シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
やって来ました、夏休み。初日の今日は会長さんの家に集合、今後の予定を立てるというのが恒例です。もっとも柔道部三人組は明日から合宿、ジョミー君とサム君は合宿期間に合わせて璃慕恩院での修行体験ツアーと決まってますから、その後の話なんですけれど。
「やっぱり今年は山の別荘! あそこがいいな!」
乗馬にボートに…、とジョミー君が言い出し、キース君も。
「あそこはリフレッシュ出来るからなあ…。卒塔婆書きのいい癒しになるから、俺も賛成だ」
「今年も卒塔婆が溜まってんのかよ?」
サム君が訊くと、「失礼なヤツだな」と顔を顰めるキース君。
「俺は計画的に書いているんだ、それでも量が多すぎるんだ! たまに親父も押し付けて来るし」
「お父さんには勝てませんよね…」
アドス和尚はキツイですから、とシロエ君が頭を振って。
「ぼくたちがお邪魔したって容赦がないというか、先輩と同じレベルでしごかれると言うか…」
「そうなのよねえ、正座は必須だとか、もう色々とうるさいのよねえ…」
スウェナちゃんも同意で、キース君は「分かってくれたか」と。
「つまりだ、俺は親父にいいように使われているわけで…。今年もドカンと卒塔婆が来そうだ」
親父がサボッているのは分かっている、と悔しそうに。
「合宿に行ってる間は俺がいないと思ってサボリまくるに決まっているし…。帰って来たらまた増えているんだ、俺のノルマが!」
「「「あー…」」」
気の毒だとは思いましたが、代わりに書ける人はいません。頑張ってとしか言いようがなくて、可哀相なキース君のためにも山の別荘行きは決定で。
「会長もそれでいいですよね?」
シロエ君が確認すると。
「あっ、うん…。ごめん、なんだっけ?」
聞いていなかったらしい会長さん。そういえばボーッとしてたかな?
「おい、夏バテか?」
夏は始まったばかりなんだが、とキース君が突っ込みましたが。
「ううん、そうじゃなくて…。ちょっと余所見を」
「「「???」」」」
楽しい夏休みの相談中に、余所見というのは何事でしょうか。よほど面白い物でもあったか、気になることでもあったんですか…?
「…ごめん、ハーレイの研究が気になっちゃって…」
「「「研究?」」」
何を、と顔を見合わせる私たち。教頭先生の受け持ちは古典なんですけれども、研究するほど打ち込んでらっしゃいましたっけ?
「…まさか学会にでも行かれるんですか?」
夏休み中にあるんでしょうか、とシロエ君が尋ねると。
「そんな高尚な研究だったらいいんだけどねえ…。まあ、古典はまるで関係なくもないけど」
古い文献を読み込んでるし…、と会長さん。
「よくも探して来たなって言うか、もう根性だと言うべきか…」
「何の研究なんですか?」
シロエ君の問いに、会長さんは嫌そうな顔で。
「…惚れ薬」
「「「惚れ薬?」」」
惚れ薬って、いわゆる惚れ薬ですか、それを飲ませれば相手のハートが手に入るという惚れ薬?
「そう、それなんだよ。…作るつもりで頑張ってるんだ、この夏に向けて」
「「「へ?」」」
「ぼくに飲ませて、素敵な夏を楽しもうと思っているんだよ! ハーレイは!」
実に迷惑な研究なのだ、と会長さんは怒ってますけど、惚れ薬なんか作れるんですか?
「どうだかねえ…。ハーレイは作れると思い込んでるし、思い込みの力で何とかなる…かな?」
「「「思い込み?」」」
「うん。…ハーレイがあれこれ試してる内に、出来ないこともない…かもしれない」
なにしろ熱心に研究中で…、と会長さん。
「この国の文献だけじゃなくって、他の国のも引っ張り出して頑張ってるから」
「おい、教頭先生は語学に堪能でらっしゃったのか?」
「堪能と言うか、なんと言うか…。無駄に長生きはしてないよ、うん」
ある程度ならば読めるのだ、と聞いてビックリ、意外な才能。それじゃゼル先生とかも他の国の言葉がペラペラだとか…?
「ほら、サイオンがあるからね。意志の疎通には困らないから、読む方は…どうなのかなあ?」
エラやヒルマンはいけるだろうけど、ということは…。教頭先生、自力で様々な国の言語を習得、それを使って研究中だと…?
教頭先生の惚れ薬研究、梅雨の頃から始まっていたらしいです。夏休みに向けて。思い立った動機は全くの謎で、会長さんに言わせれば「ただの閃き」。けれども教頭先生の方は天啓を受けたとばかりに研究に励み、今日もせっせと惚れ薬作り。
「明日から合宿に入るだろう? その間が熟成期間になるみたいだねえ…」
「壺に詰めるとか、そういうのですか?」
熟成と言うと…、とシロエ君が問いを投げ掛ければ。
「壺もそうだけど、埋めるようだよ、家の庭に。…本当は神社の境内に埋めたいようだけど…」
「「「神社?」」」
なんで神社、と驚きましたが、理由は一応、あるそうです。縁結びの神様がお住まいの神社の境内に埋めて、恋愛成就を祈る人たちに上を歩いて貰えば完璧、そういう仕様で。
「…それは片想いの人たちじゃないかと思うんだが…」
縁結びの神社ならそうならないか、とキース君が首を捻ると、会長さんは。
「大多数は片想いの人だけれどさ、叶った時にはお礼参りに来るだろう? そっちのパワーは馬鹿にならないし、片想いの人だって振り向いて欲しいと必死だからねえ…」
両者のパワーで凄い惚れ薬が出来るらしい、という話。それって本当なんですか?
「さあねえ…。あの手の文献、大抵、根拠は不明だし…。ぼくも惚れ薬はサッパリだしね」
そんな勉強はしていないから、と会長さん。
「だけどハーレイは作れるつもりで頑張ってるわけで、神社の境内に埋められない分、家で工夫をするようだから」
「どんな工夫だ?」
どうすれば神社と張り合えるのだ、とキース君。
「恋愛祈願の人が教頭先生の家の庭に来るとは思えんが…。第一、不用心だと思うが」
「そこは心配要らないんだよ。踏んで行くのは人じゃないからね」
「「「え?」」」
何が踏むのだ、と深まる謎。まさか幽霊ではないんでしょうし…。
「人とはまるで関係無いねえ、幽霊もね。…この際、動物でもいいと思ったみたいで」
マタタビとかを用意している、と聞かされましたが、それじゃ、壺が埋まった地面の上を踏んで行くものは猫ですか?
「そのつもりらしいよ、恋の時期の猫は半端ないから」
今の季節は違うけれども、あやかりたい気持ちが大きいらしい、と会長さんは大きな溜息。猫の恋ってそんなに凄かったかな…?
教頭先生があやかりたいらしい、猫の恋。シーズンになったら独特の声で鳴いてますけど、会長さんによるとオスは寝食を忘れて走り回るほどらしいです。メスを巡って取っ組み合いの喧嘩も珍しくなくて、挙句の果てに…。
「「「トラックを止めた!?」」」
「らしいよ、いると分かってて轢いて通るというのもねえ…」
これは実話、と会長さんが話してくれた、恋の季節の猫の大喧嘩。ガップリお互い噛み付き合ったままで路上に二匹で、一車線しかない道路。通り掛かったトラックが気付いてクラクションを激しく鳴らしているのに、猫は喧嘩をやめるどころか動かないままで。
「クラクションの音で近所の人たちも出て来ちゃったから、そこで轢いたら大変だしね?」
「「「あー…」」」
そうだろうな、と思いました。動物愛護の精神で通報する人もいるかもですし、現場の写真を撮って直ちに拡散する人もいそうです。つまりは猫が姿を消すまで、トラック、立ち往生だったというわけですか…。
「そういうことだね、しかも誰も猫をどけようとはしなかったらしくて…」
トラックは十分以上も動けず、道は大渋滞になってしまったという話。あまつさえ、猫の喧嘩は噛み付き合った状態のままで徐々に移動し、側溝に落ちたというだけのことで。
「つまりね、トラックが走り去った後も喧嘩は続いていたんだよ。確か三十分だったか…」
「すげえな、その間、取っ組み合ったままだったのかよ?」
剥がれねえのかよ、とサム君が訊けば。
「取っ組み合いどころか、噛み合ったままだね。最後はフギャーッと凄い掴み合いで、後に沢山の毛玉がポワポワと…」
「「「うーん…」」」
そこまでなのか、と聞いて納得、猫の恋の凄さ。教頭先生があやかりたいのも分からないではありません。恋愛成就の神社が無理なら、せめて猫たちに踏んで行って欲しいと。
「…教頭先生、本気で壺を埋めるんですか?」
庭に、とシロエ君が確認すると、会長さんは。
「惚れ薬が完成したならね。…あと少しで出来るみたいだし…」
お約束のイモリで完成らしい、と吐き捨てるように。イモリの黒焼き、それを投入してからグツグツ煮込んで、布で濾して壺に詰めたら熟成。庭に穴を掘って壺を埋めておいて、その上の地面にマタタビやキャットフードなど。…なんとも怪しい惚れ薬ですが、本当に効くんですか、それ?
教頭先生の惚れ薬作りは格好の話題になりました。「そるじゃぁ・ぶるぅ」がサイオン中継で見せてくれた現場は教頭先生の家のキッチン、この暑いのにグツグツ煮えている大鍋。
「…真っ黒だよねえ…」
あんなの飲む人いるのかな、とジョミー君が悩んで、マツカ君が。
「薔薇色とかなら分かるんですが…。あの色はちょっと…」
惚れ薬とは思えません、と厳しい言葉。何処から見ても不味そうな出来で、会長さんに飲ませるなどは無理そうですが…?
「それがね、熟成させたら色が変わるというらしくてねえ…。成功したなら」
「「「へ?」」」
「だからさ、上手く出来たらの話! 熟成した後、薔薇色になっていたなら完璧らしいよ」
ハーレイの研究ではそうなっている、と会長さん。熟成期間を終えて掘り出した壺の中身が薔薇色に変わっていたなら完成品だ、と。
「本物が出来るというんですか、あれで!?」
シロエ君が驚き、キース君も。
「黒い液体が薔薇色か…。化学変化を起こしたならば、可能なのかもしれないが…」
それは効くのか、と訊きたい気持ちは誰もが同じ。会長さんは「さあ…?」と首を傾げて。
「どうなんだかねえ、ハーレイの研究なんだしね? しかも色々、混ぜちゃってるし…」
レシピは一つではないようだ、とズラリ挙げられた文献の数。古今東西、あちこちの文献を読み込みまくって美味しいトコ取り、使えそうなレシピは端から採用したらしく…。
「真っ黒なのが薔薇色になるっていうのは、その内の一つ。…熟成はまた別のレシピで、神社の境内に埋める方もまた別のヤツでさ…」
「…チャンポンなのか!?」
酒で言ったらチャンポンじゃないか、とキース君。チャンポンは麺かと思いましたが、いろんな種類のお酒を一度に飲むのがチャンポン、悪酔いするとかロクな結果にならないそうで。
「…惚れ薬でチャンポンは危険じゃないですか?」
お酒以上にヤバそうですが、とシロエ君の指摘。惚れ薬どころか嫌われる薬が出来上がるかもしれません、と。
「いいんじゃないかな、ぼくは飲むつもりはないからね」
惚れ薬と知ってて誰が飲むか、と会長さん。…そうでした、とっくにバレているんでしたっけ、教頭先生の惚れ薬作り。会長さんが飲むわけないんですから、チャンポンだろうが、失敗しようが、私たちには全く関係無いですよね?
合宿へ、修行体験ツアーへと旅立つ男子たちの壮行会を兼ねた屋上でのバーベキューが終わって、私たちは解散しましたが。次の日、スウェナちゃんと二人で会長さんの家へ出掛けてゆくと…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
今日はフィシスも一緒にお出掛けだよ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。フルーツパフェが美味しいお店へ出掛けるそうです、選んだ果物で作って貰えるスペシャルなもの。フィシスさんも先に来ていましたけど、教頭先生の惚れ薬作り、どうなったかなあ…?
「ああ、あれかい? 夜中に穴を掘ってたけどねえ?」
庭でせっせと、と会長さん。
「熟成用の壺にはビッシリ呪文で、それを特別な布で包んで、雨水とかが入らないように防水シートもかけたようだけど…」
ねえ? と会長さんがフィシスさんに視線を向けると、「ええ」と頷くフィシスさん。
「…占い師の立場から言わせて貰えば、防水シートは大いに問題がありますわね」
「「え?」」
どうして、とスウェナちゃんと揃って訊き返すと。
「あれこれ作り方にこだわったんなら、防水も昔ながらの方法にすべきだと思いますわよ?」
今どきの防水シートはちょっと…、と言われてみればそんな気も。でもまあ、神社の境内じゃなくて猫が踏んでゆく地面に埋めてる辺りで、先は見えているとも思えますし…。
「うん、成功するわけがないってね! どうかな、フィシス?」
「…占いですか?」
「どうなるのか興味があるからね。大失敗だろうと思うけれどさ」
占ってみてくれるかな、と会長さんが頼んで、フィシスさんは奥の部屋からタロットカードを取って来ました。会長さんの家にもカードが置いてあるのが流石です。それだけ頻繁に出入りしている証拠なんですし、教頭先生の惚れ薬は無駄だと思いますけど…。
そのフィシスさんはタロットカードをめくって占いを始めたものの。
「…大騒ぎになるみたいですわよ?」
「それは薬のせいなのかい?」
「さあ…。そこまでは分かりませんけど、波乱のカードが」
「「「…波乱…」」」
何が起こるんだ、とタロットカードを睨み付けてみても、答えは出て来ませんでした。次の日に占って貰っても同じ、その次の日も全く同じ。波乱のカードは変わらないまま、男の子たちが戻って来る日がやって来て…。
「かみお~ん♪ みんな、お疲れ様ーっ!」
合宿も修行も大変だったでしょ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。合宿や修行を終えた男の子たちの慰労会という名の焼肉パーティー、真っ昼間からがお約束。ワイワイ賑やかに肉を焼く中、キース君がふと思い出したように。
「…例の薬はどうなったんだ? 教頭先生が作っていたヤツは」
合宿期間中が熟成期間だった筈だが、という質問に会長さんが。
「今夜、掘り出すみたいだよ? 夏は日暮れが遅いからねえ、八時は過ぎるんじゃないのかな」
本人は早く掘りたくてウズウズしているみたいだけれど、と大きな溜息。
「ぼくとしては大いに迷惑だからね、出来れば掘らないで欲しいんだけど…」
「あんた、飲まないと言ってただろうが」
「そのつもりだけど、どう転ぶやら…。フィシスの占いでは波乱らしいから」
「「「波乱!?」」」
占いの件を知らなかった男子に、会長さんが説明を。カードは毎日、波乱だと告げていたのだと。
「フィシスの占いは外れないしね、何が起こるのか、もうビクビクで…」
「あんたが教頭先生に惚れる結果になるとかか?」
「無いとは言い切れないからねえ…。波乱だけに」
でも簡単には飲まされない、と会長さんも負けてはいません。サイオンで教頭先生の家を覗き見、しっかりと監視し続ける内に、焼肉パーティーは終了、午後のおやつをダラダラと食べて、夕食の時間。夏野菜たっぷりのエスニック料理が並んで満足、食後のマンゴージュースをストローで美味しく飲んでいたら…。
「ハーレイが庭に出てったよ。…スコップを持って」
いよいよ壺を掘り出すらしい、と会長さんの声が。
「…ほらね、こういう感じでさ」
指がパチンと鳴ったと思うと、壁に現れた中継画面。教頭先生が庭の隅っこをザックザックと掘り返しています。そっか、真ん中じゃなくて隅っこだったんだ…。
「猫が寛げるように隅っこらしいね、出来れば恋を語らって欲しいと」
「…その季節じゃないと思うんだが?」
キース君の突っ込みに、会長さんは両手を軽く広げてお手上げのポーズ。
「ハーレイだしねえ、思い込んだら一直線だよ。猫はそこそこ来ていたけれどさ、恋は語っていなかったねえ…」
踏んで行っただけだ、と会長さん。踏んで貰うことは出来たんですねえ、惚れ薬の壺…。
土の中から掘り出された壺は、青いビニールの防水シートに包まれていました。フィシスさんがダメ出しをしていたヤツです。もうこの段階で失敗だろうと思ったんですが、教頭先生がしっかり抱えて家の中へと運び込んだ壺は…。
「うわあ、呪文だらけ…」
いったい何が書いてあるんだろう、とジョミー君が息を飲み、会長さんが。
「あれも一種のチャンポンだねえ…。ありとあらゆる恋愛成就の呪文が一面に…」
せめて統一すればいいのに、と言っている内に壺の封が剥がされ、教頭先生が料理用のおたまを突っ込んで…。
「おおっ、出来たぞ!」
成功だ! と歓喜の表情、おたまの中身は真っ黒ではなくて薔薇色の液体。
「…出来たみたいですよ?」
薔薇色ですよ、とシロエ君が中継画面を指差し、会長さんが呆然と。
「…嘘だろう…! それでフィシスが波乱だと…?」
「そのようだな。あんた、飲んだら終わりだぞ、あれは」
教頭先生に惚れるしかないぞ、とキース君。
「どうやら成功したらしいしな? あの調子だと、今夜の内にも「飲んでくれ」と持っておいでになるんじゃないかと…」
「…そうなのかな? って、そのコースなわけ!?」
会長さんの悲鳴は当然と言えば当然でした。教頭先生、壺の中身をガラス瓶に詰めておられます。そのままでゴクゴク飲み干せそうなサイズの、ジュースか何かの空き瓶に。
「かみお~ん♪ これからお客様?」
ハーレイに何を出そうかな、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が浮かれてますけど、会長さんはそれどころではなくて。
「の、飲まないとは言ったけど…。言ったんだけど…!」
どうすれば、と半ばパニック状態。まさか惚れ薬が完成するとは夢にも思っていなかったという所でしょうか。何も完成したからと言って、飲まなきゃならないこともなさそうですが…?
「毒見してくれ、と言ってみたらどうだ?」
キース君の提案に、会長さんは飛び付きました。
「そうだ、その手があったよねえ…! 飲んでみてくれ、と言えばいいんだ!」
怪しい飲み物を持って来たなら王道の対応なんだから、と晴れやかな笑顔。教頭先生、惚れ薬の毒見は出来ないでしょうし、これで円満解決ですかねえ…?
