シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(ハーレイの椅子…)
ふと、ブルーの目に留まった窓際の椅子。学校から帰って、おやつを食べて戻った部屋で。
テーブルとセットで置かれた二脚の片方、二脚とも同じデザインのもの。どっしりと重い、木で出来た椅子。背もたれの部分は籐で編まれて、それを木枠が取り巻いている。
座面は淡い苔の緑色、前のハーレイのマントの色を薄めたような優しい緑。ハーレイに似合うと思うけれども、「ハーレイの椅子」は、そういう意味ではなくて…。
(たまにはいいよね?)
こっち、と座ってみたハーレイの椅子。いつもハーレイが腰掛ける側。二つの片方、ハーレイが座るための椅子だから「ハーレイの椅子」。「ハーレイの席」ともいうべき場所。
其処に座ってキョロキョロ部屋を眺め回して、それから向かいの自分の椅子へ。テーブルの横を回り込んで。チョコンと座ってみた感じでは…。
(どっちも、おんなじ…)
見えるものはともかく、椅子の座り心地。ハーレイの椅子は、ほんの少しだけ、座面がへこんでいるのだけれど。
(ハーレイは重いし、ぼくが膝の上に乗ったりもするし…)
そのせいでクッションの厚みが変わった。自分が座っている椅子に比べて、本当に少し。座ったくらいでは分からない程度、見比べて気付くか、気付かないか。
僅かな違いしか無い椅子なのに、ハーレイの椅子の方が胸が高鳴る。腰掛けた時に。
(もう一度…)
ちょっとだけだよ、とハーレイの椅子に戻って座ってみて。
それから自分の椅子に戻って、また「ちょっとだけ」とハーレイの椅子へ。満足するまで交互に座って、嬉しくなった。「どっちもぼくの椅子だもの」と。
ハーレイの椅子も自分の持ち物、この部屋にある椅子だから。ハーレイの椅子と呼んでいても。
二脚の椅子は、両親が買ってくれたもの。テーブルとセットで、来客用にと。
買って貰った時は立派過ぎると思ったけれども、今では自分にピッタリのもの。来てくれる人が出来たから。前の生から愛した恋人、ハーレイが座るのに丁度いいから。
テーブルも椅子も、大人のハーレイには良く似合う。チビの自分には立派過ぎても。
(いつかは持って行くんだから…)
ハーレイの椅子を、ハーレイの家へ。
結婚して二人で暮らす時が来たら、この椅子たちも連れてゆく。いつも二人で座った椅子。間に挟んだテーブルもつけて、沢山の幸せな思い出ごと。
(ハーレイの家でも、ちゃんと二人で座るんだよ)
何処に置くかは分からないけれど、きっとハーレイが素敵な場所を見付けてくれる。椅子たちも居心地が良さそうな場所を。「此処がいいぞ」と運んでくれて。
(引越し屋さんにトラックで運んで貰っても…)
この辺に、と頼んで椅子とテーブルを置いて貰っても、「こっちの方が…」と楽々と持ち上げ、運んでしまいそうなハーレイ。「俺は此処だと思うがな?」と、テーブルも椅子も。
(ハーレイの家は、ハーレイが一番分かってるものね?)
椅子もテーブルも、着いたその日にまた引越しだよ、と可笑しくなる。そうでなければ、何日か経ってから突然に。
「この場所も悪くないんだが…」とハーレイが椅子を抱え上げて。「此処なんかどうだ?」と、別の場所へと運んで行って。「お前も此処に座ってみろ」と、「こっちの方が良くないか?」と。
きっとそうなることだろう。テーブルも椅子も、似合いの場所を決めて貰って。
その光景が目に浮かぶようだから、ふふっ、と笑って立ち上がった。椅子たちの未来。
(ハーレイの椅子も、ぼくの椅子も、一緒にお引越し…)
最初はハーレイの家に引越して、次はハーレイの家の中で。部屋から部屋へと引越しして。早く見てみたい椅子たちの引越し、まずは梱包されるのだろう。この家から運び出すために。
(まだまだ先の話だけど…)
結婚出来る年でもないし、と勉強机の前に座った。ストンと、其処に置かれた椅子に。
勉強や読書に使っている椅子、その椅子から窓辺の椅子を眺めて…。
(ぼくの椅子が三つ…)
全部で三つ、と数えて幸せな気分。三つの椅子のどれにも思い出、幸せな日々も詰まった椅子。
それにベッドにも座っていいから、この部屋には…。
(椅子が四つも…)
あるんだものね、と弾む胸。ただ椅子があるというだけなのに、もう嬉しくてたまらない。
一つ、二つと椅子を数えて、「やっぱりベッドは椅子じゃないかな」と思ってみたり。
どうなのかな、とベッドに座りに出掛けて、「違うかな?」とポンと叩いて…。
(椅子とベッドは見た目が違うし…)
椅子は全部で三つだよね、と戻った勉強机の前。元通りに椅子に座った途端に…。
(あれ…?)
不意に掠めた、ドキドキしながら椅子に座っていた記憶。これはぼくの椅子、と胸を弾ませて。
遠い遠い記憶で、おぼろげなもの。自分は椅子に座っているだけ。
(前のぼく…?)
あれは青の間での出来事だろうか、立派な椅子を貰ったから。やたらと広くて大きすぎた部屋、青の間に釣り合う椅子やテーブル。
でも…。
(ぼくの心、もっとドキドキしてた…)
そういう記憶。今と同じに子供の心で、腰掛けて「ぼくの椅子だよ」と。
(なんで…?)
どうしてドキドキしていたのだろう。子供の心だった頃なら、特に立派でもなかった椅子。船に元からあった椅子だし、平凡なもの。
誰の部屋にもあったような椅子が部屋に二つだけ、最初は一つ。部屋に備え付けの椅子は一脚、それをそのまま使っていた。椅子は椅子だし、座れればいいから。
(後で、もう一個貰って来て…)
二つになった部屋の椅子。
ハーレイが来た時に座れるように、と貰った二つ目。それを貰うまでは、ハーレイと二人で話す時には、ベッドを椅子の代わりにしていた。一人しか椅子に座れないのでは落ち着かないから。
一人は椅子で、一人はベッドを椅子代わりに。
ベッドの方に座っていたのは、自分だったり、ハーレイだったり。
二人並んで、ソファのように使っていたこともあった。ベッドに背もたれは無いのだけれど。
そんな具合だから…。
(二つ目の椅子が嬉しかった…?)
ドキドキしたのは、そのせいだろうか。今の自分と同じくらいに、心も身体もチビだった頃。
やっとお客様用の椅子が出来たから。
椅子の代わりにベッドを使わなくても、ハーレイと二人で座れるから。ちゃんとした椅子に。
そうなのかな、と考えたけれど。きっとそうだと思ったけれど。
(ぼくの分…?)
さっきよりもハッキリしてきた記憶。「自分用の椅子だ」と弾んだ心。自分用ならば、一つ目の椅子。最初から部屋に置かれていた椅子だから…。
(何か特別…?)
平凡な椅子で、自分で選んだわけでもないのに。部屋にあったものを使っただけなのに。
わざわざ誰かが運んでくれた椅子だったならば、少しは事情も変わるけれども。
(ただの椅子だよ…?)
これとあんまり変わらないかも、と今の自分の椅子を眺める。勉強机で使うための椅子を。
座り心地は悪くないけれど、シンプルな椅子。窓辺の来客用とは違って、立派ではない。
(あっちみたいな椅子だったんなら、分かるけど…)
普通の椅子で何故、あんなに心が弾んでいたのだろう?
自分用だと御機嫌で腰掛けていたのだろうか、本当にただの椅子だったのに。
(椅子なんて…)
何処にでもあるし、珍しくもない家具なんだけど、と思った所で気が付いた。椅子は違う、と。
そうじゃなかったと、椅子は特別だったんだ、と。
(…アルタミラ…)
前の自分が長い年月、閉じ込められていた研究所。心も身体も成長を止めて。
あそこでは檻で暮らしたけれども、檻には無かった椅子などの家具。
檻だけがあった、狭くて何も無い檻が。自分用の物があったと言うなら、ただ、檻だけ。
椅子も机も無かった場所。床に転がるしかなかった檻。ベッドさえも持っていなかったから。
アルタミラがメギドの炎に滅ぼされた時、
皆で乗り込んだ宇宙船。生き残るために、燃え上がる星を後にした。壊れ、砕けてゆく星を。
命からがら脱出して、直ぐに貰った部屋。一人用の個室。
空き部屋は船に幾つも備わっていたから、その日の内に。「此処を使え」と。
後にシャングリラと名付けた船は、元々は輸送船だった船。あれで脱出した仲間たちは多くて、本当は足りていなかった個室。人数分の部屋は無かった。
けれど、アルタミラの檻で味わった恐怖に加えて、脱出の時の地獄のような光景。空までが炎で赤く染まって、大地はひび割れ、燃えて崩れていったから…。
とても一人ではいられない、と個室を嫌った者が殆ど。区切りさえ無い部屋で皆で雑魚寝でも、その方が心が落ち着くと。毛布などがあれば充分だから、と。
特に希望を出さなかった者だけが個室になった。前の自分がそうだったように。
(部屋の割り振り…)
誰がしたのかは覚えていない。多分、関心も無かったのだろう。
何も注文をつけなかったから、ハーレイの部屋とは隣同士にならなかった。二人部屋もあったと思うけれども、同じ部屋にも入らなかった。前の自分も、ハーレイも個室。
部屋同士の距離は近かったけれど。別のフロアに分かれることも無かったけれど。
(じゃあね、って…)
脱出した日に、皆で食べた非常食ばかりを集めた食事。それでもパンはふわりと膨らみ、温かい料理も食べられた。アルタミラでは餌と水しか無かったのに。
その食事の後、ハーレイと別れて入った部屋。「此処だ」と教えて貰った個室。足を踏み入れ、ベッドがある、と嬉しくなった。眠るためだけに使う家具。
そのくらいの記憶は残っていたから、「もう床じゃない」と喜んだ。夜はベッドで眠れる生活、それを手に入れられたのだと。
サイオンを使いすぎて疲れ果てていたから、シャワーを浴びて戻った後には倒れ込んだベッド。もう恐ろしい日々は終わりで、ゆっくり眠っていいのだから。
疲れた身体に引き摺られるように、沈んでいった眠りの淵。夢も見ないでぐっすり眠って、目を覚ましたら…。
(檻じゃなくって、ぼくのための部屋で…)
自分だけの部屋が周りにあった。檻よりもずっと広い部屋。ベッドの他に椅子も見付けた。一つだったけれど、自分用の椅子。好きに座ってかまわないもの。
(椅子まであるんだ…!)
ベッドだけじゃなくて、と嬉しくて早速、座ってみた。檻には置かれていなかった椅子に。
弾んだ心は、その時の記憶。「ぼくの椅子だ」と、胸をドキドキさせて。
(本当に、ただの椅子だったのに…)
椅子があることが夢のように思えて、座ったり立ったり、椅子無しで床に座ってみたり。椅子のある生活を楽しみたくて。椅子はこんなに素敵なのだと、一人ではしゃいで。
「朝飯だぞ」とハーレイが呼びに来てくれるまで。「今、行くよ」と返事して立ち上がるまで。
それほどに胸が高鳴った椅子。自分のものだ、と喜んだ家具。
(ベッドは寝転ぶ場所だけど…)
のんびり転がってゴロゴロ出来るし、眠る時には心地良い家具。ベッドが自分にくれる安らぎ、それも大好きだったのだけれど、椅子は特別。もっと人間らしい家具。
椅子は座れる場所だったから。座るためだけの家具だったから。
眠るだけなら、ベッドが無くてもなんとかなった。檻の中でも、床で眠れた。柔らかなマットや枕が無いだけ、固い床しか無いというだけ。
檻でも充分、眠れたけれども、座ることは出来はしなかった。椅子というものに。
座るための場所は、床があるだけ。床にペタリと腰を下ろして座る以外に無かった方法。
(椅子みたいなのは…)
実験でならば座らされたけれど、椅子ではなくて実験器具。
突き飛ばされるようにして腰掛けたら直ぐに、手足を拘束されていた。椅子のようなものに。
そうして始まる人体実験、拷問でしかなかったもの。
(あんなの、椅子って言わないよ…)
苦痛を運んでくるだけのもので、苦しかっただけの椅子に似たもの。
本物の椅子は檻には無かったのだし、座れる場所は固い床だけだった。どれくらいの歳月を檻で過ごして、床に座っていたのだろう?
椅子を持たずに生きていたろう、あの狭苦しい檻の中で。
やっと貰えた自分用の椅子。好きな時に座れる、人間らしい暮らしをさせてくれる家具。
それが自分のものになった、と前の自分は大はしゃぎだった。「ぼくの椅子だ」と。
何度も座ったり、立ったりした椅子。初めて貰った自分用の椅子。
ベッドよりもずっと素敵に思えて、座ったままウトウトしていたくらい。此処でも眠れる、と。
(その内に慣れて、忘れちゃったけど…)
当たり前のものになってしまったけれども、一番好きだった家具かもしれない。シャングリラと名付ける前の船では。実験動物ではなくて、人間として暮らし始めた頃は。
そういったことを考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり訊いてみた。いつもの椅子に腰を下ろした恋人に。
「あのね、椅子のこと覚えてる?」
「はあ?」
椅子って…。どの椅子だ、前に持って来てやったアレか、キャンプ用の椅子か?
テーブルとセットで何度か持って来てたが、今は白いのになっちまったしな、庭の椅子は。
「それじゃなくって、最初の椅子だよ」
前のぼくたちの、一番最初の。…ハーレイも持っていたじゃない。
「なんだ、そりゃ?」
最初の椅子って、キャプテンの席のことなのか?
「もっと前だよ、アルタミラから逃げ出して直ぐ…。貰った個室に椅子があったよ」
あの椅子だってば、最初の椅子。アルタミラの檻には無かったでしょ?
椅子なんか入れて貰ってないから、座れる場所は床だけで…。
「そういや、そうだな…」
ベッドも無かったし、家具なんてヤツは一つも無かった。…あの檻にはな。
人間扱いしちゃいない、っていう研究者どもの態度が表れてたなあ、そういうトコにも。
家具無しだなんて動物並みだ、とハーレイが顰めてみせる顔。あの檻は酷いモンだった、と。
「無事に逃げ出せたお蔭で、家具のある生活に戻れたってな」
人間らしくベッドで眠って、枕も毛布も…。檻だった頃とは大違いだ。
「でしょ? それでね、ぼくはとっても嬉しかったよ、あの椅子が」
ぼくの椅子なんだ、ってドキドキしてた。何度も立ったり座ったりしたよ、初めての椅子。
「椅子って…。そんなにか?」
お前、それほど椅子があるのが嬉しかったのか…。あんな平凡な椅子ってヤツが。
「うん。ハーレイは?」
ぼくね、あそこの椅子に座ったはずみに思い出しちゃって…。椅子を貰った時のことを。
ハーレイも嬉しかった筈だよ、個室だったから椅子もついていたでしょ?
「ついてたが…。俺の場合は、どちらかと言えばベッドの有難さで…」
椅子もあるな、と思いはしたが…。ベッドの方が素敵に見えたな。寝る場所が出来た、と。
「そうだったの?」
椅子よりもベッドが気に入ってたんだ、前のハーレイ…。
みんな同じだと思ったのに…。椅子があるなんて、とても人間らしいのに…。
「ベッドも充分、人間らしいぞ。床で寝なくていいんだから」
今夜からベッドで眠れるんだ、と思ったらワクワクしたもんだ。もう王様の気分だってな。城は無くても、贅沢なベッドを手に入れた、と。
ベッドの方がいいと思うか、椅子の方がいいと感じるか…。
俺とお前の考え方の違いではなくて、檻にいた年数の違いなのかもしれないな。
お前、とんでもなく長く檻にいたから。…俺とは比較にならんくらいに。
ずっと檻の中で暮らす間に、忘れちまっていたんだろう、と言われた椅子。
座るための椅子の存在を。座る時には椅子を使うと、床に直接座るのではないということを。
「忘れちまっていたんだったら、椅子ってことにもなるだろうなあ…」
人間扱いされているんだ、と感じる家具。…昔は椅子に座ってたことを、椅子を見るまで綺麗に忘れていたんなら。椅子が記憶から消えていたなら。
そりゃあ大切に思うんだろうな、文化的な暮らしが出来るんだから。人間らしく椅子に座って。
「…ハーレイは椅子を覚えてた?」
椅子を使って座っていたこと、ハーレイはちゃんと覚えていたの…?
「多分な。ベッドの方を嬉しく思う程度には」
椅子はオマケだ、ベッドつきの部屋とセットで来たオマケ。あれば便利で、それだけのことだ。
座るだけなら、ベッドで充分、間に合うんだし…。無くても別に困らないしな?
「そうなんだ…。ハーレイがそうなら、他のみんなも椅子よりもベッド…」
ゼルもヒルマンも、ブラウもエラも。あの船の仲間は、きっと全員、ベッドだよね…。
椅子かベッドか、どっちが素敵な家具だったのかを尋ねたら。
…椅子って言う人、いそうにないよね。床で寝るより、ベッドの方がいいもんね…。
「お前、つくづく酷い目に遭ったな」
椅子まで忘れてしまうくらいに、ずっと檻の中か…。
そりゃあ成長も止まっちまうな、心も身体も。育っても何もいいことは無いし、檻の中だし…。
可哀相にな、ベッドよりも椅子だと思ったなんて。
俺たちに椅子を寄越さなかった、研究者どもが悪いんだが…。床だけあれば充分だろう、と。
動物には家具を与えなくても、餌と水だけでいいと思っていやがったんだ。あの連中は。
囚人にだって椅子はあるもんだが…、とハーレイがついた大きな溜息。
今の時代は囚人はもういないけれども、人間が地球だけで暮らしていた頃。囚人の扱いは相当に酷く、扉もすっかり塗り込めることがあったほど。食事を差し入れる窓だけを開けて。
「そういう所に放り込まれて、死ぬまで外には出られなかった囚人もいたんだが…」
椅子くらいは持っていたそうだ。寝るためのベッドと、座るための椅子と。
よほどの酷い牢獄でなけりゃ、囚人にも椅子はあったってな。死刑が決まっている囚人でも。
前の俺たちは囚人以下だ。…人間扱いされちゃいないし、実験動物そのものだな。
いや、待てよ…。椅子が無いのが普通だっていう国もあったか、昔だったら。
「えっ?」
椅子が無いのが普通だなんて…。何処の国なの、うんと貧しい国だったとか…?
「貧しいから椅子が買えないんじゃない。要らないから持っていなかった」
古典の世界だ、昔の日本。俺が授業で教えているだろ、貴族がのんびり平和に暮らしてた時代。平安時代だ、あの時代に椅子はあったのか?
「えーっと…。引き摺りそうな着物のお姫様とかがいた時代だよね?」
あの時代に椅子って…。無かった…かな?
椅子に座ったお姫様の絵は、そういえば一度も見たこと無いかも…。
「まるで無かったってこともないんだがな」
立派な椅子は作られていたが、普段の暮らしに使うんじゃなくて儀式用だな、あの頃の椅子。
一番偉い帝だけが座って、他の人間は使わなかった。椅子があっても無いのと同じだ。
誰も使いやしないんだから。…椅子という物を知っていたって、全く活用しないんじゃな。
帝しか座らなかった椅子。子供が帝だった時には、椅子に上るための専用の踏み台が使われた。それだけでも分かる、儀式用の椅子だということ。普段の暮らしに使う椅子なら、子供用の椅子を作ったろうから。踏み台を作って据える代わりに。
「そっか…。椅子はあっても、使わないんだね」
椅子があったら座りやすいと思うけど…。床に座るより椅子だと思うよ、長い時間なら。
前のぼくでも、椅子で感激してたのに…。椅子があるのに使わないなんて、なんだか不思議。
平安時代の日本人なら、あの檻でも平気だったのかな?
ベッドも無かった文化なんだし、椅子も無いなら、あの檻の中でも大丈夫かも…。
「狭すぎるとは思うんだが…。平安時代の貴族の家はデカくて、仕切りが殆ど無かったからな」
しかし、檻には空調もあったし、考えようによっては天国かもな。
実験と餌ってヤツさえなければ、あれでも立派な家かもしれん。
殺風景でも、うんと狭くても、凍えはせんしな?
