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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

「こらあっ、そこ!」
 何をしている、と怒鳴ったハーレイ。古典の授業の真っ最中に。
 突然のことにブルーもビックリしたのだけれども、声が向けられた先には男子生徒が一人。彼の瞳も驚きで真ん丸、教室の前でボードを背に立つハーレイをポカンと見ているだけ。
 ハーレイは腕組みをして男子生徒を睨んだ。「そう、お前だ」と。
「さっきから気になっていたんだが…。俺の授業はそんなに退屈か?」
 鏡を見詰めて何をしている、此処からは良く見えるんだが?
「え、えっと…。じゅ、授業はちゃんと聞いてます! でも…」
 この前髪が気になって、と指差す寝癖がついた前髪。あらぬ方へと跳ね上がったカーブ。それを引っ張っていたらしい。鏡を覗いて、なんとか直せないものかと。
「ほほう…。手鏡持参でか?」
 なかなか洒落た鏡だな。わざわざ家から持って来たのか、お前のか、それともお姉さんのか?
「こ、これは…。ぼくのじゃないです、違うんです!」
 だから没収しないで下さい、という叫び。鏡はクラスの女子の持ち物、頼み込んで貸して貰ったらしい。「少しだけ」と。
「なんだ、お前の鏡じゃないのか。つまらんな」
 実につまらん、お前のだったら良かったのに。…没収の件とは関係ないぞ?
「え…?」
「とびきりの渾名、つけてやろうと思ったんだが」
 ずいぶん熱心に鏡を見てるし、お前に相応しいヤツを。もうピッタリの名前があるんだ、お前のように鏡ばかり見てるヤツにはな。



 これだ、とハーレイがボードに書いた「水仙」。冬に咲く香り高い花。寒さの中で凛と咲く花、それが水仙だった筈。
「こういう名前をプレゼントしようかと…。水仙、もちろん知っているよな?」
 今の季節の花じゃないんだが、普通は知っているだろう。白いのとか、ラッパ水仙だとか。
 しかし、お前にくれてやるのは花の名前の水仙じゃない。名前の元になった伝説の方だ。
 水仙の学名ってヤツは、ギリシャ神話の美少年から来ていてな…。
 ナルキッソスという名前なんだが、水鏡に映った自分に恋をしちまったんだ。その少年は。
 ところが相手は自分なんだし、恋が実るわけないからな?
 水鏡ばかり覗き続けて、憔悴し切って死んじまった。そして水仙の花に変身した、と。
 そんなに鏡が気になるんなら、この名前、お前にくれてやるんだが…。
 鏡がお前の持ち物だったら、もう確実に名付けていたな。お前の名前は水仙君だ、と。
「酷いです!」
 ぼくは自分の顔を見ていたわけじゃなくって…。この寝癖が…!
「酷いのはお前だ、今は授業中だ」
 鏡に夢中になれる時間じゃないんだぞ。お前がナルキッソスだと言うなら、仕方ないがな。
 他のヤツらも、しっかり肝に銘じておけよ?
 授業中に鏡で身づくろいをしてたら、遠慮なくコレをつけるからな。水仙だ、水仙。
 ただし、男子の場合に限る。
 女子につけたら、なんの意地悪にもならん。綺麗ですね、と褒めるようなもんだ。素敵な名前をくれてやろうって気は無いからなあ、俺にもな?
 その場合は別のを考えておこう、とても悲しくなるようなヤツを。



 覚悟しとけよ、というハーレイの言葉にドッと笑って、戻った授業。思いがけないタイミングで来た、雑談の時間はこれでおしまい。
 水仙になった美少年。ギリシャ神話のナルキッソス。水鏡に映った自分に恋して、眺め続けて、とうとう窶れて死んでしまって。
(…鏡なんか…)
 ぼくは授業中に見ないもんね、と自分自身を振り返る。
 寝癖なら家を出る前に母に直して貰うし、そのための時間が無かったとしても…。
(ハーレイの授業中には見ないよ、鏡)
 小さな鏡に映った自分と格闘するより、ハーレイを見ている方がいい。「ハーレイ先生」としか呼べないけれども、ハーレイには違いないのだから。
 寝癖なんかはどうでもいい。ハーレイが笑って見ていたとしても、鏡を覗いて直しはしない。
(鏡の自分を覗き込むより、ハーレイがいいよ)
 たとえ寝癖のついた髪でも、それをハーレイに笑われていても、きちんと前を見ていたい。前で授業をしている恋人、鏡を見るより、断然、そっち。
 髪が好き勝手に跳ねていたって、直したい気分になっていたって。
 鏡を覗いて直しているより、ハーレイの姿を見る方がいい。ハーレイの目が笑っていても。



 学校が終わって、家に帰っても覚えていたこと。鏡を見ていた男子生徒と水仙の話。
 もしも自分がやっていたなら、ハーレイは渾名をつけるだろうか。「水仙君」と。
 恋人だけれど、遠慮なく。学校では教師と生徒なのだし、「お前はコレだ」と。
(…つけちゃうのかな?)
 それとも恋人だから免除だろうか、見ないふりをして。そっちだといいな、と考えていた所へ、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、訊くことにした。
 テーブルを挟んで向かい合わせで、興味津々で。
「ハーレイ、あの渾名、ぼくにもつけるの?」
 つけてしまうか、見ないふりをして助けてくれるか、いったい、どっち?
「はあ? 渾名って…」
 それに見ないふりって、何の話だ?
「今日の授業だよ、ぼくのクラスで言っていたでしょ。…鏡で寝癖を直してた子に」
 水仙って渾名をつけちゃうぞ、って。…他の生徒も覚悟しとけよ、って。
 だから、ぼくでもつけちゃうの?
 授業中に鏡を見てた時には、ぼくも水仙って名前になっちゃう?
「…水仙って名前、欲しいのか?」
 それとも見逃して貰いたいのか、其処の所が気になるな。お前の希望はどっちなんだ?
 俺としては見ないふりを選びたいんだが、水仙って名前が欲しいんだったら…。
「ちょっと興味があっただけだよ、どっちかなあ、って」
 ぼくが鏡を見るわけないでしょ、ハーレイが授業をしている時に。
 自分の顔なんか見てても仕方ないもの、自分を見るよりハーレイの方!
「そうだろうなあ、お前はな」
 たとえ寝癖がついていようが、俺の方ばかりを見てるんだろうな。
 お前、いつでも見詰めているしな、俺が背中を向けている時も、授業が終わって出て行く時も。



 気配で分かるさ、と笑うハーレイ。「お前の視線は直ぐに分かる」と。
「第一、お前は自分の姿にまるで頓着しないしなあ…」
 前に寝癖で慌ててた時は確かにあったが、あれは俺が訪ねて来るからで…。
 お前が学校に出て来る方なら、寝癖を直している暇が無ければ、そのままだろうが。俺の授業に顔を出す方が大切だしな?
 要するにお前、俺がいなけりゃ、寝癖どころか、どう育っても気にしないだろ?
 ソルジャー・ブルーと瓜二つの姿にならなくても。
 お前の姿で期待されるような顔に育つ代わりに、ごくごく普通の顔になっても。
「うん、多分…。それに、ぼく…」
 そっちの方がいいな、と思っていたみたい…。すっかり忘れてしまってたけれど。
 ハーレイに会って、早く前のぼくと同じ姿になりたくて…。そっちばっかり考えてたから。
 でも、前は…。
 違ったみたい、と白状した。ソルジャー・ブルーと同じ姿は欲しくなかった、と。
 目立ちたいタイプではなかったから。
 見た目でキャーキャー騒がれるよりは、地味な姿の方がいい。何処にいるのか分からないほど、他の人たちに紛れてしまう姿が。
「欲のないヤツだな、せっかく綺麗に生まれついたのに」
 今はまだ可愛いって感じの顔だが、充分、人目を惹くってな。小さなソルジャー・ブルーだし。
 なのに、そいつは要らないと来た。目立たない姿に育ちたかった、と。
 前のお前もそうだったが…。鏡なんか見ちゃいなかったしな。
「だって、どうでもいいじゃない」
 鏡を見たって、何が変わるっていうわけでもないし…。ぼくはぼくだし、それだけだもの。



 前の自分も、顔など気にしていなかった。自分は自分で、それ以上でも以下でもないから。
 外見が気になる女性ではないし、自分の顔がどうなっていようが、どうでもいいこと。
 前のハーレイに恋をするまでは、本当に頓着していなかった。見た目などには。
 恋をしてからも、とうに年を取るのをやめていたから、老けてゆくわけではなかったし…。
「前のぼくが鏡を覗き込んでも、何も変わらなかったでしょ?」
 せいぜい寝癖を直すくらいで、他には何も…。綺麗になるってわけでもないし。
「化粧してたわけじゃないからなあ…」
 鏡を見たって、することが無いな。もっと綺麗になれるんだったら、別だったろうが。
 寝ても起きても同じ美人じゃ、どうにもならん。鏡なんかは見る価値も無いな。
 猫に小判とは少し違うが、前のお前に鏡は全く要らなかったわけで…。
 ん…?
 待てよ、とハーレイが顎に手を当てたから。
「どうかした?」
 何か変なことでも思い出したの、前のぼくのことで…?
「いや、変というわけじゃないんだが…。お前が鏡を覗いてたような…」
 えらく熱心に、鏡ってヤツを。
「自分の顔を見てたってわけじゃないでしょ、それは」
 青の間の鏡は別だってば。
 何度も覗き込んでいたけど、見ていた意味が違うんだもの。鏡の向こうを見ていたんだよ。
 ハーレイだって知っていたでしょ、鏡は別の世界に繋がっているっていう言い伝え。
 それを通って地球に行けたらいいんだけれど、って見ていたよ、いつも。



 青の間の奥で見ていた鏡。向こう側の自分と手と手を重ねて、鏡の世界に入れないかと。鏡から道が開かないかと、一気に地球まで飛べる道が、と。
 前の自分が何度も夢見た、鏡の道。覗いていたのは鏡の道だ、と言ったのに…。
「違うな、もっと昔のことだ」
 鏡の道の時じゃなかった。そっちなら俺も分かっているさ。
「昔って…?」
 いつのことなの、もっと昔って…?
「青の間の鏡を覗くどころか、青の間はまだ無かった頃で…」
 ソルジャーでさえも無かった頃だと思うんだが…。そういう記憶だ、俺のはな。
「なんで、そんな頃に?」
 鏡の道はまだ知らなかったよ、そんなに昔のことだったら。
 だから鏡を覗く理由が無さそうだけど…。チラとは見るけど、それだけだよ。
「俺にも分からないんだが…」
 その辺りは全く思い出せんが、お前、確かに鏡を見てたと…。
「鏡って…。そうだっけ?」
 知らないよ、ぼくは。
 鏡を見ていた覚えなんか無いし、眺める理由も無いんだから。鏡の道は別だけれどね。



 別の世界へ繋がる扉になるならともかく、ただ映し出すだけの鏡は要らない。朝、起きた時に、チラと覗けば充分だった。髪が変な風に跳ねていないか、眠そうな顔をしていないかと。
 たったそれだけの鏡だったし、熱心に覗き込むわけがないよ、と思ったけれど。
 鏡の道を知らない頃なら、きっと見ないと考えたけれど。
(…鏡…?)
 不意に蘇って来た記憶。
 ハーレイの言葉通りに遠い遠い昔、鏡を見ていた少年だった自分。鏡に映った顔は子供で、今の自分と変わらないくらい。そういう顔をした自分が鏡の中にいて、それを覗いている自分。
 じっと眺める鏡の向こう。自分しか映っていないのに。
(なんで…?)
 どうして、と不思議になる記憶。鏡を見ている少年の自分。
 鏡の中を覗き込んでは、大きな溜息。いつも、いつも、いつも。
 そして見回していた他の仲間たち。溜息を零した後には必ず、ぐるりと何かを確かめるように。
(…自分に恋はしていないよね?)
 水仙になった少年のように、自分に恋してはいないと思う。なんて素敵な少年だろう、と。
 鏡の自分に見惚れなくても、特別だったハーレイがいたから。
 恋ではなくても、一番古い友達だと思っていた頃にしても、誰よりも特別だったハーレイ。鏡の自分を見詰めているより、ハーレイの方がずっといい。
 けれど記憶の中の自分は、鏡を覗き込んでは溜息。
 他の仲間たちを見ては溜息、皆の方へと視線を移して見回した後は。
 だから…。



 変な記憶だ、と思いながらも話してみた。それを呼び覚ます切っ掛けになったハーレイに。
「えっとね…。ハーレイの記憶で合ってたよ」
 ホントに鏡を見ていたよ、ぼく。…今のぼくと変わらないくらいのチビだった頃に。
 それでね、ぼく、溜息をついてたみたい…。
「溜息だって?」
 どういう溜息だったんだ、それは?
 溜息と言っても色々あるしな。ホッとした時とか、感心した時にも溜息は出るし。
「そんな溜息とは違うと思う…。多分ね」
 鏡を見ていて溜息をついて、その後は他のみんなを眺めて…。そっちも溜息。
 なんだか自信が無さそうな感じがしてこない?
 どっちを見たって溜息だもの。…鏡の中のぼくも、他のみんなも。
「そりゃ、水仙の話とは逆様っぽいな…」
 鏡のお前が素敵だったら、そいつで満足していりゃいいし…。他のヤツらまで見なくても。
 同じ顔がそっちにいるといいな、と確かめてたなら、「いない」と溜息も零れそうだが…。
 そういうわけでもなさそうだしなあ、お前の話しぶりからしても。
「でしょ? きっとガッカリしている溜息だよ、あれ」
 ぼくってよっぽど、自分の顔に自信が無かったのかなあ…。
 今のぼくだと、ソルジャー・ブルーにそっくりだ、って言われちゃうから大丈夫だけど…。
 普通の顔になりたいな、って思ってたくらいに、顔に自信はあったみたいだけど。
「お前、一人だけチビだったからなあ…」
 大人ばかりの船の中でチビは一人だけだし、チビと大人じゃ顔は違って当然だし…。
 でもまあ、自信は失くしそうだな、どうして自分だけチビなんだろう、と。



 そのせいで溜息だったんじゃないか、と言い終えた途端に、ハーレイがポンと手を打った。遠い記憶を捕まえたらしく、「そうか、アレだ」と。
「アレだったっけな、確かに鏡だ」
 でもって、溜息。お前、幾つもついていたんだ。…鏡を見ては。
「思い出したの?」
 ぼくが溜息をついてたトコまで。鏡のことを覚えていたのも、ハーレイだけど…。
「ああ。お前の目が問題だったんだ」
「ぼくの目…?」
 目だ、と聞いたら蘇った記憶。前の自分がチビだった頃に、何度も覗いていた鏡。
 其処に映った自分の瞳は、いつ見ても赤。今の自分の瞳と同じ。
 今の自分には慣れた色だけれど、前の自分は赤い瞳が気になっていた。船には仲間が大勢乗っているのに、赤い瞳を持つ者はいない。自分だけしか。
 鳶色の瞳や、青や、緑や黒や。
 色々な瞳の仲間がいるのに、赤い瞳は一人だけ。それに…。
(元は水色…)
 最初から赤くはなかった瞳。成人検査を受ける前には、水色の瞳を持っていた。
 忘れていなかった、本来の自分の瞳の色。そして船には、同じ水色の瞳の仲間も乗っていた。
(前のぼくの目、色が変わっちゃった…)
 アルタミラの檻で生きていた頃は、それほど気にしていなかったこと。檻に鏡は無かったから。
 自分の顔が映っていたのは、実験室の設備など。磨き上げられた物の表面。
 たまに目にすることはあっても、成長を止めていたほどなのだし、どうでも良かった。瞳の色が何であろうと、赤い瞳でも、水色でも。
 こういう色に変わったんだな、と思う程度で。
 金色だった髪が銀色に変わるくらいだし、瞳の色も変わってしまうだろう、と。



 けれど、アルタミラを脱出した後。船の仲間に、赤い瞳の持ち主は誰もいないと気付いて…。
(ぼくの目、気持ち悪くない…?)
 一人だけ、赤い瞳だから。血のような色の瞳だから。
 気味悪く思う仲間はいないだろうか、と気になって覗いていた鏡。赤い瞳の自分の顔を。
 サイオンの強さを怖がる仲間もいるのだけれども、この目だって、と。
 血のように赤い色の瞳も気味悪がられそうだと、こんな瞳の仲間は一人もいないのだから、と。
(…水色だったら良かったのに、って…)
 鏡を覗く度に零れた溜息。自分が失くしてしまった色。水色の瞳を持っていたなら、仲間たちと同じだったのに。…青や緑や鳶色の中に溶け込めたのに。
 鏡から瞳を上げて見回すと、目に入る青や緑の瞳。自分も持っていた筈の瞳、赤い瞳に変わってしまう前までは。
 ああいう瞳を持っていたのに、と零れる溜息。
 自分の瞳は水色だったと、あの色のままが良かったと。赤い瞳より、水色がいいと。
 いくら鏡を覗き込んでも、水色の瞳の自分はいない。赤い瞳が映るだけ。
 あの水色が欲しいのに。水色の瞳のままでいたなら、気味悪がられはしないのだろうに…。



 溜息ばかり零していたから、ある日とうとう、ハーレイに訊かれた。「どうしたんだ?」と。
 食堂にあった鏡を覗いて、いつもと同じに深い溜息を零したら。
「お前、溜息ばかりだぞ。…この所、ずっと」
 それも鏡を覗き込んでは溜息だ。食堂でもそうだし、休憩室でも。
 何か気になることでもあるのか、鏡の中に…?
「…ぼくの目……」
「目? 目がどうかしたか?」
 痛むのか、何か入ってそのままになってしまっているのか、目に?
 それならヒルマンに診て貰わないと…。溜息をついて見ているだけでは治らないぞ。
「違うよ、ぼくの目はなんともないんだけれど…」
 ぼくの目、気持ち悪くない?
 ハーレイ、今も見ているけれども、気持ち悪いと思わない…?
「気持ち悪いって…。何故だ?」
 どうしてそういうことになるんだ、お前の目が気持ち悪いだなんて。
「…一人だけ赤いよ、ぼくの目だけが」
 他のみんなは青い目だとか、緑だとか…。ハーレイだって鳶色だよ。
 赤い色の目はぼく一人だけで、他には誰もいないから…。
「俺はなんとも思わないが…」
 気持ち悪いどころか、綺麗だと思うくらいだが?
 お前の目、とても綺麗じゃないか。とびきり澄んでて、キラキラしてて。
「でも、赤くって変な色…」
 血の色みたいな赤色なんだよ、自分でも変だと思うもの。普通じゃないよね、って。



 こんな目の仲間は誰もいないよ、と訴えた。幸い、周りに他の仲間はいなかったから。壁の鏡を見ていた時には、とうに終わっていた食事。皆、持ち場や部屋へと散ってしまって。
 ハーレイの仕事は料理だったから、後片付けはしなくていい。それで残っていたのだろう。
「ぼくの目、ホントは赤じゃなかった…。だから分かるんだよ、変だってことが」
 元は水色だったのに…。成人検査を受ける前には、ちゃんと普通の色だったのに…。
 ぼくの水色、無くなっちゃった。…こんな赤い目になっちゃった…。
「そう言ってたなあ…。ミュウになる前は違ったんだ、と」
 成人検査でミュウに変わるついでに、身体まで変化しちまったんだな。
 サイオンに目覚めるのと引き換えみたいに、色素がすっかり抜けちまって。
「え…?」
 色素って…。それって、どういうこと?
「そのままの意味だな、色素は色素。…色ってことだ」
 俺の肌の色、こんなだろ?
 こいつも色素が作ってるわけだ、この目の色も、髪の色もな。他のヤツらも同じ仕組みだ。肌の色も髪も、目の色だって。
 ところが、お前には色素が無い。水色の瞳をしていた頃には持っていたのに。
 お前みたいなのをアルビノって言うんだ、色素を失くしたヤツのことをな。
「アルビノ…?」
 そういう言葉があるんだったら、ぼくが特別おかしいわけではないの、ハーレイ?
 ぼくみたいな人間、この船には乗っていないってだけで、ちゃんと普通にいるものなの…?
「さあなあ…。俺もそこまでは…」
 聞いちゃいないし、とんと分からん。
 お前がアルビノだってことなら、ちゃんと聞いてはいるんだがな。