それから間もなく、教頭先生が愛車で下の駐車場へとご到着。私たちは今夜はお泊まりコースに切り替え、会長さんのボディーガードを兼ねて居座り中です。暫くしたら玄関のチャイムがピンポーンと鳴って、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が飛び跳ねて行って…。
「ハーレイが来たよーっ!」
「…遅くにすまん。美味いジュースが出来たものでな」
飲んで貰おうと思って持って来たのだ、と教頭先生がリビングにやって来ました。提げている紙袋の中身は例の惚れ薬でしょう。これだけの大人数がいるとは予想もしなかったらしく、「すまん」とお詫びの言葉再び。
「…ジュースは一本しか無いのだが…。ブルーの分しか」
「ぼくの分だけ? ぶるぅのも無いと言うのかい?」
それは酷い、と会長さん。
「他のみんなの分が無いのは分かるけれども、ぶるぅのも作って来てないだなんて…。なんだか怪しい匂いがするねえ、一本だけだと言うのがね」
「いや、それは…。分量などの関係で…」
「そうかい? 壺に一杯、仕込んでたように思うんだけどね?」
ぼくの記憶が確かだったら、と会長さんの切り返し。グッと詰まった教頭先生に、会長さんは。
「あの壺の中身か、そうじゃないのか。…どっち?」
「もちろん、壺の中身ではない。ただのジュースだ、壺は壺だ」
これがいわゆる嘘八百。壺の中身の方ではない、と開き直った教頭先生、紙袋の中から例の瓶を。薔薇色の液体が詰まっています。
「どうだ、綺麗なジュースだろう? 美味いんだぞ、これは」
「じゃあ、飲んでみて」
「はあ?」
「毒見だよ、毒見。一人分だけって持って来られて、「はいそうですか」と飲むとでも?」
そのアイデアはキース君が出したんですけど、会長さんはもう完全に自分のものに。
「万一ってこともあるからねえ…。まずは一口、それだけでいいから」
「…し、しかし…」
「瓶から直接、飲んでくれてもいいんだよ? その後でぼくが瓶から飲んだら…」
間接キスになるんだけどねえ? と赤い瞳がキラリーン! と。瓶の中身が怪しくなければ、教頭先生は釣れる筈です。毒見するだけで会長さんが間接キスをしてくれるのですし、これで飲まなきゃ、怪しいジュースだと自白してるも同然ですって…。
「ほら、飲んで! ぼくと間接キスなんだから!」
会長さんが促しているのに、飲もうとしない教頭先生。会長さんに惚れて貰うための惚れ薬だけに、自分が飲んだら何が起こるか分からないといった所でしょうか。会長さんはフンと鼻を鳴らすと、ジュースの瓶を睨み付けて。
「知ってるんだよ、それの中身が惚れ薬だということはね!」
「…で、では…」
「飲むわけないだろ、そんな薬! 君が飲んだらいいと思うけど!」
惚れ薬だから、飲んでも何も変わらない筈! と会長さんは瓶を引ったくり、ポンと蓋を開けて。
「これをぼくが君に飲ませたってね、君は元からぼくにベタ惚れ、何も変わりはしないから!」
自分で飲め! と突撃して行った会長さん。身長の差を物ともせずにグイと背伸びして、教頭先生の顎を引っ張り、瓶の中身を無理やり口へと。
「「「わーっ!!!」」」
なんてことを、と私たちはビックリ仰天、教頭先生も驚きのあまり例の薬をゴックンと。会長さんは勢いに乗って「全部飲め!」と無理やり流し込んでしまい…。
「…あんた、けっこう無茶苦茶やるな」
教頭先生に飲ませるとは、とキース君が呆れて、シロエ君も。
「…いくら結果は変わらないのか知りませんけど…。惚れ薬ですよ、怪しいですよ?」
そんなものを強引に飲ませるなんて、と超特大の溜息、残る柔道部員のマツカ君は教頭先生の介抱中です。ゲホゲホと噎せておられる背中をトントン叩いて、擦ったりする内に…。
「…すまん、世話になった。申し訳ない」
教頭先生はなんとか復活、マツカ君に丁重に御礼を言うと。
「おお、こうしてはいられない! 急がねば!」
「「「え?」」」
「まだ起きているとは思うのだが…。明日のデートを申し込まないと!」
「「「デート?」」」
誰に、と会長さんの方を眺めましたが、教頭先生は「邪魔をしたな」とペコリとお辞儀。
「どうして此処へ来てしまったのかは分からんが…。急ぐので、これで失礼する」
「急ぐって…。何処へ?」
会長さんが訊くと、返った答えは。
「ブラウの家に決まっているだろう! 早く行かないと寝てしまうからな」
では、と回れ右、飛び出して行ってしまった教頭先生。ブラウって、ブラウ先生ですか…?
いったい何が起きたというのか、まるで分からなかった私たち。会長さんもポカンとしていましたけど、ようやく我に返ったようで。
「…ブラウって…。まさか、ハーレイ、ブラウとデートを…?」
有り得ない、とサイオンの目を凝らした会長さんですが。
「…ハーレイ、本気だ…。ブラウの家へと向かっているんだ、途中のコンビニで花まで買って」
「「「花!?」」」
「この時間に花屋は開いてないしね、とにかく花だとコンビニに…」
この通り、と映し出された中継画面。教頭先生の愛車の助手席に如何にもコンビニな薔薇の花束、運転する表情は恋に恋しているような顔で。
「マジでブラウ先生とデートなのかよ?」
あの花束で申し込みかよ、とサム君が唖然、ジョミー君も口をパクパクと。
「…なんでそういうことになるわけ、教頭先生、ブラウ先生なんかに惚れていたっけ…?」
「いや、知らん。俺も全くの初耳だが…」
どうなっているんだ、とキース君にも状況が全く掴めないまま、教頭先生、ブラウ先生の家にご到着。花束を抱えてチャイムを鳴らして…。
「ありゃまあ、ハーレイ、どうしたんだい?」
こんな時間に、と出て来たブラウ先生に、教頭先生はバッと花束を。
「そ、そのぅ…。良かったらデートして貰えないだろうか、明日、映画にでも…」
「デートって…。映画って、あんた、熱でもあるんじゃないのかい?」
誰かと間違えていないかい、とブラウ先生が目を丸くしていますけれど。
「いや、間違える筈があるものか! 私は昔からブラウ一筋で!」
「あー、なるほど…。分かった、あんた、酔ってるね?」
飲酒運転は良くないねえ…、とブラウ先生はガレージに停められた教頭先生の愛車を眺めて。
「仕方ないねえ、ちょいと荒っぽい運転になるけど、あんたの家まで送って行くよ」
キーを貸しな、と差し出された手に、教頭先生は感無量。
「なんと、ドライブしてくれるのか! しかも運転してくれると!」
「仕方ないだろ、飲酒運転だと分かったからには、きちんとフォローしておかないとね」
身内から逮捕者は出したくないんだよ、とブラウ先生は車に向かうと、運転席へ。教頭先生に助手席に座るように促し、エンジンをかけて…。
「帰りのタクシー代は出しておくれよ、そこの酔っ払い」
「もちろんだ! ついでに私の家で一杯やろう」
夜のドライブもオツなものだな、と教頭先生は御機嫌でした。ブラウ先生と二人で夜のドライブ、それから家で一杯やろうって、どう考えても変ですよ…?
何がどうなっているのか謎だらけのまま、ブラウ先生が運転する車は教頭先生の家に着きました。ブラウ先生は「タクシー代を寄越しな」と手を出しましたが、「まあ、一杯」と誘われて。
「ふうん…? 悪くはないねえ、あんたの酒のコレクションにも興味はあるし」
「本当か? では、是非、飲んで行ってくれ!」
とっておきのチーズもカラスミもあるし…、と教頭先生は歓待モード。ブラウ先生はいそいそと上がり込み、通されたリビングでソファに座って。
「ハーレイ、枝豆は無いのかい? 夏はやっぱり枝豆がいいと思うんだけどね」
「分かった、冷奴も用意出来るのだが…」
「いいじゃないか! 枝豆に冷奴、まずはそいつで楽しく飲もう!」
チーズとカラスミもよろしく頼むよ、とブラウ先生。教頭先生は早速枝豆を茹で始め、その間に冷奴とチーズとカラスミを並べ、生ハムも出そうとしています。教頭先生、ブラウ先生たちとも飲んだりすることは知ってますけど、家に招いて一対一って…。
「…変だよね?」
「何処から見たって変ですよ!」
おかしすぎます、とシロエ君がジョミー君に言った所へ。
「うーん…。惚れ薬の効き方、間違った方へ行っちゃったみたいだねえ…」
ブルーがブラウに、と後ろから声が。
「「「!!?」」」
誰だ、と振り返ったらフワリと翻った紫のマント。異世界からのお客様なソルジャー登場で…。
「惚れ薬を作っているというから、興味津々で見てたんだけど…。なんとも妙な結末に…」
ブラウの方に惚れるだなんて、とソルジャーは首を振りました。
「惚れ薬は成功したんだと思っていたけれど…。別の相手に惚れちゃう薬かあ…」
あのハーレイがブラウにねえ…、とソルジャーはなんとも残念そう。
「惚れ薬のお蔭で君も目出度くハーレイと恋に落ちるんだろう、と期待してたのに、肝心のハーレイがブラウの方に行っちゃったんでは…」
「ぼくとしては嬉しい気もするけどね? これで暑苦しく迫って来られる心配も無いし」
万々歳だ、と会長さんが言ったのですけど。
「本当に? …このまま行ったら、ハーレイはブラウ一筋になりそうだけどね?」
君のオモチャが無くなるのでは…とソルジャーは中継画面を覗き込みました。
「一時的なものならいいんだけどさ。あの惚れ薬は気合が入っていたからねえ…」
君を顧みなくなるのでは…、というソルジャーの心配は見事に当たって。
「…全く治っていらっしゃらないようだな…」
キース君が中継画面を眺めて溜息。私たちがいるのは会長さんの家のリビングです。
あれから日は経ち、山の別荘から戻って来た時にも教頭先生はブラウ先生にベタ惚れでした。幸か不幸か、ブラウ先生の方では、教頭先生が会長さん一筋だったことを御存知です。一種のゲームか何かであろう、と解釈なさったらしくて、楽しくデートをしておられて、今も…。
「ちょいと、ハーレイ! あっちの店も美味しそうなんだけどね?」
「ふむ…。では、夕食はあの店にするのもいいな」
「そうこなくっちゃ! それでねえ、今日は買いたいものがあってねえ…」
買ってくれると嬉しいんだけどね、とブラウ先生、教頭先生と仲良く腕を組んでお出掛け中。教頭先生は買い物と聞いて「任せておけ」と言ってらっしゃいますし…。
「あのポジションはぼくなんだけど!」
デートはしないけどハーレイは財布、と会長さんが不機嫌そうに。
「ぼくたちが別荘に出掛けてる間に、どれほどブラウに貢いだんだか…。腹が立つったら!」
「あんた、教頭先生をオモチャにするだけでは足りないのか?」
キース君の問いに、会長さんは。
「オモチャはもちろん必要だけれど、ハーレイからは毟ってなんぼなんだよ!」
なのにブラウが毟っているし、と文句を言っても、教頭先生はブラウ先生に首ったけ。デートの途中で会長さんがヒョイと姿を現したって、挨拶だけでおしまいというのが現状です。
「なんで惚れ薬でこうなったんだか…! 待ってれば治ると思うんだけど…」
その内にきっと、と会長さんが歯ぎしりしていると。
「…そのコースだと何日かかるかなあ…」
下手をしたら二ヶ月くらいかも、とソルジャーが降ってわきました。
「あの惚れ薬を分析したらね、かなり強力な成分が入っていたんだよ。精神に直接働きかけるってヤツで、ぼくの世界にも無い代物でさ…」
「分析って…。持って帰ってたのかい、あの薬を?」
いつの間に、と会長さんが訊くと、ソルジャーは。
「君がハーレイに飲ませた次の日! 覗き見してたら、ハーレイが捨てようとしていたから…」
壺ごと貰っておいたのだ、と話すソルジャーによると、教頭先生は自分が作った惚れ薬のことを覚えていらっしゃらないそうです。ゆえにゴミだと捨てようとしたのを、ソルジャーが横から貰った次第。教頭先生はソルジャーにも特に反応しなかったとかで…。
「普段だったら、君とそっくりって言うだけで歓迎して貰えるのにさ…」
お菓子も出して貰えなかった、とソルジャー、ブツブツ。貰えたものは惚れ薬の壺だけ、お茶も淹れては貰えなかったらしく。
「いったいどういう薬なんだ、とノルディに分析させたわけ。あ、ぼくの世界のノルディだよ? でね…、分析に回してる内に、ぶるぅがね…」
薬を持ち出して配って回ってしまったのだ、とソルジャーは頭を抱えました。悪戯小僧で大食漢なソルジャーの世界の「ぶるぅ」なだけに、好奇心の方も人一倍。謎の薬をジュースに混ぜてしまって配達、何も知らないソルジャーのシャングリラの人たちが飲んで…。
「騒ぎに気付いて回収したけど、二十人くらいに被害が出てる。配って回ったのがぶるぅだったからかな、ぼくのシャングリラでもブラウがモテモテ」
ぶるぅとブラウは音が似てるし…、と言うソルジャー。
「ぼくとノルディの推測だけどね、似たような別物に惚れることになるのがあの薬だね。だから、こっちのハーレイが君に飲ませても、君はハーレイに惚れる代わりに他の誰かに…」
それが誰かは分からないけれど、とソルジャーは額を軽く押さえて。
「とにかく間違えた薬なんだよ、おまけに強力。中和剤が無ければ二ヶ月くらいは効いたままだとノルディは言ったね、中和剤を急がせているんだけれど…」
今夜くらいまでかかるらしくて…、と頭痛を覚えているらしいソルジャー。
「実は、ぼくのハーレイも被害者なんだよ! ぶるぅが悪戯しちゃったお蔭で!」
ぼくを放ってブラウに夢中、とソルジャーは泣きの涙でした。変な薬を持って帰ってしまったばかりに夫婦の仲が壊れそうだと。
「もうすぐ海の別荘行きだし、それまでに治ってくれないと…! せっかくの結婚記念日が…!」
離婚記念日にしたくはないから、と焦るソルジャー、自分の世界のドクター・ノルディに発破をかけて来たそうです。中和剤を急げと、今夜までには、と。
「…その中和剤、君も欲しいなら貰って来るけど?」
飲ませなければハーレイは当分、あのままだけど、とソルジャーが告げると、会長さんは。
「即効性があるのかい、それは?」
「当然だろう? 直ぐに効かなきゃ意味ないし!」
飲ませたら一時間以内に効果が出る筈、とソルジャーは勝算があるようです。ソルジャーの世界のドクター・ノルディも出来ると保証していたとかで…。
「じゃあ、とりあえず…!」
出来たら譲って、と会長さんはソルジャーに頼み込みました。中和剤が出来たらよろしく、と。そしてその夜、ソルジャーが出来たばかりの中和剤を届けに来たのですが…。
「…あんた、中和剤を使わないのか?」
教頭先生はブラウ先生に夢中でいらっしゃるが、とキース君。今はお盆の棚経に向けて追い込みの最中、卒塔婆書きもクライマックスです。そんな日々でも息抜きだとかで、今日も会長さんの家に来ているキース君ですが…。
「中和剤かい? 急がなくてもいいんじゃないかな、いつでも元に戻せるんだしね」
ブルーの世界で実証済み、と会長さんの顔には余裕の笑み。
「あっちのハーレイ、一瞬で正気に戻ったと聞いているからねえ…。ついでに、トリップと言うのかなあ? あっちのブラウにぞっこんだった間の記憶も微かにあるらしいから…」
「らしいな、お蔭で夫婦円満だとか言ってやがったような…」
ソルジャーはとんと御無沙汰でした。「ぶるぅ」の悪戯でソルジャーを放り出してブラウ航海長に夢中だったキャプテン、その負い目からか、熱烈な夜だったと聞かされたきりで。
「ぼくもね、それを狙ってるんだよ、ハーレイの負い目というヤツを!」
存分に泳がせておいて正気に返す、と会長さんはニッコリと。
「海の別荘行きの誘いをかけたら、「付き添いならいいぞ」と言ったほどだしね? 教師の立場でついて来ようとしているんだし、もうギリギリまで放っておいて!」
中和剤を使うのは海の別荘に着いてからでもいいねえ、と恐ろしい案が。それは実行に移され、海の別荘では平謝りの教頭先生の姿が見られたわけですが…。ソルジャー夫妻も「ぶるぅ」も大いに笑って、笑い転げたわけですが…。
教頭先生が正気に戻って、会長さんに土下座しまくったその夜のこと。ソルジャー夫妻は早々に自分たちの部屋へと引っ込み、私たちが広間で騒いでいると。
「かみお~ん♪ みんなでゲームをしない?」
ちょっと面白そうなんだけど、と「ぶるぅ」がニコニコ。悪戯小僧の「ぶるぅ」です。
「…ゲームですか?」
どんなのですか、とシロエ君が尋ねたら、いきなりドカンと出て来た壺。謎の呪文が山ほど書かれた壺には確かに見覚えがあって。
「お、おい、この壺は例の…!」
惚れ薬の壺では、とキース君の声が震えて、「ぶるぅ」が「そだよ~!」と。
「えっとね、中和剤はちゃんと用意してあるから! みんなで飲まない?」
「「「みんな?!」」」
「そう! みんなでグラスに一杯ずつ入れて、歌いながら順番に回して行くの!」
歌い終わった時に持っていたグラスの中身を飲むんだよ、とニコニコニッコリ。
「ぼくには誰のグラスが来るかな、キースかなあ? キースのだったら、ぼくの好きな人、誰になると思う?」
「ちょ、ちょっと…!」
そんなゲームはお断りだから、と会長さんが慌てましたが、ぶるぅはやりたいらしくって。
「平気だってば、中和剤のことを忘れちゃってたら、ブルーが飲ませてくれるから!」
明日の朝にみんなの様子がおかしかったら飲ませるよ、って言ってくれたよ、と満面の笑み。
「だから絶対、大丈夫! ねえねえ、ゲームをやりたいよう~っ!」
みんなでやろうよ、と持ち込まれてしまった、恐ろしすぎる惚れ薬。教頭先生は顔面蒼白、私たちも震えが止まらないのですが、「ぶるぅ」はゲームだと主張しています。
「…おい、俺たちはどうなるんだ?」
「知りませんよ!」
ぼくがキース先輩に惚れても許して下さい、とシロエ君はもはやヤケクソでした。そうか、そういう結果になるかもしれないんですね、私がキース君に惚れるとか…。教頭先生に惚れるとか…。
「「「嫌すぎる~~~っ!!!」」」
ゲームは御免だ、と叫んだものの、ドカンと置かれたままの壺。もしかしなくても、ゲームをやるしかないんでしょうか。教頭先生、責任を取って一気飲みとかしてくれませんか、恐怖のゲームを回避するため、人柱ってことでお願いします~!
惚れ薬の誤算・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
教頭先生が頑張って作った、惚れ薬。無事に完成したんですけど、惚れる相手が大問題。
間違った相手に惚れてしまう薬で、それをゲームで飲めというオチに。大丈夫でしょうか?
次回は 「第3月曜」 4月19日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、3月と言えば春分の日で、春のお彼岸。今年は連休ではなくて…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(あれ?)
テントウムシだ、とブルーが見詰めた小さな虫。学校から帰って、おやつの時間。ダイニングのテーブルの上に、チョコンと一匹。赤い背中に、七つの黒い星を乗っけたテントウムシ。
艶々と光る丸っこい姿は可愛らしいけれど、テーブルに住んでいるわけがないから。
(くっついて来ちゃった?)
庭から、母に。そうでなければ、母が生けようと持って入った花に。
ちっちゃいよね、と眺めて、指でチョンとつついて、庭に戻そうかと考えていて…。
ほんの少しだけ目を離したら、テントウムシの姿は無かった。窓越しに庭を見ていた間に。
(いなくなっちゃった?)
消えてしまったテントウムシ。テーブルの上には紅茶のカップやケーキのお皿くらいだけ。順に動かして探したけれども、テントウムシは見付からない。テーブルの下を覗いてみても。
(…消えちゃった…)
ダイニングは広くて、入り込めそうな所が沢山。小さな虫なら。
その上、廊下に繋がる扉。それが細めに開いていた。テントウムシなら通れる程度に。あそこを抜けて、廊下に行ってしまったろうか。
床をチョコチョコ歩くのはやめて、何処かへ飛んで行っただろうか?
テントウムシには翅があるから、広げたら直ぐに飛び立てる。テーブルから上へ、扉をくぐって外の廊下へ、階段を抜けて二階にだって。
けれども、開いていない窓。玄関の扉も閉まったまま。テントウムシは外に出られない。いくら飛んでも、せっせと歩き回っても。
(家の中で迷子…)
庭には戻れず、家の中をぐるぐる回るだけ。此処はいったい何処なのだろうと、住み慣れた庭は何処に消えたのかと。
それはとっても可哀相だから、通り掛かった母に話した。「テントウムシが消えちゃった」と。
「さっき、テーブルの上にいたのに…。出してあげなくちゃ、と思ってたのに…」
直ぐに外へ出してあげれば良かった、見付けた時に。
もし見付けたら出してあげてね、可哀相だから。…お腹だって、きっと減っちゃうし…。
「心配しなくても、大丈夫なんじゃないかしら?」
ちょっと気が早いテントウムシだけど、冬になったら家の中で暮らしていることもあるの。
暖かいから、わざわざ人間の家に入って冬越しするのよ。
丁度良さそうな隙間を探して、潜り込んで。
引き戸の隙間なんかにね、と母は教えてくれた。春になるまで家の中よ、と。
(それなら安心…)
テントウムシが迷子になっても、春になるまで家で冬越し。暖かくなったら其処から出て来て、開いた窓を探すのだろう。風の吹いて来る方向は何処か、ちゃんと見付けて。
開いた窓や扉があったら、後は空へと飛び立つだけ。春になった、と。
行方不明になった時には慌てたけれども、家の中でも大丈夫らしいテントウムシ。良かった、と二階の部屋に帰って、勉強机の前に座って。
昨日の続きの本を読んでいたら、パタッと落ちた丸っこい虫。本の上に赤いテントウムシ。
(くっついてたの!?)
ぼくに、と驚いて目を丸くした。頭の上に乗っかっていたか、服の何処かに入っていたか。肩か背中にいたかもしれない、自分では気付いていなかっただけで。
(潰しちゃわなくて良かったよ…)
椅子に座った時に、お尻や背中で。テントウムシは小さいのだから、チビの自分の体重だって、確実に潰れてしまうから。
危なかった、と思った所へチャイムの音。仕事帰りのハーレイが門扉の脇で手を振っている。
せっかくだから、この珍客を披露しようと思った。窓から庭には、まだ出さないで。ハーレイが来る前に他所へ行かないよう、丁度あった小さな空き箱に入れて。
暫くしたら、母が案内して来たハーレイ。いつものテーブルと椅子で向かい合うなり、その箱を開けて中身を見せた。
「あのね、ハーレイ…。こんなのが、ぼくにくっついて来ちゃった」
テントウムシ。…おやつの時間にダイニングにいたけど、行方不明になっちゃって…。
ついさっき、落ちて来たんだよ。本を読んでたら、机の上に。
ぼくと一緒に来ちゃったみたい。髪の毛か、服にくっついちゃって。
「テントウムシか…。そりゃ運がいいな」
お前、いいことあるんじゃないか。今日か、それとも明日かは知らんが。
「えっ、いいことって?」
運がいいって何のことなの、虫がくっついて来たらいいことがあるの?