貴族はともかく、あの時代の貧しい人間からすれば、きっと本当に天国だぞ。
「檻なんだけどね…。実験動物用の」
「その実験と不味い餌さえ無ければ、だ…。貴族でも入りたがるかもしれんな」
空調システムが故障しなけりゃ、温度はいつでも適温だ。暑すぎもしないし、寒すぎもしない。
寝苦しい夜や寒すぎる日には、「入れて欲しい」と言い出すヤツが多そうだ。
多少狭くても、住めば都と言うんだから。
「うーん…」
空調とかが無かった時代なんだし、それだけでも羨ましがられそう…。
ベッドや椅子はついてないけど、元から使っていなかったんなら、平気かな…。
前のぼくたちは、椅子とベッドの暮らしに慣れていたから、あの檻、相性が悪かっただけで。
人体実験も不味い餌もなくて、其処で暮らすというだけならば。檻でも良かったかもしれない。狭い檻には、ベッドも椅子も無くて床だけでも。
けれども、誰とも会えなかった檻。言わば独房、話し相手もいなかったから…。
「ねえ、ハーレイ。前のぼくたちが入れられてた檻…」
もしも自由に出歩けていたら、他の檻の仲間と話が出来たら…。
ベッドも椅子も無いような檻でも、気分、少しは違っていたかな…?
出歩いた後は檻に入って、大人しくしてなきゃいけなくても。…自由時間が少しあったら。
「多分、違っていたろうな」
人体実験と餌の毎日でも、ホッと一息つける時間があったなら…。仲間同士で愚痴を零せたら。
しかし、人類はそいつを認めはしないな、なにしろ相手はミュウなんだ。
ミュウ同士だと、相乗効果でサイオンが強くなるわけだが…。それが無くてもヤツらは許さん。
一人一人は弱いミュウでも、何人か寄れば、考えを纏め始めるからな。
檻にポツンと一人でいたんじゃ、思い付かないようなアイデアってヤツも湧いて来る。ついでに勇気百倍ってトコだな、仲間がいれば。
反乱なんかも考えついたりするだろう。一人じゃ無理でも、何人かいれば、と。
そうならないよう、一人ずつ閉じ込めてあったんだ。誰とも接触出来ないように。
「…その効果、ホントにあったよね…」
顔見知りの仲間は誰もいないし、話したことさえ一度も無かったわけだから…。
前のぼくたち、メギドで星ごと滅ぼしてやるって言われても…。
シェルターに纏めて入れられちゃっても、出るための方法、相談しようともしなかったし…。
「何も出来なかったろ、死んじまうんだと分かっていても」
お前がシェルターをブチ壊すまでは、みんな諦めちまってた。…前の俺もな。
あそこでお前が膝を抱えて諦めていたら、何もかも終わりだったんだ。
額を集めて話し合えるような関係を俺たちが築いていたなら、また違ったかもしれないが…。
あれだけの仲間が力を合わせてぶつけていたなら、シェルターを壊せたかもしれないんだがな。
「そうかもね…」
みんなが必死に頑張っていたら、壊せたかも…。此処だ、って一ヶ所に力を集中させたら。
きっと出来たのだと思う。前の自分が壊したシェルター、それを内側から壊すくらいは。全員が力を合わせていたなら、扉くらいは吹き飛んだ筈。
けれど、幾つもあったシェルター。大勢の仲間が閉じ込められていたのだけれども、自分たちの力で脱出した者はいなかった。前の自分とハーレイが行くまで、皆、シェルターに入っていた。
駆け付けた時には、壊れてしまっていたシェルターも幾つもあった。
入れられた者たちが脱出を試みたならば、そうなる前に逃げ出せたろうに。シェルターごと命を失くす代わりに、外へ出ることは出来ただろうに。
(…みんな、知り合いじゃなかったから…)
纏め上げようという者もいないし、纏まろうとも考えない。自分の隣や前や後ろにいる者たち。それが誰かも分からないのだし、あの状況では自己紹介など始めないから。
(知らない人だ、っていうだけで…)
人間は声を掛けにくいもの。まるで知らない人間には。
前の自分たちを一人ずつ檻に閉じ込めた人類、彼らのやり方は正しかったと言えるだろう。
星ごと滅ぼされそうになっても、団結を知らなかったミュウたち。
そうなることを知っていたから、人類はミュウをシェルターに閉じ込め、自分たちは宇宙へ逃げ出して行った。あの種族はもう滅びるだけだと、計算ずくで。
首のサイオン制御リングも、そう読んだ上で外して行った。それが無くなっても、ミュウたちは何も出来ないから。一人ずつ自分の殻に籠って、震えることしか出来ないから。
希少な金属を使用していた、サイオンを制御するリング。
ミュウたちと一緒に焼き滅ぼすには惜しいものだから、人類はそれを回収した。きっと何処かで売り飛ばしたろう、凄い値をつけて。皆で山分けしたのだろう。
ミュウは滅びたに決まっているから、もう要らないと。売ってしまってかまわないと。
彼らの計算が正しかったから、救えなかった仲間たちがいた。シェルターの扉を壊すサイオン、それを纏めることが出来ずに。
前の自分とハーレイが懸命に駆け付けた時には、シェルターごと瓦礫や地割れに飲まれて。
もしも交流があったとしたなら、もっと早かっただろう行動。何をすべきか、皆で考えて。
前の自分が一人でシェルターを壊さなくても、皆の力で扉を壊して、外へ逃れて。
「…人類の計算、合っていたけど…。誰も逃げようとしなかったから…」
逃げるつもりで頑張っていたら、シェルターごと潰されたりはしないで、生き残れたのに…。
ぼくとハーレイが間に合わなくても、ちゃんと逃げられた筈なのに…。
どのシェルターでも、みんな、閉じ込められていただけ。ぼくたちが扉を開けに行くまで。
そういう仲間しかいなかった割に、あそこからの脱出、上手くいったね。
船はこっちだ、って見付けて離陸の準備をしてたり、逃げて来る仲間を誘導したり。
「一人残らずミュウだったからだ」
シェルターから出られりゃ、余裕も出て来る。出られたんだから、逃げてやろうと。
生きようって気力が湧いて来たなら、サイオンも自然と使えるってな。元々持ってる力だけに。
思念波を飛ばせば、自己紹介なんかは一瞬で済む。
一人が気付けば後は早いぞ、こうやって知り合いを増やせばいいと。みんな仲間だと。
俺とお前がシェルターを開けようと走ってる内に、逃げたヤツらは信頼関係を築いてたってな。
誰が誰かもちゃんと分かるし、得意分野も当然、分かる。
船を見付けて準備したヤツらは、そういうのが得意だったんだ。動かしたこともないような船を前にしたって、なんとかしようと思える連中。
もっとも、基本の知識が無いから、手順通りに実行するしかなかったが…。
そのせいで乗降口を閉めずに離陸しちまって、ハンスの事故が起こってしまったんだがな…。
だが、俺たちはアルタミラから脱出できたんだ、というハーレイの言葉に間違いはない。互いに思念波を遣り取りしての交流、それを始めたら早かった。理解し合うことが。
船で宇宙へ逃げ出してからも、役に立ったのが思念波の存在。
「ぼくたちの部屋割、あの日の内に出来ちゃったのも…」
誰がどういう人間なのか、船のみんながきちんと分かっていたからだものね。
個室を貰っても平気なタイプか、毛布や枕をかき集めて来て何人もで固まっている方が好きか。
「うむ。実に便利な能力だったな、ああいう時にも」
人類ばかりの船だったならば、そうそう上手くはいかないぞ。あれだけの人数なんだから。
全員が納得出来る部屋割、人類には多分、無理だったろう。その日の間に決めちまうなんて。
ミュウだったからこそ、直ぐに決まって、椅子もベッドも貰えたわけだな。
個室でもいい、と思ったヤツらは、もれなくベッドと椅子つきの部屋で。
「…あの時の部屋割…。ハーレイの隣にすれば良かった…」
決めてしまう前に頼んでいたなら、隣同士だったと思うんだけど…。
ぼくたちの部屋は同じフロアだったし、ぼくの隣の仲間とハーレイの部屋を取り替えていても、何も問題はなかったのに。
ハーレイはまだキャプテンとかじゃないんだもの。きっと通った筈なんだよ。…注文すれば。
「俺も、どうして言わなかったんだか…」
チビのお前は言いに行くのに、勇気が必要だったかもしれないが…。
俺にしてみりゃ、部屋割を決めてたヤツらも同じ年頃の仲間なんだし、割り込むくらいは簡単なことで…。横から「ちょっといいか?」と言えば良かったんだよな、俺の部屋割。
お前の隣の部屋にしてくれと、友達だからと、一言、頼んでおいたらなあ…。
失敗だった、とハーレイも自分も思うけれども、隣同士ではなかった部屋。貰った個室。椅子とベッドが備え付けられた部屋は、多分、ほど良い距離だったのだろう。
ハーレイと二人、お互いの部屋に招いて、招かれて過ごしていた。お互い、二つ目の椅子も用意して、来客に備えて。
前の自分が好きだった椅子。人間らしいと思った家具。…すっかり忘れていたけれど。
そして今では、自分のための小さなお城に椅子が三つもあるものだから…。
「えっとね…。前のぼく、部屋に置く椅子を増やしてたけど…」
ハーレイが座る椅子が欲しいな、って二つ目の椅子を貰いに行ったんだけれど…。
今のハーレイの家にも、椅子を増やしてもいい?
前にも頼んでいるけれど…。椅子を二つほど。
「椅子を二つか…。この椅子だろ?」
俺とお前が座っている椅子、こいつを持ってくるんだな?
お前が俺の嫁さんになる時は、この椅子も一緒にやって来る、と。
「そう!」
ハーレイの家に引越すんだよ、椅子と、それからテーブルも。
これにピッタリの場所を見付けて、ハーレイの家でも二人で座っていたいから…。
そっちの椅子がハーレイの椅子で、こっちがぼくの。
ハーレイの家に引越した後も、いい場所があったら、ハーレイ、運んでくれるよね?
引越し屋さんに置いて貰った場所より、素敵な場所が見付かったら。
「もちろんだ。…季節に合わせて引越しもいいぞ」
眺めのいい部屋とか、落ち着く部屋とか。
何処にだって俺が運んでやるさ。前のお前と椅子の話を聞いちまったら、尚更だってな。
任せておけ、とハーレイは約束してくれたから、この椅子たちはいつか引越しをする。
ハーレイと二人で暮らす家まで、大切に梱包して貰って。他の色々な荷物と一緒に。
この椅子たちをハーレイの家に増やして、置いて。
そしてハーレイの家にある椅子にもストンと座ろう、幸せな気分で。
これも今日からぼくの椅子だよ、と。
ぼくをよろしくと、これから一緒に暮らすんだから、と椅子にも挨拶をして。
ハーレイの家にある椅子の全部に、自分を紹介して貰おう。
「俺の嫁さんだ」と、「よろしくな」と。
それが済んだらハーレイと二人、どの椅子に座って話そうか。
手を繋ぎ合って歩く幸せな未来、これから歩いてゆく道にあるだろう夢を。
何をしようか、何処へ行こうかと、二人、いつまでも、尽きることのない幸せな夢を…。
座れる椅子・了
※今のブルーが持っている椅子たち。けれど、前のブルーが檻にいた時には、無かった椅子。
ベッドよりも椅子を嬉しいと思ったくらいに、過酷だった日々。今では座れる椅子が幾つも。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(橋が色々…)
ホントに色々、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
地球のあちこちに色々な橋。デザインも色々、色や素材も。同じ石造りでも地域によって変わる石の色。遠く遥かな昔に愛された橋たち、それの形を真似ているから。
(地球が滅びるよりも、ずっと昔の…)
イギリスだとか、フランスだとか。もっと昔のローマ帝国とか、様々な国が誇った橋たち。
SD体制が始まる頃には、もう失われていたという。高層ビル群の中に埋もれて、それがあった川と一緒に滅びて。
けれども、青く蘇った地球。魚が棲む川も帰って来たから、似合う橋をと架けられた橋。遥かな昔にあった橋たち、そういう橋がよく似合うと。
(全部、復活した橋なんだ…)
今の自分が住む地域。日本という島国があったという場所、此処にも蘇った色々な橋。石造りの橋や、木で美しく組み上げた橋。
川の水が雨で増えすぎた時に備えて、工夫がしてある橋だって。
(流れ橋…?)
水量が多くなった時には、橋の板が外れて流れ出す橋。それが流れ橋、橋げたは壊れずに残る。板がしっかりつけられていたら、一緒に壊れてしまう所を。
橋げたはちゃんと残っているから、板をつければ元通り。壊れても壊れない橋が流れ橋。
沈む橋だってあるらしい。沈下橋という名前。大水の時には壊れないよう、川の中に沈む。橋は欄干を持っていないから、流木などで壊れはしない。引っ掛かる欄干が無いのだから。
(水が引いたら元通り…)
ちゃんと水面に顔を出して来て、前と同じに渡ってゆける。橋は壊れていないから。
この地域だけでも沢山ありそう、と眺めた橋の写真たち。地球の上には数え切れないほど、この地域にもきっと色々ある筈。綺麗な橋やら、珍しい工夫を凝らした橋が。
(此処から近い所だと…)
何があるかな、と考えたけれど、素敵な橋は特に無さそう。川は流れているのだけれども、橋は平凡な橋ばかり。何処に行ってもありそうな橋。
(デザインは色々なんだけど…)
わざわざ写真を撮る人はいないし、それが目当てで観光客が来ることもない。橋を見ている人がいたなら、どちらかと言えば…。
(橋の周りを飛んでる水鳥…)
そちらの方が目的だろう。一年中いる鳥たちもいれば、渡りをして来る鳥たちもいる。橋の上に立って餌を投げたりする人もいるし、釣り人を見物する人だって。
(橋そのものは見ていないよね…)
いくら考えても思い付かない、家から近い特別な橋。新聞に載せて貰えるような。
一つも無いや、と気付いてしまったら…。
(いつかハーレイと…)
こういう橋を渡ってみたいな、と写真を見渡してから閉じた新聞。橋の特集。ハーレイと旅行に出掛けて行くなら、いろんな橋を渡ってみるのも楽しそう、と。
絵になる橋や、有名な橋や、珍しい工夫がしてある橋。二人で一緒に橋を渡りながら、あれこれ話して、記念写真も撮ったりして。
素敵だよね、と夢を描きながら戻った部屋。
勉強机の前に座って、さっき見て来た橋の写真たちを思い浮かべていたのだけれど。
(…橋…?)
ハーレイと一緒に渡りに行こう、と考えた橋。大きくなったら、と夢見た橋というもの。今では普通に目にしているから、橋は珍しくもないけれど…。
(…前のぼく…)
前のハーレイとは渡っていない。ただの一度も、ハーレイと二人で橋を渡ったことは無い。
シャングリラに川は無かったから。橋を架けるような川は流れていなかったから。
(公園に…)
居住区に鏤められた公園、其処を流れる川ならあった。ほんの小さな、癒しの流れ。せせらぎの上には橋もあったけれど、流れに見合った小さなもの。
(ハーレイだったら一歩で渡ってしまえそう…)
その程度だから幅も狭いし、二人一緒には渡れない。二人で橋を渡りに行っても、一人ずつ別に渡るしかない。ハーレイが先に渡ってゆくとか、前の自分が先だとか。
(あんな橋だと無理だよね…)
二人一緒に行くだけ無駄、と考えなくても分かる橋。
川が無ければ橋も無いから、話にならない二人で橋を渡ること。絶対に無理、と。
他に橋らしきものはあっただろうか、と探った記憶。川は無くても、橋のようなもの、と。
(まるで無いこともないけれど…)
形だけなら、と辿るシャングリラの中のあちこち。広い公園の上に浮いていたブリッジ、其処に繋がる橋ならあった。下は川ではなかったけれど。
それ以外なら、点検用の橋が幾つか。機関部の上などに架かっていた橋。
(ああいう橋なら、ハーレイと渡ったんだけど…)
たまに二人で歩いたけれども、あくまで視察。ソルジャーだった前の自分と、後ろを歩いていた前のハーレイ。制服を纏って、キャプテンとして。
その上、橋を渡っているという感覚も持っていなかった。橋の下に川は流れていないし、水鳥も飛んでいないのだから。
(前のぼくたち、一緒に橋を渡っていないよ…)
長い年月、恋人同士だったのに。
白いシャングリラで共に暮らしたのに、一度も渡っていない橋。だから、今度は…。
(ハーレイと二人で渡りたいな…)
色々な橋を、と強まった思い。
部屋に帰って来た時よりも、ずっと。新聞を眺めて夢を見ていた時よりも、ずっと。
二人で橋を渡りたいよ、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、早速訊いた。
「あのね、ハーレイ…。ぼくと一緒に橋を渡ってくれる?」
川に架かっているでしょ、橋。ああいう橋だよ、あれをハーレイと渡りたいんだけれど…。
「はあ? 橋って…」
そういうデートは、お前、まだまだ早いだろうが。チビなんだし。
「デートって?」
そりゃあ、デートかもしれないけれど…。デートに行かなきゃ渡れないしね。
でも、橋を渡るだけでデートになるの?
デートのついでに渡るものでしょ、とキョトンとしたら。
「なんだ、違ったのか…。てっきり橋でデートなのかと…」
お前が橋って言い出すから…。俺と一緒に渡ろうだなんて。
橋でデートというのがあるんだ、二人で一緒に渡ったら恋が叶うとか…。
有名なのだと、橋の欄干に錠前をつけるっていうヤツだよな。
南京錠は知っているだろ、あれに二人のイニシャルを入れて、橋の欄干にくっつける。それから鍵を川に捨てれば、永遠の愛の誓いってな。
ずっと昔のヨーロッパで生まれた話らしいが、世界中に広がっていたそうだ。
もちろん今でも、ちゃんとやっているぞ。昔はこれをやってました、って地域に行けば。
ハーレイの話では、橋の欄干にくっつけてゆく南京錠は、今の時代も大人気。発祥の地を名乗る地域はフランス、「元の橋そっくりに作った橋です」と大々的に宣伝しているくらい。
有名なだけに、観光客もつけてゆくらしい。カップルで渡って、南京錠を橋の欄干に。その鍵は下を流れる川に投げ入れ、永遠の愛を誓い合う。この鍵はもう外れないから、と。
「凄い数らしいぞ、橋についてる南京錠」
重さも凄いし、放っておいたら橋の欄干が壊れちまうから…。
古いヤツから順に外して、数が集まったら溶かしてモニュメントにするそうだ。橋の近くにある公園に幾つもあるとさ、愛の誓いのモニュメントが。
「そうなんだ…。知らなかったよ、その橋は」
橋を渡ったら恋が叶うっていう橋だって。どうして橋がそうなるのかな?
「俺も知らんが…。橋は繋いでいるからな。二つの岸を」
こっちと向こうと、二つの世界を繋いでくれる。恋人同士の二人も繋いでくれそうじゃないか、橋に頼んでおいたらな。
恋人同士を繋ぐ橋なら、カササギの橋があるだろう。七夕の夜にだけ架かる、天の川の橋。
彦星と織姫は伝説だがなあ、そんな具合に恋人同士を結んでくれるのが橋ってヤツだ。
「カササギの橋…。ハーレイ、天の川を泳いでくれるんだっけね」
ぼくたちの間に天の川が出来てしまった時は。…雨が降って、カササギの橋が出来ない時には。
「お前に会いに行くためならな。天の川、泳ぎ渡るしかないだろうが」
どんなに広くても、俺は泳いで渡ってみせる。お前が待ってる向こう岸まで。
しかし、お前はデート抜きで橋を渡りたいのか?
どうやら、そういうつもりだったようだが、なんでまた…。
俺と橋なんかを渡りたいんだ、と尋ねられたから、きちんと答えた。渡りたい理由を。
「…前のぼくたち、一緒に橋を渡っていなかったんだよ」
ずっとハーレイと生きていたのに、一度も渡っていなかった…。
シャングリラに川は小さなヤツしか無かったし…。点検用の橋がある場所は、視察で渡る以外に二人で行きはしないし、恋人同士で渡ったことは無かったっけ、って…。
今日の新聞に色々な橋の記事が載ってて、そのせいで気が付いたんだよ。前のぼくたち、一度も渡っていないよね、って…。
「それで橋だと言い出したのか…」
吊り橋効果ってわけでもないんだな?
橋の特集を読んだらしいが、吊り橋の話も書いてあったか?
「吊り橋も載っていたけれど…」
効き目があるって話はなんにも…。吊り橋効果って、どういうものなの?
「そのままの意味だな、吊り橋が持ってる独特の効果」
あれはユラユラ揺れるもんだし、渡る時には普通の橋より怖い思いをするってことで…。
そういう橋の上で会ったら、恋に落ちやすいという話があるんだ。それが吊り橋効果だが?