 ヒルマンが詳しい筈だから、と連れてゆかれたヒルマンの部屋。「俺もヤツに聞いた」と。
 其処で教えて貰ったアルビノ。色素が欠けた個体のこと。
 人間に限らず、動物にもアルビノは存在するという。ただし、滅多に現れなくて、大抵は弱い。
「生命力自体が弱いそうだよ、アルビノに生まれた動物はね」
 ブルーも虚弱な身体ではあるが…。アルビノのせいではないだろう。多分、元々の体質だ。
 なにしろ、アルビノに変化しただけだし、アルビノが持つ筈の欠点が無い。…ブルーにはね。
 恐らく、無意識の内に、サイオンで補っているんだろう。そう考えるのが自然だと思うよ。
 本当は光に弱いらしいからね、アルビノは。瞳も、肌も。
 宇宙船の中では肌の心配は要らないが…。太陽の光は無いわけだから。
 しかし、光は事情が違う。光が強い場所もあるのに、ブルーは困っていないようだし。
 目が痛むことはないだろう、と話したヒルマン。強い光は目を傷める、と。
「そうなんだ…。赤い目だから?」
 赤い目は光に弱い色なの、他のみんなの目とは違って?
「少し違うね、赤が光に弱いわけじゃない」
 目にも色素を持っていないから、そのせいで光に弱くなる。遮ってくれる色が無いからね。
 その赤は血の色が透けて見える赤で、水色の瞳を持っていた頃には隠れていたんだ。その下に。
「…この目、やっぱり血の色なんだ…」
 ヒルマンは気持ち悪くない?
 血の色の赤の目だなんて…。気味が悪いと思わない?
 アルビノがとても珍しいんなら、この色、普通じゃないんだもの。
 気味が悪いと思ってる仲間、船に何人もいそうだけれど…。



 珍しいと教えられたアルビノ。おまけに瞳の赤は血の色。気味悪がられても仕方ない、と溜息をついてしまったけれども、ヒルマンは「大丈夫だよ」と微笑んでくれた。
「心配しなくても、それも個性の一つだよ」
 青や緑の瞳と同じで、たまたま赤というだけだ。珍しい色でも、瞳の色には違いない。瞳の色は幾つもあるから、赤があってもいいだろう。一人くらいは。
 そうは言っても、水色の瞳だったことを覚えているから、余計に気にしてしまうのだろうね。
 私は赤でもいいと思うよ、水色の瞳をしていなくても。
「俺もそう思うぞ、会った時から赤なんだから」
 むしろ水色に戻った方が、驚いてしまうといった所か…。俺の知ってるブルーじゃない、と。
 赤でいいじゃないか、赤い瞳で。俺もヒルマンも、気味が悪いと思ったことは一度も無いぞ。
「だけど、みんなは…」
 きっと気味悪いと思ってるんだよ、血の色だもの。青や緑じゃないんだもの…。
 ぼくのサイオンが強いだけでも怖がられてるのに、目まで血の色をしているなんて…。
「そんな話は聞かないよ、ブルー」
 少なくとも私は、一度も聞いたことがない。…ハーレイもそうだね、聞かないだろう?
 どちらかと言えば、覚えやすいくらいに思っている筈だよ、この船の皆は。
 赤い瞳は一人だけだし、この先、何かと分かりやすくて便利だからね。



 今は一人だけ子供で小さいけれども、育ったら皆と区別がつかない。大人になってしまったら。
 普通の姿だと皆に紛れてしまうだろうから、赤い瞳の方がいい、と言ったヒルマン。
 銀色の髪なら他にもいるから、一人だけの赤い瞳がいい、と。
「皆が集まった時にだね…。誰でも一目で分かるだろう?」
 赤い瞳ならブルーなんだ、と考えなくてもピンと来る。きっと目立つよ、赤い瞳は。
 子供の姿で目立てる時代が過ぎてしまったら、その瞳の出番が来るわけだ。
「…そうなのかな?」
 他のみんなと区別がつくのが便利なのかな、血の色の目でも?
 ぼくだけ変に目立っていたって、誰も気にしたりしないのかな…?
「目立つのは悪いことではないよ」
 特にブルーは、他の仲間には出来ない仕事をしているのだし…。
 これから先も同じだろうから、その分、目立つ方がいい。何処にいるのか分からないよりは。
「俺もヒルマンに賛成だ」
 お前は何処だ、って捜し回らなくても、誰でも簡単に見分けが付くしな?
 赤い瞳のヤツがいたなら、そいつがお前なんだから。
 どんな隅っこに紛れていたって、赤い瞳でお前だと分かる。便利だろうが、色々な時に。
 こういう顔で…、と捜さなくても、目だけで区別がつく方がな。



 赤い瞳は目印ってことでいいじゃないか、と二人に言われて、そんな気になった。血の色の赤を透かした色でも、目印になるなら、それでいいかな、と。
 気味悪く思う仲間がいたって、この色が役に立つのなら。将来、見分けやすくなるなら。
「…鏡、見るのをやめたんだっけ…」
 ぼくの目は赤がいいんだから、ってハーレイたちが言ってくれたから…。
 ハーレイがヒルマンの所へ連れてってくれて、説明、ちゃんと聞けたから…。
 アルビノのことも、ぼくの目が役に立つことも。…血の色の目でも。
「パッタリとやめてしまったっけな、あの日から」
 鏡は同じ場所にあるのに、もう覗かなくなっちまった。あんなに毎日、覗いてたのに。
 じいっと鏡を覗き込んでは、俺でも変だと気付くくらいに溜息ばかりだったのに。
「大丈夫、って言って貰えたからだよ」
 赤い瞳はぼくの個性で、ぼく一人しかいないから…。
 いつか大きくなった時には目印になって役に立つから、それでいい、って。
 役に立つなら、きっとみんなも喜ぶし…。気味悪い色でも、目印だったら気にしないもの。
 赤い目、一人しかいなくて良かった、って思うでしょ?
 大勢の中からぼくを見付けるには、赤い目を捜せばいいんだから。



 そうして覗くことをしなくなった鏡。食堂で見掛けても、休憩室でも。
 鏡を覗き込むのをやめたら、気にならなかった仲間たちの目。視線もそうだし、あれほど何度も溜息を零した、青や緑の瞳の色も。…自分とは違う、普通の色を湛えた瞳も。
 一人しかいない赤い瞳も、個性だから。血の色を透かした気味悪い赤も。
 いずれ自分が皆に紛れてしまった時には、きっと役立つだろうから。育ってチビではなくなった時に、この瞳だけで捜し出せるから。
「ホントに心が軽くなったんだよ、あれで」
 ぼくの目、目印なんだから、って。赤くて変な色でも、目印。
 目立つんだったら、それでいいもの。小さい間は気味が悪くても、大きくなったら便利だしね。
 ぼくは何処なの、って慌てなくても、赤い目だけで見付けられるから。
「…お前、そう言っていたんだが…」
 俺もヒルマンも、あの時は本気でそのつもりだったんだが…。いい目印だ、と。
 なのに、育ったお前ときたら、とびきりの美人になっちまって、だ…。
 赤い瞳で見分ける必要、無かったってな。
 何処にいたって、どんな隅っこに隠れていたって、誰でも一目で気付くような美人。振り返って見るとか、立ち止まってしげしげ見ちまうだとか。
 …もっとも、お前、ソルジャーだったし、そうそう見惚れちゃいられないんだが…。
 ボーッと突っ立って見てようものなら、エラが飛んで来て叱られるってな。「失礼ですよ」と。
 「それがソルジャーにすることですか」と、「謝りなさい」と。
 その点、俺は恵まれていたな、シャングリラでも一番の美人を一人占めだ。
 堂々と出来やしなかったんだが、好きなだけお前を見ていられた上、恋人に出来た幸せ者だぞ。あの船で最高の美人ってヤツを、俺は独占してたんだから。



 あれほどの美人になるとはなあ…、とハーレイは感慨深そうだけれど。
 今も手放しで褒めているのだけれども、前の自分は水仙になった美少年とは違っていた。自分の姿に見惚れはしないし、鏡を覗き込んだりもしない。
 身だしなみさえ整えられたら、それで充分だと思った鏡。チビだった頃に鏡を何度も覗き込んだことすら、忘れ果ててしまっていたのだから。
 赤い瞳はどう見えるのかと、溜息をついて。気味悪くないかと、仲間たちの瞳の色を気にして。
 鏡を熱心に覗いていたのは、その時だけ。
 育った自分の姿を映して、「綺麗だ」と見惚れた記憶は全く無いものだから…。
「…前のぼく、自分を美人だと思ったことはないけど?」
 船のみんなが言っていたから、そうなのかな、って思っただけで…。鏡なんかは見てないよ。
 もっと綺麗になりたいな、って覗きもしないし、「美人だよね」って見てもいないけど…。
 でも、ハーレイには、好きだと思って欲しかったかな…。
 ハーレイが好きだと思ってくれる姿に育ったお蔭で、恋人にして貰えたんだから。
「そりゃ光栄だな、俺のことは意識してくれていたんだな?」
 お前、自分の姿に興味は全く無かったくせに…。鏡もどうでも良かったくせに。
 鏡を熱心に見ていた時にも、目の色ばかり気にしていたのにな?
 そんなお前が、俺の目にお前がどう映るのかは、一応、気にしてくれていたと…。
 俺がお前にぞっこんだったのは、美人に育ったからなんだ、とな。
「そうだよ、それにね…」
 今のぼくもだよ、ハーレイの好きな姿に育つのが、ぼくの目標なんだもの。
 早く大きくならないかな、って、鏡、何度も見ているし…。大人っぽい顔も研究してるし。
 前のぼくだと、こんな顔だよ、って。
「まだ早い!」
 今から研究しなくてもいい、チビのくせに!
 水仙って渾名をつけられたいのか、お前ってヤツは…!



 チビは鏡を見なくてもいい、とハーレイに叱られたけれど。
 「何度も見るなら、水仙って名前で呼ぶからな」と睨まれたけれど、鏡の中の自分を見たい。
 前の自分とそっくり同じに育った姿を早く見たいから、覗きたい鏡。
 チビの自分が映る鏡を覗き込んでは、「もっと大人に」と。
 赤い瞳の色を気にする代わりに、「前のぼくと同じ」と、赤い瞳に満足して。
(…それって、自分に見惚れてるのとは違うよね…?)
 だから水仙になった美少年とは違うものね、と考える。
 鏡を覗くのはハーレイのためで、早くハーレイにピッタリの自分に育ちたいから。恋人のために頑張りたいから。…一日も早く、ハーレイとキスが出来る恋人になりたいから。
(鏡、これからも覗かなくっちゃね…)
 前の自分と同じ姿を、鏡の中に見付ける日まで。前と同じに育つ時まで。
 ハーレイの授業中にはしないけれども、きっと何度も覗き込む。
(でも、水仙にはならないんだよ)
 水仙になってしまった少年、彼の名前は貰わない。「水仙」の名では呼ばれない。
 授業中には、鏡の自分を覗き込むより、ハーレイの姿を見ていたいから。
 その方がずっと幸せなのだし、きっとハーレイもそうだから。
 自分がチビで、生徒の間は。前の自分と同じに育って、いつか結婚出来る日までは…。




               水仙と鏡・了


※赤い瞳の人間は自分しかいない、と溜息をついていた前のブルー。何度も鏡を覗き込んで。
 けれど目印になるのなら、と納得してから、見なくなった鏡。凄い美形に育ったのに…。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv











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(なんだ、こりゃ!?)
 どうなってるんだ、とハーレイが仰天した光景。ブルーの家には寄れなかった日、仕事の帰りに入ったパン屋。家から近くて、パンを買うなら其処なのだけれど…。
 花屋と間違えたのかと思った。足を踏み入れたら、辺り一面、花だったから。
 お馴染みの薔薇やら、カーネーションやら、ありとあらゆる種類の花たち。色もとりどり、その香りだって。
(…花だよな?)
 様々なパンが積み上げられた、パン売り場。陳列棚も、パン籠を並べたテーブルの上も、沢山の花が彩っている。所狭しと、誇らしげに咲く幾つもの花。
 パンが積まれたトレイとトレイの間から咲いて、陳列棚の柱にも。パン籠が置かれたテーブルの隙間も、花たちが埋めている有様。もちろん床にも、花屋よろしく花瓶がドッサリ。
(…あっちも凄いぞ…)
 レジを挟んだ向こう側にあるレストラン部門。一見、普通のレストランだけれど、パンが専門の店が手掛けているから、パンを幾らでもおかわり出来る。パン皿が空いたら「如何ですか?」と。何種類ものパンが食べ放題で、そちらも人気。
 そのレストランの方も花だらけだった。入口の両側に花が飾られ、中にも溢れている花たち。
 客たちが座るテーブルはもちろん、カウンター席も、床も花で一杯。
 何事なのかと思ったけれど。
 此処は確かにパン屋だよな、と何度も瞬きしたほどだけれど。
(パンと花の日々…)
 そう書いてある小さな札。気を取り直して、パンを買おうとトングとトレイを取ろうとしたら。札もやっぱり、花に埋もれて。



 いったい何だ、と読んでみた札。文字の周りにも花模様の縁取り。
(酒と薔薇の日々…?)
 昔の映画のタイトルです、という紹介。それをもじって「パンと花の日々」。そういう企画で、「興味のある方はチラシをどうぞ」と、花の下にチラシが隠れていた。二つ折りにして。
(ほほう…?)
 買う前に読んでもいいんだよな、と一枚、引っ張り出してみた。「パンと花の日々」も気になるけれども、「酒と薔薇の日々」にも心惹かれる。酒好きとしては。
 ふうむ、と開いて眺めたチラシ。「酒と薔薇の日々」は、人間が地球しか知らなかった遠い昔の映画。そのタイトルにオーナーが引っ掛けたらしい、遊び心で。「パンと花の日々」と。
(映画の中身は謎なのか…)
 今は失われて、タイトルしか残っていないという。「酒と薔薇の日々」と。
 酒と薔薇の日々があるというなら、パンと花でもいいだろう。たまには、こういうイベントも。
(…まずはパンだな)
 チラシは帰ってゆっくり読もう、とトレイとトングを手に取った。田舎パンを買おうか、焼けたばかりのバゲットもいいし、トースト用のパンだって…、と眺めてゆく棚。
 何処もすっかり花だらけだなと、田舎パンの周りにも花がドッサリ咲いてるぞ、と。



 選んだパンをトレイに載せて運んだレジにも、華やかな花。パン屋ではなくて花屋のように。
 面白いもんだ、とパンの袋を提げて帰って、夕食の後で広げたチラシ。熱いコーヒーを淹れて、書斎の椅子にゆったり座って。
(パンと花の日々なあ…)
 店では映画のタイトルとまでしか読まなかったけれど。オーナーの遊び心なのだ、と溢れる花を眺め回して、買い物を済ませて帰ったけれど。
(…毎日のパンか…)
 パンは毎日食べるもの。御馳走ではなくて、普段着の食べ物なのがパン。それが無ければ、困る人は困る。朝はパンだ、と決めている人だって多い筈。
 遠い昔の人間も同じ。パンが主食の地域だったら、パンが無いのは飢えるということ。食べ物が何も無いということ。…パンは命の糧なのだから。
 けれども、花はそうではない。眺めて楽しむためのもの。心に余裕がある時に。
 パンも無いほど飢えていたなら、誰も花など見向きもしない。花があっても、食べ物が無ければ飢えて死ぬから。花よりもパンが欲しいから。
(生きてゆくのに欠かせないパンと、心にゆとりのある時の花と…)
 意外な組み合わせをお楽しみ下さい、というのが「パンと花の日々」のコンセプト。
 パンを扱う店だけれども、綺麗な花たちも並べました、と。



(確かに意外性はあったんだ…)
 入った時にも驚いたけれど、チラシを手にしてパンを選んでいた時。
 普段とは違って見えたパンたち。ただの食パンも、田舎パンも、焼き立てのバゲットたちも。
 花に彩られて並ぶパンたちは、どれもとびきり豪華に見えた。値段以上の、特別なパンに。
 いつもの値段で売られているのが、不思議に思えてしまったほどに。
(こう、王様の食卓って言うのか?)
 王侯貴族が食事するテーブル、其処に置かれたパンのよう。贅を尽くした料理と一緒に、黄金の皿に盛られたりして。
 晩餐会などで使うテーブルは、花で飾られたらしいから。庭師が咲かせた美しい花を、惜しげもなく切って、豪華な器に生けて。
(有り余るほどの金があったら…)
 テーブルだけと言わず、パンの皿にだって花を飾っただろう。招かれた客の数だけ並ぶパン皿、それを残らず花で取り巻いて。どの客の前にも、美しい花が溢れるように。
(花よりも先に、黄金の皿や銀の皿だとは思うんだが…)
 遠い昔は、季節外れの花も贅沢だったという。今と違って、金持ちの特権だった温室。寒い冬に花を咲かせられる設備は、金持ちしか持っていなかった。
 そんな時代なら、やった貴族もきっといた筈。「パンと花の日々」さながらの宴会を。客たちが度肝を抜かれるような、とても贅沢な冬の宴席。これだけの花を用意するには、どれだけの財産が要るのだろうと、誰もが驚く花が溢れたパン皿の周り。
 屋敷の外は雪なのに。花が咲くなど信じられない、冬景色が広がっている筈なのに。



 今日のパン屋は、その雰囲気を味わわせてくれたという気がする。普段着のパンまで花で飾って楽しむ贅沢、遠い昔の王侯貴族になったような気分。
 オーナーも洒落たことをするな、と花だらけだった店内を思い浮かべていたら…。
(ん…?)
 ふと引っ掛かった、花たちの記憶。花が溢れていたテーブル。
 そういうテーブルを見たことがあった、と花が頭を掠めたから。其処で食事をしていたから。
(…結婚式か?)
 友達か、それとも同僚か。披露宴の時のテーブルだったら、花で飾るのはよくあること。新婦の好みの花を飾るとか、ドレスの色に合わせてあるとか。
 幾つも見て来た披露宴の席。けれど、それよりも花が凄かったように思える記憶。
 テーブルに溢れ返った花たち、まるで今日見たパン屋のように。花も主役であるかのように。
(いつなんだ…?)
 何処で見たんだ、と記憶の糸を手繰ってゆく。花が溢れていたのは何処だ、と。
 そうしたら…。
(シャングリラか…!)
 あの船だった、と蘇った記憶。前の自分が生きていた船。遠く遥かな時の彼方で。
(まさにパンと花の日々…)
 宴会じゃなくて、普通の食卓に花だったんだ、と思い出したから。懐かしい思い出が時を越えて姿を現したから、浮かんだ笑み。あの船で溢れる花を見たな、と。
(ブルーに話してやるとするかな…)
 パンと花の日々を。シャングリラに溢れていた花たちのことを。
 幸い、明日は土曜日だから。ブルーの家へと出掛けてゆく日で、夜までゆっくり過ごせるから。



 一晩眠っても、忘れなかったパンと花の日々。
 いい天気だから、歩いて出掛けた。途中で入った昨日のパン屋。店中に花が溢れている中、二つ選んで買った菓子パン。ブルーの分と、自分の分と。紅茶のお供になりそうなものを。
 チラシも忘れずに貰っておいた。花たちの下から引っ張り出して。
 そしてブルーの家に着いたら、目ざとく袋に目を留めたブルー。それを提げて部屋に入るなり。
「ハーレイ、お土産?」
 買って来てくれたの、何かお土産。…パン屋さん?
「ああ。お前のおやつに丁度いいかと思ってな」
 話している間に、ブルーの母が届けてくれた紅茶と、パンを載せるための皿と。その皿にポンと置いた菓子パン。袋から「ほら」と取り出してやって。
 甘い菓子パンは、紅茶にも合う。前に自分も食べているから、間違いなく。
 ブルーはしげしげと菓子パンを眺めて、首を傾げた。
「このパン、ハーレイのお勧めなの?」
「もちろん美味いが…。そうじゃなくてだ、今日はこっちの方だな」
 こういうイベントをやっていたから、と渡したチラシ。「俺も昨日は驚いたんだ」と。
「…パンと花の日々?」
 なあに、これ?
 昔の映画のタイトルの真似って…。「酒と薔薇の日々」…?
「読んでみろ、何か思い出さないか?」
 酒と薔薇の日々の方とは違って、パンと花の方で。…パンと花の日々だ。
「えーっと…?」
 毎日のパンで、パンと花との組み合わせ…?
 ちょっと想像もつかないけれども、これがどうかしたの?
 パン屋さん、いったい、どうなっていたの…?
「そりゃまあ…。凄い光景だったぞ、間違えて花屋に入ったのかと思ったくらいに」
 何処もかしこも花だらけでな…。パンを並べた棚にまで花だ。
 そういうの、お前、何処かで見ている筈なんだがな…?



