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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




新しい年がやって来ました。除夜の鐘から初詣までズラリとイベント、冬休みの後もシャングリラ学園ならではのお雑煮大食い大会やら、水中かるた大会やら。それが終わればお正月モードも去り、日常が戻って来るわけですが。いきなり週末、会長さんの家でまたダラダラと…。
「なんだかさあ…。スリルってヤツが欲しいよね」
ジョミー君が唐突に言い出し、「はあ?」と首を傾げた私たち。
「おい、スリルというのは絶叫マシンか?」
冬場は御免蒙りたいが、とキース君。
「若くないなと言われそうだが、俺は余計な寒風は避けたい。特に絶叫マシンはな」
どう考えても喉に悪い、と顰めっ面で。
「風邪もヤバイが、風邪がヤバイ理由は喉だからな。熱くらいは気合でなんとかなっても、喉はそういうわけにはいかん。坊主にとっては喉は命だ」
お経が読めてなんぼの坊主だ、と言われてみればその通り。法事をしようとお坊さんを呼んでも声が出ないとか、酷い声だと有難味はゼロ、御布施の割引をして貰いたくなりそうです。
「キース先輩、お坊さんの世界で声がアウトだとどうなるんです?」
先輩の家なら代打もいますが、とシロエ君が。元老寺はアドス和尚と副住職のキース君との二段構えで、片方が声が出なくなっても代理を出せば済むことです。月参りだったらまるで無問題、法事だと若いキース君が出たら「代理じゃないか」と値切られそうな気もしますけど…。
「声がアウトになった場合か? そういう時に備えて法類というのがあるわけだが…」
住職に何かあった時には代理を務めてくれるのが法類、いわばお寺の世界の親戚。どうしても声が駄目だとなったら代わりにお願い出来るそうですが、費用は頼んだお寺の自腹。
「なにしろ代わりに出て貰うんだし、御布施はそっちに行くことになるな。全部持って行かれるわけではないがだ、それ相応の費用と交通費とかの実費は確実に持って行かれる」
「…シビアですね…」
「他の仕事でも同じだろうが。だが、風邪くらいで代理を頼むと肩身が狭い」
体調管理がなっていないと思われるのがオチだ、と肩を竦めるキース君。
「坊主の世界はお経が読めてこそだからなあ、日頃から喉が第一なんだ。まして俺には怖い親父がいるわけで…」
喉に直接寒風を浴びる絶叫マシンで喉を潰すリスクは避けたい、とキッパリと。絶叫マシンに乗りに行くなら乗らずに見物、待ち時間くらいは付き合ってくれるそうですけれど。キース君を置き去りにしてまで乗らなくってもいいんじゃないかな、絶叫マシン…。



誰からともなく「やめておこう」という結論になった絶叫マシン。ジョミー君の夢は砕けたかと思いましたが、さに非ずで。
「ぼくが言ったの、そういうスリルじゃないんだよ。面白いから黙って聞いてたけどさ…」
坊主ネタでも自分に無関係なら高みの見物、とジョミー君。
「ちょっとスリリングな毎日っていうのもいいよね、と思っただけでさ」
「…どんなスリルだ?」
何処かの馬鹿のお蔭で間に合っているような気もするが、とキース君が言った馬鹿が誰なのか分からない人はいませんでした。噂をすれば影とか言霊だとか、そういう理由で誰も口にはしませんけれど、何処かのソルジャー。
「えーっと…。そっちじゃ多分、無理じゃないかな…。恐怖新聞ってヤツだから」
「「「恐怖新聞?」」」
オウム返しに訊いちゃいましたが、それって昔の漫画でしょうか。ずうっと昔に流行ったとかで、たまに学校でも一時的にブームになったりするヤツ…。
「そう、あの漫画の恐怖新聞。昨日、夜中に思い出しちゃって…」
アレの配達は夜中だよね、とジョミー君。
「夜の夜中に放り込まれて、読む度に百日寿命が縮むって…」
「そういうヤツだな、あの新聞はな」
あいつには確かに無理そうなネタだ、とキース君が深く頷きました。
「寿命を縮める方もアレだが、新聞の紙面が組めないだろう。あれは未来を予知するんだしな」
「でしょ? フィシスさんでもいない限りは作れそうにないよ、恐怖新聞」
だけどそういうスリルもいいな、と言われましても。読んだら寿命が縮むんですが…?
「そこだよ、ぼくたちには最強のブルーがついてるし!」
ジョミー君は会長さんにチラリと視線を。
「恐怖新聞、届いたとしたら配達を断るための御祈祷、存在するよね?」
「…まるで無いこともないけどねえ…」
ついでに寿命を取り戻す方も、と会長さん。
「だからと言ってね、面白半分で恐怖新聞なんかを読まれても困るんだけど…」
「えっ、本当に存在するわけ? 恐怖新聞」
それなら見たい、とジョミー君には会長さんの考えが全く通じていません。野次馬根性で手を出すんじゃない、と暗に言われていたわけですけど、そこで読みたいとは情けないかも…。



読む度に百日寿命が縮むのが恐怖新聞、あれは漫画だと思っていました。いわゆるフィクション。会長さんの言い方だと、実在するようにも聞こえますが…?
「まさか。あるわけないだろ、あんな新聞」
本当にあったらフィシスの立場はどうなるんだ、と会長さんの答えもズレたもの。曰く、未来を予知する力は会長さんの女神のフィシスさんがいれば充分なわけで、恐怖新聞の出番は無いとか。
「寿命を縮めてまで読まなくっても、フィシスに頼めば楽勝だしねえ?」
「…だったら無いわけ、恐怖新聞」
ちょっとスリルを味わいたかった、と惜しそうにしているジョミー君。本当に配達されて来たならパニックは確実、もう一日目で会長さんに泣き付きそうなのに…。
「そりゃそうだけどさ…。でもさ、ちょっぴり見たいわけでさ…」
まだ言い続けているジョミー君に向かってサム君が。
「そうかあ? あれは読んでるヤツの姿を見物する方が楽しそうだと俺は思うぜ」
あの漫画だって傍観者だから楽しめるんだ、と真っ当な意見。
「自分の所には届きやしねえ、って安全地帯に立っているから面白いわけでよ…」
「サム先輩の言う通りですね、自分にも届くリスクがあったら、読むのはあまり…」
それこそ言霊と同じで避けたいです、とシロエ君。
「存在しないからこそ漫画が流行って、たまに学校でも流行り直したりするんでしょうねえ…」
「うーん…。そうかも…」
自分に来るより誰かの家に届いた方が面白いかも、とジョミー君も方向転換を。
「それじゃさ、恐怖新聞を作って届けるとかさ…」
「誰にだ?」
キース君の問いに、ジョミー君は。
「…誰だろう? 教頭先生だと失礼かなあ?」
「失礼にもほどがあるだろう!」
先生を何だと思っているんだ、とキース君が怒鳴った所へ。
「こんにちはーっ!」
遊びに来たよ、とフワリと翻った紫のマント。考えないようにしていたソルジャー登場、いつもだったら大騒ぎですが、恐怖新聞はソルジャーには作れないと結論が出ていただけに。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
ゆっくりしていってね! とケーキと紅茶の用意に走った「そるじゃぁ・ぶるぅ」はもちろん、他のみんなも今日はのんびりムードですねえ…。



本日のおやつ、リンゴのクラフティ。それと紅茶を前にしたソルジャー、早速クラフティにフォークを入れて頬張りながら。
「…恐怖新聞を作るんだって?」
しかもターゲットはこっちのハーレイだってね、とこれまた話を半分しか聞いていない様子で。
「誰も作るとは言ってないから! それにハーレイの名前は出たトコだから!」
勝手に話を作るんじゃない、と会長さんがツンケンと。
「どの辺りから覗き見してたか知らないけどねえ、恐怖新聞は作れないんだよ!」
もどきは作れても本物は無理、と会長さん。
「ハーレイにだってそのくらいは分かるし、届けても鼻で笑われるだけ! 作る手間が無駄!」
「…そうなるのかなあ?」
「当たり前だよ、未来を予知する新聞が来たら誰が作ったかもモロバレで!」
フィシスの力を借りたぼくだと即座にバレる、ともっともな仰せ。
「たとえジョミーたちが作るとしてもね、ぼくが一枚噛んでいるのは確実だから! 寿命が縮むと書いておいても、そこはフフンと笑って終了、逆に喜ばれるだけだから!」
ぼくの悪戯だと大喜びだ、とブツブツと。
「それじゃちっとも面白くないし、それくらいなら赤の他人に届けた方がマシ!」
届けられる人が気の毒だからやらないけれど、と会長さんは結論付けました。恐怖新聞は作りもしないし、教頭先生に届けもしないと。
「うーん…。面白そうだと思ったんだけどねえ、寿命が縮むと焦るハーレイ」
「その寿命だって山ほどあるのがハーレイだってば!」
ぼくと同じでまだまだ死にそうな予定も無いし、と会長さん。
「それにジョミーと同じ理屈で、いざとなったらぼくに泣き付く! 助けてくれと!」
そして泣き付きつつも心でウットリ夢を見るのだ、という解釈。
「ぼくに命を助けて貰えるわけなんだしねえ、御祈祷料を毟り取られても本望なんだよ、絶対に! ぼくが時間を割いてくれたと、自分のために祈ってくれたと!」
「なるほどねえ…。恐怖新聞、こっちのハーレイは貰っても嬉しいだけなんだ…」
「そういうことだね、困るどころか大感激だね!」
いいものが来たと毎日大事に保存するんだ、と会長さんは迷惑そうに。
「ぼくはハーレイを喜ばせるつもりは全く無いから、恐怖新聞は大却下だよ!」
面白くないものは作らないから、と繰り返している会長さん。恐怖新聞は怖がられてなんぼの新聞ですから、喜ばれたら意味が無いですよね、うん…。



ジョミー君の心を掴んだ恐怖新聞、家に届くのも、自分たちで作って届けに行くのも無理な代物だと分かりましたが。ソルジャーの方はまだまだ未練がたっぷりで…。
「面白そうなアイテムだけどねえ、恐怖新聞…」
情報は君たちの心を読ませて貰った、と事後承諾でよろしくとのこと。
「要はアレだね、寿命がどんどん縮んでいくのが怖いポイントというわけだね?」
「そうだけど…。さっきも言ったと思うけれども、ハーレイにはそこは関係なくて!」
誰の仕業かバレているだけに鼻で笑っておしまいなのだ、と会長さん。
「本当に本物の恐怖新聞でも、ぼくに助けを求めるための小道具にしかならないし!」
「じゃあ、こっちのハーレイが心底怖がりそうな恐怖新聞ってヤツは…」
「どう転んだって存在しないね、あらゆる意味でね!」
作ったヤツだろうが本物だろうが…、と会長さんは言ったのですけど。
「…それじゃ、怖がるポイントが変わればどうだろう?」
「「「は?」」」
なんのこっちゃ、と顔を見合わせる私たち。恐怖新聞は寿命が縮むのが怖いポイント、それを変えたら存在意義など無さそうですが…?
「その寿命だけど…。残り少なくなっていくのが怖いわけでさ、いつか終わると」
「まあねえ、読む度に百日縮むんだしね」
四日読んだら一年以上、と会長さん。
「だけどハーレイには怖がって貰えそうもないけれど? そっちの方もいろんな意味で」
「それは寿命の問題だからだよ、こっちのハーレイが失くして困るものは何だと思う?」
寿命よりも大事にしそうなモノ、と質問されても分かりません。会長さんも同様ですけど、ソルジャーは指を一本立てて。
「ズバリ、童貞! 初めてはブルーと決めているよね、こっちのハーレイ!」
「…帰ってくれる?」
その手の話はお断りだ、と会長さんが眉を顰めれば。
「まあ、聞いてよ! ぼくが考えたハーレイ用の恐怖新聞!」
こっちのハーレイ専用なのだ、とソルジャーに帰る気はさらさら無くて。
「読む度に百日縮むんだよ! 童貞卒業までの日が!」
「それ、喜ばれるだけだから!」
寿命が縮むよりも喜ばれて終わり、と会長さん。それはそうでしょう、会長さんをモノに出来る日までの日数が劇的に短縮、そんなアイテム、教頭先生は大いに歓迎ですってば…。



寿命が百日縮む代わりに、童貞卒業への日が百日ずつ縮む恐怖新聞。何かが絶対間違っている、と私たちは思いましたが…。
「そこが恐怖のポイントなんだよ、途中から恐怖に変わるんだよ!」
そのタイミングは君に任せる、とソルジャーが会長さんにウインクを。
「童貞卒業、こっちのハーレイの頭の中では君とのゴールになるんだろうけど…。実はこのぼくに奪われると知ったら、どうなるだろうね?」
「「「え?」」」
「だから、このぼく! ハーレイの手持ちの時間がゼロになったら、ぼくが登場!」
そして教頭先生の童貞を頂いてしまうというわけで…、とニンマリと。
「ぼくに無理やり奪われちゃったら、もう取り返しがつかないわけで…。君一筋だと守り続けた童貞がパアで、君にも激しく詰られるわけで!」
「…詰るのはいいけど、迷惑だから!」
ハーレイが童貞卒業だなんて、と会長さんは怒り心頭。
「最初の内こそズシーンと激しく落ち込むだろうけど、立ち直ったら開き直るから! 君とはよろしくヤッたんだから、と自信をつけて挑んで来るから!」
このぼくに、と怒鳴った会長さんですが、ソルジャーはケロリとした顔で。
「…誰が本当に奪うと言った?」
そこは大嘘、と舌をペロリと。
「これでもぼくは結婚してるし、ぼくのハーレイ一筋なんだよ! たまにはアヤシイ気分にもなるし、浮気もいいなと思いもするけど、今回は別!」
本気で奪うつもりは無い、とソルジャーはキッパリ言い切りました。
「こっちのハーレイがブルブル震えて待っていようが、開き直って童貞卒業を目指していようが、最終的には肩透かし! でも、そこまでは震えて貰う!」
自分の良心との戦いの日々、というのがソルジャーの指摘。たとえ開き直ってしまったとしても、会長さんに詰られることは間違いないのがソルジャーを相手にしての童貞卒業。これでいいのかと、このままでいいのかと何度も悩むに違いないと。
「だからね、真実を知った日から始まる恐怖! ぼくに童貞を奪われると!」
「…その日までのカウントダウンってわけかい?」
ハーレイに届く恐怖新聞、と会長さんも興味を抱いたようです。自分に実害が及ばないなら、ヤバイ橋でも渡りたがるのが会長さん。もしかしなくても、教頭先生に恐怖新聞、届き始めたりするんでしょうか…?



寿命が縮んでしまう代わりに童貞卒業への日が縮まる新聞。会長さん一筋の教頭先生にとっては不本意極まりない形で奪われる童貞、これは面白いと会長さんは考えたらしく、ソルジャーの方も俄然、乗り気で。
「もちろん、ぼくに童貞を奪われる日までのカウントダウン! 怖そうだろう?」
「…恐怖だろうねえ、ハーレイにはね」
ぼくが怒るに決まっているし、と会長さん。
「ぼくでも君でもかまわないのかと、その程度の愛かと蹴り飛ばされるのは間違いないしね!」
「ほらね、最高に怖いんだよ。…いくら後から開き直ろうと心に決めても、果たして君が許すかどうかは謎だしねえ…」
この新聞はお勧めだよ、とソルジャーは膝を乗り出しました。
「今夜から早速届けないかい、ハーレイの家に! 恐怖新聞!」
「いいねえ、でもって何日かしたら真実をぼくが知らせに行く、と…」
童貞卒業の実態は何か教えてやったら恐怖の始まり、と会長さんもニヤニヤと。
「三日くらいはぬか喜びをさせておくのがいいだろうねえ、童貞卒業」
「うん、泳がせておいたら恐怖もドカンとインパクトがね!」
勘違いさせて気分は天国、そこから一転して地獄、と楽しげなソルジャー。
「それでこそ恐怖新聞の値打ちも上がるわけだし、真実を明かす日は君にお任せ!」
「了解、それじゃ今夜から…。って、駄目だ、フィシスは旅行だっけ…」
昨日の夜から出掛けたっけ、と会長さん。
「エラとブラウに誘われちゃってさ、二泊三日で温泉とカニの旅なんだよ。明日の夜まで帰って来ないし、恐怖新聞は作れないよ」
未来を読めるフィシスがいないと…、と言われてみればその通り。恐怖新聞の売りは未来の出来事、占いが出来るフィシスさんの協力が無ければ作れません。旅行中でも頼めば占って貰えるでしょうが、会長さんはフィシスさんには甘いですから…。
「ごめん、フィシスが温泉とカニを楽しんでるのに、こっちの用事は頼めないよ」
しかも遊びの用事だなんて…、と会長さんが謝りましたが、ソルジャーは。
「え、フィシスの協力は要らないよ? 本物の恐怖新聞じゃないし」
「「「へ?」」」
本物じゃないことは百も承知ですが、記事はやっぱり本物っぽく作らないと駄目だと思います。読みたくなくても読んでしまうのが恐怖新聞、それは未来の出来事が書かれているからで…。そこは外せないと思うんですけど、ソルジャー、ちゃんと分かってますか?



恐怖新聞の怖いポイント、読まずにいられない新聞の記事。だからこそ読んでしまって寿命が百日縮む仕様で、読まずにゴミ箱にポイと捨てたら寿命は縮まないわけで…。
たとえ偽物の恐怖新聞でも、教頭先生が読まずに捨ててしまえば全く意味がありません。きちんと未来を書いてこそだ、と思った私たちですが…。
「別に未来の記事じゃなくてもいいんだよ! こっちのハーレイが読みさえすれば!」
危険と分かっていてもフラフラと釣られて読んでくれれば、とソルジャーは勝算があるようで。
「新聞の売りは特ダネとかだろ、でなきゃお得な情報だとか!」
「…身も蓋もないが、そんな所か…」
新聞を取る理由の多くはそれだな、とキース君。
「細かく挙げれば山ほど理由も生まれてはくるが、新聞を広げて一番に見るのは大見出しがついた最新のニュースで、特ダネともなれば読まずにいられないしな」
「そこなんだよ! こっちのハーレイの心を掴む特ダネ、それさえ書いたらハーレイは読むね!」
未来の出来事なんかは要らない、とソルジャーは自信満々で。
「目指す所は童貞卒業、それに相応しくエロイ記事! いつか役立ちそうな情報!」
「「「ええっ!?」」」
それは確かに教頭先生のハートを鷲掴みにしそうですけど、その記事、いったい誰が書くと?
「決まってるだろう、ぼくが書くんだよ! 豊富な知識と経験を生かして!」
現場からのニュースも必要だよね、とニコニコと。
「昨夜の青の間のニュースをお届け、もうこれだけで食らい付くよ! たとえ、ぶるぅが覗きをしていてハーレイがズッコケたって内容でもね!」
人は他人のそういう事情を知りたいものだ、とグッと拳を握るソルジャー。
「記事の一つはコレに決まりで、現場にいた記者ならぬぼくが迫真の状況を書く、と!」
他にもエロイ記事が満載、とソルジャーはアイデアを挙げ始めました。意味はサッパリ分かりませんけど、大人の時間に纏わる情報らしいです。
「ハーレイが鼻血で失神しない程度に、なおかつ食らい付くように! それが大切!」
「…君が書くんなら、ぼくはどうでもいいけどねえ…」
どうせハーレイは普段から何かと良からぬ写真なんかで楽しんでるし、と会長さん。
「それで、その新聞を読んでしまえば、童貞卒業までの日が縮まるわけだね?」
「そう、読む度に百日ずつね!」
今夜は楽しく読んで貰おう、とソルジャーは悪意の塊でした。教頭先生に届く新聞、今夜の所は真相は何も知らされないまま、童貞卒業までの日数が百日短縮されるだけ、と…。



かくして決まった恐怖新聞。ソルジャーは会長さんの家の一室を借りてウキウキ新聞作りで、出来上がったものを「ジャジャーン!」と見せに来てくれましたが、私たちが読んでも意味は不明だと分かってますから、「恐怖新聞」のロゴや日付を確認しただけ。
会長さんの方は端から端まで目を通してから、「よし!」と親指を立ててゴーサイン。
「これならいけるね、ハーレイは確実に食い付くよ。…恐怖新聞だと分かっていてもね」
暫くは狂喜新聞だけど、とダジャレもどきが。
「読む度に童貞卒業までの日数が百日縮んでしまいます、っていうのがねえ…。今夜はこれで大喜びだよ、百日縮んだと祝杯だろうね」
「多分ね。その状態が暫く続いて、実態を知れば恐怖の日々だよ」
ぼくに童貞を奪われる日がヒタヒタと近付いてくるわけで…、とソルジャーがクスッと。
「しかも恐怖新聞だと知らせに行くのは君だからねえ、もう間違いなくその日はドン底! そこを乗り越えても、開き直っても、やっぱり良心が痛んで恐怖な新聞なんだよ」
それでも読まずにいられないのが恐怖新聞、と本日の新聞を配達仕様に畳んでいるソルジャー。ポストに投げ込むような形に、恐怖新聞のロゴが見えるようにと。
「今夜はこれを放り込んで、と…。明日からの分はぼくのシャングリラで作ろうかな」
どうせ昼間は暇なんだから、とソルジャーならではの発言が。
「ソルジャーはけっこう暇なものだし、君たちも授業に出ている間はぼくと遊んでくれないし…。あ、でも明日は日曜だっけね、週末はこっちで作るのもいいね」
ともあれ今夜はこれをお届け、と恐怖新聞の第一号が折り畳まれて、後は配達を待つばかり。私たちも野次馬根性丸出し、お届け見たさに今夜は会長さんの家にお泊まり決定です。豪華な寄せ鍋の夕食の後はワイワイ騒いで、夜食も食べつつ深夜になって。
「そろそろかなあ? 丑三つ時って今頃だよね」
「午前二時だしね、届けに行くにはいい時間だと思うけど…」
出掛けるのかい、と会長さんがソルジャーに訊くと。
「まさか! 単に新聞を放り込むだけだよ、瞬間移動で!」
ついでに掛け声は音声を少々変えてお届け、とソルジャーがパチンと指を鳴らせば壁に中継画面が出現。教頭先生の家の寝室が映し出されて、ベッドで爆睡中の教頭先生も。
「さてと…。ここへ一発、恐怖新聞!」
ソルジャーが言うなり、中継画面の向こうで「新聞でーす!」と響いたソルジャーとは全く違う人の声、ベッドの上にバサリと新聞。教頭先生がゴソッと動きましたが、さて、この後は…?