「そうだが…。何の虫でもいいわけじゃない」
テントウムシなら、幸運なんだ。幸運を運んでくれる虫だし、それがくっついてくれたらな。
「そうなんだ…!」
知らなかったよ、幸運だなんて。テントウムシって、そういう虫なんだ…。
何かいいことあるといいな、と顔を綻ばせたけれど。
空き箱の中の幸運の使者を、赤い背中を見詰めたけれど…。
(テントウムシ…?)
それに幸運、くっついて来ると幸せを運ぶらしい虫。
知っているような気がして来た。けれど自分が知っているなら、見付けた時に気付いた筈。本の上にポトリと落ちて来た時に、「今日はツイてる」と、幸運が来ることを思い出して。
なのに全く気付かなかったし、だとしたら、これは今の自分の知識ではなくて…。
「…前のぼく、知ってたみたいだよ。テントウムシのこと」
くっついて来たら幸せなんだ、って知っていたように思うんだけれど…。
「お前、色々な本を読んでたからなあ、そのせいじゃないか?」
人間が地球しか知らなかった頃から、テントウムシは幸運の虫なんだから。ずっと昔からな。
「そうなのかも…。本で読んだのかも…」
でも、と心に引っ掛かる記憶。テントウムシと、テントウムシが運ぶ幸運と。
それにシャングリラ、白い鯨までが絡む記憶だという気がするから、尋ねてみた。
「ねえ」と鳶色の瞳を見詰めて。
「…テントウムシ、シャングリラで飼っていたかな?」
白い鯨に改造した後、あの船の中で…?
「おいおい、まさか…。シャングリラの中でテントウムシって…」
害虫を退治してくれるんだから、役に立たない虫ではないが…。
その害虫がいなかった船だぞ、シャングリラは。害虫がいなけりゃ、役に立つも何も…。
飼っている意味が無いわけなんだし、テントウムシなんかはいなかったな。
「だよねえ…?」
虫って言ったら、ミツバチだけの船だったよね?
蝶だって飛んでいなかったんだし、テントウムシがいるわけないよね…。
理屈では分かっているのだけれども、やはり引っ掛かるテントウムシ。
白いシャングリラに、テントウムシはいなかったのに。ハーレイもそう言っているのに。
もしもテントウムシがいたとしたなら…。
「テントウムシ…。前のぼくが、くっつけて帰るなんてことは…」
外に出た時、服にくっつけて帰って来たりはしないよね?
アルテメシアには何度も降りたけれども、虫と一緒に船に帰ってしまうようなことは…。
「無いな、お前はきちんと気を付けてたしな」
余計な虫が紛れ込んだら、生態系ってヤツが乱れるし…。生態系って呼べるほどには、ご立派なモンじゃなかったが…。
それでも木や草や花や、野菜なんかを育ててたわけで、虫一匹でも馬鹿には出来ん。
前のお前は船に戻る前に、サイオンで全部追い払ってだな…。
待て、それだ!
くっついて来たんだ、とハーレイが言うから見開いた瞳。
「…くっついて来たって…。前のぼくに?」
「ああ、救出の下見に出掛けた時に」
テントウムシを連れて来たんだ、くっつけたままで戻ったぞ、お前。
「ええっ!?」
それって、とっても大変じゃない!
害虫じゃなくても、シャングリラに虫を持ち込んだなんて…!
まさか、と息を飲んだけれども。前の自分がミスをする筈が無い、と考えたけれど。
(…テントウムシ…?)
マントの下から、コロンとそれを落とした記憶。テーブルの上に。
本当だった、と思った途端に、鮮やかに蘇ったテントウムシを巡る出来事。ミュウの子供を救出するべく、下見に出掛けたアルテメシアの住宅街。
「思い出したよ、ヤエの時だっけ…!」
ヤエの救出をどうしようか、ってヒルマンたちと相談していた時だよ。
「勘が鋭い子だったからなあ、ヤエって子は」
どのタイミングで救い出すかで、救助班のヤツらも悩んでいたんだ。それで俺たちに話が来た。普段だったら、立てた作戦の計画をチェックするんだが…。
ヤエの時には、「どうしましょうか」と、計画自体を訊いて来やがった。
まだ当分は大丈夫そうだし、急がなくてもいいだろうか、と。それとも急いだ方がいいのか。
どっちなんだ、ってことになったら、経験豊富な年配者たちの出番だってな、そういった時は。
あいつらが悩んでいたのも分かる、とハーレイがついた大きな溜息。
幼かったヤエは、自分で上手くやっていたから。
他の人間には無いらしい力、サイオンを隠して、ごくごく普通の子供のふり。
けれど、いずれはバレるもの。
どんなに上手く隠していたって、成人検査はパス出来ない。
何かのはずみに心理検査を受けさせられても、やっぱりバレてしまうだろう。ミュウなのだと。
ヤエは失敗していなくても、他の子供の派手な喧嘩に巻き込まれたなら、有り得る検査。
感情の激しい子供はミュウの疑いがあるとされているから、検査する。そのついでにヤエも、と連れて行かれたら誤魔化せない。小さな子供の力では、とても。
人類の世界で暮らす以上は、常にリスクが伴うもの。危機がいつ来るかは分からないもの。
長老たちが集まる会議で焦点になったのも、その部分。
ヤエは幸せに暮らしているから、今の幸せを見守るべきか。それとも船に連れて来るべきか。
「お前、早めがいいと思う、と言い出して…」
しかし、ヤエの気持ちも尊重したいし、どうするか考え込んでしまって…。
養父母と一緒に暮らせる幸せ、シャングリラに来たら消えちまうからな。二度と会えなくなってしまうし、家に帰れもしないんだから。
「…それで見に行って来たんだっけね…」
船から思念で見ているだけでは、分からないことも多いから…。
ホントに幸せに過ごしているなら、ギリギリまで待つのがヤエのためだし…。
どんな家だか、見て来よう、って。思念体じゃなくて、身体ごとね。
だって、その方が色々なことが掴めるもの。
そう考えたから、ヤエの家まで出掛けて行った。白いシャングリラから地上に降りて。
気配を隠して庭にいたのに、姿は見えない筈だったのに…。
(ヤエが窓からヒョイと覗いて…)
まだ小さいのに、眼鏡だったヤエ。
その眼鏡を外して、またかけ直して、窓越しにこちらを見詰めて来た。真っ直ぐ、見えない筈の自分を。「あそこにいる」と気付いた顔で。
ヤエの視線は逸れなかったから、「まずい」と慌てて撤収した。
見詰めているヤエは、サイオンの瞳で見ていることに気付かない可能性も高いから。
庭を指差して「誰かいるの」と親に告げたら、ヤエの努力が台無しだから。
(…ミュウを見たこと、無いんだものね…)
姿を消すような力を持つとは、ヤエは知らないし、気付くかどうか。気付けば黙っているだろうけれど、幼いだけに「ホントにいるの」と言い張ることもありそうなこと。
けれど自分が消えてしまったら、「あれも変なもの」と分かる筈。
養父母に「見た」と言いはしないで、心に仕舞っておくだろう。サイオンを隠しているように。
急いで帰ったシャングリラ。空も飛ばずに、瞬間移動で。
ヤエの家から青の間に飛んで、忘れていた虫を追い払うこと。船に入る前にサイオンで、軽く。
そして招集した長老たち。ヤエの救出は急ぐべきだ、と。
「まだ心配は要らんじゃろうが」
利口な子じゃと聞いておるわい、緊急性は無さそうじゃが…?
もう少しばかり、親元に置いてやってもじゃな、とゼルが引っ張った髭。
シャングリラに来た子供たちは皆、引き離された親を恋しがるから。…ユニバーサルに通報した人間が親だった時も、そうとは知らずに。
「でも、ぼくがいるのに気が付いたんだ」
姿を隠して庭にいたから、普通のミュウなら気付かないのに…。
あの子は思った以上に敏いよ、それだけ危険が高いってことだ。サイオンがかなり目覚めてる。何かあったら、直ぐに爆発しかねないほどに。
「気付いたのかい、あんたの姿に。それはマズイかもしれないねえ…」
急ぎで救出させようか、とブラウが言った時、テーブルの上にコロンと落ちたテントウムシ。
マントの下に入っていたのか、胸元から。
赤い背中に黒い星が七つ、丸くて小さなテントウムシ。船にはいない筈の虫。
ヤエの話は途切れてしまって、皆の瞳が釘付けになった。テーブルの上のテントウムシに。
「なんだい、それは?」
ブラウが訊くから、バツが悪くて口ごもりながら。
「…テントウムシ…かな?」
ぼくが持ち込んでしまったみたいだ、ヤエの家から。…庭にいた間にくっついたらしい。
「よほど慌てておったんじゃろう。普段はきちんと見ておるからな」
妙な虫を船に持ち込まないよう、戻る時には。
サイオンで追い払うのを忘れたんじゃな、とゼルも見ているテントウムシ。
「ごめん…。ぼくとしたことが、ウッカリしていた」
直ぐに出すよ、とテントウムシを手に取りかけたら、「急がなくても」とヒルマンの声。それは幸運の虫なのだから、と。
「テントウムシがくっついて来ると、幸運が来ると言うのだよ」
そう言うそうだよ、ずっと昔から。…人間が地球だけで暮らしていた遠い昔からね。
「ええ、聖母マリアのお使いですから、テントウムシは」
幸せを運ぶそうですよ、とエラも頷いたテントウムシ。幸運を連れて来たのでしょう、と。
「それでは、ソルジャーに幸運が?」
来るのでしょうか、とハーレイが興味深そうにテントウムシを眺めたけれど。
「どうなんだかねえ、幸運を貰うのはヤエじゃないのかい?」
今までにこんな事件は一度も無かったからね、とブラウが指でチョンとつついたテントウムシ。
あの子は強運なんじゃないかと、この船で幸せを掴むんだろう、と。
「そうだね、ヤエの方がいい」
ぼくなんかよりも、ヤエが幸運を貰うべきだろう。ヤエの人生は、これからだから。
ミュウの未来を担う子供には幸運があった方がいい、と指先で触れたテントウムシ。七つの星を背負った背中。この虫は後で、ヤエの家の庭に返しておこう、と。
「それで、救出はいつにするんじゃ?」
わしらが計画を立ててやらんと、救助班のヤツらも困るじゃろう。「急げ」だけでは。
具体的な案というヤツをじゃな…、とゼルが元へと戻した話題。テントウムシから。
「タイミングを見るのが大切だろう。でも、出来るだけ早い方がいい」
期間は短くしたいけれども、どのくらい…、と皆に意見を求めた自分。
直ぐにでも救助に向かえるけれども、ヤエの家での暮らしも守ってやりたいし、と。
そうしたら…。
「一週間でいいと思うよ、テントウムシのお告げだからね」
七日後がいいと思うんだがね、とヒルマンが不思議なことを言うから。
「お告げって…?」
テントウムシは喋っていないと思うけど…。いったい何がお告げなんだい?
「この背中だよ。黒い星が七つあるだろう?」
聖母の七つの喜びと七つの悲しみ、それを表しているんだそうだ。テントウムシの七つの星は。
星が七つだから、一週間といった所だろうと考えたわけで…。
一週間後なら、長すぎもしないし、短すぎもしない。救助班の準備も充分出来るだろう。
ミュウと発覚してからの救助と違って、ヤエを連れて来るというだけだから…。
きっとそのタイミングで上手く運ぶさ、と穏やかな笑顔だったヒルマン。
「それは予知かい?」と前の自分も、ゼルやブラウたちも、テントウムシを見て笑ったけれど。背中の七つの星を数えて、一週間後と決まった救出。
今から直ぐに準備を始めて、一週間後にヤエを船に迎える。万一の場合は、もっと早くに。
前の自分がくっつけて戻ったテントウムシ。それが会議の行方を決めた。ヤエをシャングリラに迎え入れる日は、一週間後にすべきだと。背中に背負った黒い星の数で。
会議が終わった後にヒルマンとエラから聞いた話では、赤い背中も聖母の色。聖母マリアが纏うローブに使われる赤。青いマントに赤いローブの聖母の絵画が多いという。
赤は聖なる愛、青は真実を示す色。聖母の衣の赤を纏ったテントウムシ。「聖母のカブトムシ」とか、「聖母の鳥」とか、様々な名を持つ聖母の使い。
それが幸運を運ぶと言うなら、幸せを連れて来るのなら…。
(助けに行くまで、ヤエを頼むよ)
あの子をよろしく、と瞬間移動で帰してやったテントウムシ。
ヤエの家の庭に、ヤエが自分を見付けた辺りに。
救出までに一週間。一刻を争うわけではないから、充分にあった準備期間。
救助班の者たちは計画を練って、シャングリラではヤエを迎える部屋の用意が始まった。どんな部屋や家具を好みそうな子か、揃えておいてやるべき物は…、と。
そうする間も、人類の世界では何も起こらず、ヤエはミュウだと知られないままで…。
「ホントに丁度七日目だっけね、ヤエの救出」
ヒルマンが言ったテントウムシのお告げ通りに、一週間後。
どうやってヤエを説得するのか、救助班の仲間は色々考えて行ったのに…。
お菓子に釣られてついて来そうな子供じゃないから、シナリオ、山ほど考えてたのに…。
「すっかり無駄になっちまったなあ、あいつらの努力」
自分の方から、スタスタ近付いて行ったんだから。人類のふりをしていた救助班のヤツに。
遊びに行ってた友達の家から、帰る途中のことだったっけな。
「うん…。ぼくも船から見てたけれども、ビックリしちゃった」
チラッとそっちの方を見たな、と思ったら近付いて行くんだもの。「こんにちは」って。
知り合いの人に会ったみたいに、ニコニコして。
ホントにビックリ、と今でも思い出せる光景。幼かったヤエの救出の時。
庭に隠れていた自分に気付いたくらいに、目覚め始めていたサイオン。それにヤエの資質。
勘の鋭い子供だったから、一目見ただけで仲間を見分けた。「同じ種類の人間だ」と。
そして思念波で投げ掛けた問い。「迎えに来たの?」と。
面食らったのは、救助に向かった仲間の方。
まるでシナリオには無かったのだから、「あ、うん…。まあ…」と思念を返すのが精一杯。
けれどもヤエは途惑いもせずに、思念を紡いで無邪気に訊いた。「何処へ行くの?」と。
「シャングリラだ」と貰った答え。同じ仲間が集まる船だと、雲の中にあると。
コクリと大きく頷いたヤエ。「一緒に行く」と、救助班の仲間の手をキュッと握って。
後は大人と子供の散歩。誰も怪しまない、微笑ましいだけの大人と子供。
ヤエはそのまま家には帰らず、隠してあった小型艇に乗って、白いシャングリラにやって来た。好奇心に瞳を輝かせながら、空の旅を充分に満喫して。
そんなケースはヤエの時だけ。
自分から声を掛けた子供も、自分から「行く」と言い出した子も。
船に着いても、皆を質問攻めにしたヤエ。格納庫で迎えたハーレイや長老たちはもちろん、他の仲間も片っ端から。
「この船は何処へ行く船なの?」とか、「どうして私たちは他のみんなと違うの?」だとか。
船の設備にも興味津々、隅から隅まで見て回った。子供でも入れる所は全部。機関部にも入ってみたがったけれど、「危険だから」と諭されて渋々、小さな覗き窓から覗いた。
ヤエの噂はアッと言う間に船に広がり、何処に行っても歓迎された。「何を見て行く?」と。
長老たちが集まるお茶の席でも、自然と話題になるのはヤエで。
「流石はテントウムシの子だよ、ヤエはね」
将来はきっと大物になるに違いないよ、とブラウも高く買っていた。いずれブリッジに来そうな気がする、と。「でも、それだけでは終わらないね」とも。
「シャングリラの役に立ってくれそうじゃな」
女の子じゃが、仕込めば機械にも強くなれると思うんじゃ。こう、今からじゃな…。
英才教育をしてみたいんじゃが、とゼルも惚れ込んだヤエの才能。「あの子は伸びる」と。
「そうだね、ヤエは幸運の子だしね」
テントウムシの、と前の自分が浮かべた笑み。
「この船で幸せになって欲しいよ」と、「ヤエが自分で選んだ道なんだから」と。
他の子供たちとは違ったヤエ。
追われて仕方なく来たのではなくて、家も両親も捨てて、白いシャングリラを取ったのだから。
此処に来ようと、このシャングリラで生きてゆこうと。
前の自分は「幸せになって欲しい」と、ヤエの幸福を願ったけれど。
テントウムシが運ぶ幸運、それを持つのがヤエだったけれど…。
「ハーレイ、ヤエって確か…」
前のぼくが死んじゃった後で、トォニィとアルテラが仲良く喧嘩してるのを聞いて…。
泣いちゃってたって言ってなかった?
格納庫でトォニィの船の調整をしていた時に。
「アレなあ…。若さを保って八十二年っていうヤツだろ?」
青春してるな、と羨ましがって泣いていたのを、聞いちまったんだよな、前の俺がな…。
お前を失くしちまった後の、俺の数少ない笑いの一つだったな、あの時のヤエは。
「いったい何がいけなかったの」と悔しがっていたが、本当に何が駄目だったんだか…。
八十二年も若さを保って頑張るからには、片想いのヤツでも心にいたか…。
それとも全くアテも無いのに、恋に恋する乙女だったか。
まさか訊きにも行けないからなあ、あれっきりになってしまったが…。
どうなったんだか、ヤエの女心というヤツは。
恋の方では、幸運、掴めていなかったよなあ、あの時点では…。
「そうだよねえ?」
好きな人をちゃんと捕まえていたら、そんな所で泣かないし…。
コッソリ聞いちゃったハーレイが笑うことだって無くて、ヤエは幸せ一杯だもんね?
ゼルとブラウが読んだ通りに、立派に育ったテントウムシの子。強運のヤエ。
分析担当のブリッジクルーとして、エンジニアとして、ヤエは優秀だったのだけれど。
本当に強運の子だったけれども、幸運は手に入ったろうか?
一人の女性として夢を描いていただろう幸福、愛する人と一緒に暮らす幸せは。
「…どうなんだろうね、ヤエ…。ちゃんと幸せになれたと思う?」
テントウムシに貰った幸運、シャングリラだけで使い果たしていないよね?
ブリッジクルーで、エンジニアで…。とても凄いけど、それだけで幸運、無くなっちゃった?
ヤエの恋が実る分の幸運、少しも残っていなかったとか…?
「生憎と俺も死んじまったから、あの後は知らん」
幸せな結婚が出来たのかどうか、最後まで独身のままだったのか。
そうは言っても、ヤエだからなあ、記録を調べりゃ分かるんだろうが…。
あれほどの人材はそうはいないし、トォニィとキャプテン・シドの時代も船を支えていた筈だ。
シャングリラが役目を終えた後にも、引く手あまただったとは思うんだが…。
そいつはヤエの腕が目当てでだ、求婚者が列を成すってわけではないからなあ…。
「ヤエの記録は、確かに残っていそうだよね…」
重要人物ってほどではなくても、記録を残して貰えるだけの功績は積んでいるんだし…。
キースがコルディッツでミュウを人質に取った時にも、ヤエのお蔭で救出できたんだから。
ゼルの船にステルス・デバイスを搭載しておいたのって、ヤエなんだものね。
きっと記録は残っているよね、ヤエがシャングリラを離れた後も。
白いシャングリラが無くなった後に、強運のヤエは何処へ行ったのか。
とうに結婚相手を見付けて、その人と一緒に旅立ったのか、旅立った先で恋をしたのか。
記録は何処かにあるだろうけれど、調べれば答えは出るだろうけれど。
「…調べない方がいいのかな?」
ヤエは幸せを捕まえたのか、羨ましがるだけになっちゃったのか。
もしもテントウムシがくれた幸運、シャングリラで使い果たしていたら…。
なんだか凄く申し訳ないし、ヤエだって知られたくないと思うし…。
「そうだな、恋は最後まで手に入らなかったかもしれないからなあ…」
才能の方では引く手あまたでも、「天は二物を与えず」と言うし。
もっとも、お前は幾つも持っているようだが…。
前のお前も今のお前も、優秀な頭も、恋も、とびきり綺麗で誰もが見惚れる姿も持ってる。
今のお前はまだまだチビだが、いずれ美人に育つんだから。
しかしだ、ヤエは美人と言うには…。どちらかと言えば可愛らしい方で、愛嬌だしな?