 俺は確かに見たんだが、と話してもキョトンとしているブルー。「いつの話?」と。
「…ハーレイが見てて、ぼくも見たなら、前のぼくたちのことだろうけど…」
 シャングリラで花なんか飾っていたかな、パンを並べた棚なんかに…?
 厨房にパン専用の棚はあったけど…。焼き上がったら並べていたけど、其処に花…?
 そんな所に花を飾っても、厨房の人しか見られないじゃない。食堂からは見えないんだもの。
「お前が言うのは、パンの棚だが…。棚じゃなくって、パンの方だな」
 毎日のパンで、誰もが普通に食っていたパン。食べ物ってヤツだ。
 そういう普通に食べてた飯が花だらけだった、と言えば分かるか?
 パンもスープも、何もかもだ。食堂中が花まみれになっていたってわけだが、思い出さんか?
「食堂中に花って…。ああ、あったっけね…!」
 思い出した、と手を打ったブルー。
 前のぼくが失敗したんだっけと、それで食堂に花が一杯、と。



 まだ白い鯨ではなかった時代のシャングリラ。人類の船から奪った物資で皆が命を繋いでいた。食料も物資も、何もかも、前のブルーが奪って来たもの。輸送船を見付けたら、出掛けて行って。
 必要な物資を切らさないよう、仲間たちが飢えてしまわないよう。
 ある時、物資を奪いに出て行ったブルー。輸送船が近くを通過するという情報が入ったから。
 いつもと同じに、コンテナを幾つか奪って戻って来たのだけれど…。
「なんだい、これは?」
 ブラウが呆れたコンテナの中身。奪った物資を仕分けするために、コンテナを運んだ格納庫で。
「…花だらけじゃないか」
 花は食えんぞ、とゼルが覗いたコンテナの奥。「何処まで行っても花のようだが」と。
 ヒルマンが見ても、エラが眺めても、前の自分が覗き込んでも、ものの見事に花ばかりだった。今を盛りと咲き誇るものや、これから咲こうとするものや。
 鉢に植えられた花とは違って、どれも切り花。色も種類も様々なものがコンテナに一杯。
 きっと何処かの星の花屋に運ぼうとしていたのだろう。テラフォーミングの成果が芳しくない、こういった花々を育てられない星へ。
 そういう星でも利用価値があれば、人類は大勢住んでいるから。資源の採掘に適しているとか、他の星への中継地点に向いているとか、理由は色々。
 人間がいれば町が生まれて、町が出来れば花だって売れる。その星で花が育たないなら、余計に花を見たくなるから。
 こうしてわざわざ運んで行っても、花たちは全部売れるのだろう。入荷したと聞けば、買いたい人間が詰め掛けて。アッと言う間に一つ残らず売り切れそうな、コンテナ一杯に溢れる花たち。
 残念なことに、ミュウが奪ってしまったけれど。
 花よりも食料や衣類などがいい、と誰もが考えるような船に運ばれてしまったけれど。



 他のコンテナには食料品。当分は奪いに出掛けなくても済むだけの量の。
 肉や魚や、野菜などや。乳製品だって充分あったし、食べてゆくには困らない。けれど、溢れる花たちの方は…。
「…やっぱり捨てた方がいいかな…」
 捨てて来ようか、コンテナごと。…花なんか、料理したって食べられないし…。
 食料は他にたっぷりあるから、花まで料理しなくても…。昔だったら、別だけれどね。
 奪った食料が偏っていたって食べてた時代、とブルーがついた溜息。
 アルタミラからの脱出直後は、そういう時期も確かにあった。ジャガイモだらけの食事が続いたジャガイモ地獄や、キャベツばかりのキャベツ地獄といった具合に。
 けれども、今では安定している食料事情。ブルーは選んで奪って来るから、食材も物資も偏りはしない。不要だったら、捨ててしまってもいい時代。
 そういう時代になっていたから、ブルーが犯した小さなミス。もう一つ、と欲を出して奪った、中身を調べなかったコンテナ。きっと食料だろうから、と。
 奪って持って帰る途中で、ブルーも気付いていたという。食料ではなくて花だった、と。
 とはいえ、せっかく奪った物資。捨てるかどうかは船に戻ってからでいい、と考えたらしい。
 コンテナを一つ余分に運ぶくらいは、ブルーには何でもなかったから。



 そうは言っても、食べられない花。食料は他に沢山あるから、花まで食べる必要はない。宇宙に捨ててしまうのならば、ブルーに任せれば一瞬で済む。瞬間移動で放り出すというだけだから。
 花の処分はそれでいいか、と前の自分は考えたけれど。
 ブルーも同じに、「捨てた方がいいよね」とコンテナの扉を閉めかけたけれど。
「ちょいと待ちなよ、飾るって手もあるんだからさ」
 花は食べられやしないけどね、とブラウが止めた。これは飾っておくものだろう、と。
「飾るって…。でも、何処に?」
 こんな船で、とブルーは周りを見回したけれど、ゼルも「そうだな」と頷いた。
「モノってヤツは考えようだ。これだけあるんだ、嫌というほど飾れるぞ」
 どうせだったら、派手に飾ってやろうじゃないか。
 人類どもの世界じゃ、こいつを売っているんだから。花屋に並べて、買いに来る客に。
 俺たちは金を払っちゃいないが、こうして頂いちまったんだし…。
 飾ったって別にかまわんだろうが、人類は食えもしない花を贅沢に飾っているんだからな。
 俺たちには花を飾るような余裕はまるで無いのに、こんな風に輸送してやがる。
 見ろよ、コンテナ一杯分だぞ?
 贅沢なもんだ、俺たちの船とは生きてる世界が違うってな。



 だったら真似をしようじゃないか、と言い出したゼル。たまには贅沢したっていいと。
 わざわざ奪ったわけではないから、オマケで手に入れた花なのだから。
「花を飾ってもかまわんだろうが、ミュウの船でも」
 手に入れたものを使おうってだけだ、そいつで贅沢するだけなんだし。
 捨てるよりかは、うんと贅沢した方がいいと思わないか?
「私もそれに賛成だね。有効に使った方がいい」
 捨てるよりも、とヒルマンがエラに視線を向けた。「どう思う?」と。
「飾るべきだわ、捨てるくらいなら。…だって、これは全部、飾る花なのよ?」
 そのために運んでいるんじゃないの、とエラも花を飾りたい一人。飾るための花は、遠い昔には本当に贅沢だったんだから、と。
「花は贅沢だったのかい…?」
 本当に、とブルーが訊いたら、「そうだよ」とヒルマンが即座に答えた。「ずっと昔は」と。
「エラが言った通りに、今よりもずっと昔のことだ。人間が地球しか知らなかった頃だね」
 今のような輸送技術は無かった。星から星へと花を運べるような技術は。
 珍しい花が欲しいのならば、自分たちで育てて咲かせるしかない時代でね…。
 おまけに温室も、一部の特権階級だけの持ち物だった。
 自然の花が咲かない季節に、温室で育てた花で飾るのは、もう最高の贅沢だよ。そういう設備を作れるだけの財産があって、惜しげもなく切って出せるのだからね。
「そうよ、こういう飾るための花は贅沢品だったのよ」
 放っておいても咲くような花とはわけが違うの、余裕が無いと育てられないから。
 それを沢山飾れる人なんて、ほんの少ししかいなかったのよ。
 お金も、花の手入れをする使用人も、山ほど持ってた人間だけだわ。王様や貴族といった人間。



 そういう人間になった気分で贅沢しましょ、というのがエラの提案。ヒルマンも同じ。ブラウは最初から飾ろうと考えていたし、ゼルも贅沢をしようと思っていたわけだから…。
「いいねえ、あたしたちも昔の貴族の仲間入りかい」
 お城ってわけにはいかないけどねえ、こんな船だし…。普段は花も無いわけなんだし。
 だけど、今なら山ほどだ。飾るべきだよ、この花はね。
 捨てるだなんて、とんでもない、とブラウが改めて覗いたコンテナ。「飾らないと」と。
「そうでしょ、ブラウ? こんなチャンスは、そうそう無いわよ」
 飾らなくちゃね、とても素敵に。…今の時代でも、私たちには花は贅沢なんだもの。
 この船に飾っておくべきだわ、とエラも主張したし、誰も反対しなかった。花を飾ることに。
(…飾るだけなら、エネルギーを食うわけでもないし…)
 花を生けておく器や水も、船にあるもので間に合うだろう。備品倉庫には器が色々、水は充分に足りている。コンテナ一杯の花を養える程度には。
「…いいだろう。ブルー、その花たちは捨てなくてもいい」
 飾ろうという意見の方が多いんだ。それに反対する理由もないしな、俺の立場からは。
 せっかく手に入れた花なんだから飾ってやろう、と前の自分が下した判断。
 もうキャプテンになっていたから、自信を持って。船の最高責任者として、「大丈夫だ」と。
 これくらいの花なら積んでおけると、宇宙に捨てる必要は無いと。



 花を飾ると決まった後には、何処に飾るかが問題だけれど。小分けにして船のあちこちに飾るという意見も出たのだけれども、「食堂がいい」と言ったヒルマンとエラ。
 皆が集まって食事する場所で、其処なら誰もが花を見られる。一日に三回、朝、昼、晩と食事の度に。それに広さもあるのが食堂。テーブルに飾って、他にも色々。
 花が贅沢だった時代は、宴席に飾られていたというのも決め手になった。贅沢な食事は出来ないけれども、花を飾ればきっと豊かな気分になれる、と。
 なにしろ、コンテナに一杯分もある色々な花たち。全部を纏めて見られる方が断然いい。分けてしまったら、どれだけあったか分からなくなるし、値打ちも減ってしまうだろう。
 同じ飾るなら食堂がいい、と花たちは食堂に運ばれた。手の空いた者たちを総動員して、使える器を運んで、生けて。
 「これは床だな」とか、「テーブルには、これ」と、相談したり、指図し合ったり。
 次から次へと運び込まれて、生けられていったコンテナ一杯分の花。色も形も様々なものが。
 薔薇やら、百合やら、カーネーションやら、ふうわりと白いカスミソウなどが。
 何種類もの花を一緒に生けた器もあったし、一種類の花で纏めたものも。同じ色合いの花たちを合わせた器も、色とりどりの花を生けた器も。
 前の自分や、ブルーはポカンと見ていたけれども、エラとブラウは張り切っていた。皆と一緒に生けて回って、ああだこうだと器の場所を移動させたり、入れ替えたりと。
 ヒルマンも皆を指図していたし、ゼルは花たちの運搬係。「まだまだあるぞ」と、「これも」と次々にコンテナの中から運び出して。「次はこいつだ」とドカンと置いて。



 そんなわけで、見事に飾り立てられた食堂。テーブルには幾つも花が生けられた器が置かれて、テーブルの無い床にも花が入った器。歩くのに邪魔にならない場所に。
 食堂一杯に溢れた花たち。香りも彩りも実に様々、それに囲まれての食事の時間。誰もが豊かな気分になった。ただ花があるというだけで。普段は見られない花が溢れているだけで。
 いつもと変わらない普通の食事で、いつものパンが出て来ても。
 御馳走ではない料理を作っている者たちも、食堂の雰囲気を楽しんでいた。料理を味わう仲間の表情、それが素敵なものだから。まるで御馳走を食べているように、賑やかな声が飛び交うから。
「花があるだけで違うもんだな、食事ってヤツは」
 いつものパンの筈なんだがなあ、ずっと美味いって気がするんだよな。
 それに料理も、こう、輝いて見えるって言うか…。照明、変えていないのにな。
「まったくだ。同じスープを飲むにしたって…」
 テーブルだけしか無いっていうのと、花があるのとでは違うよなあ…。
 どっちを見たって花が咲いてて、あっちとこっちで違う花だろ?
 ついつい余所見をしながらスープを飲んでるわけだが、こいつが美味い。花のせいだな。
 花は食えない筈なんだがなあ、こんなに飯が美味いとは…。
 いつまでも咲いててくれればいいがな、萎れて枯れてしまわないで。



 皆に喜ばれた、食堂を飾った沢山の花。前のブルーが間違えて奪ってしまった花。
 危うく宇宙に捨てられる所だった花たち、ゼルやブラウが止めなければ。ヒルマンとエラが花の歴史を知らなかったら。…遠い昔は花は贅沢なものだった、と。
 飾る場所を食堂にしたのも良かった。
 食卓を彩る花たちは其処に集まる皆に愛され、散るのを惜しまれ、まめに世話をされて…。
「ハーレイ、あの花…。最後までみんなが見てたんだっけね」
 一番最後まで頑張って咲いてた花が駄目になるまで、船のみんなが。
 毎日、毎日、花を楽しみにして食堂に来て。
「エラたちが、きちんと生け替えてたしな」
 この花はもう萎れちまった、というヤツはどけて、元気な花を纏めて生け直して。
 茎が弱って駄目になっても、花だけを水に浮かべてやって、生き生きと咲かせておくとかな。
 頑張ってたよな、と今も思い出せる、エラたちの努力。花の命を伸ばしてやるための工夫。
 今から思えば、フラワーアレンジメントというものだった。きっと調べていたのだろう。船とは縁の無い花だけれども、手に入れたからには生かそうと。
 美しく生けて、飾って、愛でて。…最後の一輪まで、無駄にはすまいと。



 大切にされた花たちだけれど、造花ではなくて本物の花。いつか命は終わってしまう。花びらの色が褪せていったり、少しずつ萎れていったりして。
 そうして食堂から消えた花たち。一輪、また一輪と数が減っていって、最後の花も。
 見られなくなってしまった花の最期を誰もが惜しんだ。もっとゆっくり見ていたかった、と。
「またあるといいな、コンテナ一杯の花ってヤツが」
 リーダーのミスだっていう話なんだが、もう一度やってくれたらいいな、と思わないか?
 ミスでもなければ花なんて無いし、あれだけの量は無理だしなあ…。
「ああいうミスなら大歓迎だ。山ほどの花を見られるならな」
 食堂に花が溢れるんなら、ミスも大いに歓迎ってトコだ。物資が少々、足りなくてもな。
 そのくらいのことは我慢するさ、と船の仲間たちは言ったのだけれど。
 また花がドッサリ来てくれないかと待ったのだけれど、ブルーはミスをしなかったから、二度と無かった花で溢れていた食堂。豊かな気分になれた食堂。
 いつもと変わらないメニューだったのに、御馳走に思えた素敵な場所。
 パンも料理も、スープも美味しく変えてしまった、食堂を飾っていた花たち。



 それから長い時が流れて、シャングリラは白い鯨になった。自給自足で生きてゆく船、幾つもの公園を備えた船に。巨大な白い鯨の中では、色々な花が咲いたけれども…。
「…俺たちがシャングリラで育てていた花、どれも綺麗に咲いてたんだが…」
 色々な花が咲いたもんだが、あの時みたいな贅沢ってヤツは、二度と出来ないままだったな。
 船で咲いた花を端から集めて、食堂を飾り立てるのは。
「…無かったっけね、そんなの、一度も…」
 シャングリラの花は、咲いているのを公園で眺めるものだったから…。
 摘んでもいいのはクローバーとか、スミレとか…。スズランだって、摘んでいい日は一日だけ。五月一日だけは摘んでいいけど、他の日は駄目だったんだから。
 薔薇とか百合とか、大きくて目立つ綺麗な花だと、ホントに其処で見ているだけ。
 そうでなければ、ちょっとだけ切って、花瓶とかに生けるのが精一杯だよ。
 …パンと花の日々、二度と無かったね。
 あの時は、そういうお洒落な名前は無かったけれども、パンと花の日々。
「そのままだよなあ、あれは本当にパンと花の日々というヤツだったんだ」
 毎日食べてるパンが美味くなる、実に素敵な魔法だったが…。
 俺もすっかり忘れていたなあ、昨日、パン屋に入った時も。
 俺は花屋に来ちまったのか、と見回していても、あそこじゃ頭に浮かばなかった。
 前の俺たち、あれと全く同じことをやっていたのにな…。
 やり始めた理由も、意味も違うが、パンと花の日々。
 最高に美味い飯を食っていたんだ、食堂に花が山ほど溢れていたお蔭でな。



 今の自分は忘れてしまっていたのだけれども、パンと花の日々は確かにあった。白くはなかった頃のシャングリラで、楽園という名を持っていた船で。
 懐かしくそれを思い出していたら、「ねえ」とブルーに問われたこと。
「…トォニィ、やってくれたかな?」
 パンと花の日々、シャングリラでやってくれたと思う?
 平和な時代になってたんだし、コンテナ一杯の花も買えるよ。奪わなくても、お金を払って。
 あちこちの星を回っていたなら、お金、沢山あっただろうし…。
 その気になったら、食堂一杯の花だって。…食堂、ずっと大きくなってたけれど。
「花を買うだけの金は充分、あったんだろうが…」
 パンと花の日々、お前の記憶に入ってたのか?
 ジョミーに残した記憶装置だ、あれにきちんと入れてあったか、あの時の記憶…?
「…入れていないよ、ずっと昔のことだったもの」
 それに失敗した話だから、残しておいても役に立たない記憶でしょ?
 ジョミーが見たって、花が一杯溢れてるな、って思うだけだよ。
 あんな風に食堂を花で飾らなくても、美味しい食事が出来る時代になっていたしね。
 合成品とか代用品を使う料理もあったけれども、シャングリラの食事は美味しかったもの。
「なら、無理だろ。…トォニィが気付くわけがない」
 お前がソルジャーでさえもなかった頃にだ、食堂を花で飾り立てたことがあっただなんて。
 俺も航宙日誌には書いてないしな、あの時のことは。
 お前が失敗しちまったんだし、書き残すのはどうかと思って書かずにおいたんだ。
 みんながどんなに喜んでいても、元はお前のミスなんだから。



 だからトォニィがやるわけがない、と思うけれども、平和になった船だったから。
 前の自分がいなくなった後に、白いシャングリラに花は溢れたと思いたい。
 広い食堂を花で埋め尽くす「パンと花の日々」は無くても、船の中には沢山の花。誰もが好きに切って飾れて、それを愛でられる船になってくれていたなら、と。
 シャングリラはもう無いけれど。…前の自分が好きだった船は、ブルーと共に暮らした船は。
 前のブルーを失くした後には、辛かった白いシャングリラ。
 どうしてブルーは此処にいないのかと、自分だけが生きているのかと。
 前の自分が失くしたブルーは、生まれ変わって帰って来てくれたけれど。土産に買って来た甘い菓子パン、それを「美味しい」と喜ぶ小さなブルーになって。
「ハーレイ、お土産のパン、美味しかったから…」
 前のぼくたちのことも思い出したから、いつか二人でやってみたいね。あの時みたいに。
「やってみたいって…。パンと花の日々か?」
 俺がパンを買って来た店のヤツとは違って、お前と暮らす家でってか?
「…駄目?」
 花で一杯のテーブルだけでもかまわないから。
 床にまで置こうって欲張らないから、テーブルの上に花を沢山。
 置く場所がもう残ってないよ、って思うくらいに、お皿とかの無い場所は花だらけで。
「お前がやってみたいのならな」
 あれをもう一度、と言うんだったら、いいだろう。
 今度はお前のミスじゃなくって、俺が金を出して花を買い込む、と。
 お前は店で端から選べ。「この花がいい」とか、「こっちも」だとか。薔薇でも何でも、お前の好きな花を端から選んじまっていいから。…予算なんかは気にしていないで、好きなだけな。



 いつかブルーと暮らし始めたら、望みを叶えてやるのもいい。遠い昔にシャングリラでやった、パンと花の日々をもう一度。
 毎日のパンや食卓だからこそ、贅沢に。あの時のように、花一杯に。
 華やかにテーブルを飾ってみようか、ブルーが選んだ沢山の花で。置き場所がもう無いほどに。
 けれど、同じに花で飾るなら…。
「…俺としては、お前を飾りたいがな」
 パンと花の日々もいいがだ、同じ飾るなら、お前がいい。…そう思うんだが。
「え?」
 ぼくって…。ぼくを飾るの、いったい何で飾るつもりなの?
「花に決まっているだろうが。…今はそういう話なんだぞ、パンと花の日々」
 お前には花が映えそうだ。パンやテーブルよりも遥かに、飾る値打ちがありそうだがな?
「花で飾るって…。ぼく、男だよ?」
 女の人なら分かるけれども、ぼくを飾ってどうするの。…男なのに。
「お前、薔薇の花、似合うだろうが」
 前のお前は、そういう評判だったしな?
 薔薇の花と薔薇のジャムが似合うと、そういう綺麗なソルジャーだと。
 だから今でも似合う筈だぞ、前と同じに育ったら。
 綺麗な薔薇の花を山のように買って、お前を飾れたら幸せだろうな。



 まさしく酒と薔薇の日々だ、とブルーに向かって微笑み掛けた。
 酒も好きだが、お前と薔薇の日々がいいな、と。
 それが最高だと、俺にとっての「酒と薔薇の日々」ってヤツだ、と。
「酒を片手に薔薇を見るより、お前の方がいいからなあ…」
 お前を綺麗な薔薇で飾って、俺の隣に座らせておく、と。…酒は無しでも、お前に酔える。
 パンと花の日々より、酒と薔薇の日々。
 今の俺なら、間違いなくそれだ。酒じゃなくてだ、お前なんだが…。俺を酔わせる美味い酒は。
「酒と薔薇の日々…。ハーレイもお酒、大好きだけど…」
 その映画、どんなお話だったんだろうね?
 お酒を薔薇で飾るのかなあ、瓶とか、お酒のグラスとかを。
「さあなあ…?」
 とんと謎だな、タイトルしか残っていないんだから。
 知りたくなっても誰も知らんし、データは何処にも無いんだし…。
 そいつが少し残念ではあるな、お前を飾って酒と薔薇の日々が出来るんだから。