「吊り橋効果って…。ぼくとハーレイ、元から恋人同士じゃないの」
一緒に吊り橋を渡ってみたって、何も変わりはしないと思うよ。最初から恋をしてるんだから。
「ほらな、吊り橋を二人で渡っても意味が無いから…」
てっきりデートの方なのかと…。
俺と二人で橋を渡って、恋を叶えて結婚だとか、錠前をつけて永遠の愛を誓うとか。
「違うってば!」
ハーレイと橋を渡りたいだけだよ、前のぼくたちは一度もやってないから!
あんなに長い間、ずっと恋人同士だったのに、二人で渡っていないんだから!
本当に橋を渡りたいだけ、と言ったけれども、これもデートと呼ぶのだろうか?
ハーレイと二人で渡りたいのだし、橋に願いをかけにゆくのとは違っても。
「…やっぱりデートになっちゃうのかな…。ハーレイと橋を渡ること」
恋が叶う橋とか、南京錠をつける橋じゃなくても。…その辺の川にある橋でも。
「当然、デートになるんだろうな。橋を渡りに行きたい、ってことで」
俺と二人で食事に行くとか、ドライブに出掛けてゆくだとか。…デートの目的は色々だしなあ、そいつが橋を渡るってことになるだけだ。食事やドライブと何も変わらん。
「じゃあ、今は駄目?」
ぼくが大きくなるまで駄目なの、ハーレイと橋を渡るのは。
その辺の橋を渡りに行くなら、二人で出掛けられそうだけど…。次の土曜日とかにでも。
「まるで駄目とは言わないが…。近所の橋を渡るだけなら」
しかしだ、お前、教師と渡って面白いのか?
今のお前と出掛けてゆくなら、俺はあくまで教師で守り役、そういう立場になるんだが?
二人で橋を渡る時には、もちろん橋に纏わる授業。古典の世界を語るってな。
「そうなっちゃうわけ?」
ハーレイが話してくれるわけだし、きっと楽しい中身だろうけど…。
恋人同士って雰囲気じゃないね、行きも帰りも古典の授業。
そんなのに時間を使うくらいなら、家でゆっくりしている方がいいみたい…。
ぼくの家なら、恋人同士で色々な話が出来るんだから。
「分かったか、チビ」
橋を渡るのは当分先だな、俺とデートをしたいなら。
初めて二人で渡る橋だ、と感激しながらデートを楽しみたいならな。
その日が来るまで我慢だ、我慢、と一蹴されてしまった、二人で橋を渡りにゆくこと。
教師と生徒の関係ではなくて、恋人同士の二人として。
家から近い橋でも渡れないのがチビの自分なら、いつか大きく育った時には、恋人たちのための橋を渡りたい。ハーレイと二人で、デートに行って。
「…今は駄目なの、分かったよ…。だったら、ぼくが大きくなったら…」
恋人向けの橋を渡ってみたいな、ハーレイが話してくれたヤツ。
渡ると恋が叶う橋とか、南京錠をつける橋みたいなの。
「そりゃまあ…。お前さえ、前と同じ姿に育てばな」
断る理由は全く無いなあ、むしろ俺から誘いたいほどだ。こういう橋があるから行こう、と。
前のお前とそっくり同じな美人と一緒だ、俺だってうんと鼻が高いし…。
ん…?
待てよ、とハーレイが顎に手を当てたから。
「どうかした?」
前のぼくと同じに育ったぼくでしょ、デート出来ると思うけど?
橋を渡りに行きたいな、ってお願いしたのも、ぼくが先だし…。何も問題、無い筈だよ?
「そうじゃなくてだ、恋人用の橋…。無かったか?」
前のお前も知っていた橋で、恋人用のが。
「恋人用って…。何処に?」
橋でしょ、何処にそんなのが?
「シャングリラだが…」
それ以外の何処にあると言うんだ、俺もお前も知っていた橋。…恋人用の。
「あるわけないでしょ、恋人用の橋なんか」
アルテメシアの方ならともかく、シャングリラなんて…。アルテメシアでも怪しいよ。あそこは育英都市だったんだし、カップルは全部、結婚してたんだもの。
「それはそうだが、あったような気が…」
「まさか。…シャングリラだ、って聞かなかったら、もしかしたら、とは思うけど」
シャングリラに恋人用の橋があるわけないでしょ、普通の橋でも無かったような船なんだから。
そういう夢でも見たんじゃないの、と笑っていたら。「今のハーレイのと混じったんだよ」と、今の時代の有名な橋を思っていたら…。
「いや、あった。…思い出したぞ」
間違いなくあった、シャングリラにな。正真正銘、恋人用の橋ってヤツが。
「あったって…。何処に?」
嘘でしょ、と見開いてしまった瞳。けれどハーレイは、自信たっぷりに。
「橋があったのは、機関部だ」
「機関部!?」
あそこに橋って…。点検用の橋は幾つかあったし、前のぼくも視察していたけれど…。
一般人は立ち入り禁止だった筈だよ、船の心臓部で、それに危険もあったから…。
そんな所に恋人用の橋があるなんて、有り得ないでしょ?
デート出来ない場所なんだから。立ち入り禁止で。
「立ち入り禁止の場所だったからだ」
そいつが解ける時って、あったか?
一般人でも機関部に出入り自由になる時、あの船で一度でもあったのか?
「無いと思うよ、ぼくの記憶にある限りでは」
機関部は常に動かしてたしね、どんな時でも。
オーバーホールに入る時でも、予備の機関を動かさないと…。シャングリラは宇宙船だから。
機関部が完全に止まっちゃったら、エネルギーの供給が出来なくなっちゃう…。
「解けないだろうが、立ち入り禁止は」
だからこそなんだ、恋人用の橋があそこにあったのは。
立ち入り禁止と言ってはいても、警備員が立ってるわけじゃなかったからな。入ろうとするのを止めるヤツはいないし、たまには隙があるってことだ。
「隙…?」
「こっそり入ってもバレない時、と言えば分かるか?」
運が良ければ、中に入れる。恋人同士で、大急ぎでな。
「ああ…!」
いたんだっけね、そういうカップル。隙を狙って駆け込むんだっけ…!
確かにあった、と蘇って来た、シャングリラの恋人用の橋。立ち入り禁止の機関部の奥に。
常に動いていた機関部だけれど、白い鯨になった後。
アルテメシアの雲海に潜んでいた時代には、平穏無事と言ってよかったシャングリラ。人類軍の船は来ないし、宇宙を飛んでいるわけでもない。雲の中を飛べればそれで充分。
エネルギーをフルに使いはしないし、機関部にいたのは最低限の人数だけ。必要な機関の動きをチェックし、定時報告をする程度の。
おまけにワープドライブとなれば、まるで使われない部分。当然、誰もいはしない。惑星上から直接ワープはしないのだから、使いもしないし、メンテナンスが行われるだけ。
其処に架かった、点検用の橋。
(あれが恋人用の橋…)
白いシャングリラで、恋人たちが目指した橋。恋が叶うと、其処へ行こうと。
誰が最初に言い出したのかは、誰も調べはしなかった。せっかくの夢が台無しだから。
ただ、伝説があっただけ。
ワープドライブは別の空間への転移装置で、遠く離れた違う場所へと飛ぶための機関。
だから、幸せな世界へ、と。二人の幸せな未来へ飛ぼう、と。
点検用の橋の上に二人で立って、手を繋ぎ合って願いをかける。
「どうか幸せになれますように」と。
無事に願いをかけ終わるまで、追い出されずにいられたら。僅かしかいない機関部の係、それに見付かって放り出されなかったら、幸せになれると伝わっていた。
船の中だけが世界の全てだったシャングリラ。
閉ざされていた船ならではの、小さな小さな恋の伝説。恋人たちのための、幸せの橋。
白いシャングリラにも橋はあった、と懐かしく思い出したワープドライブ。立ち入り禁止の筈の機関部の奥に、恋人用の橋があったんだっけ、と。
「…ホントにあったよ、恋人用の橋…」
入っているのがバレちゃった時は、ゼルに物凄く叱られるのに…。「危険なんじゃぞ!」って、頭から湯気が出そうな勢いで。
だけどコッソリ入っちゃうんだよ、恋人たちが。
叱られたって懲りもしないで、見付からずに願いをかけられるまで。
「反省するって言葉は無かったよなあ、あいつらの辞書に」
願いをかければ幸せになれる、っていう橋があるからには、何がなんでもやり遂げる、とな。
なまじ機関部の人数が少なかったモンだから…。何度もやってりゃ成功するから。
いつの間に、あんな妙な噂が出来ていたのかは、俺も知らんが…。
そういう意味では、俺はキャプテン失格なんだが。船の噂も知らんようでは。
「白い鯨になってからだ、っていうことだけしか分からないよね…」
改造前だと、機関部、もっと狭かったから…。
入ろうとしたら、係が住んでる区画も通って行くことになるから、あの船じゃ無理。
でも、それだけしか分からないから…。
前のぼくが噂を聞いた時には、とっくに有名になってたんだよ、あの橋は。
白いシャングリラに張り巡らしていた、思念の糸。万一の時には役立つからと。
けれども、糸が察知するのは、仲間に迫った危険などだけ。行動も思いも追いはしないし、何をしているかも伝わりはしない。意図して調べにかからない限り。
だから気付きはしなかった。船で生まれた恋の伝説、ワープドライブの橋のことにも。
「お前、あの橋の噂をゼルから聞いたんだっけな」
会議が終わった後の時間に、たまたま一緒に休憩してて。
その前の日に、あそこに入って叱られたヤツらがいたもんだから…。「また来おったわ」という愚痴が始まっちまって、それで初めて橋の存在に気付いた、と…。
「うん…。そういう橋があっただなんて、ってビックリしたよ」
機関部の奥にコッソリ入って、恋のお願い。ワープドライブがある場所なんかで。
だけど、素敵な話だから…。
根拠なんかは全く無くても、恋人同士で出掛けるんだ、っていうだけで幸せそうだったから…。
ぼくも渡りたくなっちゃったんだよ、ハーレイと一緒に。
視察で何度も渡っているのに、それとは別に、恋人同士でお願いをしに。
ぼくたちも幸せになれますように、って。
「頼まれたっけな、ゼルと別れた後に早速」
一緒に行って欲しいんだけど、と大真面目な顔で。
願いをかけると幸せになれる橋らしいから、二人で機関部に行きたいんだ、と。
俺の方でも、そういう気分は無いでもないし…。
ただの橋だと分かっていたって、お前と一緒に願いをかけたら、幸せが来るかもしれんしな?
キャプテンだった俺でも、その始末だから…。
恋人同士のヤツらが機関部の奥を目指していたのも、当然と言えば当然だよなあ…。
何度叱られても、懲りないで。…成功するまで、何回でもな。
前のハーレイに「行きたい」と頼んだ、機関部の奥の、恋人たちが願いをかける橋。恋人同士で橋の上に立って、手を繋ぎ合って祈る橋。「どうか幸せになれますように」と。
誰にも見られず、それが出来たら、願いが叶って幸せになれる。
そう聞いたから「自分も」と考えた、恋人同士で出掛けてゆく場所。ハーレイと行こうと、橋の上で願いをかけようと。
ハーレイは「ええ」と頷いてくれたけれども、ソルジャーとキャプテンだったから。船の中では常に制服、それだけで人目に立つのだから。
何度二人で挑んでみたって、目立ち過ぎて、どうにもならなかった。
今日こそは、とコッソリ忍び込んでも、直ぐに見付かり、視察なのだと勘違いをして、大急ぎで駆け付けた機関部の者たち。ソルジャーとキャプテンを案内せねば、と。
いくら頑張っても、二人きりで行けない機関部の奥。
「ワープドライブを見て来るから」と二人で行こうとしたって、「ワープの準備は万全です」と係の者が出て来る有様。前に点検した日はいつで…、などと報告するために。
これでは駄目だ、と諦めるしかなかった正面からの突破方法。
(…とにかく祈ればいいんだから、って…)
ある夜、ついに瞬間移動で飛び込んだ。
ブリッジでの勤務を終えたハーレイを連れて、青の間から一気に機関部の奥へ。
恋人たちが願いをかけると噂の、ワープドライブに架かった点検用の橋の上へと。
其処に立ってしっかり手を繋ぎ合って、二人で祈った。「どうか幸せになれますように」と。
祈った間はほんの一瞬、ハーレイと一緒に逃げて帰った。誰にも見られず、元の青の間へ。
そうして願いをかけたのだけれど…。
儚く散ってしまった恋。前の自分はメギドへと飛んで、ハーレイと離れてしまったから。
右手に持っていたハーレイの温もり、それさえ失くして独りぼっちで潰えた命。ハーレイの方も地球までの長く辛い旅路を孤独と絶望の只中で生きて、地の底で死んでいったから…。
「ねえ、ハーレイ…。前のぼくたち、あの橋でお願いしたけれど…」
どうか幸せになれますように、って二人できちんとお祈りしたけど…。
瞬間移動で入って逃げて、って反則だったから、幸せになれなかったかな?
誰にも見られずにお願いしたけど、ちゃんと入ったわけじゃないから…。
「さてなあ…?」
そこまでは分からん、元々がただの噂だからな?
出処不明で、伝説には違いないんだが…。相手はワープドライブの橋だぞ、点検用の。
そいつが真面目に願いを聞いて、本当に幸せをくれるかどうかは謎なんだから。
キャプテンとしての俺の目で見りゃ、「くだらん噂だ」とも言えたしな?
「そうなんだけど…。でも、伝説の橋なんだよ?」
恋人同士でお願いする場所で、誰にも見られずにちゃんと祈れたら、幸せになれる素敵な橋。
カリナとユウイも祈ったのかな、ハロルドたちも?
ナスカの子たちのパパとママたち、みんな、あの橋で無事にお祈り出来たのかな…?
「おいおい、そいつが叶ったかどうか、知られるようでは駄目だろうが」
誰かが見ていたことになるんだぞ、「あの二人はきちんとお祈りした」と。
見られちまったら、幸せは来ないというのが伝説だったんだから。
「それもそうだね…」
誰にも見られずにお祈り出来たら、幸せになれるって言うんだものね。
カリナたちの時代は、きっと難しかっただろうね、お祈りするの。
シャングリラは宇宙に出てしまっていて、機関部の係も増えただろうし…。
「ナスカに到着した後だったら、暇なもんだぞ、機関部も」
アルテメシアの頃と変わらん、宇宙ではあったが、既に飛んではいなかったからな。
機関部の奥に入るくらいは、多分、簡単だっただろうさ。…あの橋の上に立つことだって。
実際の所はどうだったのかは俺は知らんが、とハーレイは苦笑するけれど。
ナスカの時代のワープドライブ、恋人たちのための橋の噂は、全く知らないらしいけれども。
あそこに、伝説は確かにあった。
誰にも見られず、恋人同士で橋の上に立って、手を繋いで祈れば幸せになれると。
ソルジャーがジョミーに代替わりしても、きっと伝説は残っただろう。幸せな伝説なのだから。恋人同士で橋を目指したら、幸せを手に入れられるのだから。
何人もの恋人たちが幸せを願って、あの場所に二人で立った筈。
機関部の奥にコッソリ入って、ワープドライブの点検用にと架けられた橋に。手を繋ぎ合って、あの橋の上に。
周りは機関部にワープドライブ、立ち入り禁止で、ロマンチックではない場所に。
機関部の者たちに見付かったならば、ゼルの雷が落とされる場所に。
(ワープドライブ…)
違う空間へと飛ぶためのゲート、それを開くのがワープドライブ。
遠く離れた場所へ一瞬で飛んでゆけることは、ロマンなのかもしれないけれど。
今よりもずっと幸せな未来、其処へ飛ぶことも出来る場所だと、夢は広がりそうだけれども。
いったい誰が言い出したのかは、あの時代でも分からなかった。
機関部の奥に架かっていた橋、其処で願いをかけること。恋人同士で立って幸せを祈る場所。
けれども、あれも橋だったから。…今の時代も、恋の願いをかける橋があると聞いたから。
「人間って、いつの時代も、同じようなことを思い付くのかな?」
シャングリラにあった恋人用の橋…。川も無いのに、ワープドライブの点検用の橋だったのに。
だけど、あそこで幸せをお願いしていたんだし…。お願い用のルールもあったんだし。
今の時代も、橋でお願いするんでしょ?
橋の欄干に南京錠をつけて、鍵は川の中に捨てちゃって。…ずっと恋人同士です、って。
「あれはだ、今の時代のヤツだぞ」
前の俺たちが生きてた時代に、人類の世界に、恋の願いをかける橋があったかどうかは知らん。
シャングリラには確かに恋人用の橋があったが、人類の方はどうだかなあ…。
「そういう話は、ヒルマンだってしていないよね…」
人類の世界にも詳しかったけど、似たような橋が人類の世界にあるってことは。
それとも、そんな話を教えたら、機関部の橋、認めるようなものだから…。
「入っていいよ」ってお許しを出したみたいになって、ゼルがますます怒りそうだから…。
知っていたけど、言わずに黙っていたかもね。
人類の世界にもあるようだよ、って。…昔の地球にも南京錠をつける橋があってね、って…。
恋人たちのための橋の伝説、それをヒルマンが知っていたかどうかは分からない。今となっては時の彼方で、訊きにゆくことは出来ないから。
けれど、白いシャングリラの機関部にあった、恋人たちのための橋。
立ち入り禁止の区域なのだし、危険と言えば危険だけれども、頑丈な鍵をつけたり、警備の者を配置したりと、厳しくすることはしなかった。誰も立ち入れないように、とは。
シャングリラの最高責任者だった、前のハーレイも。
「…ハーレイ、あそこの橋なんだけど…」
もっと厳重に管理することは出来たよね?
立ち入り禁止区域だから、って鍵をかけるとか、警備員を置いて見張るだとか…。
誰もコッソリ入れないように、うんと厳しくしちゃうってこと。
「それは出来たが、あの橋はだな…。俺も自分で立ってたんだし、禁止は出来んぞ」
お前と一緒に、何度あそこを目指したことか…。最後は反則技を使って出掛けたくらいに。
それにソルジャーだった前のお前も、俺とは同じ立場だったし…。
第一、ヒルマンたちだってだな?
認めてたじゃないか、ああいう場所も必要だろうと。
一隻しかない箱舟の中でも、伝説の一つくらいは、と。
ゼルだって何度も怒ってはいたが、「鍵をかける」とは言わなかったぞ。警備員を置いて、誰も入れないようにしてやる、ともな。
つまり、黙認というヤツだ。
堂々とやるのは許してやれんが、コッソリやるなら見逃してやる、と。
そのコッソリでさえ、上手くいかなかったのが前の俺たちで…。
瞬間移動で入るしかなくて、一瞬で逃げて帰ったんだよな、あれが精一杯だったんだっけな…。
前のお前の反則技で、とハーレイも懐かしそうだから。あの時のことを思い出していると、瞳の色で分かるから…。
「恋人用の橋、シャングリラにもあったのに…。前のぼくたちも行ったのに…」
反則以外では、とうとう成功しなかったから…。二人で立ち損なっちゃったから…。
今度はハーレイと行ってみたいな、恋人用になっている橋。渡ると恋が叶う橋とか、橋の欄干に南京錠をつける橋とか。
「よしきた、お前が俺とデート出来るようになったらな」
それに二人で旅行もだ。…南京錠をつける橋に行くなら、本家本元が最高だしな?
他にも橋は色々あるから、探しておこう。恋人用のも、二人で渡って楽しめる橋も。
そういや、面白い吊り橋があるぞ。
さっき話した、吊り橋効果を狙ってる橋じゃないんだが…。
遠い昔の伝説ってヤツだ、橋そのものが。
古典の授業でも教わるだろうが、ずっと昔の日本の平家物語。あれと関係があるんだぞ。
戦いに負けた平家の落ち武者、それが隠れた山奥の村に架かっていたって橋なんだ。
カズラ橋という名前でな…。
落ち武者狩りの兵士が来たなら、切り落とせるように作られた橋がカズラ橋。
シラクチカズラというツタの一種を編んだ吊り橋、ツタを切ったら橋は壊れて、もう渡れない。敵が渡ろうとしても深い谷だから、けして追っては来られない仕組み。
「その橋、とっても面白そう…!」
日本だった頃と同じやり方で作ってるんだね、ツタだけで?
普通の吊り橋とかよりもずっと、歴史が古い吊り橋なんでしょ?