誰もが恋をしたがるタイプの女性とは少し違っているよな、人を選ぶというヤツだ。
「うーん…」
人を選ぶって言葉は、そういう時に使うんだっけ?
だけど、ヤエの魅力も、分かる人には分かる筈だと思うんだけど…。
とっても頭が良くて賢くて、おまけに可愛らしいんだから。
八十二年も放っておかれたみたいだけれども、それって、ヤエが間違えていない?
とっくに恋人がいるような人を好きになっても、駄目なんだもの。
前のぼくとか、ハーレイとかをね。
「…前の俺だと!?」
それは考えてもみなかった…。前のお前の方ならともかく、前の俺ってか?
もしもそうなら、選択ミスだな。俺にはお前がいたんだから。
前のお前に惚れてたにしても、結果は同じなんだがな…。
恋人がいる人に恋をしたって、恋は決して実りはしない。
横取りしようとしても出来ない、横から奪えるような恋なら、それは本物の恋とは違う。
たまにはそういう恋もあるけれど、奪い取った恋が本物のこともあるのだけれど。
「…ヤエって、間違えちゃっていたかな…?」
前のぼくを好きでもハーレイがいたとか、ハーレイを好きでも、ぼくがいたとか。
ぼくの方ならフィシスがいたから、諦めだってつきそうだけれど…。
ハーレイだったら誰もいないし、そう思い込んで好きだったかもね?
いつか振り向いてくれるといいな、って思い続けて、八十二年も頑張ったのかも…。
「…俺じゃなかったと思いたいんだが…」
ゼルとかヒルマンとか、他にもいるだろ、恋人のいない渋い男なら。
しかし、前の俺だったという可能性だって否定は出来んか…。
薔薇の花もジャムも似合わないから、モテるわけがないと思っていたが…。
蓼食う虫も好き好きなんだし、ヤエの好みのタイプだったってことも有り得るな、うん。
「…ぼくも悪趣味だって言うわけ?」
前のハーレイが好きだったんだよ、今のハーレイも大好きだけど。
ぼくの趣味まで変に聞こえるから、蓼食う虫も好き好きっていうのは言い直してよ!
「すまん、すまん」
お前の趣味は悪くない。…ちょっと変わっているってだけでだ、悪趣味とは少し違うよな。
「それ、言い直せていないから!」
もっと上手に言えないの?
ハーレイ、古典の先生なんだし、言葉も沢山知っているのに…。
そんな調子だから、前のハーレイだって気付かなかったかもしれないよ?
ヤエが「好きです」って打ち明けてるのに、「そりゃ光栄だな」って笑って終わりだったとか。
絶対そうだよ、ヤエが好きだったの、前のハーレイだったんだよ…!
八十二年も若さを保って頑張ってたのは、振り向いて貰うためだったんだよ…!
きっとそうだよ、とハーレイを軽く睨んでおいた。「鈍いんだから」と。
ヤエが本当にハーレイに恋をしたかはともかく、「蓼食う虫も好き好き」などと言われたから。今の自分も前の自分も、悪趣味なのだと決め付けたのがハーレイだから。
(…ヤエに「すまん」って何度も謝るといいよ、心の中で…!)
全部ハーレイが悪いんだから、と苛めてやった鈍い恋人。自分を悪趣味だと言った恋人。
ヤエもハーレイが好きだったろうか、今となっては分からないけれど。
ハーレイが気付いていなかっただけで、ヤエはハーレイを見ていたろうか…?
そうだったとしても、強運のヤエは、幸せだったと思いたい。
欲しかった恋が手に入らなくても、テントウムシの子だったから。幸運の子供だったから。
(…きっと幸せだったよね…?)
シャングリラが地球を離れた後も。
いつも見詰めていたかもしれない、前のハーレイがいなくなっても。
テントウムシに貰った幸運を背負って、何処かの星で。
もしかしたら恋まで手に入れてしまって、それは幸せな人生を。
テントウムシは幸運を運ぶ虫だから。
ヤエは幸運のテントウムシの子、背中に七つの星を背負ったテントウムシと一緒だったから。
白いシャングリラにたった一度だけ、姿を見せたテントウムシ。
それが運んだ幸運はきっと、ヤエのためだけにあったのだから…。
幸せだっただろうヤエ。恋は出来なくても、何処かの星で。
恋を手に入れたら、もっと幸せだったろう。一緒に生きる人を見付けて、いつまでも、きっと。
子供だって生まれていたかもしれない、今の時代は当たり前の自然出産児。
ヤエが母親になっていたなら、きっと、幸せな子供が育っただろう。
(お母さんになっても、ヤエなら完璧…)
子育ても、料理も、全部楽々とこなしていって。子供と沢山遊んでやって、愛を注いで。
そういう姿が見える気がする、小さなテントウムシの向こうに。
今の自分にくっついて来た、赤い背中の丸っこい虫に。
「ハーレイ、このテントウムシ…」
ぼくにくっついて来ちゃったけれども、やっぱり放してあげなくっちゃね?
ママは「家の中で冬越しするのよ」って言っていたけど、まだ冬越しには早いから…。
「その方がいいな、暖かい間は、外でのんびりしたいだろうしな」
こいつの幸運、お前が貰っておくんだろ?
今度もお前にくっついて来たが、前のはヤエに譲っちまったし…。
「あれは最初から、ヤエのだったと思うけど…」
このテントウムシは、ぼくにくっついて部屋まで来たし…。
テントウムシの幸運を譲りたい人もいないしね。…ハーレイの他には。
ハーレイにはちょっぴり譲りたい気分。
さっきは苛めてしまったけれども、ハーレイと幸せになりたいんだもの。
「なるほどな…。俺には譲ってくれるんだな」
だったら、二人で分けることにするか。
こいつが運んでくれる幸運、お前と俺とで半分ずつだ。
それでいいだろ、それなら一緒に幸せになれる。今でも充分幸せなんだが、もっと、ずっとな。
テントウムシに幸せを貰うとするか、とハーレイがパチンと瞑った片目。
こいつの幸運は半分ずつだ、と。
「俺が半分、お前が半分。…上手い具合に、テントウムシの背中、半分ずつになってるし…」
翅を広げりゃ、丁度半分に分かれるってな。真ん中から。
「ホントだね…! なんだか相合傘みたい」
名前を書きたい気分だけれども、そしたら背中の星が見えなくなっちゃうし…。
じゃあ、ぼくが、こっち。こっちの半分が、ぼくの幸せ。
「よしきた、俺がこっち側だな」
それじゃ窓から放してやるか。こいつは指先から飛んで行くから…。
幸せが多めに来るよう、お前の指に止まらせてやれ。そう、そんな風に。
俺がこうして手を添えておくから、そうすりゃ二人で放せるだろう?
ほらな、とハーレイが導いてくれた手。右手の人差し指の先っぽ、テントウムシを止まらせて。
そして二人で窓を開けたら、空に飛び立ったテントウムシ。
(ちゃんと飛んだよ…)
ぼくとハーレイの手から飛んだよ、と見えなくなるまで見送った。
ハーレイと二人、手を握り合って。
空に放ったテントウムシが、幸せに飛んでゆくように。
自分たちにも、幸運がやって来るように。
白いシャングリラに紛れ込んでいた、一度だけ来たテントウムシ。
あのテントウムシはヤエのものだったけれど、今度は自分のものだから。
チビの自分にくっついて来た、幸運を運ぶテントウムシ。
ハーレイと幸運を分け合ってもいい、二人だけのための小さなテントウムシなのだから…。
テントウムシ・了
※前のブルーが、たった一度だけ、シャングリラに持ち込んでしまった虫が、テントウムシ。
幸せを運ぶという虫の幸運は、ヤエが貰ったらしいです。最後まで、幸せに暮らした筈。
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(今日は、出汁巻きにしてみるかな)
美味いからな、とハーレイが作り始めた出汁巻き卵。ブルーの家には寄れなかった日に、一人で食べる夕食のために。他にも料理は作るけれども、何故か食べたくなった出汁巻き。
(ふわりとしているトコがいいんだ)
出汁をたっぷり含んでいるから、卵焼きより柔らかい食感。厚みがあっても、卵焼きほど重くはならない口当たり。ただ、出汁で卵を緩めるのだから…。
(巻き方がちょいと難しいってな)
薄く焼いて幾重にも巻いていくのは難しい。出汁を含んだ分、火を通しても破れやすいから。
もっとも、出汁巻きを何度となく作った、自分にとっては容易いこと。破れないようにクルクル巻いてゆくのも、火を通してゆく加減の方も。
隣町に住む母の直伝、子供の頃から教わったから。他の色々な料理と一緒に。
(上手く焼けると嬉しかったんだ…)
まだ下手だった子供の頃は。今日は一度も破れずに焼けたとか、綺麗な形に巻けたとか。
ふわふわの出汁巻きを同じ厚みの層を重ねて焼き上げるには、やっぱりコツが要るものだから。
今の自分は、鼻歌交じりにヒョイヒョイと巻いてゆけるけど。
卵焼き専用の卵焼き器を熱して、フライパンよろしく気軽に作ってゆけるのだけれど。
いい感じだな、と出汁で溶いた卵を流し入れては、薄い層を焼き上げて巻いてゆく内に…。
おや、と頭を掠めたこと。出汁巻きだな、と。
残りの卵は丁度一回分、これを流したら出来上がり。薄く焼いて巻いて、ポンと皿に移して。
(…出汁巻きか…)
此処の料理だな、と眺めたそれ。ホカホカと湯気を立てているそれは、日本の料理。遠く遥かな昔の島国、其処で生まれた料理が出汁巻き。卵焼きだって。
今の自分が暮らす地域は、日本の文化を復活させて楽しんでいる。和食と呼ばれた食文化も。
生まれた時から馴染んでいたから、すっかり慣れていたけれど。出汁巻き卵も、卵焼きの方も、ごく平凡な料理だけれど…。
(シャングリラには無かった料理なんだ…)
今の今まで気付かなかった、と改めて見詰めた出汁巻き卵。他の料理は出来上がっているから、これを食べやすい大きさに切れば夕食という運び。
(ただの出汁巻きに過ぎないんだが…)
今夜の主役はこいつらしい、と皿を選び直すことにした。焼き上がりを載せたシンプルな皿は、食卓の主役に似合わないから。
もっと素敵な皿に載せよう、切り分けて綺麗に盛り付けて。
(和食の店で出て来る時には、うんと偉そうな顔だしな?)
立派な皿にチョンと二切れほど載っているんだ、と極上の出汁巻きを思い出す。そういう具合に盛ってやろうと、いい取り皿も出してやらねばと。
夕食のテーブルの真ん中に出汁巻き。出汁をたっぷり含んだ卵の淡い黄色が映える皿に載せて。
主役はこいつだ、と決めた以上は、こうしてやるのが相応しい。他の料理は全部脇役、出汁巻き卵の引き立て役。いい焼き色がついた魚も、美味しく出来た野菜の煮物も。
(気付いちまった以上は、ちゃんと敬意を払わんと…)
出汁巻きといえども、今の時代の代表の一つ。前の自分は知らない料理、と取り皿に一つ載せて眺めてみた。それから齧って、断面をしっかり観察してみて…。
(こう、何層も巻いてあってだな…)
だが材料は卵なんだ、と頬張った。たっぷりの出汁で溶いた卵がメインで、調味料が少し。
それだけの料理に過ぎないけれども、前の自分は作っていない。ただの一度も。
シャングリラのキャプテンに就任する前、厨房で料理をしていた時代。あそこで卵が手に入った時は、色々な料理を作ったけれど。
(卵焼きはなあ…)
思い付きさえしなかった。卵をクルクル巻いて重ねてゆく料理。
出汁巻きの方は、出汁の文化が無かった時代だったし、仕方ないとも言えるけれども、卵焼きの方なら作れた筈。醤油は無くても、さほど重要ではない筈だから。…シャングリラならば。
(調味料が無いってことは何度も…)
あの船の初期なら、何度でもあった。此処はバターで、と思ってもバターが無かったことなど、さして珍しくもなかった船。
砂糖の残りが少ないから、と使わなかったり、塩さえも控えて作っていたり。
皆も文句は言わなかったし、醤油が入らない卵焼きでも、多分、充分だったろう。今日の料理はコレだ、と作って出しておいたら。
そういったことを考えながら、口に運んだ出汁巻き卵。取り皿に取った二切れ目。
(美味いんだがなあ…)
出汁巻きは特に、と納得の味の柔らかく出来た卵焼き。出汁でふんわりしている食感、幾重にも巻かれた薄く薄く焼けている卵。
これをシャングリラで作っていたなら…。
(人気メニューになっていたのか?)
出汁という文化が消されていたから出汁巻きは無理でも、卵焼きなら作れただろう。今の時代と違う味でも、醤油は入っていなくても。
(四角く焼くのも無理だとしても…)
専用の卵焼き器が無いから、こんな風には焼けそうにない。これがそうだ、という卵焼きは。
フライパンを使って焼いてゆくなら、四角い卵焼きにはならない。クレープもどきか、オムレツもどきといった風情になるだろうけれど…。
(卵焼きなら、バリエーション豊かで…)
そのまま作っても美味しいものだし、色々な物を入れて巻くことも出来る。今なら海苔だとか、明太子だとか、和食の食材が多いけれども…。
(ホウレンソウだって、入れられるしな?)
卵焼きの層を重ねてゆく時、間に入れればホウレンソウ入りの卵焼き。
それとは違って、真ん中に何かを入れて焼くのも卵焼きの定番。アナゴを入れた穴子巻きなら、卵焼き専門の店に行ったら、何処でもあるというくらいだから。
きっとシャングリラでも作れたんだ、と出汁巻き卵のお蔭で気付いた。ふうわりとした出汁巻き卵は無理でも、卵焼きの方なら作れたのに、と。
卵を溶いて薄く焼いては、クルクルと巻いて。真ん中に何かを入れてやったり、卵の層を巻いてゆく時に、間に何かを挟んでいったり。
(…思い付かなかった俺が馬鹿だった…)
シャングリラの厨房にいた頃の自分。
あれこれと試作していたけれども、まだまだ工夫が足りなかったな、と痛感させられた卵焼き。食べているのは出汁巻きだけれど、卵焼きも出汁巻きも似たようなもの。どちらも卵料理だから。
これはブルーにも話さなければ、と味わう今日の主役の出汁巻き。
シャングリラには無かった卵料理で、けれど作れた筈のもの。思い付いていれば。
(あいつ、無かったことさえ気付いちゃいないぞ)
俺と同じで、と思い浮かべた恋人の顔。
ブルーの家でも、卵焼きなら何度も食べたことがあるから。出汁巻きだって。
けれど話題にならなかったから、ブルーも全く気付いてはいない。「今の料理だ」と。
(…買って行くとするかな)
出汁巻き卵、と考えた。
手料理を持ってゆくのは駄目だし、近所の店で。
幸い、明日は土曜日だから。午前中からブルーの家へと出掛けてゆくのが習慣だから。
翌朝になっても、忘れずにいた卵焼き。シャングリラには無かった料理。
今日の話題は卵焼きなんだ、と歩いて出掛けたブルーの家。途中で卵の専門店に寄って、評判の出汁巻き卵を買った。「これを一つ」と、ふんわりと焼けた一本を。
それの袋を提げて行ったから、ブルーの部屋へと案内されたら、飛んで来た質問。
「お土産は?」
ハーレイ、何か持って来たでしょ、ママに袋を渡していたよ。
だけど、お菓子はママが作ったケーキだし…。ハーレイのお土産、何処に行ったの?
「まあ、待て。ちゃんとお前用の土産だから」
お母さんたちにどうぞ、と渡したわけじゃないから、その内、出て来る。
「お昼御飯なの?」
今日のお昼に食べられる何か。…お好み焼きとか、たまに買って来てくれるものね。
「ちょっとしたおかずだ、それだけで腹は膨れないぞ」
いくらお前が少ししか食わないチビでもな。
お母さんの料理もついて来るだろうさ、俺が買って来た土産だけでは足りないから。
小さなブルーが「何かな、お土産…」と心待ちにしていた昼御飯。ブルーの母の料理とは別に、皿に盛られた出汁巻き卵。「ハーレイ先生が持って来て下さったのよ」という言葉も添えて。
ブルーの母が扉を閉めて去って行ったら、ブルーは出汁巻き卵を指差して。
「これ、ハーレイのお勧めなの?」
此処のお店のが美味しいだとか、いつも行列が出来てるだとか。
「行列は出来ちゃいないんだが…。人気の店だぞ」
卵の専門店だからなあ、使っている卵が美味いんだ。もうそれだけで美味くなるってな。
「そっか、卵の味でも変わるもんね!」
どんな味かな、とブルーがヒョイと取り皿に一切れ、載せているから。
「俺がわざわざ買って来たのに、気が付かないか…」
やっぱりな。…俺でも気付かなかったんだし。
「気が付かないって…。何に?」
この出汁巻きは何かが違うの、他のお店のとは違った工夫をしてるとか…?
「そうじゃなくてだ、出汁巻きそのものが問題だってな」
当たり前すぎるんだ、出汁巻きは。…出汁巻きだけじゃない、卵焼きもな。
こいつはシャングリラにもあったのか、と尋ねてやったら、目を真ん丸にしたブルー。
「…無かった…」
出汁巻きも無かったし、卵焼きだって。…前のぼく、一度も見たことがないよ。
「ほらな、前のお前は知らないだろうが。俺だって知らん、元は厨房にいたのにな?」
昨日の夜にだ、食いたくなって作っていたら気が付いたんだ。これは無かった、と。
それでこいつを話題作りに買って来た。
家の近所で買えるくらいに、今じゃ当たり前に食ってるのになあ、出汁巻き卵…。卵焼きもだ。
「これって、ぼくたちが住んでる地域にしか無いの?」
前のぼくたちが知らないってことは、あの時代には無かった食べ物の一つだろうけど…。
この地域だけなの、他所には無いの?
「無いだろうなあ、元は日本の料理だからな」
出汁巻きもそうだし、卵焼きもそうだ。どっちも日本生まれの料理だ。
「そうなんだ…」
だったら、シャングリラにはあるわけがないね。日本の文化は消されていたし…。
出汁巻きに使う、お出汁だって何処にも無かったんだし。
「…出汁巻きの方は無理としてもだ、卵焼きがな…」
前の俺がこいつに気付いていれば、と思うんだ。卵を焼いては巻いていく料理。
「気付いていたら、どうなったの?」
「卵焼きそのものも美味い料理だが、あれは色々と使えるだろうが」
卵と一緒に巻いてあるだろ、海苔とか、真ん中にアナゴだとか。
シャングリラには海苔もアナゴも無かったわけだが、他にも巻けそうな物はあるしな。
「ホントだね…」
ホウレンソウとかも入れて巻くんだし、作れそうだよね、卵焼きなら。
「そういうこった。…前の俺がそいつに気付いていればな」
卵を焼いて巻くって料理。…それだけで色々と出来たんだがなあ、卵を使った料理がな。
前の自分が思い付いていたら、バリエーション豊かになっていたろう卵の料理。
きっとシャングリラでも喜ばれた筈で、人気があったと思うけれども。
「ただなあ…。朝飯には向かんな、卵焼きは」
白い鯨になってからでも、朝飯は駄目だ。卵は充分あったんだが。
「なんで?」
どうして駄目なの、朝御飯に卵焼きっていうのは珍しくないよ?
ぼくの家だと朝はパンだけど、御飯を食べてる友達だったら、朝御飯のおかずに卵焼き。
旅行に行っても、泊まったホテルに和食があったら、朝は卵焼きだって出て来るじゃない。
「それはそうだが、今の時代とシャングリラとでは事情が違うぞ」
個人の家とかホテルだったら、卵焼きを作っても全く困りはしないんだが…。大勢いるから。
卵焼きを一つ作ろうとしたら、そいつに卵は幾つ要るんだ?
一個じゃとても作れやしないし、シャングリラの決まりが狂っちまう。
朝飯の卵は一人に一個が基本だろうが、卵焼きを食いたいヤツらでグループを作るのか?
