シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(今日は、出汁巻きにしてみるかな)
美味いからな、とハーレイが作り始めた出汁巻き卵。ブルーの家には寄れなかった日に、一人で食べる夕食のために。他にも料理は作るけれども、何故か食べたくなった出汁巻き。
(ふわりとしているトコがいいんだ)
出汁をたっぷり含んでいるから、卵焼きより柔らかい食感。厚みがあっても、卵焼きほど重くはならない口当たり。ただ、出汁で卵を緩めるのだから…。
(巻き方がちょいと難しいってな)
薄く焼いて幾重にも巻いていくのは難しい。出汁を含んだ分、火を通しても破れやすいから。
もっとも、出汁巻きを何度となく作った、自分にとっては容易いこと。破れないようにクルクル巻いてゆくのも、火を通してゆく加減の方も。
隣町に住む母の直伝、子供の頃から教わったから。他の色々な料理と一緒に。
(上手く焼けると嬉しかったんだ…)
まだ下手だった子供の頃は。今日は一度も破れずに焼けたとか、綺麗な形に巻けたとか。
ふわふわの出汁巻きを同じ厚みの層を重ねて焼き上げるには、やっぱりコツが要るものだから。
今の自分は、鼻歌交じりにヒョイヒョイと巻いてゆけるけど。
卵焼き専用の卵焼き器を熱して、フライパンよろしく気軽に作ってゆけるのだけれど。
いい感じだな、と出汁で溶いた卵を流し入れては、薄い層を焼き上げて巻いてゆく内に…。
おや、と頭を掠めたこと。出汁巻きだな、と。
残りの卵は丁度一回分、これを流したら出来上がり。薄く焼いて巻いて、ポンと皿に移して。
(…出汁巻きか…)
此処の料理だな、と眺めたそれ。ホカホカと湯気を立てているそれは、日本の料理。遠く遥かな昔の島国、其処で生まれた料理が出汁巻き。卵焼きだって。
今の自分が暮らす地域は、日本の文化を復活させて楽しんでいる。和食と呼ばれた食文化も。
生まれた時から馴染んでいたから、すっかり慣れていたけれど。出汁巻き卵も、卵焼きの方も、ごく平凡な料理だけれど…。
(シャングリラには無かった料理なんだ…)
今の今まで気付かなかった、と改めて見詰めた出汁巻き卵。他の料理は出来上がっているから、これを食べやすい大きさに切れば夕食という運び。
(ただの出汁巻きに過ぎないんだが…)
今夜の主役はこいつらしい、と皿を選び直すことにした。焼き上がりを載せたシンプルな皿は、食卓の主役に似合わないから。
もっと素敵な皿に載せよう、切り分けて綺麗に盛り付けて。
(和食の店で出て来る時には、うんと偉そうな顔だしな?)
立派な皿にチョンと二切れほど載っているんだ、と極上の出汁巻きを思い出す。そういう具合に盛ってやろうと、いい取り皿も出してやらねばと。
夕食のテーブルの真ん中に出汁巻き。出汁をたっぷり含んだ卵の淡い黄色が映える皿に載せて。
主役はこいつだ、と決めた以上は、こうしてやるのが相応しい。他の料理は全部脇役、出汁巻き卵の引き立て役。いい焼き色がついた魚も、美味しく出来た野菜の煮物も。
(気付いちまった以上は、ちゃんと敬意を払わんと…)
出汁巻きといえども、今の時代の代表の一つ。前の自分は知らない料理、と取り皿に一つ載せて眺めてみた。それから齧って、断面をしっかり観察してみて…。
(こう、何層も巻いてあってだな…)
だが材料は卵なんだ、と頬張った。たっぷりの出汁で溶いた卵がメインで、調味料が少し。
それだけの料理に過ぎないけれども、前の自分は作っていない。ただの一度も。
シャングリラのキャプテンに就任する前、厨房で料理をしていた時代。あそこで卵が手に入った時は、色々な料理を作ったけれど。
(卵焼きはなあ…)
思い付きさえしなかった。卵をクルクル巻いて重ねてゆく料理。
出汁巻きの方は、出汁の文化が無かった時代だったし、仕方ないとも言えるけれども、卵焼きの方なら作れた筈。醤油は無くても、さほど重要ではない筈だから。…シャングリラならば。
(調味料が無いってことは何度も…)
あの船の初期なら、何度でもあった。此処はバターで、と思ってもバターが無かったことなど、さして珍しくもなかった船。
砂糖の残りが少ないから、と使わなかったり、塩さえも控えて作っていたり。
皆も文句は言わなかったし、醤油が入らない卵焼きでも、多分、充分だったろう。今日の料理はコレだ、と作って出しておいたら。
そういったことを考えながら、口に運んだ出汁巻き卵。取り皿に取った二切れ目。
(美味いんだがなあ…)
出汁巻きは特に、と納得の味の柔らかく出来た卵焼き。出汁でふんわりしている食感、幾重にも巻かれた薄く薄く焼けている卵。
これをシャングリラで作っていたなら…。
(人気メニューになっていたのか?)
出汁という文化が消されていたから出汁巻きは無理でも、卵焼きなら作れただろう。今の時代と違う味でも、醤油は入っていなくても。
(四角く焼くのも無理だとしても…)
専用の卵焼き器が無いから、こんな風には焼けそうにない。これがそうだ、という卵焼きは。
フライパンを使って焼いてゆくなら、四角い卵焼きにはならない。クレープもどきか、オムレツもどきといった風情になるだろうけれど…。
(卵焼きなら、バリエーション豊かで…)
そのまま作っても美味しいものだし、色々な物を入れて巻くことも出来る。今なら海苔だとか、明太子だとか、和食の食材が多いけれども…。
(ホウレンソウだって、入れられるしな?)
卵焼きの層を重ねてゆく時、間に入れればホウレンソウ入りの卵焼き。
それとは違って、真ん中に何かを入れて焼くのも卵焼きの定番。アナゴを入れた穴子巻きなら、卵焼き専門の店に行ったら、何処でもあるというくらいだから。
きっとシャングリラでも作れたんだ、と出汁巻き卵のお蔭で気付いた。ふうわりとした出汁巻き卵は無理でも、卵焼きの方なら作れたのに、と。
卵を溶いて薄く焼いては、クルクルと巻いて。真ん中に何かを入れてやったり、卵の層を巻いてゆく時に、間に何かを挟んでいったり。
(…思い付かなかった俺が馬鹿だった…)
シャングリラの厨房にいた頃の自分。
あれこれと試作していたけれども、まだまだ工夫が足りなかったな、と痛感させられた卵焼き。食べているのは出汁巻きだけれど、卵焼きも出汁巻きも似たようなもの。どちらも卵料理だから。
これはブルーにも話さなければ、と味わう今日の主役の出汁巻き。
シャングリラには無かった卵料理で、けれど作れた筈のもの。思い付いていれば。
(あいつ、無かったことさえ気付いちゃいないぞ)
俺と同じで、と思い浮かべた恋人の顔。
ブルーの家でも、卵焼きなら何度も食べたことがあるから。出汁巻きだって。
けれど話題にならなかったから、ブルーも全く気付いてはいない。「今の料理だ」と。
(…買って行くとするかな)
出汁巻き卵、と考えた。
手料理を持ってゆくのは駄目だし、近所の店で。
幸い、明日は土曜日だから。午前中からブルーの家へと出掛けてゆくのが習慣だから。
翌朝になっても、忘れずにいた卵焼き。シャングリラには無かった料理。
今日の話題は卵焼きなんだ、と歩いて出掛けたブルーの家。途中で卵の専門店に寄って、評判の出汁巻き卵を買った。「これを一つ」と、ふんわりと焼けた一本を。
それの袋を提げて行ったから、ブルーの部屋へと案内されたら、飛んで来た質問。
「お土産は?」
ハーレイ、何か持って来たでしょ、ママに袋を渡していたよ。
だけど、お菓子はママが作ったケーキだし…。ハーレイのお土産、何処に行ったの?
「まあ、待て。ちゃんとお前用の土産だから」
お母さんたちにどうぞ、と渡したわけじゃないから、その内、出て来る。
「お昼御飯なの?」
今日のお昼に食べられる何か。…お好み焼きとか、たまに買って来てくれるものね。
「ちょっとしたおかずだ、それだけで腹は膨れないぞ」
いくらお前が少ししか食わないチビでもな。
お母さんの料理もついて来るだろうさ、俺が買って来た土産だけでは足りないから。
小さなブルーが「何かな、お土産…」と心待ちにしていた昼御飯。ブルーの母の料理とは別に、皿に盛られた出汁巻き卵。「ハーレイ先生が持って来て下さったのよ」という言葉も添えて。
ブルーの母が扉を閉めて去って行ったら、ブルーは出汁巻き卵を指差して。
「これ、ハーレイのお勧めなの?」
此処のお店のが美味しいだとか、いつも行列が出来てるだとか。
「行列は出来ちゃいないんだが…。人気の店だぞ」
卵の専門店だからなあ、使っている卵が美味いんだ。もうそれだけで美味くなるってな。
「そっか、卵の味でも変わるもんね!」
どんな味かな、とブルーがヒョイと取り皿に一切れ、載せているから。
「俺がわざわざ買って来たのに、気が付かないか…」
やっぱりな。…俺でも気付かなかったんだし。
「気が付かないって…。何に?」
この出汁巻きは何かが違うの、他のお店のとは違った工夫をしてるとか…?
「そうじゃなくてだ、出汁巻きそのものが問題だってな」
当たり前すぎるんだ、出汁巻きは。…出汁巻きだけじゃない、卵焼きもな。
こいつはシャングリラにもあったのか、と尋ねてやったら、目を真ん丸にしたブルー。
「…無かった…」
出汁巻きも無かったし、卵焼きだって。…前のぼく、一度も見たことがないよ。
「ほらな、前のお前は知らないだろうが。俺だって知らん、元は厨房にいたのにな?」
昨日の夜にだ、食いたくなって作っていたら気が付いたんだ。これは無かった、と。
それでこいつを話題作りに買って来た。
家の近所で買えるくらいに、今じゃ当たり前に食ってるのになあ、出汁巻き卵…。卵焼きもだ。
「これって、ぼくたちが住んでる地域にしか無いの?」
前のぼくたちが知らないってことは、あの時代には無かった食べ物の一つだろうけど…。
この地域だけなの、他所には無いの?
「無いだろうなあ、元は日本の料理だからな」
出汁巻きもそうだし、卵焼きもそうだ。どっちも日本生まれの料理だ。
「そうなんだ…」
だったら、シャングリラにはあるわけがないね。日本の文化は消されていたし…。
出汁巻きに使う、お出汁だって何処にも無かったんだし。
「…出汁巻きの方は無理としてもだ、卵焼きがな…」
前の俺がこいつに気付いていれば、と思うんだ。卵を焼いては巻いていく料理。
「気付いていたら、どうなったの?」
「卵焼きそのものも美味い料理だが、あれは色々と使えるだろうが」
卵と一緒に巻いてあるだろ、海苔とか、真ん中にアナゴだとか。
シャングリラには海苔もアナゴも無かったわけだが、他にも巻けそうな物はあるしな。
「ホントだね…」
ホウレンソウとかも入れて巻くんだし、作れそうだよね、卵焼きなら。
「そういうこった。…前の俺がそいつに気付いていればな」
卵を焼いて巻くって料理。…それだけで色々と出来たんだがなあ、卵を使った料理がな。
前の自分が思い付いていたら、バリエーション豊かになっていたろう卵の料理。
きっとシャングリラでも喜ばれた筈で、人気があったと思うけれども。
「ただなあ…。朝飯には向かんな、卵焼きは」
白い鯨になってからでも、朝飯は駄目だ。卵は充分あったんだが。
「なんで?」
どうして駄目なの、朝御飯に卵焼きっていうのは珍しくないよ?
ぼくの家だと朝はパンだけど、御飯を食べてる友達だったら、朝御飯のおかずに卵焼き。
旅行に行っても、泊まったホテルに和食があったら、朝は卵焼きだって出て来るじゃない。
「それはそうだが、今の時代とシャングリラとでは事情が違うぞ」
個人の家とかホテルだったら、卵焼きを作っても全く困りはしないんだが…。大勢いるから。
卵焼きを一つ作ろうとしたら、そいつに卵は幾つ要るんだ?
一個じゃとても作れやしないし、シャングリラの決まりが狂っちまう。
朝飯の卵は一人に一個が基本だろうが、卵焼きを食いたいヤツらでグループを作るのか?
「今日は卵焼きでお願いします」って、焼いて貰って、それを分けるしか手が無いぞ。
立派な卵焼きを食いたかったら、その方法しか有り得ない。
厨房のヤツらの手間は増えるし、朝から食堂でグループ作りもしなきゃならんし…。
向かないだろうが、シャングリラには。朝っぱらから、そんな我儘。
「確かにね…」
ただでも朝には大忙しだし、全員が卵焼きなんだったら、出来たかもだけど…。
そうじゃないなら、難しいよね。卵焼きは手間もかかりそうだから。
前のぼくとハーレイが頼むというのも難しそう、と小さなブルーが竦めた肩。
朝食は二人で食べていたけれど、二人一緒に注文しないと立派な卵焼きは無理、と。
「…ハーレイはオムレツを食べているのに、ぼくだけ卵焼きだとか…」
ちょっと無理だよね、ぼくは卵は一個だったし…。
「そうなるな。俺の方なら、卵二個分だし、なんとか出来るが…」
立派な卵焼きは無理だな、この出汁巻きみたいに大きいのはな。
デカイ卵焼きが食いたかったら、前のお前を巻き込まないと…。今日の俺は卵焼きなんだ、と。
お前が嫌だと言ったら終わりで、俺はデカイのは食えないってな。
今の時代なら、一人で卵を三個なんだが…。そいつで出汁巻き卵なんだが。
現に昨夜も作ったわけだし、やっぱり三個は欲しいよな、卵。
「…卵三個で出汁巻き卵って…。一人暮らしで?」
そんなの作ってしまうわけ?
今のハーレイが食べてる朝のオムレツ、卵は二個だと思うんだけど…。
「気が向きゃ作るさ、美味いんだから」
晩飯にちょいと食いたくなったら、出汁をたっぷりで出汁巻きだ。余れば朝に食ってもいいし。
「余れば、って…。全部食べちゃったの?」
昨日の夜に、卵を三個も使った出汁巻き。…朝御飯に残しておかないで。
「当たり前だろうが、作ったからには食うってな」
そういう気分で作ってるんだし、他に料理を作っていたって、ペロリと食うのが普通だろうが。
「…シャングリラのことを思い出したんなら、持って来てくれれば良かったのに…」
全部食べないで、ぼくに一切れ。…お土産に少し。
「俺の手料理は駄目だと言ってる筈だが?」
お前のお母さんに申し訳ないから、持って来ないと何度も言ったぞ。だから土産に買ったんだ。
美味いだろうが、此処の出汁巻きは。
「うー…」
ハーレイが作ったヤツが食べたいのに…。ホントのホントに食べてみたいのに…!
卵焼きも出汁巻きも、ハーレイが作ったヤツは無理かあ、と残念そうなブルー。同じだったら、そっちの方が食べたかったのに、と。
「いくら美味しいお店のヤツでも、ハーレイが作った話を聞いちゃったら…」
そっちがいいな、と思っちゃうじゃない、ハーレイが作った出汁巻きの方が。
「まあいいじゃないか、これも話題にはなっただろうが」
買ったヤツでも、ちゃんとシャングリラの思い出話が出来たってな。
「…シャングリラには無かったっけ、っていう話だけどね…」
卵焼きも出汁巻きも無かった船だったんだ、って。
それは確かにそうなんだけど…。そういう話も悪くないけど…。
シャングリラの思い出の卵料理の話だったらもっと良かった、と零されても困る。今の時代なら色々な卵料理があるのだけれども、前の自分たちが生きた時代は、卵料理となったなら…。
「おいおい、卵料理はだな…」
今も昔も変わりはしないぞ、前の俺たちが食ってた料理に関しては。
スクランブルエッグにしても、オムレツにしても、今もそのままあるんだから。
「そうだね、目玉焼きもあったし…」
卵がメインの料理だったら、今の時代の方がよっぽど沢山。
「ほらな、考えてみれば分かるだろうが」
あの船ならではの卵料理ってヤツも、特に無かった筈なんだ。卵が充分に無かった時代は、卵がメインの料理なんかを作りはしないし…。
朝は卵だって時代になっても、卵料理は今も定番のヤツばかりでだな…。
…待てよ?
白い鯨になった後には、朝の食堂では卵料理で…。
ちょっと待てよ、と引っ掛かった記憶。朝の食堂と、卵料理と。
前の自分が見ていたもの。白いシャングリラになった時代に、朝の食堂で。
「…何かあったの?」
ハーレイ、何か変わった卵料理を思い出したの、シャングリラの?
「うむ。…目玉焼きだ」
朝に食堂に出掛けて行ったら、そいつを見たんだ。
「目玉焼きって…。普通じゃない」
前のぼくだって、何度も食べたよ。青の間のキッチンで作って貰って。
「そいつは普通の目玉焼きだろ、フライパンで卵を焼くだけの」
俺が見たのは、それじゃない。ひと捻りした目玉焼きだった。
「どんな目玉焼き?」
焼き方は色々あった筈だよ、目玉焼きだって。ベーコンエッグも目玉焼きだし。
「それが全く違うんだ。目玉焼きには違いないんだが…」
パンのド真ん中に目玉焼きだぞ、トーストの真ん中に入ってた。
「えっ…?」
それって、乗っけてあるんじゃなくって、入っているの?
トーストの真ん中に目玉焼きが?
「…その筈なんだが…。目玉焼きはパンの真ん中で…」
後から乗せたってヤツじゃなかった、本当にパンの真ん中にだな…。
まるで穴でも開いているようで、と記憶に残った目玉焼き。トーストの真ん中に卵が一個。
確かに見たんだ、と手繰った記憶。あれを食べていたのは誰だったろうか、と探り続けて…。
「そうだ、ヒルマンだ。…あいつが始めたんだった」
パンの真ん中に目玉焼き。…そういう食べ方をし始めたんだ。
「ヒルマン…?」
どうしてヒルマンが目玉焼きなの、それの変わった食べ方なの?
ヒルマンは厨房にいた時代なんか無かったよ、という指摘通りに、およそ料理とは無縁な人物。
ブルーはキョトンとしているけれども、思い出した前の自分の記憶。ヒルマンだった、と。
「あいつは厨房に行っちゃいないが、本当にヒルマンが始まりなんだ」
白い鯨が完成した後、前のお前が奪って来た鶏を増やしていって。
船で卵が充分に手に入るようになってだな…。
一人に一個は当たり前になって、朝の食堂では卵料理っていう時代が来たろ?
厨房のスタッフは毎朝大忙しで、卵料理の注文も色々。
オムレツがいいとか、スクランブルエッグだとか、目玉焼きだとか、次から次へと。
もっとも、お前は青の間で食事していたが…。
滅多に食堂に出ては来なくて、青の間で食うのが普通だったが。
「うん、ハーレイも来ていたけどね」
ソルジャーに朝の報告ってことで、ぼくと一緒に朝御飯。
厨房の係が運んで来てキッチンで仕上げをするから、前の晩から何を食べるか頼んでおいて。
「あれのお蔭で、お前と恋人同士になった後にも、俺は慌てずに済んだわけだが…」
急いで食堂に行かないと、と起きて走って出掛けなくても、ゆっくり朝飯を食べられたんだが。
その俺がある時、食堂で朝食っていうことになって、だ…。
まだお前とは恋人同士じゃなかった頃だな、俺の部屋から真っ直ぐ出掛けて行ったんだから。
食堂に出掛けて行った理由は、ブルーが寝込んでしまったから。
安静に、とノルディが診断したから、朝食は食堂で食べることになった。皆と一緒に。そういう朝食もいいだろう、と久しぶりの朝の食堂に入って行って…。
(顔見知りのヤツと一緒がいいよな、と思ったし…)
昼食などは、いつもそうだから。ゼルやブラウやヒルマンといった昔馴染みと同じテーブル。
だから朝食もそうしよう、と見回したらヒルマンの姿が見えた。あの席がいい、と注文する前に近付いたテーブル、其処でせっせとパンに穴を開けていたのがヒルマン。
まだ焼き色のついていないトースト用のパン、その真ん中に開けている穴。白い柔らかなパンを指で毟って、真ん丸な穴を。
なんとも奇妙なことをしているから、隣の椅子に腰を下ろしながら訊いてみた。
「何してるんだ?」
パンに穴なんかを開けたりして。…そうやって食べたら美味いのか?
