同士で過ごす時間で、次の日の朝まで、「キャプテン・ハーレイ」はいなくなるから。
(前のぼくは、待ってるだけで良くって…)
 待ち合わせなどはしていない。何処かに出掛けて待っていなくても、ハーレイは必ず来てくれたから。夜になったら、青の間まで。
 「来ないのだろうか」と心配することも無くて、どんなに遅くなった時でも、ハーレイは来た。前の自分が疲れてしまって、先に眠ってしまっていても。
 来てくれて当然だったハーレイ。だから待ち合わせはしていない。ただの一度も。
(視察に行く時にも…)
 ハーレイが迎えにやって来たから、やっぱりしていない待ち合わせ。
 ソルジャーとしても、ハーレイの恋人としても、前の自分はハーレイを待っていただけで…。



(やっぱり今と同じじゃない!)
 待ち合わせをしていなかっただけで、と気が付いた。前の自分も今と変わらない、と。
 今と同じに、ハーレイを中心に動いていた時間。意識していなくても、毎日がそう。前の自分のためだけにあった、あの青の間で一人、ただハーレイを待っていた。
 来る日も来る日も、夜になったら。
 「まだ来ない」だとか、「もうすぐだ」とか、サイオンを使ってハーレイの様子を探りながら。
 そして、あの頃のハーレイは…。
(ぼくを中心には動いてなかった…)
 ソルジャーだった前の自分はともかく、ハーレイの恋人だった方の自分は違う。前のハーレイが使う時間の中心ではなくて、いつも後回しにされていた。ハーレイはキャプテンだったから。
(夜までかかる仕事があったら…)
 当然のように、そちらが優先。恋人の所に駆け付けるよりも、シャングリラの方が大切だから。
 そうやって仕事を終えた時間が遅くなければ、報告のために急いで青の間に来ていたけれど…。
(あの報告を急いでいたのは、ソルジャーのためで…)
 翌朝まで報告を持ち越すよりは、と急ぎ足で通路を歩いていただけ。時には走ったりもして。
 「ソルジャー」が待っているのでなければ、ハーレイは急ぎはしなかっただろう。通路を走って来ることも。
 たとえ恋人を待たせていたって、キャプテンの仕事が最優先。忙しい日なら、訪ねられないまま終わったとしても仕方ない。「遅くなるから」と思念で一言、詫びておくだけで。
(謝った後は仕事に戻って、帰って行く先もキャプテンの部屋で…)
 ぐっすり眠って疲れを癒して、次の日に備えたのかもしれない。恋人の所に出掛けてゆくより、休息を取ることが大切だから、と。
(前のハーレイは、キャプテンだったから…)
 恋人同士になるよりも前から、「朝食はソルジャーと一緒に青の間で」という習慣が船に出来ていた。一日の予定などの報告を兼ねて、ソルジャーとキャプテンの二人で朝食。
 その習慣があったお蔭で、遅い時間になった時でも、ハーレイは青の間にやって来た。とっくに恋人は眠った後でも、次の日の朝に、朝食を一緒に摂るために。
 恋人が「ソルジャー」だったからこそ、来ていた青の間。キャプテンの部屋で眠る代わりに。



 前の自分が「ただの恋人」なら、前のハーレイの時間を縛れはしなかっただろう。自分を中心に時間をやりくりして貰うなどは、夢のまた夢で。
 白いシャングリラを預かるキャプテン、その職はとても多忙だから。恋人のために時間を割けはしなくて、「今日も行けない」と謝ってばかりの毎日だっただろうから。
(だけど、今だと…)
 ハーレイはチビの恋人のために動いてくれる。本当にチビで「キスも出来ない」自分のために。
 会いに行くための時間を作ろうと、懸命に。週末はもちろん、仕事がある日も。
(どうしても駄目な日も、多いんだけど…)
 待っていたって、チャイムが鳴らずに終わる平日も多いのだけれど。…そうでない日は、時間を作ってくれたということ。自分と出会うよりも前なら、ハーレイが好きに使っていただろう時間。それを恋人のために使って、この家を訪ねて来てくれる。
(ドライブに行ったり、ジムに出掛けたり…)
 幾らでもあった、ハーレイの時間の使い方。この家を訪ねて来ないのだったら、好きに使ってもいい時間は沢山。
 けれど、ハーレイはそうしない。仕事が早く終わった時には、必ず訪ねてくれるのだから。
 そう考えると、なんて幸せなのだろう。前の自分だった頃とは違って、ハーレイの時間を縛れる自分。「ソルジャー」ではなくて、「恋人」として。
(チビで、キスもして貰えないけど…)
 幸せだよね、と改めて思った自分のこと。
 「留守の間に、ハーレイが来たら大変だから」と待ってばかりで、放課後に友達と一緒に遊びに行けはしなくても。…「行こう」と誘われても、子猫に会いには行けなくても。
(子猫、可愛いだろうけど…)
 誘われた日が土曜日ではなくて、平日の放課後だったなら、と思わないではないけれど。子猫に会いに出掛けていたなら、駄目になりそうな待ち合わせ。
 時間も場所も決めていなくても、毎日がハーレイと待ち合わせのようなものだから。
(来てくれた時に家にいなかったら、ハーレイ、帰ってしまうから…)
 そうなるよりかは、こうして待っていたいと思う。子猫には会いに行かないで。
 今度は「恋人」の自分のために、時間を作ってくれるハーレイを。家を訪ねて来てくれる人を。



 ハーレイが来ない日になったとしても、「留守にしている間に来た」と後で知らされるよりは、ずっといい。友達と出掛けて留守の間に、訪ねて来て「留守か」と帰られるよりは。
(子猫と楽しく遊んだ後に、帰って来たら…)
 ハーレイも帰ってしまった後。母から「ブルーは留守です」と聞いて、車に乗って。ドライブに行くか、ジムに行くのか、ハーレイの好きに時間を使いに。
(そう聞いちゃったら、ガッカリで…)
 楽しく遊んだことも忘れて、気分がすっかり落ち込むのだろう。「行かなきゃ良かった」と。
 どうして遊びに行ってしまったのかと、子猫たちの可愛さも頭の中から消えてしまって。
(ホントにそうなっちゃうんだよ…)
 自分の頭をポカポカ叩いて、「ぼくの馬鹿!」などと怒ったりして。もしかしたらポロポロ涙も流して、「どうして遊びに行っちゃったの…?」とベッドの上で膝を抱えて。
 きっとそうだ、と考えていたら、聞こえたチャイム。窓に駆け寄ってみると、ハーレイが大きく手を振っている。門扉の向こうで。
(ハーレイが来るの、待ってて良かった…!)
 やっぱり子猫を見に行ってちゃ駄目、と弾ける喜び。誘われたのが土曜日でなくても、放課後に行ける平日だとしても、出掛けて行ったら後悔しそう。こんな風にハーレイが来る日だったら。
(きちんと家で待っていなくちゃ…)
 待っていたから会えるんだよ、と嬉しくてたまらない気分。「家にいて良かった」と。
 嬉しい気持ちは顔にも出るから、ハーレイとテーブルを挟んで向かい合うなり、問われたこと。
「お前、なんだか嬉しそうだな」
 今日はやたらと、顔が輝いてるように見えるんだが…。俺の気のせいか?
「違うよ、ホントに嬉しいんだよ。だって、ハーレイが来てくれたんだもの」
 それで嬉しくない筈がないでしょ、ハーレイはぼくの恋人だものね。…ずっと昔から。
 今のぼくたちになる前からね、と言ったのだけれど、ハーレイは怪訝そうな顔。
「恋人同士なのは間違いないが…。俺は何度も来てると思うぞ、この家に」
 しかし、今日みたいに嬉しそうな顔は、そうそう見ない。何かいいこと、あったのか?
「いいことって…。どっちかって言うと、その逆だけど…」
 とても素敵な話があったの、断って帰って来たんだけれど…。



 土曜日に子猫を見に出掛けるのを断ったのだ、と話したら。「それが放課後でも、行かない」と今の自分の気持ちを、ハーレイに正直に説明したら…。
「断ったって? お前、子猫と遊びたかったんだろう?」
 今からでも別に遅くはないしな、土曜日に出掛けてくればいいのに…。
 待ち合わせの場所と時間は聞いたんだろうが、その時間に行けば、まだ充分に間に合うぞ?
 素敵な話だと思うんだったら、行くべきだと俺は思うがな…?
 子猫を飼うのは無理にしたって、とハーレイは「行け」と勧めてくれた。五匹もいるという子猫たち。白いのも黒いのも、どの子猫たちも可愛い盛り。「遊ぶだけでも楽しいだろう」と。
「でも、ハーレイと会えなくなっちゃう…」
 土曜日はハーレイが来てくれる日だよ、予定があるとは聞いてないもの。
 子猫の予約会に行ってしまったら、土曜日はハーレイに会えないままだよ。ぼくは留守だから。
 来てくれたって家にいないんだもの、と瞬かせた瞳。「この部屋は朝から空っぽだってば」と。
「俺か? 俺は放っておけばいいだろ、子供ってわけじゃないんだから」
 お前が友達と出掛けるんなら、俺も何処かに出掛けるとしよう。行き先は幾つもあるからな。
 気ままにドライブするのもいいし、道場で指導するのもいいし…。
 どれにするかな、とハーレイが指を折り始めたから、「駄目だってば!」と止めにかかった。
「ハーレイには何も用事が無いのに、ぼくがいないからって出掛けるなんて…」
 会えないで土曜日が終わっちゃうなんて、そんなのは嫌。
 今日みたいに此処で会える日は全部、ぼくはハーレイに会いたいんだから…!
 「平日だって、ぼくは出掛けないよ」と、膨らませた頬。誘われたのが今日の放課後だったら、大変なことになっていたから。
 五匹の子猫とたっぷり遊んで、御機嫌で家まで帰って来たら、母が「おかえりなさい」の続きに告げること。「ハーレイ先生がおいでだったわよ」と。
 けれど、そのハーレイは帰って行った後。訪ねて来たのに、目当ての恋人が留守だったから。
「それはまあ…。そうなるだろうな、お前が留守なら」
 じきに帰ると言うんだったら、お母さんだって、客間や此処に通してくれるだろうが…。
 何処に行ったか分からない上に、戻る時間もまるで分からないとなったなら…。
 お母さんは俺を引き止められんし、俺の方でも居座るわけにはいかないってな。



 そんな図々しい真似が出来るか、とハーレイは帰ってしまうらしい。予想した通り、留守の間に来てしまった時は。…行き先も、家に戻る時間も分からない時は。
「ほらね、やっぱり帰るんじゃない…。ぼくが出掛けてしまっていたら」
 それは嫌だから、家にいようと思ったんだよ。今日みたいな日の放課後だって。
 ハーレイを家で待つのがいいよ、って考えていたら、ハーレイが来てくれたから…。
 ぼくの考え、間違ってなんかいなかったよね、って、とても嬉しくなって…。それでハーレイに訊かれちゃった。「何かいいこと、あったのか?」って。
 ホントはその逆だったんだけど、と残念ではある「子猫たちに会いに行けない」こと。この家でハーレイを待つのだったら、これから先もチャンスは無さそうだから。
「そうだったのか…。嬉しい反面、残念な気持ちもあるってことだな」
 俺には会えても、子猫たちには会えないから。…俺が来るのを待とうとしたら。
 まあ、その内にチャンスが巡って来ないとも言い切れないが…。俺に仕事が入っちまった時は、週末でも駄目な時はある。そういう時に、また誘われたりしたならな。
 それなら遊びに行けるだろうが、とハーレイは慰めてくれた。「俺の代わりに子猫と遊べ」と、「貰われて行くまでには、まだまだ日があるだろうしな」と。
「…そうかもね…。予約会なんだから、まだ暫くはお母さん猫と暮らすんだろうし…」
 もしもハーレイが来られない日になりそうだったら、あの友達に頼んでみるよ。子猫たちを見に行ってもいいのか、親戚の人に訊いてみて、って。
 でも、子猫たちと遊ぶよりかは、ハーレイを待っていられる日の方がいいかな…。
 だってね、今のハーレイだと…。
「俺がどうかしたか?」
 子猫に比べりゃ、可愛さってヤツがまるで無いんだが。…でっかく育っちまったから。
 見ての通りの図体なんだし、見た目も可愛いって年じゃないよな。ガキの頃なら、今よりは多少マシだったとは思うんだが…。
 それでも可愛くはなかったぞ、とハーレイは可笑しそうな顔で笑っている。子猫の方がずっと、可愛らしくてお得だろう、と。
 「こんな俺なんかを待っているより、子猫だ、子猫」と。
 白いのも黒いのもいる子猫たちに会いに行く方が素敵だろうと、ハーレイは笑うのだけれど…。