 今は失われた、遠い昔の映画の中身。
 それを惜しいと思うけれども、いつかは酒と薔薇の日々。ブルーと薔薇の日々が来る。
 パンと花の日々を味わった筈の前の自分には、最後まで出来なかった贅沢。
 前のブルーは、自分だけのものにならなかったから。
 最後までソルジャーのままで逝ってしまって、失くしてしまった恋人だから。
 けれど、今度の自分は違う。
 帰って来てくれた小さなブルーは、いつか自分のものになるから。
 今度こそ自分だけのブルーになってくれるのだから、その時は酒と薔薇の日々。
 ブルーが望むなら、パンと花の日々も。
 食卓を溢れるほどの花で飾って、ブルーを綺麗な薔薇で美しく飾り立てて…。




            パンと花の日々・了


※リーダーだった頃の、前のブルーの失敗。切り花が詰まったコンテナを奪ったのですが…。
 捨てるよりも飾った方がいい、と床まで花で埋もれた食堂。たった一度きりの、最高の贅沢。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv











(とっても綺麗…)
 見に行きたいな、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 「光の遊園地」という見出しと写真。夜の遊園地を捉えた幾つもの写真は、どれも光に彩られた世界。まるで煌めく宝石箱。様々な色のイルミネーション、遊具にも、木々の枝にも光。
 夏に比べれば、夜のお客が減る季節。日は長くないし、冷える夜だってあるのだから。
 そういう季節も客を呼ぼうと、夜になったらライトアップ。観覧車はもちろん、遊園地へと続く並木道だって。光で出来た遊園地。その入口へと向かう道から、光の世界が始まる仕掛け。
(…シャングリラだって…)
 大人にも人気の、白いシャングリラを象った遊具。それも綺麗な青い光を纏って、宇宙に浮かぶ地球に照らされているかのよう。青く輝く水の星に。
(地球の青かな…?)
 それとも、タイプ・ブルーのサイオンカラーをイメージしたか。
 白いシャングリラは遠い昔のミュウの箱舟、今も語られる伝説の船。それを導いたソルジャーは全て、もれなくタイプ・ブルー。
 初代だった前の自分も、地球まで行ったジョミーもそう。最後のソルジャーのトォニィだって。
(タイプ・ブルーか、地球の青か、どっち…?)
 自分の好みで決めていいなら、断然、青い地球なのだけれど。
 前の自分が焦がれ続けて、見られずに終わってしまった星。あの時代にはまだ、青い地球は夢の星だったのに。蘇ってはいなかったのに。
(…前のぼく、知らなかったから…)
 青い星だと信じて夢見た。その地球の上に、生まれ変わって来たのが自分。残念なことに、青い地球はまだ見られていない。宇宙旅行をしたことが無いから。
 それでも青い地球は好きだから、シャングリラを彩る青い光は地球の青。その方が好き。
 前の自分のサイオンカラーで照らされるよりは、地球の青の方がきっと似合うと思うから。



 地球の青だよ、と勝手に決めたら、今度は気になる他の写真たち。昼間とは違う姿に変わった、光で出来た遊園地。夜の闇の中にぽっかり浮かんだ、夢の世界のように見えるから…。
(ハーレイと行ってみたいな、これ…)
 そんな気持ちがこみ上げてくる。二人で行けたら素敵だろうと、光の中を歩いてみたいと。
 「綺麗だよね」と見回しながら。無数の煌めきに照らされながら。
 けれど、ハーレイには頼むだけ無駄。
 きっとこう言うに決まっているから、「それはデートだ」と。夜の遊園地に二人で行くなんて。二人きりで夜の外出なんて。
(ハーレイ、絶対、断るんだよ…)
 「駄目だ」と睨む顔つきまでが、頭の中に浮かんで来るけれど。声も言葉も浮かぶのだけれど。
 光が溢れる遊園地には、両親と行ってもつまらない。幼い頃なら、それで良かったけれど。
(パパやママと一緒に行ったって…)
 この年になって、両親とはしゃぎ回れはしない。「次はあっち!」と手を引っ張って。
 友達と行く手もあるのだけれども、どうせ行くならハーレイがいい。
 ハーレイだったら、何もかも分かってくれるから。
 白いシャングリラを煌めかせている青、それを「地球の青だよ」と言いたがる理由も、白い船で暮らした前の自分も。
 そういう話はしないにしたって、ハーレイとだったら、きっと楽しい。
 夢の世界にも思える光の遊園地。其処を一緒に歩いたら。幾つもの光を見上げられたら。



 おやつを食べ終えて部屋に戻っても、頭を離れない遊園地。夜になったら綺麗なんだ、と。光に包み込まれるから。幻想的な夢の世界に変わるから。
 もしもハーレイと出掛けられたら、観覧車に乗ってみたいと思う。シャングリラよりも。
(上から見たら、きっと凄いよ)
 遊園地を全部、見渡せるのが観覧車。ゆっくりと高く昇ってゆくから、どんどん広がる窓の外の景色。最初は乗り場の近くだけしか見えないけれども、一番上まで上がったら…。
(…光の遊園地を、全部、丸ごと…)
 目に出来るのだし、観覧車が一番いい乗り物。光の遊園地に行くのなら。
(みんな、おんなじことを考えそうだし…)
 長い行列が出来ているかもしれないけれども、行列したって乗る価値がある観覧車。光の世界を全部見られるなら、夢の世界を眺められるなら。
 その観覧車もイルミネーションで光っているから、並んでいる間も退屈しない筈。次から次へと色が変わるのが、観覧車だと書いてあったから。花火みたいに華やかに点滅してみたり。
(…夢みたいだよね…)
 色とりどりに輝く観覧車。行列しながらそれを眺めて、順番が来たら乗り込んで。
 ゴンドラがゆっくり昇り始めたら、窓の外は煌めく光の洪水。宝石箱の中身を広げたように。
 とても素敵な夢の世界で、光で出来た遊園地。
 今の小さな自分にとっては、本当に夢物語だけれど。
 ハーレイとそれを見に行きたくても、連れて行っては貰えないけれど。



 でも行きたい、と心から消えない遊園地。昼間ではなくて、夜だけの光の遊園地。
(駄目で元々…)
 ハーレイに「行きたい」と強請ってみようか、もしも訪ねて来てくれたなら。仕事の帰りに来てくれたならば、断られるのは承知の上で。
 仕事の終わりが遅くなったら、来てはくれないのがハーレイ。「遅い時間でも大丈夫ですよ」と母が言っても、父が「どうぞ御遠慮なく」と何度言っても。
 夕食の支度に間に合う時間を過ぎてしまったら、ハーレイは来ない。今日がどうなるかは、まだ分からない。来なかったならば、最初から脈無し。頼みたくても会えないのだから。
(来てくれたら、ちょっとは…)
 お願いを聞いて貰える可能性があるかも、と考えてみる。もしかしたら、と。
 そんな夢など叶うわけがないのに、欲張りな夢。ハーレイと二人で夜の遊園地に出掛けること。
 「来てくれないかな」と、「来たら頼んでみるんだけどな」と夢を描く内に聞こえたチャイム。窓に駆け寄って見下ろしてみたら、門扉の向こうにハーレイの姿。
 やった、と躍り上がった心。これで頼めると、お願いしようと。



 母が案内して来たハーレイ、いつものようにテーブルを挟んで二人で座った。向かい合わせで。胸を高鳴らせて、声にした夢。
「あのね、遊園地に行きたいんだけど…」
 今日の新聞に載っていたから、急に行きたくなっちゃって…。駄目?
「ほほう…。遊園地か、いいんじゃないか?」
 お前くらいのチビが好きそうな場所だしな。行けばいいだろう、今度の土曜日にでも。
 俺はその日は来ないことにするから、お前の好きにするといい。誰と行くのかは知らんがな。
「そうじゃなくって…!」
 遊園地には行きたいけれども、一緒に行きたい人が決まっているんだよ。別の人じゃ駄目。
 ハーレイと一緒に行きたいんだから、と正直に言ったら、案の定…。
「どうしてデートに行かねばならん」
 お前とデートはしないと何度も言った筈だが、とハーレイの眉間に寄せられた皺。そのくらい、分かっているだろうに、と。
「分かってるけど…。でも、シャングリラが綺麗なんだよ!」
「はあ?」
 シャングリラが綺麗って、どういう意味だ?
 それがどうしてデートになるんだ、俺と一緒に遊園地に行きたいと言い出すなんて。
「…えっとね、夜の遊園地…。昼間とは別になるんだよ」
 ライトアップで、イルミネーションが一杯で…。
 光の遊園地に変わるんだって、夜になったら。それがとっても素敵なんだよ、本当に。



 写真が幾つも載っていたから、と説明した。光の遊園地は昼の姿とは全く違う、と。中でも青く輝く白いシャングリラ。それが綺麗と、あの青はきっと地球の青だ、と。
「タイプ・ブルーの青じゃなくって、地球の青だよ。きっとそうだよ」
 本物のシャングリラは、地球が青くなる前に消えちゃったけど…。
 青く照らすなら地球の青だよ、ハーレイだったら分かってくれるでしょ?
 ぼくが「地球の青だ」って言う理由。…タイプ・ブルーの青じゃないよ、って。
「もちろん、分かるが…。お前は地球に行きたがっていたしな、あの船で」
 本物の地球は青くなかったが、それでも地球の青が似合うと言いたいんだろう?
 前のお前やジョミーたちのサイオンの青よりは、ずっと。
 …それで、そいつを見たいだけなのか?
 地球の青を纏ったシャングリラってヤツを、遊園地まで見に行きたいと…?
「それも見たいけど、観覧車にも乗りたいな」
 上から見たら、きっと素敵で凄いから。遊園地が全部見えるんだもの、光が一杯。
 ゆっくり上まで上がって行く時も、降りて行く時も、窓の外、夢の世界でしょ…?
「断固、断る」
 お前の気持ちは分からんでもないが、お母さんたちと行って来い。
 でなきゃ、友達、誘うんだな。大勢いるだろ、一人くらいは行ってくれるさ。
「それじゃ、つまらないよ!」
 さっきも言ったよ、行きたい人は決まってる、って。別の人と行くんじゃ駄目なんだ、って…!



 ハーレイと一緒に行きたいんだよ、と訴えた。
 光の遊園地に出掛けてゆくのも、シャングリラを眺めて観覧車に乗るのもハーレイと一緒、と。
「ハーレイ、分かってくれたじゃない。どうして地球の青なのか、って」
 シャングリラを綺麗に光らせてる青、タイプ・ブルーの青じゃないんだってこと。
 分かってくれるの、ハーレイだけだよ。…だからハーレイと一緒に行きたいんだよ。
 それでも駄目なの、パパやママや友達と行けって言うの…?
「お前なあ…。俺と一緒に遊園地って…。しかも夜に、って…」
 そういうのは、もっと大きく育ってから俺に言うんだな。
 デートに行けるようになるまで待て。そういう歳になるまでな。
「…やっぱり、そう?」
 例外ってわけにはいかないの?
 いくらシャングリラが綺麗でも…。夜の遊園地を観覧車に乗って、見てみたくても。
「当たり前だろうが!」
 チビのお前とデートはしない。例外は無しだ。
 その上、俺と観覧車に乗りたいだなんて…。ますますもってお断りだな、そいつはな。



 観覧車はデートの定番なんだ、と睨まれた。「チビのお前は知らないだろうが」と。
「その手のヤツらは、昼間はそれほどいないからなあ…」
 子供の客の方がずっと多いから、まるで目立たないと言うべきか。
 ところが、夜になったらカップルがグンと増えるんだ。二人一緒にアレに乗ろうと。
 ゴンドラに乗ったら二人きりだし、外は夜だから、ロマンチックな雰囲気になるし…。
 観覧車でプロポーズするヤツもいるくらいだぞ。二人きりの世界なんだから。
「…プロポーズ?」
 あんな所でプロポーズするの、どうやって…?
「そいつはアイデア次第ってトコか…」
 定番中の定番だったら、もちろん指輪だ。「結婚して欲しい」と取り出してな。
「それじゃ、いつかハーレイも、ぼくにプロポーズをしてくれる?」
 二人一緒に観覧車に乗ったら、プロポーズ。
 指輪なんかはどうでもいいから、プロポーズして欲しいんだけど…。
「観覧車って…。お前、そんな場所でもかまわないのか?」
 アレはグルグル回ってるんだぞ、いくらゆっくりでも地上に着いたら降ろされちまう。
 まるで時間が足りないじゃないか、プロポーズの後の余韻ってヤツが。
 もっとプロポーズに似合いの場所なら、色々あるのに…。個室のある洒落たレストランだとか、夜景の綺麗な公園だとか。
 そういう場所を選んでおいたら、「思い出の場所だ」と記念日の度に行けるんだが…。
 出掛けてゆっくり食事するとか、同じベンチに座るだとか。
 しかし、観覧車じゃそうはいかんぞ。思い出のゴンドラに乗れたとしたって、一周しちまったら降りるしかないし。…もう一周、って続きに乗るのは無理なんだから。
「んーと…」
 そうだね、観覧車だったら、そうなっちゃうね…。一周したら時間はおしまい…。



 プロポーズされても、持ち時間が少ないらしい所が観覧車。レストランや公園とは違った場所。次のお客が待っているから、それに乗ろうと。ズラリと並んで列を作って。
 クルリとゆっくり一周したなら、「降りて下さい」と開けられてしまうゴンドラの扉。どんなに二人で乗っていたくても、一周して降りて来たならば。
 其処でのプロポーズはどうだろう、と考えたけれど。制限時間つきのゴンドラ、観覧車の上でのプロポーズは嬉しくないだろうか、と自分に尋ねてみたけれど。
(…降りて終わりでも、かまわないよね?)
 記念日のデートに、同じゴンドラに乗れなくても。思い出の場所に出掛けて行っても、クルリと回って地上に戻ればそれでおしまい、制限時間つきのデートでも。
(…プロポーズして貰えるってことが大切なんだし…)
 何処でもいいや、と返った答え。それをそのまま口にした。
「プロポーズの場所なら、何処でもいいよ」
 一周して来たら、降ろされてしまう観覧車でも。…記念日にデートしようとしたって、思い出の場所には、観覧車が一周する間だけしかいられなくても。
 何処だっていいよ、ハーレイがプロポーズしてくれるなら。
 レストランどころか街角でだって、ぼくはちっとも気にしないから。…もう最高に幸せだから。
「プロポーズの場所、こだわらないのか…」
 ロマンチックな場所がいいとか、雰囲気のいい店だとか。…普通、こだわるもんだがな?
「他の人たちはどうか知らないけど、こだわると思う?」
 ぼくがこだわると思っているの、プロポーズの場所や雰囲気とかに?
「…結婚出来ればいいんだったな、お前の場合は」
 俺と一緒に暮らすのが夢で、目標ってヤツもそれだっけか…。
「そうだよ、だからプロポーズだけで充分なんだよ」
 結婚しよう、って言ってくれるんでしょ、それで充分。指輪も何にも要らないんだから。
 観覧車でもいいんだけれども、ホントに何処でもいいんだよ。
 遊園地でなくても、レストランでも公園でもなくて、歩いてただけの街角でも。



 何処でもプロポーズは出来るんだから、と恋人の鳶色の瞳を見詰めた。
 だから遊園地に連れて行ってと、夜の遊園地に行きたいからと。
「…光の遊園地、見に行きたいよ…。シャングリラを見て、観覧車だって…」
 プロポーズは何処でもかまわないんだし、観覧車がそういう場所だっていうのは抜きにして。
 地球の青色に光るシャングリラ、二人で見ようよ。…観覧車からも、きっと見えるよ。
「遊園地なあ…。しかも夜にな」
 今は駄目だな、まだプロポーズをしてやれないのと同じだ、同じ。
 二人きりで夜の遊園地なんて、立派にデートなんだから。…昼の遊園地でも同じだぞ?
 お前と二人で出掛けちまったら、それはデートになっちまうってな。
「…夜の遊園地、ハーレイと一緒に行きたいのに…」
 シャングリラ、とっても綺麗なのに。あれって絶対、地球の青だよ。その青なんだよ。
 それに遊園地も、夢みたいに綺麗なんだもの。ハーレイと二人で見に行きたいよ…。
「…お前、前にも言わなかったか?」
「えっ?」
 何を、とキョトンと目を見開いたら、ハーレイは「いや…」と顎に手をやって。
「とても綺麗だから見に行きたい、っていうヤツだ」
 前にも俺に言っていないか、そういうことを。…一緒に行こうと。
「ライトアップの記事は初めて見たよ?」
 今日の新聞を読むまで全然知らなかったし…。遊園地の広告、見ていないから。
「だろうな、俺もお前の口から、そいつを聞くのは初めてだ」
 やってるってことは知ってたが…。始まる前にも何かでチラッと目にしたからな。
 しかし、確かに聞いたような気が…。
 お前が行きたいと強請っていた気がするんだがなあ、今日みたいに。



 綺麗で、おまけに遊園地で…、と記憶を探っているらしいハーレイ。
 けれども、自分もその記憶は無い。遊園地に行きたいと強請ったことなら、あったとしても…。
(…綺麗だから、って場所じゃないよね、遊園地は?)
 楽しそうだとか、あれで遊んでみたいとか。そういう理由で誘う所で、綺麗だからと強請るのは今日が初めての筈。きっとハーレイの記憶違いだと考えたのに…。
「そうだ、お前が言ったんだ。…もっとも、あれは今の遊園地ではなくてだな…」
 前のお前だ、行きたいと俺に言い出したのは。
「…前のぼく?」
 ぼくが言ったの、前のハーレイに?
「ああ。今の遊園地とはまるで違うが、それでも光の遊園地だった」
 そんな名前で呼ばれていたのか、違ったのかは覚えていないが。
 とにかく光に照らし出された遊園地。太陽じゃなくて、夜に人工の明かりでな。
「光の遊園地って…。そんなの、何処で?」
 何処にあったの、その遊園地?
「アルテメシアに決まっているだろう。…人間が暮らしている星は、あそこだけだった」
 前のお前が生きてた間に、シャングリラが旅した星の中では。
 あそこにあった、アタラクシアの遊園地だ。前のお前が俺と一緒に行きたがった光の遊園地は。
「アタラクシアの遊園地って…」
 なんで、そんな所?
 どうしてハーレイと行きたがるわけ、光の遊園地をやってるから、って…。
「覚えていないか、お前、救助班のために下見に出掛けて…」
 船から思念で見ているよりも、と身体ごと出掛けて行っちまって。
 ついでだから、と夜まで観察していた間に、ライトアップに出くわしたんだが…?
「…思い出した…!」
 あったんだっけね、そういうのが。…前のぼくが見た、光の遊園地。
 昼間とはすっかり違う姿の、光で出来てた遊園地が…。



 雲海の星、アルテメシア。シャングリラが長く潜んだ星。
 子供たちを育てる育英都市があった、人工の海を持った惑星。育英都市はアタラクシアと、もう一つ。同じ惑星の上に、エネルゲイアという都市も。
 前の自分が探りに出たのは、アタラクシアの方の遊園地だった。子供のための育英都市。それに遊園地、だから閉園時間も早い。今の時代の遊園地よりは。
 けれども、夜の遊園地も人気。闇が降りる夜ならではの光の演出、イルミネーション。
 前の自分はそれを目にした。サイオンで姿を隠してしまって、明るい頃から隠れ続けて、夕闇が辺りを覆った後に。
 一つ、二つと灯り始めていた明かり。日暮れと共に。足元が暗くならないように。
 そういうものか、と眺めていたら、一斉に点いたイルミネーション。揃って咲いた光の花たち。色とりどりに、煌びやかに。それは華やかに、辺り一面に。
 俄かに明るくなった園内。夜空の星たちを全て集めて、地上に持って来たかのように。
(とても綺麗で…)
 遊園地は、まるで夢の国。お伽話の世界さながら。
 輝くお城や、観覧車などや、あちこちに続く並木道。全てが光の煌めきの中。
 それを見ていたら、闇はこの世に無いかのよう。
 ミュウと知れたら殺される世界、この遊園地でも処分された子供はいたというのに。
 同じ轍を二度と踏まないようにと、こうして自分が降りて来たのに。
(光って…)
 なんと美しいものなのだろう、と光の遊園地に酔いしれた自分。
 ミュウが人知れず処分される世界、それは何処にも無いように見える。暗い闇を抱えた、機械が支配している世界。そんな世界は存在しない。この遊園地だけを見ていたら。
 無数の光は夜の闇さえ明るく照らして、希望の光そのもののよう。
 こんな世界に住んでいたなら、争いも何もかも、光に溶けて消えてゆきそう。
 光は闇を照らし出すから。闇を払って、美しく輝き続けるから。