「そういうことだな、平家物語の時代から変わっていないらしいし…」
せっかくだから、と昔みたいな深い谷を選んで架けてあるそうだ。
お蔭で、とても怖いらしいが、渡ってみるか?
下を見た途端に歩けなくなるヤツ、けっこう多いという話だが…。
「ハーレイと一緒に渡るんだったら、平気だよ」
ちっとも怖いと思わないもの、ハーレイと手を繋いでいたら。
それに吊り橋効果もあるでしょ、普通の吊り橋よりも怖い橋なら期待出来そう。
「…お前も無駄だと言ってたじゃないか、吊り橋効果」
元から恋人同士の二人じゃ、全く意味が無いってな。
「恋はとっくにしているけれども、もっと恋人!」
もっとハーレイのことを好きになるんだよ、吊り橋効果で。
二人で橋を渡れるだけでも、うんと幸せなんだから…。
前のぼくたち、反則しないと、恋人用の橋には立てなかったんだから…!
白いシャングリラにあった伝説の橋。
機関部の奥で恋人たちが願いをかけた、ワープドライブの点検用にと架けられた橋。
誰にも見られず、恋人同士でコッソリ其処に立てたら、幸せになれるという伝説。
橋の上で二人、手を繋ぎ合って。
「どうか幸せになれますように」と、祈りを捧げられたなら。
その橋に二人で立ち損ねたから、今度はハーレイと橋を渡りに出掛けてゆこう。
前は一度もデートで渡っていない橋。それを渡りに、色々な場所へ。
橋の欄干に南京錠をつける橋にも、ツタを編んで出来たカズラ橋にも。
他にも色々な橋があるから、ハーレイと二人で渡りにゆこう。
いつか自分が大きく育って、お許しが出たら。
恋人同士で橋を渡れる時が来たなら、今度こそ二人、手をしっかりと繋ぎ合って…。
恋人たちの橋・了
※今の時代は色々な橋があるのですけど、シャングリラで恋人たちが挑んだ立ち入り禁止の橋。
誰にも見付からずに願いをかけたら、幸せになれる、と。黙認していたゼルたちは太っ腹。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
今年も秋がやって来ました。シャングリラ学園では学園祭に向けての準備が始まってますが、私たちは至ってお気楽なもの。クラスとは全くの別行動で、やることはもう決まっています。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋を使ったサイオニック・ドリーム喫茶、それが売り物。
サイオニック・ドリームという言葉は出していなくて、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の不思議パワーで出掛ける夢の観光、あちこちの名所を体感出来ると大人気です。私たちの仕事は当日の接客くらいなもので、準備期間は暇なのが基本。今日の放課後もダラダラと…。
「えーっと…。行き先はもう絞り込んだし、メニューは適当に決めるんだよね?」
もうやることは無さそうだよね、とジョミー君。喫茶『ぶるぅの空飛ぶ絨毯』のメニューは「そるじゃぁ・ぶるぅ」と会長さんが決めることが殆ど、私たちは参考意見くらいで。
「そうだね、ぼくとぶるぅで候補を出すから、その中からで」
ドリンクメニューの他にも何か出そうかな、と会長さん。
「スペシャルメニューもドリンクにするか、ちょっと捻るかが悩む所で」
「かみお~ん♪ 食べる時間も考えないといけないもんね!」
飲み物だけの人と合わせなくっちゃ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。サイオニック・ドリームを使うのですから、夢を見ていられる時間は統一、そこが大事なポイントです。よりリアルな体験が出来るスペシャルメニューも、他のお客様と同じ時間で食べ終われるようにしておかないと…。
「会長とぶるぅに任せておきますよ」
飲食のことは専門外です、とシロエ君。
「ぼくたちは柔道部の焼きそば指導が精一杯ですし」
「まったくだ。…今年のヤツらも実に覚えが悪いと来た」
いい加減にレシピをマスターしてくれ、とキース君がフウと溜息を。柔道部の売りは「そるじゃぁ・ぶるぅ」秘伝のレシピと謳った焼きそば、レシピは全て門外不出の口伝です。キース君たちは毎年、毎年、それの指導をしているわけで。
「今年も苦労してるよなあ…。いい加減、レシピを書いてもいいんでねえの?」
サム君が意見を述べましたけれど。
「駄目だ、そいつは先輩から禁じられている。秘伝だからこそ口伝で、とな」
「「「あー…」」」
ご苦労様、とみんなで慰め、「そるじゃぁ・ぶるぅ」からは「元気出してね!」と焼きそばならぬタコ焼きが。素敵なケーキもいいんですけど、たまにはタコ焼き。新鮮なタコがドンと入って、とても美味しいんですってば…。
熱々のタコ焼きを頬張りながらの話題はやっぱり学園祭。1年A組は今年もグレイブ先生の意向でお堅いクラス展示ですから、大してネタにもならないんですが。
「…ナマハゲが禁止らしいですねえ?」
シロエ君が持ち出したナマハゲ、何処かのクラブの企画だったと聞いています。私たちと同じく教室を使った喫茶らしいですが、客引きにナマハゲを出そうとしたのが駄目だったとか。
「なんでナマハゲ、駄目なんだっけ?」
ぼくは詳しく聞いていなくて、とジョミー君が首を傾げると。
「聞いた話じゃ、仮面がアウトだそうですよ」
「「「仮面?」」」
ナマハゲのアレは仮面じゃなくってお面なのでは、と思ったものの、仮面もお面も似たようなものかもしれません。顔が見えないのが駄目なのかな?
「そうです、そうです。責任の所在がハッキリしない、と先生方から禁止令が」
「へえ…。それじゃアレかよ、ナマハゲのお面が半分だけでも駄目なのかよ?」
仮面だったら半分ってのもアリだしよ、とサム君が。
「おい、ナマハゲの面を半分だけにしてどうするんだ」
それはナマハゲではないような気が…、とキース君。
「ナマハゲは顔を全面的に覆ってこその怖さなんだと俺は思うが」
「だよねえ、半分だけだと間抜けだよねえ…」
上半分でも、顔の右半分とかいう形でも…、とジョミー君も。
「それもアウトじゃないですか? 形によるかもしれませんけどね」
個人が特定出来ない仮面は却下でしょう、とシロエ君。
「チラシ配りをしていたのは誰か、客引きをしたのは誰なのか。後で苦情が出た時なんかに、誰に対する苦情なのかが分かりませんから」
「それは分かるが、ナマハゲはやはりナマハゲでないと雰囲気がな…」
正体が分かるナマハゲなんぞは味が無い、とキース君が言い、会長さんも。
「ぼくも賛成。…でもねえ、先生方の言い分ってヤツも分かるかなあ…」
学園祭で仮面はちょっとマズイ、と会長さん。
「責任の所在ってヤツもそうだし、仮面を被ると心のタガも外れがちだし…」
「なるほどな…。そういえばナマハゲも一時期バッシングされていたような…」
そういう話を聞いたことがあるな、とキース君が。えーっと、ナマハゲをバッシングって…?
ナマハゲと言えば、「泣く子はいねえか!」と家を回って脅すものだと記憶しています。子供の躾に役立つナマハゲ、それがどうしてバッシングに?
「アレだ、いわゆる飲みすぎだ。…酒を振舞われて気分がデカくなった所へ、あのお面だしな」
正体は誰にも分からないであろう、と不埒な行為に及ぶナマハゲが出たそうで。
「ぼくも聞いたよ、旅館に乱入して女湯に行くとか、そういうナマハゲ」
「「「うわー…」」」
会長さんの言葉に、誰かが「ひでえ」と。それは子供の躾どころか、悪い見本と言うのでは…?
「そうだよ、悪い大人の見本。仮面の効果が逆に転ぶとそうなるんだよ」
だから先生方も却下するわけで…、と会長さん。
「客引きついでに何をしでかすか分からないしね、ナマハゲは禁止」
「…ナマハゲがマズかったんでしょうか?」
そういう先例があるんだったら、とシロエ君が尋ねると。
「普通の仮面でも駄目じゃないかな、自分が誰だか分からないとなれば心のタガがね…」
「それなら、サム先輩が言う顔の半分だけがナマハゲな仮面というのも…」
「顔を見て誰だか分からないようなら却下だろうね」
どうせウチには関係ないけど…、と会長さんはクスクスと。
「ぼくたちの喫茶は顔も売り物の内だしねえ? みんなそれなりにファンがついてるから」
「どうだかな…」
たまに指名も入るんだが、とキース君。喫茶『ぶるぅの空飛ぶ絨毯』はホストクラブではありませんけど、ウェイターを選べる年もあります。ちょっとお値段上がりますが。そういった年は、男子は誰もが指名の対象、みんなもれなく指名されるというのが現実。
要は本当に顔も売り物、仮面なんかで隠してしまえば肝心の顔が見えないわけで。
「会長が言うのも一理ありますね、ウチだと仮面は使えませんねえ…」
「ほらね、関係ないってね。ナマハゲの所は自業自得だよ」
選んだものが悪かったのだ、と会長さんはバッサリと。
「そんなつもりは無かったんだろうけど、顔が隠れるのはいけないよ。ナマハゲだろうが、ごくごく普通の仮面だろうが」
「タガが外れるのはマズイからなあ、先生方にすれば」
仕方なかろう、とキース君も大きく頷いています。ナマハゲを却下されたクラブが何に走るか知りませんけど、仮面系はいくら申請したって先生方に却下されそうですねえ…。
そんな話をのんびりしていた次の日は土曜日、みんなで会長さんの家へお出掛け。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が出迎えてくれて、シロップに漬け込んだ栗がたっぷりの焼き栗のタルトをリビングで頬張っていたら…。
「こんにちはーっ!」
遊びに来たよ、という声が。フワリと翻った紫のマント、ソルジャーがツカツカとリビングを横切り、空いていたソファにストンと座って。
「ぶるぅ、ぼくにも焼き栗のタルト!」
「オッケー、それと紅茶だね!」
ちょっと待ってねー! とキッチンに駆けて行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、直ぐに注文の品を揃えて来ました。ソルジャーは「ありがとう」と紅茶を一口飲むと。
「…仮面の話はどうなったんだい?」
「「「は?」」」
何のことだ、と私たちは顔を見合わせました。仮面の話って、何でしたっけ?
「忘れたのかい、昨日の放課後、話してただろう! ナマハゲがどうとか!」
「あー、ナマハゲ…。あれが何か?」
君もナマハゲに興味があるとか…、と会長さんが不思議そうに。
「ナマハゲが君の好みだったとは知らなかったよ。君のシャングリラでやりたいのかい?」
それなら衣装とかの手配をしてあげないでもないけれど…、と会長さん。
「あの手の衣装は地元密着型だからねえ、その辺では売っていないんだけど…。君がやりたいと言うんだったら、相談に乗るよ」
「本当かい!? それじゃ、是非!」
「「「ええっ!?」」」
まさか本当にナマハゲなのか、と私たちは息を飲みました。ソルジャーの世界のシャングリラにナマハゲって、何に使うというのでしょう。あ、でも、子供はいますよねえ…。
「…ぶるぅには正直、効果が無いと思うけど?」
あの悪戯小僧は動じないであろう、と会長さんが一応、注意を。
「でも、他の子たちには効くかもね。…君が子供の躾を真面目に考えるとはねえ…」
「え、子供はどうでもいいんだけれど? それにぶるぅも」
「「「へ?」」」
それなら何故にナマハゲなのだ、とソルジャーを見詰めてしまいましたが。ナマハゲ、確かにやってみたいような返事をしてましたよね…?
ナマハゲは子供を脅して躾けるもの。それをやりたいらしいソルジャー、なのに子供も「ぶるぅ」もどうでもいいらしく。何処にナマハゲの存在意義があるのやら…、と思っていたら。
「ぼくが言いたいのはナマハゲ効果で! タガが外れて女湯にも乱入するだとか!」
「「「ナマハゲ効果?」」」
誰もそういう言葉は発していないのでは、と耳を疑ったナマハゲ効果。しかもナマハゲ効果とやらは、昨日キース君と会長さんが話してくれたバッシングの対象になった事件なのでは…?
「そうだけど? ナマハゲ効果だと、ちょっと限定的すぎるかなあ…。仮面効果かな?」
「「「仮面効果?」」」
それまた謎だ、と思いましたが、ソルジャーの方は得々として。
「自分が誰だか、誰にもバレないお面や仮面の効果だよ! 心のタガが外れるんだろう?」
女湯にも飛び込んで行ける勢い、とニコニコと。
「その勢いを使えないかな、と思っちゃってね! ぼくのハーレイのパワーアップに!」
「「「…パワーアップ…?」」」
もしやソルジャー、キャプテンを女湯に突入させたいと言うのでしょうか? でも、シャングリラに女湯なんかがあったかな、という気がしないでもないですが…。
「えっ、女湯? そんなものがあるわけないじゃないか、ぼくのシャングリラに!」
温泉旅館じゃないんだから、とソルジャー、即答。それじゃキャプテンは女湯への突入を目指すわけではないと…?
「当たり前だよ、なんでハーレイを女湯なんかに突入させると? それじゃ全く意味が無いから、ナマハゲ効果の! …ううん、ナマハゲじゃなくて仮面だっけか…」
「…君は、君のハーレイに何をさせたいわけ?」
ぼくにはサッパリ、と会長さんが真正面から問いをぶつけると。
「心のタガを外すんだよ! 仮面で顔を隠してしまえば、きっと心のタガも吹っ飛ぶ!」
「…それで?」
「欲を言うなら、ブリッジだろうが公園だろうが、もう遠慮なく、ぼくを押し倒して欲しいんだけどね…。キャプテンとしての理性は残りそうだしね…」
「その理性までが吹っ飛んじゃったら最悪だよ!」
「だよねえ、仕方ないから、そこは諦めて…。ぶるぅが覗きをしに来ていたって、気にしないパワーが欲しいんだよ! 自分が誰かはぶるぅには絶対分かっていない、という勢いで!」
仮面をつければきっとそうなる、とソルジャーは読んでますけれど。…「ぶるぅ」が覗きをしている時でも、仮面で気にせず何をすると…?
ソルジャー曰く、ナマハゲ効果だか仮面効果だかいう代物。キャプテンが仮面で顔を隠せば心のタガが吹っ飛んでしまって、「ぶるぅ」がいたって大丈夫なのだと主張していて。
「ぼくのハーレイ、見られていると意気消沈でねえ…。ぶるぅが覗いていると分かると、夫婦の時間が台無しなんだよ!」
その場でヘタレてしまうから…、と嘆くソルジャー。
「もう一瞬で萎えてしまって、どうにもこうにも…。もう一度元気に続きをしよう、と薬なんかを飲ませようとしても、「あそこにぶるぅが…」と怯えちゃってさ」
まるで使い物にならないのだ、とソルジャーは大きな溜息を。
「だからね、そういう時に備えて! 最初から仮面で顔を隠して、他人のふりで!」
「…それなら、ぶるぅに見られてもいいと?」
会長さんが突っ込みを入れると、「うん」と返事が。
「自分が誰だか丸分かりなんだ、と思うからこそ萎えるってね! そこをさ、「どうせ誰だか分からないんだし、気にしない!」って方向に行けば、ハーレイもきっと!」
萎えることなく励んでくれるに違いない、とグッと拳を握るソルジャー。
「その上、心のタガが外れているからねえ…! 普通じゃ出来ないようなプレイも恥ずかしがらずに積極的に! それこそ、ぼくが壊れるほどに!」
「もういいから!」
ヤバイ話はその辺にしておいてくれ、と会長さんがイエローカードを突き付けました。
「君が言いたいことは分かったし、そこまでで!」
「そう言わずに! ぼくは本当に仮面はいけると思うんだよ! ナマハゲだって女湯に向かって突入するんだ、ハーレイだったら、もう、どれほどか…!」
奥の奥まで突入してくれるに違いない、とソルジャー、ウットリ。
「ぶるぅがいようが、ぼくが「やめて」と泣き叫ぼうが、もう本当に奥の奥までズンズンと!」
「退場!!!」
サッサと帰れ、とレッドカードが叩き付けられたというのに、ソルジャーは。
「何を言うかな、仮面の話はまだ途中だから!」
「とっくに最後まで語ったじゃないか!」
怪しすぎる話にも付き合わされた、と会長さんが噛み付くと。
「ぼくのアイデアを話していないよ、もう極上の凄い閃き!」
是非聞いてくれ、とソルジャーは膝を乗り出してますが。ナマハゲ効果で仮面効果な話に絡んだアイデアなんかを、聞かされても理解出来ますかねえ…?
ソルジャーの頭に浮かんだという極上の凄い閃きとやら。あまり聞きたくないような…、と腰が引けている私たちですが、ソルジャーが気にする筈などなくて。
「実はね、あれからナマハゲじゃなくて、仮面の方を色々と考えていてね…。いろんなデザインがあるんだね、仮面」
顔の半分を隠すにしたって色々と…、と話すソルジャー。
「右半分とか左半分とか、そういう仮面もあるけれど…。目だけっていうのも多いんだねえ!」
「それはまあ…。好みで色々選べるけれども、人の顔だと目は特徴が出やすいからね」
身元がバレないように顔写真とかを公開するなら目の部分を隠しておくのが基本、と会長さん。
「その辺もあって目を隠す仮面は多いかな、うん」
「その目を隠す仮面だけどさ…。誰だか分からないようにする他に、ぼくならではの使い方があると気が付いてさ!」
「…どんな?」
会長さんが怖々といった感じで訊き返すと。
「色眼鏡だよ!」
「「「色眼鏡?」」」
それは偏った物の見方のことなのでは、と思うのですけど、ソルジャーは…。
「うん、本来の意味ではね。だけど、ぼくが言う色眼鏡は違うんだな!」
君たちの学園祭の催し物から思い付いたのだ、と言われましても。私たちのサイオニック・ドリーム喫茶からどういうアイデアを得たと…?
「もちろん、サイオン絡みだってば! サイオンを使った色眼鏡を仮面にセットするんだ、目の部分にね! 色眼鏡と言うより、色ボケ眼鏡!」
「「「…色ボケ眼鏡?」」」
「そう! それが嵌った仮面を着けたら、心のタガが吹っ飛んだ上に、ごくごく普通のぼくを見たって、ヤリたい気持ちがMAXに!」
目で見たものがイイ感じに怪しく変換されるのだ、とソルジャーは胸を張りました。
「ぼくが普通に挨拶したって、誘ってるようにしか見えないとかね!」
「そ、それは…。まるで不可能ではなさそうだけど…」
会長さんの声が震えて、ソルジャーが。
「ぼくのサイオンなら楽勝だね! 閃いたからには色ボケ眼鏡を仕込んだ仮面で、ナマハゲ効果と仮面効果もセットなんだよ!」
そういう仮面を作りたいのだ、と言ってますけど、本気ですか…?
心のタガが吹っ飛んでしまうナマハゲ効果だか、仮面効果だか。それに加えてサイオンで作った色ボケ眼鏡、とソルジャーはやる気満々で。
「ナマハゲの衣装を手配してくれると言ったよね? ぼくは確かにそう聞いたけど?」
どうだったっけ、と会長さんに向けて質問が。
「…い、言ったけど…。あれはナマハゲだと思ってたからで…」
「ナマハゲも仮面も似たようなものだよ、ぼくに仮面をプレゼントしてよ!」
ぼくのハーレイに似合いそうなのを…、とソルジャー、膝をズズイと。
「君たちがいつも贔屓にしている仮装衣装の専門店ねえ、あそこに色々あるんだけれど…」
こんな感じで、とソルジャーの指がパチンと鳴らされ、宙に浮かんだ幾つもの仮面。どうやらお店の商品の幻影を映し出してるみたいです。
「これなんかいいかと思うんだよ。白地に金色の模様付きだし、キャプテンの制服にもハーレイの肌にも映えそうだろう? 目の部分だけが隠れるっていうのもお洒落だしさ」
「う、うん…。まあ…」
「買ってくれないかな、ナマハゲの衣装は要らないから! その代わりに!」
ナマハゲを一式買い揃えるよりは安いであろう、とソルジャーが仮面の値札を示して、会長さんが苦悶の表情で。
「そ、そりゃあ…。ナマハゲよりかは安いけれどさ…」
「じゃあ、買ってよ! 君がプレゼントしてくれないなら、この際、ノルディに…」
「それは困るよ!」
ノルディなんかを巻き込むな、と会長さんは顔面蒼白。それはそうでしょう、エロドクターの耳にナマハゲ効果だの仮面効果だの、色ボケ眼鏡だのが入っちゃったら、乗り出して来るに決まっています。あわよくば自分も美味しい思いを、とアヤシイ下心全開で。
「ノルディに相談されるのが嫌なら、プレゼント! それだけでいいから!」
それ以上は要求しないから、と食い下がられた会長さんは。
「…仕方ない…。ぶるぅ、買い物に行って来てくれるかな? いつもの店の…」
「これだね、ブルーが欲しいって言ってるヤツだね!」
行ってきまぁーす! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」の姿がパッとかき消え、十分ほど経って。
「ただいまーっ、仮面、買って来たよーっ!」
プレゼント用に包んで貰ったの! とリボンがかかった綺麗な箱が。ソルジャーは大喜びで受け取り、中を確認して大満足。これでナマハゲ効果はバッチリ、後は色ボケ眼鏡を装備とはしゃいでますけど、どうなるんだか…。
会長さんに仮面を強引にプレゼントさせたソルジャー。箱から取り出し、自分の顔に当ててみたりして遊んでましたが、善は急げと夕食の前にお帰りに。それきり姿を見ることは無くて、平和に一週間が過ぎ…。今日も土曜日、朝から会長さんの家に来ています。
「例のナマハゲ、顔出しになったらしいですね?」
シロエ君は相変わらずの事情通でした。でも、顔出しのナマハゲって…なに?