「…可愛さだったら、子猫の方がハーレイよりも上だと思うけど…」
 ぼくよりも可愛い筈だけれども、でも、ハーレイは子猫たちより素敵なんだよ。ずっと遥かに。
 恋人だから、っていうだけじゃなくて、今のハーレイだからこそ。今のハーレイにしか出来ないことだよ、ぼくが素敵だと思うことはね。
 今のハーレイは、前のハーレイと違って、ぼくのためにだけ時間を作ってくれるから…。
 週末もそうだし、今日だってそう。
 ぼくに会いに来るために、時間をやりくりしてくれてるでしょ、仕事を早く終わらせたりして。
 他の誰かのためじゃなくって…、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。前のハーレイなら、恋人の方の自分は後回しだったから。「ソルジャー・ブルー」は優先されても。
「そういや、そうか…。前の俺だと、ソルジャーのお前が優先か…」
 お前がソルジャーだったお蔭で、それで不自由は無かったんだが…。ソルジャーのために時間を割いたら、お前のために割いているのと同じだったから。
 報告に出掛けてゆくにしたって、お前の所へ急いで走って行くにしたって、同じことだったな。
 しかし、お前がソルジャーじゃなくて、他の仲間たちと同じミュウの中の一人だったら…。
 俺はキャプテンだったわけだし、そうそうかまってやれないか…。
 いつも「後でな」と後回しにして、「遅くなった」と謝ってばかりの毎日になって。
 前の俺たちのようにはいかないかもな、とハーレイは顎に手を当てた。「キャプテンだったら、恋人のために時間は割けん」と、「ソルジャーしか優先出来そうにないな」と。
「でしょ? 前のハーレイには無理だったんだよ」
 ぼくのためだけに、時間を作るのは。…キャプテンの時間を、恋人用にやりくりすることは。
 前のぼくはソルジャーだったお蔭で、ハーレイの時間を貰っていただけ…。
 ハーレイが時間を使う時には、その中心にいられただけ。恋人じゃなくて、ソルジャーだから。
 でもね、今だと、ハーレイの時間をぼくのものに出来る時もあるでしょ?
 普段は仕事や、ハーレイの先輩や友達なんかが、ハーレイの時間の中心になっていたってね。
 チビのぼくでも、ちゃんとハーレイに時間を作って貰えるから…。
 ソルジャーじゃなくて、ただの生徒で、ハーレイの教え子の中の一人でも。
 前のぼくには出来なかったことだよ、恋人用にハーレイの時間を貰うってことは。
 どう頑張っても無理なことだったし、前のハーレイだって、そうしないものね…?



 それに気付いたから幸せなのだ、と笑顔で話した。ハーレイが来る前に考えたことを。
 今はお互い、待ち合わせをしているようなもの。「会えたらいいな」と二人揃って。
 時間と場所とが決まっていないだけで、毎日、待ち合わせているみたいじゃない、と。
「そう思わない? ぼくはこの家でハーレイを待ってて、待っていたくて…」
 来てくれるかどうか分からなくても、留守にしたくはないんだもの。ハーレイが来た時に、家にいないと後でガッカリしちゃうから。
 ぼくはそうやってハーレイを待って、ハーレイの方も待ち合わせに急いでいるんでしょ?
 約束なんかはしていなくっても、ぼくに会えたら二人で話が出来るから…。今日みたいにね。
 待ち合わせの場所は決めてなくても、会えたらいいな、って仕事を早く終わらせたりして。
「ふうむ…。時間も場所も、決まってはいない待ち合わせなのか…」
 俺たちがこうして出会える時には、お互い、待ち合わせをしてるわけだな?
 場所はお前の家なんだが…。決まっているような気がしないわけでもないんだが…。
 そうか、待ち合わせか、お前と俺が会う時には。
 お前は俺が来るのを待ってて、俺はお前が待ってる所へ行こうと時間をやりくりしてる、と。
 上手くいったら会えるんだな、とハーレイも頷く「待ち合わせ」。会えずに終わってしまう日も多いけれども、今日のように会える時もあるから。
 ハーレイが時間を作りさえすれば、待っている自分が何処かに出掛けてしまわなければ。
「うん、待ち合わせ…。何も決めてはいないけれどね」
 ハーレイも、ぼくも、何処で会うのか、何時に会うのか、場所も、時間も。
 それでも会える時には会えるし、ちゃんと立派に待ち合わせだよ。自分の時間をどう使うのか、恋人を中心に考えていって。…ぼくも、ハーレイも、他の予定を入れないで。
 …前のぼくたちは、本物の待ち合わせもしていないけどね。恋人同士の待ち合わせは。
 何処で会うとか、何処に行くとか…、と前の自分たちが生きた時代を思う。白いシャングリラで暮らした頃には、無理だった。ハーレイと二人、恋人同士で待ち合わせをして会うことは。
 あの船がどんなに広くても。
 船で生きていた他の仲間たちが、公園などで恋を語らっていても。
 ソルジャーとキャプテンが船の中で二人一緒にいるなら、友達としてか、あるいは視察か。他に理由を作れはしない。恋人同士で出掛けたくても、待ち合わせなどをしたくても。



 長く二人で生きていたのに、誰にも言えなかった恋。明かせないままで終わってしまって、暗い宇宙に消えた恋。待ち合わせさえも一度も出来ずに、それきりになった恋人同士。
「前の俺たちは、難しい立場にいたからなあ…。シャングリラでは」
 ソルジャーとキャプテンが恋人同士なんだと知れたら、あの船はおしまいだったから。
 誰一人として、俺たちの意見を真面目に聞いてはくれなくて。…皆がそっぽを向いちまって。
 そうならないよう、恋を隠すしかなかったが…。待ち合わせなんぞは出来もしないで。
 しかし今度は出来るわけだな、今も待ち合わせをしてるんだから。
 時間も場所も決めちゃいないが…、とハーレイが笑む。「今日も、お前は待ってたっけな」と、「俺も待ち合わせに間に合ったようだ」と。
「そうだよ、毎日が待ち合わせ。…時間も場所も決めてなくても、恋人同士で待ち合わせだよ」
 ハーレイが来ないで終わっちゃった日は、ガッカリだけど…。
 子猫と遊びに出掛けた方が良かったのかな、と思っちゃう日もありそうだけど…。
「すまんな、そういう日も多いから…」
 こればっかりは仕事の都合で、俺の付き合いというヤツもある。…他の先生と食事だとかな。
 その日に決まることも多いし、どうすることも出来ないんだが…。
 学校でお前に言ってやろうにも、他の生徒が羨ましそうに見そうだからなあ、「会うんだ」と。会えない日の方が多いにしたって、会える日の方が断然、目立つだろ?
 それに「会える」と話した後でだ、何か用事が入っちまったら、待ちぼうけをさせてしまうってわけで…。だから予告は出来ない、と。
 もっとも、それも今だけのことだ。
 お前が大きくなった時には、もう待ち合わせは要らないからな、とハーレイが言うから驚いた。
「え? 要らないって…。どういうこと?」
 ぼくが大きくなった時でしょ、前のぼくと同じ背丈になって…?
 それならデートに行くんだろうし、そういう時には、待ち合わせ、しない?
 いろんな所で、恋人と待ち合わせをしている人たち、いるじゃない。
 公園の入口とか、喫茶店とか…、と思い付いた場所を挙げてみた。そういった所は、カップルの待ち合わせ場所の定番。チビの自分でも知っているほどに、恋人たちを見掛ける場所。
 デートに行く前に時間を決めて、お互い、其処へと出掛けて行く。二人で過ごす一日のために。



 今の自分も大きくなったら、そうするのだろうと思ったのに。
 ハーレイとデートに出掛ける時には、恋人同士で待ち合わせなのだと考えたのに…。
「俺がお前を待たせるわけがないだろう。…公園にしても、喫茶店にしても」
 お前を待たせる暇があったら、家まで迎えに来るもんだ。俺が早めに家を出て来て。
 車でドライブってわけじゃなくても、此処まで迎えに来ないとな。デートの時には、俺が必ず。
 そいつが俺の役目だろうが、とハーレイは迎えに来るつもり。待ち合わせをする代わりに、この家のチャイムを鳴らして、「さあ、行こうか」と。
「迎えに来るって…。本当に?」
 そんなの、ハーレイ、面倒じゃないの?
 ドライブに出掛けて行く時だったら、迎えに来るのが普通かもだけど…。そうじゃない時まで、家に迎えに来なくても…。ぼくの方なら、待ち合わせでかまわないんだけれど…?
 公園でもいいし、喫茶店でも、と思ったままを口にした。待ち合わせも、きっと幸せだから。
 約束の時間より早く着いても、ハーレイが来そうな方を眺めて待つ。「遅いよ!」などと怒りはしないで、「もうすぐ来るかな?」とワクワクしながら。
「待ち合わせ自体はいいんだが…。お前、丈夫じゃないからなあ…」
 前と同じに弱い身体に生まれちまったし、これからも弱いままなんだろうし…。
 待ち合わせ場所まで出て来いだなんて、言えるもんか。
 此処は地球だぞ、シャングリラの中とは違うんだ。待ってる間や、其処まで行く間に、いきなり雨が降って来るとか、思ってたよりも寒い日になってしまうとか…。
 それじゃ駄目だろ、お前の身体が悲鳴を上げちまう。デートに出掛けるよりも前にな。
 用心のためにも、俺が此処まで迎えに来る、という言葉。
 車で出掛けるわけではない日も、場合によっては車を出して。「この方がいい」と判断したら。
 待ち合わせをしない代わりに臨機応変、どんな時でも、恋人の身体に負担をかけないように。
 そして結婚した後は…。
 やはり無いという待ち合わせ。ハーレイは自信たっぷりで言った。
 「待ち合わせは、もう要らんだろう」と。「いつも一緒だし、必要ないぞ」と。
「でも、ハーレイの仕事の帰りとかに…」
 待っているっていうのは駄目なの、仕事に行く時は、ハーレイは一人なんだから…。



 ちょっと何処かで待ってみたいよ、とハーレイにぶつけてみた、おねだり。
 学校の近くの喫茶店で待って、一緒に食事に出掛けてゆくとか、そういう幸せな待ち合わせ。
「近くの店なあ…。お前が待ってみたいんだったら、それも悪くはないんだが…」
 俺が家まで迎えに帰った方が良くないか?
 仕事に行くなら車なんだし、家に帰るのも早いから。…お前もその方が楽だぞ、きっと。
 用意だけして家で待ってろ、とハーレイは言ってくれるのだけれど、待ち合わせだってしたいと思う。結婚前には出来ないのならば、結婚した後でかまわないから。
「ううん、たまには待ってみたいよ。…でも、結婚前のデートの時には駄目なんでしょ?」
 それなら、結婚しちゃった後。ハーレイが仕事に行っている日に、待ち合わせ。
 今のぼくだと、今日みたいに待っているんだもの。時間も場所も決めないままで。
 そんな待ち合わせが終わった後には、もう待ち合わせが無いなんて…。つまらないでしょ、前のぼくたちは待ち合わせをしていないんだから。…恋人同士の待ち合わせをね。
 だからやりたい、と強請った待ち合わせ。結婚して二人で暮らし始めたら、ハーレイが出掛けた仕事先の近くの、何処かで待って。
「お前がしたいと言うのなら…。「駄目だ」と止めるわけにはいかんな」
 だったら、お前が元気な時で、天気のいい日。そういう時なら許してやろう。待っているのを。
 それでいいなら、仕事の帰りに待ち合わせをして出掛けてやるが…。
 あくまで俺の車でだぞ、と念を押された。「もう遅いんだから、歩くのは駄目だ」と。
「いいよ、ハーレイの車でも。…ぼくは何処かで待っているから」
 喫茶店がいいかな、って思っていたけど、本屋さんも退屈しなくていいかも…。
 ハーレイの仕事が終わる時間まで待っているから、会えたら一緒に出掛けようよ。遅くなっても平気だから。…ハーレイ、ちゃんと来てくれるしね。
「遅くなっても、って…。お前、無理はするなよ?」
 待ってる間に気分が悪くなったら、帰っちまっていいんだぞ?
 店の人に伝言を頼んでおくとか、学校に電話してくるとかして。…「先に帰る」と。
「無理なんか、ぼくはしないってば!」
 駄目だと思った時は帰るよ、我慢していつまでも待っていないで。
 家に帰って大人しくするから、そうじゃない時は二人で出掛けなくっちゃね…!