 閉園時間が訪れた後も、イルミネーションはまだ消されなかった。来ていた客たち、彼らが全て家路につくまで。遊園地を離れて帰ってゆくまで、彼らの行く手を照らすかのように。
 一時間ほどは、そのまま灯っていたろうか。誰一人いなくなってしまっても。警備の者しか歩く姿が無くなってからも、夢の世界を守るかのように輝いていたイルミネーション。
 それにすっかり魅せられたから、船に帰って提案した。長老たちが集まる会議の席で。
 白いシャングリラの中の公園、其処でもあれが出来ないだろうか、と。ブリッジが見える、船で一番大きな公園。幾つもの明かりを飾り付けてやって、夜になったらそれを灯して。
「いいと思うんだよ、きっと希望が見えるだろうから」
 光にはそういう力があるんだ、と遊園地を見ていて分かったからね。あれは凄いよ。
 この船でも毎晩やるようにしたら、希望が見えると思わないかい?
「公園を光で飾り立てるじゃと?」
 エネルギーの無駄じゃ、とゼルが放った一言。「そんなものには何の意味も無いわい」と。
「そうだよ、それに…。子供たちに夜更かしは勧められないね」
 公園なんかに来てるよりかは、寝るべきだよ。どうだい、ヒルマン?
 あたしは間違っていないと思うけどね、とブラウも賛成しなかった。ヒルマンもエラも。
「でも…。あれは希望の光なんだよ」
 少なくとも、ぼくにはそう見えた。夢も、希望も、あそこで見たよ。
 昼の間は、ただの遊園地だと思っていたのに、夜になったら別の世界に変わったから…。
 すっかり暗くなっていたのに、光り輝く夢の世界で…。この世界はとても素敵なんだ、と。
「何処に希望があると言うんじゃ、この船の先の!」
 希望の光どころではないわ、とゼルは首を縦に振ってはくれない。機関長の彼に反対されたら、回して貰えないエネルギー。公園を彩る沢山の明かりを灯したくても。
「今は確かにそうかもしれない。でも、夢は大切なものだから…」
 希望が駄目なら、今は夢でいい。その夢を船で見て欲しいから…。夢の世界を見て欲しいから。
「夢にしてもじゃ、実現可能な夢がいいんじゃ」
 わしらでも手が届く程度の、現実的な夢を見るのが今は似合いというものじゃ。
 大きすぎる夢を持ってしまったら、叶わなかった時が辛いだけじゃぞ。



 現に出番が無いじゃろうが、と槍玉に挙げられた展望室。いつか其処から青い地球を、と夢見て皆が望んだ部屋。
 ガラス張りの展望室の向こうに、青い地球は今も見られないまま。それどころか、雲に覆われたままのガラス窓。いつ入っても雲しか見えない、青い地球を見ようと作られた部屋。
 あれと同じじゃ、と切って捨てられたイルミネーション。
 人類の真似などしなくてもいいと、この船にそれは要らない、と。
 誰も賛成しなかったけれど、美しかった光の国。アタラクシアで見た光の遊園地。その煌めきが忘れられなくて、心から消えてくれなくて…。
 その夜、ハーレイが青の間にやって来た時に、ポツリと零した。会議の席では、反対意見を皆と唱えていたキャプテンに。…前の自分が恋した人に。
「やっぱり駄目かな…」
 ぼくの考え、誰も分かってくれなかったけれど…。君も同じで、駄目だったけれど…。
「ブルー…?」
 今日の会議のことですか?
 シャングリラの公園を光で飾るという件でしたら、私も賛成いたしかねますが…。
 船のエネルギーには余裕があります。ですが、そういう飾りには意味が無さそうですから。
「…見ていないからだよ、あの遊園地を」
 光で出来た遊園地をね。本当に夢の世界だったよ、闇も影も入り込む余地なんか無い。
 君もあれを見れば変わると思うよ、意見がね。夢も希望も必要なんだと、作り出せると。光さえあれば、気分だけでも。…この世界には夢も希望もある、とね。
 本物を見に、一緒に行ければいいんだけれど…。そうすれば分かって貰えそうなのに…。
 そうだ、ぼくと行こう。アタラクシアまで、あの遊園地を眺めにね。
 視察ということにすればいいだろう。君が人類に見付からないよう、ぼくが姿を隠すから。
「…そのお気持ちは分かりますが…」
 私は船を離れられません。たとえ視察でも、私はキャプテンなのですから。



 他の仲間たちは、地上に降りられないミュウの箱舟。ミュウの子供たちの救出に向かう、救助班所属の者以外は。どんなに地面を踏んでみたくても、けして許されることはない。危険だから。
 誰一人として自由に降りられない船、それをキャプテンが降りるわけには、と断られた。まして遊園地の視察などでは、と。
 ハーレイの意見を変えられないなら、公園をイルミネーションで飾るのは無理。
 本当に綺麗だったのに。光の遊園地は夢の世界で、とても美しかったのに。
(…シャングリラでは無理なんだ…)
 希望が見えない船なんだから、と項垂れていたら、手を握られた。褐色の手で、ギュッと。
「…今は無理ですが、あなたがそれほど仰るのなら…」
 それならば、いつか…。ご一緒しましょう、その遊園地へ。
「え…?」
 いつか、って…。君が、ぼくと一緒に?
「ええ。…この船に、希望が見える時が来たら。今は見えない希望の光が」
 皆の心にも余裕が出来たら、それを一緒に見に行きましょう。…皆には視察ということにして。
 あなたが魅せられた光の世界がどれほどのものか、この船でやるだけの価値があるかを。
「本当かい?」
 来てくれるのかい、ぼくと一緒に遊園地まで?
 昼間から潜んで、日が暮れて辺り一面が輝き出すまで、アタラクシアに…?
「はい。…いつになるかは分かりませんが…」
 お約束しますよ、あなたの夢を私も見に行くことを。
 地球の座標が手に入る頃になるのでしょうか、皆にも希望の光が見える時代と言うのなら。
「…その頃にもやっているかな、あれを?」
 あの遊園地で続いているかな、夜になったら一面に光を灯して綺麗に照らし出すこと…。
「やっていますよ、その頃も、きっと」
 人類の世界は、そうそう変わりはしませんから。…子供たちを育てるための都市では。



 ですから、いつか…、とハーレイが約束してくれたこと。アタラクシアまで、二人で行こうと。夜になったら光り輝く遊園地を見に。美しく煌めく夢の世界を眺めるために。
 けれど、行けずに終わってしまった。
 希望の光を掴むよりも先に、前の自分の命そのものが。
 光の遊園地に酔いしれたアルテメシアからも、地球からも遠く離れたメギドで。
 だから二人で行けなかった場所。ハーレイと二人で眺められずに、消えてしまった光の遊園地。光の遊園地はきっとあったのだろうに、自分の命が尽きたから。
 それをまざまざと思い出したら、もう黙ってはいられなくて。
「…ハーレイ、ぼくに約束してたよ。…前のぼくだけど」
 いつか行こう、って。ぼくと一緒に、夜の遊園地へ。…光の遊園地を見に行くんだ、って。
 みんなに希望の光が見えたら、地球の座標を手に入れたら。
「そのようだな。…確かにお前と約束をした」
 前のお前だったが、約束したことに間違いはない。夜の遊園地へ二人で行こうと。
「…今は駄目?」
 あの時の約束、今は駄目なの?
 地球の座標はもう要らないんだよ、ぼくたち、地球にいるんだもの。
 船のみんなを心配しなくても、ハーレイはもうキャプテンじゃないし…。ぼくもただの子供。
 それに希望は山ほどあるでしょ、夢だって。
 だから、約束…。前のハーレイの約束だけれど、遊園地、一緒に行ってくれない?
 地球の青色に光るシャングリラを見たいよ、観覧車に乗って上からだって。
「…今の俺たちに希望はあるがだ、一つ大きな問題がある」
 お前、すっかりチビだろうが。…あの時のお前と違ってチビだ。
 俺とデートに行くには早くて、まだまだ小さな子供でしかない。…違うのか?
 デートは駄目だと何度も言ったぞ、今までも、それに今日だってな。



 しかし…、とハーレイが握ってくれた手。遠い昔の、あの日のように。約束を交わした遠い昔の青の間のように、大きな手で。今は小さくなってしまった、子供になった自分の手を。
「前のお前とした約束でも、約束には違いないからな」
 思い出した時には果たすこと、って前にもお前に言ったっけか…。
 幸せな約束ってヤツに時効は無いと。たとえ何年経っていようが、お互い、約束は果たそうと。
 そう言ったからには、あの約束も有効だ。…今の時代でも。
 幸い、光の遊園地ってのは、今もやってるようだから…。この町でも見られるらしいから。
 いつか行こうな、お前と一緒に。…あの時の約束、叶えるのが俺の役目だから。
 もうキャプテンではなくなっちまって、視察も何も無いんだが…。
 見に出掛けても、ただの遊びで、夜のデートだというだけなんだがな。
「ホント?」
 本当にぼくと行ってくれるの、光の遊園地を見るために?
 地球の青色に光るシャングリラとかを見て、観覧車にも乗ってくれるの?
 前のぼくたちだと、観覧車には乗れなかったけど…。それは流石に無理だったけれど。
「ほらな、今ならではのお楽しみってヤツが増えてるだろうが」
 俺とお前で観覧車だ。…前の俺たちだと、これは出来んぞ。
 前のお前が上手く情報を操作したなら、観覧車だって乗れたんだろうが…。そんなの、視察では思い付いたりしないしな?
 お前も、俺も。…あんな乗り物もあるんだな、と見上げる程度で。
「そうだったと思う…」
 人間が大勢、並んで順番を待っているよね、って眺めるだけで満足だったよ。前のぼくなら。
 だけど、今のぼくは乗りたいよ。…ハーレイと一緒に観覧車に。



 プロポーズは無しでも乗ってみたいな、と強請ったら。夜の遊園地を上から見たいと頼んだら。
「お安い御用だ、観覧車くらい。…行列だって俺に任せておけ」
 長い行列が出来ていたなら、お前は休んでいるといい。立って待つのは俺に任せて。
 順番が来るまで、側のカフェにでも座ってな。
「ううん、ぼくもハーレイと一緒に待つよ」
 二人一緒なら、行列も平気。きっと疲れてしまいもしないよ、ハーレイと一緒なんだもの。
 手を繋いで一緒に立っていたなら、ぼくは絶対、疲れないから。
「…そうなのか? 無理はするなよ」
 もう駄目だ、と思うより前に俺に言うんだぞ、「疲れちゃった」と。
 一緒に行列するんだったら、そいつを約束してくれないとな。お前がすっかり参っちまったら、デートどころじゃないんだから。
「…約束する…。ハーレイに心配かけないように」
 くたびれちゃったら、きちんと言うよ。…「ちょっと座って休んでもいい?」って。
「よし。…それなら、いつか二人で行こう」
 お前が大きくなったらな。俺とデートが出来る背丈に。
 そしたら一緒に光の遊園地を見に行こう。やってる季節に、お前と二人で。
 前のお前との約束だから。…幸せな約束に時効は無いって、俺は確かに言ったんだしな。
「うん、約束…!」
 いつか行こうね、今は無理でも。
 ぼくが前のぼくと同じに大きくなったら、二人で行こうね、夜の光の遊園地に…。



 前の自分がアタラクシアで見惚れた光の遊園地。夢と希望の世界がある、と。
 それを知って欲しくて誘ったハーレイ。いつかは、と答えてくれた前のハーレイ。
(…幸せな約束に、時効は無いから…)
 今は小さくて無理だけれども、いつか大きくなったなら。
 デートに行ける背丈になったら、ハーレイと二人で出掛けてゆこう。
 平和になった幸せな時代に、光が溢れる夜の遊園地へ。前の自分が虜になった光の国へ。
 夢と希望が溢れる世界。光が輝く夢の世界へ、ハーレイと。
 観覧車に乗って、上からも見て。
 ゴンドラの中でも手を繋ぎ合って、光の世界を眺めては微笑み交わしながら…。




             光の遊園地・了


※夜の遊園地を見た、前のブルー。けれど、シャングリラの公園でのライトアップは無理。
 そしてハーレイと約束した、夜の遊園地の視察。今のハーレイとなら、いつか行けるのです。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv













※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。





やって来ました、夏休み。初日の今日は会長さんの家に集合、今後の予定を立てるというのが恒例です。もっとも柔道部三人組は明日から合宿、ジョミー君とサム君は合宿期間に合わせて璃慕恩院での修行体験ツアーと決まってますから、その後の話なんですけれど。
「やっぱり今年は山の別荘! あそこがいいな!」
乗馬にボートに…、とジョミー君が言い出し、キース君も。
「あそこはリフレッシュ出来るからなあ…。卒塔婆書きのいい癒しになるから、俺も賛成だ」
「今年も卒塔婆が溜まってんのかよ?」
サム君が訊くと、「失礼なヤツだな」と顔を顰めるキース君。
「俺は計画的に書いているんだ、それでも量が多すぎるんだ! たまに親父も押し付けて来るし」
「お父さんには勝てませんよね…」
アドス和尚はキツイですから、とシロエ君が頭を振って。
「ぼくたちがお邪魔したって容赦がないというか、先輩と同じレベルでしごかれると言うか…」
「そうなのよねえ、正座は必須だとか、もう色々とうるさいのよねえ…」
スウェナちゃんも同意で、キース君は「分かってくれたか」と。
「つまりだ、俺は親父にいいように使われているわけで…。今年もドカンと卒塔婆が来そうだ」
親父がサボッているのは分かっている、と悔しそうに。
「合宿に行ってる間は俺がいないと思ってサボリまくるに決まっているし…。帰って来たらまた増えているんだ、俺のノルマが!」
「「「あー…」」」
気の毒だとは思いましたが、代わりに書ける人はいません。頑張ってとしか言いようがなくて、可哀相なキース君のためにも山の別荘行きは決定で。
「会長もそれでいいですよね?」
シロエ君が確認すると。
「あっ、うん…。ごめん、なんだっけ?」
聞いていなかったらしい会長さん。そういえばボーッとしてたかな?
「おい、夏バテか?」
夏は始まったばかりなんだが、とキース君が突っ込みましたが。
「ううん、そうじゃなくて…。ちょっと余所見を」
「「「???」」」」
楽しい夏休みの相談中に、余所見というのは何事でしょうか。よほど面白い物でもあったか、気になることでもあったんですか…?



「…ごめん、ハーレイの研究が気になっちゃって…」
「「「研究?」」」
何を、と顔を見合わせる私たち。教頭先生の受け持ちは古典なんですけれども、研究するほど打ち込んでらっしゃいましたっけ?
「…まさか学会にでも行かれるんですか?」
夏休み中にあるんでしょうか、とシロエ君が尋ねると。
「そんな高尚な研究だったらいいんだけどねえ…。まあ、古典はまるで関係なくもないけど」
古い文献を読み込んでるし…、と会長さん。
「よくも探して来たなって言うか、もう根性だと言うべきか…」
「何の研究なんですか?」
シロエ君の問いに、会長さんは嫌そうな顔で。
「…惚れ薬」
「「「惚れ薬?」」」
惚れ薬って、いわゆる惚れ薬ですか、それを飲ませれば相手のハートが手に入るという惚れ薬?
「そう、それなんだよ。…作るつもりで頑張ってるんだ、この夏に向けて」
「「「へ?」」」
「ぼくに飲ませて、素敵な夏を楽しもうと思っているんだよ! ハーレイは!」
実に迷惑な研究なのだ、と会長さんは怒ってますけど、惚れ薬なんか作れるんですか?
「どうだかねえ…。ハーレイは作れると思い込んでるし、思い込みの力で何とかなる…かな?」
「「「思い込み?」」」
「うん。…ハーレイがあれこれ試してる内に、出来ないこともない…かもしれない」
なにしろ熱心に研究中で…、と会長さん。
「この国の文献だけじゃなくって、他の国のも引っ張り出して頑張ってるから」
「おい、教頭先生は語学に堪能でらっしゃったのか?」
「堪能と言うか、なんと言うか…。無駄に長生きはしてないよ、うん」
ある程度ならば読めるのだ、と聞いてビックリ、意外な才能。それじゃゼル先生とかも他の国の言葉がペラペラだとか…?
「ほら、サイオンがあるからね。意志の疎通には困らないから、読む方は…どうなのかなあ?」
エラやヒルマンはいけるだろうけど、ということは…。教頭先生、自力で様々な国の言語を習得、それを使って研究中だと…?



教頭先生の惚れ薬研究、梅雨の頃から始まっていたらしいです。夏休みに向けて。思い立った動機は全くの謎で、会長さんに言わせれば「ただの閃き」。けれども教頭先生の方は天啓を受けたとばかりに研究に励み、今日もせっせと惚れ薬作り。
「明日から合宿に入るだろう? その間が熟成期間になるみたいだねえ…」
「壺に詰めるとか、そういうのですか?」
熟成と言うと…、とシロエ君が問いを投げ掛ければ。
「壺もそうだけど、埋めるようだよ、家の庭に。…本当は神社の境内に埋めたいようだけど…」
「「「神社?」」」
なんで神社、と驚きましたが、理由は一応、あるそうです。縁結びの神様がお住まいの神社の境内に埋めて、恋愛成就を祈る人たちに上を歩いて貰えば完璧、そういう仕様で。
「…それは片想いの人たちじゃないかと思うんだが…」
縁結びの神社ならそうならないか、とキース君が首を捻ると、会長さんは。
「大多数は片想いの人だけれどさ、叶った時にはお礼参りに来るだろう? そっちのパワーは馬鹿にならないし、片想いの人だって振り向いて欲しいと必死だからねえ…」
両者のパワーで凄い惚れ薬が出来るらしい、という話。それって本当なんですか?
「さあねえ…。あの手の文献、大抵、根拠は不明だし…。ぼくも惚れ薬はサッパリだしね」
そんな勉強はしていないから、と会長さん。
「だけどハーレイは作れるつもりで頑張ってるわけで、神社の境内に埋められない分、家で工夫をするようだから」
「どんな工夫だ?」
どうすれば神社と張り合えるのだ、とキース君。
「恋愛祈願の人が教頭先生の家の庭に来るとは思えんが…。第一、不用心だと思うが」
「そこは心配要らないんだよ。踏んで行くのは人じゃないからね」
「「「え?」」」
何が踏むのだ、と深まる謎。まさか幽霊ではないんでしょうし…。
「人とはまるで関係無いねえ、幽霊もね。…この際、動物でもいいと思ったみたいで」
マタタビとかを用意している、と聞かされましたが、それじゃ、壺が埋まった地面の上を踏んで行くものは猫ですか?
「そのつもりらしいよ、恋の時期の猫は半端ないから」
今の季節は違うけれども、あやかりたい気持ちが大きいらしい、と会長さんは大きな溜息。猫の恋ってそんなに凄かったかな…?



教頭先生があやかりたいらしい、猫の恋。シーズンになったら独特の声で鳴いてますけど、会長さんによるとオスは寝食を忘れて走り回るほどらしいです。メスを巡って取っ組み合いの喧嘩も珍しくなくて、挙句の果てに…。
「「「トラックを止めた!?」」」
「らしいよ、いると分かってて轢いて通るというのもねえ…」
これは実話、と会長さんが話してくれた、恋の季節の猫の大喧嘩。ガップリお互い噛み付き合ったままで路上に二匹で、一車線しかない道路。通り掛かったトラックが気付いてクラクションを激しく鳴らしているのに、猫は喧嘩をやめるどころか動かないままで。
「クラクションの音で近所の人たちも出て来ちゃったから、そこで轢いたら大変だしね?」
「「「あー…」」」
そうだろうな、と思いました。動物愛護の精神で通報する人もいるかもですし、現場の写真を撮って直ちに拡散する人もいそうです。つまりは猫が姿を消すまで、トラック、立ち往生だったというわけですか…。
「そういうことだね、しかも誰も猫をどけようとはしなかったらしくて…」
トラックは十分以上も動けず、道は大渋滞になってしまったという話。あまつさえ、猫の喧嘩は噛み付き合った状態のままで徐々に移動し、側溝に落ちたというだけのことで。
「つまりね、トラックが走り去った後も喧嘩は続いていたんだよ。確か三十分だったか…」
「すげえな、その間、取っ組み合ったままだったのかよ?」
剥がれねえのかよ、とサム君が訊けば。
「取っ組み合いどころか、噛み合ったままだね。最後はフギャーッと凄い掴み合いで、後に沢山の毛玉がポワポワと…」
「「「うーん…」」」
そこまでなのか、と聞いて納得、猫の恋の凄さ。教頭先生があやかりたいのも分からないではありません。恋愛成就の神社が無理なら、せめて猫たちに踏んで行って欲しいと。
「…教頭先生、本気で壺を埋めるんですか?」
庭に、とシロエ君が確認すると、会長さんは。
「惚れ薬が完成したならね。…あと少しで出来るみたいだし…」
お約束のイモリで完成らしい、と吐き捨てるように。イモリの黒焼き、それを投入してからグツグツ煮込んで、布で濾して壺に詰めたら熟成。庭に穴を掘って壺を埋めておいて、その上の地面にマタタビやキャットフードなど。…なんとも怪しい惚れ薬ですが、本当に効くんですか、それ?