「今日は卵焼きでお願いします」って、焼いて貰って、それを分けるしか手が無いぞ。
立派な卵焼きを食いたかったら、その方法しか有り得ない。
厨房のヤツらの手間は増えるし、朝から食堂でグループ作りもしなきゃならんし…。
向かないだろうが、シャングリラには。朝っぱらから、そんな我儘。
「確かにね…」
ただでも朝には大忙しだし、全員が卵焼きなんだったら、出来たかもだけど…。
そうじゃないなら、難しいよね。卵焼きは手間もかかりそうだから。
前のぼくとハーレイが頼むというのも難しそう、と小さなブルーが竦めた肩。
朝食は二人で食べていたけれど、二人一緒に注文しないと立派な卵焼きは無理、と。
「…ハーレイはオムレツを食べているのに、ぼくだけ卵焼きだとか…」
ちょっと無理だよね、ぼくは卵は一個だったし…。
「そうなるな。俺の方なら、卵二個分だし、なんとか出来るが…」
立派な卵焼きは無理だな、この出汁巻きみたいに大きいのはな。
デカイ卵焼きが食いたかったら、前のお前を巻き込まないと…。今日の俺は卵焼きなんだ、と。
お前が嫌だと言ったら終わりで、俺はデカイのは食えないってな。
今の時代なら、一人で卵を三個なんだが…。そいつで出汁巻き卵なんだが。
現に昨夜も作ったわけだし、やっぱり三個は欲しいよな、卵。
「…卵三個で出汁巻き卵って…。一人暮らしで?」
そんなの作ってしまうわけ?
今のハーレイが食べてる朝のオムレツ、卵は二個だと思うんだけど…。
「気が向きゃ作るさ、美味いんだから」
晩飯にちょいと食いたくなったら、出汁をたっぷりで出汁巻きだ。余れば朝に食ってもいいし。
「余れば、って…。全部食べちゃったの?」
昨日の夜に、卵を三個も使った出汁巻き。…朝御飯に残しておかないで。
「当たり前だろうが、作ったからには食うってな」
そういう気分で作ってるんだし、他に料理を作っていたって、ペロリと食うのが普通だろうが。
「…シャングリラのことを思い出したんなら、持って来てくれれば良かったのに…」
全部食べないで、ぼくに一切れ。…お土産に少し。
「俺の手料理は駄目だと言ってる筈だが?」
お前のお母さんに申し訳ないから、持って来ないと何度も言ったぞ。だから土産に買ったんだ。
美味いだろうが、此処の出汁巻きは。
「うー…」
ハーレイが作ったヤツが食べたいのに…。ホントのホントに食べてみたいのに…!
卵焼きも出汁巻きも、ハーレイが作ったヤツは無理かあ、と残念そうなブルー。同じだったら、そっちの方が食べたかったのに、と。
「いくら美味しいお店のヤツでも、ハーレイが作った話を聞いちゃったら…」
そっちがいいな、と思っちゃうじゃない、ハーレイが作った出汁巻きの方が。
「まあいいじゃないか、これも話題にはなっただろうが」
買ったヤツでも、ちゃんとシャングリラの思い出話が出来たってな。
「…シャングリラには無かったっけ、っていう話だけどね…」
卵焼きも出汁巻きも無かった船だったんだ、って。
それは確かにそうなんだけど…。そういう話も悪くないけど…。
シャングリラの思い出の卵料理の話だったらもっと良かった、と零されても困る。今の時代なら色々な卵料理があるのだけれども、前の自分たちが生きた時代は、卵料理となったなら…。
「おいおい、卵料理はだな…」
今も昔も変わりはしないぞ、前の俺たちが食ってた料理に関しては。
スクランブルエッグにしても、オムレツにしても、今もそのままあるんだから。
「そうだね、目玉焼きもあったし…」
卵がメインの料理だったら、今の時代の方がよっぽど沢山。
「ほらな、考えてみれば分かるだろうが」
あの船ならではの卵料理ってヤツも、特に無かった筈なんだ。卵が充分に無かった時代は、卵がメインの料理なんかを作りはしないし…。
朝は卵だって時代になっても、卵料理は今も定番のヤツばかりでだな…。
…待てよ?
白い鯨になった後には、朝の食堂では卵料理で…。
ちょっと待てよ、と引っ掛かった記憶。朝の食堂と、卵料理と。
前の自分が見ていたもの。白いシャングリラになった時代に、朝の食堂で。
「…何かあったの?」
ハーレイ、何か変わった卵料理を思い出したの、シャングリラの?
「うむ。…目玉焼きだ」
朝に食堂に出掛けて行ったら、そいつを見たんだ。
「目玉焼きって…。普通じゃない」
前のぼくだって、何度も食べたよ。青の間のキッチンで作って貰って。
「そいつは普通の目玉焼きだろ、フライパンで卵を焼くだけの」
俺が見たのは、それじゃない。ひと捻りした目玉焼きだった。
「どんな目玉焼き?」
焼き方は色々あった筈だよ、目玉焼きだって。ベーコンエッグも目玉焼きだし。
「それが全く違うんだ。目玉焼きには違いないんだが…」
パンのド真ん中に目玉焼きだぞ、トーストの真ん中に入ってた。
「えっ…?」
それって、乗っけてあるんじゃなくって、入っているの?
トーストの真ん中に目玉焼きが?
「…その筈なんだが…。目玉焼きはパンの真ん中で…」
後から乗せたってヤツじゃなかった、本当にパンの真ん中にだな…。
まるで穴でも開いているようで、と記憶に残った目玉焼き。トーストの真ん中に卵が一個。
確かに見たんだ、と手繰った記憶。あれを食べていたのは誰だったろうか、と探り続けて…。
「そうだ、ヒルマンだ。…あいつが始めたんだった」
パンの真ん中に目玉焼き。…そういう食べ方をし始めたんだ。
「ヒルマン…?」
どうしてヒルマンが目玉焼きなの、それの変わった食べ方なの?
ヒルマンは厨房にいた時代なんか無かったよ、という指摘通りに、およそ料理とは無縁な人物。
ブルーはキョトンとしているけれども、思い出した前の自分の記憶。ヒルマンだった、と。
「あいつは厨房に行っちゃいないが、本当にヒルマンが始まりなんだ」
白い鯨が完成した後、前のお前が奪って来た鶏を増やしていって。
船で卵が充分に手に入るようになってだな…。
一人に一個は当たり前になって、朝の食堂では卵料理っていう時代が来たろ?
厨房のスタッフは毎朝大忙しで、卵料理の注文も色々。
オムレツがいいとか、スクランブルエッグだとか、目玉焼きだとか、次から次へと。
もっとも、お前は青の間で食事していたが…。
滅多に食堂に出ては来なくて、青の間で食うのが普通だったが。
「うん、ハーレイも来ていたけどね」
ソルジャーに朝の報告ってことで、ぼくと一緒に朝御飯。
厨房の係が運んで来てキッチンで仕上げをするから、前の晩から何を食べるか頼んでおいて。
「あれのお蔭で、お前と恋人同士になった後にも、俺は慌てずに済んだわけだが…」
急いで食堂に行かないと、と起きて走って出掛けなくても、ゆっくり朝飯を食べられたんだが。
その俺がある時、食堂で朝食っていうことになって、だ…。
まだお前とは恋人同士じゃなかった頃だな、俺の部屋から真っ直ぐ出掛けて行ったんだから。
食堂に出掛けて行った理由は、ブルーが寝込んでしまったから。
安静に、とノルディが診断したから、朝食は食堂で食べることになった。皆と一緒に。そういう朝食もいいだろう、と久しぶりの朝の食堂に入って行って…。
(顔見知りのヤツと一緒がいいよな、と思ったし…)
昼食などは、いつもそうだから。ゼルやブラウやヒルマンといった昔馴染みと同じテーブル。
だから朝食もそうしよう、と見回したらヒルマンの姿が見えた。あの席がいい、と注文する前に近付いたテーブル、其処でせっせとパンに穴を開けていたのがヒルマン。
まだ焼き色のついていないトースト用のパン、その真ん中に開けている穴。白い柔らかなパンを指で毟って、真ん丸な穴を。
なんとも奇妙なことをしているから、隣の椅子に腰を下ろしながら訊いてみた。
「何してるんだ?」
パンに穴なんかを開けたりして。…そうやって食べたら美味いのか?
毟ったパンは食ってるんだし、真ん中から食べると美味いだとか。
「ああ、これかね。これはだね…」
こうしておかないと作って貰えないものだから、とヒルマンが浮かべた苦笑い。
朝の食堂はスタッフも大忙しだから、と。
「作るって…。何を作って貰うんだ?」
「目玉焼きだよ、朝の食堂は卵料理だろう?」
それが食べたい気分なんだよ、だからこうして用意するんだ。
「何故、パンの真ん中に穴なんだ?」
目玉焼きなのに、どうしてパンに穴なんかを開ける必要がある?
「これが肝心の所でね…」
まだ焼いていないパンの真ん中、其処に穴を開けておかないと…。
目玉焼きはそれが大切だ。私の食べたい目玉焼きはね。
さて、と…。こんな所で丁度良さそうだ。
頼みに行くから、一緒について来るといい、と立ち上がったヒルマン。
「君も朝食の注文は済んでいないだろう?」と。その通りだから、椅子を引いたままで残して、朝食の注文に出掛けて行った。椅子が引いてあれば、「座る人がいる」という意味になるから。
他の仲間たちも注文している、厨房に繋がるカウンター。
其処でトーストやオムレツなどを頼んでいたら、ヒルマンが皿を差し出した。穴を開けたパンが乗っかった皿を。
「いつものを頼むよ、半熟でね」
「はい!」
半熟ですね、と確認してから、スタッフは厨房に入って行った。暫く経ったら、自分が注文した朝食のトレイと殆ど同時に、戻って来た皿。
「どうぞ」とヒルマンに渡された皿に、真ん中に目玉焼きが入ったパン。其処に開いていた穴を塞ぐようにして目玉焼き。パンの方もこんがり焼けているから…。
「何なんだ、それは?」
さっきのパンがそうなったのか、とテーブルに戻りながら尋ねた。あれがそれか、と。
「そうだよ、だから準備が要ると言っただろう?」
食堂のスタッフは忙しいからね、我儘なことは言えないじゃないか。
ああやって穴を開けておいたら、フライパンで目玉焼きを作るだけのことで済むんだが…。
パンに穴まで開けてくれとは言えないよ。朝は本当に大忙しな時間だからね。
これはエッグインザバスケットという名前の料理で…。
由緒正しい朝食メニューだ、とヒルマンはテーブルで説明してくれた。
毎朝、卵料理が食べられるようになったから、データベースで調べたのだ、と。
遠い昔の地球のイギリス、それにアメリカ。エッグインザバスケットは其処の朝食メニュー。
トースト用のパンの真ん中を刳り貫き、フライパンに乗せて卵を落とす。その穴の中に。
目玉焼きが焼けてくるのと一緒に、パンの方も焼けてゆく仕組み。焼き加減は好みで色々と。
「美味そうに食っていやがったから…」
ひと手間かけるだけの価値はあるとか、半熟が一番美味いとか。
「ハーレイ、話してくれたっけね」
前のぼくの病気がきちんと治って、またハーレイと一緒に朝御飯を食べられるようになったら。
二日ほど後の話だったか、三日ほどかな…?
「俺もハッキリ覚えていないが…。三日ほどじゃないか?」
ヒルマンだけしかやっていないな、と見回してた日が、その日の他にもあったしな。
それにヒルマンがオムレツを食っていた日もあった筈だし…。
面白い食い方があるもんだよな、と思ったからお前に話したんだ。俺が目撃したからにはな。
こういう卵の食べ方を見た、と朝食の席でブルーに教えてやったら、好奇心で輝いていた瞳。
「ヒルマンだけかい?」
その、何だっけ…。エッグなんとかという名前の料理を食べていたのは?
「私が見たのは彼だけですね」
エッグインザバスケット自体は古い料理だそうですが…。
人間が地球しか知らなかった時代に、朝食メニューの定番だったらしいですから。
「ずいぶんと古い料理なんだね、歴史はたっぷりありそうだ」
ぼくも試してみたい気がするよ、そのエッグインザバスケットというのをね。
「此処でも充分、出来ますね…」
朝食の仕上げは奥のキッチンでやっていますし、卵料理も其処ですから…。
目玉焼きも其処で焼くのですから、頼めば作って貰えるでしょう。朝食の時に。
「それじゃ、明日の朝に二人で頼んでみようか」
君と二人で食べてみたいな、せっかくだから。…ぼく一人よりも。
「喜んで御一緒させて頂きますよ」
係が朝食の支度に来たなら、トーストする前にパンを貰って…。卵料理も待って貰って。
パンの真ん中に穴を開けるとしましょう、ヒルマンのように。
「それで、目玉焼きの焼き加減は?」
どうするのが一番いいんだい?
「お好みの焼き加減でよろしいでしょう。ヒルマンからも、そう聞きましたし…」
ヒルマンは半熟を食べていましたが。「これが一番美味しい」と言って。
「じゃあ、半熟で頼んでみよう」
好き嫌いは無いから、どれでもかまわないんだけれど…。
半熟が美味しいと聞いたんだったら、最初はそれを試すべきだよ。
次の日の朝、朝食の係がやって来た時、ブルーと二人でパンの真ん中に開けた穴。
トーストの焼き加減を尋ねる係に「後で」と言って。「卵料理も少し待ってくれ」と。食堂とは違って、青の間では好きに出来たから。朝食係は大忙しではなかったから。
ヒルマンは厨房のスタッフの手間を省こうと、自分でパンに穴を開けたのだけれど。自分好みの卵料理を作って貰うべく、パンを毟っていたのだけれど。
その真似をした前の自分とブルーは逆だった。係を待たせて、せっせとパンの真ん中に穴。
まだ焼けていないパンの真ん中、丸い穴が開いたら、係に頼んだ。
「卵料理は、この穴の中に目玉焼きを」と。「目玉焼きは半熟で作ってくれ」と。
なんとも我儘な注文だけれど、朝食係は見事に応えた。エッグインザバスケットを焼き上げて。
「とっても美味しかったっけ…」
パンの真ん中に目玉焼き。トーストとパンを一緒に食べてるみたいな感じで。
半熟だったから、トロトロの黄身がトーストに絡んで、ソースみたいで。
「あれから、たまに頼んだっけな」
ちょっと待ってくれ、ってパンに穴を開けては、エッグインザバスケットというヤツを。
ヒルマンの気に入りと言うだけはあって、食うだけの価値はあったんだ。
「焼き加減、色々試してみたけど…」
黄身までしっかり焼いて貰ったり、裏も表も焼いて貰ったり。
トーストが焦げてしまわない程度で、ホントに色々やってみたよね。
「どの焼き加減でも美味かったよなあ、半熟だろうが、黄身に完全に火が通ってようが」
美味いっていうのも良かったんだが、パンに穴を開けるというのがいいんだ。
自分で穴を開けるんだからな、朝飯を自分で作っているような気分がしてくるじゃないか。
パンを毟って、真ん中に穴。…たったそれだけのことなんだがな。
前のブルーも気に入ったからと、たまに二人で食べていたエッグインザバスケット。二人きりで食べる青の間での朝食、それの時間に。係を少し待たせておいて。
「ハーレイ、今も食べている?」
朝御飯の時に、エッグインザバスケット、作ってる?
今のハーレイなら、簡単に作れそうだけど…。出汁巻き卵より簡単だろうし。
「いや、それが…。すっかり忘れちまってた」
エッグインザバスケットは多分、今でも作られているんだろうが…。
イギリスやアメリカの文化を復活させて楽しんでいる地域だったら、きっと定番の朝食メニューだろうという気はするんだが…。
生憎と、今の俺たちが住んでる地域じゃ、サッパリ聞かない料理だからな。
目玉焼きはあくまで目玉焼きだし、トーストはトーストとして食うモンだと思い込んでたし…。
「おんなじだよ、ぼくも…」
忘れちゃってた、とっても美味しかったのに…。
パンの真ん中に自分で穴を開けるのも、お料理みたいで好きだったのに。ハーレイと同じ。
前のハーレイが厨房にいた頃は、ぼく、お手伝いをしてたから…。ジャガイモの皮を剥いたり、泣きながらタマネギを刻んでみたり。
…エッグインザバスケット、また食べたいよ。
ママに頼もうかな、お昼御飯に作ってよ、って。パンも卵もある筈だもの。
「やめとけ、お前、これ以上はもう入らないだろうが」
昼飯、すっかり食っちまったんだし、腹一杯になっていないか、お前…?
ただでも食が細いのがブルー。なのに出汁巻きを、一人で三切れは食べていた筈。自分が貰ったお土産なのだし、大喜びで。話の合間に「美味しいね」と顔を綻ばせながら。
とっくにお腹は一杯の筈で、エッグインザバスケットなどは食べられそうもないのだから…。
「お前、自分の胃袋のサイズってヤツを考えろよ?」
腹一杯の所に卵料理は無茶ってモンだ。おまけにトーストまでついてくるんだから。
食えるわけないだろ、今からエッグインザバスケットなんて。
「そうかも…。ちょっと食べられそうにないかも…」
無理そうだから、今度食べようよ。ママに頼んで、ハーレイとぼくと、二人分。
パンの真ん中に穴を開けるんだよ、「此処に卵を入れて、目玉焼きにしてね」って。
ママに頼むんなら、やっぱり半熟。それがいいよね、ヒルマンのお気に入りだったんだもの。
「…俺は手帳には書いてやらんぞ?」
次はそいつだ、と手帳にお前との予定を書くには、今はまだまだ早すぎるってな。
エッグインザバスケットを食おうって話にしたって、お前との予定には違いないんだから。
「…だったら、この話、忘れちゃう?」
ぼくもハーレイも忘れちゃうかな、エッグインザバスケットを食べていたこと…。
「多分な、忘れちまうんだろう」
お前も俺も、綺麗サッパリ。
出汁巻き卵や卵焼きが無かったことも忘れて、今日まで来ちまったみたいにな。
しかし、だ…。
その内にまた思い出すさ、と片目を瞑った。
あれは朝食メニューなんだし、いつか二人で暮らし始めたら、と。
「朝飯を食ってる真っ最中にだ、ポンと思い出すこともあるだろう」
目玉焼きはこうして食うんじゃなくって、パンの真ん中に入れるんだ、とな。
思い出したら、その時は腹一杯で食えなくっても、その辺に書いておけばいい。
次に目玉焼きを食べる時には、エッグインザバスケットを作ること、と。
「そうだよね…!」
二人で一緒に暮らしてるんなら、ハーレイは予定を書いてくれるし…。
ぼくと二人で食べる朝御飯、何にするかの予定もきちんと書いておけるものね。
また食べようね、エッグインザバスケット。…ハーレイと二人で。
「もちろんだ。俺もその日が楽しみだな」
忘れちまっても、いつかは思い出すんだから。…俺かお前か、どっちかがな。
思い出すのはどっちだろうな、と微笑み掛けてやった小さな恋人。十四歳にしかならない恋人。
今はまだ二人で暮らせないけれど、出汁巻き卵が思わぬ記憶を連れて来た。
遠い昔に、青の間で二人、楽しみながら食べたエッグインザバスケット。
あの思い出の朝食メニューを、いつかブルーと二人で食べよう。
朝の光が射し込む幸せなテーブル、其処でパンの真ん中に丸い穴を開けて。
指で毟って穴を開けながら、互いに何度も微笑み交わして。
遠く遥かな時の彼方で、暮らした白いシャングリラ。
あの船でこれを食べていたなと、元はヒルマンがやっていたんだっけなと、思い出しながら。
そうやって食べる、懐かしいエッグインザバスケット。
二人で青い地球に来たから。いつまでも、何処までも、幸せに歩いてゆけるのだから…。
卵の料理・了
※シャングリラには無かった卵焼き。けれどヒルマンが食べていた、昔のイギリスの卵料理。
それを青の間で、ブルーとハーレイも楽しんでいたのです。パンの真ん中に穴を開けて。
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(うーん…)
腕輪が一杯、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
カラーで刷られている写真。民族衣装だろう服を纏った、女性の腕にビッシリと腕輪。手首から肘までの半分くらいは、隙間なく腕輪が覆っている。幅はそれほど無いものが。しかも両腕。
(この腕輪、うんと小さいよ?)
いったいどうやって嵌めたのだろう、と不思議になるほど小さな腕輪。一番細い手首の腕輪も、腕にピッタリ貼り付くよう。そこから少しずつ大きくなるのか、肘に一番近い腕輪も…。
(隙間、全然無さそうだけど…)
腕と腕輪の間の隙間。何処から見たって無さそうな余裕。きっと揺れさえしないのだろう。腕の持ち主が腕を振っても、この腕輪たちは。
まるで一個ずつ腕に合わせてカチリと嵌めては、サイズを調節したような腕輪。手首から順に、上へ向かって少しずつ大きくなってゆくように。腕を半分、覆い尽くすように。
こんな腕輪は見たことがない、と興味津々で記事を読み始めたら…。
(三ヶ月間も付けっぱなし!?)