 無理をして待ったりは絶対しない、と約束をした。
 具合が悪くなりそうだったら、諦めて家に帰るから、と。待ち合わせは次のお楽しみにして。
(せっかくハーレイと出掛けるんだし、その後で、ぼくが寝込んじゃったら大変…)
 ハーレイは「俺のせいだ」と慌てそうだから、そうならないよう、気を付けよう。余計な心配をかけないように、「また行こうな」と言って貰えるように。
 今も待ち合わせのような毎日だけれど、いつかは本物の待ち合わせをしたい。
 お互いの時間の都合を合わせて、食事やドライブに出掛けてゆく。ハーレイと二人で。
 シャングリラでは一度も出来なかったから、きっと楽しいに違いない。
 ハーレイが遅れてやって来たって、自分が早く着きすぎたって。
 出会えた後には、二人きりで出掛けてゆくのだから。
 好きに時間を使えるわけだし、恋人同士の素敵な時間が始まる合図が待ち合わせだから…。



            待ちたい時間・了


※前のブルーも、今のブルーも「ハーレイを待っている」わけですけど、違った状況。
 ハーレイの時間が「本当の意味で」ブルーを中心に回っているのは、平和な時代だからこそ。
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(天才作曲家…)
 うーん、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 SD体制の時代よりも遥かな昔に、「神童」と呼ばれたモーツァルト。前の自分も、彼の名前は知っていた。「かつて、そういう作曲家がいた」と。
 神童だけあって、最初の作曲は五歳の時。誰が聞いても幼児な年齢、今も昔も。
(この時代だから、天才作曲家になれたんだ…)
 新聞には、そう書いてある。天才作曲家が生まれた背景について。
 モーツァルトが生きた頃の時代は、人間は地球しか知らなかった。空を飛ぶ術も無かった時代。もちろん子供は自然出産、養父母ならぬ乳母や養育係に育てられた子もいたのだけれど…。
(才能を見せた子供を、そのまま親が育ててたから…)
 天才作曲家が誕生した。他の分野にも大勢の天才、早くに親元を離れた子でも。親を亡くして、あちこちの家を転々とした子供でも。
 彼らに共通していたことは、「記憶を失わなかった」こと。生まれた時からの一切を。
 けれど、SD体制の時代では、そうはいかない。十四歳になった子供は記憶を処理され、大人の社会へ旅立ってゆく。生まれ育った故郷を離れて。
 幼少期に見せた優れた才能、それについては、機械が記憶を消去する時に…。
(消さずに残しておいたけれども、才能、上手く開花しなくて…)
 どんな分野にも、群を抜いた天才は出なかった。後の時代にも称えられるほどの才能を持った、優れた者は。
(SD体制が終わったら…)
 現れるようになった神童たち。モーツァルトのように、幼少期からの才能を伸ばし続けて、その名声を轟かせる者。様々な分野で頭角を現し、語り継がれる偉大な天才たち。音楽家や、画家や。
(SD体制は文化と相性が悪かったものね?)
 多様な文化を消してしまって、一つに統一していた機械。その方が統治しやすいから。
 文化と相性が悪い時代なら、芸術の天才が現れないのも当然だろう。芸術は文化なのだから。
 芸術でなくても、きっと多くの才能の芽を摘んでしまったに違いない。
 記事には書かれていないけれども、一事が万事。子供時代に示した才能、それを見事に咲かせる代わりに、凡庸な人生を歩んだだろう人類たち。…どの分野でも。



 天才が生まれて来なかった時代。機械が統治していたせいで。
(記憶処理なんかをするからだよ)
 きちんと記憶が残っていれば、結果は違っていたんだから、と戻った二階の自分の部屋。新聞を閉じて、空になったカップやお皿をキッチンの母に返しに行って。
(…記憶がきちんと残っているのと、消えちゃったのとでは…)
 その後も変わってくるだろう。人は幾つもの経験を積んで、才能を開花させるもの。自分の力で道を見付けて、「これが自分にピッタリの道」と。
 機械が記憶を消した時代は、そうではなかった。才能を見せた子供がいたなら、それを生かせる道を機械が選ぶけれども、持っては行けない子供時代の記憶の全て。
(技術とかならそれでもいいけど、芸術の方は…)
 成人検査を境に途切れる、天才への道。どれほどの才能を持っていようとも、子供時代の記憶を失くせば消える天才の資質。才能を育んだ過去と一緒に、基盤が消えてしまうのだから。
(どういう切っ掛けで、どういう風に…)
 作曲したのか、絵を描いたのか。それが消えれば、どうにもならない。
 魂を失くしているのと同じで、もう蘇りはしない過去。インスピレーションも、何もかもが。
(そうなっちゃったら、誰だって…)
 神童と呼ばれた頃の才能は引き継げない。開花させてゆくことも出来ない。
 「自分」という人間が何者なのか、それも掴めない状態では。「今の自分」が出来上がるまでの記憶を消された、根無し草では。
(機械は上手にやったつもりでも、人間の心というヤツは…)
 そう単純じゃないんだから、と前の自分は知っている。
 成人検査で過去の記憶を消してしまうのは、機械に都合がいいというだけ。人間には、何の益も無いこと。…人間の方に、そういう自覚が無かっただけで。
(SD体制に疑問を持ったりしないように…)
 記憶を消去し、御しやすくしたのが成人検査。
 機械はそれで良かったけれども、幾つもの弊害が生まれ続けた。そしてどうやら、神童さえもが才能の芽を摘まれたらしい。
 ミュウが端から滅ぼされたのとは別の次元で、あの忌まわしい機械のせいで。



 SD体制が敷かれた時代は、出ずに終わった天才たち。消えてしまった優れた才能。
 前の自分たちは、成人検査と過酷な人体実験のせいで、子供時代の記憶を全て失くした。検査をパスした人類以上に、何もかもを、全部。
(なんにも思い出せなくて…)
 養父母の顔も、生まれた家も、おぼろにさえも浮かばないまま。
 メギドの炎で燃えるアルタミラから逃げ出したミュウは、一人残らずそうだった。誰も覚えてはいなかった過去。何処で育ったのか、どういう暮らしをしていたのかも。
(前のぼくたちだって、記憶を失くしていなかったなら…)
 凄い芸術家が、船で生まれたりもしたのだろうか。画家や音楽家や、他にも色々な才能が。
 ミュウの船では、行われなかった成人検査。白いシャングリラに来た子供たちは、機械に記憶を消されはしない。ミュウの世界に、成人検査は無いのだから。
 あの船にいた子供たちと同じに、前の自分たちも、子供時代の記憶を一つも失うことなく、船で暮らしていたならば…、と、考えてみた。
 誰か芸術家になっていたかも、と古参の者たちの顔ぶれを。ゼルやブラウや、ヒルマンたちを。
 芸術とは無縁な彼らだったけれど、記憶を失くしていなかったなら…。
(…ゼルたちでなくても、アルタミラから一緒だった仲間の中の誰かが…)
 とても見事な絵を描いたとか、作曲の才能を持っていたとか。その可能性はゼロとは言えない。成人検査と人体実験が記憶を白紙にしなかったならば、いたかもしれない芸術家。
(…芸術家…?)
 そういえば、と思い出したこと。
 芸術家に心当たりは無いのだけれども、発表の場ならあったっけ、と。
 白いシャングリラにあった劇場。ブリッジが見える船で一番広い公園、あそこに劇場が作られていた。野外劇場といった趣の、階段状になった観客席を設けたものが。
(古代ギリシャ風とか、ローマ風とか…)
 遠い昔の半円形の劇場、それに似ていたシャングリラの劇場。白い石で出来ていた観客席。
 船の中だから屋根は要らないし、観客席だけがあれば良かった。階段状になった席から、舞台を見下ろすことが出来れば。…催し物を楽しむことが出来れば。
 劇場は、芸術の発表の場所。音楽にしても、演劇にしても、踊りにしても。



 公園にあった、白い野外劇場。あれはいったい、誰が作ろうと声を上げたのだろう?
 発表の場ではあったけれども、あの劇場を思い付いた者は誰だったのか。
(ぼくは劇場では、何もしてないし…)
 子供たちが主役の芝居や、歌の発表会を見に行っただけ。観客席に座って眺めただけ。其処から拍手を送ってみたり、舞台の子たちに手を振ったりして。
 観客だっただけで、何も発表していなかった前の自分。歌いもしないし、芝居に出演したことも無い。舞台に立ちたいと思ったことも。
(自分が出たいと思わないなら、劇場なんか…)
 作ろうと言いはしないだろう。それが欲しいと思いはしないし、芸術とも無縁だったのだから。
 前の自分はそういった風で、ゼルたちも同じだったと思う。劇場で歌を歌いはしないし、芝居で舞台に立つことも無くて。
(それとも、忘れちゃってるだけ…?)
 今の自分に生まれ変わる時に、何処かに落としてしまった記憶。あるいは埋もれている記憶。
 そのせいで「知らない」と考えるだけで、本当はゼルたちも劇場の舞台で歌っていたとか、演劇などに出ていただとか。自分が覚えていないからといって、「無かった」と言うのは難しい。
(劇場は、ちゃんとあったんだしね…)
 それが必要だと思った誰かが、あの船にいた。白い鯨になる前の船に。
 誰だったのかは分からないけれど、芸術を愛していたのだろう誰か。発表の場になる劇場が船にあればいいのに、と考えた誰か。
(設計段階から組み込まないと、劇場は無理…)
 公園の斜面を利用する形で設けられていた、階段状の観客席。古代の劇場を真似た形の。
 白かった石は、何処かの星から採取して来た、本物の大理石だっただろう。本物が手に入るのであれば、合成品などは使わないのが改造の時の方針だから。
(あれだけの量の大理石だと…)
 纏めて採掘、それから加工。劇場の舞台と、観客席とを築き上げるために。
 一日や二日で出来るわけがない、採掘と加工と、劇場の建設。斜面の傾斜に合わせて石を積み、観客席の形に仕上げてゆくことは。
 それだけの工事が必要なのだし、後から作ってはいないと思う。公園と同時に出来ていた筈。



 きっとそうだ、と今の自分でも分かること。あの劇場は最初から公園にあったものだ、と。
(白い鯨になってからだと、色々、大変なんだから…)
 部屋の改築とは比較にならない手間がかかるのが、大理石を使った劇場作り。船に大理石の用意などは無いし、採掘から始めなければいけない。大理石がある星を探して。
(アルテメシアに着いてしまったら、もう探しには行かないし…)
 それよりも前の時期にしたって、劇場作りのためだけに航路を変更したりはしないだろう。行き先を決めない旅の途中でも、「大理石が欲しい」というだけのことで、採掘の旅を始めるなどは。
(やっぱり、最初からあったんだよね…?)
 どう考えても、それが一番自然なこと。公園を整備してゆく時に、劇場も其処に組み込むのが。
 けれど、劇場を思い付いたのは誰なのか。誰が「作ろう」と提案したのか、その辺りが謎。
(言い出しっぺは、誰だったわけ…?)
 芸術などとは無縁そうな船で、「劇場が欲しい」と考えた仲間。劇場の舞台で歌いたかったか、芝居をしようと夢を見たのか。
(歌も、お芝居も…)
 記憶にあるのは子供たちばかり。アルテメシアで船に迎えた、ミュウの子供たち。機械に記憶を消されはしないで、船で育った子供たちしか思い出せない。
(だけど、誰かが言い出さないと…)
 船に劇場は無かった筈。子供たちを船に迎えてからでは、あの劇場を作れはしない。野外劇場のような立派な劇場を公園に作るのは無理で、歌や芝居の発表会をしたいなら…。
(天体の間を使えばいい、って…)
 誰かが口にしただろう。元々、集会の場として設けた部屋だし、充分、使える。階段もあって、上の階から下を見下ろす観客席も可能な構造。
(同じ高さのフロアにしたって…)
 前の方の仲間は直接床に座らせたならば、幾らでも作れる観客席。舞台代わりになるスペースを決めて、その周りを区切っていったなら。椅子を並べたり、敷物を敷いてみたりもして。
(子供たちの発表会なんだから…)
 それで充分。劇場を新しく作らなくても、天体の間で出来る発表会。
 子供たちが船に来てからだったら、そうなったろう。「発表会なら、天体の間で」と。



 なのに、シャングリラにあった劇場。子供たちの姿がまだ無い頃から、アルテメシアに辿り着く前から。…劇場で何か発表したいと、考えそうな者がいない頃から。
(ホントに誰だったんだろう…?)
 劇場を作ろうと思った仲間。それが欲しいと言い出した誰か。
 いくら記憶を手繰ってみても、まるで見えない「誰か」の面影。「ホントに謎だ」と頭を抱えてしまった所へ、聞こえたチャイム。上手い具合に、仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、早速、訊いてみることにした。テーブルを挟んで、向かい合わせで。
「あのね、ハーレイ…。劇場のことを覚えてる?」
「劇場だって?」
 何処の劇場だ、とハーレイは怪訝そうな顔。「劇場と言っても色々あるが」と、今の時代にある劇場を思い浮かべているようだから…。
「今のじゃなくって、シャングリラのだよ。公園に作ってあったでしょ?」
 ずっと昔の野外劇場みたいなヤツが。白い大理石で、階段みたいな観客席になってた劇場。
「ああ、あれか。…もちろん、俺も覚えているが?」
 ブリッジからもよく見えていたしな、忘れるわけがないだろう。あれは立派な劇場だったし…。
 あそこで何かやってる時には、ブリッジまで声が聞こえたもんだ。歌も、芝居も。
 子供たちが賑やかにやっていたよな、とハーレイも懐かしんでいる。劇場のことを。
「あの劇場…。誰が言い出したか、覚えていない?」
 きっと最初から、公園にあったと思うんだけど…。子供たちが来てから作ったんじゃなくて。
 後から作るのは大変そうだし、そうするよりかは、天体の間を使った方が早そうだから…。
 子供たちの歌やお芝居だけなら、天体の間があれば充分だしね。
 だから劇場は最初からあって、白い鯨に改造する時に「作ろう」って決めて作ったもの。それを言ったの、誰だったのかを覚えてないかな、ハーレイだったら…?
 ぼくは忘れてしまったみたい、と項垂れた。「少しも思い出せないんだよ」と。
「それはまあ…。改造計画の中心だったのは、ゼルやヒルマンたちだしなあ…」
 ソルジャーのお前は、報告を聞くとか、そういった立場だったから…。
 忘れちまっても無理はあるまい、細かいことは。どういう具合に進めていたかも。
 俺の場合はキャプテンだったし、そんなわけにはいかないが…。船全体を掴んでいないとな。