教頭先生の惚れ薬作りは格好の話題になりました。「そるじゃぁ・ぶるぅ」がサイオン中継で見せてくれた現場は教頭先生の家のキッチン、この暑いのにグツグツ煮えている大鍋。
「…真っ黒だよねえ…」
あんなの飲む人いるのかな、とジョミー君が悩んで、マツカ君が。
「薔薇色とかなら分かるんですが…。あの色はちょっと…」
惚れ薬とは思えません、と厳しい言葉。何処から見ても不味そうな出来で、会長さんに飲ませるなどは無理そうですが…?
「それがね、熟成させたら色が変わるというらしくてねえ…。成功したなら」
「「「へ?」」」
「だからさ、上手く出来たらの話! 熟成した後、薔薇色になっていたなら完璧らしいよ」
ハーレイの研究ではそうなっている、と会長さん。熟成期間を終えて掘り出した壺の中身が薔薇色に変わっていたなら完成品だ、と。
「本物が出来るというんですか、あれで!?」
シロエ君が驚き、キース君も。
「黒い液体が薔薇色か…。化学変化を起こしたならば、可能なのかもしれないが…」
それは効くのか、と訊きたい気持ちは誰もが同じ。会長さんは「さあ…?」と首を傾げて。
「どうなんだかねえ、ハーレイの研究なんだしね? しかも色々、混ぜちゃってるし…」
レシピは一つではないようだ、とズラリ挙げられた文献の数。古今東西、あちこちの文献を読み込みまくって美味しいトコ取り、使えそうなレシピは端から採用したらしく…。
「真っ黒なのが薔薇色になるっていうのは、その内の一つ。…熟成はまた別のレシピで、神社の境内に埋める方もまた別のヤツでさ…」
「…チャンポンなのか!?」
酒で言ったらチャンポンじゃないか、とキース君。チャンポンは麺かと思いましたが、いろんな種類のお酒を一度に飲むのがチャンポン、悪酔いするとかロクな結果にならないそうで。
「…惚れ薬でチャンポンは危険じゃないですか?」
お酒以上にヤバそうですが、とシロエ君の指摘。惚れ薬どころか嫌われる薬が出来上がるかもしれません、と。
「いいんじゃないかな、ぼくは飲むつもりはないからね」
惚れ薬と知ってて誰が飲むか、と会長さん。…そうでした、とっくにバレているんでしたっけ、教頭先生の惚れ薬作り。会長さんが飲むわけないんですから、チャンポンだろうが、失敗しようが、私たちには全く関係無いですよね?



合宿へ、修行体験ツアーへと旅立つ男子たちの壮行会を兼ねた屋上でのバーベキューが終わって、私たちは解散しましたが。次の日、スウェナちゃんと二人で会長さんの家へ出掛けてゆくと…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
今日はフィシスも一緒にお出掛けだよ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。フルーツパフェが美味しいお店へ出掛けるそうです、選んだ果物で作って貰えるスペシャルなもの。フィシスさんも先に来ていましたけど、教頭先生の惚れ薬作り、どうなったかなあ…?
「ああ、あれかい? 夜中に穴を掘ってたけどねえ?」
庭でせっせと、と会長さん。
「熟成用の壺にはビッシリ呪文で、それを特別な布で包んで、雨水とかが入らないように防水シートもかけたようだけど…」
ねえ? と会長さんがフィシスさんに視線を向けると、「ええ」と頷くフィシスさん。
「…占い師の立場から言わせて貰えば、防水シートは大いに問題がありますわね」
「「え?」」
どうして、とスウェナちゃんと揃って訊き返すと。
「あれこれ作り方にこだわったんなら、防水も昔ながらの方法にすべきだと思いますわよ?」
今どきの防水シートはちょっと…、と言われてみればそんな気も。でもまあ、神社の境内じゃなくて猫が踏んでゆく地面に埋めてる辺りで、先は見えているとも思えますし…。
「うん、成功するわけがないってね! どうかな、フィシス?」
「…占いですか?」
「どうなるのか興味があるからね。大失敗だろうと思うけれどさ」
占ってみてくれるかな、と会長さんが頼んで、フィシスさんは奥の部屋からタロットカードを取って来ました。会長さんの家にもカードが置いてあるのが流石です。それだけ頻繁に出入りしている証拠なんですし、教頭先生の惚れ薬は無駄だと思いますけど…。
そのフィシスさんはタロットカードをめくって占いを始めたものの。
「…大騒ぎになるみたいですわよ?」
「それは薬のせいなのかい?」
「さあ…。そこまでは分かりませんけど、波乱のカードが」
「「「…波乱…」」」
何が起こるんだ、とタロットカードを睨み付けてみても、答えは出て来ませんでした。次の日に占って貰っても同じ、その次の日も全く同じ。波乱のカードは変わらないまま、男の子たちが戻って来る日がやって来て…。



「かみお~ん♪ みんな、お疲れ様ーっ!」
合宿も修行も大変だったでしょ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。合宿や修行を終えた男の子たちの慰労会という名の焼肉パーティー、真っ昼間からがお約束。ワイワイ賑やかに肉を焼く中、キース君がふと思い出したように。
「…例の薬はどうなったんだ? 教頭先生が作っていたヤツは」
合宿期間中が熟成期間だった筈だが、という質問に会長さんが。
「今夜、掘り出すみたいだよ? 夏は日暮れが遅いからねえ、八時は過ぎるんじゃないのかな」
本人は早く掘りたくてウズウズしているみたいだけれど、と大きな溜息。
「ぼくとしては大いに迷惑だからね、出来れば掘らないで欲しいんだけど…」
「あんた、飲まないと言ってただろうが」
「そのつもりだけど、どう転ぶやら…。フィシスの占いでは波乱らしいから」
「「「波乱!?」」」
占いの件を知らなかった男子に、会長さんが説明を。カードは毎日、波乱だと告げていたのだと。
「フィシスの占いは外れないしね、何が起こるのか、もうビクビクで…」
「あんたが教頭先生に惚れる結果になるとかか?」
「無いとは言い切れないからねえ…。波乱だけに」
でも簡単には飲まされない、と会長さんも負けてはいません。サイオンで教頭先生の家を覗き見、しっかりと監視し続ける内に、焼肉パーティーは終了、午後のおやつをダラダラと食べて、夕食の時間。夏野菜たっぷりのエスニック料理が並んで満足、食後のマンゴージュースをストローで美味しく飲んでいたら…。
「ハーレイが庭に出てったよ。…スコップを持って」
いよいよ壺を掘り出すらしい、と会長さんの声が。
「…ほらね、こういう感じでさ」
指がパチンと鳴ったと思うと、壁に現れた中継画面。教頭先生が庭の隅っこをザックザックと掘り返しています。そっか、真ん中じゃなくて隅っこだったんだ…。
「猫が寛げるように隅っこらしいね、出来れば恋を語らって欲しいと」
「…その季節じゃないと思うんだが?」
キース君の突っ込みに、会長さんは両手を軽く広げてお手上げのポーズ。
「ハーレイだしねえ、思い込んだら一直線だよ。猫はそこそこ来ていたけれどさ、恋は語っていなかったねえ…」
踏んで行っただけだ、と会長さん。踏んで貰うことは出来たんですねえ、惚れ薬の壺…。



土の中から掘り出された壺は、青いビニールの防水シートに包まれていました。フィシスさんがダメ出しをしていたヤツです。もうこの段階で失敗だろうと思ったんですが、教頭先生がしっかり抱えて家の中へと運び込んだ壺は…。
「うわあ、呪文だらけ…」
いったい何が書いてあるんだろう、とジョミー君が息を飲み、会長さんが。
「あれも一種のチャンポンだねえ…。ありとあらゆる恋愛成就の呪文が一面に…」
せめて統一すればいいのに、と言っている内に壺の封が剥がされ、教頭先生が料理用のおたまを突っ込んで…。
「おおっ、出来たぞ!」
成功だ! と歓喜の表情、おたまの中身は真っ黒ではなくて薔薇色の液体。
「…出来たみたいですよ?」
薔薇色ですよ、とシロエ君が中継画面を指差し、会長さんが呆然と。
「…嘘だろう…! それでフィシスが波乱だと…?」
「そのようだな。あんた、飲んだら終わりだぞ、あれは」
教頭先生に惚れるしかないぞ、とキース君。
「どうやら成功したらしいしな? あの調子だと、今夜の内にも「飲んでくれ」と持っておいでになるんじゃないかと…」
「…そうなのかな? って、そのコースなわけ!?」
会長さんの悲鳴は当然と言えば当然でした。教頭先生、壺の中身をガラス瓶に詰めておられます。そのままでゴクゴク飲み干せそうなサイズの、ジュースか何かの空き瓶に。
「かみお~ん♪ これからお客様?」
ハーレイに何を出そうかな、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が浮かれてますけど、会長さんはそれどころではなくて。
「の、飲まないとは言ったけど…。言ったんだけど…!」
どうすれば、と半ばパニック状態。まさか惚れ薬が完成するとは夢にも思っていなかったという所でしょうか。何も完成したからと言って、飲まなきゃならないこともなさそうですが…?
「毒見してくれ、と言ってみたらどうだ?」
キース君の提案に、会長さんは飛び付きました。
「そうだ、その手があったよねえ…! 飲んでみてくれ、と言えばいいんだ!」
怪しい飲み物を持って来たなら王道の対応なんだから、と晴れやかな笑顔。教頭先生、惚れ薬の毒見は出来ないでしょうし、これで円満解決ですかねえ…?



それから間もなく、教頭先生が愛車で下の駐車場へとご到着。私たちは今夜はお泊まりコースに切り替え、会長さんのボディーガードを兼ねて居座り中です。暫くしたら玄関のチャイムがピンポーンと鳴って、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が飛び跳ねて行って…。
「ハーレイが来たよーっ!」
「…遅くにすまん。美味いジュースが出来たものでな」
飲んで貰おうと思って持って来たのだ、と教頭先生がリビングにやって来ました。提げている紙袋の中身は例の惚れ薬でしょう。これだけの大人数がいるとは予想もしなかったらしく、「すまん」とお詫びの言葉再び。
「…ジュースは一本しか無いのだが…。ブルーの分しか」
「ぼくの分だけ? ぶるぅのも無いと言うのかい?」
それは酷い、と会長さん。
「他のみんなの分が無いのは分かるけれども、ぶるぅのも作って来てないだなんて…。なんだか怪しい匂いがするねえ、一本だけだと言うのがね」
「いや、それは…。分量などの関係で…」
「そうかい? 壺に一杯、仕込んでたように思うんだけどね?」
ぼくの記憶が確かだったら、と会長さんの切り返し。グッと詰まった教頭先生に、会長さんは。
「あの壺の中身か、そうじゃないのか。…どっち?」
「もちろん、壺の中身ではない。ただのジュースだ、壺は壺だ」
これがいわゆる嘘八百。壺の中身の方ではない、と開き直った教頭先生、紙袋の中から例の瓶を。薔薇色の液体が詰まっています。
「どうだ、綺麗なジュースだろう? 美味いんだぞ、これは」
「じゃあ、飲んでみて」
「はあ?」
「毒見だよ、毒見。一人分だけって持って来られて、「はいそうですか」と飲むとでも?」
そのアイデアはキース君が出したんですけど、会長さんはもう完全に自分のものに。
「万一ってこともあるからねえ…。まずは一口、それだけでいいから」
「…し、しかし…」
「瓶から直接、飲んでくれてもいいんだよ? その後でぼくが瓶から飲んだら…」
間接キスになるんだけどねえ? と赤い瞳がキラリーン! と。瓶の中身が怪しくなければ、教頭先生は釣れる筈です。毒見するだけで会長さんが間接キスをしてくれるのですし、これで飲まなきゃ、怪しいジュースだと自白してるも同然ですって…。



「ほら、飲んで! ぼくと間接キスなんだから!」
会長さんが促しているのに、飲もうとしない教頭先生。会長さんに惚れて貰うための惚れ薬だけに、自分が飲んだら何が起こるか分からないといった所でしょうか。会長さんはフンと鼻を鳴らすと、ジュースの瓶を睨み付けて。
「知ってるんだよ、それの中身が惚れ薬だということはね!」
「…で、では…」
「飲むわけないだろ、そんな薬! 君が飲んだらいいと思うけど!」
惚れ薬だから、飲んでも何も変わらない筈! と会長さんは瓶を引ったくり、ポンと蓋を開けて。
「これをぼくが君に飲ませたってね、君は元からぼくにベタ惚れ、何も変わりはしないから!」
自分で飲め! と突撃して行った会長さん。身長の差を物ともせずにグイと背伸びして、教頭先生の顎を引っ張り、瓶の中身を無理やり口へと。
「「「わーっ!!!」」」
なんてことを、と私たちはビックリ仰天、教頭先生も驚きのあまり例の薬をゴックンと。会長さんは勢いに乗って「全部飲め!」と無理やり流し込んでしまい…。
「…あんた、けっこう無茶苦茶やるな」
教頭先生に飲ませるとは、とキース君が呆れて、シロエ君も。
「…いくら結果は変わらないのか知りませんけど…。惚れ薬ですよ、怪しいですよ?」
そんなものを強引に飲ませるなんて、と超特大の溜息、残る柔道部員のマツカ君は教頭先生の介抱中です。ゲホゲホと噎せておられる背中をトントン叩いて、擦ったりする内に…。
「…すまん、世話になった。申し訳ない」
教頭先生はなんとか復活、マツカ君に丁重に御礼を言うと。
「おお、こうしてはいられない! 急がねば!」
「「「え?」」」
「まだ起きているとは思うのだが…。明日のデートを申し込まないと!」
「「「デート?」」」
誰に、と会長さんの方を眺めましたが、教頭先生は「邪魔をしたな」とペコリとお辞儀。
「どうして此処へ来てしまったのかは分からんが…。急ぐので、これで失礼する」
「急ぐって…。何処へ?」
会長さんが訊くと、返った答えは。
「ブラウの家に決まっているだろう! 早く行かないと寝てしまうからな」
では、と回れ右、飛び出して行ってしまった教頭先生。ブラウって、ブラウ先生ですか…?



いったい何が起きたというのか、まるで分からなかった私たち。会長さんもポカンとしていましたけど、ようやく我に返ったようで。
「…ブラウって…。まさか、ハーレイ、ブラウとデートを…?」
有り得ない、とサイオンの目を凝らした会長さんですが。
「…ハーレイ、本気だ…。ブラウの家へと向かっているんだ、途中のコンビニで花まで買って」
「「「花!?」」」
「この時間に花屋は開いてないしね、とにかく花だとコンビニに…」
この通り、と映し出された中継画面。教頭先生の愛車の助手席に如何にもコンビニな薔薇の花束、運転する表情は恋に恋しているような顔で。
「マジでブラウ先生とデートなのかよ?」
あの花束で申し込みかよ、とサム君が唖然、ジョミー君も口をパクパクと。
「…なんでそういうことになるわけ、教頭先生、ブラウ先生なんかに惚れていたっけ…?」
「いや、知らん。俺も全くの初耳だが…」
どうなっているんだ、とキース君にも状況が全く掴めないまま、教頭先生、ブラウ先生の家にご到着。花束を抱えてチャイムを鳴らして…。
「ありゃまあ、ハーレイ、どうしたんだい?」
こんな時間に、と出て来たブラウ先生に、教頭先生はバッと花束を。
「そ、そのぅ…。良かったらデートして貰えないだろうか、明日、映画にでも…」
「デートって…。映画って、あんた、熱でもあるんじゃないのかい?」
誰かと間違えていないかい、とブラウ先生が目を丸くしていますけれど。
「いや、間違える筈があるものか! 私は昔からブラウ一筋で!」
「あー、なるほど…。分かった、あんた、酔ってるね?」
飲酒運転は良くないねえ…、とブラウ先生はガレージに停められた教頭先生の愛車を眺めて。
「仕方ないねえ、ちょいと荒っぽい運転になるけど、あんたの家まで送って行くよ」
キーを貸しな、と差し出された手に、教頭先生は感無量。
「なんと、ドライブしてくれるのか! しかも運転してくれると!」
「仕方ないだろ、飲酒運転だと分かったからには、きちんとフォローしておかないとね」
身内から逮捕者は出したくないんだよ、とブラウ先生は車に向かうと、運転席へ。教頭先生に助手席に座るように促し、エンジンをかけて…。
「帰りのタクシー代は出しておくれよ、そこの酔っ払い」
「もちろんだ! ついでに私の家で一杯やろう」
夜のドライブもオツなものだな、と教頭先生は御機嫌でした。ブラウ先生と二人で夜のドライブ、それから家で一杯やろうって、どう考えても変ですよ…?



何がどうなっているのか謎だらけのまま、ブラウ先生が運転する車は教頭先生の家に着きました。ブラウ先生は「タクシー代を寄越しな」と手を出しましたが、「まあ、一杯」と誘われて。
「ふうん…? 悪くはないねえ、あんたの酒のコレクションにも興味はあるし」
「本当か? では、是非、飲んで行ってくれ!」
とっておきのチーズもカラスミもあるし…、と教頭先生は歓待モード。ブラウ先生はいそいそと上がり込み、通されたリビングでソファに座って。
「ハーレイ、枝豆は無いのかい? 夏はやっぱり枝豆がいいと思うんだけどね」
「分かった、冷奴も用意出来るのだが…」
「いいじゃないか! 枝豆に冷奴、まずはそいつで楽しく飲もう!」
チーズとカラスミもよろしく頼むよ、とブラウ先生。教頭先生は早速枝豆を茹で始め、その間に冷奴とチーズとカラスミを並べ、生ハムも出そうとしています。教頭先生、ブラウ先生たちとも飲んだりすることは知ってますけど、家に招いて一対一って…。
「…変だよね?」
「何処から見たって変ですよ!」
おかしすぎます、とシロエ君がジョミー君に言った所へ。
「うーん…。惚れ薬の効き方、間違った方へ行っちゃったみたいだねえ…」
ブルーがブラウに、と後ろから声が。
「「「!!?」」」
誰だ、と振り返ったらフワリと翻った紫のマント。異世界からのお客様なソルジャー登場で…。
「惚れ薬を作っているというから、興味津々で見てたんだけど…。なんとも妙な結末に…」
ブラウの方に惚れるだなんて、とソルジャーは首を振りました。
「惚れ薬は成功したんだと思っていたけれど…。別の相手に惚れちゃう薬かあ…」
あのハーレイがブラウにねえ…、とソルジャーはなんとも残念そう。
「惚れ薬のお蔭で君も目出度くハーレイと恋に落ちるんだろう、と期待してたのに、肝心のハーレイがブラウの方に行っちゃったんでは…」
「ぼくとしては嬉しい気もするけどね? これで暑苦しく迫って来られる心配も無いし」
万々歳だ、と会長さんが言ったのですけど。
「本当に? …このまま行ったら、ハーレイはブラウ一筋になりそうだけどね?」
君のオモチャが無くなるのでは…とソルジャーは中継画面を覗き込みました。
「一時的なものならいいんだけどさ。あの惚れ薬は気合が入っていたからねえ…」
君を顧みなくなるのでは…、というソルジャーの心配は見事に当たって。