「フェイスペイントでいくそうですよ。ナマハゲっぽく」
「…それはオッケーだったのか?」
キース君が訊くと、「ええ」という返事。
「とりあえず、顔出しですからねえ…。一応、個人が特定できるということで」
「らしいよ、証拠写真でも撮られてしまえば容易に特定可能だからね」
会長さんもナマハゲのその後を知っていました。フェイスペイントをしてまでナマハゲだなんて、何処までナマハゲにこだわるんだか…。
「ああ、それはねえ…。衣装が先にあったようだよ、何処かの劇団から貰ったとかで」
「「「あー…」」」
こだわるわけだ、と納得しました。劇団の衣装なら本格派でしょうし、使いたい気持ちは分かります。ナマハゲはけっこう目立つでしょうから、客引き効果もバッチリな筈で。
「そういうこと! 諦め切れずにフェイスペイント、よく頑張ったよ」
先生方も努力を認めたしねえ、と会長さん。ナマハゲは目出度く学園祭にデビュー出来る運びになったようです、顔出しですけど。
「そうか、ナマハゲの方は決まりか…。しかし、あいつはどうなったんだ?」
ナマハゲ効果と言ってた馬鹿は、とキース君。
「あれから見ないが、誰か消息を知らないのか?」
「「「さあ…?」」」
馬鹿と言ったらソルジャーですけど、誰も会ってはいない様子で。会長さんなら、と視線が集中しましたけれども、会長さんも「知らないよ?」と。
「ぼくも一度も会ってないんだ、こっちの世界に来ていないんじゃないのかな?」
「忙しいんでしょうか、ソルジャー稼業が?」
真面目に仕事をしてるんでしょうか、とシロエ君が顎に手を当てた所へ。
「久しぶりーっ! こっちのナマハゲ、認められたって!?」
それは良かった、とソルジャーが降って湧きました。どの辺から聞いていたのか知りませんけど、ナマハゲが学園祭に登場出来ることは祝福するって言うんですかねえ…?
まずはおやつ、とピンク色のスポンジが優しいクランベリーのロールケーキを強請ったソルジャーは目的のケーキを頬張りながら。
「ナマハゲはもちろん祝福するよ! そこのクラブが出て来たお蔭で、ぼくも素晴らしいアイデアを手に入れたしね! ナマハゲ効果!」
とっくにナマハゲじゃないんだけれど、と笑顔のソルジャー。
「今は立派な仮面効果で、色ボケ眼鏡も装備なんだよ! もう毎日が薔薇色でさ!」
あの仮面を着けたハーレイは実に素敵なのだ、とソルジャーは顔を輝かせて。
「毎晩、せっせと励んでくれるし、仮面を着けたまま眠っちゃうから朝にも一発! 寝起きのぼくでムラムラしちゃって、もう一発では済まない朝も!」
ブリッジに遅刻しそうな勢いでヤッてヤリまくるのだ、と得意満面、自慢せずにはいられないといった感じで滔々と。
「ぶるぅが覗きをしていたってねえ、まるで全く気にしてないね! 自分が誰なのか気付かれていない、という仮面の効果は大きいよ、うん」
それと心のタガが外れるナマハゲ効果、とナマハゲ効果なる言葉も定着した模様。本物のナマハゲに失礼じゃないかという気もしますが、その本物がやらかしたという騒ぎから出て来た造語ですから、ナマハゲ効果でもいいのかなあ…。
「いいんじゃないかな、ぼくは大いに恩恵を蒙っているからね! ぼくのハーレイの心のタガは外れまくりで、そこへ色ボケ眼鏡の効果が!」
遅刻寸前までヤリまくろうというのは心のタガが外れているからこその話で…、とソルジャーはそれは御機嫌でした。実に素晴らしいアイデアだったと、もう最高だと。
「ナマハゲには御礼を言いたいくらいだけれども、生憎とぼくは他人だし…。君たちの方から、是非ともよろしく御礼をね!」
「…俺たちも赤の他人なんだが?」
そいつらのクラブも知らんのだが、とキース君が言い、シロエ君も。
「ぼくは何処のクラブか知ってますけど、あそこに知り合い、いませんから…。いきなり出掛けて御礼を言ったら、きっと向こうも困りますよ」
「そうなのかい? それじゃ、御礼は諦めるとして…。もう一つの方を、と」
「「「もう一つ?」」」
「そう! 今日は素敵な提案があって!」
そのためにやって来たんだけれど、とニッコリと。薔薇色の毎日を過ごすソルジャー、いったいどういう提案があると…?
嫌な予感がしないでもない、ソルジャーからの素敵な提案。聞かない方がいいかもしれない、と思いましたが、相手はソルジャー。聞きたくなくても聞かされますし、逃げようとしたって逃げられないのが悲しい所で。
「…なんで悲観的な顔になるかな、君たちは! ぼくは幸せのお裾分けをね!」
この幸せを一人占めしたら罰が当たるし…、とソルジャーが宙に取り出した箱。空間移動をさせて来たのか、何処かから瞬間移動なのか。お裾分けとは聞きましたけれど、ケーキとかではなさそうです。幸せのお裾分けならケーキでいいのに…。
「えっ、ケーキ? そんな平凡なものじゃ駄目だね、心がこもってないからね!」
こういう御礼は心が大切、とソルジャーは箱を会長さんの方へと押しやって。
「はい、プレゼント! 開けてみてよ!」
「…何なんだい、これは?」
「開ければ分かるよ、透視は禁止! まあ、ぼくのサイオンで遮蔽してるし、君の力でも覗けないとは思うけどさ」
「………。あまり開けたくないんだけれど…?」
出来れば開けずに済ませたいけど、と会長さんは遠慮しましたが、ソルジャーが箱を引っ込めるわけがありません。
「そう言わないで! ぼくから君への心のこもったプレゼントだから!」
「…分かった、君の言葉を信じる。幸せのお裾分けらしいしね?」
何だろう、と会長さんが箱を開けにかかり、私たちも覗き込みましたが…。
「ちょっと…!」
これはまさか、と会長さんの指が箱の中を指して震えて、私たちも暫し呆然と。箱の中身は目元がすっかり隠れる仮面で、この前、ソルジャーが会長さんに強請っていたのとそっくりで。
「あ、違う、違う! ぼくが貰った大事な仮面とコレとは別物だから!」
ぼくのハーレイ用の仮面は青の間にちゃんと置いてあるから、とソルジャーは仮面入りの箱をチョンとつつくと。
「これはね、こっちのハーレイのためにと思ってね! ぼくからの御礼!」
あの店に出掛けてお小遣いで買った、と言うソルジャー。お小遣いって、エロドクターから貰っているお小遣いですか…?
「そうだよ、それで買って来たわけ! でもって、きちんと色ボケ眼鏡をつけてあるしね!」
ぼくのサイオン、大盤振る舞い! と誇らしげですけど、色ボケ眼鏡と言いましたか? ついでにこちのハーレイ用って、教頭先生っていう意味ですか…?
薔薇色の毎日を過ごしているらしい、ソルジャーからの幸せのお裾分け。白地に金の模様の仮面で色ボケ眼鏡をつけてあるとか、それがこっちのハーレイ用とは…。
「もちろん、君たちが考えているハーレイで合ってるよ! これをプレゼントすれば、あのハーレイの心のタガも吹っ飛ぶ筈で!」
おまけに色ボケ眼鏡もついてる、とソルジャーは仮面を持ち上げて披露。目の部分には穴が開いているだけ、眼鏡のレンズはありませんけど…?
「本物のレンズは要らないんだよ、色ボケ眼鏡は言わばサイオンのレンズだからね! それもハーレイ限定仕様で、君たちが着けても何も起こらない!」
論より証拠、と仮面がガバッとジョミー君に被せられました。
「「「わわっ!?」」」
これは大変、と慌てた私たちですが、ジョミー君は仮面を着けられたままでキョロキョロと。
「…別になんにも起こらないけど…? キースはキースだし、シロエはシロエで…」
ブルーだっていつもと変わらないや、という声が。
「本当なのかい!?」
ちょっと貸して、と会長さんがジョミー君から仮面を剥がして、着けてみて。
「…本当だ…。ぼくの目で見たって、ブルーはブルーだ…」
何処もちっとも怪しくはない、と会長さん。
「だけどブルーのサイオンらしきものは微妙に感じるかな? 残留思念みたいな感じで」
「それが色ボケ眼鏡なんだよ! ハーレイ限定、ぼくのハーレイでも、こっちのハーレイでも作用は全く同じ筈!」
相手は同じハーレイだから、とソルジャーが言い切り、会長さんは仮面を外して。
「…で、この仮面をどうしろと? 色ボケ眼鏡らしいけど…」
「こっちのハーレイにプレゼントだよ! ナマハゲ効果と仮面効果で心のタガを吹っ飛ばした上、色ボケ眼鏡で君に挑んでいけるようにと!」
「迷惑だから!」
そんな代物を誰が贈るか、と会長さんが怒鳴りましたが、ソルジャーは。
「ダメダメ、幸せのお裾分けだよ? こっちの世界で貰ったアイデア、御礼はしっかり! あの仮面を買ってくれたのは君だし、その御礼もね!」
早速ハーレイにプレゼントに行こう! とソルジャーがブチ上げ、パアアッと迸る青いサイオン。もしやソルジャー、瞬間移動で飛ぶつもりですか、教頭先生の家に向かって、私たちまで巻き添えですか…?
フワリと身体が浮いたかと思うと、ドサリと投げ出された教頭先生のお宅のリビング。真っ昼間から瞬間移動で大勢が出現したのですから、教頭先生、ソファからずり落ちてしまわれましたが。
「こ、これは…! ようこそいらっしゃいました…!」
すぐにお茶を、と我に返った教頭先生、ソルジャーに頭を深々と。キッチンの方へ向かわれるのをソルジャーが「いいよ」と引き留めると。
「今日はね、君にプレゼントがあって…。ナマハゲでもめていたんだってね、君の学校」
「よく御存知で…。生徒の方が粘り強くて、結局、許可を出しましたが…」
「うん、知ってる。お面じゃなくって、顔出しでフェイスペイントだってね」
それじゃナマハゲ効果が無いよ、と言ったソルジャーに、教頭先生は「ナマハゲ効果?」とオウム返しに。
「何ですか、ナマハゲ効果というのは?」
「ぼくが作った言葉だけどねえ、お面や仮面で自分の正体を分からなくしたら、心のタガが外れるだろう? どうせバレないから、何をやってもかまわないと!」
「ええ、まあ…。それもあってナマハゲでもめたのですが…」
「そこなんだよ! 仮面を着けたら何でも出来る、っていう開放感を君にあげたくてねえ…!」
これを見て欲しい、と例の仮面が。
「着けるだけで心が解放されるよ、ぼくのハーレイで実証済みなんだ。君も心のタガを外して、ブルーに挑んでみたくはないかい?」
「ブルーに…ですか?」
「そこにいるだろ、ぼくじゃなくって、君が一筋に惚れてるブルー! この仮面を着けて遠慮の塊の心を解放、そして一気にプロポーズとかね!」
是非とも試してくれたまえ、とソルジャーは仮面を教頭先生に手渡しました。教頭先生はしげしげと眺め、会長さんと仮面を何度も見比べて。
「…本当にこれで心が解放されるのですか?」
「間違いないねえ! ぼくのハーレイはこれで情熱的な毎日だしね!」
君もナマハゲ効果でいこう! と勧められた教頭先生、おっかなびっくり仮面を装着。白地に金の模様の仮面で目元が隠れて、その状態でグルリと見渡して…。
幸か不幸か、最初に目に入った辺りにはキース君たち、何も起こりませんでした。そこから順に顔を追って行って、会長さんの所で視線が止まって。
「…おおっ!?」
これは、と叫んだ教頭先生。何か見えたと言うんですかねえ、色ボケ眼鏡…?
ソルジャーに唆された教頭先生が着けてしまった、色ボケ眼鏡が入った仮面。教頭先生は会長さんを見詰めたままでボーッと立ち尽くしていましたが…。
「そうか、ついにその気になってくれたか…!」
嬉しいぞ、とダッと駆け寄り、会長さんの身体を両腕でギュッと。
「何かとヘタレな私なのだが、力の限りに頑張ろう! せっかく誘ってくれたのだからな!」
「ぼくは誘っていないんだけど!」
失礼な、と会長さんが叫んで逃れようとすると、「そう照れるな」と強く抱き込む教頭先生。
「こういったことは、勢いというのも大切だ。この際、初めてといこうじゃないか」
「初めても何も、ぼくはその気は全く無いから…!」
「照れなくてもいいと言っているのに…。まあ、ここは人目があるからな…」
私の部屋でゆっくり、じっくり愛し合おう、と教頭先生は会長さんをヒョイと抱き上げ、リビングを出て行ってしまいました。会長さんが大暴れするのも照れているとしか見えないらしく…。
「放せってば、馬鹿!!」」
「そういうお前も可愛いぞ、ブルー」
実にそそられる、という声が聞こえて、階段を上がる足音が。二階には教頭先生の寝室があって、大きなベッドが置かれています。放っておいたら大変なことになるんじゃあ…。
「おい、マズイぞ! このままだと真面目にブルーが危ない!」
何とかしないと、とキース君が慌てて、シロエ君も。
「でもですね…! ぼくたちの力で教頭先生に勝てますか!?」
「そ、それは…。勝てる見込みは全く無いが…」
だが行かねば、とキース君がダッと駆け出し、私たちも続きました。ところが二階の寝室の扉は鍵がかけられ、押しても引いても開かなくて。
「誰か、助けてーーーっ!!!」
「実にいい声だ、もっと聞かせて欲しいのだが…」
そして二人で楽しもう、と教頭先生の声と会長さんの声が扉の向こうから。色ボケ眼鏡の効果なんだか、はたまた仮面のナマハゲ効果か。教頭先生はヘタレるどころか、心のタガを外してしまって会長さんを組み敷いているに違いありません。
「いいねえ、これでブルーもついにハーレイと…!」
幸せのお裾分けをしに来た甲斐があった、とソルジャーは扉の前で感無量。劇的瞬間を皆で見ようと「そるじゃぁ・ぶるぅ」に中継画面を出すように、と指示までが。素直なお子様は言われた通りに中の様子を映し出してくれて…。
「放せってばーっ!!!」
会長さんがベッドの上で足をバタつかせて暴れ、のしかかっている教頭先生。これは本当にヤバイどころか危険すぎです、ソルジャー、こんなのあんまりですよ!
「そうかなあ? ハーレイの心を解放したんだ、正しいお付き合いがこれから始まるかと…」
「あんたにとっては正しいか知らんが、俺たちの世界では間違いだぞ!」
これでは本物のナマハゲの迷惑な方と何も変わらん、とキース君が言い返しました。
「開放的になった挙句に女湯に乱入していったヤツと、全く同じだと思うんだが!」
「それでこそナマハゲ効果だよ! 自分の心に正直になれば、そういうこともね!」
きっとハーレイも今日こそは! とソルジャーは赤い瞳をキラキラと輝かせていましたが…。
「「「…あれ?」」」
どうなったのだ、と画面に見入った私たち。教頭先生がカチンと硬直、その鼻からツツーッと赤い筋が流れ、続いてブワッと鼻血の噴水。
「ちょ、ちょっと…!」
嘘だろう、とソルジャーが慌てた時には、教頭先生はベッドの上に沈んでしまっておられました。もはや意識は飛んだらしくて、会長さんが身体の下から這い出して。
「……た、助かった……」
ショートしたのか、と教頭先生の顔から例の仮面を剥ぎ取り、ベッドから下りてこちらへ歩いて来たかと思うとガチャリと鍵が開く音が。
「…よくもハーレイにこんなプレゼントを…!」
死ぬかと思った、と会長さんが柳眉を吊り上げ、ソルジャーは。
「ごめん、色ボケ眼鏡をもうちょっとソフトにしておけば…。ついつい、ぼくの好みに合わせて、ぼくのハーレイと似たようなのに…」
次回はもう少しソフトにしてくる、とソルジャーが仮面を受け取ろうとすると、パシン! と弾けた青いサイオン。仮面は真ん中から真っ二つに割れて、会長さんが。
「もう二度と作らなくてもいいから、こういうヤツは!」
「えーっ!? ぼくにとってはお役立ちだよ、ぼくのハーレイ、もう本当に凄いんだから!」
「君だけが楽しんでいればいいだろ、ナマハゲ効果だか、色ボケ眼鏡だか!」
お裾分けは二度と要らないから、とギャーギャーと叫ぶ会長さんと、仮面の効果と素晴らしさとを説き続けているソルジャーと。ナマハゲ効果の凄さとやらは分かりましたが、顔がバレない仮面の解放感と色ボケ眼鏡のセットとは…。
「二度と御免だよ!」
もう持ってくるな、と喚く会長さんの後ろで私たちも揃って「うん、うん」と。
あんな迷惑すぎるアイテム、ソルジャーだけが楽しめばいいと思います。「ぶるぅ」の覗きも遅刻寸前も気にしないほどのキャプテンと二人で存分に。
それが一番、きっと一番。ナマハゲ効果も色ボケ眼鏡も、私たちの世界には要りません~!
罪作りな仮面・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
学園祭で禁止されたナマハゲ、それにヒントを得たソルジャーの欲望が炸裂したアイテム。
ソルジャーの世界では効果抜群、教頭先生にも贈った結果は、御覧の通りのお約束です。
そしてシャングリラ学園番外編は、去る4月2日で連載開始から13年となりました。
あと1年続けば、目覚めの日を迎えられる数字ですけど、どうなりますやら…。
次回は 「第3月曜」 5月17日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、4月は恒例のお花見シーズン。けれど今年は、開花が早くて…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(わあ…!)
綺麗、と小さなブルーが眺めた窓の外。土曜日の朝に、目覚めて直ぐに。
今日はハーレイが来てくれるから、と張り切ってシャッと開けたカーテン。よく晴れてる、と。部屋は二階だから、空も庭も窓から見えるのだけれど。
窓から近い庭の木々の間、其処に見付けた素敵なもの。夜の間に蜘蛛が張った巣、それに朝露。朝の日射しにキラキラと光る、とても細かなレース模様。
蜘蛛が紡いだ糸のレースは、露の玉を纏って輝くよう。夢の国から来たみたいに。
(ホントに綺麗…)
見惚れてしまうレースだけれども、露が幾つもつかなかったら、きっと気付いていないだろう。露を煌めかせる、朝の日射しが無かった時も。
偶然生まれた、自然の造形。光るレースの芸術品。細い細い糸と、くっついた露と、朝の光と。
(これだったら、虫も大丈夫…)
蜘蛛が巣を張って狙っている虫。その虫たちも安全な筈。
露を纏った光のレースは目立つから。これだけキラキラ輝いていたら、遠くからでも蜘蛛の巣があると分かるから。
罠があるのだと分かっていたなら、きっと引っ掛かる虫などはいない。光のレースがある場所を避けて、上手く躱して飛んでゆく筈。
蜘蛛に食べられてしまわずに。粘りを持つ糸に絡め取られて、御馳走にされてしまわずに。
死が待つ罠ではないというなら、蜘蛛が張った巣は芸術品。窓から眺めて楽しめるもの。
(ハーレイにも見せてあげたいな…)
とても綺麗で素敵だから。蜘蛛が編み上げて、露が飾った自然のレースなのだから。
そう思ったのに…。
顔を洗って着替えも済ませて、朝食を食べて戻った部屋。
窓の向こうを覗いてみたら、もう消えていた蜘蛛の巣の露。太陽の光が消してしまって。幾つもあった露の玉たち、それをすっかり蒸発させて。
夏の日射しには敵わなくても、太陽の光はやっぱり強い。蜘蛛の巣の露を消せるのだから。
露の玉たちを失くしたレースは、ただの蜘蛛の巣。細くて、頼りないほどの糸。
(これじゃ、ハーレイには見て貰えないよ…)
せっかく綺麗だったのに。光り輝くレースが庭を飾っていたのに。
残念、と溜息をついて始めた掃除。いつもの習慣。
床を掃除して、窓辺のテーブルを拭いて、ハーレイと自分が座る椅子の位置を整えていて。
(蜘蛛の巣も掃除しちゃおうかな?)