 劇場のことも覚えているぞ、とハーレイは大きく頷いた。「忘れちゃいない」と。
「あれを作るんだ、と言い出したヤツも覚えてる。最初から船にあったこともな」
 今のお前が言ってる通りに、あの劇場は公園と一緒に作ったヤツだ。後からじゃなくて、公園の計画を立てた時には組み込まれてた。此処に劇場、というプランがあって。
「…それ、誰だったの?」
 公園に劇場を作る計画を立てたのは?
 まだ子供たちもいなかった船だよ、劇場を作って、何をしようとしていたわけ…?
 歌やお芝居の発表会かな、と傾げた首。そういうものしか思い付かないし、前の自分が観客席に座って観たのも、子供たちの歌や演劇などだったから。
「モノが劇場なんだから…。好きそうなのは誰か、お前だって見当がつくと思うが?」
 ああいったものが好きだったヤツだ、あの船の中で。…アルタミラからの脱出組でな。
 俺ではないが、とハーレイが除外した「自分」。前のハーレイではないらしい。劇場で何か披露したいと考えた「誰か」は、ハーレイを除いた仲間の中の一人。
「…ゼルだったのかな?」
 そうなのかも、と挙げてみた名前。若かった頃のゼルの姿が浮かんだから。
「ゼルだって? どうしてゼルの名前が出るんだ」
 よりにもよって、という言葉からして、ゼルではなかったのだろう。公園を作りたがった仲間は他の誰かで、ゼルではない。
「だって、ゼル…。若い頃には、よく歌っていたから…」
 気分がいい時は、でたらめな歌を。「俺が一番強い」とかね。ハーレイも忘れていないでしょ?
 ゼルが何度も歌ってたこと、と理由を話した。「だからゼルかと思っちゃった」と。
「歌なあ…。確かに上機嫌で歌ってはいたが、それだけだったぞ」
 あれは芸術とは言えなかったな。芸術とは呼べない代物だったと俺は思うが…?
「芸術?」
「そうだ、芸術だ。劇場で披露するとなったら、やはり芸術が相応しい」
 ゼルが好き勝手に歌ってた歌では、まるで話にならないってな。
 同じ歌でも、きちんとしたヤツ。ずっと昔から歌い継がれた歌を歌うとか、そんなのでないと。
 あの劇場が生まれた理由は、芸術の発表の場としてだから。



 芸術的な歌を歌えないゼルは全く無関係だ、とハーレイが切って捨てたゼル。楽しそうに歌っていただけのゼルは、芸術とは無縁の輩なのだ、と。
「いいか、あそこに劇場を作った理由は、だ…。前のお前が絵本を残させたのと同じだ」
 絵本を読む子供は誰もいないのに、お前、絵本を残させていただろう?
 「これを読む子が、いつか来るかもしれないから」と。…古くなった絵本も、ちゃんと大切に。
 それと同じで、ミュウの未来を見詰めていたのがヒルマンとエラで…。
 絵本の話で、あいつらも思い付いたんだろう。シャングリラの未来の可能性ってヤツを。
 いつか子供たちが船に来ると言うなら、情操教育も必要になる、と言い出したわけで…。
 其処から劇場に繋がったぞ、というハーレイの話で蘇った記憶。前の自分も出ていた会議の席。
「思い出したよ…!」
 エラとヒルマンだったっけね。劇場が欲しいって言い出したのは。
 ブリッジの周りの広いスペース、本当は何も作らない予定だったのに…。危ないから。
 船が攻撃された時には、ブリッジの辺りは集中的に狙われるだろうし、何も作らずに放っておくつもりだったのに…。みんなが公園を欲しがっちゃって…。
 それで公園が出来ちゃった、と浮かべた苦笑。
 公園は本来、避難場所にもなるべき空間。危険な区域を公園にするなど言語道断、どんなに広いスペースだろうと、ブリッジの周りは無人の区画にしておくべき。
 けれど、緑の大切さを知った船の仲間たちは、「公園にしたい」と譲らなかった。避難場所には使えなくても、攻撃されたら退避しかない公園でもかまわないから、と。
 其処まで皆が望むのならば、とブリッジの周りは公園として整備することになった。何処よりも広い空間を持った、シャングリラ最大の公園に。
(それが決まったら、ヒルマンとエラが…)
 公園に欲しい、と言い出したのが劇場だった。
 「そんなに広い公園を作ると言うのだったら、其処に劇場を作りたい」と。
 スペースは充分すぎるほどにあるし、憩いの公園の中に劇場。それがあったら役立つだろうし、公園ならば観客も多く集まりやすい。「何かやっている」と気付けば、行けばいいのだから。
 わざわざ皆を呼び集めずとも、観客の方から舞台を覗きに来てくれる。公園という場所に作っておいたら、居合わせた者たちが気軽に、気楽に。



 ヒルマンとエラが出した案。一番広い公園の中に、皆が立ち寄れる劇場を一つ作ること。
「劇場じゃと? その劇場でワシが歌うのか?」
 歌うのはワシも好きじゃがのう…、と応じたゼル。「じゃが、ワシの歌で人が集まるか?」と。
「ゼルの歌だけじゃ無理だろうさ。お世辞にも上手くないからねえ…」
 あたしたちも歌うことになるのかい、とブラウが尋ねた。ゼルの歌だけで人は集まらないから、他にも歌い手が必要なのか、と半ばおどけて。
「それは好き好きだが…。ゼルもブラウも、歌いたいなら歌ってくれればいい」
 劇場を作るということになれば、誰が使うのも自由だろう。公園は公共のスペースだから。
 それに今の船では、これという才能を持った仲間もいないのだがね…。
 歌にしても、演劇などにしても…、とヒルマンは実に正直だった。劇場を作って貰えるくらいに素晴らしい才能、「それは船には無いのだ」と。
 けれども、それは今だけのこと。アルタミラから脱出して来た者たちの中には「いない」だけ。
 「いつか子供たちを、この船に迎えられたなら…」と、話したヒルマン。
 機械に記憶を消されていない子供が来たなら、目を瞠るような才能が育つ可能性がある、と。
「才能だって…?」
 それはどういう意味なんだい、と前の自分は問い返した。「才能」という言葉の意味なら分かるけれども、ヒルマンの意図が掴めない。
 機械に記憶を消されていない子供だったら、どんな才能を持つと言うのか。才能は個人が持っているもので、それぞれの資質の問題なのでは、と。
「言葉通りに才能です、ソルジャー。…私たちの仮説に過ぎないのですが…」
 ヒルマンと考えてみたのです、とエラがヒルマンの代わりに答えた。
 遠い昔には何人もいた、「神童」と呼ばれた子供たち。幼い頃から、飛び抜けた才能を輝かせる子供。とても小さな手で大人顔負けの演奏をしたり、作曲をしたり。
 誰もが驚く、見事な絵を描く子供たちもいた。彼らは長じて天才と呼ばれ、後の時代にも名前を残した。天才画家とか、天才作曲家などと褒め称えられて。
 ところが、SD体制の時代に入った後には、途絶える記録。
 何百年も経っているのに、一人も現れない天才。どの分野にも、優れた才能を持った人物は誰も姿を現さないまま。皆が等しく教育を受けて、才能を生かせる道に進んでいる筈なのに。



 SD体制が始まってからは、見られなくなった「天才」たち。かつては何人もいたというのに、今の時代ならば、より才能を上手く伸ばせる筈なのに。
「もしかしたら、と考えたのだよ。…天才と呼ばれた人物の多くは、神童だった」
 中には遅咲きの天才もいたし、全てがそうだとは言わない。だが、遅咲きの天才も、神童だった天才の方も、共通していることはある。…彼らは誰も、子供時代を失くしてはいない。
 今の時代は、機械が記憶を処理してしまう。成人検査で、子供時代の記憶の殆どを曖昧にして。
 それが影響しているのかもしれない、と思ってね…。
 才能が芽生えた子供時代を、機械が処理してしまうから…。才能は残したつもりでいても、人の心は複雑なものだ。記憶の全てが揃っていてこそ、天才になれると思わないかね…?
 あらゆる要素が絡み合って初めて、天才と呼べる才能がこの世に生まれるのでは、とヒルマンは自分の見解を述べた。「今の時代のシステムの中では、天才は生まれそうにない」と。
「私も同じ考えです。ヒルマンと何度も話し合う内に、そうではないかと思い始めました」
 ですから、いつか私たちの船に、子供たちを迎えられたなら…。
 記憶処理をされていない子たちを迎えられたら、素晴らしい才能が目を覚ますかもしれません。
 その時に備えて、劇場が欲しいと思うのですが…。ヒルマンも、私も。
 公園の中に作りたいのです、とエラは願ったし、ヒルマンも「欲しい」と望んだ劇場。
 ブリッジの周りに広い公園を作るのだったら、劇場も其処に作っておきたい、と。
「同じ作るのなら、古代風の劇場にするのがいいと思うのだがね?」
 人間が自然と共に暮らして、芸術を愛した昔のような劇場がいいね、どうせなら。
 古代ギリシャや、ローマといった時代の劇場が似合いそうだよ。公園の中に作るのならば。
 観客席が階段のようになっていてね…、とヒルマンは具体的なイメージを既に頭に描いていた。白い大理石を使った劇場がいいと、遠い昔の劇場の姿を真似てみようと。
「ほほう…。悪くないのう、気に入ったわい」
 これならば手間もさほど要らんし、とゼルが賛成した古代風の劇場。
 大理石の採掘や加工は必要だけれど、他には特にかからない手間。公園の端の方に出来る斜面を利用し、階段のように客席を作ってゆくだけだから。
 舞台も大理石を敷くだけでいいし、天井も壁も必要としない。それでいて、威厳がある佇まい。
 古代風の白亜の劇場となれば、小さいながらも、きっと立派なものになるから。



「そっか…。ヒルマンの意見で、古代風の劇場になったんだっけ…」
 すっかり忘れてしまっていたけど、ちゃんと理由があったんだね。ずっと昔の劇場風に、って。
 ああいう劇場、今の時代の劇場とは全く違うけど…。
 シャングリラの写真集しか知らない人だと、説明を読まないと、何の施設か分からないかも…。
 完全に古代風ってわけでもないし、と思い浮かべてみた劇場。本物の古代ギリシャやローマ風の劇場だったら、半円形にすべきだから。ただの階段状ではなくて。
「前の俺たちが生きてた時代にだって、ああいう劇場は無かった筈だぞ」
 劇場と言ったら建物の中だ、SD体制の時代には。…野外劇場なんかは無かった。
 今の時代なら、古代風のも探せば無いことはないだろう。野外劇場も珍しくない時代だから。
 それに平和な時代だからな、とハーレイが笑む。「文化も沢山復活してるし、古代風のが好きな人たちも多いから」と。
「今の時代なら、昔のとそっくりに作れそうだけど…。ちゃんと半円形にして」
 でも、シャングリラだと真似事だったね、其処まで凄いのは作れなくって。
 だけど、それでも文化を復活させてたことになるのかな…。ぼくたちの船で。
 昔の通りには作れなくても、古代風の劇場を目指して作って、それを使っていたんなら…。
「そうなるな。…一足お先に、文化の復活をやっていたようだ」
 ミュウの時代も来ない内から、ずいぶんと気の早い話だが…。
 子供たちさえ来ていなかった船で、いったい何をしてたんだかな…?
 使い道も特に思い付かない劇場なんて…、と今のハーレイでも思う劇場。船の改造の必要性なら皆が感じていたことなのだし、誰も不思議に思いはしない。公園を作る計画も。
 けれど、皆が望んだ、船で一番大きな公園。ブリッジの周りのスペースを生かした、何処よりも広い公園の中に「劇場が出来る」と聞いた仲間たちは驚いた。
 其処で何をすればいいのだろう、と。
 劇場などとは無縁だったのが船の仲間で、使い方さえピンと来ないのだから。
 どうすれば、と途惑う仲間たちを前にして、前の自分は微笑んだ。
 「思い付いた人が、好きに使えばいいと思うよ」と。
 音楽だろうが、芝居だろうが、誰もが好きに使ってこそ。公園の中に設けるのだから、使い方は皆のアイデア次第。娯楽用の施設なのだし、観客になるのも、演じるのも好きにすればいい、と。