「…全く治っていらっしゃらないようだな…」
キース君が中継画面を眺めて溜息。私たちがいるのは会長さんの家のリビングです。
あれから日は経ち、山の別荘から戻って来た時にも教頭先生はブラウ先生にベタ惚れでした。幸か不幸か、ブラウ先生の方では、教頭先生が会長さん一筋だったことを御存知です。一種のゲームか何かであろう、と解釈なさったらしくて、楽しくデートをしておられて、今も…。
「ちょいと、ハーレイ! あっちの店も美味しそうなんだけどね?」
「ふむ…。では、夕食はあの店にするのもいいな」
「そうこなくっちゃ! それでねえ、今日は買いたいものがあってねえ…」
買ってくれると嬉しいんだけどね、とブラウ先生、教頭先生と仲良く腕を組んでお出掛け中。教頭先生は買い物と聞いて「任せておけ」と言ってらっしゃいますし…。
「あのポジションはぼくなんだけど!」
デートはしないけどハーレイは財布、と会長さんが不機嫌そうに。
「ぼくたちが別荘に出掛けてる間に、どれほどブラウに貢いだんだか…。腹が立つったら!」
「あんた、教頭先生をオモチャにするだけでは足りないのか?」
キース君の問いに、会長さんは。
「オモチャはもちろん必要だけれど、ハーレイからは毟ってなんぼなんだよ!」
なのにブラウが毟っているし、と文句を言っても、教頭先生はブラウ先生に首ったけ。デートの途中で会長さんがヒョイと姿を現したって、挨拶だけでおしまいというのが現状です。
「なんで惚れ薬でこうなったんだか…! 待ってれば治ると思うんだけど…」
その内にきっと、と会長さんが歯ぎしりしていると。
「…そのコースだと何日かかるかなあ…」
下手をしたら二ヶ月くらいかも、とソルジャーが降ってわきました。
「あの惚れ薬を分析したらね、かなり強力な成分が入っていたんだよ。精神に直接働きかけるってヤツで、ぼくの世界にも無い代物でさ…」
「分析って…。持って帰ってたのかい、あの薬を?」
いつの間に、と会長さんが訊くと、ソルジャーは。
「君がハーレイに飲ませた次の日! 覗き見してたら、ハーレイが捨てようとしていたから…」
壺ごと貰っておいたのだ、と話すソルジャーによると、教頭先生は自分が作った惚れ薬のことを覚えていらっしゃらないそうです。ゆえにゴミだと捨てようとしたのを、ソルジャーが横から貰った次第。教頭先生はソルジャーにも特に反応しなかったとかで…。



「普段だったら、君とそっくりって言うだけで歓迎して貰えるのにさ…」
お菓子も出して貰えなかった、とソルジャー、ブツブツ。貰えたものは惚れ薬の壺だけ、お茶も淹れては貰えなかったらしく。
「いったいどういう薬なんだ、とノルディに分析させたわけ。あ、ぼくの世界のノルディだよ? でね…、分析に回してる内に、ぶるぅがね…」
薬を持ち出して配って回ってしまったのだ、とソルジャーは頭を抱えました。悪戯小僧で大食漢なソルジャーの世界の「ぶるぅ」なだけに、好奇心の方も人一倍。謎の薬をジュースに混ぜてしまって配達、何も知らないソルジャーのシャングリラの人たちが飲んで…。
「騒ぎに気付いて回収したけど、二十人くらいに被害が出てる。配って回ったのがぶるぅだったからかな、ぼくのシャングリラでもブラウがモテモテ」
ぶるぅとブラウは音が似てるし…、と言うソルジャー。
「ぼくとノルディの推測だけどね、似たような別物に惚れることになるのがあの薬だね。だから、こっちのハーレイが君に飲ませても、君はハーレイに惚れる代わりに他の誰かに…」
それが誰かは分からないけれど、とソルジャーは額を軽く押さえて。
「とにかく間違えた薬なんだよ、おまけに強力。中和剤が無ければ二ヶ月くらいは効いたままだとノルディは言ったね、中和剤を急がせているんだけれど…」
今夜くらいまでかかるらしくて…、と頭痛を覚えているらしいソルジャー。
「実は、ぼくのハーレイも被害者なんだよ! ぶるぅが悪戯しちゃったお蔭で!」
ぼくを放ってブラウに夢中、とソルジャーは泣きの涙でした。変な薬を持って帰ってしまったばかりに夫婦の仲が壊れそうだと。
「もうすぐ海の別荘行きだし、それまでに治ってくれないと…! せっかくの結婚記念日が…!」
離婚記念日にしたくはないから、と焦るソルジャー、自分の世界のドクター・ノルディに発破をかけて来たそうです。中和剤を急げと、今夜までには、と。
「…その中和剤、君も欲しいなら貰って来るけど?」
飲ませなければハーレイは当分、あのままだけど、とソルジャーが告げると、会長さんは。
「即効性があるのかい、それは?」
「当然だろう? 直ぐに効かなきゃ意味ないし!」
飲ませたら一時間以内に効果が出る筈、とソルジャーは勝算があるようです。ソルジャーの世界のドクター・ノルディも出来ると保証していたとかで…。
「じゃあ、とりあえず…!」
出来たら譲って、と会長さんはソルジャーに頼み込みました。中和剤が出来たらよろしく、と。そしてその夜、ソルジャーが出来たばかりの中和剤を届けに来たのですが…。



「…あんた、中和剤を使わないのか?」
教頭先生はブラウ先生に夢中でいらっしゃるが、とキース君。今はお盆の棚経に向けて追い込みの最中、卒塔婆書きもクライマックスです。そんな日々でも息抜きだとかで、今日も会長さんの家に来ているキース君ですが…。
「中和剤かい? 急がなくてもいいんじゃないかな、いつでも元に戻せるんだしね」
ブルーの世界で実証済み、と会長さんの顔には余裕の笑み。
「あっちのハーレイ、一瞬で正気に戻ったと聞いているからねえ…。ついでに、トリップと言うのかなあ? あっちのブラウにぞっこんだった間の記憶も微かにあるらしいから…」
「らしいな、お蔭で夫婦円満だとか言ってやがったような…」
ソルジャーはとんと御無沙汰でした。「ぶるぅ」の悪戯でソルジャーを放り出してブラウ航海長に夢中だったキャプテン、その負い目からか、熱烈な夜だったと聞かされたきりで。
「ぼくもね、それを狙ってるんだよ、ハーレイの負い目というヤツを!」
存分に泳がせておいて正気に返す、と会長さんはニッコリと。
「海の別荘行きの誘いをかけたら、「付き添いならいいぞ」と言ったほどだしね? 教師の立場でついて来ようとしているんだし、もうギリギリまで放っておいて!」
中和剤を使うのは海の別荘に着いてからでもいいねえ、と恐ろしい案が。それは実行に移され、海の別荘では平謝りの教頭先生の姿が見られたわけですが…。ソルジャー夫妻も「ぶるぅ」も大いに笑って、笑い転げたわけですが…。



教頭先生が正気に戻って、会長さんに土下座しまくったその夜のこと。ソルジャー夫妻は早々に自分たちの部屋へと引っ込み、私たちが広間で騒いでいると。
「かみお~ん♪ みんなでゲームをしない?」
ちょっと面白そうなんだけど、と「ぶるぅ」がニコニコ。悪戯小僧の「ぶるぅ」です。
「…ゲームですか?」
どんなのですか、とシロエ君が尋ねたら、いきなりドカンと出て来た壺。謎の呪文が山ほど書かれた壺には確かに見覚えがあって。
「お、おい、この壺は例の…!」
惚れ薬の壺では、とキース君の声が震えて、「ぶるぅ」が「そだよ~!」と。
「えっとね、中和剤はちゃんと用意してあるから! みんなで飲まない?」
「「「みんな?!」」」
「そう! みんなでグラスに一杯ずつ入れて、歌いながら順番に回して行くの!」
歌い終わった時に持っていたグラスの中身を飲むんだよ、とニコニコニッコリ。
「ぼくには誰のグラスが来るかな、キースかなあ? キースのだったら、ぼくの好きな人、誰になると思う?」
「ちょ、ちょっと…!」
そんなゲームはお断りだから、と会長さんが慌てましたが、ぶるぅはやりたいらしくって。
「平気だってば、中和剤のことを忘れちゃってたら、ブルーが飲ませてくれるから!」
明日の朝にみんなの様子がおかしかったら飲ませるよ、って言ってくれたよ、と満面の笑み。
「だから絶対、大丈夫! ねえねえ、ゲームをやりたいよう~っ!」
みんなでやろうよ、と持ち込まれてしまった、恐ろしすぎる惚れ薬。教頭先生は顔面蒼白、私たちも震えが止まらないのですが、「ぶるぅ」はゲームだと主張しています。
「…おい、俺たちはどうなるんだ?」
「知りませんよ!」
ぼくがキース先輩に惚れても許して下さい、とシロエ君はもはやヤケクソでした。そうか、そういう結果になるかもしれないんですね、私がキース君に惚れるとか…。教頭先生に惚れるとか…。
「「「嫌すぎる~~~っ!!!」」」
ゲームは御免だ、と叫んだものの、ドカンと置かれたままの壺。もしかしなくても、ゲームをやるしかないんでしょうか。教頭先生、責任を取って一気飲みとかしてくれませんか、恐怖のゲームを回避するため、人柱ってことでお願いします~!




           惚れ薬の誤算・了


※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 教頭先生が頑張って作った、惚れ薬。無事に完成したんですけど、惚れる相手が大問題。
 間違った相手に惚れてしまう薬で、それをゲームで飲めというオチに。大丈夫でしょうか?
 次回は 「第3月曜」 4月19日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、3月と言えば春分の日で、春のお彼岸。今年は連休ではなくて…。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv











(あれ?)
 テントウムシだ、とブルーが見詰めた小さな虫。学校から帰って、おやつの時間。ダイニングのテーブルの上に、チョコンと一匹。赤い背中に、七つの黒い星を乗っけたテントウムシ。
 艶々と光る丸っこい姿は可愛らしいけれど、テーブルに住んでいるわけがないから。
(くっついて来ちゃった?)
 庭から、母に。そうでなければ、母が生けようと持って入った花に。
 ちっちゃいよね、と眺めて、指でチョンとつついて、庭に戻そうかと考えていて…。
 ほんの少しだけ目を離したら、テントウムシの姿は無かった。窓越しに庭を見ていた間に。
(いなくなっちゃった?)
 消えてしまったテントウムシ。テーブルの上には紅茶のカップやケーキのお皿くらいだけ。順に動かして探したけれども、テントウムシは見付からない。テーブルの下を覗いてみても。
(…消えちゃった…)
 ダイニングは広くて、入り込めそうな所が沢山。小さな虫なら。
 その上、廊下に繋がる扉。それが細めに開いていた。テントウムシなら通れる程度に。あそこを抜けて、廊下に行ってしまったろうか。
 床をチョコチョコ歩くのはやめて、何処かへ飛んで行っただろうか?
 テントウムシには翅があるから、広げたら直ぐに飛び立てる。テーブルから上へ、扉をくぐって外の廊下へ、階段を抜けて二階にだって。



 けれども、開いていない窓。玄関の扉も閉まったまま。テントウムシは外に出られない。いくら飛んでも、せっせと歩き回っても。
(家の中で迷子…)
 庭には戻れず、家の中をぐるぐる回るだけ。此処はいったい何処なのだろうと、住み慣れた庭は何処に消えたのかと。
 それはとっても可哀相だから、通り掛かった母に話した。「テントウムシが消えちゃった」と。
「さっき、テーブルの上にいたのに…。出してあげなくちゃ、と思ってたのに…」
 直ぐに外へ出してあげれば良かった、見付けた時に。
 もし見付けたら出してあげてね、可哀相だから。…お腹だって、きっと減っちゃうし…。
「心配しなくても、大丈夫なんじゃないかしら?」
 ちょっと気が早いテントウムシだけど、冬になったら家の中で暮らしていることもあるの。
 暖かいから、わざわざ人間の家に入って冬越しするのよ。
 丁度良さそうな隙間を探して、潜り込んで。
 引き戸の隙間なんかにね、と母は教えてくれた。春になるまで家の中よ、と。
(それなら安心…)
 テントウムシが迷子になっても、春になるまで家で冬越し。暖かくなったら其処から出て来て、開いた窓を探すのだろう。風の吹いて来る方向は何処か、ちゃんと見付けて。
 開いた窓や扉があったら、後は空へと飛び立つだけ。春になった、と。



 行方不明になった時には慌てたけれども、家の中でも大丈夫らしいテントウムシ。良かった、と二階の部屋に帰って、勉強机の前に座って。
 昨日の続きの本を読んでいたら、パタッと落ちた丸っこい虫。本の上に赤いテントウムシ。
(くっついてたの!?)
 ぼくに、と驚いて目を丸くした。頭の上に乗っかっていたか、服の何処かに入っていたか。肩か背中にいたかもしれない、自分では気付いていなかっただけで。
(潰しちゃわなくて良かったよ…)
 椅子に座った時に、お尻や背中で。テントウムシは小さいのだから、チビの自分の体重だって、確実に潰れてしまうから。
 危なかった、と思った所へチャイムの音。仕事帰りのハーレイが門扉の脇で手を振っている。
 せっかくだから、この珍客を披露しようと思った。窓から庭には、まだ出さないで。ハーレイが来る前に他所へ行かないよう、丁度あった小さな空き箱に入れて。



 暫くしたら、母が案内して来たハーレイ。いつものテーブルと椅子で向かい合うなり、その箱を開けて中身を見せた。
「あのね、ハーレイ…。こんなのが、ぼくにくっついて来ちゃった」
 テントウムシ。…おやつの時間にダイニングにいたけど、行方不明になっちゃって…。
 ついさっき、落ちて来たんだよ。本を読んでたら、机の上に。
 ぼくと一緒に来ちゃったみたい。髪の毛か、服にくっついちゃって。
「テントウムシか…。そりゃ運がいいな」
 お前、いいことあるんじゃないか。今日か、それとも明日かは知らんが。
「えっ、いいことって?」
 運がいいって何のことなの、虫がくっついて来たらいいことがあるの?
「そうだが…。何の虫でもいいわけじゃない」
 テントウムシなら、幸運なんだ。幸運を運んでくれる虫だし、それがくっついてくれたらな。
「そうなんだ…!」
 知らなかったよ、幸運だなんて。テントウムシって、そういう虫なんだ…。
 何かいいことあるといいな、と顔を綻ばせたけれど。
 空き箱の中の幸運の使者を、赤い背中を見詰めたけれど…。



(テントウムシ…?)
 それに幸運、くっついて来ると幸せを運ぶらしい虫。
 知っているような気がして来た。けれど自分が知っているなら、見付けた時に気付いた筈。本の上にポトリと落ちて来た時に、「今日はツイてる」と、幸運が来ることを思い出して。
 なのに全く気付かなかったし、だとしたら、これは今の自分の知識ではなくて…。
「…前のぼく、知ってたみたいだよ。テントウムシのこと」
 くっついて来たら幸せなんだ、って知っていたように思うんだけれど…。
「お前、色々な本を読んでたからなあ、そのせいじゃないか?」
 人間が地球しか知らなかった頃から、テントウムシは幸運の虫なんだから。ずっと昔からな。
「そうなのかも…。本で読んだのかも…」
 でも、と心に引っ掛かる記憶。テントウムシと、テントウムシが運ぶ幸運と。
 それにシャングリラ、白い鯨までが絡む記憶だという気がするから、尋ねてみた。
 「ねえ」と鳶色の瞳を見詰めて。
「…テントウムシ、シャングリラで飼っていたかな?」
 白い鯨に改造した後、あの船の中で…?
「おいおい、まさか…。シャングリラの中でテントウムシって…」
 害虫を退治してくれるんだから、役に立たない虫ではないが…。
 その害虫がいなかった船だぞ、シャングリラは。害虫がいなけりゃ、役に立つも何も…。
 飼っている意味が無いわけなんだし、テントウムシなんかはいなかったな。
「だよねえ…?」
 虫って言ったら、ミツバチだけの船だったよね?
 蝶だって飛んでいなかったんだし、テントウムシがいるわけないよね…。



 理屈では分かっているのだけれども、やはり引っ掛かるテントウムシ。
 白いシャングリラに、テントウムシはいなかったのに。ハーレイもそう言っているのに。
 もしもテントウムシがいたとしたなら…。
「テントウムシ…。前のぼくが、くっつけて帰るなんてことは…」
 外に出た時、服にくっつけて帰って来たりはしないよね?
 アルテメシアには何度も降りたけれども、虫と一緒に船に帰ってしまうようなことは…。
「無いな、お前はきちんと気を付けてたしな」
 余計な虫が紛れ込んだら、生態系ってヤツが乱れるし…。生態系って呼べるほどには、ご立派なモンじゃなかったが…。
 それでも木や草や花や、野菜なんかを育ててたわけで、虫一匹でも馬鹿には出来ん。
 前のお前は船に戻る前に、サイオンで全部追い払ってだな…。
 待て、それだ!
 くっついて来たんだ、とハーレイが言うから見開いた瞳。
「…くっついて来たって…。前のぼくに?」
「ああ、救出の下見に出掛けた時に」
 テントウムシを連れて来たんだ、くっつけたままで戻ったぞ、お前。
「ええっ!?」
 それって、とっても大変じゃない!
 害虫じゃなくても、シャングリラに虫を持ち込んだなんて…!



 まさか、と息を飲んだけれども。前の自分がミスをする筈が無い、と考えたけれど。
(…テントウムシ…?)
 マントの下から、コロンとそれを落とした記憶。テーブルの上に。
 本当だった、と思った途端に、鮮やかに蘇ったテントウムシを巡る出来事。ミュウの子供を救出するべく、下見に出掛けたアルテメシアの住宅街。
「思い出したよ、ヤエの時だっけ…!」
 ヤエの救出をどうしようか、ってヒルマンたちと相談していた時だよ。
「勘が鋭い子だったからなあ、ヤエって子は」
 どのタイミングで救い出すかで、救助班のヤツらも悩んでいたんだ。それで俺たちに話が来た。普段だったら、立てた作戦の計画をチェックするんだが…。
 ヤエの時には、「どうしましょうか」と、計画自体を訊いて来やがった。
 まだ当分は大丈夫そうだし、急がなくてもいいだろうか、と。それとも急いだ方がいいのか。
 どっちなんだ、ってことになったら、経験豊富な年配者たちの出番だってな、そういった時は。
 あいつらが悩んでいたのも分かる、とハーレイがついた大きな溜息。
 幼かったヤエは、自分で上手くやっていたから。
 他の人間には無いらしい力、サイオンを隠して、ごくごく普通の子供のふり。
 けれど、いずれはバレるもの。
 どんなに上手く隠していたって、成人検査はパス出来ない。
 何かのはずみに心理検査を受けさせられても、やっぱりバレてしまうだろう。ミュウなのだと。
 ヤエは失敗していなくても、他の子供の派手な喧嘩に巻き込まれたなら、有り得る検査。
 感情の激しい子供はミュウの疑いがあるとされているから、検査する。そのついでにヤエも、と連れて行かれたら誤魔化せない。小さな子供の力では、とても。



 人類の世界で暮らす以上は、常にリスクが伴うもの。危機がいつ来るかは分からないもの。
 長老たちが集まる会議で焦点になったのも、その部分。
 ヤエは幸せに暮らしているから、今の幸せを見守るべきか。それとも船に連れて来るべきか。
「お前、早めがいいと思う、と言い出して…」
 しかし、ヤエの気持ちも尊重したいし、どうするか考え込んでしまって…。
 養父母と一緒に暮らせる幸せ、シャングリラに来たら消えちまうからな。二度と会えなくなってしまうし、家に帰れもしないんだから。
「…それで見に行って来たんだっけね…」
 船から思念で見ているだけでは、分からないことも多いから…。
 ホントに幸せに過ごしているなら、ギリギリまで待つのがヤエのためだし…。
 どんな家だか、見て来よう、って。思念体じゃなくて、身体ごとね。
 だって、その方が色々なことが掴めるもの。



 そう考えたから、ヤエの家まで出掛けて行った。白いシャングリラから地上に降りて。
 気配を隠して庭にいたのに、姿は見えない筈だったのに…。
(ヤエが窓からヒョイと覗いて…)
 まだ小さいのに、眼鏡だったヤエ。
 その眼鏡を外して、またかけ直して、窓越しにこちらを見詰めて来た。真っ直ぐ、見えない筈の自分を。「あそこにいる」と気付いた顔で。
 ヤエの視線は逸れなかったから、「まずい」と慌てて撤収した。
 見詰めているヤエは、サイオンの瞳で見ていることに気付かない可能性も高いから。
 庭を指差して「誰かいるの」と親に告げたら、ヤエの努力が台無しだから。
(…ミュウを見たこと、無いんだものね…)
 姿を消すような力を持つとは、ヤエは知らないし、気付くかどうか。気付けば黙っているだろうけれど、幼いだけに「ホントにいるの」と言い張ることもありそうなこと。
 けれど自分が消えてしまったら、「あれも変なもの」と分かる筈。
 養父母に「見た」と言いはしないで、心に仕舞っておくだろう。サイオンを隠しているように。



 急いで帰ったシャングリラ。空も飛ばずに、瞬間移動で。
 ヤエの家から青の間に飛んで、忘れていた虫を追い払うこと。船に入る前にサイオンで、軽く。
 そして招集した長老たち。ヤエの救出は急ぐべきだ、と。
「まだ心配は要らんじゃろうが」
 利口な子じゃと聞いておるわい、緊急性は無さそうじゃが…?
 もう少しばかり、親元に置いてやってもじゃな、とゼルが引っ張った髭。
 シャングリラに来た子供たちは皆、引き離された親を恋しがるから。…ユニバーサルに通報した人間が親だった時も、そうとは知らずに。
「でも、ぼくがいるのに気が付いたんだ」
 姿を隠して庭にいたから、普通のミュウなら気付かないのに…。
 あの子は思った以上に敏いよ、それだけ危険が高いってことだ。サイオンがかなり目覚めてる。何かあったら、直ぐに爆発しかねないほどに。
「気付いたのかい、あんたの姿に。それはマズイかもしれないねえ…」
 急ぎで救出させようか、とブラウが言った時、テーブルの上にコロンと落ちたテントウムシ。
 マントの下に入っていたのか、胸元から。
 赤い背中に黒い星が七つ、丸くて小さなテントウムシ。船にはいない筈の虫。