ふと思い付いた、蜘蛛の巣の掃除。窓の向こうにあるのだから。
あんなに大きな蜘蛛の巣なのだし、あったら虫が可哀相。露の光は消えてしまったから、今では虫を捕える罠。虫たちの目に映らないよう、細い細い糸で編まれた死を運ぶ罠。
引っ掛かったらそれでおしまい、蜘蛛に見付かって糸を巻き付けられて。生きたままでバリバリ食われてしまうか、後で食べようと糸で包んでおかれるか。
(あれがあったら、殺されちゃう…)
蝶とかが食べられてしまうんだよ、と蜘蛛の巣を取ろうと思ったけれど。
掃除のついでに死の罠の糸を切ろうと考えたけれど、窓からは手が届かない。どう頑張っても、長い物差しまで引っ張り出しても。
(ぼくって駄目だ…)
掃除出来ない蜘蛛が張った巣。虫たちの命を奪う罠。
風に揺れるのが見えているのに、自分にはどうすることも出来ない。支える糸を一本切ったら、あの巣は半分壊れるのに。それだけで危険を減らせるのに。
けれどサイオンもまるで使えないから、こうして眺めているしかない。何も出来ずに。
虫たちが引っ掛かりませんように、と祈ることだけが精一杯で。
ハーレイが訪ねて来てくれてからも、気になる蜘蛛の巣。
向かい合わせで座るテーブル、それは窓辺にあるのだから。ついつい外へと向きがちな瞳。話の合間に、蜘蛛の巣の方へ。虫が引っ掛かったら大変だよ、と。
何度も視線を外へ遣るから、「どうかしたのか?」と尋ねられた。鳶色の瞳の恋人に。
「さっきから窓が気になるようだが、其処から何か見えるのか?」
庭に猫でも入って来たのか、俺は全く気付かなかったが。
「えっとね…。蜘蛛の巣があるんだよ」
あそこ、と指差した大きな蜘蛛の巣。
ハーレイに見せたかったことも思い出した。「ほほう…?」と外を見る恋人に。
「あれか、けっこうデカイ巣だな」
ジョロウグモだな、あの大きさだと。
「朝はとっても綺麗だったよ、それで蜘蛛の巣に気が付いたんだよ」
露が一杯ついていたから、キラキラ光ってレースみたいで…。
ハーレイにも見せたかったんだけれど、朝御飯を食べたりしてる間に消えちゃった…。露が。
「蜘蛛の巣なあ…。露がつけば確かに綺麗だよな」
あんな所にあったのか、と見惚れちまうくらい見事なもんだ。宝石で出来てるみたいにな。
「見たことあるの?」
露でキラキラ光っているのを。…朝早く起きて?
「馬鹿にするなよ、俺が何年生きていると思っているんだ、お前」
早起きしなくても、何度も見てる。ガキの頃にも、今の家に引越しして来てからも。
そいつを俺に見せられなかったから、あの蜘蛛の巣が気になるのか?
朝には綺麗だったのに、と。
「ううん、そっちはいいんだけれど…」
蜘蛛の巣、虫が捕まっちゃうよ。光っていたなら、目立つから虫も避けるだろうけど…。
今みたいに見えにくい糸になったら、気付かないままで飛んで来るでしょ?
引っ掛かったら餌にされちゃう、そんなの可哀相じゃない…!
蜘蛛の巣を取ろうと挑んだけれども駄目だった、とハーレイに話した。掃除のついでに壊そうとしたのに、糸を切ることも出来なかった、と。
「ぼくの手、届かないんだよ。頑張ったけど…」
長い物差しも使ってみたけど、糸を切ることが出来なくて…。蜘蛛の巣、そのまま…。
放っておいたら、虫が捕まって食べられちゃうのに…。引っ掛かったら、おしまいなのに。
「おいおい、蜘蛛も必死なんだぞ」
あのデカイ巣が張ってあるのは、何のためだと思ってるんだ?
蜘蛛が獲物を捕まえるためだ。蜘蛛だって虫だ、餌が食えなきゃ死んじまう。
飢え死にしたら大変だろうが、そうならないよう、せっせと糸を張ってだな…。
「分かってるけど…。でも…」
食べられちゃう虫が可哀相だよ、あの巣が無ければ大丈夫なのに…。
ぼくが蜘蛛の巣、壊せていたなら、虫は助かる筈だったのに。
出来なかったから、虫が引っ掛かったら死んじゃうんだよ、と訴え掛けたら。
「仕方ないな…」
物差し、此処に持って来い。お前が言ってた長い物差し。
「取ってくれるの?」
ぼくの代わりに壊してくれるの、あの蜘蛛の巣を?
「蜘蛛には可哀相だがな。…巣作りで腹が減ってるだろうに」
しかしだ、あそこに虫が引っ掛かったら、お前、泣き出しそうだしなあ…。
お前の力が足りなかったから、虫が捕まって食べられるんだ、と。
そうなってから虫を助けてやるのも、あの巣を先に壊しておくのも、大して変わらないからな?
どっちにしたって蜘蛛は飢えるし、それなら先に壊した方が…。
壊しておいたら、お前の泣き顔、見なくて済むだろ。
悲しむお前は見たくないから、と物差しを握って、窓から手を一杯に伸ばしてくれたハーレイ。蜘蛛の巣を支える糸を一本、二本と断ち切り、すっかり壊してしまった蜘蛛の巣。
ついでに、最後の糸にぶら下がっていた蜘蛛も引っ掛けて、ヒョイと放った。物差しで上手く、遠く離れた木の梢へと。
「壊してやったぞ、もう大丈夫だ」
こいつは返す、と物差しを渡されたけれど、その物差しが遠くへ飛ばした蜘蛛。ポーンと飛んで行っただけだし、きっと木の葉か枝にしっかり掴まっただろう。死にはしないで。
(…生きてるよね?)
木にぶつかって死んでしまわずに、木の枝か葉に掴まって。「ビックリした」と目を見開いて。
蜘蛛は生きているに決まっているから、物差しを片付けて椅子に戻って、眺めた庭。あの辺りの木に飛んでったよ、と。
「今の蜘蛛…。飛んでった先で、また巣を張っちゃう…」
さっきみたいに大きなのを。あそこだと絶対、手は届かないし…。どうしよう…。
「お前なあ…。殺したいのか、あの蜘蛛を?」
巣を作るな、ってことになったら、俺が殺すか、獲物を獲れずに飢え死にするかのどっちかだ。
そういう風にしたいのか、お前?
「えーっと…」
殺したいとは思わないけど…。飢え死にさせようとも思ってないけど…。
「だろうな、深く考えてはいないんだろうが…」
あの蜘蛛、お母さん蜘蛛かもしれないんだぞ。お腹に卵を抱えてる蜘蛛。
「え…?」
お母さんだったの、赤ちゃんのために巣を張ってたの…?
「時期にもよるがな。今の季節に卵を産むかは分からんが…」
そうだとしたなら、あの巣は一匹だけのためじゃないんだ。これから生まれる沢山の卵、それに栄養をつけてやるために獲物を待っていたってな。
「そっか…。ぼく、悪いことをしちゃったかな?」
「知らなかったんだから、仕方がないと思うがな?」
それに知っていても、目の前で獲物が食われちまうのはキツイもんだし…。
蜘蛛だってきっと許してくれるさ、殺されちまったわけじゃないから。また頑張ろう、と。
ハーレイに巣を壊された蜘蛛。遠くの梢に飛ばされた蜘蛛。
もしも卵を産む蜘蛛だったら、子供たちのためにと新しく作り直す蜘蛛の巣。獲物を捕まえて、育つための栄養がたっぷり詰まった元気な卵を産むために。
「あの蜘蛛、俺が投げちまったが…。あんなにデカくちゃ、もう無理なんだが…」
知ってるか、ブルー?
蜘蛛の子供は空を飛ぶんだぞ、風に乗ってな。翅も無いのに。
「…ホント? さっきハーレイが投げたみたいに?」
空を飛んで行くの、蜘蛛の子供は?
小さい間は空を飛べるの?
「うんと小さい間だけだが、飛べるそうだぞ。翅の代わりに、蜘蛛の糸でな」
卵から孵って、糸を出せるくらいに育ったら。
一緒に孵化した兄弟が全部、一斉に糸を出すらしい。いい風が吹いている日を選んで。
自分の身体よりもずっと長い糸だ、それがパラシュートになるってわけだ。糸が風に攫われて、蜘蛛の身体ごと空に舞い上がる。赤ん坊の蜘蛛は小さいからな。
「そうなんだ…。赤ちゃんの蜘蛛だから飛べるんだね。重くないから」
糸と一緒に飛べるくらいに小さい蜘蛛。それって、どのくらい飛んで行けるの?
「風任せだしな、吹く風の気分次第だが…」
相当な距離を飛ぶらしい。蜘蛛が自分で歩いていたんじゃ、辿り着けそうもない遠い所まで。
昔、日本があった頃には、そいつを意味する言葉まであった。
なにしろ沢山の糸が飛ぶんだ、名前がついても不思議じゃないよな?
雪がよく降る北の方でついた名前だったから、秋に飛んでいたら「雪迎え」。雪の季節を迎える前だし、雪を呼ぶんだと思われていた。
逆に、雪が消える春に飛んだら「雪送り」。雪の季節は終わりだと見上げていたんだろうな。
白い蜘蛛の糸だ、雪を連想しやすいじゃないか。ふわふわと沢山飛んでいたなら。
地球が滅びるよりも前には、世界中にいた空を飛ぶ蜘蛛。小さい間に、糸を使って。風に乗って遠い、遠い旅をして。
中国では遊糸という名で呼ばれた、大勢の蜘蛛の子供たちの飛行。文字通り空を飛んでゆく糸。
「地球は一度は滅びちまったが…。今はすっかり元通りだしな?」
昔と同じに、世界中に空飛ぶ蜘蛛の子供がいるってわけだ。日本や中国だけではなくて。
地球は広いし、同じように空を飛んでいたって、桁外れな場所もあるからなあ…。
たまにニュースになったりするんだ、こいつがな。
雪迎えだとか、遊糸なんていう洒落た名前じゃないんだが…。バルーニングと言うんだが。
物凄い数の蜘蛛が風に乗って飛んで行ってだ、纏めて着地しちまって…。
辺り一面、真っ白な糸に覆われるってな、そういう時にはニュースになる。糸だらけだ、と。
「凄い…! 蜘蛛の糸でしょ、あんなに細い糸なのに…」
それが一杯、ってニュースになるほど沢山の糸。頑張ったんだね、蜘蛛の子供たち。
人間の目に留まるくらいに、凄い数のグループなんだから。
「蜘蛛としては失敗なんだがな。…糸だらけってのは」
どんなに見た目が見事だとしても、ニュースになっても、大失敗というヤツだ。
風任せだから仕方ないんだが、纏めて着地しちまわないよう、いろんな場所に散らばらないと。
「なんで?」
蜘蛛は縄張りとかは無いでしょ、巣を張って獲物を待つだけだから。
それとも餌が足りなくなるかな、おんなじ所に沢山の蜘蛛が巣を作ってたら。
「餌の問題も大きいが…。生物としての問題もある」
上手く分散出来てないから、生き残るのが難しいんだ。散っていたなら、チャンスは増える。
嵐が来たとか、旱魃だとか。自然の中では色々あるだろ、命の危機が。
散らばっていれば、一つのグループが滅びちまっても、他のグループが生き残れるから。
「そうだね…」
兄弟が殆ど死んでしまっても、生き残りがいれば滅びちゃうことはないものね。
子孫を増やせば滅びないんだし、散らばってる方が安心だよね。離れ離れは寂しいけれど。
大勢の仲間と一緒にワイワイ暮らせていたなら、楽しそうに思える蜘蛛たちの世界。空を飛んで旅をして行った先でも、仲間たちと一緒だったなら。
けれども、それは人間だから思うこと。蜘蛛の世界では逆が正しい。兄弟たちと離れ離れでも。空の旅の途中で、皆と別れてしまっても。
ハーレイは「分かったか?」と、バルーニングの失敗例について教えてくれた。
「俺も何度かニュースで見てるが、馬鹿デカイ布でも地面に被せたみたいだぞ」
レースと言うより、透ける布だな。そいつが辺り一面だ。塵も積もれば山となる、ってトコか。細い糸でも、物凄い数になった時にはああなる、と。
だが、蜘蛛の方じゃ、固まっちまったらおしまいなんだ。運が悪かったと言うべきか…。
風に乗って空の旅に出たなら、あちこちに広く散らないと。
そういう意味では、シャングリラはリスクが高かったよな。…前の俺たちが生きていた船。
「シャングリラ…?」
どういう意味なの、シャングリラは蜘蛛の子供たちとは違うけど…。
乗っていたのは人間なんだし、大勢の仲間と助け合える方がいいじゃない。生きてゆくのにも、食べ物や物資を手に入れるにも。
みんなで協力し合うのがいいよ、でないとミュウは生き残れないよ?
「それはそうだが、考えてみろ。…バルーニングと同じ理屈で」
蜘蛛の子供たちは散らばることで、生き残るチャンスを増やしてるんだ。滅びないように。
しかし、シャングリラはそうじゃなかった。皆、纏まって乗っていだろ、あの船に。
早い話が、シャングリラが沈めば終わりだったろうが。…ミュウという種族は。
ミュウを乗せた船は、あの船だけしか無かったんだから。あれが沈めば滅びるしかない。
なのに、人類はシャングリラを退治し損ねた。何度も攻撃して来たのにな。
アルテメシアから逃げ出した時もそうだし、ナスカだってそうだ。もちろん旅の途中でも。
たった一隻しか船は無いのに、前の俺たちは生き残った。…滅ぼされずに。
進化の必然だったとはいえ、珍しいケースなんだと思うぞ。纏まってたのに生き延びたなんて。
そう思わないか、と尋ねられたら、頷かざるを得ない運の良さ。前の自分たちとシャングリラ。
蜘蛛の子供たちは滅びないように散ってゆくのに、纏まったままで旅をしていた。大勢の仲間を乗せた箱舟、白いシャングリラに固まったままで。
考えてみれば、他の星でも生まれていたミュウ。
SD体制はミュウ因子を排除しなかったのだし、何処でもミュウは生まれていた筈。前の自分やハーレイがいたアルタミラのように、大勢のミュウが発見された星もあったろう。
けれど、何処からも第二、第三のシャングリラは出て来なかった。シャングリラとは違う名前の船にしたって、ミュウの仲間が集まる船は。
そういう船は一つも出て来ないままで、白いシャングリラも増えはしないまま。仲間たちを他の船に移して、艦隊を組むことも出来たのに。シャングリラを艦隊の中心に据えて、何隻かで。
仲間の数が増えていっても、シャングリラはずっと一隻だった。たった一隻で宇宙を旅した。
人類軍との本格的な戦闘状態に入った後でも、やはり変わらず一隻のまま。
船が増えたのは、ソル太陽系が目前に迫ってからのこと。
ゼルとブラウと、エラが指揮官だった船。その三隻が新たに加わったけれど…。
ハーレイの口ぶりからして、あの船たちは分散するためではなかったのだな、と思ったから。
「えっとね、ハーレイ…。シャングリラとは違う船…」
ゼルやブラウが指揮していた船、あったでしょ?
前のぼくがいなくなった後。…もうすぐ地球だ、っていう頃には。たった三隻だったけど。
だけど、あの船…。あれを増やしたのは、生き残るためじゃなかったんだよね?
シャングリラが沈められちゃったとしても、エラたちの船が残ってるから、っていう意味の船。
「そういう船とは違ったな。結果的に、あれがコルディッツを救いはしたが…」
ゼルの船にステルス・デバイスを搭載していたお蔭で、ミュウの仲間は救えたんだが…。
あの三隻があるからといって、シャングリラが無くても生き残れるってわけじゃなかった。前と全く変わらなかったな、ミュウの事情というヤツは。
単に戦力を増やすためにだけ、あの三隻を加えたんだし…。あっちに移った重要人物は、ゼルやエラたちだけなんだから。
そんな船だけ残っていたって、ミュウの未来は無さそうだろうが。
ソルジャーは辛うじて生き残っていても、キャプテンだった俺はいないし、二番手のシドも…。
ブリッジクルーも全滅だろうし、シャングリラを支えたヤツらも同じだ。
それでどうやって生きて行くんだ、自給自足も出来ない船で。
たった三隻で命からがら逃げ出したとしても、二つ目のナスカも作れやしない。
残った船には、戦闘員しかいないんだから。でなきゃ機関部担当とかで、料理の腕も怪しいぞ。
あんな船だけ残っても駄目だ、ミュウは生き延びられないってな。
艦隊の形を取った時にも、やはりリスクは分散してはいなかった。空を旅する蜘蛛の子供たち、彼らが滅びてしまわないよう、降りる先を変えて散らばるようには。
地球を擁するソル太陽系が近付いて来ても、相変わらずシャングリラが核だったミュウ。それを失くせば滅びるのに。生き延びる道は無いというのに。
「…前のぼくたち、間違えてたかな、戦法を…?」
シャングリラだけに固まってたのは、失敗だったみたいだけれど…。
たまたま上手く行ったってだけで、一つ間違えたら、ミュウの未来も無かったんだけど…。
「まったくだ。実に危うい道ってヤツだな、シャングリラだけで旅をしていたなんて」
前の俺も気付きもしなかった。危ない橋を渡ってるんだということに。
本格的な戦闘なんかは、一度もしないままだったしなあ…。一方的に追われるだけで。
ジョミーが地球を目指すまではだ、防戦一方と言ってもいい。一度も打って出ちゃいない。
アルテメシアで前のお前たちの代わりに囮になっても、ただそれだけのことだったしな。
こっちから派手に爆撃するとか、そんなことはしていないんだから。
前の俺たちは生存本能が薄かったんだろうか、とハーレイがついた大きな溜息。
お前でさえも死んでしまったし、と。
「前のお前は、俺たちよりかは逞しかった筈なんだ。身体は遥かに弱かったがな」
それでも、物資を奪いに行ったり、人類の施設に忍び込んだり…。
身の危険ってヤツは感じた筈だぞ、お前にとっては大した脅威でなかったとしても。
そんなお前でさえ、メギドを沈めて死んじまった。…生きて戻ろうとは、思いもせずに。
「あれは、みんなを守るためで…!」
みんなの命を守るためだもの、生き残るためにやったことだよ。ミュウの未来を守るために。
「そうなんだろうが、死んじまったというのがなあ…」
普通だったら、ああいう時には、自分も一緒に行き残る道を探すだろうが。
死んでたまるか、と踏ん張るのが生存本能ってヤツで、実際、出来ないわけじゃなかった。
一人でメギドに出掛ける代わりに、ジョミーも連れて行くとかな。
「そんなことをしたら、危ないじゃない!」
トォニィたちは船に戻せたとしても、ジョミーも一緒に行くなんて…。
もしもメギドで、ソルジャーが二人とも死んでしまったらどうするの!