 そうは言っても、それまでが芸術とは全く無縁だった船。才能を持つ者もいなかった。
 白いシャングリラが無事に完成して、公園も劇場も出来たけれども、船にあったのは歌くらい。その歌だって、あくまで個人の趣味のもの。機嫌がいい日に口ずさんでいるという程度。
 楽器を演奏する者もいないし、芝居をしたい者もいなかった船。それでは、誰も舞台に立とうと考えはしない。誰も舞台に立たないのだから、観客が集まる筈もない。
 白い大理石で築かれた劇場、それは放っておかれたまま。観客の代わりに、公園を訪れた誰かが座って休憩するとか、そんな具合に使われ続けた観客席。
 そういった日々が長く続いて、劇場はただの「階段」と化していたのだけれど…。
「子供たちが来てから変わったんだっけね、あの劇場も」
 公園の中の階段みたいになっていたのに、ちゃんと本物の劇場になったよ。
 観客席に何人も人が座って、拍手をしたり、応援したりで。
「うむ。ヒルマンが発表会を計画したのが最初だったな、子供たちを集めて」
 あそこは劇場なんだから、と練習もさせて、発表会の日には、船中の仲間たちにも知らせて。
 「是非、見に来てくれ」と言われなくても、誰だって興味はあるもんだから…。
 大入り満員というヤツだったな、とハーレイが懐かしむ、一番最初の発表会。子供たちの歌や、踊りや、演劇。初めて使われた白亜の劇場。
 それが評判になったお蔭で、劇場は子供たちの発表の場になった。歌だけの時や、芝居などや。
 いつも観客が入るわけだし、ヒルマンの指導にも熱が入ってゆくというもの。
 そして指導をするとなったら、エラもブラウも張り切った。大の子供好きだったゼルだって。
 普段はヒルマン任せの教育、其処に何度も顔を出しては、批評や助言や、色々なことをしていたゼルたち。ヒルマンも「実に貴重な意見だ」と、彼らを見守ったものだから…。
「客演だってしてたっけ…。ゼルやブラウたち」
 歌は一緒に歌ってないけど、劇に出てるのは何度も見たよ。とても楽しそうに。
「誘われるからな、子供たちに。…何度も顔を出してる内に」
 俺だって危なかったんだが…。指導に出掛けたわけじゃなくって、視察だったのに。
 これもキャプテンの仕事の内だ、と見に行く間に誘われちまった。「一緒に出てよ」と。
 前のお前も、そうだっただろ?
 子供たちと一緒に遊ぶのが好きで、それを自分の仕事みたいにしていたからな。



 劇場に出るよう、誘われてたぞ、というハーレイの指摘。「お前もだが?」と。
「えーっと…? 前のぼくって…?」
 いつも客席で観ていただけだよ、と答えたけれども、そういえば誘われたのだった。子供たちと一緒に遊んでいたら、「ソルジャーも出る?」と。
 発表会の準備を兼ねての遊びの時間に、子供たちと鳴らしたタンバリン。それを舞台で鳴らすというだけ、音楽に合わせて軽やかに。
(とても簡単だし、出てみたくって…)
 子供たちと劇場の舞台に立とう、と胸を躍らせたのに、ヒルマンとエラに止められた。すっかりその気で練習していたら、それは厳しい顔つきで。
 「ソルジャーの威厳が台無しだ」と苦言を呈した二人。タンバリンを叩いている所に現れて。
「…出ては駄目だって…。どうしてだい?」
 こうして練習しているじゃないか、本番で失敗しないようにと。大丈夫、ちゃんと鳴らすから。
 此処でタンタンと二回叩いて、シャンと鳴らして、その次は…。
 こうだろう、と子供たちと揃って打ち鳴らしたのに、ヒルマンとエラは頷かなかった。
「いいえ、ソルジャー。…タンバリンや鈴などはいけません」
 それはオモチャのような楽器で、とても高尚とは言えませんから。誰でも鳴らせる楽器ですし。
「皆が驚くような楽器だったらいいのだがね…」
 流石はソルジャー、と驚いて貰えるような楽器を演奏しようと言うのだったら。
 しかし、タンバリンや鈴の類は…、と二人が揃って否定するから、面白くなくて訊き返した。
「どういう楽器ならいいと言うんだい?」
「バイオリンやピアノでしたら、よろしいかと。ソルジャーにも、とてもお似合いです」
 舞台でも良く映えますから、とエラが真顔で答えた。そういう楽器が相応しいのです、と。
「バイオリンやピアノって…。そんな楽器は、船に無いじゃないか!」
「ソルジャーが演奏なさるのでしたら、船の者たちに作らせますが?」
 手先の器用な者たちもおります、きっと作ってくれるでしょう。バイオリンも、ピアノも。
 ただし、上手に演奏して頂きませんと…。流れるように美しく、とエラは難しい注文をつけた。ソルジャーたるもの、何処からも文句の出ない演奏をしなくては、と。
「無理に決まっているだろう!」
 それが出来るなら、とっくにしている! タンバリンなんかを叩いていないで!



 無茶を言うな、と怒ったけれども、許してくれなかったエラ。…それにヒルマンも。
 タンバリンや鈴では駄目だと言うから、出損ねてしまった、劇場での音楽発表会。それと同じで芝居の方も出られなかった。
 ゼルやブラウは客演できても、ソルジャーが出たら「ソルジャーの威厳が台無し」だから。
「あの船、ホントにうるさかったよ…。ソルジャーの威厳がどうのこうの、って…」
 ぼくは劇場に出たかっただけで、タンバリンでも鈴でも気にしないのに。
 バイオリンとかピアノなんかじゃなくても、全然かまわなかったのに…。
 それにお芝居の方もそうだよ、どんな役でも良かったんだけどな…。子供たちと一緒に発表会に出て、あそこの舞台に立てるのならね。
 だけど一度も立てなかった、と零した溜息。「とうとう一度も立てなかったよ」と。
「劇場の舞台に立っていないのは、俺の方だって同じだぞ。いつも客席で観ていただけだ」
 俺の場合は、威厳がどうのとヒルマンたちに言われはしていないんだが…。
 キャプテンって仕事は何でもアリだし、舞台に立っても特に問題無かっただろう。威厳とかより船の雰囲気が大切だから。
 そいつは充分承知だったが、俺の方から断ったんだ。才能が無いのは分かっていたしな。
 お前みたいに無邪気に遊べはしなかったから…。自分の限界ってヤツが見えちまって。
 下手でもいいから舞台に立ちたいとは思わなかった、というのが前のハーレイ。せっかく劇場があったというのに、出演したくはなかったらしい。前の自分とは逆様で。
「才能なんかは、ぼくにも無かったけれど…。でも、出たかったよ、発表会…」
 だって、子供たちと遊んでいると幸せだったんだもの。みんなキラキラ光って見えて。
 誰もが宝石の原石みたいで、未来がぎっしり詰まった塊。ミュウの未来っていう名前の宝石。
 でも…。あの船の中では、凄い才能…。出なかったね。
 劇場まで作って、それが出るのを待っていたのに…。
 機械に記憶を消されていない子供たちなら、凄い天才にもなれただろうに…。
 一人も出て来なかったんだよね、と今の自分だから言えること。子供たちと船で遊んだ頃には、まだまだ未来というものがあった。
 「この子たちの中から、凄い天才が生まれるのかも」と、「きっと、いつか」と。
 寿命が尽きると分かった後にも、見ていた夢。白いシャングリラから、いつか生まれる天才。



 前の自分が夢見た天才、それは一人も現れなかった。SD体制の時代が終わって、あの白い船が役目を終えるまで。…ミュウの箱舟が、ただの宇宙船になる時代が来るまで。
「…なんで、天才、出なかったのかな…」
 ヒルマンもエラも、きっと出るだろうって言っていたのに。
 SD体制が終わった後には、天才っていう人、昔みたいに、また何人も出始めたのに…。
「仕方ないだろう、元の素質の問題だ」
 天才ってヤツは、滅多にいない人間だからこそ、天才なんだ。…神童にしても。
 前の俺たちはミュウの子供を何人も船に迎え入れたが、その中に天才がいなかったってな。
 アルフレートが出たというだけでも奇跡だろうが、あいつが作った曲は今も残っているからな。
 それだけで我慢しておくことだ、と今のハーレイは言うのだけれど。
「アルフレートが作った曲…。確かに残っているけれど…」
 名曲として…っていうわけじゃないでしょ、あれは。
 前のぼくやフィシスが聴いていた曲で、シャングリラで演奏されていた曲。そういう曲だから、うんと人気で、ハープを弾く人たちが習っているだけで…。
 名曲じゃないよね、と思うアルフレートの曲の扱い。今の時代も演奏されてはいるけれど。
「それはどうだか分らんぞ。…アルフレートは天才だったかもしれないからな」
 天才作曲家とは言われていないが、ミュウの最初の作曲家ではある。
 船には無かったハープを欲しがって、そいつを貰って、ちゃんと演奏していた子供だ。ハープを弾く子は、船に一人もいなかったのにな?
 英才教育を施していたら、アルフレートの才能は、もっと伸びたのかもしれん。それこそ神童と呼ばれるレベルで、後には天才になれるくらいに。
 ただ、そのための才能がだな…。残念なことに、船に無かったというだけで。
 教えてやれる師匠がいなかったぞ、とハーレイが浮かべた苦笑い。「それでは駄目だ」と。
 いくら天性の資質があろうと、それを伸ばすには導きが要る。才能を見出し、より良い方へと、その才能を伸ばしてやれる誰かが必要。
「そうだね…。あの船には、ハープや音楽のプロは、何処を探しても…」
 いなかったっけね、そういうのが得意だった人。
 ヒルマンは何でも知っていたけど、ハープや音楽が得意かって言うと、違ったから…。



 アルフレートが得意としていた、ハープの達人がいなかった船。プロの音楽家も。
 そういう人材が船にいたなら、アルフレートも名声を馳せていたのだろうか?
 記憶を消されていない子供だったのだし、神童として育って、天才になって。あの船に作られた劇場で見事な演奏を何度も披露し、今の時代まで称え続けられる天才作曲家に…?
「…前のぼくたち、失敗したかな? アルフレートの育て方…」
 凄い才能を持つ子供が来たのに、上手く才能を伸ばせなくって。…天才に育て損なっちゃって。
「今となっては分からないんだが…。可能性ってヤツはあるだろう」
 劇場を作っておいただけでは足りないんだなあ、才能を伸ばそうと思ったら。
 本物の神童をきちんと育てて、天才を送り出したかったら…。
「そうみたい…。ホントに失敗しちゃったのかもね、アルフレートの育て方は」
 今は神童、ちゃんと沢山いるんだから。…ヒルマンとエラが言ってた通りに。
「お前は違うみたいだな? 神童ってヤツとは」
 普通のチビにしか見えないが…、とハーレイが顔を覗き込むから、尖らせた唇。
「ぼくは普通だけど、ハーレイもでしょ?」
 神童だったって話は聞いていないよ、柔道と水泳の腕は凄かったらしいけれども…。違うの?
 そっちの道では神童だったの、と睨んでやった。上目遣いに、「神童だった?」と。
「いや、神童ってトコまでは…。これは一本取られたな」
 俺の腕前は、其処までじゃない。天才と呼んで貰えるほどには凄くないんだ、残念ながら。
 柔道も、それに水泳もな。…もっとも今じゃ、その方が良かったようにも思うわけだが。
 俺たちは普通でいいじゃないか、とハーレイが笑う。
 「神童だったら忙しすぎて、ゆっくり会ってもいられないぞ」と。
 もしもハーレイが神童で天才だったとしたなら、此処にはいないことだろう。プロの選手の道に進んで、宇宙のあちこちを転戦中で。…天才となれば、誰もが放っておかないから。
 そして自分が神童だとしても、やっぱりとても忙しくなる。
(バイオリンだとか、ピアノとか…)
 弱い身体でも出来るものなら、きっとそういう音楽の道。神童と呼ばれる子供だったら、毎日が練習の日々だろう。ハーレイとお茶を飲むより、練習。この時間だって、きっと練習。
 ハーレイが側で聴いていてくれても、練習ばかりの日々では恋もゆっくり語れないから…。



「そうだよね…。ぼくたち、普通で丁度いいよね」
 ハーレイも、ぼくも、神童でも天才でもない方がいいよ。
 その方がずっと幸せだものね、こうして話していられるから。…練習や試合に行かなくても。
「うむ。普通の人生ってヤツが一番だってな」
 もちろん、前の俺たちのことも内緒のままで。…話そうと思う時が来たなら、それは別として。
 普通の人生を生きてゆこうじゃないか、とハーレイも言うから、二人でのんびり生きてゆこう。
 神童でなくても、天才でなくても、今の自分たちの新しい人生を、幸せに。
 芸術も文化も、山のようにある今の時代。
 お互い、才能は無かったけれども、平和な時代に二人で生まれて来られたから。
 神童たちが再び現れる時代に、青く蘇った水の星の上に。
 それだけで、とても幸せなこと。
 天才とは呼んで貰えなくても、誰もが羨む才能は持たない人生でも…。