 ヤエの話は途切れてしまって、皆の瞳が釘付けになった。テーブルの上のテントウムシに。
「なんだい、それは?」
 ブラウが訊くから、バツが悪くて口ごもりながら。
「…テントウムシ…かな?」
 ぼくが持ち込んでしまったみたいだ、ヤエの家から。…庭にいた間にくっついたらしい。
「よほど慌てておったんじゃろう。普段はきちんと見ておるからな」
 妙な虫を船に持ち込まないよう、戻る時には。
 サイオンで追い払うのを忘れたんじゃな、とゼルも見ているテントウムシ。
「ごめん…。ぼくとしたことが、ウッカリしていた」
 直ぐに出すよ、とテントウムシを手に取りかけたら、「急がなくても」とヒルマンの声。それは幸運の虫なのだから、と。
「テントウムシがくっついて来ると、幸運が来ると言うのだよ」
 そう言うそうだよ、ずっと昔から。…人間が地球だけで暮らしていた遠い昔からね。
「ええ、聖母マリアのお使いですから、テントウムシは」
 幸せを運ぶそうですよ、とエラも頷いたテントウムシ。幸運を連れて来たのでしょう、と。
「それでは、ソルジャーに幸運が?」
 来るのでしょうか、とハーレイが興味深そうにテントウムシを眺めたけれど。
「どうなんだかねえ、幸運を貰うのはヤエじゃないのかい?」
 今までにこんな事件は一度も無かったからね、とブラウが指でチョンとつついたテントウムシ。
 あの子は強運なんじゃないかと、この船で幸せを掴むんだろう、と。
「そうだね、ヤエの方がいい」
 ぼくなんかよりも、ヤエが幸運を貰うべきだろう。ヤエの人生は、これからだから。



 ミュウの未来を担う子供には幸運があった方がいい、と指先で触れたテントウムシ。七つの星を背負った背中。この虫は後で、ヤエの家の庭に返しておこう、と。
「それで、救出はいつにするんじゃ?」
 わしらが計画を立ててやらんと、救助班のヤツらも困るじゃろう。「急げ」だけでは。
 具体的な案というヤツをじゃな…、とゼルが元へと戻した話題。テントウムシから。
「タイミングを見るのが大切だろう。でも、出来るだけ早い方がいい」
 期間は短くしたいけれども、どのくらい…、と皆に意見を求めた自分。
 直ぐにでも救助に向かえるけれども、ヤエの家での暮らしも守ってやりたいし、と。
 そうしたら…。
「一週間でいいと思うよ、テントウムシのお告げだからね」
 七日後がいいと思うんだがね、とヒルマンが不思議なことを言うから。
「お告げって…?」
 テントウムシは喋っていないと思うけど…。いったい何がお告げなんだい?
「この背中だよ。黒い星が七つあるだろう?」
 聖母の七つの喜びと七つの悲しみ、それを表しているんだそうだ。テントウムシの七つの星は。
 星が七つだから、一週間といった所だろうと考えたわけで…。
 一週間後なら、長すぎもしないし、短すぎもしない。救助班の準備も充分出来るだろう。
 ミュウと発覚してからの救助と違って、ヤエを連れて来るというだけだから…。
 きっとそのタイミングで上手く運ぶさ、と穏やかな笑顔だったヒルマン。
 「それは予知かい?」と前の自分も、ゼルやブラウたちも、テントウムシを見て笑ったけれど。背中の七つの星を数えて、一週間後と決まった救出。
 今から直ぐに準備を始めて、一週間後にヤエを船に迎える。万一の場合は、もっと早くに。



 前の自分がくっつけて戻ったテントウムシ。それが会議の行方を決めた。ヤエをシャングリラに迎え入れる日は、一週間後にすべきだと。背中に背負った黒い星の数で。
 会議が終わった後にヒルマンとエラから聞いた話では、赤い背中も聖母の色。聖母マリアが纏うローブに使われる赤。青いマントに赤いローブの聖母の絵画が多いという。
 赤は聖なる愛、青は真実を示す色。聖母の衣の赤を纏ったテントウムシ。「聖母のカブトムシ」とか、「聖母の鳥」とか、様々な名を持つ聖母の使い。
 それが幸運を運ぶと言うなら、幸せを連れて来るのなら…。
(助けに行くまで、ヤエを頼むよ)
 あの子をよろしく、と瞬間移動で帰してやったテントウムシ。
 ヤエの家の庭に、ヤエが自分を見付けた辺りに。



 救出までに一週間。一刻を争うわけではないから、充分にあった準備期間。
 救助班の者たちは計画を練って、シャングリラではヤエを迎える部屋の用意が始まった。どんな部屋や家具を好みそうな子か、揃えておいてやるべき物は…、と。
 そうする間も、人類の世界では何も起こらず、ヤエはミュウだと知られないままで…。
「ホントに丁度七日目だっけね、ヤエの救出」
 ヒルマンが言ったテントウムシのお告げ通りに、一週間後。
 どうやってヤエを説得するのか、救助班の仲間は色々考えて行ったのに…。
 お菓子に釣られてついて来そうな子供じゃないから、シナリオ、山ほど考えてたのに…。
「すっかり無駄になっちまったなあ、あいつらの努力」
 自分の方から、スタスタ近付いて行ったんだから。人類のふりをしていた救助班のヤツに。
 遊びに行ってた友達の家から、帰る途中のことだったっけな。
「うん…。ぼくも船から見てたけれども、ビックリしちゃった」
 チラッとそっちの方を見たな、と思ったら近付いて行くんだもの。「こんにちは」って。
 知り合いの人に会ったみたいに、ニコニコして。
 ホントにビックリ、と今でも思い出せる光景。幼かったヤエの救出の時。
 庭に隠れていた自分に気付いたくらいに、目覚め始めていたサイオン。それにヤエの資質。
 勘の鋭い子供だったから、一目見ただけで仲間を見分けた。「同じ種類の人間だ」と。
 そして思念波で投げ掛けた問い。「迎えに来たの?」と。



 面食らったのは、救助に向かった仲間の方。
 まるでシナリオには無かったのだから、「あ、うん…。まあ…」と思念を返すのが精一杯。
 けれどもヤエは途惑いもせずに、思念を紡いで無邪気に訊いた。「何処へ行くの?」と。
 「シャングリラだ」と貰った答え。同じ仲間が集まる船だと、雲の中にあると。
 コクリと大きく頷いたヤエ。「一緒に行く」と、救助班の仲間の手をキュッと握って。
 後は大人と子供の散歩。誰も怪しまない、微笑ましいだけの大人と子供。
 ヤエはそのまま家には帰らず、隠してあった小型艇に乗って、白いシャングリラにやって来た。好奇心に瞳を輝かせながら、空の旅を充分に満喫して。
 そんなケースはヤエの時だけ。
 自分から声を掛けた子供も、自分から「行く」と言い出した子も。



 船に着いても、皆を質問攻めにしたヤエ。格納庫で迎えたハーレイや長老たちはもちろん、他の仲間も片っ端から。
 「この船は何処へ行く船なの?」とか、「どうして私たちは他のみんなと違うの?」だとか。
 船の設備にも興味津々、隅から隅まで見て回った。子供でも入れる所は全部。機関部にも入ってみたがったけれど、「危険だから」と諭されて渋々、小さな覗き窓から覗いた。
 ヤエの噂はアッと言う間に船に広がり、何処に行っても歓迎された。「何を見て行く?」と。
 長老たちが集まるお茶の席でも、自然と話題になるのはヤエで。
「流石はテントウムシの子だよ、ヤエはね」
 将来はきっと大物になるに違いないよ、とブラウも高く買っていた。いずれブリッジに来そうな気がする、と。「でも、それだけでは終わらないね」とも。
「シャングリラの役に立ってくれそうじゃな」
 女の子じゃが、仕込めば機械にも強くなれると思うんじゃ。こう、今からじゃな…。
 英才教育をしてみたいんじゃが、とゼルも惚れ込んだヤエの才能。「あの子は伸びる」と。
「そうだね、ヤエは幸運の子だしね」
 テントウムシの、と前の自分が浮かべた笑み。
 「この船で幸せになって欲しいよ」と、「ヤエが自分で選んだ道なんだから」と。
 他の子供たちとは違ったヤエ。
 追われて仕方なく来たのではなくて、家も両親も捨てて、白いシャングリラを取ったのだから。
 此処に来ようと、このシャングリラで生きてゆこうと。



 前の自分は「幸せになって欲しい」と、ヤエの幸福を願ったけれど。
 テントウムシが運ぶ幸運、それを持つのがヤエだったけれど…。
「ハーレイ、ヤエって確か…」
 前のぼくが死んじゃった後で、トォニィとアルテラが仲良く喧嘩してるのを聞いて…。
 泣いちゃってたって言ってなかった?
 格納庫でトォニィの船の調整をしていた時に。
「アレなあ…。若さを保って八十二年っていうヤツだろ?」
 青春してるな、と羨ましがって泣いていたのを、聞いちまったんだよな、前の俺がな…。
 お前を失くしちまった後の、俺の数少ない笑いの一つだったな、あの時のヤエは。
 「いったい何がいけなかったの」と悔しがっていたが、本当に何が駄目だったんだか…。
 八十二年も若さを保って頑張るからには、片想いのヤツでも心にいたか…。
 それとも全くアテも無いのに、恋に恋する乙女だったか。
 まさか訊きにも行けないからなあ、あれっきりになってしまったが…。
 どうなったんだか、ヤエの女心というヤツは。
 恋の方では、幸運、掴めていなかったよなあ、あの時点では…。
「そうだよねえ?」
 好きな人をちゃんと捕まえていたら、そんな所で泣かないし…。
 コッソリ聞いちゃったハーレイが笑うことだって無くて、ヤエは幸せ一杯だもんね?



 ゼルとブラウが読んだ通りに、立派に育ったテントウムシの子。強運のヤエ。
 分析担当のブリッジクルーとして、エンジニアとして、ヤエは優秀だったのだけれど。
 本当に強運の子だったけれども、幸運は手に入ったろうか?
 一人の女性として夢を描いていただろう幸福、愛する人と一緒に暮らす幸せは。
「…どうなんだろうね、ヤエ…。ちゃんと幸せになれたと思う?」
 テントウムシに貰った幸運、シャングリラだけで使い果たしていないよね?
 ブリッジクルーで、エンジニアで…。とても凄いけど、それだけで幸運、無くなっちゃった?
 ヤエの恋が実る分の幸運、少しも残っていなかったとか…?
「生憎と俺も死んじまったから、あの後は知らん」
 幸せな結婚が出来たのかどうか、最後まで独身のままだったのか。
 そうは言っても、ヤエだからなあ、記録を調べりゃ分かるんだろうが…。
 あれほどの人材はそうはいないし、トォニィとキャプテン・シドの時代も船を支えていた筈だ。
 シャングリラが役目を終えた後にも、引く手あまただったとは思うんだが…。
 そいつはヤエの腕が目当てでだ、求婚者が列を成すってわけではないからなあ…。
「ヤエの記録は、確かに残っていそうだよね…」
 重要人物ってほどではなくても、記録を残して貰えるだけの功績は積んでいるんだし…。
 キースがコルディッツでミュウを人質に取った時にも、ヤエのお蔭で救出できたんだから。
 ゼルの船にステルス・デバイスを搭載しておいたのって、ヤエなんだものね。
 きっと記録は残っているよね、ヤエがシャングリラを離れた後も。



 白いシャングリラが無くなった後に、強運のヤエは何処へ行ったのか。
 とうに結婚相手を見付けて、その人と一緒に旅立ったのか、旅立った先で恋をしたのか。
 記録は何処かにあるだろうけれど、調べれば答えは出るだろうけれど。
「…調べない方がいいのかな?」
 ヤエは幸せを捕まえたのか、羨ましがるだけになっちゃったのか。
 もしもテントウムシがくれた幸運、シャングリラで使い果たしていたら…。
 なんだか凄く申し訳ないし、ヤエだって知られたくないと思うし…。
「そうだな、恋は最後まで手に入らなかったかもしれないからなあ…」
 才能の方では引く手あまたでも、「天は二物を与えず」と言うし。
 もっとも、お前は幾つも持っているようだが…。
 前のお前も今のお前も、優秀な頭も、恋も、とびきり綺麗で誰もが見惚れる姿も持ってる。
 今のお前はまだまだチビだが、いずれ美人に育つんだから。
 しかしだ、ヤエは美人と言うには…。どちらかと言えば可愛らしい方で、愛嬌だしな?
 誰もが恋をしたがるタイプの女性とは少し違っているよな、人を選ぶというヤツだ。
「うーん…」
 人を選ぶって言葉は、そういう時に使うんだっけ?
 だけど、ヤエの魅力も、分かる人には分かる筈だと思うんだけど…。
 とっても頭が良くて賢くて、おまけに可愛らしいんだから。
 八十二年も放っておかれたみたいだけれども、それって、ヤエが間違えていない?
 とっくに恋人がいるような人を好きになっても、駄目なんだもの。
 前のぼくとか、ハーレイとかをね。
「…前の俺だと!?」
 それは考えてもみなかった…。前のお前の方ならともかく、前の俺ってか?
 もしもそうなら、選択ミスだな。俺にはお前がいたんだから。
 前のお前に惚れてたにしても、結果は同じなんだがな…。



 恋人がいる人に恋をしたって、恋は決して実りはしない。
 横取りしようとしても出来ない、横から奪えるような恋なら、それは本物の恋とは違う。
 たまにはそういう恋もあるけれど、奪い取った恋が本物のこともあるのだけれど。
「…ヤエって、間違えちゃっていたかな…?」
 前のぼくを好きでもハーレイがいたとか、ハーレイを好きでも、ぼくがいたとか。
 ぼくの方ならフィシスがいたから、諦めだってつきそうだけれど…。
 ハーレイだったら誰もいないし、そう思い込んで好きだったかもね?
 いつか振り向いてくれるといいな、って思い続けて、八十二年も頑張ったのかも…。
「…俺じゃなかったと思いたいんだが…」
 ゼルとかヒルマンとか、他にもいるだろ、恋人のいない渋い男なら。
 しかし、前の俺だったという可能性だって否定は出来んか…。
 薔薇の花もジャムも似合わないから、モテるわけがないと思っていたが…。
 蓼食う虫も好き好きなんだし、ヤエの好みのタイプだったってことも有り得るな、うん。
「…ぼくも悪趣味だって言うわけ?」
 前のハーレイが好きだったんだよ、今のハーレイも大好きだけど。
 ぼくの趣味まで変に聞こえるから、蓼食う虫も好き好きっていうのは言い直してよ!
「すまん、すまん」
 お前の趣味は悪くない。…ちょっと変わっているってだけでだ、悪趣味とは少し違うよな。
「それ、言い直せていないから!」
 もっと上手に言えないの?
 ハーレイ、古典の先生なんだし、言葉も沢山知っているのに…。
 そんな調子だから、前のハーレイだって気付かなかったかもしれないよ?
 ヤエが「好きです」って打ち明けてるのに、「そりゃ光栄だな」って笑って終わりだったとか。
 絶対そうだよ、ヤエが好きだったの、前のハーレイだったんだよ…!
 八十二年も若さを保って頑張ってたのは、振り向いて貰うためだったんだよ…!



 きっとそうだよ、とハーレイを軽く睨んでおいた。「鈍いんだから」と。
 ヤエが本当にハーレイに恋をしたかはともかく、「蓼食う虫も好き好き」などと言われたから。今の自分も前の自分も、悪趣味なのだと決め付けたのがハーレイだから。
(…ヤエに「すまん」って何度も謝るといいよ、心の中で…!)
 全部ハーレイが悪いんだから、と苛めてやった鈍い恋人。自分を悪趣味だと言った恋人。
 ヤエもハーレイが好きだったろうか、今となっては分からないけれど。
 ハーレイが気付いていなかっただけで、ヤエはハーレイを見ていたろうか…?
 そうだったとしても、強運のヤエは、幸せだったと思いたい。
 欲しかった恋が手に入らなくても、テントウムシの子だったから。幸運の子供だったから。
(…きっと幸せだったよね…?)
 シャングリラが地球を離れた後も。
 いつも見詰めていたかもしれない、前のハーレイがいなくなっても。
 テントウムシに貰った幸運を背負って、何処かの星で。
 もしかしたら恋まで手に入れてしまって、それは幸せな人生を。
 テントウムシは幸運を運ぶ虫だから。
 ヤエは幸運のテントウムシの子、背中に七つの星を背負ったテントウムシと一緒だったから。
 白いシャングリラにたった一度だけ、姿を見せたテントウムシ。
 それが運んだ幸運はきっと、ヤエのためだけにあったのだから…。



 幸せだっただろうヤエ。恋は出来なくても、何処かの星で。
 恋を手に入れたら、もっと幸せだったろう。一緒に生きる人を見付けて、いつまでも、きっと。
 子供だって生まれていたかもしれない、今の時代は当たり前の自然出産児。
 ヤエが母親になっていたなら、きっと、幸せな子供が育っただろう。
(お母さんになっても、ヤエなら完璧…)
 子育ても、料理も、全部楽々とこなしていって。子供と沢山遊んでやって、愛を注いで。
 そういう姿が見える気がする、小さなテントウムシの向こうに。
 今の自分にくっついて来た、赤い背中の丸っこい虫に。
「ハーレイ、このテントウムシ…」
 ぼくにくっついて来ちゃったけれども、やっぱり放してあげなくっちゃね?
 ママは「家の中で冬越しするのよ」って言っていたけど、まだ冬越しには早いから…。
「その方がいいな、暖かい間は、外でのんびりしたいだろうしな」
 こいつの幸運、お前が貰っておくんだろ?
 今度もお前にくっついて来たが、前のはヤエに譲っちまったし…。
「あれは最初から、ヤエのだったと思うけど…」
 このテントウムシは、ぼくにくっついて部屋まで来たし…。
 テントウムシの幸運を譲りたい人もいないしね。…ハーレイの他には。
 ハーレイにはちょっぴり譲りたい気分。
 さっきは苛めてしまったけれども、ハーレイと幸せになりたいんだもの。
「なるほどな…。俺には譲ってくれるんだな」
 だったら、二人で分けることにするか。
 こいつが運んでくれる幸運、お前と俺とで半分ずつだ。
 それでいいだろ、それなら一緒に幸せになれる。今でも充分幸せなんだが、もっと、ずっとな。



 テントウムシに幸せを貰うとするか、とハーレイがパチンと瞑った片目。
 こいつの幸運は半分ずつだ、と。
「俺が半分、お前が半分。…上手い具合に、テントウムシの背中、半分ずつになってるし…」
 翅を広げりゃ、丁度半分に分かれるってな。真ん中から。
「ホントだね…! なんだか相合傘みたい」
 名前を書きたい気分だけれども、そしたら背中の星が見えなくなっちゃうし…。
 じゃあ、ぼくが、こっち。こっちの半分が、ぼくの幸せ。
「よしきた、俺がこっち側だな」
 それじゃ窓から放してやるか。こいつは指先から飛んで行くから…。
 幸せが多めに来るよう、お前の指に止まらせてやれ。そう、そんな風に。
 俺がこうして手を添えておくから、そうすりゃ二人で放せるだろう?
 ほらな、とハーレイが導いてくれた手。右手の人差し指の先っぽ、テントウムシを止まらせて。
 そして二人で窓を開けたら、空に飛び立ったテントウムシ。
(ちゃんと飛んだよ…)
 ぼくとハーレイの手から飛んだよ、と見えなくなるまで見送った。
 ハーレイと二人、手を握り合って。
 空に放ったテントウムシが、幸せに飛んでゆくように。
 自分たちにも、幸運がやって来るように。
 白いシャングリラに紛れ込んでいた、一度だけ来たテントウムシ。
 あのテントウムシはヤエのものだったけれど、今度は自分のものだから。
 チビの自分にくっついて来た、幸運を運ぶテントウムシ。
 ハーレイと幸運を分け合ってもいい、二人だけのための小さなテントウムシなのだから…。




             テントウムシ・了


※前のブルーが、たった一度だけ、シャングリラに持ち込んでしまった虫が、テントウムシ。
 幸せを運ぶという虫の幸運は、ヤエが貰ったらしいです。最後まで、幸せに暮らした筈。
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