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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(わあ…!)
 綺麗、と小さなブルーが眺めた窓の外。土曜日の朝に、目覚めて直ぐに。
 今日はハーレイが来てくれるから、と張り切ってシャッと開けたカーテン。よく晴れてる、と。部屋は二階だから、空も庭も窓から見えるのだけれど。
 窓から近い庭の木々の間、其処に見付けた素敵なもの。夜の間に蜘蛛が張った巣、それに朝露。朝の日射しにキラキラと光る、とても細かなレース模様。
 蜘蛛が紡いだ糸のレースは、露の玉を纏って輝くよう。夢の国から来たみたいに。
(ホントに綺麗…)
 見惚れてしまうレースだけれども、露が幾つもつかなかったら、きっと気付いていないだろう。露を煌めかせる、朝の日射しが無かった時も。
 偶然生まれた、自然の造形。光るレースの芸術品。細い細い糸と、くっついた露と、朝の光と。
(これだったら、虫も大丈夫…)
 蜘蛛が巣を張って狙っている虫。その虫たちも安全な筈。
 露を纏った光のレースは目立つから。これだけキラキラ輝いていたら、遠くからでも蜘蛛の巣があると分かるから。
 罠があるのだと分かっていたなら、きっと引っ掛かる虫などはいない。光のレースがある場所を避けて、上手く躱して飛んでゆく筈。
 蜘蛛に食べられてしまわずに。粘りを持つ糸に絡め取られて、御馳走にされてしまわずに。
 死が待つ罠ではないというなら、蜘蛛が張った巣は芸術品。窓から眺めて楽しめるもの。
(ハーレイにも見せてあげたいな…)
 とても綺麗で素敵だから。蜘蛛が編み上げて、露が飾った自然のレースなのだから。
 そう思ったのに…。



 顔を洗って着替えも済ませて、朝食を食べて戻った部屋。
 窓の向こうを覗いてみたら、もう消えていた蜘蛛の巣の露。太陽の光が消してしまって。幾つもあった露の玉たち、それをすっかり蒸発させて。
 夏の日射しには敵わなくても、太陽の光はやっぱり強い。蜘蛛の巣の露を消せるのだから。
 露の玉たちを失くしたレースは、ただの蜘蛛の巣。細くて、頼りないほどの糸。
(これじゃ、ハーレイには見て貰えないよ…)
 せっかく綺麗だったのに。光り輝くレースが庭を飾っていたのに。
 残念、と溜息をついて始めた掃除。いつもの習慣。
 床を掃除して、窓辺のテーブルを拭いて、ハーレイと自分が座る椅子の位置を整えていて。
(蜘蛛の巣も掃除しちゃおうかな?)
 ふと思い付いた、蜘蛛の巣の掃除。窓の向こうにあるのだから。
 あんなに大きな蜘蛛の巣なのだし、あったら虫が可哀相。露の光は消えてしまったから、今では虫を捕える罠。虫たちの目に映らないよう、細い細い糸で編まれた死を運ぶ罠。
 引っ掛かったらそれでおしまい、蜘蛛に見付かって糸を巻き付けられて。生きたままでバリバリ食われてしまうか、後で食べようと糸で包んでおかれるか。
(あれがあったら、殺されちゃう…)
 蝶とかが食べられてしまうんだよ、と蜘蛛の巣を取ろうと思ったけれど。
 掃除のついでに死の罠の糸を切ろうと考えたけれど、窓からは手が届かない。どう頑張っても、長い物差しまで引っ張り出しても。
(ぼくって駄目だ…)
 掃除出来ない蜘蛛が張った巣。虫たちの命を奪う罠。
 風に揺れるのが見えているのに、自分にはどうすることも出来ない。支える糸を一本切ったら、あの巣は半分壊れるのに。それだけで危険を減らせるのに。
 けれどサイオンもまるで使えないから、こうして眺めているしかない。何も出来ずに。
 虫たちが引っ掛かりませんように、と祈ることだけが精一杯で。



 ハーレイが訪ねて来てくれてからも、気になる蜘蛛の巣。
 向かい合わせで座るテーブル、それは窓辺にあるのだから。ついつい外へと向きがちな瞳。話の合間に、蜘蛛の巣の方へ。虫が引っ掛かったら大変だよ、と。
 何度も視線を外へ遣るから、「どうかしたのか?」と尋ねられた。鳶色の瞳の恋人に。
「さっきから窓が気になるようだが、其処から何か見えるのか?」
 庭に猫でも入って来たのか、俺は全く気付かなかったが。
「えっとね…。蜘蛛の巣があるんだよ」
 あそこ、と指差した大きな蜘蛛の巣。
 ハーレイに見せたかったことも思い出した。「ほほう…?」と外を見る恋人に。
「あれか、けっこうデカイ巣だな」
 ジョロウグモだな、あの大きさだと。
「朝はとっても綺麗だったよ、それで蜘蛛の巣に気が付いたんだよ」
 露が一杯ついていたから、キラキラ光ってレースみたいで…。
 ハーレイにも見せたかったんだけれど、朝御飯を食べたりしてる間に消えちゃった…。露が。
「蜘蛛の巣なあ…。露がつけば確かに綺麗だよな」
 あんな所にあったのか、と見惚れちまうくらい見事なもんだ。宝石で出来てるみたいにな。
「見たことあるの?」
 露でキラキラ光っているのを。…朝早く起きて?
「馬鹿にするなよ、俺が何年生きていると思っているんだ、お前」
 早起きしなくても、何度も見てる。ガキの頃にも、今の家に引越しして来てからも。
 そいつを俺に見せられなかったから、あの蜘蛛の巣が気になるのか?
 朝には綺麗だったのに、と。
「ううん、そっちはいいんだけれど…」
 蜘蛛の巣、虫が捕まっちゃうよ。光っていたなら、目立つから虫も避けるだろうけど…。
 今みたいに見えにくい糸になったら、気付かないままで飛んで来るでしょ?
 引っ掛かったら餌にされちゃう、そんなの可哀相じゃない…!



 蜘蛛の巣を取ろうと挑んだけれども駄目だった、とハーレイに話した。掃除のついでに壊そうとしたのに、糸を切ることも出来なかった、と。
「ぼくの手、届かないんだよ。頑張ったけど…」
 長い物差しも使ってみたけど、糸を切ることが出来なくて…。蜘蛛の巣、そのまま…。
 放っておいたら、虫が捕まって食べられちゃうのに…。引っ掛かったら、おしまいなのに。
「おいおい、蜘蛛も必死なんだぞ」
 あのデカイ巣が張ってあるのは、何のためだと思ってるんだ?
 蜘蛛が獲物を捕まえるためだ。蜘蛛だって虫だ、餌が食えなきゃ死んじまう。
 飢え死にしたら大変だろうが、そうならないよう、せっせと糸を張ってだな…。
「分かってるけど…。でも…」
 食べられちゃう虫が可哀相だよ、あの巣が無ければ大丈夫なのに…。
 ぼくが蜘蛛の巣、壊せていたなら、虫は助かる筈だったのに。
 出来なかったから、虫が引っ掛かったら死んじゃうんだよ、と訴え掛けたら。
「仕方ないな…」
 物差し、此処に持って来い。お前が言ってた長い物差し。
「取ってくれるの?」
 ぼくの代わりに壊してくれるの、あの蜘蛛の巣を?
「蜘蛛には可哀相だがな。…巣作りで腹が減ってるだろうに」
 しかしだ、あそこに虫が引っ掛かったら、お前、泣き出しそうだしなあ…。
 お前の力が足りなかったから、虫が捕まって食べられるんだ、と。
 そうなってから虫を助けてやるのも、あの巣を先に壊しておくのも、大して変わらないからな?
 どっちにしたって蜘蛛は飢えるし、それなら先に壊した方が…。
 壊しておいたら、お前の泣き顔、見なくて済むだろ。



 悲しむお前は見たくないから、と物差しを握って、窓から手を一杯に伸ばしてくれたハーレイ。蜘蛛の巣を支える糸を一本、二本と断ち切り、すっかり壊してしまった蜘蛛の巣。
 ついでに、最後の糸にぶら下がっていた蜘蛛も引っ掛けて、ヒョイと放った。物差しで上手く、遠く離れた木の梢へと。
「壊してやったぞ、もう大丈夫だ」
 こいつは返す、と物差しを渡されたけれど、その物差しが遠くへ飛ばした蜘蛛。ポーンと飛んで行っただけだし、きっと木の葉か枝にしっかり掴まっただろう。死にはしないで。
(…生きてるよね?)
 木にぶつかって死んでしまわずに、木の枝か葉に掴まって。「ビックリした」と目を見開いて。
 蜘蛛は生きているに決まっているから、物差しを片付けて椅子に戻って、眺めた庭。あの辺りの木に飛んでったよ、と。
「今の蜘蛛…。飛んでった先で、また巣を張っちゃう…」
 さっきみたいに大きなのを。あそこだと絶対、手は届かないし…。どうしよう…。
「お前なあ…。殺したいのか、あの蜘蛛を?」
 巣を作るな、ってことになったら、俺が殺すか、獲物を獲れずに飢え死にするかのどっちかだ。
 そういう風にしたいのか、お前?
「えーっと…」
 殺したいとは思わないけど…。飢え死にさせようとも思ってないけど…。
「だろうな、深く考えてはいないんだろうが…」
 あの蜘蛛、お母さん蜘蛛かもしれないんだぞ。お腹に卵を抱えてる蜘蛛。
「え…?」
 お母さんだったの、赤ちゃんのために巣を張ってたの…?
「時期にもよるがな。今の季節に卵を産むかは分からんが…」
 そうだとしたなら、あの巣は一匹だけのためじゃないんだ。これから生まれる沢山の卵、それに栄養をつけてやるために獲物を待っていたってな。
「そっか…。ぼく、悪いことをしちゃったかな?」
「知らなかったんだから、仕方がないと思うがな?」
 それに知っていても、目の前で獲物が食われちまうのはキツイもんだし…。
 蜘蛛だってきっと許してくれるさ、殺されちまったわけじゃないから。また頑張ろう、と。



 ハーレイに巣を壊された蜘蛛。遠くの梢に飛ばされた蜘蛛。
 もしも卵を産む蜘蛛だったら、子供たちのためにと新しく作り直す蜘蛛の巣。獲物を捕まえて、育つための栄養がたっぷり詰まった元気な卵を産むために。
「あの蜘蛛、俺が投げちまったが…。あんなにデカくちゃ、もう無理なんだが…」
 知ってるか、ブルー?
 蜘蛛の子供は空を飛ぶんだぞ、風に乗ってな。翅も無いのに。
「…ホント? さっきハーレイが投げたみたいに?」
 空を飛んで行くの、蜘蛛の子供は?
 小さい間は空を飛べるの?
「うんと小さい間だけだが、飛べるそうだぞ。翅の代わりに、蜘蛛の糸でな」
 卵から孵って、糸を出せるくらいに育ったら。
 一緒に孵化した兄弟が全部、一斉に糸を出すらしい。いい風が吹いている日を選んで。
 自分の身体よりもずっと長い糸だ、それがパラシュートになるってわけだ。糸が風に攫われて、蜘蛛の身体ごと空に舞い上がる。赤ん坊の蜘蛛は小さいからな。
「そうなんだ…。赤ちゃんの蜘蛛だから飛べるんだね。重くないから」
 糸と一緒に飛べるくらいに小さい蜘蛛。それって、どのくらい飛んで行けるの?
「風任せだしな、吹く風の気分次第だが…」
 相当な距離を飛ぶらしい。蜘蛛が自分で歩いていたんじゃ、辿り着けそうもない遠い所まで。
 昔、日本があった頃には、そいつを意味する言葉まであった。
 なにしろ沢山の糸が飛ぶんだ、名前がついても不思議じゃないよな?
 雪がよく降る北の方でついた名前だったから、秋に飛んでいたら「雪迎え」。雪の季節を迎える前だし、雪を呼ぶんだと思われていた。
 逆に、雪が消える春に飛んだら「雪送り」。雪の季節は終わりだと見上げていたんだろうな。
 白い蜘蛛の糸だ、雪を連想しやすいじゃないか。ふわふわと沢山飛んでいたなら。



 地球が滅びるよりも前には、世界中にいた空を飛ぶ蜘蛛。小さい間に、糸を使って。風に乗って遠い、遠い旅をして。
 中国では遊糸という名で呼ばれた、大勢の蜘蛛の子供たちの飛行。文字通り空を飛んでゆく糸。
「地球は一度は滅びちまったが…。今はすっかり元通りだしな?」
 昔と同じに、世界中に空飛ぶ蜘蛛の子供がいるってわけだ。日本や中国だけではなくて。
 地球は広いし、同じように空を飛んでいたって、桁外れな場所もあるからなあ…。
 たまにニュースになったりするんだ、こいつがな。
 雪迎えだとか、遊糸なんていう洒落た名前じゃないんだが…。バルーニングと言うんだが。
 物凄い数の蜘蛛が風に乗って飛んで行ってだ、纏めて着地しちまって…。
 辺り一面、真っ白な糸に覆われるってな、そういう時にはニュースになる。糸だらけだ、と。
「凄い…! 蜘蛛の糸でしょ、あんなに細い糸なのに…」
 それが一杯、ってニュースになるほど沢山の糸。頑張ったんだね、蜘蛛の子供たち。
 人間の目に留まるくらいに、凄い数のグループなんだから。
「蜘蛛としては失敗なんだがな。…糸だらけってのは」
 どんなに見た目が見事だとしても、ニュースになっても、大失敗というヤツだ。
 風任せだから仕方ないんだが、纏めて着地しちまわないよう、いろんな場所に散らばらないと。
「なんで?」
 蜘蛛は縄張りとかは無いでしょ、巣を張って獲物を待つだけだから。
 それとも餌が足りなくなるかな、おんなじ所に沢山の蜘蛛が巣を作ってたら。
「餌の問題も大きいが…。生物としての問題もある」
 上手く分散出来てないから、生き残るのが難しいんだ。散っていたなら、チャンスは増える。
 嵐が来たとか、旱魃だとか。自然の中では色々あるだろ、命の危機が。
 散らばっていれば、一つのグループが滅びちまっても、他のグループが生き残れるから。
「そうだね…」
 兄弟が殆ど死んでしまっても、生き残りがいれば滅びちゃうことはないものね。
 子孫を増やせば滅びないんだし、散らばってる方が安心だよね。離れ離れは寂しいけれど。



 大勢の仲間と一緒にワイワイ暮らせていたなら、楽しそうに思える蜘蛛たちの世界。空を飛んで旅をして行った先でも、仲間たちと一緒だったなら。
 けれども、それは人間だから思うこと。蜘蛛の世界では逆が正しい。兄弟たちと離れ離れでも。空の旅の途中で、皆と別れてしまっても。
 ハーレイは「分かったか?」と、バルーニングの失敗例について教えてくれた。
「俺も何度かニュースで見てるが、馬鹿デカイ布でも地面に被せたみたいだぞ」
 レースと言うより、透ける布だな。そいつが辺り一面だ。塵も積もれば山となる、ってトコか。細い糸でも、物凄い数になった時にはああなる、と。
 だが、蜘蛛の方じゃ、固まっちまったらおしまいなんだ。運が悪かったと言うべきか…。
 風に乗って空の旅に出たなら、あちこちに広く散らないと。
 そういう意味では、シャングリラはリスクが高かったよな。…前の俺たちが生きていた船。
「シャングリラ…?」
 どういう意味なの、シャングリラは蜘蛛の子供たちとは違うけど…。
 乗っていたのは人間なんだし、大勢の仲間と助け合える方がいいじゃない。生きてゆくのにも、食べ物や物資を手に入れるにも。
 みんなで協力し合うのがいいよ、でないとミュウは生き残れないよ?
「それはそうだが、考えてみろ。…バルーニングと同じ理屈で」
 蜘蛛の子供たちは散らばることで、生き残るチャンスを増やしてるんだ。滅びないように。
 しかし、シャングリラはそうじゃなかった。皆、纏まって乗っていだろ、あの船に。
 早い話が、シャングリラが沈めば終わりだったろうが。…ミュウという種族は。
 ミュウを乗せた船は、あの船だけしか無かったんだから。あれが沈めば滅びるしかない。
 なのに、人類はシャングリラを退治し損ねた。何度も攻撃して来たのにな。
 アルテメシアから逃げ出した時もそうだし、ナスカだってそうだ。もちろん旅の途中でも。
 たった一隻しか船は無いのに、前の俺たちは生き残った。…滅ぼされずに。
 進化の必然だったとはいえ、珍しいケースなんだと思うぞ。纏まってたのに生き延びたなんて。



 そう思わないか、と尋ねられたら、頷かざるを得ない運の良さ。前の自分たちとシャングリラ。
 蜘蛛の子供たちは滅びないように散ってゆくのに、纏まったままで旅をしていた。大勢の仲間を乗せた箱舟、白いシャングリラに固まったままで。
 考えてみれば、他の星でも生まれていたミュウ。
 SD体制はミュウ因子を排除しなかったのだし、何処でもミュウは生まれていた筈。前の自分やハーレイがいたアルタミラのように、大勢のミュウが発見された星もあったろう。
 けれど、何処からも第二、第三のシャングリラは出て来なかった。シャングリラとは違う名前の船にしたって、ミュウの仲間が集まる船は。
 そういう船は一つも出て来ないままで、白いシャングリラも増えはしないまま。仲間たちを他の船に移して、艦隊を組むことも出来たのに。シャングリラを艦隊の中心に据えて、何隻かで。
 仲間の数が増えていっても、シャングリラはずっと一隻だった。たった一隻で宇宙を旅した。
 人類軍との本格的な戦闘状態に入った後でも、やはり変わらず一隻のまま。
 船が増えたのは、ソル太陽系が目前に迫ってからのこと。
 ゼルとブラウと、エラが指揮官だった船。その三隻が新たに加わったけれど…。



 ハーレイの口ぶりからして、あの船たちは分散するためではなかったのだな、と思ったから。
「えっとね、ハーレイ…。シャングリラとは違う船…」
 ゼルやブラウが指揮していた船、あったでしょ?
 前のぼくがいなくなった後。…もうすぐ地球だ、っていう頃には。たった三隻だったけど。
 だけど、あの船…。あれを増やしたのは、生き残るためじゃなかったんだよね?
 シャングリラが沈められちゃったとしても、エラたちの船が残ってるから、っていう意味の船。
「そういう船とは違ったな。結果的に、あれがコルディッツを救いはしたが…」
 ゼルの船にステルス・デバイスを搭載していたお蔭で、ミュウの仲間は救えたんだが…。
 あの三隻があるからといって、シャングリラが無くても生き残れるってわけじゃなかった。前と全く変わらなかったな、ミュウの事情というヤツは。
 単に戦力を増やすためにだけ、あの三隻を加えたんだし…。あっちに移った重要人物は、ゼルやエラたちだけなんだから。
 そんな船だけ残っていたって、ミュウの未来は無さそうだろうが。
 ソルジャーは辛うじて生き残っていても、キャプテンだった俺はいないし、二番手のシドも…。
 ブリッジクルーも全滅だろうし、シャングリラを支えたヤツらも同じだ。
 それでどうやって生きて行くんだ、自給自足も出来ない船で。
 たった三隻で命からがら逃げ出したとしても、二つ目のナスカも作れやしない。
 残った船には、戦闘員しかいないんだから。でなきゃ機関部担当とかで、料理の腕も怪しいぞ。
 あんな船だけ残っても駄目だ、ミュウは生き延びられないってな。