              天才と才能・了


※天才が一人も現れなかった、SD体制の時代。神童が出て来なかったせいなのかも。
 シャングリラの公園にあった劇場は、いつか迎える子供たちの才能のために、作られた施設。
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(うーん…)
 これがそうか、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 目を引いたものは、記事に添えられた写真。知っているけれど、一度も訪れたことが無い場所。
(記念墓地…)
 SD体制を倒し、機械の時代を終わらせた英雄たちの墓地。前の自分の墓碑もある場所。宇宙のあちこちにあるのだけれども、ノアとアルテメシアのものが有名。
 当時の首都惑星だったノアに最初に作られ、アルテメシアにもほぼ同時に出来た。記事の写真はアルテメシアの墓地の方だという。ミュウの歴史の始まりの星。
(…シャングリラの森は?)
 トォニィがシャングリラの解体を決断した時、船にあった木たちを移植した森。アルテメシアの記念墓地の側へと。沢山の木があった船だから、木たちは直ぐに森を作って、代替わりだって。
 今も木たちの子孫が沢山茂っている筈。シャングリラの森に行ったなら。
 その森もあると書かれているのだけれども、写真は無い。残念なことに。
 記事の中心は記念墓地だし、シャングリラの森とは直接関係無いものだから。
(記念墓地の写真は何度も見たけど…)
 下の学校でも歴史の授業で教わったけれど、前の自分の記憶が戻ってからは、こうして見るのは初めてかもしれない。白いシャングリラの写真集には入っていないし、新聞記事などになることも一度も無かったから。
(何かの記念日ってわけでもないんだね)
 ミュウと人類の戦いに纏わる記念日だとか、そういったもの。
 単なる紹介、記者が取材のために出掛けて行っただけ。幾つもの墓碑に花を供えて、英雄たちに祈りを捧げて、それから写真撮影も。
(花が一杯…)
 記者が捧げた花がどれだか、分からないほどに。
 花束や花輪や、一輪ずつ供えられた花やら。
 誰の墓碑にも添えられた花。ミュウはもちろん、人類側だったキースの墓碑にも。
 どれも萎れてなどはいなくて、捧げられたばかりの花だと分かる。古くなった花は、記念墓地の管理係が毎日、きちんと片付けてゆくのだろう。見苦しいことにならないように。



 毎日のように片付けをしても、減らない花たち。次から次へと、誰かが捧げてゆくものだから。
 花束も花輪も、前の自分の墓碑に供えられたものが、断然多いのだけれど。
(前のぼくの人気がとても高いのか、無視できないのか…)
 どっちだろう、と考えてしまう。
 記念墓地の一番奥に、偉そうに立っている墓碑なのだし、他の墓碑に花を供えに行くなら、無視することは難しいかもしれない。
 本当はジョミーに供えたい人も、キースのファンだという人も。
(そういうことって、あるかもね?)
 記念墓地の主役であるかのように、一番奥に立つソルジャー・ブルーの墓碑。
 誰の墓碑を目当てにやって来たって、嫌でもそれが目に入る。「ぼくに挨拶は?」という風に。
 知らん顔をして、他の墓碑だけに花を供えるのは…。
(なんだか悪い、って思っちゃうかも…)
 たとえキースのファンの人でも。…ジョミーに花を、と墓地を訪れた人も。
 お目当ての墓碑に一番立派な花を捧げるにしても、ソルジャー・ブルーの墓碑にも花。それほど豪華なものでなくても、一輪だけの花にしたって。
 そういったわけで、捧げられた花が一番多いのがソルジャー・ブルーということもある。人気が高いからだけではなくて、大勢の人が「挨拶代わりに」供えてゆくものだから。
(ハーレイも花を貰ってるよね…)
 ちゃんとあるね、と写真で確認した、ハーレイの墓碑に供えられた花輪や花束。シャングリラを地球まで運んだキャプテンなのだし、花を貰えないわけがない。偉大なキャプテン・ハーレイが。
(写真集は出して貰ってないけど…)
 ハーレイの写真だけを集めた写真集は編まれていないのだけれど、この花の数。
 今のハーレイの行きつけだという理髪店の店主みたいに、ファンは何人もいるのだろう。あまり目立っていないだけのことで。
 それに英雄になったキャプテン、あやかりたいと思うパイロットたちも多い筈。
(きっとそういう人たちなんだよ)
 花を供えに来る人は…、と見詰めた写真。ハーレイのためだけに供えられた花たち。
 ハーレイも人気、と笑みを浮かべる。花輪も花束も、其処に幾つもあったから。



 前のハーレイのお墓にだって花が沢山、と大満足で戻った二階の自分の部屋。空になったお皿やカップをキッチンの母に返して、新聞を閉じて。
 勉強机の前に座って、幸せな気分。「やっぱりハーレイは凄いんだから」と。
 前の自分が恋をした人は、今の時代も立派に評価されている。死の星だった地球が青い水の星に蘇るほどの長い歳月、気の遠くなるような時が流れた今も。
(ちゃんと花輪に、花束に…)
 幾つもあった、と嬉しい気持ちになる花たち。キャプテン・ハーレイの墓碑を彩る花。
 前の自分ほどではなかったけれども、充分な数。前のハーレイのことを思ってくれる人が、今も大勢いる証拠。記念墓地まで足を運んで、花を捧げてくれるくらいに。
 素敵だよね、と頬が緩んだ所で、ハタと気付いた。キャプテン・ハーレイに供えられた花たち。墓碑に捧げられた花束や花輪、さっき新聞で見た花たちの中には…。
(薔薇の花だって…)
 混じっていた。白だけではなくて、供えた人の好みで色とりどりに。
 花輪にも、それに花束にも。…控えめに一輪、リボンを結んで置かれていた薔薇の姿もあった。毎日供えに来る人だろうか、毎日ともなれば、花束や花輪だと凄い値段になってしまうから。
(それとも、恥ずかしがり屋さん…?)
 パイロットの卵で、花束や花輪を抱えて来るのは、恥ずかしい気がする若者だとか。そういった花を抱えて道を歩けば、どうしても目立つものだから。
 そんな人なのか、毎日のように来る人なのか。思いをこめて置かれていた薔薇。一輪だけでも、花輪や花束に負けないもの。けれど、その薔薇。花輪や花束に入った薔薇も…。
(薔薇の花、前のハーレイには…)
 似合わないと噂されていたものだった。白いシャングリラがあった頃には。
 人類との戦いが始まる前には、ミュウの楽園だった船。白い鯨の姿の箱舟。其処で開いた薔薇の花びら、それを使って作られたジャム。萎れかけた花びらたちを集めて。
 いい香りがしたジャムだったけれど、沢山の数は作れない。ソルジャーだった前の自分には一瓶届いたけれども、他の仲間はクジ引きだった。
 そのクジが入った、クジ引きの箱。それを抱えた女性はブリッジにも行ったというのに、クジの箱は前のハーレイの前を素通りしてゆくのが常。ゼルでさえもクジを引いていたって。



 そうなった理由は、「キャプテンには、薔薇は似合わない」という思い込み。薔薇の花びらから作るジャムも同じに似合いはしない、と考えていた女性たち。なんとも酷い話だけれど。
(だけど今だと、ハーレイのお墓にも薔薇の花…)
 供えている人がいるわけなのだし、本当は似合っていたのだろう。前のハーレイにも、ああいう薔薇の花たちが。…大切そうに、一輪だけ捧げられた薔薇もあったのだから。
(今の時代の人たちの方が、ずっと見る目があるんだよ)
 白いシャングリラで暮らした仲間たちより、遥かに値打ちが分かっている。前のハーレイという人の素晴らしさが。キャプテン・ハーレイの偉大さが。
 ハーレイのお墓に薔薇を供えてくれるんだしね、と悦に入っていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね…。今のハーレイ、薔薇の花束も貰えるんだね」
 とても綺麗なのを。薔薇を沢山束ねたヤツとか、薔薇の花が混ざっているヤツだとか。
「それがどうかしたか?」
 薔薇を貰っちゃいかんのか、と返った返事。まるで「貰うのが当たり前」のように。
「貰っちゃ駄目かって…。知ってたの?」
 花束の中に薔薇があること、ハーレイ、ちゃんと知ってるの…?
「おいおい…。俺が貰った花束の話じゃないのか、それは?」
「そうだけど? ハーレイが貰った花束のことだよ」
 薔薇の花が混ざっている花束も、薔薇が中心みたいなヤツも。…どれもハーレイのだけれど?
「そうなんだったら、知ってるも何も…。俺が貰った花束なんだぞ?」
 俺はともかく、お前が知ってる方が不思議だ、とハーレイに逆に尋ねられた。何故、花の種類を知っているのかと。
 「俺が貰った花束の話、花の種類も話したっけか…?」と。
「えっと…?」
 ハーレイと花束の話って…。そんな話があったかな…?
「その話だろうが、何を妙なことを言っているんだか…。俺が貰った薔薇の花束だろ?」
 優勝した時なんかに貰った花束、そりゃあ沢山あったもんだが…。
 薔薇の花のは定番だ。なんたって見た目が豪華だからなあ、薔薇ばかりじゃない花束にしても。



 他の花と一緒に束ねてあっても、薔薇は華やかなモンだから、とハーレイが口にする花束。今のハーレイが貰ったもので、柔道や水泳の試合や大会、そういった時に贈られたもの。
 そういう花束もあったっけ、と思い出したから、勘違いを正しておかないといけないらしい。
「違うよ、今のハーレイじゃなくて…」
 前のハーレイの方だってば。薔薇の花束を貰ってるのは。…薔薇が混じっている花束もね。
「薔薇の花束って…。前の俺なら貰っていないぞ?」
 そんなのは一度も貰っていないな、前の俺は。それにお前は、「今のハーレイ」と言ってたが?
 そいつは俺のことだろうが、とハーレイが指差す自分の顔。「今のハーレイの方なら俺だ」と。
「えっとね…。前のハーレイだけれど、今のハーレイ…」
 記念墓地にあるお墓だってば、アルテメシアの記念墓地とか。…ノアとかにもある記念墓地。
 新聞に写真が載っていたよ、と説明をした。前のハーレイの墓碑のこと。幾つも供えられていた花輪や花束、薔薇の花だって供えてあった、と。
「なんだ、そっちの方なのか。…前の俺でも、今の俺には違いないな」
 今の時代まで墓碑があるんだし、本物の俺が此処にいることは、誰も知らないわけなんだし…。
 普通の人が今の俺のことを考える時は、あそこの墓碑になるんだろうなあ…。
 前の俺は死んでしまったからな、とハーレイが浮かべた苦笑い。
 「あれが今の俺か」と、「薔薇の花束も確かに貰っているな」と。花輪もあるぞ、という話も。
 新聞の写真には無かったけれども、薔薇を連ねた花輪が供えられる時もあるらしい。誰が供えた花輪なのかは、まるで分からないらしいのだけれど。
「花輪に花束…。知ってはいたの?」
 前のハーレイのお墓に、花が沢山供えてあること。薔薇の花も混じっているヤツなんかが。
 ぼくは今日まで知らなかったんだけど…、と瞬かせた瞳。記念墓地の写真を目にしていないと、前の自分の記憶が戻ってからは一度も、と。
「それはまあ…。俺の場合は、お前よりかは色々と調べているからな」
 ダテにお前より年上じゃないし、興味があることは調べたくなる性分でもある。…元からな。
 シャングリラの森のことも教えてやっただろう。アルテメシアの記念墓地の側にある、と。
 ああいうのを調べているほどなんだし、記念墓地の方も、何度も写真を目にしてる。
 誰かが供えてくれてるんだな、と嬉しい気分になるよな、あれは。…花輪や花束。



 一輪だけの花でも嬉しいもんだ、とハーレイは目を細めている。今の時代も、覚えていてくれる人たちがいるという証。それを表す花や、花輪や花束などや。
 本物のキャプテン・ハーレイが生きた時代が遠くなっても、直接知る人がいなくなっても。
「なかなか覚えていちゃ貰えんぞ? 今でも花を供えて貰えるくらいには」
 ずっと昔は、王様だとか有名人だとか…。そういった人の墓碑に花束とかを供えていたらしい。
 しかし、SD体制の時代になったら、地球と一緒に無くなっちまって…。
 誰とも血縁関係の無い人間ばかりが生きた時代だ、そんな墓碑まで宇宙に移設したりはしない。その時代まで墓碑があったかどうかも、正確な記録は残っていないし…。
 地球が滅びに向かった頃には、忘れられていたかもしれないな。植物が自然に育たなくなって、花というものが貴重だったから。…個人の家の庭では咲きもしないし。
 とうの昔にいない人にまで、花束なんぞを贈れるものか、と言われてみればそうかもしれない。生きている人でさえ、本物の花を家に飾ることは贅沢だったという時代。この世にいない人たちの墓碑には、造花があれば上等だろう。何年経っても枯れない花が。
 そうやって人は忘れ去られて、墓碑は地球の上に置いてゆかれた。機械が治める時代になったら不要なのだし、わざわざ移す必要は無い、と。
「そうなんだ…。じゃあ、今のぼくたちは王様並みだね、ずっと昔の」
 大勢の人が花を供えてくれるし、記念墓地にも来てくれるんだし。…ぼくたちはとっくに死んでいるのに、知り合いに会いに行くみたいに。
 それだけでも凄く嬉しいけれども、もっと嬉しいことがあったよ。今日のぼくには。
 前のハーレイ…。ううん、今の時代の人にとっては、「今のハーレイ」。
 記念墓地にお墓があるハーレイは、薔薇の花も供えて貰っているでしょ、ハーレイなのに。
 薔薇の花だよ、と念を押したけれど、ハーレイには通じなかったらしくて。
「お前、さっきから何が言いたいんだ?」
 やたら薔薇だと繰り返してるが、薔薇の花だと何か特別な意味でもあるのか?
 今の俺には馴染みの花だぞ、今でこそ試合とかには出ないし、縁遠い花になっちまったが…。
 現役時代は、それはドッサリ貰ったもんだ。
 持って帰って、おふくろに生けて貰ったっけな。俺じゃ上手に生けられないから。
 沢山の花束、おふくろが上手にアレンジしてたぞ、家にあった花瓶なんかに合わせて。



 特に珍しくもなかったが、とハーレイが言う薔薇の花束。一輪ではなく、ドッサリ束ねた薔薇を貰っていたらしい。ハーレイの試合を応援しに来た人たちから。
「今の俺だと、貰うチャンスは無いんだが…。あの薔薇の花が何だと言うんだ」
 貰おうと思えば、多分、今でも貰えないことは無いだろう。大きな試合に出さえすればな。
 柔道部のヤツらが応援に来てくれるから…。卒業生なら、小遣いだって沢山持ってる。何人かが寄れば、薔薇の花束も充分買えるし、そいつを貰えるだけの戦果は挙げられるぞ?
 貰って来いと言うなら、ちょいと登録してくるが、とハーレイは真顔。
 「試合の日は此処に来られないから、お前が寂しい思いをするがな」と。けれど、薔薇の花束は貰えるだろうし、それを楽しみにしているといい、と。
「いいんだってば、そんなのは…。試合に出てまで、花束、貰ってくれなくても」
 ハーレイだったら貰えるだろう、って分かるもの。柔道も水泳も、プロの選手になろうと思えばなれたんだから。…今でも充分、強い筈だし。
 そっちじゃなくって、ぼくが言うのは、ハーレイのお墓に花を供えてくれる人だよ。
 今の人たちは見る目があるよね、って思って、とっても嬉しかった。シャングリラで暮らしてた仲間たちより、よっぽど値打ちが分かってるってば。…ハーレイのね。
 だって、お墓に薔薇の花を供えてくれるんだよ?
 前のハーレイは、薔薇の花びらで作ったジャムも、薔薇の花も似合わないって言われてたのに。
 薔薇のジャムを配る時のクジ引き、ハーレイの前だけ箱が素通りしちゃったくらいに。
 みんなホントに酷いんだから…、と尖らせた唇。
 前のハーレイは今よりもずっと立派な英雄。その筈なのに「薔薇は似合わない」と酷評していた女性たち。キャプテン・ハーレイがどれほど偉大か、船にいたなら分かるだろうに。
「あれか…。シャングリラの薔薇で作ったジャムだな」
 前のお前には似合うってことで、いつも一瓶届いてたんだ。クジ引きなんかをしなくても。
 お前がジャムを貰った時には、俺も食わせて貰ってたっけな。…お前の部屋で。
 あれが似合わないと評判の俺が、クジも引かずに、前のお前のお相伴で。
「別にいいじゃない。…ぼくが貰ったジャムなんだから」
 どう食べるのも、誰と食べるのも、ぼくの自由だと思うけど?
 スコーンに乗っけて食べるのが好きで、いつもスコーンで食べてたっけね、ハーレイと。



 白いシャングリラの薔薇で作られたジャム。盛りを過ぎた薔薇たちを朽ちさせるよりは、有効に使った方がいい、と女性たちが花びらを集めて回って。
 香り高い品種を育てていたから、萎れかけた花から作ったジャムでも、充分に薔薇の香りがしていた。口に含めば、ふわりと広がった薔薇たちの香気。薔薇の花を食べているかのように。
「薔薇のジャムにはスコーンなんだよ、トーストなんかに塗るよりも」
 あれが一番合うと思ったし、ホントに美味しかったから…。薔薇の香りを損なわなくて。
 ハーレイと食べるの、好きだったっけ…。ジャムを貰ったら、厨房でスコーンを焼いて貰って、ぼくが紅茶を淹れたりしてね。
「あのジャムなあ…。とても言えないよな、前のお前にジャムをくれてたヤツらには」
 俺には似合わないジャムなんだ、とクジ引きの箱も持って来ないで知らん顔だったヤツらだぞ?
 ゼルでもクジを引いてたのにな、「運試しじゃ」と手を突っ込んで。
 そうやって仲間外れにされてた俺がだ、クジも引かずに美味しくジャムを食ってたなんて。
 …とはいえ、今も似合わんとは思っているんだがな。薔薇の花びらのジャムというヤツは。
 薔薇の花束だったらともかく、ジャムの方はまるで似合わんだろう、と苦笑しているハーレイ。
 「其処の所は今も変わらん」と、「生まれ変わっても、俺は俺だ」と。
「薔薇の花びらのジャム…。今でも駄目かな?」
 うんと平和な時代になったし、ハーレイだって薔薇の花束を貰えるんだよ?
 今のハーレイなら試合で山ほど貰ったわけだし、前のハーレイだって、お墓に薔薇の花が沢山。ぼくが見た写真には無かったけれども、薔薇だけの花輪もあったんでしょ?
 ハーレイ、見たと言っていたよね、と記念墓地の写真を思い出す。自分が見た写真のハーレイの墓碑には無かったけれども、前の自分の墓碑にはあった。薔薇だけを編んだ立派な花輪が。
 今のハーレイが見た写真の花輪も、きっとそういうものだったろう。
 白い薔薇だったか、赤い薔薇なのか、とりどりの薔薇を編み上げたものかは知らないけれど。
「薔薇だけの花輪なあ…。俺が見た写真には写っていたな」
 ずいぶんと豪華なのをくれたな、と見ていたもんだ。
 前の俺のファンが置いて行ったのか、パイロットの卵の連中なのかは分からんが。
 パイロットを目指すヤツらにとっては、俺は大先輩だから…。
 卒業か何かの節目の時に、供えに来ることがあるかもしれん。みんなで金を出し合ってな。



 誰からの花輪だったのだろう、とハーレイは首を捻っている。前のハーレイの墓碑に捧げられた薔薇の花輪は、誰が贈ってくれたのだろうかと。
「くれたヤツには申し訳ないが、やはり似合わん気がするなあ…。薔薇の花輪は」
 なんと言っても、薔薇の花びらのジャムが似合わなかったのが俺だから。
 シャングリラで暮らした女性の間じゃ、そいつが常識だったんだし…。ジャムを希望者に分けるクジ引きだって、俺だけがクジを引いていないんだぞ?
 誰一人として、「キャプテンにも」と言いやしなかった。新しくブリッジに来たヤツだって。
 その顔は今も変わっていないんだから…、とハーレイが示す自分の顔。「前と同じだ」と。
 キャプテン・ハーレイだった頃とそっくり変わらない顔で、背格好だってまるで区別がつかない姿。この顔に薔薇の花びらのジャムが似合うのか、と。
「似合わないっていうことはないでしょ。薔薇の花束、今なら貰えるんだから」
 試合に行ったらきっと勝てるし、そしたらハーレイの教え子だった人たちから薔薇の花束だよ。
 その人たちが似合わないって思うんだったら、そんなの、用意しないだろうし…。
 ハーレイも貰える自信があるから、「貰って来ようか」って言うんじゃない。此処に来ないで、試合に行って。…どんな相手にも負けはしないで、優勝して。
 今のハーレイならきっと似合うよ、と微笑んだ。薔薇の花束も、薔薇の花びらのジャムも。
 そうしたら…。
「お前、本気で言っているのか、その台詞を…?」
 薔薇の花束の方なら、俺も頭から否定はせんが…。当たり前のように貰った時代があるからな。
 しかし、薔薇の花びらのジャムとなったら、話は別だ。
 俺に似合うと思うのか、お前?
 あれを食ったら、暫くの間は薔薇の香りがするんだぞ。…俺自身には自覚が無くても。
 前のお前は、俺が食う時には一緒に食っていたから、気付かなかったかもしれないが…。
 俺は一日中、青の間にいたってわけじゃない。ブリッジに詰めているのが普通で、夜になるまで青の間には行けない日だって山ほどあっただろうが。
 そうやって俺がいない間に、お前が一人で薔薇のジャムを食ってた日も多かった。夕食の後に、ほんの少しとか。
 そんな時には、お前から薔薇の香りがしたんだ。…ジャムの香りが残っていて。



 香水とは少し違うんだがな、とハーレイが覚えているらしい薔薇の残り香。より正確に言えば、薔薇の花びらのジャムが残した、その香り。
 ハーレイは何度も出会ったという。薔薇の香りがするソルジャー・ブルーに、前の自分に。
「お前から薔薇の香りがしたなら、俺の方でも同じだった筈だ。…あのジャムを食えば」
 口中が薔薇の香りで一杯になっちまうようなジャムだったしなあ…。香りも充分、残るだろう。
 お前はともかく、俺から薔薇の香りとなったら、どういう具合に見えると思う…?
 キャプテン・ハーレイから薔薇の香りがするんだが、とハーレイが軽く広げた両手。
 「こういう顔で、こういう姿の男から薔薇の香りだぞ?」と、「薔薇の花は持ってないのにな」などと。薔薇の花束を手にしていたなら、薔薇の香りの元は花束だと思えるけれど…。
「…ハーレイから薔薇の香りって…。なんだか似合わないかもね…」
 薔薇の花束だったら似合いそうだけど、花束は無しで、ハーレイから薔薇の香りがするのは。
 そういう匂いの香水なのかな、って眺めちゃうけど、他の匂いの方が良さそう…。
 ハーレイは香水を使ってないけど、男の人向けの香水なんかもあるものね?
 きっとそっちの方が似合うよ、と思った男性向けの香水。具体的な香りは考え付かないけれど。
「ほらな。俺だって、そう思うんだ」
 香水とまではいかないにしても、俺に似合いの香りとなったら、ボディーソープか石鹸だな。
 あの手の爽やかな匂いだったら、前の俺でも似合わないことはなかっただろう。「朝っぱらから風呂に入って来たらしいな」と思われるだけで。
 実際、そうしていたんだし…。お前と同じベッドで眠って起きたら、まずはシャワーだ。
 その後に飯を食っていたから、匂いが消えてしまっただけで。ソルジャーとキャプテンが一緒に朝食を食うっていうのは、青の間が出来て直ぐの頃からの習慣だったしな。
 そういったわけで、俺の顔には、薔薇の香りは似合わない。…薔薇のジャムを食ったら、薔薇の香りが漂うわけだし、そいつも駄目だ。
 前の俺の墓に薔薇を供えて貰った場合も、結果は似たようなモンだと思うが…。
 俺から薔薇の香りだから、というのがハーレイの言い分。
 「幸い、墓碑だし、俺の姿が無いってだけだ」と。
 記念墓地にあるのは、誰の墓碑も名などが刻まれたもの。生前の姿は刻まれていない。もちろん写真もついていなくて、ただ墓碑だけ。ソルジャー・ブルーも、キャプテン・ハーレイも。



 墓碑にハーレイの姿が無いから、なんとかなるのが薔薇の花束。それに花輪や、一輪だけ捧げてある薔薇や。…どれも薔薇だから香りは高い。一輪だけの薔薇にしたって。
 ハーレイはそう言いたいらしくて、「似合わないぞ」と眉間に皺。「俺なんだから」と。
「俺の姿がどんなだったか、墓碑だけじゃ分からないからなあ…」
 お蔭で薔薇の花束が来ても、花輪があっても、似合わないとは誰も思わん。…俺がいないから。
 薔薇の花を供えてくれるヤツらは、俺の姿を百も千も承知なんだろうとは思うが…。
 本物の俺が其処にいたなら、「別の花の方がいいだろうな」と、交換しに戻って行きそうだぞ。薔薇の花束とかを買った花屋へ、「これと取り替えて貰えませんか」と。
 何の花を持ってくるかは知らんが…、と愉快そうにも見えるハーレイ。「薔薇は駄目だな」と、「俺に似合いの地味な花とか、そういうのを持って来ないとな」と。
「花を交換しに戻って行くって…。薔薇の花だと、そうなっちゃうわけ?」
 ハーレイの姿が記念墓地にあったら、花を持って来た人、戻って行くの…?
 薔薇の花だと似合わないから、他の何かと替えて貰いに、花屋さんに戻って行っちゃうわけ…?
 何も其処までしなくても…、と思うのだけれど。薔薇の花でいいのに、と考えたけれど。
「いいか、墓碑だと思っているから駄目なんだ。見た目に惑わされちまって」
 あそこにあるのは、俺の身体だと考えてみろ。…もちろん、生きてはいないんだが。
 死んでしまった俺の身体が、そのまま保存されていたとして…。傷跡とかは抜きにしてな。
 生きていた時の姿そのままで、キャプテン・ハーレイの身体が横たわっていたとする。遠い昔の英雄なんだし、そういう保存をしていたとしてもおかしくはない。
 そいつの周りを、薔薇の花で飾りたくなるか?
 ガラスの柩か何かは知らんが、俺の姿がそっくりそのまま見える状態、其処に薔薇だな。
 顔の周りに飾るにしても、身体の上に載せるにしても…、と言われて想像してみた光景。沢山の花に埋もれたハーレイ。それだけならばいいのだけれども、その花たちが薔薇だったなら…。
(…薔薇の香りもするんだよね?)
 ハーレイの身体を包むようにして、あの薔薇のジャムと同じ香りが。
 シャングリラの女性たちを魅了していた、高貴で気高い薔薇たちの香り。それを纏って横たわるハーレイ、キャプテンの制服をカッチリと着て。
 二度と目覚めない眠りとはいえ、薔薇の香りが漂うキャプテン・ハーレイは…。