毟ったパンは食ってるんだし、真ん中から食べると美味いだとか。
「ああ、これかね。これはだね…」
こうしておかないと作って貰えないものだから、とヒルマンが浮かべた苦笑い。
朝の食堂はスタッフも大忙しだから、と。
「作るって…。何を作って貰うんだ?」
「目玉焼きだよ、朝の食堂は卵料理だろう?」
それが食べたい気分なんだよ、だからこうして用意するんだ。
「何故、パンの真ん中に穴なんだ?」
目玉焼きなのに、どうしてパンに穴なんかを開ける必要がある?
「これが肝心の所でね…」
まだ焼いていないパンの真ん中、其処に穴を開けておかないと…。
目玉焼きはそれが大切だ。私の食べたい目玉焼きはね。
さて、と…。こんな所で丁度良さそうだ。
頼みに行くから、一緒について来るといい、と立ち上がったヒルマン。
「君も朝食の注文は済んでいないだろう?」と。その通りだから、椅子を引いたままで残して、朝食の注文に出掛けて行った。椅子が引いてあれば、「座る人がいる」という意味になるから。
他の仲間たちも注文している、厨房に繋がるカウンター。
其処でトーストやオムレツなどを頼んでいたら、ヒルマンが皿を差し出した。穴を開けたパンが乗っかった皿を。
「いつものを頼むよ、半熟でね」
「はい!」
半熟ですね、と確認してから、スタッフは厨房に入って行った。暫く経ったら、自分が注文した朝食のトレイと殆ど同時に、戻って来た皿。
「どうぞ」とヒルマンに渡された皿に、真ん中に目玉焼きが入ったパン。其処に開いていた穴を塞ぐようにして目玉焼き。パンの方もこんがり焼けているから…。
「何なんだ、それは?」
さっきのパンがそうなったのか、とテーブルに戻りながら尋ねた。あれがそれか、と。
「そうだよ、だから準備が要ると言っただろう?」
食堂のスタッフは忙しいからね、我儘なことは言えないじゃないか。
ああやって穴を開けておいたら、フライパンで目玉焼きを作るだけのことで済むんだが…。
パンに穴まで開けてくれとは言えないよ。朝は本当に大忙しな時間だからね。
これはエッグインザバスケットという名前の料理で…。
由緒正しい朝食メニューだ、とヒルマンはテーブルで説明してくれた。
毎朝、卵料理が食べられるようになったから、データベースで調べたのだ、と。
遠い昔の地球のイギリス、それにアメリカ。エッグインザバスケットは其処の朝食メニュー。
トースト用のパンの真ん中を刳り貫き、フライパンに乗せて卵を落とす。その穴の中に。
目玉焼きが焼けてくるのと一緒に、パンの方も焼けてゆく仕組み。焼き加減は好みで色々と。
「美味そうに食っていやがったから…」
ひと手間かけるだけの価値はあるとか、半熟が一番美味いとか。
「ハーレイ、話してくれたっけね」
前のぼくの病気がきちんと治って、またハーレイと一緒に朝御飯を食べられるようになったら。
二日ほど後の話だったか、三日ほどかな…?
「俺もハッキリ覚えていないが…。三日ほどじゃないか?」
ヒルマンだけしかやっていないな、と見回してた日が、その日の他にもあったしな。
それにヒルマンがオムレツを食っていた日もあった筈だし…。
面白い食い方があるもんだよな、と思ったからお前に話したんだ。俺が目撃したからにはな。
こういう卵の食べ方を見た、と朝食の席でブルーに教えてやったら、好奇心で輝いていた瞳。
「ヒルマンだけかい?」
その、何だっけ…。エッグなんとかという名前の料理を食べていたのは?
「私が見たのは彼だけですね」
エッグインザバスケット自体は古い料理だそうですが…。
人間が地球しか知らなかった時代に、朝食メニューの定番だったらしいですから。
「ずいぶんと古い料理なんだね、歴史はたっぷりありそうだ」
ぼくも試してみたい気がするよ、そのエッグインザバスケットというのをね。
「此処でも充分、出来ますね…」
朝食の仕上げは奥のキッチンでやっていますし、卵料理も其処ですから…。
目玉焼きも其処で焼くのですから、頼めば作って貰えるでしょう。朝食の時に。
「それじゃ、明日の朝に二人で頼んでみようか」
君と二人で食べてみたいな、せっかくだから。…ぼく一人よりも。
「喜んで御一緒させて頂きますよ」
係が朝食の支度に来たなら、トーストする前にパンを貰って…。卵料理も待って貰って。
パンの真ん中に穴を開けるとしましょう、ヒルマンのように。
「それで、目玉焼きの焼き加減は?」
どうするのが一番いいんだい?
「お好みの焼き加減でよろしいでしょう。ヒルマンからも、そう聞きましたし…」
ヒルマンは半熟を食べていましたが。「これが一番美味しい」と言って。
「じゃあ、半熟で頼んでみよう」
好き嫌いは無いから、どれでもかまわないんだけれど…。
半熟が美味しいと聞いたんだったら、最初はそれを試すべきだよ。
次の日の朝、朝食の係がやって来た時、ブルーと二人でパンの真ん中に開けた穴。
トーストの焼き加減を尋ねる係に「後で」と言って。「卵料理も少し待ってくれ」と。食堂とは違って、青の間では好きに出来たから。朝食係は大忙しではなかったから。
ヒルマンは厨房のスタッフの手間を省こうと、自分でパンに穴を開けたのだけれど。自分好みの卵料理を作って貰うべく、パンを毟っていたのだけれど。
その真似をした前の自分とブルーは逆だった。係を待たせて、せっせとパンの真ん中に穴。
まだ焼けていないパンの真ん中、丸い穴が開いたら、係に頼んだ。
「卵料理は、この穴の中に目玉焼きを」と。「目玉焼きは半熟で作ってくれ」と。
なんとも我儘な注文だけれど、朝食係は見事に応えた。エッグインザバスケットを焼き上げて。
「とっても美味しかったっけ…」
パンの真ん中に目玉焼き。トーストとパンを一緒に食べてるみたいな感じで。
半熟だったから、トロトロの黄身がトーストに絡んで、ソースみたいで。
「あれから、たまに頼んだっけな」
ちょっと待ってくれ、ってパンに穴を開けては、エッグインザバスケットというヤツを。
ヒルマンの気に入りと言うだけはあって、食うだけの価値はあったんだ。
「焼き加減、色々試してみたけど…」
黄身までしっかり焼いて貰ったり、裏も表も焼いて貰ったり。
トーストが焦げてしまわない程度で、ホントに色々やってみたよね。
「どの焼き加減でも美味かったよなあ、半熟だろうが、黄身に完全に火が通ってようが」
美味いっていうのも良かったんだが、パンに穴を開けるというのがいいんだ。
自分で穴を開けるんだからな、朝飯を自分で作っているような気分がしてくるじゃないか。
パンを毟って、真ん中に穴。…たったそれだけのことなんだがな。
前のブルーも気に入ったからと、たまに二人で食べていたエッグインザバスケット。二人きりで食べる青の間での朝食、それの時間に。係を少し待たせておいて。
「ハーレイ、今も食べている?」
朝御飯の時に、エッグインザバスケット、作ってる?
今のハーレイなら、簡単に作れそうだけど…。出汁巻き卵より簡単だろうし。
「いや、それが…。すっかり忘れちまってた」
エッグインザバスケットは多分、今でも作られているんだろうが…。
イギリスやアメリカの文化を復活させて楽しんでいる地域だったら、きっと定番の朝食メニューだろうという気はするんだが…。
生憎と、今の俺たちが住んでる地域じゃ、サッパリ聞かない料理だからな。
目玉焼きはあくまで目玉焼きだし、トーストはトーストとして食うモンだと思い込んでたし…。
「おんなじだよ、ぼくも…」
忘れちゃってた、とっても美味しかったのに…。
パンの真ん中に自分で穴を開けるのも、お料理みたいで好きだったのに。ハーレイと同じ。
前のハーレイが厨房にいた頃は、ぼく、お手伝いをしてたから…。ジャガイモの皮を剥いたり、泣きながらタマネギを刻んでみたり。
…エッグインザバスケット、また食べたいよ。
ママに頼もうかな、お昼御飯に作ってよ、って。パンも卵もある筈だもの。
「やめとけ、お前、これ以上はもう入らないだろうが」
昼飯、すっかり食っちまったんだし、腹一杯になっていないか、お前…?
ただでも食が細いのがブルー。なのに出汁巻きを、一人で三切れは食べていた筈。自分が貰ったお土産なのだし、大喜びで。話の合間に「美味しいね」と顔を綻ばせながら。
とっくにお腹は一杯の筈で、エッグインザバスケットなどは食べられそうもないのだから…。
「お前、自分の胃袋のサイズってヤツを考えろよ?」
腹一杯の所に卵料理は無茶ってモンだ。おまけにトーストまでついてくるんだから。
食えるわけないだろ、今からエッグインザバスケットなんて。
「そうかも…。ちょっと食べられそうにないかも…」
無理そうだから、今度食べようよ。ママに頼んで、ハーレイとぼくと、二人分。
パンの真ん中に穴を開けるんだよ、「此処に卵を入れて、目玉焼きにしてね」って。
ママに頼むんなら、やっぱり半熟。それがいいよね、ヒルマンのお気に入りだったんだもの。
「…俺は手帳には書いてやらんぞ?」
次はそいつだ、と手帳にお前との予定を書くには、今はまだまだ早すぎるってな。
エッグインザバスケットを食おうって話にしたって、お前との予定には違いないんだから。
「…だったら、この話、忘れちゃう?」
ぼくもハーレイも忘れちゃうかな、エッグインザバスケットを食べていたこと…。
「多分な、忘れちまうんだろう」
お前も俺も、綺麗サッパリ。
出汁巻き卵や卵焼きが無かったことも忘れて、今日まで来ちまったみたいにな。
しかし、だ…。
その内にまた思い出すさ、と片目を瞑った。
あれは朝食メニューなんだし、いつか二人で暮らし始めたら、と。
「朝飯を食ってる真っ最中にだ、ポンと思い出すこともあるだろう」
目玉焼きはこうして食うんじゃなくって、パンの真ん中に入れるんだ、とな。
思い出したら、その時は腹一杯で食えなくっても、その辺に書いておけばいい。
次に目玉焼きを食べる時には、エッグインザバスケットを作ること、と。
「そうだよね…!」
二人で一緒に暮らしてるんなら、ハーレイは予定を書いてくれるし…。
ぼくと二人で食べる朝御飯、何にするかの予定もきちんと書いておけるものね。
また食べようね、エッグインザバスケット。…ハーレイと二人で。
「もちろんだ。俺もその日が楽しみだな」
忘れちまっても、いつかは思い出すんだから。…俺かお前か、どっちかがな。
思い出すのはどっちだろうな、と微笑み掛けてやった小さな恋人。十四歳にしかならない恋人。
今はまだ二人で暮らせないけれど、出汁巻き卵が思わぬ記憶を連れて来た。
遠い昔に、青の間で二人、楽しみながら食べたエッグインザバスケット。
あの思い出の朝食メニューを、いつかブルーと二人で食べよう。
朝の光が射し込む幸せなテーブル、其処でパンの真ん中に丸い穴を開けて。
指で毟って穴を開けながら、互いに何度も微笑み交わして。
遠く遥かな時の彼方で、暮らした白いシャングリラ。
あの船でこれを食べていたなと、元はヒルマンがやっていたんだっけなと、思い出しながら。
そうやって食べる、懐かしいエッグインザバスケット。
二人で青い地球に来たから。いつまでも、何処までも、幸せに歩いてゆけるのだから…。
卵の料理・了
※シャングリラには無かった卵焼き。けれどヒルマンが食べていた、昔のイギリスの卵料理。
それを青の間で、ブルーとハーレイも楽しんでいたのです。パンの真ん中に穴を開けて。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(うーん…)
腕輪が一杯、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
カラーで刷られている写真。民族衣装だろう服を纏った、女性の腕にビッシリと腕輪。手首から肘までの半分くらいは、隙間なく腕輪が覆っている。幅はそれほど無いものが。しかも両腕。
(この腕輪、うんと小さいよ?)
いったいどうやって嵌めたのだろう、と不思議になるほど小さな腕輪。一番細い手首の腕輪も、腕にピッタリ貼り付くよう。そこから少しずつ大きくなるのか、肘に一番近い腕輪も…。
(隙間、全然無さそうだけど…)
腕と腕輪の間の隙間。何処から見たって無さそうな余裕。きっと揺れさえしないのだろう。腕の持ち主が腕を振っても、この腕輪たちは。
まるで一個ずつ腕に合わせてカチリと嵌めては、サイズを調節したような腕輪。手首から順に、上へ向かって少しずつ大きくなってゆくように。腕を半分、覆い尽くすように。
こんな腕輪は見たことがない、と興味津々で記事を読み始めたら…。
(三ヶ月間も付けっぱなし!?)
そう書かれていた、腕輪の正体。花嫁の腕輪。
遠い昔のインドという国、其処の習慣を復活させたのが両腕の腕輪。花嫁のための。民族衣装も昔のインドのものだった。一枚の布を巻き付けて着るらしい、サリーという服。
(お嫁さんの腕輪…)
結婚式の前に、専門の人が嵌めてゆく腕輪。「あなたの腕には、このサイズです」と。
プロが選んで嵌めるのだから、とんでもなく直径が小さな腕輪も、こういう風にピタリと合う。手首に貼り付くようなサイズでも、手にくぐらせてギュウッと嵌めて。
そうやって嵌めた沢山の腕輪は、花嫁のためのものだから…。
今の時代は、結婚式の日に嵌めたらおしまい。外してしまっても叱られない。花嫁を彩る飾りの一つで、サリーと一緒に身につけるもの。
結婚式が済んだら旅行に出掛けるカップルも多いし、普通の服に沢山の腕輪は似合わないから。昔の民族衣装だからこそ、腕にビッシリ嵌めるのが腕輪。花嫁なんです、と。
(でも、昔だと…)
人間が地球しか知らなかった時代は、花嫁の腕輪は嵌めっ放しにしておくもの。三ヶ月だとか、二ヶ月だとか。
花嫁の幸福を祈る腕輪だから、最低でも一ヶ月は嵌めていたという。両方の腕にビッシリと。
それでは邪魔になりそうだけれど、その代わり、家事はしなくてもいい。水仕事などは、絶対に駄目。腕輪の模様が剥げてしまって、「家事をした」ことが分かるから。
もしも花嫁に家事をさせたら、その家の人たちが陰口を言われる。「あそこの家の人は…」と、ヒソヒソと。「花嫁に家事をさせるらしい」と、「とんでもない」と。
酷い家族だ、と悪い評判が立つほど、大切にされたらしい花嫁。
三ヶ月だとか、一ヶ月だとか、花嫁の腕輪を嵌めている内は。家事はしないで、幸せな日々。
腕に沢山の腕輪を嵌めて、綺麗な民族衣装を着て。
(レディーファースト…)
女性が優先、きっとそういう素晴らしい国だったのだろう。
花嫁には家事をさせないくらいに、女性が大切にされていた国、と。
インドはそういう国だったんだね、と感心しながら読み進めたら、間違いだった。人間が宇宙で暮らし始めるよりも、ずっと昔のインドという国。
其処では、女性は大切にして貰えるどころか、モノ扱い。花嫁だって同じこと。腕輪をビッシリ嵌めて貰ってお嫁に行っても…。
(殺されちゃうことがあったわけ!?)
持参金の額が少ないから、と。「もっと持参金をくれる花嫁がいい」と。
腕輪を嵌めている時期が済んだら、台所で火を点けられた。綺麗なサリーは風にフワリと揺れて動くから、料理の途中で火が点いた事故に見せかけて。
(それって、酷い…)
花嫁の腕輪が外れた途端に邪魔者扱い、新しい花嫁を貰えるようにと殺されるなんて。
今はそういう酷いことはなくて、遠い遠い昔にあった出来事。
けれど写真の花嫁衣装は、昔のものとそっくり同じ。腕輪の他にも飾りが沢山、ジャラジャラと音がしそうなくらいに大きくて華やかなネックレスだとか、耳飾りだとか、髪飾りとか。
本当に綺麗な花嫁だけれど、お姫様のように飾り立てられているけれど…。
(嬉しくないよね?)
今ではなくて、昔の花嫁。
SD体制が始まるよりも前の時代に女性蔑視は消えたとはいえ、長く続いていたという。女性を物のように扱い、要らなくなったら殺したくらいに酷かったインド。
そんな所で腕輪をビッシリ嵌めて貰っても、家事をしなくていい腕輪でも…。
嬉しくないよ、と頭を振った。結婚して直ぐに家事をさせられてもいいから、自由な方が、と。一人の人間として認めて貰って、喧嘩しながらでも家族の一員。
(絶対、そっちの方がいい…)
モノ扱いだなんて、前の自分の人生のよう。アルタミラで檻にいた頃の。
もっとも、それは昔の話。アルタミラも、女性がモノ扱いされた時代のインドも。
今の時代にインドを名乗っている地域。其処では、花嫁の腕輪などだけが復活している。とても華やかに見えるから。花嫁の姿を引き立てるから。
(花嫁の腕輪を壊しちゃうと…)
不幸になる、という言い伝えもあるらしい。これも昔のインドから。
花嫁の腕輪にも色々とあって、素材もデザインも、実に様々。中にはガラスの腕輪だってある。キラキラ光って綺麗だけれども、ガラスで出来た腕輪だから…。
結婚式の前の日に嵌めて貰って、結婚式に出るまでの間。気を付けていないと壊れてしまう。
だから腕輪を壊さないよう、気を付けて暮らすらしい花嫁。昔みたいに、何もしないで。
(こういう話は面白いけどね?)
今の時代だから、楽しく読めるインドの花嫁の記事。
腕輪をビッシリ嵌めた女性たちも、幸せに生きている時代だから。みんな幸せな花嫁だから。
いろんな花嫁衣装があるんだ、と新聞を閉じて帰った部屋。花嫁専用の腕輪なんて、と。専門の人が嵌めに来るほど、大切らしい花嫁の腕輪。とても嵌まりそうにないサイズのも嵌めて。
(お嫁さんの腕輪…)
ぼくは結婚式ではつけない、と眺めた両腕。服の袖を捲って、細っこい腕まで確かめてみて。
キュッと握ってみた手首。こんな所にピッタリくっつくサイズの腕輪を、どう嵌めるの、と。
(…専門の人って、凄いよね…)
腕に合うサイズの腕輪を見付けて、きちんと通してしまうのだから。手首よりも大きい筈の手をくぐらせて、花嫁の腕輪を腕にビッシリ、隙間なく。手首から肘までの半分くらいを覆うほど。
(ぼくは嵌めないから、分かんないや…)
花嫁の腕輪を嵌める人の凄さ。どうやって嵌めてゆくのかも。
ウェディングドレスを選んだとしても、白無垢の方でも、花嫁の腕輪の出番は来ない。インドの花嫁衣装ではないし、どちらにも無い腕輪の習慣。花嫁は腕輪を嵌めたりしない。
(ビッシリどころか、一個も無いよね…)
花嫁のための腕輪というもの。頭に着けるティアラはあっても、ベールや綿帽子が存在しても。
結婚式の時しか出番が無いのはそれくらい。腕輪を嵌めても、ドレスに合わせたアクセサリー。
それを嵌めたら幸せになるとか、壊してしまったら不幸になるとか、言いはしないから。
結婚式では嵌めない腕輪。普段も腕輪を嵌めたりしないし、嵌めてみたいとも思わない。きっと腕輪は一生縁が無いんだから、と思った所で掠めた記憶。
(フィシス…!)
前の自分が攫った少女。マザー・システムが無から創った生命体。
青い地球を抱く彼女が欲しくて、与えたサイオン。ミュウだと偽り、船の仲間たちを騙そうと。
本当のことを知っていたのはハーレイだけ。他の仲間はミュウだと信じた。
青い地球を抱いた、神秘の女神。フィシスはミュウの女神なのだと。
(フィシスは、いつも特別扱い…)
纏う衣装も、住むための部屋も。何もかもが皆と違っていた。他の大勢の女性たちとは。
立ち働くには不向きだったフィシスの長い髪と、それから優雅なドレス。
そのドレスから覗く白い手、あの白い腕に腕輪を嵌めた。前の自分が。…そういう記憶。
(いつだったの…?)
金色に光る腕輪を嵌めた日。フィシスの腕には幾つも腕輪。自分が嵌めた腕輪の他にも。
まさか結婚式でもなかったろうに、と首を捻った。
フィシスは結婚してはいないし、花嫁の腕輪の習慣だって無かった筈。結婚指輪さえも無かった白い船なのだから。結婚の証の指輪も無いのに、花嫁の腕輪があるわけがない。
でも…。
(なんで腕輪を嵌めたわけ?)