「…新聞だと?」
うーん、と教頭先生が目覚めて手探り、部屋に明かりがパチリと点いて。
「はて…?」
本当に新聞が…、と掛布団の上の新聞を手にした教頭先生、たちまち瞳が真ん丸に。
「…恐怖新聞!?」
誰の悪戯だ、と言ってますから、恐怖新聞という存在は御存知なのでしょう。やっぱり普通に作っていたって会長さん絡みの悪戯扱い、喜ばれて終わるオチだったか、と見詰めていれば。
「…悪戯ではなくて本気なのか、これは? …ブルーからの愛の告白だろうか…」
読む度に百日も縮むとはな、と教頭先生の頬がうっすらと赤く。
「しかも記事がいい、あちらのブルーが作っているというわけか…。青の間の記事はブルーでなければ書けないからな」
ふむふむ…、と昨夜の青の間の状況を熱心に読んで、他の記事にも興味津々。これは知らなかったとか、勉強になるとか連発しながら読み進んで…。
「うむ、実に素晴らしい新聞だ! 恐怖新聞と書かれてはいるが、狂喜新聞と呼びたいくらいだ」
何処かで聞いたようなダジャレに、会長さんがチッと舌打ち。ハーレイとネタが被るなんて、と不快そうですが、そうとも知らない教頭先生は満面の笑みで。
「これから毎晩これが届くのだな、そして読む度にブルーとの初めての夜がグッと近付く、と」
読めば百日縮むのだしな、と教頭先生はソルジャーと会長さんの計算通りに勘違い。今夜だけでもう百日縮んだと歓喜の面持ち、恐怖新聞の第一号を丁寧に畳んで…。
「これは記念に取っておかねば…。そうでなくても勉強になるし、明日以降のも古紙回収に出すなどは考えられんな」
恐怖新聞は永久保存版だ、とベッドサイドの棚の上へと。
「明日もこの時間に届くのか…。届く所を起きて見てみたいが、サンタクロースのようなものかもしれないしな…」
起きて待っていたら来ないかもしれん、と明日以降は寝て待つつもりのようです。それから明かりがパチンと消されて、ソルジャーが中継画面を消して。
「この先は見なくていいと思うよ、感極まったハーレイがベッドで良からぬことをね」
「…あの内容だし、燃え上がるのも仕方ないねえ…」
真相を知るまではどうぞご自由に、と会長さん。恐怖新聞の第一号は狂喜新聞になっちゃいましたが、お届けは無事に完了です。明日からも午前二時のお届け、丑三つ時には恐怖新聞ですね?



教頭先生が大喜びした恐怖新聞第一号。日曜日は朝から何度も読み返し、ソルジャーは会長さんの家で新聞作りを。昨夜は自分の世界に帰っていないくせに青の間情報を書いたのだそうで…。
「このくらいの捏造、新聞記事にはありがちなんだろ?」
無問題! とソルジャーが言ってのけた偽の青の間情報、その夜に新聞を配達された教頭先生は嘘とも知らずに熱心に読んだと月曜日の放課後に聞かされました。会長さんとソルジャーから。
そんな調子で配達が続き、会長さんは三日どころか一週間も教頭先生を泳がせておいて、金曜日の夜に私たちにお泊まりの招集が。お泊まり用の荷物は持たずに登校してたんですけど、急なお泊まりはありがちですから慣れたもので…。
「かみお~ん♪ 今夜はハーレイの家にお出掛けなんだよ!」
みんなはシールドに入っていてね! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。会長さんとソルジャーだけが姿を現しての訪問だそうで、「そるじゃぁ・ぶるぅ」も私たちと一緒にシールドで姿を隠すとか。会長さんの家でソルジャーも交えて特製ちゃんこ鍋の夕食、後片付けが済んだら出発で。
「さて、行こうかな?」
ソルジャーが腰を上げ、会長さんも。
「ハーレイの顔が楽しみだねえ…。狂喜新聞が恐怖新聞に変わる瞬間がね!」
今も楽しく読み返しているし、という声と同時に青いサイオンがパアアッと溢れて、私たちは教頭先生の家のリビングへと瞬間移動。会長さんとソルジャーがスッと進み出て…。
「「こんばんは」」
「あ、うむ…。いや、こんばんは…!」
教頭先生がソファの後ろに慌てて隠した恐怖新聞。会長さんが「隠さなくてもいいのにねえ?」とソルジャーの方を向き、ソルジャーも。
「隠すことはないと思うんだけどねえ、恐怖新聞。もう相当に縮まったかな?」
六百日ほど縮んだものね、とニコニコと。
「君の童貞卒業までの日、一年半ほど縮まったわけで…。感想は?」
「そ、それは…。嬉しいです…」
いつも素晴らしい記事をありがとうございます、と教頭先生は素直に頭を下げました。ソルジャーは「どういたしまして」と笑顔を返して。
「これからも順調に縮めるといいよ、童貞卒業までの日数! ぼくも大いに応援するから!」
「は、はいっ!」
その日を目指して精進します、と決意も新たな教頭先生だったのですが…。



「ハーレイ、精進するのはいいんだけどねえ…。その新聞、恐怖新聞だよ?」
普通は寿命が縮むんだけど、と会長さんが口を挟みました。
「ところが君の寿命は縮みそうもない。…今から縮むかもしれないけどさ」
「は?」
怪訝そうな顔の教頭先生。会長さんはフンと鼻を鳴らすと。
「そこに書いてある童貞卒業、ぼくが相手だとは何処にも書かれてないんだけどねえ?」
「…それがどうかしたか?」
わざわざ書くほどのことでもないし…、と教頭先生はまるで疑ってもいないようです。ソファの後ろに隠してあった恐怖新聞を引っ張り出して改めて確認、一人で納得してらっしゃいますが。
「分かってないねえ、恐怖新聞だと言った筈だよ、寿命が縮むと。…君の童貞卒業の日には、ぼくじゃなくってブルーが相手をするんだけれど?」
そこのブルーが、と会長さんが指差し、ソルジャーが。
「その通り! ぼくが君の童貞を奪いに来るっていうのが恐怖新聞のコンセプト!」
「あ、あなたが!?」
「そう、ぼくが! 君がブルーだけだと守り抜いて来た、筋金入りの童貞をね!」
美味しく楽しく奪わせて貰う、とソルジャーが宣言、教頭先生は顔面蒼白。
「…そ、そんな…! 私は初めての相手はブルーだと決めておりまして…!」
「知っているから奪いに来るんだよ、そのための予告が恐怖新聞!」
奪いに来る日が近付いて来たら残り日数の表示に変わるから、とソルジャーが笑みの形に唇を吊り上げ、会長さんが。
「そういう仕様になってるんだよ、恐怖新聞。…君はブルーとヤるってわけだね、ぼく一筋だと散々言ってたくせにブルーと!」
「い、いや、私にはそういうつもりは…!」
「つもりが無くても、これが真実! ブルーとヤろうと六百日も期間短縮したわけで!」
もう最低な男だよね、と会長さんは激しく詰って、スケベだの何だのと罵詈雑言で。
「ぼくにこうして怒鳴り込まれて、寿命が縮んだかもだけど…。それでも君は読み続けるんだ、ブルーが届ける恐怖新聞を毎晩ね!」
「よ、読まなければ縮まないのだろう…! これ以上は…!」
そしてブルーも来ない筈だが、と教頭先生は真っ青ですけど、会長さんが返した答えは。
「よく考えたら? 恐怖新聞だよ、読んじゃ駄目だと分かっていても読むのが恐怖新聞!」
君だってきっと読み続けるさ、と冷たい微笑み。恐怖新聞、それでこそですもんねえ…。



もう読まない、と泣きの涙の教頭先生を放って会長さんは帰ってしまいました。シールドの中にいた私たちを引き連れて瞬間移動で。ソルジャーも一緒に戻って、深夜になって。
「さてと、ハーレイの決心はどんなものかな?」
読まないと言っていたけどねえ…、とソルジャーが出現させた中継画面。教頭先生は明かりを消した寝室でベッドにもぐってらっしゃいますけど…。
「新聞でーす!」
例によって声色が変えてある音声、ベッドの上にバサリと新聞。教頭先生がゴソリと身じろぎ、やがて明かりがパッと灯って…。
「よ、読んではいかん…!」
捨てるだけだ、と恐怖新聞を掴んだ教頭先生、けれど視線は紙面に釘付け。
「…青の間スクープ…」
何があったのだ、と食い入るように読んでらっしゃる本日の特ダネ、青の間スクープ。つまりは童貞卒業までの日数、また百日ほど縮んだわけで。
「…し、しまった…!」
読んでしまった、と愕然としてらっしゃいますけど、時すでに遅し。ソルジャーは中継画面を消すなりガッツポーズで、勝利の笑みで。
「そう簡単には逃がさないってね! 明日からもガンガン、ハーレイの心を掴む記事!」
「スクープを乱発するのかい?」
今日みたいな感じで、と会長さんが訊くと。
「ダメダメ、それじゃ慣れてしまって食い付かなくなるし! ぼくも色々、知恵を絞って!」
愛読者様の心に訴える記事を書かなければ、とソルジャーも楽しんでいるようです。聞けばキャプテンも紙面作りにアイデアを出しているとかで。
「同じハーレイ同士だからねえ、似ている所は似てるしね? レイアウトとかにはハーレイの案を積極的に取り入れてるよ」
目に付きやすい記事の配置なんかもあるし…、と恐怖新聞作りはソルジャー夫妻の日々の楽しみにもなりつつあって。
「青の間情報もね、ハーレイもまんざらじゃないんだよ。覗きはダメでも、文章の形で披露するのは悪い気分じゃないらしくって…」
だから現場のナマの情報をガンガンお届け、ハーレイ視点の記事なんかもね、と笑顔のソルジャー。教頭先生に届く恐怖新聞、日に日にグレードアップしそうな感じです。それを読まずに逃げ切るだなんて、ほぼ不可能かと思いますけどね…?



恐怖新聞作りに燃えるソルジャー、読むまいと頑張っては誘惑に負ける教頭先生。両者のバトルは入試期間だのバレンタインデーだのも乗り越えて続き、二月の末が近付いた頃。
「いよいよカウントダウンなんだよ!」
エックスデーは雛祭りに決めた、とソルジャーが本日の恐怖新聞を抱えてやって来ました。
「雛祭りってアレだろ、お雛様の結婚式なんだろう?」
「んーと…。まるで間違ってはいないかな、うん」
会長さんが返すと、ソルジャーは。
「結婚式の日なら吉日、そこでハーレイが童貞卒業! 今日から秒読み!」
ほらね、と示された恐怖新聞のロゴの下には「読むと百日縮みます」と書かれていたお馴染みの警告文の代わりに、残り日数が書き込まれていて。
「…ハーレイの震え上がる顔が目に見えるようだねえ、ここまで縮んでしまったってね」
自業自得だけど、と会長さん。
「でもねえ、恐怖新聞だしね? 残り日数も順調に縮むんだろうねえ…」
「それはもう! 腕によりをかけて紙面作りをするからね!」
逃がすものか、と闘志に溢れるソルジャー、会長さんはクスクスと。
「…そして雛祭りの日がやって来る、と…。どんなにハーレイが震えていてもね」
「そうだよ、その日に恐怖新聞を読んだらおしまいなんだよ」
このぼくが出て行って童貞を奪う、とソルジャーは拳を突き上げてますが、それって冗談でしたよねえ? 本気で奪うつもりは無くって、あくまで脅しているだけで…。
「そうだけど? 今回のコンセプトは恐怖新聞、最後まで読んだらどうなるか、っていうだけのスリルに満ちたイベントなんだから!」
誘惑に負けて読んでしまったハーレイが悪い、と言うソルジャー。
「今日まで守って来た童貞を失くしてブルーに顔向け出来なくなるのも、恐怖新聞を読み続けたからで! しかも読んだら永久保存で残しているっていうのがねえ…」
「あれも一種の開き直りだよね、一度読んだら二度、三度とね。そしてキッチリ保存なんだよ」
それだけでも相当に罪が重い、と会長さんはバッサリと。
「普通の新聞だったらともかく、エロイ記事しか無いんだよ? そんなのを残して何度も読み返すなんて、スケベ以外の何なんだと!」
童貞を奪われてしまうがいい、と助ける気は微塵も無いのだそうで。教頭先生のお宅に放り込まれる恐怖新聞、今日からカウントダウンです。雛祭りの日の夜に残り日数がゼロの新聞が届き、ソルジャーが教頭先生の童貞を奪うという勘定。教頭先生、どうなるんでしょう…?



カウントダウンな恐怖新聞、教頭先生はヤバイと大慌てなさったらしいですけど、なにしろ相手は恐怖新聞。読まずにいられない新聞なだけに、毎晩、ウッカリ読んでしまって、開き直って保存の日々。とうとう雛祭りの日が来たわけで…。
「いよいよ今夜でおしまいってね!」
昨日ので残りが百日だったからね、とソルジャーが手にする恐怖新聞は残り日数がゼロで特別構成らしいです。これでフィナーレ、読者サービスてんこ盛り。
「青の間特集は特に力を入れてあるんだよ、ぼくのハーレイも色々と考えてくれて…」
目を離せない素晴らしい特集になった、と得意満面で語るソルジャー。会長さんも新聞を横から覗き込んでみて「いいね」と絶賛、相当にエロイ出来らしくって。
「もう間違いなくハーレイは読むね、これで終わりだと分かっていてもね」
「君も見物に来るんだろう? 最後の恐怖新聞配達」
今日はぼくから手渡しだしね、とソルジャーが言えば、会長さんは「うん」と。
「手渡されたら直ぐにゴミ箱に放り込んだらいいのにねえ…。そうせずに読んでしまうのが恐怖新聞の怖い所だね、ぼくと君とが見ているのにねえ?」
「ぼくたちの前で読み耽った挙句にドツボだってね、今夜のハーレイ!」
君には詰られ、ぼくにはアッサリ見捨てられ…、とソルジャーは方針を変えていませんでした。今日で終わりだ、と教頭先生をベッドに押し倒し、一瞬だけ期待を持たせておいて…。
「「「回収する!?」」」
何を、と声を上げた私たちですが。
「恐怖新聞に決まっているだろう! 新聞の末路は古紙回収だよ、ハーレイの手元には何一つ残らないってね!」
「らしいよ、ブルーの渾身の作の恐怖新聞、読者様の残り日数が尽きたら用済みだってさ」
もちろん今日の特別構成の新聞だって…、と会長さん。ということは、教頭先生、会長さんに罵倒されまくって、ソルジャーには童貞を奪われるどころか大事に保管して来た恐怖新聞を奪い去られて、美味しい所は何も残らないと…?
「そういうものだろ、恐怖新聞! 命を失くしておしまいになるか、自分の評価やコレクションとかがパアになるかの違いだけだから!」
ねえ? とソルジャーが会長さんに同意を求めて、会長さんも。
「毎日あれだけ読み込んだんだし、ハーレイもきっと本望だよ。恐怖新聞!」
最後の配達がもう楽しみで…、と浮かれまくっている鬼が二人ほど。私たちはシールドの中から高みの見物の予定ですけど、教頭先生、最後の恐怖新聞を読んだら会長さんからは酷い評価で、ソルジャーが予告していた童貞を奪われるというイベントも無しで…。



「教頭先生、一巻の終わりというわけでしょうか?」
それっぽいですが、とシロエ君が溜息をついて、ジョミー君が。
「恐怖新聞、元々そういうヤツだしね…。寿命が無くなったら終わりなんだし」
「今夜で最後になる勘定か…」
何もかもがパアか、とキース君。教頭先生が今日まで築いて来られた会長さん一筋とやらが崩壊する上、崩壊しても報われるわけではないというのが空しいです。それでもソルジャーの力作の恐怖新聞の最後の号を教頭先生は読むに決まっているという所が…。
「…怖いですねえ…」
恐怖新聞、とマツカ君が呟き、スウェナちゃんも。
「読まずにいられないっていうのがねえ…」
なんて恐ろしい新聞だろう、と震えるしかない恐怖新聞。最後の配達、もうすぐ出発らしいです。教頭先生、恐怖新聞の怖さを思い知っても懲りないでしょうが、暫くの間は多分、ドン底。せめて最後の特別構成の恐怖新聞でお楽しみ下さい、きっと素敵な記事ばかりですよ~!