そう書かれていた、腕輪の正体。花嫁の腕輪。
遠い昔のインドという国、其処の習慣を復活させたのが両腕の腕輪。花嫁のための。民族衣装も昔のインドのものだった。一枚の布を巻き付けて着るらしい、サリーという服。
(お嫁さんの腕輪…)
結婚式の前に、専門の人が嵌めてゆく腕輪。「あなたの腕には、このサイズです」と。
プロが選んで嵌めるのだから、とんでもなく直径が小さな腕輪も、こういう風にピタリと合う。手首に貼り付くようなサイズでも、手にくぐらせてギュウッと嵌めて。
そうやって嵌めた沢山の腕輪は、花嫁のためのものだから…。
今の時代は、結婚式の日に嵌めたらおしまい。外してしまっても叱られない。花嫁を彩る飾りの一つで、サリーと一緒に身につけるもの。
結婚式が済んだら旅行に出掛けるカップルも多いし、普通の服に沢山の腕輪は似合わないから。昔の民族衣装だからこそ、腕にビッシリ嵌めるのが腕輪。花嫁なんです、と。
(でも、昔だと…)
人間が地球しか知らなかった時代は、花嫁の腕輪は嵌めっ放しにしておくもの。三ヶ月だとか、二ヶ月だとか。
花嫁の幸福を祈る腕輪だから、最低でも一ヶ月は嵌めていたという。両方の腕にビッシリと。
それでは邪魔になりそうだけれど、その代わり、家事はしなくてもいい。水仕事などは、絶対に駄目。腕輪の模様が剥げてしまって、「家事をした」ことが分かるから。
もしも花嫁に家事をさせたら、その家の人たちが陰口を言われる。「あそこの家の人は…」と、ヒソヒソと。「花嫁に家事をさせるらしい」と、「とんでもない」と。
酷い家族だ、と悪い評判が立つほど、大切にされたらしい花嫁。
三ヶ月だとか、一ヶ月だとか、花嫁の腕輪を嵌めている内は。家事はしないで、幸せな日々。
腕に沢山の腕輪を嵌めて、綺麗な民族衣装を着て。
(レディーファースト…)
女性が優先、きっとそういう素晴らしい国だったのだろう。
花嫁には家事をさせないくらいに、女性が大切にされていた国、と。
インドはそういう国だったんだね、と感心しながら読み進めたら、間違いだった。人間が宇宙で暮らし始めるよりも、ずっと昔のインドという国。
其処では、女性は大切にして貰えるどころか、モノ扱い。花嫁だって同じこと。腕輪をビッシリ嵌めて貰ってお嫁に行っても…。
(殺されちゃうことがあったわけ!?)
持参金の額が少ないから、と。「もっと持参金をくれる花嫁がいい」と。
腕輪を嵌めている時期が済んだら、台所で火を点けられた。綺麗なサリーは風にフワリと揺れて動くから、料理の途中で火が点いた事故に見せかけて。
(それって、酷い…)
花嫁の腕輪が外れた途端に邪魔者扱い、新しい花嫁を貰えるようにと殺されるなんて。
今はそういう酷いことはなくて、遠い遠い昔にあった出来事。
けれど写真の花嫁衣装は、昔のものとそっくり同じ。腕輪の他にも飾りが沢山、ジャラジャラと音がしそうなくらいに大きくて華やかなネックレスだとか、耳飾りだとか、髪飾りとか。
本当に綺麗な花嫁だけれど、お姫様のように飾り立てられているけれど…。
(嬉しくないよね?)
今ではなくて、昔の花嫁。
SD体制が始まるよりも前の時代に女性蔑視は消えたとはいえ、長く続いていたという。女性を物のように扱い、要らなくなったら殺したくらいに酷かったインド。
そんな所で腕輪をビッシリ嵌めて貰っても、家事をしなくていい腕輪でも…。
嬉しくないよ、と頭を振った。結婚して直ぐに家事をさせられてもいいから、自由な方が、と。一人の人間として認めて貰って、喧嘩しながらでも家族の一員。
(絶対、そっちの方がいい…)
モノ扱いだなんて、前の自分の人生のよう。アルタミラで檻にいた頃の。
もっとも、それは昔の話。アルタミラも、女性がモノ扱いされた時代のインドも。
今の時代にインドを名乗っている地域。其処では、花嫁の腕輪などだけが復活している。とても華やかに見えるから。花嫁の姿を引き立てるから。
(花嫁の腕輪を壊しちゃうと…)
不幸になる、という言い伝えもあるらしい。これも昔のインドから。
花嫁の腕輪にも色々とあって、素材もデザインも、実に様々。中にはガラスの腕輪だってある。キラキラ光って綺麗だけれども、ガラスで出来た腕輪だから…。
結婚式の前の日に嵌めて貰って、結婚式に出るまでの間。気を付けていないと壊れてしまう。
だから腕輪を壊さないよう、気を付けて暮らすらしい花嫁。昔みたいに、何もしないで。
(こういう話は面白いけどね?)
今の時代だから、楽しく読めるインドの花嫁の記事。
腕輪をビッシリ嵌めた女性たちも、幸せに生きている時代だから。みんな幸せな花嫁だから。
いろんな花嫁衣装があるんだ、と新聞を閉じて帰った部屋。花嫁専用の腕輪なんて、と。専門の人が嵌めに来るほど、大切らしい花嫁の腕輪。とても嵌まりそうにないサイズのも嵌めて。
(お嫁さんの腕輪…)
ぼくは結婚式ではつけない、と眺めた両腕。服の袖を捲って、細っこい腕まで確かめてみて。
キュッと握ってみた手首。こんな所にピッタリくっつくサイズの腕輪を、どう嵌めるの、と。
(…専門の人って、凄いよね…)
腕に合うサイズの腕輪を見付けて、きちんと通してしまうのだから。手首よりも大きい筈の手をくぐらせて、花嫁の腕輪を腕にビッシリ、隙間なく。手首から肘までの半分くらいを覆うほど。
(ぼくは嵌めないから、分かんないや…)
花嫁の腕輪を嵌める人の凄さ。どうやって嵌めてゆくのかも。
ウェディングドレスを選んだとしても、白無垢の方でも、花嫁の腕輪の出番は来ない。インドの花嫁衣装ではないし、どちらにも無い腕輪の習慣。花嫁は腕輪を嵌めたりしない。
(ビッシリどころか、一個も無いよね…)
花嫁のための腕輪というもの。頭に着けるティアラはあっても、ベールや綿帽子が存在しても。
結婚式の時しか出番が無いのはそれくらい。腕輪を嵌めても、ドレスに合わせたアクセサリー。
それを嵌めたら幸せになるとか、壊してしまったら不幸になるとか、言いはしないから。
結婚式では嵌めない腕輪。普段も腕輪を嵌めたりしないし、嵌めてみたいとも思わない。きっと腕輪は一生縁が無いんだから、と思った所で掠めた記憶。
(フィシス…!)
前の自分が攫った少女。マザー・システムが無から創った生命体。
青い地球を抱く彼女が欲しくて、与えたサイオン。ミュウだと偽り、船の仲間たちを騙そうと。
本当のことを知っていたのはハーレイだけ。他の仲間はミュウだと信じた。
青い地球を抱いた、神秘の女神。フィシスはミュウの女神なのだと。
(フィシスは、いつも特別扱い…)
纏う衣装も、住むための部屋も。何もかもが皆と違っていた。他の大勢の女性たちとは。
立ち働くには不向きだったフィシスの長い髪と、それから優雅なドレス。
そのドレスから覗く白い手、あの白い腕に腕輪を嵌めた。前の自分が。…そういう記憶。
(いつだったの…?)
金色に光る腕輪を嵌めた日。フィシスの腕には幾つも腕輪。自分が嵌めた腕輪の他にも。
まさか結婚式でもなかったろうに、と首を捻った。
フィシスは結婚してはいないし、花嫁の腕輪の習慣だって無かった筈。結婚指輪さえも無かった白い船なのだから。結婚の証の指輪も無いのに、花嫁の腕輪があるわけがない。
でも…。
(なんで腕輪を嵌めたわけ?)
前の自分が嵌めてやった腕輪。何故、そうしたのか分からない。覚えていない。
それに、フィシスの腕にあった腕輪。白い腕に幾つも嵌まった腕輪は、何だったろう…?
遠い記憶を手繰るけれども、腕輪はフィシスしか嵌めていなかった。他の女性たちは誰も、長老だったエラとブラウでさえも嵌めてはいない。
そうは言っても、子供時代のフィシスは嵌めていなかった腕輪。大きく育って、踝が隠れる長いドレスを着るようになってからのもの。
(ピアスだったら、エラたちだってつけてたし…)
きっと似合うよ、と前の自分も勧めたピアス。
耳たぶに穴を開けることをフィシスは怖がったけれど、メディカル・ルームに付き添ってまで。
ピアスは飾りで、フィシスのネックレスは服飾部門のデザイナーの趣味。
「このドレスには、これが映えますから」とデザイン画を見せて貰ったから…。
(腕輪もそうかな?)
ドレスに似合う、と作られたもの。ネックレスに見劣りしないようにと、数を沢山。
そうなのかな、と考えたけれど、それにしては捻りが全く無かった。凝った細工などは無くて、ただの金色。ブラウのピアスを腕輪のサイズにしたような感じ。
デザインに凝るなら、ネックレスに合わせて幾らでも加工出来ただろうに。透かし彫りだとか、細かい模様を刻み込むとか。
けれど、そうではなかった腕輪。ただの金色の輪だった腕輪。
(…数が多いことに意味があったかな?)
シンプルなデザインでも、幾つもつければ目立つから。
凝った腕輪を一つ嵌めるより、細い腕輪を幾つも重ねて。そうすれば触れ合って音がするから。
フィシスが腕を動かす度に、シャランと綺麗な音がしたから。
どうだったかな、と探ってゆく記憶。フィシスだけが腕輪を嵌めていた理由。ドレスに合わせたデザインだったか、それとも他に何かあったか。
あのドレスだよ、と何度もフィシスの姿を思い描いている内に…。
(最初は無かった…?)
そんな気がしてきたフィシスの腕輪。ネックレスとピアスはあったけれども、白い腕に嵌まっていなかった腕輪。右手にも、それに左手にも。
一個だった頃もあったような、という気がしないでもない。フィシスの腕輪は、いつもあったと思っていたのに。
(…なんだか変だ…)
記憶違いではなさそうだった。一度「無かった」と気付いてしまえば、そういうフィシスの姿が幾つも。白い腕に一つも無かった腕輪。一個だけ嵌めていた時だって。
ますます謎だ、と考え込んでいたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれて、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせ。二人きりでゆっくり話せる時間。
これは訊かねば、と早速、問いを投げ掛けた。
「あのね、ハーレイ…。フィシスの腕輪、覚えてる?」
金色のヤツだよ、両手に腕輪を嵌めていたでしょ?
「腕輪か…。幾つもつけていたっけなあ…」
フィシスは手袋をはめてないから、あの腕輪が良く似合ってたよな。
「あれって、誰が言い出したの?」
誰がフィシスにつけさせたのかな、腕輪…。腕輪をしてたの、フィシスだけでしょ?
「そういや、そうだが…」
はて…?
フィシスの腕輪を思い付いたの、誰だったんだ…?
ハーレイも覚えていなかった。フィシスに腕輪をつけさせた人を。「まるで分からん」と。
「服飾部門のヤツらじゃないのか、デザイナーとか」
フィシスのドレスをデザインしたヤツとか、作るのを手伝ったヤツだとか。
その辺りだと思うんだがなあ、ネックレスだってフィシスだけだぞ。腕輪だけじゃなくて。
「でも、あの腕輪…。つけていなかった時期があるんだよ」
覚えてないかな、腕輪無しのフィシス。…ネックレスとピアスはつけていたのに。
「言われてみれば…。俺も見たような気がするな」
お前ほど頻繁に会っちゃいないが、俺もフィシスには何度も会っていた方だし…。
なにしろミュウの女神なんだぞ、キャプテンとしては礼を欠いてはいけないってな。
「ね、腕輪が無かった頃があるでしょ?」
ハーレイも覚えているんだったら、間違いないよ。ぼく一人だと、ちょっと心配だけど…。
腕輪、一個だけの時もあったよ。…確か、左手だったと思う。
「あったっけな…。そういう時期も」
左手だったか、ちょっと記憶が怪しいが…。一つだけだったという記憶はある。
「良かった…。それとね、フィシスの腕輪なんだけど…」
ぼくが嵌めてた記憶があって…。フィシスの腕に、あの腕輪を。
どうしてなのかな、結婚式でもないのにね。
「なんだそりゃ?」
結婚式って、いったい何処から出て来たんだ?
そりゃあ、指輪の交換はあるが、あれはあくまで指輪だぞ?
腕輪を嵌めるって話は聞かんが、どうして腕輪でそうなるんだ…?
左手だからか、と首を傾げたハーレイ。結婚指輪は左手だしな、と見当違いなことを言うから、結婚式の腕輪の話をした。「こんなのだよ」と、新聞で読んだばかりのインドの花嫁の話を。
「ホントに沢山つけてるんだけど、その腕輪、花嫁専用だから…」
結婚式の前に壊すと不幸になっちゃうんだって。
だったら頑丈な腕輪にすればいいのに、ガラスの腕輪もあるんだよ。強化ガラスじゃなくって、普通のガラス。…ぶつけたらガシャンと壊れちゃうヤツ。
そういう腕輪も作ってるなんて、面白いよね。
運試しなのかな、花嫁さんの。…壊れやすい腕輪を壊さずにいたら、うんと幸せ、って。
「ほほう…。そうかもしれないな。頑丈な腕輪を嵌めているより、楽しいかもな」
この幸せを壊さないよう、気を付けようって心構えも出来るわけだし…。
結婚して直ぐに夫婦喧嘩になっちゃいかんと、我儘なんかも押さえつけてみたり。
ガラスの腕輪も良さそうだよなあ、そういう意味では。
花嫁の腕輪か、面白い習慣もあるもんだ。やっぱり世界は広いな、うん。
…いや、待てよ…?
ちょっと待て、とハーレイは腕組みをして考え込んだ。少し深くなった眉間の皺。
その花嫁の腕輪が引っ掛かる、と。
インドの花嫁は知らないけれども、花嫁の腕輪を何処かで聞いたような気が…、と。
遠い記憶を追っているのか、ハーレイが何度も「花嫁の腕輪か…」と呟くから。
「あれだったの?」
フィシスの腕輪は花嫁さんのための腕輪で、やっぱり結婚式だった…?
前のぼく、それで嵌めてたのかな、花嫁さんの腕輪は専門の人が嵌めるらしいから…。
こんな腕輪をどうやって嵌めるの、って不思議なくらいに小さなヤツでも。
前のぼくならサイオンを上手に使えたんだし、そういうのが凄く得意そうだよ。ほんの少しだけサイオンを使って、どんな腕輪でも腕にピタリと嵌めちゃうだとか。
「おいおい、フィシスは結婚なんかはしてないだろうが」
花嫁の腕輪をつけるわけがないぞ、いいから少し待ってくれ。
フィシスがつけてた腕輪だろ…。
でもって、花嫁の腕輪なんだが、フィシスは結婚していないわけで…。
そうだ、ヒルマンだ、あいつが考え出したんだ…!
「えっ、ヒルマンって…?」
考え出したって、フィシス、やっぱり花嫁さんなの…?
「さっきも違うと言った筈だぞ。フィシスが誰と結婚するんだ、まったく、お前は…」
フィシスの託宣、そいつは覚えているだろう?
よく当たるタロット占いで…。子供時代は、それでもお遊び程度ってトコだ。子供だけに。
しかし大きくなった後には、船の進路まで占うようになってだな…。
そっちじゃない、と言いに来るんだ、アルフレートと一緒にな。そっちは駄目だ、と。
「あったっけね…。そういうことも」
フィシスが言う通りに進路を変えたら、思ってたより楽に航行出来たんだっけ。
本当だったらハーレイが舵を握らなくっちゃいけない所を、シドとかが舵を握ったままで。
タロットカードで占ったフィシス。船の進路をどうするべきかを。
それが悉く当たり始めたら、次はミュウの子供たちの救出について占い始めた。救助に出てゆく小型艇を何処に配置すればいいか、どのタイミングで出るのかなどを。
「そいつをフィシスが占うようになってからはだな…」
前だったら助け損なっていただろう子供も、上手い具合に助け出せたんだ。
此処に船を、と言われる通りに進めたならな。
「フィシス、占ってくれたんだっけね…」
とても上手に、こうやって、こう、って。
ホントに当たる占いだったし、前のぼくが助けに飛び出すことは無くなって…。
救助班だけでも出来るようになったし、助け損なうことだって減って…。
「そういうことだな」
フィシスは何度も上手くやってだ、無事に成功した礼をしたいとお前が言って…。
それで腕輪が出来たんだ。フィシスへの礼に。
「思い出した…!」
御礼をしたい、ってフィシスに何度も言ったけれども、フィシス、なんにも要らないって…。
ぼくと二人でお茶が飲めたら、それだけで、って…。
だけど、お茶ならいつでも飲めるし、何処も特別じゃないんだもんね…。
フィシスの占いが当たった時。占いのお蔭で、ミュウの子供を見事に助け出せた時。
命を救えた特別な時には、どうしても御礼がしたかった。お茶だけではなくて。
それにシャングリラの仲間たちにも、フィシスは凄いと知らせて回りたい気持ちもあった。皆は当然知っているけれど、今よりも、もっと。ミュウの女神の名に相応しく。
何かいい案は無いだろうか、とヒルマンに相談してみたら…。
「考えてみよう」とヒルマンが引っ張った髭。「少し時間を貰えるかね?」と。
それから数日、長老たちが集まる会議で出された意見。
「ソルジャー、フィシス殿の件なのだがね…」
腕輪というのはどうだろうかと…。
幸い、シャングリラには腕輪をつけた女性は一人もいないし…。
「腕輪だって?」
その腕輪には、何か特別な意味でもあるのかい?
アクセサリーしか思い付かないけれども、腕輪は特別なものなのかな?
「ずっと昔に、地球のインドにあったそうだよ」
結婚式の時に、花嫁がつける腕輪というのがね。花嫁の幸運を祈る腕輪だ。
それも一つや二つではなくて、手首から肘まで覆うくらいにビッシリと。
腕にピッタリのサイズを選んで、専門の人間がつけたらしいよ。結婚式の前の日にね。
花嫁の腕輪をつけて貰ったら、一ヶ月から三ヶ月くらいは外さない。家事も一切しなかった。
腕輪を沢山つけたままでは、家事をするのは難しいからね。
フィシスは家事などしないわけだし、腕輪をつけたままでいられるのだから…。
嵌めた腕輪はそのままで。そういうことでどうだろうか、というのがヒルマンの案。
占いのお蔭でミュウの子供を救出できたら、腕輪を一つ。
「フィシスがいなければ救えなかった、という子供が来る度、腕輪が一つ増えるのだよ」
ミュウが追われる時代が終われば、腕輪も増えなくなるだろうから…。
フィシスの腕に沢山の腕輪は、出来れば勘弁して欲しいがね。
その腕輪をだ、皆の前でソルジャーが嵌めてみせれば映えるだろうと思うわけだよ。
ソルジャー自ら、フィシス殿の腕に腕輪を一つ。
「そうだね、それは素敵な思い付きだよ。いいと思うよ」
フィシスが助けた子供の数だけ、フィシスに腕輪。とても特別で、とても素敵だ。
でも、子供たちの命が危険に晒された証の品でもあるし…。
凝った腕輪じゃない方がいいね、ただの腕輪がいいんだろうね。色はやっぱり、金色かな。
それを作らせてくれるかい、と前の自分は飛び付いた。
ソルジャーが腕輪を嵌める儀式はきっと映えるし、腕輪が増えればフィシスも尊敬される筈。
長老たちも皆、賛成したから、腕輪を作ることに決まった。シンプルなものを。
(…服飾部門のデザイナーたちの話も聞いて…)
元になったインドの花嫁用の腕輪とは違って、ゆったりした腕輪。
勝手に腕から抜けない程度で、けれど余裕のあるサイズ。数が増えても困らないよう、幅は細く作って、触れ合った時に涼やかな音が鳴るように。
そうやって出来たフィシスの腕輪。ミュウの女神だけが身につける腕輪。
次にミュウの子供を救出した時、天体の間で最初の一個を嵌めた。船の仲間たちが見守る中で、前の自分が跪いて。
「ありがとう」と御礼の言葉をフィシスに告げて、左の手に。
ヒルマンたちが「最初に嵌めるのは左手がいい」と言ったから。心臓に近いのは左手なのだし、結婚指輪が左手の薬指なのも、そのせいだから、と。
それまで腕輪が無かった白い腕に一つ、金色の腕輪。何の飾りも無いものが。
難しい救出を一つこなす度に、一個、二個と腕輪は増えていって…。
「フィシスはお前の女神なんだ、っていうイメージもだな…」
どんどん強くなってったってな、腕輪が一つ増える度にな。
「うん…。ぼくがフィシスに跪くから…」
ソルジャーが跪くなんてこと、フィシス以外には一度も無かったから。
お蔭で本当の恋人がハーレイだったことは、誰にもバレずに済んだんだけど…。
あの腕輪、最後はいつだったっけ?