 艦隊の形を取った時にも、やはりリスクは分散してはいなかった。空を旅する蜘蛛の子供たち、彼らが滅びてしまわないよう、降りる先を変えて散らばるようには。
 地球を擁するソル太陽系が近付いて来ても、相変わらずシャングリラが核だったミュウ。それを失くせば滅びるのに。生き延びる道は無いというのに。
「…前のぼくたち、間違えてたかな、戦法を…?」
 シャングリラだけに固まってたのは、失敗だったみたいだけれど…。
 たまたま上手く行ったってだけで、一つ間違えたら、ミュウの未来も無かったんだけど…。
「まったくだ。実に危うい道ってヤツだな、シャングリラだけで旅をしていたなんて」
 前の俺も気付きもしなかった。危ない橋を渡ってるんだということに。
 本格的な戦闘なんかは、一度もしないままだったしなあ…。一方的に追われるだけで。
 ジョミーが地球を目指すまではだ、防戦一方と言ってもいい。一度も打って出ちゃいない。
 アルテメシアで前のお前たちの代わりに囮になっても、ただそれだけのことだったしな。
 こっちから派手に爆撃するとか、そんなことはしていないんだから。



 前の俺たちは生存本能が薄かったんだろうか、とハーレイがついた大きな溜息。
 お前でさえも死んでしまったし、と。
「前のお前は、俺たちよりかは逞しかった筈なんだ。身体は遥かに弱かったがな」
 それでも、物資を奪いに行ったり、人類の施設に忍び込んだり…。
 身の危険ってヤツは感じた筈だぞ、お前にとっては大した脅威でなかったとしても。
 そんなお前でさえ、メギドを沈めて死んじまった。…生きて戻ろうとは、思いもせずに。
「あれは、みんなを守るためで…!」
 みんなの命を守るためだもの、生き残るためにやったことだよ。ミュウの未来を守るために。
「そうなんだろうが、死んじまったというのがなあ…」
 普通だったら、ああいう時には、自分も一緒に行き残る道を探すだろうが。
 死んでたまるか、と踏ん張るのが生存本能ってヤツで、実際、出来ないわけじゃなかった。
 一人でメギドに出掛ける代わりに、ジョミーも連れて行くとかな。
「そんなことをしたら、危ないじゃない!」
 トォニィたちは船に戻せたとしても、ジョミーも一緒に行くなんて…。
 もしもメギドで、ソルジャーが二人とも死んでしまったらどうするの!
「お前、それほどジョミーが信用出来なかったか?」
 一緒に行ったら足手まといで、何の役にも立たないだとか。…共倒れになってしまうだとか。
「ううん…。ジョミーだったら、ちゃんと戦えたと思う…」
 二人がかりならメギドを沈めて、キースの船ごと壊せたと思う。指揮官を失くして人類軍が混乱している間に、シャングリラまで逃げることだって…。
「ほら見ろ、お前でもその有様だ。…生きようと思えば生きられたのに」
 ナスカに残った連中だってそうだ、シェルターごと押し潰されてしまったキムやハロルド。
 どうしても生きたい、助かりたい、と言うんだったら、あの連中だって助け出せたぞ。
 メギドに襲われた後にしたって、ジョミーはナスカにいたんだから。
 たった一言、「船に戻りたい」と頼めば良かった。そうすりゃ、どうとでもなった。
 ナスカにシャトルを降ろせなくても、ジョミーの力で皆を乗せることなら出来たんだから。



 惑星崩壊を起こしつつあったナスカの大地。揺れ動き、地割れが走る地面にシャトルを降ろせはしない。滑走路が確保出来ないから。
 けれど、ある程度の高度までなら降りられる。ジョミーが其処まで皆を運べば、収容は可能。
 ナスカに残った仲間たちが皆、シェルターを捨てていたならば。脱出の道を選んだならば。
 なのにそうせず、残ってしまった大勢のミュウたち。崩れゆく星では、シェルターの中も恐らく無事ではなかったろうに。明かりも消えてしまったろうに。
「人間ってヤツはパニックになると、頭が真っ白になっちまってだ…」
 目の前の危機を回避する代わりに、どうでもいいようなことをしようとするらしいんだが…。
 逃げればいいのに、崩れそうな家の掃除を始めちまうとか。
 ナスカに残ったヤツらも同じで、シェルターの中で落ちてくる瓦礫の掃除をしたかもしれん。
 思念波で助けを求めりゃいいのに、汚れちまったから床を綺麗にしないと、と。
 その可能性はあったとしたって、それよりも前に、危機感ってヤツが欠けていた。
 あれだけ危険だと警告したのに、残ってしまう辺りがな。
 …そういうヤツらも仲間だったんだ、生存本能は薄かったかもな。
 前の俺たちが生きた時代のミュウは全員、お前も含めて。



 シャングリラだけに固まって生きていただけあって、とハーレイに指摘されたこと。生存本能が薄い種族だったと、生き残る意欲に欠けていたと。
 言われてみれば、前の自分は思い付きさえしなかった。
 自分が生き残ることはもちろん、リスクを分散することも。一撃で滅ぼされてしまわないよう、仲間たちを散らせておくことも。
「…シャングリラ、一つじゃ駄目だったんだ…」
 沈められたらおしまいだものね。幾つかの船に分けておいたら、他の船が残ることもあるのに。
 前のぼく、全然、気付かなかったよ。
 救命艇は欲しかったのに…。意味なんか無いって言われたけれども、いつかは欲しい、って。
「あれだって、船を分けていたなら、意味は充分あっただろうさ」
 非常事態に陥った時は、それで脱出すればいい。他の船が収容しに来るからな。
 夢物語ってわけじゃなかった筈だぞ、シャングリラの他にも船を持つことは。
 前のお前なら、船だって奪えていたんじゃないか?
 適当な船を見付け出したら、乗ってるヤツらを放り出して。…殺さなくても、意識を奪って押し込めておけばいいんだから。お前が欲しかった救命艇に。
 それごと宇宙に放り出したら、船は貰っておけるだろうが。放り出された人類の方も、救命艇の中で気が付いた後は、救難信号を出せば助けが来るんだからな。
「…そうだったかも…」
 もしも欲しいと思っていたなら、船は貰えていたかもね。物資を奪うのと同じ要領で。
 コンテナを盗むか、中の人類を放り出すかの違いだけだし…。前のぼくなら、出来たんだし。
 武装した船だって奪えた筈だよ、白い鯨が出来る前でも。
 ビクビクしながら隠れてなくても、戦える船を持てていたよね、奪っていたら。



 人類を一人も殺さなくても、きっと奪えただろう船。乗員を全部、救命艇で宇宙に捨てて。
 その手を使えば、艦隊は組めた。シャングリラの他にも船を引き連れ、仲間たちを乗せて。
 船を一隻沈められても、ミュウが滅びてしまわないように。
 空を飛んでゆく蜘蛛の子たちが、生き残るために散らばるように。
 それをしないで、シャングリラだけで旅を続けた前の自分たち。リスクを分散させることなく。
「…前のぼくたち、やっぱり駄目だったのかな…」
 頑張って生きてたつもりだけれども、色々、失敗していたのかな。
 人類は逞しく生きていたけど、ミュウは弱くて、生存本能だって薄くって…。
「駄目だったんだろうな、生き物としては」
 蜘蛛の子供でも、散らばって生きようと旅をするのに。…固まっていたら滅びるから、と。
 前の俺たちには本能どころか、立派な脳味噌があったってのに…。
 誰一人として、其処に気付きやしなかった。前のお前も、ヒルマンも、エラも。
 船を分けようと、そうした方が生き残れるチャンスが増えるから、とは。
 だが、そんなミュウでも神様が助けて下さったんだ。生きろと、無事に生き延びろと。
 そのお蔭で今があるってな。
 人間は誰もがミュウになった世界。戦いなんかは無くなっちまった平和な世界が。
「本当だね。滅びちゃっても、文句は言えなかったのに…」
 生き残るための努力をしていたつもりで、間違ったことをしてたのに。
 シャングリラだけに固まって住んで、他にも船を持つことなんか、一度も考えないままで。
 もしもシャングリラが沈んでいたなら、ミュウはおしまいだったのにね…。



 何も知らずにシャングリラだけで生きていたのに、滅びなかった前の自分たち。本当だったら、船を奪って艦隊を作るべきだったのに。
 ミュウという種族を守りたいなら、そのための手段を講じておくべきだったのに。
 糸を頼りに空を旅する、蜘蛛の子供たちも知っていること。固まってしまったら失敗なのだと、滅びないためには散らばらねば、と。
 幸運だったとしか言いようがない、シャングリラで旅をしていたミュウ。滅びの危機に気付きもしないで、たった一隻の箱舟に乗って。
「…そういえば、蜘蛛もシャングリラにはいなかったよね」
 蜘蛛の巣なんかは見たことがないよ、あの船では。大きなのも、隅っこに出来る小さいのも。
「まるで必要無かったからなあ、蜘蛛なんかは」
 虫を食べるっていうだけなんだし、その虫にしても、ミツバチしかいない船ではな…。
 大切なミツバチを食われちまった、と大騒ぎになって直ぐに駆除だな。役に立たん、と。
 しかしだ、もしもシャングリラに蜘蛛がいたなら、ヤツらは空を飛んだだろうし…。
 あの船の中しか行き場が無くても、散ろうと旅をしたんだろうし。
 そいつを見てれば、前の俺たちだって、リスクの分散というヤツをだな…。
 いや、考え付かないか、前の俺たちじゃ。
 今度の蜘蛛はこんなに遠くまで飛んで行った、と記録を取るとか、その程度だな。
 ブリッジにまで飛んで来たとか、どうやって青の間まで飛べたんだか、と首を捻るとか。



 あんな状態でよく生き残れたな、とハーレイも呆れる、生存本能が薄かったミュウ。
 生き残るために努力していたつもりだったけれど、やり方を間違えていたらしいミュウ。一隻の箱舟を沈められたら、それでおしまいだったのに。
 綱渡りのような危うい航路を、最後まで旅して行ったのに。…地球に着くまで。
 それでも滅びなかったミュウ。蜘蛛の子供でも知っていることを、知らずに旅をしていたのに。
 本当に神が味方してくれたのだろう、さっきハーレイが言った通りに。
 「生きろ」と、「ミュウの時代を作れ」と。
 空を旅する蜘蛛の子供の話を聞いたお蔭で、神の助けに気付いたから。蜘蛛の子供が糸を頼りに空を飛ぶことは、窓の外に巣を張っていた蜘蛛のお蔭で聞けたのだから…。
「…ねえ、ハーレイ。さっきの蜘蛛、ちゃんともう一度、巣を張れるかな?」
 ハーレイに投げられちゃったけれども、あの木の所で巣を作れるかな?
 ちゃんと御飯が食べられるように、虫を捕まえられるような巣。…お母さんの蜘蛛なら、お腹の卵もきちんと育ててあげられるのを。
「おっ、考えが変わったか?」
 虫が可哀相だと騒いでいたのに、蜘蛛の心配、することにしたか。
 俺に蜘蛛の巣、すっかり壊させちまったのにな。
「生きてゆくのが大切でしょ?」
 蜘蛛もそうだし、前のぼくたちだって、そうだったんだよ。
 滅びちゃったらおしまいなんだし、頑張って生きていかなくちゃ。…ちょっと失敗していても。
 固まって生きてちゃ駄目ってことには、気付かないままで旅をしてても。



 生きていくには、食事するのも大事だものね、と微笑んだけれど。
 「だから蜘蛛には巣が要るんだよ」と言ったけれども、また蜘蛛の巣が出来たなら。露を纏って光る姿は綺麗だとしても、虫を捕えて食べるための罠が出来たなら…。
(虫、頑張って助けちゃいそう…)
 死の罠に虫が引っ掛からないよう、物差しを伸ばして、巣の糸を切って。
 ハーレイがやってくれていたように、蜘蛛の巣を壊して、蜘蛛だって遠くへ放り投げて。
(物差しを伸ばしても届かなかったら、またハーレイに頼むとか…)
 でなければ父を呼んで来るとか、もっと長い棒が無いかと探しに出掛けてゆくだとか。
 だから蜘蛛には、見えない所で頑張って欲しい。
 この部屋の窓からは見えない所に、虫を捕える巣を張って。餌の虫たちを捕まえて。
 前の自分たちも、隠して貰って生き残ったから。
 人類に滅ぼされてしまわないよう、神様が広げてくれた袖の中に。
 生き残るための努力を間違えていたのがミュウだったのに、神様に助けて貰ったから。
 神様が助けてくれたお蔭で、固まっていても大丈夫だったから、あの蜘蛛も何処か見えない所。
(そういう所で頑張ってよね)
 巣を壊されずに済む場所で。
 自分の目からは見えない所で、いつか卵が孵った時には、糸を飛ばして空の旅をして。
 シャングリラには無かった蜘蛛の糸のレースは綺麗だけれども、虫の命を奪うから。
 虫の命が奪われる前に、きっと助けてしまうから。
 前の自分たちの姿を重ねて、可哀相になって。
 「生きて」と「早く此処から逃げて」と、蜘蛛の都合も考えないで。
 今の自分は幸せだから。
 虫だって幸せに生きて欲しいから、蜘蛛の巣を壊しておかなくっちゃ、と…。




           蜘蛛の子の旅・了


※旅をする蜘蛛の子供の話から、ブルーとハーレイが気付いたこと。シャングリラのリスク。
 一隻の船に集まったままで旅をするのは、危険だったのです。神の采配で生き延びたミュウ。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv












PR

「あっ…!」
 コロン、とブルーが床に落としたコイン。学校ではなくて、自分の部屋で。
 手にした財布の中から一枚、転がっていって、ベッドの下へ。アッと言う間に、コロコロと。
(あーあ…)
 落としちゃった、と零れた溜息。学校から帰って、おやつの後で戻った小さなお城。母に貰った昼食代とお小遣い。それを入れようと財布を出していた時の事故。勉強机の前に座って。
 落ちたコインはベッドの下。取ろうと床に屈み込んだのだけれど…。
(届かないよ…)
 手を突っ込んでも取れないコイン。腕の長さが足りないから。
(んーと…)
 こういう時には長さを足せば、と机から物差しを取って来た。充分に長いし、これで引っ掛けて取ればいいや、と。
 なのに、コインが薄いせいなのか、自分の腕前が悪いのか。物差しを何度入れてみたって、先にくっついてはくれないコイン。少しも上手く引っ掛からない。床にコロンと横倒しのまま。
(ちょっとくらい動いてくれたって…)
 どうして駄目なの、と格闘している内に聞こえたチャイム。まだ早いから、と眺めた時計が示す時間は、思った以上に遅い時間で。
(まさか、ハーレイ!?)
 物差しを床に放って窓に駆け寄ったら、門扉の向こうで手を振るハーレイ。落としたコインは、諦めるしかないだろう。ハーレイが帰ってゆくまでは。
(…拾ってるような時間があったら、ハーレイとお喋り…)
 後にしよう、と片付けた物差し。それに財布も。



 コインは後で、と決めていたのに、やっぱり気になるベッドの下。あそこにコイン、と。
 お茶とお菓子が置かれたテーブル、それを挟んでハーレイと向かい合わせに座っても。ついつい目が行くベッドの方。コインを拾い損なっちゃった、と。
 きっと何度も見ていたのだろう、ハーレイに「おい」と掛けられた声。
「さっきから何を見てるんだ?」
 心がお留守になってるようだが、何度も見ているベッドの方。…それも下だな、床の方だ。
 あそこに何か隠しているのか、ベッドの下に?
 どうなんだ、と鳶色の瞳が見詰めてくるから、慌てて「ごめん」と謝った。
「何も隠してないけれど…。余所見しちゃって、ごめんなさい…」
 隠すんじゃなくて、落っことしちゃった。ベッドの下に入ってしまったんだよ、コインが一枚。
 ママに貰ったお小遣いを財布に入れてた時にね、床に落としたら転がっちゃって…。
 ベッドの下、と項垂れた首。あの下に入ったままになってる、と。
「拾えばいいだろ、落としたんなら」
 俺が来た途端に落としたとしても…。ちょっと拾うから、と言えばいいだけのことだろうが。
 余所見ばかりをされるよりかは、待たされた方が俺は気にならないがな?
「…拾えないんだよ、手が届かなくて…」
 知っているでしょ、ぼくはサイオンじゃ拾えないこと。うんと不器用になっちゃったから。
 だから手でしか拾えないんだし、それでも頑張ったんだけど…。
 物差しで引っ掛けようともしたけど、コイン、ちっとも引っ掛からなくて…。
「そういうことか…。何処だ?」
 俺なら拾ってやれるだろう。手が届かないほどの場所にしたって、サイオンもあるし…。
 コインくらいはお安い御用だ、どの辺りなんだ?



 ベッドの下は暗くて見えにくいからな、と椅子から立ち上がってくれたハーレイ。拾ってくれるつもりなのだし、「ここ…」と指差したベッドの下。
「この奥の方…。見える?」
「…あそこか、確かに落ちてるな。コインが一枚」
 床に屈んで、「届くかもな」とハーレイが伸ばしてくれた腕。長い腕がしっかり捕まえたから、コインは無事に戻って来た。「ほら」と渡されたコインが一枚。ハーレイの手の温もりつきで。
「ありがとう…!」
 御礼を言って、財布に入れようとしたけれど。…ほんのり温かい、一枚のコイン。拾ってくれた大きな褐色の手から移った温もり、コインは冷たいものなのに。
(ハーレイが拾ってくれたコイン…)
 それに温かい、と気付いた幸せなコイン。これは特別、ハーレイに拾って貰えたのだから。
 ただのコインなら財布に戻しておしまいだけれど、幸せな道を歩んだコイン。落っこちた時には不幸だったのに、今はハーレイに拾って貰って幸せ一杯、幸運なコイン。
(…うんと幸せ…)
 とても幸せなコインなのだし、他のとは別に残しておきたい。使ったりせずに、大切に。
 だから財布に入れる代わりに、引き出しの奥に仕舞っておこうとしたのだけれど…。
「どうして財布に入れないんだ?」
 引き出しなんかに入れてどうする、行方不明になっちまうぞ。きちんと財布に入れないと。
「大丈夫だよ、後で入れ物を探すから。…失くさないように」
 これはハーレイに拾って貰ったコインだもの。特別だから、大事にするよ。
 財布に入れたら無くなっちゃうでしょ、使ってしまって。
「馬鹿野郎!」
 何が特別だ、たかがコインが一枚だ。第一、俺は拾っただけで…。
 元はお前のコインなわけだし、プレゼントとは全く違うだろうが!



 そんなことをするなら、次から二度と拾ってやらんぞ、と睨まれた。腕組みまでして、眉間には皺。「特別も何も」と、「せっかく手伝ってやったのに」と。
「手が届かなくて拾えない、と困っているから、手伝ったんだぞ」
 ついでに、そいつはお前の昼飯代だろうが。それ一枚でランチ、食えるだろ?
「そうだけど…。一日分なら充分だけど…」
 ちょっと足したら、ジュースとかも一緒に買えちゃうけれど…。
「なら、入れておけ。財布の中にな」
 貴重な小遣いというヤツだ。ランチが一回分なんだから。
 貯めて何かに使うならいいが、記念に取っておくには少々、高すぎるってな。
 もっとも、もっと安いコインでもだ…。俺が拾った記念なんかに残しておくのは禁止だ、禁止。
 そういう魂胆でまた落とさないように、今からきちんと言っておく。厳禁だぞ。
 分かったら、さっさと入れるんだな。元の財布に。
「うー…」
 ハーレイのケチ!
 ぼくのコインだもの、どう使っても良さそうなのに…。取っておくのも自由なのに!
 なんで駄目なの、一枚くらい…!
 いいでしょ、と抗議したって出ないお許し。ハーレイは「財布に入れろ」と睨んだまま。
 仕方ないから、「残念…」と財布に戻したコイン。同じコインたちが入っている中に。
 チャリンと入れたら、どれだったのかは、もう分からない。
 コインの見た目はまるで同じで、他にもコインが入っていたから。色々な額のコインと一緒に、紛れてしまった幸せなコイン。同じ種類のコインは三枚、その中にすっかり混じってしまって。



 こういう時に限ってコインが一杯、と嘆いた財布。同じ種類は三枚だけでも、他のコインが沢山あったら、滑り込める場所も多いから。財布を閉じてしまった後には、中で動きもするのだから。
(幸せなコイン、無くなっちゃった…)
 ホントにどれだか分かんないよ、と財布を鞄に戻したけれど。元の椅子へと座ったけれど。
(…作られた年とか…)
 見ておけば良かった、と後悔しきり。コインの製造年が分かれば、目印になった筈だから。運が良ければ「これだ」と見付け出せたから。…他のコインに紛れていても。
(同じ年に作ったコインばかりでも、傷があるとか…)
 ほんの小さな引っ掻き傷。それがあったら分かったのに、と相も変わらず上の空。ベッドの方を何度も見ていた時と変わらないから、「お前なあ…」とハーレイがついた大きな溜息。
「拾ってやっても、拾わなくても、今日のお前は上の空ってな」
 俺よりもコインが気になるらしいな、お前ってヤツは。…まったく、どうしようもないヤツだ。
 恋人よりもコインの方か、と俺が怒って帰っちまったらどうするつもりだ?
 だが、まあ、一つ思い出せたし…。許してやるがな、ボーッとしてても。
「え?」
 思い出せたって…。何の話なの?
「ようやく聞く気になったってか。俺の話を、ちょっとは真面目に」
 コインよりも俺だって気持ちになったか、さっきよりは?
「ごめんなさい…。ちゃんと聞くから、その話、教えて」
 何か思い出があるんでしょ?
 コインか、何かを拾う話か、そういうので。…今のハーレイのお話だよね?