「お前、それほどジョミーが信用出来なかったか?」
一緒に行ったら足手まといで、何の役にも立たないだとか。…共倒れになってしまうだとか。
「ううん…。ジョミーだったら、ちゃんと戦えたと思う…」
二人がかりならメギドを沈めて、キースの船ごと壊せたと思う。指揮官を失くして人類軍が混乱している間に、シャングリラまで逃げることだって…。
「ほら見ろ、お前でもその有様だ。…生きようと思えば生きられたのに」
ナスカに残った連中だってそうだ、シェルターごと押し潰されてしまったキムやハロルド。
どうしても生きたい、助かりたい、と言うんだったら、あの連中だって助け出せたぞ。
メギドに襲われた後にしたって、ジョミーはナスカにいたんだから。
たった一言、「船に戻りたい」と頼めば良かった。そうすりゃ、どうとでもなった。
ナスカにシャトルを降ろせなくても、ジョミーの力で皆を乗せることなら出来たんだから。
惑星崩壊を起こしつつあったナスカの大地。揺れ動き、地割れが走る地面にシャトルを降ろせはしない。滑走路が確保出来ないから。
けれど、ある程度の高度までなら降りられる。ジョミーが其処まで皆を運べば、収容は可能。
ナスカに残った仲間たちが皆、シェルターを捨てていたならば。脱出の道を選んだならば。
なのにそうせず、残ってしまった大勢のミュウたち。崩れゆく星では、シェルターの中も恐らく無事ではなかったろうに。明かりも消えてしまったろうに。
「人間ってヤツはパニックになると、頭が真っ白になっちまってだ…」
目の前の危機を回避する代わりに、どうでもいいようなことをしようとするらしいんだが…。
逃げればいいのに、崩れそうな家の掃除を始めちまうとか。
ナスカに残ったヤツらも同じで、シェルターの中で落ちてくる瓦礫の掃除をしたかもしれん。
思念波で助けを求めりゃいいのに、汚れちまったから床を綺麗にしないと、と。
その可能性はあったとしたって、それよりも前に、危機感ってヤツが欠けていた。
あれだけ危険だと警告したのに、残ってしまう辺りがな。
…そういうヤツらも仲間だったんだ、生存本能は薄かったかもな。
前の俺たちが生きた時代のミュウは全員、お前も含めて。
シャングリラだけに固まって生きていただけあって、とハーレイに指摘されたこと。生存本能が薄い種族だったと、生き残る意欲に欠けていたと。
言われてみれば、前の自分は思い付きさえしなかった。
自分が生き残ることはもちろん、リスクを分散することも。一撃で滅ぼされてしまわないよう、仲間たちを散らせておくことも。
「…シャングリラ、一つじゃ駄目だったんだ…」
沈められたらおしまいだものね。幾つかの船に分けておいたら、他の船が残ることもあるのに。
前のぼく、全然、気付かなかったよ。
救命艇は欲しかったのに…。意味なんか無いって言われたけれども、いつかは欲しい、って。
「あれだって、船を分けていたなら、意味は充分あっただろうさ」
非常事態に陥った時は、それで脱出すればいい。他の船が収容しに来るからな。
夢物語ってわけじゃなかった筈だぞ、シャングリラの他にも船を持つことは。
前のお前なら、船だって奪えていたんじゃないか?
適当な船を見付け出したら、乗ってるヤツらを放り出して。…殺さなくても、意識を奪って押し込めておけばいいんだから。お前が欲しかった救命艇に。
それごと宇宙に放り出したら、船は貰っておけるだろうが。放り出された人類の方も、救命艇の中で気が付いた後は、救難信号を出せば助けが来るんだからな。
「…そうだったかも…」
もしも欲しいと思っていたなら、船は貰えていたかもね。物資を奪うのと同じ要領で。
コンテナを盗むか、中の人類を放り出すかの違いだけだし…。前のぼくなら、出来たんだし。
武装した船だって奪えた筈だよ、白い鯨が出来る前でも。
ビクビクしながら隠れてなくても、戦える船を持てていたよね、奪っていたら。
人類を一人も殺さなくても、きっと奪えただろう船。乗員を全部、救命艇で宇宙に捨てて。
その手を使えば、艦隊は組めた。シャングリラの他にも船を引き連れ、仲間たちを乗せて。
船を一隻沈められても、ミュウが滅びてしまわないように。
空を飛んでゆく蜘蛛の子たちが、生き残るために散らばるように。
それをしないで、シャングリラだけで旅を続けた前の自分たち。リスクを分散させることなく。
「…前のぼくたち、やっぱり駄目だったのかな…」
頑張って生きてたつもりだけれども、色々、失敗していたのかな。
人類は逞しく生きていたけど、ミュウは弱くて、生存本能だって薄くって…。
「駄目だったんだろうな、生き物としては」
蜘蛛の子供でも、散らばって生きようと旅をするのに。…固まっていたら滅びるから、と。
前の俺たちには本能どころか、立派な脳味噌があったってのに…。
誰一人として、其処に気付きやしなかった。前のお前も、ヒルマンも、エラも。
船を分けようと、そうした方が生き残れるチャンスが増えるから、とは。
だが、そんなミュウでも神様が助けて下さったんだ。生きろと、無事に生き延びろと。
そのお蔭で今があるってな。
人間は誰もがミュウになった世界。戦いなんかは無くなっちまった平和な世界が。
「本当だね。滅びちゃっても、文句は言えなかったのに…」
生き残るための努力をしていたつもりで、間違ったことをしてたのに。
シャングリラだけに固まって住んで、他にも船を持つことなんか、一度も考えないままで。
もしもシャングリラが沈んでいたなら、ミュウはおしまいだったのにね…。
何も知らずにシャングリラだけで生きていたのに、滅びなかった前の自分たち。本当だったら、船を奪って艦隊を作るべきだったのに。
ミュウという種族を守りたいなら、そのための手段を講じておくべきだったのに。
糸を頼りに空を旅する、蜘蛛の子供たちも知っていること。固まってしまったら失敗なのだと、滅びないためには散らばらねば、と。
幸運だったとしか言いようがない、シャングリラで旅をしていたミュウ。滅びの危機に気付きもしないで、たった一隻の箱舟に乗って。
「…そういえば、蜘蛛もシャングリラにはいなかったよね」
蜘蛛の巣なんかは見たことがないよ、あの船では。大きなのも、隅っこに出来る小さいのも。
「まるで必要無かったからなあ、蜘蛛なんかは」
虫を食べるっていうだけなんだし、その虫にしても、ミツバチしかいない船ではな…。
大切なミツバチを食われちまった、と大騒ぎになって直ぐに駆除だな。役に立たん、と。
しかしだ、もしもシャングリラに蜘蛛がいたなら、ヤツらは空を飛んだだろうし…。
あの船の中しか行き場が無くても、散ろうと旅をしたんだろうし。
そいつを見てれば、前の俺たちだって、リスクの分散というヤツをだな…。
いや、考え付かないか、前の俺たちじゃ。
今度の蜘蛛はこんなに遠くまで飛んで行った、と記録を取るとか、その程度だな。
ブリッジにまで飛んで来たとか、どうやって青の間まで飛べたんだか、と首を捻るとか。
あんな状態でよく生き残れたな、とハーレイも呆れる、生存本能が薄かったミュウ。
生き残るために努力していたつもりだったけれど、やり方を間違えていたらしいミュウ。一隻の箱舟を沈められたら、それでおしまいだったのに。
綱渡りのような危うい航路を、最後まで旅して行ったのに。…地球に着くまで。
それでも滅びなかったミュウ。蜘蛛の子供でも知っていることを、知らずに旅をしていたのに。
本当に神が味方してくれたのだろう、さっきハーレイが言った通りに。
「生きろ」と、「ミュウの時代を作れ」と。
空を旅する蜘蛛の子供の話を聞いたお蔭で、神の助けに気付いたから。蜘蛛の子供が糸を頼りに空を飛ぶことは、窓の外に巣を張っていた蜘蛛のお蔭で聞けたのだから…。
「…ねえ、ハーレイ。さっきの蜘蛛、ちゃんともう一度、巣を張れるかな?」
ハーレイに投げられちゃったけれども、あの木の所で巣を作れるかな?
ちゃんと御飯が食べられるように、虫を捕まえられるような巣。…お母さんの蜘蛛なら、お腹の卵もきちんと育ててあげられるのを。
「おっ、考えが変わったか?」
虫が可哀相だと騒いでいたのに、蜘蛛の心配、することにしたか。
俺に蜘蛛の巣、すっかり壊させちまったのにな。
「生きてゆくのが大切でしょ?」
蜘蛛もそうだし、前のぼくたちだって、そうだったんだよ。
滅びちゃったらおしまいなんだし、頑張って生きていかなくちゃ。…ちょっと失敗していても。
固まって生きてちゃ駄目ってことには、気付かないままで旅をしてても。
生きていくには、食事するのも大事だものね、と微笑んだけれど。
「だから蜘蛛には巣が要るんだよ」と言ったけれども、また蜘蛛の巣が出来たなら。露を纏って光る姿は綺麗だとしても、虫を捕えて食べるための罠が出来たなら…。
(虫、頑張って助けちゃいそう…)
死の罠に虫が引っ掛からないよう、物差しを伸ばして、巣の糸を切って。
ハーレイがやってくれていたように、蜘蛛の巣を壊して、蜘蛛だって遠くへ放り投げて。
(物差しを伸ばしても届かなかったら、またハーレイに頼むとか…)
でなければ父を呼んで来るとか、もっと長い棒が無いかと探しに出掛けてゆくだとか。
だから蜘蛛には、見えない所で頑張って欲しい。
この部屋の窓からは見えない所に、虫を捕える巣を張って。餌の虫たちを捕まえて。
前の自分たちも、隠して貰って生き残ったから。
人類に滅ぼされてしまわないよう、神様が広げてくれた袖の中に。
生き残るための努力を間違えていたのがミュウだったのに、神様に助けて貰ったから。
神様が助けてくれたお蔭で、固まっていても大丈夫だったから、あの蜘蛛も何処か見えない所。
(そういう所で頑張ってよね)
巣を壊されずに済む場所で。
自分の目からは見えない所で、いつか卵が孵った時には、糸を飛ばして空の旅をして。
シャングリラには無かった蜘蛛の糸のレースは綺麗だけれども、虫の命を奪うから。
虫の命が奪われる前に、きっと助けてしまうから。
前の自分たちの姿を重ねて、可哀相になって。
「生きて」と「早く此処から逃げて」と、蜘蛛の都合も考えないで。
今の自分は幸せだから。
虫だって幸せに生きて欲しいから、蜘蛛の巣を壊しておかなくっちゃ、と…。
蜘蛛の子の旅・了
※旅をする蜘蛛の子供の話から、ブルーとハーレイが気付いたこと。シャングリラのリスク。
一隻の船に集まったままで旅をするのは、危険だったのです。神の采配で生き延びたミュウ。
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「あっ…!」
コロン、とブルーが床に落としたコイン。学校ではなくて、自分の部屋で。
手にした財布の中から一枚、転がっていって、ベッドの下へ。アッと言う間に、コロコロと。
(あーあ…)
落としちゃった、と零れた溜息。学校から帰って、おやつの後で戻った小さなお城。母に貰った昼食代とお小遣い。それを入れようと財布を出していた時の事故。勉強机の前に座って。
落ちたコインはベッドの下。取ろうと床に屈み込んだのだけれど…。
(届かないよ…)
手を突っ込んでも取れないコイン。腕の長さが足りないから。
(んーと…)
こういう時には長さを足せば、と机から物差しを取って来た。充分に長いし、これで引っ掛けて取ればいいや、と。
なのに、コインが薄いせいなのか、自分の腕前が悪いのか。物差しを何度入れてみたって、先にくっついてはくれないコイン。少しも上手く引っ掛からない。床にコロンと横倒しのまま。
(ちょっとくらい動いてくれたって…)
どうして駄目なの、と格闘している内に聞こえたチャイム。まだ早いから、と眺めた時計が示す時間は、思った以上に遅い時間で。
(まさか、ハーレイ!?)
物差しを床に放って窓に駆け寄ったら、門扉の向こうで手を振るハーレイ。落としたコインは、諦めるしかないだろう。ハーレイが帰ってゆくまでは。
(…拾ってるような時間があったら、ハーレイとお喋り…)
後にしよう、と片付けた物差し。それに財布も。
コインは後で、と決めていたのに、やっぱり気になるベッドの下。あそこにコイン、と。
お茶とお菓子が置かれたテーブル、それを挟んでハーレイと向かい合わせに座っても。ついつい目が行くベッドの方。コインを拾い損なっちゃった、と。
きっと何度も見ていたのだろう、ハーレイに「おい」と掛けられた声。
「さっきから何を見てるんだ?」
心がお留守になってるようだが、何度も見ているベッドの方。…それも下だな、床の方だ。
あそこに何か隠しているのか、ベッドの下に?
どうなんだ、と鳶色の瞳が見詰めてくるから、慌てて「ごめん」と謝った。
「何も隠してないけれど…。余所見しちゃって、ごめんなさい…」
隠すんじゃなくて、落っことしちゃった。ベッドの下に入ってしまったんだよ、コインが一枚。
ママに貰ったお小遣いを財布に入れてた時にね、床に落としたら転がっちゃって…。
ベッドの下、と項垂れた首。あの下に入ったままになってる、と。
「拾えばいいだろ、落としたんなら」
俺が来た途端に落としたとしても…。ちょっと拾うから、と言えばいいだけのことだろうが。
余所見ばかりをされるよりかは、待たされた方が俺は気にならないがな?
「…拾えないんだよ、手が届かなくて…」
知っているでしょ、ぼくはサイオンじゃ拾えないこと。うんと不器用になっちゃったから。
だから手でしか拾えないんだし、それでも頑張ったんだけど…。
物差しで引っ掛けようともしたけど、コイン、ちっとも引っ掛からなくて…。
「そういうことか…。何処だ?」
俺なら拾ってやれるだろう。手が届かないほどの場所にしたって、サイオンもあるし…。
コインくらいはお安い御用だ、どの辺りなんだ?
ベッドの下は暗くて見えにくいからな、と椅子から立ち上がってくれたハーレイ。拾ってくれるつもりなのだし、「ここ…」と指差したベッドの下。
「この奥の方…。見える?」
「…あそこか、確かに落ちてるな。コインが一枚」
床に屈んで、「届くかもな」とハーレイが伸ばしてくれた腕。長い腕がしっかり捕まえたから、コインは無事に戻って来た。「ほら」と渡されたコインが一枚。ハーレイの手の温もりつきで。
「ありがとう…!」
御礼を言って、財布に入れようとしたけれど。…ほんのり温かい、一枚のコイン。拾ってくれた大きな褐色の手から移った温もり、コインは冷たいものなのに。
(ハーレイが拾ってくれたコイン…)
それに温かい、と気付いた幸せなコイン。これは特別、ハーレイに拾って貰えたのだから。
ただのコインなら財布に戻しておしまいだけれど、幸せな道を歩んだコイン。落っこちた時には不幸だったのに、今はハーレイに拾って貰って幸せ一杯、幸運なコイン。
(…うんと幸せ…)
とても幸せなコインなのだし、他のとは別に残しておきたい。使ったりせずに、大切に。
だから財布に入れる代わりに、引き出しの奥に仕舞っておこうとしたのだけれど…。
「どうして財布に入れないんだ?」
引き出しなんかに入れてどうする、行方不明になっちまうぞ。きちんと財布に入れないと。
「大丈夫だよ、後で入れ物を探すから。…失くさないように」
これはハーレイに拾って貰ったコインだもの。特別だから、大事にするよ。
財布に入れたら無くなっちゃうでしょ、使ってしまって。
「馬鹿野郎!」
何が特別だ、たかがコインが一枚だ。第一、俺は拾っただけで…。
元はお前のコインなわけだし、プレゼントとは全く違うだろうが!
そんなことをするなら、次から二度と拾ってやらんぞ、と睨まれた。腕組みまでして、眉間には皺。「特別も何も」と、「せっかく手伝ってやったのに」と。
「手が届かなくて拾えない、と困っているから、手伝ったんだぞ」
ついでに、そいつはお前の昼飯代だろうが。それ一枚でランチ、食えるだろ?
「そうだけど…。一日分なら充分だけど…」
ちょっと足したら、ジュースとかも一緒に買えちゃうけれど…。
「なら、入れておけ。財布の中にな」
貴重な小遣いというヤツだ。ランチが一回分なんだから。
貯めて何かに使うならいいが、記念に取っておくには少々、高すぎるってな。
もっとも、もっと安いコインでもだ…。俺が拾った記念なんかに残しておくのは禁止だ、禁止。
そういう魂胆でまた落とさないように、今からきちんと言っておく。厳禁だぞ。
分かったら、さっさと入れるんだな。元の財布に。
「うー…」
ハーレイのケチ!
ぼくのコインだもの、どう使っても良さそうなのに…。取っておくのも自由なのに!
なんで駄目なの、一枚くらい…!
いいでしょ、と抗議したって出ないお許し。ハーレイは「財布に入れろ」と睨んだまま。
仕方ないから、「残念…」と財布に戻したコイン。同じコインたちが入っている中に。
チャリンと入れたら、どれだったのかは、もう分からない。
コインの見た目はまるで同じで、他にもコインが入っていたから。色々な額のコインと一緒に、紛れてしまった幸せなコイン。同じ種類のコインは三枚、その中にすっかり混じってしまって。
こういう時に限ってコインが一杯、と嘆いた財布。同じ種類は三枚だけでも、他のコインが沢山あったら、滑り込める場所も多いから。財布を閉じてしまった後には、中で動きもするのだから。
(幸せなコイン、無くなっちゃった…)
ホントにどれだか分かんないよ、と財布を鞄に戻したけれど。元の椅子へと座ったけれど。
(…作られた年とか…)
見ておけば良かった、と後悔しきり。コインの製造年が分かれば、目印になった筈だから。運が良ければ「これだ」と見付け出せたから。…他のコインに紛れていても。
(同じ年に作ったコインばかりでも、傷があるとか…)
ほんの小さな引っ掻き傷。それがあったら分かったのに、と相も変わらず上の空。ベッドの方を何度も見ていた時と変わらないから、「お前なあ…」とハーレイがついた大きな溜息。
「拾ってやっても、拾わなくても、今日のお前は上の空ってな」
俺よりもコインが気になるらしいな、お前ってヤツは。…まったく、どうしようもないヤツだ。
恋人よりもコインの方か、と俺が怒って帰っちまったらどうするつもりだ?
だが、まあ、一つ思い出せたし…。許してやるがな、ボーッとしてても。
「え?」
思い出せたって…。何の話なの?
「ようやく聞く気になったってか。俺の話を、ちょっとは真面目に」
コインよりも俺だって気持ちになったか、さっきよりは?
「ごめんなさい…。ちゃんと聞くから、その話、教えて」
何か思い出があるんでしょ?
コインか、何かを拾う話か、そういうので。…今のハーレイのお話だよね?
ぼくにも聞かせて、と興味が出て来たハーレイの思い出。幸せなコインはもう捜し出せないし、考えていても無駄なこと。それを追うより、ハーレイの過去を知りたいから。
(今のハーレイ、ぼくよりもずっと年上だものね?)
思い出だってきっと沢山、と瞳を輝かせて、思い出話を待っていたのに。
「生憎と、俺じゃないってな」
前のお前だ、コインのお蔭で思い出したのは。
「…前のぼくって…。何かやってた?」
コインを落としてしまうなんてこと、前のぼく、しないと思うけど…。
お小遣いなんかは貰っていないし、お金だって持っていなかったもの。使うことが無いから。
「コインじゃないがだ、俺に拾わせていたってな」
今日と同じで、「拾ってくれ」と。
「拾って貰うって…。何を?」
何をハーレイに拾わせていたの、前のぼくならサイオンで拾えた筈なのに。
わざわざハーレイに頼まなくても、ちゃんと自分で拾えそうなのに…。
「一つだけじゃない、いろんな物だな。お前が俺に拾わせたのは」
最初は偶然だったんだが…。お前が狙っていたわけじゃなくて。
俺に拾わせるつもりは無かったんだが、お前、拾えなかったんだ。頑張ったのに。
青の間のベッドの馬鹿デカイ枠、あれの下に見事に挟まっちまって。
「ああ…!」
そういえばあったね、頼んだことが。
ぼくの力じゃ拾えなくって、ホントに困っていた時だっけ…。
思い出した、と蘇って来た前の自分の記憶。ソルジャー・ブルーだった頃の、遠い昔の。
もうハーレイとは恋人同士になっていた時代。夜になったら、青の間を訪ねて来たハーレイ。
(でも、キャプテンの仕事もあったから…)
一日分の報告だったり、キャプテンとしてソルジャーの指示を仰いだり。
その夜も、ハーレイが来たら訊くべきことがあるかどうか、と書類を見ていた。昼の間に開いた会議。其処で「次回までに」と配られたもの。次の会議で検討する議題や、その資料など。
順にめくって読んでゆく内に、うっかり落とした一枚の書類。
それはスルリとベッドの下へと滑り込んでしまって、枠と床の間に挟まって…。
(引っ張っても、ビクともしなくって…)
何処かに端が引っ掛かったらしくて、動かない書類。無理に抜いたら、きっと破れる。ビリッと真ん中から破れてしまって、真っ二つに裂けてしまいそう。
(瞬間移動で…)
それなら取れる。一瞬の内に、書類は手の中に戻って来る。
けれど、エラやヒルマンたちなら言うだろう。「人間らしく」と。安易にサイオンに頼るなと。自分の肉体が持っている力、それを使って拾うべきだと。
サイオンはミュウだけの力だから。人類には無い能力なのだし、人間らしくあるべきだと。
だから駄目だ、と瞬間移動をさせるのはやめて、枠を持ち上げようとした。両方の腕で。
(この枠が、ほんの少しだけ…)
床から離れて隙間が出来たら、足で書類を蹴ればいい。引っ掛かっているのも外れるだろう。
そう考えて挑んだけれども、重くてとても持ち上げられない。動いてくれないベッドの枠。
何度、両腕に力をこめても。今度こそ、と歯を食いしばっても。
どんなに努力を重ねてみたって、ベッドの枠は動きもしない。僅かな隙間も出来てはくれない。
やっぱり無理だ、とサイオンを使って取ろうとしたら、開いた扉。緩やかなカーブを描いて下へ伸びるスロープ、その端に見えたハーレイの姿。
恋人が来てくれたのだから、と書類の件は一時中断。なのにハーレイには分かるらしくて、側に来るなり問い掛けて来た。
「どうなさいました?」
何か困ってらっしゃることでも…?