いつ嵌めたのかな、フィシスの一番最後の腕輪は…?
「最後のか…?」
お前、嵌め損なったんだ。最後の腕輪はあったんだが。
「え…?」
嵌め損なったって、どういうことなの?
「腕輪はあったと言っただろうが。…あったが、そいつを嵌められなかった」
ジョミーの時に用意をさせていたんだ。腕輪を作っておいてくれ、とな。
「あっ…!」
ホントだ、腕輪、作らせたんだっけ…。
ジョミーは絶対に救い出さなきゃいけなかったし、失敗なんかは有り得ないものね。
次のソルジャーになるジョミーの救出。難航すると分かっていたから、用意させた腕輪。きっとフィシスの手伝いが要ると、今までに助けた子供たち以上の正確さで、と。
何処でジョミーを救い出すべきか、誰を派遣して、どう助け出すか。
フィシスの占いは当たったけれども、自分は力を使いすぎた。テラズ・ナンバー・ファイブとの戦い、それで消耗した体力と気力。
腕輪を嵌める儀式は当分出来そうになくて、ベッドに横たわっているしかなかった。
「お前がベッドから起き上がれない内に、ジョミーは船から出て行っちまって…」
ジョミーを思念で追い掛けるのが、前のお前の精一杯で。
なのに、お前も飛び出しちまった。…ジョミーを追えるの、お前以外にいなかったからな。
「…ごめんね、ハーレイにも止められたのに…」
一人で行っちゃって、本当にごめん。
ぼくは力を使い果たしちゃって、成層圏から落っこちちゃって…。
後はジョミーが針の筵で、ぼくもフラフラだったから…。ベッドで寝ているしか無かったから。
腕輪のこと、すっかり忘れちゃってた…。
フィシスは頑張ってくれたのに。…誰よりも凄い未来のソルジャーを、占いで助け出したのに。
「周りのヤツらも言えないからなあ、お前、本当に弱っていたし…」
腕輪を嵌める儀式はいつにしますか、と訊けやしないし、勝手に予定も組めないし。
うっかり予定を組んじまったら、余計にジョミーの立場がマズイ。
無事にお前が起きられりゃいいが、起きられなくって儀式が流れてしまったら…。
腕輪を嵌める所を見よう、と集まっていたヤツらが怒り出すんだ。ジョミーのせいだと。
「…誰も言わないから、ホントに忘れてしまってた…。腕輪のこと…」
どうしよう、フィシスに渡し損ねちゃった。あの腕輪、最後の腕輪だったのに…。
本当だったら嵌めてあげる筈で、フィシスの腕輪は、もう一個増える筈だったのに…。
「一個、足りないままになったな…」
腕輪は作ってあったのに。…服飾部門のヤツらが何処かに仕舞って、それっきりだな…。
増える筈だったフィシスの腕輪。ジョミーの救出に成功した時の、輝かしい功績を称える腕輪。
それは確かに作られたのに、前の自分が作らせたのに。
きっとフィシスは知っていただろうに、彼女からは言い出せなかっただろう。嵌めて欲しいと。
腕輪を嵌める儀式は無くても、それを自分の腕に欲しいと。
フィシスは前の自分を慕っていたから、本当にそれが欲しかった筈。最後の腕輪が。前の自分の思い出の品が。
「悪いことしちゃった…。フィシス、腕輪がとても欲しかった筈なのに…」
嵌めてあげるチャンスはあったのに…。ぼくがナスカで目覚めた時に。
あの時だったら、フィシスと二人。…誰もいなくても、腕輪は嵌めてあげられたのに。
「お前、腕輪を覚えてたのか?」
覚えていたのに、置いてある場所が分からなかったとか、そういうことか?
「ううん…。今のぼくと同じで忘れていたよ」
それに、フィシスは怯えていたから…。ナスカで不吉なことが起こる、って。
大丈夫だよ、って死神のカードを燃やしちゃったけど、そうするよりも腕輪だったかな…。
もっとずっと前に、眠ってしまう前に、あの腕輪。
ちゃんと腕輪を思い出していて、「ほら」ってフィシスの腕に嵌めてあげて。
最後の腕輪を嵌めていたなら、色々なことを防げたのかな…。
深い眠りに就いていたって、フィシスを守ってあげられたかな…。ああなる前に。
「さあな?」
そいつは俺にも全く分からん。
俺に未来は読めはしないし、どう動いたら未来を変えてゆけるのか、そいつも分からん。
それに、お前がフィシスに最後の腕輪を嵌めてやっていたとしたって、だ…。
どのみちキースは来ただろうし、とハーレイが言う通りだけれど。
ナスカにやって来ることは変わらないけれど、もしもフィシスの腕に腕輪を増やしていたなら、あの時、フィシスは、閉じ込められていたキースには…。
「…フィシス、近付かなかったかも…。キースの部屋には…」
ぼくが嵌めた腕輪が目に入るんだから、用心して。…気になるけれども、行っちゃ駄目、って。
だって最後の腕輪なんだよ、ぼくが最後にあげたんだよ?
十五年間も眠るくらいに疲れていたのに、フィシスのために、って頑張って、腕輪。
それがあったら、きっとフィシスも…。
ぼくが起きていたらどう言うだろう、って考えるだろうから、きっと行かない…。
フィシスがあそこに行かなかったら、キースは脱出できなかったかも…。
「そりゃまあ…。逃げる道筋が分からなけりゃな」
逃げたつもりでブリッジにでも突っ込んで来たら、それで終わりだ。いくらあいつでも。
しかしだ、あれだけ沢山の腕輪を嵌めてりゃ、一個くらいでは…。
いくら最後の腕輪にしたって、沢山の内の一個なんだし…。
あっても無くても同じだったさ、と慰められた。
たとえ最後の腕輪を嵌めていたって、同じ生まれのキースに惹かれる方が大きい、と。
「…そうなのかな?」
ホントにそうかな、フィシス、やっぱり行っちゃったかな…?
最後の腕輪を嵌めていたって、キースの所に。…同じ記憶を持っている人が気になって。
「そう思わないと、お前、辛いだろうが」
自分のせいだ、と今頃になってまで、クヨクヨ考え込んでしまって。
腕輪の一個くらいがなんだ、と考えた方がマシってもんだ。フィシスは沢山つけていたんだし、最後の一個が増えていようが、欠けていようが、大して違いは無いってな。
それにだ、フィシスは嵌めたんじゃないか、最後の一個。
俺はそういう気がするんだがな、あの腕輪はちゃんとフィシスが嵌めた、と。
「…なんで?」
腕輪、そのままになっちゃったんでしょ、前のハーレイだって知らないんでしょ?
何処にあったか、誰が仕舞っておいたのかも。
そんなの、フィシスは見付け出せないよ。…占ってまではいないだろうから、腕輪の在り処。
「占いが全てだと思うなよ?」
宝探しと探検ってヤツは、子供の大好きな遊びだろうが。…お前はともかく、元気な子なら。
前の俺たちは、カナリヤの子たちをシャングリラに送ってやったんだ。あの船で生きろ、と。
その子供たちの世話をしてたの、フィシスだろうが。
カナリヤの子たちが船に馴染めば、宝探しを始めるぞ。船のあちこちの探検だって。
そうやって船中を走り回って、いろんな所を覗き込んだり、開けたりしてて…。
フィシスの腕輪とそっくりなヤツを発見したなら、どうすると思う?
早速、届けに走るだろうが。
「行方不明になってた腕輪を一つ見付けた」と、大急ぎでな。
「ホントだ、そうかもしれないね…!」
きっと見付けるよね、カナリヤの子たち。
仕舞い込まれてた腕輪があったら、フィシスに届けに走って行くよね、「見付けたよ」って…!
全てが終わった後だったならば、カナリヤの子たちが最後の腕輪を見付けたならば。
フィシスも自分で嵌めたかもしれない、嵌めてくれる人はもういなくても。
天体の間でいつも行われていた、厳粛な式はもう無い時代でも。
あの船で生きた、前の自分やジョミーや、ハーレイたち。いなくなった皆の思い出に。
フィシスを船に送り届けたハーレイたちから頼まれた通り、皆を覚えているように。
これが最後の腕輪なのだ、と腕に通して。
きっと左手に通したのだろう、最初の腕輪を貰った手に。
「…ハーレイ、その記録、残ってる?」
フィシスが腕輪を嵌めたかどうかの記録は無くても、腕輪の数。
シャングリラが地球を離れた後には、フィシスの腕輪、幾つあったのか…。
それが分かれば、きっと分かるよ。
腕輪が一個増えていたなら、最後の腕輪を嵌めたんだ、って。
「…残念ながら、無いだろうなあ…」
フィシスの腕輪の数までは分からないだろう。
形見の腕輪も残っちゃいないし、今となっては調べようがない。
フィシスが最後の腕輪を嵌めたか、嵌めないままで終わっちまったのかは、謎ってトコだな。
確かめようがないってことだ、とハーレイがフウとついた溜息。
「だから、お前もクヨクヨするな」と。
過ぎてしまった過去に戻れはしないし、腕輪のことで悩むんじゃない、と。
けれど、シャングリラを離れた後にも、フィシスの腕に、最後まで腕輪はあったそうだから。
幼稚園の子たちと普段着を着て遊ぶ時にも、腕輪はあったらしいから。
きっとフィシスは、最後の腕輪を嵌めていたのだと思いたい。
カナリヤの子たちが探し出して来て、自分で嵌めて。
白いシャングリラで生きた皆の思い出に、心臓に近い左の腕に、金色の腕輪を一個増やして…。
フィシスの腕輪・了
※フィシスだけが嵌めていた腕輪。それには意味があったのです。ミュウの子供を助けた証。
もう1つ増える筈だったのが、ジョミーを救出した時の分。最後の腕輪は増えたでしょうか。
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(いた…!)
あの子だ、とブルーが名を呼んだ猫。学校の帰りにバス停から家まで歩く途中で、庭にいるのを見付けたから。白と黒のブチ猫、名前はムタ。
人懐っこい猫で、呼ばれると歩いて来てくれる。生垣の側まで。手を振る間にやって来たから、もう嬉しくて立ち話。「元気にしてた?」とか、「今、学校から帰ったんだよ」とか。
もちろん猫は喋らないけれど、「ミャア」と鳴いたり、喉をゴロゴロ鳴らしたり。今日の報告もしていたら…。
「ブルー君、今、帰りかい?」
「あっ…!」
掛けられた声に驚いた。気付かなかった家の住人。この家の御主人、庭木の陰からヒョッコリと顔を覗かせた。「こんにちは」と。
「ごめんなさい!」と頭を下げて、慌てて挨拶。「こんにちは」と御主人と同じ言葉を返して。
失敗しちゃった、と真っ赤になった頬。猫と話している間中、御主人は庭にいたのだろう。
(凄く失礼…)
猫に挨拶していただなんて。おまけに楽しく話まで。先に挨拶するべき御主人を放って、挨拶もしないで猫とお喋り。
大失敗だよ、と肩を落としていたら、御主人は猫をヒョイと抱き上げて。
「気にしなくていいよ、ブルー君」
うちの子を可愛がってくれているのが分かるしね。この子も嬉しそうにしてただろう?
「でも…。ご挨拶…」
「ムタの方が先でいいんだよ。この子は私より偉いからね」
「えっ?」
どういう意味、と目を丸くしたら、御主人は猫を撫でながら。
「そのつもりらしいよ、本人はね。…いや、猫だから本猫かな?」
一番偉いのはムタってことだね、この家ではね。本当だよ。
この家の誰よりも偉いんだ、と撫でた御主人に「ミャア!」と鳴いた猫。「下ろしてよ」という意味らしい。「この通りだから」と下ろして貰った猫は、悠然と向こうへ行ってしまった。
御主人よりも奥さんよりも、娘さんたちよりも偉いムタ。家を代表するのは猫の「ムタさん」。だからこれからもムタを優先でどうぞ、と御主人は言ってくれたのだけれど。
(恥かいちゃった…)
御主人を抜かして、猫に挨拶したなんて。そのまま話をしていただなんて。
(挨拶、とっても大切なのに…)
顔見知りの人に会ったら「こんにちは」だし、「行ってらっしゃい」と声を掛けられた時には、「行って来ます」と元気に返事。「おかえり」だったら、「ただいま」で…。
小さい頃から頑張っていたのに、大失敗をしてしまった。顔が真っ赤になったくらいに。
(…猫に挨拶…)
それだって、大事だとは思う。あそこに猫しかいなかったなら。猫のムタさん、白と黒のブチの毛皮が見えたら、やっぱり挨拶。
(猫だって、ご近所さんだもの…)
挨拶しないで通り過ぎるより、一声かけていく方がいい。「こんにちは」と。
けれど、猫への挨拶だって、人間同士の挨拶の延長。家の人がいたなら、そちらが優先。挨拶はそういうものだから。人間だったら、ちゃんと言葉か返るのだから。
ホントに失敗、とトボトボ帰って行った家。今日は大恥、と。
気分を切り替えるにはこれが一番、と着替えてダイニングに出掛けたおやつ。美味しいケーキと紅茶で気分転換、元気が出たよ、とテーブルにあった新聞を広げて読み始めたら。
(山登り…)
絶壁を登る登山ではなくて、その辺りの山から始める登山。自信がついたら山小屋に泊まって、高い山へと。もっと自信がついたらテントを張って…、といった記事。
身体の弱い自分とは縁が無いのが登山で、それでも楽しそうだから。「登ってみたいな」という気持ちになってくるから面白い。
興味津々で読み進めてゆくと、山での挨拶が書かれていた。登山者同士で交わす挨拶。山登りの途中で擦れ違う人と、「こんにちは」と。
疲れていたって、するのがマナー。会釈だけでも。
(うーん…)
このタイミングで挨拶の話、と今日の失敗を思い返して唸っていたら、通り掛かった母。
「どうしたの?」
新聞に何か、難しい話でも載ってるの?
「そうじゃないけど…。ただの山登りの記事なんだけど…」
でも、挨拶が大事なんだって。山に登るなら、知らない人でも会ったら挨拶しましょう、って。
その挨拶、ぼく、失敗しちゃった…。山じゃないけど。
御主人がいるのに、猫に挨拶しちゃったんだよ、と失敗談を打ち明けた。あそこの家、と。
「ぼくって、ホントに駄目みたい…。ムタを見付けて、夢中になって…」
ちっとも周りを見ていなかったから、ホントのホントに大失敗だよ。
「あら、失敗は誰にでもあるわよ。そういうのはね」
「ママもやったの?」
家の人、ちゃんと其処にいるのに、猫に挨拶。
「そうよ、何回もやってるわよ。ご近所でもやったし、お友達の家でも」
出掛けて行って、お留守かしら、と勘違いしちゃって…。
それだけならいいけど、猫とか犬にお話しちゃうの。「今日はお留守番?」ってね。
「ママでもやるんだ…。そんな失敗」
「パパもやってると思うわよ?」
チャイムを鳴らして返事が無ければ、お留守なのかと思うじゃない。
お庭の方かも、って眺めた時にね、猫とかがいたら、やっちゃうわよ。「お留守なの?」って。
ママでもやるから大丈夫、と太鼓判を押して貰った。
人がいることに気付いた時に挨拶出来れば、それで充分。「ごめんなさい」と、気付かなかったことを謝って。
挨拶は人間関係の基本なのだし、挨拶する気持ちが大切だから、と。
「ホント?」
「ええ、本当よ。それにね、ムタさんの家の御主人はね…」
猫にも挨拶してくれる人が大好きなのよ。あの御主人に挨拶をしたら、次はムタさん。そういう順番になってるみたいよ、猫好きだから。
「猫に挨拶って…。ママも?」
「何度もしたわよ、「こんにちは」ってね」
だから、ムタさんの方が先でも本当に大喜びなの。「挨拶して貰えて良かったね」って。
またやったって大歓迎して貰えるわよ、と母に教えて貰ったけれど。ムタの御主人が言っていた言葉は、どうやら本当らしいけれども。
部屋に帰ったら、やっぱり溜息。結果はどうあれ、失敗したことには違いないから。
(山では、疲れていたって挨拶…)
向こうから人がやって来た時は。「こんにちは」と元気に声が出せなくても、会釈すること。
そういえば、ハーレイはジョギング中に手を振ると言っていた。誰か手を振ってくれた時には。手を振るのは多分、子供だろうに、手を振り返して走ってゆくハーレイ。
山と同じで、ジョギングしている真っ最中でも、挨拶を返しているわけで…。
(ぼくって駄目かも…)
走っていたって、周りが見えているハーレイ。子供にもきちんと挨拶をする。なのに、のんびり歩いていた自分は家の御主人を見落としてしまって、猫に挨拶。そのまま猫と話まで。
注意力散漫だから失敗しちゃって恥をかくんだ、と考えていた所へ、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたまではいいのだけれど。
(きちんと挨拶…)
今日くらいはハーレイにも挨拶しなきゃ、と引き締めた心。ちゃんと挨拶、と。
猫で失敗した分まで。御主人抜きで猫に挨拶していた分まで、ハーレイに挨拶、と思ったのに。
母の案内でハーレイが現れた途端に、「ハーレイ!」と呼び掛けてしまった自分。
挨拶なんかは綺麗に忘れて、いつものように。「来てくれたの?」と。
そのハーレイと、テーブルを挟んで向かい合わせに腰掛けて。お茶のカップに手を伸ばしたら、気が付いた。挨拶を忘れていたことに。
「やっちゃった…」
ぼくってホントに駄目みたい…。また失敗…。
「失敗って、何をだ?」
ハーレイは怪訝そうだけれども、失敗は失敗。いつも通りでも大失敗だから。
「挨拶、忘れた…」
ちゃんとハーレイに挨拶しなきゃ、って思ってたのに。
「挨拶って…。普通だったろ?」
忘れてないだろ、お前、いつもと変わらなかったぞ。嬉しそうだったし。
「いらっしゃい、って言おうとしていたんだよ」
ハーレイ、お客様だから…。お客様には「いらっしゃい」でしょ?
「おいおい、なんだか気味が悪いな。お客様も何も、今更だろうが」
そんな挨拶、お前から聞いたことなんか一度も無いと思うが…。
いきなりどうした、何かあったのか?
俺に「いらっしゃい」と他人行儀な挨拶をするほど、お前が変になっちまうことが。
「あのね…」
挨拶で失敗しちゃったんだよ、今日の帰りに。
バスを降りてから歩いてた時に、とっても可愛い猫に会ったから…。
その家の御主人に気付かないまま、猫に挨拶して話しちゃってた、と白状した。大失敗、と。
「…いいんだよ、って言って貰ったけど、ホントに失敗…」
だから挨拶のやり直し、ってハーレイに言おうとしてたのに…。「いらっしゃい」って。
「なんだ、そういうことだったのか。猫に挨拶しちまった、と」
愉快じゃないか、子供なんだし、大丈夫さ。そうでなくても、御主人、猫が大好きなんだろ?
猫に挨拶が歓迎だったら、お前は失敗してないんだから。
「でも…。注意してたら、失敗しないよ」
挨拶、とっても大切なのに…。小さい頃から、ちゃんと挨拶してるのに。
「気持ちは分かるが、そこまで恥だと思わなくても…」
第一、お前はよくやっていると思うぞ、俺は。
「…何を?」
「挨拶だ、挨拶。今は挨拶の話だろうが」
お前は立派に挨拶してる。今日は失敗したかもしれんが。
「えーっと…。学校でハーレイにしてる挨拶?」
先生なんだもの、挨拶するよ。他の先生だって、会ったら、きちんと。
「その挨拶の方も大したもんだが…。それよりも前に、だ…」
お前、元々、される方だろ?
挨拶ってヤツを。
「される方って…。何の話なの?」
ぼくは挨拶をする方で…。クラブなんかも入ってないから、誰も挨拶してくれないよ?
挨拶した時のお返しだとか、後はご近所さんだとか…。先に気付いてくれた時だけ。
「前のお前だ、今じゃなくてな」
挨拶される方だったろうが、いつだって。ソルジャーから先に挨拶はしない。
シャングリラじゃ、そういう決まりだったと思うがな…?
「そうだっけ…!」
忘れちゃっていたよ、そんなこと。…今の今まで、ホントに全部。
あったんだっけ、と蘇った記憶。遠く遥かな時の彼方で、確かにあった決まりごと。
白い鯨が出来るよりも前、ソルジャーの肩書きがついた途端に、エラが勝手に決めてしまった。船の中でソルジャーに出会ったならば、必ず先に挨拶すること、と。
ソルジャーが挨拶するよりも前に。敬意を表して、挨拶の言葉。
「お前、あの決まりに慣れなくて…」
ソルジャーって呼び名の方もそうだが、いきなり特別扱いだしな?