 ぼくにも聞かせて、と興味が出て来たハーレイの思い出。幸せなコインはもう捜し出せないし、考えていても無駄なこと。それを追うより、ハーレイの過去を知りたいから。
(今のハーレイ、ぼくよりもずっと年上だものね?)
 思い出だってきっと沢山、と瞳を輝かせて、思い出話を待っていたのに。
「生憎と、俺じゃないってな」
 前のお前だ、コインのお蔭で思い出したのは。
「…前のぼくって…。何かやってた?」
 コインを落としてしまうなんてこと、前のぼく、しないと思うけど…。
 お小遣いなんかは貰っていないし、お金だって持っていなかったもの。使うことが無いから。
「コインじゃないがだ、俺に拾わせていたってな」
 今日と同じで、「拾ってくれ」と。
「拾って貰うって…。何を?」
 何をハーレイに拾わせていたの、前のぼくならサイオンで拾えた筈なのに。
 わざわざハーレイに頼まなくても、ちゃんと自分で拾えそうなのに…。
「一つだけじゃない、いろんな物だな。お前が俺に拾わせたのは」
 最初は偶然だったんだが…。お前が狙っていたわけじゃなくて。
 俺に拾わせるつもりは無かったんだが、お前、拾えなかったんだ。頑張ったのに。
 青の間のベッドの馬鹿デカイ枠、あれの下に見事に挟まっちまって。
「ああ…!」
 そういえばあったね、頼んだことが。
 ぼくの力じゃ拾えなくって、ホントに困っていた時だっけ…。



 思い出した、と蘇って来た前の自分の記憶。ソルジャー・ブルーだった頃の、遠い昔の。
 もうハーレイとは恋人同士になっていた時代。夜になったら、青の間を訪ねて来たハーレイ。
(でも、キャプテンの仕事もあったから…)
 一日分の報告だったり、キャプテンとしてソルジャーの指示を仰いだり。
 その夜も、ハーレイが来たら訊くべきことがあるかどうか、と書類を見ていた。昼の間に開いた会議。其処で「次回までに」と配られたもの。次の会議で検討する議題や、その資料など。
 順にめくって読んでゆく内に、うっかり落とした一枚の書類。
 それはスルリとベッドの下へと滑り込んでしまって、枠と床の間に挟まって…。
(引っ張っても、ビクともしなくって…)
 何処かに端が引っ掛かったらしくて、動かない書類。無理に抜いたら、きっと破れる。ビリッと真ん中から破れてしまって、真っ二つに裂けてしまいそう。
(瞬間移動で…)
 それなら取れる。一瞬の内に、書類は手の中に戻って来る。
 けれど、エラやヒルマンたちなら言うだろう。「人間らしく」と。安易にサイオンに頼るなと。自分の肉体が持っている力、それを使って拾うべきだと。
 サイオンはミュウだけの力だから。人類には無い能力なのだし、人間らしくあるべきだと。
 だから駄目だ、と瞬間移動をさせるのはやめて、枠を持ち上げようとした。両方の腕で。
(この枠が、ほんの少しだけ…)
 床から離れて隙間が出来たら、足で書類を蹴ればいい。引っ掛かっているのも外れるだろう。
 そう考えて挑んだけれども、重くてとても持ち上げられない。動いてくれないベッドの枠。
 何度、両腕に力をこめても。今度こそ、と歯を食いしばっても。



 どんなに努力を重ねてみたって、ベッドの枠は動きもしない。僅かな隙間も出来てはくれない。
 やっぱり無理だ、とサイオンを使って取ろうとしたら、開いた扉。緩やかなカーブを描いて下へ伸びるスロープ、その端に見えたハーレイの姿。
 恋人が来てくれたのだから、と書類の件は一時中断。なのにハーレイには分かるらしくて、側に来るなり問い掛けて来た。
「どうなさいました?」
 何か困ってらっしゃることでも…?
 気になることでもおありなのですか、そういう風に見えるのですが…。
「分かるのかい? 大したことではないんだけれど…」
 この下に書類が挟まっちゃってね、引っ掛かったらしくて取れないんだ。
 サイオンを使えば直ぐに取れるけど、エラたちがいつも言うだろう?
 「人間らしく」と、肉体の力を使うべきだと。
 ぼくも頑張ってはみたんだけれど…。ぼくの力ではビクともしないよ、このベッドの枠は。
「枠に挟まったのですか?」
「そう、此処の下」
 覗いてみれば見えるよ、これ。…ほら、引っ張っても出て来ないんだ。
「無理に引っ張ったら破れそうですね、真ん中から」
 この枠の下敷きということは…。
 此処だけ浮いたら、引っ張り出せると思いますよ。ですが、あなたの力では…。
 まず無理でしょうね、この枠はとても重いですから。
「そうだよね…」
 サイオンで抜くよ、瞬間移動で。そうしようと思っていた所だから。
「お待ち下さい、私の力なら動かせるかもしれません」
 あなたよりは力が強いですから、このくらいは…。サイオン無しでも、少しくらいなら…。



 やってみましょう、とハーレイが両腕で持ち上げた枠。それは本当に少し浮き上がったから…。
「今です、ブルー!」
 抜いて下さい、今の間に…!
「ありがとう、ハーレイ!」
 取れた、と素早く抜き出した書類。端には皺が残ったけれども、破れずにちゃんと取り出せた。人間らしい方法で。サイオンの助けを借りることなく。
 ハーレイが「もういいですね?」枠を下ろした後に、「君は凄いね」と褒めたのだけれど。
「いえ、それほどでも…」
 馬鹿力だというだけですよ。こういう身体ですからね。
 昔からゼルに言われたものです、「このデカブツ」だの、「独活の大木」だのと。
 この程度のことも出来ないようでは、本当に独活の大木ですから…。
 持ち上げられて良かったですよ。馬鹿力などは、褒めて頂くほどのことでは…。
「馬鹿力って…。凄い力だと思うけれどね?」
 ぼくには出来なかったことだよ、この枠を腕の力だけで持ち上げるのは。
 それを軽々とやってのけたんだし、凄いことだと思うけど…。馬鹿力なんて言わなくても。
「ありがとうございます。…ゼルにかかれば、馬鹿力だろうとは思いますがね」
 ですが、お力になれて良かった。
 こんなことでしたら、いつでもお手伝いさせて頂きますよ。
 人間らしくなさりたいのに、あなたのお力が足りない時には。



 私がお役に立てるのでしたら、と力強い言葉を貰ったから。ハーレイが手伝ってくれるから。
(前のぼく、調子に乗っちゃって…)
 何かを落として取れない時には、いつもハーレイに頼っていた。「ぼくじゃ無理だ」と、恋人がやって来るのを待って。「あれを取って」と、「拾って欲しい」と。
 ベッドの枠の下に挟まるどころか、青の間の巨大な貯水槽に落とした時だって。
(…ハーレイ、どうやって拾ってたんだっけ?)
 思い出せない、貯水槽に落としてしまった時。サイオンを使わずにどうやって、と。
 首を捻って考えてみても、答えが出ないものだから…。
「あのね…。ハーレイが拾ってくれていた話…」
 色々な時に拾って貰ったけれども、貯水槽の時はどうしてたっけ?
 あそこ、深くて、水が一杯だったのに…。手を突っ込んでも、底まで届くわけがないのに。
「頭を使えよ、シャングリラの基本は「人間らしく」だ」
 あの貯水槽の係にしたって、例外じゃない。深いからって、サイオンで掃除するのはなあ…?
 メンテナンスをしてたヤツらが使う道具が奥にあったろ。
 普段はきちんと仕舞ってあったが、貯水槽の掃除をしようって時には出て来たヤツが。
「そうだっけね…!」
 道具、色々、入ってたっけ…。
 ぼくが会議とかで留守の間に、係が掃除をしてたから…。あの貯水槽にも係がいて。



 青の間には部屋付きの係が配属されていたけれど、それとは別にメンテナンスの係がいた。青の間の空調やら貯水槽やら、そういった設備を専門に扱っていた係。
 彼らのための道具を収めた小さな物置。
 貯水槽に何か落とした時には、ハーレイは其処の道具で拾った。網だの、マジックハンドだの。
「…何回、お前に拾わされたか…」
 ベッドの下やら、貯水槽やら。
 俺が青の間に出掛けて行ったら、「あれを拾って欲しいんだけど」と頼まれるんだ。
「さっき、ハーレイも言ったじゃない。人間らしく、だよ」
 シャングリラの基本はそれだったんだし、ハーレイ、手伝ってくれるって言ったし…。
 ぼくの力で拾えない時は、ハーレイが拾ってくれるって。
「そう言っては待っているんだからなあ、俺の仕事が終わるまで」
 ブリッジ勤務が終わって報告に出掛けてゆくまで、お前、拾おうともせずに。
 たまには自分で拾えばいいんだ、「人間らしく」にこだわらずに。
 どうしても出来そうにないって時には、使っていいのがサイオンだったぞ。サイオンってヤツは本来、そうするためにあるんだから。…足りない能力を補うために。
「自分で拾った時もあったよ!」
 何もかもハーレイ任せにしてはいないよ、前のぼくだって!
 ベッドの下なら放っておいても大丈夫だけど、貯水槽はそうじゃないんだから…。
 あそこに書類を落としちゃったら、ハーレイが来るまで待っていちゃ駄目。
 書類はすっかりふやけてしまって、読めなくなってしまうんだから。
 他の物でも、水に落ちたら駄目になっちゃうものはあるでしょ?
 そういう時には拾っていたよ。道具は上手く使えないから、緊急事態だ、ってサイオンでね。



 長い時間、水に浸かっていたなら、使えなくなってしまう物。それをウッカリ落とした時には、サイオンでヒョイと拾っておいた。ハーレイが来るまで待っていないで。
 ちゃんと拾った、と胸を張ったら、「まあな…」と苦笑いしているハーレイ。
「お前の都合で決まるんだっけな、俺に拾わせるか、お前が自分で拾うかは」
 そういや、俺が拾った中でも一番デカイの。
 お前だっけな、大物ってな。
「えっ、ぼくって…?」
 どうしてハーレイがぼくを拾うの、前のぼく、迷子の子猫なんかじゃないよ?
 落ちていないと思うんだけど…。
 いくらハーレイが拾うのを仕事にしてたとしたって、落ちていないものは拾えないよ?
「落っこちたろうが、前のお前は」
 そして間違いなく俺が拾った。…いつも通りに。
「落ちたって…。何処に?」
「いつも通りと言っただろうが、その言葉だけで分からんか?」
 お前が俺に拾わせてた場所は青の間ばかりで、あそこで落ちるとなったなら…。
 貯水槽の他に何があるんだ、お前、あそこに落っこちたんだ。
「…そういえば…」
 ぼくが落ちちゃったんだっけ…。
 いつもと同じで拾って貰って、それを見ていて、今度はぼくが…。



 落っこちたんだ、と時の彼方から戻った記憶。前の自分がやった失敗。
 貯水槽の側に屈んでいたハーレイ。隣で「ハーレイはいつも上手に拾うね」と、感心して眺めていた自分。あの時は何を拾って貰ったのだったか、使っていた道具は何だったのか。
 「拾えましたよ」とハーレイが差し出して来たから、「ありがとう」と受け取ろうとして崩したバランス。貯水槽の直ぐ側だったのに。
 よろめいた身体はアッと言う間に落っこちた。貯水槽へと。
 サイオンで落下は止められるけれど、元の場所へも戻れるけれど。
(人間らしく…)
 拾って貰おうと思ったのだった、ハーレイに。貯水槽に落とした物たちのように。
 そして落っこちた貯水槽。シールドも張っていなかったから…。
(ドボンと落ちて、真っ直ぐ沈んで…)
 水面までの距離があった分だけ、沈んだ暗い水の中。前の自分の身長よりも深く。
 懸命に浮かび上がったまではいいけれど、闇雲に水を掻くしかなくて。
「ブルー!!」
 ハーレイが下へと差し伸ばした腕。青の間の床に腹這いになって。
 けれども、届くわけがない。水面はもっと下だったから。
 そのハーレイの顔を見上げながら必死に水を掻いていたら、サイオンで身体が浮く感覚。自分は使っていないというのに、ふうわりと。
 水から引っ張り出そうとするのは、ハーレイが使っているサイオン。
 落ちた自分を拾い上げるには、マジックハンドも網も役立たない。もっと小さな物のためにと、作られている道具だから。それで人間は拾えないから。



 水の中から救い出そうと、ハーレイが包んだ淡い緑のサイオンカラー。沈む前にと、早く水から引き上げようと。ハーレイの身体も、同じ色の光に包み込まれていたのだけれど…。
「待って…!」
 慌ててハーレイを止めようとした。人間らしく落っこちたのに、これでは何の意味も無いから。
 サイオンで助け上げられたのでは、拾って貰うことにならないから。
「ブルー!?」
 何を、とハーレイのサイオンは揺らがないけれど、伝えなければ。
 どうして自分が落っこちたのか、サイオンを使って此処から出ようとしないのか。
「人間らしく…!」
 ぼくが落ちても、人間らしく…!
 サイオンだったら、ぼくの力でも上がれるから…!
 君が拾ってくれるんだろう、ぼくが落としてしまった時は…!
 自分の力で拾えない時は、いつだって、君が…!
 だから今も、とバシャバシャと水を掻きながら叫んで、ガボッと飲んでしまった水。泳ぎ方など習っていないし、シールドもせずに深い水の中に入ったことは無いから。
 それでもハーレイが拾ってくれると、拾って貰おうと考えたのが前の自分で。
 水を飲んだせいで声も失くして、けれど思念波さえも使わないままで…。
「ブルー!!」
 一刻を争うと気付いたのだろう、貯水槽に飛び込んで来たハーレイ。キャプテンの制服を脱ぎもしないで、マントも背中に背負ったままで。
 ハーレイが上げた水飛沫を頭から被ったけれども、貯水槽の水も揺れたのだけれど。
 沈みそうな身体に回された腕。グイと脇から抱え上げるように。
 「動かないで下さい」と声を掛けられ、ハーレイは前の自分をしっかりと抱えて泳いでくれた。
 スロープに上がれる所まで。水面からスロープが近い所まで。



 泳ぎ着いたら、ハーレイに押し上げられたスロープ。「縁を掴んで下さい」と。スロープの縁を掴むのが精一杯だったけれど、ハーレイは立ち泳ぎしながら背を押してくれて…。
 やっとの思いで這い上がったら、直ぐにハーレイも上がって来た。突っ伏したままの前の自分を気遣うように掛けられた声。
「大丈夫ですか?」
「水、飲んだ…」
 後は言葉になってくれなくて、ただゲホゲホと咳き込むだけ。ハーレイは背中を擦って叩いて、飲んだ水をすっかり吐き出させてから、強い両腕で抱き上げた。前の自分を。
 そのままバスルームに連れて行かれて、頭から浴びせられた熱いシャワー。貯水槽の水で濡れてしまった服を剥ぎ取りながら、ハーレイは熱い湯をせっせと浴びせ続けて。
「とにかくシャワーで温まって下さい、お身体が冷えてしまっています」
 お湯も張りますから、バスタブにも浸かって頂かないと…。
 もう少しだけお待ち下さい、たっぷりのお湯を張ってからです。バスタブの方は。
「…君は?」
 ぼくの面倒を見てくれるのは嬉しいけれど…。
 君も一緒に落っこちたんだよ、あの貯水槽に。君も身体を温めないと…。
「このくらい、なんともありませんよ」
 プールが深いか、浅いかだけの違いです。普段から泳いでいますからね。
 貯水槽で泳ぐのは初めてでしたが、日頃の練習が役に立ちました。あなたを拾えましたから。



 次はこちらへ、と浸けられたバスタブ。湯加減を調べて、手足を擦ってくれるハーレイは濡れた制服を脱いでしまって、バスローブだけという姿。「私は風邪など引きませんから」と。
「でも、ハーレイ…。君の着替えは…?」
 シャワーやお風呂は後でもいいけど、君の服…。その格好じゃ冷えるだろうに。
 誰かに頼んで持って来させるとか、きちんとした服を着た方が…。
「私の服なら、明日の分が置いてあるじゃありませんか」
 あなたと一緒に過ごすのですから、いつも運んでありますが…?
 濡れていない服はちゃんとあります、あなたが心配なさらなくても。
「だけど、バスローブしか着てないし…」
 アンダーくらいは着た方が…。
 でないと君の身体も冷えてしまうよ、ぼくの世話なんかをしている間に。
「大丈夫ですよ、頑丈に出来ていますから」
 アルタミラからの筋金入りです、体力だったら船の誰にも負けませんとも。
 私の身体を心配するより、ご自分の心配をなさって下さい。
 あんな所でサイオンも無しで、溺れそうな目に遭われるだなんて…。
 「人間らしく」と言っても程度があります、私が直ぐに引き上げていたら、こんなことには…。
 あなたがサイオンを使っておられたとしても同じです。
 落下を止めるくらいのことなら、あなたには朝飯前なのですから。



 次からは「人間らしく」は無しです、とバスルームで厳しく叱られた。普通の物を拾うだけなら今まで通りに手伝うけれども、持ち主の人間は別だから、と。
 冷えた身体が温まったら、バスタオルで水気を拭われた。髪に至るまで、ゴシゴシと。
 病気の時しか使っていないパジャマを着せられ、押し込まれたベッド。上掛けを肩まで引っ張り上げたら、ハーレイはシャワーを浴びに出掛けた。「直ぐに戻ります」と。
 戻った時にもバスローブだけで、鳶色の瞳でじっと見詰めてから奥へ入って。
「…此処で作れるのは、これだけですから」
 何の食材も無かったので、と熱い紅茶を淹れて来てくれた。火傷しそうなくらいのを。
 ベッドの上で上半身を起こして飲んでいる間も、冷えないようにと肩に毛布を掛けられた。膝はもちろん上掛けの下で、飲み終わってカップを返したら…。
 カップを片付けに行ったハーレイは、戻るなり言った。「暖かくして休んで下さい」と。
 有無を言わさぬ口調だったけれど、水に落ちた自分を拾い上げてくれたのがハーレイだから…。
「じゃあ、温めてよ」
 ぼくの身体を温めるには、何が一番か知ってるだろう?
 君の身体で温めて欲しいよ、身体も、それにぼくの心も。…いつもみたいに。
「いいえ、今夜は添い寝だけです」
 ご自分に自覚が無いというのは頂けませんが…。
 あれほどの無茶をなさるのですから、当然と言えば当然なのかもしれません。
 まさか「拾ってくれ」だなどと…。
 あなたは物ではないのですから、拾うという言葉は当て嵌まりません。救助に救出、助けるとも言っていいでしょう。
 救助の時まで「人間らしく」とは、エラもヒルマンも一度も言ってはいませんが…?
 御存知でしょう、アルテメシアから子供たちを救出して来る時はどうするか。
 人間らしくサイオンを封じるどころか、フルに使って救出するのが船の基本で鉄則ですが…?
 それも忘れてらっしゃるようでは、ご自分のお身体も分かっておられませんね。
 もう充分に弱っておられて、いつも通りの過ごし方など、無理に決まっていますとも。