前の自分が嵌めてやった腕輪。何故、そうしたのか分からない。覚えていない。
それに、フィシスの腕にあった腕輪。白い腕に幾つも嵌まった腕輪は、何だったろう…?
遠い記憶を手繰るけれども、腕輪はフィシスしか嵌めていなかった。他の女性たちは誰も、長老だったエラとブラウでさえも嵌めてはいない。
そうは言っても、子供時代のフィシスは嵌めていなかった腕輪。大きく育って、踝が隠れる長いドレスを着るようになってからのもの。
(ピアスだったら、エラたちだってつけてたし…)
きっと似合うよ、と前の自分も勧めたピアス。
耳たぶに穴を開けることをフィシスは怖がったけれど、メディカル・ルームに付き添ってまで。
ピアスは飾りで、フィシスのネックレスは服飾部門のデザイナーの趣味。
「このドレスには、これが映えますから」とデザイン画を見せて貰ったから…。
(腕輪もそうかな?)
ドレスに似合う、と作られたもの。ネックレスに見劣りしないようにと、数を沢山。
そうなのかな、と考えたけれど、それにしては捻りが全く無かった。凝った細工などは無くて、ただの金色。ブラウのピアスを腕輪のサイズにしたような感じ。
デザインに凝るなら、ネックレスに合わせて幾らでも加工出来ただろうに。透かし彫りだとか、細かい模様を刻み込むとか。
けれど、そうではなかった腕輪。ただの金色の輪だった腕輪。
(…数が多いことに意味があったかな?)
シンプルなデザインでも、幾つもつければ目立つから。
凝った腕輪を一つ嵌めるより、細い腕輪を幾つも重ねて。そうすれば触れ合って音がするから。
フィシスが腕を動かす度に、シャランと綺麗な音がしたから。
どうだったかな、と探ってゆく記憶。フィシスだけが腕輪を嵌めていた理由。ドレスに合わせたデザインだったか、それとも他に何かあったか。
あのドレスだよ、と何度もフィシスの姿を思い描いている内に…。
(最初は無かった…?)
そんな気がしてきたフィシスの腕輪。ネックレスとピアスはあったけれども、白い腕に嵌まっていなかった腕輪。右手にも、それに左手にも。
一個だった頃もあったような、という気がしないでもない。フィシスの腕輪は、いつもあったと思っていたのに。
(…なんだか変だ…)
記憶違いではなさそうだった。一度「無かった」と気付いてしまえば、そういうフィシスの姿が幾つも。白い腕に一つも無かった腕輪。一個だけ嵌めていた時だって。
ますます謎だ、と考え込んでいたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれて、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせ。二人きりでゆっくり話せる時間。
これは訊かねば、と早速、問いを投げ掛けた。
「あのね、ハーレイ…。フィシスの腕輪、覚えてる?」
金色のヤツだよ、両手に腕輪を嵌めていたでしょ?
「腕輪か…。幾つもつけていたっけなあ…」
フィシスは手袋をはめてないから、あの腕輪が良く似合ってたよな。
「あれって、誰が言い出したの?」
誰がフィシスにつけさせたのかな、腕輪…。腕輪をしてたの、フィシスだけでしょ?
「そういや、そうだが…」
はて…?
フィシスの腕輪を思い付いたの、誰だったんだ…?
ハーレイも覚えていなかった。フィシスに腕輪をつけさせた人を。「まるで分からん」と。
「服飾部門のヤツらじゃないのか、デザイナーとか」
フィシスのドレスをデザインしたヤツとか、作るのを手伝ったヤツだとか。
その辺りだと思うんだがなあ、ネックレスだってフィシスだけだぞ。腕輪だけじゃなくて。
「でも、あの腕輪…。つけていなかった時期があるんだよ」
覚えてないかな、腕輪無しのフィシス。…ネックレスとピアスはつけていたのに。
「言われてみれば…。俺も見たような気がするな」
お前ほど頻繁に会っちゃいないが、俺もフィシスには何度も会っていた方だし…。
なにしろミュウの女神なんだぞ、キャプテンとしては礼を欠いてはいけないってな。
「ね、腕輪が無かった頃があるでしょ?」
ハーレイも覚えているんだったら、間違いないよ。ぼく一人だと、ちょっと心配だけど…。
腕輪、一個だけの時もあったよ。…確か、左手だったと思う。
「あったっけな…。そういう時期も」
左手だったか、ちょっと記憶が怪しいが…。一つだけだったという記憶はある。
「良かった…。それとね、フィシスの腕輪なんだけど…」
ぼくが嵌めてた記憶があって…。フィシスの腕に、あの腕輪を。
どうしてなのかな、結婚式でもないのにね。
「なんだそりゃ?」
結婚式って、いったい何処から出て来たんだ?
そりゃあ、指輪の交換はあるが、あれはあくまで指輪だぞ?
腕輪を嵌めるって話は聞かんが、どうして腕輪でそうなるんだ…?
左手だからか、と首を傾げたハーレイ。結婚指輪は左手だしな、と見当違いなことを言うから、結婚式の腕輪の話をした。「こんなのだよ」と、新聞で読んだばかりのインドの花嫁の話を。
「ホントに沢山つけてるんだけど、その腕輪、花嫁専用だから…」
結婚式の前に壊すと不幸になっちゃうんだって。
だったら頑丈な腕輪にすればいいのに、ガラスの腕輪もあるんだよ。強化ガラスじゃなくって、普通のガラス。…ぶつけたらガシャンと壊れちゃうヤツ。
そういう腕輪も作ってるなんて、面白いよね。
運試しなのかな、花嫁さんの。…壊れやすい腕輪を壊さずにいたら、うんと幸せ、って。
「ほほう…。そうかもしれないな。頑丈な腕輪を嵌めているより、楽しいかもな」
この幸せを壊さないよう、気を付けようって心構えも出来るわけだし…。
結婚して直ぐに夫婦喧嘩になっちゃいかんと、我儘なんかも押さえつけてみたり。
ガラスの腕輪も良さそうだよなあ、そういう意味では。
花嫁の腕輪か、面白い習慣もあるもんだ。やっぱり世界は広いな、うん。
…いや、待てよ…?
ちょっと待て、とハーレイは腕組みをして考え込んだ。少し深くなった眉間の皺。
その花嫁の腕輪が引っ掛かる、と。
インドの花嫁は知らないけれども、花嫁の腕輪を何処かで聞いたような気が…、と。
遠い記憶を追っているのか、ハーレイが何度も「花嫁の腕輪か…」と呟くから。
「あれだったの?」
フィシスの腕輪は花嫁さんのための腕輪で、やっぱり結婚式だった…?
前のぼく、それで嵌めてたのかな、花嫁さんの腕輪は専門の人が嵌めるらしいから…。
こんな腕輪をどうやって嵌めるの、って不思議なくらいに小さなヤツでも。
前のぼくならサイオンを上手に使えたんだし、そういうのが凄く得意そうだよ。ほんの少しだけサイオンを使って、どんな腕輪でも腕にピタリと嵌めちゃうだとか。
「おいおい、フィシスは結婚なんかはしてないだろうが」
花嫁の腕輪をつけるわけがないぞ、いいから少し待ってくれ。
フィシスがつけてた腕輪だろ…。
でもって、花嫁の腕輪なんだが、フィシスは結婚していないわけで…。
そうだ、ヒルマンだ、あいつが考え出したんだ…!
「えっ、ヒルマンって…?」
考え出したって、フィシス、やっぱり花嫁さんなの…?
「さっきも違うと言った筈だぞ。フィシスが誰と結婚するんだ、まったく、お前は…」
フィシスの託宣、そいつは覚えているだろう?
よく当たるタロット占いで…。子供時代は、それでもお遊び程度ってトコだ。子供だけに。
しかし大きくなった後には、船の進路まで占うようになってだな…。
そっちじゃない、と言いに来るんだ、アルフレートと一緒にな。そっちは駄目だ、と。
「あったっけね…。そういうことも」
フィシスが言う通りに進路を変えたら、思ってたより楽に航行出来たんだっけ。
本当だったらハーレイが舵を握らなくっちゃいけない所を、シドとかが舵を握ったままで。
タロットカードで占ったフィシス。船の進路をどうするべきかを。
それが悉く当たり始めたら、次はミュウの子供たちの救出について占い始めた。救助に出てゆく小型艇を何処に配置すればいいか、どのタイミングで出るのかなどを。
「そいつをフィシスが占うようになってからはだな…」
前だったら助け損なっていただろう子供も、上手い具合に助け出せたんだ。
此処に船を、と言われる通りに進めたならな。
「フィシス、占ってくれたんだっけね…」
とても上手に、こうやって、こう、って。
ホントに当たる占いだったし、前のぼくが助けに飛び出すことは無くなって…。
救助班だけでも出来るようになったし、助け損なうことだって減って…。
「そういうことだな」
フィシスは何度も上手くやってだ、無事に成功した礼をしたいとお前が言って…。
それで腕輪が出来たんだ。フィシスへの礼に。
「思い出した…!」
御礼をしたい、ってフィシスに何度も言ったけれども、フィシス、なんにも要らないって…。
ぼくと二人でお茶が飲めたら、それだけで、って…。
だけど、お茶ならいつでも飲めるし、何処も特別じゃないんだもんね…。
フィシスの占いが当たった時。占いのお蔭で、ミュウの子供を見事に助け出せた時。
命を救えた特別な時には、どうしても御礼がしたかった。お茶だけではなくて。
それにシャングリラの仲間たちにも、フィシスは凄いと知らせて回りたい気持ちもあった。皆は当然知っているけれど、今よりも、もっと。ミュウの女神の名に相応しく。
何かいい案は無いだろうか、とヒルマンに相談してみたら…。
「考えてみよう」とヒルマンが引っ張った髭。「少し時間を貰えるかね?」と。
それから数日、長老たちが集まる会議で出された意見。
「ソルジャー、フィシス殿の件なのだがね…」
腕輪というのはどうだろうかと…。
幸い、シャングリラには腕輪をつけた女性は一人もいないし…。
「腕輪だって?」
その腕輪には、何か特別な意味でもあるのかい?
アクセサリーしか思い付かないけれども、腕輪は特別なものなのかな?
「ずっと昔に、地球のインドにあったそうだよ」
結婚式の時に、花嫁がつける腕輪というのがね。花嫁の幸運を祈る腕輪だ。
それも一つや二つではなくて、手首から肘まで覆うくらいにビッシリと。
腕にピッタリのサイズを選んで、専門の人間がつけたらしいよ。結婚式の前の日にね。
花嫁の腕輪をつけて貰ったら、一ヶ月から三ヶ月くらいは外さない。家事も一切しなかった。
腕輪を沢山つけたままでは、家事をするのは難しいからね。
フィシスは家事などしないわけだし、腕輪をつけたままでいられるのだから…。
嵌めた腕輪はそのままで。そういうことでどうだろうか、というのがヒルマンの案。
占いのお蔭でミュウの子供を救出できたら、腕輪を一つ。
「フィシスがいなければ救えなかった、という子供が来る度、腕輪が一つ増えるのだよ」
ミュウが追われる時代が終われば、腕輪も増えなくなるだろうから…。
フィシスの腕に沢山の腕輪は、出来れば勘弁して欲しいがね。
その腕輪をだ、皆の前でソルジャーが嵌めてみせれば映えるだろうと思うわけだよ。
ソルジャー自ら、フィシス殿の腕に腕輪を一つ。
「そうだね、それは素敵な思い付きだよ。いいと思うよ」
フィシスが助けた子供の数だけ、フィシスに腕輪。とても特別で、とても素敵だ。
でも、子供たちの命が危険に晒された証の品でもあるし…。
凝った腕輪じゃない方がいいね、ただの腕輪がいいんだろうね。色はやっぱり、金色かな。
それを作らせてくれるかい、と前の自分は飛び付いた。
ソルジャーが腕輪を嵌める儀式はきっと映えるし、腕輪が増えればフィシスも尊敬される筈。
長老たちも皆、賛成したから、腕輪を作ることに決まった。シンプルなものを。
(…服飾部門のデザイナーたちの話も聞いて…)
元になったインドの花嫁用の腕輪とは違って、ゆったりした腕輪。
勝手に腕から抜けない程度で、けれど余裕のあるサイズ。数が増えても困らないよう、幅は細く作って、触れ合った時に涼やかな音が鳴るように。
そうやって出来たフィシスの腕輪。ミュウの女神だけが身につける腕輪。
次にミュウの子供を救出した時、天体の間で最初の一個を嵌めた。船の仲間たちが見守る中で、前の自分が跪いて。
「ありがとう」と御礼の言葉をフィシスに告げて、左の手に。
ヒルマンたちが「最初に嵌めるのは左手がいい」と言ったから。心臓に近いのは左手なのだし、結婚指輪が左手の薬指なのも、そのせいだから、と。
それまで腕輪が無かった白い腕に一つ、金色の腕輪。何の飾りも無いものが。
難しい救出を一つこなす度に、一個、二個と腕輪は増えていって…。
「フィシスはお前の女神なんだ、っていうイメージもだな…」
どんどん強くなってったってな、腕輪が一つ増える度にな。
「うん…。ぼくがフィシスに跪くから…」
ソルジャーが跪くなんてこと、フィシス以外には一度も無かったから。
お蔭で本当の恋人がハーレイだったことは、誰にもバレずに済んだんだけど…。
あの腕輪、最後はいつだったっけ?
いつ嵌めたのかな、フィシスの一番最後の腕輪は…?
「最後のか…?」
お前、嵌め損なったんだ。最後の腕輪はあったんだが。
「え…?」
嵌め損なったって、どういうことなの?
「腕輪はあったと言っただろうが。…あったが、そいつを嵌められなかった」
ジョミーの時に用意をさせていたんだ。腕輪を作っておいてくれ、とな。
「あっ…!」
ホントだ、腕輪、作らせたんだっけ…。
ジョミーは絶対に救い出さなきゃいけなかったし、失敗なんかは有り得ないものね。
次のソルジャーになるジョミーの救出。難航すると分かっていたから、用意させた腕輪。きっとフィシスの手伝いが要ると、今までに助けた子供たち以上の正確さで、と。
何処でジョミーを救い出すべきか、誰を派遣して、どう助け出すか。
フィシスの占いは当たったけれども、自分は力を使いすぎた。テラズ・ナンバー・ファイブとの戦い、それで消耗した体力と気力。
腕輪を嵌める儀式は当分出来そうになくて、ベッドに横たわっているしかなかった。
「お前がベッドから起き上がれない内に、ジョミーは船から出て行っちまって…」
ジョミーを思念で追い掛けるのが、前のお前の精一杯で。
なのに、お前も飛び出しちまった。…ジョミーを追えるの、お前以外にいなかったからな。
「…ごめんね、ハーレイにも止められたのに…」
一人で行っちゃって、本当にごめん。
ぼくは力を使い果たしちゃって、成層圏から落っこちちゃって…。
後はジョミーが針の筵で、ぼくもフラフラだったから…。ベッドで寝ているしか無かったから。
腕輪のこと、すっかり忘れちゃってた…。
フィシスは頑張ってくれたのに。…誰よりも凄い未来のソルジャーを、占いで助け出したのに。
「周りのヤツらも言えないからなあ、お前、本当に弱っていたし…」
腕輪を嵌める儀式はいつにしますか、と訊けやしないし、勝手に予定も組めないし。
うっかり予定を組んじまったら、余計にジョミーの立場がマズイ。
無事にお前が起きられりゃいいが、起きられなくって儀式が流れてしまったら…。
腕輪を嵌める所を見よう、と集まっていたヤツらが怒り出すんだ。ジョミーのせいだと。
「…誰も言わないから、ホントに忘れてしまってた…。腕輪のこと…」
どうしよう、フィシスに渡し損ねちゃった。あの腕輪、最後の腕輪だったのに…。
本当だったら嵌めてあげる筈で、フィシスの腕輪は、もう一個増える筈だったのに…。
「一個、足りないままになったな…」
腕輪は作ってあったのに。…服飾部門のヤツらが何処かに仕舞って、それっきりだな…。
増える筈だったフィシスの腕輪。ジョミーの救出に成功した時の、輝かしい功績を称える腕輪。
それは確かに作られたのに、前の自分が作らせたのに。
きっとフィシスは知っていただろうに、彼女からは言い出せなかっただろう。嵌めて欲しいと。
腕輪を嵌める儀式は無くても、それを自分の腕に欲しいと。
フィシスは前の自分を慕っていたから、本当にそれが欲しかった筈。最後の腕輪が。前の自分の思い出の品が。
「悪いことしちゃった…。フィシス、腕輪がとても欲しかった筈なのに…」
嵌めてあげるチャンスはあったのに…。ぼくがナスカで目覚めた時に。
あの時だったら、フィシスと二人。…誰もいなくても、腕輪は嵌めてあげられたのに。
「お前、腕輪を覚えてたのか?」
覚えていたのに、置いてある場所が分からなかったとか、そういうことか?
「ううん…。今のぼくと同じで忘れていたよ」
それに、フィシスは怯えていたから…。ナスカで不吉なことが起こる、って。
大丈夫だよ、って死神のカードを燃やしちゃったけど、そうするよりも腕輪だったかな…。
もっとずっと前に、眠ってしまう前に、あの腕輪。
ちゃんと腕輪を思い出していて、「ほら」ってフィシスの腕に嵌めてあげて。
最後の腕輪を嵌めていたなら、色々なことを防げたのかな…。
深い眠りに就いていたって、フィシスを守ってあげられたかな…。ああなる前に。
「さあな?」
そいつは俺にも全く分からん。
俺に未来は読めはしないし、どう動いたら未来を変えてゆけるのか、そいつも分からん。
それに、お前がフィシスに最後の腕輪を嵌めてやっていたとしたって、だ…。
どのみちキースは来ただろうし、とハーレイが言う通りだけれど。
ナスカにやって来ることは変わらないけれど、もしもフィシスの腕に腕輪を増やしていたなら、あの時、フィシスは、閉じ込められていたキースには…。
「…フィシス、近付かなかったかも…。キースの部屋には…」
ぼくが嵌めた腕輪が目に入るんだから、用心して。…気になるけれども、行っちゃ駄目、って。
だって最後の腕輪なんだよ、ぼくが最後にあげたんだよ?
十五年間も眠るくらいに疲れていたのに、フィシスのために、って頑張って、腕輪。
それがあったら、きっとフィシスも…。
ぼくが起きていたらどう言うだろう、って考えるだろうから、きっと行かない…。
フィシスがあそこに行かなかったら、キースは脱出できなかったかも…。
「そりゃまあ…。逃げる道筋が分からなけりゃな」
逃げたつもりでブリッジにでも突っ込んで来たら、それで終わりだ。いくらあいつでも。
しかしだ、あれだけ沢山の腕輪を嵌めてりゃ、一個くらいでは…。
いくら最後の腕輪にしたって、沢山の内の一個なんだし…。
あっても無くても同じだったさ、と慰められた。
たとえ最後の腕輪を嵌めていたって、同じ生まれのキースに惹かれる方が大きい、と。
「…そうなのかな?」
ホントにそうかな、フィシス、やっぱり行っちゃったかな…?
最後の腕輪を嵌めていたって、キースの所に。…同じ記憶を持っている人が気になって。
「そう思わないと、お前、辛いだろうが」
自分のせいだ、と今頃になってまで、クヨクヨ考え込んでしまって。
腕輪の一個くらいがなんだ、と考えた方がマシってもんだ。フィシスは沢山つけていたんだし、最後の一個が増えていようが、欠けていようが、大して違いは無いってな。
それにだ、フィシスは嵌めたんじゃないか、最後の一個。
俺はそういう気がするんだがな、あの腕輪はちゃんとフィシスが嵌めた、と。
「…なんで?」
腕輪、そのままになっちゃったんでしょ、前のハーレイだって知らないんでしょ?
何処にあったか、誰が仕舞っておいたのかも。
そんなの、フィシスは見付け出せないよ。…占ってまではいないだろうから、腕輪の在り処。
「占いが全てだと思うなよ?」
宝探しと探検ってヤツは、子供の大好きな遊びだろうが。…お前はともかく、元気な子なら。
前の俺たちは、カナリヤの子たちをシャングリラに送ってやったんだ。あの船で生きろ、と。
その子供たちの世話をしてたの、フィシスだろうが。
カナリヤの子たちが船に馴染めば、宝探しを始めるぞ。船のあちこちの探検だって。
そうやって船中を走り回って、いろんな所を覗き込んだり、開けたりしてて…。
フィシスの腕輪とそっくりなヤツを発見したなら、どうすると思う?
