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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(わあ…!)
 兵隊さんだ、とブルーが眺めた写真。学校から帰って、おやつの時間に広げた新聞の記事。今の時代に軍隊はもう無いのだけれど。軍人だって一人もいないのだけれど…。
(いろんなのがあるよね)
 ずっと昔のお伽話に出て来るような兵士たち。絵本や、童話の挿絵で見掛ける彼らの姿。
 そういう兵士の写真が沢山、今の時代は軍人ではなくて警備員。そうでなければ、ガイドとか。この地球の色々な地域に合わせて、遠い昔の兵士と同じ軍服で。
 警備員もガイドも、観光客の目を楽しませるために兵士の格好。警備するのもお城ではなくて、博物館とか美術館とか。
(ホントに色々…)
 SD体制が始まるよりも、遥かな昔の兵士の軍服を真似ているから。その地域ならではの独特の軍服、それを着た方が喜ばれるから。
 民族衣装を元にしたものも多くて、ギリシャなんかだとスカートのよう。インドを名乗る地域の兵士は、頭にターバン。
 そんな具合に、軍服も帽子の形も色々。誰もがカメラを向けたくなるのが兵士たち。その正体は観光ガイドでも。博物館とかの警備員でも。
 今の時代だから出来るお遊び、実用的には見えない軍服も帽子も沢山。すっかり平和で、軍隊の出番が無いからこそだと記事にある。
 いくら昔のギリシャにしたって、スカートのような軍服で戦いはしない。戦闘用には別の軍服、スカート風のは衛兵の服。インドの兵士のターバンだって、戦う時には実用的な帽子に変わった。
 けれど今では、観光用の軍服だけ。戦闘用はもう何処にも無い。
 兵士の姿の人を集めたら、華やかな軍服やユニークなものばかり。どれも観光客に人気の。



 沢山あるよ、と眺める写真。どれも近くで見てみたくなる。服も帽子も、お洒落な靴も。
(前のぼくが生きてた時代だと…)
 兵士は全部、本物だった。お遊びの兵士はきっと、いなかったろう。
 あの時代の兵士は、人類統合軍か国家騎士団に所属する者たちばかり。軍服だって、普通の軍か国家騎士団かで変わるだけ。宇宙の何処に行っても同じ。
(今は色々あるのにね…)
 遠い昔の地球にあった様々な文化が作った、兵士の軍服。それが素敵だと、あちこちの星に。
 警備員らしい服を着るより、バラエティー豊かな昔の兵士の軍服の真似。
 イギリス風とか、ロシア風とか、もっと昔のお伽話の舞台になった時代のものだとか。
(そんなにあるなら、国家騎士団スタイルとかも…)
 やってる場所があるのかな、と思った所で気付いたこと。新聞の写真の兵士たちの売り物。
(帽子…)
 うちの所はこれなんです、と誇らしげに被っている帽子。デザインの方も実に色々、ターバンも帽子の内だろう。飾りの房がついた帽子や、お伽話の兵隊みたいなイギリス風の帽子とか。
 軍服の数だけと言っていいほど、様々な形の帽子がセット。軍服に似合っている帽子。
 当たり前のように皆が被っているのだけれども、その帽子。
(帽子、無かった…?)
 何故だか、そういう風に思える。
 前の自分が生きた時代にはあった軍隊、其処に帽子は無かったのでは、と。



 人類統合軍も、国家騎士団も、前の自分は見ていた筈。けれど帽子が思い出せない。軍服の方は簡単に思い出せるのに。人類統合軍の方は暗い色ばかりで、国家騎士団は赤かった、と。
(なんで…?)
 軍服はちゃんと覚えているのに、頭に浮かんでくれない帽子。兵士の頭に帽子はセットで、現に新聞の兵士たち。お遊びの兵士ばかりだけれども、帽子の無い人は一人もいない。
(変だよね…?)
 前のぼくの記憶違いだろうか、と新聞を閉じて、帰った二階の自分の部屋。
 勉強机に頬杖をついて、帽子を考えることにした。人類統合軍と国家騎士団の帽子のことを。
 今では馴染みの兵隊の帽子。新聞で初めて目にした軍服も多かったけれど…。
(兵隊さんには、帽子がセット…)
 他の地域の美術館だの、博物館だのを守る警備員。人気が高いから、よく見るのも多い。新聞や本に載っているから。「此処の地域の兵士はこれです」と。
 お遊びの兵士でも、必ず被っている帽子。デザインが豊富にあるくらいだから、軍服には帽子がついている筈。何処の兵士でも。
(いくら時代が違っても…)
 帽子を被らない軍隊なんて、何処か変だと思うから。
 それとも、それは今の自分の感覚だからで、あの時代は普通のことだったろうか…?



 まずは帽子、と其処から探ってゆくことにした。兵士に限らず、帽子というもの。頭に乗っける帽子そのものを。
(…帽子って…)
 軍隊は無くなった今だけれども、帽子はごくごく当たり前のもの。珍しくはない。男性も女性も被るお洒落なアイテム、ファッションの一部。常に被りはしないけれども。
 自分にとっては日よけの帽子。日射しが強い季節になったら、つばの広い帽子を被るもの。
(防寒用だって…)
 暖かな毛糸で編んだものとか、フワフワの毛皮がついたものとか。
 寒さを防げるシールドがあっても、防寒用の帽子は人気。耳まですっぽり覆うものとか、大人も子供も被っている人が増える寒い冬の日。今の自分も母が被せてくれたりする。
 でも…。
(前のぼくの時代に、帽子はあった?)
 そこが問題、と手繰ってゆく記憶。あの時代に帽子はあったっけ、と。
(えーっと…?)
 思い浮かべたシャングリラ。前の自分が暮らした船。
 あの船で皆が着ていた制服、それに帽子はついていなかった。男性も女性も、帽子は無し。前の自分も被ってはいない。頭の上には補聴器だけ。
(補聴器は制服とセットで来たけど…)
 目立ち過ぎるのを寄越されたけれど、帽子はついて来なかった。「これを被れ」と、ソルジャー専用の帽子を渡されはしなかった。
(ハーレイも、ゼルたちも被ってないよね…?)
 それぞれ特別な制服があったのに、無かった帽子。キャプテンも、それに長老たちも。
 他の仲間たちも被っていないし、もしも帽子が無かった時代だったら、軍隊に帽子が無かったとしても…。
(変じゃないよね?)
 帽子を被る文化が無いなら、それで当然。兵士たちだって被りはしない。



 鍵になるのは帽子だよね、と追ってゆく帽子。前の自分が生きた時代の帽子のこと。
(輸送船から奪った物資に…)
 あっただろうか、帽子というものは。混じっていたなら、被った者もいただろう。船の中でも、太陽の光が射さない宇宙船でも、「似合ってるか?」と。制服が無かった頃ならば。
(帽子があったら被るよね…)
 きっと被ってみたくなる。好奇心旺盛なゼルやブラウが、「どんな具合だい?」と。
 けれど、そういう記憶は無かった。誰も被っていなかった帽子。
(帽子、ホントに無かったわけ…?)
 まさか、と否定したけれど。奪った物資に無かっただけで、人類の世界にはあっただろう、と。
 そうは思っても、人類軍の兵士たち。帽子がセットの筈の軍服、彼らの帽子を見たという記憶が全く無いのなら。兵士も帽子を被っていない時代だったら、帽子は何処にも無かったとか…?
(マザー・システムが消しちゃった…?)
 帽子を被るという文化を。他の多様な文化と一緒に、帽子までをも。
 それなら帽子が無くても分かる。マザー・システムが消してしまったのなら。
 ただ、消す理由が分からない。帽子があったら困るわけでもないだろうに。
 機械が統治してゆく世界に、多様な文化はマズイけれども、帽子は問題無さそうなのに。



 やっぱり記憶違いだろうか、と抱えた頭。どうにも思い出せない帽子。人類軍の軍服の帽子も、他にあったかもしれない帽子も。
(…忘れちゃったのかな…?)
 それとも本当に無かったのかな、と悩んでいたら、仕事帰りのハーレイが訪ねて来たから。同じ時代を生きていたのがハーレイだから、とテーブルを挟んで向かい合うなり訊いてみた。
「あのね、帽子のことなんだけど…」
 ハーレイ、帽子を覚えてる?
「帽子?」
 何なんだ、それは。帽子って頭に被る帽子か、あれのことか?
「その帽子だよ。前のハーレイ、被ってた?」
 帽子を被ったことはあったの、シャングリラで…?
「いや、無いな。キャプテンの制服に帽子ってヤツは無かったからな」
 厨房の帽子も被り損なったぞ、あれが出来た時には、俺はキャプテンだったから。
「そっか、厨房の帽子…!」
 あそこにあったね、白い帽子が。みんなが被っていた帽子…。
 そうだったっけ、とハーレイのお蔭で帽子の記憶が戻って来た。厨房の者だけが被った帽子。
 調理担当のスタッフ用に、と制服が出来た時に生まれた。
 前の自分が奪った物資に帽子は一つも無かったけれども、料理をする人は被るから。料理専門の人間が被る帽子はこれだ、と白い帽子が作られた。
(料理する時は、頭に白い帽子で…)
 厨房を束ねる仲間の帽子は、デザインが別のものだった。一目でそうだと分かるように。
(あそこに帽子があったんだから…)
 人類の世界にも帽子はあった。軍隊に帽子があったかどうかは、ともかくとして。



 料理人が帽子を被ったほどだし、マザー・システムは帽子を消してはいなかった。人間が帽子を被っていたって、機械は困りはしないから。統治する邪魔にはならないから。
「やっぱり、帽子はあったんだ…」
「はあ?」
 帽子があったらどうかしたのか、俺が来るなり帽子だなんて言い出すし…。
「んーと…。帽子、思い出して来たけれど…」
 シャングリラの中では、厨房くらいしか出番が無かっただけの話で…。
 アルテメシアだと被ってる人もいたんだっけ、ってハーレイのお蔭で思い出せたけど…。
 でもね、とハーレイに投げ掛けた問い。
 人類軍には帽子が無かったのでは、と。人類統合軍にも、国家騎士団にも。
「おいおい、物騒な話だな」
 俺たちじゃなくて、敵の方の帽子が気になるのか、お前。人類どころか人類軍だなんて。
「だって…。気になるんだもの、人類軍の帽子」
 前のぼくも詳しくは知らないけれど…。沢山見たってわけじゃないしね。
 アルテメシアでミュウの子供を追っていたのは保安部隊で、人類軍じゃなかったでしょ?
 だから軍人は殆ど見ていないんだよ、前のぼく。
 軍の大物が視察に来た時の偵察だとか、その程度だし…。変な動きをしないかどうか。
 視察の時には、軍人がズラリと並んでいたよ。整列して敬礼。
 でも…。いつ見ても、帽子を被った軍人はいなかったから、帽子、軍には無かったかな、って。
 キースも被っていなかったしね。
 捕虜になっていた時は、ナスカに墜落した時に失くしたっていう可能性もあるけれど…。
 メギドでも被っていなかったんだし、帽子、無かったと思わない…?



 きっとそうだよ、と言った途端に蘇った記憶。前の自分が目にした帽子。
 メギドの制御室に辿り着く前に、それに出会った。帽子を被って薄ら笑いを浮かべる兵士に。
 撃たれたんだ、と気付いた背中。帽子を被った兵士たちに。
「痛い…!」
 いきなり戻った記憶は痛みを連れて来た。今の自分の背中にまで。
 あの時よりかはマシだけれども、悲鳴を上げずにはいられなかった。とても痛くて。
「どうしたんだ!?」
 ハーレイが慌てて駆け寄ってくる。自分の椅子から立ち上がって。
「背中…。背中、痛いよ…」
 でも前のぼく、と座ったままで身体を丸めた。早く痛みが消えるようにと。
「前のお前って…。背中って、なんだ?」
 大きな手が背中を擦ってくれた。「何処が痛むんだ?」と。
「その辺り…。大丈夫、ちょっとビックリしただけ…」
 すっかり忘れてしまっていたから、思い出したら、痛かったことまで戻って来ちゃった。
 メギドで背中から撃たれたんだよ、後ろなんか見ていなかったから。
 …あの時、初めて帽子を見たかも…。ううん、その前にも何人か見たよ、帽子を被った人類軍の人間。国家騎士団の軍服だったから、みんな軍人…。



 あれが初めて見た帽子、と話す間に消えていった痛み。「人類軍にも帽子はあったね」と、話の続きをしようとしたのに、ハーレイに「待て」と止められた。
「…帽子だと?」
 どんなヤツらだ、お前を撃った帽子を被った兵士というのは…?
 痛いのはもう平気なのか、と覗き込んで来た鳶色の瞳。
「もう痛くないよ。…でも、帽子の軍人がどうかしたの?」
 ハーレイも帽子が気になるの、と尋ねたら「見せろ」と言われた記憶。背中を撫でてくれているハーレイに。
「帽子のヤツらだ、前のお前を撃ったヤツ」
 その記憶、俺に見せてみろ。…気になることがあるからな。顔だけでいい。
「分かった…」
 こんなのだった、と思い浮かべた兵士たち。前の自分が振り返って見た、銃を持った兵士。
 そうしたら…。
「こんな下っ端に…!」
 前のお前は撃たれたのか、とハーレイがギリッと噛んだ唇。「なんてことだ」と。
 あまりに酷いと、こんなヤツらがお前を、と。



 ただの保安部隊で、階級も一番下のヤツらだ、と辛そうに歪んだハーレイの顔。本当だったら、前のお前の敵ですらない、と。
「こいつらにお前を撃たせたっていうのか、キースの野郎…!」
 馬鹿にするにも程があるだろう、これで充分だと思いやがったのか?
 こんな下っ端に、前のお前を撃ち殺させるつもりだったのか…!?
 最後は自分が出て来たにしても、その前に片付いていれば楽が出来ると思ったんだな、畜生め。
 如何にもあいつが考えそうなことだがな…!
「待ってよ、ハーレイ。…キースが嫌いなのは分かってるけど…」
 今は帽子の話だってば、そっちの方をちゃんと聞かせて。
 ぼくはあの時、初めて帽子を被った兵士を見たんだけれど…。帽子は下っ端が被るものなの?
 偉い人は帽子を被っていないの?
「ああ。…前の俺たちの時代にはな」
 思い出しちまった、と悔しげなハーレイが取り戻した記憶。時の彼方から。
 地球を目指しての戦いの時代に、キャプテンとして得た人類軍についての知識。
 キースなんかは帽子を被ったことは無かっただろう、と怒ったハーレイ。ただの一度も、と。
 人類軍では、階級が上がれば被らない帽子。
 国家騎士団でも、人類統合軍の方でも、そういう制度になっていた。
 偉い軍人になればなるほど、遠ざかってゆくのが帽子というもの。軍服を纏っている時は。
 キースはメンバーズ・エリートだったし、軍に入った時点でエリート。選ばれた軍人。
 最初から階級が上になるから、帽子を被る機会は一度も無かった筈だ、という説明。
 普通の兵士は、頭に帽子で始まるけれど。
 帽子を被って警備などの仕事、いずれ昇進出来た時には、頭の上から無くなる帽子。
 きちんと仕事をしない限りは、帽子の兵士のままなのだけれど。頭から帽子は消えないけれど。



 大抵の兵士は直ぐに昇進出来るという。新入りは次々にやって来るから、ヘマをしない限り。
 任された仕事を二年ほどもやれば、頭の上から帽子は消える。
「そうだったんだ…」
 帽子が無いのが普通なんだね、人類軍は。階級が上がれば無くなっちゃうから。
「そういう制度になってたな。帽子はあったが、被ってる間は下っ端なんだ」
 前のお前がアルテメシアで見ていた軍人は全部、そこそこの階級だったってことだ。
 視察に来るようなヤツは偉いに決まってるんだし、出迎える方も下っ端だったら失礼だろうが。
 下っ端のヤツらは外で警備だ、何かあったら大変だから。
 …お前、メギドでマツカに会っているだろう?
 帽子、被っていなかったよな、マツカ?
「うん…。急いで走って落としたんでなければ、帽子は無しだよ」
 マツカ、被っていなかったもの。…帽子なんかは。
「ほら見ろ。マツカ程度の軍人でもだ、もう被ってはいなかったんだ」
 いいか、マツカでも帽子は無しだ。前のお前が出会った時の。
 あの時は、キースが転属させた直後だったんだぞ?
 それまでの人類統合軍から、国家騎士団の方へとな。…役に立つから。
 だが、転属は出来たとしたって、階級までは変わらない。何の功績も無いんだから。
 マツカも言わば下っ端なのにな、キースの使い走りをしていた程度の。
 後の時代の方はともかく、メギドの時には下っ端の内だ。



 ソレイドでキースに出会った時には世話係だった、とハーレイに聞かされなくても分かる。
 歴史を変える切っ掛けの一つになったマツカは、歴史の授業で習うから。キースとの出会いは、ジルベスター星系の事故調査に来た彼の世話係になったこと。
 其処でキースにミュウだと知られて、けれど命を救われたマツカ。
「…それじゃ、前のぼくが見た帽子の兵士…。ホントに下っ端だったんだ?」
 メンバーズ・エリートの世話係もさせて貰えないほど、うんと下っ端…。
「そういうことだな、警備兵レベルのヤツらばかりだ」
 配属されたばかりの新人がメギドに来るわけがないし、出世コースから転げ落ちたヤツら。
 こいつは駄目だ、とマザー・システムが見捨てたヤツらと言うべきか…。
 腕はそこそこ立つんだろうが、利口じゃないとか、射撃しか能が無いだとか。
 そいつらがソルジャー・ブルーを撃ったか、下っ端のくせに…!
「痛かったけど、血は出てないよ」
 ホントだってば、痛かっただけ。…ちゃんとマントが守ってくれたよ、弾からはね。
「お前の記憶、よく見せてみろ」
 撃たれた時のだ、帽子のヤツらに。
「でも…。ハーレイ、怒るよ」
 今だって怒っているじゃない。ぼくの記憶を見てしまったら、もっと怒るに決まってる…。
「いいから、俺に見せてくれ。…その時の記憶」
 お前のことは知っておきたいんだ、あの時、メギドで何があったか。
 聞いちまったら、気になるだろうが。
 お前がどんな思いをしたのか、どんな目に遭っていたのかと。…俺の知らない所でな。



 お前は戻って来なかったから、と鳶色の瞳に深い悲しみが揺れるから。知りたいと思う気持ちが痛いほど伝わって来るから、「其処だけでお願い」とハーレイに頼んだ。
「…後ろから撃たれた所だけ。ぼくが後ろを振り向くトコまで」
 他は見ないで、それならいい。
 其処しか見ないで終わりにするなら、ぼくの記憶を覗いてもいいよ。
「何故だ?」
 ほんの一瞬しか見せないだなんて、どうしてそういう注文をつける?
 お前の苦しさも辛さも痛みも、何もかも俺は見ておきたいのに。
「…もっとキースが嫌いになるから。今よりも、もっと」
 ハーレイ、悲しむに決まっているから…。他の所まで見ちゃったら。
 ぼくのサイオン、今は不器用になってしまって、遮蔽したくても出来ないんだよ。他の記憶を。
 だから、ハーレイが他のも見ようとするんだったら、見せられないよ。
 見ないって約束してくれるんなら、見てもいい。…ホントに、其処だけ。
「そういうことか…。お前が辛くなるんだな」
 見ちまった俺も辛くなるだろうが、それを見せちまったお前の方も。
 それなら、見ないと約束する。
 お前が辛い思いをするのは、俺だって御免蒙りたいしな。



 だが、其処だけは頼む、とハーレイが絡めて来た手。「お前の記憶を見せてくれ」と。
 ハーレイは約束してくれたのだし、意識して思い浮かべた記憶。撃たれた時の。ハーレイが息を飲むのが分かって、褐色の手が直ぐに離れていって。
「お前、これは…。血は出てなくても、相当キツイぞ」
 マントが弾を止めたか知らんが、背中に食い込む勢いじゃないか。
 くっきりと痕がついたんじゃないのか、お前の背中。肋骨にヒビも入ったかもな。
 俺でさえ痛いのが分かるんだ。記憶を覗き込んだだけでも。
「そうだと思うよ、倒れちゃってたでしょ?」
 背中から突き飛ばされたみたいな感じ。今のぼくなら気絶してるよ、あれだけで。
 メギドの制御室には辿り着けなくて、あの兵士たちに生け捕りにされてしまいそう…。
「まったくだ。今のお前なら、そうなるだろうな」
 前のお前でも、ダメージを受けた筈なのに…。起き上がるのも辛かったろうに。
 それなのに、無茶をしやがって…。
 あんな目に遭っても先に進んで、挙句にキースに撃たれちまって…。
「いいんだよ。…前のぼくの役目だったもの」
 ぼくしかメギドを止められないなら、頑張って進むしかないじゃない。倒れていないで。
「あんな下っ端に撃たれてもか?」
 キースならともかく、帽子を被っているようなヤツに。
「シールドを展開できなかった、ぼくが悪いんだよ」
 きちんとシールド出来ていたなら、撃たれたって弾は届かないんだし…。
 よく考えたら、それまでにも帽子の兵士に出会って、弾を止めては進んでたんだし。
「お前なあ…」
 自分のミスだと言い出す所が、お前らしいと言うべきか…。
 あいつらはキースが差し向けた兵士で、お前を殺すのが仕事だったというのにな…。



 何処まで人がいいんだか、とハーレイは呆れた顔だけれども。溜息も零しているけれど。
「とはいえ、あいつらは倒したんだな?」
 俺はお前に言われた通りに、振り向く所までしか見てはいないが…。
 お前が先に進めたんなら、あの兵士どもは倒して行ったということだよな…?
「そう…。相手をしている暇はないから」
 思い切り、サイオンをぶつけちゃった。手加減もせずに。
 可哀相にね、きっと死んじゃったと思う…。人類はシールド出来ないんだもの。
「お前の方がよっぽど可哀相だ!」
 殺すのが仕事の警備兵とは違うだろうが!
 前のお前は守るのが仕事で、そのためにメギドまで行って…。
 メギドを止めようとしていただけでだ、人類を殺そうとしたわけじゃない。
 そんなお前を撃つ方が酷い。
 ただでもフラフラの身体だっていうのに、背中から狙い撃ちをするなんてな。



 酷いヤツらに同情は要らん、とハーレイがまた怒り出しそうだから、「大丈夫」と止めた。もう過ぎ去った過去のことだし、メギドはとうに消え去ったから。
「平気だよ、ぼくは。…前のぼくじゃなくて、今のぼくはね」
 メギドはとっくに無くなっちゃったし、今はとっても平和な時代。
 宇宙の何処にも戦争は無くて、人類統合軍も国家騎士団も、どっちも何処にも無いんだから。
 軍人なんかは一人もいないよ、だからホントに大丈夫で平気。
 だけど、帽子で思い出すなんて…。あの時のことを。
 いきなり思い出しちゃったせいで、背中、とっても痛かったよ。…前のぼくよりマシだけど。
「とんだ目に遭ったな、きっと楽しく帽子を考えていたんだろうに」
 俺に会うなり、帽子の話を始めちまうほど。
 前の俺たちが生きた時代に、帽子ってヤツはあったのか、ってな。
「…いいんだってば、そっちだって」
 最初から兵隊さんの帽子だったし、ぼくは答えを貰っただけ。
「兵隊って…。なんでまた、帽子で兵隊なんだ?」
 何処からそういう話になるんだ、お前、いったい何をしたんだ?
「新聞に載っていたんだよ。今の時代の兵隊さんが」
 本物の兵隊さんじゃないけど、色々な軍服の人がいるでしょ、いろんな所に。警備員の人とか、観光ガイドの人だとか…。兵隊さんの格好の人。
 いろんな服があるんだよね、って見てたら、どれにも帽子がセット。
 人類統合軍とかの軍服の人もいるのかな、って考えていたら、そこから帽子になっちゃった。



 前のぼくが覚えていなかった帽子、と笑ってみせた。国家騎士団の帽子は忘れていた、と。
「それでね、兵隊さんには帽子がセットみたいだから…」
 人類軍に帽子が無かったんなら、帽子そのものが無かったのかな、って思ってたんだよ。
 軍服に帽子が無いくらいだから、あの時代は帽子が無かったかも、って。
「なるほどなあ…。今の時代の兵隊の帽子か」
 お前の言う通り、色々な軍服やセットになる帽子があるんだが…。
 あの軍服を本物の軍人が着ていた時代だったら、帽子ってヤツは被ってる方が偉いんだよな。
 前の俺たちの頃と違って。
「ホント?」
 被っている方が偉いって言うの、前のぼくたちの頃は、偉いと帽子無しなのに…。
 軍に入ったばかりの人とか、下っ端しか被っていなかったのに。
「それが昔は違ったんだな、SD体制が始まる前は」
 どのくらい前の時代までかは、俺も調べちゃいないんだが…。
 今あるような兵隊の服が、ちゃんと使われていた時代。その頃だったら、帽子は必ず被ってた。
 そして階級が上がっていったら、立派な帽子になっていくんだ。
 帽子についてるマークが別のヤツになるとか、帽子の形がまるで違うのになるだとか。



 時代は変わっていくってことだ、とハーレイが指した自分の頭。「帽子は大事だ」と。
 SD体制よりも前の時代の人間が見たら、人類統合軍や国家騎士団の軍人たちは誤解されると。
 帽子を被った下っ端の方が階級が上で、被っていなかった軍人たちより偉いんだ、と。
「なにしろ、帽子をしっかり被ってる上に、あの帽子…」
 地球の紋章が入ってたしなあ、軍に所属しているって印になるだろ?
 紋章入りの帽子を被れるわけだし、被っていないキースなんかよりも遥かに偉い軍人だ。
 軍人は帽子を被るもんだ、という時代に生きてた人間が見れば。
「へえ…!」
 凄いね、帽子があるか無いかで変わる所は同じだけれど…。
 被っている方が偉い時代もあったんだ…。今の時代の兵隊さんの服が本物だった頃には。
「価値観の違いと言うべきなのか…。面白いよな、帽子一つで」
 だからだ、お前も昔の人の考え方を取り入れておけ。
 前のお前を撃ったヤツらは下っ端じゃないと、偉かったんだと。
 キースなんかは帽子無しだし、話にならん。
 帽子を被った偉いヤツらとも戦ったんだ、と思えば少しは楽しいだろうが。



 偉い兵士どもを倒したんだし、と貰った慰め。「もう気にするな」と。下っ端の兵士に撃たれたことは不幸だけれども、過ぎたことだから考え方を変えるといい、と。
「俺の方でも、そう思っておくことにするかな。…腹が立った時は」
 キースの野郎、と頭に来たら、「帽子も被れない階級のくせに」と馬鹿にする、と。
 前のお前を撃ったヤツらも、思い出した時は「帽子を被った偉いヤツら」と考えれば…な。
 人生、気の持ちようってヤツが大切だから。
「じゃあ、ハーレイはそうするといいよ」
 ぼくはね、そんなの、どっちでもいい。今はとっても幸せだから。
 思い出しちゃったせいで背中が痛かったけれど、今は少しも痛くないから。
「そうなのか?」
 強いな、お前。…チビでも、やっぱりソルジャー・ブルーか…。
 前のお前のことに関しちゃ、前のお前になれるってことか。弱虫じゃなくて、強いお前に。
「ちょっとだけね。…ほんのちょっぴり」
 それに前のぼくだって、ホントはそんなに強くなかったよ?
 何度も泣いたの知っているでしょ、前のハーレイしか知らないけれど。…泣き虫だったことは。
 メギドでも泣きながら死んじゃったんだし、ホントに弱虫。
 帽子を被った兵士に撃たれたことだって、きっと、弱虫だから忘れちゃったんだよ。
 こんなに痛いのは嫌だ、って。…忘れちゃった方が痛くないよ、って…。



 兵士の帽子は、すっかり忘れていたけれど。思い出しさえしなかったけれど、前の自分が生きた時代にも帽子はあった。人類軍にも、人類の世界にも、シャングリラにも。
 背中が痛かったのは嫌だけれども、帽子の記憶が戻って来たから。
「えっとね…。前のぼくはハーレイの帽子を見ていないから…」
 いつか見たいよ、帽子を被ったハーレイを。…あの時代に見られる筈だったヤツを。
「あの時代って…。キャプテンの制服に帽子なんかは無かったぞ?」
 セットで作った帽子がちゃんとあったのに、俺が被らずに放っていたなら、話は分かる。
 丈の長いマントを持っていたくせに、一度も使わなかったというのが前の俺なんだからな。
 放っておいたキャプテンの帽子があってだ、そいつを被った俺を見たいのなら分かるんだが…。
 そういう帽子は無かった筈だぞ、俺の記憶は其処までぼやけちゃいないってな。
「キャプテンのじゃなくて、厨房のだよ」
 厨房には帽子があったけれども、ハーレイが厨房の責任者だった頃には無かったから…。
 もしもあの頃に厨房用の帽子があったら、ハーレイ、被った筈なんだから。
「うーむ…。俺にそいつを被れってか?」
 今の時代も売っているしな、あの頃のと変わらない帽子。
 それを買って来て、家で被って、キッチンで料理をしろと言うのか…?
「ハーレイ、似合うと思わない?」
 ああいう帽子も、ハーレイに。
 きっと絵になると思うんだけどな、おんなじように料理をしてても、帽子があれば。
「…まるで嫌いでもないけどな。料理人の帽子」
 前の俺たちの頃と同じタイプの帽子も好きだし、今の時代ならではのヤツも好きだぞ。
 寿司職人とかが被っているヤツ、あれもなかなか粋だろうが。
 料理しながら、ちょいと被りたい気になる日だってあるもんだ。料理人の帽子。
「やっぱり…!」
 今のハーレイも、料理は得意なんだもの。前よりも色々な料理を作れるんだし、ああいう帽子を被る資格はあると思うよ、絶対に。
 帽子が無い方が偉い軍人の時代もあったし、帽子、無しでもいいんだけれど…。
 頭に帽子を被ってなくても、凄い腕前の料理人かもしれないけれど。
 被って欲しいな、前のぼくは見られなかったから。…ハーレイの頭に、厨房の帽子。



 いつかハーレイに被って欲しいと思い始めた、料理人の帽子。
 シャングリラで厨房の者たちが被った、今の時代もある真っ白な帽子。どうせだったら、厨房の最高責任者。一目でそうだと分かるのがいい、あれをハーレイに被って欲しい。
 懐かしく思い出したから。
(ハーレイがあのまま厨房にいたら、あの帽子、被ったんだもの…)
 そうでなければ、もっと早くに厨房用の白い帽子が出来ていたとか。
 前の自分は見損ねた帽子、ハーレイが被る料理人の帽子。それを見られたら、きっと幸せ。
(ホントに被って欲しいな、帽子…)
 板前さんとか寿司職人のも似合いそうだよ、と広がる夢。見てみたいよね、と。
 新聞で眺めた兵士の帽子は、怖い思い出を連れて来たけれど、幸せな記憶も拾ったから。
「ハーレイ、帽子、被ってくれない?」
 シャングリラにも帽子はあったんだもの。…厨房の帽子で、ハーレイは被り損なっただけ。
 時期がズレてたら被れた筈だよ、でなきゃキャプテンになってないとか。
 ホントに見たいな、ハーレイがああいう帽子を被って料理する所を。
「料理人の帽子か…。一応、考えておくとするかな」
 お前、本気で見たいようだし…。俺も被りたい気持ちはあるし。
 そうだ、帽子の話の切っ掛けになった兵隊の帽子。…そいつも俺と見に行くか?
 色々な所で見られるからなあ、衛兵交代式とかな。城じゃなくって博物館とか美術館だが。
「そっちも見たいよ、いろんなのを」
 あちこち旅して、兵隊さんを見て、ついでに名物料理も沢山。
 好き嫌いを探しに旅をしながら、兵隊さんの服も一杯見ようね、写真も撮って。



 美味しい料理を見付けた時には、作り方を覚えて再現してね、と強請ったら。
 「任せておけ」と頼もしい返事が返って来たから、料理人の帽子も被って欲しい。
 いつか二人で暮らし始めたら、ハーレイの頭に真っ白な帽子。
 シャングリラの厨房にあった料理人の帽子で、最高責任者の印の帽子。
 それを見ながら、素敵な料理が出来るのを待つ。
 今は平和な時代だから。飾り物の兵隊の頭に帽子があるのは、当たり前の時代なのだから。
 前の自分たちが生きた頃には、帽子は無いのが偉かったけれど。
 帽子を被った兵士がいたなら、下っ端だった時代だけれど。
 それに出会って酷い目に遭って、けれども今では、幸せな自分。
 ハーレイと二人で地球に来たから。
 青い地球の上に生まれ変わって、いつまでも、何処までも、一緒に歩いてゆけるのだから…。




           兵士の帽子・了


※前のブルーをメギドで背中から撃った、帽子を被った兵士。あの時代の帽子は下っ端のもの。
 時代が変わると、帽子も変わってゆくのです。昔なら、帽子を被っていないキースは下っ端。
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(本物そっくり…)
 凄い、とブルーが眺めた写真。学校から帰って、おやつの時間に。
 新聞に載っていた工芸菓子。お菓子で出来た花や建物の写真が幾つも。見事に咲き誇る華やかな牡丹、枝を大きく広げた松の木。遠い昔の日本のお城も、生きているような鳥だって。
(これって日本の文化なんだ…)
 遥かな昔に、この辺りにあった小さな島国。其処で生まれた工芸菓子。花鳥風月を描き出そうと作り始められて、材料はお菓子に使うものばかり。
(最初は和菓子で…)
 職人たちが技を競っていたという。店に飾ったり、コンクールをしたり。
 日本に外国の菓子が広まるようになったら、そういう菓子でも作り始めた日本人。外国のお城や建物なんかを、同じ技法で再現して。
 けれど日本の文化だったから、前の自分が生きた頃には無かったらしい。多様な文化は消されてしまった、マザー・システムが統治した時代。例外ではなかった工芸菓子。
 小さな島国だった日本が、世界に誇った菓子だったのに。世界中で称賛されたのに。
 他の国では、お菓子で何かを作ると言ったら、せいぜいシュガークラフトくらい。砂糖を固めて色々な飾りを作ったけれども、あくまでお菓子の飾り付け。ケーキを綺麗に見せるだとか。
 本物そっくりの花や鳥などを作り出そうとはしなかった。シュガークラフトは添え物だから。
 お菓子で出来た建物だったら、ヘクセンハウス。その程度だった、と書かれた記事。



 日本で生まれた工芸菓子は、今の時代に復活を遂げた。新聞の写真は、最新作の工芸菓子たち。今の自分が暮らす地域で、作り出される工芸菓子。見事な牡丹も、鳥や昔の日本のお城も。
 他の地域では、相変わらずシュガークラフトだという。そうでなければヘクセンハウス。
(ヘクセンハウス…)
 そっちの写真もちゃんと載っていた。屋根も壁も全部、お菓子で作られた食べられる家。
 ヘクセンハウスは「お菓子の家」という意味の言葉ではないけれど。「魔女の家」を指す言葉、お菓子とは結び付かないイメージ。
 それもその筈、グリム童話からつけられた名前で、クリスマスのお菓子。レープクーヘンだとかジンジャーブレッド、クッキーに似たお菓子で組み立てる家がヘクセンハウス。
(クリスマスの話じゃないと思うけど…)
 元になった童話は、子供の頃に何度も読んだ。「ヘンゼルとグレーテル」、お菓子で出来た家を見付ける子供たちの話。森にイチゴを摘みに出掛けて。
 クリスマスの頃は寒いのだから、森にも雪が積もっている筈。イチゴ摘みには行けないと思う。どう考えても、暖かな季節の物語。でも…。
(怖いお話だったよね?)
 お菓子の家は、魔女が作った家だった。美味しそう、と食べた子供たちは魔女に捕まり、魔女の食事にされる運命。「太らせてから食べることにしよう」と。
 魔女は子供たちをどう料理するか、あれこれ考えていたのだけれど。
 子供たちは魔女を竈に投げ込んで退治した。魔女が子供たちを料理しようとしていた竈に。
 ハッピーエンドの物語。無事に逃げられた、幼い兄妹。



 やっぱりクリスマスの話じゃなさそう、と考え込んだ「ヘンゼルとグレーテル」。イチゴ摘みは冬に出来はしないし、家に帰った子供たちがクリスマスを祝ったわけでもなかったと思う。
 なんとも不思議だ、と眺めたヘクセンハウスの写真。これがクリスマスのお菓子だなんて、と。
(きっと子供が喜ぶからだよ)
 お菓子で出来た家を貰ったら、クリスマスがグンと楽しくなるから。
 クリスマスの日が早く来ないかと、ヘクセンハウスを家に飾って待つのだろう。長持ちしそうな材料なのだし、きっと早めに買って貰って。
 お菓子の家は素敵だから。怖い魔女さえ住んでいなければ、本当に夢の家だから。
(えーっと…?)
 食べられるお菓子で出来ている家。屋根も壁も全部食べられる家。白い粉砂糖の雪で飾ったり、色とりどりのチョコレート菓子を鏤めたりと。
 前の自分も知っていたような気がして来た。この美味しそうなお菓子の家を。
(…前のぼく…)
 お菓子の家に憧れたろうか。ヘクセンハウスを夢見た時代があったのだろうか?
 新聞の写真のヘクセンハウスは、可愛らしくて美味しそうだけれど。今の自分も、クリスマスの頃に見掛けたことがあるけれど。



 どうだったろう、と考えながら帰った部屋。おやつのケーキを食べ終えた後で。
(お菓子の家…)
 前の自分も欲しかったかな、と思うけれども、相手はお菓子の家だから。
 ヘクセンハウスも、「ヘンゼルとグレーテル」に出て来る魔女が作ったお菓子の家も、お菓子で作り上げられた家。甘いお菓子で出来ている家、子供が好きそうな夢の家。
(そんな夢より…)
 目の前の現実が問題だった。
 シャングリラだけが世界の全てで、船の中で食べてゆかねばならない。白い鯨が完成する前は、人類の船から奪った食料。それが無ければ、皆が飢え死にしてしまうから。
 そんな船では、お菓子の家を探しに出掛けるどころではなかった。ヘクセンハウスを探すような暇があるのだったら、少しでも多く食料を奪って帰ること。
 ヘクセンハウスを知っていたって、前の自分は探しに行かない。奪いはしない。
(前のハーレイだって…)
 厨房にいた頃は、色々と作っていたのだけれども、ヘクセンハウスを作ってはいない。お菓子の家を作る所は見ていない。
(でも…)
 知っていたように思えるヘクセンハウス。お菓子で出来た、食べられる家。
 前の自分は奪っただろうか、人類の船からヘクセンハウスを?



 けれど、探そうとはしなかった筈。あれが欲しい、と宇宙を駆けてはいない筈だし…。
(んーと…?)
 もしも本物を見たと言うなら、きっと紛れていた物資。ヘクセンハウスを奪うつもりは無くて、たまたま紛れ込んだだけ。
 そちらの方に違いない、と遠い記憶を辿って行ったら…。
(あった…!)
 見付けた、と探り当てた古い古い記憶。前の自分が奪った物資の中にヘクセンハウス。
(一つだけ混ざっていたんだっけ…)
 時期は忘れてしまったけれども、クリスマスが近かった頃なのだろう。ヒルマンが皆に説明していたから。「今の季節のものなのだよ」と。
 レープクーヘンで出来たお菓子の家。粉砂糖の白い雪を被って、アイシングなどで飾られた家。
 たった一つだけのヘクセンハウスは、暫く船に飾ってあった。皆が集まる食堂に。



 「お菓子の家だ」と、誰もが見ていたヘクセンハウス。いつかは分けて食べるのだろう、と前の自分も眺めていた。船の仲間で分け合ったならば、一人分は小さな欠片だろうけれど。
(屋根とか、壁とか…)
 そういった場所の一部分。運が良ければ、綺麗なアイシングがついているかもしれない。欠片と一緒に、ほんの少しだけ。淡いピンクだとか、水色だとか。
 きっとそうだ、と思っていたのに、ヘクセンハウスを飾っておく時期が終わった時。
「あんたが貰っておくといいよ」
 これの季節は過ぎたんだから、とブラウたちが掛けてくれた声。「持って行きな」と。
「…なんで?」
 みんなで分けて食べればいいのに、とキョトンとしたら。
「だって、あんたは子供じゃないか」
 こういうモノも大切だよ、とブラウが渡してくれたヘクセンハウス。ヒルマンもエラも、ゼルもハーレイも、他の仲間たちも微笑んでいた。「他に子供はいないから」と。
 前の自分は誰よりも年上だったけれども、姿も心も子供のまま。長く成長を止めていたせいで。
 だから船では子供扱い、ヘクセンハウスが貰えたほどに。



 ほら、と渡されたヘクセンハウス。自分だけのためのお菓子の家。
(凄く嬉しくって…)
 心が弾んだ。食堂に来る度に見ていたヘクセンハウスが、丸ごと自分のものだなんて、と。
 それに、クリスマスに飾るお菓子の家。記憶は残っていなかったけれど、養父母と過ごした家にいた頃は、持っていたかもしれないから。お菓子で出来た、食べられる家を。
 養父母と一緒に食べただろうか、それとも一人で少しずつか。
 きっと幸せだっただろう。お菓子の家を見ていた間も、それを食べる時も。
 他の仲間たちも、食べたかもしれないお菓子の家。記憶に無いだけで、養父母の家で。お菓子の家はクリスマスのもので、現にこうしてヘクセンハウス。一個だけしか無いけれど。
(ぼくが一人で食べるよりかは…)
 みんなで分けた方がいいよね、と思った自分。嬉しいけれども、一人占めは駄目、と。
 けれど、遠慮したエラやブラウたち。他の仲間たちも、揃って言った。「子供用だよ」と。
 誰も欲しがらずに、譲ってくれたヘクセンハウス。一つだけだったお菓子の家。
 貰って帰って、部屋に飾って、とても幸せな気分になって。
(ぼくのなんだけど…)
 一人で食べるのはもったいなくて、ハーレイを部屋に呼んだのだった。ぼくと一緒にハーレイも食べて、と。一人よりも二人の方がいいから。ハーレイは一番の友達だから。



 そうだったっけ、と蘇った記憶。前の自分のお菓子の家。
(懐かしいな…)
 シャングリラで持っていたんだよね、と遠い思い出に浸っていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、早速尋ねた。テーブルを挟んで向かい合わせで。
「ねえ、ハーレイ。ヘクセンハウスって知っている?」
 魔女の家っていう名前のお菓子の家。クッキーみたいなお菓子で出来てるヤツ。
「たまに見るなあ、クリスマスの頃に」
 菓子を売ってる店に行ったら飾ってあったり、売られてたりな。
「あれ、シャングリラで食べたっけね」
「はあ?」
 シャングリラでヘクセンハウスって…。あったか、そんなの?
「あったよ、ぼくとハーレイしか食べてないけど」
 ヘクセンハウス、一つだけしか無かったから…。みんなの分は無かったから。
 前のぼくだけ子供だったから、貰えることになっちゃって…。
 貰って帰ったけど、一人で食べるの、もったいないでしょ?
 だからハーレイを呼んだんだよ。二人で食べよう、って。
「そういや、あったなあ…。一つだけだったが」
 食堂に飾ってあったんだ。クリスマスの季節の菓子なんだ、とヒルマンが説明してくれて…。
 飾った後は、皆で相談して、お前に贈ってやったんだった。子供が貰うべきだから、と。
 せっかくプレゼントしたっていうのに、お前と来たら…。



 俺を呼び出したんだった、とハーレイは肩を竦めてみせた。「あれはお前のだったのに」と。
「お前が少しずつ食えばいいだろ、って言っても聞きやしないんだ」
 一人より二人の方がいいとか、一人で食べるには多すぎるだとか…。
 俺が断り続けていたら、「いつか料理の役に立つよ」と来たもんだ。
 それを言われたら断れないよな、あの頃の俺は厨房担当だしな?
「だって…。ハーレイにも食べて欲しかったんだもの…」
 前のぼくの一番の友達だったよ、だからハーレイ。一緒に食べるなら、ハーレイが一番。
 そう思ったからハーレイを呼んだ、と微笑み掛けた。生まれ変わって、また巡り会えた恋人に。
 ヘクセンハウスを食べた頃には、まだ恋人ではなかったけれど。一番の友達だったのだけれど。
 二人で分けて、大切に食べたヘクセンハウス。
 船での一日が終わった後に、「今日は屋根の部分を少しだけ」とか、そんな具合に。
 お菓子の家は少しずつ減って、最後に残った土台の部分のレープクーヘン。
 それも何度かに分けて味わって食べて、一番最後のをハーレイが二つにパキンと割って…。
「デカい方をやると言っているのに、お前、そいつを俺に寄越すんだ」
 食べて、って譲らないんだよなあ、あれはお前のだったのに。…ヘクセンハウス。
「ハーレイの方が大きいんだもの。ぼくよりもずっと」
 身体が大きい分、お菓子にしたって大きい方を食べるべきでしょ?
 食事だっていつも、ハーレイの方が沢山食べていたんだもの。



 栄養をつけるには食事もお菓子もたっぷり食べなきゃ、と笑顔で言ったら、「今のお前もな」と返された。「食べないと大きくなれないだろうが」と。
「急いで育たなくてもいいが…。ゆっくり大きくなればいいんだが、食わなきゃ駄目だ」
 でないと大きくなれないからなあ、チビのままで。
 前のお前は少しずつでも育っていたから、あの時の俺は、デカい方のを貰うことにしたが…。
 同じことを今のお前が言ったら、「お前が食え」と突っ返すな。お前、チビだし。
 しかしだ、あの時、デカいのを分けて貰っていたのに、料理の役には立たなかったな。
「…ハーレイ、キャプテンになっちゃったしね」
 ヘクセンハウスを参考にした料理を作るよりも前に、厨房、出て行っちゃったから…。
 それっきりだよね、あれの出番は無くなっちゃった。
「まったくだ。今日はコレだ、と食べていく時に、俺は研究してたのに…」
 家を分解していくんだから、こう壁があって、こう屋根で、と。
 食ってる時にも、接着剤になっているのは何だろうな、と舐めてみたんだぞ。
 菓子の家なら甘い砂糖でくっつくようだが、他の材料で何かを組み立てるなら…、と考えたりもしていたな。何の料理に使えるだろう、と。
 ところが、俺を待っていたのは、料理の代わりにキャプテンという仕事だった、と。
「そうだよねえ…」
 ぼくも想像していなかったよ、ハーレイがキャプテンになるなんて。
 でもね、キャプテンになってくれて良かった。…ハーレイがキャプテンだったから、前のぼくは安心してられたんだよ。どんな時でも。
 それに…。



 どうせシャングリラにヘクセンハウスは無かったから、と口にしかけたら掠めた記憶。違う、と頭の端っこを、スイと。
「あれ…?」
「どうした?」
 目を真ん丸にしちまって。何かとんでもないことでも思い出したのか?
 俺がキャプテンだったばかりに、お前が損をしちまっただとか、そういう記憶。
「ううん、そうじゃなくて…。ハーレイじゃなくて、ヘクセンハウス」
 あったような気がするんだよ。シャングリラには無かったよね、って言おうとしたのに…。
 それは違う、って前のぼくの記憶が引っ掛かるから…。
「ヘクセンハウスって…。シャングリラでか?」
 あの船のクリスマスに、そんな余裕があったってか?
 本物のワインの出番でさえもだ、クリスマスではなかったんだが…。
 新年を祝うイベントの時に乾杯しててだ、クリスマスの方はもっと地味でだな…。
「そうなんだけど…。だけど、ヘクセンハウスだから…」
 クリスマスじゃないかと思うんだよね、どうだっただろう…?
 そうだ、あったよ、子供たちのために。
 お菓子の家は夢が一杯だもの、と遠い記憶を探り当てた所で気が付いた。
(ヘクセンハウス…)
 名前通りのお菓子の家、という記憶。ヘクセンハウスは魔女の家だった、と。
 前の自分が貰った時には、甘いお菓子の家だったけれど。飾って眺めてハーレイと食べた、甘い思い出の家なのだけれど。



 白いシャングリラのヘクセンハウスは違っていた、と時の彼方から戻った記憶。船の子供たちがクリスマスに作っていたけれど…。
「ハーレイ、シャングリラにあったヘクセンハウス…」
 思い出したよ、クリスマスだけじゃなかったよ。いつもあったよ、一年中。
 どんな季節でも、出番が来た時はヘクセンハウスだったんだよ。
「なんだって?」
 クリスマス以外のいつに出番があると言うんだ、ヘクセンハウス。
 あれの出番はクリスマスだろうが、前の俺たちが生きてた時代も、今も。
「そうだけど…。でも、シャングリラでは違ったよ」
 アルテメシアから救出して来た子供たち…。
 みんなじゃないけど、あの子供たちが作っていたよ。お菓子の家を。
 甘いお菓子で出来ているけど、魔女の家。…名前のまんまのヘクセンハウス。
「アレか…!」
 あったな、そういうやり方が…。
 救い出して来た子供たちの中には、怯えちまってた子供もいたから…。
 船には慣れても、怖い目に遭ったことが忘れられないままの子供だ。夜中に飛び起きて、怖いと叫んで泣き始めるとか、そんな子供が作ってたっけな。…ヘクセンハウスを。



 アルテメシアから救い出されて来た子供たち。ユニバーサルに通報されて、ミュウだとバレて。
 余裕を持って助け出せた子は、養父母や家を恋しがる程度だったけれども、そうではない子。
 撃ち殺される寸前に救助された子や、泣きながら逃げて走った子たち。
 心に傷を負った子供は、傷が癒えるのに時間がかかった。夜中に突然泣き叫んだり、暗い部屋が怖くて眠れなかったり。
 怯える子たちを癒すためにと、ヒルマンが色々とケアをしていた。遊んでやったり、同じ部屋で一緒に眠ったりと。
 その一環で生まれて来たのがヘクセンハウス。
 白い鯨ではなかった時代に一度だけ船にあったお蔭で、ヒルマンが思い付いたお菓子の家作り。
「忘れちまってたな、ヒルマンが何度もやっているのを見てたのに…」
 ヘンゼルとグレーテルの話で始まるんだっけな、「昔々…」と。
「そう。怖い話だけど、よく聞きなさい、って」
 魔女を退治するお話をしてあげていたよ、お菓子の家の話もね。
 お菓子の家はとっても美味しいけれども、其処には悪い魔女が住んでいるんだ、って。
 話が終わったら、「悪い魔女に会ってしまっただろう?」って、子供たちに訊いて…。
 悪い魔女はマザー・システムだから、って教えるんだよ、魔女の正体。
 子供たちは魔女から上手く逃げたし、もう悪い魔女は来ないから、って安心させて…。
「無事に逃げられた記念に作ってみよう、というのがヘクセンハウスだったな」
 お菓子の家を作り始めたら、子供たちには目標が出来るし…。
 甘いお菓子の家と一緒に、悪い魔女の思い出も食べてしまえばいいんだからな。
「そうなんだよね…」
 魔女を竈に投げ込む代わりに、お菓子の家ごと食べちゃうんだよ。
 美味しくモグモグ食べてしまったら、もう魔女が住む家は無いんだから。
 外の世界には魔女がいたって、シャングリラにはもう住めないものね。



 子供たちを襲った悪い魔女。食べようとしていたマザー・システム。
 恐ろしい思い出を消してやろうと、ヒルマンは子供たちにヘクセンハウスを作らせた。お菓子で出来た魔女の家を。それを食べれば魔女の家はもう何処にも無いから、と。
「こんな家がいいな、っていう絵を描くトコから始まってたよ」
 子供たちの理想のお菓子の家。…あったら食べてみたくなるような家。
 こういう形で、こんな風に飾りがついていて、って。…ヒルマンが好きに絵を描かせて。
 お気に入りの家が描き上がるまで、何枚描いてもかまわないから、って。
「理想のお菓子の家が描けたら、厨房で作ってくれるんだっけな、そのパーツを」
 屋根も壁も窓も、そっくりそのままになるように。
 ヒルマンが子供たちの絵を元にして作った、設計図。そいつを持ってって注文するんだ。
 「こういう形で作ってくれ」とな。
 後は厨房のヤツらの仕事で、壁を作って窓を開けたり、色々と…。
 出来上がったら、ヒルマンが子供に渡すんだ。「お菓子の家の材料が揃ったよ」と。
「アイシングとかも一緒にね」
 それを子供たちが自分で組み立てて…。難しい所はヒルマンが手伝ってあげて、出来上がったら飾りもつけて。屋根に雪とか、壁に模様とか。
「完成したら食うんだっけな、悪い魔女の家を」
 そういう風に教わってたのに、子供たちと来たら、直ぐには食えないんだ。
 頑張って作ったお菓子の家だし、自分の理想の家だっただけに、うんと美味そうな出来だから。
「どの子もヒルマンに訊いちゃうんだよね、「暫く飾っておいてもいい?」って」
 やっと出来たから、部屋に飾っておきたいんだけど、って。
 それで「いいよ」って言って貰って、飾っている内にだんだん食べたくなって…。
 屋根の端っことかを少し齧ったら、美味しくて止まらなくなっちゃうんだよね。



 悪い魔女の家を食べてしまおう、とヒルマンに勧められて子供たちが作ったヘクセンハウス。
 なのに、魔女の家が立派に出来上がったら、直ぐには食べなかった子供たち。食べてしまうのが惜しくなって。飾って眺めていたいと思って。
 けれども、その内にしたくなる味見。ちょっぴり齧れば、途端に美味しいお菓子の虜。気付けばすっかり食べてしまっていて、消えてしまった魔女の家。心の傷もお菓子の家と一緒に消えた。
 そんな理由で、白いシャングリラにあったヘクセンハウス。
 心に傷を負ってしまった子供が来たなら、クリスマスではない季節でも。
「あの子供たちが、クリスマスに作っていたんだよ」
 ちゃんと絵を描いたら作れるんだ、って知っているから、クリスマスにはヘクセンハウス。
 船に来た時に作ってない子も、面白そうだから作りたがって…。
 それで何人もの子が作ってたよ、お菓子の家を。
 ヒルマンも厨房も大忙しだよ、注文の数だけお菓子を焼いたり、家の設計図を作ったり。
 誰よりも先に研究していた、ハーレイは手伝えなかったけれど…。
 最初のヘクセンハウスの分解と研究、ハーレイがやっていたのにね。
「仕方ないよな、キャプテンではなあ…」
 俺の所に注文は来ないぞ、「こういう風に作ってくれ」とは。
 ブリッジで菓子を焼けはしないし、アイシングだって作れやしないんだからな。



 一番最初のヘクセンハウスを分解していた、キャプテン・ハーレイ。
 まだキャプテンという肩書きは無くて、厨房の最高責任者。いつか料理の役に立つかと、重ねたヘクセンハウスの研究。接着剤は甘い砂糖だとか、これを生かせる料理はあるだろうか、とか。
 けれど、シャングリラにヘクセンハウスが再び現れた時は、過去になっていた厨房時代。
 キャプテン・ハーレイの出番は来なくて、お菓子の家作りは厨房のスタッフの仕事。
 「俺の研究は何の役にも立たなかったな」と、ハーレイは嘆いていたけれど。
「待てよ…?」
 ちょっと待てよ、と鳶色の瞳が瞬きするから。
「どうかしたの、ハーレイ?」
 もしかして、厨房でアドバイスしてた?
 一番最初に研究してたし、「此処はこうしろ」とか言いに行ったの…?
「アドバイスじゃないな、作ったぞ、俺も」
「え?」
 ハーレイ、作りたくなっちゃったわけ?
 後から始めた厨房のみんなが、幾つも作っていくんだから…。悔しくなって作ったとか?
「そうじゃなくてだ、前のお前が原因だ」
 お前に強請られて、何回か…。
 ヘクセンハウスが作られるようになった後だな、クリスマスにはコレなんだ、と。
 もう一度欲しい、と前のお前が言い出したんだ。
 ずっと昔にヘクセンハウスを持っていたから、もう一度あれを食べてみたい、とな。
「そういえば…」
 お願いしたっけ、前のハーレイに…。
 どんなのでもいいから、ヘクセンハウスが欲しいんだけど、って。
 子供たちの誰かが頼んだヤツと同じでいいから、ぼくにも一つ作って貰って、って…。



 前の自分がハーレイに強請ったヘクセンハウス。白いシャングリラで作られたお菓子の家。
 ヒルマンが始めた子供たちの治療は、前の自分も知っていた。ずっと昔に自分が貰った、素敵な甘いお菓子の家。あれを参考に始めた治療方法だ、と。
(いい方法だよね、って見てたんだけどな…)
 子供たちがお菓子の家を作る所も、何度も眺めに出掛けたくらい。クリスマスの時はもちろん、治療のためのヘクセンハウスも。
 なにしろ、立場はソルジャーだから。子供たちを悪い魔女から、守る力を持っていたから。
 「ぼくがいるから大丈夫だよ」と、何度も声を掛けてやった子供たち。「魔女は来ないよ」と。
 「でも、魔女の家を食べてしまうのも大切だよね」と、子供たちの手元を覗いていた。
 どんな言葉よりも、子供たち自身が納得するのが一番だから。「魔女は来ない」と。
 微笑ましく見ていたヘクセンハウス。
 子供たちの理想の家の形は、本当に色々だったから。描く絵も、それを元にして出来たお菓子の家も。夢の数だけ、ヘクセンハウス。甘くて美味しいお菓子の家。
 クリスマスになれば、ヘクセンハウスが幾つも出来る。
 作りたいと言い出した子供の数だけ、子供たちの甘い夢の数だけ。
 とても素敵だと、いい習慣だと、前の自分はヘクセンハウスを見守っていた筈なのに…。



 白いシャングリラで、一番の友達から恋人になっていたハーレイ。
 キスを交わして、愛を交わして、幸せな時を過ごす間に、ふと思い出したヘクセンハウス。友達だった頃に二人で食べたと、ハーレイと二人きりだった、と。
(一つだけだったのを、二人で分けて…)
 何日もかけて、味わって食べたヘクセンハウス。あれをもう一度食べたくなった。甘いお菓子で出来ている家を、友達とではなくて、恋人と。
 友達と食べても美味しかったのだし、恋をしている人と食べたら、どんなに甘いことだろう。
 二人で仲良く分けて食べたら、どれほど甘く感じるだろう。
(そう思ったから…)
 クリスマスに二人で分けて食べたい、とハーレイに強請ったのだった。クリスマスのためにと、お菓子の家作りが始まる頃に。船の子供たちが張り切る季節に。
「ハーレイ、お願いがあるんだけれど…」
 ぼくもヘクセンハウスを一つ貰えるよう、厨房に頼んでくれないかな?
 食べたくなった、と言ってくれればそれでいいから。
 君と一緒に食べてみたいんだよ、一番最初のヘクセンハウスを君と二人で食べただろう?
 あの頃みたいに、二人で分けて。
 友達同士で食べていたって、甘くて美味しかったから…。
 今なら、もっと美味しいと思う。ずっと甘いと思わないかい、恋人同士で分けて食べたら。
「…あなたと、ヘクセンハウスをですか…」
 それは素敵な思い付きですね、私も食べたくなって来ました。
 あなたと二人で分けるのでしたら、作ってみようかと思います。…私の手で。
 あの時、研究していましたしね、どういう風に作るのかと。
 せっかくですから、やってみますよ。
 ソルジャーの御注文の品を作っている、と言えば大丈夫でしょうから。



 私が厨房に出掛けて行っても平気ですよ、とハーレイがパチンと瞑った片目。
 「普段から、野菜スープを何度も作っていますからね」と。
 寝込んだ時には、作って貰った野菜のスープ。あれだけはハーレイが作っていたから、お菓子の家を作る話も、厨房の者たちは疑問に思いはしなかった。
 白いシャングリラでは、馴染みになっていたヘクセンハウス。
 それをソルジャーが食べたがるのだし、キャプテンが注文を受けることだってあるだろう、と。
 前のハーレイは、本当に作って来てくれた。しかも…。
「如何ですか、ブルー?」
 細かい所は、あまり自信が無いのですが…。あの時のを再現してみましたよ。
 あなたが私に分けて下さった、ヘクセンハウス。こういう風ではなかったかと…。
 どうでしょうか、と差し出された甘いお菓子の家。それは記憶の中のとそっくりだったから。
「…あの時の家だ…」
 君と一緒に食べた家だよ、屋根も壁も窓も、何処もそっくり…。
 屋根の雪だって、あの家と同じ。あれを作ってくれたんだ…?
「味はどうだか分かりませんが…。船では材料が限られますし」
 けれども、形は出来るだけ似せたつもりです。
 あの家とそっくり同じの方が、違いが分かるかと思いまして…。あの頃と、今と。
「そう思うよ、ぼくも。…一緒に食べた時の違いは、この方がずっと…」
 分かる筈だよ、友達だった頃と今との違い。
 ありがとう、ハーレイ、あれと同じのを作ってくれて。
 早く食べたいな、あの時みたいに二人で分けて。屋根も壁も、それから土台も全部。
 でも、その前に飾らないとね。…クリスマスの季節が終わるまでは、此処に。
 あの時もクリスマスが終わった後に、ぼくだけが貰えた家なんだしね。



 だから暫くは我慢しないと…、と飾っておいたヘクセンハウス。青の間に、そっと。
 早く食べたいと思う気持ちと、「ハーレイが作ってくれたんだから」と取っておきたい気持ち。
 まるで「魔女の家を食べてしまおう」とヒルマンに勧められた子供のよう。
 食べたいけれども、飾りたい。眺めたいけれど、やっぱり食べたい。
 揺れ動く心は浮き立つようで、ハーレイと何度もキスを交わした。それが飾ってあった間に。
 やがてクリスマスの季節が終わって、二人で食べたヘクセンハウス。
 遠い昔を思い返しながら、あの時と同じに少しずつ分けて。それを食べては、キスを交わして。
(ホントに、とっても甘かったんだよ…)
 記憶にあるより、ずっと甘いと思いながら食べたヘクセンハウス。恋人同士で分けて食べたら、友達同士で食べた時より甘かった。同じものとは思えないほどに。
 ハーレイの感想も自分と同じで、「甘いですね」と貰ったキス。
 「あなたのお蔭で、素敵なものが食べられました」と、「ヘクセンハウスも作れましたよ」と。
 だから、それからも何度か強請った。
 クリスマスの季節が近付いて来たら、「ヘクセンハウスが食べたい」と。
 前に食べたのと同じのがいいと、「あれは君しか作れないよね」と。
 一番最初のヘクセンハウスは、ハーレイしか研究していないから。それと同じのを、ハーレイと二人でまた食べたいから。
 友達同士で食べた頃より、遥かに甘いお菓子の家を。
 恋人と二人で分けて食べたら、とろけそうな甘さのヘクセンハウスを。



 前のハーレイは何度も作ってくれたんだっけ、と思い出した甘いお菓子の家。
 白いシャングリラでハーレイと食べた、あの懐かしいヘクセンハウス。
「そっか…。ハーレイにお願いしてたんだっけね、あれが食べたい、って」
 ぼくも食べたいな、ヘクセンハウス。…ハーレイと二人で、お菓子の家。
「今のお前にはまだ早いってな」
 ヘクセンハウスも、俺と二人で食べるのも。
「なんで?」
 友達同士で食べてたじゃない、だから今でも大丈夫だよ?
 クリスマスの季節しか駄目だけれども、またハーレイと食べてみたいよ。
「お前が思い出す前だったんなら、かまわんが…」
 ついでに、友達同士で食べたことしか覚えてなければ、ヘクセンハウスも悪くないんだが…。
 生憎と、すっかり思い出したし、駄目だな、これは。
 恋人同士で食べると甘い、という味の方は、今のお前じゃ話にならん。
 お前、俺とはキスも出来ないチビだしな?
 俺と食っても、あの時みたいに甘くはないに決まっているだろ。
「えーっ!」
 酷いよ、ハーレイ、友達同士で食べるのも駄目?
 ホントに駄目なの、ヘクセンハウスは買ったヤツでもかまわないから…!
 ハーレイが作ったヤツでなくてもいいから、お願い、ぼくと一緒に食べて…!



 お願い、と何度頭を下げても、ハーレイは「知らんな」と鼻で笑うだけ。
 「もっと大きくなってからだな」と、「チビのお前と食う趣味は無い」と。
 今は一緒に食べて貰えないらしい、ヘクセンハウス。
 恋人同士で分けて食べたら、友達同士よりも甘くて素敵なお菓子の家。
 けれど、いつかは二人で食べよう。
 ハーレイに頼んで、前と同じのを作って貰って。
 それが出来たら、飾って眺めて、クリスマスの季節が済んだら二人で仲良く分けよう。
 前の自分たちがやっていたように、屋根も壁も、本当に少しずつ。
 「今日はこれだけ」と味わって食べて、キスを交わして、微笑み合おう。
 恐ろしい魔女はもういない世界で、甘いお菓子の家を齧って。
 今度は二人で生きてゆけるから。
 幸せな甘いお菓子で出来ている家も、毎年、毎年、きっと二人で食べられるから…。




              お菓子の家・了


※クリスマスのお菓子、ヘクセンハウス。シャングリラでは、子供たちのケアに使ったお菓子。
 けれど最初は、前のブルーが貰ったお菓子だったのです。前のハーレイとの思い出の…。
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(ほほう…)
 この地域でも流行るかもな、とハーレイが眺めた新聞記事。ブルーの家には寄れなかった日に、夕食の後で広げた新聞。ダイニングのテーブルで、のんびりと。
 明日は土曜日で仕事は休み。午前中からブルーの家へと、出掛けてゆくだけなのだから。
(銀のスプーンなあ…)
 遠い昔にはイギリスという島国があった地域の習慣。
 元々は本物のイギリスのもので、SD体制が始まるよりも遥かな昔に生まれたという。その後は多様な文化と一緒にマザー・システムに消し去られたか、地球の滅びで消えていったか。
 いずれにしても無かった習慣、それを復活させたもの。今ではすっかり定着していて、其処では人気。子供が生まれたら銀のスプーンを贈ること。一生、裕福であるように、と。
(昔は素材が違ったのか…)
 同じイギリスでも、人間が地球しか知らなかった時代。その頃は銀ではなかったスプーン。銀のスプーンもあったけれども、銀とは違った素材が殆ど。
 生まれた子供は洗礼式でスプーンを贈られるけれど、親や親族の懐具合で決まった素材。裕福な者なら銀だけれども、そうでなければ鉄やら、木やら。
 ごく限られた子供だけしか、銀のスプーンは貰えなかった。財産のある家に生まれた子しか。
 「銀のスプーンを咥えて生まれる」という言葉があったほどらしい。裕福な家に生まれること。
 それだけに、余計に有難味があった銀で出来たスプーン。
 なんとか買うことが出来そうだ、と考えた親は、自分の子供に銀のスプーンを贈っていた。今はこれしか買ってやれなくても、将来は豊かに暮らして欲しいと。そうなるようにと思いをこめて。
 自分たちの食費を切り詰めてでも、子供のために銀のスプーンを。



 その習慣が息づいているらしい、今のイギリス。正確に言うなら、昔はイギリスがあった場所。
 子供が生まれたら銀のスプーンで、専用のスプーンも売られるくらい。子供用にデザインされた使いやすいものが。
(今の時代なら、普通なんだろうな)
 生まれた子供に銀のスプーンを贈ること。イギリスでは、多分。
 子供のために産着を用意するのと同じくらいに、ごくごく普通に買ってやるもの。子供用のや、親の好みで選んだものやら、デザインはそれぞれ違ったとしても、銀のスプーンを子供に一本。
 遠い昔の頃と違って、銀はとびきり高価なものではないのだから。
 安くはなくても、切り詰めなくとも買える値段にはなっている。スプーンを一本くらいなら。
(俺がブルーに貰った羽根ペン…)
 誕生日に贈って貰った白い羽根ペン、あれの値段で充分に買える。銀のスプーンを一本ならば。小さなブルーのお小遣いでは買えないけれども、自分だったら買えた羽根ペン。
(使いこなせるかどうかってペンを、気軽にポンと買える値段じゃないんだが…)
 子供のためのスプーンとなったら、きっと自分だって迷わずに買う。羽根ペンだったら、自分の趣味の代物だけに悩むけれども、子供のためなら悩まない。惜しみはしない。
 この地域でも銀のスプーンだ、と流行り始めたら買うだろう。生まれた子供には、幸せな未来を与えてやりたいものだから。銀のスプーンがそれを運んでくれるなら。
(だが、俺の家では出番が無いなあ…)
 イギリス生まれの銀のスプーンが、この地域で流行り始めても。
 洗礼式というのは無くても、子供が生まれたら銀のスプーンを贈ろうと、あちらこちらで。
 どんなに流行っていたとしたって、自分の家には子供は生まれて来ないから。父が買ってくれた家に子供部屋はあっても、いつか結婚するブルーは子供を産めないから…。



 こいつは無理だ、と苦笑いした銀のスプーンを贈る習慣。素敵だけれども、自分とはまるで縁が無い。銀のスプーンを買ってやりたい子供は、けして生まれて来ないから。
 残念な気もする銀のスプーン。記事に添えられたスプーンの写真が洒落ているだけに、なんとも惜しい。銀の細工が似合いそうなブルー、前のブルーは銀細工のようにも思えたから。
 今のブルーはチビだけれども、前のブルーは気高く美しかった。銀色に輝く月の光のように。
(スプーンを贈って、プロポーズって地域もあるんだがなあ…)
 あれもイギリスと呼ばれる地域に含まれる場所。ウェールズだったか、其処のラブスプーン。
 遠い昔には、メッセージをこめて手作りしていた木彫りのスプーンで、プロポーズの時に贈っていた。自分が作った愛のスプーンを。
 そっちだったら、と思うけれども、ラブスプーンは木彫り。銀ではないから、プロポーズの時に銀のスプーンは使えない。いくらブルーに似合いそうでも、銀のスプーンを贈る習慣は、あくまで子供のためのもの。
(前の俺は、あいつに木彫りのスプーンってヤツを、だ…)
 作ってプレゼントしてやった。木彫りの趣味を始めた時に。
 けれど、プロポーズのためのラブスプーンなどは知らなかったから、単なるスプーン。こういうスプーンを作ったから、と贈っただけ。木の温もりがきっと素敵だろうと。
 スプーンを貰ったブルーの方でも、やはり知らなかったラブスプーン。「ありがとう」と貰って使っていただけ。青の間で食事する時に。
 「君の作品にしては役に立つよ」などと笑いながら。
 芸術的な木彫りの出来はサッパリだけども、実用品なら素晴らしいのを作れるよね、と。
 実際、前の自分が作った木彫りのスプーンは人気があった。注文されて幾つも彫ったし、大勢の仲間が持っていた。芸術作品の注文の方は、少しも増えてはくれなかったけれど。



 失礼なヤツらが揃ってたんだ、と時が流れた今になっても言いたい気分。俺の芸術が分からないヤツしかいなかったんだと、スプーンなんぞは誰だって彫れそうなものなのに、と。
 キャプテン・ハーレイに来た注文は
木彫りのスプーンやフォークばかりで、ブツブツ言いながら彫っていた。またかと、今度もスプーンの注文だったかと。
(でもって、あの船に銀のスプーンは…)
 無かったんだよな、と思い返してみるシャングリラ。前の自分が生きていた船。
 自給自足で暮らしてゆける白い鯨に改造した後、シャングリラは文字通りミュウの箱舟だった。あの船があれば生きてゆけたし、船の中だけで一つの世界。自分たちの力で生きられた船。
 そのシャングリラに、御大層なソルジャー専用の食器はあっても…。
(銀のスプーンは一本も…)
 船に乗ってはいなかった。
 ミュウの紋章が描かれたソルジャー専用の食器セットに、銀のスプーンは入らなかった。専用の食器があれば充分、銀で出来たスプーンまでは要らない。
 箱舟の中では、贅沢品など要らないから。生きてゆくのに必要のないものだから。
(手入れするのも大変だしな?)
 銀で出来たスプーンは磨かないと変色してしまうから、実用品には不向きなスプーン。手入れが必要なだけで贅沢、余計な手間がかかる代物。
 遠い昔の貴族だったら、使用人たちに手入れさせればいいけれど。
 誰もが幸せに暮らす今なら、手の空いた時に自分で磨けばいいのだけれど。



 シャングリラには向かん、と思った銀のスプーン。贅沢品な上に、手間までかかる、と。
 白い鯨になった後にも、それよりも前も、船では何でも実用的な物が一番。使いやすくて手間のかからない物が一番、贅沢は誰も考えなかった。ソルジャー専用の食器があった程度で。
(ブルーが奪った物資にしたって…)
 人類の輸送船から奪った物資で生きていた時代。備品倉庫に新しい食器を運び込んだら、エラが端から裏返してみてはマークを調べていたけれど。食器の素性を確認してはいたけれど…。
 高級品だと分かった時にも、遠慮なく順に使っていった。皿が一枚割れてしまったら、代わりに一枚、新しい皿を。丁度いいサイズのものを一枚。
 たとえパルテノン御用達の逸品だろうが、どんどん使った。それが必要だったから。備品倉庫はそのためにあって、皿が割れたら、新しい皿を出してゆくだけ。
(…ということは、銀のスプーンも…)
 物資の中に紛れていたなら、きっと使われたのだろう。直ぐに錆びると愚痴を言われながらも、食堂で。凝った細工の銀のスプーンでも、他のスプーンと全く同じに。
 きっとそうだな、とクックッと笑う。銀であろうが、おかまいなしに使った船。
 しかし生憎と、銀のスプーンには出会わなかった。前の自分が生きた船では、最後まで。



 無かったっけな、と新聞記事の銀のスプーンを眺める。今ではこうして「流行りそうだな」と、銀のスプーンを見ているのに。これは写真だとはいえ、実物だってきっと買えるのに。
 気軽に買えはしない値段でも、必要ならば。自分の子供に買ってやるとか、その気になれば。
 けれど、シャングリラには無かった銀で出来たスプーン。遠い昔は貴族たちのための贅沢品。
(俺たちの船は、贅沢品とは縁が無かった船なんだ…)
 ソルジャー専用の食器はともかく、その他のもの。銀器も無ければ、貴金属だって。
 エラが見付けたパルテノン御用達の食器たちだって、使われた末に割れて船から消えていった。白い鯨が出来上がった後に、エラが何度も悔しがっていた。「今、あったなら」と。
(医療機器まで奪ってたのに…)
 ノルディの注文でブルーが奪って、立派なメディカル・ルームが出来た。船で作り出せる時代が来るまで、船にあったのは全て奪った物。食材だろうが、衣料品だろうが。
 何もかもを人類の船から奪って生きていたのに、何故か無かった贅沢品。銀のスプーンも、金で出来た物も、ほんの小さな宝石さえも。
 誰も注文しなかったせいもあるのだろうか。「これが欲しい」と、医療機器のリストをブルーに渡したノルディのように。リストを受け取ったブルーは「分かった」と直ぐに奪って来たから。
 注文したなら、ブルーなら手に入れられただろう。銀の食器を一揃いでも。
 けれども、それを誰も頼みはしなかった。生活必需品ではないから、誰一人として。



 分かっちゃいるが、と頭の中では理解出来ているシャングリラの事情。生きてゆくために必要なものがあれば充分だった船。白い鯨になるよりも前も、自給自足の船になった後も。
(そうは言っても、貧しい船だな)
 昔は親の懐具合で素材が変わった、洗礼式の日に子供に贈るスプーン。子供の幸せを願って贈るスプーンだけれども、銀のスプーンは難しかった。高価だったから。
 それでも銀のスプーンを子供に贈ってやろうと、努力した親は多かったろう。どうか幸せにと、裕福な一生を送って欲しいと、倹約して銀のスプーンを一本。子供のために。
 遠い昔のイギリスで願いを託されたスプーン、貧しくても買ってやりたいと。銀のスプーンをと多くの親が願っていたろう、そのスプーンさえも無かった船。銀のスプーンは一本さえも。
 銀のスプーンは無かったけれども、白いシャングリラは楽園だった。
 貧しい船でもミュウの箱舟、銀のスプーンが無かった船でも。
(前の俺たちには、それが似合いだ)
 銀のスプーンなどは持っていなくても、まずは命を繋いでゆくこと。生きてゆくこと。ミュウは見付かったら処分されるか、研究施設に送られるか。
 そうなる前に助け出すのが箱舟の役目、ミュウの仲間を一人でも多く救うこと。
 あの船に銀のスプーンは要らない。人類に認めて貰えないのでは、裕福になっても意味が無い。船の中だけが世界の全てで、其処で生きるしかないのでは。
 閉ざされた船だけで生きるしかないなら、裕福な暮らしに何の価値があると言うのだろう。外に出られはしないのだから、まるで囚人。其処で贅沢をしても意味など全く無いのだから。



 ついでに言うなら、贅沢をする余裕があったかどうかも怪しい。白いシャングリラは自給自足でやっていたから、買い物は必要無かったけれど。通貨さえ無かった世界だけれども、全てを賄ってゆかねばならない。船の中だけで。
(新しい仲間を救出したなら、その分だけ…)
 食料が余分に要るようになるし、それに備えての備蓄はもちろん、増産だって。
 新しい仲間は、いつやって来るか分からない。計画を立てて救い出す時も、年単位などは一度も無かった。ただ一人だけの例外がジョミー、それ以外の子供は突然ということも多かった。
(緊急事態ってヤツでだな…)
 救助班の者たちが飛んでゆくとか、ブルーが救いに出てゆくだとか。
 そうした時には、いきなり増える新しい仲間。船に迎えたその瞬間から、一人分の食料が必要になる。朝昼晩と三度の食事に、子供たちが食べる菓子の類も。
 そんな具合だから、銀のスプーンを買うくらいならば、同じ値段で買える食べ物。そちらの方がずっと有意義で、生きてゆくには、まずは食べ物。それに衣服も、住むための場所も。
(…何かと物入りな船ではあったな)
 あの船の仲間の、世界の全てだった箱舟。白いシャングリラはそういう船。
 何もかもを船の中で賄い、雲海を、宇宙を飛んでいたから、銀のスプーンの出番は無い。それを一本作った所で、食料が増えはしないから。生きてゆくのに、けして役立ちはしないから。



 あっても意味が無いんだよな、と思った銀のスプーンだけれど。必要も無いと思ったけれども、また目を落とした新聞記事。子供が生まれた時に贈るのが、銀で出来たスプーン。
(ナスカの子たちに贈るべきだったか?)
 SD体制が始まって以来、初めての自然出産児たち。本当の意味で「生まれた」子供。
 赤いナスカで産声を上げた新しい命、彼らの人生に幸多かれ、と。
 彼らだったら、銀のスプーンを貰う資格があっただろう。ミュウの未来を生きる子供で、誰もが誕生を祝った子たち。命は新しく作ってゆける、と。
 あの子たちなら、銀のスプーンに相応しかった。幸せに生きてゆけるようにと、裕福な未来をと贈られるスプーン。彼らはミュウの未来そのものだったのだから。
(だが、無いものは仕方ないんだ)
 白いシャングリラに銀のスプーンは一本も無くて、船に無い物は贈れない。ナスカで銀が採れはしなかったし、銀のスプーンは作っていない。
 ナスカでスプーンと言ったらアレだ、と思い出したのがジョミーのスプーン。
(…誰が作ったのかは聞いていないが…)
 あの星に降りた若いミュウの一人が、ナスカの石を削って作ったスプーン。水色のそれを大切に持っていたジョミー。「貰ったんだ」と話していた。それは嬉しそうに。
(ナスカの子たちには、アレが似合いのスプーンだったな…)
 赤いナスカの石から生まれた水色のスプーン。銀のスプーンより、その方がずっとよく似合う。
 あれを贈れば良かったんだよな、と思うけれども、きっと贈っていないだろう。
 銀のスプーンも無かった船。白いシャングリラには、スプーンを贈る習慣さえも無かったから。



 話にならん、と新聞を閉じようとしたけれど。銀のスプーンも、赤いナスカの石のスプーンも、子供たちには繋がらない、と頭の中から放り出そうとしたのだけれど。
(待てよ…?)
 ふと引っ掛かったスプーンという言葉。子供たちとスプーン。
(何処かで聞いたぞ…)
 ジョミーが持っていたスプーンの他にも、ナスカの石で作ったスプーンの話を。それも子供、と遠い記憶を手繰ってゆく。
 トォニィが持っていたろうか?
 ずいぶんとジョミーを慕っていたから、借りて使っていたのだろうか…?
(…そういう記憶は無いんだが…)
 直接見てはいない気がする。スプーンを持っていた子供。ならば何処で、と考え続けて…。
(そうだ、あの時だ…!)
 フィシスが立ち会った、生まれた子供の命名式。請われて、赤いナスカに降りて。
 あれはハロルドの娘のツェーレン、自分で名乗ったと聞いている。フィシスが名付けた名前ではなくて、「聞かせておくれ」と尋ねた名前。
(戻った後で、フィシスが…)
 前の自分に話したこと。ナスカの上で見て来たこと。ジョミーに連れられ、かつて人類が建てた天文台にも行ったらしいけれども、その話の他に…。
 「素敵な習慣があるのですね」と微笑んだフィシス。
 ジョミーのスプーンと同じでした、と。それをツェーレンは両親に貰ったようですよ、と。
 若い世代と古参の者たちの対立が表面化し始めていたから、フィシスは立ち会えずにジョミーと一緒に去ったけれども、読み取ったらしい。盲いた瞳は、見えないものまで見るものだから。
 ハロルドたちがツェーレンにそれを贈るのを。水色のスプーンを渡す所を。



(あったのか…!)
 銀のスプーンとは違うけれども、生まれた子たちに贈られたスプーン。
 今の今まで思い出しさえしなかったけれど、いつの間にやらナスカで出来ていた習慣。あの星で子供が生まれた時には、命名の時にスプーンを贈った。
 ジョミーが貰ったスプーンと同じに、ナスカの石で作ったものを。水色のそれを。
(いったい誰が言い出したんだ…?)
 子供たちにスプーンを贈ろうと。それもナスカの石のスプーンを。
 誰からも聞いてはいないものだから、今となっては全くの謎。けれど、ヒルマンかもしれない。博識だった彼は、子供たちとナスカにいたのだから。
 古参の者たちはナスカを嫌っていたというのに、ヒルマンはナスカに降りる時の方が多かった。子供たちの教育係を長く務めたのは彼だけだったし、「これが私の役目だから」と。
 トォニィたちをナスカで育てる間に、若い世代の仲間たちとも親しくしていたことだろう。元は教え子だった者たちばかりで、きっと慕われただろうから。
 ヒルマンが彼らに銀のスプーンを贈る習慣を話して聞かせて、其処からナスカの石のスプーンに繋がった。そう考えるのが多分、一番、自然な流れ。
 若い世代の誰かが思い付くより、ヒルマンが彼らに教える方が。
(ナスカで豊かに生きてゆけるように、か…)
 生まれた子供が裕福な一生を送れるように、と贈られたのが銀のスプーンだったら、フィシスが話したスプーンにもきっと、同じ意味。子供たちの幸せを祈って贈られたスプーン。
 裕福な一生は難しいけれど、豊かにと。食べ物に不自由しないで生きてゆけるようにと。
(ヒルマンが始めたことなんだろうな…)
 前の自分の古くからの友が。「昔の地球には、こういう習慣があってだね…」と皆に聞かせて。



 しっかり確認すれば良かった。スプーンの話を耳にした時に。
 いつからなのか、誰が言い出したのか。あの時だったら、きっと簡単に分かったろうに。
(俺としたことが…)
 失敗だったな、と思うけれども、ナスカは仮の宿だったから。若いミュウたちが考えたような、永住の地ではなかったから。
(あくまで、地球へ向かう途中の…)
 休憩の場所で、いつかは離れるべき星。あの星を拠点に定めたとしても、目指すのは地球。
 其処へ行かねば、ミュウの未来は手に入らない。自分たちだけが隠れ住んでいても、何も先には進まないから。ミュウは変わらず追われる立場で、発見されたら殺されるだけ。
 それを変えるために地球へ行くのが、古くから船にいる者の悲願。前の自分も含めた長老も同じ立ち位置だったから…。
(ナスカの習慣は困るんだ…)
 あの星ならではの習慣が出来たら、若い者たちは、ますますナスカに執着するから。自分たちがそれを作り出したと、この星こそが居場所なのだと。
 だからフィシスに聞いたスプーンは、航宙日誌にも書いてはいない。ツェーレンの命名式のことしか記していないし、自分でもすっかり忘れ果てていた。
 航宙日誌に書いたナスカのスプーンと言ったら、ジョミーのものだけ。ナスカの石から作られたスプーンは、あれの他にもあったのに。
 ジョミーのスプーンよりもずっと大切な、祈りのスプーンが存在したのに。
(大発見だぞ!)
 この話は誰も知らないからな、と嬉しくなった。航宙日誌に書かなかったから、学者たちだって知りようがない。水色のスプーンを貰ったナスカの子供たちのことは。
 明日はブルーに教えてやろう。
 こんな素敵な習慣があったと、水色のスプーンだったんだ、と。



 忘れないよう、テーブルに広げておいた新聞。翌朝、見るなり思い出したから、ブルーの家へと出掛けて行って。小さなブルーとテーブルを挟んで向かい合うなり、問い掛けた。
「銀のスプーンって、知ってるか?」
 スプーンそのものは知ってるだろうが、そいつに纏わる習慣だな。
「なあに?」
 銀のスプーンでおまじないとか、願い事をすれば叶うとか…?
「願い事ってことにはなるんだろうなあ…」
 前の俺たちが生きてた時代には無かったんだが、ずっと昔の地球のイギリス。其処の習慣だ。
 もちろん、今の時代はその習慣も復活してる。
 子供が生まれたら、銀のスプーンを贈るんだ。裕福な一生を送れますように、と願いをこめて。
 昔は銀が今よりもずっと高価だったから、そうなったらしい。銀のスプーンを持てるくらいに、豊かな生活が出来ますように、と。
「ふうん…。子供のためのプレゼントなんだ…」
 生まれたばかりの赤ちゃんの幸せ、それをお祈りしてあげるんだね。銀のスプーンで。
「そういうことだな。うんと幸せになれますように、と」
 前の俺たちだった頃には、その習慣は無かった筈なんだが…。
 どうやら、そいつがあったらしいぞ。前の俺たちが乗ってた船に。
 いや、ナスカにか…。



 スプーンを贈ってやる習慣、と話してやったら、ブルーはキョトンと目を丸くして。
「ナスカって…。あの星、銀が採れたの?」
 野菜を色々育てた話は聞いているけど、銀の採掘もしてたわけ?
 スプーンくらいしか作れなくても、少しくらいは銀が採れたんだ…。
「まさか。…鉱脈なんかは探していないし、第一、あったら人類が捨てていないだろう」
 銀が採れるなら、捨てては行かない。人間が住むには不向きな星でも、役に立つからな。
 そうじゃなくてだ、ジョミーのスプーンは知っているだろ?
 ナスカの石を削って作った水色のスプーン。若いヤツらがジョミーにプレゼントしたヤツだ。
「知ってるよ。今のハーレイから聞いたしね」
 ジョミーが大切にしていたスプーンで、お気に入り。ナスカの石で出来ていたから。
「そのスプーンだが…。ジョミーの分だけではなかったらしい」
 俺はこの目で見てはいないが、同じスプーンを子供たちにも贈っていたんだ。
 ナスカで生まれた子供たちだな、トォニィよりも後に。
 ツェーレンの命名式に立ち会ったフィシスから話を聞いた。
 生憎とフィシスも、贈る所に立ち会ったわけじゃないんだが…。それでも知ってた。フィシスは見えないものを見るしな、その力で見えていたんだろう。
 生まれた子供に名前をつけたら、親がスプーンを贈るんだ。水色の石で出来たスプーンを。
「ハーレイ、それって…」
 銀のスプーンと同じだったの、銀の代わりにナスカの石なの?
「多分な。…前の俺は確認していなかったし、今の俺の推測に過ぎないんだが…」
 ヒルマンが教えたんだろう。銀のスプーンを贈った時代があったんだ、と。
 しかし、銀のスプーンは何処にも無いから、代わりにナスカの石のスプーン。
 そんなトコだと俺は思うぞ。…母体から生まれた子供たちには、幸せになって欲しいからな。



 ただし、そいつは航宙日誌にも書かなかったが、と白状したら、惜しがったブルー。そうなった理由は分かるけれども、出来れば書いて欲しかったと。
 シャングリラではなくてナスカのことでも、皆を束ねるキャプテンとして、と。
「そのスプーンの記録、ホントに何処にも残っていないの?」
 航宙日誌に書いてないなら、学者も研究しないだろうけど…。
 誰も知らないような所に、記録、ひっそり残ってるとか…。でなきゃスプーンが残ってるとか。
「ひっそりという記録はともかく、スプーンの実物は残っていないな」
 ナスカがああいう有様だったし、消えちまったんだ。ナスカと一緒に。
 ハロルドがナスカで死んじまったのは知ってるだろうが、シェルターに残っていたばかりにな。
 子供たちは昏睡状態になっていたから、シャングリラに運び込まれていたが…。
 トォニィも含めて、子供たちの家はナスカにあった。一人残らず。
 其処へ出たのが撤退命令で、スプーンなんぞを持ち出す余裕は無かったんだ。何処の家でも。
 シェルターに残ったハロルドにしても、シャングリラに避難した家族にしても。
 そんな時だし、宇宙遺産になっちまってる俺の木彫りのナキネズミ。…ウサギってことになってしまったが、あれが今でもあるのが奇跡だ。
 ユウイはとっくに死んじまってたし、カリナも死んでしまったから…。
 シャングリラに避難することを決めた仲間が、大急ぎであれを持ち出したんだ。カリナの遺品を船に運んでおこうとな。
 だから、トォニィの分だけが残った。子供時代の持ち物ってヤツは。
 他の子たちの分は何もかも、ナスカと一緒に燃えちまったんだ。



 お気に入りのオモチャも、ナスカの石で出来たスプーンも…、と教えてやった。
 シャングリラに運び込まれたナスカの子供たちの持ち物は、トォニィの分だけだった、と。
「そっか…。他の子供たちの持ち物は全部、燃えちゃったんだ…」
 だったら、ナスカの石で出来てたスプーンのことは、本当に誰も知らないんだね。
 前のハーレイが航宙日誌に書かなかったから、今の時代の人たちは、誰も。
「そうなるな。…ひっそりと誰かが書き残してても、世に出る前に消えたんだろう」
 シャングリラに乗ってた誰かの日記とか、そういうのの中にあったとしても。
 資料として知られるよりも前にだ、何処かに消えていったってことだ。
 スプーンを貰ったナスカの子たちは、スプーンのことを覚えていなかった。小さすぎてな。
 トォニィはスプーンを貰っていないし、持ち物の中に残っているわけがないだろう?
「…トォニィ、他の子供たちのスプーンを知らないの?」
 一番最初に生まれてたんだし、知っていそうな気もするけれど…。
 だけど、スプーンの記録が無いなら、トォニィも知らなかったのかな…?
「三歳だからな、ナスカが燃えてしまった時は」
 たった三歳の子供なんだぞ、他の子供たちの命名式には立ち会わないな。…ハロルドがわざわざフィシスに頼んだくらいなんだし、立ち会う人間は大人ばかりだ。
 三歳じゃ無理だ、とシャングリラにいた自分にも分かる。いくら若い世代の仲間たちが暮らしていた星だったとしても、大人と幼い子供は別だと。
 厳粛な式を台無しにしかねない幼い子供は、命名式には呼ばれない。当然、あの石のスプーンを贈る所も見ていない。式には呼ばれていないのだから。
 スプーンを贈られた子供の親も「記念の品だ」と仕舞い込んだから、誰も使っていなかった。
 最初にスプーンを貰った子供も、ツェーレンたちも。
 もしもオモチャに持っていたなら、誰かが覚えていたろうに。それで遊んだ、と。
 けれど、命名式の日に贈られただけでは、子供たちの記憶に残りはしない。水色のスプーンは、通り過ぎて行っただけだから。子供たちの側を、ほんの一瞬。



 赤いナスカと一緒に消えてしまったスプーンは、書き残す人がいないまま。
 せっかく生まれた習慣だったのに、航宙日誌にも記されないまま、時の彼方に消えてしまった。
「…俺が全く書かなかったのも、悪かったのかもしれないが…」
 ナスカが燃えてしまった後には、子供は生まれていないからなあ…。
 とにかく地球を目指せってことで、戦いばかりで、誰もが子供どころじゃなかった。
 あそこで子供が生まれていたなら、誰かがスプーンを贈っていたかもしれないんだが。
「トォニィの時代はどうだったの?」
 やっていたかな、もしかしたら…。トォニィは無理でも、大人は覚えていただろうから。
 ナスカで大人だった人たち、まだシャングリラに乗っていたしね。
「スプーンの贈り物を覚えていたなら、やってただろうが…」
 記録に残ってないからな。
 もしあったのなら、今の時代も水色のスプーン、人気だろうと思わないか?
 ナスカの石で出来ていなくても、水色の石を削ったスプーンが。
「そうだね。トォニィの時代にやっていたなら、水色のスプーン、ありそうだよね…」
 アルテラが残した「あなたの笑顔が好き」ってメッセージ、今も人気だし…。
 水色のスプーンも、赤ちゃんにあげるプレゼントの定番になりそうだよ。銀のスプーンよりも。
 …それに、水色の石のスプーンは、ナスカの石で出来ていないと意味が無いかも…。
 あの星の石で作っていたから、幸せのお守りだったのかも…。
「それもあるかもしれないなあ…」
 ナスカだったから、幸せに生きてゆけますように、と石を削って作ったかもな。
 平和な時代になっちまったら、そんな思いをこめなくっても、幸せに育っていけるんだし…。
 わざわざスプーンを作るよりかは、もっと子供の喜びそうなオモチャを選びそうだよな。
 ぬいぐるみだとか、ガラガラだとか。



 水色のスプーンは時の彼方に消えちまったか、と残念な気持ちもするけれど。
 航宙日誌に書き残さなかった前の自分を、「馬鹿め」と責めたい気分だけれど。…自分と同じに惜しがったブルーも、「素敵な贈り物があったんだね」と、とても喜んでくれたから。
 「スプーンの話を聞けて嬉しい」と笑顔なのだから、思い出話だけでもいいだろう。
 赤いナスカの石で作られた、水色のスプーン。
 あの星で生まれたナスカの子たちの、命名式の日に贈られたスプーン。
 きっとヒルマンが若いミュウたちに教えたのだろう、銀のスプーンを生まれた子供に贈る習慣。銀のスプーンは無かったけれども、銀の代わりにナスカの石から作られたスプーン。
 裕福な一生は難しくても、豊かに生きていけるようにと。食べ物に不自由しないようにと。
 その子供たちは、平和な時代を手に入れたから。
 ミュウと人類が手を取り合って生きてゆける世界を、彼らは勝ち取ったのだから。
「…効いたんだろうな、あのスプーンはな…」
 地球へ行く前に、死んじまった子たちもいたんだが…。
 あの子供たちだって、きっと今頃は、幸せになっているんだろうなあ…。
「うん。何処かで幸せに生きているよね、ぼくたちみたいに」
 アルテラも、コブも、タージオンも。
 きっと幸せに生きてると思う、宇宙の何処かで。…もしかしたら、地球で。
「そうなんだろうな、自分たちが作った平和な時代というヤツをな…」
 銀のスプーンを貰ったかもしれんな、今の親から。
 イギリスに生まれて、うんと洒落たのを。…水色のスプーンにも負けないのをな…。



 銀で出来たスプーンを貰えたかもな、と遠く遥かな時の彼方に思いを馳せる。
 前の自分が航宙日誌に書かずに終わった、消えてしまった水色のスプーン。
 ナスカの子たちが、知らない間に貰い始めていたスプーン。
 あの星の石を削って作った、水色のスプーンは幸せを運んだ。それを貰った子供たちに。
 命を落とした子もいたけれども、彼らが築いた平和な時代。
 銀のスプーンが運ぶ富よりも、ずっと素晴らしい、誰もが幸せになれる時代を彼らは作った。
 誰も不幸にならない時代を。
 その時代に今、ブルーと二人で生きている。
 青い地球の上に生まれ変わって、水色のスプーンを思い出して。
 だから、あの子たちも、きっと幸せなのだろう。
 今は本物の銀のスプーンを貰ったりして、宇宙の何処かで、今の家族たちと。
 自分とブルーが、いつか家族になるように。
 いつまでも、何処までも、手を繋ぎ合って、幸せに生きてゆくように…。




            銀のスプーン・了


※ナスカの子供たちに贈られた、水色の石で作ったスプーン。何故だったかは、謎なのです。
 記録も無ければ、実物も残っていない贈り物。それが生まれたのは、銀のスプーンからかも。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv













※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




新しい年がやって来ました。除夜の鐘から初詣までズラリとイベント、冬休みの後もシャングリラ学園ならではのお雑煮大食い大会やら、水中かるた大会やら。それが終わればお正月モードも去り、日常が戻って来るわけですが。いきなり週末、会長さんの家でまたダラダラと…。
「なんだかさあ…。スリルってヤツが欲しいよね」
ジョミー君が唐突に言い出し、「はあ?」と首を傾げた私たち。
「おい、スリルというのは絶叫マシンか?」
冬場は御免蒙りたいが、とキース君。
「若くないなと言われそうだが、俺は余計な寒風は避けたい。特に絶叫マシンはな」
どう考えても喉に悪い、と顰めっ面で。
「風邪もヤバイが、風邪がヤバイ理由は喉だからな。熱くらいは気合でなんとかなっても、喉はそういうわけにはいかん。坊主にとっては喉は命だ」
お経が読めてなんぼの坊主だ、と言われてみればその通り。法事をしようとお坊さんを呼んでも声が出ないとか、酷い声だと有難味はゼロ、御布施の割引をして貰いたくなりそうです。
「キース先輩、お坊さんの世界で声がアウトだとどうなるんです?」
先輩の家なら代打もいますが、とシロエ君が。元老寺はアドス和尚と副住職のキース君との二段構えで、片方が声が出なくなっても代理を出せば済むことです。月参りだったらまるで無問題、法事だと若いキース君が出たら「代理じゃないか」と値切られそうな気もしますけど…。
「声がアウトになった場合か? そういう時に備えて法類というのがあるわけだが…」
住職に何かあった時には代理を務めてくれるのが法類、いわばお寺の世界の親戚。どうしても声が駄目だとなったら代わりにお願い出来るそうですが、費用は頼んだお寺の自腹。
「なにしろ代わりに出て貰うんだし、御布施はそっちに行くことになるな。全部持って行かれるわけではないがだ、それ相応の費用と交通費とかの実費は確実に持って行かれる」
「…シビアですね…」
「他の仕事でも同じだろうが。だが、風邪くらいで代理を頼むと肩身が狭い」
体調管理がなっていないと思われるのがオチだ、と肩を竦めるキース君。
「坊主の世界はお経が読めてこそだからなあ、日頃から喉が第一なんだ。まして俺には怖い親父がいるわけで…」
喉に直接寒風を浴びる絶叫マシンで喉を潰すリスクは避けたい、とキッパリと。絶叫マシンに乗りに行くなら乗らずに見物、待ち時間くらいは付き合ってくれるそうですけれど。キース君を置き去りにしてまで乗らなくってもいいんじゃないかな、絶叫マシン…。



誰からともなく「やめておこう」という結論になった絶叫マシン。ジョミー君の夢は砕けたかと思いましたが、さに非ずで。
「ぼくが言ったの、そういうスリルじゃないんだよ。面白いから黙って聞いてたけどさ…」
坊主ネタでも自分に無関係なら高みの見物、とジョミー君。
「ちょっとスリリングな毎日っていうのもいいよね、と思っただけでさ」
「…どんなスリルだ?」
何処かの馬鹿のお蔭で間に合っているような気もするが、とキース君が言った馬鹿が誰なのか分からない人はいませんでした。噂をすれば影とか言霊だとか、そういう理由で誰も口にはしませんけれど、何処かのソルジャー。
「えーっと…。そっちじゃ多分、無理じゃないかな…。恐怖新聞ってヤツだから」
「「「恐怖新聞?」」」
オウム返しに訊いちゃいましたが、それって昔の漫画でしょうか。ずうっと昔に流行ったとかで、たまに学校でも一時的にブームになったりするヤツ…。
「そう、あの漫画の恐怖新聞。昨日、夜中に思い出しちゃって…」
アレの配達は夜中だよね、とジョミー君。
「夜の夜中に放り込まれて、読む度に百日寿命が縮むって…」
「そういうヤツだな、あの新聞はな」
あいつには確かに無理そうなネタだ、とキース君が深く頷きました。
「寿命を縮める方もアレだが、新聞の紙面が組めないだろう。あれは未来を予知するんだしな」
「でしょ? フィシスさんでもいない限りは作れそうにないよ、恐怖新聞」
だけどそういうスリルもいいな、と言われましても。読んだら寿命が縮むんですが…?
「そこだよ、ぼくたちには最強のブルーがついてるし!」
ジョミー君は会長さんにチラリと視線を。
「恐怖新聞、届いたとしたら配達を断るための御祈祷、存在するよね?」
「…まるで無いこともないけどねえ…」
ついでに寿命を取り戻す方も、と会長さん。
「だからと言ってね、面白半分で恐怖新聞なんかを読まれても困るんだけど…」
「えっ、本当に存在するわけ? 恐怖新聞」
それなら見たい、とジョミー君には会長さんの考えが全く通じていません。野次馬根性で手を出すんじゃない、と暗に言われていたわけですけど、そこで読みたいとは情けないかも…。



読む度に百日寿命が縮むのが恐怖新聞、あれは漫画だと思っていました。いわゆるフィクション。会長さんの言い方だと、実在するようにも聞こえますが…?
「まさか。あるわけないだろ、あんな新聞」
本当にあったらフィシスの立場はどうなるんだ、と会長さんの答えもズレたもの。曰く、未来を予知する力は会長さんの女神のフィシスさんがいれば充分なわけで、恐怖新聞の出番は無いとか。
「寿命を縮めてまで読まなくっても、フィシスに頼めば楽勝だしねえ?」
「…だったら無いわけ、恐怖新聞」
ちょっとスリルを味わいたかった、と惜しそうにしているジョミー君。本当に配達されて来たならパニックは確実、もう一日目で会長さんに泣き付きそうなのに…。
「そりゃそうだけどさ…。でもさ、ちょっぴり見たいわけでさ…」
まだ言い続けているジョミー君に向かってサム君が。
「そうかあ? あれは読んでるヤツの姿を見物する方が楽しそうだと俺は思うぜ」
あの漫画だって傍観者だから楽しめるんだ、と真っ当な意見。
「自分の所には届きやしねえ、って安全地帯に立っているから面白いわけでよ…」
「サム先輩の言う通りですね、自分にも届くリスクがあったら、読むのはあまり…」
それこそ言霊と同じで避けたいです、とシロエ君。
「存在しないからこそ漫画が流行って、たまに学校でも流行り直したりするんでしょうねえ…」
「うーん…。そうかも…」
自分に来るより誰かの家に届いた方が面白いかも、とジョミー君も方向転換を。
「それじゃさ、恐怖新聞を作って届けるとかさ…」
「誰にだ?」
キース君の問いに、ジョミー君は。
「…誰だろう? 教頭先生だと失礼かなあ?」
「失礼にもほどがあるだろう!」
先生を何だと思っているんだ、とキース君が怒鳴った所へ。
「こんにちはーっ!」
遊びに来たよ、とフワリと翻った紫のマント。考えないようにしていたソルジャー登場、いつもだったら大騒ぎですが、恐怖新聞はソルジャーには作れないと結論が出ていただけに。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
ゆっくりしていってね! とケーキと紅茶の用意に走った「そるじゃぁ・ぶるぅ」はもちろん、他のみんなも今日はのんびりムードですねえ…。



本日のおやつ、リンゴのクラフティ。それと紅茶を前にしたソルジャー、早速クラフティにフォークを入れて頬張りながら。
「…恐怖新聞を作るんだって?」
しかもターゲットはこっちのハーレイだってね、とこれまた話を半分しか聞いていない様子で。
「誰も作るとは言ってないから! それにハーレイの名前は出たトコだから!」
勝手に話を作るんじゃない、と会長さんがツンケンと。
「どの辺りから覗き見してたか知らないけどねえ、恐怖新聞は作れないんだよ!」
もどきは作れても本物は無理、と会長さん。
「ハーレイにだってそのくらいは分かるし、届けても鼻で笑われるだけ! 作る手間が無駄!」
「…そうなるのかなあ?」
「当たり前だよ、未来を予知する新聞が来たら誰が作ったかもモロバレで!」
フィシスの力を借りたぼくだと即座にバレる、ともっともな仰せ。
「たとえジョミーたちが作るとしてもね、ぼくが一枚噛んでいるのは確実だから! 寿命が縮むと書いておいても、そこはフフンと笑って終了、逆に喜ばれるだけだから!」
ぼくの悪戯だと大喜びだ、とブツブツと。
「それじゃちっとも面白くないし、それくらいなら赤の他人に届けた方がマシ!」
届けられる人が気の毒だからやらないけれど、と会長さんは結論付けました。恐怖新聞は作りもしないし、教頭先生に届けもしないと。
「うーん…。面白そうだと思ったんだけどねえ、寿命が縮むと焦るハーレイ」
「その寿命だって山ほどあるのがハーレイだってば!」
ぼくと同じでまだまだ死にそうな予定も無いし、と会長さん。
「それにジョミーと同じ理屈で、いざとなったらぼくに泣き付く! 助けてくれと!」
そして泣き付きつつも心でウットリ夢を見るのだ、という解釈。
「ぼくに命を助けて貰えるわけなんだしねえ、御祈祷料を毟り取られても本望なんだよ、絶対に! ぼくが時間を割いてくれたと、自分のために祈ってくれたと!」
「なるほどねえ…。恐怖新聞、こっちのハーレイは貰っても嬉しいだけなんだ…」
「そういうことだね、困るどころか大感激だね!」
いいものが来たと毎日大事に保存するんだ、と会長さんは迷惑そうに。
「ぼくはハーレイを喜ばせるつもりは全く無いから、恐怖新聞は大却下だよ!」
面白くないものは作らないから、と繰り返している会長さん。恐怖新聞は怖がられてなんぼの新聞ですから、喜ばれたら意味が無いですよね、うん…。



ジョミー君の心を掴んだ恐怖新聞、家に届くのも、自分たちで作って届けに行くのも無理な代物だと分かりましたが。ソルジャーの方はまだまだ未練がたっぷりで…。
「面白そうなアイテムだけどねえ、恐怖新聞…」
情報は君たちの心を読ませて貰った、と事後承諾でよろしくとのこと。
「要はアレだね、寿命がどんどん縮んでいくのが怖いポイントというわけだね?」
「そうだけど…。さっきも言ったと思うけれども、ハーレイにはそこは関係なくて!」
誰の仕業かバレているだけに鼻で笑っておしまいなのだ、と会長さん。
「本当に本物の恐怖新聞でも、ぼくに助けを求めるための小道具にしかならないし!」
「じゃあ、こっちのハーレイが心底怖がりそうな恐怖新聞ってヤツは…」
「どう転んだって存在しないね、あらゆる意味でね!」
作ったヤツだろうが本物だろうが…、と会長さんは言ったのですけど。
「…それじゃ、怖がるポイントが変わればどうだろう?」
「「「は?」」」
なんのこっちゃ、と顔を見合わせる私たち。恐怖新聞は寿命が縮むのが怖いポイント、それを変えたら存在意義など無さそうですが…?
「その寿命だけど…。残り少なくなっていくのが怖いわけでさ、いつか終わると」
「まあねえ、読む度に百日縮むんだしね」
四日読んだら一年以上、と会長さん。
「だけどハーレイには怖がって貰えそうもないけれど? そっちの方もいろんな意味で」
「それは寿命の問題だからだよ、こっちのハーレイが失くして困るものは何だと思う?」
寿命よりも大事にしそうなモノ、と質問されても分かりません。会長さんも同様ですけど、ソルジャーは指を一本立てて。
「ズバリ、童貞! 初めてはブルーと決めているよね、こっちのハーレイ!」
「…帰ってくれる?」
その手の話はお断りだ、と会長さんが眉を顰めれば。
「まあ、聞いてよ! ぼくが考えたハーレイ用の恐怖新聞!」
こっちのハーレイ専用なのだ、とソルジャーに帰る気はさらさら無くて。
「読む度に百日縮むんだよ! 童貞卒業までの日が!」
「それ、喜ばれるだけだから!」
寿命が縮むよりも喜ばれて終わり、と会長さん。それはそうでしょう、会長さんをモノに出来る日までの日数が劇的に短縮、そんなアイテム、教頭先生は大いに歓迎ですってば…。



寿命が百日縮む代わりに、童貞卒業への日が百日ずつ縮む恐怖新聞。何かが絶対間違っている、と私たちは思いましたが…。
「そこが恐怖のポイントなんだよ、途中から恐怖に変わるんだよ!」
そのタイミングは君に任せる、とソルジャーが会長さんにウインクを。
「童貞卒業、こっちのハーレイの頭の中では君とのゴールになるんだろうけど…。実はこのぼくに奪われると知ったら、どうなるだろうね?」
「「「え?」」」
「だから、このぼく! ハーレイの手持ちの時間がゼロになったら、ぼくが登場!」
そして教頭先生の童貞を頂いてしまうというわけで…、とニンマリと。
「ぼくに無理やり奪われちゃったら、もう取り返しがつかないわけで…。君一筋だと守り続けた童貞がパアで、君にも激しく詰られるわけで!」
「…詰るのはいいけど、迷惑だから!」
ハーレイが童貞卒業だなんて、と会長さんは怒り心頭。
「最初の内こそズシーンと激しく落ち込むだろうけど、立ち直ったら開き直るから! 君とはよろしくヤッたんだから、と自信をつけて挑んで来るから!」
このぼくに、と怒鳴った会長さんですが、ソルジャーはケロリとした顔で。
「…誰が本当に奪うと言った?」
そこは大嘘、と舌をペロリと。
「これでもぼくは結婚してるし、ぼくのハーレイ一筋なんだよ! たまにはアヤシイ気分にもなるし、浮気もいいなと思いもするけど、今回は別!」
本気で奪うつもりは無い、とソルジャーはキッパリ言い切りました。
「こっちのハーレイがブルブル震えて待っていようが、開き直って童貞卒業を目指していようが、最終的には肩透かし! でも、そこまでは震えて貰う!」
自分の良心との戦いの日々、というのがソルジャーの指摘。たとえ開き直ってしまったとしても、会長さんに詰られることは間違いないのがソルジャーを相手にしての童貞卒業。これでいいのかと、このままでいいのかと何度も悩むに違いないと。
「だからね、真実を知った日から始まる恐怖! ぼくに童貞を奪われると!」
「…その日までのカウントダウンってわけかい?」
ハーレイに届く恐怖新聞、と会長さんも興味を抱いたようです。自分に実害が及ばないなら、ヤバイ橋でも渡りたがるのが会長さん。もしかしなくても、教頭先生に恐怖新聞、届き始めたりするんでしょうか…?



寿命が縮んでしまう代わりに童貞卒業への日が縮まる新聞。会長さん一筋の教頭先生にとっては不本意極まりない形で奪われる童貞、これは面白いと会長さんは考えたらしく、ソルジャーの方も俄然、乗り気で。
「もちろん、ぼくに童貞を奪われる日までのカウントダウン! 怖そうだろう?」
「…恐怖だろうねえ、ハーレイにはね」
ぼくが怒るに決まっているし、と会長さん。
「ぼくでも君でもかまわないのかと、その程度の愛かと蹴り飛ばされるのは間違いないしね!」
「ほらね、最高に怖いんだよ。…いくら後から開き直ろうと心に決めても、果たして君が許すかどうかは謎だしねえ…」
この新聞はお勧めだよ、とソルジャーは膝を乗り出しました。
「今夜から早速届けないかい、ハーレイの家に! 恐怖新聞!」
「いいねえ、でもって何日かしたら真実をぼくが知らせに行く、と…」
童貞卒業の実態は何か教えてやったら恐怖の始まり、と会長さんもニヤニヤと。
「三日くらいはぬか喜びをさせておくのがいいだろうねえ、童貞卒業」
「うん、泳がせておいたら恐怖もドカンとインパクトがね!」
勘違いさせて気分は天国、そこから一転して地獄、と楽しげなソルジャー。
「それでこそ恐怖新聞の値打ちも上がるわけだし、真実を明かす日は君にお任せ!」
「了解、それじゃ今夜から…。って、駄目だ、フィシスは旅行だっけ…」
昨日の夜から出掛けたっけ、と会長さん。
「エラとブラウに誘われちゃってさ、二泊三日で温泉とカニの旅なんだよ。明日の夜まで帰って来ないし、恐怖新聞は作れないよ」
未来を読めるフィシスがいないと…、と言われてみればその通り。恐怖新聞の売りは未来の出来事、占いが出来るフィシスさんの協力が無ければ作れません。旅行中でも頼めば占って貰えるでしょうが、会長さんはフィシスさんには甘いですから…。
「ごめん、フィシスが温泉とカニを楽しんでるのに、こっちの用事は頼めないよ」
しかも遊びの用事だなんて…、と会長さんが謝りましたが、ソルジャーは。
「え、フィシスの協力は要らないよ? 本物の恐怖新聞じゃないし」
「「「へ?」」」
本物じゃないことは百も承知ですが、記事はやっぱり本物っぽく作らないと駄目だと思います。読みたくなくても読んでしまうのが恐怖新聞、それは未来の出来事が書かれているからで…。そこは外せないと思うんですけど、ソルジャー、ちゃんと分かってますか?



恐怖新聞の怖いポイント、読まずにいられない新聞の記事。だからこそ読んでしまって寿命が百日縮む仕様で、読まずにゴミ箱にポイと捨てたら寿命は縮まないわけで…。
たとえ偽物の恐怖新聞でも、教頭先生が読まずに捨ててしまえば全く意味がありません。きちんと未来を書いてこそだ、と思った私たちですが…。
「別に未来の記事じゃなくてもいいんだよ! こっちのハーレイが読みさえすれば!」
危険と分かっていてもフラフラと釣られて読んでくれれば、とソルジャーは勝算があるようで。
「新聞の売りは特ダネとかだろ、でなきゃお得な情報だとか!」
「…身も蓋もないが、そんな所か…」
新聞を取る理由の多くはそれだな、とキース君。
「細かく挙げれば山ほど理由も生まれてはくるが、新聞を広げて一番に見るのは大見出しがついた最新のニュースで、特ダネともなれば読まずにいられないしな」
「そこなんだよ! こっちのハーレイの心を掴む特ダネ、それさえ書いたらハーレイは読むね!」
未来の出来事なんかは要らない、とソルジャーは自信満々で。
「目指す所は童貞卒業、それに相応しくエロイ記事! いつか役立ちそうな情報!」
「「「ええっ!?」」」
それは確かに教頭先生のハートを鷲掴みにしそうですけど、その記事、いったい誰が書くと?
「決まってるだろう、ぼくが書くんだよ! 豊富な知識と経験を生かして!」
現場からのニュースも必要だよね、とニコニコと。
「昨夜の青の間のニュースをお届け、もうこれだけで食らい付くよ! たとえ、ぶるぅが覗きをしていてハーレイがズッコケたって内容でもね!」
人は他人のそういう事情を知りたいものだ、とグッと拳を握るソルジャー。
「記事の一つはコレに決まりで、現場にいた記者ならぬぼくが迫真の状況を書く、と!」
他にもエロイ記事が満載、とソルジャーはアイデアを挙げ始めました。意味はサッパリ分かりませんけど、大人の時間に纏わる情報らしいです。
「ハーレイが鼻血で失神しない程度に、なおかつ食らい付くように! それが大切!」
「…君が書くんなら、ぼくはどうでもいいけどねえ…」
どうせハーレイは普段から何かと良からぬ写真なんかで楽しんでるし、と会長さん。
「それで、その新聞を読んでしまえば、童貞卒業までの日が縮まるわけだね?」
「そう、読む度に百日ずつね!」
今夜は楽しく読んで貰おう、とソルジャーは悪意の塊でした。教頭先生に届く新聞、今夜の所は真相は何も知らされないまま、童貞卒業までの日数が百日短縮されるだけ、と…。



かくして決まった恐怖新聞。ソルジャーは会長さんの家の一室を借りてウキウキ新聞作りで、出来上がったものを「ジャジャーン!」と見せに来てくれましたが、私たちが読んでも意味は不明だと分かってますから、「恐怖新聞」のロゴや日付を確認しただけ。
会長さんの方は端から端まで目を通してから、「よし!」と親指を立ててゴーサイン。
「これならいけるね、ハーレイは確実に食い付くよ。…恐怖新聞だと分かっていてもね」
暫くは狂喜新聞だけど、とダジャレもどきが。
「読む度に童貞卒業までの日数が百日縮んでしまいます、っていうのがねえ…。今夜はこれで大喜びだよ、百日縮んだと祝杯だろうね」
「多分ね。その状態が暫く続いて、実態を知れば恐怖の日々だよ」
ぼくに童貞を奪われる日がヒタヒタと近付いてくるわけで…、とソルジャーがクスッと。
「しかも恐怖新聞だと知らせに行くのは君だからねえ、もう間違いなくその日はドン底! そこを乗り越えても、開き直っても、やっぱり良心が痛んで恐怖な新聞なんだよ」
それでも読まずにいられないのが恐怖新聞、と本日の新聞を配達仕様に畳んでいるソルジャー。ポストに投げ込むような形に、恐怖新聞のロゴが見えるようにと。
「今夜はこれを放り込んで、と…。明日からの分はぼくのシャングリラで作ろうかな」
どうせ昼間は暇なんだから、とソルジャーならではの発言が。
「ソルジャーはけっこう暇なものだし、君たちも授業に出ている間はぼくと遊んでくれないし…。あ、でも明日は日曜だっけね、週末はこっちで作るのもいいね」
ともあれ今夜はこれをお届け、と恐怖新聞の第一号が折り畳まれて、後は配達を待つばかり。私たちも野次馬根性丸出し、お届け見たさに今夜は会長さんの家にお泊まり決定です。豪華な寄せ鍋の夕食の後はワイワイ騒いで、夜食も食べつつ深夜になって。
「そろそろかなあ? 丑三つ時って今頃だよね」
「午前二時だしね、届けに行くにはいい時間だと思うけど…」
出掛けるのかい、と会長さんがソルジャーに訊くと。
「まさか! 単に新聞を放り込むだけだよ、瞬間移動で!」
ついでに掛け声は音声を少々変えてお届け、とソルジャーがパチンと指を鳴らせば壁に中継画面が出現。教頭先生の家の寝室が映し出されて、ベッドで爆睡中の教頭先生も。
「さてと…。ここへ一発、恐怖新聞!」
ソルジャーが言うなり、中継画面の向こうで「新聞でーす!」と響いたソルジャーとは全く違う人の声、ベッドの上にバサリと新聞。教頭先生がゴソッと動きましたが、さて、この後は…?



「…新聞だと?」
うーん、と教頭先生が目覚めて手探り、部屋に明かりがパチリと点いて。
「はて…?」
本当に新聞が…、と掛布団の上の新聞を手にした教頭先生、たちまち瞳が真ん丸に。
「…恐怖新聞!?」
誰の悪戯だ、と言ってますから、恐怖新聞という存在は御存知なのでしょう。やっぱり普通に作っていたって会長さん絡みの悪戯扱い、喜ばれて終わるオチだったか、と見詰めていれば。
「…悪戯ではなくて本気なのか、これは? …ブルーからの愛の告白だろうか…」
読む度に百日も縮むとはな、と教頭先生の頬がうっすらと赤く。
「しかも記事がいい、あちらのブルーが作っているというわけか…。青の間の記事はブルーでなければ書けないからな」
ふむふむ…、と昨夜の青の間の状況を熱心に読んで、他の記事にも興味津々。これは知らなかったとか、勉強になるとか連発しながら読み進んで…。
「うむ、実に素晴らしい新聞だ! 恐怖新聞と書かれてはいるが、狂喜新聞と呼びたいくらいだ」
何処かで聞いたようなダジャレに、会長さんがチッと舌打ち。ハーレイとネタが被るなんて、と不快そうですが、そうとも知らない教頭先生は満面の笑みで。
「これから毎晩これが届くのだな、そして読む度にブルーとの初めての夜がグッと近付く、と」
読めば百日縮むのだしな、と教頭先生はソルジャーと会長さんの計算通りに勘違い。今夜だけでもう百日縮んだと歓喜の面持ち、恐怖新聞の第一号を丁寧に畳んで…。
「これは記念に取っておかねば…。そうでなくても勉強になるし、明日以降のも古紙回収に出すなどは考えられんな」
恐怖新聞は永久保存版だ、とベッドサイドの棚の上へと。
「明日もこの時間に届くのか…。届く所を起きて見てみたいが、サンタクロースのようなものかもしれないしな…」
起きて待っていたら来ないかもしれん、と明日以降は寝て待つつもりのようです。それから明かりがパチンと消されて、ソルジャーが中継画面を消して。
「この先は見なくていいと思うよ、感極まったハーレイがベッドで良からぬことをね」
「…あの内容だし、燃え上がるのも仕方ないねえ…」
真相を知るまではどうぞご自由に、と会長さん。恐怖新聞の第一号は狂喜新聞になっちゃいましたが、お届けは無事に完了です。明日からも午前二時のお届け、丑三つ時には恐怖新聞ですね?



教頭先生が大喜びした恐怖新聞第一号。日曜日は朝から何度も読み返し、ソルジャーは会長さんの家で新聞作りを。昨夜は自分の世界に帰っていないくせに青の間情報を書いたのだそうで…。
「このくらいの捏造、新聞記事にはありがちなんだろ?」
無問題! とソルジャーが言ってのけた偽の青の間情報、その夜に新聞を配達された教頭先生は嘘とも知らずに熱心に読んだと月曜日の放課後に聞かされました。会長さんとソルジャーから。
そんな調子で配達が続き、会長さんは三日どころか一週間も教頭先生を泳がせておいて、金曜日の夜に私たちにお泊まりの招集が。お泊まり用の荷物は持たずに登校してたんですけど、急なお泊まりはありがちですから慣れたもので…。
「かみお~ん♪ 今夜はハーレイの家にお出掛けなんだよ!」
みんなはシールドに入っていてね! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。会長さんとソルジャーだけが姿を現しての訪問だそうで、「そるじゃぁ・ぶるぅ」も私たちと一緒にシールドで姿を隠すとか。会長さんの家でソルジャーも交えて特製ちゃんこ鍋の夕食、後片付けが済んだら出発で。
「さて、行こうかな?」
ソルジャーが腰を上げ、会長さんも。
「ハーレイの顔が楽しみだねえ…。狂喜新聞が恐怖新聞に変わる瞬間がね!」
今も楽しく読み返しているし、という声と同時に青いサイオンがパアアッと溢れて、私たちは教頭先生の家のリビングへと瞬間移動。会長さんとソルジャーがスッと進み出て…。
「「こんばんは」」
「あ、うむ…。いや、こんばんは…!」
教頭先生がソファの後ろに慌てて隠した恐怖新聞。会長さんが「隠さなくてもいいのにねえ?」とソルジャーの方を向き、ソルジャーも。
「隠すことはないと思うんだけどねえ、恐怖新聞。もう相当に縮まったかな?」
六百日ほど縮んだものね、とニコニコと。
「君の童貞卒業までの日、一年半ほど縮まったわけで…。感想は?」
「そ、それは…。嬉しいです…」
いつも素晴らしい記事をありがとうございます、と教頭先生は素直に頭を下げました。ソルジャーは「どういたしまして」と笑顔を返して。
「これからも順調に縮めるといいよ、童貞卒業までの日数! ぼくも大いに応援するから!」
「は、はいっ!」
その日を目指して精進します、と決意も新たな教頭先生だったのですが…。



「ハーレイ、精進するのはいいんだけどねえ…。その新聞、恐怖新聞だよ?」
普通は寿命が縮むんだけど、と会長さんが口を挟みました。
「ところが君の寿命は縮みそうもない。…今から縮むかもしれないけどさ」
「は?」
怪訝そうな顔の教頭先生。会長さんはフンと鼻を鳴らすと。
「そこに書いてある童貞卒業、ぼくが相手だとは何処にも書かれてないんだけどねえ?」
「…それがどうかしたか?」
わざわざ書くほどのことでもないし…、と教頭先生はまるで疑ってもいないようです。ソファの後ろに隠してあった恐怖新聞を引っ張り出して改めて確認、一人で納得してらっしゃいますが。
「分かってないねえ、恐怖新聞だと言った筈だよ、寿命が縮むと。…君の童貞卒業の日には、ぼくじゃなくってブルーが相手をするんだけれど?」
そこのブルーが、と会長さんが指差し、ソルジャーが。
「その通り! ぼくが君の童貞を奪いに来るっていうのが恐怖新聞のコンセプト!」
「あ、あなたが!?」
「そう、ぼくが! 君がブルーだけだと守り抜いて来た、筋金入りの童貞をね!」
美味しく楽しく奪わせて貰う、とソルジャーが宣言、教頭先生は顔面蒼白。
「…そ、そんな…! 私は初めての相手はブルーだと決めておりまして…!」
「知っているから奪いに来るんだよ、そのための予告が恐怖新聞!」
奪いに来る日が近付いて来たら残り日数の表示に変わるから、とソルジャーが笑みの形に唇を吊り上げ、会長さんが。
「そういう仕様になってるんだよ、恐怖新聞。…君はブルーとヤるってわけだね、ぼく一筋だと散々言ってたくせにブルーと!」
「い、いや、私にはそういうつもりは…!」
「つもりが無くても、これが真実! ブルーとヤろうと六百日も期間短縮したわけで!」
もう最低な男だよね、と会長さんは激しく詰って、スケベだの何だのと罵詈雑言で。
「ぼくにこうして怒鳴り込まれて、寿命が縮んだかもだけど…。それでも君は読み続けるんだ、ブルーが届ける恐怖新聞を毎晩ね!」
「よ、読まなければ縮まないのだろう…! これ以上は…!」
そしてブルーも来ない筈だが、と教頭先生は真っ青ですけど、会長さんが返した答えは。
「よく考えたら? 恐怖新聞だよ、読んじゃ駄目だと分かっていても読むのが恐怖新聞!」
君だってきっと読み続けるさ、と冷たい微笑み。恐怖新聞、それでこそですもんねえ…。



もう読まない、と泣きの涙の教頭先生を放って会長さんは帰ってしまいました。シールドの中にいた私たちを引き連れて瞬間移動で。ソルジャーも一緒に戻って、深夜になって。
「さてと、ハーレイの決心はどんなものかな?」
読まないと言っていたけどねえ…、とソルジャーが出現させた中継画面。教頭先生は明かりを消した寝室でベッドにもぐってらっしゃいますけど…。
「新聞でーす!」
例によって声色が変えてある音声、ベッドの上にバサリと新聞。教頭先生がゴソリと身じろぎ、やがて明かりがパッと灯って…。
「よ、読んではいかん…!」
捨てるだけだ、と恐怖新聞を掴んだ教頭先生、けれど視線は紙面に釘付け。
「…青の間スクープ…」
何があったのだ、と食い入るように読んでらっしゃる本日の特ダネ、青の間スクープ。つまりは童貞卒業までの日数、また百日ほど縮んだわけで。
「…し、しまった…!」
読んでしまった、と愕然としてらっしゃいますけど、時すでに遅し。ソルジャーは中継画面を消すなりガッツポーズで、勝利の笑みで。
「そう簡単には逃がさないってね! 明日からもガンガン、ハーレイの心を掴む記事!」
「スクープを乱発するのかい?」
今日みたいな感じで、と会長さんが訊くと。
「ダメダメ、それじゃ慣れてしまって食い付かなくなるし! ぼくも色々、知恵を絞って!」
愛読者様の心に訴える記事を書かなければ、とソルジャーも楽しんでいるようです。聞けばキャプテンも紙面作りにアイデアを出しているとかで。
「同じハーレイ同士だからねえ、似ている所は似てるしね? レイアウトとかにはハーレイの案を積極的に取り入れてるよ」
目に付きやすい記事の配置なんかもあるし…、と恐怖新聞作りはソルジャー夫妻の日々の楽しみにもなりつつあって。
「青の間情報もね、ハーレイもまんざらじゃないんだよ。覗きはダメでも、文章の形で披露するのは悪い気分じゃないらしくって…」
だから現場のナマの情報をガンガンお届け、ハーレイ視点の記事なんかもね、と笑顔のソルジャー。教頭先生に届く恐怖新聞、日に日にグレードアップしそうな感じです。それを読まずに逃げ切るだなんて、ほぼ不可能かと思いますけどね…?



恐怖新聞作りに燃えるソルジャー、読むまいと頑張っては誘惑に負ける教頭先生。両者のバトルは入試期間だのバレンタインデーだのも乗り越えて続き、二月の末が近付いた頃。
「いよいよカウントダウンなんだよ!」
エックスデーは雛祭りに決めた、とソルジャーが本日の恐怖新聞を抱えてやって来ました。
「雛祭りってアレだろ、お雛様の結婚式なんだろう?」
「んーと…。まるで間違ってはいないかな、うん」
会長さんが返すと、ソルジャーは。
「結婚式の日なら吉日、そこでハーレイが童貞卒業! 今日から秒読み!」
ほらね、と示された恐怖新聞のロゴの下には「読むと百日縮みます」と書かれていたお馴染みの警告文の代わりに、残り日数が書き込まれていて。
「…ハーレイの震え上がる顔が目に見えるようだねえ、ここまで縮んでしまったってね」
自業自得だけど、と会長さん。
「でもねえ、恐怖新聞だしね? 残り日数も順調に縮むんだろうねえ…」
「それはもう! 腕によりをかけて紙面作りをするからね!」
逃がすものか、と闘志に溢れるソルジャー、会長さんはクスクスと。
「…そして雛祭りの日がやって来る、と…。どんなにハーレイが震えていてもね」
「そうだよ、その日に恐怖新聞を読んだらおしまいなんだよ」
このぼくが出て行って童貞を奪う、とソルジャーは拳を突き上げてますが、それって冗談でしたよねえ? 本気で奪うつもりは無くって、あくまで脅しているだけで…。
「そうだけど? 今回のコンセプトは恐怖新聞、最後まで読んだらどうなるか、っていうだけのスリルに満ちたイベントなんだから!」
誘惑に負けて読んでしまったハーレイが悪い、と言うソルジャー。
「今日まで守って来た童貞を失くしてブルーに顔向け出来なくなるのも、恐怖新聞を読み続けたからで! しかも読んだら永久保存で残しているっていうのがねえ…」
「あれも一種の開き直りだよね、一度読んだら二度、三度とね。そしてキッチリ保存なんだよ」
それだけでも相当に罪が重い、と会長さんはバッサリと。
「普通の新聞だったらともかく、エロイ記事しか無いんだよ? そんなのを残して何度も読み返すなんて、スケベ以外の何なんだと!」
童貞を奪われてしまうがいい、と助ける気は微塵も無いのだそうで。教頭先生のお宅に放り込まれる恐怖新聞、今日からカウントダウンです。雛祭りの日の夜に残り日数がゼロの新聞が届き、ソルジャーが教頭先生の童貞を奪うという勘定。教頭先生、どうなるんでしょう…?



カウントダウンな恐怖新聞、教頭先生はヤバイと大慌てなさったらしいですけど、なにしろ相手は恐怖新聞。読まずにいられない新聞なだけに、毎晩、ウッカリ読んでしまって、開き直って保存の日々。とうとう雛祭りの日が来たわけで…。
「いよいよ今夜でおしまいってね!」
昨日ので残りが百日だったからね、とソルジャーが手にする恐怖新聞は残り日数がゼロで特別構成らしいです。これでフィナーレ、読者サービスてんこ盛り。
「青の間特集は特に力を入れてあるんだよ、ぼくのハーレイも色々と考えてくれて…」
目を離せない素晴らしい特集になった、と得意満面で語るソルジャー。会長さんも新聞を横から覗き込んでみて「いいね」と絶賛、相当にエロイ出来らしくって。
「もう間違いなくハーレイは読むね、これで終わりだと分かっていてもね」
「君も見物に来るんだろう? 最後の恐怖新聞配達」
今日はぼくから手渡しだしね、とソルジャーが言えば、会長さんは「うん」と。
「手渡されたら直ぐにゴミ箱に放り込んだらいいのにねえ…。そうせずに読んでしまうのが恐怖新聞の怖い所だね、ぼくと君とが見ているのにねえ?」
「ぼくたちの前で読み耽った挙句にドツボだってね、今夜のハーレイ!」
君には詰られ、ぼくにはアッサリ見捨てられ…、とソルジャーは方針を変えていませんでした。今日で終わりだ、と教頭先生をベッドに押し倒し、一瞬だけ期待を持たせておいて…。
「「「回収する!?」」」
何を、と声を上げた私たちですが。
「恐怖新聞に決まっているだろう! 新聞の末路は古紙回収だよ、ハーレイの手元には何一つ残らないってね!」
「らしいよ、ブルーの渾身の作の恐怖新聞、読者様の残り日数が尽きたら用済みだってさ」
もちろん今日の特別構成の新聞だって…、と会長さん。ということは、教頭先生、会長さんに罵倒されまくって、ソルジャーには童貞を奪われるどころか大事に保管して来た恐怖新聞を奪い去られて、美味しい所は何も残らないと…?
「そういうものだろ、恐怖新聞! 命を失くしておしまいになるか、自分の評価やコレクションとかがパアになるかの違いだけだから!」
ねえ? とソルジャーが会長さんに同意を求めて、会長さんも。
「毎日あれだけ読み込んだんだし、ハーレイもきっと本望だよ。恐怖新聞!」
最後の配達がもう楽しみで…、と浮かれまくっている鬼が二人ほど。私たちはシールドの中から高みの見物の予定ですけど、教頭先生、最後の恐怖新聞を読んだら会長さんからは酷い評価で、ソルジャーが予告していた童貞を奪われるというイベントも無しで…。



「教頭先生、一巻の終わりというわけでしょうか?」
それっぽいですが、とシロエ君が溜息をついて、ジョミー君が。
「恐怖新聞、元々そういうヤツだしね…。寿命が無くなったら終わりなんだし」
「今夜で最後になる勘定か…」
何もかもがパアか、とキース君。教頭先生が今日まで築いて来られた会長さん一筋とやらが崩壊する上、崩壊しても報われるわけではないというのが空しいです。それでもソルジャーの力作の恐怖新聞の最後の号を教頭先生は読むに決まっているという所が…。
「…怖いですねえ…」
恐怖新聞、とマツカ君が呟き、スウェナちゃんも。
「読まずにいられないっていうのがねえ…」
なんて恐ろしい新聞だろう、と震えるしかない恐怖新聞。最後の配達、もうすぐ出発らしいです。教頭先生、恐怖新聞の怖さを思い知っても懲りないでしょうが、暫くの間は多分、ドン底。せめて最後の特別構成の恐怖新聞でお楽しみ下さい、きっと素敵な記事ばかりですよ~!



            読みたい新聞・了


※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 ジョミー君が読みたくなった恐怖新聞、とんでもない方向へ行ってしまったわけですけど。
 ある意味、寿命が縮む仕様で、教頭先生にピッタリな品。ソルジャー、流石な腕前です。
 去年はコロナで大変でしたけど、今年はどうだか。いい年になるといいですねえ…。
 次回は 「第3月曜」 2月15日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、1月は元老寺での元日から。新年早々、災難な目に遭う人が…。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv











(行っちゃった…)
 乗り遅れちゃった、とブルーが見送ったバス。学校の側のバス停で。
 走り去ってゆくバスの後姿、あれに乗って帰る筈だったのに。これに乗ろう、と決めているわけではないけれど。何時のバスに乗って帰ってもいいのだけれど。
 ただ、なんとなく「この時間」だという気がするバス。学校が終わった後にバス停に行ったら、走って来て自分を乗せてくれるバス。
(乗れると思っていたんだけどな…)
 友人たちと別れた時には、そのつもり。いつものバスで家に帰ろうと。
 けれど、途中でちょっぴり寄り道。校門の側にある学校の花壇、其処に咲いていた幾つもの花。それに惹かれたから、眺めていた。立ち止まって順に、花の名前を確かめて。
(綺麗だけど、ハーレイと一緒には見られないよね、って…)
 自分の家の庭だったならば、「綺麗だね」と二人でゆっくり眺められるけれど。のんびり座って語り合うことも出来るけれども、此処は学校。
 ハーレイは教師で自分は教え子、花壇の側でデートは出来ない。家の庭とは違うから。
 色々な種類の花壇の花たち、ハーレイが「この花はだな…」と得意の薀蓄を聞かせてくれても、花に纏わる伝説なんかを教えてくれても、恋人ではなくて「ハーレイ先生」。
 学校の花壇を二人で見るなら、そうなってしまう。素敵な話を聞けたとしても。
 ちょっぴり寂しい、と囚われた思い。学校と家では違い過ぎるよ、と。
 同じ花壇の花にしたって、何処で出会うかで違うんだ、と考え込んだりしている内に…。
(時間、経っちゃった…)
 余裕を持ってバス停に行ったつもりが、目の前で走り去ったバス。乗降口を閉ざしてしまって、次のお客が待つバス停へと。



 失敗した、と思うけれども、行ってしまったものは仕方ない。追い掛けて走れる体力は無いし、それが出来るなら、バス通学などしていないから。
(えーっと…)
 次のバスは、と時刻表を眺めて満足した。直ぐに次のがやって来る。ほんのちょっぴり、此処で待つだけ。暑くも寒くもない季節だから、待っていたって苦にはならない。空も青くて、通り雨も来そうにないのだから。
(ハーレイと二人で待っていたら、もっと早いんだけど…)
 乗り損なったね、とハーレイの顔を見上げて、「直ぐに来るさ」と微笑んで貰って。色々な話をしている間に、次のバスが滑り込んで来る。待った気持ちさえしない間に。
 きっとそうだよ、と幸せな夢を描いている間に、やって来たバス。時刻表通りに走って来たし、お気に入りの席も空いていたから、問題無し。
(いつものバスと変わらないよ)
 窓から外を眺めた景色も、乗り心地だって。他の乗客の年恰好も、ちっとも違っていはしない。いつものバスと同じ雰囲気、変わらない空気。一本遅れただけなのだから。
(もっと遅くなったら、お客さんだって…)
 今の時間とは違うのだろう。仕事帰りの人が増えるとか、上の学校の生徒が大勢だとか。
 けれど、普段と何処も違いはしないバス。待っていた時間もほんの少しで、家の近くのバス停に着いた時にも、さほど遅くはなっていないから。
(此処で寄り道したりもするしね?)
 バス停から家まで歩く途中の住宅街。庭に咲いている花を眺めたり、其処の住人と話をしたり。足を止めたら、もうそれだけで経ってゆく時間。バスを一本待っているより、ずっと多めに。



 だからいつもと変わらないよ、と歩いて帰り着いた家。
 「おかえりなさい」と迎えてくれた母も普段通りで、「今日は遅いのね」とも言われない。少し遅れた時間の長さは、寄り道よりも短めだから。
(ホントにいつもとおんなじだよね)
 乗り遅れちゃった、とバスを見送った時には、少しだけショックだったけど。失敗したと思ったけれども、その後は何も変わらない。次のバスに乗って、戻ったいつもの時間の流れ。
 おやつを食べに出掛けたダイニングの時計が示す時間も、おやつが美味しいと感じる気持ちも、何処も変わっていはしない。
(ほんの一本、遅れただけだし…)
 大して経ってはいなかった時間。ハーレイが仕事の帰りに寄ってくれても、慌てる必要すら無い時間。おやつの途中でチャイムが鳴って大慌てだとか、着替えも済んでいなかっただとか。
 そんな時間になっていたなら、大変だけれど。
 ゆっくりおやつを食べるどころか、急いで制服を脱いで着替えて、部屋から一歩も出ないとか。母が「おやつよ」と呼んでくれても、「今日は要らない!」と部屋から叫んで。
 ハーレイが来そうな時間がすっかり過ぎてしまったら、「やっぱり食べる…」と言うだとか。



 幸い、そうはならなかったから、おやつのケーキをのんびりと食べて、紅茶もおかわり。新聞もじっくり目を通してから、二階の自分の部屋に帰って、座った勉強机の前。
 部屋の時計も、やっぱりいつもと変わらない。遅めの時間を指してはいないし、バスに目の前で去られたことが嘘のよう。確かに行かれてしまったのに。時刻表を見て、次を待ったのに。
(乗り遅れたって、次のバスがちゃんと来るもんね?)
 そのお蔭だよ、と思い返した時刻表。頼もしいバスは、待っていれば直ぐに次の便が走って来てくれるから。町の中を走っているバスなのだし、田舎のバスとは違うから。
(田舎だったら、一時間に一本だけだとか…)
 そういう所もあるらしい。暮らしている人の数が少ない場所では、バスも少なめ。一時間の間に一本だったらまだ多い方で、一日の間に三本だけという所もあると何処かで聞いた。
 田舎暮らしが好きな人たちは、一日にバスが三本だけでも気にしない。其処がいいから、と町を離れた所で暮らす。山の奥とか、そんな所で。
(乗り遅れちゃったら、どうするのかな?)
 一日に三本だけのバス。今日の自分みたいに走り去られたら、次のバスは当分来てはくれない。バス停に立って待っていたって、何時間もバスは来ないまま。
 バスが来ないなら、ルール違反の瞬間移動か、それが無理なら家に戻って車を出すとか。バスの数さえ少ない田舎は、きっとタクシーも無いだろう。町なら直ぐに来てくれるけれど。



 大変そう、と思った田舎の暮らし。一日にバスが三本だけ。タクシーだって無い場所で。
 乗る予定だったバスを逃したら、呆然とするしかなさそうな場所。行ってしまった、と。
(でも、きっとなんとかなるんだよね?)
 一本逃してしまったどころか、最終のバスに乗り遅れたって、用事があるなら誰かが車で送って行ってくれるとか。「ついでですから」と、親切に。
 昼間だったら、「このくらいの距離がなんだ」と歩いてゆくとか、自転車に乗ってゆくだとか。住んでいたなら、方法は幾つもあるのだろう。
 そうでなければ、そんな所でわざわざ暮らしはしないから。
(ぼくだと、とっても困るんだけど…)
 一日にたった三本だけのバスに乗り遅れてしまったら。田舎でバスに走り去られたら。
 けれども、それは自分が立ち寄っただけの人間だからで、住んでいる人たちは平気なのだろう。「のんびり歩いて行くことにしよう」とか、「明日でいいや」とか、ゆったり構えて。
(急ぐ用事でなかったら…)
 いつかは次のバスがやって来るのだし、最終バスが走り去っても、次の日にはまたバスが来る。それで充分、間に合うんだよね、と思った所で気が付いた。
 行っちゃった、と今日の自分が見送ったバス。次のバスが直ぐに来たけれど。
 それに、田舎の路線バス。一日にたった三本だけとか、一時間に一本しか来ないとか。
(…バスだから…)
 いつも走っていて次のが来るから、乗り遅れても平気なだけ。次があるさ、と考えるだけ。その日の内には来なかったとしても、次の日にバスはやって来る。
 乗り遅れても、それでおしまいにはならないバス。
 次は必ずやって来るから、来ないわけではないのだから。



 そうじゃなかった、と頭に浮かんだ白い船。前の自分が生きていた船。
(…シャングリラ…)
 あれはそういう船だったんだ、と白い鯨を思い出した。乗り損なったら、次のは来ない船。白い鯨に乗れなかったら、ミュウは生きてはいけないのに。
(シャングリラ、走って行っちゃった…)
 今日の自分が乗り遅れてしまったバスみたいに。目の前で走り去ったみたいに。
 アルタミラの地獄から逃げ出す時には、仲間たちを乗せて飛び立ったけれど。生き残った仲間を一人残らず収容してから、燃える星を後にしたけれど。
 アルテメシアの時には違った。衛星兵器に狙い撃ちされて、宇宙へと逃げて行った時には。
(…シロエ…)
 乗せて行けなかったセキ・レイ・シロエ。今も歴史に名前が残るミュウの少年。
 まだ十歳の子供だったシロエは明らかにミュウで、ジョミーが接触していたのに。ミュウの子供だと分かっていたのに、シロエを船に乗せ損なった。
(シロエのお父さん…)
 サイオニック研究所にいた、シロエの養父。彼が開発した、雲海に潜むサイオン・トレーサー。それの前には、役に立たなかった船を守るためのステルス・デバイス。
 シャングリラの位置は人類に知れて、衛星兵器で攻撃された。超高空から来る高エネルギーは、防ぎ切れないものだったから…。
 逃げることを決断するしか無かった。白いシャングリラが破壊される前に、広い宇宙へ。



 船が宇宙へ飛び去った後は、消えてしまったミュウの箱舟。雲海の星、アルテメシアから。
 それに乗れたら、ミュウたちは生きてゆけるのに。船の中が世界の全てであっても、生きてゆくことが出来たミュウの楽園に。
 行ってしまったシャングリラ。次のシャングリラはもう来なかった。どんなに待っても、箱舟は二度と来ないまま。路線バスなら次が来るけれど、シャングリラは宇宙に一つだけだから。
(シロエのお父さんは知らなかったんだ…)
 自分の息子を、シャングリラに乗せ損なってしまったことを。自分が作り出した機械のせいで、シロエが箱舟に乗り遅れて置いてゆかれたたことを。
 血の繋がりの無い家族だとはいえ、シロエの父はシロエを可愛がった筈。そうでなければ、後のシロエは生まれない。両親を、家を忘れまいとして、システムに逆らい続けた彼は。
 シャングリラが宇宙に去ってしまってから、シロエの父は四年ほどシロエを手元で育てて、愛を注いで、目覚めの日を迎えて送り出して…。
(お父さん、知らないままだったのかな…)
 自分の息子がどうなったのか、最後まで。ミュウだったことも、キースに殺されたことも。
 シロエの名前が宇宙に広まった頃には、何歳くらいだったのだろう?
 息子のことだと気付いただろうか、名前を耳にしたのだろうか?
 歴史に名前を残した少年。キースの心にSD体制に対する疑問を深く刻んで、反旗を翻させるに至った切っ掛けの一つ。今は誰でも、シロエの名前を歴史の授業で教わるけれど。
(お父さんたちの手記、あるっていう話は聞かないし…)
 きっと寿命を迎えてしまったのだろう。シロエの名前が広まる前に。
 シロエがどうなったのかも知らずに、彼をシャングリラに乗せ損なったとも気付かないまま。



 雲海の星を離れて去ったシャングリラ。行ってしまったミュウの箱舟。
(あれから後に、アルテメシアで生まれたミュウの子供たちだって…)
 シャングリラには乗り損なった。白い鯨がまだあったならば、その子供たちもシロエも、きっと乗ることが出来ただろうに。船の中でしか生きられなくても、殺されはせずに。
 けれど、アルテメシアを出て行った船には乗り込めない。
 走り去って行った路線バスならば、次のがやって来るけれど。今日の自分がそうだったように、バス停で次のバスを待ったら、乗り込めるバス。
 一日に三本しか来ない田舎のバスでも、次のバスは必ず来てくれるけれど…。
(次のシャングリラは、もう来なかったし…)
 乗り損なったミュウの子供たちには、乗せてくれる船はやって来なかった。どんなに待っても、次の箱舟は来てくれないまま、皆、殺されていったのだろう。シロエのように。
 赤いナスカが滅ぼされた後、シャングリラは十七年ぶりにアルテメシアに戻ったけれど。
 人類軍との戦いに勝利を収めて、アルテメシアを手に入れたけれど、そうして箱舟が戻って来る前。行ってしまったまま、次が来ないで放っておかれた十七年の間。
 何人の子供が乗れなかったのだろう、あの船に…?
 白いシャングリラに乗り遅れたばかりに、何人のミュウの子供が命を失くしただろう。
(資料、あるよね…)
 調べればきっとあるだろうけれど、見る勇気は無い。恐ろしくて。
 けれど、乗り遅れた子供たちはいた。シロエの他にも、何人ものミュウの子供たち。
 次のシャングリラは来なかったから。乗り遅れた子たちを乗せてゆくために、次の箱舟が来てはくれなかったから、殺されていった子供たち。
 路線バスなら、次が来るのに。最終バスが出た後にだって、次の日にまた走って来るのに。



 乗せてやれなかった子供たち。白いシャングリラに、ミュウの箱舟に。
 乗り損ねたのは、子供たちのせいではなかったのに。あの船があれば、子供たちはそれまでの子たちと全く同じに、箱舟に乗れる筈だったのに。
 アルテメシアというバス停に立って、其処に行ける時を待ちさえすれば。シャングリラに連れてゆくための船が、小型艇が迎えにやって来るのを待っていたなら。
(…それまでの子たちは、みんなそうして…)
 白い箱舟に乗り込んだ。救助班の者たちに助け出されて、シャングリラへと。殺されてしまった子もいたのだけれども、大抵は上手くいっていた。無事にシャングリラに迎え入れられた。
(シャングリラがあのまま、アルテメシアにいたら…)
 乗れる筈だった子供たち。シロエも、その後に生まれた子たちも。
 今日の自分は、うっかりバスに乗り遅れたけれど、子供たちは何もしていない。失敗など一つもしてはいなくて、ただシャングリラが無かっただけ。
 いくら待っても来ない箱舟、それに乗せては貰えない。その箱舟が遠くに行ってしまったのは、白い鯨がもう無かったのは、子供たちがウッカリしていたからではなかったのに。
 子供たちはただ生まれて来ただけ、シロエも置いてゆかれただけ。
(…アルテメシアを出よう、って言ったの…)
 自分だった、と噛んだ唇。
 前の自分が下した決断。これ以上船が傷ついたならば、宇宙に出ることも出来なくなるから。
 シャングリラは沈んでしまうだろうから、その前に、と。
 「ワープしよう」と命じた自分。
 旅立つ時だと、アルテメシアを離れようと。
 あのまま殲滅されないためには、必要だった決断だけれど。白いシャングリラを、ミュウたちの未来を守るためには、他に道など無かったけれど…。



 前の自分が決めた旅立ち。アルテメシアを離れること。
 白いシャングリラは行ってしまって、子供たちは箱舟に乗り損なった。みんな、バス停に立っただろうに。それまでの子たちと全く同じに、バス停で待っていたのだろうに。
 乗せて行ってくれるバスが来るのを。白いシャングリラがやって来るのを。
 子供たちは何も悪くないから、本当だったらバスは来た筈。寄り道していて、バスが来る時間に遅れたわけではないのだから。…子供たちはバス停で待っていたのに、そのバスは…。
(ごめん…)
 ぼくのせいだ、と今頃、気付いた。前の自分が行かせてしまったシャングリラ。アルテメシアというバス停で待つ、子供たちをもう乗せてやれない所へと。
 次のシャングリラは来ないのに。子供たちを乗せるバスは無いのに。
(…シロエも、他の子供たちも、みんな…)
 前のぼくのせいで乗り遅れちゃった、と心の中に重い塊。誰も悪くはなかったのに。白い箱舟が行ってしまったのは、前の自分のせいだったのに。
(シロエのお父さんが作った機械も悪いんだけれど…)
 どうしてあの時、微塵も思わなかったのだろう。
 シャングリラが宇宙へ去ってしまったなら、乗り遅れるだろう子供たちのこと。今までに迎えた子たちと同じにバス停にいても、バスが来てくれない子供たちのことを。
(…シロエで分かっていた筈なのに…)
 乗り遅れる子供が一人いること。一人いるなら、これから先にも何人もいると。
 けれど、謝りもしなかった。置き去りにしてゆく子供たちに。アルテメシアに残すシロエに。
 「ごめん」と、「これしか道が無いから」と。
 その一言を残しもしないで、船ごと宇宙に飛び去って行った。子供たちはきっと、あれから後も待っていたのに。バス停に立って、白い鯨を。迎えに来るだろう、ミュウの箱舟を。



 アルテメシアを離れた後に、自分を責めていたジョミー。シロエを連れて来られなかった、と。前の自分は、ジョミーに言葉を掛けたけれども。
 「事の善し悪しは、全てが終わってみなければ分からないさ」と言ったけれども、そんな言葉を口にした自分。…本当に分かっていたのだろうか、置き去りにされた子供たちの命。
 シロエの他にも何人もいると、その子供たちを自分は見捨てたのだ、と。
(ミュウの未来を守るためには、シャングリラが無いと駄目で…)
 沈んでしまえば、もうミュウの子供たちを救い出すことさえ出来ない。だからこそ船を守ろうと決断したのだ、と理屈では分かる。前の自分もそう考えた。ミュウの未来を、と。
 そうは言っても、命の重さ。それは乗り損ねた子供たちも同じで、一人一人に違う未来があった筈。白いシャングリラの中が全ての世界であっても、個性に合った生き方が。
(…船に乗れてたら…)
 どんな大人になったのだろうか、シロエも、置き去りにされた子たちも。
 今の今まで、考えさえもしなかった。何人の子供を置き去りにしたか、あった筈の未来を自分が奪ってしまったのかを。
 あの時、ワープを決めたことで。シャングリラを宇宙に旅立たせたせいで。



(ぼくが決めちゃった…)
 子供たちを残して船を出すこと。バスを行かせてしまうこと。…次のバスは二度と来ないのに。バス停に立って待っていたって、走って来ないと知っていたのに。
(…ごめんね、シロエ…。みんな、ごめんね…)
 ホントにごめん、と心の中で子供たちに何度も謝っていたら、聞こえたチャイム。仕事の帰りにハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり訊いてみた。
「あのね…。ハーレイ、アルテメシアのデータ、知ってる?」
「はあ?」
 アルテメシアって…。今じゃシャングリラの森と、前の俺たちの記念墓地と…。
 それから他に何があったっけか、有名な観光名所とかか?
「ううん、今のアルテメシアのデータじゃなくて…。ずっと昔の」
 前のハーレイに訊いてるんだよ、あの頃のアルテメシアのことを。
 テラズ・ナンバー・ファイブを倒した後に、いろんなデータを引き出してたよね?
 そのデータのことを訊きたいんだけど…。
「お前の両親とかのデータは、もう伝えたが?」
 前のお前の誕生日だとか、養父母の名前に、育った家に…。
 全部教えてやった筈だぞ、前の俺が手に入れたデータは、全部。
「それじゃなくって、子供たちのデータ…。それは無かった?」
 アルテメシアの子供たちだよ、テラズ・ナンバー・ファイブなら持っていそうだけれど…。
「子供たち?」
 何なんだ、それは。確かに大量に持っていやがったが、それがどうかしたか?
「やっぱり、あった? だったら、これもあったかな…?」
 シャングリラに乗れなかった子供たちのデータ。
 乗り遅れちゃったミュウの子供たちだよ、シャングリラが行ってしまったから。
 アルテメシアからいなくなったから、乗れなくなってしまった子たち…。



 置いて行かれたシロエみたいに…、と尋ねたら。白いシャングリラに乗り損なったミュウの子供たちのデータを、見ていないかと問い掛けてみたら。
「そのデータか…」
 ミュウと判断された子供たちだな、俺たちがあそこを出て行った後に。
 成人検査で引っ掛かったとか、養父母に通報されたとかで。
「知ってるの?」
 そういうデータもちゃんとあったの、前のハーレイは目を通していたの…?
「まあな。きちんと見ないといけないだろうが、ミュウが生まれる割合とかも知らないと」
 どういうケースでミュウになるのか、そういったデータも必要だ。人類と戦ってゆくのなら。
 キャプテンの大事な仕事の内だな、引き出したデータのチェックってヤツは。
 しかし、シロエを除いた特殊例は分からん。
 成人検査を無事に通過したミュウの子供が、それから後にどうなったのかは。
 上手く隠れて生き延びたのか、何処かでバレて消されちまったか。
 あの頃の俺が見ていたデータじゃ、シロエが例外だとされてたわけだし、成人検査を通過出来た子はいないんじゃないか?
 後でマツカの存在を知ったが、あれだって特殊例だろう。幾つもあったとは思えない。ミュウの因子を持ってた子供は、アルテメシアで消されちまっていたんだろうな。
「その子供たちって…。何人くらい?」
 殺されちゃったミュウの子供は、何人いたの?
 前のハーレイ、それも見たでしょ。シロエが例外だったんだ、って知っているなら。



 それを教えて、とハーレイを真っ直ぐ見詰めた。前の自分たちがアルテメシアを後にしてから、ミュウと判断された子供たち。白いシャングリラに乗れずに終わった子供たちの数。
 知ることはとても怖いけれども、ハーレイが知っているのなら。その人数が分かっているなら、自分は知らねばならないだろう。
 その子供たちを置き去りにしたのは、前の自分の命令だから。子供たちが乗れる筈だった船を、待っていたバスを行かせてしまったのは自分だから。
「…お前がそれを知ってどうする」
 どうして知ろうと思ったんだ、と鳶色の瞳が見据えて来るから、正直に答えた。
「謝りたいから…。その子供たちに」
 今日まで気付いていなかったけれど、前のぼくのせいなんだよ。シロエや、他の子供たち…。
 ぼくが「ワープしよう」って決めたせいでね、その子たちを置いて行っちゃった…。
 子供たちはきっと、シャングリラに乗りたかったのに。…乗るために待っていた筈なのに。
 バス停でバスを待つ時みたいに、シャングリラっていう名前のバスを。
 だけど、シャングリラは行っちゃったから…。
 バスだったら、ウッカリ乗り遅れたって、次のバスがちゃんと来るけれど…。シャングリラは、そうじゃなかったから。次のシャングリラは来なかったから…。
 だから、謝りたいんだよ。乗り遅れちゃった子供たちに。…みんな、ごめんね、って。
「なるほどな…。シャングリラとバスとは恐れ入ったが…」
 どうやって思い付いたかは知らんが、そういうことなら、人数は言わん。
 データは今も覚えちゃいるがな、お前に教えるつもりは無いな。
「…なんで?」
 知ってるんなら、どうして教えてくれないの?
 ぼくはホントに謝りたくって、子供たちの数を知りたいのに。…何人、置いて行ったのか。
 前のぼくのせいで乗り遅れた子たち、何人いたのか、きちんと聞いて謝りたいのに…。



 シロエの他に何人いたの、と重ねて訊いても、ハーレイは「駄目だ」の一点張りで。
「お前、自分を責めるから…。今もそうだろ、今のお前のせいじゃないのに」
 前のお前の方にしたって、あの時は仕方なかったことだ。
 俺でさえも思いもしなかった。ワープなんかは頭に無くって、防御するだけで精一杯で。
 キャプテンの俺でも思い付かないのに、誰がそいつを考え出すんだ?
 もしもお前が言わなかったら、シャングリラは沈んでしまっただろう。…ジョミーのシールドが限界点に達した時点で、守り切れなくなってしまって。
 致命的な打撃を食らった後では、もう宇宙には出られないからな。
 お前がワープを決めたお蔭で、シャングリラは無事に逃げ切れた。アルテメシアから宇宙へ出てゆけたから、最後は地球まで行けたんだ。
 …そしてSD体制を倒して、ミュウの未来を手に入れたってな。
 お前は何も間違えちゃいない。あれは必要な決断だった。ああしなければ、何もかもがあそこで終わっちまって、それきりになっていただろう。…ミュウの時代は来ないままでな。
「でも…。それと、あの子供たちの命は別だよ」
 命の重さは、みんな、おんなじ。…仕方ないから、って消えていい命は一つも無いよ。
 お願い、教えて。…前のぼくが置き去りにしちゃった子供は、何人いたのか。
「…お前の気持ちは、分からないでもないんだが…」
 俺だけが知っていればいいんだ、お前が知りたい子供たちの数は。
 お前の代わりに、俺が今でも覚えているから。…俺が代わりに謝ってやるから。
 何度もお前に言ってる筈だぞ、俺はお前を二度と悲しませはしないとな。
 だから決して教えはしない。
 お前が謝りたい気持ちになったというなら、もうそれだけで充分じゃないか。気付いたんだろ、あの星に残した子供たちのことに。…それでいいんだ、気付いて謝ろうと思っただけで。
 いいな、せっかく幸せに生きているのに、余計なことまで知らなくていい。
 今のお前は幸せだろうが、この地球の上で。



 考えるな、と言われたけれども、気になる子供たちのこと。シロエの他に何人いたのか、未来のある子を何人置き去りにしてしまったのか。
 シャングリラというバスを、待っていただろう子供たち。乗れる筈だったミュウの子供たちを、もうバスは来ないバス停に残して行ってしまった。前の自分たちの都合だけで。
 それを決めたのは前の自分で、子供たちはバスに乗り遅れたから…。
「…ぼくは確かに幸せだけど…。ハーレイと地球に来られたけれど…」
 あの子供たちは、そうじゃなかった。シャングリラが行ってしまったから。
 シロエはキースに殺されちゃったし、他の子たちは保安部隊に撃ち殺されて…。
 ぼくがワープって言わなかったら、みんな、シャングリラに乗れていたかもしれないのに…。
 シャングリラがあそこで沈んだかどうか、そんなの、誰にも分からないのに…。
「そう来たか…。確かに、終わりじゃなかったかもしれん。それは分からん」
 同じようにワープして逃げていたって、定期的に戻って助け出す手もあったかもしれん。
 だがな、そいつは今だからこそ思うことでだ、あの時はあれが最善だった。それだけは俺が保証する。キャプテン・ハーレイだった俺がな。
 それに、お前が言う子供たち。その子供たちも、とうに何処かで幸せになっているだろう。
 俺たちだって地球に来てるくらいだ、みんな幸せに生きてる筈だ。
 お前の友達の一人かもしれんし、誰もが知ってる有名俳優ってこともあるかもな。
「そっか…。今は誰でもミュウなんだものね」
 とっても平和な時代になったし、何処に生まれても、誰でも幸せ。
「そういうことだな、お前は今を生きればいいんだ」
 前のお前がやったことまで、お前が考えなくてもいい。のんびり、ゆっくり行けばいいのさ。
 乗り遅れちまってもなんとかなるから。
「え?」
「バスだ、バス。…シャングリラじゃなくて、普通のバスだな」
 乗り遅れたって次が来るだろ、人生だってそういうもんだ。行っちまったバスを大慌てで走って追い掛けなくても、その内に次のが来るんだから。…待っていればな。



 最終バスが出ちまっていても、次の日にはまた走って来るだろ、と笑ったハーレイ。人生だってそれと同じで、やり直しだって出来るんだから、と。
「喧嘩しちまったら仲直りだとか、大失敗をやらかしたとしても、謝るだとか」
 そうすりゃ、次のバスが来るんだ。元の通りに乗って行けてだ、ゆっくり座っていればいい。
 前の俺たちの時代だったら、のんびりしてはいられなかったが…。
 乗り遅れたなら、必死に追い掛けないと駄目だったわけで、追い付けないこともあっただろう。お前が言ってたシャングリラみたいに、行っちまったら、もうおしまいで。
 しかし、今では違うからなあ…。のんびり次のを待てるだろ、バス。
「うん…。ぼくね、今日の帰りに乗り遅れちゃって…」
 直ぐに次のが来てくれたから、いつもと変わらない時間に帰れて、それが切っ掛け。
 田舎のバスとか、色々なことを考えていたら、シャングリラのことになっちゃった…。
 今だと次のバスが来るけど、あの子供たちには、次のバスなんか来なかったんだ、って…。
「そうか、お前が乗り遅れたのか、本物のバスに」
 上手い具合に次が来たのに、其処から違う考えの方に行っちまった、と…。
 お前の場合は、前のお前の記憶を持っているからなあ…。
 そのせいでグダグダ考えちまって、前のお前がやったことまで謝ろうとする、と。
 余計なことだな、その心配は。
 シャングリラに乗り遅れた子供たちだって、とうに次のバスに乗って行ったさ。
 新しい人生ってヤツを貰って、そのバスに乗って、あちこち走って。
 そいつを降りて、また次のバスで、もう何回も乗り換えたんじゃないか、人生そのものを。
「…ホント?」
 生きてる間に乗るだけじゃなくて、また新しい別の人生?
 そんなトコまで行っちゃっているの、ハーレイがデータを見た子供たちは?
「…多分な。あれから何年経っているんだ、前の俺たちが生きた頃から」
 とんでもない時間が流れただろうが、何回、人生を生きられるんだか…。
 乗り換えただろう人生ってバスも、物凄い数になっているんじゃないか…?



 俺たちの場合は今が一台目のバスらしいがな、とハーレイが浮かべた苦笑い。
 「お前が青い地球にこだわってたから、今頃になっているんだろう」と。
「俺たちが一台目のバスに乗るよりも前に、あの子供たちが地球に来たんじゃないか?」
 前とそっくりの姿がいいとか、二人一緒だとか、妙なこだわりは無さそうだから…。
 もっと早くに地球に来ちまって、地球を堪能して、今はのんびり別の星だとか。
「そうかもね…。こだわらないなら、早そうだものね」
 人間が地球に住めるようになったら、一番の船に乗って来たかも…。
 ゆっくり暮らして、子供も育てて、今は全く別の人生かもしれないね。アルテメシアに生まれていたりするのかな、前のことなんかすっかり忘れて。
 ずっと昔はシャングリラって船があったんだね、って、シャングリラの森を散歩したりして。
「だろう? 俺たちがのんびりし過ぎただけだな」
 こだわりのバスを待って待ち続けて、今までかかっちまっただけだ。
 やっと乗れたし、二人でのんびり行こうじゃないか。
 乗り遅れちまっても次が来るしな、今の時代の人生ってヤツは。
 おっと、人生の中で乗ってくバスだぞ、人生そのもののバスじゃなくって。
 人生そのもののバスは今の俺たちの身体なんだし、そいつを乗せてくれるバス。
 いろんな予定や計画なんかは、のんびりゆっくり、焦って走らずに行こうってな。



 そんな時代だから、あの子供たちのことも心配するな、とハーレイが言ってくれたから。
 確かにハーレイの言葉通りだから、シャングリラに乗り遅れた子供たちだって、今の時代には、きっと幸せなのだろう。
 今の自分とハーレイが幸せに生きているように。青い地球の上にいるように。
(…乗り遅れちゃったことも、もう忘れてるね…)
 本当だったら来る筈のバスに、ミュウの箱舟に乗れなかったこと。
 乗り遅れたせいで殺されたことも、悲しい最期を迎えたことも。
 何もかも忘れて、次のバスに乗って、きっと何処かで幸せな今を生きているのだろう。
 今の時代は、次のバスがちゃんと来るのだから。
 一日に三本しかバスが来ないような、田舎にだって走るバス。
 最終バスが行ってしまっても、次の日を待てば、また別のバスが走って来る。
 今は待ったら次が来るから、バスが来ないままで、おしまいになりはしないのだから…。



            次が来るバス・了


※シャングリラがアルテメシアを離れたせいで、白い箱舟に乗り損なったミュウの子供たち。
 確かに何人もいたのですけど、その子たちも今は幸せな筈。新しい人生というバスに乗って。
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