 あなたはきっと風邪を引いておしまいになりますから、とハーレイは添い寝しかしなかった。
 パジャマ姿の前の自分を抱き締めるだけで、ハーレイの身体にはバスローブ。
 「これでも風邪を引かれますよ」と、「明日になったらお分かりになります」と繰り返して。
 自分では「まさか」と思ったけれども、翌朝、本当に引いていた風邪。
 水に落ちた結果は発熱と、熱でひりつく喉と。
 ハーレイは「やっぱり…」と深い溜息をついて、朝食の支度に来た係に野菜を持って来させた。前の自分が寝込んだ時には、作ってくれた野菜のスープ。それをコトコト煮込むために。
 何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけで煮込んだ素朴なスープ。
 出来上がったら、スプーンで掬って食べさせてくれて…。
「…熱いですから、気を付けて。それにしても、あなたという人は…」
 本当に弱くていらっしゃる。
 ご自分で落ちた水だというのに、こんな風に寝込んでおしまいになって…。
 私も後から飛び込みましたが、何処もなんともないですよ?
 こうしてスープも作りましたし、この後は仕事ですからね。いつもと同じにブリッジに行って。
「君が頑丈すぎるんだよ!」
 普段から風邪なんか引かないじゃないか、ぼくが引いても移りもしない。
 君と一緒にしないで欲しいよ、ぼくの身体は繊細なんだよ…!
「お分かりでしたら、次からは控えて頂きたいと…」
 昨日も申し上げましたよね?
 物を落としてしまわれた時は、サイオン抜きで拾わせて頂きますが…。
 持ち主の方が落ちた時には、サイオン抜きには致しません。問答無用で救出させて頂きます。
 けれど、あなたは、懲りるということを御存知ないような気もしますから…。
 貯水槽には近付かないで下さい、私が何かを拾う時には。



 あなたを拾うのは二度と御免です、とハーレイに真顔で叱り付けられた。
 それからは側で覗けなくなった、貯水槽での落とし物拾い。網を使うのも、マジックハンドも、離れた所から見るしかなかった。
「ハーレイ、危ないからそっちにいろって言うんだよ」
 もっと丁寧な言葉だったけど、意味はおんなじ。こっちに来るな、って。
「当たり前だろうが!」
 あんなのを見たら、二度とお前を近付かせないのが一番だ。
 落ちないようにするのも、自分の力で上がって来るのも、前のお前なら簡単なのに…。
 今の不器用なお前と違って、半分寝てても出来た筈なのに…!
「そうだけど…。今のぼくだと、ホントに無理だよ」
 ぼくが落っこちても拾ってくれる?
 何処かの池とか、湖だとか…。デートの途中で落っこちた時は。
「もちろん拾うが、サイオンは必ず使うからな?」
 ついでに、お前が落っこちる前。
 そうなる前に、落ちないように俺が支える。
 前の俺は油断していたわけだな、お前が落ちるとは思わないから。
 落ちても自分で落下を止めたり、シールドを張ったり、ちゃんと出来ると信じてたしな…?



 前のお前で懲りているから、俺は決して油断はしない、とハーレイは言っているけれど。
 デートで水辺に出掛けた時には、手をしっかりと握っていそうだけれど。
(…前のぼくが落っこちちゃった時…)
 抱えて貰って泳いだ思い出、あの腕が忘れられないから。
 スロープに自分を押し上げてくれた、逞しい腕の記憶も鮮やかに思い出せるから。
(…落ちてみたいかも…)
 水泳が得意な今のハーレイと、いつかデートに出掛けたら。
 落ちられそうな水があったら、前の自分が落っこちたように、バランスを崩して水の中へと。
 風邪は引きたくないのだけれども、ハーレイに助けて貰いたいから。
 サイオンは抜きで、「人間らしく」とお願いして。
 ぼくを拾ってと、懸命に水を掻いて叫んで。
 きっとハーレイは、「仕方ないな」と飛び込んで拾ってくれるから。
 拾い上げた後も、あの時みたいに、あの時以上に、きっと優しくしてくれるから…。




           拾って欲しい・了


※青の間の貯水槽に落ちてしまった、前のブルー。ハーレイに拾って欲しくてサイオン抜きで。
 望みは叶ったわけですけれど、風邪を引いてしまって叱られた結末。でも、幸せな思い出。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










「こらあっ、そこ!」
 何をしている、と怒鳴ったハーレイ。古典の授業の真っ最中に。
 突然のことにブルーもビックリしたのだけれども、声が向けられた先には男子生徒が一人。彼の瞳も驚きで真ん丸、教室の前でボードを背に立つハーレイをポカンと見ているだけ。
 ハーレイは腕組みをして男子生徒を睨んだ。「そう、お前だ」と。
「さっきから気になっていたんだが…。俺の授業はそんなに退屈か?」
 鏡を見詰めて何をしている、此処からは良く見えるんだが?
「え、えっと…。じゅ、授業はちゃんと聞いてます! でも…」
 この前髪が気になって、と指差す寝癖がついた前髪。あらぬ方へと跳ね上がったカーブ。それを引っ張っていたらしい。鏡を覗いて、なんとか直せないものかと。
「ほほう…。手鏡持参でか?」
 なかなか洒落た鏡だな。わざわざ家から持って来たのか、お前のか、それともお姉さんのか?
「こ、これは…。ぼくのじゃないです、違うんです!」
 だから没収しないで下さい、という叫び。鏡はクラスの女子の持ち物、頼み込んで貸して貰ったらしい。「少しだけ」と。
「なんだ、お前の鏡じゃないのか。つまらんな」
 実につまらん、お前のだったら良かったのに。…没収の件とは関係ないぞ?
「え…?」
「とびきりの渾名、つけてやろうと思ったんだが」
 ずいぶん熱心に鏡を見てるし、お前に相応しいヤツを。もうピッタリの名前があるんだ、お前のように鏡ばかり見てるヤツにはな。



 これだ、とハーレイがボードに書いた「水仙」。冬に咲く香り高い花。寒さの中で凛と咲く花、それが水仙だった筈。
「こういう名前をプレゼントしようかと…。水仙、もちろん知っているよな?」
 今の季節の花じゃないんだが、普通は知っているだろう。白いのとか、ラッパ水仙だとか。
 しかし、お前にくれてやるのは花の名前の水仙じゃない。名前の元になった伝説の方だ。
 水仙の学名ってヤツは、ギリシャ神話の美少年から来ていてな…。
 ナルキッソスという名前なんだが、水鏡に映った自分に恋をしちまったんだ。その少年は。
 ところが相手は自分なんだし、恋が実るわけないからな?
 水鏡ばかり覗き続けて、憔悴し切って死んじまった。そして水仙の花に変身した、と。
 そんなに鏡が気になるんなら、この名前、お前にくれてやるんだが…。
 鏡がお前の持ち物だったら、もう確実に名付けていたな。お前の名前は水仙君だ、と。
「酷いです!」
 ぼくは自分の顔を見ていたわけじゃなくって…。この寝癖が…!
「酷いのはお前だ、今は授業中だ」
 鏡に夢中になれる時間じゃないんだぞ。お前がナルキッソスだと言うなら、仕方ないがな。
 他のヤツらも、しっかり肝に銘じておけよ?
 授業中に鏡で身づくろいをしてたら、遠慮なくコレをつけるからな。水仙だ、水仙。
 ただし、男子の場合に限る。
 女子につけたら、なんの意地悪にもならん。綺麗ですね、と褒めるようなもんだ。素敵な名前をくれてやろうって気は無いからなあ、俺にもな?
 その場合は別のを考えておこう、とても悲しくなるようなヤツを。



 覚悟しとけよ、というハーレイの言葉にドッと笑って、戻った授業。思いがけないタイミングで来た、雑談の時間はこれでおしまい。
 水仙になった美少年。ギリシャ神話のナルキッソス。水鏡に映った自分に恋して、眺め続けて、とうとう窶れて死んでしまって。
(…鏡なんか…)
 ぼくは授業中に見ないもんね、と自分自身を振り返る。
 寝癖なら家を出る前に母に直して貰うし、そのための時間が無かったとしても…。
(ハーレイの授業中には見ないよ、鏡)
 小さな鏡に映った自分と格闘するより、ハーレイを見ている方がいい。「ハーレイ先生」としか呼べないけれども、ハーレイには違いないのだから。
 寝癖なんかはどうでもいい。ハーレイが笑って見ていたとしても、鏡を覗いて直しはしない。
(鏡の自分を覗き込むより、ハーレイがいいよ)
 たとえ寝癖のついた髪でも、それをハーレイに笑われていても、きちんと前を見ていたい。前で授業をしている恋人、鏡を見るより、断然、そっち。
 髪が好き勝手に跳ねていたって、直したい気分になっていたって。
 鏡を覗いて直しているより、ハーレイの姿を見る方がいい。ハーレイの目が笑っていても。



 学校が終わって、家に帰っても覚えていたこと。鏡を見ていた男子生徒と水仙の話。
 もしも自分がやっていたなら、ハーレイは渾名をつけるだろうか。「水仙君」と。
 恋人だけれど、遠慮なく。学校では教師と生徒なのだし、「お前はコレだ」と。
(…つけちゃうのかな?)
 それとも恋人だから免除だろうか、見ないふりをして。そっちだといいな、と考えていた所へ、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、訊くことにした。
 テーブルを挟んで向かい合わせで、興味津々で。
「ハーレイ、あの渾名、ぼくにもつけるの?」
 つけてしまうか、見ないふりをして助けてくれるか、いったい、どっち?
「はあ? 渾名って…」
 それに見ないふりって、何の話だ?
「今日の授業だよ、ぼくのクラスで言っていたでしょ。…鏡で寝癖を直してた子に」
 水仙って渾名をつけちゃうぞ、って。…他の生徒も覚悟しとけよ、って。
 だから、ぼくでもつけちゃうの?
 授業中に鏡を見てた時には、ぼくも水仙って名前になっちゃう?
「…水仙って名前、欲しいのか?」
 それとも見逃して貰いたいのか、其処の所が気になるな。お前の希望はどっちなんだ?
 俺としては見ないふりを選びたいんだが、水仙って名前が欲しいんだったら…。
「ちょっと興味があっただけだよ、どっちかなあ、って」
 ぼくが鏡を見るわけないでしょ、ハーレイが授業をしている時に。
 自分の顔なんか見てても仕方ないもの、自分を見るよりハーレイの方!
「そうだろうなあ、お前はな」
 たとえ寝癖がついていようが、俺の方ばかりを見てるんだろうな。
 お前、いつでも見詰めているしな、俺が背中を向けている時も、授業が終わって出て行く時も。



 気配で分かるさ、と笑うハーレイ。「お前の視線は直ぐに分かる」と。
「第一、お前は自分の姿にまるで頓着しないしなあ…」
 前に寝癖で慌ててた時は確かにあったが、あれは俺が訪ねて来るからで…。
 お前が学校に出て来る方なら、寝癖を直している暇が無ければ、そのままだろうが。俺の授業に顔を出す方が大切だしな?
 要するにお前、俺がいなけりゃ、寝癖どころか、どう育っても気にしないだろ?
 ソルジャー・ブルーと瓜二つの姿にならなくても。
 お前の姿で期待されるような顔に育つ代わりに、ごくごく普通の顔になっても。
「うん、多分…。それに、ぼく…」
 そっちの方がいいな、と思っていたみたい…。すっかり忘れてしまってたけれど。
 ハーレイに会って、早く前のぼくと同じ姿になりたくて…。そっちばっかり考えてたから。
 でも、前は…。
 違ったみたい、と白状した。ソルジャー・ブルーと同じ姿は欲しくなかった、と。
 目立ちたいタイプではなかったから。
 見た目でキャーキャー騒がれるよりは、地味な姿の方がいい。何処にいるのか分からないほど、他の人たちに紛れてしまう姿が。
「欲のないヤツだな、せっかく綺麗に生まれついたのに」
 今はまだ可愛いって感じの顔だが、充分、人目を惹くってな。小さなソルジャー・ブルーだし。
 なのに、そいつは要らないと来た。目立たない姿に育ちたかった、と。
 前のお前もそうだったが…。鏡なんか見ちゃいなかったしな。
「だって、どうでもいいじゃない」
 鏡を見たって、何が変わるっていうわけでもないし…。ぼくはぼくだし、それだけだもの。



 前の自分も、顔など気にしていなかった。自分は自分で、それ以上でも以下でもないから。
 外見が気になる女性ではないし、自分の顔がどうなっていようが、どうでもいいこと。
 前のハーレイに恋をするまでは、本当に頓着していなかった。見た目などには。
 恋をしてからも、とうに年を取るのをやめていたから、老けてゆくわけではなかったし…。
「前のぼくが鏡を覗き込んでも、何も変わらなかったでしょ?」
 せいぜい寝癖を直すくらいで、他には何も…。綺麗になるってわけでもないし。
「化粧してたわけじゃないからなあ…」
 鏡を見たって、することが無いな。もっと綺麗になれるんだったら、別だったろうが。
 寝ても起きても同じ美人じゃ、どうにもならん。鏡なんかは見る価値も無いな。
 猫に小判とは少し違うが、前のお前に鏡は全く要らなかったわけで…。
 ん…?
 待てよ、とハーレイが顎に手を当てたから。
「どうかした?」
 何か変なことでも思い出したの、前のぼくのことで…?
「いや、変というわけじゃないんだが…。お前が鏡を覗いてたような…」
 えらく熱心に、鏡ってヤツを。
「自分の顔を見てたってわけじゃないでしょ、それは」
 青の間の鏡は別だってば。
 何度も覗き込んでいたけど、見ていた意味が違うんだもの。鏡の向こうを見ていたんだよ。
 ハーレイだって知っていたでしょ、鏡は別の世界に繋がっているっていう言い伝え。
 それを通って地球に行けたらいいんだけれど、って見ていたよ、いつも。



 青の間の奥で見ていた鏡。向こう側の自分と手と手を重ねて、鏡の世界に入れないかと。鏡から道が開かないかと、一気に地球まで飛べる道が、と。
 前の自分が何度も夢見た、鏡の道。覗いていたのは鏡の道だ、と言ったのに…。
「違うな、もっと昔のことだ」
 鏡の道の時じゃなかった。そっちなら俺も分かっているさ。
「昔って…?」
 いつのことなの、もっと昔って…?
「青の間の鏡を覗くどころか、青の間はまだ無かった頃で…」
 ソルジャーでさえも無かった頃だと思うんだが…。そういう記憶だ、俺のはな。
「なんで、そんな頃に?」
 鏡の道はまだ知らなかったよ、そんなに昔のことだったら。
 だから鏡を覗く理由が無さそうだけど…。チラとは見るけど、それだけだよ。
「俺にも分からないんだが…」
 その辺りは全く思い出せんが、お前、確かに鏡を見てたと…。
「鏡って…。そうだっけ?」
 知らないよ、ぼくは。
 鏡を見ていた覚えなんか無いし、眺める理由も無いんだから。鏡の道は別だけれどね。



 別の世界へ繋がる扉になるならともかく、ただ映し出すだけの鏡は要らない。朝、起きた時に、チラと覗けば充分だった。髪が変な風に跳ねていないか、眠そうな顔をしていないかと。
 たったそれだけの鏡だったし、熱心に覗き込むわけがないよ、と思ったけれど。
 鏡の道を知らない頃なら、きっと見ないと考えたけれど。
(…鏡…?)
 不意に蘇って来た記憶。
 ハーレイの言葉通りに遠い遠い昔、鏡を見ていた少年だった自分。鏡に映った顔は子供で、今の自分と変わらないくらい。そういう顔をした自分が鏡の中にいて、それを覗いている自分。
 じっと眺める鏡の向こう。自分しか映っていないのに。
(なんで…?)
 どうして、と不思議になる記憶。鏡を見ている少年の自分。
 鏡の中を覗き込んでは、大きな溜息。いつも、いつも、いつも。
 そして見回していた他の仲間たち。溜息を零した後には必ず、ぐるりと何かを確かめるように。
(…自分に恋はしていないよね?)
 水仙になった少年のように、自分に恋してはいないと思う。なんて素敵な少年だろう、と。
 鏡の自分に見惚れなくても、特別だったハーレイがいたから。
 恋ではなくても、一番古い友達だと思っていた頃にしても、誰よりも特別だったハーレイ。鏡の自分を見詰めているより、ハーレイの方がずっといい。
 けれど記憶の中の自分は、鏡を覗き込んでは溜息。
 他の仲間たちを見ては溜息、皆の方へと視線を移して見回した後は。
 だから…。



 変な記憶だ、と思いながらも話してみた。それを呼び覚ます切っ掛けになったハーレイに。
「えっとね…。ハーレイの記憶で合ってたよ」
 ホントに鏡を見ていたよ、ぼく。…今のぼくと変わらないくらいのチビだった頃に。
 それでね、ぼく、溜息をついてたみたい…。
「溜息だって?」
 どういう溜息だったんだ、それは?
 溜息と言っても色々あるしな。ホッとした時とか、感心した時にも溜息は出るし。
「そんな溜息とは違うと思う…。多分ね」
 鏡を見ていて溜息をついて、その後は他のみんなを眺めて…。そっちも溜息。
 なんだか自信が無さそうな感じがしてこない?
 どっちを見たって溜息だもの。…鏡の中のぼくも、他のみんなも。
「そりゃ、水仙の話とは逆様っぽいな…」
 鏡のお前が素敵だったら、そいつで満足していりゃいいし…。他のヤツらまで見なくても。
 同じ顔がそっちにいるといいな、と確かめてたなら、「いない」と溜息も零れそうだが…。
 そういうわけでもなさそうだしなあ、お前の話しぶりからしても。
「でしょ? きっとガッカリしている溜息だよ、あれ」
 ぼくってよっぽど、自分の顔に自信が無かったのかなあ…。
 今のぼくだと、ソルジャー・ブルーにそっくりだ、って言われちゃうから大丈夫だけど…。
 普通の顔になりたいな、って思ってたくらいに、顔に自信はあったみたいだけど。
「お前、一人だけチビだったからなあ…」
 大人ばかりの船の中でチビは一人だけだし、チビと大人じゃ顔は違って当然だし…。
 でもまあ、自信は失くしそうだな、どうして自分だけチビなんだろう、と。



 そのせいで溜息だったんじゃないか、と言い終えた途端に、ハーレイがポンと手を打った。遠い記憶を捕まえたらしく、「そうか、アレだ」と。
「アレだったっけな、確かに鏡だ」
 でもって、溜息。お前、幾つもついていたんだ。…鏡を見ては。
「思い出したの?」
 ぼくが溜息をついてたトコまで。鏡のことを覚えていたのも、ハーレイだけど…。
「ああ。お前の目が問題だったんだ」
「ぼくの目…?」
 目だ、と聞いたら蘇った記憶。前の自分がチビだった頃に、何度も覗いていた鏡。
 其処に映った自分の瞳は、いつ見ても赤。今の自分の瞳と同じ。
 今の自分には慣れた色だけれど、前の自分は赤い瞳が気になっていた。船には仲間が大勢乗っているのに、赤い瞳を持つ者はいない。自分だけしか。
 鳶色の瞳や、青や、緑や黒や。
 色々な瞳の仲間がいるのに、赤い瞳は一人だけ。それに…。
(元は水色…)
 最初から赤くはなかった瞳。成人検査を受ける前には、水色の瞳を持っていた。
 忘れていなかった、本来の自分の瞳の色。そして船には、同じ水色の瞳の仲間も乗っていた。
(前のぼくの目、色が変わっちゃった…)
 アルタミラの檻で生きていた頃は、それほど気にしていなかったこと。檻に鏡は無かったから。
 自分の顔が映っていたのは、実験室の設備など。磨き上げられた物の表面。
 たまに目にすることはあっても、成長を止めていたほどなのだし、どうでも良かった。瞳の色が何であろうと、赤い瞳でも、水色でも。
 こういう色に変わったんだな、と思う程度で。
 金色だった髪が銀色に変わるくらいだし、瞳の色も変わってしまうだろう、と。