            読みたい新聞・了


※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 ジョミー君が読みたくなった恐怖新聞、とんでもない方向へ行ってしまったわけですけど。
 ある意味、寿命が縮む仕様で、教頭先生にピッタリな品。ソルジャー、流石な腕前です。
 去年はコロナで大変でしたけど、今年はどうだか。いい年になるといいですねえ…。
 次回は 「第3月曜」 2月15日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、1月は元老寺での元日から。新年早々、災難な目に遭う人が…。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv











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(行っちゃった…)
 乗り遅れちゃった、とブルーが見送ったバス。学校の側のバス停で。
 走り去ってゆくバスの後姿、あれに乗って帰る筈だったのに。これに乗ろう、と決めているわけではないけれど。何時のバスに乗って帰ってもいいのだけれど。
 ただ、なんとなく「この時間」だという気がするバス。学校が終わった後にバス停に行ったら、走って来て自分を乗せてくれるバス。
(乗れると思っていたんだけどな…)
 友人たちと別れた時には、そのつもり。いつものバスで家に帰ろうと。
 けれど、途中でちょっぴり寄り道。校門の側にある学校の花壇、其処に咲いていた幾つもの花。それに惹かれたから、眺めていた。立ち止まって順に、花の名前を確かめて。
(綺麗だけど、ハーレイと一緒には見られないよね、って…)
 自分の家の庭だったならば、「綺麗だね」と二人でゆっくり眺められるけれど。のんびり座って語り合うことも出来るけれども、此処は学校。
 ハーレイは教師で自分は教え子、花壇の側でデートは出来ない。家の庭とは違うから。
 色々な種類の花壇の花たち、ハーレイが「この花はだな…」と得意の薀蓄を聞かせてくれても、花に纏わる伝説なんかを教えてくれても、恋人ではなくて「ハーレイ先生」。
 学校の花壇を二人で見るなら、そうなってしまう。素敵な話を聞けたとしても。
 ちょっぴり寂しい、と囚われた思い。学校と家では違い過ぎるよ、と。
 同じ花壇の花にしたって、何処で出会うかで違うんだ、と考え込んだりしている内に…。
(時間、経っちゃった…)
 余裕を持ってバス停に行ったつもりが、目の前で走り去ったバス。乗降口を閉ざしてしまって、次のお客が待つバス停へと。



 失敗した、と思うけれども、行ってしまったものは仕方ない。追い掛けて走れる体力は無いし、それが出来るなら、バス通学などしていないから。
(えーっと…)
 次のバスは、と時刻表を眺めて満足した。直ぐに次のがやって来る。ほんのちょっぴり、此処で待つだけ。暑くも寒くもない季節だから、待っていたって苦にはならない。空も青くて、通り雨も来そうにないのだから。
(ハーレイと二人で待っていたら、もっと早いんだけど…)
 乗り損なったね、とハーレイの顔を見上げて、「直ぐに来るさ」と微笑んで貰って。色々な話をしている間に、次のバスが滑り込んで来る。待った気持ちさえしない間に。
 きっとそうだよ、と幸せな夢を描いている間に、やって来たバス。時刻表通りに走って来たし、お気に入りの席も空いていたから、問題無し。
(いつものバスと変わらないよ)
 窓から外を眺めた景色も、乗り心地だって。他の乗客の年恰好も、ちっとも違っていはしない。いつものバスと同じ雰囲気、変わらない空気。一本遅れただけなのだから。
(もっと遅くなったら、お客さんだって…)
 今の時間とは違うのだろう。仕事帰りの人が増えるとか、上の学校の生徒が大勢だとか。
 けれど、普段と何処も違いはしないバス。待っていた時間もほんの少しで、家の近くのバス停に着いた時にも、さほど遅くはなっていないから。
(此処で寄り道したりもするしね?)
 バス停から家まで歩く途中の住宅街。庭に咲いている花を眺めたり、其処の住人と話をしたり。足を止めたら、もうそれだけで経ってゆく時間。バスを一本待っているより、ずっと多めに。



 だからいつもと変わらないよ、と歩いて帰り着いた家。
 「おかえりなさい」と迎えてくれた母も普段通りで、「今日は遅いのね」とも言われない。少し遅れた時間の長さは、寄り道よりも短めだから。
(ホントにいつもとおんなじだよね)
 乗り遅れちゃった、とバスを見送った時には、少しだけショックだったけど。失敗したと思ったけれども、その後は何も変わらない。次のバスに乗って、戻ったいつもの時間の流れ。
 おやつを食べに出掛けたダイニングの時計が示す時間も、おやつが美味しいと感じる気持ちも、何処も変わっていはしない。
(ほんの一本、遅れただけだし…)
 大して経ってはいなかった時間。ハーレイが仕事の帰りに寄ってくれても、慌てる必要すら無い時間。おやつの途中でチャイムが鳴って大慌てだとか、着替えも済んでいなかっただとか。
 そんな時間になっていたなら、大変だけれど。
 ゆっくりおやつを食べるどころか、急いで制服を脱いで着替えて、部屋から一歩も出ないとか。母が「おやつよ」と呼んでくれても、「今日は要らない!」と部屋から叫んで。
 ハーレイが来そうな時間がすっかり過ぎてしまったら、「やっぱり食べる…」と言うだとか。



 幸い、そうはならなかったから、おやつのケーキをのんびりと食べて、紅茶もおかわり。新聞もじっくり目を通してから、二階の自分の部屋に帰って、座った勉強机の前。
 部屋の時計も、やっぱりいつもと変わらない。遅めの時間を指してはいないし、バスに目の前で去られたことが嘘のよう。確かに行かれてしまったのに。時刻表を見て、次を待ったのに。
(乗り遅れたって、次のバスがちゃんと来るもんね?)
 そのお蔭だよ、と思い返した時刻表。頼もしいバスは、待っていれば直ぐに次の便が走って来てくれるから。町の中を走っているバスなのだし、田舎のバスとは違うから。
(田舎だったら、一時間に一本だけだとか…)
 そういう所もあるらしい。暮らしている人の数が少ない場所では、バスも少なめ。一時間の間に一本だったらまだ多い方で、一日の間に三本だけという所もあると何処かで聞いた。
 田舎暮らしが好きな人たちは、一日にバスが三本だけでも気にしない。其処がいいから、と町を離れた所で暮らす。山の奥とか、そんな所で。
(乗り遅れちゃったら、どうするのかな?)
 一日に三本だけのバス。今日の自分みたいに走り去られたら、次のバスは当分来てはくれない。バス停に立って待っていたって、何時間もバスは来ないまま。
 バスが来ないなら、ルール違反の瞬間移動か、それが無理なら家に戻って車を出すとか。バスの数さえ少ない田舎は、きっとタクシーも無いだろう。町なら直ぐに来てくれるけれど。



 大変そう、と思った田舎の暮らし。一日にバスが三本だけ。タクシーだって無い場所で。
 乗る予定だったバスを逃したら、呆然とするしかなさそうな場所。行ってしまった、と。
(でも、きっとなんとかなるんだよね?)
 一本逃してしまったどころか、最終のバスに乗り遅れたって、用事があるなら誰かが車で送って行ってくれるとか。「ついでですから」と、親切に。
 昼間だったら、「このくらいの距離がなんだ」と歩いてゆくとか、自転車に乗ってゆくだとか。住んでいたなら、方法は幾つもあるのだろう。
 そうでなければ、そんな所でわざわざ暮らしはしないから。
(ぼくだと、とっても困るんだけど…)
 一日にたった三本だけのバスに乗り遅れてしまったら。田舎でバスに走り去られたら。
 けれども、それは自分が立ち寄っただけの人間だからで、住んでいる人たちは平気なのだろう。「のんびり歩いて行くことにしよう」とか、「明日でいいや」とか、ゆったり構えて。
(急ぐ用事でなかったら…)
 いつかは次のバスがやって来るのだし、最終バスが走り去っても、次の日にはまたバスが来る。それで充分、間に合うんだよね、と思った所で気が付いた。
 行っちゃった、と今日の自分が見送ったバス。次のバスが直ぐに来たけれど。
 それに、田舎の路線バス。一日にたった三本だけとか、一時間に一本しか来ないとか。
(…バスだから…)
 いつも走っていて次のが来るから、乗り遅れても平気なだけ。次があるさ、と考えるだけ。その日の内には来なかったとしても、次の日にバスはやって来る。
 乗り遅れても、それでおしまいにはならないバス。
 次は必ずやって来るから、来ないわけではないのだから。



 そうじゃなかった、と頭に浮かんだ白い船。前の自分が生きていた船。
(…シャングリラ…)
 あれはそういう船だったんだ、と白い鯨を思い出した。乗り損なったら、次のは来ない船。白い鯨に乗れなかったら、ミュウは生きてはいけないのに。
(シャングリラ、走って行っちゃった…)
 今日の自分が乗り遅れてしまったバスみたいに。目の前で走り去ったみたいに。
 アルタミラの地獄から逃げ出す時には、仲間たちを乗せて飛び立ったけれど。生き残った仲間を一人残らず収容してから、燃える星を後にしたけれど。
 アルテメシアの時には違った。衛星兵器に狙い撃ちされて、宇宙へと逃げて行った時には。
(…シロエ…)
 乗せて行けなかったセキ・レイ・シロエ。今も歴史に名前が残るミュウの少年。
 まだ十歳の子供だったシロエは明らかにミュウで、ジョミーが接触していたのに。ミュウの子供だと分かっていたのに、シロエを船に乗せ損なった。
(シロエのお父さん…)
 サイオニック研究所にいた、シロエの養父。彼が開発した、雲海に潜むサイオン・トレーサー。それの前には、役に立たなかった船を守るためのステルス・デバイス。
 シャングリラの位置は人類に知れて、衛星兵器で攻撃された。超高空から来る高エネルギーは、防ぎ切れないものだったから…。
 逃げることを決断するしか無かった。白いシャングリラが破壊される前に、広い宇宙へ。



 船が宇宙へ飛び去った後は、消えてしまったミュウの箱舟。雲海の星、アルテメシアから。
 それに乗れたら、ミュウたちは生きてゆけるのに。船の中が世界の全てであっても、生きてゆくことが出来たミュウの楽園に。
 行ってしまったシャングリラ。次のシャングリラはもう来なかった。どんなに待っても、箱舟は二度と来ないまま。路線バスなら次が来るけれど、シャングリラは宇宙に一つだけだから。
(シロエのお父さんは知らなかったんだ…)
 自分の息子を、シャングリラに乗せ損なってしまったことを。自分が作り出した機械のせいで、シロエが箱舟に乗り遅れて置いてゆかれたたことを。
 血の繋がりの無い家族だとはいえ、シロエの父はシロエを可愛がった筈。そうでなければ、後のシロエは生まれない。両親を、家を忘れまいとして、システムに逆らい続けた彼は。
 シャングリラが宇宙に去ってしまってから、シロエの父は四年ほどシロエを手元で育てて、愛を注いで、目覚めの日を迎えて送り出して…。
(お父さん、知らないままだったのかな…)
 自分の息子がどうなったのか、最後まで。ミュウだったことも、キースに殺されたことも。
 シロエの名前が宇宙に広まった頃には、何歳くらいだったのだろう?
 息子のことだと気付いただろうか、名前を耳にしたのだろうか?
 歴史に名前を残した少年。キースの心にSD体制に対する疑問を深く刻んで、反旗を翻させるに至った切っ掛けの一つ。今は誰でも、シロエの名前を歴史の授業で教わるけれど。
(お父さんたちの手記、あるっていう話は聞かないし…)
 きっと寿命を迎えてしまったのだろう。シロエの名前が広まる前に。
 シロエがどうなったのかも知らずに、彼をシャングリラに乗せ損なったとも気付かないまま。



 雲海の星を離れて去ったシャングリラ。行ってしまったミュウの箱舟。
(あれから後に、アルテメシアで生まれたミュウの子供たちだって…)
 シャングリラには乗り損なった。白い鯨がまだあったならば、その子供たちもシロエも、きっと乗ることが出来ただろうに。船の中でしか生きられなくても、殺されはせずに。
 けれど、アルテメシアを出て行った船には乗り込めない。
 走り去って行った路線バスならば、次のがやって来るけれど。今日の自分がそうだったように、バス停で次のバスを待ったら、乗り込めるバス。
 一日に三本しか来ない田舎のバスでも、次のバスは必ず来てくれるけれど…。
(次のシャングリラは、もう来なかったし…)
 乗り損なったミュウの子供たちには、乗せてくれる船はやって来なかった。どんなに待っても、次の箱舟は来てくれないまま、皆、殺されていったのだろう。シロエのように。
 赤いナスカが滅ぼされた後、シャングリラは十七年ぶりにアルテメシアに戻ったけれど。
 人類軍との戦いに勝利を収めて、アルテメシアを手に入れたけれど、そうして箱舟が戻って来る前。行ってしまったまま、次が来ないで放っておかれた十七年の間。
 何人の子供が乗れなかったのだろう、あの船に…?
 白いシャングリラに乗り遅れたばかりに、何人のミュウの子供が命を失くしただろう。
(資料、あるよね…)
 調べればきっとあるだろうけれど、見る勇気は無い。恐ろしくて。
 けれど、乗り遅れた子供たちはいた。シロエの他にも、何人ものミュウの子供たち。
 次のシャングリラは来なかったから。乗り遅れた子たちを乗せてゆくために、次の箱舟が来てはくれなかったから、殺されていった子供たち。
 路線バスなら、次が来るのに。最終バスが出た後にだって、次の日にまた走って来るのに。



 乗せてやれなかった子供たち。白いシャングリラに、ミュウの箱舟に。
 乗り損ねたのは、子供たちのせいではなかったのに。あの船があれば、子供たちはそれまでの子たちと全く同じに、箱舟に乗れる筈だったのに。
 アルテメシアというバス停に立って、其処に行ける時を待ちさえすれば。シャングリラに連れてゆくための船が、小型艇が迎えにやって来るのを待っていたなら。
(…それまでの子たちは、みんなそうして…)
 白い箱舟に乗り込んだ。救助班の者たちに助け出されて、シャングリラへと。殺されてしまった子もいたのだけれども、大抵は上手くいっていた。無事にシャングリラに迎え入れられた。
(シャングリラがあのまま、アルテメシアにいたら…)
 乗れる筈だった子供たち。シロエも、その後に生まれた子たちも。
 今日の自分は、うっかりバスに乗り遅れたけれど、子供たちは何もしていない。失敗など一つもしてはいなくて、ただシャングリラが無かっただけ。
 いくら待っても来ない箱舟、それに乗せては貰えない。その箱舟が遠くに行ってしまったのは、白い鯨がもう無かったのは、子供たちがウッカリしていたからではなかったのに。
 子供たちはただ生まれて来ただけ、シロエも置いてゆかれただけ。
(…アルテメシアを出よう、って言ったの…)
 自分だった、と噛んだ唇。
 前の自分が下した決断。これ以上船が傷ついたならば、宇宙に出ることも出来なくなるから。
 シャングリラは沈んでしまうだろうから、その前に、と。
 「ワープしよう」と命じた自分。
 旅立つ時だと、アルテメシアを離れようと。
 あのまま殲滅されないためには、必要だった決断だけれど。白いシャングリラを、ミュウたちの未来を守るためには、他に道など無かったけれど…。



 前の自分が決めた旅立ち。アルテメシアを離れること。
 白いシャングリラは行ってしまって、子供たちは箱舟に乗り損なった。みんな、バス停に立っただろうに。それまでの子たちと全く同じに、バス停で待っていたのだろうに。
 乗せて行ってくれるバスが来るのを。白いシャングリラがやって来るのを。
 子供たちは何も悪くないから、本当だったらバスは来た筈。寄り道していて、バスが来る時間に遅れたわけではないのだから。…子供たちはバス停で待っていたのに、そのバスは…。
(ごめん…)
 ぼくのせいだ、と今頃、気付いた。前の自分が行かせてしまったシャングリラ。アルテメシアというバス停で待つ、子供たちをもう乗せてやれない所へと。
 次のシャングリラは来ないのに。子供たちを乗せるバスは無いのに。
(…シロエも、他の子供たちも、みんな…)
 前のぼくのせいで乗り遅れちゃった、と心の中に重い塊。誰も悪くはなかったのに。白い箱舟が行ってしまったのは、前の自分のせいだったのに。
(シロエのお父さんが作った機械も悪いんだけれど…)
 どうしてあの時、微塵も思わなかったのだろう。
 シャングリラが宇宙へ去ってしまったなら、乗り遅れるだろう子供たちのこと。今までに迎えた子たちと同じにバス停にいても、バスが来てくれない子供たちのことを。
(…シロエで分かっていた筈なのに…)
 乗り遅れる子供が一人いること。一人いるなら、これから先にも何人もいると。
 けれど、謝りもしなかった。置き去りにしてゆく子供たちに。アルテメシアに残すシロエに。
 「ごめん」と、「これしか道が無いから」と。
 その一言を残しもしないで、船ごと宇宙に飛び去って行った。子供たちはきっと、あれから後も待っていたのに。バス停に立って、白い鯨を。迎えに来るだろう、ミュウの箱舟を。



 アルテメシアを離れた後に、自分を責めていたジョミー。シロエを連れて来られなかった、と。前の自分は、ジョミーに言葉を掛けたけれども。
 「事の善し悪しは、全てが終わってみなければ分からないさ」と言ったけれども、そんな言葉を口にした自分。…本当に分かっていたのだろうか、置き去りにされた子供たちの命。
 シロエの他にも何人もいると、その子供たちを自分は見捨てたのだ、と。
(ミュウの未来を守るためには、シャングリラが無いと駄目で…)
 沈んでしまえば、もうミュウの子供たちを救い出すことさえ出来ない。だからこそ船を守ろうと決断したのだ、と理屈では分かる。前の自分もそう考えた。ミュウの未来を、と。
 そうは言っても、命の重さ。それは乗り損ねた子供たちも同じで、一人一人に違う未来があった筈。白いシャングリラの中が全ての世界であっても、個性に合った生き方が。
(…船に乗れてたら…)
 どんな大人になったのだろうか、シロエも、置き去りにされた子たちも。
 今の今まで、考えさえもしなかった。何人の子供を置き去りにしたか、あった筈の未来を自分が奪ってしまったのかを。
 あの時、ワープを決めたことで。シャングリラを宇宙に旅立たせたせいで。



(ぼくが決めちゃった…)
 子供たちを残して船を出すこと。バスを行かせてしまうこと。…次のバスは二度と来ないのに。バス停に立って待っていたって、走って来ないと知っていたのに。
(…ごめんね、シロエ…。みんな、ごめんね…)
 ホントにごめん、と心の中で子供たちに何度も謝っていたら、聞こえたチャイム。仕事の帰りにハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり訊いてみた。
「あのね…。ハーレイ、アルテメシアのデータ、知ってる?」
「はあ?」
 アルテメシアって…。今じゃシャングリラの森と、前の俺たちの記念墓地と…。
 それから他に何があったっけか、有名な観光名所とかか?
「ううん、今のアルテメシアのデータじゃなくて…。ずっと昔の」
 前のハーレイに訊いてるんだよ、あの頃のアルテメシアのことを。
 テラズ・ナンバー・ファイブを倒した後に、いろんなデータを引き出してたよね?
 そのデータのことを訊きたいんだけど…。
「お前の両親とかのデータは、もう伝えたが?」
 前のお前の誕生日だとか、養父母の名前に、育った家に…。
 全部教えてやった筈だぞ、前の俺が手に入れたデータは、全部。
「それじゃなくって、子供たちのデータ…。それは無かった?」
 アルテメシアの子供たちだよ、テラズ・ナンバー・ファイブなら持っていそうだけれど…。
「子供たち?」
 何なんだ、それは。確かに大量に持っていやがったが、それがどうかしたか?
「やっぱり、あった? だったら、これもあったかな…?」
 シャングリラに乗れなかった子供たちのデータ。
 乗り遅れちゃったミュウの子供たちだよ、シャングリラが行ってしまったから。
 アルテメシアからいなくなったから、乗れなくなってしまった子たち…。



 置いて行かれたシロエみたいに…、と尋ねたら。白いシャングリラに乗り損なったミュウの子供たちのデータを、見ていないかと問い掛けてみたら。
「そのデータか…」
 ミュウと判断された子供たちだな、俺たちがあそこを出て行った後に。
 成人検査で引っ掛かったとか、養父母に通報されたとかで。
「知ってるの?」
 そういうデータもちゃんとあったの、前のハーレイは目を通していたの…?
「まあな。きちんと見ないといけないだろうが、ミュウが生まれる割合とかも知らないと」
 どういうケースでミュウになるのか、そういったデータも必要だ。人類と戦ってゆくのなら。
 キャプテンの大事な仕事の内だな、引き出したデータのチェックってヤツは。
 しかし、シロエを除いた特殊例は分からん。
 成人検査を無事に通過したミュウの子供が、それから後にどうなったのかは。
 上手く隠れて生き延びたのか、何処かでバレて消されちまったか。
 あの頃の俺が見ていたデータじゃ、シロエが例外だとされてたわけだし、成人検査を通過出来た子はいないんじゃないか?
 後でマツカの存在を知ったが、あれだって特殊例だろう。幾つもあったとは思えない。ミュウの因子を持ってた子供は、アルテメシアで消されちまっていたんだろうな。
「その子供たちって…。何人くらい?」
 殺されちゃったミュウの子供は、何人いたの?
 前のハーレイ、それも見たでしょ。シロエが例外だったんだ、って知っているなら。



 それを教えて、とハーレイを真っ直ぐ見詰めた。前の自分たちがアルテメシアを後にしてから、ミュウと判断された子供たち。白いシャングリラに乗れずに終わった子供たちの数。
 知ることはとても怖いけれども、ハーレイが知っているのなら。その人数が分かっているなら、自分は知らねばならないだろう。
 その子供たちを置き去りにしたのは、前の自分の命令だから。子供たちが乗れる筈だった船を、待っていたバスを行かせてしまったのは自分だから。
「…お前がそれを知ってどうする」
 どうして知ろうと思ったんだ、と鳶色の瞳が見据えて来るから、正直に答えた。
「謝りたいから…。その子供たちに」
 今日まで気付いていなかったけれど、前のぼくのせいなんだよ。シロエや、他の子供たち…。
 ぼくが「ワープしよう」って決めたせいでね、その子たちを置いて行っちゃった…。
 子供たちはきっと、シャングリラに乗りたかったのに。…乗るために待っていた筈なのに。
 バス停でバスを待つ時みたいに、シャングリラっていう名前のバスを。
 だけど、シャングリラは行っちゃったから…。
 バスだったら、ウッカリ乗り遅れたって、次のバスがちゃんと来るけれど…。シャングリラは、そうじゃなかったから。次のシャングリラは来なかったから…。
 だから、謝りたいんだよ。乗り遅れちゃった子供たちに。…みんな、ごめんね、って。
「なるほどな…。シャングリラとバスとは恐れ入ったが…」
 どうやって思い付いたかは知らんが、そういうことなら、人数は言わん。
 データは今も覚えちゃいるがな、お前に教えるつもりは無いな。
「…なんで?」
 知ってるんなら、どうして教えてくれないの?
 ぼくはホントに謝りたくって、子供たちの数を知りたいのに。…何人、置いて行ったのか。
 前のぼくのせいで乗り遅れた子たち、何人いたのか、きちんと聞いて謝りたいのに…。