挨拶は必ず向こうから、って決められたって上手くいかないんだよなあ…。
「うん。ぼくの方が先に挨拶しちゃうんだよ」
だって、それまで、そうだったから…。一番のチビで、子供だったんだから。中身だけはね。
いくら大きくなっていたって、他のみんなの方が上だよ。ぼくが挨拶しなくっちゃ。
そうしていたのに、エラが決まりを作っちゃって…。
ぼくが挨拶しちゃった時には、エラが側にいたら直されるんだよ。「それでは駄目です」って。
ソルジャーなんだから、相手に挨拶させるべきだ、って。
「そうだったんだよなあ、エラは礼儀作法ってヤツにうるさかったし」
お前は本当に困っちまって、仲間たちも途惑っていたっけなあ…。調子が狂って。
あの決まりが出来てしまうよりも前は、お前、みんなに挨拶してたし…。今のお前みたいに。
もっとも、俺はそれほど困らなかったが。ああいう決まりを作られてもな。
「なんで?」
ハーレイもエラに直されてたと思うんだけど…。「やり直して下さい」って、何回も。
「そいつは俺の言葉の方だ。敬語になっていなかったからな、最初の頃は」
言葉遣いが間違っている、と直されただけで、挨拶の方は言われていないぞ。
「よう!」とやったら失礼な言葉遣いってことで失敗するがだ、元から俺が挨拶してたろ。
お前を見掛けたら、俺の方が先に。
「そういえば…。ハーレイ、気付くの、とっても早かったもんね」
ぼくが通路を曲がった途端に、「よう!」って手を振ってくれたっけ。
ぼくは大抵、振り返す方。…ハーレイが先に気付いちゃうから。
前のハーレイはそうだった。シャングリラの中で出会った時には、距離があっても振ってくれた手。挨拶の声が届かないほどでも、「此処だ」と、「俺だ」と。
いつも嬉しくて、精一杯に振り返した手。「ぼくだよ」と、「じきにそっちに行くよ」と。
けれど、そのハーレイとさえ開いてゆく距離。ソルジャーという肩書きのせいで。
自分からは先に出来ない挨拶。相手が挨拶してくるまでは。
今日はハーレイを先に見付けた、と思った時にも手を振れはしない。ハーレイも前のように手を振ってはくれない。それはエラの言う「挨拶」の内には含まれないから。
ソルジャーに挨拶するなら、会釈。親しみをこめて手を振ることは許されなかった。
ずっと後になって、幼い子たちが船に来た時は、許されたけれど。子供たちはソルジャーに手を振りたがるから、幼い子供の特権で。
その子供たちも、大きくなったら手は振らない。ソルジャーの方からも、もう手は振れない。
幼い子供とは違うのだから、あちらが挨拶するのを待つ。
挨拶されたら、ようやく自分も話すことが出来た。挨拶にしても、「元気にしているかい?」と大人の仲間入りを果たした気分を尋ねるにしても。
厄介だったシャングリラの規則。ソルジャーが先に挨拶出来ない決まり。
「なんで、あんな決まりが出来ちゃったのかな…」
挨拶なんか、どっちが先でもいいじゃない。そりゃあ、今でも、少しは決まりがあるけれど…。
御主人よりも先に猫に挨拶するのは、失敗だけど。
「決まりの由来は俺も知らんが、エラだからなあ…」
昔の王族の習慣あたりが出処になっているんじゃないか?
挨拶ってヤツとは少し違うが、身分が下の人間からは話し掛けられないって決まりがな…。
前の俺は全く知らなかったが、今の俺の薀蓄の一つってわけで、雑談のネタにすることもある。
まずは言葉をかけて貰って、それからでないと話せない。そんなルールがあったんだそうだ。
シャングリラでは、其処まで出来ないし…。
ちょっと捻って、「挨拶してからでないと話せない」って風にしたかもしれんぞ。
挨拶抜きでは喋れんからなあ、ソルジャーとはな?
まず挨拶だと、それから喋れと、偉さを強調していたかもなあ…。
「なに、それ…。自分からは話し掛けられないって…」
身分が下だと待ってるだけなの、偉い人の方が先に喋ってくれるのを…?
「そうだったらしい。実際、徹底していたようだぞ」
この決まりのせいで、外交問題になりかかったという事件まであった。
一言も言葉を貰えないから、と怒り出した人間が現れちまって。
「えーっ!?」
外交問題って、お喋りのせいで?
どうしたらそういうことになっちゃうの、いったい何が問題だったの…?
失言だったら外交問題になっても当然だけれど、喋らないことが何故問題になるのだろう?
沈黙は金と言うほどなのだし、黙っておけば良さそうな感じ。そう思ったのに…。
「ところが、そいつが違うんだ。…この場合はな」
フランスって国があったことなら知ってるだろ?
其処に別の国からお輿入れしたお姫様。そのお姫様が問題だった。
王様の孫のお嫁さんになったわけだが、王様のお妃はもういなくって…。その子供たちも、もういなかった。孫が皇太子で、そのお妃の身分が一番高いってな。女性の中では。
しかし王様には、大事な女性がいたわけで…。我儘は何でも聞いてやりたいってトコだ。
お姫様が来るまでは、それで良かった。だが、お姫様が来たら、女性の身分は下になってだ…。元の身分も低かったからと、お姫様は口も利かないってな。
「…それじゃ、外交問題って…」
お姫様の国とフランスとの間の問題?
その女の人が怒っちゃって…?
「分かってるじゃないか。なにしろ、面子が丸潰れだしな」
まるで王妃様のように振舞ってたのに、お姫様のお蔭で台無しだ。身分は下だ、と馬鹿にされているわけなんだから。
王様も怒るし、それは大変で…。結局、お姫様の方が折れたんだ。
たった一言、挨拶すれば丸く収まるというわけでな。
もっとも、その挨拶が実現するまでが、山あり谷ありと言うべきか…。色々な人間が間に入って邪魔をするから、そう簡単にはいかなかったらしい。
挨拶一つでその有様だぞ、国と国とが喧嘩を始めてしまいそうなほどに。
とんでもない決まりがあったもんだ、とハーレイが軽く広げてみせた手。「実話だしな?」と。
「それだけ大騒ぎをやらかした末に、お姫様はなんて言ったと思う?」
今まですみませんでした、と謝ったんなら、俺たちにだって理解できるが…。
そうじゃないんだ、「今日は大勢の人で賑やかですね」と言ったらしいぞ。詫びの言葉は欠片も無しで。だが、それだけで済んじまった。ちゃんと言葉は掛けたんだから。
「…ごめんなさい、って言うんじゃないんだ…」
外交問題になっていたって、たったそれだけ…?
「うむ。お姫様から言葉を貰えばいいわけだからな。中身はどうでもいいってことだ」
怒っていた女性は大満足だし、王様も大いに満足したって話だぞ。
決まりはきちんと守られたわけで、お姫様は女性を丁重に扱ったということになって。
「その話、エラが好きそうだね…」
ソルジャーが「どうぞ」って言わない間は、誰も話し掛けちゃ駄目だとか…。
どんなに話をしてみたくっても、門前払いになっちゃうだとか。
「そうだろう? 俺もそういう気がしてな…」
俺は「挨拶はソルジャーよりも先に」ってヤツの、由来を全く覚えちゃいないが…。
前の俺が知っていたのかどうかも謎だが、この辺りが元になったんじゃないか?
シャングリラって船の事情に合わせて、アレンジして。
とにかくソルジャーを偉く見せようと、「挨拶はソルジャーよりも先に」と徹底させて。
エラはソルジャーの威厳にこだわってたしな、と苦笑いを浮かべているハーレイ。
「お前には気の毒な決まりだったが、フランスよりかはマシだろうが」と。
「本当にあれが元だったのかは分からんが…。そのまま使われていたら大変だぞ?」
ただでもお前は、みんなと喋りたかったのに…。気軽に話し掛けて欲しかったのに。
お前の方から「話していいよ」と言わない限りは、誰も喋ってくれないんじゃなあ…?
その点、挨拶するだけだったら、そいつが済んだら喋れるんだし…。
挨拶は向こうが先にするっていう決まりだったし、お前は話し掛けては貰えたわけだ。やたらと丁寧な敬語だろうが、何だろうが。
「あの挨拶…。ぼくに会ったら、挨拶は相手の方から、ってヤツ…」
緊急事態は除外します、ってエラは決めちゃってたけれど…。
当たり前だよね、そうしておくこと。
シャングリラがどうなるか分からない時に、挨拶なんかを待っていられないよ。
誰でもいいから声を掛けるし、「手伝って」って頼みもするんだから。
「そんな時まで、いちいち挨拶しないよなあ?」
俺の敬語も、最初の頃なら吹っ飛びそうだぞ。
アルテメシアから逃げ出そうって時には、とっくに癖になっていたからヘマはしなかったが…。
お前が「ワープしよう」と言い出した時も、ちゃんと敬語で応じてたがな。
…待てよ、あの時、お前に挨拶してないか…。
お前から思念が飛んで来たから、誰も挨拶しなかったっけな、画面に映し出されたお前に。
緊急事態ってヤツだからなあ、エラも忘れていたんだろうが…。
いくらエラでも、挨拶がどうのと言っていられる状況なんかじゃなかったんだし。
まったくもって妙な習慣だった、とハーレイが苦笑している挨拶。ソルジャーに会ったら、先に挨拶するという決まり。
「そうは言っても、お前も自然と慣れてったわけで…」
挨拶は向こうがしてからだ、って堂々と振舞うようになっていたのに、今じゃコロリと変わっているよな。昔のお前と全く同じに、自分の方から挨拶と来た。
そっちの方に慣れ過ぎちまって、猫に挨拶しちまうくらいに。
「忘れちゃっていたよ、そんなことは」
誰かに会ったら、挨拶するのを待ってたなんて。…ぼくの方からは挨拶しないで、偉そうに。
最初の間は寂しかったけど、慣れてしまったら、そういうものだと思うから…。
船のみんなも慣れてしまって、自然とそうなっていっちゃったから。…子供たちもね。
小さい間はぼくの方から挨拶したけど、大きくなったら向こうが先。手だって、ぼくには振ってくれなくなってしまって。
でも、ナキネズミには、ぼくから挨拶していたから…。船の中でバッタリ会った時には。
「そうだったのか?」
ナキネズミはお前よりも偉かったわけか、ソルジャーの方が先に挨拶するんだから。
船のヤツらは、みんな揃ってソルジャーに挨拶していたのに。
「ナキネズミにまでは、エラも礼儀作法を叩き込んではいなかったしね」
青の間にだって出入り自由だったし、ナキネズミは例外。ぼくと普通に喋っていても。
ナキネズミが敬語で話すのは聞いたことが無いと思うよ、多分、一度も。
ふざけて使ったかもしれないけれども、本当の意味での敬語なんかは。
…そのせいで猫に挨拶しちゃったのかな?
ぼくから挨拶したっていいんだ、って喜んじゃって、御主人に気が付かないままで。
猫もナキネズミも動物だもの。
「それはないだろ、今のお前は挨拶好きだし」
学校で俺を見掛けた時にも、「ハーレイ先生、こんにちは!」だしな。
今日のがただの失敗ってだけだ、御主人よりも先に猫だったのは。
ナキネズミのせいにするんじゃないぞ、と額をピンと指で弾かれた。それはお前の失敗だ、と。
「気にしなくてもいいとは思うがな…。実に可愛い失敗じゃないか」
猫に夢中で、周りが見えていなかったなんて。前のお前なら有り得ないミスだ。
いくらナキネズミと遊んでいたって、誰か来たなら切り替えたろうが。ソルジャーの貌に。
ナキネズミに挨拶するにしたって、周りに誰かがいるかどうかは見ていただろう?
「そうだね、サイオンで軽く探ってからだね」
エラじゃないけど、ソルジャーらしくしていないと駄目だ、っていうのは分かってたから…。
誰かいるのに気付かないままで、ナキネズミに挨拶はしなかったよ。
でも、挨拶って大切だよね。礼儀作法は抜きにしたって。
きちんとするのが大切なことで、ぼく、頑張っていたんだけどな…。今日のは失敗…。
「気にするなって言ってるじゃないか。その御主人もそう言ったんだろう?」
猫の方が先でかまわない、って。
それに、その御主人でなくてもだ…。挨拶はお互い、気持ち良く過ごしていくためだろう?
「こんにちは」と言って、「こんにちは」と返して、笑顔の交換。
しかし、そいつが出来ない時だってあるんだから。色々な事情というヤツで。
「色々って…。ハーレイはジョギング中でも挨拶するでしょ?」
それも全然知らない人に。…手を振ってくれた子供には、ちゃんと手を振って。
「そりゃまあ…なあ? 俺を応援してくれるわけだし…」
振り返すのが礼儀ってモンだろ、そういう時は。
知り合いに会ったら「こんにちは」と声も掛けて行くがだ、そいつは俺だから出来るんだ。
同じジョギングでも、お前だったらどうなるんだ?
お前はジョギングなんかはしないが、体育の授業で走っている時を想像してみろ。学校の外まで走りに行くヤツ、あるだろう?
「ぼくは行かないよ、学校に残って自習してるよ」
「なるほどな…。アレで学校の外に行ったら、手を振ってくれたり、声が掛かるぞ」
頑張って、と大人からだって。お前、走りながら、声を返したり出来るのか?
「ううん、出来ない…」
「ほら見ろ、時と場合によるんだ」
挨拶ってヤツも。事情は本当に人それぞれだし、気にしなくてもいいんだ、うん。
具合が悪けりゃ出来ないしな、とハーレイがパチンと瞑った片目。
その時々ですればいいのさ、と。挨拶出来る気分の時には、猫が先でも挨拶すれば、と。
「無理して挨拶されてもなあ…。相手だって困っちまうだろうが」
とても具合の悪そうな人に、「こんにちは」と掠れた声で言われたら。
「こんにちは」と返すよりも前に、心配になって「大丈夫ですか?」と駆け寄っちまうぞ。
そういう挨拶は嬉しくないよな、そのくらいなら「すみません」と助けを求められた方が…。
人間、素直にならんといかん。挨拶は特に、気持ち良く、だな。
「…じゃあ、山は?」
山だと挨拶はどうなっちゃうの、凄く難しそうだけど…。
「はあ? …山だって?」
何なんだ、山で挨拶っていうのは何処から出て来た?
お前、学校の外にも走りに行かないってのに、山登りに行きたくなったのか?
数えるほどしか行ってないんだろ、山なんか…?
「そうなんだけど…。今日の新聞に載ってたんだよ、山登りの記事が」
面白いね、って読んでいったら、挨拶のことが書かれてて…。
山登りの時に誰かと擦れ違ったら、必ず挨拶するのがマナー。疲れていても、って…。
だから、とっても難しそうだよ、山で挨拶しようとしたら。
どんなに息が切れていたって、「こんにちは」って言うか、会釈をしないと駄目だし…。
「なんだ、そういう挨拶のことか」
そいつはいわゆる理想ってヤツだ。山に登るならこうあるべき、とな。
実際に登ってみれば分かるが、「こんにちは」って元気に言える間しか歩いちゃ駄目だ。本当に山を楽しみたいなら。
体力に余裕を残しておくのが大事で、決して無理をしちゃいけない。山は普通の道とは違うし、疲れてもバスに乗るってわけにはいかないだろうが。
麓に下りるとか、山小屋に入るとか、ゴールに辿り着けないと駄目だ。自分の力で。
挨拶も出来ないほど疲れちまったら、色々とミスが増えてくる。道に迷ったり、足を挫いたり、ロクなことにはならないってな。
そうならないための心得事だ、と教えて貰った。体力に充分余裕があったら、出来る挨拶。
山登りは山の気分に左右されるから、余計に必要になる余裕。身体も、心も、と。
「天気が変わりやすいんだ。今の季節だと、高い山なら、いきなり雪になるとかな」
疲れ切ってしまっていたなら、どうすればいいか分からなくなる。そいつはマズイ。充分余裕を持っていたなら、冷静に判断出来るんだがな。
ついでに、山での挨拶ってヤツは、相手の様子に気を付けるっていう意味もあるから。
「様子って…?」
「疲れていそうか、まだまだ元気に行けそうなのか。…そんなトコだな」
助けが要るってこともあるだろ、これから先の道の様子を聞きたいだとか。
擦れ違うんだから、自分がさっき歩いて来た道に行く人なんだ。実際に歩いた人の話は大切だ。
お互い黙って擦れ違ったら、呼び止めて訊くのも悪いって気持ちがしちまうが…。
「こんにちは」と挨拶したなら、「この先の道はどうですか?」と訊きやすいだろうが。
そういう風に訊かれなくても、無理をしていそうな様子だったら止めないと…。
次の山小屋までは遠いから、此処から戻った方がいいとか。
戻るんだったら、荷物を少し持ちましょうかとか、助け合いの心が大切なんだな、山ではな。
必要があっての挨拶だから、山の挨拶は気にするな、と笑ったハーレイ。
「お前の思っている挨拶ってヤツとは少し違うな、山でやってる挨拶は」
だから心配しなくていい。山と同じに考えなくても、普通の挨拶には別のルールがあるから。
挨拶出来る気分の時には、元気に挨拶すればいいんだ。
お前はとてもよくやっているぞ、学校じゃ、きちんと出来ているしな。どの先生にも挨拶して。
猫に挨拶しちまったのもだ、挨拶するって習慣があるお蔭だろうが。
挨拶しようと思ってなければ、猫にまで挨拶しないんだから。
「そっか、良かった…」
失敗しちゃった、って思ってたけど…。ママが言う通りに平気なんだね。
ママも猫とか犬に挨拶しちゃう、って…。お留守だと思って、庭を覗いてみた時とかに。
「ほらな、お前のお母さんでもそうなんだ」
人間、誰だって失敗はある。前のお前も失敗してたろ、挨拶の決まり。
ソルジャーは後から挨拶なんです、ってエラが決めても、最初の頃には何回も。
お前、挨拶、好きだったから…。前の俺にも、遠くから手を振り返してたし。
俺の方が先に見付けていなけりゃ、お前、絶対、手を振りながら走って来ただろうしな。
ソルジャーになる前の頃だったなら。
「そうだと思う…」
きっと嬉しくて、手を振りながら走るんだよ。「ハーレイ!」って名前を呼びながら。
こんにちは、って挨拶するんじゃなくって、「何処へ行くの?」って訊いていそうだけれど。
「何処へ行くの、って訊くのも立派な挨拶だぞ?」
よく聞くだろうが、「お出掛けですか?」っていうヤツを。あれも挨拶の内なんだから。
お前ってヤツは、今も昔も挨拶が好きなままなんだな。…ソルジャーだった頃も、ナキネズミに挨拶していたくらいに挨拶好き、と。
その精神を持っていたなら、チビでも挨拶の達人ってことだ。
挨拶は大切なコミュニケーションで、そいつが好きでたまらないんだから。
だが見たかった気もするな、とハーレイが可笑しそうにしている、猫への挨拶。
今日の自分が大失敗した、御主人よりも先に猫にしていた挨拶。
「お前、さぞかし真っ赤だったんだろうな、御主人に声を掛けられた時は」
俺にまで挨拶の話をするほど、恥ずかしい気持ちになったようだが…。
見ていて気持ちが良かったからこそ、御主人は声を掛けたんだぞ?
黙っていたなら、お前、そのまま気付かないで帰ってしまうんだろうし。
「そうかもだけど…。でも、やっぱり…」
恥ずかしいってば、人間よりも先に猫に挨拶しちゃうのは!
ぼくは挨拶に気を付けてる分、ホントのホントに恥ずかしいんだよ…!
失敗なんて、と頬っぺたがまた赤くなるから、やっぱり次から気を付けよう。
ハーレイは「大丈夫だ」と言ってくれたけれど、行儀のいい子でいたいから。
失敗しないで挨拶が出来る、しっかりした子になりたいと思う。
(だって、いつかはハーレイのお父さんたちに…)
挨拶をする時が来るから、「こんにちは」と。「はじめまして」と。
隣町の、庭に夏ミカンの大きな木がある家に出掛けて、挨拶をする日。
その時は失敗したりしないで、きちんと挨拶したいから。
「まだまだ子供だ」と思われないように、結婚出来る年に相応しいように。
だから、挨拶を頑張ろう。失敗したって、真っ赤な顔にならずに落ち着いていられるように…。
大切な挨拶・了
※シャングリラにあった、前のブルーには厄介だった決まり事。先には出来なかった挨拶。
エラがそう決めた根拠は謎ですけれど、ソルジャーから挨拶出来た相手は、ナキネズミだけ。
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