 けれど、アルタミラを脱出した後。船の仲間に、赤い瞳の持ち主は誰もいないと気付いて…。
(ぼくの目、気持ち悪くない…?)
 一人だけ、赤い瞳だから。血のような色の瞳だから。
 気味悪く思う仲間はいないだろうか、と気になって覗いていた鏡。赤い瞳の自分の顔を。
 サイオンの強さを怖がる仲間もいるのだけれども、この目だって、と。
 血のように赤い色の瞳も気味悪がられそうだと、こんな瞳の仲間は一人もいないのだから、と。
(…水色だったら良かったのに、って…)
 鏡を覗く度に零れた溜息。自分が失くしてしまった色。水色の瞳を持っていたなら、仲間たちと同じだったのに。…青や緑や鳶色の中に溶け込めたのに。
 鏡から瞳を上げて見回すと、目に入る青や緑の瞳。自分も持っていた筈の瞳、赤い瞳に変わってしまう前までは。
 ああいう瞳を持っていたのに、と零れる溜息。
 自分の瞳は水色だったと、あの色のままが良かったと。赤い瞳より、水色がいいと。
 いくら鏡を覗き込んでも、水色の瞳の自分はいない。赤い瞳が映るだけ。
 あの水色が欲しいのに。水色の瞳のままでいたなら、気味悪がられはしないのだろうに…。



 溜息ばかり零していたから、ある日とうとう、ハーレイに訊かれた。「どうしたんだ?」と。
 食堂にあった鏡を覗いて、いつもと同じに深い溜息を零したら。
「お前、溜息ばかりだぞ。…この所、ずっと」
 それも鏡を覗き込んでは溜息だ。食堂でもそうだし、休憩室でも。
 何か気になることでもあるのか、鏡の中に…?
「…ぼくの目……」
「目? 目がどうかしたか?」
 痛むのか、何か入ってそのままになってしまっているのか、目に?
 それならヒルマンに診て貰わないと…。溜息をついて見ているだけでは治らないぞ。
「違うよ、ぼくの目はなんともないんだけれど…」
 ぼくの目、気持ち悪くない?
 ハーレイ、今も見ているけれども、気持ち悪いと思わない…?
「気持ち悪いって…。何故だ?」
 どうしてそういうことになるんだ、お前の目が気持ち悪いだなんて。
「…一人だけ赤いよ、ぼくの目だけが」
 他のみんなは青い目だとか、緑だとか…。ハーレイだって鳶色だよ。
 赤い色の目はぼく一人だけで、他には誰もいないから…。
「俺はなんとも思わないが…」
 気持ち悪いどころか、綺麗だと思うくらいだが?
 お前の目、とても綺麗じゃないか。とびきり澄んでて、キラキラしてて。
「でも、赤くって変な色…」
 血の色みたいな赤色なんだよ、自分でも変だと思うもの。普通じゃないよね、って。



 こんな目の仲間は誰もいないよ、と訴えた。幸い、周りに他の仲間はいなかったから。壁の鏡を見ていた時には、とうに終わっていた食事。皆、持ち場や部屋へと散ってしまって。
 ハーレイの仕事は料理だったから、後片付けはしなくていい。それで残っていたのだろう。
「ぼくの目、ホントは赤じゃなかった…。だから分かるんだよ、変だってことが」
 元は水色だったのに…。成人検査を受ける前には、ちゃんと普通の色だったのに…。
 ぼくの水色、無くなっちゃった。…こんな赤い目になっちゃった…。
「そう言ってたなあ…。ミュウになる前は違ったんだ、と」
 成人検査でミュウに変わるついでに、身体まで変化しちまったんだな。
 サイオンに目覚めるのと引き換えみたいに、色素がすっかり抜けちまって。
「え…?」
 色素って…。それって、どういうこと?
「そのままの意味だな、色素は色素。…色ってことだ」
 俺の肌の色、こんなだろ?
 こいつも色素が作ってるわけだ、この目の色も、髪の色もな。他のヤツらも同じ仕組みだ。肌の色も髪も、目の色だって。
 ところが、お前には色素が無い。水色の瞳をしていた頃には持っていたのに。
 お前みたいなのをアルビノって言うんだ、色素を失くしたヤツのことをな。
「アルビノ…?」
 そういう言葉があるんだったら、ぼくが特別おかしいわけではないの、ハーレイ?
 ぼくみたいな人間、この船には乗っていないってだけで、ちゃんと普通にいるものなの…?
「さあなあ…。俺もそこまでは…」
 聞いちゃいないし、とんと分からん。
 お前がアルビノだってことなら、ちゃんと聞いてはいるんだがな。



 ヒルマンが詳しい筈だから、と連れてゆかれたヒルマンの部屋。「俺もヤツに聞いた」と。
 其処で教えて貰ったアルビノ。色素が欠けた個体のこと。
 人間に限らず、動物にもアルビノは存在するという。ただし、滅多に現れなくて、大抵は弱い。
「生命力自体が弱いそうだよ、アルビノに生まれた動物はね」
 ブルーも虚弱な身体ではあるが…。アルビノのせいではないだろう。多分、元々の体質だ。
 なにしろ、アルビノに変化しただけだし、アルビノが持つ筈の欠点が無い。…ブルーにはね。
 恐らく、無意識の内に、サイオンで補っているんだろう。そう考えるのが自然だと思うよ。
 本当は光に弱いらしいからね、アルビノは。瞳も、肌も。
 宇宙船の中では肌の心配は要らないが…。太陽の光は無いわけだから。
 しかし、光は事情が違う。光が強い場所もあるのに、ブルーは困っていないようだし。
 目が痛むことはないだろう、と話したヒルマン。強い光は目を傷める、と。
「そうなんだ…。赤い目だから?」
 赤い目は光に弱い色なの、他のみんなの目とは違って?
「少し違うね、赤が光に弱いわけじゃない」
 目にも色素を持っていないから、そのせいで光に弱くなる。遮ってくれる色が無いからね。
 その赤は血の色が透けて見える赤で、水色の瞳を持っていた頃には隠れていたんだ。その下に。
「…この目、やっぱり血の色なんだ…」
 ヒルマンは気持ち悪くない?
 血の色の赤の目だなんて…。気味が悪いと思わない?
 アルビノがとても珍しいんなら、この色、普通じゃないんだもの。
 気味が悪いと思ってる仲間、船に何人もいそうだけれど…。



 珍しいと教えられたアルビノ。おまけに瞳の赤は血の色。気味悪がられても仕方ない、と溜息をついてしまったけれども、ヒルマンは「大丈夫だよ」と微笑んでくれた。
「心配しなくても、それも個性の一つだよ」
 青や緑の瞳と同じで、たまたま赤というだけだ。珍しい色でも、瞳の色には違いない。瞳の色は幾つもあるから、赤があってもいいだろう。一人くらいは。
 そうは言っても、水色の瞳だったことを覚えているから、余計に気にしてしまうのだろうね。
 私は赤でもいいと思うよ、水色の瞳をしていなくても。
「俺もそう思うぞ、会った時から赤なんだから」
 むしろ水色に戻った方が、驚いてしまうといった所か…。俺の知ってるブルーじゃない、と。
 赤でいいじゃないか、赤い瞳で。俺もヒルマンも、気味が悪いと思ったことは一度も無いぞ。
「だけど、みんなは…」
 きっと気味悪いと思ってるんだよ、血の色だもの。青や緑じゃないんだもの…。
 ぼくのサイオンが強いだけでも怖がられてるのに、目まで血の色をしているなんて…。
「そんな話は聞かないよ、ブルー」
 少なくとも私は、一度も聞いたことがない。…ハーレイもそうだね、聞かないだろう?
 どちらかと言えば、覚えやすいくらいに思っている筈だよ、この船の皆は。
 赤い瞳は一人だけだし、この先、何かと分かりやすくて便利だからね。



 今は一人だけ子供で小さいけれども、育ったら皆と区別がつかない。大人になってしまったら。
 普通の姿だと皆に紛れてしまうだろうから、赤い瞳の方がいい、と言ったヒルマン。
 銀色の髪なら他にもいるから、一人だけの赤い瞳がいい、と。
「皆が集まった時にだね…。誰でも一目で分かるだろう?」
 赤い瞳ならブルーなんだ、と考えなくてもピンと来る。きっと目立つよ、赤い瞳は。
 子供の姿で目立てる時代が過ぎてしまったら、その瞳の出番が来るわけだ。
「…そうなのかな?」
 他のみんなと区別がつくのが便利なのかな、血の色の目でも?
 ぼくだけ変に目立っていたって、誰も気にしたりしないのかな…?
「目立つのは悪いことではないよ」
 特にブルーは、他の仲間には出来ない仕事をしているのだし…。
 これから先も同じだろうから、その分、目立つ方がいい。何処にいるのか分からないよりは。
「俺もヒルマンに賛成だ」
 お前は何処だ、って捜し回らなくても、誰でも簡単に見分けが付くしな?
 赤い瞳のヤツがいたなら、そいつがお前なんだから。
 どんな隅っこに紛れていたって、赤い瞳でお前だと分かる。便利だろうが、色々な時に。
 こういう顔で…、と捜さなくても、目だけで区別がつく方がな。



 赤い瞳は目印ってことでいいじゃないか、と二人に言われて、そんな気になった。血の色の赤を透かした色でも、目印になるなら、それでいいかな、と。
 気味悪く思う仲間がいたって、この色が役に立つのなら。将来、見分けやすくなるなら。
「…鏡、見るのをやめたんだっけ…」
 ぼくの目は赤がいいんだから、ってハーレイたちが言ってくれたから…。
 ハーレイがヒルマンの所へ連れてってくれて、説明、ちゃんと聞けたから…。
 アルビノのことも、ぼくの目が役に立つことも。…血の色の目でも。
「パッタリとやめてしまったっけな、あの日から」
 鏡は同じ場所にあるのに、もう覗かなくなっちまった。あんなに毎日、覗いてたのに。
 じいっと鏡を覗き込んでは、俺でも変だと気付くくらいに溜息ばかりだったのに。
「大丈夫、って言って貰えたからだよ」
 赤い瞳はぼくの個性で、ぼく一人しかいないから…。
 いつか大きくなった時には目印になって役に立つから、それでいい、って。
 役に立つなら、きっとみんなも喜ぶし…。気味悪い色でも、目印だったら気にしないもの。
 赤い目、一人しかいなくて良かった、って思うでしょ?
 大勢の中からぼくを見付けるには、赤い目を捜せばいいんだから。



 そうして覗くことをしなくなった鏡。食堂で見掛けても、休憩室でも。
 鏡を覗き込むのをやめたら、気にならなかった仲間たちの目。視線もそうだし、あれほど何度も溜息を零した、青や緑の瞳の色も。…自分とは違う、普通の色を湛えた瞳も。
 一人しかいない赤い瞳も、個性だから。血の色を透かした気味悪い赤も。
 いずれ自分が皆に紛れてしまった時には、きっと役立つだろうから。育ってチビではなくなった時に、この瞳だけで捜し出せるから。
「ホントに心が軽くなったんだよ、あれで」
 ぼくの目、目印なんだから、って。赤くて変な色でも、目印。
 目立つんだったら、それでいいもの。小さい間は気味が悪くても、大きくなったら便利だしね。
 ぼくは何処なの、って慌てなくても、赤い目だけで見付けられるから。
「…お前、そう言っていたんだが…」
 俺もヒルマンも、あの時は本気でそのつもりだったんだが…。いい目印だ、と。
 なのに、育ったお前ときたら、とびきりの美人になっちまって、だ…。
 赤い瞳で見分ける必要、無かったってな。
 何処にいたって、どんな隅っこに隠れていたって、誰でも一目で気付くような美人。振り返って見るとか、立ち止まってしげしげ見ちまうだとか。
 …もっとも、お前、ソルジャーだったし、そうそう見惚れちゃいられないんだが…。
 ボーッと突っ立って見てようものなら、エラが飛んで来て叱られるってな。「失礼ですよ」と。
 「それがソルジャーにすることですか」と、「謝りなさい」と。
 その点、俺は恵まれていたな、シャングリラでも一番の美人を一人占めだ。
 堂々と出来やしなかったんだが、好きなだけお前を見ていられた上、恋人に出来た幸せ者だぞ。あの船で最高の美人ってヤツを、俺は独占してたんだから。



 あれほどの美人になるとはなあ…、とハーレイは感慨深そうだけれど。
 今も手放しで褒めているのだけれども、前の自分は水仙になった美少年とは違っていた。自分の姿に見惚れはしないし、鏡を覗き込んだりもしない。
 身だしなみさえ整えられたら、それで充分だと思った鏡。チビだった頃に鏡を何度も覗き込んだことすら、忘れ果ててしまっていたのだから。
 赤い瞳はどう見えるのかと、溜息をついて。気味悪くないかと、仲間たちの瞳の色を気にして。
 鏡を熱心に覗いていたのは、その時だけ。
 育った自分の姿を映して、「綺麗だ」と見惚れた記憶は全く無いものだから…。
「…前のぼく、自分を美人だと思ったことはないけど?」
 船のみんなが言っていたから、そうなのかな、って思っただけで…。鏡なんかは見てないよ。
 もっと綺麗になりたいな、って覗きもしないし、「美人だよね」って見てもいないけど…。
 でも、ハーレイには、好きだと思って欲しかったかな…。
 ハーレイが好きだと思ってくれる姿に育ったお蔭で、恋人にして貰えたんだから。
「そりゃ光栄だな、俺のことは意識してくれていたんだな?」
 お前、自分の姿に興味は全く無かったくせに…。鏡もどうでも良かったくせに。
 鏡を熱心に見ていた時にも、目の色ばかり気にしていたのにな?
 そんなお前が、俺の目にお前がどう映るのかは、一応、気にしてくれていたと…。
 俺がお前にぞっこんだったのは、美人に育ったからなんだ、とな。
「そうだよ、それにね…」
 今のぼくもだよ、ハーレイの好きな姿に育つのが、ぼくの目標なんだもの。
 早く大きくならないかな、って、鏡、何度も見ているし…。大人っぽい顔も研究してるし。
 前のぼくだと、こんな顔だよ、って。
「まだ早い!」
 今から研究しなくてもいい、チビのくせに!
 水仙って渾名をつけられたいのか、お前ってヤツは…!



 チビは鏡を見なくてもいい、とハーレイに叱られたけれど。
 「何度も見るなら、水仙って名前で呼ぶからな」と睨まれたけれど、鏡の中の自分を見たい。
 前の自分とそっくり同じに育った姿を早く見たいから、覗きたい鏡。
 チビの自分が映る鏡を覗き込んでは、「もっと大人に」と。
 赤い瞳の色を気にする代わりに、「前のぼくと同じ」と、赤い瞳に満足して。
(…それって、自分に見惚れてるのとは違うよね…?)
 だから水仙になった美少年とは違うものね、と考える。
 鏡を覗くのはハーレイのためで、早くハーレイにピッタリの自分に育ちたいから。恋人のために頑張りたいから。…一日も早く、ハーレイとキスが出来る恋人になりたいから。
(鏡、これからも覗かなくっちゃね…)
 前の自分と同じ姿を、鏡の中に見付ける日まで。前と同じに育つ時まで。
 ハーレイの授業中にはしないけれども、きっと何度も覗き込む。
(でも、水仙にはならないんだよ)
 水仙になってしまった少年、彼の名前は貰わない。「水仙」の名では呼ばれない。
 授業中には、鏡の自分を覗き込むより、ハーレイの姿を見ていたいから。
 その方がずっと幸せなのだし、きっとハーレイもそうだから。
 自分がチビで、生徒の間は。前の自分と同じに育って、いつか結婚出来る日までは…。




               水仙と鏡・了


※赤い瞳の人間は自分しかいない、と溜息をついていた前のブルー。何度も鏡を覗き込んで。
 けれど目印になるのなら、と納得してから、見なくなった鏡。凄い美形に育ったのに…。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv











(なんだ、こりゃ!?)
 どうなってるんだ、とハーレイが仰天した光景。ブルーの家には寄れなかった日、仕事の帰りに入ったパン屋。家から近くて、パンを買うなら其処なのだけれど…。
 花屋と間違えたのかと思った。足を踏み入れたら、辺り一面、花だったから。
 お馴染みの薔薇やら、カーネーションやら、ありとあらゆる種類の花たち。色もとりどり、その香りだって。
(…花だよな?)
 様々なパンが積み上げられた、パン売り場。陳列棚も、パン籠を並べたテーブルの上も、沢山の花が彩っている。所狭しと、誇らしげに咲く幾つもの花。
 パンが積まれたトレイとトレイの間から咲いて、陳列棚の柱にも。パン籠が置かれたテーブルの隙間も、花たちが埋めている有様。もちろん床にも、花屋よろしく花瓶がドッサリ。
(…あっちも凄いぞ…)
 レジを挟んだ向こう側にあるレストラン部門。一見、普通のレストランだけれど、パンが専門の店が手掛けているから、パンを幾らでもおかわり出来る。パン皿が空いたら「如何ですか?」と。何種類ものパンが食べ放題で、そちらも人気。
 そのレストランの方も花だらけだった。入口の両側に花が飾られ、中にも溢れている花たち。
 客たちが座るテーブルはもちろん、カウンター席も、床も花で一杯。
 何事なのかと思ったけれど。
 此処は確かにパン屋だよな、と何度も瞬きしたほどだけれど。
(パンと花の日々…)
 そう書いてある小さな札。気を取り直して、パンを買おうとトングとトレイを取ろうとしたら。札もやっぱり、花に埋もれて。



 いったい何だ、と読んでみた札。文字の周りにも花模様の縁取り。
(酒と薔薇の日々…?)
 昔の映画のタイトルです、という紹介。それをもじって「パンと花の日々」。そういう企画で、「興味のある方はチラシをどうぞ」と、花の下にチラシが隠れていた。二つ折りにして。
(ほほう…?)
 買う前に読んでもいいんだよな、と一枚、引っ張り出してみた。「パンと花の日々」も気になるけれども、「酒と薔薇の日々」にも心惹かれる。酒好きとしては。
 ふうむ、と開いて眺めたチラシ。「酒と薔薇の日々」は、人間が地球しか知らなかった遠い昔の映画。そのタイトルにオーナーが引っ掛けたらしい、遊び心で。「パンと花の日々」と。
(映画の中身は謎なのか…)
 今は失われて、タイトルしか残っていないという。「酒と薔薇の日々」と。
 酒と薔薇の日々があるというなら、パンと花でもいいだろう。たまには、こういうイベントも。
(…まずはパンだな)
 チラシは帰ってゆっくり読もう、とトレイとトングを手に取った。田舎パンを買おうか、焼けたばかりのバゲットもいいし、トースト用のパンだって…、と眺めてゆく棚。
 何処もすっかり花だらけだなと、田舎パンの周りにも花がドッサリ咲いてるぞ、と。



 選んだパンをトレイに載せて運んだレジにも、華やかな花。パン屋ではなくて花屋のように。
 面白いもんだ、とパンの袋を提げて帰って、夕食の後で広げたチラシ。熱いコーヒーを淹れて、書斎の椅子にゆったり座って。
(パンと花の日々なあ…)
 店では映画のタイトルとまでしか読まなかったけれど。オーナーの遊び心なのだ、と溢れる花を眺め回して、買い物を済ませて帰ったけれど。
(…毎日のパンか…)
 パンは毎日食べるもの。御馳走ではなくて、普段着の食べ物なのがパン。それが無ければ、困る人は困る。朝はパンだ、と決めている人だって多い筈。
 遠い昔の人間も同じ。パンが主食の地域だったら、パンが無いのは飢えるということ。食べ物が何も無いということ。…パンは命の糧なのだから。
 けれども、花はそうではない。眺めて楽しむためのもの。心に余裕がある時に。
 パンも無いほど飢えていたなら、誰も花など見向きもしない。花があっても、食べ物が無ければ飢えて死ぬから。花よりもパンが欲しいから。
(生きてゆくのに欠かせないパンと、心にゆとりのある時の花と…)
 意外な組み合わせをお楽しみ下さい、というのが「パンと花の日々」のコンセプト。
 パンを扱う店だけれども、綺麗な花たちも並べました、と。