気になることでもおありなのですか、そういう風に見えるのですが…。
「分かるのかい? 大したことではないんだけれど…」
この下に書類が挟まっちゃってね、引っ掛かったらしくて取れないんだ。
サイオンを使えば直ぐに取れるけど、エラたちがいつも言うだろう?
「人間らしく」と、肉体の力を使うべきだと。
ぼくも頑張ってはみたんだけれど…。ぼくの力ではビクともしないよ、このベッドの枠は。
「枠に挟まったのですか?」
「そう、此処の下」
覗いてみれば見えるよ、これ。…ほら、引っ張っても出て来ないんだ。
「無理に引っ張ったら破れそうですね、真ん中から」
この枠の下敷きということは…。
此処だけ浮いたら、引っ張り出せると思いますよ。ですが、あなたの力では…。
まず無理でしょうね、この枠はとても重いですから。
「そうだよね…」
サイオンで抜くよ、瞬間移動で。そうしようと思っていた所だから。
「お待ち下さい、私の力なら動かせるかもしれません」
あなたよりは力が強いですから、このくらいは…。サイオン無しでも、少しくらいなら…。
やってみましょう、とハーレイが両腕で持ち上げた枠。それは本当に少し浮き上がったから…。
「今です、ブルー!」
抜いて下さい、今の間に…!
「ありがとう、ハーレイ!」
取れた、と素早く抜き出した書類。端には皺が残ったけれども、破れずにちゃんと取り出せた。人間らしい方法で。サイオンの助けを借りることなく。
ハーレイが「もういいですね?」枠を下ろした後に、「君は凄いね」と褒めたのだけれど。
「いえ、それほどでも…」
馬鹿力だというだけですよ。こういう身体ですからね。
昔からゼルに言われたものです、「このデカブツ」だの、「独活の大木」だのと。
この程度のことも出来ないようでは、本当に独活の大木ですから…。
持ち上げられて良かったですよ。馬鹿力などは、褒めて頂くほどのことでは…。
「馬鹿力って…。凄い力だと思うけれどね?」
ぼくには出来なかったことだよ、この枠を腕の力だけで持ち上げるのは。
それを軽々とやってのけたんだし、凄いことだと思うけど…。馬鹿力なんて言わなくても。
「ありがとうございます。…ゼルにかかれば、馬鹿力だろうとは思いますがね」
ですが、お力になれて良かった。
こんなことでしたら、いつでもお手伝いさせて頂きますよ。
人間らしくなさりたいのに、あなたのお力が足りない時には。
私がお役に立てるのでしたら、と力強い言葉を貰ったから。ハーレイが手伝ってくれるから。
(前のぼく、調子に乗っちゃって…)
何かを落として取れない時には、いつもハーレイに頼っていた。「ぼくじゃ無理だ」と、恋人がやって来るのを待って。「あれを取って」と、「拾って欲しい」と。
ベッドの枠の下に挟まるどころか、青の間の巨大な貯水槽に落とした時だって。
(…ハーレイ、どうやって拾ってたんだっけ?)
思い出せない、貯水槽に落としてしまった時。サイオンを使わずにどうやって、と。
首を捻って考えてみても、答えが出ないものだから…。
「あのね…。ハーレイが拾ってくれていた話…」
色々な時に拾って貰ったけれども、貯水槽の時はどうしてたっけ?
あそこ、深くて、水が一杯だったのに…。手を突っ込んでも、底まで届くわけがないのに。
「頭を使えよ、シャングリラの基本は「人間らしく」だ」
あの貯水槽の係にしたって、例外じゃない。深いからって、サイオンで掃除するのはなあ…?
メンテナンスをしてたヤツらが使う道具が奥にあったろ。
普段はきちんと仕舞ってあったが、貯水槽の掃除をしようって時には出て来たヤツが。
「そうだっけね…!」
道具、色々、入ってたっけ…。
ぼくが会議とかで留守の間に、係が掃除をしてたから…。あの貯水槽にも係がいて。
青の間には部屋付きの係が配属されていたけれど、それとは別にメンテナンスの係がいた。青の間の空調やら貯水槽やら、そういった設備を専門に扱っていた係。
彼らのための道具を収めた小さな物置。
貯水槽に何か落とした時には、ハーレイは其処の道具で拾った。網だの、マジックハンドだの。
「…何回、お前に拾わされたか…」
ベッドの下やら、貯水槽やら。
俺が青の間に出掛けて行ったら、「あれを拾って欲しいんだけど」と頼まれるんだ。
「さっき、ハーレイも言ったじゃない。人間らしく、だよ」
シャングリラの基本はそれだったんだし、ハーレイ、手伝ってくれるって言ったし…。
ぼくの力で拾えない時は、ハーレイが拾ってくれるって。
「そう言っては待っているんだからなあ、俺の仕事が終わるまで」
ブリッジ勤務が終わって報告に出掛けてゆくまで、お前、拾おうともせずに。
たまには自分で拾えばいいんだ、「人間らしく」にこだわらずに。
どうしても出来そうにないって時には、使っていいのがサイオンだったぞ。サイオンってヤツは本来、そうするためにあるんだから。…足りない能力を補うために。
「自分で拾った時もあったよ!」
何もかもハーレイ任せにしてはいないよ、前のぼくだって!
ベッドの下なら放っておいても大丈夫だけど、貯水槽はそうじゃないんだから…。
あそこに書類を落としちゃったら、ハーレイが来るまで待っていちゃ駄目。
書類はすっかりふやけてしまって、読めなくなってしまうんだから。
他の物でも、水に落ちたら駄目になっちゃうものはあるでしょ?
そういう時には拾っていたよ。道具は上手く使えないから、緊急事態だ、ってサイオンでね。
長い時間、水に浸かっていたなら、使えなくなってしまう物。それをウッカリ落とした時には、サイオンでヒョイと拾っておいた。ハーレイが来るまで待っていないで。
ちゃんと拾った、と胸を張ったら、「まあな…」と苦笑いしているハーレイ。
「お前の都合で決まるんだっけな、俺に拾わせるか、お前が自分で拾うかは」
そういや、俺が拾った中でも一番デカイの。
お前だっけな、大物ってな。
「えっ、ぼくって…?」
どうしてハーレイがぼくを拾うの、前のぼく、迷子の子猫なんかじゃないよ?
落ちていないと思うんだけど…。
いくらハーレイが拾うのを仕事にしてたとしたって、落ちていないものは拾えないよ?
「落っこちたろうが、前のお前は」
そして間違いなく俺が拾った。…いつも通りに。
「落ちたって…。何処に?」
「いつも通りと言っただろうが、その言葉だけで分からんか?」
お前が俺に拾わせてた場所は青の間ばかりで、あそこで落ちるとなったなら…。
貯水槽の他に何があるんだ、お前、あそこに落っこちたんだ。
「…そういえば…」
ぼくが落ちちゃったんだっけ…。
いつもと同じで拾って貰って、それを見ていて、今度はぼくが…。
落っこちたんだ、と時の彼方から戻った記憶。前の自分がやった失敗。
貯水槽の側に屈んでいたハーレイ。隣で「ハーレイはいつも上手に拾うね」と、感心して眺めていた自分。あの時は何を拾って貰ったのだったか、使っていた道具は何だったのか。
「拾えましたよ」とハーレイが差し出して来たから、「ありがとう」と受け取ろうとして崩したバランス。貯水槽の直ぐ側だったのに。
よろめいた身体はアッと言う間に落っこちた。貯水槽へと。
サイオンで落下は止められるけれど、元の場所へも戻れるけれど。
(人間らしく…)
拾って貰おうと思ったのだった、ハーレイに。貯水槽に落とした物たちのように。
そして落っこちた貯水槽。シールドも張っていなかったから…。
(ドボンと落ちて、真っ直ぐ沈んで…)
水面までの距離があった分だけ、沈んだ暗い水の中。前の自分の身長よりも深く。
懸命に浮かび上がったまではいいけれど、闇雲に水を掻くしかなくて。
「ブルー!!」
ハーレイが下へと差し伸ばした腕。青の間の床に腹這いになって。
けれども、届くわけがない。水面はもっと下だったから。
そのハーレイの顔を見上げながら必死に水を掻いていたら、サイオンで身体が浮く感覚。自分は使っていないというのに、ふうわりと。
水から引っ張り出そうとするのは、ハーレイが使っているサイオン。
落ちた自分を拾い上げるには、マジックハンドも網も役立たない。もっと小さな物のためにと、作られている道具だから。それで人間は拾えないから。
水の中から救い出そうと、ハーレイが包んだ淡い緑のサイオンカラー。沈む前にと、早く水から引き上げようと。ハーレイの身体も、同じ色の光に包み込まれていたのだけれど…。
「待って…!」
慌ててハーレイを止めようとした。人間らしく落っこちたのに、これでは何の意味も無いから。
サイオンで助け上げられたのでは、拾って貰うことにならないから。
「ブルー!?」
何を、とハーレイのサイオンは揺らがないけれど、伝えなければ。
どうして自分が落っこちたのか、サイオンを使って此処から出ようとしないのか。
「人間らしく…!」
ぼくが落ちても、人間らしく…!
サイオンだったら、ぼくの力でも上がれるから…!
君が拾ってくれるんだろう、ぼくが落としてしまった時は…!
自分の力で拾えない時は、いつだって、君が…!
だから今も、とバシャバシャと水を掻きながら叫んで、ガボッと飲んでしまった水。泳ぎ方など習っていないし、シールドもせずに深い水の中に入ったことは無いから。
それでもハーレイが拾ってくれると、拾って貰おうと考えたのが前の自分で。
水を飲んだせいで声も失くして、けれど思念波さえも使わないままで…。
「ブルー!!」
一刻を争うと気付いたのだろう、貯水槽に飛び込んで来たハーレイ。キャプテンの制服を脱ぎもしないで、マントも背中に背負ったままで。
ハーレイが上げた水飛沫を頭から被ったけれども、貯水槽の水も揺れたのだけれど。
沈みそうな身体に回された腕。グイと脇から抱え上げるように。
「動かないで下さい」と声を掛けられ、ハーレイは前の自分をしっかりと抱えて泳いでくれた。
スロープに上がれる所まで。水面からスロープが近い所まで。
泳ぎ着いたら、ハーレイに押し上げられたスロープ。「縁を掴んで下さい」と。スロープの縁を掴むのが精一杯だったけれど、ハーレイは立ち泳ぎしながら背を押してくれて…。
やっとの思いで這い上がったら、直ぐにハーレイも上がって来た。突っ伏したままの前の自分を気遣うように掛けられた声。
「大丈夫ですか?」
「水、飲んだ…」
後は言葉になってくれなくて、ただゲホゲホと咳き込むだけ。ハーレイは背中を擦って叩いて、飲んだ水をすっかり吐き出させてから、強い両腕で抱き上げた。前の自分を。
そのままバスルームに連れて行かれて、頭から浴びせられた熱いシャワー。貯水槽の水で濡れてしまった服を剥ぎ取りながら、ハーレイは熱い湯をせっせと浴びせ続けて。
「とにかくシャワーで温まって下さい、お身体が冷えてしまっています」
お湯も張りますから、バスタブにも浸かって頂かないと…。
もう少しだけお待ち下さい、たっぷりのお湯を張ってからです。バスタブの方は。
「…君は?」
ぼくの面倒を見てくれるのは嬉しいけれど…。
君も一緒に落っこちたんだよ、あの貯水槽に。君も身体を温めないと…。
「このくらい、なんともありませんよ」
プールが深いか、浅いかだけの違いです。普段から泳いでいますからね。
貯水槽で泳ぐのは初めてでしたが、日頃の練習が役に立ちました。あなたを拾えましたから。
次はこちらへ、と浸けられたバスタブ。湯加減を調べて、手足を擦ってくれるハーレイは濡れた制服を脱いでしまって、バスローブだけという姿。「私は風邪など引きませんから」と。
「でも、ハーレイ…。君の着替えは…?」
シャワーやお風呂は後でもいいけど、君の服…。その格好じゃ冷えるだろうに。
誰かに頼んで持って来させるとか、きちんとした服を着た方が…。
「私の服なら、明日の分が置いてあるじゃありませんか」
あなたと一緒に過ごすのですから、いつも運んでありますが…?
濡れていない服はちゃんとあります、あなたが心配なさらなくても。
「だけど、バスローブしか着てないし…」
アンダーくらいは着た方が…。
でないと君の身体も冷えてしまうよ、ぼくの世話なんかをしている間に。
「大丈夫ですよ、頑丈に出来ていますから」
アルタミラからの筋金入りです、体力だったら船の誰にも負けませんとも。
私の身体を心配するより、ご自分の心配をなさって下さい。
あんな所でサイオンも無しで、溺れそうな目に遭われるだなんて…。
「人間らしく」と言っても程度があります、私が直ぐに引き上げていたら、こんなことには…。
あなたがサイオンを使っておられたとしても同じです。
落下を止めるくらいのことなら、あなたには朝飯前なのですから。
次からは「人間らしく」は無しです、とバスルームで厳しく叱られた。普通の物を拾うだけなら今まで通りに手伝うけれども、持ち主の人間は別だから、と。
冷えた身体が温まったら、バスタオルで水気を拭われた。髪に至るまで、ゴシゴシと。
病気の時しか使っていないパジャマを着せられ、押し込まれたベッド。上掛けを肩まで引っ張り上げたら、ハーレイはシャワーを浴びに出掛けた。「直ぐに戻ります」と。
戻った時にもバスローブだけで、鳶色の瞳でじっと見詰めてから奥へ入って。
「…此処で作れるのは、これだけですから」
何の食材も無かったので、と熱い紅茶を淹れて来てくれた。火傷しそうなくらいのを。
ベッドの上で上半身を起こして飲んでいる間も、冷えないようにと肩に毛布を掛けられた。膝はもちろん上掛けの下で、飲み終わってカップを返したら…。
カップを片付けに行ったハーレイは、戻るなり言った。「暖かくして休んで下さい」と。
有無を言わさぬ口調だったけれど、水に落ちた自分を拾い上げてくれたのがハーレイだから…。
「じゃあ、温めてよ」
ぼくの身体を温めるには、何が一番か知ってるだろう?
君の身体で温めて欲しいよ、身体も、それにぼくの心も。…いつもみたいに。
「いいえ、今夜は添い寝だけです」
ご自分に自覚が無いというのは頂けませんが…。
あれほどの無茶をなさるのですから、当然と言えば当然なのかもしれません。
まさか「拾ってくれ」だなどと…。
あなたは物ではないのですから、拾うという言葉は当て嵌まりません。救助に救出、助けるとも言っていいでしょう。
救助の時まで「人間らしく」とは、エラもヒルマンも一度も言ってはいませんが…?
御存知でしょう、アルテメシアから子供たちを救出して来る時はどうするか。
人間らしくサイオンを封じるどころか、フルに使って救出するのが船の基本で鉄則ですが…?
それも忘れてらっしゃるようでは、ご自分のお身体も分かっておられませんね。
もう充分に弱っておられて、いつも通りの過ごし方など、無理に決まっていますとも。
あなたはきっと風邪を引いておしまいになりますから、とハーレイは添い寝しかしなかった。
パジャマ姿の前の自分を抱き締めるだけで、ハーレイの身体にはバスローブ。
「これでも風邪を引かれますよ」と、「明日になったらお分かりになります」と繰り返して。
自分では「まさか」と思ったけれども、翌朝、本当に引いていた風邪。
水に落ちた結果は発熱と、熱でひりつく喉と。
ハーレイは「やっぱり…」と深い溜息をついて、朝食の支度に来た係に野菜を持って来させた。前の自分が寝込んだ時には、作ってくれた野菜のスープ。それをコトコト煮込むために。
何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけで煮込んだ素朴なスープ。
出来上がったら、スプーンで掬って食べさせてくれて…。
「…熱いですから、気を付けて。それにしても、あなたという人は…」
本当に弱くていらっしゃる。
ご自分で落ちた水だというのに、こんな風に寝込んでおしまいになって…。
私も後から飛び込みましたが、何処もなんともないですよ?
こうしてスープも作りましたし、この後は仕事ですからね。いつもと同じにブリッジに行って。
「君が頑丈すぎるんだよ!」
普段から風邪なんか引かないじゃないか、ぼくが引いても移りもしない。
君と一緒にしないで欲しいよ、ぼくの身体は繊細なんだよ…!
「お分かりでしたら、次からは控えて頂きたいと…」
昨日も申し上げましたよね?
物を落としてしまわれた時は、サイオン抜きで拾わせて頂きますが…。
持ち主の方が落ちた時には、サイオン抜きには致しません。問答無用で救出させて頂きます。
けれど、あなたは、懲りるということを御存知ないような気もしますから…。
貯水槽には近付かないで下さい、私が何かを拾う時には。
あなたを拾うのは二度と御免です、とハーレイに真顔で叱り付けられた。
それからは側で覗けなくなった、貯水槽での落とし物拾い。網を使うのも、マジックハンドも、離れた所から見るしかなかった。
「ハーレイ、危ないからそっちにいろって言うんだよ」
もっと丁寧な言葉だったけど、意味はおんなじ。こっちに来るな、って。
「当たり前だろうが!」
あんなのを見たら、二度とお前を近付かせないのが一番だ。
落ちないようにするのも、自分の力で上がって来るのも、前のお前なら簡単なのに…。
今の不器用なお前と違って、半分寝てても出来た筈なのに…!
「そうだけど…。今のぼくだと、ホントに無理だよ」
ぼくが落っこちても拾ってくれる?
何処かの池とか、湖だとか…。デートの途中で落っこちた時は。
「もちろん拾うが、サイオンは必ず使うからな?」
ついでに、お前が落っこちる前。
そうなる前に、落ちないように俺が支える。
前の俺は油断していたわけだな、お前が落ちるとは思わないから。
落ちても自分で落下を止めたり、シールドを張ったり、ちゃんと出来ると信じてたしな…?
前のお前で懲りているから、俺は決して油断はしない、とハーレイは言っているけれど。
デートで水辺に出掛けた時には、手をしっかりと握っていそうだけれど。
(…前のぼくが落っこちちゃった時…)
抱えて貰って泳いだ思い出、あの腕が忘れられないから。
スロープに自分を押し上げてくれた、逞しい腕の記憶も鮮やかに思い出せるから。
(…落ちてみたいかも…)
水泳が得意な今のハーレイと、いつかデートに出掛けたら。
落ちられそうな水があったら、前の自分が落っこちたように、バランスを崩して水の中へと。
風邪は引きたくないのだけれども、ハーレイに助けて貰いたいから。
サイオンは抜きで、「人間らしく」とお願いして。
ぼくを拾ってと、懸命に水を掻いて叫んで。
きっとハーレイは、「仕方ないな」と飛び込んで拾ってくれるから。
拾い上げた後も、あの時みたいに、あの時以上に、きっと優しくしてくれるから…。
拾って欲しい・了
※青の間の貯水槽に落ちてしまった、前のブルー。ハーレイに拾って欲しくてサイオン抜きで。
望みは叶ったわけですけれど、風邪を引いてしまって叱られた結末。でも、幸せな思い出。
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