早速、届けに走るだろうが。
「行方不明になってた腕輪を一つ見付けた」と、大急ぎでな。
「ホントだ、そうかもしれないね…!」
きっと見付けるよね、カナリヤの子たち。
仕舞い込まれてた腕輪があったら、フィシスに届けに走って行くよね、「見付けたよ」って…!
全てが終わった後だったならば、カナリヤの子たちが最後の腕輪を見付けたならば。
フィシスも自分で嵌めたかもしれない、嵌めてくれる人はもういなくても。
天体の間でいつも行われていた、厳粛な式はもう無い時代でも。
あの船で生きた、前の自分やジョミーや、ハーレイたち。いなくなった皆の思い出に。
フィシスを船に送り届けたハーレイたちから頼まれた通り、皆を覚えているように。
これが最後の腕輪なのだ、と腕に通して。
きっと左手に通したのだろう、最初の腕輪を貰った手に。
「…ハーレイ、その記録、残ってる?」
フィシスが腕輪を嵌めたかどうかの記録は無くても、腕輪の数。
シャングリラが地球を離れた後には、フィシスの腕輪、幾つあったのか…。
それが分かれば、きっと分かるよ。
腕輪が一個増えていたなら、最後の腕輪を嵌めたんだ、って。
「…残念ながら、無いだろうなあ…」
フィシスの腕輪の数までは分からないだろう。
形見の腕輪も残っちゃいないし、今となっては調べようがない。
フィシスが最後の腕輪を嵌めたか、嵌めないままで終わっちまったのかは、謎ってトコだな。
確かめようがないってことだ、とハーレイがフウとついた溜息。
「だから、お前もクヨクヨするな」と。
過ぎてしまった過去に戻れはしないし、腕輪のことで悩むんじゃない、と。
けれど、シャングリラを離れた後にも、フィシスの腕に、最後まで腕輪はあったそうだから。
幼稚園の子たちと普段着を着て遊ぶ時にも、腕輪はあったらしいから。
きっとフィシスは、最後の腕輪を嵌めていたのだと思いたい。
カナリヤの子たちが探し出して来て、自分で嵌めて。
白いシャングリラで生きた皆の思い出に、心臓に近い左の腕に、金色の腕輪を一個増やして…。
フィシスの腕輪・了
※フィシスだけが嵌めていた腕輪。それには意味があったのです。ミュウの子供を助けた証。
もう1つ増える筈だったのが、ジョミーを救出した時の分。最後の腕輪は増えたでしょうか。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(いた…!)
あの子だ、とブルーが名を呼んだ猫。学校の帰りにバス停から家まで歩く途中で、庭にいるのを見付けたから。白と黒のブチ猫、名前はムタ。
人懐っこい猫で、呼ばれると歩いて来てくれる。生垣の側まで。手を振る間にやって来たから、もう嬉しくて立ち話。「元気にしてた?」とか、「今、学校から帰ったんだよ」とか。
もちろん猫は喋らないけれど、「ミャア」と鳴いたり、喉をゴロゴロ鳴らしたり。今日の報告もしていたら…。
「ブルー君、今、帰りかい?」
「あっ…!」
掛けられた声に驚いた。気付かなかった家の住人。この家の御主人、庭木の陰からヒョッコリと顔を覗かせた。「こんにちは」と。
「ごめんなさい!」と頭を下げて、慌てて挨拶。「こんにちは」と御主人と同じ言葉を返して。
失敗しちゃった、と真っ赤になった頬。猫と話している間中、御主人は庭にいたのだろう。
(凄く失礼…)
猫に挨拶していただなんて。おまけに楽しく話まで。先に挨拶するべき御主人を放って、挨拶もしないで猫とお喋り。
大失敗だよ、と肩を落としていたら、御主人は猫をヒョイと抱き上げて。
「気にしなくていいよ、ブルー君」
うちの子を可愛がってくれているのが分かるしね。この子も嬉しそうにしてただろう?
「でも…。ご挨拶…」
「ムタの方が先でいいんだよ。この子は私より偉いからね」
「えっ?」
どういう意味、と目を丸くしたら、御主人は猫を撫でながら。
「そのつもりらしいよ、本人はね。…いや、猫だから本猫かな?」
一番偉いのはムタってことだね、この家ではね。本当だよ。
この家の誰よりも偉いんだ、と撫でた御主人に「ミャア!」と鳴いた猫。「下ろしてよ」という意味らしい。「この通りだから」と下ろして貰った猫は、悠然と向こうへ行ってしまった。
御主人よりも奥さんよりも、娘さんたちよりも偉いムタ。家を代表するのは猫の「ムタさん」。だからこれからもムタを優先でどうぞ、と御主人は言ってくれたのだけれど。
(恥かいちゃった…)
御主人を抜かして、猫に挨拶したなんて。そのまま話をしていただなんて。
(挨拶、とっても大切なのに…)
顔見知りの人に会ったら「こんにちは」だし、「行ってらっしゃい」と声を掛けられた時には、「行って来ます」と元気に返事。「おかえり」だったら、「ただいま」で…。
小さい頃から頑張っていたのに、大失敗をしてしまった。顔が真っ赤になったくらいに。
(…猫に挨拶…)
それだって、大事だとは思う。あそこに猫しかいなかったなら。猫のムタさん、白と黒のブチの毛皮が見えたら、やっぱり挨拶。
(猫だって、ご近所さんだもの…)
挨拶しないで通り過ぎるより、一声かけていく方がいい。「こんにちは」と。
けれど、猫への挨拶だって、人間同士の挨拶の延長。家の人がいたなら、そちらが優先。挨拶はそういうものだから。人間だったら、ちゃんと言葉か返るのだから。
ホントに失敗、とトボトボ帰って行った家。今日は大恥、と。
気分を切り替えるにはこれが一番、と着替えてダイニングに出掛けたおやつ。美味しいケーキと紅茶で気分転換、元気が出たよ、とテーブルにあった新聞を広げて読み始めたら。
(山登り…)
絶壁を登る登山ではなくて、その辺りの山から始める登山。自信がついたら山小屋に泊まって、高い山へと。もっと自信がついたらテントを張って…、といった記事。
身体の弱い自分とは縁が無いのが登山で、それでも楽しそうだから。「登ってみたいな」という気持ちになってくるから面白い。
興味津々で読み進めてゆくと、山での挨拶が書かれていた。登山者同士で交わす挨拶。山登りの途中で擦れ違う人と、「こんにちは」と。
疲れていたって、するのがマナー。会釈だけでも。
(うーん…)
このタイミングで挨拶の話、と今日の失敗を思い返して唸っていたら、通り掛かった母。
「どうしたの?」
新聞に何か、難しい話でも載ってるの?
「そうじゃないけど…。ただの山登りの記事なんだけど…」
でも、挨拶が大事なんだって。山に登るなら、知らない人でも会ったら挨拶しましょう、って。
その挨拶、ぼく、失敗しちゃった…。山じゃないけど。
御主人がいるのに、猫に挨拶しちゃったんだよ、と失敗談を打ち明けた。あそこの家、と。
「ぼくって、ホントに駄目みたい…。ムタを見付けて、夢中になって…」
ちっとも周りを見ていなかったから、ホントのホントに大失敗だよ。
「あら、失敗は誰にでもあるわよ。そういうのはね」
「ママもやったの?」
家の人、ちゃんと其処にいるのに、猫に挨拶。
「そうよ、何回もやってるわよ。ご近所でもやったし、お友達の家でも」
出掛けて行って、お留守かしら、と勘違いしちゃって…。
それだけならいいけど、猫とか犬にお話しちゃうの。「今日はお留守番?」ってね。
「ママでもやるんだ…。そんな失敗」
「パパもやってると思うわよ?」
チャイムを鳴らして返事が無ければ、お留守なのかと思うじゃない。
お庭の方かも、って眺めた時にね、猫とかがいたら、やっちゃうわよ。「お留守なの?」って。
ママでもやるから大丈夫、と太鼓判を押して貰った。
人がいることに気付いた時に挨拶出来れば、それで充分。「ごめんなさい」と、気付かなかったことを謝って。
挨拶は人間関係の基本なのだし、挨拶する気持ちが大切だから、と。
「ホント?」
「ええ、本当よ。それにね、ムタさんの家の御主人はね…」
猫にも挨拶してくれる人が大好きなのよ。あの御主人に挨拶をしたら、次はムタさん。そういう順番になってるみたいよ、猫好きだから。
「猫に挨拶って…。ママも?」
「何度もしたわよ、「こんにちは」ってね」
だから、ムタさんの方が先でも本当に大喜びなの。「挨拶して貰えて良かったね」って。
またやったって大歓迎して貰えるわよ、と母に教えて貰ったけれど。ムタの御主人が言っていた言葉は、どうやら本当らしいけれども。
部屋に帰ったら、やっぱり溜息。結果はどうあれ、失敗したことには違いないから。
(山では、疲れていたって挨拶…)
向こうから人がやって来た時は。「こんにちは」と元気に声が出せなくても、会釈すること。
そういえば、ハーレイはジョギング中に手を振ると言っていた。誰か手を振ってくれた時には。手を振るのは多分、子供だろうに、手を振り返して走ってゆくハーレイ。
山と同じで、ジョギングしている真っ最中でも、挨拶を返しているわけで…。
(ぼくって駄目かも…)
走っていたって、周りが見えているハーレイ。子供にもきちんと挨拶をする。なのに、のんびり歩いていた自分は家の御主人を見落としてしまって、猫に挨拶。そのまま猫と話まで。
注意力散漫だから失敗しちゃって恥をかくんだ、と考えていた所へ、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたまではいいのだけれど。
(きちんと挨拶…)
今日くらいはハーレイにも挨拶しなきゃ、と引き締めた心。ちゃんと挨拶、と。
猫で失敗した分まで。御主人抜きで猫に挨拶していた分まで、ハーレイに挨拶、と思ったのに。
母の案内でハーレイが現れた途端に、「ハーレイ!」と呼び掛けてしまった自分。
挨拶なんかは綺麗に忘れて、いつものように。「来てくれたの?」と。
そのハーレイと、テーブルを挟んで向かい合わせに腰掛けて。お茶のカップに手を伸ばしたら、気が付いた。挨拶を忘れていたことに。
「やっちゃった…」
ぼくってホントに駄目みたい…。また失敗…。
「失敗って、何をだ?」
ハーレイは怪訝そうだけれども、失敗は失敗。いつも通りでも大失敗だから。
「挨拶、忘れた…」
ちゃんとハーレイに挨拶しなきゃ、って思ってたのに。
「挨拶って…。普通だったろ?」
忘れてないだろ、お前、いつもと変わらなかったぞ。嬉しそうだったし。
「いらっしゃい、って言おうとしていたんだよ」
ハーレイ、お客様だから…。お客様には「いらっしゃい」でしょ?
「おいおい、なんだか気味が悪いな。お客様も何も、今更だろうが」
そんな挨拶、お前から聞いたことなんか一度も無いと思うが…。
いきなりどうした、何かあったのか?
俺に「いらっしゃい」と他人行儀な挨拶をするほど、お前が変になっちまうことが。
「あのね…」
挨拶で失敗しちゃったんだよ、今日の帰りに。
バスを降りてから歩いてた時に、とっても可愛い猫に会ったから…。
その家の御主人に気付かないまま、猫に挨拶して話しちゃってた、と白状した。大失敗、と。
「…いいんだよ、って言って貰ったけど、ホントに失敗…」
だから挨拶のやり直し、ってハーレイに言おうとしてたのに…。「いらっしゃい」って。
「なんだ、そういうことだったのか。猫に挨拶しちまった、と」
愉快じゃないか、子供なんだし、大丈夫さ。そうでなくても、御主人、猫が大好きなんだろ?
猫に挨拶が歓迎だったら、お前は失敗してないんだから。
「でも…。注意してたら、失敗しないよ」
挨拶、とっても大切なのに…。小さい頃から、ちゃんと挨拶してるのに。
「気持ちは分かるが、そこまで恥だと思わなくても…」
第一、お前はよくやっていると思うぞ、俺は。
「…何を?」
「挨拶だ、挨拶。今は挨拶の話だろうが」
お前は立派に挨拶してる。今日は失敗したかもしれんが。
「えーっと…。学校でハーレイにしてる挨拶?」
先生なんだもの、挨拶するよ。他の先生だって、会ったら、きちんと。
「その挨拶の方も大したもんだが…。それよりも前に、だ…」
お前、元々、される方だろ?
挨拶ってヤツを。
「される方って…。何の話なの?」
ぼくは挨拶をする方で…。クラブなんかも入ってないから、誰も挨拶してくれないよ?
挨拶した時のお返しだとか、後はご近所さんだとか…。先に気付いてくれた時だけ。
「前のお前だ、今じゃなくてな」
挨拶される方だったろうが、いつだって。ソルジャーから先に挨拶はしない。
シャングリラじゃ、そういう決まりだったと思うがな…?
「そうだっけ…!」
忘れちゃっていたよ、そんなこと。…今の今まで、ホントに全部。
あったんだっけ、と蘇った記憶。遠く遥かな時の彼方で、確かにあった決まりごと。
白い鯨が出来るよりも前、ソルジャーの肩書きがついた途端に、エラが勝手に決めてしまった。船の中でソルジャーに出会ったならば、必ず先に挨拶すること、と。
ソルジャーが挨拶するよりも前に。敬意を表して、挨拶の言葉。
「お前、あの決まりに慣れなくて…」
ソルジャーって呼び名の方もそうだが、いきなり特別扱いだしな?
挨拶は必ず向こうから、って決められたって上手くいかないんだよなあ…。
「うん。ぼくの方が先に挨拶しちゃうんだよ」
だって、それまで、そうだったから…。一番のチビで、子供だったんだから。中身だけはね。
いくら大きくなっていたって、他のみんなの方が上だよ。ぼくが挨拶しなくっちゃ。
そうしていたのに、エラが決まりを作っちゃって…。
ぼくが挨拶しちゃった時には、エラが側にいたら直されるんだよ。「それでは駄目です」って。
ソルジャーなんだから、相手に挨拶させるべきだ、って。
「そうだったんだよなあ、エラは礼儀作法ってヤツにうるさかったし」
お前は本当に困っちまって、仲間たちも途惑っていたっけなあ…。調子が狂って。
あの決まりが出来てしまうよりも前は、お前、みんなに挨拶してたし…。今のお前みたいに。
もっとも、俺はそれほど困らなかったが。ああいう決まりを作られてもな。
「なんで?」
ハーレイもエラに直されてたと思うんだけど…。「やり直して下さい」って、何回も。
「そいつは俺の言葉の方だ。敬語になっていなかったからな、最初の頃は」
言葉遣いが間違っている、と直されただけで、挨拶の方は言われていないぞ。
「よう!」とやったら失礼な言葉遣いってことで失敗するがだ、元から俺が挨拶してたろ。
お前を見掛けたら、俺の方が先に。
「そういえば…。ハーレイ、気付くの、とっても早かったもんね」
ぼくが通路を曲がった途端に、「よう!」って手を振ってくれたっけ。
ぼくは大抵、振り返す方。…ハーレイが先に気付いちゃうから。
前のハーレイはそうだった。シャングリラの中で出会った時には、距離があっても振ってくれた手。挨拶の声が届かないほどでも、「此処だ」と、「俺だ」と。
いつも嬉しくて、精一杯に振り返した手。「ぼくだよ」と、「じきにそっちに行くよ」と。
けれど、そのハーレイとさえ開いてゆく距離。ソルジャーという肩書きのせいで。
自分からは先に出来ない挨拶。相手が挨拶してくるまでは。
今日はハーレイを先に見付けた、と思った時にも手を振れはしない。ハーレイも前のように手を振ってはくれない。それはエラの言う「挨拶」の内には含まれないから。
ソルジャーに挨拶するなら、会釈。親しみをこめて手を振ることは許されなかった。
ずっと後になって、幼い子たちが船に来た時は、許されたけれど。子供たちはソルジャーに手を振りたがるから、幼い子供の特権で。
その子供たちも、大きくなったら手は振らない。ソルジャーの方からも、もう手は振れない。
幼い子供とは違うのだから、あちらが挨拶するのを待つ。
挨拶されたら、ようやく自分も話すことが出来た。挨拶にしても、「元気にしているかい?」と大人の仲間入りを果たした気分を尋ねるにしても。
厄介だったシャングリラの規則。ソルジャーが先に挨拶出来ない決まり。
「なんで、あんな決まりが出来ちゃったのかな…」
挨拶なんか、どっちが先でもいいじゃない。そりゃあ、今でも、少しは決まりがあるけれど…。
御主人よりも先に猫に挨拶するのは、失敗だけど。
「決まりの由来は俺も知らんが、エラだからなあ…」
昔の王族の習慣あたりが出処になっているんじゃないか?
挨拶ってヤツとは少し違うが、身分が下の人間からは話し掛けられないって決まりがな…。
前の俺は全く知らなかったが、今の俺の薀蓄の一つってわけで、雑談のネタにすることもある。
まずは言葉をかけて貰って、それからでないと話せない。そんなルールがあったんだそうだ。
シャングリラでは、其処まで出来ないし…。
ちょっと捻って、「挨拶してからでないと話せない」って風にしたかもしれんぞ。
挨拶抜きでは喋れんからなあ、ソルジャーとはな?
まず挨拶だと、それから喋れと、偉さを強調していたかもなあ…。
「なに、それ…。自分からは話し掛けられないって…」
身分が下だと待ってるだけなの、偉い人の方が先に喋ってくれるのを…?
「そうだったらしい。実際、徹底していたようだぞ」
この決まりのせいで、外交問題になりかかったという事件まであった。
一言も言葉を貰えないから、と怒り出した人間が現れちまって。
「えーっ!?」
外交問題って、お喋りのせいで?
どうしたらそういうことになっちゃうの、いったい何が問題だったの…?
失言だったら外交問題になっても当然だけれど、喋らないことが何故問題になるのだろう?
沈黙は金と言うほどなのだし、黙っておけば良さそうな感じ。そう思ったのに…。
「ところが、そいつが違うんだ。…この場合はな」
フランスって国があったことなら知ってるだろ?
其処に別の国からお輿入れしたお姫様。そのお姫様が問題だった。
王様の孫のお嫁さんになったわけだが、王様のお妃はもういなくって…。その子供たちも、もういなかった。孫が皇太子で、そのお妃の身分が一番高いってな。女性の中では。
しかし王様には、大事な女性がいたわけで…。我儘は何でも聞いてやりたいってトコだ。
お姫様が来るまでは、それで良かった。だが、お姫様が来たら、女性の身分は下になってだ…。元の身分も低かったからと、お姫様は口も利かないってな。
「…それじゃ、外交問題って…」
お姫様の国とフランスとの間の問題?
その女の人が怒っちゃって…?
「分かってるじゃないか。なにしろ、面子が丸潰れだしな」
まるで王妃様のように振舞ってたのに、お姫様のお蔭で台無しだ。身分は下だ、と馬鹿にされているわけなんだから。
王様も怒るし、それは大変で…。結局、お姫様の方が折れたんだ。
たった一言、挨拶すれば丸く収まるというわけでな。
もっとも、その挨拶が実現するまでが、山あり谷ありと言うべきか…。色々な人間が間に入って邪魔をするから、そう簡単にはいかなかったらしい。
挨拶一つでその有様だぞ、国と国とが喧嘩を始めてしまいそうなほどに。
とんでもない決まりがあったもんだ、とハーレイが軽く広げてみせた手。「実話だしな?」と。
「それだけ大騒ぎをやらかした末に、お姫様はなんて言ったと思う?」
今まですみませんでした、と謝ったんなら、俺たちにだって理解できるが…。
そうじゃないんだ、「今日は大勢の人で賑やかですね」と言ったらしいぞ。詫びの言葉は欠片も無しで。だが、それだけで済んじまった。ちゃんと言葉は掛けたんだから。
「…ごめんなさい、って言うんじゃないんだ…」
外交問題になっていたって、たったそれだけ…?
「うむ。お姫様から言葉を貰えばいいわけだからな。中身はどうでもいいってことだ」
怒っていた女性は大満足だし、王様も大いに満足したって話だぞ。
決まりはきちんと守られたわけで、お姫様は女性を丁重に扱ったということになって。
「その話、エラが好きそうだね…」
ソルジャーが「どうぞ」って言わない間は、誰も話し掛けちゃ駄目だとか…。
どんなに話をしてみたくっても、門前払いになっちゃうだとか。
「そうだろう? 俺もそういう気がしてな…」
俺は「挨拶はソルジャーよりも先に」ってヤツの、由来を全く覚えちゃいないが…。
前の俺が知っていたのかどうかも謎だが、この辺りが元になったんじゃないか?