 シロエの他に何人いたの、と重ねて訊いても、ハーレイは「駄目だ」の一点張りで。
「お前、自分を責めるから…。今もそうだろ、今のお前のせいじゃないのに」
 前のお前の方にしたって、あの時は仕方なかったことだ。
 俺でさえも思いもしなかった。ワープなんかは頭に無くって、防御するだけで精一杯で。
 キャプテンの俺でも思い付かないのに、誰がそいつを考え出すんだ?
 もしもお前が言わなかったら、シャングリラは沈んでしまっただろう。…ジョミーのシールドが限界点に達した時点で、守り切れなくなってしまって。
 致命的な打撃を食らった後では、もう宇宙には出られないからな。
 お前がワープを決めたお蔭で、シャングリラは無事に逃げ切れた。アルテメシアから宇宙へ出てゆけたから、最後は地球まで行けたんだ。
 …そしてSD体制を倒して、ミュウの未来を手に入れたってな。
 お前は何も間違えちゃいない。あれは必要な決断だった。ああしなければ、何もかもがあそこで終わっちまって、それきりになっていただろう。…ミュウの時代は来ないままでな。
「でも…。それと、あの子供たちの命は別だよ」
 命の重さは、みんな、おんなじ。…仕方ないから、って消えていい命は一つも無いよ。
 お願い、教えて。…前のぼくが置き去りにしちゃった子供は、何人いたのか。
「…お前の気持ちは、分からないでもないんだが…」
 俺だけが知っていればいいんだ、お前が知りたい子供たちの数は。
 お前の代わりに、俺が今でも覚えているから。…俺が代わりに謝ってやるから。
 何度もお前に言ってる筈だぞ、俺はお前を二度と悲しませはしないとな。
 だから決して教えはしない。
 お前が謝りたい気持ちになったというなら、もうそれだけで充分じゃないか。気付いたんだろ、あの星に残した子供たちのことに。…それでいいんだ、気付いて謝ろうと思っただけで。
 いいな、せっかく幸せに生きているのに、余計なことまで知らなくていい。
 今のお前は幸せだろうが、この地球の上で。



 考えるな、と言われたけれども、気になる子供たちのこと。シロエの他に何人いたのか、未来のある子を何人置き去りにしてしまったのか。
 シャングリラというバスを、待っていただろう子供たち。乗れる筈だったミュウの子供たちを、もうバスは来ないバス停に残して行ってしまった。前の自分たちの都合だけで。
 それを決めたのは前の自分で、子供たちはバスに乗り遅れたから…。
「…ぼくは確かに幸せだけど…。ハーレイと地球に来られたけれど…」
 あの子供たちは、そうじゃなかった。シャングリラが行ってしまったから。
 シロエはキースに殺されちゃったし、他の子たちは保安部隊に撃ち殺されて…。
 ぼくがワープって言わなかったら、みんな、シャングリラに乗れていたかもしれないのに…。
 シャングリラがあそこで沈んだかどうか、そんなの、誰にも分からないのに…。
「そう来たか…。確かに、終わりじゃなかったかもしれん。それは分からん」
 同じようにワープして逃げていたって、定期的に戻って助け出す手もあったかもしれん。
 だがな、そいつは今だからこそ思うことでだ、あの時はあれが最善だった。それだけは俺が保証する。キャプテン・ハーレイだった俺がな。
 それに、お前が言う子供たち。その子供たちも、とうに何処かで幸せになっているだろう。
 俺たちだって地球に来てるくらいだ、みんな幸せに生きてる筈だ。
 お前の友達の一人かもしれんし、誰もが知ってる有名俳優ってこともあるかもな。
「そっか…。今は誰でもミュウなんだものね」
 とっても平和な時代になったし、何処に生まれても、誰でも幸せ。
「そういうことだな、お前は今を生きればいいんだ」
 前のお前がやったことまで、お前が考えなくてもいい。のんびり、ゆっくり行けばいいのさ。
 乗り遅れちまってもなんとかなるから。
「え?」
「バスだ、バス。…シャングリラじゃなくて、普通のバスだな」
 乗り遅れたって次が来るだろ、人生だってそういうもんだ。行っちまったバスを大慌てで走って追い掛けなくても、その内に次のが来るんだから。…待っていればな。



 最終バスが出ちまっていても、次の日にはまた走って来るだろ、と笑ったハーレイ。人生だってそれと同じで、やり直しだって出来るんだから、と。
「喧嘩しちまったら仲直りだとか、大失敗をやらかしたとしても、謝るだとか」
 そうすりゃ、次のバスが来るんだ。元の通りに乗って行けてだ、ゆっくり座っていればいい。
 前の俺たちの時代だったら、のんびりしてはいられなかったが…。
 乗り遅れたなら、必死に追い掛けないと駄目だったわけで、追い付けないこともあっただろう。お前が言ってたシャングリラみたいに、行っちまったら、もうおしまいで。
 しかし、今では違うからなあ…。のんびり次のを待てるだろ、バス。
「うん…。ぼくね、今日の帰りに乗り遅れちゃって…」
 直ぐに次のが来てくれたから、いつもと変わらない時間に帰れて、それが切っ掛け。
 田舎のバスとか、色々なことを考えていたら、シャングリラのことになっちゃった…。
 今だと次のバスが来るけど、あの子供たちには、次のバスなんか来なかったんだ、って…。
「そうか、お前が乗り遅れたのか、本物のバスに」
 上手い具合に次が来たのに、其処から違う考えの方に行っちまった、と…。
 お前の場合は、前のお前の記憶を持っているからなあ…。
 そのせいでグダグダ考えちまって、前のお前がやったことまで謝ろうとする、と。
 余計なことだな、その心配は。
 シャングリラに乗り遅れた子供たちだって、とうに次のバスに乗って行ったさ。
 新しい人生ってヤツを貰って、そのバスに乗って、あちこち走って。
 そいつを降りて、また次のバスで、もう何回も乗り換えたんじゃないか、人生そのものを。
「…ホント?」
 生きてる間に乗るだけじゃなくて、また新しい別の人生?
 そんなトコまで行っちゃっているの、ハーレイがデータを見た子供たちは?
「…多分な。あれから何年経っているんだ、前の俺たちが生きた頃から」
 とんでもない時間が流れただろうが、何回、人生を生きられるんだか…。
 乗り換えただろう人生ってバスも、物凄い数になっているんじゃないか…?



 俺たちの場合は今が一台目のバスらしいがな、とハーレイが浮かべた苦笑い。
 「お前が青い地球にこだわってたから、今頃になっているんだろう」と。
「俺たちが一台目のバスに乗るよりも前に、あの子供たちが地球に来たんじゃないか?」
 前とそっくりの姿がいいとか、二人一緒だとか、妙なこだわりは無さそうだから…。
 もっと早くに地球に来ちまって、地球を堪能して、今はのんびり別の星だとか。
「そうかもね…。こだわらないなら、早そうだものね」
 人間が地球に住めるようになったら、一番の船に乗って来たかも…。
 ゆっくり暮らして、子供も育てて、今は全く別の人生かもしれないね。アルテメシアに生まれていたりするのかな、前のことなんかすっかり忘れて。
 ずっと昔はシャングリラって船があったんだね、って、シャングリラの森を散歩したりして。
「だろう? 俺たちがのんびりし過ぎただけだな」
 こだわりのバスを待って待ち続けて、今までかかっちまっただけだ。
 やっと乗れたし、二人でのんびり行こうじゃないか。
 乗り遅れちまっても次が来るしな、今の時代の人生ってヤツは。
 おっと、人生の中で乗ってくバスだぞ、人生そのもののバスじゃなくって。
 人生そのもののバスは今の俺たちの身体なんだし、そいつを乗せてくれるバス。
 いろんな予定や計画なんかは、のんびりゆっくり、焦って走らずに行こうってな。



 そんな時代だから、あの子供たちのことも心配するな、とハーレイが言ってくれたから。
 確かにハーレイの言葉通りだから、シャングリラに乗り遅れた子供たちだって、今の時代には、きっと幸せなのだろう。
 今の自分とハーレイが幸せに生きているように。青い地球の上にいるように。
(…乗り遅れちゃったことも、もう忘れてるね…)
 本当だったら来る筈のバスに、ミュウの箱舟に乗れなかったこと。
 乗り遅れたせいで殺されたことも、悲しい最期を迎えたことも。
 何もかも忘れて、次のバスに乗って、きっと何処かで幸せな今を生きているのだろう。
 今の時代は、次のバスがちゃんと来るのだから。
 一日に三本しかバスが来ないような、田舎にだって走るバス。
 最終バスが行ってしまっても、次の日を待てば、また別のバスが走って来る。
 今は待ったら次が来るから、バスが来ないままで、おしまいになりはしないのだから…。



            次が来るバス・了


※シャングリラがアルテメシアを離れたせいで、白い箱舟に乗り損なったミュウの子供たち。
 確かに何人もいたのですけど、その子たちも今は幸せな筈。新しい人生というバスに乗って。
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(あっ、ハーレイ!)
 見付けちゃった、と喜んだブルー。飛び跳ねた心。
 学校の休み時間に見付けたハーレイ、前の生から愛した恋人。学校では「ハーレイ先生」としか呼べないけれども、やっぱり心が弾んでしまう。ハーレイの姿を目にしたら。
 そのハーレイは、授業に使うための資料なのだろうか、箱を抱えて運搬中。腕に紙袋まで提げているから、絶好のチャンス。
(お手伝い…!)
 ハーレイと一緒に歩いてゆける、と張り切って近付いて呼び掛けた。「ハーレイ先生!」と。
「ぼくも手伝います。荷物、何処まで運ぶんですか?」
 そう尋ねたら、ハーレイはチビの自分を見下ろしながら。
「おいおい…。手伝うだなんて、重いぞ、これは」
 見た目よりずっと重いんだが、と「よし」と言ってはくれないハーレイ。けれど、手伝いをするチャンス。ハーレイと並んで歩いて行けるし、歩く間は話も出来る。諦めたくない、お手伝い。
「ぼく、お手伝いしたいんです」
 重いんだったら、先生だって大変でしょう?
 箱は無理でも、袋くらいなら、ぼく、持てますから!
「そうなのか? お前の気持ちは嬉しいんだが…」
 紙ってヤツは重いんだよなあ、見掛けよりもずっと。この紙袋の中身もそうだ。
 袋が頑丈に出来ているから、重い中身でもいけるってだけで…。並みの袋だと底が抜けるぞ。



 持てるのか、とハーレイが渡してくれた紙袋。
 大きさの割にズシリと重くて、腕がガクンと下がってしまった。片手で受け取ったものだから。これは駄目だ、と慌てて添えた手。右手に加えて左手まで。
 ハーレイは一部始終を見ていたわけだし、「ほらな」と荷物を取ろうと手が伸びて来た。
「やめとけ、お前には重すぎる」
 俺だと片手で提げて行けるが、お前だと両手になっちまう。重い証拠だ、重すぎるんだ。
 返せ、とハーレイが箱を片手で持ったままで言うから。
「大丈夫です!」
 ハーレイ先生はこれを片手に通して、両手で箱じゃないですか!
 紙袋だけでも、ぼくが持ちます。そしたら箱も持ちやすいでしょう?
「そりゃまあ…。バランスは良くなるな」
 なら、頼むかな、とハーレイが言ってくれたから。「やった!」と躍り上がった心。
(運んでいる間は、ハーレイと話…)
 荷物くらいはなんでもないや、と両手でしっかり握り直した。重い紙袋の持ち手の部分を。握り直したら、両手にかかる重さが丁度いい感じ。これならいける、と嬉しくなった。
(途中で持てなくなっちゃったら…)
 恥ずかしいもんね、と両手で提げた重たい袋。本当に見掛けより重い、と。



 ハーレイと二人で歩き始めて、話題にしようと思った荷物。紙袋の中身。覗こうとしても、袋の中身が見えないから。歩きながら開けてみて覗き込めるほど、腕の力に余裕が無いから。
「ハーレイ先生、この紙袋はプリントですか?」
 全部のクラスで配るプリント、これに入っているんですか?
 それなら分かる、と考えた袋の重さだけれど。
「プリントじゃないぞ。資料に使う本が入っているんだ、何冊もな」
 教科書はそれほど重くはないが…。そいつの中身は俺の私物で、コレクションとも言うだろう。趣味で集めた資料の本でだ、学校の図書室には無かったもんでな。
 いい本ってヤツは重いんだ、と教えて貰った。図版や写真が沢山詰まった資料本。教科書だって写真は多いけれども、大勢の生徒に配るものだから、値段も安い。
 けれど、ハーレイが趣味で集める本の類は、紙の質が全く別物らしい。上質な紙を使った本。
(いい本、それで重いんだ…)
 シャングリラの写真集も重かったっけ、と気が付いた。ハーレイとお揃いの豪華版。お小遣いで買うには高すぎたから、父に強請って買って貰った。あの写真集もズシリと重い。
 それが分かっても、学校では話題に出来ないけれど。
 ハーレイと二人で歩いていたって、教師と生徒。恋人同士ではないのだから。



 ちょっと残念、とガッカリした所へ掛けられた声。
「シャングリラの写真集、重いだろ?」
 お前の本棚に入っているヤツ。あれもな、紙の質がいいから…。同じの、俺も持ってるしな。
「ハーレイ先生?」
 思いがけないシャングリラの名前。時の彼方で、ハーレイと暮らした白い船。
「お前もアレが好きなんだよなあ、写真集、持ってるくらいだからな」
 みんなの憧れの宇宙船だし、豪華版でなくても写真集を持ってる生徒はきっと多いだろう。
 わざわざ豪華版を持ってるってことは、パイロットでも目指してるのか?
 だったら、もっと身体を丈夫にしないとな、とハーレイの言葉は続いてゆく。パイロットになる道をゆくなら、健康な身体を作ること。まずはそこから、と。
(やっぱりね…)
 普通の生徒と話すんだったら、こうなるよね、と思いながらも相槌を打って、質問も。宇宙船を動かすパイロットの知り合い、いましたよね、とか。
 前の自分たちの話は出来ないけれども、幸せな会話。
 パイロットになったハーレイの古い友人、その人がやっていたトレーニングとか。丈夫な身体を作るためには、運動するのが一番だとか。



 重い紙袋を古典の教師が集まる準備室まで運んで届けて、其処までの道でたっぷり話せた。立ち話よりもずっと沢山、色々なことを。
 紙袋をハーレイの机の上に置いたら、「助かったぞ」と御礼を言って貰えて…。
「いいか、他の生徒には内緒だぞ?」
 誰か来る前に早く食っちまえ、とハーレイがくれた御饅頭。「生徒が来たらうるさいから」と。
 先生たちが食べるためのおやつの箱から、一個貰えた。
(…これ、美味しい!)
 蕎麦饅頭だけれど、皮も中身の餡子も絶品。他の先生たちも笑顔で見ている。ハーレイの話では人気の商品、この準備室でもよく買うらしい。それをモグモグ美味しく食べて…。
「ありがとうございました!」
 ペコリと頭を下げたら、「俺の方こそ助かった。ありがとう」と声が返ったから。
 得しちゃった、と教室に帰る間も弾む足取り。ハーレイと二人で並んで歩いて、色々と話して、おやつも貰えた。古典を教える先生たちのお気に入りのおやつ。
(御饅頭、美味しかったよね…)
 夢中で食べてしまったけれども、包み紙をよく見れば良かった。そうすれば分かった、御饅頭の名前。作っている店も。
(ママに頼んで買って貰えるのに…)
 でも、またハーレイに訊けばいい。何処のだったの、と尋ねたら教えてくれるだろう。
 大好きなハーレイと沢山話せて、オマケにおやつ。荷物は重たかったのだけれど、浮き立つ心。お手伝いをした甲斐があったと、御饅頭も貰えてしまったしね、と。



 御機嫌で過ごした、今日の学校。その帰り道に、ちょっぴり痛いと感じた腕。
(あれ…?)
 何か変だよ、と不思議に思った。どうして腕が痛むのだろう、と。バス停で降りて、のんびりと歩いて家に帰って、着替えようと制服を脱ごうとしたら…。
(なんだか痛い…?)
 肩から肘の間あたりが。手首の近くも少しだけ痛い。
 なんで、と右手で左腕をさすって、次は左手で右腕を。両方の腕が同じくらいに痛くて…。
(ハーレイの荷物…!)
 重い紙袋を提げて歩いたから、筋肉痛だ、と気が付いた。重い荷物など、普段は持つことが全く無いから、悲鳴を上げている筋肉。頑張りすぎた、と。
 重い荷物は持たない上に、運動だって控えめな自分。
(筋肉痛になるほど、やっていないし…)
 そうなる前に体育は見学、他の生徒が次の日に「痛い」と言っているのを耳にする程度。だから分かるまでに暫くかかった。これは筋肉痛なのだ、と。



 自分とは無縁な体育の授業の筋肉痛。クラスのみんなが痛がっていても、自分は平気。そこまで運動するよりも前に、手を挙げて見学に回っているから。
(まだ痛くなる…?)
 どうなんだろう、と心配になった、おやつの後。部屋に戻って動かしてみた腕、やっぱり痛い。上げようとしたら痛みが走るし、肩から大きく回してみても。
(筋肉痛なんて…)
 経験自体が少ない上に、荷物で起こしたことがない。腕では一度もやっていなくて、遠足の後で足に来たのが数回だけ。普段よりも沢山歩いたせいで。
(足は痛くて、重かったけど…)
 腕の場合は、どのくらい痛くなるのだろう?
 今は痛いと思うだけなのが、動きに支障が出るだとか。腕も上げられないくらいになるとか。
(明日の朝になったら、うんと痛いとか…?)
 痛すぎてベッドから起き上がれないほどに。そんなことになったら、学校に行けない。筋肉痛で欠席だなんて、ハーレイに会える学校へ行けなくなるなんて。
(ハーレイ先生でも、ハーレイなんだから…)
 休みたくないよ、と心配していたら、チャイムが鳴った。仕事帰りのハーレイが母の案内で来てくれて…。お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで座るなり、微笑んだハーレイ。
「今日のお前は頑張ったな、うん」
 俺の手伝い、よく頑張った。途中で投げ出したりせずに。
 あの紙袋、重たかっただろう?