(確かに意外性はあったんだ…)
 入った時にも驚いたけれど、チラシを手にしてパンを選んでいた時。
 普段とは違って見えたパンたち。ただの食パンも、田舎パンも、焼き立てのバゲットたちも。
 花に彩られて並ぶパンたちは、どれもとびきり豪華に見えた。値段以上の、特別なパンに。
 いつもの値段で売られているのが、不思議に思えてしまったほどに。
(こう、王様の食卓って言うのか?)
 王侯貴族が食事するテーブル、其処に置かれたパンのよう。贅を尽くした料理と一緒に、黄金の皿に盛られたりして。
 晩餐会などで使うテーブルは、花で飾られたらしいから。庭師が咲かせた美しい花を、惜しげもなく切って、豪華な器に生けて。
(有り余るほどの金があったら…)
 テーブルだけと言わず、パンの皿にだって花を飾っただろう。招かれた客の数だけ並ぶパン皿、それを残らず花で取り巻いて。どの客の前にも、美しい花が溢れるように。
(花よりも先に、黄金の皿や銀の皿だとは思うんだが…)
 遠い昔は、季節外れの花も贅沢だったという。今と違って、金持ちの特権だった温室。寒い冬に花を咲かせられる設備は、金持ちしか持っていなかった。
 そんな時代なら、やった貴族もきっといた筈。「パンと花の日々」さながらの宴会を。客たちが度肝を抜かれるような、とても贅沢な冬の宴席。これだけの花を用意するには、どれだけの財産が要るのだろうと、誰もが驚く花が溢れたパン皿の周り。
 屋敷の外は雪なのに。花が咲くなど信じられない、冬景色が広がっている筈なのに。



 今日のパン屋は、その雰囲気を味わわせてくれたという気がする。普段着のパンまで花で飾って楽しむ贅沢、遠い昔の王侯貴族になったような気分。
 オーナーも洒落たことをするな、と花だらけだった店内を思い浮かべていたら…。
(ん…?)
 ふと引っ掛かった、花たちの記憶。花が溢れていたテーブル。
 そういうテーブルを見たことがあった、と花が頭を掠めたから。其処で食事をしていたから。
(…結婚式か?)
 友達か、それとも同僚か。披露宴の時のテーブルだったら、花で飾るのはよくあること。新婦の好みの花を飾るとか、ドレスの色に合わせてあるとか。
 幾つも見て来た披露宴の席。けれど、それよりも花が凄かったように思える記憶。
 テーブルに溢れ返った花たち、まるで今日見たパン屋のように。花も主役であるかのように。
(いつなんだ…?)
 何処で見たんだ、と記憶の糸を手繰ってゆく。花が溢れていたのは何処だ、と。
 そうしたら…。
(シャングリラか…!)
 あの船だった、と蘇った記憶。前の自分が生きていた船。遠く遥かな時の彼方で。
(まさにパンと花の日々…)
 宴会じゃなくて、普通の食卓に花だったんだ、と思い出したから。懐かしい思い出が時を越えて姿を現したから、浮かんだ笑み。あの船で溢れる花を見たな、と。
(ブルーに話してやるとするかな…)
 パンと花の日々を。シャングリラに溢れていた花たちのことを。
 幸い、明日は土曜日だから。ブルーの家へと出掛けてゆく日で、夜までゆっくり過ごせるから。



 一晩眠っても、忘れなかったパンと花の日々。
 いい天気だから、歩いて出掛けた。途中で入った昨日のパン屋。店中に花が溢れている中、二つ選んで買った菓子パン。ブルーの分と、自分の分と。紅茶のお供になりそうなものを。
 チラシも忘れずに貰っておいた。花たちの下から引っ張り出して。
 そしてブルーの家に着いたら、目ざとく袋に目を留めたブルー。それを提げて部屋に入るなり。
「ハーレイ、お土産?」
 買って来てくれたの、何かお土産。…パン屋さん?
「ああ。お前のおやつに丁度いいかと思ってな」
 話している間に、ブルーの母が届けてくれた紅茶と、パンを載せるための皿と。その皿にポンと置いた菓子パン。袋から「ほら」と取り出してやって。
 甘い菓子パンは、紅茶にも合う。前に自分も食べているから、間違いなく。
 ブルーはしげしげと菓子パンを眺めて、首を傾げた。
「このパン、ハーレイのお勧めなの?」
「もちろん美味いが…。そうじゃなくてだ、今日はこっちの方だな」
 こういうイベントをやっていたから、と渡したチラシ。「俺も昨日は驚いたんだ」と。
「…パンと花の日々?」
 なあに、これ?
 昔の映画のタイトルの真似って…。「酒と薔薇の日々」…?
「読んでみろ、何か思い出さないか?」
 酒と薔薇の日々の方とは違って、パンと花の方で。…パンと花の日々だ。
「えーっと…?」
 毎日のパンで、パンと花との組み合わせ…?
 ちょっと想像もつかないけれども、これがどうかしたの?
 パン屋さん、いったい、どうなっていたの…?
「そりゃまあ…。凄い光景だったぞ、間違えて花屋に入ったのかと思ったくらいに」
 何処もかしこも花だらけでな…。パンを並べた棚にまで花だ。
 そういうの、お前、何処かで見ている筈なんだがな…?



 俺は確かに見たんだが、と話してもキョトンとしているブルー。「いつの話?」と。
「…ハーレイが見てて、ぼくも見たなら、前のぼくたちのことだろうけど…」
 シャングリラで花なんか飾っていたかな、パンを並べた棚なんかに…?
 厨房にパン専用の棚はあったけど…。焼き上がったら並べていたけど、其処に花…?
 そんな所に花を飾っても、厨房の人しか見られないじゃない。食堂からは見えないんだもの。
「お前が言うのは、パンの棚だが…。棚じゃなくって、パンの方だな」
 毎日のパンで、誰もが普通に食っていたパン。食べ物ってヤツだ。
 そういう普通に食べてた飯が花だらけだった、と言えば分かるか?
 パンもスープも、何もかもだ。食堂中が花まみれになっていたってわけだが、思い出さんか?
「食堂中に花って…。ああ、あったっけね…!」
 思い出した、と手を打ったブルー。
 前のぼくが失敗したんだっけと、それで食堂に花が一杯、と。



 まだ白い鯨ではなかった時代のシャングリラ。人類の船から奪った物資で皆が命を繋いでいた。食料も物資も、何もかも、前のブルーが奪って来たもの。輸送船を見付けたら、出掛けて行って。
 必要な物資を切らさないよう、仲間たちが飢えてしまわないよう。
 ある時、物資を奪いに出て行ったブルー。輸送船が近くを通過するという情報が入ったから。
 いつもと同じに、コンテナを幾つか奪って戻って来たのだけれど…。
「なんだい、これは?」
 ブラウが呆れたコンテナの中身。奪った物資を仕分けするために、コンテナを運んだ格納庫で。
「…花だらけじゃないか」
 花は食えんぞ、とゼルが覗いたコンテナの奥。「何処まで行っても花のようだが」と。
 ヒルマンが見ても、エラが眺めても、前の自分が覗き込んでも、ものの見事に花ばかりだった。今を盛りと咲き誇るものや、これから咲こうとするものや。
 鉢に植えられた花とは違って、どれも切り花。色も種類も様々なものがコンテナに一杯。
 きっと何処かの星の花屋に運ぼうとしていたのだろう。テラフォーミングの成果が芳しくない、こういった花々を育てられない星へ。
 そういう星でも利用価値があれば、人類は大勢住んでいるから。資源の採掘に適しているとか、他の星への中継地点に向いているとか、理由は色々。
 人間がいれば町が生まれて、町が出来れば花だって売れる。その星で花が育たないなら、余計に花を見たくなるから。
 こうしてわざわざ運んで行っても、花たちは全部売れるのだろう。入荷したと聞けば、買いたい人間が詰め掛けて。アッと言う間に一つ残らず売り切れそうな、コンテナ一杯に溢れる花たち。
 残念なことに、ミュウが奪ってしまったけれど。
 花よりも食料や衣類などがいい、と誰もが考えるような船に運ばれてしまったけれど。



 他のコンテナには食料品。当分は奪いに出掛けなくても済むだけの量の。
 肉や魚や、野菜などや。乳製品だって充分あったし、食べてゆくには困らない。けれど、溢れる花たちの方は…。
「…やっぱり捨てた方がいいかな…」
 捨てて来ようか、コンテナごと。…花なんか、料理したって食べられないし…。
 食料は他にたっぷりあるから、花まで料理しなくても…。昔だったら、別だけれどね。
 奪った食料が偏っていたって食べてた時代、とブルーがついた溜息。
 アルタミラからの脱出直後は、そういう時期も確かにあった。ジャガイモだらけの食事が続いたジャガイモ地獄や、キャベツばかりのキャベツ地獄といった具合に。
 けれども、今では安定している食料事情。ブルーは選んで奪って来るから、食材も物資も偏りはしない。不要だったら、捨ててしまってもいい時代。
 そういう時代になっていたから、ブルーが犯した小さなミス。もう一つ、と欲を出して奪った、中身を調べなかったコンテナ。きっと食料だろうから、と。
 奪って持って帰る途中で、ブルーも気付いていたという。食料ではなくて花だった、と。
 とはいえ、せっかく奪った物資。捨てるかどうかは船に戻ってからでいい、と考えたらしい。
 コンテナを一つ余分に運ぶくらいは、ブルーには何でもなかったから。



 そうは言っても、食べられない花。食料は他に沢山あるから、花まで食べる必要はない。宇宙に捨ててしまうのならば、ブルーに任せれば一瞬で済む。瞬間移動で放り出すというだけだから。
 花の処分はそれでいいか、と前の自分は考えたけれど。
 ブルーも同じに、「捨てた方がいいよね」とコンテナの扉を閉めかけたけれど。
「ちょいと待ちなよ、飾るって手もあるんだからさ」
 花は食べられやしないけどね、とブラウが止めた。これは飾っておくものだろう、と。
「飾るって…。でも、何処に?」
 こんな船で、とブルーは周りを見回したけれど、ゼルも「そうだな」と頷いた。
「モノってヤツは考えようだ。これだけあるんだ、嫌というほど飾れるぞ」
 どうせだったら、派手に飾ってやろうじゃないか。
 人類どもの世界じゃ、こいつを売っているんだから。花屋に並べて、買いに来る客に。
 俺たちは金を払っちゃいないが、こうして頂いちまったんだし…。
 飾ったって別にかまわんだろうが、人類は食えもしない花を贅沢に飾っているんだからな。
 俺たちには花を飾るような余裕はまるで無いのに、こんな風に輸送してやがる。
 見ろよ、コンテナ一杯分だぞ?
 贅沢なもんだ、俺たちの船とは生きてる世界が違うってな。



 だったら真似をしようじゃないか、と言い出したゼル。たまには贅沢したっていいと。
 わざわざ奪ったわけではないから、オマケで手に入れた花なのだから。
「花を飾ってもかまわんだろうが、ミュウの船でも」
 手に入れたものを使おうってだけだ、そいつで贅沢するだけなんだし。
 捨てるよりかは、うんと贅沢した方がいいと思わないか?
「私もそれに賛成だね。有効に使った方がいい」
 捨てるよりも、とヒルマンがエラに視線を向けた。「どう思う?」と。
「飾るべきだわ、捨てるくらいなら。…だって、これは全部、飾る花なのよ?」
 そのために運んでいるんじゃないの、とエラも花を飾りたい一人。飾るための花は、遠い昔には本当に贅沢だったんだから、と。
「花は贅沢だったのかい…?」
 本当に、とブルーが訊いたら、「そうだよ」とヒルマンが即座に答えた。「ずっと昔は」と。
「エラが言った通りに、今よりもずっと昔のことだ。人間が地球しか知らなかった頃だね」
 今のような輸送技術は無かった。星から星へと花を運べるような技術は。
 珍しい花が欲しいのならば、自分たちで育てて咲かせるしかない時代でね…。
 おまけに温室も、一部の特権階級だけの持ち物だった。
 自然の花が咲かない季節に、温室で育てた花で飾るのは、もう最高の贅沢だよ。そういう設備を作れるだけの財産があって、惜しげもなく切って出せるのだからね。
「そうよ、こういう飾るための花は贅沢品だったのよ」
 放っておいても咲くような花とはわけが違うの、余裕が無いと育てられないから。
 それを沢山飾れる人なんて、ほんの少ししかいなかったのよ。
 お金も、花の手入れをする使用人も、山ほど持ってた人間だけだわ。王様や貴族といった人間。



 そういう人間になった気分で贅沢しましょ、というのがエラの提案。ヒルマンも同じ。ブラウは最初から飾ろうと考えていたし、ゼルも贅沢をしようと思っていたわけだから…。
「いいねえ、あたしたちも昔の貴族の仲間入りかい」
 お城ってわけにはいかないけどねえ、こんな船だし…。普段は花も無いわけなんだし。
 だけど、今なら山ほどだ。飾るべきだよ、この花はね。
 捨てるだなんて、とんでもない、とブラウが改めて覗いたコンテナ。「飾らないと」と。
「そうでしょ、ブラウ? こんなチャンスは、そうそう無いわよ」
 飾らなくちゃね、とても素敵に。…今の時代でも、私たちには花は贅沢なんだもの。
 この船に飾っておくべきだわ、とエラも主張したし、誰も反対しなかった。花を飾ることに。
(…飾るだけなら、エネルギーを食うわけでもないし…)
 花を生けておく器や水も、船にあるもので間に合うだろう。備品倉庫には器が色々、水は充分に足りている。コンテナ一杯の花を養える程度には。
「…いいだろう。ブルー、その花たちは捨てなくてもいい」
 飾ろうという意見の方が多いんだ。それに反対する理由もないしな、俺の立場からは。
 せっかく手に入れた花なんだから飾ってやろう、と前の自分が下した判断。
 もうキャプテンになっていたから、自信を持って。船の最高責任者として、「大丈夫だ」と。
 これくらいの花なら積んでおけると、宇宙に捨てる必要は無いと。



 花を飾ると決まった後には、何処に飾るかが問題だけれど。小分けにして船のあちこちに飾るという意見も出たのだけれども、「食堂がいい」と言ったヒルマンとエラ。
 皆が集まって食事する場所で、其処なら誰もが花を見られる。一日に三回、朝、昼、晩と食事の度に。それに広さもあるのが食堂。テーブルに飾って、他にも色々。
 花が贅沢だった時代は、宴席に飾られていたというのも決め手になった。贅沢な食事は出来ないけれども、花を飾ればきっと豊かな気分になれる、と。
 なにしろ、コンテナに一杯分もある色々な花たち。全部を纏めて見られる方が断然いい。分けてしまったら、どれだけあったか分からなくなるし、値打ちも減ってしまうだろう。
 同じ飾るなら食堂がいい、と花たちは食堂に運ばれた。手の空いた者たちを総動員して、使える器を運んで、生けて。
 「これは床だな」とか、「テーブルには、これ」と、相談したり、指図し合ったり。
 次から次へと運び込まれて、生けられていったコンテナ一杯分の花。色も形も様々なものが。
 薔薇やら、百合やら、カーネーションやら、ふうわりと白いカスミソウなどが。
 何種類もの花を一緒に生けた器もあったし、一種類の花で纏めたものも。同じ色合いの花たちを合わせた器も、色とりどりの花を生けた器も。
 前の自分や、ブルーはポカンと見ていたけれども、エラとブラウは張り切っていた。皆と一緒に生けて回って、ああだこうだと器の場所を移動させたり、入れ替えたりと。
 ヒルマンも皆を指図していたし、ゼルは花たちの運搬係。「まだまだあるぞ」と、「これも」と次々にコンテナの中から運び出して。「次はこいつだ」とドカンと置いて。



 そんなわけで、見事に飾り立てられた食堂。テーブルには幾つも花が生けられた器が置かれて、テーブルの無い床にも花が入った器。歩くのに邪魔にならない場所に。
 食堂一杯に溢れた花たち。香りも彩りも実に様々、それに囲まれての食事の時間。誰もが豊かな気分になった。ただ花があるというだけで。普段は見られない花が溢れているだけで。
 いつもと変わらない普通の食事で、いつものパンが出て来ても。
 御馳走ではない料理を作っている者たちも、食堂の雰囲気を楽しんでいた。料理を味わう仲間の表情、それが素敵なものだから。まるで御馳走を食べているように、賑やかな声が飛び交うから。
「花があるだけで違うもんだな、食事ってヤツは」
 いつものパンの筈なんだがなあ、ずっと美味いって気がするんだよな。
 それに料理も、こう、輝いて見えるって言うか…。照明、変えていないのにな。
「まったくだ。同じスープを飲むにしたって…」
 テーブルだけしか無いっていうのと、花があるのとでは違うよなあ…。
 どっちを見たって花が咲いてて、あっちとこっちで違う花だろ?
 ついつい余所見をしながらスープを飲んでるわけだが、こいつが美味い。花のせいだな。
 花は食えない筈なんだがなあ、こんなに飯が美味いとは…。
 いつまでも咲いててくれればいいがな、萎れて枯れてしまわないで。



 皆に喜ばれた、食堂を飾った沢山の花。前のブルーが間違えて奪ってしまった花。
 危うく宇宙に捨てられる所だった花たち、ゼルやブラウが止めなければ。ヒルマンとエラが花の歴史を知らなかったら。…遠い昔は花は贅沢なものだった、と。
 飾る場所を食堂にしたのも良かった。
 食卓を彩る花たちは其処に集まる皆に愛され、散るのを惜しまれ、まめに世話をされて…。
「ハーレイ、あの花…。最後までみんなが見てたんだっけね」
 一番最後まで頑張って咲いてた花が駄目になるまで、船のみんなが。
 毎日、毎日、花を楽しみにして食堂に来て。
「エラたちが、きちんと生け替えてたしな」
 この花はもう萎れちまった、というヤツはどけて、元気な花を纏めて生け直して。
 茎が弱って駄目になっても、花だけを水に浮かべてやって、生き生きと咲かせておくとかな。
 頑張ってたよな、と今も思い出せる、エラたちの努力。花の命を伸ばしてやるための工夫。
 今から思えば、フラワーアレンジメントというものだった。きっと調べていたのだろう。船とは縁の無い花だけれども、手に入れたからには生かそうと。
 美しく生けて、飾って、愛でて。…最後の一輪まで、無駄にはすまいと。



 大切にされた花たちだけれど、造花ではなくて本物の花。いつか命は終わってしまう。花びらの色が褪せていったり、少しずつ萎れていったりして。
 そうして食堂から消えた花たち。一輪、また一輪と数が減っていって、最後の花も。
 見られなくなってしまった花の最期を誰もが惜しんだ。もっとゆっくり見ていたかった、と。
「またあるといいな、コンテナ一杯の花ってヤツが」
 リーダーのミスだっていう話なんだが、もう一度やってくれたらいいな、と思わないか?
 ミスでもなければ花なんて無いし、あれだけの量は無理だしなあ…。
「ああいうミスなら大歓迎だ。山ほどの花を見られるならな」
 食堂に花が溢れるんなら、ミスも大いに歓迎ってトコだ。物資が少々、足りなくてもな。
 そのくらいのことは我慢するさ、と船の仲間たちは言ったのだけれど。
 また花がドッサリ来てくれないかと待ったのだけれど、ブルーはミスをしなかったから、二度と無かった花で溢れていた食堂。豊かな気分になれた食堂。
 いつもと変わらないメニューだったのに、御馳走に思えた素敵な場所。
 パンも料理も、スープも美味しく変えてしまった、食堂を飾っていた花たち。



 それから長い時が流れて、シャングリラは白い鯨になった。自給自足で生きてゆく船、幾つもの公園を備えた船に。巨大な白い鯨の中では、色々な花が咲いたけれども…。
「…俺たちがシャングリラで育てていた花、どれも綺麗に咲いてたんだが…」
 色々な花が咲いたもんだが、あの時みたいな贅沢ってヤツは、二度と出来ないままだったな。
 船で咲いた花を端から集めて、食堂を飾り立てるのは。
「…無かったっけね、そんなの、一度も…」
 シャングリラの花は、咲いているのを公園で眺めるものだったから…。
 摘んでもいいのはクローバーとか、スミレとか…。スズランだって、摘んでいい日は一日だけ。五月一日だけは摘んでいいけど、他の日は駄目だったんだから。
 薔薇とか百合とか、大きくて目立つ綺麗な花だと、ホントに其処で見ているだけ。
 そうでなければ、ちょっとだけ切って、花瓶とかに生けるのが精一杯だよ。
 …パンと花の日々、二度と無かったね。
 あの時は、そういうお洒落な名前は無かったけれども、パンと花の日々。
「そのままだよなあ、あれは本当にパンと花の日々というヤツだったんだ」
 毎日食べてるパンが美味くなる、実に素敵な魔法だったが…。
 俺もすっかり忘れていたなあ、昨日、パン屋に入った時も。
 俺は花屋に来ちまったのか、と見回していても、あそこじゃ頭に浮かばなかった。
 前の俺たち、あれと全く同じことをやっていたのにな…。
 やり始めた理由も、意味も違うが、パンと花の日々。
 最高に美味い飯を食っていたんだ、食堂に花が山ほど溢れていたお蔭でな。



 今の自分は忘れてしまっていたのだけれども、パンと花の日々は確かにあった。白くはなかった頃のシャングリラで、楽園という名を持っていた船で。
 懐かしくそれを思い出していたら、「ねえ」とブルーに問われたこと。
「…トォニィ、やってくれたかな?」
 パンと花の日々、シャングリラでやってくれたと思う?
 平和な時代になってたんだし、コンテナ一杯の花も買えるよ。奪わなくても、お金を払って。
 あちこちの星を回っていたなら、お金、沢山あっただろうし…。
 その気になったら、食堂一杯の花だって。…食堂、ずっと大きくなってたけれど。
「花を買うだけの金は充分、あったんだろうが…」
 パンと花の日々、お前の記憶に入ってたのか?
 ジョミーに残した記憶装置だ、あれにきちんと入れてあったか、あの時の記憶…?
「…入れていないよ、ずっと昔のことだったもの」
 それに失敗した話だから、残しておいても役に立たない記憶でしょ?
 ジョミーが見たって、花が一杯溢れてるな、って思うだけだよ。
 あんな風に食堂を花で飾らなくても、美味しい食事が出来る時代になっていたしね。
 合成品とか代用品を使う料理もあったけれども、シャングリラの食事は美味しかったもの。
「なら、無理だろ。…トォニィが気付くわけがない」
 お前がソルジャーでさえもなかった頃にだ、食堂を花で飾り立てたことがあっただなんて。
 俺も航宙日誌には書いてないしな、あの時のことは。
 お前が失敗しちまったんだし、書き残すのはどうかと思って書かずにおいたんだ。
 みんながどんなに喜んでいても、元はお前のミスなんだから。



 だからトォニィがやるわけがない、と思うけれども、平和になった船だったから。
 前の自分がいなくなった後に、白いシャングリラに花は溢れたと思いたい。
 広い食堂を花で埋め尽くす「パンと花の日々」は無くても、船の中には沢山の花。誰もが好きに切って飾れて、それを愛でられる船になってくれていたなら、と。
 シャングリラはもう無いけれど。…前の自分が好きだった船は、ブルーと共に暮らした船は。
 前のブルーを失くした後には、辛かった白いシャングリラ。
 どうしてブルーは此処にいないのかと、自分だけが生きているのかと。
 前の自分が失くしたブルーは、生まれ変わって帰って来てくれたけれど。土産に買って来た甘い菓子パン、それを「美味しい」と喜ぶ小さなブルーになって。
「ハーレイ、お土産のパン、美味しかったから…」
 前のぼくたちのことも思い出したから、いつか二人でやってみたいね。あの時みたいに。
「やってみたいって…。パンと花の日々か?」
 俺がパンを買って来た店のヤツとは違って、お前と暮らす家でってか?
「…駄目?」
 花で一杯のテーブルだけでもかまわないから。
 床にまで置こうって欲張らないから、テーブルの上に花を沢山。
 置く場所がもう残ってないよ、って思うくらいに、お皿とかの無い場所は花だらけで。
「お前がやってみたいのならな」
 あれをもう一度、と言うんだったら、いいだろう。
 今度はお前のミスじゃなくって、俺が金を出して花を買い込む、と。
 お前は店で端から選べ。「この花がいい」とか、「こっちも」だとか。薔薇でも何でも、お前の好きな花を端から選んじまっていいから。…予算なんかは気にしていないで、好きなだけな。



 いつかブルーと暮らし始めたら、望みを叶えてやるのもいい。遠い昔にシャングリラでやった、パンと花の日々をもう一度。
 毎日のパンや食卓だからこそ、贅沢に。あの時のように、花一杯に。
 華やかにテーブルを飾ってみようか、ブルーが選んだ沢山の花で。置き場所がもう無いほどに。
 けれど、同じに花で飾るなら…。
「…俺としては、お前を飾りたいがな」
 パンと花の日々もいいがだ、同じ飾るなら、お前がいい。…そう思うんだが。
「え?」
 ぼくって…。ぼくを飾るの、いったい何で飾るつもりなの?
「花に決まっているだろうが。…今はそういう話なんだぞ、パンと花の日々」
 お前には花が映えそうだ。パンやテーブルよりも遥かに、飾る値打ちがありそうだがな?
「花で飾るって…。ぼく、男だよ?」
 女の人なら分かるけれども、ぼくを飾ってどうするの。…男なのに。
「お前、薔薇の花、似合うだろうが」
 前のお前は、そういう評判だったしな?
 薔薇の花と薔薇のジャムが似合うと、そういう綺麗なソルジャーだと。
 だから今でも似合う筈だぞ、前と同じに育ったら。
 綺麗な薔薇の花を山のように買って、お前を飾れたら幸せだろうな。



 まさしく酒と薔薇の日々だ、とブルーに向かって微笑み掛けた。
 酒も好きだが、お前と薔薇の日々がいいな、と。
 それが最高だと、俺にとっての「酒と薔薇の日々」ってヤツだ、と。
「酒を片手に薔薇を見るより、お前の方がいいからなあ…」
 お前を綺麗な薔薇で飾って、俺の隣に座らせておく、と。…酒は無しでも、お前に酔える。
 パンと花の日々より、酒と薔薇の日々。
 今の俺なら、間違いなくそれだ。酒じゃなくてだ、お前なんだが…。俺を酔わせる美味い酒は。
「酒と薔薇の日々…。ハーレイもお酒、大好きだけど…」
 その映画、どんなお話だったんだろうね?
 お酒を薔薇で飾るのかなあ、瓶とか、お酒のグラスとかを。
「さあなあ…?」
 とんと謎だな、タイトルしか残っていないんだから。
 知りたくなっても誰も知らんし、データは何処にも無いんだし…。
 そいつが少し残念ではあるな、お前を飾って酒と薔薇の日々が出来るんだから。



 今は失われた、遠い昔の映画の中身。
 それを惜しいと思うけれども、いつかは酒と薔薇の日々。ブルーと薔薇の日々が来る。
 パンと花の日々を味わった筈の前の自分には、最後まで出来なかった贅沢。
 前のブルーは、自分だけのものにならなかったから。
 最後までソルジャーのままで逝ってしまって、失くしてしまった恋人だから。
 けれど、今度の自分は違う。
 帰って来てくれた小さなブルーは、いつか自分のものになるから。
 今度こそ自分だけのブルーになってくれるのだから、その時は酒と薔薇の日々。
 ブルーが望むなら、パンと花の日々も。
 食卓を溢れるほどの花で飾って、ブルーを綺麗な薔薇で美しく飾り立てて…。




            パンと花の日々・了


※リーダーだった頃の、前のブルーの失敗。切り花が詰まったコンテナを奪ったのですが…。
 捨てるよりも飾った方がいい、と床まで花で埋もれた食堂。たった一度きりの、最高の贅沢。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv











(とっても綺麗…)
 見に行きたいな、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 「光の遊園地」という見出しと写真。夜の遊園地を捉えた幾つもの写真は、どれも光に彩られた世界。まるで煌めく宝石箱。様々な色のイルミネーション、遊具にも、木々の枝にも光。
 夏に比べれば、夜のお客が減る季節。日は長くないし、冷える夜だってあるのだから。
 そういう季節も客を呼ぼうと、夜になったらライトアップ。観覧車はもちろん、遊園地へと続く並木道だって。光で出来た遊園地。その入口へと向かう道から、光の世界が始まる仕掛け。
(…シャングリラだって…)
 大人にも人気の、白いシャングリラを象った遊具。それも綺麗な青い光を纏って、宇宙に浮かぶ地球に照らされているかのよう。青く輝く水の星に。
(地球の青かな…?)
 それとも、タイプ・ブルーのサイオンカラーをイメージしたか。
 白いシャングリラは遠い昔のミュウの箱舟、今も語られる伝説の船。それを導いたソルジャーは全て、もれなくタイプ・ブルー。
 初代だった前の自分も、地球まで行ったジョミーもそう。最後のソルジャーのトォニィだって。
(タイプ・ブルーか、地球の青か、どっち…?)
 自分の好みで決めていいなら、断然、青い地球なのだけれど。
 前の自分が焦がれ続けて、見られずに終わってしまった星。あの時代にはまだ、青い地球は夢の星だったのに。蘇ってはいなかったのに。
(…前のぼく、知らなかったから…)
 青い星だと信じて夢見た。その地球の上に、生まれ変わって来たのが自分。残念なことに、青い地球はまだ見られていない。宇宙旅行をしたことが無いから。
 それでも青い地球は好きだから、シャングリラを彩る青い光は地球の青。その方が好き。
 前の自分のサイオンカラーで照らされるよりは、地球の青の方がきっと似合うと思うから。



 地球の青だよ、と勝手に決めたら、今度は気になる他の写真たち。昼間とは違う姿に変わった、光で出来た遊園地。夜の闇の中にぽっかり浮かんだ、夢の世界のように見えるから…。
(ハーレイと行ってみたいな、これ…)
 そんな気持ちがこみ上げてくる。二人で行けたら素敵だろうと、光の中を歩いてみたいと。
 「綺麗だよね」と見回しながら。無数の煌めきに照らされながら。
 けれど、ハーレイには頼むだけ無駄。
 きっとこう言うに決まっているから、「それはデートだ」と。夜の遊園地に二人で行くなんて。二人きりで夜の外出なんて。
(ハーレイ、絶対、断るんだよ…)
 「駄目だ」と睨む顔つきまでが、頭の中に浮かんで来るけれど。声も言葉も浮かぶのだけれど。
 光が溢れる遊園地には、両親と行ってもつまらない。幼い頃なら、それで良かったけれど。
(パパやママと一緒に行ったって…)
 この年になって、両親とはしゃぎ回れはしない。「次はあっち!」と手を引っ張って。
 友達と行く手もあるのだけれども、どうせ行くならハーレイがいい。
 ハーレイだったら、何もかも分かってくれるから。
 白いシャングリラを煌めかせている青、それを「地球の青だよ」と言いたがる理由も、白い船で暮らした前の自分も。
 そういう話はしないにしたって、ハーレイとだったら、きっと楽しい。
 夢の世界にも思える光の遊園地。其処を一緒に歩いたら。幾つもの光を見上げられたら。



 おやつを食べ終えて部屋に戻っても、頭を離れない遊園地。夜になったら綺麗なんだ、と。光に包み込まれるから。幻想的な夢の世界に変わるから。
 もしもハーレイと出掛けられたら、観覧車に乗ってみたいと思う。シャングリラよりも。
(上から見たら、きっと凄いよ)
 遊園地を全部、見渡せるのが観覧車。ゆっくりと高く昇ってゆくから、どんどん広がる窓の外の景色。最初は乗り場の近くだけしか見えないけれども、一番上まで上がったら…。
(…光の遊園地を、全部、丸ごと…)
 目に出来るのだし、観覧車が一番いい乗り物。光の遊園地に行くのなら。
(みんな、おんなじことを考えそうだし…)
 長い行列が出来ているかもしれないけれども、行列したって乗る価値がある観覧車。光の世界を全部見られるなら、夢の世界を眺められるなら。
 その観覧車もイルミネーションで光っているから、並んでいる間も退屈しない筈。次から次へと色が変わるのが、観覧車だと書いてあったから。花火みたいに華やかに点滅してみたり。
(…夢みたいだよね…)
 色とりどりに輝く観覧車。行列しながらそれを眺めて、順番が来たら乗り込んで。
 ゴンドラがゆっくり昇り始めたら、窓の外は煌めく光の洪水。宝石箱の中身を広げたように。
 とても素敵な夢の世界で、光で出来た遊園地。
 今の小さな自分にとっては、本当に夢物語だけれど。
 ハーレイとそれを見に行きたくても、連れて行っては貰えないけれど。



 でも行きたい、と心から消えない遊園地。昼間ではなくて、夜だけの光の遊園地。
(駄目で元々…)
 ハーレイに「行きたい」と強請ってみようか、もしも訪ねて来てくれたなら。仕事の帰りに来てくれたならば、断られるのは承知の上で。
 仕事の終わりが遅くなったら、来てはくれないのがハーレイ。「遅い時間でも大丈夫ですよ」と母が言っても、父が「どうぞ御遠慮なく」と何度言っても。
 夕食の支度に間に合う時間を過ぎてしまったら、ハーレイは来ない。今日がどうなるかは、まだ分からない。来なかったならば、最初から脈無し。頼みたくても会えないのだから。
(来てくれたら、ちょっとは…)
 お願いを聞いて貰える可能性があるかも、と考えてみる。もしかしたら、と。
 そんな夢など叶うわけがないのに、欲張りな夢。ハーレイと二人で夜の遊園地に出掛けること。
 「来てくれないかな」と、「来たら頼んでみるんだけどな」と夢を描く内に聞こえたチャイム。窓に駆け寄って見下ろしてみたら、門扉の向こうにハーレイの姿。
 やった、と躍り上がった心。これで頼めると、お願いしようと。



 母が案内して来たハーレイ、いつものようにテーブルを挟んで二人で座った。向かい合わせで。胸を高鳴らせて、声にした夢。
「あのね、遊園地に行きたいんだけど…」
 今日の新聞に載っていたから、急に行きたくなっちゃって…。駄目?
「ほほう…。遊園地か、いいんじゃないか?」
 お前くらいのチビが好きそうな場所だしな。行けばいいだろう、今度の土曜日にでも。
 俺はその日は来ないことにするから、お前の好きにするといい。誰と行くのかは知らんがな。
「そうじゃなくって…!」
 遊園地には行きたいけれども、一緒に行きたい人が決まっているんだよ。別の人じゃ駄目。
 ハーレイと一緒に行きたいんだから、と正直に言ったら、案の定…。
「どうしてデートに行かねばならん」
 お前とデートはしないと何度も言った筈だが、とハーレイの眉間に寄せられた皺。そのくらい、分かっているだろうに、と。
「分かってるけど…。でも、シャングリラが綺麗なんだよ!」
「はあ?」
 シャングリラが綺麗って、どういう意味だ?
 それがどうしてデートになるんだ、俺と一緒に遊園地に行きたいと言い出すなんて。
「…えっとね、夜の遊園地…。昼間とは別になるんだよ」
 ライトアップで、イルミネーションが一杯で…。
 光の遊園地に変わるんだって、夜になったら。それがとっても素敵なんだよ、本当に。



 写真が幾つも載っていたから、と説明した。光の遊園地は昼の姿とは全く違う、と。中でも青く輝く白いシャングリラ。それが綺麗と、あの青はきっと地球の青だ、と。
「タイプ・ブルーの青じゃなくって、地球の青だよ。きっとそうだよ」
 本物のシャングリラは、地球が青くなる前に消えちゃったけど…。
 青く照らすなら地球の青だよ、ハーレイだったら分かってくれるでしょ?
 ぼくが「地球の青だ」って言う理由。…タイプ・ブルーの青じゃないよ、って。
「もちろん、分かるが…。お前は地球に行きたがっていたしな、あの船で」
 本物の地球は青くなかったが、それでも地球の青が似合うと言いたいんだろう?
 前のお前やジョミーたちのサイオンの青よりは、ずっと。
 …それで、そいつを見たいだけなのか?
 地球の青を纏ったシャングリラってヤツを、遊園地まで見に行きたいと…?
「それも見たいけど、観覧車にも乗りたいな」
 上から見たら、きっと素敵で凄いから。遊園地が全部見えるんだもの、光が一杯。
 ゆっくり上まで上がって行く時も、降りて行く時も、窓の外、夢の世界でしょ…?
「断固、断る」
 お前の気持ちは分からんでもないが、お母さんたちと行って来い。
 でなきゃ、友達、誘うんだな。大勢いるだろ、一人くらいは行ってくれるさ。
「それじゃ、つまらないよ!」
 さっきも言ったよ、行きたい人は決まってる、って。別の人と行くんじゃ駄目なんだ、って…!



 ハーレイと一緒に行きたいんだよ、と訴えた。
 光の遊園地に出掛けてゆくのも、シャングリラを眺めて観覧車に乗るのもハーレイと一緒、と。
「ハーレイ、分かってくれたじゃない。どうして地球の青なのか、って」
 シャングリラを綺麗に光らせてる青、タイプ・ブルーの青じゃないんだってこと。
 分かってくれるの、ハーレイだけだよ。…だからハーレイと一緒に行きたいんだよ。
 それでも駄目なの、パパやママや友達と行けって言うの…?
「お前なあ…。俺と一緒に遊園地って…。しかも夜に、って…」
 そういうのは、もっと大きく育ってから俺に言うんだな。
 デートに行けるようになるまで待て。そういう歳になるまでな。
「…やっぱり、そう?」
 例外ってわけにはいかないの?
 いくらシャングリラが綺麗でも…。夜の遊園地を観覧車に乗って、見てみたくても。
「当たり前だろうが!」
 チビのお前とデートはしない。例外は無しだ。
 その上、俺と観覧車に乗りたいだなんて…。ますますもってお断りだな、そいつはな。



 観覧車はデートの定番なんだ、と睨まれた。「チビのお前は知らないだろうが」と。
「その手のヤツらは、昼間はそれほどいないからなあ…」
 子供の客の方がずっと多いから、まるで目立たないと言うべきか。
 ところが、夜になったらカップルがグンと増えるんだ。二人一緒にアレに乗ろうと。
 ゴンドラに乗ったら二人きりだし、外は夜だから、ロマンチックな雰囲気になるし…。
 観覧車でプロポーズするヤツもいるくらいだぞ。二人きりの世界なんだから。
「…プロポーズ?」
 あんな所でプロポーズするの、どうやって…?
「そいつはアイデア次第ってトコか…」
 定番中の定番だったら、もちろん指輪だ。「結婚して欲しい」と取り出してな。
「それじゃ、いつかハーレイも、ぼくにプロポーズをしてくれる?」
 二人一緒に観覧車に乗ったら、プロポーズ。
 指輪なんかはどうでもいいから、プロポーズして欲しいんだけど…。
「観覧車って…。お前、そんな場所でもかまわないのか?」
 アレはグルグル回ってるんだぞ、いくらゆっくりでも地上に着いたら降ろされちまう。
 まるで時間が足りないじゃないか、プロポーズの後の余韻ってヤツが。
 もっとプロポーズに似合いの場所なら、色々あるのに…。個室のある洒落たレストランだとか、夜景の綺麗な公園だとか。
 そういう場所を選んでおいたら、「思い出の場所だ」と記念日の度に行けるんだが…。
 出掛けてゆっくり食事するとか、同じベンチに座るだとか。
 しかし、観覧車じゃそうはいかんぞ。思い出のゴンドラに乗れたとしたって、一周しちまったら降りるしかないし。…もう一周、って続きに乗るのは無理なんだから。
「んーと…」
 そうだね、観覧車だったら、そうなっちゃうね…。一周したら時間はおしまい…。



 プロポーズされても、持ち時間が少ないらしい所が観覧車。レストランや公園とは違った場所。次のお客が待っているから、それに乗ろうと。ズラリと並んで列を作って。
 クルリとゆっくり一周したなら、「降りて下さい」と開けられてしまうゴンドラの扉。どんなに二人で乗っていたくても、一周して降りて来たならば。
 其処でのプロポーズはどうだろう、と考えたけれど。制限時間つきのゴンドラ、観覧車の上でのプロポーズは嬉しくないだろうか、と自分に尋ねてみたけれど。
(…降りて終わりでも、かまわないよね?)
 記念日のデートに、同じゴンドラに乗れなくても。思い出の場所に出掛けて行っても、クルリと回って地上に戻ればそれでおしまい、制限時間つきのデートでも。
(…プロポーズして貰えるってことが大切なんだし…)
 何処でもいいや、と返った答え。それをそのまま口にした。
「プロポーズの場所なら、何処でもいいよ」
 一周して来たら、降ろされてしまう観覧車でも。…記念日にデートしようとしたって、思い出の場所には、観覧車が一周する間だけしかいられなくても。
 何処だっていいよ、ハーレイがプロポーズしてくれるなら。
 レストランどころか街角でだって、ぼくはちっとも気にしないから。…もう最高に幸せだから。
「プロポーズの場所、こだわらないのか…」
 ロマンチックな場所がいいとか、雰囲気のいい店だとか。…普通、こだわるもんだがな?
「他の人たちはどうか知らないけど、こだわると思う?」
 ぼくがこだわると思っているの、プロポーズの場所や雰囲気とかに?
「…結婚出来ればいいんだったな、お前の場合は」
 俺と一緒に暮らすのが夢で、目標ってヤツもそれだっけか…。
「そうだよ、だからプロポーズだけで充分なんだよ」
 結婚しよう、って言ってくれるんでしょ、それで充分。指輪も何にも要らないんだから。
 観覧車でもいいんだけれども、ホントに何処でもいいんだよ。
 遊園地でなくても、レストランでも公園でもなくて、歩いてただけの街角でも。



 何処でもプロポーズは出来るんだから、と恋人の鳶色の瞳を見詰めた。
 だから遊園地に連れて行ってと、夜の遊園地に行きたいからと。
「…光の遊園地、見に行きたいよ…。シャングリラを見て、観覧車だって…」
 プロポーズは何処でもかまわないんだし、観覧車がそういう場所だっていうのは抜きにして。
 地球の青色に光るシャングリラ、二人で見ようよ。…観覧車からも、きっと見えるよ。
「遊園地なあ…。しかも夜にな」
 今は駄目だな、まだプロポーズをしてやれないのと同じだ、同じ。
 二人きりで夜の遊園地なんて、立派にデートなんだから。…昼の遊園地でも同じだぞ?
 お前と二人で出掛けちまったら、それはデートになっちまうってな。
「…夜の遊園地、ハーレイと一緒に行きたいのに…」
 シャングリラ、とっても綺麗なのに。あれって絶対、地球の青だよ。その青なんだよ。
 それに遊園地も、夢みたいに綺麗なんだもの。ハーレイと二人で見に行きたいよ…。
「…お前、前にも言わなかったか?」
「えっ?」
 何を、とキョトンと目を見開いたら、ハーレイは「いや…」と顎に手をやって。
「とても綺麗だから見に行きたい、っていうヤツだ」
 前にも俺に言っていないか、そういうことを。…一緒に行こうと。
「ライトアップの記事は初めて見たよ?」
 今日の新聞を読むまで全然知らなかったし…。遊園地の広告、見ていないから。
「だろうな、俺もお前の口から、そいつを聞くのは初めてだ」
 やってるってことは知ってたが…。始まる前にも何かでチラッと目にしたからな。
 しかし、確かに聞いたような気が…。
 お前が行きたいと強請っていた気がするんだがなあ、今日みたいに。



 綺麗で、おまけに遊園地で…、と記憶を探っているらしいハーレイ。
 けれども、自分もその記憶は無い。遊園地に行きたいと強請ったことなら、あったとしても…。
(…綺麗だから、って場所じゃないよね、遊園地は?)
 楽しそうだとか、あれで遊んでみたいとか。そういう理由で誘う所で、綺麗だからと強請るのは今日が初めての筈。きっとハーレイの記憶違いだと考えたのに…。
「そうだ、お前が言ったんだ。…もっとも、あれは今の遊園地ではなくてだな…」
 前のお前だ、行きたいと俺に言い出したのは。
「…前のぼく?」
 ぼくが言ったの、前のハーレイに?
「ああ。今の遊園地とはまるで違うが、それでも光の遊園地だった」
 そんな名前で呼ばれていたのか、違ったのかは覚えていないが。
 とにかく光に照らし出された遊園地。太陽じゃなくて、夜に人工の明かりでな。
「光の遊園地って…。そんなの、何処で?」
 何処にあったの、その遊園地?
「アルテメシアに決まっているだろう。…人間が暮らしている星は、あそこだけだった」
 前のお前が生きてた間に、シャングリラが旅した星の中では。
 あそこにあった、アタラクシアの遊園地だ。前のお前が俺と一緒に行きたがった光の遊園地は。
「アタラクシアの遊園地って…」
 なんで、そんな所?
 どうしてハーレイと行きたがるわけ、光の遊園地をやってるから、って…。
「覚えていないか、お前、救助班のために下見に出掛けて…」
 船から思念で見ているよりも、と身体ごと出掛けて行っちまって。
 ついでだから、と夜まで観察していた間に、ライトアップに出くわしたんだが…?
「…思い出した…!」
 あったんだっけね、そういうのが。…前のぼくが見た、光の遊園地。
 昼間とはすっかり違う姿の、光で出来てた遊園地が…。



 雲海の星、アルテメシア。シャングリラが長く潜んだ星。
 子供たちを育てる育英都市があった、人工の海を持った惑星。育英都市はアタラクシアと、もう一つ。同じ惑星の上に、エネルゲイアという都市も。
 前の自分が探りに出たのは、アタラクシアの方の遊園地だった。子供のための育英都市。それに遊園地、だから閉園時間も早い。今の時代の遊園地よりは。
 けれども、夜の遊園地も人気。闇が降りる夜ならではの光の演出、イルミネーション。
 前の自分はそれを目にした。サイオンで姿を隠してしまって、明るい頃から隠れ続けて、夕闇が辺りを覆った後に。
 一つ、二つと灯り始めていた明かり。日暮れと共に。足元が暗くならないように。
 そういうものか、と眺めていたら、一斉に点いたイルミネーション。揃って咲いた光の花たち。色とりどりに、煌びやかに。それは華やかに、辺り一面に。
 俄かに明るくなった園内。夜空の星たちを全て集めて、地上に持って来たかのように。
(とても綺麗で…)
 遊園地は、まるで夢の国。お伽話の世界さながら。
 輝くお城や、観覧車などや、あちこちに続く並木道。全てが光の煌めきの中。
 それを見ていたら、闇はこの世に無いかのよう。
 ミュウと知れたら殺される世界、この遊園地でも処分された子供はいたというのに。
 同じ轍を二度と踏まないようにと、こうして自分が降りて来たのに。
(光って…)
 なんと美しいものなのだろう、と光の遊園地に酔いしれた自分。
 ミュウが人知れず処分される世界、それは何処にも無いように見える。暗い闇を抱えた、機械が支配している世界。そんな世界は存在しない。この遊園地だけを見ていたら。
 無数の光は夜の闇さえ明るく照らして、希望の光そのもののよう。
 こんな世界に住んでいたなら、争いも何もかも、光に溶けて消えてゆきそう。
 光は闇を照らし出すから。闇を払って、美しく輝き続けるから。



 閉園時間が訪れた後も、イルミネーションはまだ消されなかった。来ていた客たち、彼らが全て家路につくまで。遊園地を離れて帰ってゆくまで、彼らの行く手を照らすかのように。
 一時間ほどは、そのまま灯っていたろうか。誰一人いなくなってしまっても。警備の者しか歩く姿が無くなってからも、夢の世界を守るかのように輝いていたイルミネーション。
 それにすっかり魅せられたから、船に帰って提案した。長老たちが集まる会議の席で。
 白いシャングリラの中の公園、其処でもあれが出来ないだろうか、と。ブリッジが見える、船で一番大きな公園。幾つもの明かりを飾り付けてやって、夜になったらそれを灯して。
「いいと思うんだよ、きっと希望が見えるだろうから」
 光にはそういう力があるんだ、と遊園地を見ていて分かったからね。あれは凄いよ。
 この船でも毎晩やるようにしたら、希望が見えると思わないかい?
「公園を光で飾り立てるじゃと?」
 エネルギーの無駄じゃ、とゼルが放った一言。「そんなものには何の意味も無いわい」と。
「そうだよ、それに…。子供たちに夜更かしは勧められないね」
 公園なんかに来てるよりかは、寝るべきだよ。どうだい、ヒルマン?
 あたしは間違っていないと思うけどね、とブラウも賛成しなかった。ヒルマンもエラも。
「でも…。あれは希望の光なんだよ」
 少なくとも、ぼくにはそう見えた。夢も、希望も、あそこで見たよ。
 昼の間は、ただの遊園地だと思っていたのに、夜になったら別の世界に変わったから…。
 すっかり暗くなっていたのに、光り輝く夢の世界で…。この世界はとても素敵なんだ、と。
「何処に希望があると言うんじゃ、この船の先の!」
 希望の光どころではないわ、とゼルは首を縦に振ってはくれない。機関長の彼に反対されたら、回して貰えないエネルギー。公園を彩る沢山の明かりを灯したくても。
「今は確かにそうかもしれない。でも、夢は大切なものだから…」
 希望が駄目なら、今は夢でいい。その夢を船で見て欲しいから…。夢の世界を見て欲しいから。
「夢にしてもじゃ、実現可能な夢がいいんじゃ」
 わしらでも手が届く程度の、現実的な夢を見るのが今は似合いというものじゃ。
 大きすぎる夢を持ってしまったら、叶わなかった時が辛いだけじゃぞ。



 現に出番が無いじゃろうが、と槍玉に挙げられた展望室。いつか其処から青い地球を、と夢見て皆が望んだ部屋。
 ガラス張りの展望室の向こうに、青い地球は今も見られないまま。それどころか、雲に覆われたままのガラス窓。いつ入っても雲しか見えない、青い地球を見ようと作られた部屋。
 あれと同じじゃ、と切って捨てられたイルミネーション。
 人類の真似などしなくてもいいと、この船にそれは要らない、と。
 誰も賛成しなかったけれど、美しかった光の国。アタラクシアで見た光の遊園地。その煌めきが忘れられなくて、心から消えてくれなくて…。
 その夜、ハーレイが青の間にやって来た時に、ポツリと零した。会議の席では、反対意見を皆と唱えていたキャプテンに。…前の自分が恋した人に。
「やっぱり駄目かな…」
 ぼくの考え、誰も分かってくれなかったけれど…。君も同じで、駄目だったけれど…。
「ブルー…?」
 今日の会議のことですか?
 シャングリラの公園を光で飾るという件でしたら、私も賛成いたしかねますが…。
 船のエネルギーには余裕があります。ですが、そういう飾りには意味が無さそうですから。
「…見ていないからだよ、あの遊園地を」
 光で出来た遊園地をね。本当に夢の世界だったよ、闇も影も入り込む余地なんか無い。
 君もあれを見れば変わると思うよ、意見がね。夢も希望も必要なんだと、作り出せると。光さえあれば、気分だけでも。…この世界には夢も希望もある、とね。
 本物を見に、一緒に行ければいいんだけれど…。そうすれば分かって貰えそうなのに…。
 そうだ、ぼくと行こう。アタラクシアまで、あの遊園地を眺めにね。
 視察ということにすればいいだろう。君が人類に見付からないよう、ぼくが姿を隠すから。
「…そのお気持ちは分かりますが…」
 私は船を離れられません。たとえ視察でも、私はキャプテンなのですから。



 他の仲間たちは、地上に降りられないミュウの箱舟。ミュウの子供たちの救出に向かう、救助班所属の者以外は。どんなに地面を踏んでみたくても、けして許されることはない。危険だから。
 誰一人として自由に降りられない船、それをキャプテンが降りるわけには、と断られた。まして遊園地の視察などでは、と。
 ハーレイの意見を変えられないなら、公園をイルミネーションで飾るのは無理。
 本当に綺麗だったのに。光の遊園地は夢の世界で、とても美しかったのに。
(…シャングリラでは無理なんだ…)
 希望が見えない船なんだから、と項垂れていたら、手を握られた。褐色の手で、ギュッと。
「…今は無理ですが、あなたがそれほど仰るのなら…」
 それならば、いつか…。ご一緒しましょう、その遊園地へ。
「え…?」
 いつか、って…。君が、ぼくと一緒に?
「ええ。…この船に、希望が見える時が来たら。今は見えない希望の光が」
 皆の心にも余裕が出来たら、それを一緒に見に行きましょう。…皆には視察ということにして。
 あなたが魅せられた光の世界がどれほどのものか、この船でやるだけの価値があるかを。
「本当かい?」
 来てくれるのかい、ぼくと一緒に遊園地まで?
 昼間から潜んで、日が暮れて辺り一面が輝き出すまで、アタラクシアに…?
「はい。…いつになるかは分かりませんが…」
 お約束しますよ、あなたの夢を私も見に行くことを。
 地球の座標が手に入る頃になるのでしょうか、皆にも希望の光が見える時代と言うのなら。
「…その頃にもやっているかな、あれを?」
 あの遊園地で続いているかな、夜になったら一面に光を灯して綺麗に照らし出すこと…。
「やっていますよ、その頃も、きっと」
 人類の世界は、そうそう変わりはしませんから。…子供たちを育てるための都市では。



 ですから、いつか…、とハーレイが約束してくれたこと。アタラクシアまで、二人で行こうと。夜になったら光り輝く遊園地を見に。美しく煌めく夢の世界を眺めるために。
 けれど、行けずに終わってしまった。
 希望の光を掴むよりも先に、前の自分の命そのものが。
 光の遊園地に酔いしれたアルテメシアからも、地球からも遠く離れたメギドで。
 だから二人で行けなかった場所。ハーレイと二人で眺められずに、消えてしまった光の遊園地。光の遊園地はきっとあったのだろうに、自分の命が尽きたから。
 それをまざまざと思い出したら、もう黙ってはいられなくて。
「…ハーレイ、ぼくに約束してたよ。…前のぼくだけど」
 いつか行こう、って。ぼくと一緒に、夜の遊園地へ。…光の遊園地を見に行くんだ、って。
 みんなに希望の光が見えたら、地球の座標を手に入れたら。
「そのようだな。…確かにお前と約束をした」
 前のお前だったが、約束したことに間違いはない。夜の遊園地へ二人で行こうと。
「…今は駄目?」
 あの時の約束、今は駄目なの?
 地球の座標はもう要らないんだよ、ぼくたち、地球にいるんだもの。
 船のみんなを心配しなくても、ハーレイはもうキャプテンじゃないし…。ぼくもただの子供。
 それに希望は山ほどあるでしょ、夢だって。
 だから、約束…。前のハーレイの約束だけれど、遊園地、一緒に行ってくれない?
 地球の青色に光るシャングリラを見たいよ、観覧車に乗って上からだって。
「…今の俺たちに希望はあるがだ、一つ大きな問題がある」
 お前、すっかりチビだろうが。…あの時のお前と違ってチビだ。
 俺とデートに行くには早くて、まだまだ小さな子供でしかない。…違うのか?
 デートは駄目だと何度も言ったぞ、今までも、それに今日だってな。



 しかし…、とハーレイが握ってくれた手。遠い昔の、あの日のように。約束を交わした遠い昔の青の間のように、大きな手で。今は小さくなってしまった、子供になった自分の手を。
「前のお前とした約束でも、約束には違いないからな」
 思い出した時には果たすこと、って前にもお前に言ったっけか…。
 幸せな約束ってヤツに時効は無いと。たとえ何年経っていようが、お互い、約束は果たそうと。
 そう言ったからには、あの約束も有効だ。…今の時代でも。
 幸い、光の遊園地ってのは、今もやってるようだから…。この町でも見られるらしいから。
 いつか行こうな、お前と一緒に。…あの時の約束、叶えるのが俺の役目だから。
 もうキャプテンではなくなっちまって、視察も何も無いんだが…。
 見に出掛けても、ただの遊びで、夜のデートだというだけなんだがな。
「ホント?」
 本当にぼくと行ってくれるの、光の遊園地を見るために?
 地球の青色に光るシャングリラとかを見て、観覧車にも乗ってくれるの?
 前のぼくたちだと、観覧車には乗れなかったけど…。それは流石に無理だったけれど。
「ほらな、今ならではのお楽しみってヤツが増えてるだろうが」
 俺とお前で観覧車だ。…前の俺たちだと、これは出来んぞ。
 前のお前が上手く情報を操作したなら、観覧車だって乗れたんだろうが…。そんなの、視察では思い付いたりしないしな?
 お前も、俺も。…あんな乗り物もあるんだな、と見上げる程度で。
「そうだったと思う…」
 人間が大勢、並んで順番を待っているよね、って眺めるだけで満足だったよ。前のぼくなら。
 だけど、今のぼくは乗りたいよ。…ハーレイと一緒に観覧車に。



 プロポーズは無しでも乗ってみたいな、と強請ったら。夜の遊園地を上から見たいと頼んだら。
「お安い御用だ、観覧車くらい。…行列だって俺に任せておけ」
 長い行列が出来ていたなら、お前は休んでいるといい。立って待つのは俺に任せて。
 順番が来るまで、側のカフェにでも座ってな。
「ううん、ぼくもハーレイと一緒に待つよ」
 二人一緒なら、行列も平気。きっと疲れてしまいもしないよ、ハーレイと一緒なんだもの。
 手を繋いで一緒に立っていたなら、ぼくは絶対、疲れないから。
「…そうなのか? 無理はするなよ」
 もう駄目だ、と思うより前に俺に言うんだぞ、「疲れちゃった」と。
 一緒に行列するんだったら、そいつを約束してくれないとな。お前がすっかり参っちまったら、デートどころじゃないんだから。
「…約束する…。ハーレイに心配かけないように」
 くたびれちゃったら、きちんと言うよ。…「ちょっと座って休んでもいい?」って。
「よし。…それなら、いつか二人で行こう」
 お前が大きくなったらな。俺とデートが出来る背丈に。
 そしたら一緒に光の遊園地を見に行こう。やってる季節に、お前と二人で。
 前のお前との約束だから。…幸せな約束に時効は無いって、俺は確かに言ったんだしな。
「うん、約束…!」
 いつか行こうね、今は無理でも。
 ぼくが前のぼくと同じに大きくなったら、二人で行こうね、夜の光の遊園地に…。



 前の自分がアタラクシアで見惚れた光の遊園地。夢と希望の世界がある、と。
 それを知って欲しくて誘ったハーレイ。いつかは、と答えてくれた前のハーレイ。
(…幸せな約束に、時効は無いから…)
 今は小さくて無理だけれども、いつか大きくなったなら。
 デートに行ける背丈になったら、ハーレイと二人で出掛けてゆこう。
 平和になった幸せな時代に、光が溢れる夜の遊園地へ。前の自分が虜になった光の国へ。
 夢と希望が溢れる世界。光が輝く夢の世界へ、ハーレイと。
 観覧車に乗って、上からも見て。
 ゴンドラの中でも手を繋ぎ合って、光の世界を眺めては微笑み交わしながら…。




             光の遊園地・了


※夜の遊園地を見た、前のブルー。けれど、シャングリラの公園でのライトアップは無理。
 そしてハーレイと約束した、夜の遊園地の視察。今のハーレイとなら、いつか行けるのです。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv













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