 確かに似合わないかもしれない、と頷かざるを得ない薔薇の花。墓碑だけだったら、薔薇の花が幾つ供えてあっても大丈夫なのに。花束も花輪も、一輪だけの薔薇も似合うのに。
「…ホントだ、ハーレイの身体があるんだったら、薔薇の花はちょっと…」
 似合わないかもしれないね。さっきからハーレイが言ってる通りに。
 薔薇の花束を持って来た人も、他の何かと替えて貰いに、花屋さんに戻って行っちゃいそう…。墓碑の代わりに前のハーレイの身体があったら、回れ右して。
 もっとハーレイに似合う花とね…、とは言ってみたものの、何がいいかは分からない。どういう花を選べばいいのか、薔薇が駄目なら、同じような値段でハーレイに似合う花があるのかどうか。
 ハーレイも其処を思っているのか、こんな台詞が飛び出した。
「前のお前なら似合うんだがなあ…。花で埋め尽くされていたって」
 薔薇でも百合でも、それこそ、どんな花だって。…俺の場合は、似合いそうな花を探すのに苦労しそうなんだが…。交換して来よう、と花屋に戻ったヤツらも、それを任された花屋の方も。
 しかしだ、前のお前だったら何の心配も要らん。花なら何でも似合うからなあ、綺麗だったら。
 盛りの花ならどれでも似合う、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。華やかな花でも、地味な色合いの小さな花でも、どれも似合うに決まっていると。
「前のぼくって…。今はハーレイと薔薇の話をしてたんじゃあ…?」
 どうしてぼくの話になるの、とキョトンと見開いた瞳。前の自分の墓碑に供えられた花束などは他の誰よりも多いわけだし、そのことを言っているのだろうか…?
「俺の話で思い出したんだ。…前の俺の身体を花で飾ろうって話からだな」
 薔薇はもちろん、他の花でも似合いそうにないのが俺なんだが…。前のお前の場合は違った。
 そりゃあ美しくて、誰もが見惚れたもんだ。俺たちの自慢のソルジャーだった。…俺にとっては大事な恋人だったし、花で埋め尽くしてやりたかったから…。いつか、お前が逝っちまった時は。
 そうするつもりでいたんだがな、と聞かされた話に驚いた。
 ハーレイが言うのは、前の自分の葬儀のこと。…ソルジャー・ブルーと呼ばれた頃の。
 アルテメシアの雲海に長く潜む間に、少しずつ弱り始めた身体。寿命を迎えつつあった肉体。
 生きて地球には辿り着けない、と諦め、涙していた自分。ハーレイとの別れも、とても辛くて。
 そんな自分に、ハーレイは何度も誓ってくれた。「お一人で逝かせはしませんから」と。
 後継者としてシドを選んで、着々と準備を進めてもいた。…ソルジャーを送る葬儀のことも。



 前のハーレイが思い描いていた、ソルジャー・ブルーを見送る時。船の仲間たちと共に、逝ってしまったソルジャーを悼む葬儀の場などをどうするか。
 魂が飛び去った後の器を、沢山の花で囲むこと。それがハーレイの計画の一つ。
「船中の花を集めてやろうと思っていた。…お前のために」
 普段は摘むのを許されない花も、咲いたばかりの花も、どれも残らず。
 お前を送るための花なら、誰も文句は言わないからな。子供たちだって手伝うだろうさ、公園の花を端から摘んで。…ソルジャー・ブルーの身体を花で埋め尽くすために。
 花に囲まれたお前を送って、葬儀が済んだら追って行こうと俺は思っていたのにな…。
 ずいぶん前から決めていたのに、お前は戻って来なかった。一人きりでメギドに飛んじまって。
 俺はお前の葬儀どころか、後を追うことさえ出来ずじまいだ。
 …後を追えないなら、せめて葬儀をしたかったのに…。船中の花で、お前を飾って。
 それが出来ていたなら、どんなにか…、とハーレイが悔む気持ちは分かる。亡骸さえも残さず、前の自分は消えたから。
 ハーレイの前から永遠に消えて、二度と戻りはしなかったから。
「ごめんね…。前のぼく、戻らなくって…」
 前にもこういう話をしたけど、あの時は鶴のつがいの話だったけど…。
 前のぼくの身体だけでも戻っていたなら、ハーレイの悲しさ、ちょっぴりは減っていたんだよ。
 そんなこと、何も考えてなくて、形見さえも残して行かなくて…。
 ホントにごめんね、前のハーレイに辛い思いをさせちゃって…。
「いや、いいんだ。…お前が謝ることはない。前のお前も、あの時はとても辛かったんだしな」
 それにお前は、こうして戻って来てくれた。
 チビの姿になっちまったが、それでもお前は俺のブルーだ。…前のお前と変わっちゃいない。
 お前が戻ってくれたお蔭で、墓の話をすることも出来る。
 前の俺の墓には、似合いもしない薔薇が幾つも供えてあるとか、そういったことを。
 同じ花でも、前のお前なら何でも似合って、船中の花を集めて、お前の葬儀をしたかったとか。
 どっちの話も、生きていないと出来やしないぞ。
 死んじまっていたら、俺もお前も、墓に入るしかないわけだしな?
 前のお前の葬儀にしたって、お互い、死んでちゃ、どうにもこうにもならないじゃないか。



 生きていてこそ出来る話だ、とハーレイは自信たっぷりだけれど、二人で生まれ変わる前。
 ハーレイと天国で暮らした間は、どんな風に過ごしていたのだろう?
 雲の上にある別の世界の天国、其処で青い地球が蘇る日を待っていた間なら…。
「死んでいたって、こういう話をしていたのかもしれないよ?」
 ぼくもハーレイも、きっと一緒にいた筈だから。
 天国から下の世界を眺めて、「ハーレイに薔薇を供えに来た人がまた一人」って数えたりして。
 記念墓地の景色が見えているなら、そういうのも分かると思うんだけど…。
 薔薇の花束が来ても、薔薇の花輪でも…、と話してみた。「数えてみるのも楽しいかも」と。
「うーむ…。俺には似合わない、薔薇の花が届けられる所か…」
 天国からなら、よく見えそうだな。ノアの記念墓地も、アルテメシアの方も。
「そう思うでしょ? それに、もしかしたら天国にも届くのかもね」
 墓碑に供えて貰った花がそのまま、雲の上にポンと届いちゃうとか…。供えて貰ったら直ぐに。
 薔薇でも花輪でも、花束でも、全部。…誰かが置いてくれたら、そっくり同じのが天国にね。
 でないと供える意味が無いでしょ、と考えてみる。せっかく墓碑に供えて貰った、豪華な花束や清楚なものや。雲の上から見ているだけでは、絵に描いた餅でしかないのだから。
「なるほどなあ…。神様のお計らいで全く同じのが来るってわけだな、俺たちの所に」
 するとお前は花輪や花束まみれの毎日ってヤツで、俺にも薔薇の花だってか?
 似合わないなんて誰も思っちゃいないし、薔薇の花束や花輪が供えられちまった時は…?
 俺の所に薔薇の花輪なあ…、とハーレイは目を丸くする。「似合わなくても届くんだな?」と。
「そうじゃないかな、届くんならね」
 神様が届けてくれるんだったら、ハーレイにも薔薇が届くんだよ。誰かが供えてくれた時には。
 薔薇の花がドッサリ届いちゃったら、ハーレイがジャムにしてたかも…。
 萎れて駄目になっちゃうよりかは、ジャムにした方がいいじゃない。シャングリラではジャムにしてたんだものね、天国でもジャムにするのがいいよ。薔薇の花が沢山あるのなら。
 有効活用しなくっちゃ、と頭に思い浮かべた薔薇。萎れて駄目になるよりはジャム、と。
「そのジャム、俺が作るってか?」
 俺はシャングリラじゃ作っていないぞ、薔薇の花びらのジャムなんかは。
 あの頃にはとっくにキャプテンだったし、厨房とは無縁の日々だったんだが…?



 第一、レシピも知りやしない、とハーレイは顔を顰めるけれど。薔薇の花びらでジャムを作っていたのは、一部の女性たちだったのだけれど…。
「ぼくが頼んだなら、作ったでしょ?」
 薔薇の花を沢山貰ってしまって、ハーレイの分と、ぼくの分とでホントに山ほど。
 飾って毎日眺めていたって、その内に萎れてしまうんだろうし…。そうする間も、次から次へと新しい薔薇が届きそうだし…。
 きっと思い出すよ、薔薇の花びらで作ったジャムのこと。ハーレイと一緒に食べていたことも。
 薔薇のジャム、とっても懐かしいよね、っていう話をしたなら、作ってくれると思うけど…。
 レシピを知らないジャムにしたって、ハーレイなら作れそうだけど…?
 何度か試作をしている間に、きちんとしたのが出来そうだよ、と前のハーレイの料理の腕前と、舌の確かさを考えてみる。果物のジャムなら厨房時代に作ったのだし、薔薇の花びらのジャムも、作れないことはなさそうだから。…青の間で何度も食べていたから、その味わいも覚えている筈。
「俺が天国で薔薇のジャム作りってか…」
 貰っちまった薔薇の花輪や花束、どんどん増える一方だから…。次々に天国に届けられて。
 でもって、そいつが駄目になる前に、ジャムにしろって言うんだな…?
 俺には似合わない薔薇の花びらのジャムってヤツに…、とハーレイは困り顔だけど。似合わないジャムを作るなんて、と呻くけれども、「しかし、作っていたかもな」とも。
 恋人からの注文なのだし、せっかくの薔薇を無駄にしないよう、花びらを煮詰めて試作から。
 上手く作れるようになったら、薔薇の花が沢山届いた時には、せっせと薔薇のジャム作り。
「そういうのも、きっと楽しいよ」
 天国に花が届くんだったら、ハーレイにジャムを作って貰って、昔話もしなくっちゃ。
 シャングリラでも食べた薔薇のジャムだし、「またハーレイと二人で食べられるね」って。
 そうだ、スコーンもハーレイに作って貰わないと…。薔薇のジャムにはスコーンが一番。
 薔薇の香りを損なわないから、スコーンもお願い、と言ったのだけれど。
「薔薇のジャムには、スコーンだっけな…」
 そいつを焼くのは別にかまわないが、天国でそうして暮らすよりかは…。
 此処に生きていてこそだろう。…この地球の上に。
 花束も花輪も此処には無いが、お前と二人で過ごせるんだから。お前の言う、昔話もして。



 それに未来の話も出来るし…、とハーレイの鳶色の瞳が優しく瞬く。
 「人間、生きてこそだと思うぞ」と、「お前も俺も、此処に生きてるだろうが」と。
「ぼくは、どっちでもいいけれど…。ハーレイと二人でいられるんなら」
 今は一緒に暮らしてないけど、ちゃんと二人で話してるよ、此処で。…ぼくの部屋でね。
 場所は何処でも、ぼくはちっとも気にならないから、天国の方でもかまわないかな。
 ハーレイはどう…?
 二人だったら、何処でもいいと思わない、と尋ねてみた。地球でも、雲の上にある天国でも。
「其処に関しちゃ、否定はしない。お前と二人でいられるんなら、俺も何処でもいいんだが…」
 だがなあ、今は生きてるんだし、貰った命を楽しまないと。…お前も、俺も。
 生きてりゃ薔薇のジャムも作れる、とハーレイがパチンと瞑った片目。
 「天国で薔薇が届くのを待ってなくても、地球に咲いてる薔薇で幾らでも作れるしな?」と。
 白いシャングリラの思い出の味と言うのだったら、似合わなくても作って食べる、と。
「薔薇の花びらで作ったジャム…。買おうっていう話もあったよね?」
 前に薔薇のジャムの話をした時、いつか二人で買いに行こう、って。
「買いに行くのもいいんだが…。作ろうって気がして来たぞ、俺は」
 俺には似合わない薔薇の話をたっぷりとして、天国でも作っていたかもしれん、っていうことになっちまったら。薔薇の花輪や花束がドッサリ届いた時には、作ったのかもしれないなら。
 薔薇のジャムがお前のリクエストだというなら作ろう、とハーレイが引き受けてくれたから。
 今のハーレイも料理はとても得意なのだから、いつか薔薇のジャムを頼んでみようか。
 ハーレイには似合わないジャムらしいけれど、「作ってよ」と薔薇のジャムをおねだり。
 いつか結婚して、二人で暮らし始めたら。
 薔薇のジャムを二人で食べる時間を持てる生活、それがハーレイの家で始まったら。
 いい香りのする薔薇をドッサリと買って、愛でた後には薔薇のジャム。
 「萎れて来たからジャムにしてよ」と、「シャングリラでは、薔薇はそうしてたよね?」と…。



           記念墓地の薔薇・了


※薔薇の花びらで作ったジャムは似合わない、と評されていたのがキャプテン・ハーレイ。
 けれど今では、記念墓地の墓碑に沢山の薔薇が。青い地球の上で、薔薇のジャムも作れそう。
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