 準備室まで運べたとはな、と褒められたのは嬉しいけれど。御礼の御饅頭まで貰ったけれども、今の自分は筋肉痛。重すぎる紙袋を提げて歩いたせいで。
「それなんだけど…」
 腕が痛いよ、と訴えた。両方の腕のこの辺だけど、と。
「ほほう…。筋肉痛になったか、流石はチビだ」
 もう痛いなんて、若さの証拠だな。ダテに小さいお前ではない、と。
「え?」
 なんなの、若さの証拠だなんて。ぼくは両腕、痛いんだけど…。
「筋肉痛だろ? 若いほど早く来るってな」
 若い内なら、動かしたその日に出ちまうもんだ。ちょっと痛いな、というのがな。
 ところが、もっと年を取ったら、筋肉痛が出るのは遅い。次の日まで全く出ないヤツもいる。
「そうなの?」
 ハーレイの年だと、その日には痛くならないの?
「どうだかなあ…。俺の場合は鍛えているから、今でも早く出るんじゃないか?」
 そうは言っても、起こさないんだがな、俺は筋肉痛なんか。
 日頃からしっかり鍛えておけばだ、筋肉は怠けやしないわけだし…。
 筋肉痛ってヤツは、普段使っていない筋肉を急に動かすから、ズシリと痛みが来るってな。
 お前、腕の筋肉を使ってないから、あの程度で痛くなっちまう、と。
 柔道部のヤツらがアレを提げても、筋肉痛にはならないぞ。お前より長く持っていたって。



 お前の腕は弱すぎだ、と言われてしまった。「だからやめておけと言ったのに」と。
「俺は重すぎると止めた筈だぞ、なのに持つから…」
 途中で俺に渡せばいいのに、頑張って運んじまったから…。自業自得といった所か。
「まだ痛くなる?」
 今よりも腕が痛くなるかな、腕を上げるのも辛くなっちゃう?
「当たり前じゃないか、痛み始めたトコなんだから」
 明日の朝辺りが最高なんじゃないのか、その筋肉痛。いや、昼頃か…?
 こればっかりは個人差だしなあ、俺にも読めはしないんだが。
「そんな…。ぼく、学校に行けなくなっちゃう…」
 両腕が痛くて起き上がれなかったら、ベッドから出られないんだし…。
 ママに「駄目」って言われなくても、学校、お休みになっちゃうよ…!
「そこまで酷くはならんだろうさ。うんと痛くても、腕は動くしな」
 我慢してエイッと起きればいいんだ、動かしていればその内にちゃんと慣れるから。
 だが、そうなるのが嫌なんだったら、今の間に薬でも塗っとけ。
 家に無いのか、筋肉痛の薬。お父さんが使っているかもしれんぞ、ゴルフ、好きだろ?
 あれで起こしちまうこともあるしな、塗ってる所を見たことないか?
「…分かんない…」
 お薬、パパが持ってるとしても、リビングとかでは塗ってないから…。
 家にあるのかどうか分からないよ、ぼくが小さかった頃がどうだったのかも分かんない…。
 遠足で足が筋肉痛になったけれども、お薬、塗って貰ったかどうか…。



 筋肉痛の薬が家にあるのか、本当に分からなかったから。幼かった頃にはどうしたのかも、全く思い出せないから。そう答えたら、ハーレイは「ふうむ…」と腕組みをして。
「なら、もう一度、持ってみるんだな。重たい荷物」
 お前の鞄に重い本を詰めて、暫く提げて立ってればいい。部屋の中をぐるぐる歩くのもいいな。
 俺の荷物を提げていた時間と同じほどだけ。
「どうして?」
 重い荷物で筋肉痛だよ、なのに重い物なんか持ってどうするの…!
「筋肉痛が治ると言うんだ、同じことをすれば」
 起こしちまったのと同じくらいの運動、そいつをやったら治っちまうと。
「ホント?」
 本当にそれで治ってくれるの、筋肉痛?
 薬を塗ったりしなくてもいいの、もう一度、重い荷物を持てば?
「少なくとも俺はそうだったが?」
 ガキの頃には、それで治した。柔道や水泳でハードな練習をやった時には起こしたからな。
 これじゃいかん、と運動だ。そしたら嘘のように治った。
 とはいえ、こいつを半端にやったら余計に痛いが…。筋肉痛の上から筋肉痛で。
「嫌だよ、それは!」
 治せるんなら、鞄、重くして持つけれど…。もっと酷くなるかもしれないだなんて!
 そうなるよりかは我慢しとくよ、明日の朝にうんと痛くったって…!
 ちゃんとベッドから起きられるんなら、痛くても我慢しておくから…!
「ほら見ろ、だから言ったのに…」
 これは重いからやめておけ、とな。お前の腕の強さくらいは、充分、知ってる。
 重い荷物を持てるようには出来ていないということも。
 ん…?



 そういえば、と顎に手を当てたハーレイ。「前のお前もやってたっけな」と。
「前のぼくって…。何を?」
 何をやったの、前のぼくは…?
「筋肉痛の話なんだし、筋肉痛に決まってるだろう」
 今のお前と全く同じに、腕の筋肉痛だったが?
「それって、いつ?」
 覚えていないよ、筋肉痛だなんて。それに腕って、なんで前のぼくが…?
「アルタミラからの脱出直後の話だな。まだシャングリラじゃなかった頃だ」
 そんな名前はついていなくて、とにかく船で生きていこうという時期だった。行き場所なんかがあるわけがないし、この船で生きていかないと、と。
 その頃にお前が始めただろうが、船の片付け。通路とかにも積んであった荷物を整理するとか。
 チビのお前がやり始めたから、俺や他のヤツらも手伝い始めて…。
 前のお前は、俺が腕の力で荷物を運ぶのを見てて、サイオン抜きで挑んじまって。
 それで筋肉痛を起こしたわけだな、運んだ荷物が重すぎたから。
「思い出した…!」
 やっちゃったんだっけ、前のぼく…。
 サイオン無しでも運べるよね、って調子に乗って運び過ぎちゃって…。



 蘇って来た、遠い日の記憶。アルタミラの地獄を後にしてから、間もない頃。
 前の自分は船の中を片付けようと考えた。今と同じに綺麗好きだったから、雑然と積まれた物を片付けて、通路や部屋を使いやすく、と。
 それをハーレイが手伝ってくれた。最初はハーレイ一人だけ。やがて少しずつ増えた仲間たち。
(片付けるの、荷物だったから…)
 此処だ、と決めた場所まで運んだ。それがあの船の備品倉庫の始まり。
 どんな荷物でも、軽々と運んでゆけたサイオン。宙に浮かせて、指一本で押してゆけたほど。
 けれどハーレイは、そのサイオンを使わなかった。「身体がなまる」と、ただの一度も。いつも肉体の力だけ。重い荷物でもヒョイと持ち上げて、抱えて行ったり、担いでいたり。
 ある時、ハーレイが「これもだな」と床から抱え上げた大きめの荷物。まるで重さなど無いかのように。その上に更に他の荷物も積もうとするから、つい気になって訊いてみた。
「そんなに軽いの?」
 もう一個持とうとしてるくらいだし、その荷物、とても軽いわけ?
「軽いってこともないんだが…。大したことはないぞ、こいつは」
 気になるんだったら、ちょっと持ってみるか?
 お前、いつでもサイオンだしなあ、たまには腕で持つのもいいだろ。



 そう勧められて、受け取った荷物。予想していたよりもズシリと重くて、危うく床に落としそうだった。慌ててサイオンで支えたけれど。床に落としはしなかったけれど…。
「重いよ、これ!」
 凄く重い、とサイオンで支えて持っていたそれを、ハーレイは「そうか?」と抱えてしまった。大した重さじゃないんだが、と。それから、上にもう一個、荷物を乗せながら。
「このくらいでないと、身体が駄目になっちまうしなあ…」
 しかし、お前には重すぎた、と。チビだし、仕方ないかもしれんな。
「チビじゃなくても、充分、重いと思うけど!」
 サイオンの加減で見当はつくよ、その荷物が軽いか重いかくらいは!
 他のみんなだったら、絶対、持たない。サイオン無しだと、きっと持ち上げられないよ!
「そういうモンか? …まあ、そうなのかもしれないが…」
 みんな、俺ほど頑丈に出来てはいないようだし、持てないと言われたらそうかもしれん。
 だがなあ…。俺の場合は、こんな荷物でも持っていないと、本当に身体がなまるんだ。
 ずっと鍛えていたもんだから、と妙な台詞を吐いたハーレイ。
 前の自分は沢山の記憶を奪われてしまって、成長も止めていたほどだけれども、自分が置かれた環境くらいは把握していた。アルタミラでも。
 それに「鍛える」という言葉も分かるし、「身体がなまる」というのも分かる。
 だから、ハーレイの言葉に首を傾げた。
 アルタミラでは、誰もが檻の中にいた筈。実験の時しか外に出られず、檻が世界の全てだった。上を見上げても、周りを見回しても、檻があるだけ。なんとか生きてゆける程度の。
 まともに身体を動かすことさえ、上手くはいかなかった檻。狭かった独房。
 あの檻の中で、どう鍛えるというのだろう?
 走り回れはしないのに。軽い運動をするにしたって、檻はあまりにも狭すぎたのに。



 目をパチクリとさせていた自分。ハーレイがいた檻は特別だったのだろうか、と。
「えっと…。鍛えたって、何処で?」
 ハーレイがいた檻は広かったとか、ぼくと違って運動のために出して貰えたとか、そういうの?
 でないと鍛えられないし…。あの檻は凄く狭かったから。
「俺の檻だって、他のヤツらと一緒だったが?」
 身体がデカイからって、広い檻をくれるわけがないだろ、研究者どもが。たかが実験動物に。
 俺はな、実験で鍛えられたんだ。この図体だからこその実験だろうな。
 負荷をかけるってヤツが多かったわけだ、どの段階でサイオンを使い始めるかを調べるんだな。
 「これを持ってろ」と持たされた箱が、どんどん重くなっていくとか…。
 背中に何かを背負わされてだ、そいつが重くなっていくのに、そのまま立っているだとか。
 そうやって鍛えられたんだ。何度もやってりゃ、耐えられる重さも増していくしな。
 多分、最初から、ミュウにしてはデカくて頑丈だったということだろう。成人検査でミュウだと分かって、捕まっちまった時からな。
 お蔭で、こういうデカブツになった。研究者どもに鍛え上げられて。
 だから、重い荷物も軽々と持てるし、身体も丈夫に出来ている。そいつを使ってやらないと。
 もったいないだろ、せっかくの身体がなまっちまって駄目になったら。
 お前、知らないってことは、やっていないんだな、その手の実験。
「多分…」
 やってないと思うよ、ハーレイに聞いても「あれだ」ってピンと来ないから。
 ぼくでは試してないんじゃないかな、そういうのは。



 覚えていないだけかもしれないけれど、と付け足しはした。ハーレイよりも長い年月、檻の中で暮らしていたのだから。何度も実験を繰り返されては、記憶を失くしていったのだから。
(ぼくは唯一のタイプ・ブルーで…)
 貴重だとされた実験動物。負荷をかけるような実験よりかは、毒物などを試しそうではある。
 けれども、それを始める前には、負荷の実験もあったかもしれない。自分がペシャリとへばってしまって、「話にならない」と打ち切られたとか。
(…それもありそう…)
 体格のいいハーレイと、細っこい自分。実験内容は大きく異なっていた。
 自分には無かった、鍛えられるチャンス。重くなってゆく荷物を抱えて立っているとか、背中に背負って立ち続けるとか。聞いただけでも辛そうな実験。
 けれどハーレイは頑張って耐えて、身体を鍛えて、今は軽々と持ち上げる荷物。サイオンを一切使うことなく、腕の力だけで。自分や他の仲間たちなら、サイオンを使って運ぶのに。
 それでは駄目だ、と思った自分。やはり身体も鍛えなくては、と。
 だから…。
「分かった、ぼくも頑張ってみるよ」
 ハーレイみたいに強くなるには、積み重ねが大切みたいだから。
「はあ?」
 積み重ねって…。何をする気だ、何を頑張ってみようと言うんだ?
「荷物運びに決まっているよ」
 鍛えたいからね、強くなれるように。…サイオンばかり使っていないで、腕の力も。
 今は無理でも、その内にきっと、ハーレイみたいに持てるようになると思うから…。
 頑張って鍛え続けていたなら、力だって強くなりそうだから。



 サイオンだけが強くても駄目だ、と前の自分は考えた。肉体の力も強い方がいい、と。強い腕があれば重い荷物を持てるし、軽々と運んでゆけるのだから。
 鍛えるのが一番、と張り切って持ち上げてみた床の上の荷物。腕の力だけで。
(このくらいなら…)
 大丈夫だよ、とサイオンは無し。さっきまでは使っていなかった腕。
(うん、この方が…)
 ずっといいかも、という気がした。今はミュウばかりの船にいるから、サイオンを当然のように使うけれども、アルタミラでは使えなかった。檻はサイオンを封じ込める仕掛けが施されていて、檻の外では首にサイオン制御リングを嵌められたから。
 つまりは人類が嫌うサイオン、使わずに済むならその方がいい。サイオンが無ければ、ミュウは化け物とは呼ばれないから。ただの人間なのだから。
 いつも化け物と呼ばれた自分。檻に入れられ、人間扱いされなかった自分。
(あんな力を持っているから…)
 嫌われるんだ、と思ったサイオン。荷物をサイオンで運ぶ自分と、サイオンを使わずに腕の力で運ぶハーレイなら、きっとハーレイの方が人類に近い。人間らしいと思われるだろう。
(そのハーレイにも、人類は実験してたけど…)
 ハーレイもミュウで実験動物だったけれど、サイオンを安易に使わない分、化け物という名から遠ざかる。サイオンに頼る自分と違って。
 だから自分も人間らしく、と挑んだ荷物。腕の力でもちゃんと持てる、と。
 一つ倉庫まで運び終えたら、「やれた」と覚えた達成感。「ぼくも自分の力で運べた」と。
 もう嬉しくてたまらないから、次はさっきより大きな荷物。
(ちょっと重いけど…)
 でも大丈夫、と抱えて運んだ。もっと大きな荷物を手にしたハーレイと一緒に。
「お前も、やれば出来るもんだな」
 頑張ってるじゃないか、とハーレイが褒めてくれるから、その次はもっと大きな荷物。重くてもサイオンは使わないまま、せっせと運んだ。ぼくにも出来る、と。



 倉庫まで何度も運んだ荷物。より重いのをと、大きいのを、と。これは持てない、と思う荷物は諦めて。自分の力で、腕の力だけで運べる重い荷物を選んで。
「…前のぼく、調子に乗りすぎちゃってた…」
 ちゃんと運べる、って嬉しくなって、何度も何度も重たい荷物を倉庫まで…。
 頑張ったのは良かったけれども、その日の内に筋肉痛になっちゃって…。
 夜になったら腕が痛くて、ちょっと動かすのも辛くって…。
「思い出したか?」
 今日のお前もあれと同じだ、自分じゃ持てるつもりで運んでいたってな。重い袋を。
 俺が無理だと言ってやったのに、そりゃあ嬉しそうな顔だった。俺の手伝いが出来るんだから。
 前のお前とまるで同じだな、調子に乗るトコが。
 運ぶ途中で「もう駄目です」って俺に渡せばいいのに、準備室まで運んじまって。
「どうしよう…。前のぼく、次の日、凄く痛かったんだけど…!」
 ホントに痛くて、ベッドに腕をつくのも辛くて、アルタミラに戻ったみたいな気分。
 頑張って起きて食堂に行っても、腕がプルプルしちゃうから…。
 スプーンもフォークも上手く持てなくて、サイオンを使って食べてたよ。サイオンで持ったよ、スプーンとフォーク。
 今のぼく、サイオン、使えないのに…。うんと不器用になっちゃったのに…。
 明日の朝御飯はどうすればいいの、ママに頼んで食べさせて貰って、学校はお休み?
 学校に行っても、両手が上手く動かせないから…。字も書けなくって、ランチも無理で…。
 そうなっちゃったら、お休みするしかないじゃない…!
「慌てるな。そりゃ、今日よりは痛いだろうが…」
 朝にはかなり痛むんだろうが、お前が持ったの、紙袋を一つだけだろう?
 前のお前みたいに重いのを幾つも運んじゃいないし、あそこまで酷くはならないさ。
 安心していろ、今度のヤツはアレよりはマシな筈なんだから。



 たかが紙袋を一個運んだだけだろうが、と慰められた。「前のお前の時よりマシだ」と。明日の朝に酷くなったとしたって、ベッドに腕をつくだけでも痛いほどではなかろう、と。
「いつものようにはいかんだろうが…。腕を庇って動くことにはなるんだろうが…」
 着替えも歯磨きも出来る筈だぞ、手が震えたりはしないから。…痛むだけでな。
 頑張ってしっかり動かしてやれば、その分、治りも早くなる。さっき言ったろ、同じことをしてやれば治るって。
 それと同じだ、痛くても動かす方がいい。筋肉痛ってヤツは、そういうもんだ。
 痛くても起きて学校に来い。…残念ながら、明日は俺を手伝うチャンスは無いが…。
 必要な資料は運んじまったし、次は当分先になるだろうな。俺が両手に荷物を抱えて歩くのは。
「そっか…。同じことをして治したくっても、ハーレイのお手伝い…」
 当分無いんだ、それなら二回目、やっちゃうかも…。またお手伝いして筋肉痛かも…。
「ありそうだよなあ、お前の場合」
 今日のをすっかり忘れちまって、いそいそ手伝いに来るってヤツ。
 その時は、俺はどうすりゃいいんだ?
 「この前、酷い目に遭っただろうが」と思い出させてやるのがいいのか、手伝いを頼むか。
 覚えていたなら、お前の好みの方の返事をしてやるが…?
「んーと…。痛くなっても、学校をお休みしなくていいんなら…」
 お手伝い出来る方がいいかな、ぼく、頑張って運ぶから。
 ハーレイと二人で荷物を運ぶの、とっても楽しかったから…。
 先生と生徒の話だけしか出来なくっても、ハーレイと一緒に学校の中を歩けたし…。
 それだけで充分嬉しかったし、この次もお手伝い出来るのがいいな。



 筋肉痛になっちゃってもね、と腕をさすったら、「分かった」と応えてくれたハーレイ。学校で荷物を運ぶ時には、チビに手伝いを頼んでやろう、と。
「ただし、お前が持てそうな荷物の時だけだぞ?」
 今日のは授業で使うヤツだし、あの程度の重さで済んでたわけで…。
 柔道部の方の荷物だったら、とんでもない重さの時があるからな。飲み物がギッシリ詰まった箱とか、差し入れで届いた弁当だとか…。
 ああいう荷物はお前には持てん。…持たせもしないな、落とすに決まっているからな。
「うん…。想像しただけでも重そうだから」
 だけどハーレイ、今度も凄いね。前と同じで、重たい荷物を持てるんだもの。
 ぼくには絶対無理な荷物も、ハーレイ、一度に運んでいそう。飲み物と一緒にお弁当とか。
「当然だろうが、何度も往復しているよりかは、一度に運んだ方がいい」
 その方が手間も省けるし…。箱がデカすぎて抱えられんというならともかく、持てるんだったら運んじまうさ、一度にな。
 今の俺だって鍛えてあるんだ、前の俺よりもしっかりと。実験じゃなくて、ちゃんと運動で。
 だからだ、今の俺で前の俺と同じ実験をしたら、前よりも凄いデータが出るんだろうな。限界が前よりずっと上になってて、研究者どもが腰を抜かすとか。
 そんな具合だから、お前ももう少し鍛えた方が…って、今度は鍛えなくてもいいか。
 紙袋一つで筋肉痛だと泣きっ面になる、弱っちいお前で充分だな。
「どうして?」
 鍛えろって言うんだったら分かるけど…。夏休みにも朝の体操に誘われてたから、鍛える方なら分かるんだけれど、どうして逆なの?
 鍛えなくていいって、ハーレイらしくないんだけれど…。もっと鍛えろ、って言いそうだけど。
「俺としては、そう言うべきなんだろうが…」
 しっかり鍛えて丈夫な身体を作るべきだ、と言ってやりたい所なんだが…。荷物だからな?
 荷物を運ぶという点だったら、お前は鍛えなくていい。持てないままでかまわないんだ。
 お前の荷物は、何もかも俺が持つんだから。



 本物の荷物も、心の荷物も…、とハーレイがパチンと瞑った片目。「俺が持とう」と。
「今度は俺が持ってやる。お前の荷物は全部纏めて、ちゃんと抱えて運んでやるさ」
 だがなあ…。本物の荷物は幾つもあっても、心の荷物は今の時代は無いかもな。
 今のお前はソルジャーじゃないし、うんと平和で幸せな時代に生まれ変わって来たんだし…。
 抱え込むような悩みは一つも無いかもしれん。前のお前なら、沢山抱えていたんだが…。
 俺が代わりに持とうとしたって、持ってやれない重たい心の荷物ってヤツを。
 しかし、今度は全部俺が持つ。お前の荷物は、何もかも全部。
「持ってくれるの?」
 ハーレイがぼくの荷物を持って運んでくれるの、重たくても?
 ぼくが欲張って色々詰めたら、重くなり過ぎた旅行鞄とかでも…?
「もちろんだ。お前、俺の嫁さんになるんだろうが」
 嫁さんに重たい荷物を持たせるような馬鹿はいないぞ、何処を探しても。
 だからお前は、鍛えなくてもいいってな。荷物は一つも、持たなくてもかまわないんだから。
 これだけは持ちたい、ってヤツだけを持っていればいい。
 ヒョイと取り出して読みたい本とか、お前が食べる菓子だとか。
 俺と結婚した後は、お前はそういう人生だ。荷物は何でも、俺に「お願い」と持たせるだけの。
 頼まれなくても俺が持つから、筋肉痛を起こすのは今の内だけだ。
 重たい荷物を持たなくなったら、筋肉痛にはならないからな。



 今の間しか起こせないんだから、味わっておけ、とハーレイは可笑しそうに笑っているから。
 きっと本当に、そんな未来が待っているから、痛くなっても楽しもう。明日の朝には、今よりも痛くなっているらしい、この筋肉痛。紙袋を一つ運んだばかりに、起こしてしまった筋肉痛を。
(ハーレイのお手伝いは出来たんだしね?)
 学校の中を一緒に歩いて、二人で荷物を運んで行った。古典の先生のための準備室まで。
 運んだ御礼に、美味しい御饅頭を一つ貰って、美味しく食べて。
(あの御饅頭のお店、ハーレイに訊いてみようかな?)
 それとも次にお手伝いした時、御褒美に貰って食べようか。お手伝いをしたら、筋肉痛になってしまいそうだけれど、今の間しか起こせないから。
 ハーレイが荷物を全部纏めて持ってくれたら、筋肉痛にはならないから。
(痛いんだけどね…)
 明日にはもっと痛そうだけれど、この痛みも今は愛おしい。
 腕の痛みが、前の自分の思い出を連れて来てくれたから。前の自分も同じだった、と。
 それに今度は、これが最後の筋肉痛かもしれないから。
 ハーレイが荷物を全部持ってくれるようになってしまったら、筋肉痛はもう起こせない。
 本物の荷物も、心の荷物も、ハーレイが持ってくれるから。
 結婚した後には、何もかも全部、ハーレイが運んでくれるのだから…。




             荷物と筋肉痛・了


※ハーレイの手伝いをしたせいで、筋肉痛になってしまったブルー。前のブルーも同じ経験が。
 また失敗をしたわけですけど、それは今だけ。今度はハーレイが持つ荷物。心の重荷まで。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv














(えーっと…)
 夢だったんだ、とブルーが眺めた自分の両手。土曜日の朝に、ベッドの上で。
 ハーレイが来てくれる日の朝だけれども、自分が見ている両手が問題。何処から見たって子供の手。十四歳にしかならない、今の自分の。
 前の自分の両手だったら、これより大きかったのに。華奢でも大人の手だったのに。
(大きくなれたと思ったのに…)
 全部ぼくの夢、と零れた溜息。本当のぼくは子供のまま、と。
 さっきまで見ていた夢の中の自分。パジャマを脱いで、ウキウキと服に袖を通していた。身体が大きく育ったから。前の自分とそっくり同じになったから。
 いつか大きくなった時のために、と買っておいた服を取り出して、ハーレイとデートに出掛ける支度。土曜日だから、ハーレイが訪ねて来る日だから。
(デートに行ける筈だったのに…)
 あの服を着て待っていたなら、ハーレイが迎えに来てくれて。二人で歩いて出掛けてゆくのか、車の助手席に乗せて貰うか。
 どちらにしたって、とても素敵な時間の始まり。この家で過ごす土曜日と違って、家の外へと。何処かで食事で、お茶の時間も。ハーレイと二人で楽しむ一日。
 きっと夕食も何処かのお店で食べるのだろう。「今日は一日楽しかったね」と、デートで行った場所や会話を思い出しながら。
 夕食の間も、デートの続き。この店にまた来てみたいだとか、次に来る時はあれを食べるとか、そんな話だってきっと楽しい。ハーレイと二人なのだから。外で夕食なのだから。
(だって、デートをしてるんだしね?)
 夕食が済んだら、送って貰ってお別れだけれど。その帰り道も色々話しながらで、家に着いたらキスが貰える。門扉の所で「またな」と唇にハーレイのキス。
 お別れのキスには違いないけれど、きっと「おやすみ」のキスだろう。だって、「さよなら」は似合わないから。また直ぐにデートに行けるのだから。



 夢の通りの自分がいたなら、そういう一日になっていた筈。土曜日なのは同じだから。
 けれど、目覚めたらチビのままだった、本当の自分。少しも大きくなっていない手、パジャマもきつくなってはいない。眠る前と同じにピッタリのサイズ。
(前のぼくなら、このパジャマ、小さすぎなのに…)
 きっときつくて着られない。袖もズボンも、丈が全く違うから。背丈がまるで違うのだから。
 百五十センチしかない今の自分と、百七十センチだった前の自分。その差は今も縮んでいない。
 夢の自分は「大きくなれた」と浮き立つ心で、デートの支度をしていたのに。その日のためにと買っていた服にワクワクと袖を通していたのに。
(あの服だって…)
 持ってないよ、とベッドの上から見回した部屋。何処にも用意していない服。デート用の服など買ってはいない。着て行く服を持ってはいない。
 自分はチビの子供だから。背丈が少しも伸びないから。
 ハーレイと再会した日から一ミリも伸びない背丈。百五十センチで止まったまま。夏休みの間も伸びてくれなくて、育つ気配さえない自分。
 すくすくと背丈が伸びていたなら、服を買ったかもしれないのに。「もう少しだよ」とデートを夢見て、早くその日が来てくれないかと。



 その発想は無かったっけ、と眺めた自分が着ているパジャマ。子供の自分に丁度いいパジャマ。大きめのパジャマは持っていないし、服だって、そう。
(服もパジャマも、ぼくに合うのを買ってるし…)
 成長が早い方ではないから、それで充分。ハーレイと出会う前からそうだった。季節ごとに母が買ってくれる服、それを着ていれば間に合った。小さすぎもしなくて、大きすぎもしない。
(今の学校の制服だって…)
 小さくなったら買えばいいから、と今の自分に合うのを買った。制服を扱う店に行ったら、常にサイズが揃っているから。「品切れです」とは言われないから。
(大きめの服は持っていないよ…)
 だから無かった、「いつか大きくなった日のために」デート用の服を用意する発想。夢の自分は買っていたのに、部屋にきちんと持っていたのに。
(あの服があれば…)
 おまじないになってくれるだろうか。背丈がぐんぐん伸びるようにと、おまじない。
 夢の自分は育って袖を通していたから。「デートに行ける」と、心を弾ませていたのだから。
 持っていたなら、心強いに違いない。何度も眺めて、「早く着たいな」とデートを夢見て、まだ大きすぎる服をちょっぴり羽織ったりもして。
 その服を着られる時が来たなら、ハーレイとデートなのだから。二人で出掛けて、食事やお茶。夕食も二人で外で食べて来て、家の前まで送って貰う。
 デートの終わりは「おやすみ」のキスで、「またな」と帰ってゆくハーレイ。次のデートの日を約束して、こちらへと手を振りながら。車でも、歩いて帰るにしても。



 あるといいな、と思った服。夢の自分がデートのためにと持っていたシャツ。
(普通だったけど…)
 ごくごく普通の、シンプルなシャツ。薄い水色で、何処にでも売られていそうだけれど。買いに出掛けたら、見付かりそうな気もするのだけれど…。
(おまじないなら、あれでないと効果が無さそうだし…)
 買うのだったら、そっくり同じの水色のシャツ。デザインも、ボタンの数も形もそっくり同じ。そういうシャツを買って来ないと、きっと効果は無いのだろう。
(だけど、あの服…)
 夢の自分はどうやって用意したのだろうか。お小遣いを貯めて買ったのだろうと思うけれども、何処で買ったのかが問題。あのシャツを手に入れたお店が問題。
(一人で服なんか、買ったことない…)
 服もパジャマも母が買って来るか、母と出掛けた時に選ぶか。選ぶ時だって、母が「どう?」と取り出して見せてくれたり、「どっちが好き?」と指差してくれたり。
 そんな具合だから、自分一人で選んだことなど一度も無い。母が選んでいるようなもの。
(あのシャツのお店…)
 まるで分からない、お店の場所。自分では買いに出掛けないから、何処か見当さえつかない。
 欲しくなっても買いに行けない、おまじないになってくれそうなシャツ。夢の自分が袖を通した水色のシャツ。
 買う所から夢に見ていたのならば、その店に真っ直ぐ出掛けてゆくのに。おまじない用に、あの水色のシャツを買うのに。



 夢の自分が買いに出掛けた店さえ分かれば、と考えていて気が付いた。あの夢は、夢。
(予知じゃないから、夢で見たって…)
 この店だった、と買いに行っても、同じシャツはきっと無いのだろう。何処かが違って、あれと同じではないのだろう。襟の形が少し違うとか、ボタンの形が違うとか。
 おまじないのために必要なものは、あの夢のシャツ。あの水色のシャツでないと駄目。
(夢のシャツ、ポンと出て来ないかな…)
 此処に出て来てくれないかな、と見詰めた両手。「欲しい」と願ったら出ればいいのに、と。
 サイオンを使って夢の中から取り出せたらいい。あのシャツを、ヒョイと。
 それが出来たら、本当に夢と同じシャツ。水色のシャツを大切に仕舞って、ハーレイとデートに行ける日を待つのに。育った時には、あれを着るのに。
(どんな季節でも、あれを着て行くよ)
 夏だったとしても、長袖のシャツ。あのシャツだけでは寒い冬なら、上にセーター。
 持っていたいけれど、夢の中のシャツは取り出せない。ただでも不器用すぎるサイオン、今日の服さえクローゼットから出せない有様。
 ベッドの上から「今日はこのシャツ」と念じてみたって、シャツは決して出て来ない。シャツもズボンも、靴下だって、起きて手を使って出すしかない。クローゼットや引き出しから。
 これじゃ駄目だ、と大きな溜息。夢のシャツなんか出せないよ、と。



 仕方ないから起きて着替えて、顔も洗ってダイニングで朝食。両親も一緒の朝食だけれど、まだ残念な気分が抜けない。忘れられない、幸せだった夢。
 夏ミカンの実のマーマレードを塗ったトーストを齧っても。温かなオムレツを頬張っても。
 もしも自分が夢の通りに、大きく育っていたのなら…。
(この服じゃなくて、あのシャツを着てて…)
 用意してあった水色のシャツ。それを着て食べていただろう朝食。もうすぐハーレイとデートに行ける、と胸を躍らせて齧るトースト。オムレツだって、きっと幸せの味。
(食べ終わったら、ハーレイを待って…)
 そのハーレイが来てくれたならば、直ぐにデートに行けただろう。チャイムの音で迎えに出て。門扉の所に駆けて行ったら、「大きくなったな」と言って貰えて。
 「前のぼくとホントに同じになったよ」と笑顔の自分を、「行くか」とデートに誘うハーレイ。車で行くのか、歩いてゆくのか、二人で出掛ける初めてのデート。
 歩いてゆくなら、手を繋ぎ合ってバス停まで。行き先を決めてバスに乗り込んで、二人で並んで席に座って。
 ハーレイの車で出掛けてゆくなら、行き先は特に決めなくてもいい。ハーレイに任せて、色々な場所へ。あちこち走って、食事もお茶も。
 きっと素敵な、初めてハーレイと出掛けるデート。何もかもが新鮮で、もう最高に楽しくて。
(キスだって…)
 ちゃんと唇にして貰える。約束の背丈に育ったのだから、恋人同士のキスを唇に。
 そういうデートがしたかった。夢の自分が出掛けたのだろう、幸せたっぷりの初めてのデート。
 チビの自分は、行けないけれど。今日もハーレイと、この家で過ごすしかないのだけれど。



 朝食の後は部屋に帰って、掃除をして。
 ハーレイが来るのを待っている間に、また夢のシャツを思い浮かべた。あれがあったら、と。
 おまじないになってくれそうなシャツ。部屋にあったら、早く大きくなれそうなシャツ。
(でも、夢の中の物は出て来ないよね…)
 いくらサイオンを使っても。自分のサイオンが不器用でなくても、夢の中身を外には出せない。夢はあくまで夢だから。夢で見た物は、現実の世界にありはしないから。
(部屋とかは、本物そっくりだけど…)
 この部屋にある家具も夢には出て来たけれども、それは別。夢の自分のシャツとは違う。自分の記憶が見せているもので、現実の世界を写し取ったもの。写真や映像と似たようなもの。
 けれども、欲しくてたまらないシャツは違うから。夢の世界にしか無いものだから。
(…どう頑張っても、出せないよ…)
 前のぼくにだって出来やしない、と思った所で蘇った記憶。前の自分と夢のこと。
(中身、出そうとしてたんだっけ…)
 夢の中身を出せはしないかと、たまに試していた自分。遠く遥かな時の彼方で。
 見ていた夢の通りの物が取り出せないかと、出ては来ないかと。
(みんなが喜びそうなもの…)
 それが出せたら、とサイオンで引き出そうとした夢に見たもの。あれが欲しい、と。
 人類の船から奪った物資で生きていた時代なら、食料の山や物資が詰まったコンテナ。夢の中で見たそれを此処に、と床を見詰めて念じたりした。そうすれば夢から取り出せるかも、と。
 白い鯨が出来上がった後も、何度か試してみたりした。船の仲間が喜びそうな物が出て来る夢を見た時は。自給自足の船の中では、手に入らない珍しい食材だとか。



 前の自分が描いた夢。サイオンで何度か試してみたこと。夢の中身を取り出すこと。
(頑張ったけど…)
 今日の夢は鮮明だったから、と挑んでみたって、夢の中身は出て来ない。現実に存在していないものは、運んで来ることが出来ないから。どう頑張っても、夢は夢だから。
 手が届きそうに思えたとしても、夢の世界に手は突っ込めない。現実という世界からは。
(地球にだって…)
 前の自分が焦がれた地球。何度も夢で見ていた星。あれが地球だ、と青い星を。
 夢で地球を見ても、行けはしないと分かっていた。夢の世界に入れはしないし、現実の世界から飛び込めはしない。夢の中身を出せないのと同じ。
 宇宙を駆けて地球に行く夢、それがどんなに鮮やかでも。シャングリラの外に飛んで出たなら、夢の続きでそのまま飛んで行けそうでも。
 無理だと知っていた自分。夢は夢だし、現実の世界には繋がらないと。
(…だけど、形にしてみたかった…)
 夢で見た物をヒョイと取り出して。食料も物資も、地球への道も。
 それが出来たら、既に人ではないだろうけれど。
 神の領域なのだけれども、試みた自分。サイオンで出来はしないかと。
(…色々な夢が叶うんだもの…)
 本物にしてみたかった夢。現実に結び付けたかった夢。
 物を取り出すのも、地球に行くのも。夢の中身を此処に出せたら、と。



 そういう夢を見てたんだっけ、と遠い昔の自分を思った。今の自分が欲しいと願った夢のシャツよりも、もっと切実だった夢。それを取り出そうとしていた自分。食料や物資や、地球への道。
 夢を形にするなんて無理、と思ったけれど。
 前のぼくでも夢を現実には出来なかった、と考えたけれど。
(…地球…)
 地球の上に生まれて来た自分。前の自分が夢に見ていた、青い地球の上に。
 前の自分が生きた頃には、何処にも無かった青い水の星。地球は死の星のままだったから。前のハーレイが辿り着いた地球は、何も棲めない星だったから。
 それが現実だったというのに、今の自分は青い地球の上にやって来た。ハーレイと二人で生まれ変わって、前とそっくり同じ姿でまた巡り会えた。
(ぼくはちょっぴりチビだったけど…)
 ハーレイとデートに行けはしなくて、キスも出来ない子供だけれど。
 いつか育てば、今朝の夢のようにハーレイとデートに出掛けてゆける。胸を躍らせて。
 まるで夢のように起こった奇跡。前の自分は死んでしまったのに、メギドで命尽きたのに。右の手が凍えて、泣きじゃくりながら。ハーレイの温もりを失くしてしまって、独りぼっちで。
 もうハーレイには二度と会えないと、泣きながら死んでいった後。
 自分は新しい身体を貰って、ハーレイと青い地球に来られた。今の世界に。
 夢よりも凄い本当の世界。今の自分が生きている現実。



(こんな凄い夢、前のぼくは…)
 一度も見てはいなかった。青い地球に行く夢は見ていたけれども、これほどの夢は。
 争いと言ったら喧嘩程度の平和な地球。広い宇宙の何処を探しても、軍隊も軍人も無い世界。
 もう戦いは起こりはしなくて、人間は全てミュウになった世界。
 血の繋がった本物の家族と暮らす時代で、成人検査もSD体制も今は歴史で教わるだけ。
 そんな世界に生まれた自分。ハーレイも一緒にこの世界に来て…。
(ぼく、ハーレイと結婚できる…)
 前の自分には出来なかったこと。出来ずに終わってしまった結婚。
 けれど自分は十四歳の少年になって、育つ日を夢見て、結婚式の日を待ち焦がれて…。
(大きく育った夢まで見ちゃった…)
 ちゃんと大きくなったから、と用意していたシャツを着る夢。ハーレイとのデートに心躍らせ、水色のシャツに袖を通す夢。今日はデート、と。
 その夢で見たシャツが欲しい、と考えた自分。大きくなれるおまじないに、と。
 同じシャツでないと効かないだろうし、夢の中身を取り出せないかと。
(今のぼくって、幸せすぎない…?)
 青い地球の上に、ハーレイと二人。前の自分が夢見た以上に、幸せな世界にやって来た。
 夢よりも幸せな現実だなんて、本当に思いもしなかった。前の自分は、ただの一度も。
 幾つもの夢を描いたけれども、今の世界には敵わない。青い地球も、ハーレイと暮らす未来も。
(前のぼくでも、夢の中身は取り出せなくて…)
 それでも、たまに試みたこと。白いシャングリラが出来上がった後も、取り出せないかと。
 夢に出て来た地球への道が欲しくなったら、夢と現実は違うと気付いていても。
 それを自分は手に入れたなんて。
 前の自分が取り出したかった夢の世界を、夢に見ていた以上の今を。



 考えるほどに、凄い現実。前の自分が見ていた夢より、素晴らしい世界に生きている自分。
 青く蘇った地球は平和で、暖かな家に本物の両親。美味しい食事に、幸せな毎日。
(ハーレイだって、家に来てくれるんだよ…)
 チビの自分を訪ねて来てくれて、今日のような土曜日はお茶に食事にと夜まで一緒。二人きりで過ごして、両親も交えての夕食の後にハーレイが「またな」と帰ってゆくまで。
 そういう日々を幾つも重ねて、いつかは朝食を食べながら待つ。今朝の夢みたいに、デート用の服に袖を通して。ハーレイが来たらデートなんだ、と胸を躍らせて。
 きっと必ずやって来るその日。いつになるかは分からないけれど、ハーレイを待つ日。
(やっぱり欲しいな、さっきのシャツ…)
 早くその日が来てくれるように、おまじない。デートに着てゆくためのシャツ。夢の中の自分が持っていたのとそっくり同じな、水色のシャツが欲しいけれども。
(…今のぼく、とっても幸せなんだし…)
 前の自分の夢よりも素敵な現実が今。其処に生まれて、其処で暮らす自分。
 欲張らない方がいいのだろうか?
 これ以上もっと、と夢の世界のシャツを欲しがるのは欲張りだろうか。
 夢の中身は取り出せないから。現実の世界に持ってくることは出来ないから。



 そうは思っても、欲しくなるシャツ。夢の中で自分が袖を通していたシャツ。大きくなれた、と胸を弾ませて、デートのためにと着ていたシャツ。
(あのシャツ、ホントに欲しいんだけど…)
 そっくりのシャツを見付けたとしても、買ったシャツでは効かないだろう。現実の世界で買ったシャツには無さそうな力。夢の世界のシャツだからこそ、持っていそうな不思議な力。
 ある朝、目覚めたら大きく育っている自分。デートに行ける、と喜ぶ自分を現実の世界に連れて来てくれるのは、きっとあの夢の中にあったシャツだけ。
(あれが欲しいよ…)
 何処かにあったら、買いそうな自分。お小遣いで買える値段だったら、偶然それに出会ったら。あの夢のシャツだ、と大喜びで。買ったシャツでは効きそうになくても、やっぱり欲しい。
 あれがあったら頼もしいのに、と考えていたら、ハーレイが訪ねて来てくれたから。テーブルを挟んで向かい合うなり、恋人に向かって訊いてみた。いつかデートに行きたい恋人。
「あのね、ハーレイ…。夢のシャツ、持ってた方がいいと思う?」
「はあ?」
 なんだ、そりゃ。夢のシャツって、お前が欲しいシャツのことなのか?
 欲しいんだったら、お母さんに頼めばいいだろう。こういうシャツが欲しい、とな。
「そうじゃなくって、夢で見たシャツ…」
 ぼくの夢の中に出て来たシャツだよ、今朝の夢にね。
 夢の中のぼくは大きくなってて、ハーレイとデートに行けるんだけど…。
 その夢でぼくが着ていたシャツ。うんと幸せな気分になって。



 だから夢のシャツ、とハーレイに夢の話を聞かせた。どんなに素敵な夢だったかを。
「ハーレイとデートなんだから、って夢の中でシャツを着るんだけれど…」
 それね、前から買って持ってたシャツだったんだよ。
 いつか大きくなった時のために、って持っていたシャツ。それをウキウキしながら着る夢。
「用意のいいヤツだな、デカいシャツを買って待っていた、と」
 チビの頃から持っていたとは恐れ入る。気が早いと言うか、何と言うべきか…。
「ぼくだってそう思うけど…。デート用のシャツ、買おうとも思っていなかったけど…」
 あんな素敵な夢を見ちゃったら、どうしようかって考えちゃう。
 夢のシャツ、買っておいた方がいいかな、おまじないに。
 早く大きくなれるかもしれないし、あれとそっくりなシャツを何処かで見付けたら。
 お小遣いで買えそうな値段だったら、買って仕舞っておこうかな…?
「おいおい、そっくりのシャツを買うのか?」
 その夢に出て来たシャツでないと駄目だと思うがな?
 おまじないの効果があると言うなら、夢の中のシャツだと思うわけだが。
「やっぱりそう? ハーレイもそう思うんだ…」
 ぼくもそういう気がするんだよ。そっくりのシャツを買っても駄目だ、って。
 だけど、あのシャツ、欲しいから…。持っていたいって思うから…。
 夢の中身を、ヒョイと取り出せたらいいのにね。
 これが欲しいな、って掴んで引っ張り出せたなら。
 あの夢のシャツがホントになったら、ぼくの前に出て来てくれたなら…。



 そしたら大事に仕舞っておくのに、と今も欲しくてたまらないシャツ。夢の中で袖を通していたシャツ。あれが欲しいよ、と繰り返したら、「そういえば…」と向けられた鳶色の瞳。
「前のお前もよく言っていたな。夢の中身を出せればいいのに、と」
 食料だとか、物資だとか。夢で見た物を取り出せたならば、仲間たちの役に立つのにと。
 お前が物資を奪ってた頃に、そういう話をよく聞いたもんだ。流石のお前も、夢の中身を現実に出来はしなかったがな。
「うん…。それより後にも、たまに試してた」
 船のみんなが喜びそうな物を夢に見た時は、出て来ないかな、って。
 地球に行く夢を見ちゃった時にも、この夢がホントにならないかな、って…。
 色々とやってみていたけれどね、夢はやっぱり夢だったから…。どう頑張っても、現実になってくれなかったよ、どの夢だって。
 でも、それをやってた前のぼくだって、今のぼくの夢は見てないよ。
 青い地球の上に生まれ変わって、ハーレイとまた出会えるなんて。
 うんと平和な世界になってて、パパもママもいて、いつかはハーレイと結婚だなんて…。
 夢より凄いよ、今のぼくの世界。
 ホントのホントに凄すぎなんだよ、前のぼくが見ていた夢よりも凄い現実だもの。
「そいつは俺も同じだな…。今の世界ってヤツに関しては」
 前の俺だって、こんな夢は見ちゃいなかった。
 これが本当になってくれれば、と思う夢なら何度でも見たが、此処までじゃない。
 俺が見た夢より凄い世界だ、今の俺が生きてるこの世界はな…。



 夢よりも凄い現実とはな、とハーレイも頷くものだから。前のハーレイにも欲しいと思った夢があったようだから、知りたくなった。前の自分と同じように試していたのかと。
「ハーレイも夢の中身を出そうとしたの?」
 前のぼくが何度も話していたから、ハーレイもやってみようとしてた?
 サイオンを使って出せないかどうか、試してみていた時があったの?
「いや、お前ほどのサイオンは持ってなかったし…」
 お前でも無理だと聞いていたから、中身が出せると思っちゃいない。俺の力では。
 夢は夢だし、手が届かないのは百も承知だ。手を伸ばしたって、届きやしない。
 そうは思ったが、夢が本当になってくれればいと祈っていたな。祈りってヤツは、神様に届けるモンだろうが。…神様だったら、俺よりもずっと強い力があるんだから。
 俺にとっては夢でしかなくても、神様だったら現実に出来るかもしれないからな。
「お祈りしてたって…。どんな夢なの?」
 前のハーレイは何が欲しかったの、神様に何をお祈りしたの…?
「…前の俺の夢か? 時代によって色々と変わって行ったんだが…」
 最後はお前と二人で地球に行くという夢だったな。そういう夢を何度も見た。
 夢を見る度、叶いやしない、と思ったもんだ。
 夜中に夢を見て目が覚める度に、お前の寝顔を見ながらな。…こいつは夢だ、と。
 お前を抱き締めて、何度も祈った。この夢が本当になったらいい、と。
「そっか…。前のぼくの寿命…」
 地球に行く前に尽きちゃうんだものね、ハーレイの夢は叶わないよね…。
 ぼくと一緒に地球に行きたくても、ぼくの命が終わっちゃうから。
「…お前、何処かへ行っちまうからな」
 あんなに地球を見たがってたのに、死んでしまって、誰も知らない何処かへと。
 俺もお前を追い掛けて行こうと思ってはいたが、それと地球とは別の話だ。
 お前に地球を見せたいじゃないか、お前が生きている間に。…お前の命がある間にな。



 そう思ったから、何度も神に祈ったという。地球へ行く夢を見る度に。「ブルーを地球へ」と。
 腕の中で眠る前の自分を抱き締めながら、夢が本当になればいい、と。
 夢と現実は違うけれども、神ならば現実に出来そうだから。それだけの力がありそうだから。
「ハーレイのお祈り、神様が叶えてくれたのかな?」
 前のぼくが地球へ行けますように、って何度も祈ってくれていたから、地球に来られた?
 ハーレイが神様にお祈りしていた地球は、あの頃は無かった青い地球だから…。
 お祈りの通りに青い地球が出来たら、神様がぼくを連れて来てくれた…?
 ハーレイが何度もお祈りした通りに、二人一緒に。…今の地球まで。
「どうだかなあ…?」
 そいつは俺にも分からないがだ、地球に来られたことは確かだ。前のお前の夢だった星に。
 青くて、おまけに平和な地球。人間は誰もがミュウになっちまって、もう戦争も起こらない。
 俺たちは、前の俺たちが見ていた夢よりもずっと、素晴らしい世界に来たってな。
 お前がさっき言ってた通りに、夢よりも凄い現実ってヤツだ。
 前の俺たちがどんなに大きな夢を見たって、今の世界には敵わんさ。
 「事実は小説よりも奇なり」と言うがだ、「現実は夢よりも奇なり」ってトコか。
 それほど凄い世界なんだし、お前の夢のシャツだって、だ…。



 もっと素敵なシャツになって登場するんだろう、とハーレイが浮かべた優しい笑み。
 夢の通りに現れる代わりに、素晴らしいシャツに変身して…、と。
「俺がプレゼントするかもしれんぞ、その夢のシャツ」
 夢の中のお前は自分で買って持ってたようだが、そうじゃなくってプレゼントのシャツだ。
「プレゼント…? ハーレイがくれるの?」
 ぼくの誕生日に買ってくれるとか、そういうの?
 だったら、凄く嬉しいけれど…。大切に仕舞っておくんだけれど。
「誕生日だなんてケチなことは言わん。それとは別のプレゼントだな」
 贈るタイミングが分からないしな、誕生日プレゼントにするのは無理だ。お前のシャツは。
 俺がお前にプレゼントしてやるのは、お前が今よりかなり大きくなってからだな。
 お前の背丈が前のお前に近付いて来たら、お前にシャツを贈ってやる。何処かで買って。
 そいつをお前に渡してやってだ、こう言うんだ。
 初めてのデートにはこれを着て来い、と。
「ホント!?」
 デート用のシャツを買ってくれるの、ハーレイが?
 夢の中のぼくが着ようとしてたの、ハーレイが買ってくれるって言うの…?



 思いがけないハーレイの言葉。いつか大きくなった時には、ハーレイがシャツを贈ってくれる。初めてのデートに着て行くシャツを。「これを着て来い」と、買って来てくれて。
 前の自分の背丈になるまで、あと少し、という日が来たら。初めてのデートの日が近付いたら。
「期待するなよ、そんな気障な真似をするかどうかは分からないからな」
 デート用の服を見立てるってヤツは、自分のセンスに自信がある男のやることで…。
 俺は服には詳しくなくてだ、流行ってヤツにも疎いんだから。
「ハーレイが買ってくれるんだったら、どんなシャツでも嬉しいよ」
 ぼくが自分で用意するより素敵だもの。
 あの夢みたいに自分で買うより、ハーレイに貰ったシャツを着る方が断然いいよ。
 やっと着られる、って袖を通して、ワクワクしながらボタンを留めて。
「ほらな、夢をそのまま形にするより、現実の方がいいこともあると言っただろ?」
 夢の通りなら、お前は自分で買っておいたシャツを着るんだし…。
 夢の中身を取り出せたとしても、そいつはお前が買ったシャツなんだ。俺じゃなくてな。
 しかしだ、夢は夢だと放っておいたら、俺からのシャツが届くかもしれん。夢よりも現実の方が良くてだ、お前は俺がプレゼントしたシャツで初めてのデートに出掛けてゆく、と。
「じゃあ、シャツ、買ってよ。気障でもいいから」
 ハーレイのセンスも気にしないから、ぼくに初めてのデートで着るシャツ、ちょうだい。
 水色がいいな、夢のシャツは水色のシャツだったから…。
 デザインはハーレイに任せておくから、水色のシャツをぼくに買ってよ。
「その時が来たらな」
 お前がちゃんと育ち始めて、前のお前の背丈に届きそうな日が近付いて来たら。
 もう少しだな、と俺が思ったら、シャツをプレゼントしてやろう。…注文通りに、水色のをな。
 とんでもないセンスのシャツを渡されても、そのシャツ、きちんと着て来るんだぞ?
 初めてのデートに出掛ける時には、俺がお前に贈ったシャツをな。



 もっとも、俺はシャツの話なんぞは忘れているかもしれないが…、と言われたけれど。
 今日の日記にも書きはしないから、覚えていた方が奇跡だろうとハーレイは苦笑するけれど。
(…初めてのデートは、いつか行くしね…)
 その日に着て行くシャツも、何処かにきっとある筈。水色にしても、他の色にしても。
 長袖になるか、半袖になるか、上にセーターを着込むのか。その上にコートまで必要なのか。
 出掛ける季節も分からなければ、シャツのデザインも今は謎。襟の形も、ボタンの数も。
(ハーレイがくれたシャツなら、最高だけど…)
 とても嬉しくてドキドキだけれど、忘れられているということもある。シャツの夢を見た自分の方でも、忘れてしまってそれっきり。
 夢を見たことさえ綺麗に忘れて、初めてのデートに着て行くシャツは、自分で買うかもしれないけれど。街で見掛けて、「これがいいかな」と買っておくかもしれないけれど。
(ママが買ったシャツってこともあるよね、ぼくが忘れてたら…)
 ハーレイも自分も忘れていたなら、母が買って来たシャツの中から「これ」と一枚選ぶシャツ。今日のデートにはこのシャツがいいと、これを着ようと。
 けれど、どういうシャツになろうと、夢より素敵な現実があると、今の自分は知っているから。
 前の自分が夢に見たより、素晴らしい世界に生きているから。
(きっといつか、あの夢のシャツより、ずっと素敵なデート用のシャツ…)
 それを着てハーレイと、初めてのデートに出掛けて行こう。
 クローゼットの隣に立って、鉛筆で書いてある前の自分の背丈の印を確かめて。
 同じになった、と大喜びして、用意してあったシャツに袖を通して。
 ウキウキしながら留めてゆくボタン。
 やっとハーレイとデートに行けると、このシャツを着てデートなんだよ、と…。




           夢で見たシャツ・了


※夢の中でブルーが袖を通したシャツ。ハーレイとデートに行くのだから、と弾んだ心で。
 けれども、シャツもデートも夢。ガッカリですけど、いつかハーレイがシャツをくれるかも。
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(どうせ、ぼくには読めやしないし…)
 マナー以前の問題だから、と小さなブルーがついた溜息。学校から帰って、おやつの時間に。
 母が用意してくれた紅茶とケーキ。味わった後で広げた新聞、面白い記事が載っていないかと。その新聞の記事が問題、それで零れてしまった溜息。
(心を読まないのはマナーなんだけど…)
 新聞で見付けた、お付き合いのコツ。友達ではなくて、恋人同士の。
 そういう見出しが目に入ったから、母が通り掛かっても慌てないように、他の記事を読むふりをして読み始めたのに。ハーレイとの恋に役立つだろうと考えたのに。
(あまり参考にならないし…)
 最初の印象がそれだった。意中の人と両想いになるためのコツだったから。お付き合いのコツというヤツは。好印象を与える表情だとか、話題作りとか。
 最初から恋人同士では意味が無いよ、とガッカリしていたら、両想いになった後のコツ。相手と仲良くやっていくコツがあるという。「結婚してからも役に立ちます」と自信たっぷり。
 そのコツならば、と飛び付いた結果が溜息だった。
(信じること、って…)
 相手の心を信じるのがコツ。それが大切なことらしい。恋を壊さず、育ててゆくには。
 どうなのかな、と相手の心が心配になったような時。心を読みたくなるものだけれど、読んだりしないで言葉で訊くこと。相手の気持ちを。返事を貰ったら、それを信じる。相手の言葉を。



 それがコツだと書かれてあった。嘘かもしれない、と思ったとしても心は読まない。そうすれば相手の心も動くものらしい。「信じてくれた」と嬉しくなるから、言った言葉を守ろうとする。
 だから言葉で、と書かれたコツ。思念波は駄目、と。
(思念波は上手く使ったつもりでも…)
 相手にバレてしまうことが多いですから、という筆者の注意。心を読まれたと気付かれたなら、相手は不快になるものだから、しないようにと。
 安易に心を読まないことは社会のマナーでもありますね、と念を押してもあるのだけれど…。
(ぼくは最初から読めないってば…!)
 まるで読めない、他の人の心。ぼくは不器用なんだから、と肩を落とした。
 サイオンタイプは前と同じにタイプ・ブルーで、本当だったら最強の筈。心だって一瞬で読める筈なのに、とことん不器用な自分のサイオン。読もうとしたって全く読めない。
 恋のコツを守るにはピッタリだけれど、能力があるのと無いのとは違う。心を読む力を封印して恋を守るのは素敵だけれども、封印する以前の状態の自分。それが悲しい。
 恋を育むお付き合いでも、注意されるほどの相手の心を読む力。使わないで、と。
 今の時代は人間は全てミュウになったから、誰でも簡単に出来ること。心を読むこと。けれど、不器用な今の自分は…。
(出来ないんだってば…!)
 それが出来たら困らないよ、と情けない気分で閉じた新聞。恋の記事にまで馬鹿にされた、と。自分は心が読めないのに、と。



 二階の自分の部屋に帰って、座った勉強机の前。頬杖をついて、さっきの記事を思い返して。
(社会のマナーで、恋のコツなのに…)
 やらないように、と注意されていた心を読むこと。だけど読めない、と溜息しか出ない。本当に不器用になってしまって、他の人たちのようにはいかない。
 おまけに恋人のハーレイときたら、今でもタイプ・グリーンだから…。
(遮蔽はタイプ・ブルー並み…)
 防御力に優れたタイプ・グリーンは心の遮蔽能力も強い。読まれないように遮蔽したなら、他の人間には読み取れない。よほど強引にこじ開けないと。
 それでも前の自分なら読めた。こじ開けなくても、覗き込むだけで。
 なんと言っても、今も伝説のソルジャー・ブルーだったから。最強のサイオンを誇ったから。
 もっとも、力を持っていたって、滅多に読みはしなかったけれど。それが必要だと思った時しか覗いてはいない、ハーレイの心。
(いいことじゃないしね?)
 恋のコツにも書かれていたけれど、相手の心を覗き見ることは。
 相手が言葉にしないからには、知られたくないのが心の中身。勝手に見てもいいものではない。そうしなくては、と思う理由が確かなものでない限り。
 隠していることを読み取らなければ、大変なことになりそうだとか。
 前の自分がハーレイの心を読んでいたのは、そう考えた時だった。キャプテン・ハーレイが心に仕舞っていること。船の今後に関すること。
 ハーレイの手には余るけれども、他の仲間を困らせたくない。そんな気持ちで黙っている時は、表情を見れば分かったから。「何かあるな」と。
 だから心をそっと読み取り、「ごめん」と一言謝ってから言葉で告げた。その件は二人で考えてみようと。二人で答えが出せなかったら、ヒルマンたちにも訊いてみようと。



 そういう時しか読まなかったな、と前の自分の頃を思った。誰の心でも読めたけれども、勝手に読みはしなかったっけ、と。
(ただでも嫌われる力だったし…)
 ミュウの世界では当たり前にあるものだったけれど、人類は忌み嫌っていたサイオンという力。人類はそれを持たないのだから、恐れられたのも無理はない。
 サイオンにも色々あった中でも、思念波が一番嫌われた。人の心を読み取る力。
 「人の心を盗み見る化け物」と、「人の心を食う化け物」と。
 何度ぶつけられたろうか、その言葉を。アルタミラでも、逃げ出した後も。白いシャングリラが潜んだアルテメシアでも、ユニバーサルの者たちがそう言っていた。化け物めが、と。
(仕方ないけど…)
 人類はサイオンを持っていないし、きっと気味悪かったのだろう。心を読み取る思念波が。物を動かしたりする力よりも、心にスルリと入り込むそれが。
 気付かない内に、読まれるから。そうされないよう防ぐ力も、人類は持っていなかった。訓練を受けた軍人ならばともかく、一般人には出来なかった遮蔽。



 嫌われるわけだ、と考えたけれど。今の時代も、心を読むのはマナー違反で、恋のコツでも注意するよう記事に書かれていたけれど。
(でも、思念波…)
 人類は持っていなかったそれを、マザー・システムは使っていた。ごく当たり前に。機械の力で作り出したそれで、人類の世界を支配していた。
 成人検査でコンタクトするのは思念波だったし、教育ステーションのマザー・システムも同じ。心が不安定な者をコールした時は、思念波を使って入り込んだ心。中身を深く読み取るために。
(だから余計に怖がられたかな?)
 前の自分たちが生きた時代のミュウたちは。面倒を見てくれるマザーではなくて、ただの人間が心を読むのだから。心の中身を、何もかも全部。
(マザーだったら、従っていればいいんだけれど…)
 人類はマザー・システムを信頼していたから、教育ステーションのマザーも同じこと。養父母の代わりに育ててくれる、新しい親のようなもの。
 親なのだから、心の中身を全部知られてもかまわない。心を導いてくれるのがマザー。
 その導きも、彼らにとっては正しいもの。叱ったり、時には慰めたりと至れり尽くせり。
 だから人類はマザーなら許す。心を読まれても、それは「いい結果」へと結び付くから。
 そうは言っても、人は間違いを犯すもの。自分が優先、自分自身が一番大切。マザーだったら、その間違いを叱りはしたって、いいアドバイスをくれるけれども、ミュウだったら。
(いいようにされる、って怖かった…?)
 マザーなら導いてくれる所を、悪意を持って悪い方へと追いやるだとか。抱えた悩みに解決策を与える代わりに、もっと悩みを深くするとか。
 いい方へ導く力があるなら、逆も可能だということだから。ミュウとマザーは違うから。
(それに、心を見られることも…)
 導く立場のマザーではない、同じ人間が見るとなったら怖かったろう。人は誰だって、隠したいことの一つや二つは持っているもの。それを勝手に盗み見られてはたまらない。
 今の時代でも、心は読まないのがマナー。人類がどれほどミュウを恐れたか、分かる気がする。心を隠す術も無いのに、一方的に読まれてしまう、と。



 人類がミュウを恐れた時代。思念波が何より嫌われた時代。人の心を食う化け物、と。
(だけど、前のぼく…)
 記録の上では、一番最初のミュウだった筈。SD体制に入る前にも、実験室でミュウは生まれていた筈だけれど、彼らの記録は後世に残らなかったから。
 最初に発見されたミュウの自分は、いつ思念波を使っただろう?
 一番最初に人の心を読み取ったのは、いつだったろう?
(成人検査は…)
 何が始まるのかも分からないまま、受けていた検査。前の自分の一番古い記憶。それよりも前の記憶は失くして、何も覚えていないから。
 ジョミーの時代とはシステムが違った成人検査。見た目は医療チェックさながら、看護師だって立ち会っていた。前の自分も、医療チェックだと信じたのに。
(…捨てなさい、って…)
 手放すように言われた自分の記憶。その一切を。地球に行くには必要ない、と。
 その声に抵抗した自分。忘れたくなどなかったから。「嫌だ」と叫んで、抗った末に…。
(機械、壊した…)
 気付けば砕けていた機械。無数の破片が宙に浮いていた。「殺さないで」と怯えていた看護師。それで自分がやったと分かった。「殺さないで」と、「助けて」と声が聞こえたから。
 あれが最初に使ったサイオン。前の自分が。
 駆け込んで来た警備員たちに撃たれた時にも、銃弾を全て受け止めたけれど。
(思念波、使っていなかった…)
 銃を向けられ、言葉で訴えていた自分。「待って」と、「ぼくは何もしない」と。
 もしも思念波を使っていたなら、警備員たちは頭を抱えたろうに。頭の内側で響く思念に、その動きすらも奪われて。銃を投げ出して、床に座り込んで。
 そうしなかったから、前の自分は撃たれてしまった。銃弾を受け止めるのが精一杯で、力尽きて気絶した自分。其処から始まった地獄の日々。



 ミュウと判断された自分は、研究所へと送り込まれた。サイオンを調べ、ミュウという生き物を研究するために。まるで実験動物のように、人間扱いされない場所へ。
(じゃあ、思念波は…?)
 成人検査でサイオンが覚醒したというのに、思念波を使わずに撃たれた自分。その力に気付いていなかったから。思念波を知らなかったから。
 いったい何処で思念波の存在に気付いたろうか、と思うけれども分からない。覚えてはいない。研究所に送られ、何度も繰り返された実験。地獄だった日々の中でいつしか使うようになった。
 実験室へと連れてゆくために、サイオンの制御リングを首に嵌めに来る研究者たち。
(嵌められる時に見えるから…)
 彼らの心の中にあるもの。それを読んでは、実験の内容に震え上がった。何が起こるのか、どうされるのかが明確に分かる日もあったから。
 実験の最中は制御リングを外されるから、実験室に残された残留思念も読んだ。其処で命尽きた仲間の苦悶や、断末魔の悲鳴。
 思念波を使っていた自分。研究者たちの心を読んだり、残留思念を読み取ったり。



 そうした記憶は残っているのに、肝心の記憶を持ってはいない。最初に思念波を使った記憶。
(忘れちゃったんだ…)
 他の失くした記憶と一緒に、初めて人の心を読み取った時の記憶まで。
 いつから心を読んでいたのか、読み取るようになったのか。欠片も覚えていないけれども、今も覚えていることが一つ。
 思念波は人の心を読めるし、語り掛けることも出来るけれども、前の自分は…。
(読んでいただけで、話し掛けなかった…)
 研究者たちにも、檻から引き出す者たちにも。ただの一度も。
 そんなことをしたら、酷い目に遭うから。実験の他にも、苦痛を味わう羽目になるから。
(酷い目に遭うって知ってたんだし…)
 多分、酷い目に遭ったのだろう。彼らに思念波で話し掛けて。一度か、もっと何度もなのか。
 いずれにしても、前の自分は「使っては駄目だ」と知っていたから、思念波を使うのは読み取る時だけ。送りはしないで、読み取っただけ。
 話し掛ける方でも使えるのに。…離れた所にいる相手にでも、メッセージを伝えられるのに。



 封じていたらしい、思念波を相手に送るということ。アルタミラの研究所にいた時代には。前の自分は便利にそれを使っていたのに、不器用な自分とは違ったのに。
(初めて、思念波を送ったのって…)
 いつなのだろう、と首を傾げた。失くしてしまった記憶ではなくて、今も覚えている中で。誰に思念を届けただろうか、どういう時に。
 シャングリラでは使っていたから、アルタミラを脱出した後だろうか。船の仲間は、一人残らずミュウばかり。もう安全だと使い始めたか、誰かが先に使っていたか。
(おい、って思念で呼び掛けられたら…)
 当然のように思念で返す。そういう風にして使い始めただろうか、あの船の中で?
(アルタミラだと、使えないしね…)
 使ったら酷い目に遭わされるのだし、使う理由が見当たらない。メギドの炎に焼かれた時にも、研究者たちは逃げ出した後。ミュウだけをシェルターに閉じ込めておいて。
(逃げて行く研究者たちに呼び掛けたって…)
 止まってくれるわけがない。「出して」と叫んでも、彼らが助けるわけがない。第一、思念波を思い付きさえしなかった。前の自分はシェルターの扉を両手で叩き続けただけ。
 「開けろ、ぼくらが何をした!」と。「何をしたっていうんだ!」と。
 思念波は使わず、肉声で。研究者たちに届く筈もない、肉体の声で。



 此処から出たい、と叫び続けた自分。強い思いが本当の力を引き出した。シェルターを破壊したサイオン。閉じ込められていた仲間は我先に逃げ出し、自分は呆然としていただけ。
(何が起きたか、分からなくって…)
 その場から動けなかった自分に、ハーレイが掛けてくれた声。「お前、凄いな」と。チビなのに凄い力があるな、と言われてようやく我に返った。自分がシェルターを壊したのか、と。
 ハーレイは燃える地獄を見回し、他にも仲間がいるだろうと言った。同じように閉じ込められている仲間。星と一緒に焼き尽くすために、シェルターに押し込められたミュウたち。
(あの時だ…!)
 思い出した、と蘇った記憶。前の自分が誰かに送った、最初の思念波。
 メギドの炎に焼かれ、崩れてゆくアルタミラ。其処をハーレイと二人で走った。他の仲間たちを助けるために。幾つものシェルターを開けて回るために。
 地震が起こる度に走る地割れや、崩れ落ちてくる建造物。炎も襲い掛かって来た。地獄だとしか思えない世界、一つ間違えたら自分もハーレイも命が無いかもしれない世界。
 懸命に二人で走ってゆく中、何度も呼び合い、声を掛け合った。助け合うために、相手に迫った危険を知らせて回避するために。
(もちろん言葉も使ってたけど…)
 それが聞き取れないような時。瓦礫が音を立てて落ちて来た時や、炎に巻かれそうな時。思念を飛ばして伝えていた。「危ない」だとか、「避けて」だとか。
 「ハーレイ」と呼んで、「ブルー」と呼ばれた。互いの名前を呼び続けた。声で、思念波で。
 もしかしたら、あの時、ハーレイの方も…。



(…初めて思念波を送って来た?)
 前の自分がそうだったように、誰かに向かって飛ばす思念波。ハーレイも初めて使ったろうか、燃え盛る地獄を走り抜ける中で。
 だとしたら、本当に運命の二人。互いに初めて思念波を送って、相手からも送り返して貰って。
 出会った時から特別だった、とハーレイと何度も話したけれど。
 あの時からの縁だけれども、初めて思念波を送った者同士ならば、縁は余計に深くなる。初めて思念波で呼んだ相手が、ハーレイならば。ハーレイも自分を初めて呼んでくれたなら。
(ハーレイに訊かなきゃ…)
 どうだったのかを訊いてみたいな、と思っていた所へ聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、ドキドキしながら問い掛けた。
「あのね…。ハーレイが初めて思念波を使ったの、いつ?」
 心を読み取る方じゃなくって、話し掛ける方で。…最初はいつなの?
「さてなあ…。そこまで俺も覚えちゃいないが、赤ん坊の時になるんだろうな」
 おふくろ宛で、ミルクが欲しいと呼び掛けていたか、もう眠いだとか。
 生憎と聞いていないもんでな、今じゃ普通のことだから。…よっぽど遅けりゃ話題にもなるが。
 今のお前みたいに不器用なヤツが、初めて親に呼び掛けただとか。
「そうじゃなくって…!」
 ぼくの言い方が間違っていたよ、「前の」って付けるの忘れてた…。
 前のハーレイのことを訊いてるんだよ、初めて使ったのはいつだったのか。



 どうだったの、と鳶色の瞳を見詰めた。「前のハーレイは?」と。
「前のぼくはね、ハーレイに送ったのが初めてだったよ。…覚えている分は」
 アルタミラで二人で走っていたでしょ、他の仲間たちを助けるために。シェルターを開けに。
 あの時、ハーレイに思念波で話し掛けてたよ。呼んだり、「危ない」って叫んだり。
 …あれが前のぼくの、最初の思念波。誰かに思念を届ける方の。
 もっと前にも、きっと使っていたんだろうけど…。思念波を使ったら酷い目に遭う、って知っていたから、使ったことはあったらしいけど、覚えてないから。
 使った記憶は一つも無いから、ハーレイの名前を呼んだのが最初。
「そういえば…。俺もそうだったのかもしれん」
 あそこじゃ、研究者どもに思念波を使ったら殴られたんだし…。
 殴られるのが分かっているのに送りはしないし、前のお前に呼び掛けたのが最初だな。
 しかしだ…。殴られたという記憶があるなら、お前に送ったのが初めてというわけじゃないか。
 研究者どもにウッカリ送って殴り飛ばされたか、檻を管理していたヤツらの方か。人類に送ってしまったらしいな、前の俺の最初の思念波は。
「でも…。ハーレイ、覚えていないでしょ?」
 誰に向かって、何を言ったか。どういう思念波を送ったのか。
「それはまあ…な」
 覚えちゃいないな、俺を殴ったヤツらの顔も。研究者だったか、そうでないのかも。
「ぼくも同じだよ、言ったでしょ? 酷い目に遭うのは知っていたもの」
 人類に思念波を送っちゃったら、酷い目に遭うって分かってた。だから黙っていたんだよ。
 思念波はいつも、読み取る方だけ。…ぼくから送りはしないままで。



 覚えている中での初めてがハーレイ、と続けた思念波の話。最初に送った相手だった、と。
「ホントだよ。…あの時、初めて使ったんだよ」
 誰かに向かって呼び掛ける思念波。前のぼくが最初に呼んだ名前は、ハーレイの名前。
 ハーレイもぼくと同じでしょ?
 一番最初に呼んだ名前は、前のぼくの名前。…一番最初に呼び掛けた相手、前のぼくでしょ?
「そういうことなら、お前だな」
 思念波だったな、と思い出せる相手は前のお前だ。研究者どもは記憶に無いし…。
 前のお前を呼んでいたのが、前の俺の最初の思念波らしいな。今の俺だと、おふくろだろうが。
「やっぱり…!」
 ハーレイもぼくを呼んだのが初めてだったら、とても凄いと思わない?
 前のぼくは初めてハーレイを呼んで、ハーレイは初めて前のぼくを呼んで…。
 一番最初に思念波を使って呼んだ名前が、ぼくはハーレイで、ハーレイはぼく。
 これって凄いよ、それまでは誰も呼んでいないし、呼び掛けたことも無かったんだよ?
 なのに、ハーレイと会った途端に、二人で思念波。
 ぼくたち、最初から運命の二人だったんだ、っていう気がするよ。
 お互いに初めての思念波を送って、初めての思念波を送って貰って。
「運命の二人か…。そうなんだろうな、あの時からお前は俺の特別だったし」
 俺はお前に出会った時から、お前に捕まっちまってた。…お前が誰より大切だった。
 何度もお前に言っているだろ、俺の一目惚れだったんだろう、と。
「ぼくもそうだよ、ハーレイは特別」
 会った時から、ずっと特別。きっとあの時から恋をしていて、気付くのが後になっただけ。
 だからね、ホントに会った時から運命の二人だったんだよ。
 初めて名前を呼び合ったなんて、本当に凄く特別だもの。初めて思念波を送り合ったのも。
 前のぼくの思念波、ハーレイに会うまで大切に取ってあったのかもね。
 初めて呼ぶならハーレイの名前、って、誰の名前も呼ばないままで。



 きっとそうだよ、とハーレイの名前を呼んだけれども、もちろん声で。今の自分は、前の自分の頃のようにはいかないから。思念波で甘く「ハーレイ」と呼び掛けたりは出来ないから。
 ハーレイもそれに気が付いたようで、鳶色の瞳が細められて。
「そうか、思念波、俺に会うまで大切に取っておいてくれたのか。…前のお前は」
 前の俺も取っておいたんだろうな、お前に会うまで。…前のお前に呼び掛けるまで。
 そう考えると実に感動的だが、今のお前は違うってか。
 思念波の扱いが下手なばかりに、俺の名前も呼べやしない、と。こういう話になったからには、思念波で呼んだらロマンチックなのにな?
 俺の名前を声にしないで、思念波の方で「ハーレイ」とな。
「…分かってるなら、言わないでよ、それ…」
 ぼくだって、ちょっぴり悲しいんだから。思念波で呼びたかったんだから。
「大当たりってトコか。今のお前は、思念波どころかサイオン自体が不器用と来たし」
 タイプ・ブルーというのは嘘じゃないのか、と思うくらいにサッパリだ。
 お母さんたちから聞いていなけりゃ、お前が勝手に言い張ってるだけだと思うだろうな。
 前のお前と同じなんだ、と強調したくて、タイプ・ブルーだと主張してる、と。
 実際の所はタイプ・イエローかレッドなのにだ、大嘘をついてタイプ・ブルーと。
 …そうじゃないのは分かってるんだが、なんとも不思議なモンだよなあ…。
 前のお前の生まれ変わりで、正真正銘、タイプ・ブルーの筈なのにな?



 此処まで不器用なヤツはそうそうお目に掛かれん、とハーレイも呆れる今の自分の不器用さ。
 前と同じでタイプ・ブルーなのに、思念波さえもロクに紡げないレベル。此処で「ハーレイ」と思念波で呼べたら、本当にロマンチックなのに。自分でもそう思うのに。
 なんて不器用なんだろう、と俯くしかなくて、ハーレイの方は笑っていて。
「いいんじゃないのか、不器用でも。お前の力が必要無いのはいいことだしな」
 お前が一人で頑張らなくても、今の時代は誰も困りはしないんだ。
 もうソルジャーは要らない世界で、シャングリラだって何処にも無い。…要らないんだから。
 不器用なお前でいればいいんだ、その不器用さを誇っておけ。平和な時代に生まれたからこそ、お前は不器用でいられるんだからな。タイプ・ブルーに生まれちまっても。
「うん、分かってる…。ハーレイも何度も言ってくれたし」
 ぼくのサイオンが不器用なのが平和な時代の証拠だろ、って。ぼくの力を伸ばさなくても、誰も酷い目に遭わない世界。
 それにサイオンが不器用だったら、恋のコツは守れるみたいだよ?
「はあ?」
 恋のコツっていうのは、何の話だ?
 何処からそういう話になるんだ、俺はお前のサイオンについて話してたんだが…?



 不器用なサイオンがどう転んだら恋のコツだ、とハーレイの眉間に寄せられた皺。恋のコツなど俺は話していないんだが、と。
「前のお前の話なら分かる。運命の出会いで運命の恋だ、恋のコツだってあるだろう」
 何がコツかはまるで謎だが、お前にとってはコツだった、とな。
 しかし、サイオンが不器用となったら、そいつは前のお前じゃない。今のお前だ。
 恋をするには早すぎるチビが、どう間違えたら恋のコツなんぞを守るんだ?
 不器用さとどう結び付くのかも、俺には見当が付かないんだが…?
「えっとね…。今日の新聞記事…」
 恋人同士のお付き合いのコツって書いてあったから、読んだんだよ。役に立ちそう、って。
 そしたら、恋人同士になるにはどうすればいいかのコツの話で…。
 ぼくとハーレイとは両想いだから、殆ど役に立たなくて…。
 恋人同士になった後のコツも、ぼくには意味が無かったんだよ。相手を信じることだったから。
 心を読んだら駄目だって。…ちゃんと言葉で訊きましょう、って。
 ぼくは心を読めやしないし、このコツだけは守れるみたい…。
「お付き合いのコツって…。そんなのを読んでいたのか、お前…」
 チビのくせして、背伸びしやがって。
 どうせ、お母さんに見付からないよう、他の記事でも読んでいるふりで見てたんだろうが。
 自分の年が分かっているのか、たったの十四歳だろ、お前?
「チビでも、ハーレイの恋人だよ! 中身は前のぼくなんだよ!」
 見付けちゃったら気になるじゃない、恋のコツの記事!
 ぼくが読んでもかまわないでしょ、本当に恋をしてるんだから…。お付き合いだって、ちゃんとハーレイとしてるんだから!



 それに…、とグイと身体を乗り出した。「あの記事は役に立ったんだから」と。
「前のぼくが初めて、思念波を送った相手はハーレイ。そうだったんだ、って思い出したし!」
 ハーレイの方も同じだった、って分かったんだし、あの記事、役に立ったんだよ!
 ぼくとハーレイ、最初から運命の二人だったんだもの。初めての思念波を取っておいたくらい、出会うのを待っていたんだもの…!
「ふうむ…。役に立ったと言うかもしれんな、そういう意味では」
 だがなあ…。お前の場合は、コツを守るより、破るべきだという気がするが。
 その新聞には恋のコツだと書いてあっても、俺の心を読むべきかもな。
「なんで?」
 恋のコツだよ、心は読んだら駄目なんだよ?
 社会のマナーでもありますね、って書いてあったから、読んじゃったら駄目。
 ぼくは最初から読めないけれども、恋のコツは守れそうだから…。不器用で良かった、って思うことにしたのに、なんでそのコツ、破れって言うの?
「それはだな…。もしもお前が、そのコツとやらを破ったら、だ…」
 俺の心が読めるわけだし、その方がお前のためだってな。
 お前に俺の心が読めたら、キスだの何だのと言わなくなるに決まってる。俺の心さえ、ちゃんと上手に読み取れたらな。
「え…?」
 それってどういう意味なの、ハーレイ?
 心を読んだら、どうしてぼくがキスして欲しいって言わなくなるの…?



 分からないよ、と瞬きをしたら、ハーレイがパチンと瞑った片目。
「そうだろうなあ、お前、ホントにチビだしな?」
 俺の心に入っているのは、お前への想いというヤツだ。この胸の中に詰まってる。
 そいつを読んだら分かるわけだな、俺がどんなにお前のことを想っているか。
 キスは駄目だと言っていたって、「チビのくせに」と言ったって。
 俺はお前が好きでたまらなくて、お前を誰よりも愛してる。…前のお前を愛してたように。
 それが分かれば、お前はすっかり満足するっていう寸法だ。
 キスなんぞは大きくなった時のオマケで、オマケ無しでも充分、愛されてるってな。
「それ、読ませて…!」
 お願い、ハーレイの心の中身をぼくに読ませて。
 恋のコツを破っていいんだったら、破るべきだって言うのなら。
 読んでみたいよ、ハーレイの手をこっちにちょうだい。手を絡めたら心、見せられるでしょ?
 ハーレイが遮蔽を解いてくれたら、ぼくとサイオンを合わせてくれたら。
「そこまでサービスはしてやれないなあ、お前、チビだし」
 一人前に恋のお付き合いのコツまで読んだんだったら、自分の力で読むんだな。俺の心を。
 恋のコツとやらを破って心を読むのは許すが、手伝いはしない。
 俺に手伝う義理は無いしな、サイオン、鍛えてくるんだな。不器用でなけりゃ、お前、アッサリ読めるだろうが。俺の心の中身くらいは。
 前のお前がそうだったしなあ、まあ、頑張れ。恋のコツ、いつでも破っていいから。
「ハーレイのケチ!」
 読んでもいいとか、読むべきだとか言うんだったら、見せてくれてもいいじゃない!
 ハーレイの心を見せて欲しいのに、ぼくに自分で読めなんて…!
 出来ないってことを知っているくせに、ハーレイ、ホントにケチなんだから…!



 酷すぎるよ、とプンスカ膨れて怒ったけれども、膨れっ面になったけれども。
 ハーレイの場合は、心を読んでもいいらしい。恋のコツでは禁止なのに。新聞にはそう書かれていた上、社会のマナーも心を読まないことなのに。
 誰もがミュウになった世界でも。…思念波が普通になった今でも。
(でも、ぼくだって…)
 ハーレイにだったら、心の中身を読まれたとしても、きっと怒りはしないから。
 読んだハーレイが、「よくも」と腹を立てるような中身も、自分の心にありはしないから。
(ハーレイだって、きっとおんなじ…)
 心を読め、と言うくらいだから、ハーレイの心には自分への想い。愛している、と。
 その想いが一杯に詰まっているから、ハーレイは心を読まれてもいい。それに、自分も。
(…ぼくたち、運命の二人だものね?)
 初めての思念波で互いの名前を呼び合ったくらいの、運命の二人。
 出会った時からずっと一緒、と溢れる幸せ。
 一度は離れてしまったけれども、前の自分たちの恋は悲しく終わったけれど。
 今の自分たちは恋のコツさえ要らない二人で、マナー違反をしたって壊れはしない恋。
 互いの心を読んでみたって、恋は壊れはしないから。
 きっと想いが強くなるだけで、前よりも、もっと好きになる恋。
 前の自分たちの恋の続きを、幸せに生きてゆくのだから。
 青い地球の上で、いつまでも。手を繋ぎ合って、何処までも歩いてゆくのだから…。




             恋と思念波・了


※相手の心を読まないのが、今の時代のお付き合いのコツ。恋人が何を考えているのかは。
 けれど、ブルーとハーレイの場合は、読んでしまっても大丈夫。互いを想う気持ちで一杯。
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