シャングリラって船の事情に合わせて、アレンジして。
とにかくソルジャーを偉く見せようと、「挨拶はソルジャーよりも先に」と徹底させて。
エラはソルジャーの威厳にこだわってたしな、と苦笑いを浮かべているハーレイ。
「お前には気の毒な決まりだったが、フランスよりかはマシだろうが」と。
「本当にあれが元だったのかは分からんが…。そのまま使われていたら大変だぞ?」
ただでもお前は、みんなと喋りたかったのに…。気軽に話し掛けて欲しかったのに。
お前の方から「話していいよ」と言わない限りは、誰も喋ってくれないんじゃなあ…?
その点、挨拶するだけだったら、そいつが済んだら喋れるんだし…。
挨拶は向こうが先にするっていう決まりだったし、お前は話し掛けては貰えたわけだ。やたらと丁寧な敬語だろうが、何だろうが。
「あの挨拶…。ぼくに会ったら、挨拶は相手の方から、ってヤツ…」
緊急事態は除外します、ってエラは決めちゃってたけれど…。
当たり前だよね、そうしておくこと。
シャングリラがどうなるか分からない時に、挨拶なんかを待っていられないよ。
誰でもいいから声を掛けるし、「手伝って」って頼みもするんだから。
「そんな時まで、いちいち挨拶しないよなあ?」
俺の敬語も、最初の頃なら吹っ飛びそうだぞ。
アルテメシアから逃げ出そうって時には、とっくに癖になっていたからヘマはしなかったが…。
お前が「ワープしよう」と言い出した時も、ちゃんと敬語で応じてたがな。
…待てよ、あの時、お前に挨拶してないか…。
お前から思念が飛んで来たから、誰も挨拶しなかったっけな、画面に映し出されたお前に。
緊急事態ってヤツだからなあ、エラも忘れていたんだろうが…。
いくらエラでも、挨拶がどうのと言っていられる状況なんかじゃなかったんだし。
まったくもって妙な習慣だった、とハーレイが苦笑している挨拶。ソルジャーに会ったら、先に挨拶するという決まり。
「そうは言っても、お前も自然と慣れてったわけで…」
挨拶は向こうがしてからだ、って堂々と振舞うようになっていたのに、今じゃコロリと変わっているよな。昔のお前と全く同じに、自分の方から挨拶と来た。
そっちの方に慣れ過ぎちまって、猫に挨拶しちまうくらいに。
「忘れちゃっていたよ、そんなことは」
誰かに会ったら、挨拶するのを待ってたなんて。…ぼくの方からは挨拶しないで、偉そうに。
最初の間は寂しかったけど、慣れてしまったら、そういうものだと思うから…。
船のみんなも慣れてしまって、自然とそうなっていっちゃったから。…子供たちもね。
小さい間はぼくの方から挨拶したけど、大きくなったら向こうが先。手だって、ぼくには振ってくれなくなってしまって。
でも、ナキネズミには、ぼくから挨拶していたから…。船の中でバッタリ会った時には。
「そうだったのか?」
ナキネズミはお前よりも偉かったわけか、ソルジャーの方が先に挨拶するんだから。
船のヤツらは、みんな揃ってソルジャーに挨拶していたのに。
「ナキネズミにまでは、エラも礼儀作法を叩き込んではいなかったしね」
青の間にだって出入り自由だったし、ナキネズミは例外。ぼくと普通に喋っていても。
ナキネズミが敬語で話すのは聞いたことが無いと思うよ、多分、一度も。
ふざけて使ったかもしれないけれども、本当の意味での敬語なんかは。
…そのせいで猫に挨拶しちゃったのかな?
ぼくから挨拶したっていいんだ、って喜んじゃって、御主人に気が付かないままで。
猫もナキネズミも動物だもの。
「それはないだろ、今のお前は挨拶好きだし」
学校で俺を見掛けた時にも、「ハーレイ先生、こんにちは!」だしな。
今日のがただの失敗ってだけだ、御主人よりも先に猫だったのは。
ナキネズミのせいにするんじゃないぞ、と額をピンと指で弾かれた。それはお前の失敗だ、と。
「気にしなくてもいいとは思うがな…。実に可愛い失敗じゃないか」
猫に夢中で、周りが見えていなかったなんて。前のお前なら有り得ないミスだ。
いくらナキネズミと遊んでいたって、誰か来たなら切り替えたろうが。ソルジャーの貌に。
ナキネズミに挨拶するにしたって、周りに誰かがいるかどうかは見ていただろう?
「そうだね、サイオンで軽く探ってからだね」
エラじゃないけど、ソルジャーらしくしていないと駄目だ、っていうのは分かってたから…。
誰かいるのに気付かないままで、ナキネズミに挨拶はしなかったよ。
でも、挨拶って大切だよね。礼儀作法は抜きにしたって。
きちんとするのが大切なことで、ぼく、頑張っていたんだけどな…。今日のは失敗…。
「気にするなって言ってるじゃないか。その御主人もそう言ったんだろう?」
猫の方が先でかまわない、って。
それに、その御主人でなくてもだ…。挨拶はお互い、気持ち良く過ごしていくためだろう?
「こんにちは」と言って、「こんにちは」と返して、笑顔の交換。
しかし、そいつが出来ない時だってあるんだから。色々な事情というヤツで。
「色々って…。ハーレイはジョギング中でも挨拶するでしょ?」
それも全然知らない人に。…手を振ってくれた子供には、ちゃんと手を振って。
「そりゃまあ…なあ? 俺を応援してくれるわけだし…」
振り返すのが礼儀ってモンだろ、そういう時は。
知り合いに会ったら「こんにちは」と声も掛けて行くがだ、そいつは俺だから出来るんだ。
同じジョギングでも、お前だったらどうなるんだ?
お前はジョギングなんかはしないが、体育の授業で走っている時を想像してみろ。学校の外まで走りに行くヤツ、あるだろう?
「ぼくは行かないよ、学校に残って自習してるよ」
「なるほどな…。アレで学校の外に行ったら、手を振ってくれたり、声が掛かるぞ」
頑張って、と大人からだって。お前、走りながら、声を返したり出来るのか?
「ううん、出来ない…」
「ほら見ろ、時と場合によるんだ」
挨拶ってヤツも。事情は本当に人それぞれだし、気にしなくてもいいんだ、うん。
具合が悪けりゃ出来ないしな、とハーレイがパチンと瞑った片目。
その時々ですればいいのさ、と。挨拶出来る気分の時には、猫が先でも挨拶すれば、と。
「無理して挨拶されてもなあ…。相手だって困っちまうだろうが」
とても具合の悪そうな人に、「こんにちは」と掠れた声で言われたら。
「こんにちは」と返すよりも前に、心配になって「大丈夫ですか?」と駆け寄っちまうぞ。
そういう挨拶は嬉しくないよな、そのくらいなら「すみません」と助けを求められた方が…。
人間、素直にならんといかん。挨拶は特に、気持ち良く、だな。
「…じゃあ、山は?」
山だと挨拶はどうなっちゃうの、凄く難しそうだけど…。
「はあ? …山だって?」
何なんだ、山で挨拶っていうのは何処から出て来た?
お前、学校の外にも走りに行かないってのに、山登りに行きたくなったのか?
数えるほどしか行ってないんだろ、山なんか…?
「そうなんだけど…。今日の新聞に載ってたんだよ、山登りの記事が」
面白いね、って読んでいったら、挨拶のことが書かれてて…。
山登りの時に誰かと擦れ違ったら、必ず挨拶するのがマナー。疲れていても、って…。
だから、とっても難しそうだよ、山で挨拶しようとしたら。
どんなに息が切れていたって、「こんにちは」って言うか、会釈をしないと駄目だし…。
「なんだ、そういう挨拶のことか」
そいつはいわゆる理想ってヤツだ。山に登るならこうあるべき、とな。
実際に登ってみれば分かるが、「こんにちは」って元気に言える間しか歩いちゃ駄目だ。本当に山を楽しみたいなら。
体力に余裕を残しておくのが大事で、決して無理をしちゃいけない。山は普通の道とは違うし、疲れてもバスに乗るってわけにはいかないだろうが。
麓に下りるとか、山小屋に入るとか、ゴールに辿り着けないと駄目だ。自分の力で。
挨拶も出来ないほど疲れちまったら、色々とミスが増えてくる。道に迷ったり、足を挫いたり、ロクなことにはならないってな。
そうならないための心得事だ、と教えて貰った。体力に充分余裕があったら、出来る挨拶。
山登りは山の気分に左右されるから、余計に必要になる余裕。身体も、心も、と。
「天気が変わりやすいんだ。今の季節だと、高い山なら、いきなり雪になるとかな」
疲れ切ってしまっていたなら、どうすればいいか分からなくなる。そいつはマズイ。充分余裕を持っていたなら、冷静に判断出来るんだがな。
ついでに、山での挨拶ってヤツは、相手の様子に気を付けるっていう意味もあるから。
「様子って…?」
「疲れていそうか、まだまだ元気に行けそうなのか。…そんなトコだな」
助けが要るってこともあるだろ、これから先の道の様子を聞きたいだとか。
擦れ違うんだから、自分がさっき歩いて来た道に行く人なんだ。実際に歩いた人の話は大切だ。
お互い黙って擦れ違ったら、呼び止めて訊くのも悪いって気持ちがしちまうが…。
「こんにちは」と挨拶したなら、「この先の道はどうですか?」と訊きやすいだろうが。
そういう風に訊かれなくても、無理をしていそうな様子だったら止めないと…。
次の山小屋までは遠いから、此処から戻った方がいいとか。
戻るんだったら、荷物を少し持ちましょうかとか、助け合いの心が大切なんだな、山ではな。
必要があっての挨拶だから、山の挨拶は気にするな、と笑ったハーレイ。
「お前の思っている挨拶ってヤツとは少し違うな、山でやってる挨拶は」
だから心配しなくていい。山と同じに考えなくても、普通の挨拶には別のルールがあるから。
挨拶出来る気分の時には、元気に挨拶すればいいんだ。
お前はとてもよくやっているぞ、学校じゃ、きちんと出来ているしな。どの先生にも挨拶して。
猫に挨拶しちまったのもだ、挨拶するって習慣があるお蔭だろうが。
挨拶しようと思ってなければ、猫にまで挨拶しないんだから。
「そっか、良かった…」
失敗しちゃった、って思ってたけど…。ママが言う通りに平気なんだね。
ママも猫とか犬に挨拶しちゃう、って…。お留守だと思って、庭を覗いてみた時とかに。
「ほらな、お前のお母さんでもそうなんだ」
人間、誰だって失敗はある。前のお前も失敗してたろ、挨拶の決まり。
ソルジャーは後から挨拶なんです、ってエラが決めても、最初の頃には何回も。
お前、挨拶、好きだったから…。前の俺にも、遠くから手を振り返してたし。
俺の方が先に見付けていなけりゃ、お前、絶対、手を振りながら走って来ただろうしな。
ソルジャーになる前の頃だったなら。
「そうだと思う…」
きっと嬉しくて、手を振りながら走るんだよ。「ハーレイ!」って名前を呼びながら。
こんにちは、って挨拶するんじゃなくって、「何処へ行くの?」って訊いていそうだけれど。
「何処へ行くの、って訊くのも立派な挨拶だぞ?」
よく聞くだろうが、「お出掛けですか?」っていうヤツを。あれも挨拶の内なんだから。
お前ってヤツは、今も昔も挨拶が好きなままなんだな。…ソルジャーだった頃も、ナキネズミに挨拶していたくらいに挨拶好き、と。
その精神を持っていたなら、チビでも挨拶の達人ってことだ。
挨拶は大切なコミュニケーションで、そいつが好きでたまらないんだから。
だが見たかった気もするな、とハーレイが可笑しそうにしている、猫への挨拶。
今日の自分が大失敗した、御主人よりも先に猫にしていた挨拶。
「お前、さぞかし真っ赤だったんだろうな、御主人に声を掛けられた時は」
俺にまで挨拶の話をするほど、恥ずかしい気持ちになったようだが…。
見ていて気持ちが良かったからこそ、御主人は声を掛けたんだぞ?
黙っていたなら、お前、そのまま気付かないで帰ってしまうんだろうし。
「そうかもだけど…。でも、やっぱり…」
恥ずかしいってば、人間よりも先に猫に挨拶しちゃうのは!
ぼくは挨拶に気を付けてる分、ホントのホントに恥ずかしいんだよ…!
失敗なんて、と頬っぺたがまた赤くなるから、やっぱり次から気を付けよう。
ハーレイは「大丈夫だ」と言ってくれたけれど、行儀のいい子でいたいから。
失敗しないで挨拶が出来る、しっかりした子になりたいと思う。
(だって、いつかはハーレイのお父さんたちに…)
挨拶をする時が来るから、「こんにちは」と。「はじめまして」と。
隣町の、庭に夏ミカンの大きな木がある家に出掛けて、挨拶をする日。
その時は失敗したりしないで、きちんと挨拶したいから。
「まだまだ子供だ」と思われないように、結婚出来る年に相応しいように。
だから、挨拶を頑張ろう。失敗したって、真っ赤な顔にならずに落ち着いていられるように…。
大切な挨拶・了
※シャングリラにあった、前のブルーには厄介だった決まり事。先には出来なかった挨拶。
エラがそう決めた根拠は謎ですけれど、ソルジャーから挨拶出来た相手は、ナキネズミだけ。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
桜と共に、シャングリラ学園に新しい年度がやって来ました。新入生が溢れる季節で入学式のシーズンです。特別生の私たちはもちろん今年も1年生。入学式に参加するかどうかは自由ですけど、やっぱり節目の行事なだけに。
「記念撮影、今年もするよね?」
いつものスポット、とジョミー君。入学式の日の校門前は新入生が次々に記念撮影中で。
「そりゃまあ、毎度のことだしよ…。撮らねえって手はねえよな、うん」
交代で撮ろうぜ、とサム君が。カメラはスウェナちゃんが持って来ています。元ジャーナリスト志望なだけにプロ仕様とも言える立派なカメラ。
「じゃあ、撮るわよ? ちゃんと並んで!」
整列、整列! とスウェナちゃんが仕切り、「入学式」と書かれた看板の前に並んでポーズを。何も知らない新入生とか保護者から見れば、仲良しグループが揃って合格、晴れて入学という所でしょう。パシャリと写してカメラマン交代、キース君が撮って、ジョミー君も。
撮影の後は入学式の会場の講堂に出掛け、きちんと着席しましたけれど…。
『…これから後が長いんだよ…』
寝てもいいかな、とジョミー君の思念。「いいんでねえの?」とサム君が返しています。
『どうせその内、起こされるんだし、早めに寝とけよ』
『『『あー…』』』
そうだった、と交わした苦笑の思念波。間もなくジョミー君はコックリコックリ船を漕ぎ始め、他のみんなも欠伸をしたり、キース君なんかは左手の数珠レットを繰ってますから心でお念仏の真っ最中。居眠るよりかはお念仏とは副住職だけあって立派かも、と思っていたら。
『居眠るな、仲間たち!!』
朗々と響き渡った思念波、ジョミー君がガバッと顔を上げたくらい。来ました、会長さんの仲間探しのメッセージが。
『ぼくはシャングリラ学園生徒会長、名前はブルー。このメッセージが聞こえているなら、今日の行事が終わった後で来て欲しい。場所は…』
パアアッと頭の中に広がった校内の地図と映像イメージ、「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋へ向かって誘導しているのが分かります。さて、このメッセージが聞こえた人は…?
『いそうかよ?』
『…いや、無反応と見た』
静かなもんだ、とサム君とキース君の思念。広い講堂に集まった今年の新入生たち、お仲間はいないようですねえ…。
こんな感じで始まった新年度、クラスは不動の1年A組。またか、と言うだけ無駄というもの、担任までが不動のグレイブ先生。
「…ブラックリストっていうのを痛感させられますよね…」
もう永遠にコレでしょうね、とクラス発表の紙を指差すシロエ君。私たち七人グループの名前が漏れなく入って、担任はグレイブ・マードックの文字。
「俺たちのせいではないと思うが…。ブラックリストは」
だが入ったものは仕方がない、とキース君は諦めの境地です。
「俺たちがいるとあいつが来るんだ、そしてエライことになるのが毎度のパターンだ」
「やっぱりブルーのせいだよねえ…」
見込まれたのが運の尽きっていうヤツだよね、とジョミー君もフウと大きな溜息。
「今日も来るんだよ、グレイブ先生が実力テストを始めたらさ」
「グレイブ先生も懲りませんよね、毎年、毎年」
どう転んでも来ると思うんですが、とマツカ君までが。入学式の日にグレイブ先生がやらかす実力テストを足掛かりにして1年A組に入り込むのが会長さんで、グレイブ先生との熾烈なバトルになる年も多いんですけれど…。
「今年はどっちのパターンかしらねえ、スルリと入るか、グレイブ先生が捻って来るか」
スウェナちゃんが首を傾げて、サム君が。
「あればっかりは読めねえからなあ…。まあ、どっちでもいいんじゃねえの?」
「そうだな、賭けるほどでもないな」
行くか、と教室に向かって歩き始めるキース君。私たちも馴染んだ通路をスタスタ歩いて、いつもの1年A組へ。やがてカツカツと高い靴音、現れたグレイブ先生の姿に他のクラスメイトが息を飲んだのが分かります。「ハズレの先生」が来た恐怖に。
若干二名ほど落ち着いてるのが、特別生のアルトちゃんとrちゃん。何をしたわけでもないのにブラックリストに入れられたらしく、毎年、毎年、1年A組というのが気の毒かも…。
「はじめまして、諸君。私はグレイブ・マードック。…グレイブ先生と呼んでくれたまえ」
最初に諸君の実力を見たい、と始まりました、今年も懲りずに。配られて来た数学の問題ギッシリのプリント、あちこちで悲鳴が上がっている中、カラリと教室の扉が開いて。
「やあ、こんにちは。…ぼくはシャングリラ学園の生徒会長でブルーと言うんだけど…」
ぼくをこのクラスに混ぜてくれたら、この実力テストも含めて一年間のテストは全て満点、と会長さんの公約が。…うーん、今年はアッサリ勝負がついたようですねえ、グレイブ先生、戦いを放棄しましたか…。
会長さんは1年A組への仲間入りを果たし、入学式の日は無事に終了。サイオンを持った新しい仲間も入学して来ず、今年も「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋を溜まり場として使えることに。万々歳で浮かれている中、校内見学にクラブ見学と授業の無い日が続いてますけど…。
「かみお~ん♪ 明日は卵の日なんだよ!」
放課後に「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に行ったら、ニコニコ笑顔の「そるじゃぁ・ぶるぅ」。そういえば明日は新入生歓迎会があるんでしたっけ、特別生はお呼びじゃないので存在自体を忘れてましたが…。
新入生歓迎会の花がエッグハントで、「卵の日」。歓迎会は軽食やお菓子が食べ放題のパーティーですけど、それが終わったらエッグハント、すなわち卵探し。本来はイースターの行事ですから、春という季節だけは合っているかもしれません。
シャングリラ学園のエッグハントは宗教色とはまるで無関係、ただのお宝探しのゲーム。校内に隠された卵を探してゲットするだけ、お菓子の卵や、何か入った卵やら。中でも最大の目玉となるのが特賞の卵、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が化ける卵で。
「今年の特賞、何なんだよ?」
豪華なんだろうなあ、とサム君が訊けば。
「えっとね、選べるクーポン券! 旅行に行ってもいいし、お買い物もいいし…」
お値段、これだけ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が挙げた金額は流石の豪華さ。一人占めするなら海外旅行も出来そうです。
「すげえな、今年も血眼になって探すんだろうな、新入生のヤツら」
「だろうねえ…。ぼくたちにはもう縁が無くなった世界だけどね」
最初の年しか遊べなかったし、とジョミー君。その最初の年に特賞の卵を見付けたというのに、台無しにしたのも私たちです。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が化けた卵と知らずに催涙スプレーやらスタンガンで攻撃、大当たりだった旅行券を無効にされてしまった思い出が…。
「無関係というのが寂しかったら、隠す係を君たちにやらせてあげるけど?」
知恵を絞って卵を隠して回りたまえ、と会長さん。
「あれもなかなかに楽しいものだよ、何回かやっているだろう?」
「…明日ですよね?」
卵隠し、とシロエ君が訊くと「うん」と返事が。
「歓迎パーティーの間に隠して回る! それが王道!」
やってみる? というお誘いに「やる!」と答えた私たち。たまには生徒会のお手伝いという名の卵隠しもいいものですしね!
次の日、パーティー会場へ向かうクラスメイトたちとは別の方向へ向かった私たち。生徒会室に着くと会長さんが山と積まれた卵を前にして「はい」と大きな籠をくれました。
「これで好きなだけ持って行ってくれればいいからね。君たちで隠し切れなかった分は、ぼくがサイオンで片付けるから」
「分かった。適当に貰って行くことにする」
この辺がけっこう当たりっぽいな、とキース君が陶器の卵を取って籠に入れ、チョコレートの卵やキャンディー入りの卵もドッサリと。私たちも籠に詰め始めましたが…。
「そういや、ぶるぅは何処に隠れているんだよ?」
そこは避けないと、とサム君が。
「あー、ぶるぅ! 被っちゃマズイね」
忘れてた、とジョミー君が言ったのですけど、会長さんは。
「なんだ、今頃、気が付いたんだ? 今までに何度も隠してるくせに」
その質問は一度も無かった、と可笑しそうな顔。
「心配しなくても被りやしないよ、ぶるぅは自由に動けるからね」
「「「え?」」」
「卵だよ、卵。卵に化けているっていうだけなんだし、卵に戻った時とは違うよ」
ここはマズイと思った時には瞬間移動で別の所へ移動するのだ、と聞いてビックリ、動ける卵。それじゃ、もしかして、私たちがエッグハントをした年、「そるじゃぁ・ぶるぅ」に会えたのは…。
「決まってるだろう、ぶるぅが自分で出て行ったんだよ、君たちの前に」
見付けて貰えるように移動したんだ、と会長さん。
「せっかく仲間が見付かったんだし、仲良くしたいって張り切ってたのに…」
「…すまん、催涙スプレーもスタンガンも俺だ」
怪しい卵だと攻撃したのは俺だった、とキース君が頭を下げました。マツカ君が誘拐対策に通学鞄に入れていたアイテムを持って来させたのも、使ったのもキース君でしたっけ…。
「もう時効だよ、ぶるぅもとっくに許しているしね。それに仕返し、その場でやったし…」
「「「…旅行券…」」」
パアにされた、と悲しい思い出が蘇ったものの、「そるじゃぁ・ぶるぅ」だって酷い目に遭ってしまったんですから、お互い様というものです。ここは忘れて水に流して…。
「卵隠し、行って来ます!」
シロエ君がダッと駆け出し、私たちも校内に散りました。さーて、隠すぞ、何処に隠すのが楽しいですかね、職員室にも行って来ようかな…?
エッグハントは今年も盛況、新入生たちは楽しく遊んでくれたようです。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が卵に化けて持っていたクーポン券をゲットした幸運な生徒は躍り上がって喜んだとか。翌日は土曜日、会長さんの家に集まってワイワイ、お菓子を食べつつエッグハントの話題再び。
「やっぱアレだよな、職員室とかが盲点だよな!」
入って行く勇気のあるヤツが少ねえし、とサム君が笑って、キース君も。
「礼法室もなかなか来ないぞ、俺はあそこの茶釜に隠した」
「えーっ! あれってキース先輩でしたか!」
ぼくも茶釜を開けたんです、とシロエ君。
「ここならいける、と覗いたら先に卵が入ってて…。仕方ないんで、茶釜の下に」
「「「下?」」」
「灰の中ですよ、そこに何個か突っ込みました」
「「「うわー…」」」
そんな所まで探す生徒がいるのだろうか、と思いましたが、会長さんが言うには隠した卵は全て発見されたとか。新入生のパワー、恐るべしです。礼法室の灰の中まで探すんですか…。
「特賞の卵がかかっているしね、ゴミ箱も端から開ける勢いだよ」
「ぼく、ゴミ箱には隠れないんだけどね…」
もっと居心地のいい場所にするもん! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。今年は中庭の木の一本に小枝で巣作り、其処に隠れていたそうです。
「なるほどな…。卵を隠すなら巣の中なのか」
盲点だった、とキース君が褒めると「そるじゃぁ・ぶるぅ」は。
「鶏さんの小屋があったら、其処でもいいけど…。ウチの学校、それは無いしね」
「無いですね…。でも、灰の中まで探した生徒もガックリですよね」
いともアッサリ中庭の木じゃあ…、とシロエ君がお手上げのポーズで、ジョミー君も。
「巣だもんねえ…。入ってます、って言わんばかりの場所なんだけどな」
「それが意外に見付からないんだよねえ、本物の巣だと思ったみたいで」
気付いた生徒は多いけれども、と会長さんがクスクスと。
「あそこには絶対入っていないという思い込みだね、鳥の巣だしね」
「だよなあ、入ってるとしたら、普通は本物の卵だよなあ…」
下手に覗いたら親鳥の蹴りが入りそうだし、というサム君の意見に私たちも揃って納得です。つつかれるだとか、髪の毛を掴んで毟られるだとか、ロクな結果になりませんってば、本物の鳥の巣を覗き込んだら…。
ウッカリ覗けば流血の惨事になりそうなリスクが高い鳥の巣。それを覗いて「そるじゃぁ・ぶるぅ」の卵を見付けた勇者には乾杯あるのみです。クーポン券を貰えるだけあってまさに勇者だ、と紅茶やコーヒーで賑やかに乾杯していたら。
「こんにちはーっ!」
遊びに来たよ、とフワリと翻った紫のマント。いつものソルジャーが現れて…。
「ぶるぅ、ぼくにも紅茶とケーキ!」
「かみお~ん♪ 今日は桜蜂蜜のロールケーキだよ!」
桜の花の蜂蜜をたっぷり使ってあるの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が桜クリームのピンクが綺麗なロールケーキをサッと運んで来ました。もちろん紅茶も。ソルジャーは「ありがとう!」とフォークを入れて。
「うん、美味しい! 桜もまだまだ咲いているしね、北の方へ行けば」
昨日も夜桜見物に行った、と言ってますから、桜の話をしに来たのかと思ったんですが。
「桜もいいけど、卵もいいねえ…」
「「「は?」」」
何処から卵、とロールケーキを眺めて納得、ケーキの材料は卵だっけ、と考えたのに。
「違う、違う! そういう本物の卵じゃなくて!」
昨日の卵の方だけれど、とソルジャーはエッグハントの話を持ち出しました。覗き見していても楽しそうだったと、あれをやりたいと。
「もう最高だよ、エッグハント! あれでこそゲーム!」
宝探しのゲームだよね、という見解は、まあ間違ってはいないでしょう。でも、ソルジャーだと、何処に卵を隠したとしても、楽勝で探し出せるのでは…?
「え、それはもちろん、そうだけど…」
「ふうん…? だったら、君の目的は賞品なわけ?」
簡単に探し出せるんだしね、と会長さん。
「ノルディに頼んで豪華賞品とかを用意させてさ、ぼくたちも巻き込んでやった挙句に自分でサラッと掻っ攫うだとか、そういう感じ…?」
あまり嬉しくないんだけれど、という鋭い読みに、私たちも揃ってコクコクと。そんな結果が見えているゲーム、やりたい気持ちはありません。頑張った挙句にソルジャーの一人勝ちで終わるくらいなら、最初から参加しませんってば…。
却下だ、却下だ、と誰もが心で叫んでしまったエッグハント。出来レースと言うか八百長と言うか、ソルジャーが勝つと分かっているのに付き合えるもんか、とブーイングしたい所ですけど、そこまでの度胸も無いというのが正直な話。けれど顔には出ていたらしくて。
「…なんだか歓迎されていないって雰囲気だねえ…」
せっかく面白そうなのに、とソルジャーは不満そうな顔。
「君たちだってワクワクと隠していたくせに…。茶釜の中とか、灰の中とか」
「そりゃ、隠す方は誰だって張り切るものだよ!」
ぶるぅだって張り切って隠れていたし、と会長さん。
「どう隠れようか、何処にしようかと考えて今年は鳥の巣なんだよ、卵を隠すなら巣の中だよ!」
「ほらね、そういう楽しみがね!」
その楽しみをぼくにも是非、と妙な台詞が。ソルジャーがやりたいエッグハントって、探す方じゃなくて隠す方だとか…?
「そう! 探す方だと一瞬で全部分かっちゃうしね、楽しいも何も…」
ブルーとぶるぅはともかくとして他の面子の分がバレバレ、とソルジャーは私たちをチラチラと。
「サイオンで隠し場所を探すまでもなく見えるって言うか、覗けると言うか…。ダダ漏れだしねえ、君たちが考えていることは」
何処に隠そうが顔を見た瞬間に分かってしまう、と如何にもつまらなさそうに。
「その点、隠す方ってことになったら、ぼくも思い切り楽しめるしねえ…。何処に隠そうかというのもそうだし、賞品だって色々と選ぶ楽しみがあるってもので!」
「…君の賞品、欲しい人はいないと思うけど?」
なにしろセンスの違いってヤツが、と会長さんの冷静な指摘。
「君が自信を持って選んでも、ぼくやみんなにウケるかどうか…。血眼になってまで探したいものを君が用意するとは思えなくってね」
「失礼な! ぼくだってちゃんと心得てるから、そういうトコは!」
「だったら、一例」
賞品を一つ挙げてみて、と会長さんが突っ込みました。
「チョコレートの卵とか、お菓子入りの卵というのは駄目だよ? もっと他ので!」
「卵に入れるヤツのことかい?」
「そうだよ、チケットでもクーポン券でも、なんでもいいから君が用意しようと思う賞品!」
さあ挙げてみろ、と言ってますけど、相手はソルジャー。どうせ欲しくもないようなものが出て来るに決まってますってば…。
エッグハントをやりたいソルジャー、探す方ではなくて隠す方。エッグハントは卵を探して回ってなんぼで、シャングリラ学園の場合は素敵な卵を見付けてなんぼ。豪華賞品とか食券だとか、見付けて良かったと思う卵が出て来るからこそ燃えるのがエッグハントです。
つまりは美味しい賞品が無ければ卵を探すわけなんか無くて、いくらソルジャーが主催したって私たちが真面目にやるわけがなくて。会長さんもそれを見越してソルジャーに賞品の例を挙げろと突っ込みを入れたんですけれど…。
「ぼくの賞品、絶対、ウケると思うんだけどね? 最低でもぼくの写真だし」
「「「は?」」」
ソルジャーの写真って、そんな賞品が入った卵を誰が欲しがると言うのでしょう。会長さんの写真だったら欲しい生徒は大勢いますが、それだって女子に限定です。男子が貰って喜ぶとはとても思えないのに、会長さんどころかソルジャーが写った写真だなんて…。
「君の写真って…。そんな写真が入った卵が誰にウケると!?」
この陽気で頭が煮えたのか、と会長さんが吐き捨てるように。
「この間から気温が高めだからねえ、北の方でも暖かいしね? 昨日は夜桜と言っていたけど、今日も朝から何処かで桜で、それで頭が煮えてるだとか?」
「何を言うかな、ぼくは今日はシャングリラから此処に直行なんだし、桜見物には行っていないから! 頭も煮えてるわけがないから!」
ぼくの頭脳は極めてクリア、とソルジャーは指先で自分の頭をトントンと。
「ぼくの写真を喜びそうな人、ちゃんとこっちにいるだろう? 君たち以外で!」
「「「…え?」」」
誰だ、と顔を見合わせたものの、ソルジャーの写真を喜びそうな人の心当たりは二人だけ。何かと言えばソルジャーとランチだディナーだと貢ぎまくってデートしているエロドクターと、会長さん一筋と言いつつソルジャーの訪問もまんざらではないらしい教頭先生と…。
「その人選で合っているけど、ノルディはあんまり面白くないかな」
ハーレイほどぼくに飢えていないし…、とソルジャーの唇が笑みの形に。
「写真くらいで釣れる相手は断然、こっちのハーレイってね! それが賞品!」
他にも色々と考えている、ということは…。エッグハントに挑む人って、私たちじゃなくて教頭先生というわけですか?
「ピンポーン!」
大正解! と満面の笑顔のソルジャーですけど、教頭先生にエッグハントをさせてどういう楽しみがあると…?
ソルジャーがやりたいエッグハントのターゲットは教頭先生らしいです。隠す方の楽しみを味わうにしては、人数が足りなさすぎるような気が…。エッグハントは大勢を相手にやるもので…。
「え、それは君たちの知ってるエッグハントの世界ってヤツで…。ぼくは人数は別にどうでも」
探しに来るのが一人だけでも気にしない、とソルジャーは参加者は教頭先生だけで充分と考えているらしくって。
「要は楽しめればいいんだからねえ、卵を隠した方として! 特賞の卵が見付かるまで!」
ハーレイが頑張ってくれればいい、とソルジャーは乗り気。
「ぶるぅが隠れてた鳥の巣じゃないけど、ハーレイにもうんと頑張って貰わなきゃ! 当たりの卵が見付かるまでね!」
「…その特賞って、どういうヤツが入った卵になるわけ?」
アヤシイ卵じゃないだろうね、と会長さんが尋ねると。
「何を寝言を言っているかな、ハーレイ相手のエッグハントの豪華賞品、アヤシイ魅力が満載でなくちゃ嘘だろうとぼくは思うけど?」
「アヤシイ魅力って…。ま、まさか…」
「もちろん、ぼくと一発なんだよ! ゴージャスなホテルで思い出の一夜!」
「却下!」
誰がそういう許可を出すか、と会長さんは柳眉を吊り上げました。
「どうせハーレイは鼻血で轟沈だろうけれども、そんな賞品をホイホイ出されちゃ困るんだよ!」
ぼくが迷惑、と怒ってますけど、ソルジャーの方は。
「だからこそのエッグハントってね! そう簡単には見付からないのが特賞の卵で、見付けたと思ったら逆ってことも!」
「「「…逆?」」」
なんのこっちゃ、と首を捻れば、ソルジャーはパチンと片目を瞑って。
「君たちがやってたエッグハントの特賞はぶるぅが持ってたんだろ、クーポン券!」
「…そうだけど?」
それが何か、と会長さんは怪訝そうな顔。
「毎年、ぶるぅが持っているのが伝統だけど…。どう転がったら逆って話になるんだい?」
「ぶるぅだよ、ぶるぅ! ぶるぅは一人じゃないからねえ!」
ぼくのぶるぅもいるんだよね、と聞いた途端に頭に浮かんだ悪戯小僧の大食漢。いわゆる「ぶるぅ」の方ですけれども、おませで覗きが趣味の「ぶるぅ」がどうしたと…?
ソルジャー曰く、エッグハントで逆がどうこう。鍵は「ぶるぅ」にあるみたいですが、悪戯小僧で何をやらかすと言うのでしょう…?
「分からないかな、特賞の卵は二つなんだよ、ぶるぅの数だけ! こっちのぶるぅと、ぼくのぶるぅで合計二つ!」
二つあるのだ、というソルジャーの台詞に、会長さんはテーブルを拳でダンッ! と。
「特賞だけでも却下と言ったろ、それを倍にしてどうするつもりさ!」
「ぼくは逆だと言ったんだけどね? …特賞は二つ、だけど賞品はまるで逆様!」
「「「逆様?」」」
逆様って…。逆で逆様って、同じ特賞でも中身が逆とか?
「その通り! 当たりの方の特賞だったら、ぼくと一発! その逆の方の特賞だったら、一発どころか足蹴にされて奴隷なコースに設定するとか、君に失恋するだとか!」
常に失恋しているけれど…、とソルジャーはニヤリ。
「つまりは究極の選択ってわけで、特賞の卵のどっちを取るかで天国と地獄に分かれるんだよ!」
「…それはいいかも…」
それならいいかも、と会長さんが顎に手を当てて。
「ぶるぅが二人で、どっちも卵に化けてるわけだね? それをハーレイが探しに行く、と…」
「そうなんだよ! ぼくのぶるぅは卵に戻りはしないけどねえ、ぶるぅにコツを教わればきっと、卵に変身できるかと!」
そして特賞になって貰う、とソルジャーが言えば、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「えとえと…。ぶるぅ、卵に化けられるけど?」
「本当かい!? いつの間にそんな芸当を…」
ぼくは見たことないんだけれど、とソルジャーの目が真ん丸に。けれども「そるじゃぁ・ぶるぅ」は「前からだよ」と即答で。
「ぼくも卵に化けてみたいな、って言ってたから、やり方、教えてあげたの! でもね…」
「何か問題でもあるのかい?」
「ううん、そっちの世界でウッカリ卵に化けてたりしたらゴミと一緒に捨てられちゃう、って!」
「「「あー…」」」
ありそうだな、と私たちは瞬時に理解しました。ソルジャーは掃除や片付けが苦手で、あちらの世界の青の間はゴミだらけになった挙句にお掃除部隊が突入するのが恒例だと何度も聞かされています。そんな所で「ぶるぅ」が卵に化けていたなら、確かに捨てられそうですってば…。
捨てられる悲劇を回避した結果、卵に化けられる事実を今までソルジャーに知られずに来たらしい「ぶるぅ」。練習しなくても卵になれると知ったソルジャー、大喜びで。
「それなら、エッグハントは直ぐに出来るね! 他の卵の準備さえすれば!」
「…特賞が二つで片方はハズレ、と…。どちらを選ぶかはハーレイ次第というわけだね?」
それなら良し! と会長さんがグッと親指を立てました。
「ぶるぅの卵は移動出来るし、ぶるぅにハズレを持たせておけば…。そしてハーレイに発見されるように仕向けておいたら、もう確実に地獄しかないし!」
「ほらね、楽しくなってきただろ、エッグハントも?」
ぼくもハズレの特賞を希望で…、とソルジャーの顔に悪魔の微笑み。
「今のぼくはね、こっちのハーレイと一発よりかは、エッグハントが楽しみなんだよ! 頑張って探す姿を眺めて勝ち誇れるだけで気分は最高!」
だからハズレを選んで欲しい、とニコニコニッコリ。
「でね、同じハズレを設定するなら、こんなハズレはどうだろう? ぼくと一発と思える特賞、でも実態はぼくの奴隷で!」
「「「…奴隷?」」」
「ぶるぅがゴミと一緒に捨てられそうっていうので閃いたんだよ、ぼくの青の間、例によって派手に散らかってるものだから…」
お花見で浮かれて出歩いてたから、とソルジャーが語った所によると、青の間の片付けは普段はキャプテン。ソルジャーが散らかしまくっているのを暇を見付けてコツコツ片付け、それでも散らかってゆくというのが現状だとか。
そんなお掃除係のキャプテンがソルジャーや「ぶるぅ」と一緒にこちらの世界でお花見三昧、時間が出来たらお花見とばかりに出掛けた結果は普段以上に散らかりまくった青の間で…。
「それをこっちのハーレイに片付けて貰うというのも良さそうだよね!」
「…拉致するのかい?」
君の世界のシャングリラへ、と会長さんが問いを投げれば。
「ご招待だよ、表向きはね! ぼくの青の間という竜宮城へのご招待だけど、その実態は!」
「…出掛けたら最後、掃除係にされるって?」
「そうなんだよ! そういうハズレの特賞をぶるぅに持たせようかと!」
「最高だよ! そうしてくれたら、ハーレイも暫く懲りるだろうし!」
美味しい話はそうそう無いと学習するであろう、と会長さん。特賞の卵が二つのエッグハントは、教頭先生、ハズレの卵を選ばされる羽目になるわけですね…?
特賞が二つ、「そるじゃぁ・ぶるぅ」と「ぶるぅ」が特賞を持って卵に化けるというエッグハントは開催が決定しそうですけど、会場は何処になるんでしょうか。卵を隠しに出掛ける人はソルジャーで決まりとしても…。
「会場かい? ハーレイの家でいいんじゃないかと!」
最終的には拉致するんだし、とソルジャーが高らかに言い放ちました。
「姿が消えても無問題って場所ならハーレイの家が一番だよ! ついでに卵を隠す係は、君たちにもやって貰おうと思っているんだけどね?」
慣れていそうだから、と私たちまで巻き添え決定。教頭先生の家に出掛けてあちこちに卵を隠すのが仕事になりそうです。チョコレートやお菓子の卵も隠すんですか?
「もちろんだよ! こっちのハーレイも甘い食べ物が苦手だからねえ、そういう卵はハズレってことで仕込まなくっちゃね!」
普通のエッグハントだと喜ばれる卵みたいだから、とソルジャーは卵の仕入れ先を会長さんに尋ねています。今から行っても買えるだろうか、と。
「買えると思うよ、今年のイースターはまだ来てないから」
今がシーズン真っ盛りで…、と会長さん。イースターは毎年、日が変わります。三月だったり四月だったり、コロコロと。今年のイースターはまだでしたか…。
「分かった、それじゃチョコレートとかの卵を買って、と…。写真入りの卵を用意するならオモチャ屋さんになるんだね?」
「そういうことだね、卵型のケースを買うことになるね」
色も大きさも色々あるから…、と会長さん。
「写真の他には何を入れるんだい、そっちも気になっているんだけどね?」
「ランチ券とかディナー券とか…。ぼくとのデートのチケットだけど?」
ただし全額ハーレイの負担、とソルジャーは抜け目がありませんでした。自分が行きたいお店を選んで書いておくそうで、チケットを使うなら教頭先生が飲食費用を支払うことに。
「ぼくとしてはゴージャスにいきたいからねえ、ノルディお勧めの店にしようかと!」
「釣られるハーレイが悪いわけだね、高くついても?」
「ぼくとデートが出来るんだよ? うんと貢いでくれなくっちゃね!」
君とのデートの予行演習で貢いで貰う、とソルジャーが挙げたお店は軒並み高級店ばかり。教頭先生、そういうチケットをゲット出来ても、懐が寂しくなりそうですねえ…?
ソルジャーはエッグハントの準備をするからと姿を消して、夕食の前に帰って来ました。山のような数の卵を抱えて。
「ほら、見てよ! お菓子の卵も、卵型のケースも山ほど買ったし!」
そしてチケットや写真を詰める、とウキウキ、お好み焼きの夕食が済んだら作業開始で。
「ハーレイを釣るには、恥ずかしい写真も要るからねえ…」
ぶるぅに色々撮って貰った、と自分の世界にも行って来たようです。手作りデート券などもケースに詰め込み、準備完了。後は特賞の卵が二つで。
「ハズレの特賞は、ぼくのぶるぅに持たせようかと…。竜宮城にご招待だ、って空間移動で直ぐに連れてってくれるからねえ、ハーレイを!」
「それじゃ、ぶるぅが持つ特賞は当たりの方になるのかい?」
君とどうこうというアヤシイ特賞、と会長さんは苦々しい顔。
「ぶるぅにそういうヤツは持たせたくないんだけどねえ…」
「誰が本物を持たせると言った? ぼくの希望はもれなくハズレで、青の間の掃除係が欲しいんだからね! ぶるぅが持つのは白紙でかまわないんだよ!」
どうせハーレイはそっちの特賞を引けないんだから、と恐ろしい言葉が飛び出しました。
「こっちのぶるぅのを引きそうになったら、ぼくがサイオンで入れ替える! ぶるぅの卵を!」
「「「うわー…」」」
そこまでやるのか、と思いましたが、こうと決めたら動かないのがソルジャーです。「そるじゃぁ・ぶるぅ」も何か勘違いをしたらしく…。
「かみお~ん♪ ぼくのチケット、ハーレイに渡さなければいいんだね!」
「あっ、ぶるぅにも通じたかい? もしもハーレイにぶるぅよりも先に発見されそうだったら…」
隠れ場所をサッと変えるとか、とソルジャーが言うと。
「んーとね、最初からぶるぅと一緒にいちゃ駄目?」
「「「は?」」」
「どっちか片方、選ぶんでしょ? 一緒にいた方がハーレイも選びやすいと思うの!」
ぼくか、ぶるぅか、どっちか片方! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が無邪気に叫んで、ソルジャーが「よし!」と手を叩いて。
「うん、それでこそエッグハントを楽しめるかもしれないねえ! どっちの卵を掴むべきかと悩むハーレイ! 特賞は二つ、天国なのと、より天国と!」
地獄コースがあるということは秘密なのだ、とソルジャーの発想は極悪でした。竜宮城に行けるコースの更に上があると騙すそうですが、教頭先生、どうなるんでしょう…?
揃ってしまったエッグハント用の卵たち。次の日は日曜、ソルジャーはもうこの日に決めたと私たちを朝から駆り出し、教頭先生の家のリビングへと瞬間移動でお出掛けで…。
「こんにちはーっ!」
今日はゲームをしに来たんだけど、とソルジャーは自分や私たちが手にした卵だらけの籠を示して極上の笑みを。
「エッグハントは知っているよね? それを君の家でやろうと思って…」
「はあ…。私が隠して回るのですか?」
「違うよ、ぼくたちが隠すんだよ! 君が一人で探すんだけどね、特賞はね…」
二つもあって、とソルジャーがヒソヒソと教頭先生に耳打ちを。教頭先生の喉がゴクリと鳴って。
「で、では…。ぶるぅの卵を見付けたら…」
「大当たりなんだよ、両方は選べないけどね! 先に見付けた方だけしか!」
だけど探すだけの値打ちはあるから、と聞かされた教頭先生、やる気満々。卵を隠す所を見ては駄目だから、と目隠しをされて庭に出されてしまわれましたが…。
「はい、君たちは隠して回る! いろんな卵を!」
「「「はーい!」」」
頑張ります、と家中に散った私たち。ソファの下から棚の中まで、あらゆる場所に卵を隠して、空の籠を抱えてリビングに戻ると…。
「隠し終わったよ、入っていいから!」
ソルジャーが教頭先生を呼び込んで目隠しを外し、エッグハントの始まりです。教頭先生はチョコレートやお菓子の卵には「うーむ…」と唸っているだけですけど、写真やデート券の入った卵は嬉しそうに集めてゆかれて…。
「…うっ…」
グッと詰まってしまわれたのが、二つ並んだ青い卵でした。「そるじゃぁ・ぶるぅ」と「ぶるぅ」が化けた卵で、よりにもよって…。
「…冷蔵庫ですか…」
シロエ君が呆然と呟き、キース君が。
「卵を隠すなら卵の中、というわけか…」
冷蔵庫に入っていた卵のケース。パック入りとは違って器に何個か盛られた卵の中に青いのが混じっています。どちらかが「ぶるぅ」で、どちらかが「そるじゃぁ・ぶるぅ」なわけで。
「…これはどちらか一つですか?」
片方ですか、と尋ねた教頭先生にソルジャーが「うん」と。大当たりは片方、そこが問題…。
本当の所はどちらを選んでも、もれなくソルジャーの青の間にご招待なオチ。それもお掃除係ですけど、竜宮城行きが待っているのだと信じているのが教頭先生で。
「…片方か…。竜宮城だとブルーとの初めてが問題なのだが…。大当たりだとブルーだからな…」
(((え?)))
どういう意味だ、と思った途端にソルジャーの思念が飛び込んで来ました。
『大当たりの方だと、ぼくじゃなくってブルーの方だと思ってるんだよ。一発の相手!』
そういう嘘をついておいた、とソルジャーの思念がクスクスと。
『だけど、そういう特賞なんかは存在しないし…。もれなく竜宮城なんだけど』
それで納得がいきました。教頭先生が懸命に探しておられた理由。ソルジャーにあれこれと誘われる度に会長さんと秤にかけて悩まれるのが教頭先生なんですが…。大当たりだったら会長さんとくれば、悩みも吹っ飛び、大当たりに賭けたくなるわけで…。
「ううむ…。どちらが大当たりなのだ?」
サッパリ分からん、と冷蔵庫から出した卵のケースを前にして悩み続ける教頭先生。それはそうでしょう、会長さんとの大人の時間か、ソルジャーの方か。間違えて選べばソルジャーの世界へご招待されて、会長さんよりも先にソルジャーと…。
「早く選んだら? でないと、その卵…」
片方は「ぶるぅ」で辛抱が…、とソルジャーが言った次の瞬間。
「待ちくたびれたーーーっ!!!」
青い卵の片方がピョンとケースから飛び出し、教頭先生の手の中へ。あれって…。
「「「ぶるぅ!?」」」
悪戯小僧の方だったか、と私たちは息を飲み、ソルジャーは。
「はい、片方選んでしまったってね! 竜宮城にご招待ってことで…。ぶるぅ、よろしく」
「かみお~ん♪ 先に運んでおくねーっ!」
ご案内ーっ! と「ぶるぅ」が教頭先生の腕を引っ掴んでパッと姿を消しました。教頭先生、ソルジャーの世界に行っちゃいましたか?
「そうなるねえ…。青の間をテキパキと片付けて欲しいね、早く終われば早く帰れるよ」
多分、三日もあれば綺麗に…、と言うソルジャー。それじゃ、教頭先生、帰れるまでは無断欠勤になるわけですか…?
「そうだけど…。いいんじゃないかな、卵、こんなにプレゼントしたし!」
恥ずかしい写真にデート券に…、とソルジャーが笑い、会長さんも「自業自得だよ」とエッグハントを始めたことを責める有様。確かに教頭先生が「やる」と決めたんですから、自業自得とも言えますけれど…。
「…いいんでしょうか、こんな結末で…?」
シロエ君が幾つも転がっている卵を眺めて、ジョミー君が。
「…ぼくたちじゃ連れて帰れないしね…。あっちの世界に行けもしないし」
「だよなあ、諦めて貰うしかねえよな、当分は掃除で奴隷でもよ…」
エッグハントって怖かったんだな、とサム君がブルッと肩を震わせてますが、卵からボワンと元に戻った「そるじゃぁ・ぶるぅ」は。
「えーっ!? 楽しかったよ、エッグハント! ぶるぅと一緒に隠れられたし!」
またやりたいな、と元気一杯、ピョンピョン飛び跳ねてホップ、ステップ。会長さんとソルジャーも楽しげですから、またやらかすかもしれません。教頭先生、どうか学習して下さい。今回で懲りてエッグハントは拒否して下さい、でないとババを引かされますよ~!
卵を見付けて・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
教頭先生が張り切ってしまった、エッグハント。凄い賞品が貰える予定だったんですけど。
どう転がっても、ソルジャーの奴隷だったという気の毒なオチ。お掃除、頑張るしか…。
次回は 「第3月曜」 3月15日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、2月は恒例の節分ですけど、今年は124年ぶりに1日早くて…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(んーと…)
なんだか寒い、と目覚めたブルー。土曜日の朝に。
目覚ましの音で起きたけれども、それを止めようと伸ばした手だって、ヒヤリと包まれた冷気。鳴り続ける音を指で止めるなり、上掛けの下に戻した右腕。寒かったから。
(今朝は冷えるって言ってたっけ…)
昨夜、母からそう聞いた。季節外れの急な冷え込み、それが来るから気を付けて、と。夜の間に気温がグンと下がるだろうから、暖かくして眠るようにと。
(だから、サポーター…)
忘れないように右の手にはめた。
朝晩、冷える日が出始めた時に、ハーレイがくれたサポーター。右手が冷えてしまった夜には、メギドの悪夢に襲われるから。
医療用だという薄いサポーターは、ハーレイが右手を握ってくれる時の力加減を再現したもの。はめればハーレイの手の感覚が蘇る。いつも右手を温めてくれる、恋人の大きな褐色の手の。
お蔭で悪夢は襲って来なくなって、昨夜もぐっすり眠れたものの…。
(やっぱり寒いよ…)
目覚ましを止めようと伸ばした右手。サポーターに覆われた部分は暖かいけれど、冷えた空気に触れてしまった腕は未だに冷たい感じ。腕と一緒に外へ出てしまった右肩だって。
いったい何度くらいなのだろうか、今の室温。
カーテンの隙間から朝の光が射しているから、寒さのピークは過ぎている筈。日の出と同時に、気温は上がってゆくものだから。
たまに例外もあるけれど。本当に強い寒気が入る冬なら、そうでない日もあるけれど。
今は秋だから、そんな寒波は来ない筈。その内に外は暖かくなるだろう。いつも通りに。
暖かくなったら部屋の空気も温まるけれど、今が問題。太陽の力はまだ届かなくて、冷え冷えとした寒さが満ちているだけ。
(暖房…)
スイッチを入れれば、直ぐに暖かくなる。なのに、此処からは手が届かない。サイオンで出来るわけがないから、枕元に持って来ておけば良かった。遠隔操作が出来る手元用のを。
ごくごく軽くて小さな手元用スイッチ、それもサイオンで運べない自分。置いてある棚までは、ベッドから出て行かねばならない。
(それくらいなら、暖房のスイッチを入れに行っても…)
変わらないよね、と思うくらいに棚までは遠い。ベッドを出てからほんの数歩でも。
(行って、戻って…)
身体中が冷えてしまうだろう。目覚ましを止めに伸ばした腕でも、こんなに冷えて冷たいから。身体ごとベッドから出ようものなら、もう間違いなく寒い筈。今よりも、ずっと。
(絶対、寒いに決まっているし…)
そのくらいなら、このままベッドにいた方がマシ。太陽の光が部屋を暖めてくれるまで。
もう少しだけ我慢したなら暖かくなるよ、と上掛けの下でクルンと丸くなった。手足を縮めて。
普段だったら急がなくてはいけないけれども、今日は土曜日。学校は休み。
(あったかい…)
ベッドの中は暖かいよね、と幸せな気分で閉ざした瞼。その方が暖かく感じるから。
目を閉じていると、頭に幾つも浮かぶ幸せ。今日は土曜日で、ハーレイが来てくれる日で…。
幸せの数を数えている間に、ウトウトと夢の世界に入ってしまって、それっきり。暖かい眠りに包まれていたら、聞こえて来た声。
「ブルー?」
具合が悪いの、と訊かれて瞳を開けると、覗き込んでいる母の顔。
何処も具合は悪くないから、キョトンとした。どうして母が来ているのだろう?
「ううん、平気…」
そう答えたら、母はホッとしたようだけれども。部屋の空気もすっかり暖かいから、母は暖房を入れに来てくれたのだろうか、と思ったけれど。
「何度も外から呼んだのに…。寝ちゃってたの?」
今は何時か分かってるの、と母が言うから。
「え?」
さっき止めた目覚まし時計を眺めてビックリ仰天。もうすぐハーレイが来そうな時間。
「やっぱり、すっかり寝ちゃっていたのね、目覚ましを止めて」
「なんで起こしてくれなかったの!」
もっと早くに起こしてくれればいいじゃない!
「何度も呼んだって言っているでしょ。起きてるの、って」
それに具合が悪いんだったら、起こしたら可哀相じゃない。寝ていた方がいい時もあるでしょ?
今日はお休みだし、ゆっくりの方がブルーも楽よ。無理に起こすより。
「ママ、酷い!」
ハーレイが来るって知ってるくせに…!
ホントにもうすぐ来てしまうじゃない、今まで放っておくなんて…!
大変なことになっちゃった、とバタバタと着替えて、顔を洗って。朝食は抜こうと考えたのに、それは許して貰えなかった。「朝御飯はちゃんと食べなさい」と怖い顔の母。
「朝御飯抜きは身体に悪いの。ブルーはただでも弱いんだから」
早くしなさい、と引っ張って行かれたダイニング。自分用の椅子に座らされた。同じテーブル、とうに食べ終えた父が「寝坊したのか」と笑っている。のんびり新聞を読みながら。
「食べてる間に、ハーレイが来ちゃう!」
部屋の掃除もしていないのに…。起きたまんまで、ベッドもパジャマも放ってあるのに!
「お掃除はママがしてあげるわよ。ブルーは御飯」
卵料理は何にするの、と手際よく母が作った朝食。トーストも焼いて、サラダにミルク。作って貰ったら逃げられないから、食べるしかない。
「飲み込まないで、よく噛みなさい」と言い渡してから、部屋の掃除に向かった母。逃げようとしても父が見ているし、食べ方だってチェックされるだろう。
(うー…)
しっかり噛むより、ミルクで流し込みたい気分。食べている所へハーレイが来たら、寝坊したとバレてしまうから。
(急がなくっちゃ…)
とにかく早く食べること、とオムレツを口に押し込んでいたら、聞こえたチャイム。
「おっ、ハーレイ先生がいらっしゃったな」
開けて来ないと、と父が新聞を置いて出て行った。門扉を開けに。母も急いで下りて来て…。
「ブルー、お掃除しておいたわよ」
安心してゆっくり食べなさい。お部屋はいつもの通りだから。
空気も入れ替えておいてあげたわ、と玄関の方へ向かった母。まだ朝食の最中だから、父と母がハーレイを案内して来たのはダイニングで。
「おはよう、ブルー。寝坊だってな、夜更かしか?」
本を読んでて、夢中で時計を見ていなかったな、お前らしいが。
「違うってば!」
早く寝たよ、と抗議する間に、ハーレイが腰を下ろした椅子。夕食の時のハーレイの定位置。
寝坊したことを笑われながら、食べる羽目になった朝御飯。「よく噛めよ?」と、ハーレイにも監視されながら。
ハーレイはコーヒーを淹れて貰って、食事中の姿をからかいながら両親と和やかに話す有様。
やっとのことで食べ終えた朝食、母が掃除してくれた二階の部屋に移れたけれど…。
「ふむ。お前の分の菓子は無し、ってな」
俺だけ頂いておくとするか、とテーブルの向かいでハーレイが指したお菓子の皿。母の手作りの焼き菓子だけれど、それが載った皿は一人分だけ。
「お腹一杯だよ!」
紅茶を飲むのが精一杯だよ、今まで朝御飯だったんだから!
「情けないヤツだな。お前の朝飯、少ないのにな?」
あんな小さなオムレツとトースト、サラダとミルクで全部だってか。食べ盛りなのに。
「ぼくには、あれで充分だから!」
食べ盛りなんてことも無いから、あれでも多すぎるくらいだってば…!
お菓子まではとても食べられないよ、というのが本音。紅茶だって飲みたい気分にならない。
ハーレイはクックッと喉を鳴らして、焼き菓子を口へと運びながら。
「それで、どうして寝坊したんだ?」
夜更かしじゃなくても、何か理由があるだろう。目覚ましが鳴らなかったとか。
「…寒かったから…」
目覚ましで起きたら、部屋が寒くて…。
暖房を入れに行くのも嫌だし、もう少し暖かくなるまで待とう、って。
ベッドの中でクルンと丸くなっていたら、知らない間に寝ちゃってたんだよ。ママが来るまで、寝てたことにも気付かなくって…。
「寒くてベッドから出られなかっただと?」
そこまで寒かったか、今日の朝は?
俺は早くに目が覚めたから、爽やかにジョギングして来たが…。
今日みたいな朝は気持ちがいいぞ。空気がピンと引き締まっていて、気分を高めてくれるしな。
「ぼくはハーレイみたいに頑丈じゃないから!」
朝からジョギングなんかしないし、走りたいとも思わないから!
寒い日はベッドから出たくないもの、とハーレイを上目遣いで睨んだ。ハーレイが変、と。
「せっかく暖かいベッドがあるのに…。潜っていたら、暖かいままでいられるのに…」
わざわざ出て行く方が変だよ、用事があるなら仕方ないけど。
「贅沢なヤツだな、出たくないってか」
シャッキリと起きて体操だとか、そっちの方へは行かないんだな?
「普通、そうでしょ?」
ハーレイみたいにジョギングするより、もうちょっとだけ、って寝ると思うけど?
お休みの日で、何処にも行かなくていいんだったら。
「まあな、普通のヤツならな」
大抵はそっちになるんだろうなあ、起きて走りに行くよりは。
起きたばかりで眠い時には、寒さ除けにシールドを張ろうって頭も働かないし…。
しかしだ、前のお前はどうだったんだ?
うんと寒い時は。
「前のぼく…?」
何それ、寒い時って、いつなの?
「アルタミラだな。あそこで毛布、貰えたか?」
俺たちにベッドは無かったわけだが、あの檻の中が寒かった時。
毛布を渡して貰えていたのか、前の俺たちは…?
「貰ってない…」
そんなの一度も貰っていないよ、寒い時でも。毛布なんかは貰えなかったよ…。
「ほら見ろ、毛布も無かったじゃないか」
潜り込むベッドも、くるまる毛布も無かったのが前の俺たちなんだ。
アルタミラにいた時代にはな。
思い出したか、とハーレイにピンと弾かれた額。
生き地獄だった、アルタミラの研究施設の檻にいた頃。閉じ込められていた檻に空調システムはあったけれども、快適な暮らしのためではなかった。檻に入った実験動物を生かしておくため。
空気を入れ替え、一定の温度を保っておいたら、実験動物は死なないから。
本来は変わらない、檻の中の温度。研究者たちが決めた適温、それを保つのが空調システム。
その筈だけれど、たまに寒くなることがあった檻。空調が効きすぎてしまった時などに。
着せられていた服は、半袖のシャツとズボンだけ。上着など無いし、毛布の一枚も檻には無い。寒くなっても防ぎようがなくて、サイオンはもちろん使えなかった。檻の中では。
身体が芯から冷えてゆくのに、歯がガチガチと鳴り始めるのに、放っておかれた寒い檻。
管理していた人類たちは、ミュウが半袖で震えていようが、気にしなかった。凍え死ぬほどではないわけなのだし、それなら何の問題も無い。
実験動物が震えていたって、檻が寒いというだけのこと。たったそれだけ、檻の温度が低いなら寒い。半袖の服を着ているのだから、寒くて当然。
「空調を直すのは暇な時でいい」と、人類たちは考えた。相手は実験動物だから。
急いで修理を始めなくても、まずは自分たちの食事や休憩。それが済んでから取り掛かるか、と檻を放って行ってしまった。酷い時には、「明日の朝でも充分だろう」と帰ったり。
どんなに寒くて震えていたって、直して貰えなかった空調。人類がその気にならない限り。前の自分たちは、そういう場所で生きていた。アルタミラから脱出するまで。
「あれに比べりゃ、今ではなあ…」
ベッドも毛布も持っているわけで、其処から出たって暖房を入れれば暖かくなる。…でなきゃ、上着を着るだとか。
温まれる方法が幾つもあってだ、そうすれば済むだけなのに…。お前はベッドから出なかった。中の方がずっと暖かいから、と。用が無ければ出たくないのが今のお前だ。
普通のヤツらは仕方ないがな、アルタミラを知ってるお前が言うから、贅沢だな、と…。
ベッドから出て、暖房をつけるくらいは簡単だろうが。
「そうなのかも…」
だけどホントに寒かったんだし、ちょっとくらいは…。
寝てしまったのは失敗だったけど…。ハーレイにも笑われちゃったんだけど…。
「笑うだろうが、いつもだったら張り切って起きているくせに」
俺が来るのを窓から見てたり、手を振ってたり。
今日は姿が見えなかったから、てっきり具合が悪いのかと…。心配してたら、寝坊だと来た。
俺が来る日だと分かっているのに、起きもしないで寝ちまったなんて。
寒い方が問題だったんだな、とハーレイが指差す自分の顔。この俺よりも、と。
「違うってば!」
ハーレイが来るのは分かってたけど、それはお休みの日だからで…。
いつもよりゆっくり出来る日だから、もうちょっと、って思ってる間に寝ちゃったんだよ!
「寒さには慣れてる筈なんだがなあ、アルタミラの檻で」
前のお前の経験ってヤツは、今では役に立たないってか。…すっかり平和ボケしちまって。
暖かな家でぬくぬく育つ間に、全部落として来ちまったんだな、前の経験。
そいつはそいつで幸せだという証拠なんだし、別に悪いとは言わないが…。どちらかと言えば、いいことだとは思うんだが。
そういや、シャングリラでも何度かあったじゃないか。ごくごく初期の頃だがな。
「あったね、空調システムの故障…」
シャングリラって名前をつけた後にも、まだあったかも。
船のメンテナンスに慣れてないから、どのタイミングで点検するとか分かってなくて…。
整備不良で故障するんだよね、空調システム。
食堂だとか、ブリッジだとか、大事な場所なら急ぎだけれども、そうでなければ…。
「遅れるんだよな、修理ってヤツが」
アルタミラの檻にいた頃だったら、遅れる理由は人類のサボリだったわけだが…。
あの船の場合は、直せる人間が限られてたしな。
「ゼルだけだったもんね…」
最初の頃には、ホントにゼルだけ。
きっと専門に勉強してたか何かだよねえ、成人検査を受けるよりも前に。
説明書とかをちょっと読んだだけで、「貸してみろ」って何でも直せたんだから。
手先が器用で、機械の類に強かったゼル。船で何かが故障した時は、ゼルが現場に急いでいた。空調システムにしても、調理器具にしても。
そんな具合だから、個人の部屋の空調が故障した時は、たまに後回しにされた。修理を頼むと、「他の仕事で忙しい」とか、「別の部屋に行けばいいだろう」とか。
ゼルは本当に忙しいのだし、部屋の空調が壊れた仲間は引越ししていた。修理して貰えるまで、仲のいい誰かが住んでいる部屋へ。
「ぼくの部屋のも壊れちゃったんだっけ…」
思い出したよ、ちょっと寒いな、って気が付いた時には壊れてて…。
直ぐにどんどん寒くなっていって、修理を頼みに行ったのに…。ゼル、忙しくて…。
「お前、引越すしか無かったんだよな」
暫く直してやれないから、って言われちまって。
「うん…。ホントのことだし、仕方ないよね」
ゼルには急ぎの仕事があるから、ぼくの部屋の空調は後回し。
他にも部屋は幾つもあるもの、ぼくが引越せばいいんだから。誰かの所に。
壊れてしまった部屋の空調。宇宙船の中では、壊れてしまえば急速に部屋が冷えてゆく。それを利用して、食料品を保存する部屋があったくらいに。
「修理は後だ」とゼルに言われて、部屋に戻ったら冷蔵庫のよう。とても其処では暮らせない。引越す以外に無いのだけれども、その引越し先。
ハーレイの部屋しか思い付かなくて、出掛けてみたら留守だった。厨房で料理の試作中なのか、備品倉庫で整理をしているか。
黙って勝手に入れはしないし、仕事の邪魔もしたくない。「引越していい?」と頼んだならば、きっと仕事を放り出して部屋に戻るだろうから。引越しするのを手伝おうとして。
それはハーレイに申し訳ないし、引越しを頼むなら戻って来てから。
けれど、それまでの間をどうしよう?
食堂や休憩室にいたなら、ゼルを催促しているかのように見えるだろう。「早く直して」と。
だから駄目だ、と諦めたのが皆で使う部屋。空調は効いているけれど。
(ヒルマンたちの部屋も…)
親しくしていても、元はハーレイの友達ばかり。それに自分は子供扱い、引越すとなれば面倒を見ようとしてくれる筈。一つだけのベッドや、座り心地のいい椅子を譲ったりして。
そうなることが分かっているから、どの部屋も少し気が引けた。迷惑をかけてしまいそう、と。
(何処に行っても、みんなに迷惑…)
きっとそうだ、と考えたから、自分の部屋に戻って行った。冷蔵庫のように冷え切った部屋へ。
其処で寒さを防ぐためには、ベッドに潜るしか無かった方法。ベッドが一番暖かいから。
シールドすることは、思い付きさえしなかった。
その内に暖かくなってくるから、と冷たいベッドに潜り込んだものの…。
部屋全体が冷蔵庫なのだし、ベッドの中でも同じこと。冷え始めるのが遅いというだけ、やがて冷たくなってゆく。毛布もシーツも、マットレスも。
冷たい毛布やシーツは体温を容赦なく奪い、冷えた部屋へと放り出した。それにくるまっている身体の周りを温める前に、片っ端から。
頭から毛布を被っていたって、暖かいどころか寒いだけ。体温を端から奪われていって、部屋の冷気に包み込まれて。
(でも、本当にどうしようもなくて…)
震えているしか無かった自分。一番暖かい筈の場所から、出たら余計に寒いのだから。あまりの寒さに止まった思考。シールドはおろか、引越すことも。
ただガタガタと震えていたら、其処へハーレイが来たのだった。シュンと扉の開く音がして。
「おい、大丈夫か?」
此処の空調、壊れたらしいが…。ゼルに聞いたが、今日は駄目だと言っていたから…。
寒い部屋だな、と言った所で息を飲んだハーレイ。「何やってんだ、お前!」と。
駆け寄って来たハーレイが毛布の中を覗き込んだから、目だけを上げた。
「寒いから…」
そう答えた声も、身体と同じに震えていて。
「馬鹿!!」
寒いって、これじゃ当たり前だろうが!
此処の空調は壊れてるんだぞ、そんな所でベッドにいたって暖かいもんか!
この部屋、まるで冷蔵庫じゃないか、と毛布ごと抱え上げられた。逞しい腕で。
そのまま通路に運び出されて、ハーレイの部屋に連れて行かれたけれど。
「…駄目だな、すっかり冷えちまってる」
風邪引くぞ、お前。…こんなに冷たくなっちまって。
手も足も氷みたいじゃないか、と毛布を剥がして確かめたハーレイ。「此処に座れ」とベッドの端に座らせて、手や足に触れて。
「寒いよ、ハーレイ…」
毛布、返して。ちょっとはマシになると思うから…。
「それはお前の勘違いだ。冷えた毛布じゃ、無い方がマシだ。此処ではな」
暖かいんだぞ、この部屋は。それも分からないくらいに、今のお前は冷えちまってるんだ。
どうして来なかったんだ、俺の部屋に。…あそこで震えている代わりに。
「…来たけど、ハーレイ、留守だったから…」
「そういう時には、無断で入れ!」
俺が戻ったら、お前が俺のベッドで寝てても、何も言ったりしないから!
こんなお前を発見するより、そっちの方がよっぽどマシだ!
とにかく急いで温めないと、と別の毛布でくるまれた。ハーレイのベッドにあった毛布で。また両腕で抱え上げられて、運ばれた先は皆が使う共用のバスルーム。
熱いシャワーを頭から浴びせて、バスタブにも熱い湯をたっぷり張ったハーレイ。「浸かれ」と沈められたバスタブ、頭がクラクラしそうになるまで。
のぼせそうなほど温められた後には、タオルでしっかり拭われた水気。「デカイ服だが、お前の服は冷えてるしな」と、ハーレイのパジャマを着せられた。ブカブカで丈も長すぎるのを。
そのパジャマごと毛布で包み込まれて、ハーレイの部屋へ。ベッドに入れられ、上掛けを肩まで被せられた。
「いいな、暫く寝ていろよ?」
直ぐに戻るから、とハーレイは部屋を出て行った。何処に行くのだろう、と見送った自分。
けれど身体がまだ冷たくて、頭の上まで引き上げた上掛け。やっぱり寒い、と。
そうしてベッドで震えていたら、ハーレイが熱いスープの器を乗せたトレイを持って戻って…。
「こいつを飲め。身体の芯から温まるからな」
ベッドから出るなよ、冷えちまうから。この部屋、暑くはないからな。
空調を下手に弄ったりしたら、お前の身体には却って毒だし。
ゆっくり温めた方がいいそうだ、とハーレイがスプーンで飲ませてくれたスープ。「ほら」と、「熱いから火傷しないようにな」と、一匙ずつ。
冷めにくいように、ポタージュスープを貰って来たんだ、と言いながら。
「今日のスープは違うヤツだが、明日用に仕込んであったからな」と。
きっとハーレイが仕込んだスープだったのだろう。部屋に戻って来る前に。
(ゼルに聞いたって…)
空調が故障していること。修理が後回しになったことも。
ハーレイは仕事を放り出して来てくれたのだろうか。引越し先を見付けたかどうか、自分の目で見て確かめようと。
そう思ったから、スープを飲ませて貰いながら訊いた。「ハーレイの仕事は?」と。
「もしかして、途中で抜けて来ちゃった?」
ぼくがきちんと引越せたかどうか、ハーレイ、気になって見に来てくれたの…?
「そんなトコだな、少しばかり遅くなっちまったが…」
キリのいいトコまでやっとかないと、と今日の仕事は済ませて来た。嫌な予感がしたからな。
だが、此処までとは思わなかった。
せいぜい、引越し先が無くって、部屋の表にボーッと突っ立ってるくらいかと…。
そうでなければ、休憩室にポツンと座っているとかな。
「…それって、どっちもゼルに悪いよ…」
早く直して、って催促しているみたいじゃない。ぼくの部屋が何処にも無いんだから、って。
ゼルは「引越せ」って言ってたんだし、引越さないなんて、ただの我儘…。
「それで引越さずに部屋でガタガタ震えてる方が、よほど悪いと思わないのか!?」
心配してたぞ、ゼルが。「ブルーに悪いことをしちまった」と。
俺がスープを貰いに行ったの、晩飯の真っ最中なんだから。
丁度いいから、ヒルマンにお前の扱い方を聞いて来たんだが…。
ヒルマンがいれば、ゼルもいるよな。いつも一緒に飯を食うんだし、あいつらはセットだ。
お前に何が起こっちまったか、ゼルの耳にも自然と入る。「俺の部屋に引越しさせておけば」と悔やんでやがるし、結局、ゼルに迷惑かけたわけだな。
「…ごめん…。ゼルにきちんと謝らなくちゃ…」
ぼくのせいだよ、ちゃんと謝る。ゼルはちっとも悪くないから。
「やめとけ、余計にゼルが可哀相だ」
お前を酷い目に遭わせちまったと、あいつは反省してるんだから。
そんな所で謝られてみろ、傷口に塩を塗り込むようなモンだってな。
謝りに行くより、早いトコ身体を温めることだ。お前が元気な顔を見せるのが一番なんだぞ。
ゼルもヒルマンも、エラもブラウも、酷く心配してるんだから。
「知っていれば部屋に呼んだのに」と。お前を引越しさせるべきだった、と四人ともな。
しっかり身体を温めるんだ、と諭されたから「うん」と頷いたけれど。
ゼルに謝りに出掛けてゆくより、風邪を引かないことの方がきっと大切なんだ、と分かりはしたけれど、一向に温まらない身体。熱いスープを飲み終わっても。
手足は今も冷えたままだし、身体の震えも止まらない。まだあの部屋にいるかのように。
ハーレイはフウと大きな溜息をついて、空になったスープの器とトレイを机に置くと。
「まだ寒いんだな、お前、震えているんだし…」
手を触ってみても冷たいままだし、これしかないか…。
「なに?」
薬は嫌だよ、飲みたくないよ。…薬、嫌いなの、知ってるでしょ?
「知ってるが…。薬の出番は来てないな。今の所は」
熱は出ていないし、風邪の症状も出ちゃいない。今、温めれば、治せるだろう。
しかし、毛布も熱いシャワーも、スープも効果が出ないわけだし…。
どうやら、これしか無いようだ。俺が湯たんぽになってやる。
「…湯たんぽ?」
何なの、それは?
湯たんぽって、何に使うものなの…?
「そのままの意味だな、中に湯を入れて身体を温めるのに使うんだ」
それが湯たんぽで、人間の身体を温めるには、人間が一番らしいんだ。
人間の体温を移してやるのが、湯たんぽよりも効くってな。
そういう話だ、俺も自分で試したことは無いんだが…。この船でも例は一つも無いんだが。
何か温める物は無いかと探していたら、ヒルマンがそう教えてくれた。
スープを飲ませても駄目なようなら、俺が温めるのが一番だとな。
お前の身体が温まるまで側にいてやる、とポンと叩かれた上掛け。とても大きな褐色の手で。
「狭いのは我慢してくれよ」と、隣に入って来たハーレイ。パジャマに着替えて。
そして、しっかりと抱き寄せて貰った広い胸。足もハーレイが絡めてくれた。
「どうだ、暖かいか?」
一人よりマシか、俺がこうしていた方が?
暖かくなくて狭いだけなら、本物の湯たんぽ、探してくるが…。倉庫にあるかもしれないしな。
湯たんぽが無くても、代わりに使えそうな何かはあるだろ、端から探せば。
「ううん、あったかい…」
こうしてると、とっても暖かいよ。お風呂に浸かっているみたい。
さっき入ったお風呂よりもずっと、暖かくて気持ちいいお風呂。…熱くないから。
ホントに暖かくて気持ちいい、とウットリとハーレイにくっついた。大きな背中に腕を回して。
心地良く感じる暖かな身体。ハーレイが持っている体温。
火傷しそうに熱かったシャワーやお風呂とは、まるで違った優しい温もり。触れ合った場所から伝わる温もり、それが身体に染み込んでゆく。肌を通して身体の中へと。
(…シャワーより、お風呂より、ずっと暖かいよ…)
上掛けよりも、熱いポタージュスープよりも。
暖かいよ、と身体を擦り寄せていたら、ハーレイも強く抱き込んでくれた。「大丈夫だな?」と確かめながら。「苦しかったら言うんだぞ」と腕に力をこめながら。
すっぽりとハーレイの身体に包み込まれて、手も足も、温まっていく感覚。
本物の湯たんぽは知らないけれども、きっとそれより暖かなもので。ハーレイが持っている命の温もり、身体と心がくれる温もり。
(…ハーレイ、あったかくて気持ちいい…)
もう寒くない、と酔った温もり。本当に暖かかったから。手も足も暖かくなってゆくから。
そうやってハーレイの腕の中で眠って、冷えも震えも何処かに消えた。知らない内に。
次の日の朝には、暖かなベッドで目覚めた自分。
ハーレイが額に手を当ててから、「熱は無いな」と微笑んでくれた。
体温がきちんと戻った身体は、もう震えてはいなかった。風邪も引かずに済んだのだった…。
やっちゃったっけ、と蘇った思い出。前のハーレイに迷惑をかけた、ベッドで震えていた自分。今の自分は寒いからと寝坊をしたのだけれども、前の自分は…。
「…ごめんね、ハーレイ…。前のぼくも寒くて失敗しちゃった…」
今よりも寒さに強かったけれど、暖かいベッドで寝ようとしたのはどっちも同じ。
あの時のベッドは、少しも暖かくなかったけれど…。どんどん寒くなっていっちゃったけど。
「宇宙船の中だったんだぞ。其処で空調が壊れちまったら、そうなるだろうが」
わざと空調を止めてあった部屋があったくらいだ、食料を保存するために。
ちょっと考えれば分かることだぞ、空調が使えなくなっちまった部屋がどうなるか。
お前、あの頃から手がかかるんだ。
寒いと駄目になっちまうんだな、お前の頭というヤツは。
今のお前は、もう一度ベッドに潜っちまって、寝坊しただけで済んだようだが…。
それに昼間は暖かくなるしな、宇宙船の中じゃないからな?
俺が来るまで寝ていたとしても、凍えちまいはしないだろう。今のお前だと、俺に寝惚けた顔を見られて、赤っ恥をかく程度だな。
お母さんが「寝ているんですが…」と案内してくれて、俺が覗き込んで。
「おい、朝だぞ」って声を掛けてだ、お前がガバッと飛び起きてな。
「それは嫌だよ、その前に起きるよ…!」
ママだって、きっと起こしてくれるよ、そうなる前に。
ハーレイを部屋の前まで連れて来たって、ぼくを起こしてから「どうぞ」って言うよ…!
寝たままってことはないんだから、と慌てていたら、「休みの日ならそれでいいが…」と、苦い顔をして見詰めたハーレイ。「普段はどうする?」と。
「これから冬が来るんだぞ。お前、しっかり注意しないと…」
凍える心配は要らないようだが、寝坊の方だ。今日みたいなヤツ。
「もうちょっとだけ」と暖かいベッドに潜っている間に、ぐっすり眠っちまってみろ。
遅刻するんだぞ、学校に。…教師としては叱るしかないな、そういう馬鹿は。
それとも遅刻するのが嫌で、お前、学校を休んじまうのか?
「今日は具合が悪いんです」って大嘘をついて、お母さんまで騙しちまって。
「…気を付けるよ、遅刻は嫌だもの」
ハーレイは怒るに決まってるんだし、嘘をついてお休みしたって絶対バレちゃうし…。
学校には嘘だとバレなくっても、ハーレイがお見舞いに来てくれた途端にバレておしまい。
頭をコツンと叩かれるとか、おでこを指で弾かれるとか。
…でもね、また寒くて震えちゃってたら…。
前のぼくみたいなことはなくても、寒くてベッドから出られなかったら、温めてくれる?
今度も、ぼくの身体を丸ごと。
「分かってるのか、お前? 今は右手だけしか駄目だってことが」
温めてやれるのは右手だけだな、どんなに寒い冬の日でもな。
お前のベッドに入るわけにはいかんだろうが、いくらお前が震えていても。
今のお前とは他人だぞ、俺は。家族じゃなくって、ただの守り役だ。
本物の湯たんぽを取りに出掛けるか、お母さんに部屋まで届けてくれと頼みに行くか…。
そんなトコだな、今のお前にしてやれるのは。
だが、いずれは温めることになるんだろうな、とハーレイは溜息をついているから。
「お前の我儘、聞いてやると約束しちまってるしな」と、困り顔でも嬉しそうだから。
いつかハーレイと二人で暮らし始めたら、寒い冬の朝には甘えてみようか。
ハーレイの仕事が休みの時に。
週末だとか、冬休みだとか、ゆっくり起きてもかまわない朝に。
「寒いからベッドを出たくないよ」と、隣にいるのだろうハーレイに。
前の自分が温めて貰った、暖かな身体の持ち主に。
「ぼくの湯たんぽでいて欲しいな」と、「朝御飯よりもそっちがいいよ」と。
そうしたらきっと、湯たんぽを貰えるだろうから。
逞しい両腕で抱き締めて貰って、幸せな温もりですっぽりと包んで貰える筈なのだから…。
寒かった部屋・了
※部屋の空調が壊れていたのに、寒い中で震え続けたブルー。仲間に迷惑を掛けたくなくて。
結局、迷惑を掛ける結果になったのですけど、ハーレイに温めて貰った、幸せな